カテゴリ: その他の地域のバーボン

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A.H. Hirsch Reserve 16 Years Old Gold Wax 95.6 Proof
今回飲んだA.H.ハーシュ・リザーヴ16年は、スクワッティなボトル形状にゴールドのワックスでシールされた47.8度の物です。同様のブラック・ワックスの物やブーンズノールよりアルコール度数が高いのが特徴でしょうか。マスターの話では、所謂ブルー・ワックスのハーシュよりこちらの方がリリースが先だったと仰ってました。この伝説のバーボンのバックストーリーは過去に投稿した記事を参照下さい。この「ペンシルヴェニア1974原酒」が使用されたボトルはこれまで何回か飲んで来ましたが、何度飲んでもやっぱり自分の好みではないですね。長期熟成による柔らかい酒質とビターさ、複雑なスパイスとハーブ、枯木のテイスト等は感じ易いものの、私はもっと単純な焦がした樽のスウィートな香ばしさやフレッシュなフルーツ感が好きなので。パレートでの渋みはあまりありませんが、余韻には苦味も感じました。この機会に言ってしまうと、個人的にはこの原酒は過大評価されていると思います。自分の好みは一旦措いて、他の長熟バーボンと比較してみても、それほど際立って優れているようには感じないのです。特別なフィーリングがないと言うか…。ぶっちゃけ下のレーティングは、3点はバックストーリーとレアリティとラベル・デザインに対してです。但し、適切なタイミングで飲んでいれば本当に素晴らしかった可能性はあるのかも知れない。私はボトリングされたばかりの90年代当時に飲んだことがないので、その当時に飲まれたことがある方は是非ともコメント欄よりご感想をお寄せ下さい。いや、当時でなくても飲んで、「そう? めっちゃ旨いよ?」とか「お前の舌がお子ちゃまなんじゃね?」という意見も随時募集中です。まあ、それは兎も角、今になってこのバーボンを飲むということは、「歴史」を飲み「物語」を飲むことであって、味わいは関係ないとは言えるでしょう。
Rating:88/100

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ジョージディッケル・バーボン8年は継続的な全国リリースの製品として2021年夏にディッケルのコア・ラインナップへ追加されました。同年のナショナル・バーボン・デイに発表されたこの製品がユニークな理由は二つあります。一つは、言うまでもなくバーボンである点です。これはジョージ・ディッケル蒸溜所にとってラベルに「バーボン」の文字がある初めての製品でした。
ジョージディッケルとジャックダニエルズは共に、テネシー・ウィスキーとバーボンが同じものではないことを消費者に強調して来ました。彼らは「ストレート・バーボン」と商品ラインナップの大半に書いておしまいの大手バーボン蒸溜所とは違うのです。この二つのアメリカン・ウィスキーの違いは長年議論され、テネシー・ウィスキーは独自のカテゴリーだと強硬に主張する人もいれば、それは単にバーボンという大きなカテゴリーの一部だと穏和に主張する人もいます。ここでそうした議論を始める積りはありませんが、それまで自らの製品をテネシー・ウィスキーと呼んで来たディアジオ傘下のジョージ・ディッケル蒸溜所がバーボンをリリースしたのは何かしら示唆的でしょう。
そもそもテネシー・ウィスキーはバーボンとラベル付けするための法的要件を全て満たしています。つまり、ジョージディッケル・テネシーウィスキーはバーボンと表示されていませんが、しようと思えばいつでもバーボンとラベルに表示することは可能だった訳です。そして実際のところ、このジョージディッケル8年バーボンとNo.8テネシー・ウィスキーには、エイジ・ステイトメント以外に製法上の差はありません。どちらもコーン84%、ライ8%、モルテッドバーリー8%という同蒸溜所の古典的なマッシュビルで造られている上、バーボンとテネシー・ウィスキーを分けるポイントとして名高いチャコール・メロウイング製法、即ちリンカーン・カウンティ・プロセスも行われています。
では、なぜ著名なテネシー・ウィスキーのメーカーは、突如として自社リリースの一つをバーボンと呼び始めたのでしょう? シニカルな見方をするならば、これはただのマーケティングであって今バーボンが流行っているからバーボンのラベルを貼ってその恩恵に与かろうとしているだけだ、となります。しかし、ブランド側の回答としては、そのフレイヴァー・プロファイルに基づいてのことだと言います。近年そのブレンディングと樽選びの能力でアメリカン・ウィスキー界でスターとなっているカスケイド・ホロウ・ディスティリングのディスティラー兼ジェネラル・マネージャーのニコール・オースティンは、同蒸溜所から産出される特定のバレルは「より伝統的なバーボンの香りに傾いており、ジョージ・ディッケルの他の製品に見られるテネシー・ウィスキーのテイスティング特性を表現していない」と述べました。おそらくディッケル・バーボン8年の核となるアイデアは、古典的なテネシー・ウィスキーと言うかジョージディッケルのプロファイルが現れていないバレルは少なからずあり、寧ろバーボンに近いプロファイルになってしまったそれらに適切な居場所を与えることだったのでしょう。現在市場にはテネシー州で蒸溜された長熟バーボンが沢山あることが知られています。アメリカ以外の国も含む多くのボトラーがそれらをボトリングしているからです。そして、それらは殆どディッケルから供給されていると見られます。このディッケル・バーボン8年は、謂わばそれらの若年ヴァージョンと見ることも出来るかも知れませんね。まあ、それは措いて、オースティンは「バーボンはより親しみやすくバランスの取れたものであり、ディッケル・バーボンは私たちのポートフォリオ全体への素晴らしい入口です」と語っていました。

このディッケル・バーボンがユニークな理由の二つめは、ラベルに大きくあしらわれた「8」がレシピ番号ではなく、文字通りの熟成年数であることです。ジョージ・ディッケル蒸溜所の創業以来、彼らの代表的な銘柄と言えば、ブラック・ラベルの「オールドNo.8ブランド」とホワイト・ラベルの「オールドNo.12ブランド」でした。これらはここ10数年の間に、ラベルのデザインが段階的に少し変化したり、ラベルの色みが変わったり、微妙な名称の変更が施され、それぞれ「クラシックNo.8レシピ」、「スーペリアNo.12レシピ」となっていました。ディッケル・バーボン8年の発売以降のことだと思われますが、紛らわしかったその数字が削除され、これらは現在では単に「クラシック・レシピ」と「シグネチャー・レシピ」となったようです。
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その紛らわしい数字のせいで誤解している人も多いのですが、一部の熟成年数が明記されたジョージディッケル製品を除き、No.8と12は発売当初から現在に至るまで全てNAS(熟成年数表記なし)のウィスキーでした。それ故、ディッケル・バーボンはそのラインナップの中でエイジ・ステイトメントという際立つ特徴があるプロダクトになっています。では、そろそろこのテネシー産のバーボンを注いでみるとしましょう。

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George Dickel Bourbon Whisky Aged 8 Years 90 Proof
ボトリング年不明、レーザーコードはL1146R60011553。色は中庸なブラウン。焼いた木材、シリアル、シナモン、どら焼きの皮、ベリーソースをかけた杏仁豆腐、微かにグレープ味のガム。ノーズはトースティで清涼感のある香りから、ローストしたアーモンドも僅かに顔を出す。口当たりはサラッとしつつ円やか。パレートはややフルーティでグレイニー。余韻はドライながら香ばしい樽香とナッツが少々。全体的にスパイス感は弱め。
Rating:80→81.5→83.5/100

Thoughts:開封直後の第一印象は8年より若そうというものでした。焦がした樽の深みが感じられず、彼らにとって重要な筈のテネシー・ウィスキーとしてリリースするにはイマイチだったバレルをバーボンとしてリリースしてるのではないか、と邪推するほど薄っぺらい香りと味わいでした。しかもそれは暫く続きました。しかし、開封から3ヶ月くらいすると、アルコールの尖りが落ち着いたのか、香りは甘さを増し、味も甘みを感じ易くなりました。とは言え、フルーツのフレイヴァーは相変わらずそれほどでもなく、またディッケルらしさもさほど感じられず、悪いところも良いところもない無難なバーボンという印象はまだ拭えませんでした。ところが開封から10ヶ月経って残り3分の1くらいになった頃、ぐっとフルーツ・フレイヴァーが増し、アーシーなフィーリングも出て来て美味しくなりました。レーティングの矢印はそのことを指しています。但し、総評としては、主にオークと甘いお菓子が原動力になっていて、フルーツとスパイスは弱く、余韻は少しドライなバランスのミディアム・ボディのバーボンと言ったところかと。
で、件のテネシー・ウィスキーとバーボンがどれほど違うのかに就いては、強いて言うと他のテネシー・ウィスキーを名乗る製品より酸味と苦味が弱く、甘みが感じ易いような気はしました。ですが、飽くまでその程度であり、残念ながらこのジョージディッケル・バーボンは味わいに大きな独自性を発揮しているとは言い難いです。海外のレヴュワーさんのテイスティング・ノートを眺めてみると、ジョージ・ディッケル蒸溜所のウィスキーの特徴としてミネラルとかフリントストーンズ・チュアブル・ヴァイタミンと表現されるフレイヴァーを、このバーボンでもディッケルだと分かる位にあるとする人もいれば、確かに存在するが圧倒的ではないとする人もいます。個人的には後者に賛同です。また、甘さの側面についても意見が別れ、「フィニッシュは歯が痛くなりそうな甘さ」と表現している人もいれば、その感想に「ディッケル・バーボンが甘いのは認めるが、バーボンの平均以上の甘さとは言い難い」と反対している人もいました。私の感想はこれまた後者の方と同じでした。「ディッケル・バーボンは、8年間熟成させ、完璧にブレンドされた手作りのスモールバッチ・バーボン」とされているので、正確なバッチ・サイズまでは判りませんが、もしかするとスモールバッチ故のバッチ間での味わいの変動はあるのかも知れません。

Value:基本的にジョージディッケル・ブランドは「お買い得」で知られ、カスケイド・ホロウ・ディスティリングは比較的安価な価格帯への拘りを強くもっているように見えます。彼らの販売戦略なのでしょうか、旧来のNo.8は約20ドル前後、旧来のNo.12は約25ドル前後と、ほぼ同じ価格帯にフラッグシップ・ブランドが二つあります。そして、それらより上位のバレル・セレクトが45ドル前後、ボトルド・イン・ボンドが40〜50ドル。そこに30〜35ドルのジョージディッケル・バーボンが加わったのです。既に確立されたブランドの中に新たなミドル・クラス品が加わったことで、そのラインナップはますます細分化されました。No.8の20ドルからBiBの50ドルまで僅か30ドル内の間に幾つものウィスキーが犇めき合っている、と。これらの中にあってジョージディッケル・バーボンは、上で述べたように最終的に美味しくはなったものの、テネシー・ウィスキーとバーボンを棲み分けするだけの個性には聊か欠けているように思います。それに、どうせディッケルを飲むならテネシー・ウィスキーの方が良くないか?と思ってしまうのは私だけではないでしょう。日本での販売価格は8000円前後が相場です。味わいからするとちょっと高いなとは思うのですが、昔はもっと安かったNo.12も現在では7000円程度なので、順当なプライシングかな。「バーボン」という魔法の言葉に価値を感じる人、典型的なジョージ・ディッケルの風味に飽き飽きした人、テネシーだがバーボンという一風変わった物を嗜みたい人にはオススメです。

そう言えば、今年のホリデイ・シーズンにはディッケルからテネシー・"バーボン"の特別な18年物がリリースされるようですね。日本で飲めるのでしょうか…。

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(画像提供Bar FIVE様)

ブーンズノール16年は、ケンタッキー州コヴィントンのゴードン・ヒューJr.が所有していたミクターズ・ウィスキー(ペンシルヴェニア1974原酒)をジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が輸出専用としてヨーロッパ市場向けに256本だけボトリングしたものでした。中身は16年物のA.H.ハーシュ・バーボンと同じとヴァン・ウィンクル自身が語っています。A.H.ハーシュ名義の物より本数が少ないせいか、セカンダリー・マーケットではより高価になったりします。世界的に有名な「決して味わえない最高のバーボン」であるA.H.ハーシュについては過去に投稿したこちらを参照下さい。ブーンズノールというブランド自体は禁酒法以前からありました。ジュリアン3世もしくはゴードンがどうしてその名を採用したのかは分かりません。おそらくこのブーンズノール16年と過去のブランドに直接の関係はないと思いますが、今回は興味深いオリジナルのブーンズノールとそれを造った蒸溜所を紹介してみたいと思います。

