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バーボンの製品情報、テイスティングのメモ、レーティング、思考、ブランドの歴史や背景、その他の小ネタなどを紹介するバーボン・ラヴァーによるブログ。バーボンをより知るため、より楽しむため、より好きになるための記事を投稿しています。バーボンに興味をもち始めたばかりの初心者から、深淵を覗く前の中級者まで。なるべくハイプルーフ(情報量多め)かつアンフィルタード(正直)なレヴューを心掛けています。バーボン好きな方は是非コメント残して下さい!

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エライジャクレイグはエヴァンウィリアムスと並ぶヘヴンヒル・ディスティラリーズの看板ブランドです。バーボン市場が歴史的な低落傾向にあった1986年に初めて登場したエライジャクレイグ12年は、当時バーボン市場を席巻していた若くて安価で低品質のバーボンに対して、ヘヴンヒル蒸溜所が提案したプレミアムなバーボンでした。昔の物はケンタッキー州バーズタウンのヘヴンヒル蒸溜所、現在はケンタッキー州ルイヴィルのヘヴンヒル・バーンハイム蒸溜所で造られています。エライジャクレイグのブランドには過去から現在まで複数のヴァリアントがあり、限定生産のため現在販売されてないものも含むと下記のようなものがあります(ストア・ピックやプライヴェート・バレルは含めていません)。

◆エライジャクレイグ(スモールバッチ)、12年、94プルーフ、1986年導入
◆エライジャクレイグ・スモールバッチ、NAS(8〜12年)、94プルーフ、2016年導入
◆エライジャクレイグ・スモールバッチ・バレルプルーフ、12年、約125〜140プルーフ(バッチ毎に異なる)、2011/2012年に蒸溜所のギフトショップ限定でプリ・リリース、2013年正式に導入
◆エライジャクレイグ・トーステッドバレル、NAS、94プルーフ、2020年導入
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、18年、90プルーフ、1994年導入
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、20年、90プルーフ、2011年秋ケンタッキー・バーボン・フェスティヴァルの20周年を記念して初リリース、2012 年5月数量限定リリース推定1300本未満生産
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、21年、90プルーフ、2013年10月リリース
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、22年、90プルーフ、2014年リリース、推定400本
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、23年、90プルーフ、2014年8月リリースその後継続
◆エライジャクレイグ・バレルセレクト、NAS(8年もしくは8〜9年または8〜10年とされる)、125プルーフ、200mlボトル、蒸溜所のギフトショップ限定
◆エライジャクレイグ・ビアーバレル・フィニッシュ、NAS(ビール樽で9ヶ月追加熟成)、94プルーフ、200mlボトル、2020年に限定リリース、シカゴのグース・アイランド・ブルワリーとのコラボ
◆エライジャクレイグ・ライ、NAS、97プルーフ、2020年導入
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エライジャクレイグは、導入当初から長きに渡り12年のエイジ・ステートメントを誇示していましたが、需要が供給を上回ったため、2016年に8〜12年熟成のブレンドとされるNASヴァージョンに切り替わり今に至ります。ボトルデザインも同年末か翌年くらいに刷新されました。ちなみにバレルプルーフのオファリングは12年の年数表記を残しています。
エライジャクレイグのシングルバレルと言うと、比較的長期間販売されたのは18年熟成の物でした。2012年5月、この年齢に近いバレル在庫が限られているため、18年シングルバレルのボトリングが停止されることが発表されました。ヘヴンヒルはその代わりに幾つかの特別な年齢を毎年リリースすると発表し、間もなくエライジャクレイグ20年シングルバレルがリリースされました。 その後も21〜23年のシングルバレルが毎年提供されていました。そして3年間の休止期間を経て18年シングルバレルが再リリースされ、2015年は約15000本が発売されたようです。それ以来、18年は継続的なリリースとなっています。
トーステッド・バレルやライは近年のアメリカン・ウィスキー人気によって齎されたブランド拡張でしょう。

ブランド名は、ケンタッキー州の開拓者でありコミュニティ・リーダーであり、起業家であり教育者であり、バプティスト(*)のプリーチャーである実在の人物に敬意を表して名付けられています。ヘヴンヒルはエライジャ・クレイグを「バーボンの父」としてラベルに謳っていますし、バーボン・ウィスキーの製造にバレル・チャーを初めて発見し使用したのがクレイグであると云う伝説もあります。しかし、バーボンを発明したのは彼ではないと多くの歴史家は考えています。それでも彼が初期の蒸溜者であったこと、そして彼の人生に於ける他の業績の多くが称賛に値するのは間違いありませんでした。その多岐に渡る活動を見れば、時代の寵児だったとさえ言えるかも知れません。なので、先ずは興味深いエライジャ・クレイグの人生から見て行きましょう。

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エライジャ・クレイグは、ケンタッキー州が誕生する50年以上前の1738年(1743年または1745年説も)にヴァージニア州オレンジ・カウンティでポリー・ホーキンスとトリヴァー・クレイグの5番目の子供として生まれました。当時の同年齢の子供たちと同様、実践的および宗教的な知識に焦点を当てた初歩的な教育を受けたようです。彼は少年時代から並外れた知的才能を発揮し、宗教的な傾向も強く持っていたと言います。後にエライジャは「初期ケンタッキー・バプティストの最も優れた説教者の一人」となりますが、ヴァージニアでの初期の生活については殆ど知られておらず、1764年以前の詳細は基本的に不明です。
1750年代半ばまで、植民地時代のアメリカのバプティストは屢々「レギュラー」または「セパレート」のどちらかに分類されていました。どちらもカルヴィン主義的な神学でしたが、セパレート・バプティスツは大覚醒(グレート・アウェイクニング)と密接に関わり、一方のレギュラー・バプティスツはこの方向性から距離を置くところがあったそう。1764年、エライジャはヴァージニア州で最初のレギュラー・バプティスト教会を組織したデイヴィッド・トーマス(1732-1812)という名のプリーチャーと出会います。彼はブロード・ラン・チャーチを設立し、エライジャが宗教を追求するインスピレーションとなり、またメンターとなりました。好奇心旺盛なエライジャは宗教についてもっと知りたいと思い、著名な伝道師サミュエル・ハリス(セパレート)が主宰する集会に参加するようになります。そこで彼は福音を伝えたいという情熱を抱くようになったようです。トーマスとハリスに触発されたエライジャは実家のタバコ納屋で小規模な伝道活動を始め、耳を傾ける全ての人に説教をしました。説教を始めて2年目の1766年、エライジャはノース・キャロライナ州へ旅立ち、そこで今度は聖職者デイヴィッド・リードに出会います。エライジャは自分も含めた新しい会衆のメンバーに洗礼を施すため、リードを説得してノース・キャロライナからオレンジ・カウンティに連れて来ました。その結果、エライジャはこの年に他の家族と共に正式にバプティズマを受け、セパレート・バプティストとなったようです。兄のルイスと弟のジョセフもバプティストのプリーチャーとなりました。
18世紀のヴァージニア州では、バプティストは迫害されていました。キャロライナやジョージアやメリーランドと同様に、ヴァージニアにも既成の教会、すなわちイングランド国教会があり、当時の社会文化では宗教の自由という原則は定着していなかったのです。アングリカン・チャーチは州政府と深く結びついており、州が公式に支援する宗派として財政支援まで受けていました。ヴァージニア州では全ての住民がアングリカン・チャーチに十分の一税[※教会維持のため教区民が毎年主に農作物もしくは収入の10分の1を納めた]を納め、少なくとも月に一度はアングリカン・チャーチの礼拝に出席することが法律で義務づけられていました。ヴァージニアの支配層たちは、この公的な信仰をコモンウェルスの社会構造にとって不可欠な要素であると考えていました。他の神学的な考え方もある中でバプティストは特に危険視されており、初期のバプティストは厳しい状況に直面しました。彼らは法律によって説教をするためにライセンスを取得する必要があり、その書類には多くの場合礼拝の場所が指定され、事実上、巡回牧師やテント集会は違法とされていました。このような制限に抵抗する牧師はしばしば投獄され、時には言葉や身体的な虐待を受けることもあったと言います。デイヴィッド・トーマスもフォーキア・カウンティで家庭礼拝を行っている時に襲われ残酷な暴行を受けたらしい。1779年には40人以上の牧師が牢屋に入れられたという話もあります。
バプティスト派の牧師は嘲笑され、中傷され、投獄までされた訳ですが、改宗を拒否してバプティストの説教を続けたエライジャも、イングランド国教会からの必要なライセンスなしに説教をしたため、無免許説教の罪で少なくとも2回逮捕され、オレンジ・カウンティとカルペパー・カウンティで投獄されました。このような説教師は、既成の国教会が植民地から資金援助を受けていたため、植民地の社会秩序全体に対する挑戦と見倣されたのです。1768年、自分の畑を耕していたエライジャは「分離主義的な教義」を説いたとして逮捕され、17日間投獄されました。エライジャはこの時、或る種の殉教的な満足感を味わったのかも知れません。どうやら牢屋如きではエライジャの熱情を抑えることは出来なかったらしく、彼は鉄格子越しにゴスペルを説き続け、そのため当局は牢屋の周りに高い壁を作り人々に聞こえないようにしたという話が伝わっています。また正確な年代は判りませんが、二度目の投獄では、当局はエライジャが投獄されている一ヶ月の間、水とライ・ブレッドしか与えずに彼の心を折ろうとしたものの、彼は弱体化した状態でも自分の信念に妥協することなく敗北を拒み、監房の窓の前を通る人々に説教をし、信徒たちはそれを聞くために通りに集まって来たとのエピソードもありました。1768年には兄ルイスも、ジョン・ウォーラー、ジェイムス・チャイルズ、ジェイムス・リード、ウィリアム・マーシュと共に、イングランド国教会のライセンスなしに説教を行ったとしてフレデリックスバーグの刑務所に数週間収監されました。エライジャは出所後、1769年にヴァージニア州バーバーズヴィルとリバティ・ミルズの中間にあるブルー・ラン・チャーチの設立に貢献し、1771年、同教会は正式に聖職に就かせました。そこの牧師となった彼のもとで教会は繁栄して行ったようです。
1774年、インディペンデント・バプティストの総会は、エライジャ・クレイグとジョン・ウォラーをジェイムズ・リヴァー以北の伝道を行う布教師に指定しました。アメリカの独立戦争が始まったのは1775年のことでした。戦争中、エライジャは従軍牧師として活躍したそう。或る時、エライジャと同じくバプティスト派の牧師だった兄弟のルイスとジョセフ・クレイグは、真の宗教的自由を追求するためエライジャに自分達とその信徒と共に西へ向かうよう説得しようとします。しかし、エライジャはヴァージニアに残り政治に携わることを決意しました。彼の目標はヴァージニアでの宗教的迫害をなくすことでした。ヴァージニアの州誕生初期のバプティスト迫害は、特に自由民と奴隷、白人と黒人が混在する会衆へ説教をした時に顕著だったようです。アメリカ独立戦争後、エライジャはヴァージニア・バプティスツの意見を新州政府に伝えるという重要な役割を果たし、ヴァージニアおよび連邦レヴェルに於ける宗教の自由を守るためにパトリック・ヘンリーやジェイムス・マディソンと協力して、最終的に憲法修正第1条に繋がった初期の考察に少なくとも間接的な貢献をしたと言われています。マディソンは若き弁護士としてイングランド国教会からの免許を受けずに説教をしたことで逮捕されたバプティストの説教師達を弁護していました。そのことがエライジャと共にヴァージニアに於ける信教の自由を憲法で保障するために動いたきっかけだったのかも知れません。そうした活動は信教の自由に関する概念を作り上げるために効果がありました。マディソンは1776年から1779年にヴァージニア州議会議員を務め、トーマス・ジェファソン(1779〜1781年までヴァージニア州知事)の弟子として知られるようになり、「ヴァージニア信教自由法」の起草を手伝って同地の政界で名声を得ました。この法はイングランド国教会を非国教化し、宗教的事項について州の強制権限を排除するものでした。宗教の自由を保護する法令を可決したことで、イングランド国教会はディスエスタブリッシュト、つまり州行政府の財政支援を失い、バプティストによる政教分離の理想が定着したのです。後に、この法はマディソンを主たる起草者とするアメリカ合衆国憲法修正第1条に引き継がれ、政教分離の原則と信教の自由の保障はいっそう強固なものになって行きました。この間、エライジャは説教や牧師をしながら農業に従事し、収穫したトウモロコシの一部を「ホワイト・ライトニング」に蒸溜することも行っていた可能性を指摘する人もいます。

ヴァージニア州で宗教的迫害を受けていたため、エライジャと同様にプリーチャーだった兄のルイス・クレイグは、抑圧的な雰囲気から逃れて更なる宗教的自由を求め、早くからケンタッキーと呼ばれるヴァージニアの西地域へと移住することを決意していました。彼は非常に人気があり、ヴァージニア州スポツィルヴェニアの会衆の大部分が一緒に来ることを決めました。彼らは出発前に教会を組織し、それは道なき荒野を旅する教会で、通常のチャーチ・ミーティングの日である土曜日には立ち止まり、日曜日には説教が行われることになっていました。1781年、ルイスはその「トラヴェリング・チャーチ」と知られる、彼の両親や弟妹、そして大部分がスポツィルヴェニア・カウンティからの信徒で構成された600人(200人という説も)ものメンバーを率い、カンバーランド・ギャップを通って山々を横断して移住させることに成功しました。彼らはこのように移住した単一のグループとしては最大でした。エライジャはこのグループとは一緒に行きませんでしたが、少し後に兄に続きました。独立戦争が事実上終了した直後の1782年、オレンジ・カウンティの農地を売り、エライジャも信徒を引き連れて西に向かいます。これまた、おそらく500人ほどの大規模なグループだったのではないかという推測がありました。そこで彼は、当時のフェイエット・カウンティに1000エーカー(4.0平方キロメートル)の土地を購入し、旧約聖書から命名したレバノンと呼ばれる新しい入植地を1784年に設立しました。これは現在レバノンとして知られている都市とは歴史的文脈が異なるので注意して下さい。今日のレバノンは1814年に設立されました。創設共同体はヴァージニア州の長老派教会によって建設されたハーディンズ・クリーク・ミーティングハウスに遡ります。1815年1月28日に市として法人化され、1835年にマリオン郡の郡庁所在地となりました。エライジャの方のレバノンは、1784年にヴァージニア州議会によって法人化され、1790年にジョージ・ワシントン大統領に敬意を表してジョージ・タウン(George Town)と改名されています。1792年にケンタッキーがアメリカ合衆国の15番目の州になってスコット郡が形成されるとジョージ・タウンが郡庁所在地となり、1846年にはジョージタウン(Georgetown)と正式に改称されました。エライジャは西方に来てからもジョン・ウォーラーと共に幾つかの教会で説教をしていたみたいです。
ルイス・クレイグらはケンタッキーに着くと、ケンタッキー・リヴァーの南のギルバート・クリークに入植し、そこで教会を設立していましたが、暫くして他の数人と共にギルバート・クリークを離れてサウス・エルクホーンに移り、そこにまた教会を設立しました。これは1783年頃、或いはそれ以降という説もあります。ケンタッキーが州となる7年前、まだヴァージニア州フィンキャッスル・カウンティの一部だったグレート・クロッシングに、ルイス・クレイグやジョン・テイラーら16人の男女が集まり、1785年5月、バプティスト教会が設立されました(現在はスコット・カウンティ)。この教会はケンタッキー・リヴァー以北で2番目か3番目、州内では6番目か7番目の設立でした。グレート・クロッシングは現在のスコット・カウンティ、ジョージタウンのちょうど西にあるノース・エルクホーン・クリークのコミュニティで、1783年にロバート・ジョンソンによってバイソンがクリークを渡る場所に設立され、ジョンソンズ・ステーション、グレート・バッファロー・クロッシング、ザ・グレート・クロッシング、またはビッグ・クロッシングなどの名前で呼ばれていました。エライジャはグレート・クロッシング・チャーチの設立年にその近所に移り住み、1786年に最初の牧師となりました。
この頃、中年になったエライジャの能力と無限のエナジーは実業に向かって開花します。彼は起業家として土地に投機し、投資用の地所を購入するとそこで様々なビジネスを展開するようになりました。バプティストの牧師として奉仕を続けながら、アパラチア山脈以西で最初(**)の製紙工場、織物工場、ロープ工場、製材所、製粉所をロイヤル・スプリング・ブランチ沿いに設立したり、ケンタッキー・リヴァーを渡るフェリーなど多くの事業を開始し、彼の資産は急速に増加し続けたと伝えられています。また失うものも多かったエライジャは、火災の危険性を認識し町で初めての消防署を設立して署長に就任しました。更に、1787年にはレバノンで少年達のためのアカデミーまで設立するなどエライジャは教育活動にも積極的でした。ケンタッキー・ガゼット紙に掲載された1787年12月27日付の彼の広告文には、「教育。来年1月28日、月曜日、フェイエット・カウンティはレバノン・タウンのロイヤル・スプリングにジョーンズとウォーリーの両氏が学校を開校、50~60人の学徒を収容するのに十分な広々とした屋舎が用意されています。彼らはラテン語とギリシャ語と一緒に公立神学校で通常教えられているような科学の分野も一人当たり四半期25シリングで教えます」云々と記されていました。この学校は後に1798年に設立されたリッテンハウス・アカデミーへと繋がり、最終的にアレゲニー山脈以西の最初のバプティスト大学で1829年設立のジョージタウン・カレッジ(ワシントンDCのユニヴァーシティとは別)へと発展しました。エライジャはケンタッキー議会が設立したリッテンハウス・アカデミーの評議員会を組織し、後にジョージタウン・カレッジとなる土地を寄贈したことで貢献したようです。この大学は現在も運営されています。同大学のギディングス・ホールの「堂々とした柱」にはエライジャ・クレイグが所有していたウィスキーの小樽が隠されていると云う伝説があるとか…。
そしてウィスキーと言えば、エライジャは1789年にロイヤル・スプリングから湧き出る冷たいピュア・ウォーターを利用して蒸溜所も設立していました。今日、我々が彼の名を知っているのはこの事業のお陰であるのは間違いないでしょう。兄のルイスもウィスキーの取引をしていたそうで、同年、兄弟はジェイムス・ウィルキンソン将軍の後援によるフラットボートでニューオリンズへ向かうウィスキーのサプライアーとしてリストされていました。ウィスキーに対する物品税が制定された後はエライジャも蒸溜所に対してかなりの税金を負っていたそうです。この記事を読んでいる人は、正にエライジャ・クレイグのバーボンへの関与について知りたがっているかも知れませんが、この件については後に述べます。バプティストとウィスキーの関係については、1787年頃バプティストの牧師であるジェームス・ガラードが無許可でウィスキーを小売した罪で起訴されているとか、またジョン・シャッケルフォードという人は1798年に説教の報酬?に36ガロンのウィスキーを受け取ったとか、1796年にケンタッキーのエルクホーン・バプティスト・アソシエーションは会員が酩酊物質を販売したことを理由に教会員資格を拒否することは不当であるとの判決を下した、との話がありました。サザン・バプティスト・コンヴェンションがアルコール反対を決議し始めたのは1886年だったようです。

ウィスキー製造の傍ら、その他の事業もあって多忙な日々を送っていたエライジャは、不動産価格の変動から利益を得ようとする危険な金融取引である土地投機にも手を出していました。この投機は彼に悪い影響を与えたようで、エライジャはクロッシング・チャーチの牧師を続けながらも以前の宗教的熱意を失っていたか、または少なくとも影響力を失っていました。それは彼が土地投機に熱中し過ぎたり、世俗的な財産を多く持つ人物だったためと見られています。或いは霊的な衰えと関係づける推論もあります。『ヴァージニア州に於けるバプティスト派の勃興と進歩の歴史』を書いたロバート・ベイラー・センプルは、エライジャが「censorious(センソリアス=あら探しが好きで口喧しくとても厳しい批判をしがち)」な気性をもっており、その気性は彼が「宗教に熱心」な限り抑制されたが、彼の人生に於いて土地投機への関与と結び付いた宗教的衰退の時期がその気質を抑制できなくさせたのかも知れない、との見解を示しました。霊的な衰えはともかくとして、彼の起業家としての成長ぶりはグレート・クロッシングの信徒たちに気づかれない訳がなく、すぐに教会にとって「不愉快」な存在となったエライジャの後任を求める声が上がりました。多くの人は彼の物質的な豊かさが増していることを認めず、その時間やお金を教会に寄付するべきだと主張したようです。エライジャの経済活動の一部に関して論争が起こり、結局エライジャとその一派が追放された後、1793年にジョセフ・レディングが彼の後任となりました。
このグレート・クロッシングス教会の二代目牧師であるレディングは、1750年にヴァージニア州フォーキア・カウンティで生まれ、幼少時に孤児となり、殆ど教育を受けませんでしたが、1771年に洗礼を受けるとすぐに説教を始めました。彼は強い声と熱心さを持っており、行く先々で注目を集めたと言います。生まれた州で2年間説教をした後、サウス・キャロライナ州に移り、1779年までそこで説教を続け、大きな成功を収めました。教会設立から5年後の1790年、ケンタッキー州に移住するとクロッシング・チャーチの近くに住みつき、すぐにケンタッキー州で最も人気のある説教者になったらしい。エライジャ・クレイグが牧師職を去ってから1810年4月に退任の手紙を受け取るまでグレート・クロッシングで牧師を務めました。
レディングは当時の教会が求めていた人物と思われたようで、教会の大多数の人が選ぶことになり、彼を牧師として確保することが決定されると、すぐに会員間の分裂が起こり、クレイグ派とレディング派の間には不愉快な感情が渦巻きました。クレイグは、大胆かつ不注意な心持ちでレディングに対して軽はずみなことを言い、裁判のために教会に召喚されます。レディング一派はエライジャが弁明することも許しを請うことも許さず、何としても彼を排除しようと決意していました。教会の集会はロバート・ジョンソンの家で開かれ、小さな上段の部屋に息が詰まるほど人が詰め込まれると投票が要求され、結果、1791年1月にエライジャは除外されてしまいます。クレイグ一派は、翌週に会合を開き、クロッシングス教会と呼ぶものを組織し、新しく選ばれたレディング牧師を含む多数派を除名しました。こうして二つの党派が決起し、それぞれがクロッシングス教会を名乗りました。けれども、両者は賢明なことに思慮深く利害関係のない同胞の助言を求めてすぐに秩序と平和を取り戻します。エルクホーン協会からジェームス・ギャラードを委員長とする委員会が任命され、1791年9月7日にグレート・クロッシングスで会合が開かれると、この難題を上手く調整したようです。それでも何かに納得がいかなかったのか、エライジャはクロッシングス教会を離れ、1795年9月の第4日曜日に元クロッシングスのメンバー35人と一緒にマコーネルズ・ラン・バプティスト・チャーチの構成に参加しました。この教会はやがて移転してスタンピング・グラウンド・バプティスト・チャーチと改名されることになります(更に後にはペン・メモリアル・バプティスト・チャーチとなった模様)。

