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ピュア・ケンタッキーXOはケンタッキー州バーズタウンのウィレット蒸留所(KBD)で製造されているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つのうちの一つです。その他の三つはノアーズ・ミル、ローワンズ・クリーク、ケンタッキー・ヴィンテージとなっています。価格から言うと、この中でピュア・ケンタッキーXOは下から二番目の位置付け。コレクションの成立はおそらく90年代後半とみられ、その名称はジムビームのスモールバッチ・コレクションを意識したのでしょうか。しかし、同じスモールバッチでもその生産量には余りにも大きな違いがあります。スモールバッチとは一回のバッチングに使用するバレルの数が少ないことを意味する業界用語ですが、業界最大手のジムビームは300~350樽程度でのバッチング、小さなクラフト蒸留所のウィレットは概ね20樽程度のバッチングのようなので、実際のところウィレット製品はヴェリー・スモールバッチとでも言った方が分かり易い。猫も杓子もスモールバッチを名乗る昨今、スモールバッチという言葉は既に本来の意義を失って形骸化し、ただのマーケティング用語に成り下がったように見えなくもないです。大事なのはスモールバッチかどうかではなく、実際に飲んでみて美味しいと思うかどうか。
まあ、それは偖て措き、ここらでピュア・ケンタッキーXOの中身について触れたいところなのですが、実は日本でも海外でもPKXOに関する情報は少なく明確なことが分かりません。その名称のXOは通常「Xtra(Extra) Old」の略なので、おそらくケンタッキー産の長期熟成を経た格別な原酒をボトリングするイメージがブランドの根底にあると思います。ピュア・ケンタッキーXOは基本的にNASではありますが、ボトルのバックラベルには「少なくとも12年熟成、もしくはもっと」との文言がある時代がありました。
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日本では今でも多くの酒販店の商品紹介欄に「最低12年熟成」と書かれていることが多く、これはそのバックラベルを根拠としての記述でしょう。しかし、このバックラベルは2000年代流通の物には貼ってあったかも知れませんが、2010~2012年あたりに当該の文言は削除されたか、もしくはバックラベル自体が貼られなくなったのではないかと思います。熟成年数の声明(エイジ・ステイトメント)がないということは、蒸留所の都合(所有するバレルの在庫状況や市場の需要と供給のバランス等)で、ブレンドに使うバレル選択が熟成年数に縛られず自由に出来ることを意味します。それまで低迷していたアメリカにおけるバーボンの需要は2000年以降徐々に増え出し、2010年以降には爆発的な伸びを見せました。そのため旧来まであったエイジ・ステイトメントがなくなる銘柄が増えたり、もともとNASだったものは若い原酒をブレンドするようになりました。おそらくピュア・ケンタッキーXOもこうした流れと無関係ではいられなかったのだと思います。例えば、2006年頃の情報では1バッチ8~10樽ボトリングで最低11年~最高14年物の原酒をヴァッティング、2011年頃の情報では5〜12年熟成のバーボン樽のコレクション、と説明されていました。これらの説明の情報源は蒸留所の方からのものなので、当時としては正確だと思われます。また、海外のレヴュワーさんのPKXOの記事のコメント欄で、KBDは同じラベルの下で異なる市場向けに異なるブレンドをリリースしていると聞いた、と述べている方もいました(追記あり)。 その伝聞が正しいのかは判りませんが、そもそもNASであること、ヴェリー・スモールバッチであることを考慮すると、バッチ毎は言い過ぎとしても生産年の違いによる味の変動は少なからずあるのが普通でしょう。
ピュア・ケンタッキーXOは初期の頃から(多分)2000年代後半までは緑色のボトルに入れられていました。その後は透明のボトルに切り替わります。そして何年間かは上記のバックラベルは貼られていて、現在では貼られていません。個人的にはこうした外観の変更時に中身の大幅な変化があったのではと勘繰っているのですがどうでしょう? 飲み比べたことのある皆さんのご意見、コメントよりどしどしお寄せ下さい。
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ウィレット蒸留所は1980年代初頭に訳あって蒸留の停止を余儀なくされ、80年代中頃からはケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)というインディペンデント・ボトラーとして活動。そのため余所の蒸留所からニューメイクや熟成ウィスキーを仕入れ、同社のエイジング施設で熟成後に自ら販売したり、他のNDPのためにボトリングしたりしていました。そうした活動が実り、2012年1月、ウィレット蒸留所は再び蒸留を開始し、そして時を経た現在では自家蒸留原酒をボトリングし始めました。
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(画像提供K氏)
以前投稿したケンタッキー・ヴィンテージと同じようにウィレット原酒の物は瓶の形状が変わっています。画像をよくご確認下さい。
さて、今回も親愛なるバーボン仲間でありウィレット信者であるK氏にサンプルを提供して頂きました。お陰でバッチ違いの異なる原酒のちょっとした比較が可能となりました。この場を借りて、改めて画像や情報提供の協力にも感謝致します。ありがとうございました。
今回のレヴュー対象はウィレット原酒を使用した推定2018年ボトリングの物。おまけのサンプルはヘヴンヒル原酒と目される推定2014年ボトリングの物です。では、注いでみましょう。

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PURE KENTUCKY XO 107 Proof
Batch QBC No. 18-31
推定2018年ボトリング。熟したプラム、蜂蜜、シリアル、花、塩バター、キャラメル、ローストアーモンド、ダークチョコレート。ややオイリーな口当たり。味わいには煮たリンゴやグレープやアプリコットのようなフルーツぽさ、もしくはフルーツガムのような旨味がある。ジュースを飲み込んだ時のパンチや濃さは感じられるが、余韻は度数の割りにあっさりしていて少しドライ気味、と思いきやその後から濃厚でフルーティな戻り香がやってくる。一滴加水したほうが甘さが立った。
Rating:87/100

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PURE KENTUCKY XO 107 Proof
Batch QBC No. 14-12
推定2014年ボトリング。紅茶、グレイン、溶剤、ミルクチョコレート。口当たりは思うよりさらりとしている。パレートにややハーブっぽい苦味。余韻はオークのドライネスが支配的。あまりフルーツ感のないタイプで、香り以外に甘味が感じにくい。
Rating:82/100

Thought:先日飲んだ新しいケンタッキー・ヴィンテージが凄く美味しかったので、新しいピュア・ケンタッキーXOへの期待値は高まっていました。ところが107というハイ・プルーフから期待するほどのインパクトに欠ける印象でした(特に開封直後)。マッシュビルの違いなのかバレル・セレクトの違いなのか、はたまた加水具合のためなのか判りませんが、KVの方が香りと余韻により華やかさを感じたのです。それでも開封から二週間ほど経ち、残量が3分の2くらいになると徐々に旨味が増し、新ウィレット原酒らしい濃密なフルーツと豊かな穀物が感じ易くなりました。KVとの比較で言うと、PKXOの方が焦がしたオーク由来の風味が強いように感じます。
バッチ14-12は香りからして別の原酒なのは明らかでした。以前投稿したケンタッキー・ヴィンテージの味比べと同じような結果になっているのですが、どうしてもレヴェルが違い過ぎるので点数に差がつきます。通常のヘヴンヒル銘柄とは少し異なる紅茶やハーブのヒントがあるのは評価するとしても、どうも溶剤臭が強いのと甘味を欠く点が私の好みではありませんでした。
ところで、ウィレットの蒸留再開が2012年ということを勘案すると、「ヴィンテージ」や「XO」との名称が付いていても、おそらくKVやPKXOの熟成年数は4~6年程度と推測されます。この先、長期熟成樽が仕上がってくると、バッチングにそうした樽を使用し始めるのか、それとも販売価格とのバランスを考えて今のスペックをキープするのか? 成り行きを見守りつつ、続報を待つとしましょう。マッシュビルに関してもそのうち分かれば追記します(追記あり)。
ちなみに、同じウィレット蒸留所からリリースされているジョニードラム・プライヴェートストックも新原酒に切り替わっていますが、PKXOとJDPSの違いはチャコール・フィルターの有無だけで他は同じだそうです(もちろんPKXOがフィルターなし)。

Value:ピュア・ケンタッキーXOの日本での販売価格は概ね3800~4500円くらいのようです。ケンタッキー・ヴィンテージの相場が3500円程度なことを考えると、107プルーフのPKXOが最安値だとプラス300円足らずで購入出来ることになります。これはハイアー・プルーファー愛好家にとっては嬉しい選択肢でしょう。個人的には、度数が低い割りに満足感のあるケンタッキー・ヴィンテージの方を推しますが、パワーに勝るピュア・ケンタッキーも捨てがたいですね。いずれにせよ他社の同価格帯の競合製品と較べて頭ひとつ抜け出てる印象のウィレット原酒はオススメです。
私はピュア・ケンタッキーXOの青く縁取られたケンタッキー州の地図とブルーワックスのデザインがめちゃくちゃ好きなのですが、同じ感性の方います? これって大きな価値ですよね?


