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(画像提供Bar FIVE様)

ブーンズノール16年は、ケンタッキー州コヴィントンのゴードン・ヒューJr.が所有していたミクターズ・ウィスキー(ペンシルヴェニア1974原酒)をジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が輸出専用としてヨーロッパ市場向けに256本だけボトリングしたものでした。中身は16年物のA.H.ハーシュ・バーボンと同じとヴァン・ウィンクル自身が語っています。A.H.ハーシュ名義の物より本数が少ないせいか、セカンダリー・マーケットではより高価になったりします。世界的に有名な「決して味わえない最高のバーボン」であるA.H.ハーシュについては過去に投稿したこちらを参照下さい。ブーンズノールというブランド自体は禁酒法以前からありました。ジュリアン3世もしくはゴードンがどうしてその名を採用したのかは分かりません。おそらくこのブーンズノール16年と過去のブランドに直接の関係はないと思いますが、今回は興味深いオリジナルのブーンズノールとそれを造った蒸溜所を紹介してみたいと思います。

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ブーンズノールは19世紀後半からE.J.カーリー蒸溜所で造られていたブランドでした。創業者のエドワード・J・カーリーは1836年アイルランドのチュアムで生まれ、子供の頃マサチューセッツに移住しました(1837年にアイルランド移民の両親のもとマサチューセッツに生まれたとの説も)。カーリーの幼少期については殆ど知られていませんが、南北戦争中、マサチューセッツ騎兵隊に志願し、ケンタッキー州に渡ってユニオン・アーミーの購買部門で働いたようです。当時レキシントンとその周辺を押さえていたユニオンは、レキシントンからそう遠くないケンタッキー・リヴァー沿いのジェサミン郡にキャンプ・ネルソン(*)と呼ばれる奴隷解放された黒人を集めて兵士になるよう訓練する目的の施設を建設していました。オハイオ以南で最大のユニオンの拠点であり補給基地でもあったキャンプ・ネルソンに駐屯し、キャンプのために家畜、飼料、穀物などを調達することがカーリーのエージェントとしての仕事の大半を占めていたとされます。
カーリーは戦後もケンタッキー州に留まり、1867年に他の二人とパートナーシップを結んで蒸溜所を立ち上げました。パートナーの一人はミシガン州在住でユニオン・アーミーのコミッサリー・デパートメントのキャプテンだったドワイト・A・エイケンで、もう一人はキャンベルという人だったようです。彼らが蒸溜所のために選んだのはキャンプ・ネルソンのすぐ近く、ケンタッキー・リヴァーとヒックマン・クリークの北岸に位置する場所でした。この地域は開拓時代には重要な場所だったそうで、断崖の切れ目がヒックマン・クリークの河口の下のケンタッキー・リヴァーを渡る浅瀬に通じており、ダニエル・ブーンはここを好んで横断したらしい。それが理由ですぐ傍らの小山はブーンズ・ノールと呼ばれるようになったのでしょう。カーリーらの蒸溜所はブルー・グラス蒸溜所と呼ばれ、連邦政府からの登録番号はケンタッキー州第8区のRD#3でした。このプラントはアイアンにオーク材のラックで建造され、木材は敷地内のミルで製材されました。敷地内には自らのクーパレッジもあり、この地域の豊富なオークを使ってステイヴを供給していたそうです。倉庫にはライトや換気や防火のための最新技術を取り入れていたとされています。また、元々はウッデン・スティルだったのが後に取り壊され、品質管理に有利なカッパー・スティルが使われるようになったとか。彼らの製品はブルーグラス・ウィスキー(バーボンとライ)として販売され、これは「ブルー・グラス」という言葉を初めて商業的に使用した例となり、カーリーは瞬く間にこのブランドをアメリカ全土に知らしめました。何時かは判りませんが、シカゴのバイヤーに8600バレルを現代に換算して1900万ドルで売却したことが記録されたと伝えられます。1872年6月、カリフォルニア州サクラメントの新聞に掲載されたカーリーの地元の販売代理店が出した広告では、生産される酒の量より質により多くの注意を払い、製造に使用する水はケンタッキー・リヴァーの崖にある泉から湧き出る特殊な性質のもので、カーリーのウィスキーは経営者だけが知っているレシピで昔ながらの方法で造られている、と紹介されました。1874年には3人のパートナーシップは解散、エイケンはレキシントンに移って既存の蒸溜所を借り、D.A.エイケン&カンパニーとして1882年に火災と財政問題で閉鎖されるまで操業したらしいですが、キャンベルの方はどうなったかよく分かりません。ともかくカーリーはブルー・グラス蒸溜所の単独経営者となり、自分のウィスキーが全米で愛飲されていることを実感していました。
