タグ:バーボン

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今回ご紹介するのは小岩のバー、マスターピースです。バーテンダーとして30年以上の経験を積んだオウナーさんが一人でやっているお店で、2015年10月21日にオープンしました。基本的にカクテル・バーなので、メインはカクテルなのですが、モルトやバーボンのレア物もあることで知られています。店名となっている「Masterpiece」という英語は、「傑作」、「名作」、「代表作」などの意味をもつ言葉であり、ここに来ればそういう傑出したお酒に出会えますよ、或いは貴方にとってそういうお酒に出会って欲しいとの想いを込めて名付けられました。とは言え、このバーの魅力はお酒よりも寧ろ気さくで人懐っこいマスターのトークにあるかも知れません。私が伺った時は、新婚旅行のエピソードや酒の失敗談などで爆笑し、楽しい時間を過ごせました。カクテルが充実していることもあり、適度に薄暗い店内の照明やBGMのジャズと相俟って、女性一人でも訪れやすいバーです。現に私が行った時は、常連?の女性が一人で飲んでいました。季節限定のカクテルなどは拘りのあるものが飲めるようです。

マスターはイタリアかぶれのバーテンダーを自称していたりするのですが、アメリカのバーボンも大好きでよく飲んでいたそう。愛飲していたのは、なんとヴァージン・バーボン7年。昔はケースで買って、週に一回程度、一晩で2ボトル開けてしまうという訳の分からん飲み方をしていたとか…(笑)。よほど好きなのでしょう、店内にはヴァージン・バーボンのパブ・ミラーも飾られていました。バーボン好きには堪らないカッコ良さですよね。
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我々バーボン愛好家としては、気になるのはバーボンの品揃えですが、流石にボトルの本数的にはバーボン主体の店のようには多くありません。しかし、そこら辺で簡単には飲めない厳選された銘柄が残っています。また、まだ未開封の90年代のレアなボトルもありました。気になる方はバーのツイッターでチェックしてみて下さい。


BAR Masterpiece
〒133-0057 東京都江戸川区西小岩1丁目19−36 ケイズファーストビル 201
Tel. 03-3672-7507

営業時間 19:00〜25:00
日曜定休日
※マスターが一人で営業のため、用事がある時は臨時休業になります。店休のお知らせは各種SNSでご確認を。

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アウトロー・ケンタッキー・バーボンはカリフォルニア州バーリンゲイムにオフィス(と言うか社長の自宅?)を置くアライド・ロマー/インターナショナル・ビヴァレッジのブランドです。同社は特定のブランド名の下に異なる人物の写真を使用するコレクターズ・シリーズを数多く展開しており、このアウトローと同時代の偉人を揃えた「レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェスト」を筆頭に、名前そのままにギャングやマフィアをフィーチャーした「ギャングスター」、黒人ミュージシャンを取り上げた「ジャズ・クラブ」や「ブルース・クラブ」、「R&B」や「YO! HiP HOP」、他にも「ロックンロール」や「U.S.A.ベースボール」等がありました。これら各ブランドの中身の品質は様々でしたが、ボトリングはKBD(一時のウィレット蒸溜所)が担っており、基本的により古いリリースや長期熟成でハイ・プルーフの物はバーボン・マニアから評価が高いです。
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アウトロー・コレクターズ・シリーズでは、西部劇映画に登場するような列車強盗、馬泥棒、牛泥棒、ガンマン、冷酷な殺人鬼、お尋ね者などの西部開拓時代の最も悪名高い無法者たちがラベルを飾っています。実際のところ彼らも「ワイルド・ウェストの伝説」と呼ばれる人達です。多くの場合、彼らの物語は小説やハリウッド映画などで逞しい個人主義や大胆な開拓者精神といったアーリー・アメリカンの理想に合うように形作られ、長い間ロマンチックに描かれて来ました。アメリカ人は暴政に立ち向かうアンダードッグが大好きで、反骨精神を体現する反逆者に対してロマンを投影して見たりします。我々日本人もこういうカリズマティックな無法者には惹かれてしますよね。特にアメリカへの憧れを強く抱いた人にとってはそうでしょう。ラベルに採用された悪のヒーローには以下の12人がいました。

DEAD OR ALIVE! ― KID CURRY
BEWARE OF STARR ― BELLE STARR
$18,000 REWARD ― BUTCH CASSIDY
$5000 REWARD ― WILD BILL
DESPERADO! ― JAQUIN MURIETA
DESPERATE OUTLAW ― HARRY LONGBAUGH
$7,000 REWARD ― FRANK & JESSE JAMES
$2500 REWARD ― BILLY THE KID
COLD BLOODED KILLER ― JOHN WESLEY HARDIN
BE ON THE LOOK OUT ― MYSTERIOUS DAVE
ARMED & DANGEROUS ― HARRY TRACY
$2500 REWARD ― RED RIVER WILSON
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初めの頃のリリースでは全11種類と聞き及びますので、それが確かなら、多分レッド・リヴァー・ウィルソンが後から追加されたのではないかと思います。と言うか、この件に限らずアウトローに関する情報はネット上に殆どなく、私にはその全貌が分かりません。よって、以下は憶測でしかないことを注意して下さい。また、間違いの訂正や何かしらの情報をお持ちの方は是非ともコメントよりお知らせ頂けると助かります。
おそらく初めのアウトローは日本市場向けに80年代末か90年代初頭に発売されました。インポーター・ラベル(河内屋酒販)にはウイスキー特級と記載がありますが、これは俗に言う偽特級と言うのか、ラベルを使い切るまで貼られたものではないかと推測されます。この時の物は12年熟成101プルーフと15年熟成101プルーフで、キャップが後のものよりやや短いものだったようです。その後アウトローは、ラベルの醸す雰囲気が頗るクールで人気があったのか、何度かボトリングされました。アウトローは上で紹介した他のコレクターズ・シリーズよりヴァリエーションが多く、私が実物および画像で見たことのある範囲で言うと、先の2種類の他に後から、8年熟成80プルーフ、11年熟成80プルーフ、12年熟成80プルーフ、15年熟成86プルーフ、20年熟成101プルーフ等が発売されています。初期の物と後から出された物とでは、ラベルに使われる写真にも変化があったりしました。これらの正確なリリース時期は判りませんが、確認できたところでは90年代後半と2000年代前半の物がありました。アライド・ロマー/インターナショナル・ビヴァレッジは小規模な会社であり、現在のプリザヴェーション蒸溜所の製品を見ても分かる通り、ヴェリー・スモールバッチ(同社の言葉ではマイクロ・バッチ?)に拘りをもっており、またボトリングを担当したKBDの生産規模からしても、その流通量の少なさからしても、アウトローの全ての製品は少量生産の筈です。そのせいもあってか、2010年代前半頃には手に入れ難い状況になっていたようです。ところが2017頃、突如としてアウトローは復刻されました。その時の物は1000mlの規格、NASの80プルーフ、ブラック・ワックス・トップで、ラベルは何故か全6種類だったらしい(キッド・カリー、ホアキン・ムリエタ、ジョン・ウェスリー・ハーディン、ハリー・ロングボー、ビリー・ザ・キッド、ミステリアス・デイヴ)。この最も新しいアウトローは、おそらくウィレットがボトリングしてないのではないかと思われます。プリザヴェーション蒸溜所での自家ボトリング? もしそうでないのならストロング・スピリッツあたり? ラベルに所在地表記のヒントがないので全く判りません。判らないと言えば、中身のジュースのソースも全く謎です。現行ヘヴンヒルぽいという推測はありました。私は飲んだことがありませんが、旧来のアウトローとは丸っきり違うものとは聞き及び、どうやら著しくクオリティが下がっているようです。アライド・ロマーは、バーズタウンにプリザヴェーション蒸溜所を開設するまで自前の蒸溜所を所有しないNDP(非蒸溜業者)だったので、何処かから原酒を調達しなければならない訳ですから、その時々で中身に差があるのはまあ仕方のないこと。過剰生産とバーボン人気の低迷期には長期熟成原酒が安く買えましたが、2017年の段階ではそうは行かないでしょう。この最新のアウトローに限らず、歴代のアウトローもファースト・ロットと以降の物、そして8年や11年のようにボトリング・プルーフが低いものは、味も全くの別物と言われたりしています。
KBDがボトリングした旧い物に関しては、日本語でアウトロー・バーボンを検索した時に出てくる情報ではヘヴンヒル原酒と言い切られている場合もありますが、KBDはボトラーとして契約上の守秘義務を守り、中身のジュースについての詳細は一般に明かしていません。一説には複数の蒸溜所の原酒をブレンドする製法で造られているとも聞いたことがあります。つまり、ヘヴンヒルのみのバレルを使っていたのかも知れないし、或いはヘヴンヒルを中心として他のバーンハイムやフォアローゼズのバレルを混ぜていたのかも知れないし、それは永遠に謎だと言うこと。KBDの社長だったエヴァン・クルスヴィーンに訊ねても、覚えていない可能性すらあります。いや、明確に記憶していたとしても、どうだったかな?と空惚けされるだけでしょう。何処の蒸溜所の原酒であれ、KBDのストックから10〜20バレル程度選んでバッチングしているのであれば、エヴァンがブレンドしたのは間違いないと思います。逆に3〜4樽程度のバッチングなのであれば、アライド・ロマーの社長マーシィ・パラテラがシングルバレル・プログラムのような形式で選んでいる可能性もあるのかも。または両者の共同作業なのでしょうか? 或いはマーシィが持ち込んだバレル(UDから購入したS-Wとか)を単にボトリングしただけなのか? まあ、こうして謎めいたところもアウトロー・バーボンの魅力の一つ。分からないことは措いて、実際に飲んでみるしかありません。今回、私が飲んだボトルは90年代終わり頃にボトリングされた、ラベルにホアキン・ムリエタが使われた物です。