エライジャはその後も事業を拡大し、4000エーカー(16km2)以上の土地とそれを耕すのに十分な奴隷労働力を所有するまでになっていました。彼は多くの南部バプティストと同様に奴隷制度からひっそりと利益を得ていたようで、1800年の納税記録によると上記の土地と「11頭の馬、そして32人の奴隷」を所有していたとされます。また、最終的にはフランクフォートで小売店やらロープ工場も営んでいたようです。しかし、彼のウィスキーは地元で評判が良かったとは伝聞されていませんし、他の事業も必ずしも順風満帆とは言えず、実業家としてのエライジャはあまり成功していませんでした。ケンタッキー大学の特別コレクションにあるイネス判事の判例集には、エライジャには多くの借金があり、その借金を巡って人々が彼から金を巻き上げようと何度も裁判を起こしたことが記されているそうです。彼はケンタッキー州が開拓され始めた厳しい経済情勢の中で生きていました。独立戦争後のアメリカでは通貨を手に入れるのが難しく、ケンタッキーのような辺境地では尚更そうでした。そんな中で多くのビジネスを展開し、多くの負債を抱えたパイオニアでした。1808年5月13日、エライジャは「健康状態は良くないが、健全な精神と記憶力を持っている」とし、口述の遺書を残しました。彼は死ぬまでにかなりの財産を失い、その遺言によると、子供たちに残した奴隷はハリーという名の男の子一人だけだったと言います。彼は晩年まで説教を続けながら、1808年5月18日にジョージタウンで貧しい男として亡くなり、おそらく同地に埋葬されました。5月24日、ケンタッキー・ガゼット紙の編集者は短い弔辞の中で「彼は極めて活発な精神を持っていたが、彼の全財産は自らの計画を実行に移すために費やされ、結果として彼は貧しい死を迎えた。もし美徳というものが我ら同胞の市民の役に立つことであるならば、おそらくクレイグ氏ほど徳の高い人物はいなかっただろう」と讃えています。エライジャと同じ時代を生き、同じくバプティストの牧師だったジョン・テイラーは『10のバプティスト教会の歴史』の中で「エライジャは3人(即ちルイス、ジョセフ、エライジャのクレイグ3兄弟)の中で最も優れた説教者と考えられており、ヴァージニア州のとても大きな協会でエライジャ・クレイグは数年間もっとも人気のある人物でした。彼の説教は最も厳粛なスタイルで、その外貌は死から蘇ったばかりの人のようであり、精巧な衣服、細い顔、大きな目と口、非常に素早い話し方、話し声でも歌い声でもその甘美な旋律は全てを圧倒し、彼の声が引き伸ばされると大きな音のスウィート・トランペットのようでした。彼の説教の偉大な恩寵はしばしば聴衆の涙を誘い、多くの人々が彼の説教によって主に立ち返ったことは間違いないでしょう。彼は兄弟の誰よりも遅い時期にケンタッキーに移り住み、投機に走ったため汎ゆる面で害を及ぼしました。彼は兄のルイスほど教会の平和維持者ではなく、それ故に問題が生じましたが、40年ほど牧師を務めた後、おそらく60歳をそれほど超えないうちに死によって全ての問題から解放されました」と語っています。

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偖て、そろそろ現在のエライジャクレイグ・スモールバッチのラベルにも堂々と書かれている「バーボンの父」の件について見て行きましょう。
バーボン神話で最も根強いものの一つが、エライジャ・クレイグに関する伝説です。その典型的な例としてアレクシス・リシンの『ワインとスピリッツの新百科事典』を引用すると「アメリカの植民地時代の初期、バプティストの牧師であったエライジャ・クレイグはケンタッキー州ジョージタウンにスティルを設置し、コーンをベースにしたウィスキーの製造を始めた。このスティルはケンタッキー州で最初の一つと言われ、近隣の町の顧客は彼の製品を産地の郡からバーボン・カウンティ・ウィスキーと命名した」とあります。この主張の問題点としてすぐに目に留まるのが「ジョージタウンにスティルを設置し」たと言いながら「産地の郡からバーボン」と名付けられたとしている部分です。ジョージタウンはバーボン郡にはありません。エライジャは1782年頃にフェイエット郡に移り(***)、1789年頃にそこに蒸溜所を設立しました。初期のケンタッキーで行われた郡の境界線変更の際、旧来の大きな郡から新しく小さな郡が作られた訳ですが、この周辺の郡の成立の歴史をざっくり追うと以下のようになります。
ケンタッキーは、13植民地がイギリスからの独立を果たした後、1776年から1777年に掛けてヴァージニア州の郡として形成されました。ケンタッキーに改名される前は当初ヴァージニア州フィンキャッスル郡と呼ばれていました。1780年、ケンタッキー郡はフェイエット郡、リンカーン郡、ジェファソン郡に分割されます。その後、1788年にフェイエットの一部が分離してウッドフォード郡になりました。この郡名はヴァージニア出身のアメリカ独立戦争時の将軍であり1780年に戦争捕虜となっている時に死亡したウィリアム・ウッドフォード将軍に因んで名付けられています。1792年には更にその郡域からスコット郡が設立されました。つまりエライジャの関与したジョージタウン、ロイヤル・スプリング、グレート・クロッシング等はスコット郡となった場所にあり、バーボン郡にはなかったのです。ちなみにバーボン郡は1785年にフェイエット郡を分割して成立しました。バーボンとフェイエットの両郡は、フランスのブルボン王家とフランス貴族であった独立戦争の名将ジルベール・デュ・モティエ・ド・ラ・フェイエットに敬意を表して命名されており、ともにフランス由来の郡名という共通点があります。その後、1789年にメイソン郡が成立するとバーボン郡の領域はほぼ半分になり、1792年にケンタッキーが州として成立するとクラーク郡とハリソン郡によって再び分割されました。更に1799年にメイソン郡とバーボン郡からニコラス郡が形成されると、もとは巨大だったバーボン郡は非常に小さな郡になりました。
1780
1790
1800
(KENTUCKY ATLAS & GAZETTEERより)

郡名の間違いは扠て措き、エライジャがバーボンの創始者であるという神話は、1874年出版のルイスとリチャード・ヘンリー・コリンズが著した『ケンタッキーの歴史』に由来しています。その本の中で「ケンタッキーの最初のもの」という見出しの短い文章がびっしりと羅列されたうちの一つに「最初のバーボン・ウィスキーは1789年にジョージタウンのロイヤル・スプリングにあるフリング・ミルで製造された」とあるのです。この文でコリンズ父子はエライジャの名前を挙げてはいませんでしたが、前二つのパラグラフで、クレイグ牧師が1789年にジョージタウンで最初のフリング・ミル(毛織物の製造工場)と最初のロープ・ウォーク(ロープ製造に必要)を設立し、ペーパー・ミル(製紙工場)をパートナーと建設したと書いているため、バーボンの発明者は彼であるとされました。この記述が発表されて以来、コリンズ以降の郷土史家や作家達はこの主張を額面通りに受け入れて忠実に再現し、ほぼ1世紀に渡ってエライジャを「バーボンの父」と見倣して来ました。しかし今では著名なバーボンの歴史家によってその件は否定されており、バーボン系ライターや蒸溜関係者もメディアにエライジャがバーボンを発明したのではないと明言しています。
コリンズの「最初のバーボン・ウィスキー」に対する主張は上に引用した一文のみであり、見ての通り余りに簡潔に書かれ、詳しい説明も補足的な検証も全くありませんでした。エライジャをよく知っていて税金関係の被告として彼を法廷に立たせたハリー・イネス判事の書類にもそれを証明するものはないそうです。また、エライジャ自身は生涯で一度もバーボンの製法を開発したと主張をしたことはありません。歴史家のヘンリー・G・クロウジーは、著書『ケンタッキー・バーボン、その初期のウィスキーメイキング』(オリジナルは1971年に発表した論文)に於いて、エライジャは「同時代の殆どの人が造っていたのと全く同じ種類のウィスキー、つまり当時の穀物の入手し易さに応じた純粋なコーン・ウィスキーもしくは少量のライを加えたコーン・ウィスキーを造って」おり、エライジャ「(や当時の他の誰か)がウィスキーの貯蔵で熟成と色の両方の利点を最大限に引き出すために樽を意図的に焦がしていたことを示す有効な証拠を知らない」と述べていました。更に「おそらくエライジャが最初のバーボン・ウィスキーを造らなかった最も決定的な証拠は、1827年9月10日にフランクフォートで開かれたジャクソン・ディナーでルイス・サンダースが買って出た乾杯の際の式辞にある」として、サンダースの「ケンタッキー州ジョージタウンの創設者エライジャ・クレイグを偲ぶ。哲学者でありクリスチャン、彼の時代に有益な人物。彼はケンタッキーで最初の製糸工場とロープウォークを設立した。栄誉ある者には栄誉を」という言葉を引用しています。1810年頃にサンダースはマーサー郡に当時最大の蒸溜所の一つを所有していたのだから、エライジャによる「最初のバーボン・ウィスキー」についても知っていた筈で、その件がそこで言及されていないのはおかしいという訳です。兎にも角にも、エライジャがウィスキーを製造していたことは、1798年にウィスキーに対する連邦物品税の不払いで米国地方裁判所から140ドルの罰金を科されたことから確かでしたが、彼のウィスキーが当時ユニークな存在であったとか、辺境の地で造られていた未熟なコーン・ウィスキーを彼がバーボン・ウィスキーに昇華したという証拠は何もないのでした。
それでも、バーボン・ライターのチャールズ・K・カウダリーはもう少し突っ込んだ考察をしています。そもそもコリンズらは「バーボン・ウィスキー」という言葉を定義することなく使っていました。バーボン・ウィスキーに関する最初の記述は1821年。バーボン最大の特徴は炭化させた新しいオーク材の容器に入れ熟成させることですが、この炭化技術がウィスキーに使用された最古の記録は1826年。ざっくり言うと「バーボン・ウィスキー」という名称は19世紀初頭にはその地方のウィスキー全てに適用され、現在バーボンと呼ばれるウィスキー・スタイルに進化したのは世紀の半ばくらい、そしてバーボンが地域性を超え更なる一般的知名度を得たのは南北戦争後と見られます。それ故、1874年にコリンズが何の説明もなくバーボン・ウィスキーという言葉を使用したのは、読者が自分と同じようにこの言葉を理解すると確信していた可能性が高いでしょう。そうなると、その「バーボン・ウィスキー」は当時も今と同じ意味に思えます。カウダリーはそうではないかも知れないと仮定し、更になぜコリンズがエライジャの名前を出さずに明らかにエライジャを指し示したのかの謎を解明しようとします。コリンズがバーボン・ウィスキーについて言及している「ケンタッキーの最初のもの」というタイトルの章は余談というのか軽い読み物のように見えるので、カウダリーはそれを杜撰な調査に基づく真剣に扱わなかったものだと思っていましたが、もしコリンズがもっと目的意識をもって何かを意図していたらどうだろうか、と問い直すのです。そこで考えるヒントとして取り上げられるのが、クロウジーの著書で軽く触れられているエライジャがイネス判事に宛てた1789年3月の手紙で、そこにはペンシルヴェニアから或る男が「コーンを作りに来る、(そして)もうすぐ連絡があると思う」とあります。クロウジーは、クレイグ牧師がコーンの収穫を指していた可能性もあるが、その距離を考えると、この待たれる訪問者がコーン・リカーを蒸溜しに来たと考える方が自然だ、と述べています。もしかするとコリンズがエライジャの名前を出すのを憚ったのは、このペンシルヴェニアから来る男がエライジャの命令で酒を造ったのであって、クレイグ自身によって酒造りが行われていなかったからでは? この男がペンシルヴェニアから来たというのがポイントで、ペンシルヴェニアはケンタッキーがコーンの産地として知られているようにライ・ウィスキーの製造で名高い。今日、殆どのバーボン・ウィスキーには8〜15%の少量のライ麦が含まれていますが、これは飲料に風味を与えるためフレイヴァー・グレインと言われ、少し熟成させるか或いは全く熟成させなくても、コーン・ウィスキーでもライ・ウィスキーでもないバーボン・ウィスキー特有の風味があります。そこでカウダリーは、おそらくクレイグ牧師のフリング・ミルにいた謎の男がコーンとライを結び付け、それこそがコーン・ウィスキーとバーボン・ウィスキーの最初の違いとなったのではないか、そしてコリンズが「ケンタッキーの最初のもの」のページで示した1789年の革新は意図的にライ麦をレシピに加えたことにあったのではないか、と。まあ、これは実証性の乏しいただの仮説です。しかし、少なくとも歴史の何処かの段階で誰かが似たり寄ったりなことを行った可能性は十分あり、興味深い考察になっています。

それにしても何故エライジャが創始者の役に選ばれたのでしょうか? 当時の殆どの農民蒸溜者は物事を記録する習慣がなかったか、或いはあってもレシピは秘密裏に家族用の聖書に書き留めるなどして受け継がれていたと推測されています。そのため今後も、余程の資料が発掘されない限り、バーボンの生みの親を学術的に特定することは不可能と思われます。だから「バーボンは名もなき農民達の間で自然発生的に誕生した」とでもしておくのが最も穏当なバーボン誕生秘話になりそうなところ。しかし、それではロマンに欠けるし訴求力がありません。アメリカン・ウィスキーの研究家サム・コムレニックは、幾つかの資料から1789年までにこの地域には他にもディスティラーがいて土着のコーンや他の作物を使ってウィスキーを造っていた筈だが、なぜ彼らの名前が覚えられていないかと言えば、おそらく彼らは蒸溜以外の他の企業を経営していなかったこともあり、エライジャ・クレイグ牧師のような影響力や知名度を持っていなかったからだろう、と述べています。エライジャの時代にはウィスキー造りは当たり前に行われ、経済的にも個人的にも必要なものと見倣されていました。しかし、後のコリンズの時代にはウィスキーの消費や製造が物議を醸すようになっていました。1850年頃にウィスキーが社会的に受け入れられる最盛期を迎えると禁酒運動も同時に急成長し、プロテスタントの教派や禁酒を唱える人々からの圧力によって公認の場でウィスキーは下品なトピックとなっていたのです。そこでエライジャの社会的立場が「ウェット」勢力に都合よく利用されることになったのではないかと歴史家は考えています。バーボンの歴史家マイケル・ヴィーチはエライジャ・クレイグ物語の始まりについて「1870年代、蒸溜酒業界が禁酒運動と戦っていた時、彼らは彼(エライジャ)をバーボンの父と宣言することにしたんです。彼らは考えた、ふむ、バプティストのプリーチャーをバーボンの父にして禁酒派の連中に対処させようってね」と語っていました。カウダリーも「コリンズ自身はウィスキーを非合法化する禁酒主義者に同調していたが、蒸溜業者とその支持者は、バーボンは尊敬されるバプティストの牧師によって“発明された”という彼の主張をすぐに受け入れた。このことはコリンズがバーボンの発明をクレイグに帰する理由を説明するものではないが、この伝説がなぜ続いているのかを説明するものです。言うまでもなく今この神話を守り続けることは或る蒸溜所の利益となる」と指摘しています。
この神話には禁酒法後にも信憑性が与え続けられました。ウィスキー・ライターのフレッド・ミニックによれば、1934年2月13日付のルイヴィル・クーリエ・ジャーナル紙にコリンズの本が紹介され、そこには「歴史家は1789年にジョージタウンのエライジャ・クレイグ牧師のミルで最初のバーボン・ウィスキーが造られたことを指摘している…」とあり、その後もエライジャのバーボン発明に関する言及は業界がバーボンをアメリカ独自の製品にしようと運動していた1960年代に増加し、1958年から1968年までバーボン・インスティテュートはクレイグが1789年4月30日にバーボンを発明したという伝説を絶えず使って広報キャンペーンを展開したそうです。おそらくこの間のどこかで、バーボンと言えば最大の特徴は炭化させた新しいオーク材の容器に入れ熟成させることですから、エライジャをバーボンの創始者に仕立てるべく、例の「焦した樽」から生まれた「レッド・リカー」のお話が優秀なマーケティング・ライターの手によって、バーボン業界を宣伝するために創作されたり追加されたりして行ったのではないでしょうか。つまりエライジャ・クレイグの伝説は広告代理店の会議室で生まれたのかも知れないと言うことです。幸いなことにその頃は、蒸溜業者の「小さな嘘」を糾弾する風潮もなければ、インターネットで個人の見解が広まることもありませんでした。そして、人気のあるプレミアムなバーボンには物語が必要であり、バーボン業界は事実が優れたマーケティングの邪魔になる業界ではないため、ヘヴンヒルはその神話を使い続けた、と。ちなみにエライジャのバーボンに関する有名なエピソードは、語り手によって多少のヴァリエーションがありますが、纏めると概ね次のようなものです。

エライジャ・クレイグは1789年に蒸留所を開設したが、その年の6月14日に納屋の一部が焼失してしまった。その納屋にはウィスキーの空き樽(もしくは樽材となるステイヴ)が幾つか置かれていた。それらの中には内側だけ燃えているものや、外側はそれほど焦げていないものがあった。倹約家であったエライジャは、焦げてしまった樽をウィスキーの容器として使うには十分だと判断し、そのまま使用することにした。当時のウィスキーは通常、荷馬車で運ばれるか、或いは多くの場合、川を下るフラットボートで運ばれる。6ヶ月かけて目的地のニュー・オーリンズまで運ばれたウィスキーは新しい個性と風味と色をもっていた。消費者はそれをバーボン郡から来た「レッド・リカー」と誉めそやした。そして、人々はこの円やかで美しいウィスキーを求めるようになった。エライジャは自分のウィスキーにいつもと違うことをしなかったので、後にそれが焦げた樽のせいだと考えた。以来、彼はこの製法を使い続けるようになり、北の市場で売るためにニュー・オーリンズから届く魚や塩または砂糖を貯蔵していた使い古しの樽を買うと、樽の内側をわざと焦がした。すると魚の臭いが消えるだけでなく、樽が殺菌され、焼かれたことでステイヴ中の糖分がカラメル化された。
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(エライジャクレイグの公式ウェブサイトより)

おそらくバーボンの英雄譚としては、エライジャ・クレイグの人生の物語はそれほど魅力的なものではないでしょう。実際の蒸溜の手腕に関する歴史的資料はなく、バーボンの発明についても後付ですから。しかし、宗教的自由に関する革命前の出来事への関与とアメリカの初期バプティスト教会の発展に於ける功績、ケンタッキー州で最も早く最も熱心に産業を築いた貢献などは、彼を注目に価する人物にしています。バーボン伝説がどうであれ、それはエライジャ・クレイグの業績や信用を落とすものではなく、彼は称えられるに相応しいパイオニアの一人であり、初期ディスティラーの一人でした。
ついでなので、ここでバーボンの創始者とされることのあるその他の人物の名を挙げておくと、ジェイコブ・スピアーズ、ダニエル・ショーハン、ワッティ・ブーン、ダニエル・スチュワート、ジョン・ハミルトン、マーシャム・ブラシアー、ジョン・リッチー等がいます。また、歴史家からは通常は除外されますが、エヴァン・ウィリアムスもそう言われることがあります。この中で有力候補となっているのがジェイコブ・スピアーズです。コリンズの『ケンタッキーの歴史』のバーボン・カウンティの頁では、数行の短い文章ですが、バーボン郡の最初の蒸溜所は1790年頃ペンシルヴェニアから来たジェイコブ・スピアーズらによって建てられたとあります。1800年代の「ケンタッキー州で最も古い蒸溜所」と題された新聞記事には「この粗雑な蒸溜所で、史上初のバーボン・ウィスキーが蒸溜された。それはバーボンとケンタッキーの名を地球上の最も遠い場所で有名にする運命にある製品だった」とあり、スピアーズの子孫も少なくともバーボン郡にちなんでバーボンという名前を思い付いたのは彼だと言っているそうです。また、ケンタッキー州議員のヴァージル・チャップマンは、禁酒法後の食品、医薬品、化粧品の規制に関する1935年の議会公聴会で「正確な歴史的事実として、ケンタッキーが州に昇格する2年前の1790年に、私が現在住んでいるケンタッキー州はバーボン郡で、ジェイコブ・スピアーズという男がストレート・バーボン・ウィスキーを製造していたことを私は知っています。そしてそれがバーボン郡で造られたことから、そのタイプのウィスキーは、〜(略)〜、以来ずっとバーボン・ウィスキーと呼ばれるようになりました」と演説しました。このようにバーボン誕生の功績はスピアーズのものとされている訳ですが、これまたエライジャと同様、スピアーズ創始者説も完璧な証拠がある筈もなく、そもそもコリンズの一文の年代は「頃(around)」と書かれ、建設年代を正確に記録したものではありませんでした。おそらくバーボン郡の住人間で伝承された逸話が時代を経るごとに真実として扱われるようになったのではないかと思われます。とは言え、スピアーズがバーボンの生みの親ではないにしても、少なくともケンタッキー州最初期の最も重要なディスティラーの一人であることは間違いないでしょう。なので、軽く紹介しておきます。
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ジェイコブ・スピアーズ(1754〜1825年頃)は、幾つかの職業に従事した人物で、農民であり、ディスティラーであり、ブルーグラス種子の販売者であり、高級馬のブリーダーでした。姓のスピアーズ(Spears)は「Spear / Speer / Speers」と表記されることもあります。ジェイコブは独立戦争(1775〜1783年)の退役軍人で、1782年のサンダスキー遠征ではウィリアム・クロフォード大佐の連隊のホーグランド大尉の中隊に所属しており、後に軍曹としてジョセフ・ボウマンの中隊に加わってその部隊と共に現在のマーサー郡ハロッズバーグまで旅をし、そこでジョン・ハギンからバーボン・カウンティとなる土地を購入したと言います。ジェイコブと親族らはペンシルヴェニア州南部に住んでいたようですが、1780年代後半にそこへ移住しました。1790年頃、バーボン郡パリスのすぐ北、静かなクレイ=カイザー・ロードの田園地帯に、同じバーボン郡の住民で後に第10代ケンタッキー州知事になったトーマス・メトカーフが、ジェイコブ・スピアーズのために石造りのフェデラル様式の家(ゴシック・リバイバル様式の増築部分あり)を建てました。スピアーズの邸宅はストーン・キャッスルとも呼ばれました。道路を挟んだ向かい側には、嘗て最大で2500バレルのウィスキーが貯蔵され、或る時期に納屋に改築された前面が完全に石造りの小屋が今でも残っています。
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(元スピアーズの邸宅。Wikimediaより)
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(元ウィスキー倉庫の納屋)
スピアーズは夫として妻のエリザベスと共に農場で6人の子供を育て、ディスティラーとしてはウィスキーの生産を続け、二人の息子ノアとエイブラハムにリッキング・リヴァーに繋がるクーパーズ・ランでウィスキーの樽をフラットボートに積ませると、そこからオハイオ・リヴァーとミシシッピ・リヴァーを経て遠くニューオーリンズまで人気のある製品を高値で売り捌きました。ノアはウィスキーをニューオーリンズに運び、売った後は強盗やインディアンが蔓延るナチェズ・トレースを歩いて帰り、この旅は13回にも及んだと言います。一度だけ、16歳の弟エイブラハムも同行したことがあるらしい。ジェイコブは1810年にバーボン・ウイスキーと命名したとの情報もありました。1810年のバーボン郡の国勢調査では、128の蒸留所があり、146000ガロン以上のウイスキーを生産し、48000ドル以上の価値があったとされています。ジェイコブ・スピアーズは1825年9月に亡くなりました。蒸溜所の運営は息子のソロマンが続け、後にエイブラム・フライに売却されました。1849年になるとウィリアム・H・トーマスが農場と蒸溜所を購入し、1882年まで操業しました。1881年当時、トーマスの蒸溜所は900樽のバーボンを生産していたそう。

