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オールド・オーヴァーホルトは数あるアメリカン・ウィスキーの中でも特別な位置を占める由緒あるブランドです。その長い歴史や家族の物語は以前の投稿で紹介しているので興味があれば覗いてみて下さい。ここではビームにブランドが移ってからの事柄のみ取り扱います。

1987年、アメリカン・ブランズ(後のフォーチュン・ブランズ)の子会社ジェームズ・B・ビーム・ディスティリング・カンパニーは、それまで長きに渡りオールド・オーヴァーホルトを所有して来たナショナル・ディスティラーズからブランドを購入しました。新しいオウナーは生産を統合するため、買収後すぐに同ブランドが製造されていたオールド・グランダッド蒸溜所での蒸溜を停止し、自社のメイン・ファシリティであるクレアモント(またはボストン)の蒸溜所での製造に切り替えました。こうした買収が行われた場合はウィスキーのストックも買い取るのが通例のため、買収後数年間はNDジュースを使用したかも知れませんが、少なくともそれがなくなると彼らは既にジムビーム・ライのために生産していたハイ・コーンなライ・ウィスキーを使ってオーヴァーホルトのブランドを作成しました。つまり、オールド・オーヴァーホルトとジムビーム・ライはラベルが違うだけで似たり寄ったりの製品になったのです。香りや味わいに違いを感じるとしたら、それはバレル・ピックやバッチングによる差と考えられます。ビームはブランドを買収してからの長い間、1990年までにオールド・オーヴァーホルトのプルーフを80に下げたことを除き、殆ど何もしませんでした。当時ライ・ウィスキーの人気は最底辺であり、まだ一部に残る消費者の需要に応えるために辛うじてブランドを存続させただけでした。2010年に迎えたオーヴァーホルト社の創立200周年の時でさえアニヴァーサリー・エディションの発売はありませんでした。しかし、ライ・リヴァイヴァルの到来によってそうした状況は徐々に変わって行きます。

クラフト・カクテルのバーテンダーを筆頭とする消費者は、その大胆でスパイシーなキャラクターを再発見し、2010年からの数年間でライ・ウィスキーの人気は急増しました。オールド・オーヴァーホルトの需要も増えたことで在庫は圧迫され、ビームは熟成年数を4年から3年に引き下げました。これは味わいの点ではマイナスでしたが、人気の再興による変化なのでプラスの面も齎しました。ビームがブランドを所有するようになってからの26年間、殆ど何も宣伝されなかったオールド・オーヴァーホルトは、2013年頃、同じくナショナル・ディスティラーズから引き継いでいたオールド・グランダッドとオールド・クロウを並べて「ザ・オールズ(THE OLDS)」としてウェブサイトでアピールされ出したのです。当時のビームのシニアPRマネージャーは「三つの象徴的なウィスキー・ブランドをまだ経験したことがない人に紹介することを目的としています」と述べていました。これはそれほど効果的な宣伝だったとは思えませんが、オールド・オーヴァーホルト復活の予兆ではありました。

2017年末もしくは2018年初め、長年に渡りブランドの生産を80プルーフに限定していたビームは、嘗てオーヴァーホルト社の主要製品だった100プルーフの「ボンデッド」を市場に再導入しました。これはライの売上が急落し続けたため1964年に製造中止になってから50年以上ぶりとなる復活でした。80プルーフのヴァージョンよりも確実に豊かなフレイヴァーを有する象徴的なオーヴァーホルトを再び楽しむことが出来ると飲み手が喜んでいると、2020年にはもっとエキサイティングなことが起こりました。先ずパッケージのアップグレードです。ボトルのプラスチック・キャップは黒色から昔のような赤色に戻り、「Since」と「1810」の文字が「BORN in PA」と「MADE in KY」に書き換えられ、「ボンデッド」ヴァージョンの名称は「ボトルド・イン・ボンド」に変更されました。そして何より、バーボン飲みにはブッカーズのバッチ・ステッカーの挿絵やオールド・グランダッドのベイゼル・ヘイデンの肖像、イエローストーンやレッドウッド・エンパイアのイラストを手掛けたことでお馴染みのアーティスト、スティーヴン・ノーブルによる緻密な筆致によって、オールド・エイブのポートレイトが初期さながらの不機嫌そうな表情に生まれ変ったのです。
更に重要なのは、スタンダードなヴァージョンが86プルーフに引き上げられた上に、BiBと共にノンチルフィルタードの仕様になったことでした。これで以前は失われていたエステルと脂肪酸の一部が残ることが期待されるでしょう。この変更の理由をビーム・サントリーのライ・ウィスキー担当者ブラッドフォード・ローレンスは「歴史的な理由もありますが、バーテンダーがカクテルを創造する際に、より良いリキッドを作るためです」と述べていました。そして、変化の波はこれだけに終わりません。
2020年の後半には、ペンシルヴェニア州とオハイオ州のみの限定販売ながら、バレルプルーフに近い114プルーフで4年物のライと、長期熟成ライとなる11年物で92.6プルーフの2種類がリリースされました。11年物は1回限りのリリースでしたが、114プルーフのヴァージョンは2021年半ばから全国展開されるようになりました。2022年夏には、スタンダードな86プルーフの3年熟成が廃止され、新たに4年熟成に引き上げられました。この変更はオーヴァーホルトの1942年のオリジナル・エイジ・ステイトメントに敬意を表したもので、同社によれば歴史的なルーツへの回帰を示すものだと言います。「ホーム・バーのお気に入りでありバーテンダーの定番でもあるオールド・オーヴァーホルトは、常に酒好きやライ愛好家達に信頼性の高い高品質のライを提供してきました」、「熟成年数表記を4年に戻すことで、私たちが知り、そして愛してもいるオーヴァーホルトをより忠実な姿で提供することが出来ます」と、ビーム・サントリーのアメリカン・ウィスキー・アンバサダーであるティム・ヒューイスラーは述べていました。
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更に今年(2023年4月)には驚きの情報が齎されます。オーヴァーホルト・ライウィスキーの新ラベルがTTBウェブ・サイトに掲載されたのですが、そこにはビームがオーヴァーホルト・ブランドを所有して以来使用している標準的なケンタッキー・スタイルのコーン多めのマッシュビルとは異なる、往年のペンシルヴェニア・スタイルに特徴的なコーンを使用しない80%ライ、20%モルテッドバーリーの全く新しいマッシュビルであることが示されていました。しかもペンシルヴェニアで栽培されたモノンガヒーラ・ライを調達しているらしいのです。ラベルには「モノンガヒーラ・マッシュ」とありますね。
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ライ・ウィスキーの市場がここ10年で飛躍的な成長を遂げたことで愛好家達の製品に対する本物志向の要求は高まりました。ライの本拠地とも言えるペンシルヴェニア州では地元の有名なスピリッツを復活させるために日々努力を重ねるクラフト・ディスティラリーが数多くあり(*)、彼らはポット・スティルを用いてより伝統的な蒸溜方法を行ったりします。また、伝統的なライ麦品種を繁殖させ、時の流れの中で失われてしまった風味を取り戻そうとしているメーカーもあると聞きます。ペンシルヴェニア州ではないものの(コロラド州)、リオポルド・ブラザーズのように嘗てライ・ウィスキー造りの主流だったスリー・チェンバー・スティルを復活させる蒸溜所まであります。こうしたライ・ウィスキー本来の味と香りを愛好家のために取り戻したいという真剣な思いに呼応するかのように、ビームもオーヴァーホルト・ブランドをペンシルヴェニアのルーツに立ち返らせるべく改革に乗り出した、と。現時点では、現行のオーヴァーホルトが廃止されてこの新しいオーヴァーホルトになるのか、はたまた現在のラベルを存続させつつその上位互換としてこのモノンガヒーラ・スタイルも並行して販売されるのかは定かではありません。おそらくこのラベルのリリースはもう少し先でしょう。ライ・ウィスキーは近年のルネッサンス以前は辛うじて生命を維持されているに過ぎない存在に見えましたが、それはもう過去の話となりました。今、ライ・ウィスキーの歴史そのものと謂えそうなオーヴァーホルトという偉大なブランドは、嘗ての栄光を再び浴びる好機を得ています。今後が楽しみですね。

偖て、今回飲むのは4年熟成になる前段階の3年熟成のノンチル物です。ちなみにビームのライ・マッシュビルは非公開ですが、51%ライ、35%コーン、14%モルテッドバーリーと推測されています。他の説としては、日本ではライを59%としていることが多く見られます。これの出典が何処からなのか定かではありませんが、日本のバーボン・ファンにはお馴染みの91年発行の『オール・ザット・バーボン』や97年発行の『ザ・ベスト・バーボン』ではそう断言されていました。また、ライ61%と云う説もあり、これはどうやらジム・マレイの著書『The Complete Guide to Whisky』(1997)に由来するようです。これらの説のうち、どれを信頼していいのか私には判断がつきません。詳細ご存知の方はコメント欄よりご教示下さい。では、そろそろ伝統あるブランドを注ぐとしましょう。

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OLD OVERHOLT STRAIGHT RYE WHISKEY NON-CHILL FILTERED 3 Years Old 86 Proof
推定2021年ボトリング。ゴールド寄りのアンバー。グリーングラス、ライスパイス、微かなヴァニラ、胡椒、薄っすら林檎、トーストブレッド。草っぽく少しフローラルなトップノート。中庸な口当たり。パレートはほんのり甘く、かつスパイシー&ドライ。余韻はあっさりと退けて行くが、ほろ苦さが心地良い。液体を飲み込んだ直後のキックがハイライト。
Rating:80/100

Thought:立ちのぼる香りはやや弱く、ボディも軽く、後味も特別なものではないものの、若い原酒のため渋みが殆どないので飲み易いし、僅かにオイリーなところは気に入りました。個人的にはもっと甘いかフルーティな方が好みではありますが、おそらく甘いのが苦手ですっきり飲みたい人には向いていると思います。カクテルベースには言わずもがなでしょう。
ところで、一つ気になることがあります。ジムビーム・ライのラベルが或る時リューアルしましたよね。黄色から緑色のラベルに変わり、プリプロヒビション・スタイルという名称が付きました。それを数年前に飲んだ時、私は従来よりフルーティで美味しくなったと思いました。きっと何かが改良されたのだろう、と。ビームのライ・マッシュは一種類と聞いているので、それならオーヴァーホルトも美味しくなっているに違いないと思って今回飲み始めた訳です。ところが、このオーヴァーホルトはそのジムビーム・ライとは随分とキャラクターが異なる印象を受けました。私にはジムビーム・ライはフォアローゼズ(特にブラックより上位の物)に近しいフルーティさを感じ、オーヴァーホルトはオーヴァーホルトのままと言うか、多少の違いはあれども下で言及する以前の黒キャップの物と同傾向のスパイシーでドライな特徴を維持しています。付け加えると、短命に終わったビームのプレミアム・ラインのライに(rī)¹[※ライワンと発音]というのがありましたが、それもジムビーム・ライ緑ラベルと同系統のフルーツ・フレイヴァーを有していました。これって、ジムビームのライとオーヴァーホルトのライとをバレル・セレクトによって造り分けてるのですかね? まさか、マッシュビルが複数あるのでしょうか? はたまたイーストを変えているのでしょうか? 仔細ご存知の方は是非コメント頂けると助かります。

Value:現行のオールド・オーヴァーホルト4年のMSRPは750mlボトルで約20ドル。日本では大体2200〜2800円くらいが相場のようです。熟成年数から見ると品質は同価格帯のバーボンと殆ど同じか少し低いくらいなのですが、80プルーフという最低限のボトリングでもないし、ノンチルフィルタードは通常は高級品の仕様と見ることも可能ですから、コストパフォーマンスは高いと言えるかも知れません。現行のオールド・オーヴァーホルトは、入手のし易さといい、比較的安価な値段といい、ライらしさの一面を味わえる点といい、ライ・ウィスキーへの初めての入り口としてはオススメです。

あと、かなり昔に飲んだボトルが取ってあったので、おまけでその感想も添えておきます。

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OLD OVERHOLT STRAIGHT RYE WHISKEY 4 Years Old 80 Proof
推定2003年ボトリング(瓶底)。確か2013年頃に当時販売されていた黒キャップのオーヴァーホルト(3年熟成)を飲み終えた直後に開封して味比べをしました。その2013年あたりのオーヴァーホルトは風味が薄くてあまりピンとこなかったんですよね。点数にすると78点くらいがいいとこです。多分、2013年より少し前から2018年頃までのボトルはオーヴァーホルト史上、最も低レヴェルな味わいかも知れません。それに較べるとこちらはよりミンティさがある上に円やかで全体的に風味がもう少し強く美味しかった記憶があります。この頃のラベルは後の物より黄色っぽく、キャップの色も赤というより小豆色でした。
Rating:80/100
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*ペンシルヴェニア州のクラフト蒸溜所
1675 Spirits (Bucks County)
Altered State Distillery (Erie County)
Barley Creek (Monroe County)
Barrel 21 Distillery (Centre County)
BlueBird Distilling (Chester County)
Boardroom Spirits (Montgomery County)
Brandywine Branch Distillery (Chester County)
Chicken Hill Distillery (Elk County)
CJ Spirits (McKean County)
Cooper Spirits (Philadelphia)
County Seat Spirits (Lehigh County)
Crostwater Distilled Spirits (York County)
Dad’s Hat Rye (Bucks County)
Dead Lightning Distilled Spirits (Cumberland County)
Disobedient Spirits (Indiana County)
Eight Oaks Distillery (Lehigh County)
Five Saints Distilling (Montgomery County)
Hazard’s Distillery (Juniata County)
Hewn Spirits (Bucks County)
Hidden Still Spirits  (Dauphin County)
Hughes Bros Distilling (Bedford County)
Hungry Run Distillery (Mifflin County)
Lakehouse Distilling (Franklin County)
Liberty Pole Spirits (Washington County)
Lucky Sign Spirits (Allegheny County)
Midstate Distillery (Dauphin County)
Nomad Distilling (Lycoming County)
New Liberty Distillery (Philadelphia)
Manatawny Still Works (Montgomery County)
Mason Dixon (Adams County)
Pennsylvania Distilling (Chester County)
Red Brick Distillery (Philadelphia)
Silverback Distillery (Monroe County)
Stoll and Wolfe (Lancaster County)
Strivers’ Row Distillery (Philadelphia)
Thistle Finch Distillery (Lancaster County)
Wigle Whiskey (Pittsburgh)

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バーFIVEさんでのラストの三杯目は、メドリー・バーボン(*)にしました。メドリー・ファミリーはバーボン・メーカーとして大きな存在です。彼らはオーウェンズボロの街の西側、オハイオ・リヴァーに沿った地に三つの蒸溜所を立て続けに所有/運営していました。1900年代初頭から1992年に最後の蒸溜所が閉鎖されるまで、それらの蒸溜所はウェスト・ケンタッキーのウィスキー産業を盛り上げ、オーウェンズボロの歴史に忘れられない足跡を残しました。今回はそんなケンタッキー・ウィスキーの重要な一家の興味深い歴史をざっくりと振り返ってみたいと思います。

メドリー・ファミリーは20世紀初頭にオーウェンズボロの蒸溜産業と結び付きましたが、アメリカに於ける彼らの蒸溜の伝統はもっと前に遡ることが出来ます。1634年、ジョン・メドリーはイングランドからスティルを携え、ボルティモア卿が英国カソリック信者の避難所として設立した新天地メリーランドにやって来ました。後にセント・メアリーズ郡となり、ポトマック・リヴァーに接したメドリーズ・ネックとして知られるようになった地域に定住したようです。その地域をグーグルマップで見てみたら、今でもメドリーズ・ロードやメドリーズ・リヴァーなどあり、その地域一帯がメドリー家に所縁があったことが察せられました。その当時の時代は資料に乏しく、彼らがどのようなウィスキーを造り、どのような生活を送ったのかは定かではありません。想像するに、余った穀物を利用して生活の必要から蒸溜をする、当時の極く当たり前のことをしていたのではないでしょうか。メリーランドはライ・ウィスキーの産地としてペンシルヴェニアと並び称される地ですから、もしかするとメドリーズがそのまま同地に居座り続けていたら、ライ造りの王朝を築くことにでもなったかも知れませんが、歴史はそのように動きませんでした。

ジョン・メドリーの時代から時を経た1800年頃、子孫であるジョン・メドリー6世(**)は一族を引き連れてカンバーランド・ギャップを越え(***)、バーズタウンのネルソン群やレバノンのマリオン群と隣接するケンタッキー州ワシントン群に移住します。「アメリカのホーリー・ランド」と目されたケンタッキー州のこの一帯には、他にもビーム家、ワセン家、ヘイデン家などケンタッキー・ウィスキーの歴史に名を残す著名なカソリック教徒が入植していました。「ジャック」とも知られたジョン・メドリー6世は、1802年にスプリングフィールド近くのカートライト・クリークのシェパーズ・ランにある農場を購入してスティルを1〜2基設置、1812年には商業用の蒸溜所を経営し、ウィスキー・ビジネスを始めた創始者とされます。メドリーズの第何世代マスター・ディスティラーという言い方は、彼を第1世代としてカウントしていますね。主に地元で販売/消費される少量のウィスキーを製造する彼の蒸溜事業は成功を収め、1814年に亡くなった時、その財産目録の一部には二つのスティルと40のマッシュ・タブが記載されていました。彼は、1806年に建てられたスプリングフィールドのセント・ローズ・チャーチに埋葬されました。そこは現在も教会として使用されており、アレゲイニー山脈の西側では最も古い建造物らしいです。彼の死後、残った家族は何年もの間そのワシントン郡の蒸溜所を経営し続け、蒸溜者の技術は父から子へと受け継がれて行きました。ジョン6世からトーマス、ウィリアム、ジョージ・Eへという流れです。

トーマス・メドリー(1786-1855)に関しては何も分かりません。ウィリアム・メドリーは、父親がメリーランド州から移住してきた後の1816年にワシントン郡で生まれました。彼は比較的短命でしたが、サム・K・セシルの本では、メドリー家の中で最初にウィスキー・ビジネスに参入したのはジョージの父ウィリアムとあり、亡くなる前の或る時期(1840年頃?)にセント・ローズ近くのカートライト・クリークに蒸溜所を設立したとされています。もしかすると家業を大いに発展させたのは彼なのかも知れない。ウィリアムはディスティラーとして生計を立てた他に鍛冶屋と一般食料品店も持っていたらしく、1841年3月から1850年12月までの台帳によると、上質の一級品バーボンを1ガロンあたり24セントで量り売りし、スティルの修理や樽職人の仕事にも精通していたようです。彼は1853年3月6日、37歳の若さでチフス熱で死亡しました。ウィリアムの死後、まだ若い妻と1850年に生まれたジョージ・エドワードを含む未成年の子供達が残されました。一家はウィリアムの母エリザベスやオズボーン(妻の旧姓)のファミリーと共に住んでいたと言います。当時の国勢調査で17歳のジョージ・Eは、職業はなく「家にいる」と記録されていたとか。成長したジョージは街で仕事を探し、スプリングフィールドの食料品店で働きました。そして、そこでトーマス・ウィリアム・シムズとマーガレット・エレン・モンゴメリーの娘で通称「ベル」と呼ばれるアナ・イザベル・シムズという花嫁を見つけ、1875年11月に結婚し、後に10人の子供を儲けました。どうやらシムズ家はケンタッキーのディスティリング・ビジネスに携わっていたようです。トーマス・ウィリアムの兄弟のジョン・シムズはバーズタウン近くのマッティングリー&ムーア蒸溜所の社長を一時期務めていました。メドリーの一族はこの地域の他の蒸溜所にも関わっており、ジョージ・Eは1870年にリチャード・ニコラス・ワセンが蒸溜所を開設した時に彼のために働きに行ったとの話も伝わっています。また彼はシムズ家との繋がりがあったからなのか、マッティングリー&ムーア蒸溜所でもキャリアを積んだそうです。このジョージこそが、メドリー家の蒸溜の伝統をケンタッキー州中部のワシントンから、130マイル離れた西部のオーウェンズボロに移した人物でした。

1901年、ジョージ・エドワード・メドリーはオーウェンズボロにあるデイヴィス・カウンティ蒸溜所(第2区RD#2)の所有権の一部を、同地の蒸溜業界に大きな足跡を残したモナーク家から購入しました。1904年になると、ルイヴィルのディック・メッシェンドーフ(****)がメドリーと共同で工場全体を買収し、ジョージ・Eはオウナーとなります。この蒸溜所は1874年(または1873年とも)にルイヴィルのカニンガム・アンド・トリッグによって建設され、ある時点で社長のリチャード・モナークと副社長兼財務担当のジョン・キャラハンによって運営されていました。場所はケンタッキー州第3の都市であり郡庁所在地でもあるオーウェンズボロのすぐ西、オハイオ・リヴァーの湾曲部近くの位置でした。1892年に作成された保険会社の記録によると、蒸溜所は2階建てのフレーム構造、屋根は金属かスレートで、敷地内には牛舎と三つの倉庫があったそう。1904年時点のマッシング・キャパシティは1日当たり50ブッシェルでした。
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(The Wine and Spirit Bulletinより)
この蒸溜所の旗艦ブランドは「ケンタッキー・クラブ」でした。1905年の広告では「この蒸溜所では、一つのブランド、一つのグレード、厳格なオールド・ファッションド・サワーマッシュ・ウィスキーしか製造していない」と紹介されています。ガラス瓶に最小限のエンボス加工を施してゴールド・ペーパー・ラベルを貼り販売されていました。またブランドを宣伝するエッチングが施されたショットグラスを取扱店やお得意様の顧客に提供していたようです。年月が経つにつれ、彼らのウィスキーは全国的な評判を獲得し、売上も急成長しました。多くの蒸溜一家がそうだったように、ジョージ・Eも6人の息子たちを家業に従事させます。父がビジネスで成功して裕福だったのか、長男のトーマス・アクィナスはロー・スクールを含む高等教育を受けており、彼はオーウェエンズボロに移って父の経営を手伝うようになると、その能力を発揮してデイヴィス・カウンティ・ディスティリングの事務兼財務担当となりました。ベネディクト・フランシスはディスティラー兼副社長、パーカー・"ジョー"・メドリーはマネージャーに、残るウィリアム、ジョージ・エドワード2世、フランシス・ジョセフの3人も何らかの形で蒸溜所で働いたと思われます。

そうこうするうち一家の長ジョージ・エドワードは健康を害し、1910年のクリスマス・イヴにちょうど60歳で亡くなりました。蒸溜所は長男のトーマス・Aが引き継ぎました。それから1年も経たずに、メドリーズに初めての大きな危機が訪れます。業界で最大規模の火災が発生し、蒸溜所にあったボトリング・ハウスと熟成ウィスキーの入ったボンデッド・ウェアハウス1棟が全焼したのです。12000バレルのウィスキーが焼失し、推定価値は1911年のドルで30万ドルでした。報道によると、損失の一部は保険で補償されるものの、残りはメッシェンドーフとそのパートナーの負債になったようです。この損失にも拘わらずマイダズ・クライテリアは翌年もデイヴィス・カウンティ蒸溜所の価値を150000〜200000ドルの間であると評価したそう。施設は火災後すぐに再建され、工場も拡張、マッシュの生産量は500ブッシェルから750ブッシェルに増加しました。トーマス・Aのリーダーシップのもと会社は禁酒法が施行されるまで繁栄を続けますが、ご多分に漏れず蒸溜所は閉鎖されてしまいます。トーマス・Aはウィスキーのバレルをワセン・ブラザーズに売却して禁酒法時代を乗り切りました。ウィスキーのストックはルイヴィルの集中倉庫に移され、後にナショナル・ディスティラーズとなるアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってボトリングされることになります。オリジナルのデイヴィス・カウンティ蒸溜所は、1928年に食肉加工業者のフィールド・パッキング・カンパニーに売却され、食肉加工工場になりました。この会社は1914年にオーウェンズボロでチャールズ・エルドレッド・フィールドにより創業され、彼は2人の従業員と馬車、小さな屠殺場からフィールド・ブランドを立ち上げると、ハム、ベーコン、ソーセージなどの食肉製品はすぐに成功を収めました。今でもこの会社の工場は現在のグリーン・リヴァー蒸溜所(後述)の隣にあります。
その他に、この時代のこの蒸溜所にはちょっとした伝説?なのかこんな話も伝わっています。「…禁酒法施行後、政府のエージェントはオーウェンズボロの熟成倉庫にあったバレルを差し押さえた。しかし、メドリー家が所有するデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーの元従業員は、倉庫の奥にある板が緩んでいて取り外せることを知っていた。彼らは夜な夜な忍び込んでバレルを動かし、自宅でボトリングをした。そして地元の医師や薬剤師の協力を得て、それらをメディシナル・ウィスキーとして公衆に販売した。このようなことが繰り返されていたが、或る時、政府機関の在庫調査によりバレルがなくなっていることが判明し、板が交換された…」。

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(Thomas A. Medley)
禁酒法が解禁されると、メドリーズは再び動き出しました。トーマス・アクィナス・メドリーは自分の息子達をビジネスに引き入れ、1933年にワセン・ブラザーズから旧ロック・スプリング・ディスティリングのプラント(第2区RD#18、禁酒法後に#10)と敷地を取得しました。ここまでに何度か名前を出しているワセン・ファミリーは、19世紀末にケンタッキー州で最も成功したディスティラーズの一つです。メドリーズもワセンズもメリーランドからケンタッキーへ移住したカソリック教徒の一員でした。リチャード・ニコラス・ワセンにはフローレンス・エレンという娘がおり、1902年、トーマス・Aとフローレンスが結婚することで、ケンタッキー州の大きな蒸溜家族の二つが結び付きました。トーマスとフローレンスの二人は結婚を記念して、長男をリチャード・N・ワセン・メドリーと名付けています。こうした関係があったことは、蒸溜所の取得を容易にしたのでしょうか? 禁酒法以降にメドリー家が最初に所有したこの蒸溜所の起源はよく分かりません。セシルやコイト・ペーパーを参照にすると、1881年以前はアレグザンダー・ヒルとW・H・パーキンスが運営していたとされ、彼らは1881年にこの工場をJ・T・ウェルチに売却し、1889年には経営者がA・ローゼンフィールド(ローゼンフェルドとも)とエイブ・ハーシュとなり、「ヒル&ヒル」、「ティップ・トップ」、「J.T.ウェルチ」等のブランドがあったとのこと。その後、(おそらくアーロンの息子の)サイラス・ローゼンフィールドにプラントは10年間リースされ、1906年にロック・スプリングの名前を獲得し有名になり、そして禁酒法が始まった頃にこの施設はワセン・ブラザーズに買収され、ストックのウィスキーはヒル&ヒルのブランド名でアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってボトリングされました。禁酒法の後、このブランドはナショナル・ディスティラーズの所有となります。一方、オーウェンズボロの蒸溜産業を紹介する1942年の新聞記事では、少し異なるように見えるストーリーが書かれていました。掻い摘んで抜き出すと、…1877年、ヒルとパーキンスはE・C・ベリー蒸溜所を買収すると、ヒル&パーキンスの名で操業し、彼らは「E.C.ベリー」を製造し続けた。…同地の古い蒸溜所の一つにW・S・ストーンが経営していたオールド・ストーン蒸溜所というのがあり、ストーンは暫く後にM・P・マッティングリーとニック・ランカスターに売却、数年後にマッティングリーはランカスターから事業権を買い上げた。そこでランカスターはディーンとヘルのベンチャー企業と手を組むようになった。S・M・ディーン、ヘンリーとジェイムス・ヘア、ニック・ランカスターはこの時以前、現在(当該記事の執筆時)フライシュマン蒸溜所がある近くの川沿いにあったグリスト・ミルを蒸溜所に改造していた。…それから、そのローゼンフェルド(おそらくアーロンを指している)がディーン、ヘア、ランカスターの経営する蒸溜所を購入しロック・スプリングスと改名し、有名な蒸溜所となってプロヒビションまで運営された、とあります。この件はいまいち分かりづらいので、仔細ご存知の方はコメントよりご教示下さい。それはともかく、グリーン・リヴァー施設の遺跡のすぐ北にあり、メドリーズが引き続きデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーと名乗っていたこの蒸溜所は、禁酒法解禁後に幾つかの改装を経て、1934年秋にマッシングを開始しました。同業他社と同じように、トーマス・Aはビジネスを確立するにあたり未熟成スピリッツをリリースしたようです。彼が最初にメドリー・ファミリー・ウィスキーを再導入した時は30日熟成だったとされ、それは禁酒法以前のバーボンとは程遠いものでしたが、それでも大衆は大喜びしたとか。次いで60日熟成のバーボンが登場し、より熟成したバーボンの貯蔵量が十分に確保され、安定して提供できるようになるまで続けられたと言います。バレルの備蓄が増えるに従って、熟成年数は長くなったでしょう。しかし、何かが上手く行かなかったのか、蒸溜所は1940年にフライシュマンズ・ディスティリング・カンパニーに売却されました。フライシュマンは1970年代までこの工場を運営し、その間に粉砕、マッシング、蒸溜を完全に自動化しました。ボトリングは州外にある同社の工場で行われたとされます。その後、紆余曲折を経て、1992年に取り壊されました。

