2019年12月

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今夜は年末年始に向けてロカビリーやロックンロールな映画を集めてみました。どれも自分がティーンの時に影響を受け、今だに大好きな映画たち。

若きチカーノロッカーを完璧な青春映画として描いた「ラ・バンバ」、デニス・クエイドのキレた演技もさることながらウィノナ・ライダーが可愛すぎる「グレート・ボール・オブ・ファイヤー」、ジョニー・デップ他出演者みなが濃ゆいロカビリー版ミュージカル「クライ・ベイビー」、まだ有名になる前のブラッド・ピッドのリーゼントとファッションだけでノックアウトの「ジョニー・スエード」、お揃いのジャケットに憧れる「ザ・ワンダラーズ」、レザーとモーターサイクルが野郎を魅了する「ラブレス」、どれもカッコよくてクラクラしちゃいます。







これらに合わせるバーボンはもちろんレベルイェール。そもそもは、かの有名なスティッツェル=ウェラー蒸留所が南部限定でリリースしていた小麦バーボンで、現在はラクスコ(旧デイヴィド・シャーマン社)が販売しています。昔の物はラベルに南軍の兵士が刀を片手に馬を疾駆する姿が描かれていましたし、「ディープ・サウス専用」なんて文言も書かれていました。またロカビリアンのアイコンとも言えるレベル・フラッグがフィーチャーされた海外向けのラベルの物まであり、サザーン・カルチャーという共通項からロカビリーや初期ロックンロールとは相性がいいのです。
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そしてレベルイェールというブランド名ですが、日本ではよく「反逆の叫び」と訳されてるのを見かけます。別に間違いではないですし、それがロックなイメージを加速させるの役立っているのですが、実際には上に述べたラベルの件で分かるように、ここでの「レベル(Rebel)」は北軍に「反逆・反抗」した者の意となり、「イェール(Yell)」は日本語で「エールを送る」と言う時のエールと同じ英語の「怒鳴る・喚く・気合いを入れる掛け声」などを意味する言葉で、南北戦争における南軍の兵士が戦闘の時にあげる甲高い遠吠えのようなものを「レベル・イェール」と言います。だから日本語なら「南軍の雄叫び」とでも言うと分りやすいですかね。狼や犬の遠吠えを思わせる奇声で、多人数でやるとけっこう耳障り。

(元南部軍人によるレベル・イェールの再現)

レベルイェールと聞いてこの音声が頭に再生されるようになれば立派な南部愛好家バーボン飲みです。とは言え、現在のラベルは南部色は完全に払拭され、ただ名前にその名残があるのみ。それ故にレベルイェール本来の意味が忘れ去られ、「反逆の叫び」という一般化がなされてしまったのも仕方のないことかも知れません。ある時にレベルイェールを所有していた会社が全国展開を決定したことで、そういう方針になったのです(RYの歴史は別の機会に紹介します)。ロカビリー好きとしては残念ですが、時代の流れもありますし、販売戦略として南部色の撤廃は間違ってはいないでしょう。ただし、ロックに話を限るのではなく過去に戦争の歴史があったことや、オールド・サウスへの郷愁や南部人の心意気を喚起するラベルだったことは忘れたくないところです。ちなみに日本では「レベルイエール」とか、私も「レベルイェール」と綴ってますが、実際の英語発音に合わせるなら「レベルイェル」とした方が近いです。

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また、このバーボンはローリング・ストーンズのキース・リチャーズが愛飲したバーボンとして知られています。確かにキースがレベルイェールを手に持つ写真が残されているものの、どう考えても飲んだ量からしたらジャックダニエルズのほうが多い気がしません? キースはジャックダニエルズとレベルイェールのどちらが好みだったんでしょう? キースに詳しい方がいたら教えて頂きたいです。
そして更にはキース経由らしいですが、レベルイェールはビリー・アイドルのソング・タイトルにもなっています。ビリー本人が語るところによると、彼は或るイベントに出席した時、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ロン・ウッドらのローリングストーンズの面々が、レベルイェールと云うバーボンウィスキーをボトルからがぶ飲みしてるのを見て、よく知らないブランドだったけれど、その名前が妙に気に入って「Rebel Yell」の曲を書くことにしたのだとか。


そんな訳でとにかくロックな酒として語られるバーボンですが、どちらかというとソフトな傾向とされる小麦バーボンであり、味わい的には荒々しい闘鶏がモチーフのファイティングコックでもラッパ飲みしてくれたほうがよっぽどロックじゃないかなという気がします(笑)。まあ、完全に個人的偏見ですけれど…。

さて、今回レヴューするレベルイェール・スモールバッチ・リザーヴは、2008年から導入されていた「レベル・リザーヴ」の後継として、2015年にパッケージと名前をリニューアルして発売された製品です。
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近年、ラクスコはレベルイェールを大きなブランドへ成長させる努力をしているように見えます。それは大幅なラインナップの拡大や、僅か数年でパッケージをマイナーチェンジする施策に見て取れました。製品の種類が増えるのは構わないのですが、ラベルのデザインをコロコロ変えるのは個人的には好ましいと感じません。何か腰の座ってないブランドとの印象を持ってしまいます。このスモールバッチ・リザーヴにしても、現在終売なのかどうかもよく判らないのです。2019年の4月にも新デザインとなり、それに合わせて100プルーフのヴァージョンが登場しました。もしかすると、そちらがスモールバッチ・リザーヴの後継なのかも知れませんね。
全てではないですが、一応ざっくりここ数年のレベルイェールを紹介しておくと、先ずエントリークラスのスタンダードの他、ハイプルーフ版となるスモールバッチ・リザーヴ、スモールバッチ・ライ(MGPソース)、ハニーとチェリーのフレイヴァーの物、バーボンとライのブレンドであるアメリカンウィスキー、10年熟成のシングルバレル等がありました。下画像の上段が旧ラベル、下段がリニューアル後のラベルです(シングルバレルは別枠)。
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話をスモールバッチ・リザーヴに戻しましょう。長い間NDPだったラクスコは、2018年4月に自社のラックス・ロウ蒸留所を完成させましたが、それまではヘヴンヒルから原酒を調達していた(販売数の確保のため今でも調達してると思われます)ので、この製品の中身はヘヴンヒルのバーンハイム蒸留所で造られた小麦レシピのバーボンです。つまり、元ネタとしてはヘヴンヒルのオールドフィッツジェラルドやラーセニーと同じな訳です。マッシュビルは68%コーン/20%ウィート/12%モルテッドバーリー、樽の焦がし具合は#3チャーとされ、熟成年数はNASですがスタンダードなレベルイェールの4年よりも少し熟成年数が長いのではないかと考えられています。では、そろそろレベルイェール・スモールバッチ・リザーヴを注ぐとしましょう。