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ブーンズノールは19世紀後半からE.J.カーリー蒸溜所で造られていたブランドでした。創業者のエドワード・J・カーリーは1836年アイルランドのチュアムで生まれ、子供の頃マサチューセッツに移住しました(1837年にアイルランド移民の両親のもとマサチューセッツに生まれたとの説も)。カーリーの幼少期については殆ど知られていませんが、南北戦争中、マサチューセッツ騎兵隊に志願し、ケンタッキー州に渡ってユニオン・アーミーの購買部門で働いたようです。当時レキシントンとその周辺を押さえていたユニオンは、レキシントンからそう遠くないケンタッキー・リヴァー沿いのジェサミン郡にキャンプ・ネルソン(*)と呼ばれる奴隷解放された黒人を集めて兵士になるよう訓練する目的の施設を建設していました。オハイオ以南で最大のユニオンの拠点であり補給基地でもあったキャンプ・ネルソンに駐屯し、キャンプのために家畜、飼料、穀物などを調達することがカーリーのエージェントとしての仕事の大半を占めていたとされます。
カーリーは戦後もケンタッキー州に留まり、1867年に他の二人とパートナーシップを結んで蒸溜所を立ち上げました。パートナーの一人はミシガン州在住でユニオン・アーミーのコミッサリー・デパートメントのキャプテンだったドワイト・A・エイケンで、もう一人はキャンベルという人だったようです。彼らが蒸溜所のために選んだのはキャンプ・ネルソンのすぐ近く、ケンタッキー・リヴァーとヒックマン・クリークの北岸に位置する場所でした。この地域は開拓時代には重要な場所だったそうで、断崖の切れ目がヒックマン・クリークの河口の下のケンタッキー・リヴァーを渡る浅瀬に通じており、ダニエル・ブーンはここを好んで横断したらしい。それが理由ですぐ傍らの小山はブーンズ・ノールと呼ばれるようになったのでしょう。カーリーらの蒸溜所はブルー・グラス蒸溜所と呼ばれ、連邦政府からの登録番号はケンタッキー州第8区のRD#3でした。このプラントはアイアンにオーク材のラックで建造され、木材は敷地内のミルで製材されました。敷地内には自らのクーパレッジもあり、この地域の豊富なオークを使ってステイヴを供給していたそうです。倉庫にはライトや換気や防火のための最新技術を取り入れていたとされています。また、元々はウッデン・スティルだったのが後に取り壊され、品質管理に有利なカッパー・スティルが使われるようになったとか。彼らの製品はブルーグラス・ウィスキー(バーボンとライ)として販売され、これは「ブルー・グラス」という言葉を初めて商業的に使用した例となり、カーリーは瞬く間にこのブランドをアメリカ全土に知らしめました。何時かは判りませんが、シカゴのバイヤーに8600バレルを現代に換算して1900万ドルで売却したことが記録されたと伝えられます。1872年6月、カリフォルニア州サクラメントの新聞に掲載されたカーリーの地元の販売代理店が出した広告では、生産される酒の量より質により多くの注意を払い、製造に使用する水はケンタッキー・リヴァーの崖にある泉から湧き出る特殊な性質のもので、カーリーのウィスキーは経営者だけが知っているレシピで昔ながらの方法で造られている、と紹介されました。1874年には3人のパートナーシップは解散、エイケンはレキシントンに移って既存の蒸溜所を借り、D.A.エイケン&カンパニーとして1882年に火災と財政問題で閉鎖されるまで操業したらしいですが、キャンベルの方はどうなったかよく分かりません。ともかくカーリーはブルー・グラス蒸溜所の単独経営者となり、自分のウィスキーが全米で愛飲されていることを実感していました。
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(ラス・サットン氏のFacebook投稿より)
1880年頃、カーリーは対岸に立派で頑丈な石造りの2番目の蒸溜所を建設し、鉄骨の橋で連結します。こちらはブーンズ・ノール蒸溜所(第8区RD#15)と命名されました。当時の記録によると、マッシング・フロアーやファーメンディング・ルームの温度は一年中安定しており、配管や機械なども新しく効率的だったとされます。ブルー・グラス蒸溜所は一日600ブッシェルの穀物をマッシングする能力があったものの、その限界まで稼働することはなかったそうで、一方のブーンズ・ノールのプラントは或る時にキャパシティを増やし、1日1100ブッシェル、1日100バレルの生産能力があったようです。この二つの蒸溜所は本質的に一つとして運営され、貯蔵施設は共有されていました。サンボーン・マップや1892年の保険会社の記録によると、敷地内には15の主要な建物、4つの共同倉庫、ワゴン・トレイル、牛小屋や畜舎などがありました。カーリー(もしくはその後の所有者。後述)はE.J.カーリー&カンパニーの名の下でここを運営し、何時しかE.J.カーリー蒸溜所(またはキャンプ・ネルソン蒸溜所とも。サンボーン・マップにそうかれていた)と呼ばれるようになり、最高級のケンタッキー・ウィスキーを安定的に生産しました。主要ブランドはブーンズノール、ブルーグラス・バーボンとライで、他にロイヤル・バーボンというのがあったようです。
禁酒法以前のウィスキーに詳しいジャック・サリヴァンによると、東海岸での販売については、カーリーは限られた生産量の多くをニューヨークのチャールズ・フローブの会社に委ねていたそうです。1880年あたりから1900年代初頭に掛けて酒類卸業で成功を収めた彼の主力ブランドはブルーグラス・ライで、セラミック・ジャグやガラス・ボトルに入れて販売されました。フローブはブルーグラス・ライのブランドを精力的に宣伝し、非常に消化が良いし滋養があり完全に自然であるとして、「身体を活気づけ、吐き気を催さないため、療養に最適。 そのドライネスは糖尿病疾患に先ず必要である」と広告でその薬効を強調したとか。また、当時の多くの販売会社と同じように酒場の客向けにカラーのサルーン・サインを発行し、それにはケンタッキー・リヴァーを望むダニエル・ブーンが描かれたものがありました。しかし、そうしたマーケティングだけではどうにもならず、当時の他の蒸溜所と同様にE.J.カーリー&カンパニーも抑圧的な連邦税法と経済の悪化が重なったことで財政難に陥り、1889年、カーリーの馬と荷馬車は税金未納のため押収されたと言います。同年、カーリーは自分のインタレストを所謂ウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニーに売却し、ニューヨークに移りました。この投資家グループは蒸溜所を買収して準独占状態を作り出すことでケンタッキー・ウィスキーからの利益を急増させようとしていたのです。トラストはカーリーの後任として新しいマネージャーにレキシントンの卸売酒類ブローカーのオーガスト・C・グッサイトを任命しました。トラストによって取得され閉鎖されてしまった多くの施設とは異なり、ブーンズ・ノール蒸溜所は禁酒法の到来によって完全に閉鎖されるまでの約20年間、カーリーのブランドの生産を継続したようです。カーリーの「ビジネスは何年にも渡って急速に成長し、ケンタッキー・バーボン生産の90%を掌握した後、彼は1902年にニューヨークでディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションを設立した」との情報もありましたので、もしかするとカーリー自身がトラストの幹部になったのかも知れませんが、ここらへんの詳細は私には分かりかねます。詳しいことをご存知の方はコメントよりどしどし追加情報をお寄せ下さい。

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(1905年頃の蒸溜所。すぐ左手にカヴァード・ブリッジが見える)

カーリーは、ケンタッキー・フライドチキンのハーランド・デイヴィッド・サンダースやブラントンズ・バーボンの由来となったアルバート・ベイコン・ブラントンのように、ケンタッキー州の名誉職として多くの人に与えられている「カーネル」の称号を何時しか得ていました。明らかに長期的な視野で蒸溜所を建設し運営していた彼は、ウィスキー事業に全力を注いでいたからなのか、結婚していませんでした。そのためでもないでしょうが、彼の晩年は少し寂しいものだったようです。カーネル・カーリーはニューヨークに移った後、ヨーロッパのどこかで事故に遭って脚を失い、数年の闘病生活を経てモンテカルロで1922年に亡くなったとされます。ケンタッキー・ウィスキーで築いた1000万ドルとも伝えられる財産を甥の息子達に遺して。この大金を受け継いだのはマサチューセッツ州ヘイヴリルに住むパトリックとジェイムス・キャニングの二人でした。この幸運を知らされた時、靴職人だった彼らは少しも動揺することも興奮することもなかったと言います。「もう歳だから、我々のやり方を変えるのは無理だよ。25年も靴を作り続けているんだから、これからもずっと続けるさ。家はペンキで塗り替えようかな、あと、もちろん、三人の娘には何でも好きなものを持たせてあげてね」とジェイムス。「そうだね」とパトリックも同意して「私たちはこの幸運を祝って、このまま靴工場に留まるわ」、「大富豪の生活を送るより、靴を作りたい」と語りました。ちなみにエドワードの兄弟M.H.カーリーはボストンの政治家として有名だったようです。

禁酒法の制定により閉鎖されたE.J.カーリー蒸溜所(RD#15)は、立派な石造りの外観を呈し、内部も美しい木材で造られていたため、1923年頃、ケンタッキー・リヴァーと断崖を望むリゾート・ホテルとしてダニエル・ブーン・ホテルへと改築されました。しかし、このホテルは世界恐慌が始まったことで開業することはなく、禁酒法が撤廃されるまで空き家となっていました。一方その頃、残ったウィスキーとブランドはトラストの後継組織であるアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS。後のナショナル・ディスティラーズの母体)が引き継いでいました。同社はドライ・エラにメディシナル・ウィスキーとしてボトリングすることを許可された6社のうちの1社でした。AMSを始めとする彼らは禁酒法によって閉鎖された小規模蒸溜所の酒類を買い取り、自社の集中倉庫に貯蔵していたのです。それらのウィスキーは多くの場合、蒸溜元とは異なる会社によってボトリングされ、医師の処方箋があれば手に入れることが出来ました。
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(禁酒法時代にボトリングされたオールド・ブーンズノールのメディシナル・パイント)

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禁酒法が解禁された後の1934年、グラッツ・ホーキンスらがこの土地を買い取り、蒸溜所の建物を改築して元の目的に戻し、新しい倉庫を建てて、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所という名で操業されることになり、レジスタード・ナンバーも新しくなりました(RD#45)。これはジョージ・T・スタッグのカーライル蒸溜所(第7区RD#2)が1910〜19年に名乗ったのと同じ名前ですが別物です。その後、工場はビル・トンプソンに買収され、F. B.ミッチェルのマネジメントのもとオールド・レイジー・デイズというブランドを追加したらしい。で、ここからなのですが、サム・K・セシルの本によると、トンプソンは1960年代の或る時期にプラントをノートン・サイモンに売却したとしていますし、他の情報源の多くも60年代にこの蒸溜所がノートン・サイモンに売却されたとしています。しかし、ニューヨーク・タイムズの1959年8月14日の記事によると、カナダ・ドライ社(**)はバーボン・ウィスキーの製造会社であるケンタッキー・リヴァー蒸溜所をプライヴェート・グループから買収したとあり、同社は1955年以来ウィスキーを「カナダドライ・バーボン」として自らの商標で販売して来たとありました。そして画像検索では1957年ボトリングの6年熟成とされるカナダドライ・バーボンが見つかりました。カナダ・ドライ社は1950年代以降、製品拡張に努めていたようで、ソフトドリンクを缶で販売することを大手企業としては早い段階に手掛けたり、カロリーゼロかつ砂糖不使用を謳うダイエット製品ラインであるカナダドライ・グラマーを主要な清涼飲料メーカーとして初めて1954年に発売しています。おそらく彼らは1950年代半ばから同ブランドでスピリッツも展開し始め、手始めにバーボンをケンタッキー・リヴァー蒸溜所に委託して生産していたのではないでしょうか? こうした供給元が販売会社によって買収されるのはよくある話です。
カリフォルニアの食品実業家ノートン・サイモン(1907-1993)は、自身のハント・フーズの利益が拡大するにつれ、成長が期待できる他の割安な企業の株を買い始め多角化を図りました。彼は多大な成功と市場支配力を持ち、持株会社のノートン・サイモン・インコーポレイテッドを通じて買収を続け多岐に渡る事業を展開しました(ハンツ・フーズ、マッコールズ・パブリッシング、サタデー・レヴュー・オブ・リテラチャー、テレビ制作会社タレント・アソシエイツ、カナダ・ドライ社、サマセット・インポーターズ、グラス・コンテナーズ・コーポレーション、ユナイテッド・カン・カンパニー、マックス・ファクター・コスメティックス、エイヴィス・レンタル・カーなど)。サイモンは或る時カナダ・ドライにも関心を持ち、彼の会社と合併させました。この取り決めの下でカナダ・ドライは、ワインとハード・リカーのボトラーおよび輸入業者であるサマセット・インポーターズの子会社として役割を果たしたのではないかと思われます。当時サマセットの社長はポール・バーンサイドで、ノートン・サイモン社はケンタッキー州ジェサミン郡ニコラスヴィルのプラントをカナダ・ドライ蒸溜所として運営しました。この蒸溜所でカナダ・ドライのバーボンを蒸溜し、ジンやウォッカを瓶詰めし、ドメックのブランドでブランディも瓶詰めしていたそうです。ちなみにカナダ・ドライのバーボン、ジン、ウォッカは管理州(***)でのみ販売されていたとか。
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60年代半ばからはカナダドライ・バーボンの広告も開始されたらしく、67年の広告では「良い響きの名前はバーボンの世界の伝統です。しかし、良い響きの名前はバーボンの味には何の役にも立ちません。カナダ・ドライはバーボンの味のために何かをしました。我々はそれをより滑らかにしたのです」と語られました。当時はライトな風味が求められる風潮もあってか、滑らかさを強調したのでしょう。しかし、どうやらカナダドライ・バーボンの売れ行きは芳しくありませんでした。サマセットがバーボン・ビジネスに参入しようと考えた時、バーンサイドはカナダ・ドライ・ブランド用のバーボンを必要以上に生産していたようです。しかも、なんでも倉庫の問題で一部のバーボンは品質が悪くカビ臭かったらしい。税金が掛るバーボンの在庫を抱えることは彼らの計画にそぐわず、売れなかった粗悪品を捨てる場所を探すしかありませんでした。1972年、巨大なコングロマリットであるノートン・サイモン社は、ジェファソン郡シャイヴリーにある評判の高いスティッツェル=ウェラー蒸溜所(RD#16)をヴァン・ウィンクル家から買収しました。そこでスティッツェル=ウェラー蒸溜所は暫く生産を停止し、余ったカナダドライ・バーボンの殆どを新たに買収したスティッツェル=ウェラーの最下位製品であるキャビン・スティルというブランドに混ぜ入れ、明らかに悪いウィスキーをカモフラージュしました。そのため伝統あるキャビン・スティル・ブランドは台無しになり、凋落が始まったという話が伝わっています。また、カナダ・ドライのバーボンはスティッツェル=ウェラーのウィーテッド・バーボンとは異なるライ・レシピのバーボンだったようです。正確な時期は判りませんが、カナダドライ・ブランドの終わり間際の短期間、ラベルには「Stitzel-Weller's」との文字が現れました。
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(E.J. Curley & Co.のウェブサイトより)
先のセシルによると、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所は、一時期はエド・キミンズがマネージャーを務め、グラッツ・ホーキンスの甥であるメル・ホーキンスがディスティラーをしており(メルはカナダ・ドライ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーだった)、他にはメンテナンス担当のプラグ・ジョンソン、倉庫管理担当のレイ・クラークなど、長年の従業員がいたようです。ノートン・サイモン下でマイク・ソタクが全体のマネージャーになり、エド・ズィーグラーが化学者、ジーン・ストラットンがオフィス・マネージャーを務めたとされています。そして、この蒸溜所は1971年に操業を停止したとの情報がありました。近くに住んでいた人の話によると、1981年くらいには廃墟となっていたようで、後の1987年頃、どこかの愚か者がその場所を焼き払い、蒸溜所の建物は全焼したそうです。蒸溜所はとうになくなってしまいましたが、ケンタッキー・リヴァーのジェサミン郡側、ハイウェイ27号線のすぐ西にあるキャンプ・ネルソンのリックハウスはまだ残っています。その倉庫は一時期シーグラム社にリースされ、アンダーソン郡の工場(オールド・プレンティス蒸溜所)で生産していたものを同社がロータスに平屋造りの熟成庫を建設するまで保管していました。更にその後はアンダーソン郡のブールヴァード蒸溜所にリースされ、現在でもワイルドターキーが使用しています(注*参照)。

