タグ:小麦バーボン

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(画像提供K氏)

「トリック・オア・トリート!」。ハロウィンの時期ですね。バーボン愛好家ならば「バーボンくれなきゃイタズラすっぞ」と云う訳で、バーボン仲間のKさんから大人のハロウィンに相応しい高級な「お菓子」が送られて来ました。ウィレット・ウィーテッド・バーボン8年熟成のサンプルです。

ウィレット・ウィーテッド・バーボン8年は2022年後半期にリリースされました。ウィレット蒸溜所の顔とも言えるファミリー・エステート、より一般的なオールド・バーズタウンやスモールバッチ・ブティック・バーボン・シリーズの4種とは異なる形状のボトルが目を引きます。黒光りするボトルに金の文字とパープル・フォイルのトップが高級感を演出しており、頗るエレガントでカッコいい。同社によるとこの「黒い宝石」は、2013年の春先に蒸溜、2022年の夏にボトリング(実際は9年熟成?)、独自のマッシュビルをチャー#4のアメリカン・オークに115プルーフでバレルに詰め、可能な限り風味を保つためチル・フィルトレーションせずにボトルに詰めたと言います。美しい外観以外でこのバーボンに特徴的なのはエイジ・ステイトメントがあることでしょう。ウィレットはファミリー・エステート以外の製品に熟成年数を記載することは殆どありませんから。そして更に注目なのは、マッシュビルにライ麦を含まない小麦レシピであることがボトルの裏面に記載されていることです。ウィレットは自社のウィスキーについて詳細な情報を開示しないことで知られ、ノアーズ・ミルのマッシュビルは何なんだ?とか、ローワンズ・クリークは?、ポットスティル・リザーヴは?となったりするのですが、このボトルに関してはその心配はない、と。彼らの小麦バーボンのマッシュビルは65%コーン、20%ウィート、15%モルテッドバーリーとされています。昨今のバーボン及びアメリカン・ウィスキー全般のブーム、そして「パピー」人気の爆発から棚ぼた式に?ウェラーの人気も沸騰し、延いてはウィーテッド・バーボン自体の人気も高まった印象があります。多くの蒸溜所がライを含有したレシピ以外に小麦レシピのバーボンも大抵の場合リリースしており、お陰で市場に於けるウィーテッド・バーボンの品揃えは充実しました。そうした流れの中、ウィレットも満を持してリリースしたのかも知れません。とは言え、ウィレットは既にファミリー・エステート・シングルバレルではウィーテッド・マッシュビルをリリースしているらしく、バレル・ナンバーが「32xx〜33xx」の物は上記のマッシュビルとされています。あと「11243」は実験的なウィーテッド・マッシュビルらしい。更に付け加えると、ウィレット・ポットスティル・リザーヴは2021年か2022年のどこかで小麦レシピに変更されたと云う噂もありますね。ところで、このバーボンの108プルーフでのボトリングは、ウェラー・アンティーク107に近く、何かしら意識しているのでしょうか。実際、ボトル形状もリニューアル後のウェラー・ブランドに似ています(と言うか同じ?)。

えーと…、このバーボンを語る時、避けては通れない話題が一つあります。それは価格です。8年熟成のバーボンの希望小売価格がなんと250ドルなのです。この点に関してバーボン愛好家達は頭を抱え、或る人はウィッスルピッグ・ブランド(の上級なラインの物)と同じ臭いがプンプンする、と言うほど怪しげな価格設定でした。ウィレット蒸溜所が現在、カルト的な地位を獲得しているのは皆さんもご存知でしょう。そして毎年極く限られた数量しかリリースされないウィレット・ファミリー・エステートのシングルバレルはウィスキー愛好家の垂涎の的となっています。それらが市場に出回ると、バーボン愛好家は勿論、転売ヤーもこぞって手に入れようとします。新しくリリースされたものは即座に売り切れ、二次流通市場に現れる頃には数倍の価格になります。それらのことをウィレットの背後にいる人々も認識し、このウィーテッド・バーボン8年の価格を予めある程度引き上げていると指摘している人を某掲示板で見かけました。その真偽は扨て措き、一般的なバーボン飲みの感覚では高過ぎる希望小売価格のせいか、このバーボンの評価は微妙だったりします。アメリカの或るレヴュアーは「品質だけならもっと高い点数をつけたいところだが、価格設定のために2点減点したい気分だ」と言い、10点満点中4点をつけていました。また、他のレヴュアーは「これは良い。ただ、価値以上の出費をしていることを知っておいてほしい」と述べ5点満点中3点をつけました。他にも「これは良いボトルだったが、230ドルという価格を正当化するには十分ではな」く、「親友や本物のバーボン狂にプレゼントするのでなければ、このボトルを再び購入することはないだろう」と云う意見もありました。挙げ句には、ウェラー・アンティーク107を買って来てツヤ有りブラックのスプレーでボトルをペイントすればいい、と言う人までいました。私は味の求道者ではないので、本ブログのレーティングは味のみでなくボトルの外観、バックストーリーやマーケティング、そして価格も考慮して点数をつけています。だから、私も彼らと同じような点数になってしまうかも知れないという不安はありますが、どうなるでしょうか。さっそく注いでみましょう。
と、その前に。私はこのバーボンを高過ぎる価格から買おうだなんて微塵も思いませんでしたし、況してや無料で試せるなんて思ったこともありませんでした。こんな貴重な物を惜しげもなく分け与えてくれたKさんには本当に感謝です。バーボン繋がりに乾杯!

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WILLETT WHEATED BOURBON AGED 8 YEARS 108 Proof
2022年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。スウィートオーク、干しブドウ、完熟桃、はちみつ、バターたっぷりの焼き菓子、ベーキングスパイス、チョコチップクッキー。とても甘い香り。オイリーなのにサラッとした口当たり。パレートでもかなり甘めで、スパイスが暴れる感じはしない。余韻はハイプルーファーにしてはあっさりしており、最後に柑橘類の苦味が残る。グラスの残り香はアーモンドトフィー。アロマがハイライト。
Rating:87.5/100

Thought:蓋を開けた瞬間から漂う、美味しい洋菓子とウィレット特有のフルーツが融合した圧倒的に甘い香りが至福でした。間違いなく旨いです。但し、標準的なリリースであるオールド・バーズタウンやピュア・ケンタッキーXO等と較べて5倍旨くはありません。ウィーテッド・マッシュビルではないと目される他のウィレット製品と較べてみると、私が好んでいるのど飴のような何と特定できない複数のハーブのノートは希薄に感じました。また、ウィレットに感じ易いグレープのようなフルーツ感も顕在していますが、それよりもペイストリー感が強いバランスの印象を受けました。もしかすると、水を追加したり氷を加えることでフルーツがより感じ易くなったのかも知れませんが、少量のサンプルということもあり、私は試しませんでした。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。

Value:二次流通市場では一時は1000ドル程度で販売されていたこともあるようですが、記事を執筆するに当たって調べたところ、250ドルで買えるお店も幾つかあり、価格はだいぶ落ち着いたようで、300ドル以上の値を付けるお店は大体どこも在庫ありになっていました。これは先に紹介したレヴュワー達の意見が参考にされ、多くの人が購入をパスした結果なのかも知れませんね。試飲前の予想通り、私も海外のレヴュワーさん達と殆ど同じような意見になりました。懐に余裕があるのならば、ボトルを買うのに躊躇する必要はありません。美味しいから。ただ、殆どの人にはバーで一杯飲んでみることをオススメします。ボトル一本は高いから。

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ウィリアム・ラルー・ウェラーは、ジョージ・T・スタッグ、イーグルレア17年、サゼラック・ライ18年、トーマス・H・ハンディ・ライと共に、バッファロートレース・アンティーク・コレクション(BTAC)の一つです。この限定版ウィスキーのコレクションは2000年にリリースされた当初、90プルーフでボトリングされた超長熟のバーボン、ウィーテッド・バーボン、ライの三種で構成されていましたが、その後ラインナップを増やしたり、熟成年数やプルーフの変更などがあり、最終的に三つのバーボンと二つのライに落ち着き今に至っています。
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BTACはバッファロー・トレース蒸溜所の最高のバーボンとライを代表する存在として、毎年秋に限られた数量でリリースされ、世界のウィスキー愛好家に待ち望まれています。そのためパピー・ヴァン・ウィンクルやウィレット・ファミリー・エステートと並んで入手困難なユニコーン・ボトルでもあります。五つのウィスキーのそれぞれは、使用されるマッシュビル、熟成期間の長さ、プルーフなど異なるものの、各ボトルの希望小売価格は99ドルと、昨今のスーパープレミアムなボトルのリリースと比べると可愛らしい価格ではあります。しかし、抽選会などで当選しないとその価格で購入することは叶わず、通常パピーほど高価にはなりませんが、セカンダリー・マーケットでは一本のボトルに数百ドルから場合によっては数千ドルを費やすことになるでしょう。親会社サゼラックの賢明な舵取りと卓越したウィスキーの組み合わせによってバッファロー・トレース蒸溜所はアメリカン・ウィスキー愛好家が何よりも追い求める蒸溜所となり、BTACは言うに及ばず、ブラントンズ、カーネルEHテイラーJr.やエルマーTリー等も希望小売価格を上回る価格で取引されています。
全てのバッファロー・トレースのバーボンは、濁度のチェックやガスクロマトグラフィーによるサンプル・テストなど様々な品質テストが行われるそうですが、最も厳しいテストは人の味覚によるものだと言います。官能分析のトレーニングを受けた何人かのテイスターは、ラボに持ち込まれたバレルのサンプルを全て試飲すると、各バレルがブランドの基準に合致しているかどうかを確認し、テイスターのうち一人でも反対すればそのバレルは送り返され更に熟成されるのだとか。そうした厳しい基準の最たる例は、2021年のBTACのラインナップからジョージTスタッグが外れた件に顕著でしょう。品質担当でありマスター・ブレンダーのドリュー・メイヴィルは、「私たちの製品は、常に品質が最重要で」あり、「もし味が私たちの期待にそぐわなければ、お客さまにお出しすることはありません」と言っていました。

ウィリアム・ラルー・ウェラーは、他のウェラー・ブランドのラインナップやヴァン・ウィンクル・ブランドのバーボンと同じくライ麦を含まないマッシュビルを使用するウィーテッド・バーボンです。2005年のアンティーク・コレクションから導入されました。それ以前は、2000年から2002年に掛けて、超長熟で90プルーフの「W.L.ウェラー19年」がリリースされていました。小麦レシピなのは同じながら、それらは純粋なスティッツェル=ウェラー・ジュースと目されており、全く別の製品です。近年続々と拡張されたヴァリエーションを別にすると、ウェラー・ブランドには「スペシャル・リザーヴ 」、「アンティーク」、及び「12年」が定番としてありました。ウィリアム・ラルー・ウェラーは概ね約12年間熟成されているところから考えると、バレル・ピックの基準の厳しさを除けば、謂わば「12年」のノンチルフィルタードかつバレルプルーフにてボトリングされたヴァージョンと言って差し支えないでしょう。
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(W.L.ウェラー19年のラベル)

酒名となっているウィリアム・ラルー・ウェラーという人物は「小麦」と密接に関係づけられて語られますが、実はウィーテッド・バーボンを開発したのでもなく販売すらしたことはなかったかも知れません。所謂ウィーテッド・バーボンはスティッツェル兄弟が開発し、ウィリアムの死後30年近く経ってから禁酒法後にパピー・ヴァン・ウィンクルらが広めたレシピだったと見られています。その代わり彼はスティッツェル兄弟からウィスキーを購入したり、自身の会社に若きパピー・ヴァン・ウィンクルを雇った人でした。彼はウィスキー・レクティファイアーではありましたが、なんなら皮肉にも酒を飲まない人だったとも言われています。若い頃はザッカリー・テイラーと共にメキシコ戦争に参戦した軍人でもありました。またウィリアムは自身の成功を還元することも忘れず、ルイヴィルの街に大きな貢献をしたそうです。なんでもバプティスト孤児院の創設メンバーの一人であり、人生のかなりの期間その理事を務め、子供達が良い家庭に行くことが出来るよう養親の面接を行った人物だったとか。ウィリアム・ラルー・ウェラーその人やウェラー・ブランドについては過去に投稿したこちらでも少し触れていますので良ければ参照下さい。

バッファロー・トレース蒸溜所はBTACに関しては詳細を公表しているので、下にウィリアム・ラルー・ウェラーの全てのリリースをリスティングしておきます。W. L.ウェラー19年に関しては、幾つかのウェブサイトや写真を参考にリストを作成しましたが、後のBTACほど詳細は分かりません。おそらく年2回のペースで販売されたと思われます。左からボトリング年、蒸溜年、プルーフの順です。2003年と2004年はリリースがなく、2005年から名称をウィリアム・ラルー・ウェラーと改め、中身の仕様も変更され、詳細が明かされるようになりました。しかし、2019年からはバッチ・サイズに関する情報は非公開になっています。リストは左から順にリリース年、蒸溜年、熟成年数 、ボトリング・プルーフ、熟成されていた倉庫、選ばれたバレルが置かれていたフロアー、熟成中の蒸発率、使用されたバレルの数と推定ボトリング本数、となります。


W. L. Weller 19 YEARS OLD
Summer 2000|Fall 1980|90 Proof
Spring 2001|Fall 1980|90 Proof
Summer 2001|Spring 1982|90 Proof
Fall 2001|Spring 1982|90 Proof
Spring 2002|Spring 1983|90 Proof
Fall 2002|Spring 1983|90 Proof

2003|No release
2004|No release

William Larue Weller
2005|Fall of 1993|12 years, 2 months|121.9 proof|Warehouse Q|5th floor|58.04%|41 barrels, 4602 bottles
2006|Spring of 1991|15 years, 3 months|129.9 proof|Warehouse M |5th floor|50.64%|22 barrels, 2905 bottles
2007|Spring of 1997|10 years, 3 months|117.9 proof|Warehouse I|9th floor|53.27%|34 barrels, 4250 bottles
2008|Spring of 1997|11 years, 2 months|125.3 proof|Warehouse I|9th floor|52.05%|40 barrels, 5131 bottles
2009|Fall of 1998|11 years|134.8 proof|Warehouse N, O|5th floor|57.20%|41 barrels, 4694 bottles
2010|Summer of 1998|12 years, 3 months|126.6 proof|Warehouse I, P|4th and 9th floors|55.50%|55 barrels, 6547 bottles
2011|Fall of 1998|12 years, 11 months|133.5 proof|Warehouse N, O, P|4th and 5th floors|57.20%|45 barrels, 5152 bottles
2012|Spring of 2000|12 years, 4 months|123.4 proof|Warehouse P, I|2nd and 4th floors|56.60%|49 barrels, 5689 bottles
2013|Spring of 2001|12 years, 1 month|136.2 proof|Warehouse M, P|3rd and 4th floors|55.30%|39 barrels, 3468 bottles
2014|Spring of 2002|12 years, 3 months|140.2 proof|Warehouse D, K, L|2nd, 3rd, 4th, and 6th floors|62.30%|39 barrels, 3933 bottles
2015|Spring of 2003|12 years, 3 months|134.6 proof|Warehouse I, K, L|2nd and 6th floors|72.30%|105 barrels, 7780 bottles
2016|Winter of 2003|12 years, 7 months|135.4 proof|Warehouse D, K, L|3rd and 6th floors|65.40%|145 barrels, 13421 bottles
2017|Winter of 2005|12 years, 6 months|128.2 proof|Warehouse D, I, P|1st〜6th floors|54.08%|155 barrels, 19040 bottles
2018|Winter of 2006|12 years, 6 months|125.7 proof|Warehouse C, I, K, L, M, Q|2nd〜5th floors|56.90%|149 Barrels, 17179 Bottles
2019|Winter of 2007|12 years, 6 months|128.0 proof|Warehouse I|2nd and 3rd floors|57.00%|N/A
2020|Winter of 2008|12 years, 6 months|134.5 proof|Warehouse I, C|3rd, 5th and 6th floors|73.0%|N/A
2021|Winter of 2009|12 years, 6 months|125.3 proof|Warehouse K, L, D, Q, C|1st, 2nd and 3rd floors|64.0%|N/A


偖て、今回バーで飲んだのは2005年と2007年です。現地でも入手が困難になったせいか、日本で現行品のBTACを見かけることは殆どなくなりました。それもあるし、年代違いがあるのなら、この機会に並べて飲み較べてみようという意図で注文した次第です。では、感想を少しばかり。

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William Larue Weller 117.9 Proof
2007年ボトリング。重厚な焦げ樽香とレーズンを中心としたアロマ。味わいは濃厚で、甘酸っぱさとスパイシネスの波が押し寄せる。バターとビターチョコの余韻。テクスチャーに刺々しさはなく、円やかです。
Rating:92.5

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William Larue Weller 121.9 Proof
2005年ボトリング。スモーキーな樽香や豊富なドライフルーツは2007年と共通しますが、こちらの方がアロマにマスティオークを感じました。口当たりは思ったよりあっさりめ。味わいは柑橘ぽいフルーティさが強いかな。
Rating:92

飲んだ瞬間に「あ、違う」と思うほど両者に違いはあるのですが、どちらが上か下かは甲乙つけ難く、共に長熟ウィーテッド・バーボンの魅力に溢れていると思います。点数の差は個人的なちょっとした嗜好に過ぎません(もしかすると普通の人は逆かも…)。どちらも一言で表現するなら、飲むドライフルーツの宝石って感じです。おそらくバーボン飲みだけに限らず、シェリー樽で長期熟成されたスコッチが好みの方にもウケるのではないでしょうか? 皆さんも見かけたら是非飲んでみて下さい。最後に、上のリストと重複する部分もありますが、せっかくなのでこの二つのWLWの詳細を引用しておきますね。

Distiller
Buffalo Trace Distillery, Franklin County, Kentucky
Age Profile
Year of Distillation : Fall of 1993 
Release : Fall of 2005
Release Brand name : William Larue Weller Kentucky Straight Bourbon Whiskey
Proof for release : 121.9 proof
Recipe
Large Grain : Kentucky Corn; Distillers Grade #1 and #2
Small Grain : North Dakota Wheat
Finish Grain : North Dakota Malted Barley
Cooking / Fermentation
Milling screen : #10
Cook Temperature : 240 degrees Fahrenheit
Water : Kentucky Limestone with Reverse Osmosis
Fermentation : Carbon Steel / Black Iron fermenter
Mash : Sour
Distillation & Aging
Distillation : Double Distilled; beer still and doubler 
Proof off still : 130 Proof
Barrel : New, White Oak; #4 Char; Charred for 55 seconds
Barrel maker : Independent Stave; Lebanon KY
Barrel entry proof : 114 proof
Barrel size : 53 liquid gallons; 66.25 Original Proof Gallons
Warehouse : Warehouse Q
Floor : 5th
Evaporation loss : 58.04% of the original whiskey lost to evaporation
Bottling
Barrel selection : 41 hand picked barrels
Filtration : None
Product Age : 12 years and 2 months old at bottling
Tasting comment : "Big & Sweet"

Distiller
Buffalo Trace Distillery, Franklin County, Kentucky
Age Profile
Year of Distillation : Spring of 1997
Release : Fall of 2007
Release Brand name : William Larue Weller Kentucky Straight Bourbon Whiskey
Proof for release : 117.9 proof
Recipe
Large Grain : Kentucky Corn; Distillers Grade #1 and #2
Small Grain : North Dakota Wheat
Finish Grain : North Dakota Malted Barley
Cooking / Fermentation
Milling screen : #10
Cook Temperature : 240 degrees Fahrenheit
Water : Kentucky Limestone with Reverse Osmosis
Fermentation : Carbon Steel Black Iron fermenter
Mash : Sour
Distillation & Aging
Distillation : Double Distilled; beer still and doubler
Proof off still : 130 Proof
Barrel : New, White Oak; 4 Char, Charred for 55 seconds
Barrel maker : Independent Stave; Lebanon KY
Barrel entry proof : 114 proof
Barrel size : 55 liquid gallons; 66.25 Original Proof Gallons
Warehouse : Warehouse I
Floor : 9th
Evaporation loss : 53.27% of the original whiskey lost to evaporation
Bottling
Barrel selection : 34 hand picked barrels
Filtration : None
Product Age : 10 years and 3 months old at bottling
Tasting comment : "Sweet molasses with a hint of cinnamon"