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西部のロビン・フッド、メキシカン・ロビン・フッド、エルドラドのロビン・フッドとも呼ばれるホアキン・ムリエタは、ゾロからバットマンまでインスピレーションを与えたとされる神話的存在。彼については冷徹な殺人者、虐げられた人々のために戦う義賊、民族的英雄など様々に語られていますが、その生涯に関する事実は殆ど判らず、広く知られていることの多くは伝説に由来しています。何なら一人の人物ではなく、1850年代のカリフォルニアのゴールド・ラッシュでアングロ系の人々による差別の犠牲になった多くの人々の合成物であると見る人もいたり…。ホアキン・ムリエタは1829年か1830年頃にメキシコのソノラもしくはチリのキヨタに生まれ、1853年頃にカリフォルニアで死去したとされます。彼の死後、チェロキー族の作家ジョン・ロリン・リッジが書き、1854年に出版された『ホアキン・ムリエタの生涯と冒険』という小説からロマンティックな描写は始まったようです。
おそらくは歴史的事実と民間伝承と神話が複雑に交差する物語によると、ムリエタは10代の時に結婚し、ゴールド・ラッシュでお金を稼ぐという夢をもって、1848〜50年頃、18歳の時に妻と共にメキシコを離れてカリフォルニアに移住しました。所謂フォーティナイナーズ、またはフォーティーエイターズなのでしょう。しかし、この若いメキシコ人は富を得るどころか、入国直後に人種差別的な不当な扱いを受け、早々に社会的不公正を知ることになります。ムリエタの物語の根底には、1850年代のカリフォルニアの人種差別的緊張がありました。
1848年2月2日のグァダルーペ・ヒダルゴ条約によって米墨戦争は終結し、アメリカはカリフォルニアをはじめコロラド、ネヴァダ、ニューメキシコ、テキサス、ユタ、ワイオミングを獲得しました。金が発見された当時(1848年1月24日)のカリフォルニアはまだメキシコの一部でしたが、アメリカが占領していました。正式にカリフォルニアが州となったのは1850年9月9日です。採掘事業が個人主義的で、移民が最も急速だった1849〜1850年初頭に掛けて移民排斥主義が生まれました。ヨーロッパ系アメリカ人はメキシコから奪ったばかりの地域で利益を維持するために、法と経済のシステムを熱心に構築し始め、自警団とマイノリティ・グループに対する法的差別の両方が促進されます。その一つ、1850年のフォーレン・マイナーズ・タックス・アクト(外来鉱山労働者税法)は、全ての非ヨーロッパ人鉱夫が鉱山で働くために月20ドル(現在の数百ドル)の税金を支払うことを求めたものでした。これにより事実上ヒスパニック系の人々はゴールドラッシュから締め出されました。多くの所謂カリフォルニオス(カリフォルニアにいたスペイン語を話す人々)は、経済的に疎外された結果として盗賊になった人もいたと言います。ゴールド・ラッシュは国内外から人々を引き付け、カリフォルニアの人口は爆発的に増加しましたが、それは白人とその他のメキシコ人やインディアンや中国人の間で暴力が頻繁に発生する状況を齎したのです。
或る時、金鉱労働者でありヴァクェロ(スペイン版カウボーイ)であったムリエタは、兄弟と自分がロバを盗んだという濡れ衣を着せられ、兄弟(または義理の兄弟)は絞首刑になり、ムリエタもこっぴどく殴られ鞭で打たれました。更に彼の若い妻は集団強姦されてしまいます(彼女はムリエタの腕の中で死んだという説まであるそう)。彼は今後、復讐のために生き続けることを誓いました。鉱区を強制退去させられたムリエタは、仕事を見つけることが出来ず、怒りに任せて犯罪に手を染め、他の外国人鉱夫たちと共に、自分たちの権利を奪った者たちを食い物にするようになります。軈てムリエタはファイヴ・ホアキンズと呼ばれる荒くれ者集団のリーダーとなり、彼の右腕で「スリー・フィンガード・ジャック(3本指のジャック)」の異名をもつマニュアル・ガルシアも含むバンドは、サン・ホアキンやサクラメント・ヴァリーを荒らし回り、牛や馬を盗み、サルーンを略奪し、19人を殺害したとか。しかし、彼らはメキシコの同胞に対する多くの不正を正すためにのみ犯罪を犯し、不正に得た利益の多くを貧しい人々に与え、その助けられた人々は彼らを法から匿うことさえしたと伝えられます。そうした協力者のお陰か、或いはムリエタは変装の名人だったとの説もあり、ともかく数年間は法から逃れることが出来、その過程で3人の法執行官を殺害したらしい。
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(チャールズ・クリスチャン・ナールによる1868年の絵画)
1850年には早くも「ホアキン」という名前の無法者がカリフォルニアを恐怖に陥れているという新聞報道があったそうです。カリフォルニアで大規模な犯罪が発生する度にホアキンが容疑者になりました。そしてホアキンが本当に存在するのかについての議論まで出ました。謎のホアキンに対する恐怖感がカリフォルニアを席巻し、人々は無法者を裁判にかけるよう要求しました。カリフォルニア州は生死を問わず厶リエタに5000ドルを上限とする懸賞金を提示します。同州の無法状態を漸く理解したジョン・ビグラー州知事は、1853年5月に元テキサス・レンジャーのキャプテン・ハリー・ラブ率いるカリフォルニア・レンジャーズを創設し、ムリエタとその一団を追い詰めるよう命じました。1853年7月25日の早朝、レンジャー達はサン・ベニート郡のパノーチェ・パス付近でメキシコ人の集団と遭遇します。銃撃戦となり、彼らは八人の男性を殺害しました。レンジャー達は、うち二人はムリエタとスリー・フィンガード・ジャックだと主張し、その死の証拠としてガルシアの手とムリエタの頭を切り落とし、ブランディの入った瓶に保存して持ち帰りました。神父を含む17人がその頭部はムリエタのものであるとする宣誓書に署名し、関与したレンジャーズは5000ドルの報奨金を受け取りました。
その後、厶リエタの身の毛もよだつ遺物はカリフォルニア中を旅することになり、サンフランシスコのストックトンやマリポサ郡のマイニング・キャンプ等に展示され、1ドル払えば盗賊の首が見られるというので好奇心旺盛な観客は興味本位で見物しました。しかし、ホアキン・ムリエタの伝説はそう簡単には治まりませんでした。彼が殺されてから間もなく、彼の妹と名乗る若い女性が頭部を見て、兄にあった特徴的な傷跡がないと言ったことから、殺されたのは厶リエタではなかったという憶測が流れ始めます。また、カリフォルニアのあちこちで厶リエタが目撃されたという報告も出始めました。ムリエタの首は最終的にサン・フランシスコのゴールデン・ナゲット・サルーンのバーの後ろに置かれ、1906年の地震で建物が破壊されるまで放置されました。この首はムリエタの亡霊という別の伝説と言うかホラー話となり、今でもムリエタの首なし幽霊が昔の金鉱地帯を走り回り「俺の首を返せ」と啜り泣いているとかいないとか…。
ホアキン・ムリエタの話の大部分はフィクションと思われますが、その物語は苦しみと人種的不公平の中でゴールデン・ステイトが創造されたことの証でした。長い年月を経て伝説はどんどん大きくなり、カリフォルニアのアングロ=サクソン支配に対するメキシコ人の抵抗の象徴のような存在になりました。そしてゴールド・カントリーの至る所で、彼がこのホテルやあのホテルに泊まったとか、様々な酒場で飲んだとか、実際に会ったとか強盗にあったとかいう話が語られるようになったと言います。歴史上のムリエタの実態がどうであれ、彼の人気は高まり続け、文学や映画に影響を与えただけでなく、メキシコのバラードやコリードによって歴史的な社会的アイコンとして確固たるものとなり、彼の自由と闘争の戦士としてのイメージはチカーノの活動家達にとって抵抗の強力なシンボルとなりました。
そう言えば、ホアキン・ムリエタの伝説を下敷きにしたAmazonオリジナルの西部劇ドラマ『ホアキン・ムリエタの首』が2023年2月17日から配信されています。興味のある方は是非とも視聴してみて下さい。では、そろそろこの何とも言えず魅力たっぷりなラベルのバーボンを注ぐとしましょう。

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OUTLAW KENTUCKY BOURBON 15 Years 101 Proof
DESPERADO!
JAQUIN MURIETA
推定1999年ボトリング(瓶底)。艷やかな濃いめのブラウン。微粒子感のある液体。メープルシロップ、シトラス、胡桃、蜂蜜のど飴、ネイルポリッシュ、オールスパイス、葡萄の皮、炭、レモンジンジャー、ミルクココア。濃密でスイートかつ円熟を感じさせるアロマ。口当たりはソフト。パレートでも甘く味が濃ゆい。余韻はミディアムながら仄かなプラムと爽やかなスパイシーさが揺蕩う。
Rating:94/100

Thought:はい、激ウマです。長期熟成のコクがありつつ過剰な熟成感のない、とてもバランスの良いバーボンでした。基本スイートでドライさや苦味はなく、しかもハービー過ぎず、スパイスは適度なのです。特筆すべきは、飲むと意外にも暗い色のフルーツよりも明るい色のフルーツを感じさせるところ。何なら新ウィレットの4〜6年熟成原酒的なフルーティさすら感じました。ここら辺が私の好みに適合しています。また時々モルティさを感じる瞬間もあり、香りから余韻まで全て素晴らしい。原酒に関しては、よく分かりませんでした。トップノートにヘヴンヒルぽさを感じた瞬間もありましたが、飲んでみると平均的なヘヴンヒルとは異なるように感じました。液体を飲み込んだ直後のキックや余韻にはライ麦15〜18%はありそうな印象。まさかバートン? それともやはり複数蒸溜所原酒のブレンドなのでしょうか…。個人的には少なくともスティッツェル=ウェラーではないように感じました。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメントより感想をどしどしお寄せ下さい。

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嘗てアメリカのウィスキーに使用される有力な穀物だったライを本来の高みへ戻すためにリデンプション・ブランドは始まりました。ライは長い間、アメリカン・ウィスキーの世界に於いてコーンに匹敵するかそれを上回る穀物の地位に君臨していましたが、禁酒法の影響から廃れてしまい、他の蒸溜酒のようには回復することが出来ませんでした。しかし、ここ10数年で様相は一変しました。ライ・ウィスキーの売上は大きく伸び、今、復権を謳歌しています。そうした過程の中で「リデンプション」は急速に評価を築いたブランドです。ブランド自体の紹介は、過去に投稿した記事でしていますので、そちらを参照して下さい。

リデンプション・ウィスキーには、リデンプション・ライ、リデンプション・バーボン、リデンプション・ハイライ・バーボンという3つの主要なセレクションがあります。リデンプションの特徴として4年未満のスピリッツにも力を入れていることが挙げられ、これらはどれも平均2.5年熟成とされる若いウィスキーです。他にも長熟や追加熟成を施したもの、或いはウィーテッド・レシピのものなど様々な製品展開がありますが、スタンダードなのはこの三つと見てよいでしょう。リデンプションの名声は確実にライ・ウィスキーによって齎されましたが、現在の薬瓶スタイルのボトル(*)になる前のスタイリッシュなトールボトルの頃からバーボンもリリースしていました。そこで今回はマッシュビルの少し異なる二つのバーボンを取り上げます。

