バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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バーボンの製品情報、テイスティングのメモ、レーティング、思考、ブランドの歴史や背景、その他の小ネタなどを紹介するバーボン・ラヴァーによるブログ。バーボンをより知るため、より楽しむため、より好きになるための記事を投稿しています。バーボンに興味をもち始めたばかりの初心者から、深淵を覗く前の中級者まで。なるべくハイプルーフ(情報量多め)かつアンフィルタード(正直)なレヴューを心掛けています。バーボン好きな方は是非コメント残して下さい!

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今回は、日本では2022年初め頃から出回り始めた、リニューアルされたパッケージのエヴァンウィリアムス12年を開封してみました。従来までと違いゴールドのワックスで封されて高級感が出ましたね。EW12赤ラベルは輸出専用バーボンとして知られ、長きに渡り日本でのみ販売されていましたが、ヘヴンヒルが2013年にルイヴィルのダウンタウンにエヴァン・ウィリアムス・エクスペリエンス(バーボン体験が楽しめるテーマパークのような施設)をオープンすると、スタート時からあったのか或る段階(2015年あたり?)からなのか判りませんが、ギフト・ショップ専売品としてアメリカ国内でも販売されるようになりました。しかし、ヘヴンヒルは日本での一般的な価格よりも遥かに高い価格で販売しました。2017年頃で130ドル、その後150ドルに値上がりしたそうです。ヘヴンヒルはアメリカ国内で高く売るに際し、より高級に見せるため、見栄えを良くするため、安っぽいスクリュー・トップにワックスを掛けたのではないか、と勘繰るアメリカのバーボン愛好家の方もいます。また逆に、SNS上で見掛けたのですが、輸出版とアメリカ国内版を飲み比べ、アメリカ国内版の方が大分美味しかったという趣旨のことを言っている日本のバーボン飲みの方がいました。そこで裏読みすると、もしかしたらアメリカ国内版の方が値段が大幅に高い分、バッチングにクオリティの高いバレルが選ばれている可能性もあるのかも知れません。或いは単なるバッチ違いの差なのか、真相は藪の中です。まあそれは措いて、私としては一つ前のラベルの物とこのゴールドワックスの物とではどのように違うかを較べたいと思い開封しました。では、さっそく飲んでみましょう。ちなみにマッシュビルは78%コーン、10%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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Evan Williams 12 Years 101 Proof
推定2021年ボトリング(瓶底)。色はダークアンバー。モダンな木材、ガレットブルトンヌ、薄いチェリーキャンディ、一瞬プルーン、フランボワーズ、マッシュルーム、ペッパー。ほんの少しフローラルな香りも。口当たりはややオイリー。口の中ではドライオークが感じ易い。余韻はミディアム・ロングでチャード・オークの香ばしさと僅かに柑橘の爽やかさと苦味が。
Rating:85.5→86.5/100

Thought:開けたてはフレイヴァーが殆ど感じられませんでした。開封から1週間くらい経つと、漸く熟成感のある土っぽい樽の味わいが出て来ました。私が飲んだ一つ前のラベルの物は過去にレヴューを投稿した2016年ボトリングなのですが、それと較べると12年という熟成感を思わせるものが少なくなった印象を受けます。アルコールの刺激や木材のエグみが強く、深みのあるチョコレート感が弱いと言いますか…。正直、2016年ボトリングの頃よりクオリティは少し低下したと思いました。しかし、開封から1年くらい経つと、アルコールのキツさのようなものは多少は和らぎ、味わいに甘酸っぱいフルーツが感じ易くなって美味しくなりました。上の矢印はその事を指しています。1年も待ってられないなら、少なくとも30分は空気に触れさせておくか、ロックで飲んだ方が良いのかも。どうも近年のヘヴンヒルは香りが開くのに時間が掛かるような気がします。参考までに言うと、このEW12と同時期に家で開封していたボトルに、ケンタッキー・アウル・コンフィスケイテッドとワイルドターキー12年があるのですが、実はその2つの方がリッチなフレイヴァーで美味しく感じていました。つまり、このEW12は香りが開いたとて私にとってはその程度だったと言うことです。まあ、バッチ間の差があり得ますので、一概には言えないでしょうが。ゴールドワックスの掛かったEW12赤ラベルを飲んだことのある皆様の感想を募りたいところです。

Value:エヴァンウィリアムス12年ゴールドワックスのアメリカのバーボン愛好家の評価としては、要約すると、これは本当に良いボトルだけれど130〜150ドルもするほど良いボトルではない、しかし日本での40ドルという価格ならバーボンの中で最もお買い得だろう、といった意見が多数を占めます。一方で、130〜150ドルという価格にしてはストーリーのなさや安っぽいボトルやギミックのなさを考えると高く感じるかも知れないが、エヴァンウィリアムズ12年101プルーフは単純にその味わいに基づいて然るべき価格が設定されている、と評している人もいました。では日本に住み、昔から赤エヴァンを享受して来た我々にとってはどうなのでしょう? 私はEW12が2000円代や3000円代で買えていた頃を知っている人間です。最近ではここ日本でも5000円を超えたりします。そして、私の印象としては近年に近ければ近いほど味わいのクオリティは少しづつ下がっているような気がしています。味が落ちたのに値が上がる、これは心理的に辛いことです。とは言え、味わいの面では現代の木材の風味とアルコール感に慣れてしまえば問題はないし、金額の面でもバーボンに限らず何でも値上がってる世の中ですから、EW12は今でも値打ちのあるバーボンに違いありません。昔の物と較べると流石に分が悪くはありますが、それらは二次流通市場で相応に値上がりしているので、現行ボトルも相対的には「安くて旨い」ままと言えます。文句と取られかねないことも書き連ねましたが、このEW12ゴールドワックスはそもそも美味しい範疇に入るので、個人的には購入をオススメします。アメリカでの価格を考えたら、買わなきゃバチが当たるってもんです。但し、日本に於いて予てより築かれてきたエヴァンウィリアムス12年レッドラベルの評価を、このボトルだけ飲んで知った気になるのは良くないと思います。昔の物、特に90年代までの物を飲んだことのないバーボン初心者の方は、何処かのバーで是非ともオールドボトルを飲んでみて下さい。きっとエヴァンウィリアムス12年の真髄を知ることになるでしょう。

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バッファロー・トレース・コーシャ・ウィート・レシピは、バッファロー・トレース蒸溜所が毎年過越祭(*)の後にリリースするコーシャ・ウィスキー3種のうちの1種です。他の2つはライ・レシピ・バーボンとストレート・ライ・ウィスキーとなっています。バッファロー・トレース蒸溜所を所有するサゼラックのオウナーであるビル・ゴールドリングは、シカゴ・ラビニカル・カウンシル(cRc)と提携してコーシャ・ウィスキーを製造することでユダヤ人コミュニティにアピールするアイディアを思い付き、2010年頃にその3種の製造を決定したそうです。2020年4月がコーシャ・ラインの発売された最初の年でした。ウィート・レシピ・バーボンはバッファロー・トレースの公式ウェブサイトでは以下のように説明されています。
バッファロー・トレース蒸溜所は、シカゴ・ラビニカル・カウンシル(cRc)とのパートナーシップにより、このウィート・レシピ・バーボンを製造しました。W.L.ウェラー・バーボン・ウィスキーと同じ高品質の穀物で造られたこのコーシャ・スピリッツは、特別に指定されたコーシャ・バレルで熟成されました。過越祭のためのコーシャではありませんが、過越祭期間中に於けるユダヤ人の所有権に関する問題を避けるため、これらのバレルはcRcの代表者が立ち会う式典で非ユダヤ人の経営者に売却されました。7年間の熟成の後、このウィート・レシピ・バーボンは、事前にボトリング・ラインを洗浄し、非コーシャ・スピリッツとの接触がないことを確認した上で、94プルーフにてボトリングされました。毎年過越祭の後にリリースされるこのウィート・レシピ・バーボンは、アメリカで最も古くから継続的に稼働している蒸溜所の伝統に対するオマージュとして他に類を見ない存在です。
このコーシャ・ウィスキーのウィート・レシピは、同社のウェラー・シリーズと同じウィーテッド・マッシュビルを使用しており、ウェラー12年とBTACのウィリアム・ラルー・ウェラーを除けば、殆どのウェラーは5~6年または6〜7年熟成らしいので、7年熟成のコーシャ・ウィートはそれらの人気の高い小麦バーボンと味わいが似ているのではないかと云う期待があります。ちなみに、バッファロー・トレース蒸溜所のマッシュビルは一応は非公開なのですが、彼らのウィーテッド・マッシュビルは70%コーン、16%ウィート、14%モルテッドバーリーであろうと推測されています。ウェラー・スペシャル・リザーヴよりプルーフが高いのが良いですね。また、ラベルを読むとバレルが特別なようなので、それがどれほど味に変化を齎すのかも興味深いところでしょう。バッファロー・トレースによると、数年前の発売以来、「コーシャ・トリオは大きな成功を収めています。ユダヤ教徒だけでなく、コーシャ・ラベルが高品質と清潔さの基準と同義であると考える幅広い層に受け入れられています」とのこと。希望小売価格は40ドルですが、州や店舗によって価格差があり、場合によっては100ドル近い値付もあったようです。ネットで海外のバーボン愛好家のこのウィスキーの評価を見てみると、ウィーテッド・バーボンが好きならこのウィスキーはうってつけだが大金をつぎ込む程ではない、希望小売価格ならありだろう、と云う意見が多い印象を受けました。中にはウェラー・スペシャル・リザーヴで十分と云う趣旨の方もいましたが…。

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BUFFALO TRACE KOSHER WHEAT RECIPE 94 Proof
ボトリング年不明。今回のバー遠征で飲んだ中で最も甘く感じました。私は甘いバーボンが好きなので美味しかったです。但し、サイド・バイ・サイドでウェラー系列と飲み比べてないので記憶を頼りに言いますが、ウェラーのスペシャル・リザーヴやアンティークと較べてこちらの方が物凄く美味しいとまでは感じられませんでした。
Rating:86/100


*日本では「すぎこしのまつり」、英語では「Passover(パスオーヴァー)」、ヘブライ語では「Pesach(ペサハ)」と呼ばれ、モーセがエジプトで奴隷として苦しんでいたユダヤの民を引き連れてエジプトを脱出したことを記念するユダヤ教の行事。過越祭の日程はユダヤ暦ニサン月14日の夜から1週間とされる。正式には過越祭は1日で終わり、その翌日からの7日間は「種なしパンの祭り」なのだとか。

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ピュア・アンティークは、ヴェリー・オールド・セント・ニックやレア・パーフェクション等と同じく、マーシィ・パラテラのアライド・ロマー/インターナショナル・ビィヴィレッジのブランドです。近年、プリザヴェーション蒸溜所が開設された後、18年と20年の長熟物が復活しましたが、こちらはオリジナルのもので、おそらく2000年代前半にリリースされたと思われます。その当時物は日本向けの製品です(または一部ヨーロッパにも流通したかも知れませんが、私には仔細は分かりません)。当時のヴァリエーションには、バーボンは10年113.4プルーフ、10年124プルーフ、15年99.4プルーフ、20年102.6プルーフ、25年90.2プルーフ、そしてライには8年93プルーフがありました。このブランドには壮大な物語などはなく、その起源はよく分かりません。多分、フランクフォート・ディスティラリーからシーグラムに至る有名な「アンティーク」バーボンとは全く関係がないとは思います。ラベルに僅かに書かれた文章とその名前から察するに、「ピュア」は「アンフィルタード(無濾過)」や「バレル・プルーフ(樽出し)」を表し、「アンティーク」は「長期熟成」を意味しているのでしょう。とは言え、バーボン25年やライ8年などはプルーフが低過ぎるのでバレル・プルーフではないような気もしますが…、どうなのか? また、ラベルにはスモールバッチともあります。このピュア・アンティークのボトリングされた本数は分かりませんが、それほど多くはない筈です。バーボンではあまり見掛けないボトル形状とラベル・デザインが相俟って独特の魅力がありますね。ここらへんにマーシィのバーボンをプレミアム化しようとしていた意図が感じられます。ボトリングはKBD(現在のウィレット蒸溜所)がしています。中身に関しては基本的には謎なのですが、マーシィが購入したスティッツェル=ウェラーのバレルから来ているか、KBDの倉庫のストックから来ている可能性が高いのではないでしょうか。

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PURE ANTIQUE 20 Years Old 102.6 Proof
湿った木材やアンティークウッドが主なフレイヴァー。長熟なのにいきいきとしたアルコール感があって枯れた印象はなく、美味しかったです。
Rating:88.5/100

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの7、8杯めに選んだのは、おそらくこのバーの中でも最も貴重なバーボンであろう禁酒法時代のオールド・オスカー・ペッパーと禁酒法解禁後のL.&G.(ラブロー&グラハム)です。オールド・オスカー・ペッパーはケンタッキー・バーボンの有名な銘柄の一つであり、ペッパー家の3世代はケンタッキー州の最前線でウィスキーを蒸溜し、業界の黎明期を今日の姿に築き上げるのに貢献しました。そして現在でもペッパーの名はブランドとして復活しています。ラブロー&グラハムも現在のウッドフォード・リザーヴに繋がる名前です。バーボンの歴史は彼らを抜きにしては語れません。そこで今回はペッパー・ファミリーのレガシーの一部とグレンズ・クリークの蒸溜所の歴史に就いてざっくりと紹介したいと思います。

ペッパー家の蒸溜はエライジャ・ペッパーから始まります。エライジャは、サミュエル・C・ペッパー・シニアと「英国人女性」とされるエリザベス・アン・ホルトン・ペッパーの間に生まれました。生年には系図サイトを参照にしても諸説あり、1760年12月8日月曜日とするもの、1767年とするもの、1775年とするものがあります。出生地も、ヴァージニア州カルペパーとしているものとフォーキア・カウンティとしているものがありました。この二つは隣接しているので、だいたいそこら辺で産まれたのでしょう。彼は1794年2月20日にフォーキアで名門オバノン家出身のサラ・エリザベス・オバノンと結婚しました。エライジャの生年を1767年としている系図サイトだと、サラを1770年生まれとしていました。或る記録によると結婚当時のサラは13歳か14歳だったとされているようで、そちらが正しい場合は生年は1780年あたりになるでしょう。1797年、エライジャはサラとその兄弟ジョン・オバノンと共に500マイル以上西のケンタッキー州に移り住み、現在ウッドフォード郡ヴァーセイルズとして知られる地域に居を構え、町のコートハウスの裏手のビッグ・スプリング近くに最初の小さな蒸溜所を建てました。1780年頃からエライジャはヴァージニアで蒸溜業を始めていたとする説もありました。農業と蒸溜が不可分のファーム・ディスティラーだったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、エライジャは一旦バーボン・カウンティに移って数年間を過ごしたらしい。バーボン・カウンティの納税記録と1810年の国勢調査によると、ウッドフォード・カウンティに戻る前の3年間はバーボン・カウンティに住んでいたのとこと。その後ウッドフォード郡に再び戻り、1812年までにヴァーセイルズのグレンズ・クリーク沿いの200エーカーの土地に新しい蒸溜所をオープン。この土地の明確な所有権が確立されたのは1821年のことで、証書が記録されたのはその翌年だったそう。彼がこの場所を選んだのは、敷地内を支流が流れ、小川のほとりに3つの清らかな泉が湧き出していたからでした。そこには農場とグリストミルもあり、彼らはその水を穀物を粉砕する動力源、発酵や蒸溜のようなウィスキー造りのためだけでなく、冷蔵用に使ったり新鮮な飲料水としても家畜のためにも利用しました。当時は正に「農場から蒸溜まで」の操業だったのです。近隣のケンタッキー州の農家は連邦税が課されたため蒸溜を断念せざるを得ませんでしたが、エライジャには資金力があったようで、彼らの穀物を買い取り、合法的にウィスキーに仕上げたと言います。またエライジャはこの土地の蒸溜所と周辺の農場を見下ろす丘の上に、外壁に巨大な石灰岩の煙突を備えた2階建てのログ・ハウスを建て家族を住まわせました(*)。当初のペッパー入植地で唯一残ったこの家は、その後の住人たちによって増築され使われました。エライジャとサラは、少なくとも3人の息子と4人の娘の両親だったとも、4男3女の7人の子供がいたとも、或いは8人の子供を儲けたともされ、その場合はプレスリー、オスカー、エリザベス、サミュエル、ナンシー、アマンダ、ウィリアム、マチルダだったと思われます。ペッパー家は奴隷の所有者であり、1810年の国勢調査の記録によると一家には9人の奴隷黒人がおり、所有地の繁栄に伴ってその後の10年間で奴隷は12人(男7人、女5人)に増えました。畑仕事をする人手が増えたためか、エライジャは所有地を350エーカーまで拡大したとか。更に、1830年の国勢調査では13人の男と12人の女を奴隷として雇っていたとされ、ペッパー農場の成功を裏付けていると目されます。 エライジャはかなりの富をもっていたようで、彼が亡くなった時の目録には、蒸溜所のカッパー・ケトル・スティル6基、マッシュ・タブ74個、多数の樽、熟成ウィスキー41樽(1560ガロン相当)があり、家畜は22頭の馬、113頭の豚、125頭の羊と子羊、30頭以上の牛を数え、その他にも農業や木材加工に使用する道具も多数所有していました。エライジャ・ペッパーは1831年2月23日(または3月20日前という説もある)に死去。彼は亡くなるまで蒸溜所を経営し、生前に遺言を作成しました。子供達に家財を少しと奴隷一人づつを贈与し、最愛の妻サラには蒸溜所と奴隷を含む殆どの財産を残しました。キャプテン・ウィリアム・オバノンとナンシー・アンナ・ネヴィルの娘であるサラ・エリザベス・オバノンは、南北戦争の名将でジョージ・ワシントンの個人的な友人でもあったヴァージニアのジョン・ネヴィル将軍の姪でした。ネヴィル家はヴァージニアの裕福な貴族であり、ペッパー家を経済的に援助していた可能性をジャック・サリヴァンは指摘していました。エライジャは広大な農場と関連事業の管理をサラに任せていたようで、財産目録によれば彼女はスティルやタブ等を含む農場や蒸溜所の設備の購入を監督していたり、ペッパー邸を飾ったであろうカーペット、銀製品、その他の高価な調度品の購入も彼女が担当したと推測されます。国家歴史登録財に登録するためにこの土地を調査した歴史家の推定では、エライジャの死後、1831年から1838年までの約7年間、サラは蒸溜所やウィスキー販売を含む家業の管理を担当していたそうです。そして、サラは蒸溜所を受け継いだものの経営にはあまり関心がなかったのか、或いは高齢のための隠居なのか、1838年に自分のインタレストを長男のオスカー・ペッパーに売却しました。

