バーボン、ストレート、ノーチェイサー

バーボンの情報をシェアするブログ。

タグ:バー飲み

1000005136

ヴェリー・オールド・セントニック(VOSN)は、1980年代後半に若き日のマーシィ・パラテラが当時活況を呈していた日本市場向けのブランドとして、主に過剰供給時代のアメリカン・ウィスキーを使ってスタートしました。このブランドはヴァン・ウィンクルやハーシュの様々なラベルと共にプレミアム・アメリカン・ウィスキーの潮流を創り出したと評価され、現代のバーボン・ブームの魁だったと見做すことが出来ます。元々はジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がローレンスバーグにあるオールド・コモンウェルス蒸溜所で少量をボトリングし、その後すぐにバーズタウンのケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)がボトリングするようになりました。そして、その初期の頃から当時は人気のなかったライ・ウィスキーをボトリングしていたブランドでもありました。ブランドの初期の物はラベルが大きいのが特徴です。一般的なバーボンではあり得ないほど大きなこのラベルは決して意図したデザインではありませんでした。ボトルを選ぶ前にラベルを当て推量で作ってしまい、実際に使うボトルには大き過ぎたラベルとなってしまったらしいのです。おそらくマーシィには潤沢な資金がある訳でもなく、せっかく作ったラベルを廃棄する選択肢はなかったと思われ、そもそも大量にラベルを作成していなかったこともあり、数ロットでそれを使い切った後、本来の意図通りの小さいと言うか普通のサイズに変更したのでしょう。この大きなラベルは初期VOSNに他のバーボンとは一線を画す異質の趣を齎しており、そのブランドの名前やお爺さんのスケッチを一際引き立たせています。発端は偶然とは言え、発売当初の日本のバーボン・ドリンカーに超然とした神秘的なブランドという印象を与えるのに役立ったのではないかと個人的には思います。
1000004953

ヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライはブランド初期の頃からあり、プリザヴェーション蒸溜所が出来た後の現在のラインナップでも継続してリリースされています。「ウィンター・ライ」という言葉は平たく言うと冬期に栽培されるライ麦の総称ですが、このウィスキーが自ら蒸溜していない原酒を他所から購入して販売するソーシング・ウィスキーであること、後にサマー・ライという(ネット検索してもVOSNが多く出て来てしまう)あまりライ穀物としては一般的ではない名称のヴァリエーションが発売されていること、また後にオールド・マン・ウィンターというVOSNの姉妹ブランド的な?ラベルが作成されていること等を考慮すると、ここで言うウィンター・ライと言うのは使われている原材料を表しているよりは、単に響きの良い語感を利用したマーケティングなのではないかと思われます。バック・ラベルを見てみると、以下のように書いてあります。私は英語が母国語ではないですし、癖の強い筆記体で書かれているため読み間違っているかも知れないので、その場合はコメントより訂正して下さい。
1000005111
Winter nights after supper we'd sit by the fire. That's when grandaddy would go down to the cellar and fill up his jug from his tiny old oak barrel. We'd tell stories, drinking grandaddy's "winter rye" his favorite, very old and smooth. He'd only pour enough to take the chill off the snowy Kentucky night. Now that grandaddy's gone we got a little extra to share.
(冬の夜、夕食が終わると、あたし達は暖炉のそばに座ったの。そんな時、おじいちゃんはセラーに降りて、ちっぽけな古いオーク樽からお酒をジャグに満たしたものよ。あたし達は語らいながら、おじいちゃんのお気に入りの「ウィンター・ライ」を飲んだんだ、すごく古くて滑らかなやつよ。雪の降りしきるケンタッキーの夜の寒さをしのぐのに十分な量しか注いでくれなかったけどね。おじいちゃんが亡くなった今、ちょっと余分に分けてもらっちゃった。)
これを見る限り、ブランドのウィンター・ライという名称は、祖父と冬場に飲んだライ・ウィスキーの思い出から名付けられているようです。まあ、フィクションだと思いますが、なかなか良い感じの宣伝文句と言うか小話ですよね。

で、この初期のウィンター・ライを誰がボトリングしているのかですが、私の認識では単純にこのラージ・ラベルや発売元が東亜商事となっていて日本語で紹介文の書かれているインポーター・ラベル(下画像参照)が背面に貼られたものはジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世のボトリングなのかなと思っていました。と言うのも、90/91年頃によく使われていたこのインポーター・ラベルは、ペンシルヴェニア1974原酒を使ったハーシュ・リザーヴやカーネル・ランドルフ、オールド・ブーン1974原酒を使ったヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ、そして大きなフロント・ラベルのVOSNバーボン(12年90プルーフ/114.3プルーフ、15年107プルーフ/114.8プルーフ、17年94プルーフ/116.2プルーフ/119.6プルーフ)に貼られており、ジュリアン3世が日本市場向けにボトリングした高級なボトルのシリーズのために作られたように見えるからです。
1000004995
ところが、今回飲んだヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライのラージ・ラベル(トップ画像右)の背面を見てみると、バーズタウン表記のバック・ラベルに東亜商事の小さいインポーター・ラベルという組み合わせとなっていて、このパターンは初めて見ました。
1000005127
比較的見かけ易く、最初期と思われるウィンター・ライのラージ・ラベルの背面には上述の日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルが貼られています。だからこそ私はジュリアンがボトリングしたものかと思っていた訳ですが、今回のウィンター・ライを見て「あれ? このラベルのウィンター・ライでもKBDがボトリングしてるのか」と思いました。家に帰ってから、ウィンター・ライのラージ・ラベルの背面に貼ってある紹介文付きインポーター・ラベルの画像を加工して弄ってみると、その下にあるバック・ラベルが透けて「Bardstown, Kentucky」が浮かび上がりました。他の部分を見ても明らかに今回飲んだウィンター・ライと同じバック・ラベルに見えます。
2024-11-12-23-20-59-113_copy_238x410
このラージ・ラベル+紹介文付きインポーター・ラベルとバーで飲ませて頂いたラージ・ラベル+紹介文なしインポーター・ラベルのどちらが古いのか、或いは紹介文付きのラベルがなくたまたま紹介文なしのラベルが貼られただけでボトリング時期は同じなのか、私には判りません。しかし、少なくとも私はVOSNライのこれら以上に古いボトルは見たことがないので、おそらくジュリアンはマーシィのためにライをボトリングしていないのでしょう。マーシィはジュリアンに「ライ麦を飲むのは年寄りだけだ」と言われたそうです。きっとマーシィは当時誰も顧みなかった時代遅れの産物ライ・ウィスキーに光を当てたい、或いは日本市場であれば売れると踏み、ジュリアンにライをリクエストしたのだと思います。彼が後にオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライやヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライに用いた84年か85年に蒸溜されたメドリー・ライを入手したのが、ユナイテッド・ディスティラーズがその資産を売りに出した時なのだとしたら、91年か92年以降のことでしょう。だから、ジュリアンはマーシィのリクエストに応えられなかったのではないか、と。或いは、ジュリアンが80年代後半の時点でメドリー・ライのバレルを所有していたとしても、VOSNは名前が表すように高齢ウィスキーが特徴ですから、何だったらマーシィは長熟のライを欲しがったのかも知れない。メドリー・ライに84年か85年に蒸溜されたものしかないのなら、91年か92年の時点でそのウィスキーは6〜7年熟成となります。VOSNバーボンは最も若くても8年熟成でリリースされていました。そこでマーシィはもう一人のレジェンドであるエヴァン・クルスヴィーンのKBDに目を向け、彼に頼んでストックしてあったライをピックしてもらったのではないでしょうか。では、中身は何処から? はい、例によってKBDは秘密主義なので原酒は謎です。後にリリースされた伝説的なライのソースを考慮すると、旧バーンハイムもしくはエンシェント・エイジで蒸溜されたクリーム・オブ・ケンタッキー・ライである可能性が高いように思えます。ですが、KBDもメドリー・ライのバレルを所有していたのならそれかも知れないし、ヘヴンヒルやバートンを疑うことも出来そうですし、結局は分からないとしか言いようがありません。

偖て、もう一方のヴェリー・オールド・セントニック・エンシェント・ライ・ウィスキー17年の方はと言うと、こちらは1990年代末から2000年代初め頃に用いられたデザインのラベルかと思います。正直、私には発売時期および期間、幾つのバッチがあったのか等は正確に判りませんので、詳細をご存知の方はコメントよりご教示ください。このラベルは通常のVOSNより更に熟成年数が高めなのが特徴で、中熟物もありましたが殆どは20年オーヴァーの高齢ウィスキーを使ったリリースであり、バーボンのヴァリエーションにはエステート・リザーヴ8年ドリップド・カッパー・ワックス86プルーフ、20年ブルー・ワックス94プルーフ、22年ドリップド・レッド・ワックス81.2プルーフ及びドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ、23年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びカッパー・ワックス82.6プルーフ、24年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びブラック・ワックス81.2プルーフ、25年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びゴールド・ワックス86.4プルーフとありました。ライにはこの17年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.7プルーフ以外に、12年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.6プルーフ、15年ドリップド・ホワイト・ワックス86プルーフ、18年ドリップド・ゴールド・ワックス104.6プルーフとありました。これらは画像で見たものを纏めただけなので他にもあるのかも知れません。またワックスの色に関しても画像を視認しただけなので誤っている可能性があります。で、こちらのエンシェント・ライ17年の中身に就いても、これまた明確には判りません。熟成年数などを考えると、やはり旧バーンハイムのCoKRではないかと思うのですが…。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

1000005115
Very Olde St. Nick Winter Rye 101 Proof
推定90〜91年頃のボトリング。
Rating:87/100

1000005122
Very Olde St. Nick Ancient Rye 17 Years 103.7 Proof
推定2000年前後のボトリング。
Rating:87/100

Thought:少量しか飲んでないので大したことは言えませんが、どちらもアニス、リコリス、土っぽさなどが現れるタイプのライ・ウィスキーかなと思いました。今回飲んだこのウィンター・ライのラベルには熟成年数の記載はありませんが、上で言及した日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルには9年熟成と明記されています。これもそれと同じ物と見做していいのなら、この二つは9年と17年という熟成期間にかなりの差があるにも拘らず、どちらもフルーティよりはウッディに傾きがちで、何だか似たような風味に感じました。強いて違いを言うと、エンシェント・ライ17年の方が僅かにオールドファンクを伴ったミント感が強いくらいでしょうか。ウィンター・ライが経年のオールド・ボトル・エフェクトでエンシェント・ライに近づいたのかも知れません。或いは元から9年以上の原酒がブレンドされていたとか? 飲んだことのある方はコメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。

1000004750

ミルウォーキーズ・クラブさんでの4杯目は、前から飲んでみたかったワイルドボアにしました。本当はプルーフの高い15年の方が飲んでみたかったのですが、もうなくなってしまったとのことで12年を。
このバーボンは一般的にはあまり知られていないと思いますが、バーボン・マニア(というかKBDマニア?)には人気のブランドです。90年前後から2000年に掛けてKBDが日本市場に向けてボトリングしたブランドは多数ありますが、その中でもジョン・フィッチやクラウン・ダービーやダービー・ローズ等と並んでオークションに殆ど現れず希少性が高いです。このブランドには12年80プルーフと15年101プルーフがあり、おそらく91年あたりにボトリングされたものと思われます。写真は掲載されてないのですが、世界最大級のウィスキー・データベース・サイトと言われる「Whiskybase」には6年43度のワイルドボアが登録されていました。もしかするとヨーロッパ市場向けにもボトリングされていたのかも知れません。それは兎も角、名前やラベル・デザインにインパクトのあるこのブランドは、その来歴が全く分からない。ウィレットまたはKBDが所有していたブランドなのか? 大昔に存在していたブランドなのか? それとも90年当時に作成されたラベルなのか? そうしたことが一切分からないのです。今現在、動物の「ワイルドボア(イノシシ)」ではないウィスキーのワイルドボアをネットで検索すると、出てくるのはワイルドボア・ブランドの「バーボン&コーラ」ばかりです。これはオーストラリアで流通しているRTD飲料なのですが、その使っているバーボンが「ケンタッキー・バーボン」と書かれている種類の物もあり、何だかここで取り上げているワイルドボア・バーボンと繋がりがあってもおかしくなさそうにも感じます。しかし、私がネットで調べてみてもそこに明確な繋がりがあるのかどうかは分かりませんでした。
1000004804
(Hawkesbury Brewing Co.のウェブサイトより)

ところで、このワイルドボア12年や15年と同時期にKBDがボトリングしていたウッドストックというブランドがあります。
1000004820
(画像提供バーFIVE様)
このウッドストックの販売されていたヴァリエーションが12年80プルーフ及び15年101プルーフとワイルドボアと同じであるところから、個人的には姉妹ブランドなのかしら?という印象をもっていました。で、ワイルドボアと同じように、音楽フェスティヴァルの「ウッドストック」ではないウィスキーのウッドストックをネットで検索してみると、ウッドストック・ブランドの「バーボン&コーラ」が出て来るのです。
1000004819
(Woodstock Bourbonのウェブサイトより)
これはニュージーランドのバーボン&コーラのNo.1ブランドだそう。また、こちらのウッドストック・ブランドにはRTD飲料ではないバーボン・ウィスキーも幾つかの種類がありました。それらもオーストラリアとニュージーランド市場の製品みたいです。
このように、KBDが同時期にボトリングしていた2つのブランドの名前は、現在、似たような製品かつ似たような市場でリリースされるブランドと同じ名前です。これは偶然なのでしょうか? 私には何か繋がりがあるような気がしてならないのですが…。もしかしてこれらは同じブランドであり、元々オセアニア地域向けに作られたブランドだったとか? 或いは90年代に日本向けに作られたブランドを、後年、オセアニア地域の酒類会社が買い取って現在に至るとか? まあ、これは単なる憶測です。誰か仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。

偖て、肝心の中身のジュースについては…、はい、これもよく分かりません。この頃のKBDのボトリングならば、旧ウィレットの蒸溜物である可能性は高いような気はしますが、どうなのでしょう? では、最後に飲んだ感想を少し。

1000004753
WILD BOAR 12 Years Old 80 Proof
推定91年ボトリング。インポーター・ラベルはほぼ剥がれていますが、残された文字からすると河内屋酒販でしょう。フルーティな香り立ちが心地良い。味わいもフルーティで、ロウ・プルーフにしてはフレイヴァーが濃ゆい。加水が功を奏したのか、オールドファンクな余韻も適度で個人的には気に入りました。で、何処の蒸溜物かですが、旧ウィレットはフルーティと聞き及びますので、その可能性は大いにありそうな…。ですが、私の舌ではちょっと確信はもてませんね。
Rating:86.5/100

2024-10-29-02-16-23-018

ジャズクラブはマーシィ・パラテラのアライド・ロマー(インターナショナル・ビヴァレッジ)のブランドで、おそらく80年代後半から2000年代に掛けて日本市場へ向けて輸出されていたと思われます。ジャズ・クラブというとミュージシャンの写真が色々と使われた12年、15年、20年の長熟物が知られていますが、それ以外にこのクラブハウス・スペシャルというNASの物がありました。これがどれくらいの期間販売されていたかよく判りません。画像も含め私が見たことのあるクラブハウス・スペシャルには、輸入者が河内屋酒販のもの、東亜商事のもの、インポーター・シールがないものがあります。個人的な印象としては、多分このラベルは後期にはリリースされてないような気がしています。そのせいなのか、年数表記のあるものよりオークションで見掛けることは少ないです。マーシィ自身はこのラベルを80年代にデザインしたと言っていたので、これがそもそものジャズ・クラブの姿なのかも知れませんね。販売時期などの仔細をご存知の方はコメントよりご教示ください。よく分からないことは偖て措き、上述の年数表記のあるジャズクラブのような同じブランドの名の元に異なる人物の写真を使用するコレクターズ・シリーズはアライド・ロマーの得意芸?であり、他にも西部開拓史を彩った象徴的なヒーロー達を揃えた「レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェスト」、それらと同時代の荒くれ者やお尋ね者を揃えた「アウトロー」、それらほど熟成年数が高くない「ギャングスター」や「ブルースクラブ」、「R&B」や「ロックンロール」、「USAベースボール」等がありました。これらの中ではレジェンズとアウトローとジャズクラブの長期熟成物が頭一つ抜け出たプレミアム製品だったように思います。これらはどれもKBD(ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ、現ウィレット蒸溜所)がマーシィのためにボトリングしました。で、このクラブハウス・スペシャルの中身に就いてですが、例によって謎です。可能性としてマーシィが持ち込んだスティッツェル=ウェラーのバレルかも知れないし、KBDのストックからかも知れないし、異なるバレルのブレンドなのかも知れません。NASであることを考えると、年数表記のあるものよりクオリティは低いのではないでしょうか。聞いた話では、これがジャズクラブの中ではエントリー品と言うかスタンダード品と言う位置付けで値段も一番安かったらしいので。

FotoGrid_20241029_021007075
JAZZ CLUB Clubhouse Special 110 Proof
ハイ・プルーフから期待するほどフレイヴァー・ボムではありませんでした。と言うか、キャラクターが捉え難いところがあり、過剰にオーキーでもなく、フルーティさが全面に出るのでもなく、如何にも長熟ぽい渋さもないし、かと言って溌剌とした若いウィスキーだなぁという印象もないのです。マーシィのブランドにありがちなオールドなファンキネスはそれなりにありますが…。実際飲んでみても原酒の供給元は全く分かりません。色々なバレルのブレンドなのかしら? 飲んだことのある方はコメントから感想を教えてもらえると助かります。
Rating:83.5/100

2024-08-11-23-15-46-263

ミルウォーキーズクラブさんでの2杯目は、海外のレヴューを見て評判が良さそうだったので前から飲んでみたかったケンタッキー・アウル・ライ11年バッチ1にしてみました。日々追いきれないほどの新しいアメリカン・ウィスキーのブランドが誕生しているここ十年、歴史的なウィスキー・ブランドが復活を遂げることも少なくありません。ケンタッキー・アウルはそうしたブランドの一つであり、その背景に素晴らしい家族の物語と興味深い歴史をもつウィスキーです。そこで今回はこのブランドの現在までをざっくりと辿ってみたいと思います。

1870年代、ケンタッキー州の孤児だったチャールズ・モーティマー・デドマンは、アンダーソン郡のシダー・ブルック蒸溜所(RD#44)を経営していた養父のザ・ジャッジことウィリアム・ハリソン・マクブレヤーから結婚祝いとして、自分の蒸溜所とバーボン・ブランドを設立できるように必要な土地と資金を贈られました。彼の母メアリー・マクブレヤー・デドマンはジャッジの妹でした。1879年にチャールズによって設立され、C.M.デドマン蒸溜所またはケンタッキー・アウル・ディスティリング・カンパニーと知られた蒸溜所(マーサー郡第8区RD#16)は、ケンタッキー州オレゴン(ローレンスバーグの南方のサルヴィサから東へ数マイルの場所)のケンタッキー・リヴァーのフェリー乗り場近くにて操業していました。彼の蒸溜所は大きな蒸留所ではなく、1909年のマイダズ・ファイナンシャル・インデックスでは10000〜15000ドルのFランクだったそう。主な銘柄は言うまでもなくケンタッキー・アウルでした。チャールズは薬剤師でもあり、ハロッズバーグにドラッグストアも経営していました。彼が製造していた「THE WISE MAN'S WHISKEY」は単なるキャッチフレーズではなく、彼のビジネスの根幹をなすものとされ、知恵や知識の象徴である梟をアイコンにしたコンセプトは、人々が賢くアルコールを摂取できる、または摂取すべきだという彼の信念を表しており、ケンタッキー・アウルはローカル・シーンでは絶大な人気を誇ったと伝えられます。
2024-09-24-22-54-08-652
(オリジナルのケンタッキー・アウルのラベルと蒸溜所)
蒸溜所は禁酒法の影響から1916年まで操業した後に閉鎖。チャールズは1918年に死去しました。彼の義父母が宗教上の理由から酒類に反対していたため、蒸溜所は再開されることはありませんでした。蒸溜所が閉鎖された当時、ケンタッキー・アウルは将来の利益が見込まれる約25万ガロン(約4700バレル)の熟成段階の異なった「賢者のウィスキー」を貯蔵していましたが、残念なことに一部の不謹慎な連邦税務署員によって押収されました。バレルは艀で川を遡ってケンタッキー州フランクフォートに送られ、そこの政府の倉庫に保管されました。連邦政府はフランクフォートの安全な倉庫でウィスキーを見守る筈でした。しかし、禁酒法が全国的に施行された1919年の或る日の夜、倉庫は謎の火災に見舞われ、ウィスキーは一滴残らず倉庫と共に短時間で全焼してしまいます。奇妙なことにアルコールで満たされた建物にしては火災が数時間で済んだことで、ケンタッキー・アウルの全在庫もしくはウィスキーの大半は、活況を呈していたスピークイージーズに提供するため、アル・カポーンか他のブートレガーかは定かでないものの、組織犯罪によって事前に持ち去られていたのではないか、と当時の多くの人々は疑いました。上質なアメリカン・ウィスキーは、禁酒法期間中、この「ナイト・アウルズ」を存分に稼動させ、バスタブ・ジンに代わる金持ちの嗜好品として最高級の酒場で振る舞われていたらしいのです。禁酒法の厳格な条項により、デドマン一家はウィスキーの損失に対する補償を受けることが出来ず、家族は薬局の経営に戻り、往年のケンタッキー・アウル・ブランドは突如として終焉を迎えました。こうして他の多くのブランドと同様に、嘗て繁栄したブランドは人々の記憶から消え去って行くことになります。
ハロッズバーグのドラッグストアは同じく薬剤師だった息子のトーマス・カリー・デドマンが後を継ぎ、父の義理の両親に配慮して、禁酒法時代には処方箋によるウィスキーの販売を断ったと云います。それから約100年後、C.M.デドマンの玄孫がウィスキー事業を復活させる訳ですが、その間、デドマン家は宿の経営で名を馳せました。次はそちらの歴史を見て行きましょう。

