バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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カテゴリ: オールド&ヴィンテージ

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの7、8杯めに選んだのは、おそらくこのバーの中でも最も貴重なバーボンであろう禁酒法時代のオールド・オスカー・ペッパーと禁酒法解禁後のL.&G.(ラブロー&グラハム)です。オールド・オスカー・ペッパーはケンタッキー・バーボンの有名な銘柄の一つであり、ペッパー家の3世代はケンタッキー州の最前線でウィスキーを蒸溜し、業界の黎明期を今日の姿に築き上げるのに貢献しました。そして現在でもペッパーの名はブランドとして復活しています。ラブロー&グラハムも現在のウッドフォード・リザーヴに繋がる名前です。バーボンの歴史は彼らを抜きにしては語れません。そこで今回はペッパー・ファミリーのレガシーの一部とグレンズ・クリークの蒸溜所の歴史に就いてざっくりと紹介したいと思います。

ペッパー家の蒸溜はエライジャ・ペッパーから始まります。エライジャは、サミュエル・C・ペッパー・シニアと「英国人女性」とされるエリザベス・アン・ホルトン・ペッパーの間に生まれました。生年には系図サイトを参照にしても諸説あり、1760年12月8日月曜日とするもの、1767年とするもの、1775年とするものがあります。出生地も、ヴァージニア州カルペパーとしているものとフォーキア・カウンティとしているものがありました。この二つは隣接しているので、だいたいそこら辺で産まれたのでしょう。彼は1794年2月20日にフォーキアで名門オバノン家出身のサラ・エリザベス・オバノンと結婚しました。エライジャの生年を1767年としている系図サイトだと、サラを1770年生まれとしていました。或る記録によると結婚当時のサラは13歳か14歳だったとされているようで、そちらが正しい場合は生年は1780年あたりになるでしょう。1797年、エライジャはサラとその兄弟ジョン・オバノンと共に500マイル以上西のケンタッキー州に移り住み、現在ウッドフォード郡ヴァーセイルズとして知られる地域に居を構え、町のコートハウスの裏手のビッグ・スプリング近くに最初の小さな蒸溜所を建てました。1780年頃からエライジャはヴァージニアで蒸溜業を始めていたとする説もありました。農業と蒸溜が不可分のファーム・ディスティラーだったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、エライジャは一旦バーボン・カウンティに移って数年間を過ごしたらしい。バーボン・カウンティの納税記録と1810年の国勢調査によると、ウッドフォード・カウンティに戻る前の3年間はバーボン・カウンティに住んでいたのとこと。その後ウッドフォード郡に再び戻り、1812年までにヴァーセイルズのグレンズ・クリーク沿いの200エーカーの土地に新しい蒸溜所をオープン。この土地の明確な所有権が確立されたのは1821年のことで、証書が記録されたのはその翌年だったそう。彼がこの場所を選んだのは、敷地内を支流が流れ、小川のほとりに3つの清らかな泉が湧き出していたからでした。そこには農場とグリストミルもあり、彼らはその水を穀物を粉砕する動力源、発酵や蒸溜のようなウィスキー造りのためだけでなく、冷蔵用に使ったり新鮮な飲料水としても家畜のためにも利用しました。当時は正に「農場から蒸溜まで」の操業だったのです。近隣のケンタッキー州の農家は連邦税が課されたため蒸溜を断念せざるを得ませんでしたが、エライジャには資金力があったようで、彼らの穀物を買い取り、合法的にウィスキーに仕上げたと言います。またエライジャはこの土地の蒸溜所と周辺の農場を見下ろす丘の上に、外壁に巨大な石灰岩の煙突を備えた2階建てのログ・ハウスを建て家族を住まわせました(*)。当初のペッパー入植地で唯一残ったこの家は、その後の住人たちによって増築され使われました。エライジャとサラは、少なくとも3人の息子と4人の娘の両親だったとも、4男3女の7人の子供がいたとも、或いは8人の子供を儲けたともされ、その場合はプレスリー、オスカー、エリザベス、サミュエル、ナンシー、アマンダ、ウィリアム、マチルダだったと思われます。ペッパー家は奴隷の所有者であり、1810年の国勢調査の記録によると一家には9人の奴隷黒人がおり、所有地の繁栄に伴ってその後の10年間で奴隷は12人(男7人、女5人)に増えました。畑仕事をする人手が増えたためか、エライジャは所有地を350エーカーまで拡大したとか。更に、1830年の国勢調査では13人の男と12人の女を奴隷として雇っていたとされ、ペッパー農場の成功を裏付けていると目されます。 エライジャはかなりの富をもっていたようで、彼が亡くなった時の目録には、蒸溜所のカッパー・ケトル・スティル6基、マッシュ・タブ74個、多数の樽、熟成ウィスキー41樽(1560ガロン相当)があり、家畜は22頭の馬、113頭の豚、125頭の羊と子羊、30頭以上の牛を数え、その他にも農業や木材加工に使用する道具も多数所有していました。エライジャ・ペッパーは1831年2月23日(または3月20日前という説もある)に死去。彼は亡くなるまで蒸溜所を経営し、生前に遺言を作成しました。子供達に家財を少しと奴隷一人づつを贈与し、最愛の妻サラには蒸溜所と奴隷を含む殆どの財産を残しました。キャプテン・ウィリアム・オバノンとナンシー・アンナ・ネヴィルの娘であるサラ・エリザベス・オバノンは、南北戦争の名将でジョージ・ワシントンの個人的な友人でもあったヴァージニアのジョン・ネヴィル将軍の姪でした。ネヴィル家はヴァージニアの裕福な貴族であり、ペッパー家を経済的に援助していた可能性をジャック・サリヴァンは指摘していました。エライジャは広大な農場と関連事業の管理をサラに任せていたようで、財産目録によれば彼女はスティルやタブ等を含む農場や蒸溜所の設備の購入を監督していたり、ペッパー邸を飾ったであろうカーペット、銀製品、その他の高価な調度品の購入も彼女が担当したと推測されます。国家歴史登録財に登録するためにこの土地を調査した歴史家の推定では、エライジャの死後、1831年から1838年までの約7年間、サラは蒸溜所やウィスキー販売を含む家業の管理を担当していたそうです。そして、サラは蒸溜所を受け継いだものの経営にはあまり関心がなかったのか、或いは高齢のための隠居なのか、1838年に自分のインタレストを長男のオスカー・ペッパーに売却しました。

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今回飲んだオールド・オスカー・ペッパー(O.O.P.)のブランド名の由来となっているオスカー・ネヴィル・ペッパーは、1809年10月12日木曜日に生まれました。幼い時のことはよく分かりませんが、彼は父親が創業した比較的小規模なウイスキー事業を引き継ぎ、新たなレヴェルに成長させたことで知られています。蒸溜所の丸太造りから石造りへの転換と小川の西側への移転は、1838年までにオスカーの所有下で行われました。そのため1838年はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の創業の年となり、O.O.P.ブランドの起源となりました。但し、1840年の国勢調査ではオスカーの職業はファーマーだったそうで、農場と蒸溜所は兼業であり、農業の方でよりお金を稼いでいたのかも知れません。オスカーは母の死後(サラの死去は1848年説と1851年説がありました)、母の土地を分割した兄弟姉妹のシェアを取得したことが譲渡証書や遺言によって示されているそうです。彼はプランテーションを所有している間に敷地内の大規模な改修を始め、父親が製粉と蒸溜業を営んでいた丸太造りの建物を石造りの建物に建て替え、住居も大きく増築しました。1850年の国勢調査には、トーマス・メイホールというアイルランド出身の石工が一家と同居していたという記録が残っているとか。
ペッパー家のファミリー・ビジネスに大きく貢献したのはドクター・ジェイムズ・クロウでした。オスカーは彼を今で言う蒸溜所のマスター・ディスティラーとして雇用しました。クロウはサワーマッシュ・ファーメンテーションや木製バレルでの熟成プロセスを改良/体系化することで、バーボン造りのプロセスに科学的な要素を加えた人物として評価されています。ジェームズ・クリストファー・クロウはスコットランドのインヴァネスに生まれ、エディンバラ大学で化学と医学を学び、アメリカに移住しました。最初はペンシルヴェニア州フィラデルフィアに定住し、短期間滞在した後、ケンタッキー州に移るとグレンズ・クリーク周辺の蒸溜所で働き始めました。彼は学んだ科学的知識を蒸溜に活かし、リトマス試験紙でマッシュの酸度を測ったり、糖度計で糖度を測ったりしました。バーボンの製造に於いて殊更取り上げられる有名なサワーマッシュ製法はクロウが考案したのではありませんでしたが、科学の知識を応用して完成させました。サワーマッシュは、前回のバッチのマッシュから残ったバックセットの一部を取り出し、現在のマッシュの中に含めることで、発酵を促進し、悪い菌の繁殖を防ぐのに役立ちます。1833年にはオスカー・ペッパーがクロウに助言を求めたとされており、クロウはその時期にグレンズ・クリーク沿いの他の蒸溜所で働きながらペッパーズの蒸溜所を手伝っていたようです。クロウの専門知識が齎す商業的利益の可能性に気付いたオスカーは、彼と協力してペッパー農場の小さな丸太造りの蒸溜所を1日あたり1もしくは1.5ブッシェル程度から25ブッシェルの蒸溜所にアップグレードしました。クロウは1ブッシェルの穀物から2.5ガロン以上のウィスキーを造ってはならないと主張したとされます。この蒸溜所で伝説的なオールド・クロウ・ブランドは誕生し、蒸溜され、その後多くのバーボン消費者に大人気となりました。クロウはキャリアの殆どの期間をペッパーの蒸溜職人として過ごし、他の蒸溜所で働いたのは少しの期間だったと思われます。彼は1833年頃から1855年までペッパー家のために働きましたが、1837年から1838年に掛けてグレンズ・クリーク農場の敷地は建設工事で占拠され、1838年から1840年に掛けては深刻な旱魃が農業生産に影響を及ぼしたため、この間クロウはオスカーの蒸溜所で働いていなかったようです。新しいカッパー・ポット・スティルとフレーク・スタンド(蒸溜器のワームを冷却する容器)が設置され、マッシング・タブ、ファーメンター、スティーム・エンジンが製造開始の準備を整える他、建設工事による多額の資本支出には上述のトーマス・メイホールの雇用も含まれ、彼は地元の石灰岩から大きな石造りの蒸溜所、貯水槽、製粉所、倉庫などの施設を建設しました。1838年の春から1840年の冬に掛けての旱魃はケンタッキー地方の大半に壊滅的な打撃を与え、作物の不作と蒸溜用の水不足を齎したと言います。蒸溜には水が不可欠で、1ガロンのウィスキーを造るには、マッシング、コンデンシング、クリーニングに60ガロン以上の水が必要でした。クロウがオスカーの蒸溜所に復帰したのは1840年のシーズンになってからのこと。建設が完了するとクロウは家族を連れて新しいペッパー蒸溜所から200ヤード上にある家に移り住んだそうです。また、彼は蒸溜所の年間ウィスキー生産量の8分の1(または10分の1という説も)を支払いとして交渉したと言います。これは農家の穀物を挽くための報酬として製粉業者が受け取る金額とほぼ同じでした。年間生産量は季節によって変動しますが、1840年代後半には年間生産量は約650バレル(20000プルーフ・ガロン)となり、樽からの蒸発や浸透、卸売価格の変動、ディーラーへの年間販売量を考慮すると、クロウの報酬はおそらく年間500ドルから1000ドルと高額、彼の生産契約の途中である1848年の都市部の職人の平均年収は550ドル、ケンタッキー州の農場労働者の年収は120ドルだったので、クロウはケンタッキー州の田舎の基準から見て非常に快適な生活水準を誇っていた、とウィスキーの歴史家クリス・ミドルトンはクロウ研究の中で述べています。雇い主のオスカーはウィスキーの取り分、家畜の販売、余剰穀物生産、亜麻と麻の栽培などでかなりの収入を得ており、1860年、政府は彼の土地と資産を67500ドルと評価し、これは2020年の価値で2100万ドル相当でした。この蒸溜所で販売されていた主力ブランドはオスカー・ペッパー・ウィスキーとクロウ・ウィスキーだと思いますが、3年以上保管されたウィスキーは「オールド」が共通して付され、おそらくどちらも同じクオリティだったでしょう。とは言えクロウ・ウィスキーの評判は流通量の多かったオスカー・ペッパー・ブランドよりも高かったそうです。クロウ自身の名を冠したウィスキーは軈て「オールド・クロウ」として知られるようになり、他の汎ゆるバーボンの評価基準となりました。オールド・クロウは1800年代半ばまでに高級ウィスキーのシンボルになり、殆どのウィスキーが1ガロン当たり15セントで販売されていたのに対し、クロウのウィスキーは25セントで販売されていたとか。クロウはペッパーの蒸溜所で15年間働いた後、1855年の秋にそこを去りました。また、サム・K・セシルの著作によると、オスカー・ペッパーは1860年にグレンズ・クリークから数マイル下流のミルヴィルにオールド・クロウ(RD No.106)という別の蒸溜所を建設し、そこでオールド・クロウ・ブランドを製造した、とのこと(**)。
オスカー・ペッパーの私生活面では、彼は1845年6月にウッドフォード郡で生まれ育ったナンシー・アン(もしくはアネットとも)・"ナニー"・エドワーズと結婚しました。それ以前に、キャサリンというゲインズ家出身の妻を1839年に亡くしているとの記述も見ましたが、系図サイトや墓所サイトにはその件は触れられてなく、私にはよく分かりません。ナニーは結婚当時18歳で、夫より17歳ほど年下でした。彼女の父ジェイムズ・エドワーズはグレンズ・クリークに隣接する農場を所有していたらしい。オスカーとナニーの間には7人の子供がおり、おそらく生年の順で以下のようになるかと思われます。
エイダ・B・ペッパー(1847-1927)
ジェームズ・エドワード・ペッパー(1850 - 1906)
オスカー・ネヴィル・ペッパーJr.(1852 - 1899)
トーマス・エドワード・ペッパー(1854 - 1933)
メアリー・ベル・ペッパー(1859 - 1913)
ディキシー・ペッパー(1860 - 1950)
プレスリー・オバノン・ペッパー(1863 - 1871)
メアリーの生年を1861年としているものもありましたが、詳細は不明です。それは兎も角、子宝にも恵まれたオスカーのリーダーシップによって農場と蒸溜所は繁栄し、1860年の国勢調査によると不動産の評価額は31600ドル(現在の約770000ドル相当)で、贅沢品を含む個人資産は36000ドルだったとされています。彼の財産には12人の男と11人の女の奴隷も含まれており、そのうちの何人かはエライジャから受け継いでいたのでしょう。彼らは家財目録に記載されている総額約22000ドル近くの作物や牛の世話をしていたと考えられています。蒸溜の作業もこなしていたかは分かりません。1859年には2人の女性奴隷が8月にマリアという女の子とウィリーという男の子を出産しており、父親はオスカーのようです。蒸溜所は1865年までオスカーの管理下で運営されました。その年の6月にオスカー・ネヴィル・ペッパーは56歳で死去し、墓前で家族や友人たちに弔われながら、フェイエット郡のレキシントン墓地に埋葬されました(オスカーの死を1864年や1867年としている説もある)。彼の死後に出された資産目録には、バーボンの製造を物語るカッパー・スティルとボイラー、400バレルのコーン、400ブッシェルのライ、40ブッシェルのバーリー・モルト、30ブッシェルのバーリーなどがあり、アルコールの目録には1ガロン40セントと80セントの価格で120ガロンのウィスキーが記載されていたそうです。ペッパーの所有していた829エーカーの土地での畜産は別の事業と目され、農場では21頭の馬と雌馬、7頭のラバ、25頭の乳牛、30頭の当歳牛と去勢牛、56頭の羊、100頭以上の豚を飼育していました。家庭内にはピアノ、「冷蔵庫」、法律書などがあったそうで豊かな暮らしぶりを想像させます。オスカーが死去した際、管財人による売却の新聞広告には、彼の個人資産として「非常に古いクロウ・ウィスキーの少数のバレルがあり、良質な飲酒の最後のチャンスである」と記されていたらしい。

