バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの7、8杯めに選んだのは、おそらくこのバーの中でも最も貴重なバーボンであろう禁酒法時代のオールド・オスカー・ペッパーと禁酒法解禁後のL.&G.(ラブロー&グラハム)です。オールド・オスカー・ペッパーはケンタッキー・バーボンの有名な銘柄の一つであり、ペッパー家の3世代はケンタッキー州の最前線でウィスキーを蒸溜し、業界の黎明期を今日の姿に築き上げるのに貢献しました。そして現在でもペッパーの名はブランドとして復活しています。ラブロー&グラハムも現在のウッドフォード・リザーヴに繋がる名前です。バーボンの歴史は彼らを抜きにしては語れません。そこで今回はペッパー・ファミリーのレガシーの一部とグレンズ・クリークの蒸溜所の歴史に就いてざっくりと紹介したいと思います。

ペッパー家の蒸溜はエライジャ・ペッパーから始まります。エライジャは、サミュエル・C・ペッパー・シニアと「英国人女性」とされるエリザベス・アン・ホルトン・ペッパーの間に生まれました。生年には系図サイトを参照にしても諸説あり、1760年12月8日月曜日とするもの、1767年とするもの、1775年とするものがあります。出生地も、ヴァージニア州カルペパーとしているものとフォーキア・カウンティとしているものがありました。この二つは隣接しているので、だいたいそこら辺で産まれたのでしょう。彼は1794年2月20日にフォーキアで名門オバノン家出身のサラ・エリザベス・オバノンと結婚しました。エライジャの生年を1767年としている系図サイトだと、サラを1770年生まれとしていました。或る記録によると結婚当時のサラは13歳か14歳だったとされているようで、そちらが正しい場合は生年は1780年あたりになるでしょう。1797年、エライジャはサラとその兄弟ジョン・オバノンと共に500マイル以上西のケンタッキー州に移り住み、現在ウッドフォード郡ヴァーセイルズとして知られる地域に居を構え、町のコートハウスの裏手のビッグ・スプリング近くに最初の小さな蒸溜所を建てました。1780年頃からエライジャはヴァージニアで蒸溜業を始めていたとする説もありました。農業と蒸溜が不可分のファーム・ディスティラーだったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、エライジャは一旦バーボン・カウンティに移って数年間を過ごしたらしい。バーボン・カウンティの納税記録と1810年の国勢調査によると、ウッドフォード・カウンティに戻る前の3年間はバーボン・カウンティに住んでいたのとこと。その後ウッドフォード郡に再び戻り、1812年までにヴァーセイルズのグレンズ・クリーク沿いの200エーカーの土地に新しい蒸溜所をオープン。この土地の明確な所有権が確立されたのは1821年のことで、証書が記録されたのはその翌年だったそう。彼がこの場所を選んだのは、敷地内を支流が流れ、小川のほとりに3つの清らかな泉が湧き出していたからでした。そこには農場とグリストミルもあり、彼らはその水を穀物を粉砕する動力源、発酵や蒸溜のようなウィスキー造りのためだけでなく、冷蔵用に使ったり新鮮な飲料水としても家畜のためにも利用しました。当時は正に「農場から蒸溜まで」の操業だったのです。近隣のケンタッキー州の農家は連邦税が課されたため蒸溜を断念せざるを得ませんでしたが、エライジャには資金力があったようで、彼らの穀物を買い取り、合法的にウィスキーに仕上げたと言います。またエライジャはこの土地の蒸溜所と周辺の農場を見下ろす丘の上に、外壁に巨大な石灰岩の煙突を備えた2階建てのログ・ハウスを建て家族を住まわせました(*)。当初のペッパー入植地で唯一残ったこの家は、その後の住人たちによって増築され使われました。エライジャとサラは、少なくとも3人の息子と4人の娘の両親だったとも、4男3女の7人の子供がいたとも、或いは8人の子供を儲けたともされ、その場合はプレスリー、オスカー、エリザベス、サミュエル、ナンシー、アマンダ、ウィリアム、マチルダだったと思われます。ペッパー家は奴隷の所有者であり、1810年の国勢調査の記録によると一家には9人の奴隷黒人がおり、所有地の繁栄に伴ってその後の10年間で奴隷は12人(男7人、女5人)に増えました。畑仕事をする人手が増えたためか、エライジャは所有地を350エーカーまで拡大したとか。更に、1830年の国勢調査では13人の男と12人の女を奴隷として雇っていたとされ、ペッパー農場の成功を裏付けていると目されます。 エライジャはかなりの富をもっていたようで、彼が亡くなった時の目録には、蒸溜所のカッパー・ケトル・スティル6基、マッシュ・タブ74個、多数の樽、熟成ウィスキー41樽(1560ガロン相当)があり、家畜は22頭の馬、113頭の豚、125頭の羊と子羊、30頭以上の牛を数え、その他にも農業や木材加工に使用する道具も多数所有していました。エライジャ・ペッパーは1831年2月23日(または3月20日前という説もある)に死去。彼は亡くなるまで蒸溜所を経営し、生前に遺言を作成しました。子供達に家財を少しと奴隷一人づつを贈与し、最愛の妻サラには蒸溜所と奴隷を含む殆どの財産を残しました。キャプテン・ウィリアム・オバノンとナンシー・アンナ・ネヴィルの娘であるサラ・エリザベス・オバノンは、南北戦争の名将でジョージ・ワシントンの個人的な友人でもあったヴァージニアのジョン・ネヴィル将軍の姪でした。ネヴィル家はヴァージニアの裕福な貴族であり、ペッパー家を経済的に援助していた可能性をジャック・サリヴァンは指摘していました。エライジャは広大な農場と関連事業の管理をサラに任せていたようで、財産目録によれば彼女はスティルやタブ等を含む農場や蒸溜所の設備の購入を監督していたり、ペッパー邸を飾ったであろうカーペット、銀製品、その他の高価な調度品の購入も彼女が担当したと推測されます。国家歴史登録財に登録するためにこの土地を調査した歴史家の推定では、エライジャの死後、1831年から1838年までの約7年間、サラは蒸溜所やウィスキー販売を含む家業の管理を担当していたそうです。そして、サラは蒸溜所を受け継いだものの経営にはあまり関心がなかったのか、或いは高齢のための隠居なのか、1838年に自分のインタレストを長男のオスカー・ペッパーに売却しました。

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今回飲んだオールド・オスカー・ペッパー(O.O.P.)のブランド名の由来となっているオスカー・ネヴィル・ペッパーは、1809年10月12日木曜日に生まれました。幼い時のことはよく分かりませんが、彼は父親が創業した比較的小規模なウイスキー事業を引き継ぎ、新たなレヴェルに成長させたことで知られています。蒸溜所の丸太造りから石造りへの転換と小川の西側への移転は、1838年までにオスカーの所有下で行われました。そのため1838年はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の創業の年となり、O.O.P.ブランドの起源となりました。但し、1840年の国勢調査ではオスカーの職業はファーマーだったそうで、農場と蒸溜所は兼業であり、農業の方でよりお金を稼いでいたのかも知れません。オスカーは母の死後(サラの死去は1848年説と1851年説がありました)、母の土地を分割した兄弟姉妹のシェアを取得したことが譲渡証書や遺言によって示されているそうです。彼はプランテーションを所有している間に敷地内の大規模な改修を始め、父親が製粉と蒸溜業を営んでいた丸太造りの建物を石造りの建物に建て替え、住居も大きく増築しました。1850年の国勢調査には、トーマス・メイホールというアイルランド出身の石工が一家と同居していたという記録が残っているとか。
ペッパー家のファミリー・ビジネスに大きく貢献したのはドクター・ジェイムズ・クロウでした。オスカーは彼を今で言う蒸溜所のマスター・ディスティラーとして雇用しました。クロウはサワーマッシュ・ファーメンテーションや木製バレルでの熟成プロセスを改良/体系化することで、バーボン造りのプロセスに科学的な要素を加えた人物として評価されています。ジェームズ・クリストファー・クロウはスコットランドのインヴァネスに生まれ、エディンバラ大学で化学と医学を学び、アメリカに移住しました。最初はペンシルヴェニア州フィラデルフィアに定住し、短期間滞在した後、ケンタッキー州に移るとグレンズ・クリーク周辺の蒸溜所で働き始めました。彼は学んだ科学的知識を蒸溜に活かし、リトマス試験紙でマッシュの酸度を測ったり、糖度計で糖度を測ったりしました。バーボンの製造に於いて殊更取り上げられる有名なサワーマッシュ製法はクロウが考案したのではありませんでしたが、科学の知識を応用して完成させました。サワーマッシュは、前回のバッチのマッシュから残ったバックセットの一部を取り出し、現在のマッシュの中に含めることで、発酵を促進し、悪い菌の繁殖を防ぐのに役立ちます。1833年にはオスカー・ペッパーがクロウに助言を求めたとされており、クロウはその時期にグレンズ・クリーク沿いの他の蒸溜所で働きながらペッパーズの蒸溜所を手伝っていたようです。クロウの専門知識が齎す商業的利益の可能性に気付いたオスカーは、彼と協力してペッパー農場の小さな丸太造りの蒸溜所を1日あたり1もしくは1.5ブッシェル程度から25ブッシェルの蒸溜所にアップグレードしました。クロウは1ブッシェルの穀物から2.5ガロン以上のウィスキーを造ってはならないと主張したとされます。この蒸溜所で伝説的なオールド・クロウ・ブランドは誕生し、蒸溜され、その後多くのバーボン消費者に大人気となりました。クロウはキャリアの殆どの期間をペッパーの蒸溜職人として過ごし、他の蒸溜所で働いたのは少しの期間だったと思われます。彼は1833年頃から1855年までペッパー家のために働きましたが、1837年から1838年に掛けてグレンズ・クリーク農場の敷地は建設工事で占拠され、1838年から1840年に掛けては深刻な旱魃が農業生産に影響を及ぼしたため、この間クロウはオスカーの蒸溜所で働いていなかったようです。新しいカッパー・ポット・スティルとフレーク・スタンド(蒸溜器のワームを冷却する容器)が設置され、マッシング・タブ、ファーメンター、スティーム・エンジンが製造開始の準備を整える他、建設工事による多額の資本支出には上述のトーマス・メイホールの雇用も含まれ、彼は地元の石灰岩から大きな石造りの蒸溜所、貯水槽、製粉所、倉庫などの施設を建設しました。1838年の春から1840年の冬に掛けての旱魃はケンタッキー地方の大半に壊滅的な打撃を与え、作物の不作と蒸溜用の水不足を齎したと言います。蒸溜には水が不可欠で、1ガロンのウィスキーを造るには、マッシング、コンデンシング、クリーニングに60ガロン以上の水が必要でした。クロウがオスカーの蒸溜所に復帰したのは1840年のシーズンになってからのこと。建設が完了するとクロウは家族を連れて新しいペッパー蒸溜所から200ヤード上にある家に移り住んだそうです。また、彼は蒸溜所の年間ウィスキー生産量の8分の1(または10分の1という説も)を支払いとして交渉したと言います。これは農家の穀物を挽くための報酬として製粉業者が受け取る金額とほぼ同じでした。年間生産量は季節によって変動しますが、1840年代後半には年間生産量は約650バレル(20000プルーフ・ガロン)となり、樽からの蒸発や浸透、卸売価格の変動、ディーラーへの年間販売量を考慮すると、クロウの報酬はおそらく年間500ドルから1000ドルと高額、彼の生産契約の途中である1848年の都市部の職人の平均年収は550ドル、ケンタッキー州の農場労働者の年収は120ドルだったので、クロウはケンタッキー州の田舎の基準から見て非常に快適な生活水準を誇っていた、とウィスキーの歴史家クリス・ミドルトンはクロウ研究の中で述べています。雇い主のオスカーはウィスキーの取り分、家畜の販売、余剰穀物生産、亜麻と麻の栽培などでかなりの収入を得ており、1860年、政府は彼の土地と資産を67500ドルと評価し、これは2020年の価値で2100万ドル相当でした。この蒸溜所で販売されていた主力ブランドはオスカー・ペッパー・ウィスキーとクロウ・ウィスキーだと思いますが、3年以上保管されたウィスキーは「オールド」が共通して付され、おそらくどちらも同じクオリティだったでしょう。とは言えクロウ・ウィスキーの評判は流通量の多かったオスカー・ペッパー・ブランドよりも高かったそうです。クロウ自身の名を冠したウィスキーは軈て「オールド・クロウ」として知られるようになり、他の汎ゆるバーボンの評価基準となりました。オールド・クロウは1800年代半ばまでに高級ウィスキーのシンボルになり、殆どのウィスキーが1ガロン当たり15セントで販売されていたのに対し、クロウのウィスキーは25セントで販売されていたとか。クロウはペッパーの蒸溜所で15年間働いた後、1855年の秋にそこを去りました。また、サム・K・セシルの著作によると、オスカー・ペッパーは1860年にグレンズ・クリークから数マイル下流のミルヴィルにオールド・クロウ(RD No.106)という別の蒸溜所を建設し、そこでオールド・クロウ・ブランドを製造した、とのこと(**)。
オスカー・ペッパーの私生活面では、彼は1845年6月にウッドフォード郡で生まれ育ったナンシー・アン(もしくはアネットとも)・"ナニー"・エドワーズと結婚しました。それ以前に、キャサリンというゲインズ家出身の妻を1839年に亡くしているとの記述も見ましたが、系図サイトや墓所サイトにはその件は触れられてなく、私にはよく分かりません。ナニーは結婚当時18歳で、夫より17歳ほど年下でした。彼女の父ジェイムズ・エドワーズはグレンズ・クリークに隣接する農場を所有していたらしい。オスカーとナニーの間には7人の子供がおり、おそらく生年の順で以下のようになるかと思われます。
エイダ・B・ペッパー(1847-1927)
ジェームズ・エドワード・ペッパー(1850 - 1906)
オスカー・ネヴィル・ペッパーJr.(1852 - 1899)
トーマス・エドワード・ペッパー(1854 - 1933)
メアリー・ベル・ペッパー(1859 - 1913)
ディキシー・ペッパー(1860 - 1950)
プレスリー・オバノン・ペッパー(1863 - 1871)
メアリーの生年を1861年としているものもありましたが、詳細は不明です。それは兎も角、子宝にも恵まれたオスカーのリーダーシップによって農場と蒸溜所は繁栄し、1860年の国勢調査によると不動産の評価額は31600ドル(現在の約770000ドル相当)で、贅沢品を含む個人資産は36000ドルだったとされています。彼の財産には12人の男と11人の女の奴隷も含まれており、そのうちの何人かはエライジャから受け継いでいたのでしょう。彼らは家財目録に記載されている総額約22000ドル近くの作物や牛の世話をしていたと考えられています。蒸溜の作業もこなしていたかは分かりません。1859年には2人の女性奴隷が8月にマリアという女の子とウィリーという男の子を出産しており、父親はオスカーのようです。蒸溜所は1865年までオスカーの管理下で運営されました。その年の6月にオスカー・ネヴィル・ペッパーは56歳で死去し、墓前で家族や友人たちに弔われながら、フェイエット郡のレキシントン墓地に埋葬されました(オスカーの死を1864年や1867年としている説もある)。彼の死後に出された資産目録には、バーボンの製造を物語るカッパー・スティルとボイラー、400バレルのコーン、400ブッシェルのライ、40ブッシェルのバーリー・モルト、30ブッシェルのバーリーなどがあり、アルコールの目録には1ガロン40セントと80セントの価格で120ガロンのウィスキーが記載されていたそうです。ペッパーの所有していた829エーカーの土地での畜産は別の事業と目され、農場では21頭の馬と雌馬、7頭のラバ、25頭の乳牛、30頭の当歳牛と去勢牛、56頭の羊、100頭以上の豚を飼育していました。家庭内にはピアノ、「冷蔵庫」、法律書などがあったそうで豊かな暮らしぶりを想像させます。オスカーが死去した際、管財人による売却の新聞広告には、彼の個人資産として「非常に古いクロウ・ウィスキーの少数のバレルがあり、良質な飲酒の最後のチャンスである」と記されていたらしい。

オスカー・ペッパーは父のエライジャと違って遺書もなく7人の子供と農場と蒸溜所ビジネスを妻に残して亡くなりました。1869年に行われたオスカーの遺産相続の裁判所による調停では、彼の所有地829エーカーが7人の子供達のために7つの不平等な土地に分割されました。これにより末っ子でまだ7歳だったプレスリー・オバノン・ペッパーが160エーカーの土地、蒸溜所、グリスト・ミル、家族の住居を含む最大の分け前を受け取りました。オバノン・ペッパーはまだ幼く、更にその後の14年間は未成年であるため、自動的に母親のナニー(1827-1899)が後見人となり、経済的に生産性の高い財産の殆ど全てがペッパー夫人の手に委ねられます。これはナニー・ペッパーを養うための裁判所の配慮でした。ナニーはまだ比較的若かったものの、義理の母サラのようには自分で蒸溜所を経営する気はなかったようです。南北戦争終結後、ペッパー家の奴隷は全ていなくなっていました。彼女はプレスリー・オバノンの財産の後見人として、直ちにケンタッキー州フランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにこの土地をリースしました(***)。この契約によって同社は蒸溜所とその全ての設備、ディスティラーズ・ハウス、2つのストーン・ウェアハウスを管理することになりました。この2年間の契約にはグリスト・ミルや豚にスペント・マッシュ(使用済みのマッシュ)を与えるペン(囲い)も含まれています。同社は1866年にウィスキーの製造と販売を目的として設立され、彼らのビジネス・パートナーはエドムンド・ヘインズ・テイラー・ジュニアでした。社名の「&Co.」の部分は彼のことに他ならないでしょう。社名になっているW・H・ゲインズは近くのグラッシー・スプリングス・ロードに住んでいましたが、他のパートナーズはフランクフォートの住人でした。根拠はないものの尤もらしい噂によると、ゲインズ, ベリー&カンパニーが1866年に最初に買収したのは故オスカー・ペッパーからのウィスキー在庫100樽だったとのことです。それは兎も角、こうして1870年1月1日、ペッパー蒸溜所は初めてペッパー家以外のバーボン生産企業として機能しました(****)。それでも、1850年5月18日土曜日に生まれたオスカーとナニーの長男ジェイムズは父の死の当時15歳でしたが、ゲインズ, ベリー&カンパニーによって蒸溜所の運営に何かしら携わることになったようで、1870年の国勢調査では20歳のジェイムズ・ペッパーが蒸溜所のマネージャーとして記載されていたそうです。伝説的なカーネル・E・H・テイラー・ジュニアは当時すでに酒類業界で成功しており、ペッパー家の良き友人だったようで、オスカー・ペッパーの遺言執行者の一人であり、蒸溜所を所有するには若過ぎるジェイムズ・E・ペッパーの後見人ともなり、彼が21歳になるまで蒸溜所を経営したと云う説も見かけました。
「オールド・クロウ」は、ドクター・ジェイムズ・クロウには存命の相続人がいなかったため、ゲインズ, ベリー&カンパニーは問題なくブランドを独占することができました。同社はペッパーの所有地に「オールド・クロウ蒸溜所」の名を添え、オールド・クロウを彼らのフラッグシップ・ブランドとしました。伝えられるところによると、彼らはこのブランドを守り続けるため、ドクター・クロウと全く同じ方法でウィスキーを造ることを決意し、クロウが存命中に蒸溜していた古い蒸溜所を借り受け、クロウの下で技術を学んでその製法を伝授されたウィリアム・F・ミッチェルをディスティラーとして雇用した、とされています。一方、ジェイムズにはオールド・オスカー・ペッパーのブランドが残されることになりました。
野心的なテイラーに唆されたのか、或いは母親の脇役でいることに飽き飽きしたのか、ジェイムズ・ペッパーは1872年10月期の巡回裁判所に於いて、1869年に弟のオバノンに割り当てられていた蒸溜所用地の権利を求め、母親のナニー・ペッパーを相手取って訴訟を起こしました。ジェイムズは勝訴し、土地区画図に「Old Crow Distillery, Mill, Old Crow House」と記された小川の両岸33エーカーと小川の東側の2つの泉を手に入れます。とは言え、そのせいで深刻な母子間の不和は起きなかったようです。ジェイムズは経営権を握った2年後、ゲインズ, ベリー&カンパニーと決別したカーネル・テイラーと手を組み、二人は工場の改良と操業の拡大を図りました。カーネル・テイラーは蒸溜所拡張のための資金確保に尽力し、純利益の2分の1と投資額相当の補償を受けるという契約を締結して、プロパティに25000ドルを投資しました。市場でのウィスキーの売れ行きは好調で、ビジネスは順調でした。嘗てペッパー蒸溜所だった通称「オールド・クロウ蒸溜所」と呼ばれる場所で生産されたテイラーのバーボンはそのバレリング・テクニックで人気を博し珍重されました。1870年代、州都フランクフォートとそのすぐ南に位置するウッドフォード・カウンティで州内最大のバーボン生産が行われ、E・H・テイラー・ジュニアの「家」は世界に模範的なウィスキー・バレルを提供していると一般的に理解されていました。しかし、1877年に不況が国を襲います。アメリカの歴史の中でも最も議論を呼び白熱したと言われる、1876年11月7日に行われた大統領選挙は経済の混乱を引き起こしました。民主党候補のサミュエル・J・ティルデンが一般投票で勝利し、共和党候補のラザフォード・B・ヘイズが選挙人団で勝利します。そのため南部では大規模な抗議運動が起こり、再び内戦が勃発する恐れがありましたが、リコンストラクションの終結を約束したヘイズの勝利を認めることで決着します。しかし、それは市場に不安を齎し、1877年の恐慌を引き起こしました。そこにウィスキーの過剰生産も重なり、この不況は蒸溜酒業界に大きな影響を与えました。ジェイムズは深刻な財政難に陥り、カーネル・テイラーに支払うべきお金の余裕がなく、1877年に破産宣告を受けます。蒸溜所はカーネル・テイラーに没収され、彼はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の単独所有者となりました。ところが当のカーネル・テイラーも他の蒸溜所を経営したり様々なウィスキー事業を行っており、間もなく自身の財政破綻に見舞われます。カーネル・テイラーは1870年にフランクフォートの蒸溜所を購入し、借金してオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)に改築していました。そしてまた、上述したように、同時期にペッパー蒸溜所にも資金を貸し設備を改善していました。資金繰りは厳しく、カーネル・テイラーは借金を返すのに必死でした。彼は同じロットのバレルを2人の異なる購入者に販売し、それが財政的、法的問題に発展したこともあったそうです。借金が余りに高額だったため、彼は債務者から逃れるために南米への移住を考えたほどでした。そこで大口債権者であったセントルイスのグレゴリー, スタッグ&カンパニーが彼を救済し、1878年、カーネル・テイラーの二つの蒸溜所はジョージ・T・スタッグに譲渡されました。同年、スタッグはO.F.C.蒸溜所の土地を増やすために、すぐにペッパー蒸溜所の33エーカーをレオポルド・ラブローとジェイムズ・H・グラハムに売却しました。ラブロー&グラハムは、ナショナル・プロヒビションの到来を経て、その後も含めると62年間この蒸溜所を所有し操業することになります。こうしてジェイムズ・ペッパーは廃業に追い込まれ、ジャック・サリヴァンの言葉を借りれば「エライジャによって設立され、サラによって育てられ、オスカーによって拡張され、ナニーによって保護され、ジェイムズによって失われたこの土地を、ペッパーの一族が再び所有することはありませんでした」。しかし、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所は他人の手に渡ったものの、ジェイムズは後にレキシントンに自身の蒸溜所を設立し、ペッパー家の名前は長年に渡って取引で使われて行きます(後述)。

