タグ:バー飲み

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先日、Kazue Asaiさんの個展が開催されている「お酒の美術館」中野店へ行ってきました。只今絶賛開催中な訳ですが、早くも行った方々はだいたい写真付きで各種SNSにて紹介されています。そこで私も、距離的時間的に行きづらい人もいるかと思いますので、こちらでイラストの紹介をしておきます。お店については以前に投稿したこちらを参照下さい。

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これらのうち何点かは既に売約済みとなっています。欲しいものがある方はなるべく早めに行って即断することをオススメします。個人的にはアーリータイムズやオールドクロウのガールなんかイチ推し。

私が行ったのが平日でないこともあったでしょうか、或いは営業時間短縮の都合で人の出入りが集約したのか、お店は思っていた以上に大盛況でした。オープンからひっきりなしにお客さんが来店して、時間帯によってはお店に入れず「待ち」の人もいるほど。駅近の繁華街ど真ん中、しかも提供価格が安価、そこに来てアーティストさん目当ての方も来るとあっては当然なのかも知れませんね。

今回、私はkazueさんご本人に同行してもらっています。そのお陰で、彼女のお祝いに駆けつけた、私個人では普段出会うことのない作家さんたちお三方と同席することにもなり、刺激的なお話しや楽しい会話を聴くことが出来ました。出会った皆さん、そしてKazueさん、ありがとうございました!

そう言えば、Kazueさんが完成したイラストを手渡しているところや、新たに似顔絵イラスト作成の依頼をされている現場を直に目の当たりにしたりもしました。お酒の美術館にちなんで、そこに飾られているような人とお酒のイラスト、具体的には依頼者本人(もしくは写真があれば他人でも可)と指定の銘柄のお酒(好きなお酒、例えばアードベッグでも山崎でも)を描いてもらえるのです。誕生日プレゼントにするという方もいました。いくつか拝見させてもらいましたが、完全にKazueさんのタッチでありながらちゃんとご本人の特徴をよく捉えたイラストになっており、これは買って嬉しいもらって嬉しいイラストだと思います。とてつもなく薄いハイボールを飲んでいる方を見かけたら、それがKazueさん本人かも知れません(作家が自らの個展に在廊するように、開催期間中はKazueさんもよくお店に出没します)。もしお店に行かれることがあり、Kazueさんを見かけたら、貴方もイラストを依頼してみるのも一興ではないでしょうか?

さて、言うまでもなくここはバーでもありますから当然お酒を注文します。私としても何かしらオールドバーボンを飲むことは目的の一つでもありました。しかし、実は当日の私は湿気にやられたのか体調が思わしくなく、残念ながら結果的に一杯しか飲めませんでした。始まりの一杯が終わりの一杯となったのです…。あとはジンジャーエールだけ飲みました。軽いものから始めようと思い選んだのは、トップ画像で分かる通りビームズ・チョイス。では、飲んだ感想を少しばかり。

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BEAM'S CHOICE Green Label 86 Proof
店員さんによると88年ボトリングとのこと。ネックに「ウイスキー特級」の表記がありますね。ラベルに「8」とありますが、「Year」はないのでNAS扱いとなります。おそらく、この頃の物は熟成年数は5年くらいなのではないでしょうか。先ず、現行ビームの特徴とされるピーナッツ(またはダンボール風味)は全く感じません。また、現在自宅で開けている90年代のブラックラベル8年と比較してもかなり異なり、熟成年数の違いにもかかわらず、こちらの方がメロウかつ濃いダークフルーツを感じました。あまり酸味もなく、好ましい要素ばかりで、86プルーフにしてはフレイヴァーも強い。ここら辺に、特級表記に拘るウィスキー通の方や、或いは88年〜92年あたりのバーボンを至高と考えるマニアの方の、好ましいと感じる点がわかり易く現れているのかも知れません。状態も良かったのだと思います。これはオススメ。
Rating:86/100

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ラン・フォー・ザ・ローゼズ・サラブレッド・バーボンは、その名とラベルの見た目通りケンタッキーに縁の深い競馬や馬をモチーフにしたバーボンです。

ケンタッキー州はバーボンのみならずサラブレッドが育つ土地としても知られ、ルイヴィルにあるチャーチル・ダウンズ競馬場で行われるケンタッキー・ダービーは夙に有名。1875年に始まったケンタッキー・ダービーはアメリカに於いて最も歴史のあるスポーツ・イヴェントの一つであり、世界大恐慌および二度の世界大戦時も中断されませんでした。競馬の最高峰なのは言うまでもなく、その競走時間から「スポーツの中で最も偉大な2分間」と形容されます。生粋の競馬ファン以外への知名度も非常に高く、華やかな帽子を被り、ミント・ジュレップを飲みながら、観客同士が一緒に「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」を歌うという伝統は、単なるスポーツ・イヴェントの枠を超え、サザン・カルチャーの祝典として、またアメリカ文化の象徴として発展して来た歴史があります。そして優勝馬には400本以上の赤い薔薇を縫い合わせて作ったレイ(ブランケット)が掛けられることから「Run for the Roses(薔薇のために走れ)」の別称が与えられているのです。この伝統は1932年に勝利馬バーグー・キングに赤い薔薇のレイが贈られたことから始まりしたが、バラがケンタッキー・ダービーと関連付けられたのは1896年にベン・ブラッシュに白とピンクのバラのアレンジメントが贈呈されたことがきっかけだったとか。その後、1904年に赤いバラがケンタッキー・ダービーの公式の生花となります。「ラン・フォー・ザ・ローゼズ」という言葉は、後年、チャーチル・ダウンズの有名な支配人マット・ウィンの死後にプレジデントとなったスポーツ・コラムニストのビル・コラム(Bill Corum)によって1925年に初めてそう表現されました。

ちなみにバーボンとは関係がないですが、1970年代後半から1980年代前半にかけて人気を博したシンガー・ソングライター、ダン・フォーゲルバーグ(1951~2007)の1981年に発表された自身最大のヒット・アルバム『イノセント・エイジ(The Innocent Age)』 に「Run for the Roses」という曲が収録されています。シングルカットもされた代表曲の一つで、どこか郷愁を誘うような曲調と素朴なメロディ、ダンの優しげなヴォーカル、そして人間が馬へと語りかける形式で進む歌詞が肝の美しい曲です。興味があれば是非、聴いてみて下さい。


さて、我々バーボン・ファンにとって肝心な中身に関してなのですが、ラン・フォー・ザ・ローゼズはイマイチ詳細の分からない謎のバーボンです。先ず、ブランドを所有する会社が一切分からない。ただし、ボトリングはKBDであろうと思われます。裏ラベルの会社名はサラブレッド・ディスティリング・カンパニーとなっていますが、これはトレーディング・ネームであり、ジムビームからリリースされるノブ・クリークのラベルにノブ・クリーク・ディスティラリーと書かれるようなもので、架空の社名(所謂DBA)なのは明らか。会社の所在地表記はレキシントンとなっています。
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レキシントンはサラブレッドの聖地なので、このバーボンに相応しい所在地ではありますが、当時そこにバーボンをメインで扱うNDPの会社があったという話は聞いたことがなく、おそらくこのバーボンは何かの企画?で海外向け(日本とヨーロッパ)に作成されたブランドではないかというのが私の推測です。ウェブ検索で見つかるネット記事の投稿日時から推測すると、おそらく2005〜2010年くらいに流通していたと思われます。継続的なリリースだったのか単発のリリースだったのかは判りません。少なくとも生産量はそれほど多くないのは間違いないと思います。ヴァリエーションには8年86プルーフ、12年86プルーフ、16年86プルーフ、16年101プルーフがネット検索で見つかりました。このうち「16年101プルーフ」はラベルのプルーフ表示に訂正のシールが貼られています。ラベル自体は86プルーフのヴァージョンしか作っていないことが窺われるでしょう。この101プルーフ版は日本では見たことがなく、ネットで見かけたのもヨーロッパのウェブサイト、そこから多分ヨーロッパのみの流通かと。
ところで、表ラベルをよく見ると「ストレート」の表記がありません。このストレート表記のないパターンはアライド・ロマーのためにKBDがボトリングするバーボンによく見られました。レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストやジャズ・クラブやコック・オブ・ザ・ウォークなどです。一説にはこのパターンは複数の蒸留所の原酒をブレンドする製法ではないかとされ、もしかするとラン・フォー・ザ・ローゼズもそうなのかも…と思ったら裏ラベルには「ストレート」とありますね。まあ、中身のジュースに関してはよく分からないってことです。では、最後に飲んだ感想を少し。

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Run for the Roses Thoroughbred Bourbon Aged 16 Years 86 Proof
香りはダークチョコレートやタバコの複雑さがあり悪くないのですが、味わいはウッディで、全体的にビターな印象。特に余韻には長期の樽熟成や長年ボトルに容れられ放置されていたバーボンに出やすいメディシナル・ファンクが過剰に感じられて私の好みではなかったです。頂いたのが残り数杯分の液量の物だったので、多少の酸化はあったかも知れませんが。
Rating:81.5

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今回紹介するバーは新小岩の知る人ぞ知るフストカーレン。駅の南口から6〜10分程度歩いたところにあり、派手な看板はなくひっそりと佇んでいます。97、8年頃からこの場所で営業しているらしく、かつては住所/電話番号非公開だったこともあり、文字通り「伝説のバー」と呼ばれ、マスターとその品揃えは多くのファンを魅了し同業のバーテンダーも通った名店で、2016年に先代の目黒氏から弟子の白石氏に引き継がれました。

私は先代マスターの時代に行ったことはありませんが、おそらく現在のほうがバーボンは充実しているようです。90年代を中心として、80年代後半から2000年代の今では希少なオールドボトルがずらり。特にブラントンズの年代別のストックの数はおそらく日本一ではないかと思えるほど。ヘヴンヒルやワイルドターキーもなかなか豊富。現行品はリミテッド・リリースのちょっと拘ったバーでないと見かけられないバーボンを置いてます。そう、現マスターはバーボンに人並みならぬ愛があるのです。それ故、我々にとっては準バーボン・バーと謂える存在。マスターに自分がバーボン好きなのを告げると、私には高くて購入する気にならなかった貴重な「Evan Williams」の本(写真集?)を見せて頂けました。

バーボン以外では、本数はモルトの方が多いと思われますし、その他のスピリッツやリキュール、旬のフルーツを贅沢に使用したカクテルなどがあります。なのでウィスキー沼にハマったマニアにも、そうでない女性の方などにもオススメ。店内の照明はその日の天候などで微調整するそうで(私が行った日は暗め?)、雰囲気もバツグンです。時々提供されるチャームは多分その時ある旬のフルーツやチョコや生ハムなど拘りの食材。マスターの話術もあり、あっという間に帰る時間になってしまいました。既に現マスターの「自分の色」は出ていますね。

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(画像提供AKR様)

Bar Fust Carlent
東京都葛飾区新小岩4-13-6 水村コーポ1F
03-5607-3484
営業時間 19:00~
水曜定休日

フェイスブック
https://m.facebook.com/pages/%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3/308199912524189?locale=ja_JP

インスタグラム
https://instagram.com/fustcarlent?igshid=1akwow515nouf

食べログ
https://s.tabelog.com/tokyo/A1312/A131204/13039850/top_amp/

「男の隠れ家」紹介記事
https://otokonokakurega.com/meet/bar/14421/

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レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェスト・ヒストリック・バーボンはカリフォルニア州バーリンゲイムにオフィスを置くアライド・ロマー/インターナショナル・ビヴァレッジのブランドで、おそらく80年代後半もしくは90年代初頭に日本市場向けに発売されました。その流通量の少なさからすると一回限りの販売か、または継続的(或いは断続的)にリリースされていたとしても極端に小さいバッチでのボトリングかと思われます。レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストの名の通り、ラベルには西部開拓史を彩った象徴的なヒーロー達の肖像が使われています。画像検索で把握できる限り、ラベルの人物にはキット・カーソン、ジェネラル・カスター、ダニエル・ブーン、デイヴィ・クロケット、ワイアット・アープ、ドク・ホリデイ、ルイス&クラーク、ジェロニモ、エイブ・リンカーン、ジョージ・ワシントン、バッファロー・ビルなどの種類があるように見えました。間違っていたらすみません。あともう一人いると1ケース12ボトルでちょうどピッタリだと思うのですが、誰なのでしょう? どうしても画像検索に出て来なくて…。ご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。それは偖て措き、こうした同じブランドの名の元に異なる人物の写真を使用するコレクターズ・シリーズ物はアライド・ロマーの得意技?であり、レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストと同時代の荒くれ者やお尋ね者を揃えた「アウトロー」を筆頭に、名前そのままにギャングやマフィアをフィーチャーした「ギャングスター」、黒人ミュージシャンを取り上げた「ジャズクラブ」や「ブルースクラブ」、他にも「R&B」や「ロックンロール」や「USAベースボール」などがありました。これらのブランドの中身の品質は様々でしたが、レジェンズとアウトローとジャズクラブの長期熟成物が頭一つ抜け出たプレミアム製品だったように思います。

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(画像提供Bar FIVE様)