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今回飲んだオールド・オスカー・ペッパー(O.O.P.)のブランド名の由来となっているオスカー・ネヴィル・ペッパーは、1809年10月12日木曜日に生まれました。幼い時のことはよく分かりませんが、彼は父親が創業した比較的小規模なウイスキー事業を引き継ぎ、新たなレヴェルに成長させたことで知られています。蒸溜所の丸太造りから石造りへの転換と小川の西側への移転は、1838年までにオスカーの所有下で行われました。そのため1838年はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の創業の年となり、O.O.P.ブランドの起源となりました。但し、1840年の国勢調査ではオスカーの職業はファーマーだったそうで、農場と蒸溜所は兼業であり、農業の方でよりお金を稼いでいたのかも知れません。オスカーは母の死後(サラの死去は1848年説と1851年説がありました)、母の土地を分割した兄弟姉妹のシェアを取得したことが譲渡証書や遺言によって示されているそうです。彼はプランテーションを所有している間に敷地内の大規模な改修を始め、父親が製粉と蒸溜業を営んでいた丸太造りの建物を石造りの建物に建て替え、住居も大きく増築しました。1850年の国勢調査には、トーマス・メイホールというアイルランド出身の石工が一家と同居していたという記録が残っているとか。
ペッパー家のファミリー・ビジネスに大きく貢献したのはドクター・ジェイムズ・クロウでした。オスカーは彼を今で言う蒸溜所のマスター・ディスティラーとして雇用しました。クロウはサワーマッシュ・ファーメンテーションや木製バレルでの熟成プロセスを改良/体系化することで、バーボン造りのプロセスに科学的な要素を加えた人物として評価されています。ジェームズ・クリストファー・クロウはスコットランドのインヴァネスに生まれ、エディンバラ大学で化学と医学を学び、アメリカに移住しました。最初はペンシルヴェニア州フィラデルフィアに定住し、短期間滞在した後、ケンタッキー州に移るとグレンズ・クリーク周辺の蒸溜所で働き始めました。彼は学んだ科学的知識を蒸溜に活かし、リトマス試験紙でマッシュの酸度を測ったり、糖度計で糖度を測ったりしました。バーボンの製造に於いて殊更取り上げられる有名なサワーマッシュ製法はクロウが考案したのではありませんでしたが、科学の知識を応用して完成させました。サワーマッシュは、前回のバッチのマッシュから残ったバックセットの一部を取り出し、現在のマッシュの中に含めることで、発酵を促進し、悪い菌の繁殖を防ぐのに役立ちます。1833年にはオスカー・ペッパーがクロウに助言を求めたとされており、クロウはその時期にグレンズ・クリーク沿いの他の蒸溜所で働きながらペッパーズの蒸溜所を手伝っていたようです。クロウの専門知識が齎す商業的利益の可能性に気付いたオスカーは、彼と協力してペッパー農場の小さな丸太造りの蒸溜所を1日あたり1もしくは1.5ブッシェル程度から25ブッシェルの蒸溜所にアップグレードしました。クロウは1ブッシェルの穀物から2.5ガロン以上のウィスキーを造ってはならないと主張したとされます。この蒸溜所で伝説的なオールド・クロウ・ブランドは誕生し、蒸溜され、その後多くのバーボン消費者に大人気となりました。クロウはキャリアの殆どの期間をペッパーの蒸溜職人として過ごし、他の蒸溜所で働いたのは少しの期間だったと思われます。彼は1833年頃から1855年までペッパー家のために働きましたが、1837年から1838年に掛けてグレンズ・クリーク農場の敷地は建設工事で占拠され、1838年から1840年に掛けては深刻な旱魃が農業生産に影響を及ぼしたため、この間クロウはオスカーの蒸溜所で働いていなかったようです。新しいカッパー・ポット・スティルとフレーク・スタンド(蒸溜器のワームを冷却する容器)が設置され、マッシング・タブ、ファーメンター、スティーム・エンジンが製造開始の準備を整える他、建設工事による多額の資本支出には上述のトーマス・メイホールの雇用も含まれ、彼は地元の石灰岩から大きな石造りの蒸溜所、貯水槽、製粉所、倉庫などの施設を建設しました。1838年の春から1840年の冬に掛けての旱魃はケンタッキー地方の大半に壊滅的な打撃を与え、作物の不作と蒸溜用の水不足を齎したと言います。蒸溜には水が不可欠で、1ガロンのウィスキーを造るには、マッシング、コンデンシング、クリーニングに60ガロン以上の水が必要でした。クロウがオスカーの蒸溜所に復帰したのは1840年のシーズンになってからのこと。建設が完了するとクロウは家族を連れて新しいペッパー蒸溜所から200ヤード上にある家に移り住んだそうです。また、彼は蒸溜所の年間ウィスキー生産量の8分の1(または10分の1という説も)を支払いとして交渉したと言います。これは農家の穀物を挽くための報酬として製粉業者が受け取る金額とほぼ同じでした。年間生産量は季節によって変動しますが、1840年代後半には年間生産量は約650バレル(20000プルーフ・ガロン)となり、樽からの蒸発や浸透、卸売価格の変動、ディーラーへの年間販売量を考慮すると、クロウの報酬はおそらく年間500ドルから1000ドルと高額、彼の生産契約の途中である1848年の都市部の職人の平均年収は550ドル、ケンタッキー州の農場労働者の年収は120ドルだったので、クロウはケンタッキー州の田舎の基準から見て非常に快適な生活水準を誇っていた、とウィスキーの歴史家クリス・ミドルトンはクロウ研究の中で述べています。雇い主のオスカーはウィスキーの取り分、家畜の販売、余剰穀物生産、亜麻と麻の栽培などでかなりの収入を得ており、1860年、政府は彼の土地と資産を67500ドルと評価し、これは2020年の価値で2100万ドル相当でした。この蒸溜所で販売されていた主力ブランドはオスカー・ペッパー・ウィスキーとクロウ・ウィスキーだと思いますが、3年以上保管されたウィスキーは「オールド」が共通して付され、おそらくどちらも同じクオリティだったでしょう。とは言えクロウ・ウィスキーの評判は流通量の多かったオスカー・ペッパー・ブランドよりも高かったそうです。クロウ自身の名を冠したウィスキーは軈て「オールド・クロウ」として知られるようになり、他の汎ゆるバーボンの評価基準となりました。オールド・クロウは1800年代半ばまでに高級ウィスキーのシンボルになり、殆どのウィスキーが1ガロン当たり15セントで販売されていたのに対し、クロウのウィスキーは25セントで販売されていたとか。クロウはペッパーの蒸溜所で15年間働いた後、1855年の秋にそこを去りました。また、サム・K・セシルの著作によると、オスカー・ペッパーは1860年にグレンズ・クリークから数マイル下流のミルヴィルにオールド・クロウ(RD No.106)という別の蒸溜所を建設し、そこでオールド・クロウ・ブランドを製造した、とのこと(**)。
オスカー・ペッパーの私生活面では、彼は1845年6月にウッドフォード郡で生まれ育ったナンシー・アン(もしくはアネットとも)・"ナニー"・エドワーズと結婚しました。それ以前に、キャサリンというゲインズ家出身の妻を1839年に亡くしているとの記述も見ましたが、系図サイトや墓所サイトにはその件は触れられてなく、私にはよく分かりません。ナニーは結婚当時18歳で、夫より17歳ほど年下でした。彼女の父ジェイムズ・エドワーズはグレンズ・クリークに隣接する農場を所有していたらしい。オスカーとナニーの間には7人の子供がおり、おそらく生年の順で以下のようになるかと思われます。
エイダ・B・ペッパー(1847-1927)
ジェームズ・エドワード・ペッパー(1850 - 1906)
オスカー・ネヴィル・ペッパーJr.(1852 - 1899)
トーマス・エドワード・ペッパー(1854 - 1933)
メアリー・ベル・ペッパー(1859 - 1913)
ディキシー・ペッパー(1860 - 1950)
プレスリー・オバノン・ペッパー(1863 - 1871)
メアリーの生年を1861年としているものもありましたが、詳細は不明です。それは兎も角、子宝にも恵まれたオスカーのリーダーシップによって農場と蒸溜所は繁栄し、1860年の国勢調査によると不動産の評価額は31600ドル(現在の約770000ドル相当)で、贅沢品を含む個人資産は36000ドルだったとされています。彼の財産には12人の男と11人の女の奴隷も含まれており、そのうちの何人かはエライジャから受け継いでいたのでしょう。彼らは家財目録に記載されている総額約22000ドル近くの作物や牛の世話をしていたと考えられています。蒸溜の作業もこなしていたかは分かりません。1859年には2人の女性奴隷が8月にマリアという女の子とウィリーという男の子を出産しており、父親はオスカーのようです。蒸溜所は1865年までオスカーの管理下で運営されました。その年の6月にオスカー・ネヴィル・ペッパーは56歳で死去し、墓前で家族や友人たちに弔われながら、フェイエット郡のレキシントン墓地に埋葬されました(オスカーの死を1864年や1867年としている説もある)。彼の死後に出された資産目録には、バーボンの製造を物語るカッパー・スティルとボイラー、400バレルのコーン、400ブッシェルのライ、40ブッシェルのバーリー・モルト、30ブッシェルのバーリーなどがあり、アルコールの目録には1ガロン40セントと80セントの価格で120ガロンのウィスキーが記載されていたそうです。ペッパーの所有していた829エーカーの土地での畜産は別の事業と目され、農場では21頭の馬と雌馬、7頭のラバ、25頭の乳牛、30頭の当歳牛と去勢牛、56頭の羊、100頭以上の豚を飼育していました。家庭内にはピアノ、「冷蔵庫」、法律書などがあったそうで豊かな暮らしぶりを想像させます。オスカーが死去した際、管財人による売却の新聞広告には、彼の個人資産として「非常に古いクロウ・ウィスキーの少数のバレルがあり、良質な飲酒の最後のチャンスである」と記されていたらしい。

オスカー・ペッパーは父のエライジャと違って遺書もなく7人の子供と農場と蒸溜所ビジネスを妻に残して亡くなりました。1869年に行われたオスカーの遺産相続の裁判所による調停では、彼の所有地829エーカーが7人の子供達のために7つの不平等な土地に分割されました。これにより末っ子でまだ7歳だったプレスリー・オバノン・ペッパーが160エーカーの土地、蒸溜所、グリスト・ミル、家族の住居を含む最大の分け前を受け取りました。オバノン・ペッパーはまだ幼く、更にその後の14年間は未成年であるため、自動的に母親のナニー(1827-1899)が後見人となり、経済的に生産性の高い財産の殆ど全てがペッパー夫人の手に委ねられます。これはナニー・ペッパーを養うための裁判所の配慮でした。ナニーはまだ比較的若かったものの、義理の母サラのようには自分で蒸溜所を経営する気はなかったようです。南北戦争終結後、ペッパー家の奴隷は全ていなくなっていました。彼女はプレスリー・オバノンの財産の後見人として、直ちにケンタッキー州フランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにこの土地をリースしました(***)。この契約によって同社は蒸溜所とその全ての設備、ディスティラーズ・ハウス、2つのストーン・ウェアハウスを管理することになりました。この2年間の契約にはグリスト・ミルや豚にスペント・マッシュ(使用済みのマッシュ)を与えるペン(囲い)も含まれています。同社は1866年にウィスキーの製造と販売を目的として設立され、彼らのビジネス・パートナーはエドムンド・ヘインズ・テイラー・ジュニアでした。社名の「&Co.」の部分は彼のことに他ならないでしょう。社名になっているW・H・ゲインズは近くのグラッシー・スプリングス・ロードに住んでいましたが、他のパートナーズはフランクフォートの住人でした。根拠はないものの尤もらしい噂によると、ゲインズ, ベリー&カンパニーが1866年に最初に買収したのは故オスカー・ペッパーからのウィスキー在庫100樽だったとのことです。それは兎も角、こうして1870年1月1日、ペッパー蒸溜所は初めてペッパー家以外のバーボン生産企業として機能しました(****)。それでも、1850年5月18日土曜日に生まれたオスカーとナニーの長男ジェイムズは父の死の当時15歳でしたが、ゲインズ, ベリー&カンパニーによって蒸溜所の運営に何かしら携わることになったようで、1870年の国勢調査では20歳のジェイムズ・ペッパーが蒸溜所のマネージャーとして記載されていたそうです。伝説的なカーネル・E・H・テイラー・ジュニアは当時すでに酒類業界で成功しており、ペッパー家の良き友人だったようで、オスカー・ペッパーの遺言執行者の一人であり、蒸溜所を所有するには若過ぎるジェイムズ・E・ペッパーの後見人ともなり、彼が21歳になるまで蒸溜所を経営したと云う説も見かけました。
「オールド・クロウ」は、ドクター・ジェイムズ・クロウには存命の相続人がいなかったため、ゲインズ, ベリー&カンパニーは問題なくブランドを独占することができました。同社はペッパーの所有地に「オールド・クロウ蒸溜所」の名を添え、オールド・クロウを彼らのフラッグシップ・ブランドとしました。伝えられるところによると、彼らはこのブランドを守り続けるため、ドクター・クロウと全く同じ方法でウィスキーを造ることを決意し、クロウが存命中に蒸溜していた古い蒸溜所を借り受け、クロウの下で技術を学んでその製法を伝授されたウィリアム・F・ミッチェルをディスティラーとして雇用した、とされています。一方、ジェイムズにはオールド・オスカー・ペッパーのブランドが残されることになりました。
野心的なテイラーに唆されたのか、或いは母親の脇役でいることに飽き飽きしたのか、ジェイムズ・ペッパーは1872年10月期の巡回裁判所に於いて、1869年に弟のオバノンに割り当てられていた蒸溜所用地の権利を求め、母親のナニー・ペッパーを相手取って訴訟を起こしました。ジェイムズは勝訴し、土地区画図に「Old Crow Distillery, Mill, Old Crow House」と記された小川の両岸33エーカーと小川の東側の2つの泉を手に入れます。とは言え、そのせいで深刻な母子間の不和は起きなかったようです。ジェイムズは経営権を握った2年後、ゲインズ, ベリー&カンパニーと決別したカーネル・テイラーと手を組み、二人は工場の改良と操業の拡大を図りました。カーネル・テイラーは蒸溜所拡張のための資金確保に尽力し、純利益の2分の1と投資額相当の補償を受けるという契約を締結して、プロパティに25000ドルを投資しました。市場でのウィスキーの売れ行きは好調で、ビジネスは順調でした。嘗てペッパー蒸溜所だった通称「オールド・クロウ蒸溜所」と呼ばれる場所で生産されたテイラーのバーボンはそのバレリング・テクニックで人気を博し珍重されました。1870年代、州都フランクフォートとそのすぐ南に位置するウッドフォード・カウンティで州内最大のバーボン生産が行われ、E・H・テイラー・ジュニアの「家」は世界に模範的なウィスキー・バレルを提供していると一般的に理解されていました。しかし、1877年に不況が国を襲います。アメリカの歴史の中でも最も議論を呼び白熱したと言われる、1876年11月7日に行われた大統領選挙は経済の混乱を引き起こしました。民主党候補のサミュエル・J・ティルデンが一般投票で勝利し、共和党候補のラザフォード・B・ヘイズが選挙人団で勝利します。そのため南部では大規模な抗議運動が起こり、再び内戦が勃発する恐れがありましたが、リコンストラクションの終結を約束したヘイズの勝利を認めることで決着します。しかし、それは市場に不安を齎し、1877年の恐慌を引き起こしました。そこにウィスキーの過剰生産も重なり、この不況は蒸溜酒業界に大きな影響を与えました。ジェイムズは深刻な財政難に陥り、カーネル・テイラーに支払うべきお金の余裕がなく、1877年に破産宣告を受けます。蒸溜所はカーネル・テイラーに没収され、彼はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の単独所有者となりました。ところが当のカーネル・テイラーも他の蒸溜所を経営したり様々なウィスキー事業を行っており、間もなく自身の財政破綻に見舞われます。カーネル・テイラーは1870年にフランクフォートの蒸溜所を購入し、借金してオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)に改築していました。そしてまた、上述したように、同時期にペッパー蒸溜所にも資金を貸し設備を改善していました。資金繰りは厳しく、カーネル・テイラーは借金を返すのに必死でした。彼は同じロットのバレルを2人の異なる購入者に販売し、それが財政的、法的問題に発展したこともあったそうです。借金が余りに高額だったため、彼は債務者から逃れるために南米への移住を考えたほどでした。そこで大口債権者であったセントルイスのグレゴリー, スタッグ&カンパニーが彼を救済し、1878年、カーネル・テイラーの二つの蒸溜所はジョージ・T・スタッグに譲渡されました。同年、スタッグはO.F.C.蒸溜所の土地を増やすために、すぐにペッパー蒸溜所の33エーカーをレオポルド・ラブローとジェイムズ・H・グラハムに売却しました。ラブロー&グラハムは、ナショナル・プロヒビションの到来を経て、その後も含めると62年間この蒸溜所を所有し操業することになります。こうしてジェイムズ・ペッパーは廃業に追い込まれ、ジャック・サリヴァンの言葉を借りれば「エライジャによって設立され、サラによって育てられ、オスカーによって拡張され、ナニーによって保護され、ジェイムズによって失われたこの土地を、ペッパーの一族が再び所有することはありませんでした」。しかし、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所は他人の手に渡ったものの、ジェイムズは後にレキシントンに自身の蒸溜所を設立し、ペッパー家の名前は長年に渡って取引で使われて行きます(後述)。

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(1883年のオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所)
ラブロー&グラハムという名前は、設立されたパートナーシップに由来します。レオポルド・ラブローは1847年(またはそれ以前)にフランスで生まれ、母国のワイン生産地で育ち、渡米時にはワイン商(またはワイン醸造家としての経歴を持つとの説も)の経験があったと言われています。国勢調査のデータでは、移住年は1865年、彼が32歳頃のことでした。パスポートの記述によると、彼は身長5フィート7インチ(約173cm)で、肌は浅黒く、目は灰色、鼻は鷲鼻だったとか。ラブローは、アラベラ・スコット・デイヴィスとシルヴェスター・ウェルチの娘であるルイーサ・ウェルチというフランクフォートの女性と結婚しました。もしかするとそれを機会にケンタッキー州に定住したのかも知れません。ルイーサの父親はチーフ・エンジニアとしてケンタッキー・リヴァーの閘門建設を計画/監督し、ウィスキーの出荷を含む地元産品の水上輸送を改善したと言います。夫妻の間には1876年にアーマという娘が生まれました。彼は、先ずはフランクフォートのハーミテッジ蒸溜所で働き、その後シンシナティで叔父と共に酒類卸売業に携わるようになったそうです。一方の、アイルランド系のジェイムズ・ハイラム・グラハム(1842-1912)は、ルイヴィルで大工、建設業者、製材所経営者として成功したウィリアム・グラハムとエスター・クリストファー・グラハムの息子として生まれました。蒸溜所を購入する前は運送業を営んでいたとされ、おそらくは相当に成功したフランクフォートの実業家だったのでしょう。オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を買収すると、土地の権利の半分はラブローに直ちに売却されました。ラブローとグラハムが出会った経緯はよく分かりませんが、1878年までには二人はケンタッキー・ウィスキー・マンとして認められるようになっていたようです。グラハムはプラント・マネージャーとなり、ラブローは卸売と小売販売を担当したとされます。保険引受人の資料では彼らのプラントはフランクフォートの南東9マイルにありました。石造りで屋根は金属もしくはスレート。敷地内には穀物倉庫や4つのボンデッド・ウェアハウスがあり、全て石造りで屋根は金属かスレート。ウェアハウスNo.1は蒸溜所から100フィート北にあり、この倉庫の一部は「フリー」でした(つまり一部はボンデッド・ウィスキーではなかった)。ウェアハウスNo.2のBはウェアハウスAに隣接し、スティルの北東100フィートにあり、ウェアハウスNo.3のCは蒸溜所から南へ104フィート、ウェアハウスNo.4のDは南へ285フィート。おそらくペッパーの時代からどれも引き継いだものでしょう。そして、彼らはオールド・オスカー・ペッパーを唯一のブランドとして生産したと伝えられます。
ラブロー&グラハムは、頻繁なパートナーシップの変化にも拘らず、その社名を継続してビジネスを行うことで伝統を維持し、誠実さを伝えました。1899年、グラハムは引退することになり、インタレストの半分をラブローに売却します。翌年、ジェイムズ・グラハムは死去。その後J・M・ヴェンダーヴィアーがグラハムの後を継ぎますが、名前はラブロー&グラハムのままでしたし、施設も引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られました。大切なパートナーを失ったもののラブローは歩みを止めず、このフランス人のリーダーシップの下、蒸溜所は発展を続けました。スタッフは著しく増加し、年月を重ねるごとに蒸溜所は改良され、拡張されて行ったそうです。長年に渡ってオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の経営を指揮したレオポルド・ラブローは60代の後半に心臓病を患い、1911年に死去しました。死亡診断書に記された死因は肺水腫だったとのこと。未亡人のルイーサをはじめとする家族が墓前で弔う中、ラブローはフランクフォート・セメタリーに埋葬されました。余談ですが、ラブロー家の子孫の方によると、このファミリーは著名な細菌学者のルイ・パスツールと古くから縁があり、ルイがレオポルドにフランス・ワインを売るためにアメリカに来るよう勧めたと家族内では伝承されていたそうです。ラブローの死が大規模な再編成の引き金となったのか、会社は1915年にリパブリック・ディストリビューティング・カンパニーのD・K・ワイスコフ、E・H・テイラー・ジュニアの従兄弟でラブローの娘アーマの夫リチャード・アレグザンダー・ベイカー、T・W・ハインド、カール・ワイツェルから成る新会社ラブロー&グラハム・インコーポレイテッドに引き継がれました。ケンタッキー出身のベイカーはラブロー&グラハムの名を残しながら蒸溜所の日常業務を担当していたそう。1895年から禁酒法施行までの間に、ラブロー&グラハムのオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所に施された実質的な建築的改良は、コーンハウスの取り壊しとウェアハウスCとDの小川側に貯蔵小屋を建てたことでした。これにより穀物の搬入とバレルの搬出のための鉄道の分岐器を設置するスペースが確保され、ケンタッキー・ハイランド鉄道は1911年までにラブロー&グラハムに到着し、穀物を敷地内に運び込み、バーボンを市場に出荷していたそうです。
蒸溜所の所有者が変わった1870年代、ペッパー邸もまた所有者が変わりました。ナニー・ペッパーは未婚の子供達とこの家に住み続けていましたが、1873年に息子のプレスリー・オバノンが10歳の若さで亡くなっています。彼はペッパー邸のある蒸溜所の東126エーカーを所有していました。この土地はオスカー・ネヴィル・ペッパーの相続地に隣接していました。おそらくこれらの土地が近かったため、オスカー・ネヴィル・ジュニアは兄弟の126エーカーの土地と邸宅を取得したものと思われます。その後、彼は1882年に同じ土地をファントリー・ジョンソンに売却しました。続いて1884年には、ジョンソンは住居と75エーカーをアリスとジェイムズ・ゴインズに売却します。ゴインズ氏はラブロー&グラハム蒸溜所のヘッド・ディスティラーでした。彼はオスカーやジェイムズのように玄関ポーチから敷地を眺めることも、丘から石灰岩の階段を下りて小川を渡り蒸溜所まで直接行くことも出来たとか。ゴインズ家は1906年までペッパー邸を所有し、そこで12人の子供を育て、 おそらく東棟の床下空間と南側のファサードのサイド・ポーチの上に2部屋を増築したのは彼らだろうと推測されています。1906年、ペッパー邸をリチャード・ホーキンスとメイミー・ホーキンス夫妻が購入しました。夫妻は蒸溜所とは何の関係もなかったようで、タバコとコーンの耕作を続け、果樹園も所有していたそうです。小川を見下ろす西棟の2階は彼らがオウナーの時代に増築したものと推測されています。1918年にホーキンス夫妻は住居と土地をリチャードとアーマのベイカー夫妻とジーンとミルドレッドのウィルソン夫妻に売却しました。こうしてペッパー邸は蒸溜所のオウナーの1人が部分的に所有することになりました。ベイカー夫妻が亡くなった後は、1977年までウィルソン家の所有でした。