(参考─1960〜70年代製と見られるT.W.サミュエルズ蒸溜所名義の未使用のオリジナルECラベル)

では、次はエライジャクレイグというバーボン・ブランドについて見て行きます。このブランドは禁酒法終了後すぐに投資家グループによって設立されたヘヴンヒルが現在所有していますが、エライジャクレイグの商標は1960年にコモンウェルス・ディスティラーズが初めて登録したとされます。このコモンウェルス・ディスティラーズというのがよく分からないのですが、おそらくローレンスバーグやレキシントンの「コモンウェルス蒸溜所」とは別でしょう。彼らはT.W.サミュエルズのブランドも所有していたとされるので、カントリー・ディスティラーズの別名なのでしょうか? 仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。それは措いて、蒸溜所のウィスキー蒸溜停止の時期(1952年)を考えると、このブランドをディーツヴィルのT.W.サミュエルズ蒸溜所が実際に生産したことはないと思われ、上の「参考」は使用されることのなかったサンプル・ラベルで蒸溜所の昔の従業員のものだろうと考えられています。逆に、当時の新聞広告でブランド名の入ったボトルが5ドル以下で売られていたのが見つかったという情報もありました。真相は判りませんが、歴史的なブランドを多数購入してそれぞれの遺産を存続させるために最善を尽くすヘヴンヒルが1976年にエライジャクレイグの商標を取得し、1986年にリリースされるまで決して活発なブランドではなかったのは間違いありません。
ところで、日本語で読めるエライジャクレイグのネット上の情報ではよく「製品化されるまでに25年かかった」という意味合いのことが書かれています。1997年発行の『ザ・ベスト・バーボン』には「企画からなんと25年もの歳月をかけて製品化された」とあります。もう少し前の1990年に発行されたムック本『ザ・バーボン PART3』のエライジャクレイグ特集にも「計画をあたためることニ五年。いよいよ製造にかかってからも、蒸留後さらに十ニ年、じっくり寝かせたというから、満の持し方も並ではない」と書かれており、もしかするとこの記事が情報源なのかも知れない。その記事では現地に赴いて当時まだ副社長のマックス・シャピラに取材しているようなので、何かそういった紹介のされ方をしたのではないでしょうか。私は初めてこの手の情報に接した時、え?ちょっと待って、エライジャクレイグ12年は文字通り12年熟成だからウィスキーの熟成に25年掛かった訳ではないし、マッシュビルも酵母もヘヴンヒルのスタンダードなものと一緒だろうから何かを新開発した訳でもないし、仮に熟成年数の12年を25年から引いて13年だったとしても、ブランディングの企画や樽選びだけに13年も掛けていたら怠慢な仕事ぶりと言うしかなくないか?いったい何を開発するのに25年もの月日を費やしたと言うのだろうか?と思いました。けれどもこれ、初めての商標登録が1960年、発売が1986年と判ってみると、エライジャクレイグというブランドが世に出るまでの、或いは復活するまでの、この約25年の歳月のことを指して言っていただけなのね、と合点がいきます。

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(ヘヴンヒルのウェブサイトより)
80年代の本国アメリカでのバーボン暗黒時代、安価なバーボンが大半を占める状況下で、ヘヴンヒルは質の低いウィスキーという評判から脱却するために長期的な戦略を立て、バーボン人気復活を賭けてエライジャクレイグ12年を1986年に発売しました。このバーボンは1984年のブラントンズ、1988年のブッカーズと共にプレミアムもしくはスーパー・プレミアム・バーボンの魁となり、現在のバーボン・ルネッサンスの始めの一歩を築いたブランドの一つとして評価されています。そうした先見性に基づいて、1990年代半ばには18年物のシングルバレルのエライジャクレイグも発売しました。当時はまだ日本を主とする海外市場と極く一部のマニアにしか長熟バーボンの人気はなかったので、これまた賭けに近い製品でした。しかし、ヘヴンヒルの戦略は当たり、今ではプレミアムな長熟バーボンは尊敬の対象となっているのは言うまでもないでしょう。
2000年代に入り徐々に回復して行ったバーボンの売上は、2010年代に入ると止めようもない勢いになりました。市場の好転はバーボン業界の誰もが待ち望んだものだったかも知れませんが、成功には犠牲も付き物です。ちょっと前まで酒屋の棚で埃を被っていたバーボン・ボトルは、2010年代半ばには、需要に供給が追いつかなくなり、発売以来続いていたエライジャクレイグ12年のエイジ・ステイトメントが剥奪されることになりました。世界第2位のバーボン供給量を誇るヘヴンヒルであっても、ブランドが大きく成長し続けるにつれ、12年バレルの在庫は逼迫して来た、と。そこで、ヘヴンヒルは慎重に検討した結果、このブランドをより多くの消費者に提供するため、8〜12年熟成のバーボンを使用してボトリングすることを2016年1月に発表しました。これによりエライジャクレイグ・スモールバッチの入手し易さを維持し、12年熟成のエライジャクレイグ・バレルプルーフの割り当てを大幅に増やし、長熟シングルバレルの供給量も確保することが出来ました。しかし、その一方で問題がない訳ではありませんでした。エライジャクレイグ12年はバーボン界隈では品質の高さと価格の安さを両立したブランドとして知られていましたが、その品質の部分は12年熟成に依存していたと言っても過言ではないでしょう。また、誇らしげな年数表記を掲げていたこともイメージ向上の一因だったに違いありません。であれば、それがなくなった時には悲しみや怒りの声が上がるのは必然でした。この件は以前投稿した現行ボトルのレヴューにて取り上げましたので興味があれば覗いて下さい。それと、ここまでの流れの中でヘヴンヒルの対応の不手際もありました。トップ画像のような表ラベルに「12年」が記載されている物は通称「ビッグ・レッド12」と言われていますが、実はそのラベルからNASのシュッとしたボトルにリニューアルされるまでの期間には幾度かの僅かなラベルの変更があります。先ず、2015年4月頃に表ラベルから謎に12年の表記が消え、熟成年数の記載は裏ラベルに移って目立たないようになりました。それを発見したバーボン愛好家およびエライジャクレイグ愛好家たちはNAS移行への前触れではないかと疑いました。他の会社がそういう事をしていたからです。2015年6月頃の時点でヘヴンヒルは、ラベルの変更がエライジャクレイグをNASに移行する計画の一部であることをきっぱりと否定しました。しかし、それはたった7カ月で覆され、実際にNASとなったのです。一部の人々は裏切られ、嘘をつかれたと感じました。この変更は単に需要による熟成バレルの逼迫に対応したものだ、という説明は都合よくでっち上げられた話に違いない、2016年1月現在バーボンの爆発的な人気によるプレッシャーは当然あるだろうが、それは2015年6月時点でも同じだっただろう、彼らがエライジャクレイグをNASに切り替えているのは今日の需要や近い将来の需要のためではなく、単純に将来の販売目標を達成するためだ、と。まあ、そういう声が上がったとは言え、これ以降もバーボン・ブームは衰える気配を見せず、本記事の冒頭でも紹介したようにエライジャクレイグのブランドは製品ヴァリエーションを拡張し続け、今も人気を保っています。

上でラベルの話が出たので、細かいことは除いてその変遷をざっくり纏めておくと以下のように大別できるでしょう。

①12年の表記が下方にある楕円形のラベルのもの。これがオリジナル・デザイン。
②ラベルの形状が瓶と同じような形になり、12年の表記がラベル中央の位置に移ってその左右にスモールバッチとあるもの。2012年4月頃から流通し始めた。
③上と同じボトル/ラベル・スタイルながら、表ラベルから12年の表記が消えてバレルのイラストに置き換えられ、裏ラベルにのみ12年熟成した旨が記載されたもの。2015年4月頃から流通し始めた。
④上と同じボトル/ラベル・スタイルながら、裏ラベルから熟成年数の記述がなくなったもの。主に2016年に流通。
⑤現行の背が高く厚みが薄いスタイリッシュにリニューアルされたボトル/ラベルのもの。2016年末もしくは2017年初頭から流通し始めた。

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もしかすると、下画像に見られるフロントにスモールバッチ表記のない②型ラベルが、①から②の移行期間にあったかも知れません。或いはこれは輸出向けのラベルで②と並行して存在していたのかも。私には詳細が判らないので、ご存じの方はコメントよりご指摘下さい。また、上の日付に関してもあまり自信がないので正確に判る方は一言もらえると助かります。
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最後に中身についても少しだけ言及しておきます。最もスタンダードなオファリングである12年およびNASスモールバッチを上のラベルのように中身の違いで大別すると、こちらは3つに分けて考えることが出来そうです。

⑴バーズタウン産の12年熟成物、ラベル①に相当
⑵バーンハイム産の12年熟成物、ラベル②③に相当
⑶NASの8〜12年熟成物、ラベル④⑤に相当

よく知られるように、ヘヴンヒルが長らく本拠地としていたバーズタウンの蒸溜所は1996年の歴史的な大火災によって焼失し、1999年にルイヴィルのニュー・バーンハイム蒸溜所を買い取ることで蒸溜を再開しました。そのため、バーズタウンで蒸溜された物は「プリ・ファイアー」と呼ばれています。96〜99年の蒸溜所がなかった期間はジムビームとブラウン=フォーマンが蒸溜を代行していました。彼らの蒸溜物がエライジャクレイグに使われているのかは定かではありませんが、もし先入れ先出し方式的に?それらのバレルも均等に使われていたのなら、⑴と⑵の間にジムビーム及びブラウン=フォーマン産が入り、ラベル①の最後期と②の最前期あたりは彼らの原酒だった可能性はあることになります。マッシュビルに関しては、バーズタウンの旧蒸溜所産のものが75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーとされ、ルイヴィルのバーンハイム蒸溜所に移ってからは78%コーン、10%ライ、12%モルテッドバーリーに変更されたと言われています。それと、これまた判然とはしませんが、ヘヴンヒルは業界の流行語になるかなり前(25年前?)から「スモールバッチ」でのボトリングを行っていたと主張していますし、エライジャクレイグが発売された当初に限定生産とされていたことを考慮すると、バーズタウンで製造されていた初期の頃は70バレル程度のバッチングだった可能性はありそうで、おそらくその後どこかの段階で100バレル程度になり、ボトルをリニューアルした頃にはバッチサイズを100バレルから200バレルに増やしたとされます。
ところで、味わいに関してバーボンは、同じマッシュビルから造られ、同じ期間熟成されたとしても、立地場所や建物の材質が異なるリックハウスで熟成されると、明らかに異なる味わいになることが知られています。ヘヴンヒルは現在57棟のリックハウスを6つの場所で使用しています。その内訳は、バーズタウンのヘヴンヒル・サイトの20棟、ルイヴィルのバーンハイム蒸溜所の7棟、コックス・クリークの10棟、ディーツヴィルの元T.W.サミュエルズ蒸溜所の9棟、元フェアフィールド蒸溜所の9棟、元グレンコー蒸溜所の2棟です。このうちバーンハイムのみが煉瓦造りで、他は木造プラス金属の屋根とサイディングの組み合わせ。嘗てのマスター・ディスティラー、パーカー・ビームはディーツヴィルの熟成庫がお気に入りだったとされ、エライジャクレイグのプライヴェート・ピックのボトルでは、そこのバレルが選ばれたりもしています。で、通常のエライジャクレイグに使用されるバレルが、何処か決まった一定の場所から引き出されているのか、それともフレイヴァー・プロファイルに基づいて様々な場所から選ばれているのか、私には分かりません。ご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。

では、そろそろ今となっては貴重となってしまったエライジャクレイグの12年物を注ぐとしましょう。今回、私が飲んだのは表ラベルに「12年」が記載されているヴァージョンの後半期の物となります。

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ELIJAH CRAIG Small Batch 12 Years 94 Proof
推定2014年ボトリング。香ばしい焦げ樽、ダークフルーツ、ヴァニラ、ラムレーズン、バーント・シュガー、熟れた洋梨、ベーキングスパイス、杏仁豆腐。アロマは長熟らしい古びた木材とスパイシーなノート。水っぽい口当たりでするりとしている。味わいはウッディで、ややドライ気味。飲み込んだあとから余韻にかけては、穀物の甘みやバターも現れるが、ビターかつ薬っぽいスパイス&ハーブと共にケミカルな辛味が残る。
Rating:85.5(83.5)/100

Thought:そもそもこのボトルは、現行NASのエライジャクレイグ・スモールバッチとサイド・バイ・サイドで味を較べるために開封しました。両者にはかなりの違いがありました。やはり、こちらの方がオークの存在感が強く、深みや複雑さの点に於いては優っているように感じます。けれども、スモールバッチNASのレヴューでも述べたのですが、こちらは長熟樽のビタネスや薬用ハーブぽさが優位であり、単純な甘さやグレイニーなバランスを求めるならNASも捨て切れません。また、サイド・バイ・サイドではないのですが、記憶にある90年代の12年と比べると、こちらは重々しいオークが前面に出過ぎており、昔の12年はもう少しバランスが良かった気がします。樽の材質が違うのでしょうかね? 両者を飲み比べた海外の或る方は、旧来の物は明らかにライを強く感じるという意味合いのことを言っていました。更に、これよりちょっとだけ前(2〜3年くらい?)の「ビッグ・レッド12」と較べても、こちらはやや樽のエグみが強いように思います。色々とエライジャクレイグを飲み比べたことのある皆さんはどう思ったでしょうか? コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。
ちなみに、エライジャクレイグのラベル違い(上で示した①〜⑤)をブラインドで垂直テイスティングする会を催した海外のウィスキー愛好家の方の記事(Diving for Pearls with thekravのエライジャクレイグ・テイスト・オフ)があるのですが、そこでは第1位がプリ・ファイアー12年、同点第2位がフロントラベル12年と旧NASスモールバッチ、第4位がバックラベル12年、第5位が現行NASスモールバッチになっていました。これは執筆者一人の感想ではなく、彼を含む21人のバーボン・オタクもいればそうでない人もいるテイスターによって、それぞれが5つのサンプルを最も好きなものから最も嫌いなものまで順にランキングし、1位が5ポイント、2位が4ポイント、以下5位まで1ポイント減点してゆく形式で行われています。なかなか公正な審査とも思いますので、一般的に概ね旧い物のほうかウケがいいとは言えそうですね。
あと、レーティングの括弧について補足しておきます。私は、基本的には開封してから一年以上は飲み切らないようにして、敢えて瓶内で変化するフレイヴァーを楽しむタイプなのですが、このエライジャクレイグ12年は良い風味が消えるのが速かった印象がありまして、括弧内の数値はその衰えた際の評価です。具体的には、半年くらいで甘い香りとフルーツ感が減退しました。


*バプティストは、イングランド国教会の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派で、日本では「浸礼派」とも訳され、幼児洗礼を認めず、自覚的な信仰告白に基づいて全身を水に浸す浸礼(バプティズマ)をしたことから名付けられています。
バプティストの源流は「ルターの宗教改革は不徹底である」と批判して起こったアナバプティスト(再洗礼派)にあります。遡ること16世紀頃にドイツ、オランダ、スイスなどではカソリック教会や一部のプロテスタントからアナバプティストと呼ばれた人々がいました。「アナ」はギリシア語に由来し、英語で「re-」、漢字で「再」という意味です。カソリック教会や一部のプロテスト教会からアナバプティストと呼ばれる教会に加わろうとした場合、多くの人は聖書的バプティズマに基づかない幼児バプティズマ(幼児洗礼/滴礼)を受けていたために、正しい方法で聖書的バプティズマを受けることを勧めていました。それはカソリックの人々から見れば、幼児バプティズマを含めるとニ度目となるため、アナバプティスト(再びバプティズマを授ける人々)と軽蔑を込めて呼ばれたのでした。当のそう呼ばれた人々は、自分たちがニ度洗礼を施しているとの意識はありませんでした。聖書的な正しい方法でのバプティズマを一度だけ施していると確信していたし、信仰のはっきりしていない幼児に施す洗礼は無効という考えがあったからです。このように聖書の教えに忠実であろうとしたアナバプティストですが、その主張は個人と神との直接的な交わりを他教派から見ると極端に強調し、当時に於いて急進派的な性格がありました。そのためかなりの弾圧を受けたようです。バプティストも本人に信仰の認識のない幼児洗礼は認めていないので、この点では再洗礼派と同様でしたが、その他の信仰性は再洗礼派と直接の関連はなく、寧ろ再洗礼派的な信仰性は行き過ぎと捉えていたようで、政治や軍役から距離をおき、国家や社会的秩序と親和性を持ちながら聖書主義と自覚的な信仰を重視する信仰性を持ったとされます。
バプティスト教会が誕生したのは宗教改革の少し後、17世紀のイングランドでした。16世紀のイングランドではヘンリー8世の離婚問題をきっかけにローマ・カソリック教会から脱退する際、独自の宗教改革によって政教一致のイングランド国教会が新たに誕生しました。イングランドに生まれた人は信仰をもつ前に幼児洗礼が授けられ国教会員になりました。そこでは司祭は国の公務員であり、教会の礼拝も国の定めた方法や順序で行われることが義務付けられました。信仰は自覚的で自由なものではなく制度的なものになっていた訳です。そのような国による信仰の強制に対して抵抗(プロテスト)した人々がピューリタン(清教徒)です。ピューリタンたちは国教会による宗教改革のカソリックとプロテスタントの間を採る中道路線を批判しました。彼らには国教会を内部から改革するグループと外に離れて改革するグループがあり、後者が分離派と呼ばれます。その中にアナバプティストの影響を受けた人たちもおり、彼らが国教会から分派してバプティスト教会を創りました。バプティストは、特に信仰は本人が自覚的に選び取るものであり教会は自覚的信仰者の集まりであること、浸礼を尊重すること、国は個人の信仰に口を出す権威がないこと(政教分離の原則)、牧師は各個教会が決断して支えること、礼拝は聖書を中心に各個教会の信仰に合わせて行うこと、牧師は信徒の一人であり教会は信徒が守ること等を主張しました。ところが、それは国家への反逆を意味し、苦難の歴史を歩むことになったのです。
その後、本国からの迫害から逃れてイングランドの植民地であったアメリカに自由を求める人々が渡って行きました。その中にバプティストの信仰者もいました。しかし、新天地でバプティストは又もや迫害されることになります。1639年、ロジャー・ウィリアムスらによってアメリカ最初のバプティスト教会が設立されました。ウィリアムスは「神はどのような国家においても宗教が統制され、強制されることを求め給わない」と述べ、「信教の自由」や「宗教と国家の分離」を主張しました。この信仰はアメリカ合衆国憲法やその後の国家と宗教の関係について大きな影響を与えています。1730年代に「大覚醒」の時代を迎えると、自覚的信仰を主張するバプティストは大きな発展を遂げ、アメリカで一番大きなキリスト教プロテスタントの宗派になりました。詳しくはウィキペディアの項目を参照ください。

**実際にはエライジャの事業はどれも「最初」とは言い切れないらしいのですが、ケンタッキー州で最も早い時期の事業であったことは確かなようです。

***実はエライジャがケンタッキーに移った年は諸説あり、もう少し後の可能性もあります。

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ライ・ロイヤル20年はカリフォルニア州フェアフィールド(当時はサンホゼ)の老舗ボトラー、フランク=リン・ディスティラーズ・プロダクツが1990年頃に日本市場向けにボトリングしたペンシルヴェニア産のストレート・ライ・ウィスキーです。このウィスキーの調達先についてはシェーファーズタウン近郊のミクターズ蒸溜所だろうと推測されています。ウィスキーが蒸溜された当時(1969〜70年頃?)は、ペンコ蒸溜所という別の名称でした。ペンコの基本は契約蒸溜だと思われるので、その当時に誰かのために蒸溜されたライ・ウィスキーが何らかの理由で購入されず残り、ミクターズが閉鎖される間際に安く売りに出されたという感じなのでしょうか? 或いは、ペンコはコンチネンタルとも何かしらの関係があったようなので、ペンコ以外で蒸溜された物の可能性もあるのでしょうか? 仔細ご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。
真実かは判りませんが、ミクターズの元マスター・ディスティラーである故​​ディック・ストールは、ミクターズ/ペンコのライ・マッシュビルは65%ライ、23%コーン、12%モルテッドバーリーであると述べていた、という情報を見かけました。ちなみに、このライ・ロイヤルと同じくフランク=リンがボトリングしたウォール・ストリート・ストレート・ライ20年というウィスキーがありまして、これらは同じ原酒だろうと見られています。どちらも1990年頃にボトリングされ、101プルーフでした。ウォール・ストリートの方がオークションで見かけることが少ない印象がありますね。
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殆ど情報のないウィスキーなのでこれ以上語ることはなく、あとは飲んでみるしかありません。さっそく注ぎましょう。

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Rye Royal 20 Year Old 101 Proof
推定90年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。クレームブリュレ→ミルクチョコレート、マスティオーク、ユーカリ、プルーン、カルダモン。甘いお菓子のアロマと穏やかなスパイス香。さらっとしつつ、ややミルキーな口当たり。味わいは重厚な木材感が支配的で、仄かな甘みもあるが基本的にドライかつビター。しかし、それほど収斂味はない。余韻はあっさりめで、ウッディなスパイス感が広がる。アロマがハイライト。
Rating:84.5/100

