カテゴリ: オールド&ヴィンテージ

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バーFIVEさんでの二杯目の注文はオールド・フォレスター・パーソナライズドにしました。ブラウン=フォーマンの旗艦ブランドであるオールド・フォレスターのこの特別なボトルは、同社の特別生産品で、1930年代後半頃から主にプロモーション販売に使われ、後に同社から直接通販できる特定の個人に向けたギフトボトルとして使用されていたそう。トップ画像のラベルで見られるような「Especially for」、または「For the Personal Use of」等の文言の下部にその個人名が入ります。私が飲んだこのボトルでは、ラベルの経年劣化で消えてしまったのか、或いは元々自分で書き込むように空欄だったのか判りませんが、とにかく個人名は見えません。オールド・フォレスター・パーソナライズドを画像検索で見てみると、比較的長期間(30年代後半〜50年代?)に渡って販売されていたためか、微妙にラベルデザインが異なっていたり、様々な箱に入っていました。中身に関しても多くのエイジングがあり、初期と思しき1938年ボトリングの1クォート規格の物には22年や24年熟成(つまり禁酒法前の蒸溜物)があったり、1940年代の4/5クォート・ボトルでは基本5〜6年熟成と思われますが蒸溜プラントはRD#414の場合もあればRD#354の場合もあったりします。また、何ならオールド・フォレスター・パーソナライズドと同じボトルデザインでラブロー&グラハム名義の物もありました。
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これらパーソナライズド・ラベルのボトルは、画像で確認する限りどれもボトルド・イン・ボンド・バーボンとして製造されたのではないかと思います。品質に関しては、シングルバレルかスモールバッチか定かではありませんが、おそらく相当に良質なバレルを選んでいるのではないかと予想します。ブラウン=フォーマンには特別なバーボンと言うと、パーソナライズドの他に「プレジデンツ・チョイス」があります。オールド・フォレスターの創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンが当時のケンタッキー州知事のために選び特別にボトリングした1890年に始まる伝統を、ジョージ・ガーヴィン・ブラウン2世が1960年代にやや一般化し、特別な顧客のために蒸溜所の最も優れたハニー・バレルを探すプログラムがプレジデンツ・チョイスでした。正式には「プレジデンツ・チョイス・フォー・ディスティングイッシュト・ジェントルマン(卓越した紳士のための社長選定)」という名前で、トール瓶の物はシングルバレルでバレルプルーフまたは20バレル前後のスモールバッチで90.3プルーフにてボトリングされています。これはまだ業界にシングルバレルやスモールバッチというマーケティング用語が定着する数十年も前の話でした。
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で、このプレジデンツ・チョイスにはイタリア向けとされるパーソナライズドとボトルの形状が同じ物(色はクリア)もありましたし、なんとなく時期的にもパーソナライズドとプレジデンツ・チョイスが入れ替わりで販売されているように思えなくもないので、両者のコンセプトの差は社長自ら選んだかブレンダーが選んだかの違いくらいしかなく、パーソナライズドに使用されたバレルも蒸溜所の最高峰のバレルが選ばれているのではないか、というのが私の個人的な推測です。何故こんな根も葉もないことを言い出したかというと、それは今回飲んだこのボトルが余りにも美味し過ぎたから。まあ、他のパーソナライズドのボトルを飲んだことはないので、これは何とも心許ない憶測に過ぎません。それと、写真から分かるようにこのボトルは裏ラベルがなく、どこで製造されたかは不明です。普通に考えるとRD#414かなとは思うのですが…。ちなみに、ブラウン=フォーマンの統括的マスター・ディスティラーであるクリス・モリスによると、オールド・フォレスターのお馴染みのマッシュ・レシピは一度も変更されていないそうです。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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OLD FORESTER PERSONALIZED LABEL BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定50年代ボトリング(ストリップの印字がうっすらと57に見えるが不明瞭のため)。非常に濃いブラウン。全体的にセージやユーカリのような爽やかなハーブがリッチに薫るお化けバーボン。以前飲んだことのある5、60年代のオールドフォレスター(#414)とは全く異なるキャラクターでした。アロマは植物っぽい香りで、時間をおくと濃密なキャラメル香も。味わいはスイートでありながら単調ではなく複雑で深みを帯びています。フルーツは強いて言うとアップル。苦いハーブのタッチも僅かにありますが、癖のあるスパイスは現れません。そして途轍もなく長い余韻。グラスの残り香もハービー。
Rating:96.5/100

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過日、所用があって浦和まで出たので、帰りがけに少し足の伸ばして大宮のバーFiveさんまで行きました。実際に店舗に伺うのはまだ2回目であるにも拘わらず、とても温かく迎えて頂き、まるでホームに戻って来たような安心感を与えてくれたマスターとNさんのホスピタリティに感謝です。私は下戸であり、あまり時間もなかったため、それほど杯を重ねられませんでしたが、楽しい時間を過ごせましたし、珠玉のバーボンを飲むことも出来ました。先ず一杯目に選んだのは特別なアーリータイムズ。その昔、オークションで購入しようと思ったことはあったのですが、タイミングが合わず買い逃しており、飲んだことがなかったのです。こちら、私が伺ったタイミングで口開けして頂きました。

このヘリテッジ・エディションは、アーリータイムズの創業を1860年から数えて120年の伝統を祝し、1980年に限定数量にてリリースされました。ブラウン=フォーマン社はこのバーボンを特別なものとするため、創業者ジョン・ヘンリー・"ジャック"・ビームの時代の古いアーリータイムズのラベルを再現し、これまた前時代を反映した手吹きガラスの本格的なボトルに90.4プルーフのアーリータイムズ・バーボンを入れ、大事に保管できるよう専用の魅力的な木製ボックスに収めました。
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(古い時代のアーリータイムズのラベル)

ところで、気になるのはラベルに「バーボン」とない「ストレート・ウィスキー」の表記ですよね。
アメリカでバーボンの売上が激減していた1980年代初頭、税金やその他の様々なコストも上がる中、ブラウン=フォーマンはアーリータイムズにコスト削減の決断を下しました。酒類企業は、宣伝ではロマンティックな言辞を鏤めますが、実際には合理的なビジネスマンの集まりであり、所有するブランドから利益を上げれるように管理することについては冷酷だったりします。アーリータイムズは何より労働者のバーボンでした。彼らはそれが安いことを望みます。コスト削減は低価格を維持しつつ、なお利益も上げるための方策だったでしょう。アーリータイムズに使う樽の20%を中古樽で代用し熟成年数を短くすることで、値上げをしなくても利益を据え置くことが出来たのです。使用済みのバレルで熟成することは「バーボン」と名乗れなくなることを意味します。これにより、アメリカ国内向けのアーリータイムズはバーボンから「ケンタッキー・ウィスキー」となりました。アーリータイムズがバーボンでなくなったことで製品の品質は著しく低下します。往時、アーリータイムズの販売量はジムビームより僅かに少ないくらいだったと思われますが、ケンタッキー・ウィスキーへの転換以降、シェアは徐々に失われ、その差は広がって行きました。長年のアーリータイムズの忠誠者たちは年をとって亡くなってしまい、若い飲酒者にアピールしようにも既にブランドの個性は軽やかなウィスキーであるという後付の理由くらいしかありませんでした。低価格のブランドが販売量を失い始めると利益を維持するのは難しくなります。そこでブラウン=フォーマンは、アーリータイムズの再活性に多額の投資をする代わりに、ウッドフォード・リザーヴというプレミアムなブランドを立ち上げる訳ですが、これは別の話です。
で、ヘリテッジ・エディションのラベルにはバーボンと記載がないため、まさか中古樽熟成を含むケンタッキー・ウィスキーなのか?と一瞬疑ってしまいそうになりますが、ラベルにはしっかりと「ストレート・ウィスキー」と記載されています。ストレート規格は新樽で2年熟成の要件があるので、これはケンタッキー・ウィスキーではありません。それにアーリータイムズのバーボンからケンタッキー・ウィスキーへの切り替えは1983年とされているので、ヘリテッジの発売年から考えてもまだバーボンな筈です。そして当時の広告を見ると、実は小さく「ストレート・バーボン・ウィスキー」と書かれていました。
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(アウトドア専門誌『Field & Stream』1980年11月号に掲載された広告より)
おそらく、バーボンを名乗らずストレート・ウィスキーを名乗ったのは昔のラベルに倣ったのだと思います。しかし、その昔のアーリータイムズが何故バーボンを名乗らなかったのかは解りません。事情をお知りの方は是非コメントよりご教示下さい。それは扨て措き、中身に関しても具体的な情報がないので、これまた憶測になりますが、多分スタンダードなアーリータイムズとマッシュビル等は同じながら、かなり出来の良いバレルを選んでバッチングしているのではないでしょうか。これだけ外観のパッケージに拘っているのですから、きっと中身も…。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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EARLY TIMES STRAIGHT WHISKY Heritage Edition 90.4 Proof
推定1980年ボトリング。上で述べたように、開封直後の試飲となります。嫌なオールド臭はなく状態は良好でした。アロマはフルーティな香り立ちで、パレートでも引き続きドライフルーツや僅かにシトラスが感じられます。また苦味のないスパイシーさもいいです。余韻はややドライでしょうか。グラスの残り香は甘いお菓子のよう。以前飲んだ150周年アニヴァーサリーの方がプルーフは高いのですが、ちょっと比べ物にならないくらいこちらの方がフレイヴァーフルでした。ヘヴィなウッディさもなく、キャラメル様のスイートさとフルーツ感のバランスに優れ、頗る美味しいです。中庸なボトリング・プルーフが功を奏しているのかも知れませんね。
Rating:87/100

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今回はジムビーム・ブラックラベルの前身、ビームズ・ブラックラベルです。もともとビームの黒いラベルは「ジム・ビーム」ではなく「ビームズ」を名乗っていました。嘗ては白ラベルのフラッグシップ製品だけが「ジム・ビーム」の名を冠することが出来るという方針だったそうで、緑ラベルでお馴染みの「チョイス」なんかも昔は「ビームズ」でした。大手のビームからの製品であり、長期間販売されている割に、ブラック・ラベルの初登場がいつだったのかは、調べても分かりませんでした。有名なウィスキー・ブロガーのくりりんさんがビームの黒ラベルをレヴューしているのですが、それは75年ボトリングと推定され、なんとラベルは「チョイス」名義。これからするとブラック・ラベルというコンセプトが70年代半ばには既にあったのは間違いなさそうです。そして、それよりもボトルやラベルが古そうに見え、推定70年代ボトリングとされるビームズ・ブラックラベルがありました(参考)。ここら辺がオリジナルなのでしょうか。仔細ご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。その起源は兎も角、ビームズ・ブラックラベルは、70年代後半から80年代半ば頃には広告にも力を入れられていたようです。
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上の画像のように、ビームズ・ブラックと言えば101ヶ月熟成の表記が印象的です。つまり8年5ヶ月熟成ですね。何時の頃からか一般的な8年熟成表記に変わりましたが、少なくとも70年代後半から80年代半ばまでは101ヶ月表記だと思われます。ところで、何故わざわざイヤー表記ではなくマンス表記なのでしょうか? もしかすると、わざとマンス表記にすることで、ワイルドターキーの象徴的な数字「101」を意識しているのではないか、と私は邪推しています。また、黒を基調としたラベルと「サワーマッシュ」や「チャコール・フィルタード」の記載はジャックダニエルズを意識してるようにも思えます。多分ライヴァルの二つのブランドへのあからさまな対抗心がある気が…。まあ、上で言及したビームズ・チョイス・ブラックラベルは100ヶ月熟成でしたし、これは何の根拠もない私の想像です。

