バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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タグ:ローレンスバーグ

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A.H. Hirsch Reserve 16 Years Old Gold Wax 95.6 Proof
今回飲んだA.H.ハーシュ・リザーヴ16年は、スクワッティなボトル形状にゴールドのワックスでシールされた47.8度の物です。同様のブラック・ワックスの物やブーンズノールよりアルコール度数が高いのが特徴でしょうか。マスターの話では、所謂ブルー・ワックスのハーシュよりこちらの方がリリースが先だったと仰ってました。この伝説のバーボンのバックストーリーは過去に投稿した記事を参照下さい。この「ペンシルヴェニア1974原酒」が使用されたボトルはこれまで何回か飲んで来ましたが、何度飲んでもやっぱり自分の好みではないですね。長期熟成による柔らかい酒質とビターさ、複雑なスパイスとハーブ、枯木のテイスト等は感じ易いものの、私はもっと単純な焦がした樽のスウィートな香ばしさやフレッシュなフルーツ感が好きなので。パレートでの渋みはあまりありませんが、余韻には苦味も感じました。この機会に言ってしまうと、個人的にはこの原酒は過大評価されていると思います。自分の好みは一旦措いて、他の長熟バーボンと比較してみても、それほど際立って優れているようには感じないのです。特別なフィーリングがないと言うか…。ぶっちゃけ下のレーティングは、3点はバックストーリーとレアリティとラベル・デザインに対してです。但し、適切なタイミングで飲んでいれば本当に素晴らしかった可能性はあるのかも知れない。私はボトリングされたばかりの90年代当時に飲んだことがないので、その当時に飲まれたことがある方は是非ともコメント欄よりご感想をお寄せ下さい。いや、当時でなくても飲んで、「そう? めっちゃ旨いよ?」とか「お前の舌がお子ちゃまなんじゃね?」という意見も随時募集中です。まあ、それは兎も角、今になってこのバーボンを飲むということは、「歴史」を飲み「物語」を飲むことであって、味わいは関係ないとは言えるでしょう。
Rating:88/100

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今回は、前回まで開けていたフォアローゼズ産ヘンリーマッケンナの近年ボトルと比べてみようと、90年代の同じくフォアローゼズ産の物を開けてみました。ヘンリーマッケンナにフォアローゼズ産とヘヴンヒル産があることについては以前投稿した記事を参照下さい。

見た目としては、液体の色は画像では伝わり難いと思いますが90年の方が若干濃いめです。ラベルのデザイン自体は変わりないものの、微妙に使われる言葉が違ったりしますね。近年物は「kentucky Straight Bourbon Whiskey」、90年の方は「Kentucky's Finest Table Whiskey」となっています。
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そして、これまた画像では判らないと思われますが、この90年は濁ってこそないものの少々曇りが見られます。それと、現行の安いバーボンには見られない微粒子感もあります。では、さっそく注いでみましょう。

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HENRY McKENNA 80 Proof
推定90年ボトリング(瓶底)。色はアンバー。石鹸、オールドファンク、キャラメル、オールスパイス、ヴァニラウエハース、クローヴ。開けたてはソーピーな香り。水っぽい口当たり。パレートはドライで微妙な収斂味も。余韻にも爽やかな清涼感と石鹸ぽいフローラルが。
Rating:77→83.5/100

Thoughts:初めに述べたように近年物と90年物を比較しようとしていた訳ですが、残念なことにこちらのボトル、石鹸の香りが強すぎて較べる対象としては適していませんでした。友達にも飲んでもらったところ「俺的にはそんな悪くないけどね」と言っていたので、大丈夫な人には大丈夫なんでしょうけど、私的には飲み物としてここまで石鹸の香りがするのは好みではありません。また、オールドなファンキネスも強過ぎました。そうした部分を抜きにして言うと、アルコール刺激は少なく、フレイヴァーの密度も近年物より優れていたとは思います。邪魔な臭いがあるとは言え、こちらの方が断然、熟成年数が長そうなダークなテイストは明らかに感じられたので。70〜90年代バーボンには、エントリー・クラスの物にも有り余っていた長熟バレルをブレンドしていたと聞き及ぶのですが、正にそんな感じのコクのある味わいです。但し、甘さとフルーティさはそれ程でもなく、ビターかつドライに傾いてはいます。

…と、ここまで否定的に書いていたのですが、開封から少しづつ飲み1年が経過すると石鹸臭が消えまして、急に美味しく感じるようになりました。上の点数の矢印はそれを示しています。

私が近年物と旧来物を比較したかった背景には、フォアローゼズ蒸溜所の製法が関わっています。周知のように同蒸溜所では現在、2つのマッシュビルとキャラクターの違う5つのイースト菌を使って10種類の原酒を造りますが、それは一体いつから始まったのでしょうか? フォアローゼスは1943年にシーグラムの傘下に入りましたが、シーグラムは酵母の研究に余念がなかったと言われるので、その当時から行われていた製法なのでしょうか? それらははっきりしません。けれど、近年物と90年物を比較することで何か見えることもあるのではないか、と考えていたのです。えー、結果は…よく分かりませんでした(笑)。すぐ上に書いたように長熟ぽさは感じたものの、マッシュビルが「E」なのか「B」なのか、はたまた混合なのか、イーストは何なのか、までは私には全く感じ取れませんでした。強いて言えば、この頃の物を飲んでもハイ・ライぽい印象は受けましたが…ただそれだけです。
以上のような訳で、昔のフォアローゼズ蒸溜所の事情に精通している方はコメント欄よりご教示頂けると幸いです。あと昔のボトルを飲んだことのある方はどういう感想をもったでしょうか、またバーボンの石鹸香についての体験談や考察なども、是非コメント欄よりどしどしお知らせ下さい。

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たまたまオールド・マクブレヤーの禁酒法時代のメディシナル・パイントが手に入りました。ここ日本で話題に上ることは殆どありませんが、マクブレヤーの名はバーボンの歴史に於いて重要かつ偉大な名前の一つであり、そのブランドと名前は現代に復活を果たしています。そこで今回はマクブレヤー家とそのウィスキーに就いて見て行きたいと思います。

バーボンの世界でマクブレヤーと言えば、ローレンスバーグ出身のW・H・マクブレヤーです。彼は郡で最初の裁判官として有名で、上院議員でもあり、プレスビテリアン(*)の長老であり、慈善家としても活動しました。ディスティラーとしては、ケンタッキー州のバーボン革命が始まったばかりの頃にアンダーソン・カウンティが蒸溜産業で繁栄するための道を啓いた蒸溜所を運営し、禁酒法施行前の最も有名なウィスキー・ブランドの一つを生み出し、ケンタッキー・バーボンの名声を世界に広めた初期の功労者であり、カーネル・E・H・テイラー・ジュニアやT・B・リピーと関係をもち、W・B・サッフェルを雇い、チャールズ・M・デドマンを支援した人物でした。先ずは通称 「ザ・ジャッジ 」として知られた男のレガシーから紹介しましょう。
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(Judge W. H. McBrayer)
ウィリアム・ハリソン・マクブレヤーは、1821年12月10日、ケンタッキー州アンダーソン郡はローレンスバーグの近くに住むスコットランド系開拓者一家の11人の子供のうちの一人として生まれました。祖父がブルーグラス・ステイトの初期入植者で、父親のアンドリューは農場を営む著名な市民であり同郡の代表を何期か務めた政治家でもありました。彼らが既に自分の土地で小さな蒸溜所を経営していた可能性はあるかも知れません。ウィリアムは地元で教育を受け、早くからビジネスの才能を発揮していました。18歳の時、ローレンスバーグで二人の兄と共に雑貨屋(乾物商とも)を営み成功すると、軈て彼らから店を買い取って単独経営者となり、その後30年間店を切り盛りしたと云います。更にはキャトル・バイヤーとして飼育と販売にも勤しんだそう(ミュール・トレーダーという情報もあった)。
ウィリアムは一族の伝統を受け継いで1844年にディスティリング・ビジネスに参入し、ローレンスバーグの東1.5マイルに位置する場所に工場を設立しました。蒸溜所を建設した土地はウィリアムがライアン家の元奴隷アンクル・デイヴから購入したものでした。ライアン家には相続人がおらず、農地と土地は彼らが亡くなる前に解放した元奴隷のデイヴに遺贈されていたのです。そこはシダー・ランと呼ばれる曲がりくねった小川沿いの美しい土地でした。後のウィスキー・ラベルに描かれるその場所はロマンチックな景色を有していましたが、蒸溜所は当初「原始的な丸太の掘っ立て小屋」と表現される程度のものだったようです。この蒸溜所(第8区RD#44)のウィスキーは「W.H. McBrayer Hand Made Sour Mash Whiskey」というラベルが付けられ、早くもマクブレイヤーの名はケンタッキー州で最高品質の製品を製造していることで知られるようになりました。
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1848年、ウィリアムは6歳年下で同じくアンダーソン郡のヘンリエッタ・デイヴィスと結婚しました。ケンタッキー軍がメキシコ戦争に出征する際、ヘンリエッタは「アンダーソンの最も美しい娘」に選ばれ、郡の若い女性達が作った旗をプレゼントする役を担ったのだとか。1851年になるとウィリアム・H・マクブレヤーはアンダーソン・カウンティの初代判事に選出されました。彼は3年間郡判事を務め、公職を離れた後も人々はウィリアムを単に「ジャッジ」と呼び続け、その肩書きは生涯を貫きました。この呼び名は地域社会のリーダーとして愛された彼の役割を反映したものだったのでしょう。しかし、その同じ年に、僅か3年の結婚生活だけでヘンリエッタが亡くなるという悲劇が起きました。ジャッジは悲しみに打ち拉がれたものの、政治家としてのキャリアも追求し、1856年にはアンダーソン郡とマーサー郡の州上院議員に選出され、その後4年間務めています。同年、彼はヘンリエッタのファースト・カズンのメアリー・エリザベス・ウォレスと再婚し、二人の間には一人の娘が生まれました。上院議員に当選したばかりのウィリアムでしたが、彼の多忙な政治家としてのキャリアはウィスキー・ビジネスの発展を止めることはなく、この時期に蒸溜所の経営も本格的に取り組み始めました。スティルを収納するための新しいフレーム・ビルディングや金属被覆のウェアハウス3棟、また他に別棟も建て、蒸溜所は大きく拡張されます。
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同じ頃、伝説によればジャッジは、妻メアリーの助言に従って蒸溜所の名前をシダー・ブルックに変更しました。敷地内に聳え立つ崖を覆い、川沿いに立ち並ぶ杉の密生から着想を得たと言われています。シダー・ブルック蒸溜所とブランド名の誕生です。蒸溜所の拡大によりジャッジは高品質のウィスキーを造って広く販売することに専心するようになり、シダーブルックは軈て「世界で最も有名なブランド」と知られるまでに成長し、全てのボトルに最高品質の証としてマクブレヤー家の名前が誇らしげに表示されるようになりました。彼は蒸溜の全工程で労力もコストも惜しまず、その品質に大きな誇りを持っていました。最高の穀物を選び、純粋なライムストーン・ウォーターを使い、敷地内の最も高い丘にあるウェアハウスにバレルを貯蔵して豊かな風味を得るために辛抱強く熟成させるなど、自身のブランドを製造するために最大限の努力を払ったと伝えられています。こうして1861年、シダーブルック・ブランドが初めて商業的に使用されたことが記録されました。南北戦争中もシダー・ブルック蒸溜所は繁栄を続け、ジャッジのバーボンの噂は全国に広まりました。
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この成功に促されたのか、ジャッジはT・B・リピーと手を組み、南北戦争後の1868年にジェイムズ・リピー及びパートナーのモンロー・ウォーカーとサム・P・マーティンが立ち上げたウォーカー, マーティン・アンド・カンパニーのタイロンの蒸溜所(RD#112)を1869年に購入しました。しかし、何故か翌年にジャッジは自分のシェアをパートナーのT・Bに売却しています。単なる後進への支援だったのでしょうか? T・Bは後にそこをクリフ・スプリングス蒸溜所と改名して、同じくタイロンのクローヴァー・ボトム蒸溜所(RD#418)と共に運営し、アンダーソン・カウンティの蒸溜王となって地場産業を支えました。
1870年、ジャッジは幾らかの追徴課税を支払う必要があり、その資金を調達するためにバレルの一部を売却することを希望していました。E・H・テイラー・ジュニアは、ケンタッキー州で最高のウィスキーが造られているのはケンタッキー・リヴァー流域だと考えており、また、その地域で最高のウイスキーを造っているのがマクブレヤーであると信じてもいました。そこでジャッジは11月10日にテイラー・ジュニアへ手紙を出して事情を説明しました。テイラーはマクブレヤーからバレルを購入することを喜んだそうです。
ジャッジが製造した全てのシダーブルックは、オハイオ州シンシナティのジェイムス・レヴィ・アンド・ブラザーズが全国的に販売する独占契約を結んでいました。この当時、独占的な取引は一般的なもので、消費者を見つけるという課題は製造業者ではなく販売業者にありました。レヴィ社の努力もあってか、このブランドとW・H・マクブレヤーの名はケンタッキー州の最高級バーボンの代名詞として世界的に知られるようになって行きます。ジェイムス・レヴィ・アンド・ブラザーズはウィスキーの大手流通業者で、毎年数百バレルを仕入れており、テイラー・ジュニアのオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所とも取引があったそう。更に彼らはジャッジのセカンド・カズンであるジョン・H・マクブレヤーからも仕入れを行っていました。
ジョンは1826年6月17日にローレンスバーグで生まれ、地元で教育を受けた後、メキシコ戦争に従軍し、「ソルト・リヴァー・タイガース」として知られる中隊の隊長としてブエナ・ヴィスタの戦いで勇敢な突撃を指揮したと云います。アメリカン・アーミーで最年少のキャプテンだったらしい。戦争終結後、ケンタッキー州に戻り、1848年にハモンズ・クリーク沿いにJ.H.マクブレヤー蒸溜所(RD#125)を立ち上げると、優れたウィスキー造りを始めました。1870年には、マウント・スターリングから少し離れたニュー・マーケットのコミュニティでグリスト・ミルから蒸溜所に改築された施設をハワード, バーンズ&カンパニーから購入し、オールド・マクブレヤー蒸溜所(モンゴメリー郡第7区RD#17)として操業。数年後にジャッジ・W・H・マクブレヤーに売却され、次いでジャッジは1881年にW・W・ジョンソン&カンパニーに売却しました。ジョンソンは1885年にE・H・テイラーとメイヘアーに売却します。二人はテイラー&メイヘアーの名の下で操業し、ブランドには「オールド・マクブレヤー」、「ニュー・マーケット」、「W.W.ジョンソン」、「オールド・ボッツ」等があったそうです。ジョンソンは1888年に工場を買い戻し、1907年まで経営した後、シカゴのローゼンフィールド・ブラザーズ&カンパニーに売却しました。同社はオールド・マクブレヤー・ブランドを保持し、蒸溜所の3つのウェアハウスには約42000バレルの収容能力があり、禁酒法施行までこの工場を運営していたそうですが、その後閉鎖され一部は解体されました。オールド・マクブレヤーのブランドはアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーに買収され、禁酒法時代にも広く販売されました。蒸溜所は1937年にマクブレヤー・スプリングス・ディスティリング・カンパニーとして再建され、フランク・ゴーマンが社長、G・M・"フレッド"・フォーサイスが施設監督、ルイ・ボンドがディスティラーでした。ゴーマンは1907年以前にも管理責任者を務めており、フォーサイスはその少し前までハリソン郡のオールド・ルイス・ハンター蒸溜所(RD#15)の事務/会計やアンダーソン郡の幾つかの工場とマーサー郡のオールド・ジョーダンでも管理責任者として働き、ボンドは1907年以前はW・W・ジョンソンと共に経験を積んでいたそうです。残念ながら、この蒸溜所は数年で閉鎖され、建物は後に建築骨材工場として使われたとか。
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ジャッジのシダーブルック・バーボン及び蒸溜所は繁栄を続けていましたが、その名声が国際的な高みに達する時が来ました。1873年、マクブレヤーのウィスキーがオーストリアのヴィエナで開催された万国博覧会で金賞を受賞したのです。3年後の1876年にはアメリカ初のワールズ・フェアーであるフィラデルフィア・センテニアル・エクスポでも金メダルを獲得しました。この時にディスティラーのニュートン・ブラウンには金時計が贈られたそうです。こうした評価の高まりはマクブレヤー家を更に裕福にしたのでしょう、その頃にジャッジとメアリーは町のメイン・ストリートに位置するローレンスバーグで最も大きな家の一つへ引っ越しました。ちなみに、後年の1884年にルイジアナ州ニュー・オーリンズで開催された世界産業および綿花百年博覧会(World’s Industrial and Cotton Centennial Exposition)でも金賞を受賞しました。シダーブルック・バーボンは「ワールズ・チョイス」と謳われ、「ヨーロッパの王侯貴族をスコッチからケンタッキー・バーボンに転向させたウィスキー」として知られるようになり、当時市場で最も売れたバーボン・ブランドだったと言われています。需要の増加に伴い、1880年にシダー・ブルック蒸溜所に新工場が建設され、生産量は増えますが、ジャッジは常に自分の製品の品質に拘り続けました。膨大な需要に対応するため、マクブレヤーの蒸溜所は1日あたり570ブッシェルをマッシングするまでに生産量が急増しますが、ビジネスが急成長するにつれてマクブレヤーの名前を盗用し始める者もいました。世界的に有名になったウィスキーを守るためにジャッジは、シダーブルックの各ボトルに自分の名前を入れたり、声明を発表したりしました。「多くの悪徳ディーラーがケースやボトルにマクブレヤー・ウィスキーとブランディングして粗悪なウィスキーを市場に出しているのを私は観察している。執拗で恥ずかしげもないこのような乱用は、私自身の本物の世界的に有名なウィスキーの評判を不当に傷つける恐れがある…(ボンフォーツ・ワイン・アンド・スピリッツ・サーキュラー、1882年12月10日掲載)」と。

30年以上に渡り蒸溜所の舵取りをして来たウィリアム・ハリソン・マクブレヤーは、1888年12月6日、67歳でこの世を去りました。彼には高貴な心、明晰で遠くを見渡す頭脳、そして強く寛大な心が備わっており、裁判官として法廷に立とうと、州上院の議員として、マーチャントとして、キャトル・ディーラーとして、或いはディスティラーとして、全ての人を公平に扱い、全ての人に正義を行うという願いを持って、自分のベストを提供したと伝えられます。ジャッジのレガシーはケンタッキー・バーボン造りに根ざしていましたが、実際には地域社会の発展に貢献した何でも屋さんと言うのか街の名士であり、ウィスキーは彼の手掛けた事業の一つに過ぎなかったのかも知れません。逝去当時に「彼の善行を語れば何巻にもなる」と言われるほど教会の活発なメンバーだったジャッジは、後にケンタッキー州ダンヴィルのセンター・カレッジと合併したセントラル・カレッジ・オブ・リッチモンドに多額の寄付(現在の貨幣価値で推定60万ドル相当)をしたそうです。また、彼はルイヴィル・サザン・レイルロードをアンダーソン郡に誘致する手助けもしました。鉄道がローレンスバーグと他の州を結ぶ原動力になることを信じていたジャッジはこのプロジェクトの理事を務め、亡くなる数ヶ月前の1888年に鉄道が完成すると、家族と共にローレンスバーグ行きの列車で旅行をした初めの一人となったようです。この鉄道への彼の影響から、ローレンスバーグの数マイル南にある地域(フォアローゼズ蒸溜所のある周辺)は「マクブレヤー」と命名され、ボンズ・ミル・ロードと鉄道の交差点には嘗てマクブレヤー・レイルロード・ステーションがありました。また、フォアローゼズ蒸溜所の道路向かいにあり、1976年にオースティン・ニコルス社がシーグラムから取得した倉庫施設は、現在ワイルドターキーのマクブレヤー・リックハウスと知られていますが、その名前は地元の呼称から来ているので、元を辿ればジャッジ・マクブレヤーから由来しているでしょう。

ところで、現代に蘇ったブランドの一つにケンタッキー・アウルがありますが、ジャッジはそのオリジナルを造った蒸溜所と関わりがありました。1880年以前に建てられ、ケンタッキー州オレゴン(ローレンスバーグの南方のサルヴィサから東へ数マイルの場所)のケンタッキー・リヴァーのフェリー乗り場近くで操業されていたケンタッキー・アウル蒸溜所(マーサー郡第8区RD#16)はチャールズ・モーティマー・デドマンが運営しており、彼はディクソン・デドマンとメアリー・マクブレイヤー・デドマンの息子で、メアリーはジャッジ・マクブレヤーの妹でした。成功の頂点に立っていたジャッジは一族の生得権を分け与えたのか、甥で養子のチャールズが自分の蒸溜所とバーボン・ブランドを設立できるよう必要な土地と資金を贈ったそうです。蒸溜所は1916年まで操業しその後に閉鎖。C・M・デドマン氏は1918年に死去しました。義父母が宗教上の理由から酒類に反対していたため再開されることはありませんでした。また、彼は薬剤師でもあり、ハロッズバーグでドラッグ・ストアを経営していましたが、そちらは同じく薬剤師だった息子のトーマス・カリー・デドマンが後を継ぎました。彼らは義理の両親を尊重して禁酒法時代には処方箋によるウィスキーの販売を断ったと云います。
また、近年カンパリからウィスキー・バロンズ・シリーズの一つとしてリリースされた「W.B.サッフェル(**)」も、ジャッジ・マクブレヤーと縁の深い人物です。ウィリアム・バトラー・サッフェルの名前はカンパリのウィスキーが発売されてそのレガシーが紹介されるまで殆ど忘れ去られていましたが、自身の蒸溜所のウィスキーは当時かなりの成功を収めた他にも、長年ローレンスバーグ・ナショナル・バンクのヴァイス・プレジデントとディレクターを務めるなど、彼は19世紀後半に名声を得たローレンスバーグの名士の一人でした。1843年8月28日生まれのサッフェルは、1700年代後半にケンタッキー州ルイヴィルとレキシントンのほぼ中間に位置するアンダーソン郡に定住した開拓者一家の一員でした。南北戦争の終結から3年後、25歳のサッフェルはアンダーソン・カウンティのユナイテッド・ステイツ・レヴェニュー・ストアキーパーとして雇用されたそうです。このようなエージェントはゲイジャーとも呼ばれ、地域のディスティラー達が支払うべき酒税の査定を担当していました。この職業に就いたことで、サッフェルは6年間の勤務中に担当地区内の各蒸溜所の設備や工程の知識を得、更にその経営者らと顔馴染みにもなったのでしょう。1874年、サッフェルはウィスキー・リングと呼ばれる一大スキャンダルが露呈する数ヶ月前に職を辞しています。その直後、サッフェルはジャッジ・マクブレヤーの下で働くことになりました。彼はマクブレヤーのイースト・メーカーでした。ウィスキーにとって酵母は非常に重要な風味成分となりますから、おそらくジャッジのバーボンの成功にサッフェルは大きな役割を果たしたと思われます。二人は非常に親密だったようで、サッフェルには6人の娘と1人の息子がいましたが、その長男にフランクリン・マクブレヤー・サッフェルと名付けていました(残念ながら幼児期に亡くなっている)。そのうちジャッジはサッフェルを今で言うマスター・ディスティラーである蒸溜所の監督役にしました。ジャッジが亡くなって1年後の1889年、サッフェルは20年間働いたマクブレヤー蒸溜所を辞めて独立し「自分の小さな製品」を造る道を歩み始めます。彼はローレンスバーグのすぐ北西、オルトン(アルトン)近くのハモンド・クリークのほとりのサザン・レイルロード沿いにW.B.サッフェル蒸溜所(RD#123)を建て、ウィスキーを造り始めました。その工場は年間385バレルのバーボンを生産したとされます。1903年の記録によると、2つのアイアンクラッドのボンデッド・ウェアハウスは21000バレルを貯蔵するキャパシティだったそう。自分の名前が付いたウィスキーにはセラミック・ジャグとガラスのボトルかあり、瓶のラベルは熟成中のバレルが並んだ倉庫を描いた物でした。彼のウィスキーはシダーブルック等に匹敵する人気があったようで、獲得した高い評判はビジネスを成功に導き、他のアンダーソン郡の成功したディスティラーと同じように堂々たる邸宅を建てました。リピー・ファミリーの邸宅ほど大きくはありませんでしたが、その造りは立派なもので現在は葬儀場となっているそうです。また、町の近くに500エーカーの農地も所有していました。ウィリアム・バトラー・サッフェルは1910年8月31日、67歳で亡くなりました。死後間もなく、ローレンスバーグの中心部にある通りはサッフェル・ストリートと名付けられました。現在でもその横にはサッフェル・ストリート・エレメンタリー・スクールがあります。サッフェルの相続人たちはプロヒビションの到来まで工場を経営し続けましたが、その後復活することはなく、その扉は永遠に閉じられました。そして、蒸溜所の建物とブランドは軈て時の流れの中で失われたのでした。しかし、往年のディスティラーを称えるウィスキー・バロンズ・コレクションに含まれたことで、サッフェルの名は再びバーボン愛好家の知るところとなった、と。
ケンタッキー・アウルとW.B.サッフェルという二つの現代に蘇ったラベルは、マクブレヤーのレガシーを継承していると言ってよいかも知れません。
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ジャッジ・マクブレヤーの死後、親族間の争いが起こりました。ジャッジは生前、シンシナティのレヴィ&ブラザーズと契約し、1891年12月1日まで既存の全てのバレルと将来生産される全ての蒸溜酒を売却することを約束しており、そのため蒸溜所は基本的に生産契約を履行するために操業されなければなリませんでした。彼は遺言の第9項で、自分の死後3年間は相続人がマクブレヤーの名で蒸溜所を運営してもよいが、その後は自分の名前を事業から完全に抹消することを望んでいました。これはジャッジが酒を嫌うプレスビテリアンの長老であったことと、個人的に絶対禁酒主義者であったことに起因していると推測されています。それに加え妻のメアリーも、その収入源を考えると少々皮肉なことに、アルコールには強い抵抗感を抱いていたようです。遺言書には遺言執行者たちの間で意見が対立した場合には、妻に遺産の決定に於いて最も重要な役割を与えるべきであるとも書かれていました。
ジャッジの一人娘ヘンリエッタは、同じく蒸溜業者でマーサー・カウンティのバーギン近くに蒸溜所を所有するダニエル・ローソン・ムーア(***)と結婚していましたが、既に若くして1882年10月30日に31歳で亡くなっていました。彼女とムーアには3人の子供、メイ、ウォレス、ウィリアムがいました。蒸溜所はこの三人の孫が引き継ぎ、ジャッジの義理の息子であるムーアが遺言の共同執行者として経営に当たりました。ジャッジの未亡人は蒸溜所からマクブレヤーの名前を剥奪し、孫娘達が貴重なシダー・ブルックの商標を使用することを禁止する条項の施行を望みましたが、ムーアは蒸溜所の経営者として、またジャッジの遺言の共同執行者として、この条項を無効化しようと試みました。メアリーは彼を法廷に引っ張り出します。ムーアは1894年4月の訴訟で、マクブレヤーの名前はジャッジの孫にとって少なくとも20万ドル(今日の数百万ドル)以上の価値がある商標であり、この条項で許可された3年を超えて存続させるべきだと主張。下級裁判所がメアリーの主張に同意すると、ムーアはケンタッキー州最高裁判所に上訴しました。そこの判事達はマクブレヤーのシダー・ブルックをよく知っていたのか同情的だったようで、ジャッジ・マクブレヤーは非常に賢明でとても聡明なビジネスマンであり、彼の真意では蒸溜所を3年以上運営することを望まなかったかも知れないが、孫娘達が新しい事業体を設立して蒸溜所を運営することは問題なく、もちろん貴重なマクブレヤーとシダー・ブルックの名称は引き続き使用されるべきである、としました。基本的に裁判所は、愛する孫達に不利益を与える意図はなかったというムーアの意見に同意し、マクブレイヤーとシダー・ブルックの名前は余りにも価値が高く、無駄にすることは出来ないと判断したのです。こうして遺言は却下され、ムーアと孫達にはバーボンに関連するマクブレヤーの名前を残すことが許されました。ジャック・サリヴァンは、もしムーアがジャッジの遺言に異議を唱えなければシダーブルックやマクブレヤー・ウィスキーの名が後世に残らなかったかも知れないと云うような趣旨の発言をしており、この件の彼の行動を称賛しています。