Thought:正直言うと期待外れな味わいでした。ちょっとしたオールド臭以外のネガティヴな要素はないものの、あまりポジティヴな要素も拾えないと言うか…。香りは頗る良いのですが、味わいが少々平坦。何より、あまりライ・ウィスキーらしさを感じられないのがマイナスでした。これバーボンだよ、と提供されたら信じてしまうくらい普通に長熟バーボンの味わいに感じるのです。個人的にはもっとアーシーなフィーリングや濃厚なフルーツが欲しいところ。希少価値のあるボトルなだけに残念です。オールドボトルゆえの状態の悪さ(酸化が進み過ぎた?)もあったのかも知れません。
一方で、アメリカの有名な掲示板に投稿されたライ・ロイヤルのレヴューのコメントには、カナディアン・ライもしくは再利用樽で熟成させたような印象を受けたと言ってる人がおり、また他にも同コメント欄でこれはミクターズで蒸溜されたものとは全く違う味と断言する人もいました。私にはそれを判断する味覚も経験もありませんが、確かにそうかもと思わせる味わいには感じました。樽の管理を間違えたか何かで、もしかして本当はライ・ウィスキーではないのではないか? 或いはミクターズ・サワーマッシュ・ウィスキーには新樽と中古樽が混ぜられていたと聞くので、たまたま忘れ去られていた中古樽原酒の生き残りがボトリングされたとか? またはペンコはカナダからもバレルを仕入れていたのか? 真相は藪の中です。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか、コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。
上の感想は、その希少性からオークションで価格が高騰した後に購入した私の期待が大き過ぎたために出た言葉かも知れません。また、私はあまり長熟ウィスキーを得意としていない味覚の持ち主であることにも留意して下さい。つまり、貴方が初めから何も期待せず虚心坦懐に味わい、かつ長熟ウィスキーが好きならば、美味しく感じる可能性は十分にあるということ。それぐらいには、現代の短期熟成の安いウィスキーとは違う味ですし、不出来なウィスキーでもないのです。

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ワイルドターキー12年101は1980年代初頭に発売され始め、1999年にアメリカ国内での流通が停止されると以降は輸出市場のみでリリースされることになりました。そのお陰で日本では長いこと入手し易かったワイルドターキー12年も2013年には終売となり、それに代わって一部の市場でリリースされ始めたのがワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴ91プルーフでした。そして、永遠に続くと思われた沈黙を破り、2022年、遂にワイルドターキー12年101が帰って来ました。但し、これまた輸出専用となっており、オーストラリア、韓国、日本などの市場のみの限定的なリリースのようです。日本では2022年9月に発売されました。アメリカ本国のワイルド・ターキー愛好家には申し訳ない気持ちにもなりますが、彼らにはこちらで手に入り難い様々な製品(例えばラッセルズ・リザーヴ13年や様々なプライヴェート・ピック)があるのでお互い様ですかね。

この12年101は8年101と同様、デザインを一新したエンボスト・ターキー・ボトルに入っています。新しいボトルは鳥やラベルよりも液体に焦点を合わせることで、ワイルドターキーの特徴の一つである長期間の熟成をウィスキー自身の色味で視覚的に理解してもらう意図があるそうです。鳥の大きく描かれた古めかしい紙ラベルを廃止し、ボトル表面に浮き出たターキーとシンプルな小型のラベルにすることによって、モダンで都会的でスタイリッシュなイメージへと刷新する狙いなのでしょう。特筆すべきは付属のギフト・ボックスです。外側はバレルの木目が施されたインディゴ色のしっとりした手触りの厚紙で、蓋の内側にはアリゲーター・チャーを施されたバレルの内部を模したパターンがプリントされ、ボトルはこれまたインディゴ色のヴェルヴェットのようなクッションに収められています。マットな質感と落ち着いた色合いは高級感溢れるものとなっており、知人へのプレゼントにも自らの享楽にも適した仕上がり。蓋の裏面にはジミー・ラッセルからのメッセージもあります。
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我が息子エディと私は本物のケンタッキー・バーボンを蒸溜することに人生を捧げて来ました。それは私たちの血管を流れるものだと言えるでしょう。
 
私たちは100年以上続く伝統と工程に忠実に、初まりの日から正しい方法で物事を進めて来ました。なぜなら良いものには時間が掛る、この12年物のバーボンも例外ではありません。
 
このバーボンは、長く熟成させてより個性を増したところが、私に似ていると言われます。汎ゆるボトルに物語があると思いたい。なだらかな丘陵地帯、荒々しい荒野、力強い色彩などと共に、ケンタッキーのスピリットを感じて下さい。可能な限り最高レヴェルのチャーで熟成されたバーボンからのみ得られるリッチで芳醇なフレイヴァーを味わって下さい。
 
さあ、目を瞑って。先ずはバーボンの香りを嗅ぎ、それからフレイヴァーを口の中で転がして。それがこの12年物のワイルドターキー・ケンタッキー・バーボンの真の個性を味わう本当の方法なのです。
 
ジミー・ラッセル

これが本当にジミーの言葉なのかコピーライターの仕事なのか判りませんが、我々の魂に訴えてくる質の高いマーケティングの言葉であるのは確かです。では、この待ち望まれたバーボンをさっそく味わってみるとしましょう。
と、その前に少しだけ基本情報を。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリー。バレル・エントリー・プルーフは115。熟成年数を考慮すると、2011年に新しい蒸溜施設へと転換する以前の原酒を使用していると思われます。そして、12年101はシングルバレルではなく、そのエイジ・ステイトメントも最低熟成年数なので、12年よりも古いバーボンがブレンドされている可能性はあるかも知れません。また、発売当初の13年ディスティラーズ・リザーヴのようには、どのウェアハウスのどこら辺に置かれていたバレルかの記載もありません。従ってタイロンかキャンプ・ネルソンどちらの熟成庫かも不明です。

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WILD TURKEY AGED 12 YEARS 101 Proof
2021年ボトリング。ボトルコードはLL/JL020936(推定2021年12月2日)。赤みを帯びた濃いブラウン。強烈な焦げ樽香、セメダイン、ココアウエハース、チェリーコーク、ヴァニラ、キャラメル、湿った木材、ミント、クローヴ、杏、チョコレート、ハニーローストピーナッツ、杉。アロマは香ばしく甘くスパイシー。滑らかでややとろみのある口当り。パレートはややドライで、ブラッドオレンジとグレインが感じ易く、ドクターペッパーぽい風味も。余韻は長めながらハービーなメディシナル・ノートとスモークが漂う。
Rating:88/100

Thought:開封直後に一口飲んだ時は、なにこれ薬? 渋いし、不味っ、と思いました。寧ろロウワー・プルーフの13年の方が水のお陰でフルーティさが引き出されたり樽の渋みが軽減していて良かったのかも知れないとまで考えました。ところが、妙な薬っぽさはすぐに消え味わい易くなり、徐々に渋みも落ち着いて美味しくなって行きました。そうなってみると、甘い香り、ダークなフルーツ感と複雑なスパイシネス、強靭なウッディネスと古びたファンキネスなどが渾然一体となった長熟バーボンの醍醐味を味わえます。
試しに今回の新しい12年と、とっておいた12の文字が青色の旧ワイルドターキー(即ち最も現行に近い物)をサイド・バイ・サイドで飲み較べてみると、旧の方がアルコールの刺激が少なく、やや味が濃いように感じました。これは開封からの経年でしょう。そうしたアルコールの力強いフレッシュ感を除くと、フレイヴァーの方向性は概ね同じに思いました。両者はかなり似ています。強いて言うと、青12年の方が枯れたニュアンスがやや強く、新12年の方がグレイン感が強めですかね。
地域限定販売となるこの12年101をなんとか手に入れた海外のバーボン・レヴュワーの評価は頗る良く、私のレーティングに換算すると大体92〜95点くらいを付けているイメージなのですが、率直に言うと私としては大好きなワイルドターキーではありません。その理由は、マスターズキープ・シリーズの長熟物やファザー&サン等に共通の「何か」のせいです。その何かとは、おそらくワイルドターキーの大家であるデイヴィッド・ジェニングス氏がこの12年101のテイスティング・ノートで「強烈なメディシナル・チェリー」と記述したものだと思われます。彼の仔細なテイスティング・ノートを見ると明らかに同じ物を飲んでいると感じる(表現は雲泥の差だとしても…)ので間違いないかと。この風味、私はバーボンに欲してないんですよね。
チェリーついでに言うと、これは喩えですが、(青12年よりもっと前の)大昔のターキー12年が「チェリー」そのものに近く感じるとしたら、近年の長熟ターキーは「チェリーコーク」と感じます。つまり大昔の物も近年の物もどちらも同じチェリー感がありながらも、どことなく違う風味で、昔の方が美味しかったように感じるのです。勿論、大昔の12年のようなプロファイルがどこのメーカーであれ現代のバーボンにないのは当然の話であり、較べる脳でいることが駄目なのかも知れません。それに、味の違いを分かる大人のように書いておいて、ブラインドで飲んだら全くトンチンカンな答えを言う可能性も大いにあります(笑)。
そうそう、もう一つ苦手な点を挙げるとすれば、オレンジの存在感です。バーボンの長熟物でオレンジっぽい柑橘風味が現れることが多いと思うのですが、私はオレンジよりアップルやグレープに喩えられる風味が現れる方が好きなのです。どうも近年の長熟ターキーはオレンジが感じ易い気がして…。皆さんはこのワイルドターキー12年について、或いは新旧の違いについてどう思われます? コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。

Value:上で文句と受け取られかねないことを言ってしまってますが、私はワイルドターキー好きであり、この新しい12年を評して日本の或るバーテンダーさんが言っていた「現行としては良いよね」と云う言葉に賛同します。日本では7000円前後で購入出来ます。どうもその他の市場より割安みたいですし、昨今の長熟ウィスキーの高騰から考えると、特にアメリカ人からしたら信じ難いほどのお買い得な価格です。我々は「日本人の特権」を行使しましょう。

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今回はジャグに入ったジョージディッケル・オールドNo.12ブランドを飲んでみます。ジャグの底には1988とあるのでボトリングはその年だと思われます。ジョージディッケルのブランドの歴史や蒸溜所の紹介は過去に投稿していますのでそれらを参照して下さい。

ガラス製のボトルがまだ高価だったため、安価なガラス・ボトルが普及する以前の1900年代初頭までは、アルコールはバレルのまま売られていました。バーやリカーストアはバレルを蒸溜所や仲介業者から直接購入し、顧客は自分のグラス、フラスク、デキャンタ等に酒を入れ買いました。そして多くの蒸溜所や販売業者がブランド名の入った陶器のジャグを提供していました。ガラス・ボトルが一般的になった後も、幾つかのブランドは懐古主義的に?ウィスキーをジャグに入れ販売していました。ミクターズやヘンリーマッケンナ、或いはマコーミックのコーン・ウィスキーなどは特にジャグとの繋がりが強い印象があります。ディッケル・ウィスキーも画像検索ですぐ見つかるものに1976年製のジャグがありました(参考)。私が飲んだ物と概ね似たような形状に見えるので、これの復刻版が今回の物ということなのかも知れません。形状で言うと、ディッケルは今回のオールドNo.12ブランドと同型の色違いで、裏面にカントリー・シンガーのマール・ハガードがプリントされたオールドNo.8ブランドの黒い(もしくはダーク・ブラウン?)ジャグを1987年に発売しています。
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ウィスキー・ビジネスにとって暗黒時代の真っ只中だった1980年代半ば、ディッケルはハガードを広告キャンペーンに採用していたようです。そしてジョージディッケル・ウィスキーはマール・ハガード・アンド・ザ・ストレンジャーズによる1987年のエイント・ナッシン・ベター・ツアーを後援し、その一環として様々なグッズが製造されました。オールドNo.8ブランドの黒いジャグもツアーに合わせた物なのでしょうか? 発売年代から考えると、今回のオールドNo.12ブランドの白いジャグは、ハガードのジャグの姉妹製品というかセットの上位モデルという位置づけと見ることも可能かと…。

これは現在スーペリアNo.12レシピと表記されている現行品の古いものな訳ですが、このジャグが通常のガラス・ボトルの物と較べて中身にクオリティの差があるのかどうかは分かりません。当時はまだ「バレル・セレクト」や「ハンド・セレクテッド」などのヴァリエーションがなかったので、ジャグに特別に選ばれたバレルが使用された可能性もなくはないですが、この頃のディッケルにはプレミアム・ウィスキーの概念がなさそうな気がするので、おそらくガラス・ボトルとジャグにそれほど明確な差はないと思います。
ちなみにディッケルが製品に付けたナンバー「8」や「12」は、紛らわしいことに熟成年数ではありません。シェンリーがジャックダニエルズの対抗馬としてジョージディッケルを作成した時、彼らは消費者調査を行い、21以下の数字を全て調べました。結果、既にジャックダニエルズ・オールドNo.7で使われていた「7」を除くと「8」と「12」が次に最も人気のある番号であることが判りました。そこで、その数字をブランドに採用したと言われています。おそらく酒名に人名を用いることやNo.8の白と黒を基調としたラベルはJDを意識していたと思います。品名にナンバーを付けるあたりもジャックダニエルズへの剥き出しのライヴァル心からだったのではないでしょうか。
と言う訳で、一部の熟成年数が明記された製品を除き、No.8と12は発売当初から現在に至るまで全てNASのウィスキーです。それ故、販売された年代によって中身の熟成年数は様々で、我々は正確に知ることが出来ません。70年代のNo.12はバックラベルに5年熟成と書かれていたとの情報もありました。過去にマスター・ディスティラーを務めていたデイヴィッド・バッカスによると、No.12は平均して7~8年熟成だがもっと古いウィスキーのこともあり得ると言っていました。実際、90年代に発売されたバーボン・ヘリテッジ・コレクションでは10年物のウィスキーが使われ、また海外ではNo.12ではなくディッケル10年として販売されていたものがあったとの話もありました。
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(左はUDのBHC、右はおそらくヨーロッパ向け?)
そしてジョージ・ディッケル蒸溜所は過剰生産のため1999年2月に停止、2003年までの期間閉鎖されています。その間、既存の在庫は熟成され続けたでしょう。再出発した時、つまり2000年代初頭から中期に掛けてNo.12ブランドに含まれるウィスキーの中には、過剰生産時代のバーボンのように古いストックが混じり12年物に近づいたり超えたりしたものもあったのかも知れない。尤も、休止期間中も既存の在庫は販売され続けていた筈なので、先入先出方式?の在庫管理で長熟ウィスキーはそれほどなかった可能性もあります。とは言え、後に長熟のディッケルが販売されたところからすると、絶えず長熟ウィスキーは存在していたのではないかとも思えます。まあ、全ては憶測に過ぎません。で、今回のこの80年代後期のオールドNo.12ブランドのジャグですが、アメリカ本国のバーボン需要が下火だった時代背景から考えると、8〜10年もしくは10年超のウィスキーではないかと予想しています。 では、そろそろウィスキーを注いで試してみましょう。
と、その前に…。この記事のために色々とバーボン系ウェブサイトで取り上げられたディッケルに関する情報を読み漁っていたら、そのマッシュビルをNo.8はコーン84%/ライ8%/モルテッドバーリー8%、No.12はコーン84%/ライ10%/モルテッドバーリー6%としているものを見かけました。私自身はディッケルのマッシュビルは前者しか知らなかったので驚きました。これって、いつの頃からか両者をマッシュの微調整で造り分け始めたのか、それとも単なる間違いなのか、或いは近年マッシュビルの変更があったのか…。最新の情報をご存知の方がいましたらコメント頂けると助かります。

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George Dickel Old №12 Brand Ceramic Jug 90 Proof
推定88年ボトリング。赤みを帯びた濃いめのブラウン。ビターなカラメルソース、砂糖漬けオレンジ、オールドコーン、ブラウンシュガー、ベーキングスパイス、いちじく、土、アプリコット、ラヴェンダー、花火。円やかでソフトな刺激が少ない口当たり。味わいは、酸味を仄かな甘さと穏やかなスパイスが包み込むといった感じ。余韻はややビターでタバコっぽさも。
Rating:86.5/100

Thought:そこそこ古いお酒ですがオールド臭はあまりなく、陶器ボトルにありがちな鉛風味もなく、とてもいい状態でした。海外の多くの人はジョージディッケルの特徴的なキャラクターをフリントストーンズ・チュアブル・ヴァイタミンのような味だと説明しています。私はそれを口にしたことがないのですが、おそらくディッケル特有の酸味とちょっとした苦味のことを指しているのではないかと思います。仮にそれが正しいとして、その風味が過剰であるか、又はそもそも苦手な人は、ディッケルをあまり評価しません。斯くいう私も、テネシー・ウィスキーのニ大巨頭であるジャックダニエルズとジョージディッケルを較べると、その風味がないジャックの方が遥かに好みです。で、このジャグはそのディッケルの著名な風味が過剰ではなく、その他のフレイヴァーとギリギリ良いバランスを保っていたので、美味しく感じました。と言うか、私が今まで飲んだディッケルで最も美味しく感じました。その風味の由来は、個人的にはイーストと水と長期間の熟成が主な要因となって醸されるのではないかと考えています。と言うのも、15〜18年の熟成年数では、そこにあるべきではない味わいがあるとして、ディッケルは古いものが良いとは限らない典型的な例だと言う人がおり、私自身も飲んだ印象で長熟気味の方がこの風味を感じ易い気がするのです。現行のNo.8には全く感じず、昔のNo.8にはかなり感じ、現行のNo.12やバレルセレクトには少しだけ感じる、と言った具合です。皆さんはどう思われるでしょうか? コメントよりどしどしご意見ご感想お寄せ下さい。

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(画像提供Bar FIVE様)

ブーンズノール16年は、ケンタッキー州コヴィントンのゴードン・ヒューJr.が所有していたミクターズ・ウィスキー(ペンシルヴェニア1974原酒)をジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が輸出専用としてヨーロッパ市場向けに256本だけボトリングしたものでした。中身は16年物のA.H.ハーシュ・バーボンと同じとヴァン・ウィンクル自身が語っています。A.H.ハーシュ名義の物より本数が少ないせいか、セカンダリー・マーケットではより高価になったりします。世界的に有名な「決して味わえない最高のバーボン」であるA.H.ハーシュについては過去に投稿したこちらを参照下さい。ブーンズノールというブランド自体は禁酒法以前からありました。ジュリアン3世もしくはゴードンがどうしてその名を採用したのかは分かりません。おそらくこのブーンズノール16年と過去のブランドに直接の関係はないと思いますが、今回は興味深いオリジナルのブーンズノールとそれを造った蒸溜所を紹介してみたいと思います。

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ブーンズノールは19世紀後半からE.J.カーリー蒸溜所で造られていたブランドでした。創業者のエドワード・J・カーリーは1836年アイルランドのチュアムで生まれ、子供の頃マサチューセッツに移住しました(1837年にアイルランド移民の両親のもとマサチューセッツに生まれたとの説も)。カーリーの幼少期については殆ど知られていませんが、南北戦争中、マサチューセッツ騎兵隊に志願し、ケンタッキー州に渡ってユニオン・アーミーの購買部門で働いたようです。当時レキシントンとその周辺を押さえていたユニオンは、レキシントンからそう遠くないケンタッキー・リヴァー沿いのジェサミン郡にキャンプ・ネルソン(*)と呼ばれる奴隷解放された黒人を集めて兵士になるよう訓練する目的の施設を建設していました。オハイオ以南で最大のユニオンの拠点であり補給基地でもあったキャンプ・ネルソンに駐屯し、キャンプのために家畜、飼料、穀物などを調達することがカーリーのエージェントとしての仕事の大半を占めていたとされます。
カーリーは戦後もケンタッキー州に留まり、1867年に他の二人とパートナーシップを結んで蒸溜所を立ち上げました。パートナーの一人はミシガン州在住でユニオン・アーミーのコミッサリー・デパートメントのキャプテンだったドワイト・A・エイケンで、もう一人はキャンベルという人だったようです。彼らが蒸溜所のために選んだのはキャンプ・ネルソンのすぐ近く、ケンタッキー・リヴァーとヒックマン・クリークの北岸に位置する場所でした。この地域は開拓時代には重要な場所だったそうで、断崖の切れ目がヒックマン・クリークの河口の下のケンタッキー・リヴァーを渡る浅瀬に通じており、ダニエル・ブーンはここを好んで横断したらしい。それが理由ですぐ傍らの小山はブーンズ・ノールと呼ばれるようになったのでしょう。カーリーらの蒸溜所はブルー・グラス蒸溜所と呼ばれ、連邦政府からの登録番号はケンタッキー州第8区のRD#3でした。このプラントはアイアンにオーク材のラックで建造され、木材は敷地内のミルで製材されました。敷地内には自らのクーパレッジもあり、この地域の豊富なオークを使ってステイヴを供給していたそうです。倉庫にはライトや換気や防火のための最新技術を取り入れていたとされています。また、元々はウッデン・スティルだったのが後に取り壊され、品質管理に有利なカッパー・スティルが使われるようになったとか。彼らの製品はブルーグラス・ウィスキー(バーボンとライ)として販売され、これは「ブルー・グラス」という言葉を初めて商業的に使用した例となり、カーリーは瞬く間にこのブランドをアメリカ全土に知らしめました。何時かは判りませんが、シカゴのバイヤーに8600バレルを現代に換算して1900万ドルで売却したことが記録されたと伝えられます。1872年6月、カリフォルニア州サクラメントの新聞に掲載されたカーリーの地元の販売代理店が出した広告では、生産される酒の量より質により多くの注意を払い、製造に使用する水はケンタッキー・リヴァーの崖にある泉から湧き出る特殊な性質のもので、カーリーのウィスキーは経営者だけが知っているレシピで昔ながらの方法で造られている、と紹介されました。1874年には3人のパートナーシップは解散、エイケンはレキシントンに移って既存の蒸溜所を借り、D.A.エイケン&カンパニーとして1882年に火災と財政問題で閉鎖されるまで操業したらしいですが、キャンベルの方はどうなったかよく分かりません。ともかくカーリーはブルー・グラス蒸溜所の単独経営者となり、自分のウィスキーが全米で愛飲されていることを実感していました。
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(ラス・サットン氏のFacebook投稿より)
1880年頃、カーリーは対岸に立派で頑丈な石造りの2番目の蒸溜所を建設し、鉄骨の橋で連結します。こちらはブーンズ・ノール蒸溜所(第8区RD#15)と命名されました。当時の記録によると、マッシング・フロアーやファーメンディング・ルームの温度は一年中安定しており、配管や機械なども新しく効率的だったとされます。ブルー・グラス蒸溜所は一日600ブッシェルの穀物をマッシングする能力があったものの、その限界まで稼働することはなかったそうで、一方のブーンズ・ノールのプラントは或る時にキャパシティを増やし、1日1100ブッシェル、1日100バレルの生産能力があったようです。この二つの蒸溜所は本質的に一つとして運営され、貯蔵施設は共有されていました。サンボーン・マップや1892年の保険会社の記録によると、敷地内には15の主要な建物、4つの共同倉庫、ワゴン・トレイル、牛小屋や畜舎などがありました。カーリー(もしくはその後の所有者。後述)はE.J.カーリー&カンパニーの名の下でここを運営し、何時しかE.J.カーリー蒸溜所(またはキャンプ・ネルソン蒸溜所とも。サンボーン・マップにそうかれていた)と呼ばれるようになり、最高級のケンタッキー・ウィスキーを安定的に生産しました。主要ブランドはブーンズノール、ブルーグラス・バーボンとライで、他にロイヤル・バーボンというのがあったようです。
禁酒法以前のウィスキーに詳しいジャック・サリヴァンによると、東海岸での販売については、カーリーは限られた生産量の多くをニューヨークのチャールズ・フローブの会社に委ねていたそうです。1880年あたりから1900年代初頭に掛けて酒類卸業で成功を収めた彼の主力ブランドはブルーグラス・ライで、セラミック・ジャグやガラス・ボトルに入れて販売されました。フローブはブルーグラス・ライのブランドを精力的に宣伝し、非常に消化が良いし滋養があり完全に自然であるとして、「身体を活気づけ、吐き気を催さないため、療養に最適。 そのドライネスは糖尿病疾患に先ず必要である」と広告でその薬効を強調したとか。また、当時の多くの販売会社と同じように酒場の客向けにカラーのサルーン・サインを発行し、それにはケンタッキー・リヴァーを望むダニエル・ブーンが描かれたものがありました。しかし、そうしたマーケティングだけではどうにもならず、当時の他の蒸溜所と同様にE.J.カーリー&カンパニーも抑圧的な連邦税法と経済の悪化が重なったことで財政難に陥り、1889年、カーリーの馬と荷馬車は税金未納のため押収されたと言います。同年、カーリーは自分のインタレストを所謂ウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニーに売却し、ニューヨークに移りました。この投資家グループは蒸溜所を買収して準独占状態を作り出すことでケンタッキー・ウィスキーからの利益を急増させようとしていたのです。トラストはカーリーの後任として新しいマネージャーにレキシントンの卸売酒類ブローカーのオーガスト・C・グッサイトを任命しました。トラストによって取得され閉鎖されてしまった多くの施設とは異なり、ブーンズ・ノール蒸溜所は禁酒法の到来によって完全に閉鎖されるまでの約20年間、カーリーのブランドの生産を継続したようです。カーリーの「ビジネスは何年にも渡って急速に成長し、ケンタッキー・バーボン生産の90%を掌握した後、彼は1902年にニューヨークでディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションを設立した」との情報もありましたので、もしかするとカーリー自身がトラストの幹部になったのかも知れませんが、ここらへんの詳細は私には分かりかねます。詳しいことをご存知の方はコメントよりどしどし追加情報をお寄せ下さい。

