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カテゴリ:ケンタッキーバーボン > ブラウンフォーマン社

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの7、8杯めに選んだのは、おそらくこのバーの中でも最も貴重なバーボンであろう禁酒法時代のオールド・オスカー・ペッパーと禁酒法解禁後のL.&G.(ラブロー&グラハム)です。オールド・オスカー・ペッパーはケンタッキー・バーボンの有名な銘柄の一つであり、ペッパー家の3世代はケンタッキー州の最前線でウィスキーを蒸溜し、業界の黎明期を今日の姿に築き上げるのに貢献しました。そして現在でもペッパーの名はブランドとして復活しています。ラブロー&グラハムも現在のウッドフォード・リザーヴに繋がる名前です。バーボンの歴史は彼らを抜きにしては語れません。そこで今回はペッパー・ファミリーのレガシーの一部とグレンズ・クリークの蒸溜所の歴史に就いてざっくりと紹介したいと思います。

ペッパー家の蒸溜はエライジャ・ペッパーから始まります。エライジャは、サミュエル・C・ペッパー・シニアと「英国人女性」とされるエリザベス・アン・ホルトン・ペッパーの間に生まれました。生年には系図サイトを参照にしても諸説あり、1760年12月8日月曜日とするもの、1767年とするもの、1775年とするものがあります。出生地も、ヴァージニア州カルペパーとしているものとフォーキア・カウンティとしているものがありました。この二つは隣接しているので、だいたいそこら辺で産まれたのでしょう。彼は1794年2月20日にフォーキアで名門オバノン家出身のサラ・エリザベス・オバノンと結婚しました。エライジャの生年を1767年としている系図サイトだと、サラを1770年生まれとしていました。或る記録によると結婚当時のサラは13歳か14歳だったとされているようで、そちらが正しい場合は生年は1780年あたりになるでしょう。1797年、エライジャはサラとその兄弟ジョン・オバノンと共に500マイル以上西のケンタッキー州に移り住み、現在ウッドフォード郡ヴァーセイルズとして知られる地域に居を構え、町のコートハウスの裏手のビッグ・スプリング近くに最初の小さな蒸溜所を建てました。1780年頃からエライジャはヴァージニアで蒸溜業を始めていたとする説もありました。農業と蒸溜が不可分のファーム・ディスティラーだったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、エライジャは一旦バーボン・カウンティに移って数年間を過ごしたらしい。バーボン・カウンティの納税記録と1810年の国勢調査によると、ウッドフォード・カウンティに戻る前の3年間はバーボン・カウンティに住んでいたのとこと。その後ウッドフォード郡に再び戻り、1812年までにヴァーセイルズのグレンズ・クリーク沿いの200エーカーの土地に新しい蒸溜所をオープン。この土地の明確な所有権が確立されたのは1821年のことで、証書が記録されたのはその翌年だったそう。彼がこの場所を選んだのは、敷地内を支流が流れ、小川のほとりに3つの清らかな泉が湧き出していたからでした。そこには農場とグリストミルもあり、彼らはその水を穀物を粉砕する動力源、発酵や蒸溜のようなウィスキー造りのためだけでなく、冷蔵用に使ったり新鮮な飲料水としても家畜のためにも利用しました。当時は正に「農場から蒸溜まで」の操業だったのです。近隣のケンタッキー州の農家は連邦税が課されたため蒸溜を断念せざるを得ませんでしたが、エライジャには資金力があったようで、彼らの穀物を買い取り、合法的にウィスキーに仕上げたと言います。またエライジャはこの土地の蒸溜所と周辺の農場を見下ろす丘の上に、外壁に巨大な石灰岩の煙突を備えた2階建てのログ・ハウスを建て家族を住まわせました(*)。当初のペッパー入植地で唯一残ったこの家は、その後の住人たちによって増築され使われました。エライジャとサラは、少なくとも3人の息子と4人の娘の両親だったとも、4男3女の7人の子供がいたとも、或いは8人の子供を儲けたともされ、その場合はプレスリー、オスカー、エリザベス、サミュエル、ナンシー、アマンダ、ウィリアム、マチルダだったと思われます。ペッパー家は奴隷の所有者であり、1810年の国勢調査の記録によると一家には9人の奴隷黒人がおり、所有地の繁栄に伴ってその後の10年間で奴隷は12人(男7人、女5人)に増えました。畑仕事をする人手が増えたためか、エライジャは所有地を350エーカーまで拡大したとか。更に、1830年の国勢調査では13人の男と12人の女を奴隷として雇っていたとされ、ペッパー農場の成功を裏付けていると目されます。 エライジャはかなりの富をもっていたようで、彼が亡くなった時の目録には、蒸溜所のカッパー・ケトル・スティル6基、マッシュ・タブ74個、多数の樽、熟成ウィスキー41樽(1560ガロン相当)があり、家畜は22頭の馬、113頭の豚、125頭の羊と子羊、30頭以上の牛を数え、その他にも農業や木材加工に使用する道具も多数所有していました。エライジャ・ペッパーは1831年2月23日(または3月20日前という説もある)に死去。彼は亡くなるまで蒸溜所を経営し、生前に遺言を作成しました。子供達に家財を少しと奴隷一人づつを贈与し、最愛の妻サラには蒸溜所と奴隷を含む殆どの財産を残しました。キャプテン・ウィリアム・オバノンとナンシー・アンナ・ネヴィルの娘であるサラ・エリザベス・オバノンは、南北戦争の名将でジョージ・ワシントンの個人的な友人でもあったヴァージニアのジョン・ネヴィル将軍の姪でした。ネヴィル家はヴァージニアの裕福な貴族であり、ペッパー家を経済的に援助していた可能性をジャック・サリヴァンは指摘していました。エライジャは広大な農場と関連事業の管理をサラに任せていたようで、財産目録によれば彼女はスティルやタブ等を含む農場や蒸溜所の設備の購入を監督していたり、ペッパー邸を飾ったであろうカーペット、銀製品、その他の高価な調度品の購入も彼女が担当したと推測されます。国家歴史登録財に登録するためにこの土地を調査した歴史家の推定では、エライジャの死後、1831年から1838年までの約7年間、サラは蒸溜所やウィスキー販売を含む家業の管理を担当していたそうです。そして、サラは蒸溜所を受け継いだものの経営にはあまり関心がなかったのか、或いは高齢のための隠居なのか、1838年に自分のインタレストを長男のオスカー・ペッパーに売却しました。

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今回飲んだオールド・オスカー・ペッパー(O.O.P.)のブランド名の由来となっているオスカー・ネヴィル・ペッパーは、1809年10月12日木曜日に生まれました。幼い時のことはよく分かりませんが、彼は父親が創業した比較的小規模なウイスキー事業を引き継ぎ、新たなレヴェルに成長させたことで知られています。蒸溜所の丸太造りから石造りへの転換と小川の西側への移転は、1838年までにオスカーの所有下で行われました。そのため1838年はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の創業の年となり、O.O.P.ブランドの起源となりました。但し、1840年の国勢調査ではオスカーの職業はファーマーだったそうで、農場と蒸溜所は兼業であり、農業の方でよりお金を稼いでいたのかも知れません。オスカーは母の死後(サラの死去は1848年説と1851年説がありました)、母の土地を分割した兄弟姉妹のシェアを取得したことが譲渡証書や遺言によって示されているそうです。彼はプランテーションを所有している間に敷地内の大規模な改修を始め、父親が製粉と蒸溜業を営んでいた丸太造りの建物を石造りの建物に建て替え、住居も大きく増築しました。1850年の国勢調査には、トーマス・メイホールというアイルランド出身の石工が一家と同居していたという記録が残っているとか。
ペッパー家のファミリー・ビジネスに大きく貢献したのはドクター・ジェイムズ・クロウでした。オスカーは彼を今で言う蒸溜所のマスター・ディスティラーとして雇用しました。クロウはサワーマッシュ・ファーメンテーションや木製バレルでの熟成プロセスを改良/体系化することで、バーボン造りのプロセスに科学的な要素を加えた人物として評価されています。ジェームズ・クリストファー・クロウはスコットランドのインヴァネスに生まれ、エディンバラ大学で化学と医学を学び、アメリカに移住しました。最初はペンシルヴェニア州フィラデルフィアに定住し、短期間滞在した後、ケンタッキー州に移るとグレンズ・クリーク周辺の蒸溜所で働き始めました。彼は学んだ科学的知識を蒸溜に活かし、リトマス試験紙でマッシュの酸度を測ったり、糖度計で糖度を測ったりしました。バーボンの製造に於いて殊更取り上げられる有名なサワーマッシュ製法はクロウが考案したのではありませんでしたが、科学の知識を応用して完成させました。サワーマッシュは、前回のバッチのマッシュから残ったバックセットの一部を取り出し、現在のマッシュの中に含めることで、発酵を促進し、悪い菌の繁殖を防ぐのに役立ちます。1833年にはオスカー・ペッパーがクロウに助言を求めたとされており、クロウはその時期にグレンズ・クリーク沿いの他の蒸溜所で働きながらペッパーズの蒸溜所を手伝っていたようです。クロウの専門知識が齎す商業的利益の可能性に気付いたオスカーは、彼と協力してペッパー農場の小さな丸太造りの蒸溜所を1日あたり1もしくは1.5ブッシェル程度から25ブッシェルの蒸溜所にアップグレードしました。クロウは1ブッシェルの穀物から2.5ガロン以上のウィスキーを造ってはならないと主張したとされます。この蒸溜所で伝説的なオールド・クロウ・ブランドは誕生し、蒸溜され、その後多くのバーボン消費者に大人気となりました。クロウはキャリアの殆どの期間をペッパーの蒸溜職人として過ごし、他の蒸溜所で働いたのは少しの期間だったと思われます。彼は1833年頃から1855年までペッパー家のために働きましたが、1837年から1838年に掛けてグレンズ・クリーク農場の敷地は建設工事で占拠され、1838年から1840年に掛けては深刻な旱魃が農業生産に影響を及ぼしたため、この間クロウはオスカーの蒸溜所で働いていなかったようです。新しいカッパー・ポット・スティルとフレーク・スタンド(蒸溜器のワームを冷却する容器)が設置され、マッシング・タブ、ファーメンター、スティーム・エンジンが製造開始の準備を整える他、建設工事による多額の資本支出には上述のトーマス・メイホールの雇用も含まれ、彼は地元の石灰岩から大きな石造りの蒸溜所、貯水槽、製粉所、倉庫などの施設を建設しました。1838年の春から1840年の冬に掛けての旱魃はケンタッキー地方の大半に壊滅的な打撃を与え、作物の不作と蒸溜用の水不足を齎したと言います。蒸溜には水が不可欠で、1ガロンのウィスキーを造るには、マッシング、コンデンシング、クリーニングに60ガロン以上の水が必要でした。クロウがオスカーの蒸溜所に復帰したのは1840年のシーズンになってからのこと。建設が完了するとクロウは家族を連れて新しいペッパー蒸溜所から200ヤード上にある家に移り住んだそうです。また、彼は蒸溜所の年間ウィスキー生産量の8分の1(または10分の1という説も)を支払いとして交渉したと言います。これは農家の穀物を挽くための報酬として製粉業者が受け取る金額とほぼ同じでした。年間生産量は季節によって変動しますが、1840年代後半には年間生産量は約650バレル(20000プルーフ・ガロン)となり、樽からの蒸発や浸透、卸売価格の変動、ディーラーへの年間販売量を考慮すると、クロウの報酬はおそらく年間500ドルから1000ドルと高額、彼の生産契約の途中である1848年の都市部の職人の平均年収は550ドル、ケンタッキー州の農場労働者の年収は120ドルだったので、クロウはケンタッキー州の田舎の基準から見て非常に快適な生活水準を誇っていた、とウィスキーの歴史家クリス・ミドルトンはクロウ研究の中で述べています。雇い主のオスカーはウィスキーの取り分、家畜の販売、余剰穀物生産、亜麻と麻の栽培などでかなりの収入を得ており、1860年、政府は彼の土地と資産を67500ドルと評価し、これは2020年の価値で2100万ドル相当でした。この蒸溜所で販売されていた主力ブランドはオスカー・ペッパー・ウィスキーとクロウ・ウィスキーだと思いますが、3年以上保管されたウィスキーは「オールド」が共通して付され、おそらくどちらも同じクオリティだったでしょう。とは言えクロウ・ウィスキーの評判は流通量の多かったオスカー・ペッパー・ブランドよりも高かったそうです。クロウ自身の名を冠したウィスキーは軈て「オールド・クロウ」として知られるようになり、他の汎ゆるバーボンの評価基準となりました。オールド・クロウは1800年代半ばまでに高級ウィスキーのシンボルになり、殆どのウィスキーが1ガロン当たり15セントで販売されていたのに対し、クロウのウィスキーは25セントで販売されていたとか。クロウはペッパーの蒸溜所で15年間働いた後、1855年の秋にそこを去りました。また、サム・K・セシルの著作によると、オスカー・ペッパーは1860年にグレンズ・クリークから数マイル下流のミルヴィルにオールド・クロウ(RD No.106)という別の蒸溜所を建設し、そこでオールド・クロウ・ブランドを製造した、とのこと(**)。
オスカー・ペッパーの私生活面では、彼は1845年6月にウッドフォード郡で生まれ育ったナンシー・アン(もしくはアネットとも)・"ナニー"・エドワーズと結婚しました。それ以前に、キャサリンというゲインズ家出身の妻を1839年に亡くしているとの記述も見ましたが、系図サイトや墓所サイトにはその件は触れられてなく、私にはよく分かりません。ナニーは結婚当時18歳で、夫より17歳ほど年下でした。彼女の父ジェイムズ・エドワーズはグレンズ・クリークに隣接する農場を所有していたらしい。オスカーとナニーの間には7人の子供がおり、おそらく生年の順で以下のようになるかと思われます。
エイダ・B・ペッパー(1847-1927)
ジェームズ・エドワード・ペッパー(1850 - 1906)
オスカー・ネヴィル・ペッパーJr.(1852 - 1899)
トーマス・エドワード・ペッパー(1854 - 1933)
メアリー・ベル・ペッパー(1859 - 1913)
ディキシー・ペッパー(1860 - 1950)
プレスリー・オバノン・ペッパー(1863 - 1871)
メアリーの生年を1861年としているものもありましたが、詳細は不明です。それは兎も角、子宝にも恵まれたオスカーのリーダーシップによって農場と蒸溜所は繁栄し、1860年の国勢調査によると不動産の評価額は31600ドル(現在の約770000ドル相当)で、贅沢品を含む個人資産は36000ドルだったとされています。彼の財産には12人の男と11人の女の奴隷も含まれており、そのうちの何人かはエライジャから受け継いでいたのでしょう。彼らは家財目録に記載されている総額約22000ドル近くの作物や牛の世話をしていたと考えられています。蒸溜の作業もこなしていたかは分かりません。1859年には2人の女性奴隷が8月にマリアという女の子とウィリーという男の子を出産しており、父親はオスカーのようです。蒸溜所は1865年までオスカーの管理下で運営されました。その年の6月にオスカー・ネヴィル・ペッパーは56歳で死去し、墓前で家族や友人たちに弔われながら、フェイエット郡のレキシントン墓地に埋葬されました(オスカーの死を1864年や1867年としている説もある)。彼の死後に出された資産目録には、バーボンの製造を物語るカッパー・スティルとボイラー、400バレルのコーン、400ブッシェルのライ、40ブッシェルのバーリー・モルト、30ブッシェルのバーリーなどがあり、アルコールの目録には1ガロン40セントと80セントの価格で120ガロンのウィスキーが記載されていたそうです。ペッパーの所有していた829エーカーの土地での畜産は別の事業と目され、農場では21頭の馬と雌馬、7頭のラバ、25頭の乳牛、30頭の当歳牛と去勢牛、56頭の羊、100頭以上の豚を飼育していました。家庭内にはピアノ、「冷蔵庫」、法律書などがあったそうで豊かな暮らしぶりを想像させます。オスカーが死去した際、管財人による売却の新聞広告には、彼の個人資産として「非常に古いクロウ・ウィスキーの少数のバレルがあり、良質な飲酒の最後のチャンスである」と記されていたらしい。

