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ラーセニーはヘヴンヒル蒸留所で造られるウィーテッド・バーボンで、2012年9月に歴史的なオールド・フィッツジェラルドの後継として市場に導入されました。ヘヴンヒルは1999年にオールド・フィッツジェラルド・ブランドを買収して以降、安価なボトムシェルファーとして販売していましたが、プレミアムな製品が現代のバーボン・ブームの人気を支える現状を捉えてブランドの大胆な刷新を図ったのでしょう。2018年には毎年春と秋の2回だけの限定リリースで、50年代に販売されていた豪華なダイヤモンド・デカンターを再現した「オールド・フィッツジェラルド・ボトルド・イン・ボンド」を復活させました。また2020年にはラーセニー・バレルプルーフを導入し、こちらは1月と5月と9月の年3回リリースとなっています。

私はバーボンの味は言うまでもなく、そのラベルやボトルのデザイン、ブランドの物語や蒸留所が背負う歴史なども大好きです。ラーセニーにもそれらがあります。先ず、腰をつまんだフラスク型のボトル形状や、鍵をデザイン・コンセプトにしたパッケージは極めてカッコ良い。今日語られるブランド・ストーリーの多くは必ずしも100%正確であるとは限りませんが、ラーセニー・バーボンのバック・ストーリーは興味をそそられる面白いものです。すぐ上でラーセニーはオールド・フィッツジェラルドの後継だと書きました。そしてラベルにはジョン・E・フィッツジェラルドの名がフィーチャーされています。「ラーセニー」とは「窃盗もしくは窃盗罪」を意味する言葉です。それが「鍵」のデザインやフィッツジェラルド氏とどのような関係にあるのでしょうか?

ラーセニー・バーボンのブランド基盤を形成するのは、故ジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルによって有名になったオールド・フィッツジェラルドの歴史とジョン・E・フィッツジェラルドのやや物議を醸す物語です。
オールド・フィッツジェラルドというブランドは、ウィスコンシン州ミルウォーキーを拠点としたワインとスピリッツの卸売業者であるソロモン・チャールズ・ハーブストによって登録され、ケンタッキー州フランクフォートの近くにある彼の所有するオールド・ジャッジ蒸留所で造られました。ハーブストがブランドを作成した時、彼はそれに合わせて物語を紡ぎました。後年まで残った業界の伝承によると、ジョン・E・フィッツジェラルドは南北戦争が終わった直後にフランクフォートで蒸留所を設立し、1870年から鉄道や蒸気船のプライヴェート・クラブのみに販売する高級なバーボンとしてオールド・フィッツジェラルドを製造した、と。この物語は1880年代から禁酒法までブランドを所有していたハーブストと、禁酒法の間にブランドを購入してスティッツェル=ウェラー蒸留所を代表するバーボンにした「パピー」によって更に進められました。それは全てフィクションであり、ジョン・E・フィッツジェラルドは実在の人物ではあるもののディスティラーではなく、実際には倉庫の鍵​​を使って良質な樽からバーボンを盗み出す財務省のエージェントでした。当時から1980年代初頭まで保税倉庫への出入りは財務担当者が管理しており、税金が支払われ、ウィスキーが政府の基準で製造されていることを保証するためには、そうする方が確実だったのです。このため、地元に割り当てられた「政府の人」は非常に力のある立場となり、ハーブストのような蒸留所の経営者やオウナーはエージェントが時々味見をしても、気づかないか気づいても殆ど何も出来ませんでした。
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ランタンに火を灯すと夜な夜なウェアハウスへと近づき、自分が握る鍵を使ってリックハウスに侵入、最高のバレルを吟味するとウィスキーシーフを使って樽から中身をこっそり抜き取り、悠々とジャグを家へと持ち帰える…。現在のラーセニーのホームページでは、ジョン・フィッツジェラルドのそのような姿が再現映像で流れます。バーボンを瓶詰めする時が来ると、通常では考えられないほど軽い幾つかの樽が発見され、そこには極めて滑らかで良質なバーボンが入っていました。中身を盗まれた樽が殆どの場合模範的であることが判明すると、ハーブストの蒸留所の人々の間でフィッツジェラルドは優れた樽の裁判官であるという評判を得ます。すると彼が鋭敏な鼻と肥えた舌で選び出した特に優れた樽を「フィッツジェラルズ・バレル」と呼ぶのは蒸留所の人々の内輪のジョークとなりました。そしてハーブストがオールド・フィッツジェラルド・ブランドの架空のプロデューサーとしてジョン・E・フィッツジェラルドを採用した時、そのジョークは不滅のものとなったのです。この逸話は、パピーの孫娘であるサリー・ヴァン・ウィンクル・キャンベルと彼女の歴史コンサルタントであるサム・トーマスによって、1999年の著書『But Always Fine Bourbon』で明らかにされました。
今は簡単に纏めましたが、もっと詳しくオールド・フィッツジェラルドの歴史やジョン・E・フィッツジェラルドという謎の人物について知りたい方は、過去投稿のオールドフィッツのプライム・バーボンの時にもう少し込み入った話を紹介していますので参考にして下さい。

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ヘヴンヒルがラーセニーを立ち上げた頃のキャッチフレーズは「悪名高い行為によって有名になった味」でした。なかなか上手い言い回しですよね。では、そんなラーセニーの「味」に関わる部分を見て行きましょう。
ウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)は、バーボンに於いて最も一般的なライを含むマッシュビルと違い、フレイヴァー・グレイン(セカンダリー・グレイン)にライの代わりにウィートを用いるマッシュビルで造られたバーボンを指す言葉です。ウィーターとも言ったりします。オールド・フィッツジェラルドやウェラーのような旧スティッツェル=ウェラーからのブランドや、メーカーズマーク、そしてヴァン・ウィンクル等が有名。冬小麦の使用は、ライ麦が供するスパイシーなキックがないため、柔らかで丸く甘いのが特徴とされています。とは言え、ブラインドで味わうと、そのバーボンにセカンダリー・グレインとして小麦を含むかどうかを実際に判別できる人はそういないとも言われています。実際、法律で定められたバーボンのマッシュビルの主成分であるトウモロコシや焦がした新樽は、それ自体でかなり甘いノートを提供するため、ライを含むバーボンであっても甘さを感じることは珍しいことではないからです。ちなみに、ヘヴンヒルの小麦バーボンのレシピは68%コーン、20%ウィート、12%モルテッドバーリー。
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ラベルにはヴェリー・スペシャル・スモールバッチとあります。ラーセニーが発売された頃のセールス・シートには「75樽もしくはそれ以下」と書かれていました。おそらくヘヴンヒルでは100樽以下をヴェリー・スモールバッチ、200樽以下をスモールバッチと呼んでいるように思われます。で、このラーセニー、海外のレヴューを色々読んでみると、バッチングのバレル数が100以下としていることもあれば200以下としていることもあるのです。それらは蒸留所からの情報提供であったり公式ウェブサイトからの引用なので、発売当初は75樽前後だったものが、次第に生産量を増やすにつれバッチングに使用するバレル数も増えたのかも知れません。それが正しい推測だとすると、じゃあヴェリー・スモールバッチじゃなくね?となりかねませんが、業界最大手のジムビームのスモールバッチが凡そ300樽なので、それよりは少ないことを考えればヴェリー・スモールバッチを称しても決して間違いではないかと…。まあ、それはともかく、ラーセニーのバレルは4、5、6階の上層階から選ぶと言います。これに関してはロバストなフレイヴァーのウィスキーを選んでいることが覗えるでしょう。そして熟成年数はNASですが、6〜12年(6~10年とする情報もある)の範囲とされます。多分6年熟成の原酒がメインと思われ、もし熟成年数を表記する場合は「6年」ということになりますけど、もう少し長熟のバレルをブレンドすることで、より熟成したプロファイルのバーボンになるように努めているのだそうです。ただし、ヘヴンヒルの公式ウェブサイトには「当社のマスターディスティラーは、ラーセニーのために、6年熟成のテイスト・プロファイルの、ピークに達した限られた数のバレルをリックハウスの特定のフロアの場所から選んでいます」という記述があり、もしかすると上のバレル数の件と同じように年々長熟バレルの混和率が下っている可能性もある気がします。と言うより、そもそも「75樽以下、6〜12年熟成」のスペック自体がラーセニー販売当初にパーカーとクレイグ・ビームが造り上げた仕様であって、2013年にパーカー・ビームが病気で引退した後は後任のデニー・ポッター(*)がNASの利点を活かしてある程度自由にバレルを選んで初期のラーセニーに近いプロファイルをクリエイトしてるだけの話なのかも知れません。初期物と近年物を飲み較べたことのある方は是非コメント頂けると嬉しいです。
では、そろそろラーセニーを注ぐとしましょう。