家族の利益のために活動を続けていたトーマス・アクィナス・メドリーは、事業をフライシュマンズに売却して引退すると、残念ながらすぐに亡くなりました(*****)。しかし、彼の6人の息子達は蒸溜所の売却から得た資金で、元グリーン・リヴァー蒸溜所の跡地に再建されていたケンタッキー・サワー・マッシュ蒸溜所を購入し、1940年、メドリー・ディスティリング・カンパニーを組織します(初めはオーウェンズボロ・ディスティリング・カンパニーと名乗り、後に改名した)。旧デイヴィス・カウンティ蒸溜所にはトーマス・Aの兄弟らが関わっていましたが、新しい工場はトーマス・Aの息子の兄弟達がオウナーとなりました。1946年にはパートナーシップをコーポレーションに改組。彼らの新しい主力ブランドは「メドリー・ブラザーズ」でした。トーマス・Aの息子は8人いましたが、ウィリアム・パーカーとジェイムス・バーナードは小さいうちに亡くなっており、残りの6人は上から順にリチャード・ワセン、ジョージ・エドワード3世、トーマス・アクィナス・ジュニア(通称トム)、ジョン・エイブル、ベネディクト・フランシス2世(通称ベン)、エドウィン・ワセンです。この中でジョージは1944年に若くして亡くなっており、メドリー・ブラザーズ・バーボンのラベルには5人の肖像しか描かれていません。ちなみにエドウィンも比較的短命で1953年に亡くなっています。
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ワシントン・カウンティの時代から数えて家族所有の4つめとなった通称メドリー蒸溜所(RD#49)の場所に最初の蒸溜所が建てられたのは1885年とされます。後にグリーン・リヴァー蒸溜所として有名になる以前は人名でJ・W・マカロー(第2区RD#9)と呼ばれていました。ジョン・ウェリントン・マカロック(おそらくMcCulloughからMcCullochになった)はUSインターナル・レヴェニューの職員としてウィスキー業界に入り、ケンタッキー州オーウェンズボロ地区でゲイジャー(計測係)の仕事をしていました。彼はそこで生産されるウィスキーについて十分な知識があり、自分でも一流のウィスキーを造ることができると考えたのでしょう、1888年にその蒸溜所を購入しました。彼が建設したとする説や1889年頃建てられたとする説もありますが、詳細は判りません。1891年、マカロックはオーウェンズボロの西方にある川からグリーン・リヴァーと名付けたウィスキーを発表し、広告を始めました。するとグリーン・リヴァーは瞬く間にアメリカで最も宣伝されるウィスキーとなります。そのキャッチフレーズは「The Whiskey Without a Headache(頭痛のしないウィスキー)」でした。
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その他のブランドには「マウンテン・デュー」、「ケンタッキー・ムーンシャイン」等があり、どれもハンドメイド・サワー・マッシュと宣伝されたそうです。1900年、マカロックは事業を法人化し、社名をグリーン・リヴァー・ディスティリング・カンパニーに変更。オーウェンズボロ、ルイヴィル、シンシナティ、シカゴにオフィスを構え、販売はニューヨークのE・A・モンタギューと契約していたらしい。1916年頃はマカロックが社長、ジョン・L・レインが事務兼会計を務めていました。しかし、1918年、マカロックは災難に見舞われます。8月24日、オーウェンズボロで過去最大の火災が発生し、たった3時間でグリーン・リヴァー・ウィスキーの熟成樽が入った倉庫を含む殆ど全ての建物が灰の山と化したのです。蒸溜所にとって火災は常に最大の危険であり、バーボンの歴史の多くは蒸溜所の火災の歴史でした。グリーン・リヴァー蒸溜所の火災のニュースは、第一次世界大戦の記事をもトップページから引き降ろし、炎は40マイル以上離れたインディアナ州エヴァンズヴィルでも見えるほどだったと言います。三つの倉庫の一部は助かったものの、マカロックは18000バレルの熟成ウィスキーを失い、損失額は3000000ドル(現在の45000000ドル)と見積もられました。禁酒法が迫る中、火災の被害を受けた施設はすぐに修復されることはなく、残ったウィスキーは禁酒法施行時にウッドフォード・カウンティのオールド・テイラー施設にある連邦政府が管理する集中倉庫に送られ、後にアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってグリーン・リヴァーのラベルを使い薬用としてボトリングされました。その後、グリーン・リヴァー・ブランドはニューヨークのオールドタイ厶・ディスティラーズ・インコーポレイテッド(スペルは"OLDETYME")に買収され、彼らが販売するようになりました。禁酒法廃止後は広告に関する法律が厳しくなり、グリーン・リヴァーの有名なスローガンである「頭痛のしないウィスキー」は、それに合わせて「The Whiskey Without Regrets(後悔のないウィスキー)」に変更されています。
1918年の大火災により大部分を焼失していたグリーン・リヴァー・プラントは禁酒法時代に取り壊されましたが、ジャック・サリヴァンのブログ記事によると、マカロックの家族は引き続き土地を所有しており、禁酒法が廃止されると施設を再建し、グリーン・リヴァー・ウィスキーの生産を開始、1933年12月にジョン・W・マカロック・ジュニアによって法人化されたものの、彼らはウィスキー・トレードの難しさを実感し、家族経営は僅かな期間しか続かず、上述のようにブランドをオールドタイムに売却した、とされています。おそらく土地と建物は1936年にケンタッキー・サワー・マッシュ・ディスティリング・カンパニーに売却されました。この会社は、そもそもは嘗てオーウェンズボロの蒸溜王として君臨したM・V・モナークの経営していた幾つかの蒸溜所の一つ(RD#12)でした。そこでは「M.V.モナーク」、「ケンタッキー・ティップ」、「ソーヴレン」、「ジョッキー・クラブ」をボトリングしていたと言います。そして禁酒法廃止後、ケンタッキー・サワー・マッシュ・ディスティリングとして復活させようとした人がいました。復活した同社は多くの設備を導入し、現在にまで継承される建物を建て、1937年に稼働を始めて1349バレルのウィスキーを蒸溜したそうです。しかし、資金不足に陥り、1939年に倒産して債券保有者に買い取られ、それが1940年(1939年という説も)にメドリーズに売却された、と。

リチャード・ワセンを中心とする5兄弟が責任者となったメドリー・ディスティリング・カンパニーは、創業早々から厳しい世界情勢に直面したと想像されます。時は第二次世界大戦の時代です。メドリー蒸溜所にはスティレージと知られる蒸溜残滓を乾燥させ牛の飼料にするために使用されるドライヤー・ハウスが建設されました。そうしたDDG(ディスティラーズ・ドライド・グレイン)と呼ばれる製品は、戦争努力の一環として国中の牛の飼料工場に出荷されました。そして、大戦中に国の全ての蒸溜所は戦争のために工業用アルコール(190プルーフ)の生産に転換されました。戦争期間中、メドリー蒸溜所はU.S.アーミーが操業を引き継ぎ運営が行われたと言います。工業用アルコールは、ゴム、不凍液、テトラエシル鉛、パラシュート用レーヨン、エーテルなどの製造に使用されました。ジープ1台を製造するには23ガロン、16インチ海軍砲弾1発を製造するには1934ガロン、手榴弾64個もしくは155mm榴弾2発を製造するには1ガロンの工業用アルコールが必要とされています。それでも飲料消費用のアルコールを製造することが出来る3か月間の「ディスティリング・ホリデイ」がありました。40年代のメドリー社の製品の多くはこの期間に生産されたものなのかも知れません。
彼らのブランドには、先に紹介したメドリー・ブラザーズの他に、発売年代が特定できないので後年のものも含みますが、「ファイヴ・ブラザーズ」、「オールド・メドリー」、「メドリーズ・ケンタッキー・ボー」、「メロウ・ボンド」、「ワセンズ・ケンタッキー・バーボン」、「メドリー・バーボンUSA」、「メドリーズ・ケンタッキー・バーボン」、「メロウ・コーン」等があります。その他にも地域限定もしくは輸出向けのブランドもあるでしょうか。上の中で特筆すべきはワセンズ・バーボンかも知れません。多くのウィスキーが大規模なウィスキー・ハウスに大量に販売される中、ウィスキーを熟成させる倉庫の中に他の物とは一線を画す極上のバーボンを生み出す「スウィート・スポット」があることに気付いたリチャード・ワセン・メドリーは、優れた品質のシングルバレルをピックして自らの名前でブランド化し、これが市販された最初のシングルバレル・バーボンであるとの話もありました(真偽不明)。また、1951年には楽器のバンジョーを模したボトルの特別なメドリー・バーボンを導入し、長年に渡って何度かリリースされ、そのユニークなボトル・デザインからコレクターズ・アイテムとなったりしています。基本的に彼らの主要ブランドは、バーボンの創始者や地名にちなんだ名前を採用するより、自身の家族を強調したブランディングなのが特徴と言えるでしょう。
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第二次世界大戦後の好況期、ケンタッキー・フライドチキンのハーランド・デイヴィッド・サンダースが着用しているようなケンタッキー・カーネル・タイを一種のトレードマークとして採用し、販促品として配ることもあったそうです。そう言われてみれば、メドリー・ブラザーズ・バーボンに採用されている兄弟の写真はカーネル・サンダースのような格好をしているように見えます。メドリー社は、ナショナルやシェンリーのような「ビッグ・フォー」やそれらに次ぐコンチネンタルよりも小規模な会社でしたが、上手く地域密着型のビジネスを展開していました。いつの頃か明確ではありませんが、メドリー蒸溜所は地域社会に於ける女性の最大雇用者の一つで、5つのボトリング・ラインで250人以上の女性が働いていたと言います。彼らの事業は健全でしたが、継続的な成長と多角化のために十分な資金を自分たちで調達することは出来ず、1959年、蒸溜所を酒類輸入会社のレンフィールド・インポーターズに売却しました。当時の新聞記事によると、レンフィールドはメドリー・ディスティリング・カンパニーを10000000ドル以上の現金で買収した、とあります。メドリー家の兄弟のうち二人、ジョン・Aとリチャード・Wはそのまま残って運営に当たりました。

一方、1960年(1961年という説も)にベンとトム・メドリーは独立し、家族経営の5番目の蒸溜所としてオーウェンズボロの中心部から凡そ9マイル西のスタンリーに新しい蒸溜会社を立ち上げました。この蒸溜所は、オールド・スタンリー蒸溜所(RD#76)と言いますが、調べると彼らが一から新しく建設したとする記述と元からあった蒸溜所を購入して再建したとする記述の両方が見られます。どちらが正しいのか私には判断が付きません。この蒸溜所のデザインはスティル・ハウス、ドライヤー・ハウス、ボイラー・ルーム、ボトリング・ハウスを一つの屋根の下に配置したものでした。ボトリング・ハウスは3つのラインを備え、各サイズから変更する際の遅れを避けるため、それぞれ1つのサイズに対応するようになっていたそうです。倉庫はメイン・ファシリティの近くにあり、5000バレルを収容する規模でした。しかし、その操業は短命で、スタンリーの蒸溜所は僅か1年間しか蒸溜しなかったと言います。おそらくその後はボトリング・セクションと倉庫のみが使われ、所謂NDPとして活動したのではないでしょうか。1966年頃には6つのみのバーボン・ブランドとウォッカとジンがリストされていたそうなのですが、画像で確認出来たのはその名も「オールド・スタンリー」くらいで、他のブランドは不明です。ただ、現在はヘヴンヒルが製造している「トム・シムズ」の商標登録が63年のようなので、おそらく6つのうちの一つはそれではないかと。このトム・シムズという名は、おそらく前述のジョージ・エドワード・メドリー1世の義理の父トーマス・ウィリアム・シムズから由来していると思われます。
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セシルの本によると、彼自身が1970年代初頭にこの蒸溜所を訪れた時、(蒸溜機の)運転はされていなかったが、約2000バレルのウィスキーが生産されていたそうです。続けて「1977年12月31日のリバティ・ナショナル・バンクのレポートでは、147バレルを貯蔵しており、そのうち111バレルは8年熟成以上のもので、残りは1970年と1971年に生産されたものだった。1996年12月31日のレポートには1990年生産の95バレルが記載されているが、誰が生産したかは不明である。彼らのボトリングは自社ラベルの"トム・シムズ"と、フロリダの小売店やホリデー・イン向けのカスタム・ボトリングで構成されていた。どうやらこの事業は成功しなかったようで、工場は1970年代後半に公売でフロリダの会社に売却された。(アーカンソー州)リトル・ロックにあるムーン・ディストリビューターズのオウナーであるハリー・ヘイスティングスが会社のインタレストを持っていた」とあります。チャールズ・メドリーは92年の段階でボトリング施設はメドリー・ファミリーによって時折まだ使用されていると語っていたようです。それと、上でセシルが言及しているレポートの続き?なのか、スタンリーの倉庫に1992年製造の熟成バーボン51バレルが保管されているとの記録がある、との話がありました。これは、おそらく1990年代後半の記録かと思います。倉庫としてはかなり少ないバレル数、しかも徐々に減って行ってるところからすると、ボトリング及び倉庫施設としても2000年あたりには使われなくなったのかも知れません。そう言えば、当初はオールド・スタンリー・ディスティラリー・インコーポレイテッドと名乗っていたが後にケンタッキー・ディスティラーズと改名した、との情報もありました。また、同社はベン・F・メドリー・ディスティラリー・カンパニーと言われることもあったようです。廃墟となったオールド・スタンリー蒸溜所の写真が沢山観れるアダム・パリスによるアルバムのリンクを貼っておきます。
https://www.flickr.com/photos/ap_imagery/albums/72157681499097265

偖て、本流のメドリー・ディスティリング・カンパニーの方はというと…1960年6月30日、落雷により倉庫の一つが炎上しました。22000バレルのバーボンが焼失し、アメリカ政府は800万ドル以上の税収を失ったと伝えられます。その倉庫は全焼しましたが、グリーン・リヴァー火災もあって建物から他の建物への延焼を防ぐように設計されていたため、他の倉庫は無事でした。焼けた倉庫は翌年に従来と同じ技術と様式で再建されたそうです。おそらくメドリー・ディスティリング・カンパニーは、1950年代から60年代を通して、所有者の変更はあっても、繁栄を続けたと思われます。
時代が進めば世代交代も訪れます。1966年にトーマス・アクィナス・ジュニアは亡くなりました(リチャード・ワセンは1980年、ジョン・エイブルは1981年まで生きています)。トムの死がきっかけだったのかは定かではありませんが、1967年にリチャード・ワセンの息子チャールズ・ワセンは、メドリー蒸溜所のプラント・マネージャーに就任します。彼はウェスタン・ケンタッキー大学で教育を受けた後、ルイヴィルのブラウン=フォーマンとオールド・フィッツジェラルド蒸溜所で見習いとして研鑽を積み、その後オーウェンズボロに戻って同職に就きました。プラント・マネージャーの肩書きは軈てマスター・ディスティラーへと発展して行きます。チャールズがメドリー家第7代マスター・ディスティラーに任命されたのを1969年とする情報もあれば、1970年代半ば頃としている情報もありました。なんなら1970年代にキャリアをスタートさせたとする記述も見かけました。どれが正しいのかは扠て措き、彼が引退するまで第一線で活躍するマスター・ディスティラーであり続けたことは間違いありません。ちなみにチャールズは1941年生まれです。

1975年(78年という説も)、レンフィールド・インポーターズは元バートンのエイブラハム・シェクターにメドリー社を売却しました。エイブはシド・フラッシュマンから購入したフランクフォートの蒸溜所を閉鎖して、1978年にオーウェンズボロの事業と統合しました。このフランクフォートの蒸溜所というのはロッキー・フォードまたは21ブランズと呼ばれていた蒸溜所です。フラッシュマンはグリーンブライアーで営んでいたダブル・スプリングスの事業を1960年代後半にルイヴィルの旧ジェネラル・ディスティラーズの工場へ移し、その後75年頃に21ブランズ蒸溜所へと移したものの短命に終わり、エイブ・シェクターに売却したのでした。これにより旧ダブル・スプリングスのブランドの幾つかはオーウェンズボロで製造されるようになります。ちなみに、シカゴ出身のシェクターは1995年に亡くなるまでに幾つもの酒類販売会社のオウナーや役員を務めた人物で、酒類ビジネスに携わる前は会計士でした。22歳になるまでにノースウェスタン大学で法律と会計の両方を学び、1935年に大学を卒業すると1937年に公認会計士の学位を取得し、第二次世界大戦後、バートン・ブランズに税と法律の専門家として雇われました。
メドリー家のバーボン・ブランドは、おそらく競合他社の製品に較べて少々インパクトの弱いものでした。現場の営業マンはジャックダニエルズに対抗するブランドが必要だと感じていたのかも知れません。そこで同社は1976年に、アンダーソン郡のホフマン蒸溜所で造られていたエズラ・ブルックスのブランドをフランクフォートの21ブランズ蒸溜所と共に購入しました。50年代からジャックダニエルズの対抗馬として優秀だったエズラ・ブルックスは、その後メドリー社のトップセラーとなり、最大の資産となりました。彼らはこのバーボンを77%コーン、10%ライ、13%モルテッドバーリーのマッシュビルで造りました。バレル・エントリー・プルーフは115とされています。と言うか、このマッシュビルはメドリー家の主要なレシピと思われ、他のメドリー・ブランドでも使われているかも知れません。蒸溜はカラム・スティルとダブラー、ディスティリング・プロセスで使用する水はライムストーンで濾過されたものを敷地内の井戸から引いていました。ファーメンターはサイプレス製でした(後年、ステンレス製のタンクに置き換わった)。イーストの管理から蒸溜、エイジングからボトリングまで、どの工程も厳しい品質管理がなされ、チャールズ・W・メドリーはシェクターが買収した後も優秀なスタッフと共にオペレーションを続けていました。
1979年末、チャールズは蒸溜事業から離れつつあったパブリカー/コンチネンタルのリンフィールド施設まで行き、個人的にピックしたバルク・ウィスキーと既にボトリングされたウィスキーのボトル、そして切り替えを行うまで使用するラベルなどを購入しました。メドリー社からリリースされたコンチネンタル産の物は、所在地表記のリンフィールドの上からスタンプを押したラベルが貼られていたようです。それらのウィスキーやラベルを使い切った後、オールド・ヒッコリー、リッテンハウス・ライ、ハラーズ・カウンティ・フェアなどのブランドは、自社で蒸溜した原酒を使って製造され始めました。チャールズは、コンチネンタルのブランドを購入したのはそれらが品質の象徴だったからだと言っています。
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1980年代初頭、メドリー・ディスティリング・カンパニーを創始したファイヴ・ブラザーズの中心人物、チャールズの父リチャードと叔父ジョン・エイブルは続けて亡くなり(ベン・Fは1990年に死去)、バーボン業界も斜陽産業のように見える時代となっていました。そのことと関係があるのか分かりませんが、メドリー家は1988年に蒸溜所をグレンモア・ディスティラリーズに売却することを決めました。同社は二つの蒸溜所を所有しており、その一つグレンモア蒸溜所(RD#24)は、オーウェンズボロの東側、つまりメドリー蒸溜所とは反対側にある大きな施設で、73年に蒸溜を停止してからウィスキーを熟成させてボトリングする場所となっていました。歴史家のマイケル・ヴィーチによると、メドリー蒸溜所を買収したグレンモアは生産を停止したそうです。彼らは自社蒸溜所(シャイヴリーのイエローストーン)からの過剰なウィスキーを持っていたので、その時に更に生産する必要はなかった、と。一方で、メドリー蒸溜所は1987年に閉鎖され、1988年にグレンモアに買収されてから再開されたという説もあります。或いは微妙な違いですが、チャールズはメドリーのマスター・ディスティラーとしてグレンモアのために働き、そのままウィスキーを蒸溜していたとする説もあります。オーウェンズボロでメドリー蒸溜所しか操業していなかった頃、グレンモアの従業員名簿上、チャールズは最後のマスター・ディスティラーだった、とチャック・カウダリーは述べていました。事の真相はどうだったか私には判りませんが、ともかくグレンモアの経営は短命に終わります。1991年にユナイテッド・ディスティラーズがグレンモアの全事業を買収したのです(******)。メドリー蒸溜所は1992年にアメリカン・ウィスキーの生産を集約しようとしていたユナイテッドによって完全に閉鎖されました。そして彼らは不必要と判断したアメリカン・ウィスキーの資産、即ちブランドと物理的施設を売りに出しました。エズラ・ブルックスを含む多くのブランドはヘヴンヒルに買われ、その後すぐにヘヴンヒルはエズラ・ブルックスをミズーリ州セントルイスのデイヴィッド・シャーマン・コーポレーション(現ラクスコ)に売却しました。バーボン造りの夢を諦めたくなかったチャールズ・メドリーは、何とか資金を集めてユナイテッド・ ディスティラーズから1995年に蒸溜所を購入します。再び輝く未来を信じつつ、蒸溜所をメドリー家の下へ戻したのです。

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(Charles Wathen Medley)

1996年、チャールズ・ワセンとその息子サミュエル・ワセン(通称サム)のメドリー親子は新しく会社を設立しました。蒸溜所はチャールズ・メドリー蒸溜所と改名され、DSPの登録番号は#10を取得しました。これはチャールズの祖父トーマス・Aがデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーで使っていた伝統ある番号でした。そしてチャールズは父のパーソナル・ブランドであったワセンズ・ケンタッキー・バーボンの復活を思い付き、実際に製品をリリースすることに成功します。1997年、ワセンズ・シングルバレル・バーボンと名付けられたプレミアムな表現が発売されました。彼らはそれを自らボトリングし、一つひとつのラベルに手書きでサインをし、丁寧にケースに詰めました。チャールズが自身の長年の経験から理想としていると言う94プルーフでのボトリングです。この初期のワセンズ・シングルバレル・バーボンは、彼が旧メドリー蒸溜所をユナイテッド・ディスティラーズから購入した際、一緒に買い取った8000バレルの既存のウィスキー・ストックをボトリングしたものでした。当時はまだ供給過剰の時代で、それらをユナイテッドは不要な物と感じていました。そのバレル群はチャールズ自らがメドリーで製造したものと見られています。彼らは数年間チャールズ・メドリー蒸溜所でボトリングを続けていましたが、ストックには限りがあるため、それが底を突く前に新しいウィスキーを探さなければなりませんでしたし、チャールズとサムのプロモーション活動が成果を上げたことで工場でのボトル充填キャパシティを超えるほど需要が高まってしまい、ウィスキーをボトリングして流通させる業者も必要でした。そこで、90年代の終わり頃にはセントルイスの会社(デイヴィッド・シャーマン)と交渉して、その後しばらく仕事を共にしたと思われます。更にその後には、ワセンズ・バーボンのナショナル・マーケットへ向けた展開の一環として、2007年までにはカリフォルニアのフランク=リンと契約を結びました。
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ワセンズ・シングルバレル・バーボンは比較的好評ではありましたが、蒸溜を始めるのに必要なお金を集めることは出来ず、チャールズは蒸溜所を所有していた期間中、主に屋根の雨漏りを防ぐなど建物の修繕に努めたものの、家族の蒸溜所で自らのウィスキーを蒸溜するという夢は実現されませんでした。これはまだ本格的なバーボン・ブームが訪れる10年前の話であり、歴史が進んだ現時点から観てしまうと、彼らは早過ぎたと言うか、良いタイミングに恵まれなかったと言えるでしょう。もし10年遅ければ、状況は全く変わっていたかも知れません。
2007年10月、チャールズはウィスキーを蒸溜する計画を持っていた(アンゴスチュラ・ビターズでお馴染みの)アンゴスチュラ社に蒸溜所を売却しました。アンゴスチュラはトリニダード・トバゴに本社を置くラムやウォッカなどのスピリッツの大メーカーで、スコットランドやフランスなどの蒸溜所を買収していたのです。2008年11月には、再び伝統的なケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを製造することを目標に工場の改修が開始されます。修復のために約2500万ドルの投資を予定し、改修後の蒸溜所は年間2000000プルーフ・ガロンの生産能力が想定されてたとか。この頃までに会社はチャールズ・メドリー・ディスティラーズ・ケンタッキー(CMDK)を名乗るようになっていました。
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2009年2月にCMDKへ訪問したチャック・カウダリーによると、殆どが赤レンガ造りの倉庫の中、2つほどメタル・クラッドの倉庫があり、その外装は少なくとも部分的には貼り直しされていたそうですが内部はかなり補修が必要、蒸溜部分に関しては古いマッシュ・クッカー、ビア・スティル、ダブラーはまだ良好な状態にあるものの、新しい製粉機と穀物処理機、多くの新しいファーメンター(チャールズは何年も前にサイプレス製の物を全てメーカーズマークに売却した)、新しいボイラー、そして新しいビア・ウェルが必要だったそうです。CMDKのプラント・マネージャーにはデレク・シュナイダーが就任しており、彼は蒸溜所の修復を管理するだけでなく、CMDKの名前を世に知らしめる活動をし始め、その歴史を簡単に振り返るビデオを作成し、そこには当時の改修の進行状況も紹介されていました。旧ボトリング・ハウスをヴィジター・センターとギフト・ショップに改装し、300人収容可能なイヴェント・スペースも設置、その他に敷地内の井戸の改修とテスト、セキュリティ・フェンスや道路整備などのアップグレードも行われ、2010年初頭の操業開始を目指している、と。更に、将来的なプランとしてはガイド付ツアーを組んだり、テイスティング・ルームやミュージアムも設置し、今後5年以内に自社製品をボトリング出来るようにする、とビデオにはありました。しかし、アンゴスチュラの親会社CLフィナンシャルが世界的な金融恐慌から流動性危機に見舞われたことで2009年に全ての支出がストップし、蒸溜所の再建計画は道半ばで頓挫してしまいます。そこからこの蒸溜所は売りに出されました。多くの人がこの工場に興味を持ちましたが、なかなか買い手が見つかりませんでした。聞くところによると、所有者はこの場所の価値を高く見積もっていたのだそうです。それと、明確な時期は判りませんが、多分この後くらいからチャールズ・メドリー・ディスティラーズ・ケンタッキーと名乗らなくなったようで、単にチャールズ・メドリー・ディスティラリーと称している気がします。

蒸溜所のオウナーでなくなっても、そもそもチャールズ・メドリー・ディスティラリーという会社はNDP(ノン・ディスティリング・プロデューサー)でしたから、チャールズとサムはウィスキーを販売し続けていました。彼らはどこかの段階で自分達の名前の権利も買い戻すことが出来、2013年前期には「オールド・メドリー12年」、同年後期には「メドリー・ブラザーズ」と、一家の象徴的ブランドを再スタートさせました。オールド・メドリー12年は熟成年数が引き立つように低いプルーフ(86.8プルーフ)でのボトリング、メドリー・ブラザーズは4年熟成で高いプルーフ(102プルーフ)でのボトリングと、対照的なキャラクターとなっています。メドリー・ブラザーズのラベルは1950年代のオリジナルとほぼ同じデザインで復刻したものでした。バーボン・ブームの後押しもあってか、この後も二人は続々と特別なバーボンを市場に出して行きます。2015年には限定で「メドリーズ・プライヴェート・ストック10年」をリリース。会社は7代目のチャールズと8代目のサムにより経営されていますが、チャールズの年齢を考えるとこの頃にはサムが主導するようになっていたのではないかと思います。そんな彼の本領が発揮されたのが、2017年1月に発売された「メドリー・ファミリー・プライヴェート・セレクション」でしょう。サムは2016年9月に75歳の誕生日を迎える父に敬意を表し、特別なバーボンをリリースする方法を考えていました。そこで、ワシントンD.C.にあるジャック・ローズ・ダイニング・サルーンのオウナーであるビル・トーマスとミーティングしていると、或るプランを思い付きました。それは、管理下にある特別なバーボンをバレルプルーフでボトリングするだけでなく、メドリー家の他のメンバーにもバレルを選んでもらうというものでした。サムは6月の家族の集まりの時に、こっそりと様々なバレルのサンプルを家族に渡して試飲してもらい、どれが一番美味しいと思うか訊ねました。そうして選ばれた11バレルのみがシングルバレル形式にてボトリングされたのです。このプロジェクトをお披露目した時、チャールズは大変驚き、そして光栄に思ったそうです。ラベルにはバレルのセレクションに参加したファミリー・メンバーそれぞれの名前が記載されています。以下にリストしておきました。「?」はネットで調べても不明だった部分です。詳細を分かる方は是非コメントよりご一報下さい。

BARREL 1 OF 11|128.4 PROOF|John A. Medley Jr.|183 BOTTLES
BARREL 2 OF 11|127.8 PROOF|Grace Wathen Medley Ebelhar|178 BOTTLES
BARREL 3 OF 11|128.6 PROOF|Mary Ann Fitts Medley|120 BOTTLES
BARREL 4 OF 11|129.5 PROOF|R. Wathen Medley Jr. M.D.|175 BOTTLES
BARREL 5 OF 11|128.2 PROOF|Daniel S. Medley|181 BOTTLES
BARREL 6 OF 11|????? PROOF|???? ???? ????|??? BOTTLES
BARREL 7 OF 11|128.2 PROOF|Samuel Wathen Medley|126 BOTTLES
BARREL 8 OF 11|128.7 PROOF|Samuel Wathen Medley|185 BOTTLES
BARREL 9 OF 11|130.1 PROOF|William M. Medley Sr.|100 BOTTLES
BARREL 10 OF 11|129.5 PROOF|Samuel Wathen Medley|155 BOTTLES
BARREL 11 OF 11|128.7 PROOF|Thomas A. Medley III|244 BOTTLES

これらのボトルの希望小売価格は80ドルでした。他のブランドと比較して小規模なリリースでしたが、サムはこのプロジェクトに満足し「それはクールなものだったよ、だって家族のものだからね」と語っています。更に特別なリリースは続き、2017年後半からは「ワセンズ・バレル・プルーフ」も限定数量にて発売されるようになりました。2019年頃には、同じくシングルバレル、バレルプルーフでボトリングされた「メドリー・エクスクルーシヴ・セレクション」という、ごく限られた高級ショップやウィスキー・クラブにピックされた製品も販売されました。ここら辺は高級志向なブランディングが好まれるバーボン・ブームの賜物でしょうか。
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上で述べたようにチャールズ・メドリー・ディスティラリーはNDPですが、チャールズ・メドリーは近年にちょっとした思い付きでウィスキー・ビジネスを始めたような人物ではなく、何十年にも渡って蒸溜所での経験を積んで来ました。一家が蒸溜所を所有していた時からマスター・ディスティラーを務め、親会社は変わっても全てのオウナーに対してその職務を全うし働きました。だから、彼とその息子が運営する会社は、新興のマイクロ・ディスティラリーが何の経験もなしにジュースを調達し、それを何か大したものであるかのようにパッケージングとマーケティングで装うのとは些か訳が違います。これらワセンとメドリーの名が付けられたブランドはどれも、77%コーン、10%ライ、13%モルテッドバーリーという禁酒法以後のメドリーズのハイ・コーンな伝統的マッシュビルを使用して非公開のケンタッキー州の蒸溜所で生産されています。所謂スポット・マーケットでのバルク買いではなく、契約蒸溜で製造されているので、メドリー家は蒸溜工程の汎ゆる側面、マッシュビル、イースト、エントリー・プルーフ等を完全に管理しているそうです。更に、各バーボンに異なる特徴を持たせるために、バレルは倉庫の異なる場所で熟成させなければならないという条項も契約合意の一部となっているらしい。何処の蒸溜所と契約しているかは、おそらく秘密保持契約があるため公開されていませんが、ヘヴンヒルであろうとの見方が大勢を占めています。中にはバッファロー・トレース蒸溜所の可能性を示唆したり、 ひっそりと多くの委託蒸溜を行っているバートン蒸溜所を疑っている人もいます。実際のところ、生産能力に余力のある蒸溜所なら何処でも契約蒸溜は可能であるとされ、もしかしたらブラウン=フォーマンかも知れないし、ビームなのかも知れません。孰れにせよ重要なのは、製品の品質管理をしているのがビーム家でもラッセル家でもサミュエル家でもなくメドリー家であることなのです。
ちなみに、2019年にはチャールズがケンタッキー・バーボン・ホール・オブ・フェイムに選ばれた一人になりました。これはケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーション(KDA)がケンタッキー・バーボン・フェスティヴァルと連携して創始した「バーボンの知名度、成長、認知度に重要かつ変革的な影響を与えた個人と組織を表彰する」ものです。候補者は毎年、協会とその加盟蒸溜所、バーボン・フェスティヴァル理事会によって推薦され、KDA理事会の投票によってこれらの候補者が殿堂入りします。

https://www.flickr.com/photos/ap_imagery/albums/72157658619764333
(アダム・パリスによる旧メドリー蒸溜所のフォト・アルバム)

偖て、一方の暫らく売れなかった蒸溜所は、2014年にテレピュア・プロセスでウィスキーなどの熟成を早めることが出来ると謳うサウス・キャロライナ州のテレセンティア・コーポレーションが購入し、改修を開始しました。蒸溜に関わる部分や倉庫の多くも2009年の冬の嵐で被害を受けており、多くの作業が必要だったため改修費用には2500万ドルを投じたと言います。ジムビーム・ブランズとフロリダ・カリビアン・ディスティラーズで40年の経験を持つマスター・ディスティラーのロン・コールがこのプロジェクトの相談役に選ばれ、その息子ジェイコブも大規模な改修を監督しました。新しくなる蒸溜所は、化学者で発明家のオーヴィル・ゼロティス・タイラー3世(*******)にちなんでO.Z.タイラー蒸溜所の名で運営を行うことになりました。彼は息子と共にテレピュア・プロセスの共同発明者で、2014年に81歳で亡くなりました。「TerrePURE®」とは、超音波エネルギー、熱、酸素を利用し、蒸溜酒の品質と味を劇的に向上させるオール・ナチュラル・プロセスです。先見性のあったタイラー3世は、缶に保存されたソフトドリンクの金属味をなくすコーティングを始め、屋内外のカーペット、洗える壁紙、屋外用ラテックス塗料など多くのものを開発した人物で、定年退職後に大好きなスコッチ・ウィスキーの熟成になぜこんなに時間が掛かるのかを考えるようになったそう。2016年に蒸溜所はオープンし、ウィスキーの貯蔵を開始。マスター・ディスティラーのバトンはロンから息子のジェイコブに渡されました。同蒸留所は、2018年にケンタッキー・バーボン・トレイルの公式メンバーになりました。2020年にはJ・W・マカロックの曾孫のサポートにより、蒸溜所の名前をグリーン・リヴァー蒸溜所に戻し、大々的に新たなる幕開けを飾りました。DSP番号は、元々のグリーン・リヴァー蒸溜所の登録番号ではなく、嘗てのデイヴィス・カウンティ・ディスティリング及びチャールズ・メドリー蒸溜所の「DSP--KY-10」を引き継いでいます。そして、2022年に新しいグリーン・リヴァー・バーボンをリリースし、現在に至る、と。これが旧メドリー蒸溜所の辿った道筋です。

そろそろ今回飲んだメドリー・バーボンUSAの解説でもしたいところなのですが、このボトルのバック・ストーリーは調べても特に見当たりません。以下は憶測になります。このブランドは、おそらく主に70年代、広く取って60〜80年代初頭あたり?に流通していたと思われます。わざわざラベルにUSAと描かれたところからすると、基本的に(或いは完全に?)輸出向けのブランドではないかなという気がします。画像検索で見てみるとボトル形状には、角瓶も丸瓶もあり、裏側が湾曲した形状の物やハンドル付き、デキャンタ・タイプまでありました。容量もリッターの物が散見されます。こうしたヴァリエーションの多さやラベルのデザインからして、プレミアムなラインとは思えず、ジムビームで言うとホワイト・ラベルのような、飽くまでスタンダードな製品かと思われます。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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MEDLEY BOURBON USA 6 YEARS OLD 86 Proof
推定76年ボトリング。軽いキャラメルと少しスパイシーな香り立ち。時間を置くと甘いお花畑に。なかなか濃厚な味わい。残り香はナッツとウエハース。特に可もなく不可もない普通に美味しいオールドバーボンという感じ。これの前に飲んだ二杯のレヴェルが高過ぎて、ちょっと飲む順番を間違えたかも知れないとは思いましたが、それでも現行のバーボンとは異なる深みも十分に味わえました。
Rating:84/100


*日本では「Medley」を「メドレー」と表記する慣行がありますが、本記事では敢えて実際の発音に近い「メドリー」と表記しました。メドリーと表記するのが通例となるように、よかったら皆さんもこれからはメドリー表記を推して行きませんか?