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(1883年のオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所)
ラブロー&グラハムという名前は、設立されたパートナーシップに由来します。レオポルド・ラブローは1847年(またはそれ以前)にフランスで生まれ、母国のワイン生産地で育ち、渡米時にはワイン商(またはワイン醸造家としての経歴を持つとの説も)の経験があったと言われています。国勢調査のデータでは、移住年は1865年、彼が32歳頃のことでした。パスポートの記述によると、彼は身長5フィート7インチ(約173cm)で、肌は浅黒く、目は灰色、鼻は鷲鼻だったとか。ラブローは、アラベラ・スコット・デイヴィスとシルヴェスター・ウェルチの娘であるルイーサ・ウェルチというフランクフォートの女性と結婚しました。もしかするとそれを機会にケンタッキー州に定住したのかも知れません。ルイーサの父親はチーフ・エンジニアとしてケンタッキー・リヴァーの閘門建設を計画/監督し、ウィスキーの出荷を含む地元産品の水上輸送を改善したと言います。夫妻の間には1876年にアーマという娘が生まれました。彼は、先ずはフランクフォートのハーミテッジ蒸溜所で働き、その後シンシナティで叔父と共に酒類卸売業に携わるようになったそうです。一方の、アイルランド系のジェイムズ・ハイラム・グラハム(1842-1912)は、ルイヴィルで大工、建設業者、製材所経営者として成功したウィリアム・グラハムとエスター・クリストファー・グラハムの息子として生まれました。蒸溜所を購入する前は運送業を営んでいたとされ、おそらくは相当に成功したフランクフォートの実業家だったのでしょう。オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を買収すると、土地の権利の半分はラブローに直ちに売却されました。ラブローとグラハムが出会った経緯はよく分かりませんが、1878年までには二人はケンタッキー・ウィスキー・マンとして認められるようになっていたようです。グラハムはプラント・マネージャーとなり、ラブローは卸売と小売販売を担当したとされます。保険引受人の資料では彼らのプラントはフランクフォートの南東9マイルにありました。石造りで屋根は金属もしくはスレート。敷地内には穀物倉庫や4つのボンデッド・ウェアハウスがあり、全て石造りで屋根は金属かスレート。ウェアハウスNo.1は蒸溜所から100フィート北にあり、この倉庫の一部は「フリー」でした(つまり一部はボンデッド・ウィスキーではなかった)。ウェアハウスNo.2のBはウェアハウスAに隣接し、スティルの北東100フィートにあり、ウェアハウスNo.3のCは蒸溜所から南へ104フィート、ウェアハウスNo.4のDは南へ285フィート。おそらくペッパーの時代からどれも引き継いだものでしょう。そして、彼らはオールド・オスカー・ペッパーを唯一のブランドとして生産したと伝えられます。
ラブロー&グラハムは、頻繁なパートナーシップの変化にも拘らず、その社名を継続してビジネスを行うことで伝統を維持し、誠実さを伝えました。1899年、グラハムは引退することになり、インタレストの半分をラブローに売却します。翌年、ジェイムズ・グラハムは死去。その後J・M・ヴェンダーヴィアーがグラハムの後を継ぎますが、名前はラブロー&グラハムのままでしたし、施設も引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られました。大切なパートナーを失ったもののラブローは歩みを止めず、このフランス人のリーダーシップの下、蒸溜所は発展を続けました。スタッフは著しく増加し、年月を重ねるごとに蒸溜所は改良され、拡張されて行ったそうです。長年に渡ってオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の経営を指揮したレオポルド・ラブローは60代の後半に心臓病を患い、1911年に死去しました。死亡診断書に記された死因は肺水腫だったとのこと。未亡人のルイーサをはじめとする家族が墓前で弔う中、ラブローはフランクフォート・セメタリーに埋葬されました。余談ですが、ラブロー家の子孫の方によると、このファミリーは著名な細菌学者のルイ・パスツールと古くから縁があり、ルイがレオポルドにフランス・ワインを売るためにアメリカに来るよう勧めたと家族内では伝承されていたそうです。ラブローの死が大規模な再編成の引き金となったのか、会社は1915年にリパブリック・ディストリビューティング・カンパニーのD・K・ワイスコフ、E・H・テイラー・ジュニアの従兄弟でラブローの娘アーマの夫リチャード・アレグザンダー・ベイカー、T・W・ハインド、カール・ワイツェルから成る新会社ラブロー&グラハム・インコーポレイテッドに引き継がれました。ケンタッキー出身のベイカーはラブロー&グラハムの名を残しながら蒸溜所の日常業務を担当していたそう。1895年から禁酒法施行までの間に、ラブロー&グラハムのオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所に施された実質的な建築的改良は、コーンハウスの取り壊しとウェアハウスCとDの小川側に貯蔵小屋を建てたことでした。これにより穀物の搬入とバレルの搬出のための鉄道の分岐器を設置するスペースが確保され、ケンタッキー・ハイランド鉄道は1911年までにラブロー&グラハムに到着し、穀物を敷地内に運び込み、バーボンを市場に出荷していたそうです。
蒸溜所の所有者が変わった1870年代、ペッパー邸もまた所有者が変わりました。ナニー・ペッパーは未婚の子供達とこの家に住み続けていましたが、1873年に息子のプレスリー・オバノンが10歳の若さで亡くなっています。彼はペッパー邸のある蒸溜所の東126エーカーを所有していました。この土地はオスカー・ネヴィル・ペッパーの相続地に隣接していました。おそらくこれらの土地が近かったため、オスカー・ネヴィル・ジュニアは兄弟の126エーカーの土地と邸宅を取得したものと思われます。その後、彼は1882年に同じ土地をファントリー・ジョンソンに売却しました。続いて1884年には、ジョンソンは住居と75エーカーをアリスとジェイムズ・ゴインズに売却します。ゴインズ氏はラブロー&グラハム蒸溜所のヘッド・ディスティラーでした。彼はオスカーやジェイムズのように玄関ポーチから敷地を眺めることも、丘から石灰岩の階段を下りて小川を渡り蒸溜所まで直接行くことも出来たとか。ゴインズ家は1906年までペッパー邸を所有し、そこで12人の子供を育て、 おそらく東棟の床下空間と南側のファサードのサイド・ポーチの上に2部屋を増築したのは彼らだろうと推測されています。1906年、ペッパー邸をリチャード・ホーキンスとメイミー・ホーキンス夫妻が購入しました。夫妻は蒸溜所とは何の関係もなかったようで、タバコとコーンの耕作を続け、果樹園も所有していたそうです。小川を見下ろす西棟の2階は彼らがオウナーの時代に増築したものと推測されています。1918年にホーキンス夫妻は住居と土地をリチャードとアーマのベイカー夫妻とジーンとミルドレッドのウィルソン夫妻に売却しました。こうしてペッパー邸は蒸溜所のオウナーの1人が部分的に所有することになりました。ベイカー夫妻が亡くなった後は、1977年までウィルソン家の所有でした。

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(1879年頃のJ. E. Pepper)
一方、倒産し家業の蒸溜所を失ったジェイムズ・E・ペッパーはあっという間に立ち直っていました。南北戦争終結後にヘッドリー&ファラ・カンパニーがレキシントンのオールド・フランクフォート・パイク(現在のマンチェスター・ストリート)に蒸溜所を設立していましたが、ジェイムズとパートナーのジョージ・A・スタークウェザーは2万5000ドルを調達して、1879年にはこの土地を取得し、火災で以前の建物が焼失していたため新しい蒸溜所を建設しました。ジェイムズ・ペッパーは、蒸溜所と設備のレイアウトをデザインし、建設の監督を担当し、この事業をジェイムズ・E・ペッパー・ディスティリング・カンパニーと呼びました。
ラブロー&グラハムの施設は引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られていましたが、レキシントンに自分の蒸溜所を設立したジェイムズ・ペッパーは、父の名前とジェイムズ・クロウ博士が築き上げた絶大な名声に基づいて商売を続けようと考えたのか、自分だけが「ペッパー」の名前を使うべきだと考えたのか、蒸溜所の操業開始後すぐの1880年10月、フレンチ・ワイン・プロデューサーのレオポルド・ラブローとケンタッキーの実業家ジェイムズ・H・グラハムのパートナーシップを相手取って、破産で失ったものの一部を取り戻すために連邦裁判所に訴訟を起こします。この件はケンタッキー・ウィスキーに係る商標訴訟でした。ちなみにこの連邦訴訟は、アメリカの司法史上に於ける非常に初期のものであり、合衆国最高裁判所判事はまだ国中の「巡回裁判所」の責任を負っていました。この訴訟を担当したのは、1881年5月12日から1889年に死去するまで合衆国最高裁判所判事を務めたトーマス・スタンリー・マシューズ判事でした。マシューズ判事はシンシナティ出身で、彼がユニオン・アーミーのオハイオ歩兵第23部隊のルーテナント・カーネルとして勤務していた当時カーネルだった嘗てのテント仲間のラザフォード・B・ヘイズ大統領によって最高裁判所判事に指名されました。しかし、この任命は承認されませんでした。上院は、ヘイズとマシューズがケニオン大学の同級生であり、シンシナティで弁護士として活動し、州歩兵隊の将校を務めていたことから、ヘイズを縁故主義で非難したのです。上院がマシューズ判事を承認したのはジェイムズ・A・ガーフィールド大統領が彼を再指名してからであり、この件は1881年に投票にかけられ、その時でさえマシューズは24対23の投票によって承認されたに過ぎませんでした。
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オスカー・ペッパーの死後、ジェイムズ・ペッパーが引き継いだ蒸溜所で製造したウィスキーのバレルには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。ハンドメイド・サワーマッシュ。ジェイムズ・E・ペッパー、プロプライエター。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー。」という商標が焼き付けられました。彼はまた「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」という名前と「O.O.P. 」という用語を使ってマーケティングを行い、1877年に商標登録しました。間もなくジェイムズ・ペッパーは破産し、蒸溜所とその設備一式を含む資産を被告のラブロー&グラハムに売却した後、新たな場所でウィスキーの製造を開始します。被告らはウィスキーの樽にペッパーが使用していたものと同じようなマークを使い始めました。そこには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。創業1838年。ハンドメイド・サワーマッシュ。ラブロー&グラハム、プロプライエターズ。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー」とありました。ペッパーはラブロー&グラハムを、彼らの劣悪なウィスキーがペッパー・ウィスキーと同じであると大衆を欺く目的で商標を侵害したと主張し提訴しました。ジェイムズ・ペッパーは、自身の所有権を証明する明確なマークをバレルに焼印していたという証拠を挙げ、ペッパーの弁護士は同じマークを彼のウィスキーに関するレターヘッズ、ビルヘッズやその他のビジネス用品により小さなサイズで印刷して使用していたと証言しました。ラブロー&グラハムが使用している類似のマークは、本物を求める顧客を獲得するための「不法かつ詐欺的なデザイン」であり、「オールド・オスカー・ペッパー」はジェイムズ・ペッパーが製造したものだけだ、と。彼らはラブロー&グラハムに対し、差し止めと損害賠償を求めたと言います。弁護士であり、法廷闘争から辿るバーボンやアメリカの歴史を本やブログで執筆しているブライアン・ハーラによると、オスカー・ペッパーがずっと以前に蒸溜所を所有していたにも拘らずジェイムズ・ペッパーは「オールド・オスカー・ペッパー」が1874年まで使われていなかったと主張したそうです。そこで、オスカー・ペッパーが蒸溜所を操業していた1838年から1865年までの間、既に「オスカー・ペッパー蒸溜所」として一般に知られていたことを証明する証拠が法廷に提出されました。更に言えば、ジェイムズ・クロウ博士と彼のバーボンの名声から蒸溜所は「オールド・クロウ蒸溜所」とも呼ばれ、博士が1856年に死去した後も、オスカー・ペッパーが1865年に死去した後もこの名称は使われ続け、ゲインズ, ベリー&カンパニーでさえ「オスカー・ペッパーのオールド・クロウ蒸溜所の借主」として売り出していました。フランクフォートの共同経営者達はペッパーの訴状に対する答弁書で、自分達のウィスキーはペッパー家がウッドフォード・カウンティに設立したオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の製品であり、蒸溜所が「全ての付属設備と備品と共に」彼らに売却され、その所有権によってオールド・オスカー・ペッパーの名でウィスキーを製造/販売する権利が付与されていると指摘し、寧ろ原告が新たな「他所で製造されたウィスキーにこのブランドを使用することは公衆に対する詐欺行為に当たる」と主張して反訴しました。紛争の核心は、問題の名称が何を意味するのかという点に於ける両当事者の意見の相違でした。ジェイムズ・ペッパーは自社が製造するウィスキーを他のブランドと区別するためにこの名称を使用し、その名のもとで優れた評判を得ているとする一方、ラブロー&グラハムはこの名称はウィスキーを製造する場所を指しており、そこは現在彼らが所有している場所であって、製品そのものを指すものではないとする訳です。マシューズ判事は言葉の平易な意味を指摘した上で、原告がオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していた時代に使用していたマーケティングがウィスキーの製造された場所に大きく焦点を当てていたことに依拠しました。ジェイムズ・ペッパーは自社のバーボンを下のように宣伝していました。
私の父、故オスカー・ペッパーの旧蒸溜所(現在は私が所有)を徹底的に整備した結果、私はこの国の一流商人らに、ハンドメイドのサワー・マッシュで、完璧な卓越性を誇るピュア・カッパー・ウィスキーを提供することになった。私の父が造ったウィスキーが名声を得たのは、優良な水(非常に上質な湧き水)と、隣接する農場で自ら栽培した穀物、そしてジェイムズ・クロウが製造工程を見守り、彼の死後はディスティラーのウィリアム・F・ミッチェルに受け継がれた製法によるものである。私は現在、同じ蒸溜者、同じ水、同じ製法、そして同じ農場で栽培された穀物で蒸溜所を運営している。
では、ジェイムズ・ペッパーの新しいバーボンが、オリジナルの産地から25マイルも離れた場所で蒸溜されている現在、これら諸々の特性の重要性を無視して、彼の父親の旧蒸溜所の名称を使用し続けることが許されるべきでしょうか? 1881年の判決でマシューズ判事は原告の主張には説得力がないと判断しました。判事は「本件の証拠から」して「原告が自社の製品の市場を確立できたのは、その製品が彼の父親が造ったものと同じ地域性、そしてそれらが齎すと考えられる汎ゆる有利性から父親のものと同じに違いないという世間の特別な思い込みに基づいていた」のは「極めて確かである」と記しました。つまり、 消費者はその場所で製造された製品に対して特定の「利点」を期待し、「品質」を信頼し、それらが製品購入の大きな動機付けとなっており、原告は既存のブランド・イメージと場所が持つ信頼性を巧みに利用して市場を確立した、と見られたのです。「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」及び「O.O.P.」という用語は、原告が嘗てウィスキーを製造していた場所と被告が現在ウィスキーを製造している場所を指し、商標ではないと判断したマシューズは、ジェイムズ・ペッパーの訴えを棄却しただけでなく、「商品の製造地に関して虚偽の表示をすることで公衆を誤解させる」という理由でペッパーにはブランド名を使用する権利が全くないとし、被告がこれらの用語に対する独占的な法的権利を有すると判決を下しました。

オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していないため「オールド・オスカー・ペッパー」の名前を使う権利を失ったジェイムズ・ペッパーでしたが、レキシントンに建てた新しい蒸溜所で1880年5月に蒸溜を開始した彼は、新しい盾のトレードマークをデザインした「オールド・ペッパー・ウィスキー」のブランドを大ヒットさせました。このウィスキーは祖父から代々受け継がれてきた独自の製法で蒸溜され、旧家からのマッシュビル、サワー・マッシュ、72時間発酵させたものと言われています。その人気は主にジェイムズ・ペッパーがマーケティングを重視していたことに起因していました。師匠的存在のE・H・テイラー・ジュニアと同様に、彼は当時利用可能な汎ゆるマーケティング・ツールを活用したのです。オールド・ペッパー・ウィスキーの名は当然の如くその家名に由来し、過去100年に渡って一族が築き上げた伝統と遺産を反映させたものでした。ジェイムズはこのイメージを強化するために、 「Established 1780」や「Purest and Best in the World」というスローガンを使用し、歴史の持続性とウィスキーの品質を常に強調しました。実際に彼の祖父エライジャ・ペッパーが蒸溜を始めたのは19世紀初頭のことでしたが、こうしたサバ読みは当時は珍しいことではなく、マーケティング上の策略として功を奏しました。おそらく創業年のスローガンは南北戦争後の愛国心も利用したもので、後に1906〜7年頃から使われ出した「Born With The Republic」や「Old 1776」というスローガンに繋がっているでしょう。そして彼はラベルに「詰め替えボトルにご注意ください」という警告を記載しました。これにより彼のウィスキーが非常に優れているという印象を与え、他のウィスキー・メイカーも真似をしたがるようになったそう。また、ガラス瓶の自動化技術が進み手作業から解放されたことでボトリングが経済的に実現可能になった時、彼はケンタッキー州の法律を改正し、蒸溜業者が自社製品をボトリングできるようにした蒸溜業者の一人でした(それまではレクティファイアーズだけがウィスキーをボトリングする権利をもっていた)。その後、ジェイムズは現在では一般的となった消費者にウィスキーの健全性を保証するための「ストリップ・スタンプ・シール」を発明しました。彼はコルクに貼られた帯状のラベルに「Jas. E. Pepper & Co.」という筆記体の署名を印刷してボトルを封印したのです。そして、ジェイムス・E・ペッパーのウィスキー・ボトルを売っている人に出くわしても、このスタンプがなかったり、スタンプが破れていたり破損していたりする場合は「本物のペッパー・ウィスキーではないかも知れない」ので購入しないよう人々に呼びかける広告を出しました。署名は偽造防止法によって保護されており、商標よりも迅速に執行され、そのため既存の偽造法に基づいて偽造生産者や「ボトル再充填者」を起訴することが出来たとか。彼のこの活動は、ボトルに詰められたウィスキーの純度と同一性を保証する初の消費者保護法である1897年のボトルド・イン・ボンドの成立に貢献したと評価されています。彼はまた、広告や宣伝のために巨額の資金を投じた最初のディスティラーの一人でもありました。 ジェイムズはオールド・ペッパーの販売促進を目的にアメリカ各地を回りました。1880年代後半には、プロイセンのヘンリー王子がペンシルヴェニア・レイルロードで旅行中にオールド・ペッパー・ウィスキーが振る舞われたりしました。この頃のオールド・ペッパー・ウィスキーのブランドはアメリカ全土で強い知名度を確立しています。1890年頃にはオールド・ペッパー・ウィスキーを「結核やマラリアなどに効く万能薬」であると宣伝しました。これは、1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトのような連邦規制が施行される前のことでした。1892年2月にはアームズ・パレス・カー・カンパニーからプライヴェート鉄道車両を10000ドルで購入し、「オールド・ペッパー号」と名付けました。その車両は鮮やかなオレンジ色に塗られ、側面にはオールド・ペッパーのバレルやケースやボトル、サラブレッドの馬やジョッキーがハンド・ペイントされ、車端には「Private Car Old Pepper - Property of James E. Pepper, Distiller of the Famous 60 Old Pepper Whisky」と書かれていました。ジェイムズは常にショウマンであり、プロモーターだったのです。このオールド・ペッパーのブランドは、後年「オールド・ジェイムズ・E・ペッパー」というブランドが導入されたあと、最終的に「ジェイムス・E・ペッパー」バーボンが両方の商品名に取って代わりました。 また、レキシントンの蒸溜所では以前の蒸溜所から受け継いだ「オールド・ヘンリー・クレイ」というライ・ウィスキーのブランドも製造していました。
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ジェイムズ・E・ペッパーはケンタッキー州から贈られる名誉称号の「ケンタッキー・カーネル」でした。彼はスポーツが好きで、特に競馬が好きでした。馬小屋を所有し、ケンタッキー・ダービーやオークスに出走する馬を何頭も持っており、1892年には彼の馬「ミス・ディキシー(妹の名前)」がオークスを制したそうです。カーネル・ペッパーは豪快なライフ・スタイルを送り、ニューヨークの有名なウォルドーフ=アストリアに頻繁に滞在しては、国内の実業家や社交界のエリートたちと親交を深めました。伝説によると、あの有名なオールド・ファッションド・カクテルの人気はカーネル・ペッパーが広めたと言われています。伝説によると、この象徴的で古典的なカクテルは、元々ケンタッキー州ルイヴィルのペンデニス・クラブのバーテンダーが他でもないカーネル・ペッパーのために初めて造り、それをカーネル・ペッパーがウォルドーフ=アストリアのバーに導入した、と。真偽は判りません。オールド・ファッションドの起源には諸説あるようです。蒸溜所の経営を続けていたジェイムズ・エドワード・ペッパーは1906年12月に死去、父や1899年に亡くなったナニーの近くに埋葬されました。彼に子供はいませんでした。彼の妻は蒸溜所の経営に興味がなかったのか、1908年、蒸溜所とブランドはシカゴの投資家グループに売却され、禁酒法により閉鎖されるまで操業されました。禁酒法時代にはシェンリーによりメディシナル・スピリッツとして販売され、彼らは禁酒法終了後にブランドと蒸溜所を買い取ります。しかし、シェンリーの規模が大きくなるにつれ、この蒸溜所は数ある蒸溜所の一つとなり、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは彼らが製造/販売する数十のブランドの一つに過ぎなくなりました。「Born with the Republic」というスローガンも継続されていましたが、軈てブランドの売り上げは低迷し始め、I.W.ハーパーやJ.W.ダントといった主力ブランドよりも会社にとって重要ではなくなって行きます。シェンリーは1950年代前半に過剰生産に陥り、1958年にボンディング期間が20年に延長されたことでようやく破産を免れたに過ぎない状態でした。ジェイムズ・E・ペッパー蒸溜所は1958年に閉鎖され(1960年代初頭に操業を停止し、60年代末までに閉鎖されたという説もあった)、「ジェイムズ・E・ペッパー」ブランドは1960年代には人々の記憶からラベルも忘れ去られ、膨大な倉庫在庫からウィスキーは1970年代には販売され続けましたが、1970年代末までに市場から姿を消しました。1990年代初頭の一時期、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは、1987年にシェンリーを買収したユナイテッド・ディスティラーズによって復活します。 このブランドは1994年、ポーランドと東欧の新興バーボン市場への輸出専用ブランドとなりました。しかし、ユナイテッド・ディスティラーズがアメリカン・ウィスキーのブランドの殆どを他の蒸溜会社に売却したため、ジェイムズ・E・ペッパー・ブランドはすぐに再び消滅してしまいます。そして、時を経た2008年、以前のブランド・オウナーとは無関係の起業家アミル・ピィー(または「アミア」や「ペイ」と発音されることもある)は放棄された商標を取得し、このブランドを再スタートします。カーネル・ペッパーのレキシントンの蒸溜所の歴史や復活したブランドに就いては、また別の機会に譲るとして、話をラブロー&グラハム蒸溜所とO.O.P.に戻しましょう。