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(ラス・サットン氏のFacebook投稿より)
1880年頃、カーリーは対岸に立派で頑丈な石造りの2番目の蒸溜所を建設し、鉄骨の橋で連結します。こちらはブーンズ・ノール蒸溜所(第8区RD#15)と命名されました。当時の記録によると、マッシング・フロアーやファーメンディング・ルームの温度は一年中安定しており、配管や機械なども新しく効率的だったとされます。ブルー・グラス蒸溜所は一日600ブッシェルの穀物をマッシングする能力があったものの、その限界まで稼働することはなかったそうで、一方のブーンズ・ノールのプラントは或る時にキャパシティを増やし、1日1100ブッシェル、1日100バレルの生産能力があったようです。この二つの蒸溜所は本質的に一つとして運営され、貯蔵施設は共有されていました。サンボーン・マップや1892年の保険会社の記録によると、敷地内には15の主要な建物、4つの共同倉庫、ワゴン・トレイル、牛小屋や畜舎などがありました。カーリー(もしくはその後の所有者。後述)はE.J.カーリー&カンパニーの名の下でここを運営し、何時しかE.J.カーリー蒸溜所(またはキャンプ・ネルソン蒸溜所とも。サンボーン・マップにそうかれていた)と呼ばれるようになり、最高級のケンタッキー・ウィスキーを安定的に生産しました。主要ブランドはブーンズノール、ブルーグラス・バーボンとライで、他にロイヤル・バーボンというのがあったようです。
禁酒法以前のウィスキーに詳しいジャック・サリヴァンによると、東海岸での販売については、カーリーは限られた生産量の多くをニューヨークのチャールズ・フローブの会社に委ねていたそうです。1880年あたりから1900年代初頭に掛けて酒類卸業で成功を収めた彼の主力ブランドはブルーグラス・ライで、セラミック・ジャグやガラス・ボトルに入れて販売されました。フローブはブルーグラス・ライのブランドを精力的に宣伝し、非常に消化が良いし滋養があり完全に自然であるとして、「身体を活気づけ、吐き気を催さないため、療養に最適。 そのドライネスは糖尿病疾患に先ず必要である」と広告でその薬効を強調したとか。また、当時の多くの販売会社と同じように酒場の客向けにカラーのサルーン・サインを発行し、それにはケンタッキー・リヴァーを望むダニエル・ブーンが描かれたものがありました。しかし、そうしたマーケティングだけではどうにもならず、当時の他の蒸溜所と同様にE.J.カーリー&カンパニーも抑圧的な連邦税法と経済の悪化が重なったことで財政難に陥り、1889年、カーリーの馬と荷馬車は税金未納のため押収されたと言います。同年、カーリーは自分のインタレストを所謂ウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニーに売却し、ニューヨークに移りました。この投資家グループは蒸溜所を買収して準独占状態を作り出すことでケンタッキー・ウィスキーからの利益を急増させようとしていたのです。トラストはカーリーの後任として新しいマネージャーにレキシントンの卸売酒類ブローカーのオーガスト・C・グッサイトを任命しました。トラストによって取得され閉鎖されてしまった多くの施設とは異なり、ブーンズ・ノール蒸溜所は禁酒法の到来によって完全に閉鎖されるまでの約20年間、カーリーのブランドの生産を継続したようです。カーリーの「ビジネスは何年にも渡って急速に成長し、ケンタッキー・バーボン生産の90%を掌握した後、彼は1902年にニューヨークでディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションを設立した」との情報もありましたので、もしかするとカーリー自身がトラストの幹部になったのかも知れませんが、ここらへんの詳細は私には分かりかねます。詳しいことをご存知の方はコメントよりどしどし追加情報をお寄せ下さい。