現在ジムビーム・ブラックラベルと呼ばれるこのブランドは、長年に渡って名称もプルーフも熟成年数もボトル形状もころころ変わりました(2000年代以降の変遷は過去に投稿した記事に書きましたので参考にして下さい)。そのせいか、マーケティング戦略の犠牲者のように見えなくもないブラック・ラベルですが、そもそもはスタンダードなジムビーム・ホワイトの倍の熟成年数を誇るプレミアムな製品だった筈です。ブッカーズを筆頭とするスモールバッチ・コレクションが誕生する以前は間違いなくそうでしょう。今回、開封したボトルは推定82年ボトリングです。ボトリング年からすると、まだスモールバッチ・コレクション開始前なので、相当ハイクオリティなバレルがバッチングに使用されていてもおかしくはないのでは?という淡い期待があります。逆に年代からすると過剰供給時代なので、単なる過熟バレルが使われてる可能性も否定出来ませんが…。では、試してみましょう。

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BEAM'S BLACK LABEL 101 Months 90 Proof
推定82年ボトリング。やや赤みを帯びた濃いめのダークブラウン。黒蜜、キャラメル、レーズン、マスティオーク、湿った土、タバコ、胃腸薬。ノーズは濃密な甘い香りにウッド、チェリー、スパイスが交じり合う。アルコール刺激のないとても滑らかな舌ざわり。味わいは甘みもあるがそれ以上にウッディかつスパイシー。余韻はミディアムロングでほろ苦い。
Rating:85.5/100

Thought:前回まで開けていた99年ボトリングのジムビーム・ブラックラベルと較べると、焦樽フルーツ系統の方向性は一緒なのですが、こちらの方がよりスパイシーに感じました。また、単体だと熟したフルーツ感と思っていた99年ブラックラベルが案外とフレッシュなフルーツ感に感じてしまうほど、こちらの方がもっと濃いフルーツを感じます。そして強いスイートな香りも素晴らしく、ここら辺はオールドボトルの魅力と思います。多分、現行のノブクリークあたりと比較してすら、こちらの方がリッチなフレイヴァーが認められるかと。ただ一方で、このボトルは経年もあってか、開封から飲み切るまで常にオールドなファンキネスがありました。それは強過ぎるように感じる時もあったし、特に気にならない時もありました。そこで何か法則性があるのかと、例えば飲む前に何分も放置してみたり、飲む直前に食べる物を変えてみたり色々試したのですが、一貫した法則は見つけられませんでした。これって自分側の体調次第なのですかね? 同様な体験をしたことがある方は是非コメント頂けると幸いです。おそらく、私が感じているオールド臭と言うのか、古びた風味は、経年だけでなく、そもそもの熟成バレルからも由来していると思われます。だから評価が難しいのですが、私にとって過剰なオールドファンクはなくていいものなので、それが点数を抑える結果になっています。それさえもう少しだけ感じることがなければ、あと1点は高かったでしょう。オールドボトル・エフェクトを軽々とクリア出来るオールドボトル愛好家の方なら、もっと評価は高いのかも知れませんね。

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アウトロー・ケンタッキー・バーボンはカリフォルニア州バーリンゲイムにオフィスを置くアライド・ロマー/インターナショナル・ビヴァレッジのブランドです。同社は特定のブランド名の下に異なる人物の写真を使用するコレクターズ・シリーズを数多く展開しており、このアウトローと同時代の偉人を揃えた「レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェスト」を筆頭に、名前そのままにギャングやマフィアをフィーチャーした「ギャングスター」、黒人ミュージシャンを取り上げた「ジャズ・クラブ」や「ブルース・クラブ」、「R&B」や「YO! HiP HOP」、他にも「ロックンロール」や「U.S.A.ベースボール」等がありました。これら各ブランドの中身の品質は様々でしたが、ボトリングはKBD(一時のウィレット蒸溜所)が担っており、基本的により古いリリースや長期熟成でハイ・プルーフの物はバーボン・マニアから評価が高いです。
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アウトロー・コレクターズ・シリーズでは、西部劇映画に登場するような列車強盗、馬泥棒、牛泥棒、ガンマン、冷酷な殺人鬼、お尋ね者などの西部開拓時代の最も悪名高い無法者たちがラベルを飾っています。実際のところ彼らも「ワイルド・ウェストの伝説」と呼ばれる人達です。多くの場合、彼らの物語は小説やハリウッド映画などで逞しい個人主義や大胆な開拓者精神といったアーリー・アメリカンの理想に合うように形作られ、長い間ロマンチックに描かれて来ました。アメリカ人は暴政に立ち向かうアンダードッグが大好きで、反骨精神を体現する反逆者に対してロマンを投影して見たりします。我々日本人もこういうカリズマティックな無法者には惹かれてしますよね。特にアメリカへの憧れを強く抱いた人にとってはそうでしょう。ラベルに採用された悪のヒーローには以下の12人がいました。

DEAD OR ALIVE! ― KID CURRY
BEWARE OF STARR ― BELLE STARR
$18,000 REWARD ― BUTCH CASSIDY
$5000 REWARD ― WILD BILL
DESPERADO! ― JAQUIN MURIETA
DESPERATE OUTLAW ― HARRY LONGBAUGH
$7,000 REWARD ― FRANK & JESSE JAMES
$2500 REWARD ― BILLY THE KID
COLD BLOODED KILLER ― JOHN WESLEY HARDIN
BE ON THE LOOK OUT ― MYSTERIOUS DAVE
ARMED & DANGEROUS ― HARRY TRACY
$2500 REWARD ― RED RIVER WILSON
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初めの頃のリリースでは全11種類と聞き及びますので、それが確かなら、多分レッド・リヴァー・ウィルソンが後から追加されたのではないかと思います。と言うか、この件に限らずアウトローに関する情報はネット上に殆どなく、私にはその全貌が分かりません。よって、以下は憶測でしかないことを注意して下さい。また、間違いの訂正や何かしらの情報をお持ちの方は是非ともコメントよりお知らせ頂けると助かります。
おそらく初めのアウトローは日本市場向けに80年代末か90年代初頭に発売されました。インポーター・ラベル(河内屋酒販)にはウイスキー特級と記載がありますが、これは俗に言う偽特級と言うのか、ラベルを使い切るまで貼られたものではないかと推測されます。この時の物は12年熟成101プルーフと15年熟成101プルーフで、キャップが後のものよりやや短いものだったようです。その後アウトローは、ラベルの醸す雰囲気が頗るクールで人気があったのか、何度かボトリングされました。アウトローは上で紹介した他のコレクターズ・シリーズよりヴァリエーションが多く、私が実物および画像で見たことのある範囲で言うと、先の2種類の他に後から、8年熟成80プルーフ、11年熟成80プルーフ、12年熟成80プルーフ、20年熟成101プルーフが発売されています。初期の物と後から出された物とでは、ラベルに使われる写真にも変化があったりしました。これらの正確なリリース時期は判りませんが、確認できたところでは90年代後半と2000年代前半の物がありました。アライド・ロマー/インターナショナル・ビヴァレッジは小規模な会社であり、現在のプリザヴェーション蒸溜所の製品を見ても分かる通り、ヴェリー・スモールバッチ(同社の言葉ではマイクロ・バッチ?)に拘りをもっており、またボトリングを担当したKBDの生産規模からしても、その流通量の少なさからしても、アウトローの全ての製品は少量生産の筈です。そのせいもあってか、2010年代前半頃には手に入れ難い状況になっていたようです。ところが2017頃、突如としてアウトローは復刻されました。その時の物は1000mlの規格、NASの80プルーフ、ブラック・ワックス・トップで、ラベルは何故か全6種類だったらしい(キッド・カリー、ホアキン・ムリエタ、ジョン・ウェスリー・ハーディン、ハリー・ロングボー、ビリー・ザ・キッド、ミステリアス・デイヴ)。この最も新しいアウトローは、おそらくウィレットがボトリングしてないのではないかと思われます。プリザヴェーション蒸溜所での自家ボトリング? もしそうでないのならストロング・スピリッツあたり? ラベルに所在地表記のヒントがないので全く判りません。判らないと言えば、中身のジュースのソースも全く謎です。現行ヘヴンヒルぽいという推測はありました。私は飲んだことがありませんが、旧来のアウトローとは丸っきり違うものとは聞き及び、どうやら著しくクオリティが下がっているようです。アライド・ロマーは、バーズタウンにプリザヴェーション蒸溜所を開設するまで自前の蒸溜所を所有しないNDP(非蒸溜業者)だったので、何処かから原酒を調達しなければならない訳ですから、その時々で中身に差があるのはまあ仕方のないこと。過剰生産とバーボン人気の低迷期には長期熟成原酒が安く買えましたが、2017年の段階ではそうは行かないでしょう。この最新のアウトローに限らず、歴代のアウトローもファースト・ロットと以降の物、そして8年や11年のようにボトリング・プルーフが低いものは、味も全くの別物と言われたりしています。
KBDがボトリングした旧い物に関しては、日本語でアウトロー・バーボンを検索した時に出てくる情報ではヘヴンヒル原酒と言い切られている場合もありますが、KBDはボトラーとして契約上の守秘義務を守り、中身のジュースについての詳細は一般に明かしていません。一説には複数の蒸溜所の原酒をブレンドする製法で造られているとも聞いたことがあります。つまり、ヘヴンヒルのみのバレルを使っていたのかも知れないし、或いはヘヴンヒルを中心として他のバーンハイムやフォアローゼズのバレルを混ぜていたのかも知れないし、それは永遠に謎だと言うこと。KBDの社長だったエヴァン・クルスヴィーンに訊ねても、覚えていない可能性すらあります。いや、明確に記憶していたとしても、どうだったかな?と空惚けされるだけでしょう。何処の蒸溜所の原酒であれ、KBDのストックから10〜20バレル程度選んでバッチングしているのであれば、エヴァンがブレンドしたのは間違いないと思います。逆に3〜4樽程度のバッチングなのであれば、アライド・ロマーの社長マーシィ・パラテラがシングルバレル・プログラムのような形式で選んでいる可能性もあるのかも。または両者の共同作業なのでしょうか? 或いはマーシィが持ち込んだバレル(UDから購入したS-Wとか)を単にボトリングしただけなのか? まあ、こうして謎めいたところもアウトロー・バーボンの魅力の一つ。分からないことは措いて、実際に飲んでみるしかありません。今回、私が飲んだボトルは90年代終わり頃にボトリングされた、ラベルにホアキン・ムリエタが使われた物です。