Beaumont_Inn
(WIKIMEDIA COMMONSより)
ケンタッキー州ハロッズバーグにあり、ゴッダード家とデドマン家の5世代が経営して来たボーモント・インは、南部の魅力とエレガントを体現するケンタッキー州で最も古い歴史的な宿です。この建物は元々は若い女性のための学校として使われていました。グリーンヴィル・スプリングスとして知られていた保養地の区画の一部に、1841年、サミュエル・G・マリンズ博士がグリーンヴィル・インスティテュートを設立しました。この土地は一旦は焼失しましたが、多くの公共心のある市民が再建を支援し、1855年まで運営されました。1856年にC・E・ウィリアムス博士とその息子のジョン・オーガスタス・ウィリアムス教授が周辺の地区を購入し、その年の暮れ、ドーターズ・カレッジと改名されます。ドーターズ・カレッジは、19世紀後半にケンタッキー州に設立された数少ない女子大学の一つで、女子に男子大学と同様のカリキュラムを提供しました。1844年に建てられた建物は、ドーターズ・カレッジのカタログには「エレガントなブリック・マンションで、80×52フィート、3階建て、風通しがよく、部屋の湿気を防ぐために中空壁で造られ、金属製の屋根やその他の手段で火災に対する安全が確保され、最も広々としたダイニングルーム、キッチン、バスルームがあり、1万ドルを掛けて完成し、100人の生徒を収容できるように準備されている」とあったそうです。ケンタッキー大学の元学長だったジョン・オーガスタス・ウィリアムスは、1892年までの40年近くに渡り学長を務め、指揮を執りました。 彼は時代を先取りした素晴らしい教育者であり、まるで自分の子供のように女学生達の教育を計画し、教授としてだけでなく父親代わりともなりました。南北戦争中、南部の裕福な家庭の多くは迫り来る戦争という敵対行為から逃れるために娘達をこの本格的な大学に送り込んだと云います。ヴァージニアンでトーマス・J・"ストーンウォール"・ジャクソン将軍の部下だった元南軍将校のトーマス・スミス大佐とその夫人が学校を購入すると、1894年にボーモント・カレッジと改名されました。フランス語で「Beaumont(ボーモン)」は「美しい山」という意味であり、これは建物が町で最も高い場所の一つに位置していたからのようです。ボーモント・カレッジでは「芸術、弁論術、音楽院、そしてアメリカやヨーロッパの一流校を目指すための強力な文学コース」を提供していたとされ、そのモットーは「エレガントな文化と洗練されたマナーに恵まれた誇り高き品性」でした。残念ながら再オープンしたボーモント・カレッジは、大幅な拡張のための基金がなく、1916年に閉鎖されました。閉校した後の1917年、アニー・ベル・ゴッダードとメイ・ペティボーン・ハーディンの2人の卒業生がこの建物を購入します。彼女達には自らが通った学校に思い入れがあったのでしょう。アニー・ベルは1880年にドーターズ・カレッジを卒業し、同カレッジで数学を教え、後に学部長も務めていた人でした。最終的にグレイヴとアニー・ベルのゴッダード夫妻がもう一人から権利を買い取って単独所有者となった後、彼女は1918年にこの建物をカレッジの元同窓生向けの宿に改装し、1919年にボーモント・インが誕生しました。インはすぐに「南部のおもてなし」で知られるようになり、この施設は歴史的な場所の一部となったのです。その後、アニー・ベルと前夫ニックの娘であるポーリーン・ゴッダード・デドマンが母の後を継いでインキーパーとなりました。このポーリーンの結婚相手がチャールズ・モーティマー・デドマンの息子トーマス・カリー・デドマンでした。この宿の経営は三代目のトーマス・カリー・"バド"・デドマン・ジュニアとその妻メアリー・エリザベス・ランズデル・デドマンが続き、更にその息子チャールズ・マイナー・"チャック"・デドマンとその妻ヘレン・ウィリアムズ・デドマンによって引き継がれて行きます。こうして凡そ1世紀に渡り、ゴッダード家とデドマン家の子孫が伝統を受け継いでボーモント・インの家族経営を続けました。
2024-08-24-23-03-51-413_copy_548x708_copy_137x177
(アニー・ベル・ゴッダード)
この宿は正に歴史に彩られており、学校として使われていた時代の本や写真、書類など、多くの芸術品が展示されています。入り口近くの部屋は学校の図書室だったそうで、チェリー材の本棚には、生徒や教師が使った古い本が壁一面に並んでいるとか。ホールには1934年にフランクリン・D・ルーズヴェルトがハロッズバーグを訪れオールド・フォート・ハロッズのジョージ・ロジャース・クラーク記念碑の奉納式に出席した際に使用したと言う大きな木製の椅子があったり、ゲストルームには家族が四方から受け継いだか或いは時のオウナーが収集したアンティークが置かれているそうです。レストランは南部料理を出すことで知られ、メニューにはカントリーハム、コーンプディング、フライドチキン、コーンブレッド、デザートなど、5世代に渡って受け継がれてきたケンタッキー州の特産品が並びます。当初はカントリー・ハムとフライド・チキンの2種類しかメイン・ディッシュがなかったそうですが、世紀を超える営業のうちに進化し、1949年にはアメリカの料理評論家ダンカン・ハインズに、ケンタッキー州で最高のレストランと評されました。今日のボーモント・インは、ジェームズ・ビアード財団から「時代を超越した魅力を持ち、地域社会の特徴を反映した質の高い料理で知られる」レストランに贈られるアメリカズ・クラシック・アワードを2015年に受賞したことで、ケンタッキー州を越えてその名を知られるようになりました。チャック・デドマンは、この栄誉は現在の宿主に与えられたのではなく、アニー・ベルや祖母や両親に遡る、ボーモント・インが長年に渡って事業を続けてきたことに対する評価だと語っています。また、サザーン・リヴィング・マガジンからは南部の魅力的な宿トップ20に選ばれるなど、他にも多くの賞を受賞しています。
しかし、常に順風満帆だったという訳でもなく、一時は経済的に苦しい時期がありました。冬になると客足が途絶え、宿は4か月間閉鎖されていたのです。そのため収益が落ち込み資金不足から大規模な改修は延期されていました。問題の一つはそのロケーションにありました。ハロッズバーグはバーズタウンのすぐ東でありフランクフォートのすぐ南というバーボン産地の真ん中にありながらドライ・カウンティだったため、蒸溜所を見学に来た人達がせっかくインに立ち寄っても、2000年代初頭までレストランではブラック・コーヒーを出すのが精一杯だったのです。風向きが変わったのは、第5世代のサミュエル・ディクソン・デドマンが2003年にワッフォード・カレッジを卒業し、家業に戻った頃のことでした。8歳の時から「お手伝い」をしていたディクソンは、大学在学中も夏季や休日に妹のベッキー・デドマン・ボウリングと共にボーモント・インで働いており、家業を継ぐことに疑問の余地はありませんでした。彼は卒業後1週間も経たないうちに宿の仕事をやり出したそうです。2003年、ローカル・オプション条例が可決され、それまで「ドライ」だったハロッズバーグはバーやレストランでのアルコール販売を許可する「モイスト」になりました。この法改正はデドマン家にとって歓迎すべきニュースであり、ディクソンはすぐにインのメイン・ダイニングで酒類を提供し始めると、オールド・アウル・タヴァーンの建設に取り掛かり、更にパブの雰囲気をもつアウルズ・ネストもオープンしました。タヴァーンは本館の南端に位置し、元々は馬車や荷馬車が保管されていた場所でした。言うまでもなくその名前は高祖父が造ったウィスキーに由来します。
https://www.facebook.com/oldowltavern
酒類をグラスで販売できるようになったことで、この場所の運勢は一変しました。地元の人々がこの店のバーに集まっただけでなく、近隣の蒸溜所を巡るウィスキー観光客がインに泊まるために列をなすようになり、2005年には通年営業となります。ハロッズバーグでの規制緩和の決定とディクソンの変革は、ちょうどバーボン業界が数十年に渡る需要の低迷から回復し始めた時期と一致していました。2000年から2010年の間にアメリカン・ウィスキー蒸溜所の収益は46%増加したと言います。新たにウィスキーに興味をもった人々がバーボン体験のために本場ケンタッキーへと押し寄せるようになったのです。ディクソンは2008年には宿の経営を全面的に手伝っていました。宿の財政が安定したところで愈よ彼は夢の実現に乗り出します。

「C・M・デドマン以来どの世代もこれをやりたがっていました」。「これ」とはファミリー・ラベルの復活に他なりません。ディクソンの父も祖父も屡々ブランドの再開に就いては話をしていましたが、それはたわいのない話に留まっていました。「私の祖父は、もし宝くじに当たったら二つのことをする、と我々に言っていました。先ずはリムジンを買う。そしてウィスキー・ビジネスを再開するんだ」と冗談半分に。幸いディクソンは人脈に恵まれました。インキーパーの友人であるマークとシェリィのカーター夫妻の協力を得ることが出来たのです。二人はワインメーカーとしても成功しており、2007年にエンヴィ・ワイナリーでの生産を拡大した後、プライヴェート・ラベルを作る新しい顧客を探していました。彼らは緊密な繋がりのある旅館経営コミュニティに目を向け、或る時、テキサス州オースティンで行われた旅館コンヴェンションで古い友人のディクソン・デドマンに会いました。マークはディクソンを赤ん坊の頃から知っており、彼の父親が1990年代にハロッズバーグ地区でのアルコール販売規制を解除するためのロビー活動を成功させるのを手伝ったことがありました。ディクソンはカーター夫妻が顧客を探していると聞きつけ、ボーモント・インのためのプライヴェート・ラベル作成に興味があると伝えました。しかしマークはデドマンのためにワインを造ることには関心がなく、寧ろディクソンの父チャックが酒類法改正のためにハロッズバーグを訪れていた時に聞いた話、即ち家族が嘗て所有していた蒸溜所がケンタッキー・アウルというバーボンを製造していたことの方に興味がありました。マークはワインを造って欲しいというディクソンのリクエストにこう答えたと言います。「問題なく君のためにワインを造ることは出来るよ。でもね、お父さんが話してくれた、君の家族のバーボン・ブランドを復活させる手助けをすることに我々はもっと興味があるんだ」と。何度かミーティングを重ねた後、カーター夫妻はコンプライアンスや資金調達の殆どを自分たちで処理し、シェリィのアーティストとしてのスキルをデザインに生かすことだって出来るとディクソンに確約しました。ウィスキーを販売するまでにはTTB、税金、ディストリビューターとの取引など人々が思っている以上に多くの困難がありますが、彼らはその全てを手伝えると言ったのです。ディクソンは、コストと時間の掛かり過ぎる自社蒸溜所を開設するのではなく、他の場所で蒸溜されたウィスキーを調達し、それを自身のラベルでボトリングすることに決めました。後はバーボンを見つけるだけです。友人のツテを頼ったのか自分で飛び込んだのか分かりませんが、おそらくバーズタウン地域を中心とする複数の蒸溜所からウィスキーを調達したと思われ、彼は十分な量の原酒を手に入れました。
ディクソンの恵まれた人脈の中にはフォアローゼズ蒸溜所のマスター・ディスティラーだったジム・ラトリッジもいました。同蒸留所で49年間も働いていたラトリッジは最も尊敬を集めるウィスキーマンの一人です。そこでディクソンは2010年頃から購入したウィスキー・バレルの5つのサンプルをラトリッジの自宅に持ち込んで評価してもらいました。しかしラトリッジの評価は芳しくなく、彼の回想によると「それらを試飲してみて、『これらを絶対にボトルに入れないようどう伝えるか』考えました。私はブレンドする必要があるかも知れないと言った」そうです。ブレンドはバレルの無限の組み合わせを試飲する大変な作業でしたが、ディクソンは夜になって宿を閉めた後、レストランの奥でテーブルに何十ものバレルのサンプルを並べ、熟成年数やアルコール度数、倉庫のどこに置かれていたかにも細心の注意を払いながら試行錯誤を繰り返しました。おそらくこの作業にはカーター夫妻も関与していたと思われます。そして何処かの段階で3人のパートナーズは、ウィスキーを二度目のバレルに注ぐダブル・バレル方式が有益だと考えました。「私たちはワイン造りのプロセスを取り入れました。この製品にもう少しオークを加えたかったのです」とシェリィ・カーターは語っています。これはバッチの一部に使用する原酒をニュー・チャード・オーク・バレル(もしくは前に別の蒸溜所のバーボンが入っていたユーズド・バレル)に再度入れるというものでした。この方法によって元のウィスキーは完全に変化したと考えられ、原酒の大部分が例えばヘヴンヒルやバートンもしくはブラウン=フォーマンで造られていたとしても、ボトリングされる頃にはかなり味わいは異なるものになっていたと思われます。ディクソン達が最終的にケンタッキー・アウルとなるバーボンの原酒を考え出すまでに数年を要しました。彼らは皆、ケンタッキー・アウルに頼らずとも人生で成功していたので、標準以下の製品でも売り出さなければならないプレッシャーはなく、製品が完成していないと思えば待つことが出来たのです。ディクソン・デドマンが一族の遺産を復活させることを決意してから約6年、チャールズ・モーティマー・デドマンが生産していたウィスキーを彷彿とさせながらも現代の消費者に十分アピールするモダンな風味を造り上げるための研究と実験を経て、漸くその名に相応しいスモールバッチのブレンドは完成しました。ボトリングとラベリングを担当したのは、パートナーシップを結んでいるストロング・スピリッツでしょう。
2024-09-06-16-47-47-693_copy_330x329
(初期のケンタッキー・アウルのラベル)
2014年9月、ケンタッキー・アウル・バーボンのバッチ1はリリースされました。チャー#5とチャー#6のバレルに風味の多くを頼った5樽から、水を加えず、118.4プルーフで1250本のボトリング。ディクソンは家族と一緒にその最初の1本を先祖が埋葬されている墓地に持って行き、C・M・デドマンと失われたラベルを取り戻そうとしたその後の世代に乾杯したそうです。ケンタッキー州でのみ発売され、価格は1本160〜175ドルほどでした。マーク・カーターによれば「我々はこの製品は少し敬意を払うに値すると感じたので、プレミアム価格と思われるものを付けました。 ダブルオーキングをすることで、よりコストが掛かりましたしね」とのこと。 また「カット(※希釈。ボトリング前に最終製品に水を加える工程)すればもっと儲かるだろうと人々は言っていましたが、私達はそうしたことに全く興味がありませんでした。私たちはただ質の高い製品を造りたかった」とも語っています。当時、小売価格で150ドルを超えるバーボンは殆どありませんでした。いや、50ドルを超えるものすら少数でした。しかし、ケンタッキー・アウルがルイヴィル周辺の酒屋の棚に並び始めて僅か10日、または数週間でボトルはほぼ完売しました。誰もレヴューしないうちに、いつの間にかケンタッキー・アウルのボトルを買い求める人々が集まっていたと言います。セカンダリー・マーケットでは、フリッパーズ(転売ヤー)は店頭で買った値段の数倍もの値段を要求しました。ケンタッキー・アウルを後押しした要因は幾つかありました。先ず物語と伝統がありましたし、小売業者による初期の宣伝も功を奏したし、ウィスキーの調達先に関する謎も関心を高めたでしょう。そうした噂話やソーシャル・メディアのお陰でその名前は瞬く間に広まりました。ワイズマンズ・バーボンというキャッチーなフレーズとラベル・デザインも頗る魅力的で、個人的には人を惹き付けた要素だと思います。そして取り分け、適切な時期に適切な場所に居たことは大きな一因でした。ケンタッキー・アウルがデビューしたのは、バーボンの売上が50%以上急増したと言わる2012〜2017年の最中であり、経済の高揚で潤沢な資金をもつウィスキー愛好家が次の注目されるバーボンを手に入れるために追加料金を支払うことを厭わなかったタイミングでした。このウィスキーには何処か神秘性があり、品格があり、説明し難いクールな要素があり、「次のパピー・ヴァン・ウィンクル」と見做されれていた節もあります。ケンタッキー・アウル・バーボンは『ガーデン&ガン』誌のメイド・イン・ザ・サウス賞のドリンク部門に選出され、2014年12月/2015年1月号に掲載されました。このアワードは、現在の当該地域で作られている最高の製品を表彰するもので、各部門の優勝者と次点者はG&Gの編集者とゲスト審査員によって選出されます。アメリカのウィスキー市場が活況を呈し、次々と新しいバーボンが登場する中にあってケンタッキー・アウルは何かが違いました。但し、ディクソンは商業的に成功するウィスキーを造ることは決して計画していなかったと言っています。もともと彼はバーボンのコレクターであり、ボーモント・インで定期的にテイスティング会を開いて味の特徴や歴史について話すのが好きな愛好家ではありましたが、バーボンを副業として楽しめると思って始めただけで販売計画もマーケティング戦略もなかった、と。

2015年にバッチ2が発売された頃には、このブランドは既にバーボン愛好家の間で人気を博していました。バッチ2は、4年目にニュー・チャード・オーク・バレル(チャー#4と#5の両方)に詰め替えた約9年熟成の6つの異なる樽から出来ていて、最終的に117.2のバレル・プルーフでボトリングされ、バッチ1より若干多い1380本が生産されました。ディクソンとカーター夫妻は、ワインがヴィンテージ毎に異なるフレイヴァー・プロファイルがあるのと同じように、各バッチの味がユニークであることを望みました。シェリィ・カーターは「各バッチの出来栄えにとても満足しています。皆さんそれぞれにお気に入りのバッチがあるようです」と言っています。ディクソンも「バッチ毎に殆ど新しいスタートを切っています。それが私にとっては楽し」く、「毎年異なるヴィンテージが重要になるでしょう。 我々が造るどのバッチもユニークな品質が備わります」と言っています。アメリカン・ウィスキーの需要が爆発的に高まった時期にも拘らず、その後のロットも同様に限定されたものでした。ケンタッキー・アウルはバーボン界で最も人気のある新ブランドの一つへと急速に成長し、入手困難なスニーカーと同じようにほぼ全てのボトルが2倍、3倍、4倍の価格で転売されており、カルト的な人気を獲得しています。その影響からかそもそも小売価格も相当な値段で、ディクソンとビジネス・パートナーら3人は当然それが美味しく価値のあるものだと思っていましたが、小売業者はそれ以上の何かを見出し値付けしました。ディクソンは「蒸溜所も倉庫も持たずに小規模で何かをするには、かなりのお金が掛かります。それが価格がこのような値になっている理由の一部です。しかし、小売業者がそれに上乗せする金額は…かなりの額になります」と言い、小売店がどうするかは彼の手に負えないと語っていました。ちなみに、オールド・アウル・タヴァーンでは比較的安価で飲めるらしいです。余りに高額なウィスキーは、その価格故に厳しい目に晒されるでしょう。実際、価格を考慮してスコアを付けるレヴュワーの中にはケンタッキー・アウルを低評価にする人はいます。美味しいは美味しいのだが価格に見合うとは思えない、という訳です。あのバーボンの歴史家マイケル・ヴィーチですら、業界の試飲会でディクソンに会った時、「君のバーボンは好きですが、値段が気に入らない」と言いました。ディクソンは「少なくともウィスキーを気に入ってくれて嬉しい」と答えたとか。