追記1:日本が誇るバーボンマニアの方から情報を頂きました。その方によると、PKXOの欧州向けと日本向けを比較したところ、バッチ違い程度の差異しかなかったとのことです。

追記2:マッシュビルはハイ・ライのレシピ(52% Corn / 38% Rye / 10% Malted barley)との情報が入りました。

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オールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンは、簡単に言うとオールド・フィッツジェラルド・ブランドの中のエントリー・クラス・バーボンで、1960年代に時代に迎合してボンデッドの低プルーフ版として発売され始めました。プライムの発売経緯には興味深いエピソードがありますが、その紹介の前に、ウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)の代表的ブランドであり、バーボン業界において真に象徴的な名前となっているオールド・フィッツジェラルドの歴史を少し振り返ってみたいと思います。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、そもそもウィスコンシン州ミルウォーキーに本拠を置く国際的なワインとスピリッツのディーラーであるソロモン・チャールズ・ハーブストが1886年に商標登録した「Jno. E. Fitzgerald」が始まりです。それはハーブストが率いたS・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが使用する幾つかのブランドのうちの1つでした。オールド・フィッツジェラルドの物語は、先ずはハーブストその人から語らなければならないでしょう。

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ソロモン・ハーブストは1842年にプロイセンのオストロノで生まれました。彼は地元の学校で教育を受けたあと故郷を離れ、1859年に16歳でアメリカへと渡ります。当時多くのジャーマンの若者はその段階で移住することで、基礎訓練中の新兵の死亡率が高いプロイセン軍の徴兵を避けたのだそう。ハーブストはジャーマン人口が多いミルウォーキーに直接向かったようで、それは言葉の通じ易さのためと見られます。若い頃の彼はブリキ職人として働いていました。また、後に成功することになるウィスキー・トレードへの参入前は、ミシガン州マスキーガンで兄弟のファビアンやウィリアムと卸売および小売の材木業に携わっていたようです。
1868年になるとハーブストはチェスナット・アヴェニュー401-403にあったエガート&ハーブストという酒類卸売会社のパートナーとしてミルウォーキーのリカー・ビジネス・シーンに登場しました。理由は分かりませんが、1870年までに相方のエガートはその事業から離脱し、ハーブストが単独所有者となり、社名にソロモン・チャールズ・ハーブストの名を刻みます。それは彼の成功への始まりの一歩でした。
この同時期に、ソロモンはウィスコンシン生まれで7歳年下のエマと結婚しています。彼女の両親は現在チェコ共和国の一地域になっているボヘミアからの移民でした。1880年の国勢調査によると、夫婦にはカーシー、デラ、ヘレンの三人娘がおり、それとハーブストの事業の順調さを示すように家庭には2人の使用人がいたようです。

ハーブストは同時代の卸売業者がそうであったようにレクティファイヤーとして、つまり原酒を余所の蒸留所から調達してブレンドし、所望の風味に整えて販売する、今で言うNDP(非蒸留業者)としてキャリアを始めました。初期の頃は、卸しでは自らの名前がコバルトブルーでステンシルされたストーンウェア・ジャグを、小売では名前がエンボス加工されたガラス瓶を使用していたようです。また、アンバーやクリアのフラスクボトルもありました。後年のものも含みますが、S・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが販売していたブランドにはフィッツジェラルド以外では、「ベンソン・クリーク」、「同ライ」、「チャンセラー・クラブ」、「クリフトン・スプリングス」、「オールドジャッジ」、「オールド・ジョン」等があります。
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では、フィッツジェラルド・ブランドについて見て行きましょう。先に述べたように、初めは「ジョン・E・フィッツジェラルド」というブランド名でした。ハーブストがどのようにブランドを作成したかについては明確に分かりません。いくつかの伝説はありますが、それらは主にマーケティングの話に基づいています。おそらくハーブストはマーケティングの才に長けていたし、そのためのお金も持っていました。彼がブランド作成と共に作ったストーリーでよく知られるのは、フィッツジェラルド・ブランドは「1870年から鉄道と蒸気船のライン、プライヴェート・クラブにのみ販売する高級なバーボンとして製造された」といった話です。それはフィクションでしたが、ブランド名の由来がジョン・E・フィッツジェラルドの名前からなのは確かでした。しかし、同じ姓名の人物が複数おり、彼らが一人の人間なのか別の人間なのか明らかにするだけの証拠に欠けています。実はバーボンの歴史家にとって「ジョン・E・フィッツジェラルドは誰(何者)なのか?」は意外と簡単ではない問いなのです。なのでこの件は後回しにして、ある程度わかっているフィッツジェラルド・ブランドの情報を書き出してみます。

ハーブストはケンタッキー州の蒸留所からバレルを購入し、おそらくはブレンディングしてフィッツジェラルド・バーボンを造りました。1880年代後半から1896年頃までは主にオールド・テイラー蒸留所(当時RD#53、禁酒法解禁後にDSP-19となった)、またその他の蒸留所と契約してブランドを製造していたと見られます。ブランドにはバーボンとライウィスキーがありました。オールド・テイラー蒸留所のE・H・テイラーはハーブストにいくらかの未払金があって、この借金を支払うためにハーブストと契約を結んだのだとか。
ハーブストのリカー・トレードが成長するにつれて、彼は競合他社の存在や利用可能なウィスキーの高騰などから供給源の枯渇に直面し、レクティファイングのための十分な原酒を入手するのが難しくなったと思われます。そこで多くの成功した卸売業者がしたのと同様に、ハーブストも保証された安定的供給を確保するため、1900年頃、フランクフォート郊外のベンソン・クリークにある蒸留所を購入しました。地元の人々はそのプラントを代表的ブランドの名前からオールド・ジャッジ蒸留所(第7地区 RD#11)と呼んでいました。ハーブストはこの施設の運営のため、1901年にマネージャー兼マスターディスティラーとして、ケンタッキーの名高いウィスキー製造家族であるビクスラー家の一員ジェリー・ビクスラーを雇っています。禁酒法によって蒸留所が閉鎖されるまでの間、ここでフィッツジェラルドやオールドジャッジを含む全てのバーボンとライウィスキーが造られました。
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自らのプラントを所有することになったハーブストは巧妙な神話を紡ぎ出します。彼は蒸留所に自分の名前を付けてもケンタッキー州ではあまり反応がよくないと思ったのか、蒸留所はジョン・E・フィッツジェラルドという名のアイルランド人のディスティラーによって建てられたとマーケティングで語りました。実際の創設者はマンリウス・T・ミッチェルという人物で、1890年にオールドジャッジ蒸留所をマーサー郡バーギンからフランクフォートに移転する計画があり、蒸留所はおそらく1892年頃に建てられたと思われます。よくオールド・フィッツジェラルドのマーケティングで語られる1870年云々というのは、ハーブストが卸売業を始めた年でしょう。それと、どうもハーブストが購入する前の1899年に、既に蒸留所は他の所有者の手に渡っていたようで、もしかするとハーブストはそちらから購入したのかも知れません。それはともかく、ハーブストはもともと蒸留所の購入前からDBA(Doing Business Asの略)でジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所の名は使用していました。フランクフォートの蒸留所を購入したことで、1905年には「オールド・フィッツジェラルド」のブランド名を再登録します。そしてプラントの規模と能力を大幅に拡大、郡でも最大の蒸留所の1つとなり、ハーブストはそこをオールド・フィッツジェラルド蒸留所と称しました。

蒸留所の印象的な大きさにも拘わらず、ハーブストは広告で「昔ながら」の製法を強調しました。彼は特にポットスティルに強いコダワリがあったようで、本当かどうか分かりませんが、1913年の広告ではオールド・フィッツジェラルドとオールド・ジャッジをアメリカで製造されている最後の「オールド・ファッションド・カッパー・ポット・ディスティルド・ウィスキーズ」であると宣伝しています。また、以前ハーブストがオールド・テイラー蒸留所と契約を結んだのは、テイラーがポットスティルを使用していたからとされ、そもそもオールド・ジャッジ蒸留所を購入した理由もポットスティルが決め手だったとされます。ガラス瓶が安価になり始めた頃、企業は各々自社製品のボトルに特徴的なラベルを使い出し、ハーブストもオールド・フィッツジェラルドのラベルを作成すると、いつの頃からか(1910年代?)ラベルにポットスティルの図柄を入れました。店頭で販売されるクォートとフラスク・サイズのボトルに付けられたラベルは非常に有名になり、オールド・フィッツジェラルドの象徴的なラベル・デザインとして後世でも殆ど変わりません。
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ハーブストはフィッツジェラルド以外にも前記のブランドをリリースしましたが、言うまでもなく旗艦ブランドはオールド・フィッツジェラルドでした。おそらくは当初のコンセプト通り、蒸気船や列車の食堂で供されたり、高級なジェントルマンズ・クラブで人気があったのでしょう。ハーブストはウィスキーの流通を助けるため、1901年に中心地となるシカゴにオフィスを開設し、それを数十年間維持しました。他にもニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ジェノアにオフィスを構えていたとされ、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスでオールド・フィッツジェラルド・バーボンを販売していたとか。
ビジネスの成功によりハーブストの名声が地元で高まるにつれ、彼は他分野にも進出しました。1904年には地元の金融機関であるミルウォーキー・インヴェストメント・カンパニーの投資家、設立者、副社長になり、その後も300万ドル以上の資産を持つシチズンズ・トラスト・カンパニーの設立を支援しました。
ハーブストには事業を継ぐ息子がいなかったため、年老いてもなお自分の主要なウィスキー蒸留および流通事業を管理し続けたと言います。禁酒法によってケンタッキーの蒸留所とミルウォーキーの酒類販売店の両方が閉鎖された時、彼は既に70代になっていました。そこでハーブストは、禁酒法期間中に販売できる薬用ウィスキー用として、オールド・フィッツジェラルドのブランド権をW・L・ウェラーに売却します。おかげでブランド名は存続し、大衆の酒飲みからの認知もあったでしょう。そして禁酒法解禁後にオールド・フィッツジェラルドはスティッツェル=ウェラー蒸留所を牽引するブランドとなって行きます。
ソロモン・チャールズ・ハーブストは1941年2月に98歳で天寿を全うし、3人の娘とその家族に見守られ、ミルウォーキーズ・グリーンウッド・セメタリーに埋葬されました。彼の死に先行すること31年前に亡くなっていた妻エマの横に。