オスカー・ペッパーは父のエライジャと違って遺書もなく7人の子供と農場と蒸溜所ビジネスを妻に残して亡くなりました。1869年に行われたオスカーの遺産相続の裁判所による調停では、彼の所有地829エーカーが7人の子供達のために7つの不平等な土地に分割されました。これにより末っ子でまだ7歳だったプレスリー・オバノン・ペッパーが160エーカーの土地、蒸溜所、グリスト・ミル、家族の住居を含む最大の分け前を受け取りました。オバノン・ペッパーはまだ幼く、更にその後の14年間は未成年であるため、自動的に母親のナニー(1827-1899)が後見人となり、経済的に生産性の高い財産の殆ど全てがペッパー夫人の手に委ねられます。これはナニー・ペッパーを養うための裁判所の配慮でした。ナニーはまだ比較的若かったものの、義理の母サラのようには自分で蒸溜所を経営する気はなかったようです。南北戦争終結後、ペッパー家の奴隷は全ていなくなっていました。彼女はプレスリー・オバノンの財産の後見人として、直ちにケンタッキー州フランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにこの土地をリースしました(***)。この契約によって同社は蒸溜所とその全ての設備、ディスティラーズ・ハウス、2つのストーン・ウェアハウスを管理することになりました。この2年間の契約にはグリスト・ミルや豚にスペント・マッシュ(使用済みのマッシュ)を与えるペン(囲い)も含まれています。同社は1866年にウィスキーの製造と販売を目的として設立され、彼らのビジネス・パートナーはエドムンド・ヘインズ・テイラー・ジュニアでした。社名の「&Co.」の部分は彼のことに他ならないでしょう。社名になっているW・H・ゲインズは近くのグラッシー・スプリングス・ロードに住んでいましたが、他のパートナーズはフランクフォートの住人でした。根拠はないものの尤もらしい噂によると、ゲインズ, ベリー&カンパニーが1866年に最初に買収したのは故オスカー・ペッパーからのウィスキー在庫100樽だったとのことです。それは兎も角、こうして1870年1月1日、ペッパー蒸溜所は初めてペッパー家以外のバーボン生産企業として機能しました(****)。それでも、1850年5月18日土曜日に生まれたオスカーとナニーの長男ジェイムズは父の死の当時15歳でしたが、ゲインズ, ベリー&カンパニーによって蒸溜所の運営に何かしら携わることになったようで、1870年の国勢調査では20歳のジェイムズ・ペッパーが蒸溜所のマネージャーとして記載されていたそうです。伝説的なカーネル・E・H・テイラー・ジュニアは当時すでに酒類業界で成功しており、ペッパー家の良き友人だったようで、オスカー・ペッパーの遺言執行者の一人であり、蒸溜所を所有するには若過ぎるジェイムズ・E・ペッパーの後見人ともなり、彼が21歳になるまで蒸溜所を経営したと云う説も見かけました。
「オールド・クロウ」は、ドクター・ジェイムズ・クロウには存命の相続人がいなかったため、ゲインズ, ベリー&カンパニーは問題なくブランドを独占することができました。同社はペッパーの所有地に「オールド・クロウ蒸溜所」の名を添え、オールド・クロウを彼らのフラッグシップ・ブランドとしました。伝えられるところによると、彼らはこのブランドを守り続けるため、ドクター・クロウと全く同じ方法でウィスキーを造ることを決意し、クロウが存命中に蒸溜していた古い蒸溜所を借り受け、クロウの下で技術を学んでその製法を伝授されたウィリアム・F・ミッチェルをディスティラーとして雇用した、とされています。一方、ジェイムズにはオールド・オスカー・ペッパーのブランドが残されることになりました。
野心的なテイラーに唆されたのか、或いは母親の脇役でいることに飽き飽きしたのか、ジェイムズ・ペッパーは1872年10月期の巡回裁判所に於いて、1869年に弟のオバノンに割り当てられていた蒸溜所用地の権利を求め、母親のナニー・ペッパーを相手取って訴訟を起こしました。ジェイムズは勝訴し、土地区画図に「Old Crow Distillery, Mill, Old Crow House」と記された小川の両岸33エーカーと小川の東側の2つの泉を手に入れます。とは言え、そのせいで深刻な母子間の不和は起きなかったようです。ジェイムズは経営権を握った2年後、ゲインズ, ベリー&カンパニーと決別したカーネル・テイラーと手を組み、二人は工場の改良と操業の拡大を図りました。カーネル・テイラーは蒸溜所拡張のための資金確保に尽力し、純利益の2分の1と投資額相当の補償を受けるという契約を締結して、プロパティに25000ドルを投資しました。市場でのウィスキーの売れ行きは好調で、ビジネスは順調でした。嘗てペッパー蒸溜所だった通称「オールド・クロウ蒸溜所」と呼ばれる場所で生産されたテイラーのバーボンはそのバレリング・テクニックで人気を博し珍重されました。1870年代、州都フランクフォートとそのすぐ南に位置するウッドフォード・カウンティで州内最大のバーボン生産が行われ、E・H・テイラー・ジュニアの「家」は世界に模範的なウィスキー・バレルを提供していると一般的に理解されていました。しかし、1877年に不況が国を襲います。アメリカの歴史の中でも最も議論を呼び白熱したと言われる、1876年11月7日に行われた大統領選挙は経済の混乱を引き起こしました。民主党候補のサミュエル・J・ティルデンが一般投票で勝利し、共和党候補のラザフォード・B・ヘイズが選挙人団で勝利します。そのため南部では大規模な抗議運動が起こり、再び内戦が勃発する恐れがありましたが、リコンストラクションの終結を約束したヘイズの勝利を認めることで決着します。しかし、それは市場に不安を齎し、1877年の恐慌を引き起こしました。そこにウィスキーの過剰生産も重なり、この不況は蒸溜酒業界に大きな影響を与えました。ジェイムズは深刻な財政難に陥り、カーネル・テイラーに支払うべきお金の余裕がなく、1877年に破産宣告を受けます。蒸溜所はカーネル・テイラーに没収され、彼はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の単独所有者となりました。ところが当のカーネル・テイラーも他の蒸溜所を経営したり様々なウィスキー事業を行っており、間もなく自身の財政破綻に見舞われます。カーネル・テイラーは1870年にフランクフォートの蒸溜所を購入し、借金してオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)に改築していました。そしてまた、上述したように、同時期にペッパー蒸溜所にも資金を貸し設備を改善していました。資金繰りは厳しく、カーネル・テイラーは借金を返すのに必死でした。彼は同じロットのバレルを2人の異なる購入者に販売し、それが財政的、法的問題に発展したこともあったそうです。借金が余りに高額だったため、彼は債務者から逃れるために南米への移住を考えたほどでした。そこで大口債権者であったセントルイスのグレゴリー, スタッグ&カンパニーが彼を救済し、1878年、カーネル・テイラーの二つの蒸溜所はジョージ・T・スタッグに譲渡されました。同年、スタッグはO.F.C.蒸溜所の土地を増やすために、すぐにペッパー蒸溜所の33エーカーをレオポルド・ラブローとジェイムズ・H・グラハムに売却しました。ラブロー&グラハムは、ナショナル・プロヒビションの到来を経て、その後も含めると62年間この蒸溜所を所有し操業することになります。こうしてジェイムズ・ペッパーは廃業に追い込まれ、ジャック・サリヴァンの言葉を借りれば「エライジャによって設立され、サラによって育てられ、オスカーによって拡張され、ナニーによって保護され、ジェイムズによって失われたこの土地を、ペッパーの一族が再び所有することはありませんでした」。しかし、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所は他人の手に渡ったものの、ジェイムズは後にレキシントンに自身の蒸溜所を設立し、ペッパー家の名前は長年に渡って取引で使われて行きます(後述)。

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(1883年のオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所)
ラブロー&グラハムという名前は、設立されたパートナーシップに由来します。レオポルド・ラブローは1847年(またはそれ以前)にフランスで生まれ、母国のワイン生産地で育ち、渡米時にはワイン商(またはワイン醸造家としての経歴を持つとの説も)の経験があったと言われています。国勢調査のデータでは、移住年は1865年、彼が32歳頃のことでした。パスポートの記述によると、彼は身長5フィート7インチ(約173cm)で、肌は浅黒く、目は灰色、鼻は鷲鼻だったとか。ラブローは、アラベラ・スコット・デイヴィスとシルヴェスター・ウェルチの娘であるルイーサ・ウェルチというフランクフォートの女性と結婚しました。もしかするとそれを機会にケンタッキー州に定住したのかも知れません。ルイーサの父親はチーフ・エンジニアとしてケンタッキー・リヴァーの閘門建設を計画/監督し、ウィスキーの出荷を含む地元産品の水上輸送を改善したと言います。夫妻の間には1876年にアーマという娘が生まれました。彼は、先ずはフランクフォートのハーミテッジ蒸溜所で働き、その後シンシナティで叔父と共に酒類卸売業に携わるようになったそうです。一方の、アイルランド系のジェイムズ・ハイラム・グラハム(1842-1912)は、ルイヴィルで大工、建設業者、製材所経営者として成功したウィリアム・グラハムとエスター・クリストファー・グラハムの息子として生まれました。蒸溜所を購入する前は運送業を営んでいたとされ、おそらくは相当に成功したフランクフォートの実業家だったのでしょう。オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を買収すると、土地の権利の半分はラブローに直ちに売却されました。ラブローとグラハムが出会った経緯はよく分かりませんが、1878年までには二人はケンタッキー・ウィスキー・マンとして認められるようになっていたようです。グラハムはプラント・マネージャーとなり、ラブローは卸売と小売販売を担当したとされます。保険引受人の資料では彼らのプラントはフランクフォートの南東9マイルにありました。石造りで屋根は金属もしくはスレート。敷地内には穀物倉庫や4つのボンデッド・ウェアハウスがあり、全て石造りで屋根は金属かスレート。ウェアハウスNo.1は蒸溜所から100フィート北にあり、この倉庫の一部は「フリー」でした(つまり一部はボンデッド・ウィスキーではなかった)。ウェアハウスNo.2のBはウェアハウスAに隣接し、スティルの北東100フィートにあり、ウェアハウスNo.3のCは蒸溜所から南へ104フィート、ウェアハウスNo.4のDは南へ285フィート。おそらくペッパーの時代からどれも引き継いだものでしょう。そして、彼らはオールド・オスカー・ペッパーを唯一のブランドとして生産したと伝えられます。
ラブロー&グラハムは、頻繁なパートナーシップの変化にも拘らず、その社名を継続してビジネスを行うことで伝統を維持し、誠実さを伝えました。1899年、グラハムは引退することになり、インタレストの半分をラブローに売却します。翌年、ジェイムズ・グラハムは死去。その後J・M・ヴェンダーヴィアーがグラハムの後を継ぎますが、名前はラブロー&グラハムのままでしたし、施設も引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られました。大切なパートナーを失ったもののラブローは歩みを止めず、このフランス人のリーダーシップの下、蒸溜所は発展を続けました。スタッフは著しく増加し、年月を重ねるごとに蒸溜所は改良され、拡張されて行ったそうです。長年に渡ってオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の経営を指揮したレオポルド・ラブローは60代の後半に心臓病を患い、1911年に死去しました。死亡診断書に記された死因は肺水腫だったとのこと。未亡人のルイーサをはじめとする家族が墓前で弔う中、ラブローはフランクフォート・セメタリーに埋葬されました。余談ですが、ラブロー家の子孫の方によると、このファミリーは著名な細菌学者のルイ・パスツールと古くから縁があり、ルイがレオポルドにフランス・ワインを売るためにアメリカに来るよう勧めたと家族内では伝承されていたそうです。ラブローの死が大規模な再編成の引き金となったのか、会社は1915年にリパブリック・ディストリビューティング・カンパニーのD・K・ワイスコフ、E・H・テイラー・ジュニアの従兄弟でラブローの娘アーマの夫リチャード・アレグザンダー・ベイカー、T・W・ハインド、カール・ワイツェルから成る新会社ラブロー&グラハム・インコーポレイテッドに引き継がれました。ケンタッキー出身のベイカーはラブロー&グラハムの名を残しながら蒸溜所の日常業務を担当していたそう。1895年から禁酒法施行までの間に、ラブロー&グラハムのオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所に施された実質的な建築的改良は、コーンハウスの取り壊しとウェアハウスCとDの小川側に貯蔵小屋を建てたことでした。これにより穀物の搬入とバレルの搬出のための鉄道の分岐器を設置するスペースが確保され、ケンタッキー・ハイランド鉄道は1911年までにラブロー&グラハムに到着し、穀物を敷地内に運び込み、バーボンを市場に出荷していたそうです。
蒸溜所の所有者が変わった1870年代、ペッパー邸もまた所有者が変わりました。ナニー・ペッパーは未婚の子供達とこの家に住み続けていましたが、1873年に息子のプレスリー・オバノンが10歳の若さで亡くなっています。彼はペッパー邸のある蒸溜所の東126エーカーを所有していました。この土地はオスカー・ネヴィル・ペッパーの相続地に隣接していました。おそらくこれらの土地が近かったため、オスカー・ネヴィル・ジュニアは兄弟の126エーカーの土地と邸宅を取得したものと思われます。その後、彼は1882年に同じ土地をファントリー・ジョンソンに売却しました。続いて1884年には、ジョンソンは住居と75エーカーをアリスとジェイムズ・ゴインズに売却します。ゴインズ氏はラブロー&グラハム蒸溜所のヘッド・ディスティラーでした。彼はオスカーやジェイムズのように玄関ポーチから敷地を眺めることも、丘から石灰岩の階段を下りて小川を渡り蒸溜所まで直接行くことも出来たとか。ゴインズ家は1906年までペッパー邸を所有し、そこで12人の子供を育て、 おそらく東棟の床下空間と南側のファサードのサイド・ポーチの上に2部屋を増築したのは彼らだろうと推測されています。1906年、ペッパー邸をリチャード・ホーキンスとメイミー・ホーキンス夫妻が購入しました。夫妻は蒸溜所とは何の関係もなかったようで、タバコとコーンの耕作を続け、果樹園も所有していたそうです。小川を見下ろす西棟の2階は彼らがオウナーの時代に増築したものと推測されています。1918年にホーキンス夫妻は住居と土地をリチャードとアーマのベイカー夫妻とジーンとミルドレッドのウィルソン夫妻に売却しました。こうしてペッパー邸は蒸溜所のオウナーの1人が部分的に所有することになりました。ベイカー夫妻が亡くなった後は、1977年までウィルソン家の所有でした。

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(1879年頃のJ. E. Pepper)
一方、倒産し家業の蒸溜所を失ったジェイムズ・E・ペッパーはあっという間に立ち直っていました。南北戦争終結後にヘッドリー&ファラ・カンパニーがレキシントンのオールド・フランクフォート・パイク(現在のマンチェスター・ストリート)に蒸溜所を設立していましたが、ジェイムズとパートナーのジョージ・A・スタークウェザーは2万5000ドルを調達して、1879年にはこの土地を取得し、火災で以前の建物が焼失していたため新しい蒸溜所を建設しました。ジェイムズ・ペッパーは、蒸溜所と設備のレイアウトをデザインし、建設の監督を担当し、この事業をジェイムズ・E・ペッパー・ディスティリング・カンパニーと呼びました。
ラブロー&グラハムの施設は引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られていましたが、レキシントンに自分の蒸溜所を設立したジェイムズ・ペッパーは、父の名前とジェイムズ・クロウ博士が築き上げた絶大な名声に基づいて商売を続けようと考えたのか、自分だけが「ペッパー」の名前を使うべきだと考えたのか、蒸溜所の操業開始後すぐの1880年10月、フレンチ・ワイン・プロデューサーのレオポルド・ラブローとケンタッキーの実業家ジェイムズ・H・グラハムのパートナーシップを相手取って、破産で失ったものの一部を取り戻すために連邦裁判所に訴訟を起こします。この件はケンタッキー・ウィスキーに係る商標訴訟でした。ちなみにこの連邦訴訟は、アメリカの司法史上に於ける非常に初期のものであり、合衆国最高裁判所判事はまだ国中の「巡回裁判所」の責任を負っていました。この訴訟を担当したのは、1881年5月12日から1889年に死去するまで合衆国最高裁判所判事を務めたトーマス・スタンリー・マシューズ判事でした。マシューズ判事はシンシナティ出身で、彼がユニオン・アーミーのオハイオ歩兵第23部隊のルーテナント・カーネルとして勤務していた当時カーネルだった嘗てのテント仲間のラザフォード・B・ヘイズ大統領によって最高裁判所判事に指名されました。しかし、この任命は承認されませんでした。上院は、ヘイズとマシューズがケニオン大学の同級生であり、シンシナティで弁護士として活動し、州歩兵隊の将校を務めていたことから、ヘイズを縁故主義で非難したのです。上院がマシューズ判事を承認したのはジェイムズ・A・ガーフィールド大統領が彼を再指名してからであり、この件は1881年に投票にかけられ、その時でさえマシューズは24対23の投票によって承認されたに過ぎませんでした。
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オスカー・ペッパーの死後、ジェイムズ・ペッパーが引き継いだ蒸溜所で製造したウィスキーのバレルには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。ハンドメイド・サワーマッシュ。ジェイムズ・E・ペッパー、プロプライエター。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー。」という商標が焼き付けられました。彼はまた「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」という名前と「O.O.P. 」という用語を使ってマーケティングを行い、1877年に商標登録しました。間もなくジェイムズ・ペッパーは破産し、蒸溜所とその設備一式を含む資産を被告のラブロー&グラハムに売却した後、新たな場所でウィスキーの製造を開始します。被告らはウィスキーの樽にペッパーが使用していたものと同じようなマークを使い始めました。そこには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。創業1838年。ハンドメイド・サワーマッシュ。ラブロー&グラハム、プロプライエターズ。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー」とありました。ペッパーはラブロー&グラハムを、彼らの劣悪なウィスキーがペッパー・ウィスキーと同じであると大衆を欺く目的で商標を侵害したと主張し提訴しました。ジェイムズ・ペッパーは、自身の所有権を証明する明確なマークをバレルに焼印していたという証拠を挙げ、ペッパーの弁護士は同じマークを彼のウィスキーに関するレターヘッズ、ビルヘッズやその他のビジネス用品により小さなサイズで印刷して使用していたと証言しました。ラブロー&グラハムが使用している類似のマークは、本物を求める顧客を獲得するための「不法かつ詐欺的なデザイン」であり、「オールド・オスカー・ペッパー」はジェイムズ・ペッパーが製造したものだけだ、と。彼らはラブロー&グラハムに対し、差し止めと損害賠償を求めたと言います。弁護士であり、法廷闘争から辿るバーボンやアメリカの歴史を本やブログで執筆しているブライアン・ハーラによると、オスカー・ペッパーがずっと以前に蒸溜所を所有していたにも拘らずジェイムズ・ペッパーは「オールド・オスカー・ペッパー」が1874年まで使われていなかったと主張したそうです。そこで、オスカー・ペッパーが蒸溜所を操業していた1838年から1865年までの間、既に「オスカー・ペッパー蒸溜所」として一般に知られていたことを証明する証拠が法廷に提出されました。更に言えば、ジェイムズ・クロウ博士と彼のバーボンの名声から蒸溜所は「オールド・クロウ蒸溜所」とも呼ばれ、博士が1856年に死去した後も、オスカー・ペッパーが1865年に死去した後もこの名称は使われ続け、ゲインズ, ベリー&カンパニーでさえ「オスカー・ペッパーのオールド・クロウ蒸溜所の借主」として売り出していました。フランクフォートの共同経営者達はペッパーの訴状に対する答弁書で、自分達のウィスキーはペッパー家がウッドフォード・カウンティに設立したオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の製品であり、蒸溜所が「全ての付属設備と備品と共に」彼らに売却され、その所有権によってオールド・オスカー・ペッパーの名でウィスキーを製造/販売する権利が付与されていると指摘し、寧ろ原告が新たな「他所で製造されたウィスキーにこのブランドを使用することは公衆に対する詐欺行為に当たる」と主張して反訴しました。紛争の核心は、問題の名称が何を意味するのかという点に於ける両当事者の意見の相違でした。ジェイムズ・ペッパーは自社が製造するウィスキーを他のブランドと区別するためにこの名称を使用し、その名のもとで優れた評判を得ているとする一方、ラブロー&グラハムはこの名称はウィスキーを製造する場所を指しており、そこは現在彼らが所有している場所であって、製品そのものを指すものではないとする訳です。マシューズ判事は言葉の平易な意味を指摘した上で、原告がオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していた時代に使用していたマーケティングがウィスキーの製造された場所に大きく焦点を当てていたことに依拠しました。ジェイムズ・ペッパーは自社のバーボンを下のように宣伝していました。
私の父、故オスカー・ペッパーの旧蒸溜所(現在は私が所有)を徹底的に整備した結果、私はこの国の一流商人らに、ハンドメイドのサワー・マッシュで、完璧な卓越性を誇るピュア・カッパー・ウィスキーを提供することになった。私の父が造ったウィスキーが名声を得たのは、優良な水(非常に上質な湧き水)と、隣接する農場で自ら栽培した穀物、そしてジェイムズ・クロウが製造工程を見守り、彼の死後はディスティラーのウィリアム・F・ミッチェルに受け継がれた製法によるものである。私は現在、同じ蒸溜者、同じ水、同じ製法、そして同じ農場で栽培された穀物で蒸溜所を運営している。
では、ジェイムズ・ペッパーの新しいバーボンが、オリジナルの産地から25マイルも離れた場所で蒸溜されている現在、これら諸々の特性の重要性を無視して、彼の父親の旧蒸溜所の名称を使用し続けることが許されるべきでしょうか? 1881年の判決でマシューズ判事は原告の主張には説得力がないと判断しました。判事は「本件の証拠から」して「原告が自社の製品の市場を確立できたのは、その製品が彼の父親が造ったものと同じ地域性、そしてそれらが齎すと考えられる汎ゆる有利性から父親のものと同じに違いないという世間の特別な思い込みに基づいていた」のは「極めて確かである」と記しました。つまり、 消費者はその場所で製造された製品に対して特定の「利点」を期待し、「品質」を信頼し、それらが製品購入の大きな動機付けとなっており、原告は既存のブランド・イメージと場所が持つ信頼性を巧みに利用して市場を確立した、と見られたのです。「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」及び「O.O.P.」という用語は、原告が嘗てウィスキーを製造していた場所と被告が現在ウィスキーを製造している場所を指し、商標ではないと判断したマシューズは、ジェイムズ・ペッパーの訴えを棄却しただけでなく、「商品の製造地に関して虚偽の表示をすることで公衆を誤解させる」という理由でペッパーにはブランド名を使用する権利が全くないとし、被告がこれらの用語に対する独占的な法的権利を有すると判決を下しました。

オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していないため「オールド・オスカー・ペッパー」の名前を使う権利を失ったジェイムズ・ペッパーでしたが、レキシントンに建てた新しい蒸溜所で1880年5月に蒸溜を開始した彼は、新しい盾のトレードマークをデザインした「オールド・ペッパー・ウィスキー」のブランドを大ヒットさせました。このウィスキーは祖父から代々受け継がれてきた独自の製法で蒸溜され、旧家からのマッシュビル、サワー・マッシュ、72時間発酵させたものと言われています。その人気は主にジェイムズ・ペッパーがマーケティングを重視していたことに起因していました。師匠的存在のE・H・テイラー・ジュニアと同様に、彼は当時利用可能な汎ゆるマーケティング・ツールを活用したのです。オールド・ペッパー・ウィスキーの名は当然の如くその家名に由来し、過去100年に渡って一族が築き上げた伝統と遺産を反映させたものでした。ジェイムズはこのイメージを強化するために、 「Established 1780」や「Purest and Best in the World」というスローガンを使用し、歴史の持続性とウィスキーの品質を常に強調しました。実際に彼の祖父エライジャ・ペッパーが蒸溜を始めたのは19世紀初頭のことでしたが、こうしたサバ読みは当時は珍しいことではなく、マーケティング上の策略として功を奏しました。おそらく創業年のスローガンは南北戦争後の愛国心も利用したもので、後に1906〜7年頃から使われ出した「Born With The Republic」や「Old 1776」というスローガンに繋がっているでしょう。そして彼はラベルに「詰め替えボトルにご注意ください」という警告を記載しました。これにより彼のウィスキーが非常に優れているという印象を与え、他のウィスキー・メイカーも真似をしたがるようになったそう。また、ガラス瓶の自動化技術が進み手作業から解放されたことでボトリングが経済的に実現可能になった時、彼はケンタッキー州の法律を改正し、蒸溜業者が自社製品をボトリングできるようにした蒸溜業者の一人でした(それまではレクティファイアーズだけがウィスキーをボトリングする権利をもっていた)。その後、ジェイムズは現在では一般的となった消費者にウィスキーの健全性を保証するための「ストリップ・スタンプ・シール」を発明しました。彼はコルクに貼られた帯状のラベルに「Jas. E. Pepper & Co.」という筆記体の署名を印刷してボトルを封印したのです。そして、ジェイムス・E・ペッパーのウィスキー・ボトルを売っている人に出くわしても、このスタンプがなかったり、スタンプが破れていたり破損していたりする場合は「本物のペッパー・ウィスキーではないかも知れない」ので購入しないよう人々に呼びかける広告を出しました。署名は偽造防止法によって保護されており、商標よりも迅速に執行され、そのため既存の偽造法に基づいて偽造生産者や「ボトル再充填者」を起訴することが出来たとか。彼のこの活動は、ボトルに詰められたウィスキーの純度と同一性を保証する初の消費者保護法である1897年のボトルド・イン・ボンドの成立に貢献したと評価されています。彼はまた、広告や宣伝のために巨額の資金を投じた最初のディスティラーの一人でもありました。 ジェイムズはオールド・ペッパーの販売促進を目的にアメリカ各地を回りました。1880年代後半には、プロイセンのヘンリー王子がペンシルヴェニア・レイルロードで旅行中にオールド・ペッパー・ウィスキーが振る舞われたりしました。この頃のオールド・ペッパー・ウィスキーのブランドはアメリカ全土で強い知名度を確立しています。1890年頃にはオールド・ペッパー・ウィスキーを「結核やマラリアなどに効く万能薬」であると宣伝しました。これは、1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトのような連邦規制が施行される前のことでした。1892年2月にはアームズ・パレス・カー・カンパニーからプライヴェート鉄道車両を10000ドルで購入し、「オールド・ペッパー号」と名付けました。その車両は鮮やかなオレンジ色に塗られ、側面にはオールド・ペッパーのバレルやケースやボトル、サラブレッドの馬やジョッキーがハンド・ペイントされ、車端には「Private Car Old Pepper - Property of James E. Pepper, Distiller of the Famous 60 Old Pepper Whisky」と書かれていました。ジェイムズは常にショウマンであり、プロモーターだったのです。このオールド・ペッパーのブランドは、後年「オールド・ジェイムズ・E・ペッパー」というブランドが導入されたあと、最終的に「ジェイムス・E・ペッパー」バーボンが両方の商品名に取って代わりました。 また、レキシントンの蒸溜所では以前の蒸溜所から受け継いだ「オールド・ヘンリー・クレイ」というライ・ウィスキーのブランドも製造していました。
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ジェイムズ・E・ペッパーはケンタッキー州から贈られる名誉称号の「ケンタッキー・カーネル」でした。彼はスポーツが好きで、特に競馬が好きでした。馬小屋を所有し、ケンタッキー・ダービーやオークスに出走する馬を何頭も持っており、1892年には彼の馬「ミス・ディキシー(妹の名前)」がオークスを制したそうです。カーネル・ペッパーは豪快なライフ・スタイルを送り、ニューヨークの有名なウォルドーフ=アストリアに頻繁に滞在しては、国内の実業家や社交界のエリートたちと親交を深めました。伝説によると、あの有名なオールド・ファッションド・カクテルの人気はカーネル・ペッパーが広めたと言われています。伝説によると、この象徴的で古典的なカクテルは、元々ケンタッキー州ルイヴィルのペンデニス・クラブのバーテンダーが他でもないカーネル・ペッパーのために初めて造り、それをカーネル・ペッパーがウォルドーフ=アストリアのバーに導入した、と。真偽は判りません。オールド・ファッションドの起源には諸説あるようです。蒸溜所の経営を続けていたジェイムズ・エドワード・ペッパーは1906年12月に死去、父や1899年に亡くなったナニーの近くに埋葬されました。彼に子供はいませんでした。彼の妻は蒸溜所の経営に興味がなかったのか、1908年、蒸溜所とブランドはシカゴの投資家グループに売却され、禁酒法により閉鎖されるまで操業されました。禁酒法時代にはシェンリーによりメディシナル・スピリッツとして販売され、彼らは禁酒法終了後にブランドと蒸溜所を買い取ります。しかし、シェンリーの規模が大きくなるにつれ、この蒸溜所は数ある蒸溜所の一つとなり、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは彼らが製造/販売する数十のブランドの一つに過ぎなくなりました。「Born with the Republic」というスローガンも継続されていましたが、軈てブランドの売り上げは低迷し始め、I.W.ハーパーやJ.W.ダントといった主力ブランドよりも会社にとって重要ではなくなって行きます。シェンリーは1950年代前半に過剰生産に陥り、1958年にボンディング期間が20年に延長されたことでようやく破産を免れたに過ぎない状態でした。ジェイムズ・E・ペッパー蒸溜所は1958年に閉鎖され(1960年代初頭に操業を停止し、60年代末までに閉鎖されたという説もあった)、「ジェイムズ・E・ペッパー」ブランドは1960年代には人々の記憶からラベルも忘れ去られ、膨大な倉庫在庫からウィスキーは1970年代には販売され続けましたが、1970年代末までに市場から姿を消しました。1990年代初頭の一時期、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは、1987年にシェンリーを買収したユナイテッド・ディスティラーズによって復活します。 このブランドは1994年、ポーランドと東欧の新興バーボン市場への輸出専用ブランドとなりました。しかし、ユナイテッド・ディスティラーズがアメリカン・ウィスキーのブランドの殆どを他の蒸溜会社に売却したため、ジェイムズ・E・ペッパー・ブランドはすぐに再び消滅してしまいます。そして、時を経た2008年、以前のブランド・オウナーとは無関係の起業家アミル・ピィー(または「アミア」や「ペイ」と発音されることもある)は放棄された商標を取得し、このブランドを再スタートします。カーネル・ペッパーのレキシントンの蒸溜所の歴史や復活したブランドに就いては、また別の機会に譲るとして、話をラブロー&グラハム蒸溜所とO.O.P.に戻しましょう。

禁酒法の施行に伴い、1918年、ラブロー&グラハム蒸溜所は閉鎖を余儀なくされました。1920年のヴォルステッド・アクトの施行から1933年12月の憲法修正第21条の批准による廃止までの13年の歳月、ラブロー&グラハム蒸溜所は空き家となり使用されていませんでした。商品や資材は引き揚げのために売却され、多くの建物は破損し屋根のないまま放置されたそうです。倉庫に保管されていたウィスキーは盗掘や盗難を防ぐために、1922年までに連邦政府の集中倉庫に移されました。禁酒法期間中、酒は医療目的で販売されました。フランクフォート・ディスティラリーがストックのウィスキーを使ってオールド・オスカー・ペッパーをメディシナル・スピリッツとしてボトリングしています。1920年に禁酒法が施行された当時、同社は医療目的の蒸溜酒販売許可を与えられた僅か6社のうちの1社でした。1922年、同社はポール・ジョーンズ社に買収され、彼らはフランクフォート・ディスティラリーの社名を引き継ぎ、「フォアローゼズ」や「アンティーク」など多くのブランド名でウィスキーを販売する許可を保持しました。画像検索で禁酒法下のO.O.P.を眺めてみると、中身の原酒の殆どにラブロー&グラハム(第7区No. 52)が生産したものが使われていましたが、禁酒法期間の後期にはハリー・S・バートン(第2区No. 24)が生産したものが使われたボトルもありました。1928年までに禁酒法以前のウィスキーの在庫が減少すると、フランクフォート・ディスティラリーはルイヴィルに拠点を置くA. Ph. スティッツェル蒸溜所と契約を結び、そこからスピリッツの供給をしました。1933年に禁酒法が廃止されると、彼らはスティッツェルの旧工場を買収し、シャイヴリーに新工場を建設します。これがルイヴィルのフォア・ローゼズ蒸溜所と呼ばれました。第二次世界大戦下の厳しい時期に蒸溜所とブランドはシーグラムに売却されます(1933年にシーグラムが買収という説もあった)。シーグラムはストレート・ウィスキーの製造を中止するまで何年も同じブランドを使い続けたそうなので、フランクフォート・ディスティラリーから引き継いだブランドを販売していたのでしょう。画像検索してみると、オールド・オスカー・ペッパー・ブランドとして、メリーランドのボルティモアと所在地表記のあるバーボンやライのブレンドがありました。その後、おそらく50年代か60年代にはその存在感を失い、軈てブランドのラベルは使われなくなったと思われます。
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(1936年頃の蒸溜所)
偖て、O.O.P.ブランドとは分かたれた蒸溜所には別の途があります。禁酒法が解禁されると、リチャードとアーマのベイカー夫妻、そして新たにマネージング・パートナーとなったクロード・V・ビクスラーは、1933年8月に新たなラブロー&グラハム社を設立し、建物の再建に着手しました。彼らは改修と建設を調和のとれたものにすることに特に注意を払いました。蒸溜所の建物の増築部分や新しい石造り倉庫の基礎部分に、古い倉庫跡の石材を再利用したと言います。この作業の重要性とその達成方法は、再建された他の蒸溜所よりもこの蒸溜所の国家的地位を高めるのに貢献した理由の一つでした。1934年以降の蒸溜所の拡張と再建の全体計画は、既存の建物や資材、そして当時の人件費と技術水準に見合った新しい建設資材を融合させた質の高い工業デザインの好例と評価されています。土地の地形と産業のニーズが調和され、省力化と経済性を追求した工場が実現した、と。コーンや他の穀物が丘の中腹にある貯蔵庫から高架を伝って運ばれたように、新しい倉庫は長いバレル・ランの緩やかな傾斜に沿って建てられました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは全長500フィート以上あり、必要な幅で間隔をあけた2本の平行レールで構成されているため、作業員がバレルを所定の位置に留めなくても移動できるそうです。その複雑さに加え、安全および保険の要件も、新しい建物をどこに建設するかを決める上で役立ったとか。このバレル・ランは、樽にスピリッツを最初に充填するシスタン・ルームからリクーパー・ショップを含む全てのストレージ・ウェアハウスまでの広範な時間節約型のコネクター・システムになりました。2レール・システムによって、2人の作業員が大量のバーボン・バレルを扱い、トラックや他の車輪付き搬送装置から積み下ろしすることなく、或る場所から別の場所へ素早く移動させることが出来るようになりました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは、他の蒸溜所の平均的なそれと比べても優れた搬送システムでした。バレル・ランに加えて、禁酒法廃止後に再建されたラブロー&グラハム蒸溜所で最も重要だったのは、1934年から1940年の間に増築された釉薬の掛かったテラコッタ・タイルの倉庫E、F、Hでした。 禁酒法廃止後に建てられた他の蒸溜所の殆どの倉庫は、木造で金属製の波板で覆われていたことを考えると、珍しい仕様と言えるでしょう。これらの建物は全て4階半建て、長さは様々で、石灰岩の基礎の上に建てられ、エイジングをコントロールするための暖房システムを備えていました。これらはライムストーン・ウェアハウスの構造と形状を模倣していましたが、汎ゆる寸法が大きくなっていたとのこと。これらの倉庫をバレル・ランと組み合わせて川岸に沿って慎重に配置したのは、貯蔵能力を拡大するためでした。テラコッタ構造ユニットの使用は、この時代に国中で採用されていた耐火構造のための一般的でシンプルな建築媒体だそうです。テラコッタ・タイルは更にその他の小規模で機能的な建物にも使用されました。また、ビクスラーは閉鎖前と同じウィスキーを造るために禁酒法時代に冷凍保存されていたラブロー&グラハム独自のイーストを使用したとされています。家族のような従業員達によって生産は再開され、その殆どは地元の出身者であり、中には禁酒法以前に親や祖父母がこの蒸溜所で働いていた人もいたそう。ラブロー&グラハムが生産したブランドには「L. & G.」と「R. A. ベイカー」があったと伝えられます。1939年末から1940年初頭に掛けて、彼らは相当量の4年物のバルク・ウィスキーをディーツヴィルのT・W・サミュエルズ蒸溜所(RD No. 145)に売却しました。こうしてラブロー&グラハムは1940年までに蒸溜所の再建、拡張、生産を行い、ウェアハウスに25673バレルのウィスキーを貯蔵するまでになりましたが、1940年7月にオールド・フォレスターやアーリー・タイムズなどのブランドで知られるブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションに75000ドルで売却されました。この取引には、倉庫で熟成されていたその約25000バレルのバーボン・ウィスキーも含まれていました。ブラウン=フォーマンはその後の約20年間、この蒸溜所をラブロー&グラハムという名前の下に操業を続け、一部のオールド・フォレスターやアーリータイムズもここで生産されたと目されます。また、サム・K・セシルの著作によると、ブラウン=フォーマン社は暫くこの工場を使用して「ケンタッキー・デュー」を製造したそうです(後にルイヴィルで瓶詰め)。

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ブラウン=フォーマンが生産と貯蔵を引き継ぐ一方で、ヨーロッパ戦線に於ける戦争への取り組みが高まる懸念から、戦争を予期して生産を加速する必要性が高まりました。施設の新しいマネージャーは大量生産に対応するには水の供給が不十分なことに気づきます。解決策として、既存の鉄道踏切にコンクリート製のダムと放水路を築き、小川を堰き止めるという計画が立てられました。さっそくブラウン=フォーマンはコンクリート製のダムと放水路、そして鉄製の歩道を完成させると、その結果として小川の両岸の間に2.75エーカーの池が出来ました。この水は蒸溜所の年間生産期間を延長するための安定した供給源となっただけでなく、消火のための備蓄水にもなり、蒸溜所の建築物を映し出す風光明媚な景観の一つともなりました。戦時中から1945年末に掛けてのブラウン=フォーマンの工場拡張は、ディスティラリー・ハウスの増築と小さな新棟を建設して完了しました。1942年には蒸溜所の増築に伴い、建物の南側に3ベイのファサードが追加され、発酵室が併設されました。ライムストーンと拡張されたスタンディング・シーム・メタル・ルーフは全体を一体化するために再び選ばれた素材でした。最後の仕上げは、新しい出入り口の上に既存のミルストーンを組み込み、目立つ場所にこの蒸溜所の100年の歴史を刻むことでした。同じ頃、シスターン・ルームの隣に、消防用具を保管するためのセグメンタル・アーチ型の窓とドアを備えたライムストーン造りの平屋建て6面建造物が建てられたそうです。1945年以降、ブラウン=フォーマンは通常のウィスキーの製造および熟成と貯蔵を続けましたが、ラブロー&グラハムが1934年にこの場所に建設したボトリング・プラントの規模は縮小されました。そして1950年代のバーボン市場の衰退により、1957年に生産は終了します。1965年には貯蔵も廃止されました。1960年代後半に更にバーボン市場が低迷すると工場は閉鎖され、ブラウン=フォーマンは1973年(1972年という説も)に土地を地元農家のフリーマン・ホッケンスミスに譲渡。こうしてブラウン=フォーマンによるこの蒸溜所の管理は終わりを告げ、一旦はその歴史に幕が下ろされました。ホッケンスミスはこの施設を農産物の貯蔵庫として使用し、短期間ながら燃料用アルコールの製造も試みたそうです。工業用アルコール、特にOPECの燃料危機をきっかけに人気を博した「ガソホール」の生産に転換したとのこと。しかし、ホッケンスミスは危機が収束する前に新しい給排水設備を殆ど建設することが出来ず、限られた生産量ではごく僅かな市場しか残せなかったらしい。彼は蒸溜所を閉鎖し、凡そ20年も放置されたままになりました。