オスカー・ペッパーは父のエライジャと違って遺書もなく7人の子供と農場と蒸溜所ビジネスを妻に残して亡くなりました。1869年に行われたオスカーの遺産相続の裁判所による調停では、彼の所有地829エーカーが7人の子供達のために7つの不平等な土地に分割されました。これにより末っ子でまだ7歳だったプレスリー・オバノン・ペッパーが160エーカーの土地、蒸溜所、グリスト・ミル、家族の住居を含む最大の分け前を受け取りました。オバノン・ペッパーはまだ幼く、更にその後の14年間は未成年であるため、自動的に母親のナニー(1827-1899)が後見人となり、経済的に生産性の高い財産の殆ど全てがペッパー夫人の手に委ねられます。これはナニー・ペッパーを養うための裁判所の配慮でした。ナニーはまだ比較的若かったものの、義理の母サラのようには自分で蒸溜所を経営する気はなかったようです。南北戦争終結後、ペッパー家の奴隷は全ていなくなっていました。彼女はプレスリー・オバノンの財産の後見人として、直ちにケンタッキー州フランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにこの土地をリースしました(***)。この契約によって同社は蒸溜所とその全ての設備、ディスティラーズ・ハウス、2つのストーン・ウェアハウスを管理することになりました。この2年間の契約にはグリスト・ミルや豚にスペント・マッシュ(使用済みのマッシュ)を与えるペン(囲い)も含まれています。同社は1866年にウィスキーの製造と販売を目的として設立され、彼らのビジネス・パートナーはエドムンド・ヘインズ・テイラー・ジュニアでした。社名の「&Co.」の部分は彼のことに他ならないでしょう。社名になっているW・H・ゲインズは近くのグラッシー・スプリングス・ロードに住んでいましたが、他のパートナーズはフランクフォートの住人でした。根拠はないものの尤もらしい噂によると、ゲインズ, ベリー&カンパニーが1866年に最初に買収したのは故オスカー・ペッパーからのウィスキー在庫100樽だったとのことです。それは兎も角、こうして1870年1月1日、ペッパー蒸溜所は初めてペッパー家以外のバーボン生産企業として機能しました(****)。それでも、1850年5月18日土曜日に生まれたオスカーとナニーの長男ジェイムズは父の死の当時15歳でしたが、ゲインズ, ベリー&カンパニーによって蒸溜所の運営に何かしら携わることになったようで、1870年の国勢調査では20歳のジェイムズ・ペッパーが蒸溜所のマネージャーとして記載されていたそうです。伝説的なカーネル・E・H・テイラー・ジュニアは当時すでに酒類業界で成功しており、ペッパー家の良き友人だったようで、オスカー・ペッパーの遺言執行者の一人であり、蒸溜所を所有するには若過ぎるジェイムズ・E・ペッパーの後見人ともなり、彼が21歳になるまで蒸溜所を経営したと云う説も見かけました。
「オールド・クロウ」は、ドクター・ジェイムズ・クロウには存命の相続人がいなかったため、ゲインズ, ベリー&カンパニーは問題なくブランドを独占することができました。同社はペッパーの所有地に「オールド・クロウ蒸溜所」の名を添え、オールド・クロウを彼らのフラッグシップ・ブランドとしました。伝えられるところによると、彼らはこのブランドを守り続けるため、ドクター・クロウと全く同じ方法でウィスキーを造ることを決意し、クロウが存命中に蒸溜していた古い蒸溜所を借り受け、クロウの下で技術を学んでその製法を伝授されたウィリアム・F・ミッチェルをディスティラーとして雇用した、とされています。一方、ジェイムズにはオールド・オスカー・ペッパーのブランドが残されることになりました。
野心的なテイラーに唆されたのか、或いは母親の脇役でいることに飽き飽きしたのか、ジェイムズ・ペッパーは1872年10月期の巡回裁判所に於いて、1869年に弟のオバノンに割り当てられていた蒸溜所用地の権利を求め、母親のナニー・ペッパーを相手取って訴訟を起こしました。ジェイムズは勝訴し、土地区画図に「Old Crow Distillery, Mill, Old Crow House」と記された小川の両岸33エーカーと小川の東側の2つの泉を手に入れます。とは言え、そのせいで深刻な母子間の不和は起きなかったようです。ジェイムズは経営権を握った2年後、ゲインズ, ベリー&カンパニーと決別したカーネル・テイラーと手を組み、二人は工場の改良と操業の拡大を図りました。カーネル・テイラーは蒸溜所拡張のための資金確保に尽力し、純利益の2分の1と投資額相当の補償を受けるという契約を締結して、プロパティに25000ドルを投資しました。市場でのウィスキーの売れ行きは好調で、ビジネスは順調でした。嘗てペッパー蒸溜所だった通称「オールド・クロウ蒸溜所」と呼ばれる場所で生産されたテイラーのバーボンはそのバレリング・テクニックで人気を博し珍重されました。1870年代、州都フランクフォートとそのすぐ南に位置するウッドフォード・カウンティで州内最大のバーボン生産が行われ、E・H・テイラー・ジュニアの「家」は世界に模範的なウィスキー・バレルを提供していると一般的に理解されていました。しかし、1877年に不況が国を襲います。アメリカの歴史の中でも最も議論を呼び白熱したと言われる、1876年11月7日に行われた大統領選挙は経済の混乱を引き起こしました。民主党候補のサミュエル・J・ティルデンが一般投票で勝利し、共和党候補のラザフォード・B・ヘイズが選挙人団で勝利します。そのため南部では大規模な抗議運動が起こり、再び内戦が勃発する恐れがありましたが、リコンストラクションの終結を約束したヘイズの勝利を認めることで決着します。しかし、それは市場に不安を齎し、1877年の恐慌を引き起こしました。そこにウィスキーの過剰生産も重なり、この不況は蒸溜酒業界に大きな影響を与えました。ジェイムズは深刻な財政難に陥り、カーネル・テイラーに支払うべきお金の余裕がなく、1877年に破産宣告を受けます。蒸溜所はカーネル・テイラーに没収され、彼はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の単独所有者となりました。ところが当のカーネル・テイラーも他の蒸溜所を経営したり様々なウィスキー事業を行っており、間もなく自身の財政破綻に見舞われます。カーネル・テイラーは1870年にフランクフォートの蒸溜所を購入し、借金してオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)に改築していました。そしてまた、上述したように、同時期にペッパー蒸溜所にも資金を貸し設備を改善していました。資金繰りは厳しく、カーネル・テイラーは借金を返すのに必死でした。彼は同じロットのバレルを2人の異なる購入者に販売し、それが財政的、法的問題に発展したこともあったそうです。借金が余りに高額だったため、彼は債務者から逃れるために南米への移住を考えたほどでした。そこで大口債権者であったセントルイスのグレゴリー, スタッグ&カンパニーが彼を救済し、1878年、カーネル・テイラーの二つの蒸溜所はジョージ・T・スタッグに譲渡されました。同年、スタッグはO.F.C.蒸溜所の土地を増やすために、すぐにペッパー蒸溜所の33エーカーをレオポルド・ラブローとジェイムズ・H・グラハムに売却しました。ラブロー&グラハムは、ナショナル・プロヒビションの到来を経て、その後も含めると62年間この蒸溜所を所有し操業することになります。こうしてジェイムズ・ペッパーは廃業に追い込まれ、ジャック・サリヴァンの言葉を借りれば「エライジャによって設立され、サラによって育てられ、オスカーによって拡張され、ナニーによって保護され、ジェイムズによって失われたこの土地を、ペッパーの一族が再び所有することはありませんでした」。しかし、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所は他人の手に渡ったものの、ジェイムズは後にレキシントンに自身の蒸溜所を設立し、ペッパー家の名前は長年に渡って取引で使われて行きます(後述)。

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(1883年のオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所)
ラブロー&グラハムという名前は、設立されたパートナーシップに由来します。レオポルド・ラブローは1847年(またはそれ以前)にフランスで生まれ、母国のワイン生産地で育ち、渡米時にはワイン商(またはワイン醸造家としての経歴を持つとの説も)の経験があったと言われています。国勢調査のデータでは、移住年は1865年、彼が32歳頃のことでした。パスポートの記述によると、彼は身長5フィート7インチ(約173cm)で、肌は浅黒く、目は灰色、鼻は鷲鼻だったとか。ラブローは、アラベラ・スコット・デイヴィスとシルヴェスター・ウェルチの娘であるルイーサ・ウェルチというフランクフォートの女性と結婚しました。もしかするとそれを機会にケンタッキー州に定住したのかも知れません。ルイーサの父親はチーフ・エンジニアとしてケンタッキー・リヴァーの閘門建設を計画/監督し、ウィスキーの出荷を含む地元産品の水上輸送を改善したと言います。夫妻の間には1876年にアーマという娘が生まれました。彼は、先ずはフランクフォートのハーミテッジ蒸溜所で働き、その後シンシナティで叔父と共に酒類卸売業に携わるようになったそうです。一方の、アイルランド系のジェイムズ・ハイラム・グラハム(1842-1912)は、ルイヴィルで大工、建設業者、製材所経営者として成功したウィリアム・グラハムとエスター・クリストファー・グラハムの息子として生まれました。蒸溜所を購入する前は運送業を営んでいたとされ、おそらくは相当に成功したフランクフォートの実業家だったのでしょう。オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を買収すると、土地の権利の半分はラブローに直ちに売却されました。ラブローとグラハムが出会った経緯はよく分かりませんが、1878年までには二人はケンタッキー・ウィスキー・マンとして認められるようになっていたようです。グラハムはプラント・マネージャーとなり、ラブローは卸売と小売販売を担当したとされます。保険引受人の資料では彼らのプラントはフランクフォートの南東9マイルにありました。石造りで屋根は金属もしくはスレート。敷地内には穀物倉庫や4つのボンデッド・ウェアハウスがあり、全て石造りで屋根は金属かスレート。ウェアハウスNo.1は蒸溜所から100フィート北にあり、この倉庫の一部は「フリー」でした(つまり一部はボンデッド・ウィスキーではなかった)。ウェアハウスNo.2のBはウェアハウスAに隣接し、スティルの北東100フィートにあり、ウェアハウスNo.3のCは蒸溜所から南へ104フィート、ウェアハウスNo.4のDは南へ285フィート。おそらくペッパーの時代からどれも引き継いだものでしょう。そして、彼らはオールド・オスカー・ペッパーを唯一のブランドとして生産したと伝えられます。
ラブロー&グラハムは、頻繁なパートナーシップの変化にも拘らず、その社名を継続してビジネスを行うことで伝統を維持し、誠実さを伝えました。1899年、グラハムは引退することになり、インタレストの半分をラブローに売却します。翌年、ジェイムズ・グラハムは死去。その後J・M・ヴェンダーヴィアーがグラハムの後を継ぎますが、名前はラブロー&グラハムのままでしたし、施設も引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られました。大切なパートナーを失ったもののラブローは歩みを止めず、このフランス人のリーダーシップの下、蒸溜所は発展を続けました。スタッフは著しく増加し、年月を重ねるごとに蒸溜所は改良され、拡張されて行ったそうです。長年に渡ってオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の経営を指揮したレオポルド・ラブローは60代の後半に心臓病を患い、1911年に死去しました。死亡診断書に記された死因は肺水腫だったとのこと。未亡人のルイーサをはじめとする家族が墓前で弔う中、ラブローはフランクフォート・セメタリーに埋葬されました。余談ですが、ラブロー家の子孫の方によると、このファミリーは著名な細菌学者のルイ・パスツールと古くから縁があり、ルイがレオポルドにフランス・ワインを売るためにアメリカに来るよう勧めたと家族内では伝承されていたそうです。ラブローの死が大規模な再編成の引き金となったのか、会社は1915年にリパブリック・ディストリビューティング・カンパニーのD・K・ワイスコフ、E・H・テイラー・ジュニアの従兄弟でラブローの娘アーマの夫リチャード・アレグザンダー・ベイカー、T・W・ハインド、カール・ワイツェルから成る新会社ラブロー&グラハム・インコーポレイテッドに引き継がれました。ケンタッキー出身のベイカーはラブロー&グラハムの名を残しながら蒸溜所の日常業務を担当していたそう。1895年から禁酒法施行までの間に、ラブロー&グラハムのオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所に施された実質的な建築的改良は、コーンハウスの取り壊しとウェアハウスCとDの小川側に貯蔵小屋を建てたことでした。これにより穀物の搬入とバレルの搬出のための鉄道の分岐器を設置するスペースが確保され、ケンタッキー・ハイランド鉄道は1911年までにラブロー&グラハムに到着し、穀物を敷地内に運び込み、バーボンを市場に出荷していたそうです。
蒸溜所の所有者が変わった1870年代、ペッパー邸もまた所有者が変わりました。ナニー・ペッパーは未婚の子供達とこの家に住み続けていましたが、1873年に息子のプレスリー・オバノンが10歳の若さで亡くなっています。彼はペッパー邸のある蒸溜所の東126エーカーを所有していました。この土地はオスカー・ネヴィル・ペッパーの相続地に隣接していました。おそらくこれらの土地が近かったため、オスカー・ネヴィル・ジュニアは兄弟の126エーカーの土地と邸宅を取得したものと思われます。その後、彼は1882年に同じ土地をファントリー・ジョンソンに売却しました。続いて1884年には、ジョンソンは住居と75エーカーをアリスとジェイムズ・ゴインズに売却します。ゴインズ氏はラブロー&グラハム蒸溜所のヘッド・ディスティラーでした。彼はオスカーやジェイムズのように玄関ポーチから敷地を眺めることも、丘から石灰岩の階段を下りて小川を渡り蒸溜所まで直接行くことも出来たとか。ゴインズ家は1906年までペッパー邸を所有し、そこで12人の子供を育て、 おそらく東棟の床下空間と南側のファサードのサイド・ポーチの上に2部屋を増築したのは彼らだろうと推測されています。1906年、ペッパー邸をリチャード・ホーキンスとメイミー・ホーキンス夫妻が購入しました。夫妻は蒸溜所とは何の関係もなかったようで、タバコとコーンの耕作を続け、果樹園も所有していたそうです。小川を見下ろす西棟の2階は彼らがオウナーの時代に増築したものと推測されています。1918年にホーキンス夫妻は住居と土地をリチャードとアーマのベイカー夫妻とジーンとミルドレッドのウィルソン夫妻に売却しました。こうしてペッパー邸は蒸溜所のオウナーの1人が部分的に所有することになりました。ベイカー夫妻が亡くなった後は、1977年までウィルソン家の所有でした。