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偖て、ここまでブーンズノールを造っていた蒸溜所の歴史を紹介して来た訳ですが、ブーンズノールというブランド自体はAMSからナショナル・ディスティラーズが引き継いでいるようなので、禁酒法解禁後はケンタッキー・リヴァー蒸溜所では造られなかったのではないかと思います。上画像のオールド・ブーンズノールのラベルはナショナルの製品であることを示しています。製造はピオリアやルイヴィルのナショナルが所有していた施設なのでしょう。但し、これらが実際に販売されたのかどうか私には分かりません。少なくとも、大々的にキャンペーンされたり、長い期間販売されていた形跡はないので、50年代まで生き残らなかった可能性は高いのでは? おそらくナショナルは何時しかこのラベル(名前、トレードマーク)を放棄したのではないかと思います。
そうして長い年月を経て、歴史の塵となって忘れられたブランド名が、ラベル・デザインは全然違うものの、1990年代になって突如として現れます。冒頭で述べたようにジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がゴードン・ヒューJr.のためにブーンズノールの名で16年物のミクターズ・バーボンをボトリングしたのです。繰り返しますが、何故ジュリアン3世がこのブランド名を採用したのか分かりません。このブランドは、彼が祖父の“パピー”から受け継いだラベル帳にコレクトされているのがムック本『ザ・バーボン PART3』の特集記事で確認できるので、ジュリアンがその存在を知っていたのは確実だと思われ、もしかすると名前が気に入っていたのかも知れませんね。それは兎も角、ブーンズノール16年はごく限られた本数しかなかったせいもあり、知る人ぞ知る存在であって、ブーンズノールの大復活とはなりませんでした。

そして、またもや長い年月を経て、バーボン・ブームに湧く現在、なんと新しいE.J.カーリー&カンパニーが発足し、歴史ある蒸溜所をジェサミン郡に復活させると2021年にアナウンスされました。新興E.J.カーリー社の社長マシュー・パーカーは、「ジェサミン郡で唯一の蒸溜所となることを嬉しく思っています。キャンプ・ネルソンとブーンズ・ノールの歴史はコモンウェルスにとって輝く星であり、E.J.カーリー社の元の場所でアメリカのスピリッツの生産を復活させることに感激している」と語っています。彼らは1800万ドルを投じる計画で、プロジェクトの第一段階には500万ドル以上の投資が含まれ、キャンプ・ネルソンのケンタッキー・リヴァー・パリセイズにあるオールド・ダンヴィル・ロード7777番地に、22500平方フィートの施設を建設するとのこと。新しい蒸溜所でのスピリッツ生産は2022年5月までに開始され、テイスティング・ルームも開設される予定だそうです。CEOであるリック・ベイカーは「第2期の1000万ドルの新規設備投資により、生産能力を年間15000から18000バレルに増強し、同じくジェサミン郡に大規模なリックハウス貯蔵施設を建設する予定です」と述べていました。今のところは「E.J.カーリー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のスモールバッチとシングルバレルの2種類が発売されています。ユーチューブのバーボン・レヴュアーが取り上げていたので見たところ、その味わいはなかなか良さそうでした。これらはケンタッキーの何処かの蒸溜所から調達されたものでしょう。
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(新しいE.J.カーリー社のウェブサイトより)
1860年代後半に遡るそもそものE.J.カーリー蒸溜所はジェサミン郡に深く根ざし、周辺地域の住民の家族の多くは歴史的にその会社と結び付いていました。新しい蒸溜所もそうした雇用を創出すると期待されています。我々バーボン愛好家にとっては自社蒸溜原酒がどんな味わいになるのか、今後が楽しみですね。

では、そろそろ最後にジェサミン郡とは取り立てて関係なく、ケンタッキー産ですらないブーンズノール16年を飲んだ感想を少しばかり。こちらは大宮のバーFIVEさんのメンバー制ウィスキー倶楽部にて提供されたものです。マスターとバーテンダーのNさん、いつも貴重なバーボンをありがとうございます!

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(画像提供バーFive様)
BOONE'S KNOLL 16 Years Old 91.6 Proof
推定90年代初頭ボトリング。色は赤ぽさもオレンジぽさもある艷やかなブラウン。曇ってはいないが、何かの粉でも入ってるのかしらというほど微粒子が見える液体。枯木のような樽の香ばしさ、黒糖のような甘い香りと穏やかなスパイスが薫るエレガントなアロマ。水っぽい口当たり。パレートは香りを引き継ぐがフルーティさがやや足りない。余韻は複雑なハーブ&スパイスとオールドオークのビターな風味が長く続く。ただ、どうもボトリング・プルーフが低すぎる印象はあった。
Rating:88/100


*キャンプ・ネルソンは、アンブローズ・エヴェレット・バーンサイド少将のテネシー州への進軍を支援するため、1863年6月12日に設立され、北軍の補給基地、訓練センター、ホスピタルとして使用されました。名前はウィリアム・ネルソン少将にちなんで付けられています。北軍の指揮者は防衛のし易い場所としてジェサミン郡ニコラスヴィルの南の地を選びました。ケンタッキー州とテネシー州から集められた兵士の訓練施設としても機能しましたが、ユニオンのほぼ全ての州からの部隊がキャンプ・ネルソンに駐屯したり通過したりしたそうで、最盛期には300以上の建物があり、3000人以上の兵士を駐屯させることが出来たそうです。
キャンプ・ネルソンは南北戦争中にケンタッキー州にある8つのアフリカ系アメリカ人徴集センターの中で最大かつ国内で3番目に大きいユナイテッド・ステイツ・カラード・トゥループス(USCT)の徴集センターおよび訓練施設となりました。入隊に関する全ての制限が1864年6月までに撤廃されると、アフリカ系アメリカ人の入隊者数は爆発的に増加。以前は奴隷だった彼らは入隊することで解放され、1864年と1865年で10000人以上の奴隷だった男性がキャンプ・ネルソンで兵士になったと言います。自分達の自由を確保し、最終的には奴隷制の破壊に貢献することで自分の未来をコントロールすることを期待して、何千人ものアフリカ系アメリカ人が奴隷保有州のケンタッキー内に在るこのキャンプに命掛けで逃げ込みました。彼らは妻や子供ら家族を連れてキャンプ・ネルソンにやって来たためキャンプは難民で溢れ返り、この状況にどのように対応するか明確な命令がないままキャンプ指揮官達は自分達の手で問題を解決することを余儀なくされ、1864年、キャンプ・ネルソンの指揮官だったスピード・S・フライ准将は難民の住居を焼き払い強制的に退去させました。避難所も食料もなく多くの人が病気に罹り死んで行ったそうです。北軍幹部とアフリカ系アメリカ人兵士はこの処置に難色を示し、フライはこの命令を取り消して難民キャンプを設立せざるを得なくなりました。キャンプの運営には宣教師たちが協力し、学校や教会のサービスを提供しました。宣教師の中で最も注目されたのは、ジョン・G・フィー牧師です。フィーは奴隷制度廃止論者で、ブリアー・カレッジを設立し難民に入学を勧めました。
キャンプ地の一部は1863年以来墓地として使用され、1866年までに1180人が埋葬されたと言います。南北戦争後、1866年にナショナル・セメテリーと名付けられた墓地はケンタッキー州の他の場所に埋葬されていた北軍死者の再埋葬に使用されました。1866年6月にキャンプ・ネルソン軍事基地は正式に閉鎖されましたが、キャンプと墓地の名残は保存され、現在はアルケオロジカル・サイトとして見学ツアーに開かれています。墓地の反対側には、嘗てシーグラムがフォアローゼズを保管するために使用し、今はワイルドターキーがウィスキーを熟成させている6つのリックハウスがあり、ここの倉庫から産出されるバレルはワイルドターキーで最高の物とされる場合もあってバーボン愛好家には有名です。
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(ボー・ギャレットが提供するワイルドターキーのキャンプ・ネルソン・リックハウスの配置が分かる画像)

**カナダ・ドライ社は1890年代に薬学者/化学者のジョン・J・マクラフリンによってトロントでスタートしたソーダ会社で、1904年にカナダドライ・ペール・ジンジャーエールを造りました。1919年にニューヨークへの出荷が開始され、奇しくもアメリカの全国禁酒法がカナダドライを人気商品にするのを助けました。禁酒に対して真面目な人は酒の代わりにカナダドライを飲み、禁酒に対して不真面目な人は違法な酒を手にした訳ですが、そうした酒の殆どは低品質でまともに飲めたものではなく、それらにカナダドライ・ジンジャーエールをブレンドすると酒の味をカヴァーしてだいぶ美味しくなり飲めるようになった、と。

***アメリカにおけるアルコール規制は、各州ごとに独自の規則があります。飲料用アルコールの規制システムには開放州(オープン・ステイト)と管理州(コントロール・ステイト)の二種類があって、ボトルが消費者の手に渡るまでに異なる経路を辿り、それぞれブランド構築のための異なる戦略が必要とされています。
開放州ではアルコール飲料の販売と流通は民間事業者が行いますが、依然として州議会によって規制されています。規制は主に免許制で行われ、州の裁量でアルコールの売買を許可するライセンスが民間企業に付与されます。開放州で事業を行うメリットは一般的に、リカー・ストアへのアクセスが良くなり、消費者にとって飲料の選択肢が増え、更により多くの商品へのアクセスが可能になるため管理州よりも価格が低くなる傾向があるところ。
管理州では政府機関がシステムの卸売りの側面を担当し民間の小売店に製品を配送するか、殆どの管理州が小売の側面も所有していることが多く、これは通常、州が運営するアルコール飲料管理局(Alcohol Beverage Control Board)の店舗という形で行われます。全ての管理州では、各製品の最低価格が州によって設定され、消費者のための価格が決定されます。一般的な管理州のメリットとしては、州の歳入、アルコール・プログラムへの支援や教育、節度ある消費の促進など。現在のアメリカでは以下の17州が管理州です。
アイオワ
メイン
ミシガン
ミシシッピ
モンタナ
オハイオ
オレゴン
ヴァーモント
ワイオミング
ウェスト・ヴァージニア
アラバマ
アイダホ
ニュー・ハンプシャー
ノース・キャロライナ
ペンシルヴェニア
ユタ
ヴァージニア
また、メリーランド州モンゴメリー郡は管理州制度で運営されていますが、州全体はそうではありません。

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(画像提供Bar FIVE様)

ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は様々な原酒を用いて自身のブランドを構築して来ました。その中で最も有名なのはスティッツェル=ウェラー原酒でしたが、ゴードン・ヒューJr.に依頼されてボトリングしたペンシルヴェニア1974原酒もよく知られています。旧ミクターズ(ペンコ)で蒸留されたそのバーボンについては過去にA.H.ハーシュ・リザーヴ16年の投稿で取り上げたのでそちらを参照下さい。

今回紹介するヴァン・ウィンクル・セレクション16年ロットHに入っているバーボンの出所については、実はジュリアン三世からの決定的な証言がありません。そのため海外ではその使われた原酒については可能性の指摘に留まっていますが、表ラベルに「Kentucky」表記がなく更に「Pot Stilled」とあること、ロットの「H」は「Hirsch」の略ではないかと推測されること、裏ラベルの「Kentucky」表記はインポーターのミスであろうこと、そしてハーシュ・リザーヴに同じボトリング・プルーフが存在することから、個人的にはほぼ間違いなくペンシルヴェニア1974原酒だと思います。恐らくこの16年のセレクションは、コニャック・タイプのボトルに入った「HIRSCH RESERVE 16 YEARS OLD 47.8% ABV」やスコッチ・タイプのボトルに入った「A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD 47.8% ABV」のラベル(ブランド)違いではないかと。また、ヴァン・ウィンクル・セレクション・ロットHには17年熟成もありますが、A.H.ハーシュ・リザーヴにも17年があり、どちらも95.6プルーフと共通のボトリング・プルーフとなっています。これではペンシルヴェニア1974原酒でないことを疑うほうが難しいのでは…。まあ、それは措いて、さっそく注ぐとしましょう。

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VAN WINKLE SELECTION 16 Years Old Lot “H” 95.6 Proof
こちらは大宮Bar FIVEの会員限定ウイスキークラブにて提供された一つで、ハーフショットでの試飲。当方のリクエストに応えて頂いたかたちとなります。マスターの心意気に感謝しかありません。ありがとうございました!

