タグ:バッファロートレース蒸留所

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W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴは、現在ではサゼラック・カンパニーが所有するフランクフォートのバッファロートレース蒸留所で製造されているウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)です。元々はスティッツェル=ウェラーによって作成されたブランドでした。ウィーテッド・バーボンと言うのは、全てのバーボンと同様に少なくとも51%のコーンを含むマッシュから蒸留されますが、フレイヴァーを担うセカンド・グレインにライ麦ではなく小麦を用いたバーボンを指します。小麦が51%以上使用されたマッシュを使うウィート・ウィスキーとは異なるので注意しましょう。近年のウェラー・ブランドには人気の高まりから複数のヴァリエーションが展開されていますが、「ウェラー・スペシャル・リザーヴ」はかねてから継続的にリリースされていた三つのうちの一つであり、ラインナップ中で最も安価なエントリー・レヴェルの製品です(他の二つは「アンティーク107」と「12年」)。ブランドの名前はウィリアム・ラルー・ウェラーにちなんで名付けられました。そこで今回は、今日でも広く販売されているバーボンにその名を冠された蒸留酒業界の巨人を振り返りつつ、スティッツェル=ウェラーと小麦バーボンおよびウェラー・ブランドについて紹介してみたいと思います。

ウィリアム・ラルー・ウェラーは、1825年、その起源をドイツに遡る家族に生まれました。蒸留に関わるウェラーの物語はウィリアムの祖父ダニエル・ウェラーから始まります。バーボンの歴史伝承によると、ウィスキー・リベリオンの際に蒸留家らは連邦税から逃れるためにペンシルヴェニア州からケンタッキー州へやって来たとされますが、それは必ずしもそうではありませんでした。独立戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)を戦った世代のダニエルはメリーランド州から来ました。彼の一家はメリーランド州でマッチ作りをしていたそうです。ダニエルは自分の父が他界すると入植者としてケンタッキーに移住することを決め、ネルソン・カウンティの現在はブリット・カウンティ境界線に近い土地を購入します。一家はフラットボートでオハイオ・リヴァーを下ってルイヴィルに向かい、1796年にネルソン・カウンティに来ました。共に来ていたダニエルの兄弟は後に有名なガンスミスになったそうです。
ネルソン・カウンティで彼らは農場を始め、ダニエルはファーマー・ディスティラーになりました。当時の多くの入植者がそうであったように、おそらく彼もコーンを育て現在のバーボンと近いマッシュビルで蒸留していたと見られます。しかし、言うまでもなく当時はまだ「バーボン」という呼び名ではありませんでした。ダニエルがケンタッキー州でのウィスキー・リベリオンに参加していたのかは定かではないそうですが、1800年に三週間ウィスキーを蒸留するライセンスが発行されたことは知られています。これはダニエル・ウェラーの公の記録の中で現存する最古のライセンスで、実際には隣人がウェラーのスティルでウィスキーを造るのを許可するために発行されたものだそうです。これは当時の非常に一般的な慣習とのこと。仮に私が自分で蒸留器を所有していない場合、隣人からスティルを借りて、彼らにウィスキーを作って貰い、私が政府に税金を払う訳です。ウェラーの蒸留器は90ガロンのポットスティルでした。当時の地元の収穫量から判断すると隣人は恐らくその期間に150から200ガロンのウィスキーを製造していたのではないかと歴史家のマイク・ヴィーチは推測しています。1802年にトーマス・ジェファソン大統領がウィスキー税を廃止したため、ダニエル・ウェラーの蒸留所の税務記録は残っていません。
1807年、ダニエル・ウェラーは落馬した際に受けた怪我の合併症で亡くなりました。彼の財産目録には2個のスティル、マッシュ・タブ、クーパーの道具、ジャグ等があり、212.17ドルの価値があったと言います。彼はケンタッキー州初期の典型的な農民蒸留者でした。ダニエルの息子サミュエルは、おそらくこの蒸留装置を受け継ぎ蒸留所の規模を拡大したと思われますが、連邦税がなかったために蒸留所の公式記録はなく、更なるお金を投資したかどうか判りせん。また、サミュエルはラルー・カウンティでウィスキーを造ったようですが、これまた記録がなく1850年代に亡くなった時に蒸留所がどうなったのかも不明です。ともかくウェラー家のリカー・ビジネスに携わる伝統はダニエルからサミュエル、更にその息子ウィリアムへと継承されて行ったのでしょう。

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ウィリアム・ラルー・ウェラーは1825年7月25日に生まれました。彼の母親であり父サミュエルの再婚の妻であるフィービー・ラルー・ウェラーは、ケンタッキー州ラルー郡の創設者ジョン・ラルーの娘です。ウィリアムの幼少期についてはよく分かりませんが、名家と言って差し支えなさそうな出自からして、将来のための相応な教育を受けていたと想像されます。成長したウィリアムは1844年にルイヴィルに移りました。そこで何をしていたかも定かではありませんが、酒類ビジネスに関わっていたのでしょうか。1847年になると彼はルイヴィル・ブリゲイドに加わり、他のケンタッキアンらと共にアメリカ=メキシコ戦争(1846〜1848年)を戦い、中尉の階級に昇進したようです。戦後、ウィリアムはルイヴィルへと戻り、1849年に弟のチャールズと協力して、今日NDP(非蒸留業者)と呼ばれるウィスキーの卸売り販売やレクティファイングを手掛ける「ウィリアム・ラルー・ウェラー&ブラザー」を設立しました。店舗はジェファソン・ストリートと現在のリバティ・ストリートの間にあり、彼らは「誠実なウィスキーを誠実な価格で」というスローガンを掲げたとされます。もしかするとラルー・カウンティで父親が造ったウィスキーを販売していたのかも知れません。

1850年代にルイヴィルは活気に満ちた裕福な都市になっていました。街の成長もあってかウェラーの酒はかなりの人気があったようです。伝説によると、人気があり過ぎて顧客が本物を手に入れたことを保証するために、全ての取引書とウィスキーの樽に緑色のインクで拇印を付けなければならなかったとか。会社の設立とほぼ同じ頃、25歳になっていたウィリアムは結婚するのに十分な経済的基盤を築いており、5歳年上でシェルビー・カウンティ出身のサラ・B.ペンスと結婚しました。彼らはこれからの16年の間に7人の子供(4人の男子、3人の女子)をもうけています。また、1854年に腸チフスの流行により父親と母親が亡くなった後、ウィリアムは弟のジョンを自分の息子として育てました。
或る主張によれば、この時期までにW.L.ウェラーは小麦バーボンを発明したとされます。しかし、当時のウィリアムは自身の蒸留所を所有しておらず、先述のようにあくまでレクティファイヤー、つまり特定の蒸留所からウィスキーを買い上げるとブレンディング、フィルタリング、フレイヴァリング等の手法で仕上げ、販売のためにパッケージ化して顧客に販売する業者だったと見られるのです。当時のルイヴィル市の商工人名録には、ウェラーが国内外のウィスキー卸売り及び小売りディーラーと記載されていました。1871年以降にはウェラー社にもスティルがあり、粗悪なグレードのウィスキーを「コロン・スピリッツ」と呼ばれるニュートラル・スピリッツに再蒸留するために使用していたそうですが、同社はオリジナルの蒸留は行わず、この再蒸留のみを行っているとの声明さえ出していたとか。

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南北戦争の到来は、南寄りのウェラー家に大きな混乱を齎します。ウィリアムの兄弟のうち二人は南軍のために戦いました。弟ジョンは有名なケンタッキーの南軍オーファン・ブリゲイドに加わり、キャプテンの階級に昇進し、チカマーガの戦いで負傷したそうです。別の兄弟はジョージアの南軍にその身を捧げました。ウィリアムとチャールズはルイヴィルの家業に留まり、北と南に出来るだけ多くのウィスキーを売るために中立を保とうとしました。しかし、皮肉なことに会社のパートナーであるチャールズは、1862年、事業債務の回収のためにテネシー州フランクリンに滞在中、多額の現金を所持していたところを二人の銃を持った強盗に襲われ殺害されてしまいます。
南部の敗北の後、キャプテン・ジョンはチャールズに代わって家族の会社で働くようになりました。ウィリアムの息子達が成長するにつれて、彼らも事業に参入し始めます。1870年代に同社は、現在でもアメリカの酒類産業の中心地であるルイヴィルのメイン・ストリートに移転し、社名は「W.L.ウェラー&サン」を名乗るようになりました。ウィリアムの長男ジョージ・ペンス・ウェラーがパートナーでした。また、ウィリアム・ジュニアはクラークとして働いていました。1887年頃、他の息子達が参入した会社は「W.L.ウェラー&サンズ」になります。ウェラー社はオープン・マーケットでウイスキーを購入し、後には同じくルイヴィルのスティッツェル・ブラザーズ蒸留所やアンダーソン・カウンティのオールド・ジョー蒸留所などと大きなロットの契約を結びました。彼らの会社で使用されたブランド名には「ボス・ヒット」、「クリードモア」、「ゴールド・クラウン」、「ハーレム・クラブ」、「ケンタッキーズ・モットー」、「ラルーズ・モルト」、「オールド・クリブ」、「オールド・ポトマック」、「クォーター・センチュリー」、「ローズ・グレン」、「サイラス・B.ジョンソン」、「ストーン・ルート・ジン」、「アンクル・バック」、「アンクル・スローカム・ジン」等があり、旗艦ブランドは「マンモス・ケイヴ」と「オールド・W.L.ウェラー」と「キャビン・スティル」と伝えられます。当時の多くの競合他社とは異なりウェラー社では1905年から殆どのブランドを商標登録していたそう。彼らは宣伝にも積極的で、お得意様へ提供されるアイテムにはバック・バー用のボトルやラベルが描かれたグラス、またはエッチングされたショットグラス等があったようです。
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1893年、後に「パピー」と知られるようになり業界への影響力を持つことになる19歳の青年ジュリアン・ヴァン・ウィンクルがセールスマンとしてウェラーズに入社しました。ウィリアムはヴァン・ウィンクルに決して顧客と一緒に酒を飲まないように教えたと言われています。「もし飲みたくなったら、バッグに入ってるサンプルを部屋で飲みなさい」と。同じ頃、父と仕事を共にする息子は4人いました。ジョージとウィリアム・ジュニアはパートナー、ジョン・C.とリー・ウェラーはクラークでした。1895年に70歳を迎えたウィリアムは自分の衰えを感じ、一年後に引退します。事業は兄弟のジョンと長男のジョージに任せました。数年後の1899年3月、ウィリアムはフロリダ州オカラで亡くなります。死因は「心臓合併症を伴う慢性痙攣性喘息」だったそうです。多くの「ウィスキー・バロンズ」の眠りの場となっているルイヴィルのケイブ・ヒル・セメタリーに埋葬されました。

