タグ:オールドボトル

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今回の投稿もバー飲みです。バーで飲む時は初めの一杯を何にするかいつも迷います。私は酒に弱いので初っ端からハイアー・プルーフの物は選ばないようにしつつ、せっかくだからなるべく希少な物を飲みたいと熟考の末、思いついたのがナショナル・ディスティラーズのロウワー・プルーファー2種の同時注文でした。一つは前回投稿したオールド・クロウ。もう一つがこのPMバーボンです。

オールド・クロウは言わずと知れたブランドですが、PMは今となっては完全に歴史の塵に埋もれたブランドでしょう。だいたいPMって何なの? 時間のa.m./p.m.の午後のこと?てなりますよね。後の広告では「PM for Pleasant Moments(愉しいひと時のためのPM)」なんて惹句があったり、ラベルにもそう記載されるようになりましたが、これは後付で、もともとはペン=メリーランド(Penn-Maryland)というブランド名からその頭文字を取ったものでした。おそらくペン=メリーランド・ウィスキーは禁酒法以前にメリーランド州ボルティモアで製造されていたのをナショナル・ディスティラーズが買収し、禁酒法後に復活させたのではないかと思います。
ナショナル・ディスティラーズはウィスキー・トラストの残党から1924年に持株会社として設立されました。薬用ウィスキー事業を営む会社を傘下に加えつつ、糖蜜やその他の食品、酵母、工業用アルコールの製造もしていましたが、禁酒法が廃止されることにも賭けていました。禁酒法期間中、彼らは閉鎖された蒸溜所をそのブランドとウィスキーの在庫と共に購入。1933年に修正第18条が廃止された時、ナショナルはアメリカ全体の熟成したウィスキーの約半分を保有し、100以上のブランドを所有するに至っていました。そのため以後の蒸溜酒業界に於いて主要企業として支配的な地位を確立することが出来たのです。
1933年夏、ナショナル・ティスティラーズ・プロダクツ・コーポレイション(NDPC)は、イリノイ州ピオリアに本拠を置く他のトラストの残党であったU.S.インダストリアル・アルコール・カンパニー(USIAC)と、それぞれが2分の1の持株を有する合弁事業としてペン=メリーランド・インコーポレイテッドを共同出資で組織しました。同社は完全子会社としてペン=メリーランド・コーポレイションという名称の会社を設立させ、USIACからリースしたイリノイ州ピオリアの蒸溜所や、同所およびオハイオ州レディングとメリーランド州ボルティモアのブレンディング工場を運営しました。また同時に、シンシナティ郊外のエルムウッドにあるカーセッジ蒸溜所を買収し、カーセッジ・ディスティリング・カンパニーの名の下で操業しました。この二つの会社はペン=メリーランド・カンパニーという販売子会社と共に1934年11月15日に合併され、ペン=メリーランド・コーポレーションに編入し会社は継続します。1934年2月には、NDPCはUSIAからペン=メリーランド・インコーポレイテッドの残り2分の1の持株を取得しており、同社をNDPCの完全子会社としていました。1936年にはペン=メリーランド・インコーポレイテッドは解散し、その資産は親会社に吸収されます。ピオリアの工場は1940年にハイラム・ウォーカーに売却されるまでリースを継続したそう。当初の計画では、ペン=メリーランドがブレンデッド・ウィスキーを生産し、他のナショナル施設がストレート・ウィスキーを生産していましたが、多少の混在もあったようです。画像検索で見つかるPM以外のペン=メリーランド・コーポレイションのブランドには、「オールド・ログ・キャビン」、「タウン・タヴァーン」、「スプリング・ガーデン」、「ウィンザー」、「ブリゲディア」、「シェナンドア・ウィスキー」、「ベル・オブ・ネルソン」等がありました(主にブレンデッド、一部ストレート・バーボンやストレート・ライの短熟もあり)。
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ちなみに、現在ジムビームのスモールバッチ・コレクションの一つとなっているノブ・クリークのルーツはナショナルのペン=メリーランド社に遡れるのですが、1935年頃のオリジナルと見られるラベルには「DISTILLED BY Penn-Maryland Corp. CINCINNATI, OHIO」とあるので、本当にシンシナティで蒸溜されているのならば、おそらくはカーセッジ蒸溜所産の可能性が高いでしょう。1893年に建てられた古い歴史を持つこの施設は、ナショナルがその一部を1940年代に工業用アルコール蒸溜所として再建して戦争努力のための材料を提供し、その後も別の場所で蒸溜したニュートラル・スピリッツをベースにしたデカイパー・コーディアルを造るために使用され続けました。またボトリングと輸送施設を維持し、一定期間は彼らの所有するオールド・オーヴァーホルトもボトリングされていました。ナショナルのブランドでラベルにシンシナティでボトリングとあれば、この施設で行われていると思います。1987年にナショナルからウィスキー資産を買収したビームも、2011年にその事業をケンタッキー州に移すまでデカイパーのフレイヴァー・コーディアルを製造するためにカーセッジでの操業を続けていました。

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1934年にペン=メリーランド・コーポレイションはグレードと価格の異なる3種のウィスキーの販売を開始しました。それらはグレードの高い順に「ペン=メリーランド・デラックス」、「ペン=メリーランド・インペリアル」、「ペン=メリーランド・リーガル」と名付けられていました。1935年には、アニタ・ルースによる1925年の人気小説『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』(日本ではジェーン・ラッセルとマリリン・モンローが主演した1953年の映画がお馴染み)をもじった「紳士はブレンドを好む(Gentlemen Prefer Blends)」をスローガンとして、カートゥーニストのピーター・アルノやオットー・ソグローのユーモラスな絵を使用した広告を『ニューヨーカー』や『ニューヨーク・タイムズ』に出しています。また、プロモーション用のブックマッチの表紙には「チェロの如くメロウ」というスローガンが用いられました。
1936年3月と11月には「ペン=メリーランド・プライヴェート・ストック」および「PM バー・スペシャル」という特別版?も発売されたようです。1936年5月にはペン=メリーランド・インペリアルが停止されました。これは多分ハイラム・ウォーカーから、後に彼らのブレンデッド・ウィスキーの旗艦ブランドとなる「インペリアル」の商標侵害で訴えられたからではないかと思います。その頃にペン=メリーランド・ウィスキーはラベルのスタイル変更を検討し始め、名前のイニシャル「P」と「M」のサイズを大きくしました。変更されたラベルは1936年12月または1937年1月以降の販売から使用されたようです。
1938年11月にペン=メリーランド・デラックスを宣伝するキャンペーンを開始すると広告のテキストにPMという文字を単独で使うようになり、1939年11月にはデラックス・ブランドのバック・ラベルにPMを単独で使用し始めました。41年までにブランドはデラックスとリーガルの二つのみになったようで、おそらくこの頃にはブランド名はPMオンリーになったと思われます。このペン=メリーランドの頭文字を拡大して名前を簡略化する変更は、以前に使用されていたブランド名が長すぎて面倒だとセールスマンや広告代理店から批判を受けた結果でした。
40〜50年代はナショナルもPMブレンデッドの広告を盛んに出していたようですが、バーボンやウォッカに取って代わられた60〜70年代にはその存在感はかなり小さくなったものと思われます。いつしかPMデラックスにはクリーム色のラベルが登場したようで、海外オークションで見かけた物は、そのインフォメーションでは75年ボトリングとしていました。このラベルのデザインは、後にナショナルのウィスキー資産を買収したビームから出された際のPMデラックスにも踏襲されています。ビーム製造のPMは画像検索で殆ど見かけないため、おそらくスモール・マーケット向けの製品だったのではないかと。
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偖て、今回飲んだPMバーボンなのですが、PMは基本的にブレンデッド・ウィスキーのブランドなのでストレート・バーボン規格はかなり珍しいでしょう。いくら検索しても海外のウェブサイトで取り上げられているのを見つけることは出来ませんでした。ラベルのデザインからするとボトリングは75年くらいでしょうか? それくらいの時期に単発もしくはごく短期間か、或いは輸出用に造られたのではないかと想像します。裏ラベルによるとケンタッキーで蒸溜された4年熟成のバーボンで、どこの蒸溜所産かは明確には判りません。オールド・クロウと同じナショナル・ティスティラーズのブランド、同じプルーフということで飲み比べ用に注文した次第です。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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PM Straight Bourbon Whiskey 80 Proof
推定70年代ボトリング。オールド・クロウと同じくカラメル・フォワードな甘い香りと味わい。クリーミーなフィーリングがあります。余韻はややビター。飲む前はもっと明らかな違いがあるかと思っていたのですが、意外と大差なく感じました。強いて言うとこちらの方が僅かにフレイヴァーが濃密な気がしたくらいです。まさかオールド・クロウ蒸溜所で造られているのでしょうか? いや、オールド・グランダッド蒸溜所? それとも別の蒸溜所? 同じナショナル・ブランドだと同じクーパレッジから樽を調達している可能性もあるのかしら? 飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか、ご意見ご感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。
Rating:86.25/100

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今回の投稿はバー飲みです。バーで飲む時は初めの一杯を何にするかいつも迷います。私は酒に弱いので初っ端からハイ・プルーフの物は選ばないようにしつつ、せっかくだからなるべく希少な物を飲みたいと熟考の末、選んだのはバーボン史上にその名が燦然と輝く、しかし、今は底に沈んだブランド、オールド・クロウでした。

オールド・クロウは汎ゆるバーボンの中でも伝説に彩られたストーリーを持っていますが、余りにも有名なので、ここでは駆け足で紹介しておくに止めましょう。
オールド・クロウの名前は、スコットランドからアメリカに移住し、幾つかの蒸留所で働いた後、1830年代にウッドフォード郡のオスカー・ペッパーの蒸溜所(現在のウッドフォード・リザーヴ蒸溜所)で雇われた医師であり化学者でもあったジェイムズ・C・クロウ博士にちなんで名付けられました。クロウは一般的にサワーマッシュ製法を発明したと誤って信じられています。しかし、サワーマッシュは彼によって「発明」されたものではありません。前回のバッチからのスペント・マッシュ(バックセットまたはスティレージとも)の一部を次回のバッチのスターターとして使用するサワーマッシュ製法は、マッシュのpHを下げることで不要な細菌の増殖を抑える効果があり、バッチ間でのフレイヴァーの連続性を確保する技術です。サワーマッシュまたはイースト・バッキングは、1700年代後半頃から東海岸のウィスキー蒸溜所で最初に採用されたと見られ、或る歴史家はそれをラム蒸溜所からの影響ではないかと推測しています。クロウはウィスキーの製法に初めて科学的アプローチを取り入れることで、上手く行く時もあれば失敗する時もあった発酵のプロセスを予測可能なものにし、サワーマッシュの使用法を標準化しました。そして、彼はマッシュ・タンやウォッシュバックを丁寧に洗浄し、注意深く科学的な方法論を用いてレシピを取り扱ったと伝えられます。また、樽熟成がスタンダードではなかった時代にウィスキーをしっかりと樽熟成させていたとも聞きます(これが「オールド」の意)。そうした行為の全てが初期のオールドクロウ・サワーマッシュ・ウィスキーに高いレヴェルの品質と一貫性を与えた、と。オールド・クロウのブランド名で販売され始めた明確な時期は分かりませんが、かなり早い時期(1840年代くらい?)からジェイムズ・クロウの名前と関連付けられていた可能性はあります。オスカー・ペッパーは自身のオールド・オスカー・ペッパーなどのラベルを使用することに加えて、彼の蒸溜所で製造されたウィスキーの一部をオールドクロウ・ブランドで販売していたとしても不思議ではないでしょう。ともかく、オールド・クロウはブランド名で販売された最初期のウィスキーの一つであり、嘗て最上のウィスキーと見做されました。
クロウは1856年に突然亡くなります。彼の死後もオスカーはオールド・クロウを販売し続けました。クロウの長年の助手であったウィリアム・ミッチェルがオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所で働いており、彼はクロウのレシピや製法に精通していたからでした(クロウの製法のメモが残っていたともなかったとも伝承されていますが、少なくとも販売会社は従来と同じ製法と主張するでしょう)。クロウが死んだにも拘らず、オールド・クロウの人気は益々高って行きます。オスカーもまた1867年に、遺言なしに妻と七人の子供達に農場と蒸溜事業を残してこの世を去りました。オスカーの遺産分割調停で、彼の所有する829エーカーの土地は子供達のために七つの不平等な区画に分割されます。オバノン・ペッパーはまだ7歳だったので、自動的に母親のナニーが後見人となり、蒸溜所、グリスト・ミルなどの経済的に生産性のある財産は全てペッパー夫人の手に委ねられることになりました。オバノンの相続の保護者としてナニーは蒸溜所をフランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにリースします。同社はミッチェルをディスティラーとして雇用し続け、サワーマッシュ・ウィスキーをクロウの製法で製造し、オールド・クロウのブランドも使い続けました。
様々な蒸溜プロジェクトに投資するグループによって1862年に組織されたゲインズ, ベリー&カンパニーはアメリカ製ウィスキーを専門とする蒸溜酒飲料会社でした。幹部は社名になっているウィリアム・A・ゲインズとハイラム・ベリー、そして背後には19世紀末から20世紀初頭にかけてケンタッキー州の多くの蒸溜所に出資し経営した元銀行家のエドムンド・H・テイラー・ジュニアがいました。会社のジュニア・パートナーであったテイラーは、イングランド、スコットランド、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア、スペインなどで最新の蒸溜法を学ぶためにヨーロッパに派遣されています。彼が帰国すると会社はその知識を応用し、オールドクロウ・ウィスキーを造るため1868年にケンタッキー・リヴァー沿いにあるフランクフォートの土地を取得してハーミテッジ蒸溜所の建設を開始、1870年に生産を始めました。ヘッド・ディスティラーはウィリアム・ミッチェルの下で訓練を受けたマリオン・ウィリアムズです。同社はマイダズ・クライテリアにオールド・クロウの商標を登録し、また同じく商標登録されたハーミテッジには「オールド・クロウのメーカー」と述べられていました。ハーミテッジ蒸溜所が建設中だった間、彼らはオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の他にジェイムズ・クロウも働いていたアンダーソン・ジョンソン蒸溜所もリースしました。そしてそれだけに留まらず、ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬、オールド・クロウ蒸溜所を建設するために、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約5kmのところにあるグレンズ・クリーク沿いの25エーカーの土地を購入しました。建設は6月下旬に始まり、蒸溜所は1870年に完成しましたが、敷地内の仮設の設備もしくは既存のスティルハウスにより1869年8月中旬には生産を開始できたそうです。アンダーソン・ジョンソン蒸溜所(後のオールド・テイラー蒸溜所の場所)のすぐ近くにあるこの蒸溜所は後々までオールドクロウ・バーボンの本拠地になりました。オスカー・ペッパー蒸溜所で働き続けていたミッチェルは、オールド・クロウ蒸溜所の建設に伴い新しい施設に移り、1872年までヘッド・ディスティラーを務めています。その後任にはオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所のマッシュ・フロアーで働いていたミッチェルの従兄弟ヴァン・ジョンソンが就き、1900年代初頭に息子のリー・ジョンソンと入れ替わるまでヘッド・ディスティラーを務めました。新しい蒸溜所の設備は、1830年代後半にペッパーとクロウが設置した伝統的なポットスティルから大幅な進歩を示し、1880年代から20世紀初頭にかけても少しずつ改良が加えられました。おそらくは、初期のクロウの原則の幾つかは大規模な生産に対応するため変更され、味わいも変わったかも知れません。それでもオールド・クロウのブランドは、クロウ、ミッチェル、ジョンソンの誰によって蒸溜されたものであっても、その優れた卓越性と品質が高く評価され、同時期のアメリカで生産された他のウィスキーよりも高い価格で販売されていました。
ちなみに、1868年、ニューヨークの販売代理店であるパリス, アレン&カンパニーが投資グループに加わった時、ゲインズ, ベリー&カンパニーはW.A.ゲインズ&カンパニーとして再編成されています。この時代のオールド・クロウは有名でした。19世紀に最も有名な酒飲みの一人であったユリシーズ・グラント大統領に選ばれたウィスキーと知られ、アメリカ合衆国の上院議員達にも愛されたと伝えられます。1880年代後半までに、ハーミテッジとオールド・クロウを擁するW.A.ゲインズはサワーマッシュ・ウィスキー(バーボンとライ)を製造するアメリカ最大の生産者になりました。19世紀後半、アメリカでのライ・ウィスキーの需要は強く、ケンタッキー州でも1860年代後半から禁酒法まではその生産量の3分の1をピュア・ライウィスキーに費やしていたと言います。W.A.ゲインズ&カンパニーは、1870年からオールド・クロウやオールド・ハーミテッジのラベルで「ハイグレード・ピュア・ライ・サワーマッシュ・ウィスキー」を販売した数少ない企業の一つでした。同社はライ・ウィスキーの代理店販売についてはニューヨークのH.B.カーク&カンパニーを指名し、両ブランドの唯一のボトラーおよび販売業者として、おそらく1909年?あたりまで独占的に供給していたようです。
オールド・クロウは19世紀に最も人気のあるウイスキーであり続けました。人気者の宿命か、ブランド名の認知度や影響力を利用した模倣は多く、オールド・クロウの訴訟件数の多さは他のブランドより抜きん出ています。後の1949年頃の広告では「その卓越した歴史の初めの一世紀に於いて、オールド・クロウの名前とラベルの模倣を防ぐために、約1800通の令状、召喚状、停止命令が出された」と述べられていました。中でも最も手強かったのはセントルイスのレクティファイアーであるヘルマン一家です。彼らは「オールド・クロウ」そのままの名前やカラスの絵柄まで使っていたので、W.A.ゲインズ社は自らの商標を守るために訴訟を起こし、その名前の法的所有権を誰が持っているかを巡る争いは禁酒法が成立するちょっと前まで続きました。
禁酒法が施行されると、W.A.ゲインズ&カンパニーはスピリタス・フルメンティを販売するためのメディシナル・ライセンスを取得することが出来ず、1920年にルイヴィルのアメリカン・メディシナル・スピリッツ(AMS)にストックを清算することを余儀なくされます。禁酒法期間中にAMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズは、1934年4月、嘗てAMSが運営していたW.A.ゲインズ &カンパニーのブランド、蒸溜所、倉庫を含む全てのストックを取得し、禁酒法により閉鎖されていたグレンズ・クリークの蒸溜所を改修してオールド・クロウの生産を再開しました。おそらく最新のコラム・スティルを導入し、低コストで多くの量を生産できるようにしたでしょう。
プロヒビションの終わりから1987年まで蒸溜所とブランドを所有していたナショナルはW.A.ゲインズの会社名を使い続け、オールド・クロウは同社の旗艦ブランドの一つであり続けました。禁酒令と大恐慌を経て、第二次世界大戦の後にウィスキーの生産量と販売は回復。オールド・クロウは1950年代にバーボン・ブームに乗り世界で最も売れているバーボンとなりました。1950年代初頭にはオールドクロウ・ライは段階的に廃止され、バーボンは1952年まではボンデッドの100プルーフのみが販売されていましたが、その年か53年頃に86プルーフのヴァージョンが導入されます。1955年頃には蒸溜所に新しいコラム・スティルが設置されてオールド・クロウの生産と販売を推し進め、1960年の広告では「最も売れているバーボン」と宣伝しました。1960年代、販売は依然として好調で、オールド・クロウ蒸溜所の生産能力は大幅に増加したと言います。1967年の段階で、シーグラムのセヴン・クラウンやハイラム・ウォーカーのカナディアン・クラブには及ばないものの、オールド・クロウはアメリカで5番目に人気のあるスピリット・ブランドでした。しかし、バーボンの売上は1970年代の10年間を通して大いに減少しました。その要因は60年代後半から顕著になり出した嗜好の変化と見られます。即ちライトなカナディアン・ウィスキーやブレンデッド・スコッチの市場シェアの拡大​​とウォッカやホワイト・ラムの擡頭です。1973年には、ウォッカがウィスキーを追い抜いてアメリカのスピリッツ市場で最も売れているカテゴリーとなりました。こうした状況に戦々兢々としていたバーボン業界は1960年代後半に政府に働きかけ、現代のTTBの前身であるビューロー・オブ・アルコール, タバコ・アンド・ファイアーアームスはこれに応えて、160プルーフ以上での蒸溜と使用済みまたは未炭化の(チャーしていない)新しいオーク・コンテナーで熟成することを許す「ライト・ウィスキー」という新しい区分を1968年に創設しました。この新しいクラスは、変わりゆく消費者の状況を鑑み、強すぎるフレイヴァーを抑え、上述のようなライトなスタイルのウィスキーやスピリッツの人気の高まりに対抗して考案されたものです。1972年以降、バーボン蒸溜所を所有する大手酒類販売会社の全てがこの新分野に製品を投入し、50以上のブランドがリリースされたそう。ナショナル・ディスティラーズも1972年12月に「囁くウィスキー」を宣伝文句にクロウ・ライトウィスキーを発売しました。しかし、それはクロウの評判を悪くしただけでした。ナショナルは1974年頃、スタンダードなバーボンのプルーフを80へと落とし、コストを節約して価格を下げました。その後はバーボン全体の不調と共にオールド・クロウの売上高は減少を続けて行きます。
1987年、遂にナショナルはウィスキー事業から撤退することを決め、アメリカン・ブランズの子会社であるジムビームにウィスキー事業の資産の全てを売却しました。ビームは手に入れたオールド・クロウ蒸溜所をすぐに閉鎖し(暫くはオールド・クロウや隣のオールド・テイラーの倉庫は利用した)、オールド・クロウの生産はビームのクレアモント蒸溜所に移され、そこでビーム・マッシュビルにより製造されることになります。オールド・クロウは長年に渡ってジムビーム・ホワイトラベルの最大の競争相手だったので、ビームのオールド・クロウに入るウィスキーはナショナル・ディスティラーズがボトルに入れたものより劣っているものでした。具体的には、ジムビーム・ホワイトラベルの3年熟成ヴァージョンとでも言えそうな製品となったのです。これについてはビームが犯した最大の犯罪とまで糾弾する人もいます。こうして、19世紀には最高品質のサワーマッシュ・バーボンと謳われ、20世紀半ばには最も売れたバーボンだったオールド・クロウは、21世紀には安物のボトム・シェルファーになりました。豊かな伝統を持ちながらも不名誉な存在となったブランドの悲しい物語は現在も続いています。