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(1879年頃のJ. E. Pepper)
一方、倒産し家業の蒸溜所を失ったジェイムズ・E・ペッパーはあっという間に立ち直っていました。南北戦争終結後にヘッドリー&ファラ・カンパニーがレキシントンのオールド・フランクフォート・パイク(現在のマンチェスター・ストリート)に蒸溜所を設立していましたが、ジェイムズとパートナーのジョージ・A・スタークウェザーは2万5000ドルを調達して、1879年にはこの土地を取得し、火災で以前の建物が焼失していたため新しい蒸溜所を建設しました。ジェイムズ・ペッパーは、蒸溜所と設備のレイアウトをデザインし、建設の監督を担当し、この事業をジェイムズ・E・ペッパー・ディスティリング・カンパニーと呼びました。
ラブロー&グラハムの施設は引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られていましたが、レキシントンに自分の蒸溜所を設立したジェイムズ・ペッパーは、父の名前とジェイムズ・クロウ博士が築き上げた絶大な名声に基づいて商売を続けようと考えたのか、自分だけが「ペッパー」の名前を使うべきだと考えたのか、蒸溜所の操業開始後すぐの1880年10月、フレンチ・ワイン・プロデューサーのレオポルド・ラブローとケンタッキーの実業家ジェイムズ・H・グラハムのパートナーシップを相手取って、破産で失ったものの一部を取り戻すために連邦裁判所に訴訟を起こします。この件はケンタッキー・ウィスキーに係る商標訴訟でした。ちなみにこの連邦訴訟は、アメリカの司法史上に於ける非常に初期のものであり、合衆国最高裁判所判事はまだ国中の「巡回裁判所」の責任を負っていました。この訴訟を担当したのは、1881年5月12日から1889年に死去するまで合衆国最高裁判所判事を務めたトーマス・スタンリー・マシューズ判事でした。マシューズ判事はシンシナティ出身で、彼がユニオン・アーミーのオハイオ歩兵第23部隊のルーテナント・カーネルとして勤務していた当時カーネルだった嘗てのテント仲間のラザフォード・B・ヘイズ大統領によって最高裁判所判事に指名されました。しかし、この任命は承認されませんでした。上院は、ヘイズとマシューズがケニオン大学の同級生であり、シンシナティで弁護士として活動し、州歩兵隊の将校を務めていたことから、ヘイズを縁故主義で非難したのです。上院がマシューズ判事を承認したのはジェイムズ・A・ガーフィールド大統領が彼を再指名してからであり、この件は1881年に投票にかけられ、その時でさえマシューズは24対23の投票によって承認されたに過ぎませんでした。
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オスカー・ペッパーの死後、ジェイムズ・ペッパーが引き継いだ蒸溜所で製造したウィスキーのバレルには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。ハンドメイド・サワーマッシュ。ジェイムズ・E・ペッパー、プロプライエター。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー。」という商標が焼き付けられました。彼はまた「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」という名前と「O.O.P. 」という用語を使ってマーケティングを行い、1877年に商標登録しました。間もなくジェイムズ・ペッパーは破産し、蒸溜所とその設備一式を含む資産を被告のラブロー&グラハムに売却した後、新たな場所でウィスキーの製造を開始します。被告らはウィスキーの樽にペッパーが使用していたものと同じようなマークを使い始めました。そこには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。創業1838年。ハンドメイド・サワーマッシュ。ラブロー&グラハム、プロプライエターズ。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー」とありました。ペッパーはラブロー&グラハムを、彼らの劣悪なウィスキーがペッパー・ウィスキーと同じであると大衆を欺く目的で商標を侵害したと主張し提訴しました。ジェイムズ・ペッパーは、自身の所有権を証明する明確なマークをバレルに焼印していたという証拠を挙げ、ペッパーの弁護士は同じマークを彼のウィスキーに関するレターヘッズ、ビルヘッズやその他のビジネス用品により小さなサイズで印刷して使用していたと証言しました。ラブロー&グラハムが使用している類似のマークは、本物を求める顧客を獲得するための「不法かつ詐欺的なデザイン」であり、「オールド・オスカー・ペッパー」はジェイムズ・ペッパーが製造したものだけだ、と。彼らはラブロー&グラハムに対し、差し止めと損害賠償を求めたと言います。弁護士であり、法廷闘争から辿るバーボンやアメリカの歴史を本やブログで執筆しているブライアン・ハーラによると、オスカー・ペッパーがずっと以前に蒸溜所を所有していたにも拘らずジェイムズ・ペッパーは「オールド・オスカー・ペッパー」が1874年まで使われていなかったと主張したそうです。そこで、オスカー・ペッパーが蒸溜所を操業していた1838年から1865年までの間、既に「オスカー・ペッパー蒸溜所」として一般に知られていたことを証明する証拠が法廷に提出されました。更に言えば、ジェイムズ・クロウ博士と彼のバーボンの名声から蒸溜所は「オールド・クロウ蒸溜所」とも呼ばれ、博士が1856年に死去した後も、オスカー・ペッパーが1865年に死去した後もこの名称は使われ続け、ゲインズ, ベリー&カンパニーでさえ「オスカー・ペッパーのオールド・クロウ蒸溜所の借主」として売り出していました。フランクフォートの共同経営者達はペッパーの訴状に対する答弁書で、自分達のウィスキーはペッパー家がウッドフォード・カウンティに設立したオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の製品であり、蒸溜所が「全ての付属設備と備品と共に」彼らに売却され、その所有権によってオールド・オスカー・ペッパーの名でウィスキーを製造/販売する権利が付与されていると指摘し、寧ろ原告が新たな「他所で製造されたウィスキーにこのブランドを使用することは公衆に対する詐欺行為に当たる」と主張して反訴しました。紛争の核心は、問題の名称が何を意味するのかという点に於ける両当事者の意見の相違でした。ジェイムズ・ペッパーは自社が製造するウィスキーを他のブランドと区別するためにこの名称を使用し、その名のもとで優れた評判を得ているとする一方、ラブロー&グラハムはこの名称はウィスキーを製造する場所を指しており、そこは現在彼らが所有している場所であって、製品そのものを指すものではないとする訳です。マシューズ判事は言葉の平易な意味を指摘した上で、原告がオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していた時代に使用していたマーケティングがウィスキーの製造された場所に大きく焦点を当てていたことに依拠しました。ジェイムズ・ペッパーは自社のバーボンを下のように宣伝していました。
私の父、故オスカー・ペッパーの旧蒸溜所(現在は私が所有)を徹底的に整備した結果、私はこの国の一流商人らに、ハンドメイドのサワー・マッシュで、完璧な卓越性を誇るピュア・カッパー・ウィスキーを提供することになった。私の父が造ったウィスキーが名声を得たのは、優良な水(非常に上質な湧き水)と、隣接する農場で自ら栽培した穀物、そしてジェイムズ・クロウが製造工程を見守り、彼の死後はディスティラーのウィリアム・F・ミッチェルに受け継がれた製法によるものである。私は現在、同じ蒸溜者、同じ水、同じ製法、そして同じ農場で栽培された穀物で蒸溜所を運営している。
では、ジェイムズ・ペッパーの新しいバーボンが、オリジナルの産地から25マイルも離れた場所で蒸溜されている現在、これら諸々の特性の重要性を無視して、彼の父親の旧蒸溜所の名称を使用し続けることが許されるべきでしょうか? 1881年の判決でマシューズ判事は原告の主張には説得力がないと判断しました。判事は「本件の証拠から」して「原告が自社の製品の市場を確立できたのは、その製品が彼の父親が造ったものと同じ地域性、そしてそれらが齎すと考えられる汎ゆる有利性から父親のものと同じに違いないという世間の特別な思い込みに基づいていた」のは「極めて確かである」と記しました。つまり、 消費者はその場所で製造された製品に対して特定の「利点」を期待し、「品質」を信頼し、それらが製品購入の大きな動機付けとなっており、原告は既存のブランド・イメージと場所が持つ信頼性を巧みに利用して市場を確立した、と見られたのです。「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」及び「O.O.P.」という用語は、原告が嘗てウィスキーを製造していた場所と被告が現在ウィスキーを製造している場所を指し、商標ではないと判断したマシューズは、ジェイムズ・ペッパーの訴えを棄却しただけでなく、「商品の製造地に関して虚偽の表示をすることで公衆を誤解させる」という理由でペッパーにはブランド名を使用する権利が全くないとし、被告がこれらの用語に対する独占的な法的権利を有すると判決を下しました。

オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していないため「オールド・オスカー・ペッパー」の名前を使う権利を失ったジェイムズ・ペッパーでしたが、レキシントンに建てた新しい蒸溜所で1880年5月に蒸溜を開始した彼は、新しい盾のトレードマークをデザインした「オールド・ペッパー・ウィスキー」のブランドを大ヒットさせました。このウィスキーは祖父から代々受け継がれてきた独自の製法で蒸溜され、旧家からのマッシュビル、サワー・マッシュ、72時間発酵させたものと言われています。その人気は主にジェイムズ・ペッパーがマーケティングを重視していたことに起因していました。師匠的存在のE・H・テイラー・ジュニアと同様に、彼は当時利用可能な汎ゆるマーケティング・ツールを活用したのです。オールド・ペッパー・ウィスキーの名は当然の如くその家名に由来し、過去100年に渡って一族が築き上げた伝統と遺産を反映させたものでした。ジェイムズはこのイメージを強化するために、 「Established 1780」や「Purest and Best in the World」というスローガンを使用し、歴史の持続性とウィスキーの品質を常に強調しました。実際に彼の祖父エライジャ・ペッパーが蒸溜を始めたのは19世紀初頭のことでしたが、こうしたサバ読みは当時は珍しいことではなく、マーケティング上の策略として功を奏しました。おそらく創業年のスローガンは南北戦争後の愛国心も利用したもので、後に1906〜7年頃から使われ出した「Born With The Republic」や「Old 1776」というスローガンに繋がっているでしょう。そして彼はラベルに「詰め替えボトルにご注意ください」という警告を記載しました。これにより彼のウィスキーが非常に優れているという印象を与え、他のウィスキー・メイカーも真似をしたがるようになったそう。また、ガラス瓶の自動化技術が進み手作業から解放されたことでボトリングが経済的に実現可能になった時、彼はケンタッキー州の法律を改正し、蒸溜業者が自社製品をボトリングできるようにした蒸溜業者の一人でした(それまではレクティファイアーズだけがウィスキーをボトリングする権利をもっていた)。その後、ジェイムズは現在では一般的となった消費者にウィスキーの健全性を保証するための「ストリップ・スタンプ・シール」を発明しました。彼はコルクに貼られた帯状のラベルに「Jas. E. Pepper & Co.」という筆記体の署名を印刷してボトルを封印したのです。そして、ジェイムス・E・ペッパーのウィスキー・ボトルを売っている人に出くわしても、このスタンプがなかったり、スタンプが破れていたり破損していたりする場合は「本物のペッパー・ウィスキーではないかも知れない」ので購入しないよう人々に呼びかける広告を出しました。署名は偽造防止法によって保護されており、商標よりも迅速に執行され、そのため既存の偽造法に基づいて偽造生産者や「ボトル再充填者」を起訴することが出来たとか。彼のこの活動は、ボトルに詰められたウィスキーの純度と同一性を保証する初の消費者保護法である1897年のボトルド・イン・ボンドの成立に貢献したと評価されています。彼はまた、広告や宣伝のために巨額の資金を投じた最初のディスティラーの一人でもありました。 ジェイムズはオールド・ペッパーの販売促進を目的にアメリカ各地を回りました。1880年代後半には、プロイセンのヘンリー王子がペンシルヴェニア・レイルロードで旅行中にオールド・ペッパー・ウィスキーが振る舞われたりしました。この頃のオールド・ペッパー・ウィスキーのブランドはアメリカ全土で強い知名度を確立しています。1890年頃にはオールド・ペッパー・ウィスキーを「結核やマラリアなどに効く万能薬」であると宣伝しました。これは、1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトのような連邦規制が施行される前のことでした。1892年2月にはアームズ・パレス・カー・カンパニーからプライヴェート鉄道車両を10000ドルで購入し、「オールド・ペッパー号」と名付けました。その車両は鮮やかなオレンジ色に塗られ、側面にはオールド・ペッパーのバレルやケースやボトル、サラブレッドの馬やジョッキーがハンド・ペイントされ、車端には「Private Car Old Pepper - Property of James E. Pepper, Distiller of the Famous 60 Old Pepper Whisky」と書かれていました。ジェイムズは常にショウマンであり、プロモーターだったのです。このオールド・ペッパーのブランドは、後年「オールド・ジェイムズ・E・ペッパー」というブランドが導入されたあと、最終的に「ジェイムス・E・ペッパー」バーボンが両方の商品名に取って代わりました。 また、レキシントンの蒸溜所では以前の蒸溜所から受け継いだ「オールド・ヘンリー・クレイ」というライ・ウィスキーのブランドも製造していました。
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ジェイムズ・E・ペッパーはケンタッキー州から贈られる名誉称号の「ケンタッキー・カーネル」でした。彼はスポーツが好きで、特に競馬が好きでした。馬小屋を所有し、ケンタッキー・ダービーやオークスに出走する馬を何頭も持っており、1892年には彼の馬「ミス・ディキシー(妹の名前)」がオークスを制したそうです。カーネル・ペッパーは豪快なライフ・スタイルを送り、ニューヨークの有名なウォルドーフ=アストリアに頻繁に滞在しては、国内の実業家や社交界のエリートたちと親交を深めました。伝説によると、あの有名なオールド・ファッションド・カクテルの人気はカーネル・ペッパーが広めたと言われています。伝説によると、この象徴的で古典的なカクテルは、元々ケンタッキー州ルイヴィルのペンデニス・クラブのバーテンダーが他でもないカーネル・ペッパーのために初めて造り、それをカーネル・ペッパーがウォルドーフ=アストリアのバーに導入した、と。真偽は判りません。オールド・ファッションドの起源には諸説あるようです。蒸溜所の経営を続けていたジェイムズ・エドワード・ペッパーは1906年12月に死去、父や1899年に亡くなったナニーの近くに埋葬されました。彼に子供はいませんでした。彼の妻は蒸溜所の経営に興味がなかったのか、1908年、蒸溜所とブランドはシカゴの投資家グループに売却され、禁酒法により閉鎖されるまで操業されました。禁酒法時代にはシェンリーによりメディシナル・スピリッツとして販売され、彼らは禁酒法終了後にブランドと蒸溜所を買い取ります。しかし、シェンリーの規模が大きくなるにつれ、この蒸溜所は数ある蒸溜所の一つとなり、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは彼らが製造/販売する数十のブランドの一つに過ぎなくなりました。「Born with the Republic」というスローガンも継続されていましたが、軈てブランドの売り上げは低迷し始め、I.W.ハーパーやJ.W.ダントといった主力ブランドよりも会社にとって重要ではなくなって行きます。シェンリーは1950年代前半に過剰生産に陥り、1958年にボンディング期間が20年に延長されたことでようやく破産を免れたに過ぎない状態でした。ジェイムズ・E・ペッパー蒸溜所は1958年に閉鎖され(1960年代初頭に操業を停止し、60年代末までに閉鎖されたという説もあった)、「ジェイムズ・E・ペッパー」ブランドは1960年代には人々の記憶からラベルも忘れ去られ、膨大な倉庫在庫からウィスキーは1970年代には販売され続けましたが、1970年代末までに市場から姿を消しました。1990年代初頭の一時期、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは、1987年にシェンリーを買収したユナイテッド・ディスティラーズによって復活します。 このブランドは1994年、ポーランドと東欧の新興バーボン市場への輸出専用ブランドとなりました。しかし、ユナイテッド・ディスティラーズがアメリカン・ウィスキーのブランドの殆どを他の蒸溜会社に売却したため、ジェイムズ・E・ペッパー・ブランドはすぐに再び消滅してしまいます。そして、時を経た2008年、以前のブランド・オウナーとは無関係の起業家アミル・ピィー(または「アミア」や「ペイ」と発音されることもある)は放棄された商標を取得し、このブランドを再スタートします。カーネル・ペッパーのレキシントンの蒸溜所の歴史や復活したブランドに就いては、また別の機会に譲るとして、話をラブロー&グラハム蒸溜所とO.O.P.に戻しましょう。

禁酒法の施行に伴い、1918年、ラブロー&グラハム蒸溜所は閉鎖を余儀なくされました。1920年のヴォルステッド・アクトの施行から1933年12月の憲法修正第21条の批准による廃止までの13年の歳月、ラブロー&グラハム蒸溜所は空き家となり使用されていませんでした。商品や資材は引き揚げのために売却され、多くの建物は破損し屋根のないまま放置されたそうです。倉庫に保管されていたウィスキーは盗掘や盗難を防ぐために、1922年までに連邦政府の集中倉庫に移されました。禁酒法期間中、酒は医療目的で販売されました。フランクフォート・ディスティラリーがストックのウィスキーを使ってオールド・オスカー・ペッパーをメディシナル・スピリッツとしてボトリングしています。1920年に禁酒法が施行された当時、同社は医療目的の蒸溜酒販売許可を与えられた僅か6社のうちの1社でした。1922年、同社はポール・ジョーンズ社に買収され、彼らはフランクフォート・ディスティラリーの社名を引き継ぎ、「フォアローゼズ」や「アンティーク」など多くのブランド名でウィスキーを販売する許可を保持しました。画像検索で禁酒法下のO.O.P.を眺めてみると、中身の原酒の殆どにラブロー&グラハム(第7区No. 52)が生産したものが使われていましたが、禁酒法期間の後期にはハリー・S・バートン(第2区No. 24)が生産したものが使われたボトルもありました。1928年までに禁酒法以前のウィスキーの在庫が減少すると、フランクフォート・ディスティラリーはルイヴィルに拠点を置くA. Ph. スティッツェル蒸溜所と契約を結び、そこからスピリッツの供給をしました。1933年に禁酒法が廃止されると、彼らはスティッツェルの旧工場を買収し、シャイヴリーに新工場を建設します。これがルイヴィルのフォア・ローゼズ蒸溜所と呼ばれました。第二次世界大戦下の厳しい時期に蒸溜所とブランドはシーグラムに売却されます(1933年にシーグラムが買収という説もあった)。シーグラムはストレート・ウィスキーの製造を中止するまで何年も同じブランドを使い続けたそうなので、フランクフォート・ディスティラリーから引き継いだブランドを販売していたのでしょう。画像検索してみると、オールド・オスカー・ペッパー・ブランドとして、メリーランドのボルティモアと所在地表記のあるバーボンやライのブレンドがありました。その後、おそらく50年代か60年代にはその存在感を失い、軈てブランドのラベルは使われなくなったと思われます。
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(1936年頃の蒸溜所)
偖て、O.O.P.ブランドとは分かたれた蒸溜所には別の途があります。禁酒法が解禁されると、リチャードとアーマのベイカー夫妻、そして新たにマネージング・パートナーとなったクロード・V・ビクスラーは、1933年8月に新たなラブロー&グラハム社を設立し、建物の再建に着手しました。彼らは改修と建設を調和のとれたものにすることに特に注意を払いました。蒸溜所の建物の増築部分や新しい石造り倉庫の基礎部分に、古い倉庫跡の石材を再利用したと言います。この作業の重要性とその達成方法は、再建された他の蒸溜所よりもこの蒸溜所の国家的地位を高めるのに貢献した理由の一つでした。1934年以降の蒸溜所の拡張と再建の全体計画は、既存の建物や資材、そして当時の人件費と技術水準に見合った新しい建設資材を融合させた質の高い工業デザインの好例と評価されています。土地の地形と産業のニーズが調和され、省力化と経済性を追求した工場が実現した、と。コーンや他の穀物が丘の中腹にある貯蔵庫から高架を伝って運ばれたように、新しい倉庫は長いバレル・ランの緩やかな傾斜に沿って建てられました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは全長500フィート以上あり、必要な幅で間隔をあけた2本の平行レールで構成されているため、作業員がバレルを所定の位置に留めなくても移動できるそうです。その複雑さに加え、安全および保険の要件も、新しい建物をどこに建設するかを決める上で役立ったとか。このバレル・ランは、樽にスピリッツを最初に充填するシスタン・ルームからリクーパー・ショップを含む全てのストレージ・ウェアハウスまでの広範な時間節約型のコネクター・システムになりました。2レール・システムによって、2人の作業員が大量のバーボン・バレルを扱い、トラックや他の車輪付き搬送装置から積み下ろしすることなく、或る場所から別の場所へ素早く移動させることが出来るようになりました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは、他の蒸溜所の平均的なそれと比べても優れた搬送システムでした。バレル・ランに加えて、禁酒法廃止後に再建されたラブロー&グラハム蒸溜所で最も重要だったのは、1934年から1940年の間に増築された釉薬の掛かったテラコッタ・タイルの倉庫E、F、Hでした。 禁酒法廃止後に建てられた他の蒸溜所の殆どの倉庫は、木造で金属製の波板で覆われていたことを考えると、珍しい仕様と言えるでしょう。これらの建物は全て4階半建て、長さは様々で、石灰岩の基礎の上に建てられ、エイジングをコントロールするための暖房システムを備えていました。これらはライムストーン・ウェアハウスの構造と形状を模倣していましたが、汎ゆる寸法が大きくなっていたとのこと。これらの倉庫をバレル・ランと組み合わせて川岸に沿って慎重に配置したのは、貯蔵能力を拡大するためでした。テラコッタ構造ユニットの使用は、この時代に国中で採用されていた耐火構造のための一般的でシンプルな建築媒体だそうです。テラコッタ・タイルは更にその他の小規模で機能的な建物にも使用されました。また、ビクスラーは閉鎖前と同じウィスキーを造るために禁酒法時代に冷凍保存されていたラブロー&グラハム独自のイーストを使用したとされています。家族のような従業員達によって生産は再開され、その殆どは地元の出身者であり、中には禁酒法以前に親や祖父母がこの蒸溜所で働いていた人もいたそう。ラブロー&グラハムが生産したブランドには「L. & G.」と「R. A. ベイカー」があったと伝えられます。1939年末から1940年初頭に掛けて、彼らは相当量の4年物のバルク・ウィスキーをディーツヴィルのT・W・サミュエルズ蒸溜所(RD No. 145)に売却しました。こうしてラブロー&グラハムは1940年までに蒸溜所の再建、拡張、生産を行い、ウェアハウスに25673バレルのウィスキーを貯蔵するまでになりましたが、1940年7月にオールド・フォレスターやアーリー・タイムズなどのブランドで知られるブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションに75000ドルで売却されました。この取引には、倉庫で熟成されていたその約25000バレルのバーボン・ウィスキーも含まれていました。ブラウン=フォーマンはその後の約20年間、この蒸溜所をラブロー&グラハムという名前の下に操業を続け、一部のオールド・フォレスターやアーリータイムズもここで生産されたと目されます。また、サム・K・セシルの著作によると、ブラウン=フォーマン社は暫くこの工場を使用して「ケンタッキー・デュー」を製造したそうです(後にルイヴィルで瓶詰め)。