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保険記録では、この頃の蒸溜所の所有者はシダー・ブルック・ディスティラリー・カンパニー、D・L・ムーアが運営とされ、蒸溜所は石造りで、敷地内には金属またはスレート屋根のフレーム構造のボンデッド・ウェアハウスが3つ(A, B, C)蒸溜所から約1マイル北にあり、同様の構造のフリー・ウェアハウスが305フィート東にあったようです。ムーアは子供達に代わってシダー・ブルック蒸溜所の経営を続けた後、1899年、最終的に蒸溜所をウィスキー・トラスト(****)であるジュリアス・ケスラーのケンタッキー・ディスティラリーズ・アンド・ウェアハウス・カンパニーに売却しました。何故ムーアがトラストに売却したのかはよく解りませんが、彼が引き続き施設を管理したという情報もありました。トラストが工場を買い取ると1日800ブッシェルから1800ブッシェルに拡張し、更に新しい倉庫とボトリング・ハウス、ケンタッキー・リヴァーまでの2.5マイルのラインを持つ冷却水用のポンピング・ステーションを追加しました。一方、この頃には「オールド・ジャッジ」という言葉が広くウィスキーと結び付くようになっており、この言葉を使った多くのブランドが誕生していたようです。ケスラーはシダー・ブルックを「世界で最も有名なブランド」とし、W・H・マクブレヤーの名前を冠し続け、その遺産を守ることに専念しました。マクブレヤーの評判を上手く利用して、ジャッジが築いた基盤をより強固なものとした訳です。
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最盛期には、シダー・ブルックは世界最大の販売を誇るファイン・ケンタッキー・ウィスキーのブランドとして宣伝され、汎ゆる一流クラブ、バー、レストラン、ホテル、および大手ディーラーで販売されました。しかし、当時の多くの蒸溜所と同様にシダー・ブルック蒸溜所は禁酒法のために閉鎖(1916年までという説も)され、1922年に解体されてしまいます(禁酒法開始時に壮絶な火災に遭い焼失したという情報もありました)。閉鎖後に蒸溜所の礎石が開かれると、そこから埃を被った遺物が幾つか見つかりました。希少なオールド・ウィスキーのボトルが2本、少額のお金、古い新聞、そしてマクブレヤーに関する手紙と蒸溜所で働いた42人の名前のリストが入ったガラス瓶です。従業員のリストには経営者のW・H・マクブレヤーや管理人のW・B・サッフェルを始めとして様々な職種の人々が記載されていました。シダー・ブルック蒸溜所はアンダーソン・カウンティのウィスキー産業を一から築き上げ、地元住民の雇用を創出していたのです。

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上の画像はケヴィン・コスナーとショーン・コネリーが共演する禁酒法時代を舞台にした1987年の映画『ジ・アンタッチャブルズ』の宣材写真かオフショットを使ったポスター?か何かだと思うのですが、二人の後ろにはオールド・マクブレヤーの大量の箱が見えます。映画の中ではポスト・オフィスへの初めての「襲撃」のシーンでチラッと映ってたように思います。禁酒法はアメリカ国内でのアルコールの製造と販売を非合法化しましたが、薬用の処方箋や特別な配給品は免除されていました。オソ・ワセンによって設立されたアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)は、そうした状況を上手く利用した企業の一つでした。シダー・ブルックもオールド・マクブレヤーも禁酒法時代にAMSによって製造されました。禁酒法時代のメディシナル・ウィスキーのブランド名は実際にその蒸溜所と一致していないことが殆どでした。それを念頭に置いて、誰がウィスキーを蒸溜し、誰がボトリングしたかを見てみましょう。画像検索ですぐ見つかる物には、シダー・ブルックのブランドではクック=マクファーデン・カンパニーがボトリングした物(参考1)と、AMSがS.P.ランカスターの原酒を詰めた物(参考2)があります。オールド・マクブレヤーのブランドの方はかなり多く見つかり、H・S・バートン(グレンモア蒸溜所デイヴィス郡第2区RD#24)、メルウッド蒸溜所(ジェファソン郡第5区RD#34)、アレン=ブラッドリー・カンパニー(ジェファソン郡第5区RD#97)、ザ・アンダーソン・ディスティラリー・カンパニー(同上)、ザ・ネルソン・ディスティラリー(ジェファソン郡第5区RD#4)、ハリー・E・ウィルケン(エルク・ラン蒸溜所ジェファソン郡第5区#368)、ジョセフ・シュワブ・ジュニア(ファーンクリフ蒸溜所ジェファソン郡第5区RD#409)、E.L.マイルス&カンパニー(ネルソン郡第5区RD#146)、J.N.ブレイクモア(ウィンザー蒸溜所ラルー郡第5区RD#36[一時期のアサートン蒸溜所])、ウィリアム・ター・カンパニー(フェイエット郡第5区RD#1)、ヘンリー・クレヴァー(ヘンダーソン郡第2区RD#50)とラベルや封紙に記載された物がありました。他にもあるのをご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。上に列記したのは、なにぶん解像度の低い画像を拡大して視認しただけなので間違っている可能性があります。こちらに関しても誤りはどしどしコメントよりご指摘ください。また括弧内は、ラベル及びストリップが読み取れた物に就いてはそのまま書き出しましたが、大部分は名前から推測される蒸溜所を私が補足したものです。ブレイクモアやターは会社の名前として使われただけで、ウィスキーは他の蒸溜所からかも知れません。これらは概ねトラストが買収した蒸溜所でした。ボトリングは大体がR.E.ワセンのNo.19か、エルク・ランの巨大なNo.368の集中倉庫。あと、これらの幾つかは34年ボトリングと記載があり、禁酒法解禁の直後にリボトルされた物と思われます。上記の社名のうち、アンダーソン&ネルソンやアレン=ブラッドリー及びエルク・ランは同じ敷地にある複合施設でした(*****)。兎も角、これだけ種類が豊富なところを見ると、オールド・マクブレヤーは禁酒法時代、最も人気のあったウィスキーの一つだったと言っても過言ではないでしょう。
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禁酒法が解禁された後のマクブレヤーのブランドは、AMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズが販売したと思われるのですが、この時期のシダー・ブルックは画像検索で殆ど確認できず、見つかったのはブレンデッドくらいでした。もしかするとブランドの復活に力を入れられなかったのでしょうか。どういう経緯か分かりませんが、マイケル・ヴィーチによると、シダーブルックは一時期シェンリーがボトリングしたブランドになったが1970年代には消滅した、と書いていました。オールド・マクブレヤーの方はもう少し見つかりまして、確認できるところではグリーン・ラベルの3年や4年の短熟物、多分もう少しあとのブレンデッドがありました。
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すぐ下で紹介するマクブレヤー・レガシー・スピリッツを創業したビル・マクブレヤー4世によれば、1970年代にナショナル・ディスティラーズが製造し、シンシナティでボトリングされたオールド・マクブレヤーのブレンデッドがあり、それは酷いもので、彼が子供の頃に父親はホリデイ・シーズンになるとそれを客に配ったがすぐに返された話をよく聞いたと云う…。それは、どうやら80年代初頭までは細々と生き残ったようです。

マクブレヤーの名前だけは20世紀になっても僅かに残ったものの、その遺産は歴史の塵に埋もれ殆ど失われました。アーリータイムズやフォアローゼズやI.W.ハーパーのようには、現代まで継続的に存続は出来ませんでした。しかし、近年のバーボン・ブームの到来を受け、伝統あるブランドが続々と復刻されているのは周知の通りですが、マクブレヤーのブランドもまた長い眠りから醒め復活しました。175年以上前にジャッジ自身が手造りした卓越した伝統を今日のバーボン愛好家に紹介するため、2016年にマクブレヤー・レガシー・スピリッツが起ち上げられたのです。
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マクブレヤー・レガシー・スピリッツの始まりは、全くの偶然からだった、と創業者のW・G・"ビル"・マクブレヤー4世は語ります。彼は元々バーボンの世界に入りたいと思っていた訳ではなく、娘のために大学のことを調べていました。その際、センター・カレッジがその候補に挙がったので、父親にそのことを話すと、父親は笑ってマクブレヤーズがその大学に寄付していると彼に伝えました。「どのマクブレヤーがそんなことをするんだ?」とビルが尋ねると、父親は「ウィスキー業界のマクブレヤーさ」と言いました。ビルは先ず、マクブレヤーが後援する奨学金があるかどうか確かめましたが、それは存在しませんでした。そこでマクブレヤー・ウィスキーをグーグル検索をしてみると、ビルはもっと知らなければならないほど豊かな歴史を発見します。それは独立戦争後にケンタッキー州ローレンスバーグに定住したマクブレヤーの一族の驚くべき歴史と、ザ・ジャッジことウィリアム・ハリソン・マクブレイヤーが有名な銘柄「シダー・ブルック」を世に送り出し、ケンタッキー・バーボンの名声を世界に広めた初期の功労者の一人となったことでした。ビルは、ジャック・サリヴァンのジャッジに関するブログ記事を読んだ後、何週間もかけて1800年代に遡る歴史的出来事を深く掘り下げて行きました。この調査の過程で、彼はジャッジのレガシーと、1870年頃にケンタッキー州ニューマーケットでオールド・マクブレヤー蒸溜所を始めたジョン・H・マクブレヤーに就いても学び、興味深い歴史に夢中になりました。そしてブランドの歴史を辿ってみると商標が失効していることが分かり、ビルは2013年にファミリー・ブランドの商標を再登録します。そこで彼は妻に言いました。「ハニー、僕はバーボン・ビジネスに参入するようだ!」と。父親のビル3世は定年退職を迎えると、より多くの時間を共に過ごすようになり、ビジネス・パートナーとして加わりました。26年間連れ添ったビルの妻もこの試みに非常に協力的だったし、成長した二人の子供達はソーシャル・メディアや友人たちとのネットワークでマクブレヤーを広める手助けをしてくれたそうです。彼が情熱を注いだプロジェクトは、古のバーボンがそうだったように文字通りファミリー・ビジネスでした。
ビルがマクブレヤーの歴史を深く掘り下げようと決めたのは2012年のことでしたが、当時、具体的なスケジュールは考えていなかった、と彼は言います。単なるバーボンの供給だけでは済ませたくなかった彼は、W・H・マクブレヤーの物語を継承し、1844年から続く遺産を尊重して最高品質の原材料と最新の蒸溜技術を使える途を探り、ジャッジのような象徴的な蒸溜家をバーボン・コミュニティに紹介するには慎重なアプローチが必要と考え、自らのウィスキーをどのように伝えるかにも拘り、とにかく時間を掛けました。それは待つ価値のある旅でした。長年の研究と献身を経た2021年4月、ザ・ジャッジの生誕200年を記念して、マクブレヤー・レガシー・スピリッツは遂に最初の成果である「W.H.マクブレヤー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のバッチ1を限定リリースしました。
このバーボンの第一歩は、ジャッジのオリジナルのマッシュビルを再現することでした。1870年11月10日付のW・H・マクブレヤーからE・H・テイラー・ジュニアに宛てた書簡が残っています。その内容は、マクブレヤーの11000ドルにものぼる税金問題と、テイラーがその支払いを助けるためにジャッジのバーボンを購入する取引に就いて論じたものでした。実はその裏面に、マクブレヤー自身の手書きと思われるマッシュビルが記されており、そこには3965コーン、260ライ、260モルトとあり、これはコーンが88.4%、ライとモルトがそれぞれ5.8%ということでした。この手紙はバーボンの歴史家であるマイケル・ヴィーチがルイヴィルのフィルソン歴史協会での仕事を通じて手に取ったもので、彼はこうした低モルトのマッシュビルは今日の基準からすると低収量と見做されるが同時におそらく蒸溜液にはグレインのフレイヴァーが多く残るだろうと推測していました。そして、バーボンはおそらく100~105プルーフで蒸溜され、100プルーフでバレルに入れられただろう、とも。こうして着想を得たマクブレヤー・レガシー・スピリッツは、可能な限り当時のバーボンを再現しようと試みました。先ずは穀物から。1800年代に製造されたウィスキーが現在のウィスキーとは異なる味わいであることは知られていますが、その理由の一つと考えられているのは、禁酒法以前の時代のウィスキーがエアルーム穀物や伝統的な穀物を使っていたのに対し、現在のディスティラー達の多くが工業用穀物に頼っていることです。彼らは、ビル・マクブレイヤー3世の友人が栽培していたブラッディ・ブッチャーと呼ばれる特別なレッド・コーンを採用しました。ジャッジが実際に用いたかは判りませんが、これは19世紀半ばに誕生しケンタッキー州で栽培されていたエアルーム品種です。ちょっと恐ろしい名前は、黒や紫っぽい赤い粒が肉屋の血まみれのエプロンに似ているかららしい。味に関しては独特のバターの風味やナッツのような甘さがあると言われています。現代のクラフト蒸溜所では、ブラッディ・ブッチャーに限らずこうした在来種の穀物を取り入れる動きはあり、それは彼らのバーボンの味わいに重要な役割を果たしてくれるでしょう。ケンタッキー州ローレンスバーグにあったマクブレヤーのオリジナルの蒸溜所から15マイル以内しか離れていない場所で栽培されたエアルーム品種の一つであるこのコーンはレガシーなマッシュビルにとって完璧なベースとなり、そこにヘリテッジ・ライとモルテッド・バーリーを組み合わせることでマッシュビルは決まりました。
ジャッジが使用したマッシュビルを再現しながら、今日の近代的な蒸溜技術の恩恵も受けるため、このバーボンは新進気鋭のウィルダネス・トレイル蒸溜所で契約蒸溜されています。88.4%コーン、5.8%ライ、5.8%モルテッドバーリーのマッシュビル、ウィルダネス・トレイルの特別なイースト、石灰岩で濾過されたケンタッキー・リヴァーの水を使い、最初の年に最小バッチ・サイズの10バレル分が蒸溜されました。バレル・エントリーは、現代の大規模スピリッツ・メーカーの殆どが遠ざかったコストの掛かる方法である低プルーフの105プルーフでした。最初のバッチが熟成を迎えるのを待ちながら、ビル達は熟成樽の試飲を続けていると、味わう度にどんどん良くなって行ったそう。4年と4ヶ月の熟成期間を経て、バッチ1は10バレルのうち5バレルをブレンドし、1075本がボトリングされました。フル・フレイヴァーを実現するためにアンフィルタードかつバレル・ストレングスの103.6プルーフ、希望小売価格は100ドルでした。W.H.マクブレヤーのボトルには品質の証として、全ての始まりとなった手紙からトレースした本物のサインのレプリカが描かれています。このバーボンへの反響は大きく、プリオーダーを開始すると数日で完売したそうです。あまりに早く予約注文が入ったので、ロットの売り過ぎを防ぐため予約注文を停止せざるを得ず、再開したときには一度に注文しようとする人が多すぎて1時間以内にサイトがクラッシュしたとか…。また、バーボン・コミュニティからも歓迎され、マッシュ・アンド・ドラムのジェイソン・Cや前述のマイケル・ヴィーチらの動画やブログ記事などに取り上げられています。
翌2022年4月にはバッチ2がリリースされました。このバッチは、2年目の蒸溜で得られた5バレルと、1年目の蒸溜で得られた1バレルで構成されました。つまり熟成年数は4〜5年です。6バレルでのバッチングなので最初のバッチよりは販売できるボトル数が多い訳ですが(100プルーフで1300本)、3時間以内に完売したとのこと。ベリー・スモール・バッチのため、当然最初のバッチとは若干異なるフレイヴァー・プロファイルを持っているでしょう。2023年4月29日発売のバッチ3は103.5プルーフで2056本がボトリングされています。
マクブレヤー・レガシー・スピリッツは、W.H.マクブレヤーのファースト・リリースに続けて、2021年の後期にはもう一つの古いブランドであるオールド・マクブレヤーも復活させています。彼らは禁酒法以前のオールド・マクブレヤーのラベルを出来る限り再現することで、過去の遺産に対する敬意を表しました。こちらのバーボンはバーズタウン・バーボン・カンパニーから調達しています。マッシュビルは70%イエローコーン、18%ライ、12%モルテッドバーリー、バレル・エントリー・プルーフは115、5年熟成、ボトルド・イン・ボンドの100プルーフ。2021年11月発売のバッチは1253本、2022年10月発売のバッチは3000本のボトリングでした。そして、W.H.マクブレヤーとオールド・マクブレヤーに続き、2023年、彼らは遂にザ・ジャッジの世界的に有名なシダー・ブルック・ケンタッキー・バーボンを復活させるとアナウンスしました。今後が楽しみですね。


偖て、今回私が手に入れた禁酒法時代のオールド・マクブレヤーはメルウッド蒸溜所で蒸溜されたものでした。ついでなので、この蒸溜所の歴史に就いても紹介しておきましょう。
メルウッド蒸溜所はベアグラス・クリークのサウス・フォークにジョージ・ワシントン・スウェアリンジェンによって建てられました。スウェアリンジェン家はアメリカの初期入植者で、最初に定住したファミリー・メンバーはゲリット・ファン・スウェアリンジェンでした。教養のあることで知られたゲリットは、オランダ西インド会社がプリンス・マウリッツ号を新大陸に派遣した時、同船のスーパーカーゴ(航海中の商業上の問題を管理することを任務とする商船の士官)に任命されました。オランダの港を出航した船は、デラウェア・リヴァー沿いのオランダ植民地ニュー・アムステルダムへ物資を運びますが、1657年3月8日にロング・アイランドの海岸近くの沖で座礁しました。乗組員らは翌日岸に辿り着き、凍てつくような天候の中、2日間火を使わずに過ごしたそうです。何とか助かったゲリットは後に、ニュー・ネーデルラント総督ピーター・ストイフェサントのもと、ニュー・アムステルダムの評議員に任命されました。ゲリットは他の人と共にデラウェアの植民地を統治していましたが、1664年にイングランドがロバート・カー卿の指揮でオランダ人を追い出し、そこの名前をニュー・キャッスルと変えました。彼らは知りませんでしたが、イングランドはオランダと取引を行い、北米のオランダ植民地と引き換えに、南米の北東海岸に位置する広大な土地を交換していました。イングランドの軍艦がデラウェア・リヴァーを遡上し、植民地の引き渡しを要求すると、支配者たちは砦に退きイングランド船に砲撃を加えました。するとイングランド軍は大軍を上陸させ町を占領し砦の明け渡しを要求して来たので、現実的に防衛することが叶わなかった彼らは降伏したのでした。ゲリットは母国への不審があったのでしょうか、オランダへの忠誠を放棄してイングランドへの忠誠を宣言し、姓から「Van」を取り去り、名前に「a」を加えて英語化することで発音に対応し、綴りをギャレットに改め、 家族をメリーランド州セント・メアリーズ郡に移住させました。ギャレットは彼らを歓迎したボルティモア卿にイングリッシュ民としての帰化を請願すると許可され、セント・メアリーの町やメリーランド州議会にも積極的に関わるようになって行きました。1670年、ギャレットはセント・メアリーズ川の畔の自らの土地に立派な家を建て、1690年までには増築され大きな建物に成長、一家は1730年までこの家に住んでいたと言います。
1804年、一族の一部がメリーランド州から遥か西部のブルーグラス地域、ケンタッキー州ブリット・カウンティに移り住みました。そこでジョージの父ウィリアム・ウォレス・スウェアリンジェンは育ち、ファーマーとして成功し、軈て裕福な農場主と奴隷所有者となりました。彼は著名なケンタッキー・パイオニアの一人であるヘンリー・クリストの娘ジュリア・F・クリストと結婚しました。ヘンリーは1780年にソルト・リヴァーでインディアンと血みどろの戦いを繰り広げた闘士であり、ケンタッキー州議会議員を務めた人でした。ジョージは1838年3月12日に生まれましたが、ジュリアは彼が生まれて間もなくに亡くなっています。ウィリアムは1869年まで生きたそう。
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(Bullitt County Historyより)
裕福な父をもったジョージは、当時としては水準の高い教育を受けたようで、マウント・ワシントン・アカデミーで学び、16歳でケンタッキー州ダンヴィルのセンター・カレッジに入学、1857年に卒業しました。大学生活中は常に教員からも学生からも尊敬され好意をもたれていたと伝えられています。卒業後1年以内に、20歳の彼はメアリー・エンブリーと結婚しました。彼女は18歳で、ジョージと同じく名家の出身でした。彼女の父親は米英の1812年戦争の退役軍人サミュエル・エンブリー、祖父はヴァージニアから1790年にケンタッキーのグリーン・カウンティに定住したヘンリー・エンブリーでした。妻との間には1858年に娘、1863年と1864年に息子が生まれました。ジョージは南北戦争中の兵役を避けたようです。ジョージはブリット郡にある農場でファーマーとして働きながら、そこでミルウッドと呼ばれる小さな蒸溜所も経営していました。しかし、南北戦争の終わりに状況が大きく変わります。終戦後、奴隷は解放され、ケンタッキーの農業経済は大混乱に陥ったため、彼はファーマーを辞めて若い家族らを元の環境から引き離し、1866年にルイヴィルへと移りました。ジョージはそれからルイヴィルに40年以上住みましたが、常にブリット郡を故郷と見做していたそうです。彼はルイヴィルに着くと、食料品店で短期間の経験を積んだ後、メルウッド蒸溜所を設立し、長年に渡って運営しました。おそらく以前に自分の農場で小さなウイスキー製造業を営んでおり、酒類取引がいかに儲かるかを理解していたのでしょう。
メルウッド蒸溜所は1869年(******)に、フランクフォート・アヴェニューとブラウンズボロ・ロードの間のサウソール・ストリートに設立されました(ジェファソン郡第5区RD#34)。サウソールは、後の1884年にレザボア・ロード、更に後の1895年には通りの両側ほぼ1ブロックを占めるまでに成長したメルウッド蒸溜所に敬意を表してメルウッド・アヴェニューと改称されました。ジョージは当初、自分のバーボンを古い農場にちなんで「ミルウッド」と呼ぼうとしました。しかし、印刷業者のミスでブランド名が「メルウッド」とスペルミスされてしまいます。それでも何故か彼はメルウッドの名を残すことにしました。当初は小規模だった施設はすぐに州内で最も大きくなり、成功した蒸溜所の一つとなりました。いつの段階か判りませんが、工場の敷地は12エーカーに及び、蒸溜所はレンガ造りで耐火屋根を備え、蒸溜所には特許のローラー・ミルを備えたミル・ルーム、中央にある巨大なビア・ウェル、それぞれ1万ガロンの容量を持つ19のヴァットまたはタンクを備えた大きなファーメンティング・ハウス、ボイラー室、バレル・ハウス、焼印場、また他にも使用済みのマッシュを与えるための1000頭の牛を収容できる大きな牛舎もありました。敷地内に6つの巨大なボンデッド・ウェアハウスと1つのフリー・ウェアハウス(連邦政府の規制なし)があり、倉庫はスティームで暖められ、汎ゆる場所で均一な温度が保たれていたそうです。この蒸溜所は1日当たり1200ブッシェルの穀物をマッシングでき、65000バレルのエイジング・ウィスキーを貯蔵するキャパシティでした。後に倉庫は少し拡張され、70000バレルを収容できるようになりました。水源はベアグラス・クリークを利用していたでしょう。メルウッド・ディスティリング・カンパニーの主力ブランドは常にメルウッド・ウィスキーで、アメリカ中の酒棚に置かれていたようです。
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メルウッドは精力的なマーケティングが行われ、幅広い出版物への頻繁な広告の他、自分のブランドの酒を扱うサルーンやバーおよびレストランやホテルへの景品、エッチングの施されたショット・グラス、特別なカスタマーに贈られたトレイなどのグッズがありました。同社のその他のブランドには「オールド・ウォーターミル」、「マーブル・ブルック」、「モンピリア・ライ」、「ノーマンディ・クラブ」、「同ピュア・ライ」、「ルビコン」、「ラニミード・クラブ・バーボン」、「同ピュア・ライ」、「同ウィスキー」、「ダンディー」、「G.W.S.」等があったと伝えられます。メルウッドはかなりの規模の蒸溜所であり、自社製品を製造する一方で、当時の典型として、ブランドの所有/販売/流通を手掛ける蒸溜所を持たない中間業者にウィスキーをバルク販売してもいました。現在も継続するブラウン=フォーマン・カンパニーは、初期のオールド・フォレスターのブレンド用にメルウッドから多くのウィスキーを購入していたとされています。創業当初のブラウン=フォーマン社はディスティラーではなくレクティファイアーであり、彼らは上質と思われるウィスキーを調達し、それに自分達の名前を記して販売していました。そうした中間業者だった多くの企業は後に蒸溜所を買収し、自社生産をして行くことになります。
どうやらジョージ・スウェアリンジェンはメルウッド以外の蒸溜業にも手を広げていたようで、彼は1870年代後半から1880年代初めまでディーツヴィル蒸溜所のオウナーでもあったとか、1884年から1887年まではボウリング・グリーン近くでスプリング・ウォーター蒸溜所(RD#4)も経営していたとの情報もありました。後者の蒸溜所は1日僅か120ブッシェル、15バレルのウィスキーを生産する小規模なものだったらしい。またスウェアリンジェンは、1880年にケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーションを結成するために集まったメンバーの一人でもありました。
メルウッドやその他のウィスキーによって巨万の富を築いたスウェアリンジェンは、他の事業にも目を向けていました。彼はケンタッキー・パブリック・エレヴェイター・カンパニーの社長を務め、彼のエレヴェイターには100万ブッシェルの穀物を貯蔵する能力があったと言います。ジャック・サリヴァンは、スウェアリンジェンがウィスキーの製造に大量の穀物を使用していたことを考えるとエレヴェイターの会社を所有するようになったのは自然な流れだったのかも知れない、と云う趣旨のことを書いていました。彼はそれだけに留まらず、ルイヴィルの他の実業家たちを率いて金融組織ケンタッキー・タイトル・カンパニーも設立して社長に就任しています。更には同時期の1889年頃、地元の投資家らと共にユニオン・ナショナル・バンクも設立しました。彼の執政下でその銀行は即座にルイヴィル市で最も人気のある銀行の一つとなったそうです。彼は亡くなるまで同銀行の頭取を務めました。一説にはスウェアリンジェンは銀行業に移る際に酒類事業を売り払ったとされることもあります。サム・セシルの本には「スウェアリンジェンが社長兼主要オウナー、シンシナティのランドルフ・F・ベルクが副社長」だった時代を経て「スウェアリンジェンは1889年にベルクに売却し、同じくシンシナティのジェイコブ・シュミドラップが会社に加入した」との記述が見られ、経緯が符合しているようにも見えますが、ルイヴィル市の商工人名録によるとメルウッド・ディスティリング・カンパニーは、1890年にはジョージ・W・スウェアリンジェンが社長、R・F・ベルクが副社長、W・H・ジェイコブスが秘書兼会計と記載されています。変化が見られるのは1891~92年からで、そこではベルクが社長、スウェアリンジェンが副社長、ジェイコブスが秘書兼会計、エドムンド・O・ルジィが管理監督とあります。1895年の名簿ではベルクが社長兼ジェネラル・マネージャー、スウェアリンジェンが副社長、ジェイコブスが秘書、ウォルター・ワーナーが財務担当、J・H・ジョンソンが秘書補佐、ルジィが管理監督となっています。おそらくスウェアリンジェンはきっぱりと蒸溜業から手を引いたと言うよりは、主要なオウナーではなくなったものの、メルウッド社への投資は続けていたと考えられます。この1890年代はメルウッド社にとって継続的な拡大期であったようで、1892年にはシカゴに営業所と思われる支店を開設したり、1893年(1895年という説も)には蒸溜所はレンガ、石、鉄骨、コンクリート造りでスレート屋根の6階建てに建て替えられました。おそらくこの時に、蒸溜所は印象的なリチャードソニアン・ロマネスク様式(*******)の建物になったと思われます。1896年(1899年という説も)、メルウッド蒸溜所はウィスキー・トラストに売却されました。経営陣は一新され、トラストが送り込んだD・K・ワイスコフが社長、ヘンリー・アイモーデが副社長、エルク・ラン蒸溜所(RD#368)のハリー・ウィルケンが秘書兼財務担当となりました。アイモーデは1908年に退社し、トラストの一味であるリーガン・アンド・アイモーデ・ディスティリング・カンパニーを設立したそうです。おそらくスウェアリンジェンは、トラスト売却後には蒸溜所の経営から手を引き、不動産業(ケンタッキー・タイトル・カンパニー)と銀行業(ユニオン・ナショナル・バンク)に専念したのでしょう。
1898年、ジョージ・ワシントン・スウェアリンジェンは脳卒中で倒れ、一時的な麻痺に見舞われます。その後、2度目の脳卒中が起こり、1901年8月には3度目の脳卒中が起こり、この麻痺から回復することなく、彼はその年の秋から冬にかけて著しく衰え12月18日に亡くなりました。葬儀はウェスト・ブロードウェイ218番地の自宅で自宅で執り行われ、遺体はケイヴ・ヒル・セメテリーに埋葬されました。彼は、健全な判断力と広い知性に気高い人格をもち合わせ、ルイヴィルで際立って輝いた、と評された人物でした。また、プレスビテリアン・チャーチと密接な繋がりがあり、長年に渡ってルイヴィルの長老派孤児院の理事長を務め、同教会の被後見人の世話と扶養に惜しみなく貢献したそうです。
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(1910年のサンボーン・マップ)
スウェアリンジェンの死後もメルウッドの名前、会社、蒸溜所は終わりません。1909年にはシンシナティに営業所が開設され、トラストは禁酒法が施行されるまで蒸溜所を運営し、メルウッド・ウィスキーの販売を続けました。その頃までには蒸溜所は業界ではよく知られるようになっており、高級品質のウィスキーを確立、その売上は大きく、年間約10000バレル、5万ケースが販売され、蒸溜所は600000ドルの価値が見積もられたとか。成功は多くの場合、模倣を生み出します。メルウッドが大成功を収めると偽者が現れ、ブランドを模倣しようとした競合他社に対してメルウッド・ディスティリング・カンパニーは1905年に訴訟を起こしました。それは虚偽表示や偽装蒸溜所に関する最も初期の裁判の一つとなりました。偽者はアーカンソー州フォート・スミスのディストリビューター、サミュエル・R・ハーパーとサイラス・F・レイノルズのハーパー=レイノルズ・リカー・カンパニーでした。彼らはラベルに、「ミル・ウッド」というブランド名を付け、「ミル・ウッド・ディスティリング・カンパニー」という名称を使い、「ケンタッキー」とも書き、「この著名なウィスキーは、厳選された穀物から、専ら最高級ウィスキーの蒸溜に採用されるサワーマッシュ・ファイアー・カッパー製法を頼りに造られ、樽で8年間熟成させた後にボトリングされた」と云う説明を記載していました。しかし、実際には何処にもミル・ウッド蒸溜会社は存在せず、サワーマッシュでもファイアー・カッパー製法でもなく、厳選された穀物から造られておらず、8年熟成でもなく、ブレンデッド・ウィスキーでした。1909年、裁判所は、この虚偽のラベルを使用したミル・ウッドのブランドは一般大衆を誤解させるために考案されたものであると判断し、こうした欺瞞は許されないとしてハーパー=レイノルズ・リカー・カンパニーによるラベルの使用を差し止める命令を下しました。
残念ながらメルウッド蒸溜所は禁酒法の推進による影響で1918年に閉鎖されました。メルウッド蒸溜所のすぐ隣にはクリスタル・スプリングス蒸溜所(RD#12)があったのですが、1921年、この土地の新しい所有者はクリスタル・スプリングスを取り壊し、全ての機械を撤去、メルウッドの蒸溜室やファーメンティング・ハウスやボトリング・ハウスから配管や機材を取り除き、1棟を除く全ての倉庫を取り壊しました。しかしメルウッドのブランドは禁酒法下でも生き延び、例によってアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーがボトリングしています。カリフォルニア州サン・フランシスコの集中倉庫でボトリングされたと思われるメディシナル・パイントも見かけました。これはリノ・ドラッグ・カンパニー(ネバダ州)によって販売されたみたいです。
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参考8
禁酒法解禁後もメルウッドは、AMSを取り込んでいたナショナル・ディスティラーズがリリースしたと思われます。おそらく初期は短期熟成のバーボン、後にブレンデッド・ウィスキーとなったのではないでしょうか。ブレンデッドのラベルにはナショナルの子会社ペン=メリーランド名義となっているものを見かけました。他には30年代とされるカナダのディスティラーズ・コーポレーション・リミテッドのメルウッドのラベルもありました。
参考9
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一方、蒸溜所は禁酒法廃止後にカール・ナスバウムによって改築され、再び生産が開始されることになります。おそらくこの時の改装でリチャードソニアン・ロマネスク様式の装飾は取り除かれ、1930年代半ばのあまり華美でない機能性を重視したシンプルなデザインになったようです。ウォルター・L・ボーガーディングが社長、セルビー・ハーンがディスティラーに就任し、1935年からジェネラル・ディスティラーズ・コーポレーション・オブ・ケンタッキーとして操業するようになりました。再開のための工事は1933年に始まりましたが、老朽化と新しい設備の必要性から、彼らが最初のバレルを満たすことが出来たのは1935年12月13日のことでした。ジェネラル・ディスティラーズの事業は主にウィスキーのバルク販売と思われますが、自身の小さなブランドを所有する他、カスタマーや何かしらのクラブなどの団体または個人のためにブランドを製造することもあったようです。確かにネットで画像を検索してみると、数多くの未使用ラベルが見つかります。そうしたブランドには、「ケンタッキー・ネクター」、「リック・ラン」、「オールド・チャック」、「オールド・ポット・スティル」、「ダービー・タウン」、「オールド・ケンタッキー・ジェネラル」、「カウンティー・チェアマン」等があり、また「ライヴ・オーク」、「ローズウッド」、「オールド・ブーン」、「ゴールデン・リボン」、「ゴールデン・イヤーズ」、「オールド・サドラー」、「クオリティ・ストリート」等、歴史から消えてしまった多くの他のブランドをボトリングしていたことでも知られ、その中にはスティッツェル=ウェラーやK.テイラー蒸溜所など有名な蒸溜所で蒸溜されたものもあったとされています。メルウッド蒸溜所の登録番号は#34でしたが、ジェネラル・ディスティラーズの登録番号は#30でした。そのため、その名も「ナンバー30」というブランドもありました。
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下のリンクは私のピンタレストのジェネラル・ディスティラーズのラベルを集めたボードです。興味があれば覗いてみて下さい。
この中で、ラベルに「Bottled」としか記載されていない物は、ジェネラル・ディスティラーズでは蒸溜されておらず、文字通りボトリングだけ行われ、おそらく近隣の他の蒸溜所からウィスキーを調達していたと推測されています。ジェネラル・ディスティラーズは閉鎖されるまで僅か数十年しか操業しませんでした。1960年代初めから後半のどこかで蒸溜所が閉鎖された後、ネルソン郡ダブル・スプリングス蒸溜所のシド・フラッシュマンがボトリング・ハウスを引き継ぎます。彼はグリーンブライアーで営んでいたダブル・スプリングスの事業を旧ジェネラル・ディスティラーズの施設へと移し、そこで細々とボトリングを行っていましたが、1974年にそこも閉鎖され、75年頃にフランクフォートの21ブランズ蒸溜所へ業務を移管しました。禁酒法時代を通して生き残って来た僅かな建物は、おそらく1970年代に取り壊され、遂にその歴史に幕が下ろされました。
(1929年のメルウッド蒸溜所)

