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今回の投稿もバー飲みです。バーで飲む時は初めの一杯を何にするかいつも迷います。私は酒に弱いので初っ端からハイアー・プルーフの物は選ばないようにしつつ、せっかくだからなるべく希少な物を飲みたいと熟考の末、思いついたのがナショナル・ディスティラーズのロウワー・プルーファー2種の同時注文でした。一つは前回投稿したオールド・クロウ。もう一つがこのPMバーボンです。

オールド・クロウは言わずと知れたブランドですが、PMは今となっては完全に歴史の塵に埋もれたブランドでしょう。だいたいPMって何なの? 時間のa.m./p.m.の午後のこと?てなりますよね。後の広告では「PM for Pleasant Moments(愉しいひと時のためのPM)」なんて惹句があったり、ラベルにもそう記載されるようになりましたが、これは後付で、もともとはペン=メリーランド(Penn-Maryland)というブランド名からその頭文字を取ったものでした。おそらくペン=メリーランド・ウィスキーは禁酒法以前にメリーランド州ボルティモアで製造されていたのをナショナル・ディスティラーズが買収し、禁酒法後に復活させたのではないかと思います。
ナショナル・ディスティラーズはウィスキー・トラストの残党から1924年に持株会社として設立されました。薬用ウィスキー事業を営む会社を傘下に加えつつ、糖蜜やその他の食品、酵母、工業用アルコールの製造もしていましたが、禁酒法が廃止されることにも賭けていました。禁酒法期間中、彼らは閉鎖された蒸溜所をそのブランドとウィスキーの在庫と共に購入。1933年に修正第18条が廃止された時、ナショナルはアメリカ全体の熟成したウィスキーの約半分を保有し、100以上のブランドを所有するに至っていました。そのため以後の蒸溜酒業界に於いて主要企業として支配的な地位を確立することが出来たのです。
1933年夏、ナショナル・ティスティラーズ・プロダクツ・コーポレイション(NDPC)は、イリノイ州ピオリアに本拠を置く他のトラストの残党であったU.S.インダストリアル・アルコール・カンパニー(USIAC)と、それぞれが2分の1の持株を有する合弁事業としてペン=メリーランド・インコーポレイテッドを共同出資で組織しました。同社は完全子会社としてペン=メリーランド・コーポレイションという名称の会社を設立させ、USIACからリースしたイリノイ州ピオリアの蒸溜所や、同所およびオハイオ州レディングとメリーランド州ボルティモアのブレンディング工場を運営しました。また同時に、シンシナティ郊外のエルムウッドにあるカーセッジ蒸溜所を買収し、カーセッジ・ディスティリング・カンパニーの名の下で操業しました。この二つの会社はペン=メリーランド・カンパニーという販売子会社と共に1934年11月15日に合併され、ペン=メリーランド・コーポレーションに編入し会社は継続します。1934年2月には、NDPCはUSIAからペン=メリーランド・インコーポレイテッドの残り2分の1の持株を取得しており、同社をNDPCの完全子会社としていました。1936年にはペン=メリーランド・インコーポレイテッドは解散し、その資産は親会社に吸収されます。ピオリアの工場は1940年にハイラム・ウォーカーに売却されるまでリースを継続したそう。当初の計画では、ペン=メリーランドがブレンデッド・ウィスキーを生産し、他のナショナル施設がストレート・ウィスキーを生産していましたが、多少の混在もあったようです。画像検索で見つかるPM以外のペン=メリーランド・コーポレイションのブランドには、「オールド・ログ・キャビン」、「タウン・タヴァーン」、「スプリング・ガーデン」、「ウィンザー」、「ブリゲディア」、「シェナンドア・ウィスキー」、「ベル・オブ・ネルソン」等がありました(主にブレンデッド、一部ストレート・バーボンやストレート・ライの短熟もあり)。
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ちなみに、現在ジムビームのスモールバッチ・コレクションの一つとなっているノブ・クリークのルーツはナショナルのペン=メリーランド社に遡れるのですが、1935年頃のオリジナルと見られるラベルには「DISTILLED BY Penn-Maryland Corp. CINCINNATI, OHIO」とあるので、本当にシンシナティで蒸溜されているのならば、おそらくはカーセッジ蒸溜所産の可能性が高いでしょう。1893年に建てられた古い歴史を持つこの施設は、ナショナルがその一部を1940年代に工業用アルコール蒸溜所として再建して戦争努力のための材料を提供し、その後も別の場所で蒸溜したニュートラル・スピリッツをベースにしたデカイパー・コーディアルを造るために使用され続けました。またボトリングと輸送施設を維持し、一定期間は彼らの所有するオールド・オーヴァーホルトもボトリングされていました。ナショナルのブランドでラベルにシンシナティでボトリングとあれば、この施設で行われていると思います。1987年にナショナルからウィスキー資産を買収したビームも、2011年にその事業をケンタッキー州に移すまでデカイパーのフレイヴァー・コーディアルを製造するためにカーセッジでの操業を続けていました。

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1934年にペン=メリーランド・コーポレイションはグレードと価格の異なる3種のウィスキーの販売を開始しました。それらはグレードの高い順に「ペン=メリーランド・デラックス」、「ペン=メリーランド・インペリアル」、「ペン=メリーランド・リーガル」と名付けられていました。1935年には、アニタ・ルースによる1925年の人気小説『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』(日本ではジェーン・ラッセルとマリリン・モンローが主演した1953年の映画がお馴染み)をもじった「紳士はブレンドを好む(Gentlemen Prefer Blends)」をスローガンとして、カートゥーニストのピーター・アルノやオットー・ソグローのユーモラスな絵を使用した広告を『ニューヨーカー』や『ニューヨーク・タイムズ』に出しています。また、プロモーション用のブックマッチの表紙には「チェロの如くメロウ」というスローガンが用いられました。
1936年3月と11月には「ペン=メリーランド・プライヴェート・ストック」および「PM バー・スペシャル」という特別版?も発売されたようです。1936年5月にはペン=メリーランド・インペリアルが停止されました。これは多分ハイラム・ウォーカーから、後に彼らのブレンデッド・ウィスキーの旗艦ブランドとなる「インペリアル」の商標侵害で訴えられたからではないかと思います。その頃にペン=メリーランド・ウィスキーはラベルのスタイル変更を検討し始め、名前のイニシャル「P」と「M」のサイズを大きくしました。変更されたラベルは1936年12月または1937年1月以降の販売から使用されたようです。
1938年11月にペン=メリーランド・デラックスを宣伝するキャンペーンを開始すると広告のテキストにPMという文字を単独で使うようになり、1939年11月にはデラックス・ブランドのバック・ラベルにPMを単独で使用し始めました。41年までにブランドはデラックスとリーガルの二つのみになったようで、おそらくこの頃にはブランド名はPMオンリーになったと思われます。このペン=メリーランドの頭文字を拡大して名前を簡略化する変更は、以前に使用されていたブランド名が長すぎて面倒だとセールスマンや広告代理店から批判を受けた結果でした。
40〜50年代はナショナルもPMブレンデッドの広告を盛んに出していたようですが、バーボンやウォッカに取って代わられた60〜70年代にはその存在感はかなり小さくなったものと思われます。いつしかPMデラックスにはクリーム色のラベルが登場したようで、海外オークションで見かけた物は、そのインフォメーションでは75年ボトリングとしていました。このラベルのデザインは、後にナショナルのウィスキー資産を買収したビームから出された際のPMデラックスにも踏襲されています。ビーム製造のPMは画像検索で殆ど見かけないため、おそらくスモール・マーケット向けの製品だったのではないかと。
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偖て、今回飲んだPMバーボンなのですが、PMは基本的にブレンデッド・ウィスキーのブランドなのでストレート・バーボン規格はかなり珍しいでしょう。いくら検索しても海外のウェブサイトで取り上げられているのを見つけることは出来ませんでした。ラベルのデザインからするとボトリングは75年くらいでしょうか? それくらいの時期に単発もしくはごく短期間か、或いは輸出用に造られたのではないかと想像します。裏ラベルによるとケンタッキーで蒸溜された4年熟成のバーボンで、どこの蒸溜所産かは明確には判りません。オールド・クロウと同じナショナル・ティスティラーズのブランド、同じプルーフということで飲み比べ用に注文した次第です。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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PM Straight Bourbon Whiskey 80 Proof
推定70年代ボトリング。オールド・クロウと同じくカラメル・フォワードな甘い香りと味わい。クリーミーなフィーリングがあります。余韻はややビター。飲む前はもっと明らかな違いがあるかと思っていたのですが、意外と大差なく感じました。強いて言うとこちらの方が僅かにフレイヴァーが濃密な気がしたくらいです。まさかオールド・クロウ蒸溜所で造られているのでしょうか? いや、オールド・グランダッド蒸溜所? それとも別の蒸溜所? 同じナショナル・ブランドだと同じクーパレッジから樽を調達している可能性もあるのかしら? 飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか、ご意見ご感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。
Rating:86.25/100

