バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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サーデイヴィスは、世界的な歌姫でありポップスターのビヨンセとモエ・ヘネシーとのコラボレーションで生まれたアメリカン・ウイスキーです。2024年9月4日に発売されました。これはビヨンセ・ノウルズ=カーターの誕生日が9月4日なので、それに合わせています。彼女は自分の誕生日の日付から数字の「4」が好きだと公言しており、過去には『4』というアルバムも作っていました。サーデイヴィスのボトリング・プルーフが88、つまりアルコール度数が44度なのも彼女の数字の4への拘りから来ています。ビヨンセは音楽のみならず、ファッションでは「IVY PARK(アイヴィ・パーク)」、フレグランスでは「Cé Noir(セ・ノワール)」 、ヘアケアでは「Cécred(セクレド)」など多岐に渡る分野で活躍する敏腕のビジネス・ウーマンでもあり、ウィスキーのブランド「SirDavis」の立ち上げはそれらの起業活動に続くものでした。今では彼女だけがやっていることではないですが、黒人女性として年配の白人男性が専有していると思われた領域に切り込んだ訳です。実はビヨンセはウィスキー好きで知られており、特にジャパニーズ・ウィスキーを愛飲していることは周知の事実となっていました。彼女は過去に発表した自身の楽曲の歌詞にお気に入りとされるサントリーの山崎の名をさりげなく登場させ、ザ・ウィークエンドをフィーチャーした「6 Inch」では、

[Verse 2: Beyoncé]
She stack her money, money everywhere she goes (She got that uno)
Her Yamazaki straight from Tokyo (Oh, baby, you know)
She got them commas and them decimals
She don't gotta give it up 'cause she professional



のように「東京から直送の彼女の山崎」と歌い、夫のジェイ・Zとザ・カーターズ名義で2018年にリリースした「LOVEHAPPY」では、

[Verse 1: Beyoncé & JAY-Z]
Happily in love, haters please forgive me
I let my wife write the will, I pray my children outlive me
I give my daughter my custom dresses, she gon' be litty
Vintage pieces by the time she hit the city, yeah-ah
Vintage frames, I see nobody fuckin' wit' him
Pretty thug, out the third ward, hit me
Sir acts just like his dad, shit is trippy (Uh-huh)
Twinning, Blue and Rumi, me and Solo how fitting
(Happy in love)
Sitting, dock of the bay wit' a big yacht
Sippin' Yamazaki on the rocks
He went to Jared, I went to JAR out in Paris
Yeah, you fucked up the first stone, we had to get remarried
Yo, chill man, we keepin' it real with these people, right?
Lucky I ain't kill you when I met that b— (Nah, aight, aight)
Y'all know how I met her, we broke up and got back together
To get her back, I had to sweat her
Y'all could make up with a bag, I had to change the weather (Uh)
Move the whole family West, but it's whatever
In a glass house still throwing stones
Hova, Beysus, watch the thrones
(Happy in love)



のように「ロックの山崎を啜る」と歌っていました。

そして何よりも、ビヨンセの8枚目のスタジオ・アルバムで、『RENAISSANCE』に続く3部作プロジェクトの第2弾として2024年3月29日にリリースされるや世界中で話題を攫った『COWBOY CARTER』では、サーデイヴィスの発売を見越して意図的にそうしていたのか、ウィスキー関連の言葉が複数のトラックで出て来ます。このアルバムは5年掛けて制作され、 2016年リリースの『Lemonade』に収録された「Daddy Lessons」をディキシー・チックス(現ザ・チックス)とカントリー・ミュージック・アワードにてライヴで披露した際、そのパフォーマンスは絶賛されながらも一部の保守的なカントリー・ミュージック・ファンからは批判的な声もあり、ビヨンセがカントリー界で歓迎されていないと感じた経験をきっかけとして生まれたそう。「ウィリー・ネルソンやドリー・パートンから、より現代的なタナー・アデルやウィリー・ジョーンズまで、過去と現在のカントリー界のスターたちが出演し、従来の慣習を打ち破り、カントリーとソウルやR&Bを融合させるだけでなく、ブルース、ロック、ザディコ、フォーク、ブルーグラス、オペラ、ゴーゴー、フラメンコ、ファドの要素も取り入れ」、「西部劇を再解釈した独自のヴァージョン…カウボーイやブラックスプロイテーションの歌からマカロニ・ウエスタン、ファンタジーまで、ビヨンセ自身の個人的な体験を織り交ぜながら、黒人の歴史を称え、誇張されたキャラクター構築まで、波打つように展開する」各楽曲から構成されたこのアルバムは、2025年グラミー賞でアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。ビヨンセのアルバムがこの記録を達成したのは初めてでした。リード・シングルとして2024年2月11日にリリースされた「TEXAS HOLD 'EM」はビルボードのホット・カントリー・ソング・チャートでシングル1位を獲得し、その文化的影響力と広範なアクセス性が評価され、カントリー・ウェスタン、ポップ、ヒップホップの境界を超える架け橋と評価されています。そんな同曲では、

[Verse 1]
There's a tornado (There's a tornado)
In my city (In my city)
Hit the basement (Hit the basement)
That shit ain't pretty (That shit ain't pretty)
Rugged whiskey (Rugged whiskey)
'Cause we survivin' ('Cause we survivin')
Off red-cup kisses, sweet redemption, passin' time, yeah



という具合にウィスキーが出て来ます。強大な竜巻を避け生き延びるために入った地下室で荒々しく度数の強いウィスキーを飲みながら恋人とイチャイチャしてようなイメージでしょうか。続いての曲「BODYGUARD」では、

[Verse 1]
So sweet
I give you kisses in the backseat
I whisper secrets in the backbeat
You make me cry, you make me happy, happy (happy)
Leave my lipstick on the cigarette Just toss it, and you stomp it out, out
Inhalin' whiskey when you kiss my neck
We've been hurtin', but it's happy hour, oh, hour Oh, oh, oh



と、ビヨンセはセクシーに気怠く?歌っています。「あなたが私の首にキスをする時、ウィスキーの香りを吸い込む」とはお洒落な言い回しですね。ウィスキーという言葉が直接に使われているもう一曲は「II HANDS II HEAVEN(*)」です。同曲では「ウィスキー」はコーラスに使われているので何度も繰り返し聴かれます。

[Chorus]
Bottle in my hand, the whiskey up high
Two hands to Heaven, wild horses run wild, oh
God only knows why, though (Yeah, yeah, yeah, yeah)
Rhinestones and diamonds both shine in the light
Two hands to Heaven, my whiskey up high, oh (Oh)
God only, God only knows why, though (Oh, oh, oh)



そして、『COWBOY CARTER』の冒頭のトラックである「AMERIICAN REQUIEM(*)」では、ウィスキーという言葉自体は出て来ませんが、ムーンシャイン・マン、即ち密造酒を造っていた男のグランドベイビーとの歌詞が出て来ます。

[Verse 2]
Looka there, looka in my hand
The grandbaby of a moonshine man
Gadsden, Alabama
Got folk down in Galveston, rooted in Louisiana
Used to say I spoke too country
And the rejection came, said I wasn't country 'nough
Said I wouldn't saddle up, but
If that ain't country, tell me what is?
Plant my bare feet on solid ground for years
They don't, don't know how hard I had to fight for this
When I sang my song



上に引用したのはオフィシャル・リリックなのですが、「Looka there, looka in my hand」での2つめの「looka」を「liquor」としている歌詞のウェブサイトがありました。曲を聴いてみると、なるほど確かにビヨンセはその部分をリカーと発音しているようにも聞こえます。もしかすると、正式な歌詞としてはそうなんだけれども、発音を変えることで二重の意味を付与しているのかも知れません。そう言えば、パワフルなビヨンセの歌声が堪らないトラック「YA YA」でもリカーは登場し、「So hold this holster, pour mo' liquor, please」と謳われています。それは扨措き、この「アメリカン・レクイエム」で言及されているムーンシャイン・マンがサーデイヴィスの名前の由来となっているビヨンセ・ノウルズ=カーターの父方の曽祖父デイヴィス・ホーグのことを指しているのでしょう。次の行のアラバマ州ギャズデンはビヨンセの父親マシューの出生地とされてますので。ちなみに母親ティナは、更にその次の行に出て来るテキサス州ガルヴェストンの生まれで、ルイジアナ・クレオール系の血を引く人です。
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デイヴィス・ホーグ(Davis Hogue)は南部のアラバマで育ち、1900年代初頭に農家と密造酒の製造を兼業し、禁酒法時代には友人や家族のために杉の木の空洞にウィスキーのボトルを隠していたという伝説もあるようです。ホーグは当時のアメリカでは珍しいことに黒人でありながら自分の土地を所有していたとされ、そこで人々は彼に敬意を払って「サー・デイヴィス(Sir Davis)」と呼んでいた、それがブランド「サーデイヴィス」の由来である、と或るウェブサイトの特集記事には書かれていました。但し、その他のウェブサイトの特集記事では土地の所有に関する記述は見られませんでした。また、ビヨンセの父マシュー・ノウルズが祖父の蒸溜所を訪れた際、黒人男性が「サー」と呼ばれるのを初めて耳にした、との話もありました。公式ホームページでは「デイヴィス・ホーグがアメリカ南部に住んでいた時代、"サー"は白人男性にのみ許された敬称でした。彼のファーストネームの前に"サー"が付けられたのは、彼にふさわしい敬意を表し、彼の功績を称えるためです」とだけ書かれています。兎も角、上記以外のホーグ氏の詳しい経歴は不明です。ビヨンセは『GQ』誌の特集記事でインタヴュワーからの、「あなたの最新アルバムが『カウガール・カーター』ではなく『カウボーイ・カーター』と題され」、「そして今度の[サーデイヴィス](訳注:[サー]は男性の称号)という名称を通して、ジェンダーや人種について何を語ろうとしているのでしょうか」?との質問に、「カウボーイという言葉について、人々にちょっと調べてほしいと思ったのです。多くの場合、歴史は勝者によって語られます。アメリカの歴史といったら、それは延々と書き換えられてきたでしょう? カウボーイの4分の1は黒人でした。自分たちを同等に扱おうとしない世界に直面した彼らも、牧畜業を支える存在だったのです。カウボーイはアメリカにおける強さと野望の象徴ですが、牛を扱う奴隷がその名の由来です。カウ“ボーイ”というのは、子ども扱いされ、相応の敬意を払われることのなかった彼らのことなのです。牛を扱う黒人をあえて[ミスター]や[サー]と呼ぶ者はいませんでした。私にとって、[サーデイヴィス]は勝ち取った敬意の証です。私たちは皆、敬意を払われてしかるべきです。私たちが敬意を示した場合は特にね」と答えていました。こうした家族の歴史を当然ながらビヨンセは活用し、マーケティングにも利用した訳ですが、面白いことに、彼女がウィスキー・ブランドを作りたいと考えていたのは曽祖父の話を知る前からでした。

ビヨンセはモエ・ヘネシーと共にこのブランドの共同オウナーを務め、またウィスキーが自分のヴィジョンに合致するものとなるようフレイヴァー・プロファイルからボトルのデザインまで開発当初から関わって来たと言われています。長年のジャパニーズ・ウィスキーのファンであった彼女は自分のウィスキー・ブランドを立ち上げようという気持ちになり、自身の嗜好を反映したウィスキーを造る協力をLVMHの子会社モエ・ヘネシーに求めました。これには彼女の夫ショーン・“ジェイ・Z”・カーターがシャンパーニュ・ブランドのアルマン・ド・ブリニャックをLVMHと共同保有している関係もあるのかも知れません。ともかくモエ・ヘネシーとしてはアメリカン・ウィスキー市場での存在感を高めることを模索していたので、両者の思惑が一致し、ダイナミックなパートナーシップが実現した訳です。アメリカン・ウィスキーのブームによって、アメリカの酒類業界では近年、セレブリティ・スピリッツの新製品が店頭に溢れ返り、生粋のアメリカン・ウィスキー愛好家などからは冷笑的な目で見られることも屡々ありました。そんな状況下で、ポップ、R&B、そして今やカントリー・ミュージックまで飲み込んだ女王がその影響力を駆使してウィスキーを発売する、と。ウィスキー愛好家がボトルの中身に懐疑的になったのは頷けます。しかし、このウィスキーは、他の多くの典型的なセレブ・ブランドと違い、ウィスキーを生業としている評価の高い人物と共同で造られたことで興味深いものとなりました。その人物こそ、インターナショナル・ウィスキー・コンペティションでマスター・ディスティラー・オブ・ザ・イヤーを5回受賞し、グレンモーレンジィやアードベッグも手掛けるビル・ラムズデン博士です。

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ビル・ラムズデンは数年前、当時のマーケティング・ディレクターから特別な人に会って欲しいと話を持ち掛けられました。それがビヨンセでした。迷わず渡航を決めたラムズデンでしたが、相手が世界的な大スターとあって初めて会う時は緊張していました。しかしビヨンセはチャーミングでエレガント、そして親切だったお陰で緊張も解れたそう。ラムズデンはこの会合の前に少し下調べをして、ビヨンセがウィスキー愛好家であり、彼女のお気に入りがサントリーの山崎12年だと知りました。彼はビヨンセのためにウィスキーのテイスティング・セミナーを行い、どんなウィスキーをより好むのか探っていったそうです。バーボンやテネシー・ウィスキー、ライ・ウィスキー等のアメリカン、当然の如くグレンモーレンジィやアードベッグ、更に幾つかのジャパニーズ・ウィスキーなどが試されました。サーデイヴィスのために結成されたチームには、アードベッグの元ナショナル・アンバサダーでグローバル・ブランド・アドボカシー・ヘッド兼ウィスキー・ブレンダーに就任したキャメロン・ジョージもいます。彼によると、ビヨンセは最初のテイスティングから、ラムズデンや彼に教えられるでもなくウィスキーの語彙や専門用語を使っていたそうです。それは「彼女が既に使っていた言葉遣いで、正に生涯に渡っってウィスキー・ファンである彼女の姿勢を物語っていました」。数日間のフォローアップを経て、チームはサーデイヴィスの方向性を定めて行きます。ビヨンセはアードベッグが好きではないことがすぐに分かったので、ラムズデンは先ずピーティーなレシピを除外しました。しかし、彼女はシングルモルトは好きでした。そして、スムースなウィスキーが好みでした。
サーデイヴィスが完成するまでには、様々な試行錯誤とアイディアがあり、その中の一つにスコッチ・ウィスキーとジャパニーズ・ウィスキーをブレンドするという発想もあったと言います。しかし、ラムズデンはそれは不誠実だと思い、彼もビヨンセも、彼女の祖国であるアメリカらしいウィスキーを造りたいという考えに至りました。彼女の最新アルバム『COWBOY CARTER』とツアーに浸透しているアメリカーナの雰囲気を考えると、この要素は重要だったのです。アメリカに蒸溜所を新設する手もありましたが、そうなると建設に2年、そこから熟成まで更に時間が掛かるため断念せざるを得ませんでした。そこでインディアナ州のMGPから熟成された12種類のウィスキーを取り寄せることにします。MGPはアメリカン・ウィスキー業界内の大小問わない多くのNDP(非蒸溜業者)/ボトラーにウィスキーを供給する大手契約生産業者で、彼らにウィスキーの製造を任せ、自分達は求めるフレイヴァー・プロファイルとブランディングに集中するというモデルは現在のアメリカでは非常に一般的です。チームは何度も試飲と話合いとレシピの試作を重ね、始めに4~5種、そこから更に3種に絞り、シアトルのウッディンヴィル蒸溜所で最終的なテイスティングを行い漸く一つの答えに辿り着きました。それはMGPの最も一般的で非常に多くの製品に見られる有名な95%ライ、5%バーリー・モルトのライ・ウィスキーではなく、51%ライ、49%バーリー・モルトのマッシュビルで造られたライ・ウィスキーでした。MGPは過去に幾つかのクラフト・ウィスキー・メーカーにモルトがほぼ半分近くを占める51/49ライを販売したことがありますが、このマッシュビルは独占契約が行われ、今後他のウィスキーで使用されることはなくなるとのこと。ビヨンセもこの最終的なマッシュビルを気に入りました。しかし、3人とも味だけでなくテクスチャーや口当たりも完璧にするには何かが少し足りないと感じます。そこでラムズデンは、スコッチやジャパニーズ・ウィスキーの伝統的な製造技術を取り入れてペドロ・ヒメネスのシェリー・カスクでフィニッシングすることにより、濃く赤い果実とベーキング・スパイスの香りをより引き出し、シルキーな質感を与えると同時に、伝統的なアメリカン・ライの特徴である力強い風味も保とうとしました。意識したのは、アメリカらしさがありながらもスコットランドや日本のニュアンスがあること、そしてビヨンセの好むスムースさを大切にすることでした。