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(1879年頃のJ. E. Pepper)
一方、倒産し家業の蒸溜所を失ったジェイムズ・E・ペッパーはあっという間に立ち直っていました。南北戦争終結後にヘッドリー&ファラ・カンパニーがレキシントンのオールド・フランクフォート・パイク(現在のマンチェスター・ストリート)に蒸溜所を設立していましたが、ジェイムズとパートナーのジョージ・A・スタークウェザーは2万5000ドルを調達して、1879年にはこの土地を取得し、火災で以前の建物が焼失していたため新しい蒸溜所を建設しました。ジェイムズ・ペッパーは、蒸溜所と設備のレイアウトをデザインし、建設の監督を担当し、この事業をジェイムズ・E・ペッパー・ディスティリング・カンパニーと呼びました。
ラブロー&グラハムの施設は引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られていましたが、レキシントンに自分の蒸溜所を設立したジェイムズ・ペッパーは、父の名前とジェイムズ・クロウ博士が築き上げた絶大な名声に基づいて商売を続けようと考えたのか、自分だけが「ペッパー」の名前を使うべきだと考えたのか、蒸溜所の操業開始後すぐの1880年10月、フレンチ・ワイン・プロデューサーのレオポルド・ラブローとケンタッキーの実業家ジェイムズ・H・グラハムのパートナーシップを相手取って、破産で失ったものの一部を取り戻すために連邦裁判所に訴訟を起こします。この件はケンタッキー・ウィスキーに係る商標訴訟でした。ちなみにこの連邦訴訟は、アメリカの司法史上に於ける非常に初期のものであり、合衆国最高裁判所判事はまだ国中の「巡回裁判所」の責任を負っていました。この訴訟を担当したのは、1881年5月12日から1889年に死去するまで合衆国最高裁判所判事を務めたトーマス・スタンリー・マシューズ判事でした。マシューズ判事はシンシナティ出身で、彼がユニオン・アーミーのオハイオ歩兵第23部隊のルーテナント・カーネルとして勤務していた当時カーネルだった嘗てのテント仲間のラザフォード・B・ヘイズ大統領によって最高裁判所判事に指名されました。しかし、この任命は承認されませんでした。上院は、ヘイズとマシューズがケニオン大学の同級生であり、シンシナティで弁護士として活動し、州歩兵隊の将校を務めていたことから、ヘイズを縁故主義で非難したのです。上院がマシューズ判事を承認したのはジェイムズ・A・ガーフィールド大統領が彼を再指名してからであり、この件は1881年に投票にかけられ、その時でさえマシューズは24対23の投票によって承認されたに過ぎませんでした。
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オスカー・ペッパーの死後、ジェイムズ・ペッパーが引き継いだ蒸溜所で製造したウィスキーのバレルには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。ハンドメイド・サワーマッシュ。ジェイムズ・E・ペッパー、プロプライエター。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー。」という商標が焼き付けられました。彼はまた「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」という名前と「O.O.P. 」という用語を使ってマーケティングを行い、1877年に商標登録しました。間もなくジェイムズ・ペッパーは破産し、蒸溜所とその設備一式を含む資産を被告のラブロー&グラハムに売却した後、新たな場所でウィスキーの製造を開始します。被告らはウィスキーの樽にペッパーが使用していたものと同じようなマークを使い始めました。そこには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。創業1838年。ハンドメイド・サワーマッシュ。ラブロー&グラハム、プロプライエターズ。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー」とありました。ペッパーはラブロー&グラハムを、彼らの劣悪なウィスキーがペッパー・ウィスキーと同じであると大衆を欺く目的で商標を侵害したと主張し提訴しました。ジェイムズ・ペッパーは、自身の所有権を証明する明確なマークをバレルに焼印していたという証拠を挙げ、ペッパーの弁護士は同じマークを彼のウィスキーに関するレターヘッズ、ビルヘッズやその他のビジネス用品により小さなサイズで印刷して使用していたと証言しました。ラブロー&グラハムが使用している類似のマークは、本物を求める顧客を獲得するための「不法かつ詐欺的なデザイン」であり、「オールド・オスカー・ペッパー」はジェイムズ・ペッパーが製造したものだけだ、と。彼らはラブロー&グラハムに対し、差し止めと損害賠償を求めたと言います。弁護士であり、法廷闘争から辿るバーボンやアメリカの歴史を本やブログで執筆しているブライアン・ハーラによると、オスカー・ペッパーがずっと以前に蒸溜所を所有していたにも拘らずジェイムズ・ペッパーは「オールド・オスカー・ペッパー」が1874年まで使われていなかったと主張したそうです。そこで、オスカー・ペッパーが蒸溜所を操業していた1838年から1865年までの間、既に「オスカー・ペッパー蒸溜所」として一般に知られていたことを証明する証拠が法廷に提出されました。更に言えば、ジェイムズ・クロウ博士と彼のバーボンの名声から蒸溜所は「オールド・クロウ蒸溜所」とも呼ばれ、博士が1856年に死去した後も、オスカー・ペッパーが1865年に死去した後もこの名称は使われ続け、ゲインズ, ベリー&カンパニーでさえ「オスカー・ペッパーのオールド・クロウ蒸溜所の借主」として売り出していました。フランクフォートの共同経営者達はペッパーの訴状に対する答弁書で、自分達のウィスキーはペッパー家がウッドフォード・カウンティに設立したオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の製品であり、蒸溜所が「全ての付属設備と備品と共に」彼らに売却され、その所有権によってオールド・オスカー・ペッパーの名でウィスキーを製造/販売する権利が付与されていると指摘し、寧ろ原告が新たな「他所で製造されたウィスキーにこのブランドを使用することは公衆に対する詐欺行為に当たる」と主張して反訴しました。紛争の核心は、問題の名称が何を意味するのかという点に於ける両当事者の意見の相違でした。ジェイムズ・ペッパーは自社が製造するウィスキーを他のブランドと区別するためにこの名称を使用し、その名のもとで優れた評判を得ているとする一方、ラブロー&グラハムはこの名称はウィスキーを製造する場所を指しており、そこは現在彼らが所有している場所であって、製品そのものを指すものではないとする訳です。マシューズ判事は言葉の平易な意味を指摘した上で、原告がオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していた時代に使用していたマーケティングがウィスキーの製造された場所に大きく焦点を当てていたことに依拠しました。ジェイムズ・ペッパーは自社のバーボンを下のように宣伝していました。
私の父、故オスカー・ペッパーの旧蒸溜所(現在は私が所有)を徹底的に整備した結果、私はこの国の一流商人らに、ハンドメイドのサワー・マッシュで、完璧な卓越性を誇るピュア・カッパー・ウィスキーを提供することになった。私の父が造ったウィスキーが名声を得たのは、優良な水(非常に上質な湧き水)と、隣接する農場で自ら栽培した穀物、そしてジェイムズ・クロウが製造工程を見守り、彼の死後はディスティラーのウィリアム・F・ミッチェルに受け継がれた製法によるものである。私は現在、同じ蒸溜者、同じ水、同じ製法、そして同じ農場で栽培された穀物で蒸溜所を運営している。
では、ジェイムズ・ペッパーの新しいバーボンが、オリジナルの産地から25マイルも離れた場所で蒸溜されている現在、これら諸々の特性の重要性を無視して、彼の父親の旧蒸溜所の名称を使用し続けることが許されるべきでしょうか? 1881年の判決でマシューズ判事は原告の主張には説得力がないと判断しました。判事は「本件の証拠から」して「原告が自社の製品の市場を確立できたのは、その製品が彼の父親が造ったものと同じ地域性、そしてそれらが齎すと考えられる汎ゆる有利性から父親のものと同じに違いないという世間の特別な思い込みに基づいていた」のは「極めて確かである」と記しました。つまり、 消費者はその場所で製造された製品に対して特定の「利点」を期待し、「品質」を信頼し、それらが製品購入の大きな動機付けとなっており、原告は既存のブランド・イメージと場所が持つ信頼性を巧みに利用して市場を確立した、と見られたのです。「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」及び「O.O.P.」という用語は、原告が嘗てウィスキーを製造していた場所と被告が現在ウィスキーを製造している場所を指し、商標ではないと判断したマシューズは、ジェイムズ・ペッパーの訴えを棄却しただけでなく、「商品の製造地に関して虚偽の表示をすることで公衆を誤解させる」という理由でペッパーにはブランド名を使用する権利が全くないとし、被告がこれらの用語に対する独占的な法的権利を有すると判決を下しました。

オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していないため「オールド・オスカー・ペッパー」の名前を使う権利を失ったジェイムズ・ペッパーでしたが、レキシントンに建てた新しい蒸溜所で1880年5月に蒸溜を開始した彼は、新しい盾のトレードマークをデザインした「オールド・ペッパー・ウィスキー」のブランドを大ヒットさせました。このウィスキーは祖父から代々受け継がれてきた独自の製法で蒸溜され、旧家からのマッシュビル、サワー・マッシュ、72時間発酵させたものと言われています。その人気は主にジェイムズ・ペッパーがマーケティングを重視していたことに起因していました。師匠的存在のE・H・テイラー・ジュニアと同様に、彼は当時利用可能な汎ゆるマーケティング・ツールを活用したのです。オールド・ペッパー・ウィスキーの名は当然の如くその家名に由来し、過去100年に渡って一族が築き上げた伝統と遺産を反映させたものでした。ジェイムズはこのイメージを強化するために、 「Established 1780」や「Purest and Best in the World」というスローガンを使用し、歴史の持続性とウィスキーの品質を常に強調しました。実際に彼の祖父エライジャ・ペッパーが蒸溜を始めたのは19世紀初頭のことでしたが、こうしたサバ読みは当時は珍しいことではなく、マーケティング上の策略として功を奏しました。おそらく創業年のスローガンは南北戦争後の愛国心も利用したもので、後に1906〜7年頃から使われ出した「Born With The Republic」や「Old 1776」というスローガンに繋がっているでしょう。そして彼はラベルに「詰め替えボトルにご注意ください」という警告を記載しました。これにより彼のウィスキーが非常に優れているという印象を与え、他のウィスキー・メイカーも真似をしたがるようになったそう。また、ガラス瓶の自動化技術が進み手作業から解放されたことでボトリングが経済的に実現可能になった時、彼はケンタッキー州の法律を改正し、蒸溜業者が自社製品をボトリングできるようにした蒸溜業者の一人でした(それまではレクティファイアーズだけがウィスキーをボトリングする権利をもっていた)。その後、ジェイムズは現在では一般的となった消費者にウィスキーの健全性を保証するための「ストリップ・スタンプ・シール」を発明しました。彼はコルクに貼られた帯状のラベルに「Jas. E. Pepper & Co.」という筆記体の署名を印刷してボトルを封印したのです。そして、ジェイムス・E・ペッパーのウィスキー・ボトルを売っている人に出くわしても、このスタンプがなかったり、スタンプが破れていたり破損していたりする場合は「本物のペッパー・ウィスキーではないかも知れない」ので購入しないよう人々に呼びかける広告を出しました。署名は偽造防止法によって保護されており、商標よりも迅速に執行され、そのため既存の偽造法に基づいて偽造生産者や「ボトル再充填者」を起訴することが出来たとか。彼のこの活動は、ボトルに詰められたウィスキーの純度と同一性を保証する初の消費者保護法である1897年のボトルド・イン・ボンドの成立に貢献したと評価されています。彼はまた、広告や宣伝のために巨額の資金を投じた最初のディスティラーの一人でもありました。 ジェイムズはオールド・ペッパーの販売促進を目的にアメリカ各地を回りました。1880年代後半には、プロイセンのヘンリー王子がペンシルヴェニア・レイルロードで旅行中にオールド・ペッパー・ウィスキーが振る舞われたりしました。この頃のオールド・ペッパー・ウィスキーのブランドはアメリカ全土で強い知名度を確立しています。1890年頃にはオールド・ペッパー・ウィスキーを「結核やマラリアなどに効く万能薬」であると宣伝しました。これは、1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトのような連邦規制が施行される前のことでした。1892年2月にはアームズ・パレス・カー・カンパニーからプライヴェート鉄道車両を10000ドルで購入し、「オールド・ペッパー号」と名付けました。その車両は鮮やかなオレンジ色に塗られ、側面にはオールド・ペッパーのバレルやケースやボトル、サラブレッドの馬やジョッキーがハンド・ペイントされ、車端には「Private Car Old Pepper - Property of James E. Pepper, Distiller of the Famous 60 Old Pepper Whisky」と書かれていました。ジェイムズは常にショウマンであり、プロモーターだったのです。このオールド・ペッパーのブランドは、後年「オールド・ジェイムズ・E・ペッパー」というブランドが導入されたあと、最終的に「ジェイムス・E・ペッパー」バーボンが両方の商品名に取って代わりました。 また、レキシントンの蒸溜所では以前の蒸溜所から受け継いだ「オールド・ヘンリー・クレイ」というライ・ウィスキーのブランドも製造していました。
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ジェイムズ・E・ペッパーはケンタッキー州から贈られる名誉称号の「ケンタッキー・カーネル」でした。彼はスポーツが好きで、特に競馬が好きでした。馬小屋を所有し、ケンタッキー・ダービーやオークスに出走する馬を何頭も持っており、1892年には彼の馬「ミス・ディキシー(妹の名前)」がオークスを制したそうです。カーネル・ペッパーは豪快なライフ・スタイルを送り、ニューヨークの有名なウォルドーフ=アストリアに頻繁に滞在しては、国内の実業家や社交界のエリートたちと親交を深めました。伝説によると、あの有名なオールド・ファッションド・カクテルの人気はカーネル・ペッパーが広めたと言われています。伝説によると、この象徴的で古典的なカクテルは、元々ケンタッキー州ルイヴィルのペンデニス・クラブのバーテンダーが他でもないカーネル・ペッパーのために初めて造り、それをカーネル・ペッパーがウォルドーフ=アストリアのバーに導入した、と。真偽は判りません。オールド・ファッションドの起源には諸説あるようです。蒸溜所の経営を続けていたジェイムズ・エドワード・ペッパーは1906年12月に死去、父や1899年に亡くなったナニーの近くに埋葬されました。彼に子供はいませんでした。彼の妻は蒸溜所の経営に興味がなかったのか、1908年、蒸溜所とブランドはシカゴの投資家グループに売却され、禁酒法により閉鎖されるまで操業されました。禁酒法時代にはシェンリーによりメディシナル・スピリッツとして販売され、彼らは禁酒法終了後にブランドと蒸溜所を買い取ります。しかし、シェンリーの規模が大きくなるにつれ、この蒸溜所は数ある蒸溜所の一つとなり、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは彼らが製造/販売する数十のブランドの一つに過ぎなくなりました。「Born with the Republic」というスローガンも継続されていましたが、軈てブランドの売り上げは低迷し始め、I.W.ハーパーやJ.W.ダントといった主力ブランドよりも会社にとって重要ではなくなって行きます。シェンリーは1950年代前半に過剰生産に陥り、1958年にボンディング期間が20年に延長されたことでようやく破産を免れたに過ぎない状態でした。ジェイムズ・E・ペッパー蒸溜所は1958年に閉鎖され(1960年代初頭に操業を停止し、60年代末までに閉鎖されたという説もあった)、「ジェイムズ・E・ペッパー」ブランドは1960年代には人々の記憶からラベルも忘れ去られ、膨大な倉庫在庫からウィスキーは1970年代には販売され続けましたが、1970年代末までに市場から姿を消しました。1990年代初頭の一時期、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは、1987年にシェンリーを買収したユナイテッド・ディスティラーズによって復活します。 このブランドは1994年、ポーランドと東欧の新興バーボン市場への輸出専用ブランドとなりました。しかし、ユナイテッド・ディスティラーズがアメリカン・ウィスキーのブランドの殆どを他の蒸溜会社に売却したため、ジェイムズ・E・ペッパー・ブランドはすぐに再び消滅してしまいます。そして、時を経た2008年、以前のブランド・オウナーとは無関係の起業家アミル・ピィー(または「アミア」や「ペイ」と発音されることもある)は放棄された商標を取得し、このブランドを再スタートします。カーネル・ペッパーのレキシントンの蒸溜所の歴史や復活したブランドに就いては、また別の機会に譲るとして、話をラブロー&グラハム蒸溜所とO.O.P.に戻しましょう。

禁酒法の施行に伴い、1918年、ラブロー&グラハム蒸溜所は閉鎖を余儀なくされました。1920年のヴォルステッド・アクトの施行から1933年12月の憲法修正第21条の批准による廃止までの13年の歳月、ラブロー&グラハム蒸溜所は空き家となり使用されていませんでした。商品や資材は引き揚げのために売却され、多くの建物は破損し屋根のないまま放置されたそうです。倉庫に保管されていたウィスキーは盗掘や盗難を防ぐために、1922年までに連邦政府の集中倉庫に移されました。禁酒法期間中、酒は医療目的で販売されました。フランクフォート・ディスティラリーがストックのウィスキーを使ってオールド・オスカー・ペッパーをメディシナル・スピリッツとしてボトリングしています。1920年に禁酒法が施行された当時、同社は医療目的の蒸溜酒販売許可を与えられた僅か6社のうちの1社でした。1922年、同社はポール・ジョーンズ社に買収され、彼らはフランクフォート・ディスティラリーの社名を引き継ぎ、「フォアローゼズ」や「アンティーク」など多くのブランド名でウィスキーを販売する許可を保持しました。画像検索で禁酒法下のO.O.P.を眺めてみると、中身の原酒の殆どにラブロー&グラハム(第7区No. 52)が生産したものが使われていましたが、禁酒法期間の後期にはハリー・S・バートン(第2区No. 24)が生産したものが使われたボトルもありました。1928年までに禁酒法以前のウィスキーの在庫が減少すると、フランクフォート・ディスティラリーはルイヴィルに拠点を置くA. Ph. スティッツェル蒸溜所と契約を結び、そこからスピリッツの供給をしました。1933年に禁酒法が廃止されると、彼らはスティッツェルの旧工場を買収し、シャイヴリーに新工場を建設します。これがルイヴィルのフォア・ローゼズ蒸溜所と呼ばれました。第二次世界大戦下の厳しい時期に蒸溜所とブランドはシーグラムに売却されます(1933年にシーグラムが買収という説もあった)。シーグラムはストレート・ウィスキーの製造を中止するまで何年も同じブランドを使い続けたそうなので、フランクフォート・ディスティラリーから引き継いだブランドを販売していたのでしょう。画像検索してみると、オールド・オスカー・ペッパー・ブランドとして、メリーランドのボルティモアと所在地表記のあるバーボンやライのブレンドがありました。その後、おそらく50年代か60年代にはその存在感を失い、軈てブランドのラベルは使われなくなったと思われます。
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(1936年頃の蒸溜所)
偖て、O.O.P.ブランドとは分かたれた蒸溜所には別の途があります。禁酒法が解禁されると、リチャードとアーマのベイカー夫妻、そして新たにマネージング・パートナーとなったクロード・V・ビクスラーは、1933年8月に新たなラブロー&グラハム社を設立し、建物の再建に着手しました。彼らは改修と建設を調和のとれたものにすることに特に注意を払いました。蒸溜所の建物の増築部分や新しい石造り倉庫の基礎部分に、古い倉庫跡の石材を再利用したと言います。この作業の重要性とその達成方法は、再建された他の蒸溜所よりもこの蒸溜所の国家的地位を高めるのに貢献した理由の一つでした。1934年以降の蒸溜所の拡張と再建の全体計画は、既存の建物や資材、そして当時の人件費と技術水準に見合った新しい建設資材を融合させた質の高い工業デザインの好例と評価されています。土地の地形と産業のニーズが調和され、省力化と経済性を追求した工場が実現した、と。コーンや他の穀物が丘の中腹にある貯蔵庫から高架を伝って運ばれたように、新しい倉庫は長いバレル・ランの緩やかな傾斜に沿って建てられました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは全長500フィート以上あり、必要な幅で間隔をあけた2本の平行レールで構成されているため、作業員がバレルを所定の位置に留めなくても移動できるそうです。その複雑さに加え、安全および保険の要件も、新しい建物をどこに建設するかを決める上で役立ったとか。このバレル・ランは、樽にスピリッツを最初に充填するシスタン・ルームからリクーパー・ショップを含む全てのストレージ・ウェアハウスまでの広範な時間節約型のコネクター・システムになりました。2レール・システムによって、2人の作業員が大量のバーボン・バレルを扱い、トラックや他の車輪付き搬送装置から積み下ろしすることなく、或る場所から別の場所へ素早く移動させることが出来るようになりました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは、他の蒸溜所の平均的なそれと比べても優れた搬送システムでした。バレル・ランに加えて、禁酒法廃止後に再建されたラブロー&グラハム蒸溜所で最も重要だったのは、1934年から1940年の間に増築された釉薬の掛かったテラコッタ・タイルの倉庫E、F、Hでした。 禁酒法廃止後に建てられた他の蒸溜所の殆どの倉庫は、木造で金属製の波板で覆われていたことを考えると、珍しい仕様と言えるでしょう。これらの建物は全て4階半建て、長さは様々で、石灰岩の基礎の上に建てられ、エイジングをコントロールするための暖房システムを備えていました。これらはライムストーン・ウェアハウスの構造と形状を模倣していましたが、汎ゆる寸法が大きくなっていたとのこと。これらの倉庫をバレル・ランと組み合わせて川岸に沿って慎重に配置したのは、貯蔵能力を拡大するためでした。テラコッタ構造ユニットの使用は、この時代に国中で採用されていた耐火構造のための一般的でシンプルな建築媒体だそうです。テラコッタ・タイルは更にその他の小規模で機能的な建物にも使用されました。また、ビクスラーは閉鎖前と同じウィスキーを造るために禁酒法時代に冷凍保存されていたラブロー&グラハム独自のイーストを使用したとされています。家族のような従業員達によって生産は再開され、その殆どは地元の出身者であり、中には禁酒法以前に親や祖父母がこの蒸溜所で働いていた人もいたそう。ラブロー&グラハムが生産したブランドには「L. & G.」と「R. A. ベイカー」があったと伝えられます。1939年末から1940年初頭に掛けて、彼らは相当量の4年物のバルク・ウィスキーをディーツヴィルのT・W・サミュエルズ蒸溜所(RD No. 145)に売却しました。こうしてラブロー&グラハムは1940年までに蒸溜所の再建、拡張、生産を行い、ウェアハウスに25673バレルのウィスキーを貯蔵するまでになりましたが、1940年7月にオールド・フォレスターやアーリー・タイムズなどのブランドで知られるブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションに75000ドルで売却されました。この取引には、倉庫で熟成されていたその約25000バレルのバーボン・ウィスキーも含まれていました。ブラウン=フォーマンはその後の約20年間、この蒸溜所をラブロー&グラハムという名前の下に操業を続け、一部のオールド・フォレスターやアーリータイムズもここで生産されたと目されます。また、サム・K・セシルの著作によると、ブラウン=フォーマン社は暫くこの工場を使用して「ケンタッキー・デュー」を製造したそうです(後にルイヴィルで瓶詰め)。

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ブラウン=フォーマンが生産と貯蔵を引き継ぐ一方で、ヨーロッパ戦線に於ける戦争への取り組みが高まる懸念から、戦争を予期して生産を加速する必要性が高まりました。施設の新しいマネージャーは大量生産に対応するには水の供給が不十分なことに気づきます。解決策として、既存の鉄道踏切にコンクリート製のダムと放水路を築き、小川を堰き止めるという計画が立てられました。さっそくブラウン=フォーマンはコンクリート製のダムと放水路、そして鉄製の歩道を完成させると、その結果として小川の両岸の間に2.75エーカーの池が出来ました。この水は蒸溜所の年間生産期間を延長するための安定した供給源となっただけでなく、消火のための備蓄水にもなり、蒸溜所の建築物を映し出す風光明媚な景観の一つともなりました。戦時中から1945年末に掛けてのブラウン=フォーマンの工場拡張は、ディスティラリー・ハウスの増築と小さな新棟を建設して完了しました。1942年には蒸溜所の増築に伴い、建物の南側に3ベイのファサードが追加され、発酵室が併設されました。ライムストーンと拡張されたスタンディング・シーム・メタル・ルーフは全体を一体化するために再び選ばれた素材でした。最後の仕上げは、新しい出入り口の上に既存のミルストーンを組み込み、目立つ場所にこの蒸溜所の100年の歴史を刻むことでした。同じ頃、シスターン・ルームの隣に、消防用具を保管するためのセグメンタル・アーチ型の窓とドアを備えたライムストーン造りの平屋建て6面建造物が建てられたそうです。1945年以降、ブラウン=フォーマンは通常のウィスキーの製造および熟成と貯蔵を続けましたが、ラブロー&グラハムが1934年にこの場所に建設したボトリング・プラントの規模は縮小されました。そして1950年代のバーボン市場の衰退により、1957年に生産は終了します。1965年には貯蔵も廃止されました。1960年代後半に更にバーボン市場が低迷すると工場は閉鎖され、ブラウン=フォーマンは1973年(1972年という説も)に土地を地元農家のフリーマン・ホッケンスミスに譲渡。こうしてブラウン=フォーマンによるこの蒸溜所の管理は終わりを告げ、一旦はその歴史に幕が下ろされました。ホッケンスミスはこの施設を農産物の貯蔵庫として使用し、短期間ながら燃料用アルコールの製造も試みたそうです。工業用アルコール、特にOPECの燃料危機をきっかけに人気を博した「ガソホール」の生産に転換したとのこと。しかし、ホッケンスミスは危機が収束する前に新しい給排水設備を殆ど建設することが出来ず、限られた生産量ではごく僅かな市場しか残せなかったらしい。彼は蒸溜所を閉鎖し、凡そ20年も放置されたままになりました。