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西部のロビン・フッド、メキシカン・ロビン・フッド、エルドラドのロビン・フッドとも呼ばれるホアキン・ムリエタは、ゾロからバットマンまでインスピレーションを与えたとされる神話的存在。彼については冷徹な殺人者、虐げられた人々のために戦う義賊、民族的英雄など様々に語られていますが、その生涯に関する事実は殆ど判らず、広く知られていることの多くは伝説に由来しています。何なら一人の人物ではなく、1850年代のカリフォルニアのゴールド・ラッシュでアングロ系の人々による差別の犠牲になった多くの人々の合成物であると見る人もいたり…。ホアキン・ムリエタは1829年か1830年頃にメキシコのソノラもしくはチリのキヨタに生まれ、1853年頃にカリフォルニアで死去したとされます。彼の死後、チェロキー族の作家ジョン・ロリン・リッジが書き、1854年に出版された『ホアキン・ムリエタの生涯と冒険』という小説からロマンティックな描写は始まったようです。
おそらくは歴史的事実と民間伝承と神話が複雑に交差する物語によると、ムリエタは10代の時に結婚し、ゴールド・ラッシュでお金を稼ぐという夢をもって、1848〜50年頃、18歳の時に妻と共にメキシコを離れてカリフォルニアに移住しました。所謂フォーティナイナーズ、またはフォーティーエイターズなのでしょう。しかし、この若いメキシコ人は富を得るどころか、入国直後に人種差別的な不当な扱いを受け、早々に社会的不公正を知ることになります。ムリエタの物語の根底には、1850年代のカリフォルニアの人種差別的緊張がありました。
1848年2月2日のグァダルーペ・ヒダルゴ条約によって米墨戦争は終結し、アメリカはカリフォルニアをはじめコロラド、ネヴァダ、ニューメキシコ、テキサス、ユタ、ワイオミングを獲得しました。金が発見された当時(1848年1月24日)のカリフォルニアはまだメキシコの一部でしたが、アメリカが占領していました。正式にカリフォルニアが州となったのは1850年9月9日です。採掘事業が個人主義的で、移民が最も急速だった1849〜1850年初頭に掛けて移民排斥主義が生まれました。ヨーロッパ系アメリカ人はメキシコから奪ったばかりの地域で利益を維持するために、法と経済のシステムを熱心に構築し始め、自警団とマイノリティ・グループに対する法的差別の両方が促進されます。その一つ、1850年のフォーレン・マイナーズ・タックス・アクト(外来鉱山労働者税法)は、全ての非ヨーロッパ人鉱夫が鉱山で働くために月20ドル(現在の数百ドル)の税金を支払うことを求めたものでした。これにより事実上ヒスパニック系の人々はゴールドラッシュから締め出されました。多くの所謂カリフォルニオス(カリフォルニアにいたスペイン語を話す人々)は、経済的に疎外された結果として盗賊になった人もいたと言います。ゴールド・ラッシュは国内外から人々を引き付け、カリフォルニアの人口は爆発的に増加しましたが、それは白人とその他のメキシコ人やインディアンや中国人の間で暴力が頻繁に発生する状況を齎したのです。
或る時、金鉱労働者でありヴァクェロ(スペイン版カウボーイ)であったムリエタは、兄弟と自分がロバを盗んだという濡れ衣を着せられ、兄弟(または義理の兄弟)は絞首刑になり、ムリエタもこっぴどく殴られ鞭で打たれました。更に彼の若い妻は集団強姦されてしまいます(彼女はムリエタの腕の中で死んだという説まであるそう)。彼は今後、復讐のために生き続けることを誓いました。鉱区を強制退去させられたムリエタは、仕事を見つけることが出来ず、怒りに任せて犯罪に手を染め、他の外国人鉱夫たちと共に、自分たちの権利を奪った者たちを食い物にするようになります。軈てムリエタはファイヴ・ホアキンズと呼ばれる荒くれ者集団のリーダーとなり、彼の右腕で「スリー・フィンガード・ジャック(3本指のジャック)」の異名をもつマニュアル・ガルシアも含むバンドは、サン・ホアキンやサクラメント・ヴァリーを荒らし回り、牛や馬を盗み、サルーンを略奪し、19人を殺害したとか。しかし、彼らはメキシコの同胞に対する多くの不正を正すためにのみ犯罪を犯し、不正に得た利益の多くを貧しい人々に与え、その助けられた人々は彼らを法から匿うことさえしたと伝えられます。そうした協力者のお陰か、或いはムリエタは変装の名人だったとの説もあり、ともかく数年間は法から逃れることが出来、その過程で3人の法執行官を殺害したらしい。
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(チャールズ・クリスチャン・ナールによる1868年の絵画)
1850年には早くも「ホアキン」という名前の無法者がカリフォルニアを恐怖に陥れているという新聞報道があったそうです。カリフォルニアで大規模な犯罪が発生する度にホアキンが容疑者になりました。そしてホアキンが本当に存在するのかについての議論まで出ました。謎のホアキンに対する恐怖感がカリフォルニアを席巻し、人々は無法者を裁判にかけるよう要求しました。カリフォルニア州は生死を問わず厶リエタに5000ドルを上限とする懸賞金を提示します。同州の無法状態を漸く理解したジョン・ビグラー州知事は、1853年5月に元テキサス・レンジャーのキャプテン・ハリー・ラブ率いるカリフォルニア・レンジャーズを創設し、ムリエタとその一団を追い詰めるよう命じました。1853年7月25日の早朝、レンジャー達はサン・ベニート郡のパノーチェ・パス付近でメキシコ人の集団と遭遇します。銃撃戦となり、彼らは八人の男性を殺害しました。レンジャー達は、うち二人はムリエタとスリー・フィンガード・ジャックだと主張し、その死の証拠としてガルシアの手とムリエタの頭を切り落とし、ブランディの入った瓶に保存して持ち帰りました。神父を含む17人がその頭部はムリエタのものであるとする宣誓書に署名し、関与したレンジャーズは5000ドルの報奨金を受け取りました。
その後、厶リエタの身の毛もよだつ遺物はカリフォルニア中を旅することになり、サンフランシスコのストックトンやマリポサ郡のマイニング・キャンプ等に展示され、1ドル払えば盗賊の首が見られるというので好奇心旺盛な観客は興味本位で見物しました。しかし、ホアキン・ムリエタの伝説はそう簡単には治まりませんでした。彼が殺されてから間もなく、彼の妹と名乗る若い女性が頭部を見て、兄にあった特徴的な傷跡がないと言ったことから、殺されたのは厶リエタではなかったという憶測が流れ始めます。また、カリフォルニアのあちこちで厶リエタが目撃されたという報告も出始めました。ムリエタの首は最終的にサン・フランシスコのゴールデン・ナゲット・サルーンのバーの後ろに置かれ、1906年の地震で建物が破壊されるまで放置されました。この首はムリエタの亡霊という別の伝説と言うかホラー話となり、今でもムリエタの首なし幽霊が昔の金鉱地帯を走り回り「俺の首を返せ」と啜り泣いているとかいないとか…。
ホアキン・ムリエタの話の大部分はフィクションと思われますが、その物語は苦しみと人種的不公平の中でゴールデン・ステイトが創造されたことの証でした。長い年月を経て伝説はどんどん大きくなり、カリフォルニアのアングロ=サクソン支配に対するメキシコ人の抵抗の象徴のような存在になりました。そしてゴールド・カントリーの至る所で、彼がこのホテルやあのホテルに泊まったとか、様々な酒場で飲んだとか、実際に会ったとか強盗にあったとかいう話が語られるようになったと言います。歴史上のムリエタの実態がどうであれ、彼の人気は高まり続け、文学や映画に影響を与えただけでなく、メキシコのバラードやコリードによって歴史的な社会的アイコンとして確固たるものとなり、彼の自由と闘争の戦士としてのイメージはチカーノの活動家達にとって抵抗の強力なシンボルとなりました。
そう言えば、ホアキン・ムリエタの伝説を下敷きにしたAmazonオリジナルの西部劇ドラマ『ホアキン・ムリエタの首』が2023年2月17日から配信されています。興味のある方は是非とも視聴してみて下さい。では、そろそろこの何とも言えず魅力たっぷりなラベルのバーボンを注ぐとしましょう。

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OUTLAW KENTUCKY BOURBON 15 Years 101 Proof
DESPERADO!
JAQUIN MURIETA
推定1999年ボトリング(瓶底)。艷やかな濃いめのブラウン。微粒子感のある液体。メープルシロップ、シトラス、胡桃、蜂蜜のど飴、ネイルポリッシュ、オールスパイス、葡萄の皮、炭、レモンジンジャー、ミルクココア。濃密でスイートかつ円熟を感じさせるアロマ。口当たりはソフト。パレートでも甘く味が濃ゆい。余韻はミディアムながら仄かなプラムと爽やかなスパイシーさが揺蕩う。
Rating:91/100

Thought:はい、激ウマです。長期熟成のコクがありつつ過剰な熟成感のない、とてもバランスの良いバーボンでした。基本スイートでドライさや苦味はなく、しかもハービー過ぎず、スパイスは適度なのです。特筆すべきは、飲むと意外にも暗い色のフルーツよりも明るい色のフルーツを感じさせるところ。何なら新ウィレットの4〜6年熟成原酒的なフルーティさすら感じました。ここら辺が私の好みに適合しています。また時々モルティさを感じる瞬間もあり、香りから余韻まで全て素晴らしい。原酒に関しては、よく分かりませんでした。トップノートにヘヴンヒルぽさを感じた瞬間もありましたが、飲んでみると平均的なヘヴンヒルとは異なるように感じました。液体を飲み込んだ直後のキックや余韻にはライ麦15〜18%はありそうな印象。まさかバートン? それともやはり複数蒸溜所原酒のブレンドなのでしょうか…。個人的には少なくともスティッツェル=ウェラーではないように感じました。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメントより感想をどしどしお寄せ下さい。

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ライ・ロイヤル20年はカリフォルニア州フェアフィールド(当時はサンホゼ)の老舗ボトラー、フランク=リン・ディスティラーズ・プロダクツが1990年頃に日本市場向けにボトリングしたペンシルヴェニア産のストレート・ライ・ウィスキーです。このウィスキーの調達先についてはシェーファーズタウン近郊のミクターズ蒸溜所だろうと推測されています。ウィスキーが蒸溜された当時(1969〜70年頃?)は、ペンコ蒸溜所という別の名称でした。ペンコの基本は契約蒸溜だと思われるので、その当時に誰かのために蒸溜されたライ・ウィスキーが何らかの理由で購入されず残り、ミクターズが閉鎖される間際に安く売りに出されたという感じなのでしょうか? 或いは、ペンコはコンチネンタルとも何かしらの関係があったようなので、ペンコ以外で蒸溜された物の可能性もあるのでしょうか? 仔細ご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。
真実かは判りませんが、ミクターズの元マスター・ディスティラーである故​​ディック・ストールは、ミクターズ/ペンコのライ・マッシュビルは65%ライ、23%コーン、12%モルテッドバーリーであると述べていた、という情報を見かけました。ちなみに、このライ・ロイヤルと同じくフランク=リンがボトリングしたウォール・ストリート・ストレート・ライ20年というウィスキーがありまして、これらは同じ原酒だろうと見られています。どちらも1990年頃にボトリングされ、101プルーフでした。ウォール・ストリートの方がオークションで見かけることが少ない印象がありますね。
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殆ど情報のないウィスキーなのでこれ以上語ることはなく、あとは飲んでみるしかありません。さっそく注ぎましょう。

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Rye Royal 20 Year Old 101 Proof
推定90年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。クレームブリュレ→ミルクチョコレート、マスティオーク、ユーカリ、プルーン、カルダモン。甘いお菓子のアロマと穏やかなスパイス香。さらっとしつつ、ややミルキーな口当たり。味わいは重厚な木材感が支配的で、仄かな甘みもあるが基本的にドライかつビター。しかし、それほど収斂味はない。余韻はあっさりめで、ウッディなスパイス感が広がる。アロマがハイライト。
Rating:84.5/100

Thought:正直言うと期待外れな味わいでした。ちょっとしたオールド臭以外のネガティヴな要素はないものの、あまりポジティヴな要素も拾えないと言うか…。香りは頗る良いのですが、味わいが少々平坦。何より、あまりライ・ウィスキーらしさを感じられないのがマイナスでした。これバーボンだよ、と提供されたら信じてしまうくらい普通に長熟バーボンの味わいに感じるのです。個人的にはもっとアーシーなフィーリングや濃厚なフルーツが欲しいところ。希少価値のあるボトルなだけに残念です。オールドボトルゆえの状態の悪さ(酸化が進み過ぎた?)もあったのかも知れません。
一方で、アメリカの有名な掲示板に投稿されたライ・ロイヤルのレヴューのコメントには、カナディアン・ライもしくは再利用樽で熟成させたような印象を受けたと言ってる人がおり、また他にも同コメント欄でこれはミクターズで蒸溜されたものとは全く違う味と断言する人もいました。私にはそれを判断する味覚も経験もありませんが、確かにそうかもと思わせる味わいには感じました。樽の管理を間違えたか何かで、もしかして本当はライ・ウィスキーではないのではないか? 或いはミクターズ・サワーマッシュ・ウィスキーには新樽と中古樽が混ぜられていたと聞くので、たまたま忘れ去られていた中古樽原酒の生き残りがボトリングされたとか? またはペンコはカナダからもバレルを仕入れていたのか? 真相は藪の中です。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか、コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。
上の感想は、その希少性からオークションで価格が高騰した後に購入した私の期待が大き過ぎたために出た言葉かも知れません。また、私はあまり長熟ウィスキーを得意としていない味覚の持ち主であることにも留意して下さい。つまり、貴方が初めから何も期待せず虚心坦懐に味わい、かつ長熟ウィスキーが好きならば、美味しく感じる可能性は十分にあるということ。それぐらいには、現代の短期熟成の安いウィスキーとは違う味ですし、不出来なウィスキーでもないのです。