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今回の投稿はバー飲みです。バーで飲む時は初めの一杯を何にするかいつも迷います。私は酒に弱いので初っ端からハイ・プルーフの物は選ばないようにしつつ、せっかくだからなるべく希少な物を飲みたいと熟考の末、選んだのはバーボン史上にその名が燦然と輝く、しかし、今は底に沈んだブランド、オールド・クロウでした。

オールド・クロウは汎ゆるバーボンの中でも伝説に彩られたストーリーを持っていますが、余りにも有名なので、ここでは駆け足で紹介しておくに止めましょう。
オールド・クロウの名前は、スコットランドからアメリカに移住し、幾つかの蒸留所で働いた後、1830年代にウッドフォード郡のオスカー・ペッパーの蒸溜所(現在のウッドフォード・リザーヴ蒸溜所)で雇われた医師であり化学者でもあったジェイムズ・C・クロウ博士にちなんで名付けられました。クロウは一般的にサワーマッシュ製法を発明したと誤って信じられています。しかし、サワーマッシュは彼によって「発明」されたものではありません。前回のバッチからのスペント・マッシュ(バックセットまたはスティレージとも)の一部を次回のバッチのスターターとして使用するサワーマッシュ製法は、マッシュのpHを下げることで不要な細菌の増殖を抑える効果があり、バッチ間でのフレイヴァーの連続性を確保する技術です。サワーマッシュまたはイースト・バッキングは、1700年代後半頃から東海岸のウィスキー蒸溜所で最初に採用されたと見られ、或る歴史家はそれをラム蒸溜所からの影響ではないかと推測しています。クロウはウィスキーの製法に初めて科学的アプローチを取り入れることで、上手く行く時もあれば失敗する時もあった発酵のプロセスを予測可能なものにし、サワーマッシュの使用法を標準化しました。そして、彼はマッシュ・タンやウォッシュバックを丁寧に洗浄し、注意深く科学的な方法論を用いてレシピを取り扱ったと伝えられます。また、樽熟成がスタンダードではなかった時代にウィスキーをしっかりと樽熟成させていたとも聞きます(これが「オールド」の意)。そうした行為の全てが初期のオールドクロウ・サワーマッシュ・ウィスキーに高いレヴェルの品質と一貫性を与えた、と。オールド・クロウのブランド名で販売され始めた明確な時期は分かりませんが、かなり早い時期(1840年代くらい?)からジェイムズ・クロウの名前と関連付けられていた可能性はあります。オスカー・ペッパーは自身のオールド・オスカー・ペッパーなどのラベルを使用することに加えて、彼の蒸溜所で製造されたウィスキーの一部をオールドクロウ・ブランドで販売していたとしても不思議ではないでしょう。ともかく、オールド・クロウはブランド名で販売された最初期のウィスキーの一つであり、嘗て最上のウィスキーと見做されました。
クロウは1856年に突然亡くなります。彼の死後もオスカーはオールド・クロウを販売し続けました。クロウの長年の助手であったウィリアム・ミッチェルがオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所で働いており、彼はクロウのレシピや製法に精通していたからでした(クロウの製法のメモが残っていたともなかったとも伝承されていますが、少なくとも販売会社は従来と同じ製法と主張するでしょう)。クロウが死んだにも拘らず、オールド・クロウの人気は益々高って行きます。オスカーもまた1867年に、遺言なしに妻と七人の子供達に農場と蒸溜事業を残してこの世を去りました。オスカーの遺産分割調停で、彼の所有する829エーカーの土地は子供達のために七つの不平等な区画に分割されます。オバノン・ペッパーはまだ7歳だったので、自動的に母親のナニーが後見人となり、蒸溜所、グリスト・ミルなどの経済的に生産性のある財産は全てペッパー夫人の手に委ねられることになりました。オバノンの相続の保護者としてナニーは蒸溜所をフランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにリースします。同社はミッチェルをディスティラーとして雇用し続け、サワーマッシュ・ウィスキーをクロウの製法で製造し、オールド・クロウのブランドも使い続けました。
様々な蒸溜プロジェクトに投資するグループによって1862年に組織されたゲインズ, ベリー&カンパニーはアメリカ製ウィスキーを専門とする蒸溜酒飲料会社でした。幹部は社名になっているウィリアム・A・ゲインズとハイラム・ベリー、そして背後には19世紀末から20世紀初頭にかけてケンタッキー州の多くの蒸溜所に出資し経営した元銀行家のエドムンド・H・テイラー・ジュニアがいました。会社のジュニア・パートナーであったテイラーは、イングランド、スコットランド、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリア、スペインなどで最新の蒸溜法を学ぶためにヨーロッパに派遣されています。彼が帰国すると会社はその知識を応用し、オールドクロウ・ウィスキーを造るため1868年にケンタッキー・リヴァー沿いにあるフランクフォートの土地を取得してハーミテッジ蒸溜所の建設を開始、1870年に生産を始めました。ヘッド・ディスティラーはウィリアム・ミッチェルの下で訓練を受けたマリオン・ウィリアムズです。同社はマイダズ・クライテリアにオールド・クロウの商標を登録し、また同じく商標登録されたハーミテッジには「オールド・クロウのメーカー」と述べられていました。ハーミテッジ蒸溜所が建設中だった間、彼らはオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の他にジェイムズ・クロウも働いていたアンダーソン・ジョンソン蒸溜所もリースしました。そしてそれだけに留まらず、ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬、オールド・クロウ蒸溜所を建設するために、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約5kmのところにあるグレンズ・クリーク沿いの25エーカーの土地を購入しました。建設は6月下旬に始まり、蒸溜所は1870年に完成しましたが、敷地内の仮設の設備もしくは既存のスティルハウスにより1869年8月中旬には生産を開始できたそうです。アンダーソン・ジョンソン蒸溜所(後のオールド・テイラー蒸溜所の場所)のすぐ近くにあるこの蒸溜所は後々までオールドクロウ・バーボンの本拠地になりました。オスカー・ペッパー蒸溜所で働き続けていたミッチェルは、オールド・クロウ蒸溜所の建設に伴い新しい施設に移り、1872年までヘッド・ディスティラーを務めています。その後任にはオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所のマッシュ・フロアーで働いていたミッチェルの従兄弟ヴァン・ジョンソンが就き、1900年代初頭に息子のリー・ジョンソンと入れ替わるまでヘッド・ディスティラーを務めました。新しい蒸溜所の設備は、1830年代後半にペッパーとクロウが設置した伝統的なポットスティルから大幅な進歩を示し、1880年代から20世紀初頭にかけても少しずつ改良が加えられました。おそらくは、初期のクロウの原則の幾つかは大規模な生産に対応するため変更され、味わいも変わったかも知れません。それでもオールド・クロウのブランドは、クロウ、ミッチェル、ジョンソンの誰によって蒸溜されたものであっても、その優れた卓越性と品質が高く評価され、同時期のアメリカで生産された他のウィスキーよりも高い価格で販売されていました。