さて、そんなレジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストには12年熟成96プルーフと15年熟成114プルーフのヴァリエーションがありました。ボトリングはKBDが行っています。日本語でレジェンズを検索した時に出てくる情報ではヘヴンヒル原酒と言い切られている場合もありますが、基本的にKBDは秘密主義なので中身のジュースについての詳細は一般に明かされていません。一説には複数の蒸留所の原酒をブレンドする製法で造られているとされています。どこかで旧ウィレット原酒とヘヴンヒル原酒のミックスと見かけたような気もするのですがうろ覚えです…。レジェンズの発売年代が80年代後半か90年代初頭で正しいのならば、熟成年数をマイナスするとまだ旧ウィレット蒸留所が稼働していた時期に当たるので、その可能性は無きにしも非ずでしょう。何処の蒸留所の原酒であれ、KBDのストックをエヴァン・クルスヴィーンが選んでバッチングしたのは間違いないと思います。
ところで、日本人にとっては超熟バーボンの母とも言えそうな存在である伝説のエクスポーター、アライド・ロマーの社長マーシィ・パラテラがどこまで関与しているのか気になるところですよね。彼女もバレルを選んでいたのか? それともエヴァンが選び造り上げたものを単に購入しただけなのか? 或いは両者の共同作業なのか? まあ、少なくとも試飲はしてるでしょうし、プロデューサーとして最終的な決定はしてる筈。何れにせよ日本人の感覚や興味に沿ったブランドを数多く作成したマーシィには拍手しかありません。レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストやアウトローは、西部劇やアーリーアメリカン・カルチャーの好きな人には堪らない魅力のあるラベルです。日本人のアメリカへの憧れをダイレクトに刺激してくれます。
ではでは、ここらで飲んだ感想になるのですが…。

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LEGENDS OF THE WILD WEST HISTORIC BOURBON 15 Years Old 114 Proof
実はこれ、今回のバー遠征の最後の一杯でした。お酒に弱い私にとってバレルプルーフは少々キツいので最後に残しておいて注文したのですが、正直すでにかなり酔っており、味がよく分からなかったのです(笑)。しかし、度数の割にスムーズなのは分りました。まろやか系な印象。あと、けっこう渋みも感じました。何となくスティッツェル=ウェラーに近い味わいに思ったのですが、皆さんはどう思うでしょうか? 飲んだことのある方はどしどしコメントお寄せ下さい。
Rating:88/100


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(ジョージ・アームストロング・カスター。彼の評価はアメリカ白人の英雄とも汚点とも扱われた。しかし、彼の写真が使われたラベルのバーボンの評価は絶対的に賛美される。)

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オールド・グロームスは日本のバーボン好きには比較的知られていますが、本国アメリカでは一部のマニアを除いて殆どの人が知らない銘柄です。その理由はオールド・グロームスのラベルが日本市場向けなのと、生産量が少ないからだと思われます。そして、それを造っているのがNDP(非蒸留業者)なのは確かなのですが、原酒の調達先については、諸説あったり、製造年代による変遷があると見られ、また一部は別ソースの可能性もありそうで、あまり明らかではありません(*)。そんな謎のブランドにあって唯一そのソースが明確なのが、このオールド・グロームス・ヴェリー・ヴェリー・レア16年。
殆どのオールド・グロームスはラベルに「イリノイ州シカゴ」とありますが、このオールド・グロームス16年だけ「ケンタッキー州ローレンスバーグ」とあります。これはジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のオールド・コモンウェルス蒸留所でボトリングされたことを示しており、彼自身の証言からあの有名なA.H.ハーシュ・リザーヴと同じペンシルヴェニア1974原酒が使用されたと判明しているのです。ラベルにもちゃんとに「ケンタッキー」の文字はなく、「ストレート・バーボン・ウィスキー」としか書かれていません。それにラベル・デザインも他のオールド・グロームスとは少し趣が異なり、なんと珍しくラベルには日本語の文章も綴られています。
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「珍品」とか「殿方」という言葉や文体に時代を感じさせますよね。A.H.ハーシュ・リザーヴとペンシルヴェニア1974原酒に関しては前回の投稿で紹介しましたのでそちらを参照して頂くとして、A.H.ハーシュ・リザーヴ16年とオールド・グロームス16年の中身の差はボトリング・プルーフだけだと思います。そこで、飲み比べ用に両者を同時注文した次第。一体どれほどの違いがあるのでしょうか?

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(画像提供Bar FIVE様)

Old Grommes Very Very Rare 16 YEARS OLD 101 Proof
推定1990年もしくは91年ボトリング(**)。フレイヴァーに於いて同じものを飲んでる感じはかなりあります。ですが、こちらの方がアーモンドキャラメルのような焦樽の香りが強く、パレートでもより甘みを感じ易い印象。ハーシュ・リザーヴがスパイス&ハーブが前面に来るのに対し、オールド・グロームスはキャラメルが前面に来るので、全体としてバランスが優れていると言うか整っている気がします。まあ、好みではあるでしょうが、やはりプルーフィングによる違いは大きく感じました。個人的には100プルーフ(前後)はバーボンにとって完璧なプルーフだと考えているので当然かも知れません。世界的な知名度ではA.H.ハーシュ・リザーヴ16年に劣りますが、オールド・グロームス16年はそれよりも更に美味しいバーボンだと思います。海外の方に較べてこれを飲みやすい環境にある我々日本人としては「飲まなきゃ損損」であり、「あるうちに飲んどけッ!」と切に思う…。
Rating:92/100


*後期のオールド・グロームスは日本で流通している情報ではジムビーム原酒とされており、それは8割方そうかも知れませんが、ここでは初期を含めたブランド全般に言及しています。シリーズ全体の紹介や会社の概要、ブランドの名前の由来となっているヒューバート・グロームスについては、いづれ機会があれば書くこともあるでしょう。

**瓶底の数字は88とありますが、この時期のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は少し古いボトルを使用しているという情報がある他、ペンシルヴェニア1974原酒の情報を基に考えると、この年数が妥当と思われます。


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A.H.ハーシュ16年は史上最高のバーボンとも言われるほど伝説のバーボンであり、世界的に価格の高騰している「ユニコーン」とか「聖杯」と呼ばれるバーボンの一つであり、殆ど神話の世界に属していると言っても過言ではありません。近年の平均的なオンライン価格に基づく最も高価なバーボンのリストで常に上位にあり、日本円で言うと20〜30万円の間くらい(或いはそれ以上)で取引されています。A.H.ハーシュの帯びる神秘性は興味深いことに、通常よくあるような販売会社のマーケティングを通じて付与されたのではなく、主にインターネット上の初期バーボン愛好家コミュニティを通じて生み出されました。神話の形成にはA.H.ハーシュの辿った複雑な歴史的背景も関係しています。バーボン・ライターのチャールズ・カウダリーは、一冊丸ごとハーシュ・リザーヴについての本を上梓することでそうした歴史を詳らかにし、45ドルのバーボンがどのようにして伝説となったかの物語を我々に教えました。間違いなく誇大宣伝されているバーボンの一つではありますが、それだけ人は伝説や神話が大好きなのです。

A.H.ハーシュを語るには雑多な説明をせねばならないので、一先ず、ざっくりと概略を示しましょう。A.H.ハーシュ・バーボンは1974年の春、アドルフ・ハーシュとの契約によりペンシルヴェニア州シェーファーズタウン近くのペンコ蒸留所(後のミクターズ蒸留所)で単一400樽(*)のバッチにて生産されました。このウィスキーは先代のチャールズ・エヴェレット・ビームのもとで学んだマスターディスティラーのディック・ストールがスタンダード・バーボン・レシピを使い蒸留しました。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーとされています。
1989年に蒸留所が破産に直面した時、このバーボンは既に典型的なものより遥かに長い間熟成されていました。蒸留所が倒産するまで敷地内の倉庫で眠り続け、一度も使用されることなく時を過ごしたのです。同年、バーボンは蒸留所の資産を売却する前に救出されました。ノーザン・ケンタッキーにあるコルク・アンド・ボトル(酒のセレクトショップ)のゴードン・ヒューがそれを買い上げて、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世にボトリングしてもらい、A.H.ハーシュ・リザーヴというブランドにしたのです。ヒューの計画はこのバーボンを日本市場で販売することでした。当時、日本はバーボン市場として活況を呈しており、アメリカとは正反対に超長期熟成原酒をボトリングしたバーボンはかなりのプレミアム価格で取引されていました。スコッチを基準としてウィスキーを受容した日本人は、バーボンにさほど馴染みがなかったため、スコッチのような熟成年数の12年や15年、時には20年以上の熟成期間を経たバーボンを求めたのです。A.H.ハーシュ・バーボンは発売からの20年間に渡り様々なプルーフと熟成年数でゆっくりとボトリングされて行きました。熟成年数は15〜20年でリリースされましたが、最も数の多いのは16年でした。それらは全て同一のウィスキーであり、単に異なる時期に樽やタンクから引き出されボトリングされたものです。

A.H.ハーシュ・リザーヴ・ストレート・バーボン・ウィスキーは1989年に始まりました。最初に出されたのは15年熟成の物で、1989/1990年に非常に少数ボトリングされ、その殆どが日本に送られました。最も有名な16年熟成の初めてのバッチは一年後の1991年にボトリングされ、青色の封蝋を施されているので通称「ブルー・ワックス」のハーシュと知られています。この時点で大部分のバーボンはこれ以上の熟成を止めるためにステンレス・タンクに入れられました。と同時に少量のバーボンは20年まで樽に入れられたまま熟成を続け、段階的に17年、18年、19年、20年と小分けにしてボトリングされて行きます。ヒューはブランドの所有権を維持し、自分の店で少数のボトルを販売すると共に、主に日本とヨーロッパの市場へ販売しました。ちなみに「A.H. Hirsch」の文字に筆記体を使用した初期のラベルには本物の証としてウォーターマーク(透かし)が入っています。
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(画像提供GEMOR様)

その後、プライス・インポーツのヘンリー・プライスがブランドを買収し、以前までのローレンスバーグではなくフランクフォートと記載された通称「ゴールド・フォイル」と呼ばれるA.H.ハーシュを2003年にリリースします。最も多くのボトリングが行われたのは、このゴールド・フォイル・ヴァージョンでした。当時のアメリカでの小売価格は1本約45ドルだったそうです(日本では或る時点では6500〜7500円程度だった)。2006年半ばにプライスは最後の1000ケースまで減ったと報告しました。この頃にはA.H.ハーシュの伝説は広まり彼らもそれを認識していたのか、2009年には名声あるバーボンの残りは高級な手吹きクリスタル・ボトルにリボトルされ、しかも木製のヒュミドールに入った特別なパッケージにして希望小売価格1500ドルで市場に投入されました。このセットは個別に番号が付けられたちょうど1000個の限定販売でした。これがA.H.ハーシュ・リザーヴ全体の最後のリリースです。
2011年、ヘンリー・プライスは会社とハーシュのブランドをアンカーに売却しました。これにはハーシュのヒュミドール・セットの残りの在庫も含まれています。価格が高すぎたせいなのか、当初はあまり売れ行きが芳しくなく、2013年4月の情報ではアンカーにはまだ800個のヒュミドール・セットが在庫されていることが確認されたとか。つまり在庫の20%を販売するのに4年掛かった訳です。それでも2015年頃にはアンカーの在庫は捌け、流通業者と小売業者の少数の在庫を残すのみとなりました。しかし「ユニコーン」バーボンが求められる現在では定価で購入することは叶わないでしょう。セカンダリー・マーケットも含め希望小売価格の倍が相場となっています(初期のAHHはもっと高い)。
ちなみに、一連の取引を経てプライス・インポーツはアンカー・ブリュワーズ&ディスティラーズの一部となり(**)、更に現在アンカーはホタリング&カンパニーと名称を変えました。彼らはハーシュ・ブランドを維持し、「ハーシュ・セレクション」や「ハーシュ・スモールバッチ」等の名前で色々なリリースをしていましたが、それらはここで言及している伝説の“ペンシルヴェニア1974”の「A.H.ハーシュ」ではなく、その中身は異なる調達先からのジュースです。また、2020年にはパッケージをリニューアルして、新しい「ハーシュ・セレクテッド・ウィスキーズ」というシリーズになり、その第一弾として「ハーシュ・ザ・ホライゾン」が発売されました。これはMGPソースのバーボンです。すぐ上に述べたセレクションともスモールバッチとも違うシリーズなので混同しないようにしましょう。
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ではここで、ネットで画像を確認出来たA.H.ハーシュ・リザーヴの各ボトルを以下にリストしておきます。左から、名称と熟成年数、ラベル(ハーシュ名の書体と色)、プルーフもしくはABV、封、ボトル形状、ボトリング地、その他の事項です。名称の小文字や大文字の区別やプルーフおよびアルコール度数の表記は、なるべく実際のラベルに記載された文字に従ったため、不統一になっていますがご了承下さい。また、発売年代順に列挙したかったのですが、私にはその仔細が完全には判らないため、熟成年数やラベル・デザインや瓶形状の同等性で纏めてあります。なのでリリース時期の判る方、それとこれら以外にもまだあるのをご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。