(1940年頃のジェネラル・ディスティラーズの内部風景)

話をオールド・マクブレヤーに戻します。私が手に入れたボトルのストリップの印字は劣化で消えてしまっていますが、前所有者様によると蒸溜は1917年と記されていたそうです。同じ物かと思われるボトルを出品していた海外のオークション・サイトでは、1920年代後半にボトリングされたと思われる、と説明していました。その他のオールド・マクブレヤーの殆どが33年か34年のボトリングなことを考えると、少なくとも1920年代後半〜30年代前半のどこかでボトリングされたと見て間違いはないかと。では、最後に飲んだ感想を少々。

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Old McBrayer Medicinal Pint AMS Co.(Mellwood) 100 Proof
推定1920年代後半〜30年代前半ボトリング。オールドオーク、オレンジシロップ、一瞬りんごと葡萄、時間を置くと洋酒の入ったお菓子、木質の酸、胡桃、タバコ、焼きトウモロコシ。仄かに甘いが基本的にビターで、柔らかいスパイス感。余韻は渋くはないが、これまたビター感が強め。古い木材〜ラズベリー〜濃ゆいカラメル香へ時々刻々と変化するアロマがハイライト。
Rating:87.5/100

Thought:100年近く前の物としては状態は凄く良かったと思います。長い歳月はどうしたって何かしら影響したとは思うのですが、至って新鮮な雰囲気がありました。強いて言うと若干パンチに欠けるような気もしましたし、飲み終わった後のグラスの香りもそれほど芳醇ではなかったりしましたが、時々オールドボトルで出会ってしまう奇妙なファンクや劣化した味わいはなく、普通に飲める状態であり、先ずは歴史を飲めたことに感謝すべきでしょう。
味わいは、熟成年数が長いことを疑う余地のないオールド・オーク・フォワードなバーボンでした。穀物の旨味のような要素は僅かに感じられますが、良質なオールド・バーボンによくある砂糖漬けのフルーティーな甘さは強くなく、爽やかなハーブもあまり感じられません。長い時間を過ごした樽の影響からかタンニンのビターさが少し効き過ぎているような…。ここらへんは、メルウッド蒸溜所の味がどうこうより、禁酒法下の特殊事情かも知れませんね。これを飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? コメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。


*16世紀の宗教改革運動によって生まれたカルヴィニズムに基づくプロテスタントの一派。長老派と訳される。プレスビテリアン(Presbyterian)とは長老のこと。カトリック教会の司教制度を認めず、一般信者の中から経験の深い指導者を選んで長老とし、教会を運営すべきであるという長老制度を主張した。プレスビテリアンは特にスコットランドのプロテスタントに多かった。

**「Saffell」は「サッフォー」と表記した方がアメリカ人の発音に近いと思いますが、ここでは「サッフェル」と表記しました。ちなみにウィスキー・バロンズ・コレクションの3番目のリリースだったW.B.サッフェルは、ワイルドターキー蒸溜所産ケンタッキー・ストレート・バーボンの6年、8年、10年、12年原酒をブレンドしたノンチルフィルタードで107プルーフの仕様です。

***ダニエル・ローソン・ムーアは1847年1月31日、ケンタッキー州マーサー郡ハロッズバーグにジェイムス・H・ムーアとメアリー・(メッセンジャー)・ムーア夫人の二人息子の長男として生まれました。南部の古くからの裕福な家柄に生まれことで、彼は少年時代に「ムーアランド」と呼ばれる広々とした家で過ごします。医師であり、馬のブリーダーであり、ファーマーでもあった父親から、若きダニエルは豊かな教育を与えられました。彼は家庭教師の下で準備教育的トレーニングを受けた後、ダンヴィルのセンター・カレッジに入学し、3年間在籍。その後、ハロッズバーグのフィル・B・トンプソンの事務所で法律の勉強を始め、軈て弁護士資格を取得しますが、彼はより収益性の高いと思われた農業と牧畜の分野で働くことを選び、弁護士事務所を開設することはありませんでした。しかし、代わりに彼はその法律知識を自分の広範なビジネスを処理するのに全面的に利用することになります。
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ダニエルは5年間ミシシッピ州で綿花栽培に従事した後、1870年11月15日にケンタッキー州ローレンスバーグのウィリアム・H・マクブレヤー判事の一人娘ヘンリエッタと結婚しました。彼はキャリアをスタートさせた当初から蒸溜業に惹かれていたのか、1871年(1873年とも)頃、25歳前後の時にハロッズバーグ・コートハウスから東へ5マイル、バーギン近くのシャーニー・ランにD.L.ムーア蒸溜所(マーサー郡第8区RD#23)を建てました。1880年代半ばまでに蒸溜所は1日に250ブッシェルをマッシングし、2つのボンデッド・ウェアハウスは合計12500バレルを収容できたと言います。ここでは1889年までセント・ルイスの大手酒類卸売業者チャールズ・レブストックのブランドを製造。レブストックは中西部で最も成功したウィスキー・マーチャンツの一人で、1870年にウィスキーの卸売会社を組織し、多くの州に顧客を有していました。二人は協力してムーア・アンド・レブストック・ディスティラーズという会社を設立すると、この工場で生産されるウィスキーをレブストックの複数の銘柄に使用したようです。彼らの主力ブランドは「ストーンウォール」で、他の銘柄には「ゴールデン・ホーン」、「ディア・レーン」、「スノウ・ヒル」、「オールド・チャンセラー・ライ」等があったと伝えられます。ジョージ・チンの歴史書によると、バーギンからは年間12万5千ガロンのオールド・バーボンが出荷され、彼らは約45000ブッシェルの穀物を消費し、15人の労働者を月給20ドルから100ドルで雇っていたそう。義父W・H・マクブレヤー判事の死後、1889年2月6日にムーアはこの蒸溜所と36エーカーの土地を35000ドルでダウリング・ブラザーズに売却し、アンダーソン郡のシダー・ランにある蒸溜所(RD#44)の経営に力を注ぎました。これ以降、ダニエルはこの蒸溜所とは直接的な関わりはないと思われるので、以下は余談です。ダウリング家は同アンダーソン郡のウォーターフィル&ダウリング蒸溜所(旧ウォーターフィル&フレイジャーRD#41)の共同経営者でもあり、クーパレッジ工場も所有していました。彼らは禁酒法の到来までこの事業を続けましたが、蒸溜所は閉鎖され解体されました。禁酒法解禁後の1934年、蒸溜所はサザン・レイルロード沿いの元の場所近くに再建され、1950年代までダウリング・ブラザーズとして操業。その後シェンリーとボブ・グールドが交互に所有しました。1972年7月、グールドは別に所有していたアンダーソン郡タイロンのリピー・プラント(J.T.S.ブラウン蒸溜所RD#27)をオースティン・ニコルスに売却した際、バルク・ウィスキーをマーサー郡の工場とその一部をアンダーソン郡のオールド・ジョー蒸溜所(RD#35)に移したと云います。この蒸溜所は軈て閉業し、雑草や潅木が生い茂り、窓ガラスは割れ、酷く荒廃し、倉庫の側面に描かれた「Dowling Distillery」の文字だけが嘗ての栄光を物語っていました。そして、2008年10月、蒸溜所跡は取り壊されたとのこと。
実はもう一つ、同じくマーサー・カウンティにD.L.ムーア蒸溜所と呼ばれるプラントがありました。こちらはマーサー郡第8区RD#118の登録番号をもつ、ジャクソン・ヴァン・アーズデルによってハロッズバーグから9マイル北のソルト・リヴァー沿いに1865年か1866年に建てられた水力ミルと蒸溜所がルーツで、1885年コヴィントンのマリンズ・アンド・クリグラーにリースされるまで自分の名前でブランドを生産し、J・ヴァナーズデル・ディスティリング・カンパニーの名で操業されたようです。1892年、D・L・ムーアが蒸溜所を購入し、引き続きヴァナーズデル銘柄を製造しました。同年に作成された保険引受人の記録によると、蒸溜所はフレーム構造で、敷地内には2つの倉庫があり、倉庫Aは鉄骨造りに金属もしくはスレート屋根、もう1つのフリー・ウェアハウスの倉庫Bは石造りに金属またはスレート屋根でした。おそらく後に息子のD・L・ムーアJr.が引き継いだと思われ、彼は父の死後(1916年死去)にD.L.ムーア蒸溜所と改名しました。禁酒法が施行されるまで操業は続けられ、貯蔵されていたウィスキーはレキシントンのジェイムズ・E・ペッパーの集中倉庫に移され、プラントは解体されました。同社はクリア・ブルックというブランドの製品を販売していたらしいのですが、これはダニエルの高名な義父ジャッジ・マクブレヤーのシダーブルック・ブランドと蒸溜所にちなんだものと見られています。
一方、ディスティラー以外の活動もダニエルは活発でした。1881年、民主党の投票によりケンタッキー州上院第20区の代表に選出され、知的で有能な職務を果たし、有権者から称賛を浴びたと言います。ダニエルはディスティラーでありながら、ケンタッキー・ウィスキーに特別税を課して学校に充てる法案を押し通したのだとか。また、彼はマーサー・ナショナル・バンクの筆頭株主となり、1892〜1908年まで同銀行の頭取を務めたとも。更にファーマーでもあったダニエルは、ミシシッピ州の3つの農園で綿花の植え付けと収穫を監督し、また同州に数千エーカーの森林を所有して伐採を監督しました。自然愛好家だったダニエルは、山での孤独の精神的高揚に関心を向け、1881年、コロラド州はロッキー山脈の肥沃な麓、ノースパークに6000エーカーの広大な牧場を購入しました。1882年に妻を亡くすと、その後間もなくメイ、ウォレス、マクブレヤーの三人の子供達を祖父母の家に残して遠い西部を訪れ、牛と馬の飼育に乗り出しました。するとダニエルはケンタッキー州の優秀な血統の牛や馬を自分の牧場に持ち込み、この事業で大成功を収め、コロラド有数の牧畜業者として知られるようになります。毎年半分はコロラド州での事業経営に費やし、残りはケンタッキー州での製造業と農業およびミシシッピ州でのプランティングに従事したそう。
1891年、まだ未成年の三人の子供達には母親が必要だったのか、ダニエルはミニー・ボールと再婚しました。彼女はジョージ・ワシントンの母と同じ家系の子孫でした。彼らはケンタッキー州バーセイルスの彼女の家で結婚し、後に二人の女の子を儲けています。ダニエルは1年の約半分はケンタッキー州を離れていたものの、家族のためにハロッズバーグ近くのレキシントン・パイクに壮大な邸宅を建てることを決意。建築に5年、総工費140万ドルをかけたロマネスク・リヴァイヴァル様式のエレガントな邸宅でした。
ハード・ワークをこなしていたダニエルでしたが、60代半ばに差し掛かった頃、心臓の病を発症してしまいます。その後、1916年10月20日に亡くなり、ハロッズバーグのスプリング・ヒル・セメテリーに埋葬されました。死亡診断書には「器質性心臓疾患」と書かれていました。伝記作家は、セネター・ムーアほど多くの友人を持ち、そして大切にする人物はなく、温和で仲間思いの性格は友人を惹きつけ尊敬の念を抱かせ、リベラルでどこまでも寛大、真のバーボン・デモクラシーの代表者であり、厳格な誠実さを持ち、目的にも行動にも徹底して正直、実業家としてもその成功によって生まれ故郷のケンタッキー州に大きな信用を齎した、と記しました。ちなみに、夫の死後、残されたミニー・ムーアはその後の20年間、ダニエルのビジネスを引き継ぎ、ミシシッピの綿花プランテーションとコロラドの牧場を経営したりケンタッキーの農場ではタバコの生産と優良家畜の飼育を監督したそうで、広範な業務を見事な判断力と効率性で処理するビジネスの才能を高く評価されています。

****最初のウィスキー・トラストは、当時世界最大の蒸溜所と謳われたグレート・ウェスタンを始めとする65の蒸溜所が合併して、アルコールの価格をコントロールすることを目的に1887年に設立され、1895年まで運営されたジョセフ・ベネディクト・グリーンハットのディスティラーズ&キャトル・フィーダーズ・トラストでした。彼らは、多数の小規模な蒸溜所が製品を戦術も統制もなく市場に投下し、不適切な時期に価格を下げてしまうことを問題視しました。そこでトラストは、それらを全て買い取り、効率の悪い小規模な蒸溜所を閉鎖してより効率の良い大規模な蒸溜所を運営し、より高い利益を得ることを目指しました。傘下にしたい蒸溜所が売却しないことを選択した場合、トラストは脅迫、放火、暴力など強権的な戦術を用いたと言われています。1890年にシャーマン反トラスト法が制定されると、最終的に同社は解散を余儀なくされました。イリノイ州ピオリアを中心としたウィスキー・トラストの最初の試みが失敗に終わった時、ニューヨークの金融業者のリッチマン達はこの夢をまだ諦めていませんでした。彼らは最初のウィスキー・トラストの残党を1895年に再編成し、新しい事業体をアメリカン・スピリッツ・マニュファクチュリング・カンパニー(ASMC)と命名します。1899年までにケンタッキーの蒸溜所の持株会社としてケンタッキー・ディスティラリーズ・アンド・ウェアハウス・カンパニー(KDWC)を組織すると、1870年代の鉱山ブームの時代にコロラド州のウィスキー・トレードで成功し、蒸溜業者の代理店としての役割を担って全米各地の卸売業者や小売業者に大量のウィスキーを販売していたジュリアス・ケスラーをリーダーに選びました。セールスマンとしての評判と全国へのコネを備えたケスラーは、第二のトラスト設立を主導する人物として適役でした。ニューヨークの金融業者は組織の管理と株式の一部を彼の手に委ねたと言います。同年にKDWCを含む4つの会社が複雑に合併し、ディスティリング・カンパニー・オブ・アメリカが誕生しました。このような複雑な会社形態は、連邦政府の目を逃れるために必要なことでした。彼らは再定義と再構築を続け、ディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションとなり、禁酒法期間中はU.S.フード・プロダクツ・カンパニーとなり、最終的に持株会社のナショナル・ディスティラーズ・プロダクツ・カンパニーを結成します。1922年の法律に基づいて集中倉庫を管理するために設立された処方箋ウィスキー販売用の会社はKDWCを吸収し、ASMCは1927年にアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)に改組されました。この時点でナショナルはAMSの38%の株式を所有しています。同年、AMSは更にR・E・ワセン&カンパニーを始めとする5つの主要な集中倉庫を買収し、ナショナルはケンタッキー州のウィスキー・ストックの50%以上、国内のウィスキー・ストックの30%近くを支配するに至りました。1929年にナショナルはAMSの残りの株式を購入しています。