**ここまでの系図は、アメリカに初めて渡って来たジョンを1世と数えて以下のようになります。生年と死亡年は「約」です。
ジョン・メドリー1世(1615 - 1676)
ウィリアム・メドリー(1652 - 1695)
ジョン・メドリー3世(1676 - 1748)
ジョン・メドリー4世(1702 - 1749)
フィリップ・メドリー(1732 - 1797)
ジョン・"ジャック"・メドリー6世(1767 - 1817)

***ジョンは妻エリザベスと子供達、そして隣人らと共に陸路でピッツバーグに向かい、オハイオ・リヴァーをフラットボートでケンタッキー州メイズヴィルまで下り、そこから再び陸路でソルト・リヴァーの分流にある小さな集落カートライト・クリークに向かった、とする説もあります。もしかすると、こちらの方が具体的な記述のため、正しいのかも知れません。

****友人や同僚から「ディック」と呼ばれたディートリック・W・メッシェンドーフ(1858-1911)は、1892年から死去するまでオールド・ケンタッキー蒸溜所を経営し、オールド・タイムズ蒸溜所、プレジャー・リッジ・パーク蒸溜所、デイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーにも出資していた人物です。おそらく青年期に母国ドイツを離れてアメリカに来るまでウィスキーについてはそれほど知らなかったと思われますが、後にケンタッキーのバーボン製造業者の権威と目されるようになり、ピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトを検討していたセオドア・ルーズヴェルト大統領からストレート・ウィスキーの基準について相談を受け、また1909年のタフト・テシジョンに至る公聴会ではウィスキーの意味について証言したほどアメリカの蒸溜酒史に於ける重要人物の一人でした。
メッシェンドーフがアメリカに移住したのは、国勢調査記録によると1874年、16歳の時でした。その後15年間の彼の行動はよく分からず、ケンタッキーで何かしらの酒類ビジネスに従事していたのかも知れません。彼の名は1889年にルイヴィルのオールド・タイムズ・ディスティラリーの出資者兼役員として公の記録に登場します。オールド・タイムズ蒸溜所(ジェファソン郡、第5区、RD#1、ウェスト・ブロードウェイ2725)は1869年にケンタッキアンのジョン・G・ローチによって設立され、1878年にアンダーソン・ビッグスに売却されました。1889年にビッグスが亡くなると、彼の妻は酒造業に反対していたらしく、17000ドルという安値で初めの入札者に売却したそうです。その購入者の中にメッシェンドーフがおり、新しいオウナーは元F・G・ペイン&カンパニーのチェス・レモンが社長、メッシェンドーフが副社長、A・W・ビアバウムが秘書兼会計でした。彼らのブランドには、蒸溜所の名前が示すように「オールド・タイムズ」と「グラッドストーン」がありました。1日に350ガロンのウィスキー生産能力があった工場は、3つの鉄道路線に近く、ルイヴィルに到着する全ての鉄道に乗り換え可能で便利な場所に位置していたと言います。新オウナーらは蒸溜所を大幅に拡張しました。1890年にビアバウムが亡くなると、メッシェンドーフが彼の後を継ぎます。1893年には蒸気加熱システム付きのレンガと金属被覆の5つのウェアハウスを建て、65000バレルの貯蔵できるようになりました。1897年、メッシェンドーフはメイフラワー蒸溜所(後述)を買収してこの事業から撤退したようです。1908年にレモンが亡くなるとJ・J・ベックに引き継がれ、更にその後D・H・ラッセルに引き継がれました。メッシェンドーフが撤退した時、シンシナティで大規模な配給会社を経営していたファーディナンド・ウェストハイマーが彼のインタレストを購入しており、1913年の死までに蒸溜所を完全に所有しました。その後、ウェストハイマー社は蒸溜所をNo.1 S.M.ディスティラリーと改称し、1918年まで運営を続けました。
メッシェンドーフは当時の出版物に「若く、押しも押されぬビジネスマン。そして、成功に値する独立独行の男」と評された辣腕の実業家でした。オールド・タイムズ蒸溜所を7年間運営すると、彼はその組織を離れ、メイフラワー蒸溜所として知られるルイヴィル地域の別のプラントを買収します。こちらの施設は1880年頃にD・L・グレイヴス&カンパニーとして設立され、ブランドは「アシュトン」と「メイフラワー」でした。1882年にH・A・ティアマンSr.が工場を購入してメイフラワー蒸溜所と改名します。後続のオウナーが10年間蒸溜所を運営した後の1892年、メッシェンドーフはティアマンからプラントを買収し、単独経営者となると名称をオールド・ケンタッキー蒸溜所に変更しました。しかしティアマンはメイフラワーのブランドを保持し、自らが所有する他のプラントであるラクビー蒸溜所(RD#360)で生産したそう。1900年、メッシェンドーフを社長、O・H・アーヴァインを副社長、ダン・シュレーゲルを秘書とした会社が組織されました。ルイヴィルの242トランジットに位置する蒸溜所はフレーム構造で、敷地内にはレンガまたはアイアンクラッドの3つの倉庫や牛舎があったようです(ジェファソン郡、第5区、RD#354)。オールド・ケンタッキー蒸溜所の主力ブランドはストレート・ウィスキーの「ケンタッキー・デュー」でした。その他に「チェロキー・スプリング」、「ファウンテン・スプリング」、「O・K・D」、「オールド・オーク・リッジ」、「オールド・ケンタッキー」、「オールド・ウォーターミル」、「ノーマンディ・ライ」、「オールド・ジェファソン・カウンティ」、「ウッドバリー」、「オールド・ストーニー・フォート」、「グッドウィル」、「ムーン・ライト」、「ロイヤル・ヴェルヴェット」、「デュー・ドロップス・モルト」等のブランドがあったと伝えられています。メッシェンドーフは優れたマーケティング能力を発揮して、サルーンのようなお得意様のために、カラフルな看板、ショットグラスなどの形で、ケンタッキー・デューやその他のブランドの一連の景品を作りました。彼はルイヴィルの有名なウィスキー・ロウに営業所も構えています。
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一方でメッシェンドーフは他のウィスキー事業への投資も行っていました。1891年にはルイヴィルのディキシー・ハイウェイにあるプレジャー・リッジ・パーク蒸溜所のインタレストを購入してヴァイス・プレジデントに就任したり、1904年には有名なメドリー家の一員と共にデイヴィス・カウンティ蒸溜所を買収して共同所有権を取得しました(経営はジョージ・E・メドリーが当たった)。また、ケンタッキー州ジェファソン郡のエミネンス蒸溜所にも財政的な関心を寄せていたとか。更にメッシェンドーフは他のケンタッキーのウィスキー・バロンと同じようにサラブレッドにも関心があり、ルイヴィル近郊にワルデック・スタッド・ファームを所有していたと言います。またプライヴェート面では、41歳の時に11歳年下でアイルランド系ネイティヴ・ケンタッキアンのクララという女性と結婚しました。メッシェンドーフの成功は彼に繁栄をもたらし、1900年代初頭、近くのオールダム郡に家を購入。この郡は今でもケンタッキー州では第1位、全米でも第48位の裕福な郡に数えられ、ルイヴィルの富裕なビジネスマンなどの住居として人気があります。1910年の国勢調査では、メッシェンドーフは妻クララと二人のアフリカ系アメリカ人の使用人と共にそこに住んでおり、彼の職業欄にはシンプルに「ディスティラー」とだけ記されていたそうです。
蒸溜者として良質なウィスキーを製造する方法を知っていると云ういう評判を全国的に高めたメッシェンドーフは、ルイヴィルの情報通からは「この街のウィスキー商の中で最高の一人」と呼ばれました。それこそ彼が1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトに関連してセオドア・ルーズヴェルト大統領との会談に呼ばれた理由なのでしょう。当時アメリカ国内に蔓延していたウィスキーへの不純物混入を嫌悪するケンタッキーの蒸溜業者らと同様にメッシェンドーフもこの法律を支持しましたが、ブレンデッド・ウィスキーが「ウィスキー」の名に値するか、ストレート・ウィスキーのみが「ウィスキー」の名に値するか、という悩ましい問題については違ったようです。カーネル・E・H・テイラーのような業界の重鎮は後者を強く主張しましたが、おそらくブレンデッド・ウィスキーでも利益を上げていたメッシェンドーフは前者を主張した、と。ルーズヴェルト政権ではこの問題が解決されなかったため、タフト大統領による新たな委員会が設置され、再びメッシェンドーフはワシントンに呼び出されました。最終的にタフト大統領はブレンデッド製品もストレート・バーボンと同様にウィスキーであるとの決定に至ります。メッシェンドーフの公聴会での証言が、どこまでタフト大統領の決断に影響しているのかよく分かりません。禁酒法以前のウィスキーについて大量の寄稿をしているジャック・サリヴァン氏は「ディートリック・メッシェンドーフが"ウィスキー"の意味について証言したことが、特にタフト大統領の目に留まり、この言葉の使用に関する決定、つまり今日まで続いている定義に繋がったのではないかと推測したい」と述べています。少なくとも、ストレート・ウィスキーだけがウィスキーの称号に値すると考えるテイラーのような人物の激しい反対を押し切って、メッシェンドーフは自社のブレンデッド製品がウィスキーとしての地位を維持するのに成功したように見えます。
ワシントンから戻って間もなくの1911年春、メッシェンドーフの健康状態は悪化しました。彼はケンタッキーよりも南テキサスの気候の方が自分に合っていると判断してそちらへ向かい、1911年11月11日にサン・アントニオで亡くなりました。享年53歳でした。遺体はルイヴィルに戻され、葬儀は義兄の家で行われ、家族と親しい友人だけが参列したと言います。オールド・ケンタッキー蒸溜所は、彼の死後、部下が経営を引き継ぎ、アーヴァインとシュレーゲルがそれぞれ昇格し、ジョセフ・J・サスが加わって禁酒法により閉鎖されるまで運営されました。1912年から1920年までの役員は、アーヴァインが社長、シュレーゲルが副社長、秘書兼会計がサスとされています。1923年のプロヒビションの際、ルイヴィルの蒸溜所から既存のストックが撤去され、全ての倉庫は取り壊されました。閉鎖から2年後の1925年に起こった火災により蒸溜所の建物は大きな被害を受けましたが、レンガ造りで被害のなかった部分はジョージ・ハウエルにより乗馬学校として数年は使用されたとのこと。メッシェンドーフが建てた立派なレンガ造りのボトリング・ハウスは、禁酒法期間中には使用されず、禁酒法廃止後にカーネル・J・J・サスがこの土地を管理していたようで、シャイヴリー近郊に新しい工場が完成するのを待って、1933年に改装が行われ設備が一新されました。1940年、サス家は新しい蒸溜所をブラウン・フォーマン・ディスティラーズ社に売却し、彼らは名前をアーリータイムズに改めました。元の敷地に残されていた建造物は、1960年に州間高速道路建設のために全て平らにされたそうです。
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(オールド・ケンタッキー蒸溜所で使われた様々なDBA名)

*****多くの情報源では、トム・メドリーが1940年に亡くなった後、彼の息子達(特に長男のワセン)がフライシュマンズ・ディスティリング・カンパニーに売却したとされていますが、ここではマイク・ヴィーチの記述を参考にしています。もしかするとヴィーチはクロールの『ブルーグラス、ベルズ・アンド・バーボン』の記述をもとに書いたのかも知れない。クロールの本は蒸溜所のマーケティング部門から多くの情報を得ていたことで、一部の物語は歴史よりも伝説に基づいている欠点が指摘されています。

******ヴィーチは、グレンモアは1985年にシャイヴリーの蒸溜所を閉鎖した、と書いています。当時は熟成バレルが有り余っていたのでしょう。ところが1991年になると、グレンモアはウィスキーの在庫の減少に直面しました。彼らはシャイヴリーのイエローストーン蒸溜所とオーウェンズボロのメドリー蒸溜所のどちらを再開するか決める必要に迫られました。しかし、彼らはウィスキーの製造を再開することはなく、代わりに会社をユナイテッド・ディスティラーズに売却した、と。これが真実なら、チャールズはグレンモアの下では蒸溜していないことになります。
ところで、日本のバーボン・ファンにはお馴染みの本である2000年発行の『バーボン最新カタログ』(永岡書店)のエズラ・ブルックスの紹介ページには、バレルヘッドにグレンモア・ディスティラリーズDSP-KY-24とステンシルされたバレルの写真が載っており、その下には「旧グレンモア社時代の’91年12月に樽詰の原酒が眠っている」と説明書きがあります。バレルには「FILLED」の文字はないものの「91-L-26A」の略号が見られ、確かに91年12月26日にでも樽詰めされたのかなという気がします。私にはユナイテッドがグレンモアを買収したのが何月何日か判らないのですが、この日付は91年のほぼ終わり頃ですから、ユナイテッドがグレンモアを買収した後の可能性は高いように思われます。と言うことは、ユナイテッドはチャールズに命じて、一時的にグレンモアで蒸溜を再開していたのでしょうか? いや、でもどうせチャールズに蒸溜させるなら、使い慣れたメドリー蒸溜所の方がいい気もするし、そもそも長年休止していたグレンモアを稼働させるより、最近まで稼働していたメドリーを再稼働させるほうが簡単なのでは? この憶測が正しいとするなら、メドリー蒸溜所でチャールズが蒸溜したバレルをグレンモアに移動し、そのバレルにグレンモアで製造されたかのようなDSPナンバーを施したことになりませんか? これは一体どういうことなんでしょう? 誰か、ここら辺の仔細をご存じの方はコメントよりご教示下さい。

*******ここでは「Zelotes」を「ゼロティス」と表記しておきましたが、もしかすると発音は「ゼローツ」の方が近いかも知れません。私にはよく分からなかったので、ご存じの方はコメントよりご指摘下さい。

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ワイルドターキー13年ファーザー&サンは、トラヴェル・リテイル専用として2020年に限定リリースされた製品です。86プルーフで、1リットル瓶に入っています。日本では長期熟成のワイルドターキーというとWT12年101に取って代わった同じ13年熟成のディスティラーズ・リザーヴがある(あった)ので、あまり購買意欲をそそられないかも知れません。特に、そのボトリング・プルーフがディスティラーズ・リザーヴより低いのは懸念点でしょう。熟成年数が同じでプルーフが類似している二つを飲み比べた海外のレヴュアーの方々の感想を見ると、ディスティラーズ・リザーヴの方が良いとするものとファーザー&サンの方が良いとするものの両方があります。自分がどっちに転ぶかは実際飲んでみるしかない。と言う訳で、さっそく。

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WILD TURKEY 13 Years Father & Son 86 Proof
推定2020年ボトリング。色はオレンジ寄りのブラウン。アップルサイダー、ヴァニラ、焦げ樽、ライスパイス、ビオフェルミン、アーモンドトフィー、パイナップル、タバコ、杏仁豆腐、チョコレート。アロマはフルーツをコアにお菓子のような甘い焦樽香とスパイス。口当たりは水っぽい。パレートはフルーティだがメディシナルノートも。余韻はミディアムショート、クローヴが強めに現れチャードオークのビター感と僅かにバターが残る。
Rating:86.5→84.5/100

Thought:アロマは凄く良いです。香りだけなら日本で流通しているディスティラーズ・リザーヴ13年よりファーザー&サンの方が良いと思います。ただ味わいはディスティラーズ・リザーヴ13年の方が旨味があった気がします。よって同点と言いたいところなのですが、こちらは開封してから暫くすると妙に渋みが強くなったのが個人的にマイナスでした。これが上記のレーティングの矢印の理由です。もしこの変化がなければ、ディスティラーズ・リザーヴ13年よりプルーフが低いのを考慮すると、こちらの方がリッチなフレイヴァーだったのかも知れない。とは言え、両者はかなり似ています。何ならダイアモンド・アニヴァーサリーから一連のマスターズ・キープに至る近年の長熟ワイルドターキーに共通の風味があります(いや、もっと昔のターキーでも少しはあったりするのですが…)。それは薬っぽいハーブ感とでも言うかクセのあるスパイス香とでも言うのか、とにかく私としてはバーボンに求める風味ではありません。それが少し香る程度なら崇高性を高めるのでアリなものの、他のフレイヴァーを圧倒するほどになると話は変わって来ます。これが私個人が近年の長熟ターキーをあまり評価しない理由です。アロマ以外でファーザー&サンの良い点としては、飲み終えた今にして思うと、飲む以前に気になっていたプルーフィングの低さ、即ち加水量の多さは、却ってフルーティさを引き出していたのかも知れず、飲み易さの一点に関しては功を奏していたように思います。また、ラベルの豪奢な雰囲気はなかなか良いのでは?

Value:メーカー希望小売価格は約70ドル程度のようです。日本での流通価格もそれに準じているでしょうか。13年物のワイルドターキー・バーボンが1リットルも入っているのだから、長期熟成酒の価格が高騰している現状を考慮すると、その値段に見合うだけの価値はあると思います。但し、8年101よりディスティラーズ・リザーヴ13年を好む方にのみオススメです。

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グリーンブライアーというブランドには歴史的にケンタッキー州のバーボンとテネシー州のウィスキーがありました。今回取り上げるグリーンブライアーは、近年復活を果たしたチャールズ・ネルソンのグリーン・ブライアー・テネシーウィスキーではなく、ケンタッキーの蒸溜所由来の方となります。と言っても、テネシーの方が復活と共にその歴史が掘り起こされているのと違い、こちらのグリーンブライアーの詳しい歴史はよく分かりません。ブランドを守る訴訟はアメリカン・ウィスキーの世界でも昔から盛んでしたが、何故だかこの両者は法廷で争う関係になったことはなく、製品の蒸溜もマーケティングも同時期に行われていたらしい。ともかく、情報が少ないので説明の大部分はサム・K・セシルの本からの引用が殆どとなります(と言うかセシルも先人の資料を参照しただけなのかも知れない)。
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(テネシーのグリーン・ブライアー)

グリーンブライアー蒸溜所は当初、後に祖父にちなんでオールド・グランダッドという有名なブランドを造ることになるレイモンド・B・ヘイデンが運営していたとされます。バーズタウンの市街から東へ5マイル半のウッドローン近く、ミル・クリークの源流付近に建てられていました。禁酒法以前のDSPナンバーは、税務区分が第5地区のRD#239です。設立年と誰が建てたのかは判りません。レイモンドの祖父ベイゼル・ヘイデン・シニアがメリーランド州からケンタッキー州バーズタウンに移住した地域がグリーンブライアーとされているのを見かけたことがあるので、ベイジルが建て息子のルイスが引き継ぎ更にレイモンドが発展させたのがこの蒸溜所なのでしょうか? 或いは、祖父や父を超えんと意気込んだレイモンドが主導して建てたのでしょうか? それはともかく、グリーンブライアーと呼ばれる小さな町はバーズタウンから南へ約6マイルのハイウェイ49沿いにありました。蒸溜所の場所とはちょっと距離が離れていますね。グリーンブライアーは嘗て密造酒の源として有名で、地元にはそれに纏わる伝承があるそうです。
レイモンドは蒸溜所をジョン・Jとチャールズのブラウン兄弟に売却し、二人は1870年代後半には「R.B.ヘイデン」のブランドを使って運営しました。1883年、ウィリアム・M・コリンズとJ・L・ハケットにより設立されたWm.コリンズ&カンパニーに売却され、蒸溜所はグリーンブライアー・ディスティリング・カンパニーを名乗るようになり、R.B.ヘイデン・ブランドを維持しつつ「グリーンブライアー」を加えました。最終的にコリンズは会社を辞め、ハケットを社長に、G・マッガーワンがセクレタリーに就任しました。1891年には蒸溜所を改修し、同年ルイヴィルにケイン・ラン・ディスティラリーを建設したとされます。1892年の保険引受人の記録によれば、グリーンブライアー蒸溜所は金属またはスレート屋根のフレーム構造で、プロパティには牛舎や三つの倉庫があったようです。
1920年、ご多分に漏れず工場は禁酒法で閉鎖されました。1922年には貯蔵されていた最後の残りのウィスキーを薬用ウィスキーとしてボトリングするためフランクフォートのジョージ・T・スタッグの集中倉庫に移したそうです。おそらくシェンリーは禁酒法期間中にグリーンブライアーのラベルを取得したと思われますが、セシルは禁酒法時代にそれが使用されることはなかったとしています。海外のウィスキー・オークションで出品されていた1913年蒸溜/1924年ボトリングの薬用パイントのグリーンブライアーの説明には「この蒸溜所は禁酒法期間中にシェンリー社によって購入された。これは同社がメディシナル・ライセンスを使用してウィスキーをボトリングするためのフル倉庫を探していた時に行われた多くの買収の一つでした。 元の蒸留所は閉鎖されましたが、禁酒法後の最大の生産者の一つである同社は新しい蒸溜所を建設し一時的に運営した」と述べられていました(参考)。
しかし、セシルの本には別の再建ストーリーが語られています。1935年頃、全ての建物が老朽化したため、プラント全体がグリーンブライアーRD No.51として再建された、地元の自動車ディーラーのジム・コンウェイとその仲間がグリグズビー・ダンズと契約し蒸溜所の建物を、レイ・パリッシュが倉庫を建設した、地元の投資家はそこを短期間保有しただけで、その後ワセン・ブラザーズに売却した、何度も所有者が変わり、1930年代後半にバード・ディスティリング・カンパニーという会社に買収されたと記憶している、と。1933年にシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションが組織された時、確かにその傘下の企業名にはフィンチやスタッグ、ペッパー、ジョンTバービー、A.B.ブラントン・スモール・タブ・ディスティリング・カンパニー等と並んでグリーンブライアー・ディスティリング・カンパニーが並んでいるのですが、もしかするとシェンリーはグリーンブライアーのブランドやトレーディングネームは買収していても蒸溜所自体は購入しなかったのかも? これ以上の詳細は私には分からないので、ここらへんの事情に詳しい方はコメントよりご教示頂けると助かります。
明確な時期は不明ですが(40年代?)、蒸溜所はシドニー・B・フラッシュマンが買い取り、おそらくダブル・スプリングス・ディスティラーズ・インコーポレーテッドとして、ビッグ・フォーなどに較べるとささやかな蒸溜事業(スピリッツの蒸溜、倉庫保管、瓶詰め)を営んだと思われます。彼は様々な蒸溜所で生産された投げ売りのウィスキーの購入に頼ることが多かったと思うが、かなり一貫したボトリング・オペレーションを維持していた、とセシルは書いています。ナショナル・ディスティラーズ出身のジョン・ヒューバーがマネージャー、エド・クームズがメンテナンス・エンジニア、ボブ・ブライニーがディスティラー、ヘンリー・ウェランがウェアハウス・スーパーヴァイザーだったそうです。シド・フラッシュマンは禁酒法廃止以来、様々な立場で積極的に酒類業界に携わって来た男で、他にもマサチューセッツ州ボストンでバルク・ウィスキーの倉庫証券のみ取引するボンデッド・リカー・カンパニーの個人事業主でもありました。
フラッシュマンは1960年代初頭までボトリング作業を続け、その後ルイヴィルの旧ジェネラル・ディスティラーズの施設に移しました。スタンダード・ブランズがフランクフォートの21ブランズ・ディスティラリーを手放すと、今度は全てのオペレーションをそこの場所に移しました。しかし、この事業は短命に終わります。そしてフラッシュマンはそこをエイブ・シェクターに売却し、エイブは以前に購入していたオーウェンズボロのメドレー・プラントに事業を移しました[メドレーのシェクター時代は75(または78)〜88年]。
フラッシュマンがネルソン郡の工場を閉鎖すると通告した時、非常に悲惨なことが起こりました。エド・クームズとヘンリー・ウェランは他の二人の従業員であるバーナード・クームズとウェザーズという名の仲間と一緒に通勤していました。職を失ったことに取り乱したウェザーズは荒れ、銃を抜き、エドとヘンリーを殺してしまいました。バーナードは飛び出して逃げたので助かったらしい。ウェザーズは精神異常と判断され、収容されることになったと云う…。
その後、グリーンブライアーの工場は荒廃し、軈て解体され、アメリカン・グリーティングスがこの土地を買い取り、グリーティング・カードの工場を建設しました。グーグル・マップで調べてみると、現在そこは、アメリカン・グリーティングスは立ち退き、カウンティ・ライン・ディスティリングというサゼラックの物流倉庫になっているようです。

偖て、ここらでグリーンブライアーのボトルの変遷でも紹介したいところなのですが、そのラベルを用いたヴィンテージ・ボトルはネットで検索しても殆ど見つかりません。既に上で紹介した禁酒法時代の物以外では、同じく禁酒法時代なのでしょうか所在地表記がカナダの物と、他には推定30年代と思しきBIBの物くらいしかありませんでした(蒸溜およびボトリングはベルモント蒸溜所。ベルモントは禁酒法により閉鎖されましたが、廃止後はシェンリーが購入していた。参照)。多分、シェンリーはグリーンブライアーのブランドを大々的に展開しなかったのではないでしょうか。
他には、グリーンブライアーのラベルを使用していませんが、グリーンブライアー蒸溜所の原酒を使用した比較的有名な物に、20年熟成のヴェリー・レア・コレクターズ・アイテムというのがあります。これは55年蒸溜とされ、ベン・リピーのオールド・コモンウェルス蒸溜所でボトリングされたと見られています(参考)。
そして今回私が飲んだ物に関しては、画像検索してもウェブサイト上で見つけることが出来ませんでした。よって詳細は不明です。これは憶測ですが、海外で全く紹介されていないことや、他のグリーンブライアーと年代が随分と離れているところからすると、当時の輸出用ラベルとして気まぐれに?復刻された物なのではないかと…。では、最後に感想を少しだけ。

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Greenbrier Straight Bourbon Whiskey 86 Proof
推定69年ボトリング(瓶底)。私のリクエストで未開封の物を開けて頂きました。…えっ、なにこれ、バケモノ? 濃厚キャラメル、甘醤油、樹液を感じさせるクラシックなシュガーバレル・バーボンでした。フルーツとスパイスはそこまで強くないカラメル・フォワードな味わいです。マイナス要素なオールド・ボトル・エフェクトも一切なく、香りと旨味全開。裏ラベルには4年熟成とありますけど、その味は完璧に熟成された8〜10年物バーボンのよう。個人的にはオールドボトルは開封済みであれ未開封であれ、状態にかなり差があると思っているのですが、デスティニーさんで飲んだボトルはどれも状態が良く、特にこれは奇跡を見る思いでした。元々ボトリングされた原酒のレヴェルが高かったのかも知れないし、ボトリングから何十年も経過して却って風味が良くなったのかも知れないし、単に自分の好みに合っただけの話なのかもですが、とにかく最高のバーボンでした。
ボトリングはカリフォルニア州フレズノのシェンリー施設だと思われますが、中身は一体どこの原酒なのでしょう? これより旧いグリーンブライアーにはあった「ケンタッキー」の文字が表ラベルからなくなっていますし、裏ラベルにもケンタッキーと書いてないところからすると、他州のバーボンであるのは間違いないかと。そうなると、年代的にもインディアナのオールド・クェーカー蒸溜所が最有力かなぁ…。でも、他のシェンリー製品のようにはラベルにインディアナ州ローレンスバーグの記載が一切ないのも気になるところ…。飲んだことのある皆さんはどう思われました? ご意見ご感想をコメントよりどしどしお知らせ下さい。
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オールド・オーヴァーホルトは、アメリカン・ウィスキーの中で最も古くから名前の知られたブランドの一つであり、嘗てアメリカで最も尊敬され高く評価されていたウィスキーの一つであり、1810年にまで遡るとても歴史のあるライ・ウィスキーのビッグネームです。ユリシーズ・グラントやドク・ホリデイ、ジョン・F・ケネディなどの著名人に好まれたと言われています。19世紀のライ・ウィスキーの隆盛でモノンガヒーラ(マノンガヘイラとも)を代表するラベルとなったオーヴァーホルト・ライは、次第にアメリカ有数のブランドとなり、禁酒法時代にも薬用ライセンスの下で販売は継続されました。禁酒法以後もナショナル・ティスティラーズの一部となって彼らの主力ブランドの一翼を担い、1987年にナショナルがビームに買収された後もオールド・グランダッドやオールド・クロウと共にブランドは維持されました。元々はペンシルヴェニア・ライでしたが、現在ではジムビームが製造するケンタッキー・ライとなっています。今回はそんなオールド・オーヴァーホルトを造った家族の物語とブランドの歩みをざっくりと振り返ってみましょう。

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ラベルに描かれた、時にこちらを睨みつけるように厳めしく、時に優しげに笑うようにも見える表情に変化した年配の紳士の名前がエイブラハム・オーヴァーホルトです。この人物が創始者で、1810年が会社の創立年ということになる訳ですが、オーヴァーホルト家の蒸溜の起源はもう少し前に遡ります。その時代の蒸溜は幾つかの農産物の一つであり、ウィスキーを造ることは農作業の一環に過ぎませんでした。しかし、ペンシルヴェニア州西部の自分達でも蒸溜する入植者の間でそのウィスキーは評判になります。1810年以降、オーヴァーホルト農場で造られたウィスキーは単なる自家消費を超えて拡大し、販売用の製品として確立することで農場の蒸溜はビジネスになりました(オーヴァーホルト蒸溜所の看板には1796年が創業の日と記されていたと云う話もあった)。取り敢えず、エイブラハムより前の世代の話から始めます。オーヴァーホルト家はペンシルヴェニア州の初期から関わるファミリーでした。

