バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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オールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンは、簡単に言うとオールド・フィッツジェラルド・ブランドの中のエントリー・クラス・バーボンで、1960年代に時代に迎合してボンデッドの低プルーフ版として発売され始めました。プライムの発売経緯には興味深いエピソードがありますが、その紹介の前に、ウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)の代表的ブランドであり、バーボン業界において真に象徴的な名前となっているオールド・フィッツジェラルドの歴史を少し振り返ってみたいと思います。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、そもそもウィスコンシン州ミルウォーキーに本拠を置く国際的なワインとスピリッツのディーラーであるソロモン・チャールズ・ハーブストが1886年に商標登録した「Jno. E. Fitzgerald」が始まりです。それはハーブストが率いたS・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが使用する幾つかのブランドのうちの1つでした。オールド・フィッツジェラルドの物語は、先ずはハーブストその人から語らなければならないでしょう。

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ソロモン・ハーブストは1842年にプロイセンのオストロノで生まれました。彼は地元の学校で教育を受けたあと故郷を離れ、1859年に16歳でアメリカへと渡ります。当時多くのジャーマンの若者はその段階で移住することで、基礎訓練中の新兵の死亡率が高いプロイセン軍の徴兵を避けたのだそう。ハーブストはジャーマン人口が多いミルウォーキーに直接向かったようで、それは言葉の通じ易さのためと見られます。若い頃の彼はブリキ職人として働いていました。また、後に成功することになるウィスキー・トレードへの参入前は、ミシガン州マスキーガンで兄弟のファビアンやウィリアムと卸売および小売の材木業に携わっていたようです。
1868年になるとハーブストはチェスナット・アヴェニュー401-403にあったエガート&ハーブストという酒類卸売会社のパートナーとしてミルウォーキーのリカー・ビジネス・シーンに登場しました。理由は分かりませんが、1870年までに相方のエガートはその事業から離脱し、ハーブストが単独所有者となり、社名にソロモン・チャールズ・ハーブストの名を刻みます。それは彼の成功への始まりの一歩でした。
この同時期に、ソロモンはウィスコンシン生まれで7歳年下のエマと結婚しています。彼女の両親は現在チェコ共和国の一地域になっているボヘミアからの移民でした。1880年の国勢調査によると、夫婦にはカーシー、デラ、ヘレンの三人娘がおり、それとハーブストの事業の順調さを示すように家庭には2人の使用人がいたようです。

ハーブストは同時代の卸売業者がそうであったようにレクティファイヤーとして、つまり原酒を余所の蒸留所から調達してブレンドし、所望の風味に整えて販売する、今で言うNDP(非蒸留業者)としてキャリアを始めました。初期の頃は、卸しでは自らの名前がコバルトブルーでステンシルされたストーンウェア・ジャグを、小売では名前がエンボス加工されたガラス瓶を使用していたようです。また、アンバーやクリアのフラスクボトルもありました。後年のものも含みますが、S・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが販売していたブランドにはフィッツジェラルド以外では、「ベンソン・クリーク」、「同ライ」、「チャンセラー・クラブ」、「クリフトン・スプリングス」、「オールドジャッジ」、「オールド・ジョン」等があります。
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では、フィッツジェラルド・ブランドについて見て行きましょう。先に述べたように、初めは「ジョン・E・フィッツジェラルド」というブランド名でした。ハーブストがどのようにブランドを作成したかについては明確に分かりません。いくつかの伝説はありますが、それらは主にマーケティングの話に基づいています。おそらくハーブストはマーケティングの才に長けていたし、そのためのお金も持っていました。彼がブランド作成と共に作ったストーリーでよく知られるのは、フィッツジェラルド・ブランドは「1870年から鉄道と蒸気船のライン、プライヴェート・クラブにのみ販売する高級なバーボンとして製造された」といった話です。それはフィクションでしたが、ブランド名の由来がジョン・E・フィッツジェラルドの名前からなのは確かでした。しかし、同じ姓名の人物が複数おり、彼らが一人の人間なのか別の人間なのか明らかにするだけの証拠に欠けています。実はバーボンの歴史家にとって「ジョン・E・フィッツジェラルドは誰(何者)なのか?」は意外と簡単ではない問いなのです。なのでこの件は後回しにして、ある程度わかっているフィッツジェラルド・ブランドの情報を書き出してみます。

ハーブストはケンタッキー州の蒸留所からバレルを購入し、おそらくはブレンディングしてフィッツジェラルド・バーボンを造りました。1880年代後半から1896年頃までは主にオールド・テイラー蒸留所(当時RD#53、禁酒法解禁後にDSP-19となった)、またその他の蒸留所と契約してブランドを製造していたと見られます。ブランドにはバーボンとライウィスキーがありました。オールド・テイラー蒸留所のE・H・テイラーはハーブストにいくらかの未払金があって、この借金を支払うためにハーブストと契約を結んだのだとか。
ハーブストのリカー・トレードが成長するにつれて、彼は競合他社の存在や利用可能なウィスキーの高騰などから供給源の枯渇に直面し、レクティファイングのための十分な原酒を入手するのが難しくなったと思われます。そこで多くの成功した卸売業者がしたのと同様に、ハーブストも保証された安定的供給を確保するため、1900年頃、フランクフォート郊外のベンソン・クリークにある蒸留所を購入しました。地元の人々はそのプラントを代表的ブランドの名前からオールド・ジャッジ蒸留所(第7地区 RD#11)と呼んでいました。ハーブストはこの施設の運営のため、1901年にマネージャー兼マスターディスティラーとして、ケンタッキーの名高いウィスキー製造家族であるビクスラー家の一員ジェリー・ビクスラーを雇っています。禁酒法によって蒸留所が閉鎖されるまでの間、ここでフィッツジェラルドやオールドジャッジを含む全てのバーボンとライウィスキーが造られました。
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自らのプラントを所有することになったハーブストは巧妙な神話を紡ぎ出します。彼は蒸留所に自分の名前を付けてもケンタッキー州ではあまり反応がよくないと思ったのか、蒸留所はジョン・E・フィッツジェラルドという名のアイルランド人のディスティラーによって建てられたとマーケティングで語りました。実際の創設者はマンリウス・T・ミッチェルという人物で、1890年にオールドジャッジ蒸留所をマーサー郡バーギンからフランクフォートに移転する計画があり、蒸留所はおそらく1892年頃に建てられたと思われます。よくオールド・フィッツジェラルドのマーケティングで語られる1870年云々というのは、ハーブストが卸売業を始めた年でしょう。それと、どうもハーブストが購入する前の1899年に、既に蒸留所は他の所有者の手に渡っていたようで、もしかするとハーブストはそちらから購入したのかも知れません。それはともかく、ハーブストはもともと蒸留所の購入前からDBA(Doing business Asの略)でジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所の名は使用していました。フランクフォートの蒸留所を購入したことで、1905年には「オールド・フィッツジェラルド」のブランド名を再登録します。そしてプラントの規模と能力を大幅に拡大、郡でも最大の蒸留所の1つとなり、ハーブストはそこをオールド・フィッツジェラルド蒸留所と称しました。

蒸留所の印象的な大きさにも拘わらず、ハーブストは広告で「昔ながら」の製法を強調しました。彼は特にポットスティルに強いコダワリがあったようで、本当かどうか分かりませんが、1913年の広告ではオールド・フィッツジェラルドとオールド・ジャッジをアメリカで製造されている最後の「オールド・ファッションド・カッパー・ポット・ディスティルド・ウィスキーズ」であると宣伝しています。また、以前ハーブストがオールド・テイラー蒸留所と契約を結んだのは、テイラーがポットスティルを使用していたからとされ、そもそもオールド・ジャッジ蒸留所を購入した理由もポットスティルが決め手だったとされます。ガラス瓶が安価になり始めた頃、企業は各々自社製品のボトルに特徴的なラベルを使い出し、ハーブストもオールド・フィッツジェラルドのラベルを作成すると、いつの頃からか(1910年代?)ラベルにポットスティルの図柄を入れました。店頭で販売されるクォートとフラスク・サイズのボトルに付けられたラベルは非常に有名になり、オールド・フィッツジェラルドの象徴的なラベル・デザインとして後世でも殆ど変わりません。
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ハーブストはフィッツジェラルド以外にも前記のブランドをリリースしましたが、言うまでもなく旗艦ブランドはオールド・フィッツジェラルドでした。おそらくは当初のコンセプト通り、蒸気船や列車の食堂で供されたり、高級なジェントルマンズ・クラブで人気があったのでしょう。ハーブストはウィスキーの流通を助けるため、1901年に中心地となるシカゴにオフィスを開設し、それを数十年間維持しました。他にもニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ジェノアにオフィスを構えていたとされ、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスでオールド・フィッツジェラルド・バーボンを販売していたとか。
ビジネスの成功によりハーブストの名声が地元で高まるにつれ、彼は他分野にも進出しました。1904年には地元の金融機関であるミルウォーキー・インヴェストメント・カンパニーの投資家、設立者、副社長になり、その後も300万ドル以上の資産を持つシチズンズ・トラスト・カンパニーの設立を支援しました。
ハーブストには事業を継ぐ息子がいなかったため、年老いてもなお自分の主要なウィスキー蒸留および流通事業を管理し続けたと言います。禁酒法によってケンタッキーの蒸留所とミルウォーキーの酒類販売店の両方が閉鎖された時、彼は既に70代になっていました。そこでハーブストは、禁酒法期間中に販売できる薬用ウィスキー用として、オールド・フィッツジェラルドのブランド権をW・L・ウェラーに売却します。おかげでブランド名は存続し、大衆の酒飲みからの認知もあったでしょう。そして禁酒法解禁後にオールド・フィッツジェラルドはスティッツェル=ウェラー蒸留所を牽引するブランドとなって行きます。
ソロモン・チャールズ・ハーブストは1941年2月に98歳で天寿を全うし、3人の娘とその家族に見守られ、ミルウォーキーズ・グリーンウッド・セメタリーに埋葬されました。彼の死に先行すること31年前に亡くなっていた妻エマの横に。

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さて、ハーブスト時代のオールドフィッツが終わったところで、後回しにしていたジョン・E・フィッツジェラルドについて述べたいと思います。彼について複数の候補がいることは先に触れましたが、現在もっとも広く受け入れられ支持されている説は、ヘヴンヒルからリリースされている現代の小麦バーボン「ラーセニー」ブランドの元にもなっているエピソードです。その民間伝承のように知られる話は語り手によって語句や内容に多少のヴァリアントがありますが、概ね以下のようなものでした(少々、私の想像で補って脚色してます)。

…ハーブストの倉庫で働く従業員もしくは警備員に、味にうるさい熱烈な大酒飲みの男がいました。名前をフィッツジェラルドと言いました。彼は当時の多くの従業員のように、倉庫にいるあいだゴム製ホースまたは「ミュール」と呼ばれる器具を持ち歩きました。彼はバーボンの最高の樽を見つけると、栓を開け、ホースを差し込み、仕事中に勝手に飲みました。そうした樽が最終的にボトリング・エリアに到着すると、通常の樽より僅かに軽いのでした。フィッツジェラルドの鋭敏な嗅覚と所業を知っていた仲間の従業員達は、それらの樽を「フィッツジェラルズ」と冗談で呼びました。いざ販売されたウィスキーは非常に良いと評判となり、事情を伝え聞いたハーブストはフィッツジェラルドの名前のブランドを作ることにしました…

現実には、フィッツジェラルドは保税倉庫に配属された米国財務省のエージェントでした。当時、ウィスキー税は米国政府にとって重要な収入源であり、ウィスキーの倉庫は厳重に監視されていて、蒸留所には倉庫への全てのアクセスを制御する「政府の人」が敷地内にいました。ちゃんとに税金が支払われ、ウィスキーが政府の基準に適合しているか確認する彼らのみ、保税倉庫の鍵を持っていたのです。蒸留所のオーナーでさえ鍵を持っていませんでした。これは1897年のボンデッド・アクトの成立から1980年代初頭にシステムが変更されるまで続いています。上のエピソードで「警備員」と解釈されているのは、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っていたからでしょう。しかし、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っているのなら、彼は財務省のエージェントでなければなりませんでした。
ジョン・E・フィッツジェラルドは、ディスティラーでも蒸留所のオーナーでもありませんでしたが、たまたま倉庫の鍵を握る立場にあり、グッド・バレルの良き裁判官でもあり、大酒飲みでもあったがため、個人的な消費のために最高の樽を頻繁にタップしたと推測されます。彼が勝手にウィスキーを味わう時、ハーブストのような蒸留所のオーナーや蒸留業務を指揮するディスティラーは殆どの場合そこに立ち会えません。これは謂わば無法者の政府保安官による「窃盗」です。そこからラーセニー(窃盗もしくは窃盗罪の意)・バーボンの名前は付けられました。ウィスキーを盗むとは言え、フィッツジェラルドは嫌われ者とは思えず、おそらく愛すべきキャラクターだったのでしょう。だからこそ蒸留所の人々の間で彼の味覚は称賛され、バーボンの特に優れた樽をフィッツジェラルド・バレルと呼んだ、と。やがて内輪の冗談は、ハーブストがオールド・フィッツジェラルド・ブランドの架空のプロデューサーとしてフィッツジェラルドを選んだ時、神々しい輝きを放ち始め、以後のマーケティング・スキームの基盤としてその影響は現代まで及んでいるのでした。
この説は多分に伝説の提供といった感が強いですが、一般的に事実として受け入れられています。では、他のジョン・E・フィッツジェラルドの候補はどうなのでしょうか?

一人は、上に述べたフィッツジェラルドと同一人物の可能性が高い男です。
1875年、大統領官邸にまで至る広範な汚職事件として悪名高いウィスキー・リング・スキャンダルの一環で、ミルウォーキーの歳入局のゲイジャー(計測係)が、ウィスコンシン州の不正な政府職員、蒸留業者、およびレクティファイヤーらと共に政府を詐取した陰謀の廉で逮捕されました。ゲイジャーの名前はジョン・E・フィッツジェラルドでした。一年後ワシントンにて他の二人のゲイジャー、一人のストアキーパー、四人のレクティファイヤーと共に起訴されました。法廷で彼は、過去15年間ミルウォーキーに住んでおり、1869年9月から1875年5月まで米国政府のゲイジャーとして雇用されたと証言しています(他の証言では、樽が空になったのを確認する責務の「ダンパー」としてフィッツジェラルドが賄賂の交渉をしたと記述されました)。詳細は明かさなかったようですが流れとしては、蒸留業者は素知らぬふりをして税務報告よりも多くのウィスキーを作り、彼はそれを黙認することで口止め料の賄賂を掠め、それを共和党候補者に渡していたらしい。ゲイジャーの義務は倉庫の監督および樽の税印の修正や政府への申告書の提出などでした。おそらく職名からすると仕事としては、穀物の計量やマッシュビルの順守を監視し、樽への充填やバレル・ヘッドへのブランド情報の遂行の見守り、またバレル販売やボトリングのために樽が引き出された時それらの中身の残りを測定したのだと思います。ウィスキーを含む酒類のアルコール含有量を決定する責任者という説明もありました。
この男が「財務省のエージェント」と同一人物だとすると、この話が前半生、先述のエピソードが後半生ということになるでしょう。フィッツジェラルドが不名誉なスキャンダルの後にまたもや政府機関で働いたとは考えにくいとする意見があります。逆に政治家との繋がりが明白なのだからコネで再度就職したというのも有り得るとする見方もあります。前者も確かにそうだと頷けますが、フィッツジェラルドは調査への協力に対して免責を与えられたとかいう話も聞きますので、後者の可能性も捨てきれません。少なくとも彼の6年間のゲイジャー勤務時代(1869~1875年)には、ハーブストはまだ蒸留所の購入(1900年頃)をしていないので、この時代にフランクフォートの倉庫で「ラーセニー」エピソードが行われたのでないのは確実です。考えられるのは、ハーブストがミルウォーキーに保税倉庫を所有していた可能性。1870年代または80年代頃にはボンデッド・アクトは成立していませんでしたが、保税倉庫はありました。どうやらハーブストはミルウォーキーにブレンディング工場は所有していたらしいので、保税倉庫も所有していたのなら「窃盗」がこの時代に行われていてもおかしくはありません。ただし、この頃から保税倉庫はストアキーパーと呼ばれる政府の警備員の管理下にあり、その仕事は誰もがゲイジャーがいない状態で倉庫に立ち入らないようにすることだったと言います。となると、ゲイジャーが倉庫に入るにはストアキーパーに気づかれないようにする必要があります。ゲイジャーの男による味見のための窃盗が実際に行われていたのなら、ストアキーパーとの共謀だったのではないかとの指摘がありました。また、このフィッツジェラルドの裁判記録は倉庫へのアクセスを示すものではなく、様々な蒸留業者とレクティファイヤーの間での税金の徴収のみを示しているそうです。そこにはハーブストの名も見られず…。つまり、ジョン・フィッツジェラルドが当時ミルウォーキーのゲイジャーだったという証拠はありますが、彼が実際にハーブストの倉庫で働いたという証拠はないのでした。しかし、同じミルウォーキーの同じ時代に酒関わる二人のこと、フィッツジェラルドとハーブストが互いに顔見知り、或いは気の合う仲間だったというのは十分考えられるでしょう。ちなみに、この彼は1838年に生まれ、1914年に死亡、その死までミルウォーキーに留まったとされ、ミドルネームの「E」はエドモンドのようです。

では、次のもう一人。この人物の詳細は不明ですが、ミルウォーキーの国勢調査の記録から、同じ時期にその都市にボイラーメーカーであるジョン・E・フィッツジェラルドがいたことが判明しています(1910年の国勢調査で72歳)。或る慎重な歴史家はこの彼を、ハーブストのメンテナンスマンとして働いていたのではないかと思う、と述べていました。
続けて、もう一人。この人物のミドルネームの頭文字は不明ですが、エドモンドとエドムンドという名前の家族がいました。このジョン・フィッツジェラルドは1896年に63歳で亡くなり、生涯を船長と造船者として過ごしました。彼は老年期にはドライドックを設立し、そこは息子のウィリアム・E・フィッツジェラルドが不慮の死で1901年に亡くなるまで運営していたそうです。ウィリアムには造船業界に入らなかった息子がいましたが、家族経営の会社は彼のために船を造ってエドムンド・フィッツジェラルドと名付けたとか。このウィスキーや蒸留業とは無関係のフィッツジェラルドが取り上げられた理由は、実はハーブストがヨットに意欲的だったからでした。彼は年次開催されたミルウォーキーとシカゴ間のヨット・レースで授与されるS・C・ハーブスト・トロフィーを創設したと言います。これは或るフィッツジェラルド研究に熱心な方の情報ですが、なんと上記の「ボイラーメーカー」を取り上げた歴史家も、1889年の市の商工人名簿に蒸気船の運送会社の副社長としてジョン・E・フィッツジェラルドがリストされていると指摘しています。こうしたヨットへのハーブストの親和性や蒸気船とジョン・E・フィッツジェラルドの関係は、オールド・フィッツジェラルドのあの有名なマーケティングの文言(鉄道やらリヴァーボートやら蒸気船の顧客専用に特別に造られたと云うあれ)を連想させるのに十分でしょう。

最後の一人はディスティラーです。有名なサム・K・セシルの本のジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所(オールド・ジャッジ蒸留所のこと)の説明にはこう書かれています。
「この工場はフランクフォート郊外のベンソンクリークにあり、ジョン・フィッツジェラルドによって建設された。ブランドにはオールド・フィッツジェラルド、オールド・ジャッジ、ベンソン・スプリングスがあり、ミルウォーキーのS・C・ハーブストにより配給された。1900年頃、フィッツジェラルドはブランドをハーブストに売却し、インディアナ州ハモンドに移り、そこで別の蒸留所の監督になった。」
どうもこの書かれ方だと、これまでの文面から判る通り、私の理解の真逆になっています。即ち、ハーブストはただのブランド販売代理店の経営者であって創造者ではなく後継者であり、フィッツジェラルド・ブランドはジョン・フィッツジェラルドというディスティラーが造った、と。どうやらセシルのこの説はWhit Coyteのリサーチを基にしているようで、個人的には信憑性に欠く気がします。しかし、フィッツジェラルド蒸留者説は、どうやら無根拠ではありませんでした。他の歴史家によると、ミルウォーキーからそう遠くない場所で同時代に蒸留事業に携わっていたジョン・E・フィッツジェラルドがいたと言うのです。そのフィッツジェラルドはシカゴ・インター・オーシャンによれば、「米国で最も優れた蒸留者の一人と見做される」プラント・マネージャーで、1901年にシカゴ近郊のハモンド蒸留所の秘書兼会計に任命されました。しかもそれ以前には、ウィスキー・トラストによるダイナマイト爆破事件で有名なあのシューフェルト蒸留所で17か18歳の頃からディスティラーとしてキャリアを始めたとか。このフィッツジェラルドは1865年生まれとされます。なのでゲイジャーと同一人物でないのは明らかとは言え、ハーブストと無関係とは言い切れないでしょう。ハーブストは自らの卸売事業のための供給を主にケンタッキー州の蒸留所と契約して確保していたとされますが、当時最も生産性の高い蒸留所はイリノイ州にあり、その中でトラストと提携していなかったシューフェルト蒸留所は、ハーブストのサプライヤーの一つだったのかも知れません。もしそうであれば、ハーブストが上手くフィッツジェラルドの高名な名前を利用した可能性もある気がします。或いは、ハーブストはシカゴにオフィスを構えていたので、知り合いだったのでは?