偖て、今回飲んだオールド・クロウは1970年代後半のボトリングです。実は上記の歴史叙述では言及しなかったエピソードがあります。70〜80年代にバーボンが不況に陥った時にオールド・クロウほど落ち込みが激しかったブランドはないと言われていますが、その凋落の原因とされるエピソードを敢えて省いたのです。その理由は、我々に伝えられているストーリーが少々奇妙で理解に苦しむものであり、今更検証するのも難しいからでした。その伝承は纏めると概ね以下のようなものです。

1960年代には、まだ売れ行きが好調だったこともあり、老朽化したオールド・クロウ蒸溜所の近代化と改修にかなりの金額を費やし、生産能力は大幅に増強された。64年の拡張の際、誰かがファーメンターもしくはクッカーなどのタンクのサイズを間違って計算したため、マッシュのコンディショニングに使うセットバックの割合を誤って変えてしまい、これがウィスキーの味を完全に狂わせてしまった。それを試飲した蒸溜所の誰もが悪い味だと思い、そのことを経営陣に指摘したものの、何も修正されることなく放置された。製品の新しいフレイヴァーについての多くの顧客からの不満、そしてディスティラー自らの否定的なレヴューがあってさえ、プラント・マネージャーは間違いを訂正することを望まないか、或いは出来なかった。ビームが蒸溜所を買収する数年前(1985〜86年あたり?)に漸く問題の原因を突き止め解決したので、最後の数年間はその工場で生産されるウィスキーも上質なものになった。

おそらく、この話はバーボン・ライターのチャック・カウダリーが初期の仕事としてドキュメンタリー映画「Made and Bottled in Kentucky(1991-92)」を制作している時に聴いた、1987年のビー厶買収以前にオールド・クロウ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーであったナショナル・ディスティラーズの元従業員からの発言が元ネタとなって広まったと思われます。現場を知る人物からの発言のため信憑性がありそうにも感じますが、カウダリー自身も「私はその話を確認したり異議を唱えたり出来る別の情報源を見つけたことはない」と言っており、本当なのか大袈裟に語っただけなのかよく判りません。そこで、美味しくないと分かった後も造り続けたところから、ビジネスが衰退している場合の意図的なコスト削減だったのではないかと云う憶測もあったりします。確かに、いくら何でも60年代から80年代までの20年近い歳月の間のどこかでミスを突き止める努力は出来る筈…。ナショナルは第二次世界大戦中およびその後、工業化学部門に焦点を合わせ始め、1957年にナショナル・ディスティラーズ・アンド・ケミカル・コーポレイションに社名を変更しました。それでも1960年代には、工業化学部門の成功と他の分野での買収にも拘らず同社の収益の60%は酒類によるものだったとされます。しかし、1970年代半ばには、バーボンの売上の減少と世界の化学物質への依存化が、もしかすると収益を逆転させていたかも知れません。おまけに創業企業である酒類部門のナショナル・ディスティラーズ・プロダクツを大きく育てたシートン・ポーターに変わって1949年に社長に就任したジェイムズ・ビアワースは禁酒主義者でした。まさか、オールド・クロウはビームに台無しにされる前に、既にナショナルに見捨てられていたとでも? 皆さんはオールド・クロウの凋落についてどのように考えるでしょうか? コメント欄よりご意見どしどしお寄せ下さい。真相の発掘は優れた歴史家の登場を待つとして、この味が落ちたとされる年代真っ只中のオールド・クロウを飲んだ感想を最後に少しだけ。

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OLD CROW 80 Proof
推定77年ボトリング。クラシックなカラメル・フォワードのバーボンという印象。特別フルーティともスパイシーとも感じない、バランスが良く、いい意味で普通に旨いオールド・バーボン。クリーミーなコーンとくすんだ土っぽさ、シトラスが少し。現行の80プルーフでは感じられないような豊かなフレイヴァーがあります。以前のバー飲みで試した「チェスメン」ほどダークなフィーリングはありませんでしたが、熟成年数やプルーフィングの違いを抜きにしても、風味が弱いとは感じませんでした。
日本が誇るウィスキー・ブロガーのくりりん氏も、70年代のオールド・クロウを味わった感想として、「言うほど悪い味とは思え」ず、「普通に美味しい」し、「少なくとも同年代の他のメーカーのスタンダードと比べ、大きな差があるとは思え」ないと当該の記事で述べていましたが、私も賛意しかありません。この年代のオールド・クロウを飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? これまたコメントよりご感想お寄せ下さい。
Rating:86/100

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今回はジムビーム・ブラックがまだ8年熟成だった頃の物を取り上げます。ラベルに描かれた歴代のビーム家マスター・ディスティラーの中に、現在のフレッド・ノーがいません。まだブッカー・ノー存命中の物です。ブラック・ラベルのブランド紹介は過去投稿のこちらを、ブッカー・ノーについてはこちらを参照ください。

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推定1999年ボトリング。濃密なキャラメル、香ばしい焦げ樽、コーン、サワークリーム、オールドファンク、サイダー、ビターヌガー、タバコ、レーズン。アロマは強いキャラメルと甘酸っぱいフルーツと地下室っぽいオールド臭が主、開封から暫くするとヒネ臭は消えフローラルが出てきた。口当たりは度数の割にはとろみがありつつサラッともしている。舌では甘味を、口蓋全体では甘酸っぱいベリー系の旨味を感じ易い。余韻は比較的さっぱりめだが、コーンの気配とビタネスは長続きする。
Rating:85/100

Thought:開封した途端、ああ懐かしい匂い…って思いました。90年代のジムビームやヘヴンヒルやエンシェントエイジのような安バーボンの「らしい」感じを想い起させたのです。2000年代後期や2010年代前期のブラック・ラベルと較べると、フレイヴァーの密度が高い?気がしました。オールド臭も過剰でなければ崇高性を高めてくれますから、このボトルに関しては全然アリな程度で美味しかったです。ボトリング・プルーフは低いので、それが余韻の物足りなさにも繋がっているのかなとは思いますが、まあジムビームのライト感と思えば…。

Value:現行のエクストラ・エイジドより遥かに旨いのは間違いありません。オークション等の二次流通市場で高騰している銘柄でもないので、案外狙い目かも?

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(画像提供K氏)

アメリカ国内でのバーボン需要が低かった1980年代から2000年頃まで何年にも渡って海外へ販売されたKBD(プレミアム・ブランズ、ウィレット)の数多いブランドのうちの一つがバーボンタウン・クラブです。多分、80年代後半~90年代前半にかけて日本に輸入され、比較的短期間で使われなくなったラベルかなと思います。名前の「バーボンタウン」というのは、どう考えてもバーズタウンのことを指しているでしょう。だから、バーズタウン・クラブと言ってるに等しいかと。ちょっと紛らわしいですが、実際このバーボンタウン・クラブと同時期くらいに同じくKBDのブランドで「バーズタウン・クラブ」という姉妹品?もありました。ラベルのデザインから言って、プレミアム感を構築する意図は感じられません。そのため壮大なブランド・ストーリーなどは特にないです。このブランドが昔のラベルの復刻なのか、それとも輸出専用ラベルとしてその当時に作成されたのかもよく分かりませんでした。

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(画像提供K氏)
バーボンタウン・クラブにはヴァリエーションとして、6年86プルーフ、10年86プルーフ、12年86プルーフ、スクワット・ボトルの15年101プルーフがありました。初期の丸便のラベルでは「THE WILLETT DISTILLING COMPANY」を、後の角瓶では「OLD BOURBONTOWN DISTILLERY」を、DBAの名義として使っています。どちらにしても、6年物はどうか判りませんが、10〜15年物は発売年と熟成年数を考慮すると旧ウィレット原酒の可能性が高いと思われます。今となってはオークションで高騰の一途を辿る原酒の一つな訳ですが、今回もまたInstagramで活躍中のウィレット信者K氏よりサンプルを頂きました。画像提供の件も含め、こちらで改めてお礼を言わせてもらいます。貴重なバーボンをありがとうございました。バーボン繋がりに乾杯!

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BOURBONTOWN CLUB 10 Year 86 Proof
推定1989年ボトリング。オールドボトルファンク、ヴァニラウエハース、キャラメル、クローヴ、ミント、茴香。ノーズはオールド臭の中に僅かな甘い香り。口当たりは水っぽい。味わいは漢方薬のようなハーブのような薬っぽさで苦く、甘み弱め。余韻は、口の中から香りはあっという間に消え、鼻腔と喉奥にオールド臭が長く残る。
Rating:74/100

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BOURBONTOWN CLUB 12 Year 86 Proof
推定1989年ボトリング。キャラメル、湿った地下室、焦がしたオーク、樹液、オレンジ、茴香、ミント、タバコ、土、コーン、ビターチョコ。水っぽい口当たり。アルコールのヒリヒリ感は全くない。味わいはアーシーなハーバルノート強め。余韻は86プルーフにしては長く、ビターな風味が尾を引く。
Rating:82.5/100

Thought:実は10年の方は見た目がけっこう曇っていました。おそらくボトリング時の味や香りも多少は存命しつつも、かなりオールドボトル・エフェクトが効いていて、このバーボン本来の味わいとは程遠いと思います。正直このままではキツイほど…。しょっぱいオツマミ、例えばサラミとかに合わせると幾分か飲み易くなりました。バーボンに限った話ではないかも知れませんが、直前に食べた物によって感じる風味は変化します。自分的に飲みづらいと思うバーボンに出会ったら、何かしら相性の良い食べ物とペアリングするのはオススメの手法ですね。
12年の方も少し曇りはあるのですが、10年と較べるとかなりクリアだったので、軽めのオールド臭くらいで済んでいましたし、グラスに注いで暫くするとそれも消えたので普通に飲めました。薬っぽい風味がやや少なく飲み易かったのです。ノーズでもパレートでも10年と共通する傾向は感じ、おそらく両者はかなり似ている気がします。10年がまともな状態だったら、あまり差が分からなかったのかも知れません。残念だったのは、思ったよりフルーティさを感じれなかったところです。もしかすると6年物の方が自分の好きなフルーティさが取れたのかも…。

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周知のようにブラントンズはバッファロー・トレース蒸留所で造られています。しかし、ブラントンズのブランドを所有しているのはバッファロー・トレース蒸留所でもなければ、その親会社サゼラックでもありません。ブラントンズは、バッファロー・トレース蒸留所のマッシュビル#2と呼ばれるレシピで造られる製品、エンシェント・エイジ、ロック・ヒル・ファームス、エルマーTリー、ハンコックス・プレジデンツ・リザーヴと同様に、エイジ・インターナショナル・インコーポレイテッドのブランドです。そしてそれは、ブラントンズが日本に縁の深いバーボンであることを意味します。1984年に発売された当初、そのシングルバレルの製品はアメリカでは団塊の世代をターゲットに約25ドルで販売されましたが、彼の地では新しいバーボンの需要を喚起するには至らず、唯一のポジティブな点と言えば日本での人気だけでした。馬のボトル・トッパーという素晴らしい装飾を備えた豪奢なバーボンは、その歴史の大部分に於いてアメリカでは酒屋の棚で埃を被るみすぼらしい何かだったのです。しかし、2019年から2020年あたりに突如としてブラントンズは「ユニコーン」に変わり、アメリカでは簡単に購入出来ないバーボンの一つとなりました。今回はそんなブラントンズの始まりの物語を紹介したいと思います。

今、最盛期とも言えるほどの好況を呈しているアメリカのウィスキー業界も、1970年代の売上減少を経て迎えた1980年代は最底辺に沈んでいた時代でした。ウィスキー製造販売事業は往年の販売量の半分を失い、売上高はほぼ安定していたものの緩やかな速度でまだ減少し続け、復調の兆しは一向に見えていませんでした。生産者は衰退が一時的なものであると信じていたため、あまりにも長い間生産を続けてしまい、業界には少数の人々しか望まないウィスキーが溢れ返っていました。売り上げは減ったのに在庫が増え過ぎたことで利益が圧迫され、ウィスキーの資産は芋づる式に変化していたのです。現在バッファロー・トレース蒸留所と呼ばれている昔のジョージ・T・スタッグ蒸留所も、1950年代初頭以降、大きな変化はありませんでしたが、ウィスキーの需要が減少したにも拘らず、1970年代まで安定したペースで生産が続けられていました。1980年代初頭には、スタッグ蒸留所をはじめとする業界全体で成熟したウィスキーの大量供給があった、と。

