タグ:84.5点

2022-05-26-17-56-12-938

今回はコストコのオリジナル・ブランド、カークランド・シグネチャーのバートン1792蒸溜所産のバーボンを使用したスモールバッチです。コストコとバートンのコラボにはスモールバッチ、ボトルド・イン・ボンド、シングルバレルと3種類あり、そのうち最も安価なのがこちらとなっています。byバートン1792マスター・ディスティラーズと銘打たれたこのシリーズの紹介は、以前投稿したボトルド・イン・ボンドの時にしているので、そちらを参照ください。また、当ブログにコメントをしてくれた方がそれら三つを飲み比べる記事を書かれていますので、これまた参考にしてみて下さい。格上と想定されるボトルド・イン・ボンドを既に飲んでいたので、こちらのスモールバッチは別に飲まなくてもいいかなと思っていたのですが、どの程度の違いがあるのか気になったこともあり買ってみました。では、さっそく注ぎましょう。

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KIRKLAND SIGNATURE SMALL BATCH by BARTON 1792 MASTER DISTILLERS 92 Proof
Batch No. 1124
推定2021年ボトリング。ややオレンジがかった薄いブラウン。トーストした木、フルーツキャンディ、穀物、薄っすらキャラメル、ペッパー、梅干、雑穀米、アプリコット、シナモン。アロマはフルーティだが木の酸も。口当りはとろっとしつつサラッともしている。パレートは木材と僅かにアプリコットジャム、アルコールの辛味。液体を飲み込んだ直後はけっこう刺激的。余韻はドライ気味ながらリッチな穀物感も幽かに垣間見える。
Rating:81.5→84.5/100

Thought:開封直後はどうにもピンと来なかったのですが、開封から暫くすると香りにフルーティさが増して美味しくなりました。それから半年以上経つと、更に甘い香りとフルーツが濃厚になりました。これがレーティングの矢印の理由です。但し、相変わらず全体的にドライなテイストは持続しました。トースティなウッドとグレインがメインなフレイヴァーで、そこにフルーツとスパイスが乗っかる感じでしょうか。甘みはもうちょっと欲しいとは思いましたが、基本的には自分好みのバーボンだし、お値段を考えれば何の文句もありません。
先日まで開封していたボトルド・イン・ボンドとサイド・バイ・サイドで較べてみると、ベースとなる香味やフレイヴァー・プロファイルの傾向は明らかに似ていますが、BiBの方が口に含んだ瞬間から円やかな口当たりを持っていて、SmBは単体で飲んでる時には気づかなかった荒々しさが目立ってしまいました。これらは共にNASなので憶測でしかないですが、仮にSmBが最低4年熟成なのだとしたら、BiBは5〜6年熟成と思えるテクスチャーに感じます。逆にバッチングに使用されたバレルの平均熟成年数がほぼ同じなのであれば、アルコール度数にして4度の違いが生み出す効果が著しいと言わざるを得ません。当然ながらBiBの方がフレイヴァーの強度も高いですしね。もしくは、そもそもBiBの方が質の高いバレルが選ばれているのかも知れません。そうなると、スモールバッチはただのマーケティング・タームに過ぎない、と皮肉られる典型的な例のようで嫌ですが…。
バートン産のエントリー・クラスのストレート・バーボンで、今の日本で最も入手し易いザッカリアハリスと比べると、こちらはかなり美味しくなっています。焦がした樽の風味はより香ばしく、味わいはよりフルーティさが出てるのです。しかし、何というかバートン特有のアセトン感?も強まっているので、そこらへんは好みが分かれるところかも。もしかするとザッカリアハリスの方が甘く感じる人もいる?

Value:地域によって変動があるようですが、アメリカでは19ドル程度の場所が多いようです。日本では2500円くらいでしょうか。1リットル瓶ということもあり、かなりコスパはいいのでオススメです。とは言え、個人的にはもう少しお金を出してボトルド・イン・ボンドを購入することを選ぶでしょう。と言うか、それ以前に、これって今でもコストコ店舗で売ってるんですかね? 私はコストコ会員ではないので、よく分かりません。コストコの公式ネット通販サイトだと売り切れています。コストコ会員かつバーボン好きの方は是非コメントから情報いただけると嬉しいです。

