◆◆FOR BOURBON LOVERS ONLY◆◆
バーボンの製品情報、テイスティングのメモ、レーティング、思考、ブランドの歴史や背景、その他の小ネタなどを紹介するバーボン・ラヴァーによるブログ。バーボンをより知るため、より楽しむため、より好きになるための記事を投稿しています。バーボンに興味をもち始めたばかりの初心者から、深淵を覗く前の中級者まで。なるべくハイプルーフ(情報量多め)かつアンフィルタード(正直)なレヴューを心掛けています。バーボン好きな方は是非コメント残して下さい!

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オールド・オーヴァーホルトは数あるアメリカン・ウィスキーの中でも特別な位置を占める由緒あるブランドです。その長い歴史や家族の物語は以前の投稿で紹介しているので興味があれば覗いてみて下さい。ここではビームにブランドが移ってからの事柄のみ取り扱います。

1987年、アメリカン・ブランズ(後のフォーチュン・ブランズ)の子会社ジェームズ・B・ビーム・ディスティリング・カンパニーは、それまで長きに渡りオールド・オーヴァーホルトを所有して来たナショナル・ディスティラーズからブランドを購入しました。新しいオウナーは生産を統合するため、買収後すぐに同ブランドが製造されていたオールド・グランダッド蒸溜所での蒸溜を停止し、自社のメイン・ファシリティであるクレアモント(またはボストン)の蒸溜所での製造に切り替えました。こうした買収が行われた場合はウィスキーのストックも買い取るのが通例のため、買収後数年間はNDジュースを使用したかも知れませんが、少なくともそれがなくなると彼らは既にジムビーム・ライのために生産していたハイ・コーンなライ・ウィスキーを使ってオーヴァーホルトのブランドを作成しました。つまり、オールド・オーヴァーホルトとジムビーム・ライはラベルが違うだけで似たり寄ったりの製品になったのです。香りや味わいに違いを感じるとしたら、それはバレル・ピックやバッチングによる差と考えられます。ビームはブランドを買収してからの長い間、1990年までにオールド・オーヴァーホルトのプルーフを80に下げたことを除き、殆ど何もしませんでした。当時ライ・ウィスキーの人気は最底辺であり、まだ一部に残る消費者の需要に応えるために辛うじてブランドを存続させただけでした。2010年に迎えたオーヴァーホルト社の創立200周年の時でさえアニヴァーサリー・エディションの発売はありませんでした。しかし、ライ・リヴァイヴァルの到来によってそうした状況は徐々に変わって行きます。

クラフト・カクテルのバーテンダーを筆頭とする消費者は、その大胆でスパイシーなキャラクターを再発見し、2010年からの数年間でライ・ウィスキーの人気は急増しました。オールド・オーヴァーホルトの需要も増えたことで在庫は圧迫され、ビームは熟成年数を4年から3年に引き下げました。これは味わいの点ではマイナスでしたが、人気の再興による変化なのでプラスの面も齎しました。ビームがブランドを所有するようになってからの26年間、殆ど何も宣伝されなかったオールド・オーヴァーホルトは、2013年頃、同じくナショナル・ディスティラーズから引き継いでいたオールド・グランダッドとオールド・クロウを並べて「ザ・オールズ(THE OLDS)」としてウェブサイトでアピールされ出したのです。当時のビームのシニアPRマネージャーは「三つの象徴的なウィスキー・ブランドをまだ経験したことがない人に紹介することを目的としています」と述べていました。これはそれほど効果的な宣伝だったとは思えませんが、オールド・オーヴァーホルト復活の予兆ではありました。

2017年末もしくは2018年初め、長年に渡りブランドの生産を80プルーフに限定していたビームは、嘗てオーヴァーホルト社の主要製品だった100プルーフの「ボンデッド」を市場に再導入しました。これはライの売上が急落し続けたため1964年に製造中止になってから50年以上ぶりとなる復活でした。80プルーフのヴァージョンよりも確実に豊かなフレイヴァーを有する象徴的なオーヴァーホルトを再び楽しむことが出来ると飲み手が喜んでいると、2020年にはもっとエキサイティングなことが起こりました。先ずパッケージのアップグレードです。ボトルのプラスチック・キャップは黒色から昔のような赤色に戻り、「Since」と「1810」の文字が「BORN in PA」と「MADE in KY」に書き換えられ、「ボンデッド」ヴァージョンの名称は「ボトルド・イン・ボンド」に変更されました。そして何より、バーボン飲みにはブッカーズのバッチ・ステッカーの挿絵やオールド・グランダッドのベイゼル・ヘイデンの肖像、イエローストーンやレッドウッド・エンパイアのイラストを手掛けたことでお馴染みのアーティスト、スティーヴン・ノーブルによる緻密な筆致によって、オールド・エイブのポートレイトが初期さながらの不機嫌そうな表情に生まれ変ったのです。
更に重要なのは、スタンダードなヴァージョンが86プルーフに引き上げられた上に、BiBと共にノンチルフィルタードの仕様になったことでした。これで以前は失われていたエステルと脂肪酸の一部が残ることが期待されるでしょう。この変更の理由をビーム・サントリーのライ・ウィスキー担当者ブラッドフォード・ローレンスは「歴史的な理由もありますが、バーテンダーがカクテルを創造する際に、より良いリキッドを作るためです」と述べていました。そして、変化の波はこれだけに終わりません。
2020年の後半には、ペンシルヴェニア州とオハイオ州のみの限定販売ながら、バレルプルーフに近い114プルーフで4年物のライと、長期熟成ライとなる11年物で92.6プルーフの2種類がリリースされました。11年物は1回限りのリリースでしたが、114プルーフのヴァージョンは2021年半ばから全国展開されるようになりました。2022年夏には、スタンダードな86プルーフの3年熟成が廃止され、新たに4年熟成に引き上げられました。この変更はオーヴァーホルトの1942年のオリジナル・エイジ・ステイトメントに敬意を表したもので、同社によれば歴史的なルーツへの回帰を示すものだと言います。「ホーム・バーのお気に入りでありバーテンダーの定番でもあるオールド・オーヴァーホルトは、常に酒好きやライ愛好家達に信頼性の高い高品質のライを提供してきました」、「熟成年数表記を4年に戻すことで、私たちが知り、そして愛してもいるオーヴァーホルトをより忠実な姿で提供することが出来ます」と、ビーム・サントリーのアメリカン・ウィスキー・アンバサダーであるティム・ヒューイスラーは述べていました。
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更に今年(2023年4月)には驚きの情報が齎されます。オーヴァーホルト・ライウィスキーの新ラベルがTTBウェブ・サイトに掲載されたのですが、そこにはビームがオーヴァーホルト・ブランドを所有して以来使用している標準的なケンタッキー・スタイルのコーン多めのマッシュビルとは異なる、往年のペンシルヴェニア・スタイルに特徴的なコーンを使用しない80%ライ、20%モルテッドバーリーの全く新しいマッシュビルであることが示されていました。しかもペンシルヴェニアで栽培されたモノンガヒーラ・ライを調達しているらしいのです。ラベルには「モノンガヒーラ・マッシュ」とありますね。
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ライ・ウィスキーの市場がここ10年で飛躍的な成長を遂げたことで愛好家達の製品に対する本物志向の要求は高まりました。ライの本拠地とも言えるペンシルヴェニア州では地元の有名なスピリッツを復活させるために日々努力を重ねるクラフト・ディスティラリーが数多くあり(*)、彼らはポット・スティルを用いてより伝統的な蒸溜方法を行ったりします。また、伝統的なライ麦品種を繁殖させ、時の流れの中で失われてしまった風味を取り戻そうとしているメーカーもあると聞きます。ペンシルヴェニア州ではないものの(コロラド州)、リオポルド・ブラザーズのように嘗てライ・ウィスキー造りの主流だったスリー・チェンバー・スティルを復活させる蒸溜所まであります。こうしたライ・ウィスキー本来の味と香りを愛好家のために取り戻したいという真剣な思いに呼応するかのように、ビームもオーヴァーホルト・ブランドをペンシルヴェニアのルーツに立ち返らせるべく改革に乗り出した、と。現時点では、現行のオーヴァーホルトが廃止されてこの新しいオーヴァーホルトになるのか、はたまた現在のラベルを存続させつつその上位互換としてこのモノンガヒーラ・スタイルも並行して販売されるのかは定かではありません。おそらくこのラベルのリリースはもう少し先でしょう。ライ・ウィスキーは近年のルネッサンス以前は辛うじて生命を維持されているに過ぎない存在に見えましたが、それはもう過去の話となりました。今、ライ・ウィスキーの歴史そのものと謂えそうなオーヴァーホルトという偉大なブランドは、嘗ての栄光を再び浴びる好機を得ています。今後が楽しみですね。

偖て、今回飲むのは4年熟成になる前段階の3年熟成のノンチル物です。ちなみにビームのライ・マッシュビルは非公開ですが、51%ライ、35%コーン、14%モルテッドバーリーと推測されています。他の説としては、日本ではライを59%としていることが多く見られます。これの出典が何処からなのか定かではありませんが、日本のバーボン・ファンにはお馴染みの91年発行の『オール・ザット・バーボン』や97年発行の『ザ・ベスト・バーボン』ではそう断言されていました。また、ライ61%と云う説もあり、これはどうやらジム・マレイの著書『The Complete Guide to Whisky』(1997)に由来するようです。これらの説のうち、どれを信頼していいのか私には判断がつきません。詳細ご存知の方はコメント欄よりご教示下さい。では、そろそろ伝統あるブランドを注ぐとしましょう。

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OLD OVERHOLT STRAIGHT RYE WHISKEY NON-CHILL FILTERED 3 Years Old 86 Proof
推定2021年ボトリング。ゴールド寄りのアンバー。グリーングラス、ライスパイス、微かなヴァニラ、胡椒、薄っすら林檎、トーストブレッド。草っぽく少しフローラルなトップノート。中庸な口当たり。パレートはほんのり甘く、かつスパイシー&ドライ。余韻はあっさりと退けて行くが、ほろ苦さが心地良い。液体を飲み込んだ直後のキックがハイライト。
Rating:80/100

Thought:立ちのぼる香りはやや弱く、ボディも軽く、後味も特別なものではないものの、若い原酒のため渋みが殆どないので飲み易いし、僅かにオイリーなところは気に入りました。個人的にはもっと甘いかフルーティな方が好みではありますが、おそらく甘いのが苦手ですっきり飲みたい人には向いていると思います。カクテルベースには言わずもがなでしょう。
ところで、一つ気になることがあります。ジムビーム・ライのラベルが或る時リューアルしましたよね。黄色から緑色のラベルに変わり、プリプロヒビション・スタイルという名称が付きました。それを数年前に飲んだ時、私は従来よりフルーティで美味しくなったと思いました。きっと何かが改良されたのだろう、と。ビームのライ・マッシュは一種類と聞いているので、それならオーヴァーホルトも美味しくなっているに違いないと思って今回飲み始めた訳です。ところが、このオーヴァーホルトはそのジムビーム・ライとは随分とキャラクターが異なる印象を受けました。私にはジムビーム・ライはフォアローゼズ(特にブラックより上位の物)に近しいフルーティさを感じ、オーヴァーホルトはオーヴァーホルトのままと言うか、多少の違いはあれども下で言及する以前の黒キャップの物と同傾向のスパイシーでドライな特徴を維持しています。付け加えると、短命に終わったビームのプレミアム・ラインのライに(rī)¹[※ライワンと発音]というのがありましたが、それもジムビーム・ライ緑ラベルと同系統のフルーツ・フレイヴァーを有していました。これって、ジムビームのライとオーヴァーホルトのライとをバレル・セレクトによって造り分けてるのですかね? まさか、マッシュビルが複数あるのでしょうか? はたまたイーストを変えているのでしょうか? 仔細ご存知の方は是非コメント頂けると助かります。

Value:現行のオールド・オーヴァーホルト4年のMSRPは750mlボトルで約20ドル。日本では大体2200〜2800円くらいが相場のようです。熟成年数から見ると品質は同価格帯のバーボンと殆ど同じか少し低いくらいなのですが、80プルーフという最低限のボトリングでもないし、ノンチルフィルタードは通常は高級品の仕様と見ることも可能ですから、コストパフォーマンスは高いと言えるかも知れません。現行のオールド・オーヴァーホルトは、入手のし易さといい、比較的安価な値段といい、ライらしさの一面を味わえる点といい、ライ・ウィスキーへの初めての入り口としてはオススメです。

あと、かなり昔に飲んだボトルが取ってあったので、おまけでその感想も添えておきます。

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OLD OVERHOLT STRAIGHT RYE WHISKEY 4 Years Old 80 Proof
推定2003年ボトリング(瓶底)。確か2013年頃に当時販売されていた黒キャップのオーヴァーホルト(3年熟成)を飲み終えた直後に開封して味比べをしました。その2013年あたりのオーヴァーホルトは風味が薄くてあまりピンとこなかったんですよね。点数にすると78点くらいがいいとこです。多分、2013年より少し前から2018年頃までのボトルはオーヴァーホルト史上、最も低レヴェルな味わいかも知れません。それに較べるとこちらはよりミンティさがある上に円やかで全体的に風味がもう少し強く美味しかった記憶があります。この頃のラベルは後の物より黄色っぽく、キャップの色も赤というより小豆色でした。
Rating:80/100
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*ペンシルヴェニア州のクラフト蒸溜所
1675 Spirits (Bucks County)
Altered State Distillery (Erie County)
Barley Creek (Monroe County)
Barrel 21 Distillery (Centre County)
BlueBird Distilling (Chester County)
Boardroom Spirits (Montgomery County)
Brandywine Branch Distillery (Chester County)
Chicken Hill Distillery (Elk County)
CJ Spirits (McKean County)
Cooper Spirits (Philadelphia)
County Seat Spirits (Lehigh County)
Crostwater Distilled Spirits (York County)
Dad’s Hat Rye (Bucks County)
Dead Lightning Distilled Spirits (Cumberland County)
Disobedient Spirits (Indiana County)
Eight Oaks Distillery (Lehigh County)
Five Saints Distilling (Montgomery County)
Hazard’s Distillery (Juniata County)
Hewn Spirits (Bucks County)
Hidden Still Spirits  (Dauphin County)
Hughes Bros Distilling (Bedford County)
Hungry Run Distillery (Mifflin County)
Lakehouse Distilling (Franklin County)
Liberty Pole Spirits (Washington County)
Lucky Sign Spirits (Allegheny County)
Midstate Distillery (Dauphin County)
Nomad Distilling (Lycoming County)
New Liberty Distillery (Philadelphia)
Manatawny Still Works (Montgomery County)
Mason Dixon (Adams County)
Pennsylvania Distilling (Chester County)
Red Brick Distillery (Philadelphia)
Silverback Distillery (Monroe County)
Stoll and Wolfe (Lancaster County)
Strivers’ Row Distillery (Philadelphia)
Thistle Finch Distillery (Lancaster County)
Wigle Whiskey (Pittsburgh)

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ヴェリー・オールド・バートンは、バーボン生産の中心地バーズタウンで1879年の創業以来、最も長く操業を続けているバートン1792蒸溜所で造られています。そのヴァリエーションは80プルーフ、86プルーフ、90プルーフ、100プルーフと豊富ながら、全国展開のブランドではありません。そのせいなのか、日本での流通量が多くないのが残念なところ。ヴェリー・オールド・バートンは、嘗てはケンタッキー州と近隣の幾つかの州(KY、IN、OH、IL、WI、MI、TN)でのみ販売され、ジムビームやジャックダニエルズと真っ向から競合し、価格競争力に優れたバーボンとしてケンタッキー州では常に高い評判を得ていました。現在では主に中西部、東部、中南部の23の州で販売されているらしいです。
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奇妙なことに、現在バートン1792蒸溜所を所有するサゼラック・カンパニーの公式ウェブサイトの「OUR BRANDS」の欄にヴェリー・オールド・バートンは何故か載っておらず、不当な扱いを受けているようにも見えます。 同蒸溜所の主力製品は今は「1792スモール・バッチ」となっていますが、当初はヴェリー・オールド・バートンが主要なプレミアム・ブランドでした。昔の8年熟成のヴェリー・オールド・バートンは70〜80年代に掛けて最も高く評価されたケンタッキー・ストレート・バーボンの一つとされています。2000年頃までは基本的に8年熟成の製品だったようですが、その後、バーボンの売上増加と蒸溜所の所有者変更により、熟成年数は6年に引き下げられ、更にその後NASになりました。ところで、我々のような現代の消費者の感覚からすると、ヴェリー・オールド・バートンはその名前に反して、それほど長熟ではありませんよね。「ヴェリー・オールド」と聞くと、20年熟成とかを思い浮かべそうですし、そこまでではないにしろ少なくとも12年以上は熟成してそうなイメージがします。しかし、昔はそうではありませんでした。蒸溜所が連邦物品税を支払う前にウィスキーを熟成できる期間(保税期間)は1958年まで8年間だったため、当時は8年物で「ヴェリー・オールド」と呼ばれることが多く、このブランドがそれほど長熟でもないのにそう名前にあるのはその名残です。

ヴェリー・オールド・バートンは通常20ドル未満、プルーフが低い物はそれよりも更に安い価格で販売されています。それ故、20ドル以下のバーボン・ベスト10のようなオススメ記事によく顔を出していました。取り分け人気があったのは部分的に白色が使われたラベルの6年物のボトルド・イン・ボンドで、高品質でありながら手頃な価格は、長きに渡りコストパフォーマンスに優れたバーボンとして愛されて来ました。しかし、上でも述べたように以前はボトルに熟成年数を示す「6 years old」の記載がありましたが、2013年末頃?、サゼラックはネック・ラベルにあった「6 years old」から「years」と「old」を削除し、数字の「6」だけを残しました。サゼラックはバッファロー・トレース蒸溜所が製造するオールド・チャーターのラベルでも、同じように以前はあった8年熟成表記を単なる「8」という数字のみにしたりしました。熟成バレルの在庫が逼迫したことで、ラベルからエイジ・ステイトメントを削除するのは理解できます。しかし、熟成年数を変更したにも拘らず、恰もその年数を示すかのような数字をラベルに残した行為は、多くのバーボン愛好家が納得しないものでした。彼らからは、卑劣で陰険で極悪非道、間違いなく恥ずべきことだと謗られたり、不誠実でくだらないマーケティングと断罪されたり、または天才的なマーケティング手腕だと皮肉られる始末でした。暫くの間ラベルは「6」のままでしたが、軈て消えます。同社はVOBのラベルが「6」に切り替わった時点では平均してまだ6年熟成と主張していました。切り替え当初はそうだったのかも知れませんが、おそらく直に熟成年数は4〜6年のブレンドに移行したと思われます。それから数年後、ラベルから「Bottled in Bond」の表記がなくなり、代わりに「Crafted」と書かれるようになりました。巷の噂では、2018年の6月に1940年代に建てられたバートンの倉庫#30が崩壊したため異なる蒸溜シーズンのヴェリー・オールド・バートンを混ぜることを余儀なくされた、と言われています。
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偖て、今回飲むのは6年熟成でもなく、ボトルド・イン・ボンドでもない100プルーフのヴェリー・オールド・バートンです。私が気に入っていたバートン原酒を使ったコストコのカークランド・シグネチャーが、どうやら一回限りのコラボだったようで定番化されず、そのせいで常備酒とは出来ませんでした。そこで代替品となるのは、似たスペックをもつこのVOBしかありません。同じバートン産でありながら、二つのブランドにどれほどの違いがあるのかも興味深く、購入してみた次第。さっそく注いでみましょう。ちなみにVOBのマッシュビルについては75%コーン、15%ライ、10%モルテッドバーリーとされています。

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Very Old Barton 100 Proof
推定23年ボトリング(瓶底)。オレンジがかったブラウン。薄いキャラメル、若いプラム、トーストした木材、ピーカンナッツ、微かなカレーのスパイス、アニス、汗→整髪料。芳しい樽香に僅かにフローラルの混じった接着剤様のアロマ。口当たりはほんの少しとろっとしている。味わいはバートンらしいストーンフルーツが感じられるがやや弱い。余韻は短めながら香ばしい穀物とココナッツが漂う。
Rating:81/100

Thought:グレインとナッツ類に振れた香味バランスのバーボンという印象。軽いヴァニラ系統の甘み、ウッディなスパイス感、穀物の旨味、適度なパンチは飲み応え十分です。総合的に、驚くほど美味しくはないものの悪くはありません。しかし、正直言うと100プルーフに期待されるリッチなフレイヴァーは欠けているように感じました。バートン原酒を使用したコストコのカークランド・シグネチャーと較べると、特にフルーツ・フレイヴァーが弱く、自分の好みとしてはプルーフの低いスモールバッチよりもこちらは劣っています。KLSmBは開封から半年以上経った時に風味が物凄く伸びたので、このVOBも開封してから少しづつ飲んでスピリッツが開くのを待っていたのですが、半年経っても殆ど変化が見られませんでした。私はKLSmBの「スモールバッチ」はただのマーケティング用語ではないかと疑っていたのですが、これだけ差があるのなら本当に厳選されたバレル・セレクトがなされていたのかもと思い直したほどです。もしくは、コストコはカスタム・オーダーでマッシュビルのライ麦比率をやや増やして違いを作り出していたのかも知れない。VOBはライが15%とされている一方、バートン版カークランドはライが18%と推定されていることが多いので。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメントよりご意見ご感想どしどしお寄せ下さい。

Value:アメリカでの価格は地域によって大きく異なるようですが、基本的にヴェリー・オールド・バートンはアンダー20ドルの世界の戦士です。今の日本では3000円台後半〜4000円近い価格となっており、私も昔の感覚からすると高いなと思いつつもその金額で買いました。そもそも特別な日のためのバーボンではないのは言うまでもありませんが、日本で購入すると安価なデイリー・バーボンとも言い難い価格になるのが痛いところです。勿論、私とて物事が昔と同じようには行かないことは理解しています。最近では1792スモールバッチが4000円から6000円近い価格となっていることを考えると、適正な価格なのかも知れません。しかし、ここ日本で3500〜4000円となると、それより安い価格でメーカーズマークもワイルドターキーも買えてしまいます。個人的にはそれらの方がこのVOB100プルーフより上質なバーボンと感じます。もしこれがアメリカの小売価格に準じた2500円くらいならアリなのですが…。返す返すもコストコのバートン原酒を使用したカークランド・シグネチャーが買えなくなったのは残念です。

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たまたまオールド・マクブレヤーの禁酒法時代のメディシナル・パイントが手に入りました。ここ日本で話題に上ることは殆どありませんが、マクブレヤーの名はバーボンの歴史に於いて重要かつ偉大な名前の一つであり、そのブランドと名前は現代に復活を果たしています。そこで今回はマクブレヤー家とそのウィスキーに就いて見て行きたいと思います。

バーボンの世界でマクブレヤーと言えば、ローレンスバーグ出身のW・H・マクブレヤーです。彼は郡で最初の裁判官として有名で、上院議員でもあり、プレスビテリアン(*)の長老であり、慈善家としても活動しました。ディスティラーとしては、ケンタッキー州のバーボン革命が始まったばかりの頃にアンダーソン・カウンティが蒸溜産業で繁栄するための道を啓いた蒸溜所を運営し、禁酒法施行前の最も有名なウィスキー・ブランドの一つを生み出し、ケンタッキー・バーボンの名声を世界に広めた初期の功労者であり、カーネル・E・H・テイラー・ジュニアやT・B・リピーと関係をもち、W・B・サッフェルを雇い、チャールズ・M・デドマンを支援した人物でした。先ずは通称 「ザ・ジャッジ 」として知られた男のレガシーから紹介しましょう。
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(Judge W. H. McBrayer)
ウィリアム・ハリソン・マクブレヤーは、1821年12月10日、ケンタッキー州アンダーソン郡はローレンスバーグの近くに住むスコットランド系開拓者一家の11人の子供のうちの一人として生まれました。祖父がブルーグラス・ステイトの初期入植者で、父親のアンドリューは農場を営む著名な市民であり同郡の代表を何期か務めた政治家でもありました。彼らが既に自分の土地で小さな蒸溜所を経営していた可能性はあるかも知れません。ウィリアムは地元で教育を受け、早くからビジネスの才能を発揮していました。18歳の時、ローレンスバーグで二人の兄と共に雑貨屋(乾物商とも)を営み成功すると、軈て彼らから店を買い取って単独経営者となり、その後30年間店を切り盛りしたと云います。更にはキャトル・バイヤーとして飼育と販売にも勤しんだそう(ミュール・トレーダーという情報もあった)。
ウィリアムは一族の伝統を受け継いで1844年にディスティリング・ビジネスに参入し、ローレンスバーグの東1.5マイルに位置する場所に工場を設立しました。蒸溜所を建設した土地はウィリアムがライアン家の元奴隷アンクル・デイヴから購入したものでした。ライアン家には相続人がおらず、農地と土地は彼らが亡くなる前に解放した元奴隷のデイヴに遺贈されていたのです。そこはシダー・ランと呼ばれる曲がりくねった小川沿いの美しい土地でした。後のウィスキー・ラベルに描かれるその場所はロマンチックな景色を有していましたが、蒸溜所は当初「原始的な丸太の掘っ立て小屋」と表現される程度のものだったようです。この蒸溜所(第8区RD#44)のウィスキーは「W.H. McBrayer Hand Made Sour Mash Whiskey」というラベルが付けられ、早くもマクブレイヤーの名はケンタッキー州で最高品質の製品を製造していることで知られるようになりました。
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1848年、ウィリアムは6歳年下で同じくアンダーソン郡のヘンリエッタ・デイヴィスと結婚しました。ケンタッキー軍がメキシコ戦争に出征する際、ヘンリエッタは「アンダーソンの最も美しい娘」に選ばれ、郡の若い女性達が作った旗をプレゼントする役を担ったのだとか。1851年になるとウィリアム・H・マクブレヤーはアンダーソン・カウンティの初代判事に選出されました。彼は3年間郡判事を務め、公職を離れた後も人々はウィリアムを単に「ジャッジ」と呼び続け、その肩書きは生涯を貫きました。この呼び名は地域社会のリーダーとして愛された彼の役割を反映したものだったのでしょう。しかし、その同じ年に、僅か3年の結婚生活だけでヘンリエッタが亡くなるという悲劇が起きました。ジャッジは悲しみに打ち拉がれたものの、政治家としてのキャリアも追求し、1856年にはアンダーソン郡とマーサー郡の州上院議員に選出され、その後4年間務めています。同年、彼はヘンリエッタのファースト・カズンのメアリー・エリザベス・ウォレスと再婚し、二人の間には一人の娘が生まれました。上院議員に当選したばかりのウィリアムでしたが、彼の多忙な政治家としてのキャリアはウィスキー・ビジネスの発展を止めることはなく、この時期に蒸溜所の経営も本格的に取り組み始めました。スティルを収納するための新しいフレーム・ビルディングや金属被覆のウェアハウス3棟、また他に別棟も建て、蒸溜所は大きく拡張されます。
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同じ頃、伝説によればジャッジは、妻メアリーの助言に従って蒸溜所の名前をシダー・ブルックに変更しました。敷地内に聳え立つ崖を覆い、川沿いに立ち並ぶ杉の密生から着想を得たと言われています。シダー・ブルック蒸溜所とブランド名の誕生です。蒸溜所の拡大によりジャッジは高品質のウィスキーを造って広く販売することに専心するようになり、シダーブルックは軈て「世界で最も有名なブランド」と知られるまでに成長し、全てのボトルに最高品質の証としてマクブレヤー家の名前が誇らしげに表示されるようになりました。彼は蒸溜の全工程で労力もコストも惜しまず、その品質に大きな誇りを持っていました。最高の穀物を選び、純粋なライムストーン・ウォーターを使い、敷地内の最も高い丘にあるウェアハウスにバレルを貯蔵して豊かな風味を得るために辛抱強く熟成させるなど、自身のブランドを製造するために最大限の努力を払ったと伝えられています。こうして1861年、シダーブルック・ブランドが初めて商業的に使用されたことが記録されました。南北戦争中もシダー・ブルック蒸溜所は繁栄を続け、ジャッジのバーボンの噂は全国に広まりました。
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この成功に促されたのか、ジャッジはT・B・リピーと手を組み、南北戦争後の1868年にジェイムズ・リピー及びパートナーのモンロー・ウォーカーとサム・P・マーティンが立ち上げたウォーカー, マーティン・アンド・カンパニーのタイロンの蒸溜所(RD#112)を1869年に購入しました。しかし、何故か翌年にジャッジは自分のシェアをパートナーのT・Bに売却しています。単なる後進への支援だったのでしょうか? T・Bは後にそこをクリフ・スプリングス蒸溜所と改名して、同じくタイロンのクローヴァー・ボトム蒸溜所(RD#418)と共に運営し、アンダーソン・カウンティの蒸溜王となって地場産業を支えました。
1870年、ジャッジは幾らかの追徴課税を支払う必要があり、その資金を調達するためにバレルの一部を売却することを希望していました。E・H・テイラー・ジュニアは、ケンタッキー州で最高のウィスキーが造られているのはケンタッキー・リヴァー流域だと考えており、また、その地域で最高のウイスキーを造っているのがマクブレヤーであると信じてもいました。そこでジャッジは11月10日にテイラー・ジュニアへ手紙を出して事情を説明しました。テイラーはマクブレヤーからバレルを購入することを喜んだそうです。
ジャッジが製造した全てのシダーブルックは、オハイオ州シンシナティのジェイムス・レヴィ・アンド・ブラザーズが全国的に販売する独占契約を結んでいました。この当時、独占的な取引は一般的なもので、消費者を見つけるという課題は製造業者ではなく販売業者にありました。レヴィ社の努力もあってか、このブランドとW・H・マクブレヤーの名はケンタッキー州の最高級バーボンの代名詞として世界的に知られるようになって行きます。ジェイムス・レヴィ・アンド・ブラザーズはウィスキーの大手流通業者で、毎年数百バレルを仕入れており、テイラー・ジュニアのオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所とも取引があったそう。更に彼らはジャッジのセカンド・カズンであるジョン・H・マクブレヤーからも仕入れを行っていました。
ジョンは1826年6月17日にローレンスバーグで生まれ、地元で教育を受けた後、メキシコ戦争に従軍し、「ソルト・リヴァー・タイガース」として知られる中隊の隊長としてブエナ・ヴィスタの戦いで勇敢な突撃を指揮したと云います。アメリカン・アーミーで最年少のキャプテンだったらしい。戦争終結後、ケンタッキー州に戻り、1848年にハモンズ・クリーク沿いにJ.H.マクブレヤー蒸溜所(RD#125)を立ち上げると、優れたウィスキー造りを始めました。1870年には、マウント・スターリングから少し離れたニュー・マーケットのコミュニティでグリスト・ミルから蒸溜所に改築された施設をハワード, バーンズ&カンパニーから購入し、オールド・マクブレヤー蒸溜所(モンゴメリー郡第7区RD#17)として操業。数年後にジャッジ・W・H・マクブレヤーに売却され、次いでジャッジは1881年にW・W・ジョンソン&カンパニーに売却しました。ジョンソンは1885年にE・H・テイラーとメイヘアーに売却します。二人はテイラー&メイヘアーの名の下で操業し、ブランドには「オールド・マクブレヤー」、「ニュー・マーケット」、「W.W.ジョンソン」、「オールド・ボッツ」等があったそうです。ジョンソンは1888年に工場を買い戻し、1907年まで経営した後、シカゴのローゼンフィールド・ブラザーズ&カンパニーに売却しました。同社はオールド・マクブレヤー・ブランドを保持し、蒸溜所の3つのウェアハウスには約42000バレルの収容能力があり、禁酒法施行までこの工場を運営していたそうですが、その後閉鎖され一部は解体されました。オールド・マクブレヤーのブランドはアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーに買収され、禁酒法時代にも広く販売されました。蒸溜所は1937年にマクブレヤー・スプリングス・ディスティリング・カンパニーとして再建され、フランク・ゴーマンが社長、G・M・"フレッド"・フォーサイスが施設監督、ルイ・ボンドがディスティラーでした。ゴーマンは1907年以前にも管理責任者を務めており、フォーサイスはその少し前までハリソン郡のオールド・ルイス・ハンター蒸溜所(RD#15)の事務/会計やアンダーソン郡の幾つかの工場とマーサー郡のオールド・ジョーダンでも管理責任者として働き、ボンドは1907年以前はW・W・ジョンソンと共に経験を積んでいたそうです。残念ながら、この蒸溜所は数年で閉鎖され、建物は後に建築骨材工場として使われたとか。
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ジャッジのシダーブルック・バーボン及び蒸溜所は繁栄を続けていましたが、その名声が国際的な高みに達する時が来ました。1873年、マクブレヤーのウィスキーがオーストリアのヴィエナで開催された万国博覧会で金賞を受賞したのです。3年後の1876年にはアメリカ初のワールズ・フェアーであるフィラデルフィア・センテニアル・エクスポでも金メダルを獲得しました。この時にディスティラーのニュートン・ブラウンには金時計が贈られたそうです。こうした評価の高まりはマクブレヤー家を更に裕福にしたのでしょう、その頃にジャッジとメアリーは町のメイン・ストリートに位置するローレンスバーグで最も大きな家の一つへ引っ越しました。ちなみに、後年の1884年にルイジアナ州ニュー・オーリンズで開催された世界産業および綿花百年博覧会(World’s Industrial and Cotton Centennial Exposition)でも金賞を受賞しました。シダーブルック・バーボンは「ワールズ・チョイス」と謳われ、「ヨーロッパの王侯貴族をスコッチからケンタッキー・バーボンに転向させたウィスキー」として知られるようになり、当時市場で最も売れたバーボン・ブランドだったと言われています。需要の増加に伴い、1880年にシダー・ブルック蒸溜所に新工場が建設され、生産量は増えますが、ジャッジは常に自分の製品の品質に拘り続けました。膨大な需要に対応するため、マクブレヤーの蒸溜所は1日あたり570ブッシェルをマッシングするまでに生産量が急増しますが、ビジネスが急成長するにつれてマクブレヤーの名前を盗用し始める者もいました。世界的に有名になったウィスキーを守るためにジャッジは、シダーブルックの各ボトルに自分の名前を入れたり、声明を発表したりしました。「多くの悪徳ディーラーがケースやボトルにマクブレヤー・ウィスキーとブランディングして粗悪なウィスキーを市場に出しているのを私は観察している。執拗で恥ずかしげもないこのような乱用は、私自身の本物の世界的に有名なウィスキーの評判を不当に傷つける恐れがある…(ボンフォーツ・ワイン・アンド・スピリッツ・サーキュラー、1882年12月10日掲載)」と。