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W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴは、現在ではサゼラック・カンパニーが所有するフランクフォートのバッファロー・トレース蒸留所で製造されているウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)です。元々はスティッツェル=ウェラーによって作成されたブランドでした。ウィーテッド・バーボンと言うのは、全てのバーボンと同様に少なくとも51%のコーンを含むマッシュから蒸留されますが、フレイヴァーを担うセカンド・グレインにライ麦ではなく小麦を用いたバーボンを指します。小麦が51%以上使用されたマッシュを使うウィート・ウィスキーとは異なるので注意しましょう。近年のウェラー・ブランドには人気の高まりから複数のヴァリエーションが展開されていますが、「ウェラー・スペシャル・リザーヴ」はかねてから継続的にリリースされていた三つのうちの一つであり、ラインナップ中で最も安価なエントリー・レヴェルの製品です(他の二つは「アンティーク107」と「12年」)。ブランドの名前はウィリアム・ラルー・ウェラーにちなんで名付けられました。そこで今回は、今日でも広く販売されているバーボンにその名を冠された蒸留酒業界の巨人を振り返りつつ、スティッツェル=ウェラーと小麦バーボンおよびウェラー・ブランドについて紹介してみたいと思います。

ウィリアム・ラルー・ウェラーは、1825年、その起源をドイツに遡る家族に生まれました。蒸留に関わるウェラーの物語はウィリアムの祖父ダニエル・ウェラーから始まります。バーボンの歴史伝承によると、ウィスキー・リベリオンの際に蒸留家らは連邦税から逃れるためにペンシルヴェニア州からケンタッキー州へやって来たとされますが、それは必ずしもそうではありませんでした。独立戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)を戦った世代のダニエルはメリーランド州から来ました。彼の一家はメリーランド州でマッチ作りをしていたそうです。ダニエルは自分の父が他界すると入植者としてケンタッキーに移住することを決め、ネルソン・カウンティの現在はブリット・カウンティ境界線に近い土地を購入します。一家はフラットボートでオハイオ・リヴァーを下ってルイヴィルに向かい、1796年にネルソン・カウンティに来ました。共に来ていたダニエルの兄弟は後に有名なガンスミスになったそうです。
ネルソン・カウンティで彼らは農場を始め、ダニエルはファーマー・ディスティラーになりました。当時の多くの入植者がそうであったように、おそらく彼もコーンを育て現在のバーボンと近いマッシュビルで蒸留していたと見られます。しかし、言うまでもなく当時はまだ「バーボン」という呼び名ではありませんでした。ダニエルがケンタッキー州でのウィスキー・リベリオンに参加していたのかは定かではないそうですが、1800年に三週間ウィスキーを蒸留するライセンスが発行されたことは知られています。これはダニエル・ウェラーの公の記録の中で現存する最古のライセンスで、実際には隣人がウェラーのスティルでウィスキーを造るのを許可するために発行されたものだそうです。これは当時の非常に一般的な慣習とのこと。仮に私が自分で蒸留器を所有していない場合、隣人からスティルを借りて、彼らにウィスキーを作って貰い、私が政府に税金を払う訳です。ウェラーの蒸留器は90ガロンのポットスティルでした。当時の地元の収穫量から判断すると隣人は恐らくその期間に150から200ガロンのウィスキーを製造していたのではないかと歴史家のマイク・ヴィーチは推測しています。1802年にトーマス・ジェファソン大統領がウィスキー税を廃止したため、ダニエル・ウェラーの蒸留所の税務記録は残っていません。
1807年、ダニエル・ウェラーは落馬した際に受けた怪我の合併症で亡くなりました。彼の財産目録には2個のスティル、マッシュ・タブ、クーパーの道具、ジャグ等があり、212.17ドルの価値があったと言います。彼はケンタッキー州初期の典型的な農民蒸留者でした。ダニエルの息子サミュエルは、おそらくこの蒸留装置を受け継ぎ蒸留所の規模を拡大したと思われますが、連邦税がなかったために蒸留所の公式記録はなく、更なるお金を投資したかどうか判りせん。また、サミュエルはラルー・カウンティでウィスキーを造ったようですが、これまた記録がなく1850年代に亡くなった時に蒸留所がどうなったのかも不明です。ともかくウェラー家のリカー・ビジネスに携わる伝統はダニエルからサミュエル、更にその息子ウィリアムへと継承されて行ったのでしょう。

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ウィリアム・ラルー・ウェラーは1825年7月25日に生まれました。彼の母親であり父サミュエルの再婚の妻であるフィービー・ラルー・ウェラーは、ケンタッキー州ラルー郡の創設者ジョン・ラルーの娘です。ウィリアムの幼少期についてはよく分かりませんが、名家と言って差し支えなさそうな出自からして、将来のための相応な教育を受けていたと想像されます。成長したウィリアムは1844年にルイヴィルに移りました。そこで何をしていたかも定かではありませんが、酒類ビジネスに関わっていたのでしょうか。1847年になると彼はルイヴィル・ブリゲイドに加わり、他のケンタッキアンらと共にアメリカ=メキシコ戦争(1846〜1848年)を戦い、中尉の階級に昇進したようです。戦後、ウィリアムはルイヴィルへと戻り、1849年に弟のチャールズと協力して、今日NDP(非蒸留業者)と呼ばれるウィスキーの卸売り販売やレクティファイングを手掛ける「ウィリアム・ラルー・ウェラー&ブラザー」を設立しました。店舗はジェファソン・ストリートと現在のリバティ・ストリートの間にあり、彼らは「誠実なウィスキーを誠実な価格で」というスローガンを掲げたとされます。もしかするとラルー・カウンティで父親が造ったウィスキーを販売していたのかも知れません。

1850年代にルイヴィルは活気に満ちた裕福な都市になっていました。街の成長もあってかウェラーの酒はかなりの人気があったようです。伝説によると、人気があり過ぎて顧客が本物を手に入れたことを保証するために、全ての取引書とウィスキーの樽に緑色のインクで拇印を付けなければならなかったとか。会社の設立とほぼ同じ頃、25歳になっていたウィリアムは結婚するのに十分な経済的基盤を築いており、5歳年上でシェルビー・カウンティ出身のサラ・B.ペンスと結婚しました。彼らはこれからの16年の間に7人の子供(4人の男子、3人の女子)をもうけています。また、1854年に腸チフスの流行により父親と母親が亡くなった後、ウィリアムは弟のジョンを自分の息子として育てました。
或る主張によれば、この時期までにW.L.ウェラーは小麦バーボンを発明したとされます。しかし、当時のウィリアムは自身の蒸留所を所有しておらず、先述のようにあくまでレクティファイヤー、つまり特定の蒸留所からウィスキーを買い上げるとブレンディング、フィルタリング、フレイヴァリング等の手法で仕上げ、販売のためにパッケージ化して顧客に販売する業者だったと見られるのです。当時のルイヴィル市の商工人名録には、ウェラーが国内外のウィスキー卸売り及び小売りディーラーと記載されていました。1871年以降にはウェラー社にもスティルがあり、粗悪なグレードのウィスキーを「コロン・スピリッツ」と呼ばれるニュートラル・スピリッツに再蒸留するために使用していたそうですが、同社はオリジナルの蒸留は行わず、この再蒸留のみを行っているとの声明さえ出していたとか。

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南北戦争の到来は、南寄りのウェラー家に大きな混乱を齎します。ウィリアムの兄弟のうち二人は南軍のために戦いました。弟ジョンは有名なケンタッキーの南軍オーファン・ブリゲイドに加わり、キャプテンの階級に昇進し、チカマーガの戦いで負傷したそうです。別の兄弟はジョージアの南軍にその身を捧げました。ウィリアムとチャールズはルイヴィルの家業に留まり、北と南に出来るだけ多くのウィスキーを売るために中立を保とうとしました。しかし、皮肉なことに会社のパートナーであるチャールズは、1862年、事業債務の回収のためにテネシー州フランクリンに滞在中、多額の現金を所持していたところを二人の銃を持った強盗に襲われ殺害されてしまいます。
南部の敗北の後、キャプテン・ジョンはチャールズに代わって家族の会社で働くようになりました。ウィリアムの息子達が成長するにつれて、彼らも事業に参入し始めます。1870年代に同社は、現在でもアメリカの酒類産業の中心地であるルイヴィルのメイン・ストリートに移転し、社名は「W.L.ウェラー&サン」を名乗るようになりました。ウィリアムの長男ジョージ・ペンス・ウェラーがパートナーでした。また、ウィリアム・ジュニアはクラークとして働いていました。1887年頃、他の息子達が参入した会社は「W.L.ウェラー&サンズ」になります。ウェラー社はオープン・マーケットでウィスキーを購入し、後には同じくルイヴィルのスティッツェル・ブラザーズ蒸留所やアンダーソン・カウンティのオールド・ジョー蒸留所などと大きなロットの契約を結びました。彼らの会社で使用されたブランド名には「ボス・ヒット」、「クリードモア」、「ゴールド・クラウン」、「ハーレム・クラブ」、「ケンタッキーズ・モットー」、「ラルーズ・モルト」、「オールド・クリブ」、「オールド・ポトマック」、「クォーター・センチュリー」、「ローズ・グレン」、「サイラス・B.ジョンソン」、「ストーン・ルート・ジン」、「アンクル・バック」、「アンクル・スローカム・ジン」等があり、旗艦ブランドは「マンモス・ケイヴ」と「オールド・W.L.ウェラー」と「キャビン・スティル」と伝えられます。当時の多くの競合他社とは異なりウェラー社では1905年から殆どのブランドを商標登録していたそう。彼らは宣伝にも積極的で、お得意様へ提供されるアイテムにはバック・バー用のボトルやラベルが描かれたグラス、またはエッチングされたショットグラス等があったようです。
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1893年、後に「パピー」と知られるようになり業界への影響力を持つことになる19歳の青年ジュリアン・ヴァン・ウィンクルがセールスマンとしてウェラーズに入社しました。ウィリアムはヴァン・ウィンクルに決して顧客と一緒に酒を飲まないように教えたと言われています。「もし飲みたくなったら、バッグに入ってるサンプルを部屋で飲みなさい」と。同じ頃、父と仕事を共にする息子は4人いました。ジョージとウィリアム・ジュニアはパートナー、ジョン・C.とリー・ウェラーはクラークでした。1895年に70歳を迎えたウィリアムは自分の衰えを感じ、一年後に引退します。事業は兄弟のジョンと長男のジョージに任せました。数年後の1899年3月、ウィリアムはフロリダ州オカラで亡くなります。死因は「心臓合併症を伴う慢性痙攣性喘息」だったそうです。多くの「ウィスキー・バロンズ」の眠りの場となっているルイヴィルのケイブ・ヒル・セメタリーに埋葬されました。

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今日、ウィリアム・ラルー・ウェラーの名前は小麦バーボンと結びついています。ウェラー・ブランドのラインを現在製造するバッファロー・トレース蒸留所の公式ホームページでも彼について記述されていますし、ウェラー・ブランドのラベルには「The Original Wheated Bourbon」と謳われています。しかし残念なことに、おそらくウィリアムと小麦を使用したバーボンには何の関係もありませんでした。
小麦をフレイヴァー・グレインに使用することは、18世紀後半から19世紀前半のウィスキー・レシピにも見られたようです。ライ麦と小麦のどちらを使ってマッシュを作るかは、それぞれの入手し易さに左右されたのでしょう。ライ麦がバーボンの一般的な第二穀物となって行ったのは、単純に小麦がライ麦よりも高価な穀物であり、小麦粉としての需要も高かったためだと考えられています。近年ではライ麦の代わりに小麦を使用するバーボンがクラフト蒸留所からも発売され市場に出回っていますが、伝統的なブランドとしてはオールド・フィッツジェラルドやW.L.ウェラー、キャビン・スティルにレベル・イェール、そしてメーカーズマークくらいのものでした。勿論ヴァン・ウィンクル系のバーボンも含めてよいかも知れません。歴史家のマイク・ヴィーチによれば、これらのブランドは全て歴史上共通の糸、DNAを持っており、その端緒はスティッツェル・ブラザーズであると言います。
フレデリック、フィリップ、ジェイコブのスティッツェル兄弟は、1872年、ルイヴィルのブロードウェイと26thストリートに蒸留所を建設しバーボンの製造を開始しました。この蒸留所は主要ブランドにちなんでグレンコー蒸留所としても知られ、グレンコーの他にフォートゥナ・ブランドが有名です。彼らはウィスキー造りの実験を行った革新的なファミリーでした。よく知られた話に、フレデリックが1879年にケンタッキー州の倉庫に現在まで存続するウィスキー樽を熟成させるためのラックの特許を取得していることが挙げられます。そしてまた、フレイヴァー・グレインとして小麦を使用したバーボンのレシピを実験してもいました。穀物、酵母、蒸留プルーフ、バレル・エントリー・プルーフ、それらの最良の比率が見つかるまで実験を繰り返したことでしょう。彼らはこのウィスキーを主要ブランドに使用することはありませんでしたが、フィリップの息子アーサー・フィリップ・スティッツェルが1903年にオープンしたストーリー・アヴェニューの蒸留所に、その実験の成果は伝えられていました。
A.Ph.スティッツェル蒸留所は1912年にW.L.ウェラー&サンズのためにウィスキーを製造する契約蒸留の関係にあった記録が残っています。19世紀の業界では多くの契約蒸留が行われていました。W.L.ウェラー&サンズのような会社は蒸留所を所有していなくても、特定の蒸留所と自らの仕様に合わせたウィスキーを造る契約をして、自社ブランドを販売していたのです。テネシー州の一足早い禁酒法によりタラホーマのカスケイド・ホロウ蒸留所が閉鎖された後、1911年にA.Ph.スティッツェル蒸留所はジョージディッケルのカスケイド・ウィスキーを造ることになり、テネシー・ウィスキーのためのチャコール・メロウイング・ヴァットまで設置されていたのは有名な話。契約蒸留は、蒸留所を所有することとバルク・マーケットでウィスキーを購入することのちょうど中間の妥協点でした。バルク・マーケットでウィスキーを購入する場合は売り手の売りたいバレルから選ぶことになり、そのぶん比較的安価な訳ですが、フレイヴァー・プロファイルを自分でコントロールすることは出来ません。契約蒸留ならばウィスキーのマッシュビル、蒸留プルーフ、樽の種類、バレル・エントリー・プルーフ等を契約で指定するので、ウィスキーのフレイヴァー・プロファイルをある程度はコントロールすることが出来ます。しかし、ウェラー社のそれはおそらく小麦バーボンではありませんでした。ウェラー社は大企業とは言い難く、500バレルが年間売上の大部分を占めていたので、スティッツェルが当時のウェラーのためにその量の小麦バーボンを造っていたとは到底信じられない、というようなことを或る歴史家は言っています。レシピに小麦を使用するという考えは何年にも渡る禁酒法期間を通して休眠状態にあり、小麦バーボンが花開くのは禁酒法が廃止されるのを待たねばなりませんでした。
では、話を一旦ウィリアム死後のウェラー社に戻し、続いて禁酒法期間中の事と解禁後にスティッツェル=ウェラーが形成されるまでをざっくり見て行きましょう。

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1899年、W.L.ウェラー&サンズはメイン・ストリートの北側、1stと2ndストリートの間にある大きな店舗をバーンハイム・ブラザーズから購入しました。19世紀末までにウィスキーを他州の市場へ出荷するための主要な手段は鉄道となっていたため、スティームボートに樽を積み込むことが出来るウォーターフロントに近いことは南北戦争後には重要ではなくなっていましたが、それでもこの店舗はW.L.ウェラー&サンズが以前所有していたよりも大きな建物であり、ウィスキー・ロウの中心部にオフィスを構えることには威信があったのです。同年にウィリアムが亡くなったその後、息子のジョージが会社の社長になり、ジョージの末弟ジョンは営業部長を務めました。ジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクル(シニア)や、別の会社のセールスマンから1905年にウェラー社へ加入したアレックス・T・ファーンズリーも会社を大いに盛り上げたことでしょう。パピーとファーンズリーの二人はよほど有能だったのか、1908年、共に会社の株式を買い、会社に対する支配権を取得します。ジョージ・ウェラーは1920年の禁酒法の開始時に引退するまで社長として残りました。この新しいパートナー達は元の名前を維持しましたが、新しいビジネス戦略を採用しました。彼らはウィスキー原酒のより安定的な供給を確保するために蒸留所の少なくとも一部を所有する必要性を認識し、スティッツェル蒸留所に投資します。ほどなくしてアーサー・フィリップ・スティッツェルはビジネス・パートナーになりました。禁酒法がやって来た時、スティッツェルは禁酒法期間中に薬用スピリッツを販売するライセンスを取得します。パピーはA.Ph.スティッツェル蒸留所の所有権も有していたので、この合弁事業によりW.L.ウェラー&サンズはスティッツェル社のライセンスに便乗し、スピリッツを販売することが可能となりました。こうして1920年に禁酒法が施行される頃、W.L.ウェラー&サンズはパピーが社長、アーサーが秘書兼会計を務め、逆にA.Ph.スティッツェル社はアーサーが社長、パピーが書記兼会計を務めていました。そしてファーンズリーは両社の副社長です。

禁酒法は蒸留所での生産を停止しましたが、A.Ph.スティッツェル蒸留所のサイトは統合倉庫の一つとなり、薬用スピリッツの販売を続けます。W.L.ウェラー&サンズは禁酒法の間、メイン・ストリートの建物に事務所を置いていました。ジュリアン・ヴァン・ウィンクルは、そこから営業部隊を率いて、全国で薬用スピリッツのパイントを販売しようと努めました。アレックス・ファーンズリーもそこに事務所を持っていましたが、禁酒法の期間中はフルタイムで銀行の社長を務めていたので忙しかったらしい。アーサー・フィリップ・スティッツェルの事務所はストーリー・アヴェニューの蒸留所にありましたが、ウェラーの事務所を頻繁に訪れていたそうです。
禁酒法下の薬用ウィスキー・ビジネスで蒸留業者は、ブランドを存続させるために他社からウィスキーを仕入れたり、統合倉庫に自らのブランドを置いている企業のためにウィスキーをボトリングし、単純に保管料や瓶詰代や少額の販売手数料を徴収していました。スティッツェル社は禁酒法期間中にヘンリーマッケンナのブランドを販売していたそうです。彼らはブランドやウィスキー自体を所有していませんでしたが、マッケンナはスティッツェルの統合倉庫にウィスキーを置いていました。スティッツェル社とライセンスを共有していたW.L.ウェラー社は、ヘンリーマッケンナを1ケース1ドルの手数料で販売し、樽の保管料とボトリング費用(材料費と人件費)を売上から請求したと言います。
1928年、薬用スピリッツの在庫が少なくなると、政府はライセンスを持つ蒸留所に酒類を蒸留して在庫を補充することを許可しました。許可された量はライセンスを持つ会社が保有する既存の在庫の割合に応じて決められています。A.Ph.スティッツェル蒸留所がどれ位の量を蒸留したかはよく分かりませんが、自分たちのため以外にもフランクフォート・ディスティラリーとブラウン=フォーマン社のためにバーボンを生産したそうです。これらの蒸留会社は1928年時点では稼働中の蒸留所を所有していなかったので、A.Ph.スティッツェル蒸留所が割り当てられたウィスキーの蒸留を請け負いました。1929年にブラウン=フォーマンはルイヴィルの自らの蒸留所を稼働させ蒸留を開始しましたが、フランクフォート・ディスティラリーは禁酒法が撤廃された後もA.Ph.スティッツェル蒸留所で契約蒸留を続けました。
"ドライ・エラ"に薬局に提供されたW.L.ウェラー&サンズのバーボンには、禁酒法以前から人気のあった「マンモス・ケイヴ」があります。他にどれだけの種類のラベルが制作されているのか私には把握出来ませんが、「オールド・W.L.ウェラー(白ラベル)」名義のバーボンとライをネット上で見かけました。あと禁酒法末期頃ボトリングの「オールド・フィッツジェラルド」や「オールド・W.L.ウェラー(緑ラベル)」や「オールド・モック」はよく見かけます。