時は過ぎて1980年代後半から1990年代初頭、バーボンの需要は復活の兆しを見せ始めました。具体的には限られた量しか生産されない高品質なプレミアム・バーボンの市場が盛り上がりを見せていたのです。各蒸溜所では「スモール・バッチ」や「シングル・バレル」の製品が販売されるようになっていました。ジムビームとケンタッキー・バーボン・ディスティラーズはスモール・バッチ・コレクションを展開し、エイジ・インターナショナルはエンシェント・エイジ蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)からブラントンズを筆頭とする幾つかのシングル・バレルのブランドをリリース、フォアローゼズのブランドはアメリカではブレンデッド・ウィスキーのみだったものの輸出市場にはプレミアムなストレート・バーボンを販売、ワイルドターキーもバレルプルーフやシングルバレルの製品を開発、ヘヴンヒルも市場は限定的だったかも知れませんがプレミアムなボトリングを提供していました。当然ブラウン=フォーマンもプレミアム・バーボンの製造に興味を持ち始め、この市場への参入を必要としていました。そこで彼らはそれを造るための適切な場所を探し、ケンタッキー州内の候補地の調査をします。その結果、検討した場所の中にウッドフォード郡にある嘗てのラブロー&グラハム蒸溜所跡地があり、1994年末、ブラウン=フォーマンはメアリー・アン・ホッケンスミスからこの土地を買い戻しました。彼らの目標は外観を1945年当時の姿に復元し、施設を完全に改修することでした。すぐに始まった修復工事にブラウン=フォーマンは2年近くを費やし、この古いランドマークを修復すると業界で最も美しい場所の一つにまで昇華させました。スコットランドやアイルランドで使われるようなオリジナルのカッパー・スティルを設置し、それを用いたプレミアム・バーボン製造のために内装にも変更を加え、遺産観光を目的とした新しいヴィジター・センターも併設され、その総工費は740万ドルだったと言います。1996年10月17日、蒸溜所は一般見学用にオープンしました。蒸溜所の操業開始直後の1997年、ブラウン=フォーマンは周辺の30エーカーを超える土地(元の住居と東側の丘にある泉を含む)を追加購入したことにより、新たに拡張されます。 オープン当時、施設の名前は旧来と同じく、そのままラブロー&グラハム蒸溜所と呼ばれていましたが、製造される唯一のウィスキーはウッドフォード・リザーヴと呼ばれました。そのため、2003年には正式にウッドフォード・リザーヴ蒸溜所と改称され、現在に至ります。このウィスキーはマスター・ディスティラーのリンカーン・ヘンダーソンと当時のプラントのゼネラル・マネージャーであるデイヴ・ショイリックによって構想/開発されました。1996年に市場に投入され、今も高い人気を誇るウッドフォード・リザーヴに就いては、また別の機会に語ることもあるでしょう。
では、最後に貴重なウィスキーを飲んだ感想を少しだけ。

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O.O.P. Old Oscar Pepper Whiskey BiB 100 Proof
1916 - 1926? or 1928?
経年でストリップの印字がよく読み取れず、たぶん26年か28年のボトリングかと思います。液体の見た目はけっこう濁っていました。けれど香りは悪くないし、全然飲めました。オールドオークと甘草やアニス系統のフレイヴァーですかね。流石にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎてるせいなのか、飲んだ量が少量過ぎるというのもあってか、私にはそれほどフルーティなテイストは取れませんでした。とは言え、これは文句ではなく、これだけの「歴史」を飲めたことに感謝です。
Rating:85.5/100

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L.&G. Bottled in Bond 100 Proof
1938? - 1943?
こちらもO.O.P.と同様、ストリップの印字が滲んでいて数字が判別出来ませんでした。これを飲んだことのあるバーボン仲間にも訊ねたのですが、やはりその方も完全には判読できず、蒸溜年とボトリング年はぼんやりとした数字からの推測です。こちらは液体の見た目はクリア、そしてO.O.P.より甘いキャラメルと少しフルーティなテイストを感じました。こちらも少し酸化し過ぎた風味はあったような気はしますが、オールドボトルを飲み慣れていればそれを陶酔感と表現する人もいるでしょう。
Rating:86.5/100


*200年以上もの間、蒸溜所を見下ろす丘の上に建っていたこの歴史的な建物は、エライジャ・ペッパーとその家族に因みペッパー・ハウスと呼ばれています。グレンズ・クリークの畔の小さな蒸溜所の敷地内に1812年に建てられた後、何世代にも渡ってペッパー家の住まいとなり、ペッパー家の手を離れた後も2003年まで誰かしらがこの家に住み、ペッパー・ハウスはケンタッキー州の歴史上、人が住み続けている最古のログ・キャビンとして知られていました。しかし、ここ20年もの間は空き家となって荒れ果てていました。ブラウン=フォーマンはウッドフォード・リザーヴ蒸溜所のウィスキー・バレル・テイスティング体験の水準を引き上げるため、ペッパー・ハウスの修復と改修をジョセフ&ジョセフ・アーキテクトに依頼して、この家を2024年の夏にウッドフォード・リザーヴのパーソナル・セレクション・プライヴェート・バレル・プログラムの新しい拠点として使用することに決めました。オリジナルの外部の石灰岩の煙突はゲストを迎えるために再建されたポーチと共に3年以上かけた修復の中心となっています。既存のスペースは、ドラマチックな2階建てのテイスティング・ルーム、暖炉のあるパーラー、展示室、ケータリング・サポート・スペースのあるバーとして造り直されました。屋外には美しく整備された庭園を見渡す石の壁に囲まれたダイニング・テラスもあります。ウッドフォード・リザーヴを世界的ブランドへと成長させ、長年に渡り修復プロジェクトを支持して来た名誉マスター・ディスティラーのクリス・モリスの功績に敬意を表して、ペッパー・ハウス内のライブラリーは「クリス・モリス図書室」と命名されました。ここには1800年代に遡る丸太とチンキングがあるそう。ウッドフォード・リザーヴのマスター・ディスティラーであるエリザベス・マッコールは、「この家は、コモンウェルスに於けるバーボンの誕生に深く関わる豊かな遺産であり、今日私たちが知っているバーボン業界を形成したペッパー家の不朽の遺産を物語るものです」、「この家を現代的な方法で再利用することは相応しいトリビュートでしょう。もしこの壁が話せるとしたら、ケンタッキー州に於ける初期の蒸溜生活についてどんな物語を語ってくれることか想像できます」、「中に入って1800年代にこの家の一部だった壁に触れるのは素晴らしいことです」と語っていました。
ウッドフォード・リザーヴ・パーソナル・セレクション・プログラムは、世界中のレストラン、バー、酒屋、個人が蒸溜所に訪れ、ウッドフォード・リザーヴ・バーボンの自分だけの組み合わせを作るためのもので、 顧客は公認テイスターとのブレンド体験に参加し、その結果、2樽のバッチが出来上がり、瓶詰めされ、パーソナライズされたラベルが貼られて完成。パーソナル・セレクション・プログラムは、ウッドフォード版プライヴェート・バレル・ボトリングであり、シングルバレルではないものの2バレルを組み合わせて製造されるため限りなくそれに近い。

**ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬にオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約3マイル離れたグレン・クリーク沿いにある25エーカーの土地をジェームズ・ボッツ博士とその妻ジュディスから購入してオールド・クロウ蒸溜所を建設した、とされているので、そこにオスカーが建てた旧来の蒸溜所があったのかも知れません。W. A. ゲインズ・カンパニー(ゲインズ, ベリー&カンパニーの後継会社)はこの蒸溜所とハーミテッジ蒸溜所(RD No. 4)を共に経営しました。後年、DSP-KY-25のプラント・ナンバーで知られたオールド・クロウ蒸溜所は、禁酒法解禁後はナショナル・ディスティラーズが長年に渡り操業し、1980年代後半にアメリカン・ブランズ(ジェイムズ・B・ビーム)が引き継いだあと廃墟となり、現在はグレンズ・クリーク蒸溜所となって復活しています。

***1865年6月にオスカー・ペッパーが亡くなった後、ナニーは1865年後半に隣人であり親戚でもあるトーマス・エドワーズに蒸溜所を1シーズンだけ貸し出しました。エドワーズはグレンズ・クリーク沿いの5マイル離れた農場に蒸溜所を所有しており、そこはドクター・ジェイムズ・クロウがペッパー蒸溜所を去った後の1856年に働いていた地域でも小規模な蒸溜所の一つでした。翌1866年になるとナニーはジョン・ギルバート・マスティンとその弟ウィリアムと3年間のリース契約を交渉しました。ペッパーの蒸溜所は高品質のウィスキーを大量に生産することで評判が高く、ウッドフォード・カウンティの他の蒸溜所もペッパーの設備や専門知識を活用するようになっていたからでした。ジョン・マスティンは1866年のシーズン中、トーマス・エドワーズと共に蒸溜所で働き、その後エドワーズからリース契約を引き継ぎます。彼は1867年1月1日から蒸溜所をゲインズ, ベリー・アンド・カンパニーに転貸し、息子のジョン・Wとロバート・マスティンと共に同社の株式を少額ずつ取得したそうです。

****ゲインズ, ベリー&カンパニーは1867年2月からオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所でオールド・クロウを製造するためのリースを確保した、との説もあります。こちらの方が正しいのかも知れませんが、本文では1869年の裁判所による調停後のこととして記述しました。

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バーFIVEさんでの二杯目の注文はオールド・フォレスター・パーソナライズドにしました。ブラウン=フォーマンの旗艦ブランドであるオールド・フォレスターのこの独特なボトルは、同社の特別生産品で、1930年代後半頃から主にプロモーション販売に使われ、後に同社から直接通販できる特定の個人に向けたギフトボトルとして使用されていたそう。トップ画像のラベルで見られるような「Especially for」、または「For the Personal Use of」等の文言の下部にその個人名が入ります。私が飲んだこのボトルでは、ラベルの経年劣化で消えてしまったのか、或いは元々自分で書き込むように空欄だったのか判りませんが、とにかく個人名は見えません。オールド・フォレスター・パーソナライズドを画像検索で見てみると、比較的長期間(30年代後半〜50年代?)に渡って販売されていたためか、微妙にラベルデザインが異なっていたり、様々な箱に入っていました。中身に関しても多くのエイジングがあり、初期と思しき1938年ボトリングの1クォート規格の物には22年や24年熟成(つまり禁酒法前の蒸溜物)があったり、1940年代の4/5クォート・ボトルでは基本5〜6年熟成と思われますが蒸溜プラントはRD#414の場合もあればRD#354の場合もあったりします。また、何ならオールド・フォレスター・パーソナライズドと同じボトルデザインでラブロー&グラハム名義の物もありました。
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これらパーソナライズド・ラベルのボトルは、画像で確認する限りどれもボトルド・イン・ボンド・バーボンとして製造されたのではないかと思います。品質に関しては、シングルバレルかスモールバッチか定かではありませんが、おそらく相当に良質なバレルを選んでいるのではないかと予想します。ブラウン=フォーマンには特別なバーボンと言うと、パーソナライズドの他に「プレジデンツ・チョイス」があります。オールド・フォレスターの創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンが当時のケンタッキー州知事のために選び特別にボトリングした1890年に始まる伝統を、ジョージ・ガーヴィン・ブラウン2世が1960年代にやや一般化し、特別な顧客のために蒸溜所の最も優れたハニー・バレルを探すプログラムがプレジデンツ・チョイスでした。正式には「プレジデンツ・チョイス・フォー・ディスティングイッシュト・ジェントルマン(卓越した紳士のための社長選定)」という名前で、トール瓶の物はシングルバレルでバレルプルーフまたは20バレル前後のスモールバッチで90.3プルーフにてボトリングされています。これはまだ業界にシングルバレルやスモールバッチというマーケティング用語が定着する数十年も前の話でした。
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で、このプレジデンツ・チョイスにはイタリア向けとされるパーソナライズドとボトルの形状が同じ物(色はクリア)もありましたし、なんとなく時期的にもパーソナライズドとプレジデンツ・チョイスが入れ替わりで販売されているように思えなくもないので、両者のコンセプトの差は社長自ら選んだかブレンダーが選んだかの違いくらいしかなく、パーソナライズドに使用されたバレルも蒸溜所の最高峰のバレルが選ばれているのではないか、というのが私の個人的な推測です。何故こんな根も葉もないことを言い出したかというと、それは今回飲んだこのボトルが余りにも美味し過ぎたから。まあ、他のパーソナライズドのボトルを飲んだことはないので、これは何とも心許ない憶測に過ぎません。それと、写真から分かるようにこのボトルは裏ラベルがなく、どこで製造されたかは不明です。普通に考えるとRD#414かなとは思うのですが…。ちなみに、ブラウン=フォーマンの統括的マスター・ディスティラーであるクリス・モリスによると、オールド・フォレスターのお馴染みのマッシュ・レシピは一度も変更されていないそうです。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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OLD FORESTER PERSONALIZED LABEL BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定50年代ボトリング(ストリップの印字がうっすらと57に見えるが不明瞭のため)。非常に濃いブラウン。全体的にセージやユーカリのような爽やかなハーブがリッチに薫るお化けバーボン。以前飲んだことのある5、60年代のオールドフォレスター(#414)とは全く異なるキャラクターでした。アロマは植物っぽい香りで、時間をおくと濃密なキャラメル香も。味わいはスイートでありながら単調ではなく複雑で深みを帯びています。フルーツは強いて言うとアップル。苦いハーブのタッチも僅かにありますが、癖のあるスパイスは現れません。そして途轍もなく長い余韻。グラスの残り香もハービー。
Rating:96.5/100

