バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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オールド・クエーカーはシェンリーの代表的なブランドの一つでした。それはインディアナ州ローレンスバーグにあったプラントがオールド・クエーカー蒸留所と名付けられていたことからも明らかでしょう。ルイス・"ルー"・ローゼンスティールの率いたシェンリーは、禁酒法の後、比較的安価なウィスキーのラインでオールド・クエーカー名を使いヒットさせました。「クエーカー・オーツ」や「クエーカー・ステート」のようなシリアルからオイルまで、「クエーカー」はその製品の純度と誠実さ(無垢と清廉のイメージ)を伝えるために長い間使用されて来ましたが、実際のクエーカー教徒(ソサエティ・オブ・フレンズ)はそれらの宣伝から何も得ていないと言います。1939年にタイム・マガジンは、クエーカーは一般的に飲酒しないと想定されているので、ソサエティ・オブ・フレンズは特にオールド・クエーカー・ウィスキーに気分を害されているとリポートしたとか。このブランドはやがて不人気となり、最終的に製造中止、蒸留所は1980年代に閉鎖されます。ボトリング施設は1990年代まで独立した所有者のもとで操業を続けていました。そんなオールド・クエーカーですが、これはシェンリーが創始したブランドではありません。禁酒法以前にイリノイ州ピオリアで生まれたブランドでした。

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クエーカー・ドレスを着た男性、穀物の束、モルトと書かれたサック(袋)、三つの樽などが描かれたインパクトのあるラベルのオールド・クエーカーは、コーニング・アンド・カンパニーの主要なブランドでした。会社の社長フランクリン・コーニングはピオリアを統治した偉大な「ウイスキー・バロン」の一人と見られています。フランクリンは自身の蒸留所が5年あまりの間に連続して三度の大災害に見舞われました。火事の危険性は蒸留所では常に存在する脅威でしたが、後にも先にもアメリカの蒸留業者がこれほど「炎の激流」による死と破壊に直面したことはありません。しかしそれにめげることなく、彼のウィスキー造りを続ける決意は決して揺るぎませんでした。

1851年に生まれたフランクリン・トレイシー・コーニングはオハイオ州に深く根を下ろした家族の一員でした。彼の祖父は1813年頃、ニューハンプシャーからオハイオ北部へ6頭チームの屋根付き馬車で移住しました。草分け的な開拓者として重きをなしたカーネル・コーニングは事業を成功させ、子孫と共に富を築き、そのうちの何人かは蒸留業に携わっていたようです。フランクリンは裕福な実業家の父によって建てられたクリーヴランドの邸宅で育ち、兄のウォーレン・ホームズ・コーニングは父親と共同で酒類事業に参入していました。1870年の国勢調査では、ウォーレンは酒類卸売業者としてリストされ、 19歳のフランクリンはその店員として雇われていたらしい。この間、父親はコーニング・アンド・カンパニーの事業を拡大していました。クリーヴランドは原材料の入手先である大規模な穀物ベルトから離れていたため、イリノイ州ピオリアにウォーレンをマネージャーとして支店が設立されます。しかし、ウォーレンは運営を指揮しつつもクリーヴランドに住み続けました。どうやら彼はこのアレンジメントで管理するのが難しいと判断したようで、フランクリンをピオリアに派遣して家族の利益となる経営を任せます。それまでの間に若きフランクリンは、友人や家族に「ファニー」と呼ばれていたフランシス・デフォレストと結婚していました。1875年5月、彼が24歳で彼女は21歳の時です。彼らはおそらく1880年頃、ピオリアの新しい環境に落ち着きました。後のどこかの段階で弟のチャールズも蒸留業に参加したと思われます。こうしてピオリアは彼らの活動の中心となって行きました。

コーニング・アンド・カンパニーは当初、評判の良いレクティファイング・ハウスとして始まったと言われています。つまり、他の場所で入手したウィスキーをブレンディングし、所望の味と色に整えて販売する、今で言うところのNDP(非蒸留業者)です。そして後に蒸留所となった、と。
コーニング・ファミリーの初期投資は、ピオリアのモナーク蒸留所と呼ばれる既存のプラントにあったようです。モナークは1879年にジョン・H・フランシスと、ジョンもしくはジョージ・キッドのどちらかによって建てられたとされ、後にウィスキー・トラストのユニットとなり、トラストの解散から形成された事業体の一つアメリカン・スピリッツ・マニュファクチャリング・カンパニーの一部のモナーク・ディスティリング・カンパニーとなりました。蒸留所は1908年頃(もしくは1905年説も)に閉鎖されたと見られます。ちなみに、1887年頃ウォーレンはモナーク・ディスティリング・カンパニーを売却し蒸留業界から引退した、との情報もありました。

ピオリアでの活動を始めたほぼ同時期に、コーニング社はオールド・クエーカーをライ・ウィスキーのブランド名として採用します。その名は1878年から使用されていたと言われますが、最終的には1894年に商標登録されました。コーニング社は時が経つにつれオールド・クエーカー以外にも様々なブランド名でウィスキーやスピリッツを生産するようになり、それらには「ビッグ・ホロウ・サワー・マッシュ」、「チャンセラー」、「コーニングズ・カナディアン・タイプ」、「コロネット・ドライ・ジン」、「フェアローン・バーボン」、「ハンプトン・ライ」、「ハヴィランド・ライ」、「リー・ニュートンズ」、「モナーク・ミルズ・ライ」、「マウンテン・コーン」、「レッドクリフ・ライ」等があったようです。
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1899年、フランクリンは44歳の妻の早過ぎる死に立ち会います。その死を悼みながらも、彼は僅か数か月後にモナーク施設に隣接した蒸留所の建設を決めました。新しい工場にはコーニングの名前が付けられます。日に6000ブッシェルの穀物を処理する能力があり、メイン・ビルディングのマッシュをクッキングするためのスチール・タンクは巨大でした。しかし、そんな新しい蒸留所に、1903年10月、初めの不幸が訪れます。七人の作業員が死亡する爆発が起こったのです。災害の原因はクッカーに生じた真空であると推定され、 クッカー・ルームにいた二人は爆発で即死、他の三人は蒸気で酷い火傷を負い、救急車の中もしくは搬送された病院で死亡しました。行方不明になっていた残り二人(イースト製造者と連邦政府が管理する保税倉庫のストアキーパー)を捜索するため、何千人もの人々がすぐに現場に駆けつけましたが、建物の残骸が著しく作業は難航し、瓦礫の中で発見された時には彼らは死んでいました。何しろ爆発したタンクは建物の北側の壁を突き破り、250フィート離れた場所に落下したと言います。蒸留所の北壁全面は吹き飛ばされ、レンガや何やらの破片は蒸留所全体に飛び散り、他の壁も大きな被害を受けました。被害額は当時の7万5千ドル、現在のほぼ200万ドルに相当するとか。フランクリンは死者と壊滅した施設に心穏やかではなかったでしょう。しかしそれでも、爆発による火災は発生せず、他の建物は無傷だったため、数か月でメインの蒸留所を再建できました。1904年の春までには、コーニング・アンド・カンパニーはイリノイ・リヴァー沿いの世界で二番目に大きいと見做なされていた蒸留所を再びフル稼働させます。各自全力を尽くす作業員、煙突から立ち昇る煙や濃厚なウィスキーの匂い、ストックヤードのスペント・マッシュを食む牛、そういった蒸留所の日常は戻りました。しかし…。
 
1904年6月の暖かい或る日の午後、コーニング蒸留所に二度目の災害が発生しました。約30000バレルの熟成ウィスキーを収容したウェアハウスBから制御不能の炎が噴き出したのです。火災は倉庫内の爆発にも影響を与え、11階建ての建物は完全に崩壊しました。消防士が到着した時、彼らはすぐに燃えている建物を救うことが出来ないと気付き、炎が更に広がるのを防ぐよう努めるのが精一杯でした。炎は急速に広がって数ヶ月前に完成した周囲の建物も燃やし、火の洪水がストックヤードにも達したことで畜舎にいた三千頭の牛が煙で窒息死したと云います。今回の災害では、別のピオリアの蒸留所であるクラーク蒸留所から友人を訪ねていた一人を含む15人の男性が命を落としました。
火災はコーニング蒸留所の施設内に収まってはいましたが、三千頭の死んだ牛の死体を処分する際に重大な健康問題に直面しました。公衆衛生上の危険を引き起こさずにそれらを処分する方法を見つけることが出来なかったため、当局は死骸の上にフェノール製剤を注いで燃やしたのです。結果として生じる悪臭は非常に激しく、多くの人が牛舎での作業を拒否し後始末を遅らせました。
フランクリンは災害の発生時、仕事でニューヨークにいましたが、数日後にはピオリアに戻ります。そして残骸を調査したところ、彼はこれはアメリカの蒸留産業の歴史の中で最も高価な火災であるとし、被害額を100万ドル(現在の2500万ドル相当)と申告しました。災害の原因は物議を醸します。報道ではウェアハウスBでの爆発が原因とされていましたが、保険会社の評価担当者はすぐにその話を「信頼性がない」し「誤った」見解であると発表しました。彼らは大火事の原因を作業員のランタンのせいにしたかったようです。ウィスキーの樽は取り分け夏場の間に熱で膨張した時に漏れ易く、一人の従業員がウィスキーの漏れを探してラックを巡回していました。そこでランタンを持っていたこの作業員の不注意が液体に火を着けたと推測されたのですが、彼は死者の一人なので取り調べをすることは出来ず、結局、何が火災の原因かは特定されませんでした。欠陥のあるランタンが原因ではないかと推測する人もいました。それはともかく、フランクリンはここ八ヶ月の間に22人もの労働者が亡くなり精神的に参っていたことでしょう。とは言え、彼の心は折れません。すぐに再建計画を発表し、一年もしないうちにまたもや蒸留所をフル稼働させたのです。

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しかし、フランクリンのそのような努力にも拘わらず、火事を防止することは出来ませんでした。三度目の災害は1908年4月3日に起こります。6階建てのミル・ビルディングの4階で火事が発生し、隣接するエレヴェイターや動力室、製樽部屋に広がり、125000ガロンのウィスキーを収容していた8階建ての塔を巻き込む危険性がありました。今回はフランクリンが現場にいて、スピリッツを塔から引き出して蒸留工程で使用されるヴァットに入れるよう急いで指示を出しました。液体はすぐに近くの蒸留所(モナーク?)にパイプで送られ、そこで再蒸留されて後に販売されたと言います。そのおかげで被害額は当初の推定75万ドル(1800万ドル相当)から18万7千ドル(470万ドル相当)に大幅削減されました。そして何より、以前の災害とは違い、今回は人命が失われずに済んだのは不幸中の幸いでした。
フランクリンはこの度の被害も迅速に修復し、依然としてピオリアのウィスキー・バロンと認められ続けます。ピオリアのウィスキー・バロンで最も有名なのは同地で結成された「ウィスキー・トラスト」の社長ジョセフ・ベネディクト・グリーンハットでしょうが、フランクリンもまた独占的なウィスキー・トラストへの加盟を拒否するだけの「身分」をもった重要人物でした。トラストへの加入を拒否した他の蒸溜所が圧力や暴力に遭う中、フランクリンの威信は自分自身と自らの蒸留所を争いから遠ざけていたのです。しかし、運命の悪戯か幾度も災害は起こりました。繰り返えされる蒸留所の災害に疲れ知らずに堪え忍び、粘り強くその度毎に施設をより大きくより良く再建したフランクリン・トレイシー・コーニングは、ウィスキー業界の巨人の中でも特に精神的強度と決断力を持った人物として記憶を留めるに値するでしょう。

アメリカに禁酒法の足音が聴こえてきた頃、フランクリンは「ウィスキー時代」の終焉が近づいていることに気づいたに違いありません。と同時に、彼は自分自身の死をも予感していたのでしょうか、妻ファニーが眠るスプリングデール墓地に今日ではピオリアの歴史的記念碑に数えられる印象的な霊廟を建てました。1915年に彼が66歳で亡くなるとそこに葬られました。大規模な構造にも拘わらず、そこは夫婦と他の一人(おそらくフランクリンの叔母)だけが占有しているそうです。
コーニング・アンド・カンパニーはフランクリンの死後も、蒸留所の拡大に伴いピオリアで彼に加わっていた他のコーニング家のメンバーによって存続し、1919年まで施設を運営しましたが、禁酒法が到来するとプラントは二度と再開することはありませんでした。けれども、コーニング蒸留所のボンデッド・ウェアハウスNo. 22は集中倉庫の一つとして用いられ、オールド・クエーカーのブランドも禁酒法下のメディシナル・パイントで使われています。ネットで調べる限り「RYE」と「BOURBON」、詳細は分かりませんがフライシュマンが関わっていたらしい「WHISKEY」がありました。
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オールド・クエーカーの名称を取得していたシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションは、禁酒法廃止後にブランドを華々しく復活させます。シェンリーは新しいその主要ブランドを造るために、インディアナ州ローレンスバーグにあった二つの古い蒸溜所を購入し、オールド・クエーカーの名の下にそれらを合併しました。禁酒法が終了した直後、シンシナティからちょうど西に位置するグリーンデール~ローレンスバーグ周辺にはウィスキーを製造する四つの蒸留所がありました。一つはオープンして間もなく閉鎖、一つはシーグラムが所有、残る二つがシェンリーによって合併されたのです。

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(wikipediaより。オレンジがインディアナ州ディアボーン郡、レッドがローレンスバーグ。)