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(1905年頃の蒸溜所。すぐ左手にカヴァード・ブリッジが見える)

カーリーは、ケンタッキー・フライドチキンのハーランド・デイヴィッド・サンダースやブラントンズ・バーボンの由来となったアルバート・ベイコン・ブラントンのように、ケンタッキー州の名誉職として多くの人に与えられている「カーネル」の称号を何時しか得ていました。明らかに長期的な視野で蒸溜所を建設し運営していた彼は、ウィスキー事業に全力を注いでいたからなのか、結婚していませんでした。そのためでもないでしょうが、彼の晩年は少し寂しいものだったようです。カーネル・カーリーはニューヨークに移った後、ヨーロッパのどこかで事故に遭って脚を失い、数年の闘病生活を経てモンテカルロで1922年に亡くなったとされます。ケンタッキー・ウィスキーで築いた1000万ドルとも伝えられる財産を甥の息子達に遺して。この大金を受け継いだのはマサチューセッツ州ヘイヴリルに住むパトリックとジェイムス・キャニングの二人でした。この幸運を知らされた時、靴職人だった彼らは少しも動揺することも興奮することもなかったと言います。「もう歳だから、我々のやり方を変えるのは無理だよ。25年も靴を作り続けているんだから、これからもずっと続けるさ。家はペンキで塗り替えようかな、あと、もちろん、三人の娘には何でも好きなものを持たせてあげてね」とジェイムス。「そうだね」とパトリックも同意して「私たちはこの幸運を祝って、このまま靴工場に留まるわ」、「大富豪の生活を送るより、靴を作りたい」と語りました。ちなみにエドワードの兄弟M.H.カーリーはボストンの政治家として有名だったようです。

禁酒法の制定により閉鎖されたE.J.カーリー蒸溜所(RD#15)は、立派な石造りの外観を呈し、内部も美しい木材で造られていたため、1923年頃、ケンタッキー・リヴァーと断崖を望むリゾート・ホテルとしてダニエル・ブーン・ホテルへと改築されました。しかし、このホテルは世界恐慌が始まったことで開業することはなく、禁酒法が撤廃されるまで空き家となっていました。一方その頃、残ったウィスキーとブランドはトラストの後継組織であるアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS。後のナショナル・ディスティラーズの母体)が引き継いでいました。同社はドライ・エラにメディシナル・ウィスキーとしてボトリングすることを許可された6社のうちの1社でした。AMSを始めとする彼らは禁酒法によって閉鎖された小規模蒸溜所の酒類を買い取り、自社の集中倉庫に貯蔵していたのです。それらのウィスキーは多くの場合、蒸溜元とは異なる会社によってボトリングされ、医師の処方箋があれば手に入れることが出来ました。
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(禁酒法時代にボトリングされたオールド・ブーンズノールのメディシナル・パイント)

