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現在、ワイルドターキーからはエディ・ラッセルが主導するマスターズ・キープという限定生産で概ね長熟の特別リリースがありますが、それがスタートする2015年以前からジミー・ラッセルの主導する限定版の長熟バーボンがありました。ワイルドターキー・トリビュート15年はそうしたリリースの一つで、2004年に発売され、アメリカ国内版と日本輸出版のニ種類があります。アメリカ流通の物は101プルーフでのボトリングで5500本(6本入り800ケースの合計4800本という説も)、日本流通の物は110プルーフでのボトリングで9000本の数量とされています。各々はボトルの形状やパッケージングも異なり、アメリカ版は今のラッセルズ・リザーヴに似たボトルを採用してスクロール式のボックスに、日本版は旧来のケンタッキー・スピリットで使用されたフェザーテール・ボトルを採用して紙箱に入っていました。中身に関しては、ジミー・ラッセルも語っているらしいのですが、両トリビュートは同一バッチのウィスキーで、ボトリング・プルーフだけの違いのようです。それら二つを比較すると、一般的なコンセンサスは輸出用トリビュートの方が僅かにベターとされています。ハイアープルーフだからでしょうね。
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(WT "Tribute" 15yr USドメスティック版のラベル)

このバーボンには次のような逸話が伝わっています。2004年の或る日、マスター・ディスティラーのジミー・ラッセルはワイルドターキーの親会社であるペルノ・リカールから、記念品としてリリースするためのバレルの選定を依頼されました。彼はその意図を、きっと2005年に訪れるオースティン, ニコルズ&カンパニー設立150周年記念のためだろうと思いました。ところが実際には、経営陣の計画はジミーが蒸溜所に勤務し始めて50周年を迎えることを「トリビュート」する記念ボトルの作成でした。つまり、工場で行われていることの殆どを知り尽くした男に、サプライズのため?秘密裏に依頼していたのです。
ジミーが選んだのは、ある段階からバレルをリックハウスの低層階へと移し、ゆっくりと熟成させ特別に育ったバレルでした。ケンタッキー州の蒸し暑い夏にチャード・オークの新樽で寝かせたバーボンは、スコットランドの寒冷な気候や使用済みの樽で寝かせるよりも遥かに早く熟成し、ケンタッキーでの熟成はスコットランドでの熟成の3倍に匹敵すると表現される場合もあります。ワイルドターキー蒸溜所では、もっと熟成するに値しそうだと判断されたか、或いは単純に熟成の進んだバレルを倉庫の涼しい場所に移すなどして慎重な管理を行います。そのため、通常バーボンには不適切とされる熟成期間を経ていたにも拘らず、そしてジミーの哲学に於いても8〜10年の熟成がバーボンに最適とされているにも拘らず、それらは当時のワイルドターキーのストックの中で最も上質と見做せるものでした。「ホワイト・オークのスティックをチューイングしているような味わい」ではない「シュガーバレル」です。ジミーによれば、これほど古く、それでいて絶妙なバーボンになるのはほんの一握りのバレルだけだと言います。上品なメープルシロップを思わせる華やかな香り、ビターチョコのような重く奥深いコク、大胆なスパイス、レザーのような複雑な風味が鼻に抜けるダークなウィスキー。ちなみに、このバーボンの熟成年数を考えると、まだバレル・エントリー・プルーフが変更される前なので(*)、日本版の110プルーフはバレルプルーフに近いボトリングでしょう。

US版トリビュートのスクロール式の箱には次のような賛辞が記載されていました。
ジミー・ラッセルのワイルドターキー・バーボンへの50年に渡る貢献を記念して、限定版の15年熟成のスモールバッチ・バーボン「トリビュート」を提供できることを誇りに思います。この「ザ・マスター・ディスティラー」へのオマージュは、ワイルドターキー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを世界最高のバーボンとするための彼の半世紀に渡る情熱と献身を真に反映したものです。

偖て、こちらは今回のバー遠征に共に行った友人の注文品を一口だけ頂いたものです。その友人は、他にはワイルドターキー8年新旧(スケッチと横向きフルカラー・ラベル)やラッセルズ・リザーヴ・シングルバレル・ライ、ジャックダニエルズのシングルバレル三種の飲み比べ等をしていました。では、最後にトリビュート15年の感想を少しだけ。

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WILD TURKEY TRIBUTE Aged 15 Years 110 Proof
BATCH # JR-8904
BOTTLE # 8605
その熟成期間の割に、確かに口蓋で凄く甘味を感じました。余韻はややビターで、甘さに流されず引き締める感じでしょうか。オークの存在感は支配的ですが、ワイルドターキーの近年の長熟プレミアムに見られたキツさや苦味や渋さはなく、全体的にバランスの良い熟成加減に思います。多少は経年により柔らかさが出てるのかも知れませんが、それ以前に最近の物とは風味の深みが違う次元にあるような気がしますね。
このバーボンは近年オークションでは高騰の一途を辿る銘柄の一つで、大体10万を超えて来ます。あぁ、もう買えないんだなと寂しくなります…。皆さんもバーで見かけたら飲んでみて下さい。
Rating:91.5/100


*ワイルドターキー蒸溜所のバレル・エントリー・プルーフは、2004年に107から110 に、2006年に110から115へと変更されました。

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グリーンブライアーというブランドには歴史的にケンタッキー州のバーボンとテネシー州のウィスキーがありました。今回取り上げるグリーンブライアーは、近年復活を果たしたチャールズ・ネルソンのグリーン・ブライアー・テネシーウィスキーではなく、ケンタッキーの蒸溜所由来の方となります。と言っても、テネシーの方が復活と共にその歴史が掘り起こされているのと違い、こちらのグリーンブライアーの詳しい歴史はよく分かりません。ブランドを守る訴訟はアメリカン・ウィスキーの世界でも昔から盛んでしたが、何故だかこの両者は法廷で争う関係になったことはなく、製品の蒸溜もマーケティングも同時期に行われていたらしい。ともかく、情報が少ないので説明の大部分はサム・K・セシルの本からの引用が殆どとなります(と言うかセシルも先人の資料を参照しただけなのかも知れない)。
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(テネシーのグリーン・ブライアー)