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過日、所用があって浦和まで出たので、帰りがけに少し足の伸ばして大宮のバーFIVEさんまで行きました。実際に店舗に伺うのはまだ2回目であるにも拘わらず、とても温かく迎えて頂き、まるでホームに戻って来たような安心感を与えてくれたマスターとNさんのホスピタリティに感謝です。私は下戸であり、あまり時間もなかったため、それほど杯を重ねられませんでしたが、楽しい時間を過ごせましたし、珠玉のバーボンを飲むことも出来ました。先ず一杯目に選んだのは特別なアーリータイムズ。その昔、オークションで購入しようと思ったことはあったのですが、タイミングが合わず買い逃しており、飲んだことがなかったのです。こちら、私が伺ったタイミングで口開けして頂きました。

このヘリテッジ・エディションは、アーリータイムズの創業を1860年から数えて120年の伝統を祝し、1980年に限定数量にてリリースされました。ブラウン=フォーマン社はこのバーボンを特別なものとするため、創業者ジョン・ヘンリー・"ジャック"・ビームの時代の古いアーリータイムズのラベルを再現し、これまた前時代を反映した手吹きガラスの本格的なボトルに90.4プルーフのアーリータイムズ・バーボンを入れ、大事に保管できるよう専用の魅力的な木製ボックスに収めました。
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(古い時代のアーリータイムズのラベル)

ところで、気になるのはラベルに「バーボン」とない「ストレート・ウィスキー」の表記ですよね。
アメリカでバーボンの売上が激減していた1980年代初頭、税金やその他の様々なコストも上がる中、ブラウン=フォーマンはアーリータイムズにコスト削減の決断を下しました。酒類企業は、宣伝ではロマンティックな言辞を鏤めますが、実際には合理的なビジネスマンの集まりであり、所有するブランドから利益を上げれるように管理することについては冷酷だったりします。アーリータイムズは何より労働者のバーボンでした。彼らはそれが安いことを望みます。コスト削減は低価格を維持しつつ、なお利益も上げるための方策だったでしょう。アーリータイムズに使う樽の20%を中古樽で代用し熟成年数を短くすることで、値上げをしなくても利益を据え置くことが出来たのです。使用済みのバレルで熟成することは「バーボン」と名乗れなくなることを意味します。これにより、アメリカ国内向けのアーリータイムズはバーボンから「ケンタッキー・ウィスキー」となりました。アーリータイムズがバーボンでなくなったことで製品の品質は著しく低下します。往時、アーリータイムズの販売量はジムビームより僅かに少ないくらいだったと思われますが、ケンタッキー・ウィスキーへの転換以降、シェアは徐々に失われ、その差は広がって行きました。長年のアーリータイムズの忠誠者たちは年をとって亡くなってしまい、若い飲酒者にアピールしようにも既にブランドの個性は軽やかなウィスキーであるという後付の理由くらいしかありませんでした。低価格のブランドが販売量を失い始めると利益を維持するのは難しくなります。そこでブラウン=フォーマンは、アーリータイムズの再活性に多額の投資をする代わりに、ウッドフォード・リザーヴというプレミアムなブランドを立ち上げる訳ですが、これは別の話です。
で、ヘリテッジ・エディションのラベルにはバーボンと記載がないため、まさか中古樽熟成を含むケンタッキー・ウィスキーなのか?と一瞬疑ってしまいそうになりますが、ラベルにはしっかりと「ストレート・ウィスキー」と記載されています。ストレート規格は新樽で2年熟成の要件があるので、これはケンタッキー・ウィスキーではありません。それにアーリータイムズのバーボンからケンタッキー・ウィスキーへの切り替えは1983年とされているので、ヘリテッジの発売年から考えてもまだバーボンな筈です。そして当時の広告を見ると、実は小さく「ストレート・バーボン・ウィスキー」と書かれていました。
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(アウトドア専門誌『Field & Stream』1980年11月号に掲載された広告より)
おそらく、バーボンを名乗らずストレート・ウィスキーを名乗ったのは昔のラベルに倣ったのだと思います。しかし、その昔のアーリータイムズが何故バーボンを名乗らなかったのかは解りません。事情をお知りの方は是非コメントよりご教示下さい。それは扨て措き、中身に関しても具体的な情報がないので、これまた憶測になりますが、多分スタンダードなアーリータイムズとマッシュビル等は同じながら、かなり出来の良いバレルを選んでバッチングしているのではないでしょうか。これだけ外観のパッケージに拘っているのですから、きっと中身も…。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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EARLY TIMES STRAIGHT WHISKY Heritage Edition 90.4 Proof
推定1980年ボトリング。上で述べたように、開封直後の試飲となります。嫌なオールド臭はなく状態は良好でした。アロマはフルーティな香り立ちで、パレートでも引き続きドライフルーツや僅かにシトラスが感じられます。また苦味のないスパイシーさもいいです。余韻はややドライでしょうか。グラスの残り香は甘いお菓子のよう。以前飲んだ150周年アニヴァーサリーの方がプルーフは高いのですが、ちょっと比べ物にならないくらいこちらの方がフレイヴァーフルでした。ヘヴィなウッディさもなく、キャラメル様のスイートさとフルーツ感のバランスに優れ、頗る美味しいです。中庸なボトリング・プルーフが功を奏しているのかも知れませんね。
Rating:87/100

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アーリータイムズ150周年記念ボトルは、その名の通りアーリータイムズの1860年の創業から数えて150年を迎えることを祝して2010年にリリースされました。3000ケース(各24ボトル)のみの数量限定で、375ml容量のボトルしかなく、アメリカでの当時の小売価格は約12ドルだったようです。

アーリータイムズは豊かな伝統とマイルドな味わいで知られるブランドです。創業当時の設立者ジャック・ビームは、業界が余りにも急速に近代化し過ぎていると考え、「古き良き時代」を捉えたブランドを求めて、その名をウィスキー造りの昔ながらの製法(アーリータイムズ・メソッド)から付けました。彼はマッシングを小さな桶で行い、ビアやウィスキーを直火式カッパー・スティルでボイリングする方法が最善と信じていたのです。アーリータイムズの伝統を匂わせるマーケティングは当り、順調に売上を伸ばしましたが、やがて禁酒法の訪れにより蒸留所は閉鎖されました。
一方でブラウン=フォーマン社の創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンの跡を継いでいたオウズリー・ブラウン1世は、1920年、禁酒法下でも薬用ウィスキーをボトリングし販売するための連邦許可を取得しました。彼は既存の薬用ウィスキーの供給を拡大するために、1923年にアーリータイムズ蒸留所、ブランド、バレルの全在庫を買い取ります。1925年にオウズリーはアーリータイムズの全てのオペレーションをルイヴィルのブラウン=フォーマンの施設に移しました。禁酒法が発効すると1900年代初頭の多くの人気ブランドは姿を消しましたが、ブラウン=フォーマンによって買われていたアーリータイムズは絶滅から免れ、薬用ウィスキーとして販売され続けたことにより消費者から忘れ去られませんでした。1933年に禁酒法が終了した後、ブランドは黄金時代を迎えることになります。オウズリーのリーダーシップの下、ブラウン=フォーマンは1940年にルイヴィルの南にあったオールド・ケンタッキー蒸留所を買収し、そこをアーリータイムズの本拠地としました(DSP–354)。そして1953年頃には、アーリータイムズはアメリカで最も売れるバーボンとなりました。広告ではブランドを「ケンタッキー・ウィスキーを有名にしたウィスキー」とまでアピールしたほどです。1955年、ブラウン=フォーマンはプラントの全面的な見直しと近代化を行いました。まだまだバーボンは売れる商品だったのです。
しかし、70年代はバーボンにとって冬の時代でした。ブラウン=フォーマンは1979年になるとルイヴィルのオールド・フォレスター蒸留所(DSP-414)を閉鎖し、同バーボンの製造をアーリータイムズ・プラントに移管しました。その頃、二つのブランドの品質に影響を与える重要な決定が下されます。オールド・フォレスターは同社の看板製品なのでプレミアム・バーボンとして選ばれ、アーリータイムズは二種類の製品に分けられてしまいました。一つは輸出用の製品で「ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」規格を保持しましたが、もう一つのアメリカ国内流通品は80年代初頭に新樽ではない中古樽で熟成された原酒を含むため「バーボン」とも「ストレート」とも名乗れない「ケンタッキー・ウィスキー」となったのです。もしかすると、その時に熟成年数もまた短くしたかも知れません(3年熟成)。こうして、嘗て栄光を誇ったアーリータイムズはアメリカでは最高のブランドではなくなりましたが、ボトムシェルフ・カテゴリーの中では存在感は示したでしょうし、海外、特に日本ではバーボンの代名詞的存在であり続けました。
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この150周年記念ボトルは、1923年当時ブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションの社長だったオウズリー・ブラウン1世が薬用ウィスキーとしてボトリングした時のアーリータイムズのフレイヴァー・プロファイルを見習って造られている、と同社の統括的なマスターディスディラーであるクリス・モリスは語っています。
禁酒法時代の薬用ウィスキーの殆どは時宜遅れのボトリングでした。それらには本来ディスティラーが意図していたより3倍長く熟成されたウィスキーが入っていたのです。1923年という初期禁酒法下で、ブラウン=フォーマンは5~6年程度の熟成のアーリータイムズを薬用ウィスキーとしてボトリングし始めました。それはライトな蜂蜜色で、メロウ・オークにブラウン・シュガーにヴァニラの香り、シンプルなスイート・コーンとヴァニラと仄かなバタースコッチの味わいをもち、過ぎ去りし最高のアーリータイムズを偲ばせると云います。つまり、そうした禁酒法の初期に販売されたであろうメディシナル・アーリータイムズ・プロファイルを模倣するために、「アーリータイムズ・ケンタッキー・ウィスキー」のプルーフを引き上げ、更に熟成年数を引き延ばすアプローチをした物が、この150周年アニヴァーサリー・エディションという訳です。また、ボトルと言うかパッケージングも禁酒法時代のウィスキーのデザインになっていますが、このラベルのデザインが実際あった物の復刻なのかどうか私には分かりません(※追記あり)。実情をご存知の方はコメント頂けると助かります。それは偖て措き、2011年になるとブラウン=フォーマンはアメリカ国内で「アーリータイムズ354バーボン」なるストレート・バーボン規格の製品を発売しました(レヴューはこちら)。私には何となく、発売時期からするとこのアニヴァーサリー・エディションには、従来のボトムシェルファーとは違う少しプレミアム感のある「354」の売り上げを伸ばすための地ならしと言うか「アーリータイムズの栄光よもう一度」的な?宣言の役割があったように思えてなりません。まあ、空想ですが…。 
では、そろそろ飲んでみましょう。

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EARLY TIMES KENTUCKY WHISKY 150TH ANNIVERSARY EDITION 100 Proof
2010年ボトリング。バターレーズンクッキー、フローラル、焦樽、焼いたコーン、ワカメ、ホワイトペッパー、微かなチェリー、藁。少しとろみのあるテクスチャー。口蓋ではアルコール刺激はまずまずありつつ、木材とスパイシーさが。余韻はミディアム・ショートで、豊かな穀物を主に感じながらビタネスとスパイスとフルーツと香ばしさがバランス良く混ざり合う。
Rating:83.5→82.5/100

Thought:通常のアーリータイムズとは一線を画す現代のプレミアム・レンジのバーボンに感じやすい香水のような樽の香ばしさがあります。これの前に開けていたアーリータイムズ・プレミアム(90年代)とも全然違うフィーリングで、連続性はなく感じました。とは言え、それが件のバーボンではないケンタッキー・ウィスキーだからなのか、熟成年数の追加とプルーフィングその他によるものなのかは分かりません。少なくとも私には「これバーボンです」と提供されればバーボンと思う味わいでした。基本的には、何というかそれほどコクのない香ばし系とでも言いますか、美味しいのですが、個人的にはもう少し甘みかフルーツ感が欲しいところ。メロウネスもあまり感じないので、熟成年数はいいとこ6年くらいかなという印象です。正直、クリス・モリスには申し訳ないですが、これは禁酒法時代の風味を再現してるとは思えず、完全に現代的な樽の風味だと感じました。
それと上の点数なのですが、残量3分の1を過ぎた頃から風味がかなり変わりまして、それゆえ矢印で対応した次第です。香りは甘さが消え、口の中では酸味が少し増え、余韻はドライになり、バランス的には穀物とスパイスに偏りました。劣化した味わいではないのですが、良い変化とは言えないし、私の好みではないです。

Value:この製品は通常ボトルの凡そ半分量ということもあり、オークションでもそれほど高値にならず、70年代のイエローラベルより安価で購入出来ると思います。味わい的に物凄くオススメという訳でもないのですが、パッケージングがカッコいいのでそれなりの価値があります。デザインを含めて考えると、個人的には3000円代なら購入してもよいかと。


追記:どうやらラベルのデザインに関しては禁酒法時代より古い時代のものを再現しているようです。これが元ネタ?
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この150周年記念ボトルより以前、120周年記念の時にリリースされたヘリテッジ・エディションもこれが元ネタで、それが30年後にも引き継がれたのかも知れませんね。

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2019年にラベルを一新したアーリータイムズ。そのラベルはアーリータイムズの創業者ジャック・ビームではなく、中興の祖サールズ・ルイス・ガスリーをフィーチャーしたものになっています。そのことも驚きでしたが、これだけ安価なブランドなのにラベルをただの色違いにせず、ほんの少しデザインを変更しているのも注目点。ブラウンの方はガスリーの横顔の絵がラベル正面に来ています。
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ガスリーについては以前投稿した新イエローラベルのレヴューで紹介してますのでご参照下さい。今回はブラウンラベルを試してみます。ブラウンラベルとイエローラベルの違いについてはこちらを。

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EARLY TIMES Brown Label 80 Proof
2019年ボトリング。ローストバナナのキャラメルソース掛け、焦樽、コーンチップス、接着剤、僅かにフローラル、ペッパー、ほんのりシャボン玉。水っぽく柔らかい口当たり。味わいはイエローよりややスパイシー寄りでさっぱりめ。余韻は短く、少しビター。
Rating:77/100

Thought:どうも昔飲んだブラウンラベルより美味しくない気がしました。私がイエローラベルに感じ易いと思っていたアーリータイムズ独特の嫌な風味を今回のボトルには感じます。また、私の記憶よりフルーティさも幾分か欠けるように感じましたし、余韻も苦いように思いました。以前に投稿したイエローとブラウンを比較する記事では、ブラウンの方を高く評価していたのですが、なぜか新しいラベルになってからのアーリータイムズに関してはイエローの方が美味しかったです。ここ数年で私の味覚が変わったのか、単なる気のせいなのか、それともアーリータイムズのバッチングの差なのか、謎。
ちなみに先日まで開封していたアーリータイムズ・プレミアムと比較すると、バカらしいほどにプレミアムの方が旨かったです…。

Value:否定的なことばかり書きましたが、価格の安さが最大の価値であるバーボンなので、 難癖をつけるつもりはありません。千円ちょっとでこれが飲めるのはありがたい話だと思います。ヘヴンヒルやジムビームの1000円代で購入できるバーボンより風味が濃いと評価する人もいますし、飲んだことのない方は迷わずトライしてみて下さい。しかも是非ストレートで。安いバーボンはハイボール専用などと思わずに。実際のところかなり美味しいですよ?