当時は今と異なり、多角的なコングロマリット(複合企業体)が大流行していました。大規模なスピリッツ生産者の殆どはもはや独立しておらず、コングロマリットの一部に属して様々な関連性のないビジネスと企業世帯を共有していました。1980年代初頭、フレデリック・ロス・ジョンソンという凄腕の最高経営責任者が率いたナビスコには、フライシュマンズ・ディスティリングを含むスタンダード・ブランズと呼ばれる子会社がありました。フライシュマンズのCEOは元々シーグラムやシェンリーに勤めていた酒類業界のエグゼクティヴであるファーディー・フォーク、そして社長がその右腕のロバート・バラナスカスでした。1983年、ジョンソンはスタンダード・ブランズをグランド・メトロポリタンに売却することを決定します(*)。グランド・メトロポリタンには既にJ&Bスコッチやスミノフ・ウォッカなどを販売する酒類部門があり繁盛していました。フォークとバラナスカスは会社が売却された後には職を失うと思っていたので、会社を辞職して自分たちで新たな酒類事業を始めることにしました。彼らは少数の個人投資家と共に、フォークが以前シェンリーの幹部だったので、当時シェンリーを所有するコングロマリットのメシュラム・リクリスにオールド・チャーター・ブランドを購入することを期待してアプローチします。しかしリクリスはオールド・チャーターの販売には興味がなく、おそらくは常に資金を必要としていたので、代わりにエンシェント・エイジのブランドと、それが製造され当時ほぼ休眠状態だったとも少々荒廃していたとも言われるジョージ・T・スタッグ蒸留所を一緒に販売することをフォークとバラナスカスに申し出ました。こうした経緯でケンタッキー州フランクフォートにある蒸留所は、1983年、新しく設立されたエイジ・インターナショナルに売却されます。この事は、当時のアメリカではまだバーボンは家庭でウィスキーの主流派ではなく、一般消費者にとってあまり重要な出来事ではありませんでした。フォークとバラナスカスが新会社に付けた名前が示すように、彼らはバーボンの未来はアメリカの外にあると信じていたのです。二人は日本の飽くなきバーボンへの渇望を感じていました。その頃の日本ではバーボンが人気を高めており、I.W.ハーパー、フォアローゼズ、アーリータイムズなどの比較的安価な銘柄は、アメリカン・スタイルのトレンディなバーで定番としてよく見かけるようになっていたそうです。しかし、日本でのバーボンの人気は、全くの偶然からそうなったのではありませんでした。

1975年から84年までシェンリー・インターナショナルの輸出部門の責任者を務めたウィリアム・G・ユラッコは、バーボンというアメリカン・ウィスキーの日本市場を開拓し、シェンリーの主要ブランドを普及させる仕事を担当していました。日本のウィスキー文化の受容はスコッチを基としています。そのため主に飲まれた製品はスコッチ・モルトをベースに造られたジャパニーズ・ウィスキーとスコットランドから輸入された本格的なスコッチ・ウィスキーです。バーボンはそれらに比べれば幾分かマイナーな存在であり、味わいの傾向もかなり異なるため、スコッチ・テイスト指向の日本市場でユラッコに任された仕事は困難な作業でした。1972年に極東への偵察旅行を開始した時、彼には日本の旧来の飲み手にバーボンに乗り換えてもらうのはほぼ不可能なことのように思われました。成功するためには強力なパートナー(販売代理店)、優れた市場計画、相当な努力、そして運が必要だったと彼は言います。幸いにも彼らは日本のウィスキー市場の70%を占める大手飲料メーカーであるサントリーとの合意に至り、流通やプロモーションを任せることが出来ました。当時シェンリーの最大のライヴァルであったブラウン=フォーマンも、サントリーと同じ取引をしていました。ユラッコは、シェンリーの経営陣が下した自社の最重要ブランドを主要な競争相手と「同じ家」に置くという決断の重要性は計り知れなかった、と言います。「これはフォードやジェネラル・モータースが日本で販売するトップモデルの全てをトヨタに提供するようなものだ」と。このことは関係者にとって大きな賭けでした。サントリーは日本のウィスキーに二度と競合相手が現れないように意図的にバーボンの販売を減らすことも出来るし、どちらかの社のブランドを優遇することも出来ます。しかし、実際のところシェンリーもブラウン=フォーマンも失うものはそれほどありませんでした。それにサントリーも単に試験的な販売をしたかった訳ではありません。ユラッコによると、サントリーは商品やサーヴィスが世の中への感度が非常に高い人だけでなく一般に広がって行く分岐点となる供給量のバーボンを求めて来たそうです。あらゆる味とプライス・レンジの製品を用意し、それぞれのブランドに独自のアイデンティティを与え、市場の隙間を埋めるために。シェンリーはエンシェントエイジ、J.W.ダント、I.W.ハーパーを、ブラウン=フォーマンはアーリータイムズ、オールドフォレスター、ジャックダニエルズをサントリーに提供しました。そして日本の消費者が従来のスコッチ・タイプのウィスキーを好む傾向から引き離す必要があります。そこで彼らはマーケティング戦略として、従来の中高年のヘヴィーユーザーを完全に見限り、コカコーラやリーヴァイスのような欧米のプロダクツやイメージに敏感で嗜好がまだ定まっていない大学卒業後の若い消費者をターゲットに注力することに決めました。日本では殆どの飲酒が自宅ではなく外出先で行われることに着目し、シェンリーとブラウン=フォーマンは協力してサントリーの6つのブランドのみを取り扱うバーボン・バーを全国に展開。そこには若者向けの、アメリカン・ミュージックが流れ、アメリカン・スタイルの料理が提供され、バーボンをサポートするイメージが伝えられました。その戦略の成果はあったようです。日本ではバーボンは売れないだろうと業界からは見られていましたが、1970年代を通じて着実に成長を遂げ、80年代半ばには軌道に乗り、1990年には200万ケース以上の規模に達しました。シェンリー社の代表的な銘柄であるI.W.ハーパーの成功は特に著しく、1969年に世界で2000ケースだったものが、サントリーの大々的な広告の効果もあってか、1991年には50万ケースを超える日本で最も売れているバーボンとなったのです。
アメリカで殆ど無視されていたバーボンが日本では、或る時点(90年前後?)でアメリカからのバーボン輸出量の51%を占め、1980年代に349%の伸びを示したと言います。日経通信社調べによる1986年の日本へのバーボンウィスキー輸入実績トップ10は…

① I.W.ハーパー
②アーリータイムズ
③フォアローゼズ
④ワイルドターキー
⑤オールドクロウ
⑥ジムビーム
⑦エンシェントエイジ
⑧J.W.ダント
⑨オールドグランダッド
⑩テンガロンハット

…でした。シェンリーやブラウン=フォーマンがサントリーと提携したように、他の大きな酒類会社のシーグラムはキリンと提携し、日本にフォアローゼズを広めました。ナショナル・ディスティラーズも同様な努力をしたのでしょう。こうした状況は程なくして他のブランドも「日本でビッグになれる」と目をつけることになリます。I.W. ハーパー、アーリータイムズ、フォアローゼズ等は日本に救われたブランドと言えますが、他にも上のリストに載っていない無数の日本向けボトルが作成されました。日本向けボトルには様々なプライス・レンジの製品がありましたが、アメリカとは正反対な特徴と言えばプレミアム感と長期熟成。今回取り上げているブラントンズは長期熟成ではないプレミアム・バーボンの代表と言え、殆ど日本のために特別に作成されたバーボンです。
一方の長熟バーボンは特に80年代後半から90年代にかけて多く発売されていました。アメリカでのバーボンは4〜8年程度、いっても12年でリリースされるのが一般的であり、それ以上熟成させるとあまりにオーキーになってしまうと当時は信じられていました。そして「高尚な」熟成年数の表示を特に気にする消費者も殆どいませんでした。しかし、スコッチタイプのウィスキーに慣れ親しんだ日本の消費者はバーボンでもスコッチと同じような12年、15年、18年、時には20年以上の熟成年数をバーボンに求めました。そのおかげで、過剰生産のため多くのバーボン蒸留所に眠る「過熟成のジャンク品」と考えられていた物を日本へは出荷することが出来ました。日本を「過剰なバーボンのゴミ捨て場」と皮肉ることも出来ましたが、アメリカのバーボン市場が冷え込んでいたため、多くのバーボン、特に超長期熟成バーボンは海を超えた地で高値で売れた訳ですし、何よりバーボン・ウィスキーのアメリカ以外での海外販売は業界を再び軌道に乗せ存続するために非常に重要で不可欠なことでした。ヘヴンヒルからはエヴァンウィリアムス23年やマーティンミルズ24年、ヘヴンヒル21年やヴァージン・バーボン21年などが日本市場向けに特別にボトリングされました。ワイルドターキーからも、バーボンを格調高い憧れの消費財と見做していた日本へは17年や15年の特別リリースがありました。もっと小規模なウィレットも然りで、独自の長熟バーボンをボトリングしました。シカゴの会社はオールドグロームスを、ゴードン・ヒューJr.はA.H.ハーシュを、マーシィ・パラテラはヴァン・ウィンクル3世やエヴァン・クルスヴィーンに協力を仰ぎヴェリー・オールド・セントニックを作成しました。長熟バーボンは現在ではアメリカでもその味わいを評価されるに至っています。と言うより、バーボン全体の人気が高まり、高価なバーボンが売れる時代になっていると言ったほうが正確かも知れない。
なぜ日本でバーボンに火が着いたのでしょうか? それには幾つかの憶測があり、バーボンが伝えるマッチョなイメージ(ハーレー乗りが好んで飲むもの的な?)だと言う人もいれば、日本は以前から長い間アメリカ製品を受け入れていた当然の帰結と言う人もいます。また或る人は世代間闘争の問題として捉え、1960年代にアメリカで起こった第二次世界大戦を知る年長世代に対してのあらゆる側面での文化的反抗のようなものと説明します。アメリカで1960〜70年代に年長世代が飲む年寄り臭いバーボンに反抗して若者がオシャレなウォッカに傾倒していったのと同じように、1980年代の日本ではオジサン世代がスコッチやジャパニーズ・ウィスキーを飲んでいたからヤング世代はバーボンを求めるようになった、という訳です。どれも、もっともらしいと言えばもっともらしい。おそらくは複数の要因によりそうなったとは思います。上に述べたシェンリーやサントリーが日本の消費者をバーボンに導いた側面もあるだろうし、現在老舗と呼ばれるバーボン・バーや今はなきバーボン中心のバーのオウナーによる普及活動の努力も一因であったに違いありません。

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(エルマー・タンディ・リー。Buffalo Trace Distilleryのポートレートより)
偖て、ここらでファーディー・フォークとボブ(ロバートの略称)・バラナスカスの話に戻りましょう。バーボンの未来はアメリカ以外にあると考えた彼らが最初に行ったのは、ブラントンズ・シングルバレル・バーボンの作成です。1983年初頭、彼らは伝説のジョージ・T・スタッグ蒸留所のオウナーになり、エイジ・インターナショナルをスタートさせました。その蒸留所自体やバレルのストックは大きな資産でしたが、より大きな財産は経験豊富なプラント・マネージャーのエルマー・T・リーとの出会いでした。二人は初対面の時から、蒸留や熟成に関する百科事典のような知識は言うに及ばず、トレードマークのフラットキャップを被った風体や、人懐っこく柔らかい物腰、気さくで紳士的な態度など、ケンタッキー・ディスティラーとしてお手本のような姿を示したリーに惹かれていたようです。取り分けリーが蒸留所内で最高のバーボン・バレルの場所を熟知していたことは、国内販売に留まらない最高峰のバーボンを求めていた新任のオウナー達に深い印象を与えました。フォークとバラナスカスは、スコットランドのシングルモルトの神話性と人気が高まっていること、アメリカ国内でのウィスキー販売の衰退と日本の経済成長を意識して、蒸留所の倉庫から完璧に熟成したバレルを探し出しプレミアム価格で売れる可能性のある新しいブランドを作ってもらいたいとリーに依頼します。長い話し合いの中でリーは二人に、師に当たる蒸留所の先達アルバート・B・ブラントンのエピソードを聴かせました。ブラントンは信頼する従業員に、自分のお気に入り倉庫だった金属貼りのウェアハウスHの上層二つの階から最低8年熟成の最高な状態にあるバレル(ハニー・バレル)を探させ、持って来てもらったサンプルを味わい納得すると、その選び出された優良バレルを後に自身の愉しみと親しい友人達のために瓶詰めしていた、と。ブラントンは常に、これらの階で熟成したウィスキーを好み、希釈されていないフルストレングスで愉しんだと言います。 オウナー達、特にバラナスカスはこのエピソードを気に入り、リーに「我々はこれにするつもりだ、ついてはこのブランドに入るバーボンを選んでもらいたい。ブランド名はブラントンにしよう」と告げました。こうしてブラントンズ・バーボンは1983年の或る日、ファーディー・フォーク、ボブ・バラナスカス、エルマー・T・リーの三人の心の中で生まれたのです。ブラントンズの物語に於いて多くの場合、エルマー・T・リーの側面が少々誇張して描かれていますが、実際のところブラントンズのリーに対するクレジットは主にマーケティングでしょう。おそらくリーはオウナーが望むに相応しいものを見つけるために蒸留所の在庫を調べ、アルバート・ブラントンのレガシーに結びつけるというアイディアに貢献しましたが、それ以外のブランディングに関してはフォークやボブや顧客の日本企業および彼らのマーケティング担当者が実行したと思われます。ファーディーの息子クリス・フォークは、1983年に父がナプキンにパッケージのアイディアを描いているのを見たのを覚えていると語っていました。シングルバレルという言葉も、味の特別性もさることながら、実際にはエイジ・インターナショナルが消費者にシングルモルト・スコッチを連想させることを期待してつけたものです。「アロマはキャラメル、ヴァニリンの丸みを帯びたブーケがたっぷり、そしてアルコールは心地よく未熟感もなく薬っぽさもない。味は仄かなキャラメルとヴァニリンのセミスイート、アルコールは尖りや苦味がなく滑らかで心地よい。後味にヒリヒリ感も残らない」。もしブラントンズ・シングルバレルに一般的なフレイヴァー・プロファイルがあるとすれば、そう表現するのが望ましいとエルマー・T・リーが述べたバーボンは、沈み行くバーボン・ビジネスを救うためのアメリカ人の巧みなマーケティング努力と閃き、日本人の受容的な味覚の複合的な産物でした。

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1984年の秋、ブラントンズは約115ドル(現在の約290ドル)相当の価格で日本で発売されます(85年に初輸入という説もありました)。それまでのアメリカン・ウィスキーとは一線を画す独創的なパッケージを伴って。背が短く丸みのある手榴弾のようなボトル(**)、サラブレッドを疾走させる騎手に成形された真鍮製のトッパー、それを封するメーカーズマーク社の怒りを買ったワックス仕上げ、ネック部分に掛けられた「何故これがおそらくは今まで生産された最高のウィスキーのボトルなのか」と宣うタグ、古きを忍ばせる情景や蒸留に関わる道具の絵もなく一見すると無機質にも見えるが上質な紙ラベル、そしてそこには原酒の収納されていた倉庫名やバレルおよびボトルを識別する番号が手書きで記され「本物」の空気を醸していました。
ブラントンズは「シングルバレル」という近代的なカテゴリーを生み出したブランドではありますが、ブラントンズの前にシングルバレルのバーボンが全くなかった訳ではありません。そもそも、安価なガラス瓶が開発され普及する前の19世紀には、蒸留所は酒屋や居酒屋へ樽を販売し、そこに来たお客は持参したジャグやフラスクを満たしてウィスキーを購入していました。つまりその場合、必然的に全てのウィスキーがシングルバレルになります。禁酒法後であっても、一部のブランドにはシングルバレルがありましたが、それらはプライヴェート・ボトリングとして提供される特別な製品でした。例えば1940年代後半から販売された「オールドフォレスター・プレジデンツ・チョイス」は、その名の通りブラウン=フォーマンの社長オウズリー・ブラウンによって選ばれたシングルバレルです。そして何より、エルマー・T・リーの語るエピソードを証明するように、1940年代から1950年代に掛けてアルバート・ブラントンがピックしたとされるシングルバレル・バーボンが、かなり限られた数量であったものの実際に小売店で販売されていたという情報もあります。私が見たことのあるボトルは画像から判断するに、1952年におそらくブラントンの引退を記念してボトリングされたものですが、こうした製品が現在のブラントンズに直接的な影響を与えていた可能性もあるのかも知れません。エイジ・インターナショナルがブラントンズで行った最大の「肝」は、シングルバレルを一般的な消費者に広く販売したこと、つまりシングルバレルを商業的に大きな規模で展開したところにあります。ブラントンズはこれにより歴史に残る画期的な作品となり、その発売は世界のウィスキー事情を変え、アメリカン・ウィスキーがスコッチ・ウィスキーと同じように語られる地位への偉大なる第一歩となりました。こうしたアイディアは、他の会社へも影響を及ぼし、シングルバレルやスモールバッチ、またはブティック・バーボンというプレミアムな製品提供へと繋がって行きます。その代表的なものは、ジムビーム蒸留所のマスター・ディスティラーであるブッカー・ノーが1980年代の終わりに発表したバレルプルーフの「ブッカーズ」や、ワイルドターキー蒸留所のマスター・ディスティラーであるジミー・ラッセルが1991年に作成したバレルプルーフの「レア・ブリード」、1994年に作成したシングルバレルの「ケンタッキー・スピリット」です。