ライと同様、バーボンもインディアナ州ローレンスバーグの有名なMGP(現在ロス&スクィブ蒸溜所とも名乗る)から調達して造られています。MGPはアメリカのライ市場の80%以上を生産していると目される元シーグラムの蒸溜所。数多のNDPやクラフト・ディスティラリーにも最高級のウィスキーを提供するこの蒸溜所には多くのレシピがあり、有名なのはライ麦が95%のレシピですが、それだけに留まらずバーボン・レシピも当然ながらある訳です。
幸いなことに判り易くマッシュビルの情報はラベルに記載されています。「バーボン」はコーン75%、ライ21%、バーリーモルト4%です。別に「ライ」と「ハイ・ライ」があるのだから、通常のバーボンには対照的にライ麦を控えたロウ・ライのレシピを使用しているのではないかと思ってしまいそうですが、リデンプション・バーボンのライ麦の含有量は業界水準より高めです。実のところ"ハイ・ライ"という用語は法律で定められていないため明確な基準がありません。ロウ・ライ(またはハイ・コーン)のレシピはライが10%以下であることが多いため、15〜18%のライ麦率でもハイ・ライと言われる場合もあったりします。従って、この通常のバーボンをハイ・ライとして販売することも可能なのですが、リデンプションはライを前面に押し出したブランドのため、21%でもハイ・ライを名乗らないのです。
一方の「ハイライ・バーボン」はと言うと、コーン60%、ライ36%、バーリーモルト4%のマッシュビルを使用しています。アメリカン・ウィスキー愛好家は、これらの原料の構成を見てすぐにフォアローゼズの二つのマッシュビルとの類似に気づくでしょう。フォアローゼズのEマッシュビル(75%コーン/20%ライ/5%モルテッドバーリー)及びBマッシュビル(60%コーン/35%ライ/5%モルテッドバーリー)とはライとモルトが1%づつしか変わりません。マッシュビルは使用されるモルトの量によって僅かに変動する可能性があるので、実質的にMGPとフォアローゼスは同じマッシュビルを使っていることになります。実際、リデンプション初期のトールボトルのラベルには、バーボン(旧名テンプテーション)では「20%プレミアム・ライ、5%バーリーモルト、75%コーン」と書かれてフォアローゼズのEマッシュビルと一致し、ハイライ・バーボンでは「38.2%プレミアム・ライ、1.8%バーリーモルト、60%コーン」とマッシュの変動が細かく記されていました。
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インディアナ州ローレンスバーグのジョセフEシーグラム蒸溜所(現MGPプラント)とケンタッキー州ローレンスバーグのオールド・プレンティス蒸溜所(現フォアローゼズ蒸溜所)は共に嘗てシーグラムが所有していた歴史があります。二つの蒸溜所は、シーグラムの品質管理チームが互いのイースト・ストレインをテストしたり、またそれらを共有していました。基本的にフォアローゼズが使用しているイーストはインディアナの蒸溜所でも大体使用できるらしく、フォアローゼズのイーストは「V、K、O、Q、F」、MGPのイーストは「V、K、O 、Q、S(ライト・ウィスキーに使われる)」とされます。シーグラム時代に考案されたレシピの略語は今でも使われ、例えばフォアローゼズで「OESV」と呼ばれるレシピは、インディアナ州の蒸溜所では「LESV」と呼ばるそう。一文字目の「O」はフォローゼズの旧称オールド・プレンティスを表し、「L」はインディアナ州ローレンスバーグの施設を示します。二文字目はマッシュビルを意味し、フォアローゼズで「E」や「B」と呼ばれるものはMGPでも「E」や「B」な訳です。ちなみに、MGPの95%ライ/5%バーリーモルトのライ・ウィスキーは「Q」、 80%コーン/15%ライ/5%バーリーモルトのコーン・ウィスキーは「C」、99%コーン/1%バーリーモルトのマッシュビルは「D」の略号が与えられています。MGPには他にも以下のような6種類のマッシュビルがあります。
◆バーボン(51%コーン/45%ウィート/4%バーリーモルト)
◆バーボン(51%コーン/49%バーリーモルト)
◆ライ・ウィスキー(51%ライ/49%バーリーモルト)
◆ライ・ウィスキー(51%ライ/45%コーン/4%バーリーモルト)
◆ウィート・ウィスキー(95%ウィート/5%バーリーモルト)
◆モルト・ウィスキー(100%バーリーモルト)

奇しくも同名であるローレンスバーグの二つの蒸溜所の類似点は他にもあり、両者は原料のライ麦を主にドイツの同じ生産者から仕入れているだろうと推測されています。シーグラムの科学者達は最高のスピリッツを造るために常にテストを繰り返し、北米産のライ麦に較べてドイツで栽培される特定のライ麦種が自分達のイーストにとってベストなマッシュを生むと確信しました。また彼らは、一貫して豊かなフレイヴァー・プロファイルを実現するために、120のバレル・エントリー・プルーフを採用しました。現在でもフォアローゼズとMGPはそうしています。そして、フォアローゼズの熟成倉庫は温度差の少ない平屋建てで知られていますが、MGPの熟成倉庫も亦、平屋造りではないものの壁面が煉瓦造りで各フロアはコンクリートの床と天井で区切られており、多くのケンタッキー州のリックハウスと較べると各階は一定の温度と湿度が維持され、庫内の場所に関係なく各バレルを同じように熟成させる哲学で設計されています。

偖て、話が若干逸れたのでリデンプションに戻すと…今回私が飲んだ「バーボン」は84プルーフで瓶詰めされています。リデンプション・バーボンをネットで調べると、88プルーフの物がけっこうな割合で見つかりました。販売地域によりプルーフに差を付けているのか、もしくは或る時からボトリングするプルーフを上げたのかも知れません。もし後者なら、そのうち日本に入って来る物も88プルーフになるのかも?
先述のように、リデンプションのスタンダードな物は熟成年数の短いウィスキーです。ブランド・アンバサダーのジョー・リッグスは、より少ない熟成で成熟した風味を生み出す「全く新しいディスティリング・プロセス」に取り組んでいると述べていましたが、一体どのようなものなのか具体的には良く分かりません。取り敢えず、これらの若いバーボンを味わってみましょう。

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REDEMPTION BOURBON 84 Proof
Batch No. 026
推定2020年ボトリング。淡いブラウン。焦がした木材、穀物、ペッパー、ライスパイス、薄いキャラメル、ミント、よく言ってアップル、ピーナッツ、エタノール、鉛筆。ノーズは甘さのあまりない爽やかな穀物と木材の香り。ややとろみのある口当り。パレートでは、ほんのり甘いがピリピリ感も。余韻は短く、ドライさの中にライっぽさが少し顔を覗かせる。
Rating:79/100

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REDENPTION High Rye Bourbon 92 Proof
BATCH No. 120
推定2020年もしくは2021年ボトリング。淡いブラウン。トーストした木材、グレイン、ライスパイス、シュガー、ペッパー、種のお菓子、僅かなドライフルーツ、グリーンアップル、若草。アロマはスパイシー。ややとろみのある口当り。パレートは青い果実とスパイスが感じ易い。余韻はややドライであまり甘くない穀物とライの爽やかな苦味が残る。
Rating:82.5/100

Thought:バーボンの方は、流石にもうちょっと熟成したほうがいいなぁという感想でした。円みも僅かに出て来ているのですが、味わいも余韻もちょっと平坦で、もう4年熟成させたら凄く美味しくなりそうな予感で終わります。海外の方でメロウコーンを思い出すと言ってる方がいましたが、個人的にはそこまで「メロウ」とは思いませんでした。ライ麦21%はバーボンとしては多い方ですが、私には香りからライやベーキングスパイスの存在を見つけるのは難しく、味わいも「ライ」にあったシトラスやグリーンリーフのフレイヴァーはあまり感じられません。基本的にグレイン・フォワードなバーボンで、よく言えば甘いシリアルのような味わいとは言えます。
ハイライ・バーボンの方は、スパイスと甘さのバランスがちょうど良く、だいぶ美味しく感じました。なんか嘘みたいにリデンプションのバーボンとライ・ウィスキーを混ぜたような中間の風味がします。ただ、何故か甘いアロマは最も弱く感じました。以前に飲んだライ・ウィスキーを含めて三つのラインナップで見た時に、私個人の趣味としては見事なまでにライ麦含有量が高い順に旨く感じます。ライ、ハイライ・バーボン、バーボンの順に自分好みのシトラスやディルの風味が感じ易いのです。「結局、お前がライ・ウィスキー好きなだけやろ」と言うツッコミには、はい、その通りですと言うしかありません。けれどもバーボンよりライの方が短期の熟成で美味しくなるというコンセンサスはある程度はあり、それがこの結果となっている気もします。
両者を比較して、キャラを強調して言うと、バーボンはナッティ寄り、ハイ・ライはフルーティ寄りでしょうか。余談ですが、これらのウィスキーはテイスティング・グラスで飲むとちっとも美味しくなく、ショットグラスかラッパ飲みだとなかなか美味しかったです。これは若いウィスキーによく見られる傾向かなと個人的には思っています。最後に、以前レヴューしたライを含めた3つのクラシックなリデンプション・ウイスキーのセレクションを総評すると、基本的にカクテルに使用するために造られてる気はしますが、どれも若い割には粘度が高く、ニートで飲んでも十分美味しいです(特にライとハイ・ライ)。但し、もう少し樽熟成が長ければ、もっと素晴らしいものになるでしょう。そして問題は価格…。

Value:販売地域によって変わりますが、バーボンもハイライ・バーボンもアメリカでは25〜30ドル程度の場合が多いようです。ところが日本ではバーボンは3000円程度なのですが、ハイ・ライ及びライ・ウィスキーは何故か5000円程度します。熟成年数の短さを考慮すると、これは痛い。正直、コスパは良くないです。「バーボン」なら大手の蒸溜所がリリースしてるスタンダードな製品の方が安い上に旨く感じてしまうし、「ライ」ならテンプルトンの4年熟成の方が安いのです。「ハイ・ライ」に関しては、MGPのハイライ・レシピ原酒の中で日本では比較的入手し易いという利点はあるかも知れません。ブランドのイメージやボトルのデザインが好きとか、敢えてヤンガー・ウィスキーを好む方にはオススメします。ですが、私はこの値段なら再度の購入はしないかな…ごめんなさい。


*2023年3月にニューボトルになることが発表されました。なので本文中で「現在の〜」と言っているボトルは、新しいボトルにリニューアル後は一つ前のものとなります。ディアジオからブレットのボトルに似ていると訴えられたのが理由で変更したのかも知れませんね。


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(画像提供F氏)

マスターズ・レアは、今となっては正に名前の如くレアなバーボン。グレンモア・デイスティラリーズが1970年頃に導入したブランドです。現代に生き残っていない古いブランドにありがちなことですが、ネットで探っても情報が殆ど見つからず詳細は分かりません。よって以下は憶測になります。おそらく、マスターズ・レアという名前からしても、ラベルのデザインからしても、限定的で高級志向なバーボンだったのではないでしょうか。また90.9プルーフという半端な数字でのボトリングなどには、どことなく現代のプレミアム・バーボンに通ずる趣が感じられます。