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LARCENY 92 PROOF
ボトリング年不明(2015年くらい?)。赤みを帯びたブラウン。香ばしい焦げ樽、バター、シナモン、ダークチェリー、レーズン、ナツメグ、焦がし砂糖、たっぷりベリーのパンケーキ。焦げ樽を中心としてスパイスと少し酸っぱい香り、しばらく置くと激しいピーナッツ・ノート。口当たりはさらりとして喉越しも滑らか。口中でもアロマと同じくシナモ二ーなウッディ・フレイヴァーが。余韻はミディアム・ショートでドライ気味ながら仄かに甘い木の香りとダークなフルーツが少し。
Rating:84/100

Thought:開封から約二分の一に減るまでパッとしないバーボンでした。焦がした樽の風味は強いのにそれだけと言うか。しかし、香りが開いてからは甘い香りも味もありました。特にアロマは良い感じです。ただ、味わいと余韻はやや深みに欠けるのは同じでした。
前回まで開けていた小麦バーボンであり元ネタは同じヘヴンヒルと見られるデイヴィッド・ニコルソン1843(NAS100プルーフ)と比べると全然違う熟成感。ラーセニーの方がより焦がした樽の風味やチェリー感が強く、口当たりが滑らかです。
寧ろ、口当たりや風味はバーンハイム・オリジナル・ウィート・ウィスキーに似てる気がしました。小麦繋がりで、取っておいた物をサイド・バイ・サイドで飲み較べたのですが、ラーセニーの方がオイリーさで上回るし余韻も強くて美味しく感じます。

Value:ラーセニーはアメリカでは25〜30ドルが相場です。この価格は以前のオールド・フィッツジェラルドのプライムやボトルド・イン・ボンドよりも高いのですが、デザイン性やスモールバッチならではのバレル・セレクションを考えれば、市場での価値は妥当でしょう。問題は日本での小売店の販売価格が大体5000円を超えてしまっていることです。これは痛い。本来、似たようなプルーフの小麦バーボンで25〜30ドルならメーカーズマークのスタンダードとウェラー・スペシャル・リザーヴが競合製品。或いはラクスコのレベル・イェールやデイヴィッド・ニコルソン1843も含めていいかも知れません。しかし、ウェラーのラインの人気がアメリカで高まり日本に入ってくる量が減ったこと、またラクスコの製品の生産量がMMやBTと比べて少ないことを考えると、ラーセニーと直接対決できる小麦バーボンは、実質的にはメーカーズマークだけとなります。両者はどちらも似たスペックであり、プルーフィングも熟成年数も近く、アメリカではほぼ同じ価格での販売。なのに日本ではラーセニーはメーカーズマーク・スタンダードの2倍かそれ以上…。まあ、割り切って競合するバーボンとは思わないようにしましょう。良い点を言うと、ラーセニーの方がメーカーズマークよりもバランスがいいとの評価があります。個人的にもメーカーズマークのスタンダードは酸味が強く、人を選ぶバーボンかなという気がしています。その酸味がなく、樽感が強いという意味で、寧ろラーセニーはメーカーズ46に似てると言えなくもない。46なら日本での販売価格もラーセニーと近いですし。そして何よりラーセニーはパッケージが凄くカッコいい。だから私は買いました。案外そんなところで価値が決まるものですよね。


*2013〜2018年までヘヴンヒルのマスターディスティラー兼ヴァイス・プレジデント。現在はメーカーズマークに移籍し、グレッグ・デイヴィスの後任としてジェネラル・マネージャー兼マスターディスティラーに就任しました。フォアローゼズのブレント・エリオットやバッファロー・トレースのハーレン・ウィートリーと同世代。

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オールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンは、簡単に言うとオールド・フィッツジェラルド・ブランドの中のエントリー・クラス・バーボンで、1960年代に時代に迎合してボンデッドの低プルーフ版として発売され始めました。プライムの発売経緯には興味深いエピソードがありますが、その紹介の前に、ウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)の代表的ブランドであり、バーボン業界において真に象徴的な名前となっているオールド・フィッツジェラルドの歴史を少し振り返ってみたいと思います。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、そもそもウィスコンシン州ミルウォーキーに本拠を置く国際的なワインとスピリッツのディーラーであるソロモン・チャールズ・ハーブストが1886年に商標登録した「Jno. E. Fitzgerald」が始まりです。それはハーブストが率いたS・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが使用する幾つかのブランドのうちの1つでした。オールド・フィッツジェラルドの物語は、先ずはハーブストその人から語らなければならないでしょう。
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ソロモン・ハーブストは1842年にプロイセンのオストロノで生まれました。彼は地元の学校で教育を受けたあと故郷を離れ、1859年に16歳でアメリカへと渡ります。当時多くのジャーマンの若者はその段階で移住することで、基礎訓練中の新兵の死亡率が高いプロイセン軍の徴兵を避けたのだそう。ハーブストはジャーマン人口が多いミルウォーキーに直接向かったようで、それは言葉の通じ易さのためと見られます。若い頃の彼はブリキ職人として働いていました。また、後に成功することになるウィスキー・トレードへの参入前は、ミシガン州マスキーガンで兄弟のファビアンやウィリアムと卸売および小売の材木業に携わっていたようです。
1868年になるとハーブストはチェスナット・アヴェニュー401-403にあったエガート&ハーブストという酒類卸売会社のパートナーとしてミルウォーキーのリカー・ビジネス・シーンに登場しました。理由は分かりませんが、1870年までに相方のエガートはその事業から離脱し、ハーブストが単独所有者となり、社名にソロモン・チャールズ・ハーブストの名を刻みます。それは彼の成功への始まりの一歩でした。
この同時期に、ソロモンはウィスコンシン生まれで7歳年下のエマと結婚しています。彼女の両親は現在チェコ共和国の一地域になっているボヘミアからの移民でした。1880年の国勢調査によると、夫婦にはカーシー、デラ、ヘレンの三人娘がおり、それとハーブストの事業の順調さを示すように家庭には2人の使用人がいたようです。