グリーンブライアー蒸溜所は当初、後に祖父にちなんでオールド・グランダッドという有名なブランドを造ることになるレイモンド・B・ヘイデンが運営していたとされます。バーズタウンの市街から東へ5マイル半のウッドローン近く、ミル・クリークの源流付近に建てられていました。禁酒法以前のDSPナンバーは、税務区分が第5地区のRD#239です。設立年と誰が建てたのかは判りません。レイモンドの祖父ベイゼル・ヘイデン・シニアがメリーランド州からケンタッキー州バーズタウンに移住した地域がグリーンブライアーとされているのを見かけたことがあるので、ベイジルが建て息子のルイスが引き継ぎ更にレイモンドが発展させたのがこの蒸溜所なのでしょうか? 或いは、祖父や父を超えんと意気込んだレイモンドが主導して建てたのでしょうか? それはともかく、グリーンブライアーと呼ばれる小さな町はバーズタウンから南へ約6マイルのハイウェイ49沿いにありました。蒸溜所の場所とはちょっと距離が離れていますね。グリーンブライアーは嘗て密造酒の源として有名で、地元にはそれに纏わる伝承があるそうです。
レイモンドは蒸溜所をジョン・Jとチャールズのブラウン兄弟に売却し、二人は1870年代後半には「R.B.ヘイデン」のブランドを使って運営しました。1883年、ウィリアム・M・コリンズとJ・L・ハケットにより設立されたWm.コリンズ&カンパニーに売却され、蒸溜所はグリーンブライアー・ディスティリング・カンパニーを名乗るようになり、R.B.ヘイデン・ブランドを維持しつつ「グリーンブライアー」を加えました。最終的にコリンズは会社を辞め、ハケットを社長に、G・マッガーワンがセクレタリーに就任しました。1891年には蒸溜所を改修し、同年ルイヴィルにケイン・ラン・ディスティラリーを建設したとされます。1892年の保険引受人の記録によれば、グリーンブライアー蒸溜所は金属またはスレート屋根のフレーム構造で、プロパティには牛舎や三つの倉庫があったようです。
1920年、ご多分に漏れず工場は禁酒法で閉鎖されました。1922年には貯蔵されていた最後の残りのウィスキーを薬用ウィスキーとしてボトリングするためフランクフォートのジョージ・T・スタッグの集中倉庫に移したそうです。おそらくシェンリーは禁酒法期間中にグリーンブライアーのラベルを取得したと思われますが、セシルは禁酒法時代にそれが使用されることはなかったとしています。海外のウィスキー・オークションで出品されていた1913年蒸溜/1924年ボトリングの薬用パイントのグリーンブライアーの説明には「この蒸溜所は禁酒法期間中にシェンリー社によって購入された。これは同社がメディシナル・ライセンスを使用してウィスキーをボトリングするためのフル倉庫を探していた時に行われた多くの買収の一つでした。 元の蒸留所は閉鎖されましたが、禁酒法後の最大の生産者の一つである同社は新しい蒸溜所を建設し一時的に運営した」と述べられていました(参考)。
しかし、セシルの本には別の再建ストーリーが語られています。1935年頃、全ての建物が老朽化したため、プラント全体がグリーンブライアーRD No.51として再建された、地元の自動車ディーラーのジム・コンウェイとその仲間がグリグズビー・ダンズと契約し蒸溜所の建物を、レイ・パリッシュが倉庫を建設した、地元の投資家はそこを短期間保有しただけで、その後ワセン・ブラザーズに売却した、何度も所有者が変わり、1930年代後半にバード・ディスティリング・カンパニーという会社に買収されたと記憶している、と。1933年にシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションが組織された時、確かにその傘下の企業名にはフィンチやスタッグ、ペッパー、ジョンTバービー、A.B.ブラントン・スモール・タブ・ディスティリング・カンパニー等と並んでグリーンブライアー・ディスティリング・カンパニーが並んでいるのですが、もしかするとシェンリーはグリーンブライアーのブランドやトレーディングネームは買収していても蒸溜所自体は購入しなかったのかも? これ以上の詳細は私には分からないので、ここらへんの事情に詳しい方はコメントよりご教示頂けると助かります。
明確な時期は不明ですが(40年代?)、蒸溜所はシドニー・B・フラッシュマンが買い取り、おそらくダブル・スプリングス・ディスティラーズ・インコーポレーテッドとして、ビッグ・フォーなどに較べるとささやかな蒸溜事業(スピリッツの蒸溜、倉庫保管、瓶詰め)を営んだと思われます。彼は様々な蒸溜所で生産された投げ売りのウィスキーの購入に頼ることが多かったと思うが、かなり一貫したボトリング・オペレーションを維持していた、とセシルは書いています。ナショナル・ディスティラーズ出身のジョン・ヒューバーがマネージャー、エド・クームズがメンテナンス・エンジニア、ボブ・ブライニーがディスティラー、ヘンリー・ウェランがウェアハウス・スーパーヴァイザーだったそうです。シド・フラッシュマンは禁酒法廃止以来、様々な立場で積極的に酒類業界に携わって来た男で、他にもマサチューセッツ州ボストンでバルク・ウィスキーの倉庫証券のみ取引するボンデッド・リカー・カンパニーの個人事業主でもありました。
フラッシュマンは1960年代初頭までボトリング作業を続け、その後ルイヴィルの旧ジェネラル・ディスティラリーに移りました。スタンダード・ブランズがフランクフォートの21ブランズ・ディスティラリーを手放すと、彼は全てのオペレーションをそこの場所に移しましたが、この事業は短命に終わります。そしてフラッシュマンはそこをエイブ・シェクターに売却し、彼は以前に購入していたオーウェンズボロのメドレー・プラントに事業を移しました[メドレーのシェクター時代は75(または78)〜88年]。
フラッシュマンがネルソン郡の工場を閉鎖すると通告した時、非常に悲惨なことが起こりました。エド・クームズとヘンリー・ウェランは他の二人の従業員であるバーナード・クームズとウェザーズという名の仲間と一緒に通勤していました。職を失ったことに取り乱したウェザーズは荒れ、銃を抜き、エドとヘンリーを殺してしまいました。バーナードは飛び出して逃げたので助かったらしい。ウェザーズは精神異常と判断され、収容されることになったと云う…。
その後、グリーンブライアーの工場は荒廃し、軈て解体され、アメリカン・グリーティングスがこの土地を買い取り、グリーティング・カードの工場を建設しました。グーグル・マップで調べてみると、現在そこは、アメリカン・グリーティングスは立ち退き、カウンティ・ライン・ディスティリングというサゼラックの物流倉庫になっているようです。