生産に繋がるアイディアを思いついた後も、ノウルズ・カーターはモエ・ヘネシーのチームと会合を重ね、最終製品を決めて行きました。これらの原酒や製法を提案したのはラムズデンでしたが、最終的な成果は女王本人によって承認されており、これは正に「ビヨンセのウィスキー」だと言えるでしょう。キャメロン・ジョージは、「このパートナーシップはごく自然に生まれました。ビル・ラムズデン博士が何処かへ行ってウィスキーを調達してきて、そこにビヨンセの名前を勝手に付けた、と言うようなことではありません。全くそういうプロセスではありません。彼女はこのブランドの創設者です。液体のプロファイルからブランドの世界観の発展まで、このブランドのあらゆる部分に携わってきました」と語っています。この言葉は対外的な発言なので多少の誇張はあると思いますが、ビヨンセはこれまでに自身のイメージや肖像、音楽、ビジネスに稀有なコントロール能力を幾度となく発揮して来ました。サーデイヴィスの「液体」への関与はそれほど高くないにしても、ボトルのデザインやブランドの方向性はディレクションしていると思われます。細かいリブ模様の印象的なボトルは、彼女の曽祖父デイヴィス・ホーグの時代の様式にインスパイアされているとか、或いはビヨンセがジャパニーズ・ウィスキーのファンであることからサントリーの響の繊細なデザインへの敬意ではないかと憶測されたりしています(**)。また、ボトルの中央にはブロンズの馬をあしらった黒いメダリオンが付され、プレス・リリースによるとこれは「力強さと敬意を象徴し、ノウルズ=カーターのテキサスのルーツを象徴する」とのことです。馬のモチーフは彼女の最近のアルバム『RENAISSANCE』と『COWBOY CARTER』のジャケットとも符合していますね。クロージャー(ボトルのキャップ)には、正反対を向いたVのようなマークが二つ刻印されています。これは、一つが過去への敬意(伝統)を示す後ろ向き、もう一つが未来へのミッション(革新)を示す前向きを象徴するそうです。ビヨンセが大切にしている平等性や包括性をも表現しており、性別や人種問わずどんな人にもこのウィスキーを楽しんで欲しいという思いが込められているのだとか。また、瓶底にはデイヴィス・ホーグのイニシャル「DH」がエンボスされたりと、なかなかに凝っています。高級な香水瓶のようにエレガントな佇まいが評価され、2025年のASCOT Awardsではボトル・デザイン部門でプラチナを受賞しました。デザイン自体は、酒類のブランディングとパッケージングの世界的なデザイン・エージェンシーであるストレンジャー&ストレンジャーがやっています。 
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サーデイヴィスは、ビヨンセのローン・スター・ステイト(テキサス州の愛称)との繋がりから、彼女の故郷であるヒューストンに本社を置き、テキサスで仕上げ、ブレンド、ボトリングされており、モエ・ヘネシーがアメリカ国内で完全に生産する初のウィスキー・ブランドとなります。中身に就いて改めて纏めると、ベースのライ・ウイスキーはインディアナ州で蒸溜され、最初の熟成もニュー・チャード・アメリカン・オークの樽でインディアナにて行われます。サーデイヴィスはNASなので、インディアナの原酒の熟成年数は公開されていませんが、少なくとも2年間は熟成されているようです。或いは2年を大幅に上回るという情報もどこかで見かけました。おそらく2〜4年程度なのではないかと予想します。その後、テキサス州で6~9ヶ月間を掛けてPXシェリー・カスクを用いた二次熟成プロセスを行います。テキサスの暑さのため、スコットランドでは得られないような熱気が加わることになるでしょう。サーデイヴィスはファーストフィル、セカンドフィル、サードフィルのシェリー樽を用意して慎重に熟成されます。異なる樽のサイズを複数使用しつつ、セカンドフィル樽とサードフィル樽はファーストフィル樽より長く熟成させるのです。ファーストフィル樽は芳香成分や風味成分を豊富に含んでいますが、それらが原酒の風味を圧倒してしまうので制御する必要があり、逆にセカンドフィルやサードフィルの樽では樽からの影響が減る分、それを補うためにフィニッシュ時間を長く調整している、と。ボトリング前のサーデイヴィスのハイアー・プルーフな原酒をファーストフィル、セカンドフィル、サードフィルの樽で個別にテイスティングした方によると、ファーストフィルではシェリー・カスクの要素がほぼ全体の個性を占め、セカンドフィルではシェリー・カスク由来のレーズンとフルーツの香りが変化し始め風味豊かな香りと僅かなランシオが加わり、サードフィルではシェリー・カスクの要素はほぼ消えてライ由来のメンソールとハーブの香りが支配的になっていたそうです。それらを組み合わせることで、エレガントかつ複雑でニュアンスに富んだ風味を実現する製法はラムズデン博士の面目躍如と言ったところ。アメリカ育ちのブレンダーのジョージは、ファーストフィルで熟成した原酒が最も良いウィスキーになるだろうと初めは考えていたそうですが、「サードフィルとセカンドフィル、それも大樽で熟成されたセカンドフィルとサードフィルこそが、サーデイヴィスの味わいを構成する最も繊細なウィスキーであるため、私のお気に入りの要素となりました。アメリカではウィスキーに対する一般的な考え方とは異なります。ほとんどのアメリカン・ウィスキーは、以前の樽の使用原酒の力強さによって、マッシュビルの神聖さや独自性が失われてしまいます。ここでは、スコットランドのルーツと日本の感性を反映した、ウィスキーの製法に対するグローバルなアプローチが生まれたと考えています」と語っていました。
現在のアメリカン・ウィスキーには、シングル・モルト・ウィスキーもあれば、様々な穀物をマッシュビルを用いたウィスキーもあり、フィニッシングに使われるバレルも多種多様です。サーデイヴィスが行なっていることは、10年前ならまだしも、正直言ってプロモーションで語られるような「カテゴリーの常識に挑戦」する「画期的な新ウィスキー」とまではもう言えないでしょう。しかし、この製品には確かに高度な開発が費やされたことは伺えます。サーデイヴィスは技術的にはライ・ウィスキーな訳ですが、コーンが一切使用されていないマッシュビル、且つ蒸溜に使われる穀物のほぼ半分はスコッチやジャパニーズ・ウィスキーの基盤となる原料の大麦麦芽とあっては、これは事実上ライ・ウィスキーとモルト・ウィスキーのブレンドに近く、更に二次熟成ゆえ、伝統的なアメリカン・ライウィスキーとシェリー樽熟成のスコッチ・ウィスキーの中間的な存在と言っていいかも知れません。ボトルには「RYE WHISKY FINISHED IN SHERRY CASKS」と記載されています。世界的な規模でファンを持つポップ界のスーパースターに相応しいように、グローバルなテーマを強調するため、アメリカのバーボンやライで一般的な「Whiskey」ではなく、日本やスコットランドで伝統的に見られる「e」を付さない「Whisky」の綴りが意図的に選ばれました。またサーデイヴィスは、ビヨンセの強い希望でノンチルフィルタード、そして冒頭でも書いたようにアルコール分は彼女が最も好きな数字の「4」に拘った44%に調整されています。

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サーデイヴィスは発売の発表に先立って、「デイヴィス・ホーグ蒸溜所」という偽名で複数の酒類コンペティションに匿名で出品され、数々の賞を受賞しました。中でも2023年のSIPアワードでは、アメリカン・ウィスキー部門で100以上のエントリーを上回り、プラチナ賞とベスト・イン・クラスを受賞しました。他には、2023年のニューヨーク・インターナショナル・スピリッツ・コンペティションでは95ポイントとゴールド、2023年のアルティメット・スピリッツ・チャレンジでの93ポイントなど輝かしい栄誉を獲得しています。ビヨンセは『GQ』誌のインタヴューで「私は自分がサーデイヴィスに関わっていることが知れ渡る前に、ブランドがその味わいとクラフツマンシップに基づいて認められることを望んでいました。最も厳しい批評家たちに試してもらい、ウィスキーそのものの力で彼らの敬意を得ることを心に決めたのです。レシピを完成させた後、私たちはウィスキーをコンペティションに出品し、世界中の批評家たちにテイスティングしてもらいました。ボトルやブランディングに"ビヨンセ"を匂わす痕跡は一切ありません。それはかなり意識的にやりました」と語っています。と同時に、ビヨンセは同誌のインタヴューでなぜ今回ウィスキーなのかを問われた際には「初めてウィスキーを飲んだ日のことは忘れられません。優しく私に訴えてきました。〈なぜ今まで飲んだことがなかったのか〉と思ったのを憶えています。口当たりは強くて温かくて、ちょうどいいハードさで。私はそのプロセス、飲み方が気に入りました。ウィスキーはただぐいっと飲み干すものではなく、コミットメントなのです。忍耐が必要なもので、そこがいい。それから日本のヴィンテージ・ウィスキーにハマって、テイスティングを始めると、新しい世界が広がりました。ウィスキーの全てが好きです。色、香り、グラスの中で踊るさま…。そして、その一杯にまつわる物語も。どのボトルにも歴史がありますからね。自分がウィスキー好きだとまだ気づいていない人たちにウィスキーを紹介するのも楽しいです。ウィスキーを味わって、その世界に触れさえすれば、もっと多くの女性が好むようになるのではと思います。ウィスキーは煙たいバーにいる年配男性だけではなく、深みと複雑さ、そしてちょっとした神秘を愛する全ての人のためにあるもの。熟成のプロセスは、穀物の発芽から手造りの樽に至るまで、全ての工程に注意を向けた奉仕であり、その全てを愛おしく思っています。ウィスキー造りはひとつの芸術で、私が愛と敬意を抱くのもそのためなのです。偉大な(カントリー歌手の)ウィリー・ネルソンはかつて言いました。〈誰かに本当にいいものを教えられるまで、自分がそれを好きだったことに気づかないこともある〉。だから未来のウィスキー愛好家の皆さん、歓迎するわよ!」と答えており、この言葉を加味すると、プロ並みのウィスキー愛好家を満足させつつ、今までウィスキーを殆ど飲まなかった人々、特にビーハイヴ(ビヨンセの熱狂的なファンやコミュニティの愛称)がサーデイヴィスを買って楽しんだ後ウィスキーにハマってもらえれば…という期待があったでしょう。某巨大掲示板で見掛けたのですが、実際そういうビーハイヴはいたみたいです。

サーデイヴィスは限定品ではなく、通常品として販売されています。現在はどうか知りませんが、発売された当時は、全米各地に加え、ロンドン、パリの一部店舗、アジア地域では日本のみでの販売、とされていました。将来的には製品展開の拡充を図る予定とのことで、近々カスク・ストレングスの113プルーフのヴァージョンが発売されるようです。そのうち熟成年数表記ありの製品も出されるかも知れませんね。ではそろそろ、『COWBOY CARTER』の楽曲中、個人的に最も気に入っている「16 CARRIAGES」を聴きながらサーデイヴィスを頂くとします。



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推定2024年ボトリング(初発売時に購入)。やや薄くダーティな茶色。ドライフルーツ、モルト、ローズマリー、セージ、グリーングラス、ピクルス、ビスケット、キャラメル、アーモンド、キウイ、ケチャップ。よく熟した色とりどりのフルーツの香り、時間をおくとキャラメルも出た。味わいは香りほどフルーツや甘さがなくやや辛口か。余韻はクローヴと白胡椒が広がってからフルーツの苦みへ、更にそこから香ばしいナッツへと。グラスの残り香はピーカンナッツ。アロマがハイライト。
Rating:85.5→86.5/100

Thought:そもそも私はビヨンセの歌声が好きでデスチャ時代から聴いて来た人間です(勿論、好みの楽曲だけですが)。そして、言うまでもなくアメリカン・ウィスキーが好きな人間でもあります。そこにサーデイヴィスが発売されるとあっては、そりゃ買うよね。おそらくこれが安易なブレンデッド・ウィスキーであっても買ったかも知れない。まあ、それは措いて、発売前にサーデイヴィスの詳細が取り上げられた時、最も興味を唆られたのは原材料でした。MGPの有名な95/5ライは個人的に凄く好みのウィスキーなのですが、51/49ライは飲んだことがなかったので是非とも飲みたかったのです。本当はシェリー・カスク・フィニッシュでないものを試したかったけれど仕方ありません。で、飲んでみると、香りは素晴らしく、シェリー樽も効き過ぎておらず、アメリカン・ライらしさもしっかりあって、よく出来ていると思いました。MGP95/5ライ65%にシェリー樽熟成のスコッチを35%で混ぜたようなイメージの味わいかな。モルトの存在はパレートが最も感じ易く、シェリーの影響は香りと余韻に感じ易かったです。ただ、どうも私好みの味わいではなかったです。やっぱりコーンとライが好き。けれども、普段スコッチやジャパニーズ・ウィスキーも飲む方には飲み易いだろうし、面白い製品なのだろうと思います。…と、これは最初の印象でして、開栓からだいぶ経ったら甘みが感じ易くなったと言うか、自分の苦手な風味が薄らいだと言うか、とにかく美味しくなりました。レーティングの矢印はそのことを指しています。

Value:メーカー希望小売価格は89ドルで、アメリカのウィスキー愛好家の間では少し高いという意見が多い印象を受けました。一説には、ビヨンセの名前が付いていなければ、契約蒸溜で熟成4年未満のシェリー酒のようなデザート・カスクで仕上げた同様のボトルなら恐らく40ドル程度での販売だろう、とか。熟成年数非記載のスピリッツとしては高額ですが、プレミアム・ウィスキー市場ではそれが一般的になっています。日本での定価は1万1550円。調べてみると、安いところでは8000円台後半から9000円ちょいで買えるようです。微妙な値段ではありますが、1本買う分には、最安値なら全然アリ、ちょっとした贅沢品を買いたい気分なら定価でもいいでしょう。モルト配合率の高いライ・ウィスキーは他ではあまり飲めないし、なによりMGPの51/49ライは95/5ライより遥かに珍しいのは間違いないですからね。個人的にはモルトと二次熟成という部分が好みではないので常備ボトルにはしないと思いますが、味わいが気に入り、尚且つビヨンセが好きとかボトルの見た目が好きとか、そういう要素を含めてなら、限定品ではないとのことなので常備にもオススメです。


*このアルバムの楽曲は、一部の「i」や「Two」や「to」を「Ⅱ」と表記しています。なので「II HANDS II HEAVEN」は「Two hands to Heaven」であり、「AMERIICAN REQUIEM」や「BLACKBIIRD」や「LEVII'S JEANS」のように敢えて「I」が2つ重なってるのは、『カウボーイ・カーター』が3部作のうちの2作目、第二幕、ACT IIであることを強調する表現とされ、それ以上の意味はなく、読み方もそのまま「アメリカン」や「ブラックバード」や「リーヴァイスジーンズ」です。

**他にも、SASSENACHというスコッチのパクリだ、という声もありました。ユニコーンが馬に変わっただけだ、と。
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今回は2023年末頃にリリースされたバッファロートレースのシングル・バレルを取り上げます。こちらは愛知県豊橋のプレミアム・バーボン専門バーである 「GEMOR」のマスターが選んだバレルをボトリングしたもの。同時期に八丁堀の「Ken's bar」さんのピックもありました。他にも幾つかの酒販店によるピックもあり、日本でもバッファロー・トレース蒸溜所のシングルバレル・プログラムのものが購入し易い状況になって、我々消費者としては選択肢が増えると共にバレルごとの味比べが楽しみになりましたね。

比較対象としてスタンダードなバッファロートレースの小瓶(プラスティック)を買い求めてみました。一応、標準的なバッファロートレース・バーボンに就いて軽くおさらいしておくと、このブランドは1999年に市場に導入され、正確な数値をバッファロー・トレース蒸溜所は公開していませんが、ライ麦の含有量が少ない#1マッシュビルから造られています(ライ10%以下と推測され、一説にはコーン75%、ライ10%、モルテッドバーリー15%ではないかと推定される)。このマッシュビルはジョージTスタッグ、イーグルレア、EHテイラー等と同じです。熟成年数は通常は約8~10年とされ、または7~9年との推察や一般的には6~8年程度との説もありました。法的要件により少なくともは4年以上なのは間違いありません。バレルは温度変化の大きい複数の様々な倉庫の中層階で熟成されているそうです。個別に選択されたシングルバレルを除き、スタンダードなバッファロートレースのバッチ・サイズは約40バレルとのこと。これは殆どスモーバッチと呼んでいいサイズですね。バッファロートレース・バーボンは、アルコール度数は低めで際立った個性的もないものの、辛すぎたり若すぎたりすることなく適度な熟成感を醸し、低価格帯のバーボンでありながら安っぽい味わいではなく主力製品に相応しい、と評されています。

偖て、スタンダードな製品は複数のバレルをブレンドすることで纏まりのある一貫したフレイヴァー・プロファイルを生み出します。蒸溜所のテイスターやマスター・ディスティラーはそうした一貫性を実現するために常に努力を続ける訳ですが、シングルバレルは一貫性を問われません。シングルバレル・プログラムでは、おそらくは伝統的なプロファイルに当て嵌まらないものや、テイスターによって特別と判断されたものが選ばれていると想定されます。これらのバレルが小売業者やバーのマスターに提示され、彼らは様々なバレルの中からお気に入りを選ぶ、と。一般的には、標準的な製品よりもシングルバレルの方が美味しいと思ってもよい筈です。しかし、標準的な製品が謂わば均整のとれたフレイヴァーであるのに対して、シングルバレルは何かが尖っていることもあり、人の好みによっては却って標準的な製品よりも劣ると判断される可能性はあるでしょう。では、それらを踏まえた上で、さっそく注ぐ時間です。

このGEMORピックのバレルは、聞いたところでは9年熟成だそうです。熟成場所などの詳細は私には分かりません。

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Buffalo Trace Single Barel 90 Proof
BARREL #057
SELECT by GEMOR
推定2023年ボトリング。ヴァニラウエハース、トースティな木材、ベーキングスパイス、シリアル、苺。ペイストリーな甘い香り。ややとろみのある口当たり。口中では力強いスパイシーさが。余韻は薄っすらシナモニーなウッドノート。
Rating:85→86.5/100

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Buffalo Trace 90 Proof(Miniature bottle)
ボトリング年不明、購入は2024年。キャラメルも感じるが、主にフルーティな香り立ち。飲んで感じるフルーツは強いて言うとマンゴー。余韻に少し感じられる土っぽさは、意外と長熟バレルも含まれてるのかも、と思わせる。
Rating:84〜85/100

Thought:通常のバッファロートレースより、GEMORピックのボトルは全体的に勁い印象を受けました。ボトリングの度数よりもう少し上の度数に感じるテクスチャーとフレイヴァーなのです。香り、口中、余韻に渡ってスタンダードな物より甘みも樽の香ばしさも強かったですね。あと、幾分かブライトな樽感に思いました。時間の経過とともに、香りに苺、味わいにオレンジジャムとアプリコットジャムの中間のようなフルーティさが出て来て美味しかったです。レーティングの矢印はそのことを指しています。スタンダードな物はかなり久々に飲んだのですが、クオリティが著しく下がった印象はなく、相変わらず完成度が高いと思いました。汎ゆるバーボン・フレイヴァーのバランスが良く、初心者に最もオススメ出来る銘柄かも知れない。流石に今回のようにシングルバレルのピックと較べてしまうと、全体的にフレイヴァーが弱く物足りなさを感じてしまいましたが…。購入したのが50mlのボトルで、半分に分けて2回しか飲んでないため、レーティングには幅を持たせました。
アメイジングな樽を選んだゲモーのマスター、これを私のもとまで発送してくれたバーボン仲間のK氏、どうもありがとうございました!

