タグ:歴史

IMG_20201002_230908_459

デイヴィッド・ニコルソン1843は現在ラクスコの所有するブランドで、古くはスティッツェル=ウェラーと繋がりのあった小麦レシピのバーボンです。セントルイスを拠点とするラクスコは、旧名をデイヴィッド・シャーマン・コーポレーションと言い、2006年に名称を変更しました。近年、新ブランドのブラッド・オースを立ち上げたり、既存のブランドの拡張と刷新をしたり、更には2018年春にラックス・ロウ蒸留所をケンタッキー州バーズタウンにオープンしたりと、バーボン好きには見逃せない会社です。彼らが展開するバーボン・ブランドにはデイヴィッド・ニコルソンとブラッド・オースの他、エズラ・ブルックス、レベル・イェール、デイヴィス・カウンティがあります。

トップ画像の物はいわゆる旧ラベルで、2015年によりシンプルなラベルにリニューアルされました。2016年には「デイヴィッド・ニコルソン・リザーヴ」という黒いラベルの仲間が増え、ラベル・デザインを揃えています。ちなみに黒い「リザーヴ」の方はウィーターではないスタンダード・ライ・レシピのバーボンです。
2020-09-19-17-55-34
(現行のDNのラベル)

さて、今回はデイヴィッド・ニコルソンとそのバーボンについてもう少し紹介してみたいと思います。日本ではあまり話題にならないバーボンですが、実はなかなか歴史のあるブランド。ラクスコが公式ホームページで言うような、世代から世代へと受け継がれるレシピの物語は額面通りには受け取れませんが、オースティン・ニコルズの「ワイルドターキー」と同じように、自分の店でしか手に入らない独自のウィスキーを常連客に提供した食料品店のオウナーの物語があります。
2020-09-19-18-18-00_copy_202x298_copy_101x149
セントルイスの形成を助けた一人だったデイヴィド・ニコルソンは、地元市民の胃袋を満たした食料品店オウナー、ダウンタウンの有名なビルの開発者、境界州ミズーリでの無遠慮なユニオン軍のペイトリオットでもあり、何なら詩人ですらあったようですが、その名をアメリカ大衆の記憶に残した最大の功績は、彼が店の奥の部屋で歴史的なウィスキーのレシピを作成したことでした。
デイヴィッドは1814年12月、スコットランドはパース郡のフォスター・ウェスターという村の質素な家庭で生まれました。初歩的な学校教育は受けますが、殆どは独学で物にしました。その後、グラスゴーで食料品店の見習いとなり、後にウェスト・ハイランズのオーバンでも修行を積んだようです。彼は1832年頃にはカナダに移住し、モントリオールに上陸した後、オタワに向かいました。就職がうまく行かなかったデイヴィッドは、大工の仕事を学びながらカナダのいくつかの町を巡回し、遂にはアメリカへ行くことにします。始めはペンシルバニア州エリー、次いでシカゴに移り、最終的にセントルイスで大工仕事に精を出しました。頑強な体つきと頭の回転も速かった彼は迅速で優れた仕事ぶりで知られており、セントルイスにあるセント・ゼイヴィアズ・チャーチの素晴らしい装飾用木工品の幾つかはデイヴィッドの作品だったそうです。

セントルイスでデイヴィッドは10歳年下のスコットランド移民ジェイン・マクヘンドリーと出会い、1840年頃結婚しました。彼らには三人の男の子と三人の女の子、計六人の子供が生まれています。1843年、29歳のデイヴィッドは大工職を断念し、スコットランド人でワイン・マーチャントの仲間と協力して専門食料品と酒の特約店を設立しました。商才に長けていた彼は店を繁盛させ、顧客の増加に合わせて何度も店を移転したそうです。デイヴィッドは卸売業者としても活発な取引を行い、セントルイスから西に向かうワゴン・トレインに食物や飲料を供給しました。また、ニューヨーク・シティの営業所から東部でもビジネスを行っていました。
数回の移転の後、1870年にデイヴィッド・ニコルソンはマーケットとチェスナットの間のノース・シックス・ストリート13-15番にある大きな建物に落ち着きます。その建物は彼自らの仕様で建てられ、各階の広さが50×135フィートある5階建ての構造でした。絶え間ない客の往来に対応するため50人の店員が雇われていたと言います。デイヴィッドは、時には船をチャーターして海外からの貨物を積み込み、セントルイスのグロサーで初めて外国の食料品を輸入して、周辺の市場でこれまで知られていなかった商品の消費を促進しました。

伝説によれば、デイヴィッド・ニコルソンの創業年もしくはその少し後、オウナーは自ら「43」レシピを開発したと言います。彼は食料品店の奥のプライヴェートな部屋で100回以上も実験をしてマッシュビルを考え出し、セカンド・グレインにライではなくウィートを使用することにした、と。中西部ではウィートはライより豊富に穫れ、柔らかく滑らかなテイストを気に入ったからだとか。まあ、この手の創始にまつわる伝承は本当かどうか定かではありませんが、販売されたそのウィスキーは、ミズーリ州や州境となるミシシッピ・リヴァーを渡ったイリノイ州の酒呑みにすぐに受け入れられたようです。また、彼はニューヨークの「ファーストクラス」の場所で販売するために、全国的に知られたブランドのオールド・クロウを樽買いしてボトリングしてもいました。
2020-09-23-18-48-38_copy_217x268
おそらくデイヴィッドは蒸留業者であったことはなく、あくまでウィスキーを含む大規模な食料品卸売業者であり、ウィスキーに関してはレクティファイヤー、つまり多くの蒸留業者から購入したウィスキーをブレンドして販売する業者だったと思われます。多くのセントルイスのレクティファイヤーたちは悪名高いウィスキー・リングの犯罪に巻き込まれましたが、デイヴィッドは誠実さがモットーだったのか、業界でよく見られた悪しき取引慣行を大いに蔑み、それらの罪を犯した者を軽蔑したと言います。彼はウィスキー・リングという前代未聞のスキャンダルの後も町を離れませんでした。

デイヴィッドが歳を取るにつれ、親族が会社に加わりました。妻のジェインは役員として会社に入り、イングランドでグロサーの修行を積んだ甥のピーター・ニコルソンは1852年に渡米してすぐ雇われました。店員としてスタートしたピーターには並外れたエネルギーと商才があったようで、彼が経営責任を与えられるにつれて顧客層は大きく広がったと言われています。
デイヴィッド・ニコルソンは1880年11月に65歳で亡くなりました。彼はセントルイスのベルフォンテン・セメタリーに埋葬され、妻のジェインも31年後にそこに入ります。ピーターは食料品店とリカー・ハウスの監督を引き継ぎ、1891年にメインのビルディングが焼失した後、ノース・ブロードウェイに移転し、1920年までウィスキーの販売をしていました。そうして、おそらく禁酒法の到来とともに、ピーターはデイヴィッド・ニコルソン名の権利を同じセントルイスの有名なタバコ商ピーター・ハウプトマン・カンパニーに売却したと思われます。どの時期かは確証がありませんが、少なくとも「ドライ・エラ」の終わり直後にはハウプトマン社がラベルを所有していました。

2020-09-26-08-53-43
ピーター・ハウプトマンは祖国ドイツからアメリカに渡り、様々な卸売会社で働いた後、自分の会社を設立、主にタバコ製品の販売で知られていましたが、タバコ会社の事業を続ける一方で蒸気船事業もしていたようです。もしかするとウィスキー・ブローカーのようなこともしていたのかも知れません。ハウプトマン自身は1904年に亡くなっています。
ピーター・ハウプトマン・カンパニーはデイヴィッド・ニコルソン・ブランドのセントルイスのディストリビューターで、その最高経営責任者はロジャー・アンダーソンでした。当初、イリノイ州には別のディストリビューターがいたそうですが、ともかく、デイヴィッド・ニコルソン1843は常にセントルイス周辺の地域限定的な製品で、禁酒法の後はスティッツェル=ウェラーがピーター・ハウプトマン社のために造りました。ラクスコの公式ニュースによれば、1893年にジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルがWLウェラー商会に加わった頃、セントルイスの卸売業者ピーター・ハウプトマン社のためにデイヴィッド・ニコルソン・ブランドはA.Ph.スティッツェル蒸留所でオリジナルの「43」レシピの蒸留と瓶詰めを開始したという記述が見られます。詳細は分かりませんが、少なくともその頃からハウプトマン社が関わっていたのは間違いなさそうです。

禁酒法後、ハウプトマン・カンパニーはマッケソン・インコーポレイテッドに所有されていました。ロジャー・アンダーソンは第二次世界大戦でアメリカ陸軍に勤務した後、マッケソンの販売部門で働き始めました。1968年、彼はセントルイスのマッケソンのピーター・ハウプトマン卸売酒類部門のゼネラル・マネージャーに就任し、1993年または1994年にその職を退き、2013年に亡くなったとのこと。
1967年までハウプトマン社はデイヴィッド・ニコルソン1843バーボンのブランドを所有していましたが、その年、フォーモスト・デリーズはマッケソン=ロビンズを買収し、ハウプトマン部門はクロスオウナーシップのルールによりニコルソン・ブランドの販売を余儀なくされ、それをヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーが取得しました。この関係はやや込み入ったものでした。ファミリーはゴールド色の「1843」の名前とスコットランドの国花アザミがデザインされたラベルを所有しつつそれをリースすることで、ハウプトマン社はプレミアムな自社ブランドの一つとして販売し続けることが出来たのです。ハウプトマンはスティッツェル=ウェラーからウィスキーを購入し、倉庫代と瓶詰めの費用を支払い、ウィスキーが出荷されるとヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーには、ケースごとにブランドを使用するためのロイヤリティが支払われました。この取り決めはヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーがスティッツェル=ウェラー蒸留所とそのブランドの殆どをノートン・サイモンに売却した1972年以降も続いたようです。

2020-09-28-19-39-25_copy_249x413_copy_186x309

ラクスコの公式ホームページによるとデイヴィッド・ニコルソン・ブランドを買収したのは2000年としていますが、ヴァン・ウィンクル・ファミリーからの情報ではデイヴィッド・シャーマン・カンパニーにブランドを売却したのは1984年または1985年とされています。また、デイヴィッド・シャーマン社はロジャー・アンダーソンが引退した93-94年頃にハウプトマン社を買収したという話もありました。アンダーソンは死ぬまでアクティヴにビジネスを続け、J.P.ヴァン・ウィンクル&サンのセントルイスでのブローカーだったそうです。
ピーク時には年間約40000ケース売り上げたというデイヴィッド・ニコルソン1843も、デイヴィッド・シャーマン社がブランドを購入した頃には、販売量は年間約6500ケースに減少していました。こうしたバーボンにとって暗黒時代だったことが直接的、或いは間接的に影響し、デイヴィッド・ニコルソン・ブランドを長らく蒸留して来たスティッツェル=ウェラー蒸留所は、新しい所有者のユナイテッド・ディスティラーズによって1992年に生産を停止されてしまいます。

デイヴィッド・ニコルソン1843は上述のように地域の製品としてミズーリ州セントルイス、イリノイ州イースト・セントルイスやアルトン(オールトン)で人気があり、長年に渡って販売され続けました。実際、地域限定の製品としては画像検索で比較的容易に40年代から70年代のオールドボトルでも見ることが出来ます。最も多く見られるデイヴィッド・ニコルソン1843は丸瓶で7年熟成の物でしたが、6年熟成や8年熟成、またデカンターに入った物もありました。スティッツェル=ウェラーは異なるブランドで使用するためにデカンターのデザインをリサイクルすることがよくあったと言われています。高価格帯のバーボンが売れ行きを落としていた1970年代には時代の趨勢もあってか、より低価格帯の92プルーフに希釈されたブラックラベルの1843も導入されたようですが、画像は発見出来ませんでした。
デイヴィッド・ニコルソン1843はスティッツェル=ウェラー製造品としてオールド・フィッツジェラルド、WLウェラー、キャビン・スティル、レベル・イェール等と同一線上のウィーテッド・バーボンであり、バーボン・マニアからの評価は高く、S-Wを好きな人からすると限りない価値があるでしょう。概ね7年熟成のボトルド・イン・ボンド製品だったデイヴィッド・ニコルソン1843は、見方を変えれば7年間熟成させたオールド・フィッツジェラルドBIBとも、また別の見方をするなら107バレルプルーフではない100プルーフ版のオールド・ウェラー・アンティークとも言えるのですから。

さて、1992年以降再び蒸留されることはなかったスティッツェル=ウェラー蒸留所。その原酒を調達できなくなった後のデイヴィッド・ニコルソン・ブランドはどうなったのでしょうか?
ユナイテッド・ディスティラーズはS-W蒸留所を閉鎖すると、小麦バーボンの製造を彼らが新しく建てたバーンハイム蒸留所に移しました。後の1999年にはその蒸留所をヘヴンヒルに売却します。そして、ラクスコはバーボンの全てではないにしても大部分をヘヴンヒルから供給していることを開示しています。
当時のデイヴィッド・シャーマン社は、蒸留所が閉鎖された時も、まだスティッツェル=ウェラーからウィスキーを仕入れていたそうです。おそらくスティッツェル=ウェラーの原酒が枯渇した後、ある時点でヘヴンヒル・バーンハイム蒸留所の原酒に切り替わったと思われますが、その明確な時期は判りませんでした。また、いくら調べてもユナイテッド・ディスティラーズが所有していた数年の間のバーンハイム原酒が使用されたかどうかも判りません。ここら辺の詳細をご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。それは偖て措き、デイヴィッド・ニコルソン1843の瓶形状がスクワット・ボトル(トップ画像参照)の場合、おそらくデイヴィッド・シャーマンが販売したもので中身はヘヴンヒルと思われるのですが、初めはあった7年熟成表記が多分2000年代半ばあたり?にNASになりました。
2020-10-01-12-30-30
スティッツェル=ウェラーからヘヴンヒルに変わっただけでも、バーボン通からの評価があまり宜しくなかったのに更にスペックが落ちた訳です。まあ、これは「時代の要請」もあるので仕方ないとは思いますが、それよりも評判が悪かったのは裏ラベルに記載されたDSPナンバーの件でした。ボトルド・イン・ボンドを名乗る場合、ラベルには当のスピリッツを生産した蒸留所を表示する必要があります。そしてそれは真実でなければならないでしょう。それなのにデイヴィッド・ニコルソン1843ブランドは、事実上スティッツェル=ウェラーからの供給が使い果たされた後もずっと、その蒸留所をDSP-16(S-Wのパーミット・ナンバー)として示し続けたのです。この件はバーボン愛好家の間で問題視されました。ラクスコはこの誤りは単純な見落としで、ラベルをそのまま再印刷し続けてしまったと主張していたそうです。
2020-10-02-22-39-50
上の画像は私の手持の推定2013年ボトリングと思われるボトルの裏ラベルです。いくらBIB法は既に廃止された法律であり、ボンデッド・バーボンが市場の僅かな部分しか占めない製品であり、そしてデイヴィッド・ニコルソン1843が地域限定の比較的小さなブランドであるとしても、長期に渡って「DSP-16」が表示されたラベルを使い続けたのはちょっと意図的な気もします。とは言え、或るバーボンマニアの方はその紛らわしいラベル付けに関する疑問を直接ラクスコにぶつけ、DSP-KY-16で蒸留されたからこそ購入したボトルが実際には別の出所からの物であることが事実なら、①あなたの虚偽の広告の結果として私が行った支出を金銭または正しくラベル付けされたボトルで補償する必要があり、②第27.1.A.§5.36に基づく連邦規制に準拠してコンテンツの真実の起源を反映するために全てのラベルを直ちに修正する必要があり、 ③他の消費者が現在市場に出回っている誤ったラベルの付いた製品に惑わされないように間違った情報について謝罪を公表する必要があると思います、というような内容のメールを送ったところ、すぐに返金する旨の回答を得たとか。本当に悪意のないミスだったのかも知れません。
こうしたエラー・ラベルの件が関係してるのか分かりませんが、冒頭に述べたようにデイヴィッド・ニコルソン1843のラベルは2015年に一新され、ボトルド・イン・ボンドを名乗らなくなりました。けれど再発進されたヴァージョンも依然100プルーフを維持するウィーターなのは同じままです。おそらく驚異的なバーボン・ブームに乗る形で、それまで95%がミズーリ州とイリノイ州での販売だった物を全国的に販路を拡げるにあたってリニューアルし、新しい市場で大きな成長を期待されるのが現行品の「1843」と黒ラベルの「リザーヴ」ということでしょう。では、そろそろテイスティングの時間です。

2020-10-02-22-41-37
David Nicholson 1843 Brand BOTTLED-IN-BOND 100 Proof
推定2013年ボトリング。ナッツ入りキャラメル、グレイン、チェリー、洋酒を使ったチョコレート菓子、汗、ケチャップ、みかん。比較的ミューテッドなアロマ。口の中では柑橘系のテイストがあって爽やか。余韻は度数に期待するより短いが、ナッツとドライフルーツの混じったフレイヴァーは悪くない。
Rating:83.5/100

Thought:前回まで開けていた同社のレベルイェール・スモールバッチ・リザーヴと較べるとだいぶ美味しいです(現行のレベルイェール100プルーフとの比較ではありません)。単にプルーフが上がってる以上の違いを感じました。ほんのり甘くありつつ、100プルーフらしい辛味のバランスも好みです。熟成年数は、BIBなので最低4年は守りますが、確かにその程度の印象で、いっても5、6年でしょうか。
同じ小麦バーボンで有名なメーカーズマークのスタンダードと比較して言うと、良くも悪くも円やかさに欠けると言うか荒々しいのが魅力。格と言うか出来はメーカーズの方が上だとは思いますけど、個人的にはスタンダードのメーカーズより好きかも。
私は現行の新しいラベルのデイヴィッド・ニコルソン1843を飲んだことがないので本ボトルとの比較は出来ませんが、一応ほぼ同じであると仮定して言います。ヘヴンヒルが製造している小麦バーボンには少し前までオールド・フィッツジェラルドという有名な銘柄がありました。しかし、それは現在では少し上位のラーセニーに置き換えられ終売となっています。そうなると、比較的安価に買えるヘヴンヒルの小麦バーボンを探しているのなら、もっと言うとオールド・フィッツジェラルドBIBやオールド・フィッツジェラルズ1849の代替品を探しているのなら、このデイヴィッド・ニコルソン1843こそが最も近い物となるでしょう。ただし、唯一の欠点はお値段です。アメリカではヘヴンヒルのオールド・フィッツジェラルドBIBは17ドル程度だったのに対し、デイヴィッド・ニコルソン1843は地域差もありますが概ね30〜35ドル(現在はもう少し安い)。ちょっと考えちゃいますよね。

Value:上のお値段の件は、日本で購入しやすい小麦バーボンのメーカーズマークを引き合いに出すと分かり易いでしょう。現行のDN1843は現在の日本では大体3000円近くします。メーカーズのスタンダードなら2000円ちょいで買えてしまいます。そして、ぶっちゃけメーカーズマークの方が熟成感という一点に関しては上質なウィスキーだという気がします。さあ、この状況下でDN1843を購入するのは勇気のいる選択ではないでしょうか? お財布に余裕があったり、メーカーズのマイルドさと酸味が嫌いでヘヴンヒルのナッティなフレイヴァーが好みだったり、よりパンチを求める人なら購入する価値がありますが、私個人としては味わい的にDNの方が好みではあるものの、経済性の観点からメーカーズマークを選択するかも知れません。

71ef5157-73d6-4c93-81c6-6cd2b25b42ea

A.H.ハーシュ16年は史上最高のバーボンとも言われるほど伝説のバーボンであり、世界的に価格の高騰している「ユニコーン」とか「聖杯」と呼ばれるバーボンの一つであり、殆ど神話の世界に属していると言っても過言ではありません。近年の平均的なオンライン価格に基づく最も高価なバーボンのリストで常に上位にあり、日本円で言うと20〜30万円の間くらい(或いはそれ以上)で取引されています。A.H.ハーシュの帯びる神秘性は興味深いことに、通常よくあるような販売会社のマーケティングを通じて付与されたのではなく、主にインターネット上の初期バーボン愛好家コミュニティを通じて生み出されました。神話の形成にはA.H.ハーシュの辿った複雑な歴史的背景も関係しています。バーボン・ライターのチャールズ・カウダリーは、一冊丸ごとハーシュ・リザーヴについての本を上梓することでそうした歴史を詳らかにし、45ドルのバーボンがどのようにして伝説となったかの物語を我々に教えました。間違いなく誇大宣伝されているバーボンの一つではありますが、それだけ人は伝説や神話が大好きなのです。

A.H.ハーシュを語るには雑多な説明をせねばならないので、一先ず、ざっくりと概略を示しましょう。A.H.ハーシュ・バーボンは1974年の春、アドルフ・ハーシュとの契約によりペンシルヴェニア州シェーファーズタウン近くのペンコ蒸留所(後のミクターズ蒸留所)で単一400樽(*)のバッチにて生産されました。このウィスキーは先代のチャールズ・エヴェレット・ビームのもとで学んだマスターディスティラーのディック・ストールがスタンダード・バーボン・レシピを使い蒸留しました。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーとされています。
1989年に蒸留所が破産に直面した時、このバーボンは既に典型的なものより遥かに長い間熟成されていました。蒸留所が倒産するまで敷地内の倉庫で眠り続け、一度も使用されることなく時を過ごしたのです。同年、バーボンは蒸留所の資産を売却する前に救出されました。ノーザン・ケンタッキーにあるコルク・アンド・ボトル(酒のセレクトショップ)のゴードン・ヒューがそれを買い上げて、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世にボトリングしてもらい、A.H.ハーシュ・リザーヴというブランドにしたのです。ヒューの計画はこのバーボンを日本市場で販売することでした。当時、日本はバーボン市場として活況を呈しており、アメリカとは正反対に超長期熟成原酒をボトリングしたバーボンはかなりのプレミアム価格で取引されていました。スコッチを基準としてウィスキーを受容した日本人は、バーボンにさほど馴染みがなかったため、スコッチのような熟成年数の12年や15年、時には20年以上の熟成期間を経たバーボンを求めたのです。A.H.ハーシュ・バーボンは発売からの20年間に渡り様々なプルーフと熟成年数でゆっくりとボトリングされて行きました。熟成年数は15〜20年でリリースされましたが、最も数の多いのは16年でした。それらは全て同一のウィスキーであり、単に異なる時期に樽やタンクから引き出されボトリングされたものです。

A.H.ハーシュ・リザーヴ・ストレート・バーボン・ウィスキーは1989年に始まりました。最初に出されたのは15年熟成の物で、1989/1990年に非常に少数ボトリングされ、その殆どが日本に送られました。最も有名な16年熟成の初めてのバッチは一年後の1991年にボトリングされ、青色の封蝋を施されているので通称「ブルー・ワックス」のハーシュと知られています。この時点で大部分のバーボンはこれ以上の熟成を止めるためにステンレス・タンクに入れられました。と同時に少量のバーボンは20年まで樽に入れられたまま熟成を続け、段階的に17年、18年、19年、20年と小分けにしてボトリングされて行きます。ヒューはブランドの所有権を維持し、自分の店で少数のボトルを販売すると共に、主に日本とヨーロッパの市場へ販売しました。ちなみに「A.H. Hirsch」の文字に筆記体を使用した初期のラベルには本物の証としてウォーターマーク(透かし)が入っています。
2020-08-01-07-18-46
(画像提供GEMOR様)

その後、プライス・インポーツのヘンリー・プライスがブランドを買収し、以前までのローレンスバーグではなくフランクフォートと記載された通称「ゴールド・フォイル」と呼ばれるA.H.ハーシュを2003年にリリースします。最も多くのボトリングが行われたのは、このゴールド・フォイル・ヴァージョンでした。当時のアメリカでの小売価格は1本約45ドルだったそうです(日本では或る時点では6500〜7500円程度だった)。2006年半ばにプライスは最後の1000ケースまで減ったと報告しました。この頃にはA.H.ハーシュの伝説は広まり彼らもそれを認識していたのか、2009年には名声あるバーボンの残りは高級な手吹きクリスタル・ボトルにリボトルされ、しかも木製のヒュミドールに入った特別なパッケージにして希望小売価格1500ドルで市場に投入されました。このセットは個別に番号が付けられたちょうど1000個の限定販売でした。これがA.H.ハーシュ・リザーヴ全体の最後のリリースです。
2011年、ヘンリー・プライスは会社とハーシュのブランドをアンカーに売却しました。これにはハーシュのヒュミドール・セットの残りの在庫も含まれています。価格が高すぎたせいなのか、当初はあまり売れ行きが芳しくなく、2013年4月の情報ではアンカーにはまだ800個のヒュミドール・セットが在庫されていることが確認されたとか。つまり在庫の20%を販売するのに4年掛かった訳です。それでも2015年頃にはアンカーの在庫は捌け、流通業者と小売業者の少数の在庫を残すのみとなりました。しかし「ユニコーン」バーボンが求められる現在では定価で購入することは叶わないでしょう。セカンダリー・マーケットも含め希望小売価格の倍が相場となっています(初期のAHHはもっと高い)。
ちなみに、一連の取引を経てプライス・インポーツはアンカー・ブリュワーズ&ディスティラーズの一部となり(**)、更に現在アンカーはホタリング&カンパニーと名称を変えました。彼らはハーシュ・ブランドを維持し、「ハーシュ・セレクション」や「ハーシュ・スモールバッチ」等の名前で色々なリリースをしていましたが、それらはここで言及している伝説の“ペンシルヴェニア1974”の「A.H.ハーシュ」ではなく、その中身は異なる調達先からのジュースです。また、2020年にはパッケージをリニューアルして、新しい「ハーシュ・セレクテッド・ウィスキーズ」というシリーズになり、その第一弾として「ハーシュ・ザ・ホライゾン」が発売されました。これはMGPソースのバーボンです。すぐ上に述べたセレクションともスモールバッチとも違うシリーズなので混同しないようにしましょう。
2020-07-25-11-56-26

ではここで、ネットで画像を確認出来たA.H.ハーシュ・リザーヴの各ボトルを以下にリストしておきます。左から、名称と熟成年数、ラベル(ハーシュ名の書体と色)、プルーフもしくはABV、封、ボトル形状、ボトリング地、その他の事項です。名称の小文字や大文字の区別やプルーフおよびアルコール度数の表記は、なるべく実際のラベルに記載された文字に従ったため、不統一になっていますがご了承下さい。また、発売年代順に列挙したかったのですが、私にはその仔細が完全には判らないため、熟成年数やラベル・デザインや瓶形状の同等性で纏めてあります。なのでリリース時期の判る方、それとこれら以外にもまだあるのをご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。

HIRSCH RESERVE 15 YEARS OLD / Van Winkle Style, Block(Red) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg / September 16, 1989
HIRSCH RESERVE 15 YEARS OLD / Van Winkle Style, Block(Red) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg / February 26, 1990
A.H. Hirsch RESERVE 15 YEARS OLD / Script(Red) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 15 YEARS OLD / Script(Blue) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
HIRSCH RESERVE 16 YEARS OLD / Van Winkle Style, Block(Red) / 47.8% Vol./95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD / Script(Blue) / 91.6 Proof / Blue Wax / Cognac / Lawrenceburg / 1991
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD / Script(Blue) / 47.8% Alc/Vol / Gold Wax / Scotch / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD / Script(Blue) / 91.6 Proof / Black Wax / Scotch / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 16 YEARS OLD / Script(Blue) / 45.8% Alc/Vol / Gold Wax / Scotch / Lawrenceburg
A.H. Hirsch RESERVE 17 YEARS OLD / Script(Blue) / 95.6 Proof / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg / 1991
A.H. Hirsch RESERVE 18 YEARS OLD / Script(Blue) / 46.5% Alc/Vol / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg / November, 1992, released 37 cases(444 bottles)
A.H. Hirsch RESERVE 19 YEARS OLD / Script(Red) / 46.5% Alc/Vol / Red Wax / Cognac / Lawrenceburg / November, 1993, released 121 cases
A.H. Hirsch FINEST RESERVE 20 YEARS OLD / Script(Red) / 45.8% Alc/Vol / Red Wax / Cognac / Lawrenceburg / December, 1994 - April, 1995, released 500 cases
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old / Print / 45.8% Alc/Vol (91.6 Proof) / Dripped Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old / Print / 45.8% Alc/Vol (91.6 Proof) / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old / Print / 45.8% ALC/VOL (91.6 PROOF) / Gold Foil / Cognac / Frankfort / 2003
A.H. HIRSCH RESERVE 16 Years Old / Print / 45.5% ALC/VOL (91 proof) / ―――― / Hand-Blown Crystal / Bardstown / Humidor Edition, 2009, 1000 bottles

PhotoGrid_Plus_1594559270692
少し文章で補足しておくと、ラベル項目の「Van Winkle Style」は「ヴァン・ウィンクル・セレクション」や「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」に似た様式のラベルを指し、「script」は「A.H. Hirsch」の文字が筆記体で書かれた初期ラベルを指し、「print」は後期に定着した高級感の劣るラベルを指しています。ボトル項目の「Cognac」はなで肩シェイプのやや背の高いボトルを指し、「Scotch」はネック部分にやや膨らみがあり少しでっぷりしたボトルを指しています。
そして、A.H. ハーシュ名義以外でのペンシルヴェニア1974原酒を使ったボトリングで知られる物が幾つかありますので、それらは以下に纏めました。

Old Grommes Very Very Rare 16 YEARS OLD / 101 Proof / −−−− / Square / Lawrenceburg / For Japan market
Colonel Randolph 16 YEARS OLD / 116° Barrel Proof / −−−− / Squat / Lawrenceburg / released 100 cases
BOONE'S KNOLL 16 YEARS OLD / 45.8% Alc/Vol / Black Wax / Scotch / Lawrenceburg / For Europe market, 256 Bottles
VAN WINKLE SELECTION 16 YEARS OLD LOT “H” / Block(Red) / 47.8% VOL / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg
VAN WINKLE SELECTION 17 YEARS OLD LOT “H” / Block(Blue) / 47.8% ALC./VOL. (95.6 PROOF) / Gold Wax / Cognac / Lawrenceburg

この中で上から3つのブランドは、ボトリングした本人のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が証言してるのでペンシルヴェニア1974原酒に間違いありませんが、ヴァン・ウィンクル・セレクションの2つは海外では異なる原酒の可能性も示唆されています。レッド・ワックスの「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ16年、17年」や初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル20年」に使用されたオールド・ブーン原酒ではないかと言うのです。おそらく、そう推理する根拠は蒸留年が同じ1974年であることと、裏ラベルに「Kentucky Straight Bourbon Whiskey」と書かれていることと、ヒューが所有するペンシルヴェニア原酒にヴァン・ウィンクル名義を使う許可を与えるかどうか疑わしい、という三点でしょう。個人的見解では、わざわざ表ラベルに「Pot Stilled」とあり「Kentucky」とも名乗っておらず、更にロットが「H」、しかもプルーフだってA.H.ハーシュにあったボトリング…、これではラベルを信じる限りどう見てもペンシルヴェニア1974原酒としか思えません。裏ラベルに関しては日本のインポーターのミスだと思います。そしてヴァン・ウィンクル名義とは言え、「ファミリー・リザーヴ」と言ってしまうとヴァン・ウィンクル家の所有物になるかも知れませんが、「セレクション」ならジュリアン三世が厳選しましたくらいの意味になりギリOKだったのではないかと…。まあ、それはともかく上に挙げたブランドのうちオールド・グロームス16年とカーネル・ランドルフ16年はボトリング・プルーフが違うので別物と考えても差し支えありませんが、その他の三つはA.H.ハーシュの単なるラベル違いではないかと思うのです。皆さんはどう思われるでしょうか? ご意見をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

DfjbpStW0AMK5SO
(画像提供Bar FIVE様)

さて、ここからはA.H.ハーシュ・リザーヴの来歴をもう少しだけ掘り下げてご紹介しようと思っているのですが、その前に予備知識と言うか念の為に言及しておきたいことがあります。
後にA.H.ハーシュ・リザーヴとなる原酒が生産された蒸留所は一般的にミクターズ蒸留所として知られるため、日本でA.H.ハーシュについて語られる場合、概ね「ミクターズ原酒云々」と言われます。しかし私はここまで、敢えてそう呼ばずに「ペンシルヴェニア1974原酒」と呼んで来ました。それには幾つかの理由がありますが、一つは「現代ミクターズ」との混同を避けるためでした。アメリカン・ウィスキー業界に明るい人は知っているかも知れませんが、そうでない場合、現代ミクターズとオリジナル・ミクターズに何か繋がりがあるかのように想定してしまう恐れがあると考えたのです。
ペンシルヴェニアのオリジナルのミクターズ蒸留所が閉鎖後、ミクターズの商標は放棄されました。その後、ジョセフ・マグリオッコ率いるワインとスピリッツの販売を手掛けるチャタム・インポーツという会社が1997年に商標を取得し再登録、2000年代初頭にケンタッキー州のブランドとしてミクターズを復活させます。彼らは元々はNDP(非蒸留業者)、つまりバルク・ウィスキーを購入し、それをボトラーに依頼して瓶詰めしてもらい、自社ブランド名で販売するところからスタートし、後にケンタッキーの匿名の蒸留所で生産するようになり、2015年には自らの蒸留所をシャイヴリーに構えるに至りました。これが現代のミクターズです。そして現在では彼らのハイエンド・ウィスキーを造る戦略は成功を収め、人気を博しているのは周知の通り。彼らはミクターズの名前の権利を有しているため、シェーファーズタウン近くの蒸留所の長い歴史をマーケティングでは語りますが、今日店頭に並ぶミクターズのバーボンやライやその他のウィスキーはペンシルヴェニア州のミクターズ蒸留所で製造されたものではありません。上の説明で分かるように、本質的に別物なのです。まあ、これに関しては「旧ミクターズ」と「新ミクターズ(現代ミクターズ)」のように書き分ければいい話で、現にそうしている人もいるし、私もそうするでしょう(※ただし、文脈によって誤解がないならば、旧ミクターズであれ現代ミクターズであれ、どちらも単に「ミクターズ」と表記することはあります)。
2020-07-04-12-04-19