30年以上に渡り蒸溜所の舵取りをして来たウィリアム・ハリソン・マクブレヤーは、1888年12月6日、67歳でこの世を去りました。彼には高貴な心、明晰で遠くを見渡す頭脳、そして強く寛大な心が備わっており、裁判官として法廷に立とうと、州上院の議員として、マーチャントとして、キャトル・ディーラーとして、或いはディスティラーとして、全ての人を公平に扱い、全ての人に正義を行うという願いを持って、自分のベストを提供したと伝えられます。ジャッジのレガシーはケンタッキー・バーボン造りに根ざしていましたが、実際には地域社会の発展に貢献した何でも屋さんと言うのか街の名士であり、ウィスキーは彼の手掛けた事業の一つに過ぎなかったのかも知れません。逝去当時に「彼の善行を語れば何巻にもなる」と言われるほど教会の活発なメンバーだったジャッジは、後にケンタッキー州ダンヴィルのセンター・カレッジと合併したセントラル・カレッジ・オブ・リッチモンドに多額の寄付(現在の貨幣価値で推定60万ドル相当)をしたそうです。また、彼はルイヴィル・サザン・レイルロードをアンダーソン郡に誘致する手助けもしました。鉄道がローレンスバーグと他の州を結ぶ原動力になることを信じていたジャッジはこのプロジェクトの理事を務め、亡くなる数ヶ月前の1888年に鉄道が完成すると、家族と共にローレンスバーグ行きの列車で旅行をした初めの一人となったようです。この鉄道への彼の影響から、ローレンスバーグの数マイル南にある地域(フォアローゼズ蒸溜所のある周辺)は「マクブレヤー」と命名され、ボンズ・ミル・ロードと鉄道の交差点には嘗てマクブレヤー・レイルロード・ステーションがありました。また、フォアローゼズ蒸溜所の道路向かいにあり、1976年にオースティン・ニコルス社がシーグラムから取得した倉庫施設は、現在ワイルドターキーのマクブレヤー・リックハウスと知られていますが、その名前は地元の呼称から来ているので、元を辿ればジャッジ・マクブレヤーから由来しているでしょう。

ところで、現代に蘇ったブランドの一つにケンタッキー・アウルがありますが、ジャッジはそのオリジナルを造った蒸溜所と関わりがありました。1880年以前に建てられ、ケンタッキー州オレゴン(ローレンスバーグの南方のサルヴィサから東へ数マイルの場所)のケンタッキー・リヴァーのフェリー乗り場近くで操業されていたケンタッキー・アウル蒸溜所(マーサー郡第8区RD#16)はチャールズ・モーティマー・デドマンが運営しており、彼はディクソン・デドマンとメアリー・マクブレイヤー・デドマンの息子で、メアリーはジャッジ・マクブレヤーの妹でした。成功の頂点に立っていたジャッジは一族の生得権を分け与えたのか、甥で養子のチャールズが自分の蒸溜所とバーボン・ブランドを設立できるよう必要な土地と資金を贈ったそうです。蒸溜所は1916年まで操業しその後に閉鎖。C・M・デドマン氏は1918年に死去しました。義父母が宗教上の理由から酒類に反対していたため再開されることはありませんでした。また、彼は薬剤師でもあり、ハロッズバーグでドラッグ・ストアを経営していましたが、そちらは同じく薬剤師だった息子のトーマス・カリー・デドマンが後を継ぎました。彼らは義理の両親を尊重して禁酒法時代には処方箋によるウィスキーの販売を断ったと云います。
また、近年カンパリからウィスキー・バロンズ・シリーズの一つとしてリリースされた「W.B.サッフェル(**)」も、ジャッジ・マクブレヤーと縁の深い人物です。ウィリアム・バトラー・サッフェルの名前はカンパリのウィスキーが発売されてそのレガシーが紹介されるまで殆ど忘れ去られていましたが、自身の蒸溜所のウィスキーは当時かなりの成功を収めた他にも、長年ローレンスバーグ・ナショナル・バンクのヴァイス・プレジデントとディレクターを務めるなど、彼は19世紀後半に名声を得たローレンスバーグの名士の一人でした。1843年8月28日生まれのサッフェルは、1700年代後半にケンタッキー州ルイヴィルとレキシントンのほぼ中間に位置するアンダーソン郡に定住した開拓者一家の一員でした。南北戦争の終結から3年後、25歳のサッフェルはアンダーソン・カウンティのユナイテッド・ステイツ・レヴェニュー・ストアキーパーとして雇用されたそうです。このようなエージェントはゲイジャーとも呼ばれ、地域のディスティラー達が支払うべき酒税の査定を担当していました。この職業に就いたことで、サッフェルは6年間の勤務中に担当地区内の各蒸溜所の設備や工程の知識を得、更にその経営者らと顔馴染みにもなったのでしょう。1874年、サッフェルはウィスキー・リングと呼ばれる一大スキャンダルが露呈する数ヶ月前に職を辞しています。その直後、サッフェルはジャッジ・マクブレヤーの下で働くことになりました。彼はマクブレヤーのイースト・メーカーでした。ウィスキーにとって酵母は非常に重要な風味成分となりますから、おそらくジャッジのバーボンの成功にサッフェルは大きな役割を果たしたと思われます。二人は非常に親密だったようで、サッフェルには6人の娘と1人の息子がいましたが、その長男にフランクリン・マクブレヤー・サッフェルと名付けていました(残念ながら幼児期に亡くなっている)。そのうちジャッジはサッフェルを今で言うマスター・ディスティラーである蒸溜所の監督役にしました。ジャッジが亡くなって1年後の1889年、サッフェルは20年間働いたマクブレヤー蒸溜所を辞めて独立し「自分の小さな製品」を造る道を歩み始めます。彼はローレンスバーグのすぐ北西、オルトン(アルトン)近くのハモンド・クリークのほとりのサザン・レイルロード沿いにW.B.サッフェル蒸溜所(RD#123)を建て、ウィスキーを造り始めました。その工場は年間385バレルのバーボンを生産したとされます。1903年の記録によると、2つのアイアンクラッドのボンデッド・ウェアハウスは21000バレルを貯蔵するキャパシティだったそう。自分の名前が付いたウィスキーにはセラミック・ジャグとガラスのボトルかあり、瓶のラベルは熟成中のバレルが並んだ倉庫を描いた物でした。彼のウィスキーはシダーブルック等に匹敵する人気があったようで、獲得した高い評判はビジネスを成功に導き、他のアンダーソン郡の成功したディスティラーと同じように堂々たる邸宅を建てました。リピー・ファミリーの邸宅ほど大きくはありませんでしたが、その造りは立派なもので現在は葬儀場となっているそうです。また、町の近くに500エーカーの農地も所有していました。ウィリアム・バトラー・サッフェルは1910年8月31日、67歳で亡くなりました。死後間もなく、ローレンスバーグの中心部にある通りはサッフェル・ストリートと名付けられました。現在でもその横にはサッフェル・ストリート・エレメンタリー・スクールがあります。サッフェルの相続人たちはプロヒビションの到来まで工場を経営し続けましたが、その後復活することはなく、その扉は永遠に閉じられました。そして、蒸溜所の建物とブランドは軈て時の流れの中で失われたのでした。しかし、往年のディスティラーを称えるウィスキー・バロンズ・コレクションに含まれたことで、サッフェルの名は再びバーボン愛好家の知るところとなった、と。
ケンタッキー・アウルとW.B.サッフェルという二つの現代に蘇ったラベルは、マクブレヤーのレガシーを継承していると言ってよいかも知れません。
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ジャッジ・マクブレヤーの死後、親族間の争いが起こりました。ジャッジは生前、シンシナティのレヴィ&ブラザーズと契約し、1891年12月1日まで既存の全てのバレルと将来生産される全ての蒸溜酒を売却することを約束しており、そのため蒸溜所は基本的に生産契約を履行するために操業されなければなリませんでした。彼は遺言の第9項で、自分の死後3年間は相続人がマクブレヤーの名で蒸溜所を運営してもよいが、その後は自分の名前を事業から完全に抹消することを望んでいました。これはジャッジが酒を嫌うプレスビテリアンの長老であったことと、個人的に絶対禁酒主義者であったことに起因していると推測されています。それに加え妻のメアリーも、その収入源を考えると少々皮肉なことに、アルコールには強い抵抗感を抱いていたようです。遺言書には遺言執行者たちの間で意見が対立した場合には、妻に遺産の決定に於いて最も重要な役割を与えるべきであるとも書かれていました。
ジャッジの一人娘ヘンリエッタは、同じく蒸溜業者でマーサー・カウンティのバーギン近くに蒸溜所を所有するダニエル・ローソン・ムーア(***)と結婚していましたが、既に若くして1882年10月30日に31歳で亡くなっていました。彼女とムーアには3人の子供、メイ、ウォレス、ウィリアムがいました。蒸溜所はこの三人の孫が引き継ぎ、ジャッジの義理の息子であるムーアが遺言の共同執行者として経営に当たりました。ジャッジの未亡人は蒸溜所からマクブレヤーの名前を剥奪し、孫娘達が貴重なシダー・ブルックの商標を使用することを禁止する条項の施行を望みましたが、ムーアは蒸溜所の経営者として、またジャッジの遺言の共同執行者として、この条項を無効化しようと試みました。メアリーは彼を法廷に引っ張り出します。ムーアは1894年4月の訴訟で、マクブレヤーの名前はジャッジの孫にとって少なくとも20万ドル(今日の数百万ドル)以上の価値がある商標であり、この条項で許可された3年を超えて存続させるべきだと主張。下級裁判所がメアリーの主張に同意すると、ムーアはケンタッキー州最高裁判所に上訴しました。そこの判事達はマクブレヤーのシダー・ブルックをよく知っていたのか同情的だったようで、ジャッジ・マクブレヤーは非常に賢明でとても聡明なビジネスマンであり、彼の真意では蒸溜所を3年以上運営することを望まなかったかも知れないが、孫娘達が新しい事業体を設立して蒸溜所を運営することは問題なく、もちろん貴重なマクブレヤーとシダー・ブルックの名称は引き続き使用されるべきである、としました。基本的に裁判所は、愛する孫達に不利益を与える意図はなかったというムーアの意見に同意し、マクブレイヤーとシダー・ブルックの名前は余りにも価値が高く、無駄にすることは出来ないと判断したのです。こうして遺言は却下され、ムーアと孫達にはバーボンに関連するマクブレヤーの名前を残すことが許されました。ジャック・サリヴァンは、もしムーアがジャッジの遺言に異議を唱えなければシダーブルックやマクブレヤー・ウィスキーの名が後世に残らなかったかも知れないと云うような趣旨の発言をしており、この件の彼の行動を称賛しています。

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保険記録では、この頃の蒸溜所の所有者はシダー・ブルック・ディスティラリー・カンパニー、D・L・ムーアが運営とされ、蒸溜所は石造りで、敷地内には金属またはスレート屋根のフレーム構造のボンデッド・ウェアハウスが3つ(A, B, C)蒸溜所から約1マイル北にあり、同様の構造のフリー・ウェアハウスが305フィート東にあったようです。ムーアは子供達に代わってシダー・ブルック蒸溜所の経営を続けた後、1899年、最終的に蒸溜所をウィスキー・トラスト(****)であるジュリアス・ケスラーのケンタッキー・ディスティラリーズ・アンド・ウェアハウス・カンパニーに売却しました。何故ムーアがトラストに売却したのかはよく解りませんが、彼が引き続き施設を管理したという情報もありました。トラストが工場を買い取ると1日800ブッシェルから1800ブッシェルに拡張し、更に新しい倉庫とボトリング・ハウス、ケンタッキー・リヴァーまでの2.5マイルのラインを持つ冷却水用のポンピング・ステーションを追加しました。一方、この頃には「オールド・ジャッジ」という言葉が広くウィスキーと結び付くようになっており、この言葉を使った多くのブランドが誕生していたようです。ケスラーはシダー・ブルックを「世界で最も有名なブランド」とし、W・H・マクブレヤーの名前を冠し続け、その遺産を守ることに専念しました。マクブレヤーの評判を上手く利用して、ジャッジが築いた基盤をより強固なものとした訳です。
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最盛期には、シダー・ブルックは世界最大の販売を誇るファイン・ケンタッキー・ウィスキーのブランドとして宣伝され、汎ゆる一流クラブ、バー、レストラン、ホテル、および大手ディーラーで販売されました。しかし、当時の多くの蒸溜所と同様にシダー・ブルック蒸溜所は禁酒法のために閉鎖(1916年までという説も)され、1922年に解体されてしまいます(禁酒法開始時に壮絶な火災に遭い焼失したという情報もありました)。閉鎖後に蒸溜所の礎石が開かれると、そこから埃を被った遺物が幾つか見つかりました。希少なオールド・ウィスキーのボトルが2本、少額のお金、古い新聞、そしてマクブレヤーに関する手紙と蒸溜所で働いた42人の名前のリストが入ったガラス瓶です。従業員のリストには経営者のW・H・マクブレヤーや管理人のW・B・サッフェルを始めとして様々な職種の人々が記載されていました。シダー・ブルック蒸溜所はアンダーソン・カウンティのウィスキー産業を一から築き上げ、地元住民の雇用を創出していたのです。

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上の画像はケヴィン・コスナーとショーン・コネリーが共演する禁酒法時代を舞台にした1987年の映画『ジ・アンタッチャブルズ』の宣材写真かオフショットを使ったポスター?か何かだと思うのですが、二人の後ろにはオールド・マクブレヤーの大量の箱が見えます。映画の中ではポスト・オフィスへの初めての「襲撃」のシーンでチラッと映ってたように思います。禁酒法はアメリカ国内でのアルコールの製造と販売を非合法化しましたが、薬用の処方箋や特別な配給品は免除されていました。オソ・ワセンによって設立されたアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)は、そうした状況を上手く利用した企業の一つでした。シダー・ブルックもオールド・マクブレヤーも禁酒法時代にAMSによって製造されました。禁酒法時代のメディシナル・ウィスキーのブランド名は実際にその蒸溜所と一致していないことが殆どでした。それを念頭に置いて、誰がウィスキーを蒸溜し、誰がボトリングしたかを見てみましょう。画像検索ですぐ見つかる物には、シダー・ブルックのブランドではクック=マクファーデン・カンパニーがボトリングした物(参考1)と、AMSがS.P.ランカスターの原酒を詰めた物(参考2)があります。オールド・マクブレヤーのブランドの方はかなり多く見つかり、H・S・バートン(グレンモア蒸溜所デイヴィス郡第2区RD#24)、メルウッド蒸溜所(ジェファソン郡第5区RD#34)、アレン=ブラッドリー・カンパニー(ジェファソン郡第5区RD#97)、ザ・アンダーソン・ディスティラリー・カンパニー(同上)、ザ・ネルソン・ディスティラリー(ジェファソン郡第5区RD#4)、ハリー・E・ウィルケン(エルク・ラン蒸溜所ジェファソン郡第5区#368)、ジョセフ・シュワブ・ジュニア(ファーンクリフ蒸溜所ジェファソン郡第5区RD#409)、E.L.マイルス&カンパニー(ネルソン郡第5区RD#146)、J.N.ブレイクモア(ウィンザー蒸溜所ラルー郡第5区RD#36[一時期のアサートン蒸溜所])、ウィリアム・ター・カンパニー(フェイエット郡第5区RD#1)、ヘンリー・クレヴァー(ヘンダーソン郡第2区RD#50)とラベルや封紙に記載された物がありました。他にもあるのをご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。上に列記したのは、なにぶん解像度の低い画像を拡大して視認しただけなので間違っている可能性があります。こちらに関しても誤りはどしどしコメントよりご指摘ください。また括弧内は、ラベル及びストリップが読み取れた物に就いてはそのまま書き出しましたが、大部分は名前から推測される蒸溜所を私が補足したものです。これらは概ねトラストが買収した蒸溜所でした。ボトリングは大体がR.E.ワセンのNo.19か、エルク・ランの巨大なNo.368の集中倉庫。あと、これらの幾つかは34年ボトリングと記載があり、禁酒法解禁の直後にリボトルされた物と思われます。上記の社名のうち、アンダーソン&ネルソンやアレン=ブラッドリー及びエルク・ランは同じ敷地にある複合施設でした(*****)。兎も角、これだけ種類が豊富なところを見ると、オールド・マクブレヤーは禁酒法時代、最も人気のあったウィスキーの一つだったのかも知れません。
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禁酒法が解禁された後のマクブレヤーのブランドは、AMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズが販売したと思われるのですが、この時期のシダー・ブルックは画像検索で殆ど確認できず、見つかったのはブレンデッドくらいでした。もしかするとブランドの復活に力を入れられなかったのでしょうか。どういう経緯か分かりませんが、マイケル・ヴィーチによると、シダーブルックは一時期シェンリーがボトリングしたブランドになったが1970年代には消滅した、と書いていました。オールド・マクブレヤーの方はもう少し見つかりまして、確認できるところではグリーン・ラベルの3年や4年の短熟物、多分もう少しあとのブレンデッドがありました。
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すぐ下で紹介するマクブレヤー・レガシー・スピリッツを創業したビル・マクブレヤー4世によれば、1970年代にナショナル・ディスティラーズが製造し、シンシナティでボトリングされたオールド・マクブレヤーのブレンデッドがあり、それは酷いもので、彼が子供の頃に父親はホリデイ・シーズンになるとそれを客に配ったがすぐに返された話をよく聞いたと云う…。それは、どうやら80年代初頭までは細々と生き残ったようです。

マクブレヤーの名前だけは20世紀になっても僅かに残ったものの、その遺産は歴史の塵に埋もれ殆ど失われました。アーリータイムズやフォアローゼズやI.W.ハーパーのようには、現代まで継続的に存続は出来ませんでした。しかし、近年のバーボン・ブームの到来を受け、伝統あるブランドが続々と復刻されているのは周知の通りですが、マクブレヤーのブランドもまた長い眠りから醒め復活しました。175年以上前にジャッジ自身が手造りした卓越した伝統を今日のバーボン愛好家に紹介するため、2016年にマクブレヤー・レガシー・スピリッツが起ち上げられたのです。
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マクブレヤー・レガシー・スピリッツの始まりは、全くの偶然からだった、と創業者のW・G・"ビル"・マクブレヤー4世は語ります。彼は元々バーボンの世界に入りたいと思っていた訳ではなく、娘のために大学のことを調べていました。その際、センター・カレッジがその候補に挙がったので、父親にそのことを話すと、父親は笑ってマクブレヤーズがその大学に寄付していると彼に伝えました。「どのマクブレヤーがそんなことをするんだ?」とビルが尋ねると、父親は「ウィスキー業界のマクブレヤーさ」と言いました。ビルは先ず、マクブレヤーが後援する奨学金があるかどうか確かめましたが、それは存在しませんでした。そこでマクブレヤー・ウィスキーをグーグル検索をしてみると、ビルはもっと知らなければならないほど豊かな歴史を発見します。それは独立戦争後にケンタッキー州ローレンスバーグに定住したマクブレヤーの一族の驚くべき歴史と、ザ・ジャッジことウィリアム・ハリソン・マクブレイヤーが有名な銘柄「シダー・ブルック」を世に送り出し、ケンタッキー・バーボンの名声を世界に広めた初期の功労者の一人となったことでした。ビルは、ジャック・サリヴァンのジャッジに関するブログ記事を読んだ後、何週間もかけて1800年代に遡る歴史的出来事を深く掘り下げて行きました。この調査の過程で、彼はジャッジのレガシーと、1870年頃にケンタッキー州ニューマーケットでオールド・マクブレヤー蒸溜所を始めたジョン・H・マクブレヤーに就いても学び、興味深い歴史に夢中になりました。そしてブランドの歴史を辿ってみると商標が失効していることが分かり、ビルは2013年にファミリー・ブランドの商標を再登録します。そこで彼は妻に言いました。「ハニー、僕はバーボン・ビジネスに参入するようだ!」と。父親のビル3世は定年退職を迎えると、より多くの時間を共に過ごすようになり、ビジネス・パートナーとして加わりました。26年間連れ添ったビルの妻もこの試みに非常に協力的だったし、成長した二人の子供達はソーシャル・メディアや友人たちとのネットワークでマクブレヤーを広める手助けをしてくれたそうです。彼が情熱を注いだプロジェクトは、古のバーボンがそうだったように文字通りファミリー・ビジネスでした。
ビルがマクブレヤーの歴史を深く掘り下げようと決めたのは2012年のことでしたが、当時、具体的なスケジュールは考えていなかった、と彼は言います。単なるバーボンの供給だけでは済ませたくなかった彼は、W・H・マクブレヤーの物語を継承し、1844年から続く遺産を尊重して最高品質の原材料と最新の蒸溜技術を使える途を探り、ジャッジのような象徴的な蒸溜家をバーボン・コミュニティに紹介するには慎重なアプローチが必要と考え、自らのウィスキーをどのように伝えるかにも拘り、とにかく時間を掛けました。それは待つ価値のある旅でした。長年の研究と献身を経た2021年4月、ザ・ジャッジの生誕200年を記念して、マクブレヤー・レガシー・スピリッツは遂に最初の成果である「W.H.マクブレヤー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のバッチ1を限定リリースしました。
このバーボンの第一歩は、ジャッジのオリジナルのマッシュビルを再現することでした。1870年11月10日付のW・H・マクブレヤーからE・H・テイラー・ジュニアに宛てた書簡が残っています。その内容は、マクブレヤーの11000ドルにものぼる税金問題と、テイラーがその支払いを助けるためにジャッジのバーボンを購入する取引に就いて論じたものでした。実はその裏面に、マクブレヤー自身の手書きと思われるマッシュビルが記されており、そこには3965コーン、260ライ、260モルトとあり、これはコーンが88.4%、ライとモルトがそれぞれ5.8%ということでした。この手紙はバーボンの歴史家であるマイケル・ヴィーチがルイヴィルのフィルソン歴史協会での仕事を通じて手に取ったもので、彼はこうした低モルトのマッシュビルは今日の基準からすると低収量と見做されるが同時におそらく蒸溜液にはグレインのフレイヴァーが多く残るだろうと推測していました。そして、バーボンはおそらく100~105プルーフで蒸溜され、100プルーフでバレルに入れられただろう、とも。こうして着想を得たマクブレヤー・レガシー・スピリッツは、可能な限り当時のバーボンを再現しようと試みました。先ずは穀物から。1800年代に製造されたウィスキーが現在のウィスキーとは異なる味わいであることは知られていますが、その理由の一つと考えられているのは、禁酒法以前の時代のウィスキーがエアルーム穀物や伝統的な穀物を使っていたのに対し、現在のディスティラー達の多くが工業用穀物に頼っていることです。彼らは、ビル・マクブレイヤー3世の友人が栽培していたブラッディ・ブッチャーと呼ばれる特別なレッド・コーンを採用しました。ジャッジが実際に用いたかは判りませんが、これは19世紀半ばに誕生しケンタッキー州で栽培されていたエアルーム品種です。ちょっと恐ろしい名前は、黒や紫っぽい赤い粒が肉屋の血まみれのエプロンに似ているかららしい。味に関しては独特のバターの風味やナッツのような甘さがあると言われています。現代のクラフト蒸溜所では、ブラッディ・ブッチャーに限らずこうした在来種の穀物を取り入れる動きはあり、それは彼らのバーボンの味わいに重要な役割を果たしてくれるでしょう。ケンタッキー州ローレンスバーグにあったマクブレヤーのオリジナルの蒸溜所から15マイル以内しか離れていない場所で栽培されたエアルーム品種の一つであるこのコーンはレガシーなマッシュビルにとって完璧なベースとなり、そこにヘリテッジ・ライとモルテッド・バーリーを組み合わせることでマッシュビルは決まりました。
ジャッジが使用したマッシュビルを再現しながら、今日の近代的な蒸溜技術の恩恵も受けるため、このバーボンは新進気鋭のウィルダネス・トレイル蒸溜所で契約蒸溜されています。88.4%コーン、5.8%ライ、5.8%モルテッドバーリーのマッシュビル、ウィルダネス・トレイルの特別なイースト、石灰岩で濾過されたケンタッキー・リヴァーの水を使い、最初の年に最小バッチ・サイズの10バレル分が蒸溜されました。バレル・エントリーは、現代の大規模スピリッツ・メーカーの殆どが遠ざかったコストの掛かる方法である低プルーフの105プルーフでした。最初のバッチが熟成を迎えるのを待ちながら、ビル達は熟成樽の試飲を続けていると、味わう度にどんどん良くなって行ったそう。4年と4ヶ月の熟成期間を経て、バッチ1は10バレルのうち5バレルをブレンドし、1075本がボトリングされました。フル・フレイヴァーを実現するためにアンフィルタードかつバレル・ストレングスの103.6プルーフ、希望小売価格は100ドルでした。W.H.マクブレヤーのボトルには品質の証として、全ての始まりとなった手紙からトレースした本物のサインのレプリカが描かれています。このバーボンへの反響は大きく、プリオーダーを開始すると数日で完売したそうです。あまりに早く予約注文が入ったので、ロットの売り過ぎを防ぐため予約注文を停止せざるを得ず、再開したときには一度に注文しようとする人が多すぎて1時間以内にサイトがクラッシュしたとか…。また、バーボン・コミュニティからも歓迎され、マッシュ・アンド・ドラムのジェイソン・Cや前述のマイケル・ヴィーチらの動画やブログ記事などに取り上げられています。
翌2022年4月にはバッチ2がリリースされました。このバッチは、2年目の蒸溜で得られた5バレルと、1年目の蒸溜で得られた1バレルで構成されました。つまり熟成年数は4〜5年です。6バレルでのバッチングなので最初のバッチよりは販売できるボトル数が多い訳ですが(100プルーフで1300本)、3時間以内に完売したとのこと。ベリー・スモール・バッチのため、当然最初のバッチとは若干異なるフレイヴァー・プロファイルを持っているでしょう。2023年4月29日発売のバッチ3は103.5プルーフで2056本がボトリングされています。
マクブレヤー・レガシー・スピリッツは、W.H.マクブレヤーのファースト・リリースに続けて、2021年の後期にはもう一つの古いブランドであるオールド・マクブレヤーも復活させています。彼らは禁酒法以前のオールド・マクブレヤーのラベルを出来る限り再現することで、過去の遺産に対する敬意を表しました。こちらのバーボンはバーズタウン・バーボン・カンパニーから調達しています。マッシュビルは70%イエローコーン、18%ライ、12%モルテッドバーリー、バレル・エントリー・プルーフは115、5年熟成、ボトルド・イン・ボンドの100プルーフ。2021年11月発売のバッチは1253本、2022年10月発売のバッチは3000本のボトリングでした。そして、W.H.マクブレヤーとオールド・マクブレヤーに続き、2023年、彼らは遂にザ・ジャッジの世界的に有名なシダー・ブルック・ケンタッキー・バーボンを復活させるとアナウンスしました。今後が楽しみですね。