時は過ぎて1980年代後半から1990年代初頭、バーボンの需要は復活の兆しを見せ始めました。具体的には限られた量しか生産されない高品質なプレミアム・バーボンの市場が盛り上がりを見せていたのです。各蒸溜所では「スモール・バッチ」や「シングル・バレル」の製品が販売されるようになっていました。ジムビームとケンタッキー・バーボン・ディスティラーズはスモール・バッチ・コレクションを展開し、エイジ・インターナショナルはエンシェント・エイジ蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)からブラントンズを筆頭とする幾つかのシングル・バレルのブランドをリリース、フォアローゼズのブランドはアメリカではブレンデッド・ウィスキーのみだったものの輸出市場にはプレミアムなストレート・バーボンを販売、ワイルドターキーもバレルプルーフやシングルバレルの製品を開発、ヘヴンヒルも市場は限定的だったかも知れませんがプレミアムなボトリングを提供していました。当然ブラウン=フォーマンもプレミアム・バーボンの製造に興味を持ち始め、この市場への参入を必要としていました。そこで彼らはそれを造るための適切な場所を探し、ケンタッキー州内の候補地の調査をします。その結果、検討した場所の中にウッドフォード郡にある嘗てのラブロー&グラハム蒸溜所跡地があり、1994年末、ブラウン=フォーマンはメアリー・アン・ホッケンスミスからこの土地を買い戻しました。彼らの目標は外観を1945年当時の姿に復元し、施設を完全に改修することでした。すぐに始まった修復工事にブラウン=フォーマンは2年近くを費やし、この古いランドマークを修復すると業界で最も美しい場所の一つにまで昇華させました。スコットランドやアイルランドで使われるようなオリジナルのカッパー・スティルを設置し、それを用いたプレミアム・バーボン製造のために内装にも変更を加え、遺産観光を目的とした新しいヴィジター・センターも併設され、その総工費は740万ドルだったと言います。1996年10月17日、蒸溜所は一般見学用にオープンしました。蒸溜所の操業開始直後の1997年、ブラウン=フォーマンは周辺の30エーカーを超える土地(元の住居と東側の丘にある泉を含む)を追加購入したことにより、新たに拡張されます。 オープン当時、施設の名前は旧来と同じく、そのままラブロー&グラハム蒸溜所と呼ばれていましたが、製造される唯一のウィスキーはウッドフォード・リザーヴと呼ばれました。そのため、2003年には正式にウッドフォード・リザーヴ蒸溜所と改称され、現在に至ります。このウィスキーはマスター・ディスティラーのリンカーン・ヘンダーソンと当時のプラントのゼネラル・マネージャーであるデイヴ・ショイリックによって構想/開発されました。1996年に市場に投入され、今も高い人気を誇るウッドフォード・リザーヴに就いては、また別の機会に語ることもあるでしょう。
では、最後に貴重なウィスキーを飲んだ感想を少しだけ。

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O.O.P. Old Oscar Pepper Whiskey BiB 100 Proof
1916 - 1926? or 1928?
経年でストリップの印字がよく読み取れず、たぶん26年か28年のボトリングかと思います。液体の見た目はけっこう濁っていました。けれど香りは悪くないし、全然飲めました。オールドオークと甘草やアニス系統のフレイヴァーですかね。流石にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎてるせいなのか、飲んだ量が少量過ぎるというのもあってか、私にはそれほどフルーティなテイストは取れませんでした。とは言え、これは文句ではなく、これだけの「歴史」を飲めたことに感謝です。
Rating:85.5/100

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L.&G. Bottled in Bond 100 Proof
1938? - 1943?
こちらもO.O.P.と同様、ストリップの印字が滲んでいて数字が判別出来ませんでした。これを飲んだことのあるバーボン仲間にも訊ねたのですが、やはりその方も完全には判読できず、蒸溜年とボトリング年はぼんやりとした数字からの推測です。こちらは液体の見た目はクリア、そしてO.O.P.より甘いキャラメルと少しフルーティなテイストを感じました。こちらも少し酸化し過ぎた風味はあったような気はしますが、オールドボトルを飲み慣れていればそれを陶酔感と表現する人もいるでしょう。
Rating:86.5/100


*200年以上もの間、蒸溜所を見下ろす丘の上に建っていたこの歴史的な建物は、エライジャ・ペッパーとその家族に因みペッパー・ハウスと呼ばれています。グレンズ・クリークの畔の小さな蒸溜所の敷地内に1812年に建てられた後、何世代にも渡ってペッパー家の住まいとなり、ペッパー家の手を離れた後も2003年まで誰かしらがこの家に住み、ペッパー・ハウスはケンタッキー州の歴史上、人が住み続けている最古のログ・キャビンとして知られていました。しかし、ここ20年もの間は空き家となって荒れ果てていました。ブラウン=フォーマンはウッドフォード・リザーヴ蒸溜所のウィスキー・バレル・テイスティング体験の水準を引き上げるため、ペッパー・ハウスの修復と改修をジョセフ&ジョセフ・アーキテクトに依頼して、この家を2024年の夏にウッドフォード・リザーヴのパーソナル・セレクション・プライヴェート・バレル・プログラムの新しい拠点として使用することに決めました。オリジナルの外部の石灰岩の煙突はゲストを迎えるために再建されたポーチと共に3年以上かけた修復の中心となっています。既存のスペースは、ドラマチックな2階建てのテイスティング・ルーム、暖炉のあるパーラー、展示室、ケータリング・サポート・スペースのあるバーとして造り直されました。屋外には美しく整備された庭園を見渡す石の壁に囲まれたダイニング・テラスもあります。ウッドフォード・リザーヴを世界的ブランドへと成長させ、長年に渡り修復プロジェクトを支持して来た名誉マスター・ディスティラーのクリス・モリスの功績に敬意を表して、ペッパー・ハウス内のライブラリーは「クリス・モリス図書室」と命名されました。ここには1800年代に遡る丸太とチンキングがあるそう。ウッドフォード・リザーヴのマスター・ディスティラーであるエリザベス・マッコールは、「この家は、コモンウェルスに於けるバーボンの誕生に深く関わる豊かな遺産であり、今日私たちが知っているバーボン業界を形成したペッパー家の不朽の遺産を物語るものです」、「この家を現代的な方法で再利用することは相応しいトリビュートでしょう。もしこの壁が話せるとしたら、ケンタッキー州に於ける初期の蒸溜生活についてどんな物語を語ってくれることか想像できます」、「中に入って1800年代にこの家の一部だった壁に触れるのは素晴らしいことです」と語っていました。
ウッドフォード・リザーヴ・パーソナル・セレクション・プログラムは、世界中のレストラン、バー、酒屋、個人が蒸溜所に訪れ、ウッドフォード・リザーヴ・バーボンの自分だけの組み合わせを作るためのもので、 顧客は公認テイスターとのブレンド体験に参加し、その結果、2樽のバッチが出来上がり、瓶詰めされ、パーソナライズされたラベルが貼られて完成。パーソナル・セレクション・プログラムは、ウッドフォード版プライヴェート・バレル・ボトリングであり、シングルバレルではないものの2バレルを組み合わせて製造されるため限りなくそれに近い。

**ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬にオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約3マイル離れたグレン・クリーク沿いにある25エーカーの土地をジェームズ・ボッツ博士とその妻ジュディスから購入してオールド・クロウ蒸溜所を建設した、とされているので、そこにオスカーが建てた旧来の蒸溜所があったのかも知れません。W. A. ゲインズ・カンパニー(ゲインズ, ベリー&カンパニーの後継会社)はこの蒸溜所とハーミテッジ蒸溜所(RD No. 4)を共に経営しました。後年、DSP-KY-25のプラント・ナンバーで知られたオールド・クロウ蒸溜所は、禁酒法解禁後はナショナル・ディスティラーズが長年に渡り操業し、1980年代後半にアメリカン・ブランズ(ジェイムズ・B・ビーム)が引き継いだあと廃墟となり、現在はグレンズ・クリーク蒸溜所となって復活しています。

***1865年6月にオスカー・ペッパーが亡くなった後、ナニーは1865年後半に隣人であり親戚でもあるトーマス・エドワーズに蒸溜所を1シーズンだけ貸し出しました。エドワーズはグレンズ・クリーク沿いの5マイル離れた農場に蒸溜所を所有しており、そこはドクター・ジェイムズ・クロウがペッパー蒸溜所を去った後の1856年に働いていた地域でも小規模な蒸溜所の一つでした。翌1866年になるとナニーはジョン・ギルバート・マスティンとその弟ウィリアムと3年間のリース契約を交渉しました。ペッパーの蒸溜所は高品質のウィスキーを大量に生産することで評判が高く、ウッドフォード・カウンティの他の蒸溜所もペッパーの設備や専門知識を活用するようになっていたからでした。ジョン・マスティンは1866年のシーズン中、トーマス・エドワーズと共に蒸溜所で働き、その後エドワーズからリース契約を引き継ぎます。彼は1867年1月1日から蒸溜所をゲインズ, ベリー・アンド・カンパニーに転貸し、息子のジョン・Wとロバート・マスティンと共に同社の株式を少額ずつ取得したそうです。

****ゲインズ, ベリー&カンパニーは1867年2月からオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所でオールド・クロウを製造するためのリースを確保した、との説もあります。こちらの方が正しいのかも知れませんが、本文では1869年の裁判所による調停後のこととして記述しました。

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ヴェリー・オールド・セントニック(VOSN)は、1980年代後半に若き日のマーシィ・パラテラが当時活況を呈していた日本市場向けのブランドとして、主に過剰供給時代のアメリカン・ウィスキーを使ってスタートしました。このブランドはヴァン・ウィンクルやハーシュの様々なラベルと共にプレミアム・アメリカン・ウィスキーの潮流を創り出したと評価され、現代のバーボン・ブームの魁だったと見做すことが出来ます。元々はジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がローレンスバーグにあるオールド・コモンウェルス蒸溜所で少量をボトリングし、その後すぐにバーズタウンのケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)がボトリングするようになりました。そして、その初期の頃から当時は人気のなかったライ・ウィスキーをボトリングしていたブランドでもありました。ブランドの初期の物はラベルが大きいのが特徴です。一般的なバーボンではあり得ないほど大きなこのラベルは決して意図したデザインではありませんでした。ボトルを選ぶ前にラベルを当て推量で作ってしまい、実際に使うボトルには大き過ぎたラベルとなってしまったらしいのです。おそらくマーシィには潤沢な資金がある訳でもなく、せっかく作ったラベルを廃棄する選択肢はなかったと思われ、そもそも大量にラベルを作成していなかったこともあり、数ロットでそれを使い切った後、本来の意図通りの小さいと言うか普通のサイズに変更したのでしょう。この大きなラベルは初期VOSNに他のバーボンとは一線を画す異質の趣を齎しており、そのブランドの名前やお爺さんのスケッチを一際引き立たせています。発端は偶然とは言え、発売当初の日本のバーボン・ドリンカーに超然とした神秘的なブランドという印象を与えるのに役立ったのではないかと個人的には思います。
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ヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライはブランド初期の頃からあり、プリザヴェーション蒸溜所が出来た後の現在のラインナップでも継続してリリースされています。「ウィンター・ライ」という言葉は平たく言うと冬期に栽培されるライ麦の総称ですが、このウィスキーが自ら蒸溜していない原酒を他所から購入して販売するソーシング・ウィスキーであること、後にサマー・ライという(ネット検索してもVOSNが多く出て来てしまう)あまりライ穀物としては一般的ではない名称のヴァリエーションが発売されていること、また後にオールド・マン・ウィンターというVOSNの姉妹ブランド的な?ラベルが作成されていること等を考慮すると、ここで言うウィンター・ライと言うのは使われている原材料を表しているよりは、単に響きの良い語感を利用したマーケティングなのではないかと思われます。バック・ラベルを見てみると、以下のように書いてあります。私は英語が母国語ではないですし、癖の強い筆記体で書かれているため読み間違っているかも知れないので、その場合はコメントより訂正して下さい。
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Winter nights after supper we'd sit by the fire. That's when grandaddy would go down to the cellar and fill up his jug from his tiny old oak barrel. We'd tell stories, drinking grandaddy's "winter rye" his favorite, very old and smooth. He'd only pour enough to take the chill off the snowy Kentucky night. Now that grandaddy's gone we got a little extra to share.
(冬の夜、夕食が終わると、あたし達は暖炉のそばに座ったの。そんな時、おじいちゃんはセラーに降りて、ちっぽけな古いオーク樽からお酒をジャグに満たしたものよ。あたし達は語らいながら、おじいちゃんのお気に入りの「ウィンター・ライ」を飲んだんだ、すごく古くて滑らかなやつよ。雪の降りしきるケンタッキーの夜の寒さをしのぐのに十分な量しか注いでくれなかったけどね。おじいちゃんが亡くなった今、ちょっと余分に分けてもらっちゃった。)
これを見る限り、ブランドのウィンター・ライという名称は、祖父と冬場に飲んだライ・ウィスキーの思い出から名付けられているようです。まあ、フィクションだと思いますが、なかなか良い感じの宣伝文句と言うか小話ですよね。

で、この初期のウィンター・ライを誰がボトリングしているのかですが、私の認識では単純にこのラージ・ラベルや発売元が東亜商事となっていて日本語で紹介文の書かれているインポーター・ラベル(下画像参照)が背面に貼られたものはジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世のボトリングなのかなと思っていました。と言うのも、90/91年頃によく使われていたこのインポーター・ラベルは、ペンシルヴェニア1974原酒を使ったハーシュ・リザーヴやカーネル・ランドルフ、オールド・ブーン1974原酒を使ったヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ、そして大きなフロント・ラベルのVOSNバーボン(12年90プルーフ/114.3プルーフ、15年107プルーフ/114.8プルーフ、17年94プルーフ/116.2プルーフ/119.6プルーフ)に貼られており、ジュリアン3世が日本市場向けにボトリングした高級なボトルのシリーズのために作られたように見えるからです。
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ところが、今回飲んだヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライのラージ・ラベル(トップ画像右)の背面を見てみると、バーズタウン表記のバック・ラベルに東亜商事の小さいインポーター・ラベルという組み合わせとなっていて、このパターンは初めて見ました。
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比較的見かけ易く、最初期と思われるウィンター・ライのラージ・ラベルの背面には上述の日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルが貼られています。だからこそ私はジュリアンがボトリングしたものかと思っていた訳ですが、今回のウィンター・ライを見て「あれ? このラベルのウィンター・ライでもKBDがボトリングしてるのか」と思いました。家に帰ってから、ウィンター・ライのラージ・ラベルの背面に貼ってある紹介文付きインポーター・ラベルの画像を加工して弄ってみると、その下にあるバック・ラベルが透けて「Bardstown, Kentucky」が浮かび上がりました。他の部分を見ても明らかに今回飲んだウィンター・ライと同じバック・ラベルに見えます。
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このラージ・ラベル+紹介文付きインポーター・ラベルとバーで飲ませて頂いたラージ・ラベル+紹介文なしインポーター・ラベルのどちらが古いのか、或いは紹介文付きのラベルがなくたまたま紹介文なしのラベルが貼られただけでボトリング時期は同じなのか、私には判りません。しかし、少なくとも私はVOSNライのこれら以上に古いボトルは見たことがないので、おそらくジュリアンはマーシィのためにライをボトリングしていないのでしょう。マーシィはジュリアンに「ライ麦を飲むのは年寄りだけだ」と言われたそうです。きっとマーシィは当時誰も顧みなかった時代遅れの産物ライ・ウィスキーに光を当てたい、或いは日本市場であれば売れると踏み、ジュリアンにライをリクエストしたのだと思います。彼が後にオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライやヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライに用いた84年か85年に蒸溜されたメドリー・ライを入手したのが、ユナイテッド・ディスティラーズがその資産を売りに出した時なのだとしたら、91年か92年以降のことでしょう。だから、ジュリアンはマーシィのリクエストに応えられなかったのではないか、と。或いは、ジュリアンが80年代後半の時点でメドリー・ライのバレルを所有していたとしても、VOSNは名前が表すように高齢ウィスキーが特徴ですから、何だったらマーシィは長熟のライを欲しがったのかも知れない。メドリー・ライに84年か85年に蒸溜されたものしかないのなら、91年か92年の時点でそのウィスキーは6〜7年熟成となります。VOSNバーボンは最も若くても8年熟成でリリースされていました。そこでマーシィはもう一人のレジェンドであるエヴァン・クルスヴィーンのKBDに目を向け、彼に頼んでストックしてあったライをピックしてもらったのではないでしょうか。では、中身は何処から? はい、例によってKBDは秘密主義なので原酒は謎です。後にリリースされた伝説的なライのソースを考慮すると、旧バーンハイムもしくはエンシェント・エイジで蒸溜されたクリーム・オブ・ケンタッキー・ライである可能性が高いように思えます。ですが、KBDもメドリー・ライのバレルを所有していたのならそれかも知れないし、ヘヴンヒルやバートンを疑うことも出来そうですし、結局は分からないとしか言いようがありません。