このバーボンの面白いところと言うか興味深いところは、ラベルに「SINCE1836」と、ジョセフ・ワシントン・ダントの有名なログ・スティルの創業年を記載しているところです。当時、「J.W.ダント」というブランドはシェンリーが所有していました。そのため、何故グレンモアがJ.W.ダントの創業年を匂わせるん?となる訳ですが、これはおそらくイエローストーン・コネクションによるものかと思われます。JWの息子であるジョセフ・バーナード・ダントはゲッセメニーに独自の蒸溜所を建設し、それをコールド・スプリングス蒸溜所と名付けました。ルイヴィルの卸売酒類業者テイラー&ウィリアムズ社は、この蒸溜所から供給されるバーボンでイエローストーン・ブランドを作成すると、すぐにヒットさせ彼らの旗艦ブランドにしました。この間にダントのディスティラーとしての評判は高まりましたが、禁酒法によりゲッセメニーの蒸溜所は一旦停止されてしまいます。禁酒法期間中、テイラー&ウィリアムズは薬用ウィスキーの販売ライセンスを持っていませんでしたがブランドを維持し、ウィスキーの保管料とボトリング手数料を払うことで、ライセンスを取得していた企業の一つブラウン=フォーマンによってイエローストーンは販売されました。禁酒法が解禁されると、JBとその息子達は蒸溜会社としてイエローストーン社を設立し、ルイヴィル郊外のシャイヴリーに新しい蒸溜所を建設しました。禁酒法以降、蒸溜所を始めるのは簡単ではありませんでしたし、40年代には戦争もありました。そのせいなのか、1944年にイエローストーン・ブランドはグレンモアにより購入され、同社は以後それを主力ブランドの一つにしていました。バーボンという「商品」のマーケティングは、伝統を重んじ、如何に歴史を遡れるかで価値が高まるようなところがあります。「なんと創業は18○○年!」などと言って。だからこそ、マスターズ・レアのラベルでJ.W.ダントの創業年を謳っているのではないかと…。

1966年頃にはイエローストーンはケンタッキー州で最も人気のあるブランドになったと言われますが、1970年代を迎える頃にはバーボンの売り上げは年々減少し汎ゆる蒸溜所の倉庫は満杯となっていたとも聞きます。そういう観点からすると、マスターズ・レアはNAS(熟成年数の記述なし)ながら、少なくともある程度は長期熟成原酒を含むのではないかと想像しています。ブランド名に使われる「レア(希少さ)」というワードにしても長熟の高尚表現と勘繰ることが出来るでしょうし。
ボトル前面下部のラベルに記載の「Bottled at the distillery by MSTER'S RARE DISTILLING CO. Louisville, Ky.」のマスターズ・レア・ディスティリング・カンパニーというのは想定企業名(架空企業名、DBA)ですが、所在地がルイヴィル表記であるところからすると、ボトリングはイエローストーン蒸溜所でしょう。使用している原酒もイエローストーンの可能性は高いと思いますが、グレンモアのもう一つの蒸溜所であるオーウェンズボロのプラントから来ている可能性も否定できません。何しろ「Distilled」とは書かれてませんから。また、海外の有名なバーボン掲示板で或るアメリカン・ウィスキー愛好家の方は、ダントの創業年とルイヴィルの所在地を記載しているところから、JBの弟のジョン・P・ダントの蒸溜所から来ているのではないかと書いていました。まあ、どれも憶測ではあります。海外のオークション・サイトの商品説明文ではグレンモア蒸溜所で製造された、と書かれていました。前後の文脈からしてオーウェンズボロのプラントを指していますね。

偖て、このようなレアなバーボンを飲むことが出来るのは、今年の4月から長野県諏訪市に新しくオープンしたバーボン・バー「Fujisan's_Bar」のマスターのご厚意によるものです。マスターのF氏とはインスタグラムで知り合い、バー開店以前から同じバーボン好き同士として仲良くしてもらっていたのですが、お店のストックの中でも希少な部類に属する物を開封したので是非味見をして欲しいとのことで、サンプルを送って頂けたのです。本来ならこちらがオープン祝いに何かしらせねばならぬところ、逆にこんなにも希少な物を飲む機会を提供して頂き感謝しかありません。この場を借りて再度お礼をさせて下さい。画像提供も含め、本当にありがとうございました! そして、いつかお店に伺いたいと思っております。最後尾にお店の紹介をしてありますので、バーボン好きの方は是非ともチェックしてみて下さい。では、飲んだ感想を少しばかり。

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MASTER'S RARE 90.9 Proof
推定70年代ボトリング。赤みを帯びた濃いブラウン。黒蜜、樹液、アニス、フェンネル、炭焼ハンバーグ、ドライオレンジ、お爺ちゃんの薬箱、レモングラス、僅かにバター。ノーズは濃密な甘い香りと爽やかなスパイス香が主で、柑橘系の香水のような香りも。水っぽい口当たり。パレートは複雑なハーブ&スパイス、収斂味も。余韻は長く、ややドライでハービー。アロマがハイライト。

中身に関する情報が全くないのですが、飲んでみるとけっこう長熟なのでは?というフレイヴァーに感じました。10年は超えていそうなマチュレーションです。時間をおくと複雑に変化する香りが面白く、崇高性を感じました。個人的には味わいにもう少し熟成フルーツもしくは濃い色のフルーツを、または甘みを感じたかったですかね。
Rating:88/100


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バーボンをコレクションして十数年のオウナーが、昼間農業に勤しむ傍ら、上諏訪駅から徒歩5分の位置にオープンした隠れ家的なバー。小さいながらも白を基調とした小綺麗な印象の店内は、アメリカン・ポップな飾りでレトロな雰囲気が味わえます。80〜90年代のオールド・バーボンを中心とした品揃えを、当時の仕入れ価格をもとにしたリーズナブルな値段で提供。パピー・ヴァン・ウィンクルからワイルドターキー、プリ・ファイアー・ヘヴンヒルからエンシェント・エイジまで。バーボンが8割、スコッチ1割、ジャパニーズとその他が1割という構成です。厳しい世の中にも拘らず、ほぼバーボンしかないお店を開く男気に乾杯。

Fujisan's_Bar
長野県諏訪市大手2-3-3桑澤店舗ビル1階

営業時間
月 19:00 〜24:00
火 19:00 〜24:00
水 19:00 〜24:00
木 19:00 〜24:00
金 19:00 〜25:00
土 19:00 〜25:00
日 19:00 〜24:00 

休日
殆どの場合やっていると思われますが、不定休のため利用前に店舗に確認するの無難かと。連絡は下記のエキテンのサイトが便利そうです。

Instagram
https://instagram.com/fujisans_bar?igshid=YmMyMTA2M2Y=

エキテン店舗情報
https://s.ekiten.jp/shop_34423568/?from=top_page

You Tubeでお店が紹介されていました

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グリーンブライアーというブランドには歴史的にケンタッキー州のバーボンとテネシー州のウィスキーがありました。今回取り上げるグリーンブライアーは、近年復活を果たしたチャールズ・ネルソンのグリーン・ブライアー・テネシーウィスキーではなく、ケンタッキーの蒸溜所由来の方となります。と言っても、テネシーの方が復活と共にその歴史が掘り起こされているのと違い、こちらのグリーンブライアーの詳しい歴史はよく分かりません。ブランドを守る訴訟はアメリカン・ウィスキーの世界でも昔から盛んでしたが、何故だかこの両者は法廷で争う関係になったことはなく、製品の蒸溜もマーケティングも同時期に行われていたらしい。ともかく、情報が少ないので説明の大部分はサム・K・セシルの本からの引用が殆どとなります(と言うかセシルも先人の資料を参照しただけなのかも知れない)。
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(テネシーのグリーン・ブライアー)

グリーンブライアー蒸溜所は当初、後に祖父にちなんでオールド・グランダッドという有名なブランドを造ることになるレイモンド・B・ヘイデンが運営していたとされます。バーズタウンの市街から東へ5マイル半のウッドローン近く、ミル・クリークの源流付近に建てられていました。禁酒法以前のDSPナンバーは、税務区分が第5地区のRD#239です。設立年と誰が建てたのかは判りません。レイモンドの祖父ベイゼル・ヘイデン・シニアがメリーランド州からケンタッキー州バーズタウンに移住した地域がグリーンブライアーとされているのを見かけたことがあるので、ベイジルが建て息子のルイスが引き継ぎ更にレイモンドが発展させたのがこの蒸溜所なのでしょうか? 或いは、祖父や父を超えんと意気込んだレイモンドが主導して建てたのでしょうか? それはともかく、グリーンブライアーと呼ばれる小さな町はバーズタウンから南へ約6マイルのハイウェイ49沿いにありました。蒸溜所の場所とはちょっと距離が離れていますね。グリーンブライアーは嘗て密造酒の源として有名で、地元にはそれに纏わる伝承があるそうです。
レイモンドは蒸溜所をジョン・Jとチャールズのブラウン兄弟に売却し、二人は1870年代後半には「R.B.ヘイデン」のブランドを使って運営しました。1883年、ウィリアム・M・コリンズとJ・L・ハケットにより設立されたWm.コリンズ&カンパニーに売却され、蒸溜所はグリーンブライアー・ディスティリング・カンパニーを名乗るようになり、R.B.ヘイデン・ブランドを維持しつつ「グリーンブライアー」を加えました。最終的にコリンズは会社を辞め、ハケットを社長に、G・マッガーワンがセクレタリーに就任しました。1891年には蒸溜所を改修し、同年ルイヴィルにケイン・ラン・ディスティラリーを建設したとされます。1892年の保険引受人の記録によれば、グリーンブライアー蒸溜所は金属またはスレート屋根のフレーム構造で、プロパティには牛舎や三つの倉庫があったようです。
1920年、ご多分に漏れず工場は禁酒法で閉鎖されました。1922年には貯蔵されていた最後の残りのウィスキーを薬用ウィスキーとしてボトリングするためフランクフォートのジョージ・T・スタッグの集中倉庫に移したそうです。おそらくシェンリーは禁酒法期間中にグリーンブライアーのラベルを取得したと思われますが、セシルは禁酒法時代にそれが使用されることはなかったとしています。海外のウィスキー・オークションで出品されていた1913年蒸溜/1924年ボトリングの薬用パイントのグリーンブライアーの説明には「この蒸溜所は禁酒法期間中にシェンリー社によって購入された。これは同社がメディシナル・ライセンスを使用してウィスキーをボトリングするためのフル倉庫を探していた時に行われた多くの買収の一つでした。 元の蒸留所は閉鎖されましたが、禁酒法後の最大の生産者の一つである同社は新しい蒸溜所を建設し一時的に運営した」と述べられていました(参考)。
しかし、セシルの本には別の再建ストーリーが語られています。1935年頃、全ての建物が老朽化したため、プラント全体がグリーンブライアーRD No.51として再建された、地元の自動車ディーラーのジム・コンウェイとその仲間がグリグズビー・ダンズと契約し蒸溜所の建物を、レイ・パリッシュが倉庫を建設した、地元の投資家はそこを短期間保有しただけで、その後ワセン・ブラザーズに売却した、何度も所有者が変わり、1930年代後半にバード・ディスティリング・カンパニーという会社に買収されたと記憶している、と。1933年にシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションが組織された時、確かにその傘下の企業名にはフィンチやスタッグ、ペッパー、ジョンTバービー、A.B.ブラントン・スモール・タブ・ディスティリング・カンパニー等と並んでグリーンブライアー・ディスティリング・カンパニーが並んでいるのですが、もしかするとシェンリーはグリーンブライアーのブランドやトレーディングネームは買収していても蒸溜所自体は購入しなかったのかも? これ以上の詳細は私には分からないので、ここらへんの事情に詳しい方はコメントよりご教示頂けると助かります。
明確な時期は不明ですが(40年代?)、蒸溜所はシドニー・B・フラッシュマンが買い取り、おそらくダブル・スプリングス・ディスティラーズ・インコーポレーテッドとして、ビッグ・フォーなどに較べるとささやかな蒸溜事業(スピリッツの蒸溜、倉庫保管、瓶詰め)を営んだと思われます。彼は様々な蒸溜所で生産された投げ売りのウィスキーの購入に頼ることが多かったと思うが、かなり一貫したボトリング・オペレーションを維持していた、とセシルは書いています。ナショナル・ディスティラーズ出身のジョン・ヒューバーがマネージャー、エド・クームズがメンテナンス・エンジニア、ボブ・ブライニーがディスティラー、ヘンリー・ウェランがウェアハウス・スーパーヴァイザーだったそうです。シド・フラッシュマンは禁酒法廃止以来、様々な立場で積極的に酒類業界に携わって来た男で、他にもマサチューセッツ州ボストンでバルク・ウィスキーの倉庫証券のみ取引するボンデッド・リカー・カンパニーの個人事業主でもありました。
フラッシュマンは1960年代初頭までボトリング作業を続け、その後ルイヴィルの旧ジェネラル・ディスティラーズの施設に移しました。スタンダード・ブランズがフランクフォートの21ブランズ・ディスティラリーを手放すと、今度は全てのオペレーションをそこの場所に移しました。しかし、この事業は短命に終わります。そしてフラッシュマンはそこをエイブ・シェクターに売却し、エイブは以前に購入していたオーウェンズボロのメドレー・プラントに事業を移しました[メドレーのシェクター時代は75(または78)〜88年]。
フラッシュマンがネルソン郡の工場を閉鎖すると通告した時、非常に悲惨なことが起こりました。エド・クームズとヘンリー・ウェランは他の二人の従業員であるバーナード・クームズとウェザーズという名の仲間と一緒に通勤していました。職を失ったことに取り乱したウェザーズは荒れ、銃を抜き、エドとヘンリーを殺してしまいました。バーナードは飛び出して逃げたので助かったらしい。ウェザーズは精神異常と判断され、収容されることになったと云う…。
その後、グリーンブライアーの工場は荒廃し、軈て解体され、アメリカン・グリーティングスがこの土地を買い取り、グリーティング・カードの工場を建設しました。グーグル・マップで調べてみると、現在そこは、アメリカン・グリーティングスは立ち退き、カウンティ・ライン・ディスティリングというサゼラックの物流倉庫になっているようです。

