カテゴリ: ライウィスキー

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リッテンハウス・ライは現在ヘヴンヒル蒸留所で生産されるお財布に優しいライウィスキーです。安い上にボトルド・イン・ボンド(Bottled-in-Bond)規格なのが人気のポイント。ヘヴンヒル蒸留所は業界で最も多くのBiBのウィスキーをリリースする会社であり、そのライウィスキー版があるのは驚きではありません。同社のBiBの例としては、旗艦ブランドであるエヴァンウィリアムスの白ラベルや10年熟成シングルバレルのヘンリーマッケンナ、おそらく地域限定供給のJWダントやJTSブラウン、社名そのままのヘヴンヒルやコーンウィスキーのメロウコーン等があります。昨今人気爆発中(*)のライウィスキー市場にあっても、実はBiBを名乗るライはそれほど多くはなく、パッと思い付くのは価格がほぼ3倍もするEHテイラー・ライぐらいでしょうか。それゆえ安価かつBiBのリッテンハウスは貴重な存在と言えなくもない。「ボトルド・イン・ボンド」法は1897年に成立した政府による消費者保護法であり、当時としては本物の品質の証しでした。BiBのラベルを付けるには、単一の蒸留所の同じ蒸留器による単一の蒸留シーズンの製品であり、政府監督下の連邦保税倉庫で最低4年間熟成し、最低50%のABVで瓶詰めされ、更に生産施設とボトリング施設が異なる場合は両方のDSPナンバーがラベルに記されている必要があります。

リッテンハウス・ライは、現在では法定下限である51%のライ麦を使ったケンタッキーに典型的なスタイルのマッシュビル(**)から造られていますが、もともとはペンシルヴェニアにルーツをもったライウィスキーのブランドでした。その歴史は豊かで興味深く、ライウィスキー自体の歴史とも重なります。

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バーボンがアメリカのネイティヴ・スピリットと認定される以前、ライウィスキーは元祖アメリカンウィスキーと言える立場にありました。18世紀アメリカ北東部の初期開拓地では、気候の変動に生き残ることが出来て成長サイクルの短い丈夫な穀物のライ麦が広く栽培されていました。初期のアメリカの農家の多くは小麦やトウモロコシの収穫に失敗した場合に備え、バックアップとしてライ麦を栽培していたと言います。ライ麦が過剰にある場合、自然と蒸留に繋がりました。18世紀後半には、ほぼ全てのアメリカの農場には小さな蒸留器があり、余剰穀物をアルコールに転換することは経済的価値を維持する重要な方法だったのです。そうしないと害虫やカビ、または天候により余剰穀物の価値がすぐに下落してしまうからでした。

禁酒法以前はケンタッキーを含む他の州でもライウィスキーは造られていましたが、歴史的にペンシルヴェニアとメリーランドという二つの州がライウィスキーの産地として名高く、主要なスタイルを持っていました。一方のペンシルヴェニア・ライは、ペンシルヴェニア州西部のモノンガヒーラ渓谷に端を発する80〜100%のライ麦で構成される高いライ麦率のマッシュビルであったと伝えられています。このスタイルはモノンガヒーラ・ライ、或いは単にモノンガヒーラと呼ばれていました。もう一方のメリーランド・ライは、通常トウモロコシが約30〜35%含まれ、ライ麦は65〜70%のマッシュビルであったと推測されています。具体的には、ペンシルヴェニア・ライはスパイシーなプロファイルが強く、メリーランド・ライはより丸みのある甘味と草のようなノートを持つ傾向があったとか。初期の入植者逹はすぐにライ麦がユニークな性格のウィスキーを造ったことに気付き、産地の特産品的な意味でライウィスキーはこの地域に根付いて行ったのでしょう。

1791年に米国議会はアルコールに対する国の最初の物品税を可決します。それはウィスキー税と呼ばれ、ガロンあたり9セントに設定されていました。反骨心のある農民蒸留家は、連邦政府とウィスキー税から逃れるため、自らのスティルとマッシュビルを携え、アパラチア山脈を越えて行きます。逃れた先の中西部ではトウモロコシが豊富でした。そこで造られたライウィスキーはメリーランド州のマッシュビルに倣ったコーンを含むマッシュビルだったと見られます。そして時の経過と共にマッシュビルのトウモロコシは増加し、後にバーボンとなるスタイルのスピリットが生まれた、と。1810年頃までにケンタッキー州だけで2000を超える蒸留所が操業していたと言います。バーボンは通常オハイオ・リヴァーから出荷されミシシッピ・リヴァーを下っている間に自然と熟成し、琥珀に色づいた美しい飲料は南部で最も一般的になって行きました。独自の熟成を施した両方のスタイルのライウィスキーも北東部で生産され続け、19世紀を通じて需要と販売は引き続き堅調であり、1920年まではライがアメリカで最も人気のあるウィスキーであり続けました。しかし、禁酒法の時代がやって来ます。

禁酒法によるアメリカのアルコール禁止はライウィスキーの息の根をほぼ止めました。国内のライウィスキー蒸留所の多くは閉鎖され、決して再開することはありませんでした。有能なビジネスマンが率いたケンタッキー州のバーボン製造業者は何らかの形で禁酒法時代を生き延び、1933年に修正第18条が廃止された時、バーボンはアメリカンウィスキーの王者の座に就きます。ライウィスキーは殆ど忘れ去られてしまったかのようでした。それでも、禁酒法解禁は蒸留業者に水門を開き、幾つかの企業はライウィスキーの製造を再開します。そのうちの一つがペンシルヴェニア州フィラデルフィアのコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションでした。

コンチネンタルはコネチカット州ウェスト・グリニッジにオフィスを構えるパブリカー・インダストリーズの子会社です。当初の目的は近い将来1日あたり最大20000ケースの酒を製造できる一枚岩の蒸留所を建設することでした。蒸留業は常にアルコール飲料を造るとは限りません。パブリカーの主な事業は工業用化学プラントの運営にありました。パブリカー・インダストリーズは、野心的なウクライナ移民のハリー・パブリカーによる発案で始まります。1912年頃、彼はフィラデルフィアのあらゆる小規模蒸留所に行き使用済みのウィスキー樽を手に入れ、そこからウィスキー残渣をスティーミングして「発汗」させて、工業用アルコールとして販売することでアルコール業界に参入。1913年に約8〜16人の従業員でパブリカー・コマーシャル・アルコール・カンパニーを設立すると、デラウェア・ウォーター・フロントのビグラー・ストリートとパッカー・アヴェニューの間に蒸留所を建設し運営しました。詩人の名から付けられた後のウォルト・ウィットマン橋のすぐ近くです。

ハリーの工場は第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)で米国政府へのアルコール製品の販売を都合しました。そして禁酒法は工業用アルコールの生産を禁止しなかったため、禁酒法期間中、パブリカーは非飲料用アルコールと工業用化学製品の生産に集中することで非常に繁栄しました。20年代前半には、ジャガイモ、糖蜜​​、トウモロコシなど様々な穀物を発酵し、年間600万ガロンの工業用アルコールへと蒸留していたと言います。同社はそこから生産能力を年間6000万ガロンにまで増強しました。禁酒法の終了時には、当時制定された連邦規制により工業用アルコールの総生産量は7050万ガロンに制限され、そのうちパブリカーが17%を生産していたとか。第二次世界大戦でも政府がアルコール製品を購入したため、パブリカーは新たなる高みに達し、期間中に生産はピークを迎えます。1946年にパブリカーの年間収益は3億5500万ドル、従業員は5000人を数えたそう。1950年代半ばまでに40エーカーの工場は、溶剤、洗浄剤、不凍液、変性アルコール酢酸ブチル、酢酸エチル、アセトン、ドライアイス、液体二酸化炭素、専用溶剤、精製されたフーゼル油などの製品に特化した世界最大の蒸留所の一つに発展しました。

プロヒビションが撤廃された時、その規模と近代テクノロジーを応用して飲料用スピリッツの生産を開始するのは自然なことだったのでしょう(***)。パブリカーは1933年8月、コンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションを設立し、スナイダー・ストリートとスワンソン・アヴェニューの角の数ブロック北にある小さな蒸留所を改造するために、今日の2700万ドル以上を費やします。南フィラデルフィアの川に面した地区にあるパブリカーの二つの工場の一つでした。日産90000ガロンの生産能力は当時のハイラム・ウォーカーのピオリア工場より僅かに少ない程度だったと言います。同社を立ち上げた1933年半ばから1934年にかけて、ハリー・パブリカーと彼の一人娘ヘレンと結婚していた義理の息子サイモン・ニューマン(通称シー・ニューマン)は、飲料用スピリッツの名前を選んでブランドを作成するセッションを行い、その後ディスティリング・エンジニアと一緒にウィスキー・プロファイルと製品のマッシュビルを造り上げました。
1933年11月22日に最初のブランドであり、コンチネンタルの役員であるマークス博士とその妻ミリアムによって提案された「チャーター・オーク」の商標(****)をバーボン、ライ、ラム、ジン、ブランディ等で使用するために申請し、1934年3月13日に登録が発行されました。その他のブランドには「フィラデルフィア」、「ディプロマット」、「コブス・クリーク」、「エンバシー・クラブ・ウィスキー」等があったようです。
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(Time Magazine May 21 1956)

コンチネンタルの三大バーボンと言えば、先のチャーター・オークと「ハラーズ」と「オールド・ヒッコリー」でしょう。その他にも「リンフィールド」や「キーストーン・ステート・ライウィスキー」、そして「リッテンハウス」がありました。
コンチネンタル工場(PA-1)は、ブレンデッドウィスキーやその他の蒸留酒の製造に特に適していましたが、ストレートウィスキーも製造されていたようです。またコンチネンタルはもう一つ、高級な熟成ウィスキー用?として、フィラデルフィアから北東約35マイルほど離れたリンフィールドのスクールキル・リヴァー沿いにあるキンジー蒸留所(PA-10、PA-12)を所有していました。

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キンジー蒸留所は禁酒法が終了してから1980年代半ばまでコンチネンタルによって運営されていました。コンチネンタルはこの施設をキンジー蒸留所と呼びましたが、禁酒法以前はアンジェロ・マイヤーズ蒸留所、またはリンフィールド蒸留所としても知られています。後に一般的にはリンフィールド・インダストリアル・パークと呼ばれることになるサイトにありました。この蒸留所を語るには、創設者ジェイコブ・G・キンジーの他に、アンジェロ・マイヤーズにも触れておかなくてはなりません。

アンジェロ・マイヤーズには父と息子の二人のアンジェロがおり、彼らは40年間フィラデルフィアと全米でウィスキーを販売してその名声を高めました。当初はレクティファイヤー、その後本当のディスティラーとなり、精力的なマーチャンダイジングを通じて幅広い酒類ブランドを広めたそうです。アンジェロ・マイヤーズは1844年にドイツで産まれ、正確な日付は不明ですが、アメリカへと渡り、兄弟のヘンリーとフィラデルフィアに定住しました。1874年頃、二人はウィスキー配給会社として「A&H Myers」を設立します。彼らの主力ブランドは、街を流れる川にちなんだスクールキル・ウィスキーでした。
1880年代に兄弟のビジネスはかなり繁盛していたようです。しかし、1892年には何かが起こり、兄弟のパートナーシップは終わりを告げ、ヘンリーは別の会社を立ち上げました。残ったアンジェロの会社には、「アードモア」、「ボーモント・ジン」、「インデペンデンス・ホール」、「マイヤーズ・ピュア・モルト」、「ネシャミニー・ライ」、「オーガソープ・クラブ」、「オールド・バレル」、「オールド・スクールキル・チョイス・ライ」、「ペングリン」、「W.W.W. ライ」など数多くのブランドがあったようです。同じ頃、アンジェロは他の著名なフィラデルフィアの卸売業者と協力して、ペンシルヴェニア州バックス郡に蒸留所を建設します。またアンジェロは1890年代後半にはリンフィールドの蒸留所とも関連をもちました。
その蒸留所は酪農家のジェイコブ・G・キンジーによって設立されました。ジェイコブは1858年3月13日にペンシルヴェニア州ロウワー・サルフォードで生まれ、学校の教師として働き出し、まだ若い頃に酪農業界へと参入します。彼は三十代前半までに三つの酪農場を所有していましたが、1891年にそれらを売却し、蒸留所と2000バレル容量の倉庫を建設しました。アンジェロとジェイコブは蒸留所の建設に取り組み始めてから約1年ほどで友人になったと言います。一説にはジェイコブには蒸留の経験が全くなかったとされ、彼と農場の元従業員逹は友人であったアンジェロの特別なウィスキー知識を頼ったのかも知れません。約8年ほど後、ジェイコブは自分の製品を販売できるようにするために名のある人が必要だと考えました。アンジェロ・マイヤーズにはフィラデルフィアやボストンをはじめ高級ウィスキーの大きな市場であるニューヨークにも多くのコネがありました。ジェイコブはとても賢く、当時のアンジェロ・マイヤーズの知名度を知っていたので、彼と組むことが自分のウィスキーを市場に出して知名度を上げる方法だと思ったのです。ジェイコブはアンジェロと話し合い、蒸留所にアンジェロ・マイヤーズの名を付けることを決めます。一方のアンジェロは友人の製品が非常に優れていると考え、ブランドが足場を得るまでの間、プラントの運営とキンジーのマーケティングをすることにしました。彼らは良き友であり、お互いを信頼していました。おそらくジェイコブは、アンジェロに蒸留所の運営の一部を任せながら、自分は製品造りに精を出せる方法を模索したのでしょう。ジェイコブはマスター・ディスティラーとして一つの目標を念頭に置いていました。それは出来る限り最高のウィスキーを造ること。そうして製造された酒はキンジー・ウィスキーと名付けられ、マイヤーズ社の新しい旗艦ブランドとなって行きます。
1905年2月、「Angelo Myers Distillery Inc.」は資本金50000ドルで設立されました。権利関係はよく分かりませんが、アンジェロはキンジー蒸留所の所有権をもっていた可能性もありそうです。アンジェロは息子のアンジェロ・Jをリンフィールドに派遣していました。父からリカー・ビジネスを学んでいたアンジェロ・Jはキンジー蒸留所の日々の運営を行っていたとされます。若きアンジェロの管理下で、キンジー蒸留所は急速に発展し、倉庫の容量は2000バレルから20000バレルに段々と増加、更にキンジー・ウィスキーはニューオリンズとテキサス州サンアントニオでの博覧会で金メダルを獲得したのだとか。1907年、父のアンジェロは亡くなり、アンジェロ・Jが会社の社長になりました。彼のリーダーシップの下、同社は引き続き成功を収め、キンジー・ウィスキーは広くアメリカ中に流通するようになったと言います。彼らが販売した全ての木製ケースには、アンジェロ・マイヤーズ蒸留所とキンジー蒸留所の名前がありました。また、キンジー・ブランドの広告として作成された魅力的な絵画もありました。そうした絵画は19世紀から20世紀初頭に普及したプロモーション・ツールで、その印刷物はサルーンや酒類小売業者が利用できました。
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更に、女性がウィスキー取引にほぼ参与してない時代にあって、1910年の役員をリストした会社のレターヘッドには、珍しいことに二人の女性の名が含まれていたそうです。進歩的な会社だったのでしょうか。アンジェロ・Jは他の事業も手掛けていたようで、酒類会社の社長には叔父(多分)が就任し、彼は副社長に降りたようです。1918年頃、商号は「Angelo Myers Distilling Co., Inc.」に変更されました。それから少し後、禁酒法の訪れによりアンジェロ・マイヤーズとキンジー施設での全ての活動は中止されました。1923年、原因は分かりませんが、アンジェロ・Jは38歳という若さでこの世を去ります。
ジェイコブは勤勉な男だったのか、禁酒法期間中、ビールの醸造を学ぶためにドイツに行っていたそうです。アンジェロ・マイヤーズの助けを借りて順調に推移したキンジー・ライは、禁酒法が施行される数年前には本当に人気を博すようになっていました。1933年に禁酒法が終わると、ジェイコブは殆どの人が引退したいと思う75歳で、その復活を目指してキンジー蒸留所を再開します。彼は先ずキンジー・ストレート・ライを造り、またリンフィールド・ブランドをスタートさせました(「リンフィールド」は初めストレート・ライウィスキー、後にコンチネンタルがバーボンに変更)。伝えられるところでは、ジェイコブはできる限りピュア・ライを入れたかったとされ、初期の殆どのボトリングはライ麦率約81%(残りは多分モルト)であったと見られています。ボトラーやディーラーからの圧力によりジェイコブはブレンデッドも造りましたが、彼はストレート・ライウィスキーこそが数あるウィスキーの中で最もフレイヴァーフルであると信じていました。
順調に復活するかと思われた蒸留所は、悲しいことに1939年の秋に破産し、1940年春のサイレント・オークションでコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションに売却されました。コンチネンタルは蒸留所と共にキンジー・ブランドを購入し、ブレンデッド・ウィスキーとして生産と販売を続けました。キンジー・ウィスキーは1940年代には有名だったようで、マンハッタンのビルで誇らしげに宣伝されていました。余談ですが、長年ほとんど忘れ去られた存在となっていたキンジー・ブランドは、近年ではニュー・リバティ・ディスティラリーによって復活しています。
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フィラデルフィアのプラント(DSP-PA-1)のマスター・ディスティラーが誰であるかは判りませんが、1933年秋にキンジー蒸留所が再開した時ジェイコブ・キンジーはマスター・ディスティラーでした。そしてコンチネンタルが蒸留所を購入した後はホレス・ランディスがマスター・ディスティラーを務めます。ホレスは、ジェイコブの結婚相手エドナ・ロングエーカーの姉妹アニーが結婚したヘンリー・ランディスの息子でした。彼は1951年初頭にパブリカーによってキンジーのDSP-PA-10とDSP-PA-12がシャットダウンされるまで蒸留を実行し続け、その後もコンチネンタルに請われて警備員として留まったそう。ちなみにPA-10はバッチ蒸留のポット・スティル、PA-12はコンティニュアス・スティルでした。
コンチネンタルは蒸留所を購入後の1940年代、キンジーのサイトに14の防爆倉庫の建設を開始しました。その倉庫は非常に近代的で大きく、空気を循環させるファンと加熱装置やサーモスタットに防火装置も備わった時代の最先端であり、なんでも一つの倉庫に10万近いバレルを収容できたようです。また当時最強の鋼鉄で作られた防爆倉庫は、戦時中の公式のボム・シェルターだったとか。そして理由は明確ではありませんが、上述したようにリンフィールドでのウィスキー蒸留は1951年に停止され、以後、熟成とボトリングを行う施設となります。1952年、ジェイコブ・G・キンジーは94歳で天寿を全うしました。

