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現在では多くのクラフト・ディスティラリーの勃興を見るテネシーウィスキー・シーンですが、一昔前はたった二つの蒸留所しかありませんでした。一つは言わずと知れたムーア・カウンティのジャック・ダニエル蒸留所、もう一つがタラホーマ近くのコフィー・カウンティに位置するジョージ・ディッケル蒸留所です。現在、ジョージディッケルを所有するのは泣く子も黙る酒類業界の巨人ディアジオ。そのブランド・リストの中では、ジョニー・ウォーカー、キャプテン・モルガン、スミノフのような超メジャー銘柄と較べれば、近年知名度を上げたとは言え、ディッケルはまだ小さなブランドでしょう。しかし、その歴史と変遷は大変興味深く、上に挙げた英雄的ブランドや世界でトップクラスの売上を誇るジャックダニエルズにも勝るとも劣らないものがあります。そこで今回は、日本ではあまり語られることのないジョージディッケルとその前身であるカスケイド・ウィスキーの歴史を紹介してみたいと思います。

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酒名となっている人物、ジョージ・アダム・ディッケル(1818年2月2日―1894年6月11日)は、エリザベス・ディッケルの婚姻外の子としてドイツのグリュンベルクで生まれました(ダルムシュタットという説もあった)。彼の父親はマルクトハイデンフェルトに住んでいたアントン・フィッシャーであったとされています。父親方の家族は、彼の叔父をゴッドファーザーとして立たせることによって間接的に認知したようで、名前は叔父のジョージ・アダム・フィッシャーにちなんで名付けられました。アントンの父親、アダム・フィッシャーは、ワイン樽を専門とするヴュルツブルク地域のマスター・クーパーだったと言います。ジョージ・ディッケルの幼年期の生活はよく分かりません。なので一気にアメリカでのサクセス・ストーリーへと飛びましょう。

1844年、ディッケルは26歳の時アメリカへ入国しました。そして1847年には後の活躍の舞台となるナッシュヴィルに移住します。1850年代半ばまでに、ディッケルはナッシュヴィルのユニオン・ストリートで靴とブーツの製造業を営み生計を立てていました。このビジネスは彼を忙しくさせ、1860年頃まで仕事を続けましたが、それは運命づけられた商売ではありませんでした。この間、彼は会社の後輩だった二十歳のオーガスタ・バンザーと結婚しています。彼女は抜け目のないビジネスウーマンであり、財務に長けていたとされ、会社の経理でも担当していたのかも知れません。ディッケルは1861年に酒類の販売を始めました。多くの成功した商売人のように、酒類以外に衣料品、家庭用品、食料品などの小売業もやっていたようです。

南北戦争時、1862年に北軍の兵士がナッシュヴィルを占領し、酒の販売を禁止すると密輸が横行しました。おそらくディッケルはナッシュヴィルの「ヤンキー」占領期間中(1862―65)、密輸業者であったと見られます。もっと言うと、影のボス的な存在だった可能性も否定出来ません。個人的な記録を殆ど残さず、性格が伝わるようなエピソードのないディッケルはミステリアスな男でした。彼は明らかに匿名性を求めたとされ、ビジネス取引ではバックグラウンドで動作することが好ましいと考えていたようです。それは出生やこの時期の商売と無関係とは思えず、危害から身を守る知恵だったのかも。それはともかく、占領後にディッケルらがリカー・ビジネスを設立し繁栄させた資本金は、この密輸活動から来たと考えられます。
ディッケルと戦時の密輸を結びつける直接的な証拠はありませんでしたが、ディッケルが長い間付き合っていたユダヤ系アルザス=ロレーヌ移民のシュワブ家は、ナッシュヴィルの違法ウィスキー取引に深く関わっていました。1859年以来ディッケルのビジネス・アソシエイトであったエイブラム・シュワブの義理の息子マイヤー・ザルツコッター(1822―1891)は大量の密輸酒を所持して北軍当局に捕まっています。ザルツコッターは、シュワブと合法でも非合法でも商売をしており、エイブラムの娘であるセシリアと結婚していました。ディッケル、エイブラム・シュワブ、ザルツコッターの3人はノックスヴィルとナッシュヴィルで様々な種類のビジネスを共にしたと言います。エイブラムの息子ヴィクター(1847―1924)も父親の足跡を辿りました。ヴィクターは当局を混乱させるために、青年時代に名前を何度も変えたらしい。彼ら全員が北軍の占領を回避するために出来ることをする善良な南部人だったので、少なくとも彼らの共同体の中での評判は悪くなかったようです。
ザルツコッターは下部を偽装したワゴンを使用して北軍の封鎖を通り抜け、禁止品を密輸して捕まると、有罪判決を受けてセントルイス近くのイリノイ州アルトンの軍事刑務所に入ります。彼は、姻戚が自分にウィスキーを負わせたのだ、と主張しましたが通用せず投獄されました。彼が妻の許を離れている間に、彼女(ヴィクターの姉セシリア)はルイヴィルへと逃れ、そこで売春婦になったそうです。彼は釈放されると、妻と離婚しました。ザルツコッターは1891年の死までディッケルと行動を共にします。

戦争が1865年に終わった時、ディッケルはサウス・カレッジ・ストリートに酒屋を持ち、それは市内最大の酒屋の1つでした。店舗は翌年までにサウス・マーケット・ストリートのより大きな場所に引っ越します。更にビジネスが成長し続けるにつれて、彼らは3年間で3回目の移転までしました。
ディッケルは1866年頃からウィスキー事業に参入し始め、マイヤー・ザルツコッターを監督として、その元義兄弟であるヴィクター・エマニュエル・シュワブをブックキーパーとして雇います。彼らは地元の蒸留所からウィスキーを購入して、彼ら自身のラベルのために最も円やかで最も優れたスピリットだけを選ぶことですぐに評判を得ました。この頃シュワブは、アメリカ化するために自らの姓から「c」を落としてクリスチャン教会に加わります(SchwabからShwabへ)。1867年、ディッケルはウイスキーをブレンドし始め、ライセンスなしで酒を整流(レクティファイング)したとして逮捕され、連邦裁判所で告発されましたが、これらの告訴にも拘わらず、ディケルの酒類小売は成功し続けました。そして1870年までに(1868年とする情報もあった)、ディッケルはノース・マーケット・ストリートに本社を置く酒類卸売会社、ジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーを結成します。当時の酒類卸売業者の典型的な例として、同社はこの地域の蒸留所から直接ウィスキーを購入し、それを樽やジャグ、または瓶で売っていました。それに加えて、ナッシュヴィル・エリアのブリュワーからエールとラガーを仕入れ、またワインやブランディも販売しています。更に同社はナッシュヴィルで直接酒を輸入した最初の企業の1つであり、スコットランドとアイルランドのウィスキー、オランダのジン、シャンペイン等も取り扱っていました。1875年の広告では、自社の特産品を「カッパー・ディスティルド・サワー・マッシュ・ウィスキー」や輸入シャンペインと表記し、全国に出荷致します、と記載しています。1871年に、ザルツコッターはディッケル・カンパニーのパートナーに昇格し、ヴィクター・シュワブはディッケルの妻オーガスタの妹エマ・バンザーと結婚しました。
1874年3月17日、マーケット・ストリートに火災が発生し、ディケル・カンパニーの本社は丸焦げになり、6万ドル相当のウィスキーで満たされた大きな倉庫も焼失します。1881年5月に起きた別の火災でも倉庫を焼失し、会社は75,000ドルの損失を被りました(ただし部分的に保険が掛けられていた)。この2回目の火災についての報道では、或る新聞はディッケルを「グレート・ウィスキー・ディーラー」と表現しています。ちなみに1882年、ディッケル・カンパニーはマーケット・ストリートに新たな5階建ての本社を建てました。この建物は今もまだナッシュヴィルの201〜203セカンド・アヴェニューに立っているとか。