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今日、ウィリアム・ラルー・ウェラーの名前は小麦バーボンと結びついています。ウェラー・ブランドのラインを現在製造するバッファロー・トレース蒸留所の公式ホームページでも彼について記述されていますし、ウェラー・ブランドのラベルには「The Original Wheated Bourbon」と謳われています。しかし残念なことに、おそらくウィリアムと小麦を使用したバーボンには何の関係もありませんでした。
小麦をフレイヴァー・グレインに使用することは、18世紀後半から19世紀前半のウィスキー・レシピにも見られたようです。ライ麦と小麦のどちらを使ってマッシュを作るかは、それぞれの入手し易さに左右されたのでしょう。ライ麦がバーボンの一般的な第二穀物となって行ったのは、単純に小麦がライ麦よりも高価な穀物であり、小麦粉としての需要も高かったためだと考えられています。近年ではライ麦の代わりに小麦を使用するバーボンがクラフト蒸留所からも発売され市場に出回っていますが、伝統的なブランドとしてはオールド・フィッツジェラルドやW.L.ウェラー、キャビン・スティルにレベル・イェール、そしてメーカーズマークくらいのものでした。勿論ヴァン・ウィンクル系のバーボンも含めてよいかも知れません。歴史家のマイク・ヴィーチによれば、これらのブランドは全て歴史上共通の糸、DNAを持っており、その端緒はスティッツェル・ブラザーズであると言います。
フレデリック、フィリップ、ジェイコブのスティッツェル兄弟は、1872年、ルイヴィルのブロードウェイと26thストリートに蒸留所を建設しバーボンの製造を開始しました。この蒸留所は主要ブランドにちなんでグレンコー蒸留所としても知られ、グレンコーの他にフォートゥナ・ブランドが有名です。彼らはウィスキー造りの実験を行った革新的なファミリーでした。よく知られた話に、フレデリックが1879年にケンタッキー州の倉庫に現在まで存続するウィスキー樽を熟成させるためのラックの特許を取得していることが挙げられます。そしてまた、フレイヴァー・グレインとして小麦を使用したバーボンのレシピを実験してもいました。穀物、酵母、蒸留プルーフ、バレル・エントリー・プルーフ、それらの最良の比率が見つかるまで実験を繰り返したことでしょう。彼らはこのウィスキーを主要ブランドに使用することはありませんでしたが、フィリップの息子アーサー・フィリップ・スティッツェルが1903年にオープンしたストーリー・アヴェニューの蒸留所に、その実験の成果は伝えられていました。
A.Ph.スティッツェル蒸留所は1912年にW.L.ウェラー&サンズのためにウィスキーを製造する契約蒸留の関係にあった記録が残っています。19世紀の業界では多くの契約蒸留が行われていました。W.L.ウェラー&サンズのような会社は蒸留所を所有していなくても、特定の蒸留所と自らの仕様に合わせたウィスキーを造る契約をして、自社ブランドを販売していたのです。テネシー州の一足早い禁酒法によりタラホーマのカスケイド・ホロウ蒸留所が閉鎖された後、1911年にA.Ph.スティッツェル蒸留所はジョージディッケルのカスケイド・ウィスキーを造ることになり、テネシー・ウィスキーのためのチャコール・メロウイング・ヴァットまで設置されていたのは有名な話。契約蒸留は、蒸留所を所有することとバルク・マーケットでウィスキーを購入することのちょうど中間の妥協点でした。バルク・マーケットでウィスキーを購入する場合は売り手の売りたいバレルから選ぶことになり、そのぶん比較的安価な訳ですが、フレイヴァー・プロファイルを自分でコントロールすることは出来ません。契約蒸留ならばウィスキーのマッシュビル、蒸留プルーフ、樽の種類、バレル・エントリー・プルーフ等を契約で指定するので、ウィスキーのフレイヴァー・プロファイルをある程度はコントロールすることが出来ます。しかし、ウェラー社のそれはおそらく小麦バーボンではありませんでした。ウェラー社は大企業とは言い難く、500バレルが年間売上の大部分を占めていたので、スティッツェルが当時のウェラーのためにその量の小麦バーボンを造っていたとは到底信じられない、というようなことを或る歴史家は言っています。レシピに小麦を使用するという考えは何年にも渡る禁酒法期間を通して休眠状態にあり、小麦バーボンが花開くのは禁酒法が廃止されるのを待たねばなりませんでした。
では、話を一旦ウィリアム死後のウェラー社に戻し、続いて禁酒法期間中の事と解禁後にスティッツェル=ウェラーが形成されるまでをざっくり見て行きましょう。

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1899年、W.L.ウェラー&サンズはメイン・ストリートの北側、1stと2ndストリートの間にある大きな店舗をバーンハイム・ブラザーズから購入しました。19世紀末までにウィスキーを他州の市場へ出荷するための主要な手段は鉄道となっていたため、スティームボートに樽を積み込むことが出来るウォーターフロントに近いことは南北戦争後には重要ではなくなっていましたが、それでもこの店舗はW.L.ウェラー&サンズが以前所有していたよりも大きな建物であり、ウィスキー・ロウの中心部にオフィスを構えることには威信があったのです。同年にウィリアムが亡くなったその後、息子のジョージが会社の社長になり、ジョージの末弟ジョンは営業部長を務めました。ジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクル(シニア)や、別の会社のセールスマンから1905年にウェラー社へ加入したアレックス・T・ファーンズリーも会社を大いに盛り上げたことでしょう。パピーとファーンズリーの二人はよほど有能だったのか、1908年、共に会社の株式を買い、会社に対する支配権を取得します。ジョージ・ウェラーは1920年の禁酒法の開始時に引退するまで社長として残りました。この新しいパートナー達は元の名前を維持しましたが、新しいビジネス戦略を採用しました。彼らはウィスキー原酒のより安定的な供給を確保するために蒸留所の少なくとも一部を所有する必要性を認識し、スティッツェル蒸留所に投資します。ほどなくしてアーサー・フィリップ・スティッツェルはビジネス・パートナーになりました。禁酒法がやって来た時、スティッツェルは禁酒法期間中に薬用スピリッツを販売するライセンスを取得します。パピーはA. Ph.スティッツェル蒸留所の所有権も有していたので、この合弁事業によりW.L.ウェラー&サンズはスティッツェル社のライセンスに便乗し、スピリッツを販売することが可能となりました。こうして1920年に禁酒法が施行される頃、W.L.ウェラー&サンズはパピーが社長、アーサーが秘書兼会計を務め、逆にA.Ph.スティッツェル社はアーサーが社長、パピーが書記兼会計を務めていました。そしてファーンズリーは両社の副社長です。

禁酒法は蒸留所での生産を停止しましたが、A.Ph.スティッツェル蒸留所のサイトは統合倉庫の一つとなり、薬用スピリッツの販売を続けます。W.L.ウェラー&サンズは禁酒法の間、メイン・ストリートの建物に事務所を置いていました。ジュリアン・ヴァン・ウィンクルは、そこから営業部隊を率いて、全国で薬用スピリッツのパイントを販売しようと努めました。アレックス・ファーンズリーもそこに事務所を持っていましたが、禁酒法の期間中はフルタイムで銀行の社長を務めていたので忙しかったらしい。アーサー・フィリップ・スティッツェルの事務所はストーリー・アベニューの蒸留所にありましたが、ウェラーの事務所を頻繁に訪れていたそうです。
禁酒法下の薬用ウィスキー・ビジネスで蒸留業者は、ブランドを存続させるために他社からウィスキーを仕入れたり、統合倉庫に自らのブランドを置いている企業のためにウィスキーをボトリングし、単純に保管料や瓶詰代や少額の販売手数料を徴収していました。スティッツェル社は禁酒法期間中にヘンリー・マッケンナのブランドを販売していたそうです。彼らはブランドやウィスキー自体を所有していませんでしたが、マッケンナはスティッツェルの統合倉庫にウィスキーを置いていました。スティッツェル社とライセンスを共有していたW.L.ウェラー社は、ヘンリー・マッケンナを1ケース1ドルの手数料で販売し、樽の保管料とボトリング費用(材料費と人件費)を売上から請求したと言います。
1928年、薬用スピリッツの在庫が少なくなると、政府はライセンスを持つ蒸留所に酒類を蒸留して在庫を補充することを許可しました。許可された量はライセンスを持つ会社が保有する既存の在庫の割合に応じて決められています。A.Ph.スティッツェル蒸留所がどれ位の量を蒸留したかはよく分かりませんが、自分たちのため以外にもフランクフォート・ディスティラリーとブラウン=フォーマン社のためにバーボンを生産したそうです。これらの蒸留会社は1928年時点では稼働中の蒸留所を所有していなかったので、A.Ph.スティッツェル蒸留所が割り当てられたウィスキーの蒸留を請け負いました。1929年にブラウン=フォーマンはルイヴィルの自らの蒸留所を稼働させ蒸留を開始しましたが、フランクフォート・ディスティラリーは禁酒法が撤廃された後もA.Ph.スティッツェル蒸留所で契約蒸留を続けました。
"ドライ・エラ"に薬局に提供されたW.L.ウェラー&サンズのバーボンには、禁酒法以前から人気のあった「マンモス・ケイヴ」があります。他にどれだけの種類のラベルが制作されているのか私には把握出来ませんが、「オールド・W.L.ウェラー(白ラベル)」名義のバーボンとライをネット上で見かけました。あと禁酒法末期頃ボトリングの「オールド・フィッツジェラルド」や「オールド・W.L.ウェラー(緑ラベル)」や「オールド・モック」はよく見かけます。

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禁酒法以前からパピー・ヴァン・ウィンクルのW.L.ウェラー社はA.Ph.スティッツェル蒸留所が生産するバーボンを多く購入していた訳ですが、パピーは禁酒法期間中にその終了を見越してA.Ph.スティッツェル蒸留所を購入し、スティッツェル=ウェラーを結成します。禁酒法が廃止された後、二つの会社は正式に合併してジェファソン郡ルイヴィルのすぐ南にあるシャイヴリーに新しい蒸留所を建設しました。この蒸留所こそが小麦バーボンの本拠地となって行く1935年のダービー・デイにオープンしたスティッツェル=ウェラー蒸留所です。A.Ph.スティッツェル蒸留所は新しくスティッツェル=ウェラー蒸留所が開設された時にフランクフォート・ディスティラリーに売却されました。フランクフォート・ディスティラリーは、こことスティッツェル=ウェラー蒸留所に近いシャイヴリーのディキシー・ハイウェイに建設した別の蒸留所でフォアローゼズを製造しました。この蒸留所は1940年代にシーグラムがフランクフォート・ディスティラリーを買収した後も存続しましたが、1960年代に閉鎖されたそうです。
新しく始動した会社でパピー・ヴァン・ウィンクルは社長に就任し、セールスを担当しました。アレックス・ファーンズリーは副社長として残り財務を担当、同時にシャイヴリーのセント・ヘレンズ銀行の頭取でもありルイヴィル・ウォーター社の副社長でもありました。アーサー・スティッツェルも副社長で、製造を担当したとされます。パピーはスティッツェル=ウェラー蒸留所でウィーテッド・バーボンを造ることにしました。それはスティッツェル兄弟が何年も前から実験していたレシピでした。それを採用した理由は、会社の役員であるパピー、アーサー、ファーンズリーらは小麦レシピのバーボンを熟成が若くても口当たりが良く美味しいと考えたからだと言われています。これはウィスキーの熟成があまり進んでいない段階では重要なことでした。本来、市場に出すのに適した良質なボンデッド規格のバーボンは、熟成させるのに少なくとも4年は掛かります。禁酒法廃止後の市場のニーズに応えるのに、もっと若い熟成年数で売れる製品が必要だった訳です。彼らはまず初めに「キャロライナ・クラブ・バーボン」の1ヶ月熟成をリリースし、その後3ヶ月物、6ヶ月物、1年物と続けます。そうして主要ブランドに入れる4年熟成のバーボンが出来上がるまでこのブランドを維持しました。彼らの主要ブランドはオールド・フィッツジェラルド、W.L.ウェラー、キャビン・スティルです。後年、のちにウェラー・アンティークとなるオリジナル・バレル・プルーフというヴァリエーションや、1961年にはレベル・イェールを導入し、60年代後半にはオールド・フィッツジェラルド・プライムがポートフォリオに追加され、また他にも幾つかのプライヴェート・ラベルを個人店向けに作成しましたが、ウィーテッド・バーボンはスティッツェル=ウェラー蒸留所が造った唯一のレシピであり、それらは全て同じウィスキーであっても熟成年数やボトリング・プルーフを変えることで異なったものになりました。