ハーブストは同時代の卸売業者がそうであったようにレクティファイヤーとして、つまり原酒を余所の蒸留所から調達してブレンドし、所望の風味に整えて販売する、今で言うNDP(非蒸留業者)としてキャリアを始めました。初期の頃は、卸しでは自らの名前がコバルトブルーでステンシルされたストーンウェア・ジャグを、小売では名前がエンボス加工されたガラス瓶を使用していたようです。また、アンバーやクリアのフラスクボトルもありました。後年のものも含みますが、S・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが販売していたブランドにはフィッツジェラルド以外では、「ベンソン・クリーク」、「同ライ」、「チャンセラー・クラブ」、「クリフトン・スプリングス」、「オールド・ジャッジ」、「オールド・ジョン」等があります。
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では、フィッツジェラルド・ブランドについて見て行きましょう。先に述べたように、初めは「ジョン・E・フィッツジェラルド」というブランド名でした。ハーブストがどのようにブランドを作成したかについては明確に分かりません。いくつかの伝説はありますが、それらは主にマーケティングの話に基づいています。おそらくハーブストはマーケティングの才に長けていたし、そのためのお金も持っていました。彼がブランド作成と共に作ったストーリーでよく知られるのは、フィッツジェラルド・ブランドは「1870年から鉄道と蒸気船のライン、プライヴェート・クラブにのみ販売する高級なバーボンとして製造された」といった話です。それはフィクションでしたが、ブランド名の由来がジョン・E・フィッツジェラルドの名前からなのは確かでした。しかし、同じ姓名の人物が複数おり、彼らが一人の人間なのか別の人間なのか明らかにするだけの証拠に欠けています。実はバーボンの歴史家にとって「ジョン・E・フィッツジェラルドは誰(何者)なのか?」は意外と簡単ではない問いなのです。なのでこの件は後回しにして、ある程度わかっているフィッツジェラルド・ブランドの情報を書き出してみます。

ハーブストはケンタッキー州の蒸留所からバレルを購入し、おそらくはブレンディングしてフィッツジェラルド・バーボンを造りました。1880年代後半から1896年頃までは主にオールド・テイラー蒸留所(当時RD#53、禁酒法解禁後にDSP-19となった)、またその他の蒸留所と契約してブランドを製造していたと見られます。ブランドにはバーボンとライウィスキーがありました。オールド・テイラー蒸留所のE・H・テイラーはハーブストにいくらかの未払金があって、この借金を支払うためにハーブストと契約を結んだのだとか。
ハーブストのリカー・トレードが成長するにつれて、彼は競合他社の存在や利用可能なウィスキーの高騰などから供給源の枯渇に直面し、レクティファイングのための十分な原酒を入手するのが難しくなったと思われます。そこで多くの成功した卸売業者がしたのと同様に、ハーブストも保証された安定的供給を確保するため、1900年頃、フランクフォート郊外のベンソン・クリークにある蒸留所を購入しました。地元の人々はそのプラントを代表的ブランドの名前からオールド・ジャッジ蒸留所(第7地区 RD#11)と呼んでいました。ハーブストはこの施設の運営のため、1901年にマネージャー兼マスターディスティラーとして、ケンタッキーの名高いウィスキー製造家族であるビクスラー家の一員ジェリー・ビクスラーを雇っています。禁酒法によって蒸留所が閉鎖されるまでの間、ここでフィッツジェラルドやオールド・ジャッジを含む全てのバーボンとライウィスキーが造られました。
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自らのプラントを所有することになったハーブストは巧妙な神話を紡ぎ出します。彼は蒸留所に自分の名前を付けてもケンタッキー州ではあまり反応がよくないと思ったのか、蒸留所はジョン・E・フィッツジェラルドという名のアイルランド人のディスティラーによって建てられたとマーケティングで語りました。実際の創設者はマンリウス・T・ミッチェルという人物で、1890年にオールドジャッジ蒸留所をマーサー郡バーギンからフランクフォートに移転する計画があり、蒸留所はおそらく1892年頃に建てられたと思われます。よくオールド・フィッツジェラルドのマーケティングで語られる1870年云々というのは、ハーブストが卸売業を始めた年でしょう。それと、どうもハーブストが購入する前の1899年に、既に蒸留所は他の所有者の手に渡っていたようで、もしかするとハーブストはそちらから購入したのかも知れません。それはともかく、ハーブストはもともと蒸留所の購入前からDBA(Doing Business Asの略)でジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所の名は使用していました。フランクフォートの蒸留所を購入したことで、1905年には「オールド・フィッツジェラルド」のブランド名を再登録します。そしてプラントの規模と能力を大幅に拡大、郡でも最大の蒸留所の1つとなり、ハーブストはそこをオールド・フィッツジェラルド蒸留所と称しました。

蒸留所の印象的な大きさにも拘わらず、ハーブストは広告で「昔ながら」の製法を強調しました。彼は特にポットスティルに強いコダワリがあったようで、本当かどうか分かりませんが、1913年の広告ではオールド・フィッツジェラルドとオールド・ジャッジをアメリカで製造されている最後の「オールド・ファッションド・カッパー・ポット・ディスティルド・ウィスキーズ」であると宣伝しています。また、以前ハーブストがオールド・テイラー蒸留所と契約を結んだのは、テイラーがポットスティルを使用していたからとされ、そもそもオールド・ジャッジ蒸留所を購入した理由もポットスティルが決め手だったとされます。ガラス瓶が安価になり始めた頃、企業は各々自社製品のボトルに特徴的なラベルを使い出し、ハーブストもオールド・フィッツジェラルドのラベルを作成すると、いつの頃からか(1910年代?)ラベルにポットスティルの図柄を入れました。店頭で販売されるクォートとフラスク・サイズのボトルに付けられたラベルは非常に有名になり、オールド・フィッツジェラルドの象徴的なラベル・デザインとして後世でも殆ど変わりません。
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ハーブストはフィッツジェラルド以外にも前記のブランドをリリースしましたが、言うまでもなく旗艦ブランドはオールド・フィッツジェラルドでした。おそらくは当初のコンセプト通り、蒸気船や列車の食堂で供されたり、高級なジェントルマンズ・クラブで人気があったのでしょう。ハーブストはウィスキーの流通を助けるため、1901年に中心地となるシカゴにオフィスを開設し、それを数十年間維持しました。他にもニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ジェノアにオフィスを構えていたとされ、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスでオールド・フィッツジェラルド・バーボンを販売していたとか。
ビジネスの成功によりハーブストの名声が地元で高まるにつれ、彼は他分野にも進出しました。1904年には地元の金融機関であるミルウォーキー・インヴェストメント・カンパニーの投資家、設立者、副社長になり、その後も300万ドル以上の資産を持つシチズンズ・トラスト・カンパニーの設立を支援しました。
ハーブストには事業を継ぐ息子がいなかったため、年老いてもなお自分の主要なウィスキー蒸留および流通事業を管理し続けたと言います。禁酒法によってケンタッキーの蒸留所とミルウォーキーの酒類販売店の両方が閉鎖された時、彼は既に70代になっていました。そこでハーブストは、禁酒法期間中に販売できる薬用ウィスキー用として、オールド・フィッツジェラルドのブランド権をW・L・ウェラーに売却します。おかげでブランド名は存続し、大衆の酒飲みからの認知もあったでしょう。そして禁酒法解禁後にオールド・フィッツジェラルドはスティッツェル=ウェラー蒸留所を牽引するブランドとなって行きます。
ソロモン・チャールズ・ハーブストは1941年2月に98歳で天寿を全うし、3人の娘とその家族に見守られ、ミルウォーキーズ・グリーンウッド・セメタリーに埋葬されました。彼の死に先行すること31年前に亡くなっていた妻エマの横に。