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(若き日のA. B.ブラントン。Buffalo Trace Distilleryより)
ブランドの名前は先述のように、禁酒法以前から1950年代初頭に引退するまで同蒸留所を経営していたアルバート・ブラントンにちなんで付けられました。ケンタッキー紳士でありバーボン貴族でもあった彼は、55年以上に渡って上質なケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーの生産、保護、普及に尽力し、バッファロー・トレース蒸留所の長き歴史の中でも取り分け傑出した重要人物でした。第一次世界大戦、禁酒法、大恐慌、大洪水、第二次世界大戦など、20世紀初頭の数々の困難を彼の指揮のもと乗り越えたからこそ蒸留所は今の成功を収めたのです。
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ベンジャミン・ハリソン・ブラントンの末っ子としてアルバート・ベイコン・ブラントンは1881年に生まれ、ケンタッキー州フランクフォートの現在の蒸留所に隣接する農場で育ちました。当時その蒸留所はO.F.C.蒸留所(オールド・ファイヤー・カッパーの略)と呼ばれていました。高校を早く終えたブラントンは、1897年に16歳でオフィスボーイとして蒸留所で働き始めます。それからの数年間、若きブラントンは倉庫、荷受け、製粉所、蒸留現場などあらゆる部署で経験を積み昇進して行きました。彼は営業所を含むビジネスの全ての部門で専門知識を習得したと言います。1904年、蒸留所の名称は「ジョージ・T・スタッグ蒸留所」に変更されました。1912年にブラントンはプラント・マネージャーに就任し、スティル・ハウス、ボトリング施設、ウェアハウスの監督を任されます。禁酒法が施工される前の不安な時期から蒸留所を率い、急速に変化する産業の解決策を探り、禁酒法の解禁後も20年間に渡り蒸留所の運営を監督したのがブラントンでした。
禁酒法が州レヴェルと国家全体で迫り来るため、蒸留所は1917年末に閉鎖され、1918年にオークションで売却されました。禁酒法の先を見据えていたブラントンは蒸留所の将来性を考えて自ら購入します。その1年後には、前オウナーだったウォルター・ダフィーの仕事仲間であるヘンリー・ネイロンに売却。その後、1921年にブラントンは蒸留所を運営する会社の社長となりました。この時、ブラントンはメディシナル・ウィスキーを販売するための特別なライセンスを政府に申請します。これによりジョージ・T・スタッグ蒸留所は集中倉庫として運営することが出来、その許可を得た六社のうちの一社となりました。1929年、政府は枯渇しそうなメディシナル・ウィスキーを補充するために、少数の蒸留所へ操業許可を出します。ネイロンには蒸留所を再稼働させるのに必要な修理に投資する意思がなかったので、ブラントンは会社と施設をシェンリー社に売却する契約を締結しました。政府からの限定的な量の蒸留許可を得ることが出来たブラントンは、1930年4月に蒸留所での生産を再開させます。ジョージ・T・スタッグ蒸留所は自らの少量の割り当て分を蒸留するだけでなく、ライセンスは持っていても生産設備を稼働できない他の会社のためにもウィスキーを生産し、1933年12月5日に禁酒法が終わるまで蒸留所は運営されました。これが、現在のバッファロー・トレース蒸留所がアメリカで「継続的に」運営されている最も古い蒸留所と自らを誇る所以です。
禁酒法が終わるとシェンリーはブラントンの監督のもと蒸留所の大規模な再建を開始します。蒸留所の今日あるような姿の基礎はブラントンの先見の明によるものでした。彼の最初の大きな決断は、古いスティルハウスを新しい発電プラントに建て替えたことです。この時、巨大な容量のボイラーを備えたのは、蒸留所が急速な成長に向けて行なった適切な処置でした。続いてマッシングやファーメンティングやディスティリングのための新しい建物も建設します。また、ブラントンはフランクフォート・アンド・シンシナティ鉄道(***)に通行権を譲渡し、蒸留所の敷地に支線を敷設することを可能にしました。生産能力の大幅な増大や輸送の利便性の向上は、新しい倉庫を必要としました。先ずは敷地内で唯一の金属被覆倉庫であるウェアハウスHが1934年に建設されます。ウェアハウスIとKは1935年に増設され、ウェアハウスLとMは1936年に続き、ウェアハウスNとOは1937年にそれぞれ追加されました。これらの六つの倉庫はそれぞれ50000バレルの収容力があるとされます。
ブラントンの不屈の精神が再び試されたのは、1937年の大洪水で工場が一時的に生産停止に追い込まれた時でした。1937年1月6日、一連の大嵐がケンタッキー州の中央部とオハイオ渓谷に停空し、3週間に渡り壊滅的な洪水を生み出しました。1月27日にはフランクフォート周辺の交通機関が全て停止し、学校や企業も閉鎖されました。この嵐は推定42兆ガロンの雨、氷、雪、霙を地域に降らせたと言います。ピーク時にはオハイオ・リヴァーの981マイルが洪水位の34フィートも上に位置し、中西部の高速道路の15000マイルが水に覆われ、200万人以上が避難するほどだったとか。この洪水により蒸留所の多くの機械やスティル、全ての建物周辺の道路も水没しました。 洪水は発電プラントから17フィート、ウェアハウスHから4フィートの高さにまで達したそう。ブラントンはこれを、疲れ知らずの48時間連続の作業と優れたリーダーシップで、たった2日で蒸留所を通常運行に戻しました(24時間でと云う説もあった)。
洪水の災難から僅か3年後の1940年、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、連邦政府からは米軍にピュア・アルコールを供給するためにウィスキーの生産を中止するよう何度も要請されました。そこでブラントンはバーボンの生産を維持しつつ、国のニーズに応えるために蒸留所を拡大・多角化するという巧みな計画を成功させました。1942年には禁酒法以後、100万樽めのバーボンの生産を記録。
ブラントンは第二次世界大戦後も蒸留所の更なる拡張を監督し、細部にまで気を配りながら自分自身の住居や敷地内に多くの庭園も加え、在任期間中に蒸留所の美観を大きく向上させることにも貢献しています。蒸留所を見下ろしケンタッキー・リヴァーまで見渡せる丘の上に建つ邸宅は、現在ストーニー・ポイント・マンションと呼ばれています。また、社員が社交やコミュニティの場を持てるようクラブハウスも建設しました。従業員はブラントンを敬愛し、全員が一生懸命働きたいと思っていたそうです。彼は僅か14棟だった蒸留所が114棟の巨大企業に成長してもなお、謙虚で物腰の柔らかい人物でした。彼は軍隊にはいませんでしたが、ケンタッキー州では1813年に州知事が授ける公的な称号になって以来、地元に貢献した人物をケンタッキー・カーネルの尊称で呼んでいるため、日本でも有名なケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースのように、カーネル・ブラントンと呼ばれていました。ブラントンは1952年に引退し、亡くなるまで会社の顧問を務めたと云います。直後の1953年6月、ジョージ・T・スタッグ蒸留所は禁酒法解禁後から数えて、ケンタッキー州で初めて200万樽めの生産をしました。ちなみに世界で唯一の1バレル倉庫であるウェアハウスVは、これとブラントンの引退を記念して建てられています。そして、1959年にアルバート・ベイコン・ブラントンは亡くなりました。蒸留所の敷地内にはブラントンの像が立っており、そのベースには次のように書かれています。
愛され尊敬された
マスター・ディスティラーにして
真のケンタッキー・ジェントルマン。
彼は人生のうち55年を
コミュニティと会社へ捧げた。
彼の人を奮起させるリーダーシップが
彼の生きた時代の人々や
後に続く人々の心の中に残るように。
この記念碑は感謝と名誉をもって建てられた。
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カーネル・ブラントンについて見終わったところで、バーボンのブラントンズに戻ります。日本のカスタマーからの要望により造られたブラントンズ・バーボンは同じ年の84年にアメリカでも発売されました。約25ドル(現在の約60ドル)から35ドルの値が付けられ、これは一般的な銘柄のバーボンが1本7ドルから10ドルで買えた1980年代半ばの時代には破格の金額であり、当時の市場で最も高価なバーボンの一つでした。ラグジュアリーな製品との位置付けは広告が掲載される雑誌にも表れ、『ニューヨーカー』、『ウォール・ストリート・ジャーナル』、アイヴィー・リーグの同窓会誌など、少々「高級な場所」でブラントンズは宣伝されたそうです。しかし、当初のテスト市場であるアトランタとアルバカーキでは振るわず、1988年までに多くの場所でわずか19.99ドルで販売されていたとか…。バーボンの聖地ケンタッキーではヒットしたものの、殆どのアメリカ人はブラントンズを「コマーシャルな珍品」としか見ていなかったと言います。リー自身も、ブラントンズのアメリカでの初めの年の販売数について、あまり売れなかったと日記に書いた程でした。
アメリカでの販売が伸び悩む中、フォークとバラナスカスはブラントンズとメーカーズマークとの間で「ブラインド」の味覚テストを実施するよう手配しました。ブラントンズは毎年数回のブラインド・テイスティングでメーカーズマークに勝利しましたが、ブラントンズのシングルバレルがそのイベントのために特別にボトリングされたのに対し、メーカーズマークのボトルはランダムに酒屋で購入されていたため、メーカーズのビル・サミュエルズは「反則だ」と言いました。ちょっと悪どい気もしますが、フォークとバラナスカスは少なくとも一つの目標を達成したのでしょう。1990年代半ばになると、プレミアム・バーボンとその可能性についての話題が増え、メディアでもブラントンズ・シングルバレルが取り上げられるようになりました。1992年には『ニューヨーク・タイムズ』がブラントンズを含めて、「アメリカで縮小しつつあるバーボン市場を活性化させることを蒸留酒製造業者が期待するデラックスなバーボンの数が増えている」と報じています。
1990年代前半はブラントンズだけでなく、アメリカン・ウィスキー全体の販売は低迷していました。その不振を象徴するように、1991年はアメリカを原産地とするウィスキーは1560万ケースと禁酒法以来のカテゴリー別最少を記録し、バーボンの売り上げが最悪の年でした。ブラントンズの有するプレミアム感は、バーボン・ブームの到来を予感させるブランディングではありましたが、この段階では飽くまで予感に過ぎず、アメリカでの本当のブームは2010年代まで待たなくてはいけませんでした。ブラントンズ・シングルバレルは当初から国内よりも海を超えた遠い日本で好意的に受け入れられ、その売上の3分の2を占めたとされます。日本での大ヒットに気を良くしたのでしょうか、エイジ・インターナショナル社はブラントンズに続けて、シングルバレル・バーボンに対する世間の評価を高めるため、「ロック・ヒル・ファームス」、「ハンコックス・プレジデンツ・リザーヴ」、「エルマーTリー」の3種類のシングルバレル・バーボンを発売します。しかし、その売り上げはあまり芳しくはありませんでした。
バーボンの活性化を図るのにオウナー達はもう一つの方策を立てました。1990年の夏、ボブ・バラナスカスとジョー・ダーマンド(89–99年当時の蒸留所のヴァイス・プレジデント、ジェネラル・マネージャー)は或る提案をエルマー・T・リーにします。妻のリビーとの時間を大切にするため1985年に引退し、その後は顧問として会社に残っていたリーに、ブラントンズ・ブランドのプロモーション活動を依頼したのです。リーはリビーと相談して承諾しました。バラナスカスは1990年7月から、リーのコンサルタント料を月600ドルを月1000ドルに引き上げることに全面的に合意し、1990年12月に契約が成立しました。リーとエイジ・インターナショナルの間のこの取り決めは、引退していた筈の彼を北米、日本、イギリスなどの市場を訪れる10年に及ぶ旅へと駆り立てることになりました。リーはシングルバレル・バーボンについて語るために、数多くの著名な酒店、バー、クラブ、レストランに立ち寄り、作家のグループや歯科医の集まり、ワイン愛好家のグループ、大学のクラブ、雑誌や新聞のオフィス等で何百もの試飲会やディナーを主催し、見本市やバーボン・フェスティヴァル、ゴルフ・トーナメント、カントリー・ミュージック・ジャンボリー等でもボトルにサインをし、ローカルなラジオ・プログラムでは数え切れないほどのインタヴューを受け、ラスベガス、シカゴ、サンフランシスコ、ボストン、ニューヨークなど数多くの都市でバーボンのマスタークラスを開催しゲスト・バーテンダーを務めました。こうした動きは他の蒸留所(会社)でも行われ、ブッカー・ノーやジミー・ラッセルのようなカリズマ性のあるマスターディスティラーにブランド・アンバサダーとしての役割を担わせ、バーボンの普及に尽力してもらっています。リーは2013年に亡くなるまでバッファロー・トレースのアンバサダーを務め続けました。
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(E.T.リー。Blanton's公式ホームページより)

ブラントンズの一応は成功と言ってよさそうな成果(特に日本での)や、新しいシングルバレルのブランドにも拘らず、エイジ・インターナショナルは財政的に上手く行っていませんでした。最盛期には1000人いたと言われる蒸留所の従業員も、1991年の段階では殆どいなくなり、最小限の基幹要員50人にまで減少していたと言います。1991年の春、蒸留所を存続させるために、フォークとバラナスカスはエイジ・インターナショナル社の22.5%の株を日本の会社である宝酒造に売却しました。宝酒造は1842年に設立された日本酒と焼酎の大手メーカーであり、1970年代にスコッチ・ウィスキーや紹興酒の日本への輸入を始めた会社です。同社はブラントンズの日本での輸入代理店で、エイジ・インターナショナルの他のバーボン・ブランドの輸入も行っていました。この取引の際、宝酒造には会社の残りの株が売りに出された場合に30日間の購入を拒否する権利(先買権)が与えられました。1992年半ば、フォークとバラナスカスはエイジ・インターナショナル社の過半数の株をヒューブライン社(当時グランド・メトロポリタンの子会社)に売却する契約を締結します。宝酒造は、ヒューブラインへの売却が切迫していることを書面で通知されてからちょうど30日後に、拒否権を行使して会社の残りの株を購入する旨を伝えました。それは取引が成立する前日だったため、宝酒造は実際に法廷に出てヒューブラインへの売却を停止するための差し止め命令を出さなければなりませんでした。ギリギリになったのには理由があります。宝酒造はアメリカの蒸留所を経営することには関心はなく、エイジ・インターナショナルが所有するバーボン・ブランドにだけ興味があったのです。そこで彼らは30日間をかけて、蒸留所をサゼラック・カンパニーに売却し、サゼラックがジョージ・T・スタッグ蒸留所(当時の通称エンシェント・エイジ蒸留所、現在のバッファロー・トレース蒸留所)でそれらのバーボンを生産し続けるという長期契約を取りまとめました。宝酒造は先買権を行使する意向をエイジ・インターナショナルに通知したのと同じ日にサゼラックとの契約を締結し、ヒューブライン社の提示額に合わせてエイジ・インターナショナル社の残りの株に2000万ドルを支払いました。こうして宝酒造はエイジ・インターナショナルの企業構造をそのまま残しつつ自ら望むブランドの商標権を保持し、サゼラックは蒸留所とアメリカでのエイジ・インターナショナルのバーボン・ブランドの販売と流通の独占的な権利を非公開の金額で購入しました。現在でもサゼラックはバッファロー・トレース蒸留所を所有しており、同蒸留所はエンシェント・エイジやブラントンズ等のエイジ・インターナショナル・ブランドの全てのバーボンを#2マッシュビル(#1に比べてライ麦率の高いレシピのこと)を使用して製造しています。サゼラックとエイジ・インターナショナルはアメリカン・ウィスキー・ビジネスが低調な時期に生まれた変わった関係でしたが、20年以上もの間、双方のために働いて来ました。多分これからも…。
ちなみにファーディー・フォークはその後も少し業界に身を置いていましたが、最終的には引退し、ルイジアナ州とフロリダ州で不動産ビジネスを成功させることに専念、その後2000年に癌で亡くなったそうです。彼は常にアメリカでバーボンが復活する日が来ると信じ、バーボンというカテゴリーに再び脚光を浴びさせることに貢献した一人でした。今日、スーパー・プレミアム・バーボンのカテゴリーに膨大な数のブランドが存在し、成長していることを見たら、何を思うでしょうか。バラナスカスのその後はよく分かりません。ともかく二人とも裕福になって引退したビジネスマンであるのは間違いないと思います。