*****ニューカム=ブュキャナン(ネルソンRD#4)、アンダーソン=ネルソン(アンダーソンRD#97)、アレン=ブラッドリー(RD#369)、エルク・ラン(RD#368)等と呼ばれる蒸溜所と倉庫群を擁する複合施設があった敷地はケンタッキー州ルイヴィルに於けるバーボン・ウィスキー産業の豊かな歴史の一部でした。その操業の全歴史は約134年に及びます。最盛期にこの複合施設は約35エーカーに及ぶ製造施設を有し、ケンタッキー・バーボン・ウィスキーの合計生産能力は735000バレルを超えたと言われています。複合施設全体は1860年から1918年の間に建設されました。生産施設の大部分は、ルイヴィルのダウンタウンの中心部から東へ約2マイル、サウス・フォーク・ベアグラス・クリークからオハイオ・リヴァーに流れ込む少し手前、ミドル・フォーク・ベアグラス・クリークの湾曲部のほとり、ハミルトン・アヴェニュー(現在のレキシントン・ロード)の北側にあったグレゴリー・ストリートに集約されました。グレゴリー・ストリートはハミルトン・アヴェニューとペイン・ストリートの交差点から1ブロック西にあり、現在はアクシス・オン・レキシントンという集合住宅が建っています。当時は農地に囲まれた田舎で、南にはケイヴ・ヒル・セメテリー、北にはルイヴィル&フランクフォート・レイルロードがありました。主要な鉄道路線に近く、またオハイオ・リヴァーに近接していることは、製品供給がローカル・マーケットに留まらない成功の鍵でした。蒸溜所のエイジング・ウェアハウスは、ファーメンティング施設や蒸溜プラントとハミルトン・アヴェニューの間に点在して建てられたり、ハミルトン・アヴェニューを挟んだ向こう側に建てられたりしました。各蒸溜所にはそれぞれのボンデッド・ウェアハウスがあり、小さいフリー・ウェアハウスもありました。ネルソン保税倉庫No.4、ブュキャナン保税倉庫No.97、フィンク保税倉庫No.97、スローカム保税倉庫、セントラル保税倉庫、ウィリアムズ保税倉庫、ルイヴィル・ストレージ保税倉庫No.4、サウソール保税倉庫、ネルソン・ディスティリング・カンパニー・ウェアハウス、アレン=ブラッドリーとエルク・ラン蒸溜所のホワイトストーン保税倉庫などです。他にも穀物貯蔵庫、貯水槽、ボンデッド・ボトリング施設などもありました。
この複合施設のルーツは、1860年頃にケンタッキー州マリオン郡出身のジョン・G・マッティングリーと弟のベンジャミン・F・マッティングリーが蒸溜所を建設したのが始まりのようです。彼らは1845年頃にケンタッキー州で最初に登録された蒸溜所を建設したと伝えられる人物。おそらく兄弟はマリオン郡から土地を移し、蒸溜に専念することで成長産業の専門化を促し、理想的な立地にあるルイヴィルで小規模生産から大規模生産へと移行する産業の模範となったのでしょう。もう少し後、ジョン・マッティングリーは一度に少量のマッシュしか蒸溜できないポット・スティルとは異なるコンティニュアス・スティルの完成に貢献した功績があるとされています。1867年、マッティングリー兄弟は同じマリオン郡のデイヴィッド・L・グレイヴスに事業を売却し、ルイヴィルの南側のセヴンス・ストリートに施設を移転しました。その後、グレイヴスは同じくマリオン郡のジョージ・W・ビオールに蒸溜所を売却します。更に蒸溜所は1872年にニューカム=ブュキャナン・カンパニーに売却されました。社長のジョージ・C・ブュキャナンは、アンダーソン、ネルソン、ブュキャナン、グレイストーンの各蒸溜所を建設し、1872年の時点でニューカム=ブュキャナン社はケンタッキー州最大の蒸溜会社だったとか。これらの蒸溜所は450エーカーの1ヶ所にありました。アンダーソン蒸溜所ではスモール・タブ・サワーマッシュ・ウィスキーを、ブュキャナン蒸溜所は手造りのサワーマッシュウイスキーを製造し、1880年に初めて市場に出たらしい。ネルソン蒸溜所ではライ麦と麦芽を使用したネルソン・ピュア・ライ、麦芽のみを使用したネルソン・ピュア・モルト、加熱倉庫で僅か3~4カ月熟成させた熟成の短いU.S.クラブを製造していたと伝えられています。
(1876年の広告)
1879年に同社は一旦解散し、改組されました。おそらくこの頃に、オールド・クロウ蒸溜所やハーミテッジ蒸溜所にも携わっていた英国のパリス, アレン&カンパニーと関わるようになったと思われます。1882年から1884年に掛けての恐慌の後、同社は更なる変化を遂げます。パリス, アレン&カンパニーを通じ資金援助を受け、1885年には再び会社を再編成して社名をアンダーソン=ネルソン・ディスティリング・カンパニーに変更し、ハーマン・ベカーツが社長、フレッド・W・アダムスがセクレタリー兼マネージャー、ブュキャナンは営業担当に就任しました。翌年には3つの蒸溜所の合計マッシング・キャパシティは一日あたり4855ブッシェル、ウィスキー生産量は日産500バレルに達したと言います(アンダーソンが約600ブッシェル、ネルソンが約1200ブッシェル、ブュキャナンが約3000ブッシェル)。この頃の倉庫群には計117000バレルの収容能力があり、会社の規模を示す一つの指標として言うと、1885年の連邦税は500000ドルを支払っていたとのこと。アレン=ブラッドリー・カンパニーの名で操業していたグレイストーン蒸溜所は大量のウィスキーを生産し、フランクフォートのクロウ&ハーミテッジが1ガロンあたり60~65セントを要求する中、1ガロンあたり23セントで販売していたそうです。別々の事業体でありながら、それぞれの蒸溜所の経営と所有権は重複していました。このようなやり方によって同社は市場シェアを獲得し、それで更に施設を拡張、他の蒸溜酒会社を買収して得た多くのブランドの生産を継続しました。当時、6つの倉庫は7の異なる所有者の下でウィスキーを貯蔵していたとされ、それぞれを列記すると、ウェアハウスNo.4の所有者はニューカム=ブュキャナンで銘柄はネルソン、ウェアハウスNo.97の所有者はアンダーソン・ディスティラリー・カンパニーで銘柄はアンダーソン、ウェアハウスNo.352の所有者はジェイコブ・アンバー&カンパニーで銘柄はウッドコック、ウェアハウスNo.353の所有者はジョージ・C・ブュキャナンで銘柄はブュキャナン、同ウェアハウスNo.353の所有者はジョン・エンドレス&カンパニーで銘柄はグレイプ・クリーク、ウェアハウスNo.368の所有者はR.P.ペッパー&カンパニーで銘柄はオールド・R・P・ペッパー、同ウェアハウスNo.368の所有者はJ.A.モンクス&サンズで銘柄はグレイストーン、ウェアハウスNo.369の所有者はJ.A.モンクス&サンズで銘柄はモンクスとなっています。ロス・ペッパーの蒸溜所は1870年にはフランクフォートの西ベンソン・クリーク付近にありましたが、1880年頃にW.A.ゲインズ&カンパニーを傘下に持つパリス, アレン&カンパニーに買収され、R. P.ペッパーのブランドはルイヴィルの工場に移管されていました。
1890年7月、グレイストーン蒸溜所は火災で全焼してしまいましたが、同社はすぐに工場を再建し、エルク・ラン蒸溜所となりました。1891年べカーツ氏が亡くなりカリフォルニアのジェシー・ムーア=ハント・カンパニーがインタレストを取得。このムーア氏は、17thストリート&ブレッケンリッジ・ストリートにあったムーア&セリガーの「ムーア」の伯父と思われます。新しいエルク・ラン蒸溜所は生産能力を拡大しました。1892年頃までに50000バレルを収容できるスローカム倉庫、20000バレルのセントラル倉庫、70000バレルのウィリアムズ倉庫を含むウェアハウスがハミルトン・アヴェニュー沿いに建設されており、合計で140000バレルのキャパシティを持つようになりました。上の3つの倉庫はお互いが全て接しており、防火壁で仕切られていたそうです。1892年の保険引受人の記録によると、蒸溜所にはスプリンクラーが設置されており、倉庫は一つを除いて全てレンガ造りで屋根はメタルかスレートでした。敷地内のその他の建物には牛舎、ミル、グレイン・エレヴェーター等があり、エルク・ラン蒸溜所の隣のホワイトストーン・ウェアハウスの東端にはクイック・エイジング・ルームまで設置されていました。当時はアレン=ブラッドリー蒸溜所名義でウィリアム・E・ブラッドリーが経営していたようです。1895年には、アンダーソン=ネルソン・ディスティリング・カンパニーの子会社であるネルソン・ディスティリング・カンパニーが、100×240フィートの3階建て倉庫の建設し、40000バレルを収容できるようになりました。これがネルソンEウェアハウスと呼ばれる熟成庫です。製品の需要が高まった結果として親会社のアンダーソン=ネルソン蒸溜所の最後の資本建設プロジェクトの一つとして建設されたものらしい。また、ハミルトン・アヴェニューの反対側には、別の15000バレルのネルソン倉庫、18000バレルのルイヴィル・ストレージ倉庫、20000バレルのブュキャナン倉庫と呼ばれるボンデッド・ウェアハウス、14000バレルのフィンク・ボンデッド・ウェアハウスがあり、この複合施設全体のバレル収容量は膨大でした。1905年までに同社はさらに成長し、生産量は260000バレルに達したそうです。この成長期を経て、1905年(または1901年という説も)に会社はウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニー(KDWC)に買収されました。
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(1910年のサンボーン・マップ)
アンダーソン=ネルソン蒸溜所とエルク・ラン蒸溜所はKDWCによってプロヒビションまで操業されました。1911年の段階でエルク・ラン蒸溜所とその関連事業はKDWCのポートフォリオの中で最大規模となり、5000ブッシェルをマッシングしていたと言います。明確な時期は不明ですが、この頃か、少なくとも禁酒法以前にハリー・E・ウィルケンがマネージャー兼ディスティラーとなりました。1912年にエルク・ラン蒸溜所でボトリングされた銘柄には「アンダーソン」、「ネルソン」、「ブュキャナン」、「スローカム」、「ジェファソン」、「ジャクソン」、「U.S.クラブ」、「エルク・ラン」等があったと伝えられます。また、ここでは他のトラストの蒸溜所のためにも生産していたようです。1912年12月12日、フレッド・W・アダムスはルイヴィル東部の自宅で66歳の生涯を閉じました。イングランド出身の彼は、1885〜1905年まで会社の財政的バックアップを担っていました。KDWCは禁酒法開始まで蒸溜所の改良を続けます。需要と生産能力の増加に対応するため、複合施設に隣接する農地が買収され、新しい倉庫の建設を開始し、1918年に竣工されました。このハミルトン倉庫は、ケンタッキー州で建設されたものとしては記録上最大のもの(または世界最大のレンガ造りのバレル・ウェアハウス)とされ、2つのセクションに分かれており、それぞれに150000バレルの収容量できる12階建てで、総工費は推定40万ドル(今日の900万ドル以上に相当)と見積もられました。しかし禁酒法が本格化していたため、完成したのはその半分だけで、158000バレルの収容量だったようです。同じく1918年には、ハミルトン・アヴェニューのネルソン・プラントに隣接して、U.S.インダストリアル・アルコール社が運営する大規模なアルコール工場が建設されました。彼らはアルコールの貯蔵にスティール・タンクを使用していましたが、満タンにしておらず、その結果ベアグラス・クリークの洪水でタンクが破損し、倉庫に流れ込んで破壊されたそうです。
蒸溜所は禁酒法の訪れにより閉鎖されました。しかし禁酒法期間中、この蒸溜所の倉庫はアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)によって使われました。その大きさと立地条件から集中倉庫として選ばれ、取り壊しや放置、その他の再利用は防がれたのです。禁酒法の後、他の工場は取り壊されたものの、エルク・ラン工場はそのまま残されました。1929年以降、「T」と「S」というウェアハウスが追加されたそうですが、その目的は不明とのこと。旧ネルソン蒸溜所の倉庫なども含む残された建物はKDWC及びAMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズの手に渡り、禁酒法廃止後の1933年に蒸溜所は再開され、オールド・グランダッド蒸溜所として知られるようになりました(おそらく、ナショナルは40年代初頭にフランクフォートのK.テイラー蒸溜所を買収して、そこをオールド・グランダッドの本拠地に変えたと思われる)。1936年当時、175000バレルの生産能力を有していたと言います。禁酒法廃止後のナショナルはアメリカ国内の蒸溜酒の約半分を支配し、一流ブランドの多くを所有するようになっていました。彼らはジェファソン・カウンティに数ヶ所の蒸溜所を開設し、経済的な恩恵を齎しました。この敷地の倉庫は平均的な施設の7倍のバーボン・バレルを収容することが出来、数百人の従業員を雇用していたとされます。1940年代、ナショナルは全米のバーボンとライ・ウィスキーの70%を支配する「ビッグ・フォー」の一つとなり、この成長期は更に約20年間続きました。1960年代、ナショナルは大きなレンガ造りの倉庫を改修しましたが、1棟は安全でないことが判明し、取り壊されました。この頃からアメリカ国内に於けるバーボン業界全体の衰退が始まります。一時期、この施設ではジンやテキーラやその他の蒸溜酒もボトリングしていましたが、競争と需要の減少には勝てず、嘗て世界最大規模を誇ったケンタッキー・バーボン蒸溜所は終焉を迎え、1974年に閉鎖されました。衰退前は1400人がここで働き、その殆どが徒歩で通勤していたとか。閉鎖後、1979年8月にレイ・シューマンが購入し、様々なビジネスのための商業施設として開発されるまで、この土地は空き家となっていました。世界最大級のハミルトン倉庫は、ブレッケンリッジ=フランクリン・エレメンタリー・スクール建設のために1980年代(または90年代とも)に取り壊されたようです。殆どの施設は取り壊されましたが、バーボン倉庫としてはルイヴィル最古(1880年頃建設)とされるウィリアムズ倉庫およびそれと繋がっているセントラル倉庫は現存しており、ディスティラリー・コモンズという名称の商業用レンタル・スペースとなっています(セントラルと左手側で繋がっていたスローカム倉庫は取り壊されている)。この複合倉庫のすぐ隣、レキシントン・ロードとペイン・ストリートの角にあったネルソンE倉庫も近年まで手付かずで現存していたのですが、2022年8月に再開発のために取り壊されました。近年のバーボンウイスキー産業の復興により、バーボン・ウィスキー産業に関連する歴史的な建築様式に対する評価が高まっています。1895/96年に建てられたこのウェアハウスもその歴史的意義から2020年にランドマークに指定されていたため、解体にはルイヴィル市の承認が必要だったのですが、1979年以降は空き家だったせいか、損傷が酷く、市は機能不全または倒壊の差し迫った危険な状態にあるとして取り壊しを承認しました。ディスティラリー・コモンズも今後は再開発されて行くのかも知れません。
(ディスティラリー・コモンズ)

(取り壊された旧ネルソン倉庫、後ろに見えるのがディスティラリー・コモンズ)

******メルウッド蒸溜所は1865年にジョージ・W・スウェアリンジェンとアンドリュー・ビッグスによって設立されたとの説もありました。

*******リチャードソニアン・ロマネスクは、アメリカの建築家ヘンリー・ホブソン・リチャードソン(1838~1886年)にちなんで名付けられたロマネスク・リヴァイヴァル建築の様式。これには11世紀と12世紀の南フランス、スペイン、イタリアのロマネスク様式の特徴が組み込まれていました。19世紀後半に複数の建築家がこのスタイルを倣ったと云う。
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(ウィキペディアより。1872年にリチャードソンによって設計されたボストンのトリニティ教会。キャロル・M・ハイスミスの写真)

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嘗てアメリカのウィスキーに使用される有力な穀物だったライを本来の高みへ戻すためにリデンプション・ブランドは始まりました。ライは長い間、アメリカン・ウィスキーの世界に於いてコーンに匹敵するかそれを上回る穀物の地位に君臨していましたが、禁酒法の影響から廃れてしまい、他の蒸溜酒のようには回復することが出来ませんでした。しかし、ここ10数年で様相は一変しました。ライ・ウィスキーの売上は大きく伸び、今、復権を謳歌しています。そうした過程の中で「リデンプション」は急速に評価を築いたブランドです。ブランド自体の紹介は、過去に投稿した記事でしていますので、そちらを参照して下さい。

リデンプション・ウィスキーには、リデンプション・ライ、リデンプション・バーボン、リデンプション・ハイライ・バーボンという3つの主要なセレクションがあります。リデンプションの特徴として4年未満のスピリッツにも力を入れていることが挙げられ、これらはどれも平均2.5年熟成とされる若いウィスキーです。他にも長熟や追加熟成を施したもの、或いはウィーテッド・レシピのものなど様々な製品展開がありますが、スタンダードなのはこの三つと見てよいでしょう。リデンプションの名声は確実にライ・ウィスキーによって齎されましたが、現在の薬瓶スタイルのボトル(*)になる前のスタイリッシュなトールボトルの頃からバーボンもリリースしていました。そこで今回はマッシュビルの少し異なる二つのバーボンを取り上げます。

ライと同様、バーボンもインディアナ州ローレンスバーグの有名なMGP(現在ロス&スクィブ蒸溜所とも名乗る)から調達して造られています。MGPはアメリカのライ市場の80%以上を生産していると目される元シーグラムの蒸溜所。数多のNDPやクラフト・ディスティラリーにも最高級のウィスキーを提供するこの蒸溜所には多くのレシピがあり、有名なのはライ麦が95%のレシピですが、それだけに留まらずバーボン・レシピも当然ながらある訳です。
幸いなことに判り易くマッシュビルの情報はラベルに記載されています。「バーボン」はコーン75%、ライ21%、バーリーモルト4%です。別に「ライ」と「ハイ・ライ」があるのだから、通常のバーボンには対照的にライ麦を控えたロウ・ライのレシピを使用しているのではないかと思ってしまいそうですが、リデンプション・バーボンのライ麦の含有量は業界水準より高めです。実のところ"ハイ・ライ"という用語は法律で定められていないため明確な基準がありません。ロウ・ライ(またはハイ・コーン)のレシピはライが10%以下であることが多いため、15〜18%のライ麦率でもハイ・ライと言われる場合もあったりします。従って、この通常のバーボンをハイ・ライとして販売することも可能なのですが、リデンプションはライを前面に押し出したブランドのため、21%でもハイ・ライを名乗らないのです。
一方の「ハイライ・バーボン」はと言うと、コーン60%、ライ36%、バーリーモルト4%のマッシュビルを使用しています。アメリカン・ウィスキー愛好家は、これらの原料の構成を見てすぐにフォアローゼズの二つのマッシュビルとの類似に気づくでしょう。フォアローゼズのEマッシュビル(75%コーン/20%ライ/5%モルテッドバーリー)及びBマッシュビル(60%コーン/35%ライ/5%モルテッドバーリー)とはライとモルトが1%づつしか変わりません。マッシュビルは使用されるモルトの量によって僅かに変動する可能性があるので、実質的にMGPとフォアローゼスは同じマッシュビルを使っていることになります。実際、リデンプション初期のトールボトルのラベルには、バーボン(旧名テンプテーション)では「20%プレミアム・ライ、5%バーリーモルト、75%コーン」と書かれてフォアローゼズのEマッシュビルと一致し、ハイライ・バーボンでは「38.2%プレミアム・ライ、1.8%バーリーモルト、60%コーン」とマッシュの変動が細かく記されていました。
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インディアナ州ローレンスバーグのジョセフEシーグラム蒸溜所(現MGPプラント)とケンタッキー州ローレンスバーグのオールド・プレンティス蒸溜所(現フォアローゼズ蒸溜所)は共に嘗てシーグラムが所有していた歴史があります。二つの蒸溜所は、シーグラムの品質管理チームが互いのイースト・ストレインをテストしたり、またそれらを共有していました。基本的にフォアローゼズが使用しているイーストはインディアナの蒸溜所でも大体使用できるらしく、フォアローゼズのイーストは「V、K、O、Q、F」、MGPのイーストは「V、K、O 、Q、S(ライト・ウィスキーに使われる)」とされます。シーグラム時代に考案されたレシピの略語は今でも使われ、例えばフォアローゼズで「OESV」と呼ばれるレシピは、インディアナ州の蒸溜所では「LESV」と呼ばるそう。一文字目の「O」はフォローゼズの旧称オールド・プレンティスを表し、「L」はインディアナ州ローレンスバーグの施設を示します。二文字目はマッシュビルを意味し、フォアローゼズで「E」や「B」と呼ばれるものはMGPでも「E」や「B」な訳です。ちなみに、MGPの95%ライ/5%バーリーモルトのライ・ウィスキーは「Q」、 80%コーン/15%ライ/5%バーリーモルトのコーン・ウィスキーは「C」、99%コーン/1%バーリーモルトのマッシュビルは「D」の略号が与えられています。MGPには他にも以下のような6種類のマッシュビルがあります。
◆バーボン(51%コーン/45%ウィート/4%バーリーモルト)
◆バーボン(51%コーン/49%バーリーモルト)
◆ライ・ウィスキー(51%ライ/49%バーリーモルト)
◆ライ・ウィスキー(51%ライ/45%コーン/4%バーリーモルト)
◆ウィート・ウィスキー(95%ウィート/5%バーリーモルト)
◆モルト・ウィスキー(100%バーリーモルト)

奇しくも同名であるローレンスバーグの二つの蒸溜所の類似点は他にもあり、両者は原料のライ麦を主にドイツの同じ生産者から仕入れているだろうと推測されています。シーグラムの科学者達は最高のスピリッツを造るために常にテストを繰り返し、北米産のライ麦に較べてドイツで栽培される特定のライ麦種が自分達のイーストにとってベストなマッシュを生むと確信しました。また彼らは、一貫して豊かなフレイヴァー・プロファイルを実現するために、120のバレル・エントリー・プルーフを採用しました。現在でもフォアローゼズとMGPはそうしています。そして、フォアローゼズの熟成倉庫は温度差の少ない平屋建てで知られていますが、MGPの熟成倉庫も亦、平屋造りではないものの壁面が煉瓦造りで各フロアはコンクリートの床と天井で区切られており、多くのケンタッキー州のリックハウスと較べると各階は一定の温度と湿度が維持され、庫内の場所に関係なく各バレルを同じように熟成させる哲学で設計されています。

偖て、話が若干逸れたのでリデンプションに戻すと…今回私が飲んだ「バーボン」は84プルーフで瓶詰めされています。リデンプション・バーボンをネットで調べると、88プルーフの物がけっこうな割合で見つかりました。販売地域によりプルーフに差を付けているのか、もしくは或る時からボトリングするプルーフを上げたのかも知れません。もし後者なら、そのうち日本に入って来る物も88プルーフになるのかも?
先述のように、リデンプションのスタンダードな物は熟成年数の短いウィスキーです。ブランド・アンバサダーのジョー・リッグスは、より少ない熟成で成熟した風味を生み出す「全く新しいディスティリング・プロセス」に取り組んでいると述べていましたが、一体どのようなものなのか具体的には良く分かりません。取り敢えず、これらの若いバーボンを味わってみましょう。

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REDEMPTION BOURBON 84 Proof
Batch No. 026
推定2020年ボトリング。淡いブラウン。焦がした木材、穀物、ペッパー、ライスパイス、薄いキャラメル、ミント、よく言ってアップル、ピーナッツ、エタノール、鉛筆。ノーズは甘さのあまりない爽やかな穀物と木材の香り。ややとろみのある口当り。パレートでは、ほんのり甘いがピリピリ感も。余韻は短く、ドライさの中にライっぽさが少し顔を覗かせる。
Rating:79/100

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REDENPTION High Rye Bourbon 92 Proof
BATCH No. 120
推定2020年もしくは2021年ボトリング。淡いブラウン。トーストした木材、グレイン、ライスパイス、シュガー、ペッパー、種のお菓子、僅かなドライフルーツ、グリーンアップル、若草。アロマはスパイシー。ややとろみのある口当り。パレートは青い果実とスパイスが感じ易い。余韻はややドライであまり甘くない穀物とライの爽やかな苦味が残る。
Rating:82.5/100

Thought:バーボンの方は、流石にもうちょっと熟成したほうがいいなぁという感想でした。円みも僅かに出て来ているのですが、味わいも余韻もちょっと平坦で、もう4年熟成させたら凄く美味しくなりそうな予感で終わります。海外の方でメロウコーンを思い出すと言ってる方がいましたが、個人的にはそこまで「メロウ」とは思いませんでした。ライ麦21%はバーボンとしては多い方ですが、私には香りからライやベーキングスパイスの存在を見つけるのは難しく、味わいも「ライ」にあったシトラスやグリーンリーフのフレイヴァーはあまり感じられません。基本的にグレイン・フォワードなバーボンで、よく言えば甘いシリアルのような味わいとは言えます。
ハイライ・バーボンの方は、スパイスと甘さのバランスがちょうど良く、だいぶ美味しく感じました。なんか嘘みたいにリデンプションのバーボンとライ・ウィスキーを混ぜたような中間の風味がします。ただ、何故か甘いアロマは最も弱く感じました。以前に飲んだライ・ウィスキーを含めて三つのラインナップで見た時に、私個人の趣味としては見事なまでにライ麦含有量が高い順に旨く感じます。ライ、ハイライ・バーボン、バーボンの順に自分好みのシトラスやディルの風味が感じ易いのです。「結局、お前がライ・ウィスキー好きなだけやろ」と言うツッコミには、はい、その通りですと言うしかありません。けれどもバーボンよりライの方が短期の熟成で美味しくなるというコンセンサスはある程度はあり、それがこの結果となっている気もします。
両者を比較して、キャラを強調して言うと、バーボンはナッティ寄り、ハイ・ライはフルーティ寄りでしょうか。余談ですが、これらのウィスキーはテイスティング・グラスで飲むとちっとも美味しくなく、ショットグラスかラッパ飲みだとなかなか美味しかったです。これは若いウィスキーによく見られる傾向かなと個人的には思っています。最後に、以前レヴューしたライを含めた3つのクラシックなリデンプション・ウイスキーのセレクションを総評すると、基本的にカクテルに使用するために造られてる気はしますが、どれも若い割には粘度が高く、ニートで飲んでも十分美味しいです(特にライとハイ・ライ)。但し、もう少し樽熟成が長ければ、もっと素晴らしいものになるでしょう。そして問題は価格…。

Value:販売地域によって変わりますが、バーボンもハイライ・バーボンもアメリカでは25〜30ドル程度の場合が多いようです。ところが日本ではバーボンは3000円程度なのですが、ハイ・ライ及びライ・ウィスキーは何故か5000円程度します。熟成年数の短さを考慮すると、これは痛い。正直、コスパは良くないです。「バーボン」なら大手の蒸溜所がリリースしてるスタンダードな製品の方が安い上に旨く感じてしまうし、「ライ」ならテンプルトンの4年熟成の方が安いのです。「ハイ・ライ」に関しては、MGPのハイライ・レシピ原酒の中で日本では比較的入手し易いという利点はあるかも知れません。ブランドのイメージやボトルのデザインが好きとか、敢えてヤンガー・ウィスキーを好む方にはオススメします。ですが、私はこの値段なら再度の購入はしないかな…ごめんなさい。


*2023年3月にニューボトルになることが発表されました。なので本文中で「現在の〜」と言っているボトルは、新しいボトルにリニューアル後は一つ前のものとなります。ディアジオからブレットのボトルに似ていると訴えられたのが理由で変更したのかも知れませんね。


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オールド・グロームスは日本のバーボン好きには比較的知られていますが、本国アメリカでは一部のマニアを除いて殆どの人が知らない銘柄です。その理由はオールド・グロームスのラベルが日本市場向けなのと、生産量が少ないからだと思われます。そして、それを造っているのがNDP(非蒸留業者)なのは確かなのですが、原酒の調達先については、諸説あったり、製造年代による変遷があると見られ、また一部は別ソースの可能性もありそうで、あまり明らかではありません(*)。そんな謎のブランドにあって唯一そのソースが明確なのが、このオールド・グロームス・ヴェリー・ヴェリー・レア16年。
殆どのオールド・グロームスはラベルに「イリノイ州シカゴ」とありますが、このオールド・グロームス16年だけ「ケンタッキー州ローレンスバーグ」とあります。これはジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のオールド・コモンウェルス蒸留所でボトリングされたことを示しており、彼自身の証言からあの有名なA.H.ハーシュ・リザーヴと同じペンシルヴェニア1974原酒が使用されたと判明しているのです。ラベルにもちゃんとに「ケンタッキー」の文字はなく、「ストレート・バーボン・ウィスキー」としか書かれていません。それにラベル・デザインも他のオールド・グロームスとは少し趣が異なり、なんと珍しくラベルには日本語の文章も綴られています。
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「珍品」とか「殿方」という言葉や文体に時代を感じさせますよね。A.H.ハーシュ・リザーヴとペンシルヴェニア1974原酒に関しては前回の投稿で紹介しましたのでそちらを参照して頂くとして、A.H.ハーシュ・リザーヴ16年とオールド・グロームス16年の中身の差はボトリング・プルーフだけだと思います。そこで、飲み比べ用に両者を同時注文した次第。一体どれほどの違いがあるのでしょうか?