理由のもう一つは、ミクターズというブランドとミクターズとなるウィスキーを製造した蒸留所を分けて考えたかったからです。
今でこそアメリカン・ウィスキーのブランドの多くは、製造と販売の両方を行う企業によって造られていますが、昔は違いました。それらは分かたれ、どちらかと言えば販売側が支配的な力を持っている時代があったのです。南北戦争から禁酒法までは特にそうでした。その頃のビジネスでは、蒸留所はウィスキー及び他のスピリッツを造るとブローカーに一括で販売し、彼らはそれをブレンドやパッケージングやブランド化する飲料会社へと販売しました。殆どのブランド名を作成および所有したのは飲料会社もしくはブローカーであり、一般的には蒸留所ではありませんでした。アメリカン・ウィスキーのブランドが確立し、業界が発展するにつれ、中間業者は自分達の影響力に気づき始めます。最も力の強いブローカーは大都市を仕切り、その小型版のようなブローカーは地方の市場を支配しました。蒸留業は莫大なお金が掛かるため、業界は常に不安定でした。そのため蒸留所の所有権はコロコロと変わり、裕福な銀行家がオーナーとなったり、有能なビジネスマンがパートナーと共同で蒸留所を所有したり、そして大きな飲料会社やウィスキー・ブローカーが原酒の安定供給のため蒸留所を買収することも多かったのです。
ペンシルヴェニア州シェーファーズタウン近くにあり、後年ミクターズと呼ばれることになる小さな蒸留所の創業は1753年に遡ります。長い歴史の間に、この蒸留所は所有権の変更と共に様々な名前で知られていました。シェンクス蒸留所、ボンバーガーズ蒸留所、カークス・ピュア・ライ蒸留所、ペンコ蒸留所、ミクターズ蒸留所…。そしておそらく他の名前もあったと見られています。蒸留所がミクターズと名乗っていたのは、その存続期間のうち最後の15年ほどでした。それが最終的な名称であったため、またこの時期に蒸留所は観光に力を入れていたこともあり、ミクターズの名が広く知られるようになったのです。ミクターズは基本的に蒸留所ではなくブランド名でしたが、1975年以降に蒸留所に適用されました。「Michter's」という名称は1950年代初頭にブランドを作成したルイ・フォーマンが「Michael」と「Peter」という二人の息子の前半と後半の名前を繋げて名付けたものです。ミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーを販売していたマーケティング会社はミクターズ・ジャグ・ハウスと呼ばれていました。同社とシェーファーズタウンの蒸留所とは常に繋がりがあり、その蒸留所がペンコ・ディスティラーズと呼ばれていた頃も長年に渡ってミクターズ蒸留所として事業をしていたと思われます(所謂DBA)。それ故、便宜的に一律「ミクターズ蒸留所」としたり「ミクターズ原酒」としても悪くはないのですが、更に理由はもう一つありまして…。

ミクターズと言えば有名なのは上にも書いたミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーです。そのウィスキーのマッシュビルは、50%コーン、38%ライ、12%モルテッドバーリーでした。バーボンやライウィスキーを名乗るには、それぞれの主原料が少なくとも51%なければなりません。 それ故ミクターズはバーボンでもなくライウィスキーでもなくサワーマッシュ・ウィスキーとして販売されました。しかも、その一部は使用済みの樽で熟成されていたので「ストレート」も名乗れませんでした。ストレート規格は新樽で2年以上熟成させたものを言います。ここら辺の事情は、アメリカ市場向けのアーリータイムズが中古樽熟成を含むため「バーボン」でもなく「ストレート」でもない「ケンタッキー・ウィスキー」を名乗るのと同じようなものです。「サワーマッシュ」についても、禁酒法以前であれば差別化のための用語であったかも知れませんが、近年のアメリカン・ウィスキーのほぼ全てはサワーマッシュ製法で造られているので(***)、特別な用語とは言えません。ジャックダニエルズがテネシー・サワーマッシュ・ウィスキーであるのと同じ意味しかないのです。勿論ミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーというのは悪い製品ではありませんし、造り手は常に誇りをもって生産してもいましたが、価格帯のクラスで言えばジムビームやジャックダニエルズのスタンダードと同じボトムシェルファーでした。しかし、A.H.ハーシュ・リザーヴのレシピは全くの別物です。それ故に「ミクターズ原酒」と言った時に有名なミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーを想起してしまう可能性を考慮して、別の言い方にしたかったという訳なのでした。

では、A.H.ハーシュ・リザーヴの名前の由来となっている人物の説明に移りましょう。その男はシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションで間違いなく重要な人物でした。ですが、どんなパーソナリティの人物なのか、なぜ1974年の春にバーボンを蒸留させたのか、なぜ10年以上もそれを放置していたのか、それらは研究者の推論に頼らなければならない不明瞭な事柄です。それでも分かる範囲で書き出して見ます。
アドルフ・H・ハーシュは1908年6月5日、ドイツ南西部のライン川沿いの都市マンハイムに生まれました。彼は17歳でUSSクリーヴランド号に乗ってアメリカに移住し、直後に米国市民になるための請願書で「Adolf」から「Adolph」に改名、1932年にアメリカ市民となりました。シカゴの著名な投資銀行であるA.G.ベッカー&カンパニーに就職して働いた後、1934年に26歳の若さでルイヴィルのバーンハイム蒸留所の副社長になったそうです。蒸留所は常に資金を必要とするので経営者が銀行家なのは珍しいことではありませんでしたが、ハーシュもバーンハイムへの出資者の一人だったのかも知れません。I.W.ハーパーで有名なバーンハイム蒸留所は禁酒法が解禁された当時、シカゴを拠点とするウィスキー・マーチャンツの二人、エミル・シュワルツハプトとレオ・ジャングロスが取得していました。ハーシュは二人とA.G.べッカー社からの資金融資を通じて知り合ったのか、もしくはユダヤ系ドイツ移民のコミュニティで知り合いだったか、或いは旧大陸で何らかのコネクションがあったのか詳細は不明ですが、とにかく後々まで続く交友関係を築き上げています。
1937年、シュワルツハプトとジャングロスはバーンハイム蒸留所をシェンリーに売却しました。彼らはシェンリーの株主になったと思われますが、得た資金で他の事業を手掛けた可能性もあります。ハーシュは暫くルイヴィルに留まり、後に当時シェンリーの本部があったニューヨークに赴任したようです。1941年12月、アメリカが第二次世界大戦に突入したのと時を同じくして、ハーシュは33歳でシェンリーを去りました。程なくしてアメリカの蒸留酒業界は「戦争努力」のための工業用アルコールの生産準備を進めます。当初、陸軍省はテキサス、ルイジアナ、および湾岸州の蒸留所で十分だと考えていましたが、もっと容量を増やす必要と、沿岸部のプラントは攻撃を受け易いことに気づきました。すると内陸のウィスキー製造業者は急務にさらされました。
大規模な蒸留所は工業用アルコールへの転換を迫られましたが、小規模な蒸留所はウィスキーの製造を続けることが出来たと言います。ハーシュはこれをビジネスの好機と捉え、すぐに動きます。1942年、彼とサミュエル・グラスともう一人のパートナーは、ペンシルヴェニア州の田舎に二つの小さな蒸留所を既に所有していたペンシルヴェニア・ディスティリング・カンパニーを買収し、会社の名前をローガンズポート・ディスティリング・カンパニーへと変更、更に三つめとしてシェファーズタウンの蒸留所をルイ・フォーマンから買収しました。ローガンズポートは戦争期間中に三つ全ての蒸留所を稼働させ、主にバーボンを造ったと見られています(それが医療用か民間市場向けかは不明)。
戦争が終わると、1946年にはハーシュとパートナー達はローガンズポートをシェンリーに売却、ハーシュは約四ヶ月間シェンリーに復帰するも、1947年3月には「慈善活動を追求する」ために引退を表明しました。けれど彼はまだ38歳であり、ビジネスを完全に終わりにした訳ではありませんでした。1956年4月、ハーシュはニューヨークに戻ってシェンリーに三度目の参加を果たし、今回は社で最高地位の一つであるエグゼクティブ・ヴァイス・プレジデントに就任したのです。翌年、シェーファーズタウンの蒸留所は、ローガンズポートで元パートナーだったサミュエル・グラスが買収し、ペンコと改名しました。おそらくこれが後にA.H.ハーシュ・リザーヴとなるバーボンが生産される遠因となります。1960年7月、ハーシュは52歳でシェンリーを退職しました。まだまだ若い彼のその後の人生についてはよく分かりませんが、慈善活動を行っていたのは知られています。ハーシュはシュワルツハプトが創設した「アメリカ市民権の確立と向上」を促進するエミル・シュワルツハプト財団のプレジデントを1958年のレオ・ジャングロスの死後に引き継ぎ、少なくとも1979年まではその地位にあったようです。そして、いつの頃かミシガン州グランド・ラピッズに移り住み、余生を過ごしました。
ところで、ネットで調べると時折、アドルフ・ハーシュの叔父がアイザック・バーンハイムであると書かれていることがあります。墓石や家系図のウェブサイトで調べても確認できなかったのですが、これは本当なのでしょうか? カウダリーの本にもその件は書かれていません。誰か真偽をご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。では、話はペンコへと進みます。

ペンコ・ディスティラーズは、サミュエル・グラスの指揮の下、1950年代の終わりから1960年代にかけて事業は順調でした。ペンコは比較的小規模な蒸留所でしたが、1966年の地方新聞によれば、日産750ブッシェルの穀物を処理する能力があり、一日あたり60バレルのウィスキーを産出、約60000バレルを収容する倉庫を有しており、年間で約15000バレルをダンプしたと言います。ペンコは幾つかの独自のブランドを持っていたと思われますが、主な事業は契約蒸留であり、他の蒸留業者やボトラーと契約してウィスキーを製造していました。ワイルドターキーのためのライを製造したのはよく知られ、おそらく他にもナショナルやシェンリーやハイラム・ウォーカーのような大企業も利用していたのではないかと見られています。或いはブラウン=フォーマンのためのライや、なんならカナダの蒸留所にもウィスキーを売ったという話もありました。また詳細は分かりませんが、コンチネンタルとは何らかの繋がりがあったらしく、コンチネンタル製のウィスキーをペンコでボトリングすることすらあったようです。ペンコにはミクターズのような観光事業や多彩な歴史の謳い文句や目立つデカンターはありませんでしたが、素晴らしいウィスキーを造ったのは同じでした。1950年代初頭にルイ・フォーマンが蒸留所を管理していた時代にタッグを組み、その後もマスターディスティラーとして君臨していたチャールズ・エヴェレット・ビームは、ペンコの高品質な製品造りやフォーマンが販売し続けたミクターズ・オリジナル・サワーマッシュ・ウィスキーの独自の製法を非常に誇りに思っていました。
10年以上に渡り好調だったペンコのビジネスも、1960年代後半にスピリッツ市場の潮流が大きく変化すると、多くの蒸留所と同様に苦戦を強いられ売上は劇的に減少してしまいます。そして1975年頃、同社は経営破綻し管財人による管理下に置かれました。そこでフォーマンはレバノン郡の実業家達と会社を設立、差し押さえセールで蒸留所を購入し、1976年にミクターズ蒸留所として操業を再開するのでした。
799px-Bombergers_LebCo_PA_1
(ミクターズ蒸留所、wikipediaより)

世界的に有名なA.H.ハーシュのバーボンは、1974年の春に契約蒸留されています。契約蒸留では蒸留したてのニューメイクを購入する顧客もいますが、樽に入れて熟成させる保管サーヴィスを利用するのが一般的です。ペンコが倒産した時には、バーボンは既に倉庫に保管されていました。そして15年の長きに渡り放置されました。アドルフ・ハーシュはなぜ販売しもしないバーボンの製造を依頼したのでしょうか。実は彼の口からの直接的な証言はないので真相は判りませんが、歴史家の推論によれば、自らも昔関わった蒸留所であり友人である社長のサミュエル・グラスを助けるため、財政難に陥っていたペンコ社への資金援助的な投資をしたのではないかと見られています。
ウィスキーは長期的な投資になりがちなので、潤沢な資金が重要です。投資家は製品が販売されるまでに少なくとも数年、場合によってはもっと待たなければならないだけでなく、製品は最適な条件で保管し続けなければなりません。それは不確実性に満ちた、何年も先を見据えた予測ゲームです。当時のハーシュは66歳、大企業を引退した裕福な男とは言え、蒸留所を経営した熟練のプロフェッショナル、お金を無駄にする積りはなかったでしょう。おそらく彼には蒸留所への信頼と、長期の熟成が良いウィスキーを造る確信があった筈。しかし、初めから偉大なウィスキーを造るために長期熟成させる意図はなかったと思いますが…。
時代は移ろい1989年ついにミクターズ蒸留所も倒産となった時、ハーシュは15年間の熟成を経たバーボンの買い手を探さなければなりませんでした。そこに登場するのがゴードン・ヒューです。A.H.ハーシュ・リザーヴは、誰もが意図しない偶然が幾つも折り重なった奇跡の産物でしたが、ヒューもまた伝説のバーボン誕生に欠くことの出来ない人物でした。或いは、最も重要な人物ですらあるかも知れません。

2020-08-01-02-16-25
ケンタッキー州ケントン郡フォート・ミッチェルで育ったゴードン・ヒュー・ジュニアは、1964年にコルク・アンド・ボトル(Cork 'N Bottleと表記)を設立したゴードン・ヒューの同名の息子です。コルク・アンド・ボトルはコヴィントンにあった最高級のスピリッツやビールやワインを専門に扱う家族経営の店でした(****)。地理的にシンシナティからの客も多く取り込み、ビジネスは成功を収め、ケンタッキーでも有名な酒屋として或る種のランドマークともなりました。七人の子供のうちの一人であるゴードンことゴーディは、早くも60年代、13歳の頃から週末に家族の酒屋を手伝い始めたと言います。ゴミ出しや床の掃除から始まって、棚の品出しやカウンターの後ろで出来る仕事へと進みました。セント・ゼイヴィア高校とゼイヴィア大学時代にも働き続けていたゴーディは、既に自分の将来がハイエンドな酒類ビジネスにあることを確信していたそうです。外国産のワインのラベルに魅了されていた彼は19歳の時、初めてカリフォルニアを訪れ、幾つかのブドウ畑をじっくりと見学しました。そうした影響からか、20代前半の頃には後に自ら「バーボン・プロジェクト」と呼ぶことになる目論見を抱くようになります。それは愛好家達にアピールする芸術的なプレゼンテーションをややもすると田舎臭いバーボンに与えることで洗練させ、もっとお金を掛ける価値のある飲み物としてバーボンの評判を高めるというアイディアでした。コルク・アンド・ボトルはそのカテゴリーの上位に焦点を当て、コニャックやアルマニャックのような輸入スピリッツは勿論のこと、他ではなかなか手に入らないようなワインも豊富に取り揃えていました。 そこでゴーディは疑問に思ったのです。なぜバーボンに関してケンタッキーではスコットランド人やフランス人がやっているような良い商品の扱い方をしないのか、と。後に彼のアイディアは現実のものとなります。

ゴーディの父は蒸留所と協力して店舗に独自のハウス・バーボンを置いていました。ゴーディも実地に足を運ぶ優れた仲買人となり、異なる蒸留所のシングルバレルやスモールバッチのバーボンを選び出し、ラベルデザインの美学にも気を配りました。ケンタッキー州の法律では酒屋のオーナーが自分の蒸留酒を作ることは許可されていないため、ゴーディは基本的に店を経営することと、一種のフリーランスのブランド・メーカーとして別個の仕事をしています。彼がバーボンの世界に入ったのは1974年か75年のことでした。1970年代に多くの蒸留所が閉鎖されようとしていた頃、また偶然にも後にA.H.ハーシュとなるバーボンが蒸留されたのと時を同じくして、ゴーディはプレミアム・バーボンのリリースを計画します。最初の大きなプロジェクトのためにゴードン父子は、ウィレット蒸留所にて1959年2月4日に蒸留され16年間熟成した樽を調達し、1976年の独立記念日を記念して、32のバレルから107プルーフで3168本をボトリングしたバイセンテニアル・コメモレーション・バーボンをリリースしました。ラベルは地元の印刷屋で作り、自身でラベリングしたとか。当時ケンタッキー州にはまだ多くの蒸留所がありましたが、若者にはオシャレだったウォッカや、上流階級にも愛好される洗練されたスコッチと較べ、全体的に「ブルーカラーの飲み物」とのイメージを固めていたバーボンは、あまり人気がなかったので長熟バレルが倉庫に横たわっていました。しかし、ケンタッキー人にとってバーボンはライと共に、相変わらずアメリカの象徴的な飲み物だった筈です。そこで興味深く高品質な製品を追求していた彼らは、200周年記念ラベルを付けるに相応しいユニークなバーボンを探してみようと思い付いたのでした。この初めての特選バーボン・カテゴリーへの進出は成功し、気を良くしたゴーディは良質なバーボンを求めて、他の蒸留所にもコンタクトをとり今後更に購入することになります。ケンタッキーのバーボン・シーンに詳しく、優れた味覚を有し、いつも何か新しいことに挑戦するためのエネルギーも持っていた彼は、結果的に1995年まで20年以上に渡ってコルク・アンド・ボトルの経営に携わり、自然と業界のレジェンドたちと触れ合うようになりました。
2020-08-01-12-16-36
或るプロジェクトでゴーディは、オールドハウス・リザーヴ・バーボンのためのボトルを、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニア(二世)がボトリングしたオールドリップ・ヴァン・ウィンクル7年のスクワット・ボトルに似たものにしたいと考えました。ジュリアン・ジュニアがスティッツェル=ウェラー蒸留所を売却した際、バーボンと同様ガラス瓶も持って行っていたことを知っていたゴーディは、パピーの息子に連絡してボトルを購入することになりました。これが縁で二人は時々話をするようになります。或る特別な機会にジュリアン・ジュニアはコールマイナー・セラミック・デカンターにバーボンを容れようとしていました。それを聞いたゴーディは啞然としてジュリアン・ジュニアに尋ねます。「あなたはスティッツェル=ウェラーの驚くほど素晴らしいウィスキーを、中身はどうでもよくて装飾的なデカンターが欲しいだけの人のために入れてるんですか? 」。ジュリアン・ジュニアはこう答えました。「ああ、生活しなくちゃならんからな。君にはもっといい考えが?」。「見栄えのするボトルにウィスキーを入れて本当の金額を請求しましょう」とゴーディは言いました。フランスで酒類を調達していた時、彼はガラス製のコニャック・ボトルを購入していましたが、そのエレガントな美しさは類い稀れなスティッツェル=ウェラーのウィスキーに相応しいと感じたのです。これが伝説のヴァン・ウィンクル・ファミリーとのコラボレーションに繋がりました。1981年にジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアが亡くなると、そのアイディアは彼の息子ジュリアン三世と共に実現して行くことになります。ゴーディは2世代のヴァン・ウィンクルズと協力することで、現代のバーボン・シーンに於いてユニコーンとされるパピー・ヴァン・ウィンクルズ・ファミリー・リザーヴのブランディングに一役買ったのです。
ジュリアン三世は1983年にローレンスバーグにあるホフマン蒸留所をボトリングと貯蔵のために購入し、コモンウェルス蒸留所(DSP-KY-112)と改名して運営し始めました。そこでゴーディは元々彼の父親との交流で浮かんでいたアイディアを持って息子にアプローチします。ゴーディは熟成したスティッツェル=ウェラーのウィスキーを購入し、プレミアム製品として販売したいと考えており、それを「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」と名付け、ラベル・デザインを彼自身に適応させ、ガラス製のコニャック・ボトルに入れるのはどうだろうか、とジュリアン三世に尋ねてみました。反応は上々でした。彼は「そのアイデアはなかなかいいね」と答えましたが、自分がバーボン史上最もアイコニックなブランドの立ち上げを承認したことに、この時はまだ気づいていません。ゴーディの考案したスタイル、ネーミングやラベルやボトルは、今でもヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライとほぼ同じものです。そしてジュリアン三世はこの後、ヴァン・ウィンクル・ブランドのウィスキーにこのボトル・デザインや要素を受け継いで発展させて行くのでした。
2020-07-19-04-38-10_copy_259x410_copy_194x307

ゴーディはヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・バーボンをコルク・アンド・ボトルで販売しつつ、ヨーロッパや日本にも輸出しました。ゴーディとジュリアン三世の間柄は正式な契約やパートナーシップを結んだ訳ではありませんでした。そのせいでもないでしょうが、ある日ゴーディはジュリアン三世から、君に売るだけの熟成バーボンの在庫がない、と告げられます。ジュリアン三世から熟成したスティッツェル=ウェラー・バーボンを購入することが出来なくなったゴーディは、それに匹敵するウィスキーの探索を始めなければなりませんでした。先ず彼はナショナル・ディスティラーズから素晴らしいオールド・グランダッド・バーボンをほぼ確保するところまで行きましたが、1987年に同社が売却された際に新しいオウナーのビーム社はその取引を取り消しました。その後、ゴーディはクリーヴランドの知人ロバート・ゴッテスマンから伝説的バーボンの誕生に繋がることになる連絡を受けます。
ゴッテスマンは元シェンリー・インダストリーズでキャリアを築いたパラマウント・ディスティラーズの共同オーナーです。彼はゴーディに、ミシガン州グランド・ラピッズに住む80代の老紳士が、熟成ウィスキーを売りに出しているのを知っていると知らせました。そう、他ならぬアドルフ・ハーシュ。おそらくゴッテスマンとハーシュはシェンリー時代に知り合ったのでしょう。ミクターズ蒸留所の破産によりウイスキーの樽が置かれていた土地は銀行に取られ、オーファン・バレルを引き払う必要がありました。約5000樽が銀行によって所有されていましたが、一部はまだハーシュの所有だったのです。
ゴッテスマンは言いました、「それはペンシルヴェニアのウィスキーだ」。「ペンシルヴェニア?」、ゴーディはがっかりして続けます。「ペンシルヴェニアのウィスキーは売れないんだ、だって皆んなケンタッキーこそベストと考えるからね」。しかし、「あぁ、オーケー、とにかくチェックしてみよう」ということになり、ゴッテスマンはサンプルを手配しました。そしてサンプルを味わったゴーディは驚きます。目を見開き、一言「わぉ…」。それはスティッツェル=ウェラーのプロダクト以来、彼が出会った絶対的に最高なものでした。彼はペンシルヴェニア・ウィスキーを売ることに何の問題もないことを確信します。

ゴーディはハーシュを訪ねるためグランド・ラピッズに行き、彼の人生で最も興味深い一日を送りました。二人は座ってウィスキーについて語り合った。
ハーシュは言います、「ウィスキーを持って行って欲しい、私はもう年寄りだし、皆んなに迷惑を掛けたくないからね」。彼らは共にそれが良いウィスキーであることを知っていたので、ハーシュには売れる確信があったのかも知れないし、ゴーディもまた端から購入する心算だったのかも知れません。実際、運命はそのように動きます。1989年(1988年の可能性も)の或る日、ハーシュ宅のリヴィング・ルームでゴーディは見事なまでの熟成を見せるペンシルヴェニア・ウイスキーを買うことに同意したのです。総額12万5000ドル、三年間での支払いでした。ゴーディはハーシュに、このウィスキーには貴方の名前を付けたいと申し出ました。アドルフ・ハーシュ、その妻、ゴードン・ヒューの三名が署名した基本合意書には、「私は、この在庫からボトリングされた製品のラベリング及びマーケティングに於いて、ヒュー氏が私の名前を使用することに同意する、もし彼がそう望むなら」、と書かれていました。ハーシュは全てをやり切ったと思ったのか、この後すぐに亡くなっています。彼はこのバーボンの高い品質と特徴を非常に誇りに思っていたので製品に自分の名前が付けられることを喜んでいたようです。
家に戻ったゴーディは厳しい現実にぶち当たりました。「なんてこった、今からどうしたらいいんだ? あの全ての樽を持って行く場所なんてないぞ!」。先ず彼はジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のところへ行きますが、「うちにはそんなスペースはないよ」と言われてしまいます。ゴーディは何とか約3分の1のバレルをジュリアン三世の倉庫で保管できるよう話を付け、それらは熟成を続けることになりました。その後、もともとゴーディにハーシュを紹介していた男であり、シンシナティでマイヤーズ・ワインを経営していたロバート・ゴッテスマンは、ウイスキーの保管を申し出ました。彼が謝礼として請うたのは、シェリーを熟成させるための空の樽を捨てないでおくことだけだったとか。恐らくそういった事情から、1989年5月27日にゴーディが入手した「在庫」は、すぐにハーシュ・リザーヴ15年としてボトリングされたのだと思われます。シェーファーズタウンからの最初の出荷分の樽は、1989年9月に直接ケンタッキー州ローレンスバーグにあるジュリアン三世の施設に到着し、15年熟成のバーボンは95.6プルーフで瓶詰めされました。最初のバッチは47ケース。こうして、栄えあるA.H.ハーシュ・リザーヴは正式に誕生しました。そのうち極く一部だけゴーディのコヴィントンの店舗で販売され、大部分は海外に出されます。

ゴーディはコルク・アンド・ボトルという小売業を営んでいましたが、その傍ら、1984年頃から長期熟成ウィスキーを日本やその他のインターナショナル・マーケットに輸出し、当時としては高価格で販売していました。アメリカのバーボン市場が低調だったため、ゴーディは経済が好調な場所に目を向けていたのです。彼がリリースした特別なボトリングは、もともと日本市場をターゲットにしていた、と後年のインタヴューで自ら語っています。それこそがハーシュから購入した長熟バーボンを使って彼がやろうとしていたことでした。
ゴーディは長期熟成バーボンで日本市場に参入した最初のエクスポーターではありませんでしたが、かなり早い段階から参入したと思います。それは甘いビジネスでした。 日本人は突如として長期熟成バーボンに恋に落ち、それに対して高額のドルを支払う用意がありました。しかし、長熟バーボンを所有していた殆どの人々はそれを安く売ろうと思っていました。なぜなら当時のアメリカ市場ではそんな物に誰も興味がなかったからです。そこに、仲買人が付け入るチャンスがありました。彼らは労せずして差額を手に入れることが出来ます。
日本人が求めたのはスコッチと同じくらい熟成させたバーボンでした。年数が長ければ長いほど理想的でしたが、少なくとも12〜15年は熟成させたものを望みました。往年のアメリカン・ウィスキーは一般的に4年〜8年で販売されています。なので順調に売れさえすれば、12年熟成以上のバーボンなどなくてもいい存在です。しかしアメリカのウィスキー産業は衰退の一途を辿り、実際には70年代に過剰に造られたウィスキーは80年代半ば頃にはかなりの「老齢」になっていました。それ故、バーボン全般および極端に熟成したバーボンに対し、突如として沸き起こった日本からの関心は、アメリカで苦しんでいたバーボン・メーカーが久々に聞いた朗報でした。アメリカン・カルチャーに対する日本人の評価が、彼の国の最も伝統的な製品の一つを復活させるのに役立ったのです。この件は現在のプレミアム・バーボンによるアメリカン・ウィスキー復興の源流の一つと考えられ、「バーボンの近代史」に於ける日本人が果たした功績として現代のバーボン史家から認められています。

ジュリアン・プロクター・ヴァン・ウィンクル三世はゴードン・ヒューとボトリング契約を交わし、1989年から1995年の間ローレンスバーグでブランド・オウナーのために1744ケースのA.H.ハーシュ・リザーヴを少量づつボトリングしました。 それは彼にとってただの契約ボトリングの作業に過ぎず、決してハーシュ・ブランドの共同事業という訳ではありませんでしたが、その存在は小さくはなかったでしょう。長期熟成のスペシャリストであり、何が適切かを知っている男でしたから、ウィスキーを味わい、おそらくプルーフィングなどのアドヴァイスはしたと想像します。
最初のハーシュ・リザーヴから数ヶ月後の12月には別の134ケースが同じ仕様でボトリングされました。1990年2月には340ケースが続きます。中身のウィスキーは1990年3月までに全て16年熟成となりましたが、おそらく新しいラベルの印刷を回避するため1991年4月までは引き続き15年表記のラベルが使用されました。ミクターズが閉鎖される1990年2月より前に、残っていたバレルは蒸留所のマスターディスティラーであったディック・ストールが積み込みを監督してシンシナティのワイナリーに出荷されています。 全てのバーボンが16年の熟成を迎えて間もなく、ジュリアン三世とゴーディ(或いはゴッテスマンも?)は、その状態が最良であると判断し、これ以上のエイジングを防止するため、約3000ガロンがワイナリーのステンレス・タンクに容れられました。これ以降ペンシルヴェニア・バーボンは二つの別個の流れでリリースされて行きます。一つはシンシナティにタンキングされた大部分を占める16年物。これはタンクローリーでローレンスバーグに運ばれて、定期的にボトリングされました。もう一つがジュリアン三世のローレンスバーグの倉庫で熟成され続けた250近い数とされる樽です。こちらは毎年、熟成年数を重ねてボトリングされて行きました。 
1991年4月、後にA.H.ハーシュ・リザーヴにとって象徴的な数字となる初めての16年物が瓶詰めされます。ジュリアン三世は数ヶ月ごとにゴーディからボトリングのオーダーを受けていて、4月は57ケース、11月には更に多い200ケースだったそうです。また、90年か91年あたりにはA.H.ハーシュとは違う幾つかのブランドで同じ原酒がボトリングされてもいました(前出のリスト参照)。
ジュリアン三世のローレンスバーグの倉庫に保管されていた最初のバッチの樽は、1991年と1992年11月に一部がダンプされ、それぞれ17年熟成の物が95.6プルーフ、18年熟成の物が93プルーフで少量ボトリングされました。92年12月には、タンクされた16年物を8ケース、多分91.6プルーフで。その後、16年物のバーボンは1993年7月には95.6プルーフでやや多めの300ケースが生産されました。93年の11月には今度は熟成樽の19年物が93プルーフで121ケース造られます。そして最終的に熟成樽は1994年12月から1995年4月の間にボトリングされ、91.6プルーフの20年物を500ケース産出しました。これはゴーディの最後の関与になります。

上の数字からも明らかなように、ハーシュ・リザーヴは順調に売れていたものの、飛ぶような売れ行きではありませんでした。日本の消費者は超熟バーボンが好きだったかも知れませんが、それはジムビームやアーリータイムズやI.W.ハーパーと同じ価格ではなく比較的高価でしたし、アメリカではまだバーボン・ブームは来ていません。それにゴーディはブランドの宣伝を殆どしていなかったと思われます。彼は優れた製品を持っていたとしても、小さな酒屋の経営者であり小規模なブローカーであり、大手酒類会社の幹部ではないのですから、ビジネス的にはそれが限界だったのでしょう。
A.H.ハーシュのウィスキーは大量にあったのでゴーディはどこでも積極的にボトルを売リ出していました。特に日本とヨーロッパに多く輸出されています。しかし、1990年代初頭のバブル期の終焉と共に日本経済は失速し、輸入業者は基本的にバーボンを買わなくなったか、或いは買う量を減らしました。それが理由とは思えませんが、彼は別のことに目を向けたようです。ゴーディによれば、ペンシルヴェニア1974原酒の元々の量は約10000ケース(※おそらくここでは1ケース6本で計算してると思われます)だったと言います。全ての支払いはかなり前に済んでいたので、彼はそれをゆっくりと販売することに完全に満足していました。そうしてゆっくりと価格が上がって行くのを気長に待てばいい、と。そして1995年、詳細は分かりませんが、ゴーディは家業と決別します。ウィスキーは様々な係争中の理由からコルク・アンド・ボトルに残りました。ゴーディではない他のヒュー家の人々は少しの間ブランドを運営し、最終的にA.H.ハーシュのブランドと在庫は南カリフォルニアのヘンリー・プライス率いるプライス・インポーツにまとめて売却されました。ただし、9本のA.H.ハーシュ・リザーヴや105本のヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴと14本のオールド・ハウス・バーボンは売却されず、ゴーディ言うところの彼の個人用貯蔵庫であるコルク・アンド・ボトルの地下室に保管されていました。ゴーディが関わったそれらのバーボンが地下でひっそりと息を潜めている間に、図らずも地上ではゆっくりと価格は上昇し、人知れず大金へと変化していたのが原因で(?)、後の2015年にゴーディとコルク・アンド・ボトルの間で所有権を巡る裁判になるのですが、それは別の話。
ゴーディはバーボンを試飲してどう造られているかを確認するのが好きでした。 そしてそれは彼の天職であり仕事の一部でした。少なくとも1975〜95年までは。バーボンを探す楽しみはあったけれど自分はスピリッツの大量消費者ではなかった、と彼は言います。ですが、強いて言うならメーカーズマークやバッファロートレースで製造されるW.L. ウェラーやヴァン・ウィンクルのラインナップのようなウィーテッド・マッシュビルのバーボンを好む傾向があり、彼の「生涯で今までに味わった最高のウィスキーは、1960年代から1970年代にかけてスティッツェル=ウェラーが蒸留したものでした」。現代の蒸留所であれば、特にその生産規模を考慮すると、バッファロートレースとフォアローゼズの二つが卓越していると評価しています。そんな伝説のバーボンの中心人物も、もはやスピリッツ・ビジネスに携わっていません。20年以上オハイオ・リヴァーの北側に住み、四人の子供を育てたゴーディは、近年ではシンシナティのウォルナット・ヒルズで「wineCRAFT」という高級ワインの輸入事業を営んでいます。「私は常にワイン・ビジネスに携わっていました。バーボンはちょっとした副業だったんです」。