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ブラウン=フォーマンが生産と貯蔵を引き継ぐ一方で、ヨーロッパ戦線に於ける戦争への取り組みが高まる懸念から、戦争を予期して生産を加速する必要性が高まりました。施設の新しいマネージャーは大量生産に対応するには水の供給が不十分なことに気づきます。解決策として、既存の鉄道踏切にコンクリート製のダムと放水路を築き、小川を堰き止めるという計画が立てられました。さっそくブラウン=フォーマンはコンクリート製のダムと放水路、そして鉄製の歩道を完成させると、その結果として小川の両岸の間に2.75エーカーの池が出来ました。この水は蒸溜所の年間生産期間を延長するための安定した供給源となっただけでなく、消火のための備蓄水にもなり、蒸溜所の建築物を映し出す風光明媚な景観の一つともなりました。戦時中から1945年末に掛けてのブラウン=フォーマンの工場拡張は、ディスティラリー・ハウスの増築と小さな新棟を建設して完了しました。1942年には蒸溜所の増築に伴い、建物の南側に3ベイのファサードが追加され、発酵室が併設されました。ライムストーンと拡張されたスタンディング・シーム・メタル・ルーフは全体を一体化するために再び選ばれた素材でした。最後の仕上げは、新しい出入り口の上に既存のミルストーンを組み込み、目立つ場所にこの蒸溜所の100年の歴史を刻むことでした。同じ頃、シスターン・ルームの隣に、消防用具を保管するためのセグメンタル・アーチ型の窓とドアを備えたライムストーン造りの平屋建て6面建造物が建てられたそうです。1945年以降、ブラウン=フォーマンは通常のウィスキーの製造および熟成と貯蔵を続けましたが、ラブロー&グラハムが1934年にこの場所に建設したボトリング・プラントの規模は縮小されました。そして1950年代のバーボン市場の衰退により、1957年に生産は終了します。1965年には貯蔵も廃止されました。1960年代後半に更にバーボン市場が低迷すると工場は閉鎖され、ブラウン=フォーマンは1973年(1972年という説も)に土地を地元農家のフリーマン・ホッケンスミスに譲渡。こうしてブラウン=フォーマンによるこの蒸溜所の管理は終わりを告げ、一旦はその歴史に幕が下ろされました。ホッケンスミスはこの施設を農産物の貯蔵庫として使用し、短期間ながら燃料用アルコールの製造も試みたそうです。工業用アルコール、特にOPECの燃料危機をきっかけに人気を博した「ガソホール」の生産に転換したとのこと。しかし、ホッケンスミスは危機が収束する前に新しい給排水設備を殆ど建設することが出来ず、限られた生産量ではごく僅かな市場しか残せなかったらしい。彼は蒸溜所を閉鎖し、凡そ20年も放置されたままになりました。

時は過ぎて1980年代後半から1990年代初頭、バーボンの需要は復活の兆しを見せ始めました。具体的には限られた量しか生産されない高品質なプレミアム・バーボンの市場が盛り上がりを見せていたのです。各蒸溜所では「スモール・バッチ」や「シングル・バレル」の製品が販売されるようになっていました。ジムビームとケンタッキー・バーボン・ディスティラーズはスモール・バッチ・コレクションを展開し、エイジ・インターナショナルはエンシェント・エイジ蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)からブラントンズを筆頭とする幾つかのシングル・バレルのブランドをリリース、フォアローゼズのブランドはアメリカではブレンデッド・ウィスキーのみだったものの輸出市場にはプレミアムなストレート・バーボンを販売、ワイルドターキーもバレルプルーフやシングルバレルの製品を開発、ヘヴンヒルも市場は限定的だったかも知れませんがプレミアムなボトリングを提供していました。当然ブラウン=フォーマンもプレミアム・バーボンの製造に興味を持ち始め、この市場への参入を必要としていました。そこで彼らはそれを造るための適切な場所を探し、ケンタッキー州内の候補地の調査をします。その結果、検討した場所の中にウッドフォード郡にある嘗てのラブロー&グラハム蒸溜所跡地があり、1994年末、ブラウン=フォーマンはメアリー・アン・ホッケンスミスからこの土地を買い戻しました。彼らの目標は外観を1945年当時の姿に復元し、施設を完全に改修することでした。すぐに始まった修復工事にブラウン=フォーマンは2年近くを費やし、この古いランドマークを修復すると業界で最も美しい場所の一つにまで昇華させました。スコットランドやアイルランドで使われるようなオリジナルのカッパー・スティルを設置し、それを用いたプレミアム・バーボン製造のために内装にも変更を加え、遺産観光を目的とした新しいヴィジター・センターも併設され、その総工費は740万ドルだったと言います。1996年10月17日、蒸溜所は一般見学用にオープンしました。蒸溜所の操業開始直後の1997年、ブラウン=フォーマンは周辺の30エーカーを超える土地(元の住居と東側の丘にある泉を含む)を追加購入したことにより、新たに拡張されます。 オープン当時、施設の名前は旧来と同じく、そのままラブロー&グラハム蒸溜所と呼ばれていましたが、製造される唯一のウィスキーはウッドフォード・リザーヴと呼ばれました。そのため、2003年には正式にウッドフォード・リザーヴ蒸溜所と改称され、現在に至ります。このウィスキーはマスター・ディスティラーのリンカーン・ヘンダーソンと当時のプラントのゼネラル・マネージャーであるデイヴ・ショイリックによって構想/開発されました。1996年に市場に投入され、今も高い人気を誇るウッドフォード・リザーヴに就いては、また別の機会に語ることもあるでしょう。
では、最後に貴重なウィスキーを飲んだ感想を少しだけ。

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O.O.P. Old Oscar Pepper Whiskey BiB 100 Proof
1916 - 1926? or 1928?
経年でストリップの印字がよく読み取れず、たぶん26年か28年のボトリングかと思います。液体の見た目はけっこう濁っていました。けれど香りは悪くないし、全然飲めました。オールドオークと甘草やアニス系統のフレイヴァーですかね。流石にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎてるせいなのか、飲んだ量が少量過ぎるというのもあってか、私にはそれほどフルーティなテイストは取れませんでした。とは言え、これは文句ではなく、これだけの「歴史」を飲めたことに感謝です。
Rating:85.5/100

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L.&G. Bottled in Bond 100 Proof
1938? - 1943?
こちらもO.O.P.と同様、ストリップの印字が滲んでいて数字が判別出来ませんでした。これを飲んだことのあるバーボン仲間にも訊ねたのですが、やはりその方も完全には判読できず、蒸溜年とボトリング年はぼんやりとした数字からの推測です。こちらは液体の見た目はクリア、そしてO.O.P.より甘いキャラメルと少しフルーティなテイストを感じました。こちらも少し酸化し過ぎた風味はあったような気はしますが、オールドボトルを飲み慣れていればそれを陶酔感と表現する人もいるでしょう。
Rating:86.5/100


*200年以上もの間、蒸溜所を見下ろす丘の上に建っていたこの歴史的な建物は、エライジャ・ペッパーとその家族に因みペッパー・ハウスと呼ばれています。グレンズ・クリークの畔の小さな蒸溜所の敷地内に1812年に建てられた後、何世代にも渡ってペッパー家の住まいとなり、ペッパー家の手を離れた後も2003年まで誰かしらがこの家に住み、ペッパー・ハウスはケンタッキー州の歴史上、人が住み続けている最古のログ・キャビンとして知られていました。しかし、ここ20年もの間は空き家となって荒れ果てていました。ブラウン=フォーマンはウッドフォード・リザーヴ蒸溜所のウィスキー・バレル・テイスティング体験の水準を引き上げるため、ペッパー・ハウスの修復と改修をジョセフ&ジョセフ・アーキテクトに依頼して、この家を2024年の夏にウッドフォード・リザーヴのパーソナル・セレクション・プライヴェート・バレル・プログラムの新しい拠点として使用することに決めました。オリジナルの外部の石灰岩の煙突はゲストを迎えるために再建されたポーチと共に3年以上かけた修復の中心となっています。既存のスペースは、ドラマチックな2階建てのテイスティング・ルーム、暖炉のあるパーラー、展示室、ケータリング・サポート・スペースのあるバーとして造り直されました。屋外には美しく整備された庭園を見渡す石の壁に囲まれたダイニング・テラスもあります。ウッドフォード・リザーヴを世界的ブランドへと成長させ、長年に渡り修復プロジェクトを支持して来た名誉マスター・ディスティラーのクリス・モリスの功績に敬意を表して、ペッパー・ハウス内のライブラリーは「クリス・モリス図書室」と命名されました。ここには1800年代に遡る丸太とチンキングがあるそう。ウッドフォード・リザーヴのマスター・ディスティラーであるエリザベス・マッコールは、「この家は、コモンウェルスに於けるバーボンの誕生に深く関わる豊かな遺産であり、今日私たちが知っているバーボン業界を形成したペッパー家の不朽の遺産を物語るものです」、「この家を現代的な方法で再利用することは相応しいトリビュートでしょう。もしこの壁が話せるとしたら、ケンタッキー州に於ける初期の蒸溜生活についてどんな物語を語ってくれることか想像できます」、「中に入って1800年代にこの家の一部だった壁に触れるのは素晴らしいことです」と語っていました。
ウッドフォード・リザーヴ・パーソナル・セレクション・プログラムは、世界中のレストラン、バー、酒屋、個人が蒸溜所に訪れ、ウッドフォード・リザーヴ・バーボンの自分だけの組み合わせを作るためのもので、 顧客は公認テイスターとのブレンド体験に参加し、その結果、2樽のバッチが出来上がり、瓶詰めされ、パーソナライズされたラベルが貼られて完成。パーソナル・セレクション・プログラムは、ウッドフォード版プライヴェート・バレル・ボトリングであり、シングルバレルではないものの2バレルを組み合わせて製造されるため限りなくそれに近い。

**ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬にオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約3マイル離れたグレン・クリーク沿いにある25エーカーの土地をジェームズ・ボッツ博士とその妻ジュディスから購入してオールド・クロウ蒸溜所を建設した、とされているので、そこにオスカーが建てた旧来の蒸溜所があったのかも知れません。W. A. ゲインズ・カンパニー(ゲインズ, ベリー&カンパニーの後継会社)はこの蒸溜所とハーミテッジ蒸溜所(RD No. 4)を共に経営しました。後年、DSP-KY-25のプラント・ナンバーで知られたオールド・クロウ蒸溜所は、禁酒法解禁後はナショナル・ディスティラーズが長年に渡り操業し、1980年代後半にアメリカン・ブランズ(ジェイムズ・B・ビーム)が引き継いだあと廃墟となり、現在はグレンズ・クリーク蒸溜所となって復活しています。

***1865年6月にオスカー・ペッパーが亡くなった後、ナニーは1865年後半に隣人であり親戚でもあるトーマス・エドワーズに蒸溜所を1シーズンだけ貸し出しました。エドワーズはグレンズ・クリーク沿いの5マイル離れた農場に蒸溜所を所有しており、そこはドクター・ジェイムズ・クロウがペッパー蒸溜所を去った後の1856年に働いていた地域でも小規模な蒸溜所の一つでした。翌1866年になるとナニーはジョン・ギルバート・マスティンとその弟ウィリアムと3年間のリース契約を交渉しました。ペッパーの蒸溜所は高品質のウィスキーを大量に生産することで評判が高く、ウッドフォード・カウンティの他の蒸溜所もペッパーの設備や専門知識を活用するようになっていたからでした。ジョン・マスティンは1866年のシーズン中、トーマス・エドワーズと共に蒸溜所で働き、その後エドワーズからリース契約を引き継ぎます。彼は1867年1月1日から蒸溜所をゲインズ, ベリー・アンド・カンパニーに転貸し、息子のジョン・Wとロバート・マスティンと共に同社の株式を少額ずつ取得したそうです。

****ゲインズ, ベリー&カンパニーは1867年2月からオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所でオールド・クロウを製造するためのリースを確保した、との説もあります。こちらの方が正しいのかも知れませんが、本文では1869年の裁判所による調停後のこととして記述しました。

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ヴェリー・オールド・セントニック(VOSN)は、1980年代後半に若き日のマーシィ・パラテラが当時活況を呈していた日本市場向けのブランドとして、主に過剰供給時代のアメリカン・ウィスキーを使ってスタートしました。このブランドはヴァン・ウィンクルやハーシュの様々なラベルと共にプレミアム・アメリカン・ウィスキーの潮流を創り出したと評価され、現代のバーボン・ブームの魁だったと見做すことが出来ます。元々はジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がローレンスバーグにあるオールド・コモンウェルス蒸溜所で少量をボトリングし、その後すぐにバーズタウンのケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)がボトリングするようになりました。そして、その初期の頃から当時は人気のなかったライ・ウィスキーをボトリングしていたブランドでもありました。ブランドの初期の物はラベルが大きいのが特徴です。一般的なバーボンではあり得ないほど大きなこのラベルは決して意図したデザインではありませんでした。ボトルを選ぶ前にラベルを当て推量で作ってしまい、実際に使うボトルには大き過ぎたラベルとなってしまったらしいのです。おそらくマーシィには潤沢な資金がある訳でもなく、せっかく作ったラベルを廃棄する選択肢はなかったと思われ、そもそも大量にラベルを作成していなかったこともあり、数ロットでそれを使い切った後、本来の意図通りの小さいと言うか普通のサイズに変更したのでしょう。この大きなラベルは初期VOSNに他のバーボンとは一線を画す異質の趣を齎しており、そのブランドの名前やお爺さんのスケッチを一際引き立たせています。発端は偶然とは言え、発売当初の日本のバーボン・ドリンカーに超然とした神秘的なブランドという印象を与えるのに役立ったのではないかと個人的には思います。
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ヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライはブランド初期の頃からあり、プリザヴェーション蒸溜所が出来た後の現在のラインナップでも継続してリリースされています。「ウィンター・ライ」という言葉は平たく言うと冬期に栽培されるライ麦の総称ですが、このウィスキーが自ら蒸溜していない原酒を他所から購入して販売するソーシング・ウィスキーであること、後にサマー・ライという(ネット検索してもVOSNが多く出て来てしまう)あまりライ穀物としては一般的ではない名称のヴァリエーションが発売されていること、また後にオールド・マン・ウィンターというVOSNの姉妹ブランド的な?ラベルが作成されていること等を考慮すると、ここで言うウィンター・ライと言うのは使われている原材料を表しているよりは、単に響きの良い語感を利用したマーケティングなのではないかと思われます。バック・ラベルを見てみると、以下のように書いてあります。私は英語が母国語ではないですし、癖の強い筆記体で書かれているため読み間違っているかも知れないので、その場合はコメントより訂正して下さい。
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Winter nights after supper we'd sit by the fire. That's when grandaddy would go down to the cellar and fill up his jug from his tiny old oak barrel. We'd tell stories, drinking grandaddy's "winter rye" his favorite, very old and smooth. He'd only pour enough to take the chill off the snowy Kentucky night. Now that grandaddy's gone we got a little extra to share.
(冬の夜、夕食が終わると、あたし達は暖炉のそばに座ったの。そんな時、おじいちゃんはセラーに降りて、ちっぽけな古いオーク樽からお酒をジャグに満たしたものよ。あたし達は語らいながら、おじいちゃんのお気に入りの「ウィンター・ライ」を飲んだんだ、すごく古くて滑らかなやつよ。雪の降りしきるケンタッキーの夜の寒さをしのぐのに十分な量しか注いでくれなかったけどね。おじいちゃんが亡くなった今、ちょっと余分に分けてもらっちゃった。)
これを見る限り、ブランドのウィンター・ライという名称は、祖父と冬場に飲んだライ・ウィスキーの思い出から名付けられているようです。まあ、フィクションだと思いますが、なかなか良い感じの宣伝文句と言うか小話ですよね。

で、この初期のウィンター・ライを誰がボトリングしているのかですが、私の認識では単純にこのラージ・ラベルや発売元が東亜商事となっていて日本語で紹介文の書かれているインポーター・ラベル(下画像参照)が背面に貼られたものはジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世のボトリングなのかなと思っていました。と言うのも、90/91年頃によく使われていたこのインポーター・ラベルは、ペンシルヴェニア1974原酒を使ったハーシュ・リザーヴやカーネル・ランドルフ、オールド・ブーン1974原酒を使ったヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ、そして大きなフロント・ラベルのVOSNバーボン(12年90プルーフ/114.3プルーフ、15年107プルーフ/114.8プルーフ、17年94プルーフ/116.2プルーフ/119.6プルーフ)に貼られており、ジュリアン3世が日本市場向けにボトリングした高級なボトルのシリーズのために作られたように見えるからです。
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ところが、今回飲んだヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライのラージ・ラベル(トップ画像右)の背面を見てみると、バーズタウン表記のバック・ラベルに東亜商事の小さいインポーター・ラベルという組み合わせとなっていて、このパターンは初めて見ました。
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比較的見かけ易く、最初期と思われるウィンター・ライのラージ・ラベルの背面には上述の日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルが貼られています。だからこそ私はジュリアンがボトリングしたものかと思っていた訳ですが、今回のウィンター・ライを見て「あれ? このラベルのウィンター・ライでもKBDがボトリングしてるのか」と思いました。家に帰ってから、ウィンター・ライのラージ・ラベルの背面に貼ってある紹介文付きインポーター・ラベルの画像を加工して弄ってみると、その下にあるバック・ラベルが透けて「Bardstown, Kentucky」が浮かび上がりました。他の部分を見ても明らかに今回飲んだウィンター・ライと同じバック・ラベルに見えます。
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このラージ・ラベル+紹介文付きインポーター・ラベルとバーで飲ませて頂いたラージ・ラベル+紹介文なしインポーター・ラベルのどちらが古いのか、或いは紹介文付きのラベルがなくたまたま紹介文なしのラベルが貼られただけでボトリング時期は同じなのか、私には判りません。しかし、少なくとも私はVOSNライのこれら以上に古いボトルは見たことがないので、おそらくジュリアンはマーシィのためにライをボトリングしていないのでしょう。マーシィはジュリアンに「ライ麦を飲むのは年寄りだけだ」と言われたそうです。きっとマーシィは当時誰も顧みなかった時代遅れの産物ライ・ウィスキーに光を当てたい、或いは日本市場であれば売れると踏み、ジュリアンにライをリクエストしたのだと思います。彼が後にオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライやヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライに用いた84年か85年に蒸溜されたメドリー・ライを入手したのが、ユナイテッド・ディスティラーズがその資産を売りに出した時なのだとしたら、91年か92年以降のことでしょう。だから、ジュリアンはマーシィのリクエストに応えられなかったのではないか、と。或いは、ジュリアンが80年代後半の時点でメドリー・ライのバレルを所有していたとしても、VOSNは名前が表すように高齢ウィスキーが特徴ですから、何だったらマーシィは長熟のライを欲しがったのかも知れない。メドリー・ライに84年か85年に蒸溜されたものしかないのなら、91年か92年の時点でそのウィスキーは6〜7年熟成となります。VOSNバーボンは最も若くても8年熟成でリリースされていました。そこでマーシィはもう一人のレジェンドであるエヴァン・クルスヴィーンのKBDに目を向け、彼に頼んでストックしてあったライをピックしてもらったのではないでしょうか。では、中身は何処から? はい、例によってKBDは秘密主義なので原酒は謎です。後にリリースされた伝説的なライのソースを考慮すると、旧バーンハイムもしくはエンシェント・エイジで蒸溜されたクリーム・オブ・ケンタッキー・ライである可能性が高いように思えます。ですが、KBDもメドリー・ライのバレルを所有していたのならそれかも知れないし、ヘヴンヒルやバートンを疑うことも出来そうですし、結局は分からないとしか言いようがありません。

偖て、もう一方のヴェリー・オールド・セントニック・エンシェント・ライ・ウィスキー17年の方はと言うと、こちらは1990年代末から2000年代初め頃に用いられたデザインのラベルかと思います。正直、私には発売時期および期間、幾つのバッチがあったのか等は正確に判りませんので、詳細をご存知の方はコメントよりご教示ください。このラベルは通常のVOSNより更に熟成年数が高めなのが特徴で、中熟物もありましたが殆どは20年オーヴァーの高齢ウィスキーを使ったリリースであり、バーボンのヴァリエーションにはエステート・リザーヴ8年ドリップド・カッパー・ワックス86プルーフ、20年ブルー・ワックス94プルーフ、22年ドリップド・レッド・ワックス81.2プルーフ及びドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ、23年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びカッパー・ワックス82.6プルーフ、24年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びブラック・ワックス81.2プルーフ、25年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びゴールド・ワックス86.4プルーフとありました。ライにはこの17年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.7プルーフ以外に、12年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.6プルーフ、15年ドリップド・ホワイト・ワックス86プルーフ、18年ドリップド・ゴールド・ワックス104.6プルーフとありました。これらは画像で見たものを纏めただけなので他にもあるのかも知れません。またワックスの色に関しても画像を視認しただけなので誤っている可能性があります。で、こちらのエンシェント・ライ17年の中身に就いても、これまた明確には判りません。熟成年数などを考えると、やはり旧バーンハイムのCoKRではないかと思うのですが…。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

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Very Olde St. Nick Winter Rye 101 Proof
推定90〜91年頃のボトリング。
Rating:87/100

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Very Olde St. Nick Ancient Rye 17 Years 103.7 Proof
推定2000年前後のボトリング。
Rating:87/100

Thought:少量しか飲んでないので大したことは言えませんが、どちらもアニス、リコリス、土っぽさなどが現れるタイプのライ・ウィスキーかなと思いました。今回飲んだこのウィンター・ライのラベルには熟成年数の記載はありませんが、上で言及した日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルには9年熟成と明記されています。これもそれと同じ物と見做していいのなら、この二つは9年と17年という熟成期間にかなりの差があるにも拘らず、どちらもフルーティよりはウッディに傾きがちで、何だか似たような風味に感じました。強いて違いを言うと、エンシェント・ライ17年の方が僅かにオールドファンクを伴ったミント感が強いくらいでしょうか。ウィンター・ライが経年のオールド・ボトル・エフェクトでエンシェント・ライに近づいたのかも知れません。或いは元から9年以上の原酒がブレンドされていたとか? 飲んだことのある方はコメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの4杯目は、前から飲んでみたかったワイルドボアにしました。本当はプルーフの高い15年の方が飲んでみたかったのですが、もうなくなってしまったとのことで12年を。
このバーボンは一般的にはあまり知られていないと思いますが、バーボン・マニア(というかKBDマニア?)には人気のブランドです。90年前後から2000年に掛けてKBDが日本市場に向けてボトリングしたブランドは多数ありますが、その中でもジョン・フィッチやクラウン・ダービーやダービー・ローズ等と並んでオークションに殆ど現れず希少性が高いです。このブランドには12年80プルーフと15年101プルーフがあり、おそらく91年あたりにボトリングされたものと思われます。写真は掲載されてないのですが、世界最大級のウィスキー・データベース・サイトと言われる「Whiskybase」には6年43度のワイルドボアが登録されていました。もしかするとヨーロッパ市場向けにもボトリングされていたのかも知れません。それは兎も角、名前やラベル・デザインにインパクトのあるこのブランドは、その来歴が全く分からない。ウィレットまたはKBDが所有していたブランドなのか? 大昔に存在していたブランドなのか? それとも90年当時に作成されたラベルなのか? そうしたことが一切分からないのです。今現在、動物の「ワイルドボア(イノシシ)」ではないウィスキーのワイルドボアをネットで検索すると、出てくるのはワイルドボア・ブランドの「バーボン&コーラ」ばかりです。これはオーストラリアで流通しているRTD飲料なのですが、その使っているバーボンが「ケンタッキー・バーボン」と書かれている種類の物もあり、何だかここで取り上げているワイルドボア・バーボンと繋がりがあってもおかしくなさそうにも感じます。しかし、私がネットで調べてみてもそこに明確な繋がりがあるのかどうかは分かりませんでした。
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(Hawkesbury Brewing Co.のウェブサイトより)