そろそろ話を一気に現代へ飛ばしましょう。2000年代に入り徐々に回復傾向を見せていたバーボンの売上は、2010年代に遂に爆発します。その火付け役はプレミアム・リリースのバーボンでした。先ずは「パピー・ヴァン・ウィンクル20年」や「ジョージTスタッグ」を筆頭とするバッファロートレース・アンティーク・コレクション(BTAC)などがユニコーンと祭り上げられ、酒屋の棚から即座に消えるバーボンとなりました。次に小麦バーボン人気からウェラー・ブランドも買いにくいバーボンとなりました。もっと言うとバッファロー・トレース蒸留所のバーボンは非常に人気があり、現在その殆どの製品が割り当て配給のようです。そのため「エルマーTリー」も手に入ればSNSで自慢できるだけのレアリティをいつしか帯びました。しかし、何故かブラントンズはそうなるのが少し遅かった印象があります。実際、2016年くらいまでは約50ドルで小売店で比較的簡単に見つけることが出来たと言います。ところがここ数年では、ブラントンズもアメリカのどの酒屋でも希望小売価格で見つけるのが困難になっているらしく、首尾よく見つけることが出来ても、その棚に残っている物はかなりの値上げをされているでしょう。スタンダードなボトルは概ね100ドルからMSR​​Pの約2倍くらい、プライヴェート・セレクションのボトルだと150ドルを超えて販売されます。とは言え、今のところ買い占められることはあっても、上に挙げた他のプレミアム・バーボンのように二次流通市場で高値で取引されることは殆どないようです。
とても魅力的なパッケージングを備えたブラントンズの人気の上昇が、どうしてバッファロー・トレースのプレミアム・ バーボンの中で最後だったのかは不思議です。各ボトル・トッパーは収集に適した造りですし、バレルをダンプした日がラベルに記される数少ないブランドの一つであるため、自身の誕生日や結婚記念日に合ったボトルを探す等、世のコレクター向けの材料に事欠きません。そのことに気づいたからなのか、ともかく市場全体を見ても今日のブラントンズには信じられないほどの熱狂が渦巻いています。COVID-19によるソーシャル・ディスタンシング以前の話らしいですが、ブラントンズがその日ギフトショップの棚にあるという噂で、バッファロー・トレース蒸留所に何百人もの行列が出来たとか…。そのためか分かりませんが、同蒸留所はギフトショップで運転免許証のスキャンを開始し、顧客が3ヶ月に1本しか購入できないようにしたみたいです。また、ルイヴィルの或る酒屋がアプリを介してブラントンズのストアピックの入荷を知らせたところ、あまりに多くの顧客が店舗に電話をかけたため、電話システムがクラッシュしたとか…。或いは、アメリカの空港のターミナルどこそこの免税店で購入できる事を知らせるブラントンズ・アラートがSNSで発信されたりとか…。それと、人気者は嫌われると言いますか、ブラントンズはオーバーレイテッド・ウィスキーだ、つまり過大評価されているなんて意見もかなりあったりするのですが、そう取り上げられること自体が人気の証左であり、また正反対の意見があるのは健全で、何よりバーボン界隈を活気に満ちたものにするでしょう。
こうした状況はバッファロー・トレース(サゼラック?)を動かしました。実はエイジ・インターナショナル社はオリジナルのブラントンズをリリースした後、海外市場に向けてハイアー・プルーフの「ゴールド・エディション」や、バレル・プルーフの「ストレート・フロム・ザ・バレル(SFTB)」という日本でもお馴染みの上位ラベルを追加していましたが、アメリカ国内では販売していませんでした。しかし、ブラントンズ人気および世界経済の動向はそれを変える契機となり、ゴールド・エディションは2020年の夏から約120ドル、SFTBは2020年末から約150ドルで、アメリカ市場にも年に1回だけの限定数量にてリリースされる運びとなったのです(ゴールド・エディションは毎年春のリリース)。

偖て、ブラントンズの歴史を見終えたところで、少々繰り返しの部分もありますが、次は製品としてのブラントンズを見て行きたいと思います。初めに言っておくと、ブラントンズの年間生産量および売上高は開示されていません。サゼラックは非公開企業であるためです。これはマッシュビルにも当て嵌まります。そのため殆どのバーボン系ウェブサイトでも推定○%というように伝えられるだけです。バッファロー・トレース蒸留所は幾つかのマッシュビルを使用してバーボンを製造しますが、主なものは3つあります。それがBTマッシュビル#1と#2とウィーテッド・マッシュビル(小麦レシピ)です。#1はライ麦率が10%もしくはそれ未満と推定されるロウ・ライ・マッシュビルで、同蒸留所の名を冠したバッファロートレース、ベンチマーク、イーグルレア、ジョージTスタッグ等に使われ、ウィーテッド・マッシュビルはウェラー・ブランドやヴァン・ウィンクルのバーボンに使われます。そして、ブラントンズをはじめとするエイジ・インターナショナルのブランドには、ライ麦が10〜12%または〜15%と推定される、#1よりも僅かに高いライ麦比率のマッシュビル#2が使われています。酵母がエイジ専用かどうかまでは分かりません。その可能性はなくはないと思いますが、何しろ公開されていないので憶測の域を出ることはないのです。
ブラントンズで明確に判っているのはウェアハウスHで熟成されていること。このバーボンを特別なものにしている理由の多くは、マッシュビルではなくバレルが保管されている倉庫にあります。これはただの倉庫ではありません。ウェアハウスHとは伝説と伝承(フォークロア)なのです。禁酒法の終了後、シェンリーは需要増を見越して傘下の蒸留所でのバーボンの生産を増やしました。新しく満たされた全てのバレルを収容するのに十分なラックハウスがないことは問題でした。この問題を解決するために、カーネル・アルバート・B・ブラントンは取り急ぎラックハウスの建設を指示しました。1934年に急いで建てられたこの倉庫は、バッファロー・トレースのプロパティのうち、他の倉庫がレンガ造りのなか唯一波形の薄いブリキで覆われた木造の構造が特徴です。約16000近い数のバレルを収容するやや小さめの4階建て。カーネル・ブラントンは後に、この新築の倉庫で熟成されたバーボンを調査し、倉庫内の温度が外気によって変動し、バーボンがオーク材とより速いペースで相互作用することに気付きました。金属製の壁にはレンガのような断熱効果がないため、他のラックハウスよりも実際の外気温に近く、内部のエイジング・バレルはケンタッキー州の温度と湿度の大幅な変化に曝されます。また金属は熱を伝導するため、ウェアハウスHの壁は増幅器のように機能し、熱と湿度の変化の影響を増大させるとも。これらはレンガ造りの倉庫よりも温度が高くなったり低くなったりするのが速いことを意味します。そのため熱気と冷気に伴う木材の膨張/収縮によりバーボンがバレルに吸い込まれたり押し出されたりし、吸収、放出、再吸収を繰り返す熟成サイクルの中でバレルの内容物はより多くの木材に触れ、バレルの奥深くまで到達することが出来る、と。これがバーボンとバレルの間の相互作用が多ければ多いほど熟成を早め、フレイヴァー・プロファイルを深めると考えられている理由です。そして、ウェアハウスHは庫内を暖める蒸気加熱装置も備えているので、冬場でもバーボンのエイジング・プロセスを促進するでしょう。
バッファロー・トレースによると、ブラントンズの全てのバレルはウェアハウスHの「センターカット」と知られる中央セクションから調達し、手作業でダンプするとされています。バーボンの殆どは複数のバレルからブレンドして目指すフレイヴァー・プロファイルを作成しますが、ブラントンズ・シングルバレル・バーボンはその名の通り、特定の一つだけを選びバッチを形成するバーボンで、他のバレルと混合されることはありません。同じ倉庫内のバレルでも非常に異なる熟成を示すことがあるため、ボトルの中身が違うバレルからのものである場合、同じブラントンズと言っても異なる味がする可能性があります。ただし、同じマッシュビル、同じようなヴァージン・オーク、同じような場所という限られた要素を考えると、フレイヴァーの範囲はそこまでワイドではなく、或る程度の安定性は確保されているでしょう。この方法でバーボンを作成するには、マスター・ディスティラーやテイスター、または熟成管理の担当者が全てのバレルを常に目を光らせてチェックしている筈なので。
ブラントンズはNAS(熟成年数表記なし)ですが、6〜8年熟成であるとされています。ところで、ブラントンズの熟成に関して、ちょっと疑問なことがあります。日本ではけっこう有名な話なのですが、例えば現在の宝酒造のブラントンズ公式ホームページでは、
ブラントンとなる原酒は4回の夏を越すまでに、マスター・ディスティラーを含む少なくとも3名の官能検査員が、味わい、深み、香りを毎年確かめて、ブラントンにふさわしい予感を秘めた樽を選び出す。彼ら全員の厳しい判定を通った樽だけが、AからZまであるウェアハウスのH倉庫に移され、再び熟成の時を待つ。ブラントンがH倉庫のみで貯蔵される理由は、「芸術はデータに置き換えられるものではなく、そしてそれは、今まさに神の手に再び委ねられているから。」原酒たちは、ここでチャコール・フレーバーに円熟味を加え、静かに呼吸を繰り返し、神にその取り分を捧げながら、さらに4回のブルーグラスサマーを経験し、ブラントンになるのである。
と、説明されています。また、2000年発行の『バーボン最新カタログ』(永岡書店)には、
各熟成庫で4年寝かされた原酒は、マスター・ディスティラーの手によってテイスティングされ、その中から特に良い物だけを、その昔、ブラントンが丘から見ていたH倉庫の場所へ移され、ていねいに再熟成される。
ここで3年から長い樽で6年程度再熟成を重ねて初めてブラントン用の原酒が出来上がる。
と、書かれています。これ本当なのでしょうか? ブラントンズは先ず初めに別の倉庫で熟成され、後にウェアハウスHで熟成される、という点が個人的には引っかかるのです。何が問題かと言うと、ラベルにもはっきりと「Stored in Warehouse H」と書かれているのに、これだと場合によっては熟成期間の半分もしくはそれ以上を別の倉庫で過ごしたことになるではないですか。ウェアハウスHで熟成されているのがブラントンズのアイデンティではなかったのでしょうか? 宝酒造の方の文章を見てみると「ブラントンとなる原酒は〜(略)〜味わい、深み、香りを毎年確かめて、ブラントンにふさわしい予感を秘めた樽を選び出」し「厳しい判定を通った樽だけが、AからZまであるウェアハウスのH倉庫に移され、再び熟成の時を待つ」と言ったそばから「ブラントンがH倉庫のみで貯蔵される理由は」云々と言っています。これはウェアハウスHに来る前のバレルはブラントンズではないと解釈しなければ意味が分かりません。確かに、そう解釈すればブラントンズは「H倉庫のみ」と言えなくはないのですが、何か釈然としないものが残ります。或るブランドにするバレルを複数の倉庫から引き出したり、途中でブランドを変更するのは構わないとしても、ウェアハウスHの伝承を売りにしたブラントンズを途中まで別の倉庫で熟成しておいて、最終的にウェアハウスHに切り替えたからラベルにはそう書きましたでは、看板に偽りありではないか、と。まあ、ラベルは必ずしも全てをさらけ出さなくてはいけない物でもありませんから、それでもいいのかも知れない。しかし、上で見てきたように、ウェアハウスHは熟成をスピーディーにする倉庫です。順当に考えたら、先ず熟成の進みやすい環境(スレート造りの倉庫や倉庫の上層階)で熟成させ、後から熟成の穏やかな環境(レンガ造りの倉庫や倉庫の下層階)へ移したほうが、マチュレーション・ピークを見極め易いのではないでしょうか? 実際、海外のバーボン系ウェブサイトでは、この件が語られているのを私は見たことがないのです。とは言え『バーボン最新カタログ』の方は明らかに現地で取材した形跡がありますから、何の根拠もないことを書いているとは思えません。もしかすると日本向けのブラントンズだけ、そうしたバレル移動をしているのでしょうか? 一説には日本向けのブラントンズは8年熟成、その他の国は6年熟成が基本とも聞いたことがあります(これについては後述します)。それが本当なら、日本向けのブラントンズが特別に育てられているなんてこともあるのかしら…。勿論、美味しければそんなことどうでもいいじゃん特別に選んでるんだから、という意見はあるでしょうけれど、皆さんはこの件に関してどう考えますか? コメントよりどしどしご意見下さい。取り敢えず分からないことは措いて、美観に関する事柄へ移りましょう。

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(Blanton's公式ホームページより)
シングルバレル・バーボンのパイオニアとして、ブラントンズの全てのボトルには、ケンタッキー州の長く続く歴史的なダービーの伝統とバーボンの深い遺産に敬意を表す象徴的なホース・ストッパーが付いています。これはコレクティブル・アイテムとして有名で、現在のストッパーには8種類のデザインがあり、ケンタッキー・ダービーを駆ける競争馬と騎手のポーズを模したそれぞれは、ゲートに立つ姿からフィニッシュ・ラインを越える瞬間までの異なるシーンが切り取られています。左下の小さな円の中に「B・L・A・N・T・O・N・S」のうちどれか一つの文字が形成され、綴り順に並べるとレースの模様が再現されるのです。この中で最後の「S」は、勝利を祝い拳を空中に挙げた騎手であることから特に人気があります。そして、綴りを見て分かる通り「N」は2種類あり、一つ目は普通のNですが、二つ目のNにはコロンが付いています。一部の人は特定の文字が他の文字よりも見つけるのが難しいと主張していますが、バッファロー・トレース蒸留所によるとそれぞれは毎年同じ数を生産しているそうです。この仕様になったのは1999年からで、それ以前の物は尾を靡かせ疾走する姿をしていました。このホース・ストッパーは時期によって造ってる会社が違うからなのか、80年代の初期物の方が鋳造が精密でした。例えば、90年代初頭の物などは馬の脚の間に金属が残っていたりします。
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8つ全てのストッパーを集めてバッファロートレースのギフトショップに郵送すると、使用済みバーボン・バレルのステイヴに順番に取り付けられ、無料で返送されるサーヴィスがあるそうです。全ての文字を集めようとすると、ある意味クジ引きのようなものでもあるので、同社ではストッパーの完全なセットも55ドルで販売しているとか。

ストッパー以外の部分については、その変遷を一時期日本に滞在していたアメリカのバーボン愛好家ジョン・ラッド氏が自身のブログでブラントンズのダンプ日以外での凡そのデイトを判別する見方を纏めていますので、それを基に書かせてもらいます。この情報はスタンダードなブラントンズ・オリジナル・シングルバレルについてであり、他のエディションに当て嵌まるかどうかは未確認だそうです。
ハングタグには1984年から1990年までは「Why this may be the finest bottle of whiskey ever produced.」というフレーズのみが書かれていました。1990から92年あたりの短期間「The Original Single Barrel Bourbon Whiskey」と書かれたものがあったようです。その後はハングタグが変更されてから現在までは、タグ上半分に「THE FINEST BOURBON IN THE WORLD COMES FROM A SINGLE BARREL(世界で最も素晴らしいバーボンはシングルバレルから生まれる)」というフレーズ、その下方に馬と騎手の絵がプリントされています。
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次はネックラベルに関して。1984年から1993年までは「Blanton Distilling Company」とプリントされていました。1993年後半に変更があった時から現在までは「Blanton's the Original Single Barrel Bourbon」となっています。これ故、スタンダードなブラントンズのことを「オリジナル」と言ったりします。日本の正規輸入品はその時から「Blanton's SINGLE BARREL BOURBON」の下に「ウイスキー」とプリントされたものになったようです。92〜93年途中の物は「Blanton Distilling Company」の下に「ウイスキー」で、それ以前の物はネックには「ウイスキー」とはプリントされてないみたい。
ストッパーをシールするワックスは、ダークブラウンに変わる前の1994年までゴールドワックスでした。日本版はずっとゴールドワックスかな?