HIRSCH RESERVE 15 YEARS OLD / Van Winkle Style, Block(Red) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg / September 16, 1989
HIRSCH RESERVE 15 YEARS OLD / Van Winkle Style, Block(Red) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg / February 26, 1990
A.H. Hirsch RESERVE 15 YEARS OLD / Script(Red) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 15 YEARS OLD / Script(Blue) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
HIRSCH RESERVE 16 YEARS OLD / Van Winkle Style, Block(Red) / 47.8% Vol./95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD / Script(Blue) / 91.6 Proof / Blue Wax / Cognac / Lawrenceburg / 1991
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD / Script(Blue) / 47.8% Alc/Vol / Gold Wax / Scotch / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD / Script(Blue) / 91.6 Proof / Black Wax / Scotch / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD / Script(Blue) / 45.8% Alc/Vol / Gold Wax / Scotch / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 17 YEARS OLD / Script(Blue) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg / 1991
A.H. Hirsch RESERVE 18 YEARS OLD / Script(Blue) / 46.5% Alc/Vol / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg / November, 1992, released 37 cases(444 bottles)
A.H. Hirsch RESERVE 19 YEARS OLD / Script(Red) / 46.5% Alc/Vol / Red Wax / Cognac / Lawrenceburg / November, 1993, released 121 cases
A.H. Hirsch FINEST RESERVE 20 YEARS OLD / Script(Red) / 45.8% Alc/Vol / Red Wax / Cognac / Lawrenceburg / December, 1994 - April, 1995, released 500 cases
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old / Print / 45.8% Alc/Vol (91.6 Proof) / Dripped Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old / Print / 45.8% Alc/Vol (91.6 Proof) / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old / Print / 45.8% ALC/VOL (91.6 PROOF) / Gold Foil / Cognac / Frankfort / 2003
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old / Print / 45.5% ALC/VOL (91 proof) / ―――― / Hand-Blown Crystal / Bardstown / Humidor Edition, 2009, 1000 bottles

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少し文章で補足しておくと、ラベル項目の「Van Winkle Style」は「ヴァン・ウィンクル・セレクション」や「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」に似た様式のラベルを指し、「script」は「A.H. Hirsch」の文字が筆記体で書かれた初期ラベルを指し、「print」は後期に定着した高級感の劣るラベルを指しています。ボトル項目の「Cognac」はなで肩シェイプのやや背の高いボトルを指し、「Scotch」はネック部分にやや膨らみがあり少しでっぷりしたボトルを指しています。
そして、A.H. ハーシュ名義以外でのペンシルヴェニア1974原酒を使ったボトリングで知られる物が幾つかありますので、それらは以下に纏めました。

Old Grommes Very Very Rare 16 YEARS OLD / 101 Proof / −−−− / Square / Lawrenceburg / For Japan market
Colonel Randolph 16 YEARS OLD / 116° Barrel Proof / −−−− / Squat / Lawrenceburg / released 100 cases
BOONE'S KNOLL 16 YEARS OLD / 45.8% Alc/Vol / Black Wax / Scotch / Lawrenceburg / For Europe market, 256 Bottles
VAN WINKLE SELECTION 16 YEARS OLD LOT “H” / Block(Red) / 47.8% VOL / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
VAN WINKLE SELECTION 17 YEARS OLD LOT “H” / Block(Blue) / 47.8% ALC./VOL. (95.6 PROOF) / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg

この中で上から3つのブランドは、ボトリングした本人のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が証言してるのでペンシルヴェニア1974原酒に間違いありませんが、ヴァン・ウィンクル・セレクションの2つは海外では異なる原酒の可能性も示唆されています。レッド・ワックスの「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ16年、17年」や初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル20年」に使用されたオールド・ブーン原酒ではないかと言うのです。おそらく、そう推理する根拠は蒸留年が同じ1974年であることと、裏ラベルに「Kentucky Straight Bourbon Whiskey」と書かれていることと、ヒューが所有するペンシルヴェニア原酒にヴァン・ウィンクル名義を使う許可を与えるかどうか疑わしい、という三点でしょう。個人的見解では、わざわざ表ラベルに「Pot Stilled」とあり「Kentucky」とも名乗っておらず、更にロットが「H」、しかもプルーフだってA.H.ハーシュにあったボトリング…、これではラベルを信じる限りどう見てもペンシルヴェニア1974原酒としか思えません。裏ラベルに関しては日本のインポーターのミスだと思います。そしてヴァン・ウィンクル名義とは言え、「ファミリー・リザーヴ」と言ってしまうとヴァン・ウィンクル家の所有物になるかも知れませんが、「セレクション」ならジュリアン三世が厳選しましたくらいの意味になりギリOKだったのではないかと…。まあ、それはともかく上に挙げたブランドのうちオールド・グロームス16年とカーネル・ランドルフ16年はボトリング・プルーフが違うので別物と考えても差し支えありませんが、その他の三つはA.H.ハーシュの単なるラベル違いではないかと思うのです。皆さんはどう思われるでしょうか? ご意見をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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(画像提供Bar FIVE様)

さて、ここからはA.H.ハーシュ・リザーヴの来歴をもう少しだけ掘り下げてご紹介しようと思っているのですが、その前に予備知識と言うか念の為に言及しておきたいことがあります。
後にA.H.ハーシュ・リザーヴとなる原酒が生産された蒸留所は一般的にミクターズ蒸留所として知られるため、日本でA.H.ハーシュについて語られる場合、概ね「ミクターズ原酒云々」と言われます。しかし私はここまで、敢えてそう呼ばずに「ペンシルヴェニア1974原酒」と呼んで来ました。それには幾つかの理由がありますが、一つは「現代ミクターズ」との混同を避けるためでした。アメリカン・ウィスキー業界に明るい人は知っているかも知れませんが、そうでない場合、現代ミクターズとオリジナル・ミクターズに何か繋がりがあるかのように想定してしまう恐れがあると考えたのです。
ペンシルヴェニアのオリジナルのミクターズ蒸留所が閉鎖後、ミクターズの商標は放棄されました。その後、ジョセフ・マグリオッコ率いるワインとスピリッツの販売を手掛けるチャタム・インポーツという会社が1997年に商標を取得し再登録、2000年代初頭にケンタッキー州のブランドとしてミクターズを復活させます。彼らは元々はNDP(非蒸留業者)、つまりバルク・ウィスキーを購入し、それをボトラーに依頼して瓶詰めしてもらい、自社ブランド名で販売するところからスタートし、後にケンタッキーの匿名の蒸留所で生産するようになり、2015年には自らの蒸留所をシャイヴリーに構えるに至りました。これが現代のミクターズです。そして現在では彼らのハイエンド・ウィスキーを造る戦略は成功を収め、人気を博しているのは周知の通り。彼らはミクターズの名前の権利を有しているため、シェーファーズタウン近くの蒸留所の長い歴史をマーケティングでは語りますが、今日店頭に並ぶミクターズのバーボンやライやその他のウィスキーはペンシルヴェニア州のミクターズ蒸留所で製造されたものではありません。上の説明で分かるように、本質的に別物なのです。まあ、これに関しては「旧ミクターズ」と「新ミクターズ(現代ミクターズ)」のように書き分ければいい話で、現にそうしている人もいるし、私もそうするでしょう(※ただし、文脈によって誤解がないならば、旧ミクターズであれ現代ミクターズであれ、どちらも単に「ミクターズ」と表記することはあります)。
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理由のもう一つは、ミクターズというブランドとミクターズとなるウィスキーを製造した蒸留所を分けて考えたかったからです。
今でこそアメリカン・ウィスキーのブランドの多くは、製造と販売の両方を行う企業によって造られていますが、昔は違いました。それらは分かたれ、どちらかと言えば販売側が支配的な力を持っている時代があったのです。南北戦争から禁酒法までは特にそうでした。その頃のビジネスでは、蒸留所はウィスキー及び他のスピリッツを造るとブローカーに一括で販売し、彼らはそれをブレンドやパッケージングやブランド化する飲料会社へと販売しました。殆どのブランド名を作成および所有したのは飲料会社もしくはブローカーであり、一般的には蒸留所ではありませんでした。アメリカン・ウィスキーのブランドが確立し、業界が発展するにつれ、中間業者は自分達の影響力に気づき始めます。最も力の強いブローカーは大都市を仕切り、その小型版のようなブローカーは地方の市場を支配しました。蒸留業は莫大なお金が掛かるため、業界は常に不安定でした。そのため蒸留所の所有権はコロコロと変わり、裕福な銀行家がオウナーとなったり、有能なビジネスマンがパートナーと共同で蒸留所を所有したり、そして大きな飲料会社やウィスキー・ブローカーが原酒の安定供給のため蒸留所を買収することも多かったのです。
ペンシルヴェニア州シェーファーズタウン近くにあり、後年ミクターズと呼ばれることになる小さな蒸留所の創業は1753年に遡ります。長い歴史の間に、この蒸留所は所有権の変更と共に様々な名前で知られていました。シェンクス蒸留所、ボンバーガーズ蒸留所、カークス・ピュア・ライ蒸留所、ペンコ蒸留所、ミクターズ蒸留所…。そしておそらく他の名前もあったと見られています。蒸留所がミクターズと名乗っていたのは、その存続期間のうち最後の15年ほどでした。それが最終的な名称であったため、またこの時期に蒸留所は観光に力を入れていたこともあり、ミクターズの名が広く知られるようになったのです。ミクターズは基本的に蒸留所ではなくブランド名でしたが、1975年以降に蒸留所に適用されました。「Michter's」という名称は1950年代初頭にブランドを作成したルイ・フォーマンが「Michael」と「Peter」という二人の息子の前半と後半の名前を繋げて名付けたものです。ミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーを販売していたマーケティング会社はミクターズ・ジャグ・ハウスと呼ばれていました。同社とシェーファーズタウンの蒸留所とは常に繋がりがあり、その蒸留所がペンコ・ディスティラーズと呼ばれていた頃も長年に渡ってミクターズ蒸留所として事業をしていたと思われます(所謂DBA)。それ故、便宜的に一律「ミクターズ蒸留所」としたり「ミクターズ原酒」としても悪くはないのですが、更に理由はもう一つありまして…。

ミクターズと言えば有名なのは上にも書いたミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーです。そのウィスキーのマッシュビルは、50%コーン、38%ライ、12%モルテッドバーリーでした。バーボンやライウィスキーを名乗るには、それぞれの主原料が少なくとも51%なければなりません。 それ故ミクターズはバーボンでもなくライウィスキーでもなくサワーマッシュ・ウィスキーとして販売されました。しかも、その一部は使用済みの樽で熟成されていたので「ストレート」も名乗れませんでした。ストレート規格は新樽で2年以上熟成させたものを言います。ここら辺の事情は、アメリカ市場向けのアーリータイムズが中古樽熟成を含むため「バーボン」でもなく「ストレート」でもない「ケンタッキー・ウィスキー」を名乗るのと同じようなものです。「サワーマッシュ」についても、禁酒法以前であれば差別化のための用語であったかも知れませんが、近年のアメリカン・ウィスキーのほぼ全てはサワーマッシュ製法で造られているので(***)、特別な用語とは言えません。ジャックダニエルズがテネシー・サワーマッシュ・ウィスキーであるのと同じ意味しかないのです。勿論ミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーというのは悪い製品ではありませんし、造り手は常に誇りをもって生産してもいましたが、価格帯のクラスで言えばジムビームやジャックダニエルズのスタンダードと同じボトムシェルファーでした。しかし、A.H.ハーシュ・リザーヴのレシピは全くの別物です。それ故に「ミクターズ原酒」と言った時に有名なミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーを想起してしまう可能性を考慮して、別の言い方にしたかったという訳なのでした。

では、A.H.ハーシュ・リザーヴの名前の由来となっている人物の説明に移りましょう。その男はシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションで間違いなく重要な人物でした。ですが、どんなパーソナリティの人物なのか、なぜ1974年の春にバーボンを蒸留させたのか、なぜ10年以上もそれを放置していたのか、それらは研究者の推論に頼らなければならない不明瞭な事柄です。それでも分かる範囲で書き出して見ます。
アドルフ・H・ハーシュは1908年6月5日、ドイツ南西部のライン川沿いの都市マンハイムに生まれました。彼は17歳でUSSクリーヴランド号に乗ってアメリカに移住し、直後に米国市民になるための請願書で「Adolf」から「Adolph」に改名、1932年にアメリカ市民となりました。シカゴの著名な投資銀行であるA.G.ベッカー&カンパニーに就職して働いた後、1934年に26歳の若さでルイヴィルのバーンハイム蒸留所の副社長になったそうです。蒸留所は常に資金を必要とするので経営者が銀行家なのは珍しいことではありませんでしたが、ハーシュもバーンハイムへの出資者の一人だったのかも知れません。I.W.ハーパーで有名なバーンハイム蒸留所は禁酒法が解禁された当時、シカゴを拠点とするウィスキー・マーチャンツの二人、エミル・シュワルツハプトとレオ・ジャングロスが取得していました。ハーシュは二人とA.G.べッカー社からの資金融資を通じて知り合ったのか、もしくはユダヤ系ドイツ移民のコミュニティで知り合いだったか、或いは旧大陸で何らかのコネクションがあったのか詳細は不明ですが、とにかく後々まで続く交友関係を築き上げています。
1937年、シュワルツハプトとジャングロスはバーンハイム蒸留所をシェンリーに売却しました。彼らはシェンリーの株主になったと思われますが、得た資金で他の事業を手掛けた可能性もあります。ハーシュは暫くルイヴィルに留まり、後に当時シェンリーの本部があったニューヨークに赴任したようです。1941年12月、アメリカが第二次世界大戦に突入したのと時を同じくして、ハーシュは33歳でシェンリーを去りました。程なくしてアメリカの蒸留酒業界は「戦争努力」のための工業用アルコールの生産準備を進めます。当初、陸軍省はテキサス、ルイジアナ、および湾岸州の蒸留所で十分だと考えていましたが、もっと容量を増やす必要と、沿岸部のプラントは攻撃を受け易いことに気づきました。すると内陸のウィスキー製造業者は急務にさらされました。
大規模な蒸留所は工業用アルコールへの転換を迫られましたが、小規模な蒸留所はウィスキーの製造を続けることが出来たと言います。ハーシュはこれをビジネスの好機と捉え、すぐに動きます。1942年、彼とサミュエル・グラスともう一人のパートナーは、ペンシルヴェニア州の田舎に二つの小さな蒸留所を既に所有していたペンシルヴェニア・ディスティリング・カンパニーを買収し、会社の名前をローガンズポート・ディスティリング・カンパニーへと変更、更に三つめとしてシェファーズタウンの蒸留所をルイ・フォーマンから買収しました。ローガンズポートは戦争期間中に三つ全ての蒸留所を稼働させ、主にバーボンを造ったと見られています(それが医療用か民間市場向けかは不明)。
戦争が終わると、1946年にはハーシュとパートナー達はローガンズポートをシェンリーに売却、ハーシュは約四ヶ月間シェンリーに復帰するも、1947年3月には「慈善活動を追求する」ために引退を表明しました。けれど彼はまだ38歳であり、ビジネスを完全に終わりにした訳ではありませんでした。1956年4月、ハーシュはニューヨークに戻ってシェンリーに三度目の参加を果たし、今回は社で最高地位の一つであるエグゼクティブ・ヴァイス・プレジデントに就任したのです。翌年、シェーファーズタウンの蒸留所は、ローガンズポートで元パートナーだったサミュエル・グラスが買収し、ペンコと改名しました。おそらくこれが後にA.H.ハーシュ・リザーヴとなるバーボンが生産される遠因となります。1960年7月、ハーシュは52歳でシェンリーを退職しました。まだまだ若い彼のその後の人生についてはよく分かりませんが、慈善活動を行っていたのは知られています。ハーシュはシュワルツハプトが創設した「アメリカ市民権の確立と向上」を促進するエミル・シュワルツハプト財団のプレジデントを1958年のレオ・ジャングロスの死後に引き継ぎ、少なくとも1979年まではその地位にあったようです。そして、いつの頃かミシガン州グランド・ラピッズに移り住み、余生を過ごしました。
ところで、ネットで調べると時折、アドルフ・ハーシュの叔父がアイザック・バーンハイムであると書かれていることがあります。墓石や家系図のウェブサイトで調べても確認できなかったのですが、これは本当なのでしょうか? カウダリーの本にもその件は書かれていません。誰か真偽をご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。では、話はペンコへと進みます。