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禁酒法以前からパピー・ヴァン・ウィンクルのW.L.ウェラー社はA.Ph.スティッツェル蒸留所が生産するバーボンを多く購入していた訳ですが、パピーは禁酒法期間中にその終了を見越してA.Ph.スティッツェル蒸留所を購入し、スティッツェル=ウェラーを結成します。禁酒法が廃止された後、二つの会社は正式に合併してジェファソン郡ルイヴィルのすぐ南にあるシャイヴリーに新しい蒸留所を建設しました。この蒸留所こそが小麦バーボンの本拠地となって行く1935年のダービー・デイにオープンしたスティッツェル=ウェラー蒸留所です。A.Ph.スティッツェル蒸留所は新しくスティッツェル=ウェラー蒸留所が開設された時にフランクフォート・ディスティラリーに売却されました。フランクフォート・ディスティラリーは、こことスティッツェル=ウェラー蒸留所に近いシャイヴリーのディキシー・ハイウェイに建設した別の蒸留所でフォアローゼズを製造しました。この蒸留所は1940年代にシーグラムがフランクフォート・ディスティラリーを買収した後も存続しましたが、1960年代に閉鎖されたそうです。
新しく始動した会社でパピー・ヴァン・ウィンクルは社長に就任し、セールスを担当しました。アレックス・ファーンズリーは副社長として残り財務を担当、同時にシャイヴリーのセント・ヘレンズ銀行の頭取でもありルイヴィル・ウォーター社の副社長でもありました。アーサー・スティッツェルも副社長で、製造を担当したとされます。パピーはスティッツェル=ウェラー蒸留所でウィーテッド・バーボンを造ることにしました。それはスティッツェル兄弟が何年も前から実験していたレシピでした。それを採用した理由は、会社の役員であるパピー、アーサー、ファーンズリーらは小麦レシピのバーボンを熟成が若くても口当たりが良く美味しいと考えたからだと言われています。これはウィスキーの熟成があまり進んでいない段階では重要なことでした。本来、市場に出すのに適した良質なボンデッド規格のバーボンは、熟成させるのに少なくとも4年は掛かります。禁酒法廃止後の市場のニーズに応えるのに、もっと若い熟成年数で売れる製品が必要だった訳です。彼らはまず初めに「キャロライナ・クラブ・バーボン」の1ヶ月熟成をリリースし、その後3ヶ月物、6ヶ月物、1年物と続けます。そうして主要ブランドに入れる4年熟成のバーボンが出来上がるまでこのブランドを維持しました。彼らの主要ブランドはオールド・フィッツジェラルド、W.L.ウェラー、キャビン・スティルです。後年、のちにウェラー・アンティークとなるオリジナル・バレル・プルーフというヴァリエーションや、1961年にはレベル・イェールを導入し、60年代後半にはオールド・フィッツジェラルド・プライムがポートフォリオに追加され、また他にも幾つかのプライヴェート・ラベルを個人店向けに作成しましたが、ウィーテッド・バーボンはスティッツェル=ウェラー蒸留所が造った唯一のレシピであり、それらは全て同じウィスキーであっても熟成年数やボトリング・プルーフを変えることで異なったものになりました。

1940年代後半頃でもスティッツェル=ウェラー蒸留所の複合施設はまだ成長していたそうです。しかし、会社の幹部は40年代に相次いでこの世を去りました。アレグザンダー・サーマン・ファーンズリーは1941年に亡くなっています。蒸留業以外でも活躍した彼は他の会社の社長も兼任し、またルイヴィルのペンデニス・クラブの会長を2期務めました。彼の名を冠したパー3のゴルフコースがシャイヴリーにあるとか。アーサー・フィリップ・スティッツェルは1947年に亡くなっています。どうやら彼の死後にスティッツェル・ファミリーで蒸留業に就いた人はいないようです。残されたジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルは1960年代まで生き、引き続き会社を牽引しました。
パピーは優秀なビジネスマンでありカリズマティックなリーダーでしたが、所謂マスター・ディスティラーではありませんでした。スティッツェル=ウェラーの最初のマスター・ディスティラーはウィル・マッギルです。彼はジョーことジョセフ・ロイド・ビームの義理の兄弟でした。二人はジョーよりかなり年上の兄であるマイナー・ケイス・ビームによって訓練されました。禁酒法以前の若い頃、彼らはケンタッキー州の様々な蒸留所で一緒に働いていたそうです。1929年、禁酒法以前の在庫が無くなりかけていたため政府が「ディスティリング・ホリデイ」を宣言し、薬用ウィスキーのライセンス保持者へ蒸留を許可すると、パピーはジョーと彼のクルーを呼び、A.Ph.スティッツェル蒸留所のスティルに火を入れるように依頼しました。おそらく、その頃からマッギルも何らかの関係を持っていたのでしょう。マッギルがスティッツェル=ウェラーで直面したのはタフな仕事でした。可能な限り最高のウィスキーを造るために懸命に新しい蒸留所の全ての癖を把握しなければならなかったのです。エイジングの過程も考えれば数年は掛かり、簡単な仕事ではありません。製造初年度のウィスキーをテイスティングしたことがある方によると、当時から良いものだったけれど年を重ねて更に良くなって行ったと言います。ちなみに、スティッツェル=ウェラーでマッギルは何人かのビーム家の甥っ子を雇っていたとされ、その中で最年長のエルモは後にメーカーズマークの初代マスター・ディスティラーとなっています。
マッギルは1949年頃に引退し、その座はアンディ・コクランに引き継がれました。コクランは若くして亡くなり、蒸留したのは数年だけでした。彼の後釜はロイ・ホーズ(Roy Hawes)です。ホーズはスティッツェル=ウェラーの歴史の中で最も在職期間の長いマスター・ディスティラーでした。彼は50年代前半から70年代前半までの約20年間をそこで過ごし、スティッツェル=ウェラーの全盛期を支え続けたと言っても過言ではないでしょう。亡くなる寸前までまだ技術を学んでいたという熱心なホーズは蒸留所と共に成長し、在職中に多くの優れたバーボンを造りました。
1972年に蒸留所がノートン・サイモンに売却された頃からはウッディ・ウィルソンがディスティラーです。時代の変化はバーボンのフレイヴァー・プロファイルも変えました。新しいオウナーはバレル・エントリー・プルーフを上げるなどして蒸留所の利益を上げようとします。ウィルソンは冷徹な「企業の世界」とバーボンの売上の減少に対処しなければなりませんでした。それでも彼はホーズから学んだクラフツマンシップで良質なバーボンを造りました。ウィルソンが1984年に引退するとエドウィン・フットが新しいディスティラーとして採用されます。
エド・フットは既にウィスキー業界で20年のキャリアを積み、シーグラムを辞めてスティッツェル=ウェラーに入社しました。ホーズやウィルソンに蒸留所やS-W流のやり方を教わったと言います。しかし、フットの時代もまた変化の時代でした。フットはマッシュビルに含まれるバーリーモルトを減らし、酵素剤を使って糖への変換をすることを任されます。バレル・エントリー・プルーフもこっそりと更に少しだけ高くなりました。依然として優れたウィスキーであったものの、それはホーズやウィルソンが造った製品とは異なるウィスキーになっていたのです。そして1992年に蒸留所は閉鎖され、蒸留は完全に停止。フットはスティッツェル=ウェラー最後のマスター・ディスティラーでした。スティッツェル=ウェラー蒸留所については、以前のオールド・フィッツジェラルド・プライムの投稿でも纏めてありますので参考にして下さい。
では、そろそろW.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴに焦点を当てましょう。

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スペシャル・リザーヴは早くも1940年代初頭には発売されていました。新しいスティッツェル=ウェラー蒸留所が稼働し始めて比較的初期の蒸留物が熟成しきった時にボトリングされているのでしょう。そうした初期のスペシャル・リザーヴはボトルド・イン・ボンド表記のボトリングで、熟成年数は7年、6.5年、8年等がありました。冒頭に述べたように、現代のスペシャル・リザーヴはウェラー・ブランドの中でエントリー・レヴェルの製品であり「スペシャル」なのは名前だけとなっていますが、40〜50年代の物は旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドに負けず劣らず「特別」だったと思われます。おそらくパピーの死後まで全てのスペシャル・リザーヴはボンデッド規格だったのでは? 60年代中頃になると現在と同じ90プルーフのヴァージョンが登場し、同時にBiBもありましたが、後年ウェラー・アンティークとなる「オリジナル・バレル・プルーフ」の発売もあってなのか、ブランドは徐々に差別化され、スペシャル・リザーヴと言えば7年熟成90プルーフに定着しました。そして、白ラベルに緑ネックが見た目の特徴のそれは長らく継続して行きます。

スティッツェル=ウェラー蒸留所はその歴史の中で幾つかの所有権の変遷がありました。それはブランド権の移行を伴います。1965年のパピーの死後しばらくすると、ファーンズリーとスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、パピーの息子ジュリアン・ジュニアは会社を維持できず、1972年にノートン・サイモンのコングロマリットへの売却を余儀なくされました。ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。1984年、ディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。もう一方の流れとして、「ビッグ・フォー」の一つだったシェンリーを長年率いたルイス・ローゼンスティールは会社を1968年にグレン・オールデン・コーポレーションに売却しました。そのグレン・オールデンは1972年に金融業者メシュラム・リクリスのラピッド・アメリカンに買収されます。リクリスは1986年にギネスがディスティラーズ・カンパニー・リミテッドを買収した際の株価操作の申し立てに巻き込まれ、翌1987年、ギネスにシェンリーを売却しました(シェンリーは以前ギネスを米国に輸入していた)。こうしてユナイテッド・ディスティラーズはアメリカン・ウィスキーの優れた資産を手中に収めます。彼らはアメリカでの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所やその他の蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルのディキシー・ハイウェイ近くウェスト・ブレッキンリッジ・ストリートに当時最先端の製造技術を備えた近代的で大きな新しい蒸留所を建設しました。それはシェンリーが長年メインとしていた旧来のバーンハイム蒸留所とは全く異なるニュー・バーンハイム蒸留所です。以後、結果的に短期間ながら彼らの所有するブランドはそこで製造されます。ちなみにオールド・バーンハイムが稼働停止した80年代後半から新しい蒸留所が92年に出来上がるまでの数年間、ユナイテッド・ディスティラーズはエンシェント・エイジ蒸留所(現バッファロー・トレース蒸留所)に契約蒸留で小麦バーボンを造ってもらっていました(これについては後述します)。
94年頃には、ユナイテッド・ディスティラーズはバーボン・ヘリテージ・コレクションと題し、自社の所有する輝かしい5ブランドの特別なボトルを発売しました。そのうちの一つが「W.L.ウェラー・センテニアル10年」です。
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数年後、蒸留所の親会社は多くのM&Aを繰り返した末、1997年に巨大企業ディアジオを形成しました。同社はアメリカン・ウィスキーは自分たちの本分ではないと認識し、今となっては勿体ない話ですが、その資産のうちI.W.ハーパーとジョージ・ディッケル以外のブランドの売却を決定します。1999年のブランド・セールで旧スティッツェル=ウェラーの遺産(ブランド)は三者に分割されました。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、バーズタウンの蒸留所を火災で失い新しい蒸留施設を求めていたヘヴンヒルに、バーンハイム蒸留所と共に売却されます。レベル・イェール・ブランドはセントルイスのデイヴィッド・シャーマン社(現ラクスコ)へ行きました。そして、ウェラー・ブランドは旧シェンリーのブランドだったオールド・チャーターと共にサゼラックが購入しました。サゼラックは1992年にフランクフォートのジョージ・T・スタッグ蒸留所(=エンシェント・エイジ蒸留所、現バッファロー・トレース蒸留所)を買収していましたが、自社蒸留原酒が熟成するまでの期間、販売するのに十分な在庫のバレルも購入しています。W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴはサゼラックが購入してからも従来と同じラベル・デザインを使いまわし、所在地表記が変更されました。
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2001年になるとウェラー・ブランドに「W.L.ウェラー12年」が新しく導入されます。おそらく、初登場時には下の画像のような安っぽいデザインが採用されたと思います。隣の12年と同デザインの「スペシャル・リザーヴ」が付かない「W.L.ウェラー7年」は短期間だけヨーロッパ市場に流通した製品。
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それと同時期の2000年、2001年、2002年には特別な「W.L.ウェラー19年」が発売されました。これらは90プルーフにてボトリングされ、純粋なスティッツェル=ウェラー・ジュースと見られています。この特別なボトルは、2005年からは「ウィリアム・ラルー・ウェラー」と名前の表記を変え、ジョージ・T・スタッグ、イーグルレア17年、サゼラック18年、トーマス・H・ハンディと共に、ホリデイ・シーズンに年次リリースされるバッファロー・トレース・アンティーク・コレクション(BTAC)の一部になりました。こちらはバレル・プルーフでボトリングされる約12年熟成のバーボンです。BTACは現在、「パピー・ヴァン・ウィンクル」のシリーズと同じく大変な人気があり、現地アメリカでも欲しくても買えないバーボンになってしまい、日本に輸入されることはなくなりました。
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また、上記のBTACほどのプレミアム感はありませんが、ユナイテッド・ディスティラーズが「遺産」と銘打ったW.L.ウェラー・センテニアル(10年熟成100プルーフ)も継続して販売されていました。ラベルの所在地表記はUD時代のルイヴィルからバッファロー・トレース蒸留所のあるフランクフォートに変更されています。フランクフォート記載のラベルでも、キャップのラップにはUD製と同じく「Bourbon Heritage Collection」の文字とマークが付けてあり紛らわしい。フランクフォート・ラベルのセンテニアルには年代によって3種あり、ボトルの形状とキャップ・ラッパーが少しだけ違います。最終的にはラップから「BHC」がなくなり色は黒からゴールドに変更、そしてこの製品は2008年か2009年に生産を終了しました。
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ウェラー・ブランドは、どこかの段階で完全にバッファロー・トレースの蒸留物に切り替わりました。7年熟成の製品なら、単純な計算でいくと2006年くらいでしょうか? 原酒の特定が難しいのは1999〜2005年までのスタンダードな7年製品と12年熟成の物です。問題をややこしくしているのは、先述のエンシェント・エイジ蒸留所がユナイテッド・ディスティラーズのために製造していた小麦バーボンの存在。ユナイテッド・ディスティラーズは80年代後半から90年代初頭にアメリカ南部限定販売だったレベル・イェールを世界展開することに決め、10年間で100万ケースの製品にすることを目標にしていたと言います。それがエンシェント・エイジと契約蒸留を結んだ理由でしょう。しかし、10年経ってもそれは実現しませんでした。更に、ユナイテッド・ディスティラーズ管理下のニュー・バーンハイムでも小麦バーボンは造られていました(ただし、生産調整のためか、1994年半ばまでは実際にはあまり蒸留していなかった)。つまり過剰生産のため2000年頃に小麦バーボンは大量にあったのです。実際のところ、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世(パピーの孫)がバッファロー・トレースとタッグを組みフランクフォートへと事業を移した理由は、大量の小麦バーボンを彼らが保有していたからかも知れません。また、この頃のバーンハイム・ウィーターの余剰在庫はおそらくバルク売りされ、後にウィレット・ファミリー・エステートを有名にしたものの一つとなったと思われます。サゼラックはウェラー・ブランドの購入時に樽のストックも購入していますから、そうなると理屈上ボトルにはスティッツェル=ウェラー、ニュー・バーンハイム、エンシェント・エイジという三つの蒸留所産の小麦バーボンを入れることが出来ました。12年の初期の物などは単純に逆算すると80年代後半蒸留、ならばスティッツェル=ウェラー産もしくはUD用に造られたエンシェント・エイジ産の可能性が高いのでは…。7年熟成のスペシャル・リザーヴやアンティーク107は概ねニュー・バーンハイム産かなとは思うのですが、真実は藪の中です。もしかするとバーンハイムを軸に他の蒸留所産のものをブレンドしているなんてこともあるのかも。それと、90年代後半までのバーボンには記載された年数より遥かに長い熟成期間を経たバレルが混和されボトリングされていたと言われます。過剰供給の時代にはよくある話。90年代初頭に造られた小麦バーボンが大量に出回っていたため、2000年代前半の7年熟成製品には実際にはもっと古い原酒が使われていた可能性があります。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? 感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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さて、正確な年代が特定できないのですが、ウェラー・ブランドは2010年前後あたりにパッケージの再設計が行われました。紙ラベルが廃止され、ボトルが球根のような形状の物に変わります(トップ画像参照)。同じくサゼラックが所有するバートン蒸留所の代表銘柄ヴェリー・オールド・バートンの同時期の物と共通のボトルです。おそらくこの時にNAS(No Age Statement)になったかと思いますが、その当時のバッファロー・トレースのアナウンスによれば中身は7年相当と言ってました。しかし、その後の中身はもしかすると、もう少し若い原酒をブレンドしたり、熟成年数を短くしてる可能性は捨てきれません。

アメリカでのバーボン・ブームもあり、2010年代を通してバッファロー・トレース蒸留所および小麦バーボンの人気はより一層高まりました。それを受けてか、ウェラー・ブランドは2016年12月からパッケージを刷新します。従来のボトルのカーヴィなフォルムを維持しながらも背が高く、より洗練された雰囲気のラベルのデザインです。ブランド名にあったイニシャルの「W.L.」が削除され、スペシャルリザーブ(90プルーフ)を緑、アンティーク(107プルーフ)を赤、12年(90プルーフ)を黒というように、各ヴァリエーションに独自の明確な色を割り当て、全面的に押し出すようになりました。
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そして2010年代後半になってもウェラー人気は衰えることを知らず、矢継ぎ早にブランドを拡張して行きます。2018年には白ラベルの「C.Y.P.B.(Craft Your Perfect Bourbonの略。95プルーフ)」、2019年には青ラベルの「フル・プルーフ(114プルーフ)」、2020年6月からは橙ラベルの「シングル・バレル(97プルーフ)」が追加されました。これらは1年に1バッチの限定リリースとなっています。

兎にも角にもウェラー・ブランドの人気は凄まじいものがありますが、その際たるものと言うか被害者?はウェラー12年です。一昔前は20ドル程度、現在でも希望小売価格は約30ドルなのですが、150〜250ドル(或いはもっと?)で売られることもあるのです。この悲劇の遠因はパピー・ヴァン・ウィンクル・バーボンであると思われます。
もともとウェラー12年はその熟成年数の割に手頃な価格であり、市場に少ない小麦バーボンとしてバーボン・ドリンカーから支持を得ていました。某社がリリースする10年熟成のバーボンが100ドルを超える希望小売価格からすると、如何に安いかが分かるでしょう。30ドルのバーボンなら、普通は5〜6年熟成が殆どです。2000年代半ばまでにウェラー12年の人気は急上昇しましたが、それでもまだ希望小売価格または適正価格で酒屋の棚で見つけることが出来たと言います。しかし、その後の恐るべきパピー旋風がやってくると状況は変わりました。2000年代後半から2010年代初頭にかけて、著名人や有名なシェフがパピー・ヴァン・ウィンクル15年、20年、23年を貴重なコレクター・アイテムに変えてしまったのです。それらは店の棚から姿を消し、流通市場で天文学的な価格に釣り上げられ、欲しくても手に入らない、飲みたくても飲めない聖杯となりました。ブームとは「それ」に関心のなかった大多数の層が「それ」に関心を寄せることで爆発的な需要が喚起され起こる現象です。バーボン・ドリンカーと一部のウィスキー愛好家だけのものだったパピー・バーボンは、一般誌やTVでも取り上げられる関心の対象となりました。パピー・バーボンが手に入らないとなれば、次に他のヴァン・ウィンクル製品が着目されるのは自然の勢いだったでしょう。「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」や「ヴァン・ウィンクル・ロットB」というパピー・バーボンより安価だったものも軒並み高騰しました。そこで更に次に目を付けられるのはヴァン・ウィンクル製品と同じ小麦レシピを使ったバッファロー・トレースの製品という訳です。実際のところウェラー・ブランドとヴァン・ウィンクル・ブランドの違いは熟成年数を別とすれば、倉庫の熟成場所とジュリアン3世が選んだ樽かバッファロー・トレースのテイスターが選んだ樽かという違いしかありません。それ故「パピーのような味わい」の代替製品としてウェラー12年が選ばれた、と。また同じ頃、パピー・バーボンを購入できない人向けに「プアマンズ・パピー」というのがバーボン系ウェブサイトやコミュニティで推奨され話題となりました。これは「高級なパピーを飲めない人(貧乏人)が飲むパピー(の代用品)」という意味です。具体的には、ウェラー・アンティーク107とウェラー12年を5:5もしくは6:4でブレンドしたもので、かなりパピー15年に近い味になるとされます。こうしたパピー・バーボンの影響をモロに受けたウェラー12年は見つけるのが難しくなっています。ただし、それは「パピー」のせいばかりではありません。低価格の優れたバーボンを見つけてバンカリングすることは、昔からバーボン・マニアがして来たことです。詰まるところそれはバーボン・ブームの影響であり、単純な需要と供給の問題…。
まあ、それは措いて、そろそろ今回のレヴュー対象W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴの時間です。ちなみにバッファロー・トレース蒸留所の小麦バーボンのマッシュビルは非公開となっています。