ところで、このワイルドボア12年や15年と同時期にKBDがボトリングしていたウッドストックというブランドがあります。
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(画像提供バーFIVE様)
このウッドストックの販売されていたヴァリエーションが12年80プルーフ及び15年101プルーフとワイルドボアと同じであるところから、個人的には姉妹ブランドなのかしら?という印象をもっていました。で、ワイルドボアと同じように、音楽フェスティヴァルの「ウッドストック」ではないウィスキーのウッドストックをネットで検索してみると、ウッドストック・ブランドの「バーボン&コーラ」が出て来るのです。
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(Woodstock Bourbonのウェブサイトより)
これはニュージーランドのバーボン&コーラのNo.1ブランドだそう。また、こちらのウッドストック・ブランドにはRTD飲料ではないバーボン・ウィスキーも幾つかの種類がありました。それらもオーストラリアとニュージーランド市場の製品みたいです。
このように、KBDが同時期にボトリングしていた2つのブランドの名前は、現在、似たような製品かつ似たような市場でリリースされるブランドと同じ名前です。これは偶然なのでしょうか? 私には何か繋がりがあるような気がしてならないのですが…。もしかしてこれらは同じブランドであり、元々オセアニア地域向けに作られたブランドだったとか? 或いは90年代に日本向けに作られたブランドを、後年、オセアニア地域の酒類会社が買い取って現在に至るとか? まあ、これは単なる憶測です。誰か仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。

偖て、肝心の中身のジュースについては…、はい、これもよく分かりません。この頃のKBDのボトリングならば、旧ウィレットの蒸溜物である可能性は高いような気はしますが、どうなのでしょう? では、最後に飲んだ感想を少し。

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WILD BOAR 12 Years Old 80 Proof
推定91年ボトリング。インポーター・ラベルはほぼ剥がれていますが、残された文字からすると河内屋酒販でしょう。フルーティな香り立ちが心地良い。味わいもフルーティで、ロウ・プルーフにしてはフレイヴァーが濃ゆい。加水が功を奏したのか、オールドファンクな余韻も適度で個人的には気に入りました。で、何処の蒸溜物かですが、旧ウィレットはフルーティと聞き及びますので、その可能性は大いにありそうな…。ですが、私の舌ではちょっと確信はもてませんね。
Rating:86.5/100

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ジャズクラブはマーシィ・パラテラのアライド・ロマー(インターナショナル・ビヴァレッジ)のブランドで、おそらく80年代後半から2000年代に掛けて日本市場へ向けて輸出されていたと思われます。ジャズ・クラブというとミュージシャンの写真が色々と使われた12年、15年、20年の長熟物が知られていますが、それ以外にこのクラブハウス・スペシャルというNASの物がありました。これがどれくらいの期間販売されていたかよく判りません。画像も含め私が見たことのあるクラブハウス・スペシャルには、輸入者が河内屋酒販のもの、東亜商事のもの、インポーター・シールがないものがあります。個人的な印象としては、多分このラベルは後期にはリリースされてないような気がしています。そのせいなのか、年数表記のあるものよりオークションで見掛けることは少ないです。マーシィ自身はこのラベルを80年代にデザインしたと言っていたので、これがそもそものジャズ・クラブの姿なのかも知れませんね。販売時期などの仔細をご存知の方はコメントよりご教示ください。よく分からないことは偖て措き、上述の年数表記のあるジャズクラブのような同じブランドの名の元に異なる人物の写真を使用するコレクターズ・シリーズはアライド・ロマーの得意芸?であり、他にも西部開拓史を彩った象徴的なヒーロー達を揃えた「レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェスト」、それらと同時代の荒くれ者やお尋ね者を揃えた「アウトロー」、それらほど熟成年数が高くない「ギャングスター」や「ブルースクラブ」、「R&B」や「ロックンロール」、「USAベースボール」等がありました。これらの中ではレジェンズとアウトローとジャズクラブの長期熟成物が頭一つ抜け出たプレミアム製品だったように思います。これらはどれもKBD(ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ、現ウィレット蒸溜所)がマーシィのためにボトリングしました。で、このクラブハウス・スペシャルの中身に就いてですが、例によって謎です。可能性としてマーシィが持ち込んだスティッツェル=ウェラーのバレルかも知れないし、KBDのストックからかも知れないし、異なるバレルのブレンドなのかも知れません。NASであることを考えると、年数表記のあるものよりクオリティは低いのではないでしょうか。聞いた話では、これがジャズクラブの中ではエントリー品と言うかスタンダード品と言う位置付けで値段も一番安かったらしいので。

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JAZZ CLUB Clubhouse Special 110 Proof
ハイ・プルーフから期待するほどフレイヴァー・ボムではありませんでした。と言うか、キャラクターが捉え難いところがあり、過剰にオーキーでもなく、フルーティさが全面に出るのでもなく、如何にも長熟ぽい渋さもないし、かと言って溌剌とした若いウィスキーだなぁという印象もないのです。マーシィのブランドにありがちなオールドなファンキネスはそれなりにありますが…。実際飲んでみても原酒の供給元は全く分かりません。色々なバレルのブレンドなのかしら? 飲んだことのある方はコメントから感想を教えてもらえると助かります。
Rating:83.5/100

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ミルウォーキーズクラブさんでの2杯目は、海外のレヴューを見て評判が良さそうだったので前から飲んでみたかったケンタッキー・アウル・ライ11年バッチ1にしてみました。日々追いきれないほどの新しいアメリカン・ウィスキーのブランドが誕生しているここ十年、歴史的なウィスキー・ブランドが復活を遂げることも少なくありません。ケンタッキー・アウルはそうしたブランドの一つであり、その背景に素晴らしい家族の物語と興味深い歴史をもつウィスキーです。そこで今回はこのブランドの現在までをざっくりと辿ってみたいと思います。

1870年代、ケンタッキー州の孤児だったチャールズ・モーティマー・デドマンは、アンダーソン郡のシダー・ブルック蒸溜所(RD#44)を経営していた養父のザ・ジャッジことウィリアム・ハリソン・マクブレヤーから結婚祝いとして、自分の蒸溜所とバーボン・ブランドを設立できるように必要な土地と資金を贈られました。彼の母メアリー・マクブレヤー・デドマンはジャッジの妹でした。1879年にチャールズによって設立され、C.M.デドマン蒸溜所またはケンタッキー・アウル・ディスティリング・カンパニーと知られた蒸溜所(マーサー郡第8区RD#16)は、ケンタッキー州オレゴン(ローレンスバーグの南方のサルヴィサから東へ数マイルの場所)のケンタッキー・リヴァーのフェリー乗り場近くにて操業していました。彼の蒸溜所は大きな蒸留所ではなく、1909年のマイダズ・ファイナンシャル・インデックスでは10000〜15000ドルのFランクだったそう。主な銘柄は言うまでもなくケンタッキー・アウルでした。チャールズは薬剤師でもあり、ハロッズバーグにドラッグストアも経営していました。彼が製造していた「THE WISE MAN'S WHISKEY」は単なるキャッチフレーズではなく、彼のビジネスの根幹をなすものとされ、知恵や知識の象徴である梟をアイコンにしたコンセプトは、人々が賢くアルコールを摂取できる、または摂取すべきだという彼の信念を表しており、ケンタッキー・アウルはローカル・シーンでは絶大な人気を誇ったと伝えられます。
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(オリジナルのケンタッキー・アウルのラベルと蒸溜所)
蒸溜所は禁酒法の影響から1916年まで操業した後に閉鎖。チャールズは1918年に死去しました。彼の義父母が宗教上の理由から酒類に反対していたため、蒸溜所は再開されることはありませんでした。蒸溜所が閉鎖された当時、ケンタッキー・アウルは将来の利益が見込まれる約25万ガロン(約4700バレル)の熟成段階の異なった「賢者のウィスキー」を貯蔵していましたが、残念なことに一部の不謹慎な連邦税務署員によって押収されました。バレルは艀で川を遡ってケンタッキー州フランクフォートに送られ、そこの政府の倉庫に保管されました。連邦政府はフランクフォートの安全な倉庫でウィスキーを見守る筈でした。しかし、禁酒法が全国的に施行された1919年の或る日の夜、倉庫は謎の火災に見舞われ、ウィスキーは一滴残らず倉庫と共に短時間で全焼してしまいます。奇妙なことにアルコールで満たされた建物にしては火災が数時間で済んだことで、ケンタッキー・アウルの全在庫もしくはウィスキーの大半は、活況を呈していたスピークイージーズに提供するため、アル・カポーンか他のブートレガーかは定かでないものの、組織犯罪によって事前に持ち去られていたのではないか、と当時の多くの人々は疑いました。上質なアメリカン・ウィスキーは、禁酒法期間中、この「ナイト・アウルズ」を存分に稼動させ、バスタブ・ジンに代わる金持ちの嗜好品として最高級の酒場で振る舞われていたらしいのです。禁酒法の厳格な条項により、デドマン一家はウィスキーの損失に対する補償を受けることが出来ず、家族は薬局の経営に戻り、往年のケンタッキー・アウル・ブランドは突如として終焉を迎えました。こうして他の多くのブランドと同様に、嘗て繁栄したブランドは人々の記憶から消え去って行くことになります。
ハロッズバーグのドラッグストアは同じく薬剤師だった息子のトーマス・カリー・デドマンが後を継ぎ、父の義理の両親に配慮して、禁酒法時代には処方箋によるウィスキーの販売を断ったと云います。それから約100年後、C.M.デドマンの玄孫がウィスキー事業を復活させる訳ですが、その間、デドマン家は宿の経営で名を馳せました。次はそちらの歴史を見て行きましょう。

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(WIKIMEDIA COMMONSより)
ケンタッキー州ハロッズバーグにあり、ゴッダード家とデドマン家の5世代が経営して来たボーモント・インは、南部の魅力とエレガントを体現するケンタッキー州で最も古い歴史的な宿です。この建物は元々は若い女性のための学校として使われていました。グリーンヴィル・スプリングスとして知られていた保養地の区画の一部に、1841年、サミュエル・G・マリンズ博士がグリーンヴィル・インスティテュートを設立しました。この土地は一旦は焼失しましたが、多くの公共心のある市民が再建を支援し、1855年まで運営されました。1856年にC・E・ウィリアムス博士とその息子のジョン・オーガスタス・ウィリアムス教授が周辺の地区を購入し、その年の暮れ、ドーターズ・カレッジと改名されます。ドーターズ・カレッジは、19世紀後半にケンタッキー州に設立された数少ない女子大学の一つで、女子に男子大学と同様のカリキュラムを提供しました。1844年に建てられた建物は、ドーターズ・カレッジのカタログには「エレガントなブリック・マンションで、80×52フィート、3階建て、風通しがよく、部屋の湿気を防ぐために中空壁で造られ、金属製の屋根やその他の手段で火災に対する安全が確保され、最も広々としたダイニングルーム、キッチン、バスルームがあり、1万ドルを掛けて完成し、100人の生徒を収容できるように準備されている」とあったそうです。ケンタッキー大学の元学長だったジョン・オーガスタス・ウィリアムスは、1892年までの40年近くに渡り学長を務め、指揮を執りました。 彼は時代を先取りした素晴らしい教育者であり、まるで自分の子供のように女学生達の教育を計画し、教授としてだけでなく父親代わりともなりました。南北戦争中、南部の裕福な家庭の多くは迫り来る戦争という敵対行為から逃れるために娘達をこの本格的な大学に送り込んだと云います。ヴァージニアンでトーマス・J・"ストーンウォール"・ジャクソン将軍の部下だった元南軍将校のトーマス・スミス大佐とその夫人が学校を購入すると、1894年にボーモント・カレッジと改名されました。フランス語で「Beaumont(ボーモン)」は「美しい山」という意味であり、これは建物が町で最も高い場所の一つに位置していたからのようです。ボーモント・カレッジでは「芸術、弁論術、音楽院、そしてアメリカやヨーロッパの一流校を目指すための強力な文学コース」を提供していたとされ、そのモットーは「エレガントな文化と洗練されたマナーに恵まれた誇り高き品性」でした。残念ながら再オープンしたボーモント・カレッジは、大幅な拡張のための基金がなく、1916年に閉鎖されました。閉校した後の1917年、アニー・ベル・ゴッダードとメイ・ペティボーン・ハーディンの2人の卒業生がこの建物を購入します。彼女達には自らが通った学校に思い入れがあったのでしょう。アニー・ベルは1880年にドーターズ・カレッジを卒業し、同カレッジで数学を教え、後に学部長も務めていた人でした。最終的にグレイヴとアニー・ベルのゴッダード夫妻がもう一人から権利を買い取って単独所有者となった後、彼女は1918年にこの建物をカレッジの元同窓生向けの宿に改装し、1919年にボーモント・インが誕生しました。インはすぐに「南部のおもてなし」で知られるようになり、この施設は歴史的な場所の一部となったのです。その後、アニー・ベルと前夫ニックの娘であるポーリーン・ゴッダード・デドマンが母の後を継いでインキーパーとなりました。このポーリーンの結婚相手がチャールズ・モーティマー・デドマンの息子トーマス・カリー・デドマンでした。この宿の経営は三代目のトーマス・カリー・"バド"・デドマン・ジュニアとその妻メアリー・エリザベス・ランズデル・デドマンが続き、更にその息子チャールズ・マイナー・"チャック"・デドマンとその妻ヘレン・ウィリアムズ・デドマンによって引き継がれて行きます。こうして凡そ1世紀に渡り、ゴッダード家とデドマン家の子孫が伝統を受け継いでボーモント・インの家族経営を続けました。
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(アニー・ベル・ゴッダード)
この宿は正に歴史に彩られており、学校として使われていた時代の本や写真、書類など、多くの芸術品が展示されています。入り口近くの部屋は学校の図書室だったそうで、チェリー材の本棚には、生徒や教師が使った古い本が壁一面に並んでいるとか。ホールには1934年にフランクリン・D・ルーズヴェルトがハロッズバーグを訪れオールド・フォート・ハロッズのジョージ・ロジャース・クラーク記念碑の奉納式に出席した際に使用したと言う大きな木製の椅子があったり、ゲストルームには家族が四方から受け継いだか或いは時のオウナーが収集したアンティークが置かれているそうです。レストランは南部料理を出すことで知られ、メニューにはカントリーハム、コーンプディング、フライドチキン、コーンブレッド、デザートなど、5世代に渡って受け継がれてきたケンタッキー州の特産品が並びます。当初はカントリー・ハムとフライド・チキンの2種類しかメイン・ディッシュがなかったそうですが、世紀を超える営業のうちに進化し、1949年にはアメリカの料理評論家ダンカン・ハインズに、ケンタッキー州で最高のレストランと評されました。今日のボーモント・インは、ジェームズ・ビアード財団から「時代を超越した魅力を持ち、地域社会の特徴を反映した質の高い料理で知られる」レストランに贈られるアメリカズ・クラシック・アワードを2015年に受賞したことで、ケンタッキー州を越えてその名を知られるようになりました。チャック・デドマンは、この栄誉は現在の宿主に与えられたのではなく、アニー・ベルや祖母や両親に遡る、ボーモント・インが長年に渡って事業を続けてきたことに対する評価だと語っています。また、サザーン・リヴィング・マガジンからは南部の魅力的な宿トップ20に選ばれるなど、他にも多くの賞を受賞しています。
しかし、常に順風満帆だったという訳でもなく、一時は経済的に苦しい時期がありました。冬になると客足が途絶え、宿は4か月間閉鎖されていたのです。そのため収益が落ち込み資金不足から大規模な改修は延期されていました。問題の一つはそのロケーションにありました。ハロッズバーグはバーズタウンのすぐ東でありフランクフォートのすぐ南というバーボン産地の真ん中にありながらドライ・カウンティだったため、蒸溜所を見学に来た人達がせっかくインに立ち寄っても、2000年代初頭までレストランではブラック・コーヒーを出すのが精一杯だったのです。風向きが変わったのは、第5世代のサミュエル・ディクソン・デドマンが2003年にワッフォード・カレッジを卒業し、家業に戻った頃のことでした。8歳の時から「お手伝い」をしていたディクソンは、大学在学中も夏季や休日に妹のベッキー・デドマン・ボウリングと共にボーモント・インで働いており、家業を継ぐことに疑問の余地はありませんでした。彼は卒業後1週間も経たないうちに宿の仕事をやり出したそうです。2003年、ローカル・オプション条例が可決され、それまで「ドライ」だったハロッズバーグはバーやレストランでのアルコール販売を許可する「モイスト」になりました。この法改正はデドマン家にとって歓迎すべきニュースであり、ディクソンはすぐにインのメイン・ダイニングで酒類を提供し始めると、オールド・アウル・タヴァーンの建設に取り掛かり、更にパブの雰囲気をもつアウルズ・ネストもオープンしました。タヴァーンは本館の南端に位置し、元々は馬車や荷馬車が保管されていた場所でした。言うまでもなくその名前は高祖父が造ったウィスキーに由来します。
https://www.facebook.com/oldowltavern
酒類をグラスで販売できるようになったことで、この場所の運勢は一変しました。地元の人々がこの店のバーに集まっただけでなく、近隣の蒸溜所を巡るウィスキー観光客がインに泊まるために列をなすようになり、2005年には通年営業となります。ハロッズバーグでの規制緩和の決定とディクソンの変革は、ちょうどバーボン業界が数十年に渡る需要の低迷から回復し始めた時期と一致していました。2000年から2010年の間にアメリカン・ウィスキー蒸溜所の収益は46%増加したと言います。新たにウィスキーに興味をもった人々がバーボン体験のために本場ケンタッキーへと押し寄せるようになったのです。ディクソンは2008年には宿の経営を全面的に手伝っていました。宿の財政が安定したところで愈よ彼は夢の実現に乗り出します。