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さて、ハーブスト時代のオールドフィッツが終わったところで、後回しにしていたジョン・E・フィッツジェラルドについて述べたいと思います。彼について複数の候補がいることは先に触れましたが、現在もっとも広く受け入れられ支持されている説は、ヘヴンヒルからリリースされている現代の小麦バーボン「ラーセニー」ブランドの元にもなっているエピソードです。その民間伝承のように知られる話は語り手によって語句や内容に多少のヴァリアントがありますが、概ね以下のようなものでした(少々、私の想像で補って脚色してます)。

…ハーブストの倉庫で働く従業員もしくは警備員に、味にうるさい熱烈な大酒飲みの男がいました。名前をフィッツジェラルドと言いました。彼は当時の多くの従業員のように、倉庫にいるあいだゴム製ホースまたは「ミュール」と呼ばれる器具を持ち歩きました。彼はバーボンの最高の樽を見つけると、栓を開け、ホースを差し込み、仕事中に勝手に飲みました。そうした樽が最終的にボトリング・エリアに到着すると、通常の樽より僅かに軽いのでした。フィッツジェラルドの鋭敏な嗅覚と所業を知っていた仲間の従業員達は、それらの樽を「フィッツジェラルズ」と冗談で呼びました。いざ販売されたウィスキーは非常に良いと評判となり、事情を伝え聞いたハーブストはフィッツジェラルドの名前のブランドを作ることにしました…

現実には、フィッツジェラルドは保税倉庫に配属された米国財務省のエージェントでした。当時、ウィスキー税は米国政府にとって重要な収入源であり、ウィスキーの倉庫は厳重に監視されていて、蒸留所には倉庫への全てのアクセスを制御する「政府の人」が敷地内にいました。ちゃんとに税金が支払われ、ウィスキーが政府の基準に適合しているか確認する彼らのみ、保税倉庫の鍵を持っていたのです。蒸留所のオーナーでさえ鍵を持っていませんでした。これは1897年のボンデッド・アクトの成立から1980年代初頭にシステムが変更されるまで続いています。上のエピソードで「警備員」と解釈されているのは、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っていたからでしょう。しかし、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っているのなら、彼は財務省のエージェントでなければなりませんでした。
ジョン・E・フィッツジェラルドは、ディスティラーでも蒸留所のオーナーでもありませんでしたが、たまたま倉庫の鍵を握る立場にあり、グッド・バレルの良き裁判官でもあり、大酒飲みでもあったがため、個人的な消費のために最高の樽を頻繁にタップしたと推測されます。彼が勝手にウィスキーを味わう時、ハーブストのような蒸留所のオーナーや蒸留業務を指揮するディスティラーは殆どの場合そこに立ち会えません。これは謂わば無法者の政府保安官による「窃盗」です。そこからラーセニー(窃盗もしくは窃盗罪の意)・バーボンの名前は付けられました。ウィスキーを盗むとは言え、フィッツジェラルドは嫌われ者とは思えず、おそらく愛すべきキャラクターだったのでしょう。だからこそ蒸留所の人々の間で彼の味覚は称賛され、バーボンの特に優れた樽をフィッツジェラルド・バレルと呼んだ、と。やがて内輪の冗談は、ハーブストがオールド・フィッツジェラルド・ブランドの架空のプロデューサーとしてフィッツジェラルドを選んだ時、神々しい輝きを放ち始め、以後のマーケティング・スキームの基盤としてその影響は現代まで及んでいるのでした。
この説は多分に伝説の提供といった感が強いですが、一般的に事実として受け入れられています。では、他のジョン・E・フィッツジェラルドの候補はどうなのでしょうか?

一人は、上に述べたフィッツジェラルドと同一人物の可能性が高い男です。
1875年、大統領官邸にまで至る広範な汚職事件として悪名高いウィスキー・リング・スキャンダルの一環で、ミルウォーキーの歳入局のゲイジャー(計測係)が、ウィスコンシン州の不正な政府職員、蒸留業者、およびレクティファイヤーらと共に政府を詐取した陰謀の廉で逮捕されました。ゲイジャーの名前はジョン・E・フィッツジェラルドでした。一年後ワシントンにて他の二人のゲイジャー、一人のストアキーパー、四人のレクティファイヤーと共に起訴されました。法廷で彼は、過去15年間ミルウォーキーに住んでおり、1869年9月から1875年5月まで米国政府のゲイジャーとして雇用されたと証言しています(他の証言では、樽が空になったのを確認する責務の「ダンパー」としてフィッツジェラルドが賄賂の交渉をしたと記述されました)。詳細は明かさなかったようですが流れとしては、蒸留業者は素知らぬふりをして税務報告よりも多くのウィスキーを作り、彼はそれを黙認することで口止め料の賄賂を掠め、それを共和党候補者に渡していたらしい。ゲイジャーの義務は倉庫の監督および樽の税印の修正や政府への申告書の提出などでした。おそらく職名からすると仕事としては、穀物の計量やマッシュビルの順守を監視し、樽への充填やバレル・ヘッドへのブランド情報の遂行の見守り、またバレル販売やボトリングのために樽が引き出された時それらの中身の残りを測定したのだと思います。ウィスキーを含む酒類のアルコール含有量を決定する責任者という説明もありました。
この男が「財務省のエージェント」と同一人物だとすると、この話が前半生、先述のエピソードが後半生ということになるでしょう。フィッツジェラルドが不名誉なスキャンダルの後にまたもや政府機関で働いたとは考えにくいとする意見があります。逆に政治家との繋がりが明白なのだからコネで再度就職したというのも有り得るとする見方もあります。前者も確かにそうだと頷けますが、フィッツジェラルドは調査への協力に対して免責を与えられたとかいう話も聞きますので、後者の可能性も捨てきれません。少なくとも彼の6年間のゲイジャー勤務時代(1869~1875年)には、ハーブストはまだ蒸留所の購入(1900年頃)をしていないので、この時代にフランクフォートの倉庫で「ラーセニー」エピソードが行われたのでないのは確実です。考えられるのは、ハーブストがミルウォーキーに保税倉庫を所有していた可能性。1870年代または80年代頃にはボンデッド・アクトは成立していませんでしたが、保税倉庫はありました。どうやらハーブストはミルウォーキーにブレンディング工場は所有していたらしいので、保税倉庫も所有していたのなら「窃盗」がこの時代に行われていてもおかしくはありません。ただし、この頃から保税倉庫はストアキーパーと呼ばれる政府の警備員の管理下にあり、その仕事は誰もがゲイジャーがいない状態で倉庫に立ち入らないようにすることだったと言います。となると、ゲイジャーが倉庫に入るにはストアキーパーに気づかれないようにする必要があります。ゲイジャーの男による味見のための窃盗が実際に行われていたのなら、ストアキーパーとの共謀だったのではないかとの指摘がありました。また、このフィッツジェラルドの裁判記録は倉庫へのアクセスを示すものではなく、様々な蒸留業者とレクティファイヤーの間での税金の徴収のみを示しているそうです。そこにはハーブストの名も見られず…。つまり、ジョン・フィッツジェラルドが当時ミルウォーキーのゲイジャーだったという証拠はありますが、彼が実際にハーブストの倉庫で働いたという証拠はないのでした。しかし、同じミルウォーキーの同じ時代に酒に関わる二人のこと、フィッツジェラルドとハーブストが互いに顔見知り、或いは気の合う仲間だったというのは十分考えられるでしょう。ちなみに、この彼は1838年に生まれ、1914年に死亡、その死までミルウォーキーに留まったとされ、ミドルネームの「E」はエドモンドのようです。