推定90年もしくは91年ボトリング(AHハーシュの情報からの判断)。ハーブ、キャラメル、古い木材、オールスパイス、オレンジ・ティー、ミント。アロマは甘い香りとハーブ&スパイスが混在。パレートは果物で言うとオレンジが感じ易い。スムーズな喉越しだが、飲み込んだ直後のパンチはなかなか。余韻は長く、爽やかなハーブ香とメディシナル・ノートが少々。

サイド・バイ・サイドではないので不確かかも知れませんが、以前飲んだA.H.ハーシュ・リザーヴ16年ブルー・ワックスと同様、基本的にハービーな傾向はある気がしました。現行の4〜6年のバーボンが「子供」味だとすると、こちらは「大人」味と言ったところでしょうか。ペンシルヴェニア1974原酒は長期熟成酒にありがちなウッディ・ノートが出過ぎない完璧なバランスのバーボンと評されたりするのですが、私の個人的な意見では長熟の特徴的なタンニンはかなりあると思います。飲んだことのある皆さんはどう思われますか? ご意見ご感想コメントよりどしどしお寄せ下さい。
Rating:88.5/100

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オールド・グロームスは日本のバーボン好きには比較的知られていますが、本国アメリカでは一部のマニアを除いて殆どの人が知らない銘柄です。その理由はオールド・グロームスのラベルが日本市場向けなのと、生産量が少ないからだと思われます。そして、それを造っているのがNDP(非蒸留業者)なのは確かなのですが、原酒の調達先については、諸説あったり、製造年代による変遷があると見られ、また一部は別ソースの可能性もありそうで、あまり明らかではありません(*)。そんな謎のブランドにあって唯一そのソースが明確なのが、このオールド・グロームス・ヴェリー・ヴェリー・レア16年。
殆どのオールド・グロームスはラベルに「イリノイ州シカゴ」とありますが、このオールド・グロームス16年だけ「ケンタッキー州ローレンスバーグ」とあります。これはジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のオールド・コモンウェルス蒸留所でボトリングされたことを示しており、彼自身の証言からあの有名なA.H.ハーシュ・リザーヴと同じペンシルヴェニア1974原酒が使用されたと判明しているのです。ラベルにもちゃんとに「ケンタッキー」の文字はなく、「ストレート・バーボン・ウィスキー」としか書かれていません。それにラベル・デザインも他のオールド・グロームスとは少し趣が異なり、なんと珍しくラベルには日本語の文章も綴られています。
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「珍品」とか「殿方」という言葉や文体に時代を感じさせますよね。A.H.ハーシュ・リザーヴとペンシルヴェニア1974原酒に関しては前回の投稿で紹介しましたのでそちらを参照して頂くとして、A.H.ハーシュ・リザーヴ16年とオールド・グロームス16年の中身の差はボトリング・プルーフだけだと思います。そこで、飲み比べ用に両者を同時注文した次第。一体どれほどの違いがあるのでしょうか?

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(画像提供Bar FIVE様)
Old Grommes Very Very Rare 16 YEARS OLD 101 Proof
推定1990年もしくは91年ボトリング(**)。フレイヴァーに於いて同じものを飲んでる感じはかなりあります。ですが、こちらの方がアーモンドキャラメルのような焦樽の香りが強く、パレートでもより甘みを感じ易い印象。ハーシュ・リザーヴがスパイス&ハーブが前面に来るのに対し、オールド・グロームスはキャラメルが前面に来るので、全体としてバランスが優れていると言うか整っている気がします。まあ、好みではあるでしょうが、やはりプルーフィングによる違いは大きく感じました。個人的には100プルーフ(前後)はバーボンにとって完璧なプルーフだと考えているので当然かも知れません。世界的な知名度ではA.H.ハーシュ・リザーヴ16年に劣りますが、オールド・グロームス16年はそれよりも更に美味しいバーボンだと思います。海外の方に較べてこれを飲みやすい環境にある我々日本人としては「飲まなきゃ損損」であり、「あるうちに飲んどけッ!」と切に思う…。
Rating:90/100


*後期のオールド・グロームスは日本で流通している情報ではジムビーム原酒とされており、それは8割方そうかも知れませんが、ここでは初期を含めたブランド全般に言及しています。シリーズ全体の紹介や会社の概要、ブランドの名前の由来となっているヒューバート・グロームスについては、いづれ機会があれば書くこともあるでしょう。

**瓶底の数字は88とありますが、この時期のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は少し古いボトルを使用しているという情報がある他、ペンシルヴェニア1974原酒の情報を基に考えると、この年数が妥当と思われます。

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A.H.ハーシュ16年は史上最高のバーボンとも言われるほど伝説のバーボンであり、世界的に価格の高騰している「ユニコーン」とか「聖杯」と呼ばれるバーボンの一つであり、殆ど神話の世界に属していると言っても過言ではありません。近年の平均的なオンライン価格に基づく最も高価なバーボンのリストで常に上位にあり、日本円で言うと20〜30万円の間くらい(或いはそれ以上)で取引されています。A.H.ハーシュの帯びる神秘性は興味深いことに、通常よくあるような販売会社のマーケティングを通じて付与されたのではなく、主にインターネット上の初期バーボン愛好家コミュニティを通じて生み出されました。神話の形成にはA.H.ハーシュの辿った複雑な歴史的背景も関係しています。バーボン・ライターのチャールズ・カウダリーは、一冊丸ごとハーシュ・リザーヴについての本を上梓することでそうした歴史を詳らかにし、45ドルのバーボンがどのようにして伝説となったかの物語を我々に教えました。間違いなく誇大宣伝されているバーボンの一つではありますが、それだけ人は伝説や神話が大好きなのです。

A.H.ハーシュを語るには雑多な説明をせねばならないので、一先ず、ざっくりと概略を示しましょう。A.H.ハーシュ・バーボンは1974年の春、アドルフ・ハーシュとの契約によりペンシルヴェニア州シェーファーズタウン近くのペンコ蒸留所(後のミクターズ蒸留所)で単一400樽(*)のバッチにて生産されました。このウィスキーは先代のチャールズ・エヴェレット・ビームのもとで学んだマスター・ディスティラーのディック・ストールがスタンダード・バーボン・レシピを使い蒸留しました。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーとされています。
1989年に蒸留所が破産に直面した時、このバーボンは既に典型的なものより遥かに長い間熟成されていました。蒸留所が倒産するまで敷地内の倉庫で眠り続け、一度も使用されることなく時を過ごしたのです。同年、バーボンは蒸留所の資産を売却する前に救出されました。ノーザン・ケンタッキーにあるコルク・アンド・ボトル(酒のセレクトショップ)のゴードン・ヒューがそれを買い上げて、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世にボトリングしてもらい、A.H.ハーシュ・リザーヴというブランドにしたのです。ヒューの計画はこのバーボンを日本市場で販売することでした。当時、日本はバーボン市場として活況を呈しており、アメリカとは正反対に超長期熟成原酒をボトリングしたバーボンはかなりのプレミアム価格で取引されていました。スコッチを基準としてウィスキーを受容した日本人は、バーボンにさほど馴染みがなかったため、スコッチのような熟成年数の12年や15年、時には20年以上の熟成期間を経たバーボンを求めたのです。A.H.ハーシュ・バーボンは発売からの20年間に渡り様々なプルーフと熟成年数でゆっくりとボトリングされて行きました。熟成年数は15〜20年でリリースされましたが、最も数の多いのは16年でした。それらは全て同一のウィスキーであり、単に異なる時期に樽やタンクから引き出されボトリングされたものです。

A.H.ハーシュ・リザーヴ・ストレート・バーボン・ウィスキーは1989年に始まりました。最初に出されたのは15年熟成の物で、1989/1990年に非常に少数ボトリングされ、その殆どが日本に送られました。最も有名な16年熟成の初めてのバッチは一年後の1991年にボトリングされ、青色の封蝋を施されているので通称「ブルー・ワックス」のハーシュと知られています。この時点で大部分のバーボンはこれ以上の熟成を止めるためにステンレス・タンクに入れられました。と同時に少量のバーボンは20年まで樽に入れられたまま熟成を続け、段階的に17年、18年、19年、20年と小分けにしてボトリングされて行きます。ヒューはブランドの所有権を維持し、自分の店で少数のボトルを販売すると共に、主に日本とヨーロッパの市場へ販売しました。ちなみに「A.H. Hirsch」の文字に筆記体を使用した初期のラベルには本物の証としてウォーターマーク(透かし)が入っています。
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(画像提供GEMOR様)

その後、プライス・インポーツのヘンリー・プライスがブランドを買収し、以前までのローレンスバーグではなくフランクフォートと記載された通称「ゴールド・フォイル」と呼ばれるA.H.ハーシュを2003年にリリースします。最も多くのボトリングが行われたのは、このゴールド・フォイル・ヴァージョンでした。当時のアメリカでの小売価格は1本約45ドルだったそうです(日本では或る時点では6500〜7500円程度だった)。2006年半ばにプライスは最後の1000ケースまで減ったと報告しました。この頃にはA.H.ハーシュの伝説は広まり彼らもそれを認識していたのか、2009年には名声あるバーボンの残りは高級な手吹きクリスタル・ボトルにリボトルされ、しかも木製のヒュミドールに入った特別なパッケージにして希望小売価格1500ドルで市場に投入されました。このセットは個別に番号が付けられたちょうど1000個の限定販売でした。これがA.H.ハーシュ・リザーヴ全体の最後のリリースです。
2011年、ヘンリー・プライスは会社とハーシュのブランドをアンカーに売却しました。これにはハーシュのヒュミドール・セットの残りの在庫も含まれています。価格が高すぎたせいなのか、当初はあまり売れ行きが芳しくなく、2013年4月の情報ではアンカーにはまだ800個のヒュミドール・セットが在庫されていることが確認されたとか。つまり在庫の20%を販売するのに4年掛かった訳です。それでも2015年頃にはアンカーの在庫は捌け、流通業者と小売業者の少数の在庫を残すのみとなりました。しかし「ユニコーン」バーボンが求められる現在では定価で購入することは叶わないでしょう。セカンダリー・マーケットも含め希望小売価格の倍が相場となっています(初期のAHHはもっと高い)。
ちなみに、一連の取引を経てプライス・インポーツはアンカー・ブリュワーズ&ディスティラーズの一部となり(**)、更に現在アンカーはホタリング&カンパニーと名称を変えました。彼らはハーシュ・ブランドを維持し、「ハーシュ・セレクション」や「ハーシュ・スモールバッチ」等の名前で色々なリリースをしていましたが、それらはここで言及している伝説の“ペンシルヴェニア1974”の「A.H.ハーシュ」ではなく、その中身は異なる調達先からのジュースです。また、2020年にはパッケージをリニューアルして、新しい「ハーシュ・セレクテッド・ウィスキーズ」というシリーズになり、その第一弾として「ハーシュ・ザ・ホライゾン」が発売されました。これはMGPソースのバーボンです。すぐ上に述べたセレクションともスモールバッチとも違うシリーズなので混同しないようにしましょう。
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ではここで、ネットで画像を確認出来たA.H.ハーシュ・リザーヴの各ボトルを以下にリストしておきます。左から、名称と熟成年数、ラベル(ハーシュ名の書体と色)、プルーフもしくはABV、封、ボトル形状、ボトリング地、その他の事項です。名称の小文字や大文字の区別やプルーフおよびアルコール度数の表記は、なるべく実際のラベルに記載された文字に従ったため、不統一になっていますがご了承下さい。また、発売年代順に列挙したかったのですが、私にはその仔細が完全には判らないため、熟成年数やラベル・デザインや瓶形状の同等性で纏めてあります。なのでリリース時期の判る方、それとこれら以外にもまだあるのをご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。

HIRSCH RESERVE 15 YEARS OLD|Van Winkle Style, Block(Red)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg|September 16, 1989
HIRSCH RESERVE 15 YEARS OLD|Van Winkle Style, Block(Red)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg|February 26, 1990
A.H. Hirsch RESERVE 15 YEARS OLD |Script(Red)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 15 YEARS OLD|Script(Blue)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
HIRSCH RESERVE 16 YEARS OLD|Van Winkle Style, Block(Red)|47.8% Vol./95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD|Script(Blue)|91.6 Proof|Blue Wax|Cognac|Lawrenceburg|1991
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD|Script(Blue)|47.8% Alc/Vol|Gold Wax|Scotch|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD|Script(Blue)|91.6 Proof|Black Wax|Scotch|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD|Script(Blue)|45.8% Alc/Vol|Gold Wax|Scotch|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 17 YEARS OLD|Script(Blue)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg|1991
A.H. Hirsch RESERVE 18 YEARS OLD|Script(Blue)|46.5% Alc/Vol|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg|November, 1992, released 37 cases(444 bottles)
A.H. Hirsch RESERVE 19 YEARS OLD|Script(Red)|46.5% Alc/Vol|Red Wax|Cognac|Lawrenceburg|November, 1993, released 121 cases
A.H. Hirsch FINEST RESERVE 20 YEARS OLD|Script(Red)|45.8% Alc/Vol|Red Wax|Cognac|Lawrenceburg|December, 1994 - April, 1995, released 500 cases
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old|Print|45.8% Alc/Vol (91.6 Proof)|Dripped Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old|Print|45.8% Alc/Vol (91.6 Proof)|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old|Print|45.8% ALC/VOL (91.6 PROOF)|Gold Foil|Cognac|Frankfort|2003
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old|Print|45.5% ALC/VOL (91 proof)|――――|Hand-Blown Crystal|Bardstown|Humidor Edition, 2009, 1000 bottles