偖て、ここらでグリーンブライアーのボトルの変遷でも紹介したいところなのですが、そのラベルを用いたヴィンテージ・ボトルはネットで検索しても殆ど見つかりません。既に上で紹介した禁酒法時代の物以外では、同じく禁酒法時代なのでしょうか所在地表記がカナダの物と、他には推定30年代と思しきBIBの物くらいしかありませんでした(蒸溜およびボトリングはベルモント蒸溜所。ベルモントは禁酒法により閉鎖されましたが、廃止後はシェンリーが購入していた。参照)。多分、シェンリーはグリーンブライアーのブランドを大々的に展開しなかったのではないでしょうか。
他には、グリーンブライアーのラベルを使用していませんが、グリーンブライアー蒸溜所の原酒を使用した比較的有名な物に、20年熟成のヴェリー・レア・コレクターズ・アイテムというのがあります。これは55年蒸溜とされ、ベン・リピーのオールド・コモンウェルス蒸溜所でボトリングされたと見られています(参考)。
そして今回私が飲んだ物に関しては、画像検索してもウェブサイト上で見つけることが出来ませんでした。よって詳細は不明です。これは憶測ですが、海外で全く紹介されていないことや、他のグリーンブライアーと年代が随分と離れているところからすると、当時の輸出用ラベルとして気まぐれに?復刻された物なのではないかと…。では、最後に感想を少しだけ。

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Greenbrier Straight Bourbon Whiskey 86 Proof
推定69年ボトリング(瓶底)。私のリクエストで未開封の物を開けて頂きました。…えっ、なにこれ、バケモノ? 濃厚キャラメル、甘醤油、樹液を感じさせるクラシックなシュガーバレル・バーボンでした。フルーツとスパイスはそこまで強くないカラメル・フォワードな味わいです。マイナス要素なオールド・ボトル・エフェクトも一切なく、香りと旨味全開。裏ラベルには4年熟成とありますけど、その味は完璧に熟成された8〜10年物バーボンのよう。個人的にはオールドボトルは開封済みであれ未開封であれ、状態にかなり差があると思っているのですが、デスティニーさんで飲んだボトルはどれも状態が良く、特にこれは奇跡を見る思いでした。元々ボトリングされた原酒のレヴェルが高かったのかも知れないし、ボトリングから何十年も経過して却って風味が良くなったのかも知れないし、単に自分の好みに合っただけの話なのかもですが、とにかく最高のバーボンでした。
ボトリングはカリフォルニア州フレズノのシェンリー施設だと思われますが、中身は一体どこの原酒なのでしょう? これより旧いグリーンブライアーにはあった「ケンタッキー」の文字が表ラベルからなくなっていますし、裏ラベルにもケンタッキーと書いてないところからすると、他州のバーボンであるのは間違いないかと。そうなると、年代的にもインディアナのオールド・クェーカー蒸溜所が最有力かなぁ…。でも、他のシェンリー製品のようにはラベルにインディアナ州ローレンスバーグの記載が一切ないのも気になるところ…。飲んだことのある皆さんはどう思われました? ご意見ご感想をコメントよりどしどしお知らせ下さい。
Rating:96/100

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今回の投稿もバー飲みです。バーで飲む時は初めの一杯を何にするかいつも迷います。私は酒に弱いので初っ端からハイアー・プルーフの物は選ばないようにしつつ、せっかくだからなるべく希少な物を飲みたいと熟考の末、思いついたのがナショナル・ディスティラーズのロウワー・プルーファー2種の同時注文でした。一つは前回投稿したオールド・クロウ。もう一つがこのPMバーボンです。

オールド・クロウは言わずと知れたブランドですが、PMは今となっては完全に歴史の塵に埋もれたブランドでしょう。だいたいPMって何なの? 時間のa.m./p.m.の午後のこと?てなりますよね。後の広告では「PM for Pleasant Moments(愉しいひと時のためのPM)」なんて惹句があったり、ラベルにもそう記載されるようになりましたが、これは後付で、もともとはペン=メリーランド(Penn-Maryland)というブランド名からその頭文字を取ったものでした。おそらくペン=メリーランド・ウィスキーは禁酒法以前にメリーランド州ボルティモアで製造されていたのをナショナル・ディスティラーズが買収し、禁酒法後に復活させたのではないかと思います。
ナショナル・ディスティラーズはウィスキー・トラストの残党から1924年に持株会社として設立されました。薬用ウィスキー事業を営む会社を傘下に加えつつ、糖蜜やその他の食品、酵母、工業用アルコールの製造もしていましたが、禁酒法が廃止されることにも賭けていました。禁酒法期間中、彼らは閉鎖された蒸溜所をそのブランドとウィスキーの在庫と共に購入。1933年に修正第18条が廃止された時、ナショナルはアメリカ全体の熟成したウィスキーの約半分を保有し、100以上のブランドを所有するに至っていました。そのため以後の蒸溜酒業界に於いて主要企業として支配的な地位を確立することが出来たのです。
1933年夏、ナショナル・ティスティラーズ・プロダクツ・コーポレイション(NDPC)は、イリノイ州ピオリアに本拠を置く他のトラストの残党であったU.S.インダストリアル・アルコール・カンパニー(USIAC)と、それぞれが2分の1の持株を有する合弁事業としてペン=メリーランド・インコーポレイテッドを共同出資で組織しました。同社は完全子会社としてペン=メリーランド・コーポレイションという名称の会社を設立させ、USIACからリースしたイリノイ州ピオリアの蒸溜所や、同所およびオハイオ州レディングとメリーランド州ボルティモアのブレンディング工場を運営しました。また同時に、シンシナティ郊外のエルムウッドにあるカーセッジ蒸溜所を買収し、カーセッジ・ディスティリング・カンパニーの名の下で操業しました。この二つの会社はペン=メリーランド・カンパニーという販売子会社と共に1934年11月15日に合併され、ペン=メリーランド・コーポレーションに編入し会社は継続します。1934年2月には、NDPCはUSIAからペン=メリーランド・インコーポレイテッドの残り2分の1の持株を取得しており、同社をNDPCの完全子会社としていました。1936年にはペン=メリーランド・インコーポレイテッドは解散し、その資産は親会社に吸収されます。ピオリアの工場は1940年にハイラム・ウォーカーに売却されるまでリースを継続したそう。当初の計画では、ペン=メリーランドがブレンデッド・ウィスキーを生産し、他のナショナル施設がストレート・ウィスキーを生産していましたが、多少の混在もあったようです。画像検索で見つかるPM以外のペン=メリーランド・コーポレイションのブランドには、「オールド・ログ・キャビン」、「タウン・タヴァーン」、「スプリング・ガーデン」、「ウィンザー」、「ブリゲディア」、「シェナンドア・ウィスキー」、「ベル・オブ・ネルソン」等がありました(主にブレンデッド、一部ストレート・バーボンやストレート・ライの短熟もあり)。
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ちなみに、現在ジムビームのスモールバッチ・コレクションの一つとなっているノブ・クリークのルーツはナショナルのペン=メリーランド社に遡れるのですが、1935年頃のオリジナルと見られるラベルには「DISTILLED BY Penn-Maryland Corp. CINCINNATI, OHIO」とあるので、本当にシンシナティで蒸溜されているのならば、おそらくはカーセッジ蒸溜所産の可能性が高いでしょう。1893年に建てられた古い歴史を持つこの施設は、ナショナルがその一部を1940年代に工業用アルコール蒸溜所として再建して戦争努力のための材料を提供し、その後も別の場所で蒸溜したニュートラル・スピリッツをベースにしたデカイパー・コーディアルを造るために使用され続けました。またボトリングと輸送施設を維持し、一定期間は彼らの所有するオールド・オーヴァーホルトもボトリングされていました。ナショナルのブランドでラベルにシンシナティでボトリングとあれば、この施設で行われていると思います。1987年にナショナルからウィスキー資産を買収したビームも、2011年にその事業をケンタッキー州に移すまでデカイパーのフレイヴァー・コーディアルを製造するためにカーセッジでの操業を続けていました。