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今回は、日本では2024年3月出荷分より順次切り替えられたフォアローゼズの新パッケージを飲んでみました。この時の刷新は、「ブランドの上質感がより感じられるパッケージにリニューアルし、ブランドの世界観を伝えるとともに、ターゲットである30代ライトユーザーのお客様を中心により多くのお客様へお試しいただく機会を創出します。現在『フォアローゼズ』ブランドは日本以外にも欧州、米国で発売されています。今回のパッケージデザイン変更は、グローバル共通のブランド戦略の一環として行うものです。なお中味については変更ございません」、とのことでした(*)。個人的には前のラベルより好きなデザインですね。
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偖て、嘗てイエローラベルと呼ばれていたフォアローゼズのスタンダードなボトルを飲むのは久しぶりで、2018年に「安酒を敬いたまえ」のフォアローゼズ蒸溜所編を書いた時以来です。その時は、それ以前のイエローラベルとは比べ物にならないほど美味しくなったと感じ、ブラックラベルを買う意味すらなくすほどだと思いました。よかったら当該の記事を参照してみて下さい。で、この度の新パッケージは中身に変更はないとされていますが、一応念の為というのもあるし、ラベルもカッコよくなったし、久しぶりに飲んでみようかと。では、さっそく注いで行きましょう。

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FOUR ROSES 80 Proof
推定2024年ボトリング。黄金味のあるブラウン。ライスパイス、薄っすら蜂蜜、セージ、パセリ、穀物、土、僅かなプラムとチェリー。辛うじてフルーティなアロマ。水っぽい口当たり。パレートでは如何にもライ麦が多そうなスパイシーさとドライな風味が主。余韻は、穀物の旨みとスパイスが来てからハービーな苦みへと収束して行く。
Rating:80→81/100

Thought:飲んだ第一印象は「あれ?昔に戻った?」でした。上で述べていた2018年当時に飲んだ濃いめのベージュ色したラベルに在った濃密なフルーティさと甘みがなくなっていました。それ以前のフォアローゼズ・イエローラベルに抱いていた、複雑さを感じさせるものの全ての要素が薄く物足りない、というあの感じに戻っていたのです。もしやラベルが変わって味が劇的に変化したのかと思って、慌てて旧ラベルを買いに走りました。そして、両者を飲み比べてみたのですが、結果は違いが分からないほど同じに感じました。確かに、2024年3月出荷分から切り替わった新ラベルとその前のラベルの中身には「変更」ないと言っていいでしょう。
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(おそらく新しいラベルに切り替わる直前の物)
と、なると私が飲んだあの美味すぎる濃いベージュの旧ラベルは何だったのでしょうか? たまたま私が購入したバッチが突然変異的にブラックラベルに近いブレンドになっていたのか? それとも1〜2年はそうしたブレンドのバッチが続いていたのか? これは私がスタンダードなフォアローゼズを継続的にも断続的にも飲んでいないため答えが分かりません。絶えずフォアローゼズのイエローラベルとその後継を飲んで来た方は是非ご意見をコメント欄から頂けると幸いです。まあ、分からないことは措いて、この新パッケージ版または直近の物に言及すると、私が以前飲んだ特定のバッチの物と較べると流石にパッとしない印象ではあるものの、エントリー・クラスのハイ・ライ・バーボンとしては出色の出来であることに変わりはありません。特に、開封から1年くらいするとアロマにフルーティさを感じ易くなり、口当たりも僅かにとろみを増し、様々なフレイヴァー要素がほんの少し濃密になって美味しくなりました。レーティングの矢印はそのことを表しています。貴方がバーボン初心者で、初めて飲んで「薄いなあ」と感じたら、酸化をコントロールしてみて下さい。そして、決して安易に分かり易い甘みや樽の香ばしさを求めず、繊細なハーブや花の香りを探るように飲むのが良いでしょう。

Value:近年価格が上がってしまいましたが、2000円以下で購入出来るバーボンとしては、入手のし易さを含めて、個人的にはまだまだオススメです。


*ケンタッキー・バーボンの輝かしいブランドであるフォアローゼズは、2023年に135周年を迎えるにあたり、世界中でデザインがリニューアルされました。この時のニュースでは「2006年以来初めてパッケージ・デザインを刷新した」と言われていました。どうやらイエローから濃いめのベージュに変化したものはマイナーチェンジであって、リューアルにはカウントされていないらしい。ちなみに、新しいデザインでは、日本市場向けの物は金属キャップですが、他の市場では写真で見る限りコルクトップに変わっているようですね。

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ワイルドターキー・ジェネレーションズはその名の通り、ラッセル家の3世代が初めて協力して造り上げたウィスキーであり、一族の素晴らしい伝統に敬意を表した製品です。現在、ワイルド・ターキー蒸溜所には三世代の一族が同時に在籍しています。ワイルドターキーというブランドがラッセル・ファミリーの影響によって形成されたものであることに議論の余地はありません。ケンタッキー・バーボンの生ける伝説ジミー・ラッセルは、1954年に後にワイルド・ターキー蒸溜所となる場所で働き始めてから70年近く経った今もなお出勤を続け(偶に顔を出す程度かな?)、世界最長の在籍年数を誇るマスター・ディスティラーになりました。その息子エディは1981年にリリーフ・オペレーターとして入社して以来、生産の汎ゆる面を担当して、2010年には父同様にバーボン殿堂入りを果たし、マスター・ディスティラーとして現在のワイルドターキーの運営の中核を担っています。そして、そのエディの息子ブルースは、ナショナル・アンバサダーを務め、シングルバレル・プログラムで日々働き、近年アソシエイト・ブレンダーに任命され、おそらくは将来マスター・ディスティラーとなる存在でしょう。ブルース・ラッセルは、祖父ジミーと異なりブルースはライウィスキーを好むが故に通称「ラッセルズ・ライ・ガイ」と呼ばれているそうで、マスターズキープでのライ・ウィスキーやレアブリード・ライのリリースも彼の熱意あってのことと言われています。このジェネレーションズが歴史的なリリースなのは、ブルースの名前がボトルに初めて記載されたからであり、彼がアソシエイト・ブレンダーとして初めて手掛けた作品であり、ラッセル3人の署名がボトルに刻まれた初のワイルドターキー製品だからでした。
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ジェネレーションズは三人のラッセルそれぞれが自らの好みで厳選した四つの異なる原酒をブレンドしたものです。ジミーは自身が長年に渡って好みであり続け、彼の主張によればWT製品に於ける最適熟成期間である9年熟成のバレルを選びました(ジミーの年齢を考えると、エディとブルースが選定し、それをジミーが承認したものなのかも知れない)。エディはジミーよりも熟成ウィスキーを好むことで知られ、現代的なワイルドターキーとして成功を収めたラッセルズ・リザーヴやマスターズ・キープといった商品に近い15年熟成のバレルを選びました。ブルースは上述のようにライに力を入れますが、バーボンの好みはエディよりジミーに近いとされ、12年熟成のバレルを選びました。そしてエディとブルースで14年熟成のバレルを幾つか選びました。このブレンドはバレルプルーフ、ノンチルフィルタードでボトリングされ、120.8プルーフでのボトリングはブランド史上最高クラスの度数を誇ります。噂では、ブルースが選んだバレルはプルーフが高く、中には所謂ハズマット(140プルーフ以上)のものもあったらしいです。最終的に120.8プルーフとなったところからすると、三人が選んだ他のバレルの幾つかにはプルーフがかなり低いものもあったのかも。ワイルド・ターキーのバレル・エントリー・プルーフは115であり、バレル・プルーフで提供される一般製品で6〜12年熟成のレアブリードが116.8でのボトリングなのを考慮すると、ブルースの選んだハイアー・プルーフのバレルがブレンドに与えた影響は大きい可能性がありそうですね。これらが各々何バレルであるか、またどういう比率でブレンドされているかは公表されていません。また、ワイルドターキーには3つの異なるキャンパスがありますが、何処のリックハウスからかも明かされていないようです。販売された総ボトル数が4〜5000本とか約4400本とされているので、使用されたバレルは全部で25〜35くらいの数量ではないかと予想されます。ちなみに、ジェネレーションズのボトル・デザインは、コロナ禍によるサプライ・チェーンの問題で当初予定していたグラスのデザインが間に合わず、生産者にマスターズキープ・シリーズのボトルを改造してもらうことに急遽決定したものだそうです。

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(ラッセルズの三人。ワイルドターキー公式ホームページより)
ワイルドターキー・ジェネレーションズに就いて三人それぞれは次のように語っています。ジミーは「キャリアを通じて数々の素晴らしいウィスキーを造ってきましたが、『ジェネレーションズ』は私の殿堂入り作品で」あり、「息子と孫と共に私達の家族と伝統を称えるブレンドを創り上げる経験は私のキャリアに於けるハイライトでした」と。エディは「 ジミー、ブルース、そして私がジェネレーションズについて話し始めた瞬間から、これは非常に特別なものになると確信していた」と言い、「私たちが生み出した豊かで複雑なウィスキーを誇りに思うだけでなく、息子がアソシエイト・ブレンダーとして初めて手掛けた製品に共に携われたことを光栄に思います。ボトルに刻まれた彼の名前を私たちの名前の隣に見るたび、この稀有な製品を創り上げた時の思い出が永遠に蘇るでしょう」と語りました。ブルースは「ジェネレーションズでは、家族と果敢な精神を真に称えるウイスキーを造ろうと試みました」。「父はいつも、私達はボトルに刻まれた名前以上の存在だと言っていました。そして今回、父と祖父から学んだ全てを活かしつつ、私自身の視点を取り入れる初めての機会を得たのです。私達はこのウィスキーを愛し、それが語るストーリーを心から誇りに思っています」と。

偖て、このジェネレーションズはその価格に就いて触れない訳にはいきません。ワイルド・ターキーと言うか親会社のカンパリなのでしょうか、2023年、彼らは限定版のリリースに大幅な値上げを実施しました。流れとしては、先ず発売当初は75ドルだったラッセルズ・リザーヴ13年を150ドルに値上げしました。続いて7月にマスターズキープ・シリーズのボヤッジ(ボヤージュ)を従来の200ドルから275ドルに値上げしました。更に、2022年にトレンドに乗じて発売された一つの倉庫のみのバレルから造られるラッセルズ・リザーヴ・シングル・リックハウス・キャンプ・ネルソンCは250ドルの価格設定でしたが、2023年版のキャンプ・ネルソンFの希望小売価格は300ドルまで値上がりしました。そして、2023年の秋に投入されたワイルドターキーの最高峰とも言えるこのジェネレーションズは、何と450ドルという驚異的な価格で発売されたのです。このため、海外のバーボン・レヴュワーは概ね、その味わいが高いお金を払ってまで買うだけの価値があるのかどうかに言及しています。私もその観点はどうしたって無視することは出来ないでしょう。では、さっそく注いでみます。あ、マッシュビルはいつもの75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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WILD TURKEY GENERATIONS 120.8 Proof
2023年ボトリング。やや赤みのある濃いブラウン。トフィ、プルーン、焦げ樽、熟れた洋梨、グァバ、バター、ツナ、ピーカンナッツ、塩、ベーキングスパイス、熟れた桃、炭、レモン。豊富な果実とキャラメルと土の香り。思ったよりゆるい口当り。パレートは甘く且つスパイシーで、塩味も感じ易く、フルーツキャンディぽさも。余韻はミディアム・ロングで思ったよりは短いが、芳醇なスパイスと甘く香ばしい炭の香りが揺蕩う。グラスの残り香はナッツとコーン。余韻がハイライト。
Rating:89/100

Thought:近年飲んだ高級なワイルドターキーでアロマが最もフルーティに感じました。味わいにも幾つものフルーツが潜んでいます。通常の8年や12年だとチェリー中心のフルーツ感だと思うのですが、こちらは他にも多様なフルーツを感じると言ったところかと。とは言え、果実味が突出している訳ではなく、スパイス、甘み、樽の香りなどがバランス良く整っています。口の中で感じる味わいは、12〜15年のバーボンも入っている割に意外と若々しくもあり、私にとっては好印象でした。オールスパイスの爽やかなスパイス感とレモンのような爽快感のある余韻はかなり独特な気がします。勿論、そこに深みのある焦樽のニュアンスや、ドライになり過ぎず続く甘み、ハイアープルーフの熱さも折り重なって複雑になっているのですが。開封から1年くらい経つと少し長熟感が強くなった気がします。また、私には数滴の水を加えてもあまり変化を感じられませんでした。逆に加え過ぎると美味しくなくなったように思います(具体的には8滴以上)。
海外のレヴュワーの或る方はジェネレーションズに就いて、「この取り組みのユニークさは評価し、完成品の品質も高く称賛するが、この価格であればワイルドターキーがこれまでにボトリングした中で最高の表現の一つであるべき」なのに「シンプルにそのタスクは適えられていない」と言っていました。この方がラッセルズ・リザーヴの13年や15年、キャンプ・ネルソンのリックハウスからのシングル・バレル、或いはマスターズキープ・シリーズの好みに合ったどれかや、はたまたオールドボトルの銘品の何かを念頭に置いてそう言ってるのか分かりません。私は現代のワイルドターキーの上位ボトルを全部飲んだことはないので、この方のような比較は出来ませんが、ジェネレーションズはシンプルに素晴らしい出来栄えだと思いました。

Value:このジェネレーションズは日本では2024年5月14日に税込77000円で発売され、日本での販売数量は250本とされていました。まあ、バーボンとしてはかなり高いですよね。個人的にワイルドターキーは好きなブランドなので、随分と迷いましたが買ってみた次第です。飲んでみると、間違いなく美味しい。但し、70000円もするならもう少し美味しくあって欲しかった、と言うのが正直な感想です。ラッセル3世代全員がこのプロジェクトに携わったというバックストーリーに魅了され、ワイルドターキーの歴史を築いてきた彼らへの賛美として購入するのであれば、正に打って付けの製品なので大枚を叩いて買うべきでしょう。しかし、それなりのワイルドターキー・ファンなら誰もが買うべきかと言うとそうではありません。その理由は、個人的にはマスターズキープ・シリーズを35000円として考えて、その倍旨いとまでは感じないからです。物にもよりますが、体感としていいとこ1.25〜1.5倍旨いくらいですかね。だから、コスパを重視するバーボン飲みにはオススメ出来ないのです。そういう方はワイルドターキー8年を20本ほど買い込む方がいい。ワイルドターキー8年は十分に優れたバーボンですから。いや、もっと言うなら、ワイルドターキー8年はジェネレーションズよりも美味しい瞬間があるのです。その瞬間とは、言うまでもなく、ワイルドターキー8年を体が欲してる時です。ターキー飲みなら解かりますよね? 逆に言えば、コスパを度外視して、ワイルドターキー8年や12年やマスターズキープとは違う「体験」をどうしても求めるなら買うべきなのです。また、ワイルドターキーのオールドボトルの人気銘柄よりは少し(だいぶ?)安くはあるので、お金に余裕があるなら購入してみるのも良いかと。まだ買えるのならばですが…。出来れば、何処かのバーで試してみるのがいいかも知れません。これまた、まだ残っているのならばですが…。

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今回は、日本では2022年初め頃から出回り始めた、リニューアルされたパッケージのエヴァンウィリアムス12年を開封してみました。従来までと違いゴールドのワックスで封されて高級感が出ましたね。EW12赤ラベルは輸出専用バーボンとして知られ、長きに渡り日本でのみ販売されていましたが、ヘヴンヒルが2013年にルイヴィルのダウンタウンにエヴァン・ウィリアムス・エクスペリエンス(バーボン体験が楽しめるテーマパークのような施設)をオープンすると、スタート時からあったのか或る段階(2015年あたり?)からなのか判りませんが、ギフト・ショップ専売品としてアメリカ国内でも販売されるようになりました。しかし、ヘヴンヒルは日本での一般的な価格よりも遥かに高い価格で販売しました。2017年頃で130ドル、その後150ドルに値上がりしたそうです。ヘヴンヒルはアメリカ国内で高く売るに際し、より高級に見せるため、見栄えを良くするため、安っぽいスクリュー・トップにワックスを掛けたのではないか、と勘繰るアメリカのバーボン愛好家の方もいます。また逆に、SNS上で見掛けたのですが、輸出版とアメリカ国内版を飲み比べ、アメリカ国内版の方が大分美味しかったという趣旨のことを言っている日本のバーボン飲みの方がいました。そこで裏読みすると、もしかしたらアメリカ国内版の方が値段が大幅に高い分、バッチングにクオリティの高いバレルが選ばれている可能性もあるのかも知れません。或いは単なるバッチ違いの差なのか、真相は藪の中です。まあそれは措いて、私としては一つ前のラベルの物とこのゴールドワックスの物とではどのように違うかを較べたいと思い開封しました。では、さっそく飲んでみましょう。ちなみにマッシュビルは78%コーン、10%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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Evan Williams 12 Years 101 Proof
推定2021年ボトリング(瓶底)。色はダークアンバー。モダンな木材、ガレットブルトンヌ、薄いチェリーキャンディ、一瞬プルーン、フランボワーズ、マッシュルーム、ペッパー。ほんの少しフローラルな香りも。口当たりはややオイリー。口の中ではドライオークが感じ易い。余韻はミディアム・ロングでチャード・オークの香ばしさと僅かに柑橘の爽やかさと苦味が。
Rating:85.5→86.5/100