2016年のサンクスギヴィング・デイの前、ディクソンはロシア人実業家ユーリ・シェフラーのオフィスから電話を受けます。ストリチナヤ・ウォッカで知られる世界的な飲料会社SPIグループからのケンタッキー・アウル・ブランドの買収話でした。シェフラーはポートフォリオを改善するためのホットなアイテムを探しており、ケンタッキー・アウルに興味を持ったのです。ディクソンはパートナーのカーター家に電話を掛け、真剣な買い手が接触して来たことを知らせました。カーター夫妻は当初、ブランドのシェアを売却することにまったく乗り気ではなかったと言います。しかし、最終的に取引は成立し、2017年1月に7桁台後半と噂される非公開の金額でこのブランドを売却しました。カーター夫妻は事業を去り、新しいプロジェクトのためにウィスキーのバレルを探し始めました。彼らの計画はケンタッキー・アウルをヒットさせた主要な要素の殆どを繰り返すことでした。どうやらカーター夫妻は小規模な生産に留まることを好むようで、シェリィ・カーターによれば、「私たちは何かを大量生産することに興味を持ったことはありません。量より質に誠実さがあると信じています」とのこと。そうして後にオールド・カーターというブランドを成功させる訳ですが、これは別のお話です。一方のディクソンは契約の一環でアンバサダー兼ブレンダーとして残りました。2017年1月25日、SPIグループの子会社ストーリ・グループUSAがケンタッキー・アウル・ブランドの流通、販売、マーケティング及び世界展開を引き継ぐと発表されました。SPIグループのドミトリー・エフィモフCEOは「アメリカン・ウィスキーを検討し始めた時、その複雑でありながら非常に滑らかな味わいからケンタッキー・アウルに惹かれました」、「オウナーと同席し、話を聞くうちに、私達はこのブランドの再生に熱意を持ち、SPIのウィスキー・ラインの頼みの綱のバーボンになるだろうという結論に達しました」と語っています。ストーリ・グループUSAのパトリック・ピアナ社長は「ケンタッキー・アウルは当社のプレミアムとラグジュアリーなブランドのポートフォリオにとって素晴らしい次のステップです。バーボンは最近目覚しい成長を遂げており、特にスーパー・プレミアムのサブカテゴリーに大きなチャンスがあると見ています」、「私はディクソン・デッドマンと共に、彼の家族が北米のブラウンスピリッツ消費者向けにカルト・バーボン・ブランドとして築き上げた信頼ある製品を加速させることを楽しみにしています」と発言しました。同社がこのウィスキーに力を入れるのに時間は掛かりませんでした。少量生産のスーパー・プレミアム・バーボンであるこのブランドはストーリ・グループUSAによってアメリカの主要都市にも進出して行くことになります。
2017年8月から9月に掛けてリリースされたケンタッキー・アウル・バーボンのバッチ#7は、販売地域が単一州からカリフォルニア、イリノイ、フロリダ、ケンタッキー、テキサス、ニューヨーク、テネシーの7州に拡大されました。バッチ#7は、13年以上熟成の11樽と、2年目にダブル・バレルドされた8~9年熟成の4樽から、118プルーフのボトリングで計2535本の生産とされています。ディクソンは「どのバッチもそうですが、私は特定のテイスト・プロファイルを念頭に置いて始めません。代わりに、そのフレイヴァーをフォローして、前のバッチよりもフロントにより甘みがあり、フィニッシュはより複雑でスパイシーな組み合わせに辿り着きました」と語りました。希望小売価格は200ドルだったようです。同じ頃、ケンタッキー・アウルに新しくライ・ウィスキーも発売されました。
kentucky-owl-bourbon-bottles-f176b09
ディクソンはどうやら大量のライ・ウィスキーを手に入れるチャンスに恵まれたらしい(ライはその後の数年間で計4つのバッチが造られた)。バーボンのリリースとは異なり、ケンタッキー・アウル・ライに使用されたバレル数やボトル本数は明らかにされていませんが、このリリースには7000本以上のボトルがあると噂されていたり、一説には最初のバッチは45000本ほど造られたとされます。これはカリフォルニア、コロラド、コロンビア特別区、フロリダ、ジョージア、イリノイ、インディアナ、ケンタッキー、ルイジアナ、メリーランド、マサチューセッツ、ミシガン、ミネソタ、ミズーリ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、ニューヨーク、ノース・キャロライナ、オハイオ、ペンシルヴェニア、サウス・キャロライナ、テネシー、テキサス、ヴァージニア、ワシントン、ウィスコンシンを含む国の半分の州でリリースされました。そして、ケンタッキー・アウル・ライはバレルプルーフでのボトリングではなく、加水調整されています。バッチ1のバッチ・プルーフは130くらいで、その後、ディクソンは自分好みのスウィート・スポットになるまでプルーフを下げて行き、最終的に110.6プルーフとなったそうです。ケンタッキー・アウル・ライの総ボトル本数が多いのは、バレル・プルーフでボトリングされていないことも一つの要因かも知れません。調達したライ・ウィスキーが何処産のものかも公開されていませんが、おそらくその出所はバートンだろうと多くの人に推測されています。10年を超すなかなか長熟なライ・ウィスキーというのは市場にそうそう出回っていません。だから、熟成年数だけから2017年の段階で11年物もしくはそれ以上の長熟ケンタッキー・ストレート・ライ・ウィスキーの在庫がありそうな蒸溜所を絞り込むことが出来る訳です。ユタ州のハイ・ウェスト蒸溜所は、長熟のバートン・ライを遠回りして手に入れ、ダブル・ライ!やランデヴー・ライ等に在庫がなくなるまでの間、使用していました。バートン蒸溜所は、2009年にサゼラックに買収される以前は柔軟なカスタム蒸溜をしていたそうです。そうした中で或る顧客にオーダーされ造ったのか、それとも気紛れもしくは実験的に蒸溜したものか、或いは古典的なレシピなのかは判りませんが、兎も角バートンには三つのライ・マッシュビルがあることが知られています。一つはケンタッキー・スタイルに準じた53/37/10です。もう一つは80/10/10で、これはブレンデッドに使用するフレイヴァー・ウィスキーとして造られたと思われます。残りの一つがコーンを含まない高モルトの65/35で、これはカーネルEHテイラー・ストレート・ライに使われていると根強く信じる人達がおり、或るウィスキー・レヴュワーはケンタッキー・アウル・ライのバッチ1を飲んだ後にEHテイラー・ライを試飲したら驚くほど似ていたと言っていました。当時バートンから調達可能だったのは53/37/10と65/35の2種類のライ・ウィスキーと見られるので、強ちなくはない感想かも知れません。但し、ディクソンは全てのライ・ウィスキーが一つの生産者のものではないことを仄めかしています。おそらく使われたバレルの大半はバートン蒸溜所からだと予想されますが、単一の蒸溜所からではないのなら、この時期に11年物(もっと古い原酒がブレンドされているという噂もある)のライを製造していた蒸溜所という観点から候補を絞ると、2000年代初頭にヘヴンヒルのライ・ウィスキーを何年も代行で蒸溜していたり、2004年頃からのミクターズ・ライ10年の供給元と見られるブラウン=フォーマン(旧アーリー・タイムズ・プラント)、2016年に発売されたブッカーズ・ライ13年やノブクリーク・ライの熟成されたストックを持っていた可能性のあるジム・ビーム蒸溜所、サゼラック18年用のライ・ウィスキーが余っていたのならバッファロー・トレース蒸溜所、2019年リリースのコーナーストーンは9年から最大11年の熟成期間とされているので、それに使用されなかった長熟ライが存在するならワイルド・ターキー蒸溜所、と言ったあたりでしょうか。また、そもそもディクソンは或るインタヴューで、調達したウィスキーを他の蒸溜所のバレルでフィニッシングを行うアイディアを説明しているそうですし、ケンタッキー・アウル・バーボンと同じようにニュー・チャード・オーク・バレルでフィニッシングさているのかも知れず、そうなると元のソーシング・ウィスキーの味わいはかなり変化していると見なければなりません。まあ、中身の詳細は藪の中なので措くとして、ケンタッキー・アウル・ライのバッチ1はライ・ウィスキー・ファンの間で最も高く評価され、熱狂的なファンもおり、それを示すような二次価格が付いています。
ケンタッキー・アウル・バーボンのリリース以上にその名を有名にしたのはライでした。ライの発売後、ケンタッキー・アウルは良い意味でも悪い意味でも爆発的に売れたと言います。悪い意味の方は転売ヤーに買い占められた、または愛好家がストックのために買い溜めしたという意味でしょう。ケンタッキー・アウルというブランドに対するウィスキー愛好家の評価は二つの陣営、つまり熱烈に賞賛する陣営と価格に嫌悪感を抱く陣営に分かれますが、嫌悪感陣営がケンタッキー・アウル全体を貶したとしても、称賛陣営からは「あぁ、でもライの最初のバッチは…」云々と言われることが少なくないとか。このようにバッチ1は今や伝説的な地位を獲得していますが、2017年に初めて発売された当時の120ドルは、多くの消費者にとって購入を見送るのに十分に高い価格でした。ところが2018年のバッチ2はボトル1本あたり80ドル高い約200ドルへと値上げされました。熟成年数はそのままでしたが、プルーフは101を僅かに上回る程度まで下げられたにも拘らずです。なぜこれほど大幅な値上げになったのかと愛好家達は困惑しました。そのせいか、バッチ2はケンタッキー・アウル・ライの全リリースの中で最悪の売れ行きとなったらしい。大幅な値上げはまた、まだ安いバッチ1を急いで買いに走らせる要因ともなりました。ぽつりぽつりと現れたレヴューでは、バッチ2よりバッチ1の方が優れていると指摘されました。2019年のバッチ3では、プルーフは上がりましたが(114プルーフ)、どういう訳か熟成年数が1年減って10年熟成となりました。価格は200ドルのままです。ディクソンの語る製法上、夫々のバッチは味わいが異なる筈なので、熟成年数の記載が変わったと言うことは主成分となる原酒が全く異なる蒸溜所のものになっていたり、或いは少なくともその割合には大きな変化があった可能性はあるのかも知れません。繰り返しますがケンタッキー・アウルは秘密のヴェールで覆われているので真相は想像するしかないです。中身のライ・ウィスキーが美味しくなかった訳ではありませんが、バッチ3が登場する頃には、あまりに高過ぎる価格と原酒に関する謎がこのブランドに対する不信感を生んでいます。そして、ケンタッキー・アウル・ライは2020年のバッチ4をもって終了することになりました。チューブに入れられ、その値段はなんと300ドルに値上げられました。廃止の理由は明らかにされていませんが、主成分となっていたバレルが尽きた、または仕入れ先がなくなったとかバレルが高過ぎて仕入れられなくなった、或いはディストリビューターが製品を販売する能力が急低下していることに気づいた等の幾つかの推測があります。

ストーリ・グループは、2017年1月にウィスキー事業参入の基盤としてケンタッキー・アウル・ブランドの権利を購入した後、11月になるとバーボンの首都であるケンタッキー州バーズタウンに1億5000万ドルを投じて新しい蒸溜所を建設する計画を正式に発表し(9月には既にプロジェクトが始動していることが報じられていた)、起工式を行いました。これは長期的には420エーカーの土地に、蒸溜所、ヴィジター・センター、クーパレッジ、リックハウス、ボトリング・センター、コンベンション・センター、釣りやレクリエーションのための淡水湖、レストラン、ホテル、年代物の旅客列車と鉄道駅などで構成される、まるでディズニーランドのようなケンタッキー・アウル・パークと呼ばれる複合施設をバーボン・トレイル最高の目的地として確立する壮大な計画でした。ここはジョン・ローワン・ブールヴァード沿いにあり、もともと石灰岩の採石場だった場所で、すぐ近隣にラックス・ロウ蒸溜所があります。
Site-Plan-895x1024
一年後の2018年11月には、プリツカー賞を受賞した世界的に有名な建築家の坂茂率いるシゲル・バン・アーキテクツ(坂茂建築設計)に主要建物の設計を依頼して最先端のケンタッキー・アウル・パークを建設することを発表し、3Dレンダリングを公開しました。光を取り込んだピラミッド型の蒸溜所、石灰岩で濾過された澄んだ水を湛える湖、自然との繋がりを感じさせる敷地全体のデザインは息を呑むほど美しく、バーズタウンはおろか世界でも類を見ないものでした。
公開された映像
2017年の発表の時は、蒸溜所を含むプロジェクトの第一段は2020年のオープンを目標に来年早々にも建設が開始、とされていました。2018年の発表の時は、この巨大プロジェクトは2020年に着工予定で完成までには数年を要する、とされていました。 ところが、聞くところによると、この計画は土地取得に関する障害にぶつかったとか、コストが大幅に上昇したとかで、物静かな状態が続き、人々はこの蒸溜所が本当に建設されるのか訝るようになりました。2021年の情報では、全体的な建設は来年開始される予定で、2022年にボトリング設備とバレル倉庫、蒸留所の建設は2024年に始まり2025年に完成予定、ホテル/コンサート・ホール/鉄道駅などは2026年以降になり完成は未定とされていました。2022年9月の情報では、来月から建設を開始し、2023年4月までにオープンする仮設ヴィジター・センターの建設を計画しており、訪問者はこの複合施設がゼロから建設されて行く様子を見ることが出来る、また複合施設の蒸溜所は約2年半以内に稼働を開始する予定とされていました。2023年の情報では、2025年後半に蒸溜所部分が完成する予定で、2029年に自社のスピリッツをブレンドの一部にすることを目標にしている、とありました。…と、まあ、このようにバーボンのディズニーランドであるケンタッキー・アウル・パークの建設は遅れています。いつ撮られたものか判りませんが、現時点でグーグル・マップの航空写真を見ても建造物は何も出来ていませんでした。完成は当分先になりそうなので、我々としては楽しみにしながら待つしかないでしょう。

蒸溜所の建設が進まない一方で、ストーリはケンタッキー・アウル・ブランドを更に拡大するため、2019年4月にケンタッキー・アウル・コンフィスケイテッドを発売しました。名前となった「Confiscated」は日本語では「没収」や「押収」を意味する言葉で、初期のデドマン家の「バーボン・ビジネスへの道を当分の間終わらせることになった」政府からの押収を指し、C・M・デドマンの遺産である二度と見ることも味わうことも出来なかったバレルに敬意を表して名付けられています。これまでのケンタッキー・アウルと違い、このバーボンはアメリカ全50州で販売できるほど大規模なリリースでした。96.4プルーフでボトリングされ、希望小売価格は750mLボトルで125ドルでした。
2024-10-22-11-43-33-443_copy_270x258

ストーリのもとで4年間ブランドを率いてきたディクソン・デドマンは2021年にマスター・ブレンダー兼ブランド・アンバサダーの職を辞しました。自らの家族のブランドを離れることは、彼の人生で最も辛い決断でした。それでもそうしたのは概ね以下のような理由からでした。ディクソンとカーター夫妻によるケンタッキー・アウル復活が成功を収めた時、その事業に大手グローバル企業から参入の申し出がありました。しかし、ディクソンらは大企業の自慢の種になりたくはありませんでした。ブランド売却当時のストーリはまだ比較的小さな会社で、彼らは「あなたのヴィジョン、あなたの夢を活用してケンタッキー・アウルを成長させたい」と言いました。カーター夫妻は別の道を行きましたが、ディクソンはその提案を受け入れ、夢は実現しました。しかしその後、組織の性質全体が変わってしまいました。ストーリはグローバルな組織となり、ブランドを牽引するディクソンの能力を奪うようになりました。彼は自分の進む方向に誇りを持たなければならないと思い、ブランドを放棄するに至った、と。
ストーリを退社するとディクソンはすぐに、バーボンとウィスキーに重点を置きながらアルコール飲料業界に特化したアドヴァイザリー・サーヴィス(ワインとスピリッツ業界への合併、買収、戦略的思考に関する助言)も提供するバルク・スピリッツの大手サプライヤーであるブリンディアモ・グループにコンサルティング・リソースとして雇われました。アメリカン・ウィスキーの成長を支える原動力の一つである同社のクライアントには、エンジェルズ・エンヴィの共同創業者ウェス・ヘンダーソンやバーズタウン・バーボン・カンパニーの社長兼CEOマーク・アーウィンなど大物がいます。ディクソンもクライアントの一人として過去数年間、ブリンディアモの創業者ジェフ・ホプメイヤーやそのチームと関係を築いて来たので自然な流れでそうなったのでしょう。嘗てジェフはケンタッキー・アウルを「このウィスキーは、世界クラスの高級ブランドに仲間入りしてその地位を維持する可能性を秘めている。そういう名声がある」と評価し、彼の助言のもとストーリはケンタッキー・アウルを買収して物流の改善に投資することが出来ました。ディクソンのブリンディアモ参入の際に、ジェフは「ウィスキー業界が進化し続けていることを目の当たりにし、業界のニーズにより的確に応えるために今こそ彼を迎え入れるべき時だと判断しました」と語っています。 

ディクソンは業界でコンサルタントをしながらも、彼は別のウィスキー・ブランドを作ることに興味を持ち続けていました。そのチャンスは思いのほか早く、突然、訪れます。彼はブリンディアモ・グループで短期間働き、ブランド及び投資のコンサルティングの内情を垣間見ることが出来ました。オープン・マーケットを渡り歩くうちに、彼は主に利益を得る手段としてバーボンに興味を持つ熱心な投資家も見ました。現今のバーボン界隈には大量の資金が流入しており、ディクソンは多くの人からアプローチを受けます。個人投資家は白紙の小切手と投資の即時回収を条件に彼のもとにやって来ましたが、そうした提案は自分の仕事には上手く合致しない不誠実なものであると感じ、最適な機会が訪れるまで辛抱強く待つ必要があると思いました。ヴィジョンの違いからケンタッキー・アウルを離れたディクソンは、次の事業では地に足を付けた仕事をしようと決意し、新しいブランドと提携することを急いではいなかったのです。しかし、ディクソン・デドマンは常に適切な時に適切な場所にいる男でした。彼はフリーランスとしてブレンディングやコンサルティングを行うことを期待していましたが、程なくしてワインやスピリッツのインポーターであるプレスティッジ・ビヴァレッジ・グループから大量のバレルの備蓄をどうしたらいいかアドヴァイスを求められます。同社は、ケンタッキー州の2つの蒸溜所で契約蒸溜を行い、2015年から何年もの間寝かせた独自のマッシュビルのバーボンを数千バレル所有しており、加えて他のケンタッキー・ストレート・ウィスキーにもアクセス出来ました。彼らは自分たちが大きな間違いを犯したかどうかを知りたがっていました。その6年近く熟成したウィスキーを味わった瞬間、ディクソンはパートナーを見つけたと確信しました。彼は飲む前は4~5年熟成の基本的なものだと思っていましたが、実際に飲んでみるとそれは素晴らしいものでした。ディクソンはそのことを伝え、自分のアイディアを話しました。ディクソンには在庫が必要で、彼らと組めば市場に出回っている樽を追いかける必要もなく管理する必要もありません。プレスティッジ・ビヴァレッジにはコンセプトが必要でした。彼らはディクソンを信頼し、最初のミーティングから1時間以内にマスター・ブレンダーと彼らにとって初めてのアメリカン・ウィスキー・ブランドを手に入れることになります。ディクソンのケンタッキー・アウルに続く次のアイディアは「2XO」というブランドでした。この名前は「two times oak」を意味し、リリースされる全てのウィスキーを何らかの二次的なオーク材に晒す製法で造られています。2XOブランドは2022年の暮れに初めて発売され、現在ではオーク・シリーズ、アイコン・シリーズ、シングルバレルのシリーズで構成されています。毎日飲む用途として開発されたオーク・シリーズは、アメリカン・オークとフレンチ・オークがあり、常時販売され、約50ドル。全てのリリースが独自のフレイヴァー・プロファイルをもつと言う1回限りの限定品であるアイコン・シリーズには、発売順に言うとザ・フェニックス・ブレンド、ザ・インキーパーズ・ブレンド、ザ・トリビュート・ブレンド、ザ・カイワ・ブレンド、ザ・スニーカーヘッド・ブレンドがあり、価格は凡そ100ドル。手元にある最高のバレルから造られるシングルバレルのジェム・オブ・ケンタッキーは大体200ドル程度です。
2024-10-28-20-19-33-641
FotoGrid_20241008_022439008
(S・D・デドマンと2XOのラインナップ。2XOのウェブサイトより)
2XOに使用されているバーボンは、ケンタッキー州にある二つの別々の蒸溜所から供給されており、一つはライ麦35%のマッシュビルで、もう一つがライ麦18%のマッシュビルとのこと。供給元は非公開ですが、おそらく35%の方はウィルダネス・トレイル蒸溜所、18%の方はバートン蒸溜所かバーズタウン・バーボン・カンパニーではないかと推測されたりしています。それと、聞くところによるとオーク・シリーズのアメリカン・オークでの「トゥー・タイムズ・オーク」のプロセスは、バーボンを2つめのバレルに入れ換えるのではなく、8〜10フィートのオークの鎖(ステンレス製のコードで何百もの焦がしたオークのブロックを纏めたもの)を元のバレルにバングホールから挿入して8ヶ月間放置されているそうです。これらの木製ブロックの表面積は、樽の内部と全く同じ表面積を再現するようになっているとか、或いは約75%に相当するようになっているとされます。なんだかメーカーズマークの46等に使われるインナー・ステイヴを漬け込む手法と似ていますが、鎖状にすることで表面積が増えてオークの影響も強く出るのでしょうか? ちょっと興味深いですね。まあ、それは兎も角…、ディクソンは若くスマートで、何よりブレンドの才能がありました。ウィスキーのイヴェント等を訪れると、ファンは彼を業界のスターとして扱い、サインや写真を頼むと言います。2XOがあっという間に躍進したのはディクソン・デドマンの名前があったからに違いないでしょう。

2024-10-15-13-22-49-288
一方のディクソンが去った後のストーリ・グループは、2021年6月にジョン・レア(*)をケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーに迎えたことを発表しました。レアは40年に渡る輝かしいキャリアを経た2016年にフォア・ローゼス蒸溜所のチーフ・オペレーティング・オフィサーを退任していました。彼は大学を卒業したあと僅か3日で同蒸溜所でのキャリアをスタートすると、長い在職期間中に品質管理、熟成、評価、製品のブレンドなどを担当し、定年退職するまでその職を離れることはありませんでした。業界への貢献により2016年にはケンタッキーバーボンの殿堂入りを果たしています。また、17年間、ケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーションの理事を務め、130年以上の歴史の中で5人しかいない終身会員の1人として栄誉に輝きました。「私が引退から復帰するきっかけとなったのは、ケンタッキー・アウルのバーボンとライの世話役を務める機会を得たからでした」とレアは語り、「私は長い間ケンタッキー・オウルの製品ラインナップには感心していたので、このような機会を得れて嬉しく思っています」とコメントしています。彼の役割は、その豊富な知識と専門技能を駆使して製品の一貫性と卓越性のために最良の条件を選択し、また同様に製品ラインナップを拡大する新しいブレンドを導入することでした。従来からのケンタッキー・アウル・バーボンの続きとなるバッチ#11もリリースしつつ、製品拡張の一環として、品質を求めながらも200ドルも払えないZ世代やミレニアル世代を取り込むため、ストーリはやや廉価な「ザ・ワイズマン」というブランドを立ち上げます。マスター・ブレンダーのジョン・レア監修のもと、2021年9月にバーボン、続いて2022年4月にライがリリースされました。ケンタッキー・アウルのウィスキーはコンフィスケイテッドを除いて全て限定リリースでしたが、それらのプレミアムでより高価な製品と区別するための新しいデザインのラベルが施されています。ザ・ワイズマン・バーボンは、4年熟成のウィーテッド・バーボンとハイ・ライ・バーボン、そしてケンタッキー産の5.5年熟成と8.5年熟成の4つの異なるストレート・バーボンのブレンドで、若い要素はバーズタウン・バーボン・カンパニーと提携して契約蒸溜されたものと言われています。ザ・ワイズマン・ライは、バーズタウン・バーボン・カンパニーで蒸溜されたライ95%のマッシュビルです。
2024-10-13-17-25-41-718
更にストーリは世界中の様々なウィスキー愛好家を引き付けることを目的とし、世界各地のブレンダーとコラボレーションするシリーズも始めました。その第一弾として、2022年のセント・パトリックス・デイ(3/17)に合わせて2022年2月に発売されたのがセント・パトリックス・エディションです。これはケンタッキー・アウルのレアと、アイルランド初の近代ウィスキー・ボンダー(**)であり、J.J.コーリー・アイリッシュ・ウィスキーの創設者であるルイーズ・マグアンによるコラボレーション。アイリッシュ・ウィスキーのボンディングは、19世紀から20世紀に掛けて一般的だったブレンド方法であり、当時は殆どのアイルランドの蒸溜所がウィスキーを製造し、ボンダーが熟成、ブレンド、瓶詰めしていました。1930年代にアイリッシュ・ウィスキー業界が崩壊すると、ボンディングは衰退しましたが、2015年にマグアンが再びこの伝統を復活させました。このウィスキーはブラインド・テイスティングによって選ばれた個々のカスク・サンプルから二人が共同でブレンドしたもので、最終的に4〜11年熟成のブレンドに落ち着きました。そこにはマグアンがターゲット・プロファイルのために赤い果実の香りに焦点を当て、多くのウィーテッド・バーボンが含まれていたと言われています。
2022年9月には、日本の長濱蒸溜所のブレンダー屋久佑輔とコラボした第二弾のタクミ・エディションが発売されました。これは新旧ブレンダーの技倆を融合させると同時にジャパニーズ・ウィスキーの目を通してケンタッキー・バーボンを紹介する試みでした。我々日本人には馴染み深い「Takumi(匠/工/巧み)」は、英語では「master」もしくは「artisan」の意味だと説明されています。レアは熟成年数とマッシュビルの異なる4種類の配合を作ってサンプルを日本に送り、屋久はそれらを品質査定したあと彼のジャパニーズ・ウィスキー・スタイルをベースに更にブレンドしました。パーセンテージは公表されていませんが、ブレンドされているウィスキーは4年、5年、6年、13年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンとされ、マッシュビルにはコーン、ライまたはウィート、モルテッドバーリーが含まれていると言われています。タクミ・エディションは25000本のリリースで、セント・パトリックス・エディションの12000本の倍以上がボトリングされたそう。
国際コラボレーションの3番目(にして最後)は2023年9月にリリースされたメイスター・エディションでした。「Maighstir」はゲール語で、英語の「master」に相当します。メイスター・エディションの目標は、様々なバーボンをブレンドすることで、スコッチのスピリット、エッセンス、そして可能であればフレイヴァーを表現することでした。コラボの相手はスコッチ界のモーリーン・ロビンソン。彼女は、スピリッツの巨大企業ディアジオに45年間勤務したヴェテランで、マスター・ブレンダーの称号を獲得した最初の女性の一人です。ジョニーウォーカー、オールドパー、ブキャナンズ等で仕事をし、ファンに人気のフローラ&ファウナのボトルやプリマ&ウルティマなどのスペシャル・リリースを手掛けた人物であり、そのキャリアの後期に手掛けたシングルモルトのシングルトン・ブランドを大いに発展させました。またロビンソンは、ウィスキー・マガジンの殿堂入りを果たしており、数少ないマスター・オブ・ザ・クエイヒ(***)にも任命されています。これらはスコッチ・ウィスキーの世界に多大な貢献をした人々を称える業界最高の大きな名誉です。レアとロビンソンは協力して、コーン、ウィート、ライ、モルテッドバーリーを含むマッシュビルのケンタッキー・ストレート・バーボンをブレンドし、スコットランド風(とされる)エディションを造り上げました。
2024-10-28-20-35-19-097
このコラボレーションは一つの章の終わりと次の章の始まりを意味していました。ケンタッキー・アウルで過去2年間マスター・ブレンダーを努めて来たレアが退職し、代わりにモーリーン・ロビンソンが同職に就くことになったのです。ロビンソンは2022年6月末にディアジオでのシングルモルトとブレンデッドのマスター・ブレンダーを引退し、好きなゴルフでもしてのんびりしようと思っていました。しかし、彼女のもとに仕事が舞い込みます。ケンタッキー・アウルは上述のようにこれまでに2度、他国のマスター・ブレンダーにその国のスタイルの「バーボン」を作るよう依頼していました。ストーリは2022年後半にロビンソンに連絡を取り、ブレンデッド・スコッチに関する彼女の専門知識を反映させた表現を創り出そうと考えました。ケンタッキー・アウルから最初に連絡を受けたのは、キーパーズ・オブ・クエイヒを通じてでした。その仕事がスコッチを彷彿とさせながらもバーボンの資質を失わないウィスキーの作成を手伝うことだと知って、ロビンソンはすぐに興味を唆られこれは面白いプロジェクトになると思いました。「以前にもスコッチをバーボンのような味にするよう頼まれたことはありますが、今回はその逆でした。バーボンをスコッチのような味にしようとしているんです」。結局、彼女はテイスティング・グラスから一歩も離れることは出来ませんでした。ロビンソンがこのプロジェクトを引き受けると伝えた後、ジョン・レアを紹介されました。彼はバーボン業界で最も経験豊かな人物の一人でしたが、スコッチの経験も少々ありました。二人はズームで何度も話し合い、メイスター・エディションのヴィジョンを磨き上げました。レアは作業に取り掛かると、スコッチのような味わいのバーボンを作るという珍しい目標に最も役立つと思われるサンプルを選び、ロビンソンのもとへ送りました。彼女はキッチンに座ってそれぞれの香りや味をカスク・ストレングスで試し、ブレンドを作るための基礎と枠組みを整えました。ブレンドの成分はスタンダードなストレート・バーボン3種類とウィーテッド・バーボン1種類の4つから構成されています。3種類のうちの1つは8~9年、2つめは5~6年、3つめは9~10年熟成され、ウィーテッド・バーボンが4~5年熟成。若いバーボンはライト・チャー、古いものはヘヴィ・チャーが施されたバレルから造られているとのこと。ロビンソンは、特にウィーテッド・バーボンのサンプルと、それがもたらすスコッチのような柑橘系の香りに感銘を受けました。「私にとって、これがスコッチを彷彿とさせるものでした」。そこで、彼女はウィーテッド・バーボンをベースとすることを決め、それからスコッチのブレンドの原則を適用して幾つかのブレンドを試しました。構成成分の中で最も古いものだった9~10年熟成のウィスキーはオークの香りが強く、彼女が考える典型的なバーボンの特徴に最も近いものでした。そこで、ロビンソンは9~10年物の比率を下げ、他の「スコッチらしい」要素の影響を強める必要があると考えてそれを試していました。ところが実際はまったく逆だったと彼女は言います。「ウィスキーの味が詰まってしまい、風味が殆どなくなってしまいました」。彼女はスコッチ・ウィスキーをブレンドする際にも似たような経験をしていました。常識的に考えれば、ピートのスモークはブレンドの味を支配してしまうので、多すぎるのは避けるべきでありそうです。しかし実際には、ピーテッド・スピリッツは他の要素の風味と香りを結び付ける一種の「調味料」として活用でき、ブレンデッド・スコッチも「スモーキーさがないと全く味気ないものにな」ってしまう、と。9〜10年物のオークの古めかしい風味もそれと同じような要素として現れたのでした。暫く試行錯誤を繰り返し、満足のいく出来になった後、彼女はレシピをレアに送り、彼が自分の側で再現できるようにしました。こうして、メイスター・エディションは誕生しました。ロビンソンは、このエディションを「柑橘系の香りとフローラルなグリーンの香り、そしてほんのりとした甘さとオークの風味が軽めのスタイルのスコッチを彷彿とさせますが、それでもバーボンの素質はすべて保たれています」と語り、「香りはスコッチから始まって、その後バーボンに変わります。味はバーボンのような味からスコッチのような味に変わります」と評しました。とは言え、このウイスキーからスコッチ、特にブレンデッド・スコッチの香りを嗅ぐには、想像力を働かせる以上のことが必要だともロビンソンは言っていますし、況してやこれはアイラ・ウィスキーを再現しようとするバーボンではありませんから、そういう意味でのスモーキーな香りは期待しない方がいいでしょう。この作品の制作と発売の間に、レアが再び引退することになっていたので、彼の役割をロビンソンが継ぐというアイディアが生まれました。そこでストーリはこのプロジェクトの終わりが近づいた時、彼女にケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーに興味はないかと声を掛けました。彼女は興味があると答え、その役を引き受けました。メイスター・エディション作成以前、ロビンソンのバーボンに関する知識は限られていました。彼女は何年も前に当時ディアジオ(UD)傘下のブランドだったレベル・イェールを飲んだことはありましたが、すぐにこのカテゴリーについてもっと詳しくならなければならないと思いました。最大の課題はアメリカン・ウィスキーに使われる多くのマッシュビルを理解することでした。それはスコッチ・ウィスキーではあまり一般的ではありません。「マッシュビルは違っても、風味豊かなブレンドを目指しています。バーボンを扱ったことはありませんでしたが、ジョン・レアと一緒にメイスター・エディションに取り組むうちに、そのニュアンスをすぐに理解できるようになりました。今後数年間、このブランドで何をするのか楽しみです」。他の汎ゆるブランドのアプローチを理解するため、世の中にある様々な種類のバーボンを把握しようとしているロビンソンですが、彼女は自分を暫定的なマスター・ブレンダーだと思っていると発言しており、レアと同様にあまり長くその職に留まるつもりはないようです。おそらく、そのうちもっと若い世代の誰かにバトンは受け渡されるのでしょう。

