バーボン、ストレート、ノーチェイサー

バーボンの情報をシェアするブログ。

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ローワンズ・クリークはケンタッキー州バーズタウンのウィレット蒸留所(KBD)で製造されているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つのうちの一つです。その他の三つはノアーズ・ミル、ピュア・ケンタッキーXO、ケンタッキー・ヴィンテージとなっています。価格から言うと、ローワンズ・クリークはこの中では上から二番目の位置付け。コレクションの成立は90年代半ば(一説には94年)とされます。当時の業界ではプレミアムなバーボンが胎動し始め、ジムビームもスモールバッチ・コレクションを開始するなど、そのコンセプトは軌を一にしていました。
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(画像提供K氏)
ローワンズ・クリークの名は蒸溜所の敷地内を流れる小川にちなんで付けられました。その小川は1700年代後半から1800年代前半に掛けてケンタッキー州の政治家であったジョン・ローワンにちなんで名付けられ、彼のフェデラル・ヒルの邸宅はスティーヴン・コリンズ・フォスターの歌曲「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」にインスピレーションを与えたと言われています。このバーボンは、ノアーズ・ミルと手描きのようなラベルの雰囲気やワイン・タイプのボトルといった共通点があり、更に熟成年数とボトリング・プルーフが少し低く、尚且つ安い価格ということもあって、その姉妹品というか弟分のように認識されていました。「ベイビー・ノアーズ・ミル」と呼ばれているのも見かけたことがあります。もっと言うと、ローワンズ・クリークはノアーズ・ミルより一段劣る廉価版と常に考えられていた節があります。しかし、だからといって品質が劣った製品という訳ではなく、飲み易さと財布への優しさが魅力だったためか、2011年当時の情報によるとアメリカの27州で販売され、KBD(ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ)が生産するバーボンの中で最も売れている銘柄だったそうです。ローワンズ・クリーク・バーボンが長期に渡ってKBDのポートフォリオに於いて重要なブランドだったとされる所以でしょう。個人的に、オールド・タイミーな雰囲気の薄茶のラベルとマルーン色のワックス(及びフォイル)の組み合わせは凄く好きなデザインです。ところで、ワイルドターキーのような101ではなく100.1という小数点まで使ったボトリング・プルーフは一体何なのでしょうか? ハンドメイド感の演出? 或いは単なるユーモア? まあ、それは措いて、このローワンズ・クリーク、初登場から今に至るまで外観はそれほど大きく変化しませんでしたが、中身はかなり変化しました。ここからはその変遷を追ってみましょう。

しかし、実はこのバーボンの中身のジュースの明確な詳細は、発売当初から今に至るまで不明です。周知のように、ウィレット蒸溜所は2012年から自家蒸溜を再開しましたが、それまではKBDとして他の蒸溜所からバレルを購入していました。従ってローワンズ・クリークも他の製品も、発売からある時点までは実際には別の生産者によって蒸溜され、KBDによってブレンド及びボトリングされたものでした。彼らは、ローワンズ・クリークに限らず、自らの製品に就いて明瞭に語ることは殆どなく、どこで蒸溜されたウィスキーなのかは推測の域を出ません。軈て、自社の蒸溜原酒が熟成するにつれ、それらはボトリングされるようになり、2020年頃には殆ど全ての製品がバーズタウンにある自社製に切り替わっていると見られています。その頃からラベルに記載される事業名が、ローワンズ・クリーク・ディスティラリーからウィレット・ディスティラリーに変更されました。ここら辺の現代ローワンズ・クリークも、公式にマッシュビルや熟成年数などのスペックは公開されてはおらず、他ブランドとどういった造り分けをしているのか謎のままです。これらを念頭に置いて見て行きます。

発売された当初、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークにはエイジ・ステイトメントがありました。前者が15年、後者が12年です。この熟成表記は、メイン・ラベルの上に貼られた細いラベルに余り目立たない感じで記載されていました。また、この頃の物(*)はボトルの横もしくは後に貼られたバッチ・ラベルに、蒸溜年とボトリング年が手書きで記されています。
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12年表記のある初期のローワンズ・クリークは、文字通り最低でも12年熟成、もしくはもっと長い熟成バレルを使ったブレンドもあった可能性はあります。実際、今回私が開栓した12年表記のあるローワンズ・クリークは、蒸溜年とボトリング年を参照すると13年熟成となっていますし(上画像参照)、他のバッチでも12年熟成以上の物を見たことがあります。スモールバッチ・バーボンの代表的な銘柄であるブッカーズに記載される熟成年数が最も若いバレルの物であるのと同様に、ローワンズ・クリークのバッチ・ラベルに記載されている蒸溜年も最も若いバレルの物でしょう。この頃のバッチング・サイズは10樽程度と何処かで読んだ気がしますが、本当かどうかは判りません。
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おそらく発売当初は豊富にあった長期熟成バレルはバーボン需要の増加に伴って少なくなり、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークの両ボトルともエイジ・ステイトメントを失いました。切り替わりの正確な時期が特定できないのですが、2006年後半あたりからではないかと思われ、少なくとも2011年までには完全に切り替わっていた筈です。そして、NASとなってからは若いバレルも混和するようになり、2011年の情報では「5年から15年のバーボン樽のコレクション」とされていました。また、同情報源によれば「どの樽を使い、どの樽を使わないかという固定観念に囚われることはない」と言われていました。その言葉からすると、もう少し熟成年数の幅は前後することもあると思われます。バッチング・サイズは、おそらく当時は15バレル程度かな? このNASのローワンズ・クリークのレヴューを参照すると、やや若い味がするとか、若いアルコールのキツさがあるとの指摘が見られ、5〜15年の熟成バレルの構成は主に若い熟成のバーボンに少し長熟バーボンが混じっている配分なのではないか、と考える人もいます。
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2013年後半頃には、これまたローワンズ・クリークとノアーズ・ミルともに、ワックス・トップだったものがフォイル・トップへと変更されました。これらのワックス・トップとフォイル・トップにはテイスティング・プロファイルに違いがないと考える人もいれば、あると信じる人もいました。あると信じる人達はより若くなったと感じたようです。まあ、ワックスかフォイルの違い以前に、ローワンズ・クリークにはバッチ間の差もかなりあると言われています。その出来にはバラつきがあって素晴らしいものもあれば殆ど飲めないものまである、と言っている人も見かけました。個人的には飲めないほど酷い物はないと信じていますが、SNS等でローワンズ・クリークに限らずウィレットのスモールバッチ・バーボンを「美味しい」と投稿している方には、せめてバッチ番号を明記して欲しいとは思います。そうでないと、どの時代の物を美味しいと言っているのか判りにくいので…。それに、大規模な蒸溜所の「大きな」スモールバッチですらシングルバレルに劣らず個性的であるのに、実際にはヴェリー・スモールバッチと呼んだほうが適切な数十樽のスモールバッチは尚更そうですから。

偖て、90年代から2010年代半ばまでのローワンズ・クリークは、他のスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの面々やジョニー・ドラム及びオールド・バーズタウンといった主要なブランドと同様にソースド・バーボンでした。その大半はヘヴンヒルのバーズタウンの蒸溜所かルイヴィルのバーンハイム蒸溜所から仕入れていたのではないかと見られています。しかし一方で、KBDは長年に渡ってほぼ全ての主要な蒸溜所(メーカーズマーク以外とされる)のウィスキーを入手しており、彼らは個性的なフレイヴァー・プロファイルを得るために異なる蒸溜所のバレルを混ぜ合わせていたとも言われています。当時は多くの人がヘヴンヒルやバートンのウィスキーをボトルに入れただけと思っていましたが、2つかそれ以上(3つか4つ)の蒸溜所のウィスキーのマリッジだった、と。KBDの社長エヴァン・クルスヴィーンは手持ちのウィスキーから素晴らしい風味を生み出す達人であり、様々な業者から入手可能になる度にバレルを調達していた結果、彼とブレンディング・チームは少量のウィスキーをブレンドして各ブランドに合う風味を造り出すことに熟練するようになった、と。勿論、詳しい構成比率が明かされる訳もなく、全ては謎に包まれています。

そして、ウィレットの製品は現在では100%自家蒸溜物に移行したと考えられています。しかし、一体いつローワンズ・クリークが自身の蒸溜物に切り替わったかはよく判りません。仮に熟成年数4年程度でボトリングしているならば、2012年から蒸溜を再開したことを考慮すると、早くて2016年から新ウィレット原酒を使用することは可能ではあります。また、よく分からないのが他の蒸溜所産のウィスキー、つまり何処かから調達した旧来のストックと、自前の蒸溜所産の新しいウィスキーを混合しているのかどうかです。個人的には味わい的に混ぜてないような気がしますが、どうなのでしょう? 皆さんはどう思われますか? バッチ毎の味わいの違いに関する情報などと合わせて、仔細に精通している方は是非ともコメント欄より情報提供下さい。で、現在のウィレット蒸溜所には以下のような4つの異なるバーボン・マッシュビルがあります。

①オリジナル・マッシュビル
72%コーン/13%ライ/15%モルテッドバーリー

②ハイ・コーン・マッシュビル
79%コーン/7%ライ/14%モルテッドバーリー

③ハイ・ライ・マッシュビル
52%コーン/38%ライ/10%モルテッドバーリー

④ウィーテッド・マッシュビル
65%コーン/20%ウィート/15%モルテッドバーリー

ソーシング・ウィスキーではない現在のローワンズ・クリークのマッシュビルに就いて調べてみると、4つのマッシュビルのブレンドとしているもの、①としているもの、味わいから②と推測するもの、更にはハイ・ライ・バーボンであることは確かだとする説もあったりと、てんでバラバラで混乱するばかりです。熟成年数は、5〜7年ではないかと推測するものや、推定8年程度であると考えられているとするものがありました。孰れにせよ正確な熟成年数も不明です。バッチによって一貫性がないとされるスモールバッチ・バーボンですから、何ならマッシュビルの変更やバッチングに使用されるバレルの熟成年数の変化だってあったのかも知れない。まあ、判らないことは措いておき、そのうち何か情報が入れば追記することにしましょう。

では、そろそろ注ぐ時間です。今回は自分の手持ちの12年表記のある2006年ボトリングとNASの2017年ボトリングを開封しました。この2つに加え、バーボン仲間のK氏から2つのサンプルを頂けたので、計4つの年代別バッチ別の比較が可能となりました。画像提供も含め、いつも本当にありがとうございます。バーボン繋がりに乾杯!

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ROWAN'S CREEK Twelve years 100.1 Proof
BATCH QBC No. 06-94
推定2006年ボトリング。赤みを帯びたダークブラウン。床用ワックス、フローラル、焦樽、オールドファンク、トフィ、杉、ベーキングスパイス、土、アプリコットジャム、抹茶ミルク。よく熟成したバーボンの香り。プルーフから期待するよりは緩いが、とろりとした口当り。味わいは甘く、スパイシーかつフルーティとバランスが良い。そして何より味が濃い。余韻はミディアムで、ややビター。
Rating:88/100

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ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 17-67
推定2017年ボトリング。パイナップル、グレイン、蜂蜜ハーブのど飴、シリアル、グレープジュース、ビール、プラム、ヨーグルト、マッチの擦ったあと。香りはフルーツの盛り合わせ。ややとろみのある口当たり。パレートはフルーティな甘みと共に穀物の旨味が凄い。余韻は最後に少し苦味。
Rating:87.5/100

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(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 12-135
推定2012年ボトリング。ワックス・トップでNASの物。ウッドニス、プリンのカラメルソース、穀物、カカオ、木の酸、ナツメグ、ヴァニラウエハース。清涼感を伴った仄かに甘いアロマ。味わいは薄っすらフルーティで穏やかなスパイス感。余韻はミディアム・ショートで、ほんのり甘みが来てから一気にドライになって切れ上がる。
Rating:83/100

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(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 21-9
推定2021年ボトリング。四つの中でこれのみラベルの記載がローワンズ・クリーク・ディスティラリー名義ではなくウィレット・ディスティラリー名義。僅かにゴールドがかったブラウン。紅茶、蜂蜜、檸檬、焦げ樽、フローラル、塩、ゴム、ピーナッツ、ジンジャー。香りは蜂蜜レモンティー。ややオイリーで滑らかな口当り。パレートではほんのり甘いオークの風味が感じ易い。余韻はミディアムでダージリン・ティー。
Rating:85.5/100

Thoughts:バッチ06-94は、明らかに長熟バーボンのオールドな風味を感じます。しかし、それは不快ではない程度に収まっており、却って心地良いくらいでした。そういったオールド感も含めてバランスの良いバーボンという印象。香りや味わいは、ヘヴンヒルぽくは感じましたが、微妙に異なる風味もあって、例えて言うとエヴァン・ウィリアムス12年をフォアローゼス・プラチナで薄めたような味わいですかね。それは兎も角、これが往時3000〜5000円程度で買えていたと思うと驚異です。今なら12000円位から、ブランディングによっては20000円を超えてリリースされそうなクオリティ。
バッチ17-67はアロマだけで新ウィレット原酒と思いました。一言でいうと穀物フルーツ系バーボンです。飲んだ印象としてはライ麦の要素があまりないように感じたので、マッシュビルは②かなと予想しますが、まあ分かりません。ミックス・マッシュビルかも知れないですし。私が以前に飲んだケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOの特定のバッチと較べてみると、幾分か穀物感とフルーツ感で上回るように感じましたが、だからと言ってそれが取り立てて明確に上位の味わいとは思えませんでした。特にオールド・バーズタウン・エステート・ボトルドと比べるとミルキーなテイストを欠いており、価格が上がる割に良いフレイヴァーがないのは気掛かりです。とは言え、ウィレット蒸溜所が生産するウィスキーは非常に自分の好みに合っており、私は彼らの比較的若いウィスキーでも楽しめる消費者の一派に入るので、美味しいのは間違いありません。
バッチ12-135は、全体的なフレイヴァー・バランスは整っているのですが、12年物と較べるとアロマもテイストも何もかもが薄いと感じました。アルコールのピリピリ感もあって、確かに若い原酒の比率がかなり高くなった印象を受けます。サイド・バイ・サイドで12年物と較べるからスケールが小さく感じるとは言え、他のバーボンとの比較に於いても特に誉めるべき点は見つからず、逆に特に悪いところもない凡庸なバーボンという感想でした。正直言って、ローワンズ・クリークというブランドから自分が抱く勝手なイメージからすると期待外れな出来です。
バッチ21-9は紅茶でも飲んでるかのような味わい。同じ新ウィレット原酒と思われるバッチ17-67とフレイヴァー・プロファイルがかなり違うのが面白かったです。こちらはバッチ17-67と較べると、自分が今まで飲んで来た新ウィレット原酒に感じ易いと思っているハーブのど飴のような複合的なハーブとグレープを殆ど感じれず、それが点数を下げる要因となりました。それにしても、何故これ程までにプロファイルが異なるのでしょうか? もしかしてマッシュビルの変更があったのかしら? これがミックス・マッシュビルなの? それとも単にバレル・セレクトの違いなのか…。海外の有名なバーボン・レヴュワーがローワンズ・クリークに対して、本質的に悪いところはないがウィレットが蒸溜するようになったという事実以外に特筆すべき点もないとか、同価格帯のより有能な他のボトル(ブランド)には敵わないとか、評判の悪いウィレット・ポットスティル・リザーヴと同じような風味がする、と評しているのを目にするのですが、それがバッチ17-67のような味わいに言われているのか、それともバッチ21-9のような味わいに言われているのか、はたまた両方なのか、これが判らない。ウィレット蒸溜所のウィスキーを色々飲んでいる皆さんはどう思われますか? コメント欄よりご意見ご感想、お待ちしております。

Value:「12年」表記のあるローワンズ・クリークは、古い物なのでオークション等である程度の価格は覚悟しなければならないでしょう。しかし、もし貴方が古典的な熟成バーボンを好むなら素晴らしい価値のある製品です。現行のローワンズ・クリークは、アメリカでは地域差がありますが大体40〜45ドル程度、日本では大体6500円くらいで売られています。もし貴方が近年のウィレット蒸溜所のウィスキーのフレイヴァーを愛するなら、バッチ毎の違いはあるかも知れませんが、概ねオススメ出来る製品だと思います。これらの中間に当たる時代のローワンズ・クリークは、少々中途半端と言うかあまり印象に残らないバーボンで、正直それほどオススメではありません。