偖て、今回私が手に入れた禁酒法時代のオールド・マクブレヤーはメルウッド蒸溜所で蒸溜されたものでした。ついでなので、この蒸溜所の歴史に就いても紹介しておきましょう。
メルウッド蒸溜所はベアグラス・クリークのサウス・フォークにジョージ・ワシントン・スウェアリンジェンによって建てられました。スウェアリンジェン家はアメリカの初期入植者で、最初に定住したファミリー・メンバーはゲリット・ファン・スウェアリンジェンでした。教養のあることで知られたゲリットは、オランダ西インド会社がプリンス・マウリッツ号を新大陸に派遣した時、同船のスーパーカーゴ(航海中の商業上の問題を管理することを任務とする商船の士官)に任命されました。オランダの港を出航した船は、デラウェア・リヴァー沿いのオランダ植民地ニュー・アムステルダムへ物資を運びますが、1657年3月8日にロング・アイランドの海岸近くの沖で座礁しました。乗組員らは翌日岸に辿り着き、凍てつくような天候の中、2日間火を使わずに過ごしたそうです。何とか助かったゲリットは後に、ニュー・ネーデルラント総督ピーター・ストイフェサントのもと、ニュー・アムステルダムの評議員に任命されました。ゲリットは他の人と共にデラウェアの植民地を統治していましたが、1664年にイングランドがロバート・カー卿の指揮でオランダ人を追い出し、そこの名前をニュー・キャッスルと変えました。彼らは知りませんでしたが、イングランドはオランダと取引を行い、北米のオランダ植民地と引き換えに、南米の北東海岸に位置する広大な土地を交換していました。イングランドの軍艦がデラウェア・リヴァーを遡上し、植民地の引き渡しを要求すると、支配者たちは砦に退きイングランド船に砲撃を加えました。するとイングランド軍は大軍を上陸させ町を占領し砦の明け渡しを要求して来たので、現実的に防衛することが叶わなかった彼らは降伏したのでした。ゲリットは母国への不審があったのでしょうか、オランダへの忠誠を放棄してイングランドへの忠誠を宣言し、姓から「Van」を取り去り、名前に「a」を加えて英語化することで発音に対応し、綴りをギャレットに改め、 家族をメリーランド州セント・メアリーズ郡に移住させました。ギャレットは彼らを歓迎したボルティモア卿にイングリッシュ民としての帰化を請願すると許可され、セント・メアリーの町やメリーランド州議会にも積極的に関わるようになって行きました。1670年、ギャレットはセント・メアリーズ川の畔の自らの土地に立派な家を建て、1690年までには増築され大きな建物に成長、一家は1730年までこの家に住んでいたと言います。
1804年、一族の一部がメリーランド州から遥か西部のブルーグラス地域、ケンタッキー州ブリット・カウンティに移り住みました。そこでジョージの父ウィリアム・ウォレス・スウェアリンジェンは育ち、ファーマーとして成功し、軈て裕福な農場主と奴隷所有者となりました。彼は著名なケンタッキー・パイオニアの一人であるヘンリー・クリストの娘ジュリア・F・クリストと結婚しました。ヘンリーは1780年にソルト・リヴァーでインディアンと血みどろの戦いを繰り広げた闘士であり、ケンタッキー州議会議員を務めた人でした。ジョージは1838年3月12日に生まれましたが、ジュリアは彼が生まれて間もなくに亡くなっています。ウィリアムは1869年まで生きたそう。
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(Bullitt County Historyより)
裕福な父をもったジョージは、当時としては水準の高い教育を受けたようで、マウント・ワシントン・アカデミーで学び、16歳でケンタッキー州ダンヴィルのセンター・カレッジに入学、1857年に卒業しました。大学生活中は常に教員からも学生からも尊敬され好意をもたれていたと伝えられています。卒業後1年以内に、20歳の彼はメアリー・エンブリーと結婚しました。彼女は18歳で、ジョージと同じく名家の出身でした。彼女の父親は米英の1812年戦争の退役軍人サミュエル・エンブリー、祖父はヴァージニアから1790年にケンタッキーのグリーン・カウンティに定住したヘンリー・エンブリーでした。妻との間には1858年に娘、1863年と1864年に息子が生まれました。ジョージは南北戦争中の兵役を避けたようです。ジョージはブリット郡にある農場でファーマーとして働きながら、そこでミルウッドと呼ばれる小さな蒸溜所も経営していました。しかし、南北戦争の終わりに状況が大きく変わります。終戦後、奴隷は解放され、ケンタッキーの農業経済は大混乱に陥ったため、彼はファーマーを辞めて若い家族らを元の環境から引き離し、1866年にルイヴィルへと移りました。ジョージはそれからルイヴィルに40年以上住みましたが、常にブリット郡を故郷と見做していたそうです。彼はルイヴィルに着くと、食料品店で短期間の経験を積んだ後、メルウッド蒸溜所を設立し、長年に渡って運営しました。おそらく以前に自分の農場で小さなウイスキー製造業を営んでおり、酒類取引がいかに儲かるかを理解していたのでしょう。
メルウッド蒸溜所は1869年(******)に、フランクフォート・アヴェニューとブラウンズボロ・ロードの間のサウソール・ストリートに設立されました(ジェファソン郡第5区RD#34)。サウソールは、後の1884年にレザボア・ロード、更に後の1895年には通りの両側ほぼ1ブロックを占めるまでに成長したメルウッド蒸溜所に敬意を表してメルウッド・アヴェニューと改称されました。ジョージは当初、自分のバーボンを古い農場にちなんで「ミルウッド」と呼ぼうとしました。しかし、印刷業者のミスでブランド名が「メルウッド」とスペルミスされてしまいます。それでも何故か彼はメルウッドの名を残すことにしました。当初は小規模だった施設はすぐに州内で最も大きくなり、成功した蒸溜所の一つとなりました。いつの段階か判りませんが、工場の敷地は12エーカーに及び、蒸溜所はレンガ造りで耐火屋根を備え、蒸溜所には特許のローラー・ミルを備えたミル・ルーム、中央にある巨大なビア・ウェル、それぞれ1万ガロンの容量を持つ19のヴァットまたはタンクを備えた大きなファーメンティング・ハウス、ボイラー室、バレル・ハウス、焼印場、また他にも使用済みのマッシュを与えるための1000頭の牛を収容できる大きな牛舎もありました。敷地内に6つの巨大なボンデッド・ウェアハウスと1つのフリー・ウェアハウス(連邦政府の規制なし)があり、倉庫はスティームで暖められ、汎ゆる場所で均一な温度が保たれていたそうです。この蒸溜所は1日当たり1200ブッシェルの穀物をマッシングでき、65000バレルのエイジング・ウィスキーを貯蔵するキャパシティでした。後に倉庫は少し拡張され、70000バレルを収容できるようになりました。水源はベアグラス・クリークを利用していたでしょう。メルウッド・ディスティリング・カンパニーの主力ブランドは常にメルウッド・ウィスキーで、アメリカ中の酒棚に置かれていたようです。
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メルウッドは精力的なマーケティングが行われ、幅広い出版物への頻繁な広告の他、自分のブランドの酒を扱うサルーンやバーおよびレストランやホテルへの景品、エッチングの施されたショット・グラス、特別なカスタマーに贈られたトレイなどのグッズがありました。同社のその他のブランドには「オールド・ウォーターミル」、「マーブル・ブルック」、「モンピリア・ライ」、「ノーマンディ・クラブ」、「同ピュア・ライ」、「ルビコン」、「ラニミード・クラブ・バーボン」、「同ピュア・ライ」、「同ウィスキー」、「ダンディー」、「G.W.S.」等があったと伝えられます。メルウッドはかなりの規模の蒸溜所であり、自社製品を製造する一方で、当時の典型として、ブランドの所有/販売/流通を手掛ける蒸溜所を持たない中間業者にウィスキーをバルク販売してもいました。現在も継続するブラウン=フォーマン・カンパニーは、初期のオールド・フォレスターのブレンド用にメルウッドから多くのウィスキーを購入していたとされています。創業当初のブラウン=フォーマン社はディスティラーではなくレクティファイアーであり、彼らは上質と思われるウィスキーを調達し、それに自分達の名前を記して販売していました。そうした中間業者だった多くの企業は後に蒸溜所を買収し、自社生産をして行くことになります。
どうやらジョージ・スウェアリンジェンはメルウッド以外の蒸溜業にも手を広げていたようで、彼は1870年代後半から1880年代初めまでディーツヴィル蒸溜所のオウナーでもあったとか、1884年から1887年まではボウリング・グリーン近くでスプリング・ウォーター蒸溜所(RD#4)も経営していたとの情報もありました。後者の蒸溜所は1日僅か120ブッシェル、15バレルのウィスキーを生産する小規模なものだったらしい。またスウェアリンジェンは、1880年にケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーションを結成するために集まったメンバーの一人でもありました。
メルウッドやその他のウィスキーによって巨万の富を築いたスウェアリンジェンは、他の事業にも目を向けていました。彼はケンタッキー・パブリック・エレヴェイター・カンパニーの社長を務め、彼のエレヴェイターには100万ブッシェルの穀物を貯蔵する能力があったと言います。ジャック・サリヴァンは、スウェアリンジェンがウィスキーの製造に大量の穀物を使用していたことを考えるとエレヴェイターの会社を所有するようになったのは自然な流れだったのかも知れない、と云う趣旨のことを書いていました。彼はそれだけに留まらず、ルイヴィルの他の実業家たちを率いて金融組織ケンタッキー・タイトル・カンパニーも設立して社長に就任しています。更には同時期の1889年頃、地元の投資家らと共にユニオン・ナショナル・バンクも設立しました。彼の執政下でその銀行は即座にルイヴィル市で最も人気のある銀行の一つとなったそうです。彼は亡くなるまで同銀行の頭取を務めました。一説にはスウェアリンジェンは銀行業に移る際に酒類事業を売り払ったとされることもあります。サム・セシルの本には「スウェアリンジェンが社長兼主要オウナー、シンシナティのランドルフ・F・ベルクが副社長」だった時代を経て「スウェアリンジェンは1889年にベルクに売却し、同じくシンシナティのジェイコブ・シュミドラップが会社に加入した」との記述が見られ、経緯が符合しているようにも見えますが、ルイヴィル市の商工人名録によるとメルウッド・ディスティリング・カンパニーは、1890年にはジョージ・W・スウェアリンジェンが社長、R・F・ベルクが副社長、W・H・ジェイコブスが秘書兼会計と記載されています。変化が見られるのは1891~92年からで、そこではベルクが社長、スウェアリンジェンが副社長、ジェイコブスが秘書兼会計、エドムンド・O・ルジィが管理監督とあります。1895年の名簿ではベルクが社長兼ジェネラル・マネージャー、スウェアリンジェンが副社長、ジェイコブスが秘書、ウォルター・ワーナーが財務担当、J・H・ジョンソンが秘書補佐、ルジィが管理監督となっています。おそらくスウェアリンジェンはきっぱりと蒸溜業から手を引いたと言うよりは、主要なオウナーではなくなったものの、メルウッド社への投資は続けていたと考えられます。この1890年代はメルウッド社にとって継続的な拡大期であったようで、1892年にはシカゴに営業所と思われる支店を開設したり、1893年(1895年という説も)には蒸溜所はレンガ、石、鉄骨、コンクリート造りでスレート屋根の6階建てに建て替えられました。おそらくこの時に、蒸溜所は印象的なリチャードソニアン・ロマネスク様式(*******)の建物になったと思われます。1896年(1899年という説も)、メルウッド蒸溜所はウィスキー・トラストに売却されました。経営陣は一新され、トラストが送り込んだD・K・ワイスコフが社長、ヘンリー・アイモーデが副社長、エルク・ラン蒸溜所(RD#368)のハリー・ウィルケンが秘書兼財務担当となりました。アイモーデは1908年に退社し、トラストの一味であるリーガン・アンド・アイモーデ・ディスティリング・カンパニーを設立したそうです。おそらくスウェアリンジェンは、トラスト売却後には蒸溜所の経営から手を引き、不動産業(ケンタッキー・タイトル・カンパニー)と銀行業(ユニオン・ナショナル・バンク)に専念したのでしょう。
1898年、ジョージ・ワシントン・スウェアリンジェンは脳卒中で倒れ、一時的な麻痺に見舞われます。その後、2度目の脳卒中が起こり、1901年8月には3度目の脳卒中が起こり、この麻痺から回復することなく、彼はその年の秋から冬にかけて著しく衰え12月18日に亡くなりました。葬儀はウェスト・ブロードウェイ218番地の自宅で自宅で執り行われ、遺体はケイヴ・ヒル・セメテリーに埋葬されました。彼は、健全な判断力と広い知性に気高い人格をもち合わせ、ルイヴィルで際立って輝いた、と評された人物でした。また、プレスビテリアン・チャーチと密接な繋がりがあり、長年に渡ってルイヴィルの長老派孤児院の理事長を務め、同教会の被後見人の世話と扶養に惜しみなく貢献したそうです。
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(1910年のサンボーン・マップ)
スウェアリンジェンの死後もメルウッドの名前、会社、蒸溜所は終わりません。1909年にはシンシナティに営業所が開設され、トラストは禁酒法が施行されるまで蒸溜所を運営し、メルウッド・ウィスキーの販売を続けました。その頃までには蒸溜所は業界ではよく知られるようになっており、高級品質のウィスキーを確立、その売上は大きく、年間約10000バレル、5万ケースが販売され、蒸溜所は600000ドルの価値が見積もられたとか。成功は多くの場合、模倣を生み出します。メルウッドが大成功を収めると偽者が現れ、ブランドを模倣しようとした競合他社に対してメルウッド・ディスティリング・カンパニーは1905年に訴訟を起こしました。それは虚偽表示や偽装蒸溜所に関する最も初期の裁判の一つとなりました。偽者はアーカンソー州フォート・スミスのディストリビューター、サミュエル・R・ハーパーとサイラス・F・レイノルズのハーパー=レイノルズ・リカー・カンパニーでした。彼らはラベルに、「ミル・ウッド」というブランド名を付け、「ミル・ウッド・ディスティリング・カンパニー」という名称を使い、「ケンタッキー」とも書き、「この著名なウィスキーは、厳選された穀物から、専ら最高級ウィスキーの蒸溜に採用されるサワーマッシュ・ファイアー・カッパー製法を頼りに造られ、樽で8年間熟成させた後にボトリングされた」と云う説明を記載していました。しかし、実際には何処にもミル・ウッド蒸溜会社は存在せず、サワーマッシュでもファイアー・カッパー製法でもなく、厳選された穀物から造られておらず、8年熟成でもなく、ブレンデッド・ウィスキーでした。1909年、裁判所は、この虚偽のラベルを使用したミル・ウッドのブランドは一般大衆を誤解させるために考案されたものであると判断し、こうした欺瞞は許されないとしてハーパー=レイノルズ・リカー・カンパニーによるラベルの使用を差し止める命令を下しました。
残念ながらメルウッド蒸溜所は禁酒法の推進による影響で1918年に閉鎖されました。メルウッド蒸溜所のすぐ隣にはクリスタル・スプリングス蒸溜所(RD#12)があったのですが、1921年、この土地の新しい所有者はクリスタル・スプリングスを取り壊し、全ての機械を撤去、メルウッドの蒸溜室やファーメンティング・ハウスやボトリング・ハウスから配管や機材を取り除き、1棟を除く全ての倉庫を取り壊しました。しかしメルウッドのブランドは禁酒法下でも生き延び、例によってアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーがボトリングしています。カリフォルニア州サン・フランシスコの集中倉庫でボトリングされたと思われるメディシナル・パイントも見かけました。これはリノ・ドラッグ・カンパニー(ネバダ州)によって販売されたみたいです。
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禁酒法解禁後もメルウッドは、AMSを取り込んでいたナショナル・ディスティラーズがリリースしたと思われます。おそらく初期は短期熟成のバーボン、後にブレンデッド・ウィスキーとなったのではないでしょうか。ブレンデッドのラベルにはナショナルの子会社ペン=メリーランド名義となっているものを見かけました。他には30年代とされるカナダのディスティラーズ・コーポレーション・リミテッドのメルウッドのラベルもありました。
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一方、蒸溜所は禁酒法廃止後にカール・ナスバウムによって改築され、再び生産が開始されることになります。おそらくこの時の改装でリチャードソニアン・ロマネスク様式の装飾は取り除かれ、1930年代半ばのあまり華美でない機能性を重視したシンプルなデザインになったようです。ウォルター・L・ボーガーディングが社長、セルビー・ハーンがディスティラーに就任し、1935年からジェネラル・ディスティラーズ・コーポレーション・オブ・ケンタッキーとして操業するようになりました。再開のための工事は1933年に始まりましたが、老朽化と新しい設備の必要性から、彼らが最初のバレルを満たすことが出来たのは1935年12月13日のことでした。ジェネラル・ディスティラーズの事業は主にウィスキーのバルク販売と思われますが、自身の小さなブランドを所有する他、カスタマーや何かしらのクラブなどの団体または個人のためにブランドを製造することもあったようです。確かにネットで画像を検索してみると、数多くの未使用ラベルが見つかります。そうしたブランドには、「ケンタッキー・ネクター」、「リック・ラン」、「オールド・チャック」、「オールド・ポット・スティル」、「ダービー・タウン」、「オールド・ケンタッキー・ジェネラル」、「カウンティー・チェアマン」等があり、また「ライヴ・オーク」、「ローズウッド」、「オールド・ブーン」、「ゴールデン・リボン」、「ゴールデン・イヤーズ」、「オールド・サドラー」、「クオリティ・ストリート」等、歴史から消えてしまった多くの他のブランドをボトリングしていたことでも知られ、その中にはスティッツェル=ウェラーやK.テイラー蒸溜所など有名な蒸溜所で蒸溜されたものもあったとされています。メルウッド蒸溜所の登録番号は#34でしたが、ジェネラル・ディスティラーズの登録番号は#30でした。そのため、その名も「ナンバー30」というブランドもありました。
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下のリンクは私のピンタレストのジェネラル・ディスティラーズのラベルを集めたボードです。興味があれば覗いてみて下さい。
この中で、ラベルに「Bottled」としか記載されていない物は、ジェネラル・ディスティラーズでは蒸溜されておらず、文字通りボトリングだけ行われ、おそらく近隣の他の蒸溜所からウィスキーを調達していたと推測されています。ジェネラル・ディスティラーズは閉鎖されるまで僅か数十年しか操業しませんでした。1960年代初めから後半のどこかで蒸溜所が閉鎖された後、ネルソン郡ダブル・スプリングス蒸溜所のシド・フラッシュマンがボトリング・ハウスを引き継ぎます。彼はグリーンブライアーで営んでいたダブル・スプリングスの事業を旧ジェネラル・ディスティラーズの施設へと移し、そこで細々とボトリングを行っていましたが、1974年にそこも閉鎖され、75年頃にフランクフォートの21ブランズ蒸溜所へ業務を移管しました。禁酒法時代を通して生き残って来た僅かな建物は、おそらく1970年代に取り壊され、遂にその歴史に幕が下ろされました。
(1929年のメルウッド蒸溜所)

(1940年頃のジェネラル・ディスティラーズの内部風景)

話をオールド・マクブレヤーに戻します。私が手に入れたボトルのストリップの印字は劣化で消えてしまっていますが、前所有者様によると蒸溜は1917年と記されていたそうです。同じ物かと思われるボトルを出品していた海外のオークション・サイトでは、1920年代後半にボトリングされたと思われる、と説明していました。その他のオールド・マクブレヤーの殆どが33年か34年のボトリングなことを考えると、少なくとも1920年代後半〜30年代前半のどこかでボトリングされたと見て間違いはないかと。では、最後に飲んだ感想を少々。

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Old McBrayer Medicinal Pint AMS Co.(Mellwood) 100 Proof
推定1920年代後半〜30年代前半ボトリング。オールドオーク、オレンジシロップ、一瞬りんごと葡萄、時間を置くと洋酒の入ったお菓子、木質の酸、胡桃、タバコ、焼きトウモロコシ。仄かに甘いが基本的にビターで、柔らかいスパイス感。余韻は渋くはないが、これまたビター感が強め。古い木材〜ラズベリー〜濃ゆいカラメル香へ時々刻々と変化するアロマがハイライト。
Rating:87.5/100

Thought:100年近く前の物としては状態は凄く良かったと思います。長い歳月はどうしたって何かしら影響したとは思うのですが、至って新鮮な雰囲気がありました。強いて言うと若干パンチに欠けるような気もしましたし、飲み終わった後のグラスの香りもそれほど芳醇ではなかったりしましたが、時々オールドボトルで出会ってしまう奇妙なファンクや劣化した味わいはなく、普通に飲める状態であり、先ずは歴史を飲めたことに感謝すべきでしょう。
味わいは、熟成年数が長いことを疑う余地のないオールド・オーク・フォワードなバーボンでした。穀物の旨味のような要素は僅かに感じられますが、良質なオールド・バーボンによくある砂糖漬けのフルーティーな甘さは強くなく、爽やかなハーブもあまり感じられません。長い時間を過ごした樽の影響からかタンニンのビターさが少し効き過ぎているような…。ここらへんは、メルウッド蒸溜所の味がどうこうより、禁酒法下の特殊事情かも知れませんね。これを飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? コメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。


*16世紀の宗教改革運動によって生まれたカルヴィニズムに基づくプロテスタントの一派。長老派と訳される。プレスビテリアン(Presbyterian)とは長老のこと。カトリック教会の司教制度を認めず、一般信者の中から経験の深い指導者を選んで長老とし、教会を運営すべきであるという長老制度を主張した。プレスビテリアンは特にスコットランドのプロテスタントに多かった。

**「Saffell」は「サッフォー」と表記した方がアメリカ人の発音に近いと思いますが、ここでは「サッフェル」と表記しました。ちなみにウィスキー・バロンズ・コレクションの3番目のリリースだったW.B.サッフェルは、ワイルドターキー蒸溜所産ケンタッキー・ストレート・バーボンの6年、8年、10年、12年原酒をブレンドしたノンチルフィルタードで107プルーフの仕様です。

***ダニエル・ローソン・ムーアは1847年1月31日、ケンタッキー州マーサー郡ハロッズバーグにジェイムス・H・ムーアとメアリー・(メッセンジャー)・ムーア夫人の二人息子の長男として生まれました。南部の古くからの裕福な家柄に生まれことで、彼は少年時代に「ムーアランド」と呼ばれる広々とした家で過ごします。医師であり、馬のブリーダーであり、ファーマーでもあった父親から、若きダニエルは豊かな教育を与えられました。彼は家庭教師の下で準備教育的トレーニングを受けた後、ダンヴィルのセンター・カレッジに入学し、3年間在籍。その後、ハロッズバーグのフィル・B・トンプソンの事務所で法律の勉強を始め、軈て弁護士資格を取得しますが、彼はより収益性の高いと思われた農業と牧畜の分野で働くことを選び、弁護士事務所を開設することはありませんでした。しかし、代わりに彼はその法律知識を自分の広範なビジネスを処理するのに全面的に利用することになります。
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ダニエルは5年間ミシシッピ州で綿花栽培に従事した後、1870年11月15日にケンタッキー州ローレンスバーグのウィリアム・H・マクブレヤー判事の一人娘ヘンリエッタと結婚しました。彼はキャリアをスタートさせた当初から蒸溜業に惹かれていたのか、1871年(1873年とも)頃、25歳前後の時にハロッズバーグ・コートハウスから東へ5マイル、バーギン近くのシャーニー・ランにD.L.ムーア蒸溜所(マーサー郡第8区RD#23)を建てました。1880年代半ばまでに蒸溜所は1日に250ブッシェルをマッシングし、2つのボンデッド・ウェアハウスは合計12500バレルを収容できたと言います。ここでは1889年までセント・ルイスの大手酒類卸売業者チャールズ・レブストックのブランドを製造。レブストックは中西部で最も成功したウィスキー・マーチャンツの一人で、1870年にウィスキーの卸売会社を組織し、多くの州に顧客を有していました。二人は協力してムーア・アンド・レブストック・ディスティラーズという会社を設立すると、この工場で生産されるウィスキーをレブストックの複数の銘柄に使用したようです。彼らの主力ブランドは「ストーンウォール」で、他の銘柄には「ゴールデン・ホーン」、「ディア・レーン」、「スノウ・ヒル」、「オールド・チャンセラー・ライ」等があったと伝えられます。ジョージ・チンの歴史書によると、バーギンからは年間12万5千ガロンのオールド・バーボンが出荷され、彼らは約45000ブッシェルの穀物を消費し、15人の労働者を月給20ドルから100ドルで雇っていたそう。義父W・H・マクブレヤー判事の死後、1889年2月6日にムーアはこの蒸溜所と36エーカーの土地を35000ドルでダウリング・ブラザーズに売却し、アンダーソン郡のシダー・ランにある蒸溜所(RD#44)の経営に力を注ぎました。これ以降、ダニエルはこの蒸溜所とは直接的な関わりはないと思われるので、以下は余談です。ダウリング家は同アンダーソン郡のウォーターフィル&ダウリング蒸溜所(旧ウォーターフィル&フレイジャーRD#41)の共同経営者でもあり、クーパレッジ工場も所有していました。彼らは禁酒法の到来までこの事業を続けましたが、蒸溜所は閉鎖され解体されました。禁酒法解禁後の1934年、蒸溜所はサザン・レイルロード沿いの元の場所近くに再建され、1950年代までダウリング・ブラザーズとして操業。その後シェンリーとボブ・グールドが交互に所有しました。1972年7月、グールドは別に所有していたアンダーソン郡タイロンのリピー・プラント(J.T.S.ブラウン蒸溜所RD#27)をオースティン・ニコルスに売却した際、バルク・ウィスキーをマーサー郡の工場とその一部をアンダーソン郡のオールド・ジョー蒸溜所(RD#35)に移したと云います。この蒸溜所は軈て閉業し、雑草や潅木が生い茂り、窓ガラスは割れ、酷く荒廃し、倉庫の側面に描かれた「Dowling Distillery」の文字だけが嘗ての栄光を物語っていました。そして、2008年10月、蒸溜所跡は取り壊されたとのこと。
実はもう一つ、同じくマーサー・カウンティにD.L.ムーア蒸溜所と呼ばれるプラントがありました。こちらはマーサー郡第8区RD#118の登録番号をもつ、ジャクソン・ヴァン・アーズデルによってハロッズバーグから9マイル北のソルト・リヴァー沿いに1865年か1866年に建てられた水力ミルと蒸溜所がルーツで、1885年コヴィントンのマリンズ・アンド・クリグラーにリースされるまで自分の名前でブランドを生産し、J・ヴァナーズデル・ディスティリング・カンパニーの名で操業されたようです。1892年、D・L・ムーアが蒸溜所を購入し、引き続きヴァナーズデル銘柄を製造しました。同年に作成された保険引受人の記録によると、蒸溜所はフレーム構造で、敷地内には2つの倉庫があり、倉庫Aは鉄骨造りに金属もしくはスレート屋根、もう1つのフリー・ウェアハウスの倉庫Bは石造りに金属またはスレート屋根でした。おそらく後に息子のD・L・ムーアJr.が引き継いだと思われ、彼は父の死後(1916年死去)にD.L.ムーア蒸溜所と改名しました。禁酒法が施行されるまで操業は続けられ、貯蔵されていたウィスキーはレキシントンのジェイムズ・E・ペッパーの集中倉庫に移され、プラントは解体されました。同社はクリア・ブルックというブランドの製品を販売していたらしいのですが、これはダニエルの高名な義父ジャッジ・マクブレヤーのシダーブルック・ブランドと蒸溜所にちなんだものと見られています。
一方、ディスティラー以外の活動もダニエルは活発でした。1881年、民主党の投票によりケンタッキー州上院第20区の代表に選出され、知的で有能な職務を果たし、有権者から称賛を浴びたと言います。ダニエルはディスティラーでありながら、ケンタッキー・ウィスキーに特別税を課して学校に充てる法案を押し通したのだとか。また、彼はマーサー・ナショナル・バンクの筆頭株主となり、1892〜1908年まで同銀行の頭取を務めたとも。更にファーマーでもあったダニエルは、ミシシッピ州の3つの農園で綿花の植え付けと収穫を監督し、また同州に数千エーカーの森林を所有して伐採を監督しました。自然愛好家だったダニエルは、山での孤独の精神的高揚に関心を向け、1881年、コロラド州はロッキー山脈の肥沃な麓、ノースパークに6000エーカーの広大な牧場を購入しました。1882年に妻を亡くすと、その後間もなくメイ、ウォレス、マクブレヤーの三人の子供達を祖父母の家に残して遠い西部を訪れ、牛と馬の飼育に乗り出しました。するとダニエルはケンタッキー州の優秀な血統の牛や馬を自分の牧場に持ち込み、この事業で大成功を収め、コロラド有数の牧畜業者として知られるようになります。毎年半分はコロラド州での事業経営に費やし、残りはケンタッキー州での製造業と農業およびミシシッピ州でのプランティングに従事したそう。
1891年、まだ未成年の三人の子供達には母親が必要だったのか、ダニエルはミニー・ボールと再婚しました。彼女はジョージ・ワシントンの母と同じ家系の子孫でした。彼らはケンタッキー州バーセイルスの彼女の家で結婚し、後に二人の女の子を儲けています。ダニエルは1年の約半分はケンタッキー州を離れていたものの、家族のためにハロッズバーグ近くのレキシントン・パイクに壮大な邸宅を建てることを決意。建築に5年、総工費140万ドルをかけたロマネスク・リヴァイヴァル様式のエレガントな邸宅でした。
ハード・ワークをこなしていたダニエルでしたが、60代半ばに差し掛かった頃、心臓の病を発症してしまいます。その後、1916年10月20日に亡くなり、ハロッズバーグのスプリング・ヒル・セメテリーに埋葬されました。死亡診断書には「器質性心臓疾患」と書かれていました。伝記作家は、セネター・ムーアほど多くの友人を持ち、そして大切にする人物はなく、温和で仲間思いの性格は友人を惹きつけ尊敬の念を抱かせ、リベラルでどこまでも寛大、真のバーボン・デモクラシーの代表者であり、厳格な誠実さを持ち、目的にも行動にも徹底して正直、実業家としてもその成功によって生まれ故郷のケンタッキー州に大きな信用を齎した、と記しました。ちなみに、夫の死後、残されたミニー・ムーアはその後の20年間、ダニエルのビジネスを引き継ぎ、ミシシッピの綿花プランテーションとコロラドの牧場を経営したりケンタッキーの農場ではタバコの生産と優良家畜の飼育を監督したそうで、広範な業務を見事な判断力と効率性で処理するビジネスの才能を高く評価されています。