「C・M・デドマン以来どの世代もこれをやりたがっていました」。「これ」とはファミリー・ラベルの復活に他なりません。ディクソンの父も祖父も屡々ブランドの再開に就いては話をしていましたが、それはたわいのない話に留まっていました。「私の祖父は、もし宝くじに当たったら二つのことをする、と我々に言っていました。先ずはリムジンを買う。そしてウィスキー・ビジネスを再開するんだ」と冗談半分に。幸いディクソンは人脈に恵まれました。インキーパーの友人であるマークとシェリィのカーター夫妻の協力を得ることが出来たのです。二人はワインメーカーとしても成功しており、2007年にエンヴィ・ワイナリーでの生産を拡大した後、プライヴェート・ラベルを作る新しい顧客を探していました。彼らは緊密な繋がりのある旅館経営コミュニティに目を向け、或る時、テキサス州オースティンで行われた旅館コンヴェンションで古い友人のディクソン・デドマンに会いました。マークはディクソンを赤ん坊の頃から知っており、彼の父親が1990年代にハロッズバーグ地区でのアルコール販売規制を解除するためのロビー活動を成功させるのを手伝ったことがありました。ディクソンはカーター夫妻が顧客を探していると聞きつけ、ボーモント・インのためのプライヴェート・ラベル作成に興味があると伝えました。しかしマークはデドマンのためにワインを造ることには関心がなく、寧ろディクソンの父チャックが酒類法改正のためにハロッズバーグを訪れていた時に聞いた話、即ち家族が嘗て所有していた蒸溜所がケンタッキー・アウルというバーボンを製造していたことの方に興味がありました。マークはワインを造って欲しいというディクソンのリクエストにこう答えたと言います。「問題なく君のためにワインを造ることは出来るよ。でもね、お父さんが話してくれた、君の家族のバーボン・ブランドを復活させる手助けをすることに我々はもっと興味があるんだ」と。何度かミーティングを重ねた後、カーター夫妻はコンプライアンスや資金調達の殆どを自分たちで処理し、シェリィのアーティストとしてのスキルをデザインに生かすことだって出来るとディクソンに確約しました。ウィスキーを販売するまでにはTTB、税金、ディストリビューターとの取引など人々が思っている以上に多くの困難がありますが、彼らはその全てを手伝えると言ったのです。ディクソンは、コストと時間の掛かり過ぎる自社蒸溜所を開設するのではなく、他の場所で蒸溜されたウィスキーを調達し、それを自身のラベルでボトリングすることに決めました。後はバーボンを見つけるだけです。友人のツテを頼ったのか自分で飛び込んだのか分かりませんが、おそらくバーズタウン地域を中心とする複数の蒸溜所からウィスキーを調達したと思われ、彼は十分な量の原酒を手に入れました。
ディクソンの恵まれた人脈の中にはフォアローゼズ蒸溜所のマスター・ディスティラーだったジム・ラトリッジもいました。同蒸留所で49年間も働いていたラトリッジは最も尊敬を集めるウィスキーマンの一人です。そこでディクソンは2010年頃から購入したウィスキー・バレルの5つのサンプルをラトリッジの自宅に持ち込んで評価してもらいました。しかしラトリッジの評価は芳しくなく、彼の回想によると「それらを試飲してみて、『これらを絶対にボトルに入れないようどう伝えるか』考えました。私はブレンドする必要があるかも知れないと言った」そうです。ブレンドはバレルの無限の組み合わせを試飲する大変な作業でしたが、ディクソンは夜になって宿を閉めた後、レストランの奥でテーブルに何十ものバレルのサンプルを並べ、熟成年数やアルコール度数、倉庫のどこに置かれていたかにも細心の注意を払いながら試行錯誤を繰り返しました。おそらくこの作業にはカーター夫妻も関与していたと思われます。そして何処かの段階で3人のパートナーズは、ウィスキーを二度目のバレルに注ぐダブル・バレル方式が有益だと考えました。「私たちはワイン造りのプロセスを取り入れました。この製品にもう少しオークを加えたかったのです」とシェリィ・カーターは語っています。これはバッチの一部に使用する原酒をニュー・チャード・オーク・バレル(もしくは前に別の蒸溜所のバーボンが入っていたユーズド・バレル)に再度入れるというものでした。この方法によって元のウィスキーは完全に変化したと考えられ、原酒の大部分が例えばヘヴンヒルやバートンもしくはブラウン=フォーマンで造られていたとしても、ボトリングされる頃にはかなり味わいは異なるものになっていたと思われます。ディクソン達が最終的にケンタッキー・アウルとなるバーボンの原酒を考え出すまでに数年を要しました。彼らは皆、ケンタッキー・アウルに頼らずとも人生で成功していたので、標準以下の製品でも売り出さなければならないプレッシャーはなく、製品が完成していないと思えば待つことが出来たのです。ディクソン・デドマンが一族の遺産を復活させることを決意してから約6年、チャールズ・モーティマー・デドマンが生産していたウィスキーを彷彿とさせながらも現代の消費者に十分アピールするモダンな風味を造り上げるための研究と実験を経て、漸くその名に相応しいスモールバッチのブレンドは完成しました。ボトリングとラベリングを担当したのは、パートナーシップを結んでいるストロング・スピリッツでしょう。
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(初期のケンタッキー・アウルのラベル)
2014年9月、ケンタッキー・アウル・バーボンのバッチ1はリリースされました。チャー#5とチャー#6のバレルに風味の多くを頼った5樽から、水を加えず、118.4プルーフで1250本のボトリング。ディクソンは家族と一緒にその最初の1本を先祖が埋葬されている墓地に持って行き、C・M・デドマンと失われたラベルを取り戻そうとしたその後の世代に乾杯したそうです。ケンタッキー州でのみ発売され、価格は1本160〜175ドルほどでした。マーク・カーターによれば「我々はこの製品は少し敬意を払うに値すると感じたので、プレミアム価格と思われるものを付けました。 ダブルオーキングをすることで、よりコストが掛かりましたしね」とのこと。 また「カット(※希釈。ボトリング前に最終製品に水を加える工程)すればもっと儲かるだろうと人々は言っていましたが、私達はそうしたことに全く興味がありませんでした。私たちはただ質の高い製品を造りたかった」とも語っています。当時、小売価格で150ドルを超えるバーボンは殆どありませんでした。いや、50ドルを超えるものすら少数でした。しかし、ケンタッキー・アウルがルイヴィル周辺の酒屋の棚に並び始めて僅か10日、または数週間でボトルはほぼ完売しました。誰もレヴューしないうちに、いつの間にかケンタッキー・アウルのボトルを買い求める人々が集まっていたと言います。セカンダリー・マーケットでは、フリッパーズ(転売ヤー)は店頭で買った値段の数倍もの値段を要求しました。ケンタッキー・アウルを後押しした要因は幾つかありました。先ず物語と伝統がありましたし、小売業者による初期の宣伝も功を奏したし、ウィスキーの調達先に関する謎も関心を高めたでしょう。そうした噂話やソーシャル・メディアのお陰でその名前は瞬く間に広まりました。ワイズマンズ・バーボンというキャッチーなフレーズとラベル・デザインも頗る魅力的で、個人的には人を惹き付けた要素だと思います。そして取り分け、適切な時期に適切な場所に居たことは大きな一因でした。ケンタッキー・アウルがデビューしたのは、バーボンの売上が50%以上急増したと言わる2012〜2017年の最中であり、経済の高揚で潤沢な資金をもつウィスキー愛好家が次の注目されるバーボンを手に入れるために追加料金を支払うことを厭わなかったタイミングでした。このウィスキーには何処か神秘性があり、品格があり、説明し難いクールな要素があり、「次のパピー・ヴァン・ウィンクル」と見做されれていた節もあります。ケンタッキー・アウル・バーボンは『ガーデン&ガン』誌のメイド・イン・ザ・サウス賞のドリンク部門に選出され、2014年12月/2015年1月号に掲載されました。このアワードは、現在の当該地域で作られている最高の製品を表彰するもので、各部門の優勝者と次点者はG&Gの編集者とゲスト審査員によって選出されます。アメリカのウィスキー市場が活況を呈し、次々と新しいバーボンが登場する中にあってケンタッキー・アウルは何かが違いました。但し、ディクソンは商業的に成功するウィスキーを造ることは決して計画していなかったと言っています。もともと彼はバーボンのコレクターであり、ボーモント・インで定期的にテイスティング会を開いて味の特徴や歴史について話すのが好きな愛好家ではありましたが、バーボンを副業として楽しめると思って始めただけで販売計画もマーケティング戦略もなかった、と。

2015年にバッチ2が発売された頃には、このブランドは既にバーボン愛好家の間で人気を博していました。バッチ2は、4年目にニュー・チャード・オーク・バレル(チャー#4と#5の両方)に詰め替えた約9年熟成の6つの異なる樽から出来ていて、最終的に117.2のバレル・プルーフでボトリングされ、バッチ1より若干多い1380本が生産されました。ディクソンとカーター夫妻は、ワインがヴィンテージ毎に異なるフレイヴァー・プロファイルがあるのと同じように、各バッチの味がユニークであることを望みました。シェリィ・カーターは「各バッチの出来栄えにとても満足しています。皆さんそれぞれにお気に入りのバッチがあるようです」と言っています。ディクソンも「バッチ毎に殆ど新しいスタートを切っています。それが私にとっては楽し」く、「毎年異なるヴィンテージが重要になるでしょう。 我々が造るどのバッチもユニークな品質が備わります」と言っています。アメリカン・ウィスキーの需要が爆発的に高まった時期にも拘らず、その後のロットも同様に限定されたものでした。ケンタッキー・アウルはバーボン界で最も人気のある新ブランドの一つへと急速に成長し、入手困難なスニーカーと同じようにほぼ全てのボトルが2倍、3倍、4倍の価格で転売されており、カルト的な人気を獲得しています。その影響からかそもそも小売価格も相当な値段で、ディクソンとビジネス・パートナーら3人は当然それが美味しく価値のあるものだと思っていましたが、小売業者はそれ以上の何かを見出し値付けしました。ディクソンは「蒸溜所も倉庫も持たずに小規模で何かをするには、かなりのお金が掛かります。それが価格がこのような値になっている理由の一部です。しかし、小売業者がそれに上乗せする金額は…かなりの額になります」と言い、小売店がどうするかは彼の手に負えないと語っていました。ちなみに、オールド・アウル・タヴァーンでは比較的安価で飲めるらしいです。余りに高額なウィスキーは、その価格故に厳しい目に晒されるでしょう。実際、価格を考慮してスコアを付けるレヴュワーの中にはケンタッキー・アウルを低評価にする人はいます。美味しいは美味しいのだが価格に見合うとは思えない、という訳です。あのバーボンの歴史家マイケル・ヴィーチですら、業界の試飲会でディクソンに会った時、「君のバーボンは好きですが、値段が気に入らない」と言いました。ディクソンは「少なくともウィスキーを気に入ってくれて嬉しい」と答えたとか。

2016年のサンクスギヴィング・デイの前、ディクソンはロシア人実業家ユーリ・シェフラーのオフィスから電話を受けます。ストリチナヤ・ウォッカで知られる世界的な飲料会社SPIグループからのケンタッキー・アウル・ブランドの買収話でした。シェフラーはポートフォリオを改善するためのホットなアイテムを探しており、ケンタッキー・アウルに興味を持ったのです。ディクソンはパートナーのカーター家に電話を掛け、真剣な買い手が接触して来たことを知らせました。カーター夫妻は当初、ブランドのシェアを売却することにまったく乗り気ではなかったと言います。しかし、最終的に取引は成立し、2017年1月に7桁台後半と噂される非公開の金額でこのブランドを売却しました。カーター夫妻は事業を去り、新しいプロジェクトのためにウィスキーのバレルを探し始めました。彼らの計画はケンタッキー・アウルをヒットさせた主要な要素の殆どを繰り返すことでした。どうやらカーター夫妻は小規模な生産に留まることを好むようで、シェリィ・カーターによれば、「私たちは何かを大量生産することに興味を持ったことはありません。量より質に誠実さがあると信じています」とのこと。そうして後にオールド・カーターというブランドを成功させる訳ですが、これは別のお話です。一方のディクソンは契約の一環でアンバサダー兼ブレンダーとして残りました。2017年1月25日、SPIグループの子会社ストーリ・グループUSAがケンタッキー・アウル・ブランドの流通、販売、マーケティング及び世界展開を引き継ぐと発表されました。SPIグループのドミトリー・エフィモフCEOは「アメリカン・ウィスキーを検討し始めた時、その複雑でありながら非常に滑らかな味わいからケンタッキー・アウルに惹かれました」、「オウナーと同席し、話を聞くうちに、私達はこのブランドの再生に熱意を持ち、SPIのウィスキー・ラインの頼みの綱のバーボンになるだろうという結論に達しました」と語っています。ストーリ・グループUSAのパトリック・ピアナ社長は「ケンタッキー・アウルは当社のプレミアムとラグジュアリーなブランドのポートフォリオにとって素晴らしい次のステップです。バーボンは最近目覚しい成長を遂げており、特にスーパー・プレミアムのサブカテゴリーに大きなチャンスがあると見ています」、「私はディクソン・デッドマンと共に、彼の家族が北米のブラウンスピリッツ消費者向けにカルト・バーボン・ブランドとして築き上げた信頼ある製品を加速させることを楽しみにしています」と発言しました。同社がこのウィスキーに力を入れるのに時間は掛かりませんでした。少量生産のスーパー・プレミアム・バーボンであるこのブランドはストーリ・グループUSAによってアメリカの主要都市にも進出して行くことになります。
2017年8月から9月に掛けてリリースされたケンタッキー・アウル・バーボンのバッチ#7は、販売地域が単一州からカリフォルニア、イリノイ、フロリダ、ケンタッキー、テキサス、ニューヨーク、テネシーの7州に拡大されました。バッチ#7は、13年以上熟成の11樽と、2年目にダブル・バレルドされた8~9年熟成の4樽から、118プルーフのボトリングで計2535本の生産とされています。ディクソンは「どのバッチもそうですが、私は特定のテイスト・プロファイルを念頭に置いて始めません。代わりに、そのフレイヴァーをフォローして、前のバッチよりもフロントにより甘みがあり、フィニッシュはより複雑でスパイシーな組み合わせに辿り着きました」と語りました。希望小売価格は200ドルだったようです。同じ頃、ケンタッキー・アウルに新しくライ・ウィスキーも発売されました。
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ディクソンはどうやら大量のライ・ウィスキーを手に入れるチャンスに恵まれたらしい(ライはその後の数年間で計4つのバッチが造られた)。バーボンのリリースとは異なり、ケンタッキー・アウル・ライに使用されたバレル数やボトル本数は明らかにされていませんが、このリリースには7000本以上のボトルがあると噂されていたり、一説には最初のバッチは45000本ほど造られたとされます。これはカリフォルニア、コロラド、コロンビア特別区、フロリダ、ジョージア、イリノイ、インディアナ、ケンタッキー、ルイジアナ、メリーランド、マサチューセッツ、ミシガン、ミネソタ、ミズーリ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、ニューヨーク、ノース・キャロライナ、オハイオ、ペンシルヴェニア、サウス・キャロライナ、テネシー、テキサス、ヴァージニア、ワシントン、ウィスコンシンを含む国の半分の州でリリースされました。そして、ケンタッキー・アウル・ライはバレルプルーフでのボトリングではなく、加水調整されています。バッチ1のバッチ・プルーフは130くらいで、その後、ディクソンは自分好みのスウィート・スポットになるまでプルーフを下げて行き、最終的に110.6プルーフとなったそうです。ケンタッキー・アウル・ライの総ボトル本数が多いのは、バレル・プルーフでボトリングされていないことも一つの要因かも知れません。調達したライ・ウィスキーが何処産のものかも公開されていませんが、おそらくその出所はバートンだろうと多くの人に推測されています。10年を超すなかなか長熟なライ・ウィスキーというのは市場にそうそう出回っていません。だから、熟成年数だけから2017年の段階で11年物もしくはそれ以上の長熟ケンタッキー・ストレート・ライ・ウィスキーの在庫がありそうな蒸溜所を絞り込むことが出来る訳です。ユタ州のハイ・ウェスト蒸溜所は、長熟のバートン・ライを遠回りして手に入れ、ダブル・ライ!やランデヴー・ライ等に在庫がなくなるまでの間、使用していました。バートン蒸溜所は、2009年にサゼラックに買収される以前は柔軟なカスタム蒸溜をしていたそうです。そうした中で或る顧客にオーダーされ造ったのか、それとも気紛れもしくは実験的に蒸溜したものか、或いは古典的なレシピなのかは判りませんが、兎も角バートンには三つのライ・マッシュビルがあることが知られています。一つはケンタッキー・スタイルに準じた53/37/10です。もう一つは80/10/10で、これはブレンデッドに使用するフレイヴァー・ウィスキーとして造られたと思われます。残りの一つがコーンを含まない高モルトの65/35で、これはカーネルEHテイラー・ストレート・ライに使われていると根強く信じる人達がおり、或るウィスキー・レヴュワーはケンタッキー・アウル・ライのバッチ1を飲んだ後にEHテイラー・ライを試飲したら驚くほど似ていたと言っていました。当時バートンから調達可能だったのは53/37/10と65/35の2種類のライ・ウィスキーと見られるので、強ちなくはない感想かも知れません。但し、ディクソンは全てのライ・ウィスキーが一つの生産者のものではないことを仄めかしています。おそらく使われたバレルの大半はバートン蒸溜所からだと予想されますが、単一の蒸溜所からではないのなら、この時期に11年物(もっと古い原酒がブレンドされているという噂もある)のライを製造していた蒸溜所という観点から候補を絞ると、2000年代初頭にヘヴンヒルのライ・ウィスキーを何年も代行で蒸溜していたり、2004年頃からのミクターズ・ライ10年の供給元と見られるブラウン=フォーマン(旧アーリー・タイムズ・プラント)、2016年に発売されたブッカーズ・ライ13年やノブクリーク・ライの熟成されたストックを持っていた可能性のあるジム・ビーム蒸溜所、サゼラック18年用のライ・ウィスキーが余っていたのならバッファロー・トレース蒸溜所、2019年リリースのコーナーストーンは9年から最大11年の熟成期間とされているので、それに使用されなかった長熟ライが存在するならワイルド・ターキー蒸溜所、と言ったあたりでしょうか。また、そもそもディクソンは或るインタヴューで、調達したウィスキーを他の蒸溜所のバレルでフィニッシングを行うアイディアを説明しているそうですし、ケンタッキー・アウル・バーボンと同じようにニュー・チャード・オーク・バレルでフィニッシングさているのかも知れず、そうなると元のソーシング・ウィスキーの味わいはかなり変化していると見なければなりません。まあ、中身の詳細は藪の中なので措くとして、ケンタッキー・アウル・ライのバッチ1はライ・ウィスキー・ファンの間で最も高く評価され、熱狂的なファンもおり、それを示すような二次価格が付いています。
ケンタッキー・アウル・バーボンのリリース以上にその名を有名にしたのはライでした。ライの発売後、ケンタッキー・アウルは良い意味でも悪い意味でも爆発的に売れたと言います。悪い意味の方は転売ヤーに買い占められた、または愛好家がストックのために買い溜めしたという意味でしょう。ケンタッキー・アウルというブランドに対するウィスキー愛好家の評価は二つの陣営、つまり熱烈に賞賛する陣営と価格に嫌悪感を抱く陣営に分かれますが、嫌悪感陣営がケンタッキー・アウル全体を貶したとしても、称賛陣営からは「あぁ、でもライの最初のバッチは…」云々と言われることが少なくないとか。このようにバッチ1は今や伝説的な地位を獲得していますが、2017年に初めて発売された当時の120ドルは、多くの消費者にとって購入を見送るのに十分に高い価格でした。ところが2018年のバッチ2はボトル1本あたり80ドル高い約200ドルへと値上げされました。熟成年数はそのままでしたが、プルーフは101を僅かに上回る程度まで下げられたにも拘らずです。なぜこれほど大幅な値上げになったのかと愛好家達は困惑しました。そのせいか、バッチ2はケンタッキー・アウル・ライの全リリースの中で最悪の売れ行きとなったらしい。大幅な値上げはまた、まだ安いバッチ1を急いで買いに走らせる要因ともなりました。ぽつりぽつりと現れたレヴューでは、バッチ2よりバッチ1の方が優れていると指摘されました。2019年のバッチ3では、プルーフは上がりましたが(114プルーフ)、どういう訳か熟成年数が1年減って10年熟成となりました。価格は200ドルのままです。ディクソンの語る製法上、夫々のバッチは味わいが異なる筈なので、熟成年数の記載が変わったと言うことは主成分となる原酒が全く異なる蒸溜所のものになっていたり、或いは少なくともその割合には大きな変化があった可能性はあるのかも知れません。繰り返しますがケンタッキー・アウルは秘密のヴェールで覆われているので真相は想像するしかないです。中身のライ・ウィスキーが美味しくなかった訳ではありませんが、バッチ3が登場する頃には、あまりに高過ぎる価格と原酒に関する謎がこのブランドに対する不信感を生んでいます。そして、ケンタッキー・アウル・ライは2020年のバッチ4をもって終了することになりました。チューブに入れられ、その値段はなんと300ドルに値上げられました。廃止の理由は明らかにされていませんが、主成分となっていたバレルが尽きた、または仕入れ先がなくなったとかバレルが高過ぎて仕入れられなくなった、或いはディストリビューターが製品を販売する能力が急低下していることに気づいた等の幾つかの推測があります。

ストーリ・グループは、2017年1月にウィスキー事業参入の基盤としてケンタッキー・アウル・ブランドの権利を購入した後、11月になるとバーボンの首都であるケンタッキー州バーズタウンに1億5000万ドルを投じて新しい蒸溜所を建設する計画を正式に発表し(9月には既にプロジェクトが始動していることが報じられていた)、起工式を行いました。これは長期的には420エーカーの土地に、蒸溜所、ヴィジター・センター、クーパレッジ、リックハウス、ボトリング・センター、コンベンション・センター、釣りやレクリエーションのための淡水湖、レストラン、ホテル、年代物の旅客列車と鉄道駅などで構成される、まるでディズニーランドのようなケンタッキー・アウル・パークと呼ばれる複合施設をバーボン・トレイル最高の目的地として確立する壮大な計画でした。ここはジョン・ローワン・ブールヴァード沿いにあり、もともと石灰岩の採石場だった場所で、すぐ近隣にラックス・ロウ蒸溜所があります。
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一年後の2018年11月には、プリツカー賞を受賞した世界的に有名な建築家の坂茂率いるシゲル・バン・アーキテクツ(坂茂建築設計)に主要建物の設計を依頼して最先端のケンタッキー・アウル・パークを建設することを発表し、3Dレンダリングを公開しました。光を取り込んだピラミッド型の蒸溜所、石灰岩で濾過された澄んだ水を湛える湖、自然との繋がりを感じさせる敷地全体のデザインは息を呑むほど美しく、バーズタウンはおろか世界でも類を見ないものでした。
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2017年の発表の時は、蒸溜所を含むプロジェクトの第一段は2020年のオープンを目標に来年早々にも建設が開始、とされていました。2018年の発表の時は、この巨大プロジェクトは2020年に着工予定で完成までには数年を要する、とされていました。 ところが、聞くところによると、この計画は土地取得に関する障害にぶつかったとか、コストが大幅に上昇したとかで、物静かな状態が続き、人々はこの蒸溜所が本当に建設されるのか訝るようになりました。2021年の情報では、全体的な建設は来年開始される予定で、2022年にボトリング設備とバレル倉庫、蒸留所の建設は2024年に始まり2025年に完成予定、ホテル/コンサート・ホール/鉄道駅などは2026年以降になり完成は未定とされていました。2022年9月の情報では、来月から建設を開始し、2023年4月までにオープンする仮設ヴィジター・センターの建設を計画しており、訪問者はこの複合施設がゼロから建設されて行く様子を見ることが出来る、また複合施設の蒸溜所は約2年半以内に稼働を開始する予定とされていました。2023年の情報では、2025年後半に蒸溜所部分が完成する予定で、2029年に自社のスピリッツをブレンドの一部にすることを目標にしている、とありました。…と、まあ、このようにバーボンのディズニーランドであるケンタッキー・アウル・パークの建設は遅れています。いつ撮られたものか判りませんが、現時点でグーグル・マップの航空写真を見ても建造物は何も出来ていませんでした。完成は当分先になりそうなので、我々としては楽しみにしながら待つしかないでしょう。

蒸溜所の建設が進まない一方で、ストーリはケンタッキー・アウル・ブランドを更に拡大するため、2019年4月にケンタッキー・アウル・コンフィスケイテッドを発売しました。名前となった「Confiscated」は日本語では「没収」や「押収」を意味する言葉で、初期のデドマン家の「バーボン・ビジネスへの道を当分の間終わらせることになった」政府からの押収を指し、C・M・デドマンの遺産である二度と見ることも味わうことも出来なかったバレルに敬意を表して名付けられています。これまでのケンタッキー・アウルと違い、このバーボンはアメリカ全50州で販売できるほど大規模なリリースでした。96.4プルーフでボトリングされ、希望小売価格は750mLボトルで125ドルでした。
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ストーリのもとで4年間ブランドを率いてきたディクソン・デドマンは2021年にマスター・ブレンダー兼ブランド・アンバサダーの職を辞しました。自らの家族のブランドを離れることは、彼の人生で最も辛い決断でした。それでもそうしたのは概ね以下のような理由からでした。ディクソンとカーター夫妻によるケンタッキー・アウル復活が成功を収めた時、その事業に大手グローバル企業から参入の申し出がありました。しかし、ディクソンらは大企業の自慢の種になりたくはありませんでした。ブランド売却当時のストーリはまだ比較的小さな会社で、彼らは「あなたのヴィジョン、あなたの夢を活用してケンタッキー・アウルを成長させたい」と言いました。カーター夫妻は別の道を行きましたが、ディクソンはその提案を受け入れ、夢は実現しました。しかしその後、組織の性質全体が変わってしまいました。ストーリはグローバルな組織となり、ブランドを牽引するディクソンの能力を奪うようになりました。彼は自分の進む方向に誇りを持たなければならないと思い、ブランドを放棄するに至った、と。
ストーリを退社するとディクソンはすぐに、バーボンとウィスキーに重点を置きながらアルコール飲料業界に特化したアドヴァイザリー・サーヴィス(ワインとスピリッツ業界への合併、買収、戦略的思考に関する助言)も提供するバルク・スピリッツの大手サプライヤーであるブリンディアモ・グループにコンサルティング・リソースとして雇われました。アメリカン・ウィスキーの成長を支える原動力の一つである同社のクライアントには、エンジェルズ・エンヴィの共同創業者ウェス・ヘンダーソンやバーズタウン・バーボン・カンパニーの社長兼CEOマーク・アーウィンなど大物がいます。ディクソンもクライアントの一人として過去数年間、ブリンディアモの創業者ジェフ・ホプメイヤーやそのチームと関係を築いて来たので自然な流れでそうなったのでしょう。嘗てジェフはケンタッキー・アウルを「このウィスキーは、世界クラスの高級ブランドに仲間入りしてその地位を維持する可能性を秘めている。そういう名声がある」と評価し、彼の助言のもとストーリはケンタッキー・アウルを買収して物流の改善に投資することが出来ました。ディクソンのブリンディアモ参入の際に、ジェフは「ウィスキー業界が進化し続けていることを目の当たりにし、業界のニーズにより的確に応えるために今こそ彼を迎え入れるべき時だと判断しました」と語っています。 