Thought:開けたてはフレイヴァーが殆ど感じられませんでした。開封から1週間くらい経つと、漸く熟成感のある土っぽい樽の味わいが出て来ました。私が飲んだ一つ前のラベルの物は過去にレヴューを投稿した2016年ボトリングなのですが、それと較べると12年という熟成感を思わせるものが少なくなった印象を受けます。アルコールの刺激や木材のエグみが強く、深みのあるチョコレート感が弱いと言いますか…。正直、2016年ボトリングの頃よりクオリティは少し低下したと思いました。しかし、開封から1年くらい経つと、アルコールのキツさのようなものは多少は和らぎ、味わいに甘酸っぱいフルーツが感じ易くなって美味しくなりました。上の矢印はその事を指しています。1年も待ってられないなら、少なくとも30分は空気に触れさせておくか、ロックで飲んだ方が良いのかも。どうも近年のヘヴンヒルは香りが開くのに時間が掛かるような気がします。参考までに言うと、このEW12と同時期に家で開封していたボトルに、ケンタッキー・アウル・コンフィスケイテッドとワイルドターキー12年があるのですが、実はその2つの方がリッチなフレイヴァーで美味しく感じていました。つまり、このEW12は香りが開いたとて私にとってはその程度だったと言うことです。まあ、バッチ間の差があり得ますので、一概には言えないでしょうが。ゴールドワックスの掛かったEW12赤ラベルを飲んだことのある皆様の感想を募りたいところです。

Value:エヴァンウィリアムス12年ゴールドワックスのアメリカのバーボン愛好家の評価としては、要約すると、これは本当に良いボトルだけれど130〜150ドルもするほど良いボトルではない、しかし日本での40ドルという価格ならバーボンの中で最もお買い得だろう、といった意見が多数を占めます。一方で、130〜150ドルという価格にしてはストーリーのなさや安っぽいボトルやギミックのなさを考えると高く感じるかも知れないが、エヴァンウィリアムズ12年101プルーフは単純にその味わいに基づいて然るべき価格が設定されている、と評している人もいました。では日本に住み、昔から赤エヴァンを享受して来た我々にとってはどうなのでしょう? 私はEW12が2000円代や3000円代で買えていた頃を知っている人間です。最近ではここ日本でも5000円を超えたりします。そして、私の印象としては近年に近ければ近いほど味わいのクオリティは少しづつ下がっているような気がしています。味が落ちたのに値が上がる、これは心理的に辛いことです。とは言え、味わいの面では現代の木材の風味とアルコール感に慣れてしまえば問題はないし、金額の面でもバーボンに限らず何でも値上がってる世の中ですから、EW12は今でも値打ちのあるバーボンに違いありません。昔の物と較べると流石に分が悪くはありますが、それらは二次流通市場で相応に値上がりしているので、現行ボトルも相対的には「安くて旨い」ままと言えます。文句と取られかねないことも書き連ねましたが、このEW12ゴールドワックスはそもそも美味しい範疇に入るので、個人的には購入をオススメします。アメリカでの価格を考えたら、買わなきゃバチが当たるってもんです。但し、日本に於いて予てより築かれてきたエヴァンウィリアムス12年レッドラベルの評価を、このボトルだけ飲んで知った気になるのは良くないと思います。昔の物、特に90年代までの物を飲んだことのないバーボン初心者の方は、何処かのバーで是非ともオールドボトルを飲んでみて下さい。きっとエヴァンウィリアムス12年の真髄を知ることになるでしょう。


追記:聞いたところでは終売なのを輸入元が認めたそうです。なんでもヘヴンヒルの意向だとか。残念ですねぇ…。

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バッファロー・トレース・コーシャ・ウィート・レシピは、バッファロー・トレース蒸溜所が毎年過越祭(*)の後にリリースするコーシャ・ウィスキー3種のうちの1種です。他の2つはライ・レシピ・バーボンとストレート・ライ・ウィスキーとなっています。バッファロー・トレース蒸溜所を所有するサゼラックのオウナーであるビル・ゴールドリングは、シカゴ・ラビニカル・カウンシル(cRc)と提携してコーシャ・ウィスキーを製造することでユダヤ人コミュニティにアピールするアイディアを思い付き、2010年頃にその3種の製造を決定したそうです。2020年4月がコーシャ・ラインの発売された最初の年でした。ウィート・レシピ・バーボンはバッファロー・トレースの公式ウェブサイトでは以下のように説明されています。
バッファロー・トレース蒸溜所は、シカゴ・ラビニカル・カウンシル(cRc)とのパートナーシップにより、このウィート・レシピ・バーボンを製造しました。W.L.ウェラー・バーボン・ウィスキーと同じ高品質の穀物で造られたこのコーシャ・スピリッツは、特別に指定されたコーシャ・バレルで熟成されました。過越祭のためのコーシャではありませんが、過越祭期間中に於けるユダヤ人の所有権に関する問題を避けるため、これらのバレルはcRcの代表者が立ち会う式典で非ユダヤ人の経営者に売却されました。7年間の熟成の後、このウィート・レシピ・バーボンは、事前にボトリング・ラインを洗浄し、非コーシャ・スピリッツとの接触がないことを確認した上で、94プルーフにてボトリングされました。毎年過越祭の後にリリースされるこのウィート・レシピ・バーボンは、アメリカで最も古くから継続的に稼働している蒸溜所の伝統に対するオマージュとして他に類を見ない存在です。
このコーシャ・ウィスキーのウィート・レシピは、同社のウェラー・シリーズと同じウィーテッド・マッシュビルを使用しており、ウェラー12年とBTACのウィリアム・ラルー・ウェラーを除けば、殆どのウェラーは5~6年または6〜7年熟成らしいので、7年熟成のコーシャ・ウィートはそれらの人気の高い小麦バーボンと味わいが似ているのではないかと云う期待があります。ちなみに、バッファロー・トレース蒸溜所のマッシュビルは一応は非公開なのですが、彼らのウィーテッド・マッシュビルは70%コーン、16%ウィート、14%モルテッドバーリーであろうと推測されています。ウェラー・スペシャル・リザーヴよりプルーフが高いのが良いですね。また、ラベルを読むとバレルが特別なようなので、それがどれほど味に変化を齎すのかも興味深いところでしょう。バッファロー・トレースによると、数年前の発売以来、「コーシャ・トリオは大きな成功を収めています。ユダヤ教徒だけでなく、コーシャ・ラベルが高品質と清潔さの基準と同義であると考える幅広い層に受け入れられています」とのこと。希望小売価格は40ドルですが、州や店舗によって価格差があり、場合によっては100ドル近い値付もあったようです。ネットで海外のバーボン愛好家のこのウィスキーの評価を見てみると、ウィーテッド・バーボンが好きならこのウィスキーはうってつけだが大金をつぎ込む程ではない、希望小売価格ならありだろう、と云う意見が多い印象を受けました。中にはウェラー・スペシャル・リザーヴで十分と云う趣旨の方もいましたが…。

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BUFFALO TRACE KOSHER WHEAT RECIPE 94 Proof
ボトリング年不明。今回のバー遠征で飲んだ中で最も甘く感じました。私は甘いバーボンが好きなので美味しかったです。但し、サイド・バイ・サイドでウェラー系列と飲み比べてないので記憶を頼りに言いますが、ウェラーのスペシャル・リザーヴやアンティークと較べてこちらの方が物凄く美味しいとまでは感じられませんでした。
Rating:86/100


*日本では「すぎこしのまつり」、英語では「Passover(パスオーヴァー)」、ヘブライ語では「Pesach(ペサハ)」と呼ばれ、モーセがエジプトで奴隷として苦しんでいたユダヤの民を引き連れてエジプトを脱出したことを記念するユダヤ教の行事。過越祭の日程はユダヤ暦ニサン月14日の夜から1週間とされる。正式には過越祭は1日で終わり、その翌日からの7日間は「種なしパンの祭り」なのだとか。

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ピュア・アンティークは、ヴェリー・オールド・セント・ニックやレア・パーフェクション等と同じく、マーシィ・パラテラのアライド・ロマー/インターナショナル・ビィヴィレッジのブランドです。近年、プリザヴェーション蒸溜所が開設された後、18年と20年の長熟物が復活しましたが、こちらはオリジナルのもので、おそらく2000年代前半にリリースされたと思われます。その当時物は日本向けの製品です(または一部ヨーロッパにも流通したかも知れませんが、私には仔細は分かりません)。当時のヴァリエーションには、バーボンは10年113.4プルーフ、10年124プルーフ、15年99.4プルーフ、20年102.6プルーフ、25年90.2プルーフ、そしてライには8年93プルーフがありました。このブランドには壮大な物語などはなく、その起源はよく分かりません。多分、フランクフォート・ディスティラリーからシーグラムに至る有名な「アンティーク」バーボンとは全く関係がないとは思います。ラベルに僅かに書かれた文章とその名前から察するに、「ピュア」は「アンフィルタード(無濾過)」や「バレル・プルーフ(樽出し)」を表し、「アンティーク」は「長期熟成」を意味しているのでしょう。とは言え、バーボン25年やライ8年などはプルーフが低過ぎるのでバレル・プルーフではないような気もしますが…、どうなのか? また、ラベルにはスモールバッチともあります。このピュア・アンティークのボトリングされた本数は分かりませんが、それほど多くはない筈です。バーボンではあまり見掛けないボトル形状とラベル・デザインが相俟って独特の魅力がありますね。ここらへんにマーシィのバーボンをプレミアム化しようとしていた意図が感じられます。ボトリングはKBD(現在のウィレット蒸溜所)がしています。中身に関しては基本的には謎なのですが、マーシィが購入したスティッツェル=ウェラーのバレルから来ているか、KBDの倉庫のストックから来ている可能性が高いのではないでしょうか。

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PURE ANTIQUE 20 Years Old 102.6 Proof
湿った木材やアンティークウッドが主なフレイヴァー。長熟なのにいきいきとしたアルコール感があって枯れた印象はなく、美味しかったです。
Rating:88.5/100

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの7、8杯めに選んだのは、おそらくこのバーの中でも最も貴重なバーボンであろう禁酒法時代のオールド・オスカー・ペッパーと禁酒法解禁後のL.&G.(ラブロー&グラハム)です。オールド・オスカー・ペッパーはケンタッキー・バーボンの有名な銘柄の一つであり、ペッパー家の3世代はケンタッキー州の最前線でウィスキーを蒸溜し、業界の黎明期を今日の姿に築き上げるのに貢献しました。そして現在でもペッパーの名はブランドとして復活しています。ラブロー&グラハムも現在のウッドフォード・リザーヴに繋がる名前です。バーボンの歴史は彼らを抜きにしては語れません。そこで今回はペッパー・ファミリーのレガシーの一部とグレンズ・クリークの蒸溜所の歴史に就いてざっくりと紹介したいと思います。

ペッパー家の蒸溜はエライジャ・ペッパーから始まります。エライジャは、サミュエル・C・ペッパー・シニアと「英国人女性」とされるエリザベス・アン・ホルトン・ペッパーの間に生まれました。生年には系図サイトを参照にしても諸説あり、1760年12月8日月曜日とするもの、1767年とするもの、1775年とするものがあります。出生地も、ヴァージニア州カルペパーとしているものとフォーキア・カウンティとしているものがありました。この二つは隣接しているので、だいたいそこら辺で産まれたのでしょう。彼は1794年2月20日にフォーキアで名門オバノン家出身のサラ・エリザベス・オバノンと結婚しました。エライジャの生年を1767年としている系図サイトだと、サラを1770年生まれとしていました。或る記録によると結婚当時のサラは13歳か14歳だったとされているようで、そちらが正しい場合は生年は1780年あたりになるでしょう。1797年、エライジャはサラとその兄弟ジョン・オバノンと共に500マイル以上西のケンタッキー州に移り住み、現在ウッドフォード郡ヴァーセイルズとして知られる地域に居を構え、町のコートハウスの裏手のビッグ・スプリング近くに最初の小さな蒸溜所を建てました。1780年頃からエライジャはヴァージニアで蒸溜業を始めていたとする説もありました。農業と蒸溜が不可分のファーム・ディスティラーだったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、エライジャは一旦バーボン・カウンティに移って数年間を過ごしたらしい。バーボン・カウンティの納税記録と1810年の国勢調査によると、ウッドフォード・カウンティに戻る前の3年間はバーボン・カウンティに住んでいたのとこと。その後ウッドフォード郡に再び戻り、1812年までにヴァーセイルズのグレンズ・クリーク沿いの200エーカーの土地に新しい蒸溜所をオープン。この土地の明確な所有権が確立されたのは1821年のことで、証書が記録されたのはその翌年だったそう。彼がこの場所を選んだのは、敷地内を支流が流れ、小川のほとりに3つの清らかな泉が湧き出していたからでした。そこには農場とグリストミルもあり、彼らはその水を穀物を粉砕する動力源、発酵や蒸溜のようなウィスキー造りのためだけでなく、冷蔵用に使ったり新鮮な飲料水としても家畜のためにも利用しました。当時は正に「農場から蒸溜まで」の操業だったのです。近隣のケンタッキー州の農家は連邦税が課されたため蒸溜を断念せざるを得ませんでしたが、エライジャには資金力があったようで、彼らの穀物を買い取り、合法的にウィスキーに仕上げたと言います。またエライジャはこの土地の蒸溜所と周辺の農場を見下ろす丘の上に、外壁に巨大な石灰岩の煙突を備えた2階建てのログ・ハウスを建て家族を住まわせました(*)。当初のペッパー入植地で唯一残ったこの家は、その後の住人たちによって増築され使われました。エライジャとサラは、少なくとも3人の息子と4人の娘の両親だったとも、4男3女の7人の子供がいたとも、或いは8人の子供を儲けたともされ、その場合はプレスリー、オスカー、エリザベス、サミュエル、ナンシー、アマンダ、ウィリアム、マチルダだったと思われます。ペッパー家は奴隷の所有者であり、1810年の国勢調査の記録によると一家には9人の奴隷黒人がおり、所有地の繁栄に伴ってその後の10年間で奴隷は12人(男7人、女5人)に増えました。畑仕事をする人手が増えたためか、エライジャは所有地を350エーカーまで拡大したとか。更に、1830年の国勢調査では13人の男と12人の女を奴隷として雇っていたとされ、ペッパー農場の成功を裏付けていると目されます。 エライジャはかなりの富をもっていたようで、彼が亡くなった時の目録には、蒸溜所のカッパー・ケトル・スティル6基、マッシュ・タブ74個、多数の樽、熟成ウィスキー41樽(1560ガロン相当)があり、家畜は22頭の馬、113頭の豚、125頭の羊と子羊、30頭以上の牛を数え、その他にも農業や木材加工に使用する道具も多数所有していました。エライジャ・ペッパーは1831年2月23日(または3月20日前という説もある)に死去。彼は亡くなるまで蒸溜所を経営し、生前に遺言を作成しました。子供達に家財を少しと奴隷一人づつを贈与し、最愛の妻サラには蒸溜所と奴隷を含む殆どの財産を残しました。キャプテン・ウィリアム・オバノンとナンシー・アンナ・ネヴィルの娘であるサラ・エリザベス・オバノンは、南北戦争の名将でジョージ・ワシントンの個人的な友人でもあったヴァージニアのジョン・ネヴィル将軍の姪でした。ネヴィル家はヴァージニアの裕福な貴族であり、ペッパー家を経済的に援助していた可能性をジャック・サリヴァンは指摘していました。エライジャは広大な農場と関連事業の管理をサラに任せていたようで、財産目録によれば彼女はスティルやタブ等を含む農場や蒸溜所の設備の購入を監督していたり、ペッパー邸を飾ったであろうカーペット、銀製品、その他の高価な調度品の購入も彼女が担当したと推測されます。国家歴史登録財に登録するためにこの土地を調査した歴史家の推定では、エライジャの死後、1831年から1838年までの約7年間、サラは蒸溜所やウィスキー販売を含む家業の管理を担当していたそうです。そして、サラは蒸溜所を受け継いだものの経営にはあまり関心がなかったのか、或いは高齢のための隠居なのか、1838年に自分のインタレストを長男のオスカー・ペッパーに売却しました。