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禁酒法が解禁された後の1934年、グラッツ・ホーキンスらがこの土地を買い取り、蒸溜所の建物を改築して元の目的に戻し、新しい倉庫を建てて、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所という名で操業されることになり、レジスタード・ナンバーも新しくなりました(RD#45)。これはジョージ・T・スタッグのカーライル蒸溜所(第7区RD#2)が1910〜19年に名乗ったのと同じ名前ですが別物です。その後、工場はビル・トンプソンに買収され、F. B.ミッチェルのマネジメントのもとオールド・レイジー・デイズというブランドを追加したらしい。で、ここからなのですが、サム・K・セシルの本によると、トンプソンは1960年代の或る時期にプラントをノートン・サイモンに売却したとしていますし、他の情報源の多くも60年代にこの蒸溜所がノートン・サイモンに売却されたとしています。しかし、ニューヨーク・タイムズの1959年8月14日の記事によると、カナダ・ドライ社(**)はバーボン・ウィスキーの製造会社であるケンタッキー・リヴァー蒸溜所をプライヴェート・グループから買収したとあり、同社は1955年以来ウィスキーを「カナダドライ・バーボン」として自らの商標で販売して来たとありました。そして画像検索では1957年ボトリングの6年熟成とされるカナダドライ・バーボンが見つかりました。カナダ・ドライ社は1950年代以降、製品拡張に努めていたようで、ソフトドリンクを缶で販売することを大手企業としては早い段階に手掛けたり、カロリーゼロかつ砂糖不使用を謳うダイエット製品ラインであるカナダドライ・グラマーを主要な清涼飲料メーカーとして初めて1954年に発売しています。おそらく彼らは1950年代半ばから同ブランドでスピリッツも展開し始め、手始めにバーボンをケンタッキー・リヴァー蒸溜所に委託して生産していたのではないでしょうか? こうした供給元が販売会社によって買収されるのはよくある話です。
カリフォルニアの食品実業家ノートン・サイモン(1907-1993)は、自身のハント・フーズの利益が拡大するにつれ、成長が期待できる他の割安な企業の株を買い始め多角化を図りました。彼は多大な成功と市場支配力を持ち、持株会社のノートン・サイモン・インコーポレイテッドを通じて買収を続け多岐に渡る事業を展開しました(ハンツ・フーズ、マッコールズ・パブリッシング、サタデー・レヴュー・オブ・リテラチャー、テレビ制作会社タレント・アソシエイツ、カナダ・ドライ社、サマセット・インポーターズ、グラス・コンテナーズ・コーポレーション、ユナイテッド・カン・カンパニー、マックス・ファクター・コスメティックス、エイヴィス・レンタル・カーなど)。サイモンは或る時カナダ・ドライにも関心を持ち、彼の会社と合併させました。この取り決めの下でカナダ・ドライは、ワインとハード・リカーのボトラーおよび輸入業者であるサマセット・インポーターズの子会社として役割を果たしたのではないかと思われます。当時サマセットの社長はポール・バーンサイドで、ノートン・サイモン社はケンタッキー州ジェサミン郡ニコラスヴィルのプラントをカナダ・ドライ蒸溜所として運営しました。この蒸溜所でカナダ・ドライのバーボンを蒸溜し、ジンやウォッカを瓶詰めし、ドメックのブランドでブランディも瓶詰めしていたそうです。ちなみにカナダ・ドライのバーボン、ジン、ウォッカは管理州(***)でのみ販売されていたとか。
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60年代半ばからはカナダドライ・バーボンの広告も開始されたらしく、67年の広告では「良い響きの名前はバーボンの世界の伝統です。しかし、良い響きの名前はバーボンの味には何の役にも立ちません。カナダ・ドライはバーボンの味のために何かをしました。我々はそれをより滑らかにしたのです」と語られました。当時はライトな風味が求められる風潮もあってか、滑らかさを強調したのでしょう。しかし、どうやらカナダドライ・バーボンの売れ行きは芳しくありませんでした。サマセットがバーボン・ビジネスに参入しようと考えた時、バーンサイドはカナダ・ドライ・ブランド用のバーボンを必要以上に生産していたようです。しかも、なんでも倉庫の問題で一部のバーボンは品質が悪くカビ臭かったらしい。税金が掛るバーボンの在庫を抱えることは彼らの計画にそぐわず、売れなかった粗悪品を捨てる場所を探すしかありませんでした。1972年、巨大なコングロマリットであるノートン・サイモン社は、ジェファソン郡シャイヴリーにある評判の高いスティッツェル=ウェラー蒸溜所(RD#16)をヴァン・ウィンクル家から買収しました。そこでスティッツェル=ウェラー蒸溜所は暫く生産を停止し、余ったカナダドライ・バーボンの殆どを新たに買収したスティッツェル=ウェラーの最下位製品であるキャビン・スティルというブランドに混ぜ入れ、明らかに悪いウィスキーをカモフラージュしました。そのため伝統あるキャビン・スティル・ブランドは台無しになり、凋落が始まったという話が伝わっています。また、カナダ・ドライのバーボンはスティッツェル=ウェラーのウィーテッド・バーボンとは異なるライ・レシピのバーボンだったようです。正確な時期は判りませんが、カナダドライ・ブランドの終わり間際の短期間、ラベルには「Stitzel-Weller's」との文字が現れました。
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(E.J. Curley & Co.のウェブサイトより)
先のセシルによると、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所は、一時期はエド・キミンズがマネージャーを務め、グラッツ・ホーキンスの甥であるメル・ホーキンスがディスティラーをしており(メルはカナダ・ドライ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーだった)、他にはメンテナンス担当のプラグ・ジョンソン、倉庫管理担当のレイ・クラークなど、長年の従業員がいたようです。ノートン・サイモン下でマイク・ソタクが全体のマネージャーになり、エド・ズィーグラーが化学者、ジーン・ストラットンがオフィス・マネージャーを務めたとされています。そして、この蒸溜所は1971年に操業を停止したとの情報がありました。近くに住んでいた人の話によると、1981年くらいには廃墟となっていたようで、後の1987年頃、どこかの愚か者がその場所を焼き払い、蒸溜所の建物は全焼したそうです。蒸溜所はとうになくなってしまいましたが、ケンタッキー・リヴァーのジェサミン郡側、ハイウェイ27号線のすぐ西にあるキャンプ・ネルソンのリックハウスはまだ残っています。その倉庫は一時期シーグラム社にリースされ、アンダーソン郡の工場(オールド・プレンティス蒸溜所)で生産していたものを同社がロータスに平屋造りの熟成庫を建設するまで保管していました。更にその後はアンダーソン郡のブールヴァード蒸溜所にリースされ、現在でもワイルドターキーが使用しています(注*参照)。