*初期の物でも蒸溜年が記されていないものや、「E」で始まるバッチ番号の物を見かけたことがあります。

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エライジャクレイグはエヴァンウィリアムスと並ぶヘヴンヒル・ディスティラリーズの看板ブランドです。バーボン市場が歴史的な低落傾向にあった1986年に初めて登場したエライジャクレイグ12年は、当時バーボン市場を席巻していた若くて安価で低品質のバーボンに対して、ヘヴンヒル蒸溜所が提案したプレミアムなバーボンでした。昔の物はケンタッキー州バーズタウンのヘヴンヒル蒸溜所、現在はケンタッキー州ルイヴィルのヘヴンヒル・バーンハイム蒸溜所で造られています。エライジャクレイグのブランドには過去から現在まで複数のヴァリアントがあり、限定生産のため現在販売されてないものも含むと下記のようなものがあります(ストア・ピックやプライヴェート・バレルは含めていません)。

◆エライジャクレイグ(スモールバッチ)、12年、94プルーフ、1986年導入
◆エライジャクレイグ・スモールバッチ、NAS(8〜12年)、94プルーフ、2016年導入
◆エライジャクレイグ・スモールバッチ・バレルプルーフ、12年、約125〜140プルーフ(バッチ毎に異なる)、2011/2012年に蒸溜所のギフトショップ限定でプリ・リリース、2013年正式に導入
◆エライジャクレイグ・トーステッドバレル、NAS、94プルーフ、2020年導入
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、18年、90プルーフ、1994年導入
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、20年、90プルーフ、2011年秋ケンタッキー・バーボン・フェスティヴァルの20周年を記念して初リリース、2012 年5月数量限定リリース推定1300本未満生産
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、21年、90プルーフ、2013年10月リリース
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、22年、90プルーフ、2014年リリース、推定400本
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、23年、90プルーフ、2014年8月リリースその後継続
◆エライジャクレイグ・バレルセレクト、NAS(8年もしくは8〜9年または8〜10年とされる)、125プルーフ、200mlボトル、蒸溜所のギフトショップ限定
◆エライジャクレイグ・ビアーバレル・フィニッシュ、NAS(ビール樽で9ヶ月追加熟成)、94プルーフ、200mlボトル、2020年に限定リリース、シカゴのグース・アイランド・ブルワリーとのコラボ
◆エライジャクレイグ・ライ、NAS、97プルーフ、2020年導入
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エライジャクレイグは、導入当初から長きに渡り12年のエイジ・ステートメントを誇示していましたが、需要が供給を上回ったため、2016年に8〜12年熟成のブレンドとされるNASヴァージョンに切り替わり今に至ります。ボトルデザインも同年末か翌年くらいに刷新されました。ちなみにバレルプルーフのオファリングは12年の年数表記を残しています。
エライジャクレイグのシングルバレルと言うと、比較的長期間販売されたのは18年熟成の物でした。2012年5月、この年齢に近いバレル在庫が限られているため、18年シングルバレルのボトリングが停止されることが発表されました。ヘヴンヒルはその代わりに幾つかの特別な年齢を毎年リリースすると発表し、間もなくエライジャクレイグ20年シングルバレルがリリースされました。 その後も21〜23年のシングルバレルが毎年提供されていました。そして3年間の休止期間を経て18年シングルバレルが再リリースされ、2015年は約15000本が発売されたようです。それ以来、18年は継続的なリリースとなっています。
トーステッド・バレルやライは近年のアメリカン・ウィスキー人気によって齎されたブランド拡張でしょう。

ブランド名は、ケンタッキー州の開拓者でありコミュニティ・リーダーであり、起業家であり教育者であり、バプティスト(*)のプリーチャーである実在の人物に敬意を表して名付けられています。ヘヴンヒルはエライジャ・クレイグを「バーボンの父」としてラベルに謳っていますし、バーボン・ウィスキーの製造にバレル・チャーを初めて発見し使用したのがクレイグであると云う伝説もあります。しかし、バーボンを発明したのは彼ではないと多くの歴史家は考えています。それでも彼が初期の蒸溜者であったこと、そして彼の人生に於ける他の業績の多くが称賛に値するのは間違いありませんでした。その多岐に渡る活動を見れば、時代の寵児だったとさえ言えるかも知れません。なので、先ずは興味深いエライジャ・クレイグの人生から見て行きましょう。

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エライジャ・クレイグは、ケンタッキー州が誕生する50年以上前の1738年(1743年または1745年説も)にヴァージニア州オレンジ・カウンティでポリー・ホーキンスとトリヴァー・クレイグの5番目の子供として生まれました。当時の同年齢の子供たちと同様、実践的および宗教的な知識に焦点を当てた初歩的な教育を受けたようです。彼は少年時代から並外れた知的才能を発揮し、宗教的な傾向も強く持っていたと言います。後にエライジャは「初期ケンタッキー・バプティストの最も優れた説教者の一人」となりますが、ヴァージニアでの初期の生活については殆ど知られておらず、1764年以前の詳細は基本的に不明です。
1750年代半ばまで、植民地時代のアメリカのバプティストは屢々「レギュラー」または「セパレート」のどちらかに分類されていました。どちらもカルヴィン主義的な神学でしたが、セパレート・バプティスツは大覚醒(グレート・アウェイクニング)と密接に関わり、一方のレギュラー・バプティスツはこの方向性から距離を置くところがあったそう。1764年、エライジャはヴァージニア州で最初のレギュラー・バプティスト教会を組織したデイヴィッド・トーマス(1732-1812)という名のプリーチャーと出会います。彼はブロード・ラン・チャーチを設立し、エライジャが宗教を追求するインスピレーションとなり、またメンターとなりました。好奇心旺盛なエライジャは宗教についてもっと知りたいと思い、著名な伝道師サミュエル・ハリス(セパレート)が主宰する集会に参加するようになります。そこで彼は福音を伝えたいという情熱を抱くようになったようです。トーマスとハリスに触発されたエライジャは実家のタバコ納屋で小規模な伝道活動を始め、耳を傾ける全ての人に説教をしました。説教を始めて2年目の1766年、エライジャはノース・キャロライナ州へ旅立ち、そこで今度は聖職者デイヴィッド・リードに出会います。エライジャは自分も含めた新しい会衆のメンバーに洗礼を施すため、リードを説得してノース・キャロライナからオレンジ・カウンティに連れて来ました。その結果、エライジャはこの年に他の家族と共に正式にバプティズマを受け、セパレート・バプティストとなったようです。兄のルイスと弟のジョセフもバプティストのプリーチャーとなりました。
18世紀のヴァージニア州では、バプティストは迫害されていました。キャロライナやジョージアやメリーランドと同様に、ヴァージニアにも既成の教会、すなわちイングランド国教会があり、当時の社会文化では宗教の自由という原則は定着していなかったのです。アングリカン・チャーチは州政府と深く結びついており、州が公式に支援する宗派として財政支援まで受けていました。ヴァージニア州では全ての住民がアングリカン・チャーチに十分の一税[※教会維持のため教区民が毎年主に農作物もしくは収入の10分の1を納めた]を納め、少なくとも月に一度はアングリカン・チャーチの礼拝に出席することが法律で義務づけられていました。ヴァージニアの支配層たちは、この公的な信仰をコモンウェルスの社会構造にとって不可欠な要素であると考えていました。他の神学的な考え方もある中でバプティストは特に危険視されており、初期のバプティストは厳しい状況に直面しました。彼らは法律によって説教をするためにライセンスを取得する必要があり、その書類には多くの場合礼拝の場所が指定され、事実上、巡回牧師やテント集会は違法とされていました。このような制限に抵抗する牧師はしばしば投獄され、時には言葉や身体的な虐待を受けることもあったと言います。デイヴィッド・トーマスもフォーキア・カウンティで家庭礼拝を行っている時に襲われ残酷な暴行を受けたらしい。1779年には40人以上の牧師が牢屋に入れられたという話もあります。
バプティスト派の牧師は嘲笑され、中傷され、投獄までされた訳ですが、改宗を拒否してバプティストの説教を続けたエライジャも、イングランド国教会からの必要なライセンスなしに説教をしたため、無免許説教の罪で少なくとも2回逮捕され、オレンジ・カウンティとカルペパー・カウンティで投獄されました。このような説教師は、既成の国教会が植民地から資金援助を受けていたため、植民地の社会秩序全体に対する挑戦と見倣されたのです。1768年、自分の畑を耕していたエライジャは「分離主義的な教義」を説いたとして逮捕され、17日間投獄されました。エライジャはこの時、或る種の殉教的な満足感を味わったのかも知れません。どうやら牢屋如きではエライジャの熱情を抑えることは出来なかったらしく、彼は鉄格子越しにゴスペルを説き続け、そのため当局は牢屋の周りに高い壁を作り人々に聞こえないようにしたという話が伝わっています。また正確な年代は判りませんが、二度目の投獄では、当局はエライジャが投獄されている一ヶ月の間、水とライ・ブレッドしか与えずに彼の心を折ろうとしたものの、彼は弱体化した状態でも自分の信念に妥協することなく敗北を拒み、監房の窓の前を通る人々に説教をし、信徒たちはそれを聞くために通りに集まって来たとのエピソードもありました。1768年には兄ルイスも、ジョン・ウォーラー、ジェイムス・チャイルズ、ジェイムス・リード、ウィリアム・マーシュと共に、イングランド国教会のライセンスなしに説教を行ったとしてフレデリックスバーグの刑務所に数週間収監されました。エライジャは出所後、1769年にヴァージニア州バーバーズヴィルとリバティ・ミルズの中間にあるブルー・ラン・チャーチの設立に貢献し、1771年、同教会は正式に聖職に就かせました。そこの牧師となった彼のもとで教会は繁栄して行ったようです。
1774年、インディペンデント・バプティストの総会は、エライジャ・クレイグとジョン・ウォラーをジェイムズ・リヴァー以北の伝道を行う布教師に指定しました。アメリカの独立戦争が始まったのは1775年のことでした。戦争中、エライジャは従軍牧師として活躍したそう。或る時、エライジャと同じくバプティスト派の牧師だった兄弟のルイスとジョセフ・クレイグは、真の宗教的自由を追求するためエライジャに自分達とその信徒と共に西へ向かうよう説得しようとします。しかし、エライジャはヴァージニアに残り政治に携わることを決意しました。彼の目標はヴァージニアでの宗教的迫害をなくすことでした。ヴァージニアの州誕生初期のバプティスト迫害は、特に自由民と奴隷、白人と黒人が混在する会衆へ説教をした時に顕著だったようです。アメリカ独立戦争後、エライジャはヴァージニア・バプティスツの意見を新州政府に伝えるという重要な役割を果たし、ヴァージニアおよび連邦レヴェルに於ける宗教の自由を守るためにパトリック・ヘンリーやジェイムス・マディソンと協力して、最終的に憲法修正第1条に繋がった初期の考察に少なくとも間接的な貢献をしたと言われています。マディソンは若き弁護士としてイングランド国教会からの免許を受けずに説教をしたことで逮捕されたバプティストの説教師達を弁護していました。そのことがエライジャと共にヴァージニアに於ける信教の自由を憲法で保障するために動いたきっかけだったのかも知れません。そうした活動は信教の自由に関する概念を作り上げるために効果がありました。マディソンは1776年から1779年にヴァージニア州議会議員を務め、トーマス・ジェファソン(1779〜1781年までヴァージニア州知事)の弟子として知られるようになり、「ヴァージニア信教自由法」の起草を手伝って同地の政界で名声を得ました。この法はイングランド国教会を非国教化し、宗教的事項について州の強制権限を排除するものでした。宗教の自由を保護する法令を可決したことで、イングランド国教会はディスエスタブリッシュト、つまり州行政府の財政支援を失い、バプティストによる政教分離の理想が定着したのです。後に、この法はマディソンを主たる起草者とするアメリカ合衆国憲法修正第1条に引き継がれ、政教分離の原則と信教の自由の保障はいっそう強固なものになって行きました。この間、エライジャは説教や牧師をしながら農業に従事し、収穫したトウモロコシの一部を「ホワイト・ライトニング」に蒸溜することも行っていた可能性を指摘する人もいます。

ヴァージニア州で宗教的迫害を受けていたため、エライジャと同様にプリーチャーだった兄のルイス・クレイグは、抑圧的な雰囲気から逃れて更なる宗教的自由を求め、早くからケンタッキーと呼ばれるヴァージニアの西地域へと移住することを決意していました。彼は非常に人気があり、ヴァージニア州スポツィルヴェニアの会衆の大部分が一緒に来ることを決めました。彼らは出発前に教会を組織し、それは道なき荒野を旅する教会で、通常のチャーチ・ミーティングの日である土曜日には立ち止まり、日曜日には説教が行われることになっていました。1781年、ルイスはその「トラヴェリング・チャーチ」と知られる、彼の両親や弟妹、そして大部分がスポツィルヴェニア・カウンティからの信徒で構成された600人(200人という説も)ものメンバーを率い、カンバーランド・ギャップを通って山々を横断して移住させることに成功しました。彼らはこのように移住した単一のグループとしては最大でした。エライジャはこのグループとは一緒に行きませんでしたが、少し後に兄に続きました。独立戦争が事実上終了した直後の1782年、オレンジ・カウンティの農地を売り、エライジャも信徒を引き連れて西に向かいます。これまた、おそらく500人ほどの大規模なグループだったのではないかという推測がありました。そこで彼は、当時のフェイエット・カウンティに1000エーカー(4.0平方キロメートル)の土地を購入し、旧約聖書から命名したレバノンと呼ばれる新しい入植地を1784年に設立しました。これは現在レバノンとして知られている都市とは歴史的文脈が異なるので注意して下さい。今日のレバノンは1814年に設立されました。創設共同体はヴァージニア州の長老派教会によって建設されたハーディンズ・クリーク・ミーティングハウスに遡ります。1815年1月28日に市として法人化され、1835年にマリオン郡の郡庁所在地となりました。エライジャの方のレバノンは、1784年にヴァージニア州議会によって法人化され、1790年にジョージ・ワシントン大統領に敬意を表してジョージ・タウン(George Town)と改名されています。1792年にケンタッキーがアメリカ合衆国の15番目の州になってスコット郡が形成されるとジョージ・タウンが郡庁所在地となり、1846年にはジョージタウン(Georgetown)と正式に改称されました。エライジャは西方に来てからもジョン・ウォーラーと共に幾つかの教会で説教をしていたみたいです。
ルイス・クレイグらはケンタッキーに着くと、ケンタッキー・リヴァーの南のギルバート・クリークに入植し、そこで教会を設立していましたが、暫くして他の数人と共にギルバート・クリークを離れてサウス・エルクホーンに移り、そこにまた教会を設立しました。これは1783年頃、或いはそれ以降という説もあります。ケンタッキーが州となる7年前、まだヴァージニア州フィンキャッスル・カウンティの一部だったグレート・クロッシングに、ルイス・クレイグやジョン・テイラーら16人の男女が集まり、1785年5月、バプティスト教会が設立されました(現在はスコット・カウンティ)。この教会はケンタッキー・リヴァー以北で2番目か3番目、州内では6番目か7番目の設立でした。グレート・クロッシングは現在のスコット・カウンティ、ジョージタウンのちょうど西にあるノース・エルクホーン・クリークのコミュニティで、1783年にロバート・ジョンソンによってバイソンがクリークを渡る場所に設立され、ジョンソンズ・ステーション、グレート・バッファロー・クロッシング、ザ・グレート・クロッシング、またはビッグ・クロッシングなどの名前で呼ばれていました。エライジャはグレート・クロッシング・チャーチの設立年にその近所に移り住み、1786年に最初の牧師となりました。
この頃、中年になったエライジャの能力と無限のエナジーは実業に向かって開花します。彼は起業家として土地に投機し、投資用の地所を購入するとそこで様々なビジネスを展開するようになりました。バプティストの牧師として奉仕を続けながら、アパラチア山脈以西で最初(**)の製紙工場、織物工場、ロープ工場、製材所、製粉所をロイヤル・スプリング・ブランチ沿いに設立したり、ケンタッキー・リヴァーを渡るフェリーなど多くの事業を開始し、彼の資産は急速に増加し続けたと伝えられています。また失うものも多かったエライジャは、火災の危険性を認識し町で初めての消防署を設立して署長に就任しました。更に、1787年にはレバノンで少年達のためのアカデミーまで設立するなどエライジャは教育活動にも積極的でした。ケンタッキー・ガゼット紙に掲載された1787年12月27日付の彼の広告文には、「教育。来年1月28日、月曜日、フェイエット・カウンティはレバノン・タウンのロイヤル・スプリングにジョーンズとウォーリーの両氏が学校を開校、50~60人の学徒を収容するのに十分な広々とした屋舎が用意されています。彼らはラテン語とギリシャ語と一緒に公立神学校で通常教えられているような科学の分野も一人当たり四半期25シリングで教えます」云々と記されていました。この学校は後に1798年に設立されたリッテンハウス・アカデミーへと繋がり、最終的にアレゲニー山脈以西の最初のバプティスト大学で1829年設立のジョージタウン・カレッジ(ワシントンDCのユニヴァーシティとは別)へと発展しました。エライジャはケンタッキー議会が設立したリッテンハウス・アカデミーの評議員会を組織し、後にジョージタウン・カレッジとなる土地を寄贈したことで貢献したようです。この大学は現在も運営されています。同大学のギディングス・ホールの「堂々とした柱」にはエライジャ・クレイグが所有していたウィスキーの小樽が隠されていると云う伝説があるとか…。
そしてウィスキーと言えば、エライジャは1789年にロイヤル・スプリングから湧き出る冷たいピュア・ウォーターを利用して蒸溜所も設立していました。今日、我々が彼の名を知っているのはこの事業のお陰であるのは間違いないでしょう。兄のルイスもウィスキーの取引をしていたそうで、同年、兄弟はジェイムス・ウィルキンソン将軍の後援によるフラットボートでニューオリンズへ向かうウィスキーのサプライアーとしてリストされていました。ウィスキーに対する物品税が制定された後はエライジャも蒸溜所に対してかなりの税金を負っていたそうです。この記事を読んでいる人は、正にエライジャ・クレイグのバーボンへの関与について知りたがっているかも知れませんが、この件については後に述べます。バプティストとウィスキーの関係については、1787年頃バプティストの牧師であるジェームス・ガラードが無許可でウィスキーを小売した罪で起訴されているとか、またジョン・シャッケルフォードという人は1798年に説教の報酬?に36ガロンのウィスキーを受け取ったとか、1796年にケンタッキーのエルクホーン・バプティスト・アソシエーションは会員が酩酊物質を販売したことを理由に教会員資格を拒否することは不当であるとの判決を下した、との話がありました。サザン・バプティスト・コンヴェンションがアルコール反対を決議し始めたのは1886年だったようです。