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE NAS 90 Proof
推定2016年ボトリング(おそらくこのボトルデザイン最後のリリース)。トフィー→苺のショートケーキ、古びた木材、赤いフルーツキャンディ、穀物、僅かな蜂蜜、湿った土、少し漢方薬、一瞬メロン、カレーのスパイス。とてもスイートなアロマ。まろみと水っぽさを両立した口当たり。パレートは熟れたチェリーもしくは煮詰めたリンゴ。余韻はさっぱり切れ上がるが、アーシーなフィーリングも現れ、オールスパイスのような爽やかな苦味も。
Rating:86.5→85/100

Thought:全体的に甘さの際立ったバーボン。スティッツェル=ウェラーの良さを上手くコピー出来ていると思います。同じウィーターで度数も同じのメーカーズマークと較べると、こちらの方が甘く酸味も少ない上に複雑なフレイヴァーに感じました。比較的買い易い現行(これは一つ前のラベルですが…)のロウワー・プルーフのウィーテッド・バーボンとしては最もレヴェルが高いと思います。ただし、私が飲んだボトルは開封から半年を過ぎた頃から、やや甘い香りがなくなったように思いました。レーティングの矢印はそれを表しています。

Value:とてもよく出来たバーボンです。けれど世界的にも人気があるせいか、ウェラー・ブランドというかバッファロートレース蒸留所のバーボン全般が昔より日本での流通量が少なくなっています。価格も一昔前は2000円代で購入できてたと思いますが、現在では3000円代。それでも買う価値はあると個人的には思います。3000円代半ばを過ぎるようだとオススメはしません。あくまで安くて旨いのがウリだから。


ありがたい事にスティッツェル=ウェラー蒸留時代のスペシャル・リザーヴもサイド・バイ・サイドで飲めたので、最後におまけで。これは大宮のバーFIVEさんの会員制ウイスキークラブで提供されたもの。ワンショットでの試飲です。

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(画像提供Bar FIVE様)

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE 7 Years Old 90 Proof
推定80年代後半ボトリング。バタースコッチ→黒糖、ナッティキャラメル、ディープ・チャード・オーク、柑橘類のトーン、煮詰めたリンゴ、ベーキングスパイス。味わいはレーズンバターサンド。余韻は穀物と同時にタンニンやスパイスが現れ、後々まで風味が長続きする。そもそも熟成感がこちらの方が断然あり、香りも余韻も複雑で強い。
Rating:87.5/100


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ラーセニーはヘヴンヒル蒸留所で造られるウィーテッド・バーボンで、2012年9月に歴史的なオールド・フィッツジェラルドの後継として市場に導入されました。ヘヴンヒルは1999年にオールド・フィッツジェラルド・ブランドを買収して以降、安価なボトムシェルファーとして販売していましたが、プレミアムな製品が現代のバーボン・ブームの人気を支える現状を捉えてブランドの大胆な刷新を図ったのでしょう。2018年には毎年春と秋の2回だけの限定リリースで、50年代に販売されていた豪華なダイヤモンド・デカンターを再現した「オールド・フィッツジェラルド・ボトルド・イン・ボンド」を復活させました。また2020年にはラーセニー・バレルプルーフを導入し、こちらは1月と5月と9月の年3回リリースとなっています。

私はバーボンの味は言うまでもなく、そのラベルやボトルのデザイン、ブランドの物語や蒸留所が背負う歴史なども大好きです。ラーセニーにもそれらがあります。先ず、腰をつまんだフラスク型のボトル形状や、鍵をデザイン・コンセプトにしたパッケージは極めてカッコ良い。今日語られるブランド・ストーリーの多くは必ずしも100%正確であるとは限りませんが、ラーセニー・バーボンのバック・ストーリーは興味をそそられる面白いものです。すぐ上でラーセニーはオールド・フィッツジェラルドの後継だと書きました。そしてラベルにはジョン・E・フィッツジェラルドの名がフィーチャーされています。「ラーセニー」とは「窃盗もしくは窃盗罪」を意味する言葉です。それが「鍵」のデザインやフィッツジェラルド氏とどのような関係にあるのでしょうか?

ラーセニー・バーボンのブランド基盤を形成するのは、故ジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルによって有名になったオールド・フィッツジェラルドの歴史とジョン・E・フィッツジェラルドのやや物議を醸す物語です。
オールド・フィッツジェラルドというブランドは、ウィスコンシン州ミルウォーキーを拠点としたワインとスピリッツの卸売業者であるソロモン・チャールズ・ハーブストによって登録され、ケンタッキー州フランクフォートの近くにある彼の所有するオールド・ジャッジ蒸留所で造られました。ハーブストがブランドを作成した時、彼はそれに合わせて物語を紡ぎました。後年まで残った業界の伝承によると、ジョン・E・フィッツジェラルドは南北戦争が終わった直後にフランクフォートで蒸留所を設立し、1870年から鉄道や蒸気船のプライヴェート・クラブのみに販売する高級なバーボンとしてオールド・フィッツジェラルドを製造した、と。この物語は1880年代から禁酒法までブランドを所有していたハーブストと、禁酒法の間にブランドを購入してスティッツェル=ウェラー蒸留所を代表するバーボンにした「パピー」によって更に進められました。それは全てフィクションであり、ジョン・E・フィッツジェラルドは実在の人物ではあるもののディスティラーではなく、実際には倉庫の鍵​​を使って良質な樽からバーボンを盗み出す財務省のエージェントでした。当時から1980年代初頭まで保税倉庫への出入りは財務担当者が管理しており、税金が支払われ、ウィスキーが政府の基準で製造されていることを保証するためには、そうする方が確実だったのです。このため、地元に割り当てられた「政府の人」は非常に力のある立場となり、ハーブストのような蒸留所の経営者やオウナーはエージェントが時々味見をしても、気づかないか気づいても殆ど何も出来ませんでした。
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ランタンに火を灯すと夜な夜なウェアハウスへと近づき、自分が握る鍵を使ってリックハウスに侵入、最高のバレルを吟味するとウィスキーシーフを使って樽から中身をこっそり抜き取り、悠々とジャグを家へと持ち帰える…。現在のラーセニーのホームページでは、ジョン・フィッツジェラルドのそのような姿が再現映像で流れます。バーボンを瓶詰めする時が来ると、通常では考えられないほど軽い幾つかの樽が発見され、そこには極めて滑らかで良質なバーボンが入っていました。中身を盗まれた樽が殆どの場合模範的であることが判明すると、ハーブストの蒸留所の人々の間でフィッツジェラルドは優れた樽の裁判官であるという評判を得ます。すると彼が鋭敏な鼻と肥えた舌で選び出した特に優れた樽を「フィッツジェラルズ・バレル」と呼ぶのは蒸留所の人々の内輪のジョークとなりました。そしてハーブストがオールド・フィッツジェラルド・ブランドの架空のプロデューサーとしてジョン・E・フィッツジェラルドを採用した時、そのジョークは不滅のものとなったのです。この逸話は、パピーの孫娘であるサリー・ヴァン・ウィンクル・キャンベルと彼女の歴史コンサルタントであるサム・トーマスによって、1999年の著書『But Always Fine Bourbon』で明らかにされました。
今は簡単に纏めましたが、もっと詳しくオールド・フィッツジェラルドの歴史やジョン・E・フィッツジェラルドという謎の人物について知りたい方は、過去投稿のオールドフィッツのプライム・バーボンの時にもう少し込み入った話を紹介していますので参考にして下さい。

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ヘヴンヒルがラーセニーを立ち上げた頃のキャッチフレーズは「悪名高い行為によって有名になった味」でした。なかなか上手い言い回しですよね。では、そんなラーセニーの「味」に関わる部分を見て行きましょう。
ウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)は、バーボンに於いて最も一般的なライを含むマッシュビルと違い、フレイヴァー・グレイン(セカンダリー・グレイン)にライの代わりにウィートを用いるマッシュビルで造られたバーボンを指す言葉です。ウィーターとも言ったりします。オールド・フィッツジェラルドやウェラーのような旧スティッツェル=ウェラーからのブランドや、メーカーズマーク、そしてヴァン・ウィンクル等が有名。冬小麦の使用は、ライ麦が供するスパイシーなキックがないため、柔らかで丸く甘いのが特徴とされています。とは言え、ブラインドで味わうと、そのバーボンにセカンダリー・グレインとして小麦を含むかどうかを実際に判別できる人はそういないとも言われています。実際、法律で定められたバーボンのマッシュビルの主成分であるトウモロコシや焦がした新樽は、それ自体でかなり甘いノートを提供するため、ライを含むバーボンであっても甘さを感じることは珍しいことではないからです。ちなみに、ヘヴンヒルの小麦バーボンのレシピは68%コーン、20%ウィート、12%モルテッドバーリー。
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ラベルにはヴェリー・スペシャル・スモールバッチとあります。ラーセニーが発売された頃のセールス・シートには「75樽もしくはそれ以下」と書かれていました。おそらくヘヴンヒルでは100樽以下をヴェリー・スモールバッチ、200樽以下をスモールバッチと呼んでいるように思われます。で、このラーセニー、海外のレヴューを色々読んでみると、バッチングのバレル数が100以下としていることもあれば200以下としていることもあるのです。それらは蒸留所からの情報提供であったり公式ウェブサイトからの引用なので、発売当初は75樽前後だったものが、次第に生産量を増やすにつれバッチングに使用するバレル数も増えたのかも知れません。それが正しい推測だとすると、じゃあヴェリー・スモールバッチじゃなくね?となりかねませんが、業界最大手のジムビームのスモールバッチが凡そ300樽なので、それよりは少ないことを考えればヴェリー・スモールバッチを称しても決して間違いではないかと…。まあ、それはともかく、ラーセニーのバレルは4、5、6階の上層階から選ぶと言います。これに関してはロバストなフレイヴァーのウィスキーを選んでいることが覗えるでしょう。そして熟成年数はNASですが、6〜12年(6~10年とする情報もある)の範囲とされます。多分6年熟成の原酒がメインと思われ、もし熟成年数を表記する場合は「6年」ということになりますけど、もう少し長熟のバレルをブレンドすることで、より熟成したプロファイルのバーボンになるように努めているのだそうです。ただし、ヘヴンヒルの公式ウェブサイトには「当社のマスターディスティラーは、ラーセニーのために、6年熟成のテイスト・プロファイルの、ピークに達した限られた数のバレルをリックハウスの特定のフロアの場所から選んでいます」という記述があり、もしかすると上のバレル数の件と同じように年々長熟バレルの混和率が下っている可能性もある気がします。と言うより、そもそも「75樽以下、6〜12年熟成」のスペック自体がラーセニー販売当初にパーカーとクレイグ・ビームが造り上げた仕様であって、2013年にパーカー・ビームが病気で引退した後は後任のデニー・ポッター(*)がNASの利点を活かしてある程度自由にバレルを選んで初期のラーセニーに近いプロファイルをクリエイトしてるだけの話なのかも知れません。初期物と近年物を飲み較べたことのある方は是非コメント頂けると嬉しいです。
では、そろそろラーセニーを注ぐとしましょう。

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LARCENY 92 PROOF
ボトリング年不明(2015年くらい?)。赤みを帯びたブラウン。香ばしい焦げ樽、バター、シナモン、ダークチェリー、レーズン、ナツメグ、焦がし砂糖、たっぷりベリーのパンケーキ。焦げ樽を中心としてスパイスと少し酸っぱい香り、しばらく置くと激しいピーナッツ・ノート。口当たりはさらりとして喉越しも滑らか。口中でもアロマと同じくシナモ二ーなウッディ・フレイヴァーが。余韻はミディアム・ショートでドライ気味ながら仄かに甘い木の香りとダークなフルーツが少し。
Rating:84/100

Thought:開封から約二分の一に減るまでパッとしないバーボンでした。焦がした樽の風味は強いのにそれだけと言うか。しかし、香りが開いてからは甘い香りも味もありました。特にアロマは良い感じです。ただ、味わいと余韻はやや深みに欠けるのは同じでした。
前回まで開けていた小麦バーボンであり元ネタは同じヘヴンヒルと見られるデイヴィッド・ニコルソン1843(NAS100プルーフ)と比べると全然違う熟成感。ラーセニーの方がより焦がした樽の風味やチェリー感が強く、口当たりが滑らかです。
寧ろ、口当たりや風味はバーンハイム・オリジナル・ウィート・ウィスキーに似てる気がしました。小麦繋がりで、取っておいた物をサイド・バイ・サイドで飲み較べたのですが、ラーセニーの方がオイリーさで上回るし余韻も強くて美味しく感じます。

Value:ラーセニーはアメリカでは25〜30ドルが相場です。この価格は以前のオールド・フィッツジェラルドのプライムやボトルド・イン・ボンドよりも高いのですが、デザイン性やスモールバッチならではのバレル・セレクションを考えれば、市場での価値は妥当でしょう。問題は日本での小売店の販売価格が大体5000円を超えてしまっていることです。これは痛い。本来、似たようなプルーフの小麦バーボンで25〜30ドルならメーカーズマークのスタンダードとウェラー・スペシャル・リザーヴが競合製品。或いはラクスコのレベル・イェールやデイヴィッド・ニコルソン1843も含めていいかも知れません。しかし、ウェラーのラインの人気がアメリカで高まり日本に入ってくる量が減ったこと、またラクスコの製品の生産量がMMやBTと比べて少ないことを考えると、ラーセニーと直接対決できる小麦バーボンは、実質的にはメーカーズマークだけとなります。両者はどちらも似たスペックであり、プルーフィングも熟成年数も近く、アメリカではほぼ同じ価格での販売。なのに日本ではラーセニーはメーカーズマーク・スタンダードの2倍かそれ以上…。まあ、割り切って競合するバーボンとは思わないようにしましょう。良い点を言うと、ラーセニーの方がメーカーズマークよりもバランスがいいとの評価があります。個人的にもメーカーズマークのスタンダードは酸味が強く、人を選ぶバーボンかなという気がしています。その酸味がなく、樽感が強いという意味で、寧ろラーセニーはメーカーズ46に似てると言えなくもない。46なら日本での販売価格もラーセニーと近いですし。そして何よりラーセニーはパッケージが凄くカッコいい。だから私は買いました。案外そんなところで価値が決まるものですよね。


*2013〜2018年までヘヴンヒルのマスターディスティラー兼ヴァイス・プレジデント。現在はメーカーズマークに移籍し、グレッグ・デイヴィスの後任としてジェネラル・マネージャー兼マスターディスティラーに就任しました。フォアローゼズのブレント・エリオットやバッファロー・トレースのハーレン・ウィートリーと同世代。

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デイヴィッド・ニコルソン1843は現在ラクスコの所有するブランドで、古くはスティッツェル=ウェラーと繋がりのあった小麦レシピのバーボンです。セントルイスを拠点とするラクスコは、旧名をデイヴィッド・シャーマン・コーポレーションと言い、2006年に名称を変更しました。近年、新ブランドのブラッド・オースを立ち上げたり、既存のブランドの拡張と刷新をしたり、更には2018年春にラックス・ロウ蒸留所をケンタッキー州バーズタウンにオープンしたりと、バーボン好きには見逃せない会社です。彼らが展開するバーボン・ブランドにはデイヴィッド・ニコルソンとブラッド・オースの他、エズラ・ブルックス、レベル・イェール、デイヴィス・カウンティがあります。

トップ画像の物はいわゆる旧ラベルで、2015年によりシンプルなラベルにリニューアルされました。2016年には「デイヴィッド・ニコルソン・リザーヴ」という黒いラベルの仲間が増え、ラベル・デザインを揃えています。ちなみに黒い「リザーヴ」の方はウィーターではないスタンダード・ライ・レシピのバーボンです。
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(現行のDNのラベル)

さて、今回はデイヴィッド・ニコルソンとそのバーボンについてもう少し紹介してみたいと思います。日本ではあまり話題にならないバーボンですが、実はなかなか歴史のあるブランド。ラクスコが公式ホームページで言うような、世代から世代へと受け継がれるレシピの物語は額面通りには受け取れませんが、オースティン・ニコルズの「ワイルドターキー」と同じように、自分の店でしか手に入らない独自のウィスキーを常連客に提供した食料品店のオウナーの物語があります。
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セントルイスの形成を助けた一人だったデイヴィド・ニコルソンは、地元市民の胃袋を満たした食料品店オウナー、ダウンタウンの有名なビルの開発者、境界州ミズーリでの無遠慮なユニオン軍のペイトリオットでもあり、何なら詩人ですらあったようですが、その名をアメリカ大衆の記憶に残した最大の功績は、彼が店の奥の部屋で歴史的なウィスキーのレシピを作成したことでした。
デイヴィッドは1814年12月、スコットランドはパース郡のフォスター・ウェスターという村の質素な家庭で生まれました。初歩的な学校教育は受けますが、殆どは独学で物にしました。その後、グラスゴーで食料品店の見習いとなり、後にウェスト・ハイランズのオーバンでも修行を積んだようです。彼は1832年頃にはカナダに移住し、モントリオールに上陸した後、オタワに向かいました。就職がうまく行かなかったデイヴィッドは、大工の仕事を学びながらカナダのいくつかの町を巡回し、遂にはアメリカへ行くことにします。始めはペンシルバニア州エリー、次いでシカゴに移り、最終的にセントルイスで大工仕事に精を出しました。頑強な体つきと頭の回転も速かった彼は迅速で優れた仕事ぶりで知られており、セントルイスにあるセント・ゼイヴィアズ・チャーチの素晴らしい装飾用木工品の幾つかはデイヴィッドの作品だったそうです。

セントルイスでデイヴィッドは10歳年下のスコットランド移民ジェイン・マクヘンドリーと出会い、1840年頃結婚しました。彼らには三人の男の子と三人の女の子、計六人の子供が生まれています。1843年、29歳のデイヴィッドは大工職を断念し、スコットランド人でワイン・マーチャントの仲間と協力して専門食料品と酒の特約店を設立しました。商才に長けていた彼は店を繁盛させ、顧客の増加に合わせて何度も店を移転したそうです。デイヴィッドは卸売業者としても活発な取引を行い、セントルイスから西に向かうワゴン・トレインに食物や飲料を供給しました。また、ニューヨーク・シティの営業所から東部でもビジネスを行っていました。
数回の移転の後、1870年にデイヴィッド・ニコルソンはマーケットとチェスナットの間のノース・シックス・ストリート13-15番にある大きな建物に落ち着きます。その建物は彼自らの仕様で建てられ、各階の広さが50×135フィートある5階建ての構造でした。絶え間ない客の往来に対応するため50人の店員が雇われていたと言います。デイヴィッドは、時には船をチャーターして海外からの貨物を積み込み、セントルイスのグロサーで初めて外国の食料品を輸入して、周辺の市場でこれまで知られていなかった商品の消費を促進しました。

伝説によれば、デイヴィッド・ニコルソンの創業年もしくはその少し後、オウナーは自ら「43」レシピを開発したと言います。彼は食料品店の奥のプライヴェートな部屋で100回以上も実験をしてマッシュビルを考え出し、セカンド・グレインにライではなくウィートを使用することにした、と。中西部ではウィートはライより豊富に穫れ、柔らかく滑らかなテイストを気に入ったからだとか。まあ、この手の創始にまつわる伝承は本当かどうか定かではありませんが、販売されたそのウィスキーは、ミズーリ州や州境となるミシシッピ・リヴァーを渡ったイリノイ州の酒呑みにすぐに受け入れられたようです。また、彼はニューヨークの「ファーストクラス」の場所で販売するために、全国的に知られたブランドのオールド・クロウを樽買いしてボトリングしてもいました。
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おそらくデイヴィッドは蒸留業者であったことはなく、あくまでウィスキーを含む大規模な食料品卸売業者であり、ウィスキーに関してはレクティファイヤー、つまり多くの蒸留業者から購入したウィスキーをブレンドして販売する業者だったと思われます。多くのセントルイスのレクティファイヤーたちは悪名高いウィスキー・リングの犯罪に巻き込まれましたが、デイヴィッドは誠実さがモットーだったのか、業界でよく見られた悪しき取引慣行を大いに蔑み、それらの罪を犯した者を軽蔑したと言います。彼はウィスキー・リングという前代未聞のスキャンダルの後も町を離れませんでした。