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ライ・ロイヤル20年はカリフォルニア州フェアフィールド(当時はサンホゼ)の老舗ボトラー、フランク=リン・ディスティラーズ・プロダクツが1990年頃に日本市場向けにボトリングしたペンシルヴェニア産のストレート・ライ・ウィスキーです。このウィスキーの調達先についてはシェーファーズタウン近郊のミクターズ蒸溜所だろうと推測されています。ウィスキーが蒸溜された当時(1969〜70年頃?)は、ペンコ蒸溜所という別の名称でした。ペンコの基本は契約蒸溜だと思われるので、その当時に誰かのために蒸溜されたライ・ウィスキーが何らかの理由で購入されず残り、ミクターズが閉鎖される間際に安く売りに出されたという感じなのでしょうか? 或いは、ペンコはコンチネンタルとも何かしらの関係があったようなので、ペンコ以外で蒸溜された物の可能性もあるのでしょうか? 仔細ご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。
真実かは判りませんが、ミクターズの元マスター・ディスティラーである故​​ディック・ストールは、ミクターズ/ペンコのライ・マッシュビルは65%ライ、23%コーン、12%モルテッドバーリーであると述べていた、という情報を見かけました。ちなみに、このライ・ロイヤルと同じくフランク=リンがボトリングしたウォール・ストリート・ストレート・ライ20年というウィスキーがありまして、これらは同じ原酒だろうと見られています。どちらも1990年頃にボトリングされ、101プルーフでした。ウォール・ストリートの方がオークションで見かけることが少ない印象がありますね。
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殆ど情報のないウィスキーなのでこれ以上語ることはなく、あとは飲んでみるしかありません。さっそく注ぎましょう。

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Rye Royal 20 Year Old 101 Proof
推定90年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。クレームブリュレ→ミルクチョコレート、マスティオーク、ユーカリ、プルーン、カルダモン。甘いお菓子のアロマと穏やかなスパイス香。さらっとしつつ、ややミルキーな口当たり。味わいは重厚な木材感が支配的で、仄かな甘みもあるが基本的にドライかつビター。しかし、それほど収斂味はない。余韻はあっさりめで、ウッディなスパイス感が広がる。アロマがハイライト。
Rating:84.5/100

Thought:正直言うと期待外れな味わいでした。ちょっとしたオールド臭以外のネガティヴな要素はないものの、あまりポジティヴな要素も拾えないと言うか…。香りは頗る良いのですが、味わいが少々平坦。何より、あまりライ・ウィスキーらしさを感じられないのがマイナスでした。これバーボンだよ、と提供されたら信じてしまうくらい普通に長熟バーボンの味わいに感じるのです。個人的にはもっとアーシーなフィーリングや濃厚なフルーツが欲しいところ。希少価値のあるボトルなだけに残念です。オールドボトルゆえの状態の悪さ(酸化が進み過ぎた?)もあったのかも知れません。
一方で、アメリカの有名な掲示板に投稿されたライ・ロイヤルのレヴューのコメントには、カナディアン・ライもしくは再利用樽で熟成させたような印象を受けたと言ってる人がおり、また他にも同コメント欄でこれはミクターズで蒸溜されたものとは全く違う味と断言する人もいました。私にはそれを判断する味覚も経験もありませんが、確かにそうかもと思わせる味わいには感じました。樽の管理を間違えたか何かで、もしかして本当はライ・ウィスキーではないのではないか? 或いはミクターズ・サワーマッシュ・ウィスキーには新樽と中古樽が混ぜられていたと聞くので、たまたま忘れ去られていた中古樽原酒の生き残りがボトリングされたとか? またはペンコはカナダからもバレルを仕入れていたのか? 真相は藪の中です。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか、コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。
上の感想は、その希少性からオークションで価格が高騰した後に購入した私の期待が大き過ぎたために出た言葉かも知れません。また、私はあまり長熟ウィスキーを得意としていない味覚の持ち主であることにも留意して下さい。つまり、貴方が初めから何も期待せず虚心坦懐に味わい、かつ長熟ウィスキーが好きならば、美味しく感じる可能性は十分にあるということ。それぐらいには、現代の短期熟成の安いウィスキーとは違う味ですし、不出来なウィスキーでもないのです。

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ワイルドターキー13年ファーザー&サンは、トラヴェル・リテイル専用として2020年に限定リリースされた製品です。86プルーフで、1リットル瓶に入っています。日本では長期熟成のワイルドターキーというとWT12年101に取って代わった同じ13年熟成のディスティラーズ・リザーヴがある(あった)ので、あまり購買意欲をそそられないかも知れません。特に、そのボトリング・プルーフがディスティラーズ・リザーヴより低いのは懸念点でしょう。熟成年数が同じでプルーフが類似している二つを飲み比べた海外のレヴュアーの方々の感想を見ると、ディスティラーズ・リザーヴの方が良いとするものとファーザー&サンの方が良いとするものの両方があります。自分がどっちに転ぶかは実際飲んでみるしかない。と言う訳で、さっそく。

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WILD TURKEY 13 Years Father & Son 86 Proof
推定2020年ボトリング。色はオレンジ寄りのブラウン。アップルサイダー、ヴァニラ、焦げ樽、ライスパイス、ビオフェルミン、アーモンドトフィー、パイナップル、タバコ、杏仁豆腐、チョコレート。アロマはフルーツをコアにお菓子のような甘い焦樽香とスパイス。口当たりは水っぽい。パレートはフルーティだがメディシナルノートも。余韻はミディアムショート、クローヴが強めに現れチャードオークのビター感と僅かにバターが残る。
Rating:86.5→84.5/100