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今回はジャグに入ったジョージディッケル・オールドNo.12ブランドを飲んでみます。ジャグの底には1988とあるのでボトリングはその年だと思われます。ジョージディッケルのブランドの歴史や蒸溜所の紹介は過去に投稿していますのでそれらを参照して下さい。

ガラス製のボトルがまだ高価だったため、安価なガラス・ボトルが普及する以前の1900年代初頭までは、アルコールはバレルのまま売られていました。バーやリカーストアはバレルを蒸溜所や仲介業者から直接購入し、顧客は自分のグラス、フラスク、デキャンタ等に酒を入れ買いました。そして多くの蒸溜所や販売業者がブランド名の入った陶器のジャグを提供していました。ガラス・ボトルが一般的になった後も、幾つかのブランドは懐古主義的に?ウィスキーをジャグに入れ販売していました。ミクターズやヘンリーマッケンナ、或いはマコーミックのコーン・ウィスキーなどは特にジャグとの繋がりが強い印象があります。ディッケル・ウィスキーも画像検索ですぐ見つかるものに1976年製のジャグがありました(参考)。私が飲んだ物と概ね似たような形状に見えるので、これの復刻版が今回の物ということなのかも知れません。形状で言うと、ディッケルは今回のオールドNo.12ブランドと同型の色違いで、裏面にカントリー・シンガーのマール・ハガードがプリントされたオールドNo.8ブランドの黒い(もしくはダーク・ブラウン?)ジャグを1987年に発売しています。
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ウィスキー・ビジネスにとって暗黒時代の真っ只中だった1980年代半ば、ディッケルはハガードを広告キャンペーンに採用していたようです。そしてジョージディッケル・ウィスキーはマール・ハガード・アンド・ザ・ストレンジャーズによる1987年のエイント・ナッシン・ベター・ツアーを後援し、その一環として様々なグッズが製造されました。オールドNo.8ブランドの黒いジャグもツアーに合わせた物なのでしょうか? 発売年代から考えると、今回のオールドNo.12ブランドの白いジャグは、ハガードのジャグの姉妹製品というかセットの上位モデルという位置づけと見ることも可能かと…。

これは現在スーペリアNo.12レシピと表記されている現行品の古いものな訳ですが、このジャグが通常のガラス・ボトルの物と較べて中身にクオリティの差があるのかどうかは分かりません。当時はまだ「バレル・セレクト」や「ハンド・セレクテッド」などのヴァリエーションがなかったので、ジャグに特別に選ばれたバレルが使用された可能性もなくはないですが、この頃のディッケルにはプレミアム・ウィスキーの概念がなさそうな気がするので、おそらくガラス・ボトルとジャグにそれほど明確な差はないと思います。
ちなみにディッケルが製品に付けたナンバー「8」や「12」は、紛らわしいことに熟成年数ではありません。シェンリーがジャックダニエルズの対抗馬としてジョージディッケルを作成した時、彼らは消費者調査を行い、21以下の数字を全て調べました。結果、既にジャックダニエルズ・オールドNo.7で使われていた「7」を除くと「8」と「12」が次に最も人気のある番号であることが判りました。そこで、その数字をブランドに採用したと言われています。おそらく酒名に人名を用いることやNo.8の白と黒を基調としたラベルはJDを意識していたと思います。品名にナンバーを付けるあたりもジャックダニエルズへの剥き出しのライヴァル心からだったのではないでしょうか。
と言う訳で、一部の熟成年数が明記された製品を除き、No.8と12は発売当初から現在に至るまで全てNASのウィスキーです。それ故、販売された年代によって中身の熟成年数は様々で、我々は正確に知ることが出来ません。70年代のNo.12はバックラベルに5年熟成と書かれていたとの情報もありました。過去にマスター・ディスティラーを務めていたデイヴィッド・バッカスによると、No.12は平均して7~8年熟成だがもっと古いウィスキーのこともあり得ると言っていました。実際、90年代に発売されたバーボン・ヘリテッジ・コレクションでは10年物のウィスキーが使われ、また海外ではNo.12ではなくディッケル10年として販売されていたものがあったとの話もありました。
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(左はUDのBHC、右はおそらくヨーロッパ向け?)
そしてジョージ・ディッケル蒸溜所は過剰生産のため1999年2月に停止、2003年までの期間閉鎖されています。その間、既存の在庫は熟成され続けたでしょう。再出発した時、つまり2000年代初頭から中期に掛けてNo.12ブランドに含まれるウィスキーの中には、過剰生産時代のバーボンのように古いストックが混じり12年物に近づいたり超えたりしたものもあったのかも知れない。尤も、休止期間中も既存の在庫は販売され続けていた筈なので、先入先出方式?の在庫管理で長熟ウィスキーはそれほどなかった可能性もあります。とは言え、後に長熟のディッケルが販売されたところからすると、絶えず長熟ウィスキーは存在していたのではないかとも思えます。まあ、全ては憶測に過ぎません。で、今回のこの80年代後期のオールドNo.12ブランドのジャグですが、アメリカ本国のバーボン需要が下火だった時代背景から考えると、8〜10年もしくは10年超のウィスキーではないかと予想しています。 では、そろそろウィスキーを注いで試してみましょう。
と、その前に…。この記事のために色々とバーボン系ウェブサイトで取り上げられたディッケルに関する情報を読み漁っていたら、そのマッシュビルをNo.8はコーン84%/ライ8%/モルテッドバーリー8%、No.12はコーン84%/ライ10%/モルテッドバーリー6%としているものを見かけました。私自身はディッケルのマッシュビルは前者しか知らなかったので驚きました。これって、いつの頃からか両者をマッシュの微調整で造り分け始めたのか、それとも単なる間違いなのか、或いは近年マッシュビルの変更があったのか…。最新の情報をご存知の方がいましたらコメント頂けると助かります。

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George Dickel Old №12 Brand Ceramic Jug 90 Proof
推定88年ボトリング。赤みを帯びた濃いめのブラウン。ビターなカラメルソース、砂糖漬けオレンジ、オールドコーン、ブラウンシュガー、ベーキングスパイス、いちじく、土、アプリコット、ラヴェンダー、花火。円やかでソフトな刺激が少ない口当たり。味わいは、酸味を仄かな甘さと穏やかなスパイスが包み込むといった感じ。余韻はややビターでタバコっぽさも。
Rating:86.5/100

Thought:そこそこ古いお酒ですがオールド臭はあまりなく、陶器ボトルにありがちな鉛風味もなく、とてもいい状態でした。海外の多くの人はジョージディッケルの特徴的なキャラクターをフリントストーンズ・チュアブル・ヴァイタミンのような味だと説明しています。私はそれを口にしたことがないのですが、おそらくディッケル特有の酸味とちょっとした苦味のことを指しているのではないかと思います。仮にそれが正しいとして、その風味が過剰であるか、又はそもそも苦手な人は、ディッケルをあまり評価しません。斯くいう私も、テネシー・ウィスキーのニ大巨頭であるジャックダニエルズとジョージディッケルを較べると、その風味がないジャックの方が遥かに好みです。で、このジャグはそのディッケルの著名な風味が過剰ではなく、その他のフレイヴァーとギリギリ良いバランスを保っていたので、美味しく感じました。と言うか、私が今まで飲んだディッケルで最も美味しく感じました。その風味の由来は、個人的にはイーストと水と長期間の熟成が主な要因となって醸されるのではないかと考えています。と言うのも、15〜18年の熟成年数では、そこにあるべきではない味わいがあるとして、ディッケルは古いものが良いとは限らない典型的な例だと言う人がおり、私自身も飲んだ印象で長熟気味の方がこの風味を感じ易い気がするのです。現行のNo.8には全く感じず、昔のNo.8にはかなり感じ、現行のNo.12やバレルセレクトには少しだけ感じる、と言った具合です。皆さんはどう思われるでしょうか? コメントよりどしどしご意見ご感想お寄せ下さい。

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(画像提供Bar FIVE様)

ブーンズノール16年は、ケンタッキー州コヴィントンのゴードン・ヒューJr.が所有していたミクターズ・ウィスキー(ペンシルヴェニア1974原酒)をジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が輸出専用としてヨーロッパ市場向けに256本だけボトリングしたものでした。中身は16年物のA.H.ハーシュ・バーボンと同じとヴァン・ウィンクル自身が語っています。A.H.ハーシュ名義の物より本数が少ないせいか、セカンダリー・マーケットではより高価になったりします。世界的に有名な「決して味わえない最高のバーボン」であるA.H.ハーシュについては過去に投稿したこちらを参照下さい。ブーンズノールというブランド自体は禁酒法以前からありました。ジュリアン3世もしくはゴードンがどうしてその名を採用したのかは分かりません。おそらくこのブーンズノール16年と過去のブランドに直接の関係はないと思いますが、今回は興味深いオリジナルのブーンズノールとそれを造った蒸溜所を紹介してみたいと思います。