ちなみに、1868年、ニューヨークの販売代理店であるパリス, アレン&カンパニーが投資グループに加わった時、ゲインズ, ベリー&カンパニーはW.A.ゲインズ&カンパニーとして再編成されています。この時代のオールド・クロウは有名でした。19世紀に最も有名な酒飲みの一人であったユリシーズ・グラント大統領に選ばれたウィスキーと知られ、アメリカ合衆国の上院議員達にも愛されたと伝えられます。1880年代後半までに、ハーミテッジとオールド・クロウを擁するW.A.ゲインズはサワーマッシュ・ウィスキー(バーボンとライ)を製造するアメリカ最大の生産者になりました。19世紀後半、アメリカでのライ・ウィスキーの需要は強く、ケンタッキー州でも1860年代後半から禁酒法まではその生産量の3分の1をピュア・ライウィスキーに費やしていたと言います。W.A.ゲインズ&カンパニーは、1870年からオールド・クロウやオールド・ハーミテッジのラベルで「ハイグレード・ピュア・ライ・サワーマッシュ・ウィスキー」を販売した数少ない企業の一つでした。同社はライ・ウィスキーの代理店販売についてはニューヨークのH.B.カーク&カンパニーを指名し、両ブランドの唯一のボトラーおよび販売業者として、おそらく1909年?あたりまで独占的に供給していたようです。
オールド・クロウは19世紀に最も人気のあるウイスキーであり続けました。人気者の宿命か、ブランド名の認知度や影響力を利用した模倣は多く、オールド・クロウの訴訟件数の多さは他のブランドより抜きん出ています。後の1949年頃の広告では「その卓越した歴史の初めの一世紀に於いて、オールド・クロウの名前とラベルの模倣を防ぐために、約1800通の令状、召喚状、停止命令が出された」と述べられていました。中でも最も手強かったのはセントルイスのレクティファイアーであるヘルマン一家です。彼らは「オールド・クロウ」そのままの名前やカラスの絵柄まで使っていたので、W.A.ゲインズ社は自らの商標を守るために訴訟を起こし、その名前の法的所有権を誰が持っているかを巡る争いは禁酒法が成立するちょっと前まで続きました。
禁酒法が施行されると、W.A.ゲインズ&カンパニーはスピリタス・フルメンティを販売するためのメディシナル・ライセンスを取得することが出来ず、1920年にルイヴィルのアメリカン・メディシナル・スピリッツ(AMS)にストックを清算することを余儀なくされます。禁酒法期間中にAMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズは、1934年4月、嘗てAMSが運営していたW.A.ゲインズ &カンパニーのブランド、蒸溜所、倉庫を含む全てのストックを取得し、禁酒法により閉鎖されていたグレンズ・クリークの蒸溜所を改修してオールド・クロウの生産を再開しました。おそらく最新のコラム・スティルを導入し、低コストで多くの量を生産できるようにしたでしょう。
プロヒビションの終わりから1987年まで蒸溜所とブランドを所有していたナショナルはW.A.ゲインズの会社名を使い続け、オールド・クロウは同社の旗艦ブランドの一つであり続けました。禁酒令と大恐慌を経て、第二次世界大戦の後にウィスキーの生産量と販売は回復。オールド・クロウは1950年代にバーボン・ブームに乗り世界で最も売れているバーボンとなりました。1950年代初頭にはオールドクロウ・ライは段階的に廃止され、バーボンは1952年まではボンデッドの100プルーフのみが販売されていましたが、その年か53年頃に86プルーフのヴァージョンが導入されます。1955年頃には蒸溜所に新しいコラム・スティルが設置されてオールド・クロウの生産と販売を推し進め、1960年の広告では「最も売れているバーボン」と宣伝しました。1960年代、販売は依然として好調で、オールド・クロウ蒸溜所の生産能力は大幅に増加したと言います。1967年の段階で、シーグラムのセヴン・クラウンやハイラム・ウォーカーのカナディアン・クラブには及ばないものの、オールド・クロウはアメリカで5番目に人気のあるスピリット・ブランドでした。しかし、バーボンの売上は1970年代の10年間を通して大いに減少しました。その要因は60年代後半から顕著になり出した嗜好の変化と見られます。即ちライトなカナディアン・ウィスキーやブレンデッド・スコッチの市場シェアの拡大​​とウォッカやホワイト・ラムの擡頭です。1973年には、ウォッカがウィスキーを追い抜いてアメリカのスピリッツ市場で最も売れているカテゴリーとなりました。こうした状況に戦々兢々としていたバーボン業界は1960年代後半に政府に働きかけ、現代のTTBの前身であるビューロー・オブ・アルコール, タバコ・アンド・ファイアーアームスはこれに応えて、160プルーフ以上での蒸溜と使用済みまたは未炭化の(チャーしていない)新しいオーク・コンテナーで熟成することを許す「ライト・ウィスキー」という新しい区分を1968年に創設しました。この新しいクラスは、変わりゆく消費者の状況を鑑み、強すぎるフレイヴァーを抑え、上述のようなライトなスタイルのウィスキーやスピリッツの人気の高まりに対抗して考案されたものです。1972年以降、バーボン蒸溜所を所有する大手酒類販売会社の全てがこの新分野に製品を投入し、50以上のブランドがリリースされたそう。ナショナル・ディスティラーズも1972年12月に「囁くウィスキー」を宣伝文句にクロウ・ライトウィスキーを発売しました。しかし、それはクロウの評判を悪くしただけでした。ナショナルは1974年頃、スタンダードなバーボンのプルーフを80へと落とし、コストを節約して価格を下げました。その後はバーボン全体の不調と共にオールド・クロウの売上高は減少を続けて行きます。
1987年、遂にナショナルはウィスキー事業から撤退することを決め、アメリカン・ブランズの子会社であるジムビームにウィスキー事業の資産の全てを売却しました。ビームは手に入れたオールド・クロウ蒸溜所をすぐに閉鎖し(暫くはオールド・クロウや隣のオールド・テイラーの倉庫は利用した)、オールド・クロウの生産はビームのクレアモント蒸溜所に移され、そこでビーム・マッシュビルにより製造されることになります。オールド・クロウは長年に渡ってジムビーム・ホワイトラベルの最大の競争相手だったので、ビームのオールド・クロウに入るウィスキーはナショナル・ディスティラーズがボトルに入れたものより劣っているものでした。具体的には、ジムビーム・ホワイトラベルの3年熟成ヴァージョンとでも言えそうな製品となったのです。これについてはビームが犯した最大の犯罪とまで糾弾する人もいます。こうして、19世紀には最高品質のサワーマッシュ・バーボンと謳われ、20世紀半ばには最も売れたバーボンだったオールド・クロウは、21世紀には安物のボトム・シェルファーになりました。豊かな伝統を持ちながらも不名誉な存在となったブランドの悲しい物語は現在も続いています。