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さて、ハーブスト時代のオールドフィッツが終わったところで、後回しにしていたジョン・E・フィッツジェラルドについて述べたいと思います。彼について複数の候補がいることは先に触れましたが、現在もっとも広く受け入れられ支持されている説は、ヘヴンヒルからリリースされている現代の小麦バーボン「ラーセニー」ブランドの元にもなっているエピソードです。その民間伝承のように知られる話は語り手によって語句や内容に多少のヴァリアントがありますが、概ね以下のようなものでした(少々、私の想像で補って脚色してます)。

…ハーブストの倉庫で働く従業員もしくは警備員に、味にうるさい熱烈な大酒飲みの男がいました。名前をフィッツジェラルドと言いました。彼は当時の多くの従業員のように、倉庫にいるあいだゴム製ホースまたは「ミュール」と呼ばれる器具を持ち歩きました。彼はバーボンの最高の樽を見つけると、栓を開け、ホースを差し込み、仕事中に勝手に飲みました。そうした樽が最終的にボトリング・エリアに到着すると、通常の樽より僅かに軽いのでした。フィッツジェラルドの鋭敏な嗅覚と所業を知っていた仲間の従業員達は、それらの樽を「フィッツジェラルズ」と冗談で呼びました。いざ販売されたウィスキーは非常に良いと評判となり、事情を伝え聞いたハーブストはフィッツジェラルドの名前のブランドを作ることにしました…

現実には、フィッツジェラルドは保税倉庫に配属された米国財務省のエージェントでした。当時、ウィスキー税は米国政府にとって重要な収入源であり、ウィスキーの倉庫は厳重に監視されていて、蒸留所には倉庫への全てのアクセスを制御する「政府の人」が敷地内にいました。ちゃんとに税金が支払われ、ウィスキーが政府の基準に適合しているか確認する彼らのみ、保税倉庫の鍵を持っていたのです。蒸留所のオーナーでさえ鍵を持っていませんでした。これは1897年のボンデッド・アクトの成立から1980年代初頭にシステムが変更されるまで続いています。上のエピソードで「警備員」と解釈されているのは、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っていたからでしょう。しかし、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っているのなら、彼は財務省のエージェントでなければなりませんでした。
ジョン・E・フィッツジェラルドは、ディスティラーでも蒸留所のオーナーでもありませんでしたが、たまたま倉庫の鍵を握る立場にあり、グッド・バレルの良き裁判官でもあり、大酒飲みでもあったがため、個人的な消費のために最高の樽を頻繁にタップしたと推測されます。彼が勝手にウィスキーを味わう時、ハーブストのような蒸留所のオーナーや蒸留業務を指揮するディスティラーは殆どの場合そこに立ち会えません。これは謂わば無法者の政府保安官による「窃盗」です。そこからラーセニー(窃盗もしくは窃盗罪の意)・バーボンの名前は付けられました。ウィスキーを盗むとは言え、フィッツジェラルドは嫌われ者とは思えず、おそらく愛すべきキャラクターだったのでしょう。だからこそ蒸留所の人々の間で彼の味覚は称賛され、バーボンの特に優れた樽をフィッツジェラルド・バレルと呼んだ、と。やがて内輪の冗談は、ハーブストがオールド・フィッツジェラルド・ブランドの架空のプロデューサーとしてフィッツジェラルドを選んだ時、神々しい輝きを放ち始め、以後のマーケティング・スキームの基盤としてその影響は現代まで及んでいるのでした。
この説は多分に伝説の提供といった感が強いですが、一般的に事実として受け入れられています。では、他のジョン・E・フィッツジェラルドの候補はどうなのでしょうか?

一人は、上に述べたフィッツジェラルドと同一人物の可能性が高い男です。
1875年、大統領官邸にまで至る広範な汚職事件として悪名高いウィスキー・リング・スキャンダルの一環で、ミルウォーキーの歳入局のゲイジャー(計測係)が、ウィスコンシン州の不正な政府職員、蒸留業者、およびレクティファイヤーらと共に政府を詐取した陰謀の廉で逮捕されました。ゲイジャーの名前はジョン・E・フィッツジェラルドでした。一年後ワシントンにて他の二人のゲイジャー、一人のストアキーパー、四人のレクティファイヤーと共に起訴されました。法廷で彼は、過去15年間ミルウォーキーに住んでおり、1869年9月から1875年5月まで米国政府のゲイジャーとして雇用されたと証言しています(他の証言では、樽が空になったのを確認する責務の「ダンパー」としてフィッツジェラルドが賄賂の交渉をしたと記述されました)。詳細は明かさなかったようですが流れとしては、蒸留業者は素知らぬふりをして税務報告よりも多くのウィスキーを作り、彼はそれを黙認することで口止め料の賄賂を掠め、それを共和党候補者に渡していたらしい。ゲイジャーの義務は倉庫の監督および樽の税印の修正や政府への申告書の提出などでした。おそらく職名からすると仕事としては、穀物の計量やマッシュビルの順守を監視し、樽への充填やバレル・ヘッドへのブランド情報の遂行の見守り、またバレル販売やボトリングのために樽が引き出された時それらの中身の残りを測定したのだと思います。ウィスキーを含む酒類のアルコール含有量を決定する責任者という説明もありました。
この男が「財務省のエージェント」と同一人物だとすると、この話が前半生、先述のエピソードが後半生ということになるでしょう。フィッツジェラルドが不名誉なスキャンダルの後にまたもや政府機関で働いたとは考えにくいとする意見があります。逆に政治家との繋がりが明白なのだからコネで再度就職したというのも有り得るとする見方もあります。前者も確かにそうだと頷けますが、フィッツジェラルドは調査への協力に対して免責を与えられたとかいう話も聞きますので、後者の可能性も捨てきれません。少なくとも彼の6年間のゲイジャー勤務時代(1869~1875年)には、ハーブストはまだ蒸留所の購入(1900年頃)をしていないので、この時代にフランクフォートの倉庫で「ラーセニー」エピソードが行われたのでないのは確実です。考えられるのは、ハーブストがミルウォーキーに保税倉庫を所有していた可能性。1870年代または80年代頃にはボンデッド・アクトは成立していませんでしたが、保税倉庫はありました。どうやらハーブストはミルウォーキーにブレンディング工場は所有していたらしいので、保税倉庫も所有していたのなら「窃盗」がこの時代に行われていてもおかしくはありません。ただし、この頃から保税倉庫はストアキーパーと呼ばれる政府の警備員の管理下にあり、その仕事は誰もがゲイジャーがいない状態で倉庫に立ち入らないようにすることだったと言います。となると、ゲイジャーが倉庫に入るにはストアキーパーに気づかれないようにする必要があります。ゲイジャーの男による味見のための窃盗が実際に行われていたのなら、ストアキーパーとの共謀だったのではないかとの指摘がありました。また、このフィッツジェラルドの裁判記録は倉庫へのアクセスを示すものではなく、様々な蒸留業者とレクティファイヤーの間での税金の徴収のみを示しているそうです。そこにはハーブストの名も見られず…。つまり、ジョン・フィッツジェラルドが当時ミルウォーキーのゲイジャーだったという証拠はありますが、彼が実際にハーブストの倉庫で働いたという証拠はないのでした。しかし、同じミルウォーキーの同じ時代に酒に関わる二人のこと、フィッツジェラルドとハーブストが互いに顔見知り、或いは気の合う仲間だったというのは十分考えられるでしょう。ちなみに、この彼は1838年に生まれ、1914年に死亡、その死までミルウォーキーに留まったとされ、ミドルネームの「E」はエドモンドのようです。