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1934年にペン=メリーランド・コーポレイションはグレードと価格の異なる3種のウィスキーの販売を開始しました。それらはグレードの高い順に「ペン=メリーランド・デラックス」、「ペン=メリーランド・インペリアル」、「ペン=メリーランド・リーガル」と名付けられていました。1935年には、アニタ・ルースによる1925年の人気小説『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』(日本ではジェーン・ラッセルとマリリン・モンローが主演した1953年の映画がお馴染み)をもじった「紳士はブレンドを好む(Gentlemen Prefer Blends)」をスローガンとして、カートゥーニストのピーター・アルノやオットー・ソグローのユーモラスな絵を使用した広告を『ニューヨーカー』や『ニューヨーク・タイムズ』に出しています。また、プロモーション用のブックマッチの表紙には「チェロの如くメロウ」というスローガンが用いられました。
1936年3月と11月には「ペン=メリーランド・プライヴェート・ストック」および「PM バー・スペシャル」という特別版?も発売されたようです。1936年5月にはペン=メリーランド・インペリアルが停止されました。これは多分ハイラム・ウォーカーから、後に彼らのブレンデッド・ウィスキーの旗艦ブランドとなる「インペリアル」の商標侵害で訴えられたからではないかと思います。その頃にペン=メリーランド・ウィスキーはラベルのスタイル変更を検討し始め、名前のイニシャル「P」と「M」のサイズを大きくしました。変更されたラベルは1936年12月または1937年1月以降の販売から使用されたようです。
1938年11月にペン=メリーランド・デラックスを宣伝するキャンペーンを開始すると広告のテキストにPMという文字を単独で使うようになり、1939年11月にはデラックス・ブランドのバック・ラベルにPMを単独で使用し始めました。41年までにブランドはデラックスとリーガルの二つのみになったようで、おそらくこの頃にはブランド名はPMオンリーになったと思われます。このペン=メリーランドの頭文字を拡大して名前を簡略化する変更は、以前に使用されていたブランド名が長すぎて面倒だとセールスマンや広告代理店から批判を受けた結果でした。
40〜50年代はナショナルもPMブレンデッドの広告を盛んに出していたようですが、バーボンやウォッカに取って代わられた60〜70年代にはその存在感はかなり小さくなったものと思われます。いつしかPMデラックスにはクリーム色のラベルが登場したようで、海外オークションで見かけた物は、そのインフォメーションでは75年ボトリングとしていました。このラベルのデザインは、後にナショナルのウィスキー資産を買収したビームから出された際のPMデラックスにも踏襲されています。ビーム製造のPMは画像検索で殆ど見かけないため、おそらくスモール・マーケット向けの製品だったのではないかと。
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偖て、今回飲んだPMバーボンなのですが、PMは基本的にブレンデッド・ウィスキーのブランドなのでストレート・バーボン規格はかなり珍しいでしょう。いくら検索しても海外のウェブサイトで取り上げられているのを見つけることは出来ませんでした。ラベルのデザインからするとボトリングは75年くらいでしょうか? それくらいの時期に単発もしくはごく短期間か、或いは輸出用に造られたのではないかと想像します。裏ラベルによるとケンタッキーで蒸溜された4年熟成のバーボンで、どこの蒸溜所産かは明確には判りません。オールド・クロウと同じナショナル・ティスティラーズのブランド、同じプルーフということで飲み比べ用に注文した次第です。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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PM Straight Bourbon Whiskey 80 Proof
推定70年代ボトリング。オールド・クロウと同じくカラメル・フォワードな甘い香りと味わい。クリーミーなフィーリングがあります。余韻はややビター。飲む前はもっと明らかな違いがあるかと思っていたのですが、意外と大差なく感じました。強いて言うとこちらの方が僅かにフレイヴァーが濃密な気がしたくらいです。まさかオールド・クロウ蒸溜所で造られているのでしょうか? いや、オールド・グランダッド蒸溜所? それとも別の蒸溜所? 同じナショナル・ブランドだと同じクーパレッジから樽を調達している可能性もあるのかしら? 飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか、ご意見ご感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。
Rating:86.25/100

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今回の投稿はバー飲みです。バーで飲む時は初めの一杯を何にするかいつも迷います。私は酒に弱いので初っ端からハイ・プルーフの物は選ばないようにしつつ、せっかくだからなるべく希少な物を飲みたいと熟考の末、選んだのはバーボン史上にその名が燦然と輝く、しかし、今は底に沈んだブランド、オールド・クロウでした。