1940年代後半頃でもスティッツェル=ウェラー蒸留所の複合施設はまだ成長していたそうです。しかし、会社の幹部は40年代に相次いでこの世を去りました。アレグザンダー・サーマン・ファーンズリーは1941年に亡くなっています。蒸留業以外でも活躍した彼は他の会社の社長も兼任し、またルイヴィルのペンデニス・クラブの会長を2期務めました。彼の名を冠したパー3のゴルフコースがシャイヴリーにあるとか。アーサー・フィリップ・スティッツェルは1947年に亡くなっています。どうやら彼の死後にスティッツェル・ファミリーで蒸留業に就いた人はいないようです。残されたジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルは1960年代まで生き、引き続き会社を牽引しました。
パピーは優秀なビジネスマンでありカリズマティックなリーダーでしたが、所謂マスター・ディスティラーではありませんでした。スティッツェル=ウェラーの最初のマスター・ディスティラーはウィル・マッギルです。彼はジョーことジョセフ・ロイド・ビームの義理の兄弟でした。二人はジョーよりかなり年上の兄であるマイナー・ケイス・ビームによって訓練されました。禁酒法以前の若い頃、彼らはケンタッキー州の様々な蒸留所で一緒に働いていたそうです。1929年、禁酒法以前の在庫が無くなりかけていたため政府が「ディスティリング・ホリデイ」を宣言し、薬用ウィスキーのライセンス保持者へ蒸留を許可すると、パピーはジョーと彼のクルーを呼び、A.Ph.スティッツェル蒸留所のスティルに火を入れるように依頼しました。おそらく、その頃からマッギルも何らかの関係を持っていたのでしょう。マッギルがスティッツェル=ウェラーで直面したのはタフな仕事でした。可能な限り最高のウィスキーを造るために懸命に新しい蒸留所の全ての癖を把握しなければならなかったのです。エイジングの過程も考えれば数年は掛かり、簡単な仕事ではありません。製造初年度のウィスキーをテイスティングしたことがある方によると、当時から良いものだったけれど年を重ねて更に良くなって行ったと言います。ちなみに、スティッツェル=ウェラーでマッギルは何人かのビーム家の甥っ子を雇っていたとされ、その中で最年長のエルモは後にメーカーズマークの初代マスター・ディスティラーとなっています。
マッギルは1949年頃に引退し、その座はアンディ・コクランに引き継がれました。コクランは若くして亡くなり、蒸留したのは数年だけでした。彼の後釜はロイ・ホーズ(Roy Hawes)です。ホーズはスティッツェル=ウェラーの歴史の中で最も在職期間の長いマスター・ディスティラーでした。彼は50年代前半から70年代前半までの約20年間をそこで過ごし、スティッツェル=ウェラーの全盛期を支え続けたと言っても過言ではないでしょう。亡くなる寸前までまだ技術を学んでいたという熱心なホーズは蒸留所と共に成長し、在職中に多くの優れたバーボンを造りました。
1972年に蒸留所がノートン・サイモンに売却された頃からはウッディ・ウィルソンがディスティラーです。時代の変化はバーボンのフレイヴァー・プロファイルも変えました。新しいオウナーはバレル・エントリー・プルーフを上げるなどして蒸留所の利益を上げようとします。ウィルソンは冷徹な「企業の世界」とバーボンの売上の減少に対処しなければなりませんでした。それでも彼はホーズから学んだクラフツマンシップで良質なバーボンを造りました。ウィルソンが1984年に引退するとエドウィン・フットが新しいディスティラーとして採用されます。
エド・フットは既にウィスキー業界で20年のキャリアを積み、シーグラムを辞めてスティッツェル=ウェラーに入社しました。ホーズやウィルソンに蒸留所やS-W流のやり方を教わったと言います。しかし、フットの時代もまた変化の時代でした。フットはマッシュビルに含まれるバーリーモルトを減らし、酵素剤を使って糖への変換をすることを任されます。バレル・エントリー・プルーフもこっそりと更に少しだけ高くなりました。依然として優れたウィスキーであったものの、それはホーズやウィルソンが造った製品とは異なるウィスキーになっていたのです。そして1992年に蒸留所は閉鎖され、蒸留は完全に停止。フットはスティッツェル=ウェラー最後のマスター・ディスティラーでした。スティッツェル=ウェラー蒸留所については、以前のオールド・フィッツジェラルド・プライムの投稿でも纏めてありますので参考にして下さい。
では、そろそろW.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴに焦点を当てましょう。

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スペシャル・リザーヴは早くも1940年代初頭には発売されていました。新しいスティッツェル=ウェラー蒸留所が稼働し始めて比較的初期の蒸留物が熟成しきった時にボトリングされているのでしょう。そうした初期のスペシャル・リザーヴはボトルド・イン・ボンド表記のボトリングで、熟成年数は7年、6.5年、8年等がありました。冒頭に述べたように、現代のスペシャル・リザーヴはウェラー・ブランドの中でエントリー・レヴェルの製品であり「スペシャル」なのは名前だけとなっていますが、40〜50年代の物は旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドに負けず劣らず「特別」だったと思われます。おそらくパピーの死後まで全てのスペシャル・リザーヴはボンデッド規格だったのでは? 60年代中頃になると現在と同じ90プルーフのヴァージョンが登場し、同時にBiBもありましたが、後年ウェラー・アンティークとなる「オリジナル・バレル・プルーフ」の発売もあってなのか、ブランドは徐々に差別化され、スペシャル・リザーヴと言えば7年熟成90プルーフに定着しました。そして、白ラベルに緑ネックが見た目の特徴のそれは長らく継続して行きます。

スティッツェル=ウェラー蒸留所はその歴史の中で幾つかの所有権の変遷がありました。それはブランド権の移行を伴います。1965年のパピーの死後しばらくすると、ファーンズリーとスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、パピーの息子ジュリアン・ジュニアは会社を維持できず、1972年にノートン・サイモンのコングロマリットへの売却を余儀なくされました。ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。1984年、ディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。もう一方の流れとして、「ビッグ・フォー」の一つだったシェンリーを長年率いたルイス・ローゼンスティールは会社を1968年にグレン・オールデン・コーポレーションに売却しました。そのグレン・オールデンは1972年に金融業者メシュラム・リクリスのラピッド・アメリカンに買収されます。リクリスは1986年にギネスがディスティラーズ・カンパニー・リミテッドを買収した際の株価操作の申し立てに巻き込まれ、翌1987年、ギネスにシェンリーを売却しました(シェンリーは以前ギネスを米国に輸入していた)。こうしてユナイテッド・ディスティラーズはアメリカン・ウィスキーの優れた資産を手中に収めます。彼らはアメリカでの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所やその他の蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルのディキシー・ハイウェイ近くウェスト・ブレッキンリッジ・ストリートに当時最先端の製造技術を備えた近代的で大きな新しい蒸留所を建設しました。それはシェンリーが長年メインとしていた旧来のバーンハイム蒸留所とは全く異なるニュー・バーンハイム蒸留所です。以後、結果的に短期間ながら彼らの所有するブランドはそこで製造されます。ちなみにオールド・バーンハイムが稼働停止した80年代後半から新しい蒸留所が92年に出来上がるまでの数年間、ユナイテッド・ディスティラーズはエンシェント・エイジ蒸留所(現バッファロー・トレース蒸留所)に契約蒸留で小麦バーボンを造ってもらっていました(これについては後述します)。
94年頃には、ユナイテッド・ディスティラーズはバーボン・ヘリテージ・コレクションと題し、自社の所有する輝かしい5ブランドの特別なボトルを発売しました。そのうちの一つが「W.L.ウェラー・センテニアル10年」です。
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数年後、蒸留所の親会社は多くのM&Aを繰り返した末、1997年に巨大企業ディアジオを形成しました。同社はアメリカン・ウィスキーは自分たちの本分ではないと認識し、今となっては勿体ない話ですが、その資産のうちI.W.ハーパーとジョージ・ディッケル以外のブランドの売却を決定します。1999年のブランド・セールで旧スティッツェル=ウェラーの遺産(ブランド)は三者に分割されました。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、バーズタウンの蒸留所を火災で失い新しい蒸留施設を求めていたヘヴンヒルに、バーンハイム蒸留所と共に売却されます。レベル・イェール・ブランドはセントルイスのデイヴィッド・シャーマン社(現ラクスコ)へ行きました。そして、ウェラー・ブランドは旧シェンリーのブランドだったオールド・チャーターと共にサゼラックが購入しました。サゼラックは1992年にフランクフォートのジョージ・T.スタッグ蒸留所(=エンシェント・エイジ蒸留所、現バッファロー・トレース蒸留所)を買収していましたが、自社蒸留原酒が熟成するまでの期間、販売するのに十分な在庫のバレルも購入しています。W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴはサゼラックが購入してからも従来と同じラベル・デザインを使いまわし、所在地表記が変更されました。
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2001年になるとウェラー・ブランドに「W.L.ウェラー12年」が新しく導入されます。おそらく、初登場時には下の画像のような安っぽいデザインが採用されたと思います。隣の12年と同デザインの「スペシャル・リザーヴ」が付かない「W.L.ウェラー7年」は短期間だけヨーロッパ市場に流通した製品。
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それと同時期の2000年、2001年、2002年には特別な「W.L.ウェラー19年」が発売されました。これらは90プルーフにてボトリングされ、純粋なスティッツェル=ウェラー・ジュースと見られています。この特別なボトルは、2005年からは「ウィリアム・ラルー・ウェラー」と名前の表記を変え、ジョージ・T.スタッグ、イーグルレア17年、サゼラック18年、トーマス・H.ハンディと共に、ホリデイ・シーズンに年次リリースされるバッファロー・トレース・アンティーク・コレクション(BTAC)の一部になりました。こちらはバレル・プルーフでボトリングされる約12年熟成のバーボンです。BTACは現在、「パピー・ヴァン・ウィンクル」のシリーズと同じく大変な人気があり、現地アメリカでも欲しくても買えないバーボンになってしまい、日本に輸入されることはなくなりました。
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また、上記のBTACほどのプレミアム感はありませんが、ユナイテッド・ディスティラーズが「遺産」と銘打ったW.L.ウェラー・センテニアル(10年熟成100プルーフ)も継続して販売されていました。ラベルの所在地表記はUD時代のルイヴィルからバッファロー・トレース蒸留所のあるフランクフォートに変更されています。フランクフォート記載のラベルでも、キャップのラップにはUD製と同じく「Bourbon Heritage Collection」の文字とマークが付けてあり紛らわしい。フランクフォート・ラベルのセンテニアルには年代によって3種あり、ボトルの形状とキャップ・ラッパーが少しだけ違います。最終的にはラップから「BHC」がなくなり色は黒からゴールドに変更、そしてこの製品は2008年か2009年に生産を終了しました。
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ウェラー・ブランドは、どこかの段階で完全にバッファロー・トレースの蒸留物に切り替わりました。7年熟成の製品なら、単純な計算でいくと2006年くらいでしょうか? 原酒の特定が難しいのは1999〜2005年までのスタンダードな7年製品と12年熟成の物です。問題をややこしくしているのは、先述のエンシェント・エイジ蒸留所がユナイテッド・ディスティラーズのために製造していた小麦バーボンの存在。ユナイテッド・ディスティラーズは80年代後半から90年代初頭にアメリカ南部限定販売だったレベル・イェールを世界展開することに決め、10年間で100万ケースの製品にすることを目標にしていたと言います。それがエンシェント・エイジと契約蒸留を結んだ理由でしょう。しかし、10年経ってもそれは実現しませんでした。更に、ユナイテッド・ディスティラーズ管理下のニュー・バーンハイムでも小麦バーボンは造られていました(ただし、生産調整のためか、1994年半ばまでは実際にはあまり蒸留していなかった)。つまり過剰生産のため2000年頃に小麦バーボンは大量にあったのです。実際のところ、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世(パピーの孫)がバッファロー・トレースとタッグを組みフランクフォートへと事業を移した理由は、大量の小麦バーボンを彼らが保有していたからかも知れません。また、この頃のバーンハイム・ウィーターの余剰在庫はおそらくバルク売りされ、後にウィレット・ファミリー・エステートを有名にしたものの一つとなったと思われます。サゼラックはウェラー・ブランドの購入時に樽のストックも購入していますから、そうなると理屈上ボトルにはスティッツェル=ウェラー、ニュー・バーンハイム、エンシェント・エイジという三つの蒸留所産の小麦バーボンを入れることが出来ました。12年の初期の物などは単純に逆算すると80年代後半蒸留、ならばスティッツェル=ウェラー産もしくはUD用に造られたエンシェント・エイジ産の可能性が高いのでは…。7年熟成のスペシャル・リザーヴやアンティーク107は概ねニュー・バーンハイム産かなとは思うのですが、真実は藪の中です。もしかするとバーンハイムを軸に他の蒸留所産のものをブレンドしているなんてこともあるのかも。それと、90年代後半までのバーボンには記載された年数より遥かに長い熟成期間を経たバレルが混和されボトリングされていたと言われます。過剰供給の時代にはよくある話。90年代初頭に造られた小麦バーボンが大量に出回っていたため、2000年代前半の7年熟成製品には実際にはもっと古い原酒が使われていた可能性があります。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? 感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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さて、正確な年代が特定できないのですが、ウェラー・ブランドは2010年前後あたりにパッケージの再設計が行われました。紙ラベルが廃止され、ボトルが球根のような形状の物に変わります(トップ画像参照)。同じくサゼラックが所有するバートン蒸留所の代表銘柄ヴェリー・オールド・バートンの同時期の物と共通のボトルです。おそらくこの時にNAS(No Age Statement)になったかと思いますが、その当時のバッファロー・トレースのアナウンスによれば中身は7年相当と言ってました。しかし、その後の中身はもしかすると、もう少し若い原酒をブレンドしたり、熟成年数を短くしてる可能性は捨てきれません。