ペンコ・ディスティラーズは、サミュエル・グラスの指揮の下、1950年代の終わりから1960年代にかけて事業は順調でした。ペンコは比較的小規模な蒸留所でしたが、1966年の地方新聞によれば、日産750ブッシェルの穀物を処理する能力があり、一日あたり60バレルのウィスキーを産出、約60000バレルを収容する倉庫を有しており、年間で約15000バレルをダンプしたと言います。ペンコは幾つかの独自のブランドを持っていたと思われますが、主な事業は契約蒸留であり、他の蒸留業者やボトラーと契約してウィスキーを製造していました。ワイルドターキーのためのライを製造したのはよく知られ、おそらく他にもナショナルやシェンリーやハイラム・ウォーカーのような大企業も利用していたのではないかと見られています。或いはブラウン=フォーマンのためのライや、なんならカナダの蒸留所にもウィスキーを売ったという話もありました。また詳細は分かりませんが、コンチネンタルとは何らかの繋がりがあったらしく、コンチネンタル製のウィスキーをペンコでボトリングすることすらあったようです。ペンコにはミクターズのような観光事業や多彩な歴史の謳い文句や目立つデカンターはありませんでしたが、素晴らしいウィスキーを造ったのは同じでした。1950年代初頭にルイ・フォーマンが蒸留所を管理していた時代にタッグを組み、その後もマスターディスティラーとして君臨していたチャールズ・エヴェレット・ビームは、ペンコの高品質な製品造りやフォーマンが販売し続けたミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーの独自の製法を非常に誇りに思っていました。
10年以上に渡り好調だったペンコのビジネスも、1960年代後半にスピリッツ市場の潮流が大きく変化すると、多くの蒸留所と同様に苦戦を強いられ売上は劇的に減少してしまいます。そして1975年頃、同社は経営破綻し管財人による管理下に置かれました。そこでフォーマンはレバノン郡の実業家達と会社を設立、差し押さえセールで蒸留所を購入し、1976年にミクターズ蒸留所として操業を再開するのでした。
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(ミクターズ蒸留所、wikipediaより)

世界的に有名なA.H.ハーシュのバーボンは、1974年の春に契約蒸留されています。契約蒸留では蒸留したてのニューメイクを購入する顧客もいますが、樽に入れて熟成させる保管サーヴィスを利用するのが一般的です。ペンコが倒産した時には、バーボンは既に倉庫に保管されていました。そして15年の長きに渡り放置されました。アドルフ・ハーシュはなぜ販売しもしないバーボンの製造を依頼したのでしょうか。実は彼の口からの直接的な証言はないので真相は判りませんが、歴史家の推論によれば、自らも昔関わった蒸留所であり友人である社長のサミュエル・グラスを助けるため、財政難に陥っていたペンコ社への資金援助的な投資をしたのではないかと見られています。
ウィスキーは長期的な投資になりがちなので、潤沢な資金が重要です。投資家は製品が販売されるまでに少なくとも数年、場合によってはもっと待たなければならないだけでなく、製品は最適な条件で保管し続けなければなりません。それは不確実性に満ちた、何年も先を見据えた予測ゲームです。当時のハーシュは66歳、大企業を引退した裕福な男とは言え、蒸留所を経営した熟練のプロフェッショナル、お金を無駄にする積りはなかったでしょう。おそらく彼には蒸留所への信頼と、長期の熟成が良いウィスキーを造る確信があった筈。しかし、初めから偉大なウィスキーを造るために長期熟成させる意図はなかったと思いますが…。
時代は移ろい1989年ついにミクターズ蒸留所も倒産となった時、ハーシュは15年間の熟成を経たバーボンの買い手を探さなければなりませんでした。そこに登場するのがゴードン・ヒューです。A.H.ハーシュ・リザーヴは、誰もが意図しない偶然が幾つも折り重なった奇跡の産物でしたが、ヒューもまた伝説のバーボン誕生に欠くことの出来ない人物でした。或いは、最も重要な人物ですらあるかも知れません。

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ケンタッキー州ケントン郡フォート・ミッチェルで育ったゴードン・ヒュー・ジュニアは、1964年にコルク・アンド・ボトル(Cork 'N Bottleと表記)を設立したゴードン・ヒューの同名の息子です。コルク・アンド・ボトルはコヴィントンにあった最高級のスピリッツやビールやワインを専門に扱う家族経営の店でした(****)。地理的にシンシナティからの客も多く取り込み、ビジネスは成功を収め、ケンタッキーでも有名な酒屋として或る種のランドマークともなりました。七人の子供のうちの一人であるゴードンことゴーディは、早くも60年代、13歳の頃から週末に家族の酒屋を手伝い始めたと言います。ゴミ出しや床の掃除から始まって、棚の品出しやカウンターの後ろで出来る仕事へと進みました。セント・ゼイヴィア高校とゼイヴィア大学時代にも働き続けていたゴーディは、既に自分の将来がハイエンドな酒類ビジネスにあることを確信していたそうです。外国産のワインのラベルに魅了されていた彼は19歳の時、初めてカリフォルニアを訪れ、幾つかのブドウ畑をじっくりと見学しました。そうした影響からか、20代前半の頃には後に自ら「バーボン・プロジェクト」と呼ぶことになる目論見を抱くようになります。それは愛好家達にアピールする芸術的なプレゼンテーションをややもすると田舎臭いバーボンに与えることで洗練させ、もっとお金を掛ける価値のある飲み物としてバーボンの評判を高めるというアイディアでした。コルク・アンド・ボトルはそのカテゴリーの上位に焦点を当て、コニャックやアルマニャックのような輸入スピリッツは勿論のこと、他ではなかなか手に入らないようなワインも豊富に取り揃えていました。 そこでゴーディは疑問に思ったのです。なぜバーボンに関してケンタッキーではスコットランド人やフランス人がやっているような良い商品の扱い方をしないのか、と。後に彼のアイディアは現実のものとなります。

ゴーディの父は蒸留所と協力して店舗に独自のハウス・バーボンを置いていました。ゴーディも実地に足を運ぶ優れた仲買人となり、異なる蒸留所のシングルバレルやスモールバッチのバーボンを選び出し、ラベルデザインの美学にも気を配りました。ケンタッキー州の法律では酒屋のオーナーが自分の蒸留酒を作ることは許可されていないため、ゴーディは基本的に店を経営することと、一種のフリーランスのブランド・メーカーとして別個の仕事をしています。彼がバーボンの世界に入ったのは1974年か75年のことでした。1970年代に多くの蒸留所が閉鎖されようとしていた頃、また偶然にも後にA.H.ハーシュとなるバーボンが蒸留されたのと時を同じくして、ゴーディはプレミアム・バーボンのリリースを計画します。最初の大きなプロジェクトのためにゴードン父子は、ウィレット蒸留所にて1959年2月4日に蒸留され16年間熟成した樽を調達し、1976年の独立記念日を記念して、32のバレルから107プルーフで3168本をボトリングしたバイセンテニアル・コメモレーション・バーボンをリリースしました。ラベルは地元の印刷屋で作り、自身でラベリングしたとか。当時ケンタッキー州にはまだ多くの蒸留所がありましたが、若者にはオシャレだったウォッカや、上流階級にも愛好される洗練されたスコッチと較べ、全体的に「ブルーカラーの飲み物」とのイメージを固めていたバーボンは、あまり人気がなかったので長熟バレルが倉庫に横たわっていました。しかし、ケンタッキー人にとってバーボンはライと共に、相変わらずアメリカの象徴的な飲み物だった筈です。そこで興味深く高品質な製品を追求していた彼らは、200周年記念ラベルを付けるに相応しいユニークなバーボンを探してみようと思い付いたのでした。この初めての特選バーボン・カテゴリーへの進出は成功し、気を良くしたゴーディは良質なバーボンを求めて、他の蒸留所にもコンタクトをとり今後更に購入することになります。ケンタッキーのバーボン・シーンに詳しく、優れた味覚を有し、いつも何か新しいことに挑戦するためのエネルギーも持っていた彼は、結果的に1995年まで20年以上に渡ってコルク・アンド・ボトルの経営に携わり、自然と業界のレジェンドたちと触れ合うようになりました。
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或るプロジェクトでゴーディは、オールドハウス・リザーヴ・バーボンのためのボトルを、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニア(二世)がボトリングしたオールドリップ・ヴァン・ウィンクル7年のスクワット・ボトルに似たものにしたいと考えました。ジュリアン・ジュニアがスティッツェル=ウェラー蒸留所を売却した際、バーボンと同様ガラス瓶も持って行っていたことを知っていたゴーディは、パピーの息子に連絡してボトルを購入することになりました。これが縁で二人は時々話をするようになります。或る特別な機会にジュリアン・ジュニアはコールマイナー・セラミック・デカンターにバーボンを容れようとしていました。それを聞いたゴーディは啞然としてジュリアン・ジュニアに尋ねます。「あなたはスティッツェル=ウェラーの驚くほど素晴らしいウィスキーを、中身はどうでもよくて装飾的なデカンターが欲しいだけの人のために入れてるんですか? 」。ジュリアン・ジュニアはこう答えました。「ああ、生活しなくちゃならんからな。君にはもっといい考えが?」。「見栄えのするボトルにウィスキーを入れて本当の金額を請求しましょう」とゴーディは言いました。フランスで酒類を調達していた時、彼はガラス製のコニャック・ボトルを購入していましたが、そのエレガントな美しさは類い稀れなスティッツェル=ウェラーのウィスキーに相応しいと感じたのです。これが伝説のヴァン・ウィンクル・ファミリーとのコラボレーションに繋がりました。1981年にジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアが亡くなると、そのアイディアは彼の息子ジュリアン三世と共に実現して行くことになります。ゴーディは2世代のヴァン・ウィンクルズと協力することで、現代のバーボン・シーンに於いてユニコーンとされるパピー・ヴァン・ウィンクルズ・ファミリー・リザーヴのブランディングに一役買ったのです。
ジュリアン三世は1983年にローレンスバーグにあるホフマン蒸留所をボトリングと貯蔵のために購入し、コモンウェルス蒸留所(DSP-KY-112)と改名して運営し始めました。そこでゴーディは元々彼の父親との交流で浮かんでいたアイディアを持って息子にアプローチします。ゴーディは熟成したスティッツェル=ウェラーのウィスキーを購入し、プレミアム製品として販売したいと考えており、それを「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」と名付け、ラベル・デザインを彼自身に適応させ、ガラス製のコニャック・ボトルに入れるのはどうだろうか、とジュリアン三世に尋ねてみました。反応は上々でした。彼は「そのアイデアはなかなかいいね」と答えましたが、自分がバーボン史上最もアイコニックなブランドの立ち上げを承認したことに、この時はまだ気づいていません。ゴーディの考案したスタイル、ネーミングやラベルやボトルは、今でもヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライとほぼ同じものです。そしてジュリアン三世はこの後、ヴァン・ウィンクル・ブランドのウィスキーにこのボトル・デザインや要素を受け継いで発展させて行くのでした。
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ゴーディはヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・バーボンをコルク・アンド・ボトルで販売しつつ、ヨーロッパや日本にも輸出しました。ゴーディとジュリアン三世の間柄は正式な契約やパートナーシップを結んだ訳ではありませんでした。そのせいでもないでしょうが、ある日ゴーディはジュリアン三世から、君に売るだけの熟成バーボンの在庫がない、と告げられます。ジュリアン三世から熟成したスティッツェル=ウェラー・バーボンを購入することが出来なくなったゴーディは、それに匹敵するウィスキーの探索を始めなければなりませんでした。先ず彼はナショナル・ディスティラーズから素晴らしいオールド・グランダッド・バーボンをほぼ確保するところまで行きましたが、1987年に同社が売却された際に新しいオウナーのビーム社はその取引を取り消しました。その後、ゴーディはクリーヴランドの知人ロバート・ゴッテスマンから伝説的バーボンの誕生に繋がることになる連絡を受けます。
ゴッテスマンは元シェンリー・インダストリーズでキャリアを築いたパラマウント・ディスティラーズの共同オーナーです。彼はゴーディに、ミシガン州グランド・ラピッズに住む80代の老紳士が、熟成ウィスキーを売りに出しているのを知っていると知らせました。そう、他ならぬアドルフ・ハーシュ。おそらくゴッテスマンとハーシュはシェンリー時代に知り合ったのでしょう。ミクターズ蒸留所の破産によりウイスキーの樽が置かれていた土地は銀行に取られ、オーファン・バレルを引き払う必要がありました。約5000樽が銀行によって所有されていましたが、一部はまだハーシュの所有だったのです。
ゴッテスマンは言いました、「それはペンシルヴェニアのウィスキーだ」。「ペンシルヴェニア?」、ゴーディはがっかりして続けます。「ペンシルヴェニアのウィスキーは売れないんだ、だって皆んなケンタッキーこそベストと考えるからね」。しかし、「あぁ、オーケー、とにかくチェックしてみよう」ということになり、ゴッテスマンはサンプルを手配しました。そしてサンプルを味わったゴーディは驚きます。目を見開き、一言「わぉ…」。それはスティッツェル=ウェラーのプロダクト以来、彼が出会った絶対的に最高なものでした。彼はペンシルヴェニア・ウィスキーを売ることに何の問題もないことを確信します。