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ブーンズノールは19世紀後半からE.J.カーリー蒸溜所で造られていたブランドでした。創業者のエドワード・J・カーリーは1836年アイルランドのチュアムで生まれ、子供の頃マサチューセッツに移住しました(1837年にアイルランド移民の両親のもとマサチューセッツに生まれたとの説も)。カーリーの幼少期については殆ど知られていませんが、南北戦争中、マサチューセッツ騎兵隊に志願し、ケンタッキー州に渡ってユニオン・アーミーの購買部門で働いたようです。当時レキシントンとその周辺を押さえていたユニオンは、レキシントンからそう遠くないケンタッキー・リヴァー沿いのジェサミン郡にキャンプ・ネルソン(*)と呼ばれる奴隷解放された黒人を集めて兵士になるよう訓練する目的の施設を建設していました。オハイオ以南で最大のユニオンの拠点であり補給基地でもあったキャンプ・ネルソンに駐屯し、キャンプのために家畜、飼料、穀物などを調達することがカーリーのエージェントとしての仕事の大半を占めていたとされます。
カーリーは戦後もケンタッキー州に留まり、1867年に他の二人とパートナーシップを結んで蒸溜所を立ち上げました。パートナーの一人はミシガン州在住でユニオン・アーミーのコミッサリー・デパートメントのキャプテンだったドワイト・A・エイケンで、もう一人はキャンベルという人だったようです。彼らが蒸溜所のために選んだのはキャンプ・ネルソンのすぐ近く、ケンタッキー・リヴァーとヒックマン・クリークの北岸に位置する場所でした。この地域は開拓時代には重要な場所だったそうで、断崖の切れ目がヒックマン・クリークの河口の下のケンタッキー・リヴァーを渡る浅瀬に通じており、ダニエル・ブーンはここを好んで横断したらしい。それが理由ですぐ傍らの小山はブーンズ・ノールと呼ばれるようになったのでしょう。カーリーらの蒸溜所はブルー・グラス蒸溜所と呼ばれ、連邦政府からの登録番号はケンタッキー州第8区のRD#3でした。このプラントはアイアンにオーク材のラックで建造され、木材は敷地内のミルで製材されました。敷地内には自らのクーパレッジもあり、この地域の豊富なオークを使ってステイヴを供給していたそうです。倉庫にはライトや換気や防火のための最新技術を取り入れていたとされています。また、元々はウッデン・スティルだったのが後に取り壊され、品質管理に有利なカッパー・スティルが使われるようになったとか。彼らの製品はブルーグラス・ウィスキー(バーボンとライ)として販売され、これは「ブルー・グラス」という言葉を初めて商業的に使用した例となり、カーリーは瞬く間にこのブランドをアメリカ全土に知らしめました。何時かは判りませんが、シカゴのバイヤーに8600バレルを現代に換算して1900万ドルで売却したことが記録されたと伝えられます。1872年6月、カリフォルニア州サクラメントの新聞に掲載されたカーリーの地元の販売代理店が出した広告では、生産される酒の量より質により多くの注意を払い、製造に使用する水はケンタッキー・リヴァーの崖にある泉から湧き出る特殊な性質のもので、カーリーのウィスキーは経営者だけが知っているレシピで昔ながらの方法で造られている、と紹介されました。1874年には3人のパートナーシップは解散、エイケンはレキシントンに移って既存の蒸溜所を借り、D.A.エイケン&カンパニーとして1882年に火災と財政問題で閉鎖されるまで操業したらしいですが、キャンベルの方はどうなったかよく分かりません。ともかくカーリーはブルー・グラス蒸溜所の単独経営者となり、自分のウィスキーが全米で愛飲されていることを実感していました。
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(ラス・サットン氏のFacebook投稿より)
1880年頃、カーリーは対岸に立派で頑丈な石造りの2番目の蒸溜所を建設し、鉄骨の橋で連結します。こちらはブーンズ・ノール蒸溜所(第8区RD#15)と命名されました。当時の記録によると、マッシング・フロアーやファーメンディング・ルームの温度は一年中安定しており、配管や機械なども新しく効率的だったとされます。ブルー・グラス蒸溜所は一日600ブッシェルの穀物をマッシングする能力があったものの、その限界まで稼働することはなかったそうで、一方のブーンズ・ノールのプラントは或る時にキャパシティを増やし、1日1100ブッシェル、1日100バレルの生産能力があったようです。この二つの蒸溜所は本質的に一つとして運営され、貯蔵施設は共有されていました。サンボーン・マップや1892年の保険会社の記録によると、敷地内には15の主要な建物、4つの共同倉庫、ワゴン・トレイル、牛小屋や畜舎などがありました。カーリー(もしくはその後の所有者。後述)はE.J.カーリー&カンパニーの名の下でここを運営し、何時しかE.J.カーリー蒸溜所(またはキャンプ・ネルソン蒸溜所とも。サンボーン・マップにそうかれていた)と呼ばれるようになり、最高級のケンタッキー・ウィスキーを安定的に生産しました。主要ブランドはブーンズノール、ブルーグラス・バーボンとライで、他にロイヤル・バーボンというのがあったようです。
禁酒法以前のウィスキーに詳しいジャック・サリヴァンによると、東海岸での販売については、カーリーは限られた生産量の多くをニューヨークのチャールズ・フローブの会社に委ねていたそうです。1880年あたりから1900年代初頭に掛けて酒類卸業で成功を収めた彼の主力ブランドはブルーグラス・ライで、セラミック・ジャグやガラス・ボトルに入れて販売されました。フローブはブルーグラス・ライのブランドを精力的に宣伝し、非常に消化が良いし滋養があり完全に自然であるとして、「身体を活気づけ、吐き気を催さないため、療養に最適。 そのドライネスは糖尿病疾患に先ず必要である」と広告でその薬効を強調したとか。また、当時の多くの販売会社と同じように酒場の客向けにカラーのサルーン・サインを発行し、それにはケンタッキー・リヴァーを望むダニエル・ブーンが描かれたものがありました。しかし、そうしたマーケティングだけではどうにもならず、当時の他の蒸溜所と同様にE.J.カーリー&カンパニーも抑圧的な連邦税法と経済の悪化が重なったことで財政難に陥り、1889年、カーリーの馬と荷馬車は税金未納のため押収されたと言います。同年、カーリーは自分のインタレストを所謂ウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニーに売却し、ニューヨークに移りました。この投資家グループは蒸溜所を買収して準独占状態を作り出すことでケンタッキー・ウィスキーからの利益を急増させようとしていたのです。トラストはカーリーの後任として新しいマネージャーにレキシントンの卸売酒類ブローカーのオーガスト・C・グッサイトを任命しました。トラストによって取得され閉鎖されてしまった多くの施設とは異なり、ブーンズ・ノール蒸溜所は禁酒法の到来によって完全に閉鎖されるまでの約20年間、カーリーのブランドの生産を継続したようです。カーリーの「ビジネスは何年にも渡って急速に成長し、ケンタッキー・バーボン生産の90%を掌握した後、彼は1902年にニューヨークでディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションを設立した」との情報もありましたので、もしかするとカーリー自身がトラストの幹部になったのかも知れませんが、ここらへんの詳細は私には分かりかねます。詳しいことをご存知の方はコメントよりどしどし追加情報をお寄せ下さい。

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(1905年頃の蒸溜所。すぐ左手にカヴァード・ブリッジが見える)

カーリーは、ケンタッキー・フライドチキンのハーランド・デイヴィッド・サンダースやブラントンズ・バーボンの由来となったアルバート・ベイコン・ブラントンのように、ケンタッキー州の名誉職として多くの人に与えられている「カーネル」の称号を何時しか得ていました。明らかに長期的な視野で蒸溜所を建設し運営していた彼は、ウィスキー事業に全力を注いでいたからなのか、結婚していませんでした。そのためでもないでしょうが、彼の晩年は少し寂しいものだったようです。カーネル・カーリーはニューヨークに移った後、ヨーロッパのどこかで事故に遭って脚を失い、数年の闘病生活を経てモンテカルロで1922年に亡くなったとされます。ケンタッキー・ウィスキーで築いた1000万ドルとも伝えられる財産を甥の息子達に遺して。この大金を受け継いだのはマサチューセッツ州ヘイヴリルに住むパトリックとジェイムス・キャニングの二人でした。この幸運を知らされた時、靴職人だった彼らは少しも動揺することも興奮することもなかったと言います。「もう歳だから、我々のやり方を変えるのは無理だよ。25年も靴を作り続けているんだから、これからもずっと続けるさ。家はペンキで塗り替えようかな、あと、もちろん、三人の娘には何でも好きなものを持たせてあげてね」とジェイムス。「そうだね」とパトリックも同意して「私たちはこの幸運を祝って、このまま靴工場に留まるわ」、「大富豪の生活を送るより、靴を作りたい」と語りました。ちなみにエドワードの兄弟M.H.カーリーはボストンの政治家として有名だったようです。

禁酒法の制定により閉鎖されたE.J.カーリー蒸溜所(RD#15)は、立派な石造りの外観を呈し、内部も美しい木材で造られていたため、1923年頃、ケンタッキー・リヴァーと断崖を望むリゾート・ホテルとしてダニエル・ブーン・ホテルへと改築されました。しかし、このホテルは世界恐慌が始まったことで開業することはなく、禁酒法が撤廃されるまで空き家となっていました。一方その頃、残ったウィスキーとブランドはトラストの後継組織であるアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS。後のナショナル・ディスティラーズの母体)が引き継いでいました。同社はドライ・エラにメディシナル・ウィスキーとしてボトリングすることを許可された6社のうちの1社でした。AMSを始めとする彼らは禁酒法によって閉鎖された小規模蒸溜所の酒類を買い取り、自社の集中倉庫に貯蔵していたのです。それらのウィスキーは多くの場合、蒸溜元とは異なる会社によってボトリングされ、医師の処方箋があれば手に入れることが出来ました。
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(禁酒法時代にボトリングされたオールド・ブーンズノールのメディシナル・パイント)

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禁酒法が解禁された後の1934年、グラッツ・ホーキンスらがこの土地を買い取り、蒸溜所の建物を改築して元の目的に戻し、新しい倉庫を建てて、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所という名で操業されることになり、レジスタード・ナンバーも新しくなりました(RD#45)。これはジョージ・T・スタッグのカーライル蒸溜所(第7区RD#2)が1910〜19年に名乗ったのと同じ名前ですが別物です。その後、工場はビル・トンプソンに買収され、F. B.ミッチェルのマネジメントのもとオールド・レイジー・デイズというブランドを追加したらしい。で、ここからなのですが、サム・K・セシルの本によると、トンプソンは1960年代の或る時期にプラントをノートン・サイモンに売却したとしていますし、他の情報源の多くも60年代にこの蒸溜所がノートン・サイモンに売却されたとしています。しかし、ニューヨーク・タイムズの1959年8月14日の記事によると、カナダ・ドライ社(**)はバーボン・ウィスキーの製造会社であるケンタッキー・リヴァー蒸溜所をプライヴェート・グループから買収したとあり、同社は1955年以来ウィスキーを「カナダドライ・バーボン」として自らの商標で販売して来たとありました。そして画像検索では1957年ボトリングの6年熟成とされるカナダドライ・バーボンが見つかりました。カナダ・ドライ社は1950年代以降、製品拡張に努めていたようで、ソフトドリンクを缶で販売することを大手企業としては早い段階に手掛けたり、カロリーゼロかつ砂糖不使用を謳うダイエット製品ラインであるカナダドライ・グラマーを主要な清涼飲料メーカーとして初めて1954年に発売しています。おそらく彼らは1950年代半ばから同ブランドでスピリッツも展開し始め、手始めにバーボンをケンタッキー・リヴァー蒸溜所に委託して生産していたのではないでしょうか? こうした供給元が販売会社によって買収されるのはよくある話です。
カリフォルニアの食品実業家ノートン・サイモン(1907-1993)は、自身のハント・フーズの利益が拡大するにつれ、成長が期待できる他の割安な企業の株を買い始め多角化を図りました。彼は多大な成功と市場支配力を持ち、持株会社のノートン・サイモン・インコーポレイテッドを通じて買収を続け多岐に渡る事業を展開しました(ハンツ・フーズ、マッコールズ・パブリッシング、サタデー・レヴュー・オブ・リテラチャー、テレビ制作会社タレント・アソシエイツ、カナダ・ドライ社、サマセット・インポーターズ、グラス・コンテナーズ・コーポレーション、ユナイテッド・カン・カンパニー、マックス・ファクター・コスメティックス、エイヴィス・レンタル・カーなど)。サイモンは或る時カナダ・ドライにも関心を持ち、彼の会社と合併させました。この取り決めの下でカナダ・ドライは、ワインとハード・リカーのボトラーおよび輸入業者であるサマセット・インポーターズの子会社として役割を果たしたのではないかと思われます。当時サマセットの社長はポール・バーンサイドで、ノートン・サイモン社はケンタッキー州ジェサミン郡ニコラスヴィルのプラントをカナダ・ドライ蒸溜所として運営しました。この蒸溜所でカナダ・ドライのバーボンを蒸溜し、ジンやウォッカを瓶詰めし、ドメックのブランドでブランディも瓶詰めしていたそうです。ちなみにカナダ・ドライのバーボン、ジン、ウォッカは管理州(***)でのみ販売されていたとか。
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60年代半ばからはカナダドライ・バーボンの広告も開始されたらしく、67年の広告では「良い響きの名前はバーボンの世界の伝統です。しかし、良い響きの名前はバーボンの味には何の役にも立ちません。カナダ・ドライはバーボンの味のために何かをしました。我々はそれをより滑らかにしたのです」と語られました。当時はライトな風味が求められる風潮もあってか、滑らかさを強調したのでしょう。しかし、どうやらカナダドライ・バーボンの売れ行きは芳しくありませんでした。サマセットがバーボン・ビジネスに参入しようと考えた時、バーンサイドはカナダ・ドライ・ブランド用のバーボンを必要以上に生産していたようです。しかも、なんでも倉庫の問題で一部のバーボンは品質が悪くカビ臭かったらしい。税金が掛るバーボンの在庫を抱えることは彼らの計画にそぐわず、売れなかった粗悪品を捨てる場所を探すしかありませんでした。1972年、巨大なコングロマリットであるノートン・サイモン社は、ジェファソン郡シャイヴリーにある評判の高いスティッツェル=ウェラー蒸溜所(RD#16)をヴァン・ウィンクル家から買収しました。そこでスティッツェル=ウェラー蒸溜所は暫く生産を停止し、余ったカナダドライ・バーボンの殆どを新たに買収したスティッツェル=ウェラーの最下位製品であるキャビン・スティルというブランドに混ぜ入れ、明らかに悪いウィスキーをカモフラージュしました。そのため伝統あるキャビン・スティル・ブランドは台無しになり、凋落が始まったという話が伝わっています。また、カナダ・ドライのバーボンはスティッツェル=ウェラーのウィーテッド・バーボンとは異なるライ・レシピのバーボンだったようです。正確な時期は判りませんが、カナダドライ・ブランドの終わり間際の短期間、ラベルには「Stitzel-Weller's」との文字が現れました。
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(E.J. Curley & Co.のウェブサイトより)
先のセシルによると、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所は、一時期はエド・キミンズがマネージャーを務め、グラッツ・ホーキンスの甥であるメル・ホーキンスがディスティラーをしており(メルはカナダ・ドライ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーだった)、他にはメンテナンス担当のプラグ・ジョンソン、倉庫管理担当のレイ・クラークなど、長年の従業員がいたようです。ノートン・サイモン下でマイク・ソタクが全体のマネージャーになり、エド・ズィーグラーが化学者、ジーン・ストラットンがオフィス・マネージャーを務めたとされています。そして、この蒸溜所は1971年に操業を停止したとの情報がありました。近くに住んでいた人の話によると、1981年くらいには廃墟となっていたようで、後の1987年頃、どこかの愚か者がその場所を焼き払い、蒸溜所の建物は全焼したそうです。蒸溜所はとうになくなってしまいましたが、ケンタッキー・リヴァーのジェサミン郡側、ハイウェイ27号線のすぐ西にあるキャンプ・ネルソンのリックハウスはまだ残っています。その倉庫は一時期シーグラム社にリースされ、アンダーソン郡の工場(オールド・プレンティス蒸溜所)で生産していたものを同社がロータスに平屋造りの熟成庫を建設するまで保管していました。更にその後はアンダーソン郡のブールヴァード蒸溜所にリースされ、現在でもワイルドターキーが使用しています(注*参照)。