さて、ここまでの話で分かるように、ジョージ・ディッケルは、一言で言えば成功を収めたドイツ生まれのアメリカ人実業家でした。1771年のエヴァン・シェルビーによるサリヴァン郡のイースト・テネシー蒸留所の設立から始まり、1900年代初頭の禁酒法の開始まで、ウィスキーの製造と販売はテネシー州の重要な産業でしたが、彼の卸売会社は流通とマーケティングにおいて重要な役割を果たしたと言えるでしょう。しかし、ディッケル自身はウィスキー・ビジネスマンであって、ディスティラーではありませんでした。
現在ジョージディッケルのブランドを所有するディアジオや、その前時代に所有していたシェンリーのような親会社から語られる歴史は、マーケティング・ツールとして用意されたものが殆どです。それゆえ誤解を招きがちなのですが、ディッケルはタラホーマ近くのウィスキー造りに最適な場所を発見して蒸留所を創設したのでもなければ、レシピをはじめとする諸々の製造法を完成させたのでもなく、彼の統制下の会社は蒸留所を所有したこともありませんでした。更にディッケルはカスケイド・ホロウを訪れたことすらありそうもなく、なんならウィスキーを一滴も飲まなかったとさえ言われています。タラホーマはディッケルの本拠地だったナッシュヴィルから約80マイルであり、彼の時代には近いとは言い難い距離でした。今日でも州間高速道路で片道約90分の道のりです。
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ディッケルがしたのは、ディスティラーから直接ウィスキーを樽で買い付け、ナッシュヴィルで瓶詰めして包装し、独自のウィスキーとして売ったこと。また彼ら卸売業者の多くは、異なるウィスキーをブレンドし、アルコール度数や風味を調整するためレクティファイヤーとも言われます。それは今日、我々がNDP(非蒸留業者)と呼んでいるものでした。

おそらくジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーの最も印象的で長続きした業績は、小さな町ノーマンディ近くのコフィー郡にある蒸留所で生産された非常に素晴らしいウィスキーの発見と宣伝でした。往時、テネシー・サワーマッシュ・ウィスキーの生産で最も有名な郡は、ロバートソン郡とリンカーン郡で、リンカーン郡の一部は後にムーア郡となり、ジャック・ダニエル蒸留所の所在地(リンチバーグ)として知られていますが、隣接するコフィー郡にもいくつかの蒸留所があったようです。当時カスケイド・ホロウ蒸留所として知られていたものは、1877年にジョン・F・ブラウンとF・E・カニングハムによって設立されました。この蒸留所の例外的なウィスキーの品質の多くは、使用されるカスケイド・スプリングスの水が優れていたことに起因しているとされます。いつの頃からか不明ですが、ディッケル・カンパニーはタラホーマ近くのカスケイド・ホロウ蒸留所で生産されるウィスキーを配給し始め、同蒸留所の最大の買い手になったと思われます。多くの量産品と同様に、同社は独自のラベルを付けることで他の競合製品と差別化しました。ラベル中央にはカッパースティルが描かれ、「GEO. A. DICKEL & CO.」、続いて「CASCADE DISTILLERY」と記載されています。そして伝説によればディッケルは、自分のウィスキーは世界最高級のスコッチと同程度であると信じていたので、ラベルには伝統的なスコットランドと同じ「e」なしの「Whisky」を採用しました。それは今日まで、そのように綴られる一握りのアメリカン・ウィスキーの1つのままです。

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1879年、地元のビジネスマンであるマシュー・シムズがブラウンの株を買い取りました。1883年になると、もう一人のビジネスマン、マクリン・ヘゼカイア・デイヴィス(1852―1898)がこの蒸留所の操業に参加し、多分今で言うところのマスター・ディスティラーとなって、ウィスキーの品質を大幅に向上させる数多くの革新的技術を導入したと言います。カスケイド・ウィスキーのレシピを造ったのも彼と見られ、後の広告に登場する
「Mellow as Moonlight(月光の如くメロウ)」というフレーズもマクリンが夜間にマッシュを冷やした方法に基づいていました。ウィスキー自体の成功に最も責任を負う人物であると思われるマクリン・デイヴィスは、カスケイド蒸留所の一部の所有権者でもあり、彼の息子の一人はヴィクター・シュワブの娘の一人と結婚したという点で、彼とシュワブ・ファミリーは明らかに親密な関係にありました。

1886年にディッケルは乗馬事故で酷いダメージを受け、その損傷は決して完全には回復せず、彼がしていた多くのことを続けるのが困難になりました。ディッケルの健康状態が低下するにつれて、義理の弟であるシュワブは会社の日常業務を徐々に引き継ぎます。
1890年代初頭までに、カスケイド・ウィスキーはこの地域で最も人気のあるブランドの一つとなり、既に1881年にディッケル・カンパニーのフル・パートナーとなっていたシュワブはその人気を認め、1888年にシムズの持っていた株を購入し、カスケイド・ホロウ蒸留所の2/3の所有権を取得しました。この購入の一環として、ディッケル・カンパニーはカスケイド・ウィスキーの唯一の販売代理店となります。同年、ザルツコッターが体調不良のためウィスキー事業を終了しました。

同じ頃、ディッケル・カンパニーのもう一つの重要な事業が始まっています。それはサルーンの経営です。誰の発案か分かりませんが(シュワブ?)、同社は自社の取り扱い製品の需要を創出するため、1887年、有名なマクスウェル・ハウス・ホテルの近く、ナッシュヴィル最高のエンターテインメント地区にザ・クライマックス・サルーンをオープンしました。同社はこのサルーンをカスケイド・ウィスキーの「本部」として宣伝しています。そこで提供する娯楽は酒、ギャンブル、売春など。つまりはバー、ギャンブリング・ホール、売春宿の複合施設だったクライマックスは、ジェントルマンズ・クォーターもしくはメンズ・クォーターとして知られるエリアのプリンターズ・アレーに隣接する210チェリー・ストリート(現在の4thアベニュー・ノース)にありました。ドアの上に彫刻された四体の天使はサルーンへの訪問者を迎え、1階と地下はカンカン・ダンサーやその他のエンターテイメントが行われる劇場とサルーン・バー、2階にはバーとギャンブル目的で使用されるプール・テーブルがあり、3階は売春用のベッドルームという造りになっていました。3階でサービスを提供するガールズは階段に沿って立ち、男どもは階段を昇りながら相手を選んだと言います。ベッドルームには部屋を仕切る偽の壁パネルがあり、そこで働くガールズが警察からの急な襲撃の際に身を隠す場所となっていたとか。
1880年代後半から1914年まで、「紳士街」はサルーンや男性の関心に応えるアダルトでエロティックなビジネスが密集している地域でした。当時の自尊心のあるヴィクトリア朝の女性が通りを歩くことを拒否した場所であり、自分の評判を重視する女性はこのブロックに進出することはなかったそうです。「紳士街」の発達は、当時のいくつかの理想的な状況によるものでした。そうした歓楽街に欠かせない男性顧客の絶え間ない豊富な供給はその一つでしょう。それは、近くのオフィスビルからの弁護士や隣接するマクスウェル・ハウス・ホテルからの旅行ビジネスマンだったり、近くのカンバーランド・リヴァーからの建設労働者やリヴァーボートの乗組員たちです。また地元の警察による緩い取り締まりというお決まりのパターンも要因の一つでした。ナッシュヴィルの警察は「紳士の宿舎」で起きている違法行為を非常によく知っており、時折の摘発が行われましたが、それは名目上の罰金のみを課したに過ぎなかったようです。そして人気のあるテネシーウィスキーの蒸留所による支援もまた、その成長に重要な役割を果たしました。ディッケル・カンパニーはクライマックス・サルーンの運営の他に、建築家ジュリアン・ツウィッカーによって設計され、1893年に建てられたシルヴァー・ダラー・サルーンもヴィクター・シュワブが管理を支援していました。更にあのジャック・ダニエルも伝説によれば、チェリー・ストリートの全てのサルーンを訪れ、そこにいた全員にジャックダニエルズ・ウィスキーをおごったと言われています。各サルーンにはフォロワーが詰めかけ、彼らは次の場所で行われるおごり目当てにジャックを追い掛けて行ったのだとか。
紳士街で男達は、髪を切り髭を剃り、新しいスーツを買い、その頃トレンドになったランチを嗜み、サルーンでは酒を楽しんだり、時にはギャンブルや売春などのよりスキャンダルで違法な活動に参加したりしました。今より厳格なモラリティのあった社会的ルールの時代に、クライマックス・サルーンやその他のプリンターズ・アレーの施設の多くは、男性が非難がましい裁きを下されずに飲酒やギャンブル、或いはいわゆる醜態を晒せる場所だったのです。1914年にクライマックス・サルーンが最終的に閉鎖されるまでの数年間、地元の教会はアルコール消費とチェリー・ストリートの売春宿とサルーンの罪深さを説いて回りました。成長している全国的な禁酒運動がテネシー州でも定着し、一連の法律が最終的に州内の全てのサルーンを閉鎖してしまいます。プリンターズ・アレーとその周辺地域には違法なスピークイージーズのみが残りました。