****最初のウィスキー・トラストは、当時世界最大の蒸溜所と謳われたグレート・ウェスタンを始めとする65の蒸溜所が合併して、アルコールの価格をコントロールすることを目的に1887年に設立され、1895年まで運営されたジョセフ・ベネディクト・グリーンハットのディスティラーズ&キャトル・フィーダーズ・トラストでした。彼らは、多数の小規模な蒸溜所が製品を戦術も統制もなく市場に投下し、不適切な時期に価格を下げてしまうことを問題視しました。そこでトラストは、それらを全て買い取り、効率の悪い小規模な蒸溜所を閉鎖してより効率の良い大規模な蒸溜所を運営し、より高い利益を得ることを目指しました。傘下にしたい蒸溜所が売却しないことを選択した場合、トラストは脅迫、放火、暴力など強権的な戦術を用いたと言われています。1890年にシャーマン反トラスト法が制定されると、最終的に同社は解散を余儀なくされました。イリノイ州ピオリアを中心としたウィスキー・トラストの最初の試みが失敗に終わった時、ニューヨークの金融業者のリッチマン達はこの夢をまだ諦めていませんでした。彼らは最初のウィスキー・トラストの残党を1895年に再編成し、新しい事業体をアメリカン・スピリッツ・マニュファクチュリング・カンパニー(ASMC)と命名します。1899年までにケンタッキーの蒸溜所の持株会社としてケンタッキー・ディスティラリーズ・アンド・ウェアハウス・カンパニー(KDWC)を組織すると、1870年代の鉱山ブームの時代にコロラド州のウィスキー・トレードで成功し、蒸溜業者の代理店としての役割を担って全米各地の卸売業者や小売業者に大量のウィスキーを販売していたジュリアス・ケスラーをリーダーに選びました。セールスマンとしての評判と全国へのコネを備えたケスラーは、第二のトラスト設立を主導する人物として適役でした。ニューヨークの金融業者は組織の管理と株式の一部を彼の手に委ねたと言います。同年にKDWCを含む4つの会社が複雑に合併し、ディスティリング・カンパニー・オブ・アメリカが誕生しました。このような複雑な会社形態は、連邦政府の目を逃れるために必要なことでした。彼らは再定義と再構築を続け、ディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションとなり、禁酒法期間中はU.S.フード・プロダクツ・カンパニーとなり、最終的に持株会社のナショナル・ディスティラーズ・プロダクツ・カンパニーを結成します。1922年の法律に基づいて集中倉庫を管理するために設立された処方箋ウィスキー販売用の会社はKDWCを吸収し、ASMCは1927年にアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)に改組されました。この時点でナショナルはAMSの38%の株式を所有しています。同年、AMSは更にR・E・ワセン&カンパニーを始めとする5つの主要な集中倉庫を買収し、ナショナルはケンタッキー州のウィスキー・ストックの50%以上、国内のウィスキー・ストックの30%近くを支配するに至りました。1929年にナショナルはAMSの残りの株式を購入しています。

*****ニューカム=ブュキャナン(ネルソンRD#4)、アンダーソン=ネルソン(アンダーソンRD#97)、アレン=ブラッドリー(RD#369)、エルク・ラン(RD#368)等と呼ばれる蒸溜所と倉庫群を擁する複合施設があった敷地はケンタッキー州ルイヴィルに於けるバーボン・ウィスキー産業の豊かな歴史の一部でした。その操業の全歴史は約134年に及びます。最盛期にこの複合施設は約35エーカーに及ぶ製造施設を有し、ケンタッキー・バーボン・ウィスキーの合計生産能力は735000バレルを超えたと言われています。複合施設全体は1860年から1918年の間に建設されました。生産施設の大部分は、ルイヴィルのダウンタウンの中心部から東へ約2マイル、サウス・フォーク・ベアグラス・クリークからオハイオ・リヴァーに流れ込む少し手前、ミドル・フォーク・ベアグラス・クリークの湾曲部のほとり、ハミルトン・アヴェニュー(現在のレキシントン・ロード)の北側にあったグレゴリー・ストリートに集約されました。グレゴリー・ストリートはハミルトン・アヴェニューとペイン・ストリートの交差点から1ブロック西にあり、現在はアクシス・オン・レキシントンという集合住宅が建っています。当時は農地に囲まれた田舎で、南にはケイヴ・ヒル・セメテリー、北にはルイヴィル&フランクフォート・レイルロードがありました。主要な鉄道路線に近く、またオハイオ・リヴァーに近接していることは、製品供給がローカル・マーケットに留まらない成功の鍵でした。蒸溜所のエイジング・ウェアハウスは、ファーメンティング施設や蒸溜プラントとハミルトン・アヴェニューの間に点在して建てられたり、ハミルトン・アヴェニューを挟んだ向こう側に建てられたりしました。各蒸溜所にはそれぞれのボンデッド・ウェアハウスがあり、小さいフリー・ウェアハウスもありました。ネルソン保税倉庫No.4、ブュキャナン保税倉庫No.97、フィンク保税倉庫No.97、スローカム保税倉庫、セントラル保税倉庫、ウィリアムズ保税倉庫、ルイヴィル・ストレージ保税倉庫No.4、サウソール保税倉庫、ネルソン・ディスティリング・カンパニー・ウェアハウス、アレン=ブラッドリーとエルク・ラン蒸溜所のホワイトストーン保税倉庫などです。他にも穀物貯蔵庫、貯水槽、ボンデッド・ボトリング施設などもありました。
この複合施設のルーツは、1860年頃にケンタッキー州マリオン郡出身のジョン・G・マッティングリーと弟のベンジャミン・F・マッティングリーが蒸溜所を建設したのが始まりのようです。彼らは1845年頃にケンタッキー州で最初に登録された蒸溜所を建設したと伝えられる人物。おそらく兄弟はマリオン郡から土地を移し、蒸溜に専念することで成長産業の専門化を促し、理想的な立地にあるルイヴィルで小規模生産から大規模生産へと移行する産業の模範となったのでしょう。もう少し後、ジョン・マッティングリーは一度に少量のマッシュしか蒸溜できないポット・スティルとは異なるコンティニュアス・スティルの完成に貢献した功績があるとされています。1867年、マッティングリー兄弟は同じマリオン郡のデイヴィッド・L・グレイヴスに事業を売却し、ルイヴィルの南側のセヴンス・ストリートに施設を移転しました。その後、グレイヴスは同じくマリオン郡のジョージ・W・ビオールに蒸溜所を売却します。更に蒸溜所は1872年にニューカム=ブュキャナン・カンパニーに売却されました。社長のジョージ・C・ブュキャナンは、アンダーソン、ネルソン、ブュキャナン、グレイストーンの各蒸溜所を建設し、1872年の時点でニューカム=ブュキャナン社はケンタッキー州最大の蒸溜会社だったとか。これらの蒸溜所は450エーカーの1ヶ所にありました。アンダーソン蒸溜所ではスモール・タブ・サワーマッシュ・ウィスキーを、ブュキャナン蒸溜所は手造りのサワーマッシュウイスキーを製造し、1880年に初めて市場に出たらしい。ネルソン蒸溜所ではライ麦と麦芽を使用したネルソン・ピュア・ライ、麦芽のみを使用したネルソン・ピュア・モルト、加熱倉庫で僅か3~4カ月熟成させた熟成の短いU.S.クラブを製造していたと伝えられています。
(1876年の広告)
1879年に同社は一旦解散し、改組されました。おそらくこの頃に、オールド・クロウ蒸溜所やハーミテッジ蒸溜所にも携わっていた英国のパリス, アレン&カンパニーと関わるようになったと思われます。1882年から1884年に掛けての恐慌の後、同社は更なる変化を遂げます。パリス, アレン&カンパニーを通じ資金援助を受け、1885年には再び会社を再編成して社名をアンダーソン=ネルソン・ディスティリング・カンパニーに変更し、ハーマン・ベカーツが社長、フレッド・W・アダムスがセクレタリー兼マネージャー、ブュキャナンは営業担当に就任しました。翌年には3つの蒸溜所の合計マッシング・キャパシティは一日あたり4855ブッシェル、ウィスキー生産量は日産500バレルに達したと言います(アンダーソンが約600ブッシェル、ネルソンが約1200ブッシェル、ブュキャナンが約3000ブッシェル)。この頃の倉庫群には計117000バレルの収容能力があり、会社の規模を示す一つの指標として言うと、1885年の連邦税は500000ドルを支払っていたとのこと。アレン=ブラッドリー・カンパニーの名で操業していたグレイストーン蒸溜所は大量のウィスキーを生産し、フランクフォートのクロウ&ハーミテッジが1ガロンあたり60~65セントを要求する中、1ガロンあたり23セントで販売していたそうです。別々の事業体でありながら、それぞれの蒸溜所の経営と所有権は重複していました。このようなやり方によって同社は市場シェアを獲得し、それで更に施設を拡張、他の蒸溜酒会社を買収して得た多くのブランドの生産を継続しました。当時、6つの倉庫は7の異なる所有者の下でウィスキーを貯蔵していたとされ、それぞれを列記すると、ウェアハウスNo.4の所有者はニューカム=ブュキャナンで銘柄はネルソン、ウェアハウスNo.97の所有者はアンダーソン・ディスティラリー・カンパニーで銘柄はアンダーソン、ウェアハウスNo.352の所有者はジェイコブ・アンバー&カンパニーで銘柄はウッドコック、ウェアハウスNo.353の所有者はジョージ・C・ブュキャナンで銘柄はブュキャナン、同ウェアハウスNo.353の所有者はジョン・エンドレス&カンパニーで銘柄はグレイプ・クリーク、ウェアハウスNo.368の所有者はR.P.ペッパー&カンパニーで銘柄はオールド・R・P・ペッパー、同ウェアハウスNo.368の所有者はJ.A.モンクス&サンズで銘柄はグレイストーン、ウェアハウスNo.369の所有者はJ.A.モンクス&サンズで銘柄はモンクスとなっています。ロス・ペッパーの蒸溜所は1870年にはフランクフォートの西ベンソン・クリーク付近にありましたが、1880年頃にW.A.ゲインズ&カンパニーを傘下に持つパリス, アレン&カンパニーに買収され、R. P.ペッパーのブランドはルイヴィルの工場に移管されていました。
1890年7月、グレイストーン蒸溜所は火災で全焼してしまいましたが、同社はすぐに工場を再建し、エルク・ラン蒸溜所となりました。1891年べカーツ氏が亡くなりカリフォルニアのジェシー・ムーア=ハント・カンパニーがインタレストを取得。このムーア氏は、17thストリート&ブレッケンリッジ・ストリートにあったムーア&セリガーの「ムーア」の伯父と思われます。新しいエルク・ラン蒸溜所は生産能力を拡大しました。1892年頃までに50000バレルを収容できるスローカム倉庫、20000バレルのセントラル倉庫、70000バレルのウィリアムズ倉庫を含むウェアハウスがハミルトン・アヴェニュー沿いに建設されており、合計で140000バレルのキャパシティを持つようになりました。上の3つの倉庫はお互いが全て接しており、防火壁で仕切られていたそうです。1892年の保険引受人の記録によると、蒸溜所にはスプリンクラーが設置されており、倉庫は一つを除いて全てレンガ造りで屋根はメタルかスレートでした。敷地内のその他の建物には牛舎、ミル、グレイン・エレヴェーター等があり、エルク・ラン蒸溜所の隣のホワイトストーン・ウェアハウスの東端にはクイック・エイジング・ルームまで設置されていました。当時はアレン=ブラッドリー蒸溜所名義でウィリアム・E・ブラッドリーが経営していたようです。1895年には、アンダーソン=ネルソン・ディスティリング・カンパニーの子会社であるネルソン・ディスティリング・カンパニーが、100×240フィートの3階建て倉庫の建設し、40000バレルを収容できるようになりました。これがネルソンEウェアハウスと呼ばれる熟成庫です。製品の需要が高まった結果として親会社のアンダーソン=ネルソン蒸溜所の最後の資本建設プロジェクトの一つとして建設されたものらしい。また、ハミルトン・アヴェニューの反対側には、別の15000バレルのネルソン倉庫、18000バレルのルイヴィル・ストレージ倉庫、20000バレルのブュキャナン倉庫と呼ばれるボンデッド・ウェアハウス、14000バレルのフィンク・ボンデッド・ウェアハウスがあり、この複合施設全体のバレル収容量は膨大でした。1905年までに同社はさらに成長し、生産量は260000バレルに達したそうです。この成長期を経て、1905年(または1901年という説も)に会社はウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニー(KDWC)に買収されました。
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(1910年のサンボーン・マップ)
アンダーソン=ネルソン蒸溜所とエルク・ラン蒸溜所はKDWCによってプロヒビションまで操業されました。1911年の段階でエルク・ラン蒸溜所とその関連事業はKDWCのポートフォリオの中で最大規模となり、5000ブッシェルをマッシングしていたと言います。明確な時期は不明ですが、この頃か、少なくとも禁酒法以前にハリー・E・ウィルケンがマネージャー兼ディスティラーとなりました。1912年にエルク・ラン蒸溜所でボトリングされた銘柄には「アンダーソン」、「ネルソン」、「ブュキャナン」、「スローカム」、「ジェファソン」、「ジャクソン」、「U.S.クラブ」、「エルク・ラン」等があったと伝えられます。また、ここでは他のトラストの蒸溜所のためにも生産していたようです。1912年12月12日、フレッド・W・アダムスはルイヴィル東部の自宅で66歳の生涯を閉じました。イングランド出身の彼は、1885〜1905年まで会社の財政的バックアップを担っていました。KDWCは禁酒法開始まで蒸溜所の改良を続けます。需要と生産能力の増加に対応するため、複合施設に隣接する農地が買収され、新しい倉庫の建設を開始し、1918年に竣工されました。このハミルトン倉庫は、ケンタッキー州で建設されたものとしては記録上最大のもの(または世界最大のレンガ造りのバレル・ウェアハウス)とされ、2つのセクションに分かれており、それぞれに150000バレルの収容量できる12階建てで、総工費は推定40万ドル(今日の900万ドル以上に相当)と見積もられました。しかし禁酒法が本格化していたため、完成したのはその半分だけで、158000バレルの収容量だったようです。同じく1918年には、ハミルトン・アヴェニューのネルソン・プラントに隣接して、U.S.インダストリアル・アルコール社が運営する大規模なアルコール工場が建設されました。彼らはアルコールの貯蔵にスティール・タンクを使用していましたが、満タンにしておらず、その結果ベアグラス・クリークの洪水でタンクが破損し、倉庫に流れ込んで破壊されたそうです。
蒸溜所は禁酒法の訪れにより閉鎖されました。しかし禁酒法期間中、この蒸溜所の倉庫はアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)によって使われました。その大きさと立地条件から集中倉庫として選ばれ、取り壊しや放置、その他の再利用は防がれたのです。禁酒法の後、他の工場は取り壊されたものの、エルク・ラン工場はそのまま残されました。1929年以降、「T」と「S」というウェアハウスが追加されたそうですが、その目的は不明とのこと。旧ネルソン蒸溜所の倉庫なども含む残された建物はKDWC及びAMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズの手に渡り、禁酒法廃止後の1933年に蒸溜所は再開され、オールド・グランダッド蒸溜所として知られるようになりました(おそらく、ナショナルは40年代初頭にフランクフォートのK.テイラー蒸溜所を買収して、そこをオールド・グランダッドの本拠地に変えたと思われる)。1936年当時、175000バレルの生産能力を有していたと言います。禁酒法廃止後のナショナルはアメリカ国内の蒸溜酒の約半分を支配し、一流ブランドの多くを所有するようになっていました。彼らはジェファソン・カウンティに数ヶ所の蒸溜所を開設し、経済的な恩恵を齎しました。この敷地の倉庫は平均的な施設の7倍のバーボン・バレルを収容することが出来、数百人の従業員を雇用していたとされます。1940年代、ナショナルは全米のバーボンとライ・ウィスキーの70%を支配する「ビッグ・フォー」の一つとなり、この成長期は更に約20年間続きました。1960年代、ナショナルは大きなレンガ造りの倉庫を改修しましたが、1棟は安全でないことが判明し、取り壊されました。この頃からアメリカ国内に於けるバーボン業界全体の衰退が始まります。一時期、この施設ではジンやテキーラやその他の蒸溜酒もボトリングしていましたが、競争と需要の減少には勝てず、嘗て世界最大規模を誇ったケンタッキー・バーボン蒸溜所は終焉を迎え、1974年に閉鎖されました。衰退前は1400人がここで働き、その殆どが徒歩で通勤していたとか。閉鎖後、1979年8月にレイ・シューマンが購入し、様々なビジネスのための商業施設として開発されるまで、この土地は空き家となっていました。世界最大級のハミルトン倉庫は、ブレッケンリッジ=フランクリン・エレメンタリー・スクール建設のために1980年代(または90年代とも)に取り壊されたようです。殆どの施設は取り壊されましたが、バーボン倉庫としてはルイヴィル最古(1880年頃建設)とされるウィリアムズ倉庫およびそれと繋がっているセントラル倉庫は現存しており、ディスティラリー・コモンズという名称の商業用レンタル・スペースとなっています(セントラルと左手側で繋がっていたスローカム倉庫は取り壊されている)。この複合倉庫のすぐ隣、レキシントン・ロードとペイン・ストリートの角にあったネルソンE倉庫も近年まで手付かずで現存していたのですが、2022年8月に再開発のために取り壊されました。近年のバーボンウイスキー産業の復興により、バーボン・ウィスキー産業に関連する歴史的な建築様式に対する評価が高まっています。1895/96年に建てられたこのウェアハウスもその歴史的意義から2020年にランドマークに指定されていたため、解体にはルイヴィル市の承認が必要だったのですが、1979年以降は空き家だったせいか、損傷が酷く、市は機能不全または倒壊の差し迫った危険な状態にあるとして取り壊しを承認しました。ディスティラリー・コモンズも今後は再開発されて行くのかも知れません。
(ディスティラリー・コモンズ)

(取り壊された旧ネルソン倉庫、後ろに見えるのがディスティラリー・コモンズ)

******メルウッド蒸溜所は1865年にジョージ・W・スウェアリンジェンとアンドリュー・ビッグスによって設立されたとの説もありました。

*******リチャードソニアン・ロマネスクは、アメリカの建築家ヘンリー・ホブソン・リチャードソン(1838~1886年)にちなんで名付けられたロマネスク・リヴァイヴァル建築の様式。これには11世紀と12世紀の南フランス、スペイン、イタリアのロマネスク様式の特徴が組み込まれていました。19世紀後半に複数の建築家がこのスタイルを倣ったと云う。
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(ウィキペディアより。1872年にリチャードソンによって設計されたボストンのトリニティ教会。キャロル・M・ハイスミスの写真)

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(画像提供Y.O.氏)

オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライは、その名の通りオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ブランドのライ・ウィスキーな訳ですが、現在も販売されているヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライの前身と見做していいかも知れません。オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル15年のバーボンが2004年にパピー・ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ15年に置き換えられたのに似ています。なので、ここではヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライの今日までの足跡を辿ってみましょう。

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(Old Rip Van Winkle Distilleryの公式ウェブサイトより。彼らの全ラインナップ)
オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ディスティラリー(ORVWD)のラインナップ中、ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライは唯一のライ・ウィスキーなので「ライのパピー」なんて呼ばれることもあったりします。オールド・リップやらパピー・ヴァン・ウィンクルと言うと、高名なスティッツェル=ウェラーと結び付けられることも多いのですが、スティッツェル=ウェラー蒸溜所ではライ・ウィスキーを蒸溜していませんでした。そしてORVWDは、実際の蒸溜所を表すのではなく単に蒸溜事業会社の名前であり、彼らは所謂NDPなので、そのライはヴァン・ウィンクル家が蒸溜したものでもありません。ヴァン・ウィンクルのライは90年代半ば過ぎから後半頃、オーウェンズボロのメドリー蒸溜所が84年か85年に蒸溜したウィスキーを単一のソースとしてスタートしました。おそらくメドリーは何処かのボトラーの依頼でその時ライを蒸溜したと思われますが、それらは何らかの理由で売れ残り、後にユナイテッド・ディスティラーズがメドリーの資産を獲得すると、彼らは不要と判断した蒸溜所やブランド、そしてバレルを売りに出したので、それをジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が購入したのでしょう。この頃の彼はローレンスバーグのオールド・コモンウェルス蒸溜所でウィスキーをボトリングしています。メドリー・ライのマッシュビルは、一説には51%ライ、38%コーン、11%モルテッド・バーリーとされているのを見かけました。真偽の程は定かではありませんが、真実から遠く離れてはいなそうな気がします。このメドリーのウィスキーは、完全なシングルバレルではなかったようですが、時々は一度に1バレルしかボトリングしないこともあったとジュリアン自身が語っていました。
初めにリリースされたのはネック・ラベルがゴールドのオールド・タイム・ライでした。ボトルの肩に熟成年数を示すシールがなく、ラベルに「12 SUMMERS OLD」と記載され、おそらく96年ボトリングと推定されます(トップ画像の物)。これにはボトル・ナンバーはありますが、ロットを示すレターがありませんでした。続いて翌年からネック・ラベルがブラックのオールド・タイム・ライが発売され、こちらにはロットのレターが付き、Cレターの物も確認出来ることから、多分、数年間は販売されたかと思われます。ゴールド・ネックは実際に12年熟成のようですが、ブラック・ネックは12~15年熟成の可能性があるようです。オールド・タイム・ライはどれも90プルーフでボトリングされました。
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1998年、同じソースからヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ13年として背の高い「コニャック」ボトルにボトリングされた物が日本に輸出されます。同じ頃、ハーシュ・セレクション名義でプライス・インポーツのためにも同じライがボトリングされました。1999年にはヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ13年がアメリカの市場でも発売されます。13年熟成のファミリー・リザーヴ・ライは、更に5年間バレルの中で熟成を続けたにも拘わらず、同じ熟成年数表記で毎年リリースされました。聞くところによると、ファミリー・リザーヴ・ライの最初の方のリリースには、全ての物ではないと思われますが、ボトルの首に付いたハングタグ(ブックレット)に実物のライ・グレインが入った小さな包みが付属していたそうです。当時は今と違ってまだライ・ウィスキーの低迷期でしたから、ライに馴染みがない人々へ穀物そのものを紹介するマーケティングだったのでしょう。
一見すると普通のヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ13年かと思ってしまいそうな、「1985」とヴィンテージがラベルに表示された特別なファミリー・リザーヴ・ライが2000年前後あたり(一説には2001年)にヨーロッパ市場へ向けてボトリングされました。このウィスキーの実際の熟成年数は15年と見られ、唯一の100プルーフでのボトリングであり、唯一「チルフィルタードではない」とラベルに記述のある物でした。アメリカでは一般的ではなかったアンチルフィルタードは、マニア層の多いヨーロッパでは望まれており、ジュリアン自身もウィスキーの冷却濾過は風味の一部を取り除くと確信していたので実験的に試してみようと思った、と語っています。冷やすと曇りが出るが、それは風味の問題ではなく飽くまでも外観上の問題であり、そのことはヨーロッパでは問題にならない、と。このライは彼によると「私のフランスの顧客の要望で提供された」そうですが、イタリアの勘違いではないかと云う指摘もあります。それは兎も角、この希少でコレクター垂涎のボトルをジュリアン自ら「私たちが世に送り出したライの中で最高のものだった」と言ったらしい。
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2001年1月にはハーシュ・セレクションの2回目(最終)のボトリングが行われました。実際の熟成年数は16年か17年でした。2002年にバッファロー・トレース蒸溜所との提携を果たしたジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世は、ボトリングをローレンスバーグから同蒸溜所のあるフランクフォートに移します。
前述のように、ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライは初めてボトリングされた時は13年でしたが、ボトリングされた年によって実際には13~18年熟成していました。このウィスキーが19年熟成となった時、これ以上熟成を進めるべきではないと判断され、2004年にバレルから取り出されてステンレス・スティール・タンクに貯蔵されます。その際に旧バーンハイム蒸溜所(もしくはジョージ・T・スタッグ蒸溜所)のクリーム・オブ・ケンタッキー・ライとブレンドされました。クリーム・オブ・ケンタッキーについては過去に投稿したこちらの記事を参照下さい。一説にはその比率は50/50とされています。このため、2004年から2016年までのファミリー・リザーヴ・ライの実際の熟成年数は19年でした。このブレンド処置はおそらくジュリアン3世の10年以上先を見据えた長期的な計画でした。ライが不人気な時分にライを購入し、もう一生分のライを持っていると思っていた彼でしたが、思いの外ファミリー・リザーヴ・ライは売れたのでしょう。その原酒がいつか枯渇するのは分かり切ったことなので、それを見越してバッファロー・トレースのライが彼のウィスキーに見合う熟成年数になるまでの間、年間290ケースしか製造しないようにキープして、10数年間ライをリリースし続ける計算があったと思われます。ところで、2012年にバッファロー・トレース蒸溜所のライがブレンドに加えられたという噂があり、真実かどうかは不明ですが、広く信じられているようです。兎も角、このブレンドが2016年に遂に底を突くと、2017年の一旦休止を経て、バッファロー・トレースで蒸溜された新しいバッチが2018年に初めてボトリングされました。以降、100%バッファロー・トレースのライとなって現在に至っています。
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(Old Rip Van Winkle Distilleryの公式ウェブサイトより)

こうしたなかなかに複雑な経緯を辿ったヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライのボトルの中身の原酒を把握するには、ボトリング年を特定することが重要になるのでざっと説明しておきます。ボトリング年はボトル・ナンバーの前に付くレターで主に判断します。各ラベルの上部には手書きのボトル・ナンバーがあり、通常はその前にアルファベットが書かれています。日本市場でのみ販売された最初のボトルにはレターがありませんでした。それに次いでアメリカ市場にてリリースされた1999年のボトリングから「A」が付きました。その後は順次「B…C…D…」と年毎にアルファベットが続いて行きます。2007年の「I」まで来ると、何故かそれは一旦終わり、2008年後半から再びレターは「A」から始まりました。しかし、新しい「A」と「B」は2年連続しています。その後は2015年の「F」まで年毎にアルファベットが進んで行き、2016年のボトリングで急に「Z」が現れます。これはタンクに貯蔵されたメドリーとクリーム・オブ・ケンタッキーのブレンドが終了したことを示すものでした。レターが被っている新旧の「A〜F」に関しては、2002年途中までの旧い物はボトリングされた地がローレンスバーグと記載されているので判り易いですが、所在地表記もフランクフォートで被っている物はボトルに刻まれたレーザー・コードで判断するのが最善とされます。バッファロー・トレースのボトリング・ラインは、2007年からボトルにドット・マトリックス・コードを使用し始めたとされているので、新しいレターの物にしかデイト・コードがない筈です。そして、2018年からまた「A」に戻るのですが、この時の物は数字の前ではなく、何故か数字の後ろにレターが来ます。で、これ以降はボトル・ナンバーを記載する欄すらないラベル・デザインに変更になりました。
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下にネットで確認出来たヴァン・ウィンクルのライ・ウィスキーをリストしておくので参考にして下さい。これは噂に基づいた部分も含むので、確定的な情報でないことを念頭に置いて見て頂けたらと。左からブランド名、発売年、レター・コードやロット番号など、ラベルの熟成年数(実際の熟成期間)、プルーフ、推定ソース、所在地表記、ボトル形状/ガラスの色/フォイルやワックスの色、特記事項となっています。ボトリング年か発売年順に並べたかったのですが、細かくは判らないため多少前後するかも知れません(特に2000年前後の物は)。また、ここにはジュリアンがボトリングしたと思われる初期のVOSNのライは含めていません。


VAN WINKLE'S RYE WHISKEY LIST

OLD RIP VAN WINKLE OLD TIME RYE|1996|No Letter(only number)|12 Summers Old|90 Proof|Medley|Lawrenceburg|Squat Bottle|Gold neck label.

OLD RIP VAN WINKLE OLD TIME RYE|1997|A|Aged 12 Years|90 Proof|Medley|Lawrenceburg|Squat Bottle|Black neck label.