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偖て、ここまでブーンズノールを造っていた蒸溜所の歴史を紹介して来た訳ですが、ブーンズノールというブランド自体はAMSからナショナル・ディスティラーズが引き継いでいるようなので、禁酒法解禁後はケンタッキー・リヴァー蒸溜所では造られなかったのではないかと思います。上画像のオールド・ブーンズノールのラベルはナショナルの製品であることを示しています。製造はピオリアやルイヴィルのナショナルが所有していた施設なのでしょう。但し、これらが実際に販売されたのかどうか私には分かりません。少なくとも、大々的にキャンペーンされたり、長い期間販売されていた形跡はないので、50年代まで生き残らなかった可能性は高いのでは? おそらくナショナルは何時しかこのラベル(名前、トレードマーク)を放棄したのではないかと思います。
そうして長い年月を経て、歴史の塵となって忘れられたブランド名が、ラベル・デザインは全然違うものの、1990年代になって突如として現れます。冒頭で述べたようにジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がゴードン・ヒューJr.のためにブーンズノールの名で16年物のミクターズ・バーボンをボトリングしたのです。繰り返しますが、何故ジュリアン3世がこのブランド名を採用したのか分かりません。このブランドは、彼が祖父の“パピー”から受け継いだラベル帳にコレクトされているのがムック本『ザ・バーボン PART3』の特集記事で確認できるので、ジュリアンがその存在を知っていたのは確実だと思われ、もしかすると名前が気に入っていたのかも知れませんね。それは兎も角、ブーンズノール16年はごく限られた本数しかなかったせいもあり、知る人ぞ知る存在であって、ブーンズノールの大復活とはなりませんでした。

そして、またもや長い年月を経て、バーボン・ブームに湧く現在、なんと新しいE.J.カーリー&カンパニーが発足し、歴史ある蒸溜所をジェサミン郡に復活させると2021年にアナウンスされました。新興E.J.カーリー社の社長マシュー・パーカーは、「ジェサミン郡で唯一の蒸溜所となることを嬉しく思っています。キャンプ・ネルソンとブーンズ・ノールの歴史はコモンウェルスにとって輝く星であり、E.J.カーリー社の元の場所でアメリカのスピリッツの生産を復活させることに感激している」と語っています。彼らは1800万ドルを投じる計画で、プロジェクトの第一段階には500万ドル以上の投資が含まれ、キャンプ・ネルソンのケンタッキー・リヴァー・パリセイズにあるオールド・ダンヴィル・ロード7777番地に、22500平方フィートの施設を建設するとのこと。新しい蒸溜所でのスピリッツ生産は2022年5月までに開始され、テイスティング・ルームも開設される予定だそうです。CEOであるリック・ベイカーは「第2期の1000万ドルの新規設備投資により、生産能力を年間15000から18000バレルに増強し、同じくジェサミン郡に大規模なリックハウス貯蔵施設を建設する予定です」と述べていました。今のところは「E.J.カーリー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のスモールバッチとシングルバレルの2種類が発売されています。ユーチューブのバーボン・レヴュアーが取り上げていたので見たところ、その味わいはなかなか良さそうでした。これらはケンタッキーの何処かの蒸溜所から調達されたものでしょう。
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(新しいE.J.カーリー社のウェブサイトより)
1860年代後半に遡るそもそものE.J.カーリー蒸溜所はジェサミン郡に深く根ざし、周辺地域の住民の家族の多くは歴史的にその会社と結び付いていました。新しい蒸溜所もそうした雇用を創出すると期待されています。我々バーボン愛好家にとっては自社蒸溜原酒がどんな味わいになるのか、今後が楽しみですね。

では、そろそろ最後にジェサミン郡とは取り立てて関係なく、ケンタッキー産ですらないブーンズノール16年を飲んだ感想を少しばかり。こちらは大宮のバーFIVEさんのメンバー制ウィスキー倶楽部にて提供されたものです。マスターとバーテンダーのNさん、いつも貴重なバーボンをありがとうございます!

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(画像提供バーFive様)
BOONE'S KNOLL 16 Years Old 91.6 Proof
推定90年代初頭ボトリング。色は赤ぽさもオレンジぽさもある艷やかなブラウン。曇ってはいないが、何かの粉でも入ってるのかしらというほど微粒子が見える液体。枯木のような樽の香ばしさ、黒糖のような甘い香りと穏やかなスパイスが薫るエレガントなアロマ。水っぽい口当たり。パレートは香りを引き継ぐがフルーティさがやや足りない。余韻は複雑なハーブ&スパイスとオールドオークのビターな風味が長く続く。ただ、どうもボトリング・プルーフが低すぎる印象はあった。
Rating:88/100


*キャンプ・ネルソンは、アンブローズ・エヴェレット・バーンサイド少将のテネシー州への進軍を支援するため、1863年6月12日に設立され、北軍の補給基地、訓練センター、ホスピタルとして使用されました。名前はウィリアム・ネルソン少将にちなんで付けられています。北軍の指揮者は防衛のし易い場所としてジェサミン郡ニコラスヴィルの南の地を選びました。ケンタッキー州とテネシー州から集められた兵士の訓練施設としても機能しましたが、ユニオンのほぼ全ての州からの部隊がキャンプ・ネルソンに駐屯したり通過したりしたそうで、最盛期には300以上の建物があり、3000人以上の兵士を駐屯させることが出来たそうです。
キャンプ・ネルソンは南北戦争中にケンタッキー州にある8つのアフリカ系アメリカ人徴集センターの中で最大かつ国内で3番目に大きいユナイテッド・ステイツ・カラード・トゥループス(USCT)の徴集センターおよび訓練施設となりました。入隊に関する全ての制限が1864年6月までに撤廃されると、アフリカ系アメリカ人の入隊者数は爆発的に増加。以前は奴隷だった彼らは入隊することで解放され、1864年と1865年で10000人以上の奴隷だった男性がキャンプ・ネルソンで兵士になったと言います。自分達の自由を確保し、最終的には奴隷制の破壊に貢献することで自分の未来をコントロールすることを期待して、何千人ものアフリカ系アメリカ人が奴隷保有州のケンタッキー内に在るこのキャンプに命掛けで逃げ込みました。彼らは妻や子供ら家族を連れてキャンプ・ネルソンにやって来たためキャンプは難民で溢れ返り、この状況にどのように対応するか明確な命令がないままキャンプ指揮官達は自分達の手で問題を解決することを余儀なくされ、1864年、キャンプ・ネルソンの指揮官だったスピード・S・フライ准将は難民の住居を焼き払い強制的に退去させました。避難所も食料もなく多くの人が病気に罹り死んで行ったそうです。北軍幹部とアフリカ系アメリカ人兵士はこの処置に難色を示し、フライはこの命令を取り消して難民キャンプを設立せざるを得なくなりました。キャンプの運営には宣教師たちが協力し、学校や教会のサービスを提供しました。宣教師の中で最も注目されたのは、ジョン・G・フィー牧師です。フィーは奴隷制度廃止論者で、ブリアー・カレッジを設立し難民に入学を勧めました。
キャンプ地の一部は1863年以来墓地として使用され、1866年までに1180人が埋葬されたと言います。南北戦争後、1866年にナショナル・セメテリーと名付けられた墓地はケンタッキー州の他の場所に埋葬されていた北軍死者の再埋葬に使用されました。1866年6月にキャンプ・ネルソン軍事基地は正式に閉鎖されましたが、キャンプと墓地の名残は保存され、現在はアルケオロジカル・サイトとして見学ツアーに開かれています。墓地の反対側には、嘗てシーグラムがフォアローゼズを保管するために使用し、今はワイルドターキーがウィスキーを熟成させている6つのリックハウスがあり、ここの倉庫から産出されるバレルはワイルドターキーで最高の物とされる場合もあってバーボン愛好家には有名です。
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(ボー・ギャレットが提供するワイルドターキーのキャンプ・ネルソン・リックハウスの配置が分かる画像)

**カナダ・ドライ社は1890年代に薬学者/化学者のジョン・J・マクラフリンによってトロントでスタートしたソーダ会社で、1904年にカナダドライ・ペール・ジンジャーエールを造りました。1919年にニューヨークへの出荷が開始され、奇しくもアメリカの全国禁酒法がカナダドライを人気商品にするのを助けました。禁酒に対して真面目な人は酒の代わりにカナダドライを飲み、禁酒に対して不真面目な人は違法な酒を手にした訳ですが、そうした酒の殆どは低品質でまともに飲めたものではなく、それらにカナダドライ・ジンジャーエールをブレンドすると酒の味をカヴァーしてだいぶ美味しくなり飲めるようになった、と。

***アメリカにおけるアルコール規制は、各州ごとに独自の規則があります。飲料用アルコールの規制システムには開放州(オープン・ステイト)と管理州(コントロール・ステイト)の二種類があって、ボトルが消費者の手に渡るまでに異なる経路を辿り、それぞれブランド構築のための異なる戦略が必要とされています。
開放州ではアルコール飲料の販売と流通は民間事業者が行いますが、依然として州議会によって規制されています。規制は主に免許制で行われ、州の裁量でアルコールの売買を許可するライセンスが民間企業に付与されます。開放州で事業を行うメリットは一般的に、リカー・ストアへのアクセスが良くなり、消費者にとって飲料の選択肢が増え、更により多くの商品へのアクセスが可能になるため管理州よりも価格が低くなる傾向があるところ。
管理州では政府機関がシステムの卸売りの側面を担当し民間の小売店に製品を配送するか、殆どの管理州が小売の側面も所有していることが多く、これは通常、州が運営するアルコール飲料管理局(Alcohol Beverage Control Board)の店舗という形で行われます。全ての管理州では、各製品の最低価格が州によって設定され、消費者のための価格が決定されます。一般的な管理州のメリットとしては、州の歳入、アルコール・プログラムへの支援や教育、節度ある消費の促進など。現在のアメリカでは以下の17州が管理州です。
アイオワ
メイン
ミシガン
ミシシッピ
モンタナ
オハイオ
オレゴン
ヴァーモント
ワイオミング
ウェスト・ヴァージニア
アラバマ
アイダホ
ニュー・ハンプシャー
ノース・キャロライナ
ペンシルヴェニア
ユタ
ヴァージニア
また、メリーランド州モンゴメリー郡は管理州制度で運営されていますが、州全体はそうではありません。