エイブラハムの直系でドイツから初めにアメリカへとやって来たオーヴァーホルトは、1730年頃にペンシルヴェニアのバックス郡に定住したマルティン・オーバーホルツァー(1709〜1744)のようです。彼らの一家はメノナイト信仰を持ち、宗教的自由を享受するためにウィリアム・ペンの招致する土地にやって来たのでしょう[※メノナイトは16世紀オランダやスイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れを汲むプロテスタントの一派。その名はメノー・シモンズから。再洗礼派のなかでも革命的傾向をもつ者とは異なり、暴力を否定する平和主義が特徴とされ、教会と国家の分離を主張したり、信者の自由意志に基づく再洗礼を基本とした純粋な教会の建設を目指し、兵役を拒否したため厳しい迫害を受けた]。
マルティンの息子ヘンリー・オーバーホルツァー/オーヴァーホールド(1739〜1813。生まれた時はヘンリッヒ。明確な時期は不明だが、次第に彼らの名前は英語化され、OberholtzerからOverholdに、そしてOverholtになった)は、1800年4月25日、バックス郡ベドミンスター・タウンシップにあり、ディープ・ラン・メノナイトの礼拝堂の隣に位置する農家/機織り/蒸溜を営んでいたホームステッドを1500パウンズの金銀のお金で売り払いました。そして妻アンナ、5人の息子、7人の娘、5人の婿、2人の姑、13人の孫といった家族全員と共に、大量の商品や家財道具をコネストーガ幌馬車に載せ、新しい土地を目指し、アレゲイニー山脈を超えペンシルヴェニアを横断する300マイルの長旅に出発します。遠路の末、この30数人の一団がウェストモアランド郡のジェイコブズ・クリーク地域、イースト・ハンティンドン・タウンシップに到着したのは1800年の夏でした。その頃、ペンシルヴェニア州の西部は東部からの入植者で急速に埋まり始めていました。ヘンリーと息子達は選んで購入した未開の土地を測量し、森を切り開き、キャビンを建て住み着きました。荒野を整えた150エーカー(後に263エーカー?)の彼らの農場は、ペンシルヴェニア州ピッツバーグの南東約40マイルに位置します。他のメノナイトと一緒に住む集落はオーヴァートン(後にウェスト・オーヴァートン)と名付けられました。よく、オーヴァーホルトの一家はウェストモアランド郡ウェスト・オーヴァートンに定住した、と記述されることがありますが、寧ろ彼らの入植地がウェスト・オーヴァートンになったというのが正確です。

多くのドイツ系メノナイト農民がそうであるように、ヘンリーもまたファーム・ディスティラーでした。ペンシルヴェニア州の初期の歴史では、典型的なフロンティア・コミュニティーにある蒸溜所の数がグリスト・ミル(製粉所)の数を上回っていた時期があったそうです。しかしそれは、平均的な入植者にとってウィスキーが小麦粉やミールよりも重要だった訳ではなく、海上の市場から遠く離れた辺境の農民にとって穀物をウィスキーに転換することが最も経済的な方法だったからでした。当時の蒸溜は典型的な農業産業であり、農民が自分たちの穀物を市場へ運搬するのをより容易にする必要性に基づいて行っていました。穀物やフルーツを首尾よく蒸溜酒に変えれば腐ることもなく輸送が簡便になり、お金や必要な物資と交換することが出来ます。ファーム・ディスティラーは臨機応変に豊富にあるものは何でも蒸溜しました。しかし、ヘンリーの父親の出身地であるドイツの一部では少なくとも1500年代から「korn(ドイツ語で穀物の意)」もしくはライ麦の蒸溜を得意としていたと伝えられます。また、1760年には既にドイツ系メソディストがペンシルヴェニアで「korntram(穀物蒸溜酒)」もしくは「rye-dram(ライ麦蒸溜酒)」を造っていた記録も残っているそうです。そこでヘンリーもその伝統を受け継ぎ、或る時期(1803年?)から丸太のスティルハウスを建て、栽培していた穀物から少量のウィスキーを造り始めたのでしょう。
そして、オーヴァーホルト家は織り物でも有名でした。一家が商業用蒸溜を始める前から機織機でカヴァレットを織っており、1~2日の作業で3~7ドルを請求したそう。1800年代半ばまでに流行したカヴァレットは、ベッド・カヴァーとして実用的かつ美しいもので、幾何学模様のものなどがありました。オーヴァーホルトの作品は大胆な色、花や唐草風の装飾曲線のパターンが多かったとか。その才はヘンリーの息子エイブラハムにも受け継がれていたようです。1784年に生まれたエイブラハムは家族が引っ越したとき16歳でしたが、10代の頃からバックス郡で織工の職を習得していた彼は、家系のルーツであるスイス(Oberholtzは1600年代にスイスからドイツへ移り住んだ)に伝わる織物製法とデザインを用いて、オーヴァーホルト家の事業で最も成功した一つである織物のカヴァレット製造に貢献しました。商業用製品のカヴァレットは西へ向かう入植者たちに重宝されたと言います。幌馬車がウェスト・オーヴァートンに停車し、彼らはオーヴァーホルトの雑貨店で生肉や乾物、各種備品を購入し、ハンディなカヴァレットや、その時ちょうどあればお手製の農場産ウィスキーも購入した、と。
参考
(ヘンリー・O・オーヴァーホルト作のカヴァレット)

他のオーヴァーホルト兄弟が原生林から農地を切り開いている間もエイブラハムは機織りに励んでいました。機織り機での労働は、家族やその周辺の広い隣人のために衣服の材料を提供したところから、斧を振るう兄弟たちの努力と同じくらいに重要な仕事です。エイブラハムはウィーヴァーとしてかなりの才能を示しましたが、彼の主な関心はウィスキー・メイキングにありました。どの農家もウィスキーの蒸溜方法を知っており、どの農場にも自分の蒸溜所がありました。但し、そうした初期のスティルは、手製の鍬と同じくらい粗末なもので、当時の他の農機具と何ら変わりはなく、小屋の傍に砥石とスティルがあっただけの話でした。開拓者は自活するか自滅するかのどちらかであり、スティルの手入れをすることは牛の乳を搾ったりミールを挽いたり石鹸を煮るのと同じように家庭の義務でした。エイブラハムは、定期的に機織り機を離れてスティルの手入れをしながらウィスキー造りの技術を習得して行きます。

1809年、エイブラハムは、著名なメノナイト牧師兼農夫であったエイブラハム・ストウファーとアンナ・ニスリーの娘マリア・ストウファーと結婚しました。彼は自分と増え続ける一族のために新しい未来を切り開こうと決意します。エイブラハムは敷地内の丸太小屋のスティルハウスで行われる蒸溜作業の管理を引き継ぎ、翌1810年、弟のクリスチャン・オーヴァーホルト(1786〜1868)と共に父親の農場の「特別な利権」を購入し、長老達からログ・キャビン・ディスティラリーを新設する許可と十分な広さの土地を得ました。彼が26歳で新妻マリアとの最初の子供の誕生を待っていた時のことでした。8月10日にヘンリー・ストウファー・オーヴァーホルト(1810〜1870)はこの世に生を受け、エイブラハムは新しい蒸溜所を建設し、秋の収穫と共に最初のライ・ウィスキーを製造しました。やんちゃなメノナイトと見做されたエイブラハムは、身長5フィート8インチ(約173cm)で、質素かつ勤勉で節約家な気質を持っていたと言われています。丸太で出来た小さな蒸溜所は、当初はマッシングのための穀物を薬剤師が使うような乳鉢で潰すという極めて小規模なもので、生産量は週に数ガロンと限られており、まだフルタイムの蒸溜業ではなかったのかも知れませんが、ともかくも家業を副業としての一般農業から本業としてのウィスキー造りに移行させました。
蒸溜酒ビジネスは急速に成長していたようで、2年後に娘のアンナ・ストウファー・オーヴァーホルトが生まれた頃、エイブラハムは共同経営者である弟クリスチャンの農場の持分を1エーカーあたり50ドルという当時としては高値で買い取りました。クリスチャンはある時期から、スミストンの近くにホワイトオークの林を購入し、以後、一家のための木材を供給するようになったそうです。エイブラハム夫妻の次男ジェイコブ・ストウファー・オーヴァーホルト(1814〜1859)が生まれる頃には、蒸溜酒製造事業は順調に進んでいたことでしょう。年月が経つにつれ、エイブラハムは蒸溜に益々力を入れるようになります。創業から10年を経た1820年代には1日に約12〜15ガロンのライ・ウィスキーを蒸溜し、お金を稼いでいたようです。スティル自体のサイズは1811年から1828年の間に三回増大し、1814年には150ガロンから168ガロンに、1823年には212ガロンに、そして1828年には324ガロンになりました。

エイブラハムとマリアは8人の子供(6人の息子と2人の娘)を儲け、子育て、農場経営、作物の栽培と収穫、そして蒸溜と非常に忙しい家族でした。 農作業と並行してオーヴァーホルトの少年達、特にヘンリーとジェイコブは若いうちからウィスキー製造事業に携わるようになっていました。彼らは、悪路ばかりでワゴンの車輪がよく壊れていた時代に、近くの町の製粉所への穀物の運搬を文字通り一手に引き受けていたと云う話が伝わっています。それは牛が牽く頑丈なワゴンでの長く、疲れる、厄介な旅でした。1832年、エイブラハムは新しい石造りの蒸溜所を建設し、1日あたりの生産量を150ガロン以上に増やします。これは年間55000ガロン近くの生産容量でした。1834年には蒸溜所の近くにレンガ造りの自前のグリスト・ミルが建てられ、穀物を他の場所に運んで製粉する必要がなくなりました。これにより、ヘンリーとジェイコブが直面した多くの遅延、扱い難い牛に苛々したり、泥濘に嵌ったり、車輪修理工も鍛冶屋もいないウィルダネスでの偶発的な故障で立往生といった穀物運搬に関する問題は一応の解決を見ます。荒野を切り開いて来た牛たちは農作業に使われるようになりました。この投資は上手く行き、副業の小麦粉ビジネスでも利益が齎されたようです。新しい製粉所が本格的に稼動し始めた1834年の秋には、24歳の息子ヘンリー・Sが事業の半分の利権を購入し、その後A.& H.S.オーヴァーホルト・カンパニーを名乗るようになりました。また同じ頃、エイブラハムは事業の拠点であるウェスト・オーヴァートンに立派なジョージアン様式の家を家族のために建てました。程なくしてウェスト・オーヴァートンのウィスキーには「オールド・ファーム・ピュア・ライ」というブランド名が付けられます。エイブラハムはウィスキーの正しい造り方を知っている人物として急速に評判を高め、その人気に乗じて彼の蒸溜は堅固なビジネスとなり、その勢いは留まるところを知らないようでした。1843年、オーヴァーホルトの「オールド・ライ」がボルティモアの新聞広告に掲載されました。当時は蒸溜業者による製品のブランド化はまだ一般的ではなく、ウィスキーの殆ど全てを卸売業者や小売業者に樽売りしていたので非常に珍しいことでした。名前を出して宣伝する価値があるのはごく少数のトップ蒸溜所だけだったのです。
蒸溜所が拡大を続けるにつれて、労働者の家の村が作られました。これらの入居者は、クーパーやら製粉係やら労働者としてエイブラハムのために働きました。後に、この土地に石炭が埋蔵されているのを発見したときは、石炭を掘る人たちもいました。敷地内には、1846年頃にヘンリー、1854年頃にクリスチャンのために建てられた二つの家もあり、後者は会社の店舗を兼ねていたそうです。ウェスト・オーヴァートンの繁栄は、周辺地域の繁栄に繋がりました。蒸溜事業はそれを支えている他の地場産業を生み出し、結果、多くの家庭が安定した賃金を得られるようになった、と。そして家長で創設者のヘンリッヒ・オーバーホルツァーの息子や娘や孫は、子供達のために無料の公立学校の設立、道路の敷設、学校や礼拝堂の建設、ウェスト・オーヴァートンとその周辺の数々の市民事業のための資金調達など、地域の福祉に貢献しました。こうしてウェスト・オーヴァートンは発展を続け、供給と流通のシステムが整備されるとオーヴァーホルトのウィスキーはネイション・ワイドな評判を得、良い顧客にも恵まれて需要は常に供給を上回り、1850年代前半も彼らのライの人気は継続したようです。
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1850年頃、エイブラハムは息子のジェイコブを自分とヘンリーの完全なパートナーとして事業に参加させました。オーヴァーホルトの事業が始まって40年経ち、物事はより複雑になり、彼らの成功は老いたエイブラハムの力だけでなく、ヘンリーとジェイコブのビジネス・スキルに負うところも多くなっていました。1854年、ジェイコブとヘンリーは自分たちで(或いはエイブラハムから資金提供を受けて?)ウェスト・オーヴァートンから南へ6マイルの距離、モノンガヒーラ・リヴァーの支流であるヤッカゲイニー・リヴァーの畔に位置するブロード・フォードに大規模で近代的な2番目の蒸溜所を建設することにします。彼らが大きな蒸溜所の建設についてどれだけ熟慮したかは判りませんが、オーヴァーホルトの一族は事業の拡大は「緩やかな速度で安全に進める」のを信条としていたようなので、更なる拡大が疑問視されることのない状況もしくは必要に迫られるくらいの需要があったことでしょう。ブロード・フォードは川に面していたため、蒸溜所は良好な水源と河川交通の恩恵を受けることが出来ました。フラットボートで穀物を運んだり、ウィスキー樽を積み込み、蒸汽船でモノンガヒーラ・リヴァーを経てピッツバーグのドックに向かったり。また、そこは重要なことに真新しいピッツバーグ&コネルズヴィル鉄道の線路のすぐ隣でした。モノンガヒーラ・ライに対する需要の高まりと新しい鉄道路線に直ぐアクセス出来ることは、成功が約束されたようなものだったのです。彼らはそこで「オールド・モノンガヒーラ」を造りました。
ジェイコブ・オーヴァーホルトは、新しいプロジェクトに力を注ぐあまり、ウェスト・オーヴァートンとブロード・フォード間を行き来するのが負担となり、1855年に兄とのビジネスを友好的に解消してブロード・フォードに移り住んでそちらへ全力を注ぐことにしました。彼がそこで最初に行ったのは、主に当時建設が予定されていたヴィレッジと蒸溜所の資材を供給するための製材所を設立することでした。ジェイコブの監督下で、初めは3軒の住居しかなかったブロード・フォードの地域は、間もなく賑やかなヴィレッジに成長したと言います。1856年、ジェイコブはいとこのヘンリー・O・オーヴァーホルト[※オーヴァーホルト家はファーストネームに関して無頓着で、同じ名前が多いため、ミドルネームで認識する必要があります。このヘンリー・Oはカヴァレットの織工でも有名で(前出の参考画像)、エイブラハムの兄マーティンとその妻キャサリンの次男です]を事業のパートナーに迎え入れました。

ブロード・フォードでジェイコブが造ったウィスキー「オールド・モノンガヒーラ」は少し誤解を招くかも知れません。これはブランド名だったのかも知れませんが、寧ろそれよりは特定のスタイルを意味していたと思われます。ペンシルヴェニア州西部の川沿いで造られるライ・ウィスキーは以前からオールド・モノンガヒーラとして知られ、例えばウェスト・ブラウンズヴィルのサム・トンプソン蒸溜所(1844年建設)のウィスキーもそう呼ばれていました。そして、1851年に出版されたハーマン・メルヴィルの有名な『白鯨(モビー・ディック)』には「もしくは言いようのないオールド・モノンガヒーラ!(言葉に表せないほど素晴らしいの意)」との台詞があり、アメリカン・ウィスキーの研究家にしばしば引用されています。メルヴィルがウィスキーというワードを使わずに「オールド・モノンガヒーラ」というワードを使ったのは、その名称にスタイルとある程度の普遍性があったからでしょう。また、北アメリカの鳥類を自然の生息環境の中で極めて写実的に描いた博物画集『アメリカの鳥類』で知られる画家で鳥類研究家のジョン・ジェイムズ・オーデュボンは、ケンタッキー州で開催されたバーベキューを楽しんだことに就いての日付不明のエッセイに「オールド・モノンガヒーラが群衆のために多くの樽を満たしていた」と記述しているそうです。オーデュボンは1851年に亡くなりました。つまり、彼らはブロード・フォード蒸溜所が操業するよりも前にそれらを書いていたのです。『白鯨』での台詞にはオールド・モノンガヒーラと並ぶかたちで「オールド・オーリンズ・ウィスキー、またはオールド・オハイオ」とも言われています。
“That drove the spigot out of him!” cried Stubb. “‘Tis July’s immortal Fourth; all fountains must run wine today! Would now, it were old Orleans whiskey, or old Ohio, or unspeakable old Monongahela! Then, Tashtego, lad, I’d have ye hold a canakin to the jet, and we’d drink round it! Yea, verily, hearts alive, we’d brew choice punch in the spread of his spout-hole there, and from that live punch-bowl quaff the living stuff.”
(Moby-Dick; or, The Whale─Chapter 84 : Pitchpoling)
第84章のこの箇所は、捕鯨船ペクォード号の二等航海士で長槍の遠投の名手スタッブが、仕留めた鯨から噴き出る血を見て良質な三種のウィスキーに喩えた空想的台詞。血の代わりにそれらのウィスキーが噴き出すなら大パーティーだという訳です。歴史家の中にはこの言葉を引用してバーボン・ウィスキーの製造が順調に普及していたことを示す人もおり、確証はありませんが、この「オーリンズ」や「オハイオ」はバーボンの別名だったのかも知れません。おそらくケンタッキーのバーボン郡(乃至は北部)から出荷されたウィスキーがオハイオ・リヴァーを下りニュー・オーリンズに到着すると、販売される地や運ばれた道程の名称が付けられたのではないかと。ウィスキーの種類として「バーボン」が最初に言及されたのは1820年代にまで遡るらしいのですが、広く一般化したのは南北戦争の後と言われるので、それ以前に「オーリンズ」や「オハイオ」とか、或いは他の名称が乱立していても不思議ではない気がします。それは扠て措き、ここで重要なのは地名ではなく、寧ろ「オールド」の方です。オールドの付いたウィスキーの特徴は熟成されていることでした。1820年代には、ライ・ウィスキーは熟成スピリットとして普及し始めていたと言われます。このスタッブの台詞は『白鯨』の書かれた時点で読者がこの比喩を理解できるほどにエイジド・ライの人気が高まっていたことを示すものでした。とは言え、熟成されていないライの需要もまだ十分にあり、1860年代に出版されたレクティファイングの本には、熟成と未熟成の両方のモノンガヒーラ・ライのレシピが紹介されているそうです。また、未熟成のウィスキーは無色透明、使用済もしくは焦がしていない樽で熟成したウィスキーは黄色がかるため、当のウィスキーが「レッド」と呼ばれる場合は焦がした新樽で熟成されていた可能性が示唆されています。確かに、赤みを帯びた琥珀色、即ち熟成したレッド・ウィスキーの色だからこそスタッブの血をウィスキーに見立てる喩えが成立するでしょう。1800年代初頭であれば、河川をフラットボートで、或いは山間を馬車でゆっくり輸送されたウィスキーは意図せず熟成し、市場に出るまでに色づいたのかも知れない。しかし、蒸気船や鉄道が出来ると輸送は月単位ではなくなり、蒸溜業者は意図的にライを倉庫で熟成させるようになったと思われます(2〜4年程度?)。遅くとも1800年代半ば頃には、普通のウィスキーとは違うオールド・モノンガヒーラが広く知るようになり、ヴァニラやタンニン、レザーやタバコなどのバレル・エイジングから由来するフレイヴァーを得た赤褐色の液体は、良質のウィスキーを意味するようになったのではないでしょうか。今日我々の知る「オールド・オーヴァーホルト」というブランド名は、エイブラハム自身によるものではなく、彼の死後暫く経ってから作られることになります。
ちなみに、オーヴァーホルト以外のモノンガヒーラ・リヴァー付近からローレル・ハイランズ(ペンシルヴェニア州南西部地域のフェイエット、サマセット、ウェストモアランドの三郡)の有名な蒸溜所には、先ほど例に出したサム・トンプソン蒸溜所、ラフス・デールにあった1837年設立のサム・ディリンガー蒸溜所(*)、ベル・ヴァーノンの北にはギブソン・ピュア・ライウィスキー等を生産した1856年設立のギブソントン・ミルズ蒸溜所などがあります。これらよりもう少し北部のアレゲイニー・リヴァー沿いには、フリーポートにあり1800年代初頭に設立されたグッケンハイマー蒸溜所、シェンリーにあった1856年設立でゴールデン・ウェディング・ピュア・ライを製造したジョセフ・S・フィンチ蒸溜所、1892年設立のその名もシェンリー蒸溜所がありました。

フェイエット郡にあるブロード・フォード蒸溜所のプロジェクトが進展する一方、ウェストモアランド郡のウェスト・オーヴァートンも経営は順調だったようで、1859年、ウィスキー製造と小麦粉製造の需要に耐え切れず、旧来の蒸溜所と25年間運営されたグリスト・ミルを取り壊し、二つの機能を統合した6階建て(5と1/2階建てという説も)、長さ100フィート、幅63フィートの大きなレンガ造りの新しい施設に建て替えられました(おそらくブロード・フォードの初期蒸溜所と同規模?)。この時、クーパレッジも追加で併設されたようです。粉砕室では毎日200ブッシェルの穀物と50バレルの小麦粉が生産され、この頃の蒸溜所の1日あたりのウィスキー生産量は860ガロンだったとか。この建物は現在でも、ペンシルヴェニア州で南北戦争前の唯一無傷の工業村、ウェスト・オーヴァートン・ヴィレッジのウィスキー博物館として残っています。
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(WIKIMEDIA COMMONSより)
後にオールド・オーヴァーホルトの歴史に大きく名を残すエイブラハムの孫ヘンリー・クレイ・フリック(このあと取り上げます)の娘ヘレンは、曽祖父母であるエイブラハムとマリアが住み、父親が生まれたウェスト・オーヴァートンの建物を1922年に購入し始め、このサイトを運営および維持するためにウェストモアランド=フェイエット歴史協会を1928年に設立しました。ヴィレッジは残された18棟のオーヴァーホルト・ビルディングで構成され、国家歴史登録財にリストされています。博物館でオーヴァーホルト家の歴史を知るだけでなく、ホールで結婚式を挙げたりも出来るみたいです。また、1世紀を経た2019年、規模は小さいもののウィスキーの蒸溜が再び開始され、ウェスト・オーヴァートン・ディスティリングの名の下でオールド・ファーム・ブランドが復活しています。

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新しいウェスト・オーヴァートン蒸溜所がオープンしたのと同じ年、父エイブラハムの75歳の誕生日の翌日、1859年4月20日、残念なことにジェイコブ・S・オーヴァーホルトが亡くなりました。ジェイコブは「最後の病気」まで自分の巨大なビジネスに厳しい注意を払っていたと報告されています。彼は大きなエナジーをもってビジネス活動を行う誠実な人物であり、慈善活動で著名な彼は貧しい人々を決して見捨てなかったそう。若い頃から農場で働く傍ら蒸溜所にも従事し、蒸溜のビジネスを学んだジェイコブはすぐに熟練して兄のヘンリー・Sと共に父親から実質的に事業の管理を任されていました。マスター・ディスティラー、ビジネスマン、起業家として素晴らしいキャリアを残し、彼をよく知る人の言葉を借りれば「皆の友達」であり、 家族にとってはメリー・フォックスの夫で9人の子供の父親でした。
エイブラハムはジェイコブの死後、ブロード・フォード蒸溜所の3分の2のシェアを買い取り、ヘンリー・Oを3分の1のシェア・パートナーとして経営を続けます。ヘンリー・Sは父親のウェスト・オーヴァートン・ディスティリング事業のフル・パートナーのままです。エイブラハムはブロード・フォードと、安価なブランドの「オールド・ファーム」を製造するウェスト・オーヴァートンの両方の事業を合体させ、「A.オーヴァーホルト&カンパニー」として営業し、国内最大級のウィスキー・メーカーの地位を確立しました。その名声は国内の至る所に広まり、西部の川を船で下る人々は、南部と西部の市場でオーヴァーホルトのウィスキーが高値で取引されていることを明言したと言います。ウィスキーは平原やロッキー山脈を越え、拡大するフロンティアに伴い西部の遥か彼方へと運ばれて行きました。

ブロード・フォードでのジェイコブの後釜に据えられたのは、エイブラハムの孫、エイブラハム・オーヴァーホルト・ティンストマン(1834〜1915)のようです。彼はエイブラハムの娘アンナとその夫ジョン・ティンストマンの第3子で、25歳になるまで父親の農場で働き、それから祖父の所有するブロード・フォードに移りました。A・O・ティンストマンは名高いオーヴァーホルト・ウィスキーの製造、蒸気駆動の製材所での木材の切断、ブロード・フォードの敷地内で行われている農業などを日々監督し、経営者としての能力はすぐに明らかになったと言われています。1864年にはヘンリー・O・オーヴァーホルトが事業からの引退に際しブロードフォード蒸留所の3分の1のパートナーシップを売り払い、A・O・ティンストマンがマネージャーから祖父の共同経営者となってA.オーヴァーホルト&カンパニーの経営を継続しました(1968年とする説も)。

南北戦争(1861〜1865)はウェスト・オーヴァートンとブロード・フォードの一家に深刻な影響を及ぼしました。エイブラハム・オーヴァーホルトは高齢にも拘わらず、エイブラハム・リンカーンを支持し、国の状況を憂慮して個人的に知っている戦場の兵士を励ますために二度ほど戦場を訪れたそうです。特に軍服を着たオーヴァーホルト家の人々を訪ね、そのうちの何人かは戦争中に亡くなったらしい。但しその戦禍は、ケンタッキー・バーボンがほぼ全ての輸送手段の全滅によって荒廃したようには、ペンシルヴェニア・ライに悪影響を与えることはなかったようです。鉄道の破壊や河川の封鎖による運輸の停止などはピッツバーグやフィラデルフィアでは起こりませんでした。戦争の間、グラント将軍を始めとする無数の将校や兵士がオーヴァーホルト・ウィスキーを飲んでいたという話があります。また『リンカーンが撃たれた日』という本の著者は、オーヴァーホルト・ウィスキーはリンカーン大統領のお気に入りの酒だったと述べているそうです。

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エイブラハム・オーヴァーホルトはウェスト・オーヴァートンの自分の農場で1870年に亡くなりました。実は息子のヘンリー・S・オーヴァーホルトも父と同じ年に亡くなっています。ヘンリー・Sは、1870年1月15日にエイブラハムが亡くなるまで父と共に事業を行い、同年6月18日、父に続いて墓場へと向かいました。父とのパートナーシップを結ぶ前から製粉と蒸溜の事業をヘンリー・Sは全般的に監督していたそうです。 彼は父親の特徴を多く受け継ぎ、ペンシルヴェニア州西部で最高の実業家の一人と見なされていました。少年時代から死の直前まで極めて道徳的な人生を送り、社交面では多弁ではなく寡黙でしたが、非常に人気があり、彼を知る全ての人に愛されていたと伝えられます。
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エイブラハムに話を戻しましょう。彼は86歳で亡くなるまで家族の蒸溜作業の管理に直接関与していたと言われています。1月15日土曜日の朝、いつものように起き、ランタンを持って外に出たまま帰ってこないので、家族が探しに行くと、納屋(屋外トイレ?)の中で余命幾ばくかという状態で発見されたそう。エイブラハムはしっかり者のジェントルマンで、秩序正しく業務を遂行し、決断が早く、将来に対する明確なヴィジョンを持ったビジネスマンでした。時間を厳格に守り、支払いを求める債権者を失望させたことは一度もありませんでした。従業員には優しく、全ての取引に於いて率直だという評判は近郷に広く知れ渡っていました。公共心が旺盛で、コミュニティ施設の建設にいち早く取り組み、パブリック・スクールを早くから熱心に提唱し支援しました。長年に渡りメノナイト教会の信心深いメンバーであり、慈悲深い目的が必要な時には何時も喜んでその豊富な資金を提供する用意がありました。ビジネスで大成功した彼の遺産は多く、相続人には35万ドル払われたと言います。また、エイブラハムはウェストモアランド郡の一部で最初に石炭を発見し、最初に使用した人物でもありました。これはその地域の地下に莫大な量の良質な石炭が眠っていることを明らかにしました。発見以前は石炭は山の反対側から鍛冶屋に運ばれており、エイブラハムは当初、東部から時折り訪れる旅人へ珍品として公開していたそうです。南北戦争が終わるまでにエイブラハムは既にお金持ちでしたが、その大部分は彼の土地での石炭の発見から来たのかも知れません。おそらく石炭の発見は蒸溜事業の発展にとっても重要なことであったに違いないでしょう。

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先に名前を出したA・O・ティンストマンは、長年に渡り石炭とコークスに広く関心を寄せていました。彼は1865年にジョセフ・リストと共にブロード・フォード・ヴィレッジに隣接する約600エーカーの原料炭用地を購入します。1868年にその利権の2分の1をカーネル・A・S・M・モーガンに売ってモーガン&カンパニーを設立すると、共同でモーガン鉱山を開設して専らコークス製造に従事しました。その製品の販売先を確保するためにブロード・フォードから同鉱山までの1マイルの鉄道を敷きます。モーガン&カンパニーは当時この地域のコークス事業の殆ど全権を握っていました。ティンストマンは、1870年にはマウント・プレゼント&ブロード・フォード鉄道を組織し、ブロード・フォードにピッツバーグ&コネルズヴィル・レイルロードに接続する鉄道を建設、そして6年後にボルティモア&オハイオ・レイルロードに全鉄道を売却するまで社長を務めました。これがウェストモアランド郡におけるコークス事業の発展の始まりでした。
1871年、ティンストマンはジョセフ・リストと共に、エイブラハム・オーヴァーホルトのもう一人の有名な孫ヘンリー・クレイ・フリックのコークス会社であるフリック&カンパニーと提携しました。この会社はブロード・フォードに200基のコークス炉を建設しました。最初の100基はマウント・プレゼント&ブロード・フォード鉄道に沿って建てられ、そこはフリック製作所またはノヴェルティ製作所として知られていました。残りの100基はボルティモア&オハイオ鉄道のピッツバーグ支線に沿って建てられ、そちらはヘンリー・クレイ製作所と呼ばれました。1872年、モーガン&カンパニーはウェストモアランドのラトローブに400エーカーの原料炭用地を購入し、50基のオーヴンを建設しました。 ティンストマンは他にも炭鉱地を広範囲に購入し、その地域で最良の炭鉱地のほぼ全てを所有していましたが、1873年の金融恐慌の影響は甚大で、コークス事業は急に落ち込み、彼は全てを失いました。しかし、コークス事業が復活することに大きな自信を持ち、製造業の利益の中で最も早く確実に回復することを予見した彼は、その損失を取り返すべく果敢に取り組み、1878年と1880年にコネルズヴィル地域の広大な炭地をオプションで購入し、1880年には原価よりもかなり高い価格で約3500エーカーの土地を売却することで大きな利益を得、再び実業家として新たなスタートを切ることが出来ました。同じ頃、ピッツバーグにA.O.ティンストマン&カンパニーを設立し、すぐにライジング・サン・コーク・ワークスの半分のインタレストを購入します。1881年にはマウント・ブラドック・コーク・ワークスとペンズヴィル・コーク・ワークスを買収し、全部で約300のオーヴンを所有し運営して、その事業は成功を収めました。3年後にはコークス関連の権益を全て売却し、西ペンシルヴェニアと西ヴァージニアの炭鉱用地の購入に従事して、その後引退したようです。