偖て、今回飲んだオールド・クロウは1970年代後半のボトリングです。実は上記の歴史叙述では言及しなかったエピソードがあります。70〜80年代にバーボンが不況に陥った時にオールド・クロウほど落ち込みが激しかったブランドはないと言われていますが、その凋落の原因とされるエピソードを敢えて省いたのです。その理由は、我々に伝えられているストーリーが少々奇妙で理解に苦しむものであり、今更検証するのも難しいからでした。その伝承は纏めると概ね以下のようなものです。

1960年代には、まだ売れ行きが好調だったこともあり、老朽化したオールド・クロウ蒸溜所の近代化と改修にかなりの金額を費やし、生産能力は大幅に増強された。64年の拡張の際、誰かがファーメンターもしくはクッカーなどのタンクのサイズを間違って計算したため、マッシュのコンディショニングに使うセットバックの割合を誤って変えてしまい、これがウィスキーの味を完全に狂わせてしまった。それを試飲した蒸溜所の誰もが悪い味だと思い、そのことを経営陣に指摘したものの、何も修正されることなく放置された。製品の新しいフレイヴァーについての多くの顧客からの不満、そしてディスティラー自らの否定的なレヴューがあってさえ、プラント・マネージャーは間違いを訂正することを望まないか、或いは出来なかった。ビームが蒸溜所を買収する数年前(1985〜86年あたり?)に漸く問題の原因を突き止め解決したので、最後の数年間はその工場で生産されるウィスキーも上質なものになった。

おそらく、この話はバーボン・ライターのチャック・カウダリーが初期の仕事としてドキュメンタリー映画「Made and Bottled in Kentucky(1991-92)」を制作している時に聴いた、1987年のビー厶買収以前にオールド・クロウ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーであったナショナル・ディスティラーズの元従業員からの発言が元ネタとなって広まったと思われます。現場を知る人物からの発言のため信憑性がありそうにも感じますが、カウダリー自身も「私はその話を確認したり異議を唱えたり出来る別の情報源を見つけたことはない」と言っており、本当なのか大袈裟に語っただけなのかよく判りません。そこで、美味しくないと分かった後も造り続けたところから、ビジネスが衰退している場合の意図的なコスト削減だったのではないかと云う憶測もあったりします。確かに、いくら何でも60年代から80年代までの20年近い歳月の間のどこかでミスを突き止める努力は出来る筈…。ナショナルは第二次世界大戦中およびその後、工業化学部門に焦点を合わせ始め、1957年にナショナル・ディスティラーズ・アンド・ケミカル・コーポレイションに社名を変更しました。それでも1960年代には、工業化学部門の成功と他の分野での買収にも拘らず同社の収益の60%は酒類によるものだったとされます。しかし、1970年代半ばには、バーボンの売上の減少と世界の化学物質への依存化が、もしかすると収益を逆転させていたかも知れません。おまけに創業企業である酒類部門のナショナル・ディスティラーズ・プロダクツを大きく育てたシートン・ポーターに変わって1949年に社長に就任したジェイムズ・ビアワースは禁酒主義者でした。まさか、オールド・クロウはビームに台無しにされる前に、既にナショナルに見捨てられていたとでも? 皆さんはオールド・クロウの凋落についてどのように考えるでしょうか? コメント欄よりご意見どしどしお寄せ下さい。真相の発掘は優れた歴史家の登場を待つとして、この味が落ちたとされる年代真っ只中のオールド・クロウを飲んだ感想を最後に少しだけ。

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OLD CROW 80 Proof
推定77年ボトリング。クラシックなカラメル・フォワードのバーボンという印象。特別フルーティともスパイシーとも感じない、バランスが良く、いい意味で普通に旨いオールド・バーボン。クリーミーなコーンとくすんだ土っぽさ、シトラスが少し。現行の80プルーフでは感じられないような豊かなフレイヴァーがあります。以前のバー飲みで試した「チェスメン」ほどダークなフィーリングはありませんでしたが、熟成年数やプルーフィングの違いを抜きにしても、風味が弱いとは感じませんでした。
日本が誇るウィスキー・ブロガーのくりりん氏も、70年代のオールド・クロウを味わった感想として、「言うほど悪い味とは思え」ず、「普通に美味しい」し、「少なくとも同年代の他のメーカーのスタンダードと比べ、大きな差があるとは思え」ないと当該の記事で述べていましたが、私も賛意しかありません。この年代のオールド・クロウを飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? これまたコメントよりご感想お寄せ下さい。
Rating:86/100

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バーボン・マニアにとってもデカンター・コレクターにとっても、或いはチェス・マニアにとっても、面白い存在となっているのがオールド・クロウ・セラミック・チェスメンです。