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アーリータイムズ・プレミアムは日本市場限定の製品です。調べてみると1993年から発売され、1997年に終売になったとの情報がありました。後の2011年リリースで2014年に製造停止となった「アーリータイムズ354バーボン」同様、このプレミアムも短命だった訳です(354の過去投稿はこちら)。どちらも3~4年で製造されなくなったところを見ると、あまり売れなかったのでしょう。

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(アメリカ流通のアーリータイムズ・ケンタッキーウィスキー)

アーリータイムズのアメリカ本国での流通品は、1983年にそれまでの「ストレートバーボン」規格から中古樽熟成原酒を含む「ケンタッキーウィスキー」への転換がありました。そう、我々日本人がバブル時代に大量のバーボンを輸入し、バーボンブームが到来していたあの頃、「バーボンと言えばやっぱりアーリータイムズだよね」と憧れていたバーボンは、既に本国ではバーボンではなくなっていたのです。アメリカに於けるアーリータイムズ・ケンタッキーウィスキーはボトムシェルフの王者だったかも知れませんが、そのブランド・イメージは「古臭くて安い酒」だったに違いありません。恐らくそうした負のイメージを刷新しようとしたのが354バーボンの発売だったと思われます。しかし、ほんのちょっと先走り過ぎたのか、単なるマーケティングの失敗なのか、とにかくその目論みは外れました。製造中止のアナウンスの際にブラウン=フォーマンのスポークスマンは、消費者はアーリータイムズにプレミアムを求めていなかった、という趣旨の発言を残した程です。
一方、アーリータイムズの輸出用製品はケンタッキー・ストレート・バーボンとして継続されました。世界的な知名度は絶大であり、特に日本では確固たる地位と販売量を誇るブランドだったからです。では、その日本ですらそれほど売れなかった(と思われる)アーリータイムズ・プレミアムとは一体何なのでしょうか?

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ラベルのサイドに書かれた文言はバーボンのありきたりの常套句ばかりで読む価値もないものです。はっきり言えば、ボトルのみから判断できる情報では度数が3%ほど高い43度ということだけ。このプレミアムについて調べていると、或るブロガーさんの記事で「当時価格で1500円」とありました。随分と安くありません? まあ、354バーボンもアメリカでは17ドル前後の販売だったので、「プレミアム」とは言ってもアーリータイムズ自体がバリュー・ブランドだし、ちょっと上位だよ程度の意味しかないのでしょう。1997年発行のバーボン本によると、イエローとブラウンが参考価格で2700円、プレミアムが4000円とあり、実売価格ではないけれどそれなりの差額があります。そして、その本の製品説明によれば、

「プレミアムは、品質へのこだわりをより徹底させた日本限定品。原料を独特の比率で組み合わせ、酵母も専用のものを使っている。熟成が、香りと色、味わいに深みをあたえている。」

とのこと。え? マジで!? 正直言って、この手の本に載っているインフォメーションは疑わしいものが多く、どこまで信憑性があるのか判りません。アーリータイムズ自体の紹介には比較的紙面が割かれてはいますが、97年発行という時期柄か、96年発売のブラウンラベルについて多く語られ、プレミアムに関しては上の引用文だけしか記述はないのです。取りあえずこの件は後で少し触れるとして、このプレミアムという製品、パッケージングがヒドくないですか? プレミアムを謳いながらラベルの色がブラウンとカーキの中間色? え、売る気あるの? スタンダードのイエローより地味になってますけど? プレミアムが販売されていた当時、熟成年数やボトリング・プルーフの違いによってラベルの色の違う2~3種類のヴァリエーションを揃えたバーボンが沢山ありました。その中で、アーリータイムズにも少し度数の高いヴァリエーションがあるのは自然の流れだろうし、ネームバリューだってずば抜けているのだから、プレミアムが売れる潜在能力は大いにあったと思うのです。いくら「水割り文化」の日本人に最も売れているブランドだったとしても、ハイアー・プルーファーが売れる素地はなくはない筈。通常、ボトルやラベル・デザインを変えずにより良質なヴァリエーションもリリースする場合には、上位の物に高価そうに見える派手な色のラベルを使う傾向にあります。スタンダードが白や黒なら、上位のクラスには赤や銀や金などを使うという具合に。ひとえにプレミアムが売れなかった原因はパッケージにあったのではないでしょうか? この渋すぎる色ラベルのアーリータイムズは、どう見てもイエローラベルの廉価版にしか見えず、プレミアム感の欠片もありません。これでは売れる訳がない……と、ここまではプレミアムが売れなかったから終売になったという前提で話を進めました。ですが、逆に順調に売れていたという可能性も考えられます。これについても後で述べることにし、先ずは飲んだ感想を書きましょう。

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1993年ボトリング。キャラメル、焦樽、ブラウンシュガー、ダークフルーツ、バナナ、米、ほんのりバター、絵の具。甘い香りにフルーティさが潜むアロマ。澄んだ酒質。口当たりは水っぽいものの風味はしっかりしている。香りにスパイシーなトーンは感じないが、液体を飲み込んだ後には穏やかなスパイスが現れる。余韻は43度にしてはやや長めで、緩やかな穀物の甘さとビタネスが同居。
Rating:84.5/100

Value:これ、美味しいです。ユニークな風味はありませんが、すっきりしつつコクのあるバランスの取れた味わい。スタンダードのイエローより幾分かフルーティで、イエローラベルに感じやすい嫌な風味も薄いように思いました。今でも2000円程度で販売されていれば常備酒としてもいいですね。ただ、残り三分の一で暫く放置していたら、甘味が弱くなって程よい接着剤が前面に来てしまいました。上のテイスティング・コメントはその前に書いたものです。オークションでのタマ数はそう多くありませんが、今のところ高騰してない銘柄なので、2500~3000円程度で落札出来る模様。

Thought:さて、プレミアムの中身に関してなのですが、飲んでみた感想が飲む前の予想をかなり越えていたこともあり、幾つかの可能性を考えてみました。先ずは、上記のバーボン本自体の信用性がなく、件の引用文もテキトーに書かれたデタラメなものだと仮定した場合、

①単純にイエローラベルよりボトリング・プルーフが高いだけ。だが、3度の違いが風味に及ぼす影響は大きい。
②使われている原酒の熟成年数が僅かに長い、もしくはイエローラベルよりクオリティの高い樽が選ばれている。
③イエローラベルとはトーストの具合が違う樽が使われている(*)。

と、考えるのが妥当だと思います。問題はその引用文が信頼できる真実の情報だと仮定した場合です。注目は「原料を独特の比率で組み合わせ、酵母も専用のものを使っている」という部分。酵母は一旦おいて、この前半の文を素直に解釈し、言葉を補うならば、「イエローラベルとは違うプレミアム独自のマッシュビルを使っている」と言っています。私は過去にイエローラベルとブラウンラベルの比較レヴュー(こちら)を投稿し、そこでブラウンラベルのマッシュビルについて紹介しましたが、このプレミアムまでもが全く別のマッシュビルを使ってるとは到底思えないのです。マッシュビル、特にフレイヴァー・グレインであるライ麦の比率は味わいに大きな影響を与えます。違うブランドにするならまだしも、同じブランド、同じラベルデザインの色違いで、通常そこまではしないでしょう。しかも日本だけのために、更には廉価な販売価格なのにです。しかし、今は引用文が正しいという仮定で話を進めています。そこで思い付いた解釈理論が、

④プレミアムはブラウンラベルの前身であり、中身はブラウンラベルのハイアー・プルーフ・ヴァージョンだった。

というものです。これは実際プレミアムを飲んでみてイエローラベルより私好みだったことから思い付きました。何となくイエローよりライ麦の影響を感じるような味の気がしたのです。ですが、私自身は味覚音痴ですし、それくらいの風味の違いはボトリング・プルーフの差や熟成の具合でどうとでもなりそうな気もし、また同時期のイエローとブラウンとプレミアムをサイド・バイ・サイドで飲み較べした訳でもないので自信はありません。あくまで珍説であり可能性の提供という意図しかないのです(飲んだことのある皆さんのご意見、どしどしコメントへお寄せ下さい)。そして、珍説ついでに妄想を膨らませてみると、実はプレミアムはよく売れていたのではないか?とまで思い直し、

⑤プレミアムは実験的に開発され、日本市場で好評だったが、のちに日本人の味覚に合わせて40度にプルーフィング・ダウンし、ブラウンラベルとしてリニューアルされた。

というストーリーまで考え付きました。プレミアムの中止が97年、ブラウンの発売が96年ですから、なくはない推論かなと。まあ、どれもバーボンファンのとりとめのない与太話と思って聞き流して頂ければ幸いです。暇潰しには最適でしょう?(笑)。それと、身も蓋もない言い方ですが、

⑥単に90年代のボトルは今よりレヴェルが高かった。

という説も付け加えておきます。
最後に酵母に関してですが、件のバーボン本によるイエローとブラウンの違いの説明では、イエローラベルは「熟成期間の異なる酵母を4種類混ぜ合わせて」あり、ブラウンラベルは「イエローラベルの4種類の酵母に、性質と熟成期間の異なる3種類の酵母をプラスして華やかさを醸し出す」とあります。これってまるでフォアローゼズ蒸留所のようですよね? ブラウン=フォーマンもこうしてバーボンを造ってるという話を私は他では聞いたことがないのですが、本当なのでしょうか? こちらもご存知の方はコメントよりご教示頂ければと思います。


*ここで何度も言及しているバーボン本のアーリータイムズ・ブラウンラベルの説明では、トーストの加減がイエローラベルとは違う旨が記されています。③はそこからの類推として、プレミアムもそうだった可能性を示唆しました。

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つい最近アーリータイムズの日本向けラベルが新しくなりしました(2019年4月から)。近所のスーパーにてリニューアル記念として少し安かったので、さっそく購入してみた次第です。一目で分かるように、従来品にあった掘っ建て小屋?のような古めかしい蒸留所の絵柄がなくなりました。SNS上での新ラベルの投稿をざっと眺めてみると、前の方が良かった、という意見が多い印象を受けます。また私の周囲の友人に尋ねても、概ね同じ結果でした。私としては初めて見た時、カッコよくなったなぁと思ったのですが、どうも少数意見のようで…。まあ、私の所感は措いて、このデザインなのですが、ネットで海外のアーリータイムズを検索してみると、どうやらヨーロッパでは数年前からこのラベル・デザインが採用されていたようです。それはラベルの文言に少々の違いがあり、名前も「EARLY TIMES OLD RESERVE」と言う名称になっています。で、これ、ラベルにストレートの記載がなく「KENTUCKY BOURBON WHISKEY」となっているので、バーボン規格ではあってもストレート規格ではないと思われます。もしかすると熟成期間が2年以下の原酒が混ぜられているのかも知れませんね。また、ロシアでは「EARLY TIMES OLD 1860」という名称のものが販売され、こちらはバーボン規格ではない「KENTUCKY WHISKEY」となっています。アメリカ本国と同じように中古樽で熟成した原酒が混ぜられているのでしょう。ともかくも、こうして世界のボトルを見てみると「KENTUCKY STRAIGHT BOURBON WHISKY」が販売され続けている日本でのアーリータイムズの絶対的な人気ぶりを改めて実感します。

さて、この新しいラベルデザインの注目点は、S. L. Guthrieを前面に押し出していることです。
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彼について、現在の取り扱いもとであるアサヒビールの公式ホームページではこう説明されています。

「アーリータイムズ蒸溜所は、1920年に禁酒法が施行されたことにより、その他の蒸溜所同様、存亡の危機に瀕する。しかし、従業員であったサールズ・ルイス・ガスリーがブランドを守るべく意を決して私財を投げ打ってアーリータイムズの商標権、在庫を買い取り、秘密の倉庫にウイスキーを隠すことで、伝統を途切れさせなかった。
その後、医師が処方する薬用ウイスキーとして認可されたことで、例外的に広く飲まれるようになり、アメリカ国内でも有数の販売数を誇るバーボンウイスキーとなった。」

それにしても、なぜ今頃になってから急にガスリーの名前を持ち出して来たのでしょうか? 創業者を差し置いて? 理由は分かりません。ですが、アーリータイムズの歴史を繙くとガスリーの名は確かにそこに記されています。