ここまで謎に満ちたミステリアスなジョン・E・フィッツジェラルドの候補を紹介して来ましたが、これらのフィッツジェラルドのうち2~3人が同じ人物だったなんてことは十分に考えられるでしょう。彼らが人生のキャリアに於いて転職を繰り返した同じ男性であるかどうかを決めるにはより多くの研究が求められます。一方で「ジョン・E・フィッツジェラルド」は非常に一般的なアイルランド系の名前でもありました。候補には加えませんでしたが、1880年代にボストンの内国歳入局の徴税係にジョン・E・フィッツジェラルドという男がいたそうです。同じ時代で同じ税収に関わる仕事かつ同じ名前、つまりはありがちな名前だった、と。もしかすると1800年代後半に、バーボンにアイリッシュ・ネームを付けることで、一部のエスニック・グループにアピールすることは、悪くないマーケティング方法だったのかも。孰れにせよ、どれもが憶測です。ジョン・E・フィッツジェラルドが何者であるかの詳細は、更なる新しい資料の発見を俟たねばなりません。
こうしたフィッツジェラルドについての謎、錯綜、様々な憶説の飛び交う混沌とした状況は、ひとえにハーブストのマーケティングのせいだと思います。ハーブスト(或いはその担当者)は、一つの真実を保ちながら壮大な脚色をして物語を紡ぐ小説や映画のように、またはそれらに登場する一人の人物のキャラクターが実在する複数の人間のエピソードに基づいて構成されたりするように、フィッツジェラルドの神話を創造したのではないでしょうか? 彼は自分の晩年に、ブランドを酒豪のフィッツジェラルドと名付けることは、意地悪で可笑しな内輪のジョーク(悪ふざけ?)であったことを明らかにしたと言われています。我々が捏造された架空の起源に翻弄されたり、謎解きに右往左往する姿を見たら、ハーブストは天国でくすくす笑っているのかもしれません。 

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さて、ここからはハーブストから新しい所有者に切り替わったオールド・フィッツジェラルドを見て行きます。
禁酒法期間中の1922~25年にかけて、ジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルはハーブストからオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを購入し、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所が禁酒法下でも政府に認められた薬用ウィスキーとして販売するようになりました。既存の在庫は禁酒法期間中に枯渇し、1928年、政府が薬用の在庫の補填に対してはウィスキーの製造を許可したため、アーサー・フィリップ・スティッツェルとパピー・ヴァン・ウィンクルはスティッツェル家に伝わる旧いレシピを使用してウィスキーを造ることにします。そのレシピとは、フレイヴァー・グレインにライ麦を使わず代わりに小麦を用いるものでした。彼らがこのレシピに決めた理由は、他のレシピと較べ短い熟成年数でより良い風味が得られると感じたこと、そして既存の在庫が減少するにつれてウィスキーが早急に必要となることを分かっていたからです。オールド・フィッツジェラルドが、後年「ウィスパー・オブ・ウィート(小麦の囁き)」と説明されることになるウィーテッド・バーボン、或いはウィーターと呼ばれるグレイン・レシピに変わったのはこの時からで、以前のオールドジャッジやテイラー産およびその他のものは恐らくスタンダード・ライ・レシピ・バーボン・マッシュビルを使用して造られていました。小麦バーボンは適切に熟成すると、伝統的なライ麦を含むバーボンよりも丸くて柔らかいテクスチャーを示し、スパイス・ノートの少ないより甘いプロファイルをバーボンに与える傾向があると言います。余談ですが、面白いことに上のパピーらの見解とは逆に、現代の考え方では熟成年数の若い小麦バーボンはあまり味が良くないと言うか、小麦はライ麦より穏やかな熟成を見せるので、小麦バーボンがライウィスキーまたはライ・レシピ・バーボンと同等の熟成感を得るためには樽の中でより多くの時間が必要とされているそうな。

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(我々は優良なバーボンを造り、できれば利益を上げる、必要であれば損失を出してでも、常に優良なバーボンを造る)

禁酒法が解禁された1933年、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所は正式に会社として合併し、老朽化したスティッツェル蒸留所に代わる新しい生産工場をルイヴィル近郊のシャイヴリーに建設します。それがスティッツェル=ウェラー蒸留所(DSP-KY-16)であり、1935年のダービー・デイにオープンしました。そこではジュリアン・パピー・ヴァン・ウィンクルの指揮の下、オールド・フィッツジェラルドは造られました。そのため、この先のオールド・フィッツジェラルドのブランド・ステータスは、ジョン・E・フィッツジェラルドでもハーブストでもなく、パピーと関連付けられて行きます。
スティッツェル=ウェラーは比較的小規模な独立所有の蒸留所であり、今で言うところのクラフト蒸留所に近い蒸留所でした。パピーが執った方法論は昔ながらの製法に依るものと言ってよいでしょう。それは品質への妥協のなさを意味します。ライ麦の代わりに小麦を使うことは割高でしたし、油性の口当たりをもたらすマッシュのためのトウモロコシの挽き方もより高価なプロセスでした。また、樽材には通常より厚いオークのステイヴを使用していたと言います。そしてパピーは恐らくウィスキーの工程全般に於いてプルーフの制御に重きを置きました。一説には50年代頃は、天然のバーボンの風味を維持するため、コラムスティルでの第一蒸留を85プルーフ、ポットスティル・ダブラーでの第二蒸留を117プルーフ、バレル・エントリーを103プルーフで実行したとか。これらは現代の水準と較べて驚くほど低い数値です。
蒸留所のドアの上の看板にはこう書かれていました。「化学者の立ち入りを禁ず。自然およびマスター・ディスティラーの昔かたぎの〈ノウハウ〉がここでの仕事を成し遂げる…ここは蒸留所であって、ウィスキー工場ではない」と。スティッツェル=ウェラーの初代マスターディスティラーであるウィル・"ボス"・マッギルは、テクノロジーではなく人間の感覚こそが良質なウイスキーを作ると考えました。この思想はスティッツェル=ウェラーの歴代マスターディスティラー全員に受け継がれ、施設の最後のマスターディスティラーであるエド・フットは業界に於ける蒸留の自動化を嘆いたと言います。彼らは皆、自らの口蓋と鼻を使って良質なウィスキーを造り上げたのであって、決してコンピューターがそれを造り出したのではなかったのです。

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(Time Magazine May 21 1956)

パピーはもともとW・L・ウェラー社の優秀なセールスマンだったので、マーケティングを怠ることもありませんでした。1950年代、彼は新聞や雑誌にシリーズ物の広告を掲載しています。そこでは、親密な口調で民俗的物語を訓話風にまとめてオールドフィッツを飲むべきだと語ったり、暖炉横でのゆったりしたお喋りのようなスタイルで自社の伝統的な製法を説明したりしました。こうしたパピーのユニークな個性を反映した広告形態は、おそらくオールド・フィッツジェラルドの評判を高めるのに役立ったことでしょう。

スティッツェル=ウェラーでパピーは幾つかのブランドを作りましたが、旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドが最も人気がありました。パピーの統制下ではオールド・フィッツジェラルドは常にボトルド・イン・ボンド規格のバーボンでした。熟成年数は4〜7年とされます。その後、8年熟成のヴァージョンとして「ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」が追加されました。8年は、保税期間のため政府に税金を支払う前に熟成させることが出来る当時の最大年数だったからです。1958年以降、保税期間が8年から20年に延長されたことで、ブランドには長期熟成ヴァージョンが更に加わり、それらは「ヴェリー・エクストラ・オールド・フィッツジェラルド」、「ヴェリー・ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」のラベルにて限られた数量でリリースされました。
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「オールド・フィッツジェラルド・プライム」は、パピー・ヴァン・ウィンクルがボトリングを拒否したバーボンです。冒頭に述べたように、プライム・バーボンは従来までのオールドフィッツの低プルーフ版な訳ですが、パピーはオールド・フィッツジェラルドがボンデッド・バーボンとしてのみ販売されるべきとの信念をもっており、人々がより低いプルーフを望むなら自分で水を足せばよいと考えていました。消費者が水にお金を払うのは馬鹿げていると広告で述べたそうです。しかし、パピーが引退した後、会社を引き継いだ息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアは、コストの削減や利益の増大にプルーフを下げている他社のブランドと競合するため、オールド・フィッツジェラルドでもロウワー・プルーフ・ヴァージョンの発売を求めていた販売員からの圧力に屈し、1964年にプライムは作成されました。ジュリアン・ジュニアは後に8年熟成で90プルーフの「オールド・フィッツジェラルズ1849」も導入しています。プライムは発売当初から数年間は86.8プルーフの製品で、数年後に86プルーフに落ち着きました。後年、ユナイテッド・ディスティラーズがブランドを所有した時、彼らはケンタッキー州では86プルーフ・ヴァージョンを造り続けましたが、ケンタッキー州以外の市場ではプルーフを80に下げました。更に後年、ブランドがヘヴンヒルに渡った時にはケンタッキー州でも80プルーフになります。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、長い間プレミアム・バーボンとして高い評価を得ていました。「もし君がバーボン飲みでないのなら、その理由は一つ、オールドフィッツを味わったことがないからだ」と堂々と宣言する1970年の広告もありました。控え目に言っても、ジュリアン・P・"パピー"・ヴァン・ウィンクル・シニアはアメリカン・ウィスキー産業の巨人でしょう。彼はバーボンが華やかりし時代の最も裕福な蒸留所オーナーでもなければ、ディスティラーでもなかったかも知れませんが、多くの課題に直面しても偉大なる指揮者として自分の会社と自らのバーボンの誠実性を維持し、彼の会社を統合しようと目論む巨大会社のウィスキー独占と激しく戦いました。残念なことに、1965年のジュリアン・シニアの死後、ジュリアン・ジュニアは会社を維持できませんでした。彼の社長としての在職期間はウィスキーの販売が減少し、ファーンズリー(S-Wの共同経営者)とスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、1972年、アート・コレクターとしても有名な億万長者の実業家ノートン・サイモンのコングロマリット(ノートン・サイモン・インコーポレイテッド)への売却を余儀なくされたのです。それでもジュリアン・ジュニアは業界に留まり、古巣のスティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利を契約に残したことで、禁酒法時代のブランドだった「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」を復活させ、その事業はジュリアン・ジュニアが1981年に亡くなった後も息子のジュリアン・P・ヴァン・ウィンクル3世に引き継がれたのですが、これはまた別の話。

1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所がノートン・サイモン社に売却されると、その名称は主力ブランドと同じオールド・フィッツジェラルド蒸留所に変更されました(*)。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。サマセットはジョニー・ウォーカー・ブランドの販売権を有していました。これが伏線となって、1984年、ジョニー・ウォーカーを所有していたディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収することでジョニーウォーカーの流通を管理します。その結果としてオールド・フィッツジェラルドも移行しました。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。この所有権の変更時に蒸留所の名称はスティッツェル=ウェラー蒸留所へと戻されました。
ユナイテッド・ディスティラーズはアメリカンウィスキーの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルに新しく建設したバーンハイム蒸留所に生産ラインを移管、以後オールド・フィッツジェラルドはそこで製造されて行きます。スティッツェル=ウェラーの最後のマスター・ディスティラーであるエド・フットは、そのままバーンハイムで同職に就き仕事を続けました。この頃、UD社はバーボン・ヘリテージ・コレクションの一つとして「ベリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年」を発売しています。
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蒸留所の親会社はM&Aの末、巨大企業ディアジオを形成し、同社はアメリカンウィスキーの資産のうちIWハーパーとジョージディッケルを残して、それ以外のブランドの売却を決定。1999年、バーズタウンにあった自社の蒸留所を火災で消失していたヘヴンヒルは新しい蒸留施設を求めていたので、ディアジオはヘヴンヒルにバーンハイム蒸留所と共にオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを売却しました。それ以来、今日までオールド・フィッツジェラルドはヘヴンヒルが所有しています。

ヘヴンヒルではブランド取得後、かなりの低価格で100プルーフのボトルド・イン・ボンドと80プルーフのプライム・バーボンが発売されていました。所謂「ボトムシェルフ」というやつです。オールド・フィッツジェラルズ1849もありましたし、販売量の少ないヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年も継承されていました。アメリカに於けるプレミアム・バーボンの隆盛を背景に、2012年9月、ヘヴンヒルはオールド・フィッツジェラルドの延長としてラーセニーを市場に導入します。その影響で、次第にオールド・フィッツジェラルドのラインナップは縮小され、2015年前後には終売の情報が流れました。実際、VSOFはギフトショップのみの販売となりそのあと製造中止、BIBも配布地域を減らして行きそのあと製造中止となったようですし、OF1849も市場から消えています。ただし、プライムは今現在海外でも日本でもネットで購入できます。しかし、これが単なる在庫なのか製造が続いているのかよく判りません。それとは別に2015年には「ジョン・E・フィッツジェラルド・ヴェリー・スペシャル・リザーヴ20年」という限定リリースもありました(375mlボトルで約300ドル)。これはその昔、ヘヴンヒルがオールドフィッツのブランド権を買収した時に、一緒に購入したスティッツェル=ウェラーのバレルを、或る時から熟成しないコンテナーに移して秘蔵していたものです。また最近の2018年になって、毎年春と秋の2回リリースされる限定版「オールド・フィッツジェラルド・ボトルド・イン・ボンド」が導入されました。50年代に販売されていたダイヤモンド・デカンターを復刻した華麗なデザインが人気を博しています。
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では、そろそろ今回レビューするオールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンを注ぐとしましょう。

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Old Fitzgerald Prime Bourbon 80 Proof
推定2000年前後ボトリング。オレンジぽいブラウン色。アップルワイン、軽いヴァニラ、焦樽、アプリコットジャム、ラムレーズン、カカオ、サイダー。水っぽくも柔らかい口当たりでヒート感は殆どない。味わいはやや酸味より。余韻は短くウッディなスパイスとピーナッツ。
Rating:82/100

Thought:今回のレビューで開封したのは、UPCコードからするとユナイテッド・ディスティラーズが販売していた製品もしくはヘヴンヒルへ移行した初期の物と思われます。一応カテゴリーをヘヴンヒルにしましたが、推定ボトリング年代が正しいとすると、この時代のプライムの熟成年数はNASながら多分4年なので、本ボトルはヘヴンヒルが所有する前のニュー・バーンハイムで蒸留された原酒の可能性が高いです。
こうしたエントリークラスのバーボンから想像される味より、ダークなフルーツ感が強く、風味全体が複雑でした。ただし、画像では判らないかも知れませんが、こちら購入時から液体に曇りがありました。飲めないほどの劣化はしていませんでしたが、開封当初からかなり酸化の進んだ「香りの開いた」味わいに感じました。しかし、その割りに余韻はあまり芳醇でないと言うか、個人的にはもう少し甘みが欲しかったです。


*この頃からマッシュビルやイーストにも多少の変更があったようです。スティッツェル=ウェラーのマッシュビルは約70%コーン、20%ウィート、10%モルテッドバーリーとされていますが、蒸留所が売却された後には長年に渡って変更が加えられ、新所有者はお金を節約するためにモルテッドバーリーの量を減らし、トウモロコシの量を増やしたとか。これは澱粉を糖へ変換するために商業用酵素を追加することを意味しています。イーストに関しては、パピーの在任期間中はジャグ・イーストを用いていたそうですが、新しい所有者はドライ・イーストを使用するようになったそう。しかし、それでもスティッツェル=ウェラーは依然としてレヴェルの高い生産を維持したと言われています。
ちなみにバレル・エントリー・プルーフも年々上昇したようで、パピー初期は本文でも記したように103~107プルーフあたり、最終的には114プルーフになったと見られています。

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バーボンの空き瓶を活用して手軽に安くオシャレなインテリアにするこの企画、今回はイーグルレアを使って定番のボトルライトにしてみました。お手軽リメイクを紹介するネット記事で取り上げられることも多く、皆さんやってらっしゃるとは思いますので、今回は「私もやってみた」という実例ですね。

百均に売ってるそれ用のLEDを装着するだけという手軽さ。それでいて確かにカッコいいし綺麗です。画像で使用してるのはセリアで購入しました。

注意点と言うほどでもないですが、100円で買えてしまうせいなのか、敢えて電池がすぐ切れるようになってます。なので、長く使うつもりならボトルライトと一緒に電池も購入したほうがよいでしょう。つまり、制作費は100円じゃなく200円と思ったほうがいいよってことです。

ちなみにこの商品はおそらくワインボトルに合うように造られているからなのか、イーグルレアの口にはしっかりとは嵌まりませんでした。カポカポしてますけど、瓶の中に落下はしないので大丈夫です。

ワインボトルやその他の空きボトルなら何でも使えるんですが、バーボン好きな私にとっては、やはりバーボンで作るとウキウキ嬉しい気持ちになります。イーグルレアは紙ラベルがないデザインなのでオススメです☆

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日本で長らく親しまれてきたワイルドターキー12年は2013年に終売となり、それに代わって日本市場でリリースされ始めたのがワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴです。熟成年数が一年増えましたが、ボトリング・プルーフが101から91へと下がりました。頑なにワイルドターキーを愛して来たファンからすると、熟成年数は偖て措いても、プルーフの変更に引っ掛かった方も多いのではないかと思います。ターキーは101(ワン・オー・ワン)だろ、と。斯くいう私がそうでした。とは言え、エイジ・ステイトメントを保った長熟のターキーが手軽に飲めるだけでも、ありがたい状況なのかも知れません。そもそも12年101の発売停止は供給維持が難しくなったためと見られ、長期熟成原酒の減少は何もワイルドターキー蒸留所に限った話ではなく、アメリカ国内でのバーボン需要が爆発している昨今では業界全体がそうでしょう。それに穿った見方をするなら、輸出専用だった12年が13年ディスティラーズ・リザーヴへと転換されたのと近い時期に、ダイヤモンド・アニヴァーサリーのリリースやマスターズ・キープ・シリーズのような長期熟成原酒をメインとした限定製品の年次リリース開始という出来事があり、要は長熟ウィスキーの割り当ての変化だと思えなくもない。そんな渦中にあってもなお、どれだけ要望があろうと12年101を国内リリースせず、日本へ向けて13年をアルコール度数が5%低いだけで継続してくれたワイルドターキー(の親会社?)には感謝すべきなのかも。宝物のような12年101は1999年にアメリカ国内での流通がストップした後も長きに渡って日本では容易に手に入りました(勿論、8年のエイジ・ステイトメントを保った101もそう)。それはアメリカでバーボン人気が復活する以前、彼の国の殆どの消費者がプレミアム・バーボンに見向きもしなかった80~90年代の暗黒時代(供給過剰時代)に、せっせと高額なバーボンを輸入してくれた日本に対する感謝の気持ちからだったのかも知れません。いや、そう思いたい。単なるビジネス上の判断だったと解釈するより、その方がロマンがありますから。

さて、そこで今回の13年ディスティラーズ・リザーヴですが、判りやすい熟成年数とプルーフの変更以外にもう一つ特徴的な注目点があります。箱およびバックラベルの文言を以下に引用しましょう。
ジミー&エディ・ラッセルという父と息子の本物の蒸留技術から生まれたワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴは、最高のキャラクターを備えたケンタッキー・ストレート・バーボンです。この特別リリースのバーボンは慎重に選択された蒸留者のお気に入りであり、低いプルーフで樽詰めされ、伝説的な「B」ウェアハウスの低層階でゆっくりと熟成されました。そこは卓越した品質のバーボンを造るのに適した涼しい温度、高い標高、大きな空気循環が組み合わさった場所です。メロウなオークのノート、リッチなヴァニラ、洋梨のヒントと長いスパイス・フィニッシュを備えたワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴは、ジミー&エディ・ラッセルの世界的に有名な職人気質のショーケースであり、ワイルドターキー・バーボンの力強さと特有のキャラクターを鮮やかに表しています。
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壮大な物言いはご愛敬として、注目はB倉庫の下の方の階で熟成させたと言い切っているところです(*)。これはシングルバレルのケンタッキー・スピリットやアメリカ国内で入手しやすいラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルのストアピックのように、例えばG倉庫の4階の何番バレルとまでは場所や樽の特定は出来ないものの、流通量の少ないケンタッキー・スピリットや海外のストアピックが入手しにくい日本人にとって、13年ディスティラーズ・リザーヴはシングルバレルではないとは言え熟成場所による味わいの違いを手軽に経験する機会の提供と言えるでしょう。ワイルドターキー蒸留所のオンサイト(タイロン)とオフサイト(キャンプネルソン)を含めた29の熟成庫は、どれもワイルドターキーのコア・プロファイルは共有するかも知れませんが、それぞれスパイスやベーカリーやフルーツ等のプロファイルのバランスに違いが生じるとされます。またワイルドターキーの熟成庫では、一説には上層階で熟成されるとアーシーに、下層階で熟成されるとフルーティになりやすいという話もありました。Bウェアハウスは、おそらくAウェアハウスと共に1894年頃建てられたかなり古い倉庫の一つです。エディの息子で現在ブランド・アンバサダーのブルース・ラッセルの個人的なお気に入りの倉庫なのだとか。では、そろそろ飲んでみたいと思います。

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Wild Turkey 13 Years Distiller's Reserve 91 Proof
推定2014年ボトリング。クレームブリュレ、ヴァニラ、香ばしい焦樽、熟したプラム、洋梨、ライスパイス、湿った木材、塩昆布、ラムネ菓子。基本的に甘い焦樽フルーツのアロマ。口当たりはサラッとしている。パレートはオレンジぽさとハニー。余韻は度数のわりには長めで、ほんのりフルーティな甘味もあるが少々渋く、芳醇とは言い難い。全体的に僅かに薬っぽいノートが感じられる。
Rating:87/100

Thought:正直言って、評価の難しいバーボンだと思いました。私には熟成庫の違いによるプロファイルを云々できる経験はありませんので、前回まで開けていた青12年との比較になりますが、何と言うか、従来までの12年101が有していた最も美味しい部分が欠落しているのに、それでもなお12年101と通低するものも感じ、短絡的に切り捨てられないのです。多分これが101プルーフのボトリングだったとしても、複雑さの点に於いて青12年には敵わなかったのではないかと思います。ですが「較べる脳」でなく単体で飲めば、ワイルドターキーの特徴的な濃厚な炭の香りはあるし、繊細なフルーツ感もあり悪くありません。強いて言うなら、旧来の12年はもっと濃密なヴァニラとダークフルーツを想起させるのに対し、13年は穀物とフレッシュフルーツを想起させます。これはプルーフィング・ダウンの結果であるような気もするし、熟成場所の影響のような気もします。皆さんはどう思うでしょうか? コメントよりご意見お待ちしております。

Value:販売価格は店舗により異なりますが、現行品で概ね5000~6500円程度。私はラベルの新しくなった物を飲んだことがないのですが、個人的にはこれに6500円出すのであれば、8年を2本買うかオークションで旧来の12年を買いたいです。または、クラフトディスティラリーの少々割高だけれど新しい味に挑戦することを選びます。けれども、現8年を3000円、旧12年を12000円とすると、13年の6500円はちょうど中間くらいの価格となり、存在意義のない製品ではないし、妥当なお値段にも思えます。アメリカ人にとっては13年にプレミアム(上乗せ価格)を支払うくらいならダイヤモンド・アニヴァーサリーを購入した方がいいと言われますが、日本人にとっては単純に好みで決めればいいこと。おそらく12年が好きだった人、或いはスコッチも嗜む人にとっては現行8年より購入価値のある製品だと思います。


*実を言うと、このラベルより新しい現行の13年ディスティラーズ・リザーヴの説明文からは、「B」の文字が抜けています。おそらく現在の物は、こちらと同じく倉庫の低層階で熟成されていますが、Bウェアハウス以外からも樽が選ばれるように変更されたものと推測されます。海外のターキーマニアで飲み較べした方によると、品質や基本プロファイルにそれほどの変化はなく、僅かに甘さとスパイスのバランスが異なる程度とのこと。

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アーリータイムズ・プレミアムは日本市場限定の製品です。調べてみると1993年から発売され、1997年に終売になったとの情報がありました。後の2011年リリースで2014年に製造停止となった「アーリータイムズ354バーボン」同様、このプレミアムも短命だった訳です(354の過去投稿はこちら)。どちらも3~4年で製造されなくなったところを見ると、あまり売れなかったのでしょう。

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(アメリカ流通のアーリータイムズ・ケンタッキーウィスキー)

アーリータイムズのアメリカ本国での流通品は、1983年にそれまでの「ストレートバーボン」規格から中古樽熟成原酒を含む「ケンタッキーウィスキー」への転換がありました。そう、我々日本人がバブル時代に大量のバーボンを輸入し、バーボンブームが到来していたあの頃、「バーボンと言えばやっぱりアーリータイムズだよね」と憧れていたバーボンは、既に本国ではバーボンではなくなっていたのです。アメリカに於けるアーリータイムズ・ケンタッキーウィスキーはボトムシェルフの王者だったかも知れませんが、そのブランド・イメージは「古臭くて安い酒」だったに違いありません。恐らくそうした負のイメージを刷新しようとしたのが354バーボンの発売だったと思われます。しかし、ほんのちょっと先走り過ぎたのか、単なるマーケティングの失敗なのか、とにかくその目論みは外れました。製造中止のアナウンスの際にブラウン=フォーマンのスポークスマンは、消費者はアーリータイムズにプレミアムを求めていなかった、という趣旨の発言を残した程です。
一方、アーリータイムズの輸出用製品はケンタッキー・ストレート・バーボンとして継続されました。世界的な知名度は絶大であり、特に日本では確固たる地位と販売量を誇るブランドだったからです。では、その日本ですらそれほど売れなかった(と思われる)アーリータイムズ・プレミアムとは一体何なのでしょうか?