デイヴィッドが歳を取るにつれ、親族が会社に加わりました。妻のジェインは役員として会社に入り、イングランドでグロサーの修行を積んだ甥のピーター・ニコルソンは1852年に渡米してすぐ雇われました。店員としてスタートしたピーターには並外れたエネルギーと商才があったようで、彼が経営責任を与えられるにつれて顧客層は大きく広がったと言われています。
デイヴィッド・ニコルソンは1880年11月に65歳で亡くなりました。彼はセントルイスのベルフォンテン・セメタリーに埋葬され、妻のジェインも31年後にそこに入ります。ピーターは食料品店とリカー・ハウスの監督を引き継ぎ、1891年にメインのビルディングが焼失した後、ノース・ブロードウェイに移転し、1920年までウィスキーの販売をしていました。そうして、おそらく禁酒法の到来とともに、ピーターはデイヴィッド・ニコルソン名の権利を同じセントルイスの有名なタバコ商ピーター・ハウプトマン・カンパニーに売却したと思われます。どの時期かは確証がありませんが、少なくとも「ドライ・エラ」の終わり直後にはハウプトマン社がラベルを所有していました。

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ピーター・ハウプトマンは祖国ドイツからアメリカに渡り、様々な卸売会社で働いた後、自分の会社を設立、主にタバコ製品の販売で知られていましたが、タバコ会社の事業を続ける一方で蒸気船事業もしていたようです。もしかするとウィスキー・ブローカーのようなこともしていたのかも知れません。ハウプトマン自身は1904年に亡くなっています。
ピーター・ハウプトマン・カンパニーはデイヴィッド・ニコルソン・ブランドのセントルイスのディストリビューターで、その最高経営責任者はロジャー・アンダーソンでした。当初、イリノイ州には別のディストリビューターがいたそうですが、ともかく、デイヴィッド・ニコルソン1843は常にセントルイス周辺の地域限定的な製品で、禁酒法の後はスティッツェル=ウェラーがピーター・ハウプトマン社のために造りました。ラクスコの公式ニュースによれば、1893年にジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルがWLウェラー商会に加わった頃、セントルイスの卸売業者ピーター・ハウプトマン社のためにデイヴィッド・ニコルソン・ブランドはA.Ph.スティッツェル蒸留所でオリジナルの「43」レシピの蒸留と瓶詰めを開始したという記述が見られます。詳細は分かりませんが、少なくともその頃からハウプトマン社が関わっていたのは間違いなさそうです。

禁酒法後、ハウプトマン・カンパニーはマッケソン・インコーポレイテッドに所有されていました。ロジャー・アンダーソンは第二次世界大戦でアメリカ陸軍に勤務した後、マッケソンの販売部門で働き始めました。1968年、彼はセントルイスのマッケソンのピーター・ハウプトマン卸売酒類部門のゼネラル・マネージャーに就任し、1993年または1994年にその職を退き、2013年に亡くなったとのこと。
1967年までハウプトマン社はデイヴィッド・ニコルソン1843バーボンのブランドを所有していましたが、その年、フォーモスト・デリーズはマッケソン=ロビンズを買収し、ハウプトマン部門はクロスオウナーシップのルールによりニコルソン・ブランドの販売を余儀なくされ、それをヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーが取得しました。この関係はやや込み入ったものでした。ファミリーはゴールド色の「1843」の名前とスコットランドの国花アザミがデザインされたラベルを所有しつつそれをリースすることで、ハウプトマン社はプレミアムな自社ブランドの一つとして販売し続けることが出来たのです。ハウプトマンはスティッツェル=ウェラーからウィスキーを購入し、倉庫代と瓶詰めの費用を支払い、ウィスキーが出荷されるとヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーには、ケースごとにブランドを使用するためのロイヤリティが支払われました。この取り決めはヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーがスティッツェル=ウェラー蒸留所とそのブランドの殆どをノートン・サイモンに売却した1972年以降も続いたようです。

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ラクスコの公式ホームページによるとデイヴィッド・ニコルソン・ブランドを買収したのは2000年としていますが、ヴァン・ウィンクル・ファミリーからの情報ではデイヴィッド・シャーマン・カンパニーにブランドを売却したのは1984年または1985年とされています。また、デイヴィッド・シャーマン社はロジャー・アンダーソンが引退した93-94年頃にハウプトマン社を買収したという話もありました。アンダーソンは死ぬまでアクティヴにビジネスを続け、J.P.ヴァン・ウィンクル&サンのセントルイスでのブローカーだったそうです。
ピーク時には年間約40000ケース売り上げたというデイヴィッド・ニコルソン1843も、デイヴィッド・シャーマン社がブランドを購入した頃には、販売量は年間約6500ケースに減少していました。こうしたバーボンにとって暗黒時代だったことが直接的、或いは間接的に影響し、デイヴィッド・ニコルソン・ブランドを長らく蒸留して来たスティッツェル=ウェラー蒸留所は、新しい所有者のユナイテッド・ディスティラーズによって1992年に生産を停止されてしまいます。

デイヴィッド・ニコルソン1843は上述のように地域の製品としてミズーリ州セントルイス、イリノイ州イースト・セントルイスやアルトン(オールトン)で人気があり、長年に渡って販売され続けました。実際、地域限定の製品としては画像検索で比較的容易に40年代から70年代のオールドボトルでも見ることが出来ます。最も多く見られるデイヴィッド・ニコルソン1843は丸瓶で7年熟成の物でしたが、6年熟成や8年熟成、またデカンターに入った物もありました。スティッツェル=ウェラーは異なるブランドで使用するためにデカンターのデザインをリサイクルすることがよくあったと言われています。高価格帯のバーボンが売れ行きを落としていた1970年代には時代の趨勢もあってか、より低価格帯の92プルーフに希釈されたブラックラベルの1843も導入されたようですが、画像は発見出来ませんでした。
デイヴィッド・ニコルソン1843はスティッツェル=ウェラー製造品としてオールド・フィッツジェラルド、WLウェラー、キャビン・スティル、レベル・イェール等と同一線上のウィーテッド・バーボンであり、バーボン・マニアからの評価は高く、S-Wを好きな人からすると限りない価値があるでしょう。概ね7年熟成のボトルド・イン・ボンド製品だったデイヴィッド・ニコルソン1843は、見方を変えれば7年間熟成させたオールド・フィッツジェラルドBIBとも、また別の見方をするなら107バレルプルーフではない100プルーフ版のオールド・ウェラー・アンティークとも言えるのですから。

さて、1992年以降再び蒸留されることはなかったスティッツェル=ウェラー蒸留所。その原酒を調達できなくなった後のデイヴィッド・ニコルソン・ブランドはどうなったのでしょうか?
ユナイテッド・ディスティラーズはS-W蒸留所を閉鎖すると、小麦バーボンの製造を彼らが新しく建てたバーンハイム蒸留所に移しました。後の1999年にはその蒸留所をヘヴンヒルに売却します。そして、ラクスコはバーボンの全てではないにしても大部分をヘヴンヒルから供給していることを開示しています。
当時のデイヴィッド・シャーマン社は、蒸留所が閉鎖された時も、まだスティッツェル=ウェラーからウィスキーを仕入れていたそうです。おそらくスティッツェル=ウェラーの原酒が枯渇した後、ある時点でヘヴンヒル・バーンハイム蒸留所の原酒に切り替わったと思われますが、その明確な時期は判りませんでした。また、いくら調べてもユナイテッド・ディスティラーズが所有していた数年の間のバーンハイム原酒が使用されたかどうかも判りません。ここら辺の詳細をご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。それは偖て措き、デイヴィッド・ニコルソン1843の瓶形状がスクワット・ボトル(トップ画像参照)の場合、おそらくデイヴィッド・シャーマンが販売したもので中身はヘヴンヒルと思われるのですが、初めはあった7年熟成表記が多分2000年代半ばあたり?にNASになりました。
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スティッツェル=ウェラーからヘヴンヒルに変わっただけでも、バーボン通からの評価があまり宜しくなかったのに更にスペックが落ちた訳です。まあ、これは「時代の要請」もあるので仕方ないとは思いますが、それよりも評判が悪かったのは裏ラベルに記載されたDSPナンバーの件でした。ボトルド・イン・ボンドを名乗る場合、ラベルには当のスピリッツを生産した蒸留所を表示する必要があります。そしてそれは真実でなければならないでしょう。それなのにデイヴィッド・ニコルソン1843ブランドは、事実上スティッツェル=ウェラーからの供給が使い果たされた後もずっと、その蒸留所をDSP-16(S-Wのパーミット・ナンバー)として示し続けたのです。この件はバーボン愛好家の間で問題視されました。ラクスコはこの誤りは単純な見落としで、ラベルをそのまま再印刷し続けてしまったと主張していたそうです。
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上の画像は私の手持の推定2013年ボトリングと思われるボトルの裏ラベルです。いくらBIB法は既に廃止された法律であり、ボンデッド・バーボンが市場の僅かな部分しか占めない製品であり、そしてデイヴィッド・ニコルソン1843が地域限定の比較的小さなブランドであるとしても、長期に渡って「DSP-16」が表示されたラベルを使い続けたのはちょっと意図的な気もします。とは言え、或るバーボンマニアの方はその紛らわしいラベル付けに関する疑問を直接ラクスコにぶつけ、DSP-KY-16で蒸留されたからこそ購入したボトルが実際には別の出所からの物であることが事実なら、①あなたの虚偽の広告の結果として私が行った支出を金銭または正しくラベル付けされたボトルで補償する必要があり、②第27.1.A.§5.36に基づく連邦規制に準拠してコンテンツの真実の起源を反映するために全てのラベルを直ちに修正する必要があり、 ③他の消費者が現在市場に出回っている誤ったラベルの付いた製品に惑わされないように間違った情報について謝罪を公表する必要があると思います、というような内容のメールを送ったところ、すぐに返金する旨の回答を得たとか。本当に悪意のないミスだったのかも知れません。
こうしたエラー・ラベルの件が関係してるのか分かりませんが、冒頭に述べたようにデイヴィッド・ニコルソン1843のラベルは2015年に一新され、ボトルド・イン・ボンドを名乗らなくなりました。けれど再発進されたヴァージョンも依然100プルーフを維持するウィーターなのは同じままです。おそらく驚異的なバーボン・ブームに乗る形で、それまで95%がミズーリ州とイリノイ州での販売だった物を全国的に販路を拡げるにあたってリニューアルし、新しい市場で大きな成長を期待されるのが現行品の「1843」と黒ラベルの「リザーヴ」ということでしょう。では、そろそろテイスティングの時間です。

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David Nicholson 1843 Brand BOTTLED-IN-BOND 100 Proof
推定2013年ボトリング。ナッツ入りキャラメル、グレイン、チェリー、洋酒を使ったチョコレート菓子、汗、ケチャップ、みかん。比較的ミューテッドなアロマ。口の中では柑橘系のテイストがあって爽やか。余韻は度数に期待するより短いが、ナッツとドライフルーツの混じったフレイヴァーは悪くない。
Rating:83.5/100

Thought:前回まで開けていた同社のレベルイェール・スモールバッチ・リザーヴと較べるとだいぶ美味しいです(現行のレベルイェール100プルーフとの比較ではありません)。単にプルーフが上がってる以上の違いを感じました。ほんのり甘くありつつ、100プルーフらしい辛味のバランスも好みです。熟成年数は、BIBなので最低4年は守りますが、確かにその程度の印象で、いっても5、6年でしょうか。
同じ小麦バーボンで有名なメーカーズマークのスタンダードと比較して言うと、良くも悪くも円やかさに欠けると言うか荒々しいのが魅力。格と言うか出来はメーカーズの方が上だとは思いますけど、個人的にはスタンダードのメーカーズより好きかも。
私は現行の新しいラベルのデイヴィッド・ニコルソン1843を飲んだことがないので本ボトルとの比較は出来ませんが、一応ほぼ同じであると仮定して言います。ヘヴンヒルが製造している小麦バーボンには少し前までオールド・フィッツジェラルドという有名な銘柄がありました。しかし、それは現在では少し上位のラーセニーに置き換えられ終売となっています。そうなると、比較的安価に買えるヘヴンヒルの小麦バーボンを探しているのなら、もっと言うとオールド・フィッツジェラルドBIBやオールド・フィッツジェラルズ1849の代替品を探しているのなら、このデイヴィッド・ニコルソン1843こそが最も近い物となるでしょう。ただし、唯一の欠点はお値段です。アメリカではヘヴンヒルのオールド・フィッツジェラルドBIBは17ドル程度だったのに対し、デイヴィッド・ニコルソン1843は地域差もありますが概ね30〜35ドル(現在はもう少し安い)。ちょっと考えちゃいますよね。

Value:上のお値段の件は、日本で購入しやすい小麦バーボンのメーカーズマークを引き合いに出すと分かり易いでしょう。現行のDN1843は現在の日本では大体3000円近くします。メーカーズのスタンダードなら2000円ちょいで買えてしまいます。そして、ぶっちゃけメーカーズマークの方が熟成感という一点に関しては上質なウィスキーだという気がします。さあ、この状況下でDN1843を購入するのは勇気のいる選択ではないでしょうか? お財布に余裕があったり、メーカーズのマイルドさと酸味が嫌いでヘヴンヒルのナッティなフレイヴァーが好みだったり、よりパンチを求める人なら購入する価値がありますが、私個人としては味わい的にDNの方が好みではあるものの、経済性の観点からメーカーズマークを選択するかも知れません。

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オールド・コモンウェルスの情報は海外でも少なく、そのルーツについてあまり明確なことは言えません。ですが、ネットの画像検索や少ない情報を頼りに書いてみます。

先ず始めにスティッツェル=ウェラーのアイリッシュ・デカンターに触れます。長年スティッツェル=ウェラー社を率いた伝説的人物パピー・ヴァン・ウィンクル(シニア)が亡くなった後、息子のヴァン・ウィンクル・ジュニアは1968年にオールド・フィッツジェラルド名義でセント・パトリックス・デイを記念するアポセカリー・スタイルのポーセリン・デカンターのシリーズを始めました。1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所が売却された後も、新しい所有者はヴァン・ウィンクル家が1978年にオールド・コモンウェルスのラベルの下で再び引き継ぐまでシリーズを続けます。1981年にジュニアが亡くなった後も息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が事業を受け継ぎ、毎年異なるデザインを制作していましたが、このシリーズはデカンター市場が衰退した1996年に中止されました。オールド・コモンウェルスのアイリッシュ・デカンターの殆どには80プルーフで7年または4年熟成のバーボンが入っていた、とヴァン・ウィンクル三世自ら述べています。
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60年代は、50年代のファンシーでアーティスティックなグラス・デカンターに代わりセラミック・デカンターが人気を博しました。各社ともデカンターの販売には力を入れ、ビームを筆頭にエズラ・ブルックスやライオンストーンが多くの種類を造り、他にもオールド・テイラーの城を模した物からエルヴィス・プレスリーに至るまで様々なリリースがありました。おそらく、70年代にバーボンの需要が落ち込む中にあっても、記念デカンターは比較的売れる商材だったのでしょう。ジュリアン・ジュニアはスティッツェル=ウェラー蒸留所を売却した後、「J. P. Van Winkle & Son」を結成し、様々な記念デカンターを通して自分のバーボンを販売しました。 既に1970年代半ば頃からコモンウェルス・ディスティラリー名義は見られ、ノース・キャロライナ・バイセンテニアル・デカンター、コール・マイナーやハンターのデカンター等がありました。もう少し後には消防士やヴォランティアーを象った物もあります。

そして今回紹介するオールド・コモンウェルスは上に述べたデカンターとは別物で、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世がシカゴのサムズ・リカーという小売業者向けにボトリングした特別なプライヴェート・ラベルが始まりでした(当時20ドル)。おそらく90年代半ば辺りに発売され出したと推測しますが、どうでしょう? 後には同じくシカゴを中心としたビニーズにサムズは買収され、ビニーズがオールド・コモンウェルスを販売していましたが、ヴァン・ウィンクルがバッファロー・トレース蒸留所と提携した2002年に終売となりました。中身に関しては、同時代のオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル10年107プルーフと同じウィスキーだとジュリアン本人が断言しています。ORVWのスクワット・ボトルと違いパピーのようなコニャック・スタイルのボトルとケンタッキー州(*)の州章をパロった?ラベルがカッコいいですよね。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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Old Commonwealth 10 Years Old 107 Proof
推定2000年前後ボトリング。フルーティなキャラメル香。僅かにブルーベリー。度数の割に刺激のない舌触り。パレートはオレンジ強め。余韻もオレンジと焦げ樽のビターさが感じ易かった。前ポストのオールド・リップと比較するため注文しました。大した量を飲んでないので細かいことは言えませんが、こちらの方が度数が僅かに高いのにややあっさりした質感のような? でも、どちらも焦樽感はガッチリあるバーボンで点数としては同じでした。
Rating:87.5/100


*ケンタッキー州は日本語では「州」と訳されますが、英語ではステイトではなくコモンウェルス・オブ・ケンタッキーです。アメリカ合衆国のうちケンタッキー、マサチューセッツ、ペンシルヴェニア、ヴァージニアの四つの州は、自らの公称(州号)を「コモンウェルス」と定めています。これらは州の発足時に勅許植民地であった時代との決別を強調する狙いがあったものと解されているそう。オールド・コモンウェルスは如何にもケンタッキー・バーボンに相応しい命名なのかも知れません。
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「commonwealth」とは、公益を目的として組織された政治的コミュニティーの意。概念の成立は15世紀頃とされ、当初は「common-wealth」と綴られたそうで、「公衆の」を意味する「common」と「財産」を意味する「wealth」を繋げたもの。後の17世紀に英国の政治思想家トマス・ホッブズやジョン・ロック等によって一種の理想的な共和政体を指し示す概念として整理され、歴史的に「republic(共和国)」の同義語として扱われるようになったが、原義は「共通善」や「公共の福祉」といった意味合いだったとか。

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オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルというブランドは、元は禁酒法時代(または以前?)に遡りますが、長年の沈黙からジュリアン・ヴァン・ウィンクル二世が1970年代半ばに復活させ、それを受け継いだ息子のジュリアン三世が伝説のレヴェルまで育て上げたブランドと言ってよいでしょう。

長年スティッツェル=ウェラー社を率いてきたジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルが1965年に亡くなった後、息子のジュリアン・ジュニア(二世のこと)は他の相続人との意見の相違から、1972年にスティッツェル=ウェラー所有の蒸留所とブランドをノートン・サイモン社へ売却することを余儀なくされました。しかし、彼は名前や物語を余程気に入っていたのか、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングの物語をモチーフにしたブランドだけは売却せず、スティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利とボトリング契約を残したことで、オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルを甦らせ販売し始めます。その事業は1981年にヴァン・ウィンクル二世が亡くなると息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世に引き継がれますが、スティッツェル=ウェラーとのボトリング契約が切れたことでジュリアン三世は致し方なく(妻も子供四人もおり、多額の借金を背負うことになるから)アンダーソン郡ローレンスバーグにある旧ホフマン蒸留所をベン・リピーから購入しました。ジュリアン三世はスティッツェル=ウェラーからのバルク・ウィスキー、またその他の蒸留所からもウィスキーを購入し、コモンウェルス蒸留所として様々な銘柄でボトリングを続けました。80年代にはおそらく知る人ぞ知る小さな存在だった会社は、90年代に祖父への敬意を直接的に表す「パピー・ヴァン・ウィンクル」を発売、幾つかの賞を得たことでウィスキーの世界から注目を集め出します。しかし、スティッツェル=ウェラー蒸留所はユナイテッド・ディスティラーズの傘下になった90年代初頭に蒸留が停止されてしまいました。そこで、原酒の枯渇を懸念したジュリアン三世は、新しい供給先としてバッファロー・トレース蒸留所を選び、2002年、合弁事業としてオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ディスティラリーを立ち上げます。同社のブランドは段階的にスティッツェル=ウェラーからバッファロー・トレースの蒸留物へ変わりました。2010年以降は「パピー」がバーボン愛好家以外の一般大衆にも認知され出し、バーボン・ブームの到来もあってカルト的人気を得、それに釣られてその他のブランドも高騰。オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルも日本に住む「庶民派ウィスキー飲み」が手を出せる金額ではなくなり、そもそも日本へ輸入されることもほぼなくなりました。バッファロー・トレースのフランクフォート産の物ですらそのような状況の今日、ジュリアン三世がハンドメイドで瓶詰めしていたローレンスバーグ産の物は、特に愛好家に珍重され求められています。