ウィスキー製造の傍ら、その他の事業もあって多忙な日々を送っていたエライジャは、不動産価格の変動から利益を得ようとする危険な金融取引である土地投機にも手を出していました。この投機は彼に悪い影響を与えたようで、エライジャはクロッシング・チャーチの牧師を続けながらも以前の宗教的熱意を失っていたか、または少なくとも影響力を失っていました。それは彼が土地投機に熱中し過ぎたり、世俗的な財産を多く持つ人物だったためと見られています。或いは霊的な衰えと関係づける推論もあります。『ヴァージニア州に於けるバプティスト派の勃興と進歩の歴史』を書いたロバート・ベイラー・センプルは、エライジャが「censorious(センソリアス=あら探しが好きで口喧しくとても厳しい批判をしがち)」な気性をもっており、その気性は彼が「宗教に熱心」な限り抑制されたが、彼の人生に於いて土地投機への関与と結び付いた宗教的衰退の時期がその気質を抑制できなくさせたのかも知れない、との見解を示しました。霊的な衰えはともかくとして、彼の起業家としての成長ぶりはグレート・クロッシングの信徒たちに気づかれない訳がなく、すぐに教会にとって「不愉快」な存在となったエライジャの後任を求める声が上がりました。多くの人は彼の物質的な豊かさが増していることを認めず、その時間やお金を教会に寄付するべきだと主張したようです。エライジャの経済活動の一部に関して論争が起こり、結局エライジャとその一派が追放された後、1793年にジョセフ・レディングが彼の後任となりました。
このグレート・クロッシングス教会の二代目牧師であるレディングは、1750年にヴァージニア州フォーキア・カウンティで生まれ、幼少時に孤児となり、殆ど教育を受けませんでしたが、1771年に洗礼を受けるとすぐに説教を始めました。彼は強い声と熱心さを持っており、行く先々で注目を集めたと言います。生まれた州で2年間説教をした後、サウス・キャロライナ州に移り、1779年までそこで説教を続け、大きな成功を収めました。教会設立から5年後の1790年、ケンタッキー州に移住するとクロッシング・チャーチの近くに住みつき、すぐにケンタッキー州で最も人気のある説教者になったらしい。エライジャ・クレイグが牧師職を去ってから1810年4月に退任の手紙を受け取るまでグレート・クロッシングで牧師を務めました。
レディングは当時の教会が求めていた人物と思われたようで、教会の大多数の人が選ぶことになり、彼を牧師として確保することが決定されると、すぐに会員間の分裂が起こり、クレイグ派とレディング派の間には不愉快な感情が渦巻きました。クレイグは、大胆かつ不注意な心持ちでレディングに対して軽はずみなことを言い、裁判のために教会に召喚されます。レディング一派はエライジャが弁明することも許しを請うことも許さず、何としても彼を排除しようと決意していました。教会の集会はロバート・ジョンソンの家で開かれ、小さな上段の部屋に息が詰まるほど人が詰め込まれると投票が要求され、結果、1791年1月にエライジャは除外されてしまいます。クレイグ一派は、翌週に会合を開き、クロッシングス教会と呼ぶものを組織し、新しく選ばれたレディング牧師を含む多数派を除名しました。こうして二つの党派が決起し、それぞれがクロッシングス教会を名乗りました。けれども、両者は賢明なことに思慮深く利害関係のない同胞の助言を求めてすぐに秩序と平和を取り戻します。エルクホーン協会からジェームス・ギャラードを委員長とする委員会が任命され、1791年9月7日にグレート・クロッシングスで会合が開かれると、この難題を上手く調整したようです。それでも何かに納得がいかなかったのか、エライジャはクロッシングス教会を離れ、1795年9月の第4日曜日に元クロッシングスのメンバー35人と一緒にマコーネルズ・ラン・バプティスト・チャーチの構成に参加しました。この教会はやがて移転してスタンピング・グラウンド・バプティスト・チャーチと改名されることになります(更に後にはペン・メモリアル・バプティスト・チャーチとなった模様)。

エライジャはその後も事業を拡大し、4000エーカー(16km2)以上の土地とそれを耕すのに十分な奴隷労働力を所有するまでになっていました。彼は多くの南部バプティストと同様に奴隷制度からひっそりと利益を得ていたようで、1800年の納税記録によると上記の土地と「11頭の馬、そして32人の奴隷」を所有していたとされます。また、最終的にはフランクフォートで小売店やらロープ工場も営んでいたようです。しかし、彼のウィスキーは地元で評判が良かったとは伝聞されていませんし、他の事業も必ずしも順風満帆とは言えず、実業家としてのエライジャはあまり成功していませんでした。ケンタッキー大学の特別コレクションにあるイネス判事の判例集には、エライジャには多くの借金があり、その借金を巡って人々が彼から金を巻き上げようと何度も裁判を起こしたことが記されているそうです。彼はケンタッキー州が開拓され始めた厳しい経済情勢の中で生きていました。独立戦争後のアメリカでは通貨を手に入れるのが難しく、ケンタッキーのような辺境地では尚更そうでした。そんな中で多くのビジネスを展開し、多くの負債を抱えたパイオニアでした。1808年5月13日、エライジャは「健康状態は良くないが、健全な精神と記憶力を持っている」とし、口述の遺書を残しました。彼は死ぬまでにかなりの財産を失い、その遺言によると、子供たちに残した奴隷はハリーという名の男の子一人だけだったと言います。彼は晩年まで説教を続けながら、1808年5月18日にジョージタウンで貧しい男として亡くなり、おそらく同地に埋葬されました。5月24日、ケンタッキー・ガゼット紙の編集者は短い弔辞の中で「彼は極めて活発な精神を持っていたが、彼の全財産は自らの計画を実行に移すために費やされ、結果として彼は貧しい死を迎えた。もし美徳というものが我ら同胞の市民の役に立つことであるならば、おそらくクレイグ氏ほど徳の高い人物はいなかっただろう」と讃えています。エライジャと同じ時代を生き、同じくバプティストの牧師だったジョン・テイラーは『10のバプティスト教会の歴史』の中で「エライジャは3人(即ちルイス、ジョセフ、エライジャのクレイグ3兄弟)の中で最も優れた説教者と考えられており、ヴァージニア州のとても大きな協会でエライジャ・クレイグは数年間もっとも人気のある人物でした。彼の説教は最も厳粛なスタイルで、その外貌は死から蘇ったばかりの人のようであり、精巧な衣服、細い顔、大きな目と口、非常に素早い話し方、話し声でも歌い声でもその甘美な旋律は全てを圧倒し、彼の声が引き伸ばされると大きな音のスウィート・トランペットのようでした。彼の説教の偉大な恩寵はしばしば聴衆の涙を誘い、多くの人々が彼の説教によって主に立ち返ったことは間違いないでしょう。彼は兄弟の誰よりも遅い時期にケンタッキーに移り住み、投機に走ったため汎ゆる面で害を及ぼしました。彼は兄のルイスほど教会の平和維持者ではなく、それ故に問題が生じましたが、40年ほど牧師を務めた後、おそらく60歳をそれほど超えないうちに死によって全ての問題から解放されました」と語っています。

2023-03-12-06-32-43-241
偖て、そろそろ現在のエライジャクレイグ・スモールバッチのラベルにも堂々と書かれている「バーボンの父」の件について見て行きましょう。
バーボン神話で最も根強いものの一つが、エライジャ・クレイグに関する伝説です。その典型的な例としてアレクシス・リシンの『ワインとスピリッツの新百科事典』を引用すると「アメリカの植民地時代の初期、バプティストの牧師であったエライジャ・クレイグはケンタッキー州ジョージタウンにスティルを設置し、コーンをベースにしたウィスキーの製造を始めた。このスティルはケンタッキー州で最初の一つと言われ、近隣の町の顧客は彼の製品を産地の郡からバーボン・カウンティ・ウィスキーと命名した」とあります。この主張の問題点としてすぐに目に留まるのが「ジョージタウンにスティルを設置し」たと言いながら「産地の郡からバーボン」と名付けられたとしている部分です。ジョージタウンはバーボン郡にはありません。エライジャは1782年頃にフェイエット郡に移り(***)、1789年頃にそこに蒸溜所を設立しました。初期のケンタッキーで行われた郡の境界線変更の際、旧来の大きな郡から新しく小さな郡が作られた訳ですが、この周辺の郡の成立の歴史をざっくり追うと以下のようになります。
ケンタッキーは、13植民地がイギリスからの独立を果たした後、1776年から1777年に掛けてヴァージニア州の郡として形成されました。ケンタッキーに改名される前は当初ヴァージニア州フィンキャッスル郡と呼ばれていました。1780年、ケンタッキー郡はフェイエット郡、リンカーン郡、ジェファソン郡に分割されます。その後、1788年にフェイエットの一部が分離してウッドフォード郡になりました。この郡名はヴァージニア出身のアメリカ独立戦争時の将軍であり1780年に戦争捕虜となっている時に死亡したウィリアム・ウッドフォード将軍に因んで名付けられています。1792年には更にその郡域からスコット郡が設立されました。つまりエライジャの関与したジョージタウン、ロイヤル・スプリング、グレート・クロッシング等はスコット郡となった場所にあり、バーボン郡にはなかったのです。ちなみにバーボン郡は1785年にフェイエット郡を分割して成立しました。バーボンとフェイエットの両郡は、フランスのブルボン王家とフランス貴族であった独立戦争の名将ジルベール・デュ・モティエ・ド・ラ・フェイエットに敬意を表して命名されており、ともにフランス由来の郡名という共通点があります。その後、1789年にメイソン郡が成立するとバーボン郡の領域はほぼ半分になり、1792年にケンタッキーが州として成立するとクラーク郡とハリソン郡によって再び分割されました。更に1799年にメイソン郡とバーボン郡からニコラス郡が形成されると、もとは巨大だったバーボン郡は非常に小さな郡になりました。
1780
1790
1800
(KENTUCKY ATLAS & GAZETTEERより)