偖て、もう一方のヴェリー・オールド・セントニック・エンシェント・ライ・ウィスキー17年の方はと言うと、こちらは1990年代末から2000年代初め頃に用いられたデザインのラベルかと思います。正直、私には発売時期および期間、幾つのバッチがあったのか等は正確に判りませんので、詳細をご存知の方はコメントよりご教示ください。このラベルは通常のVOSNより更に熟成年数が高めなのが特徴で、中熟物もありましたが殆どは20年オーヴァーの高齢ウィスキーを使ったリリースであり、バーボンのヴァリエーションにはエステート・リザーヴ8年ドリップド・カッパー・ワックス86プルーフ、20年ブルー・ワックス94プルーフ、22年ドリップド・レッド・ワックス81.2プルーフ及びドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ、23年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びカッパー・ワックス82.6プルーフ、24年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びブラック・ワックス81.2プルーフ、25年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びゴールド・ワックス86.4プルーフとありました。ライにはこの17年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.7プルーフ以外に、12年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.6プルーフ、15年ドリップド・ホワイト・ワックス86プルーフ、18年ドリップド・ゴールド・ワックス104.6プルーフとありました。これらは画像で見たものを纏めただけなので他にもあるのかも知れません。またワックスの色に関しても画像を視認しただけなので誤っている可能性があります。で、こちらのエンシェント・ライ17年の中身に就いても、これまた明確には判りません。熟成年数などを考えると、やはり旧バーンハイムのCoKRではないかと思うのですが…。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

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Very Olde St. Nick Winter Rye 101 Proof
推定90〜91年頃のボトリング。
Rating:87/100

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Very Olde St. Nick Ancient Rye 17 Years 103.7 Proof
推定2000年前後のボトリング。
Rating:87/100

Thought:少量しか飲んでないので大したことは言えませんが、どちらもアニス、リコリス、土っぽさなどが現れるタイプのライ・ウィスキーかなと思いました。今回飲んだこのウィンター・ライのラベルには熟成年数の記載はありませんが、上で言及した日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルには9年熟成と明記されています。これもそれと同じ物と見做していいのなら、この二つは9年と17年という熟成期間にかなりの差があるにも拘らず、どちらもフルーティよりはウッディに傾きがちで、何だか似たような風味に感じました。強いて違いを言うと、エンシェント・ライ17年の方が僅かにオールドファンクを伴ったミント感が強いくらいでしょうか。ウィンター・ライが経年のオールド・ボトル・エフェクトでエンシェント・ライに近づいたのかも知れません。或いは元から9年以上の原酒がブレンドされていたとか? 飲んだことのある方はコメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの4杯目は、前から飲んでみたかったワイルドボアにしました。本当はプルーフの高い15年の方が飲んでみたかったのですが、もうなくなってしまったとのことで12年を。
このバーボンは一般的にはあまり知られていないと思いますが、バーボン・マニア(というかKBDマニア?)には人気のブランドです。90年前後から2000年に掛けてKBDが日本市場に向けてボトリングしたブランドは多数ありますが、その中でもジョン・フィッチやクラウン・ダービーやダービー・ローズ等と並んでオークションに殆ど現れず希少性が高いです。このブランドには12年80プルーフと15年101プルーフがあり、おそらく91年あたりにボトリングされたものと思われます。写真は掲載されてないのですが、世界最大級のウィスキー・データベース・サイトと言われる「Whiskybase」には6年43度のワイルドボアが登録されていました。もしかするとヨーロッパ市場向けにもボトリングされていたのかも知れません。それは兎も角、名前やラベル・デザインにインパクトのあるこのブランドは、その来歴が全く分からない。ウィレットまたはKBDが所有していたブランドなのか? 大昔に存在していたブランドなのか? それとも90年当時に作成されたラベルなのか? そうしたことが一切分からないのです。今現在、動物の「ワイルドボア(イノシシ)」ではないウィスキーのワイルドボアをネットで検索すると、出てくるのはワイルドボア・ブランドの「バーボン&コーラ」ばかりです。これはオーストラリアで流通しているRTD飲料なのですが、その使っているバーボンが「ケンタッキー・バーボン」と書かれている種類の物もあり、何だかここで取り上げているワイルドボア・バーボンと繋がりがあってもおかしくなさそうにも感じます。しかし、私がネットで調べてみてもそこに明確な繋がりがあるのかどうかは分かりませんでした。
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(Hawkesbury Brewing Co.のウェブサイトより)

ところで、このワイルドボア12年や15年と同時期にKBDがボトリングしていたウッドストックというブランドがあります。
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(画像提供バーFIVE様)
このウッドストックの販売されていたヴァリエーションが12年80プルーフ及び15年101プルーフとワイルドボアと同じであるところから、個人的には姉妹ブランドなのかしら?という印象をもっていました。で、ワイルドボアと同じように、音楽フェスティヴァルの「ウッドストック」ではないウィスキーのウッドストックをネットで検索してみると、ウッドストック・ブランドの「バーボン&コーラ」が出て来るのです。
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(Woodstock Bourbonのウェブサイトより)
これはニュージーランドのバーボン&コーラのNo.1ブランドだそう。また、こちらのウッドストック・ブランドにはRTD飲料ではないバーボン・ウィスキーも幾つかの種類がありました。それらもオーストラリアとニュージーランド市場の製品みたいです。
このように、KBDが同時期にボトリングしていた2つのブランドの名前は、現在、似たような製品かつ似たような市場でリリースされるブランドと同じ名前です。これは偶然なのでしょうか? 私には何か繋がりがあるような気がしてならないのですが…。もしかしてこれらは同じブランドであり、元々オセアニア地域向けに作られたブランドだったとか? 或いは90年代に日本向けに作られたブランドを、後年、オセアニア地域の酒類会社が買い取って現在に至るとか? まあ、これは単なる憶測です。誰か仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。

偖て、肝心の中身のジュースについては…、はい、これもよく分かりません。この頃のKBDのボトリングならば、旧ウィレットの蒸溜物である可能性は高いような気はしますが、どうなのでしょう? では、最後に飲んだ感想を少し。

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WILD BOAR 12 Years Old 80 Proof
推定91年ボトリング。インポーター・ラベルはほぼ剥がれていますが、残された文字からすると河内屋酒販でしょう。フルーティな香り立ちが心地良い。味わいもフルーティで、ロウ・プルーフにしてはフレイヴァーが濃ゆい。加水が功を奏したのか、オールドファンクな余韻も適度で個人的には気に入りました。で、何処の蒸溜物かですが、旧ウィレットはフルーティと聞き及びますので、その可能性は大いにありそうな…。ですが、私の舌ではちょっと確信はもてませんね。
Rating:86.5/100

2024-10-29-02-16-23-018

ジャズクラブはマーシィ・パラテラのアライド・ロマー(インターナショナル・ビヴァレッジ)のブランドで、おそらく80年代後半から2000年代に掛けて日本市場へ向けて輸出されていたと思われます。ジャズ・クラブというとミュージシャンの写真が色々と使われた12年、15年、20年の長熟物が知られていますが、それ以外にこのクラブハウス・スペシャルというNASの物がありました。これがどれくらいの期間販売されていたかよく判りません。画像も含め私が見たことのあるクラブハウス・スペシャルには、輸入者が河内屋酒販のもの、東亜商事のもの、インポーター・シールがないものがあります。個人的な印象としては、多分このラベルは後期にはリリースされてないような気がしています。そのせいなのか、年数表記のあるものよりオークションで見掛けることは少ないです。マーシィ自身はこのラベルを80年代にデザインしたと言っていたので、これがそもそものジャズ・クラブの姿なのかも知れませんね。販売時期などの仔細をご存知の方はコメントよりご教示ください。よく分からないことは偖て措き、上述の年数表記のあるジャズクラブのような同じブランドの名の元に異なる人物の写真を使用するコレクターズ・シリーズはアライド・ロマーの得意芸?であり、他にも西部開拓史を彩った象徴的なヒーロー達を揃えた「レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェスト」、それらと同時代の荒くれ者やお尋ね者を揃えた「アウトロー」、それらほど熟成年数が高くない「ギャングスター」や「ブルースクラブ」、「R&B」や「ロックンロール」、「USAベースボール」等がありました。これらの中ではレジェンズとアウトローとジャズクラブの長期熟成物が頭一つ抜け出たプレミアム製品だったように思います。これらはどれもKBD(ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ、現ウィレット蒸溜所)がマーシィのためにボトリングしました。で、このクラブハウス・スペシャルの中身に就いてですが、例によって謎です。可能性としてマーシィが持ち込んだスティッツェル=ウェラーのバレルかも知れないし、KBDのストックからかも知れないし、異なるバレルのブレンドなのかも知れません。NASであることを考えると、年数表記のあるものよりクオリティは低いのではないでしょうか。聞いた話では、これがジャズクラブの中ではエントリー品と言うかスタンダード品と言う位置付けで値段も一番安かったらしいので。

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JAZZ CLUB Clubhouse Special 110 Proof
ハイ・プルーフから期待するほどフレイヴァー・ボムではありませんでした。と言うか、キャラクターが捉え難いところがあり、過剰にオーキーでもなく、フルーティさが全面に出るのでもなく、如何にも長熟ぽい渋さもないし、かと言って溌剌とした若いウィスキーだなぁという印象もないのです。マーシィのブランドにありがちなオールドなファンキネスはそれなりにありますが…。実際飲んでみても原酒の供給元は全く分かりません。色々なバレルのブレンドなのかしら? 飲んだことのある方はコメントから感想を教えてもらえると助かります。
Rating:83.5/100

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フォアローゼズ蒸溜所では2種類のマッシュビルと5種類のイースト・ストレインを組み合わせてそれぞれ味わいや香りの特徴が異なる10種類の原酒を造り、それらをミングリングすることで安定した品質を保つ独特のスタイルで知られています。そして、彼らは2023年に135周年を迎えるにあたりブランドの刷新を行いましたが、その際、10種類のレシピが50mlづつ入った「ザ・テン・レシピ・テイスティング・エクスペリエンス」という限定版キットをリリースしました。希望小売価格が約130ドルで、6月30日からケンタッキー州ローレンスバーグとコックス・クリークのフォアローゼズ・ヴィジター・センターで販売され、7月中旬からはジョージア州、イリノイ州、ケンタッキー州、カリフォルニア州の一部小売店でも販売されたみたいです。各レシピは同等になるように104プルーフにカットされ、熟成年数は全てほぼ同じ。それにより、酵母とマッシュビルがどのような影響を与えるかを体験できる非常に面白いキットでした。
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これはバーボン・ファンならば是非試してみたくなる代物です。しかし、ここ日本でこれを入手するのはなかなか難しいので、代わりと言っては何ですが、今回はその昔、フォアローゼズの販促品としてオマケで付いていた3種類の「心とろける香りの原酒」を開封してみました。この試供品(非売品)はネットで調べてみると2005年前後あたりのものらしいです。ラベルの細かい部分が若干異なるものや度数違いのものがあるところから、何年間かもしくは何回か提供されていたのかも知れませんが、私には詳細が分かりません。仔細ご存知の方はコメント欄よりご教示いただければ幸いです(※)。また、他にも種類があるかどうかですが、私はこの3タイプしか見たことがなく、おそらくフルーティ、スパイシー、フローラルの3つで全部と思います。ですが、本来なら5つのイーストの分だけ用意するか、フルーティを特徴とするイーストは2種類あるのでそれらは一つに纏めたとしても、もう一つハーバル・タイプはあって然るべきところでしょうから、この3つ以外にもあるのを知ってる方はコメントよりお知らせ下さい(※)。

情報を頂けましたのでコメント欄を参照下さい。また、少し追加の情報を得たので追記をご覧下さい。


注ぐ前にフォアローゼズの10レシピに就いて軽くおさらいしておきましょう。これらのレシピは4文字のアルファベットによって「O■S◆」というように表記されます。「O」と「S」は必ず付き、「O」はフォアローゼス蒸溜所で造られていることを意味し、「S」は「Straight whiskey」もしくは「distilled Spirit」を意味します。「S」の略は分かりやすいですが、なぜ「O」がフォアローゼズ蒸溜所を表すかと言うと、それは同蒸溜所が昔はオールド・プレンティス蒸溜所という名称だったからです。嘗てフォアローゼズ蒸溜所を所有していたシーグラムは、他に幾つもの蒸溜所を抱えていたため、原酒の産出される蒸溜所のバレルに各略号を与えており、その名残から「Old Prentice」の頭文字「O」でフォアローゼズ蒸溜所を指しているのです。そして「■」の部分にはマッシュビルの種類を表す「B」もしくは「E」が入ります。ライ麦の使用比率が多く、スパイシーな味わいが特徴とされるマッシュビルBは、

60%コーン、35%ライ、5%モルテッドバーリー

コーンの使用比率が多く、柔らかな甘みが特徴とされるマッシュビルEは、

75%コーン、20%ライ、5%モルテッドバーリー

となっています。末尾の「◆」には香りの個性が異なる5つの酵母の種類を表す「V・K・O・Q・F」の何れかが入ります。夫々の特徴は以下のよう。

V─デリケート・フルーツ
K─スライト・スパイシー
O─リッチ・フルーツ
Q─フローラル・エッセンス
F─ハーバル・ノーツ

これら2種類のマッシュビルと5種類のイーストによる10レシピは、日本のフォアローゼズ公式ホームページでは次のように説明されています。

OBSV
繊細な果実香とライ麦のスパイシ―さ
OBSK
ベーキングスパイス(微かなクローブ・シナモン様)とライ麦のスパイシーさ
OBSO
レッドベリー系の豊かな果実香
OBSQ
薔薇の花びらのようなフローラルさとライ麦のスパイシーさ
OBSF
繊細なハーブ香とライ麦のスパイシーさ
OESV
繊細な果実香とキャラメル様の甘く芳ばしい風味
OESK
ベーキングスパイス(微かなクローブ・シナモン様)で芳醇
OESO
レッドベリー系の果実香とバニラ
OESQ
薔薇の花びらのようなフローラルさとクッキー様のほのかに甘い芳ばしさ
OESF
繊細なハーブ香とクッキー様のほのかに甘い芳ばしさ

偖て、今回飲むフルーティ/スパイシー/フローラルの各タイプがこれらのうちどれなのかは名称からすると、フルーティ・タイプはOBSOかOESOかOBSVかOESVのどれか、スパイシー・タイプはOBSKかOESKのどちらか、フローラル・タイプはOBSQかOESQのどちらかなのではないでしょうか。え、待って、これシングルバレルって認識でいいんですよね? ラベルには取り立ててシングルバレルとは記載がないですけど…。私自身は実物を見たことがないのですが、この試供品に付いていたリーフレットには以下のようなことがタイプに拘らず共通で書かれていたようです。ネット上に引用している方がいたので孫引きさせて頂きます。
フォアローゼスの原酒のうち、フローラルなタイプのものを樽出しに近い度数でボトリングしたもので、日本国内での、フォアローゼスのおまけとして付けられた試供品(非売品)。別名、心とろける香りの原酒。
で、この後に各タイプの説明が続くのですが、それらを読む限りここで言う「原酒」は取り敢えずシングルバレルの意味と解釈しておいてよいのではないかと思います。その解釈が正しいとして、少量加水で度数を調整したほぼバレルプルーフという仕様は、先述の「ザ・テン・レシピ・テイスティング・エクスペリエンス」と殆ど同じであり、この試供品が10種類の中からかなり傾向の異なる3タイプを厳選したものなのだとしたら、物凄く贅沢な良い販促品ですよね? テン・レシピ・キットよりハイプルーフですよ? それに販売年を考えたら、もう二十年近く前な訳で、プチ・オールドボトルな価値もあって期待は膨らみます。では、そろそろ注いでみましょう。

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画像では判り難いと思われますが、ぱっと見でフルーティ・タイプが一際色濃く感じます。スパイシー・タイプとフローラル・タイプはそこまで差はありませんが、フローラル・タイプの方が僅かに薄い色に見えますね。今回はノーズ、パレート、フィニッシュの各々に順位を付けてみました。

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Fruity Type 108 Proof
少し濃いめのブラウン。林檎、キャラメル、熟したプラム、オールドオーク、ローストナッツ、シナモン、レザー。よく熟したバーボンの甘いアロマ。とろりとした口当たり。口の中では茶色いスパイスが感じ易い。余韻はミディアム・ロングで、焦がした木材のノート。残り香は僅かなベリーとブラウニー。
ノーズ─1
パレート─2
フィニッシュ─3
Rating:87.5/100

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Spicy Type 114 Proof
中庸なブラウン。青リンゴ、草、チョコレートのヒント、オレガノ、ローズマリー、メープルクッキー、炙った木材。あまり甘くない香り。とろりとしてオイリーな口当たり。ややドライな味わい。余韻は長く、甘いハーブと心地良い石鹸香。残り香はオレンジゼストとレモン、爽やかなハーブ。
ノーズ─3
パレート─1
フィニッシュ─1
Rating:90/100

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Floral Type 108 Proof
明るい琥珀色。スイートピー、マッシュルーム、ホワイトチョコレートのヒント、ローズペタル、ミント、蜂蜜、白桃、プリン。フローラルで仄かに甘い香り。ややとろりとした口当たり。味わいは酸味が強め。余韻はミディアム・ロングで、ライフレイヴァーが広がる。残り香は甘い花の蜜とピーナッツシェル。
ノーズ─2
パレート─3
フィニッシュ─2
Rating:87.5/100

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Thoughts:
三者三様でどれも美味しかったです。そしてフォアローゼズは自分の好みにぴったりのバーボンだと改めて感じました。ノーズ、パレート、フィニッシュに順位を付けたものの、3位だからと言って悪い訳でもないですし、そもそも単なる私の好みに過ぎません。飲んだ感じ、マッシュビルはどれもBなのではないかなという印象を受けました。どれもが共通してフォアローゼズらしいフルーティさはありつつ、ライの穀物感が強いような気がしたのです。その上で個別に感じたことを言います。
フルーティ・タイプは最も甘くウッディ。飲む前の予想ではもっとフルーティなのかと思っていたら、寧ろ意外とオーク・フォワードなバーボンでした。色通り、最も熟成感を感じます。試飲前はOBSOかなと思っていたのですが、上記の10レシピの説明文に当て嵌めるとOESVと一致している気も…。
スパイシー・タイプは、これまた飲む前の予想に反して、私にはスパイシーと言うよりハービーに感じました。10レシピの説明文に当て嵌めるとOBSFなのではないかと思われる程です。また、前回まで開けていたフォアローゼズ産の90年代ヘンリーマッケンナにあったソーピーな風味がこれにも感じられたのですが、そちらでは過剰過ぎて嫌悪を抱いたそのフレイヴァーはこちらでは絶妙な加減だったので好印象でした。全体として自分の好みに合っていて抜群に旨いです。
フローラル・タイプは最も繊細な風味。10レシピの説明文からすると、OBSQでもOESQでもどちらでも当て嵌まりそうな感じでした。私の嗅覚や味覚は平均的な日本人より下なので、スタンダードなフォアローゼズから花の香りを感知するのは難しいのですが、これは分かり易かったです。
どれも加水したらもっとフルーティさを引き出せたのかも知れません。けれどもミニボトルは少量なので私はニートでしか飲みませんでした。これらが10レシピのどれなのか、或いはシングルバレルではなく数レシピがミックスされたスモールバッチなのかは、答えが解らないので措くとして…、これらを飲んだことのある皆さんはどう思ったでしょうか? ご意見ご感想をどしどしコメントよりお寄せ下さい。そう言えば、私は基本的にバーボンはラッパ飲みかショットグラスで飲んだ方が美味しく感じるのですが、今回の3種のフォアローゼズはどれもテイスティンググラスで飲んだ方が香りが愉しめて美味しく感じました。