では、次のもう一人。この人物の詳細は不明ですが、ミルウォーキーの国勢調査の記録から、同じ時期にその都市にボイラーメーカーであるジョン・E・フィッツジェラルドがいたことが判明しています(1910年の国勢調査で72歳)。或る慎重な歴史家はこの彼を、ハーブストのメンテナンスマンとして働いていたのではないかと思う、と述べていました。
続けて、もう一人。この人物のミドルネームの頭文字は不明ですが、エドモンドとエドムンドという名前の家族がいました。このジョン・フィッツジェラルドは1896年に63歳で亡くなり、生涯を船長と造船者として過ごしました。彼は老年期にはドライドックを設立し、そこは息子のウィリアム・E・フィッツジェラルドが不慮の死で1901年に亡くなるまで運営していたそうです。ウィリアムには造船業界に入らなかった息子がいましたが、家族経営の会社は彼のために船を造ってエドムンド・フィッツジェラルドと名付けたとか。このウィスキーや蒸留業とは無関係のフィッツジェラルドが取り上げられた理由は、実はハーブストがヨットに意欲的だったからでした。彼は年次開催されたミルウォーキーとシカゴ間のヨット・レースで授与されるS・C・ハーブスト・トロフィーを創設したと言います。これは或るフィッツジェラルド研究に熱心な方の情報ですが、なんと上記の「ボイラーメーカー」を取り上げた歴史家も、1889年の市の商工人名簿に蒸気船の運送会社の副社長としてジョン・E・フィッツジェラルドがリストされていると指摘しています。こうしたヨットへのハーブストの親和性や蒸気船とジョン・E・フィッツジェラルドの関係は、オールド・フィッツジェラルドのあの有名なマーケティングの文言(鉄道やらリヴァーボートやら蒸気船の顧客専用に特別に造られたと云うあれ)を連想させるのに十分でしょう。

最後の一人はディスティラーです。有名なサム・K・セシルの本のジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所(オールド・ジャッジ蒸留所のこと)の説明にはこう書かれています。
「この工場はフランクフォート郊外のベンソンクリークにあり、ジョン・フィッツジェラルドによって建設された。ブランドにはオールド・フィッツジェラルド、オールド・ジャッジ、ベンソン・スプリングスがあり、ミルウォーキーのS・C・ハーブストにより配給された。1900年頃、フィッツジェラルドはブランドをハーブストに売却し、インディアナ州ハモンドに移り、そこで別の蒸留所の監督になった。」
どうもこの書かれ方だと、これまでの文面から判る通り、私の理解の真逆になっています。即ち、ハーブストはただのブランド販売代理店の経営者であって創造者ではなく後継者であり、フィッツジェラルド・ブランドはジョン・フィッツジェラルドというディスティラーが造った、と。どうやらセシルのこの説はWhit Coyteのリサーチを基にしているようで、個人的には信憑性に欠く気がします。しかし、フィッツジェラルド蒸留者説は、どうやら無根拠ではありませんでした。他の歴史家によると、ミルウォーキーからそう遠くない場所で同時代に蒸留事業に携わっていたジョン・E・フィッツジェラルドがいたと言うのです。そのフィッツジェラルドはシカゴ・インター・オーシャンによれば、「米国で最も優れた蒸留者の一人と見做される」プラント・マネージャーで、1901年にシカゴ近郊のハモンド蒸留所の秘書兼会計に任命されました。しかもそれ以前には、ウィスキー・トラストによるダイナマイト爆破事件で有名なあのシューフェルト蒸留所で17か18歳の頃からディスティラーとしてキャリアを始めたとか。このフィッツジェラルドは1865年生まれとされます。なのでゲイジャーと同一人物でないのは明らかとは言え、ハーブストと無関係とは言い切れないでしょう。ハーブストは自らの卸売事業のための供給を主にケンタッキー州の蒸留所と契約して確保していたとされますが、当時最も生産性の高い蒸留所はイリノイ州にあり、その中でトラストと提携していなかったシューフェルト蒸留所は、ハーブストのサプライヤーの一つだったのかも知れません。もしそうであれば、ハーブストが上手くフィッツジェラルドの高名な名前を利用した可能性もある気がします。或いは、ハーブストはシカゴにオフィスを構えていたので、知り合いだったのでは?

ここまで謎に満ちたミステリアスなジョン・E・フィッツジェラルドの候補を紹介して来ましたが、これらのフィッツジェラルドのうち2~3人が同じ人物だったなんてことは十分に考えられるでしょう。彼らが人生のキャリアに於いて転職を繰り返した同じ男性であるかどうかを決めるにはより多くの研究が求められます。一方で「ジョン・E・フィッツジェラルド」は非常に一般的なアイルランド系の名前でもありました。候補には加えませんでしたが、1880年代にボストンの内国歳入局の徴税係にジョン・E・フィッツジェラルドという男がいたそうです。同じ時代で同じ税収に関わる仕事かつ同じ名前、つまりはありがちな名前だった、と。もしかすると1800年代後半に、バーボンにアイリッシュ・ネームを付けることで、一部のエスニック・グループにアピールすることは、悪くないマーケティング方法だったのかも。孰れにせよ、どれもが憶測です。ジョン・E・フィッツジェラルドが何者であるかの詳細は、更なる新しい資料の発見を俟たねばなりません。
こうしたフィッツジェラルドについての謎、錯綜、様々な憶説の飛び交う混沌とした状況は、ひとえにハーブストのマーケティングのせいだと思います。ハーブスト(或いはその担当者)は、一つの真実を保ちながら壮大な脚色をして物語を紡ぐ小説や映画のように、またはそれらに登場する一人の人物のキャラクターが実在する複数の人間のエピソードに基づいて構成されたりするように、フィッツジェラルドの神話を創造したのではないでしょうか? 彼は自分の晩年に、ブランドを酒豪のフィッツジェラルドと名付けることは、意地悪で可笑しな内輪のジョーク(悪ふざけ?)であったことを明らかにしたと言われています。我々が捏造された架空の起源に翻弄されたり、謎解きに右往左往する姿を見たら、ハーブストは天国でくすくす笑っているのかもしれません。 

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さて、ここからはハーブストから新しい所有者に切り替わったオールド・フィッツジェラルドを見て行きます。
禁酒法期間中の1922~25年にかけて、ジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルはハーブストからオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを購入し、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所が禁酒法下でも政府に認められた薬用ウィスキーとして販売するようになりました。既存の在庫は禁酒法期間中に枯渇し、1928年、政府が薬用の在庫の補填に対してはウィスキーの製造を許可したため、アーサー・フィリップ・スティッツェルとパピー・ヴァン・ウィンクルはスティッツェル家に伝わる旧いレシピを使用してウィスキーを造ることにします。そのレシピとは、フレイヴァー・グレインにライ麦を使わず代わりに小麦を用いるものでした。彼らがこのレシピに決めた理由は、他のレシピと較べ短い熟成年数でより良い風味が得られると感じたこと、そして既存の在庫が減少するにつれてウィスキーが早急に必要となることを分かっていたからです。オールド・フィッツジェラルドが、後年「ウィスパー・オブ・ウィート(小麦の囁き)」と説明されることになるウィーテッド・バーボン、或いはウィーターと呼ばれるグレイン・レシピに変わったのはこの時からで、以前のオールドジャッジやテイラー産およびその他のものは恐らくスタンダード・ライ・レシピ・バーボン・マッシュビルを使用して造られていました。小麦バーボンは適切に熟成すると、伝統的なライ麦を含むバーボンよりも丸くて柔らかいテクスチャーを示し、スパイス・ノートの少ないより甘いプロファイルをバーボンに与える傾向があると言います。余談ですが、面白いことに上のパピーらの見解とは逆に、現代の考え方では熟成年数の若い小麦バーボンはあまり味が良くないと言うか、小麦はライ麦より穏やかな熟成を見せるので、小麦バーボンがライウィスキーまたはライ・レシピ・バーボンと同等の熟成感を得るためには樽の中でより多くの時間が必要とされているそうな。

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(我々は優良なバーボンを造り、できれば利益を上げる、必要であれば損失を出してでも、常に優良なバーボンを造る)