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さて、そろそろリッテンハウスについても触れておきましょう。コンチネンタルは1934年に、フィラデルフィアの有名な広場(公園)にちなんで名付けられた「リッテンハウス・スクエア・ライ」を導入しました。そのリッテンハウス・スクエア自体は、フィラデルフィアで最初の製紙会社を設立したドイツ人移民のウィリアム・リッテンハウスの子孫であり、天文学者、時計職人、発明家、および数学者など数々の肩書きをもつデイヴィッド・リッテンハウスから命名されています。元々はサウスウェスト・スクエアと呼ばれていましたが、1825年に名前が変更されました。リッテンハウス・スクエアは、観光客や地元の人々がピクニックや日光浴や散歩をしたり、絵を描いたり本を読んだりとリラックスするのに最適な場所です。
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(19世紀後半のリッテンハウス・スクエアの噴水の眺め)

リッテンハウス・スクエア・ライはデビュー当時、2年熟成だったと言います。はて?禁酒法の廃止は1933年ですから、誰かがこっそり蒸留でもしてたのでしょうか(笑)。それは偖て措き、月日の経過につれリッテンハウスの熟成年数は2年から4年、そして1940年代初期から中期には5年に延びました。
コンチネンタルが製造するウィスキーの初期の成功には、パブリカーの化学者カール・ヘイナー博士が開発した生産技術が少なくとも部分的には関与していたとされます。1934年にフォーチュン誌のライターに説明されたその方法は、オールド・サウスの紳士の皆が知る、ムーンシャインの小樽を川で運んだりストーヴの近くに置いておくとエイジングを促進すると云うあれ、つまり「撹拌、動揺」と「熱」でした。ヘイナー博士は24時間で17年物のウィスキーを製造する方法を考案したと主張したとか…。ちょっと眉唾な方法論のような気はしますが、禁酒法終了直後の数年間は熟成ウィスキーの在庫が殆どなかったため、強力なアドヴァンテージにはなったのでしょう。おそらく既存の在庫が熟成するにつれ段階的に廃止されたと見られ、40年代にはブレンデッド・ウィスキーでのみこれらの技術を使用していた可能性が示唆されています。
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1948年には製品名から「スクエア」は削除され、現在と同じ「リッテンハウス・ライ」となりました。その頃の製品は全てボトルド・イン・ボンド規格を守ったようです。いつの頃からか80プルーフのヴァリエーションもありましたが、いずれにせよリッテンハウスは、コンチネンタルのライの中で比較的高級なラインだったと思われます。1940年代から1951年初頭頃までは、キンジーの古い納屋のようなライ・ビルディング(PA-10)で造られました。その後は多分フィラデルフィアの工場(PA-1)ですかね? それとも他のライ・メイカーから購入していた? ミクターズとか?
ところで初期のリッテンハウスの中身についてなのですが、コンチネンタル時代のオリジナルのマッシュビルは定かではありません。一説には、過去のフィラデルフィア地域のライ・メーカーの多くは、メリーランドの蒸留所と共通点が多かった、との指摘があります。ペンシルヴェニア州の中でも東部に位置するフィラデルフィアは、西部のモノンガヒーラ地域よりも地理的にメリーランドに近いため、なんとなく頷ける説ではあります。また前記のように、かつてジェイコブ・G・キンジーが蒸留所を再開した当時のライウィスキーは80%程度のライ麦率であったようなので、それを考慮するとリッテンハウスのマッシュビルはライ麦60~80%のどこか、或いは時代と共に変遷していることもあるのではないでしょうか。ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりご教示下さい。それと旧いリッテンハウスを飲んだことのある方もご感想を頂けると助かります。では、ここからはリッテンハウスがコンチネンタルの手を離れるまでの経緯を見て行きましょう。

パブリカーはアメリカの会社であることを非常に誇りに思っており、当時の戦争を支援した主要な企業グループの一つでした。第二次世界大戦中、DSP-PA-12は毎日少なくとも2シフト、時には3シフトを実行したとされます。蒸留所を政府用に別目的で利用することから、リッテンハウスは在庫不足という大きな障害に直面しましたが、それでも彼らは地歩を固めビジネスを続けました。しかし、残念なことに戦後もリッテンハウスの闘争は終わったとは言えませんでした。その後の数十年はライウィスキーの人気が大幅に低下したからです。1970年代までにアメリカではクリア・スピリット、特にウォッカの人気が高まり、バーボンの販売量も減少し、ライ麦に至ってはほぼ絶滅しました。ペンシルヴェニア州のオリジナルのライウィスキー製造所の殆どはその歴史に幕を降ろしたのです。そしてパブリカー/コンチネンタルにとっては、1951年に創業者ハリー・パブリカーが亡くなってから会社を率いてきたサイモン・"シー"・ニューマンの死が1976年にありました。

キンジー蒸留所の元従業員デイヴ・ズィーグラーによれば、シー・ニューマンは生まれながらのリーダーであり、先見の明とアイディアを持ち、パブリカー/コンチネンタルを成功へ導いた業界の巨人でした。彼のアイディアは常に大きく、かつそれらを迅速に実行に移したと言います。禁酒法の終了時、それまで工業用アルコールを製造していたパブリカーが、飲料用アルコールを製造するための特別部門を設立したのはニューマンのアイディアでした。それがコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションのそもそもの始まりです。
同社はブレンデッド・スコッチウィスキーのブランドである「Inver House Rare」を1956年に発売しましたが、当時は売り上げを満たすのに十分な在庫がありませんでした。そこでニューマンは捲土重来、インヴァー・ハウス・ディスティラーズを1964年にパブリカー・インダストリーズの子会社として設立し、スコットランドに蒸留所を建設してしまいます。そして、スコッチに再利用するために使い古しのバーボン・バレルをスコットランドへ出荷するというニューマンのアイディアは、今日まで続く一般的な慣行であり、パブリカーはこれを行う許可を政府に求めた最初の会社でした。ちなみにインヴァー・ハウス・スコッチは彼の美しい豪邸から名付けられました。それと、先に触れたホレス・ランディスは63年の引退の後で、懇意のニューマンから個人的にマスター・ディスティラーの経験を買われ、1964年スコットランドへと派遣されてスティルのセットアップを助けたりディスティラーをトレーニングしたそうです。
60年代のパブリカー/コンチネンタルは、裏事情は知りませんが、端から見れば最盛期にあったと言ってよいでしょう。ウィスキーや工業用アルコールの品質はニューマンのリーダーシップから来ました。当時、品質管理は最大の課題であり、同社は四つのラボラトリーを、工業用と飲酒用にフィラデルフィアのDSP-PA-1、その他センター・シティ、リンフィールド、エディストーンそれぞれに持っていました。ケミカル・プラントはフィラデルフィアの他にLAにもありました。また彼らは自らの製樽工場も所有していました。デラウェア郡マーカス・フックにあるクーパレッジはとても大きく、そこにはクーパーを育てる学校もあったと言います。他にもミズーリ州セントルイスに製樽工場を所有。そしてリンフィールドのキンジー・サイトに、1966年に新しく開業したボトリング・ハウスは、当時アメリカ最大規模かつ最も近代的な設備を誇りました。そこでは11のラインを週五日、一日16時間稼働し、2交代制で約450〜500人が働いており、産出能力に優れていたため、週末の勤務や残業時間は必要なかったそうです。そのお陰か、ビグラー・ストリートにあったボトリング施設は後に工業用アルコール専用に転換されました。「1966ボトリング・ハウス」は一日あたり40000本のボトルを処理できる能力があり、シーグラムやその他の蒸留業者のためにも瓶詰めを請け負いました。契約ボトリングを利用する業者の中にはニューマンと知り合いだったメドレー家がいて、彼らも時々ボトリングしてもらっていたようです(後述しますが、そうした「縁」が後のブランド購入に繋がったのでは?)。加えてキンジー蒸留所には、ハッピーハウスとして知られる1933年初頭に建てられたジェイコブ・G・キンジー時代のボトリング・ハウスもあり、そこのフィリップ・シンガー製のボトリング・マシーンはパブリカーがスピリッツの保管と製造および瓶詰めを終了するまで小規模ながら継続的に使用されていたとの話もありました。他にも、競争力を維持しつつ運賃を低く抑えるようボトリング活動を分散化するため、1962年にイリノイ州レモントの工場を改造し、リカー用ボトリング工場として機能するようにしています。そのためコンチネンタル製品のラベルのいくつかは「レモント、イリノイ」の記載がありました。ラベルと言えば、同社は可能な限りローカルな物、つまり地元フィラデルフィアの会社からボトルやラベルを仕入れて、常に最高品質のパッケージを目指したそうです。
シー・ニューマンが生きていた間は、常にウィスキーの品質を高め、あらゆる人にとって手頃な価格を保つための新しいアイディアを探していました。詳しくは分かりませんが、メーカーズマークの46の魁となるような、フローターズと呼ばれる焦げた木片を大きな樽に浮かべる実験?(或いはブレンデッド・ウィスキー用の熟成テクニック?)も行っていたようです。これは彼らが時代の先端を行っていた好例かも知れません。
おそらく、コンチネンタルは業界で「ビッグ・フォー」に次ぐ存在でした。1950年代の会社の販促資料では、ウイスキーを作るための最新の技術的アプローチと最先端の施設の効率を雄弁に誇り、その近代的な熟成倉庫は100万バレルのキャパシティを有すると説明されていました。巨大なストレージ・サイトであるキンジー蒸留所は、当時ワン・スポットでは世界最大の熟成ウィスキーを保管する施設だったのです。キンジーで働く人の総数は1960年代後半に600人に達しました。彼らは常に施設の見栄えにも最善を尽くし、プラントは清潔に保たれ、芝生や花壇は手入れが行き届き、会社で働くことに誇りを感じていました。しかし、どんな栄光も永遠ではありません。1976年のシー・ニューマンの死を契機として、会社はその後急速に崩壊への道を歩みました。先に名前を挙げたデイヴ・ズィーグラーは言います。「彼が死んだ時、会社は死んだ」と。