さて、ここらでディッケル・カンパニーの本道へと話を戻しましょう。ジョージ・ディッケルの落馬事故には先に触れましたが、彼の健康は人生の最後の2年間で急速に減退し、1894年6月11日、ついに帰らぬ人となり、ナッシュヴィルのマウント・オリベット墓地に埋葬されました。ディッケルは成功した酒類事業以外でもナッシュヴィルに貢献していたようです。彼は都市のすぐ外にあるディッカーソン・パイクの家に住み、そこで大きな梨の果樹園を経営していました。また、ボランティア消防士をしていたり、1852年にはマスター・メイソンになったとか、テンプル騎士団のメンバーでもあったと伝えられます。他にも、写真家でありドイツ系アメリカ人仲間のカール・ジアースの1874年の州議会入りを支持したとか。カールはディッケルのよく知られた肖像写真の撮影者でした。おそらくディッケルは成功した実業家として、移民コミュニティや地域の活性化を助けたものと想像します。
ディッケルが亡くなった後、彼の妻オーガスタとパートナーのシュワブは会社を相続しました。オーガスタは生前のディッケルから、最初の有利な機会に事業を売却するよう指示を受けていましたが、彼女は売却を拒否し、シュワブと事業のシェアを保つことを選びました。しかし、彼女は会社の活動、蒸留所の経営やサルーンの運営や卸売業務の一部には積極的に参加せず、お金と時間はあったので、ミシガン州チャールボイにある夏用別荘やヨーロッパへの年間旅行などに出掛けて晩年を過ごします。今まで触れていませんでしたが、そもそも「Geo. A. Dickel & Co.」の「A」はオーガスタの略と思われ、彼女は会社の財務主任でもありました。1916年にオーガスタが亡くなった時、子供のいない彼女は会社の所有権をシュワブに託しました。裁判所の記録によると、彼女は非常にお金持ちだったようで、100万ドル(今日の2500万ドル)相当の株式、債券、証券をシュワブと甥と姪に残したそうです。この時にシュワブは蒸留所の所有権に加えて会社の完全な支配権を引き受けましたが、ジョージ・A・ディッケルのカスケイド・ウィスキーというブランドは知れ渡っていたので名前の変更は行いませんでした。 もし、この時ブランド名が変えられていたら、我々が今日飲んでいる「ジョージディッケル」は「ヴィクターシュワブ」になっていたかも知れません。

オーガスタの死と話は前後してしまいますが、1898年にはディスティラーのマクリン・デイヴィスの早すぎる死(45歳)がありました。マクリンの死後、息子のノーマン・デイヴィス(1878―1944)が一時的に蒸留所を運営したものの、運営権のマジョリティ・オーナーであるシュワブに訴えられ、その持分を売却することを強いられたと言います。先にちらっとだけ触れておいたのですが、マクリンの息子のうちポールはヴィクター・シュワブとエマ・バンザーの娘と結婚していますから、義理の息子の兄弟と争った訳です。ちなみにノーマン・デイヴィスは一流のビジネスマン、外交官として知られ、バーボン・マニア以外には父親マクリンやシュワブより有名な人物です。若い頃、1902年から1917年の間、キューバにおいて金融取引と砂糖交易を行い、数百万ドルと言われる財を築き、トラスト・カンパニー・オブ・キューバの社長を務めました。後に転じてウッドロー・ウィルソン大統領の財務次官補(1919年から1920年)や国務次官補(1920年から1921年)を歴任し、更にアメリカ赤十字と国際赤十字でも会長に就任しています。

デイヴィス家の3分の1のシェアを手に入れたシュワブは蒸留所の単独所有者となり、これでカスケイド・ウィスキーの供給経路と流通経路の両方を固めることが出来ました。また、カスケイド・ウィスキーは米西戦争(1898年)中の兵士に非常に人気があり、その名声は西海岸にまで広がったと言います。 そこでは、シュワブの義理の息子ポール・デイヴィスによって「偉大なウィスキーの街」と評されたサンフランシスコから配布されました。 1900年前後、シュワブはコカ・コーラの広告キャンペーンを開始したセントルイスのダーシー広告会社を雇い、カスケイド・ウィスキーを国内で宣伝し始め、その後国際的にもそうしました。1904年には蒸留所が拡大し、カスケイド・ウィスキーの需要が更に高まったのが窺われます。当時カスケイド・ウィスキーはシュワブの指導の下、テネシー州で最も売れたブランドの1つだったでしょう。1908年には、ブランドのその人気ぶりから、酒類業界誌「Mida's Criteria」は蒸留所と独特のリンカーン・カウンティー・プロセスについて説明する記事を書き、メディアと世間からの支持を得て蒸留所は成長を続け、同社の勢いは誰にも止められないようでした。テネシー州がウィスキーの製造を違法とするまでは。

20世紀初頭までに、禁酒はテネシー州の政治における重要な問題でした。第18修正条項が国家禁止をもたらす以前に、テネシー州では既にアルコールの生産、流通、販売を禁止するために州法を修正しています。そして全州禁止を解禁したのも1937年と遅かったのです。
テネシーの禁酒を推進するグループは、学校、病院、教会の敷地の近くで酒類の販売を禁止することで、より多くの成功を収めて行きました。1824年に可決された最初のそういった法律は、教会の近くでの酒の販売を制限しています。1877年には、公認の田舎の学校から4マイル以内でのアルコールの販売を禁止する法律を制定しました。十年後には、議会はそのフォー・マイル法を更に厳しめに改正し、事実上テネシー州の都市でない田舎の酒類ビジネスを禁止します。
発展する蒸留産業は、それと同じくらい禁酒運動とサルーンへの嫌悪感情をも生み出しました。禁酒運動初期の時代からサルーンは目の敵にされ、上流階級の改革者の目には貧しい人々の間で飲酒を促進した不法の巣でした。サルーンをなくすことができれば労働者階級の飲酒習慣もなくせる。そんな考えに基づいて、改革者達は1893年にアンチ・サルーン・リーグ(ASL)を創設します。彼らはプロテスタント教会と産業指導者の協力を求め、最終的に禁止を確立する憲法改正のアイディアを出しました。テネシー州の禁酒指導者たちはすぐにASLを受け入れ、1901年までに5,000人のメンバーを含む約60のリーグ支部がテネシー州にあったと言います。1902年、ノックスヴィル・ジャーナル・アンド・トリビューンは、ASLがテネシー州の政治の権力者になった、とまで書くに至りました。
テネシー州リーグは、禁止をもたらす手段としてフォー・マイル法を上手く利用しました。と言うか、フォー・マイル法はサルーン撲滅指導者が禁止をもたらすための装置だったのでしょう。1899年のピーラー法は、フォー・マイル法を人口が2,000人未満の「今後法人化される」町に拡大。1903年のアダムズ法案は、法案可決後に法人化または再法人化される人口5,000人以下の全ての町に制限を拡大します。1907年のペンドルトン法は、フォー・マイル法を大都市にまで拡大し、年末までに「ウェット」だったのはメンフィス、チャタヌーガ、ナッシュヴィル、ラフォレットのみでした。