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エイブラハム・オーヴァーホルトの名前はウィスキー愛好家にはよく知られていますが、そうでない一般の人々にとってもっと有名なのは、エイブラハムの孫であるヘンリー・クレイ・フリック(1849〜1919)でしょう。ブロード・フォードは長年に渡って鉱山と石炭供給の中心地として大きな活況を呈していました。この地域一帯には鉄道の線路が何本も交差しており、嘗ては毎日幾万台もの石炭やコークスの車輛がこの地を行き来していたと言います。そのような賑わいの中心にいた人物が、若き日にオーヴァーホルトの蒸溜所で事務員をしていたフリックでした。彼は「泥棒男爵(ロバー・バロンズ)」とも呼ばれた実業家の一人であり、アンドリュー・カーネギーと共にアメリカの偉大なる産業時代の創設者の一人であり、嘗て「アメリカで最も嫌われている男」の称号を持っていたユニオン・バスターであり、巨万の富を築いた金融家であり、世界的な美術品のコレクターであり、慈善団体に数百万ドルを寄付した慈善家でした。そんな彼の初期のキャリアはエイブラハム・オーヴァーホルトやA・O・ティンストマンによって引き上げられました。
ヘンリー・クレイ・フリックは、エイブラハム・オーヴァーホルトとマリアの次女であるエリザベス・ストウファー・オーヴァーホルトと、その夫であるジョン・ウィリアム・フリックの間に産まれ、両親の住むウェスト・オーヴァートンの農場で育ちました。1863年、14歳の時、ウェスト・オーヴァートンの叔父クリスチャン・S・オーヴァーホルトの店で店員を務め、16歳になると別の叔父マーティン・S・オーヴァーホルトの事務員としてマウント・プレゼントに移り住み、その後3年間そこで働きながら散発的に大学に通いました。1868年、ウェスト・オーヴァートンに戻った彼は、祖父エイブラハムに連れられてブロード・フォード蒸溜所に行き、そこで従兄弟のA・O・ティンストマンに月給25ドルで事務員として雇われます。同じ頃、クリスチャン・Sは甥のためにピッツバーグのマクラム&カーライルでの職を確保し、フリックは19歳の時に週6ドルでリネン&レース部門の事務員を務めました。しかし、新しい仕事を始めた直後に腸チフスに罹り、母、祖母、妹からの治療を受けるためにウェスト・オーヴァートンに戻って、そこの蒸溜所でセールスと経理を手伝いながら3ヵ月のあいだ無給で働きました。その後、A・O・ティンストマンからブロード・フォード蒸溜所で事務を担当するため年俸1000ドで雇われ直したようです。彼は長く仕事を続けることをしていませんが、一族からの推薦を受けて、様々な家族と働くことでビジネス・スキルを習得したのでしょう。
ヘンリー・クレイ・フリックは、数年前のエイブラハム・オーヴァーホルトと同様に、農場で最初に発見された石炭に興味を持っていました。彼は隣接する農場で小さなオーヴンを使って実験している人に信頼を寄せ、自分の貯金を叩いて資金を援助したそうです。或る日、冷却炉の残留物を削っていたその人は叫びました。「これは通常の石炭の熱を何倍にもするものだ!」と。フリックは「それは何に使えるのですか?」と尋ねると「鋼鉄を造るためだよ」との返事でした。彼はブロード・フォード蒸溜所のオフィスで毎日帳簿に向かいながらコークス生産の重大な可能性について考えました。その決断は速く、蒸溜所での決算を終えると夕方にはその地域一帯の農家を訪ね歩き、汎ゆるところから借りたポケットマネーで石炭用地をオプションで購入しました。若き日のフリックは夜通し走り回り、コートのポケットに約束手形の束を忍ばせ、ひたすらオプション取引を繰り返した、と。彼は事業を始めることを強く望み、帳簿管理以上の何かを目指し、不屈のエネルギーと判断力により、コークスと石炭で大金を稼ぐセンスを持っていることを示しました。すぐに彼のニーズは田舎の銀行との取引だけではなくなります。
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(Judge Thomas Mellon 1813-1908)
元弁護士/裁判官であったトーマス・メロンが1870年1月2日に息子のアンドリュー・ウィリアムとリチャード・ビーティーと共にピッツバーグでT・メロン&サンズ銀行(メロンの銀行は19世紀末までにニューヨーク以外で最大の銀行機関になったと云う)を開業しました。メロン一族は以前ウェストモアランド郡に住んでいました。トーマスの父は1818年にアイルランドからアメリカへとやって来てウェストモアランドに定住し、エイブラハム・オーヴァーホルトと親交を深めたと言います。トーマスもクレイ・フリックの母エリザベスが少女だった頃から知っていました。ちなみに、その昔、メロン家の農場にも蒸溜所があったそう。
1871年、ヘンリー・クレイ・フリックはピッツバーグに行き、予告なしにトーマス・メロンに面会を求め、彼のオプションを提示し、銀行とのコネクションを築くことが出来ました。彼はコネルズヴィル地区にビーハイヴ・コークス炉を建設し、炭鉱を購入するため1万ドルの融資を求めたと言います。トーマスは、鉄鋼事業が生み出すコークスの需要を予測した若きフリックの言葉に感銘を受け、そして数年後、H.C.フリック・コーク・カンパニーが鉄鋼業にコークスを供給する有力企業になれるよう十分な資金を提供しました。フリックはこの時、1万ドルを6ヶ月間10%の金利で借りて、コークス炉を50基建設するために持ち帰りました。トーマスが資金を必要とする商売の経験の浅い地方出身の若者の依頼に応じたのは、オーヴァーホルト家の名前と評判、エリザベス・オーヴァーホルトとの若い頃の友情と言った家族的背景も多少はあったかも知れませんが、コークスの需要は驚くほど高まっており、この取引と申請者の両方が健全であると判断したからでしょう。トーマス・メロンは1873年の経済恐慌(ピッツバーグの90の組織銀行と12の民間銀行の半分が破綻したらしい)で財産をほぼ失いましたが、フリックへの融資は経済が再び拡大し始めた時に繁栄するための賢明な投資の一つとなり、ピッツバーグが世界の鉄鋼業の中心地となる歴史の前段階に小さな役割を担いました。その後、フリックはアンドリュー・カーネギーのパートナーとなり、ライヴァルとなり、敵となり、一時はカーネギーの後継者として米国産業界で最も強力な人物となるのは歴史の知るところです。ちなみに当時、父親の銀行にいた若き日のアンドリュー・W・メロンはこの取引に呼ばれ、新しい顧客である新進気鋭の大物社長の目に留まり、アンドリューはクレイ・フリックより5歳年下でしたが、軈て良い友人関係となりました。この関係は後年、オーヴァーホルト・ライの歴史に重要な意味を持つことになります。
フリックがコークスの製造を開始するとウェストモアランド郡とフェイエット郡の町々は次第に繁栄、人口は大幅に拡大し、多様化しました。労働者の主な仕事は炭鉱とコークス炉でしたが、そこから派生する職業の雇用も生み出します。オーヴンのためのレンガ作りや石工、鉱山のための機械やその保守、鉄道の敷設やその保守から、肉屋、パン屋、燭台メーカーまで。1871年、フリックが21歳で従兄弟と友人と共に小さな共同事業を始めた時、30歳までに百万長者になることを誓っていました。生涯の友アンドリュー・メロンの家族からの融資のお陰もあってか、会社は順調に大きくなったようで、1878年に会社はH.C.フリック&カンパニーと改名、1000人の従業員を抱え、毎日100台の貨車にコークスを満載して出荷するまでになり、ペンシルヴェニア州の石炭生産高の80%を支配したとされます。1879年末の12月19日、フリックは30歳の誕生日を迎え、帳簿を調べると既に100万ドルの価値があり、人生の大望を達成していたことが分かりました。

ヘンリー・クレイ・フリックの並外れた富は主に鉄鋼と鉄道から齎されましたが、ウィスキーからも少し得ました。彼の所有権の下でオールド・オーヴァーホルトは国内で最も売れているライ・ウィスキーのブランドになります。フリックにとって、オーヴァーホルト家の故郷やブロード・フォードの蒸溜所は副次的な関心事、或いは感傷的なサイドビジネスに過ぎなかったかも知れませんが、彼の成功への引き金や支柱ではありましたし、その価値を知っていたのでしょう。
1870年にエイブラハムが亡くなった後、フリックの許に落ち着くまで、A.オーヴァーホルト&カンパニーの所有権は複雑に絡み合っていたようです。1875年、エイブラハム・オーヴァーホルト・ティンストマンがA.オーヴァーホルト&カンパニーに於けるブランド及び商標としての名前の使用権を含む3分の2の権利を購入しました。翌1876年には、A・O・ティンストマンはA.オーヴァーホルト&カンパニーのインタレストを、ブランド名および商標として会社名を使用する権利と共に、弟のクリスチャン・ストウファー・オーヴァーホルト・ティンストマンに譲渡します。同年、C・S・O・ティンストマンとクリストファー・フリッチマンがパートナーとなりました。1878年に彼らはジェイムズ・G・ポンテフラクトと1年間の共同パートナーシップを結びました。1881年には別の契約を結び、ポンテフラクトにA.オーヴァーホルト&カンパニーの社名と蒸溜所の様々な銘柄を1883年4月1日までの2年間使用する権利を付与します。
既に裕福であったヘンリー・クレイ・フリックは、この頃には資本家として完全な支配権を獲得する手段を持っていました。1881年、フリックはエイブラハム・オーヴァーホルトの遺言執行人(ヘンリー・Sの兄弟マーティン・ストウファー・オーヴァーホルトとクリスチャン・ストウファー・オーヴァーホルト)からA.オーヴァーホルト&カンパニーの名称を使用する権利を取得したり、ユニオンタウンのファースト・ナショナル・バンクとその他からA.オーヴァーホルト&カンパニーの3分の1の不可分権益を購入したそうです。更にティンストマンとフリッチマンから3分の2の不可分権益を購入し、フリックはブロード・フォードにある蒸溜所と土地、ブランドやトレードマーク、道具類や機械などを含む文字通り「ロック・ストック・アンド・バレル(一切合切)」の唯一の所有者となったとされます。ポンテフラクトは蒸溜所の経営パートナーとして留まったようで(3分の1の権利を所有?)、フリックは彼に5年間、当該敷地内でのウィスキーの製造、貯蔵、販売のために土地をリースしました。1883年にはティンストマンとフリッチマンがポンテフラクトにA.オーヴァーホルト&カンパニーの名称使用のためにリースしていた権利を引き渡すよう求めますが、ポンテフラクトは応じず、二人は彼を訴えます。1886年には、ティンストマンとフリッチマンがポンテフラクトに対して起こした訴訟が最高裁判所に到達。裁判がどうなったのかは、エイブラハムの来孫カレン・ローズ・オーヴァーホルト・クリッチフィールドが作成したタイムラインを見てもよく分かりません。ちなみにポンテフラクトは1884〜5年頃からジョセフ・A・フィンチ&カンパニーのパートナーとなり、有名なゴールデン・ウェディング・ライに関わってくる人物で、おそらくはピッツバーグを中心に活動したウィスキー・ディーラーかと思われます。彼のリカー・ディーラー仲間が「ペンシルヴェニアの他のどの男よりもウィスキーについて知っている」と信じていた程の人物だそうで、どうやらその頃ウィスキー・トラストやレクティファイアーがピュア・ウィスキーの市場を動乱させていると感じていたらしい。オーヴァーホルトのウィスキーを本物と認めていたからこそ、そのビジネスに関わりたかったのでしょうか? もしかするとオーヴァーホルトの代わりにゴールデン・ウェディングを製造することで、オーヴァーホルトから撤退したのかも知れませんね。ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりご教示いただけると助かります。

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1887年、クレイ・フリックは友人であり既に1882年に父から銀行の陣頭指揮を任されていたアンドリュー・W・メロンと、運営を担当したチャールズ・W・マウクをパートナーとして迎え入れ、それぞれが会社の3分の1を所有するようにしました。マウクはオーヴァーホルト・ブランドの優れたマネージャーだったようで、彼の在任中に同社はウィスキーの正式名称として「オールド・オーヴァーホルト」を採用し、1888年に家長だった人物への尊敬の念を込めラベルにエイブラハムのしかめっ面の肖像を添えるようにしたと伝えられます。これが今日でも我々にお馴染みの「顔」の始まりでした。またその頃、ウィスキーを樽ではなく主にボトルで販売するようにもなった模様。1897年にボトルド・イン・ボンド法が成立すると、すぐにその規定に従ったウイスキー製品を造りました。但し、同社は法定最低期間の4年を遥かに上回るウィスキーをボトリングしていたそうです。そして、従来小売業者に委ねられていた広告を初めは地域的に、その後全国的に出すようになったと言います。これは蒸溜酒メーカーとしては当時はまだ目新しいことでした。それが功を奏したのか、世紀の変わり目までにオールド・オーヴァーホルトは全国的なブランドに成長し、ペンシルヴェニア・ライ最大の生産者ではないにしても、20世紀初頭には一流のウィスキーとして最も尊敬を集める存在となりました。

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偖て、ここらでブロード・フォードの蒸溜所に話を戻します。ピッツバーグから30マイルほどの位置にあるコネルズヴィルのブロード・フォード蒸溜所は、ペンシルヴェニア・ウィスキーの歴史の中で最も重要な蒸溜所の一つであり、業界で最大ではありませんでしたが十分に大きく常に近代的な蒸溜所でした。1850年代半ばに建てられた当初から品質に対する評判は確立されていたのでしょう、1866〜67年頃に(68年とする説も)初期のジェイコブ・S・オーヴァーホルトの蒸溜所は取り壊されて、新しい施設に切り替えられたと言います。その後もミルとディスティラリーの継続的な拡張はなされ、1880年にはプロジェクト#3が開始、石炭を利用した蒸気動力により、一日当たりの生産能力は穀物800ブッシェル、ウィスキー3450ガロンとなりました。1899年には全工場を解体して改築し、新しいラック倉庫を追加する別の建築プロジェクトが開始されます。工事は1905年に終了し、1日当たりの生産量は穀物1500ブッシェル及びウィスキー6450ガロンを達成しました。新しいボトリング・ラインと品質を向上させるために独自の樽を製造するクーパレッジも備えていたたようで、熟成ウィスキーの在庫は膨大だったと伝えられます。しかし、全てが順風満帆という訳ではありません。ブロード・フォード蒸溜所は2回の大きな火災に遭いました。
1884年7月23日の火災では、当時の建物はレンガや石ではなく木造だったため、午後11時に一旦火が着くと誰もその炎を止められず、メイン・ビルディングと3つの保税倉庫、7000バレルのウィスキーが3時間で焼失したそうです。火災の原因は特定できなかったようで、「ミルの粉塵の自然発火」から「作業員の残した葉巻」まで様々な推測があったとか。火災の被害総額は55万ドル、うち建物と機械の損失は11万5千ドルと報告され、600バレルのウィスキーが収納された倉庫一棟は無事でした。
オーヴァーホルト蒸溜所の工場が火事で焼失してからちょうど21年。その間、工場は随時大幅に拡張され能力も向上し、アメリカ国内でも指折りの蒸溜所の一つとなっていました。当時のA.オーヴァーホルト社の株主には、アンドリュー・W・メロンの弟リチャード・B・メロンも加わっていたようです。1905年11月19日の日曜日に起きた2回目の火災では、蒸溜所本体は全くダメージを受けませんでしたが、巨大なウェアハウスDが炎に包まれ完全に焼失しました。建物は炎により徐々に崩れ、そこには非常に古い在庫とそれほど古くない在庫を含む16000バレルのウィスキーがあったものの、その全てが煙になったり地面に染み込んだりして消えました。これは当時の1日あたり6450ガロンの生産能力で約4ヶ月分に相当し、その頃のオーヴァーホルトのウィスキーは1樽平均50ドルの価値があったそうです。また、蒸留所に隣接するグレイン・エレヴェイターに入っていた7500ドル相当のライ麦10000ブッシェルが水に浸ってしまい全損しました。この火事はブロード・フォードの工場全体と町をも壊滅の危機に曝すものでしたが、オーヴァーホルト社の従業員の機転(燃え盛る倉庫の炎が収拾がつかないと見るや、プラントのエンジニアは他の倉庫に入って蒸気パイプを叩き壊し、それから蒸気の圧力を全開にして建物の内部全体を湿らせた)や、コネルズヴィルとニューヘイヴンの消防士の絶え間ない努力により、炎が建物の外に広がるのを防ぐことが出来ました。風が微風とはいえ川の方へ吹いていたことがそれ以上財産を食い荒らさなかった理由と見られ、もし風が川側から吹いていたらブロード・フォードの家屋も全て焼け野原となっていたかも知れません。1905年当時、ブロード・フォードの蒸溜所にはグレイン・エレヴェイター、穀物倉庫、約88000バレルのウィスキーを貯蔵できるウェアハウスA〜D、そして大きなボトリング・ハウスがあり、全て近代的な仕様で建設または改築され、徹底した保険が掛けられていました。株主達はウィスキーと建物だけで総額80万ドル以上の損失と見積もりました。火災の原因については、施設に近接してアクティヴな鉄道線路あったため 、通過する列車が火花を散らし、それがウェアハウスDに入り込んだのではないかと云う推測が有力視されています。最初の火災が発見される少し前にボルティモア&オハイオ鉄道の46号車がブロード・フォードを通過していたのだそうです。蒸溜所本体は無事だったので、おそらくニ週間後には工場を稼動させたでしょう(ジェネラル・マネージャーのジョン・H・ホワイトは当時の新聞記事でそう述べ、R・B・メロンもすぐにでも再建すると発表していた)。

残念ながら、ブロード・フォードにしろウェスト・オーヴァートンにしろ、そのウィスキーの味わいの秘訣とでも言うような部分、即ち原材料や蒸溜工程、またスティルの仔細については明確なことがよく分かりません。スピリッツの歴史家デイヴィッド・ワンドリッチは、1880年にブロード・フォード蒸溜所が1日に約3450ガロンのライを生産していた頃、工場を視察した一人のジャーナリストがおり、彼は自分の「専門用語を覚える能力は平均以下」で「何の説明も出来ない」と告白しているけれども、カッパー・スティルを使用する会社は、昔ながらの製法であるという信頼性を大衆に示すため殆どの場合その事実を広告で言及したので、オーヴァーホルトの広告にはそのような記述はなかったことから、木製のスリー・チェンバー・スティルを使用していたと考えられる、という趣旨のことを述べていました。スリー・チェンバー・スティル(またはチャージ・スティル)は1800年代初頭のアメリカで発明され、1800年代半ばから後半に掛けて特にイースタン・ライ(ペンシルヴェニアやメリーランドのライ)のメーカーに流行し、禁酒法施行後間もなく姿を消したポット・スティルとコラム・スティルの中間様式の蒸溜機です。
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(J.B.ワセンが1875年頃に使用した直立式木造三室蒸溜機)
或る人はコンティニュアス・スティルとチェンバー・スティルの違いをエスプレッソ・マシンとフレンチ・プレス・コーヒー・メーカーの違いのようなものと喩えていました。前者は数秒で蒸気が通り、後者はお湯の中でじっくりと蒸らされるが、どちらもコーヒーでありながらその味わいは大きく異なる、と。殆どのバーボン用コンティニュアス・スティルではマッシュがスティルの内部で蒸気に触れている時間は約3分程度、対してスリー・チェンバー・スティルでは1時間近くのようです。どちらの技術もマッシュから全てのアルコールを抽出しますが、チェンバー・スティルの方がより多くのフレイヴァーを抽出するとされます。ワンドリッチは、ポット・スティルがマズル・ローダー、コラム・スティルがマシンガンとするなら、チャージ・スティルはその中間に位置するボルト・アクション・ライフルのようなものと喩えています[※マズルローダーとは、銃口(マズル)から弾を装填するタイプの銃のことで、主に火縄銃やフリントロック式などの先込め式古式銃のこと。マシンガンは、弾薬を自動的に装填しながら連続発射する銃。ボルト・アクションは、ボルト(遊底)を手動で操作することで弾薬の装填、排出を行う機構を有する銃の総称]。手動操作が必要ながら一度で2回半の蒸溜に相当し、ポット・スティルよりも安価かつ効率的に実行でき、それから生まれる製品はポット・スティル・ウィスキーよりもクリーンでライトでしたが、殆どのコラム・スティル・ウィスキーよりもヘヴィ・ボディでリッチなフレイヴァーだったところから、イースタン・ライの蒸溜所に愛用されたようでした。1898年の歳入局の調査によると大手のライ蒸溜業者16のうち13(そのうち9が木製)がチャージ・スティルを使用していたのに対し、バーボン蒸溜業者は10のうち1だけだったとか。ブロード・フォード蒸溜所も或る時にコラム・スティルに切り替えたのかも知れませんが、少なくとも1800年代後半はスリー・チェンバー・スティルを採用していたのでしょう。
ついでに蒸溜器以外でのケンタッキー・バーボンとイースタン・ライの相違点を挙げておくと、1880年代頃にはケンタッキー州の蒸溜所では規模の大小に拘わらずバーボンでもライでも、スペント・マッシュの一部を次のバッチに投入するサワーマッシュ・プロセスが一般的となっていたと思われますが、ペンシルヴェニア州やメリーランド州のライ蒸溜所はスペント・マッシュを使わないスイート・マッシュ・プロセスを多く採用していたと言われています。また熟成庫のスタイルも、ケンタッキーでは冬季に使用するヒート機能のない木造にトタンを貼ったリックハウスが主流なのに対し、ペンシルヴェニアやメリーランドでは冬の低温による熟成の遅れを防ぎ、一年中一定の温度を保つ蒸気加熱機能付きのレンガや石造りのウェアハウスを建てる傾向がありました。加熱式倉庫でウィスキーの品質を維持するためには低いバレル・エントリー・プルーフが重要だったと見られ、歴史的なライ・ウィスキーのバレルの中身は50%のエタノールと50%の水、つまり100プルーフでのバレル・エントリーだったとされます。あと、樽の大きさも現在より小さかったらしく、熟成に使われるライ・ウィスキー樽は通常42〜48ガロンだったとか。これらはケンタッキーとペンシルヴェニアの違いというより「今昔」の違いかも知れませんね。

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一方、20世紀への変わり目、ウェスト・オーヴァートンにあった製粉所と蒸溜所の複合施設はウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーと名前を変え、オールドファーム・ペンシルヴェニア・ピュアライ・ウィスキーの生産を続けていました。ウエスト・オーヴァートンで蒸溜/熟成されたこのウィスキーは、ブロード・フォードのより近代的な蒸溜所から生み出される製品に似ていたが同じではなかったとされます。その製品は人気を博し、いつしかウェスト・オーヴァートン蒸溜所の建物の広い面には「OLD FARM」という名前が描かれるようになりました。エイブラハムが創業した1810年以来この蒸溜事業はノンストップで続いており、1906年には50万ドルを投資して改修を行い、レンガ造りの6階半建てボンデッド・ウェアハウスAとB、ボイラー・ハウス、オフィス・ビルディング、ドライ・ハウス、新しいボトリング施設などを建設しています。ヘンリー・Sの息子エイブラハム・C・オーヴァーホルトの下で1907年に会社は再編成され、ウェスト・オーヴァートン蒸留所はウィスキーの生産を、A.C.オーヴァーホルト・カンパニーはヴィレッジの賃貸を管理することになりました。当時は禁酒法への機運が高まっており、既に幾つかの州ではアルコールの非合法化が決議され、アンチ・サルーン・リーグやウーマンズ・クリスチャン・テンペランス・ユニオンは会員を増やしていたので、後から振り返ると不確実な投資であったように思ってしまいますが、ウェスト・オーヴァートンでは年々ライの販売量が増え、1910年代初めまではまだまだマーケットは好調でした。しかし、改修から10年後、禁酒法を目前に控えるとウェスト・オーヴァートンで最後のスピリッツが製造されます。倉庫を一掃し、残った在庫はブロード・フォードに運ばれました。ウェスト・オーヴァートンの蒸溜所は長年に渡ってその地域の主要なビジネスでした。禁酒法により蒸溜所が閉鎖されると地域経済の多くの部門、穀物を栽培する農家、穀物を粉砕する製粉業者、樽を作るクーパー、ボトルを作るガラス職人などが苦境に立たされ、村の経済は大きく変貌しました。1928年頃から前に言及したヘレン・フリックがウェスト・オーヴァートンの土地を所有し、博物館として整備を始めるのです。では、次に時計の針を戻してまた別の流れを見て行きましょう。

ヘンリー・クレイ・フリックは1878年頃ピッツバーグに開設した近代的なビルディングの本社から、全国の営業所のネットワークを管理していました。しかし、20世紀に入ると禁酒運動の波は強さを増しており、上質なウィスキーを製造し販売するための窓口は閉ざされようとしていました。1907年、フリックとアンドリュー・W・メロンは、禁酒主義者に睨まれるのは得策でないと判断したのか、A.オーヴァーホルト&カンパニーの蒸溜ライセンスから自分達の名前を消すよう申請しますが、彼らの会社の所有権は残りました。1913年までに9の州が完全にドライとなり、別の31州では市や郡や小さな町および村でローカル・オプション(自治体選択権法)により酒類販売が禁止されていました。急速にアメリカのアルコール産業とディスティラーにとって物事は厳しくなり始めたのです。
そうした風潮に対応して幾つかの市場では、オーヴァーホルトの広告は古風なイラストを使って味わいと伝統を訴えるものからブランドの薬効を主張するものへと変わりました。それらの広告の中には、オーヴァーホルトを家庭の薬棚の伝統的な品目として位置づけ、家族の健康を管理する役割をもつ婦人が利用するようにアピールするものもあったそうです。或る広告では「祖母は風邪にホット・トディが効くことをよく知っている、彼女の少女時代からの間違いない治療薬」と書かれたり、また別の広告ではスタイリッシュな服を着た若い女性が薬品棚を開けている絵の下にオーヴァーホルトのような「第一級のウィスキーは家庭で薬用として使う」と述べていたとか。また、インフルエンザから「深刻な事態の予防」まで汎ゆることに効くという広告もあったり、看護婦が髭面で眼鏡を掛けた医師にウィスキーのボトルを渡している様子まで描き「大多数の病院で選ばれている」と書いているものもあったそうで、ここまで来ると胡散臭さ全開です。1800年代後半でも「家にオールド・オーヴァーホルトがなければ安全ではない」というスローガンを宣伝に掲げていたらしく、まあ誇大宣伝は以前からなのかも知れません。

1917年4月、アメリカはヨーロッパで勃発した第一次世界大戦に参戦しました。アメリカが戦争に突入するまでヨーロッパの食糧供給は低く、そこでは農業生産が途絶えていました。結果として生じた需要はヨーロッパとアメリカの両方で価格を上昇させました。しかし、作物、家禽、家畜、その他の農産物を拡大するには時間が掛るため、すぐに増産することは出来ません。そこで議会は管理を通じてアメリカの消費を削減することを決定します。これでアメリカの軍隊とその同盟国の軍隊を養い、更にヨーロッパで苦しんでいる人々に人道的な食糧救済を提供することも可能になる、と。8月10日、通称レヴァー・アクトまたはレヴァー・ローと知られる食品燃料統制法(Food and Fuel Control Act)が通過し、戦争に必要な食糧を確保するため蒸溜酒製造に於ける穀物や食材の使用を禁止しました。禁酒法を支持する人たちは、レヴァー・アクトは禁酒法への一歩だと考え、広く支持しました。この緊急戦時措置は第一次世界大戦の終わりに失効するように設定されていましたが、最終的な酒類禁止に向けた準備の多くのうちの一つという側面があったのです。戦時中は、仮にウィスキーが造れたとしても、穀物価格が高騰し採算が取れませんでした。そのため蒸溜所は操業を一時停止するか、または軍の燃料と製造ニーズに合わせたニュートラル・スピリッツの生産をしました。
ブロード・フォードのA.オーヴァーホルト&カンパニーでヘンリー・クレイ・フリックとパートナーだったリチャード・B・メロンは、1918年3月28日、フリックに宛てて「110000000ガロンの汎ゆる種類の飲料用蒸留酒」に就いての手紙を書き、禁酒法により閉鎖を命じられた後の利益に関することをあれこれ思案していました。同社はできる限りのことをし、1918年、ボトリング・ラインを稼働するために若い女性を多く雇い、買い溜めしたい人々へ向けてウィスキーを市場に流通させたそうです。1918年12月12日以前、A・W・メロン、R・B・メロン、H・C・フリックの三者はそれぞれA.オーヴァーホルト&カンパニーおよびウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーの二つの蒸溜会社の資本金全体の3分の1を所有していましたが、その日、二つのパートナーシップを形成し、1919年1月に彼らはA.オーヴァーホルト&カンパニーとウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーの保税倉庫に保管されていた大量のウィスキー在庫を含む全資産をそのパートナーシップに移譲させました。どちらの会社も1916年以降はウィスキーを蒸溜しておらず、1918年にそれぞれの事業の清算が開始されました。そもそもパートナーシップはそれらの清算を目的として組織され、ウィスキー証書の販売とストレージ、ボトリング、ケーシング、ストックの販売から成っていました。
第一次世界大戦が終わると、本格的な全国禁酒法が目前に迫っていました。大戦の銃声が止んでから二ヵ月後の1919年1月16日、遂に憲法修正第18条が批准されます。その年の暮れ、12月2日、ウィスキー業界の運命の転換と歩調を合わせるかのように、70歳の誕生日を数週間後に控えたヘンリー・クレイ・フリックは心臓発作でこの世を去りました。12月5日、長年の友人であり遺言執行者でもあるアンドリュー・W・メロンが参列した個人葬の後、ペンシルヴェニア州ピッツバーグのホームウッド墓地に埋葬されます。フリックは財産の6分の1を家族に残し、残りはニューヨーク、ピッツバーグ、そしてコネルズヴィル・コークス地域の慈善団体に遺贈されました。フリックが所有していたA.オーヴァーホルト&カンパニーの持分はアンドリュー・メロンに託され、これによりオーヴァーホルト家によるウィスキー事業の所有権は終わりを告げます。ここでは触れなかった興味深いフリックのその他の人生(サウス・フォーク・フィッシング&ハンティング・クラブの創設メンバーとしてサウス・フォーク・ダムの改造を行い、ダムの決壊を招いてジョンズタウンの大洪水を引き起こした事件や、労働組合に厳しく反対し、ホームステッド・スティール・ストライキで引き起こされた激しい闘争、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーとの出会いと対立、その財力により蒐集した膨大な「フリック・コレクション」など)は、彼のウィキペディアや伝記を参照ください。

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銀行家のアンドリュー・W・メロンはアメリカで最も裕福な男性の一人でした。1890年頃にはジョン・ロックフェラー、ヘンリー・フォードと並ぶアメリカ合衆国で最も財のある三人の富豪のうちの一人とすら言われています。オールド・オーヴァーホルト蒸溜所が成長するために資金を必要とした時、彼は親友のフリックを助けて来たのだと思います。また彼はフリックの財産の執行者でもありました。フリックの死後、アンドリューは当時国内で最大かつ最も成功したウィスキー事業の一つを管理するようになります。オールド・オーヴァーホルトの事業も、禁酒法によってアメリカの醸造所や蒸溜所の殆どが閉鎖を余儀なくされたのと同じように苦境に立たされました。しかし、アンドリューとの関係もあってか、オールド・オーヴァーホルトは政府が発行するメディシナル・ウイスキーの販売許可を得ます。このライセンスにより、オールド・オーヴァーホルトは既存のウィスキー・ストックを「医療目的のためにのみ」パイント・ボトルにボトリングし、合法的に薬剤師へ販売することが出来るようになりました。薬用ウィスキー会社はそれほどお金を儲けられる商売ではなかったようですが、ライセンスは貴重でした。アンドリュー・W・メロンはすぐ後の1921年にウォーレン・G・ハーディング政権下の財務長官に就任します。彼が座ったのは嘗てウィスキー・リベリオンを鎮圧するために西ペンシルヴェニアに進軍したアレグザンダー・ハミルトンが最初に座った椅子でした[※ハミルトンは初代財務長官。彼が連邦軍を率いた後、ペンシルヴェニア州西部の多くの人々が彼を軽蔑して肖像画を逆さまに吊るしたと云う]。このことがオーヴァーホルトのライセンス取得と関係していると疑われています。アンドリューは偉大な人物であり最高の成功を収めた実業家と考えられていたので財務長官となりましたが、もしや薬用ウィスキーのライセンスという有利な許可書を自らに付与したのではないか、と。そもそも財務長官就任前から蒸溜所の所有と銀行のトップであったことは懸念されていました。ちなみに弟のリチャード・B・メロンはアンドリューが財務長官に任命された年にメロン銀行の頭取に就任しています。ともかく、アンドリューのお陰でオーヴァーホルトの会社は存続でき、他の競合相手であったギブソンやグッケンハイマーのような広く人気のあったウィスキー会社は閉鎖を余儀なくされ、他にペンシルヴェニアで許可を得たのはアームストロング郡シェンリーのジョセフ・S・フィンチ蒸溜所くらいでした。ついでに言うと、1920年から1922年に掛けて政府はペンシルヴェニア州の二つの蒸溜所(ジェファソン・ヒルズのラージ・ディスティリング・カンパニーとスクラントン近くのバレット・ディスティリング・カンパニー)とメリーランド州の一つの蒸溜所(グウィンブルック・ディスティラリー)に少量の薬用ウィスキー製造を許可していました。