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今回飲んだオールド・オスカー・ペッパー(O.O.P.)のブランド名の由来となっているオスカー・ネヴィル・ペッパーは、1809年10月12日木曜日に生まれました。幼い時のことはよく分かりませんが、彼は父親が創業した比較的小規模なウイスキー事業を引き継ぎ、新たなレヴェルに成長させたことで知られています。蒸溜所の丸太造りから石造りへの転換と小川の西側への移転は、1838年までにオスカーの所有下で行われました。そのため1838年はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の創業の年となり、O.O.P.ブランドの起源となりました。但し、1840年の国勢調査ではオスカーの職業はファーマーだったそうで、農場と蒸溜所は兼業であり、農業の方でよりお金を稼いでいたのかも知れません。オスカーは母の死後(サラの死去は1848年説と1851年説がありました)、母の土地を分割した兄弟姉妹のシェアを取得したことが譲渡証書や遺言によって示されているそうです。彼はプランテーションを所有している間に敷地内の大規模な改修を始め、父親が製粉と蒸溜業を営んでいた丸太造りの建物を石造りの建物に建て替え、住居も大きく増築しました。1850年の国勢調査には、トーマス・メイホールというアイルランド出身の石工が一家と同居していたという記録が残っているとか。
ペッパー家のファミリー・ビジネスに大きく貢献したのはドクター・ジェイムズ・クロウでした。オスカーは彼を今で言う蒸溜所のマスター・ディスティラーとして雇用しました。クロウはサワーマッシュ・ファーメンテーションや木製バレルでの熟成プロセスを改良/体系化することで、バーボン造りのプロセスに科学的な要素を加えた人物として評価されています。ジェームズ・クリストファー・クロウはスコットランドのインヴァネスに生まれ、エディンバラ大学で化学と医学を学び、アメリカに移住しました。最初はペンシルヴェニア州フィラデルフィアに定住し、短期間滞在した後、ケンタッキー州に移るとグレンズ・クリーク周辺の蒸溜所で働き始めました。彼は学んだ科学的知識を蒸溜に活かし、リトマス試験紙でマッシュの酸度を測ったり、糖度計で糖度を測ったりしました。バーボンの製造に於いて殊更取り上げられる有名なサワーマッシュ製法はクロウが考案したのではありませんでしたが、科学の知識を応用して完成させました。サワーマッシュは、前回のバッチのマッシュから残ったバックセットの一部を取り出し、現在のマッシュの中に含めることで、発酵を促進し、悪い菌の繁殖を防ぐのに役立ちます。1833年にはオスカー・ペッパーがクロウに助言を求めたとされており、クロウはその時期にグレンズ・クリーク沿いの他の蒸溜所で働きながらペッパーズの蒸溜所を手伝っていたようです。クロウの専門知識が齎す商業的利益の可能性に気付いたオスカーは、彼と協力してペッパー農場の小さな丸太造りの蒸溜所を1日あたり1もしくは1.5ブッシェル程度から25ブッシェルの蒸溜所にアップグレードしました。クロウは1ブッシェルの穀物から2.5ガロン以上のウィスキーを造ってはならないと主張したとされます。この蒸溜所で伝説的なオールド・クロウ・ブランドは誕生し、蒸溜され、その後多くのバーボン消費者に大人気となりました。クロウはキャリアの殆どの期間をペッパーの蒸溜職人として過ごし、他の蒸溜所で働いたのは少しの期間だったと思われます。彼は1833年頃から1855年までペッパー家のために働きましたが、1837年から1838年に掛けてグレンズ・クリーク農場の敷地は建設工事で占拠され、1838年から1840年に掛けては深刻な旱魃が農業生産に影響を及ぼしたため、この間クロウはオスカーの蒸溜所で働いていなかったようです。新しいカッパー・ポット・スティルとフレーク・スタンド(蒸溜器のワームを冷却する容器)が設置され、マッシング・タブ、ファーメンター、スティーム・エンジンが製造開始の準備を整える他、建設工事による多額の資本支出には上述のトーマス・メイホールの雇用も含まれ、彼は地元の石灰岩から大きな石造りの蒸溜所、貯水槽、製粉所、倉庫などの施設を建設しました。1838年の春から1840年の冬に掛けての旱魃はケンタッキー地方の大半に壊滅的な打撃を与え、作物の不作と蒸溜用の水不足を齎したと言います。蒸溜には水が不可欠で、1ガロンのウィスキーを造るには、マッシング、コンデンシング、クリーニングに60ガロン以上の水が必要でした。クロウがオスカーの蒸溜所に復帰したのは1840年のシーズンになってからのこと。建設が完了するとクロウは家族を連れて新しいペッパー蒸溜所から200ヤード上にある家に移り住んだそうです。また、彼は蒸溜所の年間ウィスキー生産量の8分の1(または10分の1という説も)を支払いとして交渉したと言います。これは農家の穀物を挽くための報酬として製粉業者が受け取る金額とほぼ同じでした。年間生産量は季節によって変動しますが、1840年代後半には年間生産量は約650バレル(20000プルーフ・ガロン)となり、樽からの蒸発や浸透、卸売価格の変動、ディーラーへの年間販売量を考慮すると、クロウの報酬はおそらく年間500ドルから1000ドルと高額、彼の生産契約の途中である1848年の都市部の職人の平均年収は550ドル、ケンタッキー州の農場労働者の年収は120ドルだったので、クロウはケンタッキー州の田舎の基準から見て非常に快適な生活水準を誇っていた、とウィスキーの歴史家クリス・ミドルトンはクロウ研究の中で述べています。雇い主のオスカーはウィスキーの取り分、家畜の販売、余剰穀物生産、亜麻と麻の栽培などでかなりの収入を得ており、1860年、政府は彼の土地と資産を67500ドルと評価し、これは2020年の価値で2100万ドル相当でした。この蒸溜所で販売されていた主力ブランドはオスカー・ペッパー・ウィスキーとクロウ・ウィスキーだと思いますが、3年以上保管されたウィスキーは「オールド」が共通して付され、おそらくどちらも同じクオリティだったでしょう。とは言えクロウ・ウィスキーの評判は流通量の多かったオスカー・ペッパー・ブランドよりも高かったそうです。クロウ自身の名を冠したウィスキーは軈て「オールド・クロウ」として知られるようになり、他の汎ゆるバーボンの評価基準となりました。オールド・クロウは1800年代半ばまでに高級ウィスキーのシンボルになり、殆どのウィスキーが1ガロン当たり15セントで販売されていたのに対し、クロウのウィスキーは25セントで販売されていたとか。クロウはペッパーの蒸溜所で15年間働いた後、1855年の秋にそこを去りました。また、サム・K・セシルの著作によると、オスカー・ペッパーは1860年にグレンズ・クリークから数マイル下流のミルヴィルにオールド・クロウ(RD No.106)という別の蒸溜所を建設し、そこでオールド・クロウ・ブランドを製造した、とのこと(**)。
オスカー・ペッパーの私生活面では、彼は1845年6月にウッドフォード郡で生まれ育ったナンシー・アン(もしくはアネットとも)・"ナニー"・エドワーズと結婚しました。それ以前に、キャサリンというゲインズ家出身の妻を1839年に亡くしているとの記述も見ましたが、系図サイトや墓所サイトにはその件は触れられてなく、私にはよく分かりません。ナニーは結婚当時18歳で、夫より17歳ほど年下でした。彼女の父ジェイムズ・エドワーズはグレンズ・クリークに隣接する農場を所有していたらしい。オスカーとナニーの間には7人の子供がおり、おそらく生年の順で以下のようになるかと思われます。
エイダ・B・ペッパー(1847-1927)
ジェームズ・エドワード・ペッパー(1850 - 1906)
オスカー・ネヴィル・ペッパーJr.(1852 - 1899)
トーマス・エドワード・ペッパー(1854 - 1933)
メアリー・ベル・ペッパー(1859 - 1913)
ディキシー・ペッパー(1860 - 1950)
プレスリー・オバノン・ペッパー(1863 - 1871)
メアリーの生年を1861年としているものもありましたが、詳細は不明です。それは兎も角、子宝にも恵まれたオスカーのリーダーシップによって農場と蒸溜所は繁栄し、1860年の国勢調査によると不動産の評価額は31600ドル(現在の約770000ドル相当)で、贅沢品を含む個人資産は36000ドルだったとされています。彼の財産には12人の男と11人の女の奴隷も含まれており、そのうちの何人かはエライジャから受け継いでいたのでしょう。彼らは家財目録に記載されている総額約22000ドル近くの作物や牛の世話をしていたと考えられています。蒸溜の作業もこなしていたかは分かりません。1859年には2人の女性奴隷が8月にマリアという女の子とウィリーという男の子を出産しており、父親はオスカーのようです。蒸溜所は1865年までオスカーの管理下で運営されました。その年の6月にオスカー・ネヴィル・ペッパーは56歳で死去し、墓前で家族や友人たちに弔われながら、フェイエット郡のレキシントン墓地に埋葬されました(オスカーの死を1864年や1867年としている説もある)。彼の死後に出された資産目録には、バーボンの製造を物語るカッパー・スティルとボイラー、400バレルのコーン、400ブッシェルのライ、40ブッシェルのバーリー・モルト、30ブッシェルのバーリーなどがあり、アルコールの目録には1ガロン40セントと80セントの価格で120ガロンのウィスキーが記載されていたそうです。ペッパーの所有していた829エーカーの土地での畜産は別の事業と目され、農場では21頭の馬と雌馬、7頭のラバ、25頭の乳牛、30頭の当歳牛と去勢牛、56頭の羊、100頭以上の豚を飼育していました。家庭内にはピアノ、「冷蔵庫」、法律書などがあったそうで豊かな暮らしぶりを想像させます。オスカーが死去した際、管財人による売却の新聞広告には、彼の個人資産として「非常に古いクロウ・ウィスキーの少数のバレルがあり、良質な飲酒の最後のチャンスである」と記されていたらしい。

オスカー・ペッパーは父のエライジャと違って遺書もなく7人の子供と農場と蒸溜所ビジネスを妻に残して亡くなりました。1869年に行われたオスカーの遺産相続の裁判所による調停では、彼の所有地829エーカーが7人の子供達のために7つの不平等な土地に分割されました。これにより末っ子でまだ7歳だったプレスリー・オバノン・ペッパーが160エーカーの土地、蒸溜所、グリスト・ミル、家族の住居を含む最大の分け前を受け取りました。オバノン・ペッパーはまだ幼く、更にその後の14年間は未成年であるため、自動的に母親のナニー(1827-1899)が後見人となり、経済的に生産性の高い財産の殆ど全てがペッパー夫人の手に委ねられます。これはナニー・ペッパーを養うための裁判所の配慮でした。ナニーはまだ比較的若かったものの、義理の母サラのようには自分で蒸溜所を経営する気はなかったようです。南北戦争終結後、ペッパー家の奴隷は全ていなくなっていました。彼女はプレスリー・オバノンの財産の後見人として、直ちにケンタッキー州フランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにこの土地をリースしました(***)。この契約によって同社は蒸溜所とその全ての設備、ディスティラーズ・ハウス、2つのストーン・ウェアハウスを管理することになりました。この2年間の契約にはグリスト・ミルや豚にスペント・マッシュ(使用済みのマッシュ)を与えるペン(囲い)も含まれています。同社は1866年にウィスキーの製造と販売を目的として設立され、彼らのビジネス・パートナーはエドムンド・ヘインズ・テイラー・ジュニアでした。社名の「&Co.」の部分は彼のことに他ならないでしょう。社名になっているW・H・ゲインズは近くのグラッシー・スプリングス・ロードに住んでいましたが、他のパートナーズはフランクフォートの住人でした。根拠はないものの尤もらしい噂によると、ゲインズ, ベリー&カンパニーが1866年に最初に買収したのは故オスカー・ペッパーからのウィスキー在庫100樽だったとのことです。それは兎も角、こうして1870年1月1日、ペッパー蒸溜所は初めてペッパー家以外のバーボン生産企業として機能しました(****)。それでも、1850年5月18日土曜日に生まれたオスカーとナニーの長男ジェイムズは父の死の当時15歳でしたが、ゲインズ, ベリー&カンパニーによって蒸溜所の運営に何かしら携わることになったようで、1870年の国勢調査では20歳のジェイムズ・ペッパーが蒸溜所のマネージャーとして記載されていたそうです。伝説的なカーネル・E・H・テイラー・ジュニアは当時すでに酒類業界で成功しており、ペッパー家の良き友人だったようで、オスカー・ペッパーの遺言執行者の一人であり、蒸溜所を所有するには若過ぎるジェイムズ・E・ペッパーの後見人ともなり、彼が21歳になるまで蒸溜所を経営したと云う説も見かけました。
「オールド・クロウ」は、ドクター・ジェイムズ・クロウには存命の相続人がいなかったため、ゲインズ, ベリー&カンパニーは問題なくブランドを独占することができました。同社はペッパーの所有地に「オールド・クロウ蒸溜所」の名を添え、オールド・クロウを彼らのフラッグシップ・ブランドとしました。伝えられるところによると、彼らはこのブランドを守り続けるため、ドクター・クロウと全く同じ方法でウィスキーを造ることを決意し、クロウが存命中に蒸溜していた古い蒸溜所を借り受け、クロウの下で技術を学んでその製法を伝授されたウィリアム・F・ミッチェルをディスティラーとして雇用した、とされています。一方、ジェイムズにはオールド・オスカー・ペッパーのブランドが残されることになりました。
野心的なテイラーに唆されたのか、或いは母親の脇役でいることに飽き飽きしたのか、ジェイムズ・ペッパーは1872年10月期の巡回裁判所に於いて、1869年に弟のオバノンに割り当てられていた蒸溜所用地の権利を求め、母親のナニー・ペッパーを相手取って訴訟を起こしました。ジェイムズは勝訴し、土地区画図に「Old Crow Distillery, Mill, Old Crow House」と記された小川の両岸33エーカーと小川の東側の2つの泉を手に入れます。とは言え、そのせいで深刻な母子間の不和は起きなかったようです。ジェイムズは経営権を握った2年後、ゲインズ, ベリー&カンパニーと決別したカーネル・テイラーと手を組み、二人は工場の改良と操業の拡大を図りました。カーネル・テイラーは蒸溜所拡張のための資金確保に尽力し、純利益の2分の1と投資額相当の補償を受けるという契約を締結して、プロパティに25000ドルを投資しました。市場でのウィスキーの売れ行きは好調で、ビジネスは順調でした。嘗てペッパー蒸溜所だった通称「オールド・クロウ蒸溜所」と呼ばれる場所で生産されたテイラーのバーボンはそのバレリング・テクニックで人気を博し珍重されました。1870年代、州都フランクフォートとそのすぐ南に位置するウッドフォード・カウンティで州内最大のバーボン生産が行われ、E・H・テイラー・ジュニアの「家」は世界に模範的なウィスキー・バレルを提供していると一般的に理解されていました。しかし、1877年に不況が国を襲います。アメリカの歴史の中でも最も議論を呼び白熱したと言われる、1876年11月7日に行われた大統領選挙は経済の混乱を引き起こしました。民主党候補のサミュエル・J・ティルデンが一般投票で勝利し、共和党候補のラザフォード・B・ヘイズが選挙人団で勝利します。そのため南部では大規模な抗議運動が起こり、再び内戦が勃発する恐れがありましたが、リコンストラクションの終結を約束したヘイズの勝利を認めることで決着します。しかし、それは市場に不安を齎し、1877年の恐慌を引き起こしました。そこにウィスキーの過剰生産も重なり、この不況は蒸溜酒業界に大きな影響を与えました。ジェイムズは深刻な財政難に陥り、カーネル・テイラーに支払うべきお金の余裕がなく、1877年に破産宣告を受けます。蒸溜所はカーネル・テイラーに没収され、彼はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の単独所有者となりました。ところが当のカーネル・テイラーも他の蒸溜所を経営したり様々なウィスキー事業を行っており、間もなく自身の財政破綻に見舞われます。カーネル・テイラーは1870年にフランクフォートの蒸溜所を購入し、借金してオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)に改築していました。そしてまた、上述したように、同時期にペッパー蒸溜所にも資金を貸し設備を改善していました。資金繰りは厳しく、カーネル・テイラーは借金を返すのに必死でした。彼は同じロットのバレルを2人の異なる購入者に販売し、それが財政的、法的問題に発展したこともあったそうです。借金が余りに高額だったため、彼は債務者から逃れるために南米への移住を考えたほどでした。そこで大口債権者であったセントルイスのグレゴリー, スタッグ&カンパニーが彼を救済し、1878年、カーネル・テイラーの二つの蒸溜所はジョージ・T・スタッグに譲渡されました。同年、スタッグはO.F.C.蒸溜所の土地を増やすために、すぐにペッパー蒸溜所の33エーカーをレオポルド・ラブローとジェイムズ・H・グラハムに売却しました。ラブロー&グラハムは、ナショナル・プロヒビションの到来を経て、その後も含めると62年間この蒸溜所を所有し操業することになります。こうしてジェイムズ・ペッパーは廃業に追い込まれ、ジャック・サリヴァンの言葉を借りれば「エライジャによって設立され、サラによって育てられ、オスカーによって拡張され、ナニーによって保護され、ジェイムズによって失われたこの土地を、ペッパーの一族が再び所有することはありませんでした」。しかし、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所は他人の手に渡ったものの、ジェイムズは後にレキシントンに自身の蒸溜所を設立し、ペッパー家の名前は長年に渡って取引で使われて行きます(後述)。