追記:とあるミニチュア・ボトルのコレクター様によると、この試供品は2004~2006年に配布されたもので、 ラベルの種類としては筆記体風、活字、活字+ウイスキーの3種があり、従ってFruity、Spicy、Floralの3風味×3ラベル=9つの種類が存在するそうです。
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A.H. Hirsch Reserve 16 Years Old Gold Wax 95.6 Proof
今回飲んだA.H.ハーシュ・リザーヴ16年は、スクワッティなボトル形状にゴールドのワックスでシールされた47.8度の物です。同様のブラック・ワックスの物やブーンズノールよりアルコール度数が高いのが特徴でしょうか。マスターの話では、所謂ブルー・ワックスのハーシュよりこちらの方がリリースが先だったと仰ってました。この伝説のバーボンのバックストーリーは過去に投稿した記事を参照下さい。この「ペンシルヴェニア1974原酒」が使用されたボトルはこれまで何回か飲んで来ましたが、何度飲んでもやっぱり自分の好みではないですね。長期熟成による柔らかい酒質とビターさ、複雑なスパイスとハーブ、枯木のテイスト等は感じ易いものの、私はもっと単純な焦がした樽のスウィートな香ばしさやフレッシュなフルーツ感が好きなので。パレートでの渋みはあまりありませんが、余韻には苦味も感じました。この機会に言ってしまうと、個人的にはこの原酒は過大評価されていると思います。自分の好みは一旦措いて、他の長熟バーボンと比較してみても、それほど際立って優れているようには感じないのです。特別なフィーリングがないと言うか…。ぶっちゃけ下のレーティングは、3点はバックストーリーとレアリティとラベル・デザインに対してです。但し、適切なタイミングで飲んでいれば本当に素晴らしかった可能性はあるのかも知れない。私はボトリングされたばかりの90年代当時に飲んだことがないので、その当時に飲まれたことがある方は是非ともコメント欄よりご感想をお寄せ下さい。いや、当時でなくても飲んで、「そう? めっちゃ旨いよ?」とか「お前の舌がお子ちゃまなんじゃね?」という意見も随時募集中です。まあ、それは兎も角、今になってこのバーボンを飲むということは、「歴史」を飲み「物語」を飲むことであって、味わいは関係ないとは言えるでしょう。
Rating:88/100

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ラッキー・ストライク・バーボンはマーシィ・パラテラのインターナショナル・ビヴァレッジ(アライド・ロマー)のブランドで、日本向けに短期間もしくは一回限り(91年?)ボトリングされたと思われます。ヴァリエーションには12年90プルーフ、13年94プルーフ、15年101プルーフ、17年94プルーフ、ドライ86プルーフがありました。おそらくタバコの「ラッキー・ストライク」との直接的な繫がりはないと思いますが、そのタバコ銘柄の名称の由来はアメリカのゴールドラッシュ時代に金を掘り当てた者が言った「Lucky strike」と云うスラングに由来するらしいので、このバーボン・ブランドもケンタッキーのバーボン鉱脈に眠っていた金に等しい優良なバレルを引き当てた幸運というイメージで名付けられたのではないでしょうか。ボトリングはKBDがしています。
では、肝心の中身は何なのでしょうか? 可能性としては幾つか考えられます。一つは何処かしらの、例えばヘヴンヒルとか旧バーンハイムなどのKBDがストックしていた単一の蒸溜所のバレルをマーシィがピックし、使用しているというもの。或いはエヴァン・クルスヴィーンと共同でピックしたのかも知れない。もう一つはKBDの所有する複数の蒸溜所のバレルをエヴァンがブレンドして提供していたというもの。彼はそうして自らの味わいをクリエイトする達人だったと言われています。更なる一つはマーシィがユナイテッド・ディスティラーズから購入したスティッツェル=ウェラーのバレルをエヴァンがそのままボトリングしたというもの。当時は様々な熟成年数のバーボンが安く買えた時代でした。それは今や伝説となっているスティッツェル=ウェラーでさえも例外ではなかったでしょう。マーシィ自身が語るところでは、自分のプロダクトには非常に多くの様々なバレルを使ったが、2005年以前に作成したブランドにはS-Wを多く使ったそうなので、可能性は高いかと。バーボン探求者は中身を正確に知りたい欲求に駆られますが、もしかするとマーシィやエヴァン本人に中身の件を尋ねてみても、当時あまりに多くのブランドを造り過ぎて何に何を使ったか記憶しておらず、大雑把な回答しかしてくれないかも知れません。そんな訳でとにかく飲んでみるしか…。

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LUCKY STRIKE 15 Years 101 Proof
推定91年ボトリング。テクスチャーは柔らかいがパンチがある。仄かなキャラメル、高尚な木材、豊かなベーキングスパイスの香り。味わいは如何にも長熟という味わいで、タンニンが強く、レザーや土っぽさもある。ダークなフルーツは感じるが、これといった明確なフルーツは言えない。余韻は薬草感を伴ったオールドオークが恐ろしく長く続く。
Rating:87/100

別の機会に17年熟成の物を飲めたので、そちらをおまけで。これは大宮のバーFIVEさんの会員制ウィスキー倶楽部で提供されたものでした。17年は最も数量が少なかったと聞きます。

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(画像提供Bar FIVE様)
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LUCKY STRIKE 17 Years 94 Proof
推定91年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。微粒子感のある液体。キャラメル、オールドオーク、オールスパイス、焦がし砂糖、オレンジピール、茴香、僅かに爪の垢、シナモンクッキー。甘く、かつスパイシーなノーズ。とても柔らかい口当り。パレートでは渋みが強い。余韻はスパイシーかつハービー。
Rating:88/100

Thought:長期熟成バーボンは木質な風味と木材由来のハーブ&スパイスの風味が勝ち過ぎて、表層的に似たり寄ったりの風味になると個人的には感じます。だから、正直、飲んでも何処の原酒か全く判りませんでした。ヘヴンヒルと言われればヘヴンヒルのようにも思えるし、スティッツェル=ウェラーと言われればスティッツェル=ウェラーのようにも思えてしまいます。飲んだことのある皆さんはどう思ったでしょうか? コメント欄よりどしどしご感想をお寄せ下さい。
15年と17年を比較すると、プルーフの高い15年の方が美味しいのではないかと思っていたのですが、加水量の多い17年の方が却って自分の苦手な風味が薄まったのか飲み易い上に若干フレイヴァーフルに感じました。但し、これは上に述べたように別の機会に飲んでいます。それ故にサイド・バイ・サイドでもなく、ボトルの状態や私自身の体調を考慮すると聊か信頼性に欠ける意見かも知れません。
マーシィはラッキー・ストライクを含む自分の初期のブランドのジュースに就いて、「stunning」ではなかったけれど常に「really good」だった、と語っていました。おそらく、最上級とまでは言えなくとも多くの製品はその少し下くらいの美味しさではあったという解釈でいいでしょう。これを飲んでみると、確かにそれは的確な表現のように感じられます。

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今回は日本でのバーボン輸入がまだ華やかりし頃のジムビーム・ホワイトラベルを開栓してみました。個人的には今の物より古めかしいこのラベルの方が好みです。こちらはオークションで購入したもので、液体はグラスに注ぐとクリアに見えますが、ボトルのままだとほんの少し曇りがあるように見えます。

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JIM BEAM White Label 80 Proof
推定92年ボトリング。鉛筆の削りカス、キャラメル、オールドボトルファンク、チリパウダー、フルーティな接着剤、鰹節、クエン酸、タバコ、ドライクランベリー。口当たりは円やか。余韻はミディアムでスパイシー、あとちょっと薬草感。
Rating:72→82/100

Thought:開封したては、ただただ香りも味わいも余韻も鉛筆の削りカスそのものでした。単なる木屑ではなく、鉛筆の芯の香りもするんですよね(笑)。正直、飲むのが辛かったです。そのため、極く少量づつ飲みながら様子を見ていたのですが、半年くらいしたら不快な香りは上手いこと消えてくれました。そうなってみると、味わいには僅かにオールドファンクがあるものの不愉快なほどではなく、普通に美味しいと感じられました(*)。熟したアロマと深みのあるスパイスが現れる余韻は、これがオールドボトル故の経年変化もあるのでしょうが、現行のホワイトラベルとは全く別物な印象です。オールドボトル愛好家の方が昔のビームは優れていた、という意味合いのことを言っているのを耳にしたことがあります。オークションでそれほど高値がつくバーボンでもないので、多少のギャンブル性を覚悟の上なら購入するのもまた一興かと。


*但し、グレンケアンで飲むとオールドファンクが強く感じられて、余り美味しくはありませんでした。ショットグラスだと良い感じにオールド臭が薄らいだように思いました。また、夏場より冬場のほうが美味しく感じたので、私は試していませんが、もしかするとロックで冷やして飲むとより良いのかも知れません。

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ヴァージン・バーボン7年はヘヴンヒルの所有するキャッツ・アンド・ドッグス・ラベル(ブランド)の一つで地域限定の製品です。アメリカではかなり限られた流通であり、主にノース・キャロライナ州、あとはアラバマ州など極く一部でしか販売されていません。そのため全国区のバーボン・ブランドと比べるとヴァージン・バーボンのアメリカでの知名度は低いですが、7年熟成101プルーフのスペックでありながら14 ~18ドルと安価であるところから、知っている人からはボトム・シェルファーとして非常に優れた堅実なバーボンと評価されていました。残念なことに2019年に7年熟成ではなくなり、現在ではネック・ラベルの裏に「少なくとも36ヶ月熟成」と記載されているらしいです。この変更の理由を、それまでケンタッキー州限定で販売していた6年熟成のヘヴンヒル・ボトルド・イン・ボンドが2019年にリニューアルした際、7年熟成となって価格が12〜15ドルだったのが40ドルになり、販売地域が拡がったことによって在庫の一部をそちらにまわした影響ではないかと見る向きもあります。まあ、実情は判りませんが、バーボンの全体的な値段が上昇する割に中身はどんどん若くなっている現状は時代の流れではあるでしょう。
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一方、アメリカに比べると日本でのヴァージン・バーボンの知名度は高く、少なくともバーボン・ファンの間ではよく知られていると思います。日本がバーボン・ブームに湧いた頃、数多くのブランドが我が国へやって来ました。ヴァージン・ブランドも80年代半ばか遅くとも後半には輸入されるようになっていたと思われます。ヴァリエーションにはブラック・ラベルの7年、グリーン・ラベルの10年、ゴールド・ラベルの15年、更に後には特別なボトリングとしてシルヴァー・ラベル及びワックス・シールドの21年もありました。クラシックな雰囲気のラベルも良いですし、何より全てボトリングが101プルーフに統一されているところが人気のポイントだったでしょう。しかし残念ながら、本国でのバーボン高需要の影響なのか、2013〜14年頃に輸入は停止し、多くの日本のバーボン愛好家は別れを惜しみました。
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ヴァージン・バーボンは日本では比較的長い間販売されていたので、中身に関してはどこかの段階でバーズタウンの旧ヘヴンヒル蒸溜所産とルイヴィルのバーンハイム蒸溜所産が切り替わっていると思われます。マッシュビルは多くのヘヴンヒル製品と同様のスタンダードな物の筈ですが、バーズタウン産はコーン75%/ライ13%/モルテッドバーリー12%、ルイヴィル産はコーン78%/ライ10%/モルテッドバーリー12%とされています。またヘヴンヒルは、バーズタウンの蒸溜所が消失してバーンハイム蒸溜所を購入するまでの1996年から1999年の期間、ジム・ビームとブラウン=フォーマンに蒸溜を委託していたので、それらの原酒が使われているヴァージン・バーボンのボトルもある可能性があります。それと、ラベルに大きく「チャコール・フィルタード」とあるのは、ジャックダニエルズやジョージディッケルなどのテネシー・ウィスキーのような樽入れ前に行うチャコール・メロウイング(リンカーン・カウンティ・プロセス)ではなく、ボトルに入れる前に炭で濾過する一般的な製法と思われます。ラベルと言えば、下方に書かれている「メドウローン・ディスティリング・カンパニー」というのは、現在ヘブンヒルが所有しているトレーディング・ネームですが、もともとはダント・ファミリーの一員が関わっていた会社で、嘗てメドウローンと呼ばれた地で蒸溜所を操業していました。おそらくヴァージン・ブランドもその会社が60年代に初めてリリースしたのがオリジナルではないかと推測されます。その頃はダントの蒸溜所はオールド・ブーン蒸溜所と呼ばれていました。推定60〜70年代と思われるヴァージンのラベル下部にはオールド・ブーン・ディスティラリーと記載されています。この蒸溜所の未使用ラベルは海外のオークションでよく出回っており、それらが実際に販売されていたかどうかは判りませんが、見たところ当時のヴァージンには101プルーフ7年熟成の他に107プルーフ6年熟成やウォッカがあったことが窺われます。
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そこで今回はジョン・P・ダントまたはオールド・ブーンと呼ばれた蒸溜所とそのブランドの歴史を少しばかり纏めてみたいと思います。

ダント・ファミリーはバーボンの蒸溜に於いて非常に長く豊かな歴史をもっています。現在でもバーボンの世界では「J.W.ダント」というブランドがこれまたヘヴンヒルから発売されているのでご存知の方も多いでしょう。その酒名はジョセフ・ワシントン・ダントから来ています。1836年、ジョセフ・ワシントンはポプラの木を刳り抜いてログ・スティルを拵え、ウィスキー造りを始めました。彼のウィスキーは直ぐに売れ始め、近所の人々の間で彼がこの国で最高のサワーマッシュ・ウィスキーを造っていると評判になりました。軈てログ・スティルは銅製のポット・スティルに置き換えられ、1870年にはダント・ステーションに近代的な蒸溜所を建てるまでになったと言います。彼と妻アン・バラードの間には7男3女の子供が産まれました。長男のジョセフ・バーナード・ダントは10代の頃から父のもとで働き始め、後年、ゲッセメニーに自らのコールド・スプリングス蒸溜所(第5区RD#240)を建てます。そこのウィスキーは後のテイラー&ウィリアムズ社によって販売され、現代にも名を残す有名なイエローストーン・ウィスキーを生み出しました。1871年にD.H.テイラー社のセールスマンであるチャールズ・タウンゼントが開園したばかりのイエローストーン国立公園を訪れ、その自然の驚異に対する熱狂ぶりを見て、この公園の名をウィスキーのブランドに冠することを提案したのが始まりでした。おそらくダント家で知名度が突出しているのはこの二人でしょうが、ジョセフ・ワシントンの息子達は皆、蒸溜ビジネスに携わっており、三男のジョン・プロクター・ダントもそうでした。

1855年に生まれたJ・P・ダント(シニア)は、兄のバーナードと同様に若い頃からダント・ステーションの蒸溜所で父のもと働きました。また、彼はケンタッキー州ジェファソン・カウンティのプレジャー・リッジ・パーク蒸溜所で蒸溜をしていたという話もありました。一方、私生活の面では1884年頃、ケンタッキー出身のウィリアム・ヘンリーとロゼラ・ランカスター・スミスの娘でマリオン郡生まれのアン・ジョセフィン・スミスと結婚しました。ジョセフ・ウィリアム・ダントと名付けられた長男は、悲しいことに幼児期に亡くなってしまいますが、その後2人の娘が生まれ、1890年には次男のジョン・ジュニアが生まれています。同じ1890年にジョンは独立し、当時シカゴと呼ばれていた町(*)で現在のケンタッキー州セント・フランシスにあった1855年創業と思われる蒸溜所を購入しました(**)。彼はこの蒸溜所(マリオン郡第5区RD#174)をフラッグシップ・ブランドであるオールド・ダントンにちなんでオールド・ダントン蒸溜所と呼びました。1892年の保険記録によると蒸溜所はフレーム構造で2棟のボンデッド・ウェアハウスがあり、プラントには鉄道が通っていたようです。ジョンは甥のサド・ダントをディスティラーとして雇っていました。数年間の操業後、彼はプラントを売却し、ルイヴィルに移って酒類卸売業を始めました。
ジョン・P・ダント・シニアは酒類卸売業者として大成功を収め、909ブロードウェイでパイオニア・ボトリング・ハウス(***)として営業し、主に「オールド・ダント・サワーマッシュ・ウィスキー」を販売していたと言います。彼の店の名を冠した様々な形式のジャグがありました。この会社が使ったブランド・ネームにはオールド・ダントンの他に「ジェントー・ライ」、「オールド・ファーム・スプリング」、「オールド J.P. ダント」等があったと伝えられます。また「オールド・バラード」というブランドもありました。そのショットグラスやオールド・ダントン・ウィスキーを宣伝する装飾的なカレンダーなど特別な顧客向けの景品も数多く用意していたそうです。1909年から1913年まではインディアナ州ニュー・オーバニーにも酒類販売店を構えていたとか。しかし、その事業もご多分に漏れず1919年の禁酒法の施行によって終わりを告げました。
ジョン・シニアは、禁酒法が廃止されて間もなくジェファソン・カウンティのメドウローンに新しくジョン・P・ダント蒸溜所(RD#39)を建設し、1933年に会社を組織します。メドウローンはシャイヴリーから南西に15マイルほどに位置し、現在ではヴァリー・ヴィレッジと呼ばれています。第二次世界大戦中は同じくジェファソン郡アンカレッジのグロスカース蒸溜所(RD#26)をリースして、両事業をメドウローン・ディスティラリー・カンパニーとして操業しました。グロスカース蒸溜所はジェファソンタウン近くのフロイズ・フォーク沿いのエコー・トレイルにあり、禁酒法廃止後に建設され、1968年の火災で倉庫2棟が焼失し閉鎖したそう。メドウローン・ディスティラリー・カンパニーはジョン・P・シニアが社長、息子のジョン・P・ジュニアが副社長兼財務およびディスティラーだったようです。この二つの蒸溜所の合計マッシング・キャパシティは1日471ブッシェルで、6つの倉庫には7500バレルを貯蔵することが出来たと言います。
ケンタッキー州マリオン郡で生まれ、蒸溜産業に長く携わって来たジョン・P・ダントは、1944年4月にウェスト・ブロードウェイの自宅で88歳で亡くなりました。妻のアンには16年先立たれており、葬儀の後、遺体はルイヴィルのカルヴァリー・セメタリーのアンの隣に埋葬されたそうです。亡くなる数年前に自身が設立したジョン・P・ダント・ディスティラリー・カンパニーの社長を引退し、息子のジョン・P・ダント・ジュニアが社長を引き継いでいました。彼は1913年にルイヴィルで父のウィスキー・ビジネスを手伝い始めキャリアを積んでいました。