最後にブラントンズのヴァリエーションを少しばかり紹介しておきましょう。但し、これらはそもそもシングルバレル・バーボンのためボトルによって風味に違いがありますから、ここでは味わいについての言及は基礎的な傾向以外はしません。ブラントンズはそのプロファイルに適合するものがウェアハウスHのバレルから選ばれているので、様々なボトリング・プルーフにすることでヴァリエーションが作成されていると思われます。つまり、例えばオリジナル(所謂スタンダード)とスペシャル・リザーヴとゴールド・エディションの違いはボトリング前に加えられたライムストーン・ウォーターの量であろう、と言うことです。そして、殆どのブラントンズは約6年熟成と推定されますが、日本限定の二つのリリースは約8年熟成でのボトリングと見られています。先に述べたように、アメリカでもゴールド・エディションとストレート・フロム・ザ・バレルが漸く発売になりましたが、近年まではブラントンズ・オリジナル・シングルバレルのみが流通していました。けっこう昔から日本やその他の国際市場では5、6、または7種類のブラントンズが購入できました。

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◆Blanton's Original Single Barrel
これが全ての始まりであり、スタンダードなブラントンズです。アメリカでの標準リリース。スタンダードと言う以外に、アメリカではオリジナル・シングルバレルとか、ベージュ・ラベルまたはブラウン・ラべルと呼ばれ、93プルーフでボトリングされています。NASで6〜8年熟成と噂され、昔はどうか分かりませんが、現行はおそらく概ね6年熟成。大体60ドルから80ドルがアメリカでの平均価格でしょうか。
BTマッシュビル#2は、#1と比べてライ麦率が高いことから、ハイ・ライ・マッシュビルと呼ばれもしますが、多くても15%までと推定されるので、例えばフォアローゼズのBマッシュビルのような30%を超えるものと較べると、ライ・フォワードの味わいではなく、寧ろバランス型の味わいを持ちます。ウェアハウスHの特性のためか、実際よりも成熟したバーボンのように感じる可能性があり、オーク・プロファイルの強さはブライターであるよりはダーカーな傾向があるでしょう。

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◆Blanton’s Single Barrel Bourbon(Takara)
日本で正規品と呼ばれている物がこれです。上の「オリジナル」は並行(輸入品)と呼ばれています。日本での標準リリース。「オリジナル」と較べるとラベルの色が薄めなので、アメリカではクリーム・ラベルとかアイヴォリー・ラベルと呼ばれたり、なんならレッド・ラベルとか通称タカラ・レッドと呼ばれたりします。何故レッドなのか理由が私にはよく分からないのですが、赤みを帯びたクリーム色だからなのですかね? 文字が赤色だから? 91年から採用されたラベルとされていますが、ブラントンズ・コレクターの方によると90年後半にボトリングされた物が初出らしい。こちらもNASですが、熟成期間は平均8年とされ、ブラントンズの基本となる93プルーフでのボトリング。
先述した宝酒造がエイジ・インターナショナルの支配権を獲得し、サゼラックとの製造提携を結んだ際、宝酒造は販売規定としてこのブラントンズとブラック・ラベルを日本市場専用に作成することも義務付けました。日本人の好むフレイヴァー・プロファイルが、長く熟成されたウィスキーに傾いていたため、これらの両製品はオリジナルよりも余分に熟成されたとか。
以前ブラントンズの2017年ボトリングの正規品をレヴューした時とは状況は変わり、近年かなり値上がりし、8000〜10000円の値札が付いています。個人的には並行より正規の方が僅かに美味しく感じたことがあるので、オススメしたいところなのですが、並行が6000〜8000円程度の相場のため、価格差ほどの価値を感じれるかどうかが鍵となります。

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◆Blanton’s Single Barrel Bourbon Black Label(Takara)
日本市場に限定して94年に導入されたのがブラック・ラベルです。タカラ・ブラックと呼ばれることもあります。おそらくは日本人向けにスタンダードよりもロウワー・プルーフに仕上げただけで、バレル・セレクトの基準は同じでしょう。80プルーフのボトリング。NASで推定8年熟成と言われています。5000〜6500円の間が相場(もっと高い店もあった)。
スタンダードと較べるとプルーフ・ダウンした分、確実にライトな味わいです。既にスタンダードに慣れていれば購入する必要はないかも知れない。あくまでも入門編というか、軽やかなバーボンを好むユーザー向けの製品。下で紹介するグリーン・ラベルと較べると、同じプルーフィングでこちらの方が熟成期間が長いと想定されるため、味わいはやや重厚かと思います。

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◆Blanton’s Special Reserve Green label
スペシャル・リザーヴとして正式に知られるグリーン・ラベルは、アルコール度数が高ければ高いほど出荷時や消費時に支払う税金が高くなる市場(主にオーストラリア)向けに造られたブラントンズです。そのためスタンダードより低い80プルーフでボトリングされています。アメリカでは販売されていません。ブラック・ラベルを買い求め易い日本人にとってはスキップしてよいラベルでしょう。

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◆Blanton's Silver Edition
シルヴァー・エディションはもともと免税店向けに造られたブラントンズです。現在は廃版となり製造されていません。熟成年数は推定8〜9年程度。98プルーフでボトリング。ラベルなどの装飾の色が中身を表すように、元の希望小売価格やプルーフはスタンダードとゴールド・エディションの中間に位置しています。味わいも概ねそれに準ずるかと。2000年代は比較的タマ数が豊富だった印象がありますが(2000-2009製造)、製造中止されたことでレアリティが増し、オークションで10万を超えて落札されているのを見たことがあります。飲むためなら絶対にそんな値段を出すのは止めたほうがいいでしょう。

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◆Blanton’s Gold Edition
ゴールド・エディションはオリジナルの次に作成されたブラントンズのヴァリエーションでした。これもシルヴァー・エディションと同じくもとは免税市場向けとも言われますが、日本では92年から発売されていた模様。別個にカウントしませんでしたが、これも国際版と日本版では仕様が違うとされ、日本版は8年熟成でタカラ・ゴールドと言われたりします(ダークレッドのワックスが目印)。103プルーフでのボトリングは同じ。熟成期間を6年から10年としているウェブサイトもありました。また一説にはスタンダードよりも厳選されたバレルから造られるとされますが、真偽の程は分かりません。少なくともボトリング・プルーフはフレイヴァーの強度を変えますので、仮にスタンダードより単に濃いだけだったとしても、それはそれで格が高いことを意味するのです。
長らく国際市場向けの製品だったゴールド。ファンからは長年に渡りバッファロー・トレースに対してアメリカでもゴールド・エディションを出して欲しいという声がたくさん寄せられていました。いつになったらここで買えるようになるんだ、と。その要望に応え、2020年からアメリカでも限定数量のリリースが始まりました。

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◆Blanton’s Straight From the Barrel
その名の通り、バレルから取り出した原酒を水で薄めることなくボトリングしたブラントンズのバレル・プルーフ版。2002年にフランス市場向けに特別に製造されたのが始まりのようです。加水調整がないのでボトル毎にプルーフが異なりますが、概ね130オーヴァーが多いです。一説には6年から10年熟成としているウェブサイトもありました。そしてブラントンズのヴァリエーション中、唯一ノンチルフィルタードとされています。その仕様は紛うことなくブラントンズの最高峰です。これまたゴールド・エディションに続き、2020年からアメリカでも限定的なリリースが始まりました。

ブラントンズには上に挙げたラインナップに加えて、パリの有名なリカー・ストア、ラ・メゾン・デュ・ウィスキー(LMDW)による様々なリミテッド・エディションがあります。それらは所謂ストア・セレクションですが、スタンダードなブラントンズにはない派手で豪華なラベルが付いています。またスペシャル・リザーヴにはレッド・ラベルもしくはダークブラウン・ラベルの韓国向け製品が2000年代半ばに発売されたことがありました(ブラントンズではレアな規格の500ml版あり)。最も有名なのは、最初期の特別リリースである86年に発売されたフランクフォートの市制200周年記念ボトルでしょうか。それには通常の馬ではなく建物のストッパーが付いていました。年にちなんだのかボトリングは86プルーフです。他にも日本で2014年に発売された「30周年アニヴァーサリー」や91年の「メモリー・オブ・ユウジロウ」という石原裕次郎モデルなどの記念ボトルがあり、果てはボトルがスターリング・シルヴァー製のとんでもない代物までありました。91年にボトリングされたKirk Stieff製スターリング・シルヴァーの物は小売店での販売はなく、感謝の気持ちを込めた日本の小売店への贈り物とされ、全てに個別番号が付された100個くらいしかないらしいです。97年発行の『ザ・ベスト・バーボン』によれば100万円(!?)と書かれています。こうした記念ボトルは、バレル・セレクトが特別である可能性はありますが、基本的にブラントンズとして世に出る全ての製品はそもそも特別なものであることは留意すべきでしょう。

では、いよいよバーボンを注ぐ時間です。今回のレヴュー対象はかなり初期のブラントンズ。この年代の物は、おそらく現在のオークションでは30000円を超えて来ると予想されます。エルマー・T・リーは引退後もマスター・ディスティラー・エミリタス(名誉職)として90年代のある時点までブラントンズの選定をしていたと思われます。その後はゲイリー・ゲイハートが責任者になり、その彼は2005年春に引退しました。2005年から現在まではハーレン・ウィートリーがマスター・ディスティラーを努めています。マスター・ディスティラーの交代は、少なからずバーボンの味わいを変化させる可能性があります。彼らは仕込みにしろ、バレル・セレクトにしろ、最終責任を負うからです。なので、このブラントンズは年代から考えて、一貫してリーのブラントンズと言えるでしょう。今となってはそこが貴重な点です。

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Branton Distilling Company KENTUCKY STRAIGHT BOURBON WHISKEY 93 Proof
Dumped on 7-16-86
Barrel No. 571
Warehouse H on Rick No. 26
Bottle No. 230
1986年ボトリング。赤みを帯びた艷やかな濃いめのブラウン。黒糖、香ばしい焦樽、レーズン、オールドコーン、オレンジ、ハニー、花、マスティオーク、クローヴ。ブランディのような芳香。水っぽさと紙一重のとても円やかな口当たりと滑らかな喉越し。口の中では豊富なレーズン。余韻はミディアム・ロングで、スパイスとお花畑を連想させつつ最後にはタンニンの苦味とアーシーなノートが残る。
Rating:88.5/100

Thought:ウッド・ノートの厚み、ダークフルーツの濃厚さ、スパイスの複雑さを三本柱に攻めてくる印象。自分の得た感触としては、ブラントンズにしてはかなり長熟寄りの味わいに思いました。先日バーで飲んだ87年物とは、サイド・バイ・サイドではないので不確かかも知れませんが、深みのあるオークは共通していたように思います。個人的には90年代の物の方がキャラメル様の甘さが感じ易く、バランス的にそちらの方が好みでした。ただこれはボトル・コンディションによる可能性も高いし、そもそもシングルバレル故の違いかも知れず、一概に言えるかは分かりません。皆さんのご意見を伺いたいですね。
ところで、ブラントンズ・バーボンの品質が年々低下していると見る向きもあります。中には、1990年代半ばにチルフィルターが導入される前に製造されたブラントンズは現在製造されているものとは比較にならない、と言ってる海外の方がいました。日本で90年代に出版されたバーボン本には、ブラントンズはチルフィルターで仕上げられると書かれていますが…。どうなんでしょうね? こちらも詳細ご存の方はコメントお寄せ下さい。

Value:基本的にブラントンズのオールドボトルは古ければ古いほど高くなります。とは言え、ブラントンズは90年代に日本へは相当な量が輸入されていたようで、現在のオークションでもタマ数が豊富なせいか、90年代の物であれば比較的買い求め易い相場となっています。現行品が値上がっている今、90年代のブラントンズをオークションで狙うのは悪くない選択肢かと思います。80年代の物は90年代の物と較べると2倍かそれ以上になりますので、買い手を選ぶでしょう。細かいことを言うと、89年物はよく見かけるので、80年代の中では比較的高騰しにくいです。逆に84年は殆ど見かけません。86〜88年はたまに出ますが、89年より高くなります。さあ、そこで、投資目的でなく飲むためにそれだけのお金を払う価値があるのかどうかですが、個人的にはレーズン爆弾のバーボンが好きなら買いだと思います。私はどうしてもボトル一本飲みたかったので大枚叩いて購入しました。本来なら一度どこかのバーで試飲してから購入を検討するのがいいでしょうね。それから決めても遅くはないので。


*その後グランド・メトロポリタンはギネスと合併してディアジオを形成。
1979年にフライシュマンはスタンダード・ブランズに売却されました。ナビスコは元々はフォークとバラナスカスにフライシュマン・ディスティリングを売る契約を結んでいましたが、その契約は何らかの理由で実現せず、最終的には英国のビール会社ウィットブレッドに売却されました。ウィットブレッドは5年間ほどフライシュマンを所有した後、突如会社をメドレー・ディスティリングに売却しました。メドレーは1988年にグレンモアに買収され、そのグレンモアも僅か2年後の1991年にユナイテッド・ディスティラーズに買収されます。そしてユナイテッド・ディスティラーズは1994年にフライシュマンのブランドをバートンに売却し、2009年にバートンはサゼラックに買収され、現在はサゼラックがフライシュマンのブランドを所有しています。

**ブラントンズのボトルは、その昔販売されていたアメリカン・ディスティリング・カンパニーの代表銘柄であるバーボン・スプリームのデカンター・ボトルにそっくりと指摘されています。もしかしてデザインをパクった?
https://pin.it/UU8Nwof

***フランクフォート・アンド・シンシナティ・レイルロード(以下、F&C鉄道と略)と呼ばれていましたが、この路線はフランクフォートからパリスまで40マイル(64km)しか走っていない短距離鉄道で、名前に反してオハイオ州シンシナティとは何の関係もありませんでした。F&C鉄道はもともとケンタッキー・ミッドランド・レイルウェイとして知られ、ルートの建設は1888年の初めにフランクフォートで始まり、1889年6月にジョージタウン、1890年1月にパリスに到達しました。開業当初、最初のレールを敷く前から「深刻な財政難」に陥り、1894年には管財人の管理下に置かれることもあったものの、1899年にF&C鉄道と改称、1890年代にはフランクフォートの成長を刺激する大きな要因として注目されました。 ジョージタウンとパリスを結ぶ路線は、地元のバーボン・ウィスキーを市場に流通させるのに役立ったと言われています。路線の一部はバッファロートレース上に敷設されていました。
レキシントンとシンシアナの中間、またパリスとジョージタウンの中間に位置するセンターヴィルは、嘗てバーボン郡の商業の中心地として賑わっていました。センターヴィル駅舎には鉄道だけでなく、石炭や穀物や肥料などを扱うセンターヴィル・コミッション・カンパニーの事務所も入っており、駅舎の2階部分はモダン・ウッドメン・オブ・アメリカのロッジとして使用されていた時期もあったそうです。第二次世界大戦中には、戦争努力の重要な製品であったブチルゴムの製造に使用するため、アイダホで栽培されたジャガイモが貨物によってフランクフォートとスタンピング・グラウンドの蒸留所に輸送されました。
F&C鉄道は多くの蒸留所にサーヴィスを提供していたため「ザ・ウィスキー・ルート」として知られていました。1967年にF&C鉄道が全線を廃線にしようとした時、フランクフォートの蒸留所が反対し、ジョージタウンとパリス間の路線は放棄されましたが、残りの路線は存続しました。州間通商委員会はF&C鉄道が更に路線を放棄することを認め、1970年にジョージタウンとエルシノア間の最後の18.2マイルが廃線になりました。1985年に脱線事故で架橋が破損し、F&C鉄道には橋を修理する余裕がなかったため閉鎖に追い込まれ、1987年までにF&C鉄道のレールは全て撤去されたそうです。

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ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、アメリカの現行ワイルドターキーのラインナップの中では1942年の古典的な「101」、1991年の「レアブリード」に次ぐ、3番目に古いリリースの由緒あるブランドであり、ワイルドターキー101のシングルバレル・ヴァージョンとして1994年に作成されました。公式リリースは1995年なのかも知れませんが、最初のボトルは1994年に充填されています。おそらくは、バーボン界で初めての商業的なシングルバレル・バーボン、ブラントンズの対抗馬であったと推測され、ブラントンズの競走馬やケンタッキー・ダービーをモチーフとした華麗なボトルの向こうを張った七面鳥のファンテイル・ボトルは流麗で目を惹くものでした。またブラントンズと同じように、ラベルには手書きでボトリングされた日付やバレル・ナンバー、倉庫やリック・ナンバーが記されているのもプレミアム感をいやが上にも高めています。そして、キャップはピューター製の重厚で高級感のあるものでした。それ故ケンタッキー・スピリットの初期のものは通称ピューター・トップと呼ばれています。2002年からストッパーはピューター製からダーク・カラーの木製のものに変更されました。更に2007年もしくは2008年頃にはダークだった木材がライトな色味へと変わります。ラベルに描かれる七面鳥も、ケンタッキー・スピリットに於ける明確な変更時期は特定出来ませんが、ブランド全体に渡るラベルのリニューアルに合わせ、前向きが横向きへ、カラーがセピア調へと更新されました。と、ここまではキャップ等のマイナーチェンジとシリーズ全般の変化なので、ケンタッキー・スピリットの姿自体はそれほど変わりありませんでしたが、2019年、遂にケンタッキー・スピリットの象徴的なテイルフェザー・ボトルは廃止、レアブリードに似たデザインに置き換えられ、ラベルの七面鳥の存在感は薄くなります。
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「ケンタッキー・レジェンド」と免税店の「ヘリテッジ」といった一部の製品を除き、ケンタッキー・スピリットは2013年にラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルが発売されるまでの20年近く、ワイルドターキーのレギュラー・リリースで孤高のシングルバレルであり続けました。アメリカの小売価格で言えば、ワイルドターキー101より2倍以上高く、ラッセルズ・リザーヴより少し安い製品です。ケンタッキー・スピリットをラッセルズ・リザーヴと比べてしまうと、ラッセルズ・リザーヴは冷却濾過されずによりバレルプルーフに近い110プルーフでボトリングされるため、スペック的にケンタッキー・スピリットを上回ります。そのせいもあってか、2014年頃から始まったプライヴェート・バレル・セレクションでもラッセルズ・リザーヴのほうが人気があります。その味わいの評価に関しては、アメリカの或る方の喩えでは「ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、天井は高いが床はラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルよりも低い」と言っていました。ターキーマニアの代表とも言えるデイヴィッド・ジェニングス氏などは、ケンタッキー・スピリットのボトルがリニューアル(同時に値上げも)されたのには相当ガッカリし、ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルの方が愛好家向けにアピールする製品であり、逆にもっとライトな飲酒家向けにはラッセルズ・リザーヴ10年や「ロングブランチ」などがあるため、ケンタッキー・スピリットの立ち位置がブレて消費者への訴求力が落ちているのを危惧して、価格以外に三つの解決策を提案をしています。
第一はボトルの変更です。テイルフェザー・ボトルが高価なのなら、せめて同様の美しさをもった往年のエクスポート版のケンタッキー・レジェンド(101)や「トラディション(NAS)」のようなボトル・デザインに先祖返りするのはどうか?、と。
第二にケンタッキー・スピリットもノンチルフィルタードのバーボンにする。そうすればスタンダードなワイルドターキー101よりも優れた利点が確実に得られる、と。
第三にラベルに樽詰めされた日付も記載する。現在でもボトリングの日付はありますが、ケンタッキー・スピリットが愛好家に向けた製品を目指すのなら、より細部に拘ったほうがいい、と。
そして更には、先ずは一旦ケンタッキー・スピリットの販売を休止し、現在の115エントリー・プルーフのバレルを維持しつつ、昔のような107エントリー・プルーフのバレルも造り、二つの異なるバーボン・ウィスキーを用意、最後に理想的な熟成に達した107エントリー・プルーフのバレルからケンタッキー・スピリット101を造り上げるという提言をしています。これは謂わばジミー・ラッセルのクラシックなケンタッキー・スピリット・シングルバレル・バーボンを復活させるというアイディアです。確かにこれが実現したら素晴らしい…。
ちなみに彼は現在のケンタッキー・スピリットを扱き下ろしているのではありません。ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルとワイルドターキー101の中間にあっては、昔ほど誇らしげに立っていないと言っているだけです。実際、彼はここ数年のケンタッキー・スピリットの高品質なリリースを幾つか報告しています。まあ、少々否定的な物言いになってしまいましたし、今でこそケンタッキー・スピリットの特別さがやや薄れてしまったのも間違いないのですが、それでもその「魂」は眠ってはいないでしょう。ケンタッキー・スピリットはジミーラッセルの元のコンセプトに忠実であり続けるバーボンであり、殆どの場合ワイルドターキー101よりも美味しく特別なバーボンであり、またストアピックのラッセルズ・リザーヴが手に入りにくい日本の消費者にとってはワイルドターキー・シングルバレルの個性的な風味を経験するよい機会を提供し続けています。