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(1883年のオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所)
ラブロー&グラハムという名前は、設立されたパートナーシップに由来します。レオポルド・ラブローは1847年(またはそれ以前)にフランスで生まれ、母国のワイン生産地で育ち、渡米時にはワイン商(またはワイン醸造家としての経歴を持つとの説も)の経験があったと言われています。国勢調査のデータでは、移住年は1865年、彼が32歳頃のことでした。パスポートの記述によると、彼は身長5フィート7インチ(約173cm)で、肌は浅黒く、目は灰色、鼻は鷲鼻だったとか。ラブローは、アラベラ・スコット・デイヴィスとシルヴェスター・ウェルチの娘であるルイーサ・ウェルチというフランクフォートの女性と結婚しました。もしかするとそれを機会にケンタッキー州に定住したのかも知れません。ルイーサの父親はチーフ・エンジニアとしてケンタッキー・リヴァーの閘門建設を計画/監督し、ウィスキーの出荷を含む地元産品の水上輸送を改善したと言います。夫妻の間には1876年にアーマという娘が生まれました。彼は、先ずはフランクフォートのハーミテッジ蒸溜所で働き、その後シンシナティで叔父と共に酒類卸売業に携わるようになったそうです。一方の、アイルランド系のジェイムズ・ハイラム・グラハム(1842-1912)は、ルイヴィルで大工、建設業者、製材所経営者として成功したウィリアム・グラハムとエスター・クリストファー・グラハムの息子として生まれました。蒸溜所を購入する前は運送業を営んでいたとされ、おそらくは相当に成功したフランクフォートの実業家だったのでしょう。オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を買収すると、土地の権利の半分はラブローに直ちに売却されました。ラブローとグラハムが出会った経緯はよく分かりませんが、1878年までには二人はケンタッキー・ウィスキー・マンとして認められるようになっていたようです。グラハムはプラント・マネージャーとなり、ラブローは卸売と小売販売を担当したとされます。保険引受人の資料では彼らのプラントはフランクフォートの南東9マイルにありました。石造りで屋根は金属もしくはスレート。敷地内には穀物倉庫や4つのボンデッド・ウェアハウスがあり、全て石造りで屋根は金属かスレート。ウェアハウスNo.1は蒸溜所から100フィート北にあり、この倉庫の一部は「フリー」でした(つまり一部はボンデッド・ウィスキーではなかった)。ウェアハウスNo.2のBはウェアハウスAに隣接し、スティルの北東100フィートにあり、ウェアハウスNo.3のCは蒸溜所から南へ104フィート、ウェアハウスNo.4のDは南へ285フィート。おそらくペッパーの時代からどれも引き継いだものでしょう。そして、彼らはオールド・オスカー・ペッパーを唯一のブランドとして生産したと伝えられます。
ラブロー&グラハムは、頻繁なパートナーシップの変化にも拘らず、その社名を継続してビジネスを行うことで伝統を維持し、誠実さを伝えました。1899年、グラハムは引退することになり、インタレストの半分をラブローに売却します。翌年、ジェイムズ・グラハムは死去。その後J・M・ヴェンダーヴィアーがグラハムの後を継ぎますが、名前はラブロー&グラハムのままでしたし、施設も引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られました。大切なパートナーを失ったもののラブローは歩みを止めず、このフランス人のリーダーシップの下、蒸溜所は発展を続けました。スタッフは著しく増加し、年月を重ねるごとに蒸溜所は改良され、拡張されて行ったそうです。長年に渡ってオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の経営を指揮したレオポルド・ラブローは60代の後半に心臓病を患い、1911年に死去しました。死亡診断書に記された死因は肺水腫だったとのこと。未亡人のルイーサをはじめとする家族が墓前で弔う中、ラブローはフランクフォート・セメタリーに埋葬されました。余談ですが、ラブロー家の子孫の方によると、このファミリーは著名な細菌学者のルイ・パスツールと古くから縁があり、ルイがレオポルドにフランス・ワインを売るためにアメリカに来るよう勧めたと家族内では伝承されていたそうです。ラブローの死が大規模な再編成の引き金となったのか、会社は1915年にリパブリック・ディストリビューティング・カンパニーのD・K・ワイスコフ、E・H・テイラー・ジュニアの従兄弟でラブローの娘アーマの夫リチャード・アレグザンダー・ベイカー、T・W・ハインド、カール・ワイツェルから成る新会社ラブロー&グラハム・インコーポレイテッドに引き継がれました。ケンタッキー出身のベイカーはラブロー&グラハムの名を残しながら蒸溜所の日常業務を担当していたそう。1895年から禁酒法施行までの間に、ラブロー&グラハムのオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所に施された実質的な建築的改良は、コーンハウスの取り壊しとウェアハウスCとDの小川側に貯蔵小屋を建てたことでした。これにより穀物の搬入とバレルの搬出のための鉄道の分岐器を設置するスペースが確保され、ケンタッキー・ハイランド鉄道は1911年までにラブロー&グラハムに到着し、穀物を敷地内に運び込み、バーボンを市場に出荷していたそうです。
蒸溜所の所有者が変わった1870年代、ペッパー邸もまた所有者が変わりました。ナニー・ペッパーは未婚の子供達とこの家に住み続けていましたが、1873年に息子のプレスリー・オバノンが10歳の若さで亡くなっています。彼はペッパー邸のある蒸溜所の東126エーカーを所有していました。この土地はオスカー・ネヴィル・ペッパーの相続地に隣接していました。おそらくこれらの土地が近かったため、オスカー・ネヴィル・ジュニアは兄弟の126エーカーの土地と邸宅を取得したものと思われます。その後、彼は1882年に同じ土地をファントリー・ジョンソンに売却しました。続いて1884年には、ジョンソンは住居と75エーカーをアリスとジェイムズ・ゴインズに売却します。ゴインズ氏はラブロー&グラハム蒸溜所のヘッド・ディスティラーでした。彼はオスカーやジェイムズのように玄関ポーチから敷地を眺めることも、丘から石灰岩の階段を下りて小川を渡り蒸溜所まで直接行くことも出来たとか。ゴインズ家は1906年までペッパー邸を所有し、そこで12人の子供を育て、 おそらく東棟の床下空間と南側のファサードのサイド・ポーチの上に2部屋を増築したのは彼らだろうと推測されています。1906年、ペッパー邸をリチャード・ホーキンスとメイミー・ホーキンス夫妻が購入しました。夫妻は蒸溜所とは何の関係もなかったようで、タバコとコーンの耕作を続け、果樹園も所有していたそうです。小川を見下ろす西棟の2階は彼らがオウナーの時代に増築したものと推測されています。1918年にホーキンス夫妻は住居と土地をリチャードとアーマのベイカー夫妻とジーンとミルドレッドのウィルソン夫妻に売却しました。こうしてペッパー邸は蒸溜所のオウナーの1人が部分的に所有することになりました。ベイカー夫妻が亡くなった後は、1977年までウィルソン家の所有でした。

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(1879年頃のJ. E. Pepper)
一方、倒産し家業の蒸溜所を失ったジェイムズ・E・ペッパーはあっという間に立ち直っていました。南北戦争終結後にヘッドリー&ファラ・カンパニーがレキシントンのオールド・フランクフォート・パイク(現在のマンチェスター・ストリート)に蒸溜所を設立していましたが、ジェイムズとパートナーのジョージ・A・スタークウェザーは2万5000ドルを調達して、1879年にはこの土地を取得し、火災で以前の建物が焼失していたため新しい蒸溜所を建設しました。ジェイムズ・ペッパーは、蒸溜所と設備のレイアウトをデザインし、建設の監督を担当し、この事業をジェイムズ・E・ペッパー・ディスティリング・カンパニーと呼びました。
ラブロー&グラハムの施設は引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られていましたが、レキシントンに自分の蒸溜所を設立したジェイムズ・ペッパーは、父の名前とジェイムズ・クロウ博士が築き上げた絶大な名声に基づいて商売を続けようと考えたのか、自分だけが「ペッパー」の名前を使うべきだと考えたのか、蒸溜所の操業開始後すぐの1880年10月、フレンチ・ワイン・プロデューサーのレオポルド・ラブローとケンタッキーの実業家ジェイムズ・H・グラハムのパートナーシップを相手取って、破産で失ったものの一部を取り戻すために連邦裁判所に訴訟を起こします。この件はケンタッキー・ウィスキーに係る商標訴訟でした。ちなみにこの連邦訴訟は、アメリカの司法史上に於ける非常に初期のものであり、合衆国最高裁判所判事はまだ国中の「巡回裁判所」の責任を負っていました。この訴訟を担当したのは、1881年5月12日から1889年に死去するまで合衆国最高裁判所判事を務めたトーマス・スタンリー・マシューズ判事でした。マシューズ判事はシンシナティ出身で、彼がユニオン・アーミーのオハイオ歩兵第23部隊のルーテナント・カーネルとして勤務していた当時カーネルだった嘗てのテント仲間のラザフォード・B・ヘイズ大統領によって最高裁判所判事に指名されました。しかし、この任命は承認されませんでした。上院は、ヘイズとマシューズがケニオン大学の同級生であり、シンシナティで弁護士として活動し、州歩兵隊の将校を務めていたことから、ヘイズを縁故主義で非難したのです。上院がマシューズ判事を承認したのはジェイムズ・A・ガーフィールド大統領が彼を再指名してからであり、この件は1881年に投票にかけられ、その時でさえマシューズは24対23の投票によって承認されたに過ぎませんでした。
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オスカー・ペッパーの死後、ジェイムズ・ペッパーが引き継いだ蒸溜所で製造したウィスキーのバレルには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。ハンドメイド・サワーマッシュ。ジェイムズ・E・ペッパー、プロプライエター。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー。」という商標が焼き付けられました。彼はまた「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」という名前と「O.O.P. 」という用語を使ってマーケティングを行い、1877年に商標登録しました。間もなくジェイムズ・ペッパーは破産し、蒸溜所とその設備一式を含む資産を被告のラブロー&グラハムに売却した後、新たな場所でウィスキーの製造を開始します。被告らはウィスキーの樽にペッパーが使用していたものと同じようなマークを使い始めました。そこには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。創業1838年。ハンドメイド・サワーマッシュ。ラブロー&グラハム、プロプライエターズ。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー」とありました。ペッパーはラブロー&グラハムを、彼らの劣悪なウィスキーがペッパー・ウィスキーと同じであると大衆を欺く目的で商標を侵害したと主張し提訴しました。ジェイムズ・ペッパーは、自身の所有権を証明する明確なマークをバレルに焼印していたという証拠を挙げ、ペッパーの弁護士は同じマークを彼のウィスキーに関するレターヘッズ、ビルヘッズやその他のビジネス用品により小さなサイズで印刷して使用していたと証言しました。ラブロー&グラハムが使用している類似のマークは、本物を求める顧客を獲得するための「不法かつ詐欺的なデザイン」であり、「オールド・オスカー・ペッパー」はジェイムズ・ペッパーが製造したものだけだ、と。彼らはラブロー&グラハムに対し、差し止めと損害賠償を求めたと言います。弁護士であり、法廷闘争から辿るバーボンやアメリカの歴史を本やブログで執筆しているブライアン・ハーラによると、オスカー・ペッパーがずっと以前に蒸溜所を所有していたにも拘らずジェイムズ・ペッパーは「オールド・オスカー・ペッパー」が1874年まで使われていなかったと主張したそうです。そこで、オスカー・ペッパーが蒸溜所を操業していた1838年から1865年までの間、既に「オスカー・ペッパー蒸溜所」として一般に知られていたことを証明する証拠が法廷に提出されました。更に言えば、ジェイムズ・クロウ博士と彼のバーボンの名声から蒸溜所は「オールド・クロウ蒸溜所」とも呼ばれ、博士が1856年に死去した後も、オスカー・ペッパーが1865年に死去した後もこの名称は使われ続け、ゲインズ, ベリー&カンパニーでさえ「オスカー・ペッパーのオールド・クロウ蒸溜所の借主」として売り出していました。フランクフォートの共同経営者達はペッパーの訴状に対する答弁書で、自分達のウィスキーはペッパー家がウッドフォード・カウンティに設立したオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の製品であり、蒸溜所が「全ての付属設備と備品と共に」彼らに売却され、その所有権によってオールド・オスカー・ペッパーの名でウィスキーを製造/販売する権利が付与されていると指摘し、寧ろ原告が新たな「他所で製造されたウィスキーにこのブランドを使用することは公衆に対する詐欺行為に当たる」と主張して反訴しました。紛争の核心は、問題の名称が何を意味するのかという点に於ける両当事者の意見の相違でした。ジェイムズ・ペッパーは自社が製造するウィスキーを他のブランドと区別するためにこの名称を使用し、その名のもとで優れた評判を得ているとする一方、ラブロー&グラハムはこの名称はウィスキーを製造する場所を指しており、そこは現在彼らが所有している場所であって、製品そのものを指すものではないとする訳です。マシューズ判事は言葉の平易な意味を指摘した上で、原告がオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していた時代に使用していたマーケティングがウィスキーの製造された場所に大きく焦点を当てていたことに依拠しました。ジェイムズ・ペッパーは自社のバーボンを下のように宣伝していました。
私の父、故オスカー・ペッパーの旧蒸溜所(現在は私が所有)を徹底的に整備した結果、私はこの国の一流商人らに、ハンドメイドのサワー・マッシュで、完璧な卓越性を誇るピュア・カッパー・ウィスキーを提供することになった。私の父が造ったウィスキーが名声を得たのは、優良な水(非常に上質な湧き水)と、隣接する農場で自ら栽培した穀物、そしてジェイムズ・クロウが製造工程を見守り、彼の死後はディスティラーのウィリアム・F・ミッチェルに受け継がれた製法によるものである。私は現在、同じ蒸溜者、同じ水、同じ製法、そして同じ農場で栽培された穀物で蒸溜所を運営している。
では、ジェイムズ・ペッパーの新しいバーボンが、オリジナルの産地から25マイルも離れた場所で蒸溜されている現在、これら諸々の特性の重要性を無視して、彼の父親の旧蒸溜所の名称を使用し続けることが許されるべきでしょうか? 1881年の判決でマシューズ判事は原告の主張には説得力がないと判断しました。判事は「本件の証拠から」して「原告が自社の製品の市場を確立できたのは、その製品が彼の父親が造ったものと同じ地域性、そしてそれらが齎すと考えられる汎ゆる有利性から父親のものと同じに違いないという世間の特別な思い込みに基づいていた」のは「極めて確かである」と記しました。つまり、 消費者はその場所で製造された製品に対して特定の「利点」を期待し、「品質」を信頼し、それらが製品購入の大きな動機付けとなっており、原告は既存のブランド・イメージと場所が持つ信頼性を巧みに利用して市場を確立した、と見られたのです。「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」及び「O.O.P.」という用語は、原告が嘗てウィスキーを製造していた場所と被告が現在ウィスキーを製造している場所を指し、商標ではないと判断したマシューズは、ジェイムズ・ペッパーの訴えを棄却しただけでなく、「商品の製造地に関して虚偽の表示をすることで公衆を誤解させる」という理由でペッパーにはブランド名を使用する権利が全くないとし、被告がこれらの用語に対する独占的な法的権利を有すると判決を下しました。

オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していないため「オールド・オスカー・ペッパー」の名前を使う権利を失ったジェイムズ・ペッパーでしたが、レキシントンに建てた新しい蒸溜所で1880年5月に蒸溜を開始した彼は、新しい盾のトレードマークをデザインした「オールド・ペッパー・ウィスキー」のブランドを大ヒットさせました。このウィスキーは祖父から代々受け継がれてきた独自の製法で蒸溜され、旧家からのマッシュビル、サワー・マッシュ、72時間発酵させたものと言われています。その人気は主にジェイムズ・ペッパーがマーケティングを重視していたことに起因していました。師匠的存在のE・H・テイラー・ジュニアと同様に、彼は当時利用可能な汎ゆるマーケティング・ツールを活用したのです。オールド・ペッパー・ウィスキーの名は当然の如くその家名に由来し、過去100年に渡って一族が築き上げた伝統と遺産を反映させたものでした。ジェイムズはこのイメージを強化するために、 「Established 1780」や「Purest and Best in the World」というスローガンを使用し、歴史の持続性とウィスキーの品質を常に強調しました。実際に彼の祖父エライジャ・ペッパーが蒸溜を始めたのは19世紀初頭のことでしたが、こうしたサバ読みは当時は珍しいことではなく、マーケティング上の策略として功を奏しました。おそらく創業年のスローガンは南北戦争後の愛国心も利用したもので、後に1906〜7年頃から使われ出した「Born With The Republic」や「Old 1776」というスローガンに繋がっているでしょう。そして彼はラベルに「詰め替えボトルにご注意ください」という警告を記載しました。これにより彼のウィスキーが非常に優れているという印象を与え、他のウィスキー・メイカーも真似をしたがるようになったそう。また、ガラス瓶の自動化技術が進み手作業から解放されたことでボトリングが経済的に実現可能になった時、彼はケンタッキー州の法律を改正し、蒸溜業者が自社製品をボトリングできるようにした蒸溜業者の一人でした(それまではレクティファイアーズだけがウィスキーをボトリングする権利をもっていた)。その後、ジェイムズは現在では一般的となった消費者にウィスキーの健全性を保証するための「ストリップ・スタンプ・シール」を発明しました。彼はコルクに貼られた帯状のラベルに「Jas. E. Pepper & Co.」という筆記体の署名を印刷してボトルを封印したのです。そして、ジェイムス・E・ペッパーのウィスキー・ボトルを売っている人に出くわしても、このスタンプがなかったり、スタンプが破れていたり破損していたりする場合は「本物のペッパー・ウィスキーではないかも知れない」ので購入しないよう人々に呼びかける広告を出しました。署名は偽造防止法によって保護されており、商標よりも迅速に執行され、そのため既存の偽造法に基づいて偽造生産者や「ボトル再充填者」を起訴することが出来たとか。彼のこの活動は、ボトルに詰められたウィスキーの純度と同一性を保証する初の消費者保護法である1897年のボトルド・イン・ボンドの成立に貢献したと評価されています。彼はまた、広告や宣伝のために巨額の資金を投じた最初のディスティラーの一人でもありました。 ジェイムズはオールド・ペッパーの販売促進を目的にアメリカ各地を回りました。1880年代後半には、プロイセンのヘンリー王子がペンシルヴェニア・レイルロードで旅行中にオールド・ペッパー・ウィスキーが振る舞われたりしました。この頃のオールド・ペッパー・ウィスキーのブランドはアメリカ全土で強い知名度を確立しています。1890年頃にはオールド・ペッパー・ウィスキーを「結核やマラリアなどに効く万能薬」であると宣伝しました。これは、1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトのような連邦規制が施行される前のことでした。1892年2月にはアームズ・パレス・カー・カンパニーからプライヴェート鉄道車両を10000ドルで購入し、「オールド・ペッパー号」と名付けました。その車両は鮮やかなオレンジ色に塗られ、側面にはオールド・ペッパーのバレルやケースやボトル、サラブレッドの馬やジョッキーがハンド・ペイントされ、車端には「Private Car Old Pepper - Property of James E. Pepper, Distiller of the Famous 60 Old Pepper Whisky」と書かれていました。ジェイムズは常にショウマンであり、プロモーターだったのです。このオールド・ペッパーのブランドは、後年「オールド・ジェイムズ・E・ペッパー」というブランドが導入されたあと、最終的に「ジェイムス・E・ペッパー」バーボンが両方の商品名に取って代わりました。 また、レキシントンの蒸溜所では以前の蒸溜所から受け継いだ「オールド・ヘンリー・クレイ」というライ・ウィスキーのブランドも製造していました。
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ジェイムズ・E・ペッパーはケンタッキー州から贈られる名誉称号の「ケンタッキー・カーネル」でした。彼はスポーツが好きで、特に競馬が好きでした。馬小屋を所有し、ケンタッキー・ダービーやオークスに出走する馬を何頭も持っており、1892年には彼の馬「ミス・ディキシー(妹の名前)」がオークスを制したそうです。カーネル・ペッパーは豪快なライフ・スタイルを送り、ニューヨークの有名なウォルドーフ=アストリアに頻繁に滞在しては、国内の実業家や社交界のエリートたちと親交を深めました。伝説によると、あの有名なオールド・ファッションド・カクテルの人気はカーネル・ペッパーが広めたと言われています。伝説によると、この象徴的で古典的なカクテルは、元々ケンタッキー州ルイヴィルのペンデニス・クラブのバーテンダーが他でもないカーネル・ペッパーのために初めて造り、それをカーネル・ペッパーがウォルドーフ=アストリアのバーに導入した、と。真偽は判りません。オールド・ファッションドの起源には諸説あるようです。蒸溜所の経営を続けていたジェイムズ・エドワード・ペッパーは1906年12月に死去、父や1899年に亡くなったナニーの近くに埋葬されました。彼に子供はいませんでした。彼の妻は蒸溜所の経営に興味がなかったのか、1908年、蒸溜所とブランドはシカゴの投資家グループに売却され、禁酒法により閉鎖されるまで操業されました。禁酒法時代にはシェンリーによりメディシナル・スピリッツとして販売され、彼らは禁酒法終了後にブランドと蒸溜所を買い取ります。しかし、シェンリーの規模が大きくなるにつれ、この蒸溜所は数ある蒸溜所の一つとなり、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは彼らが製造/販売する数十のブランドの一つに過ぎなくなりました。「Born with the Republic」というスローガンも継続されていましたが、軈てブランドの売り上げは低迷し始め、I.W.ハーパーやJ.W.ダントといった主力ブランドよりも会社にとって重要ではなくなって行きます。シェンリーは1950年代前半に過剰生産に陥り、1958年にボンディング期間が20年に延長されたことでようやく破産を免れたに過ぎない状態でした。ジェイムズ・E・ペッパー蒸溜所は1958年に閉鎖され(1960年代初頭に操業を停止し、60年代末までに閉鎖されたという説もあった)、「ジェイムズ・E・ペッパー」ブランドは1960年代には人々の記憶からラベルも忘れ去られ、膨大な倉庫在庫からウィスキーは1970年代には販売され続けましたが、1970年代末までに市場から姿を消しました。1990年代初頭の一時期、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは、1987年にシェンリーを買収したユナイテッド・ディスティラーズによって復活します。 このブランドは1994年、ポーランドと東欧の新興バーボン市場への輸出専用ブランドとなりました。しかし、ユナイテッド・ディスティラーズがアメリカン・ウィスキーのブランドの殆どを他の蒸溜会社に売却したため、ジェイムズ・E・ペッパー・ブランドはすぐに再び消滅してしまいます。そして、時を経た2008年、以前のブランド・オウナーとは無関係の起業家アミル・ピィー(または「アミア」や「ペイ」と発音されることもある)は放棄された商標を取得し、このブランドを再スタートします。カーネル・ペッパーのレキシントンの蒸溜所の歴史や復活したブランドに就いては、また別の機会に譲るとして、話をラブロー&グラハム蒸溜所とO.O.P.に戻しましょう。