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(画像提供Bar FIVE様)
Old Grommes Very Very Rare 16 YEARS OLD 101 Proof
推定1990年もしくは91年ボトリング(**)。フレイヴァーに於いて同じものを飲んでる感じはかなりあります。ですが、こちらの方がアーモンドキャラメルのような焦樽の香りが強く、パレートでもより甘みを感じ易い印象。ハーシュ・リザーヴがスパイス&ハーブが前面に来るのに対し、オールド・グロームスはキャラメルが前面に来るので、全体としてバランスが優れていると言うか整っている気がします。まあ、好みではあるでしょうが、やはりプルーフィングによる違いは大きく感じました。個人的には100プルーフ(前後)はバーボンにとって完璧なプルーフだと考えているので当然かも知れません。世界的な知名度ではA.H.ハーシュ・リザーヴ16年に劣りますが、オールド・グロームス16年はそれよりも更に美味しいバーボンだと思います。海外の方に較べてこれを飲みやすい環境にある我々日本人としては「飲まなきゃ損損」であり、「あるうちに飲んどけッ!」と切に思う…。
Rating:90/100


*後期のオールド・グロームスは日本で流通している情報ではジムビーム原酒とされており、それは8割方そうかも知れませんが、ここでは初期を含めたブランド全般に言及しています。シリーズ全体の紹介や会社の概要、ブランドの名前の由来となっているヒューバート・グロームスについては、いづれ機会があれば書くこともあるでしょう。

**瓶底の数字は88とありますが、この時期のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は少し古いボトルを使用しているという情報がある他、ペンシルヴェニア1974原酒の情報を基に考えると、この年数が妥当と思われます。

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A.H.ハーシュ16年は史上最高のバーボンとも言われるほど伝説のバーボンであり、世界的に価格の高騰している「ユニコーン」とか「聖杯」と呼ばれるバーボンの一つであり、殆ど神話の世界に属していると言っても過言ではありません。近年の平均的なオンライン価格に基づく最も高価なバーボンのリストで常に上位にあり、日本円で言うと20〜30万円の間くらい(或いはそれ以上)で取引されています。A.H.ハーシュの帯びる神秘性は興味深いことに、通常よくあるような販売会社のマーケティングを通じて付与されたのではなく、主にインターネット上の初期バーボン愛好家コミュニティを通じて生み出されました。神話の形成にはA.H.ハーシュの辿った複雑な歴史的背景も関係しています。バーボン・ライターのチャールズ・カウダリーは、一冊丸ごとハーシュ・リザーヴについての本を上梓することでそうした歴史を詳らかにし、45ドルのバーボンがどのようにして伝説となったかの物語を我々に教えました。間違いなく誇大宣伝されているバーボンの一つではありますが、それだけ人は伝説や神話が大好きなのです。

A.H.ハーシュを語るには雑多な説明をせねばならないので、一先ず、ざっくりと概略を示しましょう。A.H.ハーシュ・バーボンは1974年の春、アドルフ・ハーシュとの契約によりペンシルヴェニア州シェーファーズタウン近くのペンコ蒸留所(後のミクターズ蒸留所)で単一400樽(*)のバッチにて生産されました。このウィスキーは先代のチャールズ・エヴェレット・ビームのもとで学んだマスター・ディスティラーのディック・ストールがスタンダード・バーボン・レシピを使い蒸留しました。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーとされています。
1989年に蒸留所が破産に直面した時、このバーボンは既に典型的なものより遥かに長い間熟成されていました。蒸留所が倒産するまで敷地内の倉庫で眠り続け、一度も使用されることなく時を過ごしたのです。同年、バーボンは蒸留所の資産を売却する前に救出されました。ノーザン・ケンタッキーにあるコルク・アンド・ボトル(酒のセレクトショップ)のゴードン・ヒューがそれを買い上げて、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世にボトリングしてもらい、A.H.ハーシュ・リザーヴというブランドにしたのです。ヒューの計画はこのバーボンを日本市場で販売することでした。当時、日本はバーボン市場として活況を呈しており、アメリカとは正反対に超長期熟成原酒をボトリングしたバーボンはかなりのプレミアム価格で取引されていました。スコッチを基準としてウィスキーを受容した日本人は、バーボンにさほど馴染みがなかったため、スコッチのような熟成年数の12年や15年、時には20年以上の熟成期間を経たバーボンを求めたのです。A.H.ハーシュ・バーボンは発売からの20年間に渡り様々なプルーフと熟成年数でゆっくりとボトリングされて行きました。熟成年数は15〜20年でリリースされましたが、最も数の多いのは16年でした。それらは全て同一のウィスキーであり、単に異なる時期に樽やタンクから引き出されボトリングされたものです。

A.H.ハーシュ・リザーヴ・ストレート・バーボン・ウィスキーは1989年に始まりました。最初に出されたのは15年熟成の物で、1989/1990年に非常に少数ボトリングされ、その殆どが日本に送られました。最も有名な16年熟成の初めてのバッチは一年後の1991年にボトリングされ、青色の封蝋を施されているので通称「ブルー・ワックス」のハーシュと知られています。この時点で大部分のバーボンはこれ以上の熟成を止めるためにステンレス・タンクに入れられました。と同時に少量のバーボンは20年まで樽に入れられたまま熟成を続け、段階的に17年、18年、19年、20年と小分けにしてボトリングされて行きます。ヒューはブランドの所有権を維持し、自分の店で少数のボトルを販売すると共に、主に日本とヨーロッパの市場へ販売しました。ちなみに「A.H. Hirsch」の文字に筆記体を使用した初期のラベルには本物の証としてウォーターマーク(透かし)が入っています。
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(画像提供GEMOR様)

その後、プライス・インポーツのヘンリー・プライスがブランドを買収し、以前までのローレンスバーグではなくフランクフォートと記載された通称「ゴールド・フォイル」と呼ばれるA.H.ハーシュを2003年にリリースします。最も多くのボトリングが行われたのは、このゴールド・フォイル・ヴァージョンでした。当時のアメリカでの小売価格は1本約45ドルだったそうです(日本では或る時点では6500〜7500円程度だった)。2006年半ばにプライスは最後の1000ケースまで減ったと報告しました。この頃にはA.H.ハーシュの伝説は広まり彼らもそれを認識していたのか、2009年には名声あるバーボンの残りは高級な手吹きクリスタル・ボトルにリボトルされ、しかも木製のヒュミドールに入った特別なパッケージにして希望小売価格1500ドルで市場に投入されました。このセットは個別に番号が付けられたちょうど1000個の限定販売でした。これがA.H.ハーシュ・リザーヴ全体の最後のリリースです。
2011年、ヘンリー・プライスは会社とハーシュのブランドをアンカーに売却しました。これにはハーシュのヒュミドール・セットの残りの在庫も含まれています。価格が高すぎたせいなのか、当初はあまり売れ行きが芳しくなく、2013年4月の情報ではアンカーにはまだ800個のヒュミドール・セットが在庫されていることが確認されたとか。つまり在庫の20%を販売するのに4年掛かった訳です。それでも2015年頃にはアンカーの在庫は捌け、流通業者と小売業者の少数の在庫を残すのみとなりました。しかし「ユニコーン」バーボンが求められる現在では定価で購入することは叶わないでしょう。セカンダリー・マーケットも含め希望小売価格の倍が相場となっています(初期のAHHはもっと高い)。
ちなみに、一連の取引を経てプライス・インポーツはアンカー・ブリュワーズ&ディスティラーズの一部となり(**)、更に現在アンカーはホタリング&カンパニーと名称を変えました。彼らはハーシュ・ブランドを維持し、「ハーシュ・セレクション」や「ハーシュ・スモールバッチ」等の名前で色々なリリースをしていましたが、それらはここで言及している伝説の“ペンシルヴェニア1974”の「A.H.ハーシュ」ではなく、その中身は異なる調達先からのジュースです。また、2020年にはパッケージをリニューアルして、新しい「ハーシュ・セレクテッド・ウィスキーズ」というシリーズになり、その第一弾として「ハーシュ・ザ・ホライゾン」が発売されました。これはMGPソースのバーボンです。すぐ上に述べたセレクションともスモールバッチとも違うシリーズなので混同しないようにしましょう。
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ではここで、ネットで画像を確認出来たA.H.ハーシュ・リザーヴの各ボトルを以下にリストしておきます。左から、名称と熟成年数、ラベル(ハーシュ名の書体と色)、プルーフもしくはABV、封、ボトル形状、ボトリング地、その他の事項です。名称の小文字や大文字の区別やプルーフおよびアルコール度数の表記は、なるべく実際のラベルに記載された文字に従ったため、不統一になっていますがご了承下さい。また、発売年代順に列挙したかったのですが、私にはその仔細が完全には判らないため、熟成年数やラベル・デザインや瓶形状の同等性で纏めてあります。なのでリリース時期の判る方、それとこれら以外にもまだあるのをご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。

HIRSCH RESERVE 15 YEARS OLD|Van Winkle Style, Block(Red)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg|September 16, 1989
HIRSCH RESERVE 15 YEARS OLD|Van Winkle Style, Block(Red)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg|February 26, 1990
A.H. Hirsch RESERVE 15 YEARS OLD |Script(Red)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 15 YEARS OLD|Script(Blue)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
HIRSCH RESERVE 16 YEARS OLD|Van Winkle Style, Block(Red)|47.8% Vol./95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD|Script(Blue)|91.6 Proof|Blue Wax|Cognac|Lawrenceburg|1991
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD|Script(Blue)|47.8% Alc/Vol|Gold Wax|Scotch|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD|Script(Blue)|91.6 Proof|Black Wax|Scotch|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD|Script(Blue)|45.8% Alc/Vol|Gold Wax|Scotch|Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 17 YEARS OLD|Script(Blue)|95.6 Proof|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg|1991
A.H. Hirsch RESERVE 18 YEARS OLD|Script(Blue)|46.5% Alc/Vol|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg|November, 1992, released 37 cases(444 bottles)
A.H. Hirsch RESERVE 19 YEARS OLD|Script(Red)|46.5% Alc/Vol|Red Wax|Cognac|Lawrenceburg|November, 1993, released 121 cases
A.H. Hirsch FINEST RESERVE 20 YEARS OLD|Script(Red)|45.8% Alc/Vol|Red Wax|Cognac|Lawrenceburg|December, 1994 - April, 1995, released 500 cases
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old|Print|45.8% Alc/Vol (91.6 Proof)|Dripped Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old|Print|45.8% Alc/Vol (91.6 Proof)|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old|Print|45.8% ALC/VOL (91.6 PROOF)|Gold Foil|Cognac|Frankfort|2003
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old|Print|45.5% ALC/VOL (91 proof)|――――|Hand-Blown Crystal|Bardstown|Humidor Edition, 2009, 1000 bottles

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少し文章で補足しておくと、ラベル項目の「Van Winkle Style」は「ヴァン・ウィンクル・セレクション」や「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」に似た様式のラベルを指し、「script」は「A.H. Hirsch」の文字が筆記体で書かれた初期ラベルを指し、「print」は後期に定着した高級感の劣るラベルを指しています。ボトル項目の「Cognac」はなで肩シェイプのやや背の高いボトルを指し、「Scotch」はネック部分にやや膨らみがあり少しでっぷりしたボトルを指しています。
そして、A.H. ハーシュ名義以外でのペンシルヴェニア1974原酒を使ったボトリングで知られる物が幾つかありますので、それらは以下に纏めました。

Old Grommes Very Very Rare 16 YEARS OLD|101 Proof|−−−−|Square|Lawrenceburg|For Japan market
Colonel Randolph 16 YEARS OLD|116° Barrel Proof|−−−−|Squat|Lawrenceburg|released 100 cases
BOONE'S KNOLL 16 YEARS OLD|45.8% Alc/Vol|Black Wax|Scotch|Lawrenceburg|For Europe market, 256 Bottles
VAN WINKLE SELECTION 16 YEARS OLD LOT “H”|Block(Red)|47.8% VOL|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg
VAN WINKLE SELECTION 17 YEARS OLD LOT “H”|Block(Blue)|47.8% ALC./VOL. (95.6 PROOF)|Gold Wax|Cognac|Lawrenceburg

この中で上から3つのブランドは、ボトリングした本人のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が証言してるのでペンシルヴェニア1974原酒に間違いありませんが、ヴァン・ウィンクル・セレクションの2つは海外では異なる原酒の可能性も示唆されています。レッド・ワックスの「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ16年、17年」や初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル20年」に使用されたオールド・ブーン原酒ではないかと言うのです。おそらく、そう推理する根拠は蒸留年が同じ1974年であることと、裏ラベルに「Kentucky Straight Bourbon Whiskey」と書かれていることと、ヒューが所有するペンシルヴェニア原酒にヴァン・ウィンクル名義を使う許可を与えるかどうか疑わしい、という三点でしょう。個人的見解では、わざわざ表ラベルに「Pot Stilled」とあり「Kentucky」とも名乗っておらず、更にロットが「H」、しかもプルーフだってA.H.ハーシュにあったボトリング…、これではラベルを信じる限りどう見てもペンシルヴェニア1974原酒としか思えません。裏ラベルに関しては日本のインポーターのミスだと思います。そしてヴァン・ウィンクル名義とは言え、「ファミリー・リザーヴ」と言ってしまうとヴァン・ウィンクル家の所有物になるかも知れませんが、「セレクション」ならジュリアン三世が厳選しましたくらいの意味になりギリOKだったのではないかと…。まあ、それはともかく上に挙げたブランドのうちオールド・グロームス16年とカーネル・ランドルフ16年はボトリング・プルーフが違うので別物と考えても差し支えありませんが、その他の三つはA.H.ハーシュの単なるラベル違いではないかと思うのです。皆さんはどう思われるでしょうか? ご意見をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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(画像提供Bar FIVE様)

さて、ここからはA.H.ハーシュ・リザーヴの来歴をもう少しだけ掘り下げてご紹介しようと思っているのですが、その前に予備知識と言うか念の為に言及しておきたいことがあります。
後にA.H.ハーシュ・リザーヴとなる原酒が生産された蒸留所は一般的にミクターズ蒸留所として知られるため、日本でA.H.ハーシュについて語られる場合、概ね「ミクターズ原酒云々」と言われます。しかし私はここまで、敢えてそう呼ばずに「ペンシルヴェニア1974原酒」と呼んで来ました。それには幾つかの理由がありますが、一つは「現代ミクターズ」との混同を避けるためでした。アメリカン・ウィスキー業界に明るい人は知っているかも知れませんが、そうでない場合、現代ミクターズとオリジナル・ミクターズに何か繋がりがあるかのように想定してしまう恐れがあると考えたのです。
ペンシルヴェニアのオリジナルのミクターズ蒸留所が閉鎖後、ミクターズの商標は放棄されました。その後、ジョセフ・マリオッコ率いるワインとスピリッツの販売を手掛けるチャタム・インポーツという会社が1997年に商標を取得し再登録、2000年代初頭にケンタッキー州のブランドとしてミクターズを復活させます。彼らは元々はNDP(非蒸留業者)、つまりバルク・ウィスキーを購入し、それをボトラーに依頼して瓶詰めしてもらい、自社ブランド名で販売するところからスタートし、後にケンタッキーの匿名の蒸留所で生産するようになり、2015年には自らの蒸留所をシャイヴリーに構えるに至りました。これが現代のミクターズです。そして現在では彼らのハイエンド・ウィスキーを造る戦略は成功を収め、人気を博しているのは周知の通り。彼らはミクターズの名前の権利を有しているため、シェーファーズタウン近くの蒸留所の長い歴史をマーケティングでは語りますが、今日店頭に並ぶミクターズのバーボンやライやその他のウィスキーはペンシルヴェニア州のミクターズ蒸留所で製造されたものではありません。上の説明で分かるように、本質的に別物なのです。まあ、これに関しては「旧ミクターズ」と「新ミクターズ(現代ミクターズ)」のように書き分ければいい話で、現にそうしている人もいるし、私もそうするでしょう(※ただし、文脈によって誤解がないならば、旧ミクターズであれ現代ミクターズであれ、どちらも単に「ミクターズ」と表記することはあります)。
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理由のもう一つは、ミクターズというブランドとミクターズとなるウィスキーを製造した蒸留所を分けて考えたかったからです。
今でこそアメリカン・ウィスキーのブランドの多くは、製造と販売の両方を行う企業によって造られていますが、昔は違いました。それらは分かたれ、どちらかと言えば販売側が支配的な力を持っている時代があったのです。南北戦争から禁酒法までは特にそうでした。その頃のビジネスでは、蒸留所はウィスキー及び他のスピリッツを造るとブローカーに一括で販売し、彼らはそれをブレンドやパッケージングやブランド化する飲料会社へと販売しました。殆どのブランド名を作成および所有したのは飲料会社もしくはブローカーであり、一般的には蒸留所ではありませんでした。アメリカン・ウィスキーのブランドが確立し、業界が発展するにつれ、中間業者は自分達の影響力に気づき始めます。最も力の強いブローカーは大都市を仕切り、その小型版のようなブローカーは地方の市場を支配しました。蒸留業は莫大なお金が掛かるため、業界は常に不安定でした。そのため蒸留所の所有権はコロコロと変わり、裕福な銀行家がオウナーとなったり、有能なビジネスマンがパートナーと共同で蒸留所を所有したり、そして大きな飲料会社やウィスキー・ブローカーが原酒の安定供給のため蒸留所を買収することも多かったのです。
ペンシルヴェニア州シェーファーズタウン近くにあり、後年ミクターズと呼ばれることになる小さな蒸留所の創業は1753年に遡ります。長い歴史の間に、この蒸留所は所有権の変更と共に様々な名前で知られていました。シェンクス蒸留所、ボンバーガーズ蒸留所、カークス・ピュア・ライ蒸留所、ペンコ蒸留所、ミクターズ蒸留所…。そしておそらく他の名前もあったと見られています。蒸留所がミクターズと名乗っていたのは、その存続期間のうち最後の15年ほどでした。それが最終的な名称であったため、またこの時期に蒸留所は観光に力を入れていたこともあり、ミクターズの名が広く知られるようになったのです。ミクターズは基本的に蒸留所ではなくブランド名でしたが、1975年以降に蒸留所に適用されました。「Michter's」という名称は1950年代初頭にブランドを作成したルイ・フォーマンが「Michael」と「Peter」という二人の息子の前半と後半の名前を繋げて名付けたものです。ミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーを販売していたマーケティング会社はミクターズ・ジャグ・ハウスと呼ばれていました。同社とシェーファーズタウンの蒸留所とは常に繋がりがあり、その蒸留所がペンコ・ディスティラーズと呼ばれていた頃も長年に渡ってミクターズ蒸留所として事業をしていたと思われます(所謂DBA)。それ故、便宜的に一律「ミクターズ蒸留所」としたり「ミクターズ原酒」としても悪くはないのですが、更に理由はもう一つありまして…。

ミクターズと言えば有名なのは上にも書いたミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーです。そのウィスキーのマッシュビルは、50%コーン、38%ライ、12%モルテッドバーリーでした。バーボンやライウィスキーを名乗るには、それぞれの主原料が少なくとも51%なければなりません。 それ故ミクターズはバーボンでもなくライウィスキーでもなくサワーマッシュ・ウィスキーとして販売されました。しかも、その一部は使用済みの樽で熟成されていたので「ストレート」も名乗れませんでした。ストレート規格は新樽で2年以上熟成させたものを言います。ここら辺の事情は、アメリカ市場向けのアーリータイムズが中古樽熟成を含むため「バーボン」でもなく「ストレート」でもない「ケンタッキー・ウィスキー」を名乗るのと同じようなものです。「サワーマッシュ」についても、禁酒法以前であれば差別化のための用語であったかも知れませんが、近年のアメリカン・ウィスキーのほぼ全てはサワーマッシュ製法で造られているので(***)、特別な用語とは言えません。ジャックダニエルズがテネシー・サワーマッシュ・ウィスキーであるのと同じ意味しかないのです。勿論ミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーというのは悪い製品ではありませんし、造り手は常に誇りをもって生産してもいましたが、価格帯のクラスで言えばジムビームやジャックダニエルズのスタンダードと同じボトムシェルファーでした。しかし、A.H.ハーシュ・リザーヴのレシピは全くの別物です。それ故に「ミクターズ原酒」と言った時に有名なミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーを想起してしまう可能性を考慮して、別の言い方にしたかったという訳なのでした。

では、A.H.ハーシュ・リザーヴの名前の由来となっている人物の説明に移りましょう。その男はシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションで間違いなく重要な人物でした。ですが、どんなパーソナリティの人物なのか、なぜ1974年の春にバーボンを蒸留させたのか、なぜ10年以上もそれを放置していたのか、それらは研究者の推論に頼らなければならない不明瞭な事柄です。それでも分かる範囲で書き出して見ます。
アドルフ・H・ハーシュは1908年6月5日、ドイツ南西部のライン川沿いの都市マンハイムに生まれました。彼は17歳でUSSクリーヴランド号に乗ってアメリカに移住し、直後に米国市民になるための請願書で「Adolf」から「Adolph」に改名、1932年にアメリカ市民となりました。シカゴの著名な投資銀行であるA.G.ベッカー&カンパニーに就職して働いた後、1934年に26歳の若さでルイヴィルのバーンハイム蒸留所の副社長になったそうです。蒸留所は常に資金を必要とするので経営者が銀行家なのは珍しいことではありませんでしたが、ハーシュもバーンハイムへの出資者の一人だったのかも知れません。I.W.ハーパーで有名なバーンハイム蒸留所は禁酒法が解禁された当時、シカゴを拠点とするウィスキー・マーチャンツの二人、エミル・シュワルツハプトとレオ・ジャングロスが取得していました。ハーシュは二人とA.G.べッカー社からの資金融資を通じて知り合ったのか、もしくはユダヤ系ドイツ移民のコミュニティで知り合いだったか、或いは旧大陸で何らかのコネクションがあったのか詳細は不明ですが、とにかく後々まで続く交友関係を築き上げています。
1937年、シュワルツハプトとジャングロスはバーンハイム蒸留所をシェンリーに売却しました。彼らはシェンリーの株主になったと思われますが、得た資金で他の事業を手掛けた可能性もあります。ハーシュは暫くルイヴィルに留まり、後に当時シェンリーの本部があったニューヨークに赴任したようです。1941年12月、アメリカが第二次世界大戦に突入したのと時を同じくして、ハーシュは33歳でシェンリーを去りました。程なくしてアメリカの蒸留酒業界は「戦争努力」のための工業用アルコールの生産準備を進めます。当初、陸軍省はテキサス、ルイジアナ、および湾岸州の蒸留所で十分だと考えていましたが、もっと容量を増やす必要と、沿岸部のプラントは攻撃を受け易いことに気づきました。すると内陸のウィスキー製造業者は急務にさらされました。
大規模な蒸留所は工業用アルコールへの転換を迫られましたが、小規模な蒸留所はウィスキーの製造を続けることが出来たと言います。ハーシュはこれをビジネスの好機と捉え、すぐに動きます。1942年、彼とサミュエル・グラスともう一人のパートナーは、ペンシルヴェニア州の田舎に二つの小さな蒸留所を既に所有していたペンシルヴェニア・ディスティリング・カンパニーを買収し、会社の名前をローガンズポート・ディスティリング・カンパニーへと変更、更に三つめとしてシェファーズタウンの蒸留所をルイ・フォーマンから買収しました。ローガンズポートは戦争期間中に三つ全ての蒸留所を稼働させ、主にバーボンを造ったと見られています(それが医療用か民間市場向けかは不明)。
戦争が終わると、1946年にはハーシュとパートナー達はローガンズポートをシェンリーに売却、ハーシュは約四ヶ月間シェンリーに復帰するも、1947年3月には「慈善活動を追求する」ために引退を表明しました。けれど彼はまだ38歳であり、ビジネスを完全に終わりにした訳ではありませんでした。1956年4月、ハーシュはニューヨークに戻ってシェンリーに三度目の参加を果たし、今回は社で最高地位の一つであるエグゼクティブ・ヴァイス・プレジデントに就任したのです。翌年、シェーファーズタウンの蒸留所は、ローガンズポートで元パートナーだったサミュエル・グラスが買収し、ペンコと改名しました。おそらくこれが後にA.H.ハーシュ・リザーヴとなるバーボンが生産される遠因となります。1960年7月、ハーシュは52歳でシェンリーを退職しました。まだまだ若い彼のその後の人生についてはよく分かりませんが、慈善活動を行っていたのは知られています。ハーシュはシュワルツハプトが創設した「アメリカ市民権の確立と向上」を促進するエミル・シュワルツハプト財団のプレジデントを1958年のレオ・ジャングロスの死後に引き継ぎ、少なくとも1979年まではその地位にあったようです。そして、いつの頃かミシガン州グランド・ラピッズに移り住み、余生を過ごしました。
ところで、ネットで調べると時折、アドルフ・ハーシュの叔父がアイザック・バーンハイムであると書かれていることがあります。墓石や家系図のウェブサイトで調べても確認できなかったのですが、これは本当なのでしょうか? カウダリーの本にもその件は書かれていません。誰か真偽をご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。では、話はペンコへと進みます。

ペンコ・ディスティラーズは、サミュエル・グラスの指揮の下、1950年代の終わりから1960年代にかけて事業は順調でした。ペンコは比較的小規模な蒸留所でしたが、1966年の地方新聞によれば、日産750ブッシェルの穀物を処理する能力があり、一日あたり60バレルのウィスキーを産出、約60000バレルを収容する倉庫を有しており、年間で約15000バレルをダンプしたと言います。ペンコは幾つかの独自のブランドを持っていたと思われますが、主な事業は契約蒸留であり、他の蒸留業者やボトラーと契約してウィスキーを製造していました。ワイルドターキーのためのライを製造したのはよく知られ、おそらく他にもナショナルやシェンリーやハイラム・ウォーカーのような大企業も利用していたのではないかと見られています。或いはブラウン=フォーマンのためのライや、なんならカナダの蒸留所にもウィスキーを売ったという話もありました。また詳細は分かりませんが、コンチネンタルとは何らかの繋がりがあったらしく、コンチネンタル製のウィスキーをペンコでボトリングすることすらあったようです。ペンコにはミクターズのような観光事業や多彩な歴史の謳い文句や目立つデカンターはありませんでしたが、素晴らしいウィスキーを造ったのは同じでした。1950年代初頭にルイ・フォーマンが蒸留所を管理していた時代にタッグを組み、その後もマスターディスティラーとして君臨していたチャールズ・エヴェレット・ビームは、ペンコの高品質な製品造りやフォーマンが販売し続けたミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーの独自の製法を非常に誇りに思っていました。
10年以上に渡り好調だったペンコのビジネスも、1960年代後半にスピリッツ市場の潮流が大きく変化すると、多くの蒸留所と同様に苦戦を強いられ売上は劇的に減少してしまいます。そして1975年頃、同社は経営破綻し管財人による管理下に置かれました。そこでフォーマンはレバノン郡の実業家達と会社を設立、差し押さえセールで蒸留所を購入し、1976年にミクターズ蒸留所として操業を再開するのでした。
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(ミクターズ蒸留所、wikipediaより)

世界的に有名なA.H.ハーシュのバーボンは、1974年の春に契約蒸留されています。契約蒸留では蒸留したてのニューメイクを購入する顧客もいますが、樽に入れて熟成させる保管サーヴィスを利用するのが一般的です。ペンコが倒産した時には、バーボンは既に倉庫に保管されていました。そして15年の長きに渡り放置されました。アドルフ・ハーシュはなぜ販売しもしないバーボンの製造を依頼したのでしょうか。実は彼の口からの直接的な証言はないので真相は判りませんが、歴史家の推論によれば、自らも昔関わった蒸留所であり友人である社長のサミュエル・グラスを助けるため、財政難に陥っていたペンコ社への資金援助的な投資をしたのではないかと見られています。
ウィスキーは長期的な投資になりがちなので、潤沢な資金が重要です。投資家は製品が販売されるまでに少なくとも数年、場合によってはもっと待たなければならないだけでなく、製品は最適な条件で保管し続けなければなりません。それは不確実性に満ちた、何年も先を見据えた予測ゲームです。当時のハーシュは66歳、大企業を引退した裕福な男とは言え、蒸留所を経営した熟練のプロフェッショナル、お金を無駄にする積りはなかったでしょう。おそらく彼には蒸留所への信頼と、長期の熟成が良いウィスキーを造る確信があった筈。しかし、初めから偉大なウィスキーを造るために長期熟成させる意図はなかったと思いますが…。
時代は移ろい1989年ついにミクターズ蒸留所も倒産となった時、ハーシュは15年間の熟成を経たバーボンの買い手を探さなければなりませんでした。そこに登場するのがゴードン・ヒューです。A.H.ハーシュ・リザーヴは、誰もが意図しない偶然が幾つも折り重なった奇跡の産物でしたが、ヒューもまた伝説のバーボン誕生に欠くことの出来ない人物でした。或いは、最も重要な人物ですらあるかも知れません。

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ケンタッキー州ケントン郡フォート・ミッチェルで育ったゴードン・ヒュー・ジュニアは、1964年にコルク・アンド・ボトル(Cork 'N Bottleと表記)を設立したゴードン・ヒューの同名の息子です。コルク・アンド・ボトルはコヴィントンにあった最高級のスピリッツやビールやワインを専門に扱う家族経営の店でした(****)。地理的にシンシナティからの客も多く取り込み、ビジネスは成功を収め、ケンタッキーでも有名な酒屋として或る種のランドマークともなりました。七人の子供のうちの一人であるゴードンことゴーディは、早くも60年代、13歳の頃から週末に家族の酒屋を手伝い始めたと言います。ゴミ出しや床の掃除から始まって、棚の品出しやカウンターの後ろで出来る仕事へと進みました。セント・ゼイヴィア高校とゼイヴィア大学時代にも働き続けていたゴーディは、既に自分の将来がハイエンドな酒類ビジネスにあることを確信していたそうです。外国産のワインのラベルに魅了されていた彼は19歳の時、初めてカリフォルニアを訪れ、幾つかのブドウ畑をじっくりと見学しました。そうした影響からか、20代前半の頃には後に自ら「バーボン・プロジェクト」と呼ぶことになる目論見を抱くようになります。それは愛好家達にアピールする芸術的なプレゼンテーションをややもすると田舎臭いバーボンに与えることで洗練させ、もっとお金を掛ける価値のある飲み物としてバーボンの評判を高めるというアイディアでした。コルク・アンド・ボトルはそのカテゴリーの上位に焦点を当て、コニャックやアルマニャックのような輸入スピリッツは勿論のこと、他ではなかなか手に入らないようなワインも豊富に取り揃えていました。 そこでゴーディは疑問に思ったのです。なぜバーボンに関してケンタッキーではスコットランド人やフランス人がやっているような良い商品の扱い方をしないのか、と。後に彼のアイディアは現実のものとなります。