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少し文章で補足しておくと、ラベル項目の「Van Winkle Style」は「ヴァン・ウィンクル・セレクション」や「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」に似た様式のラベルを指し、「script」は「A.H. Hirsch」の文字が筆記体で書かれた初期ラベルを指し、「print」は後期に定着した高級感の劣るラベルを指しています。ボトル項目の「Cognac」はなで肩シェイプのやや背の高いボトルを指し、「Scotch」はネック部分にやや膨らみがあり少しでっぷりしたボトルを指しています。
そして、A.H. ハーシュ名義以外でのペンシルヴェニア1974原酒を使ったボトリングで知られる物が幾つかありますので、それらは以下に纏めました。

Old Grommes Very Very Rare 16 YEARS OLD|101 Proof|−−−−|Square|Lawrenceburg|For Japan market
Colonel Randolph 16 YEARS OLD|116° Barrel Proof|−−−−|Squat|Lawrenceburg|released 100 cases
BOONE'S KNOLL 16 YEARS OLD|45.8% Alc/Vol|Black Wax|Scotch|Lawrenceburg|For Europe market, 256 Bottles
VAN WINKLE SELECTION 16 YEARS OLD LOT “H”|Block(Red)|47.8% VOL|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
VAN WINKLE SELECTION 17 YEARS OLD LOT “H”|Block(Blue)|47.8% ALC./VOL. (95.6 PROOF)|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg

この中で上から3つのブランドは、ボトリングした本人のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が証言してるのでペンシルヴェニア1974原酒に間違いありませんが、ヴァン・ウィンクル・セレクションの2つは海外では異なる原酒の可能性も示唆されています。レッド・ワックスの「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ16年、17年」や初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル20年」に使用されたオールド・ブーン原酒ではないかと言うのです。おそらく、そう推理する根拠は蒸留年が同じ1974年であることと、裏ラベルに「Kentucky Straight Bourbon Whiskey」と書かれていることと、ヒューが所有するペンシルヴェニア原酒にヴァン・ウィンクル名義を使う許可を与えるかどうか疑わしい、という三点でしょう。個人的見解では、わざわざ表ラベルに「Pot Stilled」とあり「Kentucky」とも名乗っておらず、更にロットが「H」、しかもプルーフだってA.H.ハーシュにあったボトリング…、これではラベルを信じる限りどう見てもペンシルヴェニア1974原酒としか思えません。裏ラベルに関しては日本のインポーターのミスだと思います。そしてヴァン・ウィンクル名義とは言え、「ファミリー・リザーヴ」と言ってしまうとヴァン・ウィンクル家の所有物になるかも知れませんが、「セレクション」ならジュリアン三世が厳選しましたくらいの意味になりギリOKだったのではないかと…。まあ、それはともかく上に挙げたブランドのうちオールド・グロームス16年とカーネル・ランドルフ16年はボトリング・プルーフが違うので別物と考えても差し支えありませんが、その他の三つはA.H.ハーシュの単なるラベル違いではないかと思うのです。皆さんはどう思われるでしょうか? ご意見をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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(画像提供Bar FIVE様)

さて、ここからはA.H.ハーシュ・リザーヴの来歴をもう少しだけ掘り下げてご紹介しようと思っているのですが、その前に予備知識と言うか念の為に言及しておきたいことがあります。
後にA.H.ハーシュ・リザーヴとなる原酒が生産された蒸留所は一般的にミクターズ蒸留所として知られるため、日本でA.H.ハーシュについて語られる場合、概ね「ミクターズ原酒云々」と言われます。しかし私はここまで、敢えてそう呼ばずに「ペンシルヴェニア1974原酒」と呼んで来ました。それには幾つかの理由がありますが、一つは「現代ミクターズ」との混同を避けるためでした。アメリカン・ウィスキー業界に明るい人は知っているかも知れませんが、そうでない場合、現代ミクターズとオリジナル・ミクターズに何か繋がりがあるかのように想定してしまう恐れがあると考えたのです。
ペンシルヴェニアのオリジナルのミクターズ蒸留所が閉鎖後、ミクターズの商標は放棄されました。その後、ジョセフ・マリオッコ率いるワインとスピリッツの販売を手掛けるチャタム・インポーツという会社が1997年に商標を取得し再登録、2000年代初頭にケンタッキー州のブランドとしてミクターズを復活させます。彼らは元々はNDP(非蒸留業者)、つまりバルク・ウィスキーを購入し、それをボトラーに依頼して瓶詰めしてもらい、自社ブランド名で販売するところからスタートし、後にケンタッキーの匿名の蒸留所で生産するようになり、2015年には自らの蒸留所をシャイヴリーに構えるに至りました。これが現代のミクターズです。そして現在では彼らのハイエンド・ウィスキーを造る戦略は成功を収め、人気を博しているのは周知の通り。彼らはミクターズの名前の権利を有しているため、シェーファーズタウン近くの蒸留所の長い歴史をマーケティングでは語りますが、今日店頭に並ぶミクターズのバーボンやライやその他のウィスキーはペンシルヴェニア州のミクターズ蒸留所で製造されたものではありません。上の説明で分かるように、本質的に別物なのです。まあ、これに関しては「旧ミクターズ」と「新ミクターズ(現代ミクターズ)」のように書き分ければいい話で、現にそうしている人もいるし、私もそうするでしょう(※ただし、文脈によって誤解がないならば、旧ミクターズであれ現代ミクターズであれ、どちらも単に「ミクターズ」と表記することはあります)。
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理由のもう一つは、ミクターズというブランドとミクターズとなるウィスキーを製造した蒸留所を分けて考えたかったからです。
今でこそアメリカン・ウィスキーのブランドの多くは、製造と販売の両方を行う企業によって造られていますが、昔は違いました。それらは分かたれ、どちらかと言えば販売側が支配的な力を持っている時代があったのです。南北戦争から禁酒法までは特にそうでした。その頃のビジネスでは、蒸留所はウィスキー及び他のスピリッツを造るとブローカーに一括で販売し、彼らはそれをブレンドやパッケージングやブランド化する飲料会社へと販売しました。殆どのブランド名を作成および所有したのは飲料会社もしくはブローカーであり、一般的には蒸留所ではありませんでした。アメリカン・ウィスキーのブランドが確立し、業界が発展するにつれ、中間業者は自分達の影響力に気づき始めます。最も力の強いブローカーは大都市を仕切り、その小型版のようなブローカーは地方の市場を支配しました。蒸留業は莫大なお金が掛かるため、業界は常に不安定でした。そのため蒸留所の所有権はコロコロと変わり、裕福な銀行家がオウナーとなったり、有能なビジネスマンがパートナーと共同で蒸留所を所有したり、そして大きな飲料会社やウィスキー・ブローカーが原酒の安定供給のため蒸留所を買収することも多かったのです。
ペンシルヴェニア州シェーファーズタウン近くにあり、後年ミクターズと呼ばれることになる小さな蒸留所の創業は1753年に遡ります。長い歴史の間に、この蒸留所は所有権の変更と共に様々な名前で知られていました。シェンクス蒸留所、ボンバーガーズ蒸留所、カークス・ピュア・ライ蒸留所、ペンコ蒸留所、ミクターズ蒸留所…。そしておそらく他の名前もあったと見られています。蒸留所がミクターズと名乗っていたのは、その存続期間のうち最後の15年ほどでした。それが最終的な名称であったため、またこの時期に蒸留所は観光に力を入れていたこともあり、ミクターズの名が広く知られるようになったのです。ミクターズは基本的に蒸留所ではなくブランド名でしたが、1975年以降に蒸留所に適用されました。「Michter's」という名称は1950年代初頭にブランドを作成したルイ・フォーマンが「Michael」と「Peter」という二人の息子の前半と後半の名前を繋げて名付けたものです。ミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーを販売していたマーケティング会社はミクターズ・ジャグ・ハウスと呼ばれていました。同社とシェーファーズタウンの蒸留所とは常に繋がりがあり、その蒸留所がペンコ・ディスティラーズと呼ばれていた頃も長年に渡ってミクターズ蒸留所として事業をしていたと思われます(所謂DBA)。それ故、便宜的に一律「ミクターズ蒸留所」としたり「ミクターズ原酒」としても悪くはないのですが、更に理由はもう一つありまして…。

ミクターズと言えば有名なのは上にも書いたミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーです。そのウィスキーのマッシュビルは、50%コーン、38%ライ、12%モルテッドバーリーでした。バーボンやライウィスキーを名乗るには、それぞれの主原料が少なくとも51%なければなりません。 それ故ミクターズはバーボンでもなくライウィスキーでもなくサワーマッシュ・ウィスキーとして販売されました。しかも、その一部は使用済みの樽で熟成されていたので「ストレート」も名乗れませんでした。ストレート規格は新樽で2年以上熟成させたものを言います。ここら辺の事情は、アメリカ市場向けのアーリータイムズが中古樽熟成を含むため「バーボン」でもなく「ストレート」でもない「ケンタッキー・ウィスキー」を名乗るのと同じようなものです。「サワーマッシュ」についても、禁酒法以前であれば差別化のための用語であったかも知れませんが、近年のアメリカン・ウィスキーのほぼ全てはサワーマッシュ製法で造られているので(***)、特別な用語とは言えません。ジャックダニエルズがテネシー・サワーマッシュ・ウィスキーであるのと同じ意味しかないのです。勿論ミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーというのは悪い製品ではありませんし、造り手は常に誇りをもって生産してもいましたが、価格帯のクラスで言えばジムビームやジャックダニエルズのスタンダードと同じボトムシェルファーでした。しかし、A.H.ハーシュ・リザーヴのレシピは全くの別物です。それ故に「ミクターズ原酒」と言った時に有名なミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーを想起してしまう可能性を考慮して、別の言い方にしたかったという訳なのでした。

では、A.H.ハーシュ・リザーヴの名前の由来となっている人物の説明に移りましょう。その男はシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションで間違いなく重要な人物でした。ですが、どんなパーソナリティの人物なのか、なぜ1974年の春にバーボンを蒸留させたのか、なぜ10年以上もそれを放置していたのか、それらは研究者の推論に頼らなければならない不明瞭な事柄です。それでも分かる範囲で書き出して見ます。
アドルフ・H・ハーシュは1908年6月5日、ドイツ南西部のライン川沿いの都市マンハイムに生まれました。彼は17歳でUSSクリーヴランド号に乗ってアメリカに移住し、直後に米国市民になるための請願書で「Adolf」から「Adolph」に改名、1932年にアメリカ市民となりました。シカゴの著名な投資銀行であるA.G.ベッカー&カンパニーに就職して働いた後、1934年に26歳の若さでルイヴィルのバーンハイム蒸留所の副社長になったそうです。蒸留所は常に資金を必要とするので経営者が銀行家なのは珍しいことではありませんでしたが、ハーシュもバーンハイムへの出資者の一人だったのかも知れません。I.W.ハーパーで有名なバーンハイム蒸留所は禁酒法が解禁された当時、シカゴを拠点とするウィスキー・マーチャンツの二人、エミル・シュワルツハプトとレオ・ジャングロスが取得していました。ハーシュは二人とA.G.べッカー社からの資金融資を通じて知り合ったのか、もしくはユダヤ系ドイツ移民のコミュニティで知り合いだったか、或いは旧大陸で何らかのコネクションがあったのか詳細は不明ですが、とにかく後々まで続く交友関係を築き上げています。
1937年、シュワルツハプトとジャングロスはバーンハイム蒸留所をシェンリーに売却しました。彼らはシェンリーの株主になったと思われますが、得た資金で他の事業を手掛けた可能性もあります。ハーシュは暫くルイヴィルに留まり、後に当時シェンリーの本部があったニューヨークに赴任したようです。1941年12月、アメリカが第二次世界大戦に突入したのと時を同じくして、ハーシュは33歳でシェンリーを去りました。程なくしてアメリカの蒸留酒業界は「戦争努力」のための工業用アルコールの生産準備を進めます。当初、陸軍省はテキサス、ルイジアナ、および湾岸州の蒸留所で十分だと考えていましたが、もっと容量を増やす必要と、沿岸部のプラントは攻撃を受け易いことに気づきました。すると内陸のウィスキー製造業者は急務にさらされました。
大規模な蒸留所は工業用アルコールへの転換を迫られましたが、小規模な蒸留所はウィスキーの製造を続けることが出来たと言います。ハーシュはこれをビジネスの好機と捉え、すぐに動きます。1942年、彼とサミュエル・グラスともう一人のパートナーは、ペンシルヴェニア州の田舎に二つの小さな蒸留所を既に所有していたペンシルヴェニア・ディスティリング・カンパニーを買収し、会社の名前をローガンズポート・ディスティリング・カンパニーへと変更、更に三つめとしてシェファーズタウンの蒸留所をルイ・フォーマンから買収しました。ローガンズポートは戦争期間中に三つ全ての蒸留所を稼働させ、主にバーボンを造ったと見られています(それが医療用か民間市場向けかは不明)。
戦争が終わると、1946年にはハーシュとパートナー達はローガンズポートをシェンリーに売却、ハーシュは約四ヶ月間シェンリーに復帰するも、1947年3月には「慈善活動を追求する」ために引退を表明しました。けれど彼はまだ38歳であり、ビジネスを完全に終わりにした訳ではありませんでした。1956年4月、ハーシュはニューヨークに戻ってシェンリーに三度目の参加を果たし、今回は社で最高地位の一つであるエグゼクティブ・ヴァイス・プレジデントに就任したのです。翌年、シェーファーズタウンの蒸留所は、ローガンズポートで元パートナーだったサミュエル・グラスが買収し、ペンコと改名しました。おそらくこれが後にA.H.ハーシュ・リザーヴとなるバーボンが生産される遠因となります。1960年7月、ハーシュは52歳でシェンリーを退職しました。まだまだ若い彼のその後の人生についてはよく分かりませんが、慈善活動を行っていたのは知られています。ハーシュはシュワルツハプトが創設した「アメリカ市民権の確立と向上」を促進するエミル・シュワルツハプト財団のプレジデントを1958年のレオ・ジャングロスの死後に引き継ぎ、少なくとも1979年まではその地位にあったようです。そして、いつの頃かミシガン州グランド・ラピッズに移り住み、余生を過ごしました。
ところで、ネットで調べると時折、アドルフ・ハーシュの叔父がアイザック・バーンハイムであると書かれていることがあります。墓石や家系図のウェブサイトで調べても確認できなかったのですが、これは本当なのでしょうか? カウダリーの本にもその件は書かれていません。誰か真偽をご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。では、話はペンコへと進みます。