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REBEL YELL Small Batch Reserve 90.6 Proof
推定2017年前後ボトリング。グレイン、ウッド、少ないキャラメル、チェリー、ペッパー、微かなシナモン。かなりサイレントなアロマ。香りから想像するよりは濃い味。水っぽい口当たり。余韻はあっさり短く、地味なスパイス感と辛み。パレートがハイライト。
Rating:80/100

Thought:典型的なバーボンの香りはしますが、正直言って物足りない味わいでした。スタンダードより2年程度熟成年数が長いのではないかと予想していたのですが、どうかなあ、もっと若そうな…。もしくは、かなり質の低い樽から引き出されたと言うか、適切な熟成がなされていない小麦バーボンのような気がします。これを飲んだ個人的感想としては、若い小麦バーボンを飲むならコーン比率の高い普通のバーボンを飲むほうが甘さを感じられて美味しいと思ってしまいました。

Value:レベルイェール・スモールバッチ・リザーヴは、スモールバッチを名乗るとは言え、アメリカでの小売価格は25ドル前後だったので、所謂「ボトムシェルフ」バーボンです。そう割りきれば味のマイナス点は気にならないでしょう。つまり「スモールバッチ」と言う言葉から過度な期待をしなければ十分美味しいのです。しかし、日本での販売価格は概ね3000円代。それなら個人的には、同じ小麦バーボン縛りで言えばメーカーズマークの方が余韻に宜しくない辛さを感じないのでオススメです。よっぽどレベルイェールの名前やロックなイメージが気に入っているのならば話は別ですが…。

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ケンタッキー・ヴィンテージはウィレット蒸留所(KBD)が現在リリースしているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つのうちの一つです。そのうち最も安価なブランドで、その他のラインナップはピュア・ケンタッキーXO、ローワンズ・クリーク、ノアーズ・ミルとなっています。このコレクションの成立は、おそらく90年代後半ではないかと思いますが、ケンタッキー・ヴィンテージだけもう少し前から一部の国へ向けてボトリングされていました。その頃の物は、現在のような茶色系のラベルではなく、白地に青と赤のトリコロールが印象的なカラーリングでした。ケンタッキー・ヴィンテージの起源は明確ではないのですが、私の知っている限り最も古いのは、ラベルに艶のない「15年101プルーフ」です。これは80年代後半あたりに当時のKBD(プレミアム・ブランズLTD)の社長エヴァン・クルスヴィーンが日本向けに発売した一連のプレミアムな長期熟成原酒の一つかと思われます。多分その後に艶のあるラベルの「12年101プルーフ」と「13年94プルーフ」が90年代初頭に発売されたと推測しています。
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レギュラー製品としてケンタッキー・ヴィンテージが発売された後にも、2000年には、上記と同じ艶のある白青赤ラベルで、ネック部分には熟成年数の替わりに蒸留年ヴィンテージが示されつつ蒸留日とボトリングの日付を手書きで記したシールが貼られ、ブルゴーニュ・スタイルのワインボトルにブルーのワックスで封された「1974」が日本限定で発売されました。またその他に発売年代が判別できませんが、おそらくヨーロッパ向け?と思われる薄紫色のバッグ付きの「1973」と「1974」というヴィンテージ表記の物もありました。両者ともにワイン・タイプではないボトルですし、デザイン的に90年代初頭ぽい気が…。ここら辺までの初期ケンタッキー・ヴィンテージに精通している方は是非ともコメントより情報提供お願いします。
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ケンタッキー・ヴィンテージのそもそもの製品コンセプトは、その名前からしてケンタッキーに長い間眠っていた長期熟成原酒をボトリングすることだったのだと思います。初期の物や限定リリースの物こそその名に相応しいとは思いますが、どういう訳かスモールバッチ・コレクションに再編されました。ウィレットのスモールバッチのバッチ・サイズはせいぜい12バレル程度とされ、選択を18〜20バレルから始めて絞り込むのだとか。そして初期の物と違いレギュラーのケンタッキー・ヴィンテージはNASです。熟成年数に関しては、2011年頃の情報では5〜10年、もう少し前の情報だと6年~12年とされていました。こうした極端に少ないバレル数のバッチングであること、NASであることを考え合わせると、バッチ毎の味の変動が大きい可能性はあるでしょう。バッチ毎は言い過ぎとしても、需要と供給の変化により選択する樽の構成を調整し易いのがNASの利点ですから、少なくとも生産年度に数年の違いがあれば、味わいの変動は十分考えられます。ちょっと明確な時期が判らないのですが、コレクションに編入された時から2000年代半ば(もしくは後半?)までは、色の付いた首の長い独特な瓶にボトリングされていました。その後の物も首は長めですが、もう少し一般的な形の透明の瓶に切り替わります。こうした外見の変化、パッケージのリニューアルは中身の大幅な違いをも表しているかも知れません。
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元ウィレット蒸留所のKBDことケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ社は、80年代初頭に訳あって蒸留を停止してから長きに渡ってボトラーとして活動して来ました。そのため原酒を他所から調達しており、その殆どはヘヴンヒル蒸留所からと目されています。それが変わったのは2012年。長年の自社蒸留復活の夢が遂に叶い、蒸留を再開したのです。そして、それから数年を経て、自社蒸留原酒をボトリングし始めた、と。そこで新しいケンタッキー・ヴィンテージの登場です。
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(写真提供K氏)
画像で判る通り、ボトル形状が少し変わりました。新しい物は首が少し短くなり、肩周辺がより丸みを帯びたシェイプになっています。おそらく2017年もしくは2016年のバッチあたりから新しい物に切り替わっているのではないかと推察していますが、皆さんのお手持ちのバッチ情報があったらコメントよりお知らせ下さい。

さて、今回は私の手持ちの推定2017年ボトリングのケンタッキー・ヴィンテージをレヴューするのですが、親愛なるバーボン仲間でありウィレット信者のK氏から二種のサンプルを頂きまして、そのお陰でサイド・バイ・サイドによるちょっとした比較が可能になりました。男気溢れるK氏には掲載画像の件も含め、改めてこの場でお礼を言わせてもらいます。ありがとうございました。
で、その二種のサンプルは、一つが推定2018年ボトリングのもの。これにより半年~一年差のバッチ違いの比較が出来ると想定しています。もう一つは推定2010年ボトリングのもの。こちらでは原酒の違いを比較できるかと思います。では、飲み比べてみましょう。

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Kentucky Vintage 90 Proof
BATCH QBC No. 17-62
推定2017年ボトリング。蜂蜜、熟したプラム、トーストブレッド、チャードオーク、グレープ、コーン、パイナップル、梅干。さらりとした口当たり。パレートはモルティな風味とフレッシュフルーツ。余韻は豊かな穀物と穏やかなスパイスが割りと長く続く。
Rating:87.5/100

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Kentucky Vintage 90 Proof
BATCH QBC No. 18-10
推定2018年ボトリング。バッチ17-62とほぼ同様なフレイヴァー・プロファイル。強いて言うならポップコーンぽさが強いのと、オークのバランスがやや違うような気もするが、それは酸化の進行状況の違いかも知れず、概ね同じものと見做していいと思う。
Rating:87.5/100