ゴーディはハーシュを訪ねるためグランド・ラピッズに行き、彼の人生で最も興味深い一日を送りました。二人は座ってウィスキーについて語り合った。
ハーシュは言います、「ウィスキーを持って行って欲しい、私はもう年寄りだし、皆んなに迷惑を掛けたくないからね」。彼らは共にそれが良いウィスキーであることを知っていたので、ハーシュには売れる確信があったのかも知れないし、ゴーディもまた端から購入する心算だったのかも知れません。実際、運命はそのように動きます。1989年(1988年の可能性も)の或る日、ハーシュ宅のリヴィング・ルームでゴーディは見事なまでの熟成を見せるペンシルヴェニア・ウイスキーを買うことに同意したのです。総額12万5000ドル、三年間での支払いでした。ゴーディはハーシュに、このウィスキーには貴方の名前を付けたいと申し出ました。アドルフ・ハーシュ、その妻、ゴードン・ヒューの三名が署名した基本合意書には、「私は、この在庫からボトリングされた製品のラベリング及びマーケティングに於いて、ヒュー氏が私の名前を使用することに同意する、もし彼がそう望むなら」、と書かれていました。ハーシュは全てをやり切ったと思ったのか、この後すぐに亡くなっています。彼はこのバーボンの高い品質と特徴を非常に誇りに思っていたので製品に自分の名前が付けられることを喜んでいたようです。
家に戻ったゴーディは厳しい現実にぶち当たりました。「なんてこった、今からどうしたらいいんだ? あの全ての樽を持って行く場所なんてないぞ!」。先ず彼はジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のところへ行きますが、「うちにはそんなスペースはないよ」と言われてしまいます。ゴーディは何とか約3分の1のバレルをジュリアン三世の倉庫で保管できるよう話を付け、それらは熟成を続けることになりました。その後、もともとゴーディにハーシュを紹介していた男であり、シンシナティでマイヤーズ・ワインを経営していたロバート・ゴッテスマンは、ウイスキーの保管を申し出ました。彼が謝礼として請うたのは、シェリーを熟成させるための空の樽を捨てないでおくことだけだったとか。恐らくそういった事情から、1989年5月27日にゴーディが入手した「在庫」は、すぐにハーシュ・リザーヴ15年としてボトリングされたのだと思われます。シェーファーズタウンからの最初の出荷分の樽は、1989年9月に直接ケンタッキー州ローレンスバーグにあるジュリアン三世の施設に到着し、15年熟成のバーボンは95.6プルーフで瓶詰めされました。最初のバッチは47ケース。こうして、栄えあるA.H.ハーシュ・リザーヴは正式に誕生しました。そのうち極く一部だけゴーディのコヴィントンの店舗で販売され、大部分は海外に出されます。

ゴーディはコルク・アンド・ボトルという小売業を営んでいましたが、その傍ら、1984年頃から長期熟成ウィスキーを日本やその他のインターナショナル・マーケットに輸出し、当時としては高価格で販売していました。アメリカのバーボン市場が低調だったため、ゴーディは経済が好調な場所に目を向けていたのです。彼がリリースした特別なボトリングは、もともと日本市場をターゲットにしていた、と後年のインタヴューで自ら語っています。それこそがハーシュから購入した長熟バーボンを使って彼がやろうとしていたことでした。
ゴーディは長期熟成バーボンで日本市場に参入した最初のエクスポーターではありませんでしたが、かなり早い段階から参入したと思います。それは甘いビジネスでした。 日本人は突如として長期熟成バーボンに恋に落ち、それに対して高額のドルを支払う用意がありました。しかし、長熟バーボンを所有していた殆どの人々はそれを安く売ろうと思っていました。なぜなら当時のアメリカ市場ではそんな物に誰も興味がなかったからです。そこに、仲買人が付け入るチャンスがありました。彼らは労せずして差額を手に入れることが出来ます。
日本人が求めたのはスコッチと同じくらい熟成させたバーボンでした。年数が長ければ長いほど理想的でしたが、少なくとも12〜15年は熟成させたものを望みました。往年のアメリカン・ウィスキーは一般的に4年〜8年で販売されています。なので順調に売れさえすれば、12年熟成以上のバーボンなどなくてもいい存在です。しかしアメリカのウィスキー産業は衰退の一途を辿り、実際には70年代に過剰に造られたウィスキーは80年代半ば頃にはかなりの「老齢」になっていました。それ故、バーボン全般および極端に熟成したバーボンに対し、突如として沸き起こった日本からの関心は、アメリカで苦しんでいたバーボン・メーカーが久々に聞いた朗報でした。アメリカン・カルチャーに対する日本人の評価が、彼の国の最も伝統的な製品の一つを復活させるのに役立ったのです。この件は現在のプレミアム・バーボンによるアメリカン・ウィスキー復興の源流の一つと考えられ、「バーボンの近代史」に於ける日本人が果たした功績として現代のバーボン史家から認められています。

ジュリアン・プロクター・ヴァン・ウィンクル三世はゴードン・ヒューとボトリング契約を交わし、1989年から1995年の間ローレンスバーグでブランド・オウナーのために1744ケースのA.H.ハーシュ・リザーヴを少量づつボトリングしました。 それは彼にとってただの契約ボトリングの作業に過ぎず、決してハーシュ・ブランドの共同事業という訳ではありませんでしたが、その存在は小さくはなかったでしょう。長期熟成のスペシャリストであり、何が適切かを知っている男でしたから、ウィスキーを味わい、おそらくプルーフィングなどのアドヴァイスはしたと想像します。
最初のハーシュ・リザーヴから数ヶ月後の12月には別の134ケースが同じ仕様でボトリングされました。1990年2月には340ケースが続きます。中身のウィスキーは1990年3月までに全て16年熟成となりましたが、おそらく新しいラベルの印刷を回避するため1991年4月までは引き続き15年表記のラベルが使用されました。ミクターズが閉鎖される1990年2月より前に、残っていたバレルは蒸留所のマスターディスティラーであったディック・ストールが積み込みを監督してシンシナティのワイナリーに出荷されています。 全てのバーボンが16年の熟成を迎えて間もなく、ジュリアン三世とゴーディ(或いはゴッテスマンも?)は、その状態が最良であると判断し、これ以上のエイジングを防止するため、約3000ガロンがワイナリーのステンレス・タンクに容れられました。これ以降ペンシルヴェニア・バーボンは二つの別個の流れでリリースされて行きます。一つはシンシナティにタンキングされた大部分を占める16年物。これはタンクローリーでローレンスバーグに運ばれて、定期的にボトリングされました。もう一つがジュリアン三世のローレンスバーグの倉庫で熟成され続けた250近い数とされる樽です。こちらは毎年、熟成年数を重ねてボトリングされて行きました。 
1991年4月、後にA.H.ハーシュ・リザーヴにとって象徴的な数字となる初めての16年物が瓶詰めされます。ジュリアン三世は数ヶ月ごとにゴーディからボトリングのオーダーを受けていて、4月は57ケース、11月には更に多い200ケースだったそうです。また、90年か91年あたりにはA.H.ハーシュとは違う幾つかのブランドで同じ原酒がボトリングされてもいました(前出のリスト参照)。
ジュリアン三世のローレンスバーグの倉庫に保管されていた最初のバッチの樽は、1991年と1992年11月に一部がダンプされ、それぞれ17年熟成の物が95.6プルーフ、18年熟成の物が93プルーフで少量ボトリングされました。92年12月には、タンクされた16年物を8ケース、多分91.6プルーフで。その後、16年物のバーボンは1993年7月には95.6プルーフでやや多めの300ケースが生産されました。93年の11月には今度は熟成樽の19年物が93プルーフで121ケース造られます。そして最終的に熟成樽は1994年12月から1995年4月の間にボトリングされ、91.6プルーフの20年物を500ケース産出しました。これはゴーディの最後の関与になります。

上の数字からも明らかなように、ハーシュ・リザーヴは順調に売れていたものの、飛ぶような売れ行きではありませんでした。日本の消費者は超熟バーボンが好きだったかも知れませんが、それはジムビームやアーリータイムズやI.W.ハーパーと同じ価格ではなく比較的高価でしたし、アメリカではまだバーボン・ブームは来ていません。それにゴーディはブランドの宣伝を殆どしていなかったと思われます。彼は優れた製品を持っていたとしても、小さな酒屋の経営者であり小規模なブローカーであり、大手酒類会社の幹部ではないのですから、ビジネス的にはそれが限界だったのでしょう。
A.H.ハーシュのウィスキーは大量にあったのでゴーディはどこでも積極的にボトルを売リ出していました。特に日本とヨーロッパに多く輸出されています。しかし、1990年代初頭のバブル期の終焉と共に日本経済は失速し、輸入業者は基本的にバーボンを買わなくなったか、或いは買う量を減らしました。それが理由とは思えませんが、彼は別のことに目を向けたようです。ゴーディによれば、ペンシルヴェニア1974原酒の元々の量は約10000ケース(※おそらくここでは1ケース6本で計算してると思われます)だったと言います。全ての支払いはかなり前に済んでいたので、彼はそれをゆっくりと販売することに完全に満足していました。そうしてゆっくりと価格が上がって行くのを気長に待てばいい、と。そして1995年、詳細は分かりませんが、ゴーディは家業と決別します。ウィスキーは様々な係争中の理由からコルク・アンド・ボトルに残りました。ゴーディではない他のヒュー家の人々は少しの間ブランドを運営し、最終的にA.H.ハーシュのブランドと在庫は南カリフォルニアのヘンリー・プライス率いるプライス・インポーツにまとめて売却されました。ただし、9本のA.H.ハーシュ・リザーヴや105本のヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴと14本のオールド・ハウス・バーボンは売却されず、ゴーディ言うところの彼の個人用貯蔵庫であるコルク・アンド・ボトルの地下室に保管されていました。ゴーディが関わったそれらのバーボンが地下でひっそりと息を潜めている間に、図らずも地上ではゆっくりと価格は上昇し、人知れず大金へと変化していたのが原因で(?)、後の2015年にゴーディとコルク・アンド・ボトルの間で所有権を巡る裁判になるのですが、それは別の話。
ゴーディはバーボンを試飲してどう造られているかを確認するのが好きでした。 そしてそれは彼の天職であり仕事の一部でした。少なくとも1975〜95年までは。バーボンを探す楽しみはあったけれど自分はスピリッツの大量消費者ではなかった、と彼は言います。ですが、強いて言うならメーカーズマークやバッファロートレースで製造されるW.L. ウェラーやヴァン・ウィンクルのラインナップのようなウィーテッド・マッシュビルのバーボンを好む傾向があり、彼の「生涯で今までに味わった最高のウィスキーは、1960年代から1970年代にかけてスティッツェル=ウェラーが蒸留したものでした」。現代の蒸留所であれば、特にその生産規模を考慮すると、バッファロートレースとフォアローゼズの二つが卓越していると評価しています。そんな伝説のバーボンの中心人物も、もはやスピリッツ・ビジネスに携わっていません。20年以上オハイオ・リヴァーの北側に住み、四人の子供を育てたゴーディは、近年ではシンシナティのウォルナット・ヒルズで「wineCRAFT」という高級ワインの輸入事業を営んでいます。「私は常にワイン・ビジネスに携わっていました。バーボンはちょっとした副業だったんです」。