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(画像提供F氏)

マスターズ・レアは、今となっては正に名前の如くレアなバーボン。グレンモア・デイスティラリーズが1970年頃に導入したブランドです。現代に生き残っていない古いブランドにありがちなことですが、ネットで探っても情報が殆ど見つからず詳細は分かりません。よって以下は憶測になります。おそらく、マスターズ・レアという名前からしても、ラベルのデザインからしても、限定的で高級志向なバーボンだったのではないでしょうか。また90.9プルーフという半端な数字でのボトリングなどには、どことなく現代のプレミアム・バーボンに通ずる趣が感じられます。

このバーボンの面白いところと言うか興味深いところは、ラベルに「SINCE1836」と、ジョセフ・ワシントン・ダントの有名なログ・スティルの創業年を記載しているところです。当時、「J.W.ダント」というブランドはシェンリーが所有していました。そのため、何故グレンモアがJ.W.ダントの創業年を匂わせるん?となる訳ですが、これはおそらくイエローストーン・コネクションによるものかと思われます。JWの息子であるジョセフ・バーナード・ダントはゲッセメニーに独自の蒸溜所を建設し、それをコールド・スプリングス蒸溜所と名付けました。ルイヴィルの卸売酒類業者テイラー&ウィリアムズ社は、この蒸溜所から供給されるバーボンでイエローストーン・ブランドを作成すると、すぐにヒットさせ彼らの旗艦ブランドにしました。この間にダントのディスティラーとしての評判は高まりましたが、禁酒法によりゲッセメニーの蒸溜所は一旦停止されてしまいます。禁酒法期間中、テイラー&ウィリアムズは薬用ウィスキーの販売ライセンスを持っていませんでしたがブランドを維持し、ウィスキーの保管料とボトリング手数料を払うことで、ライセンスを取得していた企業の一つブラウン=フォーマンによってイエローストーンは販売されました。禁酒法が解禁されると、JBとその息子達は蒸溜会社としてイエローストーン社を設立し、ルイヴィル郊外のシャイヴリーに新しい蒸溜所を建設しました。禁酒法以降、蒸溜所を始めるのは簡単ではありませんでしたし、40年代には戦争もありました。そのせいなのか、1944年にイエローストーン・ブランドはグレンモアにより購入され、同社は以後それを主力ブランドの一つにしていました。バーボンという「商品」のマーケティングは、伝統を重んじ、如何に歴史を遡れるかで価値が高まるようなところがあります。「なんと創業は18○○年!」などと言って。だからこそ、マスターズ・レアのラベルでJ.W.ダントの創業年を謳っているのではないかと…。

1966年頃にはイエローストーンはケンタッキー州で最も人気のあるブランドになったと言われますが、1970年代を迎える頃にはバーボンの売り上げは年々減少し汎ゆる蒸溜所の倉庫は満杯となっていたとも聞きます。そういう観点からすると、マスターズ・レアはNAS(熟成年数の記述なし)ながら、少なくともある程度は長期熟成原酒を含むのではないかと想像しています。ブランド名に使われる「レア(希少さ)」というワードにしても長熟の高尚表現と勘繰ることが出来るでしょうし。
ボトル前面下部のラベルに記載の「Bottled at the distillery by MSTER'S RARE DISTILLING CO. Louisville, Ky.」のマスターズ・レア・ディスティリング・カンパニーというのは想定企業名(架空企業名、DBA)ですが、所在地がルイヴィル表記であるところからすると、ボトリングはイエローストーン蒸溜所でしょう。使用している原酒もイエローストーンの可能性は高いと思いますが、グレンモアのもう一つの蒸溜所であるオーウェンズボロのプラントから来ている可能性も否定できません。何しろ「Distilled」とは書かれてませんから。また、海外の有名なバーボン掲示板で或るアメリカン・ウィスキー愛好家の方は、ダントの創業年とルイヴィルの所在地を記載しているところから、JBの弟のジョン・P・ダントの蒸溜所から来ているのではないかと書いていました。まあ、どれも憶測ではあります。

偖て、このようなレアなバーボンを飲むことが出来るのは、今年の4月から長野県諏訪市に新しくオープンしたバーボン・バー「Fujisan's_Bar」のマスターのご厚意によるものです。マスターのF氏とはインスタグラムで知り合い、バー開店以前から同じバーボン好き同士として仲良くしてもらっていたのですが、お店のストックの中でも希少な部類に属する物を開封したので是非味見をして欲しいとのことで、サンプルを送って頂けたのです。本来ならこちらがオープン祝いに何かしらせねばならぬところ、逆にこんなにも希少な物を飲む機会を提供して頂き感謝しかありません。この場を借りて再度お礼をさせて下さい。画像提供も含め、本当にありがとうございました! そして、いつかお店に伺いたいと思っております。最後尾にお店の紹介をしてありますので、バーボン好きの方は是非ともチェックしてみて下さい。では、飲んだ感想を少しばかり。

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MASTER'S RARE 90.9 Proof
推定70年代ボトリング。赤みを帯びた濃いブラウン。黒蜜、樹液、アニス、フェンネル、炭焼ハンバーグ、ドライオレンジ、お爺ちゃんの薬箱、レモングラス、僅かにバター。ノーズは濃密な甘い香りと爽やかなスパイス香が主で、柑橘系の香水のような香りも。水っぽい口当たり。パレートは複雑なハーブ&スパイス、収斂味も。余韻は長く、ややドライでハービー。アロマがハイライト。

中身に関する情報が全くないのですが、飲んでみるとけっこう長熟なのでは?というフレイヴァーに感じました。10年は超えていそうなマチュレーションです。時間をおくと複雑に変化する香りが面白く、崇高性を感じました。個人的には味わいにもう少し熟成フルーツもしくは濃い色のフルーツを、または甘みを感じたかったですかね。
Rating:88/100


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バーボンをコレクションして十数年のオウナーが、昼間農業に勤しむ傍ら、上諏訪駅から徒歩5分の位置にオープンした隠れ家的なバー。小さいながらも白を基調とした小綺麗な印象の店内は、アメリカン・ポップな飾りでレトロな雰囲気が味わえます。80〜90年代のオールド・バーボンを中心とした品揃えを、当時の仕入れ価格をもとにしたリーズナブルな値段で提供。パピー・ヴァン・ウィンクルからワイルドターキー、プリ・ファイアー・ヘヴンヒルからエンシェント・エイジまで。バーボンが8割、スコッチ1割、ジャパニーズとその他が1割という構成です。厳しい世の中にも拘らず、ほぼバーボンしかないお店を開く男気に乾杯。

Fujisan's_Bar
長野県諏訪市大手2-3-3桑澤店舗ビル1階

営業時間
月 19:00 〜24:00
火 19:00 〜24:00
水 19:00 〜24:00
木 19:00 〜24:00
金 19:00 〜25:00
土 19:00 〜25:00
日 19:00 〜24:00 

休日
殆どの場合やっていると思われますが、不定休のため利用前に店舗に確認するの無難かと。連絡は下記のエキテンのサイトが便利そうです。

Instagram
https://instagram.com/fujisans_bar?igshid=YmMyMTA2M2Y=

エキテン店舗情報
https://s.ekiten.jp/shop_34423568/?from=top_page

You Tubeでお店が紹介されていました

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現在、ワイルドターキーからはエディ・ラッセルが主導するマスターズ・キープという限定生産で概ね長熟の特別リリースがありますが、それがスタートする2015年以前からジミー・ラッセルの主導する限定版の長熟バーボンがありました。ワイルドターキー・トリビュート15年はそうしたリリースの一つで、2004年に発売され、アメリカ国内版と日本輸出版のニ種類があります。アメリカ流通の物は101プルーフでのボトリングで5500本(6本入り800ケースの合計4800本という説も)、日本流通の物は110プルーフでのボトリングで9000本の数量とされています。各々はボトルの形状やパッケージングも異なり、アメリカ版は今のラッセルズ・リザーヴに似たボトルを採用してスクロール式のボックスに、日本版は旧来のケンタッキー・スピリットで使用されたフェザーテール・ボトルを採用して紙箱に入っていました。中身に関しては、ジミー・ラッセルも語っているらしいのですが、両トリビュートは同一バッチのウィスキーで、ボトリング・プルーフだけの違いのようです。それら二つを比較すると、一般的なコンセンサスは輸出用トリビュートの方が僅かにベターとされています。ハイアープルーフだからでしょうね。
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(WT "Tribute" 15yr USドメスティック版のラベル)

このバーボンには次のような逸話が伝わっています。2004年の或る日、マスター・ディスティラーのジミー・ラッセルはワイルドターキーの親会社であるペルノ・リカールから、記念品としてリリースするためのバレルの選定を依頼されました。彼はその意図を、きっと2005年に訪れるオースティン, ニコルズ&カンパニー設立150周年記念のためだろうと思いました。ところが実際には、経営陣の計画はジミーが蒸溜所に勤務し始めて50周年を迎えることを「トリビュート」する記念ボトルの作成でした。つまり、工場で行われていることの殆どを知り尽くした男に、サプライズのため?秘密裏に依頼していたのです。
ジミーが選んだのは、ある段階からバレルをリックハウスの低層階へと移し、ゆっくりと熟成させ特別に育ったバレルでした。ケンタッキー州の蒸し暑い夏にチャード・オークの新樽で寝かせたバーボンは、スコットランドの寒冷な気候や使用済みの樽で寝かせるよりも遥かに早く熟成し、ケンタッキーでの熟成はスコットランドでの熟成の3倍に匹敵すると表現される場合もあります。ワイルドターキー蒸溜所では、もっと熟成するに値しそうだと判断されたか、或いは単純に熟成の進んだバレルを倉庫の涼しい場所に移すなどして慎重な管理を行います。そのため、通常バーボンには不適切とされる熟成期間を経ていたにも拘らず、そしてジミーの哲学に於いても8〜10年の熟成がバーボンに最適とされているにも拘らず、それらは当時のワイルドターキーのストックの中で最も上質と見做せるものでした。「ホワイト・オークのスティックをチューイングしているような味わい」ではない「シュガーバレル」です。ジミーによれば、これほど古く、それでいて絶妙なバーボンになるのはほんの一握りのバレルだけだと言います。上品なメープルシロップを思わせる華やかな香り、ビターチョコのような重く奥深いコク、大胆なスパイス、レザーのような複雑な風味が鼻に抜けるダークなウィスキー。ちなみに、このバーボンの熟成年数を考えると、まだバレル・エントリー・プルーフが変更される前なので(*)、日本版の110プルーフはバレルプルーフに近いボトリングでしょう。

US版トリビュートのスクロール式の箱には次のような賛辞が記載されていました。
ジミー・ラッセルのワイルドターキー・バーボンへの50年に渡る貢献を記念して、限定版の15年熟成のスモールバッチ・バーボン「トリビュート」を提供できることを誇りに思います。この「ザ・マスター・ディスティラー」へのオマージュは、ワイルドターキー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを世界最高のバーボンとするための彼の半世紀に渡る情熱と献身を真に反映したものです。