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Kentucky Vintage 90 Proof
BATCH QBC No. 10-174
推定2010年ボトリング。上記2つより色は濃いめ。金属、薄いキャラメル、木材、コーンブレッド、ホワイトペッパー、クローヴ。ちょっとメタリックな匂い。味はビター感が強めで甘さが足りない。余韻はスパイシーでさっぱり切れ上がる。
Rating:81.5/100

Thought:現行のケンタッキー・ヴィンテージは、渋いラベルからは想像もつかないデリケートなフルーティさに満ち、なんと言うか原酒本来の穀物感が活きたバーボンだと思いました。現在のウィレット蒸留所には6種類のマッシュビルがあるとされ、その内訳は、

①クラシック・バーボン・レシピ
(72% Corn / 13% Rye / 15% Malted barley)
②ロウ・ライ・バーボン・レシピ
(79% Corn / 7% Rye / 14% Malted barley)
③ハイ・ライ・バーボン・レシピ
(52% Corn / 38% Rye / 10% Malted barley)
④ウィーテッド・バーボン・レシピ
(65% Corn / 20% Wheat / 15% Malted barley)
⑤ハイ・コーン・ライウィスキー・レシピ
(51% Rye / 34% Corn / 15% Malted barley)
⑥ロウ・コーン・ライウィスキー・レシピ
(74% Rye / 11% Corn / 15% Malted barley)

と、なっているようです(上記のレシピ名は、分かりやすいようにセカンド・グレインの差を中心に据えて私が勝手に付けたものです)。一瞥して気付くのはモルテッドバーリーの配合率の高さですよね。これはもしかすると商業用酵素剤を使用していないのかも。それは偖て措き、ケンタッキー・ヴィンテージです。KVのマッシュビルは公表されていませんが、個人的には③一種もしくは少なくとも③を中心としたブレンドではないかと感じました。飲んだことのある皆さんはどう感じたでしょうか? どしどしコメントをお寄せ下さい。
一方のヘヴンヒル原酒と目されるバッチ10-174は、フレイヴァー・プロファイルが全く異なります。異なるだけでなく、ウィレット原酒とは正直言ってレヴェルが違うと思いました。私の好みにウィレットの方が合っていたとは言えますが、そもそもアロマの強さと余韻の広がりが段違いなのです。それとバッチ17と18を飲み比べた結果、ここまで似ているのなら、今後も安定してこの味でリリースされると予想されるでしょう。ウィレット蒸留所に拍手を、 そしてブレンダーの腕に乾杯を。

Value:ケンタッキー・ヴィンテージの現行製品の日本での販売価格はだいたい3500円前後が相場でしょうか。その価格帯の製品としては、ハイエンド感を演出するワックス・スタンプとワックス・シールドが施された外見はとても魅力的です(ただし、スクリュー・キャップとラベルの質感は安っぽい)。そして外見に劣らず中身がこれまた素晴らしいときたらオススメでない訳がありません。個人的な印象としては、焦樽感で押し通すタイプのバーボンではないので、普段スコッチやジャパニーズウィスキーを飲まれる方にも好まれるのではないかと思います。そして何より、現行製品は旧来のヘヴンヒル原酒の物とあまりにも違いがありますので、昔飲んで印象に残らなかったという方には是非とも再チャレンジして頂きたい銘柄です。


追記:ウィレット蒸留所と縁の深いバーGのマスターより情報頂けました。最近のものは21樽のバッチングだそうです。
またマッシュビルは①との情報が入りました。

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オールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンは、簡単に言うとオールド・フィッツジェラルド・ブランドの中のエントリー・クラス・バーボンで、1960年代に時代に迎合してボンデッドの低プルーフ版として発売され始めました。プライムの発売経緯には興味深いエピソードがありますが、その紹介の前に、ウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)の代表的ブランドであり、バーボン業界において真に象徴的な名前となっているオールド・フィッツジェラルドの歴史を少し振り返ってみたいと思います。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、そもそもウィスコンシン州ミルウォーキーに本拠を置く国際的なワインとスピリッツのディーラーであるソロモン・チャールズ・ハーブストが1886年に商標登録した「Jno. E. Fitzgerald」が始まりです。それはハーブストが率いたS・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが使用する幾つかのブランドのうちの1つでした。オールド・フィッツジェラルドの物語は、先ずはハーブストその人から語らなければならないでしょう。

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ソロモン・ハーブストは1842年にプロイセンのオストロノで生まれました。彼は地元の学校で教育を受けたあと故郷を離れ、1859年に16歳でアメリカへと渡ります。当時多くのジャーマンの若者はその段階で移住することで、基礎訓練中の新兵の死亡率が高いプロイセン軍の徴兵を避けたのだそう。ハーブストはジャーマン人口が多いミルウォーキーに直接向かったようで、それは言葉の通じ易さのためと見られます。若い頃の彼はブリキ職人として働いていました。また、後に成功することになるウィスキー・トレードへの参入前は、ミシガン州マスキーガンで兄弟のファビアンやウィリアムと卸売および小売の材木業に携わっていたようです。
1868年になるとハーブストはチェスナット・アヴェニュー401-403にあったエガート&ハーブストという酒類卸売会社のパートナーとしてミルウォーキーのリカー・ビジネス・シーンに登場しました。理由は分かりませんが、1870年までに相方のエガートはその事業から離脱し、ハーブストが単独所有者となり、社名にソロモン・チャールズ・ハーブストの名を刻みます。それは彼の成功への始まりの一歩でした。
この同時期に、ソロモンはウィスコンシン生まれで7歳年下のエマと結婚しています。彼女の両親は現在チェコ共和国の一地域になっているボヘミアからの移民でした。1880年の国勢調査によると、夫婦にはカーシー、デラ、ヘレンの三人娘がおり、それとハーブストの事業の順調さを示すように家庭には2人の使用人がいたようです。

ハーブストは同時代の卸売業者がそうであったようにレクティファイヤーとして、つまり原酒を余所の蒸留所から調達してブレンドし、所望の風味に整えて販売する、今で言うNDP(非蒸留業者)としてキャリアを始めました。初期の頃は、卸しでは自らの名前がコバルトブルーでステンシルされたストーンウェア・ジャグを、小売では名前がエンボス加工されたガラス瓶を使用していたようです。また、アンバーやクリアのフラスクボトルもありました。後年のものも含みますが、S.C.ハーブスト・インポーティング・カンパニーが販売していたブランドにはフィッツジェラルド以外では、「ベンソン・クリーク」、「同ライ」、「チャンセラー・クラブ」、「クリフトン・スプリングス」、「オールド・ジャッジ」、「オールド・ジョン」等があります。
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では、フィッツジェラルド・ブランドについて見て行きましょう。先に述べたように、初めは「ジョン・E・フィッツジェラルド」というブランド名でした。ハーブストがどのようにブランドを作成したかについては明確に分かりません。いくつかの伝説はありますが、それらは主にマーケティングの話に基づいています。おそらくハーブストはマーケティングの才に長けていたし、そのためのお金も持っていました。彼がブランド作成と共に作ったストーリーでよく知られるのは、フィッツジェラルド・ブランドは「1870年から鉄道と蒸気船のライン、プライヴェート・クラブにのみ販売する高級なバーボンとして製造された」といった話です。それはフィクションでしたが、ブランド名の由来がジョン・E・フィッツジェラルドの名前からなのは確かでした。しかし、同じ姓名の人物が複数おり、彼らが一人の人間なのか別の人間なのか明らかにするだけの証拠に欠けています。実はバーボンの歴史家にとって「ジョン・E・フィッツジェラルドは誰(何者)なのか?」は意外と簡単ではない問いなのです。なのでこの件は後回しにして、ある程度わかっているフィッツジェラルド・ブランドの情報を書き出してみます。