では、次のもう一人。この人物の詳細は不明ですが、ミルウォーキーの国勢調査の記録から、同じ時期にその都市にボイラーメーカーであるジョン・E・フィッツジェラルドがいたことが判明しています(1910年の国勢調査で72歳)。或る慎重な歴史家はこの彼を、ハーブストのメンテナンスマンとして働いていたのではないかと思う、と述べていました。
続けて、もう一人。この人物のミドルネームの頭文字は不明ですが、エドモンドとエドムンドという名前の家族がいました。このジョン・フィッツジェラルドは1896年に63歳で亡くなり、生涯を船長と造船者として過ごしました。彼は老年期にはドライドックを設立し、そこは息子のウィリアム・E・フィッツジェラルドが不慮の死で1901年に亡くなるまで運営していたそうです。ウィリアムには造船業界に入らなかった息子がいましたが、家族経営の会社は彼のために船を造ってエドムンド・フィッツジェラルドと名付けたとか。このウィスキーや蒸留業とは無関係のフィッツジェラルドが取り上げられた理由は、実はハーブストがヨットに意欲的だったからでした。彼は年次開催されたミルウォーキーとシカゴ間のヨット・レースで授与されるS・C・ハーブスト・トロフィーを創設したと言います。これは或るフィッツジェラルド研究に熱心な方の情報ですが、なんと上記の「ボイラーメーカー」を取り上げた歴史家も、1889年の市の商工人名簿に蒸気船の運送会社の副社長としてジョン・E・フィッツジェラルドがリストされていると指摘しています。こうしたヨットへのハーブストの親和性や蒸気船とジョン・E・フィッツジェラルドの関係は、オールド・フィッツジェラルドのあの有名なマーケティングの文言(鉄道やらリヴァーボートやら蒸気船の顧客専用に特別に造られたと云うあれ)を連想させるのに十分でしょう。

最後の一人はディスティラーです。有名なサム・K・セシルの本のジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所(オールド・ジャッジ蒸留所のこと)の説明にはこう書かれています。
「この工場はフランクフォート郊外のベンソンクリークにあり、ジョン・フィッツジェラルドによって建設された。ブランドにはオールド・フィッツジェラルド、オールド・ジャッジ、ベンソン・スプリングスがあり、ミルウォーキーのS・C・ハーブストにより配給された。1900年頃、フィッツジェラルドはブランドをハーブストに売却し、インディアナ州ハモンドに移り、そこで別の蒸留所の監督になった。」
どうもこの書かれ方だと、これまでの文面から判る通り、私の理解の真逆になっています。即ち、ハーブストはただのブランド販売代理店の経営者であって創造者ではなく後継者であり、フィッツジェラルド・ブランドはジョン・フィッツジェラルドというディスティラーが造った、と。どうやらセシルのこの説はWhit Coyteのリサーチを基にしているようで、個人的には信憑性に欠く気がします。しかし、フィッツジェラルド蒸留者説は、どうやら無根拠ではありませんでした。他の歴史家によると、ミルウォーキーからそう遠くない場所で同時代に蒸留事業に携わっていたジョン・E・フィッツジェラルドがいたと言うのです。そのフィッツジェラルドはシカゴ・インター・オーシャンによれば、「米国で最も優れた蒸留者の一人と見做される」プラント・マネージャーで、1901年にシカゴ近郊のハモンド蒸留所の秘書兼会計に任命されました。しかもそれ以前には、ウィスキー・トラストによるダイナマイト爆破事件で有名なあのシューフェルト蒸留所で17か18歳の頃からディスティラーとしてキャリアを始めたとか。このフィッツジェラルドは1865年生まれとされます。なのでゲイジャーと同一人物でないのは明らかとは言え、ハーブストと無関係とは言い切れないでしょう。ハーブストは自らの卸売事業のための供給を主にケンタッキー州の蒸留所と契約して確保していたとされますが、当時最も生産性の高い蒸留所はイリノイ州にあり、その中でトラストと提携していなかったシューフェルト蒸留所は、ハーブストのサプライヤーの一つだったのかも知れません。もしそうであれば、ハーブストが上手くフィッツジェラルドの高名な名前を利用した可能性もある気がします。或いは、ハーブストはシカゴにオフィスを構えていたので、知り合いだったのでは?

ここまで謎に満ちたミステリアスなジョン・E・フィッツジェラルドの候補を紹介して来ましたが、これらのフィッツジェラルドのうち2~3人が同じ人物だったなんてことは十分に考えられるでしょう。彼らが人生のキャリアに於いて転職を繰り返した同じ男性であるかどうかを決めるにはより多くの研究が求められます。一方で「ジョン・E・フィッツジェラルド」は非常に一般的なアイルランド系の名前でもありました。候補には加えませんでしたが、1880年代にボストンの内国歳入局の徴税係にジョン・E・フィッツジェラルドという男がいたそうです。同じ時代で同じ税収に関わる仕事かつ同じ名前、つまりはありがちな名前だった、と。もしかすると1800年代後半に、バーボンにアイリッシュ・ネームを付けることで、一部のエスニック・グループにアピールすることは、悪くないマーケティング方法だったのかも。孰れにせよ、どれもが憶測です。ジョン・E・フィッツジェラルドが何者であるかの詳細は、更なる新しい資料の発見を俟たねばなりません。
こうしたフィッツジェラルドについての謎、錯綜、様々な憶説の飛び交う混沌とした状況は、ひとえにハーブストのマーケティングのせいだと思います。ハーブスト(或いはその担当者)は、一つの真実を保ちながら壮大な脚色をして物語を紡ぐ小説や映画のように、またはそれらに登場する一人の人物のキャラクターが実在する複数の人間のエピソードに基づいて構成されたりするように、フィッツジェラルドの神話を創造したのではないでしょうか? 彼は自分の晩年に、ブランドを酒豪のフィッツジェラルドと名付けることは、意地悪で可笑しな内輪のジョーク(悪ふざけ?)であったことを明らかにしたと言われています。我々が捏造された架空の起源に翻弄されたり、謎解きに右往左往する姿を見たら、ハーブストは天国でくすくす笑っているのかもしれません。 