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ウィスキーに於いて近接するケンタッキー州ほど有名ではありませんが、インディアナ州には1800年代半ばから1900年代初頭にかけて多くの蒸留所があり、その品質の良さから地域的にも全国的にも高い評価を得ていました。インディアナの蒸留の歴史は、1809年にダンとラドロウという名前の二人がタナーズ・クリークとオハイオ・リヴァーの合流点に蒸留所を建設した時に始まります。最初に造られたマッシュビルは一頭の盲目の馬を動力源とするグリスト・ ミルで挽かれ、この粗末な穀物の粉砕方法では週に2バレルのウィスキーしか製造できませんでした。記録によると、彼らは500ガロンのウィスキーを1ガロンあたり0.25ドルの価格でニューオリンズに出荷していたそうです。
1802年、キャプテン・サミュエル・コルヴィル・ヴァンス(1770~1830)によって創設されたローレンスバーグは、彼の妻の旧姓ローレンスにちなんで名付けられました(初めは「Lawrenceburgh」と綴られていたが、いつしか「h」が脱落した)。ローレンスバーグ周辺が後にウィスキー・シティとなった理由は大きく二つ。一つは水です。グリーンデール~ローレンスバーグの蒸留所は帯水層の上に建ち、硫黄と鉄分が少なくカルシウムの多い石灰岩で濾過されたウィスキー造りに最適な水の継続的な供給源を備えていました。もう一つは州境となるオハイオ・リヴァーのすぐ傍らに位置していたこと。ニューオリンズへの交易ルートに近いことは、ウィスキーを売るのに適した場所であることを意味しました。こうした理想的な地理環境だったローレンスバーグに蒸留所が増えるのは必然だったのです。
ダン&ラドロウに続いたのは、1821年にペイジ・チークの土地にあるウィルソン・クリークに設立されたハリス・フィッチ・アンド・カンパニーでした。設立から数年の間は大きな取引がなかったそうですが、後年、非常に広範囲に成長し、その品質と量とでローレンスバーグに世界的な評価を齎したとか。1836年には、アメザイア・P・ホッブスが一日あたり600ブッシェルのマッシング能力を備えた蒸気動力による最初の蒸留所を建設します。この蒸留所は1839年に火災で損壊、その時はホッブス&クラフトによって再建されましたが、1850年に再び火災で焼失し再建されることはありませんでした。
実業家のジョン・H・ガフと兄のトーマスは、1843年、ホーガン・クリークの畔にあるオーロラのダウンタウンにT.&J. W. ガフ&カンパニー蒸留所を建設し、全国的なビジネスに発展させました。この場所はメカニック・ストリートの足元にあたり、現存する建物は今ではグレート・クレセント・ブリュワリーというクラフト・ビールの醸造所となっています。ちなみに上からトーマス、ジェイムズ、ジョンのガフ兄弟は、並外れた規模のビジネス帝国を築き上げ、蒸留業からの収益に基づいて設立された彼らの企業は、ビール醸造所、ミシシッピ川とオハイオ川を結ぶ蒸気船、インディアナの穀物と豚の農場、ルイジアナのプランテーション、ネバダの銀山、ターンパイクの建設、鉄道融資、銀行業など多岐に渡りました。ジェイムズはシンシナティで親しくなったフライシュマンとパートナーシップを組み、イースト製造とジンの蒸留で成功しています。
1847年には、後にローレンスバーグで最も重要となる蒸留所が開業します。ジョージ・ロス、アントニー・スウォーツ、ギド・レナーが建てたロスヴィル蒸留所です。そう、現MGPとして知られ、今日でもローレンスバーグでウィスキーを生産している唯一の施設です。ロスの死後、幾人もの経営者に引き継がれ、1875年(1877年という説も)にシンシナティを本拠地とするジェイムズ・ウォルシュ&カンパニーが買収した折り、完全に再建され、おそらく郡内で最も優れた蒸留所となりました。大きな倉庫と全ての建物は最高のレンガ造り、機械類は最新の改良を施され、当時は日に2100ブッシェルの穀物をマッシングする能力があり、倉庫には25000のバレルを貯蔵出来たとされます。1902年(或いは1906年とも)頃には日に5000ブッシェルのマッシング、倉庫には60000バレルの貯蔵スペースに拡大していたようです。そして1932年に火事でプラントの多くは損壊し、1933年にジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ・カンパニーがこのサイトを買収しました。
1875年、コズモス・フレデリックはハイワイン(*)とバーボンウィスキーの製造を目的として敷地を購入し、グリーンデールのリッジ・アベニューに面した蒸留所を建てました。彼はそれを一年か二年後、ニコラス・オースターに売り払ったようです。一日あたり400ブッシェルの穀物をマッシングし、1600ガロンのスピリッツを生産するキャパシティがあったそう。タナーズ・クリークの橋の近くには、1880年にフレデリック・ローデンバーグによって約15000ドルの費用で設立された蒸留所がありました。従業員は8人で、一日に310ブッシェルの穀物をマッシングする能力があり、やはりハイワインやバーボンウィスキーが蒸留されていたそうです。
こうした面々の活躍により、1880年頃には、ローレンスバーグのあるディアボーン郡では20近い蒸留所が運営されていたと言います。当時は正にウィスキー・シティに相応しい活況を呈していたことでしょう。

さて、シェンリーがオールド・クエーカーの名を付け改良した施設は、フージャー・ステイト(インディアナ州のこと)に縁の深いスクィブ家が関わっていました。彼らの仕事は禁酒法によって終わりを告げるまで50年以上に渡り続けられていたのです。
ウィリアム・P・スクィブは1931年にインディアナ州ディアボーン郡オーロラ近くで生まれ、そこで育ち、教育を受けました。南北戦争では北軍に入隊したそうですが、兵役に就いた証拠はないと言います。彼はオーロラでメアリー・フランシス・プラマーと出会い、結婚し、10人の子供(4人の女の子と6人の男の子)を儲けました。若い頃のウィリアムはオーロラで食品や酒類を扱う商いをしていたようです。そして1846年、弟のジョージと共にオーロラに小さな蒸留所を開きました。
その後、スクィブ家は5マイル向こうのローレンスバーグへ進出します。おそらくこの時、ファンタスティックな名前のコズモス・フレデリックが仲間に加わりました。彼はウィリアムとジョージのスクィブとパートナーシップを結び、1868年に敷地を購入すると、バーボンウィスキーとハイワインを蒸留する目的の新しい蒸留所をメイン・ストリート近くのセカンド・ストリートに建設し、1869年1月に操業を開始しました。彼らの工場は一日300ブッシェルの穀物をマッシング出来たとか、或いは一日5バレルを製造したとされます。
1871年9月1日、コズモスは持株をスクィブ兄弟に売却し、ニコラス・オースターと共に新たな蒸留所を設立しました。その頃、スクィブ兄弟はビルディングの拡張とその容量を拡大し、1日あたり330ブッシェルのマッシング能力、1260ガロンのスピリッツを生産、倉庫はレンガ造りで耐火性だったそう。同社の商品の主な販売先はシンシナティ、ルイヴィル、セントルイスで、会社のメンバーはアクティヴなビジネスマンであり、その迅速性と信頼性はビジネス界で知られていたとか。
スクィブ家は南北戦争後の「インダストリーの新時代」の恩恵を受けていました。インディアナ州は前例のない成長の中心にあり、19世紀末までに全米の製造業のトップ10に入っていたと言います。この成長に欠かせなかったのは州を横断する鉄道でした。鉄道は、蒸留に必要な穀物やその他の物資を運び、そして完成した品物を幅広い地域へ流通させました。スクィブ兄弟の事業は年々成長を続け、と同時に彼らのウィスキーの品質の高さも口コミで広まりました。1885年にはコンティニュアス・スティルを建設、これはおそらくインディアナ州で初めての連続式蒸留器の使用と見られています。また必要に応じて政府監督下の保税倉庫も追加したそう。
スクィブ社の扱った銘柄には、1906年に商標登録されたものに「ディアボーン・ミルズ・ウィスキー」、「ロック・キャッスル・ライ」、「チムニー・コーナー」、「グリーンデール・ウィスキー」があり、その後1910年に商標登録された「ゴールドリーフ・ライ」等がありました。
ウィリアムとジョージは共に協力して長きに渡って蒸留所を上手く運営しました。その間、ウィリアムの息子たちも事業に携わり、経営や販売などの様々な役割を担っていました。創設者の二人はどちらも1913年に亡くなり、ウィリアムは享年82歳、ローレンスバーグ近くのグリーンデール・セメタリーに埋葬されたそうです。
創設者の死により、スクィブ社は「新世代」に委ねられます。子供達のうち息子の四人といとこの一人が事業を引き継ぎ、1914年、同じ場所に新しい蒸留所を建設しました。彼らは禁酒法によって蒸留所の生産を終了せざるを得なくなるまで事業を続けました。禁止期間中、スクィブ家は他のビジネスの道に進んだと言います。また、彼らは解禁後の1937年から1949年までインディアナ州ヴィンセンズの廃業したイーグル醸造所を使用してボトリング?か何かのビジネスをやっていたようですが、詳細は分かりません。それは措いて、スクィブ家は南北戦争後から半世紀以上もの間、事業の繁栄を持続させたことでインディアナ州にその商才を轟かせました。彼らが造った良質なウィスキーは、彼らをローレンスバーグ・コミュニティの市民として尊敬され得る立場にしたのです。

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禁酒法が終了する直前、シェンリーはローレンスバーグ工場を買収し、ケンタッキー州フランクフォートやレキシントン、カリフォルニア州フレズノやその他の施設と共にコングロマリットに導入しました。そして購入後に工場を再建して、そこをオールド・クエーカー・ディスティリングとしました。1936年には、他のシェンリー・ウィスキーを蒸留するための新しい建物も追加されます。オリジナルのプラントは日産約700バレル、新プラントは約500バレルだったとか。熟成庫は温度調節が出来ました。当時のプラント・マネージャーはロバート・ナンツです。ちなみにローレンスバーグ工場は後の第二次世界大戦中にペニシリンの製造に使用されました。

ところで、ここまで禁酒法以前のウィスキー研究家のブログ記事や、ディアボーン郡およびローレンスバーグ/グリーンデールの歴史書、またはトリップ・ガイド等から情報を取り込んで書き進めて来ましたが、少し疑問があります。古い事柄を調べる時にありがちな事なのですが、知りたい肝心のことが書かれてなかったり、参考にする情報源によって微妙な違いがあって辻褄が合わなくなったりするのです。先に書いた文章ですが、例えばこれ。
「シェンリーは(略)インディアナ州ローレンスバーグにあった二つの古い蒸溜所を購入し、オールド・クエーカーの名の下にそれらを合併しました。禁酒法が終了した直後、シンシナティからちょうど西に位置するグリーンデール~ローレンスバーグ周辺にはウィスキーを製造する四つの蒸留所がありました。一つはオープンして間もなく閉鎖、一つはシーグラムが所有、残る二つがシェンリーによって合併されたのです。」
この段落は有名なバーボン・ライターの記事を元にして書いたのですが、ここで言われているすぐに閉鎖した蒸留所というのは、おそらくジェイムズ・ウォルシュ&カンパニー蒸留所のことだと思われます。この蒸留所はオールド・クエーカー蒸留所の4ブロック西にあり、ジェイムズ・ウォルシュの名前は有名で古くからあったのですが、禁酒法解禁後の1934年にオショネシー兄弟によって建てられたローレンスバーグで最も小さい蒸留所でした。で、シーグラム所有というのは現MGPのロスヴィル蒸留所のことです。そしてシェンリーが購入した一つは、言うまでもなくW. P. スクィブ蒸留所ですよね。じゃあ、もう一つは何なの? これが疑問なのです。この件に関してはいくら調べても確かな情報が見つからないので、私の憶測なのですが、多分もう一つの蒸留所は、グリーンデール・ディスティリング・カンパニーのプラントだったのではないかと思います。実はスクィブの蒸留所は禁酒法が始まって初期の頃、あの伝説のブートレガー、ジョージ・リーマスの所有下にありました。弁護士として大金を稼いでいたリーマスは、禁酒法によって市場価値が大幅に低下していた蒸留所を安価に買収することが出来たのです。彼の買収した14の蒸留所のうちインディアナの二つがスクィブ蒸留所とグリーンデール蒸留所でした。だから、なんとなくこの二つがセットでシェンリーに流れたのではないかと…。いや、グリーンデール・ディスティリング・カンパニーのプラントがロスヴィル蒸留所に隣接した位置にあったのは確かなのです。そしてシェンリーのオールド・クエーカーのプラントもロスヴィル蒸留所のすぐ北の位置、現在シェンリー・プレイスと呼ばれる場所にありました。上の文の「二つがシェンリーによって合併された」の「合併された」は「merged」の訳ですから、意味は「combine」もしくは「join together」であり、別個だった施設をくっ付けたと解釈出来るでしょう。そのためには二つの蒸留所は隣接している必要があります。
こうなってくると、スクィブ蒸留所の所在地が問題になって来ます。私も採用した一方の情報では、1869年1月に操業を開始した蒸留所はローレンスバーグのメイン・ストリート近くのセカンド・ストリートにあり、創設者の死によりスクィブ社が息子達に引き継がれた後の1914年、同じ場所に新しい蒸留所を建設した、とあるのです。これだとシェンリー・プレイスとは少し離れています。だから、もしかするとこの新しい蒸留所を建てた時にグリーンデールのブラウン・ストリート近くに移転したのではないでしょうか? 或いはその一方で、1968年竣工の蒸留所はグリーンデールに建てられたとする情報もありましたので、初めからブラウン・ストリート近くに建てられていたのかも知れません。まあ、判らないことは措いておきましょう。
ちなみに紛らわしいのは、グリーンデールがローレンスバーグの一部と一般的に考えられていることです。それ故、オールド・クエーカー(または他のシェンリー・ウィスキー)のラベルには「ローレンスバーグ」と記載されます。現MGPのロスヴィル蒸留所もローレンスバーグにありますが、実際施設の半分はグリーンデールに属しています。

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(1938年の広告)
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薬用ウィスキー事業で優位を確立していたシェンリーは、禁酒法が終了すると一気に幸先の良いスタートを切り、25%のシェアを握るマーケット・リーダーになりました。そうした中でオールド・クエーカーは比較的安価な主要ブランドの地位を確立したと言えるでしょう。オールド・クエーカーのキャッチコピーは「リッチ(豊潤)なウィスキーを楽しむために、リッチ(大金持ち)である必要はありません」でした。
おそらく禁酒法の影響によるストックの欠如から、ブランド再導入時の初期パイント・ボトルの頃は18ヶ月、2年、3年熟成などがあり、後に4年熟成と段階的に熟成年数を増やしたと思われます。ボトリングは当初は90プルーフでした。それがいつの頃からか4年熟成86プルーフに落ち着いたようです。5年熟成の物もありました。またブランドにはライとジンもありました。1940年代初頭にはちょっと高級?なオールド・クエーカー・スペシャル・リザーヴも発売されています。当時のLIFE誌に掲載された記事によると4年熟成86プルーフでバーボンとライがあると書かれていました(後に5年熟成もあった)。となるとスペックは通常のオールド・クエーカーと同じなので、バレル・セレクトによる違いでしょうか? それともマッシュビルに違いがあったのでしょうか? まあ、そもそも通常のオールド・クエーカーのマッシュビルだって不明ですけれども。それと年式が全く判らないのですが(とは言え明らかに30~40年代ではない)、ボトリングがペンシルヴェニア州アラディン表記のラベルの物がありました。アラディンはアームストロング郡ギルピン・タウンシップのシェンリーすぐ隣なので、そこにボトリング施設があったのでしょうか? 詳細ご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。
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それは偖て措き、オールド・クエーカー・ブランドはアメリカでバーボンの需要が落ち込んだ70年代はなんとか切り抜けましたが、冒頭に述べたように、80年代には製造を中止されたと思われます。これはブランドの問題であるよりは、業界全体の問題だったでしょう。30年代から60年代にかけて、バーボンはインディアナだけでなく、イリノイ、オハイオ、ペンシルヴェニア、ヴァージニア、ミズーリなど、ケンタッキー以外の多くの州で造られていましたが、70年代から80年代にかけて業界が縮小すると、ケンタッキー州以外の生産者の殆どは蒸留所を閉鎖してしまいました。オールド・クエーカーもそうした流れと無関係ではない筈です。一時この工場は226エーカーの土地に92棟の建物で構成され、1988年9月に操業が終了するまでディアボーン郡で4番目に大きな雇用主でした。禁酒主義のクエーカー教徒には申し訳ないですが、古きを想わせる美しいデザインのオールド・クエーカー・ラベルがなくなってしまったのは残念という他ありません。そう言えば、ラベルにフィーチャーされている男性は一体誰なのでしょう? ペンシルヴェニアの建設者でクエーカーのウィリアム・ペンに似ているように見えるのですが…。単にクエーカーの装束だからそう見えるだけですかね? これまた誰か知っている方はコメントよりお知らせ下さい。では最後に飲んだ感想を少々。