ハーブストはケンタッキー州の蒸留所からバレルを購入し、おそらくはブレンディングしてフィッツジェラルド・バーボンを造りました。1880年代後半から1896年頃までは主にオールド・テイラー蒸留所(当時RD#53、禁酒法解禁後にDSP-19となった)、またその他の蒸留所と契約してブランドを製造していたと見られます。ブランドにはバーボンとライウィスキーがありました。オールド・テイラー蒸留所のE.H.テイラーはハーブストにいくらかの未払金があって、この借金を支払うためにハーブストと契約を結んだのだとか。
ハーブストのリカー・トレードが成長するにつれて、彼は競合他社の存在や利用可能なウィスキーの高騰などから供給源の枯渇に直面し、レクティファイングのための十分な原酒を入手するのが難しくなったと思われます。そこで多くの成功した卸売業者がしたのと同様に、ハーブストも保証された安定的供給を確保するため、1900年頃、フランクフォート郊外のベンソン・クリークにある蒸留所を購入しました。地元の人々はそのプラントを代表的ブランドの名前からオールド・ジャッジ蒸留所(第7地区 RD#11)と呼んでいました。ハーブストはこの施設の運営のため、1901年にマネージャー兼マスターディスティラーとして、ケンタッキーの名高いウィスキー製造家族であるビクスラー家の一員ジェリー・ビクスラーを雇っています。禁酒法によって蒸留所が閉鎖されるまでの間、ここでフィッツジェラルドやオールド・ジャッジを含む全てのバーボンとライウィスキーが造られました。
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自らのプラントを所有することになったハーブストは巧妙な神話を紡ぎ出します。彼は蒸留所に自分の名前を付けてもケンタッキー州ではあまり反応がよくないと思ったのか、蒸留所はジョン・E・フィッツジェラルドという名のアイルランド人のディスティラーによって建てられたとマーケティングで語りました。実際の創設者はマンリウス・T・ミッチェルという人物で、1890年にオールドジャッジ蒸留所をマーサー郡バーギンからフランクフォートに移転する計画があり、蒸留所はおそらく1892年頃に建てられたと思われます。よくオールド・フィッツジェラルドのマーケティングで語られる1870年云々というのは、ハーブストが卸売業を始めた年でしょう。それと、どうもハーブストが購入する前の1899年に、既に蒸留所は他の所有者の手に渡っていたようで、もしかするとハーブストはそちらから購入したのかも知れません。それはともかく、ハーブストはもともと蒸留所の購入前からDBA(Doing Business Asの略)でジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所の名は使用していました。フランクフォートの蒸留所を購入したことで、1905年には「オールド・フィッツジェラルド」のブランド名を再登録します。そしてプラントの規模と能力を大幅に拡大、郡でも最大の蒸留所の1つとなり、ハーブストはそこをオールド・フィッツジェラルド蒸留所と称しました。

蒸留所の印象的な大きさにも拘わらず、ハーブストは広告で「昔ながら」の製法を強調しました。彼は特にポットスティルに強いコダワリがあったようで、本当かどうか分かりませんが、1913年の広告ではオールド・フィッツジェラルドとオールド・ジャッジをアメリカで製造されている最後の「オールド・ファッションド・カッパー・ポット・ディスティルド・ウィスキーズ」であると宣伝しています。また、以前ハーブストがオールド・テイラー蒸留所と契約を結んだのは、テイラーがポットスティルを使用していたからとされ、そもそもオールド・ジャッジ蒸留所を購入した理由もポットスティルが決め手だったとされます。ガラス瓶が安価になり始めた頃、企業は各々自社製品のボトルに特徴的なラベルを使い出し、ハーブストもオールド・フィッツジェラルドのラベルを作成すると、いつの頃からか(1910年代?)ラベルにポットスティルの図柄を入れました。店頭で販売されるクォートとフラスク・サイズのボトルに付けられたラベルは非常に有名になり、オールド・フィッツジェラルドの象徴的なラベル・デザインとして後世でも殆ど変わりません。
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ハーブストはフィッツジェラルド以外にも前記のブランドをリリースしましたが、言うまでもなく旗艦ブランドはオールド・フィッツジェラルドでした。おそらくは当初のコンセプト通り、蒸気船や列車の食堂で供されたり、高級なジェントルマンズ・クラブで人気があったのでしょう。ハーブストはウィスキーの流通を助けるため、1901年に中心地となるシカゴにオフィスを開設し、それを数十年間維持しました。他にもニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ジェノアにオフィスを構えていたとされ、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスでオールド・フィッツジェラルド・バーボンを販売していたとか。
ビジネスの成功によりハーブストの名声が地元で高まるにつれ、彼は他分野にも進出しました。1904年には地元の金融機関であるミルウォーキー・インヴェストメント・カンパニーの投資家、設立者、副社長になり、その後も300万ドル以上の資産を持つシチズンズ・トラスト・カンパニーの設立を支援しました。
ハーブストには事業を継ぐ息子がいなかったため、年老いてもなお自分の主要なウィスキー蒸留および流通事業を管理し続けたと言います。禁酒法によってケンタッキーの蒸留所とミルウォーキーの酒類販売店の両方が閉鎖された時、彼は既に70代になっていました。そこでハーブストは、禁酒法期間中に販売できる薬用ウィスキー用として、オールド・フィッツジェラルドのブランド権をW・L・ウェラーに売却します。おかげでブランド名は存続し、大衆の酒飲みからの認知もあったでしょう。そして禁酒法解禁後にオールド・フィッツジェラルドはスティッツェル=ウェラー蒸留所を牽引するブランドとなって行きます。
ソロモン・チャールズ・ハーブストは1941年2月に98歳で天寿を全うし、3人の娘とその家族に見守られ、ミルウォーキーズ・グリーンウッド・セメテリーに埋葬されました。彼の死に先行すること31年前に亡くなっていた妻エマの横に。