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さて、ここからはハーブストから新しい所有者に切り替わったオールド・フィッツジェラルドを見て行きます。
禁酒法期間中の1922~25年にかけて、ジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルはハーブストからオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを購入し、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所が禁酒法下でも政府に認められた薬用ウィスキーとして販売するようになりました。既存の在庫は禁酒法期間中に枯渇し、1928年、政府が薬用の在庫の補填に対してはウィスキーの製造を許可したため、アーサー・フィリップ・スティッツェルとパピー・ヴァン・ウィンクルはスティッツェル家に伝わる旧いレシピを使用してウィスキーを造ることにします。そのレシピとは、フレイヴァー・グレインにライ麦を使わず代わりに小麦を用いるものでした。彼らがこのレシピに決めた理由は、他のレシピと較べ短い熟成年数でより良い風味が得られると感じたこと、そして既存の在庫が減少するにつれてウィスキーが早急に必要となることを分かっていたからです。オールド・フィッツジェラルドが、後年「ウィスパー・オブ・ウィート(小麦の囁き)」と説明されることになるウィーテッド・バーボン、或いはウィーターと呼ばれるグレイン・レシピに変わったのはこの時からで、以前のオールドジャッジやテイラー産およびその他のものは恐らくスタンダード・ライ・レシピ・バーボン・マッシュビルを使用して造られていました。小麦バーボンは適切に熟成すると、伝統的なライ麦を含むバーボンよりも丸くて柔らかいテクスチャーを示し、スパイス・ノートの少ないより甘いプロファイルをバーボンに与える傾向があると言います。余談ですが、面白いことに上のパピーらの見解とは逆に、現代の考え方では熟成年数の若い小麦バーボンはあまり味が良くないと言うか、小麦はライ麦より穏やかな熟成を見せるので、小麦バーボンがライウィスキーまたはライ・レシピ・バーボンと同等の熟成感を得るためには樽の中でより多くの時間が必要とされているそうな。

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(我々は優良なバーボンを造り、できれば利益を上げる、必要であれば損失を出してでも、常に優良なバーボンを造る)

禁酒法が解禁された1933年、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所は正式に会社として合併し、老朽化したスティッツェル蒸留所に代わる新しい生産工場をルイヴィル近郊のシャイヴリーに建設します。それがスティッツェル=ウェラー蒸留所(DSP-KY-16)であり、1935年のダービー・デイにオープンしました。そこではジュリアン・パピー・ヴァン・ウィンクルの指揮の下、オールド・フィッツジェラルドは造られました。そのため、この先のオールド・フィッツジェラルドのブランド・ステータスは、ジョン・E・フィッツジェラルドでもハーブストでもなく、パピーと関連付けられて行きます。
スティッツェル=ウェラーは比較的小規模な独立所有の蒸留所であり、今で言うところのクラフト蒸留所に近い蒸留所でした。パピーが執った方法論は昔ながらの製法に依るものと言ってよいでしょう。それは品質への妥協のなさを意味します。ライ麦の代わりに小麦を使うことは割高でしたし、油性の口当たりをもたらすマッシュのためのトウモロコシの挽き方もより高価なプロセスでした。また、樽材には通常より厚いオークのステイヴを使用していたと言います。そしてパピーは恐らくウィスキーの工程全般に於いてプルーフの制御に重きを置きました。一説には50年代頃は、天然のバーボンの風味を維持するため、コラムスティルでの第一蒸留を85プルーフ、ポットスティル・ダブラーでの第二蒸留を117プルーフ、バレル・エントリーを103プルーフで実行したとか。これらは現代の水準と較べて驚くほど低い数値です。
蒸留所のドアの上の看板にはこう書かれていました。「化学者の立ち入りを禁ず。自然およびマスター・ディスティラーの昔かたぎの〈ノウハウ〉がここでの仕事を成し遂げる…ここは蒸留所であって、ウィスキー工場ではない」と。スティッツェル=ウェラーの初代マスターディスティラーであるウィル・"ボス"・マッギルは、テクノロジーではなく人間の感覚こそが良質なウイスキーを作ると考えました。この思想はスティッツェル=ウェラーの歴代マスターディスティラー全員に受け継がれ、施設の最後のマスターディスティラーであるエド・フットは業界に於ける蒸留の自動化を嘆いたと言います。彼らは皆、自らの口蓋と鼻を使って良質なウィスキーを造り上げたのであって、決してコンピューターがそれを造り出したのではなかったのです。

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(Time Magazine May 21 1956)

パピーはもともとW・L・ウェラー社の優秀なセールスマンだったので、マーケティングを怠ることもありませんでした。1950年代、彼は新聞や雑誌にシリーズ物の広告を掲載しています。そこでは、親密な口調で民俗的物語を訓話風にまとめてオールドフィッツを飲むべきだと語ったり、暖炉横でのゆったりしたお喋りのようなスタイルで自社の伝統的な製法を説明したりしました。こうしたパピーのユニークな個性を反映した広告形態は、おそらくオールド・フィッツジェラルドの評判を高めるのに役立ったことでしょう。

スティッツェル=ウェラーでパピーは幾つかのブランドを作りましたが、旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドが最も人気がありました。パピーの統制下ではオールド・フィッツジェラルドは常にボトルド・イン・ボンド規格のバーボンでした。熟成年数は4〜7年とされます。その後、8年熟成のヴァージョンとして「ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」が追加されました。8年は、保税期間のため政府に税金を支払う前に熟成させることが出来る当時の最大年数だったからです。1958年以降、保税期間が8年から20年に延長されたことで、ブランドには長期熟成ヴァージョンが更に加わり、それらは「ヴェリー・エクストラ・オールド・フィッツジェラルド」、「ヴェリー・ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」のラベルにて限られた数量でリリースされました。
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「オールド・フィッツジェラルド・プライム」は、パピー・ヴァン・ウィンクルがボトリングを拒否したバーボンです。冒頭に述べたように、プライム・バーボンは従来までのオールドフィッツの低プルーフ版な訳ですが、パピーはオールド・フィッツジェラルドがボンデッド・バーボンとしてのみ販売されるべきとの信念をもっており、人々がより低いプルーフを望むなら自分で水を足せばよいと考えていました。消費者が水にお金を払うのは馬鹿げていると広告で述べたそうです。しかし、パピーが引退した後、会社を引き継いだ息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアは、コストの削減や利益の増大にプルーフを下げている他社のブランドと競合するため、オールド・フィッツジェラルドでもロウワー・プルーフ・ヴァージョンの発売を求めていた販売員からの圧力に屈し、1964年にプライムは作成されました。ジュリアン・ジュニアは後に8年熟成で90プルーフの「オールド・フィッツジェラルズ1849」も導入しています。プライムは発売当初から数年間は86.8プルーフの製品で、数年後に86プルーフに落ち着きました。後年、ユナイテッド・ディスティラーズがブランドを所有した時、彼らはケンタッキー州では86プルーフ・ヴァージョンを作り続けましたが、ケンタッキー州以外の市場ではプルーフを80に下げました。更に後年、ブランドがヘヴンヒルに渡った時にはケンタッキー州でも80プルーフになります。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、長い間プレミアム・バーボンとして高い評価を得ていました。「もし君がバーボン飲みでないのなら、その理由は一つ、オールドフィッツを味わったことがないからだ」と堂々と宣言する1970年の広告もありました。控え目に言っても、ジュリアン・P・"パピー"・ヴァン・ウィンクル・シニアはアメリカン・ウィスキー産業の巨人でしょう。彼はバーボンが華やかりし時代の最も裕福な蒸留所オーナーでもなければ、ディスティラーでもなかったかも知れませんが、多くの課題に直面しても偉大なる指揮者として自分の会社と自らのバーボンの誠実性を維持し、彼の会社を統合しようと目論む巨大会社のウィスキー独占と激しく戦いました。残念なことに、1965年のジュリアン・シニアの死後、ジュリアン・ジュニアは会社を維持できませんでした。彼の社長としての在職期間はウィスキーの販売が減少し、ファーンズリー(S-Wの共同経営者)とスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、1972年、アート・コレクターとしても有名な億万長者の実業家ノートン・サイモンのコングロマリット(ノートン・サイモン・インコーポレイテッド)への売却を余儀なくされたのです。それでもジュリアン・ジュニアは業界に留まり、古巣のスティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利を契約に残したことで、禁酒法時代のブランドだった「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」を復活させ、その事業はジュリアン・ジュニアが1981年に亡くなった後も息子のジュリアン・P・ヴァン・ウィンクル3世に引き継がれたのですが、これはまた別の話。