2020-08-01-02-47-51
A.H.ハーシュ・リザーヴは、ヘンリー・プライスが購入した頃には、既にアメリカのウィスキー愛好家の間で非常に優れたバーボンとして評価を得ていました。 彼は自分が素晴らしいウィスキーを手にしたことを知っていましたが、その後の大流行までは予測していませんでした。
「我々はブランドを構築しましたが、もし我々がブランドの購入を控えていたらサゼラックが購入していたでしょう」とプライスは言います。サゼラックはジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世がこのブランドのボトリングを担当していたこともあり、A.H.ハーシュのことをよく知っていました。2002年、ジュリアン三世はバッファロートレースとの合弁事業を起こし、ローレンスバーグの作業場を閉鎖して事業をフランクフォートに移しています。この時期のどこかの段階でプライスは自らのポートフォリオにブランドを取り入れるために動きました。当時のプライス・インポーツのセールス・マネージャーのスティーヴがヒュー家に連絡を取り、A.H.ハーシュ・リザーヴの販売権を取得するようヘンリー・プライスを後押ししたのだとか。首尾よくハーシュ・ブランドを獲得したことで、シンシナティにタンクされていた残りのバーボンもまたバッファロートレースへ行きました。
2003年、ステンレス・タンクに12年間貯蔵されていたバーボンはボトルに入れられました。その数2500ケースとされ、それまでの全生産量の合計よりも多くなりました。小規模なプレミアム・ブランドを開発し、それらをアメリカのほぼ全ての市場へ戦略的に配布することで有名なヘンリー・プライスは、A.H.ハーシュでも同じようにアメリカ全土で販売し始めます。実はゴードン・ヒューが撤退した1995年からプライスが瓶詰めさせた2003年の間にA.H.ハーシュ・リザーヴが定期的に販売されていたのかよく分かりません。もし販売されていたとしても、おそらく量はあまり多くはないと思われます。それは兎も角、この時のラベルにフランクフォートとある16年熟成91.6プルーフのものが通称ゴールド・フォイルと呼ばれ、最も目にし易いA.H.ハーシュ・リザーヴとなっています。プライス・インポーツは3年間で約1500ケースを販売し、以前よりブランドの知名度は上がったことでしょう。ウィスキー業界の著名なライターが取り上げたり、愛好家コミュニティでの熱狂的な喧騒も益々広がりました。そのような雪だるま式に大きくなる評判や口コミの人気は制御できません。プライスにとっては正に夢のようなブランドでした。
残りの1000ケースの殆どが売れた2009年、プライスは最後に残った在庫を使って何か特別なことをしたいと考えました。デカンターへの再ボトリング。それが、彼がヨーロッパ式の700mlのボトルに詰められた残り僅かな在庫のために持っていたアイディアでした。「最後の在庫をヨーロッパに発送したくなかった」プライスは、バッファロートレースにお願いして最終的にボトルをダンプする同意を得、その後、全てをバーズタウンのウィレット(KBD)に運んで、自ら輸入したフランス製の手吹きクリスタル・ボトルに詰め直してもらいます。これが彼の「最後のビジョンであり、A.H.ハーシュ・リザーヴが占めていたアメリカの歴史の一断片への喝采でした」。

さて、アドルフ・ハーシュが契約蒸留したペンシルヴェニアのウィスキーは、その大きな評判の割には少量であるにも拘らず、全てを販売するのに約20年掛かっています。おそらく、これまで見てきた紆余曲折こそが、このウィスキーの最大にユニークなところだとは思いますが、勿論、中身も素晴らしかった。どのような神話や伝説でも、特別な味がしない限り、ウィスキーがこれほどまでにホットな商品になることはありません。では、何がそんなに良かったのでしょうか? 明確な答えなどないですが、判っている範囲で中身について触れておきたいと思います。
始めの概略で述べたように、A.H.ハーシュ・リザーヴとなった全てのバーボンウィスキーは1974年の春に蒸留されています。生産はエヴェレット・ビームの弟子に当たるディック・ストールによって監督されました。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーで、酵母はエヴェレットが持ち込んだビーム酵母。おそらく蒸留プルーフは115で、現代の基準よりやや低めです。これらはどれも標準的な仕様であり、大きな驚きはありません。ストール自身、ハーシュのために造ったバーボンは珍しくなかったと言っているそうです。と、なるとラベルに書かれている「Pot Stilled」こそが、その特別性の要因と思いたくなりますよね? 例えば、ほぼスコッチをメインに飲むウィスキー・ドリンカーなら、「これはアメリカン・ウィスキーに多いコラムスティルではなく、スコッチのシングルモルトのようなポットスティルを使用して製造されているからフレイヴァーフルで特別なんだ」という具合に。しかし、そうではありませんでした。
2020-07-30-17-17-13
アメリカの飲料用アルコールのラベルは全て政府機関の承認を受けなければなりませんが、規制されている言葉とそうでない言葉があります。「ウィスキー」や「バーボン」や「ストレート」という用語はどれも規制されています。一方「リザーヴ」や「サワーマッシュ」は規制の対象ではなく、そして「ポットスティル」も規制された用語ではありません。規制されていないということは、真実である必要がないことを意味します。とは言え、全くのデタラメという訳でもなく、A.H.ハーシュ・リザーヴのラベルに「ポットスティル」とあるのは、ミクターズがラベルにポットスティルをフィーチャーしてマーケティングしていたのを受け継いでいるからです。ミクターズ蒸留所では第一蒸留を比較的小さめのコラムスティルで実行した後、第二蒸留をポットスティル・ダブラーで行いました。このダブラーのことをポットスティルと呼ぶのは業界では慣行であり、決して間違いではないのですが、ミクターズはそれを強調してマーケティングに活用したのです。ダブル・ディスティレーションは殆どのアメリカン・ウィスキー蒸留所が当時および現在でも実践し、100年以上に渡ってバーボンを製造して来た方法です。つまり、ミクターズは他の蒸留所と製造面で甚だしい違いはないということ。だから、ここで言う「ポットスティル」もA.H.ハーシュ・リザーヴの卓越性を説明するものではないのです。
通常、長期熟成古酒はウッディ過ぎる嫌いがありますが、A.H.ハーシュ・リザーヴはその極端な熟成期間にも拘らず、あまりウッディではないとされます。寧ろ、力強くありながらエレガントな素晴らしいバランスと評されるほど。その要因は、一説にはペンシルヴェニアの天候だったかも知れないと言います。同地では70年代半ばに冬の寒さが長く続いたそうですし、多分ケンタッキーより基本的に涼しかった? まあ、謎は謎のまま残したほうが神話や伝説には箔が付きますが、少なくとも、ペンシルヴェニア州で製造されそこで主に熟成し、オハイオ南部またはケンタッキー州に運ばれて更なる眠りに就いたこのバーボンの旅する人生は、製品に何らかの影響を与えた可能性は十分あるでしょう。A.H.ハーシュ・リザーヴについて確かなのは、よくあるケンタッキー・バーボンとは完全に異なる独創性をもち、ウィスキー通の意見では素晴らしいバーボンだったということ、それだけです。
ちなみに、ハーシュ・リザーヴ16年のロット違いを飲み比べた人によると、後年のロットより初期のロットの方が美味しいとする意見が散見されます。これはおそらく酸化の問題だろうと考えられています。ハーシュ・リザーヴの最後のボトリングは10年以上ステンレス・タンクで保管されていたので、幾ら熟成は進まないとは言え、多少の酸化はあったのかも知れません。ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は、ステンレス・タンクでの貯蔵は不活性と考えられているが、彼はそれをもっと不活性にしたいと仄めかしたとか。ウィスキーは空気に触れると常に変化する生き物ですからね…。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

PhotoGrid_Plus_1595637254984
(画像提供Bar FIVE様)

IMG_20200731_161454_230
A.H. Hirsch 16 Years 91.6 Proof
推定1991年ボトリング。キャラメル、ナッツ、多様なハーブ、ちょっと薬っぽい味も。かなり複雑なフレイヴァー。口当たりと飲み心地はスムーズで、長熟にありがちな渋味や苦味はあまり感じない。
Rating:89.5/100

Value:これは「あなたの懐具合」によります。バーボンのボトル一本に対し30万円を支払えるなら、躊躇なく買うことをオススメします。また、バーで見かけたら多少高くても飲んでおいた方がいいでしょう。ですが、ぶっちゃけ普段ジムビームやジャックダニエルズやアーリータイムズしか飲まない人が飲んでも美味しいと感じられない可能性は高いです。その週に飲んだバーボンの中で最高のものでさえなかった、と言う人までいます。私にとっても最高のバーボンではありませんでした。しかし、味は関係ありません。これは物語のために買うバーボンです。ストーリーや背景や価格は味を変えることはないかも知れませんが、それらは神秘性を高めると同時に何かしらの評価軸を与えてくれます。そして経験として飲むことは悪いことではない。それがオススメする最大の理由です。とは言え、無理してえげつない身銭を切ってまで飲むことは勧めません。今、あなたが無理なく飲めるバーボンは、伝説はなくとも素晴らしいバーボンなのですから。


*この数字を倍の800樽とする情報もありました。こちらの数字を信じる場合、最終的にハーシュの所有した樽の数量は766樽となります。申し訳ないのですが、私にはどちらが信用できる数か判断できません。また、これ以降の本記事における数量に関する数値は、参考にした情報元が一つではなく複数であるため、混乱している可能性があります。そこを考慮して見て下さい。

**プライス・インポーツの名は、ヘンリー・プライスと彼の娘のニコールによって2012年11月に新たに設立されたHPSエピキュリアンが、2016年に再び所有権を取得し復活しています。

***製品意図として敢えてスウィートマッシュ製法を採用している物を除けば、無記載の場合は全てサワーマッシュと思っていいでしょう。

****財政上の問題に直面して、元々の所有権は2014年に売却されました。コヴィントンの店舗は閉鎖され、現在はクレセント・スプリングスのバターミルク・パイクで営業しています。

IMG_20200529_165612_864

オールド・クェーカー(*)はシェンリーの代表的なブランドの一つでした。それはインディアナ州ローレンスバーグにあったプラントがオールド・クェーカー蒸留所と名付けられていたことからも明らかでしょう。ルイス・"ルー"・ローゼンスティールの率いたシェンリーは、禁酒法の後、比較的安価なウィスキーのラインでオールド・クェーカー名を使いヒットさせました。「クェーカー・オーツ」や「クェーカー・ステート」のようなシリアルからオイルまで、「クェーカー」はその製品の純度と誠実さ(無垢と清廉のイメージ)を伝えるために長い間使用されて来ましたが、実際のクエーカー教徒(ソサエティ・オブ・フレンズ)はそれらの宣伝から何も得ていないと言います。1939年にタイム・マガジンは、クェーカーは一般的に飲酒しないと想定されているので、ソサエティ・オブ・フレンズは特にオールド・クェーカー・ウィスキーに気分を害されているとリポートしたとか。このブランドはやがて不人気となり、最終的に製造中止、蒸留所は1980年代に閉鎖されます。ボトリング施設は1990年代まで独立した所有者のもとで操業を続けていました。そんなオールド・クェーカーですが、これはシェンリーが創始したブランドではありません。禁酒法以前にイリノイ州ピオリアで生まれたブランドでした。

2020-04-11-16-50-21
クェーカー・ドレスを着た男性、穀物の束、モルトと書かれたサック(袋)、三つの樽などが描かれたインパクトのあるラベルのオールド・クェーカーは、コーニング・アンド・カンパニーの主要なブランドでした。会社の社長フランクリン・コーニングはピオリアを統治した偉大な「ウィスキー・バロン」の一人と見られています。フランクリンは自身の蒸留所が5年あまりの間に連続して三度の大災害に見舞われました。火事の危険性は蒸留所では常に存在する脅威でしたが、後にも先にもアメリカの蒸留業者がこれほど「炎の激流」による死と破壊に直面したことはありません。しかしそれにめげることなく、彼のウィスキー造りを続ける決意は決して揺るぎませんでした。

1851年に生まれたフランクリン・トレイシー・コーニングはオハイオ州に深く根を下ろした家族の一員でした。彼の祖父は1813年頃、ニューハンプシャーからオハイオ北部へ6頭チームの屋根付き馬車で移住しました。草分け的な開拓者として重きをなしたカーネル・コーニングは事業を成功させ、子孫と共に富を築き、そのうちの何人かは蒸留業に携わっていたようです。フランクリンは裕福な実業家の父によって建てられたクリーヴランドの邸宅で育ち、兄のウォーレン・ホームズ・コーニングは父親と共同で酒類事業に参入していました。1870年の国勢調査では、ウォーレンは酒類卸売業者としてリストされ、 19歳のフランクリンはその店員として雇われていたらしい。この間、父親はコーニング・アンド・カンパニーの事業を拡大していました。クリーヴランドは原材料の入手先である大規模な穀物ベルトから離れていたため、イリノイ州ピオリアにウォーレンをマネージャーとして支店が設立されます。しかし、ウォーレンは運営を指揮しつつもクリーヴランドに住み続けました。どうやら彼はこのアレンジメントで管理するのが難しいと判断したようで、フランクリンをピオリアに派遣して家族の利益となる経営を任せます。それまでの間に若きフランクリンは、友人や家族に「ファニー」と呼ばれていたフランシス・デフォレストと結婚していました。1875年5月、彼が24歳で彼女は21歳の時です。彼らはおそらく1880年頃、ピオリアの新しい環境に落ち着きました。後のどこかの段階で弟のチャールズも蒸留業に参加したと思われます。こうしてピオリアは彼らの活動の中心となって行きました。

コーニング・アンド・カンパニーは当初、評判の良いレクティファイング・ハウスとして始まったと言われています。つまり、他の場所で入手したウィスキーをブレンディングし、所望の味と色に整えて販売する、今で言うところのNDP(非蒸留業者)です。そして後に蒸留所となった、と。
コーニング・ファミリーの初期投資は、ピオリアのモナーク蒸留所と呼ばれる既存のプラントにあったようです。モナークは1879年にジョン・H・フランシスと、ジョンもしくはジョージ・キッドのどちらかによって建てられたとされ、後にウィスキー・トラストのユニットとなり、トラストの解散から形成された事業体の一つアメリカン・スピリッツ・マニュファクチャリング・カンパニーの一部のモナーク・ディスティリング・カンパニーとなりました。蒸留所は1908年頃(もしくは1905年説も)に閉鎖されたと見られます。ちなみに、1887年頃ウォーレンはモナーク・ディスティリング・カンパニーを売却し蒸留業界から引退した、との情報もありました。

ピオリアでの活動を始めたほぼ同時期に、コーニング社はオールド・クェーカーをライ・ウィスキーのブランド名として採用します。その名は1878年から使用されていたと言われますが、最終的には1894年に商標登録されました。コーニング社は時が経つにつれオールド・クェーカー以外にも様々なブランド名でウィスキーやスピリッツを生産するようになり、それらには「ビッグ・ホロウ・サワー・マッシュ」、「チャンセラー」、「コーニングズ・カナディアン・タイプ」、「コロネット・ドライ・ジン」、「フェアローン・バーボン」、「ハンプトン・ライ」、「ハヴィランド・ライ」、「リー・ニュートンズ」、「モナーク・ミルズ・ライ」、「マウンテン・コーン」、「レッドクリフ・ライ」等があったようです。
2020-05-12-18-07-18
2020-05-10-22-43-38


1899年、フランクリンは44歳の妻の早過ぎる死に立ち会います。その死を悼みながらも、彼は僅か数か月後にモナーク施設に隣接した蒸留所の建設を決めました。新しい工場にはコーニングの名前が付けられます。日に6000ブッシェルの穀物を処理する能力があり、メイン・ビルディングのマッシュをクッキングするためのスチール・タンクは巨大でした。しかし、そんな新しい蒸留所に、1903年10月、初めの不幸が訪れます。七人の作業員が死亡する爆発が起こったのです。災害の原因はクッカーに生じた真空であると推定され、 クッカー・ルームにいた二人は爆発で即死、他の三人は蒸気で酷い火傷を負い、救急車の中もしくは搬送された病院で死亡しました。行方不明になっていた残り二人(イースト製造者と連邦政府が管理する保税倉庫のストアキーパー)を捜索するため、何千人もの人々がすぐに現場に駆けつけましたが、建物の残骸が著しく作業は難航し、瓦礫の中で発見された時には彼らは死んでいました。何しろ爆発したタンクは建物の北側の壁を突き破り、250フィート離れた場所に落下したと言います。蒸留所の北壁全面は吹き飛ばされ、レンガや何やらの破片は蒸留所全体に飛び散り、他の壁も大きな被害を受けました。被害額は当時の7万5千ドル、現在のほぼ200万ドルに相当するとか。フランクリンは死者と壊滅した施設に心穏やかではなかったでしょう。しかしそれでも、爆発による火災は発生せず、他の建物は無傷だったため、数か月でメインの蒸留所を再建できました。1904年の春までには、コーニング・アンド・カンパニーはイリノイ・リヴァー沿いの世界で二番目に大きいと見做なされていた蒸留所を再びフル稼働させます。各自全力を尽くす作業員、煙突から立ち昇る煙や濃厚なウィスキーの匂い、ストックヤードのスペント・マッシュを食む牛、そういった蒸留所の日常は戻りました。しかし…。
 
1904年6月の暖かい或る日の午後、コーニング蒸留所に二度目の災害が発生しました。約30000バレルの熟成ウィスキーを収容したウェアハウスBから制御不能の炎が噴き出したのです。火災は倉庫内の爆発にも影響を与え、11階建ての建物は完全に崩壊しました。消防士が到着した時、彼らはすぐに燃えている建物を救うことが出来ないと気付き、炎が更に広がるのを防ぐよう努めるのが精一杯でした。炎は急速に広がって数ヶ月前に完成した周囲の建物も燃やし、火の洪水がストックヤードにも達したことで畜舎にいた三千頭の牛が煙で窒息死したと云います。今回の災害では、別のピオリアの蒸留所であるクラーク蒸留所から友人を訪ねていた一人を含む15人の男性が命を落としました。
火災はコーニング蒸留所の施設内に収まってはいましたが、三千頭の死んだ牛の死体を処分する際に重大な健康問題に直面しました。公衆衛生上の危険を引き起こさずにそれらを処分する方法を見つけることが出来なかったため、当局は死骸の上にフェノール製剤を注いで燃やしたのです。結果として生じる悪臭は非常に激しく、多くの人が牛舎での作業を拒否し後始末を遅らせました。
フランクリンは災害の発生時、仕事でニューヨークにいましたが、数日後にはピオリアに戻ります。そして残骸を調査したところ、彼はこれはアメリカの蒸留産業の歴史の中で最も高価な火災であるとし、被害額を100万ドル(現在の2500万ドル相当)と申告しました。災害の原因は物議を醸します。報道ではウェアハウスBでの爆発が原因とされていましたが、保険会社の評価担当者はすぐにその話を「信頼性がない」し「誤った」見解であると発表しました。彼らは大火事の原因を作業員のランタンのせいにしたかったようです。ウィスキーの樽は取り分け夏場の間に熱で膨張した時に漏れ易く、一人の従業員がウィスキーの漏れを探してラックを巡回していました。そこでランタンを持っていたこの作業員の不注意が液体に火を着けたと推測されたのですが、彼は死者の一人なので取り調べをすることは出来ず、結局、何が火災の原因かは特定されませんでした。欠陥のあるランタンが原因ではないかと推測する人もいました。それはともかく、フランクリンはここ八ヶ月の間に22人もの労働者が亡くなり精神的に参っていたことでしょう。とは言え、彼の心は折れません。すぐに再建計画を発表し、一年もしないうちにまたもや蒸留所をフル稼働させたのです。

2020-05-10-22-46-16

しかし、フランクリンのそのような努力にも拘わらず、火事を防止することは出来ませんでした。三度目の災害は1908年4月3日に起こります。6階建てのミル・ビルディングの4階で火事が発生し、隣接するエレヴェイターや動力室、製樽部屋に広がり、125000ガロンのウィスキーを収容していた8階建ての塔を巻き込む危険性がありました。今回はフランクリンが現場にいて、スピリッツを塔から引き出して蒸留工程で使用されるヴァットに入れるよう急いで指示を出しました。液体はすぐに近くの蒸留所(モナーク?)にパイプで送られ、そこで再蒸留されて後に販売されたと言います。そのおかげで被害額は当初の推定75万ドル(1800万ドル相当)から18万7千ドル(470万ドル相当)に大幅削減されました。そして何より、以前の災害とは違い、今回は人命が失われずに済んだのは不幸中の幸いでした。
フランクリンはこの度の被害も迅速に修復し、依然としてピオリアのウィスキー・バロンと認められ続けます。ピオリアのウィスキー・バロンで最も有名なのは同地で結成された「ウィスキー・トラスト」の社長ジョセフ・ベネディクト・グリーンハットでしょうが、フランクリンもまた独占的なウィスキー・トラストへの加盟を拒否するだけの「身分」をもった重要人物でした。トラストへの加入を拒否した他の蒸留所が圧力や暴力に遭う中、フランクリンの威信は自分自身と自らの蒸留所を争いから遠ざけていたのです。しかし、運命の悪戯か幾度も災害は起こりました。繰り返えされる蒸留所の災害に疲れ知らずに堪え忍び、粘り強くその度毎に施設をより大きくより良く再建したフランクリン・トレイシー・コーニングは、ウィスキー業界の巨人の中でも特に精神的強度と決断力を持った人物として記憶を留めるに値するでしょう。

アメリカに禁酒法の足音が聴こえてきた頃、フランクリンは「ウィスキー時代」の終焉が近づいていることに気づいたに違いありません。と同時に、彼は自分自身の死をも予感していたのでしょうか、妻ファニーが眠るスプリングデール墓地に今日ではピオリアの歴史的記念碑に数えられる印象的な霊廟を建てました。1915年に彼が66歳で亡くなるとそこに葬られました。大規模な構造にも拘わらず、そこは夫婦と他の一人(おそらくフランクリンの叔母)だけが占有しているそうです。
コーニング・アンド・カンパニーはフランクリンの死後も、蒸留所の拡大に伴いピオリアで彼に加わっていた他のコーニング家のメンバーによって存続し、1919年まで施設を運営しましたが、禁酒法が到来するとプラントは二度と再開することはありませんでした。けれども、コーニング蒸留所のボンデッド・ウェアハウスNo. 22は集中倉庫の一つとして用いられ、オールド・クェーカーのブランドも禁酒法下のメディシナル・パイントで使われています。ネットで調べる限り「RYE」と「BOURBON」、詳細は分かりませんがフライシュマンが関わっていたらしい「WHISKEY」がありました。
PhotoGrid_1590685503072

オールド・クェーカーの名称を取得していたシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションは、禁酒法廃止後にブランドを華々しく復活させます。シェンリーは新しいその主要ブランドを造るために、インディアナ州ローレンスバーグにあった二つの古い蒸留所を購入し、オールド・クェーカーの名の下にそれらを合併しました。禁酒法が終了した直後、シンシナティからちょうど西に位置するグリーンデール~ローレンスバーグ周辺にはウィスキーを製造する四つの蒸留所がありました。一つはオープンして間もなく閉鎖、一つはシーグラムが所有、残る二つがシェンリーによって合併されたのです。

svg
(wikipediaより。オレンジがインディアナ州ディアボーン郡、レッドがローレンスバーグ。)

_20200519_180213

ウィスキーに於いて近接するケンタッキー州ほど有名ではありませんが、インディアナ州には1800年代半ばから1900年代初頭にかけて多くの蒸留所があり、その品質の良さから地域的にも全国的にも高い評価を得ていました。インディアナの蒸留の歴史は、1809年にダンとラドロウという名前の二人がタナーズ・クリークとオハイオ・リヴァーの合流点に蒸留所を建設した時に始まります。最初に造られたマッシュビルは一頭の盲目の馬を動力源とするグリスト・ ミルで挽かれ、この粗末な穀物の粉砕方法では週に2バレルのウィスキーしか製造できませんでした。記録によると、彼らは500ガロンのウィスキーを1ガロンあたり0.25ドルの価格でニューオリンズに出荷していたそうです。
1802年、キャプテン・サミュエル・コルヴィル・ヴァンス(1770~1830)によって創設されたローレンスバーグは、彼の妻の旧姓ローレンスにちなんで名付けられました(初めは「Lawrenceburgh」と綴られていたが、いつしか「h」が脱落した)。ローレンスバーグ周辺が後にウィスキー・シティとなった理由は大きく二つ。一つは水です。グリーンデール~ローレンスバーグの蒸留所は帯水層の上に建ち、硫黄と鉄分が少なくカルシウムの多い石灰岩で濾過されたウィスキー造りに最適な水の継続的な供給源を備えていました。もう一つは州境となるオハイオ・リヴァーのすぐ傍らに位置していたこと。ニューオリンズへの交易ルートに近いことは、ウィスキーを売るのに適した場所であることを意味しました。こうした理想的な地理環境だったローレンスバーグに蒸留所が増えるのは必然だったのです。
ダン&ラドロウに続いたのは、1821年にペイジ・チークの土地にあるウィルソン・クリークに設立されたハリス・フィッチ・アンド・カンパニーでした。設立から数年の間は大きな取引がなかったそうですが、後年、非常に広範囲に成長し、その品質と量とでローレンスバーグに世界的な評価を齎したとか。1836年には、アメザイア・P・ホッブスが一日あたり600ブッシェルのマッシング能力を備えた蒸気動力による最初の蒸留所を建設します。この蒸留所は1839年に火災で損壊、その時はホッブス&クラフトによって再建されましたが、1850年に再び火災で焼失し再建されることはありませんでした。
実業家のジョン・H・ガフと兄のトーマスは、1843年、ホーガン・クリークの畔にあるオーロラのダウンタウンにT.&J. W. ガフ&カンパニー蒸留所を建設し、全国的なビジネスに発展させました。この場所はメカニック・ストリートの足元にあたり、現存する建物は今ではグレート・クレセント・ブリュワリーというクラフト・ビールの醸造所となっています。ちなみに上からトーマス、ジェイムズ、ジョンのガフ兄弟は、並外れた規模のビジネス帝国を築き上げ、蒸留業からの収益に基づいて設立された彼らの企業は、ビール醸造所、ミシシッピ川とオハイオ川を結ぶ蒸気船、インディアナの穀物と豚の農場、ルイジアナのプランテーション、ネバダの銀山、ターンパイクの建設、鉄道融資、銀行業など多岐に渡りました。ジェイムズはシンシナティで親しくなったフライシュマンとパートナーシップを組み、イースト製造とジンの蒸留で成功しています。
1847年には、後にローレンスバーグで最も重要となる蒸留所が開業します。ジョージ・ロス、アントニー・スウォーツ、ギド・レナーが建てたロスヴィル蒸留所です。そう、現MGPとして知られ、今日でもローレンスバーグでウィスキーを生産している唯一の施設です。ロスの死後、幾人もの経営者に引き継がれ、1875年(1877年という説も)にシンシナティを本拠地とするジェイムズ・ウォルシュ&カンパニーが買収した折り、完全に再建され、おそらく郡内で最も優れた蒸留所となりました。大きな倉庫と全ての建物は最高のレンガ造り、機械類は最新の改良を施され、当時は日に2100ブッシェルの穀物をマッシングする能力があり、倉庫には25000のバレルを貯蔵出来たとされます。1902年(或いは1906年とも)頃には日に5000ブッシェルのマッシング、倉庫には60000バレルの貯蔵スペースに拡大していたようです。そして1932年に火事でプラントの多くは損壊し、1933年にジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ・カンパニーがこのサイトを買収しました。
1875年、コズモス・フレデリックはハイワイン(**)とバーボンウィスキーの製造を目的として敷地を購入し、グリーンデールのリッジ・アベニューに面した蒸留所を建てました。彼はそれを一年か二年後、ニコラス・オースターに売り払ったようです。一日あたり400ブッシェルの穀物をマッシングし、1600ガロンのスピリッツを生産するキャパシティがあったそう。タナーズ・クリークの橋の近くには、1880年にフレデリック・ローデンバーグによって約15000ドルの費用で設立された蒸留所がありました。従業員は8人で、一日に310ブッシェルの穀物をマッシングする能力があり、やはりハイワインやバーボンウィスキーが蒸留されていたそうです。
こうした面々の活躍により、1880年頃には、ローレンスバーグのあるディアボーン郡では20近い蒸留所が運営されていたと言います。当時は正にウィスキー・シティに相応しい活況を呈していたことでしょう。

さて、シェンリーがオールド・クェーカーの名を付け改良した施設は、フージャー・ステイト(インディアナ州のこと)に縁の深いスクィブ家が関わっていました。彼らの仕事は禁酒法によって終わりを告げるまで50年以上に渡り続けられていたのです。
ウィリアム・P・スクィブは1931年にインディアナ州ディアボーン郡オーロラ近くで生まれ、そこで育ち、教育を受けました。南北戦争では北軍に入隊したそうですが、兵役に就いた証拠はないと言います。彼はオーロラでメアリー・フランシス・プラマーと出会い、結婚し、10人の子供(4人の女の子と6人の男の子)を儲けました。若い頃のウィリアムはオーロラで食品や酒類を扱う商いをしていたようです。そして1846年、弟のジョージと共にオーロラに小さな蒸留所を開きました。
その後、スクィブ家は5マイル向こうのローレンスバーグへ進出します。おそらくこの時、ファンタスティックな名前のコズモス・フレデリックが仲間に加わりました。彼はウィリアムとジョージのスクィブとパートナーシップを結び、1868年に敷地を購入すると、バーボンウィスキーとハイワインを蒸留する目的の新しい蒸留所をメイン・ストリート近くのセカンド・ストリートに建設し、1869年1月に操業を開始しました。彼らの工場は一日300ブッシェルの穀物をマッシング出来たとか、或いは一日5バレルを製造したとされます。
1871年9月1日、コズモスは持株をスクィブ兄弟に売却し、ニコラス・オースターと共に新たな蒸留所を設立しました。その頃、スクィブ兄弟はビルディングの拡張とその容量を拡大し、1日あたり330ブッシェルのマッシング能力、1260ガロンのスピリッツを生産、倉庫はレンガ造りで耐火性だったそう。同社の商品の主な販売先はシンシナティ、ルイヴィル、セントルイスで、会社のメンバーはアクティヴなビジネスマンであり、その迅速性と信頼性はビジネス界で知られていたとか。
スクィブ家は南北戦争後の「インダストリーの新時代」の恩恵を受けていました。インディアナ州は前例のない成長の中心にあり、19世紀末までに全米の製造業のトップ10に入っていたと言います。この成長に欠かせなかったのは州を横断する鉄道でした。鉄道は、蒸留に必要な穀物やその他の物資を運び、そして完成した品物を幅広い地域へ流通させました。スクィブ兄弟の事業は年々成長を続け、と同時に彼らのウィスキーの品質の高さも口コミで広まりました。1885年にはコンティニュアス・スティルを建設、これはおそらくインディアナ州で初めての連続式蒸留器の使用と見られています。また必要に応じて政府監督下の保税倉庫も追加したそう。
スクィブ社の扱った銘柄には、1906年に商標登録されたものに「ディアボーン・ミルズ・ウィスキー」、「ロック・キャッスル・ライ」、「チムニー・コーナー」、「グリーンデール・ウィスキー」があり、その後1910年に商標登録された「ゴールドリーフ・ライ」等がありました。
ウィリアムとジョージは共に協力して長きに渡って蒸留所を上手く運営しました。その間、ウィリアムの息子たちも事業に携わり、経営や販売などの様々な役割を担っていました。創設者の二人はどちらも1913年に亡くなり、ウィリアムは享年82歳、ローレンスバーグ近くのグリーンデール・セメタリーに埋葬されたそうです。
創設者の死により、スクィブ社は「新世代」に委ねられます。子供達のうち息子の四人といとこの一人が事業を引き継ぎ、1914年、同じ場所に新しい蒸留所を建設しました。彼らは禁酒法によって蒸留所の生産を終了せざるを得なくなるまで事業を続けました。禁止期間中、スクィブ家は他のビジネスの道に進んだと言います。また、彼らは解禁後の1937年から1949年までインディアナ州ヴィンセンズの廃業したイーグル醸造所を使用してボトリング?か何かのビジネスをやっていたようですが、詳細は分かりません。それは措いて、スクィブ家は南北戦争後から半世紀以上もの間、事業の繁栄を持続させたことでインディアナ州にその商才を轟かせました。彼らが造った良質なウィスキーは、彼らをローレンスバーグ・コミュニティの市民として尊敬され得る立場にしたのです。

2020-05-05-20-00-35
禁酒法が終了する直前、シェンリーはローレンスバーグ工場を買収し、ケンタッキー州フランクフォートやレキシントン、カリフォルニア州フレズノやその他の施設と共にコングロマリットに導入しました。そして購入後に工場を再建して、そこをオールド・クェーカー・ディスティリングとしました。1936年には、他のシェンリー・ウィスキーを蒸留するための新しい建物も追加されます。オリジナルのプラントは日産約700バレル、新プラントは約500バレルだったとか。熟成庫は温度調節が出来ました。当時のプラント・マネージャーはロバート・ナンツです。ちなみにローレンスバーグ工場は後の第二次世界大戦中にペニシリンの製造に使用されました。