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さて、ハーブスト時代のオールドフィッツが終わったところで、後回しにしていたジョン・E・フィッツジェラルドについて述べたいと思います。彼について複数の候補がいることは先に触れましたが、現在もっとも広く受け入れられ支持されている説は、ヘヴンヒルからリリースされている現代の小麦バーボン「ラーセニー」ブランドの元にもなっているエピソードです。その民間伝承のように知られる話は語り手によって語句や内容に多少のヴァリアントがありますが、概ね以下のようなものでした(少々、私の想像で補って脚色してます)。

…ハーブストの倉庫で働く従業員もしくは警備員に、味にうるさい熱烈な大酒飲みの男がいました。名前をフィッツジェラルドと言いました。彼は当時の多くの従業員のように、倉庫にいるあいだゴム製ホースまたは「ミュール」と呼ばれる器具を持ち歩きました。彼はバーボンの最高の樽を見つけると、栓を開け、ホースを差し込み、仕事中に勝手に飲みました。そうした樽が最終的にボトリング・エリアに到着すると、通常の樽より僅かに軽いのでした。フィッツジェラルドの鋭敏な嗅覚と所業を知っていた仲間の従業員達は、それらの樽を「フィッツジェラルズ」と冗談で呼びました。いざ販売されたウィスキーは非常に良いと評判となり、事情を伝え聞いたハーブストはフィッツジェラルドの名前のブランドを作ることにしました…

現実には、フィッツジェラルドは保税倉庫に配属された米国財務省のエージェントでした。当時、ウィスキー税は米国政府にとって重要な収入源であり、ウィスキーの倉庫は厳重に監視されていて、蒸留所には倉庫への全てのアクセスを制御する「政府の人」が敷地内にいました。ちゃんとに税金が支払われ、ウィスキーが政府の基準に適合しているか確認する彼らのみ、保税倉庫の鍵を持っていたのです。蒸留所のオーナーでさえ鍵を持っていませんでした。これは1897年のボンデッド・アクトの成立から1980年代初頭にシステムが変更されるまで続いています。上のエピソードで「警備員」と解釈されているのは、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っていたからでしょう。しかし、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っているのなら、彼は財務省のエージェントでなければなりませんでした。
ジョン・E・フィッツジェラルドは、ディスティラーでも蒸留所のオーナーでもありませんでしたが、たまたま倉庫の鍵を握る立場にあり、グッド・バレルの良き裁判官でもあり、大酒飲みでもあったがため、個人的な消費のために最高の樽を頻繁にタップしたと推測されます。彼が勝手にウィスキーを味わう時、ハーブストのような蒸留所のオーナーや蒸留業務を指揮するディスティラーは殆どの場合そこに立ち会えません。これは謂わば無法者の政府保安官による「窃盗」です。そこからラーセニー(窃盗もしくは窃盗罪の意)・バーボンの名前は付けられました。ウィスキーを盗むとは言え、フィッツジェラルドは嫌われ者とは思えず、おそらく愛すべきキャラクターだったのでしょう。だからこそ蒸留所の人々の間で彼の味覚は称賛され、バーボンの特に優れた樽をフィッツジェラルド・バレルと呼んだ、と。やがて内輪の冗談は、ハーブストがオールド・フィッツジェラルド・ブランドの架空のプロデューサーとしてフィッツジェラルドを選んだ時、神々しい輝きを放ち始め、以後のマーケティング・スキームの基盤としてその影響は現代まで及んでいるのでした。
この説は多分に伝説の提供といった感が強いですが、一般的に事実として受け入れられています。では、他のジョン・E・フィッツジェラルドの候補はどうなのでしょうか?

一人は、上に述べたフィッツジェラルドと同一人物の可能性が高い男です。
1875年、大統領官邸にまで至る広範な汚職事件として悪名高いウィスキー・リング・スキャンダルの一環で、ミルウォーキーの歳入局のゲイジャー(計測係)が、ウィスコンシン州の不正な政府職員、蒸留業者、およびレクティファイヤーらと共に政府を詐取した陰謀の廉で逮捕されました。ゲイジャーの名前はジョン・E・フィッツジェラルドでした。一年後ワシントンにて他の二人のゲイジャー、一人のストアキーパー、四人のレクティファイアーと共に起訴されました。法廷で彼は、過去15年間ミルウォーキーに住んでおり、1869年9月から1875年5月まで米国政府のゲイジャーとして雇用されたと証言しています(他の証言では、樽が空になったのを確認する責務の「ダンパー」としてフィッツジェラルドが賄賂の交渉をしたと記述されました)。詳細は明かさなかったようですが流れとしては、蒸留業者は素知らぬふりをして税務報告よりも多くのウィスキーを作り、彼はそれを黙認することで口止め料の賄賂を掠め、それを共和党候補者に渡していたらしい。ゲイジャーの義務は倉庫の監督および樽の税印の修正や政府への申告書の提出などでした。おそらく職名からすると仕事としては、穀物の計量やマッシュビルの順守を監視し、樽への充填やバレル・ヘッドへのブランド情報の遂行の見守り、またバレル販売やボトリングのために樽が引き出された時それらの中身の残りを測定したのだと思います。ウィスキーを含む酒類のアルコール含有量を決定する責任者という説明もありました。
この男が「財務省のエージェント」と同一人物だとすると、この話が前半生、先述のエピソードが後半生ということになるでしょう。フィッツジェラルドが不名誉なスキャンダルの後にまたもや政府機関で働いたとは考えにくいとする意見があります。逆に政治家との繋がりが明白なのだからコネで再度就職したというのも有り得るとする見方もあります。前者も確かにそうだと頷けますが、フィッツジェラルドは調査への協力に対して免責を与えられたとかいう話も聞きますので、後者の可能性も捨てきれません。少なくとも彼の6年間のゲイジャー勤務時代(1869~1875年)には、ハーブストはまだ蒸留所の購入(1900年頃)をしていないので、この時代にフランクフォートの倉庫で「ラーセニー」エピソードが行われたのでないのは確実です。考えられるのは、ハーブストがミルウォーキーに保税倉庫を所有していた可能性。1870年代または80年代頃にはボンデッド・アクトは成立していませんでしたが、保税倉庫はありました。どうやらハーブストはミルウォーキーにブレンディング工場は所有していたらしいので、保税倉庫も所有していたのなら「窃盗」がこの時代に行われていてもおかしくはありません。ただし、この頃から保税倉庫はストアキーパーと呼ばれる政府の警備員の管理下にあり、その仕事は誰もがゲイジャーがいない状態で倉庫に立ち入らないようにすることだったと言います。となると、ゲイジャーが倉庫に入るにはストアキーパーに気づかれないようにする必要があります。ゲイジャーの男による味見のための窃盗が実際に行われていたのなら、ストアキーパーとの共謀だったのではないかとの指摘がありました。また、このフィッツジェラルドの裁判記録は倉庫へのアクセスを示すものではなく、様々な蒸留業者とレクティファイアーの間での税金の徴収のみを示しているそうです。そこにはハーブストの名も見られず…。つまり、ジョン・フィッツジェラルドが当時ミルウォーキーのゲイジャーだったという証拠はありますが、彼が実際にハーブストの倉庫で働いたという証拠はないのでした。しかし、同じミルウォーキーの同じ時代に酒に関わる二人のこと、フィッツジェラルドとハーブストが互いに顔見知り、或いは気の合う仲間だったというのは十分考えられるでしょう。ちなみに、この彼は1838年に生まれ、1914年に死亡、その死までミルウォーキーに留まったとされ、ミドルネームの「E」はエドモンドのようです。