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(Christie'sより)
ところで、オーヴァーホルト・ライのボトルの中でも一際変わったラベルの物があります。お馴染みのエイブラハムの顔がなく、プルーフや熟成年数に関する記載もなく、ボロボロの巻かれた紙のイラストに「OVERHOLT RYE WHISKEY」の文字と年号の表記だけがあるシンプルなラベル(年は赤色で印刷)。2015年秋にクリスティーズが大量に競売にかけたことで有名になった物です。それらはメロン家の血を受け継ぐ一人、リチャード・メロン・スケイフ(全米屈指の資産家でありピッツバーグ・トリビューン=レヴューの発行人)のワインセラーから来たオーヴァーホルト・ライのプライヴェート・ボトリングでした。ヴィンテージには1904、1905、1906、1908、1909、1910、1911、1912年があり、ボトルはオリジナルの木製ケースに入れられて保管されていたようです。流れとしては、リチャード・B・メロンが1933年に他界し、子供のサラ・コーディリア・メロン・スケイフとリチャード・キング・メロンに多くのライを残し、サラはまたその遺産を息子のリチャード・メロン・スケイフに遺し、2014年に彼が他界すると、その遺産の購入者はオーヴァーホルト・ライが約60ケース残っているワインセラーを発見、クリスティーズがオークションを請け負った、という感じでしょうか。一説には、ブランドを所有していたアンドリュー・W ・メロンと弟のリチャード・B・メロンは、禁酒法が始まる直前、前もって保管していた過去15年間に生産された最高のライのバレルを個人消費のためにボトリングし、一族が「高貴な実験」による「大旱魃」を乗り切れるようウィスキー100ケースを自宅に送ったのではないかと考えられています。この場合ウィスキーは10〜14年寝かせた後、おそらく1919年あたりにボトリングされ、後に再ボトリングされたのだろうと推測されていました。他には、オークションに出されたガラス瓶は1930年代初頭のものとされているため禁酒法終了後に一部ボトリングされたのかも知れないとか、1930年代半ばから後半ボトリングとしている説もあり、その場合は凡そ20数年熟成のライだろうと予想されていました。これらはラベルの年号を蒸溜年とする見方です。
一方で、リチャード・メロン・スケイフの流れからではなく、アンドリューの息子ポール・メロンからオーヴァーホルト・ライを分けてもらえた人々がおり、そのプライヴェート・ボトルの存在は好事家の間で前々から知られていました。ポール自身による説明はかなり具体的です。「オーヴァーホルト・ペンシルヴェニア・ライウィスキーのこれらのボトルの歴史は次の通りです。1918年に禁酒法が制定された時、私の父はオーヴァーホルト蒸溜所の多くの株を所有していました。当時、株主は会社の解散に際し、報酬を現金か在庫のどちらかで受け取ることが出来ました。そこで父は自分の持分の大部分を在庫品、つまりウィスキーのケースで受け取ることを選択し、結局その殆どは私が受け継ぐことになったのです。それらはピッツバーグの我が家に何年も保管されていました。元々は1906年、1908年、1909年、1911年、1915年のケースがありました。今は1905年と1911年のケースしか残っていません。けれども、ラベルに記された年号は単にボトリングの日付だと思われ、そう仮定するとウィスキーは少なくとも12年から15年ほど木樽の中で熟成されていたものと推定されます。1930年代初頭、古いボトルの多くは欠陥があり、複数の亀裂が入り朽ち始めていました。そこで私はセラーにある全てを慎重に濾して瓶詰めし直しました。新しいボトルとそのラベルはオリジナルの正確なコピーですが、コルクを金属のスクリューキャップに取り替えるのが賢明であるように思われました」とのこと。彼はラベルの年号をボトリング年と考えていたようです。また、ポールの友人の友人の或る方は面白い話があるとして、下のようなエピソードを披露していました。「約20年ほど前、ヴァージニアの億万長者で慈善家のポール・メロンと知り合った私の旧友が1908年、1909年、1910年、1911年の4ケースのオールド・O(Old Overholt Ryeの愛称)を貰いました。私は1910年と1911年の2本のボトルをクリスマス・ギフトとして連続的に贈られました。それらは驚異的で、或るヴィンテージが他のヴィンテージよりも優れていたのを覚えています。どっちがどっちだったかは今となっては思い出せません。どうやら、大量の資産となるこれらの代物は、ポールの父アンドリュー・メロンによって、禁酒法時代に所有地の馬車小屋の床下の部屋に埋設されたらしい。それが60年代のある時期に発見され瓶詰めされた。ポールは、父親がよくゲスト達にそれをコニャックと偽っていた、と言っていました。そのままで実際コニャックにとてもよく似た味だったので、私はこの話を信じてるんです。今でもいくつか持っていたらいいのに!」と。
それと、ポールの二番目の妻バーニー・メロンことレイチェル・ランバート・メロンの遺産から来たというこのラベルのパイント瓶もネット上で見かけましたし、リチャード・ビーティーの息子リチャード・キングがリボトルしたと云う情報も見かけました。孰れにせよ、我々アメリカン・ウィスキー愛好家からすると全くもってメロン家の人々が羨ましいと言うしかなく、禁酒法開始前に製造されているこのウィスキーは、おそらくライとバーリー・モルトを原料とし、木製スリー・チェンバー・スティルで蒸溜され、加熱式倉庫で熟成されたものでしょう。オークション時から100年以上前のウィスキーでありながら状態は完璧であり、通常のオールド・オーヴァーホルトよりも樽の中で長い時間を過ごしたことで、よりリッチなスタイルのウィスキーになったと目されるその味わいを或る人は「ボトルの中のサンクスギヴィングみたい」と表現していました。つまり感謝祭で提供されるような料理を想起させる、ヴァニラ、シナモン、ナツメグ、カラメライズド・アップルが主体となっているらしいです。また1909年ヴィンテージは、杉、新鮮なリンゴ、ライ麦から来る柔らかなスパイシーさ、そしてトーストしたオークの風味が特徴、とされています。上述のワンドリッチも極めてリッチでとても良いウィスキーと絶賛していました。

禁酒法時代、オーヴァーホルト・ライは薬用ウィスキーとして合法的に処方されましたが、スピークイージーでも密かに売られていたと言います。実際、H・C・フリックがヨーロッパに負けないホテルを作ろうと計画し、600万ドルの資金で運営されたウィリアム・ペン・ホテルの地下で発見されたスピークイージーを調べたところ、禁酒法以前の日付のオーヴァーホルトのボトルが3本見つかったとか。オーヴァーホルト社は禁酒法が施行される直前、蒸溜所のスタッフと連邦政府のゲイジャーは昼夜問わず残業して働き、貨物列車2両分にあたる5000バレルのライを準備してフィラデルフィアへ出荷、そこからフランスに輸送したそうですが、このウィスキーがアメリカへ持ち帰られた(密輸)のではないかという憶測がありました。真相は藪の中とは言え、可能性は大いにありそうです。
メディシナル・パイントのオールド・オーヴァーホルトは画像検索で探してもあまり多く見つかりません。最もよく見かけるのは禁酒法時代後期にボトリングされたラージ蒸溜所産のものでしょうか。ウェスト・エリザベスのこの蒸溜所は特別な許可を得て1919〜1921年に蒸溜をしており、その時に生産された20000ガロンのウイスキーが保管されている非公式の集中倉庫でした。他にはウェスト・オーヴァートン蒸溜所産のものや、J.A.ドハティーズがボトリングした別ラベルのものもありました。
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(O.O.の薬用ウィスキーの裏ラベル)

1921年の段階で禁酒法の施行を監督していたのは、公式には財務長官でした。アンドリュー・W・メロンは直接の担当者ではありませんでしたが、禁酒法の施行は財務省内にあるため、厳密に言うと財務省のトップである人物は米国の禁酒法の執行責任者でもあったのです。大統領が蒸溜所を所有する人物を財務長官に指名したものだから、禁酒法支持者は激怒しました。彼らは禁酒法を施行する部署の責任者が蒸溜所と利害関係があることを好まず、アンドリュー・メロンに対して圧力をかけました。反サルーン同盟のような団体が全国的なキャンペーンを展開し、彼の名前は全国紙に載ります。アンドリューは世論の反発に耳を傾け、200万ガロン相当のオーヴァーホルト・ライの備蓄をユニオン・トラスト・カンパニーに引き渡し、オーヴァーホルト社を売却せざるを得なくなりました(アンドリューはピッツバーグのユニオン・トラスト・カンパニーのボード・メンバーであり、そもそも創設者だった)。ハーディング大統領の言い分としては、禁酒法の施行は財務省の管轄ではなく司法省の一部であるべきだ、と云うものでした。最終的にはハーディングの願いは実現することになり、1930年、禁酒法の施行は司法省に移され、最後はFBIの中の忘れ去られた小さな部門としてその役割を終えました。
1925年、ユニオン・トラスト・カンパニーはニューヨークのパーク&ティルフォード社にオーヴァーホルトを売却しました。残念ながらこの売却によってオーヴァーホルトの地元での所有は終わりを告げます。アンドリュー・メロンの伝記作家デイヴィッド・キャナダインは、メロンがフリックと設立したユニオン・トラスト社にオーヴァーホルトの全資産と残りのストックを買収させ薬用として販売するよう手配した、と述べていました。メロン自身はオールド・オーヴァーホルトのストックを使って酒類事業を実際に行う心算はなく、ヘンリー・クレイ・フリックとの長期的かつ緊密なパートナーシップの結果に過ぎないと常に考えていたようです。

パーク&ティルフォードは1840年に小売店および高級品の輸入業者として設立されました。その名前は創設者のジョセフ・パークとジョン・メイソン・ティルフォードから来ていますが、1923年にシガー・ストアの大規模なチェーンを運営していたデイヴィッド・A・シュルテ(**)によって購入されました。シュルテはロングアイランド東部でイチゴ摘みの仕事を始め、すぐにマンハッタンのタバコ屋の店員となり、驚くべきスピードでシガー・ストアを立ち上げ急成長させた男でした。タイム誌は「シュルテの名前は苦労して手に入れた富の象徴」と評したそうです。禁酒法時代を通じてパーク&ティルフォードはキャンディーを販売したり新しい香水を導入したりしましたが、シュルテがオールド・オーヴァーホルトを所有したのは、先を読んでの実験だったのかも知れません。禁酒法が終了すると、パーク&ティルフォードはそれを盛大に祝うかのように1933年12月5日、ヨーロッパ最高のウィスキー、ワイン、コーディアルを満載したチャーター船を海に浮かべ、ニューヨークとサンフランシスコに大量の貨物を上陸させて、裕福な人々の酒棚の再ストックを支援しました。どうやら酒類トレードの経験は満足の行くものであり利益も得たようで、シュルテは禁酒法終了後は酒類製造業に専念することにし、パーク&ティルフォード・ブランドの下にアメリカの古い優れた小規模蒸溜所を数多く集めます。1938年、パーク&ティルフォードはウィスキーの産地に近いケンタッキー州ルイヴィルに事務所を開設すると、先ずはルイヴィルのボニー・ブラザーズ蒸溜所を買収し、1940年にはペンシルヴェニア州ブラウンズヴィルのハンバーガー蒸溜所、1941年にはインディアナ州テル・シティのクロッグマン蒸溜所とケンタッキー州ミドウェイのウッドフォード・カウンティ蒸溜所、1942年にはメリーランド州グゥイン・フォールズのオーウィングズ・ミルズ蒸溜所と矢継ぎ早に買収して蒸溜事業を拡大、非常に大きな蒸溜会社になって行きました。こうしてパーク&ティルフォードは1930年代から1950年代に掛けて酒類ビジネスに於ける重要なラベルの一つに発展する訳ですが、これは別の話です。
シュルテはオーヴァーホルト・ライを手に入れるとすぐに、アメリカ政府へ180万ガロンのストックを原価で提供し、薬用ウィスキーとしてボトリングすることを提案しました。これは純然たる利他主義ではなく、1916年から製造していないウィスキーは日に日に古くなり味わいの木質化(オーヴァー・オーク)が進行していたからでした。しかし、この申し出は断られています。それが主な理由か判りませんが、1927年、シュルテはルイス・ローゼンスティールと取引を行い、シェンリーが既存のストック約20万ガロンを販売することになりました(ローゼンスティールはオールド・オーヴァーホルト・ピュア・ライウィスキーを24万ケース、ラージ・ピュア・ライウィスキーを12万ケース確保したとされます)。シェンリーはオールド・オーヴァーホルトとラージを所有していた訳ではなく、シュルテの代理人として20万ガロンをボトリングして販売することが契約内容であったらしい。ウィスキーは契約上、ボンデッド・ストレート・ウィスキーとしてラージとオールド・オーヴァーホルトのそれぞれのラベルで販売しなければならなかったようですが、それが実際にどんなものだったのかは私は画像で見たこともなく全く分かりません。 少なくとも長期間は販売されていないと思われます。シェンリーのオールド・オーヴァーホルトは、第二次世界大戦があったことを考えると40年代までは続いていないだろう、とアメリカン・ウィスキーの研究家ジョン・リップマンは推測していました。
混乱するのは、シュルテがオーヴァーホルトを手放した時期です。一説には、シュルテはプロヒビションが始まるとディスティラーやドラッギストでなくてもメディシナル・リカーで大儲けできることを証明したなどと言われ、1925年にオーヴァーホルト蒸溜所をメロンが支配するユニオン・トラスト社から在庫も含めて450万ドルで買収し、その後一転して27年に全てを770万ドルでアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)に売却した、とされます。AMSが持っていたライセンスはウィスキーの在庫を得るために買収したオーヴァーホルト社を経由したものだったとされているので、この情報と符号します。禁酒法にも拘らず、メディシナル・ライセンスは禁酒法施行前に製造されたウィスキーを販売する権利を与えるもので、ウィスキーの生産者から合法的にストックを購入することが出来、その後の業界の統合に非常に価値のあるものでした(1929年に政府が年間300万ガロンの蒸留酒の製造を許可するまではこのライセンスでは蒸溜は出来ませんでした)。1924年に設立されたナショナル・ディスティラーズは、1927年の段階でAMSの38%を所有し、禁酒法終了に向けた1929年にAMSの残りの発行済株式を購入しました。一方で、1932年の禁酒法廃止を目前にしてシュルテはブロード・フォード蒸溜所を改修して拡大、その数ヵ月後にブランド、蒸溜所、ウィスキー・ストックの全てをイェール大学出身の実業家でナショナル・ディスティラーズを率いるシートン・ポーターに売却したとか、1932年6月?にオーヴァーホルトとラージの両蒸溜所を100万ガロンに及ぶ新しいウィスキーと共に現金60万ドルと普通株式10万2000株でナショナル・ディスティラーズに売却したシュルテは大株主になった云々という情報もあったりして、27年と32年のどちらに売却したのか判らなくなります。シュルテの取引の詳細をご存知の方はコメントよりご教示ください。ともかくこの売却により、オールド・オーヴァーホルトのラベルはアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーのポートフォリオに入り、ナショナルはオールド・オーヴァーホルトとラージ両方の資産を手に入れることになりました。

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ナショナル・ディスティラーズのシートン・ポーターは同時代の多くの人に先駆けて禁酒法の廃止を予見し、閉鎖された蒸溜所やブランドを安いうちに買い漁っていました。おかげで禁酒法の解禁が訪れた時、ナショナルはアメリカ国内のウィスキー在庫の半分を所有するまでになっていました。そして、200を超えるブランドを所有するに至っていたのです。とは言え、それら全てのブランドが復活する訳ではなく、復活するものはごく僅かであり、プロモーションが行われるものは更に限られていました。オールド・オーヴァーホルトは、バーボンのオールド・テイラー、オールド・グランダッド、オールド・クロウ、メリーランド・ライのマウント・ヴァーノンと共に、ナショナル・ディスティラーズの大看板として選ばれたウィスキー・ブランドの一つでした。
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禁酒法が明けてすぐは、一見したところオーヴァーホルト・ライの状況は良好に見えました。ウェスト・オーヴァートンの蒸溜所は再開しませんでしたが、ブロード・フォード蒸溜所は拡張され、スティルに火が入れられると再び稼働し、未来に向かっていました。1914年時点に1日当たり7700ガロンのウィスキーを生産していたブロード・フォード蒸溜所は、禁酒法廃止後に生産量を増やし、1日当たり9760ガロンを生産するようになっていたと言います。エイブラハムの肖像が描かれたラベルのデザインは以前のものと殆ど変わりなく、売上も好調だったようです。しかし、おそらくレシピは禁酒法以前と全く同じではなくなったと見られ、工場の近代化による製造工程の変化は多少なりともあったのかも知れません。新オウナーのブランドの扱いは時代や在庫に順応するかたちで、4年熟成のオーヴァーホルトのストックが不足すると幾つかのボトルをペンシルヴェニアで当時操業していた6つのうちの1つだったラージ蒸溜所で造られたライ・ウィスキーでボトリングしたり、4年未満のライを入れたりしたとされます。ナショナルは禁酒法時代にペンシルヴェニアとケンタッキーにある閉鎖された蒸溜所をいくつも購入しており、それらの倉庫のストックがオールド・オーヴァーホルトとしてボトリングされたとか、一部にはカナディアン・ライをオーヴァーホルトのボトルに入れたとさえ言う人もいたらしい。1938年になると、そうした偽りの行為は殆ど見られなくなったそう(ラージ産の物は48年とか50年とされるボトルをネットで見かけました)。ブロード・フォードで製造され貯蔵したバレルが4年目を迎えるとボトルド・イン・ボンドのオールド・オーヴァーホルトが戻って来たのです。そう言えば、ウェスト・オーヴァートンのオールド・ファーム・ブランドもナショナル・ディスティラーズが引き継ぎ、ラージなどの他の蒸溜所の原酒を使用して幾つかのボトルを製造したという情報も見かけました。下の画像のラベルでは蒸溜はブロード・フォードとなっていますが、どうなのでしょうね?
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40年代に入ると、オールド・オーヴァーホルトとマウント・ヴァーノンというライの両雄の売上は減少しました。オールド・オーヴァーホルトのボトルには、30年代末期から40年代に掛けてボトルド・イン・ボンドの要件である4年を超えた5年や6年の年数表示が現れます(後には更に7年物や8年物も)。これは「ストレート」や「ピュア」を求めるドリンカーにとっては歓迎できる味わいの深みを与えたかも知れませんが、本来4年でよかったものが売れ残ったことを意味するため会社の会計士にとっては歓迎すべきことではありませんでした。1933年から7年が経過し、本来ならアメリカのライやバーボンは伝統的な個性を取り戻す時期が来ていましたが、禁酒法は平均的なアメリカ人の飲酒習慣を変え、禁止期間に成人した酒飲み達はカナディアン・ウィスキーやスコッチ・ウィスキー、そしてブレンデッド・アメリカン・ウィスキーに流れて行きました。ストレート・バーボンにはまだ支持者がいましたが、重厚かつリッチでスパイシーなライ・ウィスキーは年々売上が縮小し、いつの間にか時代遅れのスタイルになっていたのです。ナショナルはそうした潮流に合わせようとしていた可能性もあるとワンドリッチは指摘しています。1936年に設立されたコンシューマーズ・ユニオン・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ(米国消費者組合)は、消費財やサーヴィスを購入者のためにテストし評価する雑誌「コンシューマー・リポーツ」を発行するようになりました。この団体は、消費者の利益を重視し、産業界や商業界の欺瞞を阻止しようとする新しい形のビジネス思考の産物でした。コンシューマーズ・ユニオンが1941年に発行したワインとスピリッツのリポートでは、明らかに重厚な「ストレート」を好む審査員がオールド・オーヴァーホルト・ライのキャラクターが変わったようだと不平を言っています。「このブランドはここ何年か少なからず変わった。 まだよく出来てはいるが、ひと頃の特徴的なブランド・フレイヴァーに欠け、かなりライトボディになった」と。今でも、現行のウィスキーと昔のものを比較して軽くなったとか質が落ちたと言う人はいますが、そうした発言はいつの時代も聞かれ、1940年の頃でさえもあった訳です。

ライ凋落の兆候は既に禁酒法期間中にありました。禁酒法が長引くにつれ、メディシナル・ウィスキーのストックに枯渇の懸念が生じた時、政府は薬用ライセンス所有者へ蒸溜の許可を出しましたが、蒸溜してよい量には制限があり、ペンシルヴェニアのオーヴァーホルトとラージ蒸溜所の割り当ては全体の4分の1しか認められず、残りはケンタッキー州のバーボン蒸溜所に回されていたのです。
100年の歴史をもったライ王朝が、なぜ13年10か月19日17時間32分半の短い間で崩壊したのかについては幾つかの要因が歴史家により指摘されています。上に挙げた消費者の嗜好の変化もその一つでしたが、コーンの栽培を奨励する政府の補助金によりライ・ウィスキーはコスト面で大きなハンディキャップを背負うことになったというのもよく語られる理由の一つです。そもそもライ・ウィスキーを造るのはハイコストでした。原材料のライはコーンより高価でアルコール収率も低く、製造プロセスも手間が掛かります(どろどろのマッシュとの格闘、より長い発酵時間、加熱式倉庫)。嘗てワイルドターキーのマスター・ディスティラーであるジミー・ラッセルはライ・ウィスキーを造るのは好きじゃないと言いました。おそらくバーボン製造に較べライ製造が面倒だったから出た言葉でしょうか。そうしたライ・ウィスキーの製造ノウハウの世代交代による引き継ぎは禁酒法により上手く行われなかったのかも知れません。禁酒法によって廃業したディスティラーは、南北戦争の頃に家業を始めています。彼らは1920年代までに60〜80歳になっていました。ライ・ウィスキー蒸溜所を所有していたか、或いは工場でマスター・ディスティラーとして働いていた男達の殆どは禁酒法期間中に亡くなり、彼らの息子や孫達は新しいビジネスを始めて成功を収めていました。憲法修整第21条により禁酒法が廃止された時、新世代のウィスキー・メーカーに適切な技術を教え指導できる人物はほぼいなくなっていたのです。仮にいたとしても、来たる1930年代の新しい雇用主は製造について異なる考えを持っていたでしょう。 
そしてドライ・エラの間、ソーダやアイスクリームの製造に転換したり、婦人用の毛皮を空の桶と一緒に保冷庫に入れたりした醸造所とは違い、蒸溜所はそのような代替品には適さなかった、とペンシルヴェニア・ウィスキーの歴史家サム・コムレニックは言っています。プロヒビションが制定されると蒸溜所の所有者は全ての機器を売り払いました。蒸気加熱倉庫の多くは蒸気管を剥ぎ取られて保管目的に改造されたり、銅は金属屑として貴重だったので数多の施設から残った銅パイプが奪われたと伝えられます。中でも最大の損失はチェンバー・スティルが失われたことでした。銅製のダブラーと長く曲がりくねったワーム・パイプを備えたチェンバー・スティルは、ピュア・ライ・ウィスキーを造るための理想的なスティル・デザインであることは禁酒法廃止後もよく知られていましたが、第二次世界大戦の後、蒸溜会社は高価で手間の掛かるこの工程に関心を示さなくなって業界からは姿を消し、大規模な工業用ウィスキーの生産に適したコラム・スティルに置き換えられました。
他のアメリカのスピリッツと同様にライ・ウィスキー産業も禁酒法によって壊滅的な打撃を受けた訳ですが、禁酒法後の法律によりライ・ウィスキー生産者の復活が規制された側面もありました。禁酒法が終わりに近づき、その廃止がいよいよ避けられない状況にあった時、ペンシルヴェニア州には国内ウィスキー在庫の3分の1が保管されており、同地の蒸溜酒製造業者と酒屋は、10億ドル規模の酒造ビジネスへの復帰を準備し、早く酒造りを始めようと躍起になっていました。しかし、1931年にペンシルヴェニア州知事に再選していたギフォード・ピンショーは、蒸溜酒製造業者のための競争市場を作ることには関心がなく、酒の不道徳性に対して非常に強い思い入れを持った絶対禁酒主義者でした。リピールの前に「最悪の禁酒法は最高の酒より無際限に優れている」という言葉を吐くほどに。 そこでペンシルヴェニア州の新しい酒税法は、ピンショーの道徳的狂信を強制するために作成されることになり、彼の計画の全てが実現する訳ではありませんでしたが、彼の提案したことの多くがペンシルヴェニアを統制州にしたようです。他に、時の大統領ルーズヴェルト関連で指摘されている規制もあります。禁酒法廃止のキャンペーンを展開したフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは、1932年11月、アメリカ大統領に選出されました。選挙からわずか数日後の1932年12月5日、アメリカ合衆国憲法の一部として修正第21条を提案する通称ブレイン・アクト(Blaine)と知られる合同決議が議会で可決されます。ルーズヴェルトが大統領に就任すると批准手続きが本格的に始まり、1933年12月5日にユタが36番目の州として修正条項を批准しました。ルーズヴェルトは禁酒法を終わらせるという選挙公約を実行に移す決意を固めていましたが、酒類産業の再建に待ち受けている複雑な問題を痛感してもいました。彼はブレイン・トラスト(Brain)とも呼ばれる顧問団に助言を求めます。その結果、ルーズヴェルトが1933年に打ち出した改革は、酒類業界の利害関係者が考えていたようなものではありませんでした。1932年に制定されたブレイン・アクトは酒を州に返還することを基本方針としたもので、各州は廃止が制定された後の進め方について独自の計画を立てていましたが、1933年11月末のルーズヴェルト政権の「蒸溜酒産業の公正競争規範」の草案は、農務長官と大統領の「アルコールおよびアルコール飲料の管理」特別委員会によって作成され、酒類ビジネス全体に一時的であれ連邦政府の厳格な管理を課すものでした。それは蒸溜酒製造業者らの想像を遥かに超えており、中でも1933年12月5日までに蒸溜所を完全に機能させることを義務づけ、それまでに生産状態に到達できない者は生産に入ることが出来ないという決定は、蒸溜業者達にとって大きな打撃となりました。12月5日以前は殆どの蒸溜所が改装中であり、このような短期間での改修は不可能だったからです。これで幾つかのペンシルヴェニアの蒸溜業者はその足並みを乱すことになったとされます。
ペンシルヴェニア・ライの消滅を促進したより大きい要因はウィスキー・トラスト(***)にあったかも知れません。大手のバーボン・プロデューサーズは禁酒法施行後の混乱に乗じて地域ブランドを買収し、大規模で拡張性のある蒸溜所に生産を集約させました。多くの蒸溜所を一つの企業の傘下に置いたそれらの統合者は、アメリカの蒸溜産業を今日まで続く姿に変えました。大企業が多くの施設とウィスキー在庫の大半を所有することで政府の反発を掻い潜り、リピール後に再び立ち上がることが出来た、と。しかし、ライ・ウィスキー業界には全体を統括するような企業は現れず、小規模で断片的なままであり、バーボン・プロデューサーズのような大規模な生産やマーケティング力を欠いていました。ウィスキー・トラストがペンシルヴェニアの蒸溜所を引き継ぐことが出来なかったということは、禁酒法解禁後に「ビッグ・フォー」の保護下に置かれなかったことを意味します。ウィスキー・トラストの設立はウィスキーの生産量ひいては株式市場価値や小売価格をコントロールすることを意図したものでした。そんな彼らが屈服させることが出来なかったのが、ペンシルヴェニアとメリーランドのピュア・ライ・ウィスキー市場でした。ペンシルヴェニアの蒸溜所でも他の蒸溜所と同様に過剰生産や穀物不足に悩まされていましたが、ニッチなカテゴリーに属していたため、過剰生産に歯止めをかけるために協力し合い、家族経営の企業が健全性と独立性を保つことで逆境を乗り切りました。ペンシルヴェニアのライウィスキー・メーカーは他の誰にもできないこと、つまりウィスキー・トラストに「ノー」を言うことが出来たのです。1890年代後半から禁酒法施行までの間にペンシルヴェニアの蒸溜所がウィスキー・トラストに勝利したことと彼らの誠実さは称賛に値するかも知れませんが、皮肉なことにペンシルヴェニアの蒸溜所が禁酒法の嵐を切り抜けられなかった最も大きな理由はその独立性の成功にあった、とペンシルヴェニア・ライの歴史に詳しいローラ・フィールズは指摘しています。彼らは一つの親会社の下に結束することはせず、船を操縦する船長もおらず、集中倉庫の許可が出た時にライ・ウィスキーを勝たせる強力な支持者もいませんでした。なるべく手っ取り早く安価なウィスキーを造りたいというのが、常にウィスキー・トラストの意志であり、禁酒法以前のピオリアの蒸溜所であれ禁酒法後のトラストが運営していた蒸溜所であれ、コラム・スティルと工業規模のモデルが常に優先されました。この企業モデルには残念ながらライ・ウィスキー製造のための場所はなかったのです。ウィスキー・トラストは自分たちのビジネスやブランドの収益にしか関心がありません。シェンリーやナショナルはペンシルヴェニアやメリーランドの蒸溜所やブランドを所有してはいましたが、禁酒法以前のそれらの遺産とは実質的な繋がりはなく、ライ・ウィスキー業界全体の利益のために行動する立場にはありませんでした。
更に悪いことに戦争がありました。第二次世界大戦はライ・ウィスキーに最後のダメージを与えるような出来事でした。戦時下になると政府はすぐに国内の全ての蒸溜所に魚雷の燃料や爆薬の製造などに不可欠な工業用アルコールの製造を命じました。1944年までに汎ゆる種類のアメリカン・ウィスキーは少なくなっていたと言います。その間、大衆にはブレンデッド・ウィスキーが主に提供されました。それは熟成させた少量のウィスキーを多量のニュートラル・スピリッツと水でカットしたもので、ストレート・ウィスキーの在庫が回復するまでの弥縫策の筈でした。しかし、それは大衆の酒飲みに受け入れられて行きます。1949年から1950年にかけてアメリカでのウォッカの売上は300%増加し、その成長は後の10年間も続くことに。大戦中、多くの蒸溜所がライ・ウィスキーの生産から工業用エタノールの生産に切り替えられ、終戦後、ライ・ウィスキー製造に戻るところは殆どなかったそう。第二次世界大戦末期以降、ライ・ウィスキーの売上は着実に減少。蒸溜酒の業界団体である米国蒸溜酒協議会(Distillers Council of the U.S.=DISCUS)の経済戦略分析担当のデイヴィッド・オズゴの推定によると、1952年にアメリカの蒸溜所が生産したライ・ウィスキーは約40万ナイン・リッター・ケースとされ、1936年にメリーランド州だけで生産された550万ナイン・リッター・ケースに比べると、如何に驚異的な落ち込み具合かが分かるでしょう。