禁酒法が解禁された1933年、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所は正式に会社として合併し、老朽化したスティッツェル蒸留所に代わる新しい生産工場をルイヴィル近郊のシャイヴリーに建設します。それがスティッツェル=ウェラー蒸留所(DSP-KY-16)であり、1935年のダービー・デイにオープンしました。そこではジュリアン・パピー・ヴァン・ウィンクルの指揮の下、オールド・フィッツジェラルドは造られました。そのため、この先のオールド・フィッツジェラルドのブランド・ステータスは、ジョン・E・フィッツジェラルドでもハーブストでもなく、パピーと関連付けられて行きます。
スティッツェル=ウェラーは比較的小規模な独立所有の蒸留所であり、今で言うところのクラフト蒸留所に近い蒸留所でした。パピーが執った方法論は昔ながらの製法に依るものと言ってよいでしょう。それは品質への妥協のなさを意味します。ライ麦の代わりに小麦を使うことは割高でしたし、油性の口当たりをもたらすマッシュのためのトウモロコシの挽き方もより高価なプロセスでした。また、樽材には通常より厚いオークのステイヴを使用していたと言います。そしてパピーは恐らくウィスキーの工程全般に於いてプルーフの制御に重きを置きました。一説には50年代頃は、天然のバーボンの風味を維持するため、コラムスティルでの第一蒸留を85プルーフ、ポットスティル・ダブラーでの第二蒸留を117プルーフ、バレル・エントリーを103プルーフで実行したとか。これらは現代の水準と較べて驚くほど低い数値です。
蒸留所のドアの上の看板にはこう書かれていました。「化学者の立ち入りを禁ず。自然およびマスター・ディスティラーの昔かたぎの〈ノウハウ〉がここでの仕事を成し遂げる…ここは蒸留所であって、ウィスキー工場ではない」と。スティッツェル=ウェラーの初代マスターディスティラーであるウィル・"ボス"・マッギルは、テクノロジーではなく人間の感覚こそが良質なウイスキーを作ると考えました。この思想はスティッツェル=ウェラーの歴代マスターディスティラー全員に受け継がれ、施設の最後のマスターディスティラーであるエド・フットは業界に於ける蒸留の自動化を嘆いたと言います。彼らは皆、自らの口蓋と鼻を使って良質なウィスキーを造り上げたのであって、決してコンピューターがそれを造り出したのではなかったのです。

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(Time Magazine May 21 1956)

パピーはもともとW・L・ウェラー社の優秀なセールスマンだったので、マーケティングを怠ることもありませんでした。1950年代、彼は新聞や雑誌にシリーズ物の広告を掲載しています。そこでは、親密な口調で民俗的物語を訓話風にまとめてオールドフィッツを飲むべきだと語ったり、暖炉横でのゆったりしたお喋りのようなスタイルで自社の伝統的な製法を説明したりしました。こうしたパピーのユニークな個性を反映した広告形態は、おそらくオールド・フィッツジェラルドの評判を高めるのに役立ったことでしょう。

スティッツェル=ウェラーでパピーは幾つかのブランドを作りましたが、旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドが最も人気がありました。パピーの統制下ではオールド・フィッツジェラルドは常にボトルド・イン・ボンド規格のバーボンでした。熟成年数は4〜7年とされます。その後、8年熟成のヴァージョンとして「ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」が追加されました。8年は、保税期間のため政府に税金を支払う前に熟成させることが出来る当時の最大年数だったからです。1958年以降、保税期間が8年から20年に延長されたことで、ブランドには長期熟成ヴァージョンが更に加わり、それらは「ヴェリー・エクストラ・オールド・フィッツジェラルド」、「ヴェリー・ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」のラベルにて限られた数量でリリースされました。
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「オールド・フィッツジェラルド・プライム」は、パピー・ヴァン・ウィンクルがボトリングを拒否したバーボンです。冒頭に述べたように、プライム・バーボンは従来までのオールドフィッツの低プルーフ版な訳ですが、パピーはオールド・フィッツジェラルドがボンデッド・バーボンとしてのみ販売されるべきとの信念をもっており、人々がより低いプルーフを望むなら自分で水を足せばよいと考えていました。消費者が水にお金を払うのは馬鹿げていると広告で述べたそうです。しかし、パピーが引退した後、会社を引き継いだ息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアは、コストの削減や利益の増大にプルーフを下げている他社のブランドと競合するため、オールド・フィッツジェラルドでもロウワー・プルーフ・ヴァージョンの発売を求めていた販売員からの圧力に屈し、1964年にプライムは作成されました。ジュリアン・ジュニアは後に8年熟成で90プルーフの「オールド・フィッツジェラルズ1849」も導入しています。プライムは発売当初から数年間は86.8プルーフの製品で、数年後に86プルーフに落ち着きました。後年、ユナイテッド・ディスティラーズがブランドを所有した時、彼らはケンタッキー州では86プルーフ・ヴァージョンを作り続けましたが、ケンタッキー州以外の市場ではプルーフを80に下げました。更に後年、ブランドがヘヴンヒルに渡った時にはケンタッキー州でも80プルーフになります。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、長い間プレミアム・バーボンとして高い評価を得ていました。「もし君がバーボン飲みでないのなら、その理由は一つ、オールドフィッツを味わったことがないからだ」と堂々と宣言する1970年の広告もありました。控え目に言っても、ジュリアン・P・"パピー"・ヴァン・ウィンクル・シニアはアメリカン・ウィスキー産業の巨人でしょう。彼はバーボンが華やかりし時代の最も裕福な蒸留所オーナーでもなければ、ディスティラーでもなかったかも知れませんが、多くの課題に直面しても偉大なる指揮者として自分の会社と自らのバーボンの誠実性を維持し、彼の会社を統合しようと目論む巨大会社のウィスキー独占と激しく戦いました。残念なことに、1965年のジュリアン・シニアの死後、ジュリアン・ジュニアは会社を維持できませんでした。彼の社長としての在職期間はウィスキーの販売が減少し、ファーンズリー(S-Wの共同経営者)とスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、1972年、アート・コレクターとしても有名な億万長者の実業家ノートン・サイモンのコングロマリット(ノートン・サイモン・インコーポレイテッド)への売却を余儀なくされたのです。それでもジュリアン・ジュニアは業界に留まり、古巣のスティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利を契約に残したことで、禁酒法時代のブランドだった「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」を復活させ、その事業はジュリアン・ジュニアが1981年に亡くなった後も息子のジュリアン・P・ヴァン・ウィンクル3世に引き継がれたのですが、これはまた別の話。

1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所がノートン・サイモン社に売却されると、その名称は主力ブランドと同じオールド・フィッツジェラルド蒸留所に変更されました(*)。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。サマセットはジョニー・ウォーカー・ブランドの販売権を有していました。これが伏線となって、1984年、ジョニー・ウォーカーを所有していたディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収することでジョニーウォーカーの流通を管理します。その結果としてオールド・フィッツジェラルドも移行しました。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。この所有権の変更時に蒸留所の名称はスティッツェル=ウェラー蒸留所へと戻されました。
ユナイテッド・ディスティラーズはアメリカンウィスキーの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルに新しく建設したバーンハイム蒸留所に生産ラインを移管、以後オールド・フィッツジェラルドはそこで製造されて行きます。スティッツェル=ウェラーの最後のマスター・ディスティラーであるエド・フットは、そのままバーンハイムで同職に就き仕事を続けました。この頃、UD社はバーボン・ヘリテージ・コレクションの一つとして「ヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年」を発売しています。
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蒸留所の親会社はM&Aの末、巨大企業ディアジオを形成し、同社はアメリカンウィスキーの資産のうちIWハーパーとジョージディッケルを残して、それ以外のブランドの売却を決定。1999年、バーズタウンにあった自社の蒸留所を火災で消失していたヘヴンヒルは新しい蒸留施設を求めていたので、ディアジオはヘヴンヒルにバーンハイム蒸留所と共にオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを売却しました。それ以来、今日までオールド・フィッツジェラルドはヘヴンヒルが所有しています。

ヘヴンヒルではブランド取得後、かなりの低価格で100プルーフのボトルド・イン・ボンドと80プルーフのプライム・バーボンが発売されていました。所謂「ボトムシェルフ」というやつです。オールド・フィッツジェラルズ1849もありましたし、販売量の少ないヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年も継承されていました。アメリカに於けるプレミアム・バーボンの隆盛を背景に、2012年9月、ヘヴンヒルはオールド・フィッツジェラルドの延長としてラーセニーを市場に導入します。その影響で、次第にオールド・フィッツジェラルドのラインナップは縮小され、2015年前後には終売の情報が流れました。実際、VSOFはギフトショップのみの販売となりそのあと製造中止、BIBも配布地域を減らして行きそのあと製造中止となったようですし、OF1849も市場から消えています。ただし、プライムは今現在海外でも日本でもネットで購入できます。しかし、これが単なる在庫なのか製造が続いているのかよく判りません。それとは別に2015年には「ジョン・E・フィッツジェラルド・ヴェリー・スペシャル・リザーヴ20年」という限定リリースもありました(375mlボトルで約300ドル)。これはその昔、ヘヴンヒルがオールドフィッツのブランド権を買収した時に、一緒に購入したスティッツェル=ウェラーのバレルを、或る時から熟成しないコンテナーに移して秘蔵していたものです。また最近の2018年になって、毎年春と秋の2回リリースされる限定版「オールド・フィッツジェラルド・ボトルド・イン・ボンド」が導入されました。50年代に販売されていたダイヤモンド・デカンターを復刻した華麗なデザインが人気を博しています。
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では、そろそろ今回レヴューするオールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンを注ぐとしましょう。