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偖て、ここまでブーンズノールを造っていた蒸溜所の歴史を紹介して来た訳ですが、ブーンズノールというブランド自体はAMSからナショナル・ディスティラーズが引き継いでいるようなので、禁酒法解禁後はケンタッキー・リヴァー蒸溜所では造られなかったのではないかと思います。上画像のオールド・ブーンズノールのラベルはナショナルの製品であることを示しています。製造はピオリアやルイヴィルのナショナルが所有していた施設なのでしょう。但し、これらが実際に販売されたのかどうか私には分かりません。少なくとも、大々的にキャンペーンされたり、長い期間販売されていた形跡はないので、50年代まで生き残らなかった可能性は高いのでは? おそらくナショナルは何時しかこのラベル(名前、トレードマーク)を放棄したのではないかと思います。
そうして長い年月を経て、歴史の塵となって忘れられたブランド名が、ラベル・デザインは全然違うものの、1990年代になって突如として現れます。冒頭で述べたようにジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がゴードン・ヒューJr.のためにブーンズノールの名で16年物のミクターズ・バーボンをボトリングしたのです。繰り返しますが、何故ジュリアン3世がこのブランド名を採用したのか分かりません。このブランドは、彼が祖父の“パピー”から受け継いだラベル帳にコレクトされているのがムック本『ザ・バーボン PART3』の特集記事で確認できるので、ジュリアンがその存在を知っていたのは確実だと思われ、もしかすると名前が気に入っていたのかも知れませんね。それは兎も角、ブーンズノール16年はごく限られた本数しかなかったせいもあり、知る人ぞ知る存在であって、ブーンズノールの大復活とはなりませんでした。