1900年代初頭、シュワブは禁酒運動および禁酒法を要求する人々と熱烈に戦い、ナッシュヴィルでのロビー活動キャンペーンに数千ドルとも数万ドルとも言われる大枚を費やすと、少なくとも1つの機会に、アルコールの販売を断つのを目的とした法案を阻止します。しかし、彼の努力にも拘わらず禁酒の波は強すぎ、テネシー州で禁酒法案が通過してしまい、1910年の製造業者法により州でのアルコール飲料の製造と販売が中止されました。その帰結として、販売店、蒸留所、および醸造業者は事業を閉鎖するか、またはテネシーから撤退することを余儀なくされたのです。蒸留所は荷造りして州を去るために12ヶ月の猶予が与えられ、その多くは他州へと移り酒をテネシー州に出荷しました。
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1909年にウィスキーの製造が禁止された直後、ジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーはケンタッキー州ホプキンズヴィルに事業を移し、次いでヴィクター・シュワブはルイヴィルを訪れ、アーサー・フィリップ・スティッツェルとカスケイド・ウィスキーを製造する契約を締結しました。全国的な禁酒法はまだ10年後のことであり、カスケイド・ホロウ蒸留所は閉鎖されましたが会社自体は存続し、ルイヴィルではヴィクターの息子ジョージの指揮の下、有名なA. Ph. スティッツェル蒸留所でウィスキーの生産を続けます。ウィスキーの品質が従来品と一貫していることを確実にするため、スティッツェル蒸留所に木製のメロウイング・ヴァットが造られ、スティッツェルがバーボンを蒸留していない日に、シュワブは自身のウィスキーを作るためにテネシーからクルーを連れて行きました。機器をリースするこの契約は蒸留酒業界ではユニークな取り決めと言えるでしょう。

禁酒法は1919年に連邦法になり、多くの蒸留所はウイスキーの製造を止めなければなりませんでした。それはアルコールの生産、輸送、販売を違法であると宣言しています(消費や私有は可)。1920年1月、禁法の全国的な開始と共に、薬用およびベーキング用スピリットの販売を除いた業界全体が事実上閉鎖されました。しかし、スティッツェル蒸留所は禁酒法期間中でも薬用スピリットを配布するためのライセンスを取得できた六社のうちの一社でした。法律では医師によって許可された場合、処方箋として酒は入手できたのです。おかげでカスケイド・ウィスキーは1920年に薬として販売され始めました。禁酒法期間中、スティッツェル蒸留所はシュワブに1ケースあたり50セントの使用料を支払ったと言います。

シュワブは禁酒法の解かれるのを見ることなく1924年に亡くなりました。ブランドの所有権は彼の子供たちに移ります。1933年に禁酒法が廃止された後、カスケイド・ウィスキーはケンタッキー州ルイヴィルに新しく出来たスティッツェル=ウェラー蒸留所に短期間着陸したと言われますが、これについて私はよく分かりません。S-W産のカスケイド・ウィスキーがあるのでしょうか? ご存知の方はコメントよりご教示下さい。それはともかく、1937年、シュワブの相続人は最終的にカスケイド・ウィスキーの権利を禁酒法後に業界を支配したビッグ・フォーの一つシェンリー・ディスティリング・カンパニーに売却しました。シェンリー社は会社とカスケイドの商標に100,000ドルを支払ったとされます。
1940年代から1950年代にかけてシェンリーは、カスケイド・ウィスキーをケンタッキー州フランクフォートにあるジョージ・T・スタッグ蒸留所(OFC蒸留所のこと、現在のバッファロートレース蒸留所)やインディアナ州ローレンスバーグにあるプラントで生産し、それを低価格で基本品質のバーボンやウィスキーのブランドとして販売していました。その時代のヴィンテージボトルの画像を見てみると、いくつかのヴァリエーションもしくはかなりの変遷があったと思われ、ラベルに記載される会社の所在地はレキシントンやらフランクフォートとインディアナ州ローレンスバーグとルイヴィルが並記されていたり、ボトリングの場所がバーズタウンだったり、蒸留がケンタッキーだったりインディアナだったりとパターンが豊富です。ウィスキーの種類表記には、「Blended Straight Whiskies」、「Straight Bourbon Whisky」、「Kentucky Straight Bourbon Whisky」の三種があり、ケンタッキー表記のものはGTS蒸留所、ケンタッキー表記のないものはインディアナ産、ブレンデッドは複数施設の混合ジュースではないかと推測します。
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ともかくも、シェンリーの所有する施設にはリンカーン・カウンティ・プロセスを行うメロウイング・ヴァットはありません。同社がカスケイド・ウィスキーを取得した時には、禁酒法前のオリジナルのレシピも書き留められていませんでしたが、幸いなことにシュワブはカスケイド・ホロウの元蒸留所従業員二人からオリジナルのレシピと製法を知ることが出来、この情報はシェンリーに伝えられました。 同社は同じレシピで製品を製造していたとされますが、多くの人々はケンタッキー州の品質がカスケイド・ホロウで製造されたウィスキーほど良くないと不満を述べたと言います。一部のテネシー人によって、それはテネシー・サワーマッシュ・ウィスキーではなく、バーボンの「劣った」ブランドであると考えられていました。

テネシーウィスキーの代名詞と言えば、今も昔もジャックダニエルズです。1950年代、ジャックダニエルズを所有していたモトロー家は、それを購入するという提案を受けました。彼らには数人の「求婚者」がいましたが、主な二人はルイヴィルにある家族経営のブラウン=フォーマン社と業界に強い影響力を持つ大企業シェンリー・インダストリーズ(1949年に社名変更)でした。シェンリーはより多くのお金を積みましたが、結局、そのレースにはブラウン=フォーマンが勝ち、1956年にジャックダニエルズと蒸留所を購入します。モトロー家はリンチバーグでの諸事をあまり変わらないようにしてくれる相手に売りたかったし、シェンリーの社長ローゼンスティールとの以前の取引を快く思っていなかったからでした。偉大なるシェンリー(と言うかローゼンスティールが?)は憤慨しました。 これはどうしたことだ?、ルイヴィルの小さな会社が契約を結んだ?、 ありえない!、と。しかし確かに、オールドフォレスターやアーリータイムズを所有する「小さな会社」は、世紀の取引を上手くやってのけたのです。シェンリーには拒否の内容と「ありがとう」と書かれた手紙だけが残されました。 
ジャックダニエルズを買収する試みプランAが失敗した後、おそらく恨みを抱いていたシェンリーは報復処置プランBを発動させます。ローゼンスティールは自らのポートフォリオに目を向け、だいぶ前に取得していたカスケイド・ホロウ・バーボンを見つけました。そして、それをそのルーツに戻し、ジャックダニエルズ・テネシーウィスキーと直接競合することを決めたのです。あわよくばジャックダニエルズを一掃、いや、せめてその市場シェアの半分は奪い取る意図はあったでしょう。言うまでもなく、そうはなりませんでしたが、彼らが成し遂げたことは、アメリカンウィスキー・ファンには非常に価値のあるものでした。