ケンタッキー・アウル・ブランドには、ここまでに紹介していない限定版があと2つあります。一つはケンタッキー・アウル・ドライ・ステイトです。これは1920年の禁酒法開始から100年が経過したことを記念(過去への反省)して、2020年9月にリリースされました。各ボトルは1920年代をイメージした美しい手作りのコレクターズ・ウッド・ボックスに入れられています。中身のジュースに関しては、これまでで最も古く最も希少な12年から17年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを使い、ディクソン・デドマンが4か月以上かけて完成させブレンドで、100プルーフにてボトリングされました。例によって他のケンタッキー・アウルと同様、ウィスキーの出所に就いては明らかにされていません。ロットのサイズは2000ボトルとされています。ケンタッキー・アウルは最初のリリース以来、高級ウィスキー・ブランドとしてその名を馳せ、忽ちカルト的な人気を博した一方で、値段の高過ぎるウィスキーとしても知られていますが、このドライ・ステイトの希望小売価格は驚きの1000ドルでした。ちなみに、パピー・ヴァン・ウィンクル23年ですら希望小売価格は300ドル(まあ、セカンダリー・マーケットではもっとしますが…)、ブラウン=フォーマンのスーパー・プレミアムな限定バーボンであるキング・オブ・ケンタッキーでも希望小売価格は250ドルです。流石にボトル1本あたり1000ドルという価格では飲める人が限られているせいかレヴューも少ないのですが、それらを見るとその価格を正当化する味わいではないとの評でした。発売時期もあってか、ドライ・ステイトは「COVID-19の悪影響でキャリアを棒に振ったサーヴィス業従事者の長期的な回復策を確立するための慈善事業」である全米レストラン協会の従業員向上基金に直接寄付するために、クリスティーズと提携して一握りのボトルがオークションに掛けられました。
2024-10-28-20-48-13-242
もう一つは、2022年11月に発売されたケンタッキー・アウル・ライ・バイユー・マルディグラXOラムカスク・フィニッシュです。これは11年熟成のライ・ウィスキーをベースとし、ルイジアナ州ラカシーンにあるバイユー・ラム蒸溜所(ルイジアナ・スピリッツ蒸溜所とも)のバレルを使用してフィニッシングしたもの。この蒸溜所はティムとトレイのリテル兄弟が長年の友人であるスキップ・コルテースと共に2013年に設立しました。彼らは、ルイジアナ州最大かつアメリカで最も古い現役の製糖工場から糖蜜を調達し、銅製のポット・スティルを使用して蒸溜しています。2016年6月にSPIグループがバイユーの株式の72.5%を取得したことでストーリ・グループUSAがバイユー・ラムの国内総代理店となり、その2年後に残りの株式を購入して完全子会社化しました。このリミテッド・エディションは、空になったばかりの38個のバイユー・マルディグラXOラム樽へ3月にライ・ウィスキーを入れ、1年以上かけて追加熟成されているとのことです。3月に再樽詰めする理由は、ウィスキーに長く、暑く、湿度の高い夏を与えることで、美味しい風味をより引き出すことが出来るからでした。バイユー・ラムのマスター・ブレンダーであるレイニエル・ヴィセンテ・ディアスは、ルイジアナの特徴的な気候の湿度がバイユー・ラムに素晴らしい効果をもたらすことを知っており、それをケンタッキー産のリッチなライ・ウィスキーにも応用してみた、と。ボトリングは102.8プルーフで、希望小売価格は500ドルでした。

偖て、現在までのブランドの歴史を辿ったところで、ケンタッキー・アウルのバッチ情報を纏めておきます。希望小売価格はUSドルで「約」です。詳細が不明の部分もあるので、追加情報や間違いの指摘はコメント欄よりどしどしお寄せ下さい。


【KENTUCKY OWL BATCHES】

KENTUCKY STRAIGHT BOURBON WHISKEY

Batch #1
Release Date : September 2014
Bottle Release : 1250 Bottles
Age : NAS
Proof : 118.4
4 年熟成時にチャード・ニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入した5樽(チャー#2、チャー#3、チャー#4、チャー#5、チャー#6)のブレンドで、その風味はチャー#5とチャー#6のバレルに大きく依存していると言われています。

Batch #2
Release Date : September 2015
Bottle Release : 1360 Bottles
Age : NAS
Proof : 117.2
4 年熟成時にチャード・ニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入した6樽(半分がチャー4、チャー5)のブレンド。バッチ2は9樽から始め、それらは全て4年目にチャーした新樽に再度入れ直したものでした。そして、この9樽から24種類の組み合わせのブレンドを造ってテイスティングを開始して、ブラインド・テイスティングを繰り返し、信頼できる人達にもサンプルを送って彼らがどのバッチを選ぶかを確かめると、最終的に全員が同じサンプルに戻り続け、それがバッチ2になったと言われています。

Batch #3
Release Date : December 2015
Bottle Release : 206 Bottles
Age : NAS
Proof : 107.8
Barrel #16 – Single Barrel (Blue Ink)
シェリィ・カーターによれば、このバッチはケンタッキー州ルイヴィルの新しいピアレス蒸溜所で造られたと言います。2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。

Batch #4
Release Date : December 2015
Bottle Release : 212 Bottles
Age : NAS
Proof : 116.8
Barrel #20 - Single Barrel (Red Ink)
2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。これもバッチ3と同じくピアレスなのだろうか?

Batch #5
Release Date : December 2015
Bottle Release : 194 Bottles
Age : NAS
Proof : 108
Barrel #12 - Single Barrel (Green Ink)
2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。これもバッチ3、4と同じくピアレスなのだろうか?

Batch #6
Release Date : September 2016
Bottle Release : 1634 Bottles
Age : NAS
Proof : 111.2
2~4年熟成の時にチャード・アメリカン・ホワイト・オークの新樽に再導入された8樽から構成され、熟成年数は8~11年。別の情報源では、1つのバレルで熟成されたバーボンと2つ目のニュー・チャード・オーク・バレルで熟成されたバーボンのミックスで、両タイプの熟成年数は4〜7年、という説もあった。「このウィスキーがヘヴンヒル産であること、特に78%コーン、10%ライ、13%バーリーのマッシュビルから造られたことに私は賭ける」と或るレヴュワーは言っていました。

Batch #7
Release Date : August 2017
Bottle Release : 2535 Bottles
Age : NAS
Proof : 118
MSRP: $200
15樽のブレンドで、そのうち4樽は2年目に新樽に投入された8〜9年熟成、残りの11樽は13年もしくはそれ以上の熟成とされています。

Batch #8
Release Date : July 2018
Bottle Release : 9051 Bottles
Age : NAS
Proof : 121
MSRP: $300
バッチ8は、5年、8年、11年、14年熟成のブレンドとされています。

Batch #9
Release Date : October 2019
Bottle Release : 10314 Bottles
Age : NAS
Proof : 127.6
MSRP: $300
バッチ9は、これまでで最も高いプルーフです。4つの異なるマッシュビルを使用し、6〜15年の幅広い熟成年数のものをブレンドしているそう。

Batch #10
Release Date : October 2020
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 120.2
MSRP: $300
ネット上に中身の情報が見当たりませんでした。

Batch #11
Release Date : ???? 2021
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 118.8
MSRP: $300
バッチ11は、マスター・ブレンダーのジョン・レアによって丁寧に造られ、6年から14年までの特別に熟成されたバーボンを使用したブレンドとされています。

Batch #12
Release Date : November 2022
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 115.8
MSRP: $400
バッチ12は、マスター・ブレンダーであるジョン・レアが注意深く造り上げた、4~14年のよく熟成された力強いバーボンを使用したブレンドとされています。

KENTUCKY STRAIGHT RYE WHISKEY

Batch #1
Release Date : September 2017
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 11 Years Old
Proof : 110.6
MSRP: $120

Batch #2
Release Date : June 2018
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 11 Years Old
Proof : 101.8
MSRP: $200
バッチ2はバッチ1よりもバッチ量が少なくなっているそうです。2018 年 6 月に、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、コロンビア特別区、フロリダ、ジョージア、イリノイ、インディアナ、ケンタッキー、ルイジアナ、メリーランド、マサチューセッツ、ミシガン、ミネソタ、ミシシッピ、ミズーリ、モンタナ、ネヴァダ、ニュー・ハンプシャー、ニュー・ジャージー、ニューヨーク、ノース・キャロライナ、オハイオ、オレゴン、ペンシルヴェニア、ロード・アイランド、サウス・キャロライナ、テネシー、テキサス、ユタ、ヴァージニア、ワシントン、ウィスコンシン、ワイオミングの各州の市場にリリースされました。

Batch #3
Release Date : August 2019
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 10 Years Old
Proof : 114
MSRP: $200

Batch #4
Release Date : ???? 2020
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 10 Years Old
Proof : 112.8
MSRP: $300
バッチ#4は「最後のライ麦(The Last Rye)」と呼ばれ、10〜13年熟成のライのブレンドとされています。

SPECIAL LIMITED EDITION

Kentucky Owl Dry State
Release Date : September 2020
Bottle Release : 2000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $1000
これまでで最も古く最も希少な12年から17年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンド。

Kentucky Owl Bayou Mardi Gras XO Cask
Release Date : November 2022
Bottle Release : ???? Bottles
Age : 11 Years (Finished an additional 1 year in Bayou Mardi Gras XO Rum casks)
Proof : 102.8
MSRP : $500
マルディグラの精神とルイジアナの誇りを祝した限定版。11年間熟成されたストレート・ライ・ウィスキー
を選りすぐりの希少なバイユーXO樽で更に1年間寝かせたもの。

INTERNATIONAL COLLABORATION

St. Patrick’s Edition
Release Date : February 2022
Bottle Release : 12000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $135
アイリッシュ・ウィスキーとケンタッキー・ウィスキーを結びつける長年の絆を記念した限定版。アイリッシュ・ウィスキーのボンダーであるルイーズ・マグアンと提携し、彼女の技術をマスター・ブレンダーのジョン・レアとのコラボレーションに生かした、4年から11年熟成のケンタッキー産ストレート・バーボンのブレンド。もしくは4年から12年熟成と言われているのも目にしました。

Takumi Edition
Release Date : September 2022
Bottle Release : 25000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $135
ジャパニーズ・ウィスキーのブレンダーが求めるフレイヴァー・プロファイルを世界のウィスキー愛好家に提供する限定版。ケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーであるジョン・レアと、日本の滋賀県にある長濱蒸溜所の新進気鋭のチーフ・ブレンダー屋久佑輔とのコラボレーション。日本のウィスキー造りの技術を反映した、4年、5年、6年、13年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンドで、マッシュビルにはコーン、ライまたはウィート、モルテッドバーリーが含まれていると言われています。

Maighstir Edition
Release Date : September 2023
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $150
アメリカとスコットランド両国の豊かなウィスキーの伝統に敬意を表した限定版。バーボンとスコッチのマスター・ブレンダー2人によるコラボレーション。コーン、ライ、ウィート、モルテッドバーリーを含むマッシュビルからなる、4年、5年、8年、9年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンド。

NOT LIMITED RELEASE

Kentucky Owl Confiscated
First Release : April 2019
Age : NAS
Proof : 96.4
MSRP : $125
アメリカ全50州で販売された最初のケンタッキー・アウル製品。創業者C・M・デドマンが政府に押収された熟成バーボン樽に敬意を表して名付けられました。このバーボンは非公開の蒸溜所から仕入れたもので、マッシュビルも非公開。幾つのバッチがあるのかも不明で、バッチ・サイズ(ボトル本数)も不明。少なくともラベル的には2タイプ確認でき、火災の絵が色無しと色有りがあり、前者はボトリングの所在地がバーズタウン、後者はラカシーンになっていました。

The Wiseman Bourbon
First Release : September 2021
Age : NAS
Proof : 90.8
MSRP : $60
ジョン・レアのもとで初めてパーマネント・リリースされた製品。ワイズマン・バーボン・ウィスキーは、バーズタウン・バーボン・カンパニーとケンタッキー州の非公開の蒸溜所から選ばれた4種類のそれぞれ4年、5.5年、8.5年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンドとされています。

The Wiseman Rye
First Release : April 2022
Age : NAS (Aged at least 4 years based on label requirements set by TTB)
Proof : 100.8
MSRP : $60
ワイズマン・ライは、バーズタウン・バーボン・カンパニーによって蒸溜されたライ麦95%マッシュビルのケンタッキー・ストレート・ライウィスキー。


では、最後にケンタッキー・アウル・ライ・バッチ1を飲んだ感想を蛇足で。

FotoGrid_20240813_020927490
KENTUCKY OWL RYE 11 Years 110.6 Proof
BATCH NO. 01
BOTTLED : 07 / 2017
甘い香りにうっすらハーブ香が混じり、オークの熟成香もあります。味わいはけっこう薬のようなハーブが効いていて、フルーツやウッディなスパイス、草や土っぽさも少し感じられ複雑。余韻はややビターになって引き締まって行きます。噂に違わず美味しかったです。しかし、期待が大き過ぎたのか、そこまで感銘を受けるほどではありませんでした。長熟ライという観点で以前飲んだサゼラック・ライ18年と較べると、そちらの方がドライフルーツが濃厚で美味しく感じました。熟成年数はだいぶ違いますが、同じケンタッキー・ライであり、ボトリング・プルーフの似ているパイクスヴィル6年と較べてみても、単純にケンタッキー・アウルが上とは言い切れない感じがしました。それらよりこちらの方がハービーな傾向が強く、好みの分かれるところなのでしょう。本来ならボトル1本とじっくり向き合いたいライであり、そうすればもっと色々な飲み方も出来て楽しめ、点数も上がったような気がします。
Rating:87.5〜88/100


*「Rhea」をここでは「レア」と表記しましたが、人や国によっては「レェー」もしくは「レイ」、または「リア」と書いた方が近い発音をされています。

**ウィスキーの人気が急上昇した19世紀から20世紀初頭に掛けて、アイルランドの殆どの町にはウィスキーのボンダーがいました。これは平たく言えば、蒸溜所から直接ウィスキーを購入する許可を得た商人のことです。蒸溜所は今日のように生産物をボトリングして販売までしていた訳ではありません。アイリッシュ・ウィスキーの黄金時代、アイルランドには何百もの蒸溜所がありましたが、当時その多くは自社ブランドのウィスキーをもたず、新しいウィスキー原酒を製造するとボンダーにバルク販売していました。ボンダーには酒場の主人、食料雑貨商人、商館主など様々な人々が含まれていました。ウィスキーの完全性を維持するためには専門知識と細心な注意が必要であり、彼らは高品質のウィスキーを調達し、厳格な品質管理基準を守り、熟成状況を綿密に監視する職人でした。そうした知識をウィスキー業界で長年の伝統を誇る一族から受け継いだボンディング職人もいれば、見習い期間や蒸溜所での前職を通じて学んだ職人もいました。これらのボンダー達は自分の樽を持って地元の蒸溜所まで行き、その樽にニュー・メイクを詰めて家に持ち帰り、自分のボンデッド・ウェアハウスで熟成させてから、地元のホテルや個人の顧客向けに個別のブレンドをボトリングしました。往時、ボンダーはアイルランドのどの町にも数多く存在し、彼らの実践的なアプローチは地域社会からの信頼を築き上げ、地域ごとに個性的なスタイルのアイリッシュ・ウィスキーが数多く生まれたと言います。しかし、アイルランドが大英帝国から分離し、アメリカで禁酒法が施行されると、ボンダーの事業も縮小して行きました。残念ながら1930年代にアイリッシュ・ウイスキー産業が崩壊すると、僅かに残った蒸溜所はボンダーへの供給を打ち切り、アイリッシュ・ウイスキーに於けるボンディングの伝統はほぼ途絶えてしまいました。その伝統を復活させ、アイリッシュ・ウィスキーの新時代を切り拓いた一人がルイーズ・マグアンです。2015年、酒類業界で長年働いて来た彼女は、カウンティ・クレアのワイルド・アトランティック・ウェイ沿いにあるマグアン・ファミリー・ファームにボンデッド・ラックハウスを建設しました。そして、ウィスキー探求の途上で発見したJ・J・コーリーの先駆的な伝説にインスピレーションを受け、その名を使ってブランドを創設しました。マグアンとそのチームは、アイルランド島全土の蒸留所からスピリッツを調達し、世界中の樽を使用して他では不可能なユニークな風味を実現するために、比類なきフレイヴァー・ライブラリーを構築しています。
2024-10-28-21-38-58-373_copy_936x719_copy_374x287

***クエイヒ(Quaich)は17世紀頃からスコットランドで使われていた両端に取っ手のある金属製の杯。両手を使って飲むため武器を持っていないことを示し、友好の証としても用いられて来たと云います。ガラス製のコップが普及してからは主に儀式で使用されるようになり、今ではスコットランドのウィスキー文化の象徴として知られています。マスター・オブ・ザ・クエイヒやキーパーズ・オブ・ザ・クエイヒに就いて詳しくは下記を参照。
https://www.keepersofthequaich.co.uk/
https://www.ballantines.ne.jp/scotchnote/69/index.html