偖て、ここらでグリーンブライアーのボトルの変遷でも紹介したいところなのですが、そのラベルを用いたヴィンテージ・ボトルはネットで検索しても殆ど見つかりません。既に上で紹介した禁酒法時代の物以外では、同じく禁酒法時代なのでしょうか所在地表記がカナダの物と、他には推定30年代と思しきBIBの物くらいしかありませんでした(蒸溜およびボトリングはベルモント蒸溜所。ベルモントは禁酒法により閉鎖されましたが、廃止後はシェンリーが購入していた。参照)。多分、シェンリーはグリーンブライアーのブランドを大々的に展開しなかったのではないでしょうか。
他には、グリーンブライアーのラベルを使用していませんが、グリーンブライアー蒸溜所の原酒を使用した比較的有名な物に、20年熟成のヴェリー・レア・コレクターズ・アイテムというのがあります。これは55年蒸溜とされ、ベン・リピーのオールド・コモンウェルス蒸溜所でボトリングされたと見られています(参考)。
そして今回私が飲んだ物に関しては、画像検索してもウェブサイト上で見つけることが出来ませんでした。よって詳細は不明です。これは憶測ですが、海外で全く紹介されていないことや、他のグリーンブライアーと年代が随分と離れているところからすると、当時の輸出用ラベルとして気まぐれに?復刻された物なのではないかと…。では、最後に感想を少しだけ。

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Greenbrier Straight Bourbon Whiskey 86 Proof
推定69年ボトリング(瓶底)。私のリクエストで未開封の物を開けて頂きました。…えっ、なにこれ、バケモノ? 濃厚キャラメル、甘醤油、樹液を感じさせるクラシックなシュガーバレル・バーボンでした。フルーツとスパイスはそこまで強くないカラメル・フォワードな味わいです。マイナス要素なオールド・ボトル・エフェクトも一切なく、香りと旨味全開。裏ラベルには4年熟成とありますけど、その味は完璧に熟成された8〜10年物バーボンのよう。個人的にはオールドボトルは開封済みであれ未開封であれ、状態にかなり差があると思っているのですが、デスティニーさんで飲んだボトルはどれも状態が良く、特にこれは奇跡を見る思いでした。元々ボトリングされた原酒のレヴェルが高かったのかも知れないし、ボトリングから何十年も経過して却って風味が良くなったのかも知れないし、単に自分の好みに合っただけの話なのかもですが、とにかく最高のバーボンでした。
ボトリングはカリフォルニア州フレズノのシェンリー施設だと思われますが、中身は一体どこの原酒なのでしょう? これより旧いグリーンブライアーにはあった「ケンタッキー」の文字が表ラベルからなくなっていますし、裏ラベルにもケンタッキーと書いてないところからすると、他州のバーボンであるのは間違いないかと。そうなると、年代的にもインディアナのオールド・クェーカー蒸溜所が最有力かなぁ…。でも、他のシェンリー製品のようにはラベルにインディアナ州ローレンスバーグの記載が一切ないのも気になるところ…。飲んだことのある皆さんはどう思われました? ご意見ご感想をコメントよりどしどしお知らせ下さい。
Rating:96/100

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最近では自宅のウィスキー・ボトルを外へ持ち出して、様々な景観などと共に写真撮影し、SNSへ投稿するのは世界的にすっかり定着していますね。斯く言う私自身、カメラは全く趣味ではないにも拘わらず、こちらのブログの画像に使う写真を撮りに、ボトルを抱えて森の中へ入ったりしていました。意外と面倒だし大儀なんですよね、これが。そんな事を繰り返してる時、ボトルの持ち運びに丁度いいバッグが欲しくなりました。しかし市販のバッグを見てみると、ワイン用のは案外あったりするのですが、バーボン用に作られていないのでサイズがイマイチ合わない。それならオーダーメイドで作ってもらおうと思いつきました。自分の理想的なバッグがあれば、重いものを携えて森へ行くという難儀な行程も楽しい時間になるに違いない! という訳で、Instagramで知り合い、以前に長財布をオーダーしたことのあるレザー職人さんにオリジナルのトートバッグの作成を依頼することにしました。

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お願いしたのはLeatherkiller-MKというブランドで主にレザー小物から時に大物までカスタムオーダーによる製作を請け負っているK.K.さん。彼とは、私が投稿していたジョージアムーンというジャーに入った未熟成のコーンウィスキーにコメントくださったのがキッカケでフォロー関係になりました。後に知ったのですが、K.K.さん自身、仕事の疲れを癒やすご褒美にバーボンを嗜まれる方だったのです。単にクラフツマンシップに優れているだけでも良いバッグは作れるでしょうが、それよりもバーボンも飲むクラフトマンにバーボン専用のバッグを作ってもらう方が「ストーリー」も「想い」もありますよね?

私が初めに思い描いたコンセプトは、「バーボン・ボトルの運搬に特化したシンプルで大人が持つに相応しい上質なバッグ」でした。Leatherkiller-MKのプロダクツを見てみると、使用する革やパーツの質、縫製技術はなんの問題もなく頗る高いことが判ります。そして全般的なデザインなども自分の好みに合っていました。なので、自分として守ってもらいたい規格と仕様だけ伝え、その他のデザインはお任せすることにしました。

私の要望は、①バーボン・ボトルのサイズに適合していること、液体の入ったボトルは重いので②長時間持っていても手が痛くならないハンドルを備えること、また同じ理由から③底部分が頑強であること、ボトル2本分の容量にするので④内側に仕切りを設けること、⑤色使いは最小限であること、⑥シンプルなデザインであること、以上の6点だけです。細かい打ち合わせはLINEでやり取りしたのですが、その途中でハンドルは肩から掛けられない長さにする、当ブログのオリジナル・ロゴプレートの作成、またK.K.さんの提案で仕切りを取り外し可能な機構にする等が追加されました。

Leatherkiller-MKは職人さんが一人でコツコツとオーダー品を作っているため、納期まで時間が掛かります。私の場合は4ヶ月ほど待ち、先日、遂に手元まで届きました……
……え、待って!めちゃくちゃカッコいい! いや、全体的なデザインはデッサンで見ていたので知っていましたが、やはり実物の迫力は段違いです。写真をご覧下さい。

先ずは全体像。レコードの両A面のシングル盤のような、どちらが表面とも裏面とも言えないデザイン。型紙からオリジナルで作成してもらっています。
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サイドから。
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Leatherkiller-MKと手彫りのBSNCロゴプレート。
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ボトルの重みに耐える肉厚なハンドルとリヴェット。
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私の希望で、敢えて実用性を排除した装飾ポケット。
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丁寧な縫製が光るボトム部。内側の底部分には補強材が入っています。
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内側はこんな感じです。スナップボタンで取り外し可能な仕切り。仕切りにも補強材が入っています。
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スタンダードなバーボン・ボトルを入れるとこんな感じ。
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こちらは、スタンダードな物より背が低くく、ややでっぷりしたボトル。それに梱包材を巻いていてもすんなり入るサイズに設定してあります。ちなみに右はスタッグJr、左は1リットル瓶のそういうボトルです。
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ウィレット・ファミリー・エステートやバッファロートレース・アンティーク・コレクションのような背の高いボトルを入れると、こんな感じでネックを少し出して持ち歩くことになります。ちなみに左がWFEライ、右は1リットル瓶のそういうボトルです。
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上記のようにサイズ感に関しては、ウィレット・ポットスティル・リザーヴや一部の陶器デキャンターを除けば、ほぼ網羅的にバーボン・ボトルなら入れることが出来ます。いや、特殊ボトルでも仕切り板を外せば入れられますけどね。

皮革について言及しておくと、ボディはイタリアのブリターニャ社のアリゾナ(手揉みのシボ革)、ハンドル/ポケット/ボトムはアメリカのホーウィン社のクロムエクセル(いわゆる茶芯ブラック)、ライニングはピッグスエードです。ライニングとロゴプレートはK.K.さんが私のために拘ってバーボンのような琥珀色を選んだり、手染めをして頂きました。ウィスキー・ブラウンという訳ですね。カッパー・リヴェットとも色が合っており、全体的なブラックにアクセントのブラウンが相性良くまとまり、うーん、カッコいい…。