そして、またもや長い年月を経て、バーボン・ブームに湧く現在、なんと新しいE.J.カーリー&カンパニーが発足し、歴史ある蒸溜所をジェサミン郡に復活させると2021年にアナウンスされました。新興E.J.カーリー社の社長マシュー・パーカーは、「ジェサミン郡で唯一の蒸溜所となることを嬉しく思っています。キャンプ・ネルソンとブーンズ・ノールの歴史はコモンウェルスにとって輝く星であり、E.J.カーリー社の元の場所でアメリカのスピリッツの生産を復活させることに感激している」と語っています。彼らは1800万ドルを投じる計画で、プロジェクトの第一段階には500万ドル以上の投資が含まれ、キャンプ・ネルソンのケンタッキー・リヴァー・パリセイズにあるオールド・ダンヴィル・ロード7777番地に、22500平方フィートの施設を建設するとのこと。新しい蒸溜所でのスピリッツ生産は2022年5月までに開始され、テイスティング・ルームも開設される予定だそうです。CEOであるリック・ベイカーは「第2期の1000万ドルの新規設備投資により、生産能力を年間15000から18000バレルに増強し、同じくジェサミン郡に大規模なリックハウス貯蔵施設を建設する予定です」と述べていました。今のところは「E.J.カーリー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のスモールバッチとシングルバレルの2種類が発売されています。ユーチューブのバーボン・レヴュアーが取り上げていたので見たところ、その味わいはなかなか良さそうでした。これらはケンタッキーの何処かの蒸溜所から調達されたものでしょう。
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(新しいE.J.カーリー社のウェブサイトより)
1860年代後半に遡るそもそものE.J.カーリー蒸溜所はジェサミン郡に深く根ざし、周辺地域の住民の家族の多くは歴史的にその会社と結び付いていました。新しい蒸溜所もそうした雇用を創出すると期待されています。我々バーボン愛好家にとっては自社蒸溜原酒がどんな味わいになるのか、今後が楽しみですね。

では、そろそろ最後にジェサミン郡とは取り立てて関係なく、ケンタッキー産ですらないブーンズノール16年を飲んだ感想を少しばかり。こちらは大宮のバーFIVEさんのメンバー制ウィスキー倶楽部にて提供されたものです。マスターとバーテンダーのNさん、いつも貴重なバーボンをありがとうございます!

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(画像提供バーFive様)
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推定90年代初頭ボトリング。色は赤ぽさもオレンジぽさもある艷やかなブラウン。曇ってはいないが、何かの粉でも入ってるのかしらというほど微粒子が見える液体。枯木のような樽の香ばしさ、黒糖のような甘い香りと穏やかなスパイスが薫るエレガントなアロマ。水っぽい口当たり。パレートは香りを引き継ぐがフルーティさがやや足りない。余韻は複雑なハーブ&スパイスとオールドオークのビターな風味が長く続く。ただ、どうもボトリング・プルーフが低すぎる印象はあった。
Rating:88/100