2024-08-08-15-28-19-274

ミルウォーキーズ・クラブさんでの始めの一杯は軽めのライにしました。マーティン・ミルズ・ライです。マーティン・ミルズと言うと24年物のプレミアム・バーボンが有名ですが、それは例外的であって、基本的にこのブランドはボト厶シェルファーのカテゴリーに入ります。ブランドの起源は良く分かりません。かろうじて、初期ヴァージョンは1959年に初めて発売され、ヘヴンヒルはその数年後に国内および輸出品として販売をした、と云う情報はありました。私はその初期の物は画像でも見たことがないです。画像検索で見つけられた比較的古い物では、上述の1999年にボトリングされた24年熟成の物以前、90年代と思しき輸出品の80プルーフでボトリングされたNASの物がありました。既にこの頃にはアメリカ国内では販売されておらず、輸出専用になっていたのではないかと思います。2000年以降でも小売価格の安い最下位のボトルは引き続き販売されていました。また、2010年頃にはアーティストのSHAGがデザインしたオリジナル・ラベルの物があり、ミッドセンチュリーのカルチャーが好きな人には好評でした。これは普通のラベルのマーティン・ミルズより100円ほど高かったらしいです。
FotoGrid_20240810_212540748
で、このライですが、おそらく2000年代半ば頃に流通していたものと思われます。これまた画像検索しても海外物が発見できなかったところからすると、日本への輸出のみなのかも知れません。と言うか、(24年物を除外した)マーティン・ミルズというブランド自体、酒販店のやまやの専売なのかも? 仔細ご存知の方はコメントよりご教示下さい。偖て、次に中身に関してですが…、こういったマイナーなブランドと言うか最下層製品は、宣伝費用を掛けてもらえないため、バックストーリーは語られませんし、製品情報も朧げです。勝手に憶測するに、まだライ・ウィスキーの人気が爆発する前ですから、ヘヴンヒルが年に1日だけライを蒸溜していた当時の少量生産で、地域限定販売だったリッテンハウス・ライの80プルーフやパイクスヴィル・スプリームと大差ないのではないかと思われます。或いはそれらに選ばれなかった樽から造られてるのかも知れない。多分、熟成年数は3〜4年程度でしょう。ヘヴンヒルによると現在の彼らのスタンダードなライ・マッシュビルは51%ライ、35%コーン、14%モルテッドバーリーとのことですが、少し前の情報源だと51/39/10や51/37/12としているものもあるので、もしかすると時代による変遷があった可能性はあります。また、2000年代半ばのボトリングで熟成年数が3〜4年なのが正しいのならば、蒸溜時期は2000年代の初め頃となります。バーボニアンにはよく知られるように、1996年11月9日、アメリカン・ウィスキー史上最大最悪の火災が発生し、バーズタウンのヘヴンヒル蒸溜所は焼失しました。そこでヘヴンヒルは暫くの間、他の蒸溜会社を頼り、ジムビームやブラウン=フォーマンに契約蒸溜をしてもらいました。ヘヴンヒルは1999年にルイヴィルのバーンハイム蒸溜所をディアジオから購入して蒸溜を再開するのですが、生産調整のためかこの契約蒸溜は2008年まで続き、この間ヘヴンヒルのライ・ウィスキーは全てブラウン=フォーマンの元アーリータイムズ・プラントで製造されていたとされます。なので、このマーティン・ミルズ・ライもブラウン=フォーマンが蒸溜したものなのかも知れません。マッシュビルはヘヴンヒルが指定したものと思われるので、上記の何れかでしょう。
そして、なかなかに目立つイエローのラベル、個人的には好きですね。今ではライと言えばグリーンを使ったラベルが一般的となっていますが、マーティン・ミルズ・ライがリリースされた時分はまだそうではありませんでした。おそらく昔のジムビーム・ライのイエロー・ラベルに倣ったのではないでしょうか。そう言えばライに限らず、フォアローゼズも従来象徴的だったイエロー・ラベルが何時の間にかベージュに変化し、アーリータイムズのイエロー・ラベルは消滅しています。新しいアメリカン・ウィスキーが続々と誕生している昨今、イエローのラベルと言うとストラナハンズくらいしかパッとは思い付きません。現代のアメリカン・ウィスキー業界では何故こんなにもイエローの人気がないのでしょうか? 現代アメリカ人には古臭いか安っぽい印象を与える色なのかしら…。まあ、それは扨て措き、最後に飲んだ感想を少しばかり。


FotoGrid_20240808_160902544
Martin Mills Rye 80 Proof
推定2007年ボトリング(瓶底)。ややミンティな香り。しかし、キャラウェイやフェンネルのようなハーブは感じることが出来ない。ドライな味わい。若くて穀物っぽいところが荒々しい印象を残す。新樽由来のバーボンに近しい香味の方が優勢な感じ。全体的にライ・フレイヴァーは希薄で口当たりも軽いが、それは始めの一杯としてこちらの意図通りなので不満はない。また、ハイボールには向いていそう。
Rating:78/100

2024-08-02-21-29-54-000

2024-08-02-22-08-21-040
2024-08-02-22-10-24-497
2024-08-02-22-11-38-103
2024-08-02-22-13-06-770
2024-08-02-22-15-20-406
2024-08-02-22-16-39-986
(画像提供MILWAUKEE'S CLUB様)

先日、久々にバーボン遠征に行ってきました。今回お邪魔したのは、バーボン・マニアには言わずと知れた埼玉県は川口の名店ミルウォーキーズ・クラブさん。バーボン600種を含む1000種類を超えるウィスキーを取り扱うその品揃えは圧巻で、バーボンに関しては関東随一と昔から目されています。実際に目にしてみると、80年代後半から90年代初頭に日本へ輸入され、現在ではユニコーンとされるバーボンの品揃えは特に凄まじいです。また、お店オリジナルのメモリアル・ボトルや蒸溜所とコラボしたスペシャル・ボトル、独自にピックされたシングルバレルのボトル等も、当然ながら豊富にあり、それらを目当てに伺うお客さんも多いようです。しかし、このお店の魅力は、希少なバーボンが飲めるだけに留まらず、オウナーの白井慎一さんその人にもあるでしょう。白井さんは、リード・ミテンビューラーの名著『Bourbon Empire : The Past and Future of America's Whiskey(バーボン帝国─アメリカのウィスキーの過去と未来)』を翻訳した我々にお馴染みの日本版『バーボンの歴史』(原書房)の監訳[※出版翻訳や学術論文などで、監修の役割で全体を査読し、内容や翻訳に間違いがないかを最終的にチェックすること]を担当し、これまた我々にはお馴染みの『ザ・ベスト・バーボン』と『バーボン最新カタログ』(共に永岡書店)に関わっていたり、ウィスキーのコンペティションの審査員を務めたり、ウィスキー雑誌に執筆したりと、日本に於けるバーボン業界の重鎮です。現地の蒸溜所を訪れた際のエピソードや業界の裏話を交えたトークはここに通う楽しみの一つとなっており、売り上げも白井さんが店にいるかいないかで大きく変わるのだとか。貴重なバーボンを求めて海外のマニアが訪れることも多く、MILWAUKEE'S CLUBから始まって、FIVEさん、GEMORさん、ANKIさん、ROGIN'S TAVERNさん等を巡る日本バーボン・バー・ツアーをする強者もいると聞き及びます。

マスターの白井さんは、ご実家が代々飲食店を経営しており、甘味処しらゆり(耳で聴いたので表記は不明)は有名だったそう。お父さんは洋食屋を営み、自身もフレンチの修行へ出ていました。それまで安酒ばかり飲んでいたところにフォアローゼズを飲んで衝撃を受けバーボンに開眼したと言うマスターは、琥珀の世界とアメリカへの憧れを一気に強くし、2階のレストランの上にバー「ビア&バーボン・ミルウォーキーズクラブ」を1990年に開店。店名はアメリカのビール「オールド・ミルウォーキー」から。もしバーボンから店名を取るなら「テンガロンハット」になってただろうね、そうなると西部劇のサルーンみたいな雰囲気の店にしなくちゃならなかった、とマスターは笑っていました。今年で34年目を迎える老舗のミルウォーキーズ・クラブさんですが、現在では川口駅東口の再開発により2023年春にオープンした「樹モールプラザ」の2Fへ移転して営業しています。モールの中の一店舗ということもあってか、店内は比較的明るめで、素人が入りにくい雰囲気はありません。上掲の画像のようにテラス席もあったりします。整然と並んだウィスキーの数々は、図書館を意識した陳列らしく、銘柄が見やすいのも特筆すべき点。レアなバーボンのオールド・ボトルが最大の魅力ではありますが、アメリカンだけでなくスコッチやジャパニーズ・ウィスキーの品揃えもなかなかの粒揃いなので、決してバーボン・マニア専門の敷居が高いバーではないですから、ウィスキーに興味を持ちたての方でも、近隣遠方問わず是非立ち寄ってみて下さい。

あと、これはかなり個人的な感想ですが、チェイサー用の水がかなり大きめのグラスで提供されるのはとても有り難かったです。私はお酒に弱いので、出先のバーで飲む時は大量の水を必要とし、チェイサー用グラスが空になる度に店員さんを呼ばなければなりません。だからグラスが大きいと呼ぶ回数が減って助かるのです。なんなら途中からは大きめのウォーター・ピッチャーを用意してくれたので、自分で好きな時に水を注げるようになりました。これは凄く嬉しい気遣いでした。勿論、水がなくなったり少なくなるとマスター及び店員さんが先に気付いて注いでくれることも多いですが、その場合、こちらとしては何度も注がせてしまって申し訳なく感じるので、やはり自分で勝手に注げるのは気が楽なものです。ちなみに、当ブログのタイトルが「バーボン、ストレート、ノーチェイサー」であるところから、これをお酒の注文方法や飲み方のことと勘違いして、私のことをチェイサーも飲まずにバーボンをストレートでガブ飲みするとんでもない酒豪のようにイメージする方が偶にいるのですが、このタイトルは単に私の敬愛するバーボン作家チャールズ・カウダリーの名著「Bourbon, Straight」と、ユニークなジャズ・ピアニストであるセロニアス・モンクの名曲「Straight, No Chaser」を、響きが良いかなと思い合体させて名付けただけであって、私自身はバーではチェイサーに水は必須です。まあ、自宅では殆どの場合、1回にショットグラス1杯しか飲まないので、確かにチェイサーを飲んではいませんから、全く酒の飲み方を表していないとは言い切れませんけれども…。


〒332-0017
埼玉県川口市栄町3丁目13-1
樹モールプラザ2F
区画209

営業時間 17:00-23:30
定休日 : 火曜日
Tel : 048-253-0280(営業時間内)

Website
https://milwaukees.net/

Facebook
https://www.facebook.com/groups/milwaukeesclub/?ref=share

Instagram
https://www.instagram.com/whiskey_milwaukees_club?igsh=YXNwN2xqZGoxbTNu

2024-02-12-00-19-05-951
FotoGrid_20240223_144858088
A.H. Hirsch Reserve 16 Years Old Gold Wax 95.6 Proof
今回飲んだA.H.ハーシュ・リザーヴ16年は、スクワッティなボトル形状にゴールドのワックスでシールされた47.8度の物です。同様のブラック・ワックスの物やブーンズノールよりアルコール度数が高いのが特徴でしょうか。マスターの話では、所謂ブルー・ワックスのハーシュよりこちらの方がリリースが先だったと仰ってました。この伝説のバーボンのバックストーリーは過去に投稿した記事を参照下さい。この「ペンシルヴェニア1974原酒」が使用されたボトルはこれまで何回か飲んで来ましたが、何度飲んでもやっぱり自分の好みではないですね。長期熟成による柔らかい酒質とビターさ、複雑なスパイスとハーブ、枯木のテイスト等は感じ易いものの、私はもっと単純な焦がした樽のスウィートな香ばしさやフレッシュなフルーツ感が好きなので。パレートでの渋みはあまりありませんが、余韻には苦味も感じました。この機会に言ってしまうと、個人的にはこの原酒は過大評価されていると思います。自分の好みは一旦措いて、他の長熟バーボンと比較してみても、それほど際立って優れているようには感じないのです。特別なフィーリングがないと言うか…。ぶっちゃけ下のレーティングは、3点はバックストーリーとレアリティとラベル・デザインに対してです。但し、適切なタイミングで飲んでいれば本当に素晴らしかった可能性はあるのかも知れない。私はボトリングされたばかりの90年代当時に飲んだことがないので、その当時に飲まれたことがある方は是非ともコメント欄よりご感想をお寄せ下さい。いや、当時でなくても飲んで、「そう? めっちゃ旨いよ?」とか「お前の舌がお子ちゃまなんじゃね?」という意見も随時募集中です。まあ、それは兎も角、今になってこのバーボンを飲むということは、「歴史」を飲み「物語」を飲むことであって、味わいは関係ないとは言えるでしょう。
Rating:88/100

9fa47ea5-32ba-4ab1-a939-f5043f9015cf

バーFIVEさんでのラストの三杯目は、メドリー・バーボン(*)にしました。メドリー・ファミリーはバーボン・メーカーとして大きな存在です。彼らはオーウェンズボロの街の西側、オハイオ・リヴァーに沿った地に三つの蒸溜所を立て続けに所有/運営していました。1900年代初頭から1992年に最後の蒸溜所が閉鎖されるまで、それらの蒸溜所はウェスト・ケンタッキーのウィスキー産業を盛り上げ、オーウェンズボロの歴史に忘れられない足跡を残しました。今回はそんなケンタッキー・ウィスキーの重要な一家の興味深い歴史をざっくりと振り返ってみたいと思います。

メドリー・ファミリーは20世紀初頭にオーウェンズボロの蒸溜産業と結び付きましたが、アメリカに於ける彼らの蒸溜の伝統はもっと前に遡ることが出来ます。1634年、ジョン・メドリーはイングランドからスティルを携え、ボルティモア卿が英国カソリック信者の避難所として設立した新天地メリーランドにやって来ました。後にセント・メアリーズ郡となり、ポトマック・リヴァーに接したメドリーズ・ネックとして知られるようになった地域に定住したようです。その地域をグーグルマップで見てみたら、今でもメドリーズ・ロードやメドリーズ・リヴァーなどあり、その地域一帯がメドリー家に所縁があったことが察せられました。その当時の時代は資料に乏しく、彼らがどのようなウィスキーを造り、どのような生活を送ったのかは定かではありません。想像するに、余った穀物を利用して生活の必要から蒸溜をする、当時の極く当たり前のことをしていたのではないでしょうか。メリーランドはライ・ウィスキーの産地としてペンシルヴェニアと並び称される地ですから、もしかするとメドリーズがそのまま同地に居座り続けていたら、ライ造りの王朝を築くことにでもなったかも知れませんが、歴史はそのように動きませんでした。

ジョン・メドリーの時代から時を経た1800年頃、子孫であるジョン・メドリー6世(**)は一族を引き連れてカンバーランド・ギャップを越え(***)、バーズタウンのネルソン群やレバノンのマリオン群と隣接するケンタッキー州ワシントン群に移住します。「アメリカのホーリー・ランド」と目されたケンタッキー州のこの一帯には、他にもビーム家、ワセン家、ヘイデン家などケンタッキー・ウィスキーの歴史に名を残す著名なカソリック教徒が入植していました。「ジャック」とも知られたジョン・メドリー6世は、1802年にスプリングフィールド近くのカートライト・クリークのシェパーズ・ランにある農場を購入してスティルを1〜2基設置、1812年には商業用の蒸溜所を経営し、ウィスキー・ビジネスを始めた創始者とされます。メドリーズの第何世代マスター・ディスティラーという言い方は、彼を第1世代としてカウントしていますね。主に地元で販売/消費される少量のウィスキーを製造する彼の蒸溜事業は成功を収め、1814年に亡くなった時、その財産目録の一部には二つのスティルと40のマッシュ・タブが記載されていました。彼は、1806年に建てられたスプリングフィールドのセント・ローズ・チャーチに埋葬されました。そこは現在も教会として使用されており、アレゲイニー山脈の西側では最も古い建造物らしいです。彼の死後、残った家族は何年もの間そのワシントン郡の蒸溜所を経営し続け、蒸溜者の技術は父から子へと受け継がれて行きました。ジョン6世からトーマス、ウィリアム、ジョージ・Eへという流れです。

トーマス・メドリー(1786-1855)に関しては何も分かりません。ウィリアム・メドリーは、父親がメリーランド州から移住してきた後の1816年にワシントン郡で生まれました。彼は比較的短命でしたが、サム・K・セシルの本では、メドリー家の中で最初にウィスキー・ビジネスに参入したのはジョージの父ウィリアムとあり、亡くなる前の或る時期(1840年頃?)にセント・ローズ近くのカートライト・クリークに蒸溜所を設立したとされています。もしかすると家業を大いに発展させたのは彼なのかも知れない。ウィリアムはディスティラーとして生計を立てた他に鍛冶屋と一般食料品店も持っていたらしく、1841年3月から1850年12月までの台帳によると、上質の一級品バーボンを1ガロンあたり24セントで量り売りし、スティルの修理や樽職人の仕事にも精通していたようです。彼は1853年3月6日、37歳の若さでチフス熱で死亡しました。ウィリアムの死後、まだ若い妻と1850年に生まれたジョージ・エドワードを含む未成年の子供達が残されました。一家はウィリアムの母エリザベスやオズボーン(妻の旧姓)のファミリーと共に住んでいたと言います。当時の国勢調査で17歳のジョージ・Eは、職業はなく「家にいる」と記録されていたとか。成長したジョージは街で仕事を探し、スプリングフィールドの食料品店で働きました。そして、そこでトーマス・ウィリアム・シムズとマーガレット・エレン・モンゴメリーの娘で通称「ベル」と呼ばれるアナ・イザベル・シムズという花嫁を見つけ、1875年11月に結婚し、後に10人の子供を儲けました。どうやらシムズ家はケンタッキーのディスティリング・ビジネスに携わっていたようです。トーマス・ウィリアムの兄弟のジョン・シムズはバーズタウン近くのマッティングリー&ムーア蒸溜所の社長を一時期務めていました。メドリーの一族はこの地域の他の蒸溜所にも関わっており、ジョージ・Eは1870年にリチャード・ニコラス・ワセンが蒸溜所を開設した時に彼のために働きに行ったとの話も伝わっています。また彼はシムズ家との繋がりがあったからなのか、マッティングリー&ムーア蒸溜所でもキャリアを積んだそうです。このジョージこそが、メドリー家の蒸溜の伝統をケンタッキー州中部のワシントンから、130マイル離れた西部のオーウェンズボロに移した人物でした。

1901年、ジョージ・エドワード・メドリーはオーウェンズボロにあるデイヴィス・カウンティ蒸溜所(第2区RD#2)の所有権の一部を、同地の蒸溜業界に大きな足跡を残したモナーク家から購入しました。1904年になると、ルイヴィルのディック・メッシェンドーフ(****)がメドリーと共同で工場全体を買収し、ジョージ・Eはオウナーとなります。この蒸溜所は1874年(または1873年とも)にルイヴィルのカニンガム・アンド・トリッグによって建設され、ある時点で社長のリチャード・モナークと副社長兼財務担当のジョン・キャラハンによって運営されていました。場所はケンタッキー州第3の都市であり郡庁所在地でもあるオーウェンズボロのすぐ西、オハイオ・リヴァーの湾曲部近くの位置でした。1892年に作成された保険会社の記録によると、蒸溜所は2階建てのフレーム構造、屋根は金属かスレートで、敷地内には牛舎と三つの倉庫があったそう。1904年時点のマッシング・キャパシティは1日当たり50ブッシェルでした。
2023-06-08-19-45-24-425
(The Wine and Spirit Bulletinより)
この蒸溜所の旗艦ブランドは「ケンタッキー・クラブ」でした。1905年の広告では「この蒸溜所では、一つのブランド、一つのグレード、厳格なオールド・ファッションド・サワーマッシュ・ウィスキーしか製造していない」と紹介されています。ガラス瓶に最小限のエンボス加工を施してゴールド・ペーパー・ラベルを貼り販売されていました。またブランドを宣伝するエッチングが施されたショットグラスを取扱店やお得意様の顧客に提供していたようです。年月が経つにつれ、彼らのウィスキーは全国的な評判を獲得し、売上も急成長しました。多くの蒸溜一家がそうだったように、ジョージ・Eも6人の息子たちを家業に従事させます。父がビジネスで成功して裕福だったのか、長男のトーマス・アクィナスはロー・スクールを含む高等教育を受けており、彼はオーウェエンズボロに移って父の経営を手伝うようになると、その能力を発揮してデイヴィス・カウンティ・ディスティリングの事務兼財務担当となりました。ベネディクト・フランシスはディスティラー兼副社長、パーカー・"ジョー"・メドリーはマネージャーに、残るウィリアム、ジョージ・エドワード2世、フランシス・ジョセフの3人も何らかの形で蒸溜所で働いたと思われます。

そうこうするうち一家の長ジョージ・エドワードは健康を害し、1910年のクリスマス・イヴにちょうど60歳で亡くなりました。蒸溜所は長男のトーマス・Aが引き継ぎました。それから1年も経たずに、メドリーズに初めての大きな危機が訪れます。業界で最大規模の火災が発生し、蒸溜所にあったボトリング・ハウスと熟成ウィスキーの入ったボンデッド・ウェアハウス1棟が全焼したのです。12000バレルのウィスキーが焼失し、推定価値は1911年のドルで30万ドルでした。報道によると、損失の一部は保険で補償されるものの、残りはメッシェンドーフとそのパートナーの負債になったようです。この損失にも拘わらずマイダズ・クライテリアは翌年もデイヴィス・カウンティ蒸溜所の価値を150000〜200000ドルの間であると評価したそう。施設は火災後すぐに再建され、工場も拡張、マッシュの生産量は500ブッシェルから750ブッシェルに増加しました。トーマス・Aのリーダーシップのもと会社は禁酒法が施行されるまで繁栄を続けますが、ご多分に漏れず蒸溜所は閉鎖されてしまいます。トーマス・Aはウィスキーのバレルをワセン・ブラザーズに売却して禁酒法時代を乗り切りました。ウィスキーのストックはルイヴィルの集中倉庫に移され、後にナショナル・ディスティラーズとなるアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってボトリングされることになります。オリジナルのデイヴィス・カウンティ蒸溜所は、1928年に食肉加工業者のフィールド・パッキング・カンパニーに売却され、食肉加工工場になりました。この会社は1914年にオーウェンズボロでチャールズ・エルドレッド・フィールドにより創業され、彼は2人の従業員と馬車、小さな屠殺場からフィールド・ブランドを立ち上げると、ハム、ベーコン、ソーセージなどの食肉製品はすぐに成功を収めました。今でもこの会社の工場は現在のグリーン・リヴァー蒸溜所(後述)の隣にあります。
その他に、この時代のこの蒸溜所にはちょっとした伝説?なのかこんな話も伝わっています。「…禁酒法施行後、政府のエージェントはオーウェンズボロの熟成倉庫にあったバレルを差し押さえた。しかし、メドリー家が所有するデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーの元従業員は、倉庫の奥にある板が緩んでいて取り外せることを知っていた。彼らは夜な夜な忍び込んでバレルを動かし、自宅でボトリングをした。そして地元の医師や薬剤師の協力を得て、それらをメディシナル・ウィスキーとして公衆に販売した。このようなことが繰り返されていたが、或る時、政府機関の在庫調査によりバレルがなくなっていることが判明し、板が交換された…」。