禁酒法の施行に伴い、1918年、ラブロー&グラハム蒸溜所は閉鎖を余儀なくされました。1920年のヴォルステッド・アクトの施行から1933年12月の憲法修正第21条の批准による廃止までの13年の歳月、ラブロー&グラハム蒸溜所は空き家となり使用されていませんでした。商品や資材は引き揚げのために売却され、多くの建物は破損し屋根のないまま放置されたそうです。倉庫に保管されていたウィスキーは盗掘や盗難を防ぐために、1922年までに連邦政府の集中倉庫に移されました。禁酒法期間中、酒は医療目的で販売されました。フランクフォート・ディスティラリーがストックのウィスキーを使ってオールド・オスカー・ペッパーをメディシナル・スピリッツとしてボトリングしています。1920年に禁酒法が施行された当時、同社は医療目的の蒸溜酒販売許可を与えられた僅か6社のうちの1社でした。1922年、同社はポール・ジョーンズ社に買収され、彼らはフランクフォート・ディスティラリーの社名を引き継ぎ、「フォアローゼズ」や「アンティーク」など多くのブランド名でウィスキーを販売する許可を保持しました。画像検索で禁酒法下のO.O.P.を眺めてみると、中身の原酒の殆どにラブロー&グラハム(第7区No. 52)が生産したものが使われていましたが、禁酒法期間の後期にはハリー・S・バートン(第2区No. 24)が生産したものが使われたボトルもありました。1928年までに禁酒法以前のウィスキーの在庫が減少すると、フランクフォート・ディスティラリーはルイヴィルに拠点を置くA. Ph. スティッツェル蒸溜所と契約を結び、そこからスピリッツの供給をしました。1933年に禁酒法が廃止されると、彼らはスティッツェルの旧工場を買収し、シャイヴリーに新工場を建設します。これがルイヴィルのフォア・ローゼズ蒸溜所と呼ばれました。第二次世界大戦下の厳しい時期に蒸溜所とブランドはシーグラムに売却されます(1933年にシーグラムが買収という説もあった)。シーグラムはストレート・ウィスキーの製造を中止するまで何年も同じブランドを使い続けたそうなので、フランクフォート・ディスティラリーから引き継いだブランドを販売していたのでしょう。画像検索してみると、オールド・オスカー・ペッパー・ブランドとして、メリーランドのボルティモアと所在地表記のあるバーボンやライのブレンドがありました。その後、おそらく50年代か60年代にはその存在感を失い、軈てブランドのラベルは使われなくなったと思われます。
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(1936年頃の蒸溜所)
偖て、O.O.P.ブランドとは分かたれた蒸溜所には別の途があります。禁酒法が解禁されると、リチャードとアーマのベイカー夫妻、そして新たにマネージング・パートナーとなったクロード・V・ビクスラーは、1933年8月に新たなラブロー&グラハム社を設立し、建物の再建に着手しました。彼らは改修と建設を調和のとれたものにすることに特に注意を払いました。蒸溜所の建物の増築部分や新しい石造り倉庫の基礎部分に、古い倉庫跡の石材を再利用したと言います。この作業の重要性とその達成方法は、再建された他の蒸溜所よりもこの蒸溜所の国家的地位を高めるのに貢献した理由の一つでした。1934年以降の蒸溜所の拡張と再建の全体計画は、既存の建物や資材、そして当時の人件費と技術水準に見合った新しい建設資材を融合させた質の高い工業デザインの好例と評価されています。土地の地形と産業のニーズが調和され、省力化と経済性を追求した工場が実現した、と。コーンや他の穀物が丘の中腹にある貯蔵庫から高架を伝って運ばれたように、新しい倉庫は長いバレル・ランの緩やかな傾斜に沿って建てられました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは全長500フィート以上あり、必要な幅で間隔をあけた2本の平行レールで構成されているため、作業員がバレルを所定の位置に留めなくても移動できるそうです。その複雑さに加え、安全および保険の要件も、新しい建物をどこに建設するかを決める上で役立ったとか。このバレル・ランは、樽にスピリッツを最初に充填するシスタン・ルームからリクーパー・ショップを含む全てのストレージ・ウェアハウスまでの広範な時間節約型のコネクター・システムになりました。2レール・システムによって、2人の作業員が大量のバーボン・バレルを扱い、トラックや他の車輪付き搬送装置から積み下ろしすることなく、或る場所から別の場所へ素早く移動させることが出来るようになりました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは、他の蒸溜所の平均的なそれと比べても優れた搬送システムでした。バレル・ランに加えて、禁酒法廃止後に再建されたラブロー&グラハム蒸溜所で最も重要だったのは、1934年から1940年の間に増築された釉薬の掛かったテラコッタ・タイルの倉庫E、F、Hでした。 禁酒法廃止後に建てられた他の蒸溜所の殆どの倉庫は、木造で金属製の波板で覆われていたことを考えると、珍しい仕様と言えるでしょう。これらの建物は全て4階半建て、長さは様々で、石灰岩の基礎の上に建てられ、エイジングをコントロールするための暖房システムを備えていました。これらはライムストーン・ウェアハウスの構造と形状を模倣していましたが、汎ゆる寸法が大きくなっていたとのこと。これらの倉庫をバレル・ランと組み合わせて川岸に沿って慎重に配置したのは、貯蔵能力を拡大するためでした。テラコッタ構造ユニットの使用は、この時代に国中で採用されていた耐火構造のための一般的でシンプルな建築媒体だそうです。テラコッタ・タイルは更にその他の小規模で機能的な建物にも使用されました。また、ビクスラーは閉鎖前と同じウィスキーを造るために禁酒法時代に冷凍保存されていたラブロー&グラハム独自のイーストを使用したとされています。家族のような従業員達によって生産は再開され、その殆どは地元の出身者であり、中には禁酒法以前に親や祖父母がこの蒸溜所で働いていた人もいたそう。ラブロー&グラハムが生産したブランドには「L. & G.」と「R. A. ベイカー」があったと伝えられます。1939年末から1940年初頭に掛けて、彼らは相当量の4年物のバルク・ウィスキーをディーツヴィルのT・W・サミュエルズ蒸溜所(RD No. 145)に売却しました。こうしてラブロー&グラハムは1940年までに蒸溜所の再建、拡張、生産を行い、ウェアハウスに25673バレルのウィスキーを貯蔵するまでになりましたが、1940年7月にオールド・フォレスターやアーリー・タイムズなどのブランドで知られるブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションに75000ドルで売却されました。この取引には、倉庫で熟成されていたその約25000バレルのバーボン・ウィスキーも含まれていました。ブラウン=フォーマンはその後の約20年間、この蒸溜所をラブロー&グラハムという名前の下に操業を続け、一部のオールド・フォレスターやアーリータイムズもここで生産されたと目されます。また、サム・K・セシルの著作によると、ブラウン=フォーマン社は暫くこの工場を使用して「ケンタッキー・デュー」を製造したそうです(後にルイヴィルで瓶詰め)。

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ブラウン=フォーマンが生産と貯蔵を引き継ぐ一方で、ヨーロッパ戦線に於ける戦争への取り組みが高まる懸念から、戦争を予期して生産を加速する必要性が高まりました。施設の新しいマネージャーは大量生産に対応するには水の供給が不十分なことに気づきます。解決策として、既存の鉄道踏切にコンクリート製のダムと放水路を築き、小川を堰き止めるという計画が立てられました。さっそくブラウン=フォーマンはコンクリート製のダムと放水路、そして鉄製の歩道を完成させると、その結果として小川の両岸の間に2.75エーカーの池が出来ました。この水は蒸溜所の年間生産期間を延長するための安定した供給源となっただけでなく、消火のための備蓄水にもなり、蒸溜所の建築物を映し出す風光明媚な景観の一つともなりました。戦時中から1945年末に掛けてのブラウン=フォーマンの工場拡張は、ディスティラリー・ハウスの増築と小さな新棟を建設して完了しました。1942年には蒸溜所の増築に伴い、建物の南側に3ベイのファサードが追加され、発酵室が併設されました。ライムストーンと拡張されたスタンディング・シーム・メタル・ルーフは全体を一体化するために再び選ばれた素材でした。最後の仕上げは、新しい出入り口の上に既存のミルストーンを組み込み、目立つ場所にこの蒸溜所の100年の歴史を刻むことでした。同じ頃、シスターン・ルームの隣に、消防用具を保管するためのセグメンタル・アーチ型の窓とドアを備えたライムストーン造りの平屋建て6面建造物が建てられたそうです。1945年以降、ブラウン=フォーマンは通常のウィスキーの製造および熟成と貯蔵を続けましたが、ラブロー&グラハムが1934年にこの場所に建設したボトリング・プラントの規模は縮小されました。そして1950年代のバーボン市場の衰退により、1957年に生産は終了します。1965年には貯蔵も廃止されました。1960年代後半に更にバーボン市場が低迷すると工場は閉鎖され、ブラウン=フォーマンは1973年(1972年という説も)に土地を地元農家のフリーマン・ホッケンスミスに譲渡。こうしてブラウン=フォーマンによるこの蒸溜所の管理は終わりを告げ、一旦はその歴史に幕が下ろされました。ホッケンスミスはこの施設を農産物の貯蔵庫として使用し、短期間ながら燃料用アルコールの製造も試みたそうです。工業用アルコール、特にOPECの燃料危機をきっかけに人気を博した「ガソホール」の生産に転換したとのこと。しかし、ホッケンスミスは危機が収束する前に新しい給排水設備を殆ど建設することが出来ず、限られた生産量ではごく僅かな市場しか残せなかったらしい。彼は蒸溜所を閉鎖し、凡そ20年も放置されたままになりました。

時は過ぎて1980年代後半から1990年代初頭、バーボンの需要は復活の兆しを見せ始めました。具体的には限られた量しか生産されない高品質なプレミアム・バーボンの市場が盛り上がりを見せていたのです。各蒸溜所では「スモール・バッチ」や「シングル・バレル」の製品が販売されるようになっていました。ジムビームとケンタッキー・バーボン・ディスティラーズはスモール・バッチ・コレクションを展開し、エイジ・インターナショナルはエンシェント・エイジ蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)からブラントンズを筆頭とする幾つかのシングル・バレルのブランドをリリース、フォアローゼズのブランドはアメリカではブレンデッド・ウィスキーのみだったものの輸出市場にはプレミアムなストレート・バーボンを販売、ワイルドターキーもバレルプルーフやシングルバレルの製品を開発、ヘヴンヒルも市場は限定的だったかも知れませんがプレミアムなボトリングを提供していました。当然ブラウン=フォーマンもプレミアム・バーボンの製造に興味を持ち始め、この市場への参入を必要としていました。そこで彼らはそれを造るための適切な場所を探し、ケンタッキー州内の候補地の調査をします。その結果、検討した場所の中にウッドフォード郡にある嘗てのラブロー&グラハム蒸溜所跡地があり、1994年末、ブラウン=フォーマンはメアリー・アン・ホッケンスミスからこの土地を買い戻しました。彼らの目標は外観を1945年当時の姿に復元し、施設を完全に改修することでした。すぐに始まった修復工事にブラウン=フォーマンは2年近くを費やし、この古いランドマークを修復すると業界で最も美しい場所の一つにまで昇華させました。スコットランドやアイルランドで使われるようなオリジナルのカッパー・スティルを設置し、それを用いたプレミアム・バーボン製造のために内装にも変更を加え、遺産観光を目的とした新しいヴィジター・センターも併設され、その総工費は740万ドルだったと言います。1996年10月17日、蒸溜所は一般見学用にオープンしました。蒸溜所の操業開始直後の1997年、ブラウン=フォーマンは周辺の30エーカーを超える土地(元の住居と東側の丘にある泉を含む)を追加購入したことにより、新たに拡張されます。 オープン当時、施設の名前は旧来と同じく、そのままラブロー&グラハム蒸溜所と呼ばれていましたが、製造される唯一のウィスキーはウッドフォード・リザーヴと呼ばれました。そのため、2003年には正式にウッドフォード・リザーヴ蒸溜所と改称され、現在に至ります。このウィスキーはマスター・ディスティラーのリンカーン・ヘンダーソンと当時のプラントのゼネラル・マネージャーであるデイヴ・ショイリックによって構想/開発されました。1996年に市場に投入され、今も高い人気を誇るウッドフォード・リザーヴに就いては、また別の機会に語ることもあるでしょう。
では、最後に貴重なウィスキーを飲んだ感想を少しだけ。

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O.O.P. Old Oscar Pepper Whiskey BiB 100 Proof
1916 - 1926? or 1928?
経年でストリップの印字がよく読み取れず、たぶん26年か28年のボトリングかと思います。液体の見た目はけっこう濁っていました。けれど香りは悪くないし、全然飲めました。オールドオークと甘草やアニス系統のフレイヴァーですかね。流石にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎてるせいなのか、飲んだ量が少量過ぎるというのもあってか、私にはそれほどフルーティなテイストは取れませんでした。とは言え、これは文句ではなく、これだけの「歴史」を飲めたことに感謝です。
Rating:85.5/100

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L.&G. Bottled in Bond 100 Proof
1938? - 1943?
こちらもO.O.P.と同様、ストリップの印字が滲んでいて数字が判別出来ませんでした。これを飲んだことのあるバーボン仲間にも訊ねたのですが、やはりその方も完全には判読できず、蒸溜年とボトリング年はぼんやりとした数字からの推測です。こちらは液体の見た目はクリア、そしてO.O.P.より甘いキャラメルと少しフルーティなテイストを感じました。こちらも少し酸化し過ぎた風味はあったような気はしますが、オールドボトルを飲み慣れていればそれを陶酔感と表現する人もいるでしょう。
Rating:86.5/100


*200年以上もの間、蒸溜所を見下ろす丘の上に建っていたこの歴史的な建物は、エライジャ・ペッパーとその家族に因みペッパー・ハウスと呼ばれています。グレンズ・クリークの畔の小さな蒸溜所の敷地内に1812年に建てられた後、何世代にも渡ってペッパー家の住まいとなり、ペッパー家の手を離れた後も2003年まで誰かしらがこの家に住み、ペッパー・ハウスはケンタッキー州の歴史上、人が住み続けている最古のログ・キャビンとして知られていました。しかし、ここ20年もの間は空き家となって荒れ果てていました。ブラウン=フォーマンはウッドフォード・リザーヴ蒸溜所のウィスキー・バレル・テイスティング体験の水準を引き上げるため、ペッパー・ハウスの修復と改修をジョセフ&ジョセフ・アーキテクトに依頼して、この家を2024年の夏にウッドフォード・リザーヴのパーソナル・セレクション・プライヴェート・バレル・プログラムの新しい拠点として使用することに決めました。オリジナルの外部の石灰岩の煙突はゲストを迎えるために再建されたポーチと共に3年以上かけた修復の中心となっています。既存のスペースは、ドラマチックな2階建てのテイスティング・ルーム、暖炉のあるパーラー、展示室、ケータリング・サポート・スペースのあるバーとして造り直されました。屋外には美しく整備された庭園を見渡す石の壁に囲まれたダイニング・テラスもあります。ウッドフォード・リザーヴを世界的ブランドへと成長させ、長年に渡り修復プロジェクトを支持して来た名誉マスター・ディスティラーのクリス・モリスの功績に敬意を表して、ペッパー・ハウス内のライブラリーは「クリス・モリス図書室」と命名されました。ここには1800年代に遡る丸太とチンキングがあるそう。ウッドフォード・リザーヴのマスター・ディスティラーであるエリザベス・マッコールは、「この家は、コモンウェルスに於けるバーボンの誕生に深く関わる豊かな遺産であり、今日私たちが知っているバーボン業界を形成したペッパー家の不朽の遺産を物語るものです」、「この家を現代的な方法で再利用することは相応しいトリビュートでしょう。もしこの壁が話せるとしたら、ケンタッキー州に於ける初期の蒸溜生活についてどんな物語を語ってくれることか想像できます」、「中に入って1800年代にこの家の一部だった壁に触れるのは素晴らしいことです」と語っていました。
ウッドフォード・リザーヴ・パーソナル・セレクション・プログラムは、世界中のレストラン、バー、酒屋、個人が蒸溜所に訪れ、ウッドフォード・リザーヴ・バーボンの自分だけの組み合わせを作るためのもので、 顧客は公認テイスターとのブレンド体験に参加し、その結果、2樽のバッチが出来上がり、瓶詰めされ、パーソナライズされたラベルが貼られて完成。パーソナル・セレクション・プログラムは、ウッドフォード版プライヴェート・バレル・ボトリングであり、シングルバレルではないものの2バレルを組み合わせて製造されるため限りなくそれに近い。

**ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬にオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約3マイル離れたグレン・クリーク沿いにある25エーカーの土地をジェームズ・ボッツ博士とその妻ジュディスから購入してオールド・クロウ蒸溜所を建設した、とされているので、そこにオスカーが建てた旧来の蒸溜所があったのかも知れません。W. A. ゲインズ・カンパニー(ゲインズ, ベリー&カンパニーの後継会社)はこの蒸溜所とハーミテッジ蒸溜所(RD No. 4)を共に経営しました。後年、DSP-KY-25のプラント・ナンバーで知られたオールド・クロウ蒸溜所は、禁酒法解禁後はナショナル・ディスティラーズが長年に渡り操業し、1980年代後半にアメリカン・ブランズ(ジェイムズ・B・ビーム)が引き継いだあと廃墟となり、現在はグレンズ・クリーク蒸溜所となって復活しています。