その頃のオールド・オーヴァーホルトはと言うと、樽の備蓄が少なくなったからなのか、1942年にバーで使用するための新しい86プルーフのヴァージョンが発売されました。100プルーフのヴァージョンは自宅販売用に取り置かれたようです。概ね6年、7年、8年熟成のボトリングかと思われます。同じ頃(1940〜1942年あたり?)には鍵付きの木箱に入ったスクリプト・ラベルの特別な、もしかすると最初のバレル・プルーフ・ライであったかも知れないオーヴァーホルトもホリデー・シーズンに販売されました。熟成年数は6年半とされ、ラベルにはボトル・ナンバーとプルーフが手書きされています。シングルバレルなのかどうかはよく分かりませんが、プルーフには113、114、117、121、122、123、124、127など何種類かありました。ボトル・ナンバーが3000番台のものが見られるので、ある程度の数量はボトリングされてると思われますが、今となっては極めて希少なオーヴァーホルトであるのは間違いありません。
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禁酒法の後、オールド・オーヴァーホルトはナショナル・ディスティラーズのポートフォリオに主要なライとしての地位を占めました。ナショナルは禁酒法後の業界を支配したビッグ・フォーの筆頭であったため、オールド・オーヴァーホルトは自動的に国内で最も売れたライ・ウィスキーになりました。しかし、上で見たようにライ・ウィスキーは1920年以前に享受していた市場シェアを回復することはなく、バーボンとライの売上高の比率はバーボンに有利にシフトし続けました。そして、ブロード・フォード蒸溜所の最後の一滴がスティルから落ちる時が来ます。1951年、ナショナルは操業を始めてから100年を誇るブロード・フォード蒸溜所を閉鎖しました。ボトリング・ラインとウェアハウスはウィスキーが熟成する間さらに4年間営業し、1955年に売却されたようです。
ブロードフォード、石炭とコークスがブームの時は騒がしく混雑した鉱山の町。当時はブロード・フォードから続く谷間にはコークス炉がずらりと並び、オーヴァーホルト蒸溜所の門前まで社宅が入り込んでいました。軈てブームが去ると、鉱山労働者も町の商人達も苦境に立たされ廃業、いつしか社宅は消え、鉱夫もいなくなり、鉄道輸送網は雑草が生い茂り見えなくなり、蒸溜所だけが残りました。施設内の建物は殆どが明るい琥珀色のレンガ造りで神秘的な外観を呈していました。大きな丸いグレイン・タワー、大きなボンデッド・ウェアハウス、当時近代的なボトリング・プラント、建造物のうち最も高く聳える象徴的な模様を施した煙突、そして正面にはさほど大きくないが3階建てのオフィス・ビルディング…。偉容を誇ったその蒸溜所も遂に停止された訳です。それは全ての終局のようにも見えましたが、ナショナルはウェスト・エリザベスにある近くのラージ蒸溜所も所有しており、50年代半ば過ぎにその蒸溜所を閉鎖するまでオールド・オーヴァーホルトの蒸溜とボトリングを更に数年間続けました。ここで一旦オーヴァーホルトの話を離れ、ラージ蒸溜所の歴史についても記しておきましょう。

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ラージ蒸溜所はブロード・フォードの北西数マイルの位置にありました。ラージ家3世代が基盤を創り、その後、家族ではない者がラージ家の功績を継承して更に発展させたのがそのウィスキーの歴史でした。蒸溜所の建っていた近辺には今でもラージという名称が残っています。
ラージの家系はフレンチ・ヒュグノット(ユグノー。フランスのカルヴィン派プロテスタントのこと)出身の移民で、まだアメリカがイギリス植民地だった時代に渡って来ました。その中の一人にサミュエル・ラージがおり、妻エイミーと共にニュー・ジャージー州に定住しました。彼らの息子ジョン・ラージは独立戦争で兵士として活躍したと言います。独立戦争終結後の1790年代初頭、ペンシルヴェニア州アレゲイニー郡に移り住んだジョンは、農場を購入し、蒸溜所を建てました。これがラージ家の3世代に渡る高品質なウィスキー造りの始まりでした。ジョンが到着した当時のペンシルヴェニア西部は、新しく誕生した国家政府がウィスキーに課した税に対する反乱の温床となっていました。1794年にジョージ・ワシントンが最高司令官として軍隊を率いウィスキー・リベリオンを鎮圧しますが、ジョンは反乱軍には入らず、ウィスキー税を払い、妻のナンシーと7人の子供を育てたとされます。彼らの子供のうち、ニュー・ジャージーで生まれ、父に連れられて小さい頃にこの地にやって来ていたジョナサン・ラージは、ミフリン・タウンシップのアンドリュー・フィニーの娘イースター・フィニーと結婚し、レバノン・チャーチ近くの農場を購入。父と同じく蒸溜所を運営しました。その後ジョナサンはその土地を売却し、アレゲイニー郡ジェファソン・タウンシップのピーターズ・クリークに面した更に大きな農場を購入しました。ピーターズ・クリークの名前は、ピーターと呼ばれる昔のインディアン・トラッパーに由来しています。彼はそこに二つ目の蒸溜所を建設して畑で採れた小麦やコーンを使いウィスキーを製造したそうです。エイブラハム・オーヴァーホルトと同様に父ジョンが地域の人気商品として確立したモノンガヒーラ・ライ・ウィスキーを商業規模で生産したのかも知れません。
ジョナサンが亡くなると、その土地は最終的に末息子のヘンリー・ラージに譲られます。彼の名前は叔父にちなんで付けられ、区別のためか自ら「ジュニア」を名乗りました。1836年7月4日生まれのヘンリー・ジュニアは農場で育ち、若い頃から蒸溜作業に携わっていたようで、1861年にはアン・H・グリーンリーと結婚し、1868年に土地を購入、経営を引き継ぐと祖父が確立したモノンガヒーラ・ライの製造に従事して蒸溜所の成功に大きく貢献したと言われています。絵のように美しかったラージ蒸溜所には大きな欠点があり、製品を市場に出すには馬や牛のチームを編成し、荒れた山道を鉄道基地まで5マイル運ぶ必要があったそうですが、それでも何とかウィスキーを地域市場に販売することが出来たらしい。1889年に出版された『アレゲイニー郡の歴史』には「彼(ヘンリー)は祖父によって確立されたブランドであるモノンガヒーラ・ライ・ウィスキーの製造に従事しており、その優秀さは全国的な評判となっている」と書かれました。1928年に出版された『The Case for Whiskey』の中で著者のジョージ・コーズ・ハウエルは、1891年に初めてラージ・ライを味わい、非常に美味しいと感じたと語っているそうです。彼はこのウィスキーが山奥で造られ主に近隣住民やピッツバーグ周辺の人々に購入されていると聞いており、ラージのウィスキーに興味を持って更に調査してみると、旧家の家庭や会合での品質の評判は頗る良かったものの、所謂「ブレンド用」のウィスキーではなかったため、酒類業界ではあまり扱われていないことを知ったとか。「フレイヴァーもアロマも良いのですが、ブレンディングに使うにはライトボディ過ぎて、事実上全ての市販ウィスキーがブレンデッド・ウィスキーだったその時代にあっては、業界は特に興味を示しませんでした」。
しかし、一人のピッツバーグのウィスキーマン、フレデリック・C・レンズィハウゼンは違いました。彼は、1880年頃に設立された酒類卸売会社シュッツ, レンズィハウゼン&カンパニーの共同経営者で、リバティ・ストリート427番地の8階建てビルに入居していました。レンズィハウゼンは1884年にラージ蒸溜所のインタレストを購入し、1884〜1897年までビジネスはヘンリー・ラージとその妻と彼の三人による共同事業として行われました。レンズィハウゼンはラージの存命中はそのウィスキーの製造や商品化の方法には一切口を出さなかったようです。1895年にヘンリーが亡くなると、レンズィハウゼンは彼の遺産から農場、蒸溜所、古くから伝わるウィスキー・レシピ、そしてラージの名称を使用する権利を購入しました。1897年に単独オウナーとなったレンズィハウゼンは、農場内の古い家屋はかなり良い状態だったが蒸溜施設は古く荒れ果てていたため、設備の近代化と拡張に精力的に取り組み、新しい蒸溜所を建設しつつ最新の倉庫も増設しました。
ラージ・ディスティリング・カンパニーの事業は、主にウィスキーを蒸溜し、一定の契約に基づいて卸売酒類ディーラーに販売することでした。毎年9月から10月にかけては穀物の実勢価格を観察するために穀物の生育状況とシカゴやミルウォーキーの穀物市場の動向を注視しました。その観察で得られた洞察をもとに次の冬から春にかけて蒸溜するウィスキーの価格が決められ、その価格に基づいて卸売業者との契約が行われます。各蒸溜シーズンから残った様々な熟成段階のウィスキーは機会があれば取引先に販売して処理していました。また、倉庫業も行っており、蒸溜したウィスキーを熟成させて所有者が引き出すまで保税倉庫に保管し、所有者は販売契約に定められた月々の保管料を支払います。そして熟成させたウィスキーをボトリングやケーシングしてその所有者から対価を受け取っていました。時には様々な頻度で、自社の保税倉庫にあるウィスキーの倉庫証券を購入し、それを再販売して利益を得ていたようです。
ラージ・ディスティリング社の製品、ラージ・ウィスキーは全米の卸売業者や小売酒販店によって販売され、卸売業者はアメリカの主要なライ・ウィスキーの一つと見倣し、1917年に飲料用の蒸溜を停止するまでの長い期間、その需要は着実に伸びていたと言います。同社は蒸溜所をフル稼働させることは滅多になく、卸売業者から契約を募る前に次のシーズンに蒸溜するウィスキーの量を決定し、蒸溜する総量を考慮して契約を結ぶのが慣例でした。通常、特定の卸売業者との契約で指定される数量は、その業者が税金を納めている数量に基づいていました。その目的はラージ・ウィスキーの倉庫証券の投機を可能な限り防ぐことであり、そうした商慣習によって彼らのウィスキーの需要は原則として供給を上回っていた、と。
そしてレンズィハウゼンは広告のためにかなりの金額を費やしていたようです。その内容は、主要な業界誌や新聞への掲載、デザイン性の高いカードやブロッターの作成、価格表の配布などでしたが、中でも目玉は国際的な博覧会への出展でした。1893年のシカゴ・ワールズ・フェアでラージ・ディスティリング・カンパニーが小規模な展示を行って大いに注目を集めるとレンズィハウゼンは自社製品を展示する機会をほとんど逃さなくなり、彼はウィスキーを1900年にパリ、1904年にセントルイス、1905年にリエージュ、1906年にミラノ、1907年にジェームズタウン、1910年にブリュッセル、1913年にゲント、1914年にロンドン、1915年にサンフランシスコと出展し、10回のうち9回で金賞を含む大賞を受賞しています。レンズィハウゼンは、これらの栄誉をラージ・モノンガヒーラ・ライの広告やラベルや木箱にも誇示していました。1913年3月1日の段階でラージ・ディスティリング社は「Large Whiskey」や「Large, Established 1796, Monongahela Pure Rye Whiskey」のトレードネームを所有し、円に囲まれた五角形スターのトレードマーク、バレルらしきサークルの中に「Pure Monongahela Rye Whiskey Made by Henry Large, Jr., Pittsburgh, Pennsylvania」という意匠、或いは「Drink a Little Large」というスローガンを登録していました。
1907-1908年シーズンの蒸溜が始まって間もない1907年12月、ラージ蒸溜所は火災で焼失しました。レンズィハウゼンはすぐに大きな建物に建て替えましたが、次の蒸溜シーズンまでウィスキーの蒸溜は行われませんでした。火災がなければその後の4、5年間は1907-1908年シーズンに蒸溜されていたであろうウィスキーの貯蔵と瓶詰めから収入を得ていたでしょう。それでも、ハウエルによると1910年時点でラージ蒸溜所はアメリカで最も近代的で効率的な蒸溜所の一つとなり貨物輸送設備も他に引けを取らなかったと言います。冬でも夏でも同じ温度を保つスチーム・ヒーターが設置された10000から16000バレルを収容できる4つの耐火倉庫を持ち、ボトリング施設の最新の機器はウィスキーのラベル貼り、キャップ締め、ケーシング作業のそれぞれはコンヴェア・システムによってライン生産方式で行われ、ピーターズ・クリーク沿いにウォバッシュ鉄道のイースタン・コネクションが開通したことで、穀物を貨車から直接蒸溜所に降ろし、ウィスキー・ケースの積み込みも容易になったそう。更には酵母を科学的に増殖させ発酵を監督するために生物学を修めた人が担当する研究室まで設置されていたとか。レンズィハウゼンは借入金を使うことなく全て自己資金でラージ・ディスティリング社の事業を行い続け、その事業またはその利権や株は所有権がレンズィハウゼンにある間は一度も売りに出されたことはなかったそうです。ジョン、ジョナサン、ヘンリーのラージ三世代は近くのレバノン・チャーチ・セメテリーで共に眠りながら、自分たちが設立した蒸溜所とウィスキーの発展を誇りに思ったことでしょう。ちなみに、当時の家族は概ね数人の子供を産みましたが、ヘンリー・ラージには一人の娘ファニー・ローラしかいませんでした。ピッツバーグ・シティ・ペーパーのライター、クリス・ポッターによれば、このファニー・ラージは驚いたことに「蒸溜所に対する(父の)誇りを共有していなかったことは明らかで、彼女は一時期ウーマンズ・クリスチャン・テンペランス・ユニオン(WCTU、婦人キリスト教禁酒連盟)の代表を務めていた」らしい。
禁酒法が施行されると全てが一変したのは他の蒸溜事業と同じでした。1917年5月から同年12月31日までの間、食糧統制法によって飲料用に供する穀物や穀類の使用と輸送が制限されたためウィスキーは製造されず、1918年1月1日の時点で倉庫には35365バレルのウィスキーが保管されていました。もし食糧統制法による制限がなければ、1917年中もウィスキーの製造をし続け、その在庫は多くなっていたでしょう。彼らの4棟の保税倉庫の総収容量は55000バレルでした。戦時禁酒法の施行と憲法修正第18条の最終採択に向けた進展により、レンズィハウゼンは1918年にラージの蒸溜事業は永久に終了し、事業全体としては4年以内に完全に清算されると確信するようになりました。しかし、1919年にレンツィハウゼンは薬用ウィスキーを合法的に製造できることを認識し、その年の秋にラージ・ディスティリング社は薬用ウィスキー製造のための蒸溜事業を再開、1921年11月23日までその事業を継続しました。いわゆるウィリス=キャンベル法(国家禁止法を補足する法律)が制定されると、内国歳入庁長官が発行する許可証の下でなければ薬用ウィスキーの製造が出来なくなり、彼らは同法に規定された蒸溜事業継続の許可を確保するに至らなかったため、同事業は11月に中止を余儀なくされ清算過程に入りました。この期間の薬用ウィスキーの生産量は、1919年に396バレルズ、1920年に5858バレルズ、1921年に10400バレルズの計16654バレルズでした。先のハウエルによると、レンズィハウゼンは政府から海外に製品を出荷する許可を得て、1923年にブラジルのリオデジャネイロで開催された万国博覧会にラージ・モノンガヒーラ・ライを出展し、皮肉なことにアメリカでは違法とされたラージ・ライが他の地域で造られたウィスキーを抑えて再び金メダルを獲得したとか。
一方のシュッツ, レンズィハウゼン&カンパニーの事業はと言うと…。同社は1879年にレンズィハウゼンとシュッツとフレデリック・グェデマンによって設立されました。グェデマンは1892年に死亡し、その後、残った二人が対等のパートナーとして事業を継続していました。その事業はブランディ、コーディアル、ジン、その他の高級酒類、ワイン等を販売する酒類卸売業者でした。1913年3月1日時点では、「フォート・ピット・ウィスキー」、「ダイヤモンド・モノグラム・ウィスキー」、「クルセイダー・ドライ・ジン」の登録商標を所有していたとされます。同社の事業の清算は1920年に開始され、1925年に完了しました。禁酒法が施行された時、同社の商品在庫は上記の酒類で構成されていましたが、このクラスの商品は卸売/小売の医薬品業界では買われませんでした。内国歳入庁長官の許可を得て在庫を病院に寄付することになりますが、この清算方法には時間が掛かり過ぎ、1925年に残りの在庫は全て政府の監視下でビルの下水道に捨てられたと云います。
禁酒法後、ラージ蒸溜所はナショナル・ディスティラーズの所有になりました。ナショナルは禁酒法が明けた直後はラージのラベルを使ったようですが、その後すぐに引退させたようです。しかし、そこで生産されたウィスキーを上述のようにオールド・オーヴァーホルトとしてボトリングしました。この物件は後にノーブル・ディック社に売却され、1958年にウェスティングハウスにリースされました。ウェスティングハウスはそこに原子力研究施設を設立しました。現在では先端機器の耐久テストなどを行なう会社が入ってるようですが、外観は嘗ての蒸溜所の面影を少しく残しており、給水塔らしきものや「LARGE」と書かれたレンガの煙突は今でも立っているのがグーグルのStreet Viewで確認できます。では、話をオーヴァーホルトに戻します。

1950年代半ば頃にナショナルはウィスキー事業への関心を失っていた可能性があります。既に1953年にシートン・ポーターは亡くなっており、社長の座を継いでいたジョン・E・ビアワースは絶対禁酒主義者でした。1949年にポーターは当時ニューヨーク・トラストの社長だったビアワースを後継社長に任命しましたが、彼は最初その申し出を断わり、後にポーターが会社の化学分野への多角化に同意したので受け入れました。1952年、ナショナル・ディスティラーズは工業用アルコール、殺虫剤、不凍液、樹脂のメーカーであるUSインダストリアル・ケミカルズと合併しています。同社の酒類販売が落ち込み始めたため、化学分野への多様化は良いタイミングでした。売上高の減少は、主にナショナルの100プルーフ・バーボンよりもブレンデッド・ウィスキーに対する消費者の好みによるものとされています。ブロード・フォード蒸溜所の売却、また同じ頃にメリーランドのライ蒸溜所であるボルティモア・ピュア・ライ蒸溜所をシェンリーへ売却して得た資金は化学事業への資金となったのでしょう。ナショナルは56年頃にラージ蒸溜所も閉鎖しますが、その後もオーヴァーホルト・ブランドを維持しました。おそらく1960年前後まではブロード・フォードやラージのストックを使ってオールド・オーヴァーホルトを造ったと思われます。この時点から約20年間の生産の詳細は曖昧で、ラベルによりペンシルヴェニア州で蒸溜されたことは確認できるものの、何という蒸溜所でどのように造られていたのか歴史家も頭を悩ますところです。それが契約蒸溜されたものなのかバルク購入されたものなのかも皆目判りません。しかし、当時はペンシルヴェニア州にある蒸溜所は少なくなっていたので、候補と目される蒸溜所は絞られています。アームストロング郡シェンリーのプラント、レバノン郡シェーファーズタウンのペンコ蒸溜所(後のミクターズ)、或いはコンチネンタルのフィラデルフィア・プラント及びキンジー蒸溜所などです。それぞれの工場はその後の数十年で閉鎖されました。これらのどこか一つから調達したかも知れないし、複数からかも知れないし、幾つかの変遷があった可能性だってあり得ます。しかし、或る時期からはペンシルヴェニアで操業していた蒸溜所は一つだけだったので、その時代のオーヴァーホルト・ウィスキーはシェーファーズタウン産であることは間違いないと考えられています。ただ、気になる情報としては、ミクターズ最後のマスター・ディスティラーだったディック・ストールはオールド・オーヴァーホルトがそこで造られたことは一度もないと言っているとか。うーん、謎…。まあ、それは措いて、この調達された時代のウィスキーはより人気のあるバーボン・スタイルに近づけるために、マッシュビルにコーンが従来品よりも多く含まれていた可能性が指摘されています。実際飲んだ方によると、メリーランドやケンタッキーのライ・ウィスキーにずっと近い味わいだ、と。

1950〜60年代、風味の強いボンデッド・ウィスキーの人気が落ち込み、ライ・ウィスキーの製造所が次々と無くなって行くなか、オールド・オーヴァーホルトには有名なファンがいました。そのうちの一人はやや旧い世代ですが、国務長官のジョン・フォスター・ダレスでした。1954年の記事によれば、彼は何処にいても毎晩夕食前にオールド・オーヴァーホルトをオン・ザ・ロックスで飲んでおり、彼の飛行機にはウィスキーがストックされていたと云います。もっと若い世代ではジョン・F・ケネディがいました。彼が1963年にナッシュヴィルにいた時、地元の大型酒店のオウナーが後に回想するには、彼は特にオーヴァーホルトのボトルを求めて人を使わせたらしい。この頃までに、ライ・ウィスキーを飲む人とにかく減少し、ナショナルはペンシルヴェニア市場のみ堅持して、それ以外の全国的なオーヴァーホルトの広告を止めました。1963年には「今日のオールド・オーヴァーホルトはライター、マイルダー、スムーザー」と謳う宣伝があったそうで、何かしらの変更があったのかも知れません。翌年にはボトルド・イン・ボンドは廃止され、86プルーフのみの販売となりました。或る意味このせいで先に言及したペンシルヴェニアから調達したライの出処が判別出来ないとも言えるでしょう。ボトルド・イン・ボンド法ではラベルにそのスピリッツの製造された真の蒸溜所を記載しなければならないので。また、ナショナルはこの頃からオーヴァーホルト・ライを自社が所有するオハイオ州シンシナティのカーセッジ蒸溜所でボトリングするようになりました。ラベル記載のA.オーヴァーホルト&カンパニーの所在地が「CINCINNATI, OHIO」となっているのはそのためです。
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コネルズヴィル郊外、ヤッカゲイニー・リヴァーに沿うように建つ閉鎖されたブロード・フォード蒸溜所。その敷地が老朽化し始めるのに、それほど時間は掛かりませんでした。ブロード・フォードの工場と対岸のアデレードにある労働者の家を結んでいたスウィンギング・ブリッジは何年も放置され、劣化して下の川に落ちてしまいます。1970年代になると蒸溜所の建築物の荒廃はより酷くなりました。6基の巨大なグレイン・サイロ、給水塔、ボイラー・ハウス、倉庫などが残っていましたが、風雨に晒され放置されたため、荒らしや廃品回収の格好のターゲットになってしまったのです。その後も荒廃は進み、嘗てウィスキー・バレルが置かれていた赤レンガの倉庫は瓦礫の山となり、給水塔も何時しかなくなりました。建物の内部はポップなスプレーアートや落書きに満ち、捨てられたスプレーの空き缶、割れたガラスやその他の何かの大量の破片が転がり、不当な侵犯行為の被害を受けていることは明らかですが、ある種の退廃の美が見られもします。ブロード・フォードに限らず、朽ちた蒸溜所は廃墟マニアの恰好のスポットでもあり、ユーチューブで手軽に観れるのでリンクを貼り付けておきます。廃墟とは言え、その姿は圧巻で、操業していた頃の威容を実感することが出来るでしょう。オーヴァーホルト家のルーツであるスイス伝来?の模様が施された象徴的なレンガ造りの煙突も見応えあります。

1970年代のオーヴァーホルト・ウィスキーについて言うことは特にありません。アメリカ人はライどころかバーボンからも離れ始め、ウォッカやテキーラなどのホワイト・スピリッツを飲みました。上述したようにペンシルヴェニア・ライをボトリングしたオーヴァーホルトは維持されましたが、販売は苦戦を強いられたと思われます。ナショナル・ディスティラーズは最終的にペンシルヴェニアの蒸溜所から原酒を調達することを止め、おそらく1980年あたりを境にオールド・オーヴァーホルトの生産をオールド・グランダッド・バーボンを製造するケンタッキー州フランクフォート郊外のフォークス・オブ・エルクホーンの蒸溜所に移しました。ここでペンシルヴェニア産のオーヴァーホルトは終わりを告げます。そして1987年、ナショナル・ディスティラーズ・アンド・ケミカル・コーポレーションは所有していたスピリッツ・ブランドの全てをラッキー・ストライクを製造した会社であるアメリカン・ブランズ(後のフォーチュン・ブランズ)の子会社ジェームズ・B・ビーム・ディスティリング・カンパニーに売却しました。

新しいオウナーのビームは生産を統合するため買収後すぐにオールド・グランダッドでの蒸溜を停止し、1990年までにオールド・オーヴァーホルトのプルーフを80に下げました。通例、こうした買収が行われた場合はウィスキーのストックも買い取りますので、買収後数年間はNDジュースを使用したかも知れません。そこで造られたライ・ウィスキーがなくなった時、ビームはオーヴァーホルトに独自のマッシュビルを与えることはなく、既にジムビーム・ライのために生産していたハイ・コーンなライ・ウィスキーを単に使用しました。それは彼らが所有するクレアモントかボストンの蒸溜所で製造されたものです。この時点でオールド・オーヴァーホルトをジムビーム・ライと区別しようとしても余り意味がありませんでした。両者は似たような味がするでしょう。香りや味わいに違いを感じるとしたら、それはバレル・ピックやバッチングによる差だけな筈です。ビームはブランドの配布を継続することを除いて殆ど何もしませんでした。当時はライ・ウィスキー人気は最底辺であり、消費者の需要がまだ一部に残っていたので辛うじてブランドを存続させただけでした。オーヴァーホルトは同社が強調したり気に掛けて宣伝したりするブランドではなかったのです。しかし、平凡な製品になっていたとは言え、ケンタッキー州でのライ・ウィスキーの生産は最後のイースタン・ライ蒸溜所が閉鎖された1980年代に始った訳ではなく、禁酒法の前でもケンタッキーの蒸溜所はバーボンとライの両方を日常的に製造していたので、ビーム・ライのレシピはおそらく古い血統を持っている可能性があり、不当に評価するのは違うでしょう。
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今回はジムビーム・ブラックがまだ8年熟成だった頃の物を取り上げます。ラベルに描かれた歴代のビーム家マスター・ディスティラーの中に、現在のフレッド・ノーがいません。まだブッカー・ノー存命中の物です。ブラック・ラベルのブランド紹介は過去投稿のこちらを、ブッカー・ノーについてはこちらを参照ください。

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JIM BEAM BLACK 8 Years 86 Proof
推定1999年ボトリング。濃密なキャラメル、香ばしい焦げ樽、コーン、サワークリーム、オールドファンク、サイダー、ビターヌガー、タバコ、レーズン。アロマは強いキャラメルと甘酸っぱいフルーツと地下室っぽいオールド臭が主、開封から暫くするとヒネ臭は消えフローラルが出てきた。口当たりは度数の割にはとろみがありつつサラッともしている。舌では甘味を、口蓋全体では甘酸っぱいベリー系の旨味を感じ易い。余韻は比較的さっぱりめだが、コーンの気配とビタネスは長続きする。
Rating:85/100

Thought:開封した途端、ああ懐かしい匂い…って思いました。90年代のジムビームやヘヴンヒルやエンシェントエイジのような安バーボンの「らしい」感じを想い起させたのです。2000年代後期や2010年代前期のブラック・ラベルと較べると、フレイヴァーの密度が高い?気がしました。オールド臭も過剰でなければ崇高性を高めてくれますから、このボトルに関しては全然アリな程度で美味しかったです。ボトリング・プルーフは低いので、それが余韻の物足りなさにも繋がっているのかなとは思いますが、まあジムビームのライト感と思えば…。

Value:現行のエクストラ・エイジドより遥かに旨いのは間違いありません。オークション等の二次流通市場で高騰している銘柄でもないので、案外狙い目かも?

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先日、Kazue Asaiさんの個展が開催されている「お酒の美術館」中野店へ行ってきました。只今絶賛開催中な訳ですが、早くも行った方々はだいたい写真付きで各種SNSにて紹介されています。そこで私も、距離的時間的に行きづらい人もいるかと思いますので、こちらでイラストの紹介をしておきます。お店については以前に投稿したこちらを参照下さい。

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これらのうち何点かは既に売約済みとなっています。欲しいものがある方はなるべく早めに行って即断することをオススメします。個人的にはアーリータイムズやオールドクロウのガールなんかイチ推し。

私が行ったのが平日でないこともあったでしょうか、或いは営業時間短縮の都合で人の出入りが集約したのか、お店は思っていた以上に大盛況でした。オープンからひっきりなしにお客さんが来店して、時間帯によってはお店に入れず「待ち」の人もいるほど。駅近の繁華街ど真ん中、しかも提供価格が安価、そこに来てアーティストさん目当ての方も来るとあっては当然なのかも知れませんね。

今回、私はkazueさんご本人に同行してもらっています。そのお陰で、彼女のお祝いに駆けつけた、私個人では普段出会うことのない作家さんたちお三方と同席することにもなり、刺激的なお話しや楽しい会話を聴くことが出来ました。出会った皆さん、そしてKazueさん、ありがとうございました!

そう言えば、Kazueさんが完成したイラストを手渡しているところや、新たに似顔絵イラスト作成の依頼をされている現場を直に目の当たりにしたりもしました。お酒の美術館にちなんで、そこに飾られているような人とお酒のイラスト、具体的には依頼者本人(もしくは写真があれば他人でも可)と指定の銘柄のお酒(好きなお酒、例えばアードベッグでも山崎でも)を描いてもらえるのです。誕生日プレゼントにするという方もいました。いくつか拝見させてもらいましたが、完全にKazueさんのタッチでありながらちゃんとご本人の特徴をよく捉えたイラストになっており、これは買って嬉しいもらって嬉しいイラストだと思います。とてつもなく薄いハイボールを飲んでいる方を見かけたら、それがKazueさん本人かも知れません(作家が自らの個展に在廊するように、開催期間中はKazueさんもよくお店に出没します)。もしお店に行かれることがあり、Kazueさんを見かけたら、貴方もイラストを依頼してみるのも一興ではないでしょうか?