シェンリーはウィスキーが元のコフィー郡のサイトに戻ったなら、より良い製品を造れると信じて、そのためのステップを踏みます。禁酒法が廃止された後もコフィー郡は「乾いた」ままだったので、会社はウイスキーの製造を地元で承認するために特別な投票を必要としました。コフィー郡の有権者による適切な投票の結果、酒の製造を合法化する法案が可決します。そこでシェンリーは、訓練を受けた機械エンジニアでディスティラーのラルフ・ダップスを現地へ派遣し、蒸留所とブランドの復活という素晴らしい仕事を割り当てました。
当時シェンリーが所有していたルイヴィルのバーンハイム蒸留所で働いていたダップスは、そこでI.W. ハーパー等を造っていましたが、既にカスケイド・ウィスキーにも精通し、大のファンだったと言います。多分「よっしゃ、いっちょやったるで!」の精神で仕事に当たったでしょう。彼は家族をテネシー州に移し、先ずはオリジナルのカスケイド・ホロウ蒸留所の場所を見つけました。残念ながら、昔の施設を改修して再構築することは出来ませんでしたが、元の蒸留所から約1マイルのところに850エーカーの土地を取得し、ダップスはこれまでにない最高のテネシーウィスキーを生産できるであろう近代的な施設の建設を開始します。それは1958年のことでした。新しい蒸留所は古い蒸留所と僅かに場所は違うとはいえ、嘗て使用されていたのと同じカスケイド・ブランチ・クリークの水源を利用でき、またマッシュビルもオリジナルのマクリン・レシピを踏襲したと見られます。勿論、メロウイング・ヴァットを用いたリーチング・プロセスも再現されました。イーストや発酵槽まではどうだったか判りませんが、ダップスは可能な限りオリジナルに近いものを造ろうと努力した筈です。そして最初のウィスキーは1959年7月4日に新しい蒸留所で製造され、熟成の時を待ち、ついに1964年、ブラックラベルOld No. 8とタン・ラベルOld No.12がデビューします。この時からシェンリーはカスケイドの名称を止め、ジョージ・ディッケルの名前をブランドとして使用することにしました。そのようにした理由は想像でしかありませんが、一つには地に落ちたカスケイド・ウィスキーの評判を気にしたから、もう一つには従来品との違いを明確化して市場での混乱を避けるため、そして何よりライヴァルのジャックダニエルズと同じ人名のブランドにすることによって競合関係を明白にしようとしたのではないでしょうか。ただ、ジョージディッケルは成功を収めたとは言えますが、ジャックダニエルズを打ち負かすことは決してありませんでした。
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(Published in Ebony, September 1965 - Vol 20, No. 11)

伝統を最重視するアメリカのスピリッツ産業のマーケティングに於ける神話創出は、ビジネスのあざとい部分は脇に追いやり、ロマンスと伝説だけに彩られ、一人の英雄を仕立て上げることで消費者への訴求力を産み出すのが通例です(歓迎はしませんが、そういった伝説の一部がフィクションだったとしても、実際お酒を味わうのにマイナスにはならないでしょう)。ジョージディッケル・テネシーウィスキーの伝説や公式な歴史も殆どがマーケティングの専門家の作品で、その多くはシェンリー時代に作られました。現在ブランドを所有するディアジオはシェンリーより時代柄もあって誠実に歴史を扱いますが、現在のジョージディッケル物語にもザルツコッターやシュワブ、マクリン・デイヴィスやラルフ・ダップスの活躍が大きく描かれることはありません。しかし、直接的なルーツとして現在のジョージディッケルを造った功績は、ワイルドターキーがジミー・ラッセルの名と深く結び付くように、ダップスと分かち難く結ばれています。

ダップスは1977年に引退し、さらに30年生き、2007年に息を引き取りました。彼の引退後は弟子であるビル・ブルーノがマスターディスティラーを引き継ぎ、ジョージディッケルのユニークさへの責任を負っています。そして2000年代半ばまではデイヴ・バッカスが品質を管理し、次いでジョン・ランが2015年まで伝統を受け継ぎました。ジョン・ランは亡くなる前のダップスと話をした時、こう言われたと言います。「億劫な作業を変えるんじゃないぞ」と。おそらく歴代のマスターディスティラーは伝統製法を守ったでしょう。それでも、時代を経る間にウィスキーは大きく変わりました。しかし、それはウィスキーに限らず他の何事でもそういうものです。
ちなみにジョン・ランの後は、「マスター」の称号はないようですが、アリサ・ヘンリーが短期間ディスティラーとして切り盛りし、2018年からはニコール・オースティンが蒸留所を盛り上げています。

さて、ここで90年代から2000年代のドタバタ劇へと話を切り替えますが、その話題は過去に投稿したOld No.8の比較レビューで幾分詳しく取り上げたので、こちらではさらっと流して行きたいと思います。と、その前に別枠として二点だけ。シェンリーは1980年代にテネシー州でのボトリング作業を停止し、以来ウィスキーは他の場所へタンカーで運ばれている、との情報がありました。確かに、現在のディアジオもオフ・サイトでボトリングする傾向があります。また2014年あたりに、新しいボトリング・ラインが蒸留所に設置された、との情報もありました。ここら辺の事情がよく判らないので、ご存知の方はコメント頂けると助かります。それと余談ですが、旧来のカスケイド蒸留所の遺跡はテネシー州南部の19世紀後半のウィスキー産業を理解する上での考古学的意義のため、1994年に国家歴史登録財に指定されました。敷地内には、スティルハウスの基礎やスプリングダムなどの多くの物理的な遺跡があるそうです。それでは、多くのM&Aによりシェンリーからディアジオへ親会社が遷移していった時代のジョージディッケルを見てみましょう。

1987年、シェンリー社はギネスに買収され、同年ユナイテッド・ディスティラーズ合併の一環となりました。当然、その資産の中にはジョージディッケルも含まれています。1990年代初頭、ユナイテッド・ディスティラーズは大きな計画を立てました。それは、消費の低迷するアメリカ市場とは異なり、アメリカンウィスキーが成長産業となりつつあるヨーロッパとアジアで、大きくマーケットシェアを拡大することでした。そこで選ばれたブランドの一つがジョージディッケルです。ウィスキーのエイジングには時間が掛かるため、長期的な売上成長戦略には着実な生産計画と販売するのに十分な製品が必須となります。そのためマーケティング計画が成立した時、ジョージディッケルは大量に生産され始めました。しかし、ディッケル製品の海外販売はそれなりの成果は上げたものの、期待したほどには売れませんでした。それなのに誰にも注意を払われず、ストックは増え続け、生産コントロールもされなかったのです。
シェンリーが買収されてから10年後、1997年にギネスはグランド・メトロポリタンと合併して、スーパー・コングロマリットであるディアジオを形成しました。この組み合わせを達成するために、会社は多大な借金を引き受けました。そのため手早く現金を生み出すことと、可能な限りのコスト削減の要求から、資産の販売をすぐに始めなければなりませんでした。それは「我が社の」中核事業が何であるかを決める作業でしたが、彼らはアメリカンウィスキーは重要ではないという決断を下し、1999年の初めまでに、I.W. ハーパーとジョージディッケルを除くアメリカンウィスキーの資産(ウェラー・ブランドやオールドフィッツジェラルド・ブランドやニュー・バーンハイム蒸留所など)の全てを売却してしまいます。そしてまた、ジョージディッケル蒸留所の生産もストップしました。過剰な在庫もその理由ですが、加えて蒸留所は排水処理に関係する環境問題を抱えていたからです。大事ではなかったものの、修繕には多額の投資が必要でした。ディッケルの製造停止と同時に、ディアジオは宣伝活動も止めました。会社は絶えず収益を出さねばなりませんが、蒸留所の閉鎖とマーケティング予算がゼロになったことで、ディッケル・ブランドは短期間でプラスの収益になったと言います。
2002年になるとブランドはマーケティング予算を得て再び動き始めます。そして2003年秋には環境問題も解決され、生産が再開されました。マーケティングの効果か、単に時流に乗れたのか、定かではありませんがディッケルは突如として各地で売れ始めました。すると2007年半ば頃、「需要の驚くべき急増」と、1999年~2003年にかけての蒸留所の操業停止による原酒不足から、No.8ブランドは酒屋の棚から消えてしまったのです。それを解決するためディアジオは「カスケイド・ホロウ・レシピ」と記載された見た目がNo.8ブランドそっくりな3年熟成の新製品を発売しました。同社は「カスケイド・ホロウ」のパッケージを全く違う外観にすることも簡単に出来た筈です。が、なぜかそうはしませんでした。より収益性の高いNo.12ブランドとバレルセレクトは不足を報告されていません。ここに、ディアジオのちょっと怪しげな戦略が見え隠れしています。2013年には、熟成酒のストックが十分に回復したため「カスケイド・ホロウ」は中止されました。