オールド・クロウは汎ゆるバーボンの中でも伝説に彩られたストーリーを持っていますが、余りにも有名なので、ここでは駆け足で紹介しておくに止めましょう。
オールド・クロウの名前は、スコットランドからアメリカに移住し、幾つかの蒸留所で働いた後、1830年代にウッドフォード郡のオスカー・ペッパーの蒸溜所(現在のウッドフォード・リザーヴ蒸溜所)で雇われた医師であり化学者でもあったジェイムズ・C・クロウ博士にちなんで名付けられました。クロウは一般的にサワーマッシュ製法を発明したと誤って信じられています。しかし、サワーマッシュは彼によって「発明」されたものではありません。前回のバッチからのスペント・マッシュ(バックセットまたはスティレージとも)の一部を次回のバッチのスターターとして使用するサワーマッシュ製法は、マッシュのpHを下げることで不要な細菌の増殖を抑える効果があり、バッチ間でのフレイヴァーの連続性を確保する技術です。サワーマッシュまたはイースト・バッキングは、1700年代後半頃から東海岸のウィスキー蒸溜所で最初に採用されたと見られ、或る歴史家はそれをラム蒸溜所からの影響ではないかと推測しています。クロウはウィスキーの製法に初めて科学的アプローチを取り入れることで、上手く行く時もあれば失敗する時もあった発酵のプロセスを予測可能なものにし、サワーマッシュの使用法を標準化しました。そして、彼はマッシュ・タンやウォッシュバックを丁寧に洗浄し、注意深く科学的な方法論を用いてレシピを取り扱ったと伝えられます。また、樽熟成がスタンダードではなかった時代にウィスキーをしっかりと樽熟成させていたとも聞きます(これが「オールド」の意)。そうした行為の全てが初期のオールドクロウ・サワーマッシュ・ウィスキーに高いレヴェルの品質と一貫性を与えた、と。オールド・クロウのブランド名で販売され始めた明確な時期は分かりませんが、かなり早い時期(1840年代くらい?)からジェイムズ・クロウの名前と関連付けられていた可能性はあります。オスカー・ペッパーは自身のオールド・オスカー・ペッパーなどのラベルを使用することに加えて、彼の蒸溜所で製造されたウィスキーの一部をオールドクロウ・ブランドで販売していたとしても不思議ではないでしょう。ともかく、オールド・クロウはブランド名で販売された最初期のウィスキーの一つであり、嘗て最上のウィスキーと見做されました。
クロウは1856年に突然亡くなります。彼の死後もオスカーはオールド・クロウを販売し続けました。クロウの長年の助手であったウィリアム・ミッチェルがオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所で働いており、彼はクロウのレシピや製法に精通していたからでした(クロウの製法のメモが残っていたともなかったとも伝承されていますが、少なくとも販売会社は従来と同じ製法と主張するでしょう)。クロウが死んだにも拘らず、オールド・クロウの人気は益々高って行きます。オスカーもまた1867年に、遺言なしに妻と七人の子供達に農場と蒸溜事業を残してこの世を去りました。オスカーの遺産分割調停で、彼の所有する829エーカーの土地は子供達のために七つの不平等な区画に分割されます。オバノン・ペッパーはまだ7歳だったので、自動的に母親のナニーが後見人となり、蒸溜所、グリスト・ミルなどの経済的に生産性のある財産は全てペッパー夫人の手に委ねられることになりました。オバノンの相続の保護者としてナニーは蒸溜所をフランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにリースします。同社はミッチェルをディスティラーとして雇用し続け、サワーマッシュ・ウィスキーをクロウの製法で製造し、オールド・クロウのブランドも使い続けました。
様々な蒸溜プロジェクトに投資するグループによって1862年に組織されたゲインズ, ベリー&カンパニーはアメリカ製ウィスキーを専門とする蒸溜酒飲料会社でした。幹部は社名になっているウィリアム・A・ゲインズとハイラム・ベリー、そして背後には19世紀末から20世紀初頭にかけてケンタッキー州の多くの蒸溜所に出資し経営した元銀行家のエドムンド・H・テイラー・ジュニアがいました。会社のジュニア・パートナーであったテイラーは、イングランド、スコットランド、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア、スペインなどで最新の蒸溜法を学ぶためにヨーロッパに派遣されています。彼が帰国すると会社はその知識を応用し、オールドクロウ・ウィスキーを造るため1868年にケンタッキー・リヴァー沿いにあるフランクフォートの土地を取得してハーミテッジ蒸溜所の建設を開始、1870年に生産を始めました。ヘッド・ディスティラーはウィリアム・ミッチェルの下で訓練を受けたマリオン・ウィリアムズです。同社はマイダズ・クライテリアにオールド・クロウの商標を登録し、また同じく商標登録されたハーミテッジには「オールド・クロウのメーカー」と述べられていました。ハーミテッジ蒸溜所が建設中だった間、彼らはオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の他にジェイムズ・クロウも働いていたアンダーソン・ジョンソン蒸溜所もリースしました。そしてそれだけに留まらず、ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬、オールド・クロウ蒸溜所を建設するために、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約5kmのところにあるグレンズ・クリーク沿いの25エーカーの土地を購入しました。建設は6月下旬に始まり、蒸溜所は1870年に完成しましたが、敷地内の仮設の設備もしくは既存のスティルハウスにより1869年8月中旬には生産を開始できたそうです。アンダーソン・ジョンソン蒸溜所(後のオールド・テイラー蒸溜所の場所)のすぐ近くにあるこの蒸溜所は後々までオールドクロウ・バーボンの本拠地になりました。オスカー・ペッパー蒸溜所で働き続けていたミッチェルは、オールド・クロウ蒸溜所の建設に伴い新しい施設に移り、1872年までヘッド・ディスティラーを務めています。その後任にはオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所のマッシュ・フロアーで働いていたミッチェルの従兄弟ヴァン・ジョンソンが就き、1900年代初頭に息子のリー・ジョンソンと入れ替わるまでヘッド・ディスティラーを務めました。新しい蒸溜所の設備は、1830年代後半にペッパーとクロウが設置した伝統的なポットスティルから大幅な進歩を示し、1880年代から20世紀初頭にかけても少しずつ改良が加えられました。おそらくは、初期のクロウの原則の幾つかは大規模な生産に対応するため変更され、味わいも変わったかも知れません。それでもオールド・クロウのブランドは、クロウ、ミッチェル、ジョンソンの誰によって蒸溜されたものであっても、その優れた卓越性と品質が高く評価され、同時期のアメリカで生産された他のウィスキーよりも高い価格で販売されていました。