2023-06-07-02-39-05-776_copy_110x145
(Thomas A. Medley)
禁酒法が解禁されると、メドリーズは再び動き出しました。トーマス・アクィナス・メドリーは自分の息子達をビジネスに引き入れ、1933年にワセン・ブラザーズから旧ロック・スプリング・ディスティリングのプラント(第2区RD#18、禁酒法後に#10)と敷地を取得しました。ここまでに何度か名前を出しているワセン・ファミリーは、19世紀末にケンタッキー州で最も成功したディスティラーズの一つです。メドリーズもワセンズもメリーランドからケンタッキーへ移住したカソリック教徒の一員でした。リチャード・ニコラス・ワセンにはフローレンス・エレンという娘がおり、1902年、トーマス・Aとフローレンスが結婚することで、ケンタッキー州の大きな蒸溜家族の二つが結び付きました。トーマスとフローレンスの二人は結婚を記念して、長男をリチャード・N・ワセン・メドリーと名付けています。こうした関係があったことは、蒸溜所の取得を容易にしたのでしょうか? 禁酒法以降にメドリー家が最初に所有したこの蒸溜所の起源はよく分かりません。セシルやコイト・ペーパーを参照にすると、1881年以前はアレグザンダー・ヒルとW・H・パーキンスが運営していたとされ、彼らは1881年にこの工場をJ・T・ウェルチに売却し、1889年には経営者がA・ローゼンフィールド(ローゼンフェルドとも)とエイブ・ハーシュとなり、「ヒル&ヒル」、「ティップ・トップ」、「J.T.ウェルチ」等のブランドがあったとのこと。その後、(おそらくアーロンの息子の)サイラス・ローゼンフィールドにプラントは10年間リースされ、1906年にロック・スプリングの名前を獲得し有名になり、そして禁酒法が始まった頃にこの施設はワセン・ブラザーズに買収され、ストックのウィスキーはヒル&ヒルのブランド名でアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってボトリングされました。禁酒法の後、このブランドはナショナル・ディスティラーズの所有となります。一方、オーウェンズボロの蒸溜産業を紹介する1942年の新聞記事では、少し異なるように見えるストーリーが書かれていました。掻い摘んで抜き出すと、…1877年、ヒルとパーキンスはE・C・ベリー蒸溜所を買収すると、ヒル&パーキンスの名で操業し、彼らは「E.C.ベリー」を製造し続けた。…同地の古い蒸溜所の一つにW・S・ストーンが経営していたオールド・ストーン蒸溜所というのがあり、ストーンは暫く後にM・P・マッティングリーとニック・ランカスターに売却、数年後にマッティングリーはランカスターから事業権を買い上げた。そこでランカスターはディーンとヘルのベンチャー企業と手を組むようになった。S・M・ディーン、ヘンリーとジェイムス・ヘア、ニック・ランカスターはこの時以前、現在(当該記事の執筆時)フライシュマン蒸溜所がある近くの川沿いにあったグリスト・ミルを蒸溜所に改造していた。…それから、そのローゼンフェルド(おそらくアーロンを指している)がディーン、ヘア、ランカスターの経営する蒸溜所を購入しロック・スプリングスと改名し、有名な蒸溜所となってプロヒビションまで運営された、とあります。この件はいまいち分かりづらいので、仔細ご存知の方はコメントよりご教示下さい。それはともかく、グリーン・リヴァー施設の遺跡のすぐ北にあり、メドリーズが引き続きデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーと名乗っていたこの蒸溜所は、禁酒法解禁後に幾つかの改装を経て、1934年秋にマッシングを開始しました。同業他社と同じように、トーマス・Aはビジネスを確立するにあたり未熟成スピリッツをリリースしたようです。彼が最初にメドリー・ファミリー・ウィスキーを再導入した時は30日熟成だったとされ、それは禁酒法以前のバーボンとは程遠いものでしたが、それでも大衆は大喜びしたとか。次いで60日熟成のバーボンが登場し、より熟成したバーボンの貯蔵量が十分に確保され、安定して提供できるようになるまで続けられたと言います。バレルの備蓄が増えるに従って、熟成年数は長くなったでしょう。しかし、何かが上手く行かなかったのか、蒸溜所は1940年にフライシュマンズ・ディスティリング・カンパニーに売却されました。フライシュマンは1970年代までこの工場を運営し、その間に粉砕、マッシング、蒸溜を完全に自動化しました。ボトリングは州外にある同社の工場で行われたとされます。その後、紆余曲折を経て、1992年に取り壊されました。

家族の利益のために活動を続けていたトーマス・アクィナス・メドリーは、事業をフライシュマンズに売却して引退すると、残念ながらすぐに亡くなりました(*****)。しかし、彼の6人の息子達は蒸溜所の売却から得た資金で、元グリーン・リヴァー蒸溜所の跡地に再建されていたケンタッキー・サワー・マッシュ蒸溜所を購入し、1940年、メドリー・ディスティリング・カンパニーを組織します(初めはオーウェンズボロ・ディスティリング・カンパニーと名乗り、後に改名した)。旧デイヴィス・カウンティ蒸溜所にはトーマス・Aの兄弟らが関わっていましたが、新しい工場はトーマス・Aの息子の兄弟達がオウナーとなりました。1946年にはパートナーシップをコーポレーションに改組。彼らの新しい主力ブランドは「メドリー・ブラザーズ」でした。トーマス・Aの息子は8人いましたが、ウィリアム・パーカーとジェイムス・バーナードは小さいうちに亡くなっており、残りの6人は上から順にリチャード・ワセン、ジョージ・エドワード3世、トーマス・アクィナス・ジュニア(通称トム)、ジョン・エイブル、ベネディクト・フランシス2世(通称ベン)、エドウィン・ワセンです。この中でジョージは1944年に若くして亡くなっており、メドリー・ブラザーズ・バーボンのラベルには5人の肖像しか描かれていません。ちなみにエドウィンも比較的短命で1953年に亡くなっています。
FotoGrid_20230604_172055496

ワシントン・カウンティの時代から数えて家族所有の4つめとなった通称メドリー蒸溜所(RD#49)の場所に最初の蒸溜所が建てられたのは1885年とされます。後にグリーン・リヴァー蒸溜所として有名になる以前は人名でJ・W・マカロー(第2区RD#9)と呼ばれていました。ジョン・ウェリントン・マカロック(おそらくMcCulloughからMcCullochになった)はUSインターナル・レヴェニューの職員としてウィスキー業界に入り、ケンタッキー州オーウェンズボロ地区でゲイジャー(計測係)の仕事をしていました。彼はそこで生産されるウィスキーについて十分な知識があり、自分でも一流のウィスキーを造ることができると考えたのでしょう、1888年にその蒸溜所を購入しました。彼が建設したとする説や1889年頃建てられたとする説もありますが、詳細は判りません。1891年、マカロックはオーウェンズボロの西方にある川からグリーン・リヴァーと名付けたウィスキーを発表し、広告を始めました。するとグリーン・リヴァーは瞬く間にアメリカで最も宣伝されるウィスキーとなります。そのキャッチフレーズは「The Whiskey Without a Headache(頭痛のしないウィスキー)」でした。
FotoGrid_20230604_170557870
その他のブランドには「マウンテン・デュー」、「ケンタッキー・ムーンシャイン」等があり、どれもハンドメイド・サワー・マッシュと宣伝されたそうです。1900年、マカロックは事業を法人化し、社名をグリーン・リヴァー・ディスティリング・カンパニーに変更。オーウェンズボロ、ルイヴィル、シンシナティ、シカゴにオフィスを構え、販売はニューヨークのE・A・モンタギューと契約していたらしい。1916年頃はマカロックが社長、ジョン・L・レインが事務兼会計を務めていました。しかし、1918年、マカロックは災難に見舞われます。8月24日、オーウェンズボロで過去最大の火災が発生し、たった3時間でグリーン・リヴァー・ウィスキーの熟成樽が入った倉庫を含む殆ど全ての建物が灰の山と化したのです。蒸溜所にとって火災は常に最大の危険であり、バーボンの歴史の多くは蒸溜所の火災の歴史でした。グリーン・リヴァー蒸溜所の火災のニュースは、第一次世界大戦の記事をもトップページから引き降ろし、炎は40マイル以上離れたインディアナ州エヴァンズヴィルでも見えるほどだったと言います。三つの倉庫の一部は助かったものの、マカロックは18000バレルの熟成ウィスキーを失い、損失額は3000000ドル(現在の45000000ドル)と見積もられました。禁酒法が迫る中、火災の被害を受けた施設はすぐに修復されることはなく、残ったウィスキーは禁酒法施行時にウッドフォード・カウンティのオールド・テイラー施設にある連邦政府が管理する集中倉庫に送られ、後にアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーによってグリーン・リヴァーのラベルを使い薬用としてボトリングされました。その後、グリーン・リヴァー・ブランドはニューヨークのオールドタイ厶・ディスティラーズ・インコーポレイテッド(スペルは"OLDETYME")に買収され、彼らが販売するようになりました。禁酒法廃止後は広告に関する法律が厳しくなり、グリーン・リヴァーの有名なスローガンである「頭痛のしないウィスキー」は、それに合わせて「The Whiskey Without Regrets(後悔のないウィスキー)」に変更されています。
1918年の大火災により大部分を焼失していたグリーン・リヴァー・プラントは禁酒法時代に取り壊されましたが、ジャック・サリヴァンのブログ記事によると、マカロックの家族は引き続き土地を所有しており、禁酒法が廃止されると施設を再建し、グリーン・リヴァー・ウィスキーの生産を開始、1933年12月にジョン・W・マカロック・ジュニアによって法人化されたものの、彼らはウィスキー・トレードの難しさを実感し、家族経営は僅かな期間しか続かず、上述のようにブランドをオールドタイムに売却した、とされています。おそらく土地と建物は1936年にケンタッキー・サワー・マッシュ・ディスティリング・カンパニーに売却されました。この会社は、そもそもは嘗てオーウェンズボロの蒸溜王として君臨したM・V・モナークの経営していた幾つかの蒸溜所の一つ(RD#12)でした。そこでは「M.V.モナーク」、「ケンタッキー・ティップ」、「ソーヴレン」、「ジョッキー・クラブ」をボトリングしていたと言います。そして禁酒法廃止後、ケンタッキー・サワー・マッシュ・ディスティリングとして復活させようとした人がいました。復活した同社は多くの設備を導入し、現在にまで継承される建物を建て、1937年に稼働を始めて1349バレルのウィスキーを蒸溜したそうです。しかし、資金不足に陥り、1939年に倒産して債券保有者に買い取られ、それが1940年(1939年という説も)にメドリーズに売却された、と。

リチャード・ワセンを中心とする5兄弟が責任者となったメドリー・ディスティリング・カンパニーは、創業早々から厳しい世界情勢に直面したと想像されます。時は第二次世界大戦の時代です。メドリー蒸溜所にはスティレージと知られる蒸溜残滓を乾燥させ牛の飼料にするために使用されるドライヤー・ハウスが建設されました。そうしたDDG(ディスティラーズ・ドライド・グレイン)と呼ばれる製品は、戦争努力の一環として国中の牛の飼料工場に出荷されました。そして、大戦中に国の全ての蒸溜所は戦争のために工業用アルコール(190プルーフ)の生産に転換されました。戦争期間中、メドリー蒸溜所はU.S.アーミーが操業を引き継ぎ運営が行われたと言います。工業用アルコールは、ゴム、不凍液、テトラエシル鉛、パラシュート用レーヨン、エーテルなどの製造に使用されました。ジープ1台を製造するには23ガロン、16インチ海軍砲弾1発を製造するには1934ガロン、手榴弾64個もしくは155mm榴弾2発を製造するには1ガロンの工業用アルコールが必要とされています。それでも飲料消費用のアルコールを製造することが出来る3か月間の「ディスティリング・ホリデイ」がありました。40年代のメドリー社の製品の多くはこの期間に生産されたものなのかも知れません。
彼らのブランドには、先に紹介したメドリー・ブラザーズの他に、発売年代が特定できないので後年のものも含みますが、「ファイヴ・ブラザーズ」、「オールド・メドリー」、「メドリーズ・ケンタッキー・ボー」、「メロウ・ボンド」、「ワセンズ・ケンタッキー・バーボン」、「メドリー・バーボンUSA」、「メドリーズ・ケンタッキー・バーボン」、「メロウ・コーン」等があります。その他にも地域限定もしくは輸出向けのブランドもあるでしょうか。上の中で特筆すべきはワセンズ・バーボンかも知れません。多くのウィスキーが大規模なウィスキー・ハウスに大量に販売される中、ウィスキーを熟成させる倉庫の中に他の物とは一線を画す極上のバーボンを生み出す「スウィート・スポット」があることに気付いたリチャード・ワセン・メドリーは、優れた品質のシングルバレルをピックして自らの名前でブランド化し、これが市販された最初のシングルバレル・バーボンであるとの話もありました(真偽不明)。また、1951年には楽器のバンジョーを模したボトルの特別なメドリー・バーボンを導入し、長年に渡って何度かリリースされ、そのユニークなボトル・デザインからコレクターズ・アイテムとなったりしています。基本的に彼らの主要ブランドは、バーボンの創始者や地名にちなんだ名前を採用するより、自身の家族を強調したブランディングなのが特徴と言えるでしょう。
FotoGrid_20230603_184646831

第二次世界大戦後の好況期、ケンタッキー・フライドチキンのハーランド・デイヴィッド・サンダースが着用しているようなケンタッキー・カーネル・タイを一種のトレードマークとして採用し、販促品として配ることもあったそうです。そう言われてみれば、メドリー・ブラザーズ・バーボンに採用されている兄弟の写真はカーネル・サンダースのような格好をしているように見えます。メドリー社は、ナショナルやシェンリーのような「ビッグ・フォー」やそれらに次ぐコンチネンタルよりも小規模な会社でしたが、上手く地域密着型のビジネスを展開していました。いつの頃か明確ではありませんが、メドリー蒸溜所は地域社会に於ける女性の最大雇用者の一つで、5つのボトリング・ラインで250人以上の女性が働いていたと言います。彼らの事業は健全でしたが、継続的な成長と多角化のために十分な資金を自分たちで調達することは出来ず、1959年、蒸溜所を酒類輸入会社のレンフィールド・インポーターズに売却しました。当時の新聞記事によると、レンフィールドはメドリー・ディスティリング・カンパニーを10000000ドル以上の現金で買収した、とあります。メドリー家の兄弟のうち二人、ジョン・Aとリチャード・Wはそのまま残って運営に当たりました。

一方、1960年(1961年という説も)にベンとトム・メドリーは独立し、家族経営の5番目の蒸溜所としてオーウェンズボロの中心部から凡そ9マイル西のスタンリーに新しい蒸溜会社を立ち上げました。この蒸溜所は、オールド・スタンリー蒸溜所(RD#76)と言いますが、調べると彼らが一から新しく建設したとする記述と元からあった蒸溜所を購入して再建したとする記述の両方が見られます。どちらが正しいのか私には判断が付きません。この蒸溜所のデザインはスティル・ハウス、ドライヤー・ハウス、ボイラー・ルーム、ボトリング・ハウスを一つの屋根の下に配置したものでした。ボトリング・ハウスは3つのラインを備え、各サイズから変更する際の遅れを避けるため、それぞれ1つのサイズに対応するようになっていたそうです。倉庫はメイン・ファシリティの近くにあり、5000バレルを収容する規模でした。しかし、その操業は短命で、スタンリーの蒸溜所は僅か1年間しか蒸溜しなかったと言います。おそらくその後はボトリング・セクションと倉庫のみが使われ、所謂NDPとして活動したのではないでしょうか。1966年頃には6つのみのバーボン・ブランドとウォッカとジンがリストされていたそうなのですが、画像で確認出来たのはその名も「オールド・スタンリー」くらいで、他のブランドは不明です。ただ、現在はヘヴンヒルが製造している「トム・シムズ」の商標登録が63年のようなので、おそらく6つのうちの一つはそれではないかと。このトム・シムズという名は、おそらく前述のジョージ・エドワード・メドリー1世の義理の父トーマス・ウィリアム・シムズから由来していると思われます。
参考1
参考2
参考3
セシルの本によると、彼自身が1970年代初頭にこの蒸溜所を訪れた時、(蒸溜機の)運転はされていなかったが、約2000バレルのウィスキーが生産されていたそうです。続けて「1977年12月31日のリバティ・ナショナル・バンクのレポートでは、147バレルを貯蔵しており、そのうち111バレルは8年熟成以上のもので、残りは1970年と1971年に生産されたものだった。1996年12月31日のレポートには1990年生産の95バレルが記載されているが、誰が生産したかは不明である。彼らのボトリングは自社ラベルの"トム・シムズ"と、フロリダの小売店やホリデー・イン向けのカスタム・ボトリングで構成されていた。どうやらこの事業は成功しなかったようで、工場は1970年代後半に公売でフロリダの会社に売却された。(アーカンソー州)リトル・ロックにあるムーン・ディストリビューターズのオウナーであるハリー・ヘイスティングスが会社のインタレストを持っていた」とあります。チャールズ・メドリーは92年の段階でボトリング施設はメドリー・ファミリーによって時折まだ使用されていると語っていたようです。それと、上でセシルが言及しているレポートの続き?なのか、スタンリーの倉庫に1992年製造の熟成バーボン51バレルが保管されているとの記録がある、との話がありました。これは、おそらく1990年代後半の記録かと思います。倉庫としてはかなり少ないバレル数、しかも徐々に減って行ってるところからすると、ボトリング及び倉庫施設としても2000年あたりには使われなくなったのかも知れません。そう言えば、当初はオールド・スタンリー・ディスティラリー・インコーポレイテッドと名乗っていたが後にケンタッキー・ディスティラーズと改名した、との情報もありました。また、同社はベン・F・メドリー・ディスティラリー・カンパニーと言われることもあったようです。廃墟となったオールド・スタンリー蒸溜所の写真が沢山観れるアダム・パリスによるアルバムのリンクを貼っておきます。
https://www.flickr.com/photos/ap_imagery/albums/72157681499097265

偖て、本流のメドリー・ディスティリング・カンパニーの方はというと…1960年6月30日、落雷により倉庫の一つが炎上しました。22000バレルのバーボンが焼失し、アメリカ政府は800万ドル以上の税収を失ったと伝えられます。その倉庫は全焼しましたが、グリーン・リヴァー火災もあって建物から他の建物への延焼を防ぐように設計されていたため、他の倉庫は無事でした。焼けた倉庫は翌年に従来と同じ技術と様式で再建されたそうです。おそらくメドリー・ディスティリング・カンパニーは、1950年代から60年代を通して、所有者の変更はあっても、繁栄を続けたと思われます。
時代が進めば世代交代も訪れます。1966年にトーマス・アクィナス・ジュニアは亡くなりました(リチャード・ワセンは1980年、ジョン・エイブルは1981年まで生きています)。トムの死がきっかけだったのかは定かではありませんが、1967年にリチャード・ワセンの息子チャールズ・ワセンは、メドリー蒸溜所のプラント・マネージャーに就任します。彼はウェスタン・ケンタッキー大学で教育を受けた後、ルイヴィルのブラウン=フォーマンとオールド・フィッツジェラルド蒸溜所で見習いとして研鑽を積み、その後オーウェンズボロに戻って同職に就きました。プラント・マネージャーの肩書きは軈てマスター・ディスティラーへと発展して行きます。チャールズがメドリー家第7代マスター・ディスティラーに任命されたのを1969年とする情報もあれば、1970年代半ば頃としている情報もありました。なんなら1970年代にキャリアをスタートさせたとする記述も見かけました。どれが正しいのかは扠て措き、彼が引退するまで第一線で活躍するマスター・ディスティラーであり続けたことは間違いありません。ちなみにチャールズは1941年生まれです。

1975年(78年という説も)、レンフィールド・インポーターズは元バートンのエイブラハム・シェクターにメドリー社を売却しました。エイブはシド・フラッシュマンから購入したフランクフォートの蒸溜所を閉鎖して、1978年にオーウェンズボロの事業と統合しました。このフランクフォートの蒸溜所というのはロッキー・フォードまたは21ブランズと呼ばれていた蒸溜所です。フラッシュマンはグリーンブライアーで営んでいたダブル・スプリングスの事業を1960年代後半にルイヴィルの旧ジェネラル・ディスティラーズの工場へ移し、その後75年頃に21ブランズ蒸溜所へと移したものの短命に終わり、エイブ・シェクターに売却したのでした。これにより旧ダブル・スプリングスのブランドの幾つかはオーウェンズボロで製造されるようになります。ちなみに、シカゴ出身のシェクターは1995年に亡くなるまでに幾つもの酒類販売会社のオウナーや役員を務めた人物で、酒類ビジネスに携わる前は会計士でした。22歳になるまでにノースウェスタン大学で法律と会計の両方を学び、1935年に大学を卒業すると1937年に公認会計士の学位を取得し、第二次世界大戦後、バートン・ブランズに税と法律の専門家として雇われました。
メドリー家のバーボン・ブランドは、おそらく競合他社の製品に較べて少々インパクトの弱いものでした。現場の営業マンはジャックダニエルズに対抗するブランドが必要だと感じていたのかも知れません。そこで同社は1976年に、アンダーソン郡のホフマン蒸溜所で造られていたエズラ・ブルックスのブランドをフランクフォートの21ブランズ蒸溜所と共に購入しました。50年代からジャックダニエルズの対抗馬として優秀だったエズラ・ブルックスは、その後メドリー社のトップセラーとなり、最大の資産となりました。彼らはこのバーボンを77%コーン、10%ライ、13%モルテッドバーリーのマッシュビルで造りました。バレル・エントリー・プルーフは115とされています。と言うか、このマッシュビルはメドリー家の主要なレシピと思われ、他のメドリー・ブランドでも使われているかも知れません。蒸溜はカラム・スティルとダブラー、ディスティリング・プロセスで使用する水はライムストーンで濾過されたものを敷地内の井戸から引いていました。ファーメンターはサイプレス製でした(後年、ステンレス製のタンクに置き換わった)。イーストの管理から蒸溜、エイジングからボトリングまで、どの工程も厳しい品質管理がなされ、チャールズ・W・メドリーはシェクターが買収した後も優秀なスタッフと共にオペレーションを続けていました。
1979年末、チャールズは蒸溜事業から離れつつあったパブリカー/コンチネンタルのリンフィールド施設まで行き、個人的にピックしたバルク・ウィスキーと既にボトリングされたウィスキーのボトル、そして切り替えを行うまで使用するラベルなどを購入しました。メドリー社からリリースされたコンチネンタル産の物は、所在地表記のリンフィールドの上からスタンプを押したラベルが貼られていたようです。それらのウィスキーやラベルを使い切った後、オールド・ヒッコリー、リッテンハウス・ライ、ハラーズ・カウンティ・フェアなどのブランドは、自社で蒸溜した原酒を使って製造され始めました。チャールズは、コンチネンタルのブランドを購入したのはそれらが品質の象徴だったからだと言っています。
FotoGrid_20230620_000438507