今回ご紹介する「ヴァン・ウィンクル」の付かないヴァン・ウィンクル製品であるスクエア・ボトルの「オールド・リップ」なのですが、これは日本向けの輸出用ラベルでした。4年熟成86プルーフ緑ラベルと12年熟成105プルーフ黒ラベルの二種類があり、日本のバーボン愛好家には知られたブランドです。おそらく発売期間は80年代後半から90年代後半(もしくは2000年代初頭?)までではないかと思われます。少なくともフランクフォート表記のオールド・リップは見たことがないので、2002年以降には製造されていないと推測しました。お詳しい方はコメントよりご教示下さい。
それは措いて、中身の原酒について。ジュリアン三世は「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」や「ヴァン・ウィンクル・セレクション」、初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル」、またその他の銘柄ではスティッツェル=ウェラー以外の原酒を使うこともありました。しかし、聞くところによると彼は「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」のブランドにはスティッツェル=ウェラー原酒を使うことを好んだとされます。それからすると、おそらくこの「オールド・リップ」もスティッツェル=ウェラー原酒で間違いないでしょう。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

OLD RIP 12 Years Old 105 Proof
今回はバー飲みです。先日まで開けてあったオールド・リップ12年が前回のウイスキークラブ(定期イヴェント)で飲み切られたとのことで倉庫からストックの新しいボトルを出して来てくれました。なので開封直後の試飲となります。

推定88年ボトリング(*)。ベリーと合わせたチョコ、接着剤、杏仁豆腐、キャラメル、他に植物っぽい香りも。ハイプルーフゆえのアルコールのアタックはあってもヒート感はほぼ感じない。現代の小麦バーボンよりもスパイス感がやや複雑で、フレイヴァー全体が濃厚な印象。余韻は少し渋め。
Rating:87.5/100

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*この時期のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は少し古めの瓶を使ってボトリングしていたことを示唆する情報がありますので、瓶底の数字は88なのですが、もしかするとボトリングは90年頃の可能性があります。

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メーカーズマーク・プライヴェートセレクトは、メーカーズマーク・カスクストレングスのヴァリエーションとも、メーカーズ46のアップグレード・カスタム・ヴァージョンとも言える製品です。現在、アメリカの多くの蒸留所ではプライヴェート・バレル・プログラムが実施され人気を博していますが、それらはストア・ピックやバレル・ピックとも呼ばれ、酒類販売店、バーやレストラン、或いはバーボン・ソサエティ等が蒸留所の公式リリースとは違った独自の味わいのシングルバレルを顧客に販売することを可能にします。様々な味比べが出来るこの種の試みはバーボン人気を後押しするものと言えるでしょう。メーカーズのプライヴェートセレクトもそういった試みの一つ。しかしメーカーズはシングルバレル・プログラムに関しては他の蒸留所に遅れをとっていました。なぜならメーカーズマークでは熟成中に樽のローテーションを行うため、他の蒸留所のようには熟成庫のロケーションによる味の違いが明確ではないので、単純にシングルバレルを提供するだけではちょっと面白味に欠けるから。そこでメーカーズ46で培った技法を採り入れてバイヤーへ提供することになったのがプライヴェートセレクトです(※メーカーズ46についてはこちらの過去投稿をご参照下さい)。2016年に発表されるや瞬く間に人気となり、多くの小売店が独自のボトルを販売しています。

プライヴェートセレクトのプログラムは、ビル・サミュエルズJrの息子であるロブ・サミュエルズとディレクターであるジェイン・ボウイによって実現されました。先ずはテイスティング・チームを組織すると、メーカーズマーク・カスクストレングスのフレイヴァーをマッピングし、どのフレイヴァーを強調したいのかを決め、それからインディペンデント・ステイヴ・カンパニーに行き、46のようにメーカーズマークに存在する異なったキー・フレイヴァーを増幅するステイヴ作成の協力を仰ぎました。メーカーズマーク蒸留所はメーカーズ46の開発に費やした2年間で自社製品をコントロールする方法についてはかなりの量の知識を得ています。おそらく46での経験を活かし比較的短時間で完成に漕ぎ着けたでしょう。ボウイによると、もともとは8種類の風味増強ステイヴを用意していたそうですが、フレイヴァー・プロファイルの冗長性を最小限に抑えるために、最終的にそれらを五つに戻しました。これらのステイヴは既存のフレイヴァーを増幅すると同時に新しい何かを追加することになっています。プライヴェートセレクト・バレルの購入者は、メーカーズ46に使われているものを含む5種類のステイヴを自由に10枚選択して、1,001の可能な組み合わせの中から好みのフレイヴァー・プロファイルを作成、独自に大胆な味へとカスタマイズすることが出来ます。しかし、それでもその味わいは紛れもなくメーカーズマークに他ならないのでした。

プライヴェートセレクト・バレルを購入するバイヤーは、メーカーズ46の話が説明された後、オークについて、そしてフレイヴァーが木材のどこにあるのかについてレクチャーを受けます。ステイヴに施された加熱の時間や温度に基づいて、どのフレイヴァーを放出するかの概要が示され、オークの生理学的な細胞構造と熱が加えられるとどのような化学変化が起こるのか学ぶのだそう。それが終了したらテイスティングの時間です。
参加者の目前には、ベースラインとして味わうためのスタンダードなメーカーズマーク・カスクストレングスと共に、それぞれ異なるステイヴで仕上げられた五つのサンプルが置かれます。最終製品もバレルプルーフになるので、サンプルも全てバレルプルーフです。グラスの横には「Maker's Mark Private Select」というレクチャーを纏めたような小冊子もあり、有益な情報が後からでも確認出来るのでしょう。このバレルプログラムのために特別に開発された五つのステイヴは互いに非常に異なる香りと味がするとされ、その特徴は以下のようになっています。

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P2(Baked American Pure 2の略)
ベイクド・アメリカン・ピュア2は、五つのうち唯一アメリカン・オークで造られたクラシック・カットのステイヴ。ゆっくり時間をかけて低温にてコンヴェクション・オーヴンで焼かれています。このトリートメントは甘いブラウンシュガー、ヴァニラ、キャラメルなどの甘いノートを引き出すとされ、またシナモンやクローヴなどのスパイスの風味も高め、フィニッシュにドライなオークが現れるとも言います。

Cu(Seared French Cuvéeの略)
シアード・フレンチ・キュヴェは46と同じく赤外線オーヴンで焼かれたフレンチ・オークですが、カットが異なり、ステイヴには溝が切り込まれているためクラシック・カットより22%大きい表面積を持っています。それはジュースと木材の相互作用がより多いことを意味するでしょう。また、溝があるということは、上部(表面)と下部(谷間)では同じ量の熱変換を受けないため、焦がし具合の違いから風味のブレンドが期待されています。この特別なトリートメントはバタースコッチやキャラメル、ローストナッツやバター、若干の渋みを引き出すとされます。

46(Maker's 46の略)
メーカーズ46はもはやお馴染みとなった同ブランドの製造に使用されるステイヴです。Cuと同じく赤外線オーヴンで調理されますが、こちらは更に数分間長く加熱され、溝はありません。これらの違いがCuと46の味を全く異なるものにします。Cuはスイートなのに対し46はスパイシーさを追加するよう設計されました。このトリートメントはクリーミーな感触はなく、ヴァニラやスパイス、強いオーク、ドライフルーツ、若干の苦味を引き出すとされます。

Mo(Roasted French Mochaの略)
ローステッド・フレンチ・モカは、クラシック・カットのフレンチ・オークです。P2と同じくコンヴェクション・オーヴンで調理されますが、P2のような低い温度ではなく高い温度にてトーストされます。通常、華氏500度を超える高温に曝され、クーパーの観点からすると、これはオークが燃え始める前に処理できる最高温度なのだとか。
このトリートメントはダーク・チョコレート、焙煎されたコーヒー、メープル・シロップ、重いチャー・フレイヴァーを高めるとされます。また、通常のカスクストレングスと比較してドライになるが、非常に長いフィニッシュを有し、切れ上がりの味は甘いと言います。

Sp(Toasted French Spiceの略)
トーステッド・フレンチ・スパイスは、コンヴェクション・オーブンで高温と低温の両方で調理された(*)フレンチ・オークのクラシック・カット・ステイヴ。このトリートメントは、スモーク、シナモンやナツメグ、クマリンの風味を高め、味わいはフルーティかつスパイシーで少々渋いとされます。

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バイヤーはこれら五つのサンプルを慎重に試飲して、独自のカスタム・ブレンドを作成するよう奨励されます。例えば、チョコレートの風味が目立つメーカーズを欲するならMoを多く使用するとか、焦樽感がもっと欲しくスパイシーにしたいならSpを多くを使うとか、或いはバランスよく全てのステイヴを使うのも自由自在。とは言え、ヘンテコな物が出来上がらないように?脇には担当者の方がいて、味の方向性が決まれば適切なアドヴァイスをくれるようです。
視覚的に分かり易いようにテーブルにはステイヴの記号が描かれたチップも置かれており、それを並べてどのステイヴが何枚と決めて行きます。チップは一枚につき10mlを表し、選び抜いた十枚で100mlのカスタム・ブレンドのサンプルを造ってもらいます。こうすることで最終的なプライヴェートセレクトの仕上がりと想定されるものを試すことが出来るのでした。ロブ・サミュエルズによれば「皆さんは、最終製品が実験環境で行ったのと同じような味がするかどうかを尋ねますが、それはほぼ正確」で「マウスフィールは少し異なることがあっても、風味の特性は全く同じ」だと言います。
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ステイヴの組み合わせが決まったら、次はメーカーズマークの原酒をステイヴの挿入された樽へと満たす工程です。追加される10枚のステイヴは、バーボンと接触する木材の表面積を約33%増加させるとされ、実験を通じて最適な数として決定されました。典型的なバーボン樽は概ね32のステイヴで構成されていますが、プライヴェートセレクトの追加ステイヴはバレル・ステイヴよりは短くとも両面がトーストされているため、ジムビームの「ダブルオーク(トゥワイス・バレルド)」やウッドフォード・リザーヴの「ダブル・オークド」のような新樽で二度熟成させる製品と同じ位の効果があるのかも知れません。約6年ほど熟成した原酒でいっぱいに満たされた樽は、メーカーズ46の需要増への対応とプライヴェートセレクトのバレルを熟成させるために特別に設計されたライムストーン・セラーで、およそ9週間ほど眠りにつきます。そして熟成が終わると、通常のカスクストレングスと同じように、主にバレルのチャー残渣を除去する軽い濾過を経てボトリングされ完成です。言うまでもなく、カスクストレングスでのボトリングなので樽ごとに違いが出ますが、概ね55%前後のABVになります。各バレルは750mlのボトルをおよそ240本ほど産出し、同社は一本あたり約70ドルでの小売価格を提案。プライヴェートセレクト・バレルの費用は約13000ドルだとか。

蒸留所では自らのプライヴェートセレクトのボトリングもしています。代表的なそれは「Bill Samuels Jr.」と呼ばれ、メーカーズ46を産み出した当の本人でありメーカーズマークの前社長にちなんで名付けられました。故にそのシグネチャー・フレイヴァーを増幅するためステイヴのセレクトは46を10枚使用しています。つまりメーカーズ46のカスクストレングス・ヴァージョンという訳です。
また、メーカーズのウッド・フィニッシュ・シリーズはプライヴェートセレクト・プログラムだけに留まりません。2018年には「Maker's Seared Bu 1-3」というより実験的な「第二世代」のステイヴを使った製品が蒸留所限定で販売されました。これは375mlボトルで約40ドル、僅か1400本だけの提供です。そのステイヴは「virgin seared & Sous-Vide French oak」だと言います。「Sous-Vide(スゥヴィド)」はフランス語で「真空」の意。近年、料理の世界で真空調理法というのが注目されているようですが、木材を真空調理?って一体どんなことをしているのか、私には想像も付きません。実験の結果、このステイヴは美味しいバーボンを産み出したものの、プライヴェートセレクト・プログラムの他のステイヴを完全には補完しないため、蒸留所はこれを生産するプランはないけれど、メーカーズのDNAから生まれた愛するウィスキーを共有したいと考えて販売したそうです。
2019年9月からは、メーカーズマーク初となるアメリカ国内で全国配給される限定リリースのウッド・フィニッシング・シリーズが発売され始めました。第一段は「ステイヴ・プロファイル RC6」となっています。RCは「Research Center」の略で、そこの6番目のステイヴという意味です。リサーチ・センターというのは、メーカーズと共同して木材の実験を執り行うインディペンデント・ステイヴ・カンパニーの研究機関?か何かだと思います。RC6は屋外で一年半ほど乾燥させたアメリカン・オークをコンヴェクション・オーヴンでトーストしたステイヴで、主にスタンダードなメーカーズマークに存在するフルーツを引き立て、ベーキングスパイスやクラシックな甘さを向上させ、ブライトなフィニッシュになるそうな。正確なカウントではないらしいですが、だいたい255樽のスモール・クオンティティでの生産だそうです。おそらくこのシリーズは今後も、ワイルドターキーのマスターズキープのように年次リリースされて行くのでしょう。小売価格は約60ドルです。
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では、そろそろ今回レヴューするプライヴェートセレクトの出番です。こちらは「うきうきワインの玉手箱」という酒販店のセレクト。「玉手箱」という響きが気に入って買ってみました。スパイシーさを強調したセレクトになっているようです。

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Maker's Mark Private Select Stave Selection by Tamatebako 111.3 Proof
46 × 2
Mo × 4
Sp × 4
香ばしい焦げ樽、オールスパイス、タバコ、ドライクランベリー、レーズン、焦がし砂糖→プリンのカラメルソースの濃ゆいやつ、コーヒー、タバコ。焦樽の香りに僅かに酸っぱい香りが混じる。ややオイリーなマウスフィール、もしくはミルキー。パレートはメーカーズらしい酸味が感じられる。飲み込んだあとのスパイシーさはかなり強め。余韻には昆布も。テイスティング・グラスよりショット・グラスで飲むほうが美味しかった。
Rating:86.25/100

Thought:通常の46やカスクストレングスと較べて、よりねっとりとした舌触りであり、フレイヴァーが濃密な印象で、取り立ててオーヴァーオークな感じもせず、香ばしさが引き立てられていると思いました。パレートで感じる香味は確実に複雑ですが、反面、全体的にドライな傾向も強いのが個人的にはマイナス。口蓋で感じる強いスパイシーさや、余韻の苦味が退けた後にほんのり甘さが現れるあたりが、「大人な」メーカーズマークを目指したであろう本品の良さと言えます。ただ、もう少し分かりやすい甘味が余韻にあるほうが自分には好みなので、この評価でした。

Value:プライヴェートセレクトと言うか、ウッド・フィニッシュ・シリーズは、メーカーズ原酒の持つフレイヴァーをアンプリファイドした製品なので、例えば通常のカスクストレングスが6500円、プライヴートセレクトが7500円とすると、1000円が増幅代(手間賃)な訳です。ここに価値を見出だすかどうかが評価の分かれ道だと思います。もっと言うと、実際に飲んでみるまで通常のカスクストレングスより美味しいのか美味しくないのかが判らないギャンブル要素があるのに、少しだけ高い値段となるのがポイントなのです。1000円のギャンブルを安いと思うか高いと思うかはその人次第。結局のところ自分で飲むしか購入価値の判断が出来ないことがプライヴェートセレクトの欠点でもあり面白味でもあるでしょう。とは言え、概ね美味しくはなっていると思いますし、また幾つかのプライヴェートセレクトを飲んでみてステイヴ・セレクションが自分の好みに合ったリカー・ストアを見つけてしまえば、1000~1500円程度でのアップグレードは安いと言わざるを得ない「大きな価値」になります。


*一部の情報では、このステイヴのみ二つのトリートメントを組み合わせており、最初に高温の赤外線オーヴンで焼き、そして次にコンヴェクション・オーヴンへ移して低い温度で調理される、と説明されていました。真偽が判らなかったので、ここではメーカーズの公式ホームページでの説明がコンヴェクション・オーヴンの高温と低温とされていたため、そちらの説を採用しています。

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今夜は年末年始に向けてロカビリーやロックンロールな映画を集めてみました。どれも自分がティーンの時に影響を受け、今だに大好きな映画たち。

若きチカーノロッカーを完璧な青春映画として描いた「ラ・バンバ」、デニス・クエイドのキレた演技もさることながらウィノナ・ライダーが可愛すぎる「グレート・ボール・オブ・ファイヤー」、ジョニー・デップ他出演者みなが濃ゆいロカビリー版ミュージカル「クライ・ベイビー」、まだ有名になる前のブラッド・ピッドのリーゼントとファッションだけでノックアウトの「ジョニー・スエード」、お揃いのジャケットに憧れる「ザ・ワンダラーズ」、レザーとモーターサイクルが野郎を魅了する「ラブレス」、どれもカッコよくてクラクラしちゃいます。







これらに合わせるバーボンはもちろんレベルイェール。そもそもは、かの有名なスティッツェル=ウェラー蒸留所が南部限定でリリースしていた小麦バーボンで、現在はラクスコ(旧デイヴィド・シャーマン社)が販売しています。昔の物はラベルに南軍の兵士が刀を片手に馬を疾駆する姿が描かれていましたし、「ディープ・サウス専用」なんて文言も書かれていました。またロカビリアンのアイコンとも言えるレベル・フラッグがフィーチャーされた海外向けのラベルの物まであり、サザーン・カルチャーという共通項からロカビリーや初期ロックンロールとは相性がいいのです。
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そしてレベルイェールというブランド名ですが、日本ではよく「反逆の叫び」と訳されてるのを見かけます。別に間違いではないですし、それがロックなイメージを加速させるの役立っているのですが、実際には上に述べたラベルの件で分かるように、ここでの「レベル(Rebel)」は北軍に「反逆・反抗」した者の意となり、「イェール(Yell)」は日本語で「エールを送る」と言う時のエールと同じ英語の「怒鳴る・喚く・気合いを入れる掛け声」などを意味する言葉で、南北戦争における南軍の兵士が戦闘の時にあげる甲高い遠吠えのようなものを「レベル・イェール」と言います。だから日本語なら「南軍の雄叫び」とでも言うと分りやすいですかね。狼や犬の遠吠えを思わせる奇声で、多人数でやるとけっこう耳障り。

(元南部軍人によるレベル・イェールの再現)

レベルイェールと聞いてこの音声が頭に再生されるようになれば立派な南部愛好家バーボン飲みです。とは言え、現在のラベルは南部色は完全に払拭され、ただ名前にその名残があるのみ。それ故にレベルイェール本来の意味が忘れ去られ、「反逆の叫び」という一般化がなされてしまったのも仕方のないことかも知れません。ある時にレベルイェールを所有していた会社が全国展開を決定したことで、そういう方針になったのです(RYの歴史は別の機会に紹介します)。ロカビリー好きとしては残念ですが、時代の流れもありますし、販売戦略として南部色の撤廃は間違ってはいないでしょう。ただし、ロックに話を限るのではなく過去に戦争の歴史があったことや、オールド・サウスへの郷愁や南部人の心意気を喚起するラベルだったことは忘れたくないところです。ちなみに日本では「レベルイエール」とか、私も「レベルイェール」と綴ってますが、実際の英語発音に合わせるなら「レベルイェル」とした方が近いです。

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また、このバーボンはローリング・ストーンズのキース・リチャーズが愛飲したバーボンとして知られています。確かにキースがレベルイェールを手に持つ写真が残されているものの、どう考えても飲んだ量からしたらジャックダニエルズのほうが多い気がしません? キースはジャックダニエルズとレベルイェールのどちらが好みだったんでしょう? キースに詳しい方がいたら教えて頂きたいです。
そして更にはキース経由らしいですが、レベルイェールはビリー・アイドルのソング・タイトルにもなっています。ビリー本人が語るところによると、彼は或るイベントに出席した時、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ロン・ウッドらのローリングストーンズの面々が、レベルイェールと云うバーボンウィスキーをボトルからがぶ飲みしてるのを見て、よく知らないブランドだったけれど、その名前が妙に気に入って「Rebel Yell」の曲を書くことにしたのだとか。


そんな訳でとにかくロックな酒として語られるバーボンですが、どちらかというとソフトな傾向とされる小麦バーボンであり、味わい的には荒々しい闘鶏がモチーフのファイティングコックでもラッパ飲みしてくれたほうがよっぽどロックじゃないかなという気がします(笑)。まあ、完全に個人的偏見ですけれど…。