ちなみに、1868年、ニューヨークの販売代理店であるパリス, アレン&カンパニーが投資グループに加わった時、ゲインズ, ベリー&カンパニーはW.A.ゲインズ&カンパニーとして再編成されています。この時代のオールド・クロウは有名でした。19世紀に最も有名な酒飲みの一人であったユリシーズ・グラント大統領に選ばれたウィスキーと知られ、アメリカ合衆国の上院議員達にも愛されたと伝えられます。1880年代後半までに、ハーミテッジとオールド・クロウを擁するW.A.ゲインズはサワーマッシュ・ウィスキー(バーボンとライ)を製造するアメリカ最大の生産者になりました。19世紀後半、アメリカでのライ・ウィスキーの需要は強く、ケンタッキー州でも1860年代後半から禁酒法まではその生産量の3分の1をピュア・ライウィスキーに費やしていたと言います。W.A.ゲインズ&カンパニーは、1870年からオールド・クロウやオールド・ハーミテッジのラベルで「ハイグレード・ピュア・ライ・サワーマッシュ・ウィスキー」を販売した数少ない企業の一つでした。同社はライ・ウィスキーの代理店販売についてはニューヨークのH.B.カーク&カンパニーを指名し、両ブランドの唯一のボトラーおよび販売業者として、おそらく1909年?あたりまで独占的に供給していたようです。
オールド・クロウは19世紀に最も人気のあるウイスキーであり続けました。人気者の宿命か、ブランド名の認知度や影響力を利用した模倣は多く、オールド・クロウの訴訟件数の多さは他のブランドより抜きん出ています。後の1949年頃の広告では「その卓越した歴史の初めの一世紀に於いて、オールド・クロウの名前とラベルの模倣を防ぐために、約1800通の令状、召喚状、停止命令が出された」と述べられていました。中でも最も手強かったのはセントルイスのレクティファイアーであるヘルマン一家です。彼らは「オールド・クロウ」そのままの名前やカラスの絵柄まで使っていたので、W.A.ゲインズ社は自らの商標を守るために訴訟を起こし、その名前の法的所有権を誰が持っているかを巡る争いは禁酒法が成立するちょっと前まで続きました。
禁酒法が施行されると、W.A.ゲインズ&カンパニーはスピリタス・フルメンティを販売するためのメディシナル・ライセンスを取得することが出来ず、1920年にルイヴィルのアメリカン・メディシナル・スピリッツ(AMS)にストックを清算することを余儀なくされます。禁酒法期間中にAMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズは、1934年4月、嘗てAMSが運営していたW.A.ゲインズ &カンパニーのブランド、蒸溜所、倉庫を含む全てのストックを取得し、禁酒法により閉鎖されていたグレンズ・クリークの蒸溜所を改修してオールド・クロウの生産を再開しました。おそらく最新のコラム・スティルを導入し、低コストで多くの量を生産できるようにしたでしょう。
プロヒビションの終わりから1987年まで蒸溜所とブランドを所有していたナショナルはW.A.ゲインズの会社名を使い続け、オールド・クロウは同社の旗艦ブランドの一つであり続けました。禁酒令と大恐慌を経て、第二次世界大戦の後にウィスキーの生産量と販売は回復。オールド・クロウは1950年代にバーボン・ブームに乗り世界で最も売れているバーボンとなりました。1950年代初頭にはオールドクロウ・ライは段階的に廃止され、バーボンは1952年まではボンデッドの100プルーフのみが販売されていましたが、その年か53年頃に86プルーフのヴァージョンが導入されます。1955年頃には蒸溜所に新しいコラム・スティルが設置されてオールド・クロウの生産と販売を推し進め、1960年の広告では「最も売れているバーボン」と宣伝しました。1960年代、販売は依然として好調で、オールド・クロウ蒸溜所の生産能力は大幅に増加したと言います。1967年の段階で、シーグラムのセヴン・クラウンやハイラム・ウォーカーのカナディアン・クラブには及ばないものの、オールド・クロウはアメリカで5番目に人気のあるスピリット・ブランドでした。しかし、バーボンの売上は1970年代の10年間を通して大いに減少しました。その要因は60年代後半から顕著になり出した嗜好の変化と見られます。即ちライトなカナディアン・ウィスキーやブレンデッド・スコッチの市場シェアの拡大​​とウォッカやホワイト・ラムの擡頭です。1973年には、ウォッカがウィスキーを追い抜いてアメリカのスピリッツ市場で最も売れているカテゴリーとなりました。こうした状況に戦々兢々としていたバーボン業界は1960年代後半に政府に働きかけ、現代のTTBの前身であるビューロー・オブ・アルコール, タバコ・アンド・ファイアーアームスはこれに応えて、160プルーフ以上での蒸溜と使用済みまたは未炭化の(チャーしていない)新しいオーク・コンテナーで熟成することを許す「ライト・ウィスキー」という新しい区分を1968年に創設しました。この新しいクラスは、変わりゆく消費者の状況を鑑み、強すぎるフレイヴァーを抑え、上述のようなライトなスタイルのウィスキーやスピリッツの人気の高まりに対抗して考案されたものです。1972年以降、バーボン蒸溜所を所有する大手酒類販売会社の全てがこの新分野に製品を投入し、50以上のブランドがリリースされたそう。ナショナル・ディスティラーズも1972年12月に「囁くウィスキー」を宣伝文句にクロウ・ライトウィスキーを発売しました。しかし、それはクロウの評判を悪くしただけでした。ナショナルは1974年頃、スタンダードなバーボンのプルーフを80へと落とし、コストを節約して価格を下げました。その後はバーボン全体の不調と共にオールド・クロウの売上高は減少を続けて行きます。
1987年、遂にナショナルはウィスキー事業から撤退することを決め、アメリカン・ブランズの子会社であるジムビームにウィスキー事業の資産の全てを売却しました。ビームは手に入れたオールド・クロウ蒸溜所をすぐに閉鎖し(暫くはオールド・クロウや隣のオールド・テイラーの倉庫は利用した)、オールド・クロウの生産はビームのクレアモント蒸溜所に移され、そこでビーム・マッシュビルにより製造されることになります。オールド・クロウは長年に渡ってジムビーム・ホワイトラベルの最大の競争相手だったので、ビームのオールド・クロウに入るウィスキーはナショナル・ディスティラーズがボトルに入れたものより劣っているものでした。具体的には、ジムビーム・ホワイトラベルの3年熟成ヴァージョンとでも言えそうな製品となったのです。これについてはビームが犯した最大の犯罪とまで糾弾する人もいます。こうして、19世紀には最高品質のサワーマッシュ・バーボンと謳われ、20世紀半ばには最も売れたバーボンだったオールド・クロウは、21世紀には安物のボトム・シェルファーになりました。豊かな伝統を持ちながらも不名誉な存在となったブランドの悲しい物語は現在も続いています。