1940年代の経営は難しかったのか、1945年5月1日にトム・ムーアと繋がりのあったマーヴィン・パジェットがジョン・P・ダント蒸溜所の一部の支配権を買い取りました。彼はルイヴィルのメイン・ストリートでボトリング事業も行っていました。マーヴィンは1950年12月には蒸溜所の残りのインタレストを買い取ります。ジョン・ジュニアは1946年にジョン・P・ダント・ディストリビューティング・カンパニーを設立したそうなので(****)、何らかの形で会社に関わっていたと思われますが、最終的にはフロリダに引退し、1978年に亡くなりました。マーヴィンは1954年にシーグラムからオールド・ブーンの名前を買い取り、蒸溜所の名前をオールド・ブーン蒸溜所へと変更しました。マーヴィンの息子ウィリアム・"ビル"・パジェットは蒸溜所が閉鎖される1977年までプラント・マネージャーを務めました。マッシング・キャパシティは1日あたり750ブッシェル(約75バレル)で、6つの倉庫の総容量は約95000バレルだったそう。この蒸溜所の主なブランドは「オールド・ブーン」、「ディスティラーズ・チョイス」、「オールド1889」等でした。ヴァージンと同じように後にヘヴンヒルが復刻することになるオールド1889のブランドは、カンザス・シティのトム・ペンダーガストから購入したもので、主にその地域で販売され、ブランドの年間販売量は約5万ケースだったそうです。
ちなみにビル・パジェットは、1932年11月20日、マーヴィン・J・パジェットとグレース・R・パジェットの間にルイヴィルで生まれ、5人兄弟の4番目でした。1950年セント・ザヴィエル・ハイスクール卒業、1954年ザヴィエル・ユニヴァーシティ卒業。ザヴィエルでROTCを修了した後、ドイツのバウムホルダーで中尉として兵役に就きます。その後、父の足跡を継いでバーボン・ウィスキー業界に入ったビルは40年近くバーボン蒸溜所を管理しました。オールド・ブーン蒸溜所を皮切りに、ワイルドターキー蒸溜所、そしてメーカーズマーク蒸溜所で生産担当副社長としてキャリアを終えました。彼は最高級のケンタッキー・バーボンを造ることにかけては世界クラスの舌を持っていたと評されています。ウィリアム・R・"ビル"・パジェットは2016年9月10日、自宅で家族に見守られながら静かに83歳で息を引き取りました。彼はケンタッキー・カーネルではありませんでしたが、ルイヴィル・ロードであり、サラブレッド競馬を愛し、調教師だった弟のジミーと共にサラブレッドを所有していたとか。

蒸溜所の名前となった「オールド・ブーン」は、元々はブーン&ブラザーズ蒸溜所(ネルソン郡第5区RD#422)のブランドでした。チャールズ・Hとニコラス・Rのブーン兄弟は、1885年頃にR・B・ヘイデンが旧ギルキー・ラン・ロードのすぐ傍らの農場で経営していた蒸溜所を購入し、フランク・N・ブーンがディスティラーとなりました。彼らは、ダニエル・ブーンの近親者とされるウォルター・"ワティ"・ブーンの子孫でした。ワティとダニエルの関係は系図サイトを調べてもよく分かりませんでしたが、それは兎も角、ワティとその友人スティーヴン・リッチーはネルソン・カウンティの初期入植者で、1776年頃、ブーンはポッティンジャーズ・クリークに、リッチーはブーンから10マイル離れたビーチ・フォークに定住し、1780年に二人はそれぞれの地元で販売するウィスキーの製造を始めたとされます。1795年、ワティは工場を1日2ブッシェルの規模に拡張し繁盛させました。彼は息子(チャールズ・Hの祖父)をパートナーとして迎え入れ、その翌年には生前に偉大なディスティラーとしてこの地方一帯に名を馳せていた"オールド・アンクル・ジョニー・ブーン"が3分の1の権益を認められたらしい。アンクル・ジョニーは、おそらくワティの次男のジョン・ブーンのことと思われます。1830年になるとジョージ・ブーンの息子とチャールズ・Hの父が蒸溜所に入り、この国で最も優れたディスティラーの一人として認められたそう。また、ブーン兄弟の母方の祖父であるジョージ・ロビンソンも実践的なディスティラーとして50年以上に渡り上質なウィスキーを製造していたとされ、つまりブーン兄弟の先祖は父方、母方ともに実践的なディスティラーだったようです。但し、ここら辺の情報はダニエルとワティの関係と同様、系図サイトで調べてもよく分からず、多分に言い伝え的な側面があるかも知れません。
言い伝えついでに言うと、あのエイブラハム・リンカーンも少年時代にブーンズと関わりがあったようです。当時ブーンの蒸溜所から約10マイル離れたホッジェンヴィルに住んでいたエイブラハムの父トーマスは厳しい状況にあり、生活を正すため1814年にジョン・ブーンの蒸溜所での仕事に応募しました。するとブーンはトーマスに雇用を与え、彼が一流の人材であることを認めます。トーマスは妻のナンシー・ハンクスと息子のエイブら家族を蒸溜所から約1マイルの家に引っ越しさせましたが、昼飯のために家に帰るのが不便になり、時には夕食を摂るのにも不便に感じました。そこで、若いエイブラハムは食事を父のところへ運ぶようになりました。トーマスがインディアナに移る前年、エイブラハムは蒸溜所で父の手伝いを始め、ワティ・ブーンは「あの少年はどんな商売に就いても必ず立派な人物になるだろうし、もしウィスキー・ビジネスに進むならこの地で一番のディスティラーになるだろう」と言ったとか。
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ブーン&ブラザーズ蒸溜所はバーズタウンとロレットのターンパイク沿いにあり、蒸溜所へ続く道沿いの風景は美しく、プラントに近づくにつれて広がる野原は壮大な雰囲気を醸していました。蒸溜所は渓谷の突端近くにあり、敷地からは良質な湧き水が豊富に出で、上質なウィスキーを製造していたそうです。1872〜83年に掛けてニューホープ近郊のF.M.ヘッド&カンパニー(RD#405)の一部オウナーだったコヴィントンのディストリビューターであるオリーン・パーカーが同社のインタレストを購入し、卸売業者を通じて生産物を販売しました。ブランドには有名な「ブーン・ブラザーズ」や「オールド・ブーン」、パーカーのプライヴェート・ラベルの「オールド・メイド」があったと伝えられています。チャールズ・H・ブーンはその後、ウィギントン&ブーン・ハードウェア・ストアの共同経営者となりました。1903年、蒸溜所はシクストン, ミレット&カンパニーに買収されます。
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ジョン・シクストンはディスティラー、バンカー、ポリティシャンとして生涯に多大な功績を残した人物でした。彼は1834年3月、ケンタッキー州ジェファソン・カウンティで生まれました。父親も同じくジョンという名前で、メリーランド州出身でしたがケンタッキー州に来て死ぬまでそこに住み、銀行業と証券会社の経営に携わったと伝えられています。5男1女の6人兄弟の1人だったジョンは、当時としては十分な教育を受け、20歳まで学校に通い、その後は学校の教師をし、同時期に墓石も売っていたらしい。彼は21歳の時、ケンタッキー州デイヴィス・カウンティのメアリー・エレン・マーフィーと結婚しました。彼女はダニエル・マーフィーとハリエット・ケリーの娘で、夫と同い年でした。シクストンは家族のためにより良い暮らしをしようと教職を辞し、農業に就きます。10年間土地を耕した後、彼は他の仕事の方が有望であると判断し、1865年、農場を売却してオーウェンズボロに移り、ウィスキー販売に重点を置いた食料品業に従事しました。1881年1月にはウィスキー販売に専念するため食料品店を売却したとされます(或いは1889年にオーウェンズボロで父の酒類卸売業を引き継いだという説もありました)。この頃はスローターという名の共同経営者がおり、彼らはジェファソン・カウンティで最も古い卸売業を経営していたA・D・ヒル博士の後を継ぎ、その在庫を買い取って販売していたらしい。彼らは別の企業ジョン・シクストン・ディスティラリー・カンパニーを1881年2月に設立します。この蒸溜所はオーウェンズボロの裁判所から1マイルほど東に位置し、18000ドルを掛けてすべての新しい建物と設備で建てられました。マッシング・キャパシティは1日280ブッシェル、年間推定6500バレルのウィスキーを生産、シクストンがチーフ・ディスティラーを務めたそう。1902年頃、スローターは引退したのか現場から姿を消し、シクストンは新たなパートナーとして自身のオーウェンズボロの蒸溜所をグレンモアのリチャード・モナークに売却したE・P・ミレットとコンビを組むことになります。彼らはオーウェンズボロのウェスト・メイン・ストリートに卸売と蒸溜所代理店を営むシクストン, ミレット&カンパニーを設立しました。シクストンとミレットはウィスキーの供給量を確実に増やす機会を狙い、2つ目の蒸溜所としてケンタッキー州バーズタウンの東2マイルに位置するネルソン郡のブーン&ブラザーズ蒸溜所を1903年に購入しました。1892年の保険引受人の記録によると、ブーンの蒸溜所はフレーム構造で、スティルの北125フィートにアイアンクラッドのボンデッド・ウェアハウスがあり、スティル・ハウスの東50フィートには牛小屋があったとのこと。蒸溜所は納屋の延長線上のような造りだったようで、ブーン兄弟は地元の穀物を購入し、地元でのみ販売する酒を製造していました。シクストンとミレットがこの施設を購入した当時は、1日当たり約70ブッシェルのマッシング・キャパシティ、熟成倉庫は1200バレルの容量だったとされています。二人は時間を掛けずに蒸溜所を拡張し、2年も経たないうちにマッシング・キャパシティは大幅に向上、新しい熟成庫によって貯蔵能力は2600バレルに達しました。ウィスキーは大きな陶器のジャグで卸売りし、小売ではガラス・ボトルで販売したようです。このパートナーシップから生まれた最も有名なブランドは「シクストン V.O.」でした。その他のブランドには「デ・ソト」、「フィネガンズ」、「ハードル・ライ」、「アイドルブルック」、 「オールド・ワグナー」等があったと伝えられ、そして「オールド・ブーン」は取得後にフラッグシップ・ラベルとなったでしょう。シクストン, ミレット社の酒を扱う酒場に提供したサインもあり、おそらくダニエル・ブーンと思われる人物が掘っ立て小屋のような蒸溜所の前に座る姿が描かれています。この絵柄は、後のメドウローン時代のオールド・ブーンのラベルにも用いられていました。
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ジョン・シクストンはウィスキー・トレードを成長させる一方、父親から受け継いだとされる銀行業にも従事していました。また政治家としても1877年にオーウェンズボロ市長選に出馬すると当選し、その職を2年間務めたと言います。プライヴェートの面では、7人の子供の母親である妻メアリーが結婚して21年目の1876年に42歳で亡くなりました。シクストンは6年後にファニー・G・ディッキンソンと再婚。彼女はまだ21歳で、彼より38年長生きすることになります。
禁酒法が州や地方を「ドライ」にし始めた頃も、シクストンとミレットの会社は拡大を続けました。1912年、彼らはケンタッキー州マリオン郡シカゴのオールド・サクソン蒸溜所(**)を買収し、そこにグレイン・エレヴェイター、ボトリング・ハウス、クーパレッジを備えた最新鋭の施設を作り、「オールド・ブーン」の生産をこちらで続けたようです。1914年にはデトロイトにも営業所を開設。しかし同年、ジョン・シクストンは80歳で亡くなり、オーウェンズボロのローズヒル・エルムウッド・セメタリーに埋葬されました。彼が創業し全国的な名声を得るまでに成長したリカー・ビジネスは息子のチャールズに引き継がれましたが、禁酒法の到来によりシクストン, ミレット&カンパニーは1919年に事業を停止し、同社のケンタッキーの蒸溜所は閉鎖されました。ミレット氏は禁酒法施行後、暫くしてルイヴィルで製材業に参入したそうです。そして、詳しい経緯は分かりませんが、禁酒法期間中もしくは禁酒法廃止後すぐにブランドの権利はシーグラムに買収されたのでした。

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偖て、オールド・ブーン蒸溜所の方へと話を戻します。1959年になるとシンシナティのブローカーであるレイモンド・ビュースの息子レイモンド・"パット"・ビュース・ジュニアが蒸溜所を購入し、数年間操業しました。ネイティヴ・シンシナティアンのパットはオハイオ州ハイド・パークで育ち、セント・ゼイヴィア・ハイスクールとジョージタウン・ユニヴァーシティを卒業し、第二次世界大戦中はUSアーミーに従軍。帰国後、ユニヴァーシティ・オブ・シンシナティのロー・スクールに1年間通った後、父親が設立したウィスキー仲介会社でカリュー・タワーに本社を構える家業のR.L.ビュース・カンパニーにフルタイムで働き出します。同家が所有するようになったメドウローンのオールド・ブーン蒸溜所で生産とブランディングを監督する彼のビジネス手腕は瞬く間に勢いを増し、同社を全米で最も成功したウィスキー・ブローカーの一つと見做されるまでに成長させました。しかしその結果、彼は生涯飛行機恐怖症であったため、ディスティラーズ・プライド、メドウ・スプリングス、ヴァージン・バーボンといったファミリー・ブランドを宣伝するために48州内の主要幹線道路ほぼ全てを走り回ることになりました。また、彼らは一貫した収益源であるカスタムメイドのラベルも多く手掛け、ケンタッキー州以外の流通向けに多くのラベルをボトリングしていました。大手のホテルやリゾートやカントリー・クラブは、自社のファサード等を描いたボトルの威信を求めていたのです。そうしたカスタム・ラベルの中で有名な物の一つがウォーターゲイト・バーボンでしょう。
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おそらく60年代後半頃、パットはワシントンのホテルのジェネラル・マネージャーを説得して、ホテルのバー用にカスタム・ラベルを作成したのだと思われます。1972〜73年に掛けてウォーターゲイト・ホテルへの不法侵入とそれに伴う隠蔽工作が全国メディアで熱を帯びた時、レジでのウォーターゲイト・バーボンの販売も同様にホットだったようです。幸運なことに、民主党はこのニッチなブランドを全米各地の民主党の集会で提供することを強く求めたらしい。しかし、この忠実な共和党員の蒸溜所オウナーには一つの後悔がありました。彼は文字通りウォーターゲイト・バーボンのボトルを十分な速さで民主党に売ることが出来なかった、と。ちなみに裏ラベルにあるメドウ・スプリングス・ディスティラリー・カンパニーの名はオールド・ブーン蒸溜所のDBAでしょう。網羅的ではないですが、取り敢えずメドウローンの所在地記載があるラベルを纏めた私のピンタレストのボードを以下に貼り付けておきます。
レイモンド・ビュース・ジュニアは、ウィスキーの世界よりも他の界隈で有名かも知れません。彼はビジネス・リーダーであり、メジャーリーグ・スポーツのオウナーであり、サラブレッド・オウナー兼ブリーダーとしても高い評価を得た人でした。スポーツは特に生涯の情熱でした。彼と弟の"バリー"は1960年代後半、2つの別々のオウナーシップ・グループに加わりました。一つはシンシナティにレッズを残すために結成されたグループ、もう一つは設立間もないAFLフランチャイズを運営するために結成されたグループです。ビュース兄弟はスポーツ界の大物で、シンシナティ・レッズのオウナーとして2度のワールド・シリーズ制覇(1975年、1976年)を含む4度のナショナル・リーグ優勝(1970年、1972年、1975年、1976年)を達成。ジョニー・ベンチ、ピート・ローズ、ジョー・モーガンといったスター選手を擁した"ビッグ・レッド・マシーン"時代のレッズは人々を熱狂させました。更に2度のスーパー・ボウル出場(1982年と1989年)に沸いたポール・ブラウン時代のシンシナティ・ベンガルズのオウナー/ディレクターを務めています。
パットはビュース家の他のメンバーに影響を受けて馬の虫に取り憑かれると、1960年代にはミルフォード郊外に100エーカーの牧場を購入し、すぐに馬に就いて研究し、繁殖を指揮して競馬場用のサラブレッドを育てました。勉強熱心な彼は、数年のうちにオハイオ・サラブレッド・ブリーダーズ・アンド・オウナーズ・アソシエーションの会長に選ばれ、生涯を通じてオハイオとケンタッキーのサラブレッド業界に影響力を持ち続けたと言います。サラブレッド繁殖のキャリアに於いてパットはオハイオ州に2つ、そしてケンタッキー州ウォルトン郊外に400エーカーのエリス牧場を所有しました。ウィスキー・ビジネスから足を洗うと、コヴィントンの歴史あるグラント・ハウスで金融コンサルティング会社のビュース・ファイナンシャル・サーヴィスを開業しました。また、ケンタッキー州ドライ・リッジで銀行を買収・経営し、コヴィントンのハンティントン・バンクとベリンガー=クロフォード博物館、フローレンスのブーン・カウンティ計画委員会などの理事を長年務め、またセント・ゼイヴィア・ハイスクール、トーマス・モア・カレッジ、ジョージタウン・ユニヴァーシティ等の理事も務めました。学者肌のビジネス・リーダー、考えるスポーツマン、紳士的な馬主など、人生とキャリアのあらゆる局面でその美徳を体現し、「ザ・セネター」と呼ばれたレイモンド・"パット"・ビュース・ジュニアは、2011年3月3日、85歳でハイドパークの自宅で亡くなっています。