では、次のもう一人。この人物の詳細は不明ですが、ミルウォーキーの国勢調査の記録から、同じ時期にその都市にボイラーメーカーであるジョン・E・フィッツジェラルドがいたことが判明しています(1910年の国勢調査で72歳)。或る慎重な歴史家はこの彼を、ハーブストのメンテナンスマンとして働いていたのではないかと思う、と述べていました。
続けて、もう一人。この人物のミドルネームの頭文字は不明ですが、エドモンドとエドムンドという名前の家族がいました。このジョン・フィッツジェラルドは1896年に63歳で亡くなり、生涯を船長と造船者として過ごしました。彼は老年期にはドライドックを設立し、そこは息子のウィリアム・E・フィッツジェラルドが不慮の死で1901年に亡くなるまで運営していたそうです。ウィリアムには造船業界に入らなかった息子がいましたが、家族経営の会社は彼のために船を造ってエドムンド・フィッツジェラルドと名付けたとか。このウィスキーや蒸留業とは無関係のフィッツジェラルドが取り上げられた理由は、実はハーブストがヨットに意欲的だったからでした。彼は年次開催されたミルウォーキーとシカゴ間のヨット・レースで授与されるS.C.ハーブスト・トロフィーを創設したと言います。これは或るフィッツジェラルド研究に熱心な方の情報ですが、なんと上記の「ボイラーメーカー」を取り上げた歴史家も、1889年の市の商工人名簿に蒸気船の運送会社の副社長としてジョン・E・フィッツジェラルドがリストされていると指摘しています。こうしたヨットへのハーブストの親和性や蒸気船とジョン・E・フィッツジェラルドの関係は、オールド・フィッツジェラルドのあの有名なマーケティングの文言(鉄道やらリヴァーボートやら蒸気船の顧客専用に特別に造られたと云うあれ)を連想させるのに十分でしょう。

最後の一人はディスティラーです。有名なサム・K・セシルの本のジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所(オールド・ジャッジ蒸留所のこと)の説明にはこう書かれています。
「この工場はフランクフォート郊外のベンソンクリークにあり、ジョン・フィッツジェラルドによって建設された。ブランドにはオールド・フィッツジェラルド、オールド・ジャッジ、ベンソン・スプリングスがあり、ミルウォーキーのS.C.ハーブストにより配給された。1900年頃、フィッツジェラルドはブランドをハーブストに売却し、インディアナ州ハモンドに移り、そこで別の蒸留所の監督になった。」
どうもこの書かれ方だと、これまでの文面から判る通り、私の理解の真逆になっています。即ち、ハーブストはただのブランド販売代理店の経営者であって創造者ではなく後継者であり、フィッツジェラルド・ブランドはジョン・フィッツジェラルドというディスティラーが造った、と。どうやらセシルのこの説はWhit Coyteのリサーチを基にしているようで、個人的には信憑性に欠く気がします。しかし、フィッツジェラルド蒸留者説は、どうやら無根拠ではありませんでした。他の歴史家によると、ミルウォーキーからそう遠くない場所で同時代に蒸留事業に携わっていたジョン・E・フィッツジェラルドがいたと言うのです。そのフィッツジェラルドはシカゴ・インター・オーシャンによれば、「米国で最も優れた蒸留者の一人と見做される」プラント・マネージャーで、1901年にシカゴ近郊のハモンド蒸留所の秘書兼会計に任命されました。しかもそれ以前には、ウィスキー・トラストによるダイナマイト爆破事件で有名なあのシューフェルト蒸留所で17か18歳の頃からディスティラーとしてキャリアを始めたとか。このフィッツジェラルドは1865年生まれとされます。なのでゲイジャーと同一人物でないのは明らかとは言え、ハーブストと無関係とは言い切れないでしょう。ハーブストは自らの卸売事業のための供給を主にケンタッキー州の蒸留所と契約して確保していたとされますが、当時最も生産性の高い蒸留所はイリノイ州にあり、その中でトラストと提携していなかったシューフェルト蒸留所は、ハーブストのサプライヤーの一つだったのかも知れません。もしそうであれば、ハーブストが上手くフィッツジェラルドの高名な名前を利用した可能性もある気がします。或いは、ハーブストはシカゴにオフィスを構えていたので、知り合いだったのでは?

ここまで謎に満ちたミステリアスなジョン・E・フィッツジェラルドの候補を紹介して来ましたが、これらのフィッツジェラルドのうち2~3人が同じ人物だったなんてことは十分に考えられるでしょう。彼らが人生のキャリアに於いて転職を繰り返した同じ男性であるかどうかを決めるにはより多くの研究が求められます。一方で「ジョン・E・フィッツジェラルド」は非常に一般的なアイルランド系の名前でもありました。候補には加えませんでしたが、1880年代にボストンの内国歳入局の徴税係にジョン・E・フィッツジェラルドという男がいたそうです。同じ時代で同じ税収に関わる仕事かつ同じ名前、つまりはありがちな名前だった、と。もしかすると1800年代後半に、バーボンにアイリッシュ・ネームを付けることで、一部のエスニック・グループにアピールすることは、悪くないマーケティング方法だったのかも。孰れにせよ、どれもが憶測です。ジョン・E・フィッツジェラルドが何者であるかの詳細は、更なる新しい資料の発見を俟たねばなりません。
こうしたフィッツジェラルドについての謎、錯綜、様々な憶説の飛び交う混沌とした状況は、ひとえにハーブストのマーケティングのせいだと思います。ハーブスト(或いはその担当者)は、一つの真実を保ちながら壮大な脚色をして物語を紡ぐ小説や映画のように、またはそれらに登場する一人の人物のキャラクターが実在する複数の人間のエピソードに基づいて構成されたりするように、フィッツジェラルドの神話を創造したのではないでしょうか? 彼は自分の晩年に、ブランドを酒豪のフィッツジェラルドと名付けることは、意地悪で可笑しな内輪のジョーク(悪ふざけ?)であったことを明らかにしたと言われています。我々が捏造された架空の起源に翻弄されたり、謎解きに右往左往する姿を見たら、ハーブストは天国でくすくす笑っているのかもしれません。 