***1865年6月にオスカー・ペッパーが亡くなった後、ナニーは1865年後半に隣人であり親戚でもあるトーマス・エドワーズに蒸溜所を1シーズンだけ貸し出しました。エドワーズはグレンズ・クリーク沿いの5マイル離れた農場に蒸溜所を所有しており、そこはドクター・ジェイムズ・クロウがペッパー蒸溜所を去った後の1856年に働いていた地域でも小規模な蒸溜所の一つでした。翌1866年になるとナニーはジョン・ギルバート・マスティンとその弟ウィリアムと3年間のリース契約を交渉しました。ペッパーの蒸溜所は高品質のウィスキーを大量に生産することで評判が高く、ウッドフォード・カウンティの他の蒸溜所もペッパーの設備や専門知識を活用するようになっていたからでした。ジョン・マスティンは1866年のシーズン中、トーマス・エドワーズと共に蒸溜所で働き、その後エドワーズからリース契約を引き継ぎます。彼は1867年1月1日から蒸溜所をゲインズ, ベリー・アンド・カンパニーに転貸し、息子のジョン・Wとロバート・マスティンと共に同社の株式を少額ずつ取得したそうです。

****ゲインズ, ベリー&カンパニーは1867年2月からオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所でオールド・クロウを製造するためのリースを確保した、との説もあります。こちらの方が正しいのかも知れませんが、本文では1869年の裁判所による調停後のこととして記述しました。

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ヴェリー・オールド・バートンは、バーボン生産の中心地バーズタウンで1879年の創業以来、最も長く操業を続けているバートン1792蒸溜所で造られています。そのヴァリエーションは80プルーフ、86プルーフ、90プルーフ、100プルーフと豊富ながら、全国展開のブランドではありません。そのせいなのか、日本での流通量が多くないのが残念なところ。ヴェリー・オールド・バートンは、嘗てはケンタッキー州と近隣の幾つかの州(KY、IN、OH、IL、WI、MI、TN)でのみ販売され、ジムビームやジャックダニエルズと真っ向から競合し、価格競争力に優れたバーボンとしてケンタッキー州では常に高い評判を得ていました。現在では主に中西部、東部、中南部の23の州で販売されているらしいです。
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奇妙なことに、現在バートン1792蒸溜所を所有するサゼラック・カンパニーの公式ウェブサイトの「OUR BRANDS」の欄にヴェリー・オールド・バートンは何故か載っておらず、不当な扱いを受けているようにも見えます。 同蒸溜所の主力製品は今は「1792スモール・バッチ」となっていますが、当初はヴェリー・オールド・バートンが主要なプレミアム・ブランドでした。昔の8年熟成のヴェリー・オールド・バートンは70〜80年代に掛けて最も高く評価されたケンタッキー・ストレート・バーボンの一つとされています。2000年頃までは基本的に8年熟成の製品だったようですが、その後、バーボンの売上増加と蒸溜所の所有者変更により、熟成年数は6年に引き下げられ、更にその後NASになりました。ところで、我々のような現代の消費者の感覚からすると、ヴェリー・オールド・バートンはその名前に反して、それほど長熟ではありませんよね。「ヴェリー・オールド」と聞くと、20年熟成とかを思い浮かべそうですし、そこまでではないにしろ少なくとも12年以上は熟成してそうなイメージがします。しかし、昔はそうではありませんでした。蒸溜所が連邦物品税を支払う前にウィスキーを熟成できる期間(保税期間)は1958年まで8年間だったため、当時は8年物で「ヴェリー・オールド」と呼ばれることが多く、このブランドがそれほど長熟でもないのにそう名前にあるのはその名残です。

ヴェリー・オールド・バートンは通常20ドル未満、プルーフが低い物はそれよりも更に安い価格で販売されています。それ故、20ドル以下のバーボン・ベスト10のようなオススメ記事によく顔を出していました。取り分け人気があったのは部分的に白色が使われたラベルの6年物のボトルド・イン・ボンドで、高品質でありながら手頃な価格は、長きに渡りコストパフォーマンスに優れたバーボンとして愛されて来ました。しかし、上でも述べたように以前はボトルに熟成年数を示す「6 years old」の記載がありましたが、2013年末頃?、サゼラックはネック・ラベルにあった「6 years old」から「years」と「old」を削除し、数字の「6」だけを残しました。サゼラックはバッファロー・トレース蒸溜所が製造するオールド・チャーターのラベルでも、同じように以前はあった8年熟成表記を単なる「8」という数字のみにしたりしました。熟成バレルの在庫が逼迫したことで、ラベルからエイジ・ステイトメントを削除するのは理解できます。しかし、熟成年数を変更したにも拘らず、恰もその年数を示すかのような数字をラベルに残した行為は、多くのバーボン愛好家が納得しないものでした。彼らからは、卑劣で陰険で極悪非道、間違いなく恥ずべきことだと謗られたり、不誠実でくだらないマーケティングと断罪されたり、または天才的なマーケティング手腕だと皮肉られる始末でした。暫くの間ラベルは「6」のままでしたが、軈て消えます。同社はVOBのラベルが「6」に切り替わった時点では平均してまだ6年熟成と主張していました。切り替え当初はそうだったのかも知れませんが、おそらく直に熟成年数は4〜6年のブレンドに移行したと思われます。それから数年後、ラベルから「Bottled in Bond」の表記がなくなり、代わりに「Crafted」と書かれるようになりました。巷の噂では、2018年の6月に1940年代に建てられたバートンの倉庫#30が崩壊したため異なる蒸溜シーズンのヴェリー・オールド・バートンを混ぜることを余儀なくされた、と言われています。
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偖て、今回飲むのは6年熟成でもなく、ボトルド・イン・ボンドでもない100プルーフのヴェリー・オールド・バートンです。私が気に入っていたバートン原酒を使ったコストコのカークランド・シグネチャーが、どうやら一回限りのコラボだったようで定番化されず、そのせいで常備酒とは出来ませんでした。そこで代替品となるのは、似たスペックをもつこのVOBしかありません。同じバートン産でありながら、二つのブランドにどれほどの違いがあるのかも興味深く、購入してみた次第。さっそく注いでみましょう。ちなみにVOBのマッシュビルについては75%コーン、15%ライ、10%モルテッドバーリーとされています。

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Very Old Barton 100 Proof
推定23年ボトリング(瓶底)。オレンジがかったブラウン。薄いキャラメル、若いプラム、トーストした木材、ピーカンナッツ、微かなカレーのスパイス、アニス、汗→整髪料。芳しい樽香に僅かにフローラルの混じった接着剤様のアロマ。口当たりはほんの少しとろっとしている。味わいはバートンらしいストーンフルーツが感じられるがやや弱い。余韻は短めながら香ばしい穀物とココナッツが漂う。
Rating:81/100

Thought:グレインとナッツ類に振れた香味バランスのバーボンという印象。軽いヴァニラ系統の甘み、ウッディなスパイス感、穀物の旨味、適度なパンチは飲み応え十分です。総合的に、驚くほど美味しくはないものの悪くはありません。しかし、正直言うと100プルーフに期待されるリッチなフレイヴァーは欠けているように感じました。バートン原酒を使用したコストコのカークランド・シグネチャーと較べると、特にフルーツ・フレイヴァーが弱く、自分の好みとしてはプルーフの低いスモールバッチよりもこちらは劣っています。KLSmBは開封から半年以上経った時に風味が物凄く伸びたので、このVOBも開封してから少しづつ飲んでスピリッツが開くのを待っていたのですが、半年経っても殆ど変化が見られませんでした。私はKLSmBの「スモールバッチ」はただのマーケティング用語ではないかと疑っていたのですが、これだけ差があるのなら本当に厳選されたバレル・セレクトがなされていたのかもと思い直したほどです。もしくは、コストコはカスタム・オーダーでマッシュビルのライ麦比率をやや増やして違いを作り出していたのかも知れない。VOBはライが15%とされている一方、バートン版カークランドはライが18%と推定されていることが多いので。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメントよりご意見ご感想どしどしお寄せ下さい。

Value:アメリカでの価格は地域によって大きく異なるようですが、基本的にヴェリー・オールド・バートンはアンダー20ドルの世界の戦士です。今の日本では3000円台後半〜4000円近い価格となっており、私も昔の感覚からすると高いなと思いつつもその金額で買いました。そもそも特別な日のためのバーボンではないのは言うまでもありませんが、日本で購入すると安価なデイリー・バーボンとも言い難い価格になるのが痛いところです。勿論、私とて物事が昔と同じようには行かないことは理解しています。最近では1792スモールバッチが4000円から6000円近い価格となっていることを考えると、適正な価格なのかも知れません。しかし、ここ日本で3500〜4000円となると、それより安い価格でメーカーズマークもワイルドターキーも買えてしまいます。個人的にはそれらの方がこのVOB100プルーフより上質なバーボンと感じます。もしこれがアメリカの小売価格に準じた2500円くらいならアリなのですが…。返す返すもコストコのバートン原酒を使用したカークランド・シグネチャーが買えなくなったのは残念です。

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バーFIVEさんでの二杯目の注文はオールド・フォレスター・パーソナライズドにしました。ブラウン=フォーマンの旗艦ブランドであるオールド・フォレスターのこの独特なボトルは、同社の特別生産品で、1930年代後半頃から主にプロモーション販売に使われ、後に同社から直接通販できる特定の個人に向けたギフトボトルとして使用されていたそう。トップ画像のラベルで見られるような「Especially for」、または「For the Personal Use of」等の文言の下部にその個人名が入ります。私が飲んだこのボトルでは、ラベルの経年劣化で消えてしまったのか、或いは元々自分で書き込むように空欄だったのか判りませんが、とにかく個人名は見えません。オールド・フォレスター・パーソナライズドを画像検索で見てみると、比較的長期間(30年代後半〜50年代?)に渡って販売されていたためか、微妙にラベルデザインが異なっていたり、様々な箱に入っていました。中身に関しても多くのエイジングがあり、初期と思しき1938年ボトリングの1クォート規格の物には22年や24年熟成(つまり禁酒法前の蒸溜物)があったり、1940年代の4/5クォート・ボトルでは基本5〜6年熟成と思われますが蒸溜プラントはRD#414の場合もあればRD#354の場合もあったりします。また、何ならオールド・フォレスター・パーソナライズドと同じボトルデザインでラブロー&グラハム名義の物もありました。
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これらパーソナライズド・ラベルのボトルは、画像で確認する限りどれもボトルド・イン・ボンド・バーボンとして製造されたのではないかと思います。品質に関しては、シングルバレルかスモールバッチか定かではありませんが、おそらく相当に良質なバレルを選んでいるのではないかと予想します。ブラウン=フォーマンには特別なバーボンと言うと、パーソナライズドの他に「プレジデンツ・チョイス」があります。オールド・フォレスターの創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンが当時のケンタッキー州知事のために選び特別にボトリングした1890年に始まる伝統を、ジョージ・ガーヴィン・ブラウン2世が1960年代にやや一般化し、特別な顧客のために蒸溜所の最も優れたハニー・バレルを探すプログラムがプレジデンツ・チョイスでした。正式には「プレジデンツ・チョイス・フォー・ディスティングイッシュト・ジェントルマン(卓越した紳士のための社長選定)」という名前で、トール瓶の物はシングルバレルでバレルプルーフまたは20バレル前後のスモールバッチで90.3プルーフにてボトリングされています。これはまだ業界にシングルバレルやスモールバッチというマーケティング用語が定着する数十年も前の話でした。
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で、このプレジデンツ・チョイスにはイタリア向けとされるパーソナライズドとボトルの形状が同じ物(色はクリア)もありましたし、なんとなく時期的にもパーソナライズドとプレジデンツ・チョイスが入れ替わりで販売されているように思えなくもないので、両者のコンセプトの差は社長自ら選んだかブレンダーが選んだかの違いくらいしかなく、パーソナライズドに使用されたバレルも蒸溜所の最高峰のバレルが選ばれているのではないか、というのが私の個人的な推測です。何故こんな根も葉もないことを言い出したかというと、それは今回飲んだこのボトルが余りにも美味し過ぎたから。まあ、他のパーソナライズドのボトルを飲んだことはないので、これは何とも心許ない憶測に過ぎません。それと、写真から分かるようにこのボトルは裏ラベルがなく、どこで製造されたかは不明です。普通に考えるとRD#414かなとは思うのですが…。ちなみに、ブラウン=フォーマンの統括的マスター・ディスティラーであるクリス・モリスによると、オールド・フォレスターのお馴染みのマッシュ・レシピは一度も変更されていないそうです。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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OLD FORESTER PERSONALIZED LABEL BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定50年代ボトリング(ストリップの印字がうっすらと57に見えるが不明瞭のため)。非常に濃いブラウン。全体的にセージやユーカリのような爽やかなハーブがリッチに薫るお化けバーボン。以前飲んだことのある5、60年代のオールドフォレスター(#414)とは全く異なるキャラクターでした。アロマは植物っぽい香りで、時間をおくと濃密なキャラメル香も。味わいはスイートでありながら単調ではなく複雑で深みを帯びています。フルーツは強いて言うとアップル。苦いハーブのタッチも僅かにありますが、癖のあるスパイスは現れません。そして途轍もなく長い余韻。グラスの残り香もハービー。
Rating:96.5/100

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カークランド・シグネチャーは、1983年に創業した会員制ウェアハウス型店舗コストコのプライヴェート・ブランドです。お酒に限らず食物から日用品まであり、高品質かつ低価格が自慢。その名称はワシントン州カークランドから由来しています。コストコの創業者ジム・シネガルは自社ブランドを立ち上げる際、創業の地であり拠点としていたワシントン州シアトルへの感謝の気持ちを込めて「Seattle's Signature」と名付けることを希望していましたが、法的に承認されなかったため、1987年から1996年までの約9年間に渡って本社があったカークランドをブランド名として採用したのだそう。ブランドのスタートは1995年から。
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コストコはアルコール飲料の世界最大の小売業者の 一つと目され、2020年には約55億ドルのアルコール飲料を販売しました。その売上高の40〜50%をワインが占め、残りがスピリッツとビールでほぼ均等に分けられる内訳のようです。自社ブランドのカークランド・シグネチャーは、2003年に最初にワインから始まり、2007年にスピリッツへと拡大したという情報がありました。平均してコストコには約150種類のワインがあり、そのうち30種類がカークランド・シグネチャー・ブランドとされ、スピリッツのセレクションは年間を通じて大きく変動する傾向があるものの平均して約50種類あり、そのうち約20種類が同ブランドとされます。ウィスキーはスピリッツの一部門なのでその数はワインには遥かに及ばないとは言え、識者からはコストコは北米最大のウィスキー小売業者である可能性が高いとの指摘もありました。現在、カークランド・シグネチャーのブランドでスコッチ、アイリッシュ、カナディアン、バーボンなど様々なウィスキーがあります。コストコのオリジナルのバーボンでは、今回紹介するバートンに至る以前に「プレミアム・スモールバッチ・バーボン」というのがありました。それらは生産者名を明確に開示してはいませんでしたが、ラベルにはケンタッキーやテネシーと記載があり、ほぼ間違いなくジム・ビームやジョージ・ディッケルから供給された原酒であろうと見られています。
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そして来たる2021年、コストコは再びバーボンの調達先を変更し、バーボンのメッカであるケンタッキー州バーズタウンで「最も古いフル稼働している蒸溜所」として宣伝され、現在サゼラック社が所有するバートン1792蒸溜所と提携、バートン・マスター・ディスティラーズの名の下にそれぞれが異なるプルーフでボトリングされるスモールバッチ、ボトルド・イン・ボンド、シングルバレルと三つのヴァージョンを発売しました(全て1L規格のボトル)。ラベルには蒸溜所やウェアハウスが描かれ、そのパッケージングはかなりカッコいいですね。これらのボトルはアメリカでは2021年半ばからリリースされましたが、日本のコストコには2022年になって入って来たようです。シングルバレルは、一つの樽からのバッチングのためボトリング本数が少ないせいか、日本には入って来ていないと云う情報もありました。本当かどうか私には判りません。皆さんのお住まいの地域のコストコではどうなのでしょう? 見たことがある/ないの情報を是非コメントよりお知らせ下さい(この件に関してコメント頂けました。日本にも入って来てました。詳しくはコメント欄を参照下さい)。
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(コストコより)

偖て、今回はそんなコストコとバートンのコラボレーションによるカークランド・シグネチャーの中から「ボトルド・イン・ボンド」を取り上げます。ボトルド・イン・ボンド(またはボンデッド)は、そもそも蒸溜所と連邦政府がスピリッツの信頼性と純度を保証するために使用したラベル。1897年に制定されたボトルド・イン・ボンド・アクトは、主に商標と税収に関わる法律で、単一の蒸溜所にて、単一の年、単一のシーズンに蒸溜され、政府管理下のボンデッド・ウェアハウスで最低4年以上熟成し、100プルーフでボトリングされたスピリットのみ、そう称することが許される法律でした。ラベルには蒸溜所の連邦許可番号(DSPナンバー)の記載が義務づけられ、ボトリング施設も記載しなければなりません。上の条件を満たした物は緑の証紙で封がされ、謂わばその証紙が消費者にとって品質の目印となりました。紛い物やラベルの虚偽表示が横行していた時代に、ラベルには真実を書かねばならないというアメリカ初の消費者保護法に当たり、結果的にスピリットの品質を政府が保証してしまう画期的な法案だったのです。現在では廃止された法律ですが、バーボン業界では商売上の慣習と品質基準のイメージを活かし、一部の製品がその名を冠して販売されています。
カークランド・シグネチャーのバートン・バーボンのマッシュビルは非公開ですが、おそらくはコーン74%、ライ18%、モルテッドバーリー8%であろうと推測されています。その他のスペックは「Bottled-In-Bond」を名乗りますので、BIBアクトに大筋で従っているでしょう。同じ季節に蒸溜され、少なくとも4年以上の熟成を経て、100プルーフでのボトリングです。海外の或るバーボン愛好家の方は、三つのエクスプレッションは全て一貫したバートン1792のDNAを示すが、バートンの通常のボトリングとは微妙な違いがあるようだ、と言っていました。日本で比較的買い易いバートンのバーボンと言うと、安価なケンタッキー・ジェントルマンやケンタッキー・タヴァーンやザッカリア・ハリス、もう少し高価なプレミアム・ラインの1792スモールバッチが挙げられます。それらと比べてコストコのバートン原酒バーボンがどう異なるのか気になりますね。ちなみに、私はコストコ会員ではないので、今回のレヴューするボトルは友人に頼んで買ってもらいました。ありがとう、Aさん! では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。

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KIRKLAND SIGNATURE BOTTLED-IN-BOND (BARTON 1792) 100 Proof
推定2021年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。香ばしい穀物、花火、ヴァニラ、ドライアプリコット、苺ジャム、フルーツキャンディ、シリアル、胡桃、ちょっと塩、一瞬チョコレート。あまり甘く感じないアロマでフルーティ。ややオイリーな口当たり。パレートはなかなかフルーティな甘さもありつつ、フレッシュなアルコール感とウッディなスパイスが引き締める。余韻もウッディでほんの少しシナモンと苦味も。
Rating:85.5/100

Thought:樽感と穀物感と果物感のバランス、甘さと辛さのバランス、ガツンと来る感じ等が凄く自分好みでした。コストコとバートン1792蒸溜所は手頃な価格と高品質の両立という素晴らしい仕事をしたと思います。強いて欠点を探すと、バートンの旗艦ブランドである1792スモールバッチに比べればやや若さがあるところなのですが、その点は個人的にはプルーフが上がっている分で帳消しになっていますし、寧ろグレインの旨味や甘酸っぱいフルーツの風味が味わえて好印象ですらあるかも知れない。サイド・バイ・サイドで較べてはいないものの、1792スモールバッチはおそらくもう少し熟成年数は長いと思います。そして「若い」とは言え、同じバートンのより若い原酒を使ったケンタッキー・ジェントルマンやケンタッキー・タヴァーンやザッカリア・ハリスからは著しい伸長が感じられます。やはりボトルド・イン・ボンドは偉かった。

Value:アメリカでの価格は約25ドル程度のようです。日本だと3500円程度でしょうか。バートンの代表的銘柄であったヴェリー・オールド・バートンが現在はあまり力を入れられてない現状(流通量が少ない)もあって、ちょうどその代替製品となるのはこのコストコのオリジナル製品なのかも知れません。そして、コストコのソースは長年に渡って変化していますし、バートンとの契約が単発での生産なのか、ある程度の期間持続するものなのか、今のところよく分からないので、時間の経過と共に同じものを手に入れることが出来ない可能性があります。他の汎ゆるものでもそうですが、あるうちに買っておくことをオススメします。

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オールド・バーズタウンはウィレット蒸留所の代表的な銘柄。このブランドがいつ誕生したのか明確ではありませんが、ウィレットの公式ホームページの年表によれば1940年代とされ、1935年に蒸留所を開設してからの最初のブランドであろうと見られます。海外の情報では、その名の由来はバーボン生産の一大拠点でありウィレット蒸留所のある町の名前からではなく、1950年代に活躍したハンディキャップのある競走馬からだとされています。ただし、その馬はレキシントンのカリュメット・ファームで育成され、ネルソン郡バーズタウンにちなんで命名されました。足首と股関節に問題があったため4歳までレースに出走しなかったものの、その後4年間レースに出場し当時のトップ・レヴェルの高齢馬の一頭となったとか。しかし、これだとブランドの発売時期と「バーズタウン」と名付けられた馬の活躍時期とが一致しません。日本での情報では、ブランド名は当時の蒸留所のオウナーであるトンプソン・ウィレットもしくはその父親ランバートが所有していた競走馬の名前から付けられた、とされています。どちらにせよ、こうしたブランド・ストーリーは真偽の程が定かではなく、何となく後から取ってつけたものであるような気がしますね。