1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所がノートン・サイモン社に売却されると、その名称は主力ブランドと同じオールド・フィッツジェラルド蒸留所に変更されました(*)。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。サマセットはジョニー・ウォーカー・ブランドの販売権を有していました。これが伏線となって、1984年、ジョニー・ウォーカーを所有していたディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収することでジョニーウォーカーの流通を管理します。その結果としてオールド・フィッツジェラルドも移行しました。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。この所有権の変更時に蒸留所の名称はスティッツェル=ウェラー蒸留所へと戻されました。
ユナイテッド・ディスティラーズはアメリカンウィスキーの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルに新しく建設したバーンハイム蒸留所に生産ラインを移管、以後オールド・フィッツジェラルドはそこで製造されて行きます。スティッツェル=ウェラーの最後のマスター・ディスティラーであるエド・フットは、そのままバーンハイムで同職に就き仕事を続けました。この頃、UD社はバーボン・ヘリテージ・コレクションの一つとして「ヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年」を発売しています。
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蒸留所の親会社はM&Aの末、巨大企業ディアジオを形成し、同社はアメリカンウィスキーの資産のうちIWハーパーとジョージディッケルを残して、それ以外のブランドの売却を決定。1999年、バーズタウンにあった自社の蒸留所を火災で消失していたヘヴンヒルは新しい蒸留施設を求めていたので、ディアジオはヘヴンヒルにバーンハイム蒸留所と共にオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを売却しました。それ以来、今日までオールド・フィッツジェラルドはヘヴンヒルが所有しています。
ヘヴンヒルではブランド取得後、かなりの低価格で100プルーフのボトルド・イン・ボンドと80プルーフのプライム・バーボンが発売されていました。所謂「ボトムシェルフ」というやつです。オールド・フィッツジェラルズ1849もありましたし、販売量の少ないヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年も継承されていました。アメリカに於けるプレミアム・バーボンの隆盛を背景に、2012年9月、ヘヴンヒルはオールド・フィッツジェラルドの延長としてラーセニーを市場に導入します。その影響で、次第にオールド・フィッツジェラルドのラインナップは縮小され、2015年前後には終売の情報が流れました。実際、VSOFはギフトショップのみの販売となりそのあと製造中止、BIBも配布地域を減らして行きそのあと製造中止となったようですし、OF1849も市場から消えています。ただし、プライムは今現在海外でも日本でもネットで購入できます。しかし、これが単なる在庫なのか製造が続いているのかよく判りません。それとは別に2015年には「ジョン・E・フィッツジェラルド・ヴェリー・スペシャル・リザーヴ20年」という限定リリースもありました(375mlボトルで約300ドル)。これはその昔、ヘヴンヒルがオールドフィッツのブランド権を買収した時に、一緒に購入したスティッツェル=ウェラーのバレルを、或る時から熟成しないコンテナーに移して秘蔵していたものです。また最近の2018年になって、毎年春と秋の2回リリースされる限定版「オールド・フィッツジェラルド・ボトルド・イン・ボンド」が導入されました。50年代に販売されていたダイヤモンド・デカンターを復刻した華麗なデザインが人気を博しています。
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では、そろそろ今回レヴューするオールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンを注ぐとしましょう。

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Old Fitzgerald Prime Bourbon 80 Proof
推定2000年前後ボトリング。オレンジぽいブラウン色。アップルワイン、軽いヴァニラ、焦樽、アプリコットジャム、ラムレーズン、カカオ、サイダー。水っぽくも柔らかい口当たりでヒート感は殆どない。味わいはやや酸味より。余韻は短くウッディなスパイスとピーナッツ。
Rating:82/100

Thought:今回のレヴューで開封したのは、UPCコードからするとユナイテッド・ディスティラーズが販売していた製品もしくはヘヴンヒルへ移行した初期の物と思われます。一応カテゴリーをヘヴンヒルにしましたが、推定ボトリング年代が正しいとすると、この時代のプライムの熟成年数はNASながら多分4年なので、本ボトルはヘヴンヒルが所有する前のニュー・バーンハイムで蒸留された原酒の可能性が高いです。
こうしたエントリークラスのバーボンから想像される味より、ダークなフルーツ感が強く、風味全体が複雑でした。ただし、画像では判らないかも知れませんが、こちら購入時から液体に曇りがありました。飲めないほどの劣化はしていませんでしたが、開封当初からかなり酸化の進んだ「香りの開いた」味わいに感じました。しかし、その割りに余韻はあまり芳醇でないと言うか、個人的にはもう少し甘みが欲しかったです。


*この頃からマッシュビルやイーストにも多少の変更があったようです。スティッツェル=ウェラーのマッシュビルは約70%コーン、20%ウィート、10%モルテッドバーリーとされていますが、蒸留所が売却された後には長年に渡って変更が加えられ、新所有者はお金を節約するためにモルテッドバーリーの量を減らし、トウモロコシの量を増やしたとか。これは澱粉を糖へ変換するために商業用酵素を追加することを意味しています。イーストに関しては、パピーの在任期間中はジャグ・イーストを用いていたそうですが、新しい所有者はドライ・イーストを使用するようになったそう。しかし、それでもスティッツェル=ウェラーは依然としてレヴェルの高い生産を維持したと言われています。
ちなみにバレル・エントリー・プルーフも年々上昇したようで、パピー初期は本文でも記したように103~107プルーフあたり、最終的には114プルーフになったと見られています。