改めてケンタッキー・スピリットの中身について触れておくと、その熟成年数はNASながら8〜10年とも8.5年〜9.5年とも言われており、とにかくワイルドターキー8年と同じ程度かもう少し長く熟成されたシングルバレルをジミー・ラッセルが選び(現在はエディ?)、冷却濾過して101プルーフでボトリングしたものです。つまり単純に言えば、冒頭に述べたようにケンタッキー・スピリットは現在でも日本で販売されているワイルドターキー8年101のシングルバレル・ヴァージョンなのです。ジミー自身はケンタッキー・スピリットについて、タキシードを着たワイルドターキー101と表現していたとか。多分、スタンダードな物より格調高く華やいでいる、といった意味でしょう。発売当初のボックスの裏には彼自身の著名でこう書かれました。
時折、完璧なものを垣間見ることがあります。私はいつもそれを上手く説明することは出来ないのですが、或る樽は熟成するにつれて並外れた味を帯びるのです。信じられないかも知れませんが、私は20年以上前の樽を今でも正確に覚えています。ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、そのような記憶に残る発見の喜びを与えてくれます。このボトルには、特別な1つの樽から直接注がれた純粋なバーボンが収められており、私はそれを皆さんにお届けすることを誇りに思います。
マスターディスティラー、ジミー・ラッセル
ついでに言っておくと、ケンタッキー・スピリットとラッセルズ・リザーヴという二つの同じシングルバレル製品の違いは、ボトリング・プルーフとチルフィルトレーションを除けば、そのフレイヴァー・プロファイルにあるとされます。現在のマスターディスティラー、エディ・ラッセルによれば、ケンタッキー・スピリットが父ジミーの好みをより代表しているのに対し、ラッセルズ・リザーヴは本質的にエディ自身の好みを代表しているそう。
ケンタッキー・スピリットの味わいについては、先に引用した「天井と床」の喩えで判る通り、アメリカでも日本でも多少のギャンブル性が指摘されています。つまり、ケンタッキー・スピリットはラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルと同等かそれ以上に優れている場合もあれば、スタンダードなワイルドターキー101や8年101に非常に似ている可能性もあるということです。これはケンタッキー・スピリット云々というより、シングルバレルの特性上仕方のない面でもあります。通常3桁から4桁のバレルを混ぜ合わせる安価なバーボンは平均的なフレイヴァーになるのに対し、文字通り一つのバレルから造られるシングルバレル製品はフレイヴァー・バランスが異なります。具体的に例を言うと、普段飲んでいるワイルドターキー8年の味が脳にインプットされていて、さあ、いつもより上級なものを飲んでみたいと思いケンタッキー・スピリットを買いました、いざ飲んでみるといつものターキーよりスパイシーでオーキーでした、あれ? いつものほうがフルーティで美味しくない?、となったらその人にはハズレを引いたと感じられるでしょう。こればかりはその人の味覚次第だから。とは言え、本職の方が選んだバレルですから美味しいに決まってますし、それだけの価値があります。ケンタッキー・スピリットは甘くフルーティなものから、ややドライでタンニンのあるものまで様々なプロファイルを示しますが、真のワイルドターキー・ファンならば勇んで購入すればよいのです、好みのもの好みでないものどちらに転ぶにせよ。

ケンタッキー・スピリットはラベルの七面鳥やボトル・デザインの変化でなく、別の視点から概ね三つに分けて考えることが出来ます。ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。2004年に107プルーフから110プルーフ、2006年に110プルーフから115プルーフに。これは良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味します。また、ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。これも良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味するでしょう。そこで、ケンタッキー・スピリットの平均的な熟成年数である8年を考慮して大雑把に分けると、

①1994〜2012年の107バレル・エントリー原酒
②2013〜18年の110/115バレル・エントリー原酒
③2019年からの新蒸留所原酒

というようになります。このうち①、特にピューター・トップのものは昔ながらのワイルドターキーの味わいであるカビっぽいコーンや埃のような土のようなオーク香があり複雑な風味があるとされます。②は①のようなファンクが消え、ライトもしくはいい意味で単純な傾向に。③は前出のDJ氏によれば、選ばれたバレルによっては「床が上がっている」そうです。そこで今回は、私の手持ちのケンタッキー・スピリットの年代が異なるもの2種類と、先日投稿したワイルドターキー8年101の推定2019年ボトルを同時に飲んで較べてみようという企画。実を言うと投稿時期が違うだけで、3本をほぼ同時期に開封しています。

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2021-07-27-01-20-18
WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof
Bottled on 01-14-16
Barrel no. 2830
Warehouse O
Rick no. 2
2016年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。接着剤、香ばしい焦樽、香ばしい穀物、ローストナッツ、コーン、ライスパイス、ブラックペッパー、若いチェリー、ハニーカステラ、ナツメグ、アーモンド。口当たりはややオイリー。パレートは基本的にグレイン・フォワードで、甘みもあるが飲み込んだ直後はかなりスパイシー。余韻はミディアム・ロングで豊かな穀物と共に最後にワックスが残る。

8年101と較べて良い点は口当たりがオイリーでナッティさが強いところでした。悪い点は接着剤が強すぎるのと荒々しい「若さ」があるところ。全体的には、スパイス&グレインに振れたバーボンという印象。また、101プルーフよりも強い酒に感じるほどアルコール刺激を感じます。正直言って8年101の方がマイルドで熟したフルーツ感もあり私好みのバランスでした。
Rating:86.5/100

2020-11-29-18-33-05
WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof(Pewter top)
Bottled on 10-5-95
Barrel no. 63
Warehouse E
Rick no. 47
1995年ボトリング。やや赤みを帯びたブラウン。ヴァニラ、湿った木材、オールド・ファンク、ベーキングスパイス、ブラッドオレンジ、紅茶、タバコ、土、漢方薬、ドライクランベリー、鉄、バーントシュガー。アロマはスパイシーヴァニラ。口当たりは柔らか。パレートはフルーティな甘さにスパイス多め。余韻はハービーで、マスティ・オークが後々まで長く鼻腔に残る。

2016年のケンタッキー・スピリットが若さを感じさせたのに対して、こちらは寧ろ近年飲んでいたマスターズ・キープ17年のような超熟バーボンを想わせる味わいです。今回私の飲んだ8年101と較べても、90年代の8年101と比べても、ハーブぽいフレイヴァーが強く複雑ではあるのですが、あまり私の好みではありませんでした。多分なんですが、10年前に開封して飲めていたらもっともっと美味しかったのではないかなと思います。言葉を変えれば飲み頃を逃したような気がするということです。
Rating:87.5/100

Verdict:95年ピュータートップに軍配を上げました。比較として飲んでいた8年101の方が自分好みではあったのですが、やはり特別な味わいではあると思ったし、2016年物は軽く一蹴したからです。


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先日、Kazue Asaiさんの個展が開催されている「お酒の美術館」中野店へ行ってきました。只今絶賛開催中な訳ですが、早くも行った方々はだいたい写真付きで各種SNSにて紹介されています。そこで私も、距離的時間的に行きづらい人もいるかと思いますので、こちらでイラストの紹介をしておきます。お店については以前に投稿したこちらを参照下さい。

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これらのうち何点かは既に売約済みとなっています。欲しいものがある方はなるべく早めに行って即断することをオススメします。個人的にはアーリータイムズやオールドクロウのガールなんかイチ推し。

私が行ったのが平日でないこともあったでしょうか、或いは営業時間短縮の都合で人の出入りが集約したのか、お店は思っていた以上に大盛況でした。オープンからひっきりなしにお客さんが来店して、時間帯によってはお店に入れず「待ち」の人もいるほど。駅近の繁華街ど真ん中、しかも提供価格が安価、そこに来てアーティストさん目当ての方も来るとあっては当然なのかも知れませんね。

今回、私はkazueさんご本人に同行してもらっています。そのお陰で、彼女のお祝いに駆けつけた、私個人では普段出会うことのない作家さんたちお三方と同席することにもなり、刺激的なお話しや楽しい会話を聴くことが出来ました。出会った皆さん、そしてKazueさん、ありがとうございました!

そう言えば、Kazueさんが完成したイラストを手渡しているところや、新たに似顔絵イラスト作成の依頼をされている現場を直に目の当たりにしたりもしました。お酒の美術館にちなんで、そこに飾られているような人とお酒のイラスト、具体的には依頼者本人(もしくは写真があれば他人でも可)と指定の銘柄のお酒(好きなお酒、例えばアードベッグでも山崎でも)を描いてもらえるのです。誕生日プレゼントにするという方もいました。いくつか拝見させてもらいましたが、完全にKazueさんのタッチでありながらちゃんとご本人の特徴をよく捉えたイラストになっており、これは買って嬉しいもらって嬉しいイラストだと思います。とてつもなく薄いハイボールを飲んでいる方を見かけたら、それがKazueさん本人かも知れません(作家が自らの個展に在廊するように、開催期間中はKazueさんもよくお店に出没します)。もしお店に行かれることがあり、Kazueさんを見かけたら、貴方もイラストを依頼してみるのも一興ではないでしょうか?

さて、言うまでもなくここはバーでもありますから当然お酒を注文します。私としても何かしらオールドバーボンを飲むことは目的の一つでもありました。しかし、実は当日の私は湿気にやられたのか体調が思わしくなく、残念ながら結果的に一杯しか飲めませんでした。始まりの一杯が終わりの一杯となったのです…。あとはジンジャーエールだけ飲みました。軽いものから始めようと思い選んだのは、トップ画像で分かる通りビームズ・チョイス。では、飲んだ感想を少しばかり。

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BEAM'S CHOICE Green Label 86 Proof
店員さんによると88年ボトリングとのこと。ネックに「ウイスキー特級」の表記がありますね。ラベルに「8」とありますが、「Year」はないのでNAS扱いとなります。おそらく、この頃の物は熟成年数は5年くらいなのではないでしょうか。先ず、現行ビームの特徴とされるピーナッツ(またはダンボール風味)は全く感じません。また、現在自宅で開けている90年代のブラックラベル8年と比較してもかなり異なり、熟成年数の違いにもかかわらず、こちらの方がメロウかつ濃いダークフルーツを感じました。あまり酸味もなく、好ましい要素ばかりで、86プルーフにしてはフレイヴァーも強い。ここら辺に、特級表記に拘るウィスキー通の方や、或いは88年〜92年あたりのバーボンを至高と考えるマニアの方の、好ましいと感じる点がわかり易く現れているのかも知れません。状態も良かったのだと思います。これはオススメ。
Rating:86/100

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オールド・ケンタッキーのシリーズは1988年に、バーボンのメッカであるネルソン郡バーズタウンのバーボン造り200周年を記念して発売されました。おそらく日本市場限定の製品だと思います。そのラインナップには、「スペシャル・リザーヴ(15年熟成101プルーフ)」を最高峰として、「No.88ブランド(13年熟成94プルーフ)」と「アンバー(10年熟成90プルーフ)」のような上位クラスの物から、「ケンタッキー・ドライ(5年熟成86プルーフのブレンデッド)」や「スピリット・オブ・トゥデイ(4年熟成80プルーフ)」といったエントリー・レヴェルまで、五つありました。90年前後に発行された幾つかのバーボン本によれば、88年2月に「スペシャル・リザーヴ」と「88」が発売され、89年に「アンバー」と「トゥデイ」がラインナップに加わったとされています。
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今となっては、このバーボンの情報をネットで検索しても殆ど出て来ません。そこで、バーボンのマーケティングに於ける常套句ばかりではあるのですが、首に掛かったタグに記載の紹介文を丸ごと訳しておきます。誤字と思われる箇所は勝手に修正して意味を通じ易くし、また概ね直訳ですが部分的に意訳もしました。

オールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴ
ケンタッキー州は多くのことで有名です。ブルーグラス、サラブレッドの馬、そして何よりもケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー。地下の石灰岩層を通った豊富な湧き水に恵まれたネルソン郡は、古くからケンタッキー州の蒸留酒産業の中心地でした。そしてネルソン郡の中心にあるバーズタウンは1788年に設立され、「世界のバーボン首都」として広く知られています。
バーズタウンでのバーボン製造200周年(1788〜1988)の特別な記念として、オールド・ケンタッキー・ディスティラリーはオールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴを提供することを誇りに思います。 間違いなく世界で最高のバーボン・ウィスキーです。
どのようにしてこのような良いバーボンを造ることが出来たのでしょうか? その答えは四つの要素から成ります。優れた原料、クラフトマンシップ、品質管理、そして時間。
我々は注意深く選び出した穀物とピュアなライムストーン・ウォーターという最高の素材から始めました。そして、同じ家系のマスターディスティラーが何世代にも渡り受け継いできたスキルとクラフツマンシップを駆使します。次に、些細な点まで細心の注意を払い、可能な限り最高の品質を提供できるよう生産量を厳しく制限するのです。そして最後に、この並々ならぬバーボンを焦がしたオークの新樽に貯蔵し、ゆっくりと完全に熟成するまで15年という長い歳月を待ちました。
そういう訳でお分かりでしょう。他に類を見ないブーケとテイストとキャラクターのバーボン、オールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴの物語。
だからリラックスして、寛ぎながら、ゆっくりとこの本当に格別なウィスキーを飲んでみて下さい。オールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴの楽しみは、それがケンタッキーの至高のバーボン・ウィスキーの成果、最高級の中の最高級、世界でも比類なき15年物バーボンであるという知識で更に大きくなる筈です。乾杯!
バーズタウンはまた1818年に建てられたローワン・ハウスの所在地としても有名で、ローワン家の従兄弟である著名なアメリカン・ソングライター、スティーヴン・フォスター作曲のよく知られた歌曲『ケンタッキーの我が家(My Old Kentucky Home)』で不朽の名声を与えられています。
オールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴの出荷時に使用される一時的な木製ストッパーは、ウィスキーを15年間熟成する55ガロンのチャード・オーク・バレルのストッパーとして使用される種類の本物のオーク・バングと同じです。このバングは出荷中の漏れを防ぐようにバーズタウンの蒸留所でシールドされました。
ひとたびオールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴが貴方の家に到着したら、バングは付属してある永続的なクリスタル・ストッパーと交換することが出来ます。その後は、液漏れを防ぐためデカンターを垂直にしておく必要があります。

オールド・ケンタッキーのシリーズで頂点となるスペシャル・リザーヴ15年は、パッケージも中身のプレミアム感を倍増させるように豪華でした。液体が入ったデカンターは重厚な造りで凄く重みがあります。上掲のハングタグにストッパーがクリスタルとあるので、本体のほうも流石にクリスタル製でしょう(※追記あり)。更に外装はオルゴール付の木箱の物と、紙箱の物の2パターンありました。
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(紙箱版。写真提供K氏)

私の手持ちの木箱のオルゴールはゼンマイが壊れてるのか錆びてるのか動きませんでした。本来はハングタグでも言及されているスティーヴン・フォスターの『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』が鳴ります。皆さんにお聴かせしたかったのですが、そういう訳にもいかないので、代わりに同曲のユーチューブ・リンクを貼っておきます。このバーボンを飲むなら、今宵の一曲はこれしかありません。同曲には数多の演奏と歌唱があり、私もユーチューブで数十曲は聴いてみましたが、このヴァージョンが最も好みでした。



My Old Kentucky Home
マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム

The sun shines bright in the old Kentucky Home
太陽は燦然と輝く古きケンタッキーの家に
'Tis summer, the darkies are gay
夏が来て、はしゃぐ黒人たち
The corn top's ripe and the meadow's in the bloom
トウモロコシの穂先は熟し、牧草は生い茂り
While the birds make music all the day
鳥たちは音楽を囀る日がな一日