ディクソンは業界でコンサルタントをしながらも、彼は別のウィスキー・ブランドを作ることに興味を持ち続けていました。そのチャンスは思いのほか早く、突然、訪れます。彼はブリンディアモ・グループで短期間働き、ブランド及び投資のコンサルティングの内情を垣間見ることが出来ました。オープン・マーケットを渡り歩くうちに、彼は主に利益を得る手段としてバーボンに興味を持つ熱心な投資家も見ました。現今のバーボン界隈には大量の資金が流入しており、ディクソンは多くの人からアプローチを受けます。個人投資家は白紙の小切手と投資の即時回収を条件に彼のもとにやって来ましたが、そうした提案は自分の仕事には上手く合致しない不誠実なものであると感じ、最適な機会が訪れるまで辛抱強く待つ必要があると思いました。ヴィジョンの違いからケンタッキー・アウルを離れたディクソンは、次の事業では地に足を付けた仕事をしようと決意し、新しいブランドと提携することを急いではいなかったのです。しかし、ディクソン・デドマンは常に適切な時に適切な場所にいる男でした。彼はフリーランスとしてブレンディングやコンサルティングを行うことを期待していましたが、程なくしてワインやスピリッツのインポーターであるプレスティッジ・ビヴァレッジ・グループから大量のバレルの備蓄をどうしたらいいかアドヴァイスを求められます。同社は、ケンタッキー州の2つの蒸溜所で契約蒸溜を行い、2015年から何年もの間寝かせた独自のマッシュビルのバーボンを数千バレル所有しており、加えて他のケンタッキー・ストレート・ウィスキーにもアクセス出来ました。彼らは自分たちが大きな間違いを犯したかどうかを知りたがっていました。その6年近く熟成したウィスキーを味わった瞬間、ディクソンはパートナーを見つけたと確信しました。彼は飲む前は4~5年熟成の基本的なものだと思っていましたが、実際に飲んでみるとそれは素晴らしいものでした。ディクソンはそのことを伝え、自分のアイディアを話しました。ディクソンには在庫が必要で、彼らと組めば市場に出回っている樽を追いかける必要もなく管理する必要もありません。プレスティッジ・ビヴァレッジにはコンセプトが必要でした。彼らはディクソンを信頼し、最初のミーティングから1時間以内にマスター・ブレンダーと彼らにとって初めてのアメリカン・ウィスキー・ブランドを手に入れることになります。ディクソンのケンタッキー・アウルに続く次のアイディアは「2XO」というブランドでした。この名前は「two times oak」を意味し、リリースされる全てのウィスキーを何らかの二次的なオーク材に晒す製法で造られています。2XOブランドは2022年の暮れに初めて発売され、現在ではオーク・シリーズ、アイコン・シリーズ、シングルバレルのシリーズで構成されています。毎日飲む用途として開発されたオーク・シリーズは、アメリカン・オークとフレンチ・オークがあり、常時販売され、約50ドル。全てのリリースが独自のフレイヴァー・プロファイルをもつと言う1回限りの限定品であるアイコン・シリーズには、発売順に言うとザ・フェニックス・ブレンド、ザ・インキーパーズ・ブレンド、ザ・トリビュート・ブレンド、ザ・カイワ・ブレンド、ザ・スニーカーヘッド・ブレンドがあり、価格は凡そ100ドル。手元にある最高のバレルから造られるシングルバレルのジェム・オブ・ケンタッキーは大体200ドル程度です。
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(S・D・デドマンと2XOのラインナップ。2XOのウェブサイトより)
2XOに使用されているバーボンは、ケンタッキー州にある二つの別々の蒸溜所から供給されており、一つはライ麦35%のマッシュビルで、もう一つがライ麦18%のマッシュビルとのこと。供給元は非公開ですが、おそらく35%の方はウィルダネス・トレイル蒸溜所、18%の方はバートン蒸溜所かバーズタウン・バーボン・カンパニーではないかと推測されたりしています。それと、聞くところによるとオーク・シリーズのアメリカン・オークでの「トゥー・タイムズ・オーク」のプロセスは、バーボンを2つめのバレルに入れ換えるのではなく、8〜10フィートのオークの鎖(ステンレス製のコードで何百もの焦がしたオークのブロックを纏めたもの)を元のバレルにバングホールから挿入して8ヶ月間放置されているそうです。これらの木製ブロックの表面積は、樽の内部と全く同じ表面積を再現するようになっているとか、或いは約75%に相当するようになっているとされます。なんだかメーカーズマークの46等に使われるインナー・ステイヴを漬け込む手法と似ていますが、鎖状にすることで表面積が増えてオークの影響も強く出るのでしょうか? ちょっと興味深いですね。まあ、それは兎も角…、ディクソンは若くスマートで、何よりブレンドの才能がありました。ウィスキーのイヴェント等を訪れると、ファンは彼を業界のスターとして扱い、サインや写真を頼むと言います。2XOがあっという間に躍進したのはディクソン・デドマンの名前があったからに違いないでしょう。

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一方のディクソンが去った後のストーリ・グループは、2021年6月にジョン・レア(*)をケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーに迎えたことを発表しました。レアは40年に渡る輝かしいキャリアを経た2016年にフォア・ローゼス蒸溜所のチーフ・オペレーティング・オフィサーを退任していました。彼は大学を卒業したあと僅か3日で同蒸溜所でのキャリアをスタートすると、長い在職期間中に品質管理、熟成、評価、製品のブレンドなどを担当し、定年退職するまでその職を離れることはありませんでした。業界への貢献により2016年にはケンタッキーバーボンの殿堂入りを果たしています。また、17年間、ケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーションの理事を務め、130年以上の歴史の中で5人しかいない終身会員の1人として栄誉に輝きました。「私が引退から復帰するきっかけとなったのは、ケンタッキー・アウルのバーボンとライの世話役を務める機会を得たからでした」とレアは語り、「私は長い間ケンタッキー・オウルの製品ラインナップには感心していたので、このような機会を得れて嬉しく思っています」とコメントしています。彼の役割は、その豊富な知識と専門技能を駆使して製品の一貫性と卓越性のために最良の条件を選択し、また同様に製品ラインナップを拡大する新しいブレンドを導入することでした。従来からのケンタッキー・アウル・バーボンの続きとなるバッチ#11もリリースしつつ、製品拡張の一環として、品質を求めながらも200ドルも払えないZ世代やミレニアル世代を取り込むため、ストーリはやや廉価な「ザ・ワイズマン」というブランドを立ち上げます。マスター・ブレンダーのジョン・レア監修のもと、2021年9月にバーボン、続いて2022年4月にライがリリースされました。ケンタッキー・アウルのウィスキーはコンフィスケイテッドを除いて全て限定リリースでしたが、それらのプレミアムでより高価な製品と区別するための新しいデザインのラベルが施されています。ザ・ワイズマン・バーボンは、4年熟成のウィーテッド・バーボンとハイ・ライ・バーボン、そしてケンタッキー産の5.5年熟成と8.5年熟成の4つの異なるストレート・バーボンのブレンドで、若い要素はバーズタウン・バーボン・カンパニーと提携して契約蒸溜されたものと言われています。ザ・ワイズマン・ライは、バーズタウン・バーボン・カンパニーで蒸溜されたライ95%のマッシュビルです。
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更にストーリは世界中の様々なウィスキー愛好家を引き付けることを目的とし、世界各地のブレンダーとコラボレーションするシリーズも始めました。その第一弾として、2022年のセント・パトリックス・デイ(3/17)に合わせて2022年2月に発売されたのがセント・パトリックス・エディションです。これはケンタッキー・アウルのレアと、アイルランド初の近代ウィスキー・ボンダー(**)であり、J.J.コーリー・アイリッシュ・ウィスキーの創設者であるルイーズ・マグアンによるコラボレーション。アイリッシュ・ウィスキーのボンディングは、19世紀から20世紀に掛けて一般的だったブレンド方法であり、当時は殆どのアイルランドの蒸溜所がウィスキーを製造し、ボンダーが熟成、ブレンド、瓶詰めしていました。1930年代にアイリッシュ・ウィスキー業界が崩壊すると、ボンディングは衰退しましたが、2015年にマグアンが再びこの伝統を復活させました。このウィスキーはブラインド・テイスティングによって選ばれた個々のカスク・サンプルから二人が共同でブレンドしたもので、最終的に4〜11年熟成のブレンドに落ち着きました。そこにはマグアンがターゲット・プロファイルのために赤い果実の香りに焦点を当て、多くのウィーテッド・バーボンが含まれていたと言われています。
2022年9月には、日本の長濱蒸溜所のブレンダー屋久佑輔とコラボした第二弾のタクミ・エディションが発売されました。これは新旧ブレンダーの技倆を融合させると同時にジャパニーズ・ウィスキーの目を通してケンタッキー・バーボンを紹介する試みでした。我々日本人には馴染み深い「Takumi(匠/工/巧み)」は、英語では「master」もしくは「artisan」の意味だと説明されています。レアは熟成年数とマッシュビルの異なる4種類の配合を作ってサンプルを日本に送り、屋久はそれらを品質査定したあと彼のジャパニーズ・ウィスキー・スタイルをベースに更にブレンドしました。パーセンテージは公表されていませんが、ブレンドされているウィスキーは4年、5年、6年、13年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンとされ、マッシュビルにはコーン、ライまたはウィート、モルテッドバーリーが含まれていると言われています。タクミ・エディションは25000本のリリースで、セント・パトリックス・エディションの12000本の倍以上がボトリングされたそう。
国際コラボレーションの3番目(にして最後)は2023年9月にリリースされたメイスター・エディションでした。「Maighstir」はゲール語で、英語の「master」に相当します。メイスター・エディションの目標は、様々なバーボンをブレンドすることで、スコッチのスピリット、エッセンス、そして可能であればフレイヴァーを表現することでした。コラボの相手はスコッチ界のモーリーン・ロビンソン。彼女は、スピリッツの巨大企業ディアジオに45年間勤務したヴェテランで、マスター・ブレンダーの称号を獲得した最初の女性の一人です。ジョニーウォーカー、オールドパー、ブキャナンズ等で仕事をし、ファンに人気のフローラ&ファウナのボトルやプリマ&ウルティマなどのスペシャル・リリースを手掛けた人物であり、そのキャリアの後期に手掛けたシングルモルトのシングルトン・ブランドを大いに発展させました。またロビンソンは、ウィスキー・マガジンの殿堂入りを果たしており、数少ないマスター・オブ・ザ・クエイヒ(***)にも任命されています。これらはスコッチ・ウィスキーの世界に多大な貢献をした人々を称える業界最高の大きな名誉です。レアとロビンソンは協力して、コーン、ウィート、ライ、モルテッドバーリーを含むマッシュビルのケンタッキー・ストレート・バーボンをブレンドし、スコットランド風(とされる)エディションを造り上げました。
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このコラボレーションは一つの章の終わりと次の章の始まりを意味していました。ケンタッキー・アウルで過去2年間マスター・ブレンダーを努めて来たレアが退職し、代わりにモーリーン・ロビンソンが同職に就くことになったのです。ロビンソンは2022年6月末にディアジオでのシングルモルトとブレンデッドのマスター・ブレンダーを引退し、好きなゴルフでもしてのんびりしようと思っていました。しかし、彼女のもとに仕事が舞い込みます。ケンタッキー・アウルは上述のようにこれまでに2度、他国のマスター・ブレンダーにその国のスタイルの「バーボン」を作るよう依頼していました。ストーリは2022年後半にロビンソンに連絡を取り、ブレンデッド・スコッチに関する彼女の専門知識を反映させた表現を創り出そうと考えました。ケンタッキー・アウルから最初に連絡を受けたのは、キーパーズ・オブ・クエイヒを通じてでした。その仕事がスコッチを彷彿とさせながらもバーボンの資質を失わないウィスキーの作成を手伝うことだと知って、ロビンソンはすぐに興味を唆られこれは面白いプロジェクトになると思いました。「以前にもスコッチをバーボンのような味にするよう頼まれたことはありますが、今回はその逆でした。バーボンをスコッチのような味にしようとしているんです」。結局、彼女はテイスティング・グラスから一歩も離れることは出来ませんでした。ロビンソンがこのプロジェクトを引き受けると伝えた後、ジョン・レアを紹介されました。彼はバーボン業界で最も経験豊かな人物の一人でしたが、スコッチの経験も少々ありました。二人はズームで何度も話し合い、メイスター・エディションのヴィジョンを磨き上げました。レアは作業に取り掛かると、スコッチのような味わいのバーボンを作るという珍しい目標に最も役立つと思われるサンプルを選び、ロビンソンのもとへ送りました。彼女はキッチンに座ってそれぞれの香りや味をカスク・ストレングスで試し、ブレンドを作るための基礎と枠組みを整えました。ブレンドの成分はスタンダードなストレート・バーボン3種類とウィーテッド・バーボン1種類の4つから構成されています。3種類のうちの1つは8~9年、2つめは5~6年、3つめは9~10年熟成され、ウィーテッド・バーボンが4~5年熟成。若いバーボンはライト・チャー、古いものはヘヴィ・チャーが施されたバレルから造られているとのこと。ロビンソンは、特にウィーテッド・バーボンのサンプルと、それがもたらすスコッチのような柑橘系の香りに感銘を受けました。「私にとって、これがスコッチを彷彿とさせるものでした」。そこで、彼女はウィーテッド・バーボンをベースとすることを決め、それからスコッチのブレンドの原則を適用して幾つかのブレンドを試しました。構成成分の中で最も古いものだった9~10年熟成のウィスキーはオークの香りが強く、彼女が考える典型的なバーボンの特徴に最も近いものでした。そこで、ロビンソンは9~10年物の比率を下げ、他の「スコッチらしい」要素の影響を強める必要があると考えてそれを試していました。ところが実際はまったく逆だったと彼女は言います。「ウィスキーの味が詰まってしまい、風味が殆どなくなってしまいました」。彼女はスコッチ・ウィスキーをブレンドする際にも似たような経験をしていました。常識的に考えれば、ピートのスモークはブレンドの味を支配してしまうので、多すぎるのは避けるべきでありそうです。しかし実際には、ピーテッド・スピリッツは他の要素の風味と香りを結び付ける一種の「調味料」として活用でき、ブレンデッド・スコッチも「スモーキーさがないと全く味気ないものにな」ってしまう、と。9〜10年物のオークの古めかしい風味もそれと同じような要素として現れたのでした。暫く試行錯誤を繰り返し、満足のいく出来になった後、彼女はレシピをレアに送り、彼が自分の側で再現できるようにしました。こうして、メイスター・エディションは誕生しました。ロビンソンは、このエディションを「柑橘系の香りとフローラルなグリーンの香り、そしてほんのりとした甘さとオークの風味が軽めのスタイルのスコッチを彷彿とさせますが、それでもバーボンの素質はすべて保たれています」と語り、「香りはスコッチから始まって、その後バーボンに変わります。味はバーボンのような味からスコッチのような味に変わります」と評しました。とは言え、このウイスキーからスコッチ、特にブレンデッド・スコッチの香りを嗅ぐには、想像力を働かせる以上のことが必要だともロビンソンは言っていますし、況してやこれはアイラ・ウィスキーを再現しようとするバーボンではありませんから、そういう意味でのスモーキーな香りは期待しない方がいいでしょう。この作品の制作と発売の間に、レアが再び引退することになっていたので、彼の役割をロビンソンが継ぐというアイディアが生まれました。そこでストーリはこのプロジェクトの終わりが近づいた時、彼女にケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーに興味はないかと声を掛けました。彼女は興味があると答え、その役を引き受けました。メイスター・エディション作成以前、ロビンソンのバーボンに関する知識は限られていました。彼女は何年も前に当時ディアジオ(UD)傘下のブランドだったレベル・イェールを飲んだことはありましたが、すぐにこのカテゴリーについてもっと詳しくならなければならないと思いました。最大の課題はアメリカン・ウィスキーに使われる多くのマッシュビルを理解することでした。それはスコッチ・ウィスキーではあまり一般的ではありません。「マッシュビルは違っても、風味豊かなブレンドを目指しています。バーボンを扱ったことはありませんでしたが、ジョン・レアと一緒にメイスター・エディションに取り組むうちに、そのニュアンスをすぐに理解できるようになりました。今後数年間、このブランドで何をするのか楽しみです」。他の汎ゆるブランドのアプローチを理解するため、世の中にある様々な種類のバーボンを把握しようとしているロビンソンですが、彼女は自分を暫定的なマスター・ブレンダーだと思っていると発言しており、レアと同様にあまり長くその職に留まるつもりはないようです。おそらく、そのうちもっと若い世代の誰かにバトンは受け渡されるのでしょう。

ケンタッキー・アウル・ブランドには、ここまでに紹介していない限定版があと2つあります。一つはケンタッキー・アウル・ドライ・ステイトです。これは1920年の禁酒法開始から100年が経過したことを記念(過去への反省)して、2020年9月にリリースされました。各ボトルは1920年代をイメージした美しい手作りのコレクターズ・ウッド・ボックスに入れられています。中身のジュースに関しては、これまでで最も古く最も希少な12年から17年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを使い、ディクソン・デドマンが4か月以上かけて完成させブレンドで、100プルーフにてボトリングされました。例によって他のケンタッキー・アウルと同様、ウィスキーの出所に就いては明らかにされていません。ロットのサイズは2000ボトルとされています。ケンタッキー・アウルは最初のリリース以来、高級ウィスキー・ブランドとしてその名を馳せ、忽ちカルト的な人気を博した一方で、値段の高過ぎるウィスキーとしても知られていますが、このドライ・ステイトの希望小売価格は驚きの1000ドルでした。ちなみに、パピー・ヴァン・ウィンクル23年ですら希望小売価格は300ドル(まあ、セカンダリー・マーケットではもっとしますが…)、ブラウン=フォーマンのスーパー・プレミアムな限定バーボンであるキング・オブ・ケンタッキーでも希望小売価格は250ドルです。流石にボトル1本あたり1000ドルという価格では飲める人が限られているせいかレヴューも少ないのですが、それらを見るとその価格を正当化する味わいではないとの評でした。発売時期もあってか、ドライ・ステイトは「COVID-19の悪影響でキャリアを棒に振ったサーヴィス業従事者の長期的な回復策を確立するための慈善事業」である全米レストラン協会の従業員向上基金に直接寄付するために、クリスティーズと提携して一握りのボトルがオークションに掛けられました。
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もう一つは、2022年11月に発売されたケンタッキー・アウル・ライ・バイユー・マルディグラXOラムカスク・フィニッシュです。これは11年熟成のライ・ウィスキーをベースとし、ルイジアナ州ラカシーンにあるバイユー・ラム蒸溜所(ルイジアナ・スピリッツ蒸溜所とも)のバレルを使用してフィニッシングしたもの。この蒸溜所はティムとトレイのリテル兄弟が長年の友人であるスキップ・コルテースと共に2013年に設立しました。彼らは、ルイジアナ州最大かつアメリカで最も古い現役の製糖工場から糖蜜を調達し、銅製のポット・スティルを使用して蒸溜しています。2016年6月にSPIグループがバイユーの株式の72.5%を取得したことでストーリ・グループUSAがバイユー・ラムの国内総代理店となり、その2年後に残りの株式を購入して完全子会社化しました。このリミテッド・エディションは、空になったばかりの38個のバイユー・マルディグラXOラム樽へ3月にライ・ウィスキーを入れ、1年以上かけて追加熟成されているとのことです。3月に再樽詰めする理由は、ウィスキーに長く、暑く、湿度の高い夏を与えることで、美味しい風味をより引き出すことが出来るからでした。バイユー・ラムのマスター・ブレンダーであるレイニエル・ヴィセンテ・ディアスは、ルイジアナの特徴的な気候の湿度がバイユー・ラムに素晴らしい効果をもたらすことを知っており、それをケンタッキー産のリッチなライ・ウィスキーにも応用してみた、と。ボトリングは102.8プルーフで、希望小売価格は500ドルでした。

偖て、現在までのブランドの歴史を辿ったところで、ケンタッキー・アウルのバッチ情報を纏めておきます。希望小売価格はUSドルで「約」です。詳細が不明の部分もあるので、追加情報や間違いの指摘はコメント欄よりどしどしお寄せ下さい。


【KENTUCKY OWL BATCHES】

KENTUCKY STRAIGHT BOURBON WHISKEY

Batch #1
Release Date : September 2014
Bottle Release : 1250 Bottles
Age : NAS
Proof : 118.4
4 年熟成時にチャード・ニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入した5樽(チャー#2、チャー#3、チャー#4、チャー#5、チャー#6)のブレンドで、その風味はチャー#5とチャー#6のバレルに大きく依存していると言われています。

Batch #2
Release Date : September 2015
Bottle Release : 1360 Bottles
Age : NAS
Proof : 117.2
4 年熟成時にチャード・ニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入した6樽(半分がチャー4、チャー5)のブレンド。バッチ2は9樽から始め、それらは全て4年目にチャーした新樽に再度入れ直したものでした。そして、この9樽から24種類の組み合わせのブレンドを造ってテイスティングを開始して、ブラインド・テイスティングを繰り返し、信頼できる人達にもサンプルを送って彼らがどのバッチを選ぶかを確かめると、最終的に全員が同じサンプルに戻り続け、それがバッチ2になったと言われています。

Batch #3
Release Date : December 2015
Bottle Release : 206 Bottles
Age : NAS
Proof : 107.8
Barrel #16 – Single Barrel (Blue Ink)
シェリィ・カーターによれば、このバッチはケンタッキー州ルイヴィルの新しいピアレス蒸溜所で造られたと言います。2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。

Batch #4
Release Date : December 2015
Bottle Release : 212 Bottles
Age : NAS
Proof : 116.8
Barrel #20 - Single Barrel (Red Ink)
2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。これもバッチ3と同じくピアレスなのだろうか?