さて、ここらでオールド・バーズタウンの初期ボトルにでも言及したいところなのですが、実は画像検索でそのような古いボトルは殆ど見つかりません。広告で見る限り、4年熟成90プルーフとボトルド・イン・ボンドがあり、また86プルーフのヴァージョンもあったようです。あと年代は判りませんが、6年熟成90プルーフや7年熟成BiBの物も見かけました。その他に画像検索で見つかり易い物には70年代後半ボトリングのケンタッキー・ダービーにちなんだデカンターがあります。78年のオートモービル・カー・デカンターもありました。70年代に入りめっきり売上の減少したバーボンにあって、こうした何らかの記念デカンターは比較的売れる商材であったため、他にもオールド・バーズタウンのデカンターはあるのかも知れませんが、そもそもビームやエズラやマコーミックに較べるとウィレットの製品は絶対的に流通量が少ないような印象を受けます。

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(様々なオールドバーズタウン。画像提供K氏)

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我々日本人にとって馴染み深いオールド・バーズタウンと言えば、80年代半ば頃?から輸入されているブラック・ラベルに馬の頭と首のみがゴールドで描かれた物でしょう。ブラザー・インターナショナルが輸入した物に付いていたカード(上画像参照)を読む限り、ブラザーが正規輸入代理店となって初めて日本にオールド・バーズタウンを広めたのだと思われます。ジャパン・エクスポートのブラック・ラベルには6年熟成86プルーフと12年熟成86プルーフがありました。その後、後述する2016年まではブラック・ラベルのデザインがスタンダードなオールド・バーズタウンになったようで、輸出国の違いによりNAS(もしくは4年熟成)86プルーフと90プルーフがあります。見た目が豪華なゴールド・ラベルには10年熟成80プルーフとNAS80プルーフがありました。使われる色が豪華だと中身のスペックもより上位なのが通例なのに、ゴールドの方がブラックより格下という珍しいパターンですね。寧ろスタンダードなブラックより上位の物にはエステート・ボトルドというのがあり、それには初期の頃と同じ「オールド・レッド・ホース」が描かれたラベルと、丸瓶や角瓶と違うずんぐりしたボトルが採用されています。おそらく日本向けの15年熟成101プルーフ、10年熟成101プルーフ、そしてもう少し後年のNAS101プルーフがありました。

ウィレット蒸留所は1980年代初頭、訳あってバーボンの生産を停止し、同社は80年代半ばにケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)として再スタート。その当初は独自の蒸留物でオールド・バーズタウンのブランドをリリースするのに十分なエイジング・バーボンのストックがあったと思われますが、在庫が枯渇する前に余所の蒸留所からバーボンを調達するようになりました。KBDのバーボンの大部分はヘヴンヒルから来ていると見られ、90年代以降のオールド・バーズタウンは概ねヘヴンヒル原酒で構成されていたと考えられています。トンプソン・ウィレットの娘婿でKBDの社長エヴァン・クルスヴィーンは、蒸留所を再開する夢を持ってオールド・バーズタウンやジョニー・ドラムといったブランドを存続させ、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリーク等のスモールバッチ・ブティック・バーボンを相次いで発売しました。こうした自社ブランドの販売、他社のためのボトリングやブローカーとしての活動が実り、2012年、遂にエヴァンとその家族の長年の夢は達成され、蒸留所は再び蒸留を開始します。そして熟成の時を経た2016年、ようやく自家蒸留による「新しい」オールド・バーズタウン90プルーフとボトルド・イン・ボンドがリリースされました。その両者のラベルはトンプソン・ウィレットがプレジデントだった時代のオールド・バーズタウンを再現したものです。
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どちらもウィレット・ファミリー・エステートのボトルほどエレガントではない古典的なバーボンらしいボトルに詰められています。スタンダードな90プルーフのラベルのフロントには馬がいません。代わりに紋章が描かれたシンプルなもの。クリームとブラウンの色合わせと相俟ってカッコいいですよね。一方のボトルド・イン・ボンドのラベルは、これぞオールド・バーズタウンという邸宅の前に佇む牧歌的な馬が描かれたもの。当初はキャップの色がゴールドでしたが、2018年後半あたりにブラックに変更されたようです。
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(画像提供K氏)
ちなみにこちらのBiB、初めは蒸留所のギフトショップでのみ売られ、その後ケンタッキー州だけでリリースされるようになりました。もしかすると現在ではもう少し広い範囲に流通しているのかもですが、私には詳細は分かりません。それはともかく、今回、現行の新しいオールド・バーズタウン90プルーフのレヴューと一緒に、日本では一般流通していない希少なBiBを飲めることになったのはバーボン仲間のK氏よりサンプルを頂いたお陰です。画像提供の件も含め、改めて感謝致します。ありがとうございました!
では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。

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OLD BARDSTOWN 90 Proof
推定ボトリング年不明、購入は2019年。プロポリス配合マヌカハニーのど飴、熟したプラム、コーン、グレープジュース、食パン、干しブドウ、干し草。円やかな口当たりながら若いアルコール刺激もある。味わいはグレープキャンディと穀物を感じ易い。余韻はミディアム・ショートで、最後にレモンジンジャーのような苦味が残るのは悪くない。
Rating:86.5/100

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OLD BARDSTOWN Bottled-in-Bond 100 Proof
推定ボトリング年不明。フロランタン、焦げ樽、蜂蜜、熟したプラム、グレイン、塩、フローラル。若干ウォータリーな口当たり。余韻はあっさりめで度数から期待するほど長くない。キャラメル系の香りはこちらの方が強いものの、フルーティさはスタンダードの方が感じ易かった。また、バレルプルーフでない50度のバーボンでここまで塩気を感じたことはない。
Rating:86.5/100

Thought:どちらも、同社の上位銘柄でありマッシュビル違いとなるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比べると、共通項もありつつグレイン・ノートが強く出ている印象。スタンダードとボトルド・イン・ボンドの違いは後者が単に濃くなっただけだろうと事前予想していたのですが、思ったより異なるフレイヴァーを感じました。ボトリング・プルーフが上がったことで何かしらのフレイヴァーが感じ易くなったと言うよりは、バッチングに由来する違いのような気がします。或いは熟成年数に少々差があるのでしょうか? 海外のレヴュワーで、プルーフの違いを除くと両者の違いは、通常のオールド・バーズタウンには4年に達していない幾つかのバレルがブレンドされてるのではないか(BiBは法律上確実に4年以上)、という意見を述べている人を見かけました。まあ、実際のところはよく判らないのでそれは措いて(追記あり)、現在のウィレット蒸留所は6種類のマッシュビルでウィスキーを造り、それぞれのレシピによってバレル・エントリー・プルーフも変えています。以下に纏めておきましたので参照下さい。

①オリジナル・バーボン・レシピ
72%コーン / 13%ライ / 15%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

②ハイ・コーン・バーボン・レシピ
79%コーン / 7%ライ / 14%モルテッドバーリー / 103または125バレルエントリープルーフ

③ハイ・ライ・バーボン・レシピ
52%コーン / 38%ライ / 10%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

④ウィーテッド・バーボン・レシピ
65%コーン / 20%ウィート / 15%モルテッドバーリー / 115バレルエントリープルーフ

⑤(ハイ・ライ)ライ・ウィスキー・レシピ
74%ライ / 11%コーン / 15%モルテッドバーリー / 110バレルエントリープルーフ

⑥(ロウ・ライ)ライ・ウィスキー・レシピ
51%ライ / 34%コーン / 15%モルテッドバーリー / 110バレルエントリープルーフ

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そして、オールド・バーズタウンのマッシュビルは海外で普及している情報では①とされています。バーボンをメインで扱うどのウェブサイトを閲覧してもそう書かれています。しかし、ウィレット蒸留所と縁の深いバーGのマスターによるとオールド・バーズタウンのマッシュビルは②のハイ・コーン・レシピと断言されていました。ビーム社で言うところのジムビーム・ホワイトに当る存在、つまり当該蒸留所のエントリー・クラスのバーボンであり代表的銘柄となるオールド・バーズタウンに、バーボンに於いてかなり一般的な穀物配合率の①のレシピを用いていても不思議ではありません。ただし、私が飲んだ感想だと②のレシピという印象を受けました。ウィレットの自社蒸留原酒は、他のケンタッキーの大手蒸留所のバーボンに較べるとアロマにライウィスキーぽいフルーティさが常に感じられるのですが、ケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比較すると、オールド・バーズタウンはよりコーン率が高そうな味わいに思ったのです。
ところで、ウィレットのマッシュビルで興味深いのは、モルテッドバーリーの割合が一般的なバーボンよりも高いことです(だいたいのバーボンは5〜12%が殆ど)。①や②のレシピなどはモルテッドバーリーがライよりも大きな成分であるため、糖化のための酵素の役割としてだけでなくフレイヴァー要素を担わせているように思われます。おそらくモルトの含有量が増えると、一般的なバーボン・フレイヴァーから半歩外れるように感じる人もいるのではないでしょうか。まあ、実際にはモルテッドバーリーの配合率より酵母の違いやポット・スティルでのディスティレーション、或いは②に関してはバレル・エントリー・プルーフの低さの方がフレイヴァーにとって重要なのかも知れませんけれども。新しいオールド・バーズタウンを飲んだことのある皆さんはそのフレイヴァーについてどう思われましたか? どしどしコメントよりご感想をお寄せ下さい。

Value:ウィレットは長い歴史を持つ蒸留所ですが、規模や製造工程の点から言うと新しいクラフト蒸留所に近しいでしょう。まるで工場のような大手蒸留所と比べて生産規模の小さいクラフト蒸留所の製品はどうしてもお値段が高くなります。4年未満熟成のクラフト・バーボンで40ドルを超えることは珍しくありません。それなのに、ウィレットのプレミアムな一部の製品を除くレギュラー製品は、自身の新しい蒸留物であるにも拘らず、従来品とさほど変わらない値段が維持されています。オールド・バーズタウン90プルーフはアメリカでは17〜25ドル程度。日本での小売価格はだいたい2500〜3000円程度です。スモールバッチ・バーボンであるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOやポットスティル・バーボン、また同じブランドのオールド・バーズタウン・エステート・ボトルド等と較べると、やや「若さ」を感じる味わいではありますが、それらより安い2000円代で買えるこのスタンダードは完全にオススメ。なぜなら既に十分美味しいのですから。
90年代の調達されたバーボンから造られたオールド・バーズタウンも勿論悪くはありませんでした。しかし、新ウィレット原酒はソースド・バーボンとフレイヴァー・プロファイルが異なるだけでなく、はっきり言ってレヴェルが違うと個人的には思っています。初めて新ウィレット原酒を味わった時は、初めてMGP95%ライを飲んだ時と同じくらい衝撃を受けました。昔のオールド・バーズタウンにピンと来なかった方にも、是非とも再度試してもらいたいところです。


追記:現行オールド・バーズタウンの三つはそれぞれ、90プルーフのスタンダードは4〜5年熟成、ボトルド・イン・ボンドは5年熟成、エステート・ボトルドは6年熟成との情報が入りました。またオールド・バーズタウンにスモールバッチ表記は無いものの、おそらくどれも21〜24樽でのバッチングのようです。と言うか、ウィレットはスモールバッチ専門なので、他の製品も今現在はそれ位のバッチ・サイズなのでしょう。

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デイヴィッド・ニコルソン1843は現在ラクスコの所有するブランドで、古くはスティッツェル=ウェラーと繋がりのあった小麦レシピのバーボンです。セントルイスを拠点とするラクスコは、旧名をデイヴィッド・シャーマン・コーポレーションと言い、2006年に名称を変更しました。近年、新ブランドのブラッド・オースを立ち上げたり、既存のブランドの拡張と刷新をしたり、更には2018年春にラックス・ロウ蒸留所をケンタッキー州バーズタウンにオープンしたりと、バーボン好きには見逃せない会社です。彼らが展開するバーボン・ブランドにはデイヴィッド・ニコルソンとブラッド・オースの他、エズラ・ブルックス、レベル・イェール、デイヴィス・カウンティがあります。

トップ画像の物はいわゆる旧ラベルで、2015年によりシンプルなラベルにリニューアルされました。2016年には「デイヴィッド・ニコルソン・リザーヴ」という黒いラベルの仲間が増え、ラベル・デザインを揃えています。ちなみに黒い「リザーヴ」の方はウィーターではないスタンダード・ライ・レシピのバーボンです。
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(現行のDNのラベル)

さて、今回はデイヴィッド・ニコルソンとそのバーボンについてもう少し紹介してみたいと思います。日本ではあまり話題にならないバーボンですが、実はなかなか歴史のあるブランド。ラクスコが公式ホームページで言うような、世代から世代へと受け継がれるレシピの物語は額面通りには受け取れませんが、オースティン・ニコルズの「ワイルドターキー」と同じように、自分の店でしか手に入らない独自のウィスキーを常連客に提供した食料品店のオウナーの物語があります。
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セントルイスの形成を助けた一人だったデイヴィド・ニコルソンは、地元市民の胃袋を満たした食料品店オウナー、ダウンタウンの有名なビルの開発者、境界州ミズーリでの無遠慮なユニオン軍のペイトリオットでもあり、何なら詩人ですらあったようですが、その名をアメリカ大衆の記憶に残した最大の功績は、彼が店の奥の部屋で歴史的なウィスキーのレシピを作成したことでした。
デイヴィッドは1814年12月、スコットランドはパース郡のフォスター・ウェスターという村の質素な家庭で生まれました。初歩的な学校教育は受けますが、殆どは独学で物にしました。その後、グラスゴーで食料品店の見習いとなり、後にウェスト・ハイランズのオーバンでも修行を積んだようです。彼は1832年頃にはカナダに移住し、モントリオールに上陸した後、オタワに向かいました。就職がうまく行かなかったデイヴィッドは、大工の仕事を学びながらカナダのいくつかの町を巡回し、遂にはアメリカへ行くことにします。始めはペンシルバニア州エリー、次いでシカゴに移り、最終的にセントルイスで大工仕事に精を出しました。頑強な体つきと頭の回転も速かった彼は迅速で優れた仕事ぶりで知られており、セントルイスにあるセント・ゼイヴィアズ・チャーチの素晴らしい装飾用木工品の幾つかはデイヴィッドの作品だったそうです。

セントルイスでデイヴィッドは10歳年下のスコットランド移民ジェイン・マクヘンドリーと出会い、1840年頃結婚しました。彼らには三人の男の子と三人の女の子、計六人の子供が生まれています。1843年、29歳のデイヴィッドは大工職を断念し、スコットランド人でワイン・マーチャントの仲間と協力して専門食料品と酒の特約店を設立しました。商才に長けていた彼は店を繁盛させ、顧客の増加に合わせて何度も店を移転したそうです。デイヴィッドは卸売業者としても活発な取引を行い、セントルイスから西に向かうワゴン・トレインに食物や飲料を供給しました。また、ニューヨーク・シティの営業所から東部でもビジネスを行っていました。
数回の移転の後、1870年にデイヴィッド・ニコルソンはマーケットとチェスナットの間のノース・シックス・ストリート13-15番にある大きな建物に落ち着きます。その建物は彼自らの仕様で建てられ、各階の広さが50×135フィートある5階建ての構造でした。絶え間ない客の往来に対応するため50人の店員が雇われていたと言います。デイヴィッドは、時には船をチャーターして海外からの貨物を積み込み、セントルイスのグロサーで初めて外国の食料品を輸入して、周辺の市場でこれまで知られていなかった商品の消費を促進しました。

伝説によれば、デイヴィッド・ニコルソンの創業年もしくはその少し後、オウナーは自ら「43」レシピを開発したと言います。彼は食料品店の奥のプライヴェートな部屋で100回以上も実験をしてマッシュビルを考え出し、セカンド・グレインにライではなくウィートを使用することにした、と。中西部ではウィートはライより豊富に穫れ、柔らかく滑らかなテイストを気に入ったからだとか。まあ、この手の創始にまつわる伝承は本当かどうか定かではありませんが、販売されたそのウィスキーは、ミズーリ州や州境となるミシシッピ・リヴァーを渡ったイリノイ州の酒呑みにすぐに受け入れられたようです。また、彼はニューヨークの「ファーストクラス」の場所で販売するために、全国的に知られたブランドのオールド・クロウを樽買いしてボトリングしてもいました。
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おそらくデイヴィッドは蒸留業者であったことはなく、あくまでウィスキーを含む大規模な食料品卸売業者であり、ウィスキーに関してはレクティファイヤー、つまり多くの蒸留業者から購入したウィスキーをブレンドして販売する業者だったと思われます。多くのセントルイスのレクティファイヤーたちは悪名高いウィスキー・リングの犯罪に巻き込まれましたが、デイヴィッドは誠実さがモットーだったのか、業界でよく見られた悪しき取引慣行を大いに蔑み、それらの罪を犯した者を軽蔑したと言います。彼はウィスキー・リングという前代未聞のスキャンダルの後も町を離れませんでした。

デイヴィッドが歳を取るにつれ、親族が会社に加わりました。妻のジェインは役員として会社に入り、イングランドでグロサーの修行を積んだ甥のピーター・ニコルソンは1852年に渡米してすぐ雇われました。店員としてスタートしたピーターには並外れたエネルギーと商才があったようで、彼が経営責任を与えられるにつれて顧客層は大きく広がったと言われています。
デイヴィッド・ニコルソンは1880年11月に65歳で亡くなりました。彼はセントルイスのベルフォンテン・セメタリーに埋葬され、妻のジェインも31年後にそこに入ります。ピーターは食料品店とリカー・ハウスの監督を引き継ぎ、1891年にメインのビルディングが焼失した後、ノース・ブロードウェイに移転し、1920年までウィスキーの販売をしていました。そうして、おそらく禁酒法の到来とともに、ピーターはデイヴィッド・ニコルソン名の権利を同じセントルイスの有名なタバコ商ピーター・ハウプトマン・カンパニーに売却したと思われます。どの時期かは確証がありませんが、少なくとも「ドライ・エラ」の終わり直後にはハウプトマン社がラベルを所有していました。

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ピーター・ハウプトマンは祖国ドイツからアメリカに渡り、様々な卸売会社で働いた後、自分の会社を設立、主にタバコ製品の販売で知られていましたが、タバコ会社の事業を続ける一方で蒸気船事業もしていたようです。もしかするとウィスキー・ブローカーのようなこともしていたのかも知れません。ハウプトマン自身は1904年に亡くなっています。
ピーター・ハウプトマン・カンパニーはデイヴィッド・ニコルソン・ブランドのセントルイスのディストリビューターで、その最高経営責任者はロジャー・アンダーソンでした。当初、イリノイ州には別のディストリビューターがいたそうですが、ともかく、デイヴィッド・ニコルソン1843は常にセントルイス周辺の地域限定的な製品で、禁酒法の後はスティッツェル=ウェラーがピーター・ハウプトマン社のために造りました。ラクスコの公式ニュースによれば、1893年にジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルがWLウェラー商会に加わった頃、セントルイスの卸売業者ピーター・ハウプトマン社のためにデイヴィッド・ニコルソン・ブランドはA.Ph.スティッツェル蒸留所でオリジナルの「43」レシピの蒸留と瓶詰めを開始したという記述が見られます。詳細は分かりませんが、少なくともその頃からハウプトマン社が関わっていたのは間違いなさそうです。

禁酒法後、ハウプトマン・カンパニーはマッケソン・インコーポレイテッドに所有されていました。ロジャー・アンダーソンは第二次世界大戦でアメリカ陸軍に勤務した後、マッケソンの販売部門で働き始めました。1968年、彼はセントルイスのマッケソンのピーター・ハウプトマン卸売酒類部門のゼネラル・マネージャーに就任し、1993年または1994年にその職を退き、2013年に亡くなったとのこと。
1967年までハウプトマン社はデイヴィッド・ニコルソン1843バーボンのブランドを所有していましたが、その年、フォーモスト・デリーズはマッケソン=ロビンズを買収し、ハウプトマン部門はクロスオウナーシップのルールによりニコルソン・ブランドの販売を余儀なくされ、それをヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーが取得しました。この関係はやや込み入ったものでした。ファミリーはゴールド色の「1843」の名前とスコットランドの国花アザミがデザインされたラベルを所有しつつそれをリースすることで、ハウプトマン社はプレミアムな自社ブランドの一つとして販売し続けることが出来たのです。ハウプトマンはスティッツェル=ウェラーからウィスキーを購入し、倉庫代と瓶詰めの費用を支払い、ウィスキーが出荷されるとヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーには、ケースごとにブランドを使用するためのロイヤリティが支払われました。この取り決めはヴァン・ウィンクル/マクルーア・ファミリーがスティッツェル=ウェラー蒸留所とそのブランドの殆どをノートン・サイモンに売却した1972年以降も続いたようです。

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ラクスコの公式ホームページによるとデイヴィッド・ニコルソン・ブランドを買収したのは2000年としていますが、ヴァン・ウィンクル・ファミリーからの情報ではデイヴィッド・シャーマン・カンパニーにブランドを売却したのは1984年または1985年とされています。また、デイヴィッド・シャーマン社はロジャー・アンダーソンが引退した93-94年頃にハウプトマン社を買収したという話もありました。アンダーソンは死ぬまでアクティヴにビジネスを続け、J.P.ヴァン・ウィンクル&サンのセントルイスでのブローカーだったそうです。
ピーク時には年間約40000ケース売り上げたというデイヴィッド・ニコルソン1843も、デイヴィッド・シャーマン社がブランドを購入した頃には、販売量は年間約6500ケースに減少していました。こうしたバーボンにとって暗黒時代だったことが直接的、或いは間接的に影響し、デイヴィッド・ニコルソン・ブランドを長らく蒸留して来たスティッツェル=ウェラー蒸留所は、新しい所有者のユナイテッド・ディスティラーズによって1992年に生産を停止されてしまいます。