さて、今回レヴューするレベルイェール・スモールバッチ・リザーヴは、2008年から導入されていた「レベル・リザーヴ」の後継として、2015年にパッケージと名前をリニューアルして発売された製品です。
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近年、ラクスコはレベルイェールを大きなブランドへ成長させる努力をしているように見えます。それは大幅なラインナップの拡大や、僅か数年でパッケージをマイナーチェンジする施策に見て取れました。製品の種類が増えるのは構わないのですが、ラベルのデザインをコロコロ変えるのは個人的には好ましいと感じません。何か腰の座ってないブランドとの印象を持ってしまいます。このスモールバッチ・リザーヴにしても、現在終売なのかどうかもよく判らないのです。2019年の4月にも新デザインとなり、それに合わせて100プルーフのヴァージョンが登場しました。もしかすると、そちらがスモールバッチ・リザーヴの後継なのかも知れませんね。
全てではないですが、一応ざっくりここ数年のレベルイェールを紹介しておくと、先ずエントリークラスのスタンダードの他、ハイプルーフ版となるスモールバッチ・リザーヴ、スモールバッチ・ライ(MGPソース)、ハニーとチェリーのフレイヴァーの物、バーボンとライのブレンドであるアメリカンウィスキー、10年熟成のシングルバレル等がありました。下画像の上段が旧ラベル、下段がリニューアル後のラベルです(シングルバレルは別枠)。
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話をスモールバッチ・リザーヴに戻しましょう。長い間NDPだったラクスコは、2018年4月に自社のラックス・ロウ蒸留所を完成させましたが、それまではヘヴンヒルから原酒を調達していた(販売数の確保のため今でも調達してると思われます)ので、この製品の中身はヘヴンヒルのバーンハイム蒸留所で造られた小麦レシピのバーボンです。つまり、元ネタとしてはヘヴンヒルのオールドフィッツジェラルドやラーセニーと同じな訳です。マッシュビルは68%コーン/20%ウィート/12%モルテッドバーリー、樽の焦がし具合は#3チャーとされ、熟成年数はNASですがスタンダードなレベルイェールの4年よりも少し熟成年数が長いのではないかと考えられています。では、そろそろレベルイェール・スモールバッチ・リザーヴを注ぐとしましょう。

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REBEL YELL Small Batch Reserve 90.6 Proof
推定2017年前後ボトリング。グレイン、ウッド、少ないキャラメル、チェリー、ペッパー、微かなシナモン。かなりサイレントなアロマ。香りから想像するよりは濃い味。水っぽい口当たり。余韻はあっさり短く、地味なスパイス感と辛み。パレートがハイライト。
Rating:80/100

Thought:典型的なバーボンの香りはしますが、正直言って物足りない味わいでした。スタンダードより2年程度熟成年数が長いのではないかと予想していたのですが、どうかなあ、もっと若そうな…。もしくは、かなり質の低い樽から引き出されたと言うか、適切な熟成がなされていない小麦バーボンのような気がします。これを飲んだ個人的感想としては、若い小麦バーボンを飲むならコーン比率の高い普通のバーボンを飲むほうが甘さを感じられて美味しいと思ってしまいました。

Value:レベルイェール・スモールバッチ・リザーヴは、スモールバッチを名乗るとは言え、アメリカでの小売価格は25ドル前後だったので、所謂「ボトムシェルフ」バーボンです。そう割りきれば味のマイナス点は気にならないでしょう。つまり「スモールバッチ」と言う言葉から過度な期待をしなければ十分美味しいのです。しかし、日本での販売価格は概ね3000円代。それなら個人的には、同じ小麦バーボン縛りで言えばメーカーズマークの方が余韻に宜しくない辛さを感じないのでオススメです。よっぽどレベルイェールの名前やロックなイメージが気に入っているのならば話は別ですが…。

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オールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンは、簡単に言うとオールド・フィッツジェラルド・ブランドの中のエントリー・クラス・バーボンで、1960年代に時代に迎合してボンデッドの低プルーフ版として発売され始めました。プライムの発売経緯には興味深いエピソードがありますが、その紹介の前に、ウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)の代表的ブランドであり、バーボン業界において真に象徴的な名前となっているオールド・フィッツジェラルドの歴史を少し振り返ってみたいと思います。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、そもそもウィスコンシン州ミルウォーキーに本拠を置く国際的なワインとスピリッツのディーラーであるソロモン・チャールズ・ハーブストが1886年に商標登録した「Jno. E. Fitzgerald」が始まりです。それはハーブストが率いたS・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが使用する幾つかのブランドのうちの1つでした。オールド・フィッツジェラルドの物語は、先ずはハーブストその人から語らなければならないでしょう。

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ソロモン・ハーブストは1842年にプロイセンのオストロノで生まれました。彼は地元の学校で教育を受けたあと故郷を離れ、1859年に16歳でアメリカへと渡ります。当時多くのジャーマンの若者はその段階で移住することで、基礎訓練中の新兵の死亡率が高いプロイセン軍の徴兵を避けたのだそう。ハーブストはジャーマン人口が多いミルウォーキーに直接向かったようで、それは言葉の通じ易さのためと見られます。若い頃の彼はブリキ職人として働いていました。また、後に成功することになるウィスキー・トレードへの参入前は、ミシガン州マスキーガンで兄弟のファビアンやウィリアムと卸売および小売の材木業に携わっていたようです。
1868年になるとハーブストはチェスナット・アヴェニュー401-403にあったエガート&ハーブストという酒類卸売会社のパートナーとしてミルウォーキーのリカー・ビジネス・シーンに登場しました。理由は分かりませんが、1870年までに相方のエガートはその事業から離脱し、ハーブストが単独所有者となり、社名にソロモン・チャールズ・ハーブストの名を刻みます。それは彼の成功への始まりの一歩でした。
この同時期に、ソロモンはウィスコンシン生まれで7歳年下のエマと結婚しています。彼女の両親は現在チェコ共和国の一地域になっているボヘミアからの移民でした。1880年の国勢調査によると、夫婦にはカーシー、デラ、ヘレンの三人娘がおり、それとハーブストの事業の順調さを示すように家庭には2人の使用人がいたようです。

ハーブストは同時代の卸売業者がそうであったようにレクティファイヤーとして、つまり原酒を余所の蒸留所から調達してブレンドし、所望の風味に整えて販売する、今で言うNDP(非蒸留業者)としてキャリアを始めました。初期の頃は、卸しでは自らの名前がコバルトブルーでステンシルされたストーンウェア・ジャグを、小売では名前がエンボス加工されたガラス瓶を使用していたようです。また、アンバーやクリアのフラスクボトルもありました。後年のものも含みますが、S.C.ハーブスト・インポーティング・カンパニーが販売していたブランドにはフィッツジェラルド以外では、「ベンソン・クリーク」、「同ライ」、「チャンセラー・クラブ」、「クリフトン・スプリングス」、「オールド・ジャッジ」、「オールド・ジョン」等があります。
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では、フィッツジェラルド・ブランドについて見て行きましょう。先に述べたように、初めは「ジョン・E・フィッツジェラルド」というブランド名でした。ハーブストがどのようにブランドを作成したかについては明確に分かりません。いくつかの伝説はありますが、それらは主にマーケティングの話に基づいています。おそらくハーブストはマーケティングの才に長けていたし、そのためのお金も持っていました。彼がブランド作成と共に作ったストーリーでよく知られるのは、フィッツジェラルド・ブランドは「1870年から鉄道と蒸気船のライン、プライヴェート・クラブにのみ販売する高級なバーボンとして製造された」といった話です。それはフィクションでしたが、ブランド名の由来がジョン・E・フィッツジェラルドの名前からなのは確かでした。しかし、同じ姓名の人物が複数おり、彼らが一人の人間なのか別の人間なのか明らかにするだけの証拠に欠けています。実はバーボンの歴史家にとって「ジョン・E・フィッツジェラルドは誰(何者)なのか?」は意外と簡単ではない問いなのです。なのでこの件は後回しにして、ある程度わかっているフィッツジェラルド・ブランドの情報を書き出してみます。

ハーブストはケンタッキー州の蒸留所からバレルを購入し、おそらくはブレンディングしてフィッツジェラルド・バーボンを造りました。1880年代後半から1896年頃までは主にオールド・テイラー蒸留所(当時RD#53、禁酒法解禁後にDSP-19となった)、またその他の蒸留所と契約してブランドを製造していたと見られます。ブランドにはバーボンとライウィスキーがありました。オールド・テイラー蒸留所のE.H.テイラーはハーブストにいくらかの未払金があって、この借金を支払うためにハーブストと契約を結んだのだとか。
ハーブストのリカー・トレードが成長するにつれて、彼は競合他社の存在や利用可能なウィスキーの高騰などから供給源の枯渇に直面し、レクティファイングのための十分な原酒を入手するのが難しくなったと思われます。そこで多くの成功した卸売業者がしたのと同様に、ハーブストも保証された安定的供給を確保するため、1900年頃、フランクフォート郊外のベンソン・クリークにある蒸留所を購入しました。地元の人々はそのプラントを代表的ブランドの名前からオールド・ジャッジ蒸留所(第7地区 RD#11)と呼んでいました。ハーブストはこの施設の運営のため、1901年にマネージャー兼マスターディスティラーとして、ケンタッキーの名高いウィスキー製造家族であるビクスラー家の一員ジェリー・ビクスラーを雇っています。禁酒法によって蒸留所が閉鎖されるまでの間、ここでフィッツジェラルドやオールド・ジャッジを含む全てのバーボンとライウィスキーが造られました。
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自らのプラントを所有することになったハーブストは巧妙な神話を紡ぎ出します。彼は蒸留所に自分の名前を付けてもケンタッキー州ではあまり反応がよくないと思ったのか、蒸留所はジョン・E・フィッツジェラルドという名のアイルランド人のディスティラーによって建てられたとマーケティングで語りました。実際の創設者はマンリウス・T・ミッチェルという人物で、1890年にオールドジャッジ蒸留所をマーサー郡バーギンからフランクフォートに移転する計画があり、蒸留所はおそらく1892年頃に建てられたと思われます。よくオールド・フィッツジェラルドのマーケティングで語られる1870年云々というのは、ハーブストが卸売業を始めた年でしょう。それと、どうもハーブストが購入する前の1899年に、既に蒸留所は他の所有者の手に渡っていたようで、もしかするとハーブストはそちらから購入したのかも知れません。それはともかく、ハーブストはもともと蒸留所の購入前からDBA(Doing Business Asの略)でジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所の名は使用していました。フランクフォートの蒸留所を購入したことで、1905年には「オールド・フィッツジェラルド」のブランド名を再登録します。そしてプラントの規模と能力を大幅に拡大、郡でも最大の蒸留所の1つとなり、ハーブストはそこをオールド・フィッツジェラルド蒸留所と称しました。

蒸留所の印象的な大きさにも拘わらず、ハーブストは広告で「昔ながら」の製法を強調しました。彼は特にポットスティルに強いコダワリがあったようで、本当かどうか分かりませんが、1913年の広告ではオールド・フィッツジェラルドとオールド・ジャッジをアメリカで製造されている最後の「オールド・ファッションド・カッパー・ポット・ディスティルド・ウィスキーズ」であると宣伝しています。また、以前ハーブストがオールド・テイラー蒸留所と契約を結んだのは、テイラーがポットスティルを使用していたからとされ、そもそもオールド・ジャッジ蒸留所を購入した理由もポットスティルが決め手だったとされます。ガラス瓶が安価になり始めた頃、企業は各々自社製品のボトルに特徴的なラベルを使い出し、ハーブストもオールド・フィッツジェラルドのラベルを作成すると、いつの頃からか(1910年代?)ラベルにポットスティルの図柄を入れました。店頭で販売されるクォートとフラスク・サイズのボトルに付けられたラベルは非常に有名になり、オールド・フィッツジェラルドの象徴的なラベル・デザインとして後世でも殆ど変わりません。
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ハーブストはフィッツジェラルド以外にも前記のブランドをリリースしましたが、言うまでもなく旗艦ブランドはオールド・フィッツジェラルドでした。おそらくは当初のコンセプト通り、蒸気船や列車の食堂で供されたり、高級なジェントルマンズ・クラブで人気があったのでしょう。ハーブストはウィスキーの流通を助けるため、1901年に中心地となるシカゴにオフィスを開設し、それを数十年間維持しました。他にもニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ジェノアにオフィスを構えていたとされ、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスでオールド・フィッツジェラルド・バーボンを販売していたとか。
ビジネスの成功によりハーブストの名声が地元で高まるにつれ、彼は他分野にも進出しました。1904年には地元の金融機関であるミルウォーキー・インヴェストメント・カンパニーの投資家、設立者、副社長になり、その後も300万ドル以上の資産を持つシチズンズ・トラスト・カンパニーの設立を支援しました。
ハーブストには事業を継ぐ息子がいなかったため、年老いてもなお自分の主要なウィスキー蒸留および流通事業を管理し続けたと言います。禁酒法によってケンタッキーの蒸留所とミルウォーキーの酒類販売店の両方が閉鎖された時、彼は既に70代になっていました。そこでハーブストは、禁酒法期間中に販売できる薬用ウィスキー用として、オールド・フィッツジェラルドのブランド権をW・L・ウェラーに売却します。おかげでブランド名は存続し、大衆の酒飲みからの認知もあったでしょう。そして禁酒法解禁後にオールド・フィッツジェラルドはスティッツェル=ウェラー蒸留所を牽引するブランドとなって行きます。
ソロモン・チャールズ・ハーブストは1941年2月に98歳で天寿を全うし、3人の娘とその家族に見守られ、ミルウォーキーズ・グリーンウッド・セメテリーに埋葬されました。彼の死に先行すること31年前に亡くなっていた妻エマの横に。

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さて、ハーブスト時代のオールドフィッツが終わったところで、後回しにしていたジョン・E・フィッツジェラルドについて述べたいと思います。彼について複数の候補がいることは先に触れましたが、現在もっとも広く受け入れられ支持されている説は、ヘヴンヒルからリリースされている現代の小麦バーボン「ラーセニー」ブランドの元にもなっているエピソードです。その民間伝承のように知られる話は語り手によって語句や内容に多少のヴァリアントがありますが、概ね以下のようなものでした(少々、私の想像で補って脚色してます)。

…ハーブストの倉庫で働く従業員もしくは警備員に、味にうるさい熱烈な大酒飲みの男がいました。名前をフィッツジェラルドと言いました。彼は当時の多くの従業員のように、倉庫にいるあいだゴム製ホースまたは「ミュール」と呼ばれる器具を持ち歩きました。彼はバーボンの最高の樽を見つけると、栓を開け、ホースを差し込み、仕事中に勝手に飲みました。そうした樽が最終的にボトリング・エリアに到着すると、通常の樽より僅かに軽いのでした。フィッツジェラルドの鋭敏な嗅覚と所業を知っていた仲間の従業員達は、それらの樽を「フィッツジェラルズ」と冗談で呼びました。いざ販売されたウィスキーは非常に良いと評判となり、事情を伝え聞いたハーブストはフィッツジェラルドの名前のブランドを作ることにしました…

現実には、フィッツジェラルドは保税倉庫に配属された米国財務省のエージェントでした。当時、ウィスキー税は米国政府にとって重要な収入源であり、ウィスキーの倉庫は厳重に監視されていて、蒸留所には倉庫への全てのアクセスを制御する「政府の人」が敷地内にいました。ちゃんとに税金が支払われ、ウィスキーが政府の基準に適合しているか確認する彼らのみ、保税倉庫の鍵を持っていたのです。蒸留所のオーナーでさえ鍵を持っていませんでした。これは1897年のボンデッド・アクトの成立から1980年代初頭にシステムが変更されるまで続いています。上のエピソードで「警備員」と解釈されているのは、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っていたからでしょう。しかし、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っているのなら、彼は財務省のエージェントでなければなりませんでした。
ジョン・E・フィッツジェラルドは、ディスティラーでも蒸留所のオーナーでもありませんでしたが、たまたま倉庫の鍵を握る立場にあり、グッド・バレルの良き裁判官でもあり、大酒飲みでもあったがため、個人的な消費のために最高の樽を頻繁にタップしたと推測されます。彼が勝手にウィスキーを味わう時、ハーブストのような蒸留所のオーナーや蒸留業務を指揮するディスティラーは殆どの場合そこに立ち会えません。これは謂わば無法者の政府保安官による「窃盗」です。そこからラーセニー(窃盗もしくは窃盗罪の意)・バーボンの名前は付けられました。ウィスキーを盗むとは言え、フィッツジェラルドは嫌われ者とは思えず、おそらく愛すべきキャラクターだったのでしょう。だからこそ蒸留所の人々の間で彼の味覚は称賛され、バーボンの特に優れた樽をフィッツジェラルド・バレルと呼んだ、と。やがて内輪の冗談は、ハーブストがオールド・フィッツジェラルド・ブランドの架空のプロデューサーとしてフィッツジェラルドを選んだ時、神々しい輝きを放ち始め、以後のマーケティング・スキームの基盤としてその影響は現代まで及んでいるのでした。
この説は多分に伝説の提供といった感が強いですが、一般的に事実として受け入れられています。では、他のジョン・E・フィッツジェラルドの候補はどうなのでしょうか?

一人は、上に述べたフィッツジェラルドと同一人物の可能性が高い男です。
1875年、大統領官邸にまで至る広範な汚職事件として悪名高いウィスキー・リング・スキャンダルの一環で、ミルウォーキーの歳入局のゲイジャー(計測係)が、ウィスコンシン州の不正な政府職員、蒸留業者、およびレクティファイヤーらと共に政府を詐取した陰謀の廉で逮捕されました。ゲイジャーの名前はジョン・E・フィッツジェラルドでした。一年後ワシントンにて他の二人のゲイジャー、一人のストアキーパー、四人のレクティファイアーと共に起訴されました。法廷で彼は、過去15年間ミルウォーキーに住んでおり、1869年9月から1875年5月まで米国政府のゲイジャーとして雇用されたと証言しています(他の証言では、樽が空になったのを確認する責務の「ダンパー」としてフィッツジェラルドが賄賂の交渉をしたと記述されました)。詳細は明かさなかったようですが流れとしては、蒸留業者は素知らぬふりをして税務報告よりも多くのウィスキーを作り、彼はそれを黙認することで口止め料の賄賂を掠め、それを共和党候補者に渡していたらしい。ゲイジャーの義務は倉庫の監督および樽の税印の修正や政府への申告書の提出などでした。おそらく職名からすると仕事としては、穀物の計量やマッシュビルの順守を監視し、樽への充填やバレル・ヘッドへのブランド情報の遂行の見守り、またバレル販売やボトリングのために樽が引き出された時それらの中身の残りを測定したのだと思います。ウィスキーを含む酒類のアルコール含有量を決定する責任者という説明もありました。
この男が「財務省のエージェント」と同一人物だとすると、この話が前半生、先述のエピソードが後半生ということになるでしょう。フィッツジェラルドが不名誉なスキャンダルの後にまたもや政府機関で働いたとは考えにくいとする意見があります。逆に政治家との繋がりが明白なのだからコネで再度就職したというのも有り得るとする見方もあります。前者も確かにそうだと頷けますが、フィッツジェラルドは調査への協力に対して免責を与えられたとかいう話も聞きますので、後者の可能性も捨てきれません。少なくとも彼の6年間のゲイジャー勤務時代(1869~1875年)には、ハーブストはまだ蒸留所の購入(1900年頃)をしていないので、この時代にフランクフォートの倉庫で「ラーセニー」エピソードが行われたのでないのは確実です。考えられるのは、ハーブストがミルウォーキーに保税倉庫を所有していた可能性。1870年代または80年代頃にはボンデッド・アクトは成立していませんでしたが、保税倉庫はありました。どうやらハーブストはミルウォーキーにブレンディング工場は所有していたらしいので、保税倉庫も所有していたのなら「窃盗」がこの時代に行われていてもおかしくはありません。ただし、この頃から保税倉庫はストアキーパーと呼ばれる政府の警備員の管理下にあり、その仕事は誰もがゲイジャーがいない状態で倉庫に立ち入らないようにすることだったと言います。となると、ゲイジャーが倉庫に入るにはストアキーパーに気づかれないようにする必要があります。ゲイジャーの男による味見のための窃盗が実際に行われていたのなら、ストアキーパーとの共謀だったのではないかとの指摘がありました。また、このフィッツジェラルドの裁判記録は倉庫へのアクセスを示すものではなく、様々な蒸留業者とレクティファイアーの間での税金の徴収のみを示しているそうです。そこにはハーブストの名も見られず…。つまり、ジョン・フィッツジェラルドが当時ミルウォーキーのゲイジャーだったという証拠はありますが、彼が実際にハーブストの倉庫で働いたという証拠はないのでした。しかし、同じミルウォーキーの同じ時代に酒に関わる二人のこと、フィッツジェラルドとハーブストが互いに顔見知り、或いは気の合う仲間だったというのは十分考えられるでしょう。ちなみに、この彼は1838年に生まれ、1914年に死亡、その死までミルウォーキーに留まったとされ、ミドルネームの「E」はエドモンドのようです。