ゴーディの父は蒸留所と協力して店舗に独自のハウス・バーボンを置いていました。ゴーディも実地に足を運ぶ優れた仲買人となり、異なる蒸留所のシングルバレルやスモールバッチのバーボンを選び出し、ラベルデザインの美学にも気を配りました。ケンタッキー州の法律では酒屋のオーナーが自分の蒸留酒を作ることは許可されていないため、ゴーディは基本的に店を経営することと、一種のフリーランスのブランド・メーカーとして別個の仕事をしています。彼がバーボンの世界に入ったのは1974年か75年のことでした。1970年代に多くの蒸留所が閉鎖されようとしていた頃、また偶然にも後にA.H.ハーシュとなるバーボンが蒸留されたのと時を同じくして、ゴーディはプレミアム・バーボンのリリースを計画します。最初の大きなプロジェクトのためにゴードン父子は、ウィレット蒸留所にて1959年2月4日に蒸留され16年間熟成した樽を調達し、1976年の独立記念日を記念して、32のバレルから107プルーフで3168本をボトリングしたバイセンテニアル・コメモレーション・バーボンをリリースしました。ラベルは地元の印刷屋で作り、自身でラベリングしたとか。当時ケンタッキー州にはまだ多くの蒸留所がありましたが、若者にはオシャレだったウォッカや、上流階級にも愛好される洗練されたスコッチと較べ、全体的に「ブルーカラーの飲み物」とのイメージを固めていたバーボンは、あまり人気がなかったので長熟バレルが倉庫に横たわっていました。しかし、ケンタッキー人にとってバーボンはライと共に、相変わらずアメリカの象徴的な飲み物だった筈です。そこで興味深く高品質な製品を追求していた彼らは、200周年記念ラベルを付けるに相応しいユニークなバーボンを探してみようと思い付いたのでした。この初めての特選バーボン・カテゴリーへの進出は成功し、気を良くしたゴーディは良質なバーボンを求めて、他の蒸留所にもコンタクトをとり今後更に購入することになります。ケンタッキーのバーボン・シーンに詳しく、優れた味覚を有し、いつも何か新しいことに挑戦するためのエネルギーも持っていた彼は、結果的に1995年まで20年以上に渡ってコルク・アンド・ボトルの経営に携わり、自然と業界のレジェンドたちと触れ合うようになりました。
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或るプロジェクトでゴーディは、オールドハウス・リザーヴ・バーボンのためのボトルを、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニア(二世)がボトリングしたオールドリップ・ヴァン・ウィンクル7年のスクワット・ボトルに似たものにしたいと考えました。ジュリアン・ジュニアがスティッツェル=ウェラー蒸留所を売却した際、バーボンと同様ガラス瓶も持って行っていたことを知っていたゴーディは、パピーの息子に連絡してボトルを購入することになりました。これが縁で二人は時々話をするようになります。或る特別な機会にジュリアン・ジュニアはコールマイナー・セラミック・デカンターにバーボンを容れようとしていました。それを聞いたゴーディは啞然としてジュリアン・ジュニアに尋ねます。「あなたはスティッツェル=ウェラーの驚くほど素晴らしいウィスキーを、中身はどうでもよくて装飾的なデカンターが欲しいだけの人のために入れてるんですか? 」。ジュリアン・ジュニアはこう答えました。「ああ、生活しなくちゃならんからな。君にはもっといい考えが?」。「見栄えのするボトルにウィスキーを入れて本当の金額を請求しましょう」とゴーディは言いました。フランスで酒類を調達していた時、彼はガラス製のコニャック・ボトルを購入していましたが、そのエレガントな美しさは類い稀れなスティッツェル=ウェラーのウィスキーに相応しいと感じたのです。これが伝説のヴァン・ウィンクル・ファミリーとのコラボレーションに繋がりました。1981年にジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアが亡くなると、そのアイディアは彼の息子ジュリアン三世と共に実現して行くことになります。ゴーディは2世代のヴァン・ウィンクルズと協力することで、現代のバーボン・シーンに於いてユニコーンとされるパピー・ヴァン・ウィンクルズ・ファミリー・リザーヴのブランディングに一役買ったのです。
ジュリアン三世は1983年にローレンスバーグにあるホフマン蒸留所をボトリングと貯蔵のために購入し、コモンウェルス蒸留所(DSP-KY-112)と改名して運営し始めました。そこでゴーディは元々彼の父親との交流で浮かんでいたアイディアを持って息子にアプローチします。ゴーディは熟成したスティッツェル=ウェラーのウィスキーを購入し、プレミアム製品として販売したいと考えており、それを「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」と名付け、ラベル・デザインを彼自身に適応させ、ガラス製のコニャック・ボトルに入れるのはどうだろうか、とジュリアン三世に尋ねてみました。反応は上々でした。彼は「そのアイデアはなかなかいいね」と答えましたが、自分がバーボン史上最もアイコニックなブランドの立ち上げを承認したことに、この時はまだ気づいていません。ゴーディの考案したスタイル、ネーミングやラベルやボトルは、今でもヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライとほぼ同じものです。そしてジュリアン三世はこの後、ヴァン・ウィンクル・ブランドのウィスキーにこのボトル・デザインや要素を受け継いで発展させて行くのでした。
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ゴーディはヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・バーボンをコルク・アンド・ボトルで販売しつつ、ヨーロッパや日本にも輸出しました。ゴーディとジュリアン三世の間柄は正式な契約やパートナーシップを結んだ訳ではありませんでした。そのせいでもないでしょうが、ある日ゴーディはジュリアン三世から、君に売るだけの熟成バーボンの在庫がない、と告げられます。ジュリアン三世から熟成したスティッツェル=ウェラー・バーボンを購入することが出来なくなったゴーディは、それに匹敵するウィスキーの探索を始めなければなりませんでした。先ず彼はナショナル・ディスティラーズから素晴らしいオールド・グランダッド・バーボンをほぼ確保するところまで行きましたが、1987年に同社が売却された際に新しいオウナーのビーム社はその取引を取り消しました。その後、ゴーディはクリーヴランドの知人ロバート・ゴッテスマンから伝説的バーボンの誕生に繋がることになる連絡を受けます。
ゴッテスマンは元シェンリー・インダストリーズでキャリアを築いたパラマウント・ディスティラーズの共同オーナーです。彼はゴーディに、ミシガン州グランド・ラピッズに住む80代の老紳士が、熟成ウィスキーを売りに出しているのを知っていると知らせました。そう、他ならぬアドルフ・ハーシュ。おそらくゴッテスマンとハーシュはシェンリー時代に知り合ったのでしょう。ミクターズ蒸留所の破産によりウイスキーの樽が置かれていた土地は銀行に取られ、オーファン・バレルを引き払う必要がありました。約5000樽が銀行によって所有されていましたが、一部はまだハーシュの所有だったのです。
ゴッテスマンは言いました、「それはペンシルヴェニアのウィスキーだ」。「ペンシルヴェニア?」、ゴーディはがっかりして続けます。「ペンシルヴェニアのウィスキーは売れないんだ、だって皆んなケンタッキーこそベストと考えるからね」。しかし、「あぁ、オーケー、とにかくチェックしてみよう」ということになり、ゴッテスマンはサンプルを手配しました。そしてサンプルを味わったゴーディは驚きます。目を見開き、一言「わぉ…」。それはスティッツェル=ウェラーのプロダクト以来、彼が出会った絶対的に最高なものでした。彼はペンシルヴェニア・ウィスキーを売ることに何の問題もないことを確信します。

ゴーディはハーシュを訪ねるためグランド・ラピッズに行き、彼の人生で最も興味深い一日を送りました。二人は座ってウィスキーについて語り合った。
ハーシュは言います、「ウィスキーを持って行って欲しい、私はもう年寄りだし、皆んなに迷惑を掛けたくないからね」。彼らは共にそれが良いウィスキーであることを知っていたので、ハーシュには売れる確信があったのかも知れないし、ゴーディもまた端から購入する心算だったのかも知れません。実際、運命はそのように動きます。1989年(1988年の可能性も)の或る日、ハーシュ宅のリヴィング・ルームでゴーディは見事なまでの熟成を見せるペンシルヴェニア・ウイスキーを買うことに同意したのです。総額12万5000ドル、三年間での支払いでした。ゴーディはハーシュに、このウィスキーには貴方の名前を付けたいと申し出ました。アドルフ・ハーシュ、その妻、ゴードン・ヒューの三名が署名した基本合意書には、「私は、この在庫からボトリングされた製品のラベリング及びマーケティングに於いて、ヒュー氏が私の名前を使用することに同意する、もし彼がそう望むなら」、と書かれていました。ハーシュは全てをやり切ったと思ったのか、この後すぐに亡くなっています。彼はこのバーボンの高い品質と特徴を非常に誇りに思っていたので製品に自分の名前が付けられることを喜んでいたようです。
家に戻ったゴーディは厳しい現実にぶち当たりました。「なんてこった、今からどうしたらいいんだ? あの全ての樽を持って行く場所なんてないぞ!」。先ず彼はジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のところへ行きますが、「うちにはそんなスペースはないよ」と言われてしまいます。ゴーディは何とか約3分の1のバレルをジュリアン三世の倉庫で保管できるよう話を付け、それらは熟成を続けることになりました。その後、もともとゴーディにハーシュを紹介していた男であり、シンシナティでマイヤーズ・ワインを経営していたロバート・ゴッテスマンは、ウイスキーの保管を申し出ました。彼が謝礼として請うたのは、シェリーを熟成させるための空の樽を捨てないでおくことだけだったとか。恐らくそういった事情から、1989年5月27日にゴーディが入手した「在庫」は、すぐにハーシュ・リザーヴ15年としてボトリングされたのだと思われます。シェーファーズタウンからの最初の出荷分の樽は、1989年9月に直接ケンタッキー州ローレンスバーグにあるジュリアン三世の施設に到着し、15年熟成のバーボンは95.6プルーフで瓶詰めされました。最初のバッチは47ケース。こうして、栄えあるA.H.ハーシュ・リザーヴは正式に誕生しました。そのうち極く一部だけゴーディのコヴィントンの店舗で販売され、大部分は海外に出されます。

ゴーディはコルク・アンド・ボトルという小売業を営んでいましたが、その傍ら、1984年頃から長期熟成ウィスキーを日本やその他のインターナショナル・マーケットに輸出し、当時としては高価格で販売していました。アメリカのバーボン市場が低調だったため、ゴーディは経済が好調な場所に目を向けていたのです。彼がリリースした特別なボトリングは、もともと日本市場をターゲットにしていた、と後年のインタヴューで自ら語っています。それこそがハーシュから購入した長熟バーボンを使って彼がやろうとしていたことでした。
ゴーディは長期熟成バーボンで日本市場に参入した最初のエクスポーターではありませんでしたが、かなり早い段階から参入したと思います。それは甘いビジネスでした。 日本人は突如として長期熟成バーボンに恋に落ち、それに対して高額のドルを支払う用意がありました。しかし、長熟バーボンを所有していた殆どの人々はそれを安く売ろうと思っていました。なぜなら当時のアメリカ市場ではそんな物に誰も興味がなかったからです。そこに、仲買人が付け入るチャンスがありました。彼らは労せずして差額を手に入れることが出来ます。
日本人が求めたのはスコッチと同じくらい熟成させたバーボンでした。年数が長ければ長いほど理想的でしたが、少なくとも12〜15年は熟成させたものを望みました。往年のアメリカン・ウィスキーは一般的に4年〜8年で販売されています。なので順調に売れさえすれば、12年熟成以上のバーボンなどなくてもいい存在です。しかしアメリカのウィスキー産業は衰退の一途を辿り、実際には70年代に過剰に造られたウィスキーは80年代半ば頃にはかなりの「老齢」になっていました。それ故、バーボン全般および極端に熟成したバーボンに対し、突如として沸き起こった日本からの関心は、アメリカで苦しんでいたバーボン・メーカーが久々に聞いた朗報でした。アメリカン・カルチャーに対する日本人の評価が、彼の国の最も伝統的な製品の一つを復活させるのに役立ったのです。この件は現在のプレミアム・バーボンによるアメリカン・ウィスキー復興の源流の一つと考えられ、「バーボンの近代史」に於ける日本人が果たした功績として現代のバーボン史家から認められています。

ジュリアン・プロクター・ヴァン・ウィンクル三世はゴードン・ヒューとボトリング契約を交わし、1989年から1995年の間ローレンスバーグでブランド・オウナーのために1744ケースのA.H.ハーシュ・リザーヴを少量づつボトリングしました。 それは彼にとってただの契約ボトリングの作業に過ぎず、決してハーシュ・ブランドの共同事業という訳ではありませんでしたが、その存在は小さくはなかったでしょう。長期熟成のスペシャリストであり、何が適切かを知っている男でしたから、ウィスキーを味わい、おそらくプルーフィングなどのアドヴァイスはしたと想像します。
最初のハーシュ・リザーヴから数ヶ月後の12月には別の134ケースが同じ仕様でボトリングされました。1990年2月には340ケースが続きます。中身のウィスキーは1990年3月までに全て16年熟成となりましたが、おそらく新しいラベルの印刷を回避するため1991年4月までは引き続き15年表記のラベルが使用されました。ミクターズが閉鎖される1990年2月より前に、残っていたバレルは蒸留所のマスターディスティラーであったディック・ストールが積み込みを監督してシンシナティのワイナリーに出荷されています。 全てのバーボンが16年の熟成を迎えて間もなく、ジュリアン三世とゴーディ(或いはゴッテスマンも?)は、その状態が最良であると判断し、これ以上のエイジングを防止するため、約3000ガロンがワイナリーのステンレス・タンクに容れられました。これ以降ペンシルヴェニア・バーボンは二つの別個の流れでリリースされて行きます。一つはシンシナティにタンキングされた大部分を占める16年物。これはタンクローリーでローレンスバーグに運ばれて、定期的にボトリングされました。もう一つがジュリアン三世のローレンスバーグの倉庫で熟成され続けた250近い数とされる樽です。こちらは毎年、熟成年数を重ねてボトリングされて行きました。 
1991年4月、後にA.H.ハーシュ・リザーヴにとって象徴的な数字となる初めての16年物が瓶詰めされます。ジュリアン三世は数ヶ月ごとにゴーディからボトリングのオーダーを受けていて、4月は57ケース、11月には更に多い200ケースだったそうです。また、90年か91年あたりにはA.H.ハーシュとは違う幾つかのブランドで同じ原酒がボトリングされてもいました(前出のリスト参照)。
ジュリアン三世のローレンスバーグの倉庫に保管されていた最初のバッチの樽は、1991年と1992年11月に一部がダンプされ、それぞれ17年熟成の物が95.6プルーフ、18年熟成の物が93プルーフで少量ボトリングされました。92年12月には、タンクされた16年物を8ケース、多分91.6プルーフで。その後、16年物のバーボンは1993年7月には95.6プルーフでやや多めの300ケースが生産されました。93年の11月には今度は熟成樽の19年物が93プルーフで121ケース造られます。そして最終的に熟成樽は1994年12月から1995年4月の間にボトリングされ、91.6プルーフの20年物を500ケース産出しました。これはゴーディの最後の関与になります。

上の数字からも明らかなように、ハーシュ・リザーヴは順調に売れていたものの、飛ぶような売れ行きではありませんでした。日本の消費者は超熟バーボンが好きだったかも知れませんが、それはジムビームやアーリータイムズやI.W.ハーパーと同じ価格ではなく比較的高価でしたし、アメリカではまだバーボン・ブームは来ていません。それにゴーディはブランドの宣伝を殆どしていなかったと思われます。彼は優れた製品を持っていたとしても、小さな酒屋の経営者であり小規模なブローカーであり、大手酒類会社の幹部ではないのですから、ビジネス的にはそれが限界だったのでしょう。
A.H.ハーシュのウィスキーは大量にあったのでゴーディはどこでも積極的にボトルを売リ出していました。特に日本とヨーロッパに多く輸出されています。しかし、1990年代初頭のバブル期の終焉と共に日本経済は失速し、輸入業者は基本的にバーボンを買わなくなったか、或いは買う量を減らしました。それが理由とは思えませんが、彼は別のことに目を向けたようです。ゴーディによれば、ペンシルヴェニア1974原酒の元々の量は約10000ケース(※おそらくここでは1ケース6本で計算してると思われます)だったと言います。全ての支払いはかなり前に済んでいたので、彼はそれをゆっくりと販売することに完全に満足していました。そうしてゆっくりと価格が上がって行くのを気長に待てばいい、と。そして1995年、詳細は分かりませんが、ゴーディは家業と決別します。ウィスキーは様々な係争中の理由からコルク・アンド・ボトルに残りました。ゴーディではない他のヒュー家の人々は少しの間ブランドを運営し、最終的にA.H.ハーシュのブランドと在庫は南カリフォルニアのヘンリー・プライス率いるプライス・インポーツにまとめて売却されました。ただし、9本のA.H.ハーシュ・リザーヴや105本のヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴと14本のオールド・ハウス・バーボンは売却されず、ゴーディ言うところの彼の個人用貯蔵庫であるコルク・アンド・ボトルの地下室に保管されていました。ゴーディが関わったそれらのバーボンが地下でひっそりと息を潜めている間に、図らずも地上ではゆっくりと価格は上昇し、人知れず大金へと変化していたのが原因で(?)、後の2015年にゴーディとコルク・アンド・ボトルの間で所有権を巡る裁判になるのですが、それは別の話。
ゴーディはバーボンを試飲してどう造られているかを確認するのが好きでした。 そしてそれは彼の天職であり仕事の一部でした。少なくとも1975〜95年までは。バーボンを探す楽しみはあったけれど自分はスピリッツの大量消費者ではなかった、と彼は言います。ですが、強いて言うならメーカーズマークやバッファロートレースで製造されるW.L. ウェラーやヴァン・ウィンクルのラインナップのようなウィーテッド・マッシュビルのバーボンを好む傾向があり、彼の「生涯で今までに味わった最高のウィスキーは、1960年代から1970年代にかけてスティッツェル=ウェラーが蒸留したものでした」。現代の蒸留所であれば、特にその生産規模を考慮すると、バッファロートレースとフォアローゼズの二つが卓越していると評価しています。そんな伝説のバーボンの中心人物も、もはやスピリッツ・ビジネスに携わっていません。20年以上オハイオ・リヴァーの北側に住み、四人の子供を育てたゴーディは、近年ではシンシナティのウォルナット・ヒルズで「wineCRAFT」という高級ワインの輸入事業を営んでいます。「私は常にワイン・ビジネスに携わっていました。バーボンはちょっとした副業だったんです」。

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A.H.ハーシュ・リザーヴは、ヘンリー・プライスが購入した頃には、既にアメリカのウィスキー愛好家の間で非常に優れたバーボンとして評価を得ていました。 彼は自分が素晴らしいウィスキーを手にしたことを知っていましたが、その後の大流行までは予測していませんでした。
「我々はブランドを構築しましたが、もし我々がブランドの購入を控えていたらサゼラックが購入していたでしょう」とプライスは言います。サゼラックはジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世がこのブランドのボトリングを担当していたこともあり、A.H.ハーシュのことをよく知っていました。2002年、ジュリアン三世はバッファロートレースとの合弁事業を起こし、ローレンスバーグの作業場を閉鎖して事業をフランクフォートに移しています。この時期のどこかの段階でプライスは自らのポートフォリオにブランドを取り入れるために動きました。当時のプライス・インポーツのセールス・マネージャーのスティーヴがヒュー家に連絡を取り、A.H.ハーシュ・リザーヴの販売権を取得するようヘンリー・プライスを後押ししたのだとか。首尾よくハーシュ・ブランドを獲得したことで、シンシナティにタンクされていた残りのバーボンもまたバッファロートレースへ行きました。
2003年、ステンレス・タンクに12年間貯蔵されていたバーボンはボトルに入れられました。その数2500ケースとされ、それまでの全生産量の合計よりも多くなりました。小規模なプレミアム・ブランドを開発し、それらをアメリカのほぼ全ての市場へ戦略的に配布することで有名なヘンリー・プライスは、A.H.ハーシュでも同じようにアメリカ全土で販売し始めます。実はゴードン・ヒューが撤退した1995年からプライスが瓶詰めさせた2003年の間にA.H.ハーシュ・リザーヴが定期的に販売されていたのかよく分かりません。もし販売されていたとしても、おそらく量はあまり多くはないと思われます。それは兎も角、この時のラベルにフランクフォートとある16年熟成91.6プルーフのものが通称ゴールド・フォイルと呼ばれ、最も目にし易いA.H.ハーシュ・リザーヴとなっています。プライス・インポーツは3年間で約1500ケースを販売し、以前よりブランドの知名度は上がったことでしょう。ウィスキー業界の著名なライターが取り上げたり、愛好家コミュニティでの熱狂的な喧騒も益々広がりました。そのような雪だるま式に大きくなる評判や口コミの人気は制御できません。プライスにとっては正に夢のようなブランドでした。
残りの1000ケースの殆どが売れた2009年、プライスは最後に残った在庫を使って何か特別なことをしたいと考えました。デカンターへの再ボトリング。それが、彼がヨーロッパ式の700mlのボトルに詰められた残り僅かな在庫のために持っていたアイディアでした。「最後の在庫をヨーロッパに発送したくなかった」プライスは、バッファロートレースにお願いして最終的にボトルをダンプする同意を得、その後、全てをバーズタウンのウィレット(KBD)に運んで、自ら輸入したフランス製の手吹きクリスタル・ボトルに詰め直してもらいます。これが彼の「最後のビジョンであり、A.H.ハーシュ・リザーヴが占めていたアメリカの歴史の一断片への喝采でした」。

さて、アドルフ・ハーシュが契約蒸留したペンシルヴェニアのウィスキーは、その大きな評判の割には少量であるにも拘らず、全てを販売するのに約20年掛かっています。おそらく、これまで見てきた紆余曲折こそが、このウィスキーの最大にユニークなところだとは思いますが、勿論、中身も素晴らしかった。どのような神話や伝説でも、特別な味がしない限り、ウィスキーがこれほどまでにホットな商品になることはありません。では、何がそんなに良かったのでしょうか? 明確な答えなどないですが、判っている範囲で中身について触れておきたいと思います。
始めの概略で述べたように、A.H.ハーシュ・リザーヴとなった全てのバーボンウィスキーは1974年の春に蒸留されています。生産はエヴェレット・ビームの弟子に当たるディック・ストールによって監督されました。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーで、酵母はエヴェレットが持ち込んだビーム酵母。おそらく蒸留プルーフは115で、現代の基準よりやや低めです。これらはどれも標準的な仕様であり、大きな驚きはありません。ストール自身、ハーシュのために造ったバーボンは珍しくなかったと言っているそうです。と、なるとラベルに書かれている「Pot Stilled」こそが、その特別性の要因と思いたくなりますよね? 例えば、ほぼスコッチをメインに飲むウィスキー・ドリンカーなら、「これはアメリカン・ウィスキーに多いコラムスティルではなく、スコッチのシングルモルトのようなポットスティルを使用して製造されているからフレイヴァーフルで特別なんだ」という具合に。しかし、そうではありませんでした。
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アメリカの飲料用アルコールのラベルは全て政府機関の承認を受けなければなりませんが、規制されている言葉とそうでない言葉があります。「ウィスキー」や「バーボン」や「ストレート」という用語はどれも規制されています。一方「リザーヴ」や「サワーマッシュ」は規制の対象ではなく、そして「ポットスティル」も規制された用語ではありません。規制されていないということは、真実である必要がないことを意味します。とは言え、全くのデタラメという訳でもなく、A.H.ハーシュ・リザーヴのラベルに「ポットスティル」とあるのは、ミクターズがラベルにポットスティルをフィーチャーしてマーケティングしていたのを受け継いでいるからです。ミクターズ蒸留所では第一蒸留を比較的小さめのコラムスティルで実行した後、第二蒸留をポットスティル・ダブラーで行いました。このダブラーのことをポットスティルと呼ぶのは業界では慣行であり、決して間違いではないのですが、ミクターズはそれを強調してマーケティングに活用したのです。ダブル・ディスティレーションは殆どのアメリカン・ウィスキー蒸留所が当時および現在でも実践し、100年以上に渡ってバーボンを製造して来た方法です。つまり、ミクターズは他の蒸留所と製造面で甚だしい違いはないということ。だから、ここで言う「ポットスティル」もA.H.ハーシュ・リザーヴの卓越性を説明するものではないのです。
通常、長期熟成古酒はウッディ過ぎる嫌いがありますが、A.H.ハーシュ・リザーヴはその極端な熟成期間にも拘らず、あまりウッディではないとされます。寧ろ、力強くありながらエレガントな素晴らしいバランスと評されるほど。その要因は、一説にはペンシルヴェニアの天候だったかも知れないと言います。同地では70年代半ばに冬の寒さが長く続いたそうですし、多分ケンタッキーより基本的に涼しかった? まあ、謎は謎のまま残したほうが神話や伝説には箔が付きますが、少なくとも、ペンシルヴェニア州で製造されそこで主に熟成し、オハイオ南部またはケンタッキー州に運ばれて更なる眠りに就いたこのバーボンの旅する人生は、製品に何らかの影響を与えた可能性は十分あるでしょう。A.H.ハーシュ・リザーヴについて確かなのは、よくあるケンタッキー・バーボンとは完全に異なる独創性をもち、ウィスキー通の意見では素晴らしいバーボンだったということ、それだけです。
ちなみに、ハーシュ・リザーヴ16年のロット違いを飲み比べた人によると、後年のロットより初期のロットの方が美味しいとする意見が散見されます。これはおそらく酸化の問題だろうと考えられています。ハーシュ・リザーヴの最後のボトリングは10年以上ステンレス・タンクで保管されていたので、幾ら熟成は進まないとは言え、多少の酸化はあったのかも知れません。ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は、ステンレス・タンクでの貯蔵は不活性と考えられているが、彼はそれをもっと不活性にしたいと仄めかしたとか。ウィスキーは空気に触れると常に変化する生き物ですからね…。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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(画像提供Bar FIVE様)

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A.H. Hirsch Reserve 16 Years Old Blue Wax 91.6 Proof
推定1991年ボトリング。キャラメル、ナッツ、多様なハーブ、ちょっと薬っぽい味も。かなり複雑なフレイヴァー。口当たりと飲み心地はスムーズで、長熟にありがちな渋味や苦味はあまり感じない。
Rating:88/100

Value:これは「あなたの懐具合」によります。バーボンのボトル一本に対し30万円を支払えるなら、躊躇なく買うことをオススメします。また、バーで見かけたら多少高くても飲んでおいた方がいいでしょう。ですが、ぶっちゃけ普段ジムビームやジャックダニエルズやアーリータイムズしか飲まない人が飲んでも美味しいと感じられない可能性は高いです。その週に飲んだバーボンの中で最高のものでさえなかった、と言う人までいます。私にとっても最高のバーボンではありませんでした。しかし、味は関係ありません。これは物語のために買うバーボンです。ストーリーや背景や価格は味を変えることはないかも知れませんが、それらは神秘性を高めると同時に何かしらの評価軸を与えてくれます。そして経験として飲むことは悪いことではない。それがオススメする最大の理由です。とは言え、無理してえげつない身銭を切ってまで飲むことは勧めません。今、あなたが無理なく飲めるバーボンは、伝説はなくとも素晴らしいバーボンなのですから。


*この数字を倍の800樽とする情報もありました。こちらの数字を信じる場合、最終的にハーシュの所有した樽の数量は766樽となります。申し訳ないのですが、私にはどちらが信用できる数か判断できません。また、これ以降の本記事における数量に関する数値は、参考にした情報元が一つではなく複数であるため、混乱している可能性があります。そこを考慮して見て下さい。