パブリカーがウィスキーを大量に造ったとしても、それは彼らの運営のほんの一部に過ぎませんでした。大部分の方のケミカル・プラントの運営が悪かったのか、それとも時代の波の影響で蒸留酒の販売が芳しくなかったのか、サイモン・ニューマンが亡くなった時、パブリカーには3900万ドルの借金があったと言います。ビジネスには成功も失敗も付き物ですから、偉大なるリーダーでも何か判断ミスをしたのかも知れません。しかし、彼の最大の不首尾は、彼が後継者への道を開くのを仕損じたことでした。
ビジネスの経験がなかったサイモンの妻ヘレンが会社のトップになると、大きな家族の権力闘争が起こりました。彼女はロバート・レヴェンサールを社長に任命し(1977-1981年CEO)、20歳以上年下であったにも拘わらず、すぐに恋に落ちたのです。ニューマン夫妻の子供たちは、縮小する会社と家族の財産から取り残されることを恐れ、母親とレヴェンサールを訴えて何年か費やしました。
外部の経営者たちが取締役会に進出すると、会社の方向を変えようとし始めました。それはニューマンの死から3年後のことです。どうやら彼らはパブリカーをP&G(プロクター&ギャンブル)のような強大なホーム・ケミカル会社にしたかったらしい。レヴェンサールはアルコール飲料事業の主要資産の処分を決め、1979年にイリノイ州レモントのボトリング施設などと共に酒類ブランドを負債の支払いとケミカル・ボトリングへの資本投資に使用するために売却します。そうすることで会社を浮上させようとしたのですが、パブリカー・インダストリーズの下降スパイラルを止めることは出来ませんでした。同社は1979年秋まではウィスキーを蒸留もし、1981年後半頃まではまだ他社に販売していたと言います。1982年にフィラデルフィア工場は休止されました。キンジー蒸留所は1982年に売却された後、ボトリング・ハウスや幾つかのタンクと倉庫をリース・バックして、そこでアンモニアをベースにした家庭用洗浄剤と不凍液のボトリングに使用されていました。
70年代後半にパブリカーは、空で不使用の巨大なタンクの幾つかを他の会社が燃料油の貯蔵に利用できるようにし始めます。様々な化学会社や燃料会社との契約をしたそうですが、これらの取引はライセンスを常に取得している訳でもなく、環境への影響についても注意を怠っていたようで…。フィラデルフィアのサイトは長年の不適切な管理が環境災害や火災を引き起こし、PADER(ペンシルヴェニア環境資源局)からは数々の違反通知の発行をされ、EPA(米国環境保護局)からは許可なく危険廃棄物施設を運営したとして苦情を申し立てられました。そして1986年秋、会社は事業を中止し、資産は小さなモーテルの価格300万ドルで解体業者であるオーヴァーランド・コーポレーションに売却されました。1986年11月、発火性物質を含むパイプラインを切断中に爆発が起こり、二人の解体作業員が死亡。その後まもなくオーヴァーランド・コーポレーションとその親会社カイヤホガ・レッキング・コーポレーションは破産を宣言し、サイトを放棄しました。かつてウォルト・ウィットマン橋を渡るとパンのようなウィスキーの匂いがすると言われた巨大な複合施設と75年以上に渡ってモンゴメリー郡で最大の雇用主であったリンフィールドの「公園」は廃墟になって行きます。それは或る大企業のアメリカ産業史に於ける最も悲しい物語の一つでした。その後もパブリカーという会社自体は存続したようで、1998年に名前を「PubliCARD」に変更し、スマートカード・ビジネスに参入したそうですが、もはや別物でしょう。

さて、リッテンハウスは上に述べた1979年のブランド売却の時、その他のブランドと共にチャールズ・メドレーに買われました。チャールズはリッテンハウス及びコンチネンタルのブランドの力を評価していたのでしょう。おそらく80年代のリッテンハウスはメドレー蒸留所で生産されました。マッシュビルは不明。後にリリースされるヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ等に使用されたメドレー・ライと熟成年数は違えどマッシュビルは共有するとは思います。ケンタッキー・スタイルの51%に近いライ麦率でしょうか? 実はメドレー時代のリッテンハウスについては殆ど情報がなく、あまり書くことがありません。…あ、一つだけ。日本でリッテンハウス・ライをネットで検索すると出てくる紹介記事の殆どには「かつてメドレー社が製造していた銘柄」と紹介されています。確かにそれは事実であり間違ってはいないのですが、その歴史の中でメドレー産だった期間は割りと短く、ここまで読んで分かる通り、寧ろ歴史的にリッテンハウスはコンチネンタルのブランドでした。おそらく輸入元の資料か何かをコピペした結果ではないかと思いますが、誤解を招きかねない表現には注意が必要です。それでは次にヘヴンヒルがブランド権を手にし、現在に至るまでを見て行きましょう。

アメリカン・ウィスキーの製造に携わる会社にとって80年代後半から90年代は激動の期間でした。まるで自然界の食物連鎖のように、大きい会社が小さい会社を飲み込んで、業界の再編が行われたのです。リッテンハウスもその動きに翻弄されて目まぐるしく推移しました。メドレーは1988年にグレンモアに買収され、そのグレンモアも1991年にギネス(ユナイテッド・ディスティラーズ)によって買収されました。そして1993年の春、ヘヴンヒルは約70のブランドをユナイテッドから取得し、その中にリッテンハウスは含まれていました。
次々と所有権は移り変わったリッテンハウスですが、メドレー蒸留所はグレンモア傘下になっても蒸留を続け(実際チャールズ・メドレーがマスター・ディスティラーでした)、グレンモアにウィスキーを供給していたと見られるので、ユナイテッドによって1992年にメドレー蒸留所が閉鎖されるまではリッテンハウスを蒸留していたと思われます。或る方は、1993年のリッテンハウス・ライのボトルは現在の物とは全く異なり、より甘く円やかで、ラベルにはオーウェンズボロと書かれている、と述べていました。もし、ブランドの推移と共にストックも購入されていたのなら、最大で1996年頃まではメドレー原酒の可能性もあるのかも。言うまでもなく、これはただの憶測です。

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ヘヴンヒルはブランド取得後、おそらく僅かな期間は旧来と同じダイヤモンド・ラベルを使用していたと思われます。その後ラベルは安っぽいデザインにリニューアルされました。ライトな80プルーフと伝統のボトルド・イン・ボンドがあります。長年、ヘヴンヒルはライウィスキーの蒸留を一年に一日(もしくは三日か四日)しか費やしていませんでした。それは、まだこの頃はライウィスキーの人気はあまりなく、ライの「本場」ペンシルヴェニアでもなければメリーランドでもないケンタッキーで絶滅の危機から救われた「希少品種」に過ぎなかったからです。しかし、年に一度だけでも蒸留されたことで、ライウィスキーは命脈を保ち生き続けました。
ヘヴンヒルがリッテンハウスを製造するようになって数年で思いがけない災難が勃発します。バーボニアンにはよく知られるアメリカン・ウィスキー史上でも最大級の火災が発生したのです。1996年11月9日の落雷が原因と見られるその火事によりバーズタウンのヘヴンヒル蒸留所は焼失し、9万バレル以上ものウィスキーが失われました。そこで暫くの間、ヘヴンヒルは他の蒸留会社(仲間)を頼らざるを得なくなります。おそらく一年ほどはジムビームが蒸留を代行し、その後はブラウン=フォーマンによって契約蒸留がなされました。1999年にヘヴンヒルはルイヴィルのバーンハイム蒸留所をディアジオから購入し、蒸留を再開するのですが、この契約は2008年まで続き、この間ヘブンヒルのライウィスキーは全てブラウン=フォーマンのアーリータイムズ・プラントで製造されています。ボトルド・イン・ボンド法ではラベルに蒸留施設の明示が義務付けられているため、ブラウン=フォーマン産の物には「DSP-KY-354」、バーンハイム産の物には「DSP-KY-1」とあり、おそらくこの切り替えは2013年頃を境としているでしょう。
新しい蒸留所でライウィスキーを蒸留し熟成させ、十分な量を確保したヘヴンヒルは再び自らの蒸留物を販売し始めた訳ですが、この移行期間中にもライウィスキーの人気はジワジワと上がり続け、クラフト・カクテルのムーヴメントも手伝って高い需要がありました。分けてもリッテンハウスは多くのミクスト・ドリンクのレシピに最適であったことから、一時的に店頭で見つけるのが困難だったようです。こうしたブームへの便乗?が主な理由だと思われますが、多分2014年頃、ラベルはオリジナルのリッテンハウス・スクエア・ライに敬意を表して「ダイヤモンド」に戻されました。そう、旧来の物にしろ現行の物にしろあのダイヤ形に見えるデザインは実際には「スクエア」なのです。その後はクラフト蒸留所のブームとも相俟ってライウィスキーは完全なるリヴァイヴァルを遂げました。ヘヴンヒルでは以前に年一度だけの蒸留だったライウィスキーも今では毎月蒸留され、リッテンハウスはその驚くべき価格のお陰でこれまで以上の人気を博しています。

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最後に別枠として特別なリッテンハウスについても触れておきます。ヘヴンヒルは2006年から2009年に掛けて、それぞれ21年、23年、25年という超長期熟成された「Rittenhouse Very Rare Collection」を数量限定で特別リリースしました。背の高いゴールド・プリントのボトルがバルサ材の箱に入った豪華なパッケージで、100プルーフ、シングルバレル、ノンチルフィルタードの仕様。750mlで各々150、170、190ドルの希望小売価格でした。中身のウィスキーは1984年10月に造られたライのバッチからの物で、それらは全てリックハウスOOの最も下の階で熟成されていました。ヘヴンヒルのマスター・ディスティラーだったパーカー・ビームによれば、低層階は高層階よりも温度が低いため長期間の熟成が出来たそうです。
これら上位クラスのリッテンハウスが誕生した背景には、なかなか興味深い偶然の物語がありました。ヘブンヒルが製造するライウィスキーには、リッテンハウスの他にもう一つパイクスヴィルがあります。ここではパイクスヴィルの歴史について詳しくは紹介しませんが、簡単に言うとリッテンハウスと同じような運命を辿った元はメリーランドのライウィスキー・ブランドです。ヘヴンヒルは伝統あるそのブランドを1982年にスタンダード・ディスティラーズから購入し発売していました。それ以前からもヘヴンヒルはライウィスキーを蒸留し、どこかへ供給していたかも知れません。それはともかく、84年に蒸留された95バレルのロットのライは、同社の顧客向けのプライヴェート・ラベルになるか、或いはそれ用のパイクスヴィルになる筈の物でした。リッテンハウスの購入は93年、つまり当初からリッテンハウス20+を造るつもりは一切なかったのです。ヘヴンヒルは顧客のためにウィスキーを熟成させていましたが、それは製品化されることなく眠り続け、意図した熟成年数を遥かに超えてしまいました。そのライが21年という珍しい年数に近づいた時、ヘヴンヒルはウィスキーのオーナーに買い戻しを申し出ると了承され、そこで2006年に偶然の産物はリッテンハウスの非常にレアなコレクションとして世に送り出されたのです。
ちなみに、リッテンハウスの長期熟成ヴァージョンはヘヴンヒルが初めてリリースしたのではありませんでした。実はコンチネンタルから、60年代もしくは70年代と思われますが、20年熟成のリッテンハウスが発売されています。ラベルにはリンフィールドとありますね。詳細はまるっきり分かりません。途轍もなくレアなのは間違いないでしょうが。
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さて、それではようやくテイスティングと参りましょう。基本情報としてリッテンハウス・ライは、125プルーフのバレル・エントリー、#3チャー・バレル、倉庫の上層階(上から4階)にて4年熟成、数百樽でのバッチ・サイズとされます。またボトルド・イン・ボンド規格なので、ボトリングのためにバッチ選択したバレルは、春または秋のいずれかに蒸留した同じシーズンの物でなければなりません。

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RITTENHOUSE RYE BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定2014年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。麦茶、グレイン、焦がした砂糖、エタノール、ダーク・ドライフルーツ、菜っ葉。サイレントなアロマ。ジュースを飲み込んだ後に来る刺激はスパイシーではあるがアルコールの辛みの方が強いような…。余韻は引き続き辛みを伴いつつ、微かに白桃と穀物が漂う。
Rating:79.5/100

Thought:開封から暫くは妙に味がないように感じました。しかも香りが開いたのが残量半分を下回ってからなのは痛かったです。おまけに香りが開いたと言ってもそれほど芳醇でもなく…。バーボンよりあっさりした質感にライ麦ぽさを感じるものの、スパイシーと言うよりはただ辛いだけ。もっと言うと近年のヘヴンヒル原酒に感じ易い複雑な香辛料やフルーツを欠いた熟成感という印象。海外のレヴューを参照するとそこそこの高評価だったし、フルーツ・フォワードのライかと期待したのですが、ぶっちゃけ舌の上でフレイヴァーが躍るライではなかったです。私はストレートと一滴加水でしか飲みませんでしたけど、ロックやカクテルにしたらもっと引き立ったのですかね? 飲んだことのある皆さんのご感想コメントよりどしどしお寄せ下さい。

Value:ハイ・プルーフにして安価かつライであるのが魅力で、ラベルのデザインは最高にカッコいいと思います。アメリカでの価格は概ね25ドル程度、日本だと3500円くらいが相場でしょうか。個人的にはもっとフルーティなライが好みなので日本の市場価格は高く感じますが、辛口がお好みの方やバーボニー・ライを求める方にはオススメです。なにより歴史のある銘柄ですしね。

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*2009年から2015年にかけてアメリカのライウィスキーの売り上げは662%(!)も増加したと云います。それはまるで一瞬の出来事のようでした。大企業傘下の蒸留所であれ小規模なクラフト蒸留所であれNDP(非蒸留業者)であれ、こぞってライウィスキー市場へ参戦し、その銘柄は次々と増え続けています。

**リッテンハウスと言うかヘヴンヒルのライ・マッシュビルに関しては、「51%ライ / 39%コーン / 10%モルテッドバーリー」と「51%ライ / 37%コーン / 12%モルテッドバーリー」の二説がありました。どちらが正しいか判りませんが、ライ麦率が51%なのは確かなようです。

***一説には第一次世界対戦の頃から飲料用アルコールも製造していたとされます。ですが、事業として乗り出したのは禁酒法解禁後なのでしょう。

****チャーター・オークは、ケンタッキー州のバーンハイム蒸留所や後の親会社シェンリーから、その名前が「オールド・チャーター」に近いものであるとして、長年続く訴訟を提起されました。1959年5月頃には最終的に解決され、コンチネンタルはチャーター・オークのブランドを継続することが出来たようです。
現在オールド・チャーターを所有するのはサゼラック社ですが、近年では傘下のバッファロートレース蒸留所から「オールド・チャーター・オーク」というやや実験的なオーク材を用いたシリーズがリリースされています。チャーター・オークの商標はどうなっているんでしょうね?
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バッファロートレース蒸留所の造るライウィスキー、サゼラック・ライ。その名称はニューオリンズのコーヒーハウス(バー)、延いてはバッファロートレースの親会社サゼラック・カンパニー、及び神話的なクラシック・カクテルの名前から付けられています。同社が年次リリースするバッファロートレース・アンティーク・コレクション(BTAC)に有名な兄(父)の「サゼラック18」があるため、通称「ベイビーサズ」と呼ばれたり、或いは熟成年数がNASながら実際には6年とされていることから「サゼラック6」と表記されることも。ちなみにBTACにはサゼラック・ライのバレルプルーフ・ヴァージョンとも言えそうな「トーマス・H・ハンディ」もあります。
ベイビーサズで使われるレシピは公表されていませんが、噂では51%ライ/39%コーン/10%モルトとされ、だとすると典型的なケンタッキー・スタイル・ライウィスキーのマッシュビルです。ところで、このウィスキーはBTACのサゼラックと同じ名前を共有するものの、現在のサゼラック18年は今のところまだバッファロートレースによって蒸留されたジュースではありません。初期の物はメドレー・ライと目され、後の物はバーンハイム、または過渡期にはそれらをヴァッティングした物である可能性も考えられます。バッファロートレースは、サゼラック18年を熟成が進まないようステンレスタンクに容れ何年も保持し、それをリリースしているのです。