アメリカでのバーボン・ブームもあり、2010年代を通してバッファロー・トレース蒸留所および小麦バーボンの人気はより一層高まりました。それを受けてか、ウェラー・ブランドは2016年12月からパッケージを刷新します。従来のボトルのカーヴィなフォルムを維持しながらも背が高く、より洗練された雰囲気のラベルのデザインです。ブランド名にあったイニシャルの「W.L.」が削除され、スペシャルリザーブ(90プルーフ)を緑、アンティーク(107プルーフ)を赤、12年(90プルーフ)を黒というように、各ヴァリエーションに独自の明確な色を割り当て、全面的に押し出すようになりました。
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そして2010年代後半になってもウェラー人気は衰えることを知らず、矢継ぎ早にブランドを拡張して行きます。2018年には白ラベルの「C.Y.P.B.(Craft Your Perfect Bourbonの略。95プルーフ)」、2019年には青ラベルの「フル・プルーフ(114プルーフ)」、2020年6月からは橙ラベルの「シングル・バレル(97プルーフ)」が追加されました。これらは1年に1バッチの限定リリースとなっています。

兎にも角にもウェラー・ブランドの人気は凄まじいものがありますが、その際たるものと言うか被害者?はウェラー12年です。一昔前は20ドル程度、現在でも希望小売価格は約30ドルなのですが、150〜250ドル(或いはもっと?)で売られることもあるのです。この悲劇の遠因はパピー・ヴァン・ウィンクル・バーボンであると思われます。
もともとウェラー12年はその熟成年数の割に手頃な価格であり、市場に少ない小麦バーボンとしてバーボン・ドリンカーから支持を得ていました。某社がリリースする10年熟成のバーボンが100ドルを超える希望小売価格からすると、如何に安いかが分かるでしょう。30ドルのバーボンなら、普通は5〜6年熟成が殆どです。2000年代半ばまでにウェラー12年の人気は急上昇しましたが、それでもまだ希望小売価格または適正価格で酒屋の棚で見つけることが出来たと言います。しかし、その後の恐るべきパピー旋風がやってくると状況は変わりました。2000年代後半から2010年代初頭にかけて、著名人や有名なシェフがパピー・ヴァン・ウィンクル15年、20年、23年を貴重なコレクター・アイテムに変えてしまったのです。それらは店の棚から姿を消し、流通市場で天文学的な価格に釣り上げられ、欲しくても手に入らない、飲みたくても飲めない聖杯となりました。ブームとは「それ」に関心のなかった大多数の層が「それ」に関心を寄せることで爆発的な需要が喚起され起こる現象です。バーボン・ドリンカーと一部のウィスキー愛好家だけのものだったパピー・バーボンは、一般誌やTVでも取り上げられる関心の対象となりました。パピー・バーボンが手に入らないとなれば、次に他のヴァン・ウィンクル製品が着目されるのは自然の勢いだったでしょう。「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」や「ヴァン・ウィンクル・ロットB」というパピー・バーボンより安価だったものも軒並み高騰しました。そこで更に次に目を付けられるのはヴァン・ウィンクル製品と同じ小麦レシピを使ったバッファロー・トレースの製品という訳です。実際のところウェラー・ブランドとヴァン・ウィンクル・ブランドの違いは熟成年数を別とすれば、倉庫の熟成場所とジュリアン3世が選んだ樽かバッファロー・トレースのテイスターが選んだ樽かという違いしかありません。それ故「パピーのような味わい」の代替製品としてウェラー12年が選ばれた、と。また同じ頃、パピー・バーボンを購入できない人向けに「プアマンズ・パピー」というのがバーボン系ウェブサイトやコミュニティで推奨され話題となりました。これは「高級なパピーを飲めない人(貧乏人)が飲むパピー(の代用品)」という意味です。具体的には、ウェラー・アンティーク107とウェラー12年を5:5もしくは6:4でブレンドしたもので、かなりパピー15年に近い味になるとされます。こうしたパピー・バーボンの影響をモロに受けたウェラー12年は見つけるのが難しくなっています。ただし、それは「パピー」のせいばかりではありません。低価格の優れたバーボンを見つけてバンカリングすることは、昔からバーボン・マニアがして来たことです。詰まるところそれはバーボン・ブームの影響であり、単純な需要と供給の問題…。
まあ、それは措いて、そろそろ今回のレヴュー対象W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴの時間です。ちなみにバッファロー・トレース蒸留所の小麦バーボンのマッシュビルは非公開となっています。

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE NAS 90 Proof
推定2016年ボトリング(おそらくこのボトルデザイン最後のリリース)。トフィー→苺のショートケーキ、古びた木材、赤いフルーツキャンディ、穀物、僅かな蜂蜜、湿った土、少し漢方薬、一瞬メロン、カレーのスパイス。とてもスイートなアロマ。まろみと水っぽさを両立した口当たり。パレートは熟れたチェリーもしくは煮詰めたリンゴ。余韻はさっぱり切れ上がるが、アーシーなフィーリングも現れ、オールスパイスのような爽やかな苦味も。
Rating:86.5→85/100

Thought:全体的に甘さの際立ったバーボン。スティッツェル=ウェラーの良さを上手くコピー出来ていると思います。同じウィーターで度数も同じのメーカーズマークと較べると、こちらの方が甘く酸味も少ない上に複雑なフレイヴァーに感じました。比較的買い易い現行(これは一つ前のラベルですが…)のロウワー・プルーフのウィーテッド・バーボンとしては最もレヴェルが高いと思います。ただし、私が飲んだボトルは開封から半年を過ぎた頃から、やや甘い香りがなくなったように思いました。レーティングの矢印はそれを表しています。

Value:とてもよく出来たバーボンです。けれど世界的にも人気があるせいか、ウェラー・ブランドというかバッファロートレース蒸留所のバーボン全般が昔より日本での流通量が少なくなっています。価格も一昔前は2000円代で購入できてたと思いますが、現在では3000円代。それでも買う価値はあると個人的には思います。3000円代半ばを過ぎるようだとオススメはしません。あくまで安くて旨いのがウリだから。


ありがたい事にスティッツェル=ウェラー蒸留時代のスペシャル・リザーヴもサイド・バイ・サイドで飲めたので、最後におまけで。これは大宮のバーFIVEさんの会員制ウイスキークラブで提供されたもの。ワンショットでの試飲です。

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(画像提供Bar FIVE様)

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE 7 Years Old 90 Proof
推定80年代後半ボトリング。バタースコッチ→黒糖、ナッティキャラメル、ディープ・チャード・オーク、柑橘類のトーン、煮詰めたリンゴ、ベーキングスパイス。味わいはレーズンバターサンド。余韻は穀物と同時にタンニンやスパイスが現れ、後々まで風味が長続きする。そもそも熟成感がこちらの方が断然あり、香りも余韻も複雑で強い。
Rating:87/100


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Branton Distilling Company KENTUCKY STRAIGHT  BOURBON WHISKEY 93 Proof
Dumped on 5/28/87
Barrel No. 639
Warehouse H on Rick No. 30
今回もバー飲み投稿。この度お邪魔したフストカーレンさんはブラントンズの年代別の取り揃えが多いのを知っていたので、87年ボトリングの物をリクエストしました。マスターが87年をお気に入りと聞いていたのです。その理由はここでは書きませんので気になる方は店に伺った際、直接訊いてみて下さい。開封済みの87年は少し前に飲み干されたそうで、新たなストックを開封して頂きました。
開栓直後のせいか、始めはアロマが立ちませんでしたけど、時間をおくと徐々に開いてきました。焦樽やキャラメルと共に湿った木材調のオールド・ファンクもあります。きっと、もう少し時間をかけると風味は濃密になるのではないかという予想。今後に期待ですね。ブラントンズは比較的液面が低下しやすいバーボンというかコルク栓という印象がありますが、このボトルもそれなりに低下していました。写真のボトルの液面はハーフショットを注いだのみです。けれど特に劣化はなく感じました。
そもそもブラントンズはシングルバレルなので味の一貫性は問われないし、オールドボトルゆえのコンディションの差もあるだろうし、なにより私自身それほどブラントンズの経験値がある訳でもないのですが、基本的に90年代の物より80年代の物の方がオーキーな傾向にあるような気がします。熟成年数が長そうな深みのある味わいと言うか…。ブラントンズのマニアの方はどう思われるでしょう? コメントよりご意見どしどしお寄せ下さい。
Rating:87/100

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バッファロートレース蒸留所の造るライウィスキー、サゼラック・ライ。その名称はニューオリンズのコーヒーハウス(バー)、延いてはバッファロートレースの親会社サゼラック・カンパニー、及び神話的なクラシック・カクテルの名前から付けられています。同社が年次リリースするバッファロートレース・アンティーク・コレクション(BTAC)に有名な兄(父)の「サゼラック18」があるため、通称「ベイビーサズ」と呼ばれたり、或いは熟成年数がNASながら実際には6年とされていることから「サゼラック6」と表記されることも。ちなみにBTACにはサゼラック・ライのバレルプルーフ・ヴァージョンとも言えそうな「トーマス・H・ハンディ」もあります。
ベイビーサズで使われるレシピは公表されていませんが、噂では51%ライ/39%コーン/10%モルトとされ、だとすると典型的なケンタッキー・スタイル・ライウィスキーのマッシュビルです。ところで、このウィスキーはBTACのサゼラックと同じ名前を共有するものの、現在のサゼラック18年は今のところまだバッファロートレースによって蒸留されたジュースではありません。初期の物はメドレー・ライと目され、後の物はバーンハイム、または過渡期にはそれらをヴァッティングした物である可能性も考えられます。バッファロートレースは、サゼラック18年を熟成が進まないようステンレスタンクに容れ何年も保持し、それをリリースしているのです。

多くの人が「サゼラック」と聞いて思い浮かべるのは、このライウィスキーでもサゼラック・カンパニーでもなく、大抵はカクテルのことだと思います。サゼラックはアメリカ初のカクテルであるとか、最古のカクテルであると言われることがあり、カクテルの歴史の中でも伝説的な扱いを受けていますから。ベイビーサズの発売初年度を調べていて、結局は特定できなかったのですが、その途中「サゼラックライ6は2000年にサゼラックの公式酒になった」との情報を目にしました。そうなるとベイビーサズは2000年から発売されているのかも知れません。発売年は措いて、とにかく今ではサゼラックに欠かせないのがライウィスキーとなっています。しかし、それは比較的最近の歴史です。その発祥の頃はサゼラックという名前のフランスのブランディが使われていました。現在のサゼラックは大雑把に言うとライウィスキー、角砂糖、ビターズ、アブサン、レモンが使われるのが標準的なカクテルです。
殆どの偉大な伝説は真実がしばしば噂と伝聞の背後に隠れよく見えません。そして、隠れてよく見えないからこそ人は惹きつけられ、ますますそれについて語りたくなります。そこで、今回レビューするサゼラック・ライ自体からはやや離れてしまいますが、せっかくなのでサゼラックの謎めいた起源と魅力的な歴史に少し触れたいと思います。

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(Wikimedia Commonsより)

世界中のバーテンダーの間で情熱的に挑戦されるカクテル、サゼラック。これほどニューオリンズに関連するカクテルはありません。そしてまた、これほど広範な説明を要するカクテルもなかなかないでしょう。その物語はアントワン・アメディ・ペイショーという男と彼自身のビターズから始めるのが適切なようです。なぜなら、ベースとなる蒸留酒の変更やアブサンとレモンはある時もない時もありましたが、ペイショーのビターズなくしてはサゼラックの誕生はなかったように思われるからです。