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(1905年頃の蒸溜所。すぐ左手にカヴァード・ブリッジが見える)

カーリーは、ケンタッキー・フライドチキンのハーランド・デイヴィッド・サンダースやブラントンズ・バーボンの由来となったアルバート・ベイコン・ブラントンのように、ケンタッキー州の名誉職として多くの人に与えられている「カーネル」の称号を何時しか得ていました。明らかに長期的な視野で蒸溜所を建設し運営していた彼は、ウィスキー事業に全力を注いでいたからなのか、結婚していませんでした。そのためでもないでしょうが、彼の晩年は少し寂しいものだったようです。カーネル・カーリーはニューヨークに移った後、ヨーロッパのどこかで事故に遭って脚を失い、数年の闘病生活を経てモンテカルロで1922年に亡くなったとされます。ケンタッキー・ウィスキーで築いた1000万ドルとも伝えられる財産を甥の息子達に遺して。この大金を受け継いだのはマサチューセッツ州ヘイヴリルに住むパトリックとジェイムス・キャニングの二人でした。この幸運を知らされた時、靴職人だった彼らは少しも動揺することも興奮することもなかったと言います。「もう歳だから、我々のやり方を変えるのは無理だよ。25年も靴を作り続けているんだから、これからもずっと続けるさ。家はペンキで塗り替えようかな、あと、もちろん、三人の娘には何でも好きなものを持たせてあげてね」とジェイムス。「そうだね」とパトリックも同意して「私たちはこの幸運を祝って、このまま靴工場に留まるわ」、「大富豪の生活を送るより、靴を作りたい」と語りました。ちなみにエドワードの兄弟M.H.カーリーはボストンの政治家として有名だったようです。

禁酒法の制定により閉鎖されたE.J.カーリー蒸溜所(RD#15)は、立派な石造りの外観を呈し、内部も美しい木材で造られていたため、1923年頃、ケンタッキー・リヴァーと断崖を望むリゾート・ホテルとしてダニエル・ブーン・ホテルへと改築されました。しかし、このホテルは世界恐慌が始まったことで開業することはなく、禁酒法が撤廃されるまで空き家となっていました。一方その頃、残ったウィスキーとブランドはトラストの後継組織であるアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS。後のナショナル・ディスティラーズの母体)が引き継いでいました。同社はドライ・エラにメディシナル・ウィスキーとしてボトリングすることを許可された6社のうちの1社でした。AMSを始めとする彼らは禁酒法によって閉鎖された小規模蒸溜所の酒類を買い取り、自社の集中倉庫に貯蔵していたのです。それらのウィスキーは多くの場合、蒸溜元とは異なる会社によってボトリングされ、医師の処方箋があれば手に入れることが出来ました。
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(禁酒法時代にボトリングされたオールド・ブーンズノールのメディシナル・パイント)

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禁酒法が解禁された後の1934年、グラッツ・ホーキンスらがこの土地を買い取り、蒸溜所の建物を改築して元の目的に戻し、新しい倉庫を建てて、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所という名で操業されることになり、レジスタード・ナンバーも新しくなりました(RD#45)。これはジョージ・T・スタッグのカーライル蒸溜所(第7区RD#2)が1910〜19年に名乗ったのと同じ名前ですが別物です。その後、工場はビル・トンプソンに買収され、F. B.ミッチェルのマネジメントのもとオールド・レイジー・デイズというブランドを追加したらしい。で、ここからなのですが、サム・K・セシルの本によると、トンプソンは1960年代の或る時期にプラントをノートン・サイモンに売却したとしていますし、他の情報源の多くも60年代にこの蒸溜所がノートン・サイモンに売却されたとしています。しかし、ニューヨーク・タイムズの1959年8月14日の記事によると、カナダ・ドライ社(**)はバーボン・ウィスキーの製造会社であるケンタッキー・リヴァー蒸溜所をプライヴェート・グループから買収したとあり、同社は1955年以来ウィスキーを「カナダドライ・バーボン」として自らの商標で販売して来たとありました。そして画像検索では1957年ボトリングの6年熟成とされるカナダドライ・バーボンが見つかりました。カナダ・ドライ社は1950年代以降、製品拡張に努めていたようで、ソフトドリンクを缶で販売することを大手企業としては早い段階に手掛けたり、カロリーゼロかつ砂糖不使用を謳うダイエット製品ラインであるカナダドライ・グラマーを主要な清涼飲料メーカーとして初めて1954年に発売しています。おそらく彼らは1950年代半ばから同ブランドでスピリッツも展開し始め、手始めにバーボンをケンタッキー・リヴァー蒸溜所に委託して生産していたのではないでしょうか? こうした供給元が販売会社によって買収されるのはよくある話です。
カリフォルニアの食品実業家ノートン・サイモン(1907-1993)は、自身のハント・フーズの利益が拡大するにつれ、成長が期待できる他の割安な企業の株を買い始め多角化を図りました。彼は多大な成功と市場支配力を持ち、持株会社のノートン・サイモン・インコーポレイテッドを通じて買収を続け多岐に渡る事業を展開しました(ハンツ・フーズ、マッコールズ・パブリッシング、サタデー・レヴュー・オブ・リテラチャー、テレビ制作会社タレント・アソシエイツ、カナダ・ドライ社、サマセット・インポーターズ、グラス・コンテナーズ・コーポレーション、ユナイテッド・カン・カンパニー、マックス・ファクター・コスメティックス、エイヴィス・レンタル・カーなど)。サイモンは或る時カナダ・ドライにも関心を持ち、彼の会社と合併させました。この取り決めの下でカナダ・ドライは、ワインとハード・リカーのボトラーおよび輸入業者であるサマセット・インポーターズの子会社として役割を果たしたのではないかと思われます。当時サマセットの社長はポール・バーンサイドで、ノートン・サイモン社はケンタッキー州ジェサミン郡ニコラスヴィルのプラントをカナダ・ドライ蒸溜所として運営しました。この蒸溜所でカナダ・ドライのバーボンを蒸溜し、ジンやウォッカを瓶詰めし、ドメックのブランドでブランディも瓶詰めしていたそうです。ちなみにカナダ・ドライのバーボン、ジン、ウォッカは管理州(***)でのみ販売されていたとか。
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60年代半ばからはカナダドライ・バーボンの広告も開始されたらしく、67年の広告では「良い響きの名前はバーボンの世界の伝統です。しかし、良い響きの名前はバーボンの味には何の役にも立ちません。カナダ・ドライはバーボンの味のために何かをしました。我々はそれをより滑らかにしたのです」と語られました。当時はライトな風味が求められる風潮もあってか、滑らかさを強調したのでしょう。しかし、どうやらカナダドライ・バーボンの売れ行きは芳しくありませんでした。サマセットがバーボン・ビジネスに参入しようと考えた時、バーンサイドはカナダ・ドライ・ブランド用のバーボンを必要以上に生産していたようです。しかも、なんでも倉庫の問題で一部のバーボンは品質が悪くカビ臭かったらしい。税金が掛るバーボンの在庫を抱えることは彼らの計画にそぐわず、売れなかった粗悪品を捨てる場所を探すしかありませんでした。1972年、巨大なコングロマリットであるノートン・サイモン社は、ジェファソン郡シャイヴリーにある評判の高いスティッツェル=ウェラー蒸溜所(RD#16)をヴァン・ウィンクル家から買収しました。そこでスティッツェル=ウェラー蒸溜所は暫く生産を停止し、余ったカナダドライ・バーボンの殆どを新たに買収したスティッツェル=ウェラーの最下位製品であるキャビン・スティルというブランドに混ぜ入れ、明らかに悪いウィスキーをカモフラージュしました。そのため伝統あるキャビン・スティル・ブランドは台無しになり、凋落が始まったという話が伝わっています。また、カナダ・ドライのバーボンはスティッツェル=ウェラーのウィーテッド・バーボンとは異なるライ・レシピのバーボンだったようです。正確な時期は判りませんが、カナダドライ・ブランドの終わり間際の短期間、ラベルには「Stitzel-Weller's」との文字が現れました。
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(E.J. Curley & Co.のウェブサイトより)
先のセシルによると、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所は、一時期はエド・キミンズがマネージャーを務め、グラッツ・ホーキンスの甥であるメル・ホーキンスがディスティラーをしており(メルはカナダ・ドライ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーだった)、他にはメンテナンス担当のプラグ・ジョンソン、倉庫管理担当のレイ・クラークなど、長年の従業員がいたようです。ノートン・サイモン下でマイク・ソタクが全体のマネージャーになり、エド・ズィーグラーが化学者、ジーン・ストラットンがオフィス・マネージャーを務めたとされています。そして、この蒸溜所は1971年に操業を停止したとの情報がありました。近くに住んでいた人の話によると、1981年くらいには廃墟となっていたようで、後の1987年頃、どこかの愚か者がその場所を焼き払い、蒸溜所の建物は全焼したそうです。蒸溜所はとうになくなってしまいましたが、ケンタッキー・リヴァーのジェサミン郡側、ハイウェイ27号線のすぐ西にあるキャンプ・ネルソンのリックハウスはまだ残っています。その倉庫は一時期シーグラム社にリースされ、アンダーソン郡の工場(オールド・プレンティス蒸溜所)で生産していたものを同社がロータスに平屋造りの熟成庫を建設するまで保管していました。更にその後はアンダーソン郡のブールヴァード蒸溜所にリースされ、現在でもワイルドターキーが使用しています(注*参照)。

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偖て、ここまでブーンズノールを造っていた蒸溜所の歴史を紹介して来た訳ですが、ブーンズノールというブランド自体はAMSからナショナル・ディスティラーズが引き継いでいるようなので、禁酒法解禁後はケンタッキー・リヴァー蒸溜所では造られなかったのではないかと思います。上画像のオールド・ブーンズノールのラベルはナショナルの製品であることを示しています。製造はピオリアやルイヴィルのナショナルが所有していた施設なのでしょう。但し、これらが実際に販売されたのかどうか私には分かりません。少なくとも、大々的にキャンペーンされたり、長い期間販売されていた形跡はないので、50年代まで生き残らなかった可能性は高いのでは? おそらくナショナルは何時しかこのラベル(名前、トレードマーク)を放棄したのではないかと思います。
そうして長い年月を経て、歴史の塵となって忘れられたブランド名が、ラベル・デザインは全然違うものの、1990年代になって突如として現れます。冒頭で述べたようにジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がゴードン・ヒューJr.のためにブーンズノールの名で16年物のミクターズ・バーボンをボトリングしたのです。繰り返しますが、何故ジュリアン3世がこのブランド名を採用したのか分かりません。このブランドは、彼が祖父の“パピー”から受け継いだラベル帳にコレクトされているのがムック本『ザ・バーボン PART3』の特集記事で確認できるので、ジュリアンがその存在を知っていたのは確実だと思われ、もしかすると名前が気に入っていたのかも知れませんね。それは兎も角、ブーンズノール16年はごく限られた本数しかなかったせいもあり、知る人ぞ知る存在であって、ブーンズノールの大復活とはなりませんでした。

そして、またもや長い年月を経て、バーボン・ブームに湧く現在、なんと新しいE.J.カーリー&カンパニーが発足し、歴史ある蒸溜所をジェサミン郡に復活させると2021年にアナウンスされました。新興E.J.カーリー社の社長マシュー・パーカーは、「ジェサミン郡で唯一の蒸溜所となることを嬉しく思っています。キャンプ・ネルソンとブーンズ・ノールの歴史はコモンウェルスにとって輝く星であり、E.J.カーリー社の元の場所でアメリカのスピリッツの生産を復活させることに感激している」と語っています。彼らは1800万ドルを投じる計画で、プロジェクトの第一段階には500万ドル以上の投資が含まれ、キャンプ・ネルソンのケンタッキー・リヴァー・パリセイズにあるオールド・ダンヴィル・ロード7777番地に、22500平方フィートの施設を建設するとのこと。新しい蒸溜所でのスピリッツ生産は2022年5月までに開始され、テイスティング・ルームも開設される予定だそうです。CEOであるリック・ベイカーは「第2期の1000万ドルの新規設備投資により、生産能力を年間15000から18000バレルに増強し、同じくジェサミン郡に大規模なリックハウス貯蔵施設を建設する予定です」と述べていました。今のところは「E.J.カーリー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のスモールバッチとシングルバレルの2種類が発売されています。ユーチューブのバーボン・レヴュアーが取り上げていたので見たところ、その味わいはなかなか良さそうでした。これらはケンタッキーの何処かの蒸溜所から調達されたものでしょう。
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(新しいE.J.カーリー社のウェブサイトより)
1860年代後半に遡るそもそものE.J.カーリー蒸溜所はジェサミン郡に深く根ざし、周辺地域の住民の家族の多くは歴史的にその会社と結び付いていました。新しい蒸溜所もそうした雇用を創出すると期待されています。我々バーボン愛好家にとっては自社蒸溜原酒がどんな味わいになるのか、今後が楽しみですね。

では、そろそろ最後にジェサミン郡とは取り立てて関係なく、ケンタッキー産ですらないブーンズノール16年を飲んだ感想を少しばかり。こちらは大宮のバーFIVEさんのメンバー制ウィスキー倶楽部にて提供されたものです。マスターとバーテンダーのNさん、いつも貴重なバーボンをありがとうございます!

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(画像提供バーFive様)
BOONE'S KNOLL 16 Years Old 91.6 Proof
推定90年代初頭ボトリング。色は赤ぽさもオレンジぽさもある艷やかなブラウン。曇ってはいないが、何かの粉でも入ってるのかしらというほど微粒子が見える液体。枯木のような樽の香ばしさ、黒糖のような甘い香りと穏やかなスパイスが薫るエレガントなアロマ。水っぽい口当たり。パレートは香りを引き継ぐがフルーティさがやや足りない。余韻は複雑なハーブ&スパイスとオールドオークのビターな風味が長く続く。ただ、どうもボトリング・プルーフが低すぎる印象はあった。
Rating:88/100


*キャンプ・ネルソンは、アンブローズ・エヴェレット・バーンサイド少将のテネシー州への進軍を支援するため、1863年6月12日に設立され、北軍の補給基地、訓練センター、ホスピタルとして使用されました。名前はウィリアム・ネルソン少将にちなんで付けられています。北軍の指揮者は防衛のし易い場所としてジェサミン郡ニコラスヴィルの南の地を選びました。ケンタッキー州とテネシー州から集められた兵士の訓練施設としても機能しましたが、ユニオンのほぼ全ての州からの部隊がキャンプ・ネルソンに駐屯したり通過したりしたそうで、最盛期には300以上の建物があり、3000人以上の兵士を駐屯させることが出来たそうです。
キャンプ・ネルソンは南北戦争中にケンタッキー州にある8つのアフリカ系アメリカ人徴集センターの中で最大かつ国内で3番目に大きいユナイテッド・ステイツ・カラード・トゥループス(USCT)の徴集センターおよび訓練施設となりました。入隊に関する全ての制限が1864年6月までに撤廃されると、アフリカ系アメリカ人の入隊者数は爆発的に増加。以前は奴隷だった彼らは入隊することで解放され、1864年と1865年で10000人以上の奴隷だった男性がキャンプ・ネルソンで兵士になったと言います。自分達の自由を確保し、最終的には奴隷制の破壊に貢献することで自分の未来をコントロールすることを期待して、何千人ものアフリカ系アメリカ人が奴隷保有州のケンタッキー内に在るこのキャンプに命掛けで逃げ込みました。彼らは妻や子供ら家族を連れてキャンプ・ネルソンにやって来たためキャンプは難民で溢れ返り、この状況にどのように対応するか明確な命令がないままキャンプ指揮官達は自分達の手で問題を解決することを余儀なくされ、1864年、キャンプ・ネルソンの指揮官だったスピード・S・フライ准将は難民の住居を焼き払い強制的に退去させました。避難所も食料もなく多くの人が病気に罹り死んで行ったそうです。北軍幹部とアフリカ系アメリカ人兵士はこの処置に難色を示し、フライはこの命令を取り消して難民キャンプを設立せざるを得なくなりました。キャンプの運営には宣教師たちが協力し、学校や教会のサービスを提供しました。宣教師の中で最も注目されたのは、ジョン・G・フィー牧師です。フィーは奴隷制度廃止論者で、ブリアー・カレッジを設立し難民に入学を勧めました。
キャンプ地の一部は1863年以来墓地として使用され、1866年までに1180人が埋葬されたと言います。南北戦争後、1866年にナショナル・セメテリーと名付けられた墓地はケンタッキー州の他の場所に埋葬されていた北軍死者の再埋葬に使用されました。1866年6月にキャンプ・ネルソン軍事基地は正式に閉鎖されましたが、キャンプと墓地の名残は保存され、現在はアルケオロジカル・サイトとして見学ツアーに開かれています。墓地の反対側には、嘗てシーグラムがフォアローゼズを保管するために使用し、今はワイルドターキーがウィスキーを熟成させている6つのリックハウスがあり、ここの倉庫から産出されるバレルはワイルドターキーで最高の物とされる場合もあってバーボン愛好家には有名です。
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(ボー・ギャレットが提供するワイルドターキーのキャンプ・ネルソン・リックハウスの配置が分かる画像)

**カナダ・ドライ社は1890年代に薬学者/化学者のジョン・J・マクラフリンによってトロントでスタートしたソーダ会社で、1904年にカナダドライ・ペール・ジンジャーエールを造りました。1919年にニューヨークへの出荷が開始され、奇しくもアメリカの全国禁酒法がカナダドライを人気商品にするのを助けました。禁酒に対して真面目な人は酒の代わりにカナダドライを飲み、禁酒に対して不真面目な人は違法な酒を手にした訳ですが、そうした酒の殆どは低品質でまともに飲めたものではなく、それらにカナダドライ・ジンジャーエールをブレンドすると酒の味をカヴァーしてだいぶ美味しくなり飲めるようになった、と。

***アメリカにおけるアルコール規制は、各州ごとに独自の規則があります。飲料用アルコールの規制システムには開放州(オープン・ステイト)と管理州(コントロール・ステイト)の二種類があって、ボトルが消費者の手に渡るまでに異なる経路を辿り、それぞれブランド構築のための異なる戦略が必要とされています。
開放州ではアルコール飲料の販売と流通は民間事業者が行いますが、依然として州議会によって規制されています。規制は主に免許制で行われ、州の裁量でアルコールの売買を許可するライセンスが民間企業に付与されます。開放州で事業を行うメリットは一般的に、リカー・ストアへのアクセスが良くなり、消費者にとって飲料の選択肢が増え、更により多くの商品へのアクセスが可能になるため管理州よりも価格が低くなる傾向があるところ。
管理州では政府機関がシステムの卸売りの側面を担当し民間の小売店に製品を配送するか、殆どの管理州が小売の側面も所有していることが多く、これは通常、州が運営するアルコール飲料管理局(Alcohol Beverage Control Board)の店舗という形で行われます。全ての管理州では、各製品の最低価格が州によって設定され、消費者のための価格が決定されます。一般的な管理州のメリットとしては、州の歳入、アルコール・プログラムへの支援や教育、節度ある消費の促進など。現在のアメリカでは以下の17州が管理州です。
アイオワ
メイン
ミシガン
ミシシッピ
モンタナ
オハイオ
オレゴン
ヴァーモント
ワイオミング
ウェスト・ヴァージニア
アラバマ
アイダホ
ニュー・ハンプシャー
ノース・キャロライナ
ペンシルヴェニア
ユタ
ヴァージニア
また、メリーランド州モンゴメリー郡は管理州制度で運営されていますが、州全体はそうではありません。