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ラベルのサイドに書かれた文言はバーボンのありきたりの常套句ばかりで読む価値もないものです。はっきり言えば、ボトルのみから判断できる情報では度数が3%ほど高い43度ということだけ。このプレミアムについて調べていると、或るブロガーさんの記事で「当時価格で1500円」とありました。随分と安くありません? まあ、354バーボンもアメリカでは17ドル前後の販売だったので、「プレミアム」とは言ってもアーリータイムズ自体がバリュー・ブランドだし、ちょっと上位だよ程度の意味しかないのでしょう。1997年発行のバーボン本によると、イエローとブラウンが参考価格で2700円、プレミアムが4000円とあり、実売価格ではないけれどそれなりの差額があります。そして、その本の製品説明によれば、

「プレミアムは、品質へのこだわりをより徹底させた日本限定品。原料を独特の比率で組み合わせ、酵母も専用のものを使っている。熟成が、香りと色、味わいに深みをあたえている。」

とのこと。え?マジで!? 正直言って、この手の本に載っているインフォメーションは疑わしいものが多く、どこまで信憑性があるのか判りません。アーリータイムズ自体の紹介には比較的紙面が割かれてはいますが、97年発行という時期柄か、96年発売のブラウンラベルについて多く語られ、プレミアムに関しては上の引用文だけしか記述はないのです。取りあえずこの件は後で少し触れるとして、このプレミアムという製品、パッケージングがヒドくないですか? プレミアムを謳いながらラベルの色がブラウンとカーキの中間色? え、売る気あるの? スタンダードのイエローより地味になってますけど? プレミアムが販売されていた当時、熟成年数やボトリング・プルーフの違いによってラベルの色の違う2~3種類のヴァリエーションを揃えたバーボンが沢山ありました。その中で、アーリータイムズにも少し度数の高いヴァリエーションがあるのは自然の流れだろうし、ネームバリューだってずば抜けているのだから、プレミアムが売れる潜在能力は大いにあったと思うのです。いくら「水割り文化」の日本人に最も売れているブランドだったとしても、ハイアー・プルーファーが売れる素地はなくはない筈。通常、ボトルやラベル・デザインを変えずにより良質なヴァリエーションもリリースする場合には、上位の物に高価そうに見える派手な色のラベルを使う傾向にあります。スタンダードが白や黒なら、上位のクラスには赤や銀や金などを使うという具合に。ひとえにプレミアムが売れなかった原因はパッケージにあったのではないでしょうか? この渋すぎる色ラベルのアーリータイムズは、どう見てもイエローラベルの廉価版にしか見えず、プレミアム感の欠片もありません。これでは売れる訳がない……と、ここまではプレミアムが売れなかったから終売になったという前提で話を進めました。ですが、逆に順調に売れていたという可能性も考えられます。これについても後で述べることにし、先ずは飲んだ感想を書きましょう。

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1993年ボトリング。キャラメル、焦樽、ブラウンシュガー、ダークフルーツ、バナナ、米、ほんのりバター。甘い香りにフルーティさが潜むアロマ。澄んだ酒質。口当たりは水っぽいものの風味はしっかりしている。香りにスパイシーなトーンは感じないが、液体を飲み込んだ後には穏やかなスパイスが現れる。余韻は43度にしてはやや長めで、緩やかな穀物の甘さとビタネスが同居。
Rating:83.5/100

Value:これ、美味しいです。ユニークな風味はありませんが、すっきりしつつコクのあるバランスの取れた味わい。スタンダードのイエローより幾分かフルーティで、イエローラベルに感じやすい嫌な風味も薄いように思いました。今でも2000円程度で販売されていれば常備酒としてもいいですね。オークションでのタマ数はそう多くありませんが、今のところ高騰してない銘柄なので、2500~3000円程度で落札出来る模様。

Thought:さて、プレミアムの中身に関してなのですが、飲んでみた感想が飲む前の予想をかなり越えていたこともあり、幾つかの可能性を考えてみました。先ずは、上記のバーボン本自体の信用性がなく、件の引用文もテキトーに書かれたデタラメなものだと仮定した場合、

①単純にイエローラベルよりボトリング・プルーフが高いだけ。だが、3度の違いが風味に及ぼす影響は大きい。
②使われている原酒の熟成年数が僅かに長い、もしくはイエローラベルよりクオリティの高い樽が選ばれている。
③イエローラベルとはトーストの具合が違う樽が使われている(*)。

と、考えるのが妥当だと思います。問題はその引用文が信頼できる真実の情報だと仮定した場合です。注目は「原料を独特の比率で組み合わせ、酵母も専用のものを使っている」という部分。酵母は一旦おいて、この前半の文を素直に解釈し、言葉を補うならば、「イエローラベルとは違うプレミアム独自のマッシュビルを使っている」と言っています。私は過去にイエローラベルとブラウンラベルの比較レビュー(こちら)を投稿し、そこでブラウンラベルのマッシュビルについて紹介しましたが、このプレミアムまでもが全く別のマッシュビルを使ってるとは到底思えないのです。マッシュビル、特にフレイヴァー・グレインであるライ麦の比率は味わいに大きな影響を与えます。違うブランドにするならまだしも、同じブランド、同じラベルデザインの色違いで、通常そこまではしないでしょう。しかも日本だけのために、更には廉価な販売価格なのにです。しかし、今は引用文が正しいという仮定で話を進めています。そこで思い付いた解釈理論が、

④プレミアムはブラウンラベルの前身であり、中身はブラウンラベルのハイアー・プルーフ・ヴァージョンだった。

というものです。これは実際プレミアムを飲んでみてイエローラベルより私好みだったことから思い付きました。何となくイエローよりライ麦の影響を感じるような味の気がしたのです。ですが、私自身は味覚音痴ですし、それくらいの風味の違いはボトリング・プルーフの差や熟成の具合でどうとでもなりそうな気もし、また同時期のイエローとブラウンとプレミアムをサイド・バイ・サイドで飲み較べした訳でもないので自信はありません。あくまで珍説であり可能性の提供という意図しかないのです(飲んだことのある皆さんのご意見、どしどしコメントへお寄せ下さい)。そして、珍説ついでに妄想を膨らませてみると、実はプレミアムはよく売れていたのではないか?とまで思い直し、

⑤プレミアムは実験的に開発され、日本市場で好評だったが、のちに日本人の味覚に合わせて40度にプルーフィング・ダウンし、ブラウンラベルとしてリニューアルされた。

というストーリーまで考え付きました。プレミアムの中止が97年、ブラウンの発売が96年ですから、なくはない推論かなと。まあ、どれもバーボンファンのとりとめのない与太話と思って聞き流して頂ければ幸いです。暇潰しには最適でしょう?(笑)。それと、身も蓋も言い方ですが、

⑥単に90年代のボトリングは今よりレヴェルが高かった。

という説も付け加えておきます。
最後に酵母に関してですが、件のバーボン本によるイエローとブラウンの違いの説明では、イエローラベルは「熟成期間の異なる酵母を4種類混ぜ合わせて」あり、ブラウンラベルは「イエローラベルの4種類の酵母に、性質と熟成期間の異なる3種類の酵母をプラスして華やかさを醸し出す」とあります。これってまるでフォアローゼズ蒸留所のようですよね? ブラウン=フォーマンもこうしてバーボンを造ってるという話を私は他では聞いたことがないのですが、本当なのでしょうか? こちらもご存知の方はコメントよりご教示頂ければと思います。


*ここで何度も言及しているバーボン本のアーリータイムズ・ブラウンラベルの説明では、トーストの加減がイエローラベルとは違う旨が記されています。③はそこからの類推として、プレミアムもそうだった可能性を示唆しました。

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現在では多くのクラフト・ディスティラリーの勃興を見るテネシーウィスキー・シーンですが、一昔前はたった二つの蒸留所しかありませんでした。一つは言わずと知れたムーア・カウンティのジャック・ダニエル蒸留所、もう一つがタラホーマ近くのコフィー・カウンティに位置するジョージ・ディッケル蒸留所です。現在、ジョージディッケルを所有するのは泣く子も黙る酒類業界の巨人ディアジオ。そのブランド・リストの中では、ジョニー・ウォーカー、キャプテン・モルガン、スミノフのような超メジャー銘柄と較べれば、近年知名度を上げたとは言え、ディッケルはまだ小さなブランドでしょう。しかし、その歴史と変遷は大変興味深く、上に挙げた英雄的ブランドや世界でトップクラスの売上を誇るジャックダニエルズにも勝るとも劣らないものがあります。そこで今回は、日本ではあまり語られることのないジョージディッケルとその前身であるカスケイド・ウィスキーの歴史を紹介してみたいと思います。

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酒名となっている人物、ジョージ・アダム・ディッケル(1818年2月2日―1894年6月11日)は、エリザベス・ディッケルの婚姻外の子としてドイツのグリュンベルクで生まれました(ダルムシュタットという説もあった)。彼の父親はマルクトハイデンフェルトに住んでいたアントン・フィッシャーであったとされています。父親方の家族は、彼の叔父をゴッドファーザーとして立たせることによって間接的に認知したようで、名前は叔父のジョージ・アダム・フィッシャーにちなんで名付けられました。アントンの父親、アダム・フィッシャーは、ワイン樽を専門とするヴュルツブルク地域のマスター・クーパーだったと言います。ジョージ・ディッケルの幼年期の生活はよく分かりません。なので一気にアメリカでのサクセス・ストーリーへと飛びましょう。

1844年、ディッケルは26歳の時アメリカへ入国しました。そして1847年には後の活躍の舞台となるナッシュヴィルに移住します。1850年代半ばまでに、ディッケルはナッシュヴィルのユニオン・ストリートで靴とブーツの製造業を営み生計を立てていました。このビジネスは彼を忙しくさせ、1860年頃まで仕事を続けましたが、それは運命づけられた商売ではありませんでした。この間、彼は会社の後輩だった二十歳のオーガスタ・バンザーと結婚しています。彼女は抜け目のないビジネスウーマンであり、財務に長けていたとされ、会社の経理でも担当していたのかも知れません。ディッケルは1861年に酒類の販売を始めました。多くの成功した商売人のように、酒類以外に衣料品、家庭用品、食料品などの小売業もやっていたようです。

南北戦争時、1862年に北軍の兵士がナッシュヴィルを占領し、酒の販売を禁止すると密輸が横行しました。おそらくディッケルはナッシュヴィルの「ヤンキー」占領期間中(1862―65)、密輸業者であったと見られます。もっと言うと、影のボス的な存在だった可能性も否定出来ません。個人的な記録を殆ど残さず、性格が伝わるようなエピソードのないディッケルはミステリアスな男でした。彼は明らかに匿名性を求めたとされ、ビジネス取引ではバックグラウンドで動作することが好ましいと考えていたようです。それは出生やこの時期の商売と無関係とは思えず、危害から身を守る知恵だったのかも。それはともかく、占領後にディッケルらがリカー・ビジネスを設立し繁栄させた資本金は、この密輸活動から来たと考えられます。
ディッケルと戦時の密輸を結びつける直接的な証拠はありませんでしたが、ディッケルが長い間付き合っていたユダヤ系アルザス=ロレーヌ移民のシュワブ家は、ナッシュヴィルの違法ウィスキー取引に深く関わっていました。1859年以来ディッケルのビジネス・アソシエイトであったエイブラム・シュワブの義理の息子マイヤー・ザルツコッター(1822―1891)は大量の密輸酒を所持して北軍当局に捕まっています。ザルツコッターは、シュワブと合法でも非合法でも商売をしており、エイブラムの娘であるセシリアと結婚していました。ディッケル、エイブラム・シュワブ、ザルツコッターの3人はノックスヴィルとナッシュヴィルで様々な種類のビジネスを共にしたと言います。エイブラムの息子ヴィクター(1847―1924)も父親の足跡を辿りました。ヴィクターは当局を混乱させるために、青年時代に名前を何度も変えたらしい。彼ら全員が北軍の占領を回避するために出来ることをする善良な南部人だったので、少なくとも彼らの共同体の中での評判は悪くなかったようです。
ザルツコッターは下部を偽装したワゴンを使用して北軍の封鎖を通り抜け、禁止品を密輸して捕まると、有罪判決を受けてセントルイス近くのイリノイ州アルトンの軍事刑務所に入ります。彼は、姻戚が自分にウィスキーを負わせたのだ、と主張しましたが通用せず投獄されました。彼が妻の許を離れている間に、彼女(ヴィクターの姉セシリア)はルイヴィルへと逃れ、そこで売春婦になったそうです。彼は釈放されると、妻と離婚しました。ザルツコッターは1891年の死までディッケルと行動を共にします。

戦争が1865年に終わった時、ディッケルはサウス・カレッジ・ストリートに酒屋を持ち、それは市内最大の酒屋の1つでした。店舗は翌年までにサウス・マーケット・ストリートのより大きな場所に引っ越します。更にビジネスが成長し続けるにつれて、彼らは3年間で3回目の移転までしました。
ディッケルは1866年頃からウィスキー事業に参入し始め、マイヤー・ザルツコッターを監督として、その元義兄弟であるヴィクター・エマニュエル・シュワブをブックキーパーとして雇います。彼らは地元の蒸留所からウィスキーを購入して、彼ら自身のラベルのために最も円やかで最も優れたスピリットだけを選ぶことですぐに評判を得ました。この頃シュワブは、アメリカ化するために自らの姓から「c」を落としてクリスチャン教会に加わります(SchwabからShwabへ)。1867年、ディッケルはウイスキーをブレンドし始め、ライセンスなしで酒を整流(レクティファイング)したとして逮捕され、連邦裁判所で告発されましたが、これらの告訴にも拘わらず、ディケルの酒類小売は成功し続けました。そして1870年までに(1868年とする情報もあった)、ディッケルはノース・マーケット・ストリートに本社を置く酒類卸売会社、ジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーを結成します。当時の酒類卸売業者の典型的な例として、同社はこの地域の蒸留所から直接ウィスキーを購入し、それを樽やジャグ、または瓶で売っていました。それに加えて、ナッシュヴィル・エリアのブリュワーからエールとラガーを仕入れ、またワインやブランディも販売しています。更に同社はナッシュヴィルで直接酒を輸入した最初の企業の1つであり、スコットランドとアイルランドのウィスキー、オランダのジン、シャンペイン等も取り扱っていました。1875年の広告では、自社の特産品を「カッパー・ディスティルド・サワー・マッシュ・ウィスキー」や輸入シャンペインと表記し、全国に出荷致します、と記載しています。1871年に、ザルツコッターはディッケル・カンパニーのパートナーに昇格し、ヴィクター・シュワブはディッケルの妻オーガスタの妹エマ・バンザーと結婚しました。
1874年3月17日、マーケット・ストリートに火災が発生し、ディケル・カンパニーの本社は丸焦げになり、6万ドル相当のウィスキーで満たされた大きな倉庫も焼失します。1881年5月に起きた別の火災でも倉庫を焼失し、会社は75,000ドルの損失を被りました(ただし部分的に保険が掛けられていた)。この2回目の火災についての報道では、或る新聞はディッケルを「グレート・ウィスキー・ディーラー」と表現しています。ちなみに1882年、ディッケル・カンパニーはマーケット・ストリートに新たな5階建ての本社を建てました。この建物は今もまだナッシュヴィルの201〜203セカンド・アヴェニューに立っているとか。

さて、ここまでの話で分かるように、ジョージ・ディッケルは、一言で言えば成功を収めたドイツ生まれのアメリカ人実業家でした。1771年のエヴァン・シェルビーによるサリヴァン郡のイースト・テネシー蒸留所の設立から始まり、1900年代初頭の禁酒法の開始まで、ウィスキーの製造と販売はテネシー州の重要な産業でしたが、彼の卸売会社は流通とマーケティングにおいて重要な役割を果たしたと言えるでしょう。しかし、ディッケル自身はウィスキー・ビジネスマンであって、ディスティラーではありませんでした。
現在ジョージディッケルのブランドを所有するディアジオや、その前時代に所有していたシェンリーのような親会社から語られる歴史は、マーケティング・ツールとして用意されたものが殆どです。それゆえ誤解を招きがちなのですが、ディッケルはタラホーマ近くのウィスキー造りに最適な場所を発見して蒸留所を創設したのでもなければ、レシピをはじめとする諸々の製造法を完成させたのでもなく、彼の統制下の会社は蒸留所を所有したこともありませんでした。更にディッケルはカスケイド・ホロウを訪れたことすらありそうもなく、なんならウィスキーを一滴も飲まなかったとさえ言われています。タラホーマはディッケルの本拠地だったナッシュヴィルから約80マイルであり、彼の時代には近いとは言い難い距離でした。今日でも州間高速道路で片道約90分の道のりです。
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ディッケルがしたのは、ディスティラーから直接ウィスキーを樽で買い付け、ナッシュヴィルで瓶詰めして包装し、独自のウィスキーとして売ったこと。また彼ら卸売業者の多くは、異なるウィスキーをブレンドし、アルコール度数や風味を調整するためレクティファイヤーとも言われます。それは今日、我々がNDP(非蒸留業者)と呼んでいるものでした。

おそらくジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーの最も印象的で長続きした業績は、小さな町ノーマンディ近くのコフィー郡にある蒸留所で生産された非常に素晴らしいウィスキーの発見と宣伝でした。往時、テネシー・サワーマッシュ・ウィスキーの生産で最も有名な郡は、ロバートソン郡とリンカーン郡で、リンカーン郡の一部は後にムーア郡となり、ジャック・ダニエル蒸留所の所在地(リンチバーグ)として知られていますが、隣接するコフィー郡にもいくつかの蒸留所があったようです。当時カスケイド・ホロウ蒸留所として知られていたものは、1877年にジョン・F・ブラウンとF・E・カニングハムによって設立されました。この蒸留所の例外的なウィスキーの品質の多くは、使用されるカスケイド・スプリングスの水が優れていたことに起因しているとされます。いつの頃からか不明ですが、ディッケル・カンパニーはタラホーマ近くのカスケイド・ホロウ蒸留所で生産されるウィスキーを配給し始め、同蒸留所の最大の買い手になったと思われます。多くの量産品と同様に、同社は独自のラベルを付けることで他の競合製品と差別化しました。ラベル中央にはカッパースティルが描かれ、「GEO. A. DICKEL & CO.」、続いて「CASCADE DISTILLERY」と記載されています。そして伝説によればディッケルは、自分のウィスキーは世界最高級のスコッチと同程度であると信じていたので、ラベルには伝統的なスコットランドと同じ「e」なしの「Whisky」を採用しました。それは今日まで、そのように綴られる一握りのアメリカン・ウィスキーの1つのままです。

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1879年、地元のビジネスマンであるマシュー・シムズがブラウンの株を買い取りました。1883年になると、もう一人のビジネスマン、マクリン・ヘゼカイア・デイヴィス(1852―1898)がこの蒸留所の操業に参加し、多分今で言うところのマスター・ディスティラーとなって、ウィスキーの品質を大幅に向上させる数多くの革新的技術を導入したと言います。カスケイド・ウィスキーのレシピを造ったのも彼と見られ、後の広告に登場する
「Mellow as Moonlight(月光の如くメロウ)」というフレーズもマクリンが夜間にマッシュを冷やした方法に基づいていました。ウィスキー自体の成功に最も責任を負う人物であると思われるマクリン・デイヴィスは、カスケイド蒸留所の一部の所有権者でもあり、彼の息子の一人はヴィクター・シュワブの娘の一人と結婚したという点で、彼とシュワブ・ファミリーは明らかに親密な関係にありました。

1886年にディッケルは乗馬事故で酷いダメージを受け、その損傷は決して完全には回復せず、彼がしていた多くのことを続けるのが困難になりました。ディッケルの健康状態が低下するにつれて、義理の弟であるシュワブは会社の日常業務を徐々に引き継ぎます。
1890年代初頭までに、カスケイド・ウィスキーはこの地域で最も人気のあるブランドの一つとなり、既に1881年にディッケル・カンパニーのフル・パートナーとなっていたシュワブはその人気を認め、1888年にシムズの持っていた株を購入し、カスケイド・ホロウ蒸留所の2/3の所有権を取得しました。この購入の一環として、ディッケル・カンパニーはカスケイド・ウィスキーの唯一の販売代理店となります。同年、ザルツコッターが体調不良のためウィスキー事業を終了しました。