本物のチェス・ピースと同じように、反するカラーのライトなゴールデン・ブロンズとダークなヴィリディアン・グリーン(*)の各16個のボトルは、キング1個、クイーン1個、ビショップ2個、ナイト2個、キャッスル(ルーク)2個、ポーン8個で構成され、計32個のボトル/デカンターの完全なセットにメール・オーダーで買えた(当時22.95ドル)ファー素材のプレイング・マットを揃えれば実際にチェスで遊べました。ハンド・グレイズされたセラミックのボトルは造形のしっかりしたチェス・ピースの形になっていて、高さが12〜15 1/2インチ、それぞれに10年熟成のオールド・クロウ・バーボンが入っています。対戦相手の駒を取るたびに中身を飲むという遊び方が想定されていたのでしょうか(笑)。各ピースにはフェイク・レザーの箱が付いていました。チェス盤となるマットは2 1/2インチの金枠が付いた豪華なデザインで45 x 45インチです。1969年発売の限定生産。ハングタグにはご丁寧に「セットの構築は一度に1ピースづつでも出来るけど、もし目標が32個なら、長い時間かけると限定版だからなくなっちゃうよ、デカンターは再生産されないんだからね!」的なことが書かれていました。美しいオールド・クロウ・セラミック・チェスメンの完全なセットはコレクターズ・アイテムであり宝物なのです。
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バーボン飲みにとっては中身こそが気になるところですが、このバーボン、海外のマニアの評価は頗る高く、ウィスキー・ライターのフレッド・ミニックは2015年のBBCのインタヴューでオールド・クロウ・チェスメンのデカンターが今までに味わったバーボンの中で最高のものであると語りました(現在でもそうなのかは分かりません)。彼の影響力の大きさからか、その発言後チェスメンの人気は一気に騰がったと言うか、よく取り上げられるようになった印象があり、その他のバーボン愛好家からも最高級のバーボンの一つと目されています。
この10年熟成のオールド・クロウについて多くの人が言うのは、彼らが今まで見た中で最も暗い色合いをもつバーボンだということ。それも信じ難いほどに。なにしろ、およそ15年熟成で120プルーフを越えるジョージ・T・スタッグと並べて比べた方もいました。それほどまでに濃ゆい色合いなのです。10年熟成で86プルーフに過ぎないバーボンがなぜ? 想像でしかありませんが、10年は最も若い年数であり、実際には10年を大幅に越える熟成年数のバレルから引き出された原酒が混和されているのではないでしょうか。60年代のマーケットでは既にバーボンの売り上げは減少傾向にあったと思われます。そこで蒸留所には峠を過ぎたバレルの在庫が増えた。一般大衆に最も売れるバーボンは4~6年熟成が殆どであり、ケンタッキーの気候ではいいとこ8年程度の熟成が限度とされるのがディスティラーの常識だった当時であれば、10年を越えるバレルはもはや売れる代物ではなく、それを何とかある程度の量上手く処分する方策は、容れ物を豪華にし、何かの記念として限定的な特別品としてリリースすることだった、と。デカンター・ビジネスは飽くまでデカンターが主でありコレクターに向けた販売、よって蒸留所はデカンターに常に最高のウィスキーを入れた訳ではなかったという話もありますから、もしかするとオールド・クロウ・チェスメンに当時としては売り物にならない15~20年近い熟成古酒を使っている可能性もなくはないのでは…。まあ、憶測です。逆に奇跡的に色づいた10年物ということだってあるかも知れないし。
味わいに関しても、同じナショナル・ディスティラーズの看板製品オールド・グランダッドと同じようなバタースコッチが多分にありつつ、更に複雑で深いスパイスをも有すると評されています。そんな好評価を受けるセラミック・チェスメンですが注意点もあります。一つは古いデカンターには最高のシールがないこと、つまり気密性の問題。こうした容器が何年にも渡って悪条件で保管されていると、容量が低下したり、著しく酸化が進んでいたり、カビ臭い風味がする可能性があります。もう一つは70年代までのポーセリン・デカンターと同様に鉛の懸念。古い陶磁器のデカンターは、着色に使用される釉薬に鉛が含まれていた場合に焼成が誤って行われていると、ウィスキーに鉛が侵出している危険性が指摘されています。ただ、これは許容範囲のリスクだと個人的には思いますし、チェスメンのボトルは鉛問題はあまり聞き及びません。が、前者のカビっぽい臭いの指摘はレヴューで散見されます。いずれにせよ、見た目ちゃんとに密封されていながら液量の少ないものはリスキーということです。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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OLD CROW CERAMIC CHESSMEN (Pawn) 86 Proof
前回投稿したオールド・ヒッコリーと同じ熟成年数とプルーフ、かつボトリング年も近いので飲み較べると面白いかなと思い注文してみました。
どちらもダスティな古いコーン・ウィスキーのフィーリングが少々ありつつ、こちらの方がレーズンが強いように感じました。私の飲んだものには上述のカビ臭さはありませんし、酒質もクリア。オールド・バーボンらしいキャラメル香とスパイス感、またダーク・フルーツのテイストは存分に味わえました。けれど正直言って世界最高クラスのバーボンとは思えなかったです。
件の色の濃さについては、実は飲んだバーの照明が凄く暗いため、よく分かりませんでした。もしくは注文したバーボンのどれもが比較的色の濃いめのバーボンばかりだったため、差が判りにくかったのかも知れません。
Rating:86.5/100


*付属のハングタグには「almost black Verdian Green」と表現されていますが、ヴァーディアン・グリーンという色はあまり一般的ではないので、ここでは所謂「ビリジアン」と解釈しています。

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N

NAS
「No(n) Age Statement」の略。ラベル上に熟成年数の提示がないこと。熟成期間による味わいの変化が大きいウィスキーにとって熟成年数はある程度の味わいの指標となるため、誇らしげに熟成年数を掲げるブランドは多いが、逆に初めから熟成年数表記のないブランドも少なくない。これには任意の風味プロファイルになりさえすれば熟成年数に拘らないという意図がある。と同時に、バッチングのためのバレル選択に於いて熟成年数の制約がないことは即ち選択肢が多くなることを意味し、そのブランドの目指す風味プロファイルをクリエイトしやすいというメリットもある。
2010年前後からのバーボン高需要によって、従来まで6年とか12年とか明示されていた熟成年数がなくなる銘柄が増えた。それは善かれ悪しかれ、その年数以下の熟成年数の原酒をブレンドしていることが殆どだと思われる。少なくとも12年以上だったものが8年~12年のブレンドになる等。これには造り手からすると将来の安定した供給を確保する狙いがある。反面、あったものがなくなるという年数表記の欠落は、当該ブランドのファンには否定的な印象を与えかねない。また、単純に熟成年数を引き下げただけの場合もあって、その場合は劇的な風味プロファイルの変化を伴う可能性が高い。悪どいことに「aged ○ years」の数字だけをラベルに残し、あたかも熟成年数の数字であるかの如く見せ、購買者のミスリーディングを誘うブランドもある。「エイジステイトメント」の項も参照。

National Bourbon Day─ナショナルバーボンデイ
6月14日。アメリカの特産品であるバーボンを飲んで祝う日。ケンタッキー州では「毎日がバーボンデイ」とも言う。