多くの人が「サゼラック」と聞いて思い浮かべるのは、このライウィスキーでもサゼラック・カンパニーでもなく、大抵はカクテルのことだと思います。サゼラックはアメリカ初のカクテルであるとか、最古のカクテルであると言われることがあり、カクテルの歴史の中でも伝説的な扱いを受けていますから。ベイビーサズの発売初年度を調べていて、結局は特定できなかったのですが、その途中「サゼラックライ6は2000年にサゼラックの公式酒になった」との情報を目にしました。そうなるとベイビーサズは2000年から発売されているのかも知れません。発売年は措いて、とにかく今ではサゼラックに欠かせないのがライウィスキーとなっています。しかし、それは比較的最近の歴史です。その発祥の頃はサゼラックという名前のフランスのブランディが使われていました。現在のサゼラックは大雑把に言うとライウィスキー、角砂糖、ビターズ、アブサン、レモンが使われるのが標準的なカクテルです。
殆どの偉大な伝説は真実がしばしば噂と伝聞の背後に隠れよく見えません。そして、隠れてよく見えないからこそ人は惹きつけられ、ますますそれについて語りたくなります。そこで、今回レビューするサゼラック・ライ自体からはやや離れてしまいますが、せっかくなのでサゼラックの謎めいた起源と魅力的な歴史に少し触れたいと思います。

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(Wikimedia Commonsより)

世界中のバーテンダーの間で情熱的に挑戦されるカクテル、サゼラック。これほどニューオリンズに関連するカクテルはありません。そしてまた、これほど広範な説明を要するカクテルもなかなかないでしょう。その物語はアントワン・アメディ・ペイショーという男と彼自身のビターズから始めるのが適切なようです。なぜなら、ベースとなる蒸留酒の変更やアブサンとレモンはある時もない時もありましたが、ペイショーのビターズなくしてはサゼラックの誕生はなかったように思われるからです。

1803年、ルイジアナ買収(アメリカ視点の言い方)として知られる出来事がありました。南はニューオリンズから北はカナダまで伸びるアメリカ中西部全域、今のアメリカ全体の3分の1にも当たる土地は、当時ナポレオン・ボナパルト執政下のフランスの領土でした。フランスの君主であるルイ14世にちなんでルイジアナと名付けられたこの土地は、新しいナポレオン・アメリカの「夢」の一部でした。しかし、大陸での戦費の補填と政治的理由からルイジアナの土地とその首都ヌーヴェル=オルレアン(後のニューオリンズ)は、ナポレオンによって「若きアメリカ」に破格の1500万ドルで売られたのです。
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(緑の部分がアメリカへ売却されたフランス領ルイジアナ、Wikimedia Commonsより)

このルイジアナ売却(フランス視点の言い方)には、黒人奴隷労働による砂糖プランテーションがフランス経済を支えていたエスパニョーラ島の西側約3分の1を占めるフランス領サン=ドマングの奴隷反乱の影響もあったでしょう。1697年からフランス領になっていたサン=ドマングは、フランス革命に刺激されて黒人奴隷の反乱が起き、1804年1月1日を以てハイチ共和国として独立を宣言、ラテンアメリカ地域では最初の独立国家となりました。フランスも1825年には承認しています。革命の結果、多数のフランス植民者がアメリカ大陸全体に移動し、暴動と経済崩壊を免れました。1809年までに一万人近くのフランス人難民がハイチからニューオリンズに迫害を逃れたそうで、その数は1年で都市の人口をほぼ倍増させ、今日まで続くニューオリンズ独特の文化を醸成させる要因の一つとなります。3年後の1812年、ルイジアナはアメリカ合衆国の公式州となりました。

この期間のある時点で、アントワン・アメディ・ペイショーもサン=ドマング難民の大衆と共にニューオリンズに逃れて来た一人でした。「ある時点で」と言ったのは、ニューオリンズへの到着時期が特定できないからです。一説には、奴隷による暴動と反抗が勃発した後、ボルドー出身の裕福な父親がコーヒー農園を所有していたサン=ドマング島から逃げることを余儀なくされ、1795年にニューオリンズに難民として到着した、とする情報もありました。しかし、ペイショーは1883年6月30日に80歳で亡くなったと死亡証明書に記録されているようです。そこから彼の生年は1803年頃と推定しているウェブ記事が多く、この人物がビターズのペイショーで間違いないのであれば、1795年にはまだ産まれてないことになります。
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(Wikimedia Commonsより)

不明確な到着時期は脇に措き、成長して薬剤師となったペイショーは、歴史的な影響力を持つことになるビターズを生み出しました。それは今日アメリカで2番目に売れているビターズであり、世界のトップ・カクテル・バーに欠かせない材料です。ニューオリンズ薬局博物館によると、ペイショーは1841年(もしくは1834年や1838年という説もあった)、フレンチクォーターの437ロイヤル・ストリートにファーマシー・ペイショーと呼ばれる自らの薬局を開設し、そこで特許を受けたペイショーズ・ビターズという名前のアニシードとリンドウの豊かでハーバルな治療薬を調剤することで有名になったと言います。聞くところでは、アンゴスチュラビターに匹敵するが、より軽いボディ、より甘い味、よりフローラルなビターズだったそう。そのような「アメリカン・アロマティック・ビター・コーディアル」、一口に言えば薬用強壮剤は当時流行しており、多くの同様の製品がありました。ペイショーに先行するビターズで、1712年にイギリスで特許を取得し、初期入植者と共にアメリカに導入されたエリクサーだったと云うストートン・ビターズはそうした一例です。もともとペイショーに匹敵する規模のライバルでしたが、そのレシピを早期に公開するというミスを犯し、多くの模倣品や偽物が市場にリリースされ、19世紀を通しては生き残れなかったのだとか。ストートン・ビターズは現在でも復刻販売されていますが、中身は昔の物とだいぶ違うようです。
では、なぜペイショーズ・ビターズは生き残ったのか。勿論、常にクオリティを保ち続け、ちゃんとに効能もあったのでしょうが、伝説によればペイショーはフリーメイソンだったようで、その社交会を深夜の薬局で開催し、ゲストのために下に述べるブランディ・トディに自分の秘密のビターズを混ぜて提供していたらしいのです。もしかすると、そういう友愛の輪も無関係ではないのかも知れません。取り敢えず、ペイショーの名前が州外で知られるようになるには、新しい飲酒傾向が出現するまで待たなければなりませんでした。

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(Wikimedia Commonsより)

1840年代(もしくは1830年代後半から)、ペイショーは病気に拘わらず彼のクライアントのために、水、砂糖、フランスのブランディを混ぜた初歩的なトディに特許取得済みのハーブビターを処方し調剤したそうです。それは「コクティ(coquetier)」と呼ばれるフランスの伝統的な卵型のカップで提供され、彼の顧客にとってこのミクスト・ドリンクは容器の名前で知られるようになり、評判を博しました。カクテルの語源を調べると、コクティが「コックテイ」とアメリカ発音に転化して更に「カクテル」になったと云う語源説も、諸説の一つとして大概載っています。これはカクテル誕生秘話として昔は(或いは一部地域では)十分な支持を得ていたようですが、実際には1806年(もしくは1803年とも)のニューヨーク州北部の新聞に「カクテル」という言葉は登場していたそうです。それはともかく、このミクスト・ドリンクは今日の目から見て純粋にカクテルと呼ぶべきものであったでしょう。けれどブランディ・トディにビターズを混ぜた最初の人物がペイショーだった訳ではないようです。ブランディは常に薬効があると信じられていたため、植民地の薬剤師や化学者の間で一般的に使われていました。ビターズも胃薬と強壮剤とされていますから、薬効が信じられていたのは同じです。ある意味この両者をミックスするのはイージーな発想だったのではないでしょうか。実際、上に述べたストートン・ビターズを使ったブランディ・カクテルも1835年頃までには既にあったようです。
恐らくここまでの段階でサゼラックのプロトタイプは出来上がっていました。しかし、現代の我々が知るサゼラックになるにはもう少し階段を昇らねばなりません。先ずその一歩はコーヒーハウスのタイムリーな時代のおかげで実現することになります。

19世紀初頭から中期のアメリカではコーヒーハウスの時代がピークに達し、知的な冗談から政治談義に至る社交の場として機能しました。ここで言うコーヒーハウスは日本の「喫茶店」のイメージよりは、秘密結社やクラブの母体となるような社交場であり、ビジネスの場であり、バーを兼ね備えた施設であったと思われます。初期のアメリカ社会におけるコーヒーハウスの役割は非常に重要であり、1773年12月に起こったアメリカ独立戦争の引き金となったことで有名なボストン茶会事件の策略はグリーン・ドラゴンというコーヒーハウスで練られ、1776年にはフィラデルフィアのマーチャンツ・コーヒーハウスが米国独立宣言を公に発表する最初の場所として選ばれました。1840年までにコーヒーハウスの重要性はそれほど変わりませんでしたが、カクテルやトディ、サワーやパンチの出現は酒の人気を引き継ぎ、殆どバーと言える施設になっていたようです。もしかすると、ニューオリンズはフランス移民が多かったため、自らを洗練されていると考えて、いわゆるバーをサルーンと呼ばずコーヒーハウスと呼んだのかも。

ペイショーの薬用ブランディ・カクテルの評判が高まると、多くの地元のコーヒーハウスは、ペイショーの奇跡的な強壮剤を熱心なパトロンに再現し始め、その飲み物はニューオリンズの街中に広まって行きました。サゼラック・カクテルが確立する前に、重要な役割を果たした人物の一人がここで登場します。ニューオリンズの起業家シーウェル・T・テイラー(1812―1861)です。1840年頃(?)、ペイショーの薬局のすぐ近くにある、15-17ロイヤル・ストリート(13エクスチェインジ・アレイ)にマーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスが設立されました。
「取引所(Exchange)」は、南北戦争前の都市、特にニューオーリンズのような賑やかな重商主義の港の重要な建物でした。名前からしてそこは本質的には人々がビジネスを行うための場所でしたが、集会には他のニーズ(銀行や法律サービス、読書室と研究、宿泊、レクリエーション、娯楽、酒など)があり、取引所は遥かに幅広い要望に対応したそうです。起業家は、旅行者のビジネスマンに対応する様々なアメニティを備えた華麗な多目的かつマルチサービスの「共有スペース」を作成し、そのような取引所は都市の社会的経済的に重要な施設になりました。南北戦争前のニューオリンズにある豪華なホテルの殆どは、多くのコーヒーハウスと同様にエクスチェインジとして名乗りを上げたと言います。

マーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスは、ニューオーリンズで最大のコーヒーハウスの1つであり、すぐに最も人気のあるコーヒーハウスの1つになりました。シーウェルはマーチャンツ・エクスチェインジの店頭で販売した多くの製品の唯一の輸入業者でもありました。そのような製品の1つに、フランスのリモージュで作られた「Sazerac de Forge et Fils」と呼ばれるコニャックがあり、おそらくその現地代理店を務めていたのでしょう。街の顔役で熟練したセールスマンであるシーウェルは、コニャックを多くのコーヒーショップに入れることが出来ました。そして自らもペイショーの調合でブランディ・カクテルにコニャックを使い始めた、と。これがサゼラックという名称の直接的な由来です。
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1850年頃、シーウェルはコーヒーハウスの日々の運営を友人のアーロン・バードに引き渡し、道路を渡った16(もしくは13&15)ロイヤル・ストリートに輸入品を販売する酒屋を開きました(シーウェルが亡くなった1861年にはこの事業もアーロンが引き継いだようです)。若きトーマス・H・ハンディが店員として雇われたのはここです。この頃には、テイラーがリモージュから輸入したコニャックを使ったカクテルは、常連客の間で大変な評判となっていました。他の施設とは異なり、マーチャンツ・エクスチェインジでは、カクテルにサゼラック・ブランディとペイショーズ・ビターズのみを使用していたと言います。1852年頃、シーウェルが輸入したコニャックを称えるため、或いは自らのサーブの人気を更に促進するため、アーロンはコーヒーハウスをサゼラック・コーヒーハウスと改名しました。人気のブランディにちなんで命名されたという事実は、コーヒーが最も有名な飲料ではなかったことを示唆しています。サゼラックをコーヒーハウスのハウスドリンクにしたのがシーウェルなのかアーロンなのかハッキリしませんし、またその頃の具体的なレシピの開発者が誰なのかもよく判りません。サゼラックは、ペイショーが1830年代に考案したとするウェブサイトもあれば、オーナーのアーロンが考案者であると伝えられることもあり、謎に包まれています。ペイショーがレシピの改良等でアドヴァイスをしていた可能性も十分考えられますが…。物語はここで終わりではないので先を急ぎましょう。

1860年の初めまでに、アーロンはジョン・B・シラーに事業を引き継ぎました。この人物が何者なのか調べてもニューヨーク出身のバーテンダーらしい、ということしか分からなかったのですが、1959年にハウスドリンクをサゼラックと命名したのはシラーだとする情報もあります。ジョン・B・シラーは、シーウェルの経験豊富な店員でブックキーパーだったトーマス・H・ハンディが酒屋から離れ、サゼラック・コーヒーハウスの支配権を握るまで経営を続けしました。
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1869年、ハンディはサゼラック・コーヒーハウスを購入し、酒類のブランドも取得して販売を開始しました。現在のサゼラック・カンパニーの創業者はハンディとされるところからすると、この時が会社のルーツと言えるでしょう。会社のロゴには「SINCE 1850」と書かれていますが、これは恐らくサゼラック・コーヒーハウスの始まりを指しています。1870年頃、ペイショーは薬剤店を閉鎖し、新しいパートナーのハンディと取引を始めました。1871年までに新しいトーマス・ハンディ・カンパニーは、サゼラック・ブランディの唯一の輸入業者であると同時に、ペイショーズ・ビターズの製造業者でもあり、ニューオリンズの「お気に入り」の独占販売を行っています(サゼラック・カンパニーの公式サイトでは1873年にペイショーズ・ビターズの権利を買い取ったとしています)。コーヒーハウスが密集している都市で、サゼラックはハンディの所有権の下で最も輝いていました。彼はその名前から「コーヒー」を落とし、やがてニューオリンズの高級な飲酒を定義するようになります。サゼラック・ハウスは、おそらく19世紀後半に市内で最も有名な飲酒施設であり、飲料、ビジネス、娯楽の社会的中心地だったでしょう。
しかしこの頃、ヨーロッパでは深刻な事態が発生していました。ワインの歴史を学んだことのある人には余りにも有名な、現代世界の飲酒習慣を永久に変更したと言われるフィロキセラの流行です。