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2020年6月、アーリータイムズを長年所有していたブラウン=フォーマン社はブランドと在庫をサゼラック社に売却すると発表しました。このニュースは日本のアメリカン・ウィスキー愛好家の間でも驚きをもって迎えられました。日本に於いてアーリータイムズは、ジムビームやI.W.ハーパー、フォアローゼズやワイルドターキーと並ぶバーボンの超々有名銘柄であり、ブラウン=フォーマン時代のイエロー及びブラウンのラベルは確実に日本に根付いていたからです。この売却により、先ずは2021年5月末で日本限定の製品であったブラウンラベルが終売となり、ファンからは悲しみの声が上がりました。同年4月にはサゼラックから今後アーリータイムズは傘下のバートン1792蒸溜所にて消費者が愛好していたのと同じオリジナルのレシピとマッシュビルを使用して製造すると発表されていました。2021年の末頃になると、ラベルのデザインはほぼ同じながら従来のボトルと少しだけ形状が異なりキャップが金属製のサゼラックが詰めた新しいボトルが市場に出たようです。私はその新しいボトルを直接見たことがないのですが、当ブログへのコメントで知り、またYouTubeで投稿されているのも見かけました。なんでもイエローラベルが澱のせいで全回収されたという情報もネット上で見かけ、そのせいなのか分かりませんが、確かにサゼラック版のイエローラベルは市場にそれほど出回ってない印象があります。だから私が実物を見たことがないのかも知れません。日本での販売元だったアサヒビールは2021年12月8日に、イエローラベルの全4規格のボトル(1750ml、1000ml、700ml、200ml)は商品供給が追い付かないため一時休売とし、再発売の日程に関しては現時点で未定、決まり次第、当社ホームページにてお知らせします、と既にアナウンスしていた模様。2022年2月頃になるとソーシャル・メディアでイエローラベルが自宅の近くの酒屋にないと報告されていました。実際、私も同じ頃、遠方の友人から「自分の住んでる地域だと長年愛飲してるイエローラベルが入荷しないみたいで今エヴァンウィリアムスのブラック飲んでるんですけど何か他にオススメのバーボンありませんか?」とLINEで直接相談されました。もともとタマ数の多かったイエローラベルは、あるところにはあり、ないところにはたまたまない、といった状況だったのでしょう(これは今現在でもそうかも知れません)。戦争やコロナの影響もあって輸入が滞っているのだろうと思っていたら、数カ月後の6月22日、アサヒビールは公式にアーリータイムズの取り扱いが終了したことを発表します。えっ!?と驚いたのも束の間、翌23日には明治屋がサゼラック・カンパニーと日本市場に於けるアーリータイムズやバッファロートレース等の総代理店契約締結に向け合意に至り、上記ブランドを含む7ブランドの取り扱いを開始すると発表しました。へー、正規代理店が変わるのか、まあバートン産のアーリータイムズが安定して輸入されるならオッケーだよね、と思いつつ待つこと更に数カ月。明治屋は9月14日に、アーリータイムズ・ホワイトというアメリカン・ブレンデッド・ウィスキーを9月20日から順次全国の小売店へ出荷開始し、世界に先駆けて日本で先行発売するとのプレス・リリースを出しました。は?、ブレンデッド・ウィスキー!? よく知られるようにアメリカ国内流通のアーリータイムズのエントリー・クラスは、ウィスキーの一部を中古樽で熟成させているためバーボンを名乗れない「ケンタッキー・ウィスキー」です。それですらストレート・バーボンのアーリータイムズを飲み慣れた我々日本人にはおそらく不満足だろうと思われるのに、更にスペック的に劣るブレンデッド・ウィスキーになるだと? ウソ、やだ、もう何も信じられないわ!と驚いたのは私だけではなく、日本全土のバーボン好きがそうだったのではないでしょうか?

アメリカで「Blended whiskey」または「Whiskey a blend」と呼ばれるのは、少なくとも20%のストレート・ウィスキーを含み、残りはウィスキーまたはニュートラル・スピリッツで構成された製品のことです。その「残り」の部分(概ね75〜80%)には、ごく一部のケースではハイプルーフのライト・ウィスキーである場合もありますが、一般的にはグレイン・ニュートラル・スピリッツ(GNS)が使われることが殆ど。GNSはざっくり言うとウォッカのようなものです。そしてブレンデッド・ウィスキーは無害な着色料、香味料、またはブレンド材料を含むことが出来ます。
アメリカに於けるブレンデッド・ウィスキーの歴史はレクティファイアーが築きました。その起源はカラム・スティルの発明によってニュートラル・スピリッツの生産が可能になった19世紀初頭に遡ります。当時ウィスキーの品質は、蒸溜所間だけでなく、一つの蒸溜所内でもその操業毎に大きく異なっていました。品質は蒸溜所の職人のスキル、天候、その他多くの要因に左右され、おそらく最も重要なのは運だったとすら言われています。一貫性と品質の問題は、ジェイムズ・クロウ博士がサワーマッシュ・プロセスを標準化した後でも、まだ解決されずに残っていました。当時、蒸溜所で蒸溜されたウィスキーは直接消費者に届けられることはなく、先ずは流通業者に販売されました。彼らは自分達が購入した少し良いウィスキーとちょっと悪いウィスキーの品質を均一にするためにレクティファイアーになりました。「レクティファイ」は「修正する」という意味です。彼らには不出来な造りのウィスキーをレクティファイすることを通して市場価値のあるものに変化させる意図がありました。レクティファイアーの多くは1種か2種またはそれ以上のウィスキーを混合して自ら望むフレイヴァー・プロファイルを作成する一方で、出来の良くないウィスキーは再蒸溜してニュートラル・スピリッツに調整し、その後、熟成された良質のウィスキーと様々な割合で混ぜ、そこにカラメルや砂糖、シェリーやプルーンジュース等の雑多なフレイヴァーを加え、木炭または骨粉でフィルタリングを施したりして独自のブレンデッド・ブランドをクリエイトしました。これが今ブレンデッド・ウィスキーと呼ばれるもののルーツです。彼らの加えた着色料や香料の一部には身体に有害で危険なものも使用されていました。また、嘘の熟成年数の主張を含む汎ゆる種類の虚偽の主張を製品に対して行っていました。この慣習は今日のようなラベルには真実を記載しなければならないという法律がなかったため違法ではなかったのです。これらの問題が1897年のボトルド・イン・ボンド・アクトと1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクト、そしてストレート・ウィスキーやブレンデッド・ウィスキーを規定する1909年のタフト・デシジョンへと繋がって行ったのは歴史の知るところでしょう。
後のブレンデッド・ウィスキーであるレクティファイド・ウィスキーの風味は一般にストレート・ウィスキーよりも軽くてキツくなく、上質なストレート・ウィスキーを除いてバッチ毎の一貫性が高いのも特徴で、何より典型的なブレンドには熟成ウィスキーが殆ど含まれていないか使用率が僅かだったためストレート・ウィスキーに較べ遥かに安価でした。1831年以前には殆ど知られていなかったレクティファイド・ウィスキーはカラム・スティルが業界に導入されると徐々に増え始め、アメリカでの内戦後の1870年代にウィスキー業界が飛躍的に成長するとレクティファイアーも同じく成長し、その人気は着実に高まりました。禁酒法前の数十年間、アメリカで消費される全てのスピリッツの75〜90%がレクティファイド・ウィスキーだったと言います。禁酒法と第二次世界大戦の直後には、ブレンデッド・ウィスキーは人気がありました。どちらの場合もストレート規格の熟成したウィスキーが不足し、限られた供給量を確保する方法としてブレンデッド・ウィスキーの販売促進に努めたので売り上げが大幅に伸びたのです。しかし、この売れ行きは長くは続きませんでした。ストレート・ウィスキーが利用可能になると、販売比率はそちらに有利にシフトしましたし、更に後にはバーボンやライのストレート・ウィスキーを愛飲する消費者からはブレンデッドは淡泊過ぎて詰まらないと思われ、逆に軽めのスピリッツを好む消費者は中途半端なブレンデッドよりはウォッカに移行したのです。古典的なブレンデッド・ウィスキー全般のここ数十年に渡る売上は減少傾向にあります。しかし、シーグラムズ・セヴンクラウンなどはベスト・セリングのブランドであり続けています。殆どのブレンデッドは非常に安価で酒屋の棚の最下段を飾りますが、優秀なものには数十種類のストレート・ウィスキーが使用され一貫した風味が保証されており悪い商品ではありません。そして近年では、現在のウィスキー・ブームの恩恵を受け、GNSを含まない新しいブレンデッド・ウィスキーをクリエイトする動きがあり、今後は注目に値するカテゴリーとなっています。

偖て、そろそろアーリータイムズ・ホワイトとはどんなものか見て行きましょう。明治屋のプレスリリースを引用します。
近年、健康意識の高まりに後押しされたハイボールの定着、家飲みでの需要増加により世帯毎のウイスキー消費支出は上昇傾向にあります。
 
日本だけでなく世界的に見ても、ウイスキーやその原料となるモルトまでもが不足するなど注目を集め続けるウイスキー市場に、「アーリー・タイムズ」が新たな歴史を刻みます。
 
【商品特徴】
 
1.際立つ “なめらかさ”
最大の特徴は、その“なめらか”な味わいです。レモンピールが爽やかに香るトップノーズ。柑橘系の花から集めたハチミツのような潤いのある旨味。穏やかで角のない魅力的な余韻が長く続きます。ソーダで割ってハイボールにした時でも繊細なバランスは崩れることなく、お食事と共に日々楽しむウイスキーとしておすすめです。
 
2.規定の枠にとらわれない新たなチャレンジ
飲みやすさ、親しみやすさの追求によるアルコール類の淡麗辛口化傾向は、ビールや日本酒等でも見受けられますが、ついにウイスキーにもその流れがやってきます。「アーリー・タイムズ」は親しみやすい味わいをもつウイスキーとして“なめらかさ”の追求にチャレンジし、これまでの枠を超えた「アメリカン・ブレンデッド・ウイスキー」として『ホワイト』をリリースします。

更には、おそらくサゼラックから何らかの資料を受け取って書かれているのでしょうが、バートン1792蒸溜所のマスター・ディスティラーであるダニー・カーンに「今までウイスキーを飲まれなかったお客様や新たなウイスキーを求めるお客様にもきっと満足頂ける味わいです」とか、サゼラックのマスター・ブレンダーであるドリュー・メイヴィルに「各ウイスキーの特徴を見極め、“驚くほどなめらかな味わい”に向かい綿密に調和させていきました」と両者の顔写真付きでコメントを紹介しています。おまけにカーンからのメッセージ動画までありました。


少々誇大宣伝が過ぎるような気もしますし、具体的な中身(ブレンドの構成)について一言もないのも仕方のないところでしょうか。中身に関しては、希望小売価格が1500円程度、実売価格が1250円前後と考えると、GNSが大部分を占めると予想されます。アメリカ流通のラベルだと、ニュートラル・スピリッツの割合を記載しなければならない筈なのですが、国外向けだからなのか記載はありませんでした。ラベルのデザインは、まだブラウン=フォーマンが所有していた時代に導入された青いラベルのアーリータイムズ・ボトルド・イン・ボンド(後述)に準じていますね。このホワイト・ラベルは日本を皮切りに2023年以降、順次世界各国でも発売される予定だそうです。
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(Early Times Bottled-in-Bond)

私は明治屋のアーリータイムズのニュースを聞いて、イエローラベルがなくなり、それに代わって新しいホワイトラベルが発売されるのだと思い込んでしまいました。ネット上でもバーボンをブレンデッドにするなんて改悪だという趣旨の発言を見かけましたので、私と同様に皆もそう思ったようです。しかし、ここにはイエローラベルの“代わりに”ホワイトラベルを発売するとは一言も書いてありません。飽くまで新しい物を発売するとだけ巧妙に言っています。同じように、イエローがホワイトに“変わった”のでもなく、バーボンではない別の物がリリースされただけなのです。ネット上では他にもアーリータイムズを名乗るべきではないという趣旨の発言も見かけました。しかし、それを言うならエズラブルックスにも白ラベルのブランデッドがあるので、それに対してエズラを名乗るなと言わなければならないでしょう。ここで問題になっているのは、ブレンデッドがあることではなく、エントリー・クラスの4年熟成程度で80プルーフの買い求め易い価格のバーボンがないことの方なのです。よくよく考えてみると、ブラウン=フォーマンがブランドを売却したのが2020年、バートンが蒸溜すると発表されたのが2021年、ということは従来のアーリータイムズのような4年熟成程度の物を販売できるようになるのは早くて2025年です。その時になってみないと「エントリー・クラスの4年熟成程度で80プルーフの買い求め易い価格のバーボン」がブレンデッドに取って代わってしまったのかどうかの答えは出ません。熟成ウィスキーは商品化に時間の掛るものなのです。その時になってなお、そういうバーボンが発売されず、或いは発売されても日本に大量輸入されないなら、日本人にとっての「我らのアーリータイムズ」が本当になくなったことになります。少し、私の希望的観測を述べましょう。

このアーリータイムズ・ホワイトラベル・アメリカン・ブレンデッド・ウィスキーが発売されたのが2022年です。ブレンデッドは少なくとも20%のストレート・ウィスキーを含む必要があります。ストレート規格というのは最低2年熟成の物を言います。バートンがアーリータイムズの蒸溜を始めたのがサゼラックの買収完了時の2020年夏からだとしたら、現在の2022年秋は最も早い段階でブレンドにバートン原酒の2年熟成バーボンを入れることが出来ます。もしバートンの蒸溜開始が2021年からだとしたら、ホワイトにブレンドされた原酒はブラウン=フォーマンが蒸溜した最後期の原酒になるでしょう。どちらにせよ、2022年の段階で新しいアーリータイムズをリリースするのは、かなり急いでいるということです。だから、もしかするとサゼラックは日本の消費者を切り捨てたのではなく、寧ろ大事に思って早々にアーリータイムズを復活させたのではないか、今できる最大限の努力の結果がブレンデッドだったのではないか、と。勿論、それがビジネスの観点からの判断だったとしてもです。そして、アメリカ国内流通のアーリータイムズにはボトムシェルファーのケンタッキー・ウィスキーの他にもう一つ、先に述べたボトルド・イン・ボンドがあります。それは2017年に発売された当初、限定生産の予定でしたが、手頃な価格(1リットル25ドル)でクラシック・バーボンの風味を味わえると評判となってすぐにヒットし、レギュラーでリリースされる人気商品となりました。サゼラックも買収後にこれを継続して販売したので、バーボン系ウェブサイトやYouTubeでは二つのボトルを比較する企画が見られたりします(現段階ではサゼラック版もブラウン=フォーマン原酒でしょう)。明治屋からアーリータイムズ復活の報があった時、これが輸入されるかと思ったとネット上で語っている人もいました。どうでしょう、ボトルド・イン・ボンド(新樽で最低4年熟成)、ケンタッキー・ウィスキー(中古樽で3年熟成)、ブレンデッド(推定大部分がGNS)と並べてみて、あまりにブランドとして弱くないですか? ブラウン=フォーマンが長年保持したブランドを売却したのは、バーボンに関してはプレミアム路線(オールド・フォレスターやウッドフォード・リザーヴを指す)に一本化するためと発表していました。これはアーリータイムズをプレミアム化することを諦めた、もっと言うと商売にならないブランドだから売ったのではないでしょうか? 企業が儲かるブランドをわざわざ売るとは思えません。逆にサゼラックはアーリータイムズを売れるブランドに出来る自信があったから購入した筈です。なのにこのラインナップは、ボトルド・イン・ボンドとその他の製品間にスペックの差があり過ぎて、市場のニーズに隙間が空いています。例えば、4年熟成80プルーフ、6年熟成90プルーフ等があった方がいいじゃないですか。それに、あの象徴的なイエローラベルをブランディングに用いないなんてどうかしてる。或るブランドにヴァリエーションがある場合、通常は同デザインで色違いのラベルを採用してグレードの差を明示したりします。白いラベルは、先に例に出したエズラブルックスのブレンデッドと同じ色なのからも判るように、バーボンよりもクリアなイメージのブレンデッドに相応しいでしょう。もし、このアーリータイムズ・アメリカン・ブレンデッド・ウィスキーが黄色のラベルで発売されていたとしたら、おそらく「我らのアーリータイムズ」は完全に終わりでした。あゝ、イエローラベルはもう“変わって”しまったんだな、と諦めるしかなかった。しかし、そうはなりませんでした。今回はホワイトという単にグレードの劣るヴァリエーションが増えただけの話。おかげでイエロー復活の余地は残った。もしやイエローは後々のために取って置かれたのではないか? だとしたら、ワンチャン、2025年あたりにイエローラベルの4年熟成のストレート・バーボンがリリースされるなんてこともあるのでは…と私は思っているのです。但し、サゼラックは他社から購入したブランドを上手くプレミアム化するのが得意な反面、何故かバートン蒸溜所の代表銘柄であるヴェリー・オールド・バートンのような伝統的なブランドをぞんざいに扱かっている実績があります。また、もう一つ気になる情報がありまして…。
アメリカのアルコール飲料のラベルは、承認のため財務省のアルコール・タックス・アンド・トレード・ビューロー(TTB)に生産者がラベルの図案および製品の必要な情報を提出しなければなりません。TTBはそれをチェックして承認または却下の判断をし、承認されるとTTBのウェブサイトに掲載されます。これがCOLA(Certificate of Label Approvalの略)と呼ばれるプロセスです。ラベルの承認は必ずしも製品の発売が差し迫っていることや確実にリリースされることを意味する訳ではありませんが、COLAトローラー(TTBのウェブサイトを検索して新製品を探す愛好家のこと)によって逸早く新製品の情報が得れたりするので面白いのです。で、アーリータイムズに関して、2021年の4月1日に新しいラベルが承認され、それは42プルーフだったと言います。はい、アルコール度数42%の間違いではなく、42プルーフのダリューテッド・ウィスキーです。ブレンデッドどころの騒ぎではないですよ? これが本当に販売されるのか、それともこれの代わりにアメリカン・ブレンデッドに変更したということなのか、今のところ判りません。どちらにせよ、昨今のバーボン・ブームにより愛飲家がハイアー・プルーフ及びバレル・プルーフのバーボンを求める世界で、どうしてサゼラック社はこれほど劇的な逆を行くのでしょうか? このダリューテッド・ウィスキーについては、もしかするとオフ・プロファイルのウィスキーを処分するための方法かも知れない、という憶測がありました。つまり、購入したバレルの一部が気に入らないけれど、二次熟成でフィニッシングしたりするよりも水で薄めたほうが簡単でコストも掛からないから、おそらくサゼラックはそれを上手く利用してバーボンへの入り口となるようなロウワー・スピリッツを提供しようとしているのではないだろうか、という訳です。これはエイプリルフールのネタ(4月1日という日付に注目)だろうとも見られますが、そもそもサゼラックが伝統的な銘柄を蔑ろにしていることを揶揄する心がなければ出てこないネタだと思います。それに上の憶測は図らずもブレンデッドの製造理由の説明になってしまっている気もします。と、まあそんなこんなでサゼラックにはアーリータイムズ・イエローラベルの復活など期待できない可能性も大きいので「希望的観測」と言いました。私や日本のアーリータイムズ・ファンの願いが叶うかどうかは、数年待ってみないとはっきりしません。成り行きを見守りましょう。では、そろそろ新しいアーリータイムズ・ホワイトを注ぐ時間です。

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EARLY TIMES WHITE LABEL American Blended Whiskey 80 Proof
推定2022年ボトリング。薄いブラウン。カラメル、ビール、蜂蜜、ピーナッツ、みかん。どこかしら人工的にも感じさせるカラメル香と甘い湿布薬のような清涼感。口当たりはけっこう円やかで、するりとした喉越し。味わいはグレインスピリッツの甘みが強いが、心地良いかと言えばそうでもない。余韻はショートでさっぱり切れ上がり、ほんのり焦樽らしい風味がする。
Rating:71(72)/100

Thought:多分、バーボンをGNSで薄めたものですかね。香りから余韻まで全てにニュートラル・スピリッツ感があります。バートンのGNSのみを飲んだことがないので、フレイヴァー剤が添加されてるかどうかまではよく分かりませんでした。確かに滑らかさは未熟成のスピリッツ、例えばジョージア・ムーンとかよりは遥かにありますし、ブラウンな風味もあるので意外と飲み易いです。滑らかにするためのブレンド剤が使われてるのでしょうか? 開けたてはフレイヴァーが脆弱と言うか未熟成なスピリッツの香りが強い印象をもちましたが、空気に触れさせておくと、一瞬プルーンのような香りも感じる時があり、それなりに飲めます。ただ、ニートで食後のシッピング・ウィスキーとしてよく味わって飲むものではないですね。レーティングの括弧はラッパ飲みした時の点数です。テイスティング・グラスやショットグラスで飲むより味が濃く感じました。YouTube等でイエローとホワイトの飲み比べがされていたりしますが、流石にバーボンとブレンデッドを較べるのは無理があります。カテゴリーの違いから勝負になってないという意味で。これはこれ、あれはあれ、と分けて考えた方が良いでしょう。

Value:バートン蒸溜所のストレート規格のバーボンであるケンタッキー・タヴァーンやケンタッキー・ジェントルマンやザッカリア・ハリスがこれ以下、又はほぼ同じ価格で買える現状を考慮すると、個人的には購入する価値はないと思いました(※追記あり)。もし、昨今の物価上昇で上記のバーボンが2000円程度、ブレンデッドが1000円程度という状況になるのであれば、少しでもバーボンぽいものを安く飲みたい人にはオススメ出来ます。


追記:しばらく輸入が滞っていたザッカリア・ハリスは、2023年2月下旬、イオンが大々的に取り扱いを開始すると発表されました。以前にイオン系列のスーパーで見かけた時は999円だったのですが、今回からは1500円程度に値上がりしていました。

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スタッグ・ジュニアはバッファロー・トレース蒸溜所で造られるバレル・プルーフのバーボンです。同蒸溜所の誇るアンティーク・コレクション(BTAC)の筆頭ジョージTスタッグの弟分として2013年の秋から導入されました。その名前はセントルイスのウィスキー・セールスマンからバーボン・バロンへと伸し上がったジョージ・トーマス・スタッグにちなんでいます。年少を表す「JR」は、BTACの兄貴分が15~19年熟成のレンジに対して、約半分のエイジングであるところから付けられました。余りにも人気があって殆どの人の口に入らないBTACスタッグの代りに、より若い製品をリリースすることで、消費者へ親しみ易い価格帯のボトルを提供するバッファロー・トレースなりの方策だったのでしょう。その強力なフレイヴァー・プロファイルによってバーボン愛好家に評価されるバレル・プルーフのボトルは現在各社より発売されており、大手メーカーで言うとスペック的にヘヴンヒルのエライジャクレイグ・バレル・プルーフやジムビームのブッカーズなどが市場でのスタッグJRの直接的な競合相手となります。