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OLD QUAKER 4 years old 86 Proof
推定70年代前半ボトリング。際立って甘くはなく、ほんのりスパイシーで円やか。正直言うとあまり印象に残らないバーボンでした。驚くほど旨い訳でもないが、普通に美味しいオールド・バーボンという感じ。
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*現在一般的には第一蒸留で得れるスピリットをロウワイン、第二蒸留で得れるスピリットをハイワインと呼びますが、この頃のハイワインという用語は、どうやら後に再蒸留してアルコールにしたり飲料用スピリッツにしたりする原液?とでも言いますか、第一蒸留で得れる蒸留液を指しているようです。

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WILD TURKEY 101 Proof
今回の投稿もバー飲みなのですが、こちらは偶然か故意か居合わせたバーの常連であり、Instagramで繋がりのあるTさんより自身のボトルキープをご馳走して頂きました。私と一緒に行ったツレの分まで頂戴しまして、Tさんの太っ腹に感謝です。このお方、バーボンをビールのように飲めてしまう酒豪で、お酒に弱い私からしたらバケモンのような人です(笑)。

推定80年代ボトリング。2000年以降とは異なるアーシーなフィーリングとパフューミーなアロマのある時代のターキー。以前、他のバーで同じくらいの年代の物を飲みましたが、こちらのほうがカビっぽさを感じなかったですね。ボトル・コンディションの差でしょうか。どちらにせよターキー好きにとっては「間違いない」代物です。
Rating:88/100

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バーボン・マニアにとってもデカンター・コレクターにとっても、或いはチェス・マニアにとっても、面白い存在となっているのがオールド・クロウ・セラミック・チェスメンです。

本物のチェス・ピースと同じように、反するカラーのライトなゴールデン・ブロンズとダークなヴィリディアン・グリーン(*)の各16個のボトルは、キング1個、クイーン1個、ビショップ2個、ナイト2個、キャッスル(ルーク)2個、ポーン8個で構成され、計32個のボトル/デカンターの完全なセットにメール・オーダーで買えた(当時22.95ドル)ファー素材のプレイング・マットを揃えれば実際にチェスで遊べました。ハンド・グレイズされたセラミックのボトルは造形のしっかりしたチェス・ピースの形になっていて、高さが12〜15 1/2インチ、それぞれに10年熟成のオールド・クロウ・バーボンが入っています。対戦相手の駒を取るたびに中身を飲むという遊び方が想定されていたのでしょうか(笑)。各ピースにはフェイク・レザーの箱が付いていました。チェス盤となるマットは2 1/2インチの金枠が付いた豪華なデザインで45 x 45インチです。1969年発売の限定生産。ハングタグにはご丁寧に「セットの構築は一度に1ピースづつでも出来るけど、もし目標が32個なら、長い時間かけると限定版だからなくなっちゃうよ、デカンターは再生産されないんだからね!」的なことが書かれていました。美しいオールド・クロウ・セラミック・チェスメンの完全なセットはコレクターズ・アイテムであり宝物なのです。
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バーボン飲みにとっては中身こそが気になるところですが、このバーボン、海外のマニアの評価は頗る高く、ウィスキー・ライターのフレッド・ミニックは2015年のBBCのインタヴューでオールド・クロウ・チェスメンのデカンターが今までに味わったバーボンの中で最高のものであると語りました(現在でもそうなのかは分かりません)。彼の影響力の大きさからか、その発言後チェスメンの人気は一気に騰がったと言うか、よく取り上げられるようになった印象があり、その他のバーボン愛好家からも最高級のバーボンの一つと目されています。
この10年熟成のオールド・クロウについて多くの人が言うのは、彼らが今まで見た中で最も暗い色合いをもつバーボンだということ。それも信じ難いほどに。なにしろ、およそ15年熟成で120プルーフを越えるジョージ・T・スタッグと並べて比べた方もいました。それほどまでに濃ゆい色合いなのです。10年熟成で86プルーフに過ぎないバーボンがなぜ? 想像でしかありませんが、10年は最も若い年数であり、実際には10年を大幅に越える熟成年数のバレルから引き出された原酒が混和されているのではないでしょうか。60年代のマーケットでは既にバーボンの売り上げは減少傾向にあったと思われます。そこで蒸留所には峠を過ぎたバレルの在庫が増えた。一般大衆に最も売れるバーボンは4~6年熟成が殆どであり、ケンタッキーの気候ではいいとこ8年程度の熟成が限度とされるのがディスティラーの常識だった当時であれば、10年を越えるバレルはもはや売れる代物ではなく、それを何とかある程度の量上手く処分する方策は、容れ物を豪華にし、何かの記念として限定的な特別品としてリリースすることだった、と。デカンター・ビジネスは飽くまでデカンターが主でありコレクターに向けた販売、よって蒸留所はデカンターに常に最高のウィスキーを入れた訳ではなかったという話もありますから、もしかするとオールド・クロウ・チェスメンに当時としては売り物にならない15~20年近い熟成古酒を使っている可能性もなくはないのでは…。まあ、憶測です。逆に奇跡的に色づいた10年物ということだってあるかも知れないし。
味わいに関しても、同じナショナル・ディスティラーズの看板製品オールド・グランダッドと同じようなバタースコッチが多分にありつつ、更に複雑で深いスパイスをも有すると評されています。そんな好評価を受けるセラミック・チェスメンですが注意点もあります。一つは古いデカンターには最高のシールがないこと、つまり気密性の問題。こうした容器が何年にも渡って悪条件で保管されていると、容量が低下したり、著しく酸化が進んでいたり、カビ臭い風味がする可能性があります。もう一つは70年代までのポーセリン・デカンターと同様に鉛の懸念。古い陶磁器のデカンターは、着色に使用される釉薬に鉛が含まれていた場合に焼成が誤って行われていると、ウィスキーに鉛が侵出している危険性が指摘されています。ただ、これは許容範囲のリスクだと個人的には思いますし、チェスメンのボトルは鉛問題はあまり聞き及びません。が、前者のカビっぽい臭いの指摘はレヴューで散見されます。いずれにせよ、見た目ちゃんとに密封されていながら液量の少ないものはリスキーということです。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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OLD CROW CERAMIC CHESSMEN (Pawn) 86 Proof
前回投稿したオールド・ヒッコリーと同じ熟成年数とプルーフ、かつボトリング年も近いので飲み較べると面白いかなと思い注文してみました。
どちらもダスティな古いコーン・ウィスキーのフィーリングが少々ありつつ、こちらの方がレーズンが強いように感じました。私の飲んだものには上述のカビ臭さはありませんし、酒質もクリア。オールド・バーボンらしいキャラメル香とスパイス感、またダーク・フルーツのテイストは存分に味わえました。けれど正直言って世界最高クラスのバーボンとは思えなかったです。
件の色の濃さについては、実は飲んだバーの照明が凄く暗いため、よく分かりませんでした。もしくは注文したバーボンのどれもが比較的色の濃いめのバーボンばかりだったため、差が判りにくかったのかも知れません。
Rating:86/100


*付属のハングタグには「almost black Verdian Green」と表現されていますが、ヴァーディアン・グリーンという色はあまり一般的ではないので、ここでは所謂「ビリジアン」と解釈しています。

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オールド・ヒッコリーはパブリカー/コンチネンタルの主力バーボン・ブランドでした。フィラデルフィアに拠点を置くパブリカー/コンチネンタルは、禁酒法解禁後のアメリカで業界を牛耳ったビッグ・フォーに次ぐ地位を確立した大手酒類会社の一つ。往年、フィラデルフィア地域に住んでいた人々は、ウォルト・ウィットマン・ブリッジのすぐ傍、パッカー・アンド・デラウェア・アヴェニューにあった蒸留所からする強力な匂いを今でも思い出すと云います。橋を渡るとベーカリーのようないい匂いがしたそうな。また当時そこには、橋から見える夜にはライトアップされたオールド・ヒッコリーの大きな看板もありました。パブリカー・インダストリーズとコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションについては以前投稿したリッテンハウス・ライのレヴュー時に紹介してるので、詳しくはそちらを参照下さい。

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コンチネンタルにはチャーター・オーク、ハラーズ・カウンティ・フェア等のストレート・バーボン、その他に様々なブレンデッドがありましたが、オールド・ヒッコリーが最も売れ、よく知られたブランドだと思われます。「オールド・ヒッコリー」というブランド名はアメリカ合衆国の第七代大統領アンドリュー・ジャクソンのニックネームから由来しています。ラベルの肖像画の人物ですね。米英戦争(1812年戦争)の最中、ジャクソン将軍の忍耐力と力強さは、しっかりと根付いた強靭なヒッコリーの木を思わせたことで、彼は兵士たちから「オールド・ヒッコリー」というニックネームが付けられました。そして以後、友人や信奉者の間でそのニックネームは愛情を込めて呼ばれ知られるようになり、1828年の大統領選挙の成功を収めたキャンペーンでも目立つようにフィーチャーされました。ジャクソン大統領とウィスキーの関係については、それほど多く記録されていませんが、伝え聞くところでは、1799年に彼は合わせて190ガロンを生産できる二つのポットスティルで蒸留を始め、残念ながらこの蒸留所は翌年に火事で焼失し完全になくなり、数年後、今度はビジネス・パートナーとなったワトソン氏の助けを借りて再建したのだとか。それはともかく、彼は米英戦争を終わらせた決定的なニューオリンズの戦い(1815年)に於いて軍を率い、アメリカの独立を維持したことで名声を得、庶民出身の大統領として渾名通りの強情さを発揮しました。アンドリュー・ジャクソンというアイコンの発する「強さ」や「南部」や「非エリート」の香りはバーボンに相応しいものだったのでしょう。

ただし、オールド・ヒッコリーの名称をウィスキーに使い始めたのはコンチネンタルが初めではありませんでした。禁酒法以前から既にその名は見られ、ネット検索で把握できるところでは以下のような物があります。
先ずはジャグ・ボトルのオールド・ヒッコリー・ウィスキーです。ウィスキーのガラス・ボトルでの販売がまだ一般的でなかった時代と思われるそれには、ケンタッキー州マリオン郡の蒸留所から直接~、とデカデカと書かれていました。もう一つはオレゴン州ポートランドの酒類卸業者フレッケンシュタイン=メイヤー・カンパニーの販売していたオールド・ヒッコリー・ウィスキーで、ラベルにはケンタッキー州ウッドフォード・カウンティの記載が見られます。またミルウォーキーの酒類卸業者A・ブレスラワー・カンパニーが自社ブランドでオールド・ヒッコリーを販売していたようです。他にも、ニューオリンズで酒屋をやっていたジェイコブ・グロスマンが販売していたオールド・ヒッコリー・ビターズなるものもありました。なんなら禁酒法時代にはカナダのワイザーズ・ディスティラリー・リミテッドのオールド・ヒッコリー・ライもありました。
おそらくオールド・ヒッコリーという名前は、禁酒法の前後か最中にコンチネンタルが前所有者から購入し、解禁後にブランドを刷新したのだと思います(ミルウォーキーの業者から購入した可能性が高い気が…)。そもそも上記の古いオールド・ヒッコリーたちは「大統領」から来てるのか「木」から来てる名称なのかも定かではなく、コンチネンタル製のオールド・ヒッコリーにしても初期段階と思われるラベルにはジャクソン大統領の肖像画がありません。
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(1936年頃)
コンチネンタル初期のオールド・ヒッコリーにはライもありましたが、その後は造られなくなったようです。そして上画像のストレート・ウィスキーには2年熟成とありました。多分、熟成ウィスキーのストックがなかったからだろうと思います。その後は年を経るにつれて4年熟成になり、オールド・ヒッコリーがコンチネンタルの看板製品となる頃には最低6年熟成のクオリティを守ったようです。通常スタイルのボトルに紙ラベルの物には、同時期流通ではないと思いますが、熟成年数とボトリング・プルーフのヴァリエーションがありました。基本は6年熟成86プルーフとボトルド・イン・ボンドで、他に7年熟成や8年熟成の物、また80プルーフもあったかも知れません。こうした通常品の他にスタイリッシュなグラス・デカンターに容れられたオールド・ヒッコリーも幾つかありました。それらの中でも有名なのはイーグル・キャップ・デカンターとかゴールデン・トロフィーとか呼ばれるやつです。中身のバーボンは10年熟成ですね。
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そしてトップ画像のパネル・ボトルも10年熟成。多分60~70年代頃に流通していたと思います。おそらく、こうした当時としては長期熟成のバーボンを使用したリリースは、当時の多くの蒸留所と同様、需要の減少により倉庫に在庫が蓄積されたために行われたのでしょう。もともと長期熟成を意図したのではなく需要減の副産物として製品化したのが現実かと。しかし、その結果はフル・フレイヴァーをもたらし、バーボニアンの評価するところとなりました。その最たるものが特別なリミテッド・エディションの20年熟成オールド・ヒッコリーでした。発売は70年前後と見られ、逆算すると1950年前後の蒸留ですから、リンフィールドのキンジー蒸留所(PA-12)で蒸留された可能性が高いです。キンジーの元従業員によるとウェアハウスDから引き出されたバレルをボトリングしたものだとか。
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通常のオールド・ヒッコリーはキンジーではなく、サウス・フィラデルフィアのコンチネンタル・プラント(PA-1)で造られた筈です。熟成はリンフィールドでしょう。ボトリングは時代によって異なる場所でされたようで、キンジーのボトリング施設の時もあれば、イリノイ州レモントの場合もありました。もしくはフィラデルフィアのボトリング施設でなされた時期もあったかも知れません。
レシピの詳細は分かりませんが、コンチネンタルは同社のナンバーワン・バーボンであり最大の売れ筋であったオールド・ヒッコリーを造ることに重きを置いたらしく、他のバーボンとは共有されていない独自のマッシュビルを持っていたと伝えられます。先にも触れたように、オールド・ヒッコリーは少なくとも6年は熟成されており、ボトルド・イン・ボンド・ラベルのボトリングでも6年熟成でした。一般的に4年程度の熟成でボトリングされることの多いバーボンと較べ、この2年の追加こそがその滑らかさとリッチなフレイヴァーの大きな理由であると考えられています。
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さて、大きな会社であったパブリカーも、1970年代に業界で起こった変化に耐えることができませんでした。アメリカではクリア・スピリット、特にウォッカの人気が高まり、バーボンの販売量は減少したのです。「America's Most Magnificent Bourbon(アメリカの最も壮大なるバーボン)」と宣伝されたオールド・ヒッコリーではありましたが、現実にはナショナル・ディスティラーズのオールド・グランダッドやオールド・クロウやオールド・オーヴァーホルトよりは全国区ではないと言うか、ストロング・ブランドではなかったのでしょう。そしてパブリカー/コンチネンタルにとって悪いことに、長年会社を率いてきたリーダー、サイモン・"シー"・ニューマンの死が1976年にありました。サイモンの死後、外部の経営者たちが雇われ取締役会に進出すると会社の方向を変えようとし始めました。それは会社の建て直しではあったのですが、彼らはパブリカーをP&Gのような強大なホーム・ケミカル会社にしようとしました。飲料用蒸留酒の製造と販売に見切りを付けた訳です。多くの酒類ブランドやイリノイ州レモントのボトリング施設といったアルコール事業の資産は、負債の支払いとケミカル・ボトリングへの資本投資に使用するために1979年に売却されました。オールド・ヒッコリーはこのブランド売却の際、その他のブランドと共にチャールズ・メドレーに買われます。
チャールズはブランド権だけでなくストックのバレル及び既にボトルに入ったオールド・ヒッコリーも購入しました。聞くところによると「リンフィールド」が「XXX」で消され「オーウェンズボロ」と書かれたボトルがあったそうな。それらを販売し使い果たした後、オールド・ヒッコリーはメドレー蒸留所で造られたと思われます。アメリカの情報を参照するとオールド・ヒッコリーは1981年に製造中止になったとされることもあるのですが、日本で比較的見かけることの多いポッカ輸入のスタンダードな4年熟成80プルーフのオールド・ヒッコリーにはオーウェンズボロの記載があり、なんとなくもう少し後年まで製造されていたのではないかという印象があります。
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現に私の手持ちの91年発行のバーボン本には当のオールド・ヒッコリーが紹介されています。80年代後半のバーボン・ムックにも紹介されていました。これは私の推測なのですが、おそらくメドレーがグレンモアに買収され、グレンモアがユナイテッド・ディスティラーズに買収された91年までは、オールド・ヒッコリーはメドレー蒸留所で製造されて日本向けの輸出ラベルとして生き残り、UDにブランド権が移った時に製造を停止されたのではないでしょうか? ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。それは措いて、90年代後半には市場から完全に姿を消したオールド・ヒッコリー・バーボンは、月日の経過と共に忘れ去られた存在となりました(オールド&ヴィンテージ・バーボン愛好家は別として)。