偖て、今回飲んだオールド・クロウは1970年代後半のボトリングです。実は上記の歴史叙述では言及しなかったエピソードがあります。70〜80年代にバーボンが不況に陥った時にオールド・クロウほど落ち込みが激しかったブランドはないと言われていますが、その凋落の原因とされるエピソードを敢えて省いたのです。その理由は、我々に伝えられているストーリーが少々奇妙で理解に苦しむものであり、今更検証するのも難しいからでした。その伝承は纏めると概ね以下のようなものです。

1960年代には、まだ売れ行きが好調だったこともあり、老朽化したオールド・クロウ蒸溜所の近代化と改修にかなりの金額を費やし、生産能力は大幅に増強された。64年の拡張の際、誰かがファーメンターもしくはクッカーなどのタンクのサイズを間違って計算したため、マッシュのコンディショニングに使うセットバックの割合を誤って変えてしまい、これがウィスキーの味を完全に狂わせてしまった。それを試飲した蒸溜所の誰もが悪い味だと思い、そのことを経営陣に指摘したものの、何も修正されることなく放置された。製品の新しいフレイヴァーについての多くの顧客からの不満、そしてディスティラー自らの否定的なレヴューがあってさえ、プラント・マネージャーは間違いを訂正することを望まないか、或いは出来なかった。ビームが蒸溜所を買収する数年前(1985〜86年あたり?)に漸く問題の原因を突き止め解決したので、最後の数年間はその工場で生産されるウィスキーも上質なものになった。

おそらく、この話はバーボン・ライターのチャック・カウダリーが初期の仕事としてドキュメンタリー映画「Made and Bottled in Kentucky(1991-92)」を制作している時に聴いた、1987年のビー厶買収以前にオールド・クロウ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーであったナショナル・ディスティラーズの元従業員からの発言が元ネタとなって広まったと思われます。現場を知る人物からの発言のため信憑性がありそうにも感じますが、カウダリー自身も「私はその話を確認したり異議を唱えたり出来る別の情報源を見つけたことはない」と言っており、本当なのか大袈裟に語っただけなのかよく判りません。そこで、美味しくないと分かった後も造り続けたところから、ビジネスが衰退している場合の意図的なコスト削減だったのではないかと云う憶測もあったりします。確かに、いくら何でも60年代から80年代までの20年近い歳月の間のどこかでミスを突き止める努力は出来る筈…。ナショナルは第二次世界大戦中およびその後、工業化学部門に焦点を合わせ始め、1957年にナショナル・ディスティラーズ・アンド・ケミカル・コーポレイションに社名を変更しました。それでも1960年代には、工業化学部門の成功と他の分野での買収にも拘らず同社の収益の60%は酒類によるものだったとされます。しかし、1970年代半ばには、バーボンの売上の減少と世界の化学物質への依存化が、もしかすると収益を逆転させていたかも知れません。おまけに創業企業である酒類部門のナショナル・ディスティラーズ・プロダクツを大きく育てたシートン・ポーターに変わって1949年に社長に就任したジョン・E・ビアワースは禁酒主義者でした。まさか、オールド・クロウはビームに台無しにされる前に、既にナショナルに見捨てられていたとでも? 皆さんはオールド・クロウの凋落についてどのように考えるでしょうか? コメント欄よりご意見どしどしお寄せ下さい。真相の発掘は優れた歴史家の登場を待つとして、この味が落ちたとされる年代真っ只中のオールド・クロウを飲んだ感想を最後に少しだけ。

2022-03-16-19-32-25
OLD CROW 80 Proof
推定77年ボトリング。クラシックなカラメル・フォワードのバーボンという印象。特別フルーティともスパイシーとも感じない、バランスが良く、いい意味で普通に旨いオールド・バーボン。クリーミーなコーンとくすんだ土っぽさ、シトラスが少し。現行の80プルーフでは感じられないような豊かなフレイヴァーがあります。以前のバー飲みで試した「チェスメン」ほどダークなフィーリングはありませんでしたが、熟成年数やプルーフィングの違いを抜きにしても、風味が弱いとは感じませんでした。
日本が誇るウィスキー・ブロガーのくりりん氏も、70年代のオールド・クロウを味わった感想として、「言うほど悪い味とは思え」ず、「普通に美味しい」し、「少なくとも同年代の他のメーカーのスタンダードと比べ、大きな差があるとは思え」ないと当該の記事で述べていましたが、私も賛意しかありません。この年代のオールド・クロウを飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? これまたコメントよりご感想お寄せ下さい。
Rating:86/100

2022-02-16-07-25-29

2022-02-16-20-13-54
2022-02-16-20-15-17
2022-02-16-20-17-14
2022-02-16-20-18-04
(画像提供Destiny様)

過日、今のような状況になる前に、久々にバーボン・バー遠征に行ってきました。マニア筋の方には言わずと知れた名店、上大岡の「Shot Bar Destiny」です。

私がまだ殆どバーボンの知識がない時分、ワクワクしながら楽しみに読んでいた『バーボンウィスキー大百科』というブログがありました。自らが最も好きな銘柄から「ランドルフ」とハンドルネームを付けたバーボンマニアの方が、バーボンに対する想いやら、飲んだ銘柄の感想やら、忌憚のない意見などを開陳されているので面白いし、何より当時までに発売されていたバーボン関連の書籍や雑誌記事などのほぼ無意味なマーケティングの言葉を引用したブランド紹介と違ってもっと突っ込んだ情報を得れる有益なブログだったのです。残念ながら、もう10年以上前から更新されなくなっているため過去形で言いました。もし彼があのままブログを続けていてくれれば、私ごときが当ブログを始めることもなかったかも知れません。それは措いて、そこにはランドルフ氏自身のバーボン人生と重ねて幾つかのバーが紹介されており、その中でも目を惹くほど絶賛されていたのがデスティニーの前身にあたるお店でした。これ以上に熱情と愛のある紹介文もなかなかありませんので、ここに少しだけ引用させて頂きましょう(文意を変えない程度に省略を施しています)。