スタッグ・ジュニアとジョージTスタッグの公にされている唯一の違いはバレルの中で過ごした時間です。スタッグJRはNASですが、現在のバッファロー・トレースの公式ウェブサイトでは10年近い熟成期間としています。2013年にリリースされた最初のバッチは8年と9年物のバーボンのヴァッティングとの説がありました。その他のネット情報では、常に8年以上とするもの、5〜9年または7〜9年熟成を示唆するものもありました。兎に角、どうやら2桁の熟成年数になることはないようです。熟成年数以外の特徴は、ジョージTスタッグと同様にアンカット(希釈なし)、アンフィルタードとされ、バレルからそのままのバーボンの豊かで複雑なフレイヴァーを楽しむことが出来る仕様。フィルタリングされていないと言うことは、ノンチルフィルタードであることも含みます(おそらくバレルの木屑などのゴミ取りはしてると思われる)。バッファロー・トレース蒸溜所のマスター・ディスティラーであるハーレン・ウィートリーはその味わいを「リッチでスウィートなチョコレートとブラウン・シュガーの風味が大胆なライ・スパイシネスと完璧なバランスで混ざり合う。果てしなく続くフィニッシュはチェリーやクローヴとスモーキネスのヒントを漂わせる」と表現していました。マッシュビルは、ジョージTスタッグは勿論、同蒸溜所の名を冠したバッファロートレース・バーボン、イーグル・レア、EHテイラー等と同じロウ・ライ(推定ライ10%未満)のBTマッシュビル#1となっています。

スタッグJRは最初の発売以来、毎年2バッチをリリースして来ました。一回のバッチングに幾つのバレルを使うかは明かされていませんが、スモールバッチで間違いないでしょう。スタッグJRはバレル・プルーフが故、バッチ毎に異なるプルーフでボトリングされ、大体120台後半〜130台前半のプルーフ・ポイントを示します(これはバレル・セレクションの厳しさの結果か?)。バッチには特有の個性があり、その味わいは多少変動するので、海外のバーボン系ウェブサイトではバッチ別にスタッグJRのレヴューが存在し、各々のスコアが場合によっては大幅に異なる可能性があります。なのでスタッグJRのボトル内の味について知りたい時は、バッチを特定してそのバッチのレヴューを探して下さい。プルーフの細かい数値からバッチを識別することになるので、以下にバッチ情報をリストしておきます。スタッグ・ジュニアの名称はバッチ17までで、それ以降は名前から「JR」がなくなることになりました。この変更は2022年のバッチが18に達し、ジュニアが小僧から一人前の大人に成長したという冗談のような嘘みたいな理由だそうです(アメリカでは州によって異るものの、概ね18歳で成人)。ちなみにこの発表は、BTACにジョージTスタッグのリリースがなかった2021年にされました。個人的には「JR」が付いたネーミングは、ずんぐりしたボトルと相俟って何となく可愛らしい感じがして好きだったんですがね…。


STAGG JR
Batch 1(Fall, 2013)ー134.4 Proof
Batch 2(Spring, 2014)ー128.7 Proof
Batch 3(Fall, 2014)ー132.1 Proof
Batch 4(Spring, 2015)ー132.2 Proof
Batch 5(Fall, 2015)ー129.7 Proof
Batch 6(Spring, 2016)ー132.5 Proof
Batch 7(Fall, 2016)ー130.0 Proof
Batch 8(Spring, 2017)ー129.5 Proof
Batch 9(Fall, 2017)ー131.9 Proof
Batch 10(Spring, 2018)ー126.4 Proof
Batch 11(Winter, 2018)ー127.9 Proof
Batch 12(Summer, 2019)ー132.3 Proof
Batch 13(Fall, 2019)ー128.4 Proof
Batch 14(Spring, 2020)ー130.2 Proof
Batch 15(Winter, 2020)ー131.1 Proof
Batch 16(Summer, 2021)ー130.9 Proof
Batch 17(Winter, 2021)ー128.7 Proof

STAGG
Batch 18(Summer, 2022)ー131 Proof
Batch 22A(May, 2022)ー132.2 Proof
Batch 22B(Winter, 2022)ー130 Proof
Batch 23A(Late Spring, 2023)ー130.2 Proof

スタッグ・ジュニアが初めて発売された時、多くのレヴュアーがアルコール・フォワード過ぎるという印象を持ちました。初期の幾つかのバッチのレヴューでは、ホットでバランスを欠いていると考えられ、スタッグJRをジョージTスタッグの失敗版と見倣す人までいました。バッファロー・トレースは迅速に改善に取り組み、後続バッチのフレイヴァーと全体的なプロファイルを調整したようです。バーボンの専門家や愛好家の多くはバッチ4以降、このバーボンが遥かにバランスを取り始めたことに気付き、スタッグJRを出来の良いバレルプルーフであると考えるように変わったとか。以来スタッグJRは、多くの人の欲しい物リストに載り、兄貴分のジョージTスタッグの派生物ではない独自の人生を歩んで来ました。現時点でスタッグ・ジュニアはかなり人気があります。買いたくても買うことの出来ないパピー・ヴァン・ウィンクルに代わってヴァリュー・プライスのウィーテッド・バーボンだったウェラー・ブランドが入手困難になったように、スタッグJRは高価なバッファロー・トレース製バーボンの次善の策として急速に広まりました。そもそもがスタッグJRは年に2回だけの限定生産のためデフォルトでやや希少な製品でしたが、バッファロー・トレース蒸溜所のプレミアム製品全般の人気高騰によって同蒸溜所で製造される多くの製品と同様に今では割り当て配給になっているようで…。これは殆どのバーボン・ドリンカーが年中利用できないことを意味します。そうしたバーボンは殆どの店舗で値上げされます。多くの酒類小売店は利益率を大きく上げるチャンスとばかりにスタッグJRをかなりの高値で販売するようになりました。MSRPが概ね50〜60ドルのボトルが90〜100ドル、評価の高いバッチや古いバッチだと110〜130ドル近くとなり、更に最近では250~300ドル(或いはもっと)の価格を付けるショップもあるようです。本来、名前の由来であるBTACのジョージTスタッグよりは遥かに安く入手もし易かったスタッグJRも、現在では高過ぎる値付けの物を除いてほぼ実店舗で流通しておらず、400%の値上げで販売しようと目論む日本で言うところの転売ヤーみたいなトレーダーによって買い占められるのが一般的だと聞きます。一時は日本でも容易に買えたスタッグJRですが、この状況では並行輸入で入って来ることもないのでしょうね…。では、貴重になってしまったバーボンをゆっくりと飲んでみます。

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STAGG JR 132.5 Proof (Batch 6)
2016年春ボトリング。色はややオレンジがかったディープアンバー。ダークチョコレート、スモーク、プラリネ、出汁、接着剤、ブラックベリー、コーン、タバコ、塩。甘くナッティな香り。とてもオイリーな口当たり。パレートは意外とダークフルーツより明るめのフルーツ感が強め(柑橘)。余韻は長くバタリーで重厚、ビターチョコとナッツからのとんがりコーンで終わる。
Rating:89/100

Thought:開封直後はサイレントなアロマでしたが、暫くすると甘いお菓子の香りがして来ました。流石に130プルーフを超えるので、アルコールによる鼻での刺激も舌での辛味も感じます。数滴の加水をしたほうが刺激を弱めて甘さやフルーツ感を引き出せますが、あまり加水しすぎると折角のバレルプルーフが持つ強烈さとオイリーさを台無しにするので、手加減することをオススメします。あと、バレルプルーフにしてはスパイス感が弱めなのは意外で、寧ろ樽の香ばしさやお菓子ぽさとフルーティさの方を強く感じるバランスに思いました。液量が半分を過ぎた頃から、ほんの少しアーシーな雰囲気も出ましたが、飽くまでほんの少しです。ブログなんて始めるとは思ってない頃に飲んだが故に写真を撮っておらずバッチ不明のスタッグJRの記憶と較べて、何となく若そうな印象のバッチでした。色々なバッチを飲み比べたことのある方は是非コメントより感想をお寄せ下さい。

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ウィレット・ポットスティル・リザーヴは名前の通り見栄えのするポットスティル型のボトルが特徴的なバーボン。ウィレット蒸溜所に設置されている銅製のポットスティルを模したデザインになっています。2008年から導入されました。同蒸溜所がリリースしているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つ(ノアーズ・ミル、ローワンズ・クリーク、ピュア・ケンタッキーXO、ケンタッキー・ヴィンテージ)がジムビームのスモールバッチ・コレクション(ブッカーズ、ベイカーズ、ノブ・クリーク、ベイゼル・ヘイデン)に相当するならば、このポットスティル・リザーヴはバッファロートレース製造のブラントンズやワイルドターキーのケンタッキー・スピリットに相当すると言えるでしょうか。おそらくは現在市場に出回っているバーボンのガラス・ボトルの中で最も派手な部類に属し、酒屋の棚では一際目立つ存在です。但し、そのボトル形状のせいでグラスへ注ぎにくいとか、ボトムの面積が広いためコレクション棚への収納が難しい等の声も聞かれたります。それでもやはり、このボトル形状にはウィスキー飲みが惹かれてしまう魅力がありますね。
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この製品は元々はシングルバレルとしてリリースされていましたが、2015年からひっそりとスモールバッチに変更されました。そもそものシングルバレル版では、キャップを封するストリップにバレル番号とボトル番号が手書きで記載されていました。「Bottle No. ○○○ of ○○○ from Single Barrel ○○○」という具合で○には数字が入ります。スモールバッチになるとストリップにはボトル番号は記載されなくなり、バッチ番号のみとなりました。明確な時期を特定できませんが、帯の色は初期から現在にかけてオレンジ、黒、紺と変わって行ったと思います。ただ、画像検索で幾つかのWPSRSmBを探ってみると、より新しいバッチであっても紺ではなく黒の場合もあるように見え、輸出国の違いとかバッチの違いによってパッケージングが異なっている可能性も考えられます。ボトル前面に貼られたワックスシールのエレガントなメダリオンの文言も何時からか段階的に変化しており、「SINGLE BARREL ESTATE RESERVE」から「POT STILL RESERVE」へ、また「WILLETT」の文字はブロック・レターからスクリプトへ変更されました。
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(画像提供K氏)

おそらくはバーボン需要の高まりに応じるかたちで2015年頃からスモールバッチになったポットスティル・リザーヴですが、このブランドを際立たせていたのがバーボンの味わいではなくボトル・デザインであったせいなのか、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリークがエイジ・ステイトメントを失いNASへと変化した時のように残念がる声を上げる消費者は殆どいませんでした。このブランドの成功の大部分はウィレット蒸溜所のポットスティルを模したガラス製デキャンターのデザインにあったに違いありません。実際、2008年のサンフランシスコ・ワールド・スピリッツ・コンペティションのパッケージング・デザイン部門でダブル・ゴールドを受賞しています。しかし、その外見の良さは諸刃の剣でもありました。外見の良さは中身を伴わないと非難と嘲笑の対象になるからです。或るリカー・ショップの商品レヴューでは、約50ドルの小売価格のうち20ドルがバーボンで30ドルがボトルだ、と言うような趣旨の皮肉めいた見出しの評がありました。とは言え、この発言はそのショップのレヴューでは少数意見ではあります。ところが、TikTok界隈ではそうではありません。バーボン系ティックトッカー達によるウィレット・ポットスティル・リザーヴのレヴューは、ライター/ジャーナリストのアーロン・ゴールドファーブによると、「一部にプロフェッショナルな者もいるが大部分はアマチュア、少数の真面目なものもあるが多くはコミカル、殆どが容赦のないもの。まるでこのウィスキーを非難することが、この人気の高いプラットフォームでバーボン・レヴュアーになるための通過儀礼であるかのようにほぼ全て否定的です」。TikTokのポットスティル・リザーヴのレヴューは殆どの場合、ボトルの形が如何にクールでどれほど見栄えがし、評者自身が気に入っていると述べるところから始まります。しかし、次にグラスに注いだ液体を口にした瞬間、様相は一変します。滑稽な調子で咳き込んで窒息しそうになってみたり、「わーーー、これはホットだ」と叫んで最終的にウィレット・ポットスティル・リザーヴを「ゴミ」と呼んだり、「今まで飲んだバーボンの中で一番不味いかも知れない」と述べる人もいたりします。このようにポットスティル・リザーヴへのバッシングの多くは、そのボトルの豪華さに比べて中身が如何に酷いものであるかを笑いものにしている訳ですが、これらはTikTok特有のユーモアを多分に含んだオーヴァー・リアクションと言うのか、短い時間内で一発芸的に笑いを取るショート動画にありがちな或る種のジョークであって真に受ける必要はないと個人的には思います。けれども気になるのは、僅かながら存在するもっと真摯なTikTokレヴュワーや他のバーボン系ウェブサイトに於いてもウィレット・ポットスティル・リザーヴがそれほど高評価を得てはいないところです。ゴールドファーブ自身も「ポットスティル・リザーヴは確かに美味しくない(私は決してこのボトルを家に置かないだろう)が、TikTokが信じ込ませているほど悪くはない」と微妙な評価。まあ、それらは全て「スモールバッチ」への言及であり、「シングルバレル」についてではありません。

ウィレット・ポットスティル・リザーヴはシングルバレルであれスモールバッチであれ、94プルーフでのボトリングとNAS(Non-Age Statement=熟成年数表記なし)での提供は共通しています。ウィレット蒸溜所は中身の原酒に関して明らかにしないことが多いので、飽くまで噂と憶測になりますが、ここからはポットスティル・リザーヴの中身の変遷について整理して行きたいと思います。と、その前に少しだけ歴史の復習を。
禁酒法撤廃後、ケンタッキー州バーズタウン郊外にランバートとトンプソンのウィレット父子によって設立されたウィレット・ディスティリング・カンパニーは、訳あって1980年代初頭に蒸溜を停止しました。1984年、会社はトンプソンの娘マーサと結婚したエヴァン・クルスヴィーンに引き継がれ、以後ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)というボトラーとして活動することになります。同社は倉庫で何年ものあいだ寝ていた熟成ウィスキーをボトリングして販売を続けましたが、自社の在庫が枯渇する前に他の蒸溜所からウィスキーを購入しました。それらを効果的に使用して、オールド・バーズタウンやジョニー・ドラム、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリーク等の自社ブランドを販売する傍ら、自らが所有していない他の多くのブランドのための契約ボトラーとしても働きました。エヴァンのKBDは蒸溜はしなかったものの、その代わりに名高いバーンハイムやスティッツェル=ウェラー、ヘヴンヒルやジムビームやフォアローゼズ等の近隣の蒸溜所から不要な在庫を調達し、それらの一部を巧みにブレンドすることで自らのフレイヴァー・プロファイルをクリエイトしました。そしてエヴァンとその息子ドリューは、現代のアメリカン・ウィスキー・ブームに先駆けて、ウィレット・ファミリー・エステートの名の下にバレルプルーフでノンチルフィルタードのシングルバレルとして最も上質のバーボンとライのストックをリリースし、好事家からの称賛を受けました。そうした全ての活動が実り、蒸溜所は復活、2012年1月21日に蒸溜を再開することが出来たのです。今、アメリカン・ウィスキー愛好家にとってウィレットの名は神聖とも言える特別な位置を占めています。
ここから分かる通り、ウィレット蒸溜所は1980年代初頭から2012年まで蒸溜を停止していたため、このポットスティル・リザーヴの発売から暫くの間は別のディスティラリーで蒸溜されたものを使用している筈です。現在ポットスティル・リザーヴと呼ばれている製品のシングルバレル(もしかすると初期の正式名称はウィレット・シングルバレル・エステート・リザーヴだったのかも知れない。上掲のワックスシールの画像参照)は、リリースされた当初は多くのウェブサイト上の情報源によると8〜10年の熟成であるとされていました。そして、ボトル内のバーボンは彼らの他の製品と同様に、すぐ隣のヘヴンヒル蒸溜所から来ていると推測されています。シングルバレルはその特性上、風味の一貫性を問われませんから、もしかすると他の蒸溜所産のバレルも使用していた可能性もありますが、こればかりは公開されてないので謎のままです。いずれにせよ、何処の蒸溜所の原酒であれ、ポットスチルを模したボトルの形状やその製品の名称にも拘らず、このバーボンは一般的なコラムスティル+ダブラーを使用して製造されているのは間違いないでしょう。ちなみにウィレット蒸溜所の自家蒸溜でも、おそらく最初の蒸溜をコラムスティル、2回目の蒸溜で銅製ポットスティルをダブラーとして使用していると見られています。

2015年頃、前述のようにポットスティル・リザーヴはシングルバレルからスモールバッチに置き換えられました。ウィレット蒸溜所はバーボン界での世界的な人気の高まりがあっても、所謂クラフト蒸溜所に近い規模の操業を維持しています。そのため「スモールバッチ」と名付けられていなくても実際には全ての製品がスモールバッチのようです。スモールバッチという用語は政府によって規制されていないため、ただのマーケティング・フレーズに過ぎませんが、大規模蒸溜所のスモールバッチが100〜200樽、中には300樽にまで及ぶこともあるなか、ウィレットのバッチ・サイズは、おそらく2000年代は12樽程度、現在でも20樽ちょいとされていますので、ウィレット製品のスモールバッチ表現は我々消費者が抱く「スモールバッチ」のイメージと一致しているでしょう。このバッチ数量は時間の経過と共に変化する可能性はありますが、少なくとも今のところヴェリー・スモールバッチと呼んだほうが誤解がなく適切な気がします。ヴェリー・スモールバッチの弱点は、ごく少数のバレルからバッチを形成するため、バッチ毎に味わいの一貫性が低下するところです。ポットスティル・リザーヴの評価が定まらないのは、もしかするとこのせいもあるのかも。
最終的にウィレットの製品は100%自家蒸溜に移行する(した?)と思われますが、彼らは自身の蒸溜物がいつポットスティル・リザーヴに組み込まれたかについて明らかにしていません。有名なバーボン・ウェブサイトの2017年時点のレヴューでは、ケンタッキー州の他の蒸溜所から供給されたバーボンの可能性が高い、と言われていました。一説には、帯が紺色の物は新ウィレット原酒と聞いたこともあります。今回、私がおまけとして試飲できた推定2016年ボトリングのスモールバッチの帯は紺色なのですが、ボトルの裏面(メダリオンのない側)には下画像のようにプリントされています。
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(画像提供K氏)
この「Distilled, Aged and Bottled in Kentucky」という記述の仕方は、ウィレット・ファミリー・エステートのラベルでもそうなのですが、基本的に自家蒸溜原酒ではない他から調達されたウィスキーの場合の書かれ方です。しかし、旧来のボトルを使い切るか、或いはボトル会社(プリント会社?)に文言の変更を依頼するまで?は、中身がウィレット原酒であっても上のままの記述である可能性があります。逆に「Distilled, Aged, and Bottled by Willett Distillery」と記載があれば確実にウィレットの自家蒸溜原酒でしょう。私自身は直に見ていないのですが、おそらく近年のボトルにはそうプリントされていると思われます。2020年のレヴューでは、或る時点で100%自社蒸溜に移行したと考えられる、とされていました。仮にポットスティル・リザーヴ・スモールバッチのウィレット蒸溜原酒の熟成年数が4〜6年程度であるならば、2012年から蒸溜を再開したことを考慮すると、早くて2016年から新ウィレット原酒を使用することは可能です。海外のレヴューを読み漁ってみると、多くのレヴュアーが共通して指摘しているバターポップコーンやレモンや蜂蜜のヒントが感じられる場合、新ウィレット原酒である可能性は高そうです。
現在、ウィレットにはバーボン4種類とライ2種類のマッシュビルがあり、そのうちバーボンは以下のようになります。

①オリジナル・レシピ
72%コーン / 13%ライ / 15%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

②ハイ・コーン・レシピ
79%コーン / 7%ライ / 14%モルテッドバーリー / 103 & 125バレルエントリープルーフ

③ハイ・ライ・レシピ
52%コーン / 38%ライ / 10%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

④ウィーテッド・レシピ
65%コーン / 20%ウィート / 15%モルテッドバーリー / 115バレルエントリープルーフ

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(こちらはライも含むウィレットのマッシュビル表。これは私が作成したものなので、勝手にダウンロードして転載して構いません)

ポットスティル・リザーヴにどのマッシュビルが使われているかは正式には公開されていません。しかし、或る情報筋からの話によると①②③のブレンドと聞きました。ところが、2021年や2022年に執筆されたバーボン系ウェブサイトの記事ではマッシュビルは④のウィーテッド・マッシュとされています。どちらかが正しいのか、或いは時代によるマッシュビルの変更があったのか? はたまた両者の情報を掛け合せて④を含むミックスなのか? 蒸溜所からの公式の発表はないので謎です。まあ、このミステリアスなところもウィレットの魅力の一つではあるのですが、真相をご存知の方は是非ともコメントよりご教示下さい。また、バッチ情報と共に味わいの感想などもコメントより共有して頂けると助かります。では、そろそろバーボンを注ぐとしましょう。

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WILLETT POT STILL RESERVE Single Barrel 94 Proof
Bottle No. 145 of 233
Barrel No. 1581
ボトリング年不明(購入は2013年頃なのでそれ以前は確実)。黒蜜、甘醤油、キャラメル、アニス、湿った木材、ドライピーチ、バナナ、ナッツ、ウッド・ニス、銅、プルーン。途轍もなく甘く、樹液のような香り。ややとろみのある口当たり。パレートでも甘く、更にハーブぽい風味が濃厚。余韻はミディアムで豊かな穀物とレザー、最後はビター。アロマがハイライト。
Rating:86.5/100

Thought:先ず、いにしえのシュガーバレルを想起させるアロマが印象的。味わいも独特で、これぞシングルバレルという感じ。口当たりや濃厚な風味は、確かに8〜10年くらいの熟成感と思いました。ボトリング年は不明ながら、シングルバレルでリリースされた時期であるところからすると、原酒はヘヴンヒルだろうと思われるのですが、いざ飲んでみると香りも味わいも一般的なヘヴンヒルとは全然違う印象を受けました。だからと言って他の蒸溜所、バートンとかワイルドターキーとかフォアローゼズに似てる訳でもなく、ウィレットの風味と言うしかないと感じます。ヘヴンヒルからの購入とするなら、ホワイトドッグを購入してウィレット蒸溜所の倉庫で熟成させてるのか、もしくはヘヴンヒルが自分たちの味ではないと判断したオフ・フレイヴァーのバレルを購入しているかのどちらかなのかな? 或いは出来損ない(笑)のブラウン=フォーマンとか? まあ、それは兎も角、ウィレットにはウィレット・ファミリー・エステートという最高峰のシングルバレル・ブランドがあるので、普通に考えて最も優れたシングルバレルはそちらにまわされるでしょう。それ故、このシングルバレルのポットスティル・リザーヴは飽くまで「次点」のシングルバレルの筈。味わいがアロマほど良くないところが、このボトルのらしさなのかも知れない。アロマをそのまま味わいにも感じれたら、もしくは微妙なオフ・フレイヴァーがなければ、点数は88点を付けてました。ぶっちゃけ、上のレーティングのうち1点はボトルに対してです。

偖て、今回は私の手持ちのシングルバレル版ポットスティル・リザーヴをメインに飲んだ訳ですが、そこに加えて先述のようにスモールバッチ版のサンプルを頂けたので、おまけで少しだけ比較が出来ます。サンプルは例によってInstagramで繋がっているバーボン仲間のKさんから。ウィレッ党のKさん、本当にいつも貴重な情報やバーボンをありがとうございます! 