ところが、折からのアメリカのバーボン・ブームのおかげ?で、オールド・ヒッコリーは復活を遂げます。
ナッシュヴィルに拠点を置く酒類販売店で1994年設立のR. S. リップマン・カンパニー(ワイン、ビール、スピリッツ、およびミキサーを取扱う)は、2011年以降、多様な飲料アルコールのポートフォリオを構築するためのブランド作成と買収を開始しました。彼らは2013年にテネシー州市場での最初の発売のためにオールド・ヒッコリーの商標を取得します。2013年の夏、同社CEOのロバート・S・リップマンと開発チームはインディアナ州ローレンスバーグにある元シーグラムの蒸留所(MGP)で、長い間マスター・ブレンダーを務めるパム・ソウルと蒸留所のチームと連携して、オールド・ヒッコリー・ウィスキー・プロジェクト用のマッシュビルとバレルを選択しました。それらは「オールド・ヒッコリー・ブレンデッド・バーボン・ウィスキー(通称ブラック・ラベル)」として発売されました。ブラック・ラベルは4年以上熟成のウィスキーが89%、最低限2年熟成のウィスキーが11%のブレンド、80プルーフでのボトリングです。2015年春には「オールド・ヒッコリー・ストレート・バーボン・ウィスキー(通称ホワイト・ラベル)」が発売されました。こちらはMGPの標準的なエイジングである最低4年から7年熟成のバレルから造られ、歴史的にアメリカのディスティラーが好んだと云う伝統的な「パーフェクト・プルーフ」の86プルーフにて製品化されています。マッシュビルの仔細は公表されていませんが、どちらも同じでコーンとライ合わせて90%、残りがバーリーモルトのようです。ボトリングはオハイオ州シルヴァートンでされました。最近では製品レンジも拡がったようで、341ケースのみの限定リリースながら「オールド・ヒッコリー・ハーミテッジ・リザーヴ・ライ」も発売されました。これは6年熟成で、MGPの95%ライ・マッシュビルの個人選択バレルだと思います。
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では、現代版オールド・ヒッコリーの紹介が済んだところで、最後に飲んだ感想を少しばかり。今回飲んだのは、オールド・バーボン愛好家に評価の高いコンチネンタル製の10年熟成オールド・ヒッコリー。先日まで開いていたボトルが空になったとのことで、新たなストックを開封して頂きました。裏ラベルにイリノイ州レモントの記載がありません。Distilled表記しかないのです。レモントとあるのとないのどちらの方が古いのでしょうか? ご存知の方はコメントよりご教示下さい。ちなみに参考の物は70年ボトリングとされ、「DISTILLED IN PENNA」とあります。
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OLD HICKORY 10 Years 86 Proof
推定70年代ボトリング。クラシックなバーボンという印象。スムーズな飲み口。しっかりとした樽香にバランスのとれたフレイヴァー。キャラメルもスパイスもドライフルーツもハーブも感じられるが、どれも突出しない穏やかな感じ。
Rating:86/100

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オールド・ミスター・ボストンは、禁酒法の終わりに、マサチューセッツ州ボストン近隣のロクスバリーに設立されたベン・バーク・インコーポレイテッドのブランドでした。社名は創業者の二人、アーウィン・"レッド"・ベンジャミンとハイマン・C・バーコウィッツのファミリーネームの前半を繋げたものと思います。彼らはオールド・ミスター・ボストンのブランド名で、ウィスキー、ジン、ラム、ブランディ、コーディアルやリキュールまであらゆる蒸留酒のフルラインを販売していました。
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(1940 Life Magazine)

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またコレクターに知られる記念ボトルやデカンターを様々な形とサイズや素材で販売し、そのレンジにはシンプルなガラス瓶からより精巧な人形やモデルに至るまであります。それらの中でも、おそらく最も有名なのは1953年大統領就記念ボトルでしょう。ボトルの後ろには、それまでの全てのアメリカ大統領のリストがプリントされています。
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蒸留所は1010マサチューセッツ・アヴェニューにあり、1933年から1986年当時の親会社だったグレンモア・ディスティラーズが操業を停止するまでボストン地域の主な雇用主でした。オールド・ミスター・ボストンが活動していた建物は、現在ではボストン市が所有しており、1970年代にその半中毒性のフレイヴァー・ブランディで最もよく知られていたにも拘わらず、皮肉なことに、市検査サーヴィスの本部として使用されている他、ボストン公衆衛生委員会や暫定支援局などの機関が入っているようです。
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(WIKIPEDIAより)

時の流れと共に一連のオーナーシップの変更を通じ、ブランドは変化を被りました。オールド・ミスター・ボストンは1933年の創業から1970年までは独立した事業でしたが、その年にグレンモアに買収されます。当時グレンモアは米国で最大クラスの蒸留酒を製造/販売する会社の1つでした。グレンモアの所有下でも、全ての事業がルイヴィルに移された1986年までは、ボストンの本拠地は操業を続けていました。
1980年頃にグレンモアは、ブランドを現代風にするため、或いは「ボストン氏」をより若い男として描写するため、その渾名から「オールド」をなくしました。ちなみにラベルの印象的な肖像画の人物、ビーヴァー・ハットを被ったディケンジアンのような、ヴィクトリア王朝時代風の紳士に見える「ボストン氏」は架空の人物です。1987年には「ミスター」まで取り除かれ、遂にシンプルな「ボストン」となり、ロゴは飾り気のない「B」になりました。
1991年になると親会社のグレンモアはユナイテッド・ディスティラーズ(現在のディアジオの母体)に買収されます。この期間の業界統合で典型的だったのは、買収する側の企業は大抵の場合、買収した企業の資産の一部しか必要とせず、残りをすぐに売却することでした。ユナイテッドは例に漏れずそうしました。1995年にニューヨークのCanandaigua Wine Co.(後のコンステレーション)傘下のバートン・ブランズが「ボストン」を含む多数の破棄されたブランドを購入し、生産を再開、その時に名前を以前の栄光に似た「ミスター・ボストン」へと戻しました。バートンは、リキュールとコーディアルのラインにこのブランドを使用しています。その後の2009年、バートンの親会社コンステレーションもユナイテッドと同じ事をし、ミスター・ボストン・ブランドを含むバートン・ブランズをニューオーリンズのサゼラック・カンパニーに売却しました。それからはサゼラックが所有し続け現在に至ります。

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「オールド・ミスター・ボストン」の名は蒸留酒のブランドだけでなく、プロ/アマ問わずバーテンダーやミクソロジストに「聖書」として参照された小さな赤い本「オールド・ミスター・ボストン・オフィシャル・バーテンダーズ・ガイド」でも知られています。
禁酒法が廃止されたことでアメリカにバー・タイムとカクテル・アワーは甦りました。ウィスキー、ジン、ラム、リキュール等を取り揃えたオールド・ミスター・ボストン・スピリッツの製造元であるベン・バーク・インコーポレイテッドは、蒸留所が再び営業を開始した禁酒法廃止後の初期段階に「ガイド」を作ることを決めます。オリジナルのガイドはオールド・ミスター・ボストンの購入エージェントであるレオ・コットンによって編纂され、彼は四人の「オールド・タイム・ボストン・バーテンダーズ」と協力してそれを作成しました。ガイドは大成功を収め、初版が1935年に出版されて以降、時代に合わせて改訂と更新を繰り返し、長年に渡って発行されました。レオは本業そっちのけで改訂作業に熱を入れたなんて話もあります。そのガイド・ブックは、史上初のカクテル・ブックでもなかったし、現代的なミクソロジー・ムーヴメントを正確に反映した書物でもないでしょう。けれども伝統主義者には試金石として重要な書物であり続けたのです。
ミスター・ボストンの現所有者であるサゼラックは2016年7月に新しいウェブサイトを立ち上げました。「ミスター・ボストンの本は禁酒法以来、アメリカのカクテルの進化をカヴァーしていますが、悲しいことに何年にも渡ってほったらかしにされていました」とサゼラック・カンパニーの社長兼最高経営責任者マーク・ブラウンは語ります(以下、鉤括弧はマークの言)。サゼラックは自身のカクテル開発における役割からの帰結として、自らの会社の歴史をミスター・ボストンの歴史に統合しました。「私たちの会社とそのブランドの繋がりは、サゼラック・カクテルだけでなく、カクテル・カルチャーの代名詞であるニューオリンズの私たちの伝統とも密接に関連しています。プロフェッショナルとアマチュアのミクソロジストのための〈頼りになる〉サイトとして、少なくとも80年間はブランドの未来を確保するように全てを纏めるのは自然なことでした」。このウェブサイトではオフィシャル・バーテンダーズ・ガイドをデジタル形式で見ることが出来ます。「私たちはスピリッツ業界の人々やホーム・バーでカクテルを作る人々にとって、これが真のリソースになることを望んでいるのです」。
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さて、今回飲んだのは昔のオールド・ミスター・ボストン・ブロンズ・ラベル。ブランドのラインナップの中でもバーボンは一部に過ぎませんが、そのバーボンの中でもブロンズ・ラベルがどの程度の位置付けなのか調べてもよく分かりませんでした。一般的に「ブロンズ」と言うとトップ・クオリティとは考えにくい色と思われますがどうなのでしょう? と言うか、そもそもゴールドとシルヴァーはないみたいなので、なにゆえ敢えてブロンズなのか気になるところです。
私が飲んだボトルのバック・ラベルは、本来、熟成年数が記述されている場所にインポーター・シールが貼られ見えません。ですが、殆ど同じと思われるボトルの他の画像をネットで見てみると、どうやら6年熟成と書かれているようなのです。そしてラベルにはデカデカと「ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」の文字。6年熟成のKSBWならば、ほぼほぼ良質なウィスキーと言って良いかと思います。ただし、ラベルにはケンタッキー州○△□とは書かれておらず、一体どこの蒸留所産かは見当も付きませんが…。

ところで、ラベルに記載された所在地なのですが、マサチューセッツ州ボストンはオールド・ミスター・ボストンの本拠地だから分かり易いですよね。次のジョージア州オーバニーは、あの有名な未熟成コーンウィスキーのジョージアムーンを造っていたヴァイキング・ディスティラリーのことを指しているのも間違いないでしょう。オールド・ミスター・ボストンは60年代初頭にそこを買収しています。で、最後のフロリダ州レイクランド、これが分かり辛い。今でこそ(2000年以降)フロリダ州にも多くのクラフト蒸留所は設立されてますが、一昔前はおそらく一つしかありませんでした。それは1943年に設立されたフロリダ・フルーツ蒸留所です(ライセンス#1)。柑橘類を蒸留してアルコールを造っていたからその名前だったのでしょう。現在はフロリダ・カリビアン・ディスティラーズと知られ、かなり大きな規模の蒸留所らしく、毎年1000万ガロンのワイン、ビール、スピリッツを生産し、自社ブランドに加えてバルク・スピリッツを様々なボトラーや飲料会社に販売、アメリカ南東地域で最大の契約ボトリング施設の一つとして高速生産ラインは年間1500万ケースを生産する能力を持っているとか。75年以上の運営を通じて世界中のほぼ全ての主要なスピリッツ企業のためにボトリングして来たと言います。おそらく昔からスピリッツのバルク販売や契約ボトリングをしていたと思われますが、ここをオールド・ミスター・ボストンが所有していた時代があったのか? それとも単なるボトリング契約を結んだだけなのか? 或いは全く関係ないのか? 誰かご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。では、最後に飲んだ感想を。