The young folks roll on the little cabin floor
若者たちは小さなキャビンの床を転がる
All merry, all happy, and bright
皆んな陽気に、愉快に、活発に
By'n by hard times comes a-knocking at the door
もうすぐ辛い時がやって来てドアをノックする
Then my old Kentucky Home, good-night
そうしたら我が古きケンタッキーの家に、さよならだ

Chorus
Weep no more, my lady
もう泣かないで、愛しき人よ
Oh weep no more today
おぉ、もう泣かないで今日は
We will sing one song for the old Kentucky Home
我らは一曲歌おう懐かしきケンタッキーの家のために
For the old Kentucky Home, far away
懐かしきケンタッキーの家のために、遥か遠くの

They hunt no more for the 'possum and the coon
彼らはもう狩らないオポッサムもアライグマも
On the meadow, the hill and the shore
草っ原でも、丘でも岸辺でも
They sing no more by the glimmer of the moon
彼らはもう歌わない朧な月明かりのもとでも
On the bench by the old cabin door
古いキャビンのドアそばのベンチでも

The day goes by, like a shadow o'er the heart
一日が過ぎ行く、影が心を覆うように
With sorrow where all was delight
喜びあるところ悲しみもあった
The time has come when the darkies have to part
時は来た黒人たちが別れねばならない時が
Then my old Kentucky Home, good-night
そうしたら我が古きケンタッキーの家に、さよならだ

Chorus

The head must bow and the back will have to bend
頭を下げてお辞儀して背中を曲げなきゃならん
Wherever the darkey may go
黒人はどこへ行くにも
A few more days and the trouble all will end
何日かしたら厄介事は全て終わり
In the field where the sugar canes grow
砂糖黍の実る畑での

A few more days for to tote the weary load
何日かしたらうんざりする重荷を運ばなくては
No matter, 'twill never be light
なんて事ない、決して軽くはないけれど
A few more days till we totter on the road
何日かしたらついに我らは道路でよろよろしてる
Then my old Kentucky Home, good-night
そうしたら我が古きケンタッキーの家に、さよならだ

Chorus


『ケンタッキーの我が家』もしくは『懐かしきケンタッキーの我が家』との邦題で知られるこの曲は、日本でもどこかしらでよく流れているので、殆どの日本人がメロディだけなら確実に知っていると思います。ケンタッキー・フライド・チキンのCMで使われたりしたことで広まったでしょうか。スティーヴン・フォスター作詞作曲によるこの曲はケンタッキー州の州歌として1928年から採用され、曲のファースト・ヴァースとコーラスはアメリカで最も長く継続的に開催されているスポーツ・イベントのケンタッキー・ダービーでルイヴィル大学のマーチング・バンドの演奏に合わせて会場に集まった観客全員で斉唱する伝統があります。ルイヴィル大学マーチング・バンドは1936年以来、数年を除いてこの曲を演奏して来ました。チャーチル・ダウンズで歌っているのは主に裕福な白人の観客であり、ファースト・ヴァースとコーラスのみに限れば、古き良き南部に対するロマンチックな郷愁や家を失った悲しみの個人的な共感を喚起するのかも知れません。我々日本人にしても、カントリーのアレンジや童謡としてこの曲を聴くと、どことなく陽気な印象を受けるか、「懐かしき」のタイトルやメロディに引っ張られて郷愁や懐かしさを感じるのではないでしょうか。しかし、曲を聞き進めると歌詞は南部讃歌どころか、実は家族と強制的に引き離された奴隷の嘆きであることに気付かされます。夫と妻、親と子を遠ざけた奴隷制への非難が根底にある切ない哀歌に聴こえて来るのです。

ペンシルヴェニア生まれのスティーヴン・コリンズ・フォスター(1826年―1864年)は、曲を演奏するのではなく作曲することで生計を立てようと試み、そして暫くの間成功したアメリカで最初のプロのソングライターでした。フォスター自身はいわゆる奴隷制廃止論者ではなかったようですが、「同調者」程度には看做されていた可能性はあります。1852年の3月に出版された奴隷制廃止論者ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』はケンタッキー州の奴隷の窮状について書かれました。フォスターはこの小説に大いに影響を受け、後の作品のトーンを変えたとされます。さっそく彼はストウの小説に触発された歌詞を書き上げました。その作品は最初「プア・オールド・アンクル・トム、グッド・ナイト!」と名付けられましたが、最終的にはストウの小説への言及を削除し、名前を「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム、グッド・ナイト!」に変更します。おそらくストウの小説と同年の1852年頃に作詞作曲されたと見られ、1853年1月にニューヨークのファース, ポンド&カンパニーから出版されました。「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム、グッド・ナイト!」は急速に人気を博し、あっという間に数千部を売り上げたと言います。曲の意味は当初から争われていたらしいですが、家を失うというノスタルジックなテーマは多くの人々の共感を呼び、奴隷制廃止運動の一部からも支持を受けました。この曲は南北戦争中も人気を保っていたとされ、同曲がアメリカ全土に普及し人気を博したのは、戦争中に兵士たちがこの曲を場所から場所へと伝えたからだと考えられています。19世紀を通して人気があったこの歌のタイトルの縮小、「グッド・ナイト!」の脱落は世紀の変わり目に起こったそうです。
20世紀に入り、フォスターが亡くなって数十年を経て奴隷制度が非合法化されてからも『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』はミンストレル・ショーの白人観客の間で人気がありました。しかし、歌詞の最も悲痛な部分は省略されることが多かったと言います。或いは歌詞中のアフリカン・アメリカンへの差別用語だった「darkies」は、「everyone」や「children」や「friends」に置き換えられたようです。直にこの曲はケンタッキー州の観光の賛歌となり、1904年のセントルイス万国博覧会で1万部の楽譜が配布されました。曲が本来持っていた反奴隷制の意味合いが薄れて行くと、当然のことながら演奏に対する反対意見が出て来ました。1916年にボストンのNAACPは『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』を含む「プランテーション・メロディー」を公立学校で禁止することに成功し、1921年にはケンタッキー出身の黒人詩人ジョセフ・コッターが黒人の社会的進歩を強調した新しい歌詞を提案したりもしました。いつしかこの曲はケンタッキー州のシンボルとして扱われ出します。しかし時はまだ、人種差別的なジム・クロウ法の真っ只中。白人至上主義者の力が強化された時期でもありました。この時期、ケンタッキー州の多くの著名な白人の議員やジャーナリストやビジネスマンは、歌に描かれていた動産奴隷の歴史を覆い隠し、フォスターの歌をアンテベラムに於けるケンタッキーのロマンティックなイメージの象徴として採用するようになったとされています。そして1928年、ケンタッキー州議会はこの曲を「文明社会の中でケンタッキーを不滅のものにした」として公式の州歌にするのでした。
その後、1986年に一つの変更が加えられ現在に至ります。同年3月11日、訪米中の仙台キリスト教育児院の生徒達がケンタッキー州議会を訪れ、「darkies」という言葉を使用したオリジナルの歌詞で州歌を唱し、黒人議員を驚かせました。それが原因なのでしょうか、州議会によって州歌としての『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』の歌詞は「darkies 」の代わりに「people」を使う決議案が採択されました。この曲は過去1世紀を通じて少なくない改訂や更新が行われましたが、だからこそアメリカ文化に影響を与える楽曲であり続け、その文化に深く根付き、アメリカの作詞作曲の進化に於いて重要な役割を果たしたと評されるのでしょう。今日でも『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』は世界中で演奏されています。そしてケンタッキアンでないバーボン飲みにとっても、この曲が特別な一曲であるのは言を俟ちません。

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ハングタグでも触れられているように、フォスターの遠い親戚でケンタッキーの政治家ジョン・ローワンの邸宅が一般的にはこの「我が家」のモデルとされています。1795年に建設され始め1818年に完成したという歴史的な7501平方フィートの邸宅と周囲1200エーカーの農場は、邸宅が建設された時分、家に名前を付けるというイギリスの習慣を受け、現在では存在しない政党である連邦党に敬意を表して元々は「フェデラル・ヒル」と名付けられました。ローワンが所有していた時代には、この邸宅は地元の政治家たちの集会場となり、何人もの来賓を迎えたと言います。アメリカ全土で楽曲の人気が高まった後、フェデラル・ヒルはケンタッキー州に購入され史跡として指定されると、1923年7月4日に「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」へと改名されました。スペシャル・リザーヴ15年のラベルに描かれているのがフェデラル・ヒルと言われるジョン・ローワンのマンション、即ち「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」でしょう。ちなみに同じウィレット蒸留所のリリースしているローワンズクリーク・バーボンの名前の由来の小川も彼にちなんで名付けられています。
フォスターの歌にはジョン・ローワンのプランテーションを訪れた時のケンタッキーのイメージが明確に含まれているという説があります。フォスターの兄弟モリソンは1898年の手紙の中で、スティーヴンがフェデラル・ヒルを「時々訪れていた」と述べたとか。しかし、『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』が作曲された頃にフォスターがこの農園を訪れていたことを示す現代的な証拠はなく、曲中のどこにもフェデラル・ヒルを特定する目印は含まれていません。有名な曲とフェデラル・ヒルとを繋ぐ伝説にも拘らず、おそらくフォスターはこの場所を訪れたことはなく、ジョン・タスカー・ハワード、ウィリアム・オースティン、ケン・エマーソン、ジョアン・オコンネルなどの伝記作家達は曲との関係について異議を唱えているとされ、なんなら「ケンタッキー」の名称の採用は語呂の良さで選んだのではないかとする説もあるそうです。

さて、そろそろ肝心の中身について。オールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴ15年はKBDによりボトリングされました。リリース時期と熟成年数から考えると、おそらくは旧ウィレット原酒で間違いないでしょう。これ以上の情報は語るほどはなく、判明しているのは最低15年熟成されチャコール・フィルターを通過した(紙箱に記載)101プルーフのバーボンということだけ。しかし、SNS上でオールド・ケンタッキーは小麦バーボンと言っている人を見かけました。小麦バーボンだとしたら、おそらくシリーズ中、このスペシャル・リザーヴ15年とNo.88ブランド13年だけではないかと思いますが、どうでしょう? まさかアンバーも? 誰か仔細ご存知の方はコメントよりご教示下さい。
また、よく分からないのがリリースされた期間です。No.88ブランドはボトル形状と色の違う物が3種類あり、ある程度の期間流通していた気がしますが、スペシャル・リザーヴは一回限り、もしくは多くて二回くらいしかリリースされていないのではないかという印象があります。つまり88年だけか、或いは88年と89年だけとか? こちらも正確に把握している方がいましたらコメントを頂けると助かります。
では、この余りにもケンタッキーの刻印が深く余りにもバーズタウンらしさに溢れるバーボンを注ぐとしましょう。

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OLD KENTUCKY SPECIAL RESERVE 15 Year 101 Proof
推定1988年ボトリング。ほぼダークレッドと言っていいようなブラウン。濃密なキャラメル、ヴァニラ→メープルシロップ、古い木箱、メロンぽい接着剤、薬用歯磨き粉、炭、お婆ちゃんのスパイスキャビネット、黒糖、栄養ドリンク、タバコ。少しカビっぽく官能的な甘いアロマ。比較的ゆるい口当たり。パレートはオレンジゼストと渋柿。液体を飲み込んだ直後はハービー。余韻はメロンクリームソーダぽい甘味が感じられるが、それは思うよりあっさりと退いて行き、長熟らしい渋味が口蓋全体に残りつつ、オールドバーボンらしいオーク香が鼻腔に長く残る。
Rating:91.5/100

Thought:長熟バーボンはバレルに入っている期間が長いためウッディさが勝ち過ぎて甘味を感じにくい弱点があります。しかし、このバーボンは強い甘味を保ちながらタンニンの渋味とギリギリのところで調和し、ハーバルな風味もする長熟バーボン好きには堪らない逸品だと思います。個人的にはバーボンに渋みを欲しないので、決して好きな傾向の味わいではないのですが、これはこれで上手く熟成しているとは思いました。特に強烈なキャラメル香はハイライトであり、ほぼ満点です。味わいも渋みはあっても鋭い苦味のない点は良かったです。
で、件の小麦バーボンかどうかですが、これ単体で飲んでいる時点では正直分かりませんでした。口当たりと穏やかなスパイス感にそれっぽさを感じたくらいです。そこで比較のため、同じくKBDがボトリングしている長熟バーボンの一つ「オールド・ディスティラーズ・スペシャル・リザーヴ15年」をサイド・バイ・サイドで試飲してみました。すると全然違いました。まず香りはオールド・ケンタッキーの方が断然スイートなアロマです。そして味わいはかなり異り、オールド・ディスティラーズにはオールド・ケンタッキーにないライ・キックや爽やかなフルーツを感じたのです。あと、オールド・ディスティラーズの方が渋みもなく余韻はスッキリしており、なんとなく熟成が少し若そうな印象を持ちました。勿論、これは飽くまで個人的な感想であって「答え」ではありません。それに、たった二種類での比較に過ぎませんし、オールドボトル故のコンディションの差もあるでしょう。けれど、それらを差し引いても、オールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴ小麦バーボン説は私には信憑性が高いような気がします。また、もしやオールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴには15年以上の熟成古酒が含まれてるのではないか、なんて妄想もしてみたり…。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? どしどし感想をコメントよりお寄せ下さい。
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Value:発売当時は20000円の小売価格でしたが、現在のオークション相場は10万円を超えています。15万近くで落札されてるのも見かけました。ウィレット蒸留所の人気が上がるにつれ、旧来のKBDがボトリングして日本へ輸出していたバーボンは、二次流通市場で年々高騰しているのです。もはや一部の奇特な人以外には手が出しにくいバーボンの一つがオールド・ケンタッキー・スペシャル・リザーヴでしょう。バーで見かけたら飲んでみるのをオススメします。


追記:記事を書き上げた後にフランス製のクリスタル・デカンターと判明しました。

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(画像提供Bar FIVE様)

こちらは大宮Bar FIVEの会員限定ウイスキークラブにて提供された一つで、ハーフショットでの試飲。当方のリクエストに応えて頂いたかたちとなります。マスターの心意気に感謝しかありません。ありがとうございました!

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Maker's Mark Old Style Sour Mash 90 Proof
推定78年ボトリング。酸のあるヴァニラ香、バタークッキー、薄いキャメル、オレンジ、オールドファンク、薬草、ブラックコーヒー、キンモクセイ。如何にもオールドバーボンらしい香り。口当たりは水っぽい。味わいは香りほど甘くなく、ややスパイシーかつビター。余韻は基本的にはミディアム・ロングだが、後々まで穏やかなスパイスとほろ苦さが鼻腔に残る。アロマがハイライト。

60年代後半や70年代前半のメーカーズマークをブラインド・テイスティングでその年代のスティッツェル=ウェラーと判別するのは難しいだろう、と言う人もいます。で、今回のボトルは推定70年代後半の物。それなりに期待が高まります。私に判別出来るかどうかは偖て措き、個人的な印象としてはS-Wほどのアロマや油性の口当たりは感じられず、味わいも少しフラットのような…。一応、現行のメーカーズマークともサイド・バイ・サイドで飲み較べて見ました。ベースとなるもののムードはかなり似つつも、オールドの方が香りの強さやスパイスの複雑さがあり、アルコールの尖りも感じにくいのは確か。ですが、原材料や樽材や熟成の違い以前にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎていて、較べること自体に意味がないようにも感じました。皆さんは古いメーカーズやオールドボトルに対しどのような意見を持つでしょう? どしどしコメントお寄せ下さい。
Rating:84/100

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Branton Distilling Company KENTUCKY STRAIGHT  BOURBON WHISKEY 93 Proof
Dumped on 5/28/87
Barrel No. 639
Warehouse H on Rick No. 30
今回もバー飲み投稿。この度お邪魔したフストカーレンさんはブラントンズの年代別の取り揃えが多いのを知っていたので、87年ボトリングの物をリクエストしました。マスターが87年をお気に入りと聞いていたのです。その理由はここでは書きませんので気になる方は店に伺った際、直接訊いてみて下さい。開封済みの87年は少し前に飲み干されたそうで、新たなストックを開封して頂きました。
開栓直後のせいか、始めはアロマが立ちませんでしたけど、時間をおくと徐々に開いてきました。焦樽やキャラメルと共に湿った木材調のオールド・ファンクもあります。きっと、もう少し時間をかけると風味は濃密になるのではないかという予想。今後に期待ですね。ブラントンズは比較的液面が低下しやすいバーボンというかコルク栓という印象がありますが、このボトルもそれなりに低下していました。写真のボトルの液面はハーフショットを注いだのみです。けれど特に劣化はなく感じました。
そもそもブラントンズはシングルバレルなので味の一貫性は問われないし、オールドボトルゆえのコンディションの差もあるだろうし、なにより私自身それほどブラントンズの経験値がある訳でもないのですが、基本的に90年代の物より80年代の物の方がオーキーな傾向にあるような気がします。熟成年数が長そうな深みのある味わいと言うか…。ブラントンズのマニアの方はどう思われるでしょう? コメントよりご意見どしどしお寄せ下さい。
Rating:87/100

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