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Old Fitzgerald Prime Bourbon 80 Proof
推定2000年前後ボトリング。オレンジぽいブラウン色。アップルワイン、軽いヴァニラ、焦樽、アプリコットジャム、ラムレーズン、カカオ、サイダー。水っぽくも柔らかい口当たりでヒート感は殆どない。味わいはやや酸味より。余韻は短くウッディなスパイスとピーナッツ。
Rating:82/100

Thought:今回のレヴューで開封したのは、UPCコードからするとユナイテッド・ディスティラーズが販売していた製品もしくはヘヴンヒルへ移行した初期の物と思われます。一応カテゴリーをヘヴンヒルにしましたが、推定ボトリング年代が正しいとすると、この時代のプライムの熟成年数はNASながら多分4年なので、本ボトルはヘヴンヒルが所有する前のニュー・バーンハイムで蒸留された原酒の可能性が高いです。
こうしたエントリークラスのバーボンから想像される味より、ダークなフルーツ感が強く、風味全体が複雑でした。ただし、画像では判らないかも知れませんが、こちら購入時から液体に曇りがありました。飲めないほどの劣化はしていませんでしたが、開封当初からかなり酸化の進んだ「香りの開いた」味わいに感じました。しかし、その割りに余韻はあまり芳醇でないと言うか、個人的にはもう少し甘みが欲しかったです。


*この頃からマッシュビルやイーストにも多少の変更があったようです。スティッツェル=ウェラーのマッシュビルは約70%コーン、20%ウィート、10%モルテッドバーリーとされていますが、蒸留所が売却された後には長年に渡って変更が加えられ、新所有者はお金を節約するためにモルテッドバーリーの量を減らし、トウモロコシの量を増やしたとか。これは澱粉を糖へ変換するために商業用酵素を追加することを意味しています。イーストに関しては、パピーの在任期間中はジャグ・イーストを用いていたそうですが、新しい所有者はドライ・イーストを使用するようになったそう。しかし、それでもスティッツェル=ウェラーは依然としてレヴェルの高い生産を維持したと言われています。
ちなみにバレル・エントリー・プルーフも年々上昇したようで、パピー初期は本文でも記したように103~107プルーフあたり、最終的には114プルーフになったと見られています。

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今宵の映画は1961年製作の『ハスラー』。敢えてのモノクロ映像と全編ジャズの流れる渋い映画です。主演のポール・ニューマンがあまりにもカッコいいんですよね。あらすじや映画史的な位置付け等は映画サイトを参照して頂くとして…。個人的にも「生涯ベスト10ムーヴィー」に入るかも知れません。この映画、バーボン飲みには特別な映画なのです。それは劇中にJTSブラウンが登場するから。ポール・ニューマン演じる主人公のファースト・エディが「ノーアイス、ノーグラス」と言って注文する姿に憧れた人も多いのでは? 少なくとも私は思いっきり影響されました(笑)。いまだにバーボンはノーアイス、もちろんノーウォーター、そしてノーグラス、つまりラッパ飲みで飲むのが一番美味しいと思ってます。
相手のジャッキー・グリーソン演じるミネソタ・ファッツは「ホワイト・タヴァーン・ウィスキー」をグラスとアイスで頼んでいますね。当時実際にホワイト・タヴァーンなるブランドがあったかどうか調べても分からなかったのですが、ヘヴンヒルが商標を持っていたとの情報や、画像検索ではブレンデッドの物とオーウェンズボロの記載のある安そうなウィスキーが見つかりました。原作の小説では、ファッツはホワイト・ホース・ウィスキーを注文しているそうです。もしかすると映画で使用する許可がおりなかったのかも知れません。
ところで、この40時間にも及ぶ名勝負の場面、ファッツの注文はプラシーボ効果を狙ったのではないかとの解釈があります。ホワイト・タヴァーン・ウィスキーの「ホワイト」は、日本語で言うところの「空白」のような裏の意味で、実際にはノンアルコールだった、という訳です。いずれにせよ勝負に徹し自制心を失わないファッツのその戦略とインテリジェンスは、ある意味それこそ成功者の哲学ではあるでしょう。けれどもJTSブラウンを調子にのってラッパ飲みし、結局は敗れるエディにこそバーボン飲みは敗残者の美しさを見てしまいますよね。バーボンを飲まずに勝つくらいなら、バーボンを飲んで負けるのを選ぶのがバーボン飲みの正しい在り方なんだ、と浪漫を投影して。…私だけですか?(笑)。

さて、肝心の中身について触れておきましょう。映画当時のJTSブラウンはローレンスバーグで蒸留されていました。それに頭に「Old」の付いたオールドJTSブラウンというブランド名だったと思われます。古いボトルをネットで調べてみると、50年代とか60年代とされる物にはローレンスバーグの記載があり、おそらく中身のジュースは現在で言うところのワイルドターキー蒸留所で造られたものと推測されます。アメリカの或るバーボン研究家はそう断言していました。当時ボブ・グールドが所有していたアンダーソン・カウンティ蒸留所(以前のリピー・ブラザーズ蒸留所、後のブールヴァード蒸留所)は、70年代初頭にオースティン・ニコルズに売却されるまでJTSブラウン蒸留所として運営されていたからです。そうでなければ、オールドプレンティス蒸留所(現フォアローゼズ蒸留所)ではないでしょうか? オールドプレンティス蒸留所にブラウン家は少なからず関与してるので。まあ、少なくとも私の飲んだもの、今回のレビュー対象はエディが飲んだものとはまるっきり別物なのは間違いありません。でもラベルデザインはあまり変わっておらず、古めかしくカッコいいので雰囲気は楽しめました。
現在はヘヴンヒルが製造しており、アメリカではゴールドラベルのボトルドインボンドが人気みたいです。これは日本では一般流通していません。と言うかJTSブラウンというブランド自体、最近では輸入されていないようです。そもそもが現在アメリカ国内でも地域限定のブランドだと思います。日本に輸入され始めたのは、おそらく80年代中頃からではないかと思われますが、当時のバーボン本にJTSブラウンが輸出されるのは日本が初めてなんて書いてありました。
ちなみにJTSと言うのはジョン・トンプソン・ストリートの略です。ラベルの写真の真ん中の人物が一般的に「J.T.S. Brown Jr.」と呼ばれ(※ややこしいことに彼の父親と息子の一人も同名のため「Sr.」と表記されることもある)、オールドフォレスターを造っているブラウン=フォーマン社の創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンの異母兄弟だと思われます。また日本語でJTSブラウンを検索した時に見つかる紹介文に、JTSをジョンとトンプソンとストリートの三人の略とする説明をよく見かけますが、一人の人物の名前なので気を付けたいところ。写真の他の二人は、左の人物がJTSの息子の一人クリール、右がその息子クリールJr.です。
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JTSブラウンの歴史については日本ではあまり語られることがないので、禁酒法時代以前のウィスキーに詳しい方の調査を基に、ここでざっくり紹介しておきましょう。

「JTSブラウンの物語」はケンタッキーの初期入植者の一人ウィリアム・ブラウンから始まります。1792年、彼は若き妻ハンナ・ストリートと共にヴァージニアからコモンウェルス・オブ・ケンタッキーの中央部の農村地域、おそらく後にハート郡マンフォードヴィルとなる付近に定住しました。ウィリアムはマーチャント兼プランターだったそうです。彼らには8人の子供がいましたが、そのうちの一人としてジョン・トンプソン・ストリート・ブラウン・Sr.(1793-1875年)は生まれました。JTSシニアはマンフォードヴィルで最初の郵便局長であり同地の長老派教会の憲章会員でした。多分、町の顔役のような立場だったのではと想像されます。彼はエライジャとアーミン・クリールの娘エリザベスと結婚し、クリール家の北にレンガ造りの家を1828年に建てました。ジョン・トンプソン・ストリート・ブラウン・Jr.(これ以降この人物をJTSブラウンとします)は1829年にそこで3人目の子供として生まれます。彼の教育環境についての情報は乏しいですが、父についてビジネスを学んだと思われます。