禁酒法の施行に伴い、1918年、ラブロー&グラハム蒸溜所は閉鎖を余儀なくされました。1920年のヴォルステッド・アクトの施行から1933年12月の憲法修正第21条の批准による廃止までの13年の歳月、ラブロー&グラハム蒸溜所は空き家となり使用されていませんでした。商品や資材は引き揚げのために売却され、多くの建物は破損し屋根のないまま放置されたそうです。倉庫に保管されていたウィスキーは盗掘や盗難を防ぐために、1922年までに連邦政府の集中倉庫に移されました。禁酒法期間中、酒は医療目的で販売されました。フランクフォート・ディスティラリーがストックのウィスキーを使ってオールド・オスカー・ペッパーをメディシナル・スピリッツとしてボトリングしています。1920年に禁酒法が施行された当時、同社は医療目的の蒸溜酒販売許可を与えられた僅か6社のうちの1社でした。1922年、同社はポール・ジョーンズ社に買収され、彼らはフランクフォート・ディスティラリーの社名を引き継ぎ、「フォアローゼズ」や「アンティーク」など多くのブランド名でウィスキーを販売する許可を保持しました。画像検索で禁酒法下のO.O.P.を眺めてみると、中身の原酒の殆どにラブロー&グラハム(第7区No. 52)が生産したものが使われていましたが、禁酒法期間の後期にはハリー・S・バートン(第2区No. 24)が生産したものが使われたボトルもありました。1928年までに禁酒法以前のウィスキーの在庫が減少すると、フランクフォート・ディスティラリーはルイヴィルに拠点を置くA. Ph. スティッツェル蒸溜所と契約を結び、そこからスピリッツの供給をしました。1933年に禁酒法が廃止されると、彼らはスティッツェルの旧工場を買収し、シャイヴリーに新工場を建設します。これがルイヴィルのフォア・ローゼズ蒸溜所と呼ばれました。第二次世界大戦下の厳しい時期に蒸溜所とブランドはシーグラムに売却されます(1933年にシーグラムが買収という説もあった)。シーグラムはストレート・ウィスキーの製造を中止するまで何年も同じブランドを使い続けたそうなので、フランクフォート・ディスティラリーから引き継いだブランドを販売していたのでしょう。画像検索してみると、オールド・オスカー・ペッパー・ブランドとして、メリーランドのボルティモアと所在地表記のあるバーボンやライのブレンドがありました。その後、おそらく50年代か60年代にはその存在感を失い、軈てブランドのラベルは使われなくなったと思われます。
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(1936年頃の蒸溜所)
偖て、O.O.P.ブランドとは分かたれた蒸溜所には別の途があります。禁酒法が解禁されると、リチャードとアーマのベイカー夫妻、そして新たにマネージング・パートナーとなったクロード・V・ビクスラーは、1933年8月に新たなラブロー&グラハム社を設立し、建物の再建に着手しました。彼らは改修と建設を調和のとれたものにすることに特に注意を払いました。蒸溜所の建物の増築部分や新しい石造り倉庫の基礎部分に、古い倉庫跡の石材を再利用したと言います。この作業の重要性とその達成方法は、再建された他の蒸溜所よりもこの蒸溜所の国家的地位を高めるのに貢献した理由の一つでした。1934年以降の蒸溜所の拡張と再建の全体計画は、既存の建物や資材、そして当時の人件費と技術水準に見合った新しい建設資材を融合させた質の高い工業デザインの好例と評価されています。土地の地形と産業のニーズが調和され、省力化と経済性を追求した工場が実現した、と。コーンや他の穀物が丘の中腹にある貯蔵庫から高架を伝って運ばれたように、新しい倉庫は長いバレル・ランの緩やかな傾斜に沿って建てられました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは全長500フィート以上あり、必要な幅で間隔をあけた2本の平行レールで構成されているため、作業員がバレルを所定の位置に留めなくても移動できるそうです。その複雑さに加え、安全および保険の要件も、新しい建物をどこに建設するかを決める上で役立ったとか。このバレル・ランは、樽にスピリッツを最初に充填するシスタン・ルームからリクーパー・ショップを含む全てのストレージ・ウェアハウスまでの広範な時間節約型のコネクター・システムになりました。2レール・システムによって、2人の作業員が大量のバーボン・バレルを扱い、トラックや他の車輪付き搬送装置から積み下ろしすることなく、或る場所から別の場所へ素早く移動させることが出来るようになりました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは、他の蒸溜所の平均的なそれと比べても優れた搬送システムでした。バレル・ランに加えて、禁酒法廃止後に再建されたラブロー&グラハム蒸溜所で最も重要だったのは、1934年から1940年の間に増築された釉薬の掛かったテラコッタ・タイルの倉庫E、F、Hでした。 禁酒法廃止後に建てられた他の蒸溜所の殆どの倉庫は、木造で金属製の波板で覆われていたことを考えると、珍しい仕様と言えるでしょう。これらの建物は全て4階半建て、長さは様々で、石灰岩の基礎の上に建てられ、エイジングをコントロールするための暖房システムを備えていました。これらはライムストーン・ウェアハウスの構造と形状を模倣していましたが、汎ゆる寸法が大きくなっていたとのこと。これらの倉庫をバレル・ランと組み合わせて川岸に沿って慎重に配置したのは、貯蔵能力を拡大するためでした。テラコッタ構造ユニットの使用は、この時代に国中で採用されていた耐火構造のための一般的でシンプルな建築媒体だそうです。テラコッタ・タイルは更にその他の小規模で機能的な建物にも使用されました。また、ビクスラーは閉鎖前と同じウィスキーを造るために禁酒法時代に冷凍保存されていたラブロー&グラハム独自のイーストを使用したとされています。家族のような従業員達によって生産は再開され、その殆どは地元の出身者であり、中には禁酒法以前に親や祖父母がこの蒸溜所で働いていた人もいたそう。ラブロー&グラハムが生産したブランドには「L. & G.」と「R. A. ベイカー」があったと伝えられます。1939年末から1940年初頭に掛けて、彼らは相当量の4年物のバルク・ウィスキーをディーツヴィルのT・W・サミュエルズ蒸溜所(RD No. 145)に売却しました。こうしてラブロー&グラハムは1940年までに蒸溜所の再建、拡張、生産を行い、ウェアハウスに25673バレルのウィスキーを貯蔵するまでになりましたが、1940年7月にオールド・フォレスターやアーリー・タイムズなどのブランドで知られるブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションに75000ドルで売却されました。この取引には、倉庫で熟成されていたその約25000バレルのバーボン・ウィスキーも含まれていました。ブラウン=フォーマンはその後の約20年間、この蒸溜所をラブロー&グラハムという名前の下に操業を続け、一部のオールド・フォレスターやアーリータイムズもここで生産されたと目されます。また、サム・K・セシルの著作によると、ブラウン=フォーマン社は暫くこの工場を使用して「ケンタッキー・デュー」を製造したそうです(後にルイヴィルで瓶詰め)。

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ブラウン=フォーマンが生産と貯蔵を引き継ぐ一方で、ヨーロッパ戦線に於ける戦争への取り組みが高まる懸念から、戦争を予期して生産を加速する必要性が高まりました。施設の新しいマネージャーは大量生産に対応するには水の供給が不十分なことに気づきます。解決策として、既存の鉄道踏切にコンクリート製のダムと放水路を築き、小川を堰き止めるという計画が立てられました。さっそくブラウン=フォーマンはコンクリート製のダムと放水路、そして鉄製の歩道を完成させると、その結果として小川の両岸の間に2.75エーカーの池が出来ました。この水は蒸溜所の年間生産期間を延長するための安定した供給源となっただけでなく、消火のための備蓄水にもなり、蒸溜所の建築物を映し出す風光明媚な景観の一つともなりました。戦時中から1945年末に掛けてのブラウン=フォーマンの工場拡張は、ディスティラリー・ハウスの増築と小さな新棟を建設して完了しました。1942年には蒸溜所の増築に伴い、建物の南側に3ベイのファサードが追加され、発酵室が併設されました。ライムストーンと拡張されたスタンディング・シーム・メタル・ルーフは全体を一体化するために再び選ばれた素材でした。最後の仕上げは、新しい出入り口の上に既存のミルストーンを組み込み、目立つ場所にこの蒸溜所の100年の歴史を刻むことでした。同じ頃、シスターン・ルームの隣に、消防用具を保管するためのセグメンタル・アーチ型の窓とドアを備えたライムストーン造りの平屋建て6面建造物が建てられたそうです。1945年以降、ブラウン=フォーマンは通常のウィスキーの製造および熟成と貯蔵を続けましたが、ラブロー&グラハムが1934年にこの場所に建設したボトリング・プラントの規模は縮小されました。そして1950年代のバーボン市場の衰退により、1957年に生産は終了します。1965年には貯蔵も廃止されました。1960年代後半に更にバーボン市場が低迷すると工場は閉鎖され、ブラウン=フォーマンは1973年(1972年という説も)に土地を地元農家のフリーマン・ホッケンスミスに譲渡。こうしてブラウン=フォーマンによるこの蒸溜所の管理は終わりを告げ、一旦はその歴史に幕が下ろされました。ホッケンスミスはこの施設を農産物の貯蔵庫として使用し、短期間ながら燃料用アルコールの製造も試みたそうです。工業用アルコール、特にOPECの燃料危機をきっかけに人気を博した「ガソホール」の生産に転換したとのこと。しかし、ホッケンスミスは危機が収束する前に新しい給排水設備を殆ど建設することが出来ず、限られた生産量ではごく僅かな市場しか残せなかったらしい。彼は蒸溜所を閉鎖し、凡そ20年も放置されたままになりました。

時は過ぎて1980年代後半から1990年代初頭、バーボンの需要は復活の兆しを見せ始めました。具体的には限られた量しか生産されない高品質なプレミアム・バーボンの市場が盛り上がりを見せていたのです。各蒸溜所では「スモール・バッチ」や「シングル・バレル」の製品が販売されるようになっていました。ジムビームとケンタッキー・バーボン・ディスティラーズはスモール・バッチ・コレクションを展開し、エイジ・インターナショナルはエンシェント・エイジ蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)からブラントンズを筆頭とする幾つかのシングル・バレルのブランドをリリース、フォアローゼズのブランドはアメリカではブレンデッド・ウィスキーのみだったものの輸出市場にはプレミアムなストレート・バーボンを販売、ワイルドターキーもバレルプルーフやシングルバレルの製品を開発、ヘヴンヒルも市場は限定的だったかも知れませんがプレミアムなボトリングを提供していました。当然ブラウン=フォーマンもプレミアム・バーボンの製造に興味を持ち始め、この市場への参入を必要としていました。そこで彼らはそれを造るための適切な場所を探し、ケンタッキー州内の候補地の調査をします。その結果、検討した場所の中にウッドフォード郡にある嘗てのラブロー&グラハム蒸溜所跡地があり、1994年末、ブラウン=フォーマンはメアリー・アン・ホッケンスミスからこの土地を買い戻しました。彼らの目標は外観を1945年当時の姿に復元し、施設を完全に改修することでした。すぐに始まった修復工事にブラウン=フォーマンは2年近くを費やし、この古いランドマークを修復すると業界で最も美しい場所の一つにまで昇華させました。スコットランドやアイルランドで使われるようなオリジナルのカッパー・スティルを設置し、それを用いたプレミアム・バーボン製造のために内装にも変更を加え、遺産観光を目的とした新しいヴィジター・センターも併設され、その総工費は740万ドルだったと言います。1996年10月17日、蒸溜所は一般見学用にオープンしました。蒸溜所の操業開始直後の1997年、ブラウン=フォーマンは周辺の30エーカーを超える土地(元の住居と東側の丘にある泉を含む)を追加購入したことにより、新たに拡張されます。 オープン当時、施設の名前は旧来と同じく、そのままラブロー&グラハム蒸溜所と呼ばれていましたが、製造される唯一のウィスキーはウッドフォード・リザーヴと呼ばれました。そのため、2003年には正式にウッドフォード・リザーヴ蒸溜所と改称され、現在に至ります。このウィスキーはマスター・ディスティラーのリンカーン・ヘンダーソンと当時のプラントのゼネラル・マネージャーであるデイヴ・ショイリックによって構想/開発されました。1996年に市場に投入され、今も高い人気を誇るウッドフォード・リザーヴに就いては、また別の機会に語ることもあるでしょう。
では、最後に貴重なウィスキーを飲んだ感想を少しだけ。

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O.O.P. Old Oscar Pepper Whiskey BiB 100 Proof
1916 - 1926? or 1928?
経年でストリップの印字がよく読み取れず、たぶん26年か28年のボトリングかと思います。液体の見た目はけっこう濁っていました。けれど香りは悪くないし、全然飲めました。オールドオークと甘草やアニス系統のフレイヴァーですかね。流石にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎてるせいなのか、飲んだ量が少量過ぎるというのもあってか、私にはそれほどフルーティなテイストは取れませんでした。とは言え、これは文句ではなく、これだけの「歴史」を飲めたことに感謝です。
Rating:85.5/100

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L.&G. Bottled in Bond 100 Proof
1938? - 1943?
こちらもO.O.P.と同様、ストリップの印字が滲んでいて数字が判別出来ませんでした。これを飲んだことのあるバーボン仲間にも訊ねたのですが、やはりその方も完全には判読できず、蒸溜年とボトリング年はぼんやりとした数字からの推測です。こちらは液体の見た目はクリア、そしてO.O.P.より甘いキャラメルと少しフルーティなテイストを感じました。こちらも少し酸化し過ぎた風味はあったような気はしますが、オールドボトルを飲み慣れていればそれを陶酔感と表現する人もいるでしょう。
Rating:86.5/100


*200年以上もの間、蒸溜所を見下ろす丘の上に建っていたこの歴史的な建物は、エライジャ・ペッパーとその家族に因みペッパー・ハウスと呼ばれています。グレンズ・クリークの畔の小さな蒸溜所の敷地内に1812年に建てられた後、何世代にも渡ってペッパー家の住まいとなり、ペッパー家の手を離れた後も2003年まで誰かしらがこの家に住み、ペッパー・ハウスはケンタッキー州の歴史上、人が住み続けている最古のログ・キャビンとして知られていました。しかし、ここ20年もの間は空き家となって荒れ果てていました。ブラウン=フォーマンはウッドフォード・リザーヴ蒸溜所のウィスキー・バレル・テイスティング体験の水準を引き上げるため、ペッパー・ハウスの修復と改修をジョセフ&ジョセフ・アーキテクトに依頼して、この家を2024年の夏にウッドフォード・リザーヴのパーソナル・セレクション・プライヴェート・バレル・プログラムの新しい拠点として使用することに決めました。オリジナルの外部の石灰岩の煙突はゲストを迎えるために再建されたポーチと共に3年以上かけた修復の中心となっています。既存のスペースは、ドラマチックな2階建てのテイスティング・ルーム、暖炉のあるパーラー、展示室、ケータリング・サポート・スペースのあるバーとして造り直されました。屋外には美しく整備された庭園を見渡す石の壁に囲まれたダイニング・テラスもあります。ウッドフォード・リザーヴを世界的ブランドへと成長させ、長年に渡り修復プロジェクトを支持して来た名誉マスター・ディスティラーのクリス・モリスの功績に敬意を表して、ペッパー・ハウス内のライブラリーは「クリス・モリス図書室」と命名されました。ここには1800年代に遡る丸太とチンキングがあるそう。ウッドフォード・リザーヴのマスター・ディスティラーであるエリザベス・マッコールは、「この家は、コモンウェルスに於けるバーボンの誕生に深く関わる豊かな遺産であり、今日私たちが知っているバーボン業界を形成したペッパー家の不朽の遺産を物語るものです」、「この家を現代的な方法で再利用することは相応しいトリビュートでしょう。もしこの壁が話せるとしたら、ケンタッキー州に於ける初期の蒸溜生活についてどんな物語を語ってくれることか想像できます」、「中に入って1800年代にこの家の一部だった壁に触れるのは素晴らしいことです」と語っていました。
ウッドフォード・リザーヴ・パーソナル・セレクション・プログラムは、世界中のレストラン、バー、酒屋、個人が蒸溜所に訪れ、ウッドフォード・リザーヴ・バーボンの自分だけの組み合わせを作るためのもので、 顧客は公認テイスターとのブレンド体験に参加し、その結果、2樽のバッチが出来上がり、瓶詰めされ、パーソナライズされたラベルが貼られて完成。パーソナル・セレクション・プログラムは、ウッドフォード版プライヴェート・バレル・ボトリングであり、シングルバレルではないものの2バレルを組み合わせて製造されるため限りなくそれに近い。

**ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬にオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約3マイル離れたグレン・クリーク沿いにある25エーカーの土地をジェームズ・ボッツ博士とその妻ジュディスから購入してオールド・クロウ蒸溜所を建設した、とされているので、そこにオスカーが建てた旧来の蒸溜所があったのかも知れません。W. A. ゲインズ・カンパニー(ゲインズ, ベリー&カンパニーの後継会社)はこの蒸溜所とハーミテッジ蒸溜所(RD No. 4)を共に経営しました。後年、DSP-KY-25のプラント・ナンバーで知られたオールド・クロウ蒸溜所は、禁酒法解禁後はナショナル・ディスティラーズが長年に渡り操業し、1980年代後半にアメリカン・ブランズ(ジェイムズ・B・ビーム)が引き継いだあと廃墟となり、現在はグレンズ・クリーク蒸溜所となって復活しています。

***1865年6月にオスカー・ペッパーが亡くなった後、ナニーは1865年後半に隣人であり親戚でもあるトーマス・エドワーズに蒸溜所を1シーズンだけ貸し出しました。エドワーズはグレンズ・クリーク沿いの5マイル離れた農場に蒸溜所を所有しており、そこはドクター・ジェイムズ・クロウがペッパー蒸溜所を去った後の1856年に働いていた地域でも小規模な蒸溜所の一つでした。翌1866年になるとナニーはジョン・ギルバート・マスティンとその弟ウィリアムと3年間のリース契約を交渉しました。ペッパーの蒸溜所は高品質のウィスキーを大量に生産することで評判が高く、ウッドフォード・カウンティの他の蒸溜所もペッパーの設備や専門知識を活用するようになっていたからでした。ジョン・マスティンは1866年のシーズン中、トーマス・エドワーズと共に蒸溜所で働き、その後エドワーズからリース契約を引き継ぎます。彼は1867年1月1日から蒸溜所をゲインズ, ベリー・アンド・カンパニーに転貸し、息子のジョン・Wとロバート・マスティンと共に同社の株式を少額ずつ取得したそうです。

****ゲインズ, ベリー&カンパニーは1867年2月からオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所でオールド・クロウを製造するためのリースを確保した、との説もあります。こちらの方が正しいのかも知れませんが、本文では1869年の裁判所による調停後のこととして記述しました。

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ヴェリー・オールド・セントニック(VOSN)は、1980年代後半に若き日のマーシィ・パラテラが当時活況を呈していた日本市場向けのブランドとして、主に過剰供給時代のアメリカン・ウィスキーを使ってスタートしました。このブランドはヴァン・ウィンクルやハーシュの様々なラベルと共にプレミアム・アメリカン・ウィスキーの潮流を創り出したと評価され、現代のバーボン・ブームの魁だったと見做すことが出来ます。元々はジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がローレンスバーグにあるオールド・コモンウェルス蒸溜所で少量をボトリングし、その後すぐにバーズタウンのケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)がボトリングするようになりました。そして、その初期の頃から当時は人気のなかったライ・ウィスキーをボトリングしていたブランドでもありました。ブランドの初期の物はラベルが大きいのが特徴です。一般的なバーボンではあり得ないほど大きなこのラベルは決して意図したデザインではありませんでした。ボトルを選ぶ前にラベルを当て推量で作ってしまい、実際に使うボトルには大き過ぎたラベルとなってしまったらしいのです。おそらくマーシィには潤沢な資金がある訳でもなく、せっかく作ったラベルを廃棄する選択肢はなかったと思われ、そもそも大量にラベルを作成していなかったこともあり、数ロットでそれを使い切った後、本来の意図通りの小さいと言うか普通のサイズに変更したのでしょう。この大きなラベルは初期VOSNに他のバーボンとは一線を画す異質の趣を齎しており、そのブランドの名前やお爺さんのスケッチを一際引き立たせています。発端は偶然とは言え、発売当初の日本のバーボン・ドリンカーに超然とした神秘的なブランドという印象を与えるのに役立ったのではないかと個人的には思います。
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ヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライはブランド初期の頃からあり、プリザヴェーション蒸溜所が出来た後の現在のラインナップでも継続してリリースされています。「ウィンター・ライ」という言葉は平たく言うと冬期に栽培されるライ麦の総称ですが、このウィスキーが自ら蒸溜していない原酒を他所から購入して販売するソーシング・ウィスキーであること、後にサマー・ライという(ネット検索してもVOSNが多く出て来てしまう)あまりライ穀物としては一般的ではない名称のヴァリエーションが発売されていること、また後にオールド・マン・ウィンターというVOSNの姉妹ブランド的な?ラベルが作成されていること等を考慮すると、ここで言うウィンター・ライと言うのは使われている原材料を表しているよりは、単に響きの良い語感を利用したマーケティングなのではないかと思われます。バック・ラベルを見てみると、以下のように書いてあります。私は英語が母国語ではないですし、癖の強い筆記体で書かれているため読み間違っているかも知れないので、その場合はコメントより訂正して下さい。
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Winter nights after supper we'd sit by the fire. That's when grandaddy would go down to the cellar and fill up his jug from his tiny old oak barrel. We'd tell stories, drinking grandaddy's "winter rye" his favorite, very old and smooth. He'd only pour enough to take the chill off the snowy Kentucky night. Now that grandaddy's gone we got a little extra to share.
(冬の夜、夕食が終わると、あたし達は暖炉のそばに座ったの。そんな時、おじいちゃんはセラーに降りて、ちっぽけな古いオーク樽からお酒をジャグに満たしたものよ。あたし達は語らいながら、おじいちゃんのお気に入りの「ウィンター・ライ」を飲んだんだ、すごく古くて滑らかなやつよ。雪の降りしきるケンタッキーの夜の寒さをしのぐのに十分な量しか注いでくれなかったけどね。おじいちゃんが亡くなった今、ちょっと余分に分けてもらっちゃった。)
これを見る限り、ブランドのウィンター・ライという名称は、祖父と冬場に飲んだライ・ウィスキーの思い出から名付けられているようです。まあ、フィクションだと思いますが、なかなか良い感じの宣伝文句と言うか小話ですよね。

で、この初期のウィンター・ライを誰がボトリングしているのかですが、私の認識では単純にこのラージ・ラベルや発売元が東亜商事となっていて日本語で紹介文の書かれているインポーター・ラベル(下画像参照)が背面に貼られたものはジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世のボトリングなのかなと思っていました。と言うのも、90/91年頃によく使われていたこのインポーター・ラベルは、ペンシルヴェニア1974原酒を使ったハーシュ・リザーヴやカーネル・ランドルフ、オールド・ブーン1974原酒を使ったヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ、そして大きなフロント・ラベルのVOSNバーボン(12年90プルーフ/114.3プルーフ、15年107プルーフ/114.8プルーフ、17年94プルーフ/116.2プルーフ/119.6プルーフ)に貼られており、ジュリアン3世が日本市場向けにボトリングした高級なボトルのシリーズのために作られたように見えるからです。
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ところが、今回飲んだヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライのラージ・ラベル(トップ画像右)の背面を見てみると、バーズタウン表記のバック・ラベルに東亜商事の小さいインポーター・ラベルという組み合わせとなっていて、このパターンは初めて見ました。
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比較的見かけ易く、最初期と思われるウィンター・ライのラージ・ラベルの背面には上述の日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルが貼られています。だからこそ私はジュリアンがボトリングしたものかと思っていた訳ですが、今回のウィンター・ライを見て「あれ? このラベルのウィンター・ライでもKBDがボトリングしてるのか」と思いました。家に帰ってから、ウィンター・ライのラージ・ラベルの背面に貼ってある紹介文付きインポーター・ラベルの画像を加工して弄ってみると、その下にあるバック・ラベルが透けて「Bardstown, Kentucky」が浮かび上がりました。他の部分を見ても明らかに今回飲んだウィンター・ライと同じバック・ラベルに見えます。
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このラージ・ラベル+紹介文付きインポーター・ラベルとバーで飲ませて頂いたラージ・ラベル+紹介文なしインポーター・ラベルのどちらが古いのか、或いは紹介文付きのラベルがなくたまたま紹介文なしのラベルが貼られただけでボトリング時期は同じなのか、私には判りません。しかし、少なくとも私はVOSNライのこれら以上に古いボトルは見たことがないので、おそらくジュリアンはマーシィのためにライをボトリングしていないのでしょう。マーシィはジュリアンに「ライ麦を飲むのは年寄りだけだ」と言われたそうです。きっとマーシィは当時誰も顧みなかった時代遅れの産物ライ・ウィスキーに光を当てたい、或いは日本市場であれば売れると踏み、ジュリアンにライをリクエストしたのだと思います。彼が後にオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライやヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライに用いた84年か85年に蒸溜されたメドリー・ライを入手したのが、ユナイテッド・ディスティラーズがその資産を売りに出した時なのだとしたら、91年か92年以降のことでしょう。だから、ジュリアンはマーシィのリクエストに応えられなかったのではないか、と。或いは、ジュリアンが80年代後半の時点でメドリー・ライのバレルを所有していたとしても、VOSNは名前が表すように高齢ウィスキーが特徴ですから、何だったらマーシィは長熟のライを欲しがったのかも知れない。メドリー・ライに84年か85年に蒸溜されたものしかないのなら、91年か92年の時点でそのウィスキーは6〜7年熟成となります。VOSNバーボンは最も若くても8年熟成でリリースされていました。そこでマーシィはもう一人のレジェンドであるエヴァン・クルスヴィーンのKBDに目を向け、彼に頼んでストックしてあったライをピックしてもらったのではないでしょうか。では、中身は何処から? はい、例によってKBDは秘密主義なので原酒は謎です。後にリリースされた伝説的なライのソースを考慮すると、旧バーンハイムもしくはエンシェント・エイジで蒸溜されたクリーム・オブ・ケンタッキー・ライである可能性が高いように思えます。ですが、KBDもメドリー・ライのバレルを所有していたのならそれかも知れないし、ヘヴンヒルやバートンを疑うことも出来そうですし、結局は分からないとしか言いようがありません。

偖て、もう一方のヴェリー・オールド・セントニック・エンシェント・ライ・ウィスキー17年の方はと言うと、こちらは1990年代末から2000年代初め頃に用いられたデザインのラベルかと思います。正直、私には発売時期および期間、幾つのバッチがあったのか等は正確に判りませんので、詳細をご存知の方はコメントよりご教示ください。このラベルは通常のVOSNより更に熟成年数が高めなのが特徴で、中熟物もありましたが殆どは20年オーヴァーの高齢ウィスキーを使ったリリースであり、バーボンのヴァリエーションにはエステート・リザーヴ8年ドリップド・カッパー・ワックス86プルーフ、20年ブルー・ワックス94プルーフ、22年ドリップド・レッド・ワックス81.2プルーフ及びドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ、23年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びカッパー・ワックス82.6プルーフ、24年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びブラック・ワックス81.2プルーフ、25年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びゴールド・ワックス86.4プルーフとありました。ライにはこの17年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.7プルーフ以外に、12年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.6プルーフ、15年ドリップド・ホワイト・ワックス86プルーフ、18年ドリップド・ゴールド・ワックス104.6プルーフとありました。これらは画像で見たものを纏めただけなので他にもあるのかも知れません。またワックスの色に関しても画像を視認しただけなので誤っている可能性があります。で、こちらのエンシェント・ライ17年の中身に就いても、これまた明確には判りません。熟成年数などを考えると、やはり旧バーンハイムのCoKRではないかと思うのですが…。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

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Very Olde St. Nick Winter Rye 101 Proof
推定90〜91年頃のボトリング。
Rating:87/100

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Very Olde St. Nick Ancient Rye 17 Years 103.7 Proof
推定2000年前後のボトリング。
Rating:87/100

Thought:少量しか飲んでないので大したことは言えませんが、どちらもアニス、リコリス、土っぽさなどが現れるタイプのライ・ウィスキーかなと思いました。今回飲んだこのウィンター・ライのラベルには熟成年数の記載はありませんが、上で言及した日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルには9年熟成と明記されています。これもそれと同じ物と見做していいのなら、この二つは9年と17年という熟成期間にかなりの差があるにも拘らず、どちらもフルーティよりはウッディに傾きがちで、何だか似たような風味に感じました。強いて違いを言うと、エンシェント・ライ17年の方が僅かにオールドファンクを伴ったミント感が強いくらいでしょうか。ウィンター・ライが経年のオールド・ボトル・エフェクトでエンシェント・ライに近づいたのかも知れません。或いは元から9年以上の原酒がブレンドされていたとか? 飲んだことのある方はコメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの4杯目は、前から飲んでみたかったワイルドボアにしました。本当はプルーフの高い15年の方が飲んでみたかったのですが、もうなくなってしまったとのことで12年を。
このバーボンは一般的にはあまり知られていないと思いますが、バーボン・マニア(というかKBDマニア?)には人気のブランドです。90年前後から2000年に掛けてKBDが日本市場に向けてボトリングしたブランドは多数ありますが、その中でもジョン・フィッチやクラウン・ダービーやダービー・ローズ等と並んでオークションに殆ど現れず希少性が高いです。このブランドには12年80プルーフと15年101プルーフがあり、おそらく91年あたりにボトリングされたものと思われます。写真は掲載されてないのですが、世界最大級のウィスキー・データベース・サイトと言われる「Whiskybase」には6年43度のワイルドボアが登録されていました。もしかするとヨーロッパ市場向けにもボトリングされていたのかも知れません。それは兎も角、名前やラベル・デザインにインパクトのあるこのブランドは、その来歴が全く分からない。ウィレットまたはKBDが所有していたブランドなのか? 大昔に存在していたブランドなのか? それとも90年当時に作成されたラベルなのか? そうしたことが一切分からないのです。今現在、動物の「ワイルドボア(イノシシ)」ではないウィスキーのワイルドボアをネットで検索すると、出てくるのはワイルドボア・ブランドの「バーボン&コーラ」ばかりです。これはオーストラリアで流通しているRTD飲料なのですが、その使っているバーボンが「ケンタッキー・バーボン」と書かれている種類の物もあり、何だかここで取り上げているワイルドボア・バーボンと繋がりがあってもおかしくなさそうにも感じます。しかし、私がネットで調べてみてもそこに明確な繋がりがあるのかどうかは分かりませんでした。
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(Hawkesbury Brewing Co.のウェブサイトより)

ところで、このワイルドボア12年や15年と同時期にKBDがボトリングしていたウッドストックというブランドがあります。
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(画像提供バーFIVE様)
このウッドストックの販売されていたヴァリエーションが12年80プルーフ及び15年101プルーフとワイルドボアと同じであるところから、個人的には姉妹ブランドなのかしら?という印象をもっていました。で、ワイルドボアと同じように、音楽フェスティヴァルの「ウッドストック」ではないウィスキーのウッドストックをネットで検索してみると、ウッドストック・ブランドの「バーボン&コーラ」が出て来るのです。
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(Woodstock Bourbonのウェブサイトより)
これはニュージーランドのバーボン&コーラのNo.1ブランドだそう。また、こちらのウッドストック・ブランドにはRTD飲料ではないバーボン・ウィスキーも幾つかの種類がありました。それらもオーストラリアとニュージーランド市場の製品みたいです。
このように、KBDが同時期にボトリングしていた2つのブランドの名前は、現在、似たような製品かつ似たような市場でリリースされるブランドと同じ名前です。これは偶然なのでしょうか? 私には何か繋がりがあるような気がしてならないのですが…。もしかしてこれらは同じブランドであり、元々オセアニア地域向けに作られたブランドだったとか? 或いは90年代に日本向けに作られたブランドを、後年、オセアニア地域の酒類会社が買い取って現在に至るとか? まあ、これは単なる憶測です。誰か仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。

偖て、肝心の中身のジュースについては…、はい、これもよく分かりません。この頃のKBDのボトリングならば、旧ウィレットの蒸溜物である可能性は高いような気はしますが、どうなのでしょう? では、最後に飲んだ感想を少し。

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WILD BOAR 12 Years Old 80 Proof
推定91年ボトリング。インポーター・ラベルはほぼ剥がれていますが、残された文字からすると河内屋酒販でしょう。フルーティな香り立ちが心地良い。味わいもフルーティで、ロウ・プルーフにしてはフレイヴァーが濃ゆい。加水が功を奏したのか、オールドファンクな余韻も適度で個人的には気に入りました。で、何処の蒸溜物かですが、旧ウィレットはフルーティと聞き及びますので、その可能性は大いにありそうな…。ですが、私の舌ではちょっと確信はもてませんね。
Rating:86.5/100

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