デイヴィッド・ニコルソン1843は上述のように地域の製品としてミズーリ州セントルイス、イリノイ州イースト・セントルイスやアルトン(オールトン)で人気があり、長年に渡って販売され続けました。実際、地域限定の製品としては画像検索で比較的容易に40年代から70年代のオールドボトルでも見ることが出来ます。最も多く見られるデイヴィッド・ニコルソン1843は丸瓶で7年熟成の物でしたが、6年熟成や8年熟成、またデカンターに入った物もありました。スティッツェル=ウェラーは異なるブランドで使用するためにデカンターのデザインをリサイクルすることがよくあったと言われています。高価格帯のバーボンが売れ行きを落としていた1970年代には時代の趨勢もあってか、より低価格帯の92プルーフに希釈されたブラックラベルの1843も導入されたようですが、画像は発見出来ませんでした。
デイヴィッド・ニコルソン1843はスティッツェル=ウェラー製造品としてオールド・フィッツジェラルド、WLウェラー、キャビン・スティル、レベル・イェール等と同一線上のウィーテッド・バーボンであり、バーボン・マニアからの評価は高く、S-Wを好きな人からすると限りない価値があるでしょう。概ね7年熟成のボトルド・イン・ボンド製品だったデイヴィッド・ニコルソン1843は、見方を変えれば7年間熟成させたオールド・フィッツジェラルドBIBとも、また別の見方をするなら107バレルプルーフではない100プルーフ版のオールド・ウェラー・アンティークとも言えるのですから。

さて、1992年以降再び蒸留されることはなかったスティッツェル=ウェラー蒸留所。その原酒を調達できなくなった後のデイヴィッド・ニコルソン・ブランドはどうなったのでしょうか?
ユナイテッド・ディスティラーズはS-W蒸留所を閉鎖すると、小麦バーボンの製造を彼らが新しく建てたバーンハイム蒸留所に移しました。後の1999年にはその蒸留所をヘヴンヒルに売却します。そして、ラクスコはバーボンの全てではないにしても大部分をヘヴンヒルから供給していることを開示しています。
当時のデイヴィッド・シャーマン社は、蒸留所が閉鎖された時も、まだスティッツェル=ウェラーからウィスキーを仕入れていたそうです。おそらくスティッツェル=ウェラーの原酒が枯渇した後、ある時点でヘヴンヒル・バーンハイム蒸留所の原酒に切り替わったと思われますが、その明確な時期は判りませんでした。また、いくら調べてもユナイテッド・ディスティラーズが所有していた数年の間のバーンハイム原酒が使用されたかどうかも判りません。ここら辺の詳細をご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。それは偖て措き、デイヴィッド・ニコルソン1843の瓶形状がスクワット・ボトル(トップ画像参照)の場合、おそらくデイヴィッド・シャーマンが販売したもので中身はヘヴンヒルと思われるのですが、初めはあった7年熟成表記が多分2000年代半ばあたり?にNASになりました。
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スティッツェル=ウェラーからヘヴンヒルに変わっただけでも、バーボン通からの評価があまり宜しくなかったのに更にスペックが落ちた訳です。まあ、これは「時代の要請」もあるので仕方ないとは思いますが、それよりも評判が悪かったのは裏ラベルに記載されたDSPナンバーの件でした。ボトルド・イン・ボンドを名乗る場合、ラベルには当のスピリッツを生産した蒸留所を表示する必要があります。そしてそれは真実でなければならないでしょう。それなのにデイヴィッド・ニコルソン1843ブランドは、事実上スティッツェル=ウェラーからの供給が使い果たされた後もずっと、その蒸留所をDSP-16(S-Wのパーミット・ナンバー)として示し続けたのです。この件はバーボン愛好家の間で問題視されました。ラクスコはこの誤りは単純な見落としで、ラベルをそのまま再印刷し続けてしまったと主張していたそうです。
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上の画像は私の手持の推定2013年ボトリングと思われるボトルの裏ラベルです。いくらBIB法は既に廃止された法律であり、ボンデッド・バーボンが市場の僅かな部分しか占めない製品であり、そしてデイヴィッド・ニコルソン1843が地域限定の比較的小さなブランドであるとしても、長期に渡って「DSP-16」が表示されたラベルを使い続けたのはちょっと意図的な気もします。とは言え、或るバーボンマニアの方はその紛らわしいラベル付けに関する疑問を直接ラクスコにぶつけ、DSP-KY-16で蒸留されたからこそ購入したボトルが実際には別の出所からの物であることが事実なら、①あなたの虚偽の広告の結果として私が行った支出を金銭または正しくラベル付けされたボトルで補償する必要があり、②第27.1.A.§5.36に基づく連邦規制に準拠してコンテンツの真実の起源を反映するために全てのラベルを直ちに修正する必要があり、 ③他の消費者が現在市場に出回っている誤ったラベルの付いた製品に惑わされないように間違った情報について謝罪を公表する必要があると思います、というような内容のメールを送ったところ、すぐに返金する旨の回答を得たとか。本当に悪意のないミスだったのかも知れません。
こうしたエラー・ラベルの件が関係してるのか分かりませんが、冒頭に述べたようにデイヴィッド・ニコルソン1843のラベルは2015年に一新され、ボトルド・イン・ボンドを名乗らなくなりました。けれど再発進されたヴァージョンも依然100プルーフを維持するウィーターなのは同じままです。おそらく驚異的なバーボン・ブームに乗る形で、それまで95%がミズーリ州とイリノイ州での販売だった物を全国的に販路を拡げるにあたってリニューアルし、新しい市場で大きな成長を期待されるのが現行品の「1843」と黒ラベルの「リザーヴ」ということでしょう。では、そろそろテイスティングの時間です。

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David Nicholson 1843 Brand BOTTLED-IN-BOND 100 Proof
推定2013年ボトリング。ナッツ入りキャラメル、グレイン、チェリー、洋酒を使ったチョコレート菓子、汗、ケチャップ、みかん。比較的ミューテッドなアロマ。口の中では柑橘系のテイストがあって爽やか。余韻は度数に期待するより短いが、ナッツとドライフルーツの混じったフレイヴァーは悪くない。
Rating:83.5/100

Thought:前回まで開けていた同社のレベルイェール・スモールバッチ・リザーヴと較べるとだいぶ美味しいです(現行のレベルイェール100プルーフとの比較ではありません)。単にプルーフが上がってる以上の違いを感じました。ほんのり甘くありつつ、100プルーフらしい辛味のバランスも好みです。熟成年数は、BIBなので最低4年は守りますが、確かにその程度の印象で、いっても5、6年でしょうか。
同じ小麦バーボンで有名なメーカーズマークのスタンダードと比較して言うと、良くも悪くも円やかさに欠けると言うか荒々しいのが魅力。格と言うか出来はメーカーズの方が上だとは思いますけど、個人的にはスタンダードのメーカーズより好きかも。
私は現行の新しいラベルのデイヴィッド・ニコルソン1843を飲んだことがないので本ボトルとの比較は出来ませんが、一応ほぼ同じであると仮定して言います。ヘヴンヒルが製造している小麦バーボンには少し前までオールド・フィッツジェラルドという有名な銘柄がありました。しかし、それは現在では少し上位のラーセニーに置き換えられ終売となっています。そうなると、比較的安価に買えるヘヴンヒルの小麦バーボンを探しているのなら、もっと言うとオールド・フィッツジェラルドBIBやオールド・フィッツジェラルズ1849の代替品を探しているのなら、このデイヴィッド・ニコルソン1843こそが最も近い物となるでしょう。ただし、唯一の欠点はお値段です。アメリカではヘヴンヒルのオールド・フィッツジェラルドBIBは17ドル程度だったのに対し、デイヴィッド・ニコルソン1843は地域差もありますが概ね30〜35ドル(現在はもう少し安い)。ちょっと考えちゃいますよね。

Value:上のお値段の件は、日本で購入しやすい小麦バーボンのメーカーズマークを引き合いに出すと分かり易いでしょう。現行のDN1843は現在の日本では大体3000円近くします。メーカーズのスタンダードなら2000円ちょいで買えてしまいます。そして、ぶっちゃけメーカーズマークの方が熟成感という一点に関しては上質なウィスキーだという気がします。さあ、この状況下でDN1843を購入するのは勇気のいる選択ではないでしょうか? お財布に余裕があったり、メーカーズのマイルドさと酸味が嫌いでヘヴンヒルのナッティなフレイヴァーが好みだったり、よりパンチを求める人なら購入する価値がありますが、私個人としては味わい的にDNの方が好みではあるものの、経済性の観点からメーカーズマークを選択するかも知れません。

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アーリータイムズ150周年記念ボトルは、その名の通りアーリータイムズの1860年の創業から数えて150年を迎えることを祝して2010年にリリースされました。3000ケース(各24ボトル)のみの数量限定で、375ml容量のボトルしかなく、アメリカでの当時の小売価格は約12ドルだったようです。

アーリータイムズは豊かな伝統とマイルドな味わいで知られるブランドです。創業当時の設立者ジャック・ビームは、業界が余りにも急速に近代化し過ぎていると考え、「古き良き時代」を捉えたブランドを求めて、その名をウィスキー造りの昔ながらの製法(アーリータイムズ・メソッド)から付けました。彼はマッシングを小さな桶で行い、ビアやウィスキーを直火式カッパー・スティルでボイリングする方法が最善と信じていたのです。アーリータイムズの伝統を匂わせるマーケティングは当り、順調に売上を伸ばしましたが、やがて禁酒法の訪れにより蒸留所は閉鎖されました。
一方でブラウン=フォーマン社の創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンの跡を継いでいたオウズリー・ブラウン1世は、1920年、禁酒法下でも薬用ウィスキーをボトリングし販売するための連邦許可を取得しました。彼は既存の薬用ウィスキーの供給を拡大するために、1923年にアーリータイムズ蒸留所、ブランド、バレルの全在庫を買い取ります。1925年にオウズリーはアーリータイムズの全てのオペレーションをルイヴィルのブラウン=フォーマンの施設に移しました。禁酒法が発効すると1900年代初頭の多くの人気ブランドは姿を消しましたが、ブラウン=フォーマンによって買われていたアーリータイムズは絶滅から免れ、薬用ウィスキーとして販売され続けたことにより消費者から忘れ去られませんでした。1933年に禁酒法が終了した後、ブランドは黄金時代を迎えることになります。オウズリーのリーダーシップの下、ブラウン=フォーマンは1940年にルイヴィルの南にあったオールド・ケンタッキー蒸留所を買収し、そこをアーリータイムズの本拠地としました(DSP–354)。そして1953年頃には、アーリータイムズはアメリカで最も売れるバーボンとなりました。広告ではブランドを「ケンタッキー・ウィスキーを有名にしたウィスキー」とまでアピールしたほどです。1955年、ブラウン=フォーマンはプラントの全面的な見直しと近代化を行いました。まだまだバーボンは売れる商品だったのです。
しかし、70年代はバーボンにとって冬の時代でした。ブラウン=フォーマンは1979年になるとルイヴィルのオールド・フォレスター蒸留所(DSP-414)を閉鎖し、同バーボンの製造をアーリータイムズ・プラントに移管しました。その頃、二つのブランドの品質に影響を与える重要な決定が下されます。オールド・フォレスターは同社の看板製品なのでプレミアム・バーボンとして選ばれ、アーリータイムズは二種類の製品に分けられてしまいました。一つは輸出用の製品で「ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」規格を保持しましたが、もう一つのアメリカ国内流通品は80年代初頭に新樽ではない中古樽で熟成された原酒を含むため「バーボン」とも「ストレート」とも名乗れない「ケンタッキー・ウィスキー」となったのです。もしかすると、その時に熟成年数もまた短くしたかも知れません(3年熟成)。こうして、嘗て栄光を誇ったアーリータイムズはアメリカでは最高のブランドではなくなりましたが、ボトムシェルフ・カテゴリーの中では存在感は示したでしょうし、海外、特に日本ではバーボンの代名詞的存在であり続けました。
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この150周年記念ボトルは、1923年当時ブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションの社長だったオウズリー・ブラウン1世が薬用ウィスキーとしてボトリングした時のアーリータイムズのフレイヴァー・プロファイルを見習って造られている、と同社の統括的なマスターディスディラーであるクリス・モリスは語っています。
禁酒法時代の薬用ウィスキーの殆どは時宜遅れのボトリングでした。それらには本来ディスティラーが意図していたより3倍長く熟成されたウィスキーが入っていたのです。1923年という初期禁酒法下で、ブラウン=フォーマンは5~6年程度の熟成のアーリータイムズを薬用ウィスキーとしてボトリングし始めました。それはライトな蜂蜜色で、メロウ・オークにブラウン・シュガーにヴァニラの香り、シンプルなスイート・コーンとヴァニラと仄かなバタースコッチの味わいをもち、過ぎ去りし最高のアーリータイムズを偲ばせると云います。つまり、そうした禁酒法の初期に販売されたであろうメディシナル・アーリータイムズ・プロファイルを模倣するために、「アーリータイムズ・ケンタッキー・ウィスキー」のプルーフを引き上げ、更に熟成年数を引き延ばすアプローチをした物が、この150周年アニヴァーサリー・エディションという訳です。また、ボトルと言うかパッケージングも禁酒法時代のウィスキーのデザインになっていますが、このラベルのデザインが実際あった物の復刻なのかどうか私には分かりません(※追記あり)。実情をご存知の方はコメント頂けると助かります。それは偖て措き、2011年になるとブラウン=フォーマンはアメリカ国内で「アーリータイムズ354バーボン」なるストレート・バーボン規格の製品を発売しました(レヴューはこちら)。私には何となく、発売時期からするとこのアニヴァーサリー・エディションには、従来のボトムシェルファーとは違う少しプレミアム感のある「354」の売り上げを伸ばすための地ならしと言うか「アーリータイムズの栄光よもう一度」的な?宣言の役割があったように思えてなりません。まあ、空想ですが…。 
では、そろそろ飲んでみましょう。

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EARLY TIMES KENTUCKY WHISKY 150TH ANNIVERSARY EDITION 100 Proof
2010年ボトリング。バターレーズンクッキー、フローラル、焦樽、焼いたコーン、ワカメ、ホワイトペッパー、微かなチェリー、藁。少しとろみのあるテクスチャー。口蓋ではアルコール刺激はまずまずありつつ、木材とスパイシーさが。余韻はミディアム・ショートで、豊かな穀物を主に感じながらビタネスとスパイスとフルーツと香ばしさがバランス良く混ざり合う。
Rating:83.5→82.5/100

Thought:通常のアーリータイムズとは一線を画す現代のプレミアム・レンジのバーボンに感じやすい香水のような樽の香ばしさがあります。これの前に開けていたアーリータイムズ・プレミアム(90年代)とも全然違うフィーリングで、連続性はなく感じました。とは言え、それが件のバーボンではないケンタッキー・ウィスキーだからなのか、熟成年数の追加とプルーフィングその他によるものなのかは分かりません。少なくとも私には「これバーボンです」と提供されればバーボンと思う味わいでした。基本的には、何というかそれほどコクのない香ばし系とでも言いますか、美味しいのですが、個人的にはもう少し甘みかフルーツ感が欲しいところ。メロウネスもあまり感じないので、熟成年数はいいとこ6年くらいかなという印象です。正直、クリス・モリスには申し訳ないですが、これは禁酒法時代の風味を再現してるとは思えず、完全に現代的な樽の風味だと感じました。
それと上の点数なのですが、残量3分の1を過ぎた頃から風味がかなり変わりまして、それゆえ矢印で対応した次第です。香りは甘さが消え、口の中では酸味が少し増え、余韻はドライになり、バランス的には穀物とスパイスに偏りました。劣化した味わいではないのですが、良い変化とは言えないし、私の好みではないです。

Value:この製品は通常ボトルの凡そ半分量ということもあり、オークションでもそれほど高値にならず、70年代のイエローラベルより安価で購入出来ると思います。味わい的に物凄くオススメという訳でもないのですが、パッケージングがカッコいいのでそれなりの価値があります。デザインを含めて考えると、個人的には3000円代なら購入してもよいかと。


追記:どうやらラベルのデザインに関しては禁酒法時代より古い時代のものを再現しているようです。これが元ネタ?
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この150周年記念ボトルより以前、120周年記念の時にリリースされたヘリテッジ・エディションもこれが元ネタで、それが30年後にも引き継がれたのかも知れませんね。

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オークウッド・ブランドはラベルから読み取れる情報からすると、ヘヴンヒルが「Longs Drug Stores」のために作成したプライヴェート・ラベルと思われます。
現在のロングス・ドラッグスは特にハワイで有名なドラッグストアで、他にアメリカ西海岸を中心とした州にあるチェーン店です。ハワイ州全体で40以上の店舗があり、ローカルの人々にとってはドラッグストアに行くこと=ロングスに行くことのように親しまれているのだとか。その最初の店は、1938年にロングス・セルフサーヴィス・ドラッグとして、トーマスとジョセフのロング兄弟によってカリフォルニア州オークランドに設立されました。オークランド? まさかオークウッドの名は創業の地オークランドにあやかって掛かってるのでしょうか? まあ、それは措いて、ハワイで初めての店舗は1954年3月29日にホノルルにオープン。1971年までにロングズは54店舗で1億6,900万ドルの売り上げを記録したそうです。そして1977年にアラスカ、1978年にアリゾナとオレゴン、1979年にはネバダへと拡大し、1982年には162店舗となり売上高は遂に10億ドルを超えました(ロングスのその後は省略)。おそらくラベル記載の所在地から察するに、70年代初めから半ば頃に当のオークウッドが発売されたのではないかと思います。
オークウッドに他の種類があるのか判りませんが、これはボトルド・イン・ボンド規格の7年熟成ストレート・バーボン。ボンデッド法ではラベルに蒸留施設を銘記しなくてはならないので、裏ラベルにはヘヴンヒルの旧バーズタウン施設のパーミット・ナンバー(DSP-KY-31)が記載されています。 

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ところで、オークウッドにルーツはあるのか探ってみると、シンシナティのレクティファイヤー及び酒類販売会社メイヤー・ブラザーズ・カンパニーのブランドにオークウッド・ウィスキーというブランドがありました。彼らは1890年頃にレキシントンのサンダーズヴィルにあったコモンウェルス蒸留所(*)を「テナント・リーシー(**)」によりオークウッド蒸留所として事業をしていたようです。また他の情報源では、1893年にメイズヴィルの近くにあったオークウッド蒸留所を購入したともされていました。このブランドをヘヴンヒルが買収したのですかね? それとも全く関係ないのでしょうか? 詳細ご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。では最後に飲んだ感想を少しばかり。

Oakwood BiB 7 Years Old 100 Proof
今回の投稿も、またもやバー飲みなのですが、実はそこで静かに燃える炎という印象の素晴らしい若きバーボンマニア様と邂逅を果たしまして、これはその方の注文品を一口だけ頂いたものです。Yさん、貴重な体験、また色々な情報をありがとうございました。バーボン繋がりに乾杯!