商取引の経験を積んだ26歳の時、JTSはケンタッキーの田舎から、のちの人生の舞台となるルイヴィルへと移り、ジョセフ・アレンという名の学生時代の親友と酒の卸売ビジネスを始めました。また同じ頃、著名な地元のタバコ・ディーラーの娘であるエミリー・グラハムという16歳の少女と出会い恋に落ち、二人は1856年に結婚、今後の13年間で8人の子供(6人の男の子と2人の女の子)を持つことになります。
1857年には、アレンはパートナーシップから撤退し、JTSは会社の全権を引き継ぎました。時代柄、JTSはコンフィデレート・アーミーの将校でもあったようです。彼の会社は南北戦争の間に「喉の渇いた」軍隊に酒を提供することで大いに成長し、1864年までにはかなりの財産を築いたと言います。その間、1863年にはJTSの17歳下の異母兄弟ジョージ・ガーヴィン・ブラウン(1846-1917)は学校に通うためルイヴィルに来ていて会社に招待されました。同社は金融機関の支援を得て市内の中心地ウィスキー・ロウと呼ばれるメイン・ストリートに移転し、ジョージはパートナーになることを求められ、1970年頃、会社の名前は「J.T.S. Brown and Bro.」となりました。
戦争が終わった後、1865年から1874年にかけて、ブラウン兄弟はJMアサートン・カンパニー(アサートンおよびメイフィールド蒸留所)、ルイヴィルのメルウッド蒸留所、マリオン郡セントメアリーのJBマッティングリー蒸留所などから高品質のストレート・バーボンを購入し、独自にブレンドしてシドロック・バーボン、アサートン・バーボン、メルウッド・バーボン等のブランドで販売していたそうです。1874年頃、いまだに理由は不明確ながら、JTSとジョージのパートナーシップは終わりを告げました。一説には、ジョージは自分の好みであるより高品質でより高価格のウィスキーの販売を目指し、JTSはより安価なウィスキーでより幅広い顧客層を生み出すことに関心を示すという、販売するウイスキーの品質に関して意見の相違があったのではないかと伝えられています。ともかくジョージは会社を離れ、後にブラウン=フォーマン社となる自らの会社を組織し、今に至るバーボン王朝を築くことになるのですが、それはまた別の話。

そうこうするうち、JTSの少年たちが成長するにつれて父と共に会社で働き始めました。初めは年長のグレアム(1857-1946)、続いてデイヴィス(1861-1932)とJTSジュニア(1869-?)が入社。そこで会社名は「J.T.S. Brown & Sons」に変更されました。グレアムは後に会社を去りますが、代わりに弟のクリール(1864-1935)とヒュエット(1870-1952)が加わります。やがて1890年代後半には、彼らは倉庫とボトリング施設を近くの105メイン・ストリートに移しました。ビジネスは活況を呈し、需要に追いつくための安定した供給を図る措置として、1894年(1904年という説も)にアンダーソン郡ローレンスバーグ近くソルト・リヴァーに面したマクブレヤーの大きな古い蒸留所を購入。このプラントではJTSの息子たちが主導して、「JTSブラウン」、「オールド・レバノン・クラブ」、「ヴァイン・スプリング・モルト」、「オールド・プレンティス」等のブランドを生産しました。これらの中で主力ブランドはオールド・プレンティスです。このラベルは施設の以前の所有者によって作成されたと推察され、煽動的な社説で知られた新聞編集者であり詩人でもあったジョージ・デニソン・プレンティス(1802-1870)にちなんで名付けられました。トレードマークとなる絵柄のベルもリバティ船「SS George D. Prentice」のシップス・ベルがモチーフなのではないかと思われます。また「JTSブラウン」や「オールド・プレンティス」に見られる1855の数字は、この蒸留所(RD No.8)の創設された年だと思われ、バーボン業界にありがちな起源のサバ読みでしょう。それはともかく、オールド・プレンティスのその象徴的なトレードマークの鐘は人気を博し、ベルのロゴをプリントしたグラスなど特別な顧客へのプレゼントアイテムがありました。
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1904年、JTSの妻エミリー・ブラウンが65歳で死去し、ルイヴィルの往年の著名人や富裕層の多くも葬られている歴史的なケイヴ・ヒル・セメタリーに埋葬されました。それから一年足らずのうち、JTSも酒屋での仕事からの帰宅途中ルイヴィルの路面電車にぶつかり、二週間後に76歳で亡くなります。彼はエミリーの隣に埋葬されました。
両親の死後もブラウンの子息たちは非常に成功した会社の名前は変えずに経営を続け、デイヴィスは社長、クリールが副社長、JTSジュニアは秘書、ヒュエットが会計に就任しました。父親の死の年、彼らは旧来の家屋と隣接した107-109ウェスト・メインに新しい本社を開きます。そしてまた1910年には、マクブレヤーに建つ元の蒸留施設からボンズ・ミル・ロードを渡った向こう側に新しい蒸留所を建設しました。この蒸留所こそ後にシーグラムが購入し、現在フォアローゼズ蒸留所となっている施設です。当時全国的に人気があったミッション・リヴァイヴァル様式で建てられ、低い屋根と大きなアーチ型の窓を使用した優美な雰囲気の蒸留所は、今では国家歴史登録財に指定されています。その内部は2つの大きな処理領域を持ち、一方では発酵プロセスを、もう一方では糖化と蒸留プロセスに分けられていました。

禁酒法がやって来ると、他の多くの蒸留所と同じくブラウン一家も事業の中止を余儀なくされます。1932年には社長のデイヴィスが亡くなり、彼の未亡人であるアグネス・フィドラー・サドラー・ブラウンが事業を引き継いだようで、当時ほぼ完全に男性が支配していた業界に於いて、彼女はアメリカの歴史の中で蒸留酒製造所を経営する役割を担った最初の女性であると言われています。彼女は禁酒法解禁後すぐに共同経営者のグラッツ・ホーキンス、ウィルガス・ノーガーらとオールド・プレンティス蒸留所をリノヴェイトし、オールド・ジョー蒸留所(RD No.35とは別)として操業を再開したようです。しかし禁酒法が解禁された時、会社を復活させたのはクリール・ブラウンの息子クリールJr.でした。
クリールJr.は、ジョン・ショーンティ・ファームと倉庫「A」の一部を、ジョンの未亡人とアーリータイムズの創業者ジャック・ビームの相続人から取得し、1934~5年頃、JTSブラウン蒸留所を建設しました。L&N鉄道のバーズタウン・スプリングフィールド支店に面したバーズタウンの北東約4マイルの場所です。そこには36インチのビア・スティルと4つの発酵槽が設置してあり、1935年のクリスマスの日に最初のウイスキーを作りました。この蒸留所は自らケンタッキー州で最も小さい蒸留所と称し、「Old J.T.S. Brown」を生産していたとみられます。第二次世界大戦中は例によって工業用アルコールを産出していたようですが、この蒸留所は精留塔を有していなかったので、それらは約140プルーフで蒸留され、190プルーフに再蒸留するため他の場所に移送されました。理由は分かりませんが、クリールJr.は1955年前後に最終的には事業を完全に売却してしまいます。売却後、蒸留所の購入者は誰も工場をオペレートせず、ウィスキーの生産は1950年が最後だったそうです。ブランドをシェンリーに売却した後に蒸留所は解体され、現在では倉庫もそこには残っていません。

ブランドは幾人かの所有者の変遷を経てアルヴィンとボブ・グールドのもとへ行きました。彼らはブランドをアンダーソン郡へと戻し、タイロンにあるリピーのプラント(RD No.27)をJTSブラウン蒸留所として操業しました。 1972年7月1日に「ワイルドターキー作戦」のためにオースティン・ニコルズにプラントを売るまで、グールドはブランドを使い続けたようです。ブランドは1972年から1991年の間、ヘヴンヒルがユナイテッド・ディスティラーズから他のブランドと一緒に購入するまで休止状態にあった、とサム・K・セシルの本に書いてありますが、日本には80年代後半には確実に輸入されていました。もしかすると上の情報はアメリカ国内のみの話かも知れません。ともかくも、歴史あるケンタッキー・クランのブラウン家のブランドは、こうして今日まで生き残ってきたのでした。
では、そろそろ簡単な感想を。

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J.T.S. BROWN 6 Year 80 Proof
推定2004年ボトリング。飛び抜けてはいないがバーボンとして普通に美味しい。ただし、6年熟成にしては熟成感がやや足りず物足りない。いや、足りないのは熟成感というよりプルーフなのかも。
Rating:80/100

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J.T.S. BROWN 10 Year 86 Proof
1995年ボトリング。今では貴重な火災前のジュースだし、せっかくの10年熟成なのに薄すぎる。いや、もちろん旨いとは言えるのだが、そこまで風味の強い原酒とは思えない。出来たら最低でも90プルーフで飲みたかった。
Rating:82/100

Thought:映画(または原作の小説は59年発表)に登場するくらいの銘柄ですから、当時は人気があったバーボンだったのではないかと想像します。と言うより「J.T.S. Brown」と云う名前には、ビームズやサミュエルズ、リピーズやワセンズのような、バーボン業界の欲しがる伝統と歴史の重みがあるでしょう。しかし、ヘヴンヒルにブランド権が移行してからはボトムシェルフ・バーボンの地位に甘んじているように見えます。トゥルー・ブルーカラー・バーボンなんて言ってる人もいました。ネームバリューのあるブランドなのに勿体ないですよね。いや、「JTSブラウン物語」で書いたように、そもそもJTSは安くてそこそこ美味しいウィスキーを売りたい大衆志向だった、というのが本当であれば、正にヘヴンヒルの安価なリリースはJTSの意を汲んだものと言えなくもない。
私の飲んだ6年熟成80プルーフの方は2004年ボトリングと思われ、熟成年数をマイナスすると、旧ヘヴンヒル蒸留所が焼失しバーンハイム蒸留所を購入する前年に当たるので、蒸留はブラウン=フォーマンかジムビームなのかも知れません。どちらにしろエントリーレヴェルのちょい上クラスのバーボンには違いないでしょう。これは悪い意味ではなく、そういう立ち位置の製品だと言うことです。それよりも取り上げたいのは10年熟成86プルーフの方です。こちらは90プルーフを下回るロウ・プルーファーとは言え、最低10年熟成というスペックからしたら期待値は高まります。なのに同時期のエヴァンウィリアムス緑ラベル7年熟成86プルーフに風味の強さで負けているのは驚きでした。これはボトルコンディションの差である可能性(*)も高いですが、バッチングに使われているバレルのクオリティに差がある気もしています。エヴァンウィリアムスはヘヴンヒルの看板製品ですから、エヴァンとJTSの相対的地位を考慮し、更に当時の長熟バレルの在庫状況(**)も考え合わせると、エヴァンには年数表記より高齢の原酒、例えば12年物とかを混ぜていてもおかしくはないのでは?と。まあ、憶測ですが…。