1803年、ルイジアナ買収(アメリカ視点の言い方)として知られる出来事がありました。南はニューオリンズから北はカナダまで伸びるアメリカ中西部全域、今のアメリカ全体の3分の1にも当たる土地は、当時ナポレオン・ボナパルト執政下のフランスの領土でした。フランスの君主であるルイ14世にちなんでルイジアナと名付けられたこの土地は、新しいナポレオン・アメリカの「夢」の一部でした。しかし、大陸での戦費の補填と政治的理由からルイジアナの土地とその首都ヌーヴェル=オルレアン(後のニューオリンズ)は、ナポレオンによって「若きアメリカ」に破格の1500万ドルで売られたのです。
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(緑の部分がアメリカへ売却されたフランス領ルイジアナ、Wikimedia Commonsより)

このルイジアナ売却(フランス視点の言い方)には、黒人奴隷労働による砂糖プランテーションがフランス経済を支えていたエスパニョーラ島の西側約3分の1を占めるフランス領サン=ドマングの奴隷反乱の影響もあったでしょう。1697年からフランス領になっていたサン=ドマングは、フランス革命に刺激されて黒人奴隷の反乱が起き、1804年1月1日を以てハイチ共和国として独立を宣言、ラテンアメリカ地域では最初の独立国家となりました。フランスも1825年には承認しています。革命の結果、多数のフランス植民者がアメリカ大陸全体に移動し、暴動と経済崩壊を免れました。1809年までに一万人近くのフランス人難民がハイチからニューオリンズに迫害を逃れたそうで、その数は1年で都市の人口をほぼ倍増させ、今日まで続くニューオリンズ独特の文化を醸成させる要因の一つとなります。3年後の1812年、ルイジアナはアメリカ合衆国の公式州となりました。

この期間のある時点で、アントワン・アメディ・ペイショーもサン=ドマング難民の大衆と共にニューオリンズに逃れて来た一人でした。「ある時点で」と言ったのは、ニューオリンズへの到着時期が特定できないからです。一説には、奴隷による暴動と反抗が勃発した後、ボルドー出身の裕福な父親がコーヒー農園を所有していたサン=ドマング島から逃げることを余儀なくされ、1795年にニューオリンズに難民として到着した、とする情報もありました。しかし、ペイショーは1883年6月30日に80歳で亡くなったと死亡証明書に記録されているようです。そこから彼の生年は1803年頃と推定しているウェブ記事が多く、この人物がビターズのペイショーで間違いないのであれば、1795年にはまだ産まれてないことになります。
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(Wikimedia Commonsより)

不明確な到着時期は脇に措き、成長して薬剤師となったペイショーは、歴史的な影響力を持つことになるビターズを生み出しました。それは今日アメリカで2番目に売れているビターズであり、世界のトップ・カクテル・バーに欠かせない材料です。ニューオリンズ薬局博物館によると、ペイショーは1841年(もしくは1834年や1838年という説もあった)、フレンチクォーターの437ロイヤル・ストリートにファーマシー・ペイショーと呼ばれる自らの薬局を開設し、そこで特許を受けたペイショーズ・ビターズという名前のアニシードとリンドウの豊かでハーバルな治療薬を調剤することで有名になったと言います。聞くところでは、アンゴスチュラビターに匹敵するが、より軽いボディ、より甘い味、よりフローラルなビターズだったそう。そのような「アメリカン・アロマティック・ビター・コーディアル」、一口に言えば薬用強壮剤は当時流行しており、多くの同様の製品がありました。ペイショーに先行するビターズで、1712年にイギリスで特許を取得し、初期入植者と共にアメリカに導入されたエリクサーだったと云うストートン・ビターズはそうした一例です。もともとペイショーに匹敵する規模のライバルでしたが、そのレシピを早期に公開するというミスを犯し、多くの模倣品や偽物が市場にリリースされ、19世紀を通しては生き残れなかったのだとか。ストートン・ビターズは現在でも復刻販売されていますが、中身は昔の物とだいぶ違うようです。
では、なぜペイショーズ・ビターズは生き残ったのか。勿論、常にクオリティを保ち続け、ちゃんとに効能もあったのでしょうが、伝説によればペイショーはフリーメイソンだったようで、その社交会を深夜の薬局で開催し、ゲストのために下に述べるブランディ・トディに自分の秘密のビターズを混ぜて提供していたらしいのです。もしかすると、そういう友愛の輪も無関係ではないのかも知れません。取り敢えず、ペイショーの名前が州外で知られるようになるには、新しい飲酒傾向が出現するまで待たなければなりませんでした。

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(Wikimedia Commonsより)

1840年代(もしくは1830年代後半から)、ペイショーは病気に拘わらず彼のクライアントのために、水、砂糖、フランスのブランディを混ぜた初歩的なトディに特許取得済みのハーブビターを処方し調剤したそうです。それは「コクティ(coquetier)」と呼ばれるフランスの伝統的な卵型のカップで提供され、彼の顧客にとってこのミクスト・ドリンクは容器の名前で知られるようになり、評判を博しました。カクテルの語源を調べると、コクティが「コックテイ」とアメリカ発音に転化して更に「カクテル」になったと云う語源説も、諸説の一つとして大概載っています。これはカクテル誕生秘話として昔は(或いは一部地域では)十分な支持を得ていたようですが、実際には1806年(もしくは1803年とも)のニューヨーク州北部の新聞に「カクテル」という言葉は登場していたそうです。それはともかく、このミクスト・ドリンクは今日の目から見て純粋にカクテルと呼ぶべきものであったでしょう。けれどブランディ・トディにビターズを混ぜた最初の人物がペイショーだった訳ではないようです。ブランディは常に薬効があると信じられていたため、植民地の薬剤師や化学者の間で一般的に使われていました。ビターズも胃薬と強壮剤とされていますから、薬効が信じられていたのは同じです。ある意味この両者をミックスするのはイージーな発想だったのではないでしょうか。実際、上に述べたストートン・ビターズを使ったブランディ・カクテルも1835年頃までには既にあったようです。
恐らくここまでの段階でサゼラックのプロトタイプは出来上がっていました。しかし、現代の我々が知るサゼラックになるにはもう少し階段を昇らねばなりません。先ずその一歩はコーヒーハウスのタイムリーな時代のおかげで実現することになります。

19世紀初頭から中期のアメリカではコーヒーハウスの時代がピークに達し、知的な冗談から政治談義に至る社交の場として機能しました。ここで言うコーヒーハウスは日本の「喫茶店」のイメージよりは、秘密結社やクラブの母体となるような社交場であり、ビジネスの場であり、バーを兼ね備えた施設であったと思われます。初期のアメリカ社会におけるコーヒーハウスの役割は非常に重要であり、1773年12月に起こったアメリカ独立戦争の引き金となったことで有名なボストン茶会事件の策略はグリーン・ドラゴンというコーヒーハウスで練られ、1776年にはフィラデルフィアのマーチャンツ・コーヒーハウスが米国独立宣言を公に発表する最初の場所として選ばれました。1840年までにコーヒーハウスの重要性はそれほど変わりませんでしたが、カクテルやトディ、サワーやパンチの出現は酒の人気を引き継ぎ、殆どバーと言える施設になっていたようです。もしかすると、ニューオリンズはフランス移民が多かったため、自らを洗練されていると考えて、いわゆるバーをサルーンと呼ばずコーヒーハウスと呼んだのかも。

ペイショーの薬用ブランディ・カクテルの評判が高まると、多くの地元のコーヒーハウスは、ペイショーの奇跡的な強壮剤を熱心なパトロンに再現し始め、その飲み物はニューオリンズの街中に広まって行きました。サゼラック・カクテルが確立する前に、重要な役割を果たした人物の一人がここで登場します。ニューオリンズの起業家シーウェル・T・テイラー(1812―1861)です。1840年頃(?)、ペイショーの薬局のすぐ近くにある、15-17ロイヤル・ストリート(13エクスチェインジ・アレイ)にマーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスが設立されました。
「取引所(Exchange)」は、南北戦争前の都市、特にニューオーリンズのような賑やかな重商主義の港の重要な建物でした。名前からしてそこは本質的には人々がビジネスを行うための場所でしたが、集会には他のニーズ(銀行や法律サービス、読書室と研究、宿泊、レクリエーション、娯楽、酒など)があり、取引所は遥かに幅広い要望に対応したそうです。起業家は、旅行者のビジネスマンに対応する様々なアメニティを備えた華麗な多目的かつマルチサービスの「共有スペース」を作成し、そのような取引所は都市の社会的経済的に重要な施設になりました。南北戦争前のニューオリンズにある豪華なホテルの殆どは、多くのコーヒーハウスと同様にエクスチェインジとして名乗りを上げたと言います。

マーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスは、ニューオーリンズで最大のコーヒーハウスの1つであり、すぐに最も人気のあるコーヒーハウスの1つになりました。シーウェルはマーチャンツ・エクスチェインジの店頭で販売した多くの製品の唯一の輸入業者でもありました。そのような製品の1つに、フランスのリモージュで作られた「Sazerac de Forge et Fils」と呼ばれるコニャックがあり、おそらくその現地代理店を務めていたのでしょう。街の顔役で熟練したセールスマンであるシーウェルは、コニャックを多くのコーヒーショップに入れることが出来ました。そして自らもペイショーの調合でブランディ・カクテルにコニャックを使い始めた、と。これがサゼラックという名称の直接的な由来です。
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1850年頃、シーウェルはコーヒーハウスの日々の運営を友人のアーロン・バードに引き渡し、道路を渡った16(もしくは13&15)ロイヤル・ストリートに輸入品を販売する酒屋を開きました(シーウェルが亡くなった1861年にはこの事業もアーロンが引き継いだようです)。若きトーマス・H・ハンディが店員として雇われたのはここです。この頃には、テイラーがリモージュから輸入したコニャックを使ったカクテルは、常連客の間で大変な評判となっていました。他の施設とは異なり、マーチャンツ・エクスチェインジでは、カクテルにサゼラック・ブランディとペイショーズ・ビターズのみを使用していたと言います。1852年頃、シーウェルが輸入したコニャックを称えるため、或いは自らのサーブの人気を更に促進するため、アーロンはコーヒーハウスをサゼラック・コーヒーハウスと改名しました。人気のブランディにちなんで命名されたという事実は、コーヒーが最も有名な飲料ではなかったことを示唆しています。サゼラックをコーヒーハウスのハウスドリンクにしたのがシーウェルなのかアーロンなのかハッキリしませんし、またその頃の具体的なレシピの開発者が誰なのかもよく判りません。サゼラックは、ペイショーが1830年代に考案したとするウェブサイトもあれば、オーナーのアーロンが考案者であると伝えられることもあり、謎に包まれています。ペイショーがレシピの改良等でアドヴァイスをしていた可能性も十分考えられますが…。物語はここで終わりではないので先を急ぎましょう。

1860年の初めまでに、アーロンはジョン・B・シラーに事業を引き継ぎました。この人物が何者なのか調べてもニューヨーク出身のバーテンダーらしい、ということしか分からなかったのですが、1959年にハウスドリンクをサゼラックと命名したのはシラーだとする情報もあります。ジョン・B・シラーは、シーウェルの経験豊富な店員でブックキーパーだったトーマス・H・ハンディが酒屋から離れ、サゼラック・コーヒーハウスの支配権を握るまで経営を続けしました。
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1869年、ハンディはサゼラック・コーヒーハウスを購入し、酒類のブランドも取得して販売を開始しました。現在のサゼラック・カンパニーの創業者はハンディとされるところからすると、この時が会社のルーツと言えるでしょう。会社のロゴには「SINCE 1850」と書かれていますが、これは恐らくサゼラック・コーヒーハウスの始まりを指しています。1870年頃、ペイショーは薬剤店を閉鎖し、新しいパートナーのハンディと取引を始めました。1871年までに新しいトーマス・ハンディ・カンパニーは、サゼラック・ブランディの唯一の輸入業者であると同時に、ペイショーズ・ビターズの製造業者でもあり、ニューオリンズの「お気に入り」の独占販売を行っています(サゼラック・カンパニーの公式サイトでは1873年にペイショーズ・ビターズの権利を買い取ったとしています)。コーヒーハウスが密集している都市で、サゼラックはハンディの所有権の下で最も輝いていました。彼はその名前から「コーヒー」を落とし、やがてニューオリンズの高級な飲酒を定義するようになります。サゼラック・ハウスは、おそらく19世紀後半に市内で最も有名な飲酒施設であり、飲料、ビジネス、娯楽の社会的中心地だったでしょう。
しかしこの頃、ヨーロッパでは深刻な事態が発生していました。ワインの歴史を学んだことのある人には余りにも有名な、現代世界の飲酒習慣を永久に変更したと言われるフィロキセラの流行です。