届いてすぐ、実際にボトルを入れて写真撮影に出掛けてみました。とてもいいです! 長時間持っていても手は痛くなりません。デザインも自分のファッションにマッチしていました。なにより苦行とも言える写真撮影がお気に入りのバッグのお陰でウキウキした楽しい時間に変化しましたよ。そんな訳で、皆さんもオーダーメイドのバーボン専用バッグ、検討してみてはいかがでしょうか? 写真を撮る必要のない方でも、仲間との飲み会などでボトル運搬の機会もあるかと思います。そんな時には大活躍間違いなし。オーダーメイドでオールハンドメイド、オールレザー、決して安い買い物ではありませんが、手にした時の満足度は高く、ハイブランドのバッグと比べたら安いとすら言えます。上質で個性を活かしたバッグで貴方のバーボン・ライフを豊かに。

では、最後にLeatherkiller-MKさんの各種SNSをご紹介。オーダーはどこからでも大丈夫です。懇切丁寧に「あなたの想い」をカタチにしてくれるレザー職人さん。自称「革バカ」ともおっしゃってます。バッグに限らず、レザー製品の好きな方はチェックしてみて下さい。

このバーボン・トートバッグを職人さんの視点から紹介する記事はこちら

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※バッグの中にボトルが入っている画像以外は全てLeatherkiller-MK様から提供です。

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今回の投稿もバー飲みです。バーで飲む時は初めの一杯を何にするかいつも迷います。私は酒に弱いので初っ端からハイアー・プルーフの物は選ばないようにしつつ、せっかくだからなるべく希少な物を飲みたいと熟考の末、思いついたのがナショナル・ディスティラーズのロウワー・プルーファー2種の同時注文でした。一つは前回投稿したオールド・クロウ。もう一つがこのPMバーボンです。

オールド・クロウは言わずと知れたブランドですが、PMは今となっては完全に歴史の塵に埋もれたブランドでしょう。だいたいPMって何なの? 時間のa.m./p.m.の午後のこと?てなりますよね。後の広告では「PM for Pleasant Moments(愉しいひと時のためのPM)」なんて惹句があったり、ラベルにもそう記載されるようになりましたが、これは後付で、もともとはペン=メリーランド(Penn-Maryland)というブランド名からその頭文字を取ったものでした。おそらくペン=メリーランド・ウィスキーは禁酒法以前にメリーランド州ボルティモアで製造されていたのをナショナル・ディスティラーズが買収し、禁酒法後に復活させたのではないかと思います。
ナショナル・ディスティラーズはウィスキー・トラストの残党から1924年に持株会社として設立されました。薬用ウィスキー事業を営む会社を傘下に加えつつ、糖蜜やその他の食品、酵母、工業用アルコールの製造もしていましたが、禁酒法が廃止されることにも賭けていました。禁酒法期間中、彼らは閉鎖された蒸溜所をそのブランドとウィスキーの在庫と共に購入。1933年に修正第18条が廃止された時、ナショナルはアメリカ全体の熟成したウィスキーの約半分を保有し、100以上のブランドを所有するに至っていました。そのため以後の蒸溜酒業界に於いて主要企業として支配的な地位を確立することが出来たのです。
1933年夏、ナショナル・ティスティラーズ・プロダクツ・コーポレイション(NDPC)は、イリノイ州ピオリアに本拠を置く他のトラストの残党であったU.S.インダストリアル・アルコール・カンパニー(USIAC)と、それぞれが2分の1の持株を有する合弁事業としてペン=メリーランド・インコーポレイテッドを共同出資で組織しました。同社は完全子会社としてペン=メリーランド・コーポレイションという名称の会社を設立させ、USIACからリースしたイリノイ州ピオリアの蒸溜所や、同所およびオハイオ州レディングとメリーランド州ボルティモアのブレンディング工場を運営しました。また同時に、シンシナティ郊外のエルムウッドにあるカーセッジ蒸溜所を買収し、カーセッジ・ディスティリング・カンパニーの名の下で操業しました。この二つの会社はペン=メリーランド・カンパニーという販売子会社と共に1934年11月15日に合併され、ペン=メリーランド・コーポレーションに編入し会社は継続します。1934年2月には、NDPCはUSIAからペン=メリーランド・インコーポレイテッドの残り2分の1の持株を取得しており、同社をNDPCの完全子会社としていました。1936年にはペン=メリーランド・インコーポレイテッドは解散し、その資産は親会社に吸収されます。ピオリアの工場は1940年にハイラム・ウォーカーに売却されるまでリースを継続したそう。当初の計画では、ペン=メリーランドがブレンデッド・ウィスキーを生産し、他のナショナル施設がストレート・ウィスキーを生産していましたが、多少の混在もあったようです。画像検索で見つかるPM以外のペン=メリーランド・コーポレイションのブランドには、「オールド・ログ・キャビン」、「タウン・タヴァーン」、「スプリング・ガーデン」、「ウィンザー」、「ブリゲディア」、「シェナンドア・ウィスキー」、「ベル・オブ・ネルソン」等がありました(主にブレンデッド、一部ストレート・バーボンやストレート・ライの短熟もあり)。
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ちなみに、現在ジムビームのスモールバッチ・コレクションの一つとなっているノブ・クリークのルーツはナショナルのペン=メリーランド社に遡れるのですが、1935年頃のオリジナルと見られるラベルには「DISTILLED BY Penn-Maryland Corp. CINCINNATI, OHIO」とあるので、本当にシンシナティで蒸溜されているのならば、おそらくはカーセッジ蒸溜所産の可能性が高いでしょう。1893年に建てられた古い歴史を持つこの施設は、ナショナルがその一部を1940年代に工業用アルコール蒸溜所として再建して戦争努力のための材料を提供し、その後も別の場所で蒸溜したニュートラル・スピリッツをベースにしたデカイパー・コーディアルを造るために使用され続けました。またボトリングと輸送施設を維持し、一定期間は彼らの所有するオールド・オーヴァーホルトもボトリングされていました。ナショナルのブランドでラベルにシンシナティでボトリングとあれば、この施設で行われていると思います。1987年にナショナルからウィスキー資産を買収したビームも、2011年にその事業をケンタッキー州に移すまでデカイパーのフレイヴァー・コーディアルを製造するためにカーセッジでの操業を続けていました。

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1934年にペン=メリーランド・コーポレイションはグレードと価格の異なる3種のウィスキーの販売を開始しました。それらはグレードの高い順に「ペン=メリーランド・デラックス」、「ペン=メリーランド・インペリアル」、「ペン=メリーランド・リーガル」と名付けられていました。1935年には、アニタ・ルースによる1925年の人気小説『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』(日本ではジェーン・ラッセルとマリリン・モンローが主演した1953年の映画がお馴染み)をもじった「紳士はブレンドを好む(Gentlemen Prefer Blends)」をスローガンとして、カートゥーニストのピーター・アルノやオットー・ソグローのユーモラスな絵を使用した広告を『ニューヨーカー』や『ニューヨーク・タイムズ』に出しています。また、プロモーション用のブックマッチの表紙には「チェロの如くメロウ」というスローガンが用いられました。
1936年3月と11月には「ペン=メリーランド・プライヴェート・ストック」および「PM バー・スペシャル」という特別版?も発売されたようです。1936年5月にはペン=メリーランド・インペリアルが停止されました。これは多分ハイラム・ウォーカーから、後に彼らのブレンデッド・ウィスキーの旗艦ブランドとなる「インペリアル」の商標侵害で訴えられたからではないかと思います。その頃にペン=メリーランド・ウィスキーはラベルのスタイル変更を検討し始め、名前のイニシャル「P」と「M」のサイズを大きくしました。変更されたラベルは1936年12月または1937年1月以降の販売から使用されたようです。
1938年11月にペン=メリーランド・デラックスを宣伝するキャンペーンを開始すると広告のテキストにPMという文字を単独で使うようになり、1939年11月にはデラックス・ブランドのバック・ラベルにPMを単独で使用し始めました。41年までにブランドはデラックスとリーガルの二つのみになったようで、おそらくこの頃にはブランド名はPMオンリーになったと思われます。このペン=メリーランドの頭文字を拡大して名前を簡略化する変更は、以前に使用されていたブランド名が長すぎて面倒だとセールスマンや広告代理店から批判を受けた結果でした。
40〜50年代はナショナルもPMブレンデッドの広告を盛んに出していたようですが、バーボンやウォッカに取って代わられた60〜70年代にはその存在感はかなり小さくなったものと思われます。いつしかPMデラックスにはクリーム色のラベルが登場したようで、海外オークションで見かけた物は、そのインフォメーションでは75年ボトリングとしていました。このラベルのデザインは、後にナショナルのウィスキー資産を買収したビームから出された際のPMデラックスにも踏襲されています。ビーム製造のPMは画像検索で殆ど見かけないため、おそらくスモール・マーケット向けの製品だったのではないかと。
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偖て、今回飲んだPMバーボンなのですが、PMは基本的にブレンデッド・ウィスキーのブランドなのでストレート・バーボン規格はかなり珍しいでしょう。いくら検索しても海外のウェブサイトで取り上げられているのを見つけることは出来ませんでした。ラベルのデザインからするとボトリングは75年くらいでしょうか?() それくらいの時期に単発もしくはごく短期間か、或いは輸出用に造られたのではないかと想像します。裏ラベルによるとケンタッキーで蒸溜された4年熟成のバーボンで、どこの蒸溜所産かは明確には判りません。オールド・クロウと同じナショナル・ティスティラーズのブランド、同じプルーフということで飲み比べ用に注文した次第です。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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PM Straight Bourbon Whiskey 80 Proof
推定70年代ボトリング。オールド・クロウと同じくカラメル・フォワードな甘い香りと味わい。クリーミーなフィーリングがあります。余韻はややビター。飲む前はもっと明らかな違いがあるかと思っていたのですが、意外と大差なく感じました。強いて言うとこちらの方が僅かにフレイヴァーが濃密な気がしたくらいです。まさかオールド・クロウ蒸溜所で造られているのでしょうか? いや、オールド・グランダッド蒸溜所? それとも別の蒸溜所? 同じナショナル・ブランドだと同じクーパレッジから樽を調達している可能性もあるのかしら? 飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか、ご意見ご感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。
Rating:86.25/100


※追記:記事投稿後しばらくして、54年ボトリングとされる同デザインのPMストレート・バーボンをネット上で見かけました。そのラベルにはピオリアとシンシナティの記載があり、おそらくイリノイで蒸溜されオハイオでボトリングされたと推測されます。

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今回の投稿はバー飲みです。バーで飲む時は初めの一杯を何にするかいつも迷います。私は酒に弱いので初っ端からハイ・プルーフの物は選ばないようにしつつ、せっかくだからなるべく希少な物を飲みたいと熟考の末、選んだのはバーボン史上にその名が燦然と輝く、しかし、今は底に沈んだブランド、オールド・クロウでした。