郡名の間違いは扠て措き、エライジャがバーボンの創始者であるという神話は、1874年出版のルイスとリチャード・ヘンリー・コリンズが著した『ケンタッキーの歴史』に由来しています。その本の中で「ケンタッキーの最初のもの」という見出しの短い文章がびっしりと羅列されたうちの一つに「最初のバーボン・ウィスキーは1789年にジョージタウンのロイヤル・スプリングにあるフリング・ミルで製造された」とあるのです。この文でコリンズ父子はエライジャの名前を挙げてはいませんでしたが、前二つのパラグラフで、クレイグ牧師が1789年にジョージタウンで最初のフリング・ミル(毛織物の製造工場)と最初のロープ・ウォーク(ロープ製造に必要)を設立し、ペーパー・ミル(製紙工場)をパートナーと建設したと書いているため、バーボンの発明者は彼であるとされました。この記述が発表されて以来、コリンズ以降の郷土史家や作家達はこの主張を額面通りに受け入れて忠実に再現し、ほぼ1世紀に渡ってエライジャを「バーボンの父」と見倣して来ました。しかし今では著名なバーボンの歴史家によってその件は否定されており、バーボン系ライターや蒸溜関係者もメディアにエライジャがバーボンを発明したのではないと明言しています。
コリンズの「最初のバーボン・ウィスキー」に対する主張は上に引用した一文のみであり、見ての通り余りに簡潔に書かれ、詳しい説明も補足的な検証も全くありませんでした。エライジャをよく知っていて税金関係の被告として彼を法廷に立たせたハリー・イネス判事の書類にもそれを証明するものはないそうです。また、エライジャ自身は生涯で一度もバーボンの製法を開発したと主張をしたことはありません。歴史家のヘンリー・G・クロウジーは、著書『ケンタッキー・バーボン、その初期のウィスキーメイキング』(オリジナルは1971年に発表した論文)に於いて、エライジャは「同時代の殆どの人が造っていたのと全く同じ種類のウィスキー、つまり当時の穀物の入手し易さに応じた純粋なコーン・ウィスキーもしくは少量のライを加えたコーン・ウィスキーを造って」おり、エライジャ「(や当時の他の誰か)がウィスキーの貯蔵で熟成と色の両方の利点を最大限に引き出すために樽を意図的に焦がしていたことを示す有効な証拠を知らない」と述べていました。更に「おそらくエライジャが最初のバーボン・ウィスキーを造らなかった最も決定的な証拠は、1827年9月10日にフランクフォートで開かれたジャクソン・ディナーでルイス・サンダースが買って出た乾杯の際の式辞にある」として、サンダースの「ケンタッキー州ジョージタウンの創設者エライジャ・クレイグを偲ぶ。哲学者でありクリスチャン、彼の時代に有益な人物。彼はケンタッキーで最初の製糸工場とロープウォークを設立した。栄誉ある者には栄誉を」という言葉を引用しています。1810年頃にサンダースはマーサー郡に当時最大の蒸溜所の一つを所有していたのだから、エライジャによる「最初のバーボン・ウィスキー」についても知っていた筈で、その件がそこで言及されていないのはおかしいという訳です。兎にも角にも、エライジャがウィスキーを製造していたことは、1798年にウィスキーに対する連邦物品税の不払いで米国地方裁判所から140ドルの罰金を科されたことから確かでしたが、彼のウィスキーが当時ユニークな存在であったとか、辺境の地で造られていた未熟なコーン・ウィスキーを彼がバーボン・ウィスキーに昇華したという証拠は何もないのでした。
それでも、バーボン・ライターのチャールズ・K・カウダリーはもう少し突っ込んだ考察をしています。そもそもコリンズらは「バーボン・ウィスキー」という言葉を定義することなく使っていました。バーボン・ウィスキーに関する最初の記述は1821年。バーボン最大の特徴は炭化させた新しいオーク材の容器に入れ熟成させることですが、この炭化技術がウィスキーに使用された最古の記録は1826年。ざっくり言うと「バーボン・ウィスキー」という名称は19世紀初頭にはその地方のウィスキー全てに適用され、現在バーボンと呼ばれるウィスキー・スタイルに進化したのは世紀の半ばくらい、そしてバーボンが地域性を超え更なる一般的知名度を得たのは南北戦争後と見られます。それ故、1874年にコリンズが何の説明もなくバーボン・ウィスキーという言葉を使用したのは、読者が自分と同じようにこの言葉を理解すると確信していた可能性が高いでしょう。そうなると、その「バーボン・ウィスキー」は当時も今と同じ意味に思えます。カウダリーはそうではないかも知れないと仮定し、更になぜコリンズがエライジャの名前を出さずに明らかにエライジャを指し示したのかの謎を解明しようとします。コリンズがバーボン・ウィスキーについて言及している「ケンタッキーの最初のもの」というタイトルの章は余談というのか軽い読み物のように見えるので、カウダリーはそれを杜撰な調査に基づく真剣に扱わなかったものだと思っていましたが、もしコリンズがもっと目的意識をもって何かを意図していたらどうだろうか、と問い直すのです。そこで考えるヒントとして取り上げられるのが、クロウジーの著書で軽く触れられているエライジャがイネス判事に宛てた1789年3月の手紙で、そこにはペンシルヴェニアから或る男が「コーンを作りに来る、(そして)もうすぐ連絡があると思う」とあります。クロウジーは、クレイグ牧師がコーンの収穫を指していた可能性もあるが、その距離を考えると、この待たれる訪問者がコーン・リカーを蒸溜しに来たと考える方が自然だ、と述べています。もしかするとコリンズがエライジャの名前を出すのを憚ったのは、このペンシルヴェニアから来る男がエライジャの命令で酒を造ったのであって、クレイグ自身によって酒造りが行われていなかったからでは? この男がペンシルヴェニアから来たというのがポイントで、ペンシルヴェニアはケンタッキーがコーンの産地として知られているようにライ・ウィスキーの製造で名高い。今日、殆どのバーボン・ウィスキーには8〜15%の少量のライ麦が含まれていますが、これは飲料に風味を与えるためフレイヴァー・グレインと言われ、少し熟成させるか或いは全く熟成させなくても、コーン・ウィスキーでもライ・ウィスキーでもないバーボン・ウィスキー特有の風味があります。そこでカウダリーは、おそらくクレイグ牧師のフリング・ミルにいた謎の男がコーンとライを結び付け、それこそがコーン・ウィスキーとバーボン・ウィスキーの最初の違いとなったのではないか、そしてコリンズが「ケンタッキーの最初のもの」のページで示した1789年の革新は意図的にライ麦をレシピに加えたことにあったのではないか、と。まあ、これは実証性の乏しいただの仮説です。しかし、少なくとも歴史の何処かの段階で誰かが似たり寄ったりなことを行った可能性は十分あり、興味深い考察になっています。

それにしても何故エライジャが創始者の役に選ばれたのでしょうか? 当時の殆どの農民蒸溜者は物事を記録する習慣がなかったか、或いはあってもレシピは秘密裏に家族用の聖書に書き留めるなどして受け継がれていたと推測されています。そのため今後も、余程の資料が発掘されない限り、バーボンの生みの親を学術的に特定することは不可能と思われます。だから「バーボンは名もなき農民達の間で自然発生的に誕生した」とでもしておくのが最も穏当なバーボン誕生秘話になりそうなところ。しかし、それではロマンに欠けるし訴求力がありません。アメリカン・ウィスキーの研究家サム・コムレニックは、幾つかの資料から1789年までにこの地域には他にもディスティラーがいて土着のコーンや他の作物を使ってウィスキーを造っていた筈だが、なぜ彼らの名前が覚えられていないかと言えば、おそらく彼らは蒸溜以外の他の企業を経営していなかったこともあり、エライジャ・クレイグ牧師のような影響力や知名度を持っていなかったからだろう、と述べています。エライジャの時代にはウィスキー造りは当たり前に行われ、経済的にも個人的にも必要なものと見倣されていました。しかし、後のコリンズの時代にはウィスキーの消費や製造が物議を醸すようになっていました。1850年頃にウィスキーが社会的に受け入れられる最盛期を迎えると禁酒運動も同時に急成長し、プロテスタントの教派や禁酒を唱える人々からの圧力によって公認の場でウィスキーは下品なトピックとなっていたのです。そこでエライジャの社会的立場が「ウェット」勢力に都合よく利用されることになったのではないかと歴史家は考えています。バーボンの歴史家マイケル・ヴィーチはエライジャ・クレイグ物語の始まりについて「1870年代、蒸溜酒業界が禁酒運動と戦っていた時、彼らは彼(エライジャ)をバーボンの父と宣言することにしたんです。彼らは考えた、ふむ、バプティストのプリーチャーをバーボンの父にして禁酒派の連中に対処させようってね」と語っていました。カウダリーも「コリンズ自身はウィスキーを非合法化する禁酒主義者に同調していたが、蒸溜業者とその支持者は、バーボンは尊敬されるバプティストの牧師によって“発明された”という彼の主張をすぐに受け入れた。このことはコリンズがバーボンの発明をクレイグに帰する理由を説明するものではないが、この伝説がなぜ続いているのかを説明するものです。言うまでもなく今この神話を守り続けることは或る蒸溜所の利益となる」と指摘しています。
この神話には禁酒法後にも信憑性が与え続けられました。ウィスキー・ライターのフレッド・ミニックによれば、1934年2月13日付のルイヴィル・クーリエ・ジャーナル紙にコリンズの本が紹介され、そこには「歴史家は1789年にジョージタウンのエライジャ・クレイグ牧師のミルで最初のバーボン・ウィスキーが造られたことを指摘している…」とあり、その後もエライジャのバーボン発明に関する言及は業界がバーボンをアメリカ独自の製品にしようと運動していた1960年代に増加し、1958年から1968年までバーボン・インスティテュートはクレイグが1789年4月30日にバーボンを発明したという伝説を絶えず使って広報キャンペーンを展開したそうです。おそらくこの間のどこかで、バーボンと言えば最大の特徴は炭化させた新しいオーク材の容器に入れ熟成させることですから、エライジャをバーボンの創始者に仕立てるべく、例の「焦した樽」から生まれた「レッド・リカー」のお話が優秀なマーケティング・ライターの手によって、バーボン業界を宣伝するために創作されたり追加されたりして行ったのではないでしょうか。つまりエライジャ・クレイグの伝説は広告代理店の会議室で生まれたのかも知れないと言うことです。幸いなことにその頃は、蒸溜業者の「小さな嘘」を糾弾する風潮もなければ、インターネットで個人の見解が広まることもありませんでした。そして、人気のあるプレミアムなバーボンには物語が必要であり、バーボン業界は事実が優れたマーケティングの邪魔になる業界ではないため、ヘヴンヒルはその神話を使い続けた、と。ちなみにエライジャのバーボンに関する有名なエピソードは、語り手によって多少のヴァリエーションがありますが、纏めると概ね次のようなものです。

エライジャ・クレイグは1789年に蒸留所を開設したが、その年の6月14日に納屋の一部が焼失してしまった。その納屋にはウィスキーの空き樽(もしくは樽材となるステイヴ)が幾つか置かれていた。それらの中には内側だけ燃えているものや、外側はそれほど焦げていないものがあった。倹約家であったエライジャは、焦げてしまった樽をウィスキーの容器として使うには十分だと判断し、そのまま使用することにした。当時のウィスキーは通常、荷馬車で運ばれるか、或いは多くの場合、川を下るフラットボートで運ばれる。6ヶ月かけて目的地のニュー・オーリンズまで運ばれたウィスキーは新しい個性と風味と色をもっていた。消費者はそれをバーボン郡から来た「レッド・リカー」と誉めそやした。そして、人々はこの円やかで美しいウィスキーを求めるようになった。エライジャは自分のウィスキーにいつもと違うことをしなかったので、後にそれが焦げた樽のせいだと考えた。以来、彼はこの製法を使い続けるようになり、北の市場で売るためにニュー・オーリンズから届く魚や塩または砂糖を貯蔵していた使い古しの樽を買うと、樽の内側をわざと焦がした。すると魚の臭いが消えるだけでなく、樽が殺菌され、焼かれたことでステイヴ中の糖分がカラメル化された。
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(エライジャクレイグの公式ウェブサイトより)

おそらくバーボンの英雄譚としては、エライジャ・クレイグの人生の物語はそれほど魅力的なものではないでしょう。実際の蒸溜の手腕に関する歴史的資料はなく、バーボンの発明についても後付ですから。しかし、宗教的自由に関する革命前の出来事への関与とアメリカの初期バプティスト教会の発展に於ける功績、ケンタッキー州で最も早く最も熱心に産業を築いた貢献などは、彼を注目に価する人物にしています。バーボン伝説がどうであれ、それはエライジャ・クレイグの業績や信用を落とすものではなく、彼は称えられるに相応しいパイオニアの一人であり、初期ディスティラーの一人でした。
ついでなので、ここでバーボンの創始者とされることのあるその他の人物の名を挙げておくと、ジェイコブ・スピアーズ、ダニエル・ショーハン、ワッティ・ブーン、ダニエル・スチュワート、ジョン・ハミルトン、マーシャム・ブラシアー、ジョン・リッチー等がいます。また、歴史家からは通常は除外されますが、エヴァン・ウィリアムスもそう言われることがあります。この中で有力候補となっているのがジェイコブ・スピアーズです。コリンズの『ケンタッキーの歴史』のバーボン・カウンティの頁では、数行の短い文章ですが、バーボン郡の最初の蒸溜所は1790年頃ペンシルヴェニアから来たジェイコブ・スピアーズらによって建てられたとあります。1800年代の「ケンタッキー州で最も古い蒸溜所」と題された新聞記事には「この粗雑な蒸溜所で、史上初のバーボン・ウィスキーが蒸溜された。それはバーボンとケンタッキーの名を地球上の最も遠い場所で有名にする運命にある製品だった」とあり、スピアーズの子孫も少なくともバーボン郡にちなんでバーボンという名前を思い付いたのは彼だと言っているそうです。また、ケンタッキー州議員のヴァージル・チャップマンは、禁酒法後の食品、医薬品、化粧品の規制に関する1935年の議会公聴会で「正確な歴史的事実として、ケンタッキーが州に昇格する2年前の1790年に、私が現在住んでいるケンタッキー州はバーボン郡で、ジェイコブ・スピアーズという男がストレート・バーボン・ウィスキーを製造していたことを私は知っています。そしてそれがバーボン郡で造られたことから、そのタイプのウィスキーは、〜(略)〜、以来ずっとバーボン・ウィスキーと呼ばれるようになりました」と演説しました。このようにバーボン誕生の功績はスピアーズのものとされている訳ですが、これまたエライジャと同様、スピアーズ創始者説も完璧な証拠がある筈もなく、そもそもコリンズの一文の年代は「頃(around)」と書かれ、建設年代を正確に記録したものではありませんでした。おそらくバーボン郡の住人間で伝承された逸話が時代を経るごとに真実として扱われるようになったのではないかと思われます。とは言え、スピアーズがバーボンの生みの親ではないにしても、少なくともケンタッキー州最初期の最も重要なディスティラーの一人であることは間違いないでしょう。なので、軽く紹介しておきます。
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ジェイコブ・スピアーズ(1754〜1825年頃)は、幾つかの職業に従事した人物で、農民であり、ディスティラーであり、ブルーグラス種子の販売者であり、高級馬のブリーダーでした。姓のスピアーズ(Spears)は「Spear / Speer / Speers」と表記されることもあります。ジェイコブは独立戦争(1775〜1783年)の退役軍人で、1782年のサンダスキー遠征ではウィリアム・クロフォード大佐の連隊のホーグランド大尉の中隊に所属しており、後に軍曹としてジョセフ・ボウマンの中隊に加わってその部隊と共に現在のマーサー郡ハロッズバーグまで旅をし、そこでジョン・ハギンからバーボン・カウンティとなる土地を購入したと言います。ジェイコブと親族らはペンシルヴェニア州南部に住んでいたようですが、1780年代後半にそこへ移住しました。1790年頃、バーボン郡パリスのすぐ北、静かなクレイ=カイザー・ロードの田園地帯に、同じバーボン郡の住民で後に第10代ケンタッキー州知事になったトーマス・メトカーフが、ジェイコブ・スピアーズのために石造りのフェデラル様式の家(ゴシック・リバイバル様式の増築部分あり)を建てました。スピアーズの邸宅はストーン・キャッスルとも呼ばれました。道路を挟んだ向かい側には、嘗て最大で2500バレルのウィスキーが貯蔵され、或る時期に納屋に改築された前面が完全に石造りの小屋が今でも残っています。
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(元スピアーズの邸宅。Wikimediaより)
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(元ウィスキー倉庫の納屋)
スピアーズは夫として妻のエリザベスと共に農場で6人の子供を育て、ディスティラーとしてはウィスキーの生産を続け、二人の息子ノアとエイブラハムにリッキング・リヴァーに繋がるクーパーズ・ランでウィスキーの樽をフラットボートに積ませると、そこからオハイオ・リヴァーとミシシッピ・リヴァーを経て遠くニューオーリンズまで人気のある製品を高値で売り捌きました。ノアはウィスキーをニューオーリンズに運び、売った後は強盗やインディアンが蔓延るナチェズ・トレースを歩いて帰り、この旅は13回にも及んだと言います。一度だけ、16歳の弟エイブラハムも同行したことがあるらしい。ジェイコブは1810年にバーボン・ウイスキーと命名したとの情報もありました。1810年のバーボン郡の国勢調査では、128の蒸留所があり、146000ガロン以上のウイスキーを生産し、48000ドル以上の価値があったとされています。ジェイコブ・スピアーズは1825年9月に亡くなりました。蒸溜所の運営は息子のソロマンが続け、後にエイブラム・フライに売却されました。1849年になるとウィリアム・H・トーマスが農場と蒸溜所を購入し、1882年まで操業しました。1881年当時、トーマスの蒸溜所は900樽のバーボンを生産していたそう。

(参考─1960〜70年代製と見られるT.W.サミュエルズ蒸溜所名義の未使用のオリジナルECラベル)