さて、言うまでもなくここはバーでもありますから当然お酒を注文します。私としても何かしらオールドバーボンを飲むことは目的の一つでもありました。しかし、実は当日の私は湿気にやられたのか体調が思わしくなく、残念ながら結果的に一杯しか飲めませんでした。始まりの一杯が終わりの一杯となったのです…。あとはジンジャーエールだけ飲みました。軽いものから始めようと思い選んだのは、トップ画像で分かる通りビームズ・チョイス。では、飲んだ感想を少しばかり。

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BEAM'S CHOICE Green Label 86 Proof
店員さんによると88年ボトリングとのこと。ネックに「ウイスキー特級」の表記がありますね。ラベルに「8」とありますが、「Year」はないのでNAS扱いとなります。おそらく、この頃の物は熟成年数は5年くらいなのではないでしょうか。先ず、現行ビームの特徴とされるピーナッツ(またはダンボール風味)は全く感じません。また、現在自宅で開けている90年代のブラックラベル8年と比較してもかなり異なり、熟成年数の違いにもかかわらず、こちらの方がメロウかつ濃いダークフルーツを感じました。あまり酸味もなく、好ましい要素ばかりで、86プルーフにしてはフレイヴァーも強い。ここら辺に、特級表記に拘るウィスキー通の方や、或いは88年〜92年あたりのバーボンを至高と考えるマニアの方の、好ましいと感じる点がわかり易く現れているのかも知れません。状態も良かったのだと思います。これはオススメ。
Rating:86/100

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2016年、ビーム社は彼らのフラッグシップ・ラインであるジムビーム・ブランドを新しいラベルとボトル・デザインに変更しました。ちょうどその年から発売され始めたのがジムビーム・ダブルオーク・トゥワイス・バレルドです。
その製品名にある言葉に注目すると、先ず「トゥワイス・バレルド」と言うのはダブル・マチュアードの言い換えだと思います。ダブル・バレルドと言っても同じで、要は語義的に見て2回樽で熟成させていると言うこと。一回目の樽熟成の後に追加でもう一回樽熟成させる手順を指しています。総称として「フィニッシング」と知られるこの熟成技法は、バーボン・ウィスキーの中で近年最も成長したカテゴリーかも知れません。日本では二段熟成とか後熟とか追熟と呼ばれます。スコッチ・ウィスキーではもっと前から定着しており、ウィスキー愛好家には説明不要でしょう。このバーボンで寧ろ注目すべきは「ダブル・オーク」の方です。バーボンのフィニッシングは、一般的にスタンダードなアメリカン・オーク樽で熟成させた後に別の種類の樽、概ねシェリー、ポート、ラム、もしくはビール樽などで熟成させることで、バーボンのフレイヴァー・プロファイルに複雑なレイヤーを加える手法ですが、このダブル・オークは同じ種類の樽でもう一度熟成させることで既に在るフレイヴァーを増幅させるのです。

バーボンは焦がしたホワイト・オークの新しい樽で熟成することで、少なくとも50%から多ければ70%程度の風味を獲得すると見られています。熟成中のウィスキーが木材から引き出すフレイヴァーは、樽の内部をどのようにトースティングしたりチャーリングするかである程度は決まるとされ、樽の調達先であるクーパレッジではマイルドなトーストからヘヴィなチャーまで加熱具合を制御して、顧客の蒸留所の望むフレイヴァーに微調整することが出来ます。それゆえチャー・レヴェルは蒸留所の特定のフレイヴァーに於ける特徴的な要素の一つとなるでしょう(但し、殆どのバーボンは#3〜#4のチャー・レヴェルであり、それ以上は限られた実験的なバレル・エイジングでしか使用されていない)。そこで誰かが考えつきました。新しい焦がしたオーク樽での熟成を2回行うのはどうだろうか、と。これはなかなか目新しい発想だったと思われます。
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アメリカで初めて公に新樽を2回使用したのはテネシー州のプリチャーズ・ディスティラリーではないかと見られています。この小さな蒸留所はクラフト・ウィスキーのブームが沸き起こる何年も前の1997年に開業し、早くも2002年頃にはダブル・バレルド・バーボンを限定発売していたようなのです。この手法のメジャーで継続的なリリースは、10年後の2012年に発売され始めたウッドフォード・リザーヴのダブル・オークドでした。このバーボンには、通常よりも時間を掛けてトースティングし、逆にチャーリングはごく軽くした特別に準備されたバレルが使用されています。また、ウッドフォード・リザーヴは2015年から、ディスティラリー・シリーズという蒸留所のギフト・ショップとケンタッキー州の一部小売店限定のダブル・ダブル・オークドまでリリースしています。こちらは名前の通りダブル・オークドを更にもう一度ヘヴィなトーストとライトなチャーを施した新樽で仕上げる製品。2014年にはミクターズからもウッドフォード・リザーヴに似たトーステッド・バレル・フィニッシュ・バーボンがリリースされました。これは限定版で、毎年リリースされるとは限らないようです。同年には、ヴァージニア州のA.スミス・ボウマン蒸留所からも限定版のエイブラハム・ボウマン・ダブル・バレル・バーボンがリリースされていました。考えようによっては、メーカーズマーク蒸留所によって2010年から発売されているメーカーズ46もバレル全体かその一部のステイヴかの違いはあっても、使い古しではない焦がした木材でフレイヴァーをアンプリファイドするという点に於いて発想の根幹は同じでしょう。とにかくこの10年、特に2015年以降にはマイクロ・ディスティラリーからも続々とこうしたウッド・フィニッシュのバーボンが追いきれないほど多く製造されています。で、冒頭に述べたように2016年からジム・ビームもこの潮流に乗り遅れないように参入した、と。日本では殆ど話題にならないか極端に流通量の少ないマイクロ・ディスティラリーの製品や、もう少し知名度はあってもセミ・レギュラーの限定品と違い、ウッドフォード・リザーヴのダブル・オークドと同様に大会社のビームからレギュラー・リリースされるダブルオークは店頭でお目にかかり易く、尚且お手頃価格で提供されるバーボン。このことは諸手を上げて歓迎です。

ジムビーム・ダブルオーク・トゥワイス・バレルドは、焦がしたアメリカン・オークの新樽で4年間熟成させた通常のジムビーム・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを取り出し、それを再び焦がしたアメリカン・オークの新樽に移して仕上げます。こうすることで液体は更に深いレヴェルのスパイスの効いたオーキネスと濃厚なキャラメルを発達させ、通常よりもリッチでウッディなフレイヴァーを生み出すとされます。二度目の樽による熟成期間は公表されていませんが、倉庫の温度や味わいの熟成度に応じて、凡そ3〜6ヶ月程度と目されています。ちなみにジムビームのマッシュビルは現在の公式ホームページにはアナウンスがなく、バーボン系ウェブサイトを調べてみるとコーン77%/ライ13%/モルテッドバーリー10%とコーン75%/ライ13%/モルテッドバーリー12%の二説が見つかります。私にはどちらが新しい情報か判断がつきません。時代による変遷が考えられるので、お詳しい方はコメントよりご一報ください。では、ダブルオークがその名の通り「二倍」良いのかどうか試してみましょう。

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JIM BEAM DOUBLE OAK TWICE BARRELED 86 Proof
推定2018年ボトリング。色は度数の割に濃いめのブラウン。炭、カラメライズドシュガー、グレイン、胡椒、あんず、シナモン、絵の具。アロマは完全に焦樽アロマが主だが、酸を伴ったビーム・ファンクも。マイルドで水っぽい口当たり。パレートは名状しがたいダークなフルーツ感と接着剤。余韻はややビターと言うかドライで、焦がしたオークの香ばしさとナッティな風味が香る。
Rating:82.5/100

Thought:名前や製法からして、もっとオーキーなバーボンかと思いきや、意外とフルーティな仕上がりで美味しかったです。ジムビームの比較的安価なラインナップの中では一番好みでした。ダブルオークで気になるのはそのラインナップとの比較、特に同じ瓶形状であり色違いラベルとなるブラック・ラベル・エクストラ・エイジドとデヴィルズ・カットと、どのように異るのかですよね。
前回まで開けていたデヴィルズ・カットと較べると、製法の違いからかダブルオークの方が焦げた風味が強いものの、シャープなウッド・フレイヴァーやスパイス感は少なく、もう少し円やかでフルーティな印象です。エクストラ・エイジドと比較すると、樽に入っていた期間の総計はエクストラ・エイジドの方が長いようですが、やはりと言うかダブルオークの方がウッド・フレイヴァーは強く、甘みも苦味もフルーツ感も増している印象。ホワイト・ラベルとは違いすぎて比較の対象にし辛いのですが、セカンダリー・マチュレーションの効果は著しく、確かに「二倍」くらいは美味しいと思います。同社の上位ブランドであるノブクリークやベイカーズと較べると、同じ位に焦げ樽風味が効きながらもプルーフィングが低い分、軽くて飲みやすいのが利点でしょうか。ダブルオークに手放しで称賛できない点があるとすれば、2回も新樽で熟成してる割にヤンガー・ウィスキーの荒々しさがかなりあるところ。昔の8年表記のあったブラック・ラベルだと、もうちょっとメロウでバランスが良かった気がします。とは言え、ダブルオークの只のギミックに終わらない面白みとビーム原酒の個性の融合は楽しめました。

Value:アメリカでは大体20〜23ドル程度、日本での小売価格は大体2500〜3000円です。上に述べたように、個人的にはジムビーム・ブランドの比較的安価なシリーズの中でダブルオークはイチ推し。同社内で比べれば、これより価格の安い物よりは確実に旨く、価格の高い物よりは満足度が低いという適正価格でしょう。素晴らしいとまでは言わないけれど、ダブルオークはグッドなバーボンであり、価格に見合う価値はあると思います。

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テネシー州ナッシュヴィルとチャタヌーガの間にあるジョージ・ディッケル蒸留所は、タラホーマからそれほど遠くない広大な景色の美しいカスケイド・ホロウにあります。そのためカスケイド・ホロウ蒸留所とも知られています。2018年頃からカスケイド・ホロウ・ディスティリング・カンパニーの名を押し出すようになりました。ディッケルのキャッチフレーズは「Handmade the Hard Way」です。同所の元ディスティラーだったアリサ・ヘンリーは、そのキャッチフレーズは「カスケイド・ホロウの生き方です。蒸留プロセスの全ての段階に人間がいます。あらゆることが細心の注意を払って測定され、手で記録されています」と語っていました。ディッケル・ウィスキーの製造に携わっている従業員は30人未満。大手の工場のように巨大でもマイクロ・ディスティラリーほど小さくもない中規模の蒸留所です。ディアジオのような大会社に所有されているにも拘らず、他の殆どの蒸留所ではコンピュータによって自動化されている手順の多くが、ここでは手作業で行われているとか。1958年以来、蒸留所の大幅なアップグレードはしておらず、蒸留や製造工程に使用される機械はほぼ同じで、例えばコーンのための秤は電動式ではなく手動式の古いものだそうです。「私たちはテイスト、スメル、タッチに頼ります。その実践的な、手作業のアプローチは私たちにとって非常に重要なのです」、とアリサの言。ディッケルのチームにとってハンドメイドの面倒くさい地道なやり方は誇りに他ならないでしょう。ジョージディッケル及びその前身であるカスケイド・ウィスキーの歴史は以前の投稿で纏めたので、今回はそんなディッケルのハンドメイドな製法への拘りに焦点を当てて紹介してみたいと思います。

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テネシー州の蒸留所は誇らしげに「それはバーボンではない、テネシー・ウィスキーだ」と宣言するかも知れません。しかし、実のところジョージディッケルはテネシー州で製造されるストレート・バーボン・ウィスキーです。テネシー・ウィスキーを造ることはバーボンを造ることと殆どのプロセスが一致しています。基本的に、同じようなマッシュビル、同じタイプの製造法と蒸留法です。製品がテネシー・ウィスキーと呼べるためにはストレート規格の他に満たされるべきもう二つの要件があります。一つはテネシー州で製造されていること。もう一つが「なめらか」や「まろやか」といった記述の乱用を齎すチャコール・メロウイング、或いはリンカーン・カウンティ・プロセスとも知られる工程ですが、これには後で触れ、先ずは穀物から。

マッシュには1バッチにつき11000パウンズの地元産イエローコーンを自家サイトで製粉したものが使われます。ジョージディッケル・テネシーウィスキーは84%コーン、8%ライ、8%モルテッドバーリーのハイ・コーン・マッシュビル。おそらく、ディッケルの味の一端はこのコーン比率の高さに由来するでしょう。蒸留所は1日にトラック2台分の穀物を受け取り、穀物の水分含有量を測定して15%未満であることを確認します。この15年間で穀物の不良品が見つかったのは一回だけで、それは穀物生産者の誰かが誤って小麦を混ぜてしまったことが原因だったらしい。
コーン、ライ、モルトは別々に挽き、ハンマーミルを通過したグリストは約9500ガロン(36000リットル)の容量を持つ二つのマッシュタブ(クッカー)の一つへとそれぞれの時間に合わせて投入されマッシングされます。順番にプリモルト、コーン、ライ、残りのモルトです。この順番はそれぞれを適切に調理するため。コーンはハード・ボイルする必要がありますが、ライはフレイヴァーを残すために煮立った液体が少し冷めてから加え、モルトは酵素が死んでしまわないように更に低い温度で投入されます。プリモルトは通常、始めの段階またはコーンと水が混合される時に入れられます。コーンやライのマッシュは澱粉の水和と糊化が起きると非常に濃厚で粘着質になり処理が難しくなるため、プリモルトの酵素がマッシュを薄くし粘性を減らすのを助けるそう。マッシュ中の「大物」が調理温度に達すると酵素が変性するので、後で更にモルトが追加されます。また、昔はどうか分かりませんが、現在のディッケルは各クッカーに約4カップ分の液体酵素をマッシングに使うようです。マッシング・プロセスは3〜4時間。 

マッシュのための水は約3マイル離れたカスケイド・スプリングから取られています。ウィスキー蒸留所は独自のマッシュ・レシピを持っていますが、この水源は競合他社とは一線を画すディッケル・ウィスキー独自のアイデンティティに於いて常に重要な要素の一つと考えられて来ました。石灰岩を通って流れ、カルシウムとマグネシウムが多く、硫黄分と鉄分が少ない天然でウィスキー造りに完璧な水です。ジョージディッケルはサワーマッシュ製法で造られるので、カスケイド・スプリングの水はバックセットと共に穀物に加えられます。このバックセットはスティレージとも言い、バッチのスターターのような役割を果たします。サワーマッシュ製法というのは、前回のバッチから蒸留残液をスティルの底部から少量取り出し、次回の新しいマッシュに加えることでマッシュのpHを低いレヴェルに保ち、ウィスキーを汚染する可能性のある野生酵母の侵入やバクテリアの増殖を制御して、次の発酵を確実に継続させ、バッチ間の一貫性を確保するための手法です。これはテネシー・ウィスキーに限らず、バーボンに於いて一般的な製法。サワーマッシュの一部は新鮮な水と一緒にクッカーに入り、一部は直接ファーメンターに入ります。二つの段階に分割している理由は風味ではなく容量のためだそうです。

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マッシュの調理が完了すると、次はイーストを加えて糖をアルコールへと変換させるファーメンテーション。ディッケル蒸留所には3×3セット(日に3ヴァット分を蒸留)の全部で9つのファーメンターがあり、それぞれが約20000ガロンの容量です。クッカーから出て来る混合物は約150℉なので、ファーメンターに入る前に72℉に冷まされ、熱が酵母を殺さないようにします。ディッケルでは発酵プロセス毎に他の場所で繁殖させたカスタムメイドのドライ・イーストを5.5キロ使用するそう。また、発酵の専門家はクック前と後の両方のマッシュ、バックセットのサンプルを採取して、pH、トータル・アシッド、および糖度などを測定しメモを取ります。このプロセスは完了するまでに約4日。ファーメンテーションが終了したものはディスティラーズ・ビアと呼ばれ、この時点でのアルコール濃度は約8%です。

ビア・ウェルに集められた後、ビアはスティルに送り出されます。蒸留は19枚のプレートを備えた銅製のコラム・スティル(ビア・スティル)で行われ、その結果114プルーフのスピリットが得られます。ディッケルではスピリットがスティルから出た後、ダブラーに入る前に銅製反応器「ラスキグ・リング(Raschig rings)」を通過するそうです。蒸留装置のどこかしらに銅が使われる理由は、蒸留されたスピリッツと反応して硫黄化合物を銅が吸収し、硫黄臭やゴム臭、腐った野菜のような不快臭を取り除くため。私には各蒸留所のスティルの内実まで詳しくは分かりませんが、他の蒸留所ではコラム・スティルの上部に銅が貼られているのが一般的かと思いますので、ディッケルのように別の装置に入れるのは珍しいかと。次いでスピリットはダブラーとして知られるステンレス製ポット・スティルで再蒸留され130プルーフになります。これはかなりロウ・プルーフでの蒸留です。穀物の元のフレイヴァーをより多く保持することが期待されるでしょう。ただし、第一蒸留を135プルーフ、第二蒸留を150プルーフとしている情報源もありました。ネットで調べる限り、ウェブ記事の殆どはロウ・プルーフでの蒸留と報告していますが、「150プルーフ」としている記事は2019年に書かれたものなので、もしかすると昨今のバーボン高需要に応えて蒸留プルーフを高めた可能性も考えられます。微妙な違いですが、第一蒸留を115プルーフ、第二蒸留を135プルーフと報告している記事もありました。まあ、これは誤差ですかね。ちなみにディッケルは1日2シフトで週6日間蒸留するそうで、7日間24時間で稼働する大型蒸留所とは異なり、毎晩蒸留を停止するそうです。また、スティルの上部から回収されるアルコールに対して、下部に沈殿した蒸留の副産物であるアルコールフリーのウェット・グレイン・マッシュは、スティルから取り出されると地域の農家が再利用する動物飼料として販売されています(液体の一部はサワーマッシュに)。

蒸留工程を終えると、いよいよチャコール・フィルトレーションのプロセスです。先に触れたようにテネシー・ウィスキーを名乗るには、ニューメイク・スピリットが樽に満たされる前に木炭層を通過しなければなりません。シュガーメイプルの木炭は現場で準備されています。高さ15フィートの棒状にカットされた木材を燃やす場所が蒸留所の横にあり、ここで木材が適切なレヴェルまで炭化されるように炎を制御します。出来た木炭チップを詰め、濾過槽の底に炭塵を収集するヴァージン・ウールのブランケットを敷いたのがチャコール・メロウイング・タンクです。最も有名なテネシー・ウィスキーであるジャックダニエルズも当然、熟成前に炭で濾過されますが、ディッケルがJDと異なるのはウィスキーを42〜45℉(約5〜7℃)くらいに冷やしてからチャコール・メロウイングする点。ディッケル・ウィスキーにその独特の風味を与えているのはこの冷却濾過だとされています。伝説によれば、酒名となっているジョージ・アダム・ディッケルは、年間を通して造られたウィスキーのうち夏よりも冬の方が滑らかであると感じ、冬の味を好んだとか。その信念に敬意を表し、カスケイド・ホロウ蒸留所は通常より手間のかかるステップを今日まで続けています。チル・フィルトレーションは、ウィスキーに含まれるオイルや脂肪酸が冷やされたことで凝集力を増し、ヴァットの中の木炭層でより濾過されるため滑らかになると考えられ、これがキャッチフレーズの「Mellow as Moonlight(月光の如くメロウ)」を生み出す秘訣の一つなのでしょう。現在カスケイド・ホロウ蒸留所のディスティラーとして対外的な顔となっているニコール・オースティンによれば、蒸留したての液体は非常にオイリーかつバタリーでフルーティな香りと共にポップコーンのノートがするけれども、木炭による濾過はフルーティな香りをスピリットに残しながら最終的なスピリットでは望まない重く油っぽいノートを取り除くそうです。
このプロセスは、毎分約1ガロンで行われるとか、一日分の蒸留物を濾過するには約24時間かかるとか、或いは約7〜10日かかるとされています。ジャック・ダニエル蒸留所ではウィスキーを巨大なチャコール・ヴァットに継続的に滴下するのに対し、ディッケルでは冷やされた留出物をメロウイング・タンクに満たし約1週間ほど一緒に寝かせる(浸す)とも聞きました。どれも蒸留所見学へ行った方の記事で見かける記述なのですが、実際に見学していない私にはどれが正しいか判断が付きません。もしかするとやり方がここ数年で変化している可能性もあるのかも。最新情報をご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。ところで、先述の第二蒸留が150プルーフとする記事では、蒸留物はチャコール・メロウイングの前に126.5に減らされ、濾過が終わると125プルーフで出て来るとありました。 ご参考までに。

メロウイングが終わると、最後にウィスキーのフレイヴァーに最も影響を与えるエイジングのプロセスです。ジョージディッケル・テネシーウィスキーはストレート・ウィスキーなので、熟成はニュー・チャード・オーク・バレルのみを使用します。素材はアメリカ産ホワイト・オーク。チャー・レヴェルはステイヴが#4、ヘッドが#2。バーボンやテネシー・ウィスキーは法律上、最大125プルーフで樽に入れることが出来ますが、ディッケルのバレル・エントリー・プルーフは115との情報を見かけました。
樽は蒸留所でホワイト・ドッグを充填された後、蒸留所の裏手にある道を登った丘の上の倉庫に運ばれます。多くのバーボン生産者が使用している6〜8階建ての倉庫とは異なり、ディッケルの倉庫は全て平屋建て。高層階まである倉庫での熟成は一個の建物に大量の樽を収容することが出来る反面、1階から最上階まで温度が大きく変動するために均一な熟成が得られないという問題があります。しかし、ディッケルでは毎回同じウィスキーを造るのに必要な一定の温度を維持するため倉庫はシングル・ストーリーとしているのです。それ故、一貫した風味を得るためのローテーションは必要ありません。また、倉庫自体の設置も均一なエイジング条件にするため各倉庫は互いに遠く離れないようにされているのだとか。バレルはリックに6段の高さに積まれており、庫内の上部と下部の温度差は約2〜5度の温度変化しかないそうです。今、リックと言いましたが、新しく建てられた倉庫ではパレット式、つまり樽を横ではなく立てて収容しています。これはリック式よりもスペース効率が良いからで、最近のクラフト蒸留所でもよく見られる方式。
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蒸留所の12の倉庫には凡そ20万バレルが保管されているそうです。ちなみにディッケルのサイトにはボトリング・プラントはありません。親会社のディアジオは製品をオフサイトで瓶詰めする傾向があり、ディッケル・ウィスキーの場合、ディアジオ所有のコネチカット州スタンフォードかノーウォークのボトリング・プラントかと思われます。

ディッケルの歴史の中で最も著名なディスティラーであるラルフ・ダップスは「面倒なことを変えてはいけない」と後進に伝えました。カスケイド・ホロウの蒸留所には最新のコンピューターやデジタル機器が関与せず、世代から世代へと伝承される昔ながらの製法が少人数の従業員グループによって守られています。かつてジョージ・ディッケルは自らの製品が最高級のスコッチと同等の品質であるとして、スコットランドの伝統である「e」なしでウィスキーを綴ることにしました。その矜持は今日まで続き、テネシー・ウィスキーの雄としてディッケルの存在感はますます高まっていると言っていいでしょう。最後に、適度な長さで蒸溜所の内部が紹介されている映像があったので貼り付けておきます。


では、そろそろ今回のレヴュー対象であるバレル・セレクトに移りましょう。

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ジョージディッケル・テネシーウィスキーには幾つかのヴァリエーションがありますが、その代表的なものは昔からあるクラシックNo.8とスーペリアNo.12です。それぞれに少々異なる独自のフレイヴァー・プロファイルはあっても、ディッケルには一つのマッシュビルしかなく、発酵時間や酵母による造り分けもしていません。それらの違いは熟成年数とボトリング・プルーフのみです。もっと言うと、その違いはバッチングに選択するバレルに由来するのです。No.8やNo.12よりも上位のブランドとなる「バレル・セレクト」も同様。
カスケイド・ホロウ蒸留所には諸々の理由から一時的に蒸留を停止していた期間がありました。バレル・セレクトは2003年9月の蒸留所の生産再開を記念して始まり、それ以来続いています。「ハンド・セレクテッド」というより上位の基本シングルバレルの製品が発売されるまではディッケルで最高級の地位にありました。ボトル・デザインは定番のNo.8やNo.12とは全く違うエレガントなものとなっており、ラベルも高級感があります。そのラベルは近年マイナーチェンジを施されました。
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中身に関しては、10〜12年熟成の特別なバレルを約10個選び抜いたスモールバッチ。それを86プルーフにてボトリングです。マスター・ディスティラーだったジョン・ランが退社する2015年までは彼が毎年バレルを厳選していたと思いますが、それ以降は誰がバレルをピックしているのでしょうか。数年間はアリサ・ヘンリー、2018年からはニコール・オースティンが選んでいるんですかね? もしかするとブレンダーが選んだのかも知れませんが、少なくとも彼女たちが最終責任を負っているのだと思います。それでは最後に味わいの感想を。

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George Dickel Tennessee Whisky Barrel Select 86 Proof
Hand Selected in 2006
推定2006年ボトリング。スモーク、キャラメルポップコーン、コーン、イースティな酸?、焦樽、シロップ、甘いナッツ、若いプラム、うっすら土。クリアでウォータリーな口当たり。パレートは香りほど甘くなくオレンジっぽい柑橘感。余韻はややビターでグレイニー、さっぱり切れ上がる。
Rating:83.5→84.5/100

Thought:香りも味わいも如何にもディッケルという印象。スパイス感は穏やかで、全体的にコーンのフレイヴァーがコアにあります。10〜12年も熟成してる割に、いわゆる長熟感はないような気がします。これが平屋の倉庫らしさなのでしょうか。前回まで開けていた2009年ボトリングと目されるNo.12と較べてみると、色合いは目視では差が感じられません。香りもほぼ同じですが、こちらの方が飲み心地に若干の強さを感じます。と同時に、甘さがより柔らかい印象を受けました。開封直後はあまりパッとしなかったのですが、開封から一年を過ぎて香りのキャラメルと余韻のナッティな甘みが増しました。レーティングの矢印はそれを表しています。それにしても、私的にはNo.12との差が明確に感じられなかったのは残念でした。もっと違うことを期待していたもので…。とは言え、このバレル・セレクトは90プルーフのNo.12より低い86プルーフな訳ですから、同じ程度に美味しく感じたのなら、やはりフレイヴァーはこちらの方が豊かということなのでしょう。しかし、No.12より上位のバレル・セレクトは、格上であることを明瞭にするために95か96プルーフでボトリングするべきだとは思います。まあ、ここで文句を言ってもしょうがないのですけれども。

Value:アメリカでは概ね40〜50ドルが相場のようです。昔、私が購入した頃は確か5〜6000円位だったと思うのですが、最近日本で流通している物は8〜9000円位します。これは痛いですね。私は現行のNo.12もバレル・セレクトも飲んでいないので、自分がたまたま飲んだものについての比較になっていますが、個人的には安いと2000円代、高くても3500円程度で購入出来てしまうNo.12を二本買うほうが賢明に思います。現行品はもっと差があるんでしょうかね? 飲み比べたことのある方はコメントより感想頂けると嬉しいです。
どうも不満げな書き方になってしまいましたが、勿論それ自体は悪いウィスキーではありません。寧ろ、ディッケルの評価を海外のレヴューで覗いてみるとかなりの高評価を得ています。或る人は現行のバーボンの中で最もクラシック・バーボンに近い味がするとまで言っていましたが、確かに私もそう思います。だから無論ディッケルの味が好きなら購入する価値はあるでしょう。ボトルデザインもカッコいいですし。

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ダコタ・マイクロ・バーボンはアライド・ロマーのブランドで、「アメリカン・カウボーイ」、「コック・オブ・ザ・ウォーク」、「プリザヴェーション」、「ピュア・アンティーク」、「レア・パーフェクション」、「ワッティ・ブーン」等とだいたい同じくらいの時期の2000年代半ば(2005年?)に発売されたと思われます。このバーボンについての情報は余りにも少なく、名前のダコタがアメリカの州から取られたのか、その由来となったインディアンのダコタ族(スー族の一部)から取られたのか定かではありません。要するにアメリカっぽさを喚起するブランディングなのは間違いないでしょうが、まさか上下に分断されたラベルがそれぞれノース・ダコタ州とサウス・ダコタ州を表しているなんてこともあるのでしょうか? ご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。ラベルのデザインはヴェリー・オールド・セントニックと同じ会社がやっています。昔、そのデザイン会社のホームページで見たのですが、何という会社名か忘れてしまいました。すいません…。

ラベルには「純粋な穀物とケンタッキーのライムストーン・ウォーターを使用してポット・スティルで」云々と書かれていますが、ここで言うポット・スティルはアメリカの法律で規制された用語ではないマーケティングの言葉であって、旧ミクターズがポット・スティルをフィーチャーしていたのと同じ意味です。スコッチ・モルトのような意味での単式蒸留のことではないので注意して下さい。近年の本当のクラフト蒸留所の勃興以前のアメリカン・ウィスキーは、ほぼコラム・スティルで蒸留後、二度目の蒸留にダブラー(もしくはサンパー)を使い、そのダブラーのことをポット・スティルと呼び習わしていました。同じくアライド・ロマーのブランドで「ビッグ・アルズ」というバーボンがあり、そのラベルにも「ポット・スティルド」と大きく謳われていますが、それも同様です。アライド・ロマーのマーケティング手法は「マイクロ」や「スモール・バレル」や「リトル・バレル」のような「小さい」ことを強調し、「ピュア」や「レア」や「ヴェリー」を過剰に使う傾向があります。この「小さな樽」というのも、これまたポット・スティルと同じく近年のクラフト蒸留所の誕生以前に実験的な生産以外で標準より小さい樽を使った蒸留所はなかった筈で、実際にはスタンダード・アメリカン・バレルで間違いないでしょう。有り体に言うと、こうしたマーケティング手法は、法律の抜け穴を上手く利用して旧来品とあまり変わらない製品を新しいクラフト・バーボンかのように見せかける巧妙な仕掛けです。と言っても、私はアライド・ロマーを非難してる訳ではありません。誰もが消費者の心を掴むためのマーケティングは行いますし、バーボンの90%はマーケティングとも言われますからね。寧ろ、そのファンシーなボトルやラベル・デザイン等、女社長マーシィ・パラテラの独創的なブランディング手腕は評価されるべきでしょう。
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さて、ここらで肝心の中身について触れたいところなのですが、こうしたNDP(非蒸留業者)によるソーシング・ウィスキーの出処は、現在のバーボン・ブームの中では比較的明示的な物も増えているものの、これが発売された頃は原酒の調達先をラベルに明示する物は殆どありませんでした。
ダコタが初めてリリースされた時は、ボトルの形状からバッファロートレース蒸留所の製品ではないか?と推測されましたが、当時のサゼラック/バッファロートレースのブランド・マネージャー、ケン・ウェバーはバッファロートレースのものではないと言っていました。当時はまだアライド・ロマーの存在は一般に知られていなかったのです。
個人的には、冒頭に挙げたブランドと同じ流れでボトリングはKBDではないかと思っています。まだバーボンが低需要だった当時のアメリカでは流通していない日本とヨーロッパ向けの製品かな?と。ネット検索では、6年熟成86プルーフ、8年熟成86プルーフ、12年熟成86プルーフの三種が見つかりました。ところで気になるのは裏ラベル記載の所在地がルイヴィルなことですよね。大概のKBDがアライド・ロマーのためにボトリングしたものには「バーズタウン」と記されています。アライド・ロマーの本社はカリフォルニア州バーリンゲイムにあり、ラベルにその所在地が記されたことはありません。そして事務所か何かがルイヴィルにあったという話は聞いたことがなく、また2000年代初頭にルイヴィルに他のボトラーがあったという話も聞いたことがないし、ましてや12年の熟成期間をマイナスした当時にバーボンを造れたクラフト蒸留所もありませんでした。なのにルイヴィル…。これは一体どういうことなのでしょうか?
実はダコタと同時期に発売された「プリザヴェーション・バーボン12年」の裏ラベルにはフランクフォートとあります。それはこのダコタと同じく「disilled」とも「bottled」とも書かれていない単なる所在地の表記です。フランクフォートと言えばバッファロートレース蒸留所がある地であり、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のバッファロートレースとの合弁事業オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル社の事業地でもあります。ジュリアン三世は初期アライド・ロマーのビジネス・パートナーでした。その縁から久々にジュリアンにボトリングを依頼し、所在地表記がフランクフォートになったというのなら話は分かり易いでしょう。しかし、これは憶測であって何の確証もありません。繰り返しますがラベルにはあくまで「disilled」とも「bottled」とも書かれていないのですから。
ダコタ・マイクロ・バーボンやプリザヴェーション・バーボンを日本語で検索すると出てくる情報では、一説に原酒はバッファロートレースではないかとされています。そこで一つの仮説として、アライド・ロマー製品の所在地表示がコロコロ変わるのが、原酒の調達先を仄めかすヒントになっているのだとしたら…と考えてみました。そうなると、ダコタの発売を2005年として、ヴァリエーション中最長熟成の12年をマイナスすると1993年、この時稼働していたルイヴィルの蒸留所はヘヴンヒルが購入する前のニュー・バーンハイムかアーリタイムズしかないでしょう。個人的には、この仮説が正しいのならニュー・バーンハイムかなという気がしますね。
一方で、裏ラベルの所在地は原酒のヒントでも何でもないというのも考えられます。冒頭に挙げたブランドで言うと、アメリカン・カウボーイやピュア・アンティークは明らかにKBDのボトリングながら、前者は「ネルソン・カウンティ」までしか書かれておらず、後者は「Distilled and Bottled in Kentucky」としか書かれてません。つまり、一律バーズタウンと記載される訳ではなく、表記に法則性や一貫性がないのです。前回投稿した「ラン・フォー・ザ・ローゼズ」もKBDのボトリングと思うのですが、これがもしアライド・ロマーのブランドだとしたら、所在地表記はレキシントンですから、ますます混乱するばかり。そう言えば、過去に投稿した「ドクター・ルイーズ・シュア・ポーション」というアライド・ロマーのブランドがあるのですが、このバーボンも裏ラベルの所在地はルイヴィルでダコタと同じですね。まさかKBD以外にもっと知られていないボトラーが当時からあったのでしょうか…。みなさんはどう思われます? コメントよりご意見お待ちしております。
では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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Dakota Micro Bourbon 12 Years 86 Proof
特にオーキーでもなく、ちょっとフルーティ、ちょっとハービーといったバランス。すぐ前に飲んでいたラン・フォー・ザ・ローゼズ16年のような過熟感はなく断然バランス良く感じました。あまり自信はないですが、少なくとも旧ヘヴンヒルぽくはない気がします。飲んだことある皆さんはどう思われたでしょうか? コメントどしどしお寄せ下さい。
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