フィロキセラ(和名でブドウネアブラムシ=葡萄根油虫)は、ブドウ樹の葉や根にコブを生成してその生育を阻害し、やがては枯死に至らせる極微の害虫。その幼虫は体長1ミリほどで、最初は昆虫であることすら判りづらく、土の中の根につくため直接薬剤をかけることが出来ませんでした。また成虫になると羽が生えて雲霞の如く飛散するので被害の拡大も迅速でした。品種改良のためヨーロッパへ移入したアメリカ原産のブドウの苗に付着していたことで、抵抗力を持っていないヨーロッパのブドウの大部分を一掃し、全滅に近いほどの被害を与え、多くの歴史あるワイナリーがそのワイン畑と共に失われたと云います。
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1850年頃に北米から英国の港に船で到着し、その後10年で実際の被害が始まりました。1863年、先ずローヌ河畔の葡萄畑に被害が出始め、被害はあっという間に各地へ伝播して、フランスは約20年間に100万ヘクタールの葡萄畑が破壊されます。 そして1870年にはオーストリア、1883年にはイタリア、1895年以降にはドイツにまで拡がりました。1890年までにヨーロッパのブドウ園の約3分の2が感染または破壊されたと推定されます。フィロキセラの蔓延を食い止めようとする必死の試みにより、農民は化学物質からヤギの尿の噴霧、生きているヒキガエルを埋める等、あらゆることを試みますが、全て徒労に終わりました。葡萄栽培農家とワイン産業は危機的状況を呈し、フランス経済全体にも打撃を与えたため、政府は救済方法を発見した者に莫大な報償金(32万フラン以上)を約束したほどです。 
最後に見出された解決策は、治療法ではなく予防法でした。この害虫に抵抗性のあるアメリカ系の台木にヨーロッパ系の葡萄を接ぎ木することで、更なる発生が回避されたのです。当初は野卑なブドウの血が高貴なヨーロッパ種の血を汚すと信じていた人が多く、ブルゴーニュでは事態の深刻さに余儀なくされる1887年まで、この接木を公式には禁止していたのだとか。結局、他に有効な対策が無かったため、この接木作業がフランス全土で進められ、19世紀末にはフィロキセラの被害を克服します。しかし、 この作業には莫大な費用が掛かりました。収穫は数年間は見込めず(少なくとも5年くらいはまともなワインは造れない)、その経済的負担に耐えかねて没落していったワイン産地が少なくなかったそうです。

葡萄産業はフィロキセラの流行により完全にリセットされ、ワインやワインベース製品の供給は低下または完全に停止しました。当然のことながら、アメリカが輸入するブランディ、コニャックも激減しました。あの「Sazerac de Forge et Fils」を販売する会社も1880年に閉鎖しています。しかし、ニューオリンズの街はまだサゼラックを望んでいたので、正確な年は不明ですが、ハンディはコニャックをメリーランド産のライウィスキーに置き換えました。そしてヨーロッパがようやくフィロキセラを克服し、ブドウ畑が回復した時でさえ、ライウィスキーはサゼラックの主要成分としての地位を固め、そのまま標準的なレシピとなって行ったのです。

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19世紀後半には、アントワン・ペイショーの死(1883年)とトーマス・ハンディの死(1893年)がありました。ハンディが亡くなる前に彼の会社は、すぐ飲めるように予め混ぜられたサゼラック・カクテルのボトルを販売し始めています。更に同社はロイヤル・ストリートでサゼラック・バーを運営していました。ハンディの元秘書であるC・J・オライリーはハンディの事業権を購入し、サゼラック・カンパニーとして経営を始め、同じ名前でアメリカンウィスキーも発売しています。以来、禁酒法期間中のデリカテッセン及び食料品ベンダーとしての任務を除き、サゼラック・カンパニーは今日まで存続し続け、ニューオリンズを本拠地とする大手企業になりました。バーボンファンにはお馴染みのバッファロートレース蒸留所やバートン蒸留所などのウィスキー全体は言うまでもなく、その他のスピリッツやペイショーズ・ビターズも産み出しています。

20世紀が始まるとモダンカクテルも始まり、サゼラック・カクテルは1908年にようやくウィリアム・T・ブースビー(別名カクテルビル)の本に登場しました。ハンディは死の直前にサゼラックのレシピをブースビーに渡したと言われています。
今まで触れて来ませんでしたが、これまでの期間のある時点で、現代サゼラックの要素の1つが追加されました。アブサンです。これが二つの古典的カクテル、オールドファッションドとサゼラックの決定的な違いと考えることも出来るでしょう。この発明はリオン・ラモテというバーテンダーによるものとされています。ただし、いつの出来事なのかが参照する情報によってまちまちで、1860年頃のシラーの時代とするものと、ハンディ在職期間中であるとするものがありますが、最もよく見かけるのは1873年にラモテがアブサンのダッシュ(もしくはリンス)を追加したという説です。

アブサンはワームウッド(和名ニガヨモギ、学名Artemisia absinthium)を主原料とし、他にアニシードやヒソップ等から作られるハーブリキュールです。原料のワームウッドは昔からフランスの東部ポンタルリエや、スイスのヴァル・ド・トラヴェール地方で育てられていることから、この二つの地域が伝統的なアブサン発祥の地とされています。18世紀末に薬として誕生してから約100年以上のあいだ親しまれてきましたが、ワームウッドに含まれる精油成分ツジョンを過剰に摂取すると幻覚や錯乱などの向精神作用が引き起こされると信じられ、1898年にベルギーの植民地であったコンゴ自由国で禁止されたのを皮切りに、20世紀初頭にはヨーロッパでも1905年(1907年とも)のスイスに始まり、ベルギー、オランダ、フランス、ドイツ、イタリアなどでアブサンの製造・流通・販売は禁止されました。アメリカも1912年には禁止しています。
このため「犯罪成分」を用いないアニス主体の様々なリキュールがすぐに市場に出現しました。パスティス(仏語の「似せる」に由来する)はその一つ。専門家に言わせると本物のアブサンとは全く異なるフレイヴァーだそうですが、サゼラックのレシピから違法になったアブサンを置き換えるために、パスティスはいくらか使用されたと見られます。しかし、1920年にアメリカでは全面的な禁酒法が実施され、それどころではなくなりました。サゼラック・カンパニーは13年間の「乾いた時代」を食料品店や惣菜店として切り抜けます。

禁酒法が解けて直ぐ、レジェンドラ・ハーブサントという名前の新しいスピリットがニューオリンズで一般販売されました。このアニス風味のアメリカ製パスティスこそが、サゼラックのアブサン禁止に対する解決策を提供することになります。
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第一次世界大戦中、フランスに駐留していたジョセフ・マリオン・レジェンドラ(1897-1986)は、同地でレジナルド・P・パーカーというオーストラリア人の仲間と親しくなりました。パーカーは後にマルイユにポストされ、そこでパスティスの作り方を学びます。戦後、レジェンドラはニューオリンズに戻り、父親が所有するドラッグストア事業に参入。その後しばらくすると、パーカーもニューオリンズへ移って来ました。パーカーは個人消費のためにパスティスを作りたいと思い、レジェンドラに必要なハーブを輸入させ、禁酒法下でもアクセスできる処方箋ウィスキーを使用しました。彼はどのハーブを調達するかを知らせるためにレジェンドラにレシピを教えています。1933年12月5日にアメリカの禁酒法が終了した時、レジェンドラはパスティスを販売するのに適した立場にあった訳です。
1934年に初めて販売されたそのレシピにはアブサンの必須成分であるワームウッドが全く使われていないにも拘わらず、彼はそれを「レジェンドラ・アブサン」として生産しました。連邦アルコール規制局はすぐに「アブサン」という言葉の使用に反対し、名前は「レジェンドラ・ハーブサント」に変更されます。「魔酒」のイメージが定着していたアブサンに対して「聖なるハーブ」という正反対の意味の製品名は、ワームウッドのフレンチ/クレオール名「Herbe Sainte」から由来するようですが、偶然か故意か「Herbsaint(ハーブサント)」と「Absinthe(アブサン)」という「r」を欠落させるだけでほぼアナグラムになる秀逸なネーミングだと思います。「フランスの名前、フランスの起源、そして洗練された魅力のあるフランスのレジェンドラ・ハーブサントは、特徴的なヨーロッパの飲み物です」なんて宣伝文句も当時あったそうですが、実際にはニューオリンズの飲み物であり、地元産の芳香性の高いアニス酒としてこのスピリットは、しばしば柔らかいパスティスに代わるサゼラック・カクテルへの人気ある追加となりました。
レジェンドラはドラッグストアの取引に加えて、ビジネスとして経営しようとするのが面倒になり、或いは十分な利益が得られないことに気付き、1948年(または1949年)、ハーブサントをサゼラック・カンパニーに売却します。そしてサゼラック・カンパニーは買収以来ハーブサントを販売し続け、アブサンが合法となった後でも地元ニューオリンズでは、サゼラックにハーブサントを用いて造るバーは多かったのだとか。ちなみにアブサンは1981年に世界保健機関(WHO)がツジョン残存許容量10ppm以下なら承認するとしたため製造が再開され、特にルーツに拘ったバーテンダーがいる世界の国では、アブサンを用いたサゼラックが復活を遂げています。

今日、サゼラックの名はニューオリンズ市内にあるルーズベルト・ホテルの1940年代を再現したバーを飾っています。ホテルは元々、ドイツ人移民のルイ・グルネワルドによって建てられ、1893年に「ホテル・グルネワルド」としてオープンしました。1915年、セオドア・グルネワルドは父親が亡くなったときにホテルの唯一の所有者になりました。彼は1923年初頭までホテルの所有権を保持し、医師の助言に基づいてビジネス上の利益を全てヴァカロ・グループに売却しました。購入後、新しい所有者は別館と同じ高さの新しい塔を建設し、別館の内部を再設計します。1923年10月31日にホテルは、ニューオリンズ市にとってパナマ運河の建設に多大な労力を費やしたセオドア・ルーズベルト大統領を称えるため、正式にルーズベルト・ホテルに改名されました。
1925年10月1日には新しいバロン・ストリートのタワーがオープンします。そこには理髪店、コーヒーショップ、通りに面した店舗が追加されました。その頃、サゼラックにとって一人の重要な人物が頭角を現します。ホテルで理髪店のマネージャーとしてキャリアを始めたシーモア・ワイスです。彼は後に広報やアソシエイト・マネージャー、アシスタント・マネージャー、そして最終的にホテルのゼネラル・マネージャーに昇進しました。1931年には副社長兼マネージング・ディレクターとなり、1934年12月12日にワイスのグループへホテルは売却されました。ワイスによる購入後、ホテル全体で大幅な改装とアップグレードが段階的に行われ、1938年8月1日にメインバーがオープンします。
1949年、ワイスはサゼラック・カンパニーから「サゼラック・バー」という名前を使用する権利を購入しました。ホテルはサゼラック・カンパニーに名誉ライセンス料を支払います。バーは禁酒法以前エクスチェインジ・プレイスにあり、その後はカロンデレ・ストリートにありました。ワイスは元酒屋だったバロン・ストリートの店舗を改装し、1949年9月26日にサゼラック・バーをオープンします。第二次世界大戦前、サゼラック・バーは「男性のもの」でした。女性の利用はマルディグラ当日のみだったそうです。そのハウス・ルールが変更されたのはこの時です。ワイスはバーのスタッフから「キャニー・ショーマン」と呼ばれ、美しいメイクアップ・ガールを募集して、オープン初日にチャーミングな華やかさを加えました。街中の女性が会場に集まり、当日には女性客が男性客を上回ったのだとか。イベントは「サゼラック・ストーミング」として知られるようになり、記念日は毎年ホテルでヴィンテージの衣装による乾杯で祝われます。1959年、バロン・ストリートにあるサゼラックバーを閉鎖し、名前をメインバーに移すことが決定されました。そこが今でもサゼラック・バーと呼ばれる場所です。
ワイスが年を取るにつれて、彼はホテルの買い手を探し、1965年11月19日にベンジャミンとリチャード・スウィッグに買収されたホテルは、最初に名前をフェアモント・ルーズベルト、その後フェアモント・ニューオリンズに変更されました。ホテルは長年に渡って近代化し始め、サゼラック・バーもカーペットやモダンな家具、新しい照明等に更新されました。1990年代後半にも大規模なホテルの改修が行われています。しかし、フェアモント・ニューオリンズは2005年8月のハリケーン・カトリーナによる甚大な被害を受け、いくつかの修理作業が行われましたが、作業は2007年3月に不完全な状態で中断されました。2007年8月には新しい所有者による買収が発表され、1億4500万ドルの改修のあと、ウォルドーフ・アストリア・ホテルズ・アンド・リゾーツを選択して施設を管理、2009年に漸くホテルは再開されます。この時、所有者はホテルの名前を1923年から1965年まで保持していた「ルーズベルト」のタイトルに戻しています。ホテル全体が近代的なシステムで完全に改装されましたが、デザインは1930~40年代の壮大な時代を再現したものとなり、サゼラックバーもアールデコ調の1940年代の外観に復元され、クラシックな服装で女性が着飾ったサゼラック・ストーミングの再現で再開されました。

2008年3月、ルイジアナ州上院議員エドウィン・R・マレーは、サゼラックをルイジアナ州公式カクテルとして指定する上院法案を提出しました。この法案は2008年4月8日に否決されてしまいます。しかし、6月23日にさらなる議論が行われ、ルイジアナ州議会はサゼラックをニューオリンズの公式カクテルとして宣言することに同意しました。晴れてサゼラックはお墨付きを得たのです。それが理由の全てではないでしょうが、その後の10年間でサゼラックはニューオリンズを超えて人気を再燃させました。ネットの普及による情報の取り易さも手伝ったのかも知れません。20世紀初頭までにサゼラックのようなシンプルなカクテルは希少になり、近年ではミクソロジーの流行も見ました。それでもサゼラックは、クラシックなカクテルの最高峰の1つであり、身に纏った歴史の深みはその名を輝かせ続けています。
そして、その名声を得た元の建物は取り壊されなくなりましたが、サゼラック・カンパニーは、カナル・ストリートとマガジン・ストリートの交差する角に立つ誇らしげな歴史的建造物を改築し、サゼラック・ハウスとして運営することにしました。1850年代のオリジナルのコーヒーハウスから歩いて数ブロックのこの建物は、1860年代に遡る歴史のうち、かつては様々な帽子や手袋のメーカー、ドライグッズの保管場所、更には電化製品店までありましたが、ここ30年以上も空いていたのです。改築作業には建築会社トラポリン=ピアーや博物館デザイン会社ギャラガー&アソシエイツと提携しました。サゼラック・ハウスはニューオーリンズのクラシックなカクテルを祝う新しいインタラクティブな博物館です。文化を旅する訪問者は、ニューオリンズのカクテルの歴史に導かれ、サゼラック・ライウィスキーの蒸留方法を見出し、ペイショーズ・ビターズの手作りに参加して、サゼラック・カクテルの作り方を習得します。また、ここはニューオリンズのセントラル・ビジネス・ディストリクトで初めてウィスキーが生産される場所になりました。ウィスキーの生産展示では500ガロンのスティルが見られます。毎日約1バレルのサゼラック・ライウィスキーが作られ、熟成のためにケンタッキー州のバッファロートレース蒸留所に移送されるのだそう。サゼラック・ハウスは2019年10月2日にオープンする予定です。ニューオリンズを訪れた際は、是非ともここで独特の味と伝統を体験してみて下さい。もちろん、カクテルを飲みながら。