パットがオールド・ブーン蒸溜所を買い取って以後、プラントには相次ぐ災難が降り掛かりました。1966年11月、ボトリング・ハウスとケース・ストレージ・ルームが火災で焼失。1971年1月にはボイラーが爆発し、その爆発でガス管が破裂して蒸溜所が燃えるという大きな被害が出ました。蒸溜所は再建され、新しいマッシングとディスティレーションの装置が設置されました。その後、蒸溜所建物の上にウォーター・タンクが設置されますが、構造的に問題があったらしく、タンクは転倒し蒸溜所と事務所の一部を突き破ったと言います。ビュースは1969〜1977年までD・W・カープからセント・フランシスのプラント(RD#21)の倉庫を借りていましたが、1977年に事業を完全に停止することを決定し、オールド・ブーンの設備を競売に掛け放棄しました。工場が閉鎖された時、ヘンリー・クーパーが会計責任者、オスカー・クレイヴンズがディスティラーでした。ダントの時代には、ジム・ダントの息子サド・ダント、ハリー・ダントの息子でありジム・ダントの孫フィル・ダントも蒸溜所で働いていたそうです。このようにダンツの長い歴史は、彼らの故郷であるマリオン・カウンティだけでなく、ネルソン・カウンティやジェファソン・カウンティにも及んでいた、とサム・セシルは自著に書いていました。

興味深いことに、オールド・ブーン蒸溜所が閉鎖された時、その在庫の殆どはオースティン・ニコルス&カンパニーによって買われました。彼らは自らのボトリングに使用する積りで購入しましたが、ワイルド・ターキー蒸溜所を所有していたためそれは使用されず、最終的にはジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が購入し、オリジナルの最初期のパピー・ヴァン・ウィンクル20年や23年、ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ16年や17年を作成するために使われました。これらの在庫がなくなるとジュリアンはスティッツェル=ウェラーのウィーテッド・バーボンに切り替えたと言われています。それは兎も角、或る時点でヘヴンヒルはヴァージン・バーボンやその他のブランドとメドウローン・ディスティリング・カンパニーの商号を取得しました。そして、ヴァージンのブランドは80年代半ばもしくは後半頃から主に日本向けに輸出されるようになり、アメリカ国内でも何時からか一部の地域で販売されるようになった、と。
ところで、「ダニエル・ブーン」というブランドの「パイオニア・ジャグ」が主に70年代に流通していました。プラット・ヴァリーのストーンジャグと似たような懐古趣味的なやつです。海外のオークションではその空ジャグが売られているのをよく見かけるのですが、77年ボトリングと推定される物は、76年までのボトリングの物と違い、所在地表記がローレンスバーグになっています。
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このローレンスバーグというのがワイルドターキー蒸溜所の所在地を表しているのなら、もしかするとオールド・ブーン蒸溜所のブランドも一旦はオースティン・ニコルスを経由してからヘヴンヒルに渡ったのかも知れません。J.T.S.ブラウン蒸溜所(現在のワイルドターキー蒸溜所)が所有していたと思われるブランド群、「J.T.S.ブラウン」、「アンダーソン・クラブ」、「オールド・ジョー」等と一緒にオールド・ブーン蒸溜所のブランドもヘヴンヒルに流れたと考えるとすっきりすると思うのですが、どうでしょう? そう言えば、ヘヴンヒルがボトリングしているオールド・ジョーの12年物の裏ラベルには、オールド・ブーン蒸溜所が蒸溜と記載されているものがあります。ブランドの購入と共に在庫のバレルも購入したのでしょう。だとすれば、ラベルに明記されていなくとも、他にも何かしらのブランドにオールド・ブーン蒸溜所の在庫のバレルが使われている可能性があってもおかしくはなさそうですね。え?、待って、初期のヘヴンヒル版ヴァージン・バーボンの日本向けエクスポートはどうなのよ? 15年物とか? 熟成年数を考えたらオールド・ブーン原酒の可能性は十分あるのでは…。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? ご意見ご感想をコメント欄よりどしどしお寄せ下さい。
では、そろそろ私の手持ちのボトルを注いでみるとしましょう。今回開けたのは推定2010年ボトリングの物なので、多分バーンハイム産と思われます。

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VIRGIN BOURBON 7 Years Old 101 Proof
推定2010年ボトリング。色は赤みを帯びたダークブラウン。重厚な焦げ樽、ベーキングスパイス、レーズンパン、樹液、黒糖、チェリー、シリアル、オールドファンク、僅かなナッツ、マッチの擦った匂い。口当たりは円やかだが、じんわりとヒリヒリ感も。液体を飲み込んだ後にはスパイス・キックが熱い。余韻はミディアム・ロングで、グレイニーなコクとビター感、微かにハーブも出る。
Rating:86/100

おまけで年代違いも試飲できたので感想を少しばかり。これはバーFIVEさんの会員制ウィスキー倶楽部で提供されたものでした。こちらはボトリング年代からバーズタウンの旧ヘヴンヒル蒸溜所産と思われます。

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(画像提供Bar FIVE様)
VIRGIN BOURBON 7 Years Old 101 Proof
推定91年ボトリング。濃密なキャラメル、バーントオーク、ヴァニラ、オールドファンク、ベーキングスパイス、ミント。とても甘く、かつスパイシーな香り立ち。口当たりは円やかながら、飲み込むとガツンとスパイシー。パレートでも舌先で甘みを、口中全体でスパイス感を感じ易く、フルーツがあまり感じられない。余韻は長々と苦いスパイスが残る。全体的に焦がし砂糖とスパイスに振れたオーク・フレイヴァーが主。
Rating:85.5/100

Thought:近年の他の7年熟成バーボンより圧倒的に熟成感がありました。ボトリングされてからの経年でかなり円やかになったとは思いますが、オークの深みやコクは元からかと。バーンハイムだからどうなのかなと思って飲んだのですが、開けたてはバーズタウンのプリ・ファイア物とさほど変わらない印象をもちました。開封から半年くらいすると、ヘヴンヒル云々というよりオールド・バーボン全般に感じられる香味と言うのでしょうか、そちらの方が強く感じるようになりました。
両者を比較すると、91年の方が甘い香りとスパイシーさは強いのですが、2010年の方がフルーツやグレインを感じ易くバランスは良いと思いました。自分の好みでレーティングに少し差を付けましたが、どちらも甘くもあり辛くもあり、バーボンらしい魅力を湛えたバーボンです。


*イリノイ州の都市と混同されたためかどうかは判りませんが、町の人々は自分たちの教会にちなんで1938年に名前をセント・フランシスに変えたそうです。

**この蒸溜所は、J・R・スミスとJ・P・スミスが1855年以前から操業していたプラントがルーツのようです。ケンタッキー州マリオン郡シカゴ(現在のセント・フランシス)のダウンタウンにありました。 彼らのブランド、スミス&スミスはハンドメイド・サワーマッシュで、年間生産量は約100~200バレルと今日の水準からすれば極少量でした。このウィスキーは、ルイヴィルのブローカーであるテンプレット&ウォッシュバーン(またはテンプル)が販売したと言われています。或る情報源によると、1855年にジョン・プロクター・ダント・シニアが蒸溜所を購入し1879年または1891年まで操業した、とあるのですが、彼は1855年生まれとされているので、本文では1890年購入説を採用しました。
ダントが数年間運営し撤退した後は、地元の商人トーマス・ブレアが蒸溜所の経営に携わるようになりました。彼は熟練したディスティラーとして評判を得ていた地元のバラード[ジャック・サリヴァンによると、おそらくW・T・バラードとのこと]と組み、プラントを買収しました。バラードの一族はマリオン・カウンティでは名の知れた一族だったらしい。ブレア&バラード社の経営下で会社は繁栄しました。1894年には1000バレル以上のウィスキーが焼失する火災に見舞われましたが、蒸溜所はすぐに再建されウィスキー造りを再開したと言います。その後、3番目のパートナーが加わり、社名はブレア, オズボーン&バラード(またはブレア, バラード&オズボーン)に変更されました。ボトルド・イン・ボンド法により、プラントは第5区RD#11になりました。
1907年、トーマス・C・ブレアが65歳で亡くなると、会社の経営体制は刷新されました。なんと妻のメアリー・ジェイン・ブレアが夫の蒸溜所の株を相続し、パートナーらから事業を買い取り、名前をメアリー・ジェイン・ブレア蒸溜所と改めました。メアリー・ジェインは当時シカゴと呼ばれていた小さな集落の近くで1844年にハリーとアニーのピーターソン夫妻の間に生まれ、農場で育ち、生涯この地域に住みました。フレンチ・インディアン戦争と独立戦争に従軍した軍人フランシス・マリオンにちなむマリオン・カウンティの郡庁所在地レバノンから西12マイルに位置するこの町は、同じ名前のイリノイ州の大都市とは似ても似つかないものでした。19世紀初頭に入植が始まった人口約150人のシカゴの最大の財産はルイヴィル&ナッシュヴィル鉄道の駅でしたが、この付近では蒸溜酒の製造が盛んだったようです。そのため彼女は早くから蒸溜酒製造の仕事には馴染みがあったのでしょう。マリオン郡出身で1833年生まれで11歳年上の地元の蒸溜業に携わるトーマスと出会い結婚しました。トーマスとメアリー・ジェインの間には11人の子供が生まれたそうです。人生の大半を主婦として、また母親としてブレア家で過ごしていた彼女でしたが、殆ど男性が支配していた業界に於いて、1907〜1919年まで蒸溜所をマリオン・カウンティの主要なウィスキー製造施設としました。メアリー・ジェインはディスティラーに同じくマリオン・カウンティのウィスキー・マンとして知られたW・P・ノリスを雇いました。蒸溜所の日々の経営は息子のニコラス("ニック")に任されていたようです。1867年生まれのニコラスは、地元の学校で教育を受け、近くのゲッセメニー・カレッジで3年間学び、家に返ってくると父と共に雑貨商や蒸溜酒取引業で働きました。1898年、バラード家の母を持つシカゴのメアリー・エレン・ノリスと結婚。夫妻には2人の子供がいたそう。ニコラスはマリオン郡の有力な市民と見做され、地方問題や民主党の政治に積極的な関心を寄せていたと言われます。ニコラスは母の名を冠した蒸溜所の生産能力を拡大、1912年までにプラントは1日118ブッシェルのマッシング・キャパシティがあり、合計9000バレルを貯蔵できる4つの倉庫を備えていたとされます。ブレア家は幾つかのラベルを所有し、ブレアズ・オールド・クラブ・ブランドは人気だったと聞き及びますが、彼らの製品はD.サックス&サンズを通じても販売されていたようです。「ピューリタン・ウィスキー」や「ピューリタン・ライ」で名高いルイヴィルのウィスキー・ブローカーであるデイヴィッド・サックスは、広告でこの蒸溜所をオールド・サクソン蒸溜所と呼び、所有権者を主張していました。
サックスの会社は所謂レクティファイアーと思われますが、禁酒法以前の業界はブランドの管理は中間業者や流通会社が行い、このような組織が蒸溜所経営者との契約関係を通じてその施設の全生産量を一時的に買い占めていたりすると、蒸溜所の名前を流用することは一般的でした。当然のように「オールド・サクソン」というブランドもありました。 厳密な意味で蒸溜所の所有者はよく分かりませんが、メアリー・ジェイン・ブレアの名も使用されていたみたいです。1912年(または1914年とも)、プラントは事業の拡張を続けるシクストン, ミレット&カンパニーに買収され、禁酒法施行まで操業し、その後閉鎖されました。
メアリー・ジェイン・ブレアは禁酒法の廃止を見ることなく、1922年、76歳で亡くなり、セント・フランシス・セメタリーの夫の近くに埋葬されました。しかし、ブレア家は蒸溜所での仕事を諦めていませんでした。禁酒法解禁後、50代半ばになっていたニック・ブレアは1935年に蒸溜所(RD#21)を再建し、ブレア・ディスティリング・カンパニーという新会社を組織すると、シクストン, ミレットとそのブランドを買収、「カーネル・ブレア」、「ニック・ブレア」、「ブレアズ・オールド・クラブ」といったブランドを生産しました。ニック自身がディスティラーだったとされています。新しい会社は施設を拡張し、1936年までには1日500ブッシェル以上の生産能力をもち、4つの倉庫は38000バレルのウィスキーを貯蔵できたました。しかし、おそらく世界大恐慌に伴う経済的圧力のため、1930年代後半にはブレア・ディスティリング・カンパニーは売却されてしまいます。ウォルター・ブレアはブレア家の最後のメンバーで、プラントをレアーという人物に売却しました。その後D・W・カープがレアーから蒸溜所を購入します。どうやらこの頃には施設はワインのボトリングや貯蔵に使われていたらしい。
1943年、カープはシーグラム社に蒸溜所を更新可能な10年契約でリースしました。彼らは第二次世界大戦中、政府のハイプルーフ・スピリッツ・プログラムのために操業していましたが、その後は貯蔵のためだけにプラントを所有していました。1953年に10年リースを更新し、それが切れると1年ごとの更新となったそうです。シーグラムは1965年までに倉庫を空にし、敷地を明け渡しました。1970年初頭、メドウローンのオールド・ブーン蒸溜所(RD#39)は追加の倉庫が必要となり、この倉庫を借りました。そこで、ロレット蒸溜所(RD#41)の株主でレバノン出身のアーサー・ボールが倉庫管理のために雇われます。これはパット・ビュースがメドウローンでの操業を中止する1977年まで続きました。ウィスキーが撤去された後、カープは倉庫の撤去のために地元の引き揚げ業者ジェラルド・グリーンを雇い、解体された木材は販売されたようです。こうして、この蒸溜所の歴史は幕を閉じました。

***ルイヴィルで「パイオニア・ボトリング・ハウス」として事業を開始したのは1890年とする説もありました。後に「ジョン・P・ダント」と改名し、ダント&カーターというパートナーシップを組んだようです。

****「ダント」の商標を巡る「J.W.ダント」を所有していたシェンリーとジョン・P・ダント・ディスティラリー・カンパニーの裁判記録によると、ジョン・P・ダント・ジュニアは1954年2月に二人の姉妹と共にオハイオ州シンシナティのR.L.ビュース社にインタレストを売却するまで社長を務めたとされています。その裁判記録にはマーヴィン・パジェットの名は出てきませんが、ここではサム・K・セシルの著書の記述に従いました。また、以降の本文に出てくるパット・ビュースの購入年代に関してもセシルの記述を基にしています。
その裁判記録では、註**で触れたジョン・P・ダント・シニアの件については、1912〜1922年までケンタッキー州マリオン郡シカゴのスミス・ディスティラリー社の社長兼大株主だったとありました。こうした歴史を整理しようとすると、蒸溜所の名前が複数あったり、所有権の変遷が複雑過ぎたり、年号がバラバラだったりと、混乱するばかりで到底私には分からないことだらけです。なのでここに整理した歴史は、正確な歴史的事実を記している訳ではなく、飽くまで伝聞や伝承として参考程度にとどめて下さい。

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今回は、前回まで開けていたフォアローゼズ産ヘンリーマッケンナの近年ボトルと比べてみようと、90年代の同じくフォアローゼズ産の物を開けてみました。ヘンリーマッケンナにフォアローゼズ産とヘヴンヒル産があることについては以前投稿した記事を参照下さい。

見た目としては、液体の色は画像では伝わり難いと思いますが90年の方が若干濃いめです。ラベルのデザイン自体は変わりないものの、微妙に使われる言葉が違ったりしますね。近年物は「kentucky Straight Bourbon Whiskey」、90年の方は「Kentucky's Finest Table Whiskey」となっています。
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そして、これまた画像では判らないと思われますが、この90年は濁ってこそないものの少々曇りが見られます。それと、現行の安いバーボンには見られない微粒子感もあります。では、さっそく注いでみましょう。

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HENRY McKENNA 80 Proof
推定90年ボトリング(瓶底)。色はアンバー。石鹸、オールドファンク、キャラメル、オールスパイス、ヴァニラウエハース、クローヴ。開けたてはソーピーな香り。水っぽい口当たり。パレートはドライで微妙な収斂味も。余韻にも爽やかな清涼感と石鹸ぽいフローラルが。
Rating:77→83.5/100

Thoughts:初めに述べたように近年物と90年物を比較しようとしていた訳ですが、残念なことにこちらのボトル、石鹸の香りが強すぎて較べる対象としては適していませんでした。友達にも飲んでもらったところ「俺的にはそんな悪くないけどね」と言っていたので、大丈夫な人には大丈夫なんでしょうけど、私的には飲み物としてここまで石鹸の香りがするのは好みではありません。また、オールドなファンキネスも強過ぎました。そうした部分を抜きにして言うと、アルコール刺激は少なく、フレイヴァーの密度も近年物より優れていたとは思います。邪魔な臭いがあるとは言え、こちらの方が断然、熟成年数が長そうなダークなテイストは明らかに感じられたので。70〜90年代バーボンには、エントリー・クラスの物にも有り余っていた長熟バレルをブレンドしていたと聞き及ぶのですが、正にそんな感じのコクのある味わいです。但し、甘さとフルーティさはそれ程でもなく、ビターかつドライに傾いてはいます。

…と、ここまで否定的に書いていたのですが、開封から少しづつ飲み1年が経過すると石鹸臭が消えまして、急に美味しく感じるようになりました。上の点数の矢印はそれを示しています。

私が近年物と旧来物を比較したかった背景には、フォアローゼズ蒸溜所の製法が関わっています。周知のように同蒸溜所では現在、2つのマッシュビルとキャラクターの違う5つのイースト菌を使って10種類の原酒を造りますが、それは一体いつから始まったのでしょうか? フォアローゼスは1943年にシーグラムの傘下に入りましたが、シーグラムは酵母の研究に余念がなかったと言われるので、その当時から行われていた製法なのでしょうか? それらははっきりしません。けれど、近年物と90年物を比較することで何か見えることもあるのではないか、と考えていたのです。えー、結果は…よく分かりませんでした(笑)。すぐ上に書いたように長熟ぽさは感じたものの、マッシュビルが「E」なのか「B」なのか、はたまた混合なのか、イーストは何なのか、までは私には全く感じ取れませんでした。強いて言えば、この頃の物を飲んでもハイ・ライぽい印象は受けましたが…ただそれだけです。
以上のような訳で、昔のフォアローゼズ蒸溜所の事情に精通している方はコメント欄よりご教示頂けると幸いです。あと昔のボトルを飲んだことのある方はどういう感想をもったでしょうか、またバーボンの石鹸香についての体験談や考察なども、是非コメント欄よりどしどしお知らせ下さい。

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