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さて、ここからはハーブストから新しい所有者に切り替わったオールド・フィッツジェラルドを見て行きます。
禁酒法期間中の1922~25年にかけて、ジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルはハーブストからオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを購入し、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所が禁酒法下でも政府に認められた薬用ウィスキーとして販売するようになりました。既存の在庫は禁酒法期間中に枯渇し、1928年、政府が薬用の在庫の補填に対してはウィスキーの製造を許可したため、アーサー・フィリップ・スティッツェルとパピー・ヴァン・ウィンクルはスティッツェル家に伝わる旧いレシピを使用してウィスキーを造ることにします。そのレシピとは、フレイヴァー・グレインにライ麦を使わず代わりに小麦を用いるものでした。彼らがこのレシピに決めた理由は、他のレシピと較べ短い熟成年数でより良い風味が得られると感じたこと、そして既存の在庫が減少するにつれてウィスキーが早急に必要となることを分かっていたからです。オールド・フィッツジェラルドが、後年「ウィスパー・オブ・ウィート(小麦の囁き)」と説明されることになるウィーテッド・バーボン、或いはウィーターと呼ばれるグレイン・レシピに変わったのはこの時からで、以前のオールドジャッジやテイラー産およびその他のものは恐らくスタンダード・ライ・レシピ・バーボン・マッシュビルを使用して造られていました。小麦バーボンは適切に熟成すると、伝統的なライ麦を含むバーボンよりも丸くて柔らかいテクスチャーを示し、スパイス・ノートの少ないより甘いプロファイルをバーボンに与える傾向があると言います。余談ですが、面白いことに上のパピーらの見解とは逆に、現代の考え方では熟成年数の若い小麦バーボンはあまり味が良くないと言うか、小麦はライ麦より穏やかな熟成を見せるので、小麦バーボンがライウィスキーまたはライ・レシピ・バーボンと同等の熟成感を得るためには樽の中でより多くの時間が必要とされているそうな。

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(我々は優良なバーボンを造り、できれば利益を上げる、必要であれば損失を出してでも、常に優良なバーボンを造る)

禁酒法が解禁された1933年、W.L.ウェラー・アンド・サンズとA.Ph.スティッツェル蒸留所は正式に会社として合併し、老朽化したスティッツェル蒸留所に代わる新しい生産工場をルイヴィル近郊のシャイヴリーに建設します。それがスティッツェル=ウェラー蒸留所(DSP-KY-16)であり、1935年のダービー・デイにオープンしました。そこではジュリアン・パピー・ヴァン・ウィンクルの指揮の下、オールド・フィッツジェラルドは造られました。そのため、この先のオールド・フィッツジェラルドのブランド・ステータスは、ジョン・E・フィッツジェラルドでもハーブストでもなく、パピーと関連付けられて行きます。
スティッツェル=ウェラーは比較的小規模な独立所有の蒸留所であり、今で言うところのクラフト蒸留所に近い蒸留所でした。パピーが執った方法論は昔ながらの製法に依るものと言ってよいでしょう。それは品質への妥協のなさを意味します。ライ麦の代わりに小麦を使うことは割高でしたし、油性の口当たりをもたらすマッシュのためのトウモロコシの挽き方もより高価なプロセスでした。また、樽材には通常より厚いオークのステイヴを使用していたと言います。そしてパピーは恐らくウィスキーの工程全般に於いてプルーフの制御に重きを置きました。一説には50年代頃は、天然のバーボンの風味を維持するため、コラムスティルでの第一蒸留を85プルーフ、ポットスティル・ダブラーでの第二蒸留を117プルーフ、バレル・エントリーを103プルーフで実行したとか。これらは現代の水準と較べて驚くほど低い数値です。
蒸留所のドアの上の看板にはこう書かれていました。「化学者の立ち入りを禁ず。自然およびマスター・ディスティラーの昔かたぎの〈ノウハウ〉がここでの仕事を成し遂げる…ここは蒸留所であって、ウィスキー工場ではない」と。スティッツェル=ウェラーの初代マスターディスティラーであるウィル・"ボス"・マッギルは、テクノロジーではなく人間の感覚こそが良質なウイスキーを作ると考えました。この思想はスティッツェル=ウェラーの歴代マスターディスティラー全員に受け継がれ、施設の最後のマスターディスティラーであるエド・フットは業界に於ける蒸留の自動化を嘆いたと言います。彼らは皆、自らの口蓋と鼻を使って良質なウィスキーを造り上げたのであって、決してコンピューターがそれを造り出したのではなかったのです。

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(Time Magazine May 21 1956)

パピーはもともとW.L.ウェラー社の優秀なセールスマンだったので、マーケティングを怠ることもありませんでした。1950年代、彼は新聞や雑誌にシリーズ物の広告を掲載しています。そこでは、親密な口調で民俗的物語を訓話風にまとめてオールドフィッツを飲むべきだと語ったり、暖炉横でのゆったりしたお喋りのようなスタイルで自社の伝統的な製法を説明したりしました。こうしたパピーのユニークな個性を反映した広告形態は、おそらくオールド・フィッツジェラルドの評判を高めるのに役立ったことでしょう。

スティッツェル=ウェラーでパピーは幾つかのブランドを作りましたが、旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドが最も人気がありました。パピーの統制下ではオールド・フィッツジェラルドは常にボトルド・イン・ボンド規格のバーボンでした。熟成年数は4〜7年とされます。その後、8年熟成のヴァージョンとして「ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」が追加されました。8年は、保税期間のため政府に税金を支払う前に熟成させることが出来る当時の最大年数だったからです。1958年以降、保税期間が8年から20年に延長されたことで、ブランドには長期熟成ヴァージョンが更に加わり、それらは「ヴェリー・エクストラ・オールド・フィッツジェラルド」、「ヴェリー・ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」のラベルにて限られた数量でリリースされました。
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「オールド・フィッツジェラルド・プライム」は、パピー・ヴァン・ウィンクルがボトリングを拒否したバーボンです。冒頭に述べたように、プライム・バーボンは従来までのオールドフィッツの低プルーフ版な訳ですが、パピーはオールド・フィッツジェラルドがボンデッド・バーボンとしてのみ販売されるべきとの信念をもっており、人々がより低いプルーフを望むなら自分で水を足せばよいと考えていました。消費者が水にお金を払うのは馬鹿げていると広告で述べたそうです。しかし、パピーが引退した後、会社を引き継いだ息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアは、コストの削減や利益の増大にプルーフを下げている他社のブランドと競合するため、オールド・フィッツジェラルドでもロウワー・プルーフ・ヴァージョンの発売を求めていた販売員からの圧力に屈し、1964年にプライムは作成されました。ジュリアン・ジュニアは後に8年熟成で90プルーフの「オールド・フィッツジェラルズ1849」も導入しています。プライムは発売当初から数年間は86.8プルーフの製品で、数年後に86プルーフに落ち着きました。後年、ユナイテッド・ディスティラーズがブランドを所有した時、彼らはケンタッキー州では86プルーフ・ヴァージョンを作り続けましたが、ケンタッキー州以外の市場ではプルーフを80に下げました。更に後年、ブランドがヘヴンヒルに渡った時にはケンタッキー州でも80プルーフになります。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、長い間プレミアム・バーボンとして高い評価を得ていました。「もし君がバーボン飲みでないのなら、その理由は一つ、オールドフィッツを味わったことがないからだ」と堂々と宣言する1970年の広告もありました。控え目に言っても、ジュリアン・P・"パピー"・ヴァン・ウィンクル・シニアはアメリカン・ウィスキー産業の巨人でしょう。彼はバーボンが華やかりし時代の最も裕福な蒸留所オーナーでもなければ、ディスティラーでもなかったかも知れませんが、多くの課題に直面しても偉大なる指揮者として自分の会社と自らのバーボンの誠実性を維持し、彼の会社を統合しようと目論む巨大会社のウィスキー独占と激しく戦いました。残念なことに、1965年のジュリアン・シニアの死後、ジュリアン・ジュニアは会社を維持できませんでした。彼の社長としての在職期間はウィスキーの販売が減少し、ファーンズリー(S-Wの共同経営者)とスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、1972年、アート・コレクターとしても有名な億万長者の実業家ノートン・サイモンのコングロマリット(ノートン・サイモン・インコーポレイテッド)への売却を余儀なくされたのです。それでもジュリアン・ジュニアは業界に留まり、古巣のスティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利を契約に残したことで、禁酒法時代のブランドだった「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」を復活させ、その事業はジュリアン・ジュニアが1981年に亡くなった後も息子のジュリアン・P・ヴァン・ウィンクル3世に引き継がれたのですが、これはまた別の話。