フィロキセラ(和名でブドウネアブラムシ=葡萄根油虫)は、ブドウ樹の葉や根にコブを生成してその生育を阻害し、やがては枯死に至らせる極微の害虫。その幼虫は体長1ミリほどで、最初は昆虫であることすら判りづらく、土の中の根につくため直接薬剤をかけることが出来ませんでした。また成虫になると羽が生えて雲霞の如く飛散するので被害の拡大も迅速でした。品種改良のためヨーロッパへ移入したアメリカ原産のブドウの苗に付着していたことで、抵抗力を持っていないヨーロッパのブドウの大部分を一掃し、全滅に近いほどの被害を与え、多くの歴史あるワイナリーがそのワイン畑と共に失われたと云います。
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1850年頃に北米から英国の港に船で到着し、その後10年で実際の被害が始まりました。1863年、先ずローヌ河畔の葡萄畑に被害が出始め、被害はあっという間に各地へ伝播して、フランスは約20年間に100万ヘクタールの葡萄畑が破壊されます。 そして1870年にはオーストリア、1883年にはイタリア、1895年以降にはドイツにまで拡がりました。1890年までにヨーロッパのブドウ園の約3分の2が感染または破壊されたと推定されます。フィロキセラの蔓延を食い止めようとする必死の試みにより、農民は化学物質からヤギの尿の噴霧、生きているヒキガエルを埋める等、あらゆることを試みますが、全て徒労に終わりました。葡萄栽培農家とワイン産業は危機的状況を呈し、フランス経済全体にも打撃を与えたため、政府は救済方法を発見した者に莫大な報償金(32万フラン以上)を約束したほどです。 
最後に見出された解決策は、治療法ではなく予防法でした。この害虫に抵抗性のあるアメリカ系の台木にヨーロッパ系の葡萄を接ぎ木することで、更なる発生が回避されたのです。当初は野卑なブドウの血が高貴なヨーロッパ種の血を汚すと信じていた人が多く、ブルゴーニュでは事態の深刻さに余儀なくされる1887年まで、この接木を公式には禁止していたのだとか。結局、他に有効な対策が無かったため、この接木作業がフランス全土で進められ、19世紀末にはフィロキセラの被害を克服します。しかし、 この作業には莫大な費用が掛かりました。収穫は数年間は見込めず(少なくとも5年くらいはまともなワインは造れない)、その経済的負担に耐えかねて没落していったワイン産地が少なくなかったそうです。

葡萄産業はフィロキセラの流行により完全にリセットされ、ワインやワインベース製品の供給は低下または完全に停止しました。当然のことながら、アメリカが輸入するブランディ、コニャックも激減しました。あの「Sazerac de Forge et Fils」を販売する会社も1880年に閉鎖しています。しかし、ニューオリンズの街はまだサゼラックを望んでいたので、正確な年は不明ですが、ハンディはコニャックをメリーランド産のライウィスキーに置き換えました。そしてヨーロッパがようやくフィロキセラを克服し、ブドウ畑が回復した時でさえ、ライウィスキーはサゼラックの主要成分としての地位を固め、そのまま標準的なレシピとなって行ったのです。

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19世紀後半には、アントワン・ペイショーの死(1883年)とトーマス・ハンディの死(1893年)がありました。ハンディが亡くなる前に彼の会社は、すぐ飲めるように予め混ぜられたサゼラック・カクテルのボトルを販売し始めています。更に同社はロイヤル・ストリートでサゼラック・バーを運営していました。ハンディの元秘書であるC・J・オライリーはハンディの事業権を購入し、サゼラック・カンパニーとして経営を始め、同じ名前でアメリカンウィスキーも発売しています。以来、禁酒法期間中のデリカテッセン及び食料品ベンダーとしての任務を除き、サゼラック・カンパニーは今日まで存続し続け、ニューオリンズを本拠地とする大手企業になりました。バーボンファンにはお馴染みのバッファロートレース蒸留所やバートン蒸留所などのウィスキー全体は言うまでもなく、その他のスピリッツやペイショーズ・ビターズも産み出しています。

20世紀が始まるとモダンカクテルも始まり、サゼラック・カクテルは1908年にようやくウィリアム・T・ブースビー(別名カクテルビル)の本に登場しました。ハンディは死の直前にサゼラックのレシピをブースビーに渡したと言われています。
今まで触れて来ませんでしたが、これまでの期間のある時点で、現代サゼラックの要素の1つが追加されました。アブサンです。これが二つの古典的カクテル、オールドファッションドとサゼラックの決定的な違いと考えることも出来るでしょう。この発明はリオン・ラモテというバーテンダーによるものとされています。ただし、いつの出来事なのかが参照する情報によってまちまちで、1860年頃のシラーの時代とするものと、ハンディ在職期間中であるとするものがありますが、最もよく見かけるのは1873年にラモテがアブサンのダッシュ(もしくはリンス)を追加したという説です。

アブサンはワームウッド(和名ニガヨモギ、学名Artemisia absinthium)を主原料とし、他にアニシードやヒソップ等から作られるハーブリキュールです。原料のワームウッドは昔からフランスの東部ポンタルリエや、スイスのヴァル・ド・トラヴェール地方で育てられていることから、この二つの地域が伝統的なアブサン発祥の地とされています。18世紀末に薬として誕生してから約100年以上のあいだ親しまれてきましたが、ワームウッドに含まれる精油成分ツジョンを過剰に摂取すると幻覚や錯乱などの向精神作用が引き起こされると信じられ、1898年にベルギーの植民地であったコンゴ自由国で禁止されたのを皮切りに、20世紀初頭にはヨーロッパでも1905年(1907年とも)のスイスに始まり、ベルギー、オランダ、フランス、ドイツ、イタリアなどでアブサンの製造・流通・販売は禁止されました。アメリカも1912年には禁止しています。
このため「犯罪成分」を用いないアニス主体の様々なリキュールがすぐに市場に出現しました。パスティス(仏語の「似せる」に由来する)はその一つ。専門家に言わせると本物のアブサンとは全く異なるフレイヴァーだそうですが、サゼラックのレシピから違法になったアブサンを置き換えるために、パスティスはいくらか使用されたと見られます。しかし、1920年にアメリカでは全面的な禁酒法が実施され、それどころではなくなりました。サゼラック・カンパニーは13年間の「乾いた時代」を食料品店や惣菜店として切り抜けます。

禁酒法が解けて直ぐ、レジェンドラ・ハーブサントという名前の新しいスピリットがニューオリンズで一般販売されました。このアニス風味のアメリカ製パスティスこそが、サゼラックのアブサン禁止に対する解決策を提供することになります。
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第一次世界大戦中、フランスに駐留していたジョセフ・マリオン・レジェンドラ(1897-1986)は、同地でレジナルド・P・パーカーというオーストラリア人の仲間と親しくなりました。パーカーは後にマルイユにポストされ、そこでパスティスの作り方を学びます。戦後、レジェンドラはニューオリンズに戻り、父親が所有するドラッグストア事業に参入。その後しばらくすると、パーカーもニューオリンズへ移って来ました。パーカーは個人消費のためにパスティスを作りたいと思い、レジェンドラに必要なハーブを輸入させ、禁酒法下でもアクセスできる処方箋ウィスキーを使用しました。彼はどのハーブを調達するかを知らせるためにレジェンドラにレシピを教えています。1933年12月5日にアメリカの禁酒法が終了した時、レジェンドラはパスティスを販売するのに適した立場にあった訳です。
1934年に初めて販売されたそのレシピにはアブサンの必須成分であるワームウッドが全く使われていないにも拘わらず、彼はそれを「レジェンドラ・アブサン」として生産しました。連邦アルコール規制局はすぐに「アブサン」という言葉の使用に反対し、名前は「レジェンドラ・ハーブサント」に変更されます。「魔酒」のイメージが定着していたアブサンに対して「聖なるハーブ」という正反対の意味の製品名は、ワームウッドのフレンチ/クレオール名「Herbe Sainte」から由来するようですが、偶然か故意か「Herbsaint(ハーブサント)」と「Absinthe(アブサン)」という「r」を欠落させるだけでほぼアナグラムになる秀逸なネーミングだと思います。「フランスの名前、フランスの起源、そして洗練された魅力のあるフランスのレジェンドラ・ハーブサントは、特徴的なヨーロッパの飲み物です」なんて宣伝文句も当時あったそうですが、実際にはニューオリンズの飲み物であり、地元産の芳香性の高いアニス酒としてこのスピリットは、しばしば柔らかいパスティスに代わるサゼラック・カクテルへの人気ある追加となりました。
レジェンドラはドラッグストアの取引に加えて、ビジネスとして経営しようとするのが面倒になり、或いは十分な利益が得られないことに気付き、1948年(または1949年)、ハーブサントをサゼラック・カンパニーに売却します。そしてサゼラック・カンパニーは買収以来ハーブサントを販売し続け、アブサンが合法となった後でも地元ニューオリンズでは、サゼラックにハーブサントを用いて造るバーは多かったのだとか。ちなみにアブサンは1981年に世界保健機関(WHO)がツジョン残存許容量10ppm以下なら承認するとしたため製造が再開され、特にルーツに拘ったバーテンダーがいる世界の国では、アブサンを用いたサゼラックが復活を遂げています。

今日、サゼラックの名はニューオリンズ市内にあるルーズベルト・ホテルの1940年代を再現したバーを飾っています。ホテルは元々、ドイツ人移民のルイ・グルネワルドによって建てられ、1893年に「ホテル・グルネワルド」としてオープンしました。1915年、セオドア・グルネワルドは父親が亡くなったときにホテルの唯一の所有者になりました。彼は1923年初頭までホテルの所有権を保持し、医師の助言に基づいてビジネス上の利益を全てヴァカロ・グループに売却しました。購入後、新しい所有者は別館と同じ高さの新しい塔を建設し、別館の内部を再設計します。1923年10月31日にホテルは、ニューオリンズ市にとってパナマ運河の建設に多大な労力を費やしたセオドア・ルーズベルト大統領を称えるため、正式にルーズベルト・ホテルに改名されました。
1925年10月1日には新しいバロン・ストリートのタワーがオープンします。そこには理髪店、コーヒーショップ、通りに面した店舗が追加されました。その頃、サゼラックにとって一人の重要な人物が頭角を現します。ホテルで理髪店のマネージャーとしてキャリアを始めたシーモア・ワイスです。彼は後に広報やアソシエイト・マネージャー、アシスタント・マネージャー、そして最終的にホテルのゼネラル・マネージャーに昇進しました。1931年には副社長兼マネージング・ディレクターとなり、1934年12月12日にワイスのグループへホテルは売却されました。ワイスによる購入後、ホテル全体で大幅な改装とアップグレードが段階的に行われ、1938年8月1日にメインバーがオープンします。
1949年、ワイスはサゼラック・カンパニーから「サゼラック・バー」という名前を使用する権利を購入しました。ホテルはサゼラック・カンパニーに名誉ライセンス料を支払います。バーは禁酒法以前エクスチェインジ・プレイスにあり、その後はカロンデレ・ストリートにありました。ワイスは元酒屋だったバロン・ストリートの店舗を改装し、1949年9月26日にサゼラック・バーをオープンします。第二次世界大戦前、サゼラック・バーは「男性のもの」でした。女性の利用はマルディグラ当日のみだったそうです。そのハウス・ルールが変更されたのはこの時です。ワイスはバーのスタッフから「キャニー・ショーマン」と呼ばれ、美しいメイクアップ・ガールを募集して、オープン初日にチャーミングな華やかさを加えました。街中の女性が会場に集まり、当日には女性客が男性客を上回ったのだとか。イベントは「サゼラック・ストーミング」として知られるようになり、記念日は毎年ホテルでヴィンテージの衣装による乾杯で祝われます。1959年、バロン・ストリートにあるサゼラックバーを閉鎖し、名前をメインバーに移すことが決定されました。そこが今でもサゼラック・バーと呼ばれる場所です。
ワイスが年を取るにつれて、彼はホテルの買い手を探し、1965年11月19日にベンジャミンとリチャード・スウィッグに買収されたホテルは、最初に名前をフェアモント・ルーズベルト、その後フェアモント・ニューオリンズに変更されました。ホテルは長年に渡って近代化し始め、サゼラック・バーもカーペットやモダンな家具、新しい照明等に更新されました。1990年代後半にも大規模なホテルの改修が行われています。しかし、フェアモント・ニューオリンズは2005年8月のハリケーン・カトリーナによる甚大な被害を受け、いくつかの修理作業が行われましたが、作業は2007年3月に不完全な状態で中断されました。2007年8月には新しい所有者による買収が発表され、1億4500万ドルの改修のあと、ウォルドーフ・アストリア・ホテルズ・アンド・リゾーツを選択して施設を管理、2009年に漸くホテルは再開されます。この時、所有者はホテルの名前を1923年から1965年まで保持していた「ルーズベルト」のタイトルに戻しています。ホテル全体が近代的なシステムで完全に改装されましたが、デザインは1930~40年代の壮大な時代を再現したものとなり、サゼラックバーもアールデコ調の1940年代の外観に復元され、クラシックな服装で女性が着飾ったサゼラック・ストーミングの再現で再開されました。