ところで、ここまで禁酒法以前のウィスキー研究家のブログ記事や、ディアボーン郡およびローレンスバーグ/グリーンデールの歴史書、またはトリップ・ガイド等から情報を取り込んで書き進めて来ましたが、少し疑問があります。古い事柄を調べる時にありがちな事なのですが、知りたい肝心のことが書かれてなかったり、参考にする情報源によって微妙な違いがあって辻褄が合わなくなったりするのです。先に書いた文章ですが、例えばこれ。
「シェンリーは(略)インディアナ州ローレンスバーグにあった二つの古い蒸留所を購入し、オールド・クェーカーの名の下にそれらを合併しました。禁酒法が終了した直後、シンシナティからちょうど西に位置するグリーンデール~ローレンスバーグ周辺にはウィスキーを製造する四つの蒸留所がありました。一つはオープンして間もなく閉鎖、一つはシーグラムが所有、残る二つがシェンリーによって合併されたのです。」
この段落は有名なバーボン・ライターの記事を元にして書いたのですが、ここで言われているすぐに閉鎖した蒸留所というのは、おそらくジェイムズ・ウォルシュ&カンパニー蒸留所のことだと思われます。この蒸留所はオールド・クェーカー蒸留所の4ブロック西にあり、ジェイムズ・ウォルシュの名前は有名で古くからあったのですが、禁酒法解禁後の1934年にオショネシー兄弟によって建てられたローレンスバーグで最も小さい蒸留所でした。で、シーグラム所有というのは現MGPのロスヴィル蒸留所のことです。そしてシェンリーが購入した一つは、言うまでもなくW. P. スクィブ蒸留所ですよね。じゃあ、もう一つは何なの? これが疑問なのです。この件に関してはいくら調べても確かな情報が見つからないので、私の憶測なのですが、多分もう一つの蒸留所は、グリーンデール・ディスティリング・カンパニーのプラントだったのではないかと思います。実はスクィブの蒸留所は禁酒法が始まって初期の頃、あの伝説のブートレガー、ジョージ・リーマスの所有下にありました。弁護士として大金を稼いでいたリーマスは、禁酒法によって市場価値が大幅に低下していた蒸留所を安価に買収することが出来たのです。彼の買収した14の蒸留所のうちインディアナの二つがスクィブ蒸留所とグリーンデール蒸留所でした。だから、なんとなくこの二つがセットでシェンリーに流れたのではないかと…。いや、グリーンデール・ディスティリング・カンパニーのプラントがロスヴィル蒸留所に隣接した位置にあったのは確かなのです。そしてシェンリーのオールド・クェーカーのプラントもロスヴィル蒸留所のすぐ北の位置、現在シェンリー・プレイスと呼ばれる場所にありました。上の文の「二つがシェンリーによって合併された」の「合併された」は「merged」の訳ですから、意味は「combine」もしくは「join together」であり、別個だった施設をくっ付けたと解釈していいのなら、二つの蒸留所は隣接している必要があります。
こうなってくると、スクィブ蒸留所の所在地が問題になって来ます。私も採用した一方の情報では、1869年1月に操業を開始した蒸留所はローレンスバーグのメイン・ストリート近くのセカンド・ストリートにあり、創設者の死によりスクィブ社が息子達に引き継がれた後の1914年、同じ場所に新しい蒸留所を建設した、とあるのです。これだとシェンリー・プレイスとは少し離れています。だから、もしかするとこの新しい蒸留所を建てた時にグリーンデールのブラウン・ストリート近くに移転したのではないでしょうか? 或いはその一方で、1968年竣工の蒸留所はグリーンデールに建てられたとする情報もありましたので、初めからブラウン・ストリート近くに建てられていたのかも知れません。まあ、判らないことは措いておきましょう。
ちなみに紛らわしいのは、グリーンデールがローレンスバーグの一部と一般的に考えられていることです。それ故、オールド・クェーカー(または他のシェンリー・ウィスキー)のラベルには「ローレンスバーグ」と記載されます。現MGPのロスヴィル蒸留所もローレンスバーグにありますが、実際施設の半分はグリーンデールに属しています。

2020-04-11-16-47-06
(1938年の広告)
2020-05-16-11-45-03
薬用ウィスキー事業で優位を確立していたシェンリーは、禁酒法が終了すると一気に幸先の良いスタートを切り、25%のシェアを握るマーケット・リーダーになりました。そうした中でオールド・クェーカーは比較的安価な主要ブランドの地位を確立したと言えるでしょう。オールド・クェーカーのキャッチコピーは「リッチ(豊潤)なウィスキーを楽しむために、リッチ(大金持ち)である必要はありません」でした。
おそらく禁酒法の影響によるストックの欠如から、ブランド再導入時の初期パイント・ボトルの頃は18ヶ月、2年、3年熟成などがあり、後に4年熟成と段階的に熟成年数を増やしたと思われます。ボトリングは当初は90プルーフでした。それがいつの頃からか4年熟成86プルーフに落ち着いたようです。5年熟成の物もありました。またブランドにはライとジンもありました。1940年代初頭にはちょっと高級?なオールド・クェーカー・スペシャル・リザーヴも発売されています。当時のLIFE誌に掲載された記事によると4年熟成86プルーフでバーボンとライがあると書かれていました(後に5年熟成もあった)。となるとスペックは通常のオールド・クェーカーと同じなので、バレル・セレクトによる違いでしょうか? それともマッシュビルに違いがあったのでしょうか? まあ、そもそも通常のオールド・クェーカーのマッシュビルだって不明ですけれども。それと年式が全く判らないのですが(とは言え明らかに30~40年代ではない)、ボトリングがペンシルヴェニア州アラディン表記のラベルの物がありました。アラディンはアームストロング郡ギルピン・タウンシップのシェンリーすぐ隣なので、そこにボトリング施設があったのでしょうか? 詳細ご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。(※また「ケンタッキー」表記のオールド・クェーカーについてコメントよりご指摘いただきました。宜しければそちらもご参照ください。)
2020-05-29-17-39-54
それは偖て措き、オールド・クェーカー・ブランドはアメリカでバーボンの需要が落ち込んだ70年代はなんとか切り抜けましたが、冒頭に述べたように、80年代には製造を中止されたと思われます。これはブランドの問題であるよりは、業界全体の問題だったでしょう。30年代から60年代にかけて、バーボンはインディアナだけでなく、イリノイ、オハイオ、ペンシルヴェニア、ヴァージニア、ミズーリなど、ケンタッキー以外の多くの州で造られていましたが、70年代から80年代にかけて業界が縮小すると、ケンタッキー州以外の生産者の殆どは蒸留所を閉鎖してしまいました。オールド・クェーカーもそうした流れと無関係ではない筈です。一時この工場は226エーカーの土地に92棟の建物で構成され、1988年9月に操業が終了するまでディアボーン郡で4番目に大きな雇用主でした。禁酒主義のクェーカー教徒には申し訳ないですが、古きを想わせる美しいデザインのオールド・クェーカー・ラベルがなくなってしまったのは残念という他ありません。そう言えば、ラベルにフィーチャーされている男性は一体誰なのでしょう? ペンシルヴェニアの建設者でクエーカーのウィリアム・ペンに似ているように見えるのですが…。単にクェーカーの装束だからそう見えるだけですかね? これまた誰か知っている方はコメントよりお知らせ下さい。では最後に飲んだ感想を少々。

2020-05-29-16-23-33
OLD QUAKER 4 years old 86 Proof
推定70年代前半ボトリング。際立って甘くはなく、ほんのりスパイシーで円やか。正直言うとあまり印象に残らないバーボンでした。驚くほど旨い訳でもないが、普通に美味しいオールド・バーボンという感じ。
Rating:83/100


*日本では「クェーカー」は「クエーカー」と表記されるのが主流のようですが、実際の発音は「クウェイカー」に近いです。

**現在一般的には第一蒸留で得れるスピリットをロウワイン、第二蒸留で得れるスピリットをハイワインと呼びますが、この頃のハイワインという用語は、どうやら後に再蒸留してアルコールにしたり飲料用スピリッツにしたりする原液?とでも言いますか、第一蒸留で得れる蒸留液を指しているようです。

DSC_0132

リッテンハウス・ライは現在ヘヴンヒル蒸留所で生産されるお財布に優しいライウィスキーです。安い上にボトルド・イン・ボンド(Bottled-in-Bond)規格なのが人気のポイント。ヘヴンヒル蒸留所は業界で最も多くのBiBのウィスキーをリリースする会社であり、そのライウィスキー版があるのは驚きではありません。同社のBiBの例としては、旗艦ブランドであるエヴァンウィリアムスの白ラベルや10年熟成シングルバレルのヘンリーマッケンナ、おそらく地域限定供給のJWダントやJTSブラウン、社名そのままのヘヴンヒルやコーンウィスキーのメロウコーン等があります。昨今人気爆発中(*)のライウィスキー市場にあっても、実はBiBを名乗るライはそれほど多くはなく、パッと思い付くのは価格がほぼ3倍もするEHテイラー・ライぐらいでしょうか。それゆえ安価かつBiBのリッテンハウスは貴重な存在と言えなくもない。「ボトルド・イン・ボンド」法は1897年に成立した政府による消費者保護法であり、当時としては本物の品質の証しでした。BiBのラベルを付けるには、単一の蒸留所の同じ蒸留器による単一の蒸留シーズンの製品であり、政府監督下の連邦保税倉庫で最低4年間熟成し、最低50%のABVで瓶詰めされ、更に生産施設とボトリング施設が異なる場合は両方のDSPナンバーがラベルに記されている必要があります。

リッテンハウス・ライは、現在では法定下限である51%のライ麦を使ったケンタッキーに典型的なスタイルのマッシュビル(**)から造られていますが、もともとはペンシルヴェニアにルーツをもったライウィスキーのブランドでした。その歴史は豊かで興味深く、ライウィスキー自体の歴史とも重なります。

2020-03-28-20-46-02-351x547

バーボンがアメリカのネイティヴ・スピリットと認定される以前、ライウィスキーは元祖アメリカンウィスキーと言える立場にありました。18世紀アメリカ北東部の初期開拓地では、気候の変動に生き残ることが出来て成長サイクルの短い丈夫な穀物のライ麦が広く栽培されていました。初期のアメリカの農家の多くは小麦やトウモロコシの収穫に失敗した場合に備え、バックアップとしてライ麦を栽培していたと言います。ライ麦が過剰にある場合、自然と蒸留に繋がりました。18世紀後半には、ほぼ全てのアメリカの農場には小さな蒸留器があり、余剰穀物をアルコールに転換することは経済的価値を維持する重要な方法だったのです。そうしないと害虫やカビ、または天候により余剰穀物の価値がすぐに下落してしまうからでした。

禁酒法以前はケンタッキーを含む他の州でもライウィスキーは造られていましたが、歴史的にペンシルヴェニアとメリーランドという二つの州がライウィスキーの産地として名高く、主要なスタイルを持っていました。一方のペンシルヴェニア・ライは、ペンシルヴェニア州西部のモノンガヒーラ渓谷に端を発する80〜100%のライ麦で構成される高いライ麦率のマッシュビルであったと伝えられています。このスタイルはモノンガヒーラ・ライ、或いは単にモノンガヒーラと呼ばれていました。もう一方のメリーランド・ライは、通常トウモロコシが約30〜35%含まれ、ライ麦は65〜70%のマッシュビルであったと推測されています。具体的には、ペンシルヴェニア・ライはスパイシーなプロファイルが強く、メリーランド・ライはより丸みのある甘味と草のようなノートを持つ傾向があったとか。初期の入植者逹はすぐにライ麦がユニークな性格のウィスキーを造ったことに気付き、産地の特産品的な意味でライウィスキーはこの地域に根付いて行ったのでしょう。

1791年に米国議会はアルコールに対する国の最初の物品税を可決します。それはウィスキー税と呼ばれ、ガロンあたり9セントに設定されていました。反骨心のある農民蒸留家は、連邦政府とウィスキー税から逃れるため、自らのスティルとマッシュビルを携え、アパラチア山脈を越えて行きます。逃れた先の中西部ではトウモロコシが豊富でした。そこで造られたライウィスキーはメリーランド州のマッシュビルに倣ったコーンを含むマッシュビルだったと見られます。そして時の経過と共にマッシュビルのトウモロコシは増加し、後にバーボンとなるスタイルのスピリットが生まれた、と。1810年頃までにケンタッキー州だけで2000を超える蒸留所が操業していたと言います。バーボンは通常オハイオ・リヴァーから出荷されミシシッピ・リヴァーを下っている間に自然と熟成し、琥珀に色づいた美しい飲料は南部で最も一般的になって行きました。独自の熟成を施した両方のスタイルのライウィスキーも北東部で生産され続け、19世紀を通じて需要と販売は引き続き堅調であり、1920年まではライがアメリカで最も人気のあるウィスキーであり続けました。しかし、禁酒法の時代がやって来ます。

禁酒法によるアメリカのアルコール禁止はライウィスキーの息の根をほぼ止めました。国内のライウィスキー蒸留所の多くは閉鎖され、決して再開することはありませんでした。有能なビジネスマンが率いたケンタッキー州のバーボン製造業者は何らかの形で禁酒法時代を生き延び、1933年に修正第18条が廃止された時、バーボンはアメリカンウィスキーの王者の座に就きます。ライウィスキーは殆ど忘れ去られてしまったかのようでした。それでも、禁酒法解禁は蒸留業者に水門を開き、幾つかの企業はライウィスキーの製造を再開します。そのうちの一つがペンシルヴェニア州フィラデルフィアのコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションでした。

コンチネンタルはコネチカット州ウェスト・グリニッジにオフィスを構えるパブリカー・インダストリーズの子会社です。当初の目的は近い将来1日あたり最大20000ケースの酒を製造できる一枚岩の蒸留所を建設することでした。蒸留業は常にアルコール飲料を造るとは限りません。パブリカーの主な事業は工業用化学プラントの運営にありました。パブリカー・インダストリーズは、野心的なウクライナ移民のハリー・パブリカーによる発案で始まります。1912年頃、彼はフィラデルフィアのあらゆる小規模蒸留所に行き使用済みのウィスキー樽を手に入れ、そこからウィスキー残渣をスティーミングして「発汗」させて、工業用アルコールとして販売することでアルコール業界に参入。1913年に約8〜16人の従業員でパブリカー・コマーシャル・アルコール・カンパニーを設立すると、デラウェア・ウォーター・フロントのビグラー・ストリートとパッカー・アヴェニューの間に蒸留所を建設し運営しました。詩人の名から付けられた後のウォルト・ウィットマン橋のすぐ近くです。

ハリーの工場は第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)で米国政府へのアルコール製品の販売を都合しました。そして禁酒法は工業用アルコールの生産を禁止しなかったため、禁酒法期間中、パブリカーは非飲料用アルコールと工業用化学製品の生産に集中することで非常に繁栄しました。20年代前半には、ジャガイモ、糖蜜​​、トウモロコシなど様々な穀物を発酵し、年間600万ガロンの工業用アルコールへと蒸留していたと言います。同社はそこから生産能力を年間6000万ガロンにまで増強しました。禁酒法の終了時には、当時制定された連邦規制により工業用アルコールの総生産量は7050万ガロンに制限され、そのうちパブリカーが17%を生産していたとか。第二次世界大戦でも政府がアルコール製品を購入したため、パブリカーは新たなる高みに達し、期間中に生産はピークを迎えます。1946年にパブリカーの年間収益は3億5500万ドル、従業員は5000人を数えたそう。1950年代半ばまでに40エーカーの工場は、溶剤、洗浄剤、不凍液、変性アルコール酢酸ブチル、酢酸エチル、アセトン、ドライアイス、液体二酸化炭素、専用溶剤、精製されたフーゼル油などの製品に特化した世界最大の蒸留所の一つに発展しました。

プロヒビションが撤廃された時、その規模と近代テクノロジーを応用して飲料用スピリッツの生産を開始するのは自然なことだったのでしょう(***)。パブリカーは1933年8月、コンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションを設立し、スナイダー・ストリートとスワンソン・アヴェニューの角の数ブロック北にある小さな蒸留所を改造するために、今日の2700万ドル以上を費やします。南フィラデルフィアの川に面した地区にあるパブリカーの二つの工場の一つでした。日産90000ガロンの生産能力は当時のハイラム・ウォーカーのピオリア工場より僅かに少ない程度だったと言います。同社を立ち上げた1933年半ばから1934年にかけて、ハリー・パブリカーと彼の一人娘ヘレンと結婚していた義理の息子サイモン・ニューマン(通称シー・ニューマン)は、飲料用スピリッツの名前を選んでブランドを作成するセッションを行い、その後ディスティリング・エンジニアと一緒にウィスキー・プロファイルと製品のマッシュビルを造り上げました。
1933年11月22日に最初のブランドであり、コンチネンタルの役員であるマークス博士とその妻ミリアムによって提案された「チャーター・オーク」の商標(****)をバーボン、ライ、ラム、ジン、ブランディ等で使用するために申請し、1934年3月13日に登録が発行されました。その他のブランドには「フィラデルフィア」、「ディプロマット」、「コブス・クリーク」、「エンバシー・クラブ・ウィスキー」等があったようです。
2020-03-21-06-56-31-348x448
2020-03-28-20-56-02-342x497
(Time Magazine May 21 1956)

コンチネンタルの三大バーボンと言えば、先のチャーター・オークと「ハラーズ」と「オールド・ヒッコリー」でしょう。その他にも「リンフィールド」や「キーストーン・ステート・ライウィスキー」、そして「リッテンハウス」がありました。
コンチネンタル工場(PA-1)は、ブレンデッドウィスキーやその他の蒸留酒の製造に特に適していましたが、ストレートウィスキーも製造されていたようです。またコンチネンタルはもう一つ、高級な熟成ウィスキー用?として、フィラデルフィアから北東約35マイルほど離れたリンフィールドのスクールキル・リヴァー沿いにあるキンジー蒸留所(PA-10、PA-12)を所有していました。

2020-03-07-21-23-56

キンジー蒸留所は禁酒法が終了してから1980年代半ばまでコンチネンタルによって運営されていました。コンチネンタルはこの施設をキンジー蒸留所と呼びましたが、禁酒法以前はアンジェロ・マイヤーズ蒸留所、またはリンフィールド蒸留所としても知られています。後に一般的にはリンフィールド・インダストリアル・パークと呼ばれることになるサイトにありました。この蒸留所を語るには、創設者ジェイコブ・G・キンジーの他に、アンジェロ・マイヤーズにも触れておかなくてはなりません。

アンジェロ・マイヤーズには父と息子の二人のアンジェロがおり、彼らは40年間フィラデルフィアと全米でウィスキーを販売してその名声を高めました。当初はレクティファイヤー、その後本当のディスティラーとなり、精力的なマーチャンダイジングを通じて幅広い酒類ブランドを広めたそうです。アンジェロ・マイヤーズは1844年にドイツで産まれ、正確な日付は不明ですが、アメリカへと渡り、兄弟のヘンリーとフィラデルフィアに定住しました。1874年頃、二人はウィスキー配給会社として「A&H Myers」を設立します。彼らの主力ブランドは、街を流れる川にちなんだスクールキル・ウィスキーでした。
1880年代に兄弟のビジネスはかなり繁盛していたようです。しかし、1892年には何かが起こり、兄弟のパートナーシップは終わりを告げ、ヘンリーは別の会社を立ち上げました。残ったアンジェロの会社には、「アードモア」、「ボーモント・ジン」、「インデペンデンス・ホール」、「マイヤーズ・ピュア・モルト」、「ネシャミニー・ライ」、「オーガソープ・クラブ」、「オールド・バレル」、「オールド・スクールキル・チョイス・ライ」、「ペングリン」、「W.W.W. ライ」など数多くのブランドがあったようです。同じ頃、アンジェロは他の著名なフィラデルフィアの卸売業者と協力して、ペンシルヴェニア州バックス郡に蒸留所を建設します。またアンジェロは1890年代後半にはリンフィールドの蒸留所とも関連をもちました。
その蒸留所は酪農家のジェイコブ・G・キンジーによって設立されました。ジェイコブは1858年3月13日にペンシルヴェニア州ロウワー・サルフォードで生まれ、学校の教師として働き出し、まだ若い頃に酪農業界へと参入します。彼は三十代前半までに三つの酪農場を所有していましたが、1891年にそれらを売却し、蒸留所と2000バレル容量の倉庫を建設しました。アンジェロとジェイコブは蒸留所の建設に取り組み始めてから約1年ほどで友人になったと言います。一説にはジェイコブには蒸留の経験が全くなかったとされ、彼と農場の元従業員逹は友人であったアンジェロの特別なウィスキー知識を頼ったのかも知れません。約8年ほど後、ジェイコブは自分の製品を販売できるようにするために名のある人が必要だと考えました。アンジェロ・マイヤーズにはフィラデルフィアやボストンをはじめ高級ウィスキーの大きな市場であるニューヨークにも多くのコネがありました。ジェイコブはとても賢く、当時のアンジェロ・マイヤーズの知名度を知っていたので、彼と組むことが自分のウィスキーを市場に出して知名度を上げる方法だと思ったのです。ジェイコブはアンジェロと話し合い、蒸留所にアンジェロ・マイヤーズの名を付けることを決めます。一方のアンジェロは友人の製品が非常に優れていると考え、ブランドが足場を得るまでの間、プラントの運営とキンジーのマーケティングをすることにしました。彼らは良き友であり、お互いを信頼していました。おそらくジェイコブは、アンジェロに蒸留所の運営の一部を任せながら、自分は製品造りに精を出せる方法を模索したのでしょう。ジェイコブはマスター・ディスティラーとして一つの目標を念頭に置いていました。それは出来る限り最高のウィスキーを造ること。そうして製造された酒はキンジー・ウィスキーと名付けられ、マイヤーズ社の新しい旗艦ブランドとなって行きます。
1905年2月、「Angelo Myers Distillery Inc.」は資本金50000ドルで設立されました。権利関係はよく分かりませんが、アンジェロはキンジー蒸留所の所有権をもっていた可能性もありそうです。アンジェロは息子のアンジェロ・Jをリンフィールドに派遣していました。父からリカー・ビジネスを学んでいたアンジェロ・Jはキンジー蒸留所の日々の運営を行っていたとされます。若きアンジェロの管理下で、キンジー蒸留所は急速に発展し、倉庫の容量は2000バレルから20000バレルに段々と増加、更にキンジー・ウィスキーはニューオリンズとテキサス州サンアントニオでの博覧会で金メダルを獲得したのだとか。1907年、父のアンジェロは亡くなり、アンジェロ・Jが会社の社長になりました。彼のリーダーシップの下、同社は引き続き成功を収め、キンジー・ウィスキーは広くアメリカ中に流通するようになったと言います。彼らが販売した全ての木製ケースには、アンジェロ・マイヤーズ蒸留所とキンジー蒸留所の名前がありました。また、キンジー・ブランドの広告として作成された魅力的な絵画もありました。そうした絵画は19世紀から20世紀初頭に普及したプロモーション・ツールで、その印刷物はサルーンや酒類小売業者が利用できました。
2020-03-07-21-45-38
更に、女性がウィスキー取引にほぼ参与してない時代にあって、1910年の役員をリストした会社のレターヘッドには、珍しいことに二人の女性の名が含まれていたそうです。進歩的な会社だったのでしょうか。アンジェロ・Jは他の事業も手掛けていたようで、酒類会社の社長には叔父(多分)が就任し、彼は副社長に降りたようです。1918年頃、商号は「Angelo Myers Distilling Co., Inc.」に変更されました。それから少し後、禁酒法の訪れによりアンジェロ・マイヤーズとキンジー施設での全ての活動は中止されました。1923年、原因は分かりませんが、アンジェロ・Jは38歳という若さでこの世を去ります。
ジェイコブは勤勉な男だったのか、禁酒法期間中、ビールの醸造を学ぶためにドイツに行っていたそうです。アンジェロ・マイヤーズの助けを借りて順調に推移したキンジー・ライは、禁酒法が施行される数年前には本当に人気を博すようになっていました。1933年に禁酒法が終わると、ジェイコブは殆どの人が引退したいと思う75歳で、その復活を目指してキンジー蒸留所を再開します。彼は先ずキンジー・ストレート・ライを造り、またリンフィールド・ブランドをスタートさせました(「リンフィールド」は初めストレート・ライウィスキー、後にコンチネンタルがバーボンに変更)。伝えられるところでは、ジェイコブはできる限りピュア・ライを入れたかったとされ、初期の殆どのボトリングはライ麦率約81%(残りは多分モルト)であったと見られています。ボトラーやディーラーからの圧力によりジェイコブはブレンデッドも造りましたが、彼はストレート・ライウィスキーこそが数あるウィスキーの中で最もフレイヴァーフルであると信じていました。
順調に復活するかと思われた蒸留所は、悲しいことに1939年の秋に破産し、1940年春のサイレント・オークションでコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションに売却されました。コンチネンタルは蒸留所と共にキンジー・ブランドを購入し、ブレンデッド・ウィスキーとして生産と販売を続けました。キンジー・ウィスキーは1940年代には有名だったようで、マンハッタンのビルで誇らしげに宣伝されていました。余談ですが、長年ほとんど忘れ去られた存在となっていたキンジー・ブランドは、近年ではニュー・リバティ・ディスティラリーによって復活しています。
2020-03-21-06-50-34
フィラデルフィアのプラント(DSP-PA-1)のマスター・ディスティラーが誰であるかは判りませんが、1933年秋にキンジー蒸留所が再開した時ジェイコブ・キンジーはマスター・ディスティラーでした。そしてコンチネンタルが蒸留所を購入した後はホレス・ランディスがマスター・ディスティラーを務めます。ホレスは、ジェイコブの結婚相手エドナ・ロングエーカーの姉妹アニーが結婚したヘンリー・ランディスの息子でした。彼は1951年初頭にパブリカーによってキンジーのDSP-PA-10とDSP-PA-12がシャットダウンされるまで蒸留を実行し続け、その後もコンチネンタルに請われて警備員として留まったそう。ちなみにPA-10はバッチ蒸留のポット・スティル、PA-12はコンティニュアス・スティルでした。
コンチネンタルは蒸留所を購入後の1940年代、キンジーのサイトに14の防爆倉庫の建設を開始しました。その倉庫は非常に近代的で大きく、空気を循環させるファンと加熱装置やサーモスタットに防火装置も備わった時代の最先端であり、なんでも一つの倉庫に10万近いバレルを収容できたようです。また当時最強の鋼鉄で作られた防爆倉庫は、戦時中の公式のボム・シェルターだったとか。そして理由は明確ではありませんが、上述したようにリンフィールドでのウィスキー蒸留は1951年に停止され、以後、熟成とボトリングを行う施設となります。1952年、ジェイコブ・G・キンジーは94歳で天寿を全うしました。

2020-02-26-17-36-26

さて、そろそろリッテンハウスについても触れておきましょう。コンチネンタルは1934年に、フィラデルフィアの有名な広場(公園)にちなんで名付けられた「リッテンハウス・スクエア・ライ」を導入しました。そのリッテンハウス・スクエア自体は、フィラデルフィアで最初の製紙会社を設立したドイツ人移民のウィリアム・リッテンハウスの子孫であり、天文学者、時計職人、発明家、および数学者など数々の肩書きをもつデイヴィッド・リッテンハウスから命名されています。元々はサウスウェスト・スクエアと呼ばれていましたが、1825年に名前が変更されました。リッテンハウス・スクエアは、観光客や地元の人々がピクニックや日光浴や散歩をしたり、絵を描いたり本を読んだりとリラックスするのに最適な場所です。
2020-02-26-16-46-30
(19世紀後半のリッテンハウス・スクエアの噴水の眺め)

リッテンハウス・スクエア・ライはデビュー当時、2年熟成だったと言います。はて?禁酒法の廃止は1933年ですから、誰かがこっそり蒸留でもしてたのでしょうか(笑)。それは偖て措き、月日の経過につれリッテンハウスの熟成年数は2年から4年、そして1940年代初期から中期には5年に延びました。
コンチネンタルが製造するウィスキーの初期の成功には、パブリカーの化学者カール・ヘイナー博士が開発した生産技術が少なくとも部分的には関与していたとされます。1934年にフォーチュン誌のライターに説明されたその方法は、オールド・サウスの紳士の皆が知る、ムーンシャインの小樽を川で運んだりストーヴの近くに置いておくとエイジングを促進すると云うあれ、つまり「撹拌、動揺」と「熱」でした。ヘイナー博士は24時間で17年物のウィスキーを製造する方法を考案したと主張したとか…。ちょっと眉唾な方法論のような気はしますが、禁酒法終了直後の数年間は熟成ウィスキーの在庫が殆どなかったため、強力なアドヴァンテージにはなったのでしょう。おそらく既存の在庫が熟成するにつれ段階的に廃止されたと見られ、40年代にはブレンデッド・ウィスキーでのみこれらの技術を使用していた可能性が示唆されています。
2020-02-26-15-30-11-330x440
1948年には製品名から「スクエア」は削除され、現在と同じ「リッテンハウス・ライ」となりました。その頃の製品は全てボトルド・イン・ボンド規格を守ったようです。いつの頃からか80プルーフのヴァリエーションもありましたが、いずれにせよリッテンハウスは、コンチネンタルのライの中で比較的高級なラインだったと思われます。1940年代から1951年初頭頃までは、キンジーの古い納屋のようなライ・ビルディング(PA-10)で造られました。その後は多分フィラデルフィアの工場(PA-1)ですかね? それとも他のライ・メイカーから購入していた? ミクターズとか?
ところで初期のリッテンハウスの中身についてなのですが、コンチネンタル時代のオリジナルのマッシュビルは定かではありません。一説には、過去のフィラデルフィア地域のライ・メーカーの多くは、メリーランドの蒸留所と共通点が多かった、との指摘があります。ペンシルヴェニア州の中でも東部に位置するフィラデルフィアは、西部のモノンガヒーラ地域よりも地理的にメリーランドに近いため、なんとなく頷ける説ではあります。また前記のように、かつてジェイコブ・G・キンジーが蒸留所を再開した当時のライウィスキーは80%程度のライ麦率であったようなので、それを考慮するとリッテンハウスのマッシュビルはライ麦60~80%のどこか、或いは時代と共に変遷していることもあるのではないでしょうか。ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりご教示下さい。それと旧いリッテンハウスを飲んだことのある方もご感想を頂けると助かります。では、ここからはリッテンハウスがコンチネンタルの手を離れるまでの経緯を見て行きましょう。

パブリカーはアメリカの会社であることを非常に誇りに思っており、当時の戦争を支援した主要な企業グループの一つでした。第二次世界大戦中、DSP-PA-12は毎日少なくとも2シフト、時には3シフトを実行したとされます。蒸留所を政府用に別目的で利用することから、リッテンハウスは在庫不足という大きな障害に直面しましたが、それでも彼らは地歩を固めビジネスを続けました。しかし、残念なことに戦後もリッテンハウスの闘争は終わったとは言えませんでした。その後の数十年はライウィスキーの人気が大幅に低下したからです。1970年代までにアメリカではクリア・スピリット、特にウォッカの人気が高まり、バーボンの販売量も減少し、ライ麦に至ってはほぼ絶滅しました。ペンシルヴェニア州のオリジナルのライウィスキー製造所の殆どはその歴史に幕を降ろしたのです。そしてパブリカー/コンチネンタルにとっては、1951年に創業者ハリー・パブリカーが亡くなってから会社を率いてきたサイモン・"シー"・ニューマンの死が1976年にありました。

キンジー蒸留所の元従業員デイヴ・ズィーグラーによれば、シー・ニューマンは生まれながらのリーダーであり、先見の明とアイディアを持ち、パブリカー/コンチネンタルを成功へ導いた業界の巨人でした。彼のアイディアは常に大きく、かつそれらを迅速に実行に移したと言います。禁酒法の終了時、それまで工業用アルコールを製造していたパブリカーが、飲料用アルコールを製造するための特別部門を設立したのはニューマンのアイディアでした。それがコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションのそもそもの始まりです。
同社はブレンデッド・スコッチウィスキーのブランドである「Inver House Rare」を1956年に発売しましたが、当時は売り上げを満たすのに十分な在庫がありませんでした。そこでニューマンは捲土重来、インヴァー・ハウス・ディスティラーズを1964年にパブリカー・インダストリーズの子会社として設立し、スコットランドに蒸留所を建設してしまいます。そして、スコッチに再利用するために使い古しのバーボン・バレルをスコットランドへ出荷するというニューマンのアイディアは、今日まで続く一般的な慣行であり、パブリカーはこれを行う許可を政府に求めた最初の会社でした。ちなみにインヴァー・ハウス・スコッチは彼の美しい豪邸から名付けられました。それと、先に触れたホレス・ランディスは63年の引退の後で、懇意のニューマンから個人的にマスター・ディスティラーの経験を買われ、1964年スコットランドへと派遣されてスティルのセットアップを助けたりディスティラーをトレーニングしたそうです。
60年代のパブリカー/コンチネンタルは、裏事情は知りませんが、端から見れば最盛期にあったと言ってよいでしょう。ウィスキーや工業用アルコールの品質はニューマンのリーダーシップから来ました。当時、品質管理は最大の課題であり、同社は四つのラボラトリーを、工業用と飲酒用にフィラデルフィアのDSP-PA-1、その他センター・シティ、リンフィールド、エディストーンそれぞれに持っていました。ケミカル・プラントはフィラデルフィアの他にLAにもありました。また彼らは自らの製樽工場も所有していました。デラウェア郡マーカス・フックにあるクーパレッジはとても大きく、そこにはクーパーを育てる学校もあったと言います。他にもミズーリ州セントルイスに製樽工場を所有。そしてリンフィールドのキンジー・サイトに、1966年に新しく開業したボトリング・ハウスは、当時アメリカ最大規模かつ最も近代的な設備を誇りました。そこでは11のラインを週五日、一日16時間稼働し、2交代制で約450〜500人が働いており、産出能力に優れていたため、週末の勤務や残業時間は必要なかったそうです。そのお陰か、ビグラー・ストリートにあったボトリング施設は後に工業用アルコール専用に転換されました。「1966ボトリング・ハウス」は一日あたり40000本のボトルを処理できる能力があり、シーグラムやその他の蒸留業者のためにも瓶詰めを請け負いました。契約ボトリングを利用する業者の中にはニューマンと知り合いだったメドレー家がいて、彼らも時々ボトリングしてもらっていたようです(後述しますが、そうした「縁」が後のブランド購入に繋がったのでは?)。加えてキンジー蒸留所には、ハッピーハウスとして知られる1933年初頭に建てられたジェイコブ・G・キンジー時代のボトリング・ハウスもあり、そこのフィリップ・シンガー製のボトリング・マシーンはパブリカーがスピリッツの保管と製造および瓶詰めを終了するまで小規模ながら継続的に使用されていたとの話もありました。他にも、競争力を維持しつつ運賃を低く抑えるようボトリング活動を分散化するため、1962年にイリノイ州レモントの工場を改造し、リカー用ボトリング工場として機能するようにしています。そのためコンチネンタル製品のラベルのいくつかは「レモント、イリノイ」の記載がありました。ラベルと言えば、同社は可能な限りローカルな物、つまり地元フィラデルフィアの会社からボトルやラベルを仕入れて、常に最高品質のパッケージを目指したそうです。
シー・ニューマンが生きていた間は、常にウィスキーの品質を高め、あらゆる人にとって手頃な価格を保つための新しいアイディアを探していました。詳しくは分かりませんが、メーカーズマークの46の魁となるような、フローターズと呼ばれる焦げた木片を大きな樽に浮かべる実験?(或いはブレンデッド・ウィスキー用の熟成テクニック?)も行っていたようです。これは彼らが時代の先端を行っていた好例かも知れません。
おそらく、コンチネンタルは業界で「ビッグ・フォー」に次ぐ存在でした。1950年代の会社の販促資料では、ウイスキーを作るための最新の技術的アプローチと最先端の施設の効率を雄弁に誇り、その近代的な熟成倉庫は100万バレルのキャパシティを有すると説明されていました。巨大なストレージ・サイトであるキンジー蒸留所は、当時ワン・スポットでは世界最大の熟成ウィスキーを保管する施設だったのです。キンジーで働く人の総数は1960年代後半に600人に達しました。彼らは常に施設の見栄えにも最善を尽くし、プラントは清潔に保たれ、芝生や花壇は手入れが行き届き、会社で働くことに誇りを感じていました。しかし、どんな栄光も永遠ではありません。1976年のシー・ニューマンの死を契機として、会社はその後急速に崩壊への道を歩みました。先に名前を挙げたデイヴ・ズィーグラーは言います。「彼が死んだ時、会社は死んだ」と。