ペンコ・ディスティラーズは、サミュエル・グラスの指揮の下、1950年代の終わりから1960年代にかけて事業は順調でした。ペンコは比較的小規模な蒸留所でしたが、1966年の地方新聞によれば、日産750ブッシェルの穀物を処理する能力があり、一日あたり60バレルのウィスキーを産出、約60000バレルを収容する倉庫を有しており、年間で約15000バレルをダンプしたと言います。ペンコは幾つかの独自のブランドを持っていたと思われますが、主な事業は契約蒸留であり、他の蒸留業者やボトラーと契約してウィスキーを製造していました。ワイルドターキーのためのライを製造したのはよく知られ、おそらく他にもナショナルやシェンリーやハイラム・ウォーカーのような大企業も利用していたのではないかと見られています。或いはブラウン=フォーマンのためのライや、なんならカナダの蒸留所にもウィスキーを売ったという話もありました。また詳細は分かりませんが、コンチネンタルとは何らかの繋がりがあったらしく、コンチネンタル製のウィスキーをペンコでボトリングすることすらあったようです。ペンコにはミクターズのような観光事業や多彩な歴史の謳い文句や目立つデカンターはありませんでしたが、素晴らしいウィスキーを造ったのは同じでした。1950年代初頭にルイ・フォーマンが蒸留所を管理していた時代にタッグを組み、その後もマスターディスティラーとして君臨していたチャールズ・エヴェレット・ビームは、ペンコの高品質な製品造りやフォーマンが販売し続けたミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーの独自の製法を非常に誇りに思っていました。
10年以上に渡り好調だったペンコのビジネスも、1960年代後半にスピリッツ市場の潮流が大きく変化すると、多くの蒸留所と同様に苦戦を強いられ売上は劇的に減少してしまいます。そして1975年頃、同社は経営破綻し管財人による管理下に置かれました。そこでフォーマンはレバノン郡の実業家達と会社を設立、差し押さえセールで蒸留所を購入し、1976年にミクターズ蒸留所として操業を再開するのでした。
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(ミクターズ蒸留所、wikipediaより)

世界的に有名なA.H.ハーシュのバーボンは、1974年の春に契約蒸留されています。契約蒸留では蒸留したてのニューメイクを購入する顧客もいますが、樽に入れて熟成させる保管サーヴィスを利用するのが一般的です。ペンコが倒産した時には、バーボンは既に倉庫に保管されていました。そして15年の長きに渡り放置されました。アドルフ・ハーシュはなぜ販売しもしないバーボンの製造を依頼したのでしょうか。実は彼の口からの直接的な証言はないので真相は判りませんが、歴史家の推論によれば、自らも昔関わった蒸留所であり友人である社長のサミュエル・グラスを助けるため、財政難に陥っていたペンコ社への資金援助的な投資をしたのではないかと見られています。
ウィスキーは長期的な投資になりがちなので、潤沢な資金が重要です。投資家は製品が販売されるまでに少なくとも数年、場合によってはもっと待たなければならないだけでなく、製品は最適な条件で保管し続けなければなりません。それは不確実性に満ちた、何年も先を見据えた予測ゲームです。当時のハーシュは66歳、大企業を引退した裕福な男とは言え、蒸留所を経営した熟練のプロフェッショナル、お金を無駄にする積りはなかったでしょう。おそらく彼には蒸留所への信頼と、長期の熟成が良いウィスキーを造る確信があった筈。しかし、初めから偉大なウィスキーを造るために長期熟成させる意図はなかったと思いますが…。
時代は移ろい1989年ついにミクターズ蒸留所も倒産となった時、ハーシュは15年間の熟成を経たバーボンの買い手を探さなければなりませんでした。そこに登場するのがゴードン・ヒューです。A.H.ハーシュ・リザーヴは、誰もが意図しない偶然が幾つも折り重なった奇跡の産物でしたが、ヒューもまた伝説のバーボン誕生に欠くことの出来ない人物でした。或いは、最も重要な人物ですらあるかも知れません。

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ケンタッキー州ケントン郡フォート・ミッチェルで育ったゴードン・ヒュー・ジュニアは、1964年にコルク・アンド・ボトル(Cork 'N Bottleと表記)を設立したゴードン・ヒューの同名の息子です。コルク・アンド・ボトルはコヴィントンにあった最高級のスピリッツやビールやワインを専門に扱う家族経営の店でした(****)。地理的にシンシナティからの客も多く取り込み、ビジネスは成功を収め、ケンタッキーでも有名な酒屋として或る種のランドマークともなりました。七人の子供のうちの一人であるゴードンことゴーディは、早くも60年代、13歳の頃から週末に家族の酒屋を手伝い始めたと言います。ゴミ出しや床の掃除から始まって、棚の品出しやカウンターの後ろで出来る仕事へと進みました。セント・ゼイヴィア高校とゼイヴィア大学時代にも働き続けていたゴーディは、既に自分の将来がハイエンドな酒類ビジネスにあることを確信していたそうです。外国産のワインのラベルに魅了されていた彼は19歳の時、初めてカリフォルニアを訪れ、幾つかのブドウ畑をじっくりと見学しました。そうした影響からか、20代前半の頃には後に自ら「バーボン・プロジェクト」と呼ぶことになる目論見を抱くようになります。それは愛好家達にアピールする芸術的なプレゼンテーションをややもすると田舎臭いバーボンに与えることで洗練させ、もっとお金を掛ける価値のある飲み物としてバーボンの評判を高めるというアイディアでした。コルク・アンド・ボトルはそのカテゴリーの上位に焦点を当て、コニャックやアルマニャックのような輸入スピリッツは勿論のこと、他ではなかなか手に入らないようなワインも豊富に取り揃えていました。 そこでゴーディは疑問に思ったのです。なぜバーボンに関してケンタッキーではスコットランド人やフランス人がやっているような良い商品の扱い方をしないのか、と。後に彼のアイディアは現実のものとなります。

ゴーディの父は蒸留所と協力して店舗に独自のハウス・バーボンを置いていました。ゴーディも実地に足を運ぶ優れた仲買人となり、異なる蒸留所のシングルバレルやスモールバッチのバーボンを選び出し、ラベルデザインの美学にも気を配りました。ケンタッキー州の法律では酒屋のオーナーが自分の蒸留酒を作ることは許可されていないため、ゴーディは基本的に店を経営することと、一種のフリーランスのブランド・メーカーとして別個の仕事をしています。彼がバーボンの世界に入ったのは1974年か75年のことでした。1970年代に多くの蒸留所が閉鎖されようとしていた頃、また偶然にも後にA.H.ハーシュとなるバーボンが蒸留されたのと時を同じくして、ゴーディはプレミアム・バーボンのリリースを計画します。最初の大きなプロジェクトのためにゴードン父子は、ウィレット蒸留所にて1959年2月4日に蒸留され16年間熟成した樽を調達し、1976年の独立記念日を記念して、32のバレルから107プルーフで3168本をボトリングしたバイセンテニアル・コメモレーション・バーボンをリリースしました。ラベルは地元の印刷屋で作り、自身でラベリングしたとか。当時ケンタッキー州にはまだ多くの蒸留所がありましたが、若者にはオシャレだったウォッカや、上流階級にも愛好される洗練されたスコッチと較べ、全体的に「ブルーカラーの飲み物」とのイメージを固めていたバーボンは、あまり人気がなかったので長熟バレルが倉庫に横たわっていました。しかし、ケンタッキー人にとってバーボンはライと共に、相変わらずアメリカの象徴的な飲み物だった筈です。そこで興味深く高品質な製品を追求していた彼らは、200周年記念ラベルを付けるに相応しいユニークなバーボンを探してみようと思い付いたのでした。この初めての特選バーボン・カテゴリーへの進出は成功し、気を良くしたゴーディは良質なバーボンを求めて、他の蒸留所にもコンタクトをとり今後更に購入することになります。ケンタッキーのバーボン・シーンに詳しく、優れた味覚を有し、いつも何か新しいことに挑戦するためのエネルギーも持っていた彼は、結果的に1995年まで20年以上に渡ってコルク・アンド・ボトルの経営に携わり、自然と業界のレジェンドたちと触れ合うようになりました。
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或るプロジェクトでゴーディは、オールドハウス・リザーヴ・バーボンのためのボトルを、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニア(二世)がボトリングしたオールドリップ・ヴァン・ウィンクル7年のスクワット・ボトルに似たものにしたいと考えました。ジュリアン・ジュニアがスティッツェル=ウェラー蒸留所を売却した際、バーボンと同様ガラス瓶も持って行っていたことを知っていたゴーディは、パピーの息子に連絡してボトルを購入することになりました。これが縁で二人は時々話をするようになります。或る特別な機会にジュリアン・ジュニアはコールマイナー・セラミック・デカンターにバーボンを容れようとしていました。それを聞いたゴーディは啞然としてジュリアン・ジュニアに尋ねます。「あなたはスティッツェル=ウェラーの驚くほど素晴らしいウィスキーを、中身はどうでもよくて装飾的なデカンターが欲しいだけの人のために入れてるんですか? 」。ジュリアン・ジュニアはこう答えました。「ああ、生活しなくちゃならんからな。君にはもっといい考えが?」。「見栄えのするボトルにウィスキーを入れて本当の金額を請求しましょう」とゴーディは言いました。フランスで酒類を調達していた時、彼はガラス製のコニャック・ボトルを購入していましたが、そのエレガントな美しさは類い稀れなスティッツェル=ウェラーのウィスキーに相応しいと感じたのです。これが伝説のヴァン・ウィンクル・ファミリーとのコラボレーションに繋がりました。1981年にジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアが亡くなると、そのアイディアは彼の息子ジュリアン三世と共に実現して行くことになります。ゴーディは2世代のヴァン・ウィンクルズと協力することで、現代のバーボン・シーンに於いてユニコーンとされるパピー・ヴァン・ウィンクルズ・ファミリー・リザーヴのブランディングに一役買ったのです。
ジュリアン三世は1983年にローレンスバーグにあるホフマン蒸留所をボトリングと貯蔵のために購入し、コモンウェルス蒸留所(DSP-KY-112)と改名して運営し始めました。そこでゴーディは元々彼の父親との交流で浮かんでいたアイディアを持って息子にアプローチします。ゴーディは熟成したスティッツェル=ウェラーのウィスキーを購入し、プレミアム製品として販売したいと考えており、それを「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」と名付け、ラベル・デザインを彼自身に適応させ、ガラス製のコニャック・ボトルに入れるのはどうだろうか、とジュリアン三世に尋ねてみました。反応は上々でした。彼は「そのアイデアはなかなかいいね」と答えましたが、自分がバーボン史上最もアイコニックなブランドの立ち上げを承認したことに、この時はまだ気づいていません。ゴーディの考案したスタイル、ネーミングやラベルやボトルは、今でもヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライとほぼ同じものです。そしてジュリアン三世はこの後、ヴァン・ウィンクル・ブランドのウィスキーにこのボトル・デザインや要素を受け継いで発展させて行くのでした。
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ゴーディはヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・バーボンをコルク・アンド・ボトルで販売しつつ、ヨーロッパや日本にも輸出しました。ゴーディとジュリアン三世の間柄は正式な契約やパートナーシップを結んだ訳ではありませんでした。そのせいでもないでしょうが、ある日ゴーディはジュリアン三世から、君に売るだけの熟成バーボンの在庫がない、と告げられます。ジュリアン三世から熟成したスティッツェル=ウェラー・バーボンを購入することが出来なくなったゴーディは、それに匹敵するウィスキーの探索を始めなければなりませんでした。先ず彼はナショナル・ディスティラーズから素晴らしいオールド・グランダッド・バーボンをほぼ確保するところまで行きましたが、1987年に同社が売却された際に新しいオウナーのビーム社はその取引を取り消しました。その後、ゴーディはクリーヴランドの知人ロバート・ゴッテスマンから伝説的バーボンの誕生に繋がることになる連絡を受けます。
ゴッテスマンは元シェンリー・インダストリーズでキャリアを築いたパラマウント・ディスティラーズの共同オーナーです。彼はゴーディに、ミシガン州グランド・ラピッズに住む80代の老紳士が、熟成ウィスキーを売りに出しているのを知っていると知らせました。そう、他ならぬアドルフ・ハーシュ。おそらくゴッテスマンとハーシュはシェンリー時代に知り合ったのでしょう。ミクターズ蒸留所の破産によりウイスキーの樽が置かれていた土地は銀行に取られ、オーファン・バレルを引き払う必要がありました。約5000樽が銀行によって所有されていましたが、一部はまだハーシュの所有だったのです。
ゴッテスマンは言いました、「それはペンシルヴェニアのウィスキーだ」。「ペンシルヴェニア?」、ゴーディはがっかりして続けます。「ペンシルヴェニアのウィスキーは売れないんだ、だって皆んなケンタッキーこそベストと考えるからね」。しかし、「あぁ、オーケー、とにかくチェックしてみよう」ということになり、ゴッテスマンはサンプルを手配しました。そしてサンプルを味わったゴーディは驚きます。目を見開き、一言「わぉ…」。それはスティッツェル=ウェラーのプロダクト以来、彼が出会った絶対的に最高なものでした。彼はペンシルヴェニア・ウィスキーを売ることに何の問題もないことを確信します。