2010年代に入ると、アメリカンウィスキーの需要は世界的に増え、現在のディッケル蒸留所も飛ぶ鳥を落とす勢いです。それは製品オファリングに端的に現れ、ライウィスキー、ホワイトウィスキー、ハンド・セレクテッド、タバスコ・フィニッシュ、ボトルド・イン・ボンドと次々に拡張を見せています。また蒸留所はアメリカン・ウィスキー・トレイルの一部であり、一般客へのツアーも大人気。ジョージディッケルは世界で最もユニークな蒸留所の1つであり、カスケイド・ホロウの生き方である「ハンドメイド・ザ・ハードウェイ」というスローガンを揚げます。蒸留プロセスのあらゆる段階に人の手が入り、細心の注意が払われるとか。
では、そろそろジョージ・ディッケル氏はじめ過去の先人を偲びながらテイスティングと参りましょう。

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George Dickel Superior No.12 Brand 90 Proof
推定2009年ボトリング。シロップをかけたパンケーキ、干しブドウ→アップル、燻した草、グレープフルーツ、炭。口当たりは円やかと言うよりはウォータリー。パレートはやや柑橘の爽やかさを感じる。液体を飲み込んだ後に軽いウッディなスパイスが現れ、余韻は短めでレザーもしくは墨汁のニュアンス。
Rating:84/100

Thought:これの前に開封していた少し古いNo.8と較べて、味の方向性はかなり近く感じました。グレイン・フォワードな香味を核にスモーキーなフィーリング、シロップとフルーツ、スパイスがバランスよくと言ったところ。ただ、アルコール度数が5度も高い割には濃厚になったという感じはせず、すっきりしている印象。良い面はちょっとだけヴァニラと甘味が強いこと、悪い面はコクがなく香ばしさのみに寄っていて後味の苦味が強いことかな。とは言え、ディッケルのハウス・スタイルの味わいはよく出てると思います。
問題はブレンドされている原酒の熟成年数なのですが、No.12は少し昔の情報だと10〜12年、最近の情報では6~8年とされています。本ボトルは2009年と思われるので、おそらくそれらの情報のちょうど中間くらいの時期のボトリングになります。飲んだ印象としてはそれほど長熟の深みは感じられないのですが、ディッケルのストレージは一階建てと聞きますから、穏やかな熟成感なだけなのかも。どうなんでしょうね?

Value:現行品に関しては、販売店により異なるものの、No.8との価格差があまりないことが時折あり、その場合は間違いなくこちらを買うべきです。

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テネシー州タラホーマ近くのカスケイド・ホロウにあるジョージ・ディッケル蒸留所のリリースする製品には幾つかのヴァリエーションがありますが、そのうち基本的なのは昔から発売されているブラック・ラベルの「No.8」とタン・ラベルの「No.12」です。現在では無色透明アンエイジドでホワイト・ラベルの「No.1」やレッド・ラベルの「タバスコ・バレル・フィニッシュ」という珍品もあり、唯一ディッケル蒸留所で造られていないグリーン・ラベルの「ライ」もあります。2019年にはブルー・ラベルのボトルド・イン・ボンドも発売されました。その他にスモールバッチの「バレル・セレクト」や「ハンド・セレクテッド」もあります。
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ベースとなるウィスキーのレシピはどれも同じで(ライウィスキーは除く)、コーン84%/ライ8%/モルテッドバーリー8%のハイ・コーン・マッシュビル。ディッケル蒸留所では42インチのコラムスティルを用い、比較的低い約130プルーフで蒸留するそうです(*)。そして熟成前のニューメイクはテネシーウィスキーの特徴となるメロウイング(リンカーン・カウンティ・プロセス)が施されますが、テネシーウィスキーの代名詞とも言えるジャックダニエル蒸留所とは異なり、メロウイング前に原酒を0℃近く(40°F)まで冷却します。これはジョージ・ディッケルその人が冬場に造ったウィスキーのほうが滑らかで旨いという信念を持っていたからとか。また他のテネシー蒸留所のようにチャコールの敷き詰められたヴァットに、原酒を一滴一滴垂らす「濾過」というよりは約1週間ほど「浸す」のがディッケルの製法だという情報も見かけました(**)。その木炭は地元産のサトウカエデの木からディッケル蒸留所によって作られています。熟成に使われるバレルのチャーリング・レベルは#4。エイジングに関しては熟成具合のバラつきを抑えるために1階建ての倉庫で行われ、樽のローテーションを必要としません(***)。水源は近隣のカスケイド・スプリングから取っており、例によって石灰岩層を通った鉄分を含まないウィスキー造りには最適の水で、ディッケルの味の秘訣の一つとされます。

ジョージディッケルのブランドは、それまで親会社だったシェンリーが1987年にユナイテッド・ディスティラーズに買収されると、1990年代初頭、ヨーロッパとアジアでの大幅な売上成長を目標にした選ばれたウィスキー・ブランドとして、マーケティングから予想される将来の需要を満たすために生産量が増加されました。しかし、その需要は少なくとも予測された範囲では実現しませんでした。ディッケル・ブランドは特定の地域でそれなりの支持を得ていたものの、ジャックダニエルズのような世界的に「超」が付くほどの有名銘柄ではありません。当時は今ほどの知名度もなかった筈です。結果、倉庫の容量はいっぱいになってしまいました。
もし蒸留所が生産していたのがケンタッキーバーボンだったなら、これはそれほど大きな問題ではなかったでしょう。なぜなら超過分は、親会社が所有する他の売れ行きの良いブランドにブレンドすることが出来ましたし、或いはオープン・マーケットで非蒸留業者に販売することも出来たからです。しかし、ディッケルはテネシーウィスキーというユニークな製品であり、当時のユナイテッドが抱えていた多くのバーボン・ブランドとレシピは共有されていません。また当時は現在ほどのアメリカンウィスキーの需要もありませんでした。そのため過剰生産されたストックは流動しなかったのです。
より多くのディッケルを海外に販売しようとする試みは、完全な失敗とは言い切れないものの期待に応えたとは言い難いものでした。おそらく問題の一部は、新しく巨大になった親会社からしたら、必要な注意を引くにはあまりにもディッケル蒸留所が小さ過ぎたことにあったのではないでしょうか。増え続けるストックは、誰かが十分な注意を払って生産調整すれば済む話なのに、誰もそうしなかった…と。
1997年にはギネス(ユナイテッド・ディスティラーズの親会社)がグランド・メトロポリタンと合併してディアジオが形成されました。新会社は多額の借金を抱えていたため、事業の統合によるコスト削減と資産売却による現金化が必要でした。彼らは焦点をアメリカン・ウィスキーから遠ざける決断を下し、1999年の初めまでに資産の大部分を売却、ジョージディッケルとI.W.ハーパーという二つのブランドだけを手元に残します。そしてジョージディッケルは1999年2月に生産が停止され、蒸留所は2003年までの期間閉鎖、マーケティング予算はゼロになりました。マーケティング費用が掛からないぶんディッケルは収益になっていたようです。