オールド・クロウは汎ゆるバーボンの中でも伝説に彩られたストーリーを持っていますが、余りにも有名なので、ここでは駆け足で紹介しておくに止めましょう。
オールド・クロウの名前は、スコットランドからアメリカに移住し、幾つかの蒸留所で働いた後、1830年代にウッドフォード郡のオスカー・ペッパーの蒸溜所(現在のウッドフォード・リザーヴ蒸溜所)で雇われた医師であり化学者でもあったジェイムズ・C・クロウ博士にちなんで名付けられました。クロウは一般的にサワーマッシュ製法を発明したと誤って信じられています。サワーマッシュは彼によって「発明」されたものではありません。前回のバッチからのスペント・マッシュ(バックセットまたはスティレージとも)の一部を次回のバッチのスターターとして使用するサワーマッシュ製法は、マッシュのpHを下げることで不要な細菌の増殖を抑える効果があり、バッチ間でのフレイヴァーの連続性を確保する技術です。サワーマッシュまたはイースト・バッキングは、1700年代後半頃から東海岸のウィスキー蒸溜所で最初に採用されたと見られ、或る歴史家はそれをラム蒸溜所からの影響ではないかと推測しています。クロウはウィスキーの製法に初めて科学的アプローチを取り入れることで、上手く行く時もあれば失敗する時もあった発酵のプロセスを予測可能なものにし、サワーマッシュの使用法を標準化しました。そして、彼はマッシュ・タンやウォッシュバックを丁寧に洗浄し、注意深く科学的な方法論を用いてレシピを取り扱ったと伝えられます。また、樽熟成がスタンダードではなかった時代にウィスキーをしっかりと樽熟成させていたとも聞きます(これが「オールド」の意)。そうした行為の全てが初期のオールドクロウ・サワーマッシュ・ウィスキーに高いレヴェルの品質と一貫性を与えた、と。オールド・クロウのブランド名で販売され始めた明確な時期は分かりませんが、かなり早い時期(1840年代くらい?)からジェイムズ・クロウの名前と関連付けられていた可能性はあります。オスカー・ペッパーは自身のオールド・オスカー・ペッパーなどのラベルを使用することに加えて、彼の蒸溜所で製造されたウィスキーの一部をオールドクロウ・ブランドで販売していたとしても不思議ではないでしょう。ともかく、オールド・クロウはブランド名で販売された最初期のウィスキーの一つであり、嘗て最上のウィスキーと見做されました。
クロウは1856年に突然亡くなります。彼の死後もオスカーはオールド・クロウを販売し続けました。クロウの長年の助手であったウィリアム・ミッチェルがオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所で働いており、彼はクロウのレシピや製法に精通していたからでした(クロウの製法のメモが残っていたともなかったとも伝承されていますが、少なくとも販売会社は従来と同じ製法と主張するでしょう)。クロウが死んだにも拘らず、オールド・クロウの人気は益々高って行きます。オスカーもまた1867年に、遺言なしに妻と七人の子供達に農場と蒸溜事業を残してこの世を去りました。オスカーの遺産分割調停で、彼の所有する829エーカーの土地は子供達のために七つの不平等な区画に分割されます。オバノン・ペッパーはまだ7歳だったので、自動的に母親のナニーが後見人となり、蒸溜所、グリスト・ミルなどの経済的に生産性のある財産は全てペッパー夫人の手に委ねられることになりました。オバノンの相続の保護者としてナニーは蒸溜所をフランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにリースします。同社はミッチェルをディスティラーとして雇用し続け、サワーマッシュ・ウィスキーをクロウの製法で製造し、オールド・クロウのブランドも使い続けました。
様々な蒸溜プロジェクトに投資するグループによって1862年に組織されたゲインズ, ベリー&カンパニーはアメリカ製ウィスキーを専門とする蒸溜酒飲料会社でした。幹部は社名になっているウィリアム・A・ゲインズとハイラム・ベリー、そして背後には19世紀末から20世紀初頭にかけてケンタッキー州の多くの蒸溜所に出資し経営した元銀行家のエドムンド・H・テイラー・ジュニアがいました。会社のジュニア・パートナーであったテイラーは、イングランド、スコットランド、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア、スペインなどで最新の蒸溜法を学ぶためにヨーロッパに派遣されています。彼が帰国すると会社はその知識を応用し、オールドクロウ・ウィスキーを造るため1868年にケンタッキー・リヴァー沿いにあるフランクフォートの土地を取得してハーミテッジ蒸溜所の建設を開始、1870年に生産を始めました。ヘッド・ディスティラーはウィリアム・ミッチェルの下で訓練を受けたマリオン・ウィリアムズです。同社はマイダズ・クライテリアにオールド・クロウの商標を登録し、また同じく商標登録されたハーミテッジには「オールド・クロウのメーカー」と述べられていました。ハーミテッジ蒸溜所が建設中だった間、彼らはオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の他にジェイムズ・クロウも働いていたアンダーソン・ジョンソン蒸溜所もリースしました。そしてそれだけに留まらず、ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬、オールド・クロウ蒸溜所を建設するために、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約5kmのところにあるグレンズ・クリーク沿いの25エーカーの土地を購入しました。建設は6月下旬に始まり、蒸溜所は1870年に完成しましたが、敷地内の仮設の設備もしくは既存のスティルハウスにより1869年8月中旬には生産を開始できたそうです。アンダーソン・ジョンソン蒸溜所(後のオールド・テイラー蒸溜所の場所)のすぐ近くにあるこの蒸溜所は後々までオールドクロウ・バーボンの本拠地になりました。オスカー・ペッパー蒸溜所で働き続けていたミッチェルは、オールド・クロウ蒸溜所の建設に伴い新しい施設に移り、1872年までヘッド・ディスティラーを務めています。その後任にはオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所のマッシュ・フロアーで働いていたミッチェルの従兄弟ヴァン・ジョンソンが就き、1900年代初頭に息子のリー・ジョンソンと入れ替わるまでヘッド・ディスティラーを務めました。新しい蒸溜所の設備は、1830年代後半にペッパーとクロウが設置した伝統的なポットスティルから大幅な進歩を示し、1880年代から20世紀初頭にかけても少しずつ改良が加えられました。おそらくは、初期のクロウの原則の幾つかは大規模な生産に対応するため変更され、味わいも変わったかも知れません。それでもオールド・クロウのブランドは、クロウ、ミッチェル、ジョンソンの誰によって蒸溜されたものであっても、その優れた卓越性と品質が高く評価され、同時期のアメリカで生産された他のウィスキーよりも高い価格で販売されていました。
ちなみに、1868年、ニューヨークの販売代理店であるパリス, アレン&カンパニーが投資グループに加わった時、ゲインズ, ベリー&カンパニーはW.A.ゲインズ&カンパニーとして再編成されています。この時代のオールド・クロウは有名でした。19世紀に最も有名な酒飲みの一人であったユリシーズ・グラント大統領に選ばれたウィスキーと知られ、アメリカ合衆国の上院議員達にも愛されたと伝えられます。1880年代後半までに、ハーミテッジとオールド・クロウを擁するW.A.ゲインズはサワーマッシュ・ウィスキー(バーボンとライ)を製造するアメリカ最大の生産者になりました。19世紀後半、アメリカでのライ・ウィスキーの需要は強く、ケンタッキー州でも1860年代後半から禁酒法まではその生産量の3分の1をピュア・ライウィスキーに費やしていたと言います。W.A.ゲインズ&カンパニーは、1870年からオールド・クロウやオールド・ハーミテッジのラベルで「ハイグレード・ピュア・ライ・サワーマッシュ・ウィスキー」を販売した数少ない企業の一つでした。同社はライ・ウィスキーの代理店販売についてはニューヨークのH.B.カーク&カンパニーを指名し、両ブランドの唯一のボトラーおよび販売業者として、おそらく1909年?あたりまで独占的に供給していたようです。
オールド・クロウは19世紀に最も人気のあるウイスキーであり続けました。人気者の宿命か、ブランド名の認知度や影響力を利用した模倣は多く、オールド・クロウの訴訟件数の多さは他のブランドより抜きん出ています。後の1949年頃の広告では「その卓越した歴史の初めの一世紀に於いて、オールド・クロウの名前とラベルの模倣を防ぐために、約1800通の令状、召喚状、停止命令が出された」と述べられていました。中でも最も手強かったのはセントルイスのレクティファイアーであるヘルマン一家です。彼らは「オールド・クロウ」そのままの名前やカラスの絵柄まで使っていたので、W.A.ゲインズ社は自らの商標を守るために訴訟を起こし、その名前の法的所有権を誰が持っているかを巡る争いは禁酒法が成立するちょっと前まで続きました。
禁酒法が施行されると、W.A.ゲインズ&カンパニーはスピリタス・フルメンティを販売するためのメディシナル・ライセンスを取得することが出来ず、1920年にルイヴィルのアメリカン・メディシナル・スピリッツ(AMS)にストックを清算することを余儀なくされます。禁酒法期間中にAMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズは、1934年4月、嘗てAMSが運営していたW.A.ゲインズ &カンパニーのブランド、蒸溜所、倉庫を含む全てのストックを取得し、禁酒法により閉鎖されていたグレンズ・クリークの蒸溜所を改修してオールド・クロウの生産を再開しました。おそらく最新のコラム・スティルを導入し、低コストで多くの量を生産できるようにしたでしょう。
プロヒビションの終わりから1987年まで蒸溜所とブランドを所有していたナショナルはW.A.ゲインズの会社名を使い続け、オールド・クロウは同社の旗艦ブランドの一つであり続けました。禁酒令と大恐慌を経て、第二次世界大戦の後にウィスキーの生産量と販売は回復。オールド・クロウは1950年代にバーボン・ブームに乗り世界で最も売れているバーボンとなりました。1950年代初頭にはオールドクロウ・ライは段階的に廃止され、バーボンは1952年まではボンデッドの100プルーフのみが販売されていましたが、その年か53年頃に86プルーフのヴァージョンが導入されます。1955年頃には蒸溜所に新しいコラム・スティルが設置されてオールド・クロウの生産と販売を推し進め、1960年の広告では「最も売れているバーボン」と宣伝しました。1960年代、販売は依然として好調で、オールド・クロウ蒸溜所の生産能力は大幅に増加したと言います。1967年の段階で、シーグラムのセヴン・クラウンやハイラム・ウォーカーのカナディアン・クラブには及ばないものの、オールド・クロウはアメリカで5番目に人気のあるスピリット・ブランドでした。しかし、バーボンの売上は1970年代の10年間を通して大いに減少しました。その要因は60年代後半から顕著になり出した嗜好の変化と見られます。即ちライトなカナディアン・ウィスキーやブレンデッド・スコッチの市場シェアの拡大​​とウォッカやホワイト・ラムの擡頭です。1973年には、ウォッカがウィスキーを追い抜いてアメリカのスピリッツ市場で最も売れているカテゴリーとなりました。こうした状況に戦々兢々としていたバーボン業界は1960年代後半に政府に働きかけ、現代のTTBの前身であるビューロー・オブ・アルコール, タバコ・アンド・ファイアーアームスはこれに応えて、160プルーフ以上での蒸溜と使用済みまたは未炭化の(チャーしていない)新しいオーク・コンテナーで熟成することを許す「ライト・ウィスキー」という新しい区分を1968年に創設しました。この新しいクラスは、変わりゆく消費者の状況を鑑み、強すぎるフレイヴァーを抑え、上述のようなライトなスタイルのウィスキーやスピリッツの人気の高まりに対抗して考案されたものです。1972年以降、バーボン蒸溜所を所有する大手酒類販売会社の全てがこの新分野に製品を投入し、50以上のブランドがリリースされたそう。ナショナル・ディスティラーズも1972年12月に「囁くウィスキー」を宣伝文句にクロウ・ライトウィスキーを発売しました。しかし、それはクロウの評判を悪くしただけでした。ナショナルは1974年頃、スタンダードなバーボンのプルーフを80へと落とし、コストを節約して価格を下げました。その後はバーボン全体の不調と共にオールド・クロウの売上高は減少を続けて行きます。
1987年、遂にナショナルはウィスキー事業から撤退することを決め、アメリカン・ブランズの子会社であるジムビームにウィスキー事業の資産の全てを売却しました。ビームは手に入れたオールド・クロウ蒸溜所をすぐに閉鎖し(暫くはオールド・クロウや隣のオールド・テイラーの倉庫は利用した)、オールド・クロウの生産はビームのクレアモント蒸溜所に移され、そこでビーム・マッシュビルにより製造されることになります。オールド・クロウは長年に渡ってジムビーム・ホワイトラベルの最大の競争相手だったので、ビームのオールド・クロウに入るウィスキーはナショナル・ディスティラーズがボトルに入れたものより劣っているものでした。具体的には、ジムビーム・ホワイトラベルの3年熟成ヴァージョンとでも言えそうな製品となったのです。これについてはビームが犯した最大の犯罪とまで糾弾する人もいます。こうして、19世紀には最高品質のサワーマッシュ・バーボンと謳われ、20世紀半ばには最も売れたバーボンだったオールド・クロウは、21世紀には安物のボトム・シェルファーになりました。豊かな伝統を持ちながらも不名誉な存在となったブランドの悲しい物語は現在も続いています。