National Heritage Bourbon Month─ナショナルヘリテッジバーボンマンス
9月。2007年に米国上院によって作成されたもので、1964年に宣言された「米国特有の製品」としてのバーボンを祝うための歴史遺産月間。この法案はケンタッキー州の上院議員Jim Bunningによって提案され、全会一致で可決された。それは初期入植者やケンタッキー州の農業コミュニティ、ケンタッキー・バーボンを今日のフラッグシップカテゴリーにした多くのファミリーの貢献を認識し、伝統や歴史や文化遺産を讃え、バーボンを責任をもって適度に楽しむためのアイデア。ケンタッキー州バーズタウンで開催される国際バーボンフェスティバルは、毎年9月の3週目に開催されるため、バーボンを祝うには最適な月だった。

NCF
「Non Chill Filtered」の略。「ノンチルフィルタード」を参照のこと。

ND
「National Distillers」の略。ナショナル・ディスティラーズは複合企業体なので、バーボン用語としてはその酒類部門であり創業企業である「National Distillers Products Corporation(NDPC)」を指している。禁酒法解禁後にアメリカンウィスキー業界を支配したビッグ・フォーの一つで、何百とも言われるブランドを所有した。そうした中でもオールド・グランダッド、オールド・テイラー、オールド・クロウ、オールド・オーヴァーホルト、サニー・ブルックス、バーボンデラックス等は傑出した歴史あるブランドだが、1987年にナショナル・ディスティラーズはアメリカン・ブランズ(当時のジムビームの親会社)に売却され、それらのブランドはジムビームが製造を引き継いだ。こうした経緯によりナショナル・ディスティラーズが製造していた時代の物を欧米では「NDジュース」と呼び、バーボンマニアに珍重されている。

NDP
「Non Distilling Producer」の略。非蒸留業者と訳される。自らは蒸留施設を持たず、どこかの蒸留所からウィスキーを購入し、独自のブランドで販売する業者や会社のこと。ボトリングを専門とする所謂ボトラーも蒸留施設を所有していないという意味ではNDPと呼べる。しかし、ボトリング施設を持たず、ボトラーや蒸留所にボトリングを依頼する会社もNDPなので、ボトラーとNDPはイコールではない。供給元の選定やブランド構築の巧みさが成功の鍵。現在、大きくなっている会社でも大元を辿ればこれだったりする。

Neat─ニート
所謂ストレート。氷もいれず、水やミキサーで希釈もしないで飲む方法。語源的にはラテン語の「nitere(ニテーレ)」から由来するとされ、それは煌めく/輝かすといった意味をもち、英語に転じて綺麗(清潔)、清楚、純粋、濁りのない、混じり気のない等の意味に派生していった。ウィスキー用語としては、スコッチウィスキー界で先に使われ出したと思われるが、今ではバーボン飲みも使う。

Nest Egg─ネストエッグ
温水とドライイーストを混ぜたもの。マッシュへの添加前に酵母を活性化する「目覚め」のために使用される。

New Make─ニューメイク
蒸溜を終え、出来たばかりの無色透明の蒸溜液。これを樽で熟成することで琥珀色に色付き、ウィスキーとなる。バーボン業界ではホワイトドッグとも言う。

Non Chillfiltered─ノンチルフィルタード
冷却濾過されていないの意。ウィスキーの原材料や蒸留プロセス及び樽熟成期間に自然発生する香味成分の中には、脂肪酸・タンパク質・エステル等の低温になると析出してウイスキーを白濁させたり澱を発生させる成分が含まれており、それらの成分をボトリング前に予め-4℃~0℃に冷却しながら濾過して除去するのが冷却濾過。これによって失われる成分には、香りや風味の基となるものが含まれているとされ、より豊かな風味を求めるウィスキーマニアはノンチルチィルタードの製品を欲する傾向にある。「チルフィルトレーション」の項も参照。

Nose─ノーズ
ウィスキーの香り、匂い、アロマ。テイスティング・ノートなどでノーズとあれば、舌や口蓋を関与させず、鼻のみで感知した記述。


O

OC
「Old Charter」の略。現在ではバッファロートレース蒸留所で造られる下層バーボンとなってしまったが、一昔前はI.W.ハーパーと同じくバーンハイム蒸留所で造られていた歴史のあるブランド。「OCPR」は「Old Charter Proprietor’s Reserve」の略。
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OF
①「Old Fitzgerald」の略。小麦レシピで造られるスティッツェル=ウェラーの代表的な銘柄。同蒸留所が閉鎖後はヘヴンヒルがブランドを取得した。
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②「Old Forester」の略。ブラウン=フォーマン社の旗艦ブランド。「OFBB」は限定リリースの「Old Forester Birthday Bourbon」の略。ボンデッド規格のものは「OFBIB」と略す。
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OGD
「Old Grand-Dad」の略。現在ではジムビームで製造されるハイ・ライ・レシピのバーボン。同シリーズには、ロウワー・プルーフの物とボンデッドと114の種類がある。一昔前はナショナル・ディスティラーズを代表的する銘柄であり、その時代の物はバタースコッチ・ボムの味わいをもつとされ、オールドボトル愛好家に人気が高い。
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On the Rocks─オンザロックス
水やその他のミキサーを追加せずに、氷を入れたグラスに酒のみを注ぐ飲み方。日本では単に「ロック」と呼ばれることが多い。氷とグラスの奏でる音を愉しむことが出来る。

OO
「Old Overholt」の略。ライウィスキーの代名詞とも言えるほど古くから有名なブランド。元々はモノンガヒーラ・スタイルのライを代表したが、現在ではジムビームが製造するケンタッキー・スタイルのライとなっている。
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エイブラハム・オーヴァーホルトの肖像、WIKIMEDIAより

ORVW
「Old Rip Van Winkle」の略。2010年代になってからの急速なバーボン高需要の中、大人気のため入手困難となっている銘柄のひとつ。アメリカでも抽選に当たらないと買えなかったり、希望小売価格を大幅に上回る値段で販売されたりする。そのため現行品は日本での流通は皆無となった。
元々は禁酒法時代前後に販売されていたブランドをジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世の父(パピー・ヴァン・ウィンクルの息子)が70年代に復活させ、イエローストーンやスティツェル=ウェラーのストックを用いて主にポーセリン・デカンター(一部はガラス瓶)に容れ販売していた。それをジュリアン三世も引き継いで販売し現在に至る。基本は10年熟成、107プルーフ(90プルーフのヴァリエーションもあった)。昔は15年熟成もあったが、現在ではパピー・ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ15年に置き換えられている。
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ブランドの名前とラベルは、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングが1820年に発表した短編集『スケッチ・ブック』中の一編「リップ・ヴァン・ウィンクル」に掛けたものとなっている。この話の筋は、アーヴィングがオランダ人移民の伝説を基にして書き上げたとされ、アメリカ版「浦島太郎」と紹介されることが多い。アメリカでは「時代遅れの人」や「眠ってばかりいる人」を意味する慣用句にもなっているのだとか。物語は大略以下のようになっている。