「関西の名店訪問を楽しんだ後も精力的に関東のお店を飲み歩」き、「飲んだバーボンの数400種類になっていました。その頃になると、徐々にではありますが追いかける銘柄も頭打ちに成り始めました」。「当時、私はとにかく飲んだことのない銘柄を追いかけ」、「飲んだことが無いものは新旧問わず飲みたくて仕方が無かったのです」。そこに現れたのが上大岡のバーボン・バー「ブルボン」でした。関東や関西の名店「にも無かったボトルがこのお店の棚に並んでい」て、「私はものすごいテンションが上がり、興奮したのを今でも覚えています」。「そんなマニアックな私をお店のマスター」は「暖かく出迎えてくれました」。マスターは「私より少し年上の方ですが、話を聞くと、私以上にバーボンマニア。ですので、私のような飲み手の気持ちをとてもよく分かってくれていて、ボトルを見たくて店の中をうろちょろしても、新たに開封したボトルのハーフショットでも、快く対応してくれました。今まで色々なお店でバーボンを飲んで来ましたが」、ここのマスター「ほどバーボンに強くこだわりを持ち、強く愛着を持っているバーテンダーさんは初めてでした。バーボンの味わい方、ボトルのラベルに書かれている地名から蒸留所を判別する方法、バーボンの歴史や現在までの流れなど、楽しいバーボン談義の中でさりげなく教えてもらいました。今まで私はとにかく銘柄だけを追いかけて飲んでいただけに、目から鱗が落ちるような話ばかりでした。このお店は単にバーボンの数があるだけではありません。バーボンの楽しみ方自体が色々できるのです。その後、何度も通いましたが」、「今振り返ると、もの凄い貴重なボトルも開けてくれたと思います。ここのお店でヴィンテージバーボンの魅力に開眼できたと思っています」。このお店そしてマスター「との出会いが、私にとってバーボンの魅力をさらに発見するきかっけになったのは間違いありません。私のバーボン人生の中ではとても大きな出会いになりました」。

どうでしょう、こんなものを読ませられては、バーボン愛好家は行きたくなってしまいますよね? また、私が本ブログのバー紹介で以前取り上げたフストカーレンに行った際、そこのオウナーのS氏も「バーボンの味わいを勉強するという点に関してはデスティニーさんがオススメです」という趣旨の発言をされていました。そんな訳で、私とて何年も前から行きたかったバーだったのですが、漸く機会あってこの度お邪魔することが出来た、と。

デスティニーは2003年5月7日に上大岡で「Shot Bar BOURBON(ブルボン)」としてオープンしました。数年間そこで営業された後、2007年7月1日に銀座に移転し、2010年8月まで営業。同年9月から元の上大岡へと戻り「Shot Bar Destiny」がオープンし現在に至ります。オウナーは98年頃から1200〜1300本位のバーボンを蒐集しており、その末にバーをオープンしたと聞きました。個人的に気になっていたのは、なぜ店名を変更したかでした。バーボンへの熱量から店名もそのままバーボン(ブルボン)というのは分かり易いではないですか。英語の「Destiny」は運命や宿命と訳される言葉なので、もしかすると「貴方とバーボンの運命的な出会いを提供しますよ」というような意味合いなのではないかと勘繰っていたのですが、まさかの単なる旧店舗(以前のバー?スナック?)の名前をそのまま使用しただけだそうですw。いや、まあ、それこそ「運命」なのかも知れません。私の解釈は正しいに違いない(強引)。

偖て、こちらのバー、そしてマスター、噂に違わぬ魅力がありました。取り揃えられたバーボンは、十年前に比べると超貴重酒の数は減ってしまったかも知れませんが、まだまだ関東屈指。特筆すべきことに、少なくとも今回私が飲んだ物に限っては、どれもボトル・コンディションが素晴らしかったです。基本的なことかも知れませんが、マスターは注文されたボトルを注ぐ前に入念に香りをチェックされていました。また、飲み終えたグラスはすぐ下げずに、分かり易いよう飲んだ銘柄のボトルの前に置き、グラスの残り香をいつでも確認できるように配置してくれる気遣いもありました。
そして私がマスターと同じ種類のバーボンを愛する人間ということもあり、バーボンの話は面白い面白い。バーボンに関して「何でも聞いてください」と仰って頂けたのに、私が極度に酒に弱いため数杯で思考回路が停止し、事前に用意していた質問の殆どが頭から抜け落ちる体たらく…。しかしそれでも、夜8時頃から閉店まで滞在し、至福の時間を過ごせました。何よりバーボンの知識云々は関係なく、それ以上にマスターのお笑い要素強めの?人柄が心地良かったのです。バーボン好きは絶対、そうでない方にもオススメ。現在の社会情勢が落ち着いたら是非行ってみて下さい。

そう言えば、一つ面白いなと思ったエピソードがあります。私がお店に滞在中、マスターは「今日はちょっと緊張してます」と何度か言っておられました。それは、日本で指折りのバーボン・バーと言えども、そうそう毎日バーボンマニアが集う訳ではなく、多少なりともバーボンを知っていそうな奴が久々に来店したから出て来た言葉でした。私は、入店時に前から来たかったバーであることは告げましたが、流石に自分から「どうもー、僕はバーボンに詳しいでーす」などとは名乗り出ていません。では、どうして私がある程度バーボンのことを知っている人間だとマスターは判ったのでしょう?
それはマスターによれば、ボトル群の眺め方で判別できたと言うのです。デスティニーはカウンターの座席の後ろ側にもボトルを並べた棚があるので、私は初めの一杯を何にしようか座席を立って眺めていました。その眺め方が少なくともバーボンの銘柄を相当知っている人間の眺め方であった、と。マスター曰く、それほど銘柄を知らない人(例えば大手酒類販売店に並んでいる銘柄を知っている程度)なら端から端へぼんやり「スゥーーーーッ」と眺める、しかし多くの銘柄を知っている人なら「サーーーーッ」と素早く見るのだけれど一つ一つ「タンッ、タンッ、タンッ」とちゃんと認識しながら眺める、だから判るのだそう。凄い洞察力だなあと思いましたし、そういう所作から滲み出るものがあるのだなあと、とても面白く感じた次第です。では、最後に店舗情報を。


Shot Bar Destiny
〒233-0002
神奈川県横浜市港南区上大岡西2-9-15 シャンローゼ上大岡1階
営業時間:18:00~翌3:00
定休日:第一日曜日(日・月連休のときは月曜日)
※行く前に最新の情報はSNSをチェックして下さい

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