1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所がノートン・サイモン社に売却されると、その名称は主力ブランドと同じオールド・フィッツジェラルド蒸留所に変更されました(*)。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。サマセットはジョニー・ウォーカー・ブランドの販売権を有していました。これが伏線となって、1984年、ジョニー・ウォーカーを所有していたディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収することでジョニーウォーカーの流通を管理します。その結果としてオールド・フィッツジェラルドも移行しました。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。この所有権の変更時に蒸留所の名称はスティッツェル=ウェラー蒸留所へと戻されました。
ユナイテッド・ディスティラーズはアメリカンウィスキーの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルに新しく建設したバーンハイム蒸留所に生産ラインを移管、以後オールド・フィッツジェラルドはそこで製造されて行きます。スティッツェル=ウェラーの最後のマスター・ディスティラーであるエド・フットは、そのままバーンハイムで同職に就き仕事を続けました。この頃、UD社はバーボン・ヘリテージ・コレクションの一つとして「ヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年」を発売しています。
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蒸留所の親会社はM&Aの末、巨大企業ディアジオを形成し、同社はアメリカンウィスキーの資産のうちIWハーパーとジョージディッケルを残して、それ以外のブランドの売却を決定。1999年、バーズタウンにあった自社の蒸留所を火災で消失していたヘヴンヒルは新しい蒸留施設を求めていたので、ディアジオはヘヴンヒルにバーンハイム蒸留所と共にオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックの一部を売却しました。それ以来、今日までオールド・フィッツジェラルドはヘヴンヒルが所有しています。
ヘヴンヒルではブランド取得後、かなりの低価格で100プルーフのボトルド・イン・ボンドと80プルーフのプライム・バーボンが発売されていました。所謂「ボトムシェルフ」というやつです。オールド・フィッツジェラルズ1849もありましたし、販売量の少ないヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年も継承されていました。アメリカに於けるプレミアム・バーボンの隆盛を背景に、2012年9月、ヘヴンヒルはオールド・フィッツジェラルドの延長としてラーセニーを市場に導入します。その影響で、次第にオールド・フィッツジェラルドのラインナップは縮小され、2015年前後には終売の情報が流れました。実際、VSOFはギフトショップのみの販売となりそのあと製造中止、BIBも配布地域を減らして行きそのあと製造中止となったようですし、OF1849も市場から消えています。ただし、プライムは今現在海外でも日本でもネットで購入できます。しかし、これが単なる在庫なのか製造が続いているのかよく判りません。それとは別に2015年には「ジョン・E・フィッツジェラルド・ヴェリー・スペシャル・リザーヴ20年」という限定リリースもありました(375mlボトルで約300ドル)。これはその昔、ヘヴンヒルがオールドフィッツのブランド権を買収した時に、一緒に購入したスティッツェル=ウェラーのバレルを、或る時から熟成しないコンテナーに移して秘蔵していたものです。また最近の2018年になって、毎年春と秋の2回リリースされる限定版「オールド・フィッツジェラルド・ボトルド・イン・ボンド」が導入されました。50年代に販売されていたダイヤモンド・デカンターを復刻した華麗なデザインが人気を博しています。
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では、そろそろ今回レヴューするオールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンを注ぐとしましょう。

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Old Fitzgerald Prime Bourbon 80 Proof
推定2000年前後ボトリング。オレンジぽいブラウン色。アップルワイン、軽いヴァニラ、焦樽、アプリコットジャム、ラムレーズン、カカオ、サイダー。水っぽくも柔らかい口当たりでヒート感は殆どない。味わいはやや酸味より。余韻は短くウッディなスパイスとピーナッツ。
Rating:82/100

Thought:今回のレヴューで開封したのは、UPCコードからするとユナイテッド・ディスティラーズが販売していた製品もしくはヘヴンヒルへ移行した初期の物と思われます。一応カテゴリーをヘヴンヒルにしましたが、推定ボトリング年代が正しいとすると、この時代のプライムの熟成年数はNASながら多分4年なので、本ボトルはヘヴンヒルが所有する前のニュー・バーンハイムで蒸留された原酒の可能性が高いです。
こうしたエントリークラスのバーボンから想像される味より、ダークなフルーツ感が強く、風味全体が複雑でした。ただし、画像では判らないかも知れませんが、こちら購入時から液体に曇りがありました。飲めないほどの劣化はしていませんでしたが、開封当初からかなり酸化の進んだ「香りの開いた」味わいに感じました。しかし、その割りに余韻はあまり芳醇でないと言うか、個人的にはもう少し甘みが欲しかったです。


*この頃からマッシュビルやイーストにも多少の変更があったようです。スティッツェル=ウェラーのマッシュビルは約70%コーン、20%ウィート、10%モルテッドバーリーとされていますが、蒸留所が売却された後には長年に渡って変更が加えられ、新所有者はお金を節約するためにモルテッドバーリーの量を減らし、トウモロコシの量を増やしたとか。これは澱粉を糖へ変換するために商業用酵素を追加することを意味しています。イーストに関しては、パピーの在任期間中はジャグ・イーストを用いていたそうですが、新しい所有者はドライ・イーストを使用するようになったそう。しかし、それでもスティッツェル=ウェラーは依然としてレヴェルの高い生産を維持したと言われています。
ちなみにバレル・エントリー・プルーフも年々上昇したようで、パピー初期は本文でも記したように103~107プルーフあたり、最終的には114プルーフになったと見られています。

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