HIRSCH SELECTION RYE|1998|Lot 97-1|13 Years Old|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Black Wax|Bottling for Preiss Imports. This first lot would have been the same as a non-lettered VWFRR.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|1998|No Letter(only number)|13|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Red Foil|Japan only

LOTTAS HOME Papa's Private Family Reserve|1998|1207|13|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Red Foil|A special bottling one for a German importer whose daughter was named Lotta, and sent out as her wedding invitation, aprx 60 bottles made.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|1999|A|13(14)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Red Foil|First US Release

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE "1985"|Circa 2000|A|--(15)|100 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass?, Black Foil|Unchillfiltered

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2000|B|13(15)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Red Foil

RED TOP RYE|2001|----|15 YEARS OLD|95.6 Proof|?|Lawrenceburg|Cognac Bottle, ?, ?|Homage to the Westheimer Family.

OLD RIP VAN WINKLE OLD TIME RYE|Circa 2000|C|Aged 12 Years(15〜16)|90 Proof|Medley|Lawrenceburg|Squat Bottle|Black neck label.

HIRSCH SELECTION RYE|2001|Lot 00-1|13(16)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Black Wax|For Preiss Imports. This is considered the same as the C-lettered VWFRR.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2001|C|13(16)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2002|D|13(17)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg, Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Bottling moved from Lawrenceburg to Frankfort this year.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2003|E|13(18)|95.6 Proof|Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2004|F|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Moved into stainless steel tanks, Cream of Kentucky blended with Medley.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2005|G|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2006|H|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2007|I|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2008|A|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Letter code started over with "A"

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2009|A|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2010|B|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2011|B|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2012|C|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Rumored that Buffalo Trace distilled rye was added to the blend.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2013|D|13(Med19/CoK19?/BT13?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley + BT?|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Larger font at bottom for "bottled by" and "ORVWD"

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2014|E|13(Med19/CoK19?/BT13?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley + BT?|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2015|F|13(Med19/CoK19?/BT13?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley + BT?|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2016|Z|13(Med19/CoK19?/BT13?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley + BT?|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|"Z" marking indicates last of the tanked Medely/Cream of Kentucky blend.

No Release in 2017

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2018|****A|13|95.6 Proof|Buffalo Trace|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Letter Comes After the Numbers

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2019|No Bottle Numbers|13|95.6 Proof|Buffalo Trace|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2020|No Bottle Numbers|13 |95.6 Proof|Buffalo Trace|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2021|No Bottle Numbers|13|95.6 Proof|Buffalo Trace|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2022|No Bottle Numbers|13|95.6 Proof|Buffalo Trace| Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil


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ちなみにリストでグリーン・グラスとあるのは上のようなかなり薄い緑色のガラス瓶を指します。また、2013年のフォントが大きくなった件も上の画像のようになります。それと、オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライのBレターの物は画像検索で見当たらなかったのでリストに入れませんでしたが、もしかしたらあるのかも知れません。その他の物でも発見したり、また何かしらの間違いの指摘などは奮ってコメント頂けると助かります。

偖て、今回このような古い貴重なライを飲めることになったのは、日本有数のバーボン・マニアの方とサンプル交換したからでした。こちらから送った物に対して大変希少かつ多くのサンプルを送り返して頂きまして、恰も海老で鯛を釣るが如き結果になってしまったのは申し訳ないやら有り難いやらで…。また画像の提供、そして本ブログの記事を書くにあたっていつも情報提供に協力して頂き感謝に堪えません。この場を借りてお礼を言わせてもらいます。N.O.さん、この度は本当にありがとうございました! バーボン繋がりに乾杯! では、最後に飲んだ感想を少々。

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OLD RIP VAN WINKLE OLD TIME RYE 12 Summers Old 90 Proof
No. 1143
推定96年ボトリング。ほんの少しオレンジがかった濃いめのブラウン。スパイシーな香り立ちからお菓子のような甘い香りも広がる。豊かなベーキングスパイス、フローラル、カラメリゼ、マスティオーク、白胡椒、ドライイチジク、メープルクッキー。口当たりはややウォータリー。パレートは豊かな穀物を感じ易い。余韻はライのビタネスでさっぱりと切れ上がるが、鼻腔にオールドオークとドライフルーツが居続ける。草っぽさやハーブなどの緑感はそれほどなく、甘さとスパイスに振れたバーボニーなライ・ウィスキーという印象。
Rating:86.5/100

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周知のようにワイルドターキー101のラベルとボトルのデザインが一新されました。現地のアメリカでは、早くも2020年11月にエンボス・ターキーのハンドル・ボトルが登場し、通常のボトルも2021年1月からゆっくりと順次切り替わって行ったようです。しかし、公式なアナウンスは2022年3月に行われました。何らかの理由で新しいボトルが全ての市場に届くまで発表するのを待ったらしい。日本では2022年9月から発売されました。新たにデザインされたボトルのミニマムなラベルは、ウィスキー自体の色を直感的に理解されることを狙っているとされます。また、ブランドのアイコンであるターキーをボトル前面にエンボス加工したのは、洗練されたクラシックなスタイルの表現とプレミアムなイメージの視覚化だそうです。デザインの開発過程で行った日本の消費者を対象にした調査では、「高級感がある」、「現代的になり洗練されている」、「飲んでみたくなる」と言った高い評価を得たのだとか。ラベルに描かれたターキーの変遷だけ簡単に振り返っておくと、初期から長らく続いていたこちらを向いた正面ターキーが1999年まで、続いて登場した横向きターキーのフルカラーが1999〜2011年、同じく横向きターキーのセピア調が2011~2015年、モノクロのスケッチ・ターキーが2015〜2020年、そしてエンボス・ターキーの登場となります(以上の年数はアメリカ基準)。
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ワイルドターキー蒸溜所は、旧来のリピー・ブラザーズ、アンダーソン・カウンティ、JTSブラウン&サンズ、ブールヴァード等と呼ばれた蒸溜施設に代わる新しい施設が2011年に始動しています。以前このブログで取り上げた2019年10月ボトリングと推定されるスケッチ・ターキー8年101を買った時、熟成年数を単純計算すると新原酒かも知れないぞと思い、よし新しい味を試してみようじゃないかと意気込んだものの、実際に飲んでみるとどうも旧来のフレイヴァー・プロファイルとあまり変わらない印象を受け、あれ?となりました。そこで、確実を期すため、日本流通の物が新ラベルに切り替わるまで待つことにしました。で、漸く飲む時は訪れ、今回の投稿に至ったのです。このエンボス加工ボトルがリリースされる以前から、日本ではラベルのターキーの色が薄くなるにつれ味も薄くなったなどと揶揄されることもあったワイルドターキー8年101。この度のラベル/ボトル・チェンジにより、遂に紙ラベル上からターキーは居なくなり、色合いは透明になってしまった訳で、その理屈で行くと今ボトルの物が最も味が薄っぺらくなっていることになりますよね? 私はそうした旧来のラベルに対する段階的後退理論?の意見に必ずしも全面的には与しませんが、当ブログにも新しいワイルドターキー8年に対する否定的評価が寄せられていたこともあり、一抹の不安を感じながらの開封になりました。

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WILD TURKEY 8 Years 101 Proof
2021年ボトリング。ボトルコードはLL/JK220638(推定2021年11月22日)。チェリーキャンディ、焦げ樽、お菓子の砂糖コーティング、ブラウニー、若いプラム、ミルクココア、杏仁、穀物、胡椒、マッチの擦ったあと。トップノートは爽やかでフルーティ。少しとろみのある口当たりにするっとした喉越し。パレートは甘く、かつピリリと辛い。余韻はややあっさりめでコーンとナッツ。
Rating:85/100

Thoughts:初めての一口を恐る恐る飲んでみると…あれ? そんなに悪くない? もっと酷いのかと想定していたのですが、思っていたより美味しいです。香りも味わいも、中心となるのはオークとフルーツキャンディですかね。ワイルドターキー独特のチェリーノートが、旧来の物が生のフルーツもしくはドライフルーツを想起させるとしたら、新しい物はキャンディを彷彿させると言った感じですが、これはこれで…。強いて言うと、ダークなトーン、タバコ、レザー等の深みを与えるノートが減退して何だかのっぺりとしたような気がします。当ブログにコメントをくださる方が仰っていたのですが、確かにアーシーさが欠けた印象です。それにスパイスの奥行きもなくなり、アルコールの刺激が些かシャープになった感じもします。ただ、これらよりも面食らったのは、キャラメルやヴァニラの風味が希薄になって焦がしてないシュガーの味わいが強くなったところかも知れません。甘味は強く感じるものの、何故か深みのない甘さなのです。海外の方ならコットン・キャンディやアイシングとかグレイズと表現するやつでしょうか。悪い面ばかり論ってしまいましたが、ワイルドターキー特有の強い焦げ樽の風味は健在ですし、かなり甘く、フルーツ感もそれなりにあり、開封から暫らく放置しておくと幾分かフレイヴァーの密度も高まるし、飲み慣れると全然悪くはありません。何より、ワイルドターキーはバッチ間での味わいの変動が大きく(*)、旧ラベルのスパイシー&ドライな傾向のバッチよりかはこちらの方が個人的には美味しいぐらいで、そこは評価すべきかと。そう言えば、辛口のカレーや麻婆豆腐に合わせて食中酒として飲むと、甘味を強く感じる上にスパイスも増強されたようになり、大変美味しく飲めましたね。
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偖て、ワイルドターキー8年がなぜここまで変わってしまったのか。いや、これは日本限定の8年に限った話ではなく、本国アメリカに於ける定番NAS101でも同じようなことが言われています。有名なバーボン系ユーチューバー達は動画のネタにワイルドターキーNAS101の新/旧ラベル比較を行っているのですが、概ね同じ意見になっていました。なので、先ずはNAS101について見ていきましょう。
ワイルドターキー愛好家の第一人者であるデイヴィッド・ジェニングス氏は、新しいワイルドターキーNAS101について2021年1月の段階では、2020年に開けたどのボトルよりも良いとは言えないまでも同じくらい良いものだと語っています。そこから数ヶ月後、「新しいボトル・デザインが小売店の棚にゆっくりと並ぶにつれ、ワイルドターキーNAS101の風味が変わったと言うウィスキー愛好家の声を耳にした」彼は、その主張を検証するために2021年6月に充填されたボトルを購入し、2017年ボトリングのNAS101と比較することにしました。結果は、両者の間には幾つかの細かい違いはあるもののワイルドターキーの味に変わりはなく、25ドルのバーボンが不満や文句を言われる筋合いは全くない、と述べています。2021年NASは「甘く、より"洗練"された」と表現するのが最適で、ワイルドターキーらしい味わいそれ以上でも以下でもない、と。結局のところプルーフ、価格、プロファイルに於いてワイルドターキー101は今でも最高のデイリー・バーボンである、と。
他方、新しいラベル・デザインを採用した2022年3月ボトリングの物に失望した或る方は、海外の有名な某掲示板にワイルドターキー101の年代別4本(2022年NAS、2020年NAS、2008年エクスポート8年、2006年NAS)の飲み比べを投稿しました。そこで「2020年の物には古いものから幾つかのキー・エレメンツが欠けているものの、まだ家族的類似性が見られ」、「2006年や2008年のボトルから2020年の物まで一直線の線を引くことが出来る」が、「2020年と2022年の物との間には紛れもない溝がある」と述べています。2020年と2022年はどちらも2011年に稼働した新しい設備で蒸溜されているにも拘らずです。そこで彼の最終的な推測は、蒸溜が悪くなったのではなく、若いものをボトリングしているからだと思う、と云うものでした。NAS101の裏ラベルには「6~8年まで」の熟成がなされている旨が示されていますが、これは法的拘束力のある記述ではないため、実際には4年程度の若いウィスキーをブレンドすることは可能であり、2022年のボトリングには6年未満のバレルがダンプされているのではないか、と。
お気付きのように、この両者の試飲しているボトルのロットには半年以上もの差があります。なので、両者の個人的な味覚や趣味嗜好は一旦措いて、取り敢えずその発言を信頼出来るものとして捉えると、味わいは2021年を通して徐々に変化して行ったか、或いは2021年後半辺りのボトリングから一気に変化したかのどちらかではないかと思います。件の某掲示板に「新しいラベルの最初の数本はそれなりに良かったので、この変化はラベルの変更と同時のものではないと思う」とのコメントがありました。ややこしいことに、どうやら中身が変わったのとラベルが変わったのは完全には一致しないようです。私はワイルドターキーの味わいの変化をシンプルに新しい蒸溜施設の原酒に切り替わったからだと思っていたのですが、どうも事はそう単純ではないらしい。NAS101が6〜8年熟成(数年前にエディ・ラッセルは平均7年半と言っていた)で、新施設の稼働が2011年と言うことは、2019年に新蒸溜所原酒100%になっていてもおかしくはなく、それなら2019年に不味いという評判が出てもいいのに、何故か2021年になってから味が落ちたようではないですか。だからこそ某掲示板のWT飲み比べスレッド投稿者さんは味の落ちた原因を新しい蒸溜施設に求めるのではなく、バッチングの平均熟成年数の低下に求めてる訳で…。昔からワイルドターキー蒸溜所はマッシュビルもその他の製造方法も何十年も変わっていないとしばしば主張して来ました。これは、長い年月の間には清掃のし易いファーメンターに変わったり、職人の勘に頼っていたパートがコンピューター制御に変わったり、高性能なフィルターが導入された等はあっても、穀物の粉砕や発酵時間や蒸溜メソッドなどの基本的なバーボンの製造方法は変わっていない、そういう意味でしょう。なので、取り敢えず穀物の選定、イースト、蒸溜プルーフやバレル・エントリー・プルーフ、チャー工程の時間などは変わっていないと推測されます。また、新ワイルドターキー蒸溜所へツアーに行った方々による内部の写真を閲覧すると、メインとなるビア・スティルの銅製部分などは年季が入ってるように見え、もしかすると以前の施設から引っ越しさせただけのようにも見えます(※ここら辺の事情を実際に見学ツアーへ行って知ってる方はコメントよりご教示下さい)。もしこれらの想定が正しいのであれば、新蒸溜所原酒のクオリティが著しく落ちるとは考え辛く、確かにバッチングに選ばれたバレルがヤンガーだから味が落ちたと思いたくなります。ワイルドターキー蒸溜所マスター・ディスティラーのエディ・ラッセルの息子ブルースが2018年頃に公にしたコメントでは、当時のNAS101の最新バッチには7~10年熟成のバーボンが含まれていたとされています。もしこれが数年に渡って続き、2021年頃になって、或いは新ボトルに切り替わる頃に、突如10年原酒をブレンドしなくなったとすれば、話の辻褄は合ってはいることになるでしょう。
しかし、日本限定の8年101は? これは文字通り最低8年熟成であり、それを飲んでもNAS101と同じような変化を感じるということは、若いウィスキーが原因ではなく、新蒸溜所由来のウィスキーそれ自体にあると考えるしかないのでは? 上述のように、私が2019年10月ボトリングと推定される旧ラベル8年101を飲んだ時、味わいが劣っているようには思えませんでした。ところが今回の新ボトル8年101は僅かに劣っているし、何よりフレイヴァー・プロファイルが異なります。今回のボトルは推定2021年11月ボトリングです。この二つの間の物を私は飲んでないので、一概には言い切れないかも知れませんが、先ほど取り上げたNASとほぼ一緒の軌跡を辿っているように見えます。では8年101に、NAS101についてのバッチングに使用されるバレルの平均熟成年数の低下という仮説を応用すると、8年101の味の落ちた原因は、昔のものは10年超の原酒がブレンドされていたが今は完全に8年原酒のみとなったから、とでもなりますよね。え、じゃあ旧来の8年101て、ちょうど良い熟成加減の8年にコクと崇高性を与える長熟原酒を少し混ぜた至高のバランスをもったバーボンで、しかも安いというお値打ち品だったの? いや、まさか…。
先程から言及しているWTを飲み比べるスレッドの投稿者さんは、スタンダードな101の衰退がより高級なワイルドターキーの表現に対する需要の高まりに関係している可能性を示唆しています。NAS101が品質を落としたと思われる一方で、少なくともレア・ブリードは優秀な状態を維持し続けているところから、彼の推測ではNAS101を犠牲にして、6年、8年、12年の大量のバレルを必要とするレア・ブリードに6〜8年熟成の良質なバレルを振り向けているのではないか、と。確かに、レア・ブリードに限らず、今はどこの蒸溜所もシングル・バレル・プログラムに力を注いでおり、ケンタッキー・スピリットやラッセルズ・リザーヴのストア・ピックのシングル・バレルに良質のバレルが振り分けられている可能性はあるかも知れません(**)。毎年リリースされるマスターズ・キープだって比較的高齢のバレルを使用し、それなりの数量が販売されています。近年ではラッセルズ・リザーヴ13年の導入もありました。或いはバーズタウン・バーボン・カンパニーがフュージョン・シリーズ等のブレンドにWTバレルを使っているとされ、そこに良い樽の一部が引き抜かれているかも知れないという推測もあったりします。日本でも新ボトルの切り替えと同時に12年101も復活していますよね。12年101は13年ディスティラーズ・リザーヴの後継な訳ですが、仮に生産量が同量だとすると、91プルーフと101プルーフの違いから、必要なバレル数は12年101の方が多くなります。ところで、私は自宅で様々なバーボンやライ・ウィスキーを混ぜたオリジナル・ブレンドのアメリカン・ウィスキーを作ったりして遊ぶのですが、短期熟成のちょっと物足りないバーボンに、長熟もしくはオールド・ボトルのバーボンをほんの少し加えるだけでもコクや敢えての雑味を与えることが出来、なかなか飲みごたえのあるバーボンになったりします(***)。そうした実体験から言うと、上で見たような、スタンダード101より高級な路線の拡大によって古いバレルの供給は大幅に減り、結果、NAS101と8年101に振り分けられていた長熟原酒が取り除かれ、その味わいは弱体化したという憶測は案外的を得ているようにも感じられます。とは言え、これは新しい蒸溜所が旧来と同等の品質のウィスキーを生産することが出来ると仮定した意見です。バーボンの製造方法に味の違いを生み出す変更があったのなら、私個人には知る術がありません。事情通からの何かしらの情報が入るのを待ちましょう。既に新しいボトルのワイルドターキー8年を飲んだ皆さんは、どういう感想や意見をもちましたか? どしどしコメントお寄せ下さい。

Value:一部のバーボン愛好家にとってワイルドターキー101は永遠の定番でした。人によっては毎日飲むバーボンでさえあったでしょう。いや、バーボンしか飲まない愛飲家もウィスキー全般を嗜む愛飲家も、淑女も紳士も、礼儀正しい人も無作法者も、老いも若きも、肉体労働者も知識労働者も、ジミー・ラッセルが何者であるか知ってる人も知らない人も、汎ゆる人々がワイルドターキー101を頼りになる相棒として購入し飲んで来た筈です。私とて、8年101とは限りませんが、何かしらワイルドターキー蒸溜所のボトルを開封済ボトルのローテーションに必ず組み込んで来ました。それが…確かに何かが変わってしまった、従来品のファンからすると良くない方向に。想い返せば、ラベルのターキーが正面から横を向いた時も、カラーがセピア調のモノクロームに変化した時も、味わいが劣化したと言う人がいました。今回の変化はその比ではない劣化だと考える人もいるでしょう。慣れ親しんだWT101のスパイスがないとか、失われたライのフレイヴァーを求めてフォアローゼズのSmBを飲まなければならなくなったとか、間違って81プルーフを買ってしまったのかと思ったとか、まるで別の蒸溜所で造られたような味わいだとか、もう買わないとまで言う人もいますから。ワイルドターキー蒸溜所のエントリー・レヴェルの製品は、価格以上の価値のある逸品から、もはや価格相応の品質になったのかも知れない。しかし、このボトルはジムビームでもフォアローゼズでもメーカーズマークでもジャックダニエルズでもない味がします。それはこのボトルを購入するのに十分な理由になるのではないでしょうか? ウィスキーの世界ではわりと一般的に、現行ボトルよりも古いボトルの方が味が良いと語られたりしますが、これは飽くまで古い味を知っている人にのみ起きる現象です。これからワイルドターキーを飲もうとする人には、きっと何の問題もない…と信じたい。
私? 勿論、定期的に買いますよ、今後のバッチで何か変わるかも知れませんから確認のためにもね。但し、買う頻度は少なくなると思います。それは味わいが変化したからではありません。殆どのウィスキー愛好家にとって最も重要なのはウィスキーの品質でしょうが、私にとってより重要なのはブランドのイメージを体現するボトルとラベルでした。2010年代に起こったアメリカのバーボン・ブームは、2020年代に入っても衰えるどころか益々活況を呈しており、その勢いは留まるところを知らず、様々なブランドが新しい潮流に棹さしてボトルやラベルを刷新しました。新しく誕生したブランドにはネオ・ヴィンテージ感と呼べるような肌触りがあるものも多いですが、古典的なバーボン・ブランドが刷新を図る場合、古色蒼然としたラベル・デザインを端正でシンプルに変える傾向にあると思います。おそらく新たに愛好家になった人は高級感のあるスタイリッシュな物を求めているのでしょう。エライジャクレイグの新ボトルやウェラーの新ラベルを初めて見た時にも思いましたが、どうもアメリカの一般消費者の感覚と私の感覚には大きな隔たりがあるようで…。私はスタイリッシュで洗練された高級感をワイルドターキーに求めていません。正直言うと新しいボトルは買いたくなくなるデザインなのです(****)。皆さんの新ボトルに対する印象はどうなのでしょう? これまたコメント頂けると幸いです。


*スタンダードな101のバッチングに使用されるバレルは1000以上とされ、非常に巨大なものですが、それでもバッチ間には多少のばらつきが生じます。バッチ毎に味が違う理由としてよく挙げられるのは、次の2点です。一つは、ワイルドターキーはウィスキーの熟成に伝統的な木材とメタル・クラッドの組み合わせによるリックハウスを使用していますが、その全てが毎年「旬」を迎える訳ではないこと。つまりその時々で良いと判断された特定のリックハウスからバッチングに使用されるバレルが引き出されるので、結果、フレイヴァー・プロファイルが異なってしまいます。もう一つがバレル・エントリー・プルーフの低さです。ワイルドターキーの115バレル・エントリー・プルーフは、熟成後のバレル・プルーフが凡そ110〜120の間に収まり、そこから101プルーフへ希釈されるので、より一般的な125バレル・エントリー・プルーフを使用するブランドと比べると水の量は少なめになります。水を増やせばプロファイルの再現性は高まり、逆に水が少なければより多くのフレイヴァーが得られる分ばらつきが生じ易い訳です。

**最近ボトリングされた通常の?ラッセルズ・リザーヴ10年とケンタッキー・スピリットはあまり良くないという発言も掲示板のコメントで見かけました。

***他にも、一般的なバーボンにライ・ウィスキーを少し混ぜると、ハイ・ライ・マッシュ・バーボンの味わいのようになったりして面白いです。よくフルーツ味のジュースとかで果汁1〜5%とかありますよね。あれって、それだけじゃ大した意味なくね?と思いがちですが、意外と効いてる可能性はあって、短熟バーボンに長熟バーボンを5%程度入れると、途端に飲み易くなったりします。ここで紹介したのは、言わばフレイヴァー剤のように長熟ウィスキーやライ・ウィスキーを使用するテクニック?です(笑)。皆さんも興味があれば試してみて下さい。

****勘違いされるといけないので念のため言っておくと、私はマスターズ・キープのボトルは大好きです。あれは本当に高級だからいいのです。そういう意味で言うと、12年101にエンボスト・ターキー・ボトルは何の不服もありませんでした。ただ、スタンダードなワイルドターキーにあのボトルは自分的にはピンとこないし、違和感を払拭できないだけなのです。

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バーFIVEさんでのラストの三杯目は、メドリー・バーボン(*)にしました。メドリー・ファミリーはバーボン・メーカーとして大きな存在です。彼らはオーウェンズボロの街の西側、オハイオ・リヴァーに沿った地に三つの蒸溜所を立て続けに所有/運営していました。1900年代初頭から1992年に最後の蒸溜所が閉鎖されるまで、それらの蒸溜所はウェスト・ケンタッキーのウィスキー産業を盛り上げ、オーウェンズボロの歴史に忘れられない足跡を残しました。今回はそんなケンタッキー・ウィスキーの重要な一家の興味深い歴史をざっくりと振り返ってみたいと思います。

メドリー・ファミリーは20世紀初頭にオーウェンズボロの蒸溜産業と結び付きましたが、アメリカに於ける彼らの蒸溜の伝統はもっと前に遡ることが出来ます。1634年、ジョン・メドリーはイングランドからスティルを携え、ボルティモア卿が英国カソリック信者の避難所として設立した新天地メリーランドにやって来ました。後にセント・メアリーズ郡となり、ポトマック・リヴァーに接したメドリーズ・ネックとして知られるようになった地域に定住したようです。その地域をグーグルマップで見てみたら、今でもメドリーズ・ロードやメドリーズ・リヴァーなどあり、その地域一帯がメドリー家に所縁があったことが察せられました。その当時の時代は資料に乏しく、彼らがどのようなウィスキーを造り、どのような生活を送ったのかは定かではありません。想像するに、余った穀物を利用して生活の必要から蒸溜をする、当時の極く当たり前のことをしていたのではないでしょうか。メリーランドはライ・ウィスキーの産地としてペンシルヴェニアと並び称される地ですから、もしかするとメドリーズがそのまま同地に居座り続けていたら、ライ造りの王朝を築くことにでもなったかも知れませんが、歴史はそのように動きませんでした。

ジョン・メドリーの時代から時を経た1800年頃、子孫であるジョン・メドリー6世(**)は一族を引き連れてカンバーランド・ギャップを越え(***)、バーズタウンのネルソン群やレバノンのマリオン群と隣接するケンタッキー州ワシントン群に移住します。「アメリカのホーリー・ランド」と目されたケンタッキー州のこの一帯には、他にもビーム家、ワセン家、ヘイデン家などケンタッキー・ウィスキーの歴史に名を残す著名なカソリック教徒が入植していました。「ジャック」とも知られたジョン・メドリー6世は、1802年にスプリングフィールド近くのカートライト・クリークのシェパーズ・ランにある農場を購入してスティルを1〜2基設置、1812年には商業用の蒸溜所を経営し、ウィスキー・ビジネスを始めた創始者とされます。メドリーズの第何世代マスター・ディスティラーという言い方は、彼を第1世代としてカウントしていますね。主に地元で販売/消費される少量のウィスキーを製造する彼の蒸溜事業は成功を収め、1814年に亡くなった時、その財産目録の一部には二つのスティルと40のマッシュ・タブが記載されていました。彼は、1806年に建てられたスプリングフィールドのセント・ローズ・チャーチに埋葬されました。そこは現在も教会として使用されており、アレゲイニー山脈の西側では最も古い建造物らしいです。彼の死後、残った家族は何年もの間そのワシントン郡の蒸溜所を経営し続け、蒸溜者の技術は父から子へと受け継がれて行きました。ジョン6世からトーマス、ウィリアム、ジョージ・Eへという流れです。

トーマス・メドリー(1786-1855)に関しては何も分かりません。ウィリアム・メドリーは、父親がメリーランド州から移住してきた後の1816年にワシントン郡で生まれました。彼は比較的短命でしたが、サム・K・セシルの本では、メドリー家の中で最初にウィスキー・ビジネスに参入したのはジョージの父ウィリアムとあり、亡くなる前の或る時期(1840年頃?)にセント・ローズ近くのカートライト・クリークに蒸溜所を設立したとされています。もしかすると家業を大いに発展させたのは彼なのかも知れない。ウィリアムはディスティラーとして生計を立てた他に鍛冶屋と一般食料品店も持っていたらしく、1841年3月から1850年12月までの台帳によると、上質の一級品バーボンを1ガロンあたり24セントで量り売りし、スティルの修理や樽職人の仕事にも精通していたようです。彼は1853年3月6日、37歳の若さでチフス熱で死亡しました。ウィリアムの死後、まだ若い妻と1850年に生まれたジョージ・エドワードを含む未成年の子供達が残されました。一家はウィリアムの母エリザベスやオズボーン(妻の旧姓)のファミリーと共に住んでいたと言います。当時の国勢調査で17歳のジョージ・Eは、職業はなく「家にいる」と記録されていたとか。成長したジョージは街で仕事を探し、スプリングフィールドの食料品店で働きました。そして、そこでトーマス・ウィリアム・シムズとマーガレット・エレン・モンゴメリーの娘で通称「ベル」と呼ばれるアナ・イザベル・シムズという花嫁を見つけ、1875年11月に結婚し、後に10人の子供を儲けました。どうやらシムズ家はケンタッキーのディスティリング・ビジネスに携わっていたようです。トーマス・ウィリアムの兄弟のジョン・シムズはバーズタウン近くのマッティングリー&ムーア蒸溜所の社長を一時期務めていました。メドリーの一族はこの地域の他の蒸溜所にも関わっており、ジョージ・Eは1870年にリチャード・ニコラス・ワセンが蒸溜所を開設した時に彼のために働きに行ったとの話も伝わっています。また彼はシムズ家との繋がりがあったからなのか、マッティングリー&ムーア蒸溜所でもキャリアを積んだそうです。このジョージこそが、メドリー家の蒸溜の伝統をケンタッキー州中部のワシントンから、130マイル離れた西部のオーウェンズボロに移した人物でした。