時はアメリカ独立戦争前後。ニューヨークのハドソン川近く、キャッツキル山地の麓の村で暮らすオランダ系アメリカ人のリップ・ヴァン・ウィンクルは、金儲けが嫌いで、あくせく働くのをよしとせず、のんびり過ごすのがモットーで、家の仕事はしないけれど、人からの頼まれごとは何でも引き受け、皆から好かれる気のいい男。がみがみ口喧しい女房と、まだ小さい息子と娘との貧乏な生活をしている。
ある秋晴れの日、リップはいつものように口煩い妻から逃れるため、鉄砲を肩に担ぎ、ウルフという名の愛犬と一緒に猟へ出て、山々をさ迷いました。猟を楽しんだあと、小高い丘でちょっと休憩しているうちに辺りは暗くなってきます。「いかん、また妻にどやされるぞ」と、彼は急いで帰ろうとしますが、その時「おーい、リップや」と自分の名前が呼ばれたような気がして足を止めます。錯覚かなと思っていると、また声が聴こえて来ました。「リップ・ヴァン・ウィンクル…、リップ・ヴァン・ウィンクル…」。その声は、どうやら谷間から聴こえるようで、谷を見下ろしてみると、なにやら重そうな物を運んでいます。声の主は白いあごひげを蓄えた見ず知らずの老人で奇妙な古めかしい服を着ていました。老人が運んでいたのは酒樽で、見るからに大変そう。リップは老人と一緒に酒樽を運んであげることにしました。しばらくすると、あたりにゴロゴロゴロゴロと雷鳴が響き渡ります。やがて高い崖に囲まれた広場のようなところに辿り着くと、そこでは多くの小人たちがナインピンズ(9本ピンのボウリング)に興じていました。雷鳴と思われた音はボールを転がす音だったのです。小人たちは一様に厳めしい顔つきをし、奇抜で華やかだが古臭い服を着て、腰には小刀をさしていました。そして不思議なことにゲームをしていても楽しそうな様子もなく、黙ったままでした。一緒に来た老人は酒をついで回る様にとリップに合図し、酒盛りが始まりました。リップも彼らが自分に興味がないのをいいことに、こっそり御相伴に預かると、その酒の美味しい事、たちまち杯を重ね酔っぱらい、すぐに眠りに落ちてしまいます。
朝、リップが目覚めると、老人と初めてあったあの丘の上で寝ていました。「しまった、寝てしまったのか、妻になんと言い訳すればいいのだ」。足元には鉄砲が転がっていましたが、手入れの行き届いていた筈の鉄砲は錆びて腐食し、銃床は虫に食われてさえいました。また、愛犬の姿も見えませんでした。「ウルフ!ウルフ!」。犬の名を呼んでも、どこからも出て来ません。
「あのジジイどもにしてやられたか」。リップは彼らを山賊だったのだと勘繰り、もう一度あの広場へ行って犬と鉄砲を返してもらうしかないと考え、立ち上がろうとしますが、関節がこわばっていつもの調子ではありません。「うう…、山で寝るのは性に合わねえな」。難儀しながらもやっとのことで広場へ通じる場所へ辿り着くと、その通路は跡形もなく消えていました。リップは途方にくれますが、仕方がないので村へと帰ることにします。
村が近づくにつれ、行き交う人々の顔を見ると、知り合いは一人もいませんでした。「おかしいな、村人は全員知ってるはずなのに…」。それに見たこともない格好をしているし、リップを見ると皆、自分の顎をさするのでした。訝ったリップは自分の顎を触ってみます。すると髭が1フット(約30㎝)も伸びていたのでした。そして村へ入っても、自分の家がどこにあるのか皆目見当も付きません。たった一晩で町並みはすっかり様変わりしていたからです。ようやく我が家を見つけると、なんと廃屋になっているではありませんか。当然、妻も子供たちもそこにはいませんでした。リップは慌てて家を飛び出し、馴染みの宿屋へ向かいます。見慣れた筈の宿屋の見た目も名前も変わっていました。壁に掛けられたキング・ジョージ三世の肖像画もジョージ・ワシントンに取り換えられています。リップが寝てる間にアメリカは既にイギリスから独立していたからです。
折しもその日は選挙の当日でした。宿屋に集まった村人のうち国士をきどった男が、共和党と民主党どちらに投票したのかと彼にこっそり話しかけます。リップは自分の人生で投票などしたことは一度もなく、「私は国王に忠誠を誓っております、国王陛下万歳!」とキング・ジョージ3世の忠実な臣民であることを宣言したものだから、「こいつイギリスのスパイだ!」と大騒ぎになってしまいました。そこに顔役らしい男が現れて事態を収拾し、リップに「爺さん、お前は銃なんかもって何がしたいんだ? 誰を探してるんだ?」と聞いてくれました。リップは友人たちの名を次々と挙げ、彼らはどこにいるのか尋ねます。ある者はとっくの昔に亡くなり、ある者はアメリカ独立戦争で殺害されていました。「そ、そんな…、誰か、誰かリップ・ヴァン・ウィンクルを知ってる人はいませんか?」。「そいつならあそこにいるやつだよ」。見ると自分にそっくりな男が木に凭れ掛かっていました。リップは混乱していましたが、その時、赤ん坊を抱いた若い女が進み出て来ました。声の調子からして若い頃の妻にそっくりでした。「君の父親は?」。「父はリップ・ヴァン・ウィンクルと言い、二十年前、山へ行ったきり帰って来ませんでした」。「母親は?」。「母も少し前に亡くなりました。牧師相手に癇癪を起こして血管が破裂したのです」。リップは「私が君の父親だよ! 誰か、誰かこの哀れな男を知ってる人はいませんか?!」と叫びます。すると群衆の中から一人の老婦人が出で、彼の顔を覗き込み、しばらくして言いました。「間違いない、この男はリップ・ヴァン・ウィンクルだよ、お帰んなさい、しかし一体あんたはこの20年どこに行ってたんだい?」。リップは人々に昨日の出来事をあっという間に話し終えます。それを聴いた村一番の古株で物識りの長老が言いました。「お前さんが出会ったのは、昔このあたりを探検した偉大なるヘンリー・ハドソン船長(ハドソン川の名の由来)と乗組員たちの亡霊に違いない。二十年ごとに巡回に来るという言い伝えがあるんじゃ」。
その後リップは、妻の死を悲しむこともなく、立派な男と結婚していた娘に引き取られ、のんびりと余生を送る。自分の物語を近所の子供や宿屋に来た見知らぬ旅人に聞かせたりして。それを信じない者もいたが、古くからのオランダの入植者は概ねそれを信用したと云う。もしかすると恐妻家の願望かもしれないが。