では、次はエライジャクレイグというバーボン・ブランドについて見て行きます。このブランドは禁酒法終了後すぐに投資家グループによって設立されたヘヴンヒルが現在所有していますが、エライジャクレイグの商標は1960年にコモンウェルス・ディスティラーズが初めて登録したとされます。このコモンウェルス・ディスティラーズというのがよく分からないのですが、おそらくローレンスバーグやレキシントンの「コモンウェルス蒸溜所」とは別でしょう。彼らはT.W.サミュエルズのブランドも所有していたとされるので、カントリー・ディスティラーズの別名なのでしょうか? 仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。それは措いて、蒸溜所のウィスキー蒸溜停止の時期(1952年)を考えると、このブランドをディーツヴィルのT.W.サミュエルズ蒸溜所が実際に生産したことはないと思われ、上の「参考」は使用されることのなかったサンプル・ラベルで蒸溜所の昔の従業員のものだろうと考えられています。逆に、当時の新聞広告でブランド名の入ったボトルが5ドル以下で売られていたのが見つかったという情報もありました。真相は判りませんが、歴史的なブランドを多数購入してそれぞれの遺産を存続させるために最善を尽くすヘヴンヒルが1976年にエライジャクレイグの商標を取得し、1986年にリリースされるまで決して活発なブランドではなかったのは間違いありません。
ところで、日本語で読めるエライジャクレイグのネット上の情報ではよく「製品化されるまでに25年かかった」という意味合いのことが書かれています。1997年発行の『ザ・ベスト・バーボン』には「企画からなんと25年もの歳月をかけて製品化された」とあります。もう少し前の1990年に発行されたムック本『ザ・バーボン PART3』のエライジャクレイグ特集にも「計画をあたためることニ五年。いよいよ製造にかかってからも、蒸留後さらに十ニ年、じっくり寝かせたというから、満の持し方も並ではない」と書かれており、もしかするとこの記事が情報源なのかも知れない。その記事では現地に赴いて当時まだ副社長のマックス・シャピラに取材しているようなので、何かそういった紹介のされ方をしたのではないでしょうか。私は初めてこの手の情報に接した時、え?ちょっと待って、エライジャクレイグ12年は文字通り12年熟成だからウィスキーの熟成に25年掛かった訳ではないし、マッシュビルも酵母もヘヴンヒルのスタンダードなものと一緒だろうから何かを新開発した訳でもないし、仮に熟成年数の12年を25年から引いて13年だったとしても、ブランディングの企画や樽選びだけに13年も掛けていたら怠慢な仕事ぶりと言うしかなくないか?いったい何を開発するのに25年もの月日を費やしたと言うのだろうか?と思いました。けれどもこれ、初めての商標登録が1960年、発売が1986年と判ってみると、エライジャクレイグというブランドが世に出るまでの、或いは復活するまでの、この約25年の歳月のことを指して言っていただけなのね、と合点がいきます。

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(ヘヴンヒルのウェブサイトより)
80年代の本国アメリカでのバーボン暗黒時代、安価なバーボンが大半を占める状況下で、ヘヴンヒルは質の低いウィスキーという評判から脱却するために長期的な戦略を立て、バーボン人気復活を賭けてエライジャクレイグ12年を1986年に発売しました。このバーボンは1984年のブラントンズ、1988年のブッカーズと共にプレミアムもしくはスーパー・プレミアム・バーボンの魁となり、現在のバーボン・ルネッサンスの始めの一歩を築いたブランドの一つとして評価されています。そうした先見性に基づいて、1990年代半ばには18年物のシングルバレルのエライジャクレイグも発売しました。当時はまだ日本を主とする海外市場と極く一部のマニアにしか長熟バーボンの人気はなかったので、これまた賭けに近い製品でした。しかし、ヘヴンヒルの戦略は当たり、今ではプレミアムな長熟バーボンは尊敬の対象となっているのは言うまでもないでしょう。
2000年代に入り徐々に回復して行ったバーボンの売上は、2010年代に入ると止めようもない勢いになりました。市場の好転はバーボン業界の誰もが待ち望んだものだったかも知れませんが、成功には犠牲も付き物です。ちょっと前まで酒屋の棚で埃を被っていたバーボン・ボトルは、2010年代半ばには、需要に供給が追いつかなくなり、発売以来続いていたエライジャクレイグ12年のエイジ・ステイトメントが剥奪されることになりました。世界第2位のバーボン供給量を誇るヘヴンヒルであっても、ブランドが大きく成長し続けるにつれ、12年バレルの在庫は逼迫して来た、と。そこで、ヘヴンヒルは慎重に検討した結果、このブランドをより多くの消費者に提供するため、8〜12年熟成のバーボンを使用してボトリングすることを2016年1月に発表しました。これによりエライジャクレイグ・スモールバッチの入手し易さを維持し、12年熟成のエライジャクレイグ・バレルプルーフの割り当てを大幅に増やし、長熟シングルバレルの供給量も確保することが出来ました。しかし、その一方で問題がない訳ではありませんでした。エライジャクレイグ12年はバーボン界隈では品質の高さと価格の安さを両立したブランドとして知られていましたが、その品質の部分は12年熟成に依存していたと言っても過言ではないでしょう。また、誇らしげな年数表記を掲げていたこともイメージ向上の一因だったに違いありません。であれば、それがなくなった時には悲しみや怒りの声が上がるのは必然でした。この件は以前投稿した現行ボトルのレヴューにて取り上げましたので興味があれば覗いて下さい。それと、ここまでの流れの中でヘヴンヒルの対応の不手際もありました。トップ画像のような表ラベルに「12年」が記載されている物は通称「ビッグ・レッド12」と言われていますが、実はそのラベルからNASのシュッとしたボトルにリニューアルされるまでの期間には幾度かの僅かなラベルの変更があります。先ず、2015年4月頃に表ラベルから謎に12年の表記が消え、熟成年数の記載は裏ラベルに移って目立たないようになりました。それを発見したバーボン愛好家およびエライジャクレイグ愛好家たちはNAS移行への前触れではないかと疑いました。他の会社がそういう事をしていたからです。2015年6月頃の時点でヘヴンヒルは、ラベルの変更がエライジャクレイグをNASに移行する計画の一部であることをきっぱりと否定しました。しかし、それはたった7カ月で覆され、実際にNASとなったのです。一部の人々は裏切られ、嘘をつかれたと感じました。この変更は単に需要による熟成バレルの逼迫に対応したものだ、という説明は都合よくでっち上げられた話に違いない、2016年1月現在バーボンの爆発的な人気によるプレッシャーは当然あるだろうが、それは2015年6月時点でも同じだっただろう、彼らがエライジャクレイグをNASに切り替えているのは今日の需要や近い将来の需要のためではなく、単純に将来の販売目標を達成するためだ、と。まあ、そういう声が上がったとは言え、これ以降もバーボン・ブームは衰える気配を見せず、本記事の冒頭でも紹介したようにエライジャクレイグのブランドは製品ヴァリエーションを拡張し続け、今も人気を保っています。

上でラベルの話が出たので、細かいことは除いてその変遷をざっくり纏めておくと以下のように大別できるでしょう。

①12年の表記が下方にある楕円形のラベルのもの。これがオリジナル・デザイン。
②ラベルの形状が瓶と同じような形になり、12年の表記がラベル中央の位置に移ってその左右にスモールバッチとあるもの。2012年4月頃から流通し始めた。
③上と同じボトル/ラベル・スタイルながら、表ラベルから12年の表記が消えてバレルのイラストに置き換えられ、裏ラベルにのみ12年熟成した旨が記載されたもの。2015年4月頃から流通し始めた。
④上と同じボトル/ラベル・スタイルながら、裏ラベルから熟成年数の記述がなくなったもの。主に2016年に流通。
⑤現行の背が高く厚みが薄いスタイリッシュにリニューアルされたボトル/ラベルのもの。2016年末もしくは2017年初頭から流通し始めた。

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もしかすると、下画像に見られるフロントにスモールバッチ表記のない②型ラベルが、①から②の移行期間にあったかも知れません。或いはこれは輸出向けのラベルで②と並行して存在していたのかも。私には詳細が判らないので、ご存じの方はコメントよりご指摘下さい。また、上の日付に関してもあまり自信がないので正確に判る方は一言もらえると助かります。
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最後に中身についても少しだけ言及しておきます。最もスタンダードなオファリングである12年およびNASスモールバッチを上のラベルのように中身の違いで大別すると、こちらは3つに分けて考えることが出来そうです。

⑴バーズタウン産の12年熟成物、ラベル①に相当
⑵バーンハイム産の12年熟成物、ラベル②③に相当
⑶NASの8〜12年熟成物、ラベル④⑤に相当

よく知られるように、ヘヴンヒルが長らく本拠地としていたバーズタウンの蒸溜所は1996年の歴史的な大火災によって焼失し、1999年にルイヴィルのニュー・バーンハイム蒸溜所を買い取ることで蒸溜を再開しました。そのため、バーズタウンで蒸溜された物は「プリ・ファイアー」と呼ばれています。96〜99年の蒸溜所がなかった期間はジムビームとブラウン=フォーマンが蒸溜を代行していました。彼らの蒸溜物がエライジャクレイグに使われているのかは定かではありませんが、もし先入れ先出し方式的に?それらのバレルも均等に使われていたのなら、⑴と⑵の間にジムビーム及びブラウン=フォーマン産が入り、ラベル①の最後期と②の最前期あたりは彼らの原酒だった可能性はあることになります。マッシュビルに関しては、バーズタウンの旧蒸溜所産のものが75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーとされ、ルイヴィルのバーンハイム蒸溜所に移ってからは78%コーン、10%ライ、12%モルテッドバーリーに変更されたと言われています。それと、これまた判然とはしませんが、ヘヴンヒルは業界の流行語になるかなり前(25年前?)から「スモールバッチ」でのボトリングを行っていたと主張していますし、エライジャクレイグが発売された当初に限定生産とされていたことを考慮すると、バーズタウンで製造されていた初期の頃は70バレル程度のバッチングだった可能性はありそうで、おそらくその後どこかの段階で100バレル程度になり、ボトルをリニューアルした頃にはバッチサイズを100バレルから200バレルに増やしたとされます。
ところで、味わいに関してバーボンは、同じマッシュビルから造られ、同じ期間熟成されたとしても、立地場所や建物の材質が異なるリックハウスで熟成されると、明らかに異なる味わいになることが知られています。ヘヴンヒルは現在57棟のリックハウスを6つの場所で使用しています。その内訳は、バーズタウンのヘヴンヒル・サイトの20棟、ルイヴィルのバーンハイム蒸溜所の7棟、コックス・クリークの10棟、ディーツヴィルの元T.W.サミュエルズ蒸溜所の9棟、元フェアフィールド蒸溜所の9棟、元グレンコー蒸溜所の2棟です。このうちバーンハイムのみが煉瓦造りで、他は木造プラス金属の屋根とサイディングの組み合わせ。嘗てのマスター・ディスティラー、パーカー・ビームはディーツヴィルの熟成庫がお気に入りだったとされ、エライジャクレイグのプライヴェート・ピックのボトルでは、そこのバレルが選ばれたりもしています。で、通常のエライジャクレイグに使用されるバレルが、何処か決まった一定の場所から引き出されているのか、それともフレイヴァー・プロファイルに基づいて様々な場所から選ばれているのか、私には分かりません。ご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。

では、そろそろ今となっては貴重となってしまったエライジャクレイグの12年物を注ぐとしましょう。今回、私が飲んだのは表ラベルに「12年」が記載されているヴァージョンの後半期の物となります。

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ELIJAH CRAIG Small Batch 12 Years 94 Proof
推定2014年ボトリング。香ばしい焦げ樽、ダークフルーツ、ヴァニラ、ラムレーズン、バーント・シュガー、熟れた洋梨、ベーキングスパイス、杏仁豆腐。アロマは長熟らしい古びた木材とスパイシーなノート。水っぽい口当たりでするりとしている。味わいはウッディで、ややドライ気味。飲み込んだあとから余韻にかけては、穀物の甘みやバターも現れるが、ビターかつ薬っぽいスパイス&ハーブと共にケミカルな辛味が残る。
Rating:85.5(83.5)/100

Thought:そもそもこのボトルは、現行NASのエライジャクレイグ・スモールバッチとサイド・バイ・サイドで味を較べるために開封しました。両者にはかなりの違いがありました。やはり、こちらの方がオークの存在感が強く、深みや複雑さの点に於いては優っているように感じます。けれども、スモールバッチNASのレヴューでも述べたのですが、こちらは長熟樽のビタネスや薬用ハーブぽさが優位であり、単純な甘さやグレイニーなバランスを求めるならNASも捨て切れません。また、サイド・バイ・サイドではないのですが、記憶にある90年代の12年と比べると、こちらは重々しいオークが前面に出過ぎており、昔の12年はもう少しバランスが良かった気がします。樽の材質が違うのでしょうかね? 両者を飲み比べた海外の或る方は、旧来の物は明らかにライを強く感じるという意味合いのことを言っていました。更に、これよりちょっとだけ前(2〜3年くらい?)の「ビッグ・レッド12」と較べても、こちらはやや樽のエグみが強いように思います。色々とエライジャクレイグを飲み比べたことのある皆さんはどう思ったでしょうか? コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。
ちなみに、エライジャクレイグのラベル違い(上で示した①〜⑤)をブラインドで垂直テイスティングする会を催した海外のウィスキー愛好家の方の記事(Diving for Pearls with thekravのエライジャクレイグ・テイスト・オフ)があるのですが、そこでは第1位がプリ・ファイアー12年、同点第2位がフロントラベル12年と旧NASスモールバッチ、第4位がバックラベル12年、第5位が現行NASスモールバッチになっていました。これは執筆者一人の感想ではなく、彼を含む21人のバーボン・オタクもいればそうでない人もいるテイスターによって、それぞれが5つのサンプルを最も好きなものから最も嫌いなものまで順にランキングし、1位が5ポイント、2位が4ポイント、以下5位まで1ポイント減点してゆく形式で行われています。なかなか公正な審査とも思いますので、一般的に概ね旧い物のほうかウケがいいとは言えそうですね。
あと、レーティングの括弧について補足しておきます。私は、基本的には開封してから一年以上は飲み切らないようにして、敢えて瓶内で変化するフレイヴァーを楽しむタイプなのですが、このエライジャクレイグ12年は良い風味が消えるのが速かった印象がありまして、括弧内の数値はその衰えた際の評価です。具体的には、半年くらいで甘い香りとフルーツ感が減退しました。


*バプティストは、イングランド国教会の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派で、日本では「浸礼派」とも訳され、幼児洗礼を認めず、自覚的な信仰告白に基づいて全身を水に浸す浸礼(バプティズマ)をしたことから名付けられています。
バプティストの源流は「ルターの宗教改革は不徹底である」と批判して起こったアナバプティスト(再洗礼派)にあります。遡ること16世紀頃にドイツ、オランダ、スイスなどではカソリック教会や一部のプロテスタントからアナバプティストと呼ばれた人々がいました。「アナ」はギリシア語に由来し、英語で「re-」、漢字で「再」という意味です。カソリック教会や一部のプロテスト教会からアナバプティストと呼ばれる教会に加わろうとした場合、多くの人は聖書的バプティズマに基づかない幼児バプティズマ(幼児洗礼/滴礼)を受けていたために、正しい方法で聖書的バプティズマを受けることを勧めていました。それはカソリックの人々から見れば、幼児バプティズマを含めるとニ度目となるため、アナバプティスト(再びバプティズマを授ける人々)と軽蔑を込めて呼ばれたのでした。当のそう呼ばれた人々は、自分たちがニ度洗礼を施しているとの意識はありませんでした。聖書的な正しい方法でのバプティズマを一度だけ施していると確信していたし、信仰のはっきりしていない幼児に施す洗礼は無効という考えがあったからです。このように聖書の教えに忠実であろうとしたアナバプティストですが、その主張は個人と神との直接的な交わりを他教派から見ると極端に強調し、当時に於いて急進派的な性格がありました。そのためかなりの弾圧を受けたようです。バプティストも本人に信仰の認識のない幼児洗礼は認めていないので、この点では再洗礼派と同様でしたが、その他の信仰性は再洗礼派と直接の関連はなく、寧ろ再洗礼派的な信仰性は行き過ぎと捉えていたようで、政治や軍役から距離をおき、国家や社会的秩序と親和性を持ちながら聖書主義と自覚的な信仰を重視する信仰性を持ったとされます。
バプティスト教会が誕生したのは宗教改革の少し後、17世紀のイングランドでした。16世紀のイングランドではヘンリー8世の離婚問題をきっかけにローマ・カソリック教会から脱退する際、独自の宗教改革によって政教一致のイングランド国教会が新たに誕生しました。イングランドに生まれた人は信仰をもつ前に幼児洗礼が授けられ国教会員になりました。そこでは司祭は国の公務員であり、教会の礼拝も国の定めた方法や順序で行われることが義務付けられました。信仰は自覚的で自由なものではなく制度的なものになっていた訳です。そのような国による信仰の強制に対して抵抗(プロテスト)した人々がピューリタン(清教徒)です。ピューリタンたちは国教会による宗教改革のカソリックとプロテスタントの間を採る中道路線を批判しました。彼らには国教会を内部から改革するグループと外に離れて改革するグループがあり、後者が分離派と呼ばれます。その中にアナバプティストの影響を受けた人たちもおり、彼らが国教会から分派してバプティスト教会を創りました。バプティストは、特に信仰は本人が自覚的に選び取るものであり教会は自覚的信仰者の集まりであること、浸礼を尊重すること、国は個人の信仰に口を出す権威がないこと(政教分離の原則)、牧師は各個教会が決断して支えること、礼拝は聖書を中心に各個教会の信仰に合わせて行うこと、牧師は信徒の一人であり教会は信徒が守ること等を主張しました。ところが、それは国家への反逆を意味し、苦難の歴史を歩むことになったのです。
その後、本国からの迫害から逃れてイングランドの植民地であったアメリカに自由を求める人々が渡って行きました。その中にバプティストの信仰者もいました。しかし、新天地でバプティストは又もや迫害されることになります。1639年、ロジャー・ウィリアムスらによってアメリカ最初のバプティスト教会が設立されました。ウィリアムスは「神はどのような国家においても宗教が統制され、強制されることを求め給わない」と述べ、「信教の自由」や「宗教と国家の分離」を主張しました。この信仰はアメリカ合衆国憲法やその後の国家と宗教の関係について大きな影響を与えています。1730年代に「大覚醒」の時代を迎えると、自覚的信仰を主張するバプティストは大きな発展を遂げ、アメリカで一番大きなキリスト教プロテスタントの宗派になりました。詳しくはウィキペディアの項目を参照ください。