1901年、ジョージ・エドワード・メドリーはオーウェンズボロにあるデイヴィス・カウンティ蒸溜所(第2区RD#2)の所有権の一部を、同地の蒸溜業界に大きな足跡を残したモナーク家から購入しました。1904年になると、ルイヴィルのディック・メッシェンドーフ(****)がメドリーと共同で工場全体を買収し、ジョージ・Eはオウナーとなります。この蒸溜所は1874年(または1873年とも)にルイヴィルのカニンガム・アンド・トリッグによって建設され、ある時点で社長のリチャード・モナークと副社長兼財務担当のジョン・キャラハンによって運営されていました。場所はケンタッキー州第3の都市であり郡庁所在地でもあるオーウェンズボロのすぐ西、オハイオ・リヴァーの湾曲部近くの位置でした。1892年に作成された保険会社の記録によると、蒸溜所は2階建てのフレーム構造、屋根は金属かスレートで、敷地内には牛舎と三つの倉庫があったそう。1904年時点のマッシング・キャパシティは1日当たり50ブッシェルでした。
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(The Wine and Spirit Bulletinより)
この蒸溜所の旗艦ブランドは「ケンタッキー・クラブ」でした。1905年の広告では「この蒸溜所では、一つのブランド、一つのグレード、厳格なオールド・ファッションド・サワーマッシュ・ウィスキーしか製造していない」と紹介されています。ガラス瓶に最小限のエンボス加工を施してゴールド・ペーパー・ラベルを貼り販売されていました。またブランドを宣伝するエッチングが施されたショットグラスを取扱店やお得意様の顧客に提供していたようです。年月が経つにつれ、彼らのウィスキーは全国的な評判を獲得し、売上も急成長しました。多くの蒸溜一家がそうだったように、ジョージ・Eも6人の息子たちを家業に従事させます。父がビジネスで成功して裕福だったのか、長男のトーマス・アクィナスはロー・スクールを含む高等教育を受けており、彼はオーウェエンズボロに移って父の経営を手伝うようになると、その能力を発揮してデイヴィス・カウンティ・ディスティリングの事務兼財務担当となりました。ベネディクト・フランシスはディスティラー兼副社長、パーカー・"ジョー"・メドリーはマネージャーに、残るウィリアム、ジョージ・エドワード2世、フランシス・ジョセフの3人も何らかの形で蒸溜所で働いたと思われます。

そうこうするうち一家の長ジョージ・エドワードは健康を害し、1910年のクリスマス・イヴにちょうど60歳で亡くなりました。蒸溜所は長男のトーマス・Aが引き継ぎました。それから1年も経たずに、メドリーズに初めての大きな危機が訪れます。業界で最大規模の火災が発生し、蒸溜所にあったボトリング・ハウスと熟成ウィスキーの入ったボンデッド・ウェアハウス1棟が全焼したのです。12000バレルのウィスキーが焼失し、推定価値は1911年のドルで30万ドルでした。報道によると、損失の一部は保険で補償されるものの、残りはメッシェンドーフとそのパートナーの負債になったようです。この損失にも拘わらずマイダズ・クライテリアは翌年もデイヴィス・カウンティ蒸溜所の価値を150000〜200000ドルの間であると評価したそう。施設は火災後すぐに再建され、工場も拡張、マッシュの生産量は500ブッシェルから750ブッシェルに増加しました。トーマス・Aのリーダーシップのもと会社は禁酒法が施行されるまで繁栄を続けますが、ご多分に漏れず蒸溜所は閉鎖されてしまいます。トーマス・Aはウィスキーのバレルをワセン・ブラザーズに売却して禁酒法時代を乗り切りました。ウィスキーのストックはルイヴィルの集中倉庫に移され、後にナショナル・ディスティラーズとなるアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってボトリングされることになります。オリジナルのデイヴィス・カウンティ蒸溜所は、1928年に食肉加工業者のフィールド・パッキング・カンパニーに売却され、食肉加工工場になりました。この会社は1914年にオーウェンズボロでチャールズ・エルドレッド・フィールドにより創業され、彼は2人の従業員と馬車、小さな屠殺場からフィールド・ブランドを立ち上げると、ハム、ベーコン、ソーセージなどの食肉製品はすぐに成功を収めました。今でもこの会社の工場は現在のグリーン・リヴァー蒸溜所(後述)の隣にあります。
その他に、この時代のこの蒸溜所にはちょっとした伝説?なのかこんな話も伝わっています。「…禁酒法施行後、政府のエージェントはオーウェンズボロの熟成倉庫にあったバレルを差し押さえた。しかし、メドリー家が所有するデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーの元従業員は、倉庫の奥にある板が緩んでいて取り外せることを知っていた。彼らは夜な夜な忍び込んでバレルを動かし、自宅でボトリングをした。そして地元の医師や薬剤師の協力を得て、それらをメディシナル・ウィスキーとして公衆に販売した。このようなことが繰り返されていたが、或る時、政府機関の在庫調査によりバレルがなくなっていることが判明し、板が交換された…」。

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(Thomas A. Medley)
禁酒法が解禁されると、メドリーズは再び動き出しました。トーマス・アクィナス・メドリーは自分の息子達をビジネスに引き入れ、1933年にワセン・ブラザーズから旧ロック・スプリング・ディスティリングのプラント(第2区RD#18、禁酒法後に#10)と敷地を取得しました。ここまでに何度か名前を出しているワセン・ファミリーは、19世紀末にケンタッキー州で最も成功したディスティラーズの一つです。メドリーズもワセンズもメリーランドからケンタッキーへ移住したカソリック教徒の一員でした。リチャード・ニコラス・ワセンにはフローレンス・エレンという娘がおり、1902年、トーマス・Aとフローレンスが結婚することで、ケンタッキー州の大きな蒸溜家族の二つが結び付きました。トーマスとフローレンスの二人は結婚を記念して、長男をリチャード・N・ワセン・メドリーと名付けています。こうした関係があったことは、蒸溜所の取得を容易にしたのでしょうか? 禁酒法以降にメドリー家が最初に所有したこの蒸溜所の起源はよく分かりません。セシルやコイト・ペーパーを参照にすると、1881年以前はアレグザンダー・ヒルとW・H・パーキンスが運営していたとされ、彼らは1881年にこの工場をJ・T・ウェルチに売却し、1889年には経営者がA・ローゼンフィールド(ローゼンフェルドとも)とエイブ・ハーシュとなり、「ヒル&ヒル」、「ティップ・トップ」、「J.T.ウェルチ」等のブランドがあったとのこと。その後、(おそらくアーロンの息子の)サイラス・ローゼンフィールドにプラントは10年間リースされ、1906年にロック・スプリングの名前を獲得し有名になり、そして禁酒法が始まった頃にこの施設はワセン・ブラザーズに買収され、ストックのウィスキーはヒル&ヒルのブランド名でアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってボトリングされました。禁酒法の後、このブランドはナショナル・ディスティラーズの所有となります。一方、オーウェンズボロの蒸溜産業を紹介する1942年の新聞記事では、少し異なるように見えるストーリーが書かれていました。掻い摘んで抜き出すと、…1877年、ヒルとパーキンスはE・C・ベリー蒸溜所を買収すると、ヒル&パーキンスの名で操業し、彼らは「E.C.ベリー」を製造し続けた。…同地の古い蒸溜所の一つにW・S・ストーンが経営していたオールド・ストーン蒸溜所というのがあり、ストーンは暫く後にM・P・マッティングリーとニック・ランカスターに売却、数年後にマッティングリーはランカスターから事業権を買い上げた。そこでランカスターはディーンとヘルのベンチャー企業と手を組むようになった。S・M・ディーン、ヘンリーとジェイムス・ヘア、ニック・ランカスターはこの時以前、現在(当該記事の執筆時)フライシュマン蒸溜所がある近くの川沿いにあったグリスト・ミルを蒸溜所に改造していた。…それから、そのローゼンフェルド(おそらくアーロンを指している)がディーン、ヘア、ランカスターの経営する蒸溜所を購入しロック・スプリングスと改名し、有名な蒸溜所となってプロヒビションまで運営された、とあります。この件はいまいち分かりづらいので、仔細ご存知の方はコメントよりご教示下さい。それはともかく、グリーン・リヴァー施設の遺跡のすぐ北にあり、メドリーズが引き続きデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーと名乗っていたこの蒸溜所は、禁酒法解禁後に幾つかの改装を経て、1934年秋にマッシングを開始しました。同業他社と同じように、トーマス・Aはビジネスを確立するにあたり未熟成スピリッツをリリースしたようです。彼が最初にメドリー・ファミリー・ウィスキーを再導入した時は30日熟成だったとされ、それは禁酒法以前のバーボンとは程遠いものでしたが、それでも大衆は大喜びしたとか。次いで60日熟成のバーボンが登場し、より熟成したバーボンの貯蔵量が十分に確保され、安定して提供できるようになるまで続けられたと言います。バレルの備蓄が増えるに従って、熟成年数は長くなったでしょう。しかし、何かが上手く行かなかったのか、蒸溜所は1940年にフライシュマンズ・ディスティリング・カンパニーに売却されました。フライシュマンは1970年代までこの工場を運営し、その間に粉砕、マッシング、蒸溜を完全に自動化しました。ボトリングは州外にある同社の工場で行われたとされます。その後、紆余曲折を経て、1992年に取り壊されました。

家族の利益のために活動を続けていたトーマス・アクィナス・メドリーは、事業をフライシュマンズに売却して引退すると、残念ながらすぐに亡くなりました(*****)。しかし、彼の6人の息子達は蒸溜所の売却から得た資金で、元グリーン・リヴァー蒸溜所の跡地に再建されていたケンタッキー・サワー・マッシュ蒸溜所を購入し、1940年、メドリー・ディスティリング・カンパニーを組織します(初めはオーウェンズボロ・ディスティリング・カンパニーと名乗り、後に改名した)。旧デイヴィス・カウンティ蒸溜所にはトーマス・Aの兄弟らが関わっていましたが、新しい工場はトーマス・Aの息子の兄弟達がオウナーとなりました。1946年にはパートナーシップをコーポレーションに改組。彼らの新しい主力ブランドは「メドリー・ブラザーズ」でした。トーマス・Aの息子は8人いましたが、ウィリアム・パーカーとジェイムス・バーナードは小さいうちに亡くなっており、残りの6人は上から順にリチャード・ワセン、ジョージ・エドワード3世、トーマス・アクィナス・ジュニア(通称トム)、ジョン・エイブル、ベネディクト・フランシス2世(通称ベン)、エドウィン・ワセンです。この中でジョージは1944年に若くして亡くなっており、メドリー・ブラザーズ・バーボンのラベルには5人の肖像しか描かれていません。ちなみにエドウィンも比較的短命で1953年に亡くなっています。
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ワシントン・カウンティの時代から数えて家族所有の4つめとなった通称メドリー蒸溜所(RD#49)の場所に最初の蒸溜所が建てられたのは1885年とされます。後にグリーン・リヴァー蒸溜所として有名になる以前は人名でJ・W・マカロー(第2区RD#9)と呼ばれていました。ジョン・ウェリントン・マカロック(おそらくMcCulloughからMcCullochになった)はUSインターナル・レヴェニューの職員としてウィスキー業界に入り、ケンタッキー州オーウェンズボロ地区でゲイジャー(計測係)の仕事をしていました。彼はそこで生産されるウィスキーについて十分な知識があり、自分でも一流のウィスキーを造ることができると考えたのでしょう、1888年にその蒸溜所を購入しました。彼が建設したとする説や1889年頃建てられたとする説もありますが、詳細は判りません。1891年、マカロックはオーウェンズボロの西方にある川からグリーン・リヴァーと名付けたウィスキーを発表し、広告を始めました。するとグリーン・リヴァーは瞬く間にアメリカで最も宣伝されるウィスキーとなります。そのキャッチフレーズは「The Whiskey Without a Headache(頭痛のしないウィスキー)」でした。
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その他のブランドには「マウンテン・デュー」、「ケンタッキー・ムーンシャイン」等があり、どれもハンドメイド・サワー・マッシュと宣伝されたそうです。1900年、マカロックは事業を法人化し、社名をグリーン・リヴァー・ディスティリング・カンパニーに変更。オーウェンズボロ、ルイヴィル、シンシナティ、シカゴにオフィスを構え、販売はニューヨークのE・A・モンタギューと契約していたらしい。1916年頃はマカロックが社長、ジョン・L・レインが事務兼会計を務めていました。しかし、1918年、マカロックは災難に見舞われます。8月24日、オーウェンズボロで過去最大の火災が発生し、たった3時間でグリーン・リヴァー・ウィスキーの熟成樽が入った倉庫を含む殆ど全ての建物が灰の山と化したのです。蒸溜所にとって火災は常に最大の危険であり、バーボンの歴史の多くは蒸溜所の火災の歴史でした。グリーン・リヴァー蒸溜所の火災のニュースは、第一次世界大戦の記事をもトップページから引き降ろし、炎は40マイル以上離れたインディアナ州エヴァンズヴィルでも見えるほどだったと言います。三つの倉庫の一部は助かったものの、マカロックは18000バレルの熟成ウィスキーを失い、損失額は3000000ドル(現在の45000000ドル)と見積もられました。禁酒法が迫る中、火災の被害を受けた施設はすぐに修復されることはなく、残ったウィスキーは禁酒法施行時にウッドフォード・カウンティのオールド・テイラー施設にある連邦政府が管理する集中倉庫に送られ、後にアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってグリーン・リヴァーのラベルを使い薬用としてボトリングされました。その後、グリーン・リヴァー・ブランドはニューヨークのオールドタイ厶・ディスティラーズ・インコーポレイテッド(スペルは"OLDETYME")に買収され、彼らが販売するようになりました。禁酒法廃止後は広告に関する法律が厳しくなり、グリーン・リヴァーの有名なスローガンである「頭痛のしないウィスキー」は、それに合わせて「The Whiskey Without Regrets(後悔のないウィスキー)」に変更されています。
1918年の大火災により大部分を焼失していたグリーン・リヴァー・プラントは禁酒法時代に取り壊されましたが、ジャック・サリヴァンのブログ記事によると、マカロックの家族は引き続き土地を所有しており、禁酒法が廃止されると施設を再建し、グリーン・リヴァー・ウィスキーの生産を開始、1933年12月にジョン・W・マカロック・ジュニアによって法人化されたものの、彼らはウィスキー・トレードの難しさを実感し、家族経営は僅かな期間しか続かず、上述のようにブランドをオールドタイムに売却した、とされています。おそらく土地と建物は1936年にケンタッキー・サワー・マッシュ・ディスティリング・カンパニーに売却されました。この会社は、そもそもは嘗てオーウェンズボロの蒸溜王として君臨したM・V・モナークの経営していた幾つかの蒸溜所の一つ(RD#12)でした。そこでは「M.V.モナーク」、「ケンタッキー・ティップ」、「ソーヴレン」、「ジョッキー・クラブ」をボトリングしていたと言います。そして禁酒法廃止後、ケンタッキー・サワー・マッシュ・ディスティリングとして復活させようとした人がいました。復活した同社は多くの設備を導入し、現在にまで継承される建物を建て、1937年に稼働を始めて1349バレルのウィスキーを蒸溜したそうです。しかし、資金不足に陥り、1939年に倒産して債券保有者に買い取られ、それが1940年(1939年という説も)にメドリーズに売却された、と。

リチャード・ワセンを中心とする5兄弟が責任者となったメドリー・ディスティリング・カンパニーは、創業早々から厳しい世界情勢に直面したと想像されます。時は第二次世界大戦の時代です。メドリー蒸溜所にはスティレージと知られる蒸溜残滓を乾燥させ牛の飼料にするために使用されるドライヤー・ハウスが建設されました。そうしたDDG(ディスティラーズ・ドライド・グレイン)と呼ばれる製品は、戦争努力の一環として国中の牛の飼料工場に出荷されました。そして、大戦中に国の全ての蒸溜所は戦争のために工業用アルコール(190プルーフ)の生産に転換されました。戦争期間中、メドリー蒸溜所はU.S.アーミーが操業を引き継ぎ運営が行われたと言います。工業用アルコールは、ゴム、不凍液、テトラエシル鉛、パラシュート用レーヨン、エーテルなどの製造に使用されました。ジープ1台を製造するには23ガロン、16インチ海軍砲弾1発を製造するには1934ガロン、手榴弾64個もしくは155mm榴弾2発を製造するには1ガロンの工業用アルコールが必要とされています。それでも飲料消費用のアルコールを製造することが出来る3か月間の「ディスティリング・ホリデイ」がありました。40年代のメドリー社の製品の多くはこの期間に生産されたものなのかも知れません。
彼らのブランドには、先に紹介したメドリー・ブラザーズの他に、発売年代が特定できないので後年のものも含みますが、「ファイヴ・ブラザーズ」、「オールド・メドリー」、「メドリーズ・ケンタッキー・ボー」、「メロウ・ボンド」、「ワセンズ・ケンタッキー・バーボン」、「メドリー・バーボンUSA」、「メドリーズ・ケンタッキー・バーボン」、「メロウ・コーン」等があります。その他にも地域限定もしくは輸出向けのブランドもあるでしょうか。上の中で特筆すべきはワセンズ・バーボンかも知れません。多くのウィスキーが大規模なウィスキー・ハウスに大量に販売される中、ウィスキーを熟成させる倉庫の中に他の物とは一線を画す極上のバーボンを生み出す「スウィート・スポット」があることに気付いたリチャード・ワセン・メドリーは、優れた品質のシングルバレルをピックして自らの名前でブランド化し、これが市販された最初のシングルバレル・バーボンであるとの話もありました(真偽不明)。また、1951年には楽器のバンジョーを模したボトルの特別なメドリー・バーボンを導入し、長年に渡って何度かリリースされ、そのユニークなボトル・デザインからコレクターズ・アイテムとなったりしています。基本的に彼らの主要ブランドは、バーボンの創始者や地名にちなんだ名前を採用するより、自身の家族を強調したブランディングなのが特徴と言えるでしょう。
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第二次世界大戦後の好況期、ケンタッキー・フライドチキンのハーランド・デイヴィッド・サンダースが着用しているようなケンタッキー・カーネル・タイを一種のトレードマークとして採用し、販促品として配ることもあったそうです。そう言われてみれば、メドリー・ブラザーズ・バーボンに採用されている兄弟の写真はカーネル・サンダースのような格好をしているように見えます。メドリー社は、ナショナルやシェンリーのような「ビッグ・フォー」やそれらに次ぐコンチネンタルよりも小規模な会社でしたが、上手く地域密着型のビジネスを展開していました。いつの頃か明確ではありませんが、メドリー蒸溜所は地域社会に於ける女性の最大雇用者の一つで、5つのボトリング・ラインで250人以上の女性が働いていたと言います。彼らの事業は健全でしたが、継続的な成長と多角化のために十分な資金を自分たちで調達することは出来ず、1959年、蒸溜所を酒類輸入会社のレンフィールド・インポーターズに売却しました。当時の新聞記事によると、レンフィールドはメドリー・ディスティリング・カンパニーを10000000ドル以上の現金で買収した、とあります。メドリー家の兄弟のうち二人、ジョン・Aとリチャード・Wはそのまま残って運営に当たりました。

一方、1960年(1961年という説も)にベンとトム・メドリーは独立し、家族経営の5番目の蒸溜所としてオーウェンズボロの中心部から凡そ9マイル西のスタンリーに新しい蒸溜会社を立ち上げました。この蒸溜所は、オールド・スタンリー蒸溜所(RD#76)と言いますが、調べると彼らが一から新しく建設したとする記述と元からあった蒸溜所を購入して再建したとする記述の両方が見られます。どちらが正しいのか私には判断が付きません。この蒸溜所のデザインはスティル・ハウス、ドライヤー・ハウス、ボイラー・ルーム、ボトリング・ハウスを一つの屋根の下に配置したものでした。ボトリング・ハウスは3つのラインを備え、各サイズから変更する際の遅れを避けるため、それぞれ1つのサイズに対応するようになっていたそうです。倉庫はメイン・ファシリティの近くにあり、5000バレルを収容する規模でした。しかし、その操業は短命で、スタンリーの蒸溜所は僅か1年間しか蒸溜しなかったと言います。おそらくその後はボトリング・セクションと倉庫のみが使われ、所謂NDPとして活動したのではないでしょうか。1966年頃には6つのみのバーボン・ブランドとウォッカとジンがリストされていたそうなのですが、画像で確認出来たのはその名も「オールド・スタンリー」くらいで、他のブランドは不明です。ただ、現在はヘヴンヒルが製造している「トム・シムズ」の商標登録が63年のようなので、おそらく6つのうちの一つはそれではないかと。このトム・シムズという名は、おそらく前述のジョージ・エドワード・メドリー1世の義理の父トーマス・ウィリアム・シムズから由来していると思われます。
参考1
参考2
参考3
セシルの本によると、彼自身が1970年代初頭にこの蒸溜所を訪れた時、(蒸溜機の)運転はされていなかったが、約2000バレルのウィスキーが生産されていたそうです。続けて「1977年12月31日のリバティ・ナショナル・バンクのレポートでは、147バレルを貯蔵しており、そのうち111バレルは8年熟成以上のもので、残りは1970年と1971年に生産されたものだった。1996年12月31日のレポートには1990年生産の95バレルが記載されているが、誰が生産したかは不明である。彼らのボトリングは自社ラベルの"トム・シムズ"と、フロリダの小売店やホリデー・イン向けのカスタム・ボトリングで構成されていた。どうやらこの事業は成功しなかったようで、工場は1970年代後半に公売でフロリダの会社に売却された。(アーカンソー州)リトル・ロックにあるムーン・ディストリビューターズのオウナーであるハリー・ヘイスティングスが会社のインタレストを持っていた」とあります。チャールズ・メドリーは92年の段階でボトリング施設はメドリー・ファミリーによって時折まだ使用されていると語っていたようです。それと、上でセシルが言及しているレポートの続き?なのか、スタンリーの倉庫に1992年製造の熟成バーボン51バレルが保管されているとの記録がある、との話がありました。これは、おそらく1990年代後半の記録かと思います。倉庫としてはかなり少ないバレル数、しかも徐々に減って行ってるところからすると、ボトリング及び倉庫施設としても2000年あたりには使われなくなったのかも知れません。そう言えば、当初はオールド・スタンリー・ディスティラリー・インコーポレイテッドと名乗っていたが後にケンタッキー・ディスティラーズと改名した、との情報もありました。また、同社はベン・F・メドリー・ディスティラリー・カンパニーと言われることもあったようです。廃墟となったオールド・スタンリー蒸溜所の写真が沢山観れるアダム・パリスによるアルバムのリンクを貼っておきます。
https://www.flickr.com/photos/ap_imagery/albums/72157681499097265

偖て、本流のメドリー・ディスティリング・カンパニーの方はというと…1960年6月30日、落雷により倉庫の一つが炎上しました。22000バレルのバーボンが焼失し、アメリカ政府は800万ドル以上の税収を失ったと伝えられます。その倉庫は全焼しましたが、グリーン・リヴァー火災もあって建物から他の建物への延焼を防ぐように設計されていたため、他の倉庫は無事でした。焼けた倉庫は翌年に従来と同じ技術と様式で再建されたそうです。おそらくメドリー・ディスティリング・カンパニーは、1950年代から60年代を通して、所有者の変更はあっても、繁栄を続けたと思われます。
時代が進めば世代交代も訪れます。1966年にトーマス・アクィナス・ジュニアは亡くなりました(リチャード・ワセンは1980年、ジョン・エイブルは1981年まで生きています)。トムの死がきっかけだったのかは定かではありませんが、1967年にリチャード・ワセンの息子チャールズ・ワセンは、メドリー蒸溜所のプラント・マネージャーに就任します。彼はウェスタン・ケンタッキー大学で教育を受けた後、ルイヴィルのブラウン=フォーマンとオールド・フィッツジェラルド蒸溜所で見習いとして研鑽を積み、その後オーウェンズボロに戻って同職に就きました。プラント・マネージャーの肩書きは軈てマスター・ディスティラーへと発展して行きます。チャールズがメドリー家第7代マスター・ディスティラーに任命されたのを1969年とする情報もあれば、1970年代半ば頃としている情報もありました。なんなら1970年代にキャリアをスタートさせたとする記述も見かけました。どれが正しいのかは扠て措き、彼が引退するまで第一線で活躍するマスター・ディスティラーであり続けたことは間違いありません。ちなみにチャールズは1941年生まれです。

1975年(78年という説も)、レンフィールド・インポーターズは元バートンのエイブラハム・シェクターにメドリー社を売却しました。エイブはシド・フラッシュマンから購入したフランクフォートの蒸溜所を閉鎖して、1978年にオーウェンズボロの事業と統合しました。このフランクフォートの蒸溜所というのはロッキー・フォードまたは21ブランズと呼ばれていた蒸溜所です。フラッシュマンはグリーンブライアーで営んでいたダブル・スプリングスの事業を1960年代後半にルイヴィルの旧ジェネラル・ディスティラーズの工場へ移し、その後75年頃に21ブランズ蒸溜所へと移したものの短命に終わり、エイブ・シェクターに売却したのでした。これにより旧ダブル・スプリングスのブランドの幾つかはオーウェンズボロで製造されるようになります。ちなみに、シカゴ出身のシェクターは1995年に亡くなるまでに幾つもの酒類販売会社のオウナーや役員を務めた人物で、酒類ビジネスに携わる前は会計士でした。22歳になるまでにノースウェスタン大学で法律と会計の両方を学び、1935年に大学を卒業すると1937年に公認会計士の学位を取得し、第二次世界大戦後、バートン・ブランズに税と法律の専門家として雇われました。
メドリー家のバーボン・ブランドは、おそらく競合他社の製品に較べて少々インパクトの弱いものでした。現場の営業マンはジャックダニエルズに対抗するブランドが必要だと感じていたのかも知れません。そこで同社は1976年に、アンダーソン郡のホフマン蒸溜所で造られていたエズラ・ブルックスのブランドをフランクフォートの21ブランズ蒸溜所と共に購入しました。50年代からジャックダニエルズの対抗馬として優秀だったエズラ・ブルックスは、その後メドリー社のトップセラーとなり、最大の資産となりました。彼らはこのバーボンを77%コーン、10%ライ、13%モルテッドバーリーのマッシュビルで造りました。バレル・エントリー・プルーフは115とされています。と言うか、このマッシュビルはメドリー家の主要なレシピと思われ、他のメドリー・ブランドでも使われているかも知れません。蒸溜はカラム・スティルとダブラー、ディスティリング・プロセスで使用する水はライムストーンで濾過されたものを敷地内の井戸から引いていました。ファーメンターはサイプレス製でした(後年、ステンレス製のタンクに置き換わった)。イーストの管理から蒸溜、エイジングからボトリングまで、どの工程も厳しい品質管理がなされ、チャールズ・W・メドリーはシェクターが買収した後も優秀なスタッフと共にオペレーションを続けていました。
1979年末、チャールズは蒸溜事業から離れつつあったパブリカー/コンチネンタルのリンフィールド施設まで行き、個人的にピックしたバルク・ウィスキーと既にボトリングされたウィスキーのボトル、そして切り替えを行うまで使用するラベルなどを購入しました。メドリー社からリリースされたコンチネンタル産の物は、所在地表記のリンフィールドの上からスタンプを押したラベルが貼られていたようです。それらのウィスキーやラベルを使い切った後、オールド・ヒッコリー、リッテンハウス・ライ、ハラーズ・カウンティ・フェアなどのブランドは、自社で蒸溜した原酒を使って製造され始めました。チャールズは、コンチネンタルのブランドを購入したのはそれらが品質の象徴だったからだと言っています。
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1980年代初頭、メドリー・ディスティリング・カンパニーを創始したファイヴ・ブラザーズの中心人物、チャールズの父リチャードと叔父ジョン・エイブルは続けて亡くなり(ベン・Fは1990年に死去)、バーボン業界も斜陽産業のように見える時代となっていました。そのことと関係があるのか分かりませんが、メドリー家は1988年に蒸溜所をグレンモア・ディスティラリーズに売却することを決めました。同社は二つの蒸溜所を所有しており、その一つグレンモア蒸溜所(RD#24)は、オーウェンズボロの東側、つまりメドリー蒸溜所とは反対側にある大きな施設で、73年に蒸溜を停止してからウィスキーを熟成させてボトリングする場所となっていました。歴史家のマイケル・ヴィーチによると、メドリー蒸溜所を買収したグレンモアは生産を停止したそうです。彼らは自社蒸溜所(シャイヴリーのイエローストーン)からの過剰なウィスキーを持っていたので、その時に更に生産する必要はなかった、と。一方で、メドリー蒸溜所は1987年に閉鎖され、1988年にグレンモアに買収されてから再開されたという説もあります。或いは微妙な違いですが、チャールズはメドリーのマスター・ディスティラーとしてグレンモアのために働き、そのままウィスキーを蒸溜していたとする説もあります。オーウェンズボロでメドリー蒸溜所しか操業していなかった頃、グレンモアの従業員名簿上、チャールズは最後のマスター・ディスティラーだった、とチャック・カウダリーは述べていました。事の真相はどうだったか私には判りませんが、ともかくグレンモアの経営は短命に終わります。1991年にユナイテッド・ディスティラーズがグレンモアの全事業を買収したのです(******)。メドリー蒸溜所は1992年にアメリカン・ウィスキーの生産を集約しようとしていたユナイテッドによって完全に閉鎖されました。そして彼らは不必要と判断したアメリカン・ウィスキーの資産、即ちブランドと物理的施設を売りに出しました。エズラ・ブルックスを含む多くのブランドはヘヴンヒルに買われ、その後すぐにヘヴンヒルはエズラ・ブルックスをミズーリ州セントルイスのデイヴィッド・シャーマン・コーポレーション(現ラクスコ)に売却しました。バーボン造りの夢を諦めたくなかったチャールズ・メドリーは、何とか資金を集めてユナイテッド・ ディスティラーズから1995年に蒸溜所を購入します。再び輝く未来を信じつつ、蒸溜所をメドリー家の下へ戻したのです。

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(Charles Wathen Medley)