1980年代初頭、メドリー・ディスティリング・カンパニーを創始したファイヴ・ブラザーズの中心人物、チャールズの父リチャードと叔父ジョン・エイブルは続けて亡くなり(ベン・Fは1990年に死去)、バーボン業界も斜陽産業のように見える時代となっていました。そのことと関係があるのか分かりませんが、メドリー家は1988年に蒸溜所をグレンモア・ディスティラリーズに売却することを決めました。同社は二つの蒸溜所を所有しており、その一つグレンモア蒸溜所(RD#24)は、オーウェンズボロの東側、つまりメドリー蒸溜所とは反対側にある大きな施設で、73年に蒸溜を停止してからウィスキーを熟成させてボトリングする場所となっていました。歴史家のマイケル・ヴィーチによると、メドリー蒸溜所を買収したグレンモアは生産を停止したそうです。彼らは自社蒸溜所(シャイヴリーのイエローストーン)からの過剰なウィスキーを持っていたので、その時に更に生産する必要はなかった、と。一方で、メドリー蒸溜所は1987年に閉鎖され、1988年にグレンモアに買収されてから再開されたという説もあります。或いは微妙な違いですが、チャールズはメドリーのマスター・ディスティラーとしてグレンモアのために働き、そのままウィスキーを蒸溜していたとする説もあります。オーウェンズボロでメドリー蒸溜所しか操業していなかった頃、グレンモアの従業員名簿上、チャールズは最後のマスター・ディスティラーだった、とチャック・カウダリーは述べていました。事の真相はどうだったか私には判りませんが、ともかくグレンモアの経営は短命に終わります。1991年にユナイテッド・ディスティラーズがグレンモアの全事業を買収したのです(******)。メドリー蒸溜所は1992年にアメリカン・ウィスキーの生産を集約しようとしていたユナイテッドによって完全に閉鎖されました。そして彼らは不必要と判断したアメリカン・ウィスキーの資産、即ちブランドと物理的施設を売りに出しました。エズラ・ブルックスを含む多くのブランドはヘヴンヒルに買われ、その後すぐにヘヴンヒルはエズラ・ブルックスをミズーリ州セントルイスのデイヴィッド・シャーマン・コーポレーション(現ラクスコ)に売却しました。バーボン造りの夢を諦めたくなかったチャールズ・メドリーは、何とか資金を集めてユナイテッド・ ディスティラーズから1995年に蒸溜所を購入します。再び輝く未来を信じつつ、蒸溜所をメドリー家の下へ戻したのです。

2023-06-19-19-26-01-445
(Charles Wathen Medley)

1996年、チャールズ・ワセンとその息子サミュエル・ワセン(通称サム)のメドリー親子は新しく会社を設立しました。蒸溜所はチャールズ・メドリー蒸溜所と改名され、DSPの登録番号は#10を取得しました。これはチャールズの祖父トーマス・Aがデイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーで使っていた伝統ある番号でした。そしてチャールズは父のパーソナル・ブランドであったワセンズ・ケンタッキー・バーボンの復活を思い付き、実際に製品をリリースすることに成功します。1997年、ワセンズ・シングルバレル・バーボンと名付けられたプレミアムな表現が発売されました。彼らはそれを自らボトリングし、一つひとつのラベルに手書きでサインをし、丁寧にケースに詰めました。チャールズが自身の長年の経験から理想としていると言う94プルーフでのボトリングです。この初期のワセンズ・シングルバレル・バーボンは、彼が旧メドリー蒸溜所をユナイテッド・ディスティラーズから購入した際、一緒に買い取った8000バレルの既存のウィスキー・ストックをボトリングしたものでした。当時はまだ供給過剰の時代で、それらをユナイテッドは不要な物と感じていました。そのバレル群はチャールズ自らがメドリーで製造したものと見られています。彼らは数年間チャールズ・メドリー蒸溜所でボトリングを続けていましたが、ストックには限りがあるため、それが底を突く前に新しいウィスキーを探さなければなりませんでしたし、チャールズとサムのプロモーション活動が成果を上げたことで工場でのボトル充填キャパシティを超えるほど需要が高まってしまい、ウィスキーをボトリングして流通させる業者も必要でした。そこで、90年代の終わり頃にはセントルイスの会社(デイヴィッド・シャーマン)と交渉して、その後しばらく仕事を共にしたと思われます。更にその後には、ワセンズ・バーボンのナショナル・マーケットへ向けた展開の一環として、2007年までにカリフォルニアのフランク=リンと契約を結びました。
2023-06-19-21-12-25-006_copy_129x266

ワセンズ・シングルバレル・バーボンは比較的好評ではありましたが、蒸溜を始めるのに必要なお金を集めることは出来ず、チャールズは蒸溜所を所有していた期間中、主に屋根の雨漏りを防ぐなど建物の修繕に努めたものの、家族の蒸溜所で自らのウィスキーを蒸溜するという夢は実現されませんでした。これはまだ本格的なバーボン・ブームが訪れる10年前の話であり、歴史が進んだ現時点から観てしまうと、彼らは早過ぎたと言うか、良いタイミングに恵まれなかったと言えるでしょう。もし10年遅ければ、状況は全く変わっていたかも知れません。
2007年10月、チャールズはウィスキーを蒸溜する計画を持っていた(アンゴスチュラ・ビターズでお馴染みの)アンゴスチュラ社に蒸溜所を売却しました。アンゴスチュラはトリニダード・トバゴに本社を置くラムやウォッカなどのスピリッツの大メーカーで、スコットランドやフランスなどの蒸溜所を買収していたのです。2008年11月には、再び伝統的なケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを製造することを目標に工場の改修が開始されます。修復のために約2500万ドルの投資を予定し、改修後の蒸溜所は年間2000000プルーフ・ガロンの生産能力が想定されてたとか。この頃までに会社はチャールズ・メドリー・ディスティラーズ・ケンタッキー(CMDK)を名乗るようになっていました。
2023-06-14-20-25-40-683
2009年2月にCMDKへ訪問したチャック・カウダリーによると、殆どが赤レンガ造りの倉庫の中、2つほどメタル・クラッドの倉庫があり、その外装は少なくとも部分的には貼り直しされていたそうですが内部はかなり補修が必要、蒸溜部分に関しては古いマッシュ・クッカー、ビア・スティル、ダブラーはまだ良好な状態にあるものの、新しい製粉機と穀物処理機、多くの新しいファーメンター(チャールズは何年も前にサイプレス製の物を全てメーカーズマークに売却した)、新しいボイラー、そして新しいビア・ウェルが必要だったそうです。CMDKのプラント・マネージャーにはデレク・シュナイダーが就任しており、彼は蒸溜所の修復を管理するだけでなく、CMDKの名前を世に知らしめる活動をし始め、その歴史を簡単に振り返るビデオを作成し、そこには当時の改修の進行状況も紹介されていました。旧ボトリング・ハウスをヴィジター・センターとギフト・ショップに改装し、300人収容可能なイヴェント・スペースも設置、その他に敷地内の井戸の改修とテスト、セキュリティ・フェンスや道路整備などのアップグレードも行われ、2010年初頭の操業開始を目指している、と。更に、将来的なプランとしてはガイド付ツアーを組んだり、テイスティング・ルームやミュージアムも設置し、今後5年以内に自社製品をボトリング出来るようにする、とビデオにはありました。しかし、アンゴスチュラの親会社CLフィナンシャルが世界的な金融恐慌から流動性危機に見舞われたことで2009年に全ての支出がストップし、蒸溜所の再建計画は道半ばで頓挫してしまいます。そこからこの蒸溜所は売りに出されました。多くの人がこの工場に興味を持ちましたが、なかなか買い手が見つかりませんでした。聞くところによると、所有者はこの場所の価値を高く見積もっていたのだそうです。それと、明確な時期は判りませんが、多分この後くらいからチャールズ・メドリー・ディスティラーズ・ケンタッキーと名乗らなくなったようで、単にチャールズ・メドリー・ディスティラリーと称している気がします。

蒸溜所のオウナーでなくなっても、そもそもチャールズ・メドリー・ディスティラリーという会社はNDP(ノン・ディスティリング・プロデューサー)でしたから、チャールズとサムはウィスキーを販売し続けていました。彼らはどこかの段階で自分達の名前の権利も買い戻すことが出来、2013年前期には「オールド・メドリー12年」、同年後期には「メドリー・ブラザーズ」と、一家の象徴的ブランドを再スタートさせました。オールド・メドリー12年は熟成年数が引き立つように低いプルーフ(86.8プルーフ)でのボトリング、メドリー・ブラザーズは4年熟成で高いプルーフ(102プルーフ)でのボトリングと、対照的なキャラクターとなっています。メドリー・ブラザーズのラベルは1950年代のオリジナルとほぼ同じデザインで復刻したものでした。バーボン・ブームの後押しもあってか、この後も二人は続々と特別なバーボンを市場に出して行きます。2015年には限定で「メドリーズ・プライヴェート・ストック10年」をリリース。会社は7代目のチャールズと8代目のサムにより経営されていますが、チャールズの年齢を考えるとこの頃にはサムが主導するようになっていたのではないかと思います。そんな彼の本領が発揮されたのが、2017年1月に発売された「メドリー・ファミリー・プライヴェート・セレクション」でしょう。サムは2016年9月に75歳の誕生日を迎える父に敬意を表し、特別なバーボンをリリースする方法を考えていました。そこで、ワシントンD.C.にあるジャック・ローズ・ダイニング・サルーンのオウナーであるビル・トーマスとミーティングしていると、或るプランを思い付きました。それは、管理下にある特別なバーボンをバレルプルーフでボトリングするだけでなく、メドリー家の他のメンバーにもバレルを選んでもらうというものでした。サムは6月の家族の集まりの時に、こっそりと様々なバレルのサンプルを家族に渡して試飲してもらい、どれが一番美味しいと思うか訊ねました。そうして選ばれた11バレルのみがシングルバレル形式にてボトリングされたのです。このプロジェクトをお披露目した時、チャールズは大変驚き、そして光栄に思ったそうです。ラベルにはバレルのセレクションに参加したファミリー・メンバーそれぞれの名前が記載されています。以下にリストしておきました。「?」はネットで調べても不明だった部分です。詳細を分かる方は是非コメントよりご一報下さい。

BARREL 1 OF 11|128.4 PROOF|John A. Medley Jr.|183 BOTTLES
BARREL 2 OF 11|127.8 PROOF|Grace Wathen Medley Ebelhar|178 BOTTLES
BARREL 3 OF 11|128.6 PROOF|Mary Ann Fitts Medley|120 BOTTLES
BARREL 4 OF 11|129.5 PROOF|R. Wathen Medley Jr. M.D.|175 BOTTLES
BARREL 5 OF 11|128.2 PROOF|Daniel S. Medley|181 BOTTLES
BARREL 6 OF 11|????? PROOF|???? ???? ????|??? BOTTLES
BARREL 7 OF 11|128.2 PROOF|Samuel Wathen Medley|126 BOTTLES
BARREL 8 OF 11|128.7 PROOF|Samuel Wathen Medley|185 BOTTLES
BARREL 9 OF 11|130.1 PROOF|William M. Medley Sr.|100 BOTTLES
BARREL 10 OF 11|129.5 PROOF|Samuel Wathen Medley|155 BOTTLES
BARREL 11 OF 11|128.7 PROOF|Thomas A. Medley III|244 BOTTLES

これらのボトルの希望小売価格は80ドルでした。他のブランドと比較して小規模なリリースでしたが、サムはこのプロジェクトに満足し「それはクールなものだったよ、だって家族のものだからね」と語っています。更に特別なリリースは続き、2017年後半からは「ワセンズ・バレル・プルーフ」も限定数量にて発売されるようになりました。2019年頃には、同じくシングルバレル、バレルプルーフでボトリングされた「メドリー・エクスクルーシヴ・セレクション」という、ごく限られた高級ショップやウィスキー・クラブにピックされた製品も販売されました。ここら辺は高級志向なブランディングが好まれるバーボン・ブームの賜物でしょうか。
FotoGrid_20230619_183549634

上で述べたようにチャールズ・メドリー・ディスティラリーはNDPですが、チャールズ・メドリーは近年にちょっとした思い付きでウィスキー・ビジネスを始めたような人物ではなく、何十年にも渡って蒸溜所での経験を積んで来ました。一家が蒸溜所を所有していた時からマスター・ディスティラーを務め、親会社は変わっても全てのオウナーに対してその職務を全うし働きました。だから、彼とその息子が運営する会社は、新興のマイクロ・ディスティラリーが何の経験もなしにジュースを調達し、それを何か大したものであるかのようにパッケージングとマーケティングで装うのとは些か訳が違います。これらワセンとメドリーの名が付けられたブランドはどれも、77%コーン、10%ライ、13%モルテッドバーリーという禁酒法以後のメドリーズのハイ・コーンな伝統的マッシュビルを使用して非公開のケンタッキー州の蒸溜所で生産されています。所謂スポット・マーケットでのバルク買いではなく、契約蒸溜で製造されているので、メドリー家は蒸溜工程の汎ゆる側面、マッシュビル、イースト、エントリー・プルーフ等を完全に管理しているそうです。更に、各バーボンに異なる特徴を持たせるために、バレルは倉庫の異なる場所で熟成させなければならないという条項も契約合意の一部となっているらしい。何処の蒸溜所と契約しているかは、おそらく秘密保持契約があるため公開されていませんが、ヘヴンヒルであろうとの見方が大勢を占めています。中にはバッファロー・トレース蒸溜所の可能性を示唆したり、 ひっそりと多くの委託蒸溜を行っているバートン蒸溜所を疑っている人もいます。実際のところ、生産能力に余力のある蒸溜所なら何処でも契約蒸溜は可能であるとされ、もしかしたらブラウン=フォーマンかも知れないし、ビームなのかも知れません。孰れにせよ重要なのは、製品の品質管理をしているのがビーム家でもラッセル家でもサミュエル家でもなくメドリー家であることなのです。
ちなみに、2019年にはチャールズがケンタッキー・バーボン・ホール・オブ・フェイムに選ばれた一人になりました。これはケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーション(KDA)がケンタッキー・バーボン・フェスティヴァルと連携して創始した「バーボンの知名度、成長、認知度に重要かつ変革的な影響を与えた個人と組織を表彰する」ものです。候補者は毎年、協会とその加盟蒸溜所、バーボン・フェスティヴァル理事会によって推薦され、KDA理事会の投票によってこれらの候補者が殿堂入りします。

https://www.flickr.com/photos/ap_imagery/albums/72157658619764333
(アダム・パリスによる旧メドリー蒸溜所のフォト・アルバム)

偖て、一方の暫らく売れなかった蒸溜所は、2014年にテレピュア・プロセスでウィスキーなどの熟成を早めることが出来ると謳うサウス・キャロライナ州のテレセンティア・コーポレーションが購入し、改修を開始しました。蒸溜に関わる部分や倉庫の多くも2009年の冬の嵐で被害を受けており、多くの作業が必要だったため改修費用には2500万ドルを投じたと言います。ジムビーム・ブランズとフロリダ・カリビアン・ディスティラーズで40年の経験を持つマスター・ディスティラーのロン・コールがこのプロジェクトの相談役に選ばれ、その息子ジェイコブも大規模な改修を監督しました。新しくなる蒸溜所は、化学者で発明家のオーヴィル・ゼロティス・タイラー3世(*******)にちなんでO.Z.タイラー蒸溜所の名で運営を行うことになりました。彼は息子と共にテレピュア・プロセスの共同発明者で、2014年に81歳で亡くなりました。「TerrePURE®」とは、超音波エネルギー、熱、酸素を利用し、蒸溜酒の品質と味を劇的に向上させるオール・ナチュラル・プロセスです。先見性のあったタイラー3世は、缶に保存されたソフトドリンクの金属味をなくすコーティングを始め、屋内外のカーペット、洗える壁紙、屋外用ラテックス塗料など多くのものを開発した人物で、定年退職後に大好きなスコッチ・ウィスキーの熟成になぜこんなに時間が掛かるのかを考えるようになったそう。2016年に蒸溜所はオープンし、ウィスキーの貯蔵を開始。マスター・ディスティラーのバトンはロンから息子のジェイコブに渡されました。同蒸留所は、2018年にケンタッキー・バーボン・トレイルの公式メンバーになりました。2020年にはJ・W・マカロックの曾孫のサポートにより、蒸溜所の名前をグリーン・リヴァー蒸溜所に戻し、大々的に新たなる幕開けを飾りました。DSP番号は、元々のグリーン・リヴァー蒸溜所の登録番号ではなく、嘗てのデイヴィス・カウンティ・ディスティリング及びチャールズ・メドリー蒸溜所の「DSP--KY-10」を引き継いでいます。そして、2022年に新しいグリーン・リヴァー・バーボンをリリースし、現在に至る、と。これが旧メドリー蒸溜所の辿った道筋です。

そろそろ今回飲んだメドリー・バーボンUSAの解説でもしたいところなのですが、このボトルのバック・ストーリーは調べても特に見当たりません。以下は憶測になります。このブランドは、おそらく主に70年代、広く取って60〜80年代初頭あたり?に流通していたと思われます。わざわざラベルにUSAと描かれたところからすると、基本的に(或いは完全に?)輸出向けのブランドではないかなという気がします。画像検索で見てみるとボトル形状には、角瓶も丸瓶もあり、裏側が湾曲した形状の物やハンドル付き、デキャンタ・タイプまでありました。容量もリッターの物が散見されます。こうしたヴァリエーションの多さやラベルのデザインからして、プレミアムなラインとは思えず、ジムビームで言うとホワイト・ラベルのような、飽くまでスタンダードな製品かと思われます。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

2023-05-13-18-35-30-919
FotoGrid_20230513_182020996
MEDLEY BOURBON USA 6 YEARS OLD 86 Proof
推定76年ボトリング。軽いキャラメルと少しスパイシーな香り立ち。時間を置くと甘いお花畑に。なかなか濃厚な味わい。残り香はナッツとウエハース。特に可もなく不可もない普通に美味しいオールドバーボンという感じ。これの前に飲んだ二杯のレヴェルが高過ぎて、ちょっと飲む順番を間違えたかも知れないとは思いましたが、それでも現行のバーボンとは異なる深みも十分に味わえました。
Rating:84/100


*日本では「Medley」を「メドレー」と表記する慣行がありますが、本記事では敢えて実際の発音に近い「メドリー」と表記しました。メドリーと表記するのが通例となるように、よかったら皆さんもこれからはメドリー表記を推して行きませんか?

**ここまでの系図は、アメリカに初めて渡って来たジョンを1世と数えて以下のようになります。生年と死亡年は「約」です。
ジョン・メドリー1世(1615 - 1676)
ウィリアム・メドリー(1652 - 1695)
ジョン・メドリー3世(1676 - 1748)
ジョン・メドリー4世(1702 - 1749)
フィリップ・メドリー(1732 - 1797)
ジョン・"ジャック"・メドリー6世(1767 - 1817)

***ジョンは妻エリザベスと子供達、そして隣人らと共に陸路でピッツバーグに向かい、オハイオ・リヴァーをフラットボートでケンタッキー州メイズヴィルまで下り、そこから再び陸路でソルト・リヴァーの分流にある小さな集落カートライト・クリークに向かった、とする説もあります。もしかすると、こちらの方が具体的な記述のため、正しいのかも知れません。