偖て、こちらは今回のバー遠征に共に行った友人の注文品を一口だけ頂いたものです。その友人は、他にはワイルドターキー8年新旧(スケッチと横向きフルカラー・ラベル)やラッセルズ・リザーヴ・シングルバレル・ライ、ジャックダニエルズのシングルバレル三種の飲み比べ等をしていました。では、最後にトリビュート15年の感想を少しだけ。

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WILD TURKEY TRIBUTE Aged 15 Years 110 Proof
BATCH # JR-8904
BOTTLE # 8605
その熟成期間の割に、確かに口蓋で凄く甘味を感じました。余韻はややビターで、甘さに流されず引き締める感じでしょうか。オークの存在感は支配的ですが、ワイルドターキーの近年の長熟プレミアムに見られたキツさや苦味や渋さはなく、全体的にバランスの良い熟成加減に思います。多少は経年により柔らかさが出てるのかも知れませんが、それ以前に最近の物とは風味の深みが違う次元にあるような気がしますね。
このバーボンは近年オークションでは高騰の一途を辿る銘柄の一つで、大体10万を超えて来ます。あぁ、もう買えないんだなと寂しくなります…。皆さんもバーで見かけたら飲んでみて下さい。
Rating:91.5/100


*ワイルドターキー蒸溜所のバレル・エントリー・プルーフは、2004年に107から110 に、2006年に110から115へと変更されました。

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グリーンブライアーというブランドには歴史的にケンタッキー州のバーボンとテネシー州のウィスキーがありました。今回取り上げるグリーンブライアーは、近年復活を果たしたチャールズ・ネルソンのグリーン・ブライアー・テネシーウィスキーではなく、ケンタッキーの蒸溜所由来の方となります。と言っても、テネシーの方が復活と共にその歴史が掘り起こされているのと違い、こちらのグリーンブライアーの詳しい歴史はよく分かりません。ブランドを守る訴訟はアメリカン・ウィスキーの世界でも昔から盛んでしたが、何故だかこの両者は法廷で争う関係になったことはなく、製品の蒸溜もマーケティングも同時期に行われていたらしい。ともかく、情報が少ないので説明の大部分はサム・K・セシルの本からの引用が殆どとなります(と言うかセシルも先人の資料を参照しただけなのかも知れない)。
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(テネシーのグリーン・ブライアー)

グリーンブライアー蒸溜所は当初、後に祖父にちなんでオールド・グランダッドという有名なブランドを造ることになるレイモンド・B・ヘイデンが運営していたとされます。バーズタウンの市街から東へ5マイル半のウッドローン近く、ミル・クリークの源流付近に建てられていました。禁酒法以前のDSPナンバーは、税務区分が第5地区のRD#239です。設立年と誰が建てたのかは判りません。レイモンドの祖父ベイゼル・ヘイデン・シニアがメリーランド州からケンタッキー州バーズタウンに移住した地域がグリーンブライアーとされているのを見かけたことがあるので、ベイジルが建て息子のルイスが引き継ぎ更にレイモンドが発展させたのがこの蒸溜所なのでしょうか? 或いは、祖父や父を超えんと意気込んだレイモンドが主導して建てたのでしょうか? それはともかく、グリーンブライアーと呼ばれる小さな町はバーズタウンから南へ約6マイルのハイウェイ49沿いにありました。蒸溜所の場所とはちょっと距離が離れていますね。グリーンブライアーは嘗て密造酒の源として有名で、地元にはそれに纏わる伝承があるそうです。
レイモンドは蒸溜所をジョン・Jとチャールズのブラウン兄弟に売却し、二人は1870年代後半には「R.B.ヘイデン」のブランドを使って運営しました。1883年、ウィリアム・M・コリンズとJ・L・ハケットにより設立されたWm.コリンズ&カンパニーに売却され、蒸溜所はグリーンブライアー・ディスティリング・カンパニーを名乗るようになり、R.B.ヘイデン・ブランドを維持しつつ「グリーンブライアー」を加えました。最終的にコリンズは会社を辞め、ハケットを社長に、G・マッガーワンがセクレタリーに就任しました。1891年には蒸溜所を改修し、同年ルイヴィルにケイン・ラン・ディスティラリーを建設したとされます。1892年の保険引受人の記録によれば、グリーンブライアー蒸溜所は金属またはスレート屋根のフレーム構造で、プロパティには牛舎や三つの倉庫があったようです。
1920年、ご多分に漏れず工場は禁酒法で閉鎖されました。1922年には貯蔵されていた最後の残りのウィスキーを薬用ウィスキーとしてボトリングするためフランクフォートのジョージ・T・スタッグの集中倉庫に移したそうです。おそらくシェンリーは禁酒法期間中にグリーンブライアーのラベルを取得したと思われますが、セシルは禁酒法時代にそれが使用されることはなかったとしています。海外のウィスキー・オークションで出品されていた1913年蒸溜/1924年ボトリングの薬用パイントのグリーンブライアーの説明には「この蒸溜所は禁酒法期間中にシェンリー社によって購入された。これは同社がメディシナル・ライセンスを使用してウィスキーをボトリングするためのフル倉庫を探していた時に行われた多くの買収の一つでした。 元の蒸留所は閉鎖されましたが、禁酒法後の最大の生産者の一つである同社は新しい蒸溜所を建設し一時的に運営した」と述べられていました(参考)。
しかし、セシルの本には別の再建ストーリーが語られています。1935年頃、全ての建物が老朽化したため、プラント全体がグリーンブライアーRD No.51として再建された、地元の自動車ディーラーのジム・コンウェイとその仲間がグリグズビー・ダンズと契約し蒸溜所の建物を、レイ・パリッシュが倉庫を建設した、地元の投資家はそこを短期間保有しただけで、その後ワセン・ブラザーズに売却した、何度も所有者が変わり、1930年代後半にバード・ディスティリング・カンパニーという会社に買収されたと記憶している、と。1933年にシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションが組織された時、確かにその傘下の企業名にはフィンチやスタッグ、ペッパー、ジョンTバービー、A.B.ブラントン・スモール・タブ・ディスティリング・カンパニー等と並んでグリーンブライアー・ディスティリング・カンパニーが並んでいるのですが、もしかするとシェンリーはグリーンブライアーのブランドやトレーディングネームは買収していても蒸溜所自体は購入しなかったのかも? これ以上の詳細は私には分からないので、ここらへんの事情に詳しい方はコメントよりご教示頂けると助かります。
明確な時期は不明ですが(40年代?)、蒸溜所はシドニー・B・フラッシュマンが買い取り、おそらくダブル・スプリングス・ディスティラーズ・インコーポレーテッドとして、ビッグ・フォーなどに較べるとささやかな蒸溜事業(スピリッツの蒸溜、倉庫保管、瓶詰め)を営んだと思われます。彼は様々な蒸溜所で生産された投げ売りのウィスキーの購入に頼ることが多かったと思うが、かなり一貫したボトリング・オペレーションを維持していた、とセシルは書いています。ナショナル・ディスティラーズ出身のジョン・ヒューバーがマネージャー、エド・クームズがメンテナンス・エンジニア、ボブ・ブライニーがディスティラー、ヘンリー・ウェランがウェアハウス・スーパーヴァイザーだったそうです。シド・フラッシュマンは禁酒法廃止以来、様々な立場で積極的に酒類業界に携わって来た男で、他にもマサチューセッツ州ボストンでバルク・ウィスキーの倉庫証券のみ取引するボンデッド・リカー・カンパニーの個人事業主でもありました。
フラッシュマンは1960年代初頭までボトリング作業を続け、その後ルイヴィルの旧ジェネラル・ディスティラリーに移りました。スタンダード・ブランズがフランクフォートの21ブランズ・ディスティラリーを手放すと、彼は全てのオペレーションをそこの場所に移しましたが、この事業は短命に終わります。そしてフラッシュマンはそこをエイブ・シェクターに売却し、彼は以前に購入していたオーウェンズボロのメドレー・プラントに事業を移しました[メドレーのシェクター時代は75(または78)〜88年]。
フラッシュマンがネルソン郡の工場を閉鎖すると通告した時、非常に悲惨なことが起こりました。エド・クームズとヘンリー・ウェランは他の二人の従業員であるバーナード・クームズとウェザーズという名の仲間と一緒に通勤していました。職を失ったことに取り乱したウェザーズは荒れ、銃を抜き、エドとヘンリーを殺してしまいました。バーナードは飛び出して逃げたので助かったらしい。ウェザーズは精神異常と判断され、収容されることになったと云う…。
その後、グリーンブライアーの工場は荒廃し、軈て解体され、アメリカン・グリーティングスがこの土地を買い取り、グリーティング・カードの工場を建設しました。グーグル・マップで調べてみると、現在そこは、アメリカン・グリーティングスは立ち退き、カウンティ・ライン・ディスティリングというサゼラックの物流倉庫になっているようです。

偖て、ここらでグリーンブライアーのボトルの変遷でも紹介したいところなのですが、そのラベルを用いたヴィンテージ・ボトルはネットで検索しても殆ど見つかりません。既に上で紹介した禁酒法時代の物以外では、同じく禁酒法時代なのでしょうか所在地表記がカナダの物と、他には推定30年代と思しきBIBの物くらいしかありませんでした(蒸溜およびボトリングはベルモント蒸溜所。ベルモントは禁酒法により閉鎖されましたが、廃止後はシェンリーが購入していた。参照)。多分、シェンリーはグリーンブライアーのブランドを大々的に展開しなかったのではないでしょうか。
他には、グリーンブライアーのラベルを使用していませんが、グリーンブライアー蒸溜所の原酒を使用した比較的有名な物に、20年熟成のヴェリー・レア・コレクターズ・アイテムというのがあります。これは55年蒸溜とされ、ベン・リピーのオールド・コモンウェルス蒸溜所でボトリングされたと見られています(参考)。
そして今回私が飲んだ物に関しては、画像検索してもウェブサイト上で見つけることが出来ませんでした。よって詳細は不明です。これは憶測ですが、海外で全く紹介されていないことや、他のグリーンブライアーと年代が随分と離れているところからすると、当時の輸出用ラベルとして気まぐれに?復刻された物なのではないかと…。では、最後に感想を少しだけ。

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Greenbrier Straight Bourbon Whiskey 86 Proof
推定69年ボトリング(瓶底)。私のリクエストで未開封の物を開けて頂きました。…えっ、なにこれ、バケモノ? 濃厚キャラメル、甘醤油、樹液を感じさせるクラシックなシュガーバレル・バーボンでした。フルーツとスパイスはそこまで強くないカラメル・フォワードな味わいです。マイナス要素なオールド・ボトル・エフェクトも一切なく、香りと旨味全開。裏ラベルには4年熟成とありますけど、その味は完璧に熟成された8〜10年物バーボンのよう。個人的にはオールドボトルは開封済みであれ未開封であれ、状態にかなり差があると思っているのですが、デスティニーさんで飲んだボトルはどれも状態が良く、特にこれは奇跡を見る思いでした。元々ボトリングされた原酒のレヴェルが高かったのかも知れないし、ボトリングから何十年も経過して却って風味が良くなったのかも知れないし、単に自分の好みに合っただけの話なのかもですが、とにかく最高のバーボンでした。
ボトリングはカリフォルニア州フレズノのシェンリー施設だと思われますが、中身は一体どこの原酒なのでしょう? これより旧いグリーンブライアーにはあった「ケンタッキー」の文字が表ラベルからなくなっていますし、裏ラベルにもケンタッキーと書いてないところからすると、他州のバーボンであるのは間違いないかと。そうなると、年代的にもインディアナのオールド・クェーカー蒸溜所が最有力かなぁ…。でも、他のシェンリー製品のようにはラベルにインディアナ州ローレンスバーグの記載が一切ないのも気になるところ…。飲んだことのある皆さんはどう思われました? ご意見ご感想をコメントよりどしどしお知らせ下さい。
Rating:96/100

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