**プライス・インポーツの名は、ヘンリー・プライスと彼の娘のニコールによって2012年11月に新たに設立されたHPSエピキュリアンが、2016年に再び所有権を取得し復活しています。

***製品意図として敢えてスウィートマッシュ製法を採用している物を除けば、無記載の場合は全てサワーマッシュと思っていいでしょう。

****財政上の問題に直面して、元々の所有権は2014年に売却されました。コヴィントンの店舗は閉鎖され、現在はクレセント・スプリングスのバターミルク・パイクで営業しています。

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オールド・クェーカー(*)はシェンリーの代表的なブランドの一つでした。それはインディアナ州ローレンスバーグにあったプラントがオールド・クェーカー蒸留所と名付けられていたことからも明らかでしょう。ルイス・"ルー"・ローゼンスティールの率いたシェンリーは、禁酒法の後、比較的安価なウィスキーのラインでオールド・クェーカー名を使いヒットさせました。「クェーカー・オーツ」や「クェーカー・ステート」のようなシリアルからオイルまで、「クェーカー」はその製品の純度と誠実さ(無垢と清廉のイメージ)を伝えるために長い間使用されて来ましたが、実際のクエーカー教徒(ソサエティ・オブ・フレンズ)はそれらの宣伝から何も得ていないと言います。1939年にタイム・マガジンは、クェーカーは一般的に飲酒しないと想定されているので、ソサエティ・オブ・フレンズは特にオールド・クェーカー・ウィスキーに気分を害されているとリポートしたとか。このブランドはやがて不人気となり、最終的に製造中止、蒸留所は1980年代に閉鎖されます。ボトリング施設は1990年代まで独立した所有者のもとで操業を続けていました。そんなオールド・クェーカーですが、これはシェンリーが創始したブランドではありません。禁酒法以前にイリノイ州ピオリアで生まれたブランドでした。

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クェーカー・ドレスを着た男性、穀物の束、モルトと書かれたサック(袋)、三つの樽などが描かれたインパクトのあるラベルのオールド・クェーカーは、コーニング・アンド・カンパニーの主要なブランドでした。会社の社長フランクリン・コーニングはピオリアを統治した偉大な「ウィスキー・バロン」の一人と見られています。フランクリンは自身の蒸留所が5年あまりの間に連続して三度の大災害に見舞われました。火事の危険性は蒸留所では常に存在する脅威でしたが、後にも先にもアメリカの蒸留業者がこれほど「炎の激流」による死と破壊に直面したことはありません。しかしそれにめげることなく、彼のウィスキー造りを続ける決意は決して揺るぎませんでした。

1851年に生まれたフランクリン・トレイシー・コーニングはオハイオ州に深く根を下ろした家族の一員でした。彼の祖父は1813年頃、ニューハンプシャーからオハイオ北部へ6頭チームの屋根付き馬車で移住しました。草分け的な開拓者として重きをなしたカーネル・コーニングは事業を成功させ、子孫と共に富を築き、そのうちの何人かは蒸留業に携わっていたようです。フランクリンは裕福な実業家の父によって建てられたクリーヴランドの邸宅で育ち、兄のウォーレン・ホームズ・コーニングは父親と共同で酒類事業に参入していました。1870年の国勢調査では、ウォーレンは酒類卸売業者としてリストされ、 19歳のフランクリンはその店員として雇われていたらしい。この間、父親はコーニング・アンド・カンパニーの事業を拡大していました。クリーヴランドは原材料の入手先である大規模な穀物ベルトから離れていたため、イリノイ州ピオリアにウォーレンをマネージャーとして支店が設立されます。しかし、ウォーレンは運営を指揮しつつもクリーヴランドに住み続けました。どうやら彼はこのアレンジメントで管理するのが難しいと判断したようで、フランクリンをピオリアに派遣して家族の利益となる経営を任せます。それまでの間に若きフランクリンは、友人や家族に「ファニー」と呼ばれていたフランシス・デフォレストと結婚していました。1875年5月、彼が24歳で彼女は21歳の時です。彼らはおそらく1880年頃、ピオリアの新しい環境に落ち着きました。後のどこかの段階で弟のチャールズも蒸留業に参加したと思われます。こうしてピオリアは彼らの活動の中心となって行きました。

コーニング・アンド・カンパニーは当初、評判の良いレクティファイング・ハウスとして始まったと言われています。つまり、他の場所で入手したウィスキーをブレンディングし、所望の味と色に整えて販売する、今で言うところのNDP(非蒸留業者)です。そして後に蒸留所となった、と。
コーニング・ファミリーの初期投資は、ピオリアのモナーク蒸留所と呼ばれる既存のプラントにあったようです。モナークは1879年にジョン・H・フランシスと、ジョンもしくはジョージ・キッドのどちらかによって建てられたとされ、後にウィスキー・トラストのユニットとなり、トラストの解散から形成された事業体の一つアメリカン・スピリッツ・マニュファクチャリング・カンパニーの一部のモナーク・ディスティリング・カンパニーとなりました。蒸留所は1908年頃(もしくは1905年説も)に閉鎖されたと見られます。ちなみに、1887年頃ウォーレンはモナーク・ディスティリング・カンパニーを売却し蒸留業界から引退した、との情報もありました。

ピオリアでの活動を始めたほぼ同時期に、コーニング社はオールド・クェーカーをライ・ウィスキーのブランド名として採用します。その名は1878年から使用されていたと言われますが、最終的には1894年に商標登録されました。コーニング社は時が経つにつれオールド・クェーカー以外にも様々なブランド名でウィスキーやスピリッツを生産するようになり、それらには「ビッグ・ホロウ・サワー・マッシュ」、「チャンセラー」、「コーニングズ・カナディアン・タイプ」、「コロネット・ドライ・ジン」、「フェアローン・バーボン」、「ハンプトン・ライ」、「ハヴィランド・ライ」、「リー・ニュートンズ」、「モナーク・ミルズ・ライ」、「マウンテン・コーン」、「レッドクリフ・ライ」等があったようです。
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1899年、フランクリンは44歳の妻の早過ぎる死に立ち会います。その死を悼みながらも、彼は僅か数か月後にモナーク施設に隣接した蒸留所の建設を決めました。新しい工場にはコーニングの名前が付けられます。日に6000ブッシェルの穀物を処理する能力があり、メイン・ビルディングのマッシュをクッキングするためのスチール・タンクは巨大でした。しかし、そんな新しい蒸留所に、1903年10月、初めの不幸が訪れます。七人の作業員が死亡する爆発が起こったのです。災害の原因はクッカーに生じた真空であると推定され、 クッカー・ルームにいた二人は爆発で即死、他の三人は蒸気で酷い火傷を負い、救急車の中もしくは搬送された病院で死亡しました。行方不明になっていた残り二人(イースト製造者と連邦政府が管理する保税倉庫のストアキーパー)を捜索するため、何千人もの人々がすぐに現場に駆けつけましたが、建物の残骸が著しく作業は難航し、瓦礫の中で発見された時には彼らは死んでいました。何しろ爆発したタンクは建物の北側の壁を突き破り、250フィート離れた場所に落下したと言います。蒸留所の北壁全面は吹き飛ばされ、レンガや何やらの破片は蒸留所全体に飛び散り、他の壁も大きな被害を受けました。被害額は当時の7万5千ドル、現在のほぼ200万ドルに相当するとか。フランクリンは死者と壊滅した施設に心穏やかではなかったでしょう。しかしそれでも、爆発による火災は発生せず、他の建物は無傷だったため、数か月でメインの蒸留所を再建できました。1904年の春までには、コーニング・アンド・カンパニーはイリノイ・リヴァー沿いの世界で二番目に大きいと見做なされていた蒸留所を再びフル稼働させます。各自全力を尽くす作業員、煙突から立ち昇る煙や濃厚なウィスキーの匂い、ストックヤードのスペント・マッシュを食む牛、そういった蒸留所の日常は戻りました。しかし…。
 
1904年6月の暖かい或る日の午後、コーニング蒸留所に二度目の災害が発生しました。約30000バレルの熟成ウィスキーを収容したウェアハウスBから制御不能の炎が噴き出したのです。火災は倉庫内の爆発にも影響を与え、11階建ての建物は完全に崩壊しました。消防士が到着した時、彼らはすぐに燃えている建物を救うことが出来ないと気付き、炎が更に広がるのを防ぐよう努めるのが精一杯でした。炎は急速に広がって数ヶ月前に完成した周囲の建物も燃やし、火の洪水がストックヤードにも達したことで畜舎にいた三千頭の牛が煙で窒息死したと云います。今回の災害では、別のピオリアの蒸留所であるクラーク蒸留所から友人を訪ねていた一人を含む15人の男性が命を落としました。
火災はコーニング蒸留所の施設内に収まってはいましたが、三千頭の死んだ牛の死体を処分する際に重大な健康問題に直面しました。公衆衛生上の危険を引き起こさずにそれらを処分する方法を見つけることが出来なかったため、当局は死骸の上にフェノール製剤を注いで燃やしたのです。結果として生じる悪臭は非常に激しく、多くの人が牛舎での作業を拒否し後始末を遅らせました。
フランクリンは災害の発生時、仕事でニューヨークにいましたが、数日後にはピオリアに戻ります。そして残骸を調査したところ、彼はこれはアメリカの蒸留産業の歴史の中で最も高価な火災であるとし、被害額を100万ドル(現在の2500万ドル相当)と申告しました。災害の原因は物議を醸します。報道ではウェアハウスBでの爆発が原因とされていましたが、保険会社の評価担当者はすぐにその話を「信頼性がない」し「誤った」見解であると発表しました。彼らは大火事の原因を作業員のランタンのせいにしたかったようです。ウィスキーの樽は取り分け夏場の間に熱で膨張した時に漏れ易く、一人の従業員がウィスキーの漏れを探してラックを巡回していました。そこでランタンを持っていたこの作業員の不注意が液体に火を着けたと推測されたのですが、彼は死者の一人なので取り調べをすることは出来ず、結局、何が火災の原因かは特定されませんでした。欠陥のあるランタンが原因ではないかと推測する人もいました。それはともかく、フランクリンはここ八ヶ月の間に22人もの労働者が亡くなり精神的に参っていたことでしょう。とは言え、彼の心は折れません。すぐに再建計画を発表し、一年もしないうちにまたもや蒸留所をフル稼働させたのです。

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しかし、フランクリンのそのような努力にも拘わらず、火事を防止することは出来ませんでした。三度目の災害は1908年4月3日に起こります。6階建てのミル・ビルディングの4階で火事が発生し、隣接するエレヴェイターや動力室、製樽部屋に広がり、125000ガロンのウィスキーを収容していた8階建ての塔を巻き込む危険性がありました。今回はフランクリンが現場にいて、スピリッツを塔から引き出して蒸留工程で使用されるヴァットに入れるよう急いで指示を出しました。液体はすぐに近くの蒸留所(モナーク?)にパイプで送られ、そこで再蒸留されて後に販売されたと言います。そのおかげで被害額は当初の推定75万ドル(1800万ドル相当)から18万7千ドル(470万ドル相当)に大幅削減されました。そして何より、以前の災害とは違い、今回は人命が失われずに済んだのは不幸中の幸いでした。
フランクリンはこの度の被害も迅速に修復し、依然としてピオリアのウィスキー・バロンと認められ続けます。ピオリアのウィスキー・バロンで最も有名なのは同地で結成された「ウィスキー・トラスト」の社長ジョセフ・ベネディクト・グリーンハットでしょうが、フランクリンもまた独占的なウィスキー・トラストへの加盟を拒否するだけの「身分」をもった重要人物でした。トラストへの加入を拒否した他の蒸留所が圧力や暴力に遭う中、フランクリンの威信は自分自身と自らの蒸留所を争いから遠ざけていたのです。しかし、運命の悪戯か幾度も災害は起こりました。繰り返えされる蒸留所の災害に疲れ知らずに堪え忍び、粘り強くその度毎に施設をより大きくより良く再建したフランクリン・トレイシー・コーニングは、ウィスキー業界の巨人の中でも特に精神的強度と決断力を持った人物として記憶を留めるに値するでしょう。

アメリカに禁酒法の足音が聴こえてきた頃、フランクリンは「ウィスキー時代」の終焉が近づいていることに気づいたに違いありません。と同時に、彼は自分自身の死をも予感していたのでしょうか、妻ファニーが眠るスプリングデール墓地に今日ではピオリアの歴史的記念碑に数えられる印象的な霊廟を建てました。1915年に彼が66歳で亡くなるとそこに葬られました。大規模な構造にも拘わらず、そこは夫婦と他の一人(おそらくフランクリンの叔母)だけが占有しているそうです。
コーニング・アンド・カンパニーはフランクリンの死後も、蒸留所の拡大に伴いピオリアで彼に加わっていた他のコーニング家のメンバーによって存続し、1919年まで施設を運営しましたが、禁酒法が到来するとプラントは二度と再開することはありませんでした。けれども、コーニング蒸留所のボンデッド・ウェアハウスNo. 22は集中倉庫の一つとして用いられ、オールド・クェーカーのブランドも禁酒法下のメディシナル・パイントで使われています。ネットで調べる限り「RYE」と「BOURBON」、詳細は分かりませんがフライシュマンが関わっていたらしい「WHISKEY」がありました。
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オールド・クェーカーの名称を取得していたシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションは、禁酒法廃止後にブランドを華々しく復活させます。シェンリーは新しいその主要ブランドを造るために、インディアナ州ローレンスバーグにあった二つの古い蒸留所を購入し、オールド・クェーカーの名の下にそれらを合併しました。禁酒法が終了した直後、シンシナティからちょうど西に位置するグリーンデール~ローレンスバーグ周辺にはウィスキーを製造する四つの蒸留所がありました。一つはオープンして間もなく閉鎖、一つはシーグラムが所有、残る二つがシェンリーによって合併されたのです。

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(wikipediaより。オレンジがインディアナ州ディアボーン郡、レッドがローレンスバーグ。)

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ウィスキーに於いて近接するケンタッキー州ほど有名ではありませんが、インディアナ州には1800年代半ばから1900年代初頭にかけて多くの蒸留所があり、その品質の良さから地域的にも全国的にも高い評価を得ていました。インディアナの蒸留の歴史は、1809年にダンとラドロウという名前の二人がタナーズ・クリークとオハイオ・リヴァーの合流点に蒸留所を建設した時に始まります。最初に造られたマッシュビルは一頭の盲目の馬を動力源とするグリスト・ ミルで挽かれ、この粗末な穀物の粉砕方法では週に2バレルのウィスキーしか製造できませんでした。記録によると、彼らは500ガロンのウィスキーを1ガロンあたり0.25ドルの価格でニューオリンズに出荷していたそうです。
1802年、キャプテン・サミュエル・コルヴィル・ヴァンス(1770~1830)によって創設されたローレンスバーグは、彼の妻の旧姓ローレンスにちなんで名付けられました(初めは「Lawrenceburgh」と綴られていたが、いつしか「h」が脱落した)。ローレンスバーグ周辺が後にウィスキー・シティとなった理由は大きく二つ。一つは水です。グリーンデール~ローレンスバーグの蒸留所は帯水層の上に建ち、硫黄と鉄分が少なくカルシウムの多い石灰岩で濾過されたウィスキー造りに最適な水の継続的な供給源を備えていました。もう一つは州境となるオハイオ・リヴァーのすぐ傍らに位置していたこと。ニューオリンズへの交易ルートに近いことは、ウィスキーを売るのに適した場所であることを意味しました。こうした理想的な地理環境だったローレンスバーグに蒸留所が増えるのは必然だったのです。
ダン&ラドロウに続いたのは、1821年にペイジ・チークの土地にあるウィルソン・クリークに設立されたハリス・フィッチ・アンド・カンパニーでした。設立から数年の間は大きな取引がなかったそうですが、後年、非常に広範囲に成長し、その品質と量とでローレンスバーグに世界的な評価を齎したとか。1836年には、アメザイア・P・ホッブスが一日あたり600ブッシェルのマッシング能力を備えた蒸気動力による最初の蒸留所を建設します。この蒸留所は1839年に火災で損壊、その時はホッブス&クラフトによって再建されましたが、1850年に再び火災で焼失し再建されることはありませんでした。
実業家のジョン・H・ガフと兄のトーマスは、1843年、ホーガン・クリークの畔にあるオーロラのダウンタウンにT.&J. W. ガフ&カンパニー蒸留所を建設し、全国的なビジネスに発展させました。この場所はメカニック・ストリートの足元にあたり、現存する建物は今ではグレート・クレセント・ブリュワリーというクラフト・ビールの醸造所となっています。ちなみに上からトーマス、ジェイムズ、ジョンのガフ兄弟は、並外れた規模のビジネス帝国を築き上げ、蒸留業からの収益に基づいて設立された彼らの企業は、ビール醸造所、ミシシッピ川とオハイオ川を結ぶ蒸気船、インディアナの穀物と豚の農場、ルイジアナのプランテーション、ネバダの銀山、ターンパイクの建設、鉄道融資、銀行業など多岐に渡りました。ジェイムズはシンシナティで親しくなったフライシュマンとパートナーシップを組み、イースト製造とジンの蒸留で成功しています。
1847年には、後にローレンスバーグで最も重要となる蒸留所が開業します。ジョージ・ロス、アントニー・スウォーツ、ギド・レナーが建てたロスヴィル蒸留所です。そう、現MGPとして知られ、今日でもローレンスバーグでウィスキーを生産している唯一の施設です。ロスの死後、幾人もの経営者に引き継がれ、1875年(1877年という説も)にシンシナティを本拠地とするジェイムズ・ウォルシュ&カンパニーが買収した折り、完全に再建され、おそらく郡内で最も優れた蒸留所となりました。大きな倉庫と全ての建物は最高のレンガ造り、機械類は最新の改良を施され、当時は日に2100ブッシェルの穀物をマッシングする能力があり、倉庫には25000のバレルを貯蔵出来たとされます。1902年(或いは1906年とも)頃には日に5000ブッシェルのマッシング、倉庫には60000バレルの貯蔵スペースに拡大していたようです。そして1932年に火事でプラントの多くは損壊し、1933年にジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ・カンパニーがこのサイトを買収しました。
1875年、コズモス・フレデリックはハイワイン(**)とバーボンウィスキーの製造を目的として敷地を購入し、グリーンデールのリッジ・アベニューに面した蒸留所を建てました。彼はそれを一年か二年後、ニコラス・オースターに売り払ったようです。一日あたり400ブッシェルの穀物をマッシングし、1600ガロンのスピリッツを生産するキャパシティがあったそう。タナーズ・クリークの橋の近くには、1880年にフレデリック・ローデンバーグによって約15000ドルの費用で設立された蒸留所がありました。従業員は8人で、一日に310ブッシェルの穀物をマッシングする能力があり、やはりハイワインやバーボンウィスキーが蒸留されていたそうです。
こうした面々の活躍により、1880年頃には、ローレンスバーグのあるディアボーン郡では20近い蒸留所が運営されていたと言います。当時は正にウィスキー・シティに相応しい活況を呈していたことでしょう。

さて、シェンリーがオールド・クェーカーの名を付け改良した施設は、フージャー・ステイト(インディアナ州のこと)に縁の深いスクィブ家が関わっていました。彼らの仕事は禁酒法によって終わりを告げるまで50年以上に渡り続けられていたのです。
ウィリアム・P・スクィブは1931年にインディアナ州ディアボーン郡オーロラ近くで生まれ、そこで育ち、教育を受けました。南北戦争では北軍に入隊したそうですが、兵役に就いた証拠はないと言います。彼はオーロラでメアリー・フランシス・プラマーと出会い、結婚し、10人の子供(4人の女の子と6人の男の子)を儲けました。若い頃のウィリアムはオーロラで食品や酒類を扱う商いをしていたようです。そして1846年、弟のジョージと共にオーロラに小さな蒸留所を開きました。
その後、スクィブ家は5マイル向こうのローレンスバーグへ進出します。おそらくこの時、ファンタスティックな名前のコズモス・フレデリックが仲間に加わりました。彼はウィリアムとジョージのスクィブとパートナーシップを結び、1868年に敷地を購入すると、バーボンウィスキーとハイワインを蒸留する目的の新しい蒸留所をメイン・ストリート近くのセカンド・ストリートに建設し、1869年1月に操業を開始しました。彼らの工場は一日300ブッシェルの穀物をマッシング出来たとか、或いは一日5バレルを製造したとされます。
1871年9月1日、コズモスは持株をスクィブ兄弟に売却し、ニコラス・オースターと共に新たな蒸留所を設立しました。その頃、スクィブ兄弟はビルディングの拡張とその容量を拡大し、1日あたり330ブッシェルのマッシング能力、1260ガロンのスピリッツを生産、倉庫はレンガ造りで耐火性だったそう。同社の商品の主な販売先はシンシナティ、ルイヴィル、セントルイスで、会社のメンバーはアクティヴなビジネスマンであり、その迅速性と信頼性はビジネス界で知られていたとか。
スクィブ家は南北戦争後の「インダストリーの新時代」の恩恵を受けていました。インディアナ州は前例のない成長の中心にあり、19世紀末までに全米の製造業のトップ10に入っていたと言います。この成長に欠かせなかったのは州を横断する鉄道でした。鉄道は、蒸留に必要な穀物やその他の物資を運び、そして完成した品物を幅広い地域へ流通させました。スクィブ兄弟の事業は年々成長を続け、と同時に彼らのウィスキーの品質の高さも口コミで広まりました。1885年にはコンティニュアス・スティルを建設、これはおそらくインディアナ州で初めての連続式蒸留器の使用と見られています。また必要に応じて政府監督下の保税倉庫も追加したそう。
スクィブ社の扱った銘柄には、1906年に商標登録されたものに「ディアボーン・ミルズ・ウィスキー」、「ロック・キャッスル・ライ」、「チムニー・コーナー」、「グリーンデール・ウィスキー」があり、その後1910年に商標登録された「ゴールドリーフ・ライ」等がありました。
ウィリアムとジョージは共に協力して長きに渡って蒸留所を上手く運営しました。その間、ウィリアムの息子たちも事業に携わり、経営や販売などの様々な役割を担っていました。創設者の二人はどちらも1913年に亡くなり、ウィリアムは享年82歳、ローレンスバーグ近くのグリーンデール・セメタリーに埋葬されたそうです。
創設者の死により、スクィブ社は「新世代」に委ねられます。子供達のうち息子の四人といとこの一人が事業を引き継ぎ、1914年、同じ場所に新しい蒸留所を建設しました。彼らは禁酒法によって蒸留所の生産を終了せざるを得なくなるまで事業を続けました。禁止期間中、スクィブ家は他のビジネスの道に進んだと言います。また、彼らは解禁後の1937年から1949年までインディアナ州ヴィンセンズの廃業したイーグル醸造所を使用してボトリング?か何かのビジネスをやっていたようですが、詳細は分かりません。それは措いて、スクィブ家は南北戦争後から半世紀以上もの間、事業の繁栄を持続させたことでインディアナ州にその商才を轟かせました。彼らが造った良質なウィスキーは、彼らをローレンスバーグ・コミュニティの市民として尊敬され得る立場にしたのです。

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禁酒法が終了する直前、シェンリーはローレンスバーグ工場を買収し、ケンタッキー州フランクフォートやレキシントン、カリフォルニア州フレズノやその他の施設と共にコングロマリットに導入しました。そして購入後に工場を再建して、そこをオールド・クェーカー・ディスティリングとしました。1936年には、他のシェンリー・ウィスキーを蒸留するための新しい建物も追加されます。オリジナルのプラントは日産約700バレル、新プラントは約500バレルだったとか。熟成庫は温度調節が出来ました。当時のプラント・マネージャーはロバート・ナンツです。ちなみにローレンスバーグ工場は後の第二次世界大戦中にペニシリンの製造に使用されました。

ところで、ここまで禁酒法以前のウィスキー研究家のブログ記事や、ディアボーン郡およびローレンスバーグ/グリーンデールの歴史書、またはトリップ・ガイド等から情報を取り込んで書き進めて来ましたが、少し疑問があります。古い事柄を調べる時にありがちな事なのですが、知りたい肝心のことが書かれてなかったり、参考にする情報源によって微妙な違いがあって辻褄が合わなくなったりするのです。先に書いた文章ですが、例えばこれ。
「シェンリーは(略)インディアナ州ローレンスバーグにあった二つの古い蒸留所を購入し、オールド・クェーカーの名の下にそれらを合併しました。禁酒法が終了した直後、シンシナティからちょうど西に位置するグリーンデール~ローレンスバーグ周辺にはウィスキーを製造する四つの蒸留所がありました。一つはオープンして間もなく閉鎖、一つはシーグラムが所有、残る二つがシェンリーによって合併されたのです。」
この段落は有名なバーボン・ライターの記事を元にして書いたのですが、ここで言われているすぐに閉鎖した蒸留所というのは、おそらくジェイムズ・ウォルシュ&カンパニー蒸留所のことだと思われます。この蒸留所はオールド・クェーカー蒸留所の4ブロック西にあり、ジェイムズ・ウォルシュの名前は有名で古くからあったのですが、禁酒法解禁後の1934年にオショネシー兄弟によって建てられたローレンスバーグで最も小さい蒸留所でした。で、シーグラム所有というのは現MGPのロスヴィル蒸留所のことです。そしてシェンリーが購入した一つは、言うまでもなくW. P. スクィブ蒸留所ですよね。じゃあ、もう一つは何なの? これが疑問なのです。この件に関してはいくら調べても確かな情報が見つからないので、私の憶測なのですが、多分もう一つの蒸留所は、グリーンデール・ディスティリング・カンパニーのプラントだったのではないかと思います。実はスクィブの蒸留所は禁酒法が始まって初期の頃、あの伝説のブートレガー、ジョージ・リーマスの所有下にありました。弁護士として大金を稼いでいたリーマスは、禁酒法によって市場価値が大幅に低下していた蒸留所を安価に買収することが出来たのです。彼の買収した14の蒸留所のうちインディアナの二つがスクィブ蒸留所とグリーンデール蒸留所でした。だから、なんとなくこの二つがセットでシェンリーに流れたのではないかと…。いや、グリーンデール・ディスティリング・カンパニーのプラントがロスヴィル蒸留所に隣接した位置にあったのは確かなのです。そしてシェンリーのオールド・クェーカーのプラントもロスヴィル蒸留所のすぐ北の位置、現在シェンリー・プレイスと呼ばれる場所にありました。上の文の「二つがシェンリーによって合併された」の「合併された」は「merged」の訳ですから、意味は「combine」もしくは「join together」であり、別個だった施設をくっ付けたと解釈していいのなら、二つの蒸留所は隣接している必要があります。
こうなってくると、スクィブ蒸留所の所在地が問題になって来ます。私も採用した一方の情報では、1869年1月に操業を開始した蒸留所はローレンスバーグのメイン・ストリート近くのセカンド・ストリートにあり、創設者の死によりスクィブ社が息子達に引き継がれた後の1914年、同じ場所に新しい蒸留所を建設した、とあるのです。これだとシェンリー・プレイスとは少し離れています。だから、もしかするとこの新しい蒸留所を建てた時にグリーンデールのブラウン・ストリート近くに移転したのではないでしょうか? 或いはその一方で、1968年竣工の蒸留所はグリーンデールに建てられたとする情報もありましたので、初めからブラウン・ストリート近くに建てられていたのかも知れません。まあ、判らないことは措いておきましょう。
ちなみに紛らわしいのは、グリーンデールがローレンスバーグの一部と一般的に考えられていることです。それ故、オールド・クェーカー(または他のシェンリー・ウィスキー)のラベルには「ローレンスバーグ」と記載されます。現MGPのロスヴィル蒸留所もローレンスバーグにありますが、実際施設の半分はグリーンデールに属しています。