同じ頃、ディッケル・カンパニーのもう一つの重要な事業が始まっています。それはサルーンの経営です。誰の発案か分かりませんが(シュワブ?)、同社は自社の取り扱い製品の需要を創出するため、1887年、有名なマクスウェル・ハウス・ホテルの近く、ナッシュヴィル最高のエンターテインメント地区にザ・クライマックス・サルーンをオープンしました。同社はこのサルーンをカスケイド・ウィスキーの「本部」として宣伝しています。そこで提供する娯楽は酒、ギャンブル、売春など。つまりはバー、ギャンブリング・ホール、売春宿の複合施設だったクライマックスは、ジェントルマンズ・クォーターもしくはメンズ・クォーターとして知られるエリアのプリンターズ・アレーに隣接する210チェリー・ストリート(現在の4thアベニュー・ノース)にありました。ドアの上に彫刻された四体の天使はサルーンへの訪問者を迎え、1階と地下はカンカン・ダンサーやその他のエンターテイメントが行われる劇場とサルーン・バー、2階にはバーとギャンブル目的で使用されるプール・テーブルがあり、3階は売春用のベッドルームという造りになっていました。3階でサービスを提供するガールズは階段に沿って立ち、男どもは階段を昇りながら相手を選んだと言います。ベッドルームには部屋を仕切る偽の壁パネルがあり、そこで働くガールズが警察からの急な襲撃の際に身を隠す場所となっていたとか。
1880年代後半から1914年まで、「紳士街」はサルーンや男性の関心に応えるアダルトでエロティックなビジネスが密集している地域でした。当時の自尊心のあるヴィクトリア朝の女性が通りを歩くことを拒否した場所であり、自分の評判を重視する女性はこのブロックに進出することはなかったそうです。「紳士街」の発達は、当時のいくつかの理想的な状況によるものでした。そうした歓楽街に欠かせない男性顧客の絶え間ない豊富な供給はその一つでしょう。それは、近くのオフィスビルからの弁護士や隣接するマクスウェル・ハウス・ホテルからの旅行ビジネスマンだったり、近くのカンバーランド・リヴァーからの建設労働者やリヴァーボートの乗組員たちです。また地元の警察による緩い取り締まりというお決まりのパターンも要因の一つでした。ナッシュヴィルの警察は「紳士の宿舎」で起きている違法行為を非常によく知っており、時折の摘発が行われましたが、それは名目上の罰金のみを課したに過ぎなかったようです。そして人気のあるテネシーウィスキーの蒸留所による支援もまた、その成長に重要な役割を果たしました。ディッケル・カンパニーはクライマックス・サルーンの運営の他に、建築家ジュリアン・ツウィッカーによって設計され、1893年に建てられたシルヴァー・ダラー・サルーンもヴィクター・シュワブが管理を支援していました。更にあのジャック・ダニエルも伝説によれば、チェリー・ストリートの全てのサルーンを訪れ、そこにいた全員にジャックダニエルズ・ウィスキーをおごったと言われています。各サルーンにはフォロワーが詰めかけ、彼らは次の場所で行われるおごり目当てにジャックを追い掛けて行ったのだとか。
紳士街で男達は、髪を切り髭を剃り、新しいスーツを買い、その頃トレンドになったランチを嗜み、サルーンでは酒を楽しんだり、時にはギャンブルや売春などのよりスキャンダルで違法な活動に参加したりしました。今より厳格なモラリティのあった社会的ルールの時代に、クライマックス・サルーンやその他のプリンターズ・アレーの施設の多くは、男性が非難がましい裁きを下されずに飲酒やギャンブル、或いはいわゆる醜態を晒せる場所だったのです。1914年にクライマックス・サルーンが最終的に閉鎖されるまでの数年間、地元の教会はアルコール消費とチェリー・ストリートの売春宿とサルーンの罪深さを説いて回りました。成長している全国的な禁酒運動がテネシー州でも定着し、一連の法律が最終的に州内の全てのサルーンを閉鎖してしまいます。プリンターズ・アレーとその周辺地域には違法なスピークイージーズのみが残りました。

さて、ここらでディッケル・カンパニーの本道へと話を戻しましょう。ジョージ・ディッケルの落馬事故には先に触れましたが、彼の健康は人生の最後の2年間で急速に減退し、1894年6月11日、ついに帰らぬ人となり、ナッシュヴィルのマウント・オリベット墓地に埋葬されました。ディッケルは成功した酒類事業以外でもナッシュヴィルに貢献していたようです。彼は都市のすぐ外にあるディッカーソン・パイクの家に住み、そこで大きな梨の果樹園を経営していました。また、ボランティア消防士をしていたり、1852年にはマスター・メイソンになったとか、テンプル騎士団のメンバーでもあったと伝えられます。他にも、写真家でありドイツ系アメリカ人仲間のカール・ジアースの1874年の州議会入りを支持したとか。カールはディッケルのよく知られた肖像写真の撮影者でした。おそらくディッケルは成功した実業家として、移民コミュニティや地域の活性化を助けたものと想像します。
ディッケルが亡くなった後、彼の妻オーガスタとパートナーのシュワブは会社を相続しました。オーガスタは生前のディッケルから、最初の有利な機会に事業を売却するよう指示を受けていましたが、彼女は売却を拒否し、シュワブと事業のシェアを保つことを選びました。しかし、彼女は会社の活動、蒸留所の経営やサルーンの運営や卸売業務の一部には積極的に参加せず、お金と時間はあったので、ミシガン州チャールボイにある夏用別荘やヨーロッパへの年間旅行などに出掛けて晩年を過ごします。今まで触れていませんでしたが、そもそも「Geo. A. Dickel & Co.」の「A」はオーガスタの略と思われ、彼女は会社の財務主任でもありました。1916年にオーガスタが亡くなった時、子供のいない彼女は会社の所有権をシュワブに託しました。裁判所の記録によると、彼女は非常にお金持ちだったようで、100万ドル(今日の2500万ドル)相当の株式、債券、証券をシュワブと甥と姪に残したそうです。この時にシュワブは蒸留所の所有権に加えて会社の完全な支配権を引き受けましたが、ジョージ・A・ディッケルのカスケイド・ウィスキーというブランドは知れ渡っていたので名前の変更は行いませんでした。 もし、この時ブランド名が変えられていたら、我々が今日飲んでいる「ジョージディッケル」は「ヴィクターシュワブ」になっていたかも知れません。

オーガスタの死と話は前後してしまいますが、1898年にはディスティラーのマクリン・デイヴィスの早すぎる死(45歳)がありました。マクリンの死後、息子のノーマン・デイヴィス(1878―1944)が一時的に蒸留所を運営したものの、運営権のマジョリティ・オーナーであるシュワブに訴えられ、その持分を売却することを強いられたと言います。先にちらっとだけ触れておいたのですが、マクリンの息子のうちポールはヴィクター・シュワブとエマ・バンザーの娘と結婚していますから、義理の息子の兄弟と争った訳です。ちなみにノーマン・デイヴィスは一流のビジネスマン、外交官として知られ、バーボン・マニア以外には父親マクリンやシュワブより有名な人物です。若い頃、1902年から1917年の間、キューバにおいて金融取引と砂糖交易を行い、数百万ドルと言われる財を築き、トラスト・カンパニー・オブ・キューバの社長を務めました。後に転じてウッドロー・ウィルソン大統領の財務次官補(1919年から1920年)や国務次官補(1920年から1921年)を歴任し、更にアメリカ赤十字と国際赤十字でも会長に就任しています。

デイヴィス家の3分の1のシェアを手に入れたシュワブは蒸留所の単独所有者となり、これでカスケイド・ウィスキーの供給経路と流通経路の両方を固めることが出来ました。また、カスケイド・ウィスキーは米西戦争(1898年)中の兵士に非常に人気があり、その名声は西海岸にまで広がったと言います。 そこでは、シュワブの義理の息子ポール・デイヴィスによって「偉大なウィスキーの街」と評されたサンフランシスコから配布されました。 1900年前後、シュワブはコカ・コーラの広告キャンペーンを開始したセントルイスのダーシー広告会社を雇い、カスケイド・ウィスキーを国内で宣伝し始め、その後国際的にもそうしました。1904年には蒸留所が拡大し、カスケイド・ウィスキーの需要が更に高まったのが窺われます。当時カスケイド・ウィスキーはシュワブの指導の下、テネシー州で最も売れたブランドの1つだったでしょう。1908年には、ブランドのその人気ぶりから、酒類業界誌「Mida's Criteria」は蒸留所と独特のリンカーン・カウンティー・プロセスについて説明する記事を書き、メディアと世間からの支持を得て蒸留所は成長を続け、同社の勢いは誰にも止められないようでした。テネシー州がウィスキーの製造を違法とするまでは。

20世紀初頭までに、禁酒はテネシー州の政治における重要な問題でした。第18修正条項が国家禁止をもたらす以前に、テネシー州では既にアルコールの生産、流通、販売を禁止するために州法を修正しています。そして全州禁止を解禁したのも1937年と遅かったのです。
テネシーの禁酒を推進するグループは、学校、病院、教会の敷地の近くで酒類の販売を禁止することで、より多くの成功を収めて行きました。1824年に可決された最初のそういった法律は、教会の近くでの酒の販売を制限しています。1877年には、公認の田舎の学校から4マイル以内でのアルコールの販売を禁止する法律を制定しました。十年後には、議会はそのフォー・マイル法を更に厳しめに改正し、事実上テネシー州の都市でない田舎の酒類ビジネスを禁止します。
発展する蒸留産業は、それと同じくらい禁酒運動とサルーンへの嫌悪感情をも生み出しました。禁酒運動初期の時代からサルーンは目の敵にされ、上流階級の改革者の目には貧しい人々の間で飲酒を促進した不法の巣でした。サルーンをなくすことができれば労働者階級の飲酒習慣もなくせる。そんな考えに基づいて、改革者達は1893年にアンチ・サルーン・リーグ(ASL)を創設します。彼らはプロテスタント教会と産業指導者の協力を求め、最終的に禁止を確立する憲法改正のアイディアを出しました。テネシー州の禁酒指導者たちはすぐにASLを受け入れ、1901年までに5,000人のメンバーを含む約60のリーグ支部がテネシー州にあったと言います。1902年、ノックスヴィル・ジャーナル・アンド・トリビューンは、ASLがテネシー州の政治の権力者になった、とまで書くに至りました。
テネシー州リーグは、禁止をもたらす手段としてフォー・マイル法を上手く利用しました。と言うか、フォー・マイル法はサルーン撲滅指導者が禁止をもたらすための装置だったのでしょう。1899年のピーラー法は、フォー・マイル法を人口が2,000人未満の「今後法人化される」町に拡大。1903年のアダムズ法案は、法案可決後に法人化または再法人化される人口5,000人以下の全ての町に制限を拡大します。1907年のペンドルトン法は、フォー・マイル法を大都市にまで拡大し、年末までに「ウェット」だったのはメンフィス、チャタヌーガ、ナッシュヴィル、ラフォレットのみでした。

1900年代初頭、シュワブは禁酒運動および禁酒法を要求する人々と熱烈に戦い、ナッシュヴィルでのロビー活動キャンペーンに数千ドルとも数万ドルとも言われる大枚を費やすと、少なくとも1つの機会に、アルコールの販売を断つのを目的とした法案を阻止します。しかし、彼の努力にも拘わらず禁酒の波は強すぎ、テネシー州で禁酒法案が通過してしまい、1910年の製造業者法により州でのアルコール飲料の製造と販売が中止されました。その帰結として、販売店、蒸留所、および醸造業者は事業を閉鎖するか、またはテネシーから撤退することを余儀なくされたのです。蒸留所は荷造りして州を去るために12ヶ月の猶予が与えられ、その多くは他州へと移り酒をテネシー州に出荷しました。
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1909年にウィスキーの製造が禁止された直後、ジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーはケンタッキー州ホプキンズヴィルに事業を移し、次いでヴィクター・シュワブはルイヴィルを訪れ、アーサー・フィリップ・スティッツェルとカスケイド・ウィスキーを製造する契約を締結しました。全国的な禁酒法はまだ10年後のことであり、カスケイド・ホロウ蒸留所は閉鎖されましたが会社自体は存続し、ルイヴィルではヴィクターの息子ジョージの指揮の下、有名なA. Ph. スティッツェル蒸留所でウィスキーの生産を続けます。ウィスキーの品質が従来品と一貫していることを確実にするため、スティッツェル蒸留所に木製のメロウニング・ヴァットが造られ、スティッツェルがバーボンを蒸留していない日に、シュワブは自身のウィスキーを作るためにテネシーからクルーを連れて行きました。機器をリースするこの契約は蒸留酒業界ではユニークな取り決めと言えるでしょう。

禁酒法は1919年に連邦法になり、多くの蒸留所はウイスキーの製造を止めなければなりませんでした。それはアルコールの生産、輸送、販売を違法であると宣言しています(消費や私有は可)。1920年1月、禁法の全国的な開始と共に、薬用およびベーキング用スピリットの販売を除いた業界全体が事実上閉鎖されました。しかし、スティッツェル蒸留所は禁酒法期間中でも薬用スピリットを配布するためのライセンスを取得できた六社のうちの一社でした。法律では医師によって許可された場合、処方箋として酒は入手できたのです。おかげでカスケイド・ウィスキーは1920年に薬として販売され始めました。禁酒法期間中、スティッツェル蒸留所はシュワブに1ケースあたり50セントの使用料を支払ったと言います。

シュワブは禁酒法の解かれるのを見ることなく1924年に亡くなりました。ブランドの所有権は彼の子供たちに移ります。1933年に禁酒法が廃止された後、カスケイド・ウィスキーはケンタッキー州ルイヴィルに新しく出来たスティッツェル=ウェラー蒸留所に短期間着陸したと言われますが、これについて私はよく分かりません。S-W産のカスケイド・ウィスキーがあるのでしょうか? ご存知の方はコメントよりご教示下さい。それはともかく、1937年、シュワブの相続人は最終的にカスケイド・ウィスキーの権利を禁酒法後に業界を支配したビッグ・フォーの一つシェンリー・ディスティリング・カンパニーに売却しました。シェンリー社は会社とカスケイドの商標に100,000ドルを支払ったとされます。
1940年代から1950年代にかけてシェンリーは、カスケイド・ウィスキーをケンタッキー州フランクフォートにあるジョージ・T・スタッグ蒸留所(OFC蒸留所のこと、現在のバッファロートレース蒸留所)やインディアナ州ローレンスバーグにあるプラントで生産し、それを低価格で基本品質のバーボンやウィスキーのブランドとして販売していました。その時代のヴィンテージボトルの画像を見てみると、いくつかのヴァリエーションもしくはかなりの変遷があったと思われ、ラベルに記載される会社の所在地はレキシントンやらフランクフォートとインディアナ州ローレンスバーグとルイヴィルが並記されていたり、ボトリングの場所がバーズタウンだったり、蒸留がケンタッキーだったりインディアナだったりとパターンが豊富です。ウィスキーの種類表記には、「Blended Straight Whiskies」、「Straight Bourbon Whisky」、「Kentucky Straight Bourbon Whisky」の三種があり、ケンタッキー表記のものはGTS蒸留所、ケンタッキー表記のないものはインディアナ産、ブレンデッドは複数施設の混合ジュースではないかと推測します。
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ともかくも、シェンリーの所有する施設にはリンカーン・カウンティ・プロセスを行うメロウイング・ヴァットはありません。同社がカスケイド・ウィスキーを取得した時には、禁酒法前のオリジナルのレシピも書き留められていませんでしたが、幸いなことにシュワブはカスケイド・ホロウの元蒸留所従業員二人からオリジナルのレシピと製法を知ることが出来、この情報はシェンリーに伝えられました。 同社は同じレシピで製品を製造していたとされますが、多くの人々はケンタッキー州の品質がカスケイド・ホロウで製造されたウィスキーほど良くないと不満を述べたと言います。一部のテネシー人によって、それはテネシー・サワーマッシュ・ウィスキーではなく、バーボンの「劣った」ブランドであると考えられていました。

テネシーウィスキーの代名詞と言えば、今も昔もジャックダニエルズです。1950年代、ジャックダニエルズを所有していたモトロー家は、それを購入するという提案を受けました。彼らには数人の「求婚者」がいましたが、主な二人はルイヴィルにある家族経営のブラウン=フォーマン社と業界に強い影響力を持つ大企業シェンリー・インダストリーズ(1949年に社名変更)でした。シェンリーはより多くのお金を積みましたが、結局、そのレースにはブラウン=フォーマンが勝ち、1956年にジャックダニエルズと蒸留所を購入します。モトロー家はリンチバーグでの諸事をあまり変わらないようにしてくれる相手に売りたかったし、シェンリーの社長ローゼンスティールとの以前の取引を快く思っていなかったからでした。偉大なるシェンリー(と言うかローゼンスティールが?)は憤慨しました。 これはどうしたことだ?、ルイヴィルの小さな会社が契約を結んだ?、 ありえない!、と。しかし確かに、オールドフォレスターやアーリータイムズを所有する「小さな会社」は、世紀の取引を上手くやってのけたのです。シェンリーには拒否の内容と「ありがとう」と書かれた手紙だけが残されました。 
ジャックダニエルズを買収する試みプランAが失敗した後、おそらく恨みを抱いていたシェンリーは報復処置プランBを発動させます。ローゼンスティールは自らのポートフォリオに目を向け、だいぶ前に取得していたカスケイド・ホロウ・バーボンを見つけました。そして、それをそのルーツに戻し、ジャックダニエルズ・テネシーウィスキーと直接競合することを決めたのです。あわよくばジャックダニエルズを一掃、いや、せめてその市場シェアの半分は奪い取る意図はあったでしょう。言うまでもなく、そうはなりませんでしたが、彼らが成し遂げたことは、アメリカンウィスキー・ファンには非常に価値のあるものでした。

シェンリーはウィスキーが元のコフィー郡のサイトに戻ったなら、より良い製品を造れると信じて、そのためのステップを踏みます。禁酒法が廃止された後もコフィー郡は「乾いた」ままだったので、会社はウイスキーの製造を地元で承認するために特別な投票を必要としました。コフィー郡の有権者による適切な投票の結果、酒の製造を合法化する法案が可決します。そこでシェンリーは、訓練を受けた機械エンジニアでディスティラーのラルフ・ダップスを現地へ派遣し、蒸留所とブランドの復活という素晴らしい仕事を割り当てました。
当時シェンリーが所有していたルイヴィルのバーンハイム蒸留所で働いていたダップスは、そこでI.W. ハーパー等を造っていましたが、既にカスケイド・ウィスキーにも精通し、大のファンだったと言います。多分「よっしゃ、いっちょやったるで!」の精神で仕事に当たったでしょう。彼は家族をテネシー州に移し、先ずはオリジナルのカスケイド・ホロウ蒸留所の場所を見つけました。残念ながら、昔の施設を改修して再構築することは出来ませんでしたが、元の蒸留所から約1マイルのところに850エーカーの土地を取得し、ダップスはこれまでにない最高のテネシーウィスキーを生産できるであろう近代的な施設の建設を開始します。それは1958年のことでした。新しい蒸留所は古い蒸留所と僅かに場所は違うとはいえ、嘗て使用されていたのと同じカスケイド・ブランチ・クリークの水源を利用でき、またマッシュビルもオリジナルのマクリン・レシピを踏襲したと見られます。勿論、メロウイング・ヴァットを用いたリーチング・プロセスも再現されました。イーストや発酵槽まではどうだったか判りませんが、ダップスは可能な限りオリジナルに近いものを造ろうと努力した筈です。そして最初のウィスキーは1959年7月4日に新しい蒸留所で製造され、熟成の時を待ち、ついに1964年、ブラックラベルOld No. 8とタン・ラベルOld No.12がデビューします。この時からシェンリーはカスケイドの名称を止め、ジョージ・ディッケルの名前をブランドとして使用することにしました。そのようにした理由は想像でしかありませんが、一つには地に落ちたカスケイド・ウィスキーの評判を気にしたから、もう一つには従来品との違いを明確化して市場での混乱を避けるため、そして何よりライヴァルのジャックダニエルズと同じ人名のブランドにすることによって競合関係を明白にしようとしたのではないでしょうか。ただ、ジョージディッケルは成功を収めたとは言えますが、ジャックダニエルズを打ち負かすことは決してありませんでした。

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(Published in Ebony, September 1965 - Vol 20, No. 11)

伝統を最重視するアメリカのスピリッツ産業のマーケティングに於ける神話創出は、ビジネスのあざとい部分は脇に追いやり、ロマンスと伝説だけに彩られ、一人の英雄を仕立て上げることで消費者への訴求力を産み出すのが通例です(歓迎はしませんが、そういった伝説の一部がフィクションだったとしても、実際お酒を味わうのにマイナスにはならないでしょう)。ジョージディッケル・テネシーウィスキーの伝説や公式な歴史も殆どがマーケティングの専門家の作品で、その多くはシェンリー時代に作られました。現在ブランドを所有するディアジオはシェンリーより時代柄もあって誠実に歴史を扱いますが、現在のジョージディッケル物語にもザルツコッターやシュワブ、マクリン・デイヴィスやラルフ・ダップスの活躍が大きく描かれることはありません。しかし、直接的なルーツとして現在のジョージディッケルを造った功績は、ワイルドターキーがジミー・ラッセルの名と深く結び付くように、ダップスと分かち難く結ばれています。
ダップスは1977年に引退し、さらに30年生き、2007年に息を引き取りました。彼の引退後は弟子であるビル・ブルーノがマスターディスティラーを引き継ぎ、ジョージディッケルのユニークさへの責任を負っています。そして2000年代半ばまではデイヴ・バッカスが品質を管理し、次いでジョン・ランが2015年まで伝統を受け継ぎました。ジョン・ランは亡くなる前のダップスと話をした時、こう言われたと言います。「億劫な作業を変えるんじゃないぞ」と。おそらく歴代のマスターディスティラーは伝統製法を守ったでしょう。それでも、時代を経る間にウィスキーは大きく変わりました。しかし、それはウィスキーに限らず他の何事でもそういうものです。
ちなみにジョン・ランの後は、「マスター」の称号はないようですが、アリサ・ヘンリーが短期間ディスティラーとして切り盛りし、2018年からはニコール・オースティンが蒸留所を盛り上げています。