ゴーディはハーシュを訪ねるためグランド・ラピッズに行き、彼の人生で最も興味深い一日を送りました。二人は座ってウィスキーについて語り合った。
ハーシュは言います、「ウィスキーを持って行って欲しい、私はもう年寄りだし、皆んなに迷惑を掛けたくないからね」。彼らは共にそれが良いウィスキーであることを知っていたので、ハーシュには売れる確信があったのかも知れないし、ゴーディもまた端から購入する心算だったのかも知れません。実際、運命はそのように動きます。1989年(1988年の可能性も)の或る日、ハーシュ宅のリヴィング・ルームでゴーディは見事なまでの熟成を見せるペンシルヴェニア・ウイスキーを買うことに同意したのです。総額12万5000ドル、三年間での支払いでした。ゴーディはハーシュに、このウィスキーには貴方の名前を付けたいと申し出ました。アドルフ・ハーシュ、その妻、ゴードン・ヒューの三名が署名した基本合意書には、「私は、この在庫からボトリングされた製品のラベリング及びマーケティングに於いて、ヒュー氏が私の名前を使用することに同意する、もし彼がそう望むなら」、と書かれていました。ハーシュは全てをやり切ったと思ったのか、この後すぐに亡くなっています。彼はこのバーボンの高い品質と特徴を非常に誇りに思っていたので製品に自分の名前が付けられることを喜んでいたようです。
家に戻ったゴーディは厳しい現実にぶち当たりました。「なんてこった、今からどうしたらいいんだ? あの全ての樽を持って行く場所なんてないぞ!」。先ず彼はジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のところへ行きますが、「うちにはそんなスペースはないよ」と言われてしまいます。ゴーディは何とか約3分の1のバレルをジュリアン三世の倉庫で保管できるよう話を付け、それらは熟成を続けることになりました。その後、もともとゴーディにハーシュを紹介していた男であり、シンシナティでマイヤーズ・ワインを経営していたロバート・ゴッテスマンは、ウイスキーの保管を申し出ました。彼が謝礼として請うたのは、シェリーを熟成させるための空の樽を捨てないでおくことだけだったとか。恐らくそういった事情から、1989年5月27日にゴーディが入手した「在庫」は、すぐにハーシュ・リザーヴ15年としてボトリングされたのだと思われます。シェーファーズタウンからの最初の出荷分の樽は、1989年9月に直接ケンタッキー州ローレンスバーグにあるジュリアン三世の施設に到着し、15年熟成のバーボンは95.6プルーフで瓶詰めされました。最初のバッチは47ケース。こうして、栄えあるA.H.ハーシュ・リザーヴは正式に誕生しました。そのうち極く一部だけゴーディのコヴィントンの店舗で販売され、大部分は海外に出されます。

ゴーディはコルク・アンド・ボトルという小売業を営んでいましたが、その傍ら、1984年頃から長期熟成ウィスキーを日本やその他のインターナショナル・マーケットに輸出し、当時としては高価格で販売していました。アメリカのバーボン市場が低調だったため、ゴーディは経済が好調な場所に目を向けていたのです。彼がリリースした特別なボトリングは、もともと日本市場をターゲットにしていた、と後年のインタヴューで自ら語っています。それこそがハーシュから購入した長熟バーボンを使って彼がやろうとしていたことでした。
ゴーディは長期熟成バーボンで日本市場に参入した最初のエクスポーターではありませんでしたが、かなり早い段階から参入したと思います。それは甘いビジネスでした。 日本人は突如として長期熟成バーボンに恋に落ち、それに対して高額のドルを支払う用意がありました。しかし、長熟バーボンを所有していた殆どの人々はそれを安く売ろうと思っていました。なぜなら当時のアメリカ市場ではそんな物に誰も興味がなかったからです。そこに、仲買人が付け入るチャンスがありました。彼らは労せずして差額を手に入れることが出来ます。
日本人が求めたのはスコッチと同じくらい熟成させたバーボンでした。年数が長ければ長いほど理想的でしたが、少なくとも12〜15年は熟成させたものを望みました。往年のアメリカン・ウィスキーは一般的に4年〜8年で販売されています。なので順調に売れさえすれば、12年熟成以上のバーボンなどなくてもいい存在です。しかしアメリカのウィスキー産業は衰退の一途を辿り、実際には70年代に過剰に造られたウィスキーは80年代半ば頃にはかなりの「老齢」になっていました。それ故、バーボン全般および極端に熟成したバーボンに対し、突如として沸き起こった日本からの関心は、アメリカで苦しんでいたバーボン・メーカーが久々に聞いた朗報でした。アメリカン・カルチャーに対する日本人の評価が、彼の国の最も伝統的な製品の一つを復活させるのに役立ったのです。この件は現在のプレミアム・バーボンによるアメリカン・ウィスキー復興の源流の一つと考えられ、「バーボンの近代史」に於ける日本人が果たした功績として現代のバーボン史家から認められています。

ジュリアン・プロクター・ヴァン・ウィンクル三世はゴードン・ヒューとボトリング契約を交わし、1989年から1995年の間ローレンスバーグでブランド・オウナーのために1744ケースのA.H.ハーシュ・リザーヴを少量づつボトリングしました。 それは彼にとってただの契約ボトリングの作業に過ぎず、決してハーシュ・ブランドの共同事業という訳ではありませんでしたが、その存在は小さくはなかったでしょう。長期熟成のスペシャリストであり、何が適切かを知っている男でしたから、ウィスキーを味わい、おそらくプルーフィングなどのアドヴァイスはしたと想像します。
最初のハーシュ・リザーヴから数ヶ月後の12月には別の134ケースが同じ仕様でボトリングされました。1990年2月には340ケースが続きます。中身のウィスキーは1990年3月までに全て16年熟成となりましたが、おそらく新しいラベルの印刷を回避するため1991年4月までは引き続き15年表記のラベルが使用されました。ミクターズが閉鎖される1990年2月より前に、残っていたバレルは蒸留所のマスターディスティラーであったディック・ストールが積み込みを監督してシンシナティのワイナリーに出荷されています。 全てのバーボンが16年の熟成を迎えて間もなく、ジュリアン三世とゴーディ(或いはゴッテスマンも?)は、その状態が最良であると判断し、これ以上のエイジングを防止するため、約3000ガロンがワイナリーのステンレス・タンクに容れられました。これ以降ペンシルヴェニア・バーボンは二つの別個の流れでリリースされて行きます。一つはシンシナティにタンキングされた大部分を占める16年物。これはタンクローリーでローレンスバーグに運ばれて、定期的にボトリングされました。もう一つがジュリアン三世のローレンスバーグの倉庫で熟成され続けた250近い数とされる樽です。こちらは毎年、熟成年数を重ねてボトリングされて行きました。 
1991年4月、後にA.H.ハーシュ・リザーヴにとって象徴的な数字となる初めての16年物が瓶詰めされます。ジュリアン三世は数ヶ月ごとにゴーディからボトリングのオーダーを受けていて、4月は57ケース、11月には更に多い200ケースだったそうです。また、90年か91年あたりにはA.H.ハーシュとは違う幾つかのブランドで同じ原酒がボトリングされてもいました(前出のリスト参照)。
ジュリアン三世のローレンスバーグの倉庫に保管されていた最初のバッチの樽は、1991年と1992年11月に一部がダンプされ、それぞれ17年熟成の物が95.6プルーフ、18年熟成の物が93プルーフで少量ボトリングされました。92年12月には、タンクされた16年物を8ケース、多分91.6プルーフで。その後、16年物のバーボンは1993年7月には95.6プルーフでやや多めの300ケースが生産されました。93年の11月には今度は熟成樽の19年物が93プルーフで121ケース造られます。そして最終的に熟成樽は1994年12月から1995年4月の間にボトリングされ、91.6プルーフの20年物を500ケース産出しました。これはゴーディの最後の関与になります。

上の数字からも明らかなように、ハーシュ・リザーヴは順調に売れていたものの、飛ぶような売れ行きではありませんでした。日本の消費者は超熟バーボンが好きだったかも知れませんが、それはジムビームやアーリータイムズやI.W.ハーパーと同じ価格ではなく比較的高価でしたし、アメリカではまだバーボン・ブームは来ていません。それにゴーディはブランドの宣伝を殆どしていなかったと思われます。彼は優れた製品を持っていたとしても、小さな酒屋の経営者であり小規模なブローカーであり、大手酒類会社の幹部ではないのですから、ビジネス的にはそれが限界だったのでしょう。
A.H.ハーシュのウィスキーは大量にあったのでゴーディはどこでも積極的にボトルを売リ出していました。特に日本とヨーロッパに多く輸出されています。しかし、1990年代初頭のバブル期の終焉と共に日本経済は失速し、輸入業者は基本的にバーボンを買わなくなったか、或いは買う量を減らしました。それが理由とは思えませんが、彼は別のことに目を向けたようです。ゴーディによれば、ペンシルヴェニア1974原酒の元々の量は約10000ケース(※おそらくここでは1ケース6本で計算してると思われます)だったと言います。全ての支払いはかなり前に済んでいたので、彼はそれをゆっくりと販売することに完全に満足していました。そうしてゆっくりと価格が上がって行くのを気長に待てばいい、と。そして1995年、詳細は分かりませんが、ゴーディは家業と決別します。ウィスキーは様々な係争中の理由からコルク・アンド・ボトルに残りました。ゴーディではない他のヒュー家の人々は少しの間ブランドを運営し、最終的にA.H.ハーシュのブランドと在庫は南カリフォルニアのヘンリー・プライス率いるプライス・インポーツにまとめて売却されました。ただし、9本のA.H.ハーシュ・リザーヴや105本のヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴと14本のオールド・ハウス・バーボンは売却されず、ゴーディ言うところの彼の個人用貯蔵庫であるコルク・アンド・ボトルの地下室に保管されていました。ゴーディが関わったそれらのバーボンが地下でひっそりと息を潜めている間に、図らずも地上ではゆっくりと価格は上昇し、人知れず大金へと変化していたのが原因で(?)、後の2015年にゴーディとコルク・アンド・ボトルの間で所有権を巡る裁判になるのですが、それは別の話。
ゴーディはバーボンを試飲してどう造られているかを確認するのが好きでした。 そしてそれは彼の天職であり仕事の一部でした。少なくとも1975〜95年までは。バーボンを探す楽しみはあったけれど自分はスピリッツの大量消費者ではなかった、と彼は言います。ですが、強いて言うならメーカーズマークやバッファロートレースで製造されるW.L. ウェラーやヴァン・ウィンクルのラインナップのようなウィーテッド・マッシュビルのバーボンを好む傾向があり、彼の「生涯で今までに味わった最高のウィスキーは、1960年代から1970年代にかけてスティッツェル=ウェラーが蒸留したものでした」。現代の蒸留所であれば、特にその生産規模を考慮すると、バッファロートレースとフォアローゼズの二つが卓越していると評価しています。そんな伝説のバーボンの中心人物も、もはやスピリッツ・ビジネスに携わっていません。20年以上オハイオ・リヴァーの北側に住み、四人の子供を育てたゴーディは、近年ではシンシナティのウォルナット・ヒルズで「wineCRAFT」という高級ワインの輸入事業を営んでいます。「私は常にワイン・ビジネスに携わっていました。バーボンはちょっとした副業だったんです」。

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A.H.ハーシュ・リザーヴは、ヘンリー・プライスが購入した頃には、既にアメリカのウィスキー愛好家の間で非常に優れたバーボンとして評価を得ていました。 彼は自分が素晴らしいウィスキーを手にしたことを知っていましたが、その後の大流行までは予測していませんでした。
「我々はブランドを構築しましたが、もし我々がブランドの購入を控えていたらサゼラックが購入していたでしょう」とプライスは言います。サゼラックはジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世がこのブランドのボトリングを担当していたこともあり、A.H.ハーシュのことをよく知っていました。2002年、ジュリアン三世はバッファロートレースとの合弁事業を起こし、ローレンスバーグの作業場を閉鎖して事業をフランクフォートに移しています。この時期のどこかの段階でプライスは自らのポートフォリオにブランドを取り入れるために動きました。当時のプライス・インポーツのセールス・マネージャーのスティーヴがヒュー家に連絡を取り、A.H.ハーシュ・リザーヴの販売権を取得するようヘンリー・プライスを後押ししたのだとか。首尾よくハーシュ・ブランドを獲得したことで、シンシナティにタンクされていた残りのバーボンもまたバッファロートレースへ行きました。
2003年、ステンレス・タンクに12年間貯蔵されていたバーボンはボトルに入れられました。その数2500ケースとされ、それまでの全生産量の合計よりも多くなりました。小規模なプレミアム・ブランドを開発し、それらをアメリカのほぼ全ての市場へ戦略的に配布することで有名なヘンリー・プライスは、A.H.ハーシュでも同じようにアメリカ全土で販売し始めます。実はゴードン・ヒューが撤退した1995年からプライスが瓶詰めさせた2003年の間にA.H.ハーシュ・リザーヴが定期的に販売されていたのかよく分かりません。もし販売されていたとしても、おそらく量はあまり多くはないと思われます。それは兎も角、この時のラベルにフランクフォートとある16年熟成91.6プルーフのものが通称ゴールド・フォイルと呼ばれ、最も目にし易いA.H.ハーシュ・リザーヴとなっています。プライス・インポーツは3年間で約1500ケースを販売し、以前よりブランドの知名度は上がったことでしょう。ウィスキー業界の著名なライターが取り上げたり、愛好家コミュニティでの熱狂的な喧騒も益々広がりました。そのような雪だるま式に大きくなる評判や口コミの人気は制御できません。プライスにとっては正に夢のようなブランドでした。
残りの1000ケースの殆どが売れた2009年、プライスは最後に残った在庫を使って何か特別なことをしたいと考えました。デカンターへの再ボトリング。それが、彼がヨーロッパ式の700mlのボトルに詰められた残り僅かな在庫のために持っていたアイディアでした。「最後の在庫をヨーロッパに発送したくなかった」プライスは、バッファロートレースにお願いして最終的にボトルをダンプする同意を得、その後、全てをバーズタウンのウィレット(KBD)に運んで、自ら輸入したフランス製の手吹きクリスタル・ボトルに詰め直してもらいます。これが彼の「最後のビジョンであり、A.H.ハーシュ・リザーヴが占めていたアメリカの歴史の一断片への喝采でした」。