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(画像提供K氏)
WILLETT POT STILL RESERVE Small Batch 94 Proof
Batch No. 16D1
推定2016年ボトリング。シングルバレルより薄いブラウン。香ばしい穀物、キャンディ、シリアル、砂糖、新鮮な木材。ウッディなスパイス香。ややとろみのある口当たりながら、尖りも感じさせるテクスチャー。口の中でもスパイシーでメタリック?でドライ。余韻はやや甘みも。

バーボンらしさを象徴する風味は全てあるのですが、それ以上に若々しく、荒く、何と言うかギラついた金属感のようなものを感じました。多分、ウィレット原酒だと思います。もしヘヴンヒルなら4年以下の熟成物でももう少しこなれた感があると思うのです。不思議なのは、新ウィレット原酒を使ったオールド・バーズタウンやケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOの良さの片鱗を感じれなかったこと。単純に熟成年数の短さに由来するのか、それともマッシュビルに由来するのか…。いや、そもそもウィレット蒸溜ではないのか? 謎が謎を呼びますが、バーボン・ティックトッカーが怒りの声を上げているのは、おそらくこのレヴェルの物なのでしょう。そうであるならば、まあ確かに頷けるかな、と。とは言え、ウィレット自家蒸溜のスモールバッチは、これより後の物はもう少し味わいが改善している可能性はあるかも知れません。2020年以降のボトルを飲んでみたいですね。
Rating:81/100

Value:現行ウィレット・ポットスティル・リザーヴ・スモールバッチのアメリカでの750mlの小売価格は地域差が大きく、40ドル未満の場合もあれば60ドル近い場合もあるようです。日本でもそれに準じて5000円台後半から7500円の間が相場でしょうか。この価格には華麗なボトルの代金も含まれるので、同じウィレットのスモールバッチ・ブティック・コレクションやオールド・バーズタウンのエステート・ボトルドの価格を考えると、中身にのみお金を払っているという意識の方には少し高く感じられるかも知れません。購入検討している方は、外観を含めてお金を払う意識でいた方が良いと思います。
シングルバレル版に関しては、もし7500円程度で購入できるチャンスがあるなら、買う価値は間違いなくあると思います。たとえ当たり外れがあったとしても…。

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カークランド・シグネチャーは、1983年に創業した会員制ウェアハウス型店舗コストコのプライヴェート・ブランドです。お酒に限らず食物から日用品まであり、高品質かつ低価格が自慢。その名称はワシントン州カークランドから由来しています。コストコの創業者ジム・シネガルは自社ブランドを立ち上げる際、創業の地であり拠点としていたワシントン州シアトルへの感謝の気持ちを込めて「Seattle's Signature」と名付けることを希望していましたが、法的に承認されなかったため、1987年から1996年までの約9年間に渡って本社があったカークランドをブランド名として採用したのだそう。ブランドのスタートは1995年から。
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コストコはアルコール飲料の世界最大の小売業者の 一つと目され、2020年には約55億ドルのアルコール飲料を販売しました。その売上高の40〜50%をワインが占め、残りがスピリッツとビールでほぼ均等に分けられる内訳のようです。自社ブランドのカークランド・シグネチャーは、2003年に最初にワインから始まり、2007年にスピリッツへと拡大したという情報がありました。平均してコストコには約150種類のワインがあり、そのうち30種類がカークランド・シグネチャー・ブランドとされ、スピリッツのセレクションは年間を通じて大きく変動する傾向があるものの平均して約50種類あり、そのうち約20種類が同ブランドとされます。ウィスキーはスピリッツの一部門なのでその数はワインには遥かに及ばないとは言え、識者からはコストコは北米最大のウィスキー小売業者である可能性が高いとの指摘もありました。現在、カークランド・シグネチャーのブランドでスコッチ、アイリッシュ、カナディアン、バーボンなど様々なウィスキーがあります。コストコのオリジナルのバーボンでは、今回紹介するバートンに至る以前に「プレミアム・スモールバッチ・バーボン」というのがありました。それらは生産者名を明確に開示してはいませんでしたが、ラベルにはケンタッキーやテネシーと記載があり、ほぼ間違いなくジム・ビームやジョージ・ディッケルから供給された原酒であろうと見られています。
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そして来たる2021年、コストコは再びバーボンの調達先を変更し、バーボンのメッカであるケンタッキー州バーズタウンで「最も古いフル稼働している蒸溜所」として宣伝され、現在サゼラック社が所有するバートン1792蒸溜所と提携、バートン・マスター・ディスティラーズの名の下にそれぞれが異なるプルーフでボトリングされるスモールバッチ、ボトルド・イン・ボンド、シングルバレルと三つのヴァージョンを発売しました(全て1L規格のボトル)。ラベルには蒸溜所やウェアハウスが描かれ、そのパッケージングはかなりカッコいいですね。これらのボトルはアメリカでは2021年半ばからリリースされましたが、日本のコストコには2022年になって入って来たようです。シングルバレルは、一つの樽からのバッチングのためボトリング本数が少ないせいか、日本には入って来ていないと云う情報もありました。本当かどうか私には判りません。皆さんのお住まいの地域のコストコではどうなのでしょう? 見たことがある/ないの情報を是非コメントよりお知らせ下さい(この件に関してコメント頂けました。日本にも入って来てました。詳しくはコメント欄を参照下さい)。
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(コストコより)

偖て、今回はそんなコストコとバートンのコラボレーションによるカークランド・シグネチャーの中から「ボトルド・イン・ボンド」を取り上げます。ボトルド・イン・ボンド(またはボンデッド)は、そもそも蒸溜所と連邦政府がスピリッツの信頼性と純度を保証するために使用したラベル。1897年に制定されたボトルド・イン・ボンド・アクトは、主に商標と税収に関わる法律で、単一の蒸溜所にて、単一の年、単一のシーズンに蒸溜され、政府管理下のボンデッド・ウェアハウスで最低4年以上熟成し、100プルーフでボトリングされたスピリットのみ、そう称することが許される法律でした。ラベルには蒸溜所の連邦許可番号(DSPナンバー)の記載が義務づけられ、ボトリング施設も記載しなければなりません。上の条件を満たした物は緑の証紙で封がされ、謂わばその証紙が消費者にとって品質の目印となりました。紛い物やラベルの虚偽表示が横行していた時代に、ラベルには真実を書かねばならないというアメリカ初の消費者保護法に当たり、結果的にスピリットの品質を政府が保証してしまう画期的な法案だったのです。現在では廃止された法律ですが、バーボン業界では商売上の慣習と品質基準のイメージを活かし、一部の製品がその名を冠して販売されています。
カークランド・シグネチャーのバートン・バーボンのマッシュビルは非公開ですが、おそらくはバートン1792蒸溜所のスタンダード・マッシュビルであるコーン74%、ライ18%、モルテッドバーリー8%であろうと思われます。その他のスペックは「Bottled-In-Bond」を名乗りますので、BIBアクトに大筋で従っているでしょう。同じ季節に蒸溜され、少なくとも4年以上の熟成を経て、100プルーフでのボトリングです。海外の或るバーボン愛好家の方は、三つのエクスプレッションは全て一貫したバートン1792のDNAを示すが、バートンの通常のボトリングとは微妙な違いがあるようだ、と言っていました。日本で比較的買い易いバートンのバーボンと言うと、安価なケンタッキー・ジェントルマンやケンタッキー・タヴァーンやザッカリア・ハリス、もう少し高価なプレミアム・ラインの1792スモールバッチが挙げられます。それらと比べてコストコのバートン原酒バーボンがどう異なるのか気になりますね。ちなみに、私はコストコ会員ではないので、今回のレヴューするボトルは友人に頼んで買ってもらいました。ありがとう、Aさん! では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。

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KIRKLAND SIGNATURE BOTTLED-IN-BOND (BARTON 1792) 100 Proof
推定2021年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。香ばしい穀物、花火、ヴァニラ、ドライアプリコット、苺ジャム、フルーツキャンディ、シリアル、胡桃、ちょっと塩、一瞬チョコレート。あまり甘く感じないアロマでフルーティ。ややオイリーな口当たり。パレートはなかなかフルーティな甘さもありつつ、フレッシュなアルコール感とウッディなスパイスが引き締める。余韻もウッディでほんの少しシナモンと苦味も。
Rating:85.5/100

Thought:樽感と穀物感と果物感のバランス、甘さと辛さのバランス、ガツンと来る感じ等が凄く自分好みでした。コストコとバートン1792蒸溜所は手頃な価格と高品質の両立という素晴らしい仕事をしたと思います。強いて欠点を探すと、バートンの旗艦ブランドである1792スモールバッチに比べればやや若さがあるところなのですが、その点は個人的にはプルーフが上がっている分で帳消しになっていますし、寧ろグレインの旨味や甘酸っぱいフルーツの風味が味わえて好印象ですらあるかも知れない。サイド・バイ・サイドで較べてはいないものの、1792スモールバッチはおそらくもう少し熟成年数は長いと思います。そして「若い」とは言え、同じバートンのより若い原酒を使ったケンタッキー・ジェントルマンやケンタッキー・タヴァーンやザッカリア・ハリスからは著しい伸長が感じられます。やはりボトルド・イン・ボンドは偉かった。

Value:アメリカでの価格は約25ドル程度のようです。日本だと3500円程度でしょうか。バートンの代表的銘柄であったヴェリー・オールド・バートンが現在はあまり力を入れられてない現状(流通量が少ない)もあって、ちょうどその代替製品となるのはこのコストコのオリジナル製品なのかも知れません。そして、コストコのソースは長年に渡って変化していますし、バートンとの契約が単発での生産なのか、ある程度の期間持続するものなのか、今のところよく分からないので、時間の経過と共に同じものを手に入れることが出来ない可能性があります。他の汎ゆるものでもそうですが、あるうちに買っておくことをオススメします。

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今回は同じ蒸溜所で造られ、同じプルーフでのボトリング、そしてほぼ同じ価格である二つを飲み比べる企画です。一つがヘンリーマッケンナの(並行輸入品ではない)キリン正規品、もう一つがフォアローゼズのブラックラベル。どちらも現在酒販店に流通している所謂「現行品」です。この比較対決は、以前このブログへコメントしてくれた方からヒントを得て企画されました。

フォアローゼズ・ブラックがフォアローゼズ蒸溜所で造られているのは名前の通りなので判り易いですが、ヘンリーマッケンナについてはヘヴンヒル製造の物もあるので少し説明が必要でしょう。
アイルランド移民のヘンリー・マッケンナは、1855年、ケンタッキー州フェアフィールドにて蒸溜を開始しました。量よりも質を重視し、1日1バレル程度の規模で操業していたと言われています。1880年頃までにマッケンナのブランドは人気が高まり、上質なケンタッキー・バーボンとして評判を得、1883年には新しいレンガ造りの蒸溜所を建設し、1日3バレルに生産量を増やしたそうです。1893年にヘンリーが亡くなると、息子達が事業を引き継ぎ、ビジネスを更に成長させました。しかしご多分に漏れず禁酒法の訪れにより蒸溜所は閉鎖を余儀なくされます。マッケンナ家の所有する熟成ウィスキーは、A.Ph.スティッツェル蒸溜所の集中倉庫に保管され、薬用ライセンスを取得していた彼らに手数料を支払うことでボトリングしてもらいメディシナル・ウィスキーとして販売されました。禁酒法が撤廃されるとマッケンナ家はフェアフィールドで蒸溜所を再開。新しい蒸溜所の生産能力は1日20バレル程度だったようです。大恐慌とそれに続く第二次世界大戦の到来によって会社は継続するのに苦労し、ヘンリーの息子の死により残された一族は1941年にブランドと蒸溜所をシーグラムに売却しました。シーグラムはヘンリーマッケンナ・バーボンの販売を続けますが、フェアフィールドの蒸溜所で製造されたウィスキーの殆どはセヴン・クラウンやフォアローゼズ等のブレンデッド用に回されたと言います。その後、1960〜80年代に掛けてのストレート・バーボンの売上減少は、多くのケンタッキー蒸溜所の閉鎖を招きました。フェアフィールドのヘンリー・マッケンナ蒸溜所もその例外ではなく、1974年、遂に閉鎖されてしまいます。生産はルイヴィルのシーグラム工場に移り、そこも閉鎖されるまでの短期間はそちらで造られていた可能性も示唆されています。そして1980年代初頭にシーグラムはヘンリーマッケンナのアメリカ国内でのブランド権をヘヴンヒルに売却しますが、海外市場向けのブランド権は保持しました。これにより、海外向けの生産はローレンスバーグのオールド・プレンティス蒸溜所(現フォアローゼズ蒸溜所)、アメリカ国内向けの生産はバーズタウンのヘヴンヒル蒸溜所と、マッシュビルや酵母を共有しないニ種類のヘンリーマッケンナが産出されることになります。
21世紀初頭、長年に渡りスピリッツ業界の頂点にあったシーグラムも、飲料ブランドの名前としては一部残ったものの企業としては終りを迎えました。サミュエル・ブロンフマンとその息子エドガーが運営していた頃には業界を支配していたシーグラムですが、1994年にエドガーの息子エドガー・ジュニアに経営がバトンタッチされると、残念なことにスピリッツ事業に関心がなかった彼が率いる会社は急速にエンターテインメント事業への傾斜を強めます。しかし、巨額の買収費用に対して映画部門ではヒット作に恵まれず収益も上がらなかったため、2000年にフランスのヴィヴェンディと合併するに至りました。メディア事業の拡大を進めるヴィヴェンディにはアルコール飲料会社の所有権は必要なかったので、短期間所有した後、酒類部門はイギリスの新生ディアジオとフランスのペルノ・リカールに分割して売却されます。嘗て世界最大級の酒類会社であったシーグラム帝国は、エドガー・ジュニアが会社を継承して僅か8年で消滅した訳です。シーグラムの酒類部門が売却されたのに伴い、2002年2月、最終的に日本のキリンがフォアローゼズのブランドとローレンスバーグの蒸溜所を所有することになりました。キリンとシーグラムは1972年に合弁会社キリン・シーグラムを設立して事業を展開して来ましたし、キリンは以前からフォアローゼズのアジアでの販売業者となっておりブランドとの繋がりがありました。キリン・シーグラムはシーグラムの酒類事業売却により社名をキリン・ディスティラリーに変更しています。取引の詳細は分かりませんが、おそらくフォアローゼズの全事業権を取得した時にヘンリーマッケンナの海外事業権もキリンが取得したものと思われます。2006年にオーストラリアとニュージーランドで大手の飲料会社であるライオン・ネイサン(現ライオン)はキリンからマッケンナ・バーボンの権利を取得しているようなので。ともかく、こうして現在の日本では、ヘヴンヒルが製造するアメリカ国内版の並行輸入品と、フォアローゼズが製造するキリン正規品とが同時に市場に流通しているのでした。ただ、どちらかと言えば並行品の方が多くの酒販店で取り扱われ、正規品を取り扱っている店舗は少なそうな印象がありますね。

※重要な追記:記事を投稿後にキリンのヘンリーマッケンナのホームページを調べたら、最上部に「『ヘンリー マッケンナ』は2022年10月7日をもって出荷を終了させていただきました」との告知がありました。せっかく現行製品同士での対決という企画だったのですが、残念ながらキリン版のフォアローゼズ製ヘンリーマッケンナは終売になったようです。私が下調べのためにキリンのホームページを見た時は確かそんな事は書かれてなかったと思うのですが…。いや、タイミング悪っ。一応、私が記事を書いた時点でこれは分ってなかったので、タイトルや記事内容は修整しません。皆さんの頭の中で修整よろしくお願いします。

今回は同じヘンリーマッケンナという名を持つヘヴンヒル産とフォアローゼズ産の二つの違いを較べるのではありません。それも蒸溜所の個性の違いが味わえて面白いでしょうが、私にとってもっと興味深いのは同じ蒸溜所で造られながらどこまで違うのか、或いはどこまで同じなのかという方だったからです。周知のようにフォアローゼズ蒸溜所では2種類のマッシュビルとキャラクターの異なる5つのイーストを使って10種類の原酒を造り、それらをブレンドすることで品質と味を安定させたり、その組み合わせにより異なるフォアローゼズ・ブランドを作成しています(FRの10レシピについての仔細は過去に投稿したこちらを参照ください)。それならば、ヘンリーマッケンナとフォアローゼズ・ブラックで造り分けもし易いのではないか、と。いや、逆に手抜きしてブランドは違うが中身はほぼ一緒なんてことだってあるかも知れないぞ、と。冒頭に述べたように、幸いにもこの二つは同一のプルーフで市場価格もほぼ同じ、これは対決するしかないでしょ!?という訳で、そろそろバーボンを注ぐ時間です。

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目視での色の濃さは殆ど差を感じません。

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HENRY McKENNA 80 Proof
ボトリング年不明(購入は2022年)。明るめのブラウン。ライスパイス、薄っすらキャラメル、ウエハース、洋梨、ペッパー、青りんご、コーンフレーク。ややフルーティでトースティな木の香り。僅かにとろみのあるテクスチャー。口全体に甘みを感じつつもピリリとスパイシーな味わい。余韻はグレイニーでほろ苦くドライ気味。
Rating:81→82.5/100

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FOUR ROSES Black Label 80 Proof
ボトリング年不明(購入は2022年)。薄めのブラウン。熟したプラム、トーストした木、蜂蜜、ヴァニラウエハース、ホワイトペッパー、リンゴの皮。熟したフルーツを内包したややフローラルな香り。水っぽい口当たり。口中では甘くもありスパイシーでもありフルーツの存在感も。余韻はあっさりめながら豊かな穀物が現れ、最後に苦味が少し。
Rating:86/100

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Thought:両者は思ったより違いました。値段が殆ど同じなのでもっと味わいも近いのではないかと予想していたのですが、意図的にブレンド構成を変えている可能性はありそうなくらいに違いはあります。レシピ(マッシュビルとイーストの組合せ)が違うのか、熟成年数が違うのか、バレル・セレクトの基準が違うのか、或いはそれら全てなのか判りませんけれども。
私は昔からフォアローゼズ・ブラックを買い求め易い80プルーフのバーボンでは最も美味しいと非常に高く評価しています。90年代から現在のボトルまで一貫してリッチな熟したフルーツの風味があり、品質が安定しているからでした。その風味はフォアローゼズ蒸溜所で造られていた時代のブレット・バーボンでも感じ易かったです(特にブレット10年)。ところがこのヘンリーマッケンナにはそれが欠落しています。両者の違いをやや誇張して言うと、ヘンリーマッケンナは基本的にライトなフルーツ感をもつスパイシーなグレイン・フォワード・バーボンで、出てくるフルーツは洋梨や青りんごのようなフレッシュ・フルーツであるのに対し、フォアローゼズ・ブラックは基本的にスパイシーなフルーツ・フォワード・バーボンで、HMよりもう少し熟したフルーツ感があり、樽感も幾分かダークに感じます。仮に両者でバッチングに使用されるバレルの平均熟成年数が異なるのであれば、ヘンリーマッケンナは4〜5年熟成程度、フォアローゼズ・ブラックは6年熟成以上と言ったイメージかな、と。
二つのバーボンの似た部分は、どちらも液体を飲み込んだ直後のライ・キックが強いところでしょうか。とは言え、フォアローゼズ蒸溜所の2種類のマッシュビル「E」と「B」のどちらなのかの判断は難しいです。「B」マッシュビルの方がライ35%とライ麦多めのレシピではありますが、「E」マッシュビルであってもライ20%と他の蒸溜所ではハイ・ライと言ってもよいライ麦含有率ですし、フォアローゼズ・ブラックはOESKとOBSKの50/50のブレンドとどこかで見かけたことがあるので、ヘンリーマッケンナだって両マッシュビルを使ったレシピのブレンドの可能性も大いにありますから。
ところで、フォアローゼズのレシピに使用される5つのイースト「V・K・O・Q・F」は、イーストの研究に余念のなかったシーグラムが往時ケンタッキー州で所有していた五つの蒸溜所にルーツをもつと聞きます。どれがどの蒸溜所のものなのか私には判りませんが、その五つはルイヴィルのカルヴァート蒸溜所、シンシアナのオールド・ルイス・ハンター蒸溜所、ラルーのアサートンヴィル蒸溜所、ローレンスバーグのオールド・プレンティス蒸溜所、そしてネルソンのヘンリー・マッケンナ蒸溜所とされます。となると、ヘンリーマッケンナ・バーボンにはヘンリー・マッケンナ蒸溜所に由来するイーストが使われているのでしょうか? もしそうだとするならば、ヘヴンヒル製造の物よりも「血統」というロマンがあると思うのですが…。ここらへんの秘密を知ってる方は是非ともコメントよりご教示お願いします。
※ヘンリーマッケンナは開封直後はサイレントなアロマで味わいもパッとしなかったのですが、液量が半分以下になる頃には甘い香りが増して美味しくなりました。これが上記のレーティングの矢印の理由です。

Verdict:フォアローゼズ・ブラックに軍配を上げました。単に好みの問題かも知れませんが、個人的にはこちらの方が高いウィスキーの味がするような気がするので。ヘンリーマッケンナに関しては、もしかするとスタンダードなフォアローゼズ・イエローの現行品(ラベルがベージュになったやつ)にすら自分の好みとしては負けるかも知れません。全体的に少し単調な印象なのです。まあ、フォアローゼズ蒸溜所産だけに安心の美味しさですし、ライ麦の効いた味わいは私の好みでもあり、飽くまで高いレヴェルの中での些細な話ですがね。

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