さて、ここで90年代から2000年代のドタバタ劇へと話を切り替えますが、その話題は過去に投稿したOld No.8の比較レビューで幾分詳しく取り上げたので、こちらではさらっと流して行きたいと思います。と、その前に別枠として二点だけ。シェンリーは1980年代にテネシー州でのボトリング作業を停止し、以来ウィスキーは他の場所へタンカーで運ばれている、との情報がありました。確かに、現在のディアジオもオフ・サイトでボトリングする傾向があります。また2014年あたりに、新しいボトリング・ラインが蒸留所に設置された、との情報もありました。ここら辺の事情がよく判らないので、ご存知の方はコメント頂けると助かります。それと余談ですが、旧来のカスケイド蒸留所の遺跡はテネシー州南部の19世紀後半のウィスキー産業を理解する上での考古学的意義のため、1994年に国家歴史登録財に指定されました。敷地内には、スティルハウスの基礎やスプリングダムなどの多くの物理的な遺跡があるそうです。それでは、多くのM&Aによりシェンリーからディアジオへ親会社が遷移していった時代のジョージディッケルを見てみましょう。

1987年、シェンリー社はギネスに買収され、同年ユナイテッド・ディスティラーズ合併の一環となりました。当然、その資産の中にはジョージディッケルも含まれています。1990年代初頭、ユナイテッド・ディスティラーズは大きな計画を立てました。それは、消費の低迷するアメリカ市場とは異なり、アメリカンウィスキーが成長産業となりつつあるヨーロッパとアジアで、大きくマーケットシェアを拡大することでした。そこで選ばれたブランドの一つがジョージディッケルです。ウィスキーのエイジングには時間が掛かるため、長期的な売上成長戦略には着実な生産計画と販売するのに十分な製品が必須となります。そのためマーケティング計画が成立した時、ジョージディッケルは大量に生産され始めました。しかし、ディッケル製品の海外販売はそれなりの成果は上げたものの、期待したほどには売れませんでした。それなのに誰にも注意を払われず、ストックは増え続け、生産コントロールもされなかったのです。
シェンリーが買収されてから10年後、1997年にギネスはグランド・メトロポリタンと合併して、スーパー・コングロマリットであるディアジオを形成しました。この組み合わせを達成するために、会社は多大な借金を引き受けました。そのため手早く現金を生み出すことと、可能な限りのコスト削減の要求から、資産の販売をすぐに始めなければなりませんでした。それは「我が社の」中核事業が何であるかを決める作業でしたが、彼らはアメリカンウィスキーは重要ではないという決断を下し、1999年の初めまでに、I.W. ハーパーとジョージディッケルを除くアメリカンウィスキーの資産(ウェラー・ブランドやオールドフィッツジェラルド・ブランドやニュー・バーンハイム蒸留所など)の全てを売却してしまいます。そしてまた、ジョージディッケル蒸留所の生産もストップしました。過剰な在庫もその理由ですが、加えて蒸留所は排水処理に関係する環境問題を抱えていたからです。大事ではなかったものの、修繕には多額の投資が必要でした。ディッケルの製造停止と同時に、ディアジオは宣伝活動も止めました。会社は絶えず収益を出さねばなりませんが、蒸留所の閉鎖とマーケティング予算がゼロになったことで、ディッケル・ブランドは短期間でプラスの収益になったと言います。
2002年になるとブランドはマーケティング予算を得て再び動き始めます。そして2003年秋には環境問題も解決され、生産が再開されました。マーケティングの効果か、単に時流に乗れたのか、定かではありませんがディッケルは突如として各地で売れ始めました。すると2007年半ば頃、「需要の驚くべき急増」と、1999年~2003年にかけての蒸留所の操業停止による原酒不足から、No.8ブランドは酒屋の棚から消えてしまったのです。それを解決するためディアジオは「カスケイド・ホロウ・レシピ」と記載された見た目がNo.8ブランドそっくりな3年熟成の新製品を発売しました。同社は「カスケイド・ホロウ」のパッケージを全く違う外観にすることも簡単に出来た筈です。が、なぜかそうはしませんでした。より収益性の高いNo.12ブランドとバレルセレクトは不足を報告されていません。ここに、ディアジオのちょっと怪しげな戦略が見え隠れしています。2013年には、熟成酒のストックが十分に回復したため「カスケイド・ホロウ」は中止されました。

2010年代に入ると、アメリカンウィスキーの需要は世界的に増え、現在のディッケル蒸留所も飛ぶ鳥を落とす勢いです。それは製品オファリングに端的に現れ、ライウィスキー、ホワイトウィスキー、ハンド・セレクテッド、タバスコ・フィニッシュ、ボトルド・イン・ボンドと次々に拡張を見せています。また蒸留所はアメリカン・ウィスキー・トレイルの一部であり、一般客へのツアーも大人気。ジョージディッケルは世界で最もユニークな蒸留所の1つであり、カスケイド・ホロウの生き方である「ハンドメイド・ザ・ハードウェイ」というスローガンを揚げます。蒸留プロセスのあらゆる段階に人の手が入り、細心の注意が払われるとか。
では、そろそろジョージ・ディッケル氏はじめ過去の先人を偲びながらテイスティングと参りましょう。

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George Dickel Superior No.12 Brand 90 Proof
推定2009年ボトリング。シロップをかけたパンケーキ、干しブドウ→アップル、燻した草、グレープフルーツ、炭。口当たりは円やかと言うよりはウォータリー。パレートはやや柑橘の爽やかさを感じる。液体を飲み込んだ後に軽いウッディなスパイスが現れ、余韻は短めでレザーもしくは墨汁のニュアンス。
Rating:82.5/100

Thought:これの前に開封していた少し古いNo.8と較べて、味の方向性はかなり近く感じました。グレイン・フォワードな香味を核にスモーキーなフィーリング、シロップとフルーツ、スパイスがバランスよくと言ったところ。ただ、アルコール度数が5度も高い割には濃厚になったという感じはせず、すっきりしている印象。良い面はちょっとだけヴァニラと甘味が強いこと、悪い面はコクがなく香ばしさのみに寄っていて後味の苦味が強いことかな。とは言え、ディッケルのハウス・スタイルの味わいはよく出てると思います。
問題はブレンドされている原酒の熟成年数なのですが、No.12は少し昔の情報だと10〜12年、最近の情報では6~8年とされています。本ボトルは2009年と思われるので、おそらくそれらの情報のちょうど中間くらいの時期のボトリングになります。飲んだ印象としてはそれほど長熟の深みは感じられないのですが、ディッケルのストレージは一階建てと聞きますから、穏やかな熟成感なだけなのかも。どうなんでしょうね?

Value:現行品に関しては、販売店により異なるものの、No.8との価格差があまりないことが時折あり、その場合は間違いなくこちらを買うべきです。

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ウィスキーやバーボンの空き瓶を使って、手軽に安くお洒落なインテリアにしようというこの企画、今回は時期的にハロウィン仕様にしてみました。使用したのはバーンハイム・オリジナル・ウィートウィスキーのボトルです。

材料は全て百均のセリアで今年販売されているもの。おそらく今なら入手は可能かと思います。

作り方というほどでもないのですが一応説明しますと、先ずは空き瓶の中にギザギザ・ガーランドを半分に切ったものをテキトーに押し込みます(笑)。ハーバリウム用として売られてる長いピンセットがあると押し込みやすいし、中のバランスも調整しやすいですね。あと、ガーランドを半分に切ったのは、全部入れて密集してしまうより瓶中に少しエアリーな感じがあったほうがいいと判断したためです。
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次に蝶ネクタイのデザインのヘアゴムをボトルの首に巻き付けて、小型犬または猫用として売っていた小さな帽子を飲み口に差し込みます。この帽子は中に綿が詰まっていて、被せる部分に切れ込みを付けないといけませんが、薄いフェルト素材なのでカッターかハサミで簡単に切れます。
最後に、スケルトンハンドのキーホルダーの金具を外し、猫用帽子に付いていた顎紐にチェンジしてチャームにしてみました。これがないとホラー感がゼロだったので(笑)。

もう一方のはカラーヴァリエーションて感じですが、チャームだけ変えてコウモリにしました。こちらはスケルトンハンドと違ってそのまま付けれます。
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本当はハロウィンなんでカボチャの何かを付けたかったんですが、ちょうどいい小物が見当たらなくて…。でも、安くて簡単な割には、なかなかいい感じで気に入りました。多分、所要時間は五分もあれば作り終わるかと。最近は百均でこういう小物が充実してるので助かりますね。皆さんもお気に入りの飲み終わったウイスキーボトルでハロウィンを演出してみてはどうでしょうか。ではでは、ハッピーハロウィーン。

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ウィレット蒸留所(KBD)がリリースするジョニードラムのブラックラベルです。その名前の由来について日本でよく語られるのは、ジョニー・ドラムは1870年にバーズタウンで酒類販売をしていた人物で、樽買いした原酒をブレンドし自分の名前をつけ売り歩いたのが始まり云々。海外では、ジョニー・ドラムという名前のティーンは家を出て南北戦争の南軍に参加、しかし彼は若すぎて武器を取ることは出来ず、1861年にドラマー・ボーイ(*)を務め、故郷のケンタッキー州に戻ってからトウモロコシを使い蒸留を始めた云々、と言われます。このジョニー・ドラムなる(愛称の?)男が実在の人物なのか分かりませんが、海外で語られている話が彼の前半生、日本で語られている話が後半生として辻褄は合っています。けれども、どうも取って付けたバックストーリーな感は否めません。ラベルのデザインからしても、ジャックダニエルズやエヴァンウィリアムス流のクラシックな人名ラベルを想起させます。ウィレットの公式ホームページによれば、60年代にカリフォルニアの卸売業者のために開発されたとの記述がありました。
ジョニードラムには現在、80プルーフのグリーンラベル、86プルーフのブラックラベル、101プルーフのプライベート・ストックの三つがあります。と言っても全てがいつでも利用可能な状態ではないようで、ウィレットのホームページの製品紹介欄にグリーンラベルは載ってませんし、日本でもネット酒販店では売り切ればかりです。おそらくグリーンは廃番もしくは出荷調整、または輸出国により供給に差があるのでしょう。

さて、ここらで古いジョニードラムについてでも語りたいところなのですが、実はその類いの情報はネットで調べてもイマイチ分かりません。80年代後半以前のオールドボトルの画像も皆無と言えます。先に述べた60年代のオリジナルと目されるジョニードラムが、特定の卸売業者のために作成されたということは、流通範囲はかなり限られていたと推察されるので、画像が見当たらないのも仕方ないでしょう。しかし、いくらウィレット蒸留所がジムビームやワイルドターキー蒸留所と較べて生産規模の小さい蒸留所とは言え、これほど過去のボトルの写真がネット上にないのは、60年代のリリース後に継続して製造されていなかったからではないでしょうか。おそらく、時を経た80年代になって主に輸出用のブランド(特に日本)として再開され、アメリカ国内では例えばケンタッキー州限定での販売だったのではないかと想像します。そして、その後全国配給になった…と。これはあくまで私の想像なので話半分で聞き流して下さい。と言うか、詳細ご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。

先日オークションで丸瓶のジョニードラム12年グリーンラベルが出品されているのを見かけました(年式は不明)。それは「12年」表記の楕円形シール(**)が本体ラベルと別個で付けられていて、私としては初めて見たパターンの物でした。比較的、日本人に馴染み深い(よく見かける)オールドボトルのジョニードラムというと、80年代後半あたりから90年代にかけて流通していたと思われる日本の都光商事のアドレスがラベル正面下部に記載されたボトルかと思います。
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この頃の物はグリーンが8年熟成、ブラックが12年熟成、そして共に86プルーフでした。現行にせよこの時代の物にせよ、色で言うとブラックは常にグリーンより格上のようです。それだけに、上に述べたグリーンラベルの12年があったのに驚いたのです。その後、グリーンはいつの間にか4年熟成になり、プルーフも80に下がりました。ブラックはおそらく90年代後半か2000年代前半頃にNASとなったと思われます。NASのブラックラベルの中身に関しては、一説には4~12年の原酒を使用しているとされます。ただ、この中身の熟成年数は発売年式および生産ロットにより変動している可能性はあるでしょう。ではテイスティングの時間です。

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Johnny Drum Black Label 86 Proof
推定2008年ボトリング。杉、ナツメグ、弱いカラメル、グレープ、僅かなアーモンド、インク。あまり甘くないウッド・スパイス系のアロマ。やや酸味のある味わい。ソフトな酒質。余韻は軽めのスパイスと穀物感が主で、ビタネスを伴いすっきり切れ上がる。
Rating:81/100

Thought:ウィレット蒸留所が蒸留を再開したのは2012年からなので、推定ボトリング年からすると、原酒は100%ソーシング・ウィスキーとなります。概ねヘヴンヒルからの調達であるとされるので、エヴァンウィリアムス等と較べてどのくらいの違いがあるのかが気になるところでした。海外のバーボンマニアで、エヴァンウィリアムスに選ばれなかったバレルが樽売りされているのではないか、という趣旨のことを言っている方がいましたが、正直、私には調達方法の詳細は判りません。仮にそうであれ、蒸留したての原酒を購入しているのであれ、マッシュビルを共有するとしても、ウィレットの熟成倉庫でエイジングすれば風味は多少変化する筈です。更にブレンディング(バッチング)の違いも考慮すれば、どのみち異なるバーボンとは言えるでしょう。
で、私の飲んだ感想としては、通常のエヴァンウィリアムスとはかなり違うバーボンであると思いました。強いて言えば、スパイス感の方向性がエヴァンウィリアムスと言うかヘヴンヒルのフレイヴァーぽいような気もしますが、独特の木香とビター感はこのボトル特有かと。また、海外の或るバーボン飲みの方は、いつのボトリングか分かりませんが、ジョニードラム黒ラベルNASをワイルドターキーのレアブリードに似ていた、と言っていました。少なくとも私の飲んだ物や私の舌にはそうは感じられなかったです。それと、日本の酒販店の多くには、ジョニードラム黒ラベルの商品紹介に「12年原酒をメインにブレンド」と書かれています。どこまで信じてよいか判らない情報ですが、確かにタニックなビター感とソフトな酒質はそうであってもおかしくはないかなとは思わせます。飲んだことのある皆さんはどう思われるでしょうか? どしどしコメントお待ちしております。

Value:KBDのリリース中、スモールバッチの物と較べると量産型であろうジョニードラム。特にNASは凄くハイクオリティとは言い難いです。日本では概ね2500円前後の販売価格でしょうか。個人的には現行のエヴァンウィリアムス黒ラベルよりかは美味しく感じましたので、もし同じ価格ならジョニドラを選びます。ですが現行のエヴァンウィリアムス赤ラベルが3000~3500円で買えるなら、そちらを選ぶのが私の好みです。


*軍隊の中で非戦闘員として、戦場での使用のためにドラムを担当した少年のこと。
ドラムは戦場で歩調を合わせるために使われるだけでなく、指揮系統の重要な一部であり、ドラムロールを使用して士官から部隊へ様々なコマンドを通知したと言います。ドラマーには公式の年齢制限がありましたが、しばしば無視され、時として最年少の少年は成人兵士によってマスコットとして扱われました。ドラマーの少年の生活はかなり魅力的に見え、そのため、少年は時々家から抜け出して入隊したのだとか。または、同じ部隊に仕える兵士の息子や孤児であったかも知れないそうです。
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**ジョニードラム15年の昔の物や、イーグル・クエスト、バーボンスター等と共通するデザインの、KBDのバーボンによく使われている「あの」シールのことです。

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バッファロートレース蒸留所の造るライウィスキー、サゼラック・ライ。その名称はニューオリンズのコーヒーハウス(バー)、延いてはバッファロートレースの親会社サゼラック・カンパニー、及び神話的なクラシック・カクテルの名前から付けられています。同社が年次リリースするバッファロートレース・アンティーク・コレクション(BTAC)に有名な兄(父)の「サゼラック18」があるため、通称「ベイビーサズ」と呼ばれたり、或いは熟成年数がNASながら実際には6年とされていることから「サゼラック6」と表記されることも。ちなみにBTACにはサゼラック・ライのバレルプルーフ・ヴァージョンとも言えそうな「トーマス・H・ハンディ」もあります。
ベイビーサズで使われるレシピは公表されていませんが、噂では51%ライ/39%コーン/10%モルトとされ、だとすると典型的なケンタッキー・スタイル・ライウィスキーのマッシュビルです。ところで、このウィスキーはBTACのサゼラックと同じ名前を共有するものの、現在のサゼラック18年は今のところまだバッファロートレースによって蒸留されたジュースではありません。初期の物はメドレー・ライと目され、後の物はバーンハイム、または過渡期にはそれらをヴァッティングした物である可能性も考えられます。バッファロートレースは、サゼラック18年を熟成が進まないようステンレスタンクに容れ何年も保持し、それをリリースしているのです。

多くの人が「サゼラック」と聞いて思い浮かべるのは、このライウィスキーでもサゼラック・カンパニーでもなく、大抵はカクテルのことだと思います。サゼラックはアメリカ初のカクテルであるとか、最古のカクテルであると言われることがあり、カクテルの歴史の中でも伝説的な扱いを受けていますから。ベイビーサズの発売初年度を調べていて、結局は特定できなかったのですが、その途中「サゼラックライ6は2000年にサゼラックの公式酒になった」との情報を目にしました。そうなるとベイビーサズは2000年から発売されているのかも知れません。発売年は措いて、とにかく今ではサゼラックに欠かせないのがライウィスキーとなっています。しかし、それは比較的最近の歴史です。その発祥の頃はサゼラックという名前のフランスのブランディが使われていました。現在のサゼラックは大雑把に言うとライウィスキー、角砂糖、ビターズ、アブサン、レモンが使われるのが標準的なカクテルです。
殆どの偉大な伝説は真実がしばしば噂と伝聞の背後に隠れよく見えません。そして、隠れてよく見えないからこそ人は惹きつけられ、ますますそれについて語りたくなります。そこで、今回レビューするサゼラック・ライ自体からはやや離れてしまいますが、せっかくなのでサゼラックの謎めいた起源と魅力的な歴史に少し触れたいと思います。

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(Wikimedia Commonsより)

世界中のバーテンダーの間で情熱的に挑戦されるカクテル、サゼラック。これほどニューオリンズに関連するカクテルはありません。そしてまた、これほど広範な説明を要するカクテルもなかなかないでしょう。その物語はアントワン・アメディ・ペイショーという男と彼自身のビターズから始めるのが適切なようです。なぜなら、ベースとなる蒸留酒の変更やアブサンとレモンはある時もない時もありましたが、ペイショーのビターズなくしてはサゼラックの誕生はなかったように思われるからです。

1803年、ルイジアナ買収(アメリカ視点の言い方)として知られる出来事がありました。南はニューオリンズから北はカナダまで伸びるアメリカ中西部全域、今のアメリカ全体の3分の1にも当たる土地は、当時ナポレオン・ボナパルト執政下のフランスの領土でした。フランスの君主であるルイ14世にちなんでルイジアナと名付けられたこの土地は、新しいナポレオン・アメリカの「夢」の一部でした。しかし、大陸での戦費の補填と政治的理由からルイジアナの土地とその首都ヌーヴェル=オルレアン(後のニューオリンズ)は、ナポレオンによって「若きアメリカ」に破格の1500万ドルで売られたのです。
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(緑の部分がアメリカへ売却されたフランス領ルイジアナ、Wikimedia Commonsより)

このルイジアナ売却(フランス視点の言い方)には、黒人奴隷労働による砂糖プランテーションがフランス経済を支えていたエスパニョーラ島の西側約3分の1を占めるフランス領サン=ドマングの奴隷反乱の影響もあったでしょう。1697年からフランス領になっていたサン=ドマングは、フランス革命に刺激されて黒人奴隷の反乱が起き、1804年1月1日を以てハイチ共和国として独立を宣言、ラテンアメリカ地域では最初の独立国家となりました。フランスも1825年には承認しています。革命の結果、多数のフランス植民者がアメリカ大陸全体に移動し、暴動と経済崩壊を免れました。1809年までに一万人近くのフランス人難民がハイチからニューオリンズに迫害を逃れたそうで、その数は1年で都市の人口をほぼ倍増させ、今日まで続くニューオリンズ独特の文化を醸成させる要因の一つとなります。3年後の1812年、ルイジアナはアメリカ合衆国の公式州となりました。

この期間のある時点で、アントワン・アメディ・ペイショーもサン=ドマング難民の大衆と共にニューオリンズに逃れて来た一人でした。「ある時点で」と言ったのは、ニューオリンズへの到着時期が特定できないからです。一説には、奴隷による暴動と反抗が勃発した後、ボルドー出身の裕福な父親がコーヒー農園を所有していたサン=ドマング島から逃げることを余儀なくされ、1795年にニューオリンズに難民として到着した、とする情報もありました。しかし、ペイショーは1883年6月30日に80歳で亡くなったと死亡証明書に記録されているようです。そこから彼の生年は1803年頃と推定しているウェブ記事が多く、この人物がビターズのペイショーで間違いないのであれば、1795年にはまだ産まれてないことになります。
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(Wikimedia Commonsより)

不明確な到着時期は脇に措き、成長して薬剤師となったペイショーは、歴史的な影響力を持つことになるビターズを生み出しました。それは今日アメリカで2番目に売れているビターズであり、世界のトップ・カクテル・バーに欠かせない材料です。ニューオリンズ薬局博物館によると、ペイショーは1841年(もしくは1834年や1838年という説もあった)、フレンチクォーターの437ロイヤル・ストリートにファーマシー・ペイショーと呼ばれる自らの薬局を開設し、そこで特許を受けたペイショーズ・ビターズという名前のアニシードとリンドウの豊かでハーバルな治療薬を調剤することで有名になったと言います。聞くところでは、アンゴスチュラビターに匹敵するが、より軽いボディ、より甘い味、よりフローラルなビターズだったそう。そのような「アメリカン・アロマティック・ビター・コーディアル」、一口に言えば薬用強壮剤は当時流行しており、多くの同様の製品がありました。ペイショーに先行するビターズで、1712年にイギリスで特許を取得し、初期入植者と共にアメリカに導入されたエリクサーだったと云うストートン・ビターズはそうした一例です。もともとペイショーに匹敵する規模のライバルでしたが、そのレシピを早期に公開するというミスを犯し、多くの模倣品や偽物が市場にリリースされ、19世紀を通しては生き残れなかったのだとか。ストートン・ビターズは現在でも復刻販売されていますが、中身は昔の物とだいぶ違うようです。
では、なぜペイショーズ・ビターズは生き残ったのか。勿論、常にクオリティを保ち続け、ちゃんとに効能もあったのでしょうが、伝説によればペイショーはフリーメイソンだったようで、その社交会を深夜の薬局で開催し、ゲストのために下に述べるブランディ・トディに自分の秘密のビターズを混ぜて提供していたらしいのです。もしかすると、そういう友愛の輪も無関係ではないのかも知れません。取り敢えず、ペイショーの名前が州外で知られるようになるには、新しい飲酒傾向が出現するまで待たなければなりませんでした。