1996年、チャールズ・ワセンとその息子サミュエル・ワセン(通称サム)のメドリー親子は新しく会社を設立しました。蒸溜所はチャールズ・メドリー蒸溜所と改名され、DSPの登録番号は#10を取得しました。これはチャールズの祖父トーマス・Aがデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーで使っていた伝統ある番号でした。そしてチャールズは父のパーソナル・ブランドであったワセンズ・ケンタッキー・バーボンの復活を思い付き、実際に製品をリリースすることに成功します。1997年、ワセンズ・シングルバレル・バーボンと名付けられたプレミアムな表現が発売されました。彼らはそれを自らボトリングし、一つひとつのラベルに手書きでサインをし、丁寧にケースに詰めました。チャールズが自身の長年の経験から理想としていると言う94プルーフでのボトリングです。この初期のワセンズ・シングルバレル・バーボンは、彼が旧メドリー蒸溜所をユナイテッド・ディスティラーズから購入した際、一緒に買い取った8000バレルの既存のウィスキー・ストックをボトリングしたものでした。当時はまだ供給過剰の時代で、それらをユナイテッドは不要な物と感じていました。そのバレル群はチャールズ自らがメドリーで製造したものと見られています。彼らは数年間チャールズ・メドリー蒸溜所でボトリングを続けていましたが、ストックには限りがあるため、それが底を突く前に新しいウィスキーを探さなければなりませんでしたし、チャールズとサムのプロモーション活動が成果を上げたことで工場でのボトル充填キャパシティを超えるほど需要が高まってしまい、ウィスキーをボトリングして流通させる業者も必要でした。そこで、90年代の終わり頃にはセントルイスの会社(デイヴィッド・シャーマン)と交渉して、その後しばらく仕事を共にしたと思われます。更にその後には、ワセンズ・バーボンのナショナル・マーケットへ向けた展開の一環として、2007年までにはカリフォルニアのフランク=リンと契約を結びました。
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ワセンズ・シングルバレル・バーボンは比較的好評ではありましたが、蒸溜を始めるのに必要なお金を集めることは出来ず、チャールズは蒸溜所を所有していた期間中、主に屋根の雨漏りを防ぐなど建物の修繕に努めたものの、家族の蒸溜所で自らのウィスキーを蒸溜するという夢は実現されませんでした。これはまだ本格的なバーボン・ブームが訪れる10年前の話であり、歴史が進んだ現時点から観てしまうと、彼らは早過ぎたと言うか、良いタイミングに恵まれなかったと言えるでしょう。もし10年遅ければ、状況は全く変わっていたかも知れません。
2007年10月、チャールズはウィスキーを蒸溜する計画を持っていた(アンゴスチュラ・ビターズでお馴染みの)アンゴスチュラ社に蒸溜所を売却しました。アンゴスチュラはトリニダード・トバゴに本社を置くラムやウォッカなどのスピリッツの大メーカーで、スコットランドやフランスなどの蒸溜所を買収していたのです。2008年11月には、再び伝統的なケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを製造することを目標に工場の改修が開始されます。修復のために約2500万ドルの投資を予定し、改修後の蒸溜所は年間2000000プルーフ・ガロンの生産能力が想定されてたとか。この頃までに会社はチャールズ・メドリー・ディスティラーズ・ケンタッキー(CMDK)を名乗るようになっていました。
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2009年2月にCMDKへ訪問したチャック・カウダリーによると、殆どが赤レンガ造りの倉庫の中、2つほどメタル・クラッドの倉庫があり、その外装は少なくとも部分的には貼り直しされていたそうですが内部はかなり補修が必要、蒸溜部分に関しては古いマッシュ・クッカー、ビア・スティル、ダブラーはまだ良好な状態にあるものの、新しい製粉機と穀物処理機、多くの新しいファーメンター(チャールズは何年も前にサイプレス製の物を全てメーカーズマークに売却した)、新しいボイラー、そして新しいビア・ウェルが必要だったそうです。CMDKのプラント・マネージャーにはデレク・シュナイダーが就任しており、彼は蒸溜所の修復を管理するだけでなく、CMDKの名前を世に知らしめる活動をし始め、その歴史を簡単に振り返るビデオを作成し、そこには当時の改修の進行状況も紹介されていました。旧ボトリング・ハウスをヴィジター・センターとギフト・ショップに改装し、300人収容可能なイヴェント・スペースも設置、その他に敷地内の井戸の改修とテスト、セキュリティ・フェンスや道路整備などのアップグレードも行われ、2010年初頭の操業開始を目指している、と。更に、将来的なプランとしてはガイド付ツアーを組んだり、テイスティング・ルームやミュージアムも設置し、今後5年以内に自社製品をボトリング出来るようにする、とビデオにはありました。しかし、アンゴスチュラの親会社CLフィナンシャルが世界的な金融恐慌から流動性危機に見舞われたことで2009年に全ての支出がストップし、蒸溜所の再建計画は道半ばで頓挫してしまいます。そこからこの蒸溜所は売りに出されました。多くの人がこの工場に興味を持ちましたが、なかなか買い手が見つかりませんでした。聞くところによると、所有者はこの場所の価値を高く見積もっていたのだそうです。それと、明確な時期は判りませんが、多分この後くらいからチャールズ・メドリー・ディスティラーズ・ケンタッキーと名乗らなくなったようで、単にチャールズ・メドリー・ディスティラリーと称している気がします。

蒸溜所のオウナーでなくなっても、そもそもチャールズ・メドリー・ディスティラリーという会社はNDP(ノン・ディスティリング・プロデューサー)でしたから、チャールズとサムはウィスキーを販売し続けていました。彼らはどこかの段階で自分達の名前の権利も買い戻すことが出来、2013年前期には「オールド・メドリー12年」、同年後期には「メドリー・ブラザーズ」と、一家の象徴的ブランドを再スタートさせました。オールド・メドリー12年は熟成年数が引き立つように低いプルーフ(86.8プルーフ)でのボトリング、メドリー・ブラザーズは4年熟成で高いプルーフ(102プルーフ)でのボトリングと、対照的なキャラクターとなっています。メドリー・ブラザーズのラベルは1950年代のオリジナルとほぼ同じデザインで復刻したものでした。バーボン・ブームの後押しもあってか、この後も二人は続々と特別なバーボンを市場に出して行きます。2015年には限定で「メドリーズ・プライヴェート・ストック10年」をリリース。会社は7代目のチャールズと8代目のサムにより経営されていますが、チャールズの年齢を考えるとこの頃にはサムが主導するようになっていたのではないかと思います。そんな彼の本領が発揮されたのが、2017年1月に発売された「メドリー・ファミリー・プライヴェート・セレクション」でしょう。サムは2016年9月に75歳の誕生日を迎える父に敬意を表し、特別なバーボンをリリースする方法を考えていました。そこで、ワシントンD.C.にあるジャック・ローズ・ダイニング・サルーンのオウナーであるビル・トーマスとミーティングしていると、或るプランを思い付きました。それは、管理下にある特別なバーボンをバレルプルーフでボトリングするだけでなく、メドリー家の他のメンバーにもバレルを選んでもらうというものでした。サムは6月の家族の集まりの時に、こっそりと様々なバレルのサンプルを家族に渡して試飲してもらい、どれが一番美味しいと思うか訊ねました。そうして選ばれた11バレルのみがシングルバレル形式にてボトリングされたのです。このプロジェクトをお披露目した時、チャールズは大変驚き、そして光栄に思ったそうです。ラベルにはバレルのセレクションに参加したファミリー・メンバーそれぞれの名前が記載されています。以下にリストしておきました。「?」はネットで調べても不明だった部分です。詳細を分かる方は是非コメントよりご一報下さい。

BARREL 1 OF 11|128.4 PROOF|John A. Medley Jr.|183 BOTTLES
BARREL 2 OF 11|127.8 PROOF|Grace Wathen Medley Ebelhar|178 BOTTLES
BARREL 3 OF 11|128.6 PROOF|Mary Ann Fitts Medley|120 BOTTLES
BARREL 4 OF 11|129.5 PROOF|R. Wathen Medley Jr. M.D.|175 BOTTLES
BARREL 5 OF 11|128.2 PROOF|Daniel S. Medley|181 BOTTLES
BARREL 6 OF 11|????? PROOF|???? ???? ????|??? BOTTLES
BARREL 7 OF 11|128.2 PROOF|Samuel Wathen Medley|126 BOTTLES
BARREL 8 OF 11|128.7 PROOF|Samuel Wathen Medley|185 BOTTLES
BARREL 9 OF 11|130.1 PROOF|William M. Medley Sr.|100 BOTTLES
BARREL 10 OF 11|129.5 PROOF|Samuel Wathen Medley|155 BOTTLES
BARREL 11 OF 11|128.7 PROOF|Thomas A. Medley III|244 BOTTLES

これらのボトルの希望小売価格は80ドルでした。他のブランドと比較して小規模なリリースでしたが、サムはこのプロジェクトに満足し「それはクールなものだったよ、だって家族のものだからね」と語っています。更に特別なリリースは続き、2017年後半からは「ワセンズ・バレル・プルーフ」も限定数量にて発売されるようになりました。2019年頃には、同じくシングルバレル、バレルプルーフでボトリングされた「メドリー・エクスクルーシヴ・セレクション」という、ごく限られた高級ショップやウィスキー・クラブにピックされた製品も販売されました。ここら辺は高級志向なブランディングが好まれるバーボン・ブームの賜物でしょうか。
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上で述べたようにチャールズ・メドリー・ディスティラリーはNDPですが、チャールズ・メドリーは近年にちょっとした思い付きでウィスキー・ビジネスを始めたような人物ではなく、何十年にも渡って蒸溜所での経験を積んで来ました。一家が蒸溜所を所有していた時からマスター・ディスティラーを務め、親会社は変わっても全てのオウナーに対してその職務を全うし働きました。だから、彼とその息子が運営する会社は、新興のマイクロ・ディスティラリーが何の経験もなしにジュースを調達し、それを何か大したものであるかのようにパッケージングとマーケティングで装うのとは些か訳が違います。これらワセンとメドリーの名が付けられたブランドはどれも、77%コーン、10%ライ、13%モルテッドバーリーという禁酒法以後のメドリーズのハイ・コーンな伝統的マッシュビルを使用して非公開のケンタッキー州の蒸溜所で生産されています。所謂スポット・マーケットでのバルク買いではなく、契約蒸溜で製造されているので、メドリー家は蒸溜工程の汎ゆる側面、マッシュビル、イースト、エントリー・プルーフ等を完全に管理しているそうです。更に、各バーボンに異なる特徴を持たせるために、バレルは倉庫の異なる場所で熟成させなければならないという条項も契約合意の一部となっているらしい。何処の蒸溜所と契約しているかは、おそらく秘密保持契約があるため公開されていませんが、ヘヴンヒルであろうとの見方が大勢を占めています。中にはバッファロー・トレース蒸溜所の可能性を示唆したり、 ひっそりと多くの委託蒸溜を行っているバートン蒸溜所を疑っている人もいます。実際のところ、生産能力に余力のある蒸溜所なら何処でも契約蒸溜は可能であるとされ、もしかしたらブラウン=フォーマンかも知れないし、ビームなのかも知れません。孰れにせよ重要なのは、製品の品質管理をしているのがビーム家でもラッセル家でもサミュエル家でもなくメドリー家であることなのです。
ちなみに、2019年にはチャールズがケンタッキー・バーボン・ホール・オブ・フェイムに選ばれた一人になりました。これはケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーション(KDA)がケンタッキー・バーボン・フェスティヴァルと連携して創始した「バーボンの知名度、成長、認知度に重要かつ変革的な影響を与えた個人と組織を表彰する」ものです。候補者は毎年、協会とその加盟蒸溜所、バーボン・フェスティヴァル理事会によって推薦され、KDA理事会の投票によってこれらの候補者が殿堂入りします。

https://www.flickr.com/photos/ap_imagery/albums/72157658619764333
(アダム・パリスによる旧メドリー蒸溜所のフォト・アルバム)

偖て、一方の暫らく売れなかった蒸溜所は、2014年にテレピュア・プロセスでウィスキーなどの熟成を早めることが出来ると謳うサウス・キャロライナ州のテレセンティア・コーポレーションが購入し、改修を開始しました。蒸溜に関わる部分や倉庫の多くも2009年の冬の嵐で被害を受けており、多くの作業が必要だったため改修費用には2500万ドルを投じたと言います。ジムビーム・ブランズとフロリダ・カリビアン・ディスティラーズで40年の経験を持つマスター・ディスティラーのロン・コールがこのプロジェクトの相談役に選ばれ、その息子ジェイコブも大規模な改修を監督しました。新しくなる蒸溜所は、化学者で発明家のオーヴィル・ゼロティス・タイラー3世(*******)にちなんでO.Z.タイラー蒸溜所の名で運営を行うことになりました。彼は息子と共にテレピュア・プロセスの共同発明者で、2014年に81歳で亡くなりました。「TerrePURE®」とは、超音波エネルギー、熱、酸素を利用し、蒸溜酒の品質と味を劇的に向上させるオール・ナチュラル・プロセスです。先見性のあったタイラー3世は、缶に保存されたソフトドリンクの金属味をなくすコーティングを始め、屋内外のカーペット、洗える壁紙、屋外用ラテックス塗料など多くのものを開発した人物で、定年退職後に大好きなスコッチ・ウィスキーの熟成になぜこんなに時間が掛かるのかを考えるようになったそう。2016年に蒸溜所はオープンし、ウィスキーの貯蔵を開始。マスター・ディスティラーのバトンはロンから息子のジェイコブに渡されました。同蒸留所は、2018年にケンタッキー・バーボン・トレイルの公式メンバーになりました。2020年にはJ・W・マカロックの曾孫のサポートにより、蒸溜所の名前をグリーン・リヴァー蒸溜所に戻し、大々的に新たなる幕開けを飾りました。DSP番号は、元々のグリーン・リヴァー蒸溜所の登録番号ではなく、嘗てのデイヴィス・カウンティ・ディスティリング及びチャールズ・メドリー蒸溜所の「DSP--KY-10」を引き継いでいます。そして、2022年に新しいグリーン・リヴァー・バーボンをリリースし、現在に至る、と。これが旧メドリー蒸溜所の辿った道筋です。

そろそろ今回飲んだメドリー・バーボンUSAの解説でもしたいところなのですが、このボトルのバック・ストーリーは調べても特に見当たりません。以下は憶測になります。このブランドは、おそらく主に70年代、広く取って60〜80年代初頭あたり?に流通していたと思われます。わざわざラベルにUSAと描かれたところからすると、基本的に(或いは完全に?)輸出向けのブランドではないかなという気がします。画像検索で見てみるとボトル形状には、角瓶も丸瓶もあり、裏側が湾曲した形状の物やハンドル付き、デキャンタ・タイプまでありました。容量もリッターの物が散見されます。こうしたヴァリエーションの多さやラベルのデザインからして、プレミアムなラインとは思えず、ジムビームで言うとホワイト・ラベルのような、飽くまでスタンダードな製品かと思われます。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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MEDLEY BOURBON USA 6 YEARS OLD 86 Proof
推定76年ボトリング。軽いキャラメルと少しスパイシーな香り立ち。時間を置くと甘いお花畑に。なかなか濃厚な味わい。残り香はナッツとウエハース。特に可もなく不可もない普通に美味しいオールドバーボンという感じ。これの前に飲んだ二杯のレヴェルが高過ぎて、ちょっと飲む順番を間違えたかも知れないとは思いましたが、それでも現行のバーボンとは異なる深みも十分に味わえました。
Rating:84/100


*日本では「Medley」を「メドレー」と表記する慣行がありますが、本記事では敢えて実際の発音に近い「メドリー」と表記しました。メドリーと表記するのが通例となるように、よかったら皆さんもこれからはメドリー表記を推して行きませんか?

**ここまでの系図は、アメリカに初めて渡って来たジョンを1世と数えて以下のようになります。生年と死亡年は「約」です。
ジョン・メドリー1世(1615 - 1676)
ウィリアム・メドリー(1652 - 1695)
ジョン・メドリー3世(1676 - 1748)
ジョン・メドリー4世(1702 - 1749)
フィリップ・メドリー(1732 - 1797)
ジョン・"ジャック"・メドリー6世(1767 - 1817)

***ジョンは妻エリザベスと子供達、そして隣人らと共に陸路でピッツバーグに向かい、オハイオ・リヴァーをフラットボートでケンタッキー州メイズヴィルまで下り、そこから再び陸路でソルト・リヴァーの分流にある小さな集落カートライト・クリークに向かった、とする説もあります。もしかすると、こちらの方が具体的な記述のため、正しいのかも知れません。

****友人や同僚から「ディック」と呼ばれたディートリック・W・メッシェンドーフ(1858-1911)は、1892年から死去するまでオールド・ケンタッキー蒸溜所を経営し、オールド・タイムズ蒸溜所、プレジャー・リッジ・パーク蒸溜所、デイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーにも出資していた人物です。おそらく青年期に母国ドイツを離れてアメリカに来るまでウィスキーについてはそれほど知らなかったと思われますが、後にケンタッキーのバーボン製造業者の権威と目されるようになり、ピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトを検討していたセオドア・ルーズヴェルト大統領からストレート・ウィスキーの基準について相談を受け、また1909年のタフト・テシジョンに至る公聴会ではウィスキーの意味について証言したほどアメリカの蒸溜酒史に於ける重要人物の一人でした。
メッシェンドーフがアメリカに移住したのは、国勢調査記録によると1874年、16歳の時でした。その後15年間の彼の行動はよく分からず、ケンタッキーで何かしらの酒類ビジネスに従事していたのかも知れません。彼の名は1889年にルイヴィルのオールド・タイムズ・ディスティラリーの出資者兼役員として公の記録に登場します。オールド・タイムズ蒸溜所(ジェファソン郡、第5区、RD#1、ウェスト・ブロードウェイ2725)は1869年にケンタッキアンのジョン・G・ローチによって設立され、1878年にアンダーソン・ビッグスに売却されました。1889年にビッグスが亡くなると、彼の妻は酒造業に反対していたらしく、17000ドルという安値で初めの入札者に売却したそうです。その購入者の中にメッシェンドーフがおり、新しいオウナーは元F・G・ペイン&カンパニーのチェス・レモンが社長、メッシェンドーフが副社長、A・W・ビアバウムが秘書兼会計でした。彼らのブランドには、蒸溜所の名前が示すように「オールド・タイムズ」と「グラッドストーン」がありました。1日に350ガロンのウィスキー生産能力があった工場は、3つの鉄道路線に近く、ルイヴィルに到着する全ての鉄道に乗り換え可能で便利な場所に位置していたと言います。新オウナーらは蒸溜所を大幅に拡張しました。1890年にビアバウムが亡くなると、メッシェンドーフが彼の後を継ぎます。1893年には蒸気加熱システム付きのレンガと金属被覆の5つのウェアハウスを建て、65000バレルの貯蔵できるようになりました。1897年、メッシェンドーフはメイフラワー蒸溜所(後述)を買収してこの事業から撤退したようです。1908年にレモンが亡くなるとJ・J・ベックに引き継がれ、更にその後D・H・ラッセルに引き継がれました。メッシェンドーフが撤退した時、シンシナティで大規模な配給会社を経営していたファーディナンド・ウェストハイマーが彼のインタレストを購入しており、1913年の死までに蒸溜所を完全に所有しました。その後、ウェストハイマー社は蒸溜所をNo.1 S.M.ディスティラリーと改称し、1918年まで運営を続けました。
メッシェンドーフは当時の出版物に「若く、押しも押されぬビジネスマン。そして、成功に値する独立独行の男」と評された辣腕の実業家でした。オールド・タイムズ蒸溜所を7年間運営すると、彼はその組織を離れ、メイフラワー蒸溜所として知られるルイヴィル地域の別のプラントを買収します。こちらの施設は1880年頃にD・L・グレイヴス&カンパニーとして設立され、ブランドは「アシュトン」と「メイフラワー」でした。1882年にH・A・ティアマンSr.が工場を購入してメイフラワー蒸溜所と改名します。後続のオウナーが10年間蒸溜所を運営した後の1892年、メッシェンドーフはティアマンからプラントを買収し、単独経営者となると名称をオールド・ケンタッキー蒸溜所に変更しました。しかしティアマンはメイフラワーのブランドを保持し、自らが所有する他のプラントであるラクビー蒸溜所(RD#360)で生産したそう。1900年、メッシェンドーフを社長、O・H・アーヴァインを副社長、ダン・シュレーゲルを秘書とした会社が組織されました。ルイヴィルの242トランジットに位置する蒸溜所はフレーム構造で、敷地内にはレンガまたはアイアンクラッドの3つの倉庫や牛舎があったようです(ジェファソン郡、第5区、RD#354)。オールド・ケンタッキー蒸溜所の主力ブランドはストレート・ウィスキーの「ケンタッキー・デュー」でした。その他に「チェロキー・スプリング」、「ファウンテン・スプリング」、「O・K・D」、「オールド・オーク・リッジ」、「オールド・ケンタッキー」、「オールド・ウォーターミル」、「ノーマンディ・ライ」、「オールド・ジェファソン・カウンティ」、「ウッドバリー」、「オールド・ストーニー・フォート」、「グッドウィル」、「ムーン・ライト」、「ロイヤル・ヴェルヴェット」、「デュー・ドロップス・モルト」等のブランドがあったと伝えられています。メッシェンドーフは優れたマーケティング能力を発揮して、サルーンのようなお得意様のために、カラフルな看板、ショットグラスなどの形で、ケンタッキー・デューやその他のブランドの一連の景品を作りました。彼はルイヴィルの有名なウィスキー・ロウに営業所も構えています。
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一方でメッシェンドーフは他のウィスキー事業への投資も行っていました。1891年にはルイヴィルのディキシー・ハイウェイにあるプレジャー・リッジ・パーク蒸溜所のインタレストを購入してヴァイス・プレジデントに就任したり、1904年には有名なメドリー家の一員と共にデイヴィス・カウンティ蒸溜所を買収して共同所有権を取得しました(経営はジョージ・E・メドリーが当たった)。また、ケンタッキー州ジェファソン郡のエミネンス蒸溜所にも財政的な関心を寄せていたとか。更にメッシェンドーフは他のケンタッキーのウィスキー・バロンと同じようにサラブレッドにも関心があり、ルイヴィル近郊にワルデック・スタッド・ファームを所有していたと言います。またプライヴェート面では、41歳の時に11歳年下でアイルランド系ネイティヴ・ケンタッキアンのクララという女性と結婚しました。メッシェンドーフの成功は彼に繁栄をもたらし、1900年代初頭、近くのオールダム郡に家を購入。この郡は今でもケンタッキー州では第1位、全米でも第48位の裕福な郡に数えられ、ルイヴィルの富裕なビジネスマンなどの住居として人気があります。1910年の国勢調査では、メッシェンドーフは妻クララと二人のアフリカ系アメリカ人の使用人と共にそこに住んでおり、彼の職業欄にはシンプルに「ディスティラー」とだけ記されていたそうです。
蒸溜者として良質なウィスキーを製造する方法を知っていると云ういう評判を全国的に高めたメッシェンドーフは、ルイヴィルの情報通からは「この街のウィスキー商の中で最高の一人」と呼ばれました。それこそ彼が1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトに関連してセオドア・ルーズヴェルト大統領との会談に呼ばれた理由なのでしょう。当時アメリカ国内に蔓延していたウィスキーへの不純物混入を嫌悪するケンタッキーの蒸溜業者らと同様にメッシェンドーフもこの法律を支持しましたが、ブレンデッド・ウィスキーが「ウィスキー」の名に値するか、ストレート・ウィスキーのみが「ウィスキー」の名に値するか、という悩ましい問題については違ったようです。カーネル・E・H・テイラーのような業界の重鎮は後者を強く主張しましたが、おそらくブレンデッド・ウィスキーでも利益を上げていたメッシェンドーフは前者を主張した、と。ルーズヴェルト政権ではこの問題が解決されなかったため、タフト大統領による新たな委員会が設置され、再びメッシェンドーフはワシントンに呼び出されました。最終的にタフト大統領はブレンデッド製品もストレート・バーボンと同様にウィスキーであるとの決定に至ります。メッシェンドーフの公聴会での証言が、どこまでタフト大統領の決断に影響しているのかよく分かりません。禁酒法以前のウィスキーについて大量の寄稿をしているジャック・サリヴァン氏は「ディートリック・メッシェンドーフが"ウィスキー"の意味について証言したことが、特にタフト大統領の目に留まり、この言葉の使用に関する決定、つまり今日まで続いている定義に繋がったのではないかと推測したい」と述べています。少なくとも、ストレート・ウィスキーだけがウィスキーの称号に値すると考えるテイラーのような人物の激しい反対を押し切って、メッシェンドーフは自社のブレンデッド製品がウィスキーとしての地位を維持するのに成功したように見えます。
ワシントンから戻って間もなくの1911年春、メッシェンドーフの健康状態は悪化しました。彼はケンタッキーよりも南テキサスの気候の方が自分に合っていると判断してそちらへ向かい、1911年11月11日にサン・アントニオで亡くなりました。享年53歳でした。遺体はルイヴィルに戻され、葬儀は義兄の家で行われ、家族と親しい友人だけが参列したと言います。オールド・ケンタッキー蒸溜所は、彼の死後、部下が経営を引き継ぎ、アーヴァインとシュレーゲルがそれぞれ昇格し、ジョセフ・J・サスが加わって禁酒法により閉鎖されるまで運営されました。1912年から1920年までの役員は、アーヴァインが社長、シュレーゲルが副社長、秘書兼会計がサスとされています。1923年のプロヒビションの際、ルイヴィルの蒸溜所から既存のストックが撤去され、全ての倉庫は取り壊されました。閉鎖から2年後の1925年に起こった火災により蒸溜所の建物は大きな被害を受けましたが、レンガ造りで被害のなかった部分はジョージ・ハウエルにより乗馬学校として数年は使用されたとのこと。メッシェンドーフが建てた立派なレンガ造りのボトリング・ハウスは、禁酒法期間中には使用されず、禁酒法廃止後にカーネル・J・J・サスがこの土地を管理していたようで、シャイヴリー近郊に新しい工場が完成するのを待って、1933年に改装が行われ設備が一新されました。1940年、サス家は新しい蒸溜所をブラウン・フォーマン・ディスティラーズ社に売却し、彼らは名前をアーリータイムズに改めました。元の敷地に残されていた建造物は、1960年に州間高速道路建設のために全て平らにされたそうです。
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(オールド・ケンタッキー蒸溜所で使われた様々なDBA名)

*****多くの情報源では、トム・メドリーが1940年に亡くなった後、彼の息子達(特に長男のワセン)がフライシュマンズ・ディスティリング・カンパニーに売却したとされていますが、ここではマイク・ヴィーチの記述を参考にしています。もしかするとヴィーチはクロールの『ブルーグラス、ベルズ・アンド・バーボン』の記述をもとに書いたのかも知れない。クロールの本は蒸溜所のマーケティング部門から多くの情報を得ていたことで、一部の物語は歴史よりも伝説に基づいている欠点が指摘されています。

******ヴィーチは、グレンモアは1985年にシャイヴリーの蒸溜所を閉鎖した、と書いています。当時は熟成バレルが有り余っていたのでしょう。ところが1991年になると、グレンモアはウィスキーの在庫の減少に直面しました。彼らはシャイヴリーのイエローストーン蒸溜所とオーウェンズボロのメドリー蒸溜所のどちらを再開するか決める必要に迫られました。しかし、彼らはウィスキーの製造を再開することはなく、代わりに会社をユナイテッド・ディスティラーズに売却した、と。これが真実なら、チャールズはグレンモアの下では蒸溜していないことになります。
ところで、日本のバーボン・ファンにはお馴染みの本である2000年発行の『バーボン最新カタログ』(永岡書店)のエズラ・ブルックスの紹介ページには、バレルヘッドにグレンモア・ディスティラリーズDSP-KY-24とステンシルされたバレルの写真が載っており、その下には「旧グレンモア社時代の’91年12月に樽詰の原酒が眠っている」と説明書きがあります。バレルには「FILLED」の文字はないものの「91-L-26A」の略号が見られ、確かに91年12月26日にでも樽詰めされたのかなという気がします。私にはユナイテッドがグレンモアを買収したのが何月何日か判らないのですが、この日付は91年のほぼ終わり頃ですから、ユナイテッドがグレンモアを買収した後の可能性は高いように思われます。と言うことは、ユナイテッドはチャールズに命じて、一時的にグレンモアで蒸溜を再開していたのでしょうか? いや、でもどうせチャールズに蒸溜させるなら、使い慣れたメドリー蒸溜所の方がいい気もするし、そもそも長年休止していたグレンモアを稼働させるより、最近まで稼働していたメドリーを再稼働させるほうが簡単なのでは? この憶測が正しいとするなら、メドリー蒸溜所でチャールズが蒸溜したバレルをグレンモアに移動し、そのバレルにグレンモアで製造されたかのようなDSPナンバーを施したことになりませんか? これは一体どういうことなんでしょう? 誰か、ここら辺の仔細をご存じの方はコメントよりご教示下さい。