では、そろそろ今回レヴューするサゼラック・ライを注ぐ時間です。

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SAZERAC RYE 90 Proof
推定2010年前後ボトリング。クローヴ、蜂蜜、パンケーキ、メープルクッキー、ハーブのど飴。香りは甘いお菓子。パレートは甘味と共に頗るハービー。フルーティさとミンティさはそれほどでもない感じ。余韻は豊かなスパイス(クローヴ、オールスパイス系)と苦いハーブが感じやすく、クラシックなライウィスキーを思わせる。
Rating:85.5/100

Thought:開封直後は香りも味わいも甘味がなく、えっ?これホントに51%ライ?って思いましたが、徐々に甘味は出て来ました。ジムビームやMGPのライよりフルーティさに欠けますが、甘味は強く、またハーブが優勢な味わいに感じました。
おそらく、このサゼラック・ライは日本へ輸入され始めた頃のボトルだと思われます。上の推定ボトリング時期は購入時期からの推測です。少し前までの数年間、日本ではサゼラック・ライは買いにくい状況にありましたが、ここ最近はまた輸入が復活したようです。その最近のサゼラック・ライを私は飲んでいないので味の変化があるのか判りません。飲み比べたことのある方はコメント頂けると嬉しいです。

Value:アメリカでは30ドル前後ですが、日本だと5000~6500円くらいします。これ、痛いですね。とは言え、6年というライとしては十分な熟成期間を経ていますし、おそらく比較的少量生産だとも思われるし、長いネックやボトル形状にクラシックなフォントなどボトルデザインは古いウィスキーを偲ばせカッコいい。甘さが立った味わいも他社のライと一線を画し美味しいのでオススメしておきましょう。ただ、私はどちらかと言えばMGPの方が好みではありますが。

追記:本稿でサゼラックの歴史を語りながら、その具体的なレシピの詳細については敢えて紹介しませんでした。標準的なレシピを紹介することくらいは出来たのですが、私よりもっとカクテルに拘ったバーテンダーさんに教えてもらった方が適切だと思ったからです。記事を読みながらサゼラック・カクテルを飲みたくなり、「で、レシピは?」と思ってしまった方がいましたらすいませんでした。レシピについてはすぐ検索できますのでご自身で研究してみて下さいね。

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ジャックダニエルズと並ぶテネシーウィスキーの雄ジョージディッケルのライウィスキーです。と言っても中身のジュースはテネシー州で蒸留されたものではなく、MGPの95%ライ・マッシュがソース。2012年から発売されました。熟成年数は5年程度と言われています。
当時マスター・ディスティラーだったジョン・ランによると、熟成したウィスキーはインディアナ州からシカゴ近郊のイリノイ州プレインフィールドにあるディアジオのボトリング施設に運ばれ、そこでジョージディッケルの特徴となるチルド・メイプル・メロウイング(原酒を0℃近くまで冷却してからサトウカエデの炭で濾過する方法)が施されているようです。木炭はテネシー州タラホーマ近くのディッケル蒸留所から送られ、同じ方法で行われるのだとか。ただし、テネシーウィスキーは本来熟成前にメロウイングされますが、ライはMGPから熟成後のウィスキーを調達してるためそう出来ないので、一般的なウィスキーと同様ボトリング前になされています。

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George Dickel Rye 90 Proof
推定2017年前後ボトリング、並行輸入。ラムネ菓子、香ばしい樽、キャラメル、ピクルス、ライチ、メロン、洋梨、鉄。開封直後は、口当たりは円やかと言うよりはウォータリーだったが、次第に円やかさを増した。パレートはやや単調な青リンゴ。余韻に豊かなスパイスと僅かに苦味を伴った爽やかなハーブ。液体を飲み込んだ瞬間がハイライト。
Rating:85.5/100

Thought:海外では、所有している親会社も同じ、原酒も度数も同じ、更に熟成年数まで近いブレット・ライとの比較レビューが散見されます。私も真似っこしてブレットとディッケルを同時期に開封して飲み較べました。そうすることでチルド・メイプル・メロウイングの効果のほどを知りたかったのですが、個人的な印象としてはチルフィルタード云々よりも、そもそもブレットよりディッケルのほうが熟成年数が長い味に感じます。少なくとも私の飲んだボトルに関しては、色合いもディッケルの方が濃い色でしたし。そのため、その効果のほどはよく判りませんでした。ただ、ノンチルフィルタードが持て囃される昨今、ディッケルのチルド・メイプル・メロウイングって風味を失うだけじゃね?との疑念もあったのですが、特に風味が減じている印象は受けません。やはり、ジャックダニエルズにしろジョージディッケルにしろ、チャコール・メロウイングにはウィスキーのクラスを変えるほどの力はないと私には思われます。

Value:同じ親会社ながら、今のところ日本ではディッケルよりブレットのほうが流通量が多く入手しやすいと思いますが、上に述べたように大体同じスペックの両者が、仮に同価格だとしたら私はディッケルを選びます。ただし、海外の比較レビューでは、私と逆の評価が見られました。すなわち、私にはディッケルの方がより角のとれたまろみと甘味を感じ、ブレットのほうに爽やかさを感じやすかったのですが、或る方はディッケルのほうがドライで、ブレットのほうが甘いという趣旨の発言をしていたのです。もしかするとロット間の差があるかも知れません。

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世界で人気のブランド、ブレットのライウィスキーです。ブレット・ブランド自体の紹介はこちらを参照下さい。ブレット・ライは2011年3月から発売されました。バーテンダーからの要望が多かったため製品化されたと聞き及びます。ラベルの緑色はブレット・ディスティリング・カンパニーの創業者トム・ブレット自ら拘って選び抜いた絶妙なグリーンなのだとか。ジュースはお馴染みMGPの95%ライ。熟成年数は4~6年とも5~7年とも言われており、おそらく値段から考えて4年熟成酒をメインに使っているのではないかと想像します。

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BULLEIT RYE 90 Proof
推定2016年あたりボトリング、購入は2018年。色はやや薄めでオレンジがかったゴールデン・ブラウン。焦がした木、ライスパイス、青リンゴ→マスカット、ミント、蜂蜜、洋梨、穀物臭、竹林。爽やかなフルーツとスパイシーなアロマ。ウォータリーな口当たり。口中はマイルドな甘味と豊かなスパイスが感じられる。余韻はややハービーな苦味が強い。開封からしばらくは香りのボリュームが低く、味わいも平坦だった。残量が半分を切ってから幾分か濃密になり美味しくなった(開封から3ヶ月以上経過してやっと)。同じMGPソースで熟成年数の若いリデンプションと較べると、円やかなテクスチャー、かつ甘味を感じやすい。ブレットと同じくディアジオの所有するブランドであり、同じMGP95ライをソースとしたジョージディッケル・ライと比べると、なぜか全体的に薄口の印象だった。
Rating:85/100

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テンプルトン・ライは日本でも酒販店やバーで取り扱う店が多く、ライウィスキーの中では比較的有名なブランドかと思います。ラベルに使われている写真は禁酒法下のスピークイージーでの一葉でしょうか? とても雰囲気あるラベルでカッコいいですよね。
伝説によればテンプルトン・ライは、元々はアイオワ州キャロル郡の小さな町テンプルトン(人口は2010年の国勢調査で362人だった)の農家の人々が収入を補う方法として禁酒法期間中に造られ、それが高品質であったことから「ザ・グッド・スタッフ」と知られるようになり、シカゴ、オマハ、カンザスシティのスピークイージーで人気があったと伝えられています。しかも、あの伝説的ギャングスター アル・カポーンのお気に入りであったと言われ、晩年アルカトラズ刑務所に投獄されたカポーンは刑務所の中にあの手この手でテンプルトンを持ち込ませ、独房(AZ-85)からはボトルが発見されているのだとか。まあ、この手の話はマーケティング上のバックストーリーなので、正直どこまで本当か判りません。

現代のテンプルトン・ライは、2001年頃(または02年とか05年という説もあった)、アイオワンのスコット・ブッシュがテンプルトンの復活を思い付き、禁酒法時代のレシピを知る人を探して、メリルとキースのカーコフ親子とパートナーシップを組み、テンプルトン・ライ・スピリッツLLCを立ち上げたのが始まりで、2006年に初めての製品が市場にリリースされました。アイオワ州以外での流通は2007年8月に開始され、2013年には全国的に流通するようになったと言います。日本語でテンプルトン・ライを検索すると、古い記事で2008年の日付が見られ、かなり早い時期から日本にも輸入されていたのが伺えます。

さて、トップ画像の物、つまり今回のレヴュー対象は、現行製品とは若干異なる旧いラベルの物です。このラベルの変更には、単なるリニューアルではない困った理由があります。テンプルトン・ライは2014年にラベルの虚偽表示に対する集団訴訟の対象としてシカゴの法律事務所から訴えられ、仕方なくラベル表記の変更をすることになったのです。おそらく訴えられていなければラベルはそのままだったのではないでしょうか。2015年には集団訴訟和解案に基づき、2006年以来製品を購入した顧客への払い戻しをするとも発表されました(*)。なぜこんなことになったかと言うと、テンプルトン・ライは発売当初から実際には違うにも拘わらず、禁酒法時代のレシピを再現してアイオワ州で少量生産されているかの如き体裁をとり、消費者のミスリーディングを誘発しかねないマーケティングを行っていたからです。そしてそれはラベルの表記にも端的に現れていました。
実際のテンプルトン・ライは、インディアナ州ローレンスバーグにある元シーグラムの大型蒸留所(現MGP)で蒸留され熟成されたバレル(95%ライ/5%バーリーのライウィスキー)を購入し、それをアイオワ州へと運んだ後、ケンタッキー州ルイヴィルにあるクラレンドン・フレイヴァーズ社のアルコール・フレイヴァリング・フォーミュレーションを添加してからボトリングして販売されています。訴えた人の主張は意訳して言えば「こっちはアイオワ州の手作りのウィスキーと思って買ってんだ、違うなら金返せ!」ということでしょう。そしてその根拠としてラベルの虚偽表示を突いた、と。
ウィスキー業界に精通してる人なら周知のように、創業したてのクラフト蒸留所は熟成されたウィスキーを持たないため、アンエイジドで売れるウォッカやジンやムーンシャインなどを生産し販売する一方で、大手の蒸留所から熟成したウィスキーを仕入れ、それを独自のブランド名のもとに販売したりします。また創業時には蒸留器を所有せず、すなわち自ら蒸留を行わず、お金を稼いでから蒸留所を建設し、自社蒸留を開始するNDP(非蒸留業者)の存在もあります。こうしたNDPの中にはウェブサイト上に蒸留器の写真を掲載し、恰かも現実に蒸留してるかのように見せかけるところもあったりしました。テンプルトン・ライ・スピリッツもご多分に漏れず、こうしたNDPの一つでした。他所から原酒を調達し、オリジナルのラベルを貼りつけてボトリングするウィスキーのことを「ソースド・ウィスキー」とか「ソーシング・ウィスキー」と言いますが、これ自体は悪いことではありません。テンプルトン・ライが問題だったのは、ウィスキーのソースを意図的に難読化し、ラベルの真実性を歪めてしまったことです。アメリカの連邦規則ではラベルには真実を書かねばなりません。ラベルの変更点は主に3つです。
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先ずバックラベルに「インディアナ州で蒸留」という言葉が追加されました。ウィスキーが当該ブランドの場所とは異なる州で蒸留された場合、蒸留された州をラベルに記載しなければならないという規定があるからです。そして「SMALL BATCH」が「THE GOOD STUFF」に。スモールバッチというのは、厳密に言わなければ少量生産のことと思っていい用語です。MGPは大きな蒸留施設ですから、当然少量生産ではないのでこれを変更しました。あと「PROHIBITION ERA RECIPE」が熟成年数表記へ。プロヒビション・エラ・レシピと言うのは「禁酒法時代のレシピ」の意です。これはテンプルトン・ライ・スピリッツの共同設立者メリルの父でありキースの祖父であるアルフォンス・カーコフのレシピを指します。そのレシピは公にはされていませんが、おそらく砂糖黍90%/ライ麦10%のような典型的なムーンシャインのレシピであった可能性が高いとされ(**)、ライウィスキーではありませんでした。つまり禁酒法時代のレシピとは違うのでこれも変更したのです。バックラベルの文言も段階的に変化しており、「produced from~」から「based on~」になり、最終的には「Kerkhoff」の名前も出てきました。
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「~から造ってる」と言い切っていたのが「~に基づいて」とやんわりした表現になっていますが、基づいてすらいないのでは?という疑問もなくはありません。有り体に言えば、MGPの95%ライウィスキーが買い付け易い材料だったからソースとしただけで、禁酒法時代のレシピとは何の関係もないでしょう。テンプルトン・ライには、ライウィスキー人気が爆発的成長を見せる前に先鞭をつけた先見の明はあったにしても、少々誇大宣伝が過ぎてしまった感があります。
とは言え、悪い話ばかりでもありません。2018年夏には、ついに蒸留所が完成し稼働し始めました。アイオワ産のテンプルトン・ライは計算上2022年あたりにリリースされると予想されます。テンプルトン・ライ・スピリッツの会長ヴァーン・アンダーウッド氏によると、従来のMGPウィスキーを出来るだけ複製するつもりだ、とのことです。どのようなものが出来上がるか楽しみですね。