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(Wikimedia Commonsより)

1840年代(もしくは1830年代後半から)、ペイショーは病気に拘わらず彼のクライアントのために、水、砂糖、フランスのブランディを混ぜた初歩的なトディに特許取得済みのハーブビターを処方し調剤したそうです。それは「コクティ(coquetier)」と呼ばれるフランスの伝統的な卵型のカップで提供され、彼の顧客にとってこのミクスト・ドリンクは容器の名前で知られるようになり、評判を博しました。カクテルの語源を調べると、コクティが「コックテイ」とアメリカ発音に転化して更に「カクテル」になったと云う語源説も、諸説の一つとして大概載っています。これはカクテル誕生秘話として昔は(或いは一部地域では)十分な支持を得ていたようですが、実際には1806年(もしくは1803年とも)のニューヨーク州北部の新聞に「カクテル」という言葉は登場していたそうです。それはともかく、このミクスト・ドリンクは今日の目から見て純粋にカクテルと呼ぶべきものであったでしょう。けれどブランディ・トディにビターズを混ぜた最初の人物がペイショーだった訳ではないようです。ブランディは常に薬効があると信じられていたため、植民地の薬剤師や化学者の間で一般的に使われていました。ビターズも胃薬と強壮剤とされていますから、薬効が信じられていたのは同じです。ある意味この両者をミックスするのはイージーな発想だったのではないでしょうか。実際、上に述べたストートン・ビターズを使ったブランディ・カクテルも1835年頃までには既にあったようです。
恐らくここまでの段階でサゼラックのプロトタイプは出来上がっていました。しかし、現代の我々が知るサゼラックになるにはもう少し階段を昇らねばなりません。先ずその一歩はコーヒーハウスのタイムリーな時代のおかげで実現することになります。

19世紀初頭から中期のアメリカではコーヒーハウスの時代がピークに達し、知的な冗談から政治談義に至る社交の場として機能しました。ここで言うコーヒーハウスは日本の「喫茶店」のイメージよりは、秘密結社やクラブの母体となるような社交場であり、ビジネスの場であり、バーを兼ね備えた施設であったと思われます。初期のアメリカ社会におけるコーヒーハウスの役割は非常に重要であり、1773年12月に起こったアメリカ独立戦争の引き金となったことで有名なボストン茶会事件の策略はグリーン・ドラゴンというコーヒーハウスで練られ、1776年にはフィラデルフィアのマーチャンツ・コーヒーハウスが米国独立宣言を公に発表する最初の場所として選ばれました。1840年までにコーヒーハウスの重要性はそれほど変わりませんでしたが、カクテルやトディ、サワーやパンチの出現は酒の人気を引き継ぎ、殆どバーと言える施設になっていたようです。もしかすると、ニューオリンズはフランス移民が多かったため、自らを洗練されていると考えて、いわゆるバーをサルーンと呼ばずコーヒーハウスと呼んだのかも。

ペイショーの薬用ブランディ・カクテルの評判が高まると、多くの地元のコーヒーハウスは、ペイショーの奇跡的な強壮剤を熱心なパトロンに再現し始め、その飲み物はニューオリンズの街中に広まって行きました。サゼラック・カクテルが確立する前に、重要な役割を果たした人物の一人がここで登場します。ニューオリンズの起業家シーウェル・T・テイラー(1812―1861)です。1840年頃(?)、ペイショーの薬局のすぐ近くにある、15-17ロイヤル・ストリート(13エクスチェインジ・アレイ)にマーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスが設立されました。
「取引所(Exchange)」は、南北戦争前の都市、特にニューオーリンズのような賑やかな重商主義の港の重要な建物でした。名前からしてそこは本質的には人々がビジネスを行うための場所でしたが、集会には他のニーズ(銀行や法律サービス、読書室と研究、宿泊、レクリエーション、娯楽、酒など)があり、取引所は遥かに幅広い要望に対応したそうです。起業家は、旅行者のビジネスマンに対応する様々なアメニティを備えた華麗な多目的かつマルチサービスの「共有スペース」を作成し、そのような取引所は都市の社会的経済的に重要な施設になりました。南北戦争前のニューオリンズにある豪華なホテルの殆どは、多くのコーヒーハウスと同様にエクスチェインジとして名乗りを上げたと言います。

マーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスは、ニューオーリンズで最大のコーヒーハウスの1つであり、すぐに最も人気のあるコーヒーハウスの1つになりました。シーウェルはマーチャンツ・エクスチェインジの店頭で販売した多くの製品の唯一の輸入業者でもありました。そのような製品の1つに、フランスのリモージュで作られた「Sazerac de Forge et Fils」と呼ばれるコニャックがあり、おそらくその現地代理店を務めていたのでしょう。街の顔役で熟練したセールスマンであるシーウェルは、コニャックを多くのコーヒーショップに入れることが出来ました。そして自らもペイショーの調合でブランディ・カクテルにコニャックを使い始めた、と。これがサゼラックという名称の直接的な由来です。
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1850年頃、シーウェルはコーヒーハウスの日々の運営を友人のアーロン・バードに引き渡し、道路を渡った16(もしくは13&15)ロイヤル・ストリートに輸入品を販売する酒屋を開きました(シーウェルが亡くなった1861年にはこの事業もアーロンが引き継いだようです)。若きトーマス・H・ハンディが店員として雇われたのはここです。この頃には、テイラーがリモージュから輸入したコニャックを使ったカクテルは、常連客の間で大変な評判となっていました。他の施設とは異なり、マーチャンツ・エクスチェインジでは、カクテルにサゼラック・ブランディとペイショーズ・ビターズのみを使用していたと言います。1852年頃、シーウェルが輸入したコニャックを称えるため、或いは自らのサーブの人気を更に促進するため、アーロンはコーヒーハウスをサゼラック・コーヒーハウスと改名しました。人気のブランディにちなんで命名されたという事実は、コーヒーが最も有名な飲料ではなかったことを示唆しています。サゼラックをコーヒーハウスのハウスドリンクにしたのがシーウェルなのかアーロンなのかハッキリしませんし、またその頃の具体的なレシピの開発者が誰なのかもよく判りません。サゼラックは、ペイショーが1830年代に考案したとするウェブサイトもあれば、オーナーのアーロンが考案者であると伝えられることもあり、謎に包まれています。ペイショーがレシピの改良等でアドヴァイスをしていた可能性も十分考えられますが…。物語はここで終わりではないので先を急ぎましょう。

1860年の初めまでに、アーロンはジョン・B・シラーに事業を引き継ぎました。この人物が何者なのか調べてもニューヨーク出身のバーテンダーらしい、ということしか分からなかったのですが、1959年にハウスドリンクをサゼラックと命名したのはシラーだとする情報もあります。ジョン・B・シラーは、シーウェルの経験豊富な店員でブックキーパーだったトーマス・H・ハンディが酒屋から離れ、サゼラック・コーヒーハウスの支配権を握るまで経営を続けしました。
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1869年、ハンディはサゼラック・コーヒーハウスを購入し、酒類のブランドも取得して販売を開始しました。現在のサゼラック・カンパニーの創業者はハンディとされるところからすると、この時が会社のルーツと言えるでしょう。会社のロゴには「SINCE 1850」と書かれていますが、これは恐らくサゼラック・コーヒーハウスの始まりを指しています。1870年頃、ペイショーは薬剤店を閉鎖し、新しいパートナーのハンディと取引を始めました。1871年までに新しいトーマス・ハンディ・カンパニーは、サゼラック・ブランディの唯一の輸入業者であると同時に、ペイショーズ・ビターズの製造業者でもあり、ニューオリンズの「お気に入り」の独占販売を行っています(サゼラック・カンパニーの公式サイトでは1873年にペイショーズ・ビターズの権利を買い取ったとしています)。コーヒーハウスが密集している都市で、サゼラックはハンディの所有権の下で最も輝いていました。彼はその名前から「コーヒー」を落とし、やがてニューオリンズの高級な飲酒を定義するようになります。サゼラック・ハウスは、おそらく19世紀後半に市内で最も有名な飲酒施設であり、飲料、ビジネス、娯楽の社会的中心地だったでしょう。
しかしこの頃、ヨーロッパでは深刻な事態が発生していました。ワインの歴史を学んだことのある人には余りにも有名な、現代世界の飲酒習慣を永久に変更したと言われるフィロキセラの流行です。

フィロキセラ(和名でブドウネアブラムシ=葡萄根油虫)は、ブドウ樹の葉や根にコブを生成してその生育を阻害し、やがては枯死に至らせる極微の害虫。その幼虫は体長1ミリほどで、最初は昆虫であることすら判りづらく、土の中の根につくため直接薬剤をかけることが出来ませんでした。また成虫になると羽が生えて雲霞の如く飛散するので被害の拡大も迅速でした。品種改良のためヨーロッパへ移入したアメリカ原産のブドウの苗に付着していたことで、抵抗力を持っていないヨーロッパのブドウの大部分を一掃し、全滅に近いほどの被害を与え、多くの歴史あるワイナリーがそのワイン畑と共に失われたと云います。
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1850年頃に北米から英国の港に船で到着し、その後10年で実際の被害が始まりました。1863年、先ずローヌ河畔の葡萄畑に被害が出始め、被害はあっという間に各地へ伝播して、フランスは約20年間に100万ヘクタールの葡萄畑が破壊されます。 そして1870年にはオーストリア、1883年にはイタリア、1895年以降にはドイツにまで拡がりました。1890年までにヨーロッパのブドウ園の約3分の2が感染または破壊されたと推定されます。フィロキセラの蔓延を食い止めようとする必死の試みにより、農民は化学物質からヤギの尿の噴霧、生きているヒキガエルを埋める等、あらゆることを試みますが、全て徒労に終わりました。葡萄栽培農家とワイン産業は危機的状況を呈し、フランス経済全体にも打撃を与えたため、政府は救済方法を発見した者に莫大な報償金(32万フラン以上)を約束したほどです。 
最後に見出された解決策は、治療法ではなく予防法でした。この害虫に抵抗性のあるアメリカ系の台木にヨーロッパ系の葡萄を接ぎ木することで、更なる発生が回避されたのです。当初は野卑なブドウの血が高貴なヨーロッパ種の血を汚すと信じていた人が多く、ブルゴーニュでは事態の深刻さに余儀なくされる1887年まで、この接木を公式には禁止していたのだとか。結局、他に有効な対策が無かったため、この接木作業がフランス全土で進められ、19世紀末にはフィロキセラの被害を克服します。しかし、 この作業には莫大な費用が掛かりました。収穫は数年間は見込めず(少なくとも5年くらいはまともなワインは造れない)、その経済的負担に耐えかねて没落していったワイン産地が少なくなかったそうです。

葡萄産業はフィロキセラの流行により完全にリセットされ、ワインやワインベース製品の供給は低下または完全に停止しました。当然のことながら、アメリカが輸入するブランディ、コニャックも激減しました。あの「Sazerac de Forge et Fils」を販売する会社も1880年に閉鎖しています。しかし、ニューオリンズの街はまだサゼラックを望んでいたので、正確な年は不明ですが、ハンディはコニャックをメリーランド産のライウィスキーに置き換えました。そしてヨーロッパがようやくフィロキセラを克服し、ブドウ畑が回復した時でさえ、ライウィスキーはサゼラックの主要成分としての地位を固め、そのまま標準的なレシピとなって行ったのです。

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19世紀後半には、アントワン・ペイショーの死(1883年)とトーマス・ハンディの死(1893年)がありました。ハンディが亡くなる前に彼の会社は、すぐ飲めるように予め混ぜられたサゼラック・カクテルのボトルを販売し始めています。更に同社はロイヤル・ストリートでサゼラック・バーを運営していました。ハンディの元秘書であるC・J・オライリーはハンディの事業権を購入し、サゼラック・カンパニーとして経営を始め、同じ名前でアメリカンウィスキーも発売しています。以来、禁酒法期間中のデリカテッセン及び食料品ベンダーとしての任務を除き、サゼラック・カンパニーは今日まで存続し続け、ニューオリンズを本拠地とする大手企業になりました。バーボンファンにはお馴染みのバッファロートレース蒸留所やバートン蒸留所などのウィスキー全体は言うまでもなく、その他のスピリッツやペイショーズ・ビターズも産み出しています。

20世紀が始まるとモダンカクテルも始まり、サゼラック・カクテルは1908年にようやくウィリアム・T・ブースビー(別名カクテルビル)の本に登場しました。ハンディは死の直前にサゼラックのレシピをブースビーに渡したと言われています。
今まで触れて来ませんでしたが、これまでの期間のある時点で、現代サゼラックの要素の1つが追加されました。アブサンです。これが二つの古典的カクテル、オールドファッションドとサゼラックの決定的な違いと考えることも出来るでしょう。この発明はリオン・ラモテというバーテンダーによるものとされています。ただし、いつの出来事なのかが参照する情報によってまちまちで、1860年頃のシラーの時代とするものと、ハンディ在職期間中であるとするものがありますが、最もよく見かけるのは1873年にラモテがアブサンのダッシュ(もしくはリンス)を追加したという説です。

アブサンはワームウッド(和名ニガヨモギ、学名Artemisia absinthium)を主原料とし、他にアニシードやヒソップ等から作られるハーブリキュールです。原料のワームウッドは昔からフランスの東部ポンタルリエや、スイスのヴァル・ド・トラヴェール地方で育てられていることから、この二つの地域が伝統的なアブサン発祥の地とされています。18世紀末に薬として誕生してから約100年以上のあいだ親しまれてきましたが、ワームウッドに含まれる精油成分ツジョンを過剰に摂取すると幻覚や錯乱などの向精神作用が引き起こされると信じられ、1898年にベルギーの植民地であったコンゴ自由国で禁止されたのを皮切りに、20世紀初頭にはヨーロッパでも1905年(1907年とも)のスイスに始まり、ベルギー、オランダ、フランス、ドイツ、イタリアなどでアブサンの製造・流通・販売は禁止されました。アメリカも1912年には禁止しています。
このため「犯罪成分」を用いないアニス主体の様々なリキュールがすぐに市場に出現しました。パスティス(仏語の「似せる」に由来する)はその一つ。専門家に言わせると本物のアブサンとは全く異なるフレイヴァーだそうですが、サゼラックのレシピから違法になったアブサンを置き換えるために、パスティスはいくらか使用されたと見られます。しかし、1920年にアメリカでは全面的な禁酒法が実施され、それどころではなくなりました。サゼラック・カンパニーは13年間の「乾いた時代」を食料品店や惣菜店として切り抜けます。

禁酒法が解けて直ぐ、レジェンドラ・ハーブサントという名前の新しいスピリットがニューオリンズで一般販売されました。このアニス風味のアメリカ製パスティスこそが、サゼラックのアブサン禁止に対する解決策を提供することになります。
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第一次世界大戦中、フランスに駐留していたジョセフ・マリオン・レジェンドラ(1897-1986)は、同地でレジナルド・P・パーカーというオーストラリア人の仲間と親しくなりました。パーカーは後にマルイユにポストされ、そこでパスティスの作り方を学びます。戦後、レジェンドラはニューオリンズに戻り、父親が所有するドラッグストア事業に参入。その後しばらくすると、パーカーもニューオリンズへ移って来ました。パーカーは個人消費のためにパスティスを作りたいと思い、レジェンドラに必要なハーブを輸入させ、禁酒法下でもアクセスできる処方箋ウィスキーを使用しました。彼はどのハーブを調達するかを知らせるためにレジェンドラにレシピを教えています。1933年12月5日にアメリカの禁酒法が終了した時、レジェンドラはパスティスを販売するのに適した立場にあった訳です。
1934年に初めて販売されたそのレシピにはアブサンの必須成分であるワームウッドが全く使われていないにも拘わらず、彼はそれを「レジェンドラ・アブサン」として生産しました。連邦アルコール規制局はすぐに「アブサン」という言葉の使用に反対し、名前は「レジェンドラ・ハーブサント」に変更されます。「魔酒」のイメージが定着していたアブサンに対して「聖なるハーブ」という正反対の意味の製品名は、ワームウッドのフレンチ/クレオール名「Herbe Sainte」から由来するようですが、偶然か故意か「Herbsaint(ハーブサント)」と「Absinthe(アブサン)」という「r」を欠落させるだけでほぼアナグラムになる秀逸なネーミングだと思います。「フランスの名前、フランスの起源、そして洗練された魅力のあるフランスのレジェンドラ・ハーブサントは、特徴的なヨーロッパの飲み物です」なんて宣伝文句も当時あったそうですが、実際にはニューオリンズの飲み物であり、地元産の芳香性の高いアニス酒としてこのスピリットは、しばしば柔らかいパスティスに代わるサゼラック・カクテルへの人気ある追加となりました。
レジェンドラはドラッグストアの取引に加えて、ビジネスとして経営しようとするのが面倒になり、或いは十分な利益が得られないことに気付き、1948年(または1949年)、ハーブサントをサゼラック・カンパニーに売却します。そしてサゼラック・カンパニーは買収以来ハーブサントを販売し続け、アブサンが合法となった後でも地元ニューオリンズでは、サゼラックにハーブサントを用いて造るバーは多かったのだとか。ちなみにアブサンは1981年に世界保健機関(WHO)がツジョン残存許容量10ppm以下なら承認するとしたため製造が再開され、特にルーツに拘ったバーテンダーがいる世界の国では、アブサンを用いたサゼラックが復活を遂げています。

今日、サゼラックの名はニューオリンズ市内にあるルーズベルト・ホテルの1940年代を再現したバーを飾っています。ホテルは元々、ドイツ人移民のルイ・グルネワルドによって建てられ、1893年に「ホテル・グルネワルド」としてオープンしました。1915年、セオドア・グルネワルドは父親が亡くなったときにホテルの唯一の所有者になりました。彼は1923年初頭までホテルの所有権を保持し、医師の助言に基づいてビジネス上の利益を全てヴァカロ・グループに売却しました。購入後、新しい所有者は別館と同じ高さの新しい塔を建設し、別館の内部を再設計します。1923年10月31日にホテルは、ニューオリンズ市にとってパナマ運河の建設に多大な労力を費やしたセオドア・ルーズベルト大統領を称えるため、正式にルーズベルト・ホテルに改名されました。
1925年10月1日には新しいバロン・ストリートのタワーがオープンします。そこには理髪店、コーヒーショップ、通りに面した店舗が追加されました。その頃、サゼラックにとって一人の重要な人物が頭角を現します。ホテルで理髪店のマネージャーとしてキャリアを始めたシーモア・ワイスです。彼は後に広報やアソシエイト・マネージャー、アシスタント・マネージャー、そして最終的にホテルのゼネラル・マネージャーに昇進しました。1931年には副社長兼マネージング・ディレクターとなり、1934年12月12日にワイスのグループへホテルは売却されました。ワイスによる購入後、ホテル全体で大幅な改装とアップグレードが段階的に行われ、1938年8月1日にメインバーがオープンします。
1949年、ワイスはサゼラック・カンパニーから「サゼラック・バー」という名前を使用する権利を購入しました。ホテルはサゼラック・カンパニーに名誉ライセンス料を支払います。バーは禁酒法以前エクスチェインジ・プレイスにあり、その後はカロンデレ・ストリートにありました。ワイスは元酒屋だったバロン・ストリートの店舗を改装し、1949年9月26日にサゼラック・バーをオープンします。第二次世界大戦前、サゼラック・バーは「男性のもの」でした。女性の利用はマルディグラ当日のみだったそうです。そのハウス・ルールが変更されたのはこの時です。ワイスはバーのスタッフから「キャニー・ショーマン」と呼ばれ、美しいメイクアップ・ガールを募集して、オープン初日にチャーミングな華やかさを加えました。街中の女性が会場に集まり、当日には女性客が男性客を上回ったのだとか。イベントは「サゼラック・ストーミング」として知られるようになり、記念日は毎年ホテルでヴィンテージの衣装による乾杯で祝われます。1959年、バロン・ストリートにあるサゼラックバーを閉鎖し、名前をメインバーに移すことが決定されました。そこが今でもサゼラック・バーと呼ばれる場所です。
ワイスが年を取るにつれて、彼はホテルの買い手を探し、1965年11月19日にベンジャミンとリチャード・スウィッグに買収されたホテルは、最初に名前をフェアモント・ルーズベルト、その後フェアモント・ニューオリンズに変更されました。ホテルは長年に渡って近代化し始め、サゼラック・バーもカーペットやモダンな家具、新しい照明等に更新されました。1990年代後半にも大規模なホテルの改修が行われています。しかし、フェアモント・ニューオリンズは2005年8月のハリケーン・カトリーナによる甚大な被害を受け、いくつかの修理作業が行われましたが、作業は2007年3月に不完全な状態で中断されました。2007年8月には新しい所有者による買収が発表され、1億4500万ドルの改修のあと、ウォルドーフ・アストリア・ホテルズ・アンド・リゾーツを選択して施設を管理、2009年に漸くホテルは再開されます。この時、所有者はホテルの名前を1923年から1965年まで保持していた「ルーズベルト」のタイトルに戻しています。ホテル全体が近代的なシステムで完全に改装されましたが、デザインは1930~40年代の壮大な時代を再現したものとなり、サゼラックバーもアールデコ調の1940年代の外観に復元され、クラシックな服装で女性が着飾ったサゼラック・ストーミングの再現で再開されました。