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薬用ウィスキー事業で優位を確立していたシェンリーは、禁酒法が終了すると一気に幸先の良いスタートを切り、25%のシェアを握るマーケット・リーダーになりました。そうした中でオールド・クェーカーは比較的安価な主要ブランドの地位を確立したと言えるでしょう。オールド・クェーカーのキャッチコピーは「リッチ(豊潤)なウィスキーを楽しむために、リッチ(大金持ち)である必要はありません」でした。
おそらく禁酒法の影響によるストックの欠如から、ブランド再導入時の初期パイント・ボトルの頃は18ヶ月、2年、3年熟成などがあり、後に4年熟成と段階的に熟成年数を増やしたと思われます。ボトリングは当初は90プルーフでした。それがいつの頃からか4年熟成86プルーフに落ち着いたようです。5年や6年熟成の物もありました。またブランドにはライとジンもありました。1940年代初頭にはちょっと高級?なオールド・クェーカー・スペシャル・リザーヴも発売されています。当時のLIFE誌に掲載された記事によると4年熟成86プルーフでバーボンとライがあると書かれていました(後に5年熟成もあった)。となるとスペックは通常のオールド・クェーカーと同じなので、バレル・セレクトによる違いでしょうか? それともマッシュビルに違いがあったのでしょうか? まあ、そもそも通常のオールド・クェーカーのマッシュビルだって不明ですけれども。それと年式が全く判らないのですが(とは言え明らかに30~40年代ではない)、ボトリングがペンシルヴェニア州アラディン表記のラベルの物がありました。アラディンはアームストロング郡ギルピン・タウンシップのシェンリーすぐ隣なので、そこにボトリング施設があったのでしょうか? 詳細ご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。(※また「ケンタッキー」表記のオールド・クェーカーについてコメントよりご指摘いただきました。宜しければそちらもご参照ください。)
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それは偖て措き、オールド・クェーカー・ブランドはアメリカでバーボンの需要が落ち込んだ70年代はなんとか切り抜けましたが、冒頭に述べたように、80年代には製造を中止されたと思われます。これはブランドの問題であるよりは、業界全体の問題だったでしょう。30年代から60年代にかけて、バーボンはインディアナだけでなく、イリノイ、オハイオ、ペンシルヴェニア、ヴァージニア、ミズーリなど、ケンタッキー以外の多くの州で造られていましたが、70年代から80年代にかけて業界が縮小すると、ケンタッキー州以外の生産者の殆どは蒸留所を閉鎖してしまいました。オールド・クェーカーもそうした流れと無関係ではない筈です。一時この工場は226エーカーの土地に92棟の建物で構成され、1988年9月に操業が終了するまでディアボーン郡で4番目に大きな雇用主でした。禁酒主義のクェーカー教徒には申し訳ないですが、古きを想わせる美しいデザインのオールド・クェーカー・ラベルがなくなってしまったのは残念という他ありません。そう言えば、ラベルにフィーチャーされている男性は一体誰なのでしょう? ペンシルヴェニアの建設者でクェーカーのウィリアム・ペンに似ているように見えるのですが…。単にクェーカーの装束だからそう見えるだけですかね? これまた誰か知っている方はコメントよりお知らせ下さい。では最後に飲んだ感想を少々。

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推定70年代前半ボトリング。際立って甘くはなく、ほんのりスパイシーで円やか。正直言うとあまり印象に残らないバーボンでした。驚くほど旨い訳でもないが、普通に美味しいオールド・バーボンという感じ。
Rating:83/100


*日本では「クェーカー」は「クエーカー」と表記されるのが主流のようですが、実際の発音は「クウェイカー」に近いです。

**現在一般的には第一蒸留で得れるスピリットをロウワイン、第二蒸留で得れるスピリットをハイワインと呼びますが、この頃のハイワインという用語は、どうやら後に再蒸留してアルコールにしたり飲料用スピリッツにしたりする原液?とでも言いますか、第一蒸留で得れる蒸留液を指しているようです。

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オールド・コモンウェルスの情報は海外でも少なく、そのルーツについてあまり明確なことは言えません。ですが、ネットの画像検索や少ない情報を頼りに書いてみます。

先ず始めにスティッツェル=ウェラーのアイリッシュ・デカンターに触れます。長年スティッツェル=ウェラー社を率いた伝説的人物パピー・ヴァン・ウィンクル(シニア)が亡くなった後、息子のヴァン・ウィンクル・ジュニアは1968年にオールド・フィッツジェラルド名義でセント・パトリックス・デイを記念するアポセカリー・スタイルのポーセリン・デカンターのシリーズを始めました。1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所が売却された後も、新しい所有者はヴァン・ウィンクル家が1978年にオールド・コモンウェルスのラベルの下で再び引き継ぐまでシリーズを続けます。1981年にジュニアが亡くなった後も息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が事業を受け継ぎ、毎年異なるデザインを制作していましたが、このシリーズはデカンター市場が衰退した1996年に中止されました。オールド・コモンウェルスのアイリッシュ・デカンターの殆どには80プルーフで7年または4年熟成のバーボンが入っていた、とヴァン・ウィンクル三世自ら述べています。
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60年代は、50年代のファンシーでアーティスティックなグラス・デカンターに代わりセラミック・デカンターが人気を博しました。各社ともデカンターの販売には力を入れ、ビームを筆頭にエズラ・ブルックスやライオンストーンが多くの種類を造り、他にもオールド・テイラーの城を模した物からエルヴィス・プレスリーに至るまで様々なリリースがありました。おそらく、70年代にバーボンの需要が落ち込む中にあっても、記念デカンターは比較的売れる商材だったのでしょう。ジュリアン・ジュニアはスティッツェル=ウェラー蒸留所を売却した後、「J. P. Van Winkle & Son」を結成し、様々な記念デカンターを通して自分のバーボンを販売しました。 既に1970年代半ば頃からコモンウェルス・ディスティラリー名義は見られ、ノース・キャロライナ・バイセンテニアル・デカンター、コール・マイナーやハンターのデカンター等がありました。もう少し後には消防士やヴォランティアーを象った物もあります。

そして今回紹介するオールド・コモンウェルスは上に述べたデカンターとは別物で、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世がシカゴのサムズ・リカーという小売業者向けにボトリングした特別なプライヴェート・ラベルが始まりでした(当時20ドル)。おそらく90年代半ば辺りに発売され出したと推測しますが、どうでしょう? 後には同じくシカゴを中心としたビニーズにサムズは買収され、ビニーズがオールド・コモンウェルスを販売していましたが、ヴァン・ウィンクルがバッファロー・トレース蒸留所と提携した2002年に終売となりました。中身に関しては、同時代のオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル10年107プルーフと同じウィスキーだとジュリアン本人が断言しています。ORVWのスクワット・ボトルと違いパピーのようなコニャック・スタイルのボトルとケンタッキー州(*)の州章をパロった?ラベルがカッコいいですよね。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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Old Commonwealth 10 Years Old 107 Proof
推定2000年前後ボトリング。フルーティなキャラメル香。僅かにブルーベリー。度数の割に刺激のない舌触り。パレートはオレンジ強め。余韻もオレンジと焦げ樽のビターさが感じ易かった。前ポストのオールド・リップと比較するため注文しました。大した量を飲んでないので細かいことは言えませんが、こちらの方が度数が僅かに高いのにややあっさりした質感のような? でも、どちらも焦樽感はガッチリあるバーボンで点数としては同じでした。
Rating:87.5/100


*ケンタッキー州は日本語では「州」と訳されますが、英語ではステイトではなくコモンウェルス・オブ・ケンタッキーです。アメリカ合衆国のうちケンタッキー、マサチューセッツ、ペンシルヴェニア、ヴァージニアの四つの州は、自らの公称(州号)を「コモンウェルス」と定めています。これらは州の発足時に勅許植民地であった時代との決別を強調する狙いがあったものと解されているそう。オールド・コモンウェルスは如何にもケンタッキー・バーボンに相応しい命名なのかも知れません。
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「commonwealth」とは、公益を目的として組織された政治的コミュニティーの意。概念の成立は15世紀頃とされ、当初は「common-wealth」と綴られたそうで、「公衆の」を意味する「common」と「財産」を意味する「wealth」を繋げたもの。後の17世紀に英国の政治思想家トマス・ホッブズやジョン・ロック等によって一種の理想的な共和政体を指し示す概念として整理され、歴史的に「republic(共和国)」の同義語として扱われるようになったが、原義は「共通善」や「公共の福祉」といった意味合いだったとか。

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オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルというブランドは、元は禁酒法時代(または以前?)に遡りますが、長年の沈黙からジュリアン・ヴァン・ウィンクル二世が1970年代半ばに復活させ、それを受け継いだ息子のジュリアン三世が伝説のレヴェルまで育て上げたブランドと言ってよいでしょう。

長年スティッツェル=ウェラー社を率いてきたジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルが1965年に亡くなった後、息子のジュリアン・ジュニア(二世のこと)は他の相続人との意見の相違から、1972年にスティッツェル=ウェラー所有の蒸留所とブランドをノートン・サイモン社へ売却することを余儀なくされました。しかし、彼は名前や物語を余程気に入っていたのか、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングの物語をモチーフにしたブランドだけは売却せず、スティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利とボトリング契約を残したことで、オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルを甦らせ販売し始めます。その事業は1981年にヴァン・ウィンクル二世が亡くなると息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世に引き継がれますが、スティッツェル=ウェラーとのボトリング契約が切れたことでジュリアン三世は致し方なく(妻も子供四人もおり、多額の借金を背負うことになるから)アンダーソン郡ローレンスバーグにある旧ホフマン蒸留所をベン・リピーから購入しました。ジュリアン三世はスティッツェル=ウェラーからのバルク・ウィスキー、またその他の蒸留所からもウィスキーを購入し、コモンウェルス蒸留所として様々な銘柄でボトリングを続けました。80年代にはおそらく知る人ぞ知る小さな存在だった会社は、90年代に祖父への敬意を直接的に表す「パピー・ヴァン・ウィンクル」を発売、幾つかの賞を得たことでウィスキーの世界から注目を集め出します。しかし、スティッツェル=ウェラー蒸留所はユナイテッド・ディスティラーズの傘下になった90年代初頭に蒸留が停止されてしまいました。そこで、原酒の枯渇を懸念したジュリアン三世は、新しい供給先としてバッファロー・トレース蒸留所を選び、2002年、合弁事業としてオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ディスティラリーを立ち上げます。同社のブランドは段階的にスティッツェル=ウェラーからバッファロー・トレースの蒸留物へ変わりました。2010年以降は「パピー」がバーボン愛好家以外の一般大衆にも認知され出し、バーボン・ブームの到来もあってカルト的人気を得、それに釣られてその他のブランドも高騰。オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルも日本に住む「庶民派ウィスキー飲み」が手を出せる金額ではなくなり、そもそも日本へ輸入されることもほぼなくなりました。バッファロー・トレースのフランクフォート産の物ですらそのような状況の今日、ジュリアン三世がハンドメイドで瓶詰めしていたローレンスバーグ産の物は、特に愛好家に珍重され求められています。

今回ご紹介する「ヴァン・ウィンクル」の付かないヴァン・ウィンクル製品であるスクエア・ボトルの「オールド・リップ」なのですが、これは日本向けの輸出用ラベルでした。4年熟成86プルーフ緑ラベルと12年熟成105プルーフ黒ラベルの二種類があり、日本のバーボン愛好家には知られたブランドです。おそらく発売期間は80年代後半から90年代後半(もしくは2000年代初頭?)までではないかと思われます。少なくともフランクフォート表記のオールド・リップは見たことがないので、2002年以降には製造されていないと推測しました。お詳しい方はコメントよりご教示下さい。
それは措いて、中身の原酒について。ジュリアン三世は「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」や「ヴァン・ウィンクル・セレクション」、初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル」、またその他の銘柄ではスティッツェル=ウェラー以外の原酒を使うこともありました。しかし、聞くところによると彼は「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」のブランドにはスティッツェル=ウェラー原酒を使うことを好んだとされます。それからすると、おそらくこの「オールド・リップ」もスティッツェル=ウェラー原酒で間違いないでしょう。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

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今回はバー飲みです。先日まで開けてあったオールド・リップ12年が前回のウイスキークラブ(定期イヴェント)で飲み切られたとのことで倉庫からストックの新しいボトルを出して来てくれました。なので開封直後の試飲となります。

推定88年ボトリング(*)。ベリーと合わせたチョコ、接着剤、杏仁豆腐、キャラメル、他に植物っぽい香りも。ハイプルーフゆえのアルコールのアタックはあってもヒート感はほぼ感じない。現代の小麦バーボンよりもスパイス感がやや複雑で、フレイヴァー全体が濃厚な印象。余韻は少し渋め。
Rating:87.5/100

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*この時期のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は少し古めの瓶を使ってボトリングしていたことを示唆する情報がありますので、瓶底の数字は88なのですが、もしかするとボトリングは90年頃の可能性があります。

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ワイルドターキー・ダイヤモンド・アニヴァーサリーは2014年8月にジミー・ラッセルの勤続60周年を祝うために、当時アソシエイト・ディスティラーだった息子のエディ・ラッセルによって作成されました。業界で最も任期の長いマスターディスティラーであるジミー・ラッセルは正に「生ける伝説」であり、「ブッダ・オブ・バーボン」或いは「マスターディスティラーズ・マスターディスティラー」と尊敬の念を込めて呼ばれたりします。アメリカのワイルドターキー愛好家デイヴィッド・ジェニングス氏は「ロックにはエルヴィスがいる。カントリーにはハンクがいる。ソウルにはマーヴィンがいる。バーボンにはジミーがいる」と述べました。アメリカン音楽好きにはピンとくる喩えでしょう。

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(上1984年、下1967年のジミー)

1954年9月10日、ジミーは後年ワイルドターキー蒸留所と呼ばれることになるアンダーソン・カウンティ蒸留所(以前のリピー・ブラザーズ蒸留所、一年後にJTSブラウン蒸留所と改名)で働き始めました。まだ二十歳になる前のことです。当時ローレンスバーグには幾つかの蒸留所があり、ジミーのお父さんはオールド・ジョー蒸留所、おじさんはホフマン蒸留所で働いていました。そのためジミーが仕事を探していた時、蒸留所で働くことにしたのは自然な流れでした。実際、今だにジミーはアンダーソン郡の生まれた場所から1マイル以内、ワイルドターキー蒸留所から6マイル以内に住んでいると言います。後に時として「バーボンのファーストレディ」と紹介されることにもなる妻ジョレッタもジミーが働き始める前から蒸留所に勤めていました。
彼のキャリアは床掃きや品質管理から始まり、おそらく蒸留所の全ての仕事をこなしたと思われます。蒸留所の二代目マスターディスティラーである伝説のビル・ヒューズや、蒸留所の創業者ジェイムス・リピーの甥の息子で三代目マスターディスティラーのアーネスト・W・リピー・ジュニアから蒸留技術を学んだジミーは次第に頭角を表し、1967年にはJTSブラウン蒸留所のマスターディスティラーへと昇格しました。彼が働き始めた頃の蒸留所は日産80バレル程度でしたが、現在では550バレル以上になっていると言います。その躍進の全てがジミーただ一人の功績ではないでしょうが、彼はキャリアをスタートして以来普通の人間にはあり得ないほど長い年月そこにいて、何十年も精力的に働き、先代から受け継いだ昔ながらのバーボン造りを固守することで現代のバーボン世界を形作り、内外に影響を与えて来ました。

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ワイルドターキー蒸留所で製造される製品の中で最も「ジミー・ラッセルらしい」バーボンはスタンダードなワイルドターキー101(8年にしろNASにしろ)です。それは標準的であり原型であるが故に「生ける伝説」の刻印が深い。周知のようにそのブランドはジミーが蒸留所で働き始める以前の1942年に始まり、ブルックリンかどこかの経営者が産み出したのかも知れません。また、最先端の設備によるコンピューターの自動化が行われる現代にあっては、誰がどうしようと同じものが出来上がるのかも知れません。しかし、それでもジミーの技能とテイスティング能力、長年に渡るブランド定義がなければ、今に至るワイルドターキー101の成立はなかったと言っていいでしょう。
そしてジミーは伝統を頑なに守るだけの男ではありませんでした。バーボン産業は70年代半ばに大きな波を受ます。俗に言う「白物」、ウォッカやジンの隆盛です。消費者の嗜好の変化もありました。昔ながらの「伝統」は「古臭い」と同義になり、バーボンを飲むことはクールでなくなったのです(今は流行っているのでクールと認識されています)。ジミーは多くの女性がバーボンを飲まないことに気づき、彼女たちにとって魅力的な製品を作りたいと思い、1976年にワイルドターキー・リキュールと呼ばれるフレイヴァー・バーボンを実験的に開発しました。それは「レッドスタッグ」や「ファイヤーボール」に先駆けること遥か前、バーボンが流行していなかった時代にジミーが模索した新しい消費者を引き付ける方法でした。今日、その製品は2006年以降ワイルドターキー・アメリカンハニーとしてリニューアルされ、多くの人のお気に入りとなっています。また、2000年代前半には、今や当たり前になりつつあるバーボン樽以外を用いた「後熟」の魁として、ワイルドターキー・シェリー・シグネチャーも造っていました。これはスコッチに親しんだヨーロッパ市場向けに試された変種のワイルドターキーで、10年熟成のターキーをスパニッシュ・シェリー・カスクでセカンド・マチュレーションした後、バーボンにオロロソ・シェリーを加えバランスを整えたものです。当時は斬新過ぎてウケませんでしたが、今こそ再評価すべき時ではないでしょうか。
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70年代後半からバーボン全体の売り上げは目に見えて減少し始めました。80年代から90年代にかけてアメリカのバーボン需要は底辺を迎えます。そこでバーボン業界のエグゼクティブたちが採った主な戦略は二つありました。一つはバーボンのプレミアム化。もう一つは現場監督の職人に過ぎなかったマスターディスティラーを外の世界にスターとして送り出し、バーボンがいかに優れているかを一般消費者へ啓蒙することでした。こうした動きが現在のバーボン人気の礎の一部となったのは疑うことが出来ません。
前者の好例は、エンシェントエイジ蒸留所(現在のバッファロートレース蒸留所)のマスターディスティラー、エルマー・T・リーが1984年にプロデュースした最初の大衆市場向けシングルバレル・バーボンであるブラントンズと、ジムビーム蒸留所のマスターディスティラー、ブッカー・ノーが1988年にプロデュースしたスモールバッチにしてバレルプルーフ・バーボンのブッカーズです。ジミー・ラッセルも負けじと、ブラントンズに対しては1994年にワイルドターキー初のシングルバレル・バーボンとなるケンタッキー・スピリットをリリースし、象徴的な101プルーフで満たしました。それはブラントンズを意識するような非常に華やかなボトル形状で、重厚なピューター製のキャップを備え、バレル情報が手書きで書かれたネックラベルが貼られました。まるでジミーが「私」のためにバレルを特別にハンド・ピックしたかのように。 そしてブッカーズに対しては1991年に6・8・12年熟成の原酒をジミーが独自に組み合わせたバレルプルーフ・バーボンのレアブリードをリリース。何の衒いもなくノー・ギミックのそのバーボンは、かつて盟友エルマー・リーに「ピュア・ジミー・ラッセル」と評されました。これらのプレミアムなワイルドターキーはかなりの成功を収め、蒸留所のポートフォリオの定番としての地位を確立し、現在でも販売され続けています。
後者に於いても、ブッカー、エルマー、ジミーらは国内外を旅してパブリック・テイスティングを行い、彼らの目を通してバーボンのストーリーを語ることによって、今日のバーボン人気の成長を促した最初の世代でした。今、ブッカーの息子フレッドやジミーの息子エディのような次世代、またその次の世代の旗手たちは彼らが切り拓いた道を歩んでいるのです。ちなみにジミーは自分が訪れたことのある国外のお気に入りの都市の一つに、ありがたいことに日本を挙げてくれています。
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ジミーは世界中でバーボンの王者のように扱われますが、本人は至って呑気に「あんたが見たまんまの、ケンタッキー州ローレンスバーグ出身のただのおっさんじゃよ(意訳)」と言います。そうした謙虚さは本物の人間が持つ特質であり、蒸留所への訪問客を迎えるジミーの柔和な笑顔は却って揺るぎない信念の証のように思えます。ジミーなしで現在のバーボンブームはなかったと言っても過言ではありません。彼はSNSのインフルエンサーではないかもしれませんが、もっと重要な羅針盤でした。バーボンの衰退期を乗り越え、アメリカが自らのネイティヴ・スピリットを再発見する過程の全てを見て来たのです。
去る2019年9月10日には、ジミーはワイルドターキー蒸留所での驚異の65周年記念日も既に迎えました。ケンタッキー州アンダーソン郡に長年住む人なら、彼が比類のない蒸留の専門知識だけでなく、驚くべき運動能力についても知っているだろう、と伝えられています。高校でのジミーは「ラッセル・ザ・マッスル」として知られており、彼に不得意とするスポーツはなく、バスケットボールやサッカーから陸上競技に至るまで数々の記録を破り(一部は40年間残っていたそうな)、アンダーソン郡高校を勝利から勝利へと導いたのだとか。こうしたアスリートさながらの基礎体力がジミーの頑固な職人気質や長年の勤務を可能にした源なのかも知れませんね。


偖て、そろそろ今回のレヴュー対象に触れましょう。ダイアモンド・アニヴァーサリーはジミーの息子エディが父親へのオマージュとして厳選した13年と16年という長期熟成を経たバレルをブレンドして造られました。
よく知られた話に、ジミーは8年熟成程度のバーボンを好み、エディは12年以上の長期熟成も好む、というのがあります。ジミーは昔ながらの風味豊かなバーボンを愛し、オリジナルのワイルドターキー・プロファイルから遠く離れることを躊躇い、こう言います。「私たちは常に新しいものを試したいと思っていますが、ほとんどの場合は古い基準に戻ります」、と。彼の基準は明瞭でした。「バーボンは6~8年ほど熟成すると有効なマチュリングをしなくなると考えます。12年を過ぎる頃には多くのキャラメルやヴァニラなどのスウィートネスを失い、オーク材の風味が支配的になります。そして、私はウッディな味わいが多いのはあまり好きではありません」。これがジミーの個人的な好みであり、彼と同世代や上の世代のバーボン・ディスティラーの基準です。それにも拘わらず、エディが長期熟成のバーボンを混ぜて父親へのトリビュート・バーボンを作成したのは、そうするに十分な理由があったに違いありません。
ジミー自身が12年以下のバーボンが好きだと公言しているので、一部を除きワイルドターキーの提供する製品はそれより若いバーボンが殆どです。もしジミー好みの6~12年のバレルを選択してダイヤモンド・アニヴァーサリーを作成してしまうと、中核製品の一つであるラッセルズ・リザーヴから遠く離れた製品にするのは難しくなるでしょう。おそらくエディはワイルドターキーの標準ラインナップとは一線を画すバーボンを提供するために、長熟バレルにターゲットを絞ったのだと思われます。その意味で、このダイヤモンド・アニヴァーサリーは他のワイルドターキー製品とは対照的です。そして…。

エディは1981年からワイルドターキー蒸留所でアシスタントとして働き始めました。つまり、既に30年以上ものキャリアを誇る訳ですが、余りにも偉大なジミーと比較してしまうと「僅か」30年であり、自虐的?に「僕はニュー・ガイだよ」と笑います。また、エディは長い間自分の名前は「No」だと思っていたとも言います。なぜなら、ジミーに何か新しい提案をする度にそう言われたからだそう(笑)。エディ流の愛情あるジョークですね。
WMJのインタビューではダイヤモンド・アニヴァーサリーについて、「特別な原酒を探し出して、ジミーに内緒でブレンドしたものです。私自身が最高と思ったのは間違いないですが、ジミーが『よし』と言ってくれなければ製品化はできませんから(笑)、正直なところとてもドキドキしました」、と語っています。
そんなエディも2015年には正式にマスターディスティラーの称号を得ました。その年から限定リリースのマスターズ・キープ・シリーズも始まり、その他の中核製品でも主導的な立場となったことでしょう。こうした流れの前年にリリースされたダイヤモンド・アニヴァーサリーは、謂わばエディ・ラッセルが初めて世に出した自分自身のバーボン。エディによると、ブレンドに使われた13年原酒はまだ12年に十分近く、ジミーがあまり動揺しないよう逃げを打って選ばれたと言います。 そして後に16年のバーボンを加えることでワイルドターキー・スパイスをもっと与え、ユニークでありながら馴染みのあるワイルドターキーの表現に仕上がった自信作だと。これを飲む我々は、ジミーだけでなくエディにも祝杯を挙げない訳にはいきません。では、心して注ぐとします。

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WILD TURKEY DIAMOND ANNIVERSARY 91 Proof
BATCH NO. B14-0035
オレンジがかったブラウン色。黒糖、濃密なヴァニラ、ダークなドライフルーツ、接着剤、ハニーピーナッツ、古い木材、土。さらさらしつつなめらかな口当たり。ミディアム・ボディ。味わいはマジックインキと爽やかなフルーティさ(特にオレンジ)が同居。余韻はチャードオークとベーキングスパイスが支配的でややビター。
Rating:87/100

Thought:先日まで開けていたディスティラーズ・リザーヴ13年と較べることで、ダイヤモンド・アニヴァーサリーの個性は明確になった気がします。DAはDR13よりパンチのないテクスチャーですが、余韻のスパイス感は複雑でした。香りはDR13の方が甘いのに、口蓋ではDAの方が甘く感じました。そしてDAはDR13のような薬っぽいノートはなく、全体的に古びた木材のトーンを多く感じます。
101プルーフだったらもっと美味しかっただろうとはよく言われますが、エディ・ラッセルによればダイヤモンド・アニヴァーサリーはバレルプルーフに近いとのこと。ワイルドターキー蒸留所はバレル・エントリー・プルーフを2004年にそれまでの107プルーフから110プルーフへ、続いて2006年にも115プルーフへと変更しています。その理由が、そうしておかないと主力製品であるワイルドターキー101のプルーフと生産量を確保できないからとされるところからすると、ワイルドターキーの長期熟成原酒は案外プルーフ・ダウンする樽がけっこう多いのかも知れません。個人的にも、やはり101プルーフで飲みたかったとは思いますが、91プルーフでも特別なフィーリングは少なからずあるように思えました。

Value:ワイルドターキーの特別限定リリースの物は昔からパッケージングに拘った造りの物が多いです。本品もボトルや木箱などの包装のカッコ良さは画像でも伝わると思います。問題は価格ですよね。アメリカでは約125ドルで売られ始め、日本では発売当初17500円程度する販売店もありました。正直、定価では高過ぎるとは思います。ですが、今ではオークションを利用すれば10000円以下での購入も出来る時はあるでしょう。ただし、安定してその値段ではありませんので、仮にダイヤモンド・アニヴァーサリーが15000円、ディスティラーズ・リザーヴ13年が5000円なら、迷わずディスティラーズ・リザーヴ13を三本買うことをオススメします。私にはダイヤモンド・アニヴァーサリーの方が僅かに美味しいと感じましたが、飽くまで「僅か」だからです。ディスティラーズ・リザーヴ13年は長期熟成でありダイヤモンド・アニヴァーサリーと同じプルーフなので、日本人にとっては良い代替製品となり得るのです。また、疑似分割や単ラベルあたりの12年101がオークションで12000円位で購入出来るなら、そちらを買うほうがいいでしょう。味わいの満足度は上なので。とは言えダイヤモンド・アニヴァーサリーは、8年101やレアブリードとは異なるワイルドターキーの長期熟成の世界への入り口にするなら良いと思いますし、米国では36000本のリリースとされるのでタマ数も十二分にあり、また近年流通品なので限定品としては比較的入手が容易、そして何よりジミー・ラッセルへの愛情として購入するならアリだと思います。

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