2008年3月、ルイジアナ州上院議員エドウィン・R・マレーは、サゼラックをルイジアナ州公式カクテルとして指定する上院法案を提出しました。この法案は2008年4月8日に否決されてしまいます。しかし、6月23日にさらなる議論が行われ、ルイジアナ州議会はサゼラックをニューオリンズの公式カクテルとして宣言することに同意しました。晴れてサゼラックはお墨付きを得たのです。それが理由の全てではないでしょうが、その後の10年間でサゼラックはニューオリンズを超えて人気を再燃させました。ネットの普及による情報の取り易さも手伝ったのかも知れません。20世紀初頭までにサゼラックのようなシンプルなカクテルは希少になり、近年ではミクソロジーの流行も見ました。それでもサゼラックは、クラシックなカクテルの最高峰の1つであり、身に纏った歴史の深みはその名を輝かせ続けています。
そして、その名声を得た元の建物は取り壊されなくなりましたが、サゼラック・カンパニーは、カナル・ストリートとマガジン・ストリートの交差する角に立つ誇らしげな歴史的建造物を改築し、サゼラック・ハウスとして運営することにしました。1850年代のオリジナルのコーヒーハウスから歩いて数ブロックのこの建物は、1860年代に遡る歴史のうち、かつては様々な帽子や手袋のメーカー、ドライグッズの保管場所、更には電化製品店までありましたが、ここ30年以上も空いていたのです。改築作業には建築会社トラポリン=ピアーや博物館デザイン会社ギャラガー&アソシエイツと提携しました。サゼラック・ハウスはニューオーリンズのクラシックなカクテルを祝う新しいインタラクティブな博物館です。文化を旅する訪問者は、ニューオリンズのカクテルの歴史に導かれ、サゼラック・ライウィスキーの蒸留方法を見出し、ペイショーズ・ビターズの手作りに参加して、サゼラック・カクテルの作り方を習得します。また、ここはニューオリンズのセントラル・ビジネス・ディストリクトで初めてウィスキーが生産される場所になりました。ウィスキーの生産展示では500ガロンのスティルが見られます。毎日約1バレルのサゼラック・ライウィスキーが作られ、熟成のためにケンタッキー州のバッファロートレース蒸留所に移送されるのだそう。サゼラック・ハウスは2019年10月2日にオープンする予定です。ニューオリンズを訪れた際は、是非ともここで独特の味と伝統を体験してみて下さい。もちろん、カクテルを飲みながら。

では、そろそろ今回レヴューするサゼラック・ライを注ぐ時間です。

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SAZERAC RYE 90 Proof
推定2010年前後ボトリング。クローヴ、蜂蜜、パンケーキ、メープルクッキー、ハーブのど飴。香りは甘いお菓子。パレートは甘味と共に頗るハービー。フルーティさとミンティさはそれほどでもない感じ。余韻は豊かなスパイス(クローヴ、オールスパイス系)と苦いハーブが感じやすく、クラシックなライウィスキーを思わせる。
Rating:85.5/100

Thought:開封直後は香りも味わいも甘味がなく、えっ?これホントに51%ライ?って思いましたが、徐々に甘味は出て来ました。ジムビームやMGPのライよりフルーティさに欠けますが、甘味は強く、またハーブが優勢な味わいに感じました。
おそらく、このサゼラック・ライは日本へ輸入され始めた頃のボトルだと思われます。上の推定ボトリング時期は購入時期からの推測です。少し前までの数年間、日本ではサゼラック・ライは買いにくい状況にありましたが、ここ最近はまた輸入が復活したようです。その最近のサゼラック・ライを私は飲んでいないので味の変化があるのか判りません。飲み比べたことのある方はコメント頂けると嬉しいです。

Value:アメリカでは30ドル前後ですが、日本だと5000~6500円くらいします(※追記2)。これ、痛いですね。とは言え、6年というライとしては十分な熟成期間を経ていますし、おそらく比較的少量生産だとも思われるし、長いネックやボトル形状にクラシックなフォントなどボトルデザインは古いウィスキーを偲ばせカッコいい。甘さが立った味わいも他社のライと一線を画し美味しいのでオススメしておきましょう。ただ、私はどちらかと言えばMGPの方が好みではありますが。

追記:本稿でサゼラックの歴史を語りながら、その具体的なレシピの詳細については敢えて紹介しませんでした。標準的なレシピを紹介することくらいは出来たのですが、私よりもっとカクテルに拘ったバーテンダーさんに教えてもらった方が適切だと思ったからです。記事を読みながらサゼラック・カクテルを飲みたくなり、「で、レシピは?」と思ってしまった方がいましたらすいませんでした。レシピについてはすぐ検索できますのでご自身で研究してみて下さいね。

追記2:現在ではもう少し落ち着いたお値段で購入できます。

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イーグルレアは現在バッファロートレース蒸留所のライ麦少なめのマッシュビル#1から造られる90プルーフ10年熟成のバーボンです。このマッシュビルは同蒸留所の名を冠したバッファロートレースの他、コロネルEHテイラー、スタッグ、ベンチマーク等にも使用されています。価格やスペックから言うとバッファロートレースより一つ上位のブランド。

イーグルレアは、元々はシーグラムが1975年に発売したシングルバレルではない101プルーフ10年熟成のバーボンでした。既に人気のあったワイルドターキー101を打ち倒すべく作成され、鳥のテーマとプルーフは偶然ではなく敢えてワイルドターキーに被せていたのです。「CARVE THE TURKEY. POUR THE EAGLE.(七面鳥を切り分け、鷲を注ぐ)」と云う如何にもな1978年の広告もありました。この頃の原酒には、当時シーグラムが所有していたオールドプレンティス蒸留所(現在のフォアローゼズ蒸留所)のマスターディスティラー、チャールズ・L・ビームが蒸留したものが使われています。
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時は流れ、サゼラック・カンパニーは1989年にシーグラムからイーグルレア・ブランドを購入しました(同時にベンチマークも購入)。その時のサゼラックはまだ蒸留所を所有していなかったので、数年間だけ原酒をヘヴンヒルから調達していたと言います(*)。しかし最終的には自らの製品を作りたかったサゼラックは1992年に、当時ジョージ・T・スタッグ蒸留所またはエンシェント・エイジ蒸留所と知られる蒸留所を買収し、後にその名称をバッファロートレース蒸留所に変更します。2005年までは発売当初と同じ熟成年数、プルーフ、ラベルデザインで販売され続けますが、この年にイーグルレアは大胆なリニューアルを施され、シングルバレル製品、90プルーフでのボトリング、そして今日我々が知るボトルデザインに変わりました。

一旦話を戻しまして、所謂旧ラベル(トップ画像左のボトル)について言及しておきましょう。イーグルレア101のラベルは、文言に多少の違いはあっても、会社の所在地表記で大きく三つに分けることが出来ます。
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先ずは左のローレンバーグ。これが書かれているものはシーグラムが販売し、現フォアローゼズ蒸留所の原酒が使われていると見られ、発売当初から89年までがこのラベルではないかと考えられます。熟成もローレンバーグで間違いないと思われますが、もしかするとボトリングはルイヴィルのプラントだった可能性もあります。次に一つ飛ばして右のフランクフォート。これが書かれているものは現バッファロートレース蒸留所の原酒が使われているでしょう。で、最後に残したのが真ん中のニューオリンズ。これが少し厄介でして、おそらくラベルの使用期間は90年から99年あたりではないかと思われますが、ニューオリンズはサゼラックの本社がある場所なので、蒸留やボトリング施設の場所を示していません。ローレンバーグやフランクフォートにしてもそうなのですが、「Bottled」と書かれてあっても「ボトリングした会社はドコドコのナニナニです」と言ってるだけです。このニューオリンズと書かれたラベルは理屈上、初期のものはフォアローゼズ産、中期のものはヘヴンヒル産、後期のものはバッファロートレース産、という可能性が考えられます。それ故、生産年別で原酒の特定をするのはかなり難しいです。これは飲んだことのある方の意見を伺いたいところ。ちなみに90年代には日本市場だけのために作られたイーグルレア15年107プルーフというのもありましたが、そのラベルの所在地はニューオリンズでした。これは一体どこの蒸留所産なのでしょうね。
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また、他にも後にバッファロートレース・アンティークコレクションの一部となるイーグルレア17年が2000年に発売されていますが、これは別物と考えここでは取り上げません。

さて、2005年にリニューアルされたイーグルレアはトップ画像右のボトルと大体同じだと思います。躍動感のある鷲がトール瓶に直接描かれるようになり、ネックに10年とあり、ちぎれた旗?のようなものにシングルバレルとあります。そしてトップ画像真ん中のボトルが2013年もしくは14年あたりにマイナーチェンジされた現行品です。おそらく段階的な変化があったと思いますが、この二者の主な相違点は、ネックにあった10年熟成のステイトメントがバックラベルに移り、シングルバレルの記述が完全に削除されたことの2点です。そうです、イーグルレアは現在ではしれっとシングルバレルではなくなっていたのでした。ただし、これには訳がありまして、バッファロートレース蒸留所に高速ボトリング・ラインが導入されたことにより、一つのバレルから次のバレルに切り替わる際、或るボトルには2つの異なるバレルのバーボンが混在してしまう可能性があり、技術上シングルバレルと名乗れなくなってしまったのだそうです。つまり現行イーグルレアはシングルバレル表記なしとは言っても、ほぼシングルバレル、準シングルバレルであり、もし味が落ちてると感じたとしても、それはシングルバレルでなくなったからではなく別の理由からだ、と言えるでしょう。そこで、今回は発売時期の異なるイーグルレア90プルーフ、シングルバレルとほぼシングルバレルの2つを飲み比べしてみようと言うわけです(旧イーグルレア101はおまけ。昔飲んだ空き瓶です)。

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目視での色はかなり違います。画像でもはっきりと確認できる筈。右シングルバレルの方はオレンジアンバーなのに対し、左ほぼシングルバレルの方はダークアンバーです。

Eagle Rare 10 Years 90 Proof
推定2015年前後ボトリング。並行輸入品。苺のショートケーキ、チャードオーク、シトラス、グレープジュース、焦がした砂糖、夏の日の花火、蜂蜜、土、麦茶。甘いアロマ。ソフトな酒質。余韻はややドライで、それほど好ましい芳香成分が来ない。
Rating:85.5/100

Eagle Rare Single Barrel 10 Years 90 Proof
推定2010年前後ボトリング。正規輸入品。ドライマンゴー、オレンジ、苺のショートケーキ、僅かに熟れたサクランボ、小枝の燃えさし、ビオフェルミン、カビ。全てにおいてフルーティ。ソフトなテクスチャー。余韻に爽やかなフルーツとアーシーなノート。
Rating:86.5/100

EAGLE RARE 101 Proof
推定2000年ボトリング。飲んだのが昔なので詳細は覚えてないが、上記二つとはまったく別物と思っていい。フルーツ感はあまりなく、もっとキャラメルの甘味と度数ゆえの辛味があって、ソフトよりストロングな味わいだった。原酒は多分バッファロートレースだと思う。ヘヴンヒルぽいテイストではなかった気がする。昔好きで飲んでいたので、俗に云う思い出補正はあるかも。
Rating:88/100