2008年3月、ルイジアナ州上院議員エドウィン・R・マレーは、サゼラックをルイジアナ州公式カクテルとして指定する上院法案を提出しました。この法案は2008年4月8日に否決されてしまいます。しかし、6月23日にさらなる議論が行われ、ルイジアナ州議会はサゼラックをニューオリンズの公式カクテルとして宣言することに同意しました。晴れてサゼラックはお墨付きを得たのです。それが理由の全てではないでしょうが、その後の10年間でサゼラックはニューオリンズを超えて人気を再燃させました。ネットの普及による情報の取り易さも手伝ったのかも知れません。20世紀初頭までにサゼラックのようなシンプルなカクテルは希少になり、近年ではミクソロジーの流行も見ました。それでもサゼラックは、クラシックなカクテルの最高峰の1つであり、身に纏った歴史の深みはその名を輝かせ続けています。
そして、その名声を得た元の建物は取り壊されなくなりましたが、サゼラック・カンパニーは、カナル・ストリートとマガジン・ストリートの交差する角に立つ誇らしげな歴史的建造物を改築し、サゼラック・ハウスとして運営することにしました。1850年代のオリジナルのコーヒーハウスから歩いて数ブロックのこの建物は、1860年代に遡る歴史のうち、かつては様々な帽子や手袋のメーカー、ドライグッズの保管場所、更には電化製品店までありましたが、ここ30年以上も空いていたのです。改築作業には建築会社トラポリン=ピアーや博物館デザイン会社ギャラガー&アソシエイツと提携しました。サゼラック・ハウスはニューオーリンズのクラシックなカクテルを祝う新しいインタラクティブな博物館です。文化を旅する訪問者は、ニューオリンズのカクテルの歴史に導かれ、サゼラック・ライウィスキーの蒸留方法を見出し、ペイショーズ・ビターズの手作りに参加して、サゼラック・カクテルの作り方を習得します。また、ここはニューオリンズのセントラル・ビジネス・ディストリクトで初めてウィスキーが生産される場所になりました。ウィスキーの生産展示では500ガロンのスティルが見られます。毎日約1バレルのサゼラック・ライウィスキーが作られ、熟成のためにケンタッキー州のバッファロートレース蒸留所に移送されるのだそう。サゼラック・ハウスは2019年10月2日にオープンする予定です。ニューオリンズを訪れた際は、是非ともここで独特の味と伝統を体験してみて下さい。もちろん、カクテルを飲みながら。

では、そろそろ今回レビューするサゼラック・ライを注ぐ時間です。

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SAZERAC RYE 90 Proof
推定2010年前後ボトリング。クローブ、蜂蜜、パンケーキ、メープルクッキー、ハーブのど飴。香りは甘いお菓子。パレートは甘味と共に頗るハービー。フルーティさとミンティさはそれほどでもない感じ。余韻は豊かなスパイス(クローブ、オールスパイス系)と苦いハーブが感じやすく、クラシックなライウィスキーを思わせる。
Rating:85.5/100

Thought:開封直後は香りも味わいも甘味がなく、えっ?これホントに51%ライ?って思いましたが、徐々に甘味は出て来ました。ジムビームやMGPのライよりフルーティさに欠けますが、甘味は強く、またハーブが優勢な味わいに感じました。
おそらく、このサゼラック・ライは日本へ輸入され始めた頃のボトルだと思われます。上の推定ボトリング時期は購入時期からの推測です。少し前までの数年間、日本ではサゼラック・ライは買いにくい状況にありましたが、ここ最近はまた輸入が復活したようです。その最近のサゼラック・ライを私は飲んでいないので味の変化があるのか判りません。飲み比べたことのある方はコメント頂けると嬉しいです。

Value:アメリカでは30ドル前後ですが、日本だと5000~6500円くらいします。これ、痛いですね。とは言え、6年というライとしては十分な熟成期間を経ていますし、おそらく比較的少量生産だとも思われるし、長いネックやボトル形状にクラシックなフォントなどボトルデザインは古いウィスキーを偲ばせカッコいい。甘さが立った味わいも他社のライと一線を画し美味しいのでオススメしておきましょう。ただ、私はどちらかと言えばMGPの方が好みではありますが。

追記:本稿でサゼラックの歴史を語りながら、その具体的なレシピの詳細については敢えて紹介しませんでした。標準的なレシピを紹介することくらいは出来たのですが、私よりもっとカクテルに拘ったバーテンダーさんに教えてもらった方が適切だと思ったからです。記事を読みながらサゼラック・カクテルを飲みたくなり、「で、レシピは?」と思ってしまった方がいましたらすいませんでした。レシピについてはすぐ検索できますのでご自身で研究してみて下さいね。

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ブラッド・ベッカーマンによって設立されたスティルハウス・スピリッツ社は、アメリカンウィスキー業界の伝統や常識を揺さぶることを目指している会社です。ベッカーマンは長い間起業家であり、スティルハウスは規範に挑戦したいという彼の願望を反映しています。彼はクリア・コーン・ウィスキーに注力し、政府からの脅威にも拘わらず我が道を往った荒くれ者のムーンシャイナーに敬意を払い、自社製品を一見オイル缶と見紛うステンレス・スチールの缶に詰め込みました。そのオリジナル・ウィスキーは2016年に発売されるとすぐに人気を博し、デザイン賞などを受賞。確かに典型的なガラス瓶との「違い」は顕著と言え、特に象徴的なチェリーレッドの缶は頗るクールでした。

基本となるムーンシャインに様々なフレイヴァーを加えたヴァリエーションも生み出してきたブランドですが、続々と製品ラインナップの拡大を図っています。2018年には黒い缶のバーボンを、2019年には白い缶のウォッカを発売しました。また2017年?頃からは、黒人のようにラップ出来る白人ラッパーであり、高身長のイケメンであることからモデル系ラッパーとも言われるG-eazyが、スティルハウス・スピリッツ社の共同クリエイティヴ・ディレクターに就任しています。ブラッドとG-eazyの二人は共にジョニー・キャッシュの大ファンで意気投合したのだとか。G-eazyは投資家としての顔も持つようで、おそらく出資者としてブランド・アンバサダー的な役割を担っているのでしょう。今回レビューする「ブラックバーボン」も発売当時、彼がPRしていました。

さて、私は以前の投稿でスティルハウス・オリジナル・ウィスキーをレビューしましたが、正直言うと中身はどうでもよくて、あのカッコいい缶が欲しくて購入しました。私は「酒飲み」と言うよりあくまで「バーボン飲み」なので、ビールやワインや日本酒も飲みませんし、なんならスコッチやジャパニーズすら好んでは飲まず、ましてやカクテルを飲む習慣はさらさらないのです。なのでミキサーと合わせることも出来ず、さりとて未熟成のムーンシャインをストレートでグイグイ飲むのも少々キツい…。おかげで消費するのに時間が掛かりました。そもそもスティルハウスのスピリッツは、食後のまったりとした時間を楽しむシッピング・ウィスキーのカテゴリーよりは、パーティー・シーンやアウトドア・ライフに焦点を合わせた製品だと思います。しかし、ブラック「バーボン」と言われたら、バーボン飲みにとっては見逃せませんよね。缶についても、赤のインパクトには敵いませんが、マットな黒がなかなかクールなのでついつい購入してしまいました。

では、ブラックバーボンとは一体いかなるものなのでしょうか。これがまたオリジナル・ウィスキーと同じくネットで調べてみても、中身については缶に貼ってあるシールの文言と同程度の情報しか出回っていませんでした。判る範囲では、コーン/ライ/バーリーのマッシュビルとライムストーン・ウォーターを使い、テネシー州コロンビアにある施設で蒸留され、新しいアメリカン・オークの焦がされた樽で熟成、その後チャコール・フィルターをかけ、焙煎したスモールバッチのコーヒー豆で「rested and mellowed」されている、とのこと。 一般的なバーボンとの違いは、このコーヒー豆云々の部分な訳ですが、漠然としていて具体的にどういう製法なのか説明がありません。おそらく「rested」は「休ませた=寝かせた=熟成させた」で、つまりは樽の中にコーヒー豆を入れ一定期間バーボンに漬け込み、味を円やかにすると同時に風味を足した、と解釈していいと思われます。どれくらいの時間なのかは定かではないし、「スモールバッチのコーヒー豆」と言うのもよく分からない用語なのですが…。まあ、飲んでみましょう。

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Stillhouse America's Finest Black Bourbon 80 Proof
SERIAL No. BB-C011-3023
推定2018年ボトリングと言うか缶詰め(?)。液体はやや濁りのある(曇った)見た目。強いて言うとゴールドに黒い曇りをかけたような色合い。黒糖ミルク、コーンウィスキー、僅かなキャラメルと微かなダークチェリー、ブラックコーヒーゼリー。さらりとしつつもとろみの強い口当たり。口中はドライ気味。液体を飲み込んだ後に来る刺激はスパイシーと言うより若いアルコールを思わせる。余韻はスモークとコーヒーの苦み。
Rating:75/100

Thought:「ローストしたコーヒー豆に浸しました」という情報を聴いた上で意識して飲んだので、上のテイスティングでは「コーヒー」とつい書いてしまいましたが、もし事前情報がなかったとしたら、私には特にコーヒーの風味とは感じられなかったかも知れません。バーボンの特徴となる焦がした新樽だって焦げた風味はありますから、どこまでが樽由来でどこまでが焙煎コーヒー豆由来かはそう明確には分からなかったのです。ただ強いて言うとコーヒーのような苦味が強いかなと思うのと、確かに通常のバーボンでは感じない風味はありました。そして寧ろ風味よりも妙なとろみを感じさせるテクスチャーの方が焙煎コーヒー豆由来なのかな、という気もします。また、このバーボンはかなり「若い」ように思いました。香りや味わいにそれを特に感じますが、なのにその若さを覆い隠すような独特のスモーク感と風味が奇妙に感じなくもなかったです。

Value:率直に言って、3~4年熟成程度の標準的なケンタッキー・ストレート・バーボンには遠く及ばない味わいでした。アメリカでの希望小売価格は750ml缶で約30ドル。それほど高いわけでもなく、缶もカッコいいし、面白い風味は感じ取れるので買う価値はあるでしょう。ただし個人的にはリピートはないです…。
あと、ちなみになんですが、私が飲んだチェリーレッドのオリジナル・ウィスキーよりもこちらのブラックバーボンのほうが缶のキャップのクオリティが高かったです。これって種類で使い分けてるのか、単に販売時期の違いなのか? 

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ジムビームのスモールバッチ・コレクションのうち筆頭とも言えるブッカーズ。その名の由来となっているのはビーム家第六世代マスターディスティラーであるフレデリック・ブッカー・ノー2世、通称ブッカー・ノーです(*)。
ブッカーは1929年12月に生まれました。ジム・ビームことジェイムス・ボーリガード・ビームの孫に当たります。母親であるジムの娘マーガレットがノー家へ嫁いでいるのでビーム姓を名乗っていません。蒸留一家の家系に生まれた常か、10代の頃から蒸留所周辺の手伝いをしていたようです。恵まれた体躯の持ち主だったブッカーはフットボールをやっていて、後にアラバマ大学で勇名を馳せるカレッジ・フットボール界の伝説的名コーチ、ベア・ブライアントがケンタッキー大学で指導していた頃の彼のチームに所属していました。しかしやがてチームを辞め、大学も中退してしまい、アンクル・ジェリー(ジムの息子ジェレマイアのこと)やカズンのカール(ジムの弟の息子)らの心配を引き起こします。彼らはブッカーが蒸留所の家族との繋がりを損なわないことを望んでいたのです。チームや大学を辞めた理由については定かではありませんが、ブッカーはワイルドな男だったので若き人生を楽しみたかったのかも知れません。
ブッカーは子供の頃から有名な祖父ジムと親密だったそうで、ジムもアンクル・ジェリーも彼のポテンシャルを認めていました。また、家族がブッカーの処遇にまごついている間に、ウィレット蒸留所のトンプソン・ウィレット氏もブッカーを狙って(スカウト?)いたなんて話もあったようです。もしブッカーがウィレット蒸留所に行っていたとしたら、ブッカー・ノーがプロデュースするノアーズミル発売!、息子のフレッド・ノーがウィレット蒸留所のマスターディスティラーを継ぐ!、なんていう歴史の書き換えが行われていたかも…と妄想するのはバーボンマニアの密やかな楽しみでもあるでしょう。しかし、歴史はそうはなりませんでした。
ブッカーの母は、息子へもっと巧くファミリービジネスの魅力を紹介するよう、アンクル・ジェリーに持ち掛けたようです。それが効を奏した分かりませんが、1950年頃にアシスタント・ディスティラーとして家業に入り、おそらく名ディスティラーだったカールに蒸留業の一から十を叩き込まれたものと想像します。ブッカーは主にケンタッキー州ボストンのジムビーム蒸留所でバーボンの製造と熟成を管理し、後に隣接するクレアモントでもそうしました。ジムビームはブリット郡クレアモントとネルソン郡ボストンに蒸留所を持ちますが(**)、そのボストンの蒸留所は五代目当主のジェレマイアが操業を停止していた古いチャーチル・ダウンズ蒸留所を買い取り、数百万ドルを投資して最先端の施設へと転換、1954年に2番目の蒸留所として開設し、通称ボストン・プラントと呼ばれていました。ブッカーはそこを長らく監督していたので、今ではジムビーム蒸留所ブッカー・ノー・プラントと命名されています。
ブッカーは1965年にマスターディスティラーに選ばれました。1960年代及び70年代、ジンや特にウォッカのような「ホワイトスピリッツ」の躍進に悩まされてきたバーボン業界にあっても、ジムビーム自体は当時から世界で最も売れ行きの良いバーボンでした。ブッカー一人の力でもなかったのでしょうが、彼が1992年に「名誉マスターディスティラー」として実務から引退するまでの在任中、ジムビーム・バーボンの生産量は12倍に増えたと言います。引退した後も会社のアンバサダーとして働き続け、ビームのバーボンを宣伝するため世界を旅したり、バーボン・テイスティング会ではホストとして家族の物語や歴史を織り混ぜた会話で観客を楽しませました。1995年に会社はジムビームのラベルに、ブッカーに先行していた5人のビーム・ディスティラー、ジェイコブ、デイヴッド、デイビッドM、ジム、Tジェレマイアの肖像画のスケッチと並べて彼を加えます。そしてブッカーは2001年にバーボンの殿堂入りを果たし、2004年に亡くなりました。
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ブッカーは愛すべきキャラクターとカリズマを備え、ロックスターのように扱われた初めてのマスターディスティラーでした。今日、伝説として扱われる彼の功績は、蒸留技師としてよりも、むしろ自身の名を冠した「ブッカーズ」と「スモールバッチ・バーボン」を広めたことに帰着するでしょう。その役割は現在、息子のフレッド・ノーがビーム家七代目マスターディスティラーとなって継承しています。

伝説の語り部やマーケティング部門の天才的なライターは、時に余りにもフィクショナルな言辞を誇示します。それ故、ブッカーズ誕生秘話の真相もどこまで本当かよく分かりません。一説には、ブッカーズはブッカーがシングルモルト・スコッチに匹敵するバーボンを製造するよう頼まれたのが契機となったと言います。定説では、ブッカーが時々蒸留所の倉庫から特別に選んだバレルを瓶詰めし、親しい友人や家族へのホリデーギフトとしたり、ビーム家主催のバーベキューパーティーで振る舞われたそのバーボンはやがて評判を呼び、インスピレーションとなってビームが量産を開始した時、ブッカーズは誕生したと言います。ビーム社が公式に発表しているところによれば1988年のことでした。僅かな違いですが、87年としているサイトも多いです。初め高品質のバーボンが売れるかどうかについて疑問の声は内部からもあったそう。その希望小売価格は約40ドルとも50ドルとも言われ、当時のバーボンとしては破格の値段でした。しかし、それは杞憂に終わり、ブッカーズはカルト的な人気を得、今でもビーム・バーボンの最高峰として君臨しています。

ブッカーズの品質は何千何万もの樽の中から「ハニーバレル」と呼ばれるものを見つけることによって達成されます。気温の変動や倉庫内のバレルを置く位置により、バーボンは様々な品質で熟成し、風味は一定しません。業界で育ったブッカーは最高の樽を探す方法を知っていました。
かつて一部の蒸留所のラックハウス作業員は「ミュールス」と呼ばれるプラスチック製のチューブを自分の作業着の前面に付けて持ち歩き、熟成したバレルから直接ウィスキーの味見をするために使用したそうです。 彼らはおおむね立派な体格(太ってた?)をしており、味見をするとき彼らの出っ張った腹は樽の側面を擦り、埃を取り除いてバレルを輝かせました。「バレルがより明るいと、ウィスキーはより甘い」なんて格言?を言う人もいたそうな。
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ブッカーは見習いの作業員をラックハウスへわざと送り込んでおいて、後から悠々とシャイニーバレルを見つけ出したのでしょう。そして自らの名前を付けることになるバーボンの最初の準備が出来た時、シャイニーバレルがあった場所に新しい樽を置いた、と。そこは大抵の場合、温度と湿度と日当たりがちょうど良いラックハウスの中央部分に当たりました。具体的に言うと、ジムビームの熟成倉庫は主に9階建てですが、上層階でも下層階でもない真ん中の4~6階のことです。これがブッカー自身がしばしば「センターカット」という用語を使った理由でした。ジムビームではラックハウスの中層階こそが「スイートスポット」であり「ハニーバレル」を産出する場所だという訳です。

以上のような特別な樽を一つ選ぶだけではブッカーズにはなりません。ブッカーズはシングルバレルではなくスモールバッチですから、選ばれた樽はサンプリングされて、バランスを見ながらブレンドし、一つのバッチを形成します。このプロセスをバッチングといい、バーボンの味をクリエイトする重要な要素。現在のブッカーズもバッチングに使用される樽は殆どが中層階から来ています(少しだけ2階や8階等別のフロアの樽が選ばれることもある)。バッチ・サイズは概ね350~360樽とされます。また、ブッカーズの熟成年数は常に6~8年であり、ラベル記載の熟成年数はバッチの中で最も若い原酒の物です。

そして更にブッカーズをブッカーズたらしめる特徴が、アンカットとアンフィルタード。つまり水で希釈せず濾過もしないことです。加水調整しないため、アルコール度数はそのバッチ毎に異なり、およそ120~130プルーフの間を行き来する所謂バレルプルーフ・バーボンで、フィルタリングに関してはゴミ(炭化したバレルの木屑)取りレヴェルの濾過はしていると思いますが、大々的なフィルターはかけていないでしょう。ブッカー本人の台詞で言えば「バレルからストレートに、かつてのバーボンがそうだったように」。

さて、今回レビューするブッカーズなのですが、購入した時からバッチナンバーを示すシールが欠損していました。初めから付いてなかったのか、取れちゃったのかよく判りませんが、ともかくブッカーズと言えばバッチナンバーは欠かせません。それがあるから有り難みが増し、マニア心を擽るというもの。そこで、せっかくなのでレビューの前にブッカーズのバッチナンバーの読み方を、この機会に紹介しておきましょう。

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ブッカーズのバッチのコードには大きく分けて3タイプあります。
発売開始から94年途中までは「バッチ」と書かれてなく「ロット」と書かれ、例を挙げると「C-B-16-79」や「B-K-28-84」のようなコーディングです。最初のアルファベットは蒸留プラントの別を表し、クレアモントの「C」かボストンの「B」です。二番目のアルファベットは月を表し、A=1月、B=2月と読み替えます。次の数字は1から31までの蒸留日、最後の数字は蒸留年に対応しています。
続いて、94年途中からフォーマットに若干の変更がなされました。例としては「C87-B-19」や「B95-C-31」のような感じです。以前と同様の方法論に従いますが、順序が違います。先頭のアルファベットは蒸留プラントの区別、そこからハイフンがなく蒸留年が来て、月を示すアルファベット、日にちの順です。
そして2014年になると、従来方式と単純化されたバッチナンバーが混在し始めます。「C07-A-12」と「2014-07」のような例です。前者は従来通りですが、後者は蒸留年ではなくバッチングされた年とリリース番号です。この混在はおそらく過渡期だからでしょう。2015年になるとアメリカ国内仕様のバッチナンバーの書かれたタグは大幅にリニューアルされたからです。2015年からのものはバッチ番号を単純化した以外に、各バッチにブッカーと関連する何かを表すシンボルと名前が付けられるようになりました。犬とか椅子とか魚とか肉とか色々なものです。ご丁寧にそれらに付随するストーリーもあります。これらは限定リリースや特別リリースではありませんが、ファンからしたら親しみやすく見ていて楽しい新機能です。

それでは、海外のバーボンマニアが作成してくれているデータをベースに、バッチの仕様を以下に纏めておきます。ブッカーズはかなりの年月継続して発売されてますし、輸出国でその仕様も異なるかも知れず、全てを網羅するのは難易度が高いです。また私自身はコレクターでもマニアでもありません。それゆえ不完全だと思うので、ここに挙げられていないバッチをご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。表記は左から順に、バッチ番号、名称があるものはその名称、括弧は蒸留年に熟成年数を足したことで得られる推定バッチング時期≒ボトリング時期≒リリース時期(後年の「2015-01」のような番号には付けていません)、熟成年数、プルーフ、特記事項です。また、不確定要素には「?」を付しました。