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OLD Mr. BOSTON BRONZE LABEL 86 Proof
今回はバー飲みです。せっかくバーに来たからには珍しい物を飲みたいと思い、こちらを注文したのですが、先日まではなかった液体の濁りが見られると言うことで、提供を断られてしまいました。しかし、その後マスターの一声で何とか頂くことが出来ました。なので開封したてとはその味わいに大きな変化があるかも知れません。

推定69年ボトリング。かなりフルーティなバーボンという印象。軽やかな酒質ながらしっかりとしたフレイヴァー。時間の経過でフルーツ香からキャラメル香へと変化。多少、酸化した風味に思えなくもないが全然美味しく飲めた。
Rating:83.5/100

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オールド・コモンウェルスの情報は海外でも少なく、そのルーツについてあまり明確なことは言えません。ですが、ネットの画像検索や少ない情報を頼りに書いてみます。

先ず始めにスティッツェル=ウェラーのアイリッシュ・デカンターに触れます。長年スティッツェル=ウェラー社を率いた伝説的人物パピー・ヴァン・ウィンクル(シニア)が亡くなった後、息子のヴァン・ウィンクル・ジュニアは1968年にオールド・フィッツジェラルド名義でセント・パトリックス・デイを記念するアポセカリー・スタイルのポーセリン・デカンターのシリーズを始めました。1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所が売却された後も、新しい所有者はヴァン・ウィンクル家が1978年にオールド・コモンウェルスのラベルの下で再び引き継ぐまでシリーズを続けます。1981年にジュニアが亡くなった後も息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が事業を受け継ぎ、毎年異なるデザインを制作していましたが、このシリーズはデカンター市場が衰退した1996年に中止されました。オールド・コモンウェルスのアイリッシュ・デカンターの殆どには80プルーフで7年または4年熟成のバーボンが入っていた、とヴァン・ウィンクル三世自ら述べています。
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60年代は、50年代のファンシーでアーティスティックなグラス・デカンターに代わりセラミック・デカンターが人気を博しました。各社ともデカンターの販売には力を入れ、ビームを筆頭にエズラ・ブルックスやライオンストーンが多くの種類を造り、他にもオールド・テイラーの城を模した物からエルヴィス・プレスリーに至るまで様々なリリースがありました。おそらく、70年代にバーボンの需要が落ち込む中にあっても、記念デカンターは比較的売れる商材だったのでしょう。ジュリアン・ジュニアはスティッツェル=ウェラー蒸留所を売却した後、「J. P. Van Winkle & Son」を結成し、様々な記念デカンターを通して自分のバーボンを販売しました。 既に1970年代半ば頃からコモンウェルス・ディスティラリー名義は見られ、ノース・キャロライナ・バイセンテニアル・デカンター、コール・マイナーやハンターのデカンター等がありました。もう少し後には消防士やヴォランティアーを象った物もあります。

そして今回紹介するオールド・コモンウェルスは上に述べたデカンターとは別物で、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世がシカゴのサムズ・リカーという小売業者向けにボトリングした特別なプライヴェート・ラベルが始まりでした(当時20ドル)。おそらく90年代半ば辺りに発売され出したと推測しますが、どうでしょう? 後には同じくシカゴを中心としたビニーズにサムズは買収され、ビニーズがオールド・コモンウェルスを販売していましたが、ヴァン・ウィンクルがバッファロー・トレース蒸留所と提携した2002年に終売となりました。中身に関しては、同時代のオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル10年107プルーフと同じウィスキーだとジュリアン本人が断言しています。ORVWのスクワット・ボトルと違いパピーのようなコニャック・スタイルのボトルとケンタッキー州(*)の州章をパロった?ラベルがカッコいいですよね。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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Old Commonwealth 10 Years Old 107 Proof
推定2000年前後ボトリング。前ポストのオールド・リップと比較するため注文しました。大した量を飲んでないので細かいことは言えませんが、こちらの方が度数が僅かに高いのにややあっさりした質感のような? でも、どちらも焦樽感はガッチリあってダークなフルーツが奥から漂うバーボンで点数としては同じでした。
Rating:87.5/100


*ケンタッキー州は日本語では「州」と訳されますが、英語ではステイトではなくコモンウェルス・オブ・ケンタッキーです。アメリカ合衆国のうちケンタッキー、マサチューセッツ、ペンシルヴェニア、ヴァージニアの四つの州は、自らの公称(州号)を「コモンウェルス」と定めています。これらは州の発足時に勅許植民地であった時代との決別を強調する狙いがあったものと解されているそう。オールド・コモンウェルスは如何にもケンタッキー・バーボンに相応しい命名なのかも知れません。
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「commonwealth」とは、公益を目的として組織された政治的コミュニティーの意。概念の成立は15世紀頃とされ、当初は「common-wealth」と綴られたそうで、「公衆の」を意味する「common」と「財産」を意味する「wealth」を繋げたもの。後の17世紀に英国の政治思想家トマス・ホッブズやジョン・ロック等によって一種の理想的な共和政体を指し示す概念として整理され、歴史的に「republic(共和国)」の同義語として扱われるようになったが、原義は「共通善」や「公共の福祉」といった意味合いだったとか。

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オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルというブランドは、元は禁酒法時代(または以前?)に遡りますが、長年の沈黙からジュリアン・ヴァン・ウィンクル二世が1970年代半ばに復活させ、それを受け継いだ息子のジュリアン三世が伝説のレヴェルまで育て上げたブランドと言ってよいでしょう。

長年スティッツェル=ウェラー社を率いてきたジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルが1965年に亡くなった後、息子のジュリアン・ジュニア(二世のこと)は他の相続人との意見の相違から、1972年にスティッツェル=ウェラー所有の蒸留所とブランドをノートン・サイモン社へ売却することを余儀なくされました。しかし、彼は名前や物語を余程気に入っていたのか、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングの物語をモチーフにしたブランドだけは売却せず、スティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利とボトリング契約を残したことで、オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルを甦らせ販売し始めます。その事業は1981年にヴァン・ウィンクル二世が亡くなると息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世に引き継がれますが、スティッツェル=ウェラーとのボトリング契約が切れたことでジュリアン三世は致し方なく(妻も子供四人もおり、多額の借金を背負うことになるから)アンダーソン郡ローレンスバーグにある旧ホフマン蒸留所をベン・リピーから購入しました。ジュリアン三世はスティッツェル=ウェラーからのバルク・ウィスキー、またその他の蒸留所からもウィスキーを購入し、コモンウェルス蒸留所として様々な銘柄でボトリングを続けました。80年代にはおそらく知る人ぞ知る小さな存在だった会社は、90年代に祖父への敬意を直接的に表す「パピー・ヴァン・ウィンクル」を発売、幾つかの賞を得たことでウィスキーの世界から注目を集め出します。しかし、スティッツェル=ウェラー蒸留所はユナイテッド・ディスティラーズの傘下になった90年代初頭に蒸留が停止されてしまいました。そこで、原酒の枯渇を懸念したジュリアン三世は、新しい供給先としてバッファロー・トレース蒸留所を選び、2002年、合弁事業としてオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ディスティラリーを立ち上げます。同社のブランドは段階的にスティッツェル=ウェラーからバッファロー・トレースの蒸留物へ変わりました。2010年以降は「パピー」がバーボン愛好家以外の一般大衆にも認知され出し、バーボン・ブームの到来もあってカルト的人気を得、それに釣られてその他のブランドも高騰。オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルも日本に住む「庶民派ウィスキー飲み」が手を出せる金額ではなくなり、そもそも日本へ輸入されることもほぼなくなりました。バッファロー・トレースのフランクフォート産の物ですらそのような状況の今日、ジュリアン三世がハンドメイドで瓶詰めしていたローレンスバーグ産の物は、特に愛好家に珍重され求められています。

そこで今回ご紹介する「ヴァン・ウィンクル」の付かないヴァン・ウィンクル製品であるスクエア・ボトルの「オールド・リップ」なのですが、これは日本向けの輸出用ラベルでした。4年熟成86プルーフ緑ラベルと12年熟成105プルーフ黒ラベルの二種類があり、日本のバーボン愛好家には知られたブランドです。おそらく発売期間は80年代後半から90年代後半(もしくは2000年代初頭?)までではないかと思われます。少なくともフランクフォート表記のオールド・リップは見たことがないので、2002年以降には製造されていないと推測しました。お詳しい方はコメントよりご教示下さい。
それは措いて、中身の原酒について。ジュリアン三世は「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」や「ヴァン・ウィンクル・セレクション」、初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル」、またその他の銘柄ではスティッツェル=ウェラー以外の原酒を使うこともありました。しかし、聞くところによると彼は「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」のブランドにはスティッツェル=ウェラー原酒を使うことを好んだとされます。それからすると、おそらくこの「オールド・リップ」もスティッツェル=ウェラー原酒で間違いないでしょう。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

OLD RIP 12 Years Old 105 Proof
今回はバー飲みです。先日まで開けてあったオールド・リップ12年が前回のウイスキークラブ(定期イヴェント)で飲み切られたとのことで倉庫からストックの新しいボトルを出して来てくれました。なので開封直後の試飲となります。

推定88年ボトリング。キャラメルの他に植物っぽい香りも。ハイプルーフゆえのアルコールのアタックはあってもヒート感はほぼ感じない。現代の小麦バーボンよりもスパイス感がやや複雑で、フレイヴァー全体が濃厚な印象。余韻は少し渋め。
Rating:87.5/100

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先日、久し振りにバーへ遠征して来ました。お邪魔したのはバーボン好きなら誰しも知っている埼玉県大宮のBar FIVE。となると大袈裟に言えばバーボン巡礼の旅という訳ですね。

FIVEのオープンは1998年。元々の店名はファイヴ・ハンドレッドだったと言います。その名の由来は、ウィスキーもカクテルもビールも料理も全て500円だったから。しかも当時は営業時間も夕方5時から翌朝5時だったとか。マスターが「5」を好きなのですかね? そこのところは聴きそびれちゃいました。
あの多くの被災者を生み出した東日本大震災の折り、FIVEも無害だった訳ではなく、200~300本の貴重なオールドボトルが失われたそうです。するとオーナーのマスターはすかさず移転を決め、数ヵ月後には近くの現店舗へ移りました。旧店舗はレッド・ゼッペリンの似合うもっと猥雑な雰囲気だったそうですが、現店舗は黒と白を基調とした小粋なジャズの似合うシックな雰囲気です。

FIVEは基本的にオールドボトル専門で現行品は置いてなく、2000年以前の希少なボトルがずらりと並んだバックバーは壮観であり、それ目当てに県外や果ては海外からもお客さんが訪れるのですが、それだけのバーではありません。寧ろ、強面だが優しくユーモアのあるマスターと気遣いの出来るバーテンダーさんお二人のホスピタリティこそが最大の魅力。バーは「お酒」よりも「人間」に引き寄せられて行く場所だと実感しました。バーテンダーさんの「常連様に支えられています」と云う言葉に深く納得です。ここには酒の自慢話とウンチクだけを語る下品な輩は似合わない。ハイエンド・バーほど畏まりすぎず、居酒屋ほどくだけすぎない、絶妙なバランスはとても居心地が良いのです。

そして「日本一鍋を振るバーテンダー」と異名を取る漢が造るメニューの無い料理もウリの一つ。私は苦手な食材だけを告げてオススメを造ってもらいました。彼の腕前は近隣の会社からデリヴァリーの依頼が来るほどなのです。私が居た時間も注文がけっこう立て込み、来店のお客さんの分もあったので、忙しく料理を造り続け、更には配達まで行っていました。おかげで残念なことに彼とは会話が殆どできず仕舞いでした(笑)。

レアなバーボン目当てで行くのもいいでしょうし、ただ飲んで楽しみたいだけで行くのもいいでしょう。バーボン以外のリカーやカクテルもあり、落ち着いた薄暗い店内と洒落た料理の提供は女性一人でも入りやすいバーでもあります。また不定期で週末にジャズ・ライヴが催されたり、月1でウイスキークラブという厳選されたラインナップを安価に提供するイヴェントもあります。

あと、珍しいのが、これだけの品揃えのバーにしてはランチ営業までやっているところ。なんでもメニューはカレーだけだそうで、サラダとドリンク付きの500円ワンコイン・ランチ。FIVEの由来からして想像通りのお値段。そしてメニューが一種ゆえに吉野家並みのスピードで提供されるのだとか(笑)。気になる方は食べログやRettyで調べてみて下さい。

FIVEは、バーボンの品揃えに関しては少なくとも関東でベスト「5」に入る名店です(ええ、もしかしたら一番か二番かも知れませんが、敢えてこう言いました)。関東圏、もしくは埼玉へお越しの際は是非立ち寄ってみてはいかがでしょうか。あ、メンバー外の方は事前予約が無難かと思われます。訪問される際は一応お店に確認して下さいね。


BAR FIVE
埼玉県さいたま市大宮区桜木町2-223 モナークヴィラ1F
048-644-3550

ランチ営業
平日のみ 11:30~14:00(売り切れ次第終了)

バー営業
平日 17:00〜26:00
祝日 17:00~0:00

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リッテンハウス・ライは現在ヘヴンヒル蒸留所で生産されるお財布に優しいライウィスキーです。安い上にボトルド・イン・ボンド(Bottled-in-Bond)規格なのが人気のポイント。ヘヴンヒル蒸留所は業界で最も多くのBiBのウィスキーをリリースする会社であり、そのライウィスキー版があるのは驚きではありません。同社のBiBの例としては、旗艦ブランドであるエヴァンウィリアムスの白ラベルや10年熟成シングルバレルのヘンリーマッケンナ、おそらく地域限定供給のJWダントやJTSブラウン、社名そのままのヘヴンヒルやコーンウィスキーのメロウコーン等があります。昨今人気爆発中(*)のライウィスキー市場にあっても、実はBiBを名乗るライはそれほど多くはなく、パッと思い付くのは価格がほぼ3倍もするEHテイラー・ライぐらいでしょうか。それゆえ安価かつBiBのリッテンハウスは貴重な存在と言えなくもない。「ボトルド・イン・ボンド」法は1897年に成立した政府による消費者保護法であり、当時としては本物の品質の証しでした。BiBのラベルを付けるには、単一の蒸留所の同じ蒸留器による単一の蒸留シーズンの製品であり、政府監督下の連邦保税倉庫で最低4年間熟成し、最低50%のABVで瓶詰めされ、更に生産施設とボトリング施設が異なる場合は両方のDSPナンバーがラベルに記されている必要があります。

リッテンハウス・ライは、現在では法定下限である51%のライ麦を使ったケンタッキーに典型的なスタイルのマッシュビル(**)から造られていますが、もともとはペンシルヴェニアにルーツをもったライウィスキーのブランドでした。その歴史は豊かで興味深く、ライウィスキー自体の歴史とも重なります。