蒸留一家としてのビーム家の始租ジェイコブ・ビームの孫でありデイヴィッド・ビームの息子であるジャック・ビームにより、1860年に創設された蒸留所とその造り出すブランドは、前時代の伝統的な製法への敬意を表してアーリータイムズと名付けられました。バーボンが徐々に近代化して行く流れの中での、マーケティングとブランディングに於けるノスタルジアをウリにした初期の好例と言えるでしょう。アーリータイムズはその「古き良き時代」を思わせる名前にも拘わらず、バーズタウン近くのL&N鉄道の隣に、輸送の利便性を考慮して戦略的に設置された近代的な蒸留所でした。伝え聞くところでは非常に清潔な操業を行っていたとされています。
1880年代になるとパデューカ・ネイティブのB.H. ハートという有能なビジネスマンが企業パートナーとなって社長を務め、ジャックは副社長兼ディスティラーを務めました。この時代にブランドはより強固になって人気を得、需要の増加により1890年ま​​でにプラントは大幅な増産を見せました。世紀の変った直後にハートは自分の株式をビームに売却し、その頃ジャックの甥でゼネラルマネージャーだったジョン・ショーンティが3分の1の株を購入します。 サールズ・ルイス・ガスリーは1907年頃、見習いのオフィス・ワーカーとして入社し働き始めました。そして、後に蒸留所のアシスタント・マネージャーまで出世したようです。
1915年5月11日、創業者ジャック・ビームはこの世を去り、甥のジョン・W・ショーンティが会社を引き継ぎ社長になりました。ジャックの息子であるエドワードも会社と関係がありましたが、彼は父親の死の数ヶ月前に42歳で死亡しています。禁酒法の足音が聞こえてきた1918年頃に蒸留所の操業は停止され、1920年にガスリーが蒸留所と農場を買い取りました。1922年にジョンが亡くなった後、 1923年にガスリーはアーリータイムズのブランドとストックをブラウン=フォーマン社に売却。彼らは「薬用スピリット」を販売する許可を得ており、増加する処方箋の需要を満たすための新たなバーボンの供給を必要としていたからです。それ以来、今に至るまでアーリータイムズはブラウン=フォーマンが所有しています。

ガスリーはセンセーショナルなアイデアを持った起業家であり、豪胆なギャンブラーでもあったのでしょう。禁酒法が施行され始める直前に、彼は蒸留所を急稼働させ、その多くのウィスキーを自分の地下室に貯蔵したと言われます。元禁酒捜査官に銃口を突きつけられて樽が盗まれたこともありましたが、危険を顧みずに、ガスリーはバーズタウン警察へのコネを使って、何とか樽を家に持ち帰ったこともあったとか。ガスリーの報われたギャンブルは、アーリータイムズ・ウィスキーを守ったことだけが唯一のものではなく、彼は犀利なカード・プレイヤーでもあったので、ポーカー一つでキャデラックを勝ち獲ったこともあったと言います。
またこんなエピソードもあります。ジョン・ショーンティの死後、残されたその未亡人は暫く後にデズモンドという名の若い男性と交際しました。彼女は彼が結婚しようとしていると信じ込んでいて、二人連れたってアトランティック・シティへと旅行に出掛けましたが、そこで男はかなりの金額といくらかの宝石類を巻き上げ、すぐに彼女を見捨てました。男は結婚詐欺師だったのです。蒸留所オーナーの妻ともなれば身分やその資産は想像に難くありません。狙われたのでしょう。ショーンティ夫人は無一文ですっかり立ち往生したままだったので、ガスリーは彼女を迎えに行って家に帰してあげたそうな。
ガスリーが彼のウィスキーを守るために経験と知性と富の全てを投資しなかったとしたら、アーリータイムズは今日我々の口に入らなかったかも知れませんね。それでは、ありがたく現在のアーリータイムズを頂くとしましょう。

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EARLY TIMES Kentucky Straight Bourbon Whisky 80 Proof
推定2018年?ボトリング(瓶底に18のエンボス)。メープルシロップをかけたパンケーキ、キャラメルマキアート、焦がした木材、鼈甲飴、微かなフローラル、コーンチップス、ココア。円やかな口触り。基本的にグレイン・フォワードなフレイヴァーにたっぷりのブラウンシュガー。フルーツで言うとバナナ。余韻に延びはないが、軽くスパイシーさもあり悪くない。
Rating:77.5/100

Thought:以前のラベルの物と比較して、それほど大差はない印象を受けました。口にいれた瞬間、ああ、アーリータイムズの味だなぁ、と。しかし、そう感じたのに以前投稿した比較対決シリーズでイエローラベルをレーティングした時とは、点数を変更しました。その時はブラウンラベルとの飲み較べという状況が、イエローに不利に働いてしまったのかなと今では思ったのです。単体で飲むと全然美味しく感じてしまいました。
アーリータイムズは同程度の価格帯のバーボンと比較してかなり甘さが際立ち、そして80プルーフにしては風味も濃いめな気がします。もう少し価格帯が上位のバーボンにありがちなタニックなドライネスもなく、あるとすれば若さ故のアルコールの刺々しさの筈ですが、それも活性炭濾過のお陰か円やかさのほうが感じました。

Value:「結局はアーリータイムズが初歩にして究極なんだよね」と言う意見があったとしても、私には全く反論する気は起きません。これが一番美味しいバーボンとは思っていないにも拘わらず、1300円程度の値段でバーボンらしい甘さが味わえ、全国津々浦々どこでも手に入る流通範囲の広さも考慮すれば、それこそ究極と言うべきなのは理解出来るからです。日本に於けるアーリータイムズの受容の広がりと深みは、アーリータイムズを日本のバーボン飲みの「故郷(戻るべき場所)」にしてしまったとすら思います。これが価値でなくて何が価値でしょうか。

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オールドフォレスターは言わずと知れたブラウン=フォーマン社の看板製品。特にそのボトルド・イン・ボンド規格の物は銘酒の誉れ高くバーボンファンのお気に入りです。1920〜1933年の禁酒法の間も医薬目的のための販売を認められたブランドの1つで、1870年代に発売されてから現在まで継続している正にお手本のようなブランド。なのに日本での知名度はジムビームやファアローゼズ、アーリータイムズやIWハーパーに較べるとやや低いのが残念ですね。

オールドフォレスターは、それまで樽から直接ジャグ等の再利用容器に入れて販売されるのが一般的であったバーボンを、密封ボトルのみで販売した初めてのブランドであったと言われます。当時の多くのウィスキーは中間業者によって色々な混ぜ物が入れられていました。それを防ぐ手段としてガラス瓶(*)に入れ密封されたオールドフォレスターは当初薬局で薬品として販売されていたとか。その時代、ウィスキーは薬として認知されており、だからこそ密封された混じりっ気のないウィスキーは、品質を保証し、医師や薬剤師に好意的に迎えられたのです。これにはブラウン=フォーマン社の創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンが、ウィスキービジネスを始める前の職業が薬剤販売員だったことと無関係ではないでしょう。おそらく実地に医師の意見でも聴いたのかも知れません。それをブラウンはビジネスチャンスと見、ウィスキー業界へと打って出た訳です。

もともとOld Foresterは「Old Forrester」と綴られ「r」が2つ付いたスペルでした。それはブラウンの友人である医師のウィリアム・フォレスター(William Forrester)から由来していると伝えられています。いつ「r」が1つになったのか定かではありませんが、一応ブラウン=フォーマン社が公にしているオールドフォレスターの語源は、この医師の名前説です。実はその他にオールドフォレスターの語源には二説ほど有名なのがあり、一つは南軍の騎兵隊長ネイサン・ベッドフォード・フォレスト(Nathan Bedford Forrest)に由来するというもの。ネイサンは南北戦争での残虐な戦いぶりで勇名を馳せ、しかもKKK(クー・クラックス・クラン)の設立者の一人と目される人物。このネイサン由来説は、社会史家ジェラルド・カーソンの『バーボンの社会史』に端を発するそうです。どうやらこの説は、1960年代という南北戦争から100年の節目、南部ナショナリズムが一種のブームであった時代に迎合したマーケティングのようで、今で言う黒歴史と言いますか、歴史の汚点のような説かも知れません。もう一つは森林を意味する「Forest」から来ていて、「Forester」で森の番人の意とするもの。こちらは穏やかではあるものの面白味に欠ける説ですね。

初期の頃のブラウン=フォーマン社は俗に言うNDP(非蒸留業者)でした。ジョージ・ガーヴィン・ブラウンが1870年にウィスキー・ロウと呼ばれるルイヴィルのメイン・ストリートでウィスキーの卸売ビジネスを開始した当時は、JMアサートン蒸留所とメルウッド蒸留所とBJマッティングリー蒸留所から購入した原酒を独自にブレンドして販売していたそうです。1902年になると主要な供給元であったマリオン郡セントメアリーのベン・マッティングリー蒸留所を購入。そこにはウェアハウスとボトリング施設がなかったので、蒸留を終えたウィスキーはルイヴィルへと運ばれました。1907年にはセントメアリーの蒸留所にもウェアハウスとボトリング施設が建てられます。禁酒法が訪れるとその蒸留所は閉鎖となり、ウィスキーのストックはルイヴィルのG・リー・レドモン社のウェアハウスに移されました。そこはホワイト・ミルズ・ディスティラリーと知られる薬用ウィスキーのための集中倉庫とボトリング施設です。ブラウン=フォーマンのウィスキー以外にも、テイラー&ウィリアムスのイエローストーンやマックス・セリガーのベルモント等のストックが保管されていました。ブラウン=フォーマン社は1924年にそこの資産と在庫を買い取り、禁酒法期間中、薬用ウィスキーのボトリングを続けます。禁酒法解禁後にその施設は再建され、ブラウン=フォーマン蒸留所として1980年頃までオールドフォレスターを生産しました。この蒸留所のプラント・ナンバーこそがオールドボトル愛好家に名高いDSP-KY-414です。1979年以降オールドフォレスターの生産はルイヴィル郊外のシャイヴリィにあるアーリータイムズ蒸留所(DSP-KY-354)へ移管されますが、バーボンマニアには#354より#414のほうが遥かに質が高いとされています。そして2018年6月には、かつてウィスキー・ロウと呼ばれたルイヴィルのダウンタウンにオールドフォレスター蒸留所がオープンしました。おそらく今後は、オールドフォレスターはこちらでも少量造られて行くことになるでしょう。

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OLD FORESTER BOTTLED IN BOND 86 PROOF?
さて、今回飲んだオールドフォレスターのボトルド・イン・ボンドですが、年代はいつ頃の物かよく判りません。マスターに質問し忘れたのか、答えを聞きそびれたのか、どうにも酔っぱらっていて記憶にないのです。見たところ50年代ぐらいでしょうか? 画像で判断できる方がいましたら教えて下さい。それよりもこのボトルで訳がわからないのは、フロントラベルにはボトルド・イン・ボンドと書かれているのに、バックラベルには86プルーフと書かれていることです。ボトルド・イン・ボンドなら100プルーフなのでは…。これはどういうことなのでしょうか? 「Bottled in Bond for Export」ともバックラベルには記載されていますが、この文言が何か関係してるのですかね? これまたご存じの方はコメントよりご教示いただければ幸いです(追記あり)。
とりあえず蒸留とボトリングは#414。この時代から現行オールドフォレスターの72%コーン/18%ライ/10%モルテッドバーリーと同じマッシュビルかどうかは判りませんが、同じである可能性は大いにあると思います。では、最後に飲んだ感想を少々。
一言、キャラメルラテ祭り。ただのキャラメルではありません、ラテです。非常にミルキーな味わいに感じました。欧米の方ならバタースコッチと表現する風味かも知れませんね。
Rating:87/100


*1800年代のガラス瓶は手吹きで造られる大変高価な物であり、下手をすると中身よりも貴重な存在でした。1903年にマイケル・ジョセフ・オーウェンズが自動製瓶機を発明したことにより、安価なガラス瓶がようやく市場へ出回り始め、後に主流となって行きます。

追記:「Bottled in Bond for Export」の件に関して、私からしたら神様のような存在のバーボン・バーGのマスターより教えを頂きました。これは本国流通品とは異なる輸出向けの低プルーフ版なのだそうです。ブラウン=フォーマンに限らず当時のボトルにはこういう物がけっこう存在するのだとか。よって、上で「?」を付けておきましたが、本ボトルは86プルーフで正解となります。

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EARLY TIMES 354 BOURBON
アーリータイムズ蒸留所の創業は1860年と言われており、ジム・ビームの叔父にあたるジャック・ビームがバーズタウン近くのアーリー・タイムズ・ステーションにて創始したとか。禁酒法の施行は小さな蒸留所に大きな打撃を与え、数多くの蒸留所が廃業に追い込まれました。アーリータイムズも例外ではなかったのでしょう、1923年からブラウン・フォーマンに買収され生き延びているブランドです。50年代にはアメリカで最も成功したブランドの一つでしたが、1983年以降アメリカ国内ではバーボン規格ではなくケンタッキーウィスキーとして販売され(*)、国外輸出向けにはストレート規格のバーボンとして人気を博してはいたものの、本国では最下層のアメリカンウィスキーの地位に甘んじているように見えます。ところが2011年に突如この354と名付けられたバーボン規格のアーリータイムズが発売されました。あまり売れ行きが芳しくなかったせいか、2014年に終売となりました(**)。

354という数字はアーリータイムズを造るプラントの連邦許可番号(DSP-KY-354)から由来しています。熟成年数はNAS(No Age Statement)ながら4年とされ、特別に選ばれた樽からボトリングされているようです。
通常のイエローラベルと較べるとフレッシュフルーツ感が強まっている印象。オレンジやリンゴっぽい。やや水っぽく、澄んだ酒質。確かにイエローラベルより高級なテイストは感じられるが、正直言って物足りない。おそらく43度でボトリングしてくれてればもう少し美味しかったに違いない。ボトルのデザインは古めかしくてカッコいいのだが…。
Rating:81/100


*古樽で3年熟成された原酒が混ぜられているためバーボンと名乗れない。

**今ではボトルド・イン・ボンド規格のアーリータイムズが発売されてます。

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「安酒を敬いたまえ」シリーズ第四弾、今回はブラウンフォーマン編です。

Brown-Forman Corporation◆ブラウンフォーマン社
BFのバーボンにはオールドフォレスター、ウッドフォードリザーヴ、ジャックダニエルズ等がありますが、当企画ではアーリータイムズのみ扱います。ETのマッシュビルについては過去投稿にて紹介してますのでご参照下さい。チャーリング・レヴェルは一説には# 3 、バレル・エントリー・プルーフはおそらく125だと思います。

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EARLY TIMES Yellow Label 80 Proof
1100〜1300円程度
Rating:76.5/100

EARLY TIMES Brown Label 80 Proof
1100〜1300円程度
Rating:78/100

申し訳ありませんが、これらのレヴューもこちらを参照してもらえればと思います、重複してしまうので…。

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