推定70年代ボトリング。キャラメルやオーク、きな粉やチョコレートのヒント、少々のオールド・ファンクの他に植物っぽいニュアンスを感じました。90年代の平均的なヘヴンヒルにはあまり感じたことのないフレイヴァー。これは美味しいです。
Rating:87.5/100


*ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が経営していたローレンスバーグにあった同名のコモンウェルス蒸留所とは別。この蒸留所はレキシントン地区RD#12で、1880年にジェイムズ&リチャードのストール兄弟とヘンリー・C・クレイの共同による会社がサンダーズヴィルの古い綿工場を改造してウィスキー蒸留所にしたのが始まりです。工場はレキシントンの北西3マイルの位置にありました。投資資本は60,000ドル。独自のブランド「オウル・クラブ」や「エルクホーン」の他にバルク・ウィスキーを取引しました。「Commonwealth Distilling Company」は、ヘンリー・クレイとパートナーシップを解消した後の1885年頃、リチャード・ストールを社長、アイザック・ストラウスを副社長として設立され、会社の取締役にはチャールズ・ストールやジェイムズ・ストールもいましたが、リチャードが主要株主だったようです。

**蒸留所を数日間リースすることでブローカーがディスティラーを名乗ることが出来ました。これは所謂「DBA(doing business as)」とも知られています。

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リッテンハウス・ライは現在ヘヴンヒル蒸留所で生産されるお財布に優しいライウィスキーです。安い上にボトルド・イン・ボンド(Bottled-in-Bond)規格なのが人気のポイント。ヘヴンヒル蒸留所は業界で最も多くのBiBのウィスキーをリリースする会社であり、そのライウィスキー版があるのは驚きではありません。同社のBiBの例としては、旗艦ブランドであるエヴァンウィリアムスの白ラベルや10年熟成シングルバレルのヘンリーマッケンナ、おそらく地域限定供給のJWダントやJTSブラウン、社名そのままのヘヴンヒルやコーンウィスキーのメロウコーン等があります。昨今人気爆発中(*)のライウィスキー市場にあっても、実はBiBを名乗るライはそれほど多くはなく、パッと思い付くのは価格がほぼ3倍もするEHテイラー・ライぐらいでしょうか。それゆえ安価かつBiBのリッテンハウスは貴重な存在と言えなくもない。「ボトルド・イン・ボンド」法は1897年に成立した政府による消費者保護法であり、当時としては本物の品質の証しでした。BiBのラベルを付けるには、単一の蒸留所の同じ蒸留器による単一の蒸留シーズンの製品であり、政府監督下の連邦保税倉庫で最低4年間熟成し、最低50%のABVで瓶詰めされ、更に生産施設とボトリング施設が異なる場合は両方のDSPナンバーがラベルに記されている必要があります。

リッテンハウス・ライは、現在では法定下限である51%のライ麦を使ったケンタッキーに典型的なスタイルのマッシュビル(**)から造られていますが、もともとはペンシルヴェニアにルーツをもったライウィスキーのブランドでした。その歴史は豊かで興味深く、ライウィスキー自体の歴史とも重なります。

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バーボンがアメリカのネイティヴ・スピリットと認定される以前、ライウィスキーは元祖アメリカンウィスキーと言える立場にありました。18世紀アメリカ北東部の初期開拓地では、気候の変動に生き残ることが出来て成長サイクルの短い丈夫な穀物のライ麦が広く栽培されていました。初期のアメリカの農家の多くは小麦やトウモロコシの収穫に失敗した場合に備え、バックアップとしてライ麦を栽培していたと言います。ライ麦が過剰にある場合、自然と蒸留に繋がりました。18世紀後半には、ほぼ全てのアメリカの農場には小さな蒸留器があり、余剰穀物をアルコールに転換することは経済的価値を維持する重要な方法だったのです。そうしないと害虫やカビ、または天候により余剰穀物の価値がすぐに下落してしまうからでした。

禁酒法以前はケンタッキーを含む他の州でもライウィスキーは造られていましたが、歴史的にペンシルヴェニアとメリーランドという二つの州がライウィスキーの産地として名高く、主要なスタイルを持っていました。一方のペンシルヴェニア・ライは、ペンシルヴェニア州西部のモノンガヒーラ渓谷に端を発する80〜100%のライ麦で構成される高いライ麦率のマッシュビルであったと伝えられています。このスタイルはモノンガヒーラ・ライ、或いは単にモノンガヒーラと呼ばれていました。もう一方のメリーランド・ライは、通常トウモロコシが約30〜35%含まれ、ライ麦は65〜70%のマッシュビルであったと推測されています。具体的には、ペンシルヴェニア・ライはスパイシーなプロファイルが強く、メリーランド・ライはより丸みのある甘味と草のようなノートを持つ傾向があったとか。初期の入植者逹はすぐにライ麦がユニークな性格のウィスキーを造ったことに気付き、産地の特産品的な意味でライウィスキーはこの地域に根付いて行ったのでしょう。

1791年に米国議会はアルコールに対する国の最初の物品税を可決します。それはウィスキー税と呼ばれ、ガロンあたり9セントに設定されていました。反骨心のある農民蒸留家は、連邦政府とウィスキー税から逃れるため、自らのスティルとマッシュビルを携え、アパラチア山脈を越えて行きます。逃れた先の中西部ではトウモロコシが豊富でした。そこで造られたライウィスキーはメリーランド州のマッシュビルに倣ったコーンを含むマッシュビルだったと見られます。そして時の経過と共にマッシュビルのトウモロコシは増加し、後にバーボンとなるスタイルのスピリットが生まれた、と。1810年頃までにケンタッキー州だけで2000を超える蒸留所が操業していたと言います。バーボンは通常オハイオ・リヴァーから出荷されミシシッピ・リヴァーを下っている間に自然と熟成し、琥珀に色づいた美しい飲料は南部で最も一般的になって行きました。独自の熟成を施した両方のスタイルのライウィスキーも北東部で生産され続け、19世紀を通じて需要と販売は引き続き堅調であり、1920年まではライがアメリカで最も人気のあるウィスキーであり続けました。しかし、禁酒法の時代がやって来ます。

禁酒法によるアメリカのアルコール禁止はライウィスキーの息の根をほぼ止めました。国内のライウィスキー蒸留所の多くは閉鎖され、決して再開することはありませんでした。有能なビジネスマンが率いたケンタッキー州のバーボン製造業者は何らかの形で禁酒法時代を生き延び、1933年に修正第18条が廃止された時、バーボンはアメリカンウィスキーの王者の座に就きます。ライウィスキーは殆ど忘れ去られてしまったかのようでした。それでも、禁酒法解禁は蒸留業者に水門を開き、幾つかの企業はライウィスキーの製造を再開します。そのうちの一つがペンシルヴェニア州フィラデルフィアのコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションでした。

コンチネンタルはコネチカット州ウェスト・グリニッジにオフィスを構えるパブリカー・インダストリーズの子会社です。当初の目的は近い将来1日あたり最大20000ケースの酒を製造できる一枚岩の蒸留所を建設することでした。蒸留業は常にアルコール飲料を造るとは限りません。パブリカーの主な事業は工業用化学プラントの運営にありました。パブリカー・インダストリーズは、野心的なウクライナ移民のハリー・パブリカーによる発案で始まります。1912年頃、彼はフィラデルフィアのあらゆる小規模蒸留所に行き使用済みのウィスキー樽を手に入れ、そこからウィスキー残渣をスティーミングして「発汗」させ、工業用アルコールとして販売することでアルコール業界に参入。1913年に約8〜16人の従業員でパブリカー・コマーシャル・アルコール・カンパニーを設立すると、デラウェア・ウォーター・フロントのビグラー・ストリートとパッカー・アヴェニューの間に蒸留所を建設し運営しました。詩人の名から付けられた後のウォルト・ウィットマン橋のすぐ近くです。

ハリーの工場は第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)で米国政府へのアルコール製品の販売を都合しました。そして禁酒法は工業用アルコールの生産を禁止しなかったため、禁酒法期間中、パブリカーは非飲料用アルコールと工業用化学製品の生産に集中することで非常に繁栄しました。20年代前半には、ジャガイモ、糖蜜​​、トウモロコシなど様々な穀物を発酵し、年間600万ガロンの工業用アルコールへと蒸留していたと言います。同社はそこから生産能力を年間6000万ガロンにまで増強しました。禁酒法の終了時には、当時制定された連邦規制により工業用アルコールの総生産量は7050万ガロンに制限され、そのうちパブリカーが17%を生産していたとか。第二次世界大戦でも政府がアルコール製品を購入したため、パブリカーは新たなる高みに達し、期間中に生産はピークを迎えます。1946年にパブリカーの年間収益は3億5500万ドル、従業員は5000人を数えたそう。1950年代半ばまでに40エーカーの工場は、溶剤、洗浄剤、不凍液、変性アルコール酢酸ブチル、酢酸エチル、アセトン、ドライアイス、液体二酸化炭素、専用溶剤、精製されたフーゼル油などの製品に特化した世界最大の蒸留所の一つに発展しました。

プロヒビションが撤廃された時、その規模と近代テクノロジーを応用して飲料用スピリッツの生産を開始するのは自然なことだったのでしょう(***)。パブリカーは1933年8月、コンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションを設立し、スナイダー・ストリートとスワンソン・アヴェニューの角の数ブロック北にある小さな蒸留所を改造するために、今日の2700万ドル以上を費やします。南フィラデルフィアの川に面した地区にあるパブリカーの二つの工場の一つでした。日産90000ガロンの生産能力は当時のハイラム・ウォーカーのピオリア工場より僅かに少ない程度だったと言います。同社を立ち上げた1933年半ばから1934年にかけて、ハリー・パブリカーと彼の一人娘ヘレンと結婚していた義理の息子サイモン・ニューマン(通称シー・ニューマン)は、飲料用スピリッツの名前を選んでブランドを作成するセッションを行い、その後ディスティリング・エンジニアと一緒にウィスキー・プロファイルと製品のマッシュビルを造り上げました。
1933年11月22日に最初のブランドであり、コンチネンタルの役員であるマークス博士とその妻ミリアムによって提案された「チャーター・オーク」の商標(****)をバーボン、ライ、ラム、ジン、ブランディ等で使用するために申請し、1934年3月13日に登録が発行されました。その他のブランドには「フィラデルフィア」、「ディプロマット」、「コブス・クリーク」、「エンバシー・クラブ・ウィスキー」等があったようです。
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(Time Magazine May 21 1956)

コンチネンタルの三大バーボンと言えば、先のチャーター・オークと「ハラーズ」と「オールド・ヒッコリー」でしょう。その他にも「リンフィールド」や「キーストーン・ステイト・ライウィスキー」、そして「リッテンハウス」がありました。
コンチネンタル工場(PA-1)は、ブレンデッドウィスキーやその他の蒸留酒の製造に特に適していましたが、ストレートウィスキーも製造されていたようです。またコンチネンタルはもう一つ、高級な熟成ウィスキー用?として、フィラデルフィアから北東約35マイルほど離れたリンフィールドのスクールキル・リヴァー沿いにあるキンジー蒸留所(PA-10、PA-12)を所有していました。
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キンジー蒸留所は禁酒法が終了してから1980年代半ばまでコンチネンタルによって運営されていました。コンチネンタルはこの施設をキンジー蒸留所と呼びましたが、禁酒法以前はアンジェロ・マイヤーズ蒸留所、またはリンフィールド蒸留所としても知られています。後に一般的にはリンフィールド・インダストリアル・パークと呼ばれることになるサイトにありました。この蒸留所を語るには、創設者ジェイコブ・G・キンジーの他に、アンジェロ・マイヤーズにも触れておかなくてはなりません。

アンジェロ・マイヤーズには父と息子の二人のアンジェロがおり、彼らは40年間フィラデルフィアと全米でウィスキーを販売してその名声を高めました。当初はレクティファイヤー、その後本当のディスティラーとなり、精力的なマーチャンダイジングを通じて幅広い酒類ブランドを広めたそうです。アンジェロ・マイヤーズは1844年にドイツで産まれ、正確な日付は不明ですが、アメリカへと渡り、兄弟のヘンリーとフィラデルフィアに定住しました。1874年頃、二人はウィスキー配給会社として「A&H Myers」を設立します。彼らの主力ブランドは、街を流れる川にちなんだスクールキル・ウィスキーでした。
1880年代に兄弟のビジネスはかなり繁盛していたようです。しかし、1892年には何かが起こり、兄弟のパートナーシップは終わりを告げ、ヘンリーは別の会社を立ち上げました。残ったアンジェロの会社には、「アードモア」、「ボーモント・ジン」、「インデペンデンス・ホール」、「マイヤーズ・ピュア・モルト」、「ネシャミニー・ライ」、「オーガソープ・クラブ」、「オールド・バレル」、「オールド・スクールキル・チョイス・ライ」、「ペングリン」、「W.W.W. ライ」など数多くのブランドがあったようです。同じ頃、アンジェロは他の著名なフィラデルフィアの卸売業者と協力して、ペンシルヴェニア州バックス郡に蒸留所を建設します。またアンジェロは1890年代後半にはリンフィールドの蒸留所とも関連をもちました。
その蒸留所は酪農家のジェイコブ・G・キンジーによって設立されました。ジェイコブは1858年3月13日にペンシルヴェニア州ロウワー・サルフォードで生まれ、学校の教師として働き出し、まだ若い頃に酪農業界へと参入します。彼は三十代前半までに三つの酪農場を所有していましたが、1891年にそれらを売却し、蒸留所と2000バレル容量の倉庫を建設しました。アンジェロとジェイコブは蒸留所の建設に取り組み始めてから約1年ほどで友人になったと言います。一説にはジェイコブには蒸留の経験が全くなかったとされ、彼と農場の元従業員逹は友人であったアンジェロの特別なウィスキー知識を頼ったのかも知れません。約8年ほど後、ジェイコブは自分の製品を販売できるようにするために名のある人が必要だと考えました。アンジェロ・マイヤーズにはフィラデルフィアやボストンをはじめ高級ウィスキーの大きな市場であるニューヨークにも多くのコネがありました。ジェイコブはとても賢く、当時のアンジェロ・マイヤーズの知名度を知っていたので、彼と組むことが自分のウィスキーを市場に出して知名度を上げる方法だと思ったのです。ジェイコブはアンジェロと話し合い、蒸留所にアンジェロ・マイヤーズの名を付けることを決めます。一方のアンジェロは友人の製品が非常に優れていると考え、ブランドが足場を得るまでの間、プラントの運営とキンジーのマーケティングをすることにしました。彼らは良き友であり、お互いを信頼していました。おそらくジェイコブは、アンジェロに蒸留所の運営の一部を任せながら、自分は製品造りに精を出せる方法を模索したのでしょう。ジェイコブはマスター・ディスティラーとして一つの目標を念頭に置いていました。それは出来る限り最高のウィスキーを造ること。そうして製造された酒はキンジー・ウィスキーと名付けられ、マイヤーズ社の新しい旗艦ブランドとなって行きます。
1905年2月、「Angelo Myers Distillery Inc.」は資本金50000ドルで設立されました。権利関係はよく分かりませんが、アンジェロはキンジー蒸留所の所有権をもっていた可能性もありそうです。アンジェロは息子のアンジェロ・Jをリンフィールドに派遣していました。父からリカー・ビジネスを学んでいたアンジェロ・Jはキンジー蒸留所の日々の運営を行っていたとされます。若きアンジェロの管理下で、キンジー蒸留所は急速に発展し、倉庫の容量は2000バレルから20000バレルに段々と増加、更にキンジー・ウィスキーはニューオリンズとテキサス州サンアントニオでの博覧会で金メダルを獲得したのだとか。1907年、父のアンジェロは亡くなり、アンジェロ・Jが会社の社長になりました。彼のリーダーシップの下、同社は引き続き成功を収め、キンジー・ウィスキーは広くアメリカ中に流通するようになったと言います。彼らが販売した全ての木製ケースには、アンジェロ・マイヤーズ蒸留所とキンジー蒸留所の名前がありました。また、キンジー・ブランドの広告として作成された魅力的な絵画もありました。そうした絵画は19世紀から20世紀初頭に普及したプロモーション・ツールで、その印刷物はサルーンや酒類小売業者が利用できました。
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更に、女性がウィスキー取引にほぼ参与してない時代にあって、1910年の役員をリストした会社のレターヘッドには、珍しいことに二人の女性の名が含まれていたそうです。進歩的な会社だったのでしょうか。アンジェロ・Jは他の事業も手掛けていたようで、酒類会社の社長には叔父(多分)が就任し、彼は副社長に降りたようです。1918年頃、商号は「Angelo Myers Distilling Co., Inc.」に変更されました。それから少し後、禁酒法の訪れによりアンジェロ・マイヤーズとキンジー施設での全ての活動は中止されました。1923年、原因は分かりませんが、アンジェロ・Jは38歳という若さでこの世を去ります。
ジェイコブは勤勉な男だったのか、禁酒法期間中、ビールの醸造を学ぶためにドイツに行っていたそうです。アンジェロ・マイヤーズの助けを借りて順調に推移したキンジー・ライは、禁酒法が施行される数年前には本当に人気を博すようになっていました。1933年に禁酒法が終わると、ジェイコブは殆どの人が引退したいと思う75歳で、その復活を目指してキンジー蒸留所を再開します。彼は先ずキンジー・ストレート・ライを造り、またリンフィールド・ブランドをスタートさせました(「リンフィールド」は初めストレート・ライウィスキー、後にコンチネンタルがバーボンに変更)。伝えられるところでは、ジェイコブはできる限りピュア・ライを入れたかったとされ、初期の殆どのボトリングはライ麦率約81%(残りは多分モルト)であったと見られています。ボトラーやディーラーからの圧力によりジェイコブはブレンデッドも造りましたが、彼はストレート・ライウィスキーこそが数あるウィスキーの中で最もフレイヴァーフルであると信じていました。
順調に復活するかと思われた蒸留所は、悲しいことに1939年の秋に破産し、1940年春のサイレント・オークションでコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションに売却されました。コンチネンタルは蒸留所と共にキンジー・ブランドを購入し、ブレンデッド・ウィスキーとして生産と販売を続けました。キンジー・ウィスキーは1940年代には有名だったようで、マンハッタンのビルで誇らしげに宣伝されていました。余談ですが、長年ほとんど忘れ去られた存在となっていたキンジー・ブランドは、近年ではニュー・リバティ・ディスティラリーによって復活しています。
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フィラデルフィアのプラント(DSP-PA-1)のマスター・ディスティラーが誰であるかは判りませんが、1933年秋にキンジー蒸留所が再開した時ジェイコブ・キンジーはマスター・ディスティラーでした。そしてコンチネンタルが蒸留所を購入した後はホレス・ランディスがマスター・ディスティラーを務めます。ホレスは、ジェイコブの結婚相手エドナ・ロングエーカーの姉妹アニーが結婚したヘンリー・ランディスの息子でした。彼は1951年初頭にパブリカーによってキンジーのDSP-PA-10とDSP-PA-12がシャットダウンされるまで蒸留を実行し続け、その後もコンチネンタルに請われて警備員として留まったそう。ちなみにPA-10はバッチ蒸留のポット・スティル、PA-12はコンティニュアス・スティルでした。
コンチネンタルは蒸留所を購入後の1940年代、キンジーのサイトに14の防爆倉庫の建設を開始しました。その倉庫は非常に近代的で大きく、空気を循環させるファンと加熱装置やサーモスタットに防火装置も備わった時代の最先端であり、なんでも一つの倉庫に10万近いバレルを収容できたようです。また当時最強の鋼鉄で作られた防爆倉庫は、戦時中の公式のボム・シェルターだったとか。そして理由は明確ではありませんが、上述したようにリンフィールドでのウィスキー蒸留は1951年に停止され、以後、熟成とボトリングを行う施設となります。1952年、ジェイコブ・G・キンジーは94歳で天寿を全うしました。

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さて、そろそろリッテンハウスについても触れておきましょう。コンチネンタルは1934年に、フィラデルフィアの有名な広場(公園)にちなんで名付けられた「リッテンハウス・スクエア・ライ」を導入しました。そのリッテンハウス・スクエア自体は、フィラデルフィアで最初の製紙会社を設立したドイツ人移民のウィリアム・リッテンハウスの子孫であり、天文学者、時計職人、発明家、および数学者など数々の肩書きをもつデイヴィッド・リッテンハウスから命名されています。元々はサウスウェスト・スクエアと呼ばれていましたが、1825年に名前が変更されました。リッテンハウス・スクエアは、観光客や地元の人々がピクニックや日光浴や散歩をしたり、絵を描いたり本を読んだりとリラックスするのに最適な場所です。
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(19世紀後半のリッテンハウス・スクエアの噴水の眺め)

リッテンハウス・スクエア・ライはデビュー当時、2年熟成だったと言います。はて?禁酒法の廃止は1933年ですから、誰かがこっそり蒸留でもしてたのでしょうか(笑)。それは偖て措き、月日の経過につれリッテンハウスの熟成年数は2年から4年、そして1940年代初期から中期には5年に延びました。
コンチネンタルが製造するウィスキーの初期の成功には、パブリカーの化学者カール・ヘイナー博士が開発した生産技術が少なくとも部分的には関与していたとされます。1934年にフォーチュン誌のライターに説明されたその方法は、オールド・サウスの紳士の皆が知る、ムーンシャインの小樽を川で運んだりストーヴの近くに置いておくとエイジングを促進すると云うあれ、つまり「撹拌、動揺」と「熱」でした。ヘイナー博士は24時間で17年物のウィスキーを製造する方法を考案したと主張したとか…。ちょっと眉唾な方法論のような気はしますが、禁酒法終了直後の数年間は熟成ウィスキーの在庫が殆どなかったため、強力なアドヴァンテージにはなったのでしょう。おそらく既存の在庫が熟成するにつれ段階的に廃止されたと見られ、40年代にはブレンデッド・ウィスキーでのみこれらの技術を使用していた可能性が示唆されています。

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1948年には製品名から「スクエア」は削除され、現在と同じ「リッテンハウス・ライ」となりました。その頃の製品は全てボトルド・イン・ボンド規格を守ったようです。いつの頃からか80プルーフのヴァリエーションもありましたが、いずれにせよリッテンハウスは、コンチネンタルのライの中で比較的高級なラインだったと思われます。1940年代から1951年初頭頃までは、キンジーの古い納屋のようなライ・ビルディング(PA-10)で造られました。その後は多分フィラデルフィアの工場(PA-1)ですかね? それとも他のライ・メイカーから購入していた? ミクターズとか?
ところで初期のリッテンハウスの中身についてなのですが、コンチネンタル時代のオリジナルのマッシュビルは定かではありません。一説には、過去のフィラデルフィア地域のライ・メーカーの多くは、メリーランドの蒸留所と共通点が多かった、との指摘があります。ペンシルヴェニア州の中でも東部に位置するフィラデルフィアは、西部のモノンガヒーラ地域よりも地理的にメリーランドに近いため、なんとなく頷ける説ではあります。また前記のように、かつてジェイコブ・G・キンジーが蒸留所を再開した当時のライウィスキーは80%程度のライ麦率であったようなので、それを考慮するとリッテンハウスのマッシュビルはライ麦60~80%のどこか、或いは時代と共に変遷していることもあるのではないでしょうか。ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりご教示下さい。それと旧いリッテンハウスを飲んだことのある方もご感想を頂けると助かります。では、ここからはリッテンハウスがコンチネンタルの手を離れるまでの経緯を見て行きましょう。

パブリカーはアメリカの会社であることを非常に誇りに思っており、当時の戦争を支援した主要な企業グループの一つでした。第二次世界大戦中、DSP-PA-12は毎日少なくとも2シフト、時には3シフトを実行したとされます。蒸留所を政府用に別目的で利用することから、リッテンハウスは在庫不足という大きな障害に直面しましたが、それでも彼らは地歩を固めビジネスを続けました。しかし、残念なことに戦後もリッテンハウスの闘争は終わったとは言えませんでした。その後の数十年はライウィスキーの人気が大幅に低下したからです。1970年代までにアメリカではクリア・スピリット、特にウォッカの人気が高まり、バーボンの販売量も減少し、ライ麦に至ってはほぼ絶滅しました。ペンシルヴェニア州のオリジナルのライウィスキー製造所の殆どはその歴史に幕を降ろしたのです。そしてパブリカー/コンチネンタルにとっては、1951年に創業者ハリー・パブリカーが亡くなってから会社を率いてきたサイモン・"シー"・ニューマンの死が1976年にありました。