さて、アドルフ・ハーシュが契約蒸留したペンシルヴェニアのウィスキーは、その大きな評判の割には少量であるにも拘らず、全てを販売するのに約20年掛かっています。おそらく、これまで見てきた紆余曲折こそが、このウィスキーの最大にユニークなところだとは思いますが、勿論、中身も素晴らしかった。どのような神話や伝説でも、特別な味がしない限り、ウィスキーがこれほどまでにホットな商品になることはありません。では、何がそんなに良かったのでしょうか? 明確な答えなどないですが、判っている範囲で中身について触れておきたいと思います。
始めの概略で述べたように、A.H.ハーシュ・リザーヴとなった全てのバーボンウィスキーは1974年の春に蒸留されています。生産はエヴェレット・ビームの弟子に当たるディック・ストールによって監督されました。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーで、酵母はエヴェレットが持ち込んだビーム酵母。おそらく蒸留プルーフは115で、現代の基準よりやや低めです。これらはどれも標準的な仕様であり、大きな驚きはありません。ストール自身、ハーシュのために造ったバーボンは珍しくなかったと言っているそうです。と、なるとラベルに書かれている「Pot Stilled」こそが、その特別性の要因と思いたくなりますよね? 例えば、ほぼスコッチをメインに飲むウィスキー・ドリンカーなら、「これはアメリカン・ウィスキーに多いコラムスティルではなく、スコッチのシングルモルトのようなポットスティルを使用して製造されているからフレイヴァーフルで特別なんだ」という具合に。しかし、そうではありませんでした。
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アメリカの飲料用アルコールのラベルは全て政府機関の承認を受けなければなりませんが、規制されている言葉とそうでない言葉があります。「ウィスキー」や「バーボン」や「ストレート」という用語はどれも規制されています。一方「リザーヴ」や「サワーマッシュ」は規制の対象ではなく、そして「ポットスティル」も規制された用語ではありません。規制されていないということは、真実である必要がないことを意味します。とは言え、全くのデタラメという訳でもなく、A.H.ハーシュ・リザーヴのラベルに「ポットスティル」とあるのは、ミクターズがラベルにポットスティルをフィーチャーしてマーケティングしていたのを受け継いでいるからです。ミクターズ蒸留所では第一蒸留を比較的小さめのコラムスティルで実行した後、第二蒸留をポットスティル・ダブラーで行いました。このダブラーのことをポットスティルと呼ぶのは業界では慣行であり、決して間違いではないのですが、ミクターズはそれを強調してマーケティングに活用したのです。ダブル・ディスティレーションは殆どのアメリカン・ウィスキー蒸留所が当時および現在でも実践し、100年以上に渡ってバーボンを製造して来た方法です。つまり、ミクターズは他の蒸留所と製造面で甚だしい違いはないということ。だから、ここで言う「ポットスティル」もA.H.ハーシュ・リザーヴの卓越性を説明するものではないのです。
通常、長期熟成古酒はウッディ過ぎる嫌いがありますが、A.H.ハーシュ・リザーヴはその極端な熟成期間にも拘らず、あまりウッディではないとされます。寧ろ、力強くありながらエレガントな素晴らしいバランスと評されるほど。その要因は、一説にはペンシルヴェニアの天候だったかも知れないと言います。同地では70年代半ばに冬の寒さが長く続いたそうですし、多分ケンタッキーより基本的に涼しかった? まあ、謎は謎のまま残したほうが神話や伝説には箔が付きますが、少なくとも、ペンシルヴェニア州で製造されそこで主に熟成し、オハイオ南部またはケンタッキー州に運ばれて更なる眠りに就いたこのバーボンの旅する人生は、製品に何らかの影響を与えた可能性は十分あるでしょう。A.H.ハーシュ・リザーヴについて確かなのは、よくあるケンタッキー・バーボンとは完全に異なる独創性をもち、ウィスキー通の意見では素晴らしいバーボンだったということ、それだけです。
ちなみに、ハーシュ・リザーヴ16年のロット違いを飲み比べた人によると、後年のロットより初期のロットの方が美味しいとする意見が散見されます。これはおそらく酸化の問題だろうと考えられています。ハーシュ・リザーヴの最後のボトリングは10年以上ステンレス・タンクで保管されていたので、幾ら熟成は進まないとは言え、多少の酸化はあったのかも知れません。ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は、ステンレス・タンクでの貯蔵は不活性と考えられているが、彼はそれをもっと不活性にしたいと仄めかしたとか。ウィスキーは空気に触れると常に変化する生き物ですからね…。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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(画像提供Bar FIVE様)

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A.H. Hirsch Reserve 16 Years Old Blue Wax 91.6 Proof
推定1991年ボトリング。キャラメル、ナッツ、多様なハーブ、ちょっと薬っぽい味も。かなり複雑なフレイヴァー。口当たりと飲み心地はスムーズで、長熟にありがちな渋味や苦味はあまり感じない。
Rating:88/100

Value:これは「あなたの懐具合」によります。バーボンのボトル一本に対し30万円を支払えるなら、躊躇なく買うことをオススメします。また、バーで見かけたら多少高くても飲んでおいた方がいいでしょう。ですが、ぶっちゃけ普段ジムビームやジャックダニエルズやアーリータイムズしか飲まない人が飲んでも美味しいと感じられない可能性は高いです。その週に飲んだバーボンの中で最高のものでさえなかった、と言う人までいます。私にとっても最高のバーボンではありませんでした。しかし、味は関係ありません。これは物語のために買うバーボンです。ストーリーや背景や価格は味を変えることはないかも知れませんが、それらは神秘性を高めると同時に何かしらの評価軸を与えてくれます。そして経験として飲むことは悪いことではない。それがオススメする最大の理由です。とは言え、無理してえげつない身銭を切ってまで飲むことは勧めません。今、あなたが無理なく飲めるバーボンは、伝説はなくとも素晴らしいバーボンなのですから。


*この数字を倍の800樽とする情報もありました。こちらの数字を信じる場合、最終的にハーシュの所有した樽の数量は766樽となります。申し訳ないのですが、私にはどちらが信用できる数か判断できません。また、これ以降の本記事における数量に関する数値は、参考にした情報元が一つではなく複数であるため、混乱している可能性があります。そこを考慮して見て下さい。

**プライス・インポーツの名は、ヘンリー・プライスと彼の娘のニコールによって2012年11月に新たに設立されたHPSエピキュリアンが、2016年に再び所有権を取得し復活しています。

***製品意図として敢えてスウィートマッシュ製法を採用している物を除けば、無記載の場合は全てサワーマッシュと思っていいでしょう。

****財政上の問題に直面して、元々の所有権は2014年に売却されました。コヴィントンの店舗は閉鎖され、現在はクレセント・スプリングスのバターミルク・パイクで営業しています。

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ブラッド・ベッカーマンによって設立されたスティルハウス・スピリッツ社は、アメリカンウィスキー業界の伝統や常識を揺さぶることを目指している会社です。ベッカーマンは長い間起業家であり、スティルハウスは規範に挑戦したいという彼の願望を反映しています。彼はクリア・コーン・ウィスキーに注力し、政府からの脅威にも拘わらず我が道を往った荒くれ者のムーンシャイナーに敬意を払い、自社製品を一見オイル缶と見紛うステンレス・スチールの缶に詰め込みました。そのオリジナル・ウィスキーは2016年に発売されるとすぐに人気を博し、デザイン賞などを受賞。確かに典型的なガラス瓶との「違い」は顕著と言え、特に象徴的なチェリーレッドの缶は頗るクールでした。

基本となるムーンシャインに様々なフレイヴァーを加えたヴァリエーションも生み出してきたブランドですが、続々と製品ラインナップの拡大を図っています。2018年には黒い缶のバーボンを、2019年には白い缶のウォッカを発売しました。また2017年?頃からは、黒人のようにラップ出来る白人ラッパーであり、高身長のイケメンであることからモデル系ラッパーとも言われるG-eazyが、スティルハウス・スピリッツ社の共同クリエイティヴ・ディレクターに就任しています。ブラッドとG-eazyの二人は共にジョニー・キャッシュの大ファンで意気投合したのだとか。G-eazyは投資家としての顔も持つようで、おそらく出資者としてブランド・アンバサダー的な役割を担っているのでしょう。今回レヴューする「ブラックバーボン」も発売当時、彼がPRしていました。

さて、私は以前の投稿でスティルハウス・オリジナル・ウィスキーをレヴューしましたが、正直言うと中身はどうでもよくて、あのカッコいい缶が欲しくて購入しました。私は「酒飲み」と言うよりあくまで「バーボン飲み」なので、ビールやワインや日本酒も飲みませんし、なんならスコッチやジャパニーズすら好んでは飲まず、ましてやカクテルを飲む習慣はさらさらないのです。なのでミキサーと合わせることも出来ず、さりとて未熟成のムーンシャインをストレートでグイグイ飲むのも少々キツい…。おかげで消費するのに時間が掛かりました。そもそもスティルハウスのスピリッツは、食後のまったりとした時間を楽しむシッピング・ウィスキーのカテゴリーよりは、パーティー・シーンやアウトドア・ライフに焦点を合わせた製品だと思います。しかし、ブラック「バーボン」と言われたら、バーボン飲みにとっては見逃せませんよね。缶についても、赤のインパクトには敵いませんが、マットな黒がなかなかクールなのでついつい購入してしまいました。

では、ブラックバーボンとは一体いかなるものなのでしょうか。これがまたオリジナル・ウィスキーと同じくネットで調べてみても、中身については缶に貼ってあるシールの文言と同程度の情報しか出回っていませんでした。判る範囲では、コーン/ライ/バーリーのマッシュビルとライムストーン・ウォーターを使い、テネシー州コロンビアにある施設で蒸留され、新しいアメリカン・オークの焦がされた樽で熟成、その後チャコール・フィルターをかけ、焙煎したスモールバッチのコーヒー豆で「rested and mellowed」されている、とのこと。 一般的なバーボンとの違いは、このコーヒー豆云々の部分な訳ですが、漠然としていて具体的にどういう製法なのか説明がありません。おそらく「rested」は「休ませた=寝かせた=熟成させた」で、つまりは樽の中にコーヒー豆を入れ一定期間バーボンに漬け込み、味を円やかにすると同時に風味を足した、と解釈していいと思われます。どれくらいの時間なのかは定かではないし、「スモールバッチのコーヒー豆」と言うのもよく分からない用語なのですが…。まあ、飲んでみましょう。

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Stillhouse America's Finest Black Bourbon 80 Proof
SERIAL No. BB-C011-3023
推定2018年ボトリングと言うか缶詰め(?)。液体はやや濁りのある(曇った)見た目。強いて言うとゴールドに黒い曇りをかけたような色合い。黒糖ミルク、コーンウィスキー、僅かなキャラメルと微かなダークチェリー、ブラックコーヒーゼリー。さらりとしつつもとろみの強い口当たり。口中はドライ気味。液体を飲み込んだ後に来る刺激はスパイシーと言うより若いアルコールを思わせる。余韻はスモークとコーヒーの苦み。
Rating:75/100

Thought:「ローストしたコーヒー豆に浸しました」という情報を聴いた上で意識して飲んだので、上のテイスティングでは「コーヒー」とつい書いてしまいましたが、もし事前情報がなかったとしたら、私には特にコーヒーの風味とは感じられなかったかも知れません。バーボンの特徴となる焦がした新樽だって焦げた風味はありますから、どこまでが樽由来でどこまでが焙煎コーヒー豆由来かはそう明確には分からなかったのです。ただ強いて言うとコーヒーのような苦味が強いかなと思うのと、確かに通常のバーボンでは感じない風味はありました。そして寧ろ風味よりも妙なとろみを感じさせるテクスチャーの方が焙煎コーヒー豆由来なのかな、という気もします。また、このバーボンはかなり「若い」ように思いました。香りや味わいにそれを特に感じますが、なのにその若さを覆い隠すような独特のスモーク感と風味が奇妙に感じなくもなかったです。

Value:率直に言って、3~4年熟成程度の標準的なケンタッキー・ストレート・バーボンには遠く及ばない味わいでした。アメリカでの希望小売価格は750ml缶で約30ドル。それほど高いわけでもなく、缶もカッコいいし、面白い風味は感じ取れるので買う価値はあるでしょう。ただし個人的にはリピートはないです…。
あと、ちなみになんですが、私が飲んだチェリーレッドのオリジナル・ウィスキーよりもこちらのブラックバーボンのほうが缶のキャップのクオリティが高かったです。これって種類で使い分けてるのか、単に販売時期の違いなのか? 

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