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「Old Scout」の略。ウェストヴァージニア州のスムーズ・アンブラー社が販売するソースドウィスキーのライン。Smooth Amblerを省略せずに「SAOS」とされることも多い。オールドスカウトの名は樽をスカウト(見出だす)することに由来する。それまでレギュラーラインナップだったオールドスカウト7年と10年は、2015年の急速な予期せぬ販売成長率のため無期限に中断されるとアナウンスされた。シングルバレルとプライベートセレクトは継続して販売されている。主にMGPから調達(60%コーン/36%ライ/4%バーリーモルトや75%コーン/21%ライ/4%バーリーモルトのバーボンなど)。
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Oscar Getz Museum of Whiskey History─オスカーゲッツミュージアムオブウィスキーヒストリー
バーズタウンのノース・フィフス・ストリートに面して建つ歴史的なスポルディング・ホールは、今日オスカー・ゲッツ・ウィスキー歴史博物館とバーズタウン歴史博物館として使われている。ホールはもともと1826年にケンタッキー州で最初のカトリック大学、セント・ジョセフ・カレッジの一部として建てられたが、長年に渡って様々な役割を果たし、南北戦争中は大学は閉鎖され一時的に南北両軍の病院として機能、その後は神学校や孤児院、1911年頃から1968年まではプレパラトリー・スクールとして使われた。名前はマーティン・ジョン・スポルディング司教にちなむらしい。現在の建物は、火事で破壊された以前の建物の代わりとして1839年に建て直されたもので、1973年に国立歴史登録財に指定された。
3階建てホールの1階大部分を占めるオスカー・ゲッツ博物館には、植民地時代から禁酒法解禁後の時代に至るアメリカン・ウイスキー業界の貴重な遺物や文書のコレクションが展示されている。蒸留と熟成に関するディスプレイから、ジョージ・ワシントンのスティル、エイブ・リンカーンの居酒屋のレプリカ、密造酒に関する物、禁酒法時代の資料やキャリー・ネイションの手斧、多くのアンティークボトルとジャグ、中身の入った薬用ウィスキー、古いサインやラベルに広告、斬新さを競ったノベルティ・デカンターまで、バーボンの豊かな歴史を物語る品々は、ジョージアン様式の風格ある建造物と相俟って愛好家必見。学識豊かなキュレーターとの出会いも楽しみの一つで、先代のフラゲット・ナリーとメアリー・ハイト、現在のメアリー・エレン・ハミルトンら博物館の維持運営を務め、バーボンの遺産を公衆に利用可能にする彼女たちは、バーボン産業の影の英雄と言ってよい。
入館見学は無料だが募金箱が設置され、寄付は大歓迎。博物館の運営費はケンタッキー・バーボン・フェスティヴァルの期間中に建物のチャペルで毎年開催されるマスターディスティラーズ・オークションによっても賄われる。オークションはヴァン・ウィンクル氏が後援し、出品されるアイテムにはバーボンのオールドボトル、歴史的なアーティファクト、特別リリースのサイン入りボトル、ギフトバスケットなどがあり、それらは地域の蒸留所からの寄付が殆ど。その他に2階3階のスペースを結婚式やレセプションに貸し出したりもするが、博物館には人件費、公共料金、セキュリティシステム費用、保険料が掛かる他、200年近い古さの建物は当然維持費が嵩むだろう。展示を楽しんだ後は寄付を弾みたいところ。
博物館の名になっているオスカー・ゲッツは1897年11月にイリノイ州シカゴで生まれた。禁酒法施行前はウィスキーの仲介業に携わっており、その多彩な性格は最高のセールスマンと評された。1920年にはエマ・エイブルソンと結婚。1933年に禁酒法が終了した後、ゲッツと義理の兄弟レスター・エイブルソンは自らの名でウィスキービジネスに取り掛かる。数年で彼の会社は成功、100人以上の従業員を雇用し、ケンタッキー州バーズタウンにあるトム・ムーア蒸留所の最大代理店となった。トム・ムーア蒸留所によって供給されるバーボンは「オールドバートン」というオリジナルのブランドで販売され、1940年までにゲッツは業界の大手プレーヤーとなる。ウィスキービジネスに変化が見え始めると、彼らは自らのブランドの安定した供給を保証するため、1944年にトムの息子のコン・ムーアからトム・ムーア蒸留所を購入し、プラントの名称をブランドの名前と同じバートン蒸留所に変更した。その名はいくつかの選択肢のうち「ハットから選んだ」名前だったと云う。オスカーは蒸留業界で大きな評判を確立し、酒類産業の「マン・オブ・ザ・イヤー」と名付けられたこともあったらしい。
またオスカーはウィスキーの蒸留プロセスと業界全体にも興味を持っており、しかも歴史の大好きなコレクターでもあった。趣味として収集し始めたアーティファクトや小さなディスプレイ、文書やラベルに広告、ボトルを含む記念品等は膨大な量で、それこそ強迫観念に憑かれたかのような集めぶりだった。彼の妻エマは「もうこれ以上、私の家に古い物は欲しくないの!」と、オスカーに収集物の片付けを要求。そこで彼は渋々、自らのコレクションを展示するため、1957年から蒸留所のオフィスで小さな博物館「バートン・ミュージアム・オブ・ウィスキー・ヒストリー」を始める。この私的博物館は一般公開され、今で言うところの蒸留所ツアーのビジターセンターの魁だった。そしてオスカー自身が学芸員であり歴史家であり講師だった。実際、1978年には彼の著書「Whiskey:American Pictorial History」が出版され、その後何十年に渡り参考ガイドとなる。
オスカーのコレクションは雪だるま式に増え続け、いつしか小さな「ビジターセンター」の枠を超えた。年代がはっきりしないが、ある時エッジウッドにあるフェデラル・スタイルの大きな家に博物館を移転したらしい。オスカーはビジネスを引退し、70年代後半もしくは80年代前半に蒸留所を売って、このコレクションを引き取る。彼は自らの収集物の適切な家を求め、新しい博物館として機能させるべく、古いカトリック神学校を修繕するためバーズタウン市にお金を支払った。残念ながら、彼のヴィジョンが現実のものとなるのを見ることなく、1983年にオスカーは亡くなる。残された妻と息子は、オスカーが過去数十年に渡って蓄積してきたコレクションをみんなに見て欲しいと思い、それを市に寄贈することにした。しかも博物館を支援するために毎年寄付をするとも言ったようだ。一年後の1984年7月、新たに復元されたスポルディング・ホールにコレクションは設置され、オスカー・ゲッツ・ウィスキー歴史博物館が生まれた。オスカーの博物館はいつもでも無料だった。 彼の情熱とコレクションに対する愛情に、全てのバーボンマニアは歓喜し感動を覚え、感謝の念を抱かずにはいられないだろう。

OT
「Old Taylor」の略。バーボン業界の発展に寄与したエドモンド・ヘインズ・テイラーJr.の名を冠したバーボン。一昔前はジムビームが、その前はナショナル・ディスティラーズが製造していた。現在ではバッファロートレースが製造し、同社のプレミアムラインの製品には「コロネル・EH・テイラー」があるため、歴史あるブランドの「オールド・テイラー」はすっかり影を潜めた。
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OWA
「Old Weller Antique」の略。昔はスティッツェル=ウェラー蒸留所、今はバッファロートレース蒸留所で造られている小麦バーボン。ハイプルーフなのが魅力。
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OWO
「Old Weller Original」の略。現在オールドウェラー・アンティークと知られるブランド名は、90年代初頭にラベルに「Antique」の文字が挿入され、そう呼ばれるようになった。それ故、OWOはそれ以前の物を指している。2018-12-22-06-51-26

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