Thought:アロマは凄く良いです。香りだけなら日本で流通しているディスティラーズ・リザーヴ13年よりファーザー&サンの方が良いと思います。ただ味わいはディスティラーズ・リザーヴ13年の方が旨味があった気がします。よって同点と言いたいところなのですが、こちらは開封してから暫くすると妙に渋みが強くなったのが個人的にマイナスでした。これが上記のレーティングの矢印の理由です。もしこの変化がなければ、ディスティラーズ・リザーヴ13年よりプルーフが低いのを考慮すると、こちらの方がリッチなフレイヴァーだったのかも知れない。とは言え、両者はかなり似ています。何ならダイアモンド・アニヴァーサリーから一連のマスターズ・キープに至る近年の長熟ワイルドターキーに共通の風味があります(いや、もっと昔のターキーでも少しはあったりするのですが…)。それは薬っぽいハーブ感とでも言うかクセのあるスパイス香とでも言うのか、とにかく私としてはバーボンに求める風味ではありません。それが少し香る程度なら崇高性を高めるのでアリなものの、他のフレイヴァーを圧倒するほどになると話は変わって来ます。これが私個人が近年の長熟ターキーをあまり評価しない理由です。アロマ以外でファーザー&サンの良い点としては、飲み終えた今にして思うと、飲む以前に気になっていたプルーフィングの低さ、即ち加水量の多さは、却ってフルーティさを引き出していたのかも知れず、飲み易さの一点に関しては功を奏していたように思います。また、ラベルの豪奢な雰囲気はなかなか良いのでは?

Value:メーカー希望小売価格は約70ドル程度のようです。日本での流通価格もそれに準じているでしょうか。13年物のワイルドターキー・バーボンが1リットルも入っているのだから、長期熟成酒の価格が高騰している現状を考慮すると、その値段に見合うだけの価値はあると思います。但し、8年101よりディスティラーズ・リザーヴ13年を好む方にのみオススメです。

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オールド・オーヴァーホルトは、アメリカン・ウィスキーの中で最も古くから名前の知られたブランドの一つであり、嘗てアメリカで最も尊敬され高く評価されていたウィスキーの一つであり、1810年にまで遡るとても歴史のあるライ・ウィスキーのビッグネームです。ユリシーズ・グラントやドク・ホリデイ、ジョン・F・ケネディなどの著名人に好まれたと言われています。19世紀のライ・ウィスキーの隆盛でモノンガヒーラ(マノンガヘイラとも)を代表するラベルとなったオーヴァーホルト・ライは、次第にアメリカ有数のブランドとなり、禁酒法時代にも薬用ライセンスの下で販売は継続されました。禁酒法以後もナショナル・ティスティラーズの一部となって彼らの主力ブランドの一翼を担い、1987年にナショナルがビームに買収された後もオールド・グランダッドやオールド・クロウと共にブランドは維持されました。元々はペンシルヴェニア・ライでしたが、現在ではジムビームが製造するケンタッキー・ライとなっています。今回はそんなオールド・オーヴァーホルトを造った家族の物語とブランドの歩みをざっくりと振り返ってみましょう。

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ラベルに描かれた、時にこちらを睨みつけるように厳めしく、時に優しげに笑うようにも見える表情に変化した年配の紳士の名前がエイブラハム・オーヴァーホルトです。この人物が創始者で、1810年が会社の創立年ということになる訳ですが、オーヴァーホルト家の蒸溜の起源はもう少し前に遡ります。その時代の蒸溜は幾つかの農産物の一つであり、ウィスキーを造ることは農作業の一環に過ぎませんでした。しかし、ペンシルヴェニア州西部の自分達でも蒸溜する入植者の間でそのウィスキーは評判になります。1810年以降、オーヴァーホルト農場で造られたウィスキーは単なる自家消費を超えて拡大し、販売用の製品として確立することで農場の蒸溜はビジネスになりました(オーヴァーホルト蒸溜所の看板には1796年が創業の日と記されていたと云う話もあった)。取り敢えず、エイブラハムより前の世代の話から始めます。オーヴァーホルト家はペンシルヴェニア州の初期から関わるファミリーでした。