パブリカーがウィスキーを大量に造ったとしても、それは彼らの運営のほんの一部に過ぎませんでした。大部分の方のケミカル・プラントの運営が悪かったのか、それとも時代の波の影響で蒸留酒の販売が芳しくなかったのか、サイモン・ニューマンが亡くなった時、パブリカーには3900万ドルの借金があったと言います。ビジネスには成功も失敗も付き物ですから、偉大なるリーダーでも何か判断ミスをしたのかも知れません。しかし、彼の最大の不首尾は、彼が後継者への道を開くのを仕損じたことでした。
ビジネスの経験がなかったサイモンの妻ヘレンが会社のトップになると、大きな家族の権力闘争が起こりました。彼女はロバート・レヴェンサールを社長に任命し(1977-1981年CEO)、20歳以上年下であったにも拘わらず、すぐに恋に落ちたのです。ニューマン夫妻の子供たちは、縮小する会社と家族の財産から取り残されることを恐れ、母親とレヴェンサールを訴えて何年か費やしました。
外部の経営者たちが取締役会に進出すると、会社の方向を変えようとし始めました。それはニューマンの死から3年後のことです。どうやら彼らはパブリカーをP&G(プロクター&ギャンブル)のような強大なホーム・ケミカル会社にしたかったらしい。レヴェンサールはアルコール飲料事業の主要資産の処分を決め、1979年にイリノイ州レモントのボトリング施設などと共に酒類ブランドを負債の支払いとケミカル・ボトリングへの資本投資に使用するために売却します。そうすることで会社を浮上させようとしたのですが、パブリカー・インダストリーズの下降スパイラルを止めることは出来ませんでした。同社は1979年秋まではウィスキーを蒸留もし、1981年後半頃まではまだ他社に販売していたと言います。1982年にフィラデルフィア工場は休止されました。キンジー蒸留所は1982年に売却された後、ボトリング・ハウスや幾つかのタンクと倉庫をリース・バックして、そこでアンモニアをベースにした家庭用洗浄剤と不凍液のボトリングに使用されていました。
70年代後半にパブリカーは、空で不使用の巨大なタンクの幾つかを他の会社が燃料油の貯蔵に利用できるようにし始めます。様々な化学会社や燃料会社との契約をしたそうですが、これらの取引はライセンスを常に取得している訳でもなく、環境への影響についても注意を怠っていたようで…。フィラデルフィアのサイトは長年の不適切な管理が環境災害や火災を引き起こし、PADER(ペンシルヴェニア環境資源局)からは数々の違反通知の発行をされ、EPA(米国環境保護局)からは許可なく危険廃棄物施設を運営したとして苦情を申し立てられました。そして1986年秋、会社は事業を中止し、資産は小さなモーテルの価格300万ドルで解体業者であるオーヴァーランド・コーポレーションに売却されました。1986年11月、発火性物質を含むパイプラインを切断中に爆発が起こり、二人の解体作業員が死亡。その後まもなくオーヴァーランド・コーポレーションとその親会社カイヤホガ・レッキング・コーポレーションは破産を宣言し、サイトを放棄しました。かつてウォルト・ウィットマン橋を渡るとパンのようなウィスキーの匂いがすると言われた巨大な複合施設と75年以上に渡ってモンゴメリー郡で最大の雇用主であったリンフィールドの「公園」は廃墟になって行きます。それは或る大企業のアメリカ産業史に於ける最も悲しい物語の一つでした。その後もパブリカーという会社自体は存続したようで、1998年に名前を「PubliCARD」に変更し、スマートカード・ビジネスに参入したそうですが、もはや別物でしょう。

さて、リッテンハウスは上に述べた1979年のブランド売却の時、その他のブランドと共にチャールズ・メドレーに買われました。チャールズはリッテンハウス及びコンチネンタルのブランドの力を評価していたのでしょう。おそらく80年代のリッテンハウスはメドレー蒸留所で生産されました。マッシュビルは不明。後にリリースされるヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ等に使用されたメドレー・ライと熟成年数は違えどマッシュビルは共有するとは思います。ケンタッキー・スタイルの51%に近いライ麦率でしょうか? 実はメドレー時代のリッテンハウスについては殆ど情報がなく、あまり書くことがありません。…あ、一つだけ。日本でリッテンハウス・ライをネットで検索すると出てくる紹介記事の殆どには「かつてメドレー社が製造していた銘柄」と紹介されています。確かにそれは事実であり間違ってはいないのですが、その歴史の中でメドレー産だった期間は割りと短く、ここまで読んで分かる通り、寧ろ歴史的にリッテンハウスはコンチネンタルのブランドでした。おそらく輸入元の資料か何かをコピペした結果ではないかと思いますが、誤解を招きかねない表現には注意が必要です。それでは次にヘヴンヒルがブランド権を手にし、現在に至るまでを見て行きましょう。

アメリカン・ウィスキーの製造に携わる会社にとって80年代後半から90年代は激動の期間でした。まるで自然界の食物連鎖のように、大きい会社が小さい会社を飲み込んで、業界の再編が行われたのです。リッテンハウスもその動きに翻弄されて目まぐるしく推移しました。メドレーは1988年にグレンモアに買収され、そのグレンモアも1991年にギネス(ユナイテッド・ディスティラーズ)によって買収されました。そして1993年の春、ヘヴンヒルは約70のブランドをユナイテッドから取得し、その中にリッテンハウスは含まれていました。
次々と所有権は移り変わったリッテンハウスですが、メドレー蒸留所はグレンモア傘下になっても蒸留を続け(実際チャールズ・メドレーがマスター・ディスティラーでした)、グレンモアにウィスキーを供給していたと見られるので、ユナイテッドによって1992年にメドレー蒸留所が閉鎖されるまではリッテンハウスを蒸留していたと思われます。或る方は、1993年のリッテンハウス・ライのボトルは現在の物とは全く異なり、より甘く円やかで、ラベルにはオーウェンズボロと書かれている、と述べていました。もし、ブランドの推移と共にストックも購入されていたのなら、最大で1996年頃まではメドレー原酒の可能性もあるのかも。言うまでもなく、これはただの憶測です。

2020-02-16-21-08-56
ヘヴンヒルはブランド取得後、おそらく僅かな期間は旧来と同じダイヤモンド・ラベルを使用していたと思われます。その後ラベルは安っぽいデザインにリニューアルされました。ライトな80プルーフと伝統のボトルド・イン・ボンドがあります。長年、ヘヴンヒルはライウィスキーの蒸留を一年に一日(もしくは三日か四日)しか費やしていませんでした。それは、まだこの頃はライウィスキーの人気はあまりなく、ライの「本場」ペンシルヴェニアでもなければメリーランドでもないケンタッキーで絶滅の危機から救われた「希少品種」に過ぎなかったからです。しかし、年に一度だけでも蒸留されたことで、ライウィスキーは命脈を保ち生き続けました。
ヘヴンヒルがリッテンハウスを製造するようになって数年で思いがけない災難が勃発します。バーボニアンにはよく知られるアメリカン・ウィスキー史上でも最大級の火災が発生したのです。1996年11月9日の落雷が原因と見られるその火事によりバーズタウンのヘヴンヒル蒸留所は焼失し、9万バレル以上ものウィスキーが失われました。そこで暫くの間、ヘヴンヒルは他の蒸留会社(仲間)を頼らざるを得なくなります。おそらく一年ほどはジムビームが蒸留を代行し、その後はブラウン=フォーマンによって契約蒸留がなされました。1999年にヘヴンヒルはルイヴィルのバーンハイム蒸留所をディアジオから購入し、蒸留を再開するのですが、この契約は2008年まで続き、この間ヘブンヒルのライウィスキーは全てブラウン=フォーマンのアーリータイムズ・プラントで製造されています。ボトルド・イン・ボンド法ではラベルに蒸留施設の明示が義務付けられているため、ブラウン=フォーマン産の物には「DSP-KY-354」、バーンハイム産の物には「DSP-KY-1」とあり、おそらくこの切り替えは2013年頃を境としているでしょう。
新しい蒸留所でライウィスキーを蒸留し熟成させ、十分な量を確保したヘヴンヒルは再び自らの蒸留物を販売し始めた訳ですが、この移行期間中にもライウィスキーの人気はジワジワと上がり続け、クラフト・カクテルのムーヴメントも手伝って高い需要がありました。分けてもリッテンハウスは多くのミクスト・ドリンクのレシピに最適であったことから、一時的に店頭で見つけるのが困難だったようです。こうしたブームへの便乗?が主な理由だと思われますが、多分2014年頃、ラベルはオリジナルのリッテンハウス・スクエア・ライに敬意を表して「ダイヤモンド」に戻されました。そう、旧来の物にしろ現行の物にしろあのダイヤ形に見えるデザインは実際には「スクエア」なのです。その後はクラフト蒸留所のブームとも相俟ってライウィスキーは完全なるリヴァイヴァルを遂げました。ヘヴンヒルでは以前に年一度だけの蒸留だったライウィスキーも今では毎月蒸留され、リッテンハウスはその驚くべき価格のお陰でこれまで以上の人気を博しています。

PhotoGrid_1585242134319-768x768
最後に別枠として特別なリッテンハウスについても触れておきます。ヘヴンヒルは2006年から2009年に掛けて、それぞれ21年、23年、25年という超長期熟成された「Rittenhouse Very Rare Collection」を数量限定で特別リリースしました。背の高いゴールド・プリントのボトルがバルサ材の箱に入った豪華なパッケージで、100プルーフ、シングルバレル、ノンチルフィルタードの仕様。750mlで各々150、170、190ドルの希望小売価格でした。中身のウィスキーは1984年10月に造られたライのバッチからの物で、それらは全てリックハウスOOの最も下の階で熟成されていました。ヘヴンヒルのマスター・ディスティラーだったパーカー・ビームによれば、低層階は高層階よりも温度が低いため長期間の熟成が出来たそうです。
これら上位クラスのリッテンハウスが誕生した背景には、なかなか興味深い偶然の物語がありました。ヘブンヒルが製造するライウィスキーには、リッテンハウスの他にもう一つパイクスヴィルがあります。ここではパイクスヴィルの歴史について詳しくは紹介しませんが、簡単に言うとリッテンハウスと同じような運命を辿った元はメリーランドのライウィスキー・ブランドです。ヘヴンヒルは伝統あるそのブランドを1982年にスタンダード・ディスティラーズから購入し発売していました。それ以前からもヘヴンヒルはライウィスキーを蒸留し、どこかへ供給していたかも知れません。それはともかく、84年に蒸留された95バレルのロットのライは、同社の顧客向けのプライヴェート・ラベルになるか、或いはそれ用のパイクスヴィルになる筈の物でした。リッテンハウスの購入は93年、つまり当初からリッテンハウス20+を造るつもりは一切なかったのです。ヘヴンヒルは顧客のためにウィスキーを熟成させていましたが、それは製品化されることなく眠り続け、意図した熟成年数を遥かに超えてしまいました。そのライが21年という珍しい年数に近づいた時、ヘヴンヒルはウィスキーのオーナーに買い戻しを申し出ると了承され、そこで2006年に偶然の産物はリッテンハウスの非常にレアなコレクションとして世に送り出されたのです。
ちなみに、リッテンハウスの長期熟成ヴァージョンはヘヴンヒルが初めてリリースしたのではありませんでした。実はコンチネンタルから、60年代もしくは70年代と思われますが、20年熟成のリッテンハウスが発売されています。ラベルにはリンフィールドとありますね。詳細はまるっきり分かりません。途轍もなくレアなのは間違いないでしょうが。
2020-03-27-23-42-32

さて、それではようやくテイスティングと参りましょう。基本情報としてリッテンハウス・ライは、125プルーフのバレル・エントリー、#3チャー・バレル、倉庫の上層階(上から4階)にて4年熟成、数百樽でのバッチ・サイズとされます。またボトルド・イン・ボンド規格なので、ボトリングのためにバッチ選択したバレルは、春または秋のいずれかに蒸留した同じシーズンの物でなければなりません。

DSC_0300
RITTENHOUSE RYE BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定2014年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。麦茶、グレイン、焦がした砂糖、エタノール、ダーク・ドライフルーツ、菜っ葉。サイレントなアロマ。ジュースを飲み込んだ後に来る刺激はスパイシーではあるがアルコールの辛みの方が強いような…。余韻は引き続き辛みを伴いつつ、微かに白桃と穀物が漂う。
Rating:79.5/100

Thought:開封から暫くは妙に味がないように感じました。しかも香りが開いたのが残量半分を下回ってからなのは痛かったです。おまけに香りが開いたと言ってもそれほど芳醇でもなく…。バーボンよりあっさりした質感にライ麦ぽさを感じるものの、スパイシーと言うよりはただ辛いだけ。もっと言うと近年のヘヴンヒル原酒に感じ易い複雑な香辛料やフルーツを欠いた熟成感という印象。海外のレヴューを参照するとそこそこの高評価だったし、フルーツ・フォワードのライかと期待したのですが、ぶっちゃけ舌の上でフレイヴァーが躍るライではなかったです。私はストレートと一滴加水でしか飲みませんでしたけど、ロックやカクテルにしたらもっと引き立ったのですかね? 飲んだことのある皆さんのご感想コメントよりどしどしお寄せ下さい。

Value:ハイ・プルーフにして安価かつライであるのが魅力で、ラベルのデザインは最高にカッコいいと思います。アメリカでの価格は概ね25ドル程度、日本だと3500円くらいが相場でしょうか。個人的にはもっとフルーティなライが好みなので日本の市場価格は高く感じますが、辛口がお好みの方やバーボニー・ライを求める方にはオススメです。なにより歴史のある銘柄ですしね。

IMG_20200328_215858_393

*2009年から2015年にかけてアメリカのライウィスキーの売り上げは662%(!)も増加したと云います。それはまるで一瞬の出来事のようでした。大企業傘下の蒸留所であれ小規模なクラフト蒸留所であれNDP(非蒸留業者)であれ、こぞってライウィスキー市場へ参戦し、その銘柄は次々と増え続けています。

**リッテンハウスと言うかヘヴンヒルのライ・マッシュビルに関しては、「51%ライ / 39%コーン / 10%モルテッドバーリー」と「51%ライ / 37%コーン / 12%モルテッドバーリー」の二説がありました。どちらが正しいか判りませんが、ライ麦率が51%なのは確かなようです。

***一説には第一次世界対戦の頃から飲料用アルコールも製造していたとされます。ですが、事業として乗り出したのは禁酒法解禁後なのでしょう。

****チャーター・オークは、ケンタッキー州のバーンハイム蒸留所や後の親会社シェンリーから、その名前が「オールド・チャーター」に近いものであるとして、長年続く訴訟を提起されました。1959年5月頃には最終的に解決され、コンチネンタルはチャーター・オークのブランドを継続することが出来たようです。
現在オールド・チャーターを所有するのはサゼラック社ですが、近年では傘下のバッファロートレース蒸留所から「オールド・チャーター・オーク」というやや実験的なオーク材を用いたシリーズがリリースされています。チャーター・オークの商標はどうなっているんでしょうね?
2020-03-21-06-59-22-114x203

IMG_20180422_032251_142

オールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンは、簡単に言うとオールド・フィッツジェラルド・ブランドの中のエントリー・クラス・バーボンで、1960年代に時代に迎合してボンデッドの低プルーフ版として発売され始めました。プライムの発売経緯には興味深いエピソードがありますが、その紹介の前に、ウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)の代表的ブランドであり、バーボン業界において真に象徴的な名前となっているオールド・フィッツジェラルドの歴史を少し振り返ってみたいと思います。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、そもそもウィスコンシン州ミルウォーキーに本拠を置く国際的なワインとスピリッツのディーラーであるソロモン・チャールズ・ハーブストが1886年に商標登録した「Jno. E. Fitzgerald」が始まりです。それはハーブストが率いたS・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが使用する幾つかのブランドのうちの1つでした。オールド・フィッツジェラルドの物語は、先ずはハーブストその人から語らなければならないでしょう。

2019-11-17-17-04-43-96x141
ソロモン・ハーブストは1842年にプロイセンのオストロノで生まれました。彼は地元の学校で教育を受けたあと故郷を離れ、1859年に16歳でアメリカへと渡ります。当時多くのジャーマンの若者はその段階で移住することで、基礎訓練中の新兵の死亡率が高いプロイセン軍の徴兵を避けたのだそう。ハーブストはジャーマン人口が多いミルウォーキーに直接向かったようで、それは言葉の通じ易さのためと見られます。若い頃の彼はブリキ職人として働いていました。また、後に成功することになるウィスキー・トレードへの参入前は、ミシガン州マスキーガンで兄弟のファビアンやウィリアムと卸売および小売の材木業に携わっていたようです。
1868年になるとハーブストはチェスナット・アヴェニュー401-403にあったエガート&ハーブストという酒類卸売会社のパートナーとしてミルウォーキーのリカー・ビジネス・シーンに登場しました。理由は分かりませんが、1870年までに相方のエガートはその事業から離脱し、ハーブストが単独所有者となり、社名にソロモン・チャールズ・ハーブストの名を刻みます。それは彼の成功への始まりの一歩でした。
この同時期に、ソロモンはウィスコンシン生まれで7歳年下のエマと結婚しています。彼女の両親は現在チェコ共和国の一地域になっているボヘミアからの移民でした。1880年の国勢調査によると、夫婦にはカーシー、デラ、ヘレンの三人娘がおり、それとハーブストの事業の順調さを示すように家庭には2人の使用人がいたようです。

ハーブストは同時代の卸売業者がそうであったようにレクティファイヤーとして、つまり原酒を余所の蒸留所から調達してブレンドし、所望の風味に整えて販売する、今で言うNDP(非蒸留業者)としてキャリアを始めました。初期の頃は、卸しでは自らの名前がコバルトブルーでステンシルされたストーンウェア・ジャグを、小売では名前がエンボス加工されたガラス瓶を使用していたようです。また、アンバーやクリアのフラスクボトルもありました。後年のものも含みますが、S・C・ハーブスト・インポーティング・カンパニーが販売していたブランドにはフィッツジェラルド以外では、「ベンソン・クリーク」、「同ライ」、「チャンセラー・クラブ」、「クリフトン・スプリングス」、「オールドジャッジ」、「オールド・ジョン」等があります。
2019-11-17-17-31-44-333x354

では、フィッツジェラルド・ブランドについて見て行きましょう。先に述べたように、初めは「ジョン・E・フィッツジェラルド」というブランド名でした。ハーブストがどのようにブランドを作成したかについては明確に分かりません。いくつかの伝説はありますが、それらは主にマーケティングの話に基づいています。おそらくハーブストはマーケティングの才に長けていたし、そのためのお金も持っていました。彼がブランド作成と共に作ったストーリーでよく知られるのは、フィッツジェラルド・ブランドは「1870年から鉄道と蒸気船のライン、プライヴェート・クラブにのみ販売する高級なバーボンとして製造された」といった話です。それはフィクションでしたが、ブランド名の由来がジョン・E・フィッツジェラルドの名前からなのは確かでした。しかし、同じ姓名の人物が複数おり、彼らが一人の人間なのか別の人間なのか明らかにするだけの証拠に欠けています。実はバーボンの歴史家にとって「ジョン・E・フィッツジェラルドは誰(何者)なのか?」は意外と簡単ではない問いなのです。なのでこの件は後回しにして、ある程度わかっているフィッツジェラルド・ブランドの情報を書き出してみます。

ハーブストはケンタッキー州の蒸留所からバレルを購入し、おそらくはブレンディングしてフィッツジェラルド・バーボンを造りました。1880年代後半から1896年頃までは主にオールド・テイラー蒸留所(当時RD#53、禁酒法解禁後にDSP-19となった)、またその他の蒸留所と契約してブランドを製造していたと見られます。ブランドにはバーボンとライウィスキーがありました。オールド・テイラー蒸留所のE・H・テイラーはハーブストにいくらかの未払金があって、この借金を支払うためにハーブストと契約を結んだのだとか。
ハーブストのリカー・トレードが成長するにつれて、彼は競合他社の存在や利用可能なウィスキーの高騰などから供給源の枯渇に直面し、レクティファイングのための十分な原酒を入手するのが難しくなったと思われます。そこで多くの成功した卸売業者がしたのと同様に、ハーブストも保証された安定的供給を確保するため、1900年頃、フランクフォート郊外のベンソン・クリークにある蒸留所を購入しました。地元の人々はそのプラントを代表的ブランドの名前からオールド・ジャッジ蒸留所(第7地区 RD#11)と呼んでいました。ハーブストはこの施設の運営のため、1901年にマネージャー兼マスターディスティラーとして、ケンタッキーの名高いウィスキー製造家族であるビクスラー家の一員ジェリー・ビクスラーを雇っています。禁酒法によって蒸留所が閉鎖されるまでの間、ここでフィッツジェラルドやオールドジャッジを含む全てのバーボンとライウィスキーが造られました。
_20191117_171843-948x1264-379x505

自らのプラントを所有することになったハーブストは巧妙な神話を紡ぎ出します。彼は蒸留所に自分の名前を付けてもケンタッキー州ではあまり反応がよくないと思ったのか、蒸留所はジョン・E・フィッツジェラルドという名のアイルランド人のディスティラーによって建てられたとマーケティングで語りました。実際の創設者はマンリウス・T・ミッチェルという人物で、1890年にオールドジャッジ蒸留所をマーサー郡バーギンからフランクフォートに移転する計画があり、蒸留所はおそらく1892年頃に建てられたと思われます。よくオールド・フィッツジェラルドのマーケティングで語られる1870年云々というのは、ハーブストが卸売業を始めた年でしょう。それと、どうもハーブストが購入する前の1899年に、既に蒸留所は他の所有者の手に渡っていたようで、もしかするとハーブストはそちらから購入したのかも知れません。それはともかく、ハーブストはもともと蒸留所の購入前からDBA(Doing Business Asの略)でジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所の名は使用していました。フランクフォートの蒸留所を購入したことで、1905年には「オールド・フィッツジェラルド」のブランド名を再登録します。そしてプラントの規模と能力を大幅に拡大、郡でも最大の蒸留所の1つとなり、ハーブストはそこをオールド・フィッツジェラルド蒸留所と称しました。

蒸留所の印象的な大きさにも拘わらず、ハーブストは広告で「昔ながら」の製法を強調しました。彼は特にポットスティルに強いコダワリがあったようで、本当かどうか分かりませんが、1913年の広告ではオールド・フィッツジェラルドとオールド・ジャッジをアメリカで製造されている最後の「オールド・ファッションド・カッパー・ポット・ディスティルド・ウィスキーズ」であると宣伝しています。また、以前ハーブストがオールド・テイラー蒸留所と契約を結んだのは、テイラーがポットスティルを使用していたからとされ、そもそもオールド・ジャッジ蒸留所を購入した理由もポットスティルが決め手だったとされます。ガラス瓶が安価になり始めた頃、企業は各々自社製品のボトルに特徴的なラベルを使い出し、ハーブストもオールド・フィッツジェラルドのラベルを作成すると、いつの頃からか(1910年代?)ラベルにポットスティルの図柄を入れました。店頭で販売されるクォートとフラスク・サイズのボトルに付けられたラベルは非常に有名になり、オールド・フィッツジェラルドの象徴的なラベル・デザインとして後世でも殆ど変わりません。
2019-12-07-19-26-25

ハーブストはフィッツジェラルド以外にも前記のブランドをリリースしましたが、言うまでもなく旗艦ブランドはオールド・フィッツジェラルドでした。おそらくは当初のコンセプト通り、蒸気船や列車の食堂で供されたり、高級なジェントルマンズ・クラブで人気があったのでしょう。ハーブストはウィスキーの流通を助けるため、1901年に中心地となるシカゴにオフィスを開設し、それを数十年間維持しました。他にもニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、ジェノアにオフィスを構えていたとされ、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスでオールド・フィッツジェラルド・バーボンを販売していたとか。
ビジネスの成功によりハーブストの名声が地元で高まるにつれ、彼は他分野にも進出しました。1904年には地元の金融機関であるミルウォーキー・インヴェストメント・カンパニーの投資家、設立者、副社長になり、その後も300万ドル以上の資産を持つシチズンズ・トラスト・カンパニーの設立を支援しました。
ハーブストには事業を継ぐ息子がいなかったため、年老いてもなお自分の主要なウィスキー蒸留および流通事業を管理し続けたと言います。禁酒法によってケンタッキーの蒸留所とミルウォーキーの酒類販売店の両方が閉鎖された時、彼は既に70代になっていました。そこでハーブストは、禁酒法期間中に販売できる薬用ウィスキー用として、オールド・フィッツジェラルドのブランド権をW・L・ウェラーに売却します。おかげでブランド名は存続し、大衆の酒飲みからの認知もあったでしょう。そして禁酒法解禁後にオールド・フィッツジェラルドはスティッツェル=ウェラー蒸留所を牽引するブランドとなって行きます。
ソロモン・チャールズ・ハーブストは1941年2月に98歳で天寿を全うし、3人の娘とその家族に見守られ、ミルウォーキーズ・グリーンウッド・セメタリーに埋葬されました。彼の死に先行すること31年前に亡くなっていた妻エマの横に。

2019-11-22-16-20-21-163x335
さて、ハーブスト時代のオールドフィッツが終わったところで、後回しにしていたジョン・E・フィッツジェラルドについて述べたいと思います。彼について複数の候補がいることは先に触れましたが、現在もっとも広く受け入れられ支持されている説は、ヘヴンヒルからリリースされている現代の小麦バーボン「ラーセニー」ブランドの元にもなっているエピソードです。その民間伝承のように知られる話は語り手によって語句や内容に多少のヴァリアントがありますが、概ね以下のようなものでした(少々、私の想像で補って脚色してます)。

…ハーブストの倉庫で働く従業員もしくは警備員に、味にうるさい熱烈な大酒飲みの男がいました。名前をフィッツジェラルドと言いました。彼は当時の多くの従業員のように、倉庫にいるあいだゴム製ホースまたは「ミュール」と呼ばれる器具を持ち歩きました。彼はバーボンの最高の樽を見つけると、栓を開け、ホースを差し込み、仕事中に勝手に飲みました。そうした樽が最終的にボトリング・エリアに到着すると、通常の樽より僅かに軽いのでした。フィッツジェラルドの鋭敏な嗅覚と所業を知っていた仲間の従業員達は、それらの樽を「フィッツジェラルズ」と冗談で呼びました。いざ販売されたウィスキーは非常に良いと評判となり、事情を伝え聞いたハーブストはフィッツジェラルドの名前のブランドを作ることにしました…

現実には、フィッツジェラルドは保税倉庫に配属された米国財務省のエージェントでした。当時、ウィスキー税は米国政府にとって重要な収入源であり、ウィスキーの倉庫は厳重に監視されていて、蒸留所には倉庫への全てのアクセスを制御する「政府の人」が敷地内にいました。ちゃんとに税金が支払われ、ウィスキーが政府の基準に適合しているか確認する彼らのみ、保税倉庫の鍵を持っていたのです。蒸留所のオーナーでさえ鍵を持っていませんでした。これは1897年のボンデッド・アクトの成立から1980年代初頭にシステムが変更されるまで続いています。上のエピソードで「警備員」と解釈されているのは、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っていたからでしょう。しかし、フィッツジェラルドが倉庫の鍵を持っているのなら、彼は財務省のエージェントでなければなりませんでした。
ジョン・E・フィッツジェラルドは、ディスティラーでも蒸留所のオーナーでもありませんでしたが、たまたま倉庫の鍵を握る立場にあり、グッド・バレルの良き裁判官でもあり、大酒飲みでもあったがため、個人的な消費のために最高の樽を頻繁にタップしたと推測されます。彼が勝手にウィスキーを味わう時、ハーブストのような蒸留所のオーナーや蒸留業務を指揮するディスティラーは殆どの場合そこに立ち会えません。これは謂わば無法者の政府保安官による「窃盗」です。そこからラーセニー(窃盗もしくは窃盗罪の意)・バーボンの名前は付けられました。ウィスキーを盗むとは言え、フィッツジェラルドは嫌われ者とは思えず、おそらく愛すべきキャラクターだったのでしょう。だからこそ蒸留所の人々の間で彼の味覚は称賛され、バーボンの特に優れた樽をフィッツジェラルド・バレルと呼んだ、と。やがて内輪の冗談は、ハーブストがオールド・フィッツジェラルド・ブランドの架空のプロデューサーとしてフィッツジェラルドを選んだ時、神々しい輝きを放ち始め、以後のマーケティング・スキームの基盤としてその影響は現代まで及んでいるのでした。
この説は多分に伝説の提供といった感が強いですが、一般的に事実として受け入れられています。では、他のジョン・E・フィッツジェラルドの候補はどうなのでしょうか?