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ソサエティ・オブ・バーボン・コニサーズ・カスク・プルーフ(バーボン愛好家協会 樽出原酒、以下SOBCと略す)は、90年代半ばにジュリアン・ヴァン・ウィンクルが日本市場向けにボトリングした長期熟成酒で、今ではユニコーンの一つとされるバーボンです。当時の日本は既にバブル景気は終わっていたと思いますが、アメリカ市場と較べたらまだまだバーボンに大金を注ぎ込む余地があり、プレミアム・バーボンもしくは本品のようなスーパー・プレミアム・バーボンのいくつかは日本市場限定で販売されていました(スタンダードなバーボンでも今よりずっと多くの銘柄が90年代を通して発売されていた)。当時のアメリカではバーボンは下層階級のドリンクのイメージが一般的で、もし長期熟成のプレミアム価格のバーボンを販売しても、購入するのは極く一部の好事家のみだったでしょう。逆に日本ではアメリカへの憧れと共に長期熟成酒をありがたがる下地があったので、利益率の高い日本(や一部のヨーロッパ)向けに輸出していたのです。
このSOBCはスーパー・プレミアムに相応しいよう、コニャック・スタイルのボトルに入れられ、ラベルもワインの影響を感じさせる優雅な雰囲気を醸しています。ラベルにはバッチ・ナンバー、樽入れとボトリングの時期、そしてご丁寧にテイスティング・ノートまで書かれているのも高級感の演出でしょうか。中身のジュースはスティッツェル=ウェラー(オールド・フィッツジェラルド)の原酒を独自に熟成したものだと言われています。ボトリング名義のコモンウェルス・ディスティラリーは、80年代前半にジュリアンがケンタッキー州アンダーソン郡ローレンスバーグの旧ホフマン蒸留所を改名してボトリング施設とした会社です。おそらくスティッツェル=ウェラーで蒸留され眠っていた樽を、ある時そこまで運び、更に自社のウェアハウスで熟成させたのでしょう。

で、上に述べたローレンスバーグでのボトリングから時を経た2000年代の終わり頃には、今度はKBD(ウィレット蒸留所)からSOBCがリリースされました。この初めがジュリアンで後にKBDがボトリングという流れは、ヴェリー・オールド・セントニックやブラック・メイプル・ヒルなどに共通しています。こちらはスティッツェル=ウェラーの原酒ではないとされ、ヘヴンヒル蒸留所の原酒と目されますが、KBDのソースは基本的に秘匿なので、もしかしたら他の蒸留所の原酒かも知れません。こればかりは飲んだことのある方のご意見を伺いたいところです。少なくともローレンスバーグ瓶詰めの物と較べて、カスク・プルーフでのボトリング度数が違い過ぎますから、スティッツェル=ウェラー産を否定する根拠ではあるでしょう(*)。

取り敢えずネットで調べられる限りのSOBCのヴァリエーションを以下に纏めておきたいと思います。おそらく初期リリースの物は94年に発売され、4種類(樽違い)あるようです。

SOBC CP 20 years old
Batch No. 74-241
Date Barreled : April, 1974
Date Bottled : October, 1994
51.8% Alc.
Bottled by Commonwealth Distillery, Lawrenceburg, KY

SOBC CP 20 years old
Batch No. 74-327
Date Barreled : April, 1974
Date Bottled : October, 1994
55.0% Alc.
Bottled by Commonwealth Distillery, Lawrenceburg, KY

SOBC CP 20 years old
Batch No. 74-476
Date Barreled : April, 1974
Date Bottled : October, 1994
51.2% Alc.
Bottled by Commonwealth Distillery, Lawrenceburg, KY

SOBC CP 20 years old
Batch No. 74-706
Date Barreled : April, 1974
Date Bottled : October, 1994
53.5% Alc.
Bottled by Commonwealth Distillery, Lawrenceburg, KY

そして2001年には2種類が発売されたようです。ここまではスティッツェル=ウェラー原酒で間違いないでしょう。初期リリースに較べ味が落ちるという意見も聞き及びますが(**)、ラベルのテイスティング・ノートを担当したマイク・ヴィーチはその味わいを絶賛しています。

SOBC CP 20 years old
Batch No. 80-040
Date Barreled : December, 1980
Date Bottled : March, 2001
54.2% Alc.
Bottled by Commonwealth Distillery, Lawrenceburg, KY

SOBC CP 20 years old
Batch No. 80-045
Date Barreled : December, 1980
Date Bottled : March, 2001
56.1% Alc.
Bottled by Commonwealth Distillery, Lawrenceburg, KY

それから08年と09年にボトラーがKBDとなり、ウィレット蒸留所名義にて瓶詰めし、2種類発売されたようです。しかも熟成年数が20年ではなくなりました。ここまで来るとローレンスバーグ産とは別物と言ってよく、むしろ製品仕様としては現在のウィレット・ファミリー・エステートの祖先といった感があります。

SOBC CP 18 years old
Batch No. 08-74
Date Barreled : March, 1990
Date Bottled : July, 2008
59.7% Alc.
Bottled by The Willett Distillery, Bardstown, KY

SOBC CP 19 years old
Batch No. 09-82
Date Barreled : 3-26-1990
Date Bottled : 7-3-2009
59.4% Alc.
Bottled by The Willett Distillery, Bardstown, KY

以上がネットで把握できるSOBCの一覧です。他にもあるのをご存じの方は情報提供お願いします。

さて、前置きが長くなりましたが、そろそろ飲んだ感想を。今回は宅飲みではなく、バー飲みです。私が飲んだ物は店のマスターによると、その当時出回っていたSOBCを仲間うちで飲み比べて一番美味しかったやつなのだとか。マスターのコレクションされているアンティークグラスに注いでくれました。もはや崇高さが漂っていますね。

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Society of Bourbon Connoisseurs CASK PROOF 20 years old 55.0% Alc.
Batch No. 74-327
Barreled : April, 1974
Bottled : October, 1994
深く甘いキャラメル香と共に渋みのある香り。ブランデーのような芳香。口に含むと55度にしてはアルコール感を感じさせない柔らかさ。味わいはオーキーで湿った地下室を思わせる。ビターチョコとダークチェリーにハーブの余韻。現代バーボンとは異質の焦げ樽感で、なるほどこれが樽香か、という味。古の味がする。
私があまり長期熟成が好みでないのと、少々過大評価の嫌いがある気がするので、ユニコーンとか「聖杯」と言われるバーボンにしては得点は抑えめとなりました。
Rating:88.5/100


*カスク・プルーフ(バレル・プルーフ)の違いは熟成期間中の蒸発率も関係しますが、ローレンスバーグ産とバーズタウン産ほどボトリングの度数に違いがあるのであれば、そもそもバレル・エントリー・プルーフが違うことを示唆しています。おそらくスティッツェル=ウェラーは、130プルーフ程度で蒸留後、114プルーフで樽入れしていたと思われます。そして長期熟成酒はウェアハウスの下層階に保管されるのが一般的なので、そこでは上層階で熟成されたバーボンとは逆にプルーフアップせず、スコッチの熟成のようにプルーフダウンする筈です。そうなるとKBD版SOBCの120に近いプルーフは、125のバレル・エントリー・プルーフを実行する蒸留所の物と推測されるでしょう。

**個人的な味覚や好みを措いての話ですが、ジュリアンに限らず、またスティッツェル=ウェラーに限らず、蒸留所から樽を買う場面を想像してみると、その時に試飲した中で最も美味しいと判断したものを買うのが当たり前でしょう。そして良質な物には限りがあるのだとすれば、ある意味、良い物が早い者勝ちでなくなっていってもおかしくはありません。そう考えると、初期リリースの方が美味しかったという感想は、あながちない話ではないように思われます。

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