偖て、今回飲んだオールド・クロウは1970年代後半のボトリングです。実は上記の歴史叙述では言及しなかったエピソードがあります。70〜80年代にバーボンが不況に陥った時にオールド・クロウほど落ち込みが激しかったブランドはないと言われていますが、その凋落の原因とされるエピソードを敢えて省いたのです。その理由は、我々に伝えられているストーリーが少々奇妙で理解に苦しむものであり、今更検証するのも難しいからでした。その伝承は纏めると概ね以下のようなものです。

1960年代には、まだ売れ行きが好調だったこともあり、老朽化したオールド・クロウ蒸溜所の近代化と改修にかなりの金額を費やし、生産能力は大幅に増強された。64年の拡張の際、誰かがファーメンターもしくはクッカーなどのタンクのサイズを間違って計算したため、マッシュのコンディショニングに使うセットバックの割合を誤って変えてしまい、これがウィスキーの味を完全に狂わせてしまった。それを試飲した蒸溜所の誰もが悪い味だと思い、そのことを経営陣に指摘したものの、何も修正されることなく放置された。製品の新しいフレイヴァーについての多くの顧客からの不満、そしてディスティラー自らの否定的なレヴューがあってさえ、プラント・マネージャーは間違いを訂正することを望まないか、或いは出来なかった。ビームが蒸溜所を買収する数年前(1985〜86年あたり?)に漸く問題の原因を突き止め解決したので、最後の数年間はその工場で生産されるウィスキーも上質なものになった。

おそらく、この話はバーボン・ライターのチャック・カウダリーが初期の仕事としてドキュメンタリー映画「Made and Bottled in Kentucky(1991-92)」を制作している時に聴いた、1987年のビー厶買収以前にオールド・クロウ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーであったナショナル・ディスティラーズの元従業員からの発言が元ネタとなって広まったと思われます。現場を知る人物からの発言のため信憑性がありそうにも感じますが、カウダリー自身も「私はその話を確認したり異議を唱えたり出来る別の情報源を見つけたことはない」と言っており、本当なのか大袈裟に語っただけなのかよく判りません。そこで、美味しくないと分かった後も造り続けたところから、ビジネスが衰退している場合の意図的なコスト削減だったのではないかと云う憶測もあったりします。確かに、いくら何でも60年代から80年代までの20年近い歳月の間のどこかでミスを突き止める努力は出来る筈…。ナショナルは第二次世界大戦中およびその後、工業化学部門に焦点を合わせ始め、1957年にナショナル・ディスティラーズ・アンド・ケミカル・コーポレイションに社名を変更しました。それでも1960年代には、工業化学部門の成功と他の分野での買収にも拘らず同社の収益の60%は酒類によるものだったとされます。しかし、1970年代半ばには、バーボンの売上の減少と世界の化学物質への依存化が、もしかすると収益を逆転させていたかも知れません。おまけに創業企業である酒類部門のナショナル・ディスティラーズ・プロダクツを大きく育てたシートン・ポーターに変わって1949年に社長に就任したジョン・E・ビアワースは禁酒主義者でした。まさか、オールド・クロウはビームに台無しにされる前に、既にナショナルに見捨てられていたとでも? 皆さんはオールド・クロウの凋落についてどのように考えるでしょうか? コメント欄よりご意見どしどしお寄せ下さい。真相の発掘は優れた歴史家の登場を待つとして、この味が落ちたとされる年代真っ只中のオールド・クロウを飲んだ感想を最後に少しだけ。

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OLD CROW 80 Proof
推定77年ボトリング。クラシックなカラメル・フォワードのバーボンという印象。特別フルーティともスパイシーとも感じない、バランスが良く、いい意味で普通に旨いオールド・バーボン。クリーミーなコーンとくすんだ土っぽさ、シトラスが少し。現行の80プルーフでは感じられないような豊かなフレイヴァーがあります。以前のバー飲みで試した「チェスメン」ほどダークなフィーリングはありませんでしたが、熟成年数やプルーフィングの違いを抜きにしても、風味が弱いとは感じませんでした。
日本が誇るウィスキー・ブロガーのくりりん氏も、70年代のオールド・クロウを味わった感想として、「言うほど悪い味とは思え」ず、「普通に美味しい」し、「少なくとも同年代の他のメーカーのスタンダードと比べ、大きな差があるとは思え」ないと当該の記事で述べていましたが、私も賛意しかありません。この年代のオールド・クロウを飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? これまたコメントよりご感想お寄せ下さい。
Rating:86/100

タグモノクロ

皆様、いつも閲覧ありがとうございます。特に、熱心に読んでくださる方々、またコメントをくださる方々、本当にありがとうございます。このブログはネット上に散らばっているバーボン情報を纏めただけの所謂「まとめサイト」のようなものですが、纏めるという作業にもリサーチの時間と編集の手間はかかり、その労力の割に殆どアクセスや反応のないブログをここまで続けて来れた最大の原動力は、一部の奇特な心優しい「貴方」のような方々の支えによるものでした。

さて、いよいよ暑さも本格的になり夏本番ですね。それでと言う訳でもないのですが、Tシャツを中心としたブログのオリジナルグッズを趣味で作ってみました。皆でお揃いのチームジャケットとかを着るのって男の憧れじゃないですか? 少なくとも自分は若い頃に憧れました。そんなノリで作ったものや、バーボンをモチーフにしたデザインの小物とかです。自分のブログをもっと知ってもらうため、そしてバーボンを広めるため、自ら広告塔にならねば、と(笑)。

で、これがめちゃめちゃカッコいいのですよ。 自分で着たかったり使いたかったものなので、そう思うのは当たり前ですけれど、思いの外いい感じに出来上がりまして、そこで皆様もいかがですか?という訳で販売することにしました。既にこちらではお馴染みのKazue Asaiさんとのダブルネームもあります。いや、そう表記してない物も概ね彼女に依頼してデザインしてもらっているのです。

皆様もカッコいいと思ったら是非。私の周りの友人にはけっこう評判いいですよ。またブログをサポートしてくれる方も購入を検討して頂けたらと思います。お買い求めやすいようにショップも開設しました。

とは言え、バーボン飲みの本道はバーボンの購入です。バーボンを買う以上にグッズにお金を使われては意味がありません。グッズは物凄く高い訳ではないですが、物凄く安いとも言い難いです。殆どの商品は受注生産のため、大量仕入れによるコストダウンが出来ないからです。そうそう売れるとも思えない物に対して大量の在庫を抱えるのはリスキー、そこで出てくるのが昨今増えてきたオンデマンド販売。私も流石にリスクは負えないので、ある種の折衷案としてこの販売形式になりました。だから飽くまでちょっと懐に余裕がある時に、「うん普通に気に入った」、「よしお前のブログを応援してやろうじゃないか」、「俺もバーボンの広告塔になるぜ」という心意気からお願いします。或いはバーボンとか関係なく単にKazue Asaiさんのイラストが好きだから、とか。私自身もKazueさんのイラストが好き過ぎて、彼女をもっと世に知らしめたいというのがオリジナルグッズを作り販売する理由の一つなのです。

最後に、ショップも含む私の活動している各種SNSへのリンクまとめも作成したのでご紹介を。

https://lit.link/bourbonstraightnochaser

どれも毎日とか毎週更新などはやっておりません。すいませんが、時間のある時、気の向いた時に投稿しております…。それでよければ、バーボン好きならフォローしてみて下さい。では、これにて。

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Branton Distilling Company KENTUCKY STRAIGHT  BOURBON WHISKEY 93 Proof
Dumped on 5/28/87
Barrel No. 639
Warehouse H on Rick No. 30
今回もバー飲み投稿。この度お邪魔したフストカーレンさんはブラントンズの年代別の取り揃えが多いのを知っていたので、87年ボトリングの物をリクエストしました。マスターが87年をお気に入りと聞いていたのです。その理由はここでは書きませんので気になる方は店に伺った際、直接訊いてみて下さい。開封済みの87年は少し前に飲み干されたそうで、新たなストックを開封して頂きました。
開栓直後のせいか、始めはアロマが立ちませんでしたけど、時間をおくと徐々に開いてきました。焦樽やキャラメルと共に湿った木材調のオールド・ファンクもあります。きっと、もう少し時間をかけると風味は濃密になるのではないかという予想。今後に期待ですね。ブラントンズは比較的液面が低下しやすいバーボンというかコルク栓という印象がありますが、このボトルもそれなりに低下していました。写真のボトルの液面はハーフショットを注いだのみです。けれど特に劣化はなく感じました。
そもそもブラントンズはシングルバレルなので味の一貫性は問われないし、オールドボトルゆえのコンディションの差もあるだろうし、なにより私自身それほどブラントンズの経験値がある訳でもないのですが、基本的に90年代の物より80年代の物の方がオーキーな傾向にあるような気がします。熟成年数が長そうな深みのある味わいと言うか…。ブラントンズのマニアの方はどう思われるでしょう? コメントよりご意見どしどしお寄せ下さい。
Rating:87/100

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