では、次のもう一人。この人物の詳細は不明ですが、ミルウォーキーの国勢調査の記録から、同じ時期にその都市にボイラーメーカーであるジョン・E・フィッツジェラルドがいたことが判明しています(1910年の国勢調査で72歳)。或る慎重な歴史家はこの彼を、ハーブストのメンテナンスマンとして働いていたのではないかと思う、と述べていました。
続けて、もう一人。この人物のミドルネームの頭文字は不明ですが、エドモンドとエドムンドという名前の家族がいました。このジョン・フィッツジェラルドは1896年に63歳で亡くなり、生涯を船長と造船者として過ごしました。彼は老年期にはドライドックを設立し、そこは息子のウィリアム・E・フィッツジェラルドが不慮の死で1901年に亡くなるまで運営していたそうです。ウィリアムには造船業界に入らなかった息子がいましたが、家族経営の会社は彼のために船を造ってエドムンド・フィッツジェラルドと名付けたとか。このウィスキーや蒸留業とは無関係のフィッツジェラルドが取り上げられた理由は、実はハーブストがヨットに意欲的だったからでした。彼は年次開催されたミルウォーキーとシカゴ間のヨット・レースで授与されるS.C.ハーブスト・トロフィーを創設したと言います。これは或るフィッツジェラルド研究に熱心な方の情報ですが、なんと上記の「ボイラーメーカー」を取り上げた歴史家も、1889年の市の商工人名簿に蒸気船の運送会社の副社長としてジョン・E・フィッツジェラルドがリストされていると指摘しています。こうしたヨットへのハーブストの親和性や蒸気船とジョン・E・フィッツジェラルドの関係は、オールド・フィッツジェラルドのあの有名なマーケティングの文言(鉄道やらリヴァーボートやら蒸気船の顧客専用に特別に造られたと云うあれ)を連想させるのに十分でしょう。

最後の一人はディスティラーです。有名なサム・K・セシルの本のジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所(オールド・ジャッジ蒸留所のこと)の説明にはこう書かれています。
「この工場はフランクフォート郊外のベンソンクリークにあり、ジョン・フィッツジェラルドによって建設された。ブランドにはオールド・フィッツジェラルド、オールド・ジャッジ、ベンソン・スプリングスがあり、ミルウォーキーのS.C.ハーブストにより配給された。1900年頃、フィッツジェラルドはブランドをハーブストに売却し、インディアナ州ハモンドに移り、そこで別の蒸留所の監督になった。」
どうもこの書かれ方だと、これまでの文面から判る通り、私の理解の真逆になっています。即ち、ハーブストはただのブランド販売代理店の経営者であって創造者ではなく後継者であり、フィッツジェラルド・ブランドはジョン・フィッツジェラルドというディスティラーが造った、と。どうやらセシルのこの説はWhit Coyteのリサーチを基にしているようで、個人的には信憑性に欠く気がします。しかし、フィッツジェラルド蒸留者説は、どうやら無根拠ではありませんでした。他の歴史家によると、ミルウォーキーからそう遠くない場所で同時代に蒸留事業に携わっていたジョン・E・フィッツジェラルドがいたと言うのです。そのフィッツジェラルドはシカゴ・インター・オーシャンによれば、「米国で最も優れた蒸留者の一人と見做される」プラント・マネージャーで、1901年にシカゴ近郊のハモンド蒸留所の秘書兼会計に任命されました。しかもそれ以前には、ウィスキー・トラストによるダイナマイト爆破事件で有名なあのシューフェルト蒸留所で17か18歳の頃からディスティラーとしてキャリアを始めたとか。このフィッツジェラルドは1865年生まれとされます。なのでゲイジャーと同一人物でないのは明らかとは言え、ハーブストと無関係とは言い切れないでしょう。ハーブストは自らの卸売事業のための供給を主にケンタッキー州の蒸留所と契約して確保していたとされますが、当時最も生産性の高い蒸留所はイリノイ州にあり、その中でトラストと提携していなかったシューフェルト蒸留所は、ハーブストのサプライヤーの一つだったのかも知れません。もしそうであれば、ハーブストが上手くフィッツジェラルドの高名な名前を利用した可能性もある気がします。或いは、ハーブストはシカゴにオフィスを構えていたので、知り合いだったのでは?

ここまで謎に満ちたミステリアスなジョン・E・フィッツジェラルドの候補を紹介して来ましたが、これらのフィッツジェラルドのうち2~3人が同じ人物だったなんてことは十分に考えられるでしょう。彼らが人生のキャリアに於いて転職を繰り返した同じ男性であるかどうかを決めるにはより多くの研究が求められます。一方で「ジョン・E・フィッツジェラルド」は非常に一般的なアイルランド系の名前でもありました。候補には加えませんでしたが、1880年代にボストンの内国歳入局の徴税係にジョン・E・フィッツジェラルドという男がいたそうです。同じ時代で同じ税収に関わる仕事かつ同じ名前、つまりはありがちな名前だった、と。もしかすると1800年代後半に、バーボンにアイリッシュ・ネームを付けることで、一部のエスニック・グループにアピールすることは、悪くないマーケティング方法だったのかも。孰れにせよ、どれもが憶測です。ジョン・E・フィッツジェラルドが何者であるかの詳細は、更なる新しい資料の発見を俟たねばなりません。
こうしたフィッツジェラルドについての謎、錯綜、様々な憶説の飛び交う混沌とした状況は、ひとえにハーブストのマーケティングのせいだと思います。ハーブスト(或いはその担当者)は、一つの真実を保ちながら壮大な脚色をして物語を紡ぐ小説や映画のように、またはそれらに登場する一人の人物のキャラクターが実在する複数の人間のエピソードに基づいて構成されたりするように、フィッツジェラルドの神話を創造したのではないでしょうか? 彼は自分の晩年に、ブランドを酒豪のフィッツジェラルドと名付けることは、意地悪で可笑しな内輪のジョーク(悪ふざけ?)であったことを明らかにしたと言われています。我々が捏造された架空の起源に翻弄されたり、謎解きに右往左往する姿を見たら、ハーブストは天国でくすくす笑っているのかもしれません。 

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さて、ここからはハーブストから新しい所有者に切り替わったオールド・フィッツジェラルドを見て行きます。
禁酒法期間中の1922~25年にかけて、ジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルはハーブストからオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを購入し、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所が禁酒法下でも政府に認められた薬用ウィスキーとして販売するようになりました。既存の在庫は禁酒法期間中に枯渇し、1928年、政府が薬用の在庫の補填に対してはウィスキーの製造を許可したため、アーサー・フィリップ・スティッツェルとパピー・ヴァン・ウィンクルはスティッツェル家に伝わる旧いレシピを使用してウィスキーを造ることにします。そのレシピとは、フレイヴァー・グレインにライ麦を使わず代わりに小麦を用いるものでした。彼らがこのレシピに決めた理由は、他のレシピと較べ短い熟成年数でより良い風味が得られると感じたこと、そして既存の在庫が減少するにつれてウィスキーが早急に必要となることを分かっていたからです。オールド・フィッツジェラルドが、後年「ウィスパー・オブ・ウィート(小麦の囁き)」と説明されることになるウィーテッド・バーボン、或いはウィーターと呼ばれるグレイン・レシピに変わったのはこの時からで、以前のオールドジャッジやテイラー産およびその他のものは恐らくスタンダード・ライ・レシピ・バーボン・マッシュビルを使用して造られていました。小麦バーボンは適切に熟成すると、伝統的なライ麦を含むバーボンよりも丸くて柔らかいテクスチャーを示し、スパイス・ノートの少ないより甘いプロファイルをバーボンに与える傾向があると言います。余談ですが、面白いことに上のパピーらの見解とは逆に、現代の考え方では熟成年数の若い小麦バーボンはあまり味が良くないと言うか、小麦はライ麦より穏やかな熟成を見せるので、小麦バーボンがライウィスキーまたはライ・レシピ・バーボンと同等の熟成感を得るためには樽の中でより多くの時間が必要とされているそうな。

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(我々は優良なバーボンを造り、できれば利益を上げる、必要であれば損失を出してでも、常に優良なバーボンを造る)

禁酒法が解禁された1933年、W.L.ウェラー・アンド・サンズとA.Ph.スティッツェル蒸留所は正式に会社として合併し、老朽化したスティッツェル蒸留所に代わる新しい生産工場をルイヴィル近郊のシャイヴリーに建設します。それがスティッツェル=ウェラー蒸留所(DSP-KY-16)であり、1935年のダービー・デイにオープンしました。そこではジュリアン・パピー・ヴァン・ウィンクルの指揮の下、オールド・フィッツジェラルドは造られました。そのため、この先のオールド・フィッツジェラルドのブランド・ステータスは、ジョン・E・フィッツジェラルドでもハーブストでもなく、パピーと関連付けられて行きます。
スティッツェル=ウェラーは比較的小規模な独立所有の蒸留所であり、今で言うところのクラフト蒸留所に近い蒸留所でした。パピーが執った方法論は昔ながらの製法に依るものと言ってよいでしょう。それは品質への妥協のなさを意味します。ライ麦の代わりに小麦を使うことは割高でしたし、油性の口当たりをもたらすマッシュのためのトウモロコシの挽き方もより高価なプロセスでした。また、樽材には通常より厚いオークのステイヴを使用していたと言います。そしてパピーは恐らくウィスキーの工程全般に於いてプルーフの制御に重きを置きました。一説には50年代頃は、天然のバーボンの風味を維持するため、コラムスティルでの第一蒸留を85プルーフ、ポットスティル・ダブラーでの第二蒸留を117プルーフ、バレル・エントリーを103プルーフで実行したとか。これらは現代の水準と較べて驚くほど低い数値です。
蒸留所のドアの上の看板にはこう書かれていました。「化学者の立ち入りを禁ず。自然およびマスター・ディスティラーの昔かたぎの〈ノウハウ〉がここでの仕事を成し遂げる…ここは蒸留所であって、ウィスキー工場ではない」と。スティッツェル=ウェラーの初代マスターディスティラーであるウィル・"ボス"・マッギルは、テクノロジーではなく人間の感覚こそが良質なウイスキーを作ると考えました。この思想はスティッツェル=ウェラーの歴代マスターディスティラー全員に受け継がれ、施設の最後のマスターディスティラーであるエド・フットは業界に於ける蒸留の自動化を嘆いたと言います。彼らは皆、自らの口蓋と鼻を使って良質なウィスキーを造り上げたのであって、決してコンピューターがそれを造り出したのではなかったのです。

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(Time Magazine May 21 1956)

パピーはもともとW.L.ウェラー社の優秀なセールスマンだったので、マーケティングを怠ることもありませんでした。1950年代、彼は新聞や雑誌にシリーズ物の広告を掲載しています。そこでは、親密な口調で民俗的物語を訓話風にまとめてオールドフィッツを飲むべきだと語ったり、暖炉横でのゆったりしたお喋りのようなスタイルで自社の伝統的な製法を説明したりしました。こうしたパピーのユニークな個性を反映した広告形態は、おそらくオールド・フィッツジェラルドの評判を高めるのに役立ったことでしょう。

スティッツェル=ウェラーでパピーは幾つかのブランドを作りましたが、旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドが最も人気がありました。パピーの統制下ではオールド・フィッツジェラルドは常にボトルド・イン・ボンド規格のバーボンでした。熟成年数は4〜7年とされます。その後、8年熟成のヴァージョンとして「ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」が追加されました。8年は、保税期間のため政府に税金を支払う前に熟成させることが出来る当時の最大年数だったからです。1958年以降、保税期間が8年から20年に延長されたことで、ブランドには長期熟成ヴァージョンが更に加わり、それらは「ヴェリー・エクストラ・オールド・フィッツジェラルド」、「ヴェリー・ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」のラベルにて限られた数量でリリースされました。
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「オールド・フィッツジェラルド・プライム」は、パピー・ヴァン・ウィンクルがボトリングを拒否したバーボンです。冒頭に述べたように、プライム・バーボンは従来までのオールドフィッツの低プルーフ版な訳ですが、パピーはオールド・フィッツジェラルドがボンデッド・バーボンとしてのみ販売されるべきとの信念をもっており、人々がより低いプルーフを望むなら自分で水を足せばよいと考えていました。消費者が水にお金を払うのは馬鹿げていると広告で述べたそうです。しかし、パピーが引退した後、会社を引き継いだ息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアは、コストの削減や利益の増大にプルーフを下げている他社のブランドと競合するため、オールド・フィッツジェラルドでもロウワー・プルーフ・ヴァージョンの発売を求めていた販売員からの圧力に屈し、1964年にプライムは作成されました。ジュリアン・ジュニアは後に8年熟成で90プルーフの「オールド・フィッツジェラルズ1849」も導入しています。プライムは発売当初から数年間は86.8プルーフの製品で、数年後に86プルーフに落ち着きました。後年、ユナイテッド・ディスティラーズがブランドを所有した時、彼らはケンタッキー州では86プルーフ・ヴァージョンを作り続けましたが、ケンタッキー州以外の市場ではプルーフを80に下げました。更に後年、ブランドがヘヴンヒルに渡った時にはケンタッキー州でも80プルーフになります。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、長い間プレミアム・バーボンとして高い評価を得ていました。「もし君がバーボン飲みでないのなら、その理由は一つ、オールドフィッツを味わったことがないからだ」と堂々と宣言する1970年の広告もありました。控え目に言っても、ジュリアン・P・"パピー"・ヴァン・ウィンクル・シニアはアメリカン・ウィスキー産業の巨人でしょう。彼はバーボンが華やかりし時代の最も裕福な蒸留所オーナーでもなければ、ディスティラーでもなかったかも知れませんが、多くの課題に直面しても偉大なる指揮者として自分の会社と自らのバーボンの誠実性を維持し、彼の会社を統合しようと目論む巨大会社のウィスキー独占と激しく戦いました。残念なことに、1965年のジュリアン・シニアの死後、ジュリアン・ジュニアは会社を維持できませんでした。彼の社長としての在職期間はウィスキーの販売が減少し、ファーンズリー(S-Wの共同経営者)とスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、1972年、アート・コレクターとしても有名な億万長者の実業家ノートン・サイモンのコングロマリット(ノートン・サイモン・インコーポレイテッド)への売却を余儀なくされたのです。それでもジュリアン・ジュニアは業界に留まり、古巣のスティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利を契約に残したことで、禁酒法時代のブランドだった「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」を復活させ、その事業はジュリアン・ジュニアが1981年に亡くなった後も息子のジュリアン・P・ヴァン・ウィンクル3世に引き継がれたのですが、これはまた別の話。

1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所がノートン・サイモン社に売却されると、その名称は主力ブランドと同じオールド・フィッツジェラルド蒸留所に変更されました(*)。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。サマセットはジョニー・ウォーカー・ブランドの販売権を有していました。これが伏線となって、1984年、ジョニー・ウォーカーを所有していたディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収することでジョニーウォーカーの流通を管理します。その結果としてオールド・フィッツジェラルドも移行しました。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。この所有権の変更時に蒸留所の名称はスティッツェル=ウェラー蒸留所へと戻されました。
ユナイテッド・ディスティラーズはアメリカンウィスキーの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルに新しく建設したバーンハイム蒸留所に生産ラインを移管、以後オールド・フィッツジェラルドはそこで製造されて行きます。スティッツェル=ウェラーの最後のマスター・ディスティラーであるエド・フットは、そのままバーンハイムで同職に就き仕事を続けました。この頃、UD社はバーボン・ヘリテージ・コレクションの一つとして「ヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年」を発売しています。
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蒸留所の親会社はM&Aの末、巨大企業ディアジオを形成し、同社はアメリカンウィスキーの資産のうちIWハーパーとジョージディッケルを残して、それ以外のブランドの売却を決定。1999年、バーズタウンにあった自社の蒸留所を火災で消失していたヘヴンヒルは新しい蒸留施設を求めていたので、ディアジオはヘヴンヒルにバーンハイム蒸留所と共にオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックの一部を売却しました。それ以来、今日までオールド・フィッツジェラルドはヘヴンヒルが所有しています。
ヘヴンヒルではブランド取得後、かなりの低価格で100プルーフのボトルド・イン・ボンドと80プルーフのプライム・バーボンが発売されていました。所謂「ボトムシェルフ」というやつです。オールド・フィッツジェラルズ1849もありましたし、販売量の少ないヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年も継承されていました。アメリカに於けるプレミアム・バーボンの隆盛を背景に、2012年9月、ヘヴンヒルはオールド・フィッツジェラルドの延長としてラーセニーを市場に導入します。その影響で、次第にオールド・フィッツジェラルドのラインナップは縮小され、2015年前後には終売の情報が流れました。実際、VSOFはギフトショップのみの販売となりそのあと製造中止、BIBも配布地域を減らして行きそのあと製造中止となったようですし、OF1849も市場から消えています。ただし、プライムは今現在海外でも日本でもネットで購入できます。しかし、これが単なる在庫なのか製造が続いているのかよく判りません。それとは別に2015年には「ジョン・E・フィッツジェラルド・ヴェリー・スペシャル・リザーヴ20年」という限定リリースもありました(375mlボトルで約300ドル)。これはその昔、ヘヴンヒルがオールドフィッツのブランド権を買収した時に、一緒に購入したスティッツェル=ウェラーのバレルを、或る時から熟成しないコンテナーに移して秘蔵していたものです。また最近の2018年になって、毎年春と秋の2回リリースされる限定版「オールド・フィッツジェラルド・ボトルド・イン・ボンド」が導入されました。50年代に販売されていたダイヤモンド・デカンターを復刻した華麗なデザインが人気を博しています。
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では、そろそろ今回レヴューするオールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンを注ぐとしましょう。

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Old Fitzgerald Prime Bourbon 80 Proof
推定2000年前後ボトリング。オレンジぽいブラウン色。アップルワイン、軽いヴァニラ、焦樽、アプリコットジャム、ラムレーズン、カカオ、サイダー。水っぽくも柔らかい口当たりでヒート感は殆どない。味わいはやや酸味より。余韻は短くウッディなスパイスとピーナッツ。
Rating:82/100

Thought:今回のレヴューで開封したのは、UPCコードからするとユナイテッド・ディスティラーズが販売していた製品もしくはヘヴンヒルへ移行した初期の物と思われます。一応カテゴリーをヘヴンヒルにしましたが、推定ボトリング年代が正しいとすると、この時代のプライムの熟成年数はNASながら多分4年なので、本ボトルはヘヴンヒルが所有する前のニュー・バーンハイムで蒸留された原酒の可能性が高いです。
こうしたエントリークラスのバーボンから想像される味より、ダークなフルーツ感が強く、風味全体が複雑でした。ただし、画像では判らないかも知れませんが、こちら購入時から液体に曇りがありました。飲めないほどの劣化はしていませんでしたが、開封当初からかなり酸化の進んだ「香りの開いた」味わいに感じました。しかし、その割りに余韻はあまり芳醇でないと言うか、個人的にはもう少し甘みが欲しかったです。


*この頃からマッシュビルやイーストにも多少の変更があったようです。スティッツェル=ウェラーのマッシュビルは約70%コーン、20%ウィート、10%モルテッドバーリーとされていますが、蒸留所が売却された後には長年に渡って変更が加えられ、新所有者はお金を節約するためにモルテッドバーリーの量を減らし、トウモロコシの量を増やしたとか。これは澱粉を糖へ変換するために商業用酵素を追加することを意味しています。イーストに関しては、パピーの在任期間中はジャグ・イーストを用いていたそうですが、新しい所有者はドライ・イーストを使用するようになったそう。しかし、それでもスティッツェル=ウェラーは依然としてレヴェルの高い生産を維持したと言われています。
ちなみにバレル・エントリー・プルーフも年々上昇したようで、パピー初期は本文でも記したように103~107プルーフあたり、最終的には114プルーフになったと見られています。

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