Value:おそらく現在の日本でJTSブラウンを店頭で見かけることは少ないと思われます。けれど近年までは流通していたので、オークション等の二次流通市場ではそれほどレアではありません。問題は価格なのですが、上述したローレンスバーグ産のJTSブラウンなら10万を越えても仕方がないと思います。ですが間違っても近年流通品に1万は出さないほうがいいというのが私の意見です。ヘヴンヒル産の物はあくまでキャッツ&ドッグス・ブランドの一つであってプレミアム製品ではないですからね。ただし、80~90年代の物に関してはそこそこ美味しい可能性があるので、MSRPの2~3倍までなら試す価値もあるでしょう。


*私の飲んだエヴァンウィリアムス緑ラベルの95年ボトリングは、腐る寸前の果実を思わせるような、私の好みからすると少々酸化が進み過ぎたと思われる風味でした。

**おそらく当時は火災前でもあり、まだまだ長期熟成古酒が豊富にストックされていたのではないかと推察されます。

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「安酒を敬いたまえ」シリーズ第二弾。今回はジムビーム編です。

Jim Beam Distillery◆ジムビーム蒸留所
ジムビームのロウ・ライ・マッシュビルには調べてみるとコーン/ライ/バーリーがそれぞれ、77%/13%/10%と75%/13%/12%の二つの説がありました。どちらが正解か判断がつかないので並記します。チャーリングレベルは# 4 とされ、バレルエントリープルーフは125です。

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JIM BEAM White Label 80 Proof
1000〜1300円程度
世界一売れてるバーボンと言われています。少なくとも日本で入手の容易さで一番なのは間違いないでしょう。そのため私は自分のレーティングの基準として現行ジムビームホワイトを78点と定め、それよりどれだけ上か下かという具合に点数を付けているのですが…さて、困りました。
この度の企画用にラベルデザインが変更になった物を購入し、試飲したのですが、前ラベルよりも味が落ちてるように感じるのです。前のはライトではあってもそれなりに美味しかったし、比較的味わいも安定していたと思うのですが、これはとても4年熟成とは思えないほど熟成感が乏しい。どうも当たり外れがあるのかも知れませんし、何らかの理由で味が落ちたのかも知れませんし、もしくは時が経過してから開封したら美味しかったのかも知れません。一応レーティングはしておきます。
弱々しいバーボンノート、米、コーン、ハチミツ、だいぶよく言ってパイン。開封して二週間位で少しマシになったものの、どうもピンとこない。前ラベルの物は、調子の良いとき(笑)は白ワインを思わせるマスカットの風味が感じれたのですが。そちらのはこちらをご参照下さい。
Rating:76/100

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OLD CROW 80 Proof
1200〜1500円程度
歴史あるブランドのオールドクロウも、今やビームの下層バーボンとなっています。マッシュビルはジムビームホワイトと同じで間違いないと思われますが、酵母も同じという説と、酵母は違うという二説がありました。正直言って酵母の違いまでは飲んでも私には判りません。マチュリティの違いが絡んでくるからです。ジムビームホワイトが4年熟成、オールドクロウは3年熟成と言われています。それでいて流通量の多いものは安価になるという経済法則によって、ジムビームのほうが安く買え、僅かながら高い価格のオールドクロウは、スペック的にみれば買う意味のないバーボンとなってしまいます。ところが…です。熟成というウイスキーの味の決め手となるプロセスが神の手に委ねられているせいか、それともマスターディスティラーの悪戯か、或いは会社の良心か、はたまた瓶内熟成(微妙な酸化)のお陰か、もしくはチャーリングやトーストのレベルを変えているのか、ともかくこのオールドクロウに関してはジムビームホワイトを上回ってます。
本ボトルは2012年ボトリング。全てがライトではあるし、穀物感もありありとあるものの、樽香、味の濃さ、余韻の深みはジムビーム白より少し良好。特に焦げた樽の風味は断然あります。ただし、全てのオールドクロウがこうではないと思われます。と言うのも私は1990年代後半と2000年代初頭に二本ほど当時の現行オールドクロウを飲みましたが、その時はジムビームホワイトより格下の味わいだと感じたからです。それらなら3年熟成と言われても納得出来る味であり、レーティングするなら76点でした。現在のオールドクロウは少しだけラベルデザインが違います。それの味わいはどうなんでしょうね。
Rating:79/100

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JIM BEAM RYE PRE-PROHIBITION STYLE 80 Proof
1400〜1500円程度
ジムビームライは私の過去投稿でレビューしてますのでこちらを参照して頂ければと思います。また旧ラベルのライ(俗にいうイエローラベル)もレーティングしています。
Rating:82/100

この他にビーム産の安バーボンには数年前までバーボンデラックスがありましたが、どうも現在では終売となったらしく、購入しづらくなってるので割愛させてもらいました。
また当企画における比較対象が同時点で購入したボトルでないことをお詫びいたします。

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WILD TURKEY 80 Proof
日本では通称スタンダードと呼ばれる、ワイルドターキー入門編(?)みたいなやつの旧ラベルです。中身は4年熟成と言われています。このラベルの後にセピアトーンのラベルに変わりますが、その時から81プルーフになり、6・7・8年熟成酒のブレンドとなったようです。

私にとって初めて飲んだワイルドターキーがこれで、当時キッズだった私は、ワイルドターキーは「ワイルドである」というイメージに導かれてこれを購入し、それほどワイルドとは感じなかった思い出があります。「あれ?こんなもんなの?」という印象だったんですね。しかし、後に8年101プルーフを飲んだ時、あまりの旨さとその違いに愕然とし、やっぱりワイルドターキーは「ワイルドだったんだ」と思わせ、同時に私をハイプルーフ信者へと駆り立ててくれたのでした。そういう経緯からこの80プルーフのワイルドターキーは私のルーツの一つと言っていい。
それから色々なバーボンを飲み経験を積んだ後、人生で二本目の80プルーフWTを思い出に釣られて買いました。既に8年101プルーフを飲みなれた口です。正直、侮っていました。ところが飲んでみると、これはこれでアリだと思いました。8年101プルーフと較べればヴァニラの風味は弱々しいけど、樽の焦げた味はちゃんとするし、梨の風味を凄く感じてフルーティーなんです。そこにブラックペッパーが振りかかってるイメージ。ちょっと薄いけど、しっかりワイルドターキーの味です。
Rating:82/100

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JIM BEAM RYE PRE-PROHIBITION STYLE 80 Proof
ジムビームライと言えば黄色!と言うイメージだったのですが、2015年に長年親しまれたイエローラベルからパッケージがリニューアルされました。アメリカンウィスキー業界全般に「ライは緑」みたいな流れがあるので、それに従っただけかも知れませんし、同社のノブクリークライも緑ラベルですから統一したのかも知れません。そのリニューアルに際し、ラベルには「PRE-PROHIBITION STYLE」と書かれるようになりました。このプリプロヒビションスタイルというのは、禁酒法以前のスタイルに立ち戻った、という意味でしょう。まあ、マーケティング手法の一つですが。
で、飲んでみると、凄くフルーティーでさっぱりとした飲み口が美味しいです。青リンゴの香りとか。昔のイエローラベルより美味しくなった気がします。よりライウィスキーらしくなった印象です。まさかマッシュビルに変更があったのでしょうか? それとも単なる生産年違いの風味違いに過ぎないのでしょうか? ビームの広報によると、ビーム家に伝わるレシピの中でも最も古い物を使っているとかなんとか言ってるのですが、それがどのレシピを指しているのか判然としません。熟成年数は最低4年であろうと思われますが、もしかするとイエローラベルより熟成年数の長い原酒が混ぜられているのでは?と想像します。それならばマッシュビルの変更はなくてもアップグレードに相応しいですからね。ともかくも美味しく感じるし、ボトルデザインもいい感じだし、今回のリニューアルは大歓迎です。
アメリカではボトルの形状が違う45度の物が一般的みたいで、そちらのほうがより飲み応えがあるのは間違いないですが、これはこれで軽ろやかな飲み物として成立してます。なにより1500円でこの旨さは常備酒にぴったり。
Rating:82/100

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