*キャンプ・ネルソンは、アンブローズ・エヴェレット・バーンサイド少将のテネシー州への進軍を支援するため、1863年6月12日に設立され、北軍の補給基地、訓練センター、ホスピタルとして使用されました。名前はウィリアム・ネルソン少将にちなんで付けられています。北軍の指揮者は防衛のし易い場所としてジェサミン郡ニコラスヴィルの南の地を選びました。ケンタッキー州とテネシー州から集められた兵士の訓練施設としても機能しましたが、ユニオンのほぼ全ての州からの部隊がキャンプ・ネルソンに駐屯したり通過したりしたそうで、最盛期には300以上の建物があり、3000人以上の兵士を駐屯させることが出来たそうです。
キャンプ・ネルソンは南北戦争中にケンタッキー州にある8つのアフリカ系アメリカ人徴集センターの中で最大かつ国内で3番目に大きいユナイテッド・ステイツ・カラード・トゥループス(USCT)の徴集センターおよび訓練施設となりました。入隊に関する全ての制限が1864年6月までに撤廃されると、アフリカ系アメリカ人の入隊者数は爆発的に増加。以前は奴隷だった彼らは入隊することで解放され、1864年と1865年で10000人以上の奴隷だった男性がキャンプ・ネルソンで兵士になったと言います。自分達の自由を確保し、最終的には奴隷制の破壊に貢献することで自分の未来をコントロールすることを期待して、何千人ものアフリカ系アメリカ人が奴隷保有州のケンタッキー内に在るこのキャンプに命掛けで逃げ込みました。彼らは妻や子供ら家族を連れてキャンプ・ネルソンにやって来たためキャンプは難民で溢れ返り、この状況にどのように対応するか明確な命令がないままキャンプ指揮官達は自分達の手で問題を解決することを余儀なくされ、1864年、キャンプ・ネルソンの指揮官だったスピード・S・フライ准将は難民の住居を焼き払い強制的に退去させました。避難所も食料もなく多くの人が病気に罹り死んで行ったそうです。北軍幹部とアフリカ系アメリカ人兵士はこの処置に難色を示し、フライはこの命令を取り消して難民キャンプを設立せざるを得なくなりました。キャンプの運営には宣教師たちが協力し、学校や教会のサービスを提供しました。宣教師の中で最も注目されたのは、ジョン・G・フィー牧師です。フィーは奴隷制度廃止論者で、ブリアー・カレッジを設立し難民に入学を勧めました。
キャンプ地の一部は1863年以来墓地として使用され、1866年までに1180人が埋葬されたと言います。南北戦争後、1866年にナショナル・セメテリーと名付けられた墓地はケンタッキー州の他の場所に埋葬されていた北軍死者の再埋葬に使用されました。1866年6月にキャンプ・ネルソン軍事基地は正式に閉鎖されましたが、キャンプと墓地の名残は保存され、現在はアルケオロジカル・サイトとして見学ツアーに開かれています。墓地の反対側には、嘗てシーグラムがフォアローゼズを保管するために使用し、今はワイルドターキーがウィスキーを熟成させている6つのリックハウスがあり、ここの倉庫から産出されるバレルはワイルドターキーで最高の物とされる場合もあってバーボン愛好家には有名です。
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(ボー・ギャレットが提供するワイルドターキーのキャンプ・ネルソン・リックハウスの配置が分かる画像)

**カナダ・ドライ社は1890年代に薬学者/化学者のジョン・J・マクラフリンによってトロントでスタートしたソーダ会社で、1904年にカナダドライ・ペール・ジンジャーエールを造りました。1919年にニューヨークへの出荷が開始され、奇しくもアメリカの全国禁酒法がカナダドライを人気商品にするのを助けました。禁酒に対して真面目な人は酒の代わりにカナダドライを飲み、禁酒に対して不真面目な人は違法な酒を手にした訳ですが、そうした酒の殆どは低品質でまともに飲めたものではなく、それらにカナダドライ・ジンジャーエールをブレンドすると酒の味をカヴァーしてだいぶ美味しくなり飲めるようになった、と。

***アメリカにおけるアルコール規制は、各州ごとに独自の規則があります。飲料用アルコールの規制システムには開放州(オープン・ステイト)と管理州(コントロール・ステイト)の二種類があって、ボトルが消費者の手に渡るまでに異なる経路を辿り、それぞれブランド構築のための異なる戦略が必要とされています。
開放州ではアルコール飲料の販売と流通は民間事業者が行いますが、依然として州議会によって規制されています。規制は主に免許制で行われ、州の裁量でアルコールの売買を許可するライセンスが民間企業に付与されます。開放州で事業を行うメリットは一般的に、リカー・ストアへのアクセスが良くなり、消費者にとって飲料の選択肢が増え、更により多くの商品へのアクセスが可能になるため管理州よりも価格が低くなる傾向があるところ。
管理州では政府機関がシステムの卸売りの側面を担当し民間の小売店に製品を配送するか、殆どの管理州が小売の側面も所有していることが多く、これは通常、州が運営するアルコール飲料管理局(Alcohol Beverage Control Board)の店舗という形で行われます。全ての管理州では、各製品の最低価格が州によって設定され、消費者のための価格が決定されます。一般的な管理州のメリットとしては、州の歳入、アルコール・プログラムへの支援や教育、節度ある消費の促進など。現在のアメリカでは以下の17州が管理州です。
アイオワ
メイン
ミシガン
ミシシッピ
モンタナ
オハイオ
オレゴン
ヴァーモント
ワイオミング
ウェスト・ヴァージニア
アラバマ
アイダホ
ニュー・ハンプシャー
ノース・キャロライナ
ペンシルヴェニア
ユタ
ヴァージニア
また、メリーランド州モンゴメリー郡は管理州制度で運営されていますが、州全体はそうではありません。