【Booker's Batches ~Work-in-Progress~】

C-B-16-79 (Feb. 1986?) / 7YEARS OLD / 120.9 PROOF / Brown Wax / Individually Numbered
C-B-16-79 (Feb. 1987?) / 8YEARS OLD / 121.4 PROOF
C-E-19-81 (May 1988) / 7YEARS OLD / 121.6 PROOF / Brown Wax
C-B-04-82 "Booker Noe's" (Feb. 1989) / 7YEARS OLD / 125.2 PROOF / Brown Wax 
C-C-16-82 "Booker Noe's" (Mar. 1989) / 7YEARS OLD / 126.0 PROOF / Brown Wax
C-I-27-82 "Booker Noe's" (Sep. 1989) / 7YEARS OLD / 125.3 PROOF
C-K-03-82 (Nov. 1989) / 7YEARS OLD / 124.2 PROOF
B-H-01-83 (Aug. 1991) / 8YEARS OLD / 124.6 PROOF / Brown Wax
B-H-01-83 "PRIVATE STOCK" (Aug. 1991) / 8YEARS OLD / 125.4 PROOF / For Japanese Market
C-E-15-84 (Dec. 1990) / 6YRS 7MO / 124.6 PROOF
C-E-15-84 "Booker Noe's" (???. 1991) / 6YRS ?MO / 125.2 PROOF / For Japanese Connoisseur
C-E-15-84 (Oct. 1991) / 7YRS 5MO / 124.6 PROOF / Brown Wax
B-K-28-84 "Booker Noe's" (Jan. 1993) / 8YRS 2MO / 124.6 PROOF / Brown Wax
B-K-28-84 (Jan. 1993) / 8YRS 2MO / 124.6 PROOF
C-J-06-86 "Booker Noe's" (Oct. 1993) / 7YEARS OLD / 124.9 PROOF / Brown Wax
B-C-19-87 "Booker Noe's" (Apr. 1994) / 7YRS 1MO / 126.5 PROOF
C87-B-19 "PRIVATE STOCK" (Feb. 1994?) / 7YEARS OLD / 126.5 PROOF / For Japanese Market
C87-B-19 (May 1994) / 7YRS 3MO / 126.5 PROOF
C87-D-14 (Dec. 1994) / 7YRS 8MO / 126.1 PROOF / Japan Export?
C87-D-21 (Apr. 1995) / 8YEARS OLD / 125.3 PROOF
C-E-15-89 (May 1996) / 7YEARS OLD / 124.6 PROOF / Mimi
C88-J-17 (Oct. 1996) / 8YEARS OLD / 125.5 PROOF / Booker's Club 3 Sticker on Top
C89-E-26 (Mar. 1997) / 7YRS 10MO / 125.6 PROOF
C89-L-13 (May 1996) / 6YRS 5MO / 126.6 PROOF
C90-B-8 "10th Anniversary" (Feb. 1998) /  8YRS / 126.3 PROOF / Gold Wax
C90-D-11 (Aug. 1997) / 7YRS 4MO / 126.5 PROOF
C90-E-11 (Sep. 1997) / 7YRS 4MO / 126.5 PROOF / Booker's Club 3 Sticker on Top
C90-E-14 (Feb. 1998) / 7YRS 9MO / 126.7 PROOF
C90-K-28 (Sep. 1998) / 7YRS 10MO / 126.3 PROOF
C91-L-20 (May 1999) / 7YRS 5MO / 126.6 PROOF
C92-I-15 (Dec. 1999) / 7YRS 3MO / 126.5 PROOF
C92-K-05 (Aug. 2000) / 7YRS 9MO / 125.4 PROOF
B93-L-16 (Jan. 2001) / 7YRS 1MO / 126.3 PROOF
B94-E-13 (Jun. 2001) / 7YRS 1MO / 126.0 PROOF
B94-E-13 (Jan. 2002) / 7YRS 8MO / 126.4 PROOF
B95-C-31 (Jun. 2002) / 7YRS 3MO / 126.6 PROOF
B95-C-31 (Dec. 2002) / 7YRS 9MO / 126.7 PROOF
B95-C-31 (Mar. 2003) / 8YRS 0MO / 126.7 PROOF / Japan Export?
B95-C-31 (Aug. 2003) / 8YRS 5MO / 126.8 PROOF
B95-C-31 (Dec. 2003) / 8YRS 9MO / 126 PROOF
B96-C-15 "Booker Noe 1929-2004" (Jun. 2004) / 8YRS 3MO / 125.3 PROOF / Commemorative Label, Release Size : 3000
B96-L-23 (Nov. 2004) / 7YRS 11MO / 126.8 PROOF
C97-A-31 (Mar. 2005) / 8YRS 2MO / 126.6 PROOF
C97-B-07 (Aug. 2005) / 8YRS 6MO / 126.9 PROOF
C99-B-22 (Jan. 2006) / 6YRS 11MO / 124.7 PROOF
C00-A-20 (May 2006) / 6YRS 4MO / 124 PROOF
C00-A-20 (Aug. 2006) / 6YRS 7MO / 127 PROOF
C00-A-20 (Oct. 2006) / 6YRS 9MO / 127 PROOF
C00-K-15 (Jun. 2007) / 6YRS 7MO / 126.4 PROOF
C01-A-18 (Aug. 2007) / 6YRS 7MO / 124.9 PROOF
C01-A-18 (Jan. 2008) / 7YRS 0MO / 125.7 PROOF
C01-A-18 (Apr. 2008) / 7YRS 3MO / 125.4 PROOF
C01-A-18 (Apr. 2008) / 7YRS 3MO / 125.7 PROOF
C01-K-07 (Sep. 2008) / 6YRS 10MO / 126 PROOF
C02-A-18 (Dec. 2008) / 6YRS 11MO / 126.9 PROOF
C02-A-18 (Mar. 2009) / 7YRS 2MO / 130.1 PROOF
"FRED NOE SELECT FOR SEIJO ISHII" NO. 1 / 6YRS 10MO / 125.0 PROOF / Release Size : 1000, Special Box
"FRED NOE SELECT FOR SEIJO ISHII" NO. 2 / 6YRS 10MO / 122.0 PROOF / Release Size : 700, Special Box
"FRED NOE SELECT FOR SEIJO ISHII" NO. 3 /6YRS 10MO / 122.0 PROOF / Release Size : 300, Special Box
C02-I-24 (Sep. 2009) / 7YRS 0MO / 128.4 PROOF
C03-A-29 (Jan. 2010) / 7YRS 0MO / 127.9 PROOF
C03-A-29 (May 2010) / 7YRS 4MO / 128.6 PROOF / Japan Export?
C03-I-16 (Sep. 2010) / 7YRS 0MO  / 127.4 PROOF
C03-I-17 (Jan. 2011) / 7YRS 4MO / 128.0 PROOF
C04-A-28 (May 2011) / 7YRS 4MO / 129.1 PROOF
C04-A-28 (Aug. 2011) / 7YRS 7MO / 128.6 PROOF
C04-J-19 (Nov. 2011) / 7YRS 1MO / 129.2 PROOF
C05-A-12 (Feb. 2012) / 7YRS 1MO / 130 PROOF
C05-A-12 (Jun. 2012) / 7YRS 5MO / 128.5 PROOF
C06-B-15 (Mar. 2013) / 7YRS 1MO / 127.1 PROOF
C06-B-15 (Mar. 2013) / 7YRS 1MO / 128.9 PROOF
C06-B-15 (May 2013) / 7YRS 3MO / 127.1 PROOF
C06-K-08 (Nov. 2012) / 6YR 0MO / 130.4 PROOF
C06-K-08 (Jan. 2013) / 6YR 2MO / 128.5 PROOF / Kentucky Derby Festival 2013
2013-06 / 7YRS 6MO / 125.9 PROOF / Roundtable Selection
2013-07 / 7YRS 0MO / 128.0 PROOF
2014-01 "25th Anniversary Edition" / 10YRS 3MO / 130.8 PROOF / Gold Wax
2014-02 / 7YRS 0MO / 126.8 PROOF / Japan Export
C07-A-12 (Jan. 2014) / 7YRS 0MO / 130.6 PROOF
C07-B-7 (Apr. 2014) / 7YRS 2MO / 130.8 PROOF / Roundtable Selection
C2014-05 / 7YRS 5MO / 127.9 PROOF
2014-06 / 7YRS 2MO 14DAYS / 127.7 PROOF / Roundtable Selection
2014-07 / 7YRS 7MO 13DAYS / 128.9 PROOF
2015-01 "Big Man, Small Batch" / 7YRS 2MO 16DAYS / 128.7 PROOF
2015-02 "Dot's Batch" / 7YRS 0MO 18DAYS / 127.9 PROOF
2015-03 “The Center Cut” / 7YRS 2MO 28DAYS / 127.2 PROOF / Roundtable Selection
2015-04 "Oven Buster Batch" / 6YRS 5MO 20DAYS / 127.0 PROOF / Roundtable Selection
2015-05 "Maw Maw's Batch" / 6YRS 7MO 3DAYS / 128 PROOF
2015-05 (No Batch Name) / 6YRS 7MO / 128.0 PROOF / Export
2015-06 "Noe Secret" / 6YRS 8MO 7DAYS / 128.1 PROOF / Roundtable Selection
2016-01 "Booker's Bluegrass" / 6YRS 11MO  0DAYS / 127.9 PROOF
2016-01E (No Batch Name) / 6YRS 1MO / 127.7 PROOF / Export
2016-02 "Annis' Answer" / 6YRS 2MO 1DAYS / 126.7 PROOF
2016-LE "Big Time Batch" Booker's Rye / 13YRS 1MO 12DAYS / 136.2 PROOF / Green Wax and Label
2016-03 “Toogie's Invitation” / 6YRS 4MO 4DAYS / 129.0 PROOF / Roundtable Selection
2016-04 “Bluegill Creek” / 6YRS 5MO 28DAYS / 128 PROOF
2016-05 “Off Your Rocker” / 6YRS 7MO 23DAYS / 129.7 PROOF
2016-06 “Noe Hard Times” / 6YRS 10MO 1DAYS / 127.8 PROOF
2017-01 “Tommy’s Batch” / 6YRS 4MO 6DAYS / 128.5 PROOF / Roundtable Selection
2017-01E (No Batch Name) / 6YRS 1MO 0DAYS / 125.4 PROOF / Export
2017-02 "Blue Knights Batch" / 6YRS 3MO 3DAYS / 127.4 PROOF
2017-03 “Front Porch Batch” / 6YRS 5MO 25DAYS / 125.9 PROOF
2017-04 “Sip Awhile” / 6YRS 8MO 14DAYS / 128.1 PROOF
2018-01 “Kathleen's Batch” / 6YRS 3MO 14DAYS / 127.4 PROOF / Roundtable Selection
2018-01E (No Batch Name) / 6YRS 3MO / 127.4 PROOF / Export
2018-02 “Backyard BBQ” / 6YRS 2MO 10DAYS / 128.8 PROOF
2018-03 “Kentucky Chew” / 6YRS 4MO 12DAYS / 126.7 PROOF
2018-04 “Kitchen Table” / 6YRS 8MO 7DAYS / 128.0 PROOF
"30th Anniversary Limited Edition" / 30% 16 Year and 70% 9 Year / 125.8 PROOF / Silver Wax
2019-01 "Teresa's Batch" / 6YRS 3MO 1DAYS / 125.9 PROOF
2019-01E (No Batch Name) / 6YRS 3MO / 125.9 PROOF / Export
2019-02 "Shiny Barrel Batch" / 6YRS 5MO 1DAYS / 124.0 PROOF
2019-03 "Booker's Country Ham" / 6YRS 4MO 2DAYS / 124.7 PROOF


少し補足しておくと、後半の方で特記事項に出てくるラウンドテーブル・セレクションというのは、円卓会議を意味する言葉です。基本的にブッカーズ・バーボンは、蒸留所で働く選ばれた人々にテイスティングしてもらい意見を伺うらしいのですが、このラウンドテーブルとしてリリースされているブッカーズは、蒸留所の関係者ではないけれどバーボンを愛するライターや著名人、所謂インフルエンサーにブッカーズのバッチ選択を手伝ってもらったものを指します。大体3つのサンプルの中からどれがブッカーズに相応しいか投票形式で決めて行くのだとか。
また、前半の方に「ブッカー・ノーズ」と名付けられたブッカーズがあります。これは聞くところによると、日本のバーボンマニアの間で「ブッカーズ・ブッカーノーズ問題」と呼ばれているようで、つまりはこの二つの違いは何なんだ?と云うことなのですが、日本の或る高名なウィスキーブロガーの方は他方はシングルカスク(シングルバレル)なのではないかと想像してみたり、なかなか尽きないホットなトピックみたいです。なので私もここで自分の想像を披瀝してみたいと思います。
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先ず、最初の発売時はブッカー・ノーズで、ある時からブッカーズに名称変更された、というなら話は簡単だったのですが、これは確実に違います。上のリストの始めの三つは「Booker's」だからです。次に、ブッカーズが初期の段階では国内仕様をブッカーズ、日本輸出仕様をブッカー・ノーズにしていた、これはその可能性もあるし、そうでもなさそうな気もするし、明確に判らないので取りあえず放置。続いて、一方の質が高い説、例えばブッカーズはスモールバッチでブッカー・ノーズはシングルバレルとか、他方は熟成年数が長いとか、蒸留時点で造り分けてるなど中身に明瞭なスペックの違いがあると考える説は、個人的には賛同できません。おそらくブッカーズにはシングルバレルはなく常にスモールバッチだったと思います、ブッカー・ノーズも含めて。別に何かしら根拠がある訳ではないのですが、既に84年の時点でブラントンズというシングルバレル・バーボンが発売されているのですから、もしシングルバレルのブッカーズを造ったのだったら、あれほど似たようなラベルにせず、もっと高級感を演出するとか、或いはその事をもっと押し出したのではないでしょうか?  ロット「79」までの物が極端に小さい規模のスモールバッチだった、というなら理解は出来るのですが…。また、私には当時の価格が分からないのでこれまた憶測ですが、ブッカーズとブッカー・ノーズに品質の区別があったのなら販売価格は大いに違ったのではないでしょうか? 誰か知ってる方はいらっしゃいませんか?
じゃあ一体ブッカーズとブッカー・ノーズは何が違うんだと問われたら、両者は保証される品質に違いはなく、単なるラベルのヴァリエーションに過ぎないのではないか、というのが私の意見です。仮に、初期のブッカーズとブッカー・ノーズを全部取り揃えて飲み比べをし、その結果、例えば全てのブッカー・ノーズが全てのブッカーズより美味しく感じたとしても、やはりそれらは同じものと見做せると思います。何故なら、そもそもブッカーズはバッチ毎に味の変動があるとされるバーボンですし、少なくともラベルや公表されている情報から判断するに、ブッカー・ノーズはブッカーズの定義(ブッカーズたる条件的なスペック)を満たしているからです。何よりブッカーズとブッカー・ノーズですよ? これ日本語にしたら「ブッカーの」と「ブッカー・ノーの」ですから、どちらも指し示すものが一緒じゃないですか。極端な差があったら消費者は混乱してしまいます。それに、多分海外のバーボンマニアはこの名称の違いをそれほど気にしてないような気がします。ボトルのラベルはブッカーズでありながら、紙箱にはブッカー・ノーズと書かれているパターンの販売もよくありましたが、この件に関してツッコミを入れてる海外の方を見たことがないのです。
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箱に関しては上の画像のように、ブッカーズ・トゥルーバレル・バーボンとかブッカー・ノーズ・スペシャルバレル・バーボン等と書かれており、初期ラベル同様一定の文句で統一されていません。これはどう考えても両者が認識として同じもの、同じ事柄の別表現なのを暗示しているように思えてならないのです。おそらく二種類の名称が生まれた原因はブッカー自身にあったのではないか、と私は勘繰っています。ブッカーズ誕生の場面を思いっきり妄想してみましょう。


伝説によれば、ブッカーは親しい友人や家族や蒸留所で働く人々に、特別に選んだ樽から出来たバーボンを振る舞ったと云う…

ゴクゴク

A氏「いやぁ、旨めえなぁ、このバーボン」

B氏「ほんとだ、こいつぁ旨めぇ、こりゃ明日ブッカーさんにお礼を言わなきゃだな」

翌日

A氏「なぁ、ブッカーさんよ、昨日くれたあのバーボン、すげぇ旨かったよ、ありがとうな。ありゃいったいなんてバーボンなんだい?」

B氏「そうだそうだ、俺もそれが聞きてぇ、これからも飲みてえんだよ」

ブッカー氏「名前なんてねぇよ、…そうだなぁ、強いて言うなら、俺んだ」

A氏「ブッカーズってわけかい?」

B氏「へへぇ、そいつはいいや、カッコいいじゃねーか」

と、まあこんな感じの会話があったとかなかったとか…


私の推測では、ブッカーにとっては「ブッカーズ」でも「ブッカー・ノーズ」でも、どっちでもよかったし、それらは同じ意味だった。しかし、消費者もしくはブランディングやデザインに携わる担当者には違った。「ブッカーズ」の方が断然クールな響きだった。それ故「ブッカー・ノーズ」はいつしか淘汰され、「ブッカーズ」が生き残った。或いはブッカー本人が「ブッカーズ」の方を気に入ったのかも知れない。
…えー、はい、空想話はこれくらいにして、そろそろテイスティングへ…。

先に述べたように、今回飲んだブッカーズにはバッチナンバーのシールがありません。なので熟成年数も不明、インポーターのシールも見当たらないので度数すら分からないのです。が、瓶底に辛うじて15という数字が読み取れるので、おそらく2015年のエクスポートではないかと思われます。木箱が以前のナチュラル・カラーの物から、ロッキンチェアに座るブッカーがプリントされた濃い茶色の物に代わったのも2015年だし、私の購入した時期も考え合わせると、多分間違いないかと。

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Booker's ? Proof
Batch No. ?
推定2015年ボトリング、6年7カ月熟成、128プルーフ。糖蜜とハーブ、シナモンアップルパイ、線香、僅かなカラメル、きな粉。どこか植物を思わせるアロマと木香。オイリーな口当たり。パレートはオレンジを感じる。アルコール感は穏やか。余韻はややウッディなビター感が始めに来て、それが消えるとビーム・バーボンに共通するフルーツが微かに揺蕩う。ナッティさはあまり感じない。香りがハイライト。
Rating:88.5/100

Thought:先日まで飲んでいたノブクリークのシングルバレルとは全然キャラクターが違う仕上がりなのは流石でした。また、このブッカーズの前に飲んだブッカーズ(2012年のバッチ)が凡庸だったのに比べると、特別なフィーリングは感じました。うんうん、ブッカーズはこうでなくっちゃね、と。但し、加水し過ぎたりロックで飲むと酷く平凡なのは気になりました。加水して60度くらいに下げるなら、端からノブクリーク・シングルバレルを飲んだ方が美味しいと思います。

Value:一昔前までブッカーズは日本では5000円程度で買えていました。アメリカでも安いと40ドル~大体50ドル程度で買えていたようです。しかし、2016年になるとビームはブッカーズの価格を約二倍にする計画を立てました。ビーム広報が出した2016年暮れのアナウンスによれば、「希少性と高品質、そして生産基準を犠牲にすることなく供給を維持する必要」から価格を引き上げることにした、と言うのです。と同時に年間6〜7バッチから4バッチに減産し、バッチサイズは従来通り約350バレルのままです。それは利用可能なボトルの数が約3分の1に縮小することを意味します。これにより日本への割り当ても少なくなり、例の「終売騒動」に繋がったのでしょう。今後はどうなるか判りませんが、値上げは時間をかけて段階的に実行されるようで、今のところアメリカ国内では約70~75ドル程度、日本でも希望小売価格はその程度の値段付けとなっています。
現在の産業全体のバーボン高需要からすれば、確かにビーム広報の言葉も本当ではあるでしょう。しかし、穿った見方をすると、NDPのややもするといかがわしいバーボンがブッカーズの2倍の希望小売価格だったり、他のスーパー・プレミアム・クラス・バーボンがその価格帯で販売されている状況に、ビームの上層部はイライラしていたのではないでしょうか。言うなれば、ヴァン・ウィンクルやバッファロートレース・アンティーク・コレクションのような存在にブッカーズをするべきと考えたのではないかと。2016年発売のブッカーズ・ライが300ドルでも即座に売り切れたという事実が彼らにアイデアを与えた可能性があると、バーボン・ライターからも示唆されています。
当たり前の話、どんな企業も停滞より成長を望みます。熟成期間を経なければ販売できないウィスキービジネスにとって、急な需要増は対応に苦慮する危機であると同時にチャンスでもあり、賢明なプレイヤーなら、価格を上昇させて需要を少し抑えながらも利益を増やすことでしょう。できれば、更なる需要の成長と顧客のロイヤルティを損なわずに。それは理解できるにしても小売価格を2倍はクレイジーです…。
日本の状況を見て下さい。2019年バッチが7月に発売されると、おそらく適正価格で販売する店舗や通販サイトからは瞬く間に消えたと思われます。しかし、どうも転売ヤーなる「職業」があるらしく、オークションにはそれなりに豊富なタマ数で出品はされています。落札相場は概ね10000~12000円程度で、図らずもビームの希望通りの金額と言っていいでしょう。また、メーカー希望小売価格より強気の価格設定をする店舗も、概ね10000円程度での販売価格のようです。仮に定価が7500円とするならば、手に入りにくい物への対価としては、まあ妥当な落札価格や販売価格なのかも知れません。しかし、味や品質面から言ったらノブクリーク・シングルバレルが5000円の時、ブッカーズを倍額で買う価値があるかと問われたら、個人的には「No」ですね。私なら迷わずノブクリーク・シングルバレルを2本買います。もちろんフレイヴァー・プロファイルは違いますし、ブッカーズの方が美味しいかも知れません。いや、美味しい。それに、有り難みもある。しかし、それでも5000円VS10000円は検討に値するエコノミクスです(***)。


*日本語ではブッカー・ノーの「Noe」を「ノォ」または「ノウ」あるいは「ノエ」と表記する習慣が見られます。実際の発音は「イエス、ノー」の「No」と同じなのですが、おそらく女優のユマ・サーマンの実際の発音が「ウマ・サーマン」に近いのに、日本語で「馬」を連想させるため「ユマ」と表記するようになったのと同じ発想で、拒否の「No」を連想させないような配慮からそう表記しているのだと思われます。しかし、当ブログでは「ノー」を採用しています。これでも特に問題ないと思うので。

**他にもビームはフランクフォートにナショナル・ディスティラーズから引き継いだ元々オールドグランダッドを造っていた蒸留所を所有していますが、ここでは現在蒸留は行われていません(熟成庫とボトリング施設はあります)。またクレアモント・プラントとボストン・プラントのDSPナンバーは同じ230です。施設が違うのに同じ番号なのは、おそらくDSPナンバーは施設や土地に付けられるのではなく蒸留器に付けられる番号だからだと思います。そこから察するに、クレアモントとボストンは、規模は違ったとしてもほぼ同じ生産設備を備えている、つまり蒸留される物は同じものだと仮定されているでしょう。それでも多少の造り分けはされているようで、一説にはボストンでは殆どがジムビーム・ホワイトラベルになる物を生産し、その他のブランドの原酒はクレアモントでの生産だと言われています。ちなみにボストンにはボトリング施設はなく、そのせいかジムビーム系バーボンのラベルには大概クレアモント(もしくはフランクフォート)の記載しかありません。

***私を含む大概の消費者は、価格は品質に等しいと信じる「価格の心理学」に囚われがちです。そのことは忘れずにいたいもの。

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