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A.H.ハーシュ・リザーヴは、ヘンリー・プライスが購入した頃には、既にアメリカのウィスキー愛好家の間で非常に優れたバーボンとして評価を得ていました。 彼は自分が素晴らしいウィスキーを手にしたことを知っていましたが、その後の大流行までは予測していませんでした。
「我々はブランドを構築しましたが、もし我々がブランドの購入を控えていたらサゼラックが購入していたでしょう」とプライスは言います。サゼラックはジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世がこのブランドのボトリングを担当していたこともあり、A.H.ハーシュのことをよく知っていました。2002年、ジュリアン三世はバッファロートレースとの合弁事業を起こし、ローレンスバーグの作業場を閉鎖して事業をフランクフォートに移しています。この時期のどこかの段階でプライスは自らのポートフォリオにブランドを取り入れるために動きました。当時のプライス・インポーツのセールス・マネージャーのスティーヴがヒュー家に連絡を取り、A.H.ハーシュ・リザーヴの販売権を取得するようヘンリー・プライスを後押ししたのだとか。首尾よくハーシュ・ブランドを獲得したことで、シンシナティにタンクされていた残りのバーボンもまたバッファロートレースへ行きました。
2003年、ステンレス・タンクに12年間貯蔵されていたバーボンはボトルに入れられました。その数2500ケースとされ、それまでの全生産量の合計よりも多くなりました。小規模なプレミアム・ブランドを開発し、それらをアメリカのほぼ全ての市場へ戦略的に配布することで有名なヘンリー・プライスは、A.H.ハーシュでも同じようにアメリカ全土で販売し始めます。実はゴードン・ヒューが撤退した1995年からプライスが瓶詰めさせた2003年の間にA.H.ハーシュ・リザーヴが定期的に販売されていたのかよく分かりません。もし販売されていたとしても、おそらく量はあまり多くはないと思われます。それは兎も角、この時のラベルにフランクフォートとある16年熟成91.6プルーフのものが通称ゴールド・フォイルと呼ばれ、最も目にし易いA.H.ハーシュ・リザーヴとなっています。プライス・インポーツは3年間で約1500ケースを販売し、以前よりブランドの知名度は上がったことでしょう。ウィスキー業界の著名なライターが取り上げたり、愛好家コミュニティでの熱狂的な喧騒も益々広がりました。そのような雪だるま式に大きくなる評判や口コミの人気は制御できません。プライスにとっては正に夢のようなブランドでした。
残りの1000ケースの殆どが売れた2009年、プライスは最後に残った在庫を使って何か特別なことをしたいと考えました。デカンターへの再ボトリング。それが、彼がヨーロッパ式の700mlのボトルに詰められた残り僅かな在庫のために持っていたアイディアでした。「最後の在庫をヨーロッパに発送したくなかった」プライスは、バッファロートレースにお願いして最終的にボトルをダンプする同意を得、その後、全てをバーズタウンのウィレット(KBD)に運んで、自ら輸入したフランス製の手吹きクリスタル・ボトルに詰め直してもらいます。これが彼の「最後のビジョンであり、A.H.ハーシュ・リザーヴが占めていたアメリカの歴史の一断片への喝采でした」。

さて、アドルフ・ハーシュが契約蒸留したペンシルヴェニアのウィスキーは、その大きな評判の割には少量であるにも拘らず、全てを販売するのに約20年掛かっています。おそらく、これまで見てきた紆余曲折こそが、このウィスキーの最大にユニークなところだとは思いますが、勿論、中身も素晴らしかった。どのような神話や伝説でも、特別な味がしない限り、ウィスキーがこれほどまでにホットな商品になることはありません。では、何がそんなに良かったのでしょうか? 明確な答えなどないですが、判っている範囲で中身について触れておきたいと思います。
始めの概略で述べたように、A.H.ハーシュ・リザーヴとなった全てのバーボンウィスキーは1974年の春に蒸留されています。生産はエヴェレット・ビームの弟子に当たるディック・ストールによって監督されました。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーで、酵母はエヴェレットが持ち込んだビーム酵母。おそらく蒸留プルーフは115で、現代の基準よりやや低めです。これらはどれも標準的な仕様であり、大きな驚きはありません。ストール自身、ハーシュのために造ったバーボンは珍しくなかったと言っているそうです。と、なるとラベルに書かれている「Pot Stilled」こそが、その特別性の要因と思いたくなりますよね? 例えば、ほぼスコッチをメインに飲むウィスキー・ドリンカーなら、「これはアメリカン・ウィスキーに多いコラムスティルではなく、スコッチのシングルモルトのようなポットスティルを使用して製造されているからフレイヴァーフルで特別なんだ」という具合に。しかし、そうではありませんでした。
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アメリカの飲料用アルコールのラベルは全て政府機関の承認を受けなければなりませんが、規制されている言葉とそうでない言葉があります。「ウィスキー」や「バーボン」や「ストレート」という用語はどれも規制されています。一方「リザーヴ」や「サワーマッシュ」は規制の対象ではなく、そして「ポットスティル」も規制された用語ではありません。規制されていないということは、真実である必要がないことを意味します。とは言え、全くのデタラメという訳でもなく、A.H.ハーシュ・リザーヴのラベルに「ポットスティル」とあるのは、ミクターズがラベルにポットスティルをフィーチャーしてマーケティングしていたのを受け継いでいるからです。ミクターズ蒸留所では第一蒸留を比較的小さめのコラムスティルで実行した後、第二蒸留をポットスティル・ダブラーで行いました。このダブラーのことをポットスティルと呼ぶのは業界では慣行であり、決して間違いではないのですが、ミクターズはそれを強調してマーケティングに活用したのです。ダブル・ディスティレーションは殆どのアメリカン・ウィスキー蒸留所が当時および現在でも実践し、100年以上に渡ってバーボンを製造して来た方法です。つまり、ミクターズは他の蒸留所と製造面で甚だしい違いはないということ。だから、ここで言う「ポットスティル」もA.H.ハーシュ・リザーヴの卓越性を説明するものではないのです。
通常、長期熟成古酒はウッディ過ぎる嫌いがありますが、A.H.ハーシュ・リザーヴはその極端な熟成期間にも拘らず、あまりウッディではないとされます。寧ろ、力強くありながらエレガントな素晴らしいバランスと評されるほど。その要因は、一説にはペンシルヴェニアの天候だったかも知れないと言います。同地では70年代半ばに冬の寒さが長く続いたそうですし、多分ケンタッキーより基本的に涼しかった? まあ、謎は謎のまま残したほうが神話や伝説には箔が付きますが、少なくとも、ペンシルヴェニア州で製造されそこで主に熟成し、オハイオ南部またはケンタッキー州に運ばれて更なる眠りに就いたこのバーボンの旅する人生は、製品に何らかの影響を与えた可能性は十分あるでしょう。A.H.ハーシュ・リザーヴについて確かなのは、よくあるケンタッキー・バーボンとは完全に異なる独創性をもち、ウィスキー通の意見では素晴らしいバーボンだったということ、それだけです。
ちなみに、ハーシュ・リザーヴ16年のロット違いを飲み比べた人によると、後年のロットより初期のロットの方が美味しいとする意見が散見されます。これはおそらく酸化の問題だろうと考えられています。ハーシュ・リザーヴの最後のボトリングは10年以上ステンレス・タンクで保管されていたので、幾ら熟成は進まないとは言え、多少の酸化はあったのかも知れません。ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は、ステンレス・タンクでの貯蔵は不活性と考えられているが、彼はそれをもっと不活性にしたいと仄めかしたとか。ウィスキーは空気に触れると常に変化する生き物ですからね…。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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(画像提供Bar FIVE様)

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A.H. Hirsch 16 Years 91.6 Proof
推定1991年ボトリング。キャラメル、ナッツ、多様なハーブ、ちょっと薬っぽい味も。かなり複雑なフレイヴァー。口当たりと飲み心地はスムーズで、長熟にありがちな渋味や苦味はあまり感じない。
Rating:89.5/100

Value:これは「あなたの懐具合」によります。バーボンのボトル一本に対し30万円を支払えるなら、躊躇なく買うことをオススメします。また、バーで見かけたら多少高くても飲んでおいた方がいいでしょう。ですが、ぶっちゃけ普段ジムビームやジャックダニエルズやアーリータイムズしか飲まない人が飲んでも美味しいと感じられない可能性は高いです。その週に飲んだバーボンの中で最高のものでさえなかった、と言う人までいます。私にとっても最高のバーボンではありませんでした。しかし、味は関係ありません。これは物語のために買うバーボンです。ストーリーや背景や価格は味を変えることはないかも知れませんが、それらは神秘性を高めると同時に何かしらの評価軸を与えてくれます。そして経験として飲むことは悪いことではない。それがオススメする最大の理由です。とは言え、無理してえげつない身銭を切ってまで飲むことは勧めません。今、あなたが無理なく飲めるバーボンは、伝説はなくとも素晴らしいバーボンなのですから。


*この数字を倍の800樽とする情報もありました。こちらの数字を信じる場合、最終的にハーシュの所有した樽の数量は766樽となります。申し訳ないのですが、私にはどちらが信用できる数か判断できません。また、これ以降の本記事における数量に関する数値は、参考にした情報元が一つではなく複数であるため、混乱している可能性があります。そこを考慮して見て下さい。

**プライス・インポーツの名は、ヘンリー・プライスと彼の娘のニコールによって2012年11月に新たに設立されたHPSエピキュリアンが、2016年に再び所有権を取得し復活しています。

***製品意図として敢えてスウィートマッシュ製法を採用している物を除けば、無記載の場合は全てサワーマッシュと思っていいでしょう。

****財政上の問題に直面して、元々の所有権は2014年に売却されました。コヴィントンの店舗は閉鎖され、現在はクレセント・スプリングスのバターミルク・パイクで営業しています。

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スプリング・リヴァーはアメリカ本国での知名度は高くありませんが、日本のバーボン党には比較的知られた銘柄かと思います。

日本では80年代後半から2000年代にかけてヘヴンヒルの所謂「キャッツ・アンド・ドッグス」と呼ばれるラベル群(ブランド群)のバーボンが多く流通していました。網羅的ではないですが、代表的な物を列挙すると…

1492
Anderson Club
Aristocrat
B.J. Evans
Bourbon Center
Bourbon Falls
Bourbon Hill
Bourbon Royal
Bourbon Valley
Brook Hill
Country Aged
Daniel Stewart
Distiller's Pride
Echo Spring
Heritage Bourbon
J.T.S. Brown
J.W. Dant
Jo Blackburn
John Hamilton
Kentucky Deluxe
Kentucky Gold
Kentucky Nobleman
Kentucky Supreme
Mark Twain
Martin Mills
Mattingly & Moore(M & M)
Meadow Springs
Mr. Bourbon
National Reserve
Old 101
Old 1889
Old Joe
Old Premium R.O.B.
Original Barrel Brand
Pap's
Rebecca
Rosewood
Sam Clay
Samuels 1844
Spring River
Stephen Foster
Sunny Glenn
T.W. Samuels
Virgin bourbon
Westridge
(The)Yellow Rose of Texas
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…などです。これらの幾つかは大昔のブランドを復刻したか、廃業した蒸留所もしくは大手酒類会社のブランド整理によって取得したラベルが殆どでした。またはヘヴンヒルが古めかしくそれっぽいありきたりなデザインで手早く作成したのもあるかも知れません。こうしたラベルは地域限定的で、ヘヴンヒル社にとっては比較的利益率の低いバリュー・ブランドでしたが、彼らのビジネスの82%は安価な酒類の販売とされています。或る意味ヘヴンヒルの「ブランド・コレクター」振りは、伝統を維持/保護する観点があったとしても、このビジネスのための必要から行っていると言えなくもないでしょう。広告も出さないし、ラベルもアップデートしないということは、マーケティング費用がほぼゼロに近いことを意味します。だから安い。

上に挙げたブランドは様々な熟成年数やプルーフでボトリングされました。一部はプレミアム扱いの物もあり、その代表例は「マーチンミルズ23年」や「ヴァージンバーボン21年」等です。或いはノンチルフィルタードをウリにした「オールド101」も、見た目のラベルデザインは地味でも中味はプレミアム志向を感じさせました。4〜6年の熟成で80〜86プルーフ程度の物に関しては、エントリークラスらしいそこそこ美味しくて平均的なヘヴンヒルの味が安価で楽しめました。しかしそれにも況して、熟成期間が7年以上だったり100プルーフ以上でボトリングされた物は、あり得ないほどお得感があり、古参のバーボン・ファンからも支持されています。また、上のリストには含めませんでしたが、ヘヴンヒル社の名前そのものが付いた「オールドヘヴンヒル」や同社の旗艦ブランドとなる「エヴァンウィリアムス」などの長期熟成物も日本ではお馴染みでした。

80年代〜90年代にこのような多数の銘柄が作成もしくは復刻され、日本向けに大量に輸出されていた背景には、アメリカのバーボン市場の低迷がありました。彼の国では、70年代から翳りの見えていたバーボン人気は更に落ち込み、過剰在庫の時代を迎えていたのです。逆に日本ではバブル期の経済活況からの洋酒ブームによるバーボンの高需要があった、と。上記の中で一部のブランドはバブルが終わった後も暫く継続され、2000年代をも生き延びましたが、やがてアメリカでのバーボン人気が復調しブームが到来、更には世界的なウィスキー高需要が相俟った2010年代になると、日本に於いては定番と言えた多くの銘柄は終売になるか、銘柄自体は存続しても長期熟成物は廃盤になってしまいました。今では、80〜90年代に日本に流通していたヘヴンヒルのバーボンは、ボトリング時期からしてバーズタウンにあった蒸留所が火災で焼失する前の物なので、欧米では「プリ・ファイヤー・ジュース」と呼ばれ、オークションなどで人気となり価格は高騰しています。