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バーボンがアメリカのネイティヴ・スピリットと認定される以前、ライウィスキーは元祖アメリカンウィスキーと言える立場にありました。18世紀アメリカ北東部の初期開拓地では、気候の変動に生き残ることが出来て成長サイクルの短い丈夫な穀物のライ麦が広く栽培されていました。初期のアメリカの農家の多くは小麦やトウモロコシの収穫に失敗した場合に備え、バックアップとしてライ麦を栽培していたと言います。ライ麦が過剰にある場合、自然と蒸留に繋がりました。18世紀後半には、ほぼ全てのアメリカの農場には小さな蒸留器があり、余剰穀物をアルコールに転換することは経済的価値を維持する重要な方法だったのです。そうしないと害虫やカビ、または天候により余剰穀物の価値がすぐに下落してしまうからでした。

禁酒法以前はケンタッキーを含む他の州でもライウィスキーは造られていましたが、歴史的にペンシルヴェニアとメリーランドという二つの州がライウィスキーの産地として名高く、主要なスタイルを持っていました。一方のペンシルヴェニア・ライは、ペンシルヴェニア州西部のモノンガヒーラ渓谷に端を発する80〜100%のライ麦で構成される高いライ麦率のマッシュビルであったと伝えられています。このスタイルはモノンガヒーラ・ライ、或いは単にモノンガヒーラと呼ばれていました。もう一方のメリーランド・ライは、通常トウモロコシが約30〜35%含まれ、ライ麦は65〜70%のマッシュビルであったと推測されています。具体的には、ペンシルヴェニア・ライはスパイシーなプロファイルが強く、メリーランド・ライはより丸みのある甘味と草のようなノートを持つ傾向があったとか。初期の入植者逹はすぐにライ麦がユニークな性格のウィスキーを造ったことに気付き、産地の特産品的な意味でライウィスキーはこの地域に根付いて行ったのでしょう。

1791年に米国議会はアルコールに対する国の最初の物品税を可決します。それはウィスキー税と呼ばれ、ガロンあたり9セントに設定されていました。反骨心のある農民蒸留家は、連邦政府とウィスキー税から逃れるため、自らのスティルとマッシュビルを携え、アパラチア山脈を越えて行きます。逃れた先の中西部ではトウモロコシが豊富でした。そこで造られたライウィスキーはメリーランド州のマッシュビルに倣ったコーンを含むマッシュビルだったと見られます。そして時の経過と共にマッシュビルのトウモロコシは増加し、後にバーボンとなるスタイルのスピリットが生まれた、と。1810年頃までにケンタッキー州だけで2000を超える蒸留所が操業していたと言います。バーボンは通常オハイオ・リヴァーから出荷されミシシッピ・リヴァーを下っている間に自然と熟成し、琥珀に色づいた美しい飲料は南部で最も一般的になって行きました。独自の熟成を施した両方のスタイルのライウィスキーも北東部で生産され続け、19世紀を通じて需要と販売は引き続き堅調であり、1920年まではライがアメリカで最も人気のあるウィスキーであり続けました。しかし、禁酒法の時代がやって来ます。

禁酒法によるアメリカのアルコール禁止はライウィスキーの息の根をほぼ止めました。国内のライウィスキー蒸留所の多くは閉鎖され、決して再開することはありませんでした。有能なビジネスマンが率いたケンタッキー州のバーボン製造業者は何らかの形で禁酒法時代を生き延び、1933年に修正第18条が廃止された時、バーボンはアメリカンウィスキーの王者の座に就きます。ライウィスキーは殆ど忘れ去られてしまったかのようでした。それでも、禁酒法解禁は蒸留業者に水門を開き、幾つかの企業はライウィスキーの製造を再開します。そのうちの一つがペンシルヴェニア州フィラデルフィアのコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションでした。

コンチネンタルはコネチカット州ウェスト・グリニッジにオフィスを構えるパブリカー・インダストリーズの子会社です。当初の目的は近い将来1日あたり最大20000ケースの酒を製造できる一枚岩の蒸留所を建設することでした。蒸留業は常にアルコール飲料を造るとは限りません。パブリカーの主な事業は工業用化学プラントの運営にありました。パブリカー・インダストリーズは、野心的なウクライナ移民のハリー・パブリカーによる発案で始まります。1912年頃、彼はフィラデルフィアのあらゆる小規模蒸留所に行き使用済みのウィスキー樽を手に入れ、そこからウィスキー残渣をスティーミングして「発汗」させて、工業用アルコールとして販売することでアルコール業界に参入。1913年に約8〜16人の従業員でパブリカー・コマーシャル・アルコール・カンパニーを設立すると、デラウェア・ウォーター・フロントのビグラー・ストリートとパッカー・アヴェニューの間に蒸留所を建設し運営しました。詩人の名から付けられた後のウォルト・ウィットマン橋のすぐ近くです。

ハリーの工場は第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)で米国政府へのアルコール製品の販売を都合しました。そして禁酒法は工業用アルコールの生産を禁止しなかったため、禁酒法期間中、パブリカーは非飲料用アルコールと工業用化学製品の生産に集中することで非常に繁栄しました。20年代前半には、ジャガイモ、糖蜜​​、トウモロコシなど様々な穀物を発酵し、年間600万ガロンの工業用アルコールへと蒸留していたと言います。同社はそこから生産能力を年間6000万ガロンにまで増強しました。禁酒法の終了時には、当時制定された連邦規制により工業用アルコールの総生産量は7050万ガロンに制限され、そのうちパブリカーが17%を生産していたとか。第二次世界大戦でも政府がアルコール製品を購入したため、パブリカーは新たなる高みに達し、期間中に生産はピークを迎えます。1946年にパブリカーの年間収益は3億5500万ドル、従業員は5000人を数えたそう。1950年代半ばまでに40エーカーの工場は、溶剤、洗浄剤、不凍液、変性アルコール酢酸ブチル、酢酸エチル、アセトン、ドライアイス、液体二酸化炭素、専用溶剤、精製されたフーゼル油などの製品に特化した世界最大の蒸留所の一つに発展しました。

プロヒビションが撤廃された時、その規模と近代テクノロジーを応用して飲料用スピリッツの生産を開始するのは自然なことだったのでしょう(***)。パブリカーは1933年8月、コンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションを設立し、スナイダー・ストリートとスワンソン・アヴェニューの角の数ブロック北にある小さな蒸留所を改造するために、今日の2700万ドル以上を費やします。南フィラデルフィアの川に面した地区にあるパブリカーの二つの工場の一つでした。日産90000ガロンの生産能力は当時のハイラム・ウォーカーのピオリア工場より僅かに少ない程度だったと言います。同社を立ち上げた1933年半ばから1934年にかけて、ハリー・パブリカーと彼の一人娘ヘレンと結婚していた義理の息子サイモン・ニューマン(通称シー・ニューマン)は、飲料用スピリッツの名前を選んでブランドを作成するセッションを行い、その後ディスティリング・エンジニアと一緒にウィスキー・プロファイルと製品のマッシュビルを造り上げました。
1933年11月22日に最初のブランドであり、コンチネンタルの役員であるマークス博士とその妻ミリアムによって提案された「チャーター・オーク」の商標(****)をバーボン、ライ、ラム、ジン、ブランディ等で使用するために申請し、1934年3月13日に登録が発行されました。その他のブランドには「フィラデルフィア」、「ディプロマット」、「コブス・クリーク」、「エンバシー・クラブ・ウィスキー」等があったようです。
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(Time Magazine May 21 1956)

コンチネンタルの三大バーボンと言えば、先のチャーター・オークと「ハラーズ」と「オールド・ヒッコリー」でしょう。その他にも「リンフィールド」や「キーストーン・ステート・ライウィスキー」、そして「リッテンハウス」がありました。
コンチネンタル工場(PA-1)は、ブレンデッドウィスキーやその他の蒸留酒の製造に特に適していましたが、ストレートウィスキーも製造されていたようです。またコンチネンタルはもう一つ、高級な熟成ウィスキー用?として、フィラデルフィアから北東約35マイルほど離れたリンフィールドのスクールキル・リヴァー沿いにあるキンジー蒸留所(PA-10、PA-12)を所有していました。

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キンジー蒸留所は禁酒法が終了してから1980年代半ばまでコンチネンタルによって運営されていました。コンチネンタルはこの施設をキンジー蒸留所と呼びましたが、禁酒法以前はアンジェロ・マイヤーズ蒸留所、またはリンフィールド蒸留所としても知られています。後に一般的にはリンフィールド・インダストリアル・パークと呼ばれることになるサイトにありました。この蒸留所を語るには、創設者ジェイコブ・G・キンジーの他に、アンジェロ・マイヤーズにも触れておかなくてはなりません。

アンジェロ・マイヤーズには父と息子の二人のアンジェロがおり、彼らは40年間フィラデルフィアと全米でウィスキーを販売してその名声を高めました。当初はレクティファイヤー、その後本当のディスティラーとなり、精力的なマーチャンダイジングを通じて幅広い酒類ブランドを広めたそうです。アンジェロ・マイヤーズは1844年にドイツで産まれ、正確な日付は不明ですが、アメリカへと渡り、兄弟のヘンリーとフィラデルフィアに定住しました。1874年頃、二人はウィスキー配給会社として「A&H Myers」を設立します。彼らの主力ブランドは、街を流れる川にちなんだスクールキル・ウィスキーでした。
1880年代に兄弟のビジネスはかなり繁盛していたようです。しかし、1892年には何かが起こり、兄弟のパートナーシップは終わりを告げ、ヘンリーは別の会社を立ち上げました。残ったアンジェロの会社には、「アードモア」、「ボーモント・ジン」、「インデペンデンス・ホール」、「マイヤーズ・ピュア・モルト」、「ネシャミニー・ライ」、「オーガソープ・クラブ」、「オールド・バレル」、「オールド・スクールキル・チョイス・ライ」、「ペングリン」、「W.W.W. ライ」など数多くのブランドがあったようです。同じ頃、アンジェロは他の著名なフィラデルフィアの卸売業者と協力して、ペンシルヴェニア州バックス郡に蒸留所を建設します。またアンジェロは1890年代後半にはリンフィールドの蒸留所とも関連をもちました。
その蒸留所は酪農家のジェイコブ・G・キンジーによって設立されました。ジェイコブは1858年3月13日にペンシルヴェニア州ロウワー・サルフォードで生まれ、学校の教師として働き出し、まだ若い頃に酪農業界へと参入します。彼は三十代前半までに三つの酪農場を所有していましたが、1891年にそれらを売却し、蒸留所と2000バレル容量の倉庫を建設しました。アンジェロとジェイコブは蒸留所の建設に取り組み始めてから約1年ほどで友人になったと言います。一説にはジェイコブには蒸留の経験が全くなかったとされ、彼と農場の元従業員逹は友人であったアンジェロの特別なウィスキー知識を頼ったのかも知れません。約8年ほど後、ジェイコブは自分の製品を販売できるようにするために名のある人が必要だと考えました。アンジェロ・マイヤーズにはフィラデルフィアやボストンをはじめ高級ウィスキーの大きな市場であるニューヨークにも多くのコネがありました。ジェイコブはとても賢く、当時のアンジェロ・マイヤーズの知名度を知っていたので、彼と組むことが自分のウィスキーを市場に出して知名度を上げる方法だと思ったのです。ジェイコブはアンジェロと話し合い、蒸留所にアンジェロ・マイヤーズの名を付けることを決めます。一方のアンジェロは友人の製品が非常に優れていると考え、ブランドが足場を得るまでの間、プラントの運営とキンジーのマーケティングをすることにしました。彼らは良き友であり、お互いを信頼していました。おそらくジェイコブは、アンジェロに蒸留所の運営の一部を任せながら、自分は製品造りに精を出せる方法を模索したのでしょう。ジェイコブはマスター・ディスティラーとして一つの目標を念頭に置いていました。それは出来る限り最高のウィスキーを造ること。そうして製造された酒はキンジー・ウィスキーと名付けられ、マイヤーズ社の新しい旗艦ブランドとなって行きます。
1905年2月、「Angelo Myers Distillery Inc.」は資本金50000ドルで設立されました。権利関係はよく分かりませんが、アンジェロはキンジー蒸留所の所有権をもっていた可能性もありそうです。アンジェロは息子のアンジェロ・Jをリンフィールドに派遣していました。父からリカー・ビジネスを学んでいたアンジェロ・Jはキンジー蒸留所の日々の運営を行っていたとされます。若きアンジェロの管理下で、キンジー蒸留所は急速に発展し、倉庫の容量は2000バレルから20000バレルに段々と増加、更にキンジー・ウィスキーはニューオリンズとテキサス州サンアントニオでの博覧会で金メダルを獲得したのだとか。1907年、父のアンジェロは亡くなり、アンジェロ・Jが会社の社長になりました。彼のリーダーシップの下、同社は引き続き成功を収め、キンジー・ウィスキーは広くアメリカ中に流通するようになったと言います。彼らが販売した全ての木製ケースには、アンジェロ・マイヤーズ蒸留所とキンジー蒸留所の名前がありました。また、キンジー・ブランドの広告として作成された魅力的な絵画もありました。そうした絵画は19世紀から20世紀初頭に普及したプロモーション・ツールで、その印刷物はサルーンや酒類小売業者が利用できました。
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更に、女性がウィスキー取引にほぼ参与してない時代にあって、1910年の役員をリストした会社のレターヘッドには、珍しいことに二人の女性の名が含まれていたそうです。進歩的な会社だったのでしょうか。アンジェロ・Jは他の事業も手掛けていたようで、酒類会社の社長には叔父(多分)が就任し、彼は副社長に降りたようです。1918年頃、商号は「Angelo Myers Distilling Co., Inc.」に変更されました。それから少し後、禁酒法の訪れによりアンジェロ・マイヤーズとキンジー施設での全ての活動は中止されました。1923年、原因は分かりませんが、アンジェロ・Jは38歳という若さでこの世を去ります。
ジェイコブは勤勉な男だったのか、禁酒法期間中、ビールの醸造を学ぶためにドイツに行っていたそうです。アンジェロ・マイヤーズの助けを借りて順調に推移したキンジー・ライは、禁酒法が施行される数年前には本当に人気を博すようになっていました。1933年に禁酒法が終わると、ジェイコブは殆どの人が引退したいと思う75歳で、その復活を目指してキンジー蒸留所を再開します。彼は先ずキンジー・ストレート・ライを造り、またリンフィールド・ブランドをスタートさせました(「リンフィールド」は初めストレート・ライウィスキー、後にコンチネンタルがバーボンに変更)。伝えられるところでは、ジェイコブはできる限りピュア・ライを入れたかったとされ、初期の殆どのボトリングはライ麦率約81%(残りは多分モルト)であったと見られています。ボトラーやディーラーからの圧力によりジェイコブはブレンデッドも造りましたが、彼はストレート・ライウィスキーこそが数あるウィスキーの中で最もフレイヴァーフルであると信じていました。
順調に復活するかと思われた蒸留所は、悲しいことに1939年の秋に破産し、1940年春のサイレント・オークションでコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションに売却されました。コンチネンタルは蒸留所と共にキンジー・ブランドを購入し、ブレンデッド・ウィスキーとして生産と販売を続けました。キンジー・ウィスキーは1940年代には有名だったようで、マンハッタンのビルで誇らしげに宣伝されていました。余談ですが、長年ほとんど忘れ去られた存在となっていたキンジー・ブランドは、近年ではニュー・リバティ・ディスティラリーによって復活しています。
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フィラデルフィアのプラント(DSP-PA-1)のマスター・ディスティラーが誰であるかは判りませんが、1933年秋にキンジー蒸留所が再開した時ジェイコブ・キンジーはマスター・ディスティラーでした。そしてコンチネンタルが蒸留所を購入した後はホレス・ランディスがマスター・ディスティラーを務めます。ホレスは、ジェイコブの結婚相手エドナ・ロングエーカーの姉妹アニーが結婚したヘンリー・ランディスの息子でした。彼は1951年初頭にパブリカーによってキンジーのDSP-PA-10とDSP-PA-12がシャットダウンされるまで蒸留を実行し続け、その後もコンチネンタルに請われて警備員として留まったそう。ちなみにPA-10はバッチ蒸留のポット・スティル、PA-12はコンティニュアス・スティルでした。
コンチネンタルは蒸留所を購入後の1940年代、キンジーのサイトに14の防爆倉庫の建設を開始しました。その倉庫は非常に近代的で大きく、空気を循環させるファンと加熱装置やサーモスタットに防火装置も備わった時代の最先端であり、なんでも一つの倉庫に10万近いバレルを収容できたようです。また当時最強の鋼鉄で作られた防爆倉庫は、戦時中の公式のボム・シェルターだったとか。そして理由は明確ではありませんが、上述したようにリンフィールドでのウィスキー蒸留は1951年に停止され、以後、熟成とボトリングを行う施設となります。1952年、ジェイコブ・G・キンジーは94歳で天寿を全うしました。