ディッケルの主力製品であるNo.8とNo.12に熟成年数の記載はありませんが、おそらくこの時期の物にはその後の物と較べ、熟成年数の長い原酒が混和されている可能性が高いと思われます。当時のディッケルの小売価格はかなり安く、2001年頃はNo.8が13ドル、No.12が14ドルという情報がありました。おかげで数年間は信じられないほどの掘り出し物だったと言います。しかし、それは恐らく会社にとってその製品がそれほど利益がなかったことをも意味するでしょう。
製品の継続性を保証するために、1か月とか年に数週間でも蒸留所を稼働させることは理に適っているように思えます。ブレンドされる原酒の熟成期間の大きなギャップを避けるためにも。しかしディアジオは、ディッケル蒸留所は再びウィスキーを製造する前にコストのかかる修理(廃水処理と関係があるテネシーでのいくつかの環境問題)を必要としており、完全生産に戻る準備ができるまで投資をしない、と主張していました。それが本当だったのかどうか知る由もなく、もしかすると物価を吊り上げるためのツールとして不足を意図的に作り出そうとしていた疑いも拭えません。ともかくもディアジオは2002年になるとディッケルのマーケティング予算を復活させ、2003年9月には修繕と環境問題もクリアして蒸留所の操業が再開されます。

マーケティングが成果を上げたのか、或いはアメリカンウィスキー復活の大きな潮流に上手く乗れたためか、その後数年間でディッケルの需要は急増しました。しかし、生産に於ける4年半もの「空白の時」が会社を悩ませることになります。2007年半ばまでにNo.8の不足が明らかになり、アメリカ各地で供給が枯渇し始めたのです。日本でも2000年代には、ディッケルは時折購入できなくなる(輸入されなくなる)という発言を聞いたことがありますが、それはこれが主な原因なのでしょう。意図的にそのような状況が作り出された訳ではありませんでしたが、その種の問題に気付いた時、それを最大限に活用する戦術が採られます。一つは不足自体についての宣伝を生み出すことでした。人は手に入りにくいものこそ欲する傾向がありますから。もう一つは供給不足を解消するために、2007年後半、従来製品より短い3年熟成原酒をボトリングした「カスケイド・ホロウ」という新製品の発表でした。そのラベル・デザインはNo.8と殆ど同じで、一見すると同一商品にさえ見え、小売価格も一緒だったそうです。お馴染みのブラック・ラベルを買うつもりの客が、別の製品とは気付かず購入なんてこともあったのではないでしょうか。流石にまずいと思ったのか、2008年半ばから後半にかけてカスケイド・ホロウのラベルはブラックからレッドに切り替えられました。この変更は苦情への対応の可能性、またはNo.8が再導入された後もカスケイド・ホロウは販売されていたので混乱を避けるためと見られています。
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2008年末にはNo. 8も店頭に戻って来ましたが、約22ドルに値上がっていたそうです。カスケイド・ホロウも2013年まで継続してラインナップ中エントリー・クラスの製品として残っていました。No.12の完全な供給中断はなかったそうですが、在庫は逼迫し、2009年頃いくつかの地域では見つけるのが難しかったようです。その頃、No.12の価格は14ドルから​​24ドルに急上昇しました。店頭商品の捌け具合の差から、店舗によってはNo.12がNo.8より安い価格で販売されている場合もあったそうです。この件とは直接関係ないかも知れませんが、日本でもNo.8とNo.12の価格に殆ど差がないことがあり、No.12がやけにお買い得に見える時がありますね。

ディッケルに限らず、或るブランドを作成する時、ブレンドされる原酒の熟成年数の構成比は、蒸留所の抱える在庫により随時変動します。特にNASの製品は蒸留所の自由な裁量に委されている感が強いです。蒸留所は時に使用される原酒の熟成年数の範囲についてヒントをくれますが、ディッケルは時期によって熟成年数に殊更バラつきがある印象を受けました。2003年9月の新聞では、当時のマスター・ディスティラーであるデイヴィッド・バッカスの発言を引用して、(現在の)店頭に並ぶNo.12は実際に12年であり、(本来は)その年数の半分程度であることが好ましい、なんて記事もあったようです。2006年頃のインタビューで当時のマスター・ディスティラーのジョン・ランは、一般的にバレル・セレクトは11〜12年、No.12は10〜12年、No.8は8〜10年であると述べています。更にウェブサイト上で見つかる新しめの情報では、バレルセレクトを10~12年、No.12を6~8年、No.8を4~6年としています。
さて、話が長くなりましたが、そこで今回は現行よりちょっと古い物と更にもう少し古いディッケルNo.8の飲み較べです。

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同一プルーフでありながら、目視で液体の色の濃さの違いがはっきりと判ります。一方はオレンジがかったゴールドに近く、一方は赤みのあるブラウンに近いです。

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George Dickel CLASSIC No.8 RECIPE 80 Proof
2015年ボトリング。薄いヴァニラ、穀物臭、コーンウィスキー、杏仁豆腐、所謂溶剤臭、さつまいもの餡、チョコチップクッキー、ドクターペッパー。ウォータリーな口当たり。余韻もケミカルなテイストが強い。とにかく何もかもが薄い印象で、甘さも仄かに感じるものの、辛味が先立つ。甘くもなくフルーティでもないのが好きな人向け。
Rating:77.5/100

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George Dickel OLD No.8 BRAND 80 Proof
ボトリング年不明、推定2000年前後。干しブドウ、穀物臭、薄いヴァニラ、炭、弱い樽香、土、ブルーベリー。ウォータリーな口当たり。木質のスパイシーさとドライな傾向の味わい。余韻は穏やかなスパイス・ノートと豊かな穀物。フルーティさはこちらの方があるが、基本的にグレイン・ウィスキー然とした香味。
Rating:84/100

Verdict:見た目からしても飲んでみても、旧瓶の方が明らかに熟成年数が高いと思いました。そしてそれがそのまま味の芳醇さに繋がっているのでしょう、旧瓶の圧勝です。

Thought:近年物を初め飲んだ時は、どうしたんだディッケル!と思ったほど、全然美味しくない、と言うか好きな味ではありませんでした。とにかく若いという印象しかなく、本当に4~6年も熟成してるの?って感じです。ディッケルの熟成倉庫は1階建てと聞き及びますが、4~6年の熟成でこの味わいなら、確かにそうっぽいと思わせる穏やかな熟成感でした。残量が半分を過ぎた頃からは、甘味が少し増して美味しくなり、樽由来でない原酒本来の甘味ってこんな感じかなと思ったのが唯一の良さですかね。一方の旧瓶は、ボトリングされてからある程度の年月が経過してる風味もありつつ、ディッケルぽさもあり、海外の方が言うところのディッケルの特徴とされるミネラル感も味わえたように思います。

追記:本記事をポストした後、ジョージディッケルの1987年以前の来歴とその前身であるカスケイド・ウィスキーの歴史を纏めました。興味のある方はこちらからどうぞ。


*135プルーフで蒸留という情報も見かけました。

**逆に一滴一滴垂らすとしている情報も見ましたので、いずれが本当かよく分かりません。

***6階建ての倉庫で熟成という記述も見かけたことがありますが、新しめの記事だとこう書かれていることが多いです。

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JACK DANIEL'S SILVER SELECT SIngle Barrel 100 Proof
シルヴァーセレクトは免税店向けの製品として開発され、通常のシングルバレルより少し度数が高いのが特徴で、ひと昔前まではジャックダニエルズで100プルーフと言えば、これ、というイメージがありました。調べてみると、1997年から発売され、それから2010年までが少し丸みのあるボトルデザインだったようです。その後、画像のような少し角ばったボトルデザインとなり、2015年には終売。2016年初頭からは通常のシングルバレルと同系デザインの100プルーフが発売されています。
中身については、箱には熟成庫の最上階で熟成されたと書かれています。ジャックダニエル蒸留所ではハニーバレル(特に出来の良い物)は大概上層階から選ばれますね。私が気になるのは、通常のシングルバレルと較べてシルヴァーセレクトがよりクオリティの高い物が選ばれているのかどうなのかというところなのですが、調べても判りませんでした。デザインに気合いが入ってる分、その可能性はなくはないと思います。逆に単に度数が高いだけの可能性もありますが。
飲んでみると、セメダイン、キャラメル、メープルシロップ、スモーク、ローストナッツ、バナナといったジャックの特徴が濃ゆく味わえ美味しいです。さほど特別ではないかも知れませんが、流石に50度のジャックは安定しているなという印象。ちなみに本ボトルは推定2011年のボトリング。
Rating:87/100