**実際にはエライジャの事業はどれも「最初」とは言い切れないらしいのですが、ケンタッキー州で最も早い時期の事業であったことは確かなようです。

***実はエライジャがケンタッキーに移った年は諸説あり、もう少し後の可能性もあります。

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ワイルドターキー12年101は1980年代初頭に発売され始め、1999年にアメリカ国内での流通が停止されると以降は輸出市場のみでリリースされることになりました。そのお陰で日本では長いこと入手し易かったワイルドターキー12年も2013年には終売となり、それに代わって一部の市場でリリースされ始めたのがワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴ91プルーフでした。そして、永遠に続くと思われた沈黙を破り、2022年、遂にワイルドターキー12年101が帰って来ました。但し、これまた輸出専用となっており、オーストラリア、韓国、日本などの市場のみの限定的なリリースのようです。日本では2022年9月に発売されました。アメリカ本国のワイルド・ターキー愛好家には申し訳ない気持ちにもなりますが、彼らにはこちらで手に入り難い様々な製品(例えばラッセルズ・リザーヴ13年や様々なプライヴェート・ピック)があるのでお互い様ですかね。

この12年101は8年101と同様、デザインを一新したエンボスト・ターキー・ボトルに入っています。新しいボトルは鳥やラベルよりも液体に焦点を合わせることで、ワイルドターキーの特徴の一つである長期間の熟成をウィスキー自身の色味で視覚的に理解してもらう意図があるそうです。鳥の大きく描かれた古めかしい紙ラベルを廃止し、ボトル表面に浮き出たターキーとシンプルな小型のラベルにすることによって、モダンで都会的でスタイリッシュなイメージへと刷新する狙いなのでしょう。特筆すべきは付属のギフト・ボックスです。外側はバレルの木目が施されたインディゴ色のしっとりした手触りの厚紙で、蓋の内側にはアリゲーター・チャーを施されたバレルの内部を模したパターンがプリントされ、ボトルはこれまたインディゴ色のヴェルヴェットのようなクッションに収められています。マットな質感と落ち着いた色合いは高級感溢れるものとなっており、知人へのプレゼントにも自らの享楽にも適した仕上がり。蓋の裏面にはジミー・ラッセルからのメッセージもあります。
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我が息子エディと私は本物のケンタッキー・バーボンを蒸溜することに人生を捧げて来ました。それは私たちの血管を流れるものだと言えるでしょう。
 
私たちは100年以上続く伝統と工程に忠実に、初まりの日から正しい方法で物事を進めて来ました。なぜなら良いものには時間が掛る、この12年物のバーボンも例外ではありません。
 
このバーボンは、長く熟成させてより個性を増したところが、私に似ていると言われます。汎ゆるボトルに物語があると思いたい。なだらかな丘陵地帯、荒々しい荒野、力強い色彩などと共に、ケンタッキーのスピリットを感じて下さい。可能な限り最高レヴェルのチャーで熟成されたバーボンからのみ得られるリッチで芳醇なフレイヴァーを味わって下さい。
 
さあ、目を瞑って。先ずはバーボンの香りを嗅ぎ、それからフレイヴァーを口の中で転がして。それがこの12年物のワイルドターキー・ケンタッキー・バーボンの真の個性を味わう本当の方法なのです。
 
ジミー・ラッセル

これが本当にジミーの言葉なのかコピーライターの仕事なのか判りませんが、我々の魂に訴えてくる質の高いマーケティングの言葉であるのは確かです。では、この待ち望まれたバーボンをさっそく味わってみるとしましょう。
と、その前に少しだけ基本情報を。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリー。バレル・エントリー・プルーフは115。熟成年数を考慮すると、2011年に新しい蒸溜施設へと転換する以前の原酒を使用していると思われます。そして、12年101はシングルバレルではなく、そのエイジ・ステイトメントも最低熟成年数なので、12年よりも古いバーボンがブレンドされている可能性はあるかも知れません。また、発売当初の13年ディスティラーズ・リザーヴのようには、どのウェアハウスのどこら辺に置かれていたバレルかの記載もありません。従ってタイロンかキャンプ・ネルソンどちらの熟成庫かも不明です。

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WILD TURKEY AGED 12 YEARS 101 Proof
2021年ボトリング。ボトルコードはLL/JL020936(推定2021年12月2日)。赤みを帯びた濃いブラウン。強烈な焦げ樽香、セメダイン、ココアウエハース、チェリーコーク、ヴァニラ、キャラメル、湿った木材、ミント、クローヴ、杏、チョコレート、ハニーローストピーナッツ、杉。アロマは香ばしく甘くスパイシー。滑らかでややとろみのある口当り。パレートはややドライで、ブラッドオレンジとグレインが感じ易く、ドクターペッパーぽい風味も。余韻は長めながらハービーなメディシナル・ノートとスモークが漂う。
Rating:88/100

Thought:開封直後に一口飲んだ時は、なにこれ薬? 渋いし、不味っ、と思いました。寧ろロウワー・プルーフの13年の方が水のお陰でフルーティさが引き出されたり樽の渋みが軽減していて良かったのかも知れないとまで考えました。ところが、妙な薬っぽさはすぐに消え味わい易くなり、徐々に渋みも落ち着いて美味しくなって行きました。そうなってみると、甘い香り、ダークなフルーツ感と複雑なスパイシネス、強靭なウッディネスと古びたファンキネスなどが渾然一体となった長熟バーボンの醍醐味を味わえます。
試しに今回の新しい12年と、とっておいた12の文字が青色の旧ワイルドターキー(即ち最も現行に近い物)をサイド・バイ・サイドで飲み較べてみると、旧の方がアルコールの刺激が少なく、やや味が濃いように感じました。これは開封からの経年でしょう。そうしたアルコールの力強いフレッシュ感を除くと、フレイヴァーの方向性は概ね同じに思いました。両者はかなり似ています。強いて言うと、青12年の方が枯れたニュアンスがやや強く、新12年の方がグレイン感が強めですかね。
地域限定販売となるこの12年101をなんとか手に入れた海外のバーボン・レヴュワーの評価は頗る良く、私のレーティングに換算すると大体92〜95点くらいを付けているイメージなのですが、率直に言うと私としては大好きなワイルドターキーではありません。その理由は、マスターズキープ・シリーズの長熟物やファザー&サン等に共通の「何か」のせいです。その何かとは、おそらくワイルドターキーの大家であるデイヴィッド・ジェニングス氏がこの12年101のテイスティング・ノートで「強烈なメディシナル・チェリー」と記述したものだと思われます。彼の仔細なテイスティング・ノートを見ると明らかに同じ物を飲んでいると感じる(表現は雲泥の差だとしても…)ので間違いないかと。この風味、私はバーボンに欲してないんですよね。
チェリーついでに言うと、これは喩えですが、(青12年よりもっと前の)大昔のターキー12年が「チェリー」そのものに近く感じるとしたら、近年の長熟ターキーは「チェリーコーク」と感じます。つまり大昔の物も近年の物もどちらも同じチェリー感がありながらも、どことなく違う風味で、昔の方が美味しかったように感じるのです。勿論、大昔の12年のようなプロファイルがどこのメーカーであれ現代のバーボンにないのは当然の話であり、較べる脳でいることが駄目なのかも知れません。それに、味の違いを分かる大人のように書いておいて、ブラインドで飲んだら全くトンチンカンな答えを言う可能性も大いにあります(笑)。
そうそう、もう一つ苦手な点を挙げるとすれば、オレンジの存在感です。バーボンの長熟物でオレンジっぽい柑橘風味が現れることが多いと思うのですが、私はオレンジよりアップルやグレープに喩えられる風味が現れる方が好きなのです。どうも近年の長熟ターキーはオレンジが感じ易い気がして…。皆さんはこのワイルドターキー12年について、或いは新旧の違いについてどう思われます? コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。

Value:上で文句と受け取られかねないことを言ってしまってますが、私はワイルドターキー好きであり、この新しい12年を評して日本の或るバーテンダーさんが言っていた「現行としては良いよね」と云う言葉に賛同します。日本では7000円前後で購入出来ます。どうもその他の市場より割安みたいですし、昨今の長熟ウィスキーの高騰から考えると、特にアメリカ人からしたら信じ難いほどのお買い得な価格です。我々は「日本人の特権」を行使しましょう。

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(画像提供K氏)

アメリカ国内でのバーボン需要が低かった1980年代から2000年頃まで何年にも渡って海外へ販売されたKBD(プレミアム・ブランズ、ウィレット)の数多いブランドのうちの一つがバーボンタウン・クラブです。多分、80年代後半~90年代前半にかけて日本に輸入され、比較的短期間で使われなくなったラベルかなと思います。名前の「バーボンタウン」というのは、どう考えてもバーズタウンのことを指しているでしょう。だから、バーズタウン・クラブと言ってるに等しいかと。ちょっと紛らわしいですが、実際このバーボンタウン・クラブと同時期くらいに同じくKBDのブランドで「バーズタウン・クラブ」という姉妹品?もありました。ラベルのデザインから言って、プレミアム感を構築する意図は感じられません。そのため壮大なブランド・ストーリーなどは特にないです。このブランドが昔のラベルの復刻なのか、それとも輸出専用ラベルとしてその当時に作成されたのかもよく分かりませんでした。

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(画像提供K氏)
バーボンタウン・クラブにはヴァリエーションとして、6年86プルーフ、10年86プルーフ、12年86プルーフ、スクワット・ボトルの15年101プルーフがありました。初期の丸便のラベルでは「THE WILLETT DISTILLING COMPANY」を、後の角瓶では「OLD BOURBONTOWN DISTILLERY」を、DBAの名義として使っています。どちらにしても、6年物はどうか判りませんが、10〜15年物は発売年と熟成年数を考慮すると旧ウィレット原酒の可能性が高いと思われます。今となってはオークションで高騰の一途を辿る原酒の一つな訳ですが、今回もまたInstagramで活躍中のウィレット信者K氏よりサンプルを頂きました。画像提供の件も含め、こちらで改めてお礼を言わせてもらいます。貴重なバーボンをありがとうございました。バーボン繋がりに乾杯!

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BOURBONTOWN CLUB 10 Year 86 Proof
推定1989年ボトリング。オールドボトルファンク、ヴァニラウエハース、キャラメル、クローヴ、ミント、茴香。ノーズはオールド臭の中に僅かな甘い香り。口当たりは水っぽい。味わいは漢方薬のようなハーブのような薬っぽさで苦く、甘み弱め。余韻は、口の中から香りはあっという間に消え、鼻腔と喉奥にオールド臭が長く残る。
Rating:74/100

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BOURBONTOWN CLUB 12 Year 86 Proof
推定1989年ボトリング。キャラメル、湿った地下室、焦がしたオーク、樹液、オレンジ、茴香、ミント、タバコ、土、コーン、ビターチョコ。水っぽい口当たり。アルコールのヒリヒリ感は全くない。味わいはアーシーなハーバルノート強め。余韻は86プルーフにしては長く、ビターな風味が尾を引く。
Rating:82.5/100

Thought:実は10年の方は見た目がけっこう曇っていました。おそらくボトリング時の味や香りも多少は存命しつつも、かなりオールドボトル・エフェクトが効いていて、このバーボン本来の味わいとは程遠いと思います。正直このままではキツイほど…。しょっぱいオツマミ、例えばサラミとかに合わせると幾分か飲み易くなりました。バーボンに限った話ではないかも知れませんが、直前に食べた物によって感じる風味は変化します。自分的に飲みづらいと思うバーボンに出会ったら、何かしら相性の良い食べ物とペアリングするのはオススメの手法ですね。
12年の方も少し曇りはあるのですが、10年と較べるとかなりクリアだったので、軽めのオールド臭くらいで済んでいましたし、グラスに注いで暫くするとそれも消えたので普通に飲めました。薬っぽい風味がやや少なく飲み易かったのです。ノーズでもパレートでも10年と共通する傾向は感じ、おそらく両者はかなり似ている気がします。10年がまともな状態だったら、あまり差が分からなかったのかも知れません。残念だったのは、思ったよりフルーティさを感じれなかったところです。もしかすると6年物の方が自分の好きなフルーティさが取れたのかも…。

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ダコタ・マイクロ・バーボンはアライド・ロマーのブランドで、「アメリカン・カウボーイ」、「コック・オブ・ザ・ウォーク」、「プリザヴェーション」、「ピュア・アンティーク」、「レア・パーフェクション」、「ワッティ・ブーン」等とだいたい同じくらいの時期の2000年代半ば(2005年?)に発売されたと思われます。このバーボンについての情報は余りにも少なく、名前のダコタがアメリカの州から取られたのか、その由来となったインディアンのダコタ族(スー族の一部)から取られたのか定かではありません。要するにアメリカっぽさを喚起するブランディングなのは間違いないでしょうが、まさか上下に分断されたラベルがそれぞれノース・ダコタ州とサウス・ダコタ州を表しているなんてこともあるのでしょうか? ご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。ラベルのデザインはヴェリー・オールド・セントニックと同じ会社がやっています。昔、そのデザイン会社のホームページで見たのですが、何という会社名か忘れてしまいました。すいません…。