*******ここでは「Zelotes」を「ゼロティス」と表記しておきましたが、もしかすると発音は「ゼローツ」の方が近いかも知れません。私にはよく分からなかったので、ご存じの方はコメントよりご指摘下さい。

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バーFIVEさんでの二杯目の注文はオールド・フォレスター・パーソナライズドにしました。ブラウン=フォーマンの旗艦ブランドであるオールド・フォレスターのこの独特なボトルは、同社の特別生産品で、1930年代後半頃から主にプロモーション販売に使われ、後に同社から直接通販できる特定の個人に向けたギフトボトルとして使用されていたそう。トップ画像のラベルで見られるような「Especially for」、または「For the Personal Use of」等の文言の下部にその個人名が入ります。私が飲んだこのボトルでは、ラベルの経年劣化で消えてしまったのか、或いは元々自分で書き込むように空欄だったのか判りませんが、とにかく個人名は見えません。オールド・フォレスター・パーソナライズドを画像検索で見てみると、比較的長期間(30年代後半〜50年代?)に渡って販売されていたためか、微妙にラベルデザインが異なっていたり、様々な箱に入っていました。中身に関しても多くのエイジングがあり、初期と思しき1938年ボトリングの1クォート規格の物には22年や24年熟成(つまり禁酒法前の蒸溜物)があったり、1940年代の4/5クォート・ボトルでは基本5〜6年熟成と思われますが蒸溜プラントはRD#414の場合もあればRD#354の場合もあったりします。また、何ならオールド・フォレスター・パーソナライズドと同じボトルデザインでラブロー&グラハム名義の物もありました。
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これらパーソナライズド・ラベルのボトルは、画像で確認する限りどれもボトルド・イン・ボンド・バーボンとして製造されたのではないかと思います。品質に関しては、シングルバレルかスモールバッチか定かではありませんが、おそらく相当に良質なバレルを選んでいるのではないかと予想します。ブラウン=フォーマンには特別なバーボンと言うと、パーソナライズドの他に「プレジデンツ・チョイス」があります。オールド・フォレスターの創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンが当時のケンタッキー州知事のために選び特別にボトリングした1890年に始まる伝統を、ジョージ・ガーヴィン・ブラウン2世が1960年代にやや一般化し、特別な顧客のために蒸溜所の最も優れたハニー・バレルを探すプログラムがプレジデンツ・チョイスでした。正式には「プレジデンツ・チョイス・フォー・ディスティングイッシュト・ジェントルマン(卓越した紳士のための社長選定)」という名前で、トール瓶の物はシングルバレルでバレルプルーフまたは20バレル前後のスモールバッチで90.3プルーフにてボトリングされています。これはまだ業界にシングルバレルやスモールバッチというマーケティング用語が定着する数十年も前の話でした。
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で、このプレジデンツ・チョイスにはイタリア向けとされるパーソナライズドとボトルの形状が同じ物(色はクリア)もありましたし、なんとなく時期的にもパーソナライズドとプレジデンツ・チョイスが入れ替わりで販売されているように思えなくもないので、両者のコンセプトの差は社長自ら選んだかブレンダーが選んだかの違いくらいしかなく、パーソナライズドに使用されたバレルも蒸溜所の最高峰のバレルが選ばれているのではないか、というのが私の個人的な推測です。何故こんな根も葉もないことを言い出したかというと、それは今回飲んだこのボトルが余りにも美味し過ぎたから。まあ、他のパーソナライズドのボトルを飲んだことはないので、これは何とも心許ない憶測に過ぎません。それと、写真から分かるようにこのボトルは裏ラベルがなく、どこで製造されたかは不明です。普通に考えるとRD#414かなとは思うのですが…。ちなみに、ブラウン=フォーマンの統括的マスター・ディスティラーであるクリス・モリスによると、オールド・フォレスターのお馴染みのマッシュ・レシピは一度も変更されていないそうです。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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OLD FORESTER PERSONALIZED LABEL BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定50年代ボトリング(ストリップの印字がうっすらと57に見えるが不明瞭のため)。非常に濃いブラウン。全体的にセージやユーカリのような爽やかなハーブがリッチに薫るお化けバーボン。以前飲んだことのある5、60年代のオールドフォレスター(#414)とは全く異なるキャラクターでした。アロマは植物っぽい香りで、時間をおくと濃密なキャラメル香も。味わいはスイートでありながら単調ではなく複雑で深みを帯びています。フルーツは強いて言うとアップル。苦いハーブのタッチも僅かにありますが、癖のあるスパイスは現れません。そして途轍もなく長い余韻。グラスの残り香もハービー。
Rating:96.5/100

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過日、所用があって浦和まで出たので、帰りがけに少し足の伸ばして大宮のバーFIVEさんまで行きました。実際に店舗に伺うのはまだ2回目であるにも拘わらず、とても温かく迎えて頂き、まるでホームに戻って来たような安心感を与えてくれたマスターとNさんのホスピタリティに感謝です。私は下戸であり、あまり時間もなかったため、それほど杯を重ねられませんでしたが、楽しい時間を過ごせましたし、珠玉のバーボンを飲むことも出来ました。先ず一杯目に選んだのは特別なアーリータイムズ。その昔、オークションで購入しようと思ったことはあったのですが、タイミングが合わず買い逃しており、飲んだことがなかったのです。こちら、私が伺ったタイミングで口開けして頂きました。

このヘリテッジ・エディションは、アーリータイムズの創業を1860年から数えて120年の伝統を祝し、1980年に限定数量にてリリースされました。ブラウン=フォーマン社はこのバーボンを特別なものとするため、創業者ジョン・ヘンリー・"ジャック"・ビームの時代の古いアーリータイムズのラベルを再現し、これまた前時代を反映した手吹きガラスの本格的なボトルに90.4プルーフのアーリータイムズ・バーボンを入れ、大事に保管できるよう専用の魅力的な木製ボックスに収めました。
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(古い時代のアーリータイムズのラベル)

ところで、気になるのはラベルに「バーボン」とない「ストレート・ウィスキー」の表記ですよね。
アメリカでバーボンの売上が激減していた1980年代初頭、税金やその他の様々なコストも上がる中、ブラウン=フォーマンはアーリータイムズにコスト削減の決断を下しました。酒類企業は、宣伝ではロマンティックな言辞を鏤めますが、実際には合理的なビジネスマンの集まりであり、所有するブランドから利益を上げれるように管理することについては冷酷だったりします。アーリータイムズは何より労働者のバーボンでした。彼らはそれが安いことを望みます。コスト削減は低価格を維持しつつ、なお利益も上げるための方策だったでしょう。アーリータイムズに使う樽の20%を中古樽で代用し熟成年数を短くすることで、値上げをしなくても利益を据え置くことが出来たのです。使用済みのバレルで熟成することは「バーボン」と名乗れなくなることを意味します。これにより、アメリカ国内向けのアーリータイムズはバーボンから「ケンタッキー・ウィスキー」となりました。アーリータイムズがバーボンでなくなったことで製品の品質は著しく低下します。往時、アーリータイムズの販売量はジムビームより僅かに少ないくらいだったと思われますが、ケンタッキー・ウィスキーへの転換以降、シェアは徐々に失われ、その差は広がって行きました。長年のアーリータイムズの忠誠者たちは年をとって亡くなってしまい、若い飲酒者にアピールしようにも既にブランドの個性は軽やかなウィスキーであるという後付の理由くらいしかありませんでした。低価格のブランドが販売量を失い始めると利益を維持するのは難しくなります。そこでブラウン=フォーマンは、アーリータイムズの再活性に多額の投資をする代わりに、ウッドフォード・リザーヴというプレミアムなブランドを立ち上げる訳ですが、これは別の話です。
で、ヘリテッジ・エディションのラベルにはバーボンと記載がないため、まさか中古樽熟成を含むケンタッキー・ウィスキーなのか?と一瞬疑ってしまいそうになりますが、ラベルにはしっかりと「ストレート・ウィスキー」と記載されています。ストレート規格は新樽で2年熟成の要件があるので、これはケンタッキー・ウィスキーではありません。それにアーリータイムズのバーボンからケンタッキー・ウィスキーへの切り替えは1983年とされているので、ヘリテッジの発売年から考えてもまだバーボンな筈です。そして当時の広告を見ると、実は小さく「ストレート・バーボン・ウィスキー」と書かれていました。
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(アウトドア専門誌『Field & Stream』1980年11月号に掲載された広告より)
おそらく、バーボンを名乗らずストレート・ウィスキーを名乗ったのは昔のラベルに倣ったのだと思います。しかし、その昔のアーリータイムズが何故バーボンを名乗らなかったのかは解りません。事情をお知りの方は是非コメントよりご教示下さい。それは扨て措き、中身に関しても具体的な情報がないので、これまた憶測になりますが、多分スタンダードなアーリータイムズとマッシュビル等は同じながら、かなり出来の良いバレルを選んでバッチングしているのではないでしょうか。これだけ外観のパッケージに拘っているのですから、きっと中身も…。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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EARLY TIMES STRAIGHT WHISKY Heritage Edition 90.4 Proof
推定1980年ボトリング。上で述べたように、開封直後の試飲となります。嫌なオールド臭はなく状態は良好でした。アロマはフルーティな香り立ちで、パレートでも引き続きドライフルーツや僅かにシトラスが感じられます。また苦味のないスパイシーさもいいです。余韻はややドライでしょうか。グラスの残り香は甘いお菓子のよう。以前飲んだ150周年アニヴァーサリーの方がプルーフは高いのですが、ちょっと比べ物にならないくらいこちらの方がフレイヴァーフルでした。ヘヴィなウッディさもなく、キャラメル様のスイートさとフルーツ感のバランスに優れ、頗る美味しいです。中庸なボトリング・プルーフが功を奏しているのかも知れませんね。
Rating:87/100

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今回はジムビーム・ブラックラベルの前身、ビームズ・ブラックラベルです。もともとビームの黒いラベルは「ジム・ビーム」ではなく「ビームズ」を名乗っていました。嘗ては白ラベルのフラッグシップ製品だけが「ジム・ビーム」の名を冠することが出来るという方針だったそうで、緑ラベルでお馴染みの「チョイス」なんかも昔は「ビームズ」でした。大手のビームからの製品であり、長期間販売されている割に、ブラック・ラベルの初登場がいつだったのかは、調べても分かりませんでした。有名なウィスキー・ブロガーのくりりんさんがビームの黒ラベルをレヴューしているのですが、それは75年ボトリングと推定され、なんとラベルは「チョイス」名義。これからするとブラック・ラベルというコンセプトが70年代半ばには既にあったのは間違いなさそうです。そして、それよりもボトルやラベルが古そうに見え、推定70年代ボトリングとされるビームズ・ブラックラベルがありました(参考)。ここら辺がオリジナルなのでしょうか。仔細ご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。その起源は兎も角、ビームズ・ブラックラベルは、70年代後半から80年代半ば頃には広告にも力を入れられていたようです。
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上の画像のように、ビームズ・ブラックと言えば101ヶ月熟成の表記が印象的です。つまり8年5ヶ月熟成ですね。何時の頃からか一般的な8年熟成表記に変わりましたが、少なくとも70年代後半から80年代半ばまでは101ヶ月表記だと思われます。ところで、何故わざわざイヤー表記ではなくマンス表記なのでしょうか? もしかすると、わざとマンス表記にすることで、ワイルドターキーの象徴的な数字「101」を意識しているのではないか、と私は邪推しています。また、黒を基調としたラベルと「サワーマッシュ」や「チャコール・フィルタード」の記載はジャックダニエルズを意識してるようにも思えます。多分ライヴァルの二つのブランドへのあからさまな対抗心がある気が…。まあ、上で言及したビームズ・チョイス・ブラックラベルは100ヶ月熟成でしたし、これは何の根拠もない私の想像です。

現在ジムビーム・ブラックラベルと呼ばれるこのブランドは、長年に渡って名称もプルーフも熟成年数もボトル形状もころころ変わりました(2000年代以降の変遷は過去に投稿した記事に書きましたので参考にして下さい)。そのせいか、マーケティング戦略の犠牲者のように見えなくもないブラック・ラベルですが、そもそもはスタンダードなジムビーム・ホワイトの倍の熟成年数を誇るプレミアムな製品だった筈です。ブッカーズを筆頭とするスモールバッチ・コレクションが誕生する以前は間違いなくそうでしょう。今回、開封したボトルは推定82年ボトリングです。ボトリング年からすると、まだスモールバッチ・コレクション開始前なので、相当ハイクオリティなバレルがバッチングに使用されていてもおかしくはないのでは?という淡い期待があります。逆に年代からすると過剰供給時代なので、単なる過熟バレルが使われてる可能性も否定出来ませんが…。では、試してみましょう。

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BEAM'S BLACK LABEL 101 Months 90 Proof
推定82年ボトリング。やや赤みを帯びた濃いめのダークブラウン。黒蜜、キャラメル、レーズン、マスティオーク、湿った土、タバコ、胃腸薬。ノーズは濃密な甘い香りにウッド、チェリー、スパイスが交じり合う。アルコール刺激のないとても滑らかな舌ざわり。味わいは甘みもあるがそれ以上にウッディかつスパイシー。余韻はミディアムロングでほろ苦い。
Rating:85.5/100

Thought:前回まで開けていた99年ボトリングのジムビーム・ブラックラベルと較べると、焦樽フルーツ系統の方向性は一緒なのですが、こちらの方がよりスパイシーに感じました。また、単体だと熟したフルーツ感と思っていた99年ブラックラベルが案外とフレッシュなフルーツ感に感じてしまうほど、こちらの方がもっと濃いフルーツを感じます。そして強いスイートな香りも素晴らしく、ここら辺はオールドボトルの魅力と思います。多分、現行のノブクリークあたりと比較してすら、こちらの方がリッチなフレイヴァーが認められるかと。ただ一方で、このボトルは経年もあってか、開封から飲み切るまで常にオールドなファンキネスがありました。それは強過ぎるように感じる時もあったし、特に気にならない時もありました。そこで何か法則性があるのかと、例えば飲む前に何分も放置してみたり、飲む直前に食べる物を変えてみたり色々試したのですが、一貫した法則は見つけられませんでした。これって自分側の体調次第なのですかね? 同様な体験をしたことがある方は是非コメント頂けると幸いです。おそらく、私が感じているオールド臭と言うのか、古びた風味は、経年だけでなく、そもそもの熟成バレルからも由来していると思われます。だから評価が難しいのですが、私にとって過剰なオールドファンクはなくていいものなので、それが点数を抑える結果になっています。それさえもう少しだけ感じることがなければ、あと1点は高かったでしょう。オールドボトル・エフェクトを軽々とクリア出来るオールドボトル愛好家の方なら、もっと評価は高いのかも知れませんね。

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アウトロー・ケンタッキー・バーボンはカリフォルニア州バーリンゲイムにオフィス(と言うか社長の自宅?)を置くアライド・ロマー/インターナショナル・ビヴァレッジのブランドです。同社は特定のブランド名の下に異なる人物の写真を使用するコレクターズ・シリーズを数多く展開しており、このアウトローと同時代の偉人を揃えた「レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェスト」を筆頭に、名前そのままにギャングやマフィアをフィーチャーした「ギャングスター」、黒人ミュージシャンを取り上げた「ジャズ・クラブ」や「ブルース・クラブ」、「R&B」や「YO! HiP HOP」、他にも「ロックンロール」や「U.S.A.ベースボール」等がありました。これら各ブランドの中身の品質は様々でしたが、ボトリングはKBD(一時のウィレット蒸溜所)が担っており、基本的により古いリリースや長期熟成でハイ・プルーフの物はバーボン・マニアから評価が高いです。
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アウトロー・コレクターズ・シリーズでは、西部劇映画に登場するような列車強盗、馬泥棒、牛泥棒、ガンマン、冷酷な殺人鬼、お尋ね者などの西部開拓時代の最も悪名高い無法者たちがラベルを飾っています。実際のところ彼らも「ワイルド・ウェストの伝説」と呼ばれる人達です。多くの場合、彼らの物語は小説やハリウッド映画などで逞しい個人主義や大胆な開拓者精神といったアーリー・アメリカンの理想に合うように形作られ、長い間ロマンチックに描かれて来ました。アメリカ人は暴政に立ち向かうアンダードッグが大好きで、反骨精神を体現する反逆者に対してロマンを投影して見たりします。我々日本人もこういうカリズマティックな無法者には惹かれてしますよね。特にアメリカへの憧れを強く抱いた人にとってはそうでしょう。ラベルに採用された悪のヒーローには以下の12人がいました。

DEAD OR ALIVE! ― KID CURRY
BEWARE OF STARR ― BELLE STARR
$18,000 REWARD ― BUTCH CASSIDY
$5000 REWARD ― WILD BILL
DESPERADO! ― JAQUIN MURIETA
DESPERATE OUTLAW ― HARRY LONGBAUGH
$7,000 REWARD ― FRANK & JESSE JAMES
$2500 REWARD ― BILLY THE KID
COLD BLOODED KILLER ― JOHN WESLEY HARDIN
BE ON THE LOOK OUT ― MYSTERIOUS DAVE
ARMED & DANGEROUS ― HARRY TRACY
$2500 REWARD ― RED RIVER WILSON
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初めの頃のリリースでは全11種類と聞き及びますので、それが確かなら、多分レッド・リヴァー・ウィルソンが後から追加されたのではないかと思います。と言うか、この件に限らずアウトローに関する情報はネット上に殆どなく、私にはその全貌が分かりません。よって、以下は憶測でしかないことを注意して下さい。また、間違いの訂正や何かしらの情報をお持ちの方は是非ともコメントよりお知らせ頂けると助かります。
おそらく初めのアウトローは日本市場向けに80年代末か90年代初頭に発売されました。インポーター・ラベル(河内屋酒販)にはウイスキー特級と記載がありますが、これは俗に言う偽特級と言うのか、ラベルを使い切るまで貼られたものではないかと推測されます。この時の物は12年熟成101プルーフと15年熟成101プルーフで、キャップが後のものよりやや短いものだったようです。その後アウトローは、ラベルの醸す雰囲気が頗るクールで人気があったのか、何度かボトリングされました。アウトローは上で紹介した他のコレクターズ・シリーズよりヴァリエーションが多く、私が実物および画像で見たことのある範囲で言うと、先の2種類の他に後から、8年熟成80プルーフ、11年熟成80プルーフ、12年熟成80プルーフ、15年熟成86プルーフ、20年熟成101プルーフ等が発売されています。初期の物と後から出された物とでは、ラベルに使われる写真にも変化があったりしました。これらの正確なリリース時期は判りませんが、確認できたところでは90年代後半と2000年代前半の物がありました。アライド・ロマー/インターナショナル・ビヴァレッジは小規模な会社であり、現在のプリザヴェーション蒸溜所の製品を見ても分かる通り、ヴェリー・スモールバッチ(同社の言葉ではマイクロ・バッチ?)に拘りをもっており、またボトリングを担当したKBDの生産規模からしても、その流通量の少なさからしても、アウトローの全ての製品は少量生産の筈です。そのせいもあってか、2010年代前半頃には手に入れ難い状況になっていたようです。ところが2017頃、突如としてアウトローは復刻されました。その時の物は1000mlの規格、NASの80プルーフ、ブラック・ワックス・トップで、ラベルは何故か全6種類だったらしい(キッド・カリー、ホアキン・ムリエタ、ジョン・ウェスリー・ハーディン、ハリー・ロングボー、ビリー・ザ・キッド、ミステリアス・デイヴ)。この最も新しいアウトローは、おそらくウィレットがボトリングしてないのではないかと思われます。プリザヴェーション蒸溜所での自家ボトリング? もしそうでないのならストロング・スピリッツあたり? ラベルに所在地表記のヒントがないので全く判りません。判らないと言えば、中身のジュースのソースも全く謎です。現行ヘヴンヒルぽいという推測はありました。私は飲んだことがありませんが、旧来のアウトローとは丸っきり違うものとは聞き及び、どうやら著しくクオリティが下がっているようです。アライド・ロマーは、バーズタウンにプリザヴェーション蒸溜所を開設するまで自前の蒸溜所を所有しないNDP(非蒸溜業者)だったので、何処かから原酒を調達しなければならない訳ですから、その時々で中身に差があるのはまあ仕方のないこと。過剰生産とバーボン人気の低迷期には長期熟成原酒が安く買えましたが、2017年の段階ではそうは行かないでしょう。この最新のアウトローに限らず、歴代のアウトローもファースト・ロットと以降の物、そして8年や11年のようにボトリング・プルーフが低いものは、味も全くの別物と言われたりしています。
KBDがボトリングした旧い物に関しては、日本語でアウトロー・バーボンを検索した時に出てくる情報ではヘヴンヒル原酒と言い切られている場合もありますが、KBDはボトラーとして契約上の守秘義務を守り、中身のジュースについての詳細は一般に明かしていません。一説には複数の蒸溜所の原酒をブレンドする製法で造られているとも聞いたことがあります。つまり、ヘヴンヒルのみのバレルを使っていたのかも知れないし、或いはヘヴンヒルを中心として他のバーンハイムやフォアローゼズのバレルを混ぜていたのかも知れないし、それは永遠に謎だと言うこと。KBDの社長だったエヴァン・クルスヴィーンに訊ねても、覚えていない可能性すらあります。いや、明確に記憶していたとしても、どうだったかな?と空惚けされるだけでしょう。何処の蒸溜所の原酒であれ、KBDのストックから10〜20バレル程度選んでバッチングしているのであれば、エヴァンがブレンドしたのは間違いないと思います。逆に3〜4樽程度のバッチングなのであれば、アライド・ロマーの社長マーシィ・パラテラがシングルバレル・プログラムのような形式で選んでいる可能性もあるのかも。または両者の共同作業なのでしょうか? 或いはマーシィが持ち込んだバレル(UDから購入したS-Wとか)を単にボトリングしただけなのか? まあ、こうして謎めいたところもアウトロー・バーボンの魅力の一つ。分からないことは措いて、実際に飲んでみるしかありません。今回、私が飲んだボトルは90年代終わり頃にボトリングされた、ラベルにホアキン・ムリエタが使われた物です。

JoaquinTheMountainRobber
西部のロビン・フッド、メキシカン・ロビン・フッド、エルドラドのロビン・フッドとも呼ばれるホアキン・ムリエタは、ゾロからバットマンまでインスピレーションを与えたとされる神話的存在。彼については冷徹な殺人者、虐げられた人々のために戦う義賊、民族的英雄など様々に語られていますが、その生涯に関する事実は殆ど判らず、広く知られていることの多くは伝説に由来しています。何なら一人の人物ではなく、1850年代のカリフォルニアのゴールド・ラッシュでアングロ系の人々による差別の犠牲になった多くの人々の合成物であると見る人もいたり…。ホアキン・ムリエタは1829年か1830年頃にメキシコのソノラもしくはチリのキヨタに生まれ、1853年頃にカリフォルニアで死去したとされます。彼の死後、チェロキー族の作家ジョン・ロリン・リッジが書き、1854年に出版された『ホアキン・ムリエタの生涯と冒険』という小説からロマンティックな描写は始まったようです。
おそらくは歴史的事実と民間伝承と神話が複雑に交差する物語によると、ムリエタは10代の時に結婚し、ゴールド・ラッシュでお金を稼ぐという夢をもって、1848〜50年頃、18歳の時に妻と共にメキシコを離れてカリフォルニアに移住しました。所謂フォーティナイナーズ、またはフォーティーエイターズなのでしょう。しかし、この若いメキシコ人は富を得るどころか、入国直後に人種差別的な不当な扱いを受け、早々に社会的不公正を知ることになります。ムリエタの物語の根底には、1850年代のカリフォルニアの人種差別的緊張がありました。
1848年2月2日のグァダルーペ・ヒダルゴ条約によって米墨戦争は終結し、アメリカはカリフォルニアをはじめコロラド、ネヴァダ、ニューメキシコ、テキサス、ユタ、ワイオミングを獲得しました。金が発見された当時(1848年1月24日)のカリフォルニアはまだメキシコの一部でしたが、アメリカが占領していました。正式にカリフォルニアが州となったのは1850年9月9日です。採掘事業が個人主義的で、移民が最も急速だった1849〜1850年初頭に掛けて移民排斥主義が生まれました。ヨーロッパ系アメリカ人はメキシコから奪ったばかりの地域で利益を維持するために、法と経済のシステムを熱心に構築し始め、自警団とマイノリティ・グループに対する法的差別の両方が促進されます。その一つ、1850年のフォーレン・マイナーズ・タックス・アクト(外来鉱山労働者税法)は、全ての非ヨーロッパ人鉱夫が鉱山で働くために月20ドル(現在の数百ドル)の税金を支払うことを求めたものでした。これにより事実上ヒスパニック系の人々はゴールドラッシュから締め出されました。多くの所謂カリフォルニオス(カリフォルニアにいたスペイン語を話す人々)は、経済的に疎外された結果として盗賊になった人もいたと言います。ゴールド・ラッシュは国内外から人々を引き付け、カリフォルニアの人口は爆発的に増加しましたが、それは白人とその他のメキシコ人やインディアンや中国人の間で暴力が頻繁に発生する状況を齎したのです。
或る時、金鉱労働者でありヴァクェロ(スペイン版カウボーイ)であったムリエタは、兄弟と自分がロバを盗んだという濡れ衣を着せられ、兄弟(または義理の兄弟)は絞首刑になり、ムリエタもこっぴどく殴られ鞭で打たれました。更に彼の若い妻は集団強姦されてしまいます(彼女はムリエタの腕の中で死んだという説まであるそう)。彼は今後、復讐のために生き続けることを誓いました。鉱区を強制退去させられたムリエタは、仕事を見つけることが出来ず、怒りに任せて犯罪に手を染め、他の外国人鉱夫たちと共に、自分たちの権利を奪った者たちを食い物にするようになります。軈てムリエタはファイヴ・ホアキンズと呼ばれる荒くれ者集団のリーダーとなり、彼の右腕で「スリー・フィンガード・ジャック(3本指のジャック)」の異名をもつマニュアル・ガルシアも含むバンドは、サン・ホアキンやサクラメント・ヴァリーを荒らし回り、牛や馬を盗み、サルーンを略奪し、19人を殺害したとか。しかし、彼らはメキシコの同胞に対する多くの不正を正すためにのみ犯罪を犯し、不正に得た利益の多くを貧しい人々に与え、その助けられた人々は彼らを法から匿うことさえしたと伝えられます。そうした協力者のお陰か、或いはムリエタは変装の名人だったとの説もあり、ともかく数年間は法から逃れることが出来、その過程で3人の法執行官を殺害したらしい。
Joaquin_Murieta
(チャールズ・クリスチャン・ナールによる1868年の絵画)
1850年には早くも「ホアキン」という名前の無法者がカリフォルニアを恐怖に陥れているという新聞報道があったそうです。カリフォルニアで大規模な犯罪が発生する度にホアキンが容疑者になりました。そしてホアキンが本当に存在するのかについての議論まで出ました。謎のホアキンに対する恐怖感がカリフォルニアを席巻し、人々は無法者を裁判にかけるよう要求しました。カリフォルニア州は生死を問わず厶リエタに5000ドルを上限とする懸賞金を提示します。同州の無法状態を漸く理解したジョン・ビグラー州知事は、1853年5月に元テキサス・レンジャーのキャプテン・ハリー・ラブ率いるカリフォルニア・レンジャーズを創設し、ムリエタとその一団を追い詰めるよう命じました。1853年7月25日の早朝、レンジャー達はサン・ベニート郡のパノーチェ・パス付近でメキシコ人の集団と遭遇します。銃撃戦となり、彼らは八人の男性を殺害しました。レンジャー達は、うち二人はムリエタとスリー・フィンガード・ジャックだと主張し、その死の証拠としてガルシアの手とムリエタの頭を切り落とし、ブランディの入った瓶に保存して持ち帰りました。神父を含む17人がその頭部はムリエタのものであるとする宣誓書に署名し、関与したレンジャーズは5000ドルの報奨金を受け取りました。
その後、厶リエタの身の毛もよだつ遺物はカリフォルニア中を旅することになり、サンフランシスコのストックトンやマリポサ郡のマイニング・キャンプ等に展示され、1ドル払えば盗賊の首が見られるというので好奇心旺盛な観客は興味本位で見物しました。しかし、ホアキン・ムリエタの伝説はそう簡単には治まりませんでした。彼が殺されてから間もなく、彼の妹と名乗る若い女性が頭部を見て、兄にあった特徴的な傷跡がないと言ったことから、殺されたのは厶リエタではなかったという憶測が流れ始めます。また、カリフォルニアのあちこちで厶リエタが目撃されたという報告も出始めました。ムリエタの首は最終的にサン・フランシスコのゴールデン・ナゲット・サルーンのバーの後ろに置かれ、1906年の地震で建物が破壊されるまで放置されました。この首はムリエタの亡霊という別の伝説と言うかホラー話となり、今でもムリエタの首なし幽霊が昔の金鉱地帯を走り回り「俺の首を返せ」と啜り泣いているとかいないとか…。
ホアキン・ムリエタの話の大部分はフィクションと思われますが、その物語は苦しみと人種的不公平の中でゴールデン・ステイトが創造されたことの証でした。長い年月を経て伝説はどんどん大きくなり、カリフォルニアのアングロ=サクソン支配に対するメキシコ人の抵抗の象徴のような存在になりました。そしてゴールド・カントリーの至る所で、彼がこのホテルやあのホテルに泊まったとか、様々な酒場で飲んだとか、実際に会ったとか強盗にあったとかいう話が語られるようになったと言います。歴史上のムリエタの実態がどうであれ、彼の人気は高まり続け、文学や映画に影響を与えただけでなく、メキシコのバラードやコリードによって歴史的な社会的アイコンとして確固たるものとなり、彼の自由と闘争の戦士としてのイメージはチカーノの活動家達にとって抵抗の強力なシンボルとなりました。
そう言えば、ホアキン・ムリエタの伝説を下敷きにしたAmazonオリジナルの西部劇ドラマ『ホアキン・ムリエタの首』が2023年2月17日から配信されています。興味のある方は是非とも視聴してみて下さい。では、そろそろこの何とも言えず魅力たっぷりなラベルのバーボンを注ぐとしましょう。

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OUTLAW KENTUCKY BOURBON 15 Years 101 Proof
DESPERADO!
JAQUIN MURIETA
推定1999年ボトリング(瓶底)。艷やかな濃いめのブラウン。微粒子感のある液体。メープルシロップ、シトラス、胡桃、蜂蜜のど飴、ネイルポリッシュ、オールスパイス、葡萄の皮、炭、レモンジンジャー、ミルクココア。濃密でスイートかつ円熟を感じさせるアロマ。口当たりはソフト。パレートでも甘く味が濃ゆい。余韻はミディアムながら仄かなプラムと爽やかなスパイシーさが揺蕩う。
Rating:93/100

Thought:はい、激ウマです。長期熟成のコクがありつつ過剰な熟成感のない、とてもバランスの良いバーボンでした。基本スイートでドライさや苦味はなく、しかもハービー過ぎず、スパイスは適度なのです。特筆すべきは、飲むと意外にも暗い色のフルーツよりも明るい色のフルーツを感じさせるところ。何なら新ウィレットの4〜6年熟成原酒的なフルーティさすら感じました。ここら辺が私の好みに適合しています。また時々モルティさを感じる瞬間もあり、香りから余韻まで全て素晴らしい。原酒に関しては、よく分かりませんでした。トップノートにヘヴンヒルぽさを感じた瞬間もありましたが、飲んでみると平均的なヘヴンヒルとは異なるように感じました。液体を飲み込んだ直後のキックや余韻にはライ麦15〜18%はありそうな印象。まさかバートン? それともやはり複数蒸溜所原酒のブレンドなのでしょうか…。個人的には少なくともスティッツェル=ウェラーではないように感じました。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメントより感想をどしどしお寄せ下さい。

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