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さて、そろそろリッテンハウスについても触れておきましょう。コンチネンタルは1934年に、フィラデルフィアの有名な広場(公園)にちなんで名付けられた「リッテンハウス・スクエア・ライ」を導入しました。そのリッテンハウス・スクエア自体は、フィラデルフィアで最初の製紙会社を設立したドイツ人移民のウィリアム・リッテンハウスの子孫であり、天文学者、時計職人、発明家、および数学者など数々の肩書きをもつデイヴィッド・リッテンハウスから命名されています。元々はサウスウェスト・スクエアと呼ばれていましたが、1825年に名前が変更されました。リッテンハウス・スクエアは、観光客や地元の人々がピクニックや日光浴や散歩をしたり、絵を描いたり本を読んだりとリラックスするのに最適な場所です。
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(19世紀後半のリッテンハウス・スクエアの噴水の眺め)

リッテンハウス・スクエア・ライはデビュー当時、2年熟成だったと言います。はて?禁酒法の廃止は1933年ですから、誰かがこっそり蒸留でもしてたのでしょうか(笑)。それは偖て措き、月日の経過につれリッテンハウスの熟成年数は2年から4年、そして1940年代初期から中期には5年に延びました。
コンチネンタルが製造するウィスキーの初期の成功には、パブリカーの化学者カール・ヘイナー博士が開発した生産技術が少なくとも部分的には関与していたとされます。1934年にフォーチュン誌のライターに説明されたその方法は、オールド・サウスの紳士の皆が知る、ムーンシャインの小樽を川で運んだりストーヴの近くに置いておくとエイジングを促進すると云うあれ、つまり「撹拌、動揺」と「熱」でした。ヘイナー博士は24時間で17年物のウィスキーを製造する方法を考案したと主張したとか…。ちょっと眉唾な方法論のような気はしますが、禁酒法終了直後の数年間は熟成ウィスキーの在庫が殆どなかったため、強力なアドヴァンテージにはなったのでしょう。おそらく既存の在庫が熟成するにつれ段階的に廃止されたと見られ、40年代にはブレンデッド・ウィスキーでのみこれらの技術を使用していた可能性が示唆されています。
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1948年には製品名から「スクエア」は削除され、現在と同じ「リッテンハウス・ライ」となりました。その頃の製品は全てボトルド・イン・ボンド規格を守ったようです。いつの頃からか80プルーフのヴァリエーションもありましたが、いずれにせよリッテンハウスは、コンチネンタルのライの中で比較的高級なラインだったと思われます。1940年代から1951年初頭頃までは、キンジーの古い納屋のようなライ・ビルディング(PA-10)で造られました。その後は多分フィラデルフィアの工場(PA-1)ですかね? それとも他のライ・メイカーから購入していた? ミクターズとか?
ところで初期のリッテンハウスの中身についてなのですが、コンチネンタル時代のオリジナルのマッシュビルは定かではありません。一説には、過去のフィラデルフィア地域のライ・メーカーの多くは、メリーランドの蒸留所と共通点が多かった、との指摘があります。ペンシルヴェニア州の中でも東部に位置するフィラデルフィアは、西部のモノンガヒーラ地域よりも地理的にメリーランドに近いため、なんとなく頷ける説ではあります。また前記のように、かつてジェイコブ・G・キンジーが蒸留所を再開した当時のライウィスキーは80%程度のライ麦率であったようなので、それを考慮するとリッテンハウスのマッシュビルはライ麦60~80%のどこか、或いは時代と共に変遷していることもあるのではないでしょうか。ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりご教示下さい。それと旧いリッテンハウスを飲んだことのある方もご感想を頂けると助かります。では、ここからはリッテンハウスがコンチネンタルの手を離れるまでの経緯を見て行きましょう。

パブリカーはアメリカの会社であることを非常に誇りに思っており、当時の戦争を支援した主要な企業グループの一つでした。第二次世界大戦中、DSP-PA-12は毎日少なくとも2シフト、時には3シフトを実行したとされます。蒸留所を政府用に別目的で利用することから、リッテンハウスは在庫不足という大きな障害に直面しましたが、それでも彼らは地歩を固めビジネスを続けました。しかし、残念なことに戦後もリッテンハウスの闘争は終わったとは言えませんでした。その後の数十年はライウィスキーの人気が大幅に低下したからです。1970年代までにアメリカではクリア・スピリット、特にウォッカの人気が高まり、バーボンの販売量も減少し、ライ麦に至ってはほぼ絶滅しました。ペンシルヴェニア州のオリジナルのライウィスキー製造所の殆どはその歴史に幕を降ろしたのです。そしてパブリカー/コンチネンタルにとっては、1951年に創業者ハリー・パブリカーが亡くなってから会社を率いてきたサイモン・"シー"・ニューマンの死が1976年にありました。

キンジー蒸留所の元従業員デイヴ・ズィーグラーによれば、シー・ニューマンは生まれながらのリーダーであり、先見の明とアイディアを持ち、パブリカー/コンチネンタルを成功へ導いた業界の巨人でした。彼のアイディアは常に大きく、かつそれらを迅速に実行に移したと言います。禁酒法の終了時、それまで工業用アルコールを製造していたパブリカーが、飲料用アルコールを製造するための特別部門を設立したのはニューマンのアイディアでした。それがコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションのそもそもの始まりです。
同社はブレンデッド・スコッチウィスキーのブランドである「Inver House Rare」を1956年に発売しましたが、当時は売り上げを満たすのに十分な在庫がありませんでした。そこでニューマンは捲土重来、インヴァー・ハウス・ディスティラーズを1964年にパブリカー・インダストリーズの子会社として設立し、スコットランドに蒸留所を建設してしまいます。そして、スコッチに再利用するために使い古しのバーボン・バレルをスコットランドへ出荷するというニューマンのアイディアは、今日まで続く一般的な慣行であり、パブリカーはこれを行う許可を政府に求めた最初の会社でした。ちなみにインヴァー・ハウス・スコッチは彼の美しい豪邸から名付けられました。それと、先に触れたホレス・ランディスは63年の引退の後で、懇意のニューマンから個人的にマスター・ディスティラーの経験を買われ、1964年スコットランドへと派遣されてスティルのセットアップを助けたりディスティラーをトレーニングしたそうです。
60年代のパブリカー/コンチネンタルは、裏事情は知りませんが、端から見れば最盛期にあったと言ってよいでしょう。ウィスキーや工業用アルコールの品質はニューマンのリーダーシップから来ました。当時、品質管理は最大の課題であり、同社は四つのラボラトリーを、工業用と飲酒用にフィラデルフィアのDSP-PA-1、その他センター・シティ、リンフィールド、エディストーンそれぞれに持っていました。ケミカル・プラントはフィラデルフィアの他にLAにもありました。また彼らは自らの製樽工場も所有していました。デラウェア郡マーカス・フックにあるクーパレッジはとても大きく、そこにはクーパーを育てる学校もあったと言います。他にもミズーリ州セントルイスに製樽工場を所有。そしてリンフィールドのキンジー・サイトに、1966年に新しく開業したボトリング・ハウスは、当時アメリカ最大規模かつ最も近代的な設備を誇りました。そこでは11のラインを週五日、一日16時間稼働し、2交代制で約450〜500人が働いており、産出能力に優れていたため、週末の勤務や残業時間は必要なかったそうです。そのお陰か、ビグラー・ストリートにあったボトリング施設は後に工業用アルコール専用に転換されました。「1966ボトリング・ハウス」は一日あたり40000本のボトルを処理できる能力があり、シーグラムやその他の蒸留業者のためにも瓶詰めを請け負いました。契約ボトリングを利用する業者の中にはニューマンと知り合いだったメドレー家がいて、彼らも時々ボトリングしてもらっていたようです(後述しますが、そうした「縁」が後のブランド購入に繋がったのでは?)。加えてキンジー蒸留所には、ハッピーハウスとして知られる1933年初頭に建てられたジェイコブ・G・キンジー時代のボトリング・ハウスもあり、そこのフィリップ・シンガー製のボトリング・マシーンはパブリカーがスピリッツの保管と製造および瓶詰めを終了するまで小規模ながら継続的に使用されていたとの話もありました。他にも、競争力を維持しつつ運賃を低く抑えるようボトリング活動を分散化するため、1962年にイリノイ州レモントの工場を改造し、リカー用ボトリング工場として機能するようにしています。そのためコンチネンタル製品のラベルのいくつかは「レモント、イリノイ」の記載がありました。ラベルと言えば、同社は可能な限りローカルな物、つまり地元フィラデルフィアの会社からボトルやラベルを仕入れて、常に最高品質のパッケージを目指したそうです。
シー・ニューマンが生きていた間は、常にウィスキーの品質を高め、あらゆる人にとって手頃な価格を保つための新しいアイディアを探していました。詳しくは分かりませんが、メーカーズマークの46の魁となるような、フローターズと呼ばれる焦げた木片を大きな樽に浮かべる実験?(或いはブレンデッド・ウィスキー用の熟成テクニック?)も行っていたようです。これは彼らが時代の先端を行っていた好例かも知れません。
おそらく、コンチネンタルは業界で「ビッグ・フォー」に次ぐ存在でした。1950年代の会社の販促資料では、ウイスキーを作るための最新の技術的アプローチと最先端の施設の効率を雄弁に誇り、その近代的な熟成倉庫は100万バレルのキャパシティを有すると説明されていました。巨大なストレージ・サイトであるキンジー蒸留所は、当時ワン・スポットでは世界最大の熟成ウィスキーを保管する施設だったのです。キンジーで働く人の総数は1960年代後半に600人に達しました。彼らは常に施設の見栄えにも最善を尽くし、プラントは清潔に保たれ、芝生や花壇は手入れが行き届き、会社で働くことに誇りを感じていました。しかし、どんな栄光も永遠ではありません。1976年のシー・ニューマンの死を契機として、会社はその後急速に崩壊への道を歩みました。先に名前を挙げたデイヴ・ズィーグラーは言います。「彼が死んだ時、会社は死んだ」と。

パブリカーがウィスキーを大量に造ったとしても、それは彼らの運営のほんの一部に過ぎませんでした。大部分の方のケミカル・プラントの運営が悪かったのか、それとも時代の波の影響で蒸留酒の販売が芳しくなかったのか、サイモン・ニューマンが亡くなった時、パブリカーには3900万ドルの借金があったと言います。ビジネスには成功も失敗も付き物ですから、偉大なるリーダーでも何か判断ミスをしたのかも知れません。しかし、彼の最大の不首尾は、彼が後継者への道を開くのを仕損じたことでした。
ビジネスの経験がなかったサイモンの妻ヘレンが会社のトップになると、大きな家族の権力闘争が起こりました。彼女はロバート・レヴェンサールを社長に任命し(1977-1981年CEO)、20歳以上年下であったにも拘わらず、すぐに恋に落ちたのです。ニューマン夫妻の子供たちは、縮小する会社と家族の財産から取り残されることを恐れ、母親とレヴェンサールを訴えて何年か費やしました。
外部の経営者たちが取締役会に進出すると、会社の方向を変えようとし始めました。それはニューマンの死から3年後のことです。どうやら彼らはパブリカーをP&G(プロクター&ギャンブル)のような強大なホーム・ケミカル会社にしたかったらしい。レヴェンサールはアルコール飲料事業の主要資産の処分を決め、1979年にイリノイ州レモントのボトリング施設などと共に酒類ブランドを負債の支払いとケミカル・ボトリングへの資本投資に使用するために売却します。そうすることで会社を浮上させようとしたのですが、パブリカー・インダストリーズの下降スパイラルを止めることは出来ませんでした。同社は1979年秋まではウィスキーを蒸留もし、1981年後半頃まではまだ他社に販売していたと言います。1982年にフィラデルフィア工場は休止されました。キンジー蒸留所は1982年に売却された後、ボトリング・ハウスや幾つかのタンクと倉庫をリース・バックして、そこでアンモニアをベースにした家庭用洗浄剤と不凍液のボトリングに使用されていました。
70年代後半にパブリカーは、空で不使用の巨大なタンクの幾つかを他の会社が燃料油の貯蔵に利用できるようにし始めます。様々な化学会社や燃料会社との契約をしたそうですが、これらの取引はライセンスを常に取得している訳でもなく、環境への影響についても注意を怠っていたようで…。フィラデルフィアのサイトは長年の不適切な管理が環境災害や火災を引き起こし、PADER(ペンシルヴェニア環境資源局)からは数々の違反通知の発行をされ、EPA(米国環境保護局)からは許可なく危険廃棄物施設を運営したとして苦情を申し立てられました。そして1986年秋、会社は事業を中止し、資産は小さなモーテルの価格300万ドルで解体業者であるオーヴァーランド・コーポレーションに売却されました。1986年11月、発火性物質を含むパイプラインを切断中に爆発が起こり、二人の解体作業員が死亡。その後まもなくオーヴァーランド・コーポレーションとその親会社カイヤホガ・レッキング・コーポレーションは破産を宣言し、サイトを放棄しました。かつてウォルト・ウィットマン橋を渡るとパンのようなウィスキーの匂いがすると言われた巨大な複合施設と75年以上に渡ってモンゴメリー郡で最大の雇用主であったリンフィールドの「公園」は廃墟になって行きます。それは或る大企業のアメリカ産業史に於ける最も悲しい物語の一つでした。その後もパブリカーという会社自体は存続したようで、1998年に名前を「PubliCARD」に変更し、スマートカード・ビジネスに参入したそうですが、もはや別物でしょう。