Batch #5
Release Date : December 2015
Bottle Release : 194 Bottles
Age : NAS
Proof : 108
Barrel #12 - Single Barrel (Green Ink)
2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。これもバッチ3、4と同じくピアレスなのだろうか?

Batch #6
Release Date : September 2016
Bottle Release : 1634 Bottles
Age : NAS
Proof : 111.2
2~4年熟成の時にチャード・アメリカン・ホワイト・オークの新樽に再導入された8樽から構成され、熟成年数は8~11年。別の情報源では、1つのバレルで熟成されたバーボンと2つ目のニュー・チャード・オーク・バレルで熟成されたバーボンのミックスで、両タイプの熟成年数は4〜7年、という説もあった。「このウィスキーがヘヴンヒル産であること、特に78%コーン、10%ライ、13%バーリーのマッシュビルから造られたことに私は賭ける」と或るレヴュワーは言っていました。

Batch #7
Release Date : August 2017
Bottle Release : 2535 Bottles
Age : NAS
Proof : 118
MSRP: $200
15樽のブレンドで、そのうち4樽は2年目に新樽に投入された8〜9年熟成、残りの11樽は13年もしくはそれ以上の熟成とされています。

Batch #8
Release Date : July 2018
Bottle Release : 9051 Bottles
Age : NAS
Proof : 121
MSRP: $300
バッチ8は、5年、8年、11年、14年熟成のブレンドとされています。

Batch #9
Release Date : October 2019
Bottle Release : 10314 Bottles
Age : NAS
Proof : 127.6
MSRP: $300
バッチ9は、これまでで最も高いプルーフです。4つの異なるマッシュビルを使用し、6〜15年の幅広い熟成年数のものをブレンドしているそう。

Batch #10
Release Date : October 2020
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 120.2
MSRP: $300
ネット上に中身の情報が見当たりませんでした。

Batch #11
Release Date : ???? 2021
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 118.8
MSRP: $300
バッチ11は、マスター・ブレンダーのジョン・レアによって丁寧に造られ、6年から14年までの特別に熟成されたバーボンを使用したブレンドとされています。

Batch #12
Release Date : November 2022
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 115.8
MSRP: $400
バッチ12は、マスター・ブレンダーであるジョン・レアが注意深く造り上げた、4~14年のよく熟成された力強いバーボンを使用したブレンドとされています。

KENTUCKY STRAIGHT RYE WHISKEY

Batch #1
Release Date : September 2017
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 11 Years Old
Proof : 110.6
MSRP: $120

Batch #2
Release Date : June 2018
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 11 Years Old
Proof : 101.8
MSRP: $200
バッチ2はバッチ1よりもバッチ量が少なくなっているそうです。2018 年 6 月に、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、コロンビア特別区、フロリダ、ジョージア、イリノイ、インディアナ、ケンタッキー、ルイジアナ、メリーランド、マサチューセッツ、ミシガン、ミネソタ、ミシシッピ、ミズーリ、モンタナ、ネヴァダ、ニュー・ハンプシャー、ニュー・ジャージー、ニューヨーク、ノース・キャロライナ、オハイオ、オレゴン、ペンシルヴェニア、ロード・アイランド、サウス・キャロライナ、テネシー、テキサス、ユタ、ヴァージニア、ワシントン、ウィスコンシン、ワイオミングの各州の市場にリリースされました。

Batch #3
Release Date : August 2019
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 10 Years Old
Proof : 114
MSRP: $200

Batch #4
Release Date : ???? 2020
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 10 Years Old
Proof : 112.8
MSRP: $300
バッチ#4は「最後のライ麦(The Last Rye)」と呼ばれ、10〜13年熟成のライのブレンドとされています。

SPECIAL LIMITED EDITION

Kentucky Owl Dry State
Release Date : September 2020
Bottle Release : 2000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $1000
これまでで最も古く最も希少な12年から17年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンド。

Kentucky Owl Bayou Mardi Gras XO Cask
Release Date : November 2022
Bottle Release : ???? Bottles
Age : 11 Years (Finished an additional 1 year in Bayou Mardi Gras XO Rum casks)
Proof : 102.8
MSRP : $500
マルディグラの精神とルイジアナの誇りを祝した限定版。11年間熟成されたストレート・ライ・ウィスキー
を選りすぐりの希少なバイユーXO樽で更に1年間寝かせたもの。

INTERNATIONAL COLLABORATION

St. Patrick’s Edition
Release Date : February 2022
Bottle Release : 12000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $135
アイリッシュ・ウィスキーとケンタッキー・ウィスキーを結びつける長年の絆を記念した限定版。アイリッシュ・ウィスキーのボンダーであるルイーズ・マグアンと提携し、彼女の技術をマスター・ブレンダーのジョン・レアとのコラボレーションに生かした、4年から11年熟成のケンタッキー産ストレート・バーボンのブレンド。もしくは4年から12年熟成と言われているのも目にしました。

Takumi Edition
Release Date : September 2022
Bottle Release : 25000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $135
ジャパニーズ・ウィスキーのブレンダーが求めるフレイヴァー・プロファイルを世界のウィスキー愛好家に提供する限定版。ケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーであるジョン・レアと、日本の滋賀県にある長濱蒸溜所の新進気鋭のチーフ・ブレンダー屋久佑輔とのコラボレーション。日本のウィスキー造りの技術を反映した、4年、5年、6年、13年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンドで、マッシュビルにはコーン、ライまたはウィート、モルテッドバーリーが含まれていると言われています。

Maighstir Edition
Release Date : September 2023
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $150
アメリカとスコットランド両国の豊かなウィスキーの伝統に敬意を表した限定版。バーボンとスコッチのマスター・ブレンダー2人によるコラボレーション。コーン、ライ、ウィート、モルテッドバーリーを含むマッシュビルからなる、4年、5年、8年、9年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンド。

NOT LIMITED RELEASE

Kentucky Owl Confiscated
First Release : April 2019
Age : NAS
Proof : 96.4
MSRP : $125
アメリカ全50州で販売された最初のケンタッキー・アウル製品。創業者C・M・デドマンが政府に押収された熟成バーボン樽に敬意を表して名付けられました。このバーボンは非公開の蒸溜所から仕入れたもので、マッシュビルも非公開。幾つのバッチがあるのかも不明で、バッチ・サイズ(ボトル本数)も不明。少なくともラベル的には2タイプ確認でき、火災の絵が色無しと色有りがあり、前者はボトリングの所在地がバーズタウン、後者はラカシーンになっていました。

The Wiseman Bourbon
First Release : September 2021
Age : NAS
Proof : 90.8
MSRP : $60
ジョン・レアのもとで初めてパーマネント・リリースされた製品。ワイズマン・バーボン・ウィスキーは、バーズタウン・バーボン・カンパニーとケンタッキー州の非公開の蒸溜所から選ばれた4種類のそれぞれ4年、5.5年、8.5年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンドとされています。

The Wiseman Rye
First Release : April 2022
Age : NAS (Aged at least 4 years based on label requirements set by TTB)
Proof : 100.8
MSRP : $60
ワイズマン・ライは、バーズタウン・バーボン・カンパニーによって蒸溜されたライ麦95%マッシュビルのケンタッキー・ストレート・ライウィスキー。


では、最後にケンタッキー・アウル・ライ・バッチ1を飲んだ感想を蛇足で。

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KENTUCKY OWL RYE 11 Years 110.6 Proof
BATCH NO. 01
BOTTLED : 07 / 2017
甘い香りにうっすらハーブ香が混じり、オークの熟成香もあります。味わいはけっこう薬のようなハーブが効いていて、フルーツやウッディなスパイス、草や土っぽさも少し感じられ複雑。余韻はややビターになって引き締まって行きます。噂に違わず美味しかったです。しかし、期待が大き過ぎたのか、そこまで感銘を受けるほどではありませんでした。長熟ライという観点で以前飲んだサゼラック・ライ18年と較べると、そちらの方がドライフルーツが濃厚で美味しく感じました。熟成年数はだいぶ違いますが、同じケンタッキー・ライであり、ボトリング・プルーフの似ているパイクスヴィル6年と較べてみても、単純にケンタッキー・アウルが上とは言い切れない感じがしました。それらよりこちらの方がハービーな傾向が強く、好みの分かれるところなのでしょう。本来ならボトル1本とじっくり向き合いたいライであり、そうすればもっと色々な飲み方も出来て楽しめ、点数も上がったような気がします。
Rating:87.5〜88/100


*「Rhea」をここでは「レア」と表記しましたが、人や国によっては「レェー」もしくは「レイ」、または「リア」と書いた方が近い発音をされています。

**ウィスキーの人気が急上昇した19世紀から20世紀初頭に掛けて、アイルランドの殆どの町にはウィスキーのボンダーがいました。これは平たく言えば、蒸溜所から直接ウィスキーを購入する許可を得た商人のことです。蒸溜所は今日のように生産物をボトリングして販売までしていた訳ではありません。アイリッシュ・ウィスキーの黄金時代、アイルランドには何百もの蒸溜所がありましたが、当時その多くは自社ブランドのウィスキーをもたず、新しいウィスキー原酒を製造するとボンダーにバルク販売していました。ボンダーには酒場の主人、食料雑貨商人、商館主など様々な人々が含まれていました。ウィスキーの完全性を維持するためには専門知識と細心な注意が必要であり、彼らは高品質のウィスキーを調達し、厳格な品質管理基準を守り、熟成状況を綿密に監視する職人でした。そうした知識をウィスキー業界で長年の伝統を誇る一族から受け継いだボンディング職人もいれば、見習い期間や蒸溜所での前職を通じて学んだ職人もいました。これらのボンダー達は自分の樽を持って地元の蒸溜所まで行き、その樽にニュー・メイクを詰めて家に持ち帰り、自分のボンデッド・ウェアハウスで熟成させてから、地元のホテルや個人の顧客向けに個別のブレンドをボトリングしました。往時、ボンダーはアイルランドのどの町にも数多く存在し、彼らの実践的なアプローチは地域社会からの信頼を築き上げ、地域ごとに個性的なスタイルのアイリッシュ・ウィスキーが数多く生まれたと言います。しかし、アイルランドが大英帝国から分離し、アメリカで禁酒法が施行されると、ボンダーの事業も縮小して行きました。残念ながら1930年代にアイリッシュ・ウイスキー産業が崩壊すると、僅かに残った蒸溜所はボンダーへの供給を打ち切り、アイリッシュ・ウイスキーに於けるボンディングの伝統はほぼ途絶えてしまいました。その伝統を復活させ、アイリッシュ・ウィスキーの新時代を切り拓いた一人がルイーズ・マグアンです。2015年、酒類業界で長年働いて来た彼女は、カウンティ・クレアのワイルド・アトランティック・ウェイ沿いにあるマグアン・ファミリー・ファームにボンデッド・ラックハウスを建設しました。そして、ウィスキー探求の途上で発見したJ・J・コーリーの先駆的な伝説にインスピレーションを受け、その名を使ってブランドを創設しました。マグアンとそのチームは、アイルランド島全土の蒸留所からスピリッツを調達し、世界中の樽を使用して他では不可能なユニークな風味を実現するために、比類なきフレイヴァー・ライブラリーを構築しています。
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***クエイヒ(Quaich)は17世紀頃からスコットランドで使われていた両端に取っ手のある金属製の杯。両手を使って飲むため武器を持っていないことを示し、友好の証としても用いられて来たと云います。ガラス製のコップが普及してからは主に儀式で使用されるようになり、今ではスコットランドのウィスキー文化の象徴として知られています。マスター・オブ・ザ・クエイヒやキーパーズ・オブ・ザ・クエイヒに就いて詳しくは下記を参照。
https://www.keepersofthequaich.co.uk/
https://www.ballantines.ne.jp/scotchnote/69/index.html

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの始めの一杯は軽めのライにしました。マーティン・ミルズ・ライです。マーティン・ミルズと言うと24年物のプレミアム・バーボンが有名ですが、それは例外的であって、基本的にこのブランドはボト厶シェルファーのカテゴリーに入ります。ブランドの起源は良く分かりません。かろうじて、初期ヴァージョンは1959年に初めて発売され、ヘヴンヒルはその数年後に国内および輸出品として販売をした、と云う情報はありました。私はその初期の物は画像でも見たことがないです。画像検索で見つけられた比較的古い物では、上述の1999年にボトリングされた24年熟成の物以前、90年代と思しき輸出品の80プルーフでボトリングされたNASの物がありました。既にこの頃にはアメリカ国内では販売されておらず、輸出専用になっていたのではないかと思います。2000年以降でも小売価格の安い最下位のボトルは引き続き販売されていました。また、2010年頃にはアーティストのSHAGがデザインしたオリジナル・ラベルの物があり、ミッドセンチュリーのカルチャーが好きな人には好評でした。これは普通のラベルのマーティン・ミルズより100円ほど高かったらしいです。
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で、このライですが、おそらく2000年代半ば頃に流通していたものと思われます。これまた画像検索しても海外物が発見できなかったところからすると、日本への輸出のみなのかも知れません。と言うか、(24年物を除外した)マーティン・ミルズというブランド自体、酒販店のやまやの専売なのかも? 仔細ご存知の方はコメントよりご教示下さい。偖て、次に中身に関してですが…、こういったマイナーなブランドと言うか最下層製品は、宣伝費用を掛けてもらえないため、バックストーリーは語られませんし、製品情報も朧げです。勝手に憶測するに、まだライ・ウィスキーの人気が爆発する前ですから、ヘヴンヒルが年に1日だけライを蒸溜していた当時の少量生産で、地域限定販売だったリッテンハウス・ライの80プルーフやパイクスヴィル・スプリームと大差ないのではないかと思われます。或いはそれらに選ばれなかった樽から造られてるのかも知れない。多分、熟成年数は3〜4年程度でしょう。ヘヴンヒルによると現在の彼らのスタンダードなライ・マッシュビルは51%ライ、35%コーン、14%モルテッドバーリーとのことですが、少し前の情報源だと51/39/10や51/37/12としているものもあるので、もしかすると時代による変遷があった可能性はあります。また、2000年代半ばのボトリングで熟成年数が3〜4年なのが正しいのならば、蒸溜時期は2000年代の初め頃となります。バーボニアンにはよく知られるように、1996年11月9日、アメリカン・ウィスキー史上最大最悪の火災が発生し、バーズタウンのヘヴンヒル蒸溜所は焼失しました。そこでヘヴンヒルは暫くの間、他の蒸溜会社を頼り、ジムビームやブラウン=フォーマンに契約蒸溜をしてもらいました。ヘヴンヒルは1999年にルイヴィルのバーンハイム蒸溜所をディアジオから購入して蒸溜を再開するのですが、生産調整のためかこの契約蒸溜は2008年まで続き、この間ヘヴンヒルのライ・ウィスキーは全てブラウン=フォーマンの元アーリータイムズ・プラントで製造されていたとされます。なので、このマーティン・ミルズ・ライもブラウン=フォーマンが蒸溜したものなのかも知れません。マッシュビルはヘヴンヒルが指定したものと思われるので、上記の何れかでしょう。
そして、なかなかに目立つイエローのラベル、個人的には好きですね。今ではライと言えばグリーンを使ったラベルが一般的となっていますが、マーティン・ミルズ・ライがリリースされた時分はまだそうではありませんでした。おそらく昔のジムビーム・ライのイエロー・ラベルに倣ったのではないでしょうか。そう言えばライに限らず、フォアローゼズも従来象徴的だったイエロー・ラベルが何時の間にかベージュに変化し、アーリータイムズのイエロー・ラベルは消滅しています。新しいアメリカン・ウィスキーが続々と誕生している昨今、イエローのラベルと言うとストラナハンズくらいしかパッとは思い付きません。現代のアメリカン・ウィスキー業界では何故こんなにもイエローの人気がないのでしょうか? 現代アメリカ人には古臭いか安っぽい印象を与える色なのかしら…。まあ、それは扨て措き、最後に飲んだ感想を少しばかり。


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Martin Mills Rye 80 Proof
推定2007年ボトリング(瓶底)。ややミンティな香り。しかし、キャラウェイやフェンネルのようなハーブは感じることが出来ない。ドライな味わい。若くて穀物っぽいところが荒々しい印象を残す。新樽由来のバーボンに近しい香味の方が優勢な感じ。全体的にライ・フレイヴァーは希薄で口当たりも軽いが、それは始めの一杯としてこちらの意図通りなので不満はない。また、ハイボールには向いていそう。
Rating:78/100

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(画像提供MILWAUKEE'S CLUB様)

先日、久々にバーボン遠征に行ってきました。今回お邪魔したのは、バーボン・マニアには言わずと知れた埼玉県は川口の名店ミルウォーキーズ・クラブさん。バーボン600種を含む1000種類を超えるウィスキーを取り扱うその品揃えは圧巻で、バーボンに関しては関東随一と昔から目されています。実際に目にしてみると、80年代後半から90年代初頭に日本へ輸入され、現在ではユニコーンとされるバーボンの品揃えは特に凄まじいです。また、お店オリジナルのメモリアル・ボトルや蒸溜所とコラボしたスペシャル・ボトル、独自にピックされたシングルバレルのボトル等も、当然ながら豊富にあり、それらを目当てに伺うお客さんも多いようです。しかし、このお店の魅力は、希少なバーボンが飲めるだけに留まらず、オウナーの白井慎一さんその人にもあるでしょう。白井さんは、リード・ミテンビューラーの名著『Bourbon Empire : The Past and Future of America's Whiskey(バーボン帝国─アメリカのウィスキーの過去と未来)』を翻訳した我々にお馴染みの日本版『バーボンの歴史』(原書房)の監訳[※出版翻訳や学術論文などで、監修の役割で全体を査読し、内容や翻訳に間違いがないかを最終的にチェックすること]を担当し、これまた我々にはお馴染みの『ザ・ベスト・バーボン』と『バーボン最新カタログ』(共に永岡書店)に関わっていたり、ウィスキーのコンペティションの審査員を務めたり、ウィスキー雑誌に執筆したりと、日本に於けるバーボン業界の重鎮です。現地の蒸溜所を訪れた際のエピソードや業界の裏話を交えたトークはここに通う楽しみの一つとなっており、売り上げも白井さんが店にいるかいないかで大きく変わるのだとか。貴重なバーボンを求めて海外のマニアが訪れることも多く、MILWAUKEE'S CLUBから始まって、FIVEさん、GEMORさん、ANKIさん、ROGIN'S TAVERNさん等を巡る日本バーボン・バー・ツアーをする強者もいると聞き及びます。

マスターの白井さんは、ご実家が代々飲食店を経営しており、甘味処しらゆり(耳で聴いたので表記は不明)は有名だったそう。お父さんは洋食屋を営み、自身もフレンチの修行へ出ていました。それまで安酒ばかり飲んでいたところにフォアローゼズを飲んで衝撃を受けバーボンに開眼したと言うマスターは、琥珀の世界とアメリカへの憧れを一気に強くし、2階のレストランの上にバー「ビア&バーボン・ミルウォーキーズクラブ」を1990年に開店。店名はアメリカのビール「オールド・ミルウォーキー」から。もしバーボンから店名を取るなら「テンガロンハット」になってただろうね、そうなると西部劇のサルーンみたいな雰囲気の店にしなくちゃならなかった、とマスターは笑っていました。今年で34年目を迎える老舗のミルウォーキーズ・クラブさんですが、現在では川口駅東口の再開発により2023年春にオープンした「樹モールプラザ」の2Fへ移転して営業しています。モールの中の一店舗ということもあってか、店内は比較的明るめで、素人が入りにくい雰囲気はありません。上掲の画像のようにテラス席もあったりします。整然と並んだウィスキーの数々は、図書館を意識した陳列らしく、銘柄が見やすいのも特筆すべき点。レアなバーボンのオールド・ボトルが最大の魅力ではありますが、アメリカンだけでなくスコッチやジャパニーズ・ウィスキーの品揃えもなかなかの粒揃いなので、決してバーボン・マニア専門の敷居が高いバーではないですから、ウィスキーに興味を持ちたての方でも、近隣遠方問わず是非立ち寄ってみて下さい。

あと、これはかなり個人的な感想ですが、チェイサー用の水がかなり大きめのグラスで提供されるのはとても有り難かったです。私はお酒に弱いので、出先のバーで飲む時は大量の水を必要とし、チェイサー用グラスが空になる度に店員さんを呼ばなければなりません。だからグラスが大きいと呼ぶ回数が減って助かるのです。なんなら途中からは大きめのウォーター・ピッチャーを用意してくれたので、自分で好きな時に水を注げるようになりました。これは凄く嬉しい気遣いでした。勿論、水がなくなったり少なくなるとマスター及び店員さんが先に気付いて注いでくれることも多いですが、その場合、こちらとしては何度も注がせてしまって申し訳なく感じるので、やはり自分で勝手に注げるのは気が楽なものです。ちなみに、当ブログのタイトルが「バーボン、ストレート、ノーチェイサー」であるところから、これをお酒の注文方法や飲み方のことと勘違いして、私のことをチェイサーも飲まずにバーボンをストレートでガブ飲みするとんでもない酒豪のようにイメージする方が偶にいるのですが、このタイトルは単に私の敬愛するバーボン作家チャールズ・カウダリーの名著「Bourbon, Straight」と、ユニークなジャズ・ピアニストであるセロニアス・モンクの名曲「Straight, No Chaser」を、響きが良いかなと思い合体させて名付けただけであって、私自身はバーではチェイサーに水は必須です。まあ、自宅では殆どの場合、1回にショットグラス1杯しか飲まないので、確かにチェイサーを飲んではいませんから、全く酒の飲み方を表していないとは言い切れませんけれども…。


〒332-0017
埼玉県川口市栄町3丁目13-1
樹モールプラザ2F
区画209

営業時間 17:00-23:30
定休日 : 火曜日
Tel : 048-253-0280(営業時間内)

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