****友人や同僚から「ディック」と呼ばれたディートリック・W・メッシェンドーフ(1858-1911)は、1892年から死去するまでオールド・ケンタッキー蒸溜所を経営し、オールド・タイムズ蒸溜所、プレジャー・リッジ・パーク蒸溜所、デイヴィス・カウンティ・ディスティリング・カンパニーにも出資していた人物です。おそらく青年期に母国ドイツを離れてアメリカに来るまでウィスキーについてはそれほど知らなかったと思われますが、後にケンタッキーのバーボン製造業者の権威と目されるようになり、ピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトを検討していたセオドア・ルーズヴェルト大統領からストレート・ウィスキーの基準について相談を受け、また1909年のタフト・テシジョンに至る公聴会ではウィスキーの意味について証言したほどアメリカの蒸溜酒史に於ける重要人物の一人でした。
メッシェンドーフがアメリカに移住したのは、国勢調査記録によると1874年、16歳の時でした。その後15年間の彼の行動はよく分からず、ケンタッキーで何かしらの酒類ビジネスに従事していたのかも知れません。彼の名は1889年にルイヴィルのオールド・タイムズ・ディスティラリーの出資者兼役員として公の記録に登場します。オールド・タイムズ蒸溜所(ジェファソン郡、第5区、RD#1、ウェスト・ブロードウェイ2725)は1869年にケンタッキアンのジョン・G・ローチによって設立され、1878年にアンダーソン・ビッグスに売却されました。1889年にビッグスが亡くなると、彼の妻は酒造業に反対していたらしく、17000ドルという安値で初めの入札者に売却したそうです。その購入者の中にメッシェンドーフがおり、新しいオウナーは元F・G・ペイン&カンパニーのチェス・レモンが社長、メッシェンドーフが副社長、A・W・ビアバウムが秘書兼会計でした。彼らのブランドには、蒸溜所の名前が示すように「オールド・タイムズ」と「グラッドストーン」がありました。1日に350ガロンのウィスキー生産能力があった工場は、3つの鉄道路線に近く、ルイヴィルに到着する全ての鉄道に乗り換え可能で便利な場所に位置していたと言います。新オウナーらは蒸溜所を大幅に拡張しました。1890年にビアバウムが亡くなると、メッシェンドーフが彼の後を継ぎます。1893年には蒸気加熱システム付きのレンガと金属被覆の5つのウェアハウスを建て、65000バレルの貯蔵できるようになりました。1897年、メッシェンドーフはメイフラワー蒸溜所(後述)を買収してこの事業から撤退したようです。1908年にレモンが亡くなるとJ・J・ベックに引き継がれ、更にその後D・H・ラッセルに引き継がれました。メッシェンドーフが撤退した時、シンシナティで大規模な配給会社を経営していたファーディナンド・ウェストハイマーが彼のインタレストを購入しており、1913年の死までに蒸溜所を完全に所有しました。その後、ウェストハイマー社は蒸溜所をNo.1 S.M.ディスティラリーと改称し、1918年まで運営を続けました。
メッシェンドーフは当時の出版物に「若く、押しも押されぬビジネスマン。そして、成功に値する独立独行の男」と評された辣腕の実業家でした。オールド・タイムズ蒸溜所を7年間運営すると、彼はその組織を離れ、メイフラワー蒸溜所として知られるルイヴィル地域の別のプラントを買収します。こちらの施設は1880年頃にD・L・グレイヴス&カンパニーとして設立され、ブランドは「アシュトン」と「メイフラワー」でした。1882年にH・A・ティアマンSr.が工場を購入してメイフラワー蒸溜所と改名します。後続のオウナーが10年間蒸溜所を運営した後の1892年、メッシェンドーフはティアマンからプラントを買収し、単独経営者となると名称をオールド・ケンタッキー蒸溜所に変更しました。しかしティアマンはメイフラワーのブランドを保持し、自らが所有する他のプラントであるラクビー蒸溜所(RD#360)で生産したそう。1900年、メッシェンドーフを社長、O・H・アーヴァインを副社長、ダン・シュレーゲルを秘書とした会社が組織されました。ルイヴィルの242トランジットに位置する蒸溜所はフレーム構造で、敷地内にはレンガまたはアイアンクラッドの3つの倉庫や牛舎があったようです(ジェファソン郡、第5区、RD#354)。オールド・ケンタッキー蒸溜所の主力ブランドはストレート・ウィスキーの「ケンタッキー・デュー」でした。その他に「チェロキー・スプリング」、「ファウンテン・スプリング」、「O・K・D」、「オールド・オーク・リッジ」、「オールド・ケンタッキー」、「オールド・ウォーターミル」、「ノーマンディ・ライ」、「オールド・ジェファソン・カウンティ」、「ウッドバリー」、「オールド・ストーニー・フォート」、「グッドウィル」、「ムーン・ライト」、「ロイヤル・ヴェルヴェット」、「デュー・ドロップス・モルト」等のブランドがあったと伝えられています。メッシェンドーフは優れたマーケティング能力を発揮して、サルーンのようなお得意様のために、カラフルな看板、ショットグラスなどの形で、ケンタッキー・デューやその他のブランドの一連の景品を作りました。彼はルイヴィルの有名なウィスキー・ロウに営業所も構えています。
2023-06-13-15-16-33-587
一方でメッシェンドーフは他のウィスキー事業への投資も行っていました。1891年にはルイヴィルのディキシー・ハイウェイにあるプレジャー・リッジ・パーク蒸溜所のインタレストを購入してヴァイス・プレジデントに就任したり、1904年には有名なメドリー家の一員と共にデイヴィス・カウンティ蒸溜所を買収して共同所有権を取得しました(経営はジョージ・E・メドリーが当たった)。また、ケンタッキー州ジェファソン郡のエミネンス蒸溜所にも財政的な関心を寄せていたとか。更にメッシェンドーフは他のケンタッキーのウィスキー・バロンと同じようにサラブレッドにも関心があり、ルイヴィル近郊にワルデック・スタッド・ファームを所有していたと言います。またプライヴェート面では、41歳の時に11歳年下でアイルランド系ネイティヴ・ケンタッキアンのクララという女性と結婚しました。メッシェンドーフの成功は彼に繁栄をもたらし、1900年代初頭、近くのオールダム郡に家を購入。この郡は今でもケンタッキー州では第1位、全米でも第48位の裕福な郡に数えられ、ルイヴィルの富裕なビジネスマンなどの住居として人気があります。1910年の国勢調査では、メッシェンドーフは妻クララと二人のアフリカ系アメリカ人の使用人と共にそこに住んでおり、彼の職業欄にはシンプルに「ディスティラー」とだけ記されていたそうです。
蒸溜者として良質なウィスキーを製造する方法を知っていると云ういう評判を全国的に高めたメッシェンドーフは、ルイヴィルの情報通からは「この街のウィスキー商の中で最高の一人」と呼ばれました。それこそ彼が1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトに関連してセオドア・ルーズヴェルト大統領との会談に呼ばれた理由なのでしょう。当時アメリカ国内に蔓延していたウィスキーへの不純物混入を嫌悪するケンタッキーの蒸溜業者らと同様にメッシェンドーフもこの法律を支持しましたが、ブレンデッド・ウィスキーが「ウィスキー」の名に値するか、ストレート・ウィスキーのみが「ウィスキー」の名に値するか、という悩ましい問題については違ったようです。カーネル・E・H・テイラーのような業界の重鎮は後者を強く主張しましたが、おそらくブレンデッド・ウィスキーでも利益を上げていたメッシェンドーフは前者を主張した、と。ルーズヴェルト政権ではこの問題が解決されなかったため、タフト大統領による新たな委員会が設置され、再びメッシェンドーフはワシントンに呼び出されました。最終的にタフト大統領はブレンデッド製品もストレート・バーボンと同様にウィスキーであるとの決定に至ります。メッシェンドーフの公聴会での証言が、どこまでタフト大統領の決断に影響しているのかよく分かりません。禁酒法以前のウィスキーについて大量の寄稿をしているジャック・サリヴァン氏は「ディートリック・メッシェンドーフが"ウィスキー"の意味について証言したことが、特にタフト大統領の目に留まり、この言葉の使用に関する決定、つまり今日まで続いている定義に繋がったのではないかと推測したい」と述べています。少なくとも、ストレート・ウィスキーだけがウィスキーの称号に値すると考えるテイラーのような人物の激しい反対を押し切って、メッシェンドーフは自社のブレンデッド製品がウィスキーとしての地位を維持するのに成功したように見えます。
ワシントンから戻って間もなくの1911年春、メッシェンドーフの健康状態は悪化しました。彼はケンタッキーよりも南テキサスの気候の方が自分に合っていると判断してそちらへ向かい、1911年11月11日にサン・アントニオで亡くなりました。享年53歳でした。遺体はルイヴィルに戻され、葬儀は義兄の家で行われ、家族と親しい友人だけが参列したと言います。オールド・ケンタッキー蒸溜所は、彼の死後、部下が経営を引き継ぎ、アーヴァインとシュレーゲルがそれぞれ昇格し、ジョセフ・J・サスが加わって禁酒法により閉鎖されるまで運営されました。1912年から1920年までの役員は、アーヴァインが社長、シュレーゲルが副社長、秘書兼会計がサスとされています。1923年のプロヒビションの際、ルイヴィルの蒸溜所から既存のストックが撤去され、全ての倉庫は取り壊されました。閉鎖から2年後の1925年に起こった火災により蒸溜所の建物は大きな被害を受けましたが、レンガ造りで被害のなかった部分はジョージ・ハウエルにより乗馬学校として数年は使用されたとのこと。メッシェンドーフが建てた立派なレンガ造りのボトリング・ハウスは、禁酒法期間中には使用されず、禁酒法廃止後にカーネル・J・J・サスがこの土地を管理していたようで、シャイヴリー近郊に新しい工場が完成するのを待って、1933年に改装が行われ設備が一新されました。1940年、サス家は新しい蒸溜所をブラウン・フォーマン・ディスティラーズ社に売却し、彼らは名前をアーリータイムズに改めました。元の敷地に残されていた建造物は、1960年に州間高速道路建設のために全て平らにされたそうです。
2023-05-24-14-56-30-425
(オールド・ケンタッキー蒸溜所で使われた様々なDBA名)

*****多くの情報源では、トム・メドリーが1940年に亡くなった後、彼の息子達(特に長男のワセン)がフライシュマンズ・ディスティリング・カンパニーに売却したとされていますが、ここではマイク・ヴィーチの記述を参考にしています。もしかするとヴィーチはクロールの『ブルーグラス、ベルズ・アンド・バーボン』の記述をもとに書いたのかも知れない。クロールの本は蒸溜所のマーケティング部門から多くの情報を得ていたことで、一部の物語は歴史よりも伝説に基づいている欠点が指摘されています。

******ヴィーチは、グレンモアは1985年にシャイヴリーの蒸溜所を閉鎖した、と書いています。当時は熟成バレルが有り余っていたのでしょう。ところが1991年になると、グレンモアはウィスキーの在庫の減少に直面しました。彼らはシャイヴリーのイエローストーン蒸溜所とオーウェンズボロのメドリー蒸溜所のどちらを再開するか決める必要に迫られました。しかし、彼らはウィスキーの製造を再開することはなく、代わりに会社をユナイテッド・ディスティラーズに売却した、と。これが真実なら、チャールズはグレンモアの下では蒸溜していないことになります。
ところで、日本のバーボン・ファンにはお馴染みの本である2000年発行の『バーボン最新カタログ』(永岡書店)のエズラ・ブルックスの紹介ページには、バレルヘッドにグレンモア・ディスティラリーズDSP-KY-24とステンシルされたバレルの写真が載っており、その下には「旧グレンモア社時代の’91年12月に樽詰の原酒が眠っている」と説明書きがあります。バレルには「FILLED」の文字はないものの「91-L-26A」の略号が見られ、確かに91年12月26日にでも樽詰めされたのかなという気がします。私にはユナイテッドがグレンモアを買収したのが何月何日か判らないのですが、この日付は91年のほぼ終わり頃ですから、ユナイテッドがグレンモアを買収した後の可能性は高いように思われます。と言うことは、ユナイテッドはチャールズに命じて、一時的にグレンモアで蒸溜を再開していたのでしょうか? いや、でもどうせチャールズに蒸溜させるなら、使い慣れたメドリー蒸溜所の方がいい気もするし、そもそも長年休止していたグレンモアを稼働させるより、最近まで稼働していたメドリーを再稼働させるほうが簡単なのでは? この憶測が正しいとするなら、メドリー蒸溜所でチャールズが蒸溜したバレルをグレンモアに移動し、そのバレルにグレンモアで製造されたかのようなDSPナンバーを施したことになりませんか? これは一体どういうことなんでしょう? 誰か、ここら辺の仔細をご存じの方はコメントよりご教示下さい。

*******ここでは「Zelotes」を「ゼロティス」と表記しておきましたが、もしかすると発音は「ゼローツ」の方が近いかも知れません。私にはよく分からなかったので、ご存じの方はコメントよりご指摘下さい。

2023-05-01-21-20-57-936
2023-05-01-21-21-42-757

バーFIVEさんでの二杯目の注文はオールド・フォレスター・パーソナライズドにしました。ブラウン=フォーマンの旗艦ブランドであるオールド・フォレスターのこの独特なボトルは、同社の特別生産品で、1930年代後半頃から主にプロモーション販売に使われ、後に同社から直接通販できる特定の個人に向けたギフトボトルとして使用されていたそう。トップ画像のラベルで見られるような「Especially for」、または「For the Personal Use of」等の文言の下部にその個人名が入ります。私が飲んだこのボトルでは、ラベルの経年劣化で消えてしまったのか、或いは元々自分で書き込むように空欄だったのか判りませんが、とにかく個人名は見えません。オールド・フォレスター・パーソナライズドを画像検索で見てみると、比較的長期間(30年代後半〜50年代?)に渡って販売されていたためか、微妙にラベルデザインが異なっていたり、様々な箱に入っていました。中身に関しても多くのエイジングがあり、初期と思しき1938年ボトリングの1クォート規格の物には22年や24年熟成(つまり禁酒法前の蒸溜物)があったり、1940年代の4/5クォート・ボトルでは基本5〜6年熟成と思われますが蒸溜プラントはRD#414の場合もあればRD#354の場合もあったりします。また、何ならオールド・フォレスター・パーソナライズドと同じボトルデザインでラブロー&グラハム名義の物もありました。
参考1
参考2
参考3
参考4
これらパーソナライズド・ラベルのボトルは、画像で確認する限りどれもボトルド・イン・ボンド・バーボンとして製造されたのではないかと思います。品質に関しては、シングルバレルかスモールバッチか定かではありませんが、おそらく相当に良質なバレルを選んでいるのではないかと予想します。ブラウン=フォーマンには特別なバーボンと言うと、パーソナライズドの他に「プレジデンツ・チョイス」があります。オールド・フォレスターの創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンが当時のケンタッキー州知事のために選び特別にボトリングした1890年に始まる伝統を、ジョージ・ガーヴィン・ブラウン2世が1960年代にやや一般化し、特別な顧客のために蒸溜所の最も優れたハニー・バレルを探すプログラムがプレジデンツ・チョイスでした。正式には「プレジデンツ・チョイス・フォー・ディスティングイッシュト・ジェントルマン(卓越した紳士のための社長選定)」という名前で、トール瓶の物はシングルバレルでバレルプルーフまたは20バレル前後のスモールバッチで90.3プルーフにてボトリングされています。これはまだ業界にシングルバレルやスモールバッチというマーケティング用語が定着する数十年も前の話でした。
参考5
参考6
参考7
で、このプレジデンツ・チョイスにはイタリア向けとされるパーソナライズドとボトルの形状が同じ物(色はクリア)もありましたし、なんとなく時期的にもパーソナライズドとプレジデンツ・チョイスが入れ替わりで販売されているように思えなくもないので、両者のコンセプトの差は社長自ら選んだかブレンダーが選んだかの違いくらいしかなく、パーソナライズドに使用されたバレルも蒸溜所の最高峰のバレルが選ばれているのではないか、というのが私の個人的な推測です。何故こんな根も葉もないことを言い出したかというと、それは今回飲んだこのボトルが余りにも美味し過ぎたから。まあ、他のパーソナライズドのボトルを飲んだことはないので、これは何とも心許ない憶測に過ぎません。それと、写真から分かるようにこのボトルは裏ラベルがなく、どこで製造されたかは不明です。普通に考えるとRD#414かなとは思うのですが…。ちなみに、ブラウン=フォーマンの統括的マスター・ディスティラーであるクリス・モリスによると、オールド・フォレスターのお馴染みのマッシュ・レシピは一度も変更されていないそうです。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

FotoGrid_20230501_211453714
OLD FORESTER PERSONALIZED LABEL BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定50年代ボトリング(ストリップの印字がうっすらと57に見えるが不明瞭のため)。非常に濃いブラウン。全体的にセージやユーカリのような爽やかなハーブがリッチに薫るお化けバーボン。以前飲んだことのある5、60年代のオールドフォレスター(#414)とは全く異なるキャラクターでした。アロマは植物っぽい香りで、時間をおくと濃密なキャラメル香も。味わいはスイートでありながら単調ではなく複雑で深みを帯びています。フルーツは強いて言うとアップル。苦いハーブのタッチも僅かにありますが、癖のあるスパイスは現れません。そして途轍もなく長い余韻。グラスの残り香もハービー。
Rating:96.5/100

2022-08-27-09-28-18-288
2022-08-27-09-30-53-072

周知のようにバッファロー・トレース蒸溜所は毎年アンティーク・コレクション(BTAC)をリリースし、その発売はアメリカン・ウィスキーの一途な愛好家から飲み始めたばかりの初心者、そして転売ヤーまでこぞって待ち望むイベントです。現在のBTACはサゼラック18年、ジョージTスタッグ、イーグルレア17年、ウィリアム・ラルー・ウェラー 、トーマスHハンディ・ライで構成され、しばしばアメリカン・ウィスキーの頂点として扱われています。サゼラック・ライ18年は、2000年からリリースされ始めたBTACの最初の三つのうちの一つでした(他の二つはイーグルレア17年とW.L.ウェラー19年)。その名前は、1850年にルイジアナ州ニューオリンズのエクスチェインジ・アレーに誕生したコーヒーハウスを有名にした伝説のカクテル、及びトーマス・H・ハンディによって設立されたサゼラック・カンパニー(バッファロー・トレース蒸溜所の現親会社)に由来しています。「アメリカ最初のカクテル」とも「ニューオリンズのオフィシャル・カクテル」とも呼ばれるカクテルの歴史については過去に投稿したこちらで取り上げていますので、興味があれば参考にして下さい。

サゼラック18年はスタンダードのサゼラック・ライと同じ90プルーフでのボトリングとなっており、現在のBTACの中で最も低いプルーフではありますが(※イーグルレア17年は従来90プルーフだったが2018年から101プルーフに変更された)、同蒸溜所から定期的にリリースされている最もオールダーなライ・ウィスキーです。W.L.ウェラー19年がスティッツェル=ウェラーの原酒を使っていたのと同じように、サゼラック・ライ18年は2015年のリリースまでバッファロー・トレース蒸溜所の蒸溜物ではない原酒を使用して作成されていたかも知れません。その出処は旧バームハイム蒸溜所のクリーム・オブ・ケンタッキー・ライもしくはメドレー・ライが有力視されています。またはヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライのようにそれらを混ぜていたのかも知れないという憶測もあったりします。サゼラック社の社長マーク・ブラウンが2003年頃に語ったところによると、サゼラック・ライ18は1981年などにクリーム・ オブ・ケンタッキーとして造られたストレート・ライ・ウィスキーのバッチの一部で、バッファロー・トレースの在庫目録から完全に失われてしまっていたが、バレルの在庫を全面的に見直し、精査して漸く発見された、とのこと。クリーム・オブ・ケンタッキー・ライを当時のエンシェント・エイジ蒸溜所が造り、そしてそのバレルのみを使用していたのであればバッファロー・トレース蒸溜所産と言ってもいいでしょうが、詳細は不明瞭です。もしかすると、サゼラック18年の最初期の数年間だけエンシェント・エイジ産、その後にバーンハイム産に切り替わったというような可能性もあるのかも(下記のリスト参照)。皆さんはどう思われます? コメントよりご意見どしどしお寄せ下さい。
クリーム・オブ・ケンタッキーというブランドは、長年に渡ってシェンリー社が所有し、決して同社の旗艦ブランドではありませんでしたが、それなりに支持されていました。しかし、1960〜70年代に掛けてのウィスキー販売減少の犠牲となり、1980年代にこのブランドは廃止されました。バーボンがメインと思われますが、シェンリーはブランドのためにライ・ウィスキーも製造していました。シェンリーがメインで使用していたDSP-KY-1のプラント・ナンバーを持つオールド・バーンハイム蒸溜所のライはクリーム・オブ・ケンタッキー・ライとして親しまれ、非常に限定的なリリースで、製造したライの殆どは様々なブレンドに使われました。ライはブレンド用であってもシェンリーはバレルを「ストレート・ライ・ウィスキー」として扱い、ボトリングまで混合やヴァッティングをしなかったとされています。クリーム・オブ・ケンタッキーは他の傘下の蒸溜所であるエンシェント・エイジでも造られ、アメリカン・ウィスキーの販売減少にも拘らず生産を減らさなかった時期があり、その結果、1990年代のバーンハイムの巨大な倉庫にはクリーム・オブ・ケンタッキーのブランド用に造られたウィスキーのバレルが多く残ってしまいました。当時シェンリーを吸収していたユナイテッド・ディスティラーズは、それらのうちバーボンをオールド・チャーターやI.W.ハーパーに使用しましたが、ライ・ウィスキーはバルク市場にて販売することにしました。その当時はまだライ・ウィスキーのリヴァイヴァルには程遠く、ライに目を向ける人は一握りでした。その一人であったジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は自身の13年物のライ・ウィスキー用にメドレー・ライと共にクリーム・オブ・ケンタッキー・ライの多くを購入しました。ジュリアンが選ばなかった他のバレルはKBDのエヴァン・クルスヴィーンに売却され、後年、ウィレット・ファミリー・エステートや他のプライヴェート・ラベルのためにボトリングしたライ・ウィスキーの重要な支えとなりました。彼らのライが現在では伝説的な名声を得ているのは歴史の知るところです。

2005年、バッファロー・トレースは残りのウィスキーの熟成が完璧であると判断したか、或いはこれ以上熟成が進んでオーヴァーオークになるリスクを回避するため、サゼラック18年用のバレル全てを13500ガロンの巨大なステンレス・スティール・タンクに入れ保管するようにしました。ステンレス・タンクでの保存は、なるべくウィスキーを変化させないようにするのに適した伝統的な方法です。有名なところではペンシルヴェニア1974原酒のA.H.ハーシュ16年がこれを行いました。ヘヴンヒルはこっそり隠し持っていた?貴重なスティッツェル=ウェラー原酒をタンクに保管してジョン・E・フィッツジェラルド・スペシャル・リザーヴとしてリリースしました。また、最近ではプリザヴェーション蒸溜所のヴェリー・オールド・セントニック・ロストバレル17年がその好例として挙げられるでしょう。
今回私が飲んだのは2006年のボトリングで、これが初めてリリースされた「タンクド」サゼラック18年となります。2008年には各2100ガロンの3つの小さなタンクに移し替えられたそうです。以後2015年のリリースまで、1985年に蒸溜され18年間熟成された同じライ・ウィスキーをその年毎にタンクから取り出してボトリングされました。それらのウィスキーは一定のフレイヴァーを維持しましたが、異なるリリース年の飲み比べをした方によると、若干の違いが感じられるようです。それはおそらく、タンク内の空気のレヴェルは常にコントロールされている訳ではないので、微妙な酸化によるものだろうと推察されています。また、ウィスキーを移動する際に空気が混和し味を変化させたのではないかとも。

2015年を最後にタンク入りのサゼラック18は底を尽き、2016年からはバッファロー・トレース蒸溜所で蒸溜したジュースに切り替わりました。BTのライ・マッシュビルは非公開ですが、概ねライ51%、コーン39%、モルテッドバーリー10%ではなかろうかと予想されています。海外のレヴューを参考にすると、BTジュースは伝説のタンクド・ウィスキーに比べるとだいぶ評価が落ちますが、年々良くはなって行ったようです。以下にサゼラック18年のリリースをリスティングしておきます。左から順にリリース年、蒸溜年、熟成年数 、ボトリング・プルーフ、熟成されていた倉庫、選ばれたバレルが置かれていたフロアー、熟成中の蒸発率、使用されたバレルの数、その他の事項となります。


Sazerac 18 Year Old Straight Rye Whiskey 
Spring of 2000|Spring of 1981|18 years|90 proof|Warehouse Q|N/A|74%|1 barrel at a time
2001:not found
Fall of 2002|Spring of 1984|18 years|90 proof|Warehouse Q|N/A|74%|1 barrel at a time
Fall of 2003|N/A|18 years|90 proof|Warehouse Q|N/A|74%|1 barrel at a time
Fall of 2004|Spring of 1984|20 years|90 proof|Warehouse K|N/A|68.47%|25 barrels
Fall of 2005|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|67.73%|28 barrels
Fall of 2006|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|67.73%|28 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2007|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|51.94%|28 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2008|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|54.08%|28 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2009|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|56.13%|28 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2010|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|56.49%|28 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2011|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|57.27%|28 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2012|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|57.61%|28 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2013|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|58.21%|27 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2014|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|58.35%|26 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2015|Spring of 1985|18 years|90 proof|Warehouse K|N/A|58.48%|25 barrels|stored in stainless steel tank
Fall of 2016|Spring of 1998|18 years|90 proof|Warehouse K|2nd floor|72.1%|24 barrels
Fall of 2017|Spring of 1998|18 years|90 proof|Warehouse K|2nd floor|72.7%|25 barrels
Fall of 2018|Spring of 1998|18 years|90 proof|Warehouse K|2nd floor|72.7%|24 Barrels
Fall of 2019|Spring of 2001|18 years, 4 months|90 proof|Warehouse L & K|2nd floor|83.5%|N/A
Fall of 2020|Spring of 2002|18 years, 4 months|90 proof|Warehouse K|3rd floor|76.9%|N/A
Fall of 2021|Spring of 2003|18 years, 6 months|90 proof|Warehouse K & P|2nd & 4th floors|69%|N/A


これらはバッファロー・トレース蒸溜所の公式ホームページで見れるファクトシートからデータを採りましたが、何故か2001年の物だけ欠落していました。ところで、リスティングしていて気づいたのですが、2016〜18年のウィスキーは同じ物っぽく見えるので、もしかするとこれもタンクに入れて保管していたのを小分けに瓶詰めしたのですかね? 詳細ご存知の方はコメントよりご教示下さい。では、最後に飲んだ感想を少々。

2022-08-27-09-33-53-075
Sazerac 18 Year Old Straight Rye Whiskey 90 Proof
Bottled Fall 2006
甘く、ややフローラルなアロマ。味わいはダークなフルーツ感のベースにけっこう土っぽさがあり、飲めばすぐにライだなあと思えました。バターぽい余韻も良く、官能的で複雑なフレイヴァーです。或る人の表現を借りれば、エロい味と言うのでしょうか。短熟でも比較的美味しいライ・ウィスキーですが、これは長熟ライの良さが存分に感じられます。旨っ。この度のバー遠征を〆るのに選んで正解でした。
Rating:92/100

↑このページのトップヘ