さて、ラベルの件は現在では手直しされていますし、誇張表現はアメリカンウィスキー業界の宿痾とも言え、遠く日本に住む我々にはアメリカの消費者保護問題に深く立ち入る必要性はあまりないでしょう。まあ、そういうこともあったということです。寧ろウィスキー飲みにとって興味をそそられるのは、ラベルよりも中身、先に少し触れたフレイヴァリング製剤の添加の方です。アメリカの有名なウィスキーレヴュワーは、フレイヴァーの添加(とキース・カーコフの顧客へのメッセージビデオの釈明)に怒り、彼のウェブサイトのレーティング史上初の00点をテンプルトン・ライに付けています。
もう一度だけ、ラベルをよく見て下さい。どこにも「ストレート」の文字がないでしょう。テンプルトン・ライはストレート・ライウィスキーではありません。TTBの規定では、ストレートを名乗るためにはフレイヴァーを加えてはならないからです。また容積の2.5%を越えるフレイヴァーを加えてしまってはライウィスキーすら名乗れなくなります。そして最も重要なのが、加えられるフレイヴァーはそのクラスまたはタイプの構成必須要素でなければならないという規定なのですが、ここまでくると素人に判断できるレヴェルを越えています。判ることは、もしテンプルトン・ライが規定を遵守しているのならば、必須成分をもつ香料を2.5%以内含んだライウィスキーである、と言うことだけです。
上に挙げたレヴュワーは、これではどの香味成分がMGP由来のものかケミカル・フレイヴァー由来のものか分からないという主旨のことを述べていますが、確かにその通りです。そもそもMGPの95%ライウィスキーはそれ自体で豊かなアロマとフレイヴァーを持っています。果たしてフレイヴァリング製剤を添加する必要があったのかどうか? テンプルトン側の公表している理由としては、創業者の先祖によって造られた禁酒法時代のオリジナル・レシピの風味プロファイルに近づけるため、だと言いますが…。とにかく飲んでみましょう。

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TEMPLETON RYE 80 Proof
BATCH:4
BARREL:239
BOTTLE:167
BOTTLED IN 02-11-2011
ライチ、バタースコッチ、ミント、トーストした木、洋梨のシャーベット、香草、ライスパイス、青リンゴ、若草、パセリ、漢方薬。40度にしては物凄く香りが強く、45度以上の物やもう少し熟成を経た物と同等かそれ以上。口の中では仄かな甘味と爽やかさ、苦味とスパイスが同居する。中身が残り三分の一くらいになってから、かなり余韻に苦味が目立つようになったが、ビターチョコ系の苦味ではなく、香草やスパイス系の苦味。飲んでも旨いが、香りがハイライトといった印象。
Rating:86(84.5)/100

Thought:私が初めてテンプルトン・ライを飲んだ時は衝撃を受けました。それまで飲んできたライ麦率51%程度と見られるライウィスキー(ジムビーム・ライやワイルドターキー・ライ等)とはまるで比べ物にならないフルーティさと香草の風味を感じたからです。こんな美味しいウィスキーがあったのか、と感動すら覚えました。以来MGP95ライのファンとなり、同じソースではあっても違うブランドのライウィスキーをいくつか飲みました。しかし、確かに同系統の風味を感じるものの、なぜかそこまでの感動はありませんでした。味であれ何であれ「初体験の衝撃」は脳裏に深く刻まれ、忘れ難く、時に誇大化するものです。また「慣れ」は脳への刺激を緩慢化するものでしょう。それがため、感動がなくなってしまったのかなと思っていたのですが、今回改めてテンプルトン・ライを飲んでみたところ、他のMGP95ライと較べて、やはり圧倒的に強いアロマ(ライチとバタースコッチ)を持っていると感じました。特にそれはテイスティング・グラスではなくボトルの口から直接匂いを嗅いだ時に顕著です(テイスティング・グラスだと他の香味成分を拾い易いようで、トースティなウッドと穀物感の方が前面に出ます)。もしかするとこの強いアロマの要因こそがフレイヴァリング製剤にあるのではないでしょうか? 実を言うと、テンプルトン・ライと並行して同じくMGP95ライであるブレット・ライとジョージディッケル・ライも比較のため開封して試飲していたのですが、テンプルトン・ライは80プルーフというロウワー・プルーフにしては強すぎるアロマが少し奇妙に感じなくもありませんでした。これは思ったより添加フレイヴァーが効いているような気がします。飲んだことのある皆さんのご意見を伺いたいところですね。
なお、上のレーティングで括弧をした点数は、フレイヴァーが入っていない状態を仮定した想像上の得点です。

Value:テンプルトン・ライの日本での販売価格は概ね4000~5000円です(追記あり)。他のMGP95%ライをソースとしたブランドに較べ、80プルーフであることを考慮すると、やや割高感は否めませんが一飲する価値は十二分にあると思います。もし安さを優先事項とするならブレット・ライという選択がベストでしょう。なによりブレットは流通量が多い=入手しやすいというメリットがあります。


*レシートがなくても一瓶につき3ドル、一人6本分まで。レシートがある場合は倍の6ドルが払い戻されたとか。

**2006年にテンプルトン・ライ・スピリッツがTTBに最初のラベル承認証明書を申請した折り、その1つは「Templeton Rye Kerkhoff Recipe」と呼ばれるものだったと言います。それは他の分類の対象とならない製品を包括する「特殊蒸留スピリット」に分類され、ラベルには「ケイン90%ライ10%から蒸留されたスピリッツ」と書かれていたそうな。これはホワイト・ラムのようなニュートラル・スピリッツとフレイヴァーに寄与するライ麦の蒸留物を少し混ぜたものと予想され、その製品がこれまでに製造されたのか判りませんが、唯一記録に残っているカーコフ・レシピがこれだそうです。

追記:現在販売されている現行の「テンプルトン・ライ4年」はもっと値下がって買い求めやすくなっています。このレヴューがNASであったこともあり、記事を修正せず追記にしました。

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Ezra Brooks Rye 90 Proof
現在ではラクスコが販売するブランド、エズラブルックスのライウィスキーです。アメリカでのライウィスキー人気の潮流を受けて2017年から発売されました。中身のジュースはお馴染みMGPの95%ライ・マッシュ、熟成年数は2年、しかもノンチルフィルタードだとか。おそらく日本で流通しているMGPライを使用した製品の中で最も安価かつ入手の容易なのがこのエズラ・ライでしょう。販売価格の割にはラベルがカッコいい。

本ボトルは2017年ボトリング。プリンのカラメルソース、焦がした木、シリアル、ナツメグ、ジンジャー、ケチャップ。口当たりは円やか。味わいや余韻にミントよりも穀物感のほうが強く感じられる。芳香成分のボリュームが少なく、けっして不味いわけではないのだが、どうにも物足りない。ノンチルフィルタードなのが信じられないほどだし、いくら若い原酒とは言え90プルーフにしては風味が軽すぎる。と言うより、我々がMGP95%ライに期待する風味が欠如しているからそう感じる。
Rating:81/100

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Thought:殆ど同じスペックのリデンプション・ライと較べて、どうしてここまでMGP95%ライの風味がしないのか解りませんでした。ファーストインプレッションでは、多分チャコールフィルターのかけ過ぎとチルフィルタードが施されているからだろうと単純に考えました。ところが調べてみるとノンチルフィルタードだと言います。ふうん、じゃあ樽の違いと少しの熟成年数の違いだけでここまで違うのか、と思い直しました。で、記事を書くにあたり更にエズラ・ライの海外でのレビューを追及していたところ、驚きの情報に行き着いたのです。
一般的にはエズラブルックス・ライの製品情報としては、MGPの95%ライ・マッシュをソースとし、熟成期間は2年でノンチルフィルタードとされているのは始めに述べた通り。多くのウイスキーサイトやブログでそう書かれているのは、おそらくラクスコ側からそうアナウンスされているからでしょう。しかし、或るバーボンマニアがエズラ・ライを飲んだとき、MGPの95%ライ・マッシュと感じなかったらしく、エズラブルックスのPR会社に確認の連絡をしてみると、担当者はマッシュビルの開示を渋ったものの、コーンが含まれていることを認めたと言うのです。
そうなると可能性として出てくるのが、MGPの95%ライではない他のライ・マッシュビル。MGPは2013年に顧客のためにマッシュビルの数を大幅に増やしたのですが、その時に二種類のライ・マッシュビルが追加されました。これによりMGPには三種のライウィスキーが存在することになります。そのマッシュビルの内訳は、
①95%ライ/5%バーリー
②51%ライ/45%コーン/4%バーリー
③51%ライ/49%バーリー
となります。上述の情報源によれば②か、もしくは①〜③のミックスなのではないか、とのこと。私の飲んだ印象としては②という気がしました。飲んだことのある皆さんの意見を伺いたいところです。

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REDEMPTION RYE 92 Proof
Batch No:241
Bottle No:7099
アメリカで見事にライ人気が復活を遂げるなか、リデンプション・ライは確固たる地位を築いたブランドの一つです。名前のリデンプション(償還、救済、贖う、買い戻し)というのは、禁酒法以前にアメリカンウィスキーの主流だったライウィスキーの復権が製品コンセプトだから。と言っても、バーボンもリリースされてます。また、製品意図としてマンハッタンやオールドファッションドのベースとして提供されているようです。
現在では親会社がDeutsch Family Wine & Spiritsとなり、ボトルとラベルがリニューアルされてまして(おそらく2017年あたりから?)、画像の印象的なトールボトルは廃止となりました。中身のジュースは変わらずMGPの95%ライで、ケンタッキー州バーズタウンにあるDave SchmierとMichael Kanbarが運営するバーズタウン・バレル・セレクションズによってボトルリングされています。熟成年数は平均2.5年と言われていますが、ラベルにストレートライと書かれてないのと、裏ラベルに「Rye whiskey is less than one years」と書かれているところを見ると、おそらく1年熟成の原酒がかなり入っているのでしょう。では、テイスティングへ。

焦がした木、青リンゴ味のかき氷、芹、蜂蜜、洋梨、ライスパイス。全体に若草及びハーバルなアンダートーンが感じられる。余韻にはスパイス感と共に土っぽさも。口に含むと若い原酒のせいかピリピリするし、喉越しはかなりスパイシーだが、その刺激が心地よく、味わい的にも未熟感が却って好結果という印象。しかもビッグ・フレイヴァー。同じMGPの95%ライを使用し、似たようなスペックのエズラブルックス・ライ(※)と較べてアロマ/フレイヴァー/フィニッシュ全てに於いて強い。液体を光に透かして見ると、細かい粒子のような浮遊物がかなり見える。これはもしかするとフィルターをあまりかけていないのかも知れない。思うにアルコール度数もパーフェクト。

海外での評を見ると、ストレートで味わうには若すぎ、カクテルのベースにはオススメとする意見もありましたが、個人的にはガンガンとストレートで飲みたい味わいです。比較的安価にライ・フレイヴァーを楽しめるイチオシの一品。現行品と較べたことはありませんし、バッチ間の味の変動はあるでしょうが、少なくとも私の飲んだボトルはそうでした。
Rating:84.5/100


※ネットで調べるとエズラブルックス・ライはMGPの95%ライをソースとしているとの説明が多いのですが、当記事を書いた後にそうでない可能性が発覚しました。ですが、記録として記事内容を変更せず投稿しています。 

今回は謎めいた古いウィスキーを二本まとめて。

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一方は表ラベルが完全に剥がれていて、しかも剥がれたラベルが手元にもないそうで、もはや何が何だか判らない状態なのですが、マスターによるとファイン・オールド・バーボンというありきたりの名前だったそうです。これはブランド名と言うよりは、俗にいうノーブランド、だけど「良質のバーボンですよ」くらいの意味合いだと思います。バーのブログより画像をお借りしまして、右がラベルが貼り付いてた当時の姿だそうです(左は前回ポストのドハティーズ)。
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Fine Old Bourbon?
まだ残っている裏ラベルから概ね4年熟成と推察されます。アルコール度数は50度でしょうか。ボトリングは禁酒法が終わった直後の1934年。と言うことは蒸留は禁酒法時代になされていますね。会社はマーヴィン&スニードとあります。マスターの話では、ニューヨークの42ndストリートにあったワイン商を通じて英国に輸入されたものが60年ほど経ってオークションに大量出品された時に入手したもので、表のラベルにも何処の蒸留所で蒸留された等の情報は書いてなかったそうです。
飲んでみた感想としては…、う〜ん、正直言って今回のバー遠征で飲んだなかで一番美味しくなかったです。なんというかピントのボケた味に感じました。現行製品にはない深みは感じられるものの、一言で言うと濁った味です。濁ってるのにコクがないとでも言うのでしょうか。オールドボトル愛好家ならいいのかも知れませんが、個人的にはこれだったら現代バーボンのフレッシュな味わいの方が好み。
Rating:78/100

そしてもう一方はJフライデイのライウィスキーです。こちらもネットで検索しても殆ど情報を得れないのですが、わかる範囲で書くと、ペンシルヴェニア州ピッツバーグのスミスフィールド・ストリートにあった、蒸留酒やワインまたシガーなどを取り扱うマーチャントもしくはウィスキー・ホールセラーで、当時の広告を見るとグッケンハイマーやオーヴァーホルト、ブリッジポートやマウント・ヴァーノンなど名だたる銘酒をストックしていたようですから、なかなか活気のある会社だったのかも知れません。会社の活動期間は1889ー1918とされ、自社ブランドには「1852 X X X Old Private Stock」、「Friday's」、「Gibson」、「Number 1870 Brand」、 「Number 1882 Apple Brandy」、「Old Cabinet Rye」などがあったそうです。

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WM J. FRIDAY FINE OLD RYE WHISKEY XXXX
そして本ボトルについてですが、これまた何処で蒸留されたかの記載もなく、熟成年数表記もなく、なんならプルーフ表記すらありません。逆にラベルの下の方に小さく、有害な薬物や毒を含んでいません、とは書かれています。ボトルド・イン・ボンド法(1897年)やピュア・フード&ドラッグ法(*1906年)施行後でも、まだ横行していた粗悪ウイスキーに対抗して書かれた文言なのでしょう。上に述べた会社の活動期間からするとボトリングは禁酒法以前となり、当然、蒸留もそうな訳で、おそらく同郷ペンシルヴェニアの有力なライウィスキー製造所から原酒を調達しているのではないでしょうか。画像検索でもあまりお目にかかれないラベルの物でかなりレアだと思います。
飲んでみた感想としては、かなり軽いウイスキーという印象。度数は40度くらいしかないと思います。あまりフルーティでもなく、甘み全開系でもなく、どちらかと言うとハービーで、何というか植物っぽいテイストの味わいでした。柔らかいニュアンスや風味など、現行ライウイスキーとの差は実感できましたが、正直好みではなかったです。思うに当時のエントリークラスのライウィスキーなのではないかと…。
Rating:83.5/100


*純正食品薬事法、純粋食品及び薬物法と訳される。有害または不当表示された食品や薬品を市場から排除し,州間取引される食品や薬品の製造・販売を規制することを目的とした法案で、アメリカンウィスキーの歴史にも多大な影響を与えた。