火災前の原酒がマニアに珍重されているのは、失われた物へ対する憧憬もありますが、そもそも味わいに多少の違い(人によっては大きな違い)があるからです。その要因には大きく二つの側面があります。
一つは製造面。先ず当たり前の話、施設が違うのですから蒸留機も異なる訳ですが、ヘヴンヒルが新しく拠点としたバーンハイム蒸留所は1992年にユナイテッド・ディスティラーズが建てた蒸留所であり、もともとバーボンの蒸留に向かない設計だったと言われています。そのためヘヴンヒルが購入した時、蒸留機の若干の修正や上手く蒸留するための練習を必要としたとか。そしてこの時、マッシュビルにも変更が行われました。ライ麦率を3%低くしてコーン率を上げたそうです(コーン75%/ライ13%/モルテッドバーリー12%→コーン78%/ライ10%/モルテッドバーリー12%)。あと、イーストもジャグ・イーストからドライ・イーストに変更を余儀なくされたようで、マスターディスティラーのパーカー・ビームはそのことを嘆いていたと言います。また、蒸留所のロケーションも違うのですから、水源も当然変更されたでしょう。旧施設のDSP-31では近くの湧水を使用していたとされ、DSP-1では市の水を独自に逆浸透膜か何かで濾過していると聞きました。
もう一つの側面は、上段で述べていた過剰在庫の件です。今でこそ長熟バーボンはアメリカでも人気がありますが、当時ほとんどのディスティラーの常識では8年を過ぎたバーボンは味が落ちる一方だし、12年を過ぎたバーボンなど売り物にならないと考えられていました。と言って倉庫で眠っている原酒を無駄にする訳にはいかない。そこで、例えばエイジ・ステイトメントが8年とあっても実際には10年であったり、或いは8年に12年以上の熟成古酒がブレンドされていて、それが上手くコクに繋がっていた可能性が指摘されています。実際にはどうか定かではありませんが、私個人としても、確かに旧ヘヴンヒル原酒は現行バーンハイム原酒よりスパイスが複雑に現れ深みのある風味という印象を受けます。

さて、そこでスプリング・リヴァーなのですが、調べてもその起源を明らかにすることはできませんでした。先ず、スプリング・リヴァー蒸留所という如何にもありそうな名前の蒸留所は、禁酒法以前にも以後にも存在していないと思われます(サム・K・セシルの本にも載っていない)。そしてそのブランド名もそこまで古くからあったとは思えず、ネットで調べられる限りでは71年ボトリングとされるクォート表記でスクエアボトルの12年熟成86プルーフがありました。その他に年代不明で「SUPERIOR QUALITY」の文字がデカデカと挿絵の上部に書かれたラベルのNAS40%ABVの物もありました。70年代の物はどうか判りませんが、少なくとも80年代以降は(ほぼ日本向けの?)エクスポート専用ラベルになっていると思われます。以上から考えるに、おそらく70年代にヘヴンヒルが作成したラベルと予想しますが、詳細ご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。モダンさの欠片もないデザインが却って新鮮で素敵に感じますよね。
日本で流通していたスプリング・リヴァーは沖縄の酒屋?商社?が取り扱っていたらしく、90年代の沖縄の日本資本のバーには何処にでもあったとか。おそらく80~90年代に流通し、12年熟成101プルーフと15年熟成86プルーフの二つ(もう一つ追加。下記参照)があったようです。オークションで肩ラベルに「Charcoal Filtered」と記載され年数表記のない86プルーフで「ウイスキー特級」の物も見かけました。これも15年熟成なのでしょうか?(コメントよりご教示頂きました。これはそのままNASだそうです。コメ欄をご参照下さい)。ともかくバーボン好きに頗る評価が高いのは12年101プルーフです。熟成年数とボトリング・プルーフの完璧な融合からなのか、それとも過剰在庫時代のバレルを使ったバッチングに由来するのか…。なんにせよ余程クオリティが高かったのは間違いないでしょう。では最後に少しばかり飲んだ感想を。

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SPRING RIVER 12 Years 101 Proof
90年代流通品。がっつり樽香がするバーボン。スペック的に同じでほぼ同時代のエヴァンウィリアムス赤ラベルのレヴューを以前投稿していますが、それに較べてややフラットな風味に感じました。まあ、サイド・バイ・サイドではないですし、今回はバー飲みですので宅飲みと単純には比較できませんが…。
Rating:87.25/100

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WILD TURKEY 101 Proof
今回の投稿もバー飲みなのですが、こちらは偶然か故意か居合わせたバーの常連であり、Instagramで繋がりのあるTさんより自身のボトルキープをご馳走して頂きました。私と一緒に行ったツレの分まで頂戴しまして、Tさんの太っ腹に感謝です。このお方、バーボンをビールのように飲めてしまう酒豪で、お酒に弱い私からしたらバケモンのような人です(笑)。

推定80年代後半ボトリング。2000年以降とは異なるアーシーなフィーリングとパフューミーなアロマのある時代のターキー。以前、他のバーで同じくらいの年代の物を飲みましたが、こちらのほうがカビっぽさを感じなかったですね。ボトル・コンディションの差でしょうか。どちらにせよターキー好きにとっては「間違いない」代物です。
Rating:88/100

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オールド・ヒッコリーはパブリカー/コンチネンタルの主力バーボン・ブランドでした。フィラデルフィアに拠点を置くパブリカー/コンチネンタルは、禁酒法解禁後のアメリカで業界を牛耳ったビッグ・フォーに次ぐ地位を確立した大手酒類会社の一つ。往年、フィラデルフィア地域に住んでいた人々は、ウォルト・ウィットマン・ブリッジのすぐ傍、パッカー・アンド・デラウェア・アヴェニューにあった蒸留所からする強力な匂いを今でも思い出すと云います。橋を渡るとベーカリーのようないい匂いがしたそうな。また当時そこには、橋から見える夜にはライトアップされたオールド・ヒッコリーの大きな看板もありました。パブリカー・インダストリーズとコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションについては以前投稿したリッテンハウス・ライのレヴュー時に紹介してるので、詳しくはそちらを参照下さい。

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コンチネンタルにはチャーター・オーク、ハラーズ・カウンティ・フェア等のストレート・バーボン、その他に様々なブレンデッドがありましたが、オールド・ヒッコリーが最も売れ、よく知られたブランドだと思われます。「オールド・ヒッコリー」というブランド名はアメリカ合衆国の第七代大統領アンドリュー・ジャクソンのニックネームから由来しています。ラベルの肖像画の人物ですね。米英戦争(1812年戦争)の最中、ジャクソン将軍の忍耐力と力強さは、しっかりと根付いた強靭なヒッコリーの木を思わせたことで、彼は兵士たちから「オールド・ヒッコリー」というニックネームが付けられました。そして以後、友人や信奉者の間でそのニックネームは愛情を込めて呼ばれ知られるようになり、1828年の大統領選挙の成功を収めたキャンペーンでも目立つようにフィーチャーされました。ジャクソン大統領とウィスキーの関係については、それほど多く記録されていませんが、伝え聞くところでは、1799年に彼は合わせて190ガロンを生産できる二つのポットスティルで蒸留を始め、残念ながらこの蒸留所は翌年に火事で焼失し完全になくなり、数年後、今度はビジネス・パートナーとなったワトソン氏の助けを借りて再建したのだとか。それはともかく、彼は米英戦争を終わらせた決定的なニューオリンズの戦い(1815年)に於いて軍を率い、アメリカの独立を維持したことで名声を得、庶民出身の大統領として渾名通りの強情さを発揮しました。アンドリュー・ジャクソンというアイコンの発する「強さ」や「南部」や「非エリート」の香りはバーボンに相応しいものだったのでしょう。

ただし、オールド・ヒッコリーの名称をウィスキーに使い始めたのはコンチネンタルが初めではありませんでした。禁酒法以前から既にその名は見られ、ネット検索で把握できるところでは以下のような物があります。
先ずはジャグ・ボトルのオールド・ヒッコリー・ウィスキーです。ウィスキーのガラス・ボトルでの販売がまだ一般的でなかった時代と思われるそれには、ケンタッキー州マリオン郡の蒸留所から直接~、とデカデカと書かれていました。もう一つはオレゴン州ポートランドの酒類卸業者フレッケンシュタイン=メイヤー・カンパニーの販売していたオールド・ヒッコリー・ウィスキーで、ラベルにはケンタッキー州ウッドフォード・カウンティの記載が見られます。またミルウォーキーの酒類卸業者A・ブレスラワー・カンパニーが自社ブランドでオールド・ヒッコリーを販売していたようです。他にも、ニューオリンズで酒屋をやっていたジェイコブ・グロスマンが販売していたオールド・ヒッコリー・ビターズなるものもありました。なんなら禁酒法時代にはカナダのワイザーズ・ディスティラリー・リミテッドのオールド・ヒッコリー・ライもありました。
おそらくオールド・ヒッコリーという名前は、禁酒法の前後か最中にコンチネンタルが前所有者から購入し、解禁後にブランドを刷新したのだと思います(ミルウォーキーの業者から購入した可能性が高い気が…)。そもそも上記の古いオールド・ヒッコリーたちは「大統領」から来てるのか「木」から来てる名称なのかも定かではなく、コンチネンタル製のオールド・ヒッコリーにしても初期段階と思われるラベルにはジャクソン大統領の肖像画がありません。
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(1936年頃)
コンチネンタル初期のオールド・ヒッコリーにはライもありましたが、その後は造られなくなったようです。そして上画像のストレート・ウィスキーには2年熟成とありました。多分、熟成ウィスキーのストックがなかったからだろうと思います。その後は年を経るにつれて4年熟成になり、オールド・ヒッコリーがコンチネンタルの看板製品となる頃には最低6年熟成のクオリティを守ったようです。通常スタイルのボトルに紙ラベルの物には、同時期流通ではないと思いますが、熟成年数とボトリング・プルーフのヴァリエーションがありました。基本は6年熟成86プルーフとボトルド・イン・ボンドで、他に7年熟成や8年熟成の物、また80プルーフもあったかも知れません。こうした通常品の他にスタイリッシュなグラス・デカンターに容れられたオールド・ヒッコリーも幾つかありました。それらの中でも有名なのはイーグル・キャップ・デカンターとかゴールデン・トロフィーとか呼ばれるやつです。中身のバーボンは10年熟成ですね。
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そしてトップ画像のパネル・ボトルも10年熟成。多分60~70年代頃に流通していたと思います。おそらく、こうした当時としては長期熟成のバーボンを使用したリリースは、当時の多くの蒸留所と同様、需要の減少により倉庫に在庫が蓄積されたために行われたのでしょう。もともと長期熟成を意図したのではなく需要減の副産物として製品化したのが現実かと。しかし、その結果はフル・フレイヴァーをもたらし、バーボニアンの評価するところとなりました。その最たるものが特別なリミテッド・エディションの20年熟成オールド・ヒッコリーでした。発売は70年前後と見られ、逆算すると1950年前後の蒸留ですから、リンフィールドのキンジー蒸留所(PA-12)で蒸留された可能性が高いです。キンジーの元従業員によるとウェアハウスDから引き出されたバレルをボトリングしたものだとか。
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通常のオールド・ヒッコリーはキンジーではなく、サウス・フィラデルフィアのコンチネンタル・プラント(PA-1)で造られた筈です。熟成はリンフィールドでしょう。ボトリングは時代によって異なる場所でされたようで、キンジーのボトリング施設の時もあれば、イリノイ州レモントの場合もありました。もしくはフィラデルフィアのボトリング施設でなされた時期もあったかも知れません。
レシピの詳細は分かりませんが、コンチネンタルは同社のナンバーワン・バーボンであり最大の売れ筋であったオールド・ヒッコリーを造ることに重きを置いたらしく、他のバーボンとは共有されていない独自のマッシュビルを持っていたと伝えられます。先にも触れたように、オールド・ヒッコリーは少なくとも6年は熟成されており、ボトルド・イン・ボンド・ラベルのボトリングでも6年熟成でした。一般的に4年程度の熟成でボトリングされることの多いバーボンと較べ、この2年の追加こそがその滑らかさとリッチなフレイヴァーの大きな理由であると考えられています。
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さて、大きな会社であったパブリカーも、1970年代に業界で起こった変化に耐えることができませんでした。アメリカではクリア・スピリット、特にウォッカの人気が高まり、バーボンの販売量は減少したのです。「America's Most Magnificent Bourbon(アメリカの最も壮大なるバーボン)」と宣伝されたオールド・ヒッコリーではありましたが、現実にはナショナル・ディスティラーズのオールド・グランダッドやオールド・クロウやオールド・オーヴァーホルトよりは全国区ではないと言うか、ストロング・ブランドではなかったのでしょう。そしてパブリカー/コンチネンタルにとって悪いことに、長年会社を率いてきたリーダー、サイモン・"シー"・ニューマンの死が1976年にありました。サイモンの死後、外部の経営者たちが雇われ取締役会に進出すると会社の方向を変えようとし始めました。それは会社の建て直しではあったのですが、彼らはパブリカーをP&Gのような強大なホーム・ケミカル会社にしようとしました。飲料用蒸留酒の製造と販売に見切りを付けた訳です。多くの酒類ブランドやイリノイ州レモントのボトリング施設といったアルコール事業の資産は、負債の支払いとケミカル・ボトリングへの資本投資に使用するために1979年に売却されました。オールド・ヒッコリーはこのブランド売却の際、その他のブランドと共にチャールズ・メドレーに買われます。
チャールズはブランド権だけでなくストックのバレル及び既にボトルに入ったオールド・ヒッコリーも購入しました。聞くところによると「リンフィールド」が「XXX」で消され「オーウェンズボロ」と書かれたボトルがあったそうな。それらを販売し使い果たした後、オールド・ヒッコリーはメドレー蒸留所で造られたと思われます。アメリカの情報を参照するとオールド・ヒッコリーは1981年に製造中止になったとされることもあるのですが、日本で比較的見かけることの多いポッカ輸入のスタンダードな4年熟成80プルーフのオールド・ヒッコリーにはオーウェンズボロの記載があり、なんとなくもう少し後年まで製造されていたのではないかという印象があります。
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現に私の手持ちの91年発行のバーボン本には当のオールド・ヒッコリーが紹介されています。80年代後半のバーボン・ムックにも紹介されていました。これは私の推測なのですが、おそらくメドレーがグレンモアに買収され、グレンモアがユナイテッド・ディスティラーズに買収された91年までは、オールド・ヒッコリーはメドレー蒸留所で製造されて日本向けの輸出ラベルとして生き残り、UDにブランド権が移った時に製造を停止されたのではないでしょうか? ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。それは措いて、90年代後半には市場から完全に姿を消したオールド・ヒッコリー・バーボンは、月日の経過と共に忘れ去られた存在となりました(オールド&ヴィンテージ・バーボン愛好家は別として)。