一人は、上に述べたフィッツジェラルドと同一人物の可能性が高い男です。
1875年、大統領官邸にまで至る広範な汚職事件として悪名高いウィスキー・リング・スキャンダルの一環で、ミルウォーキーの歳入局のゲイジャー(計測係)が、ウィスコンシン州の不正な政府職員、蒸留業者、およびレクティファイヤーらと共に政府を詐取した陰謀の廉で逮捕されました。ゲイジャーの名前はジョン・E・フィッツジェラルドでした。一年後ワシントンにて他の二人のゲイジャー、一人のストアキーパー、四人のレクティファイヤーと共に起訴されました。法廷で彼は、過去15年間ミルウォーキーに住んでおり、1869年9月から1875年5月まで米国政府のゲイジャーとして雇用されたと証言しています(他の証言では、樽が空になったのを確認する責務の「ダンパー」としてフィッツジェラルドが賄賂の交渉をしたと記述されました)。詳細は明かさなかったようですが流れとしては、蒸留業者は素知らぬふりをして税務報告よりも多くのウィスキーを作り、彼はそれを黙認することで口止め料の賄賂を掠め、それを共和党候補者に渡していたらしい。ゲイジャーの義務は倉庫の監督および樽の税印の修正や政府への申告書の提出などでした。おそらく職名からすると仕事としては、穀物の計量やマッシュビルの順守を監視し、樽への充填やバレル・ヘッドへのブランド情報の遂行の見守り、またバレル販売やボトリングのために樽が引き出された時それらの中身の残りを測定したのだと思います。ウィスキーを含む酒類のアルコール含有量を決定する責任者という説明もありました。
この男が「財務省のエージェント」と同一人物だとすると、この話が前半生、先述のエピソードが後半生ということになるでしょう。フィッツジェラルドが不名誉なスキャンダルの後にまたもや政府機関で働いたとは考えにくいとする意見があります。逆に政治家との繋がりが明白なのだからコネで再度就職したというのも有り得るとする見方もあります。前者も確かにそうだと頷けますが、フィッツジェラルドは調査への協力に対して免責を与えられたとかいう話も聞きますので、後者の可能性も捨てきれません。少なくとも彼の6年間のゲイジャー勤務時代(1869~1875年)には、ハーブストはまだ蒸留所の購入(1900年頃)をしていないので、この時代にフランクフォートの倉庫で「ラーセニー」エピソードが行われたのでないのは確実です。考えられるのは、ハーブストがミルウォーキーに保税倉庫を所有していた可能性。1870年代または80年代頃にはボンデッド・アクトは成立していませんでしたが、保税倉庫はありました。どうやらハーブストはミルウォーキーにブレンディング工場は所有していたらしいので、保税倉庫も所有していたのなら「窃盗」がこの時代に行われていてもおかしくはありません。ただし、この頃から保税倉庫はストアキーパーと呼ばれる政府の警備員の管理下にあり、その仕事は誰もがゲイジャーがいない状態で倉庫に立ち入らないようにすることだったと言います。となると、ゲイジャーが倉庫に入るにはストアキーパーに気づかれないようにする必要があります。ゲイジャーの男による味見のための窃盗が実際に行われていたのなら、ストアキーパーとの共謀だったのではないかとの指摘がありました。また、このフィッツジェラルドの裁判記録は倉庫へのアクセスを示すものではなく、様々な蒸留業者とレクティファイヤーの間での税金の徴収のみを示しているそうです。そこにはハーブストの名も見られず…。つまり、ジョン・フィッツジェラルドが当時ミルウォーキーのゲイジャーだったという証拠はありますが、彼が実際にハーブストの倉庫で働いたという証拠はないのでした。しかし、同じミルウォーキーの同じ時代に酒に関わる二人のこと、フィッツジェラルドとハーブストが互いに顔見知り、或いは気の合う仲間だったというのは十分考えられるでしょう。ちなみに、この彼は1838年に生まれ、1914年に死亡、その死までミルウォーキーに留まったとされ、ミドルネームの「E」はエドモンドのようです。

では、次のもう一人。この人物の詳細は不明ですが、ミルウォーキーの国勢調査の記録から、同じ時期にその都市にボイラーメーカーであるジョン・E・フィッツジェラルドがいたことが判明しています(1910年の国勢調査で72歳)。或る慎重な歴史家はこの彼を、ハーブストのメンテナンスマンとして働いていたのではないかと思う、と述べていました。
続けて、もう一人。この人物のミドルネームの頭文字は不明ですが、エドモンドとエドムンドという名前の家族がいました。このジョン・フィッツジェラルドは1896年に63歳で亡くなり、生涯を船長と造船者として過ごしました。彼は老年期にはドライドックを設立し、そこは息子のウィリアム・E・フィッツジェラルドが不慮の死で1901年に亡くなるまで運営していたそうです。ウィリアムには造船業界に入らなかった息子がいましたが、家族経営の会社は彼のために船を造ってエドムンド・フィッツジェラルドと名付けたとか。このウィスキーや蒸留業とは無関係のフィッツジェラルドが取り上げられた理由は、実はハーブストがヨットに意欲的だったからでした。彼は年次開催されたミルウォーキーとシカゴ間のヨット・レースで授与されるS・C・ハーブスト・トロフィーを創設したと言います。これは或るフィッツジェラルド研究に熱心な方の情報ですが、なんと上記の「ボイラーメーカー」を取り上げた歴史家も、1889年の市の商工人名簿に蒸気船の運送会社の副社長としてジョン・E・フィッツジェラルドがリストされていると指摘しています。こうしたヨットへのハーブストの親和性や蒸気船とジョン・E・フィッツジェラルドの関係は、オールド・フィッツジェラルドのあの有名なマーケティングの文言(鉄道やらリヴァーボートやら蒸気船の顧客専用に特別に造られたと云うあれ)を連想させるのに十分でしょう。

最後の一人はディスティラーです。有名なサム・K・セシルの本のジョン・E・フィッツジェラルド蒸留所(オールド・ジャッジ蒸留所のこと)の説明にはこう書かれています。
「この工場はフランクフォート郊外のベンソンクリークにあり、ジョン・フィッツジェラルドによって建設された。ブランドにはオールド・フィッツジェラルド、オールド・ジャッジ、ベンソン・スプリングスがあり、ミルウォーキーのS・C・ハーブストにより配給された。1900年頃、フィッツジェラルドはブランドをハーブストに売却し、インディアナ州ハモンドに移り、そこで別の蒸留所の監督になった。」
どうもこの書かれ方だと、これまでの文面から判る通り、私の理解の真逆になっています。即ち、ハーブストはただのブランド販売代理店の経営者であって創造者ではなく後継者であり、フィッツジェラルド・ブランドはジョン・フィッツジェラルドというディスティラーが造った、と。どうやらセシルのこの説はWhit Coyteのリサーチを基にしているようで、個人的には信憑性に欠く気がします。しかし、フィッツジェラルド蒸留者説は、どうやら無根拠ではありませんでした。他の歴史家によると、ミルウォーキーからそう遠くない場所で同時代に蒸留事業に携わっていたジョン・E・フィッツジェラルドがいたと言うのです。そのフィッツジェラルドはシカゴ・インター・オーシャンによれば、「米国で最も優れた蒸留者の一人と見做される」プラント・マネージャーで、1901年にシカゴ近郊のハモンド蒸留所の秘書兼会計に任命されました。しかもそれ以前には、ウィスキー・トラストによるダイナマイト爆破事件で有名なあのシューフェルト蒸留所で17か18歳の頃からディスティラーとしてキャリアを始めたとか。このフィッツジェラルドは1865年生まれとされます。なのでゲイジャーと同一人物でないのは明らかとは言え、ハーブストと無関係とは言い切れないでしょう。ハーブストは自らの卸売事業のための供給を主にケンタッキー州の蒸留所と契約して確保していたとされますが、当時最も生産性の高い蒸留所はイリノイ州にあり、その中でトラストと提携していなかったシューフェルト蒸留所は、ハーブストのサプライヤーの一つだったのかも知れません。もしそうであれば、ハーブストが上手くフィッツジェラルドの高名な名前を利用した可能性もある気がします。或いは、ハーブストはシカゴにオフィスを構えていたので、知り合いだったのでは?

ここまで謎に満ちたミステリアスなジョン・E・フィッツジェラルドの候補を紹介して来ましたが、これらのフィッツジェラルドのうち2~3人が同じ人物だったなんてことは十分に考えられるでしょう。彼らが人生のキャリアに於いて転職を繰り返した同じ男性であるかどうかを決めるにはより多くの研究が求められます。一方で「ジョン・E・フィッツジェラルド」は非常に一般的なアイルランド系の名前でもありました。候補には加えませんでしたが、1880年代にボストンの内国歳入局の徴税係にジョン・E・フィッツジェラルドという男がいたそうです。同じ時代で同じ税収に関わる仕事かつ同じ名前、つまりはありがちな名前だった、と。もしかすると1800年代後半に、バーボンにアイリッシュ・ネームを付けることで、一部のエスニック・グループにアピールすることは、悪くないマーケティング方法だったのかも。孰れにせよ、どれもが憶測です。ジョン・E・フィッツジェラルドが何者であるかの詳細は、更なる新しい資料の発見を俟たねばなりません。
こうしたフィッツジェラルドについての謎、錯綜、様々な憶説の飛び交う混沌とした状況は、ひとえにハーブストのマーケティングのせいだと思います。ハーブスト(或いはその担当者)は、一つの真実を保ちながら壮大な脚色をして物語を紡ぐ小説や映画のように、またはそれらに登場する一人の人物のキャラクターが実在する複数の人間のエピソードに基づいて構成されたりするように、フィッツジェラルドの神話を創造したのではないでしょうか? 彼は自分の晩年に、ブランドを酒豪のフィッツジェラルドと名付けることは、意地悪で可笑しな内輪のジョーク(悪ふざけ?)であったことを明らかにしたと言われています。我々が捏造された架空の起源に翻弄されたり、謎解きに右往左往する姿を見たら、ハーブストは天国でくすくす笑っているのかもしれません。 

2019-11-29-00-16-12
さて、ここからはハーブストから新しい所有者に切り替わったオールド・フィッツジェラルドを見て行きます。
禁酒法期間中の1922~25年にかけて、ジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルはハーブストからオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを購入し、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所が禁酒法下でも政府に認められた薬用ウィスキーとして販売するようになりました。既存の在庫は禁酒法期間中に枯渇し、1928年、政府が薬用の在庫の補填に対してはウィスキーの製造を許可したため、アーサー・フィリップ・スティッツェルとパピー・ヴァン・ウィンクルはスティッツェル家に伝わる旧いレシピを使用してウィスキーを造ることにします。そのレシピとは、フレイヴァー・グレインにライ麦を使わず代わりに小麦を用いるものでした。彼らがこのレシピに決めた理由は、他のレシピと較べ短い熟成年数でより良い風味が得られると感じたこと、そして既存の在庫が減少するにつれてウィスキーが早急に必要となることを分かっていたからです。オールド・フィッツジェラルドが、後年「ウィスパー・オブ・ウィート(小麦の囁き)」と説明されることになるウィーテッド・バーボン、或いはウィーターと呼ばれるグレイン・レシピに変わったのはこの時からで、以前のオールドジャッジやテイラー産およびその他のものは恐らくスタンダード・ライ・レシピ・バーボン・マッシュビルを使用して造られていました。小麦バーボンは適切に熟成すると、伝統的なライ麦を含むバーボンよりも丸くて柔らかいテクスチャーを示し、スパイス・ノートの少ないより甘いプロファイルをバーボンに与える傾向があると言います。余談ですが、面白いことに上のパピーらの見解とは逆に、現代の考え方では熟成年数の若い小麦バーボンはあまり味が良くないと言うか、小麦はライ麦より穏やかな熟成を見せるので、小麦バーボンがライウィスキーまたはライ・レシピ・バーボンと同等の熟成感を得るためには樽の中でより多くの時間が必要とされているそうな。

_20191201_214720
(我々は優良なバーボンを造り、できれば利益を上げる、必要であれば損失を出してでも、常に優良なバーボンを造る)

禁酒法が解禁された1933年、W・L・ウェラー・アンド・サンズとA・Ph・スティッツェル蒸留所は正式に会社として合併し、老朽化したスティッツェル蒸留所に代わる新しい生産工場をルイヴィル近郊のシャイヴリーに建設します。それがスティッツェル=ウェラー蒸留所(DSP-KY-16)であり、1935年のダービー・デイにオープンしました。そこではジュリアン・パピー・ヴァン・ウィンクルの指揮の下、オールド・フィッツジェラルドは造られました。そのため、この先のオールド・フィッツジェラルドのブランド・ステータスは、ジョン・E・フィッツジェラルドでもハーブストでもなく、パピーと関連付けられて行きます。
スティッツェル=ウェラーは比較的小規模な独立所有の蒸留所であり、今で言うところのクラフト蒸留所に近い蒸留所でした。パピーが執った方法論は昔ながらの製法に依るものと言ってよいでしょう。それは品質への妥協のなさを意味します。ライ麦の代わりに小麦を使うことは割高でしたし、油性の口当たりをもたらすマッシュのためのトウモロコシの挽き方もより高価なプロセスでした。また、樽材には通常より厚いオークのステイヴを使用していたと言います。そしてパピーは恐らくウィスキーの工程全般に於いてプルーフの制御に重きを置きました。一説には50年代頃は、天然のバーボンの風味を維持するため、コラムスティルでの第一蒸留を85プルーフ、ポットスティル・ダブラーでの第二蒸留を117プルーフ、バレル・エントリーを103プルーフで実行したとか。これらは現代の水準と較べて驚くほど低い数値です。
蒸留所のドアの上の看板にはこう書かれていました。「化学者の立ち入りを禁ず。自然およびマスター・ディスティラーの昔かたぎの〈ノウハウ〉がここでの仕事を成し遂げる…ここは蒸留所であって、ウィスキー工場ではない」と。スティッツェル=ウェラーの初代マスターディスティラーであるウィル・"ボス"・マッギルは、テクノロジーではなく人間の感覚こそが良質なウイスキーを作ると考えました。この思想はスティッツェル=ウェラーの歴代マスターディスティラー全員に受け継がれ、施設の最後のマスターディスティラーであるエド・フットは業界に於ける蒸留の自動化を嘆いたと言います。彼らは皆、自らの口蓋と鼻を使って良質なウィスキーを造り上げたのであって、決してコンピューターがそれを造り出したのではなかったのです。

2019-12-02-21-58-41-485x684
(Time Magazine May 21 1956)

パピーはもともとW・L・ウェラー社の優秀なセールスマンだったので、マーケティングを怠ることもありませんでした。1950年代、彼は新聞や雑誌にシリーズ物の広告を掲載しています。そこでは、親密な口調で民俗的物語を訓話風にまとめてオールドフィッツを飲むべきだと語ったり、暖炉横でのゆったりしたお喋りのようなスタイルで自社の伝統的な製法を説明したりしました。こうしたパピーのユニークな個性を反映した広告形態は、おそらくオールド・フィッツジェラルドの評判を高めるのに役立ったことでしょう。

スティッツェル=ウェラーでパピーは幾つかのブランドを作りましたが、旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドが最も人気がありました。パピーの統制下ではオールド・フィッツジェラルドは常にボトルド・イン・ボンド規格のバーボンでした。熟成年数は4〜7年とされます。その後、8年熟成のヴァージョンとして「ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」が追加されました。8年は、保税期間のため政府に税金を支払う前に熟成させることが出来る当時の最大年数だったからです。1958年以降、保税期間が8年から20年に延長されたことで、ブランドには長期熟成ヴァージョンが更に加わり、それらは「ヴェリー・エクストラ・オールド・フィッツジェラルド」、「ヴェリー・ヴェリー・オールド・フィッツジェラルド」のラベルにて限られた数量でリリースされました。
2019-12-06-06-16-50
「オールド・フィッツジェラルド・プライム」は、パピー・ヴァン・ウィンクルがボトリングを拒否したバーボンです。冒頭に述べたように、プライム・バーボンは従来までのオールドフィッツの低プルーフ版な訳ですが、パピーはオールド・フィッツジェラルドがボンデッド・バーボンとしてのみ販売されるべきとの信念をもっており、人々がより低いプルーフを望むなら自分で水を足せばよいと考えていました。消費者が水にお金を払うのは馬鹿げていると広告で述べたそうです。しかし、パピーが引退した後、会社を引き継いだ息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル・ジュニアは、コストの削減や利益の増大にプルーフを下げている他社のブランドと競合するため、オールド・フィッツジェラルドでもロウワー・プルーフ・ヴァージョンの発売を求めていた販売員からの圧力に屈し、1964年にプライムは作成されました。ジュリアン・ジュニアは後に8年熟成で90プルーフの「オールド・フィッツジェラルズ1849」も導入しています。プライムは発売当初から数年間は86.8プルーフの製品で、数年後に86プルーフに落ち着きました。後年、ユナイテッド・ディスティラーズがブランドを所有した時、彼らはケンタッキー州では86プルーフ・ヴァージョンを作り続けましたが、ケンタッキー州以外の市場ではプルーフを80に下げました。更に後年、ブランドがヘヴンヒルに渡った時にはケンタッキー州でも80プルーフになります。

オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、長い間プレミアム・バーボンとして高い評価を得ていました。「もし君がバーボン飲みでないのなら、その理由は一つ、オールドフィッツを味わったことがないからだ」と堂々と宣言する1970年の広告もありました。控え目に言っても、ジュリアン・P・"パピー"・ヴァン・ウィンクル・シニアはアメリカン・ウィスキー産業の巨人でしょう。彼はバーボンが華やかりし時代の最も裕福な蒸留所オーナーでもなければ、ディスティラーでもなかったかも知れませんが、多くの課題に直面しても偉大なる指揮者として自分の会社と自らのバーボンの誠実性を維持し、彼の会社を統合しようと目論む巨大会社のウィスキー独占と激しく戦いました。残念なことに、1965年のジュリアン・シニアの死後、ジュリアン・ジュニアは会社を維持できませんでした。彼の社長としての在職期間はウィスキーの販売が減少し、ファーンズリー(S-Wの共同経営者)とスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、1972年、アート・コレクターとしても有名な億万長者の実業家ノートン・サイモンのコングロマリット(ノートン・サイモン・インコーポレイテッド)への売却を余儀なくされたのです。それでもジュリアン・ジュニアは業界に留まり、古巣のスティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利を契約に残したことで、禁酒法時代のブランドだった「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」を復活させ、その事業はジュリアン・ジュニアが1981年に亡くなった後も息子のジュリアン・P・ヴァン・ウィンクル3世に引き継がれたのですが、これはまた別の話。

1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所がノートン・サイモン社に売却されると、その名称は主力ブランドと同じオールド・フィッツジェラルド蒸留所に変更されました(*)。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。サマセットはジョニー・ウォーカー・ブランドの販売権を有していました。これが伏線となって、1984年、ジョニー・ウォーカーを所有していたディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収することでジョニーウォーカーの流通を管理します。その結果としてオールド・フィッツジェラルドも移行しました。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。この所有権の変更時に蒸留所の名称はスティッツェル=ウェラー蒸留所へと戻されました。
ユナイテッド・ディスティラーズはアメリカンウィスキーの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルに新しく建設したバーンハイム蒸留所に生産ラインを移管、以後オールド・フィッツジェラルドはそこで製造されて行きます。スティッツェル=ウェラーの最後のマスター・ディスティラーであるエド・フットは、そのままバーンハイムで同職に就き仕事を続けました。この頃、UD社はバーボン・ヘリテージ・コレクションの一つとして「ヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年」を発売しています。
2019-12-05-05-25-13-139x141
蒸留所の親会社はM&Aの末、巨大企業ディアジオを形成し、同社はアメリカンウィスキーの資産のうちIWハーパーとジョージディッケルを残して、それ以外のブランドの売却を決定。1999年、バーズタウンにあった自社の蒸留所を火災で消失していたヘヴンヒルは新しい蒸留施設を求めていたので、ディアジオはヘヴンヒルにバーンハイム蒸留所と共にオールド・フィッツジェラルドのブランド権とストックを売却しました。それ以来、今日までオールド・フィッツジェラルドはヘヴンヒルが所有しています。

ヘヴンヒルではブランド取得後、かなりの低価格で100プルーフのボトルド・イン・ボンドと80プルーフのプライム・バーボンが発売されていました。所謂「ボトムシェルフ」というやつです。オールド・フィッツジェラルズ1849もありましたし、販売量の少ないヴェリー・スペシャル・オールド・フィッツジェラルド12年も継承されていました。アメリカに於けるプレミアム・バーボンの隆盛を背景に、2012年9月、ヘヴンヒルはオールド・フィッツジェラルドの延長としてラーセニーを市場に導入します。その影響で、次第にオールド・フィッツジェラルドのラインナップは縮小され、2015年前後には終売の情報が流れました。実際、VSOFはギフトショップのみの販売となりそのあと製造中止、BIBも配布地域を減らして行きそのあと製造中止となったようですし、OF1849も市場から消えています。ただし、プライムは今現在海外でも日本でもネットで購入できます。しかし、これが単なる在庫なのか製造が続いているのかよく判りません。それとは別に2015年には「ジョン・E・フィッツジェラルド・ヴェリー・スペシャル・リザーヴ20年」という限定リリースもありました(375mlボトルで約300ドル)。これはその昔、ヘヴンヒルがオールドフィッツのブランド権を買収した時に、一緒に購入したスティッツェル=ウェラーのバレルを、或る時から熟成しないコンテナーに移して秘蔵していたものです。また最近の2018年になって、毎年春と秋の2回リリースされる限定版「オールド・フィッツジェラルド・ボトルド・イン・ボンド」が導入されました。50年代に販売されていたダイヤモンド・デカンターを復刻した華麗なデザインが人気を博しています。
2019-12-05-06-58-58-176x426

では、そろそろ今回レヴューするオールド・フィッツジェラルド・プライム・バーボンを注ぐとしましょう。

IMG_20191207_204117_981
Old Fitzgerald Prime Bourbon 80 Proof
推定2000年前後ボトリング。オレンジぽいブラウン色。アップルワイン、軽いヴァニラ、焦樽、アプリコットジャム、ラムレーズン、カカオ、サイダー。水っぽくも柔らかい口当たりでヒート感は殆どない。味わいはやや酸味より。余韻は短くウッディなスパイスとピーナッツ。
Rating:82/100

Thought:今回のレヴューで開封したのは、UPCコードからするとユナイテッド・ディスティラーズが販売していた製品もしくはヘヴンヒルへ移行した初期の物と思われます。一応カテゴリーをヘヴンヒルにしましたが、推定ボトリング年代が正しいとすると、この時代のプライムの熟成年数はNASながら多分4年なので、本ボトルはヘヴンヒルが所有する前のニュー・バーンハイムで蒸留された原酒の可能性が高いです。
こうしたエントリークラスのバーボンから想像される味より、ダークなフルーツ感が強く、風味全体が複雑でした。ただし、画像では判らないかも知れませんが、こちら購入時から液体に曇りがありました。飲めないほどの劣化はしていませんでしたが、開封当初からかなり酸化の進んだ「香りの開いた」味わいに感じました。しかし、その割りに余韻はあまり芳醇でないと言うか、個人的にはもう少し甘みが欲しかったです。


*この頃からマッシュビルやイーストにも多少の変更があったようです。スティッツェル=ウェラーのマッシュビルは約70%コーン、20%ウィート、10%モルテッドバーリーとされていますが、蒸留所が売却された後には長年に渡って変更が加えられ、新所有者はお金を節約するためにモルテッドバーリーの量を減らし、トウモロコシの量を増やしたとか。これは澱粉を糖へ変換するために商業用酵素を追加することを意味しています。イーストに関しては、パピーの在任期間中はジャグ・イーストを用いていたそうですが、新しい所有者はドライ・イーストを使用するようになったそう。しかし、それでもスティッツェル=ウェラーは依然としてレヴェルの高い生産を維持したと言われています。
ちなみにバレル・エントリー・プルーフも年々上昇したようで、パピー初期は本文でも記したように103~107プルーフあたり、最終的には114プルーフになったと見られています。

IMG_20190811_194125_275

現在では多くのクラフト・ディスティラリーの勃興を見るテネシーウィスキー・シーンですが、一昔前はたった二つの蒸留所しかありませんでした。一つは言わずと知れたムーア・カウンティのジャック・ダニエル蒸留所、もう一つがタラホーマ近くのコフィー・カウンティに位置するジョージ・ディッケル蒸留所です。現在、ジョージディッケルを所有するのは泣く子も黙る酒類業界の巨人ディアジオ。そのブランド・リストの中では、ジョニー・ウォーカー、キャプテン・モルガン、スミノフのような超メジャー銘柄と較べれば、近年知名度を上げたとは言え、ディッケルはまだ小さなブランドでしょう。しかし、その歴史と変遷は大変興味深く、上に挙げた英雄的ブランドや世界でトップクラスの売上を誇るジャックダニエルズにも勝るとも劣らないものがあります。そこで今回は、日本ではあまり語られることのないジョージディッケルとその前身であるカスケイド・ウィスキーの歴史を紹介してみたいと思います。

_20190928_130408
酒名となっている人物、ジョージ・アダム・ディッケル(1818年2月2日―1894年6月11日)は、エリザベス・ディッケルの婚姻外の子としてドイツのグリュンベルクで生まれました(ダルムシュタットという説もあった)。彼の父親はマルクトハイデンフェルトに住んでいたアントン・フィッシャーであったとされています。父親方の家族は、彼の叔父をゴッドファーザーとして立たせることによって間接的に認知したようで、名前は叔父のジョージ・アダム・フィッシャーにちなんで名付けられました。アントンの父親、アダム・フィッシャーは、ワイン樽を専門とするヴュルツブルク地域のマスター・クーパーだったと言います。ジョージ・ディッケルの幼年期の生活はよく分かりません。なので一気にアメリカでのサクセス・ストーリーへと飛びましょう。

1844年、ディッケルは26歳の時アメリカへ入国しました。そして1847年には後の活躍の舞台となるナッシュヴィルに移住します。1850年代半ばまでに、ディッケルはナッシュヴィルのユニオン・ストリートで靴とブーツの製造業を営み生計を立てていました。このビジネスは彼を忙しくさせ、1860年頃まで仕事を続けましたが、それは運命づけられた商売ではありませんでした。この間、彼は会社の後輩だった二十歳のオーガスタ・バンザーと結婚しています。彼女は抜け目のないビジネスウーマンであり、財務に長けていたとされ、会社の経理でも担当していたのかも知れません。ディッケルは1861年に酒類の販売を始めました。多くの成功した商売人のように、酒類以外に衣料品、家庭用品、食料品などの小売業もやっていたようです。

南北戦争時、1862年に北軍の兵士がナッシュヴィルを占領し、酒の販売を禁止すると密輸が横行しました。おそらくディッケルはナッシュヴィルの「ヤンキー」占領期間中(1862―65)、密輸業者であったと見られます。もっと言うと、影のボス的な存在だった可能性も否定出来ません。個人的な記録を殆ど残さず、性格が伝わるようなエピソードのないディッケルはミステリアスな男でした。彼は明らかに匿名性を求めたとされ、ビジネス取引ではバックグラウンドで動作することが好ましいと考えていたようです。それは出生やこの時期の商売と無関係とは思えず、危害から身を守る知恵だったのかも。それはともかく、占領後にディッケルらがリカー・ビジネスを設立し繁栄させた資本金は、この密輸活動から来たと考えられます。
ディッケルと戦時の密輸を結びつける直接的な証拠はありませんでしたが、ディッケルが長い間付き合っていたユダヤ系アルザス=ロレーヌ移民のシュワブ家は、ナッシュヴィルの違法ウィスキー取引に深く関わっていました。1859年以来ディッケルのビジネス・アソシエイトであったエイブラム・シュワブの義理の息子マイヤー・ザルツコッター(1822―1891)は大量の密輸酒を所持して北軍当局に捕まっています。ザルツコッターは、シュワブと合法でも非合法でも商売をしており、エイブラムの娘であるセシリアと結婚していました。ディッケル、エイブラム・シュワブ、ザルツコッターの3人はノックスヴィルとナッシュヴィルで様々な種類のビジネスを共にしたと言います。エイブラムの息子ヴィクター(1847―1924)も父親の足跡を辿りました。ヴィクターは当局を混乱させるために、青年時代に名前を何度も変えたらしい。彼ら全員が北軍の占領を回避するために出来ることをする善良な南部人だったので、少なくとも彼らの共同体の中での評判は悪くなかったようです。
ザルツコッターは下部を偽装したワゴンを使用して北軍の封鎖を通り抜け、禁止品を密輸して捕まると、有罪判決を受けてセントルイス近くのイリノイ州アルトンの軍事刑務所に入ります。彼は、姻戚が自分にウィスキーを負わせたのだ、と主張しましたが通用せず投獄されました。彼が妻の許を離れている間に、彼女(ヴィクターの姉セシリア)はルイヴィルへと逃れ、そこで売春婦になったそうです。彼は釈放されると、妻と離婚しました。ザルツコッターは1891年の死までディッケルと行動を共にします。

戦争が1865年に終わった時、ディッケルはサウス・カレッジ・ストリートに酒屋を持ち、それは市内最大の酒屋の1つでした。店舗は翌年までにサウス・マーケット・ストリートのより大きな場所に引っ越します。更にビジネスが成長し続けるにつれて、彼らは3年間で3回目の移転までしました。
ディッケルは1866年頃からウィスキー事業に参入し始め、マイヤー・ザルツコッターを監督として、その元義兄弟であるヴィクター・エマニュエル・シュワブをブックキーパーとして雇います。彼らは地元の蒸留所からウィスキーを購入して、彼ら自身のラベルのために最も円やかで最も優れたスピリットだけを選ぶことですぐに評判を得ました。この頃シュワブは、アメリカ化するために自らの姓から「c」を落としてクリスチャン教会に加わります(SchwabからShwabへ)。1867年、ディッケルはウイスキーをブレンドし始め、ライセンスなしで酒を整流(レクティファイング)したとして逮捕され、連邦裁判所で告発されましたが、これらの告訴にも拘わらず、ディケルの酒類小売は成功し続けました。そして1870年までに(1868年とする情報もあった)、ディッケルはノース・マーケット・ストリートに本社を置く酒類卸売会社、ジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーを結成します。当時の酒類卸売業者の典型的な例として、同社はこの地域の蒸留所から直接ウィスキーを購入し、それを樽やジャグ、または瓶で売っていました。それに加えて、ナッシュヴィル・エリアのブリュワーからエールとラガーを仕入れ、またワインやブランディも販売しています。更に同社はナッシュヴィルで直接酒を輸入した最初の企業の1つであり、スコットランドとアイルランドのウィスキー、オランダのジン、シャンペイン等も取り扱っていました。1875年の広告では、自社の特産品を「カッパー・ディスティルド・サワー・マッシュ・ウィスキー」や輸入シャンペインと表記し、全国に出荷致します、と記載しています。1871年に、ザルツコッターはディッケル・カンパニーのパートナーに昇格し、ヴィクター・シュワブはディッケルの妻オーガスタの妹エマ・バンザーと結婚しました。
1874年3月17日、マーケット・ストリートに火災が発生し、ディケル・カンパニーの本社は丸焦げになり、6万ドル相当のウィスキーで満たされた大きな倉庫も焼失します。1881年5月に起きた別の火災でも倉庫を焼失し、会社は75,000ドルの損失を被りました(ただし部分的に保険が掛けられていた)。この2回目の火災についての報道では、或る新聞はディッケルを「グレート・ウィスキー・ディーラー」と表現しています。ちなみに1882年、ディッケル・カンパニーはマーケット・ストリートに新たな5階建ての本社を建てました。この建物は今もまだナッシュヴィルの201〜203セカンド・アヴェニューに立っているとか。

さて、ここまでの話で分かるように、ジョージ・ディッケルは、一言で言えば成功を収めたドイツ生まれのアメリカ人実業家でした。1771年のエヴァン・シェルビーによるサリヴァン郡のイースト・テネシー蒸留所の設立から始まり、1900年代初頭の禁酒法の開始まで、ウィスキーの製造と販売はテネシー州の重要な産業でしたが、彼の卸売会社は流通とマーケティングにおいて重要な役割を果たしたと言えるでしょう。しかし、ディッケル自身はウィスキー・ビジネスマンであって、ディスティラーではありませんでした。
現在ジョージディッケルのブランドを所有するディアジオや、その前時代に所有していたシェンリーのような親会社から語られる歴史は、マーケティング・ツールとして用意されたものが殆どです。それゆえ誤解を招きがちなのですが、ディッケルはタラホーマ近くのウィスキー造りに最適な場所を発見して蒸留所を創設したのでもなければ、レシピをはじめとする諸々の製造法を完成させたのでもなく、彼の統制下の会社は蒸留所を所有したこともありませんでした。更にディッケルはカスケイド・ホロウを訪れたことすらありそうもなく、なんならウィスキーを一滴も飲まなかったとさえ言われています。タラホーマはディッケルの本拠地だったナッシュヴィルから約80マイルであり、彼の時代には近いとは言い難い距離でした。今日でも州間高速道路で片道約90分の道のりです。
2019-10-01-21-56-37
ディッケルがしたのは、ディスティラーから直接ウィスキーを樽で買い付け、ナッシュヴィルで瓶詰めして包装し、独自のウィスキーとして売ったこと。また彼ら卸売業者の多くは、異なるウィスキーをブレンドし、アルコール度数や風味を調整するためレクティファイヤーとも言われます。それは今日、我々がNDP(非蒸留業者)と呼んでいるものでした。

おそらくジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーの最も印象的で長続きした業績は、小さな町ノーマンディ近くのコフィー郡にある蒸留所で生産された非常に素晴らしいウィスキーの発見と宣伝でした。往時、テネシー・サワーマッシュ・ウィスキーの生産で最も有名な郡は、ロバートソン郡とリンカーン郡で、リンカーン郡の一部は後にムーア郡となり、ジャック・ダニエル蒸留所の所在地(リンチバーグ)として知られていますが、隣接するコフィー郡にもいくつかの蒸留所があったようです。当時カスケイド・ホロウ蒸留所として知られていたものは、1877年にジョン・F・ブラウンとF・E・カニングハムによって設立されました。この蒸留所の例外的なウィスキーの品質の多くは、使用されるカスケイド・スプリングスの水が優れていたことに起因しているとされます。いつの頃からか不明ですが、ディッケル・カンパニーはタラホーマ近くのカスケイド・ホロウ蒸留所で生産されるウィスキーを配給し始め、同蒸留所の最大の買い手になったと思われます。多くの量産品と同様に、同社は独自のラベルを付けることで他の競合製品と差別化しました。ラベル中央にはカッパースティルが描かれ、「GEO. A. DICKEL & CO.」、続いて「CASCADE DISTILLERY」と記載されています。そして伝説によればディッケルは、自分のウィスキーは世界最高級のスコッチと同程度であると信じていたので、ラベルには伝統的なスコットランドと同じ「e」なしの「Whisky」を採用しました。それは今日まで、そのように綴られる一握りのアメリカン・ウィスキーの1つのままです。

513px-George-Dickel-cascade-ad-1915-full

1879年、地元のビジネスマンであるマシュー・シムズがブラウンの株を買い取りました。1883年になると、もう一人のビジネスマン、マクリン・ヘゼカイア・デイヴィス(1852―1898)がこの蒸留所の操業に参加し、多分今で言うところのマスター・ディスティラーとなって、ウィスキーの品質を大幅に向上させる数多くの革新的技術を導入したと言います。カスケイド・ウィスキーのレシピを造ったのも彼と見られ、後の広告に登場する
「Mellow as Moonlight(月光の如くメロウ)」というフレーズもマクリンが夜間にマッシュを冷やした方法に基づいていました。ウィスキー自体の成功に最も責任を負う人物であると思われるマクリン・デイヴィスは、カスケイド蒸留所の一部の所有権者でもあり、彼の息子の一人はヴィクター・シュワブの娘の一人と結婚したという点で、彼とシュワブ・ファミリーは明らかに親密な関係にありました。

1886年にディッケルは乗馬事故で酷いダメージを受け、その損傷は決して完全には回復せず、彼がしていた多くのことを続けるのが困難になりました。ディッケルの健康状態が低下するにつれて、義理の弟であるシュワブは会社の日常業務を徐々に引き継ぎます。
1890年代初頭までに、カスケイド・ウィスキーはこの地域で最も人気のあるブランドの一つとなり、既に1881年にディッケル・カンパニーのフル・パートナーとなっていたシュワブはその人気を認め、1888年にシムズの持っていた株を購入し、カスケイド・ホロウ蒸留所の2/3の所有権を取得しました。この購入の一環として、ディッケル・カンパニーはカスケイド・ウィスキーの唯一の販売代理店となります。同年、ザルツコッターが体調不良のためウィスキー事業を終了しました。