ラベルには「純粋な穀物とケンタッキーのライムストーン・ウォーターを使用してポット・スティルで」云々と書かれていますが、ここで言うポット・スティルはアメリカの法律で規制された用語ではないマーケティングの言葉であって、旧ミクターズがポット・スティルをフィーチャーしていたのと同じ意味です。スコッチ・モルトのような意味での単式蒸留のことではないので注意して下さい。近年の本当のクラフト蒸留所の勃興以前のアメリカン・ウィスキーは、ほぼコラム・スティルで蒸留後、二度目の蒸留にダブラー(もしくはサンパー)を使い、そのダブラーのことをポット・スティルと呼び習わしていました。同じくアライド・ロマーのブランドで「ビッグ・アルズ」というバーボンがあり、そのラベルにも「ポット・スティルド」と大きく謳われていますが、それも同様です。アライド・ロマーのマーケティング手法は「マイクロ」や「スモール・バレル」や「リトル・バレル」のような「小さい」ことを強調し、「ピュア」や「レア」や「ヴェリー」を過剰に使う傾向があります。この「小さな樽」というのも、これまたポット・スティルと同じく近年のクラフト蒸留所の誕生以前に実験的な生産以外で標準より小さい樽を使った蒸留所はなかった筈で、実際にはスタンダード・アメリカン・バレルで間違いないでしょう。有り体に言うと、こうしたマーケティング手法は、法律の抜け穴を上手く利用して旧来品とあまり変わらない製品を新しいクラフト・バーボンかのように見せかける巧妙な仕掛けです。と言っても、私はアライド・ロマーを非難してる訳ではありません。誰もが消費者の心を掴むためのマーケティングは行いますし、バーボンの90%はマーケティングとも言われますからね。寧ろ、そのファンシーなボトルやラベル・デザイン等、女社長マーシィ・パラテラの独創的なブランディング手腕は評価されるべきでしょう。
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さて、ここらで肝心の中身について触れたいところなのですが、こうしたNDP(非蒸留業者)によるソーシング・ウィスキーの出処は、現在のバーボン・ブームの中では比較的明示的な物も増えているものの、これが発売された頃は原酒の調達先をラベルに明示する物は殆どありませんでした。
ダコタが初めてリリースされた時は、ボトルの形状からバッファロートレース蒸留所の製品ではないか?と推測されましたが、当時のサゼラック/バッファロートレースのブランド・マネージャー、ケン・ウェバーはバッファロートレースのものではないと言っていました。当時はまだアライド・ロマーの存在は一般に知られていなかったのです。
個人的には、冒頭に挙げたブランドと同じ流れでボトリングはKBDではないかと思っています。まだバーボンが低需要だった当時のアメリカでは流通していない日本とヨーロッパ向けの製品かな?と。ネット検索では、6年熟成86プルーフ、8年熟成86プルーフ、12年熟成86プルーフの三種が見つかりました。ところで気になるのは裏ラベル記載の所在地がルイヴィルなことですよね。大概のKBDがアライド・ロマーのためにボトリングしたものには「バーズタウン」と記されています。アライド・ロマーの本社はカリフォルニア州バーリンゲイムにあり、ラベルにその所在地が記されたことはありません。そして事務所か何かがルイヴィルにあったという話は聞いたことがなく、また2000年代初頭にルイヴィルに他のボトラーがあったという話も聞いたことがないし、ましてや12年の熟成期間をマイナスした当時にバーボンを造れたクラフト蒸留所もありませんでした。なのにルイヴィル…。これは一体どういうことなのでしょうか?
実はダコタと同時期に発売された「プリザヴェーション・バーボン12年」の裏ラベルにはフランクフォートとあります。それはこのダコタと同じく「disilled」とも「bottled」とも書かれていない単なる所在地の表記です。フランクフォートと言えばバッファロートレース蒸留所がある地であり、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のバッファロートレースとの合弁事業オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル社の事業地でもあります。ジュリアン三世は初期アライド・ロマーのビジネス・パートナーでした。その縁から久々にジュリアンにボトリングを依頼し、所在地表記がフランクフォートになったというのなら話は分かり易いでしょう。しかし、これは憶測であって何の確証もありません。繰り返しますがラベルにはあくまで「disilled」とも「bottled」とも書かれていないのですから。
ダコタ・マイクロ・バーボンやプリザヴェーション・バーボンを日本語で検索すると出てくる情報では、一説に原酒はバッファロートレースではないかとされています。そこで一つの仮説として、アライド・ロマー製品の所在地表示がコロコロ変わるのが、原酒の調達先を仄めかすヒントになっているのだとしたら…と考えてみました。そうなると、ダコタの発売を2005年として、ヴァリエーション中最長熟成の12年をマイナスすると1993年、この時稼働していたルイヴィルの蒸留所はヘヴンヒルが購入する前のニュー・バーンハイムかアーリタイムズしかないでしょう。個人的には、この仮説が正しいのならニュー・バーンハイムかなという気がしますね。
一方で、裏ラベルの所在地は原酒のヒントでも何でもないというのも考えられます。冒頭に挙げたブランドで言うと、アメリカン・カウボーイやピュア・アンティークは明らかにKBDのボトリングながら、前者は「ネルソン・カウンティ」までしか書かれておらず、後者は「Distilled and Bottled in Kentucky」としか書かれてません。つまり、一律バーズタウンと記載される訳ではなく、表記に法則性や一貫性がないのです。前回投稿した「ラン・フォー・ザ・ローゼズ」もKBDのボトリングと思うのですが、これがもしアライド・ロマーのブランドだとしたら、所在地表記はレキシントンですから、ますます混乱するばかり。そう言えば、過去に投稿した「ドクター・ルイーズ・シュア・ポーション」というアライド・ロマーのブランドがあるのですが、このバーボンも裏ラベルの所在地はルイヴィルでダコタと同じですね。まさかKBD以外にもっと知られていないボトラーが当時からあったのでしょうか…。みなさんはどう思われます? コメントよりご意見お待ちしております。
では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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Dakota Micro Bourbon 12 Years 86 Proof
特にオーキーでもなく、ちょっとフルーティ、ちょっとハービーといったバランス。すぐ前に飲んでいたラン・フォー・ザ・ローゼズ16年のような過熟感はなく断然バランス良く感じました。あまり自信はないですが、少なくとも旧ヘヴンヒルぽくはない気がします。飲んだことある皆さんはどう思われたでしょうか? コメントどしどしお寄せ下さい。
Rating:84/100

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(画像提供N氏)

ブラックサドル・バーボンはカリフォルニア州フェアフィールド(旧住所はサンホゼ)の老舗ボトラー、フランク=リン・ディスティラーズ・プロダクツのブランドで、おそらく2014年頃から発売されたと思われます。同社の「バック」と同じようにカウボーイや馬をイメージ・ソースとしてバーボンと結びつけているのでしょう。フランク=リンは俗に言うNDPであり、原酒の調達元は一般公開されていませんが、日本で流布しているブラックサドルの情報ではヘヴンヒルとされています。ヘヴンヒルの12年熟成で90プルーフあるのであれば、エイジ・ステイトメントを失ったエライジャ・クレイグの代わりになれるバーボンなのかどうか?が気になるところ。ちなみに、ラベルには「ケンタッキー」も「ストレート」の文字もありませんが、フランク=リンのセールス・シートによるとケンタッキー・ストレート・バーボンと明記されています。
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今回のブラックサドルの紹介はInstagramで知り合ったバーボン仲間のNさんからサンプルを頂いたことで実現しました。何の前触れもなく送られて来たサプライズでした。Nさん、写真のお手間も含めこの場を借りて改めてお礼申し上げます。ありがとうございました! では、飲んだ感想を少し。

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(画像提供N氏)

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BLACK SADDLE 12 Years 90 Proof
ボトリング年不明(2016〜18年頃?)。チャードオーク、ヴァニラ、コーン、ベーキングスパイス、レーズン、ビターチョコ。香りは比較的「小さく」、パレートでも風味は弱め。ほんのり甘い香りと典型的なバーボン・ノートがバランスよく見つかるが、基本的に焦樽が中心のアロマとフレイヴァー。12年という熟成年数ならば、もう少しダークなフルーツ感が欲しいし、余韻に深みも欲しい。空気に触れさせたアロマがハイライト。
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Thought:確かに近年のヘヴンヒルぽい味わいに感じました。ただ、日本語でブラックサドルを検索した時に出てくる一部の情報では、良質な樽を買い付け云々とあるのですが、ヘヴンヒルのように自社ブランドもリリースする会社がバルク・ウィスキーの販売をする場合、過剰在庫を抱えているのでなければ、それほど優良なバレルをそちらに回すとは思えず、私にはブラックサドルは平均的なバレルから造られているように感じます。現行のボトルデザインが変わった後のエライジャクレイグNASを私は飲んだことがありませんが、多分大差ないんじゃないかなという気が…。何故かこのブラックサドルにはあまり熟成感を感じにくいのです。飲み比べたことのある方はコメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。

Value:アメリカでは4〜50ドルが相場。現在の日本ではネット通販は売り切ればかりで、安定的な輸入はされてないようです。少し前は3500円ちょいで購入出来た時もあったみたい。個人的にはその金額を出すのなら、エヴァンウィリアムス(特に赤もしくは白)かエライジャクレイグを購入したほうがいいと思います。ただし、ボトルやラベルは高級感があるので、それが気に入れば買うのはありでしょう。そこにこそ価格の違いの大部分が存するのですから。

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スプリング・リヴァーはアメリカ本国での知名度は高くありませんが、日本のバーボン党には比較的知られた銘柄かと思います。

日本では80年代後半から2000年代にかけてヘヴンヒルの所謂「キャッツ・アンド・ドッグス」と呼ばれるラベル群(ブランド群)のバーボンが多く流通していました。網羅的ではないですが、代表的な物を列挙すると…

1492
Anderson Club
Aristocrat
B.J. Evans
Bourbon Center
Bourbon Falls
Bourbon Hill
Bourbon Royal
Bourbon Valley
Brook Hill
Country Aged
Daniel Stewart
Distiller's Pride
Echo Spring
Heritage Bourbon
J.T.S. Brown
J.W. Dant
Jo Blackburn
John Hamilton
Kentucky Deluxe
Kentucky Gold
Kentucky Nobleman
Kentucky Supreme
Mark Twain
Martin Mills
Mattingly & Moore(M & M)
Meadow Springs
Mr. Bourbon
National Reserve
Old 101
Old 1889
Old Joe
Old Premium R.O.B.
Original Barrel Brand
Pap's
Rebecca
Rosewood
Sam Clay
Samuels 1844
Spring River
Stephen Foster
Sunny Glenn
T.W. Samuels
Virgin bourbon
Westridge
(The)Yellow Rose of Texas
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…などです。これらの幾つかは大昔のブランドを復刻したか、廃業した蒸留所もしくは大手酒類会社のブランド整理によって取得したラベルが殆どでした。またはヘヴンヒルが古めかしくそれっぽいありきたりなデザインで手早く作成したのもあるかも知れません。こうしたラベルは地域限定的で、ヘヴンヒル社にとっては比較的利益率の低いバリュー・ブランドでしたが、彼らのビジネスの82%は安価な酒類の販売とされています。或る意味ヘヴンヒルの「ブランド・コレクター」振りは、伝統を維持/保護する観点があったとしても、このビジネスのための必要から行っていると言えなくもないでしょう。広告も出さないし、ラベルもアップデートしないということは、マーケティング費用がほぼゼロに近いことを意味します。だから安い。

上に挙げたブランドは様々な熟成年数やプルーフでボトリングされました。一部はプレミアム扱いの物もあり、その代表例は「マーチンミルズ23年」や「ヴァージンバーボン21年」等です。或いはノンチルフィルタードをウリにした「オールド101」も、見た目のラベルデザインは地味でも中味はプレミアム志向を感じさせました。4〜6年の熟成で80〜86プルーフ程度の物に関しては、エントリークラスらしいそこそこ美味しくて平均的なヘヴンヒルの味が安価で楽しめました。しかしそれにも況して、熟成期間が7年以上だったり100プルーフ以上でボトリングされた物は、あり得ないほどお得感があり、古参のバーボン・ファンからも支持されています。また、上のリストには含めませんでしたが、ヘヴンヒル社の名前そのものが付いた「オールドヘヴンヒル」や同社の旗艦ブランドとなる「エヴァンウィリアムス」などの長期熟成物も日本ではお馴染みでした。

80年代〜90年代にこのような多数の銘柄が作成もしくは復刻され、日本向けに大量に輸出されていた背景には、アメリカのバーボン市場の低迷がありました。彼の国では、70年代から翳りの見えていたバーボン人気は更に落ち込み、過剰在庫の時代を迎えていたのです。逆に日本ではバブル期の経済活況からの洋酒ブームによるバーボンの高需要があった、と。上記の中で一部のブランドはバブルが終わった後も暫く継続され、2000年代をも生き延びましたが、やがてアメリカでのバーボン人気が復調しブームが到来、更には世界的なウィスキー高需要が相俟った2010年代になると、日本に於いては定番と言えた多くの銘柄は終売になるか、銘柄自体は存続しても長期熟成物は廃盤になってしまいました。今では、80〜90年代に日本に流通していたヘヴンヒルのバーボンは、ボトリング時期からしてバーズタウンにあった蒸留所が火災で焼失する前の物なので、欧米では「プリ・ファイヤー・ジュース」と呼ばれ、オークションなどで人気となり価格は高騰しています。

火災前の原酒がマニアに珍重されているのは、失われた物へ対する憧憬もありますが、そもそも味わいに多少の違い(人によっては大きな違い)があるからです。その要因には大きく二つの側面があります。
一つは製造面。先ず当たり前の話、施設が違うのですから蒸留機も異なる訳ですが、ヘヴンヒルが新しく拠点としたバーンハイム蒸留所は1992年にユナイテッド・ディスティラーズが建てた蒸留所であり、もともとバーボンの蒸留に向かない設計だったと言われています。そのためヘヴンヒルが購入した時、蒸留機の若干の修正や上手く蒸留するための練習を必要としたとか。そしてこの時、マッシュビルにも変更が行われました。ライ麦率を3%低くしてコーン率を上げたそうです(コーン75%/ライ13%/モルテッドバーリー12%→コーン78%/ライ10%/モルテッドバーリー12%)。あと、イーストもジャグ・イーストからドライ・イーストに変更を余儀なくされたようで、マスターディスティラーのパーカー・ビームはそのことを嘆いていたと言います。また、蒸留所のロケーションも違うのですから、水源も当然変更されたでしょう。旧施設のDSP-31では近くの湧水を使用していたとされ、DSP-1では市の水を独自に逆浸透膜か何かで濾過していると聞きました。
もう一つの側面は、上段で述べていた過剰在庫の件です。今でこそ長熟バーボンはアメリカでも人気がありますが、当時ほとんどのディスティラーの常識では8年を過ぎたバーボンは味が落ちる一方だし、12年を過ぎたバーボンなど売り物にならないと考えられていました。と言って倉庫で眠っている原酒を無駄にする訳にはいかない。そこで、例えばエイジ・ステイトメントが8年とあっても実際には10年であったり、或いは8年に12年以上の熟成古酒がブレンドされていて、それが上手くコクに繋がっていた可能性が指摘されています。実際にはどうか定かではありませんが、私個人としても、確かに旧ヘヴンヒル原酒は現行バーンハイム原酒よりスパイスが複雑に現れ深みのある風味という印象を受けます。

さて、そこでスプリング・リヴァーなのですが、調べてもその起源を明らかにすることはできませんでした。先ず、スプリング・リヴァー蒸留所という如何にもありそうな名前の蒸留所は、禁酒法以前にも以後にも存在していないと思われます(サム・K・セシルの本にも載っていない)。そしてそのブランド名もそこまで古くからあったとは思えず、ネットで調べられる限りでは71年ボトリングとされるクォート表記でスクエアボトルの12年熟成86プルーフがありました。その他に年代不明で「SUPERIOR QUALITY」の文字がデカデカと挿絵の上部に書かれたラベルのNAS40%ABVの物もありました。70年代の物はどうか判りませんが、少なくとも80年代以降は(ほぼ日本向けの?)エクスポート専用ラベルになっていると思われます。以上から考えるに、おそらく70年代にヘヴンヒルが作成したラベルと予想しますが、詳細ご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。モダンさの欠片もないデザインが却って新鮮で素敵に感じますよね。
日本で流通していたスプリング・リヴァーは沖縄の酒屋?商社?が取り扱っていたらしく、90年代の沖縄の日本資本のバーには何処にでもあったとか。おそらく80~90年代に流通し、12年熟成101プルーフと15年熟成86プルーフの二つ(もう一つ追加。下記参照)があったようです。オークションで肩ラベルに「Charcoal Filtered」と記載され年数表記のない86プルーフで「ウイスキー特級」の物も見かけました。これも15年熟成なのでしょうか?(コメントよりご教示頂きました。これはそのままNASだそうです。コメ欄をご参照下さい)。ともかくバーボン好きに頗る評価が高いのは12年101プルーフです。熟成年数とボトリング・プルーフの完璧な融合からなのか、それとも過剰在庫時代のバレルを使ったバッチングに由来するのか…。なんにせよ余程クオリティが高かったのは間違いないでしょう。では最後に少しばかり飲んだ感想を。

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SPRING RIVER 12 Years 101 Proof
90年代流通品。がっつり樽香がするバーボン。スペック的に同じでほぼ同時代のエヴァンウィリアムス赤ラベルのレヴューを以前投稿していますが、それに較べてややフラットな風味に感じました。まあ、サイド・バイ・サイドではないですし、今回はバー飲みですので宅飲みと単純には比較できませんが…。
Rating:87.25/100