さて、リッテンハウスは上に述べた1979年のブランド売却の時、その他のブランドと共にチャールズ・メドレーに買われました。チャールズはリッテンハウス及びコンチネンタルのブランドの力を評価していたのでしょう。おそらく80年代のリッテンハウスはメドレー蒸留所で生産されました。マッシュビルは不明。後にリリースされるヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ等に使用されたメドレー・ライと熟成年数は違えどマッシュビルは共有するとは思います。ケンタッキー・スタイルの51%に近いライ麦率でしょうか? 実はメドレー時代のリッテンハウスについては殆ど情報がなく、あまり書くことがありません。…あ、一つだけ。日本でリッテンハウス・ライをネットで検索すると出てくる紹介記事の殆どには「かつてメドレー社が製造していた銘柄」と紹介されています。確かにそれは事実であり間違ってはいないのですが、その歴史の中でメドレー産だった期間は割りと短く、ここまで読んで分かる通り、寧ろ歴史的にリッテンハウスはコンチネンタルのブランドでした。おそらく輸入元の資料か何かをコピペした結果ではないかと思いますが、誤解を招きかねない表現には注意が必要です。それでは次にヘヴンヒルがブランド権を手にし、現在に至るまでを見て行きましょう。

アメリカン・ウィスキーの製造に携わる会社にとって80年代後半から90年代は激動の期間でした。まるで自然界の食物連鎖のように、大きい会社が小さい会社を飲み込んで、業界の再編が行われたのです。リッテンハウスもその動きに翻弄されて目まぐるしく推移しました。メドレーは1988年にグレンモアに買収され、そのグレンモアも1991年にギネス(ユナイテッド・ディスティラーズ)によって買収されました。そして1993年の春、ヘヴンヒルは約70のブランドをユナイテッドから取得し、その中にリッテンハウスは含まれていました。
次々と所有権は移り変わったリッテンハウスですが、メドレー蒸留所はグレンモア傘下になっても蒸留を続け(実際チャールズ・メドレーがマスター・ディスティラーでした)、グレンモアにウィスキーを供給していたと見られるので、ユナイテッドによって1992年にメドレー蒸留所が閉鎖されるまではリッテンハウスを蒸留していたと思われます。或る方は、1993年のリッテンハウス・ライのボトルは現在の物とは全く異なり、より甘く円やかで、ラベルにはオーウェンズボロと書かれている、と述べていました。もし、ブランドの推移と共にストックも購入されていたのなら、最大で1996年頃まではメドレー原酒の可能性もあるのかも。言うまでもなく、これはただの憶測です。

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ヘヴンヒルはブランド取得後、おそらく僅かな期間は旧来と同じダイヤモンド・ラベルを使用していたと思われます。その後ラベルは安っぽいデザインにリニューアルされました。ライトな80プルーフと伝統のボトルド・イン・ボンドがあります。長年、ヘヴンヒルはライウィスキーの蒸留を一年に一日(もしくは三日か四日)しか費やしていませんでした。それは、まだこの頃はライウィスキーの人気はあまりなく、ライの「本場」ペンシルヴェニアでもなければメリーランドでもないケンタッキーで絶滅の危機から救われた「希少品種」に過ぎなかったからです。しかし、年に一度だけでも蒸留されたことで、ライウィスキーは命脈を保ち生き続けました。
ヘヴンヒルがリッテンハウスを製造するようになって数年で思いがけない災難が勃発します。バーボニアンにはよく知られるアメリカン・ウィスキー史上でも最大級の火災が発生したのです。1996年11月9日の落雷が原因と見られるその火事によりバーズタウンのヘヴンヒル蒸留所は焼失し、9万バレル以上ものウィスキーが失われました。そこで暫くの間、ヘヴンヒルは他の蒸留会社(仲間)を頼らざるを得なくなります。おそらく一年ほどはジムビームが蒸留を代行し、その後はブラウン=フォーマンによって契約蒸留がなされました。1999年にヘヴンヒルはルイヴィルのバーンハイム蒸留所をディアジオから購入し、蒸留を再開するのですが、この契約は2008年まで続き、この間ヘブンヒルのライウィスキーは全てブラウン=フォーマンのアーリータイムズ・プラントで製造されています。ボトルド・イン・ボンド法ではラベルに蒸留施設の明示が義務付けられているため、ブラウン=フォーマン産の物には「DSP-KY-354」、バーンハイム産の物には「DSP-KY-1」とあり、おそらくこの切り替えは2013年頃を境としているでしょう。
新しい蒸留所でライウィスキーを蒸留し熟成させ、十分な量を確保したヘヴンヒルは再び自らの蒸留物を販売し始めた訳ですが、この移行期間中にもライウィスキーの人気はジワジワと上がり続け、クラフト・カクテルのムーヴメントも手伝って高い需要がありました。分けてもリッテンハウスは多くのミクスト・ドリンクのレシピに最適であったことから、一時的に店頭で見つけるのが困難だったようです。こうしたブームへの便乗?が主な理由だと思われますが、多分2014年頃、ラベルはオリジナルのリッテンハウス・スクエア・ライに敬意を表して「ダイヤモンド」に戻されました。そう、旧来の物にしろ現行の物にしろあのダイヤ形に見えるデザインは実際には「スクエア」なのです。その後はクラフト蒸留所のブームとも相俟ってライウィスキーは完全なるリヴァイヴァルを遂げました。ヘヴンヒルでは以前に年一度だけの蒸留だったライウィスキーも今では毎月蒸留され、リッテンハウスはその驚くべき価格のお陰でこれまで以上の人気を博しています。

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最後に別枠として特別なリッテンハウスについても触れておきます。ヘヴンヒルは2006年から2009年に掛けて、それぞれ21年、23年、25年という超長期熟成された「Rittenhouse Very Rare Collection」を数量限定で特別リリースしました。背の高いゴールド・プリントのボトルがバルサ材の箱に入った豪華なパッケージで、100プルーフ、シングルバレル、ノンチルフィルタードの仕様。750mlで各々150、170、190ドルの希望小売価格でした。中身のウィスキーは1984年10月に造られたライのバッチからの物で、それらは全てリックハウスOOの最も下の階で熟成されていました。ヘヴンヒルのマスター・ディスティラーだったパーカー・ビームによれば、低層階は高層階よりも温度が低いため長期間の熟成が出来たそうです。
これら上位クラスのリッテンハウスが誕生した背景には、なかなか興味深い偶然の物語がありました。ヘブンヒルが製造するライウィスキーには、リッテンハウスの他にもう一つパイクスヴィルがあります。ここではパイクスヴィルの歴史について詳しくは紹介しませんが、簡単に言うとリッテンハウスと同じような運命を辿った元はメリーランドのライウィスキー・ブランドです。ヘヴンヒルは伝統あるそのブランドを1982年にスタンダード・ディスティラーズから購入し発売していました。それ以前からもヘヴンヒルはライウィスキーを蒸留し、どこかへ供給していたかも知れません。それはともかく、84年に蒸留された95バレルのロットのライは、同社の顧客向けのプライヴェート・ラベルになるか、或いはそれ用のパイクスヴィルになる筈の物でした。リッテンハウスの購入は93年、つまり当初からリッテンハウス20+を造るつもりは一切なかったのです。ヘヴンヒルは顧客のためにウィスキーを熟成させていましたが、それは製品化されることなく眠り続け、意図した熟成年数を遥かに超えてしまいました。そのライが21年という珍しい年数に近づいた時、ヘヴンヒルはウィスキーのオーナーに買い戻しを申し出ると了承され、そこで2006年に偶然の産物はリッテンハウスの非常にレアなコレクションとして世に送り出されたのです。
ちなみに、リッテンハウスの長期熟成ヴァージョンはヘヴンヒルが初めてリリースしたのではありませんでした。実はコンチネンタルから、60年代もしくは70年代と思われますが、20年熟成のリッテンハウスが発売されています。ラベルにはリンフィールドとありますね。詳細はまるっきり分かりません。途轍もなくレアなのは間違いないでしょうが。
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さて、それではようやくテイスティングと参りましょう。基本情報としてリッテンハウス・ライは、125プルーフのバレル・エントリー、#3チャー・バレル、倉庫の上層階(上から4階)にて4年熟成、数百樽でのバッチ・サイズとされます。またボトルド・イン・ボンド規格なので、ボトリングのためにバッチ選択したバレルは、春または秋のいずれかに蒸留した同じシーズンの物でなければなりません。

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RITTENHOUSE RYE BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定2014年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。麦茶、グレイン、焦がした砂糖、エタノール、ダーク・ドライフルーツ、菜っ葉。サイレントなアロマ。ジュースを飲み込んだ後に来る刺激はスパイシーではあるがアルコールの辛みの方が強いような…。余韻は引き続き辛みを伴いつつ、微かに白桃と穀物が漂う。
Rating:79.5/100

Thought:開封から暫くは妙に味がないように感じました。しかも香りが開いたのが残量半分を下回ってからなのは痛かったです。おまけに香りが開いたと言ってもそれほど芳醇でもなく…。バーボンよりあっさりした質感にライ麦ぽさを感じるものの、スパイシーと言うよりはただ辛いだけ。もっと言うと近年のヘヴンヒル原酒に感じ易い複雑な香辛料やフルーツを欠いた熟成感という印象。海外のレヴューを参照するとそこそこの高評価だったし、フルーツ・フォワードのライかと期待したのですが、ぶっちゃけ舌の上でフレイヴァーが躍るライではなかったです。私はストレートと一滴加水でしか飲みませんでしたけど、ロックやカクテルにしたらもっと引き立ったのですかね? 飲んだことのある皆さんのご感想コメントよりどしどしお寄せ下さい。

Value:ハイ・プルーフにして安価かつライであるのが魅力で、ラベルのデザインは最高にカッコいいと思います。アメリカでの価格は概ね25ドル程度、日本だと3500円くらいが相場でしょうか。個人的にはもっとフルーティなライが好みなので日本の市場価格は高く感じますが、辛口がお好みの方やバーボニー・ライを求める方にはオススメです。なにより歴史のある銘柄ですしね。

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*2009年から2015年にかけてアメリカのライウィスキーの売り上げは662%(!)も増加したと云います。それはまるで一瞬の出来事のようでした。大企業傘下の蒸留所であれ小規模なクラフト蒸留所であれNDP(非蒸留業者)であれ、こぞってライウィスキー市場へ参戦し、その銘柄は次々と増え続けています。

**リッテンハウスと言うかヘヴンヒルのライ・マッシュビルに関しては、「51%ライ / 39%コーン / 10%モルテッドバーリー」と「51%ライ / 37%コーン / 12%モルテッドバーリー」の二説がありました。どちらが正しいか判りませんが、ライ麦率が51%なのは確かなようです。

***一説には第一次世界対戦の頃から飲料用アルコールも製造していたとされます。ですが、事業として乗り出したのは禁酒法解禁後なのでしょう。

****チャーター・オークは、ケンタッキー州のバーンハイム蒸留所や後の親会社シェンリーから、その名前が「オールド・チャーター」に近いものであるとして、長年続く訴訟を提起されました。1959年5月頃には最終的に解決され、コンチネンタルはチャーター・オークのブランドを継続することが出来たようです。
現在オールド・チャーターを所有するのはサゼラック社ですが、近年では傘下のバッファロートレース蒸留所から「オールド・チャーター・オーク」というやや実験的なオーク材を用いたシリーズがリリースされています。チャーター・オークの商標はどうなっているんでしょうね?
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2019年にラベルを一新したアーリータイムズ。そのラベルはアーリータイムズの創業者ジャック・ビームではなく、中興の祖サールズ・ルイス・ガスリーをフィーチャーしたものになっています。そのことも驚きでしたが、これだけ安価なブランドなのにラベルをただの色違いにせず、ほんの少しデザインを変更しているのも注目点。ブラウンの方はガスリーの横顔の絵がラベル正面に来ています。
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ガスリーについては以前投稿した新イエローラベルのレヴューで紹介してますのでご参照下さい。今回はブラウンラベルを試してみます。ブラウンラベルとイエローラベルの違いについてはこちらを。

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EARLY TIMES Brown Label 80 Proof
2019年ボトリング。ローストバナナのキャラメルソース掛け、焦樽、コーンチップス、接着剤、僅かにフローラル、ペッパー、ほんのりシャボン玉。水っぽく柔らかい口当たり。味わいはイエローよりややスパイシー寄りでさっぱりめ。余韻は短く、少しビター。
Rating:77/100

Thought:どうも昔飲んだブラウンラベルより美味しくない気がしました。私がイエローラベルに感じ易いと思っていたアーリータイムズ独特の嫌な風味を今回のボトルには感じます。また、私の記憶よりフルーティさも幾分か欠けるように感じましたし、余韻も苦いように思いました。以前に投稿したイエローとブラウンを比較する記事では、ブラウンの方を高く評価していたのですが、なぜか新しいラベルになってからのアーリータイムズに関してはイエローの方が美味しかったです。ここ数年で私の味覚が変わったのか、単なる気のせいなのか、それともアーリータイムズのバッチングの差なのか、謎。
ちなみに先日まで開封していたアーリータイムズ・プレミアムと比較すると、バカらしいほどにプレミアムの方が旨かったです…。

Value:否定的なことばかり書きましたが、価格の安さが最大の価値であるバーボンなので、 難癖をつけるつもりはありません。千円ちょっとでこれが飲めるのはありがたい話だと思います。ヘヴンヒルやジムビームの1000円代で購入できるバーボンより風味が濃いと評価する人もいますし、飲んだことのない方は迷わずトライしてみて下さい。しかも是非ストレートで。安いバーボンはハイボール専用などと思わずに。実際のところかなり美味しいですよ?

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