それと、今回は予算や飲酒量の都合で飲まなかったレアなバーボンを写真だけ撮らせてもらいました。やっぱりアンティークなボトルはカッコいいっすよね。
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禁酒法時代のウィスキーとしては比較的有名な銘柄ドハティーズ。そのプライヴェート・ストック名でのピュア・ライ・ウィスキー18年物です。ネットの画像検索で調べる限り、このプライヴェート・ストックのラベルの物は、他に13、14、15、17年がありました。16年もあるんですかね? それと、このドハティーズの禁酒法時代の物は大抵ボトリング名義が「Dougherty Distillery Warehouse Co.」なのですが、このボトルでは「J.A. Dougherty's Sons」という禁酒法前に近い名義になっています。なぜなんでしょうね? まあ、それは措いて、この「Dougherty Distillery Warehouse Co.」というのは、既にドハティ家の家族経営ではなくなっていて、禁酒法時代の1920年代初頭に処方箋でのみ入手可能な薬用ウィスキーのボトラーとしてライセンスを受け設立された会社です。同社はニュー・へレム蒸留所やハイスパイヤー蒸留所、それと史上名高いオーヴァーホルト蒸留所などから禁酒法以前に蒸留されたウィスキーをドハティ・ブランドでボトリングして販売していました。

さて、話は前後してしまいますが、日本語で読めるドハティ・ウィスキーの情報は殆どないので、せっかくだからその来歴を、海外の禁酒法以前のウィスキーに詳しい人のブログを基にざっくり紹介しておきましょう。

創業者ジョン・アレクサンダー・ドハティはアイルランドに1788年6月10日に生まれました。26歳の時、1814年1月ノヴァスコシア州ハリファックス経由でフィラデルフィアへやって来たそうです。アメリカでのキャリアをパン職人として始めたものの、すぐにウイスキー事業に関与するようになりました。この間、彼は英国ブリストル出身のエライザ・シャーボーンと結婚し、1825年にはウィリアム、1827年にはチャールズが産まれました。
ウィリアムは年頃になると酒の貿易で父親としばらく働いていましたが、流行しつつあった新しい技術、電信に魅了され、1847年にオペレーターとなり、後にボルティモアからワシントンに至るベイン・ケミカル・テレグラフの補佐官に就任。一方の息子チャールズは父ジョンの蒸留事業に参加します。1849年あたりに「John A. Dougherty&Son」が創設され、同社の蒸留所(ペンシルヴェニア州第1地区、蒸留所登録番号2番)は1850年に建設されました。1851年にはウィリアムもテレグラフの仕事を辞めて父と兄弟に協力することになり、会社名は「John A. Dougherty&Sons」に変更されます。
ドハティーズ・ピュア・ライ・ウィスキーはすぐに成功を収め、フィラデルフィアだけでなくその周辺の市場も獲得しました。1866年10月21日、ジョン・ドハティは78歳で死亡し、息子のウィリアムが上級管理職に就任、会社名は「J.A. Dougherty's Sons」に再度変更されましたが、数年間で3つの新しい倉庫が建設され、ビジネスは成長を続けます。
ウィリアムはビジネスマンとしてのみならず、芸術の守護者としても知られ、アートクラブのメンバーであり、芸術アカデミーと自然科学アカデミーの著名なメンバーでもありました。彼のメゾチント、エッチング、彫刻のコレクションはフィラデルフィア随一だったと言われ、更には植物学、ガーデニング、冶金学、化学、そしてラテン語、ギリシア語、フランス語、スペイン語にまで精通していたとか。その芸術感覚はドハティ・ウィスキーの洗練されたラベルデザインに活かされていたようです。ウィリアムは1892年に67歳でこの世を去り、残ったチャールズが会社の経営を引き継ぎます。
会社は更なる成功を続けましたが、1898年には母親のエライザが死亡し、同じ年チャールズも71歳で死亡。事業を継承した家族は大きな蒸留所を管理することに関心がなく、1904年頃に蒸留所を売却してしまいます。新しいオーナーは名前と伝統の効力を認識し、ドハティの名の下で業務を続けますが、オールド・オーヴァーホルト蒸留所を含む他の蒸留所からウィスキーの供給を受けました。そして1919年、会社は禁酒法によって閉鎖。この後、冒頭に述べた「Dougherty Distillery Warehouse Co.」が設立され、集中倉庫から薬用ウィスキーを販売するようになったのでした。
では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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Dougherty's PRIVATE STOCK PURE RYE WHISKEY 18 SUMMER YEARS OLD 100 Proof
蒸留はニュー・へレム蒸留所(ペンシルベニア州第1地区、蒸留所登録番号26番)。タックス・ストリップを撮り忘れてしまったので、蒸留年とボトリング年が定かではないのですが、ネットで同じ18年物のボトルを調べると1913年蒸留1931年ボトリングなので、多分これも同じではないかと思います。ラベル類は自然と剥離してしまったようです。
現代のライウィスキーとは異質の物という印象。強烈にミンティ。スパイシーよりハービーな感じ。例えて言うと、ウィスキーにモンダミンとリカルデントを一滴づつ垂らし、ハーブティーを混ぜてキャラメライズドシュガーを入れたような味。一瞬不味いのだが、これはこれで旨い。
ところで、このプライヴェート・ストックのラベルデザインは禁酒法時代のウィスキーで最高峰ではないでしょうか? なんというか現代のネオ・ヴィンテージに通ずるモダンな感覚があるように思えます。カッコいいですよね。
Rating:88/100

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ファイティングコックというブランドは強烈なインパクトがあります。日本語で「闘鶏」。戦う姿が如何にも荒々しく男らしいではないですか。バーボン・ドリンカーがワイルドさを演出したい時に、ワイルドターキーだとメジャー過ぎるからファイティングコックを選びたい気持ち、私にはよく理解できます。しかしターキーよりメジャーでないぶん、情報量もまた少ないのは必然的なことです。私はファイティングコックの起源を知りたくてネットで情報を収集していました。そのことはファイティグコック6年と8年のレヴュー投稿に書きました。一説にはイーグルレアと同じくワイルドターキーを打倒するために創造されたブランドと言われますが、真偽のほどは定かではありません。なぜなら、現行製品の情報はいくらでも見つかる割りに、起源に関しては確信を得れる情報が見つからないからです。まず初めて発売された時期が明らかでなく、何処の蒸留所が産み出したかも判らないのです。ちなみにFCブランドのもとに、バーボン以外にもウォッカやジン、バーベキューソースまであったりします。

そんな折りに出会ったのがこちらのメリーランド・ストレート・ライをボトリングしたファイティングコックでした。まさかこんな物まであるとは衝撃でした。こちらに触れる前に、過去投稿時には知らなかった情報を得たので、繰り返しの部分もありますが再度ファイティングコックについて整理しておきます。私の推測も含みますので注意して下さい。

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現行のファイティングコックは2015年あたりにNASとなりました。それまでは6年熟成が比較的長く流通していて、それはおそらく90年代の終わり頃か2000年あたりに8年熟成にとって替わり、紙ラベルが廃止となった現行と同じクリアシールのボトルデザインです。90年代を通して発売されていたのは紙ラベルの8年熟成。その他に日本限定で15年熟成がありました。

さあ、ここからがちょっとややこしいのですが、ついて来て下さい。ネットでファイティングコックの写真を探していると、新たにバーズタウン産の7年熟成の写真を発見しました。そしてヘヴンヒルがファイティングコックのブランドを購入したのは78年という情報もやっと見つけました。これはボトルの写真とボトリング年の情報から察するに真実味のある年数に思われます。おそらく80年代には7年もしくは8年熟成のバーズタウン産が出回っていたのでしょう。では、その前は?

70年代中期とみられるファイティングコックのボトルにはケンタッキー州ローレンスバーグで瓶詰めと記載されています。いったい何という蒸留所だろうと、わくわくしながら想像していました。まさかフォアローゼズ(オールドプレンティス)蒸留所やワイルドターキー蒸留所なんてことは絶対ないよな、だって鳥ラベルのライバル同士のイーグルレアとワイルドターキーを造ってる蒸留所だよ?なんて。そうしたらサム・K・セシルの本によれば、70年代中頃にホフマン蒸留所はベン・リピー(よく知りませんが有名な蒸留一家リピー・ファミリーの一人でしょう)によってボトリング施設として運営されており、ファイティングコックをボトリングしていたというのです。しかも、それだけでなく、ジュリアン・P・ヴァン・ウィンクル三世のためのプライヴェート・ブランドまでボトリングしていた、と書かれています。ホフマン蒸留所といえば、エズラブルックス・ブランドがメドレー蒸留所に移行する前にそれを造っていた蒸留所であり、後の83年にはジュリアンが買い取りオールド・コモンウェルス蒸留所という名称でボトリング施設として使用した蒸留所です。まさかそこでファイティングコックがボトリングされていたとは…。で、68年当時のホフマン蒸留所はどうやらエズラブルックスとして運営され、まだ新しいウイスキーを生産していたと言います。ということは、70年代中頃のファイティングコックを6〜8年熟成のバーボンと仮定し、熟成年数を遡ると、そのウィスキーこそがファイティングコックである可能性が高いのではないか?という訳です。

ところで、ヴァン・ウィンクルと言えば小麦バーボンで有名です。上に述べたジュリアンのためのプライヴェート・ブランドと言うのが、仮に小麦バーボンだったとしたら、ファイティングコックもある時期だけ小麦バーボンであった可能性は高まります。私は過去投稿のレビューで、日本に広く流布している「ファイティグコック小麦バーボン説」は間違いではないかと提起し、その原因はファイティグコックの公式ウェブサイトにあったのではないかと勘繰ったのですが、このエズラブルックスが造っていたウィスキー、つまりローレンスバーグ産のファイティングコックが小麦バーボンだったのならば、そのことを昔の人は知っていて、それが現行品の説明に誤って転用された、という説が急浮上して来ます。まあ、これは珍説だし、仮定の話です。ヴァン・ウィンクルの全てのバーボンが小麦バーボンではないですし、ホフマン蒸留所が小麦バーボンを製造していたという話も聞いたことがありませんから。

ええ、話題が逸れたし、だいぶ話も長くなりました。でも、もう少し前の時代も見てみましょう。60年代ボトリングとされるファイティングコック6年を写真で眺めてみると、それにはコネチカット州スタンフォードにて瓶詰めと書かれています。そして今回のファイティグコック・ライウィスキーにも、裏ラベルには「Bottled by ESBECO DISTILLING CORP., Stamford, Ct.」とあります。このEsbeco Distilling Corporationというのは、1933年初頭にEsbeco Beverage Companyという名称で発足し、ウィスキー製造が合法となる憲章改正に伴い名称変更されたようで、本社はデラウェア州らしいですが、事務所がコネチカット州スタンフォードのジェファーソン・ストリートにあったそうな。おそらく自らは蒸留を行わないレクティファイヤー(整流業者)だと思われます。今で言うボトラーとかNDPのことです。ネットで調べられる限りでは、オールド・ウェストバリー・クラブ、マクラフリンズ、ケンタッキー・ブルー・ブラッド、リンブルック、サニーリッジ等のブランドを所有していたようです。他にオークション画像で、V.O.S クラブ(ブレンデッド)やバルトランド(メリーランド・ライ)というブランドもありました。始めに述べたように、この会社がファイティングコックを創造したのかどうか判りません。ですが、今のところ得れる情報では一番古いファイティグコックがESBECOのボトリングなのです(誰か詳細ご存じの方は情報提供お願いします)。

で、件のファイティングコック・メリーランド・ライなのですが、肝心のボトリング年がこれまたはっきりしません。ラベルが60年代とされるファイティグコックと少し異なるので50年代製でしょうか? 50年代製とされるワイルドターキーのメリーランド・ライをネットで見かけたことがあるので、ファイティングコックがワイルドターキーを打倒するために産まれたブランドという説が本当なら、これは直接対決と言える訳で、あながちない推測ではないと思います。または上記のバルトランドが40年代の物とされており、本ファイティングコックとそれが同じメリーランド・ストレート・ライであるところからすると40年代製の可能性もあるのかも。それに細かいことを言えば、60年代初頭と後期でラベルやボトルデザインが切り替わってることだって考えられます。マスターの話によると、昔イギリスのオークションで禁酒法時代の物という触れ込みで購入した物だそうですが、見たところ禁酒法時代のウィスキーに見えず、いい加減な鑑定をしていたのじゃないか、とのことでした。私も見たところ禁酒法時代より新しい印象を受けます。

さて、今回のボトルはネットの画像検索ではなく実際に手に取れたので裏ラベルもガッツリ写真に撮っておきました。これです。

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こいつはボトルド・イン・ボンドじゃない、だけど殆どのボトルド・イン・ボンド・ウィスキーより3プルーフ高くボトリングされている。それ故に、特徴的な風味、キャラクター、滑らかさがある。無双クオリティのウィスキーは、個人的満足に気前よく分け前を与える。

ファイティングコックのファイティングコックたる所以は、やはりボトルド・イン・ボンド規格を上回る「3」プルーフに込められているのでしょう。ライバルと目されるワイルドターキーを必ず何かで上回る必要があった。それが101プルーフならぬ103プルーフだった、と。103プルーフじゃなければファイティングコックはファイティングコックじゃない!
はい、そろそろ飲んだ感想へ。

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Fighting Cock Maryland Straight Rye Whiskey 6 Years 103 Proof
推定40〜60年代ボトリング(ごめんなさい、確信が持てないので期間を長めに取りました)。ペンシルヴェニアと並びライウィスキーの産地として名高いメリーランド産です。
キャラメル様のスイートネス。スパイシーさよりも甘味のほうが目立つ。薬品や薬草ぽさもあまり感じないが、僅かに子供用風邪薬の味。比較的厚みのあるテクスチャー。余韻はアールグレイ・ティー。飲んだ感じ、穀物比率で言うと51〜95%のちょうど中間、65〜75%ぐらいのライ麦率かなという印象。ロマンが含まれてる分レーティングは甘めかも。
Rating:89/100

追記:その後、新しく情報を入手したので追記しておきます。US特許商標局によるとファイティングコックは少なくとも1954年以来継続しているブランドとのこと。この年にファイティングコックが創造されたのだとしたら、本文に取り上げたEsbecoがオリジナルである可能性は大いにありそうです。また、1975年5月の段階ではファイティングコック・ブランドはJ.T.S. Brown & Sonsが所有していたなんていうちょっと「?」な情報も見かけました。もしそうなると、おそらくファイティングコックはJTSブラウンと一緒にヘヴンヒルに購入されたのではないでしょうか。更に73年ボトリングとされるファイティングコック7年スタンフォード産の物もネットで発見しました。こうなると70年代にブランドが転々としていた歴史が見えて来ますね。

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