同じ頃、ディッケル・カンパニーのもう一つの重要な事業が始まっています。それはサルーンの経営です。誰の発案か分かりませんが(シュワブ?)、同社は自社の取り扱い製品の需要を創出するため、1887年、有名なマクスウェル・ハウス・ホテルの近く、ナッシュヴィル最高のエンターテインメント地区にザ・クライマックス・サルーンをオープンしました。同社はこのサルーンをカスケイド・ウィスキーの「本部」として宣伝しています。そこで提供する娯楽は酒、ギャンブル、売春など。つまりはバー、ギャンブリング・ホール、売春宿の複合施設だったクライマックスは、ジェントルマンズ・クォーターもしくはメンズ・クォーターとして知られるエリアのプリンターズ・アレーに隣接する210チェリー・ストリート(現在の4thアベニュー・ノース)にありました。ドアの上に彫刻された四体の天使はサルーンへの訪問者を迎え、1階と地下はカンカン・ダンサーやその他のエンターテイメントが行われる劇場とサルーン・バー、2階にはバーとギャンブル目的で使用されるプール・テーブルがあり、3階は売春用のベッドルームという造りになっていました。3階でサービスを提供するガールズは階段に沿って立ち、男どもは階段を昇りながら相手を選んだと言います。ベッドルームには部屋を仕切る偽の壁パネルがあり、そこで働くガールズが警察からの急な襲撃の際に身を隠す場所となっていたとか。
1880年代後半から1914年まで、「紳士街」はサルーンや男性の関心に応えるアダルトでエロティックなビジネスが密集している地域でした。当時の自尊心のあるヴィクトリア朝の女性が通りを歩くことを拒否した場所であり、自分の評判を重視する女性はこのブロックに進出することはなかったそうです。「紳士街」の発達は、当時のいくつかの理想的な状況によるものでした。そうした歓楽街に欠かせない男性顧客の絶え間ない豊富な供給はその一つでしょう。それは、近くのオフィスビルからの弁護士や隣接するマクスウェル・ハウス・ホテルからの旅行ビジネスマンだったり、近くのカンバーランド・リヴァーからの建設労働者やリヴァーボートの乗組員たちです。また地元の警察による緩い取り締まりというお決まりのパターンも要因の一つでした。ナッシュヴィルの警察は「紳士の宿舎」で起きている違法行為を非常によく知っており、時折の摘発が行われましたが、それは名目上の罰金のみを課したに過ぎなかったようです。そして人気のあるテネシーウィスキーの蒸留所による支援もまた、その成長に重要な役割を果たしました。ディッケル・カンパニーはクライマックス・サルーンの運営の他に、建築家ジュリアン・ツウィッカーによって設計され、1893年に建てられたシルヴァー・ダラー・サルーンもヴィクター・シュワブが管理を支援していました。更にあのジャック・ダニエルも伝説によれば、チェリー・ストリートの全てのサルーンを訪れ、そこにいた全員にジャックダニエルズ・ウィスキーをおごったと言われています。各サルーンにはフォロワーが詰めかけ、彼らは次の場所で行われるおごり目当てにジャックを追い掛けて行ったのだとか。
紳士街で男達は、髪を切り髭を剃り、新しいスーツを買い、その頃トレンドになったランチを嗜み、サルーンでは酒を楽しんだり、時にはギャンブルや売春などのよりスキャンダルで違法な活動に参加したりしました。今より厳格なモラリティのあった社会的ルールの時代に、クライマックス・サルーンやその他のプリンターズ・アレーの施設の多くは、男性が非難がましい裁きを下されずに飲酒やギャンブル、或いはいわゆる醜態を晒せる場所だったのです。1914年にクライマックス・サルーンが最終的に閉鎖されるまでの数年間、地元の教会はアルコール消費とチェリー・ストリートの売春宿とサルーンの罪深さを説いて回りました。成長している全国的な禁酒運動がテネシー州でも定着し、一連の法律が最終的に州内の全てのサルーンを閉鎖してしまいます。プリンターズ・アレーとその周辺地域には違法なスピークイージーズのみが残りました。

さて、ここらでディッケル・カンパニーの本道へと話を戻しましょう。ジョージ・ディッケルの落馬事故には先に触れましたが、彼の健康は人生の最後の2年間で急速に減退し、1894年6月11日、ついに帰らぬ人となり、ナッシュヴィルのマウント・オリベット墓地に埋葬されました。ディッケルは成功した酒類事業以外でもナッシュヴィルに貢献していたようです。彼は都市のすぐ外にあるディッカーソン・パイクの家に住み、そこで大きな梨の果樹園を経営していました。また、ボランティア消防士をしていたり、1852年にはマスター・メイソンになったとか、テンプル騎士団のメンバーでもあったと伝えられます。他にも、写真家でありドイツ系アメリカ人仲間のカール・ジアースの1874年の州議会入りを支持したとか。カールはディッケルのよく知られた肖像写真の撮影者でした。おそらくディッケルは成功した実業家として、移民コミュニティや地域の活性化を助けたものと想像します。
ディッケルが亡くなった後、彼の妻オーガスタとパートナーのシュワブは会社を相続しました。オーガスタは生前のディッケルから、最初の有利な機会に事業を売却するよう指示を受けていましたが、彼女は売却を拒否し、シュワブと事業のシェアを保つことを選びました。しかし、彼女は会社の活動、蒸留所の経営やサルーンの運営や卸売業務の一部には積極的に参加せず、お金と時間はあったので、ミシガン州チャールボイにある夏用別荘やヨーロッパへの年間旅行などに出掛けて晩年を過ごします。今まで触れていませんでしたが、そもそも「Geo. A. Dickel & Co.」の「A」はオーガスタの略と思われ、彼女は会社の財務主任でもありました。1916年にオーガスタが亡くなった時、子供のいない彼女は会社の所有権をシュワブに託しました。裁判所の記録によると、彼女は非常にお金持ちだったようで、100万ドル(今日の2500万ドル)相当の株式、債券、証券をシュワブと甥と姪に残したそうです。この時にシュワブは蒸留所の所有権に加えて会社の完全な支配権を引き受けましたが、ジョージ・A・ディッケルのカスケイド・ウィスキーというブランドは知れ渡っていたので名前の変更は行いませんでした。 もし、この時ブランド名が変えられていたら、我々が今日飲んでいる「ジョージディッケル」は「ヴィクターシュワブ」になっていたかも知れません。

オーガスタの死と話は前後してしまいますが、1898年にはディスティラーのマクリン・デイヴィスの早すぎる死(45歳)がありました。マクリンの死後、息子のノーマン・デイヴィス(1878―1944)が一時的に蒸留所を運営したものの、運営権のマジョリティ・オーナーであるシュワブに訴えられ、その持分を売却することを強いられたと言います。先にちらっとだけ触れておいたのですが、マクリンの息子のうちポールはヴィクター・シュワブとエマ・バンザーの娘と結婚していますから、義理の息子の兄弟と争った訳です。ちなみにノーマン・デイヴィスは一流のビジネスマン、外交官として知られ、バーボン・マニア以外には父親マクリンやシュワブより有名な人物です。若い頃、1902年から1917年の間、キューバにおいて金融取引と砂糖交易を行い、数百万ドルと言われる財を築き、トラスト・カンパニー・オブ・キューバの社長を務めました。後に転じてウッドロー・ウィルソン大統領の財務次官補(1919年から1920年)や国務次官補(1920年から1921年)を歴任し、更にアメリカ赤十字と国際赤十字でも会長に就任しています。

デイヴィス家の3分の1のシェアを手に入れたシュワブは蒸留所の単独所有者となり、これでカスケイド・ウィスキーの供給経路と流通経路の両方を固めることが出来ました。また、カスケイド・ウィスキーは米西戦争(1898年)中の兵士に非常に人気があり、その名声は西海岸にまで広がったと言います。 そこでは、シュワブの義理の息子ポール・デイヴィスによって「偉大なウィスキーの街」と評されたサンフランシスコから配布されました。 1900年前後、シュワブはコカ・コーラの広告キャンペーンを開始したセントルイスのダーシー広告会社を雇い、カスケイド・ウィスキーを国内で宣伝し始め、その後国際的にもそうしました。1904年には蒸留所が拡大し、カスケイド・ウィスキーの需要が更に高まったのが窺われます。当時カスケイド・ウィスキーはシュワブの指導の下、テネシー州で最も売れたブランドの1つだったでしょう。1908年には、ブランドのその人気ぶりから、酒類業界誌「Mida's Criteria」は蒸留所と独特のリンカーン・カウンティー・プロセスについて説明する記事を書き、メディアと世間からの支持を得て蒸留所は成長を続け、同社の勢いは誰にも止められないようでした。テネシー州がウィスキーの製造を違法とするまでは。

20世紀初頭までに、禁酒はテネシー州の政治における重要な問題でした。第18修正条項が国家禁止をもたらす以前に、テネシー州では既にアルコールの生産、流通、販売を禁止するために州法を修正しています。そして全州禁止を解禁したのも1937年と遅かったのです。
テネシーの禁酒を推進するグループは、学校、病院、教会の敷地の近くで酒類の販売を禁止することで、より多くの成功を収めて行きました。1824年に可決された最初のそういった法律は、教会の近くでの酒の販売を制限しています。1877年には、公認の田舎の学校から4マイル以内でのアルコールの販売を禁止する法律を制定しました。十年後には、議会はそのフォー・マイル法を更に厳しめに改正し、事実上テネシー州の都市でない田舎の酒類ビジネスを禁止します。
発展する蒸留産業は、それと同じくらい禁酒運動とサルーンへの嫌悪感情をも生み出しました。禁酒運動初期の時代からサルーンは目の敵にされ、上流階級の改革者の目には貧しい人々の間で飲酒を促進した不法の巣でした。サルーンをなくすことができれば労働者階級の飲酒習慣もなくせる。そんな考えに基づいて、改革者達は1893年にアンチ・サルーン・リーグ(ASL)を創設します。彼らはプロテスタント教会と産業指導者の協力を求め、最終的に禁止を確立する憲法改正のアイディアを出しました。テネシー州の禁酒指導者たちはすぐにASLを受け入れ、1901年までに5,000人のメンバーを含む約60のリーグ支部がテネシー州にあったと言います。1902年、ノックスヴィル・ジャーナル・アンド・トリビューンは、ASLがテネシー州の政治の権力者になった、とまで書くに至りました。
テネシー州リーグは、禁止をもたらす手段としてフォー・マイル法を上手く利用しました。と言うか、フォー・マイル法はサルーン撲滅指導者が禁止をもたらすための装置だったのでしょう。1899年のピーラー法は、フォー・マイル法を人口が2,000人未満の「今後法人化される」町に拡大。1903年のアダムズ法案は、法案可決後に法人化または再法人化される人口5,000人以下の全ての町に制限を拡大します。1907年のペンドルトン法は、フォー・マイル法を大都市にまで拡大し、年末までに「ウェット」だったのはメンフィス、チャタヌーガ、ナッシュヴィル、ラフォレットのみでした。

1900年代初頭、シュワブは禁酒運動および禁酒法を要求する人々と熱烈に戦い、ナッシュヴィルでのロビー活動キャンペーンに数千ドルとも数万ドルとも言われる大枚を費やすと、少なくとも1つの機会に、アルコールの販売を断つのを目的とした法案を阻止します。しかし、彼の努力にも拘わらず禁酒の波は強すぎ、テネシー州で禁酒法案が通過してしまい、1910年の製造業者法により州でのアルコール飲料の製造と販売が中止されました。その帰結として、販売店、蒸留所、および醸造業者は事業を閉鎖するか、またはテネシーから撤退することを余儀なくされたのです。蒸留所は荷造りして州を去るために12ヶ月の猶予が与えられ、その多くは他州へと移り酒をテネシー州に出荷しました。
295px-George-Dickel-1909-ad-221x449
1909年にウィスキーの製造が禁止された直後、ジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーはケンタッキー州ホプキンズヴィルに事業を移し、次いでヴィクター・シュワブはルイヴィルを訪れ、アーサー・フィリップ・スティッツェルとカスケイド・ウィスキーを製造する契約を締結しました。全国的な禁酒法はまだ10年後のことであり、カスケイド・ホロウ蒸留所は閉鎖されましたが会社自体は存続し、ルイヴィルではヴィクターの息子ジョージの指揮の下、有名なA. Ph. スティッツェル蒸留所でウィスキーの生産を続けます。ウィスキーの品質が従来品と一貫していることを確実にするため、スティッツェル蒸留所に木製のメロウニング・ヴァットが造られ、スティッツェルがバーボンを蒸留していない日に、シュワブは自身のウィスキーを作るためにテネシーからクルーを連れて行きました。機器をリースするこの契約は蒸留酒業界ではユニークな取り決めと言えるでしょう。

禁酒法は1919年に連邦法になり、多くの蒸留所はウイスキーの製造を止めなければなりませんでした。それはアルコールの生産、輸送、販売を違法であると宣言しています(消費や私有は可)。1920年1月、禁法の全国的な開始と共に、薬用およびベーキング用スピリットの販売を除いた業界全体が事実上閉鎖されました。しかし、スティッツェル蒸留所は禁酒法期間中でも薬用スピリットを配布するためのライセンスを取得できた六社のうちの一社でした。法律では医師によって許可された場合、処方箋として酒は入手できたのです。おかげでカスケイド・ウィスキーは1920年に薬として販売され始めました。禁酒法期間中、スティッツェル蒸留所はシュワブに1ケースあたり50セントの使用料を支払ったと言います。

シュワブは禁酒法の解かれるのを見ることなく1924年に亡くなりました。ブランドの所有権は彼の子供たちに移ります。1933年に禁酒法が廃止された後、カスケイド・ウィスキーはケンタッキー州ルイヴィルに新しく出来たスティッツェル=ウェラー蒸留所に短期間着陸したと言われますが、これについて私はよく分かりません。S-W産のカスケイド・ウィスキーがあるのでしょうか? ご存知の方はコメントよりご教示下さい。それはともかく、1937年、シュワブの相続人は最終的にカスケイド・ウィスキーの権利を禁酒法後に業界を支配したビッグ・フォーの一つシェンリー・ディスティリング・カンパニーに売却しました。シェンリー社は会社とカスケイドの商標に100,000ドルを支払ったとされます。
1940年代から1950年代にかけてシェンリーは、カスケイド・ウィスキーをケンタッキー州フランクフォートにあるジョージ・T・スタッグ蒸留所(OFC蒸留所のこと、現在のバッファロートレース蒸留所)やインディアナ州ローレンスバーグにあるプラントで生産し、それを低価格で基本品質のバーボンやウィスキーのブランドとして販売していました。その時代のヴィンテージボトルの画像を見てみると、いくつかのヴァリエーションもしくはかなりの変遷があったと思われ、ラベルに記載される会社の所在地はレキシントンやらフランクフォートとインディアナ州ローレンスバーグとルイヴィルが並記されていたり、ボトリングの場所がバーズタウンだったり、蒸留がケンタッキーだったりインディアナだったりとパターンが豊富です。ウィスキーの種類表記には、「Blended Straight Whiskies」、「Straight Bourbon Whisky」、「Kentucky Straight Bourbon Whisky」の三種があり、ケンタッキー表記のものはGTS蒸留所、ケンタッキー表記のないものはインディアナ産、ブレンデッドは複数施設の混合ジュースではないかと推測します。
2019-10-13-09-19-23
ともかくも、シェンリーの所有する施設にはリンカーン・カウンティ・プロセスを行うメロウイング・ヴァットはありません。同社がカスケイド・ウィスキーを取得した時には、禁酒法前のオリジナルのレシピも書き留められていませんでしたが、幸いなことにシュワブはカスケイド・ホロウの元蒸留所従業員二人からオリジナルのレシピと製法を知ることが出来、この情報はシェンリーに伝えられました。 同社は同じレシピで製品を製造していたとされますが、多くの人々はケンタッキー州の品質がカスケイド・ホロウで製造されたウィスキーほど良くないと不満を述べたと言います。一部のテネシー人によって、それはテネシー・サワーマッシュ・ウィスキーではなく、バーボンの「劣った」ブランドであると考えられていました。

テネシーウィスキーの代名詞と言えば、今も昔もジャックダニエルズです。1950年代、ジャックダニエルズを所有していたモトロー家は、それを購入するという提案を受けました。彼らには数人の「求婚者」がいましたが、主な二人はルイヴィルにある家族経営のブラウン=フォーマン社と業界に強い影響力を持つ大企業シェンリー・インダストリーズ(1949年に社名変更)でした。シェンリーはより多くのお金を積みましたが、結局、そのレースにはブラウン=フォーマンが勝ち、1956年にジャックダニエルズと蒸留所を購入します。モトロー家はリンチバーグでの諸事をあまり変わらないようにしてくれる相手に売りたかったし、シェンリーの社長ローゼンスティールとの以前の取引を快く思っていなかったからでした。偉大なるシェンリー(と言うかローゼンスティールが?)は憤慨しました。 これはどうしたことだ?、ルイヴィルの小さな会社が契約を結んだ?、 ありえない!、と。しかし確かに、オールドフォレスターやアーリータイムズを所有する「小さな会社」は、世紀の取引を上手くやってのけたのです。シェンリーには拒否の内容と「ありがとう」と書かれた手紙だけが残されました。 
ジャックダニエルズを買収する試みプランAが失敗した後、おそらく恨みを抱いていたシェンリーは報復処置プランBを発動させます。ローゼンスティールは自らのポートフォリオに目を向け、だいぶ前に取得していたカスケイド・ホロウ・バーボンを見つけました。そして、それをそのルーツに戻し、ジャックダニエルズ・テネシーウィスキーと直接競合することを決めたのです。あわよくばジャックダニエルズを一掃、いや、せめてその市場シェアの半分は奪い取る意図はあったでしょう。言うまでもなく、そうはなりませんでしたが、彼らが成し遂げたことは、アメリカンウィスキー・ファンには非常に価値のあるものでした。

シェンリーはウィスキーが元のコフィー郡のサイトに戻ったなら、より良い製品を造れると信じて、そのためのステップを踏みます。禁酒法が廃止された後もコフィー郡は「乾いた」ままだったので、会社はウイスキーの製造を地元で承認するために特別な投票を必要としました。コフィー郡の有権者による適切な投票の結果、酒の製造を合法化する法案が可決します。そこでシェンリーは、訓練を受けた機械エンジニアでディスティラーのラルフ・ダップスを現地へ派遣し、蒸留所とブランドの復活という素晴らしい仕事を割り当てました。
当時シェンリーが所有していたルイヴィルのバーンハイム蒸留所で働いていたダップスは、そこでI.W. ハーパー等を造っていましたが、既にカスケイド・ウィスキーにも精通し、大のファンだったと言います。多分「よっしゃ、いっちょやったるで!」の精神で仕事に当たったでしょう。彼は家族をテネシー州に移し、先ずはオリジナルのカスケイド・ホロウ蒸留所の場所を見つけました。残念ながら、昔の施設を改修して再構築することは出来ませんでしたが、元の蒸留所から約1マイルのところに850エーカーの土地を取得し、ダップスはこれまでにない最高のテネシーウィスキーを生産できるであろう近代的な施設の建設を開始します。それは1958年のことでした。新しい蒸留所は古い蒸留所と僅かに場所は違うとはいえ、嘗て使用されていたのと同じカスケイド・ブランチ・クリークの水源を利用でき、またマッシュビルもオリジナルのマクリン・レシピを踏襲したと見られます。勿論、メロウイング・ヴァットを用いたリーチング・プロセスも再現されました。イーストや発酵槽まではどうだったか判りませんが、ダップスは可能な限りオリジナルに近いものを造ろうと努力した筈です。そして最初のウィスキーは1959年7月4日に新しい蒸留所で製造され、熟成の時を待ち、ついに1964年、ブラックラベルOld No. 8とタン・ラベルOld No.12がデビューします。この時からシェンリーはカスケイドの名称を止め、ジョージ・ディッケルの名前をブランドとして使用することにしました。そのようにした理由は想像でしかありませんが、一つには地に落ちたカスケイド・ウィスキーの評判を気にしたから、もう一つには従来品との違いを明確化して市場での混乱を避けるため、そして何よりライヴァルのジャックダニエルズと同じ人名のブランドにすることによって競合関係を明白にしようとしたのではないでしょうか。ただ、ジョージディッケルは成功を収めたとは言えますが、ジャックダニエルズを打ち負かすことは決してありませんでした。

2019-10-15-00-33-15-196x506
(Published in Ebony, September 1965 - Vol 20, No. 11)

伝統を最重視するアメリカのスピリッツ産業のマーケティングに於ける神話創出は、ビジネスのあざとい部分は脇に追いやり、ロマンスと伝説だけに彩られ、一人の英雄を仕立て上げることで消費者への訴求力を産み出すのが通例です(歓迎はしませんが、そういった伝説の一部がフィクションだったとしても、実際お酒を味わうのにマイナスにはならないでしょう)。ジョージディッケル・テネシーウィスキーの伝説や公式な歴史も殆どがマーケティングの専門家の作品で、その多くはシェンリー時代に作られました。現在ブランドを所有するディアジオはシェンリーより時代柄もあって誠実に歴史を扱いますが、現在のジョージディッケル物語にもザルツコッターやシュワブ、マクリン・デイヴィスやラルフ・ダップスの活躍が大きく描かれることはありません。しかし、直接的なルーツとして現在のジョージディッケルを造った功績は、ワイルドターキーがジミー・ラッセルの名と深く結び付くように、ダップスと分かち難く結ばれています。
ダップスは1977年に引退し、さらに30年生き、2007年に息を引き取りました。彼の引退後は弟子であるビル・ブルーノがマスターディスティラーを引き継ぎ、ジョージディッケルのユニークさへの責任を負っています。そして2000年代半ばまではデイヴ・バッカスが品質を管理し、次いでジョン・ランが2015年まで伝統を受け継ぎました。ジョン・ランは亡くなる前のダップスと話をした時、こう言われたと言います。「億劫な作業を変えるんじゃないぞ」と。おそらく歴代のマスターディスティラーは伝統製法を守ったでしょう。それでも、時代を経る間にウィスキーは大きく変わりました。しかし、それはウィスキーに限らず他の何事でもそういうものです。
ちなみにジョン・ランの後は、「マスター」の称号はないようですが、アリサ・ヘンリーが短期間ディスティラーとして切り盛りし、2018年からはニコール・オースティンが蒸留所を盛り上げています。

さて、ここで90年代から2000年代のドタバタ劇へと話を切り替えますが、その話題は過去に投稿したOld No.8の比較レビューで幾分詳しく取り上げたので、こちらではさらっと流して行きたいと思います。と、その前に別枠として二点だけ。シェンリーは1980年代にテネシー州でのボトリング作業を停止し、以来ウィスキーは他の場所へタンカーで運ばれている、との情報がありました。確かに、現在のディアジオもオフ・サイトでボトリングする傾向があります。また2014年あたりに、新しいボトリング・ラインが蒸留所に設置された、との情報もありました。ここら辺の事情がよく判らないので、ご存知の方はコメント頂けると助かります。それと余談ですが、旧来のカスケイド蒸留所の遺跡はテネシー州南部の19世紀後半のウィスキー産業を理解する上での考古学的意義のため、1994年に国家歴史登録財に指定されました。敷地内には、スティルハウスの基礎やスプリングダムなどの多くの物理的な遺跡があるそうです。それでは、多くのM&Aによりシェンリーからディアジオへ親会社が遷移していった時代のジョージディッケルを見てみましょう。

1987年、シェンリー社はギネスに買収され、同年ユナイテッド・ディスティラーズ合併の一環となりました。当然、その資産の中にはジョージディッケルも含まれています。1990年代初頭、ユナイテッド・ディスティラーズは大きな計画を立てました。それは、消費の低迷するアメリカ市場とは異なり、アメリカンウィスキーが成長産業となりつつあるヨーロッパとアジアで、大きくマーケットシェアを拡大することでした。そこで選ばれたブランドの一つがジョージディッケルです。ウィスキーのエイジングには時間が掛かるため、長期的な売上成長戦略には着実な生産計画と販売するのに十分な製品が必須となります。そのためマーケティング計画が成立した時、ジョージディッケルは大量に生産され始めました。しかし、ディッケル製品の海外販売はそれなりの成果は上げたものの、期待したほどには売れませんでした。それなのに誰にも注意を払われず、ストックは増え続け、生産コントロールもされなかったのです。
シェンリーが買収されてから10年後、1997年にギネスはグランド・メトロポリタンと合併して、スーパー・コングロマリットであるディアジオを形成しました。この組み合わせを達成するために、会社は多大な借金を引き受けました。そのため手早く現金を生み出すことと、可能な限りのコスト削減の要求から、資産の販売をすぐに始めなければなりませんでした。それは「我が社の」中核事業が何であるかを決める作業でしたが、彼らはアメリカンウィスキーは重要ではないという決断を下し、1999年の初めまでに、I.W. ハーパーとジョージディッケルを除くアメリカンウィスキーの資産(ウェラー・ブランドやオールドフィッツジェラルド・ブランドやニュー・バーンハイム蒸留所など)の全てを売却してしまいます。そしてまた、ジョージディッケル蒸留所の生産もストップしました。過剰な在庫もその理由ですが、加えて蒸留所は排水処理に関係する環境問題を抱えていたからです。大事ではなかったものの、修繕には多額の投資が必要でした。ディッケルの製造停止と同時に、ディアジオは宣伝活動も止めました。会社は絶えず収益を出さねばなりませんが、蒸留所の閉鎖とマーケティング予算がゼロになったことで、ディッケル・ブランドは短期間でプラスの収益になったと言います。
2002年になるとブランドはマーケティング予算を得て再び動き始めます。そして2003年秋には環境問題も解決され、生産が再開されました。マーケティングの効果か、単に時流に乗れたのか、定かではありませんがディッケルは突如として各地で売れ始めました。すると2007年半ば頃、「需要の驚くべき急増」と、1999年~2003年にかけての蒸留所の操業停止による原酒不足から、No.8ブランドは酒屋の棚から消えてしまったのです。それを解決するためディアジオは「カスケイド・ホロウ・レシピ」と記載された見た目がNo.8ブランドそっくりな3年熟成の新製品を発売しました。同社は「カスケイド・ホロウ」のパッケージを全く違う外観にすることも簡単に出来た筈です。が、なぜかそうはしませんでした。より収益性の高いNo.12ブランドとバレルセレクトは不足を報告されていません。ここに、ディアジオのちょっと怪しげな戦略が見え隠れしています。2013年には、熟成酒のストックが十分に回復したため「カスケイド・ホロウ」は中止されました。

2010年代に入ると、アメリカンウィスキーの需要は世界的に増え、現在のディッケル蒸留所も飛ぶ鳥を落とす勢いです。それは製品オファリングに端的に現れ、ライウィスキー、ホワイトウィスキー、ハンド・セレクテッド、タバスコ・フィニッシュ、ボトルド・イン・ボンドと次々に拡張を見せています。また蒸留所はアメリカン・ウィスキー・トレイルの一部であり、一般客へのツアーも大人気。ジョージディッケルは世界で最もユニークな蒸留所の1つであり、カスケイド・ホロウの生き方である「ハンドメイド・ザ・ハードウェイ」というスローガンを揚げます。蒸留プロセスのあらゆる段階に人の手が入り、細心の注意が払われるとか。
では、そろそろジョージ・ディッケル氏はじめ過去の先人を偲びながらテイスティングと参りましょう。

2019-10-09-20-51-50
PhotoGrid_1565284490969
George Dickel Superior No.12 Brand 90 Proof
推定2009年ボトリング。シロップをかけたパンケーキ、干しブドウ→アップル、燻した草、グレープフルーツ、炭。口当たりは円やかと言うよりはウォータリー。パレートはやや柑橘の爽やかさを感じる。液体を飲み込んだ後に軽いウッディなスパイスが現れ、余韻は短めでレザーもしくは墨汁のニュアンス。
Rating:82.5/100

Thought:これの前に開封していた少し古いNo.8と較べて、味の方向性はかなり近く感じました。グレイン・フォワードな香味を核にスモーキーなフィーリング、シロップとフルーツ、スパイスがバランスよくと言ったところ。ただ、アルコール度数が5度も高い割には濃厚になったという感じはせず、すっきりしている印象。良い面はちょっとだけヴァニラと甘味が強いこと、悪い面はコクがなく香ばしさのみに寄っていて後味の苦味が強いことかな。とは言え、ディッケルのハウス・スタイルの味わいはよく出てると思います。
問題はブレンドされている原酒の熟成年数なのですが、No.12は少し昔の情報だと10〜12年、最近の情報では6~8年とされています。本ボトルは2009年と思われるので、おそらくそれらの情報のちょうど中間くらいの時期のボトリングになります。飲んだ印象としてはそれほど長熟の深みは感じられないのですが、ディッケルのストレージは一階建てと聞きますから、穏やかな熟成感なだけなのかも。どうなんでしょうね?

Value:現行品に関しては、販売店により異なるものの、No.8との価格差があまりないことが時折あり、その場合は間違いなくこちらを買うべきです。

2019-08-09-08-42-39

バッファロートレース蒸留所の造るライウィスキー、サゼラック・ライ。その名称はニューオリンズのコーヒーハウス(バー)、延いてはバッファロートレースの親会社サゼラック・カンパニー、及び神話的なクラシック・カクテルの名前から付けられています。同社が年次リリースするバッファロートレース・アンティーク・コレクション(BTAC)に有名な兄(父)の「サゼラック18」があるため、通称「ベイビーサズ」と呼ばれたり、或いは熟成年数がNASながら実際には6年とされていることから「サゼラック6」と表記されることも。ちなみにBTACにはサゼラック・ライのバレルプルーフ・ヴァージョンとも言えそうな「トーマス・H・ハンディ」もあります。
ベイビーサズで使われるレシピは公表されていませんが、噂では51%ライ/39%コーン/10%モルトとされ、だとすると典型的なケンタッキー・スタイル・ライウィスキーのマッシュビルです。ところで、このウィスキーはBTACのサゼラックと同じ名前を共有するものの、現在のサゼラック18年は今のところまだバッファロートレースによって蒸留されたジュースではありません。初期の物はメドレー・ライと目され、後の物はバーンハイム、または過渡期にはそれらをヴァッティングした物である可能性も考えられます。バッファロートレースは、サゼラック18年を熟成が進まないようステンレスタンクに容れ何年も保持し、それをリリースしているのです。

多くの人が「サゼラック」と聞いて思い浮かべるのは、このライウィスキーでもサゼラック・カンパニーでもなく、大抵はカクテルのことだと思います。サゼラックはアメリカ初のカクテルであるとか、最古のカクテルであると言われることがあり、カクテルの歴史の中でも伝説的な扱いを受けていますから。ベイビーサズの発売初年度を調べていて、結局は特定できなかったのですが、その途中「サゼラックライ6は2000年にサゼラックの公式酒になった」との情報を目にしました。そうなるとベイビーサズは2000年から発売されているのかも知れません。発売年は措いて、とにかく今ではサゼラックに欠かせないのがライウィスキーとなっています。しかし、それは比較的最近の歴史です。その発祥の頃はサゼラックという名前のフランスのブランディが使われていました。現在のサゼラックは大雑把に言うとライウィスキー、角砂糖、ビターズ、アブサン、レモンが使われるのが標準的なカクテルです。
殆どの偉大な伝説は真実がしばしば噂と伝聞の背後に隠れよく見えません。そして、隠れてよく見えないからこそ人は惹きつけられ、ますますそれについて語りたくなります。そこで、今回レビューするサゼラック・ライ自体からはやや離れてしまいますが、せっかくなのでサゼラックの謎めいた起源と魅力的な歴史に少し触れたいと思います。

800px-Sazerac
(Wikimedia Commonsより)

世界中のバーテンダーの間で情熱的に挑戦されるカクテル、サゼラック。これほどニューオリンズに関連するカクテルはありません。そしてまた、これほど広範な説明を要するカクテルもなかなかないでしょう。その物語はアントワン・アメディ・ペイショーという男と彼自身のビターズから始めるのが適切なようです。なぜなら、ベースとなる蒸留酒の変更やアブサンとレモンはある時もない時もありましたが、ペイショーのビターズなくしてはサゼラックの誕生はなかったように思われるからです。

1803年、ルイジアナ買収(アメリカ視点の言い方)として知られる出来事がありました。南はニューオリンズから北はカナダまで伸びるアメリカ中西部全域、今のアメリカ全体の3分の1にも当たる土地は、当時ナポレオン・ボナパルト執政下のフランスの領土でした。フランスの君主であるルイ14世にちなんでルイジアナと名付けられたこの土地は、新しいナポレオン・アメリカの「夢」の一部でした。しかし、大陸での戦費の補填と政治的理由からルイジアナの土地とその首都ヌーヴェル=オルレアン(後のニューオリンズ)は、ナポレオンによって「若きアメリカ」に破格の1500万ドルで売られたのです。
LouisianaPurchase
(緑の部分がアメリカへ売却されたフランス領ルイジアナ、Wikimedia Commonsより)

このルイジアナ売却(フランス視点の言い方)には、黒人奴隷労働による砂糖プランテーションがフランス経済を支えていたエスパニョーラ島の西側約3分の1を占めるフランス領サン=ドマングの奴隷反乱の影響もあったでしょう。1697年からフランス領になっていたサン=ドマングは、フランス革命に刺激されて黒人奴隷の反乱が起き、1804年1月1日を以てハイチ共和国として独立を宣言、ラテンアメリカ地域では最初の独立国家となりました。フランスも1825年には承認しています。革命の結果、多数のフランス植民者がアメリカ大陸全体に移動し、暴動と経済崩壊を免れました。1809年までに一万人近くのフランス人難民がハイチからニューオリンズに迫害を逃れたそうで、その数は1年で都市の人口をほぼ倍増させ、今日まで続くニューオリンズ独特の文化を醸成させる要因の一つとなります。3年後の1812年、ルイジアナはアメリカ合衆国の公式州となりました。

この期間のある時点で、アントワン・アメディ・ペイショーもサン=ドマング難民の大衆と共にニューオリンズに逃れて来た一人でした。「ある時点で」と言ったのは、ニューオリンズへの到着時期が特定できないからです。一説には、奴隷による暴動と反抗が勃発した後、ボルドー出身の裕福な父親がコーヒー農園を所有していたサン=ドマング島から逃げることを余儀なくされ、1795年にニューオリンズに難民として到着した、とする情報もありました。しかし、ペイショーは1883年6月30日に80歳で亡くなったと死亡証明書に記録されているようです。そこから彼の生年は1803年頃と推定しているウェブ記事が多く、この人物がビターズのペイショーで間違いないのであれば、1795年にはまだ産まれてないことになります。
2019-08-28-04-47-28-172x526
(Wikimedia Commonsより)