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オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルというブランドは、元は禁酒法時代(または以前?)に遡りますが、長年の沈黙からジュリアン・ヴァン・ウィンクル二世が1970年代半ばに復活させ、それを受け継いだ息子のジュリアン三世が伝説のレヴェルまで育て上げたブランドと言ってよいでしょう。

長年スティッツェル=ウェラー社を率いてきたジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルが1965年に亡くなった後、息子のジュリアン・ジュニア(二世のこと)は他の相続人との意見の相違から、1972年にスティッツェル=ウェラー所有の蒸留所とブランドをノートン・サイモン社へ売却することを余儀なくされました。しかし、彼は名前や物語を余程気に入っていたのか、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングの物語をモチーフにしたブランドだけは売却せず、スティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利とボトリング契約を残したことで、オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルを甦らせ販売し始めます。その事業は1981年にヴァン・ウィンクル二世が亡くなると息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世に引き継がれますが、スティッツェル=ウェラーとのボトリング契約が切れたことでジュリアン三世は致し方なく(妻も子供四人もおり、多額の借金を背負うことになるから)アンダーソン郡ローレンスバーグにある旧ホフマン蒸留所をベン・リピーから購入しました。ジュリアン三世はスティッツェル=ウェラーからのバルク・ウィスキー、またその他の蒸留所からもウィスキーを購入し、コモンウェルス蒸留所として様々な銘柄でボトリングを続けました。80年代にはおそらく知る人ぞ知る小さな存在だった会社は、90年代に祖父への敬意を直接的に表す「パピー・ヴァン・ウィンクル」を発売、幾つかの賞を得たことでウィスキーの世界から注目を集め出します。しかし、スティッツェル=ウェラー蒸留所はユナイテッド・ディスティラーズの傘下になった90年代初頭に蒸留が停止されてしまいました。そこで、原酒の枯渇を懸念したジュリアン三世は、新しい供給先としてバッファロー・トレース蒸留所を選び、2002年、合弁事業としてオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ディスティラリーを立ち上げます。同社のブランドは段階的にスティッツェル=ウェラーからバッファロー・トレースの蒸留物へ変わりました。2010年以降は「パピー」がバーボン愛好家以外の一般大衆にも認知され出し、バーボン・ブームの到来もあってカルト的人気を得、それに釣られてその他のブランドも高騰。オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルも日本に住む「庶民派ウィスキー飲み」が手を出せる金額ではなくなり、そもそも日本へ輸入されることもほぼなくなりました。バッファロー・トレースのフランクフォート産の物ですらそのような状況の今日、ジュリアン三世がハンドメイドで瓶詰めしていたローレンスバーグ産の物は、特に愛好家に珍重され求められています。

今回ご紹介する「ヴァン・ウィンクル」の付かないヴァン・ウィンクル製品であるスクエア・ボトルの「オールド・リップ」なのですが、これは日本向けの輸出用ラベルでした。4年熟成86プルーフ緑ラベルと12年熟成105プルーフ黒ラベルの二種類があり、日本のバーボン愛好家には知られたブランドです。おそらく発売期間は80年代後半から90年代後半(もしくは2000年代初頭?)までではないかと思われます。少なくともフランクフォート表記のオールド・リップは見たことがないので、2002年以降には製造されていないと推測しました。お詳しい方はコメントよりご教示下さい。
それは措いて、中身の原酒について。ジュリアン三世は「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」や「ヴァン・ウィンクル・セレクション」、初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル」、またその他の銘柄ではスティッツェル=ウェラー以外の原酒を使うこともありました。しかし、聞くところによると彼は「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」のブランドにはスティッツェル=ウェラー原酒を使うことを好んだとされます。それからすると、おそらくこの「オールド・リップ」もスティッツェル=ウェラー原酒で間違いないでしょう。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

OLD RIP 12 Years Old 105 Proof
今回はバー飲みです。先日まで開けてあったオールド・リップ12年が前回のウイスキークラブ(定期イヴェント)で飲み切られたとのことで倉庫からストックの新しいボトルを出して来てくれました。なので開封直後の試飲となります。

推定88年ボトリング(*)。ベリーと合わせたチョコ、接着剤、杏仁豆腐、キャラメル、他に植物っぽい香りも。ハイプルーフゆえのアルコールのアタックはあってもヒート感はほぼ感じない。現代の小麦バーボンよりもスパイス感がやや複雑で、フレイヴァー全体が濃厚な印象。余韻は少し渋め。
Rating:87.5/100

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*この時期のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は少し古めの瓶を使ってボトリングしていたことを示唆する情報がありますので、瓶底の数字は88なのですが、もしかするとボトリングは90年頃の可能性があります。

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ワイルドターキー12年の歴史は通称「ビヨンド・デュプリケーション(BDと略)」がリリースされた1980年代初頭まで遡ります。85年頃にアメリカ市場ではラベルが通称「チーズィー・ゴールド・フォイル(CGFと略)」に変わりましたが、輸出市場の物は少なくとも4年間ほどBDラベルが継続されました。92年にはアメリカ国内用の12年ラベルはCGFから通称「スプリット・ラベル(分割ラベル)」に変更、しかし、これまた海外用ボトルは90年代半ばまでCGFラベルが継続されています。1999年になるとワイルドターキー12年はアメリカ自国での流通は停止され、輸出市場のみでリリースされることになりました。この年、ターキーが横向きの絵柄になります。輸出用ラベルは、初期の通称「スードゥ・ラベル(疑似分割ラベル)」が1999~2005年、続いて通称「ユニ・ラベル(単ラベル)」が2005~2011年です。2011年からは中核製品全体のデザインのリニューアルを受け、12年もセピア調のラベルへと変更されました。この時に8年は赤、ライは緑、12年は青という色分けに。そして2013年になると遂にワイルドターキー12年101プルーフは製造中止となり、その代替製品として13年熟成91プルーフのディスティラーズ・リザーヴが一部の国際市場のみで発売されています。
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今回のレヴューは、トップ画像と上述の駆け足で辿ったワイルドターキー12年の変遷で判る通り、今のところ12年101最後の物となっている「青12年」です。ターキー12年は今でも多くのボトルがオークションでは出品されていますが、オールドボトルを取り扱う一部の酒販店を除外すると、店頭で平常価格の12年101を見掛けることは皆無と言ってよいでしょう。日本のバーボンファンにとって長らく親しまれた最高品質のバーボンがなくなるのは悲しいことですよね。とは言え日本へ輸入された本数が大量だったのか、どの時代のラベルであれ、オークションでは今でも随時出品されています。ただし、古い時代の物はかなり高騰しており、それなりの出費を覚悟しなければなりません(落札相場は後述)。ターキーマニアによれば、その風味プロファイルは年ごと(もしくはバッチごと)に異なり、古い物ほどダスティなファンキネスが強いとされ評価が高いのですが、どの時代の物でもラベルに関係なく、ほぼ全ての12年101はグレートなクオリティだと言います。では、試してみましょう。

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WILD TURKEY 12 Years 101 Proof
推定2012年ボトリング。濃密なヴァニラ、胡桃、ワックス、干しブドウ、アンティークレザー、クレームブリュレ、鰹節。古びた木材を連想させるトーン。ややまったりした口当たり。液体を飲み込んだ後の程よいスパイス感。余韻はハーブっぽいような薬っぽいようなノートが強め。
Rating:88/100

Thought:甘味や熟したフルーツも感じるものの、ウッディな苦味や薬品のようなニュアンスがややもするとそれらを感じにくくしているような印象。もう少し古い12年に見られる私の好きなアーシーなノートも欠いているように思いました。確かに多くのターキーマニアが言うように古い物のほうが美味しくは感じます。それでも古典的なワイルドターキーのテイストは内包しており、同時期の8年やレアブリードとは比べ物にならないくらい深みのある味です。

Value:近年ワイルドターキー12年のセカンダリー・マーケットでの需要は益々高まっており、オークションを見ていると、2010年代、時々の上下動はあっても基本的には値上がりを続けていると感じます。 オークションでの落札価格には味の評価が如実に反映され、BDやCGFは最近では50000円まで行くときがあり、分割ラベルは20000~30000円程度、疑似分割と単ラベルは10000円前後します。
さて、そこで問題は、この最も「新しい」12年はどれくらいの価値があるのか、ということです。オークション相場は7500~10000円程度。結論から言うと、これはアリかも知れません。
私はバーボンは安くて旨いのが魅力と思っている人間なので、基本的に希少性への対価を支払うのが好きではないのですが、既に製造されていないバーボンに関しては当時の小売価格との比較は意味をなさないであろうことは理解できます。ですが参考までに言うと、私が今回飲んだのは、確か2013年頃に量販店の特売か何かで3500円位で買いました。まあ、そこまで安いのは稀だったかも知れませんが、当時はおよそ5000円程度では買えてたと思います。なので随分ふんだくられるなあ、とは思ってしまいますよ。しかし製造中止となれば仕方がないので、価格を較べるのであれば、現行の限定版であるマスターズキープの小売価格を基準に考えるのが筋でしょう。マスターズキープの方が全体的に12年以上の熟成年数の原酒を使ってはいますが、それらは大体15000円程度します。そこから対比して考えると7500~10000円というのは妥当な価格かなと思ったのです。そしてそれ以前の話として、今はまだオークションに豊富に出品されてるとはいえ、過去の遺産である壮大なワイルドターキー12年は減っていく一方なのですから、あるうちに買っとかなくちゃ、とも思う次第です。ただし、この青12年は流通期間が短かったため、新しめとは言っても案外オークションでのタマ数は多くありません。疑似分割や単ラベルが同程度の価格で買えるなら、敢えて青12年を買う必要はないでしょう。
また、ワイルドターキー12年のライバル?(と言っておきましょう)に、熟成年数とプルーフが同じバーボンのエヴァン・ウィリアムス赤ラベルがあります。人によってはこちらの方が美味しいと言うことはあり得ます。私としてはワイルドターキーの方が少しだけ美味しく感じますが、現行のエヴァン12年なら3500~4000円で購入できてしまいます。さて、この状況下で、なお青12年をプレミア値で買う価値があるのか自問してみると、答えはNoかも知れません。微妙なところです、迷います、迷った末にエヴァンかな…。
現行のエヴァンなら価格差があるので迷いましたが、仮に旧ボトル、つまりバーズタウン産のエヴァン赤とこのターキー青が共に10000円なのだとしたら、迷わずターキーを選びます。と言っても決して旧エヴァン赤を貶してる訳ではありません。両者ともに赤い果実感がありつつ、エヴァンの方がキャラメル香が豊富かつスパイシーで味わいに華やかなイメージがあり、一方のターキーは何と言うかもう少し枯れたような渋い味わいのイメージがあります。古典的なバーボンらしさを求める人なら旧エヴァン赤を選ぶのではないでしょうか。あくまで同じ価格という仮定の上での好みの話です。


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ヘヴンヒル蒸留所の旗艦ブランド、エヴァンウィリアムスの中でもレッドラベルは、バーボン好きは言うに及ばず、スコッチ中心で飲む方にも比較的評価の高い製品です。長らく輸出用の製品(ほぼ日本向け?) でしたが、2015年にアメリカ国内でもヘヴンヒルのギフトショップでは販売されるようになりました。日本人には驚きの120~130ドルぐらいで売られているとか…。日本では一昔前は2000円弱、今でも3000円前後で購入できますから、日本に住んでいながらこれを飲まなきゃバチが当たるってもんですね。

ところでこの赤ラベル12年、一体いつから発売されているのか、よく判りません。80年代後半には確実にありましたが、80年代半ばあたりに日本向けに商品化されたのが始まりなのですかね? 当時のアメリカのバーボンを取り巻く状況からすると、長期熟成原酒はゴロゴロ転がっていた筈です。その輸出先として、バブル経済の勢いに乗り、しかも長熟をありがたがる傾向の強い日本向けにボトリングされたのではないかと想像してるのですが…。誰かご存知の方はコメント頂けると助かります。
さて、今回は発売年代の違う赤ラベルを飲み較べしようという訳でして、画像左が現行、右が90年代の物です。赤の色合いがダークになり、古典的なデザインがモダン・クラシックと言うか、若干ネオいデザインになりましたよね。多分このリニューアルは、上述のギフトショップでの販売開始を契機にされたものかと思います。まあ、ラベルは措いて、バーボンマニアにとっては中身が重要でしょう。言うまでもなく、現行の方はルイヴィルのニュー・バーンハイム蒸留所、90年代の方はバーズタウンの旧ヘヴンヒル蒸留所の原酒となります。

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目視での色の違いは殆ど感じられません。強いて言えば旧の方が艶があるようにも見えますが、気のせいかも。

Evan Williams 12 Years Red label 101 Proof
2016年ボトリング。プリン、焦樽、ヴァニラ、バターピーナッツ、レーズン、莓ジャム、煙、足の裏。ほんのりフルーティなヴァニラ系アロマ。余韻はミディアムショートで、アルコールの辛味と穀物香に僅かなフローラルノート。
Rating:87/100

Evan Williams 12 Years Red Label 101 Proof
95年ボトリング。豪快なキャラメル、香ばしい樽香、プルーン、ナツメグ、チェリーコーク、チョコレート、ローストアーモンド、鉄。クラシックなバーボンノート。スパイシーキャラメルのアロマ。パレートはかなりスパイシー。余韻はロングで、ミントの気配と漢方薬、土。
Rating:87.5/100

Verdict:同じものを飲んでいる感覚もあるにはあるのですが、スパイシーさの加減が良く、風味が複雑なオールドボトルの方を勝ちと判定しました。現行も単品で飲む分には文句ありませんし、パレートではそこまで負けてはないものの、較べてしまうと香りと余韻があまりにも弱い。総論として言うと、現行の方は典型的な現行ヘヴンヒルの長期熟成のうち中程度クオリティの物といった印象。一方の旧ボトルも、バーズタウン・ヘヴンヒルの特徴とされる、海外の方が言うところのユーカリと樟脳が感じやすい典型的な90年代ヘヴンヒルのオールドボトルという印象でした。

Thought:全般的に現行品はクリアな傾向があり、対してオールドボトルは雑味があると感じます。その雑味が複雑さに繋がっていると思いますが、必ずしも雑味=良いものとは言い切れず、人の嗜好によってはなくてもよい香味成分と感じられることもあるでしょう。かく言う私も、実は旧ヘヴンヒルの雑味はそれほど好みではありません。両者の得点にそれほどの開きがない理由はそこです。

Value:エヴァン赤は日本のバーボンファンから絶大な信頼を寄せられている銘柄だと思います。確かに個人的にも、例えばメーカーズマークが2500円なら、もう500円足してエヴァン赤を買いたいです。またジムビームのシグネイチャー12年やノブクリークが同じ価格なら、エヴァン赤を選ぶでしょう。おまけにワイルドターキーのレアブリードよりコスパに優れているし。つまり、安くて旨い安定の一本としてオススメということです。もっとも、たまたま上に挙げたバーボンはどれも味わいの傾向は多少違うので、好みの物を買えばいいだけの話ではあります。参考までに個人的な味の印象を誇張して言うと、腰のソフトさと酸味を求めるならメーカーズマーク、香ばしさだけを追及するならノブクリーク、ドライな味わいが好きならレアブリード、甘味とスパイス感のバランスが良く更に赤い果実感が欲しいならエヴァン赤、と言った感じかと。
問題は旧ラベルと言うか、旧ヘヴンヒル蒸留所産の物のプレミアム価格の処遇です。個人的な感覚としては、上のThoughtで述べた理由から、仮に旧ボトルが現行の倍以上の値段なら、現行を選びます。確かに多くのバーボンマニアが言うように、旧ヘヴンヒル蒸留所産の方が美味しいとは感じますが、あくまで少しの差だと思うのです。それ故、私の金銭感覚では、稀少性への対価となる付加金額を、現行製品の市場価格の倍以上は払いたくないのです。ただし、その少しの差に気付き、その少しの差に拘り、その少しの差に大枚を叩くのがマニアという生き物。あなたがマニアなら、或いはマニアになりたいのなら、割り増し金を支払ってでも買う価値はあるでしょう。

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