ところが、折からのアメリカのバーボン・ブームのおかげ?で、オールド・ヒッコリーは復活を遂げます。
ナッシュヴィルに拠点を置く酒類販売店で1994年設立のR. S. リップマン・カンパニー(ワイン、ビール、スピリッツ、およびミキサーを取扱う)は、2011年以降、多様な飲料アルコールのポートフォリオを構築するためのブランド作成と買収を開始しました。彼らは2013年にテネシー州市場での最初の発売のためにオールド・ヒッコリーの商標を取得します。2013年の夏、同社CEOのロバート・S・リップマンと開発チームはインディアナ州ローレンスバーグにある元シーグラムの蒸留所(MGP)で、長い間マスター・ブレンダーを務めるパム・ソウルと蒸留所のチームと連携して、オールド・ヒッコリー・ウィスキー・プロジェクト用のマッシュビルとバレルを選択しました。それらは「オールド・ヒッコリー・ブレンデッド・バーボン・ウィスキー(通称ブラック・ラベル)」として発売されました。ブラック・ラベルは4年以上熟成のウィスキーが89%、最低限2年熟成のウィスキーが11%のブレンド、80プルーフでのボトリングです。2015年春には「オールド・ヒッコリー・ストレート・バーボン・ウィスキー(通称ホワイト・ラベル)」が発売されました。こちらはMGPの標準的なエイジングである最低4年から7年熟成のバレルから造られ、歴史的にアメリカのディスティラーが好んだと云う伝統的な「パーフェクト・プルーフ」の86プルーフにて製品化されています。マッシュビルの仔細は公表されていませんが、どちらも同じでコーンとライ合わせて90%、残りがバーリーモルトのようです。ボトリングはオハイオ州シルヴァートンでされました。最近では製品レンジも拡がったようで、341ケースのみの限定リリースながら「オールド・ヒッコリー・ハーミテッジ・リザーヴ・ライ」も発売されました。これは6年熟成で、MGPの95%ライ・マッシュビルの個人選択バレルだと思います。
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では、現代版オールド・ヒッコリーの紹介が済んだところで、最後に飲んだ感想を少しばかり。今回飲んだのは、オールド・バーボン愛好家に評価の高いコンチネンタル製の10年熟成オールド・ヒッコリー。先日まで開いていたボトルが空になったとのことで、新たなストックを開封して頂きました。裏ラベルにイリノイ州レモントの記載がありません。Distilled表記しかないのです。レモントとあるのとないのどちらの方が古いのでしょうか? ご存知の方はコメントよりご教示下さい。ちなみに参考の物は70年ボトリングとされ、「DISTILLED IN PENNA」とあります。
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OLD HICKORY 10 Years 86 Proof
推定70年代ボトリング。クラシックなバーボンという印象。スムーズな飲み口。しっかりとした樽香にバランスのとれたフレイヴァー。キャラメルもスパイスもドライフルーツもハーブも感じられるが、どれも突出しない穏やかな感じ。
Rating:86/100

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オールド・ミスター・ボストンは、禁酒法の終わりに、マサチューセッツ州ボストン近隣のロクスバリーに設立されたベン・バーク・インコーポレイテッドのブランドでした。社名は創業者の二人、アーウィン・"レッド"・ベンジャミンとハイマン・C・バーコウィッツのファミリーネームの前半を繋げたものと思います。彼らはオールド・ミスター・ボストンのブランド名で、ウィスキー、ジン、ラム、ブランディ、コーディアルやリキュールまであらゆる蒸留酒のフルラインを販売していました。
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(1940 Life Magazine)

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またコレクターに知られる記念ボトルやデカンターを様々な形とサイズや素材で販売し、そのレンジにはシンプルなガラス瓶からより精巧な人形やモデルに至るまであります。それらの中でも、おそらく最も有名なのは1953年大統領就記念ボトルでしょう。ボトルの後ろには、それまでの全てのアメリカ大統領のリストがプリントされています。
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蒸留所は1010マサチューセッツ・アヴェニューにあり、1933年から1986年当時の親会社だったグレンモア・ディスティラーズが操業を停止するまでボストン地域の主な雇用主でした。オールド・ミスター・ボストンが活動していた建物は、現在ではボストン市が所有しており、1970年代にその半中毒性のフレイヴァー・ブランディで最もよく知られていたにも拘わらず、皮肉なことに、市検査サーヴィスの本部として使用されている他、ボストン公衆衛生委員会や暫定支援局などの機関が入っているようです。
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(WIKIPEDIAより)

時の流れと共に一連のオーナーシップの変更を通じ、ブランドは変化を被りました。オールド・ミスター・ボストンは1933年の創業から1970年までは独立した事業でしたが、その年にグレンモアに買収されます。当時グレンモアは米国で最大クラスの蒸留酒を製造/販売する会社の1つでした。グレンモアの所有下でも、全ての事業がルイヴィルに移された1986年までは、ボストンの本拠地は操業を続けていました。
1980年頃にグレンモアは、ブランドを現代風にするため、或いは「ボストン氏」をより若い男として描写するため、その渾名から「オールド」をなくしました。ちなみにラベルの印象的な肖像画の人物、ビーヴァー・ハットを被ったディケンジアンのような、ヴィクトリア王朝時代風の紳士に見える「ボストン氏」は架空の人物です。1987年には「ミスター」まで取り除かれ、遂にシンプルな「ボストン」となり、ロゴは飾り気のない「B」になりました。
1991年になると親会社のグレンモアはユナイテッド・ディスティラーズ(現在のディアジオの母体)に買収されます。この期間の業界統合で典型的だったのは、買収する側の企業は大抵の場合、買収した企業の資産の一部しか必要とせず、残りをすぐに売却することでした。ユナイテッドは例に漏れずそうしました。1995年にニューヨークのCanandaigua Wine Co.(後のコンステレーション)傘下のバートン・ブランズが「ボストン」を含む多数の破棄されたブランドを購入し、生産を再開、その時に名前を以前の栄光に似た「ミスター・ボストン」へと戻しました。バートンは、リキュールとコーディアルのラインにこのブランドを使用しています。その後の2009年、バートンの親会社コンステレーションもユナイテッドと同じ事をし、ミスター・ボストン・ブランドを含むバートン・ブランズをニューオーリンズのサゼラック・カンパニーに売却しました。それからはサゼラックが所有し続け現在に至ります。

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「オールド・ミスター・ボストン」の名は蒸留酒のブランドだけでなく、プロ/アマ問わずバーテンダーやミクソロジストに「聖書」として参照された小さな赤い本「オールド・ミスター・ボストン・オフィシャル・バーテンダーズ・ガイド」でも知られています。
禁酒法が廃止されたことでアメリカにバー・タイムとカクテル・アワーは甦りました。ウィスキー、ジン、ラム、リキュール等を取り揃えたオールド・ミスター・ボストン・スピリッツの製造元であるベン・バーク・インコーポレイテッドは、蒸留所が再び営業を開始した禁酒法廃止後の初期段階に「ガイド」を作ることを決めます。オリジナルのガイドはオールド・ミスター・ボストンの購入エージェントであるレオ・コットンによって編纂され、彼は四人の「オールド・タイム・ボストン・バーテンダーズ」と協力してそれを作成しました。ガイドは大成功を収め、初版が1935年に出版されて以降、時代に合わせて改訂と更新を繰り返し、長年に渡って発行されました。レオは本業そっちのけで改訂作業に熱を入れたなんて話もあります。そのガイド・ブックは、史上初のカクテル・ブックでもなかったし、現代的なミクソロジー・ムーヴメントを正確に反映した書物でもないでしょう。けれども伝統主義者には試金石として重要な書物であり続けたのです。
ミスター・ボストンの現所有者であるサゼラックは2016年7月に新しいウェブサイトを立ち上げました。「ミスター・ボストンの本は禁酒法以来、アメリカのカクテルの進化をカヴァーしていますが、悲しいことに何年にも渡ってほったらかしにされていました」とサゼラック・カンパニーの社長兼最高経営責任者マーク・ブラウンは語ります(以下、鉤括弧はマークの言)。サゼラックは自身のカクテル開発における役割からの帰結として、自らの会社の歴史をミスター・ボストンの歴史に統合しました。「私たちの会社とそのブランドの繋がりは、サゼラック・カクテルだけでなく、カクテル・カルチャーの代名詞であるニューオリンズの私たちの伝統とも密接に関連しています。プロフェッショナルとアマチュアのミクソロジストのための〈頼りになる〉サイトとして、少なくとも80年間はブランドの未来を確保するように全てを纏めるのは自然なことでした」。このウェブサイトではオフィシャル・バーテンダーズ・ガイドをデジタル形式で見ることが出来ます。「私たちはスピリッツ業界の人々やホーム・バーでカクテルを作る人々にとって、これが真のリソースになることを望んでいるのです」。
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さて、今回飲んだのは昔のオールド・ミスター・ボストン・ブロンズ・ラベル。ブランドのラインナップの中でもバーボンは一部に過ぎませんが、そのバーボンの中でもブロンズ・ラベルがどの程度の位置付けなのか調べてもよく分かりませんでした。一般的に「ブロンズ」と言うとトップ・クオリティとは考えにくい色と思われますがどうなのでしょう? と言うか、そもそもゴールドとシルヴァーはないみたいなので、なにゆえ敢えてブロンズなのか気になるところです。
私が飲んだボトルのバック・ラベルは、本来、熟成年数が記述されている場所にインポーター・シールが貼られ見えません。ですが、殆ど同じと思われるボトルの他の画像をネットで見てみると、どうやら6年熟成と書かれているようなのです。そしてラベルにはデカデカと「ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」の文字。6年熟成のKSBWならば、ほぼほぼ良質なウィスキーと言って良いかと思います。ただし、ラベルにはケンタッキー州○△□とは書かれておらず、一体どこの蒸留所産かは見当も付きませんが…。

ところで、ラベルに記載された所在地なのですが、マサチューセッツ州ボストンはオールド・ミスター・ボストンの本拠地だから分かり易いですよね。次のジョージア州オーバニーは、あの有名な未熟成コーンウィスキーのジョージアムーンを造っていたヴァイキング・ディスティラリーのことを指しているのも間違いないでしょう。オールド・ミスター・ボストンは60年代初頭にそこを買収しています。で、最後のフロリダ州レイクランド、これが分かり辛い。今でこそ(2000年以降)フロリダ州にも多くのクラフト蒸留所は設立されてますが、一昔前はおそらく一つしかありませんでした。それは1943年に設立されたフロリダ・フルーツ蒸留所です(ライセンス#1)。柑橘類を蒸留してアルコールを造っていたからその名前だったのでしょう。現在はフロリダ・カリビアン・ディスティラーズと知られ、かなり大きな規模の蒸留所らしく、毎年1000万ガロンのワイン、ビール、スピリッツを生産し、自社ブランドに加えてバルク・スピリッツを様々なボトラーや飲料会社に販売、アメリカ南東地域で最大の契約ボトリング施設の一つとして高速生産ラインは年間1500万ケースを生産する能力を持っているとか。75年以上の運営を通じて世界中のほぼ全ての主要なスピリッツ企業のためにボトリングして来たと言います。おそらく昔からスピリッツのバルク販売や契約ボトリングをしていたと思われますが、ここをオールド・ミスター・ボストンが所有していた時代があったのか? それとも単なるボトリング契約を結んだだけなのか? 或いは全く関係ないのか? 誰かご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。では、最後に飲んだ感想を。

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今回はバー飲みです。せっかくバーに来たからには珍しい物を飲みたいと思い、こちらを注文したのですが、先日まではなかった液体の濁りが見られると言うことで、提供を断られてしまいました。しかし、その後マスターの一声で何とか頂くことが出来ました。なので開封したてとはその味わいに大きな変化があるかも知れません。

推定69年ボトリング。かなりフルーティなバーボンという印象。軽やかな酒質ながらしっかりとしたフレイヴァー。時間の経過でフルーツ香からキャラメル香へと変化。多少、酸化した風味に思えなくもないが全然美味しく飲めた。
Rating:83.5/100

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