Verdict:101プルーフの物はおまけなので除外するとして、個人的にはフルーティさが強く余韻も複雑なシングルバレルの方を勝ちと判定しました。ライ麦が少なめのレシピでここまでフルーツ感が強いバーボンはやはり特別なのではないかと。ほぼシングルバレルの方も素晴らしいアロマを持っているのですが、どうも余韻が物足りなく感じまして。大抵の場合、色が濃いほうが風味が強く、美味しいことが殆どなのですが、この度の比較では逆でした。熟成は奥が深いですね。

Value:イーグルレアは、アメリカでは30ドル以下で買えるシングルバレルとして、生産量の多さ=流通量の多さ=入手の容易さも魅力であり、更にプライベート・バレル・プロジェクトもあるため、絶大な人気があります。しかし正直言って、日本では5000円近い値札が付く店もあり、その場合はかなりマイナスと言わざるを得ません。個人的には半値近い金額でバッファロートレースが買えるのなら、そちらを2本買うでしょう。けれど、たまにの贅沢でなら購入するのは悪くないと思います。また、同じバッファロートレース蒸留所産で、異なるマッシュビル(ライ麦多めの#2)を使用したシングルバレル・バーボンであるブラントンズの現行製品が5000円なら、イーグルレアを選択するのが私の好みです。


*有名なバーボン・ライターのチャック・カウダリーは、この時期はボトリングもヘヴンヒルだったのではないかと示唆しています。

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スタンダードなエンシェント・エイジの上位に位置するこのエンシェント・エンシェント・エイジ10スターですが、紛らわしいことに10という数字は10年熟成を意味していません。10個の星が並んだデザインなだけで6年熟成と言われています。更にややこしいことに2013年もしくは14年あたりからネックに「少なくとも36ヶ月熟成」と書かれるようになり、推定3年熟成のバーボンとなったようです。と言うことはスタンダードなエンシェント・エイジの単なるハイアープルーフ版ということになり、そうなるとエンシェント(古の意)が二つ重なる意味が薄れませんか? 急速なバーボン高需要に対応する処置だとは思いますが、それにしても熟成年数を半分に減らすとは思いきったものです。
10スターの正確な発売年は判りませんが、2000年発行の本に載ってないところを見ると、それ以降であるのは間違いないと思います(追記あり)。おそらくエンシェント・エンシェント・エイジは10年熟成の製品として始まり、後に熟成年数表記のない10スターとなったのでしょう。調べてみると、エンシェント・エンシェント・エイジ10年は10スターの発売後、ある期間ケンタッキー州では入手可能であったものの、後に終売となったようです。
エンシェント・エイジの製品ラインは、かなり昔から現在のバッファロートレース蒸留所で造られています。マッシュビルはブラントンズと同じライ麦多めの#2 。このボトルはまだ6年熟成の時代の物です。飲んだのが数年前なので細かいことが言えませんが、スタンダードのエンシェント・エイジと較べて、甘みは力強くなり、コクも増し、キャラメルとフルーツ感のバランスの良いバーボンでした。なにより、いくらエンシェント・エイジが正規輸入、10スターが並行輸入という違いがあるとは言え、店頭価格で数百円の違いしかない10スターはお買い得以外の何物でもなかったです。現行の製品は飲んでないので較べられません。
Rating:82.5/100

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追記:コメントより情報頂きました(ありがとうございます!)。本文で10スターの発売時期を2000年以降と推測したのですが、どうやら90年代に既にボトル形状とラベルの違う物があったようです。よろしければコメント欄をご確認下さい。

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Branton's SINGLE BARREL BOURBON 93 Proof
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Barrel No. 343
Warehouse H
Rick No. 72
友人から開封直後の1ショットを頂いての試飲。並行ではなく正規です。ブラントンズのブランド紹介は過去投稿のこちらを参照下さい。

焦がしたオーク、エタノール、フルーティーな香り、僅かにフローラル。ウォータリーさとクリーミーさが同居したような口当たり。口中はヴァニラ〜キャラメル系の甘味とシナモン〜ナツメグ系の風味、ブラックペッパー的な刺激。フィニッシュはスパイスとバター。45度前後でここまでバタリーな風味はなかなかない。酸味や苦味があまり目立たず、バーボンの味わいを構成する各要素が突出しないマイルドなバランス型の味わいと思う。けれども、そのせいなのかセクシーさに欠ける。
Rating:85/100

Value:数年前に並行輸入品を飲んだ時も思ったのですが、現行製品のブラントンはどうも「硬い」ような気がします。おそらく、これから酸化することでもう少し香りが開き、味に深みが出ると予想されますが、どうも開けたてはパッとしない。正直に言うと、パッケージングの華やかさとブランド神話は「買い」であるものの、値段を考えると自分の選択肢からは外れます。ブラントンはゴールドエディション以上、できればストレートフロムザバレルなら買ってもいいですが、現行のスタンダード日本正規品を定価では買いたくありません。販売店により価格差がありますので一概に言えませんが、これは仮にスタンダードの最高値が6000円だとして、ストレートフロムザバレルの最安値が7500円だとすればの話です。ここには値段以上の「開き」があります。
また、ブラントンズはオークションでそれほどは高騰していないブランドの一つです。少なくとも私の口には90年代のブラントンズは現行より遥かに美味しく感じるので、現行品と大差ない価格であればセカンダリーマーケットでオールドボトルの購入をオススメします。80年代の物はもっと美味しいと聞き及びますが、90年代の物より少し高い値が付くでしょう。

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「安酒を敬いたまえ」シリーズ第三弾、今回はバッファロートレース蒸留所編です。

Buffalo Trace Distillery◆バッファロートレース蒸留所
BTのバーボンにはマッシュビル#1と呼ばれるライ麦率推定10%以下のロウ・ライ・レシピと、#2と呼ばれるライ麦率推定12〜15%のハイ・ライ・レシピの二つがあります。他にも小麦レシピやライレシピもありますがここでは関係ないので触れません。チャーリングレベルは# 4、バレルエントリープルーフは125です(実験的なものは除く)。

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BENCHMARK OLD No.8 BRAND 80 Proof
1000〜1500円程度
実はこのバーボンを日本語でネット検索すると、20年前に出版された本から引用したと思われる情報やら、No.8を誤って8年熟成としてみたり、果てはモルトが主原料などと書かれた文章まで見つかり、あまりにも酷い状況です。また英語のバッファロートレースの公式ホームページですら、まるで主原料がライ麦であるかのような記述が見られるのです。幾らなんでも扱いが雑過ぎます。
ベンチマークは、そもそもはシーグラムが1968年にプレミアムラインの製品として発売したものです。シーグラム解体後にブランドをサゼラック(BTの親会社)が購入し、蒸留をバッファロートレースが行うようになりました。その時からラベルに「McAFEE's」と書かれるようになりましたが(この写真の物よりひとつ前のラベルデザインの物からで、おそらく日本では2009年あたりまでは流通していたと思われます)、これはマカフィー兄弟という初期ケンタッキーの入植者がバッファロートレース蒸留所のある場所のすぐ北の史跡を測量したことに因むようです。やや取って付けた感がありますが、ベンチマークという言葉が測量用語で水準点の意味なので言葉を掛けたのでしょう。おそらくシーグラムがプロデュースした当時はバーボンの新しい基準となる味わいを目指したのだと思います。
現行製品はマッシュビル#1で作られる3年熟成のエントリークラスバーボンとなっています。誤解を恐れず言えば、熟成場所が違うとはいえ、このバーボンをもっと熟成させたものが、バッファロートレースであり、更にイーグルレアと続き、果てはジョージTスタッグとなる訳です。では飲んでみましょう。
オーク、シリアル、ハチミツ、葡萄、生クリーム。バーボン然とした芳香は悪くないが弱い。円やかな口当たり。余韻のスパイス感少なめ。飲むとコーンウイスキー感が強いものの、甘味の勝った味わいは好印象。
Rating:79/100

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Ancient Age 80 Proof
1200〜1500円程度
元はシェンリーが創始した名ブランド。現在はBTのマッシュビル#2で造られるエントリークラスバーボンで、おそらく昔は4年熟成だったと思うのですが、いつの頃からか3年熟成になっているようです。バーボンが急速に高需要となった2010年以降じゃないかと勘繰っているのですがどうでしょう?
えーと、ここからレビューなんですが、ごめんなさい、先に謝ります。実はこのボトル現行品ではありません。推定07年ボトリングと思われる代物で、どうも「酸化の奇跡」か何かが起こったようです。開封直後から古典的バーボンノート全快で、オーク臭、キャラメル、ダークチェリー、僅かにスパイス。開封からしばらく経過するとラム酒を思わせる香りへと変化。更に余韻はコーヒーゼリーwithミルクまで出てきました。流石に90年代以前のバーボンのもつ何か質的に異なるような雑味成分の多い味わいではないものの、40度なのに香りが濃厚だし、口当たりもクリーミーなのです。
バーボンマニア、特にオールドボトル愛好家がよく言う、2000年あたりを境にバーボンが不味くなった説というのがあるのですが、本ボトルの07年ボトリングが正しいとすればその定説を覆しています。プチオールドボトルとは言え、とてもじゃないけど千円ちょいとは思えない味わいであり、もしかしたら最近のバーボンは不味いというより「硬い」だけで、酸化を上手くコントロール出来れば美味しい可能性を感じさせてくれる一本でした。ちなみに現行製品は、ボトルの肩に写真で見られるようなANCIENT AGEのエンボスはありません。エンボスがあれば古い製品です。売れ残りなどを見つけたら是非トライする価値はあるかと思います。
ただ、これでは当企画の趣旨を外れているので、参考までに言いますと、私が前に2010年ボトリングのエンシェントエイジを2013年頃に飲んだ時には、いたって普通のエントリークラスバーボンという印象で、レーティングするなら79点がいいとこでした。
Rating:83/100

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OLD TAYLOR 80 Proof(not 6 year)
1300〜1500円程度
オールドテイラーは長らくナショナルディスティラーズの看板製品で、87年からはビーム社の製品となっていました。その後2009年からはブランド権と樽のストックをサゼラック(BTの親会社)が買い取りリリースしています。いつの頃からかラベルに「6」という数字はあるものの「year」の文字はなくなり、6年熟成ではなくなりました。
弱いヴァニラ香と樽香、ややツンとした接着剤的な香り、メロン。飲み口はさっぱり。甘味が薄く、フルーティーとは言えるが、やや苦味があり、余韻は弱い。どうも飲んだ感じ6年に近い熟成感すらなくもっと若い印象を受けます。また、このボトルが何年製か判らないのですが(購入は2017年)、私が飲んだ限りバッファロートレース蒸留所の#1マッシュビルバーボンという感じがしません。かと言ってジムビームそのものかと言われるとそれも自信がないのですが、同時期に飲んだジムビームホワイトラベルやオールドクロウとは風味プロファイルは異なるように思いました。けれどジムビーム寄りの味ではある気がします。単純に計算するとビームストックは2015年に底を尽きる筈ですが…。まさかこれはジムビーム+バッファロートレースのブレンドなんて可能性もあるのでしょうか? 飲んだことある方のご意見を伺いたいです。
Rating:79/100

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Blanton's SINGLE BARREL BOURBON
93 Proof(abv 46.5%)
Dumped on 4-15-92
Barrel No.36
Warehouse H
On Rick No.32
ハイ・ライ・マッシュビルの割にスパイシーさはあまりなく、甘みに振れたバランス型の味わい。とろみのある口当たり。2010年代のボトルと比べると全然旨味があるように感じた。
Rating:87.5/100

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Blanton's Straight from the Barrel
132.4 Proof(abv 66.2%)
Dumped on 10-10-11
Barrel No.119
Warehouse H
On Rick No.33
基本オーキー。アップルブランデーのような風味も。そこにアセロラのアロマも出てびっくりする。とってもバタリーな口当たり。50度程度では感じない塩味も。余韻は長く、戻り香が楽しめる。ブラントンのラインナップ中、唯一ノンチルフィルタードなのが効を奏してると思う。
Rating:90/100

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