不明確な到着時期は脇に措き、成長して薬剤師となったペイショーは、歴史的な影響力を持つことになるビターズを生み出しました。それは今日アメリカで2番目に売れているビターズであり、世界のトップ・カクテル・バーに欠かせない材料です。ニューオリンズ薬局博物館によると、ペイショーは1841年(もしくは1834年や1838年という説もあった)、フレンチクォーターの437ロイヤル・ストリートにファーマシー・ペイショーと呼ばれる自らの薬局を開設し、そこで特許を受けたペイショーズ・ビターズという名前のアニシードとリンドウの豊かでハーバルな治療薬を調剤することで有名になったと言います。聞くところでは、アンゴスチュラビターに匹敵するが、より軽いボディ、より甘い味、よりフローラルなビターズだったそう。そのような「アメリカン・アロマティック・ビター・コーディアル」、一口に言えば薬用強壮剤は当時流行しており、多くの同様の製品がありました。ペイショーに先行するビターズで、1712年にイギリスで特許を取得し、初期入植者と共にアメリカに導入されたエリクサーだったと云うストートン・ビターズはそうした一例です。もともとペイショーに匹敵する規模のライバルでしたが、そのレシピを早期に公開するというミスを犯し、多くの模倣品や偽物が市場にリリースされ、19世紀を通しては生き残れなかったのだとか。ストートン・ビターズは現在でも復刻販売されていますが、中身は昔の物とだいぶ違うようです。
では、なぜペイショーズ・ビターズは生き残ったのか。勿論、常にクオリティを保ち続け、ちゃんとに効能もあったのでしょうが、伝説によればペイショーはフリーメイソンだったようで、その社交会を深夜の薬局で開催し、ゲストのために下に述べるブランディ・トディに自分の秘密のビターズを混ぜて提供していたらしいのです。もしかすると、そういう友愛の輪も無関係ではないのかも知れません。取り敢えず、ペイショーの名前が州外で知られるようになるには、新しい飲酒傾向が出現するまで待たなければなりませんでした。

800px-Quatre_coquetiers_alu_01
(Wikimedia Commonsより)

1840年代(もしくは1830年代後半から)、ペイショーは病気に拘わらず彼のクライアントのために、水、砂糖、フランスのブランディを混ぜた初歩的なトディに特許取得済みのハーブビターを処方し調剤したそうです。それは「コクティ(coquetier)」と呼ばれるフランスの伝統的な卵型のカップで提供され、彼の顧客にとってこのミクスト・ドリンクは容器の名前で知られるようになり、評判を博しました。カクテルの語源を調べると、コクティが「コックテイ」とアメリカ発音に転化して更に「カクテル」になったと云う語源説も、諸説の一つとして大概載っています。これはカクテル誕生秘話として昔は(或いは一部地域では)十分な支持を得ていたようですが、実際には1806年(もしくは1803年とも)のニューヨーク州北部の新聞に「カクテル」という言葉は登場していたそうです。それはともかく、このミクスト・ドリンクは今日の目から見て純粋にカクテルと呼ぶべきものであったでしょう。けれどブランディ・トディにビターズを混ぜた最初の人物がペイショーだった訳ではないようです。ブランディは常に薬効があると信じられていたため、植民地の薬剤師や化学者の間で一般的に使われていました。ビターズも胃薬と強壮剤とされていますから、薬効が信じられていたのは同じです。ある意味この両者をミックスするのはイージーな発想だったのではないでしょうか。実際、上に述べたストートン・ビターズを使ったブランディ・カクテルも1835年頃までには既にあったようです。
恐らくここまでの段階でサゼラックのプロトタイプは出来上がっていました。しかし、現代の我々が知るサゼラックになるにはもう少し階段を昇らねばなりません。先ずその一歩はコーヒーハウスのタイムリーな時代のおかげで実現することになります。

19世紀初頭から中期のアメリカではコーヒーハウスの時代がピークに達し、知的な冗談から政治談義に至る社交の場として機能しました。ここで言うコーヒーハウスは日本の「喫茶店」のイメージよりは、秘密結社やクラブの母体となるような社交場であり、ビジネスの場であり、バーを兼ね備えた施設であったと思われます。初期のアメリカ社会におけるコーヒーハウスの役割は非常に重要であり、1773年12月に起こったアメリカ独立戦争の引き金となったことで有名なボストン茶会事件の策略はグリーン・ドラゴンというコーヒーハウスで練られ、1776年にはフィラデルフィアのマーチャンツ・コーヒーハウスが米国独立宣言を公に発表する最初の場所として選ばれました。1840年までにコーヒーハウスの重要性はそれほど変わりませんでしたが、カクテルやトディ、サワーやパンチの出現は酒の人気を引き継ぎ、殆どバーと言える施設になっていたようです。もしかすると、ニューオリンズはフランス移民が多かったため、自らを洗練されていると考えて、いわゆるバーをサルーンと呼ばずコーヒーハウスと呼んだのかも。

ペイショーの薬用ブランディ・カクテルの評判が高まると、多くの地元のコーヒーハウスは、ペイショーの奇跡的な強壮剤を熱心なパトロンに再現し始め、その飲み物はニューオリンズの街中に広まって行きました。サゼラック・カクテルが確立する前に、重要な役割を果たした人物の一人がここで登場します。ニューオリンズの起業家シーウェル・T・テイラー(1812―1861)です。1840年頃(?)、ペイショーの薬局のすぐ近くにある、15-17ロイヤル・ストリート(13エクスチェインジ・アレイ)にマーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスが設立されました。
「取引所(Exchange)」は、南北戦争前の都市、特にニューオーリンズのような賑やかな重商主義の港の重要な建物でした。名前からしてそこは本質的には人々がビジネスを行うための場所でしたが、集会には他のニーズ(銀行や法律サービス、読書室と研究、宿泊、レクリエーション、娯楽、酒など)があり、取引所は遥かに幅広い要望に対応したそうです。起業家は、旅行者のビジネスマンに対応する様々なアメニティを備えた華麗な多目的かつマルチサービスの「共有スペース」を作成し、そのような取引所は都市の社会的経済的に重要な施設になりました。南北戦争前のニューオリンズにある豪華なホテルの殆どは、多くのコーヒーハウスと同様にエクスチェインジとして名乗りを上げたと言います。

マーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスは、ニューオーリンズで最大のコーヒーハウスの1つであり、すぐに最も人気のあるコーヒーハウスの1つになりました。シーウェルはマーチャンツ・エクスチェインジの店頭で販売した多くの製品の唯一の輸入業者でもありました。そのような製品の1つに、フランスのリモージュで作られた「Sazerac de Forge et Fils」と呼ばれるコニャックがあり、おそらくその現地代理店を務めていたのでしょう。街の顔役で熟練したセールスマンであるシーウェルは、コニャックを多くのコーヒーショップに入れることが出来ました。そして自らもペイショーの調合でブランディ・カクテルにコニャックを使い始めた、と。これがサゼラックという名称の直接的な由来です。
2019-09-09-20-30-06
1850年頃、シーウェルはコーヒーハウスの日々の運営を友人のアーロン・バードに引き渡し、道路を渡った16(もしくは13&15)ロイヤル・ストリートに輸入品を販売する酒屋を開きました(シーウェルが亡くなった1861年にはこの事業もアーロンが引き継いだようです)。若きトーマス・H・ハンディが店員として雇われたのはここです。この頃には、テイラーがリモージュから輸入したコニャックを使ったカクテルは、常連客の間で大変な評判となっていました。他の施設とは異なり、マーチャンツ・エクスチェインジでは、カクテルにサゼラック・ブランディとペイショーズ・ビターズのみを使用していたと言います。1852年頃、シーウェルが輸入したコニャックを称えるため、或いは自らのサーブの人気を更に促進するため、アーロンはコーヒーハウスをサゼラック・コーヒーハウスと改名しました。人気のブランディにちなんで命名されたという事実は、コーヒーが最も有名な飲料ではなかったことを示唆しています。サゼラックをコーヒーハウスのハウスドリンクにしたのがシーウェルなのかアーロンなのかハッキリしませんし、またその頃の具体的なレシピの開発者が誰なのかもよく判りません。サゼラックは、ペイショーが1830年代に考案したとするウェブサイトもあれば、オーナーのアーロンが考案者であると伝えられることもあり、謎に包まれています。ペイショーがレシピの改良等でアドヴァイスをしていた可能性も十分考えられますが…。物語はここで終わりではないので先を急ぎましょう。

1860年の初めまでに、アーロンはジョン・B・シラーに事業を引き継ぎました。この人物が何者なのか調べてもニューヨーク出身のバーテンダーらしい、ということしか分からなかったのですが、1959年にハウスドリンクをサゼラックと命名したのはシラーだとする情報もあります。ジョン・B・シラーは、シーウェルの経験豊富な店員でブックキーパーだったトーマス・H・ハンディが酒屋から離れ、サゼラック・コーヒーハウスの支配権を握るまで経営を続けしました。
Sazerac
1869年、ハンディはサゼラック・コーヒーハウスを購入し、酒類のブランドも取得して販売を開始しました。現在のサゼラック・カンパニーの創業者はハンディとされるところからすると、この時が会社のルーツと言えるでしょう。会社のロゴには「SINCE 1850」と書かれていますが、これは恐らくサゼラック・コーヒーハウスの始まりを指しています。1870年頃、ペイショーは薬剤店を閉鎖し、新しいパートナーのハンディと取引を始めました。1871年までに新しいトーマス・ハンディ・カンパニーは、サゼラック・ブランディの唯一の輸入業者であると同時に、ペイショーズ・ビターズの製造業者でもあり、ニューオリンズの「お気に入り」の独占販売を行っています(サゼラック・カンパニーの公式サイトでは1873年にペイショーズ・ビターズの権利を買い取ったとしています)。コーヒーハウスが密集している都市で、サゼラックはハンディの所有権の下で最も輝いていました。彼はその名前から「コーヒー」を落とし、やがてニューオリンズの高級な飲酒を定義するようになります。サゼラック・ハウスは、おそらく19世紀後半に市内で最も有名な飲酒施設であり、飲料、ビジネス、娯楽の社会的中心地だったでしょう。
しかしこの頃、ヨーロッパでは深刻な事態が発生していました。ワインの歴史を学んだことのある人には余りにも有名な、現代世界の飲酒習慣を永久に変更したと言われるフィロキセラの流行です。

フィロキセラ(和名でブドウネアブラムシ=葡萄根油虫)は、ブドウ樹の葉や根にコブを生成してその生育を阻害し、やがては枯死に至らせる極微の害虫。その幼虫は体長1ミリほどで、最初は昆虫であることすら判りづらく、土の中の根につくため直接薬剤をかけることが出来ませんでした。また成虫になると羽が生えて雲霞の如く飛散するので被害の拡大も迅速でした。品種改良のためヨーロッパへ移入したアメリカ原産のブドウの苗に付着していたことで、抵抗力を持っていないヨーロッパのブドウの大部分を一掃し、全滅に近いほどの被害を与え、多くの歴史あるワイナリーがそのワイン畑と共に失われたと云います。
Dactylosphaera_vitifolii_1_meyers_1888_v13_p621
1850年頃に北米から英国の港に船で到着し、その後10年で実際の被害が始まりました。1863年、先ずローヌ河畔の葡萄畑に被害が出始め、被害はあっという間に各地へ伝播して、フランスは約20年間に100万ヘクタールの葡萄畑が破壊されます。 そして1870年にはオーストリア、1883年にはイタリア、1895年以降にはドイツにまで拡がりました。1890年までにヨーロッパのブドウ園の約3分の2が感染または破壊されたと推定されます。フィロキセラの蔓延を食い止めようとする必死の試みにより、農民は化学物質からヤギの尿の噴霧、生きているヒキガエルを埋める等、あらゆることを試みますが、全て徒労に終わりました。葡萄栽培農家とワイン産業は危機的状況を呈し、フランス経済全体にも打撃を与えたため、政府は救済方法を発見した者に莫大な報償金(32万フラン以上)を約束したほどです。 
最後に見出された解決策は、治療法ではなく予防法でした。この害虫に抵抗性のあるアメリカ系の台木にヨーロッパ系の葡萄を接ぎ木することで、更なる発生が回避されたのです。当初は野卑なブドウの血が高貴なヨーロッパ種の血を汚すと信じていた人が多く、ブルゴーニュでは事態の深刻さに余儀なくされる1887年まで、この接木を公式には禁止していたのだとか。結局、他に有効な対策が無かったため、この接木作業がフランス全土で進められ、19世紀末にはフィロキセラの被害を克服します。しかし、 この作業には莫大な費用が掛かりました。収穫は数年間は見込めず(少なくとも5年くらいはまともなワインは造れない)、その経済的負担に耐えかねて没落していったワイン産地が少なくなかったそうです。

葡萄産業はフィロキセラの流行により完全にリセットされ、ワインやワインベース製品の供給は低下または完全に停止しました。当然のことながら、アメリカが輸入するブランディ、コニャックも激減しました。あの「Sazerac de Forge et Fils」を販売する会社も1880年に閉鎖しています。しかし、ニューオリンズの街はまだサゼラックを望んでいたので、正確な年は不明ですが、ハンディはコニャックをメリーランド産のライウィスキーに置き換えました。そしてヨーロッパがようやくフィロキセラを克服し、ブドウ畑が回復した時でさえ、ライウィスキーはサゼラックの主要成分としての地位を固め、そのまま標準的なレシピとなって行ったのです。

2019-09-09-20-32-16-252x423
19世紀後半には、アントワン・ペイショーの死(1883年)とトーマス・ハンディの死(1893年)がありました。ハンディが亡くなる前に彼の会社は、すぐ飲めるように予め混ぜられたサゼラック・カクテルのボトルを販売し始めています。更に同社はロイヤル・ストリートでサゼラック・バーを運営していました。ハンディの元秘書であるC・J・オライリーはハンディの事業権を購入し、サゼラック・カンパニーとして経営を始め、同じ名前でアメリカンウィスキーも発売しています。以来、禁酒法期間中のデリカテッセン及び食料品ベンダーとしての任務を除き、サゼラック・カンパニーは今日まで存続し続け、ニューオリンズを本拠地とする大手企業になりました。バーボンファンにはお馴染みのバッファロートレース蒸留所やバートン蒸留所などのウィスキー全体は言うまでもなく、その他のスピリッツやペイショーズ・ビターズも産み出しています。

20世紀が始まるとモダンカクテルも始まり、サゼラック・カクテルは1908年にようやくウィリアム・T・ブースビー(別名カクテルビル)の本に登場しました。ハンディは死の直前にサゼラックのレシピをブースビーに渡したと言われています。
今まで触れて来ませんでしたが、これまでの期間のある時点で、現代サゼラックの要素の1つが追加されました。アブサンです。これが二つの古典的カクテル、オールドファッションドとサゼラックの決定的な違いと考えることも出来るでしょう。この発明はリオン・ラモテというバーテンダーによるものとされています。ただし、いつの出来事なのかが参照する情報によってまちまちで、1860年頃のシラーの時代とするものと、ハンディ在職期間中であるとするものがありますが、最もよく見かけるのは1873年にラモテがアブサンのダッシュ(もしくはリンス)を追加したという説です。

アブサンはワームウッド(和名ニガヨモギ、学名Artemisia absinthium)を主原料とし、他にアニシードやヒソップ等から作られるハーブリキュールです。原料のワームウッドは昔からフランスの東部ポンタルリエや、スイスのヴァル・ド・トラヴェール地方で育てられていることから、この二つの地域が伝統的なアブサン発祥の地とされています。18世紀末に薬として誕生してから約100年以上のあいだ親しまれてきましたが、ワームウッドに含まれる精油成分ツジョンを過剰に摂取すると幻覚や錯乱などの向精神作用が引き起こされると信じられ、1898年にベルギーの植民地であったコンゴ自由国で禁止されたのを皮切りに、20世紀初頭にはヨーロッパでも1905年(1907年とも)のスイスに始まり、ベルギー、オランダ、フランス、ドイツ、イタリアなどでアブサンの製造・流通・販売は禁止されました。アメリカも1912年には禁止しています。
このため「犯罪成分」を用いないアニス主体の様々なリキュールがすぐに市場に出現しました。パスティス(仏語の「似せる」に由来する)はその一つ。専門家に言わせると本物のアブサンとは全く異なるフレイヴァーだそうですが、サゼラックのレシピから違法になったアブサンを置き換えるために、パスティスはいくらか使用されたと見られます。しかし、1920年にアメリカでは全面的な禁酒法が実施され、それどころではなくなりました。サゼラック・カンパニーは13年間の「乾いた時代」を食料品店や惣菜店として切り抜けます。

禁酒法が解けて直ぐ、レジェンドラ・ハーブサントという名前の新しいスピリットがニューオリンズで一般販売されました。このアニス風味のアメリカ製パスティスこそが、サゼラックのアブサン禁止に対する解決策を提供することになります。
2019-09-06-00-43-29-267x346
第一次世界大戦中、フランスに駐留していたジョセフ・マリオン・レジェンドラ(1897-1986)は、同地でレジナルド・P・パーカーというオーストラリア人の仲間と親しくなりました。パーカーは後にマルイユにポストされ、そこでパスティスの作り方を学びます。戦後、レジェンドラはニューオリンズに戻り、父親が所有するドラッグストア事業に参入。その後しばらくすると、パーカーもニューオリンズへ移って来ました。パーカーは個人消費のためにパスティスを作りたいと思い、レジェンドラに必要なハーブを輸入させ、禁酒法下でもアクセスできる処方箋ウィスキーを使用しました。彼はどのハーブを調達するかを知らせるためにレジェンドラにレシピを教えています。1933年12月5日にアメリカの禁酒法が終了した時、レジェンドラはパスティスを販売するのに適した立場にあった訳です。
1934年に初めて販売されたそのレシピにはアブサンの必須成分であるワームウッドが全く使われていないにも拘わらず、彼はそれを「レジェンドラ・アブサン」として生産しました。連邦アルコール規制局はすぐに「アブサン」という言葉の使用に反対し、名前は「レジェンドラ・ハーブサント」に変更されます。「魔酒」のイメージが定着していたアブサンに対して「聖なるハーブ」という正反対の意味の製品名は、ワームウッドのフレンチ/クレオール名「Herbe Sainte」から由来するようですが、偶然か故意か「Herbsaint(ハーブサント)」と「Absinthe(アブサン)」という「r」を欠落させるだけでほぼアナグラムになる秀逸なネーミングだと思います。「フランスの名前、フランスの起源、そして洗練された魅力のあるフランスのレジェンドラ・ハーブサントは、特徴的なヨーロッパの飲み物です」なんて宣伝文句も当時あったそうですが、実際にはニューオリンズの飲み物であり、地元産の芳香性の高いアニス酒としてこのスピリットは、しばしば柔らかいパスティスに代わるサゼラック・カクテルへの人気ある追加となりました。
レジェンドラはドラッグストアの取引に加えて、ビジネスとして経営しようとするのが面倒になり、或いは十分な利益が得られないことに気付き、1948年(または1949年)、ハーブサントをサゼラック・カンパニーに売却します。そしてサゼラック・カンパニーは買収以来ハーブサントを販売し続け、アブサンが合法となった後でも地元ニューオリンズでは、サゼラックにハーブサントを用いて造るバーは多かったのだとか。ちなみにアブサンは1981年に世界保健機関(WHO)がツジョン残存許容量10ppm以下なら承認するとしたため製造が再開され、特にルーツに拘ったバーテンダーがいる世界の国では、アブサンを用いたサゼラックが復活を遂げています。

今日、サゼラックの名はニューオリンズ市内にあるルーズベルト・ホテルの1940年代を再現したバーを飾っています。ホテルは元々、ドイツ人移民のルイ・グルネワルドによって建てられ、1893年に「ホテル・グルネワルド」としてオープンしました。1915年、セオドア・グルネワルドは父親が亡くなったときにホテルの唯一の所有者になりました。彼は1923年初頭までホテルの所有権を保持し、医師の助言に基づいてビジネス上の利益を全てヴァカロ・グループに売却しました。購入後、新しい所有者は別館と同じ高さの新しい塔を建設し、別館の内部を再設計します。1923年10月31日にホテルは、ニューオリンズ市にとってパナマ運河の建設に多大な労力を費やしたセオドア・ルーズベルト大統領を称えるため、正式にルーズベルト・ホテルに改名されました。
1925年10月1日には新しいバロン・ストリートのタワーがオープンします。そこには理髪店、コーヒーショップ、通りに面した店舗が追加されました。その頃、サゼラックにとって一人の重要な人物が頭角を現します。ホテルで理髪店のマネージャーとしてキャリアを始めたシーモア・ワイスです。彼は後に広報やアソシエイト・マネージャー、アシスタント・マネージャー、そして最終的にホテルのゼネラル・マネージャーに昇進しました。1931年には副社長兼マネージング・ディレクターとなり、1934年12月12日にワイスのグループへホテルは売却されました。ワイスによる購入後、ホテル全体で大幅な改装とアップグレードが段階的に行われ、1938年8月1日にメインバーがオープンします。
1949年、ワイスはサゼラック・カンパニーから「サゼラック・バー」という名前を使用する権利を購入しました。ホテルはサゼラック・カンパニーに名誉ライセンス料を支払います。バーは禁酒法以前エクスチェインジ・プレイスにあり、その後はカロンデレ・ストリートにありました。ワイスは元酒屋だったバロン・ストリートの店舗を改装し、1949年9月26日にサゼラック・バーをオープンします。第二次世界大戦前、サゼラック・バーは「男性のもの」でした。女性の利用はマルディグラ当日のみだったそうです。そのハウス・ルールが変更されたのはこの時です。ワイスはバーのスタッフから「キャニー・ショーマン」と呼ばれ、美しいメイクアップ・ガールを募集して、オープン初日にチャーミングな華やかさを加えました。街中の女性が会場に集まり、当日には女性客が男性客を上回ったのだとか。イベントは「サゼラック・ストーミング」として知られるようになり、記念日は毎年ホテルでヴィンテージの衣装による乾杯で祝われます。1959年、バロン・ストリートにあるサゼラックバーを閉鎖し、名前をメインバーに移すことが決定されました。そこが今でもサゼラック・バーと呼ばれる場所です。
ワイスが年を取るにつれて、彼はホテルの買い手を探し、1965年11月19日にベンジャミンとリチャード・スウィッグに買収されたホテルは、最初に名前をフェアモント・ルーズベルト、その後フェアモント・ニューオリンズに変更されました。ホテルは長年に渡って近代化し始め、サゼラック・バーもカーペットやモダンな家具、新しい照明等に更新されました。1990年代後半にも大規模なホテルの改修が行われています。しかし、フェアモント・ニューオリンズは2005年8月のハリケーン・カトリーナによる甚大な被害を受け、いくつかの修理作業が行われましたが、作業は2007年3月に不完全な状態で中断されました。2007年8月には新しい所有者による買収が発表され、1億4500万ドルの改修のあと、ウォルドーフ・アストリア・ホテルズ・アンド・リゾーツを選択して施設を管理、2009年に漸くホテルは再開されます。この時、所有者はホテルの名前を1923年から1965年まで保持していた「ルーズベルト」のタイトルに戻しています。ホテル全体が近代的なシステムで完全に改装されましたが、デザインは1930~40年代の壮大な時代を再現したものとなり、サゼラックバーもアールデコ調の1940年代の外観に復元され、クラシックな服装で女性が着飾ったサゼラック・ストーミングの再現で再開されました。

2008年3月、ルイジアナ州上院議員エドウィン・R・マレーは、サゼラックをルイジアナ州公式カクテルとして指定する上院法案を提出しました。この法案は2008年4月8日に否決されてしまいます。しかし、6月23日にさらなる議論が行われ、ルイジアナ州議会はサゼラックをニューオリンズの公式カクテルとして宣言することに同意しました。晴れてサゼラックはお墨付きを得たのです。それが理由の全てではないでしょうが、その後の10年間でサゼラックはニューオリンズを超えて人気を再燃させました。ネットの普及による情報の取り易さも手伝ったのかも知れません。20世紀初頭までにサゼラックのようなシンプルなカクテルは希少になり、近年ではミクソロジーの流行も見ました。それでもサゼラックは、クラシックなカクテルの最高峰の1つであり、身に纏った歴史の深みはその名を輝かせ続けています。
そして、その名声を得た元の建物は取り壊されなくなりましたが、サゼラック・カンパニーは、カナル・ストリートとマガジン・ストリートの交差する角に立つ誇らしげな歴史的建造物を改築し、サゼラック・ハウスとして運営することにしました。1850年代のオリジナルのコーヒーハウスから歩いて数ブロックのこの建物は、1860年代に遡る歴史のうち、かつては様々な帽子や手袋のメーカー、ドライグッズの保管場所、更には電化製品店までありましたが、ここ30年以上も空いていたのです。改築作業には建築会社トラポリン=ピアーや博物館デザイン会社ギャラガー&アソシエイツと提携しました。サゼラック・ハウスはニューオーリンズのクラシックなカクテルを祝う新しいインタラクティブな博物館です。文化を旅する訪問者は、ニューオリンズのカクテルの歴史に導かれ、サゼラック・ライウィスキーの蒸留方法を見出し、ペイショーズ・ビターズの手作りに参加して、サゼラック・カクテルの作り方を習得します。また、ここはニューオリンズのセントラル・ビジネス・ディストリクトで初めてウィスキーが生産される場所になりました。ウィスキーの生産展示では500ガロンのスティルが見られます。毎日約1バレルのサゼラック・ライウィスキーが作られ、熟成のためにケンタッキー州のバッファロートレース蒸留所に移送されるのだそう。サゼラック・ハウスは2019年10月2日にオープンする予定です。ニューオリンズを訪れた際は、是非ともここで独特の味と伝統を体験してみて下さい。もちろん、カクテルを飲みながら。

では、そろそろ今回レヴューするサゼラック・ライを注ぐ時間です。

2019-08-21-00-53-40
SAZERAC RYE 90 Proof
推定2010年前後ボトリング。クローヴ、蜂蜜、パンケーキ、メープルクッキー、ハーブのど飴。香りは甘いお菓子。パレートは甘味と共に頗るハービー。フルーティさとミンティさはそれほどでもない感じ。余韻は豊かなスパイス(クローヴ、オールスパイス系)と苦いハーブが感じやすく、クラシックなライウィスキーを思わせる。
Rating:85.5/100

Thought:開封直後は香りも味わいも甘味がなく、えっ?これホントに51%ライ?って思いましたが、徐々に甘味は出て来ました。ジムビームやMGPのライよりフルーティさに欠けますが、甘味は強く、またハーブが優勢な味わいに感じました。
おそらく、このサゼラック・ライは日本へ輸入され始めた頃のボトルだと思われます。上の推定ボトリング時期は購入時期からの推測です。少し前までの数年間、日本ではサゼラック・ライは買いにくい状況にありましたが、ここ最近はまた輸入が復活したようです。その最近のサゼラック・ライを私は飲んでいないので味の変化があるのか判りません。飲み比べたことのある方はコメント頂けると嬉しいです。

Value:アメリカでは30ドル前後ですが、日本だと5000~6500円くらいします(※追記2)。これ、痛いですね。とは言え、6年というライとしては十分な熟成期間を経ていますし、おそらく比較的少量生産だとも思われるし、長いネックやボトル形状にクラシックなフォントなどボトルデザインは古いウィスキーを偲ばせカッコいい。甘さが立った味わいも他社のライと一線を画し美味しいのでオススメしておきましょう。ただ、私はどちらかと言えばMGPの方が好みではありますが。

追記:本稿でサゼラックの歴史を語りながら、その具体的なレシピの詳細については敢えて紹介しませんでした。標準的なレシピを紹介することくらいは出来たのですが、私よりもっとカクテルに拘ったバーテンダーさんに教えてもらった方が適切だと思ったからです。記事を読みながらサゼラック・カクテルを飲みたくなり、「で、レシピは?」と思ってしまった方がいましたらすいませんでした。レシピについてはすぐ検索できますのでご自身で研究してみて下さいね。

追記2:現在ではもう少し落ち着いたお値段で購入できます。

PhotoGrid_1511591197676

【バーボンの語源】

バーボンという言葉は、日本人にはお馴染みのお菓子メーカー「ブルボン」と同じ言葉でして、フランス読みでブルボン、アメリカ読みでバーボンなだけです。アメリカ独立戦争(1775~1783年。イギリス本国とその13植民地との戦い。)の際、フランスはアメリカに色々と協力しました。結果、独立を果たしたアメリカはその功績を讃え、各地でフランスにちなむ地名や都市名をつけたのです。例えばウッドフォード郡にあるバーセイルズはフランス読みでベルサイユですし、多くの蒸留所が集うルイヴィルは、そのままルイ16世の「ルイ」に村を意味するフランス語「ヴィル」がついたものです(ちなみにルイジアナ州のルイもルイ14世から由来します)。またパリのアメリカ読みパリスという小さな都市もあります。そのパリスがあるのがバーボン郡であり、フランスのブルボン王朝にちなみ名付けられました。
バーボンの語源はこのバーボン郡発祥の物だから、というのが日本ではよく見かける説明です。しかしバーボン誕生秘話は、実際には確たる証拠の資料はないのが実情で、当時のケンタッキー州がまだ辺境地帯であり、物事を記録するという習慣のあまりない地域であり時代でもあったため、歴史家の推論や蒸留所のマーケティング担当者の想像力に頼るしかないのです。おそらくは「時代の要請」や「やむにやまれぬ事情」から、名もなき農民蒸留家によって自然発生的に各地でバーボンの原型は形造られていったと思われます。ちなみにバーボン郡には禁酒法以後2015年まで1つの蒸留所もありませんでした。

では、バーボン郡が発祥でないのになぜバーボンと呼ばれるようになったかというと、それはライムストーン起源説によって説明されます。ここではケンタッキーの歴史とオールド・バーボンという語がキー・ポイントです。
バーボン郡が1785年に誕生した時、ケンタッキー州は州ではなく、ヴァージニア州の一部でした。その当時のバーボン郡はヴァージニア州ケンタッキー地区の北東部・東部・南東部を占める大きな郡だったのですが、ケンタッキー地区が1792年に州として分離する頃には区画整理によってだいぶ小さくなっていました。1800年までには更に分割されもっと小さくなりました。そこで後に昔の広大なバーボン郡のことを「オールド・バーボン」と呼ぶようになったと言います。また、まだヴァージニア州時代のその広大なバーボン郡には、1784年に開港したライムストーンという港があり、初期ケンタッキーの重要な港湾都市だったそうです(現在のメイズヴィル)。1788年にはバーボン郡の約半分の面積がメイソン郡となり、ライムストーンもメイソン郡に含まれていましたが、それでも20年ほどは昔を懐かしんでか「オールド・バーボン」の愛称で呼ばれたと言います。ライムストーンから出港される大量の貨物の中には当然ウィスキーの樽も入っていました。その樽には「Old Bourbon Whiskey」の焼印(この焼印のことを「ブランド」と言います)が施されていたそうです。この当時アメリカンウィスキーの代表格は東部産のライウィスキーであり、それは地名に由来するモノンガヒーラと呼ばれていました。それとの区別、差別化の意味を込めて西部のウィスキー=オールド・バーボンとしたのではないか、という解釈があります。このバーボンウィスキーが、ケンタッキー州の州境となるオハイオ川を下り、ミシシッピ川を経由してルイジアナ州に至り、当時アメリカ最大の都市の一つであったニューオリンズへと売られていった。この故にケンタッキー産のある種のコーンウィスキーのことをバーボンと呼ぶようになった、と。つまりバーボン郡で造られたからバーボンなのではなく、オールド・バーボンから出港されるからバーボンと呼ぶようになった、これがライムストーン起源説です。

ライムストーン起源説は長年信じられてきた説で、一見なるほどと思ってしまうのですが、近年の歴史家からはこれを裏付ける資料は残ってないとされています。確かに素人目にも、ライムストーンがバーボン郡であった期間が短すぎるし、バーボンという言葉がウィスキーの一般名になったのが南北戦争(1861~1865年)以後のことであると言われれば、年代的に時間の辻褄が合ってない気がします。では、最近の研究ではどう解釈されているかというと、マーケティング説というのが有力になりつつあるようです。
近年の研究では中間業者、つまり蒸留する人とバーで酒を販売する人の間にいる人々に光が当てられました。バーボンを焦がした樽で熟成させるのも、フランス系の中間業者がコニャックの影響を受けてそうしたのではないか、と推察され、バーボンの歴史家マイケル・ヴィーチはそうした例としてタラスコン兄弟の名を挙げています。そして彼らの販売先であるニューオリンズは、フランス革命から逃れてきた王党派が多かったそうです。その人たちにしてみれば「ブルボン」という飲み物が提供されれば悪い気はしないでしょう。また逆に革命派の人たちにはフランスとアメリカの繋がりを説明すればいい、と。そういうマーケティング上完璧なネーミングがバーボンだった、という訳です。

始めに触れた日本のお菓子メーカー「ブルボン」をもう一度思い返して下さい。そもそもは北日本製菓という会社が起こりで、1989年に会社名も人気のブランドと同じブルボンに変更しました。そのブランド名ブルボンは、フランスのブルボン家に由来するともコーヒーのブルボン種に由来するとも言われていますが、まあどちらでも構いません。とにかくブランド誕生の現場を勝手に想像してみましょう。きっと当時の日本人に対して、ブルボンというフランス語がオシャレな響きを持っている、と判断されたのではないでしょうか?  マーケティングとは売りたい相手にどういうイメージを売るか慮ることが大事だと思います。お酒のバーボンもおそらくは同様に、アメリカ生まれのコーンウィスキーをバーボンと呼ぶことで、遠くの異国を想わせ、丸みの帯びた響きを持ち、オシャレで上級な雰囲気を漂わせたのではないでしょうか?  そう考えれば「バーボン」とは正に「ブルボン」だったのです。

PhotoGrid_1511588169687



↑このページのトップヘ