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(画像提供Bar FIVE様)

ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は様々な原酒を用いて自身のブランドを構築して来ました。その中で最も有名なのはスティッツェル=ウェラー原酒でしたが、ゴードン・ヒューJr.に依頼されてボトリングしたペンシルヴェニア1974原酒もよく知られています。旧ミクターズ(ペンコ)で蒸留されたそのバーボンについては過去にA.H.ハーシュ・リザーヴ16年の投稿で取り上げたのでそちらを参照下さい。

今回紹介するヴァン・ウィンクル・セレクション16年ロットHに入っているバーボンの出所については、実はジュリアン三世からの決定的な証言がありません。そのため海外ではその使われた原酒については可能性の指摘に留まっていますが、表ラベルに「Kentucky」表記がなく更に「Pot Stilled」とあること、ロットの「H」は「Hirsch」の略ではないかと推測されること、裏ラベルの「Kentucky」表記はインポーターのミスであろうこと、そしてハーシュ・リザーヴに同じボトリング・プルーフが存在することから、個人的にはほぼ間違いなくペンシルヴェニア1974原酒だと思います。恐らくこの16年のセレクションは、コニャック・タイプのボトルに入った「HIRSCH RESERVE 16 YEARS OLD 47.8% ABV」やスコッチ・タイプのボトルに入った「A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD 47.8% ABV」のラベル(ブランド)違いではないかと。また、ヴァン・ウィンクル・セレクション・ロットHには17年熟成もありますが、A.H.ハーシュ・リザーヴにも17年があり、どちらも95.6プルーフと共通のボトリング・プルーフとなっています。これではペンシルヴェニア1974原酒でないことを疑うほうが難しいのでは…。まあ、それは措いて、さっそく注ぐとしましょう。

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VAN WINKLE SELECTION 16 Years Old Lot “H” 95.6 Proof
こちらは大宮Bar FIVEの会員限定ウイスキークラブにて提供された一つで、ハーフショットでの試飲。当方のリクエストに応えて頂いたかたちとなります。マスターの心意気に感謝しかありません。ありがとうございました!

推定90年もしくは91年ボトリング(AHハーシュの情報からの判断)。ハーブ、キャラメル、古い木材、オールスパイス、オレンジ・ティー、ミント。アロマは甘い香りとハーブ&スパイスが混在。パレートは果物で言うとオレンジが感じ易い。スムーズな喉越しだが、飲み込んだ直後のパンチはなかなか。余韻は長く、爽やかなハーブ香とメディシナル・ノートが少々。

サイド・バイ・サイドではないので不確かかも知れませんが、以前飲んだA.H.ハーシュ・リザーヴ16年ブルー・ワックスと同様、基本的にハービーな傾向はある気がしました。現行の4〜6年のバーボンが「子供」味だとすると、こちらは「大人」味と言ったところでしょうか。ペンシルヴェニア1974原酒は長期熟成酒にありがちなウッディ・ノートが出過ぎない完璧なバランスのバーボンと評されたりするのですが、私の個人的な意見では長熟の特徴的なタンニンはかなりあると思います。飲んだことのある皆さんはどう思われますか? ご意見ご感想コメントよりどしどしお寄せ下さい。
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