キンジー蒸留所の元従業員デイヴ・ズィーグラーによれば、シー・ニューマンは生まれながらのリーダーであり、先見の明とアイディアを持ち、パブリカー/コンチネンタルを成功へ導いた業界の巨人でした。彼のアイディアは常に大きく、かつそれらを迅速に実行に移したと言います。禁酒法の終了時、それまで工業用アルコールを製造していたパブリカーが、飲料用アルコールを製造するための特別部門を設立したのはニューマンのアイディアでした。それがコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションのそもそもの始まりです。
同社はブレンデッド・スコッチウィスキーのブランドである「Inver House Rare」を1956年に発売しましたが、当時は売り上げを満たすのに十分な在庫がありませんでした。そこでニューマンは捲土重来、インヴァー・ハウス・ディスティラーズを1964年にパブリカー・インダストリーズの子会社として設立し、スコットランドに蒸留所を建設してしまいます。そして、スコッチに再利用するために使い古しのバーボン・バレルをスコットランドへ出荷するというニューマンのアイディアは、今日まで続く一般的な慣行であり、パブリカーはこれを行う許可を政府に求めた最初の会社でした。ちなみにインヴァー・ハウス・スコッチは彼の美しい豪邸から名付けられました。それと、先に触れたホレス・ランディスは63年の引退の後で、懇意のニューマンから個人的にマスター・ディスティラーの経験を買われ、1964年スコットランドへと派遣されてスティルのセットアップを助けたりディスティラーをトレーニングしたそうです。
60年代のパブリカー/コンチネンタルは、裏事情は知りませんが、端から見れば最盛期にあったと言ってよいでしょう。ウィスキーや工業用アルコールの品質はニューマンのリーダーシップから来ました。当時、品質管理は最大の課題であり、同社は四つのラボラトリーを、工業用と飲酒用にフィラデルフィアのDSP-PA-1、その他センター・シティ、リンフィールド、エディストーンそれぞれに持っていました。ケミカル・プラントはフィラデルフィアの他にLAにもありました。また彼らは自らの製樽工場も所有していました。デラウェア郡マーカス・フックにあるクーパレッジはとても大きく、そこにはクーパーを育てる学校もあったと言います。他にもミズーリ州セントルイスに製樽工場を所有。そしてリンフィールドのキンジー・サイトに、1966年に新しく開業したボトリング・ハウスは、当時アメリカ最大規模かつ最も近代的な設備を誇りました。そこでは11のラインを週五日、一日16時間稼働し、2交代制で約450〜500人が働いており、産出能力に優れていたため、週末の勤務や残業時間は必要なかったそうです。そのお陰か、ビグラー・ストリートにあったボトリング施設は後に工業用アルコール専用に転換されました。「1966ボトリング・ハウス」は一日あたり40000本のボトルを処理できる能力があり、シーグラムやその他の蒸留業者のためにも瓶詰めを請け負いました。契約ボトリングを利用する業者の中にはニューマンと知り合いだったメドレー家がいて、彼らも時々ボトリングしてもらっていたようです(後述しますが、そうした「縁」が後のブランド購入に繋がったのでは?)。加えてキンジー蒸留所には、ハッピーハウスとして知られる1933年初頭に建てられたジェイコブ・G・キンジー時代のボトリング・ハウスもあり、そこのフィリップ・シンガー製のボトリング・マシーンはパブリカーがスピリッツの保管と製造および瓶詰めを終了するまで小規模ながら継続的に使用されていたとの話もありました。他にも、競争力を維持しつつ運賃を低く抑えるようボトリング活動を分散化するため、1962年にイリノイ州レモントの工場を改造し、リカー用ボトリング工場として機能するようにしています。そのためコンチネンタル製品のラベルのいくつかは「レモント、イリノイ」の記載がありました。ラベルと言えば、同社は可能な限りローカルな物、つまり地元フィラデルフィアの会社からボトルやラベルを仕入れて、常に最高品質のパッケージを目指したそうです。
シー・ニューマンが生きていた間は、常にウィスキーの品質を高め、あらゆる人にとって手頃な価格を保つための新しいアイディアを探していました。詳しくは分かりませんが、メーカーズマークの46の魁となるような、フローターズと呼ばれる焦げた木片を大きな樽に浮かべる実験?(或いはブレンデッド・ウィスキー用の熟成テクニック?)も行っていたようです。これは彼らが時代の先端を行っていた好例かも知れません。
おそらく、コンチネンタルは業界で「ビッグ・フォー」に次ぐ存在でした。1950年代の会社の販促資料では、ウイスキーを作るための最新の技術的アプローチと最先端の施設の効率を雄弁に誇り、その近代的な熟成倉庫は100万バレルのキャパシティを有すると説明されていました。巨大なストレージ・サイトであるキンジー蒸留所は、当時ワン・スポットでは世界最大の熟成ウィスキーを保管する施設だったのです。キンジーで働く人の総数は1960年代後半に600人に達しました。彼らは常に施設の見栄えにも最善を尽くし、プラントは清潔に保たれ、芝生や花壇は手入れが行き届き、会社で働くことに誇りを感じていました。しかし、どんな栄光も永遠ではありません。1976年のシー・ニューマンの死を契機として、会社はその後急速に崩壊への道を歩みました。先に名前を挙げたデイヴ・ズィーグラーは言います。「彼が死んだ時、会社は死んだ」と。

パブリカーがウィスキーを大量に造ったとしても、それは彼らの運営のほんの一部に過ぎませんでした。大部分の方のケミカル・プラントの運営が悪かったのか、それとも時代の波の影響で蒸留酒の販売が芳しくなかったのか、サイモン・ニューマンが亡くなった時、パブリカーには3900万ドルの借金があったと言います。ビジネスには成功も失敗も付き物ですから、偉大なるリーダーでも何か判断ミスをしたのかも知れません。しかし、彼の最大の不首尾は、彼が後継者への道を開くのを仕損じたことでした。
ビジネスの経験がなかったサイモンの妻ヘレンが会社のトップになると、大きな家族の権力闘争が起こりました。彼女はロバート・レヴェンサールを社長に任命し(1977-1981年CEO)、20歳以上年下であったにも拘わらず、すぐに恋に落ちたのです。ニューマン夫妻の子供たちは、縮小する会社と家族の財産から取り残されることを恐れ、母親とレヴェンサールを訴えて何年か費やしました。
外部の経営者たちが取締役会に進出すると、会社の方向を変えようとし始めました。それはニューマンの死から3年後のことです。どうやら彼らはパブリカーをP&G(プロクター&ギャンブル)のような強大なホーム・ケミカル会社にしたかったらしい。レヴェンサールはアルコール飲料事業の主要資産の処分を決め、1979年にイリノイ州レモントのボトリング施設などと共に酒類ブランドを負債の支払いとケミカル・ボトリングへの資本投資に使用するために売却します。そうすることで会社を浮上させようとしたのですが、パブリカー・インダストリーズの下降スパイラルを止めることは出来ませんでした。同社は1979年秋まではウィスキーを蒸留もし、1981年後半頃まではまだ他社に販売していたと言います。1982年にフィラデルフィア工場は休止されました。キンジー蒸留所は1982年に売却された後、ボトリング・ハウスや幾つかのタンクと倉庫をリース・バックして、そこでアンモニアをベースにした家庭用洗浄剤と不凍液のボトリングに使用されていました。
70年代後半にパブリカーは、空で不使用の巨大なタンクの幾つかを他の会社が燃料油の貯蔵に利用できるようにし始めます。様々な化学会社や燃料会社との契約をしたそうですが、これらの取引はライセンスを常に取得している訳でもなく、環境への影響についても注意を怠っていたようで…。フィラデルフィアのサイトは長年の不適切な管理が環境災害や火災を引き起こし、PADER(ペンシルヴェニア環境資源局)からは数々の違反通知の発行をされ、EPA(米国環境保護局)からは許可なく危険廃棄物施設を運営したとして苦情を申し立てられました。そして1986年秋、会社は事業を中止し、資産は小さなモーテルの価格300万ドルで解体業者であるオーヴァーランド・コーポレーションに売却されました。1986年11月、発火性物質を含むパイプラインを切断中に爆発が起こり、二人の解体作業員が死亡。その後まもなくオーヴァーランド・コーポレーションとその親会社カイヤホガ・レッキング・コーポレーションは破産を宣言し、サイトを放棄しました。かつてウォルト・ウィットマン橋を渡るとパンのようなウィスキーの匂いがすると言われた巨大な複合施設と75年以上に渡ってモンゴメリー郡で最大の雇用主であったリンフィールドの「公園」は廃墟になって行きます。それは或る大企業のアメリカ産業史に於ける最も悲しい物語の一つでした。その後もパブリカーという会社自体は存続したようで、1998年に名前を「PubliCARD」に変更し、スマートカード・ビジネスに参入したそうですが、もはや別物でしょう。

さて、リッテンハウスは上に述べた1979年のブランド売却の時、その他のブランドと共にチャールズ・メドレーに買われました。チャールズはリッテンハウス及びコンチネンタルのブランドの力を評価していたのでしょう。おそらく80年代のリッテンハウスはメドレー蒸留所で生産されました。マッシュビルは不明。後にリリースされるヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ等に使用されたメドレー・ライと熟成年数は違えどマッシュビルは共有するとは思います。ケンタッキー・スタイルの51%に近いライ麦率でしょうか? 実はメドレー時代のリッテンハウスについては殆ど情報がなく、あまり書くことがありません。…あ、一つだけ。日本でリッテンハウス・ライをネットで検索すると出てくる紹介記事の殆どには「かつてメドレー社が製造していた銘柄」と紹介されています。確かにそれは事実であり間違ってはいないのですが、その歴史の中でメドレー産だった期間は割りと短く、ここまで読んで分かる通り、寧ろ歴史的にリッテンハウスはコンチネンタルのブランドでした。おそらく輸入元の資料か何かをコピペした結果ではないかと思いますが、誤解を招きかねない表現には注意が必要です。それでは次にヘヴンヒルがブランド権を手にし、現在に至るまでを見て行きましょう。

アメリカン・ウィスキーの製造に携わる会社にとって80年代後半から90年代は激動の期間でした。まるで自然界の食物連鎖のように、大きい会社が小さい会社を飲み込んで、業界の再編が行われたのです。リッテンハウスもその動きに翻弄されて目まぐるしく推移しました。メドレーは1988年にグレンモアに買収され、そのグレンモアも1991年にギネス(ユナイテッド・ディスティラーズ)によって買収されました。そして1993年の春、ヘヴンヒルは約70のブランドをユナイテッドから取得し、その中にリッテンハウスは含まれていました。
次々と所有権は移り変わったリッテンハウスですが、メドレー蒸留所はグレンモア傘下になっても蒸留を続け(実際チャールズ・メドレーがマスター・ディスティラーでした)、グレンモアにウィスキーを供給していたと見られるので、ユナイテッドによって1992年にメドレー蒸留所が閉鎖されるまではリッテンハウスを蒸留していたと思われます。或る方は、1993年のリッテンハウス・ライのボトルは現在の物とは全く異なり、より甘く円やかで、ラベルにはオーウェンズボロと書かれている、と述べていました。もし、ブランドの推移と共にストックも購入されていたのなら、最大で1996年頃まではメドレー原酒の可能性もあるのかも。言うまでもなく、これはただの憶測です。

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ヘヴンヒルはブランド取得後、おそらく僅かな期間は旧来と同じダイヤモンド・ラベルを使用していたと思われます。その後ラベルは安っぽいデザインにリニューアルされました。ライトな80プルーフと伝統のボトルド・イン・ボンドがあります。長年、ヘヴンヒルはライウィスキーの蒸留を一年に一日(もしくは三日か四日)しか費やしていませんでした。それは、まだこの頃はライウィスキーの人気はあまりなく、ライの「本場」ペンシルヴェニアでもなければメリーランドでもないケンタッキーで絶滅の危機から救われた「希少品種」に過ぎなかったからです。しかし、年に一度だけでも蒸留されたことで、ライウィスキーは命脈を保ち生き続けました。
ヘヴンヒルがリッテンハウスを製造するようになって数年で思いがけない災難が勃発します。バーボニアンにはよく知られるアメリカン・ウィスキー史上でも最大級の火災が発生したのです。1996年11月9日の落雷が原因と見られるその火事によりバーズタウンのヘヴンヒル蒸留所は焼失し、9万バレル以上ものウィスキーが失われました。そこで暫くの間、ヘヴンヒルは他の蒸留会社(仲間)を頼らざるを得なくなります。おそらく一年ほどはジムビームが蒸留を代行し、その後はブラウン=フォーマンによって契約蒸留がなされました。1999年にヘヴンヒルはルイヴィルのバーンハイム蒸留所をディアジオから購入し、蒸留を再開するのですが、この契約は2008年まで続き、この間ヘヴンヒルのライウィスキーは全てブラウン=フォーマンのアーリータイムズ・プラントで製造されています。ボトルド・イン・ボンド法ではラベルに蒸留施設の明示が義務付けられているため、ブラウン=フォーマン産の物には「DSP-KY-354」、バーンハイム産の物には「DSP-KY-1」とあり、おそらくこの切り替えは2013年頃を境としているでしょう。
新しい蒸留所でライウィスキーを蒸留し熟成させ、十分な量を確保したヘヴンヒルは再び自らの蒸留物を販売し始めた訳ですが、この移行期間中にもライウィスキーの人気はジワジワと上がり続け、クラフト・カクテルのムーヴメントも手伝って高い需要がありました。分けてもリッテンハウスは多くのミクスト・ドリンクのレシピに最適であったことから、一時的に店頭で見つけるのが困難だったようです。こうしたブームへの便乗?が主な理由だと思われますが、多分2014年頃、ラベルはオリジナルのリッテンハウス・スクエア・ライに敬意を表して「ダイヤモンド」に戻されました。そう、旧来の物にしろ現行の物にしろあのダイヤ形に見えるデザインは実際には「スクエア」なのです。その後はクラフト蒸留所のブームとも相俟ってライウィスキーは完全なるリヴァイヴァルを遂げました。ヘヴンヒルでは以前に年一度だけの蒸留だったライウィスキーも今では毎月蒸留され、リッテンハウスはその驚くべき価格のお陰でこれまで以上の人気を博しています。

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最後に別枠として特別なリッテンハウスについても触れておきます。ヘヴンヒルは2006年から2009年に掛けて、それぞれ21年、23年、25年という超長期熟成された「Rittenhouse Very Rare Collection」を数量限定で特別リリースしました。背の高いゴールド・プリントのボトルがバルサ材の箱に入った豪華なパッケージで、100プルーフ、シングルバレル、ノンチルフィルタードの仕様。750mlで各々150、170、190ドルの希望小売価格でした。中身のウィスキーは1984年10月に造られたライのバッチからの物で、それらは全てリックハウスOOの最も下の階で熟成されていました。ヘヴンヒルのマスター・ディスティラーだったパーカー・ビームによれば、低層階は高層階よりも温度が低いため長期間の熟成が出来たそうです。
これら上位クラスのリッテンハウスが誕生した背景には、なかなか興味深い偶然の物語がありました。ヘブンヒルが製造するライウィスキーには、リッテンハウスの他にもう一つパイクスヴィルがあります。ここではパイクスヴィルの歴史について詳しくは紹介しませんが、簡単に言うとリッテンハウスと同じような運命を辿った元はメリーランドのライウィスキー・ブランドです。ヘヴンヒルは伝統あるそのブランドを1982年にスタンダード・ディスティラーズから購入し発売していました。それ以前からもヘヴンヒルはライウィスキーを蒸留し、どこかへ供給していたかも知れません。それはともかく、84年に蒸留された95バレルのロットのライは、同社の顧客向けのプライヴェート・ラベルになるか、或いはそれ用のパイクスヴィルになる筈の物でした。リッテンハウスの購入は93年、つまり当初からリッテンハウス20+を造るつもりは一切なかったのです。ヘヴンヒルは顧客のためにウィスキーを熟成させていましたが、それは製品化されることなく眠り続け、意図した熟成年数を遥かに超えてしまいました。そのライが21年という珍しい年数に近づいた時、ヘヴンヒルはウィスキーのオーナーに買い戻しを申し出ると了承され、そこで2006年に偶然の産物はリッテンハウスの非常にレアなコレクションとして世に送り出されたのです。
ちなみに、リッテンハウスの長期熟成ヴァージョンはヘヴンヒルが初めてリリースしたのではありませんでした。実はコンチネンタルから、60年代もしくは70年代と思われますが、20年熟成のリッテンハウスが発売されています。ラベルにはリンフィールドとありますね。詳細はまるっきり分かりません。途轍もなくレアなのは間違いないでしょうが。
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さて、それではようやくテイスティングと参りましょう。基本情報としてリッテンハウス・ライは、125プルーフのバレル・エントリー、#3チャー・バレル、倉庫の上層階(上から4階)にて4年熟成、数百樽でのバッチ・サイズとされます。またボトルド・イン・ボンド規格なので、ボトリングのためにバッチ選択したバレルは、春または秋のいずれかに蒸留した同じシーズンの物でなければなりません。

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RITTENHOUSE RYE BOTTLED IN BOND 100 Proof
推定2014年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。麦茶、グレイン、焦がした砂糖、エタノール、ダーク・ドライフルーツ、菜っ葉。サイレントなアロマ。ジュースを飲み込んだ後に来る刺激はスパイシーではあるがアルコールの辛みの方が強いような…。余韻は引き続き辛みを伴いつつ、微かに白桃と穀物が漂う。
Rating:79.5/100

Thought:開封から暫くは妙に味がないように感じました。しかも香りが開いたのが残量半分を下回ってからなのは痛かったです。おまけに香りが開いたと言ってもそれほど芳醇でもなく…。バーボンよりあっさりした質感にライ麦ぽさを感じるものの、スパイシーと言うよりはただ辛いだけ。もっと言うと近年のヘヴンヒル原酒に感じ易い複雑な香辛料やフルーツを欠いた熟成感という印象。海外のレヴューを参照するとそこそこの高評価だったし、フルーツ・フォワードのライかと期待したのですが、ぶっちゃけ舌の上でフレイヴァーが躍るライではなかったです。私はストレートと一滴加水でしか飲みませんでしたけど、ロックやカクテルにしたらもっと引き立ったのですかね? 飲んだことのある皆さんのご感想コメントよりどしどしお寄せ下さい。

Value:ハイ・プルーフにして安価かつライであるのが魅力で、ラベルのデザインは最高にカッコいいと思います。アメリカでの価格は概ね25ドル程度、日本だと3500円くらいが相場でしょうか。個人的にはもっとフルーティなライが好みなので日本の市場価格は高く感じますが、辛口がお好みの方やバーボニー・ライを求める方にはオススメです。なにより歴史のある銘柄ですしね。

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*2009年から2015年にかけてアメリカのライウィスキーの売り上げは662%(!)も増加したと云います。それはまるで一瞬の出来事のようでした。大企業傘下の蒸留所であれ小規模なクラフト蒸留所であれNDP(非蒸留業者)であれ、こぞってライウィスキー市場へ参戦し、その銘柄は次々と増え続けています。

**リッテンハウスと言うかヘヴンヒルのライ・マッシュビルに関しては、「51%ライ / 39%コーン / 10%モルテッドバーリー」と「51%ライ / 37%コーン / 12%モルテッドバーリー」の二説がありました。どちらが正しいか判りませんが、ライ麦率が51%なのは確かなようです。

***一説には第一次世界対戦の頃から飲料用アルコールも製造していたとされます。ですが、事業として乗り出したのは禁酒法解禁後なのでしょう。

****チャーター・オークは、ケンタッキー州のバーンハイム蒸留所や後の親会社シェンリーから、その名前が「オールド・チャーター」に近いものであるとして、長年続く訴訟を提起されました。1959年5月頃には最終的に解決され、コンチネンタルはチャーター・オークのブランドを継続することが出来たようです。
現在オールド・チャーターを所有するのはサゼラック社ですが、近年では傘下のバッファロートレース蒸留所から「オールド・チャーター・オーク」というやや実験的なオーク材を用いたシリーズがリリースされています。チャーター・オークの商標はどうなっているんでしょうね?
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とある酒屋で半額に値下がっている古いノブクリークを発見したので即座に購入。ブランド紹介はこちらの過去投稿をご参照ください。

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KNOB CREEK 9 Years 100 Proof
推定2001年ボトリング。如何にも美味しそうな赤みがかったブラウン色。焦げ樽、ややひねた酸っぱい香り、ヴァニラ、ナツメグ、焼き過ぎて焦げたトウモロコシ、ジンジャーエール、赤ワイン、タバコ、新聞紙。甘い香りは控えめの焦樽フルーツ系アロマ。ナッティなテイストはあまり感じられない。開けたての味わいはドライだったし、余韻の苦みが強かったが、残り3分の2ぐらいになってからはチェリー系のフルーティさと甘味が増し、酸っぱい香りも減じて劇的に美味しくなった。最終的にはやや酸味に寄っているもののバランスが整った頗る上等なバーボンという印象。2010年代の物より全然美味しく感じる。「酸化の神様ありがとう」の一本なのか? 90年代やそれに近いノブクリークは質が高かったのか?
Rating:88/100

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