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JACK DANIEL'S 150TH ANNIVERSARY 100 Proof
2016年にジャックダニエル蒸留所の創業150年を記念して発売されたボトル。ぶっちゃけ蒸留所の創業年は論拠の薄弱なものが多く、大概は民間伝承ぐらいのレベルのもので大した意味はありません。けれど、そのために特別に造られたと言われれば興味をそそられます。

JDのマスターディスティラー、ジェフ・アーネットによると、記念ボトルを造るにあたり初めはマッシュビルの変更も検討したものの、結局はオリジナルに敬意を払うことが重要だと感じて「Old No.7 」と同じ伝統のレシピ(80%コーン/8%ライ/12%バーリー)を採用したそうです。
では何が違うのかと言うと、まずは樽。通常よりも「トーストの時間を長くとり、チャーは短時間で切り上げた特別な新樽」の使用です。「あらかじめじっくりと熱を通すことで、樽内部にあるより多くの糖分を変質させ、樽が本来持つ深く豊かな風味を最大限に引き出」せるのだとか。
次にバレル・エントリー・プルーフ(樽詰め時の度数)を通常の125プルーフ(62.5度)から100プルーフ(50度)に下げたことが挙げられます。一般にエントリープルーフが低いと、よりフレイヴァーフルに仕上がると言われていますが、そのぶん多くの樽が必要となるため贅沢な仕様なのです。
更に熟成場所。どこの蒸留所もプレミアムな原酒が育つスイートスポットを有しているものですが、ジャックダニエル蒸留所ではコイヒルという丘に建つウェアハウスがそれに当たります。そこの日照時間が長く寒暖の差が激しい最上階、通称「天使のねぐら」と呼ばれる場所でのみ熟成されているそうです。
そしてボトリング。エントリープルーフが100プルーフでボトリングが100プルーフなのですから、少量の加水調整はしていると思いますが、所謂バレルプルーフということになります。徹底して贅沢に造っていますね。えーと、これだけ聴いたら期待値高過ぎませんか(笑)。では、テイスティングしてみましょう。

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メープルシロップ、ローストナッツ、スイートコーン、梅干し、なぜか海老。スタンダードなOld No.7と較べてジャック特有のセメダイン臭が薄め。口当たりは50度のわりにややウォータリーな印象。だからと言って風味が弱いかと言えばそうでもない。パレートでは甘味が支配的ながらハーブっぽいテイストがあり、苦味もスパイシーさも強く感じる。後味はさっぱりと切れ上がる感じで、余韻にはマッチを擦ったあとのようなスモーキーさが。

今まで飲んだジャックの中で最もメープルシロップを感じた一本であると同時に、最もハービーな一本でした。正直に言うとこれより旨いと感じたジャックはありますが、複雑さでは一番かも知れません。特別なフィーリングは感じられました。しかし値段はちょっと高過ぎる…。
Rating:88/100

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JACK DANIEL'S SINGLE BARREL SELECT 90 Proof
RICK NO. R-15
BARREL NO. 12-2062
セメダイン、オーク、キャラメル、杏仁。スタンダードなオールドNo.7に比べるとだいぶナッティな感じがする。また、だいぶ甘い。45度以上のジャックはどれも本当に美味しい。けれど、このボトルに関しては何かが足りない。いまいち深みに欠ける。
Rating:85/100

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テネシーウィスキーの特徴となるチャコール・メロウイングを、樽熟成の前と後の2回施すことで、通常のOld No.7よりも更にスムースにしたのがウリのジェントルマン・ジャック。一説には熟成後のメロウイングは、熟成前のメロウイングより短時間で行うらしい。個人的にはスムースさを求めてはないのですが、確かにシルキータッチとクリアネスは感じられ、これはこれで美味しいです。アロマや味わいはジャックダニエルズそのものですし。

GENTLEMAN JACK 80 Proof(画像右側)
2009年ボトリング。開封直後はOld No.7に水を加えたのかと思うほど薄っぺらい風味だったが、時間の経過とともに風味は開いて美味しくなった。そこまで来ると、なぜかOld No.7より旨いように感じられる。仮に熟成年数などのスペックが全く同じで、メロウイングの回数しか違わないのだとしたら、雑味が更に取り除かれて甘味が引き立っているのがGJなのだろう。
Rating:83/100

Gentleman Jack 80 Proof(画像左側)
年式不明。開封直後から美味しかったし、味わいにやや深みがあるように感じた。新旧の比較としては大差ないという印象。味の深み云々は強いて言えばの話に過ぎない。個人的にはラベルのデザインは圧倒的に旧の方が好きで、それを理由に旧に軍配を上げた。
Rating:84/100

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JACK DANIEL'S SINGLE BARREL Jimmy Bedford's Final Selection 94 Proof
Rick No. R-13
Barrel No. 8-1312
Date 4-25-08
ジャックダニエルズ蒸留所の第6代マスターディスティラー、ジミー・ベッドフォードが2008年の引退を前に、特に優れた熟成樽を最後に選んだ「シングルバレル」です。今のところ飲んだことのあるJDの中では最も美味しかったです。トーストした樽の甘い香りといい味の深みといい桁違いでした。
Rating:92/100

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JACK DANIEL'S MASTER DISTILLER 90 Proof
現在では43度でボトリングされ、歴代のマスター・ディスティラーがフューチャーされている「マスター・ディスティラー・シリーズ」の祖先的な?元祖的な?やつです。1993年に日本限定で発売され、2001年に終売となりました。
蒸溜所のマスター・ディスティラーは熟成庫を隅々まで知り尽くしており、どの場所が原酒にとって最良であるか知っているし、どれが特別な樽であるかも知っている、そして、それを自らの親しい友人のみに振る舞ったとか。そういう逸話を基に造られたのがこの限定版テネシーウィスキーでしょう。ブラントンズやフォアローゼス・ブラックでも似たような逸話で語られていますね。下に付属品の小冊子の文章を、短いので全文掲載しておきます。
「創始者ジャック・ダニエルが、かつて親しい友人に贈るためにえらびだしていた、とっておきのテネシーウイスキー。それは、ジャック・ダニエル・ウイスキーの中でも、ある貯蔵庫の特定の場所で熟成し、より深い色と豊かなコクをまとった逸品でした。このウイスキーは大切に保存され、彼自身のサイン入りで、限られた人々にだけ贈られていました。今日でも、この『ジャック・ダニエル・マスター・ディスティラー』は、創始者が発見したその貯蔵庫の同じ場所から、熟練の手で選び出されているウイスキーです。たとえようもなくスムーズで、いちだんと深い味わい。ジャック・ダニエル・ウイスキーのすばらしさを愛する人々にとって、これ以上の贈りものはありません。」
現実的に考えると、おそらく熟成庫の上層部から選ばれた樽のスモールバッチではないかと予想します。発売年代から考えてジミー・ベッドフォードがマスターディスティラーの時代の物でしょう。
本ボトルは推定98年のボトリング。アロマ・パレート・フィニッシュ全てにおいて、スタンダードなOld No.7は言うに及ばず、物によっては47度のシングルバレルより香り高いし、旨みも強い気がします。他のバッチはどうか知りませんが、このボトルには結晶のような澱(オリ)が発生していました。大概のウイスキーは澱があるほうが美味しい気がします。
Rating:86.5/100

ジャックMD2

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