エイブラハムの直系でドイツから初めにアメリカへとやって来たオーヴァーホルトは、1730年頃にペンシルヴェニアのバックス郡に定住したマルティン・オーバーホルツァー(1709〜1744)のようです。彼らの一家はメノナイト信仰を持ち、宗教的自由を享受するためにウィリアム・ペンの招致する土地にやって来たのでしょう[※メノナイトは16世紀オランダやスイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れを汲むプロテスタントの一派。その名はメノー・シモンズから。再洗礼派のなかでも革命的傾向をもつ者とは異なり、暴力を否定する平和主義が特徴とされ、教会と国家の分離を主張したり、信者の自由意志に基づく再洗礼を基本とした純粋な教会の建設を目指し、兵役を拒否したため厳しい迫害を受けた]。
マルティンの息子ヘンリー・オーバーホルツァー/オーヴァーホールド(1739〜1813。生まれた時はヘンリッヒ。明確な時期は不明だが、次第に彼らの名前は英語化され、OberholtzerからOverholdに、そしてOverholtになった)は、1800年4月25日、バックス郡ベドミンスター・タウンシップにあり、ディープ・ラン・メノナイトの礼拝堂の隣に位置する農家/機織り/蒸溜を営んでいたホームステッドを1500パウンズの金銀のお金で売り払いました。そして妻アンナ、5人の息子、7人の娘、5人の婿、2人の姑、13人の孫といった家族全員と共に、大量の商品や家財道具をコネストーガ幌馬車に載せ、新しい土地を目指し、アレゲイニー山脈を超えペンシルヴェニアを横断する300マイルの長旅に出発します。遠路の末、この30数人の一団がウェストモアランド郡のジェイコブズ・クリーク地域、イースト・ハンティンドン・タウンシップに到着したのは1800年の夏でした。その頃、ペンシルヴェニア州の西部は東部からの入植者で急速に埋まり始めていました。ヘンリーと息子達は選んで購入した未開の土地を測量し、森を切り開き、キャビンを建て住み着きました。荒野を整えた150エーカー(後に263エーカー?)の彼らの農場は、ペンシルヴェニア州ピッツバーグの南東約40マイルに位置します。他のメノナイトと一緒に住む集落はオーヴァートン(後にウェスト・オーヴァートン)と名付けられました。よく、オーヴァーホルトの一家はウェストモアランド郡ウェスト・オーヴァートンに定住した、と記述されることがありますが、寧ろ彼らの入植地がウェスト・オーヴァートンになったというのが正確です。

多くのドイツ系メノナイト農民がそうであるように、ヘンリーもまたファーム・ディスティラーでした。ペンシルヴェニア州の初期の歴史では、典型的なフロンティア・コミュニティーにある蒸溜所の数がグリスト・ミル(製粉所)の数を上回っていた時期があったそうです。しかしそれは、平均的な入植者にとってウィスキーが小麦粉やミールよりも重要だった訳ではなく、海上の市場から遠く離れた辺境の農民にとって穀物をウィスキーに転換することが最も経済的な方法だったからでした。当時の蒸溜は典型的な農業産業であり、農民が自分たちの穀物を市場へ運搬するのをより容易にする必要性に基づいて行っていました。穀物やフルーツを首尾よく蒸溜酒に変えれば腐ることもなく輸送が簡便になり、お金や必要な物資と交換することが出来ます。ファーム・ディスティラーは臨機応変に豊富にあるものは何でも蒸溜しました。しかし、ヘンリーの父親の出身地であるドイツの一部では少なくとも1500年代から「korn(ドイツ語で穀物の意)」もしくはライ麦の蒸溜を得意としていたと伝えられます。また、1760年には既にドイツ系メソディストがペンシルヴェニアで「korntram(穀物蒸溜酒)」もしくは「rye-dram(ライ麦蒸溜酒)」を造っていた記録も残っているそうです。そこでヘンリーもその伝統を受け継ぎ、或る時期(1803年?)から丸太のスティルハウスを建て、栽培していた穀物から少量のウィスキーを造り始めたのでしょう。
そして、オーヴァーホルト家は織り物でも有名でした。一家が商業用蒸溜を始める前から機織機でカヴァレットを織っており、1~2日の作業で3~7ドルを請求したそう。1800年代半ばまでに流行したカヴァレットは、ベッド・カヴァーとして実用的かつ美しいもので、幾何学模様のものなどがありました。オーヴァーホルトの作品は大胆な色、花や唐草風の装飾曲線のパターンが多かったとか。その才はヘンリーの息子エイブラハムにも受け継がれていたようです。1784年に生まれたエイブラハムは家族が引っ越したとき16歳でしたが、10代の頃からバックス郡で織工の職を習得していた彼は、家系のルーツであるスイス(Oberholtzは1600年代にスイスからドイツへ移り住んだ)に伝わる織物製法とデザインを用いて、オーヴァーホルト家の事業で最も成功した一つである織物のカヴァレット製造に貢献しました。商業用製品のカヴァレットは西へ向かう入植者たちに重宝されたと言います。幌馬車がウェスト・オーヴァートンに停車し、彼らはオーヴァーホルトの雑貨店で生肉や乾物、各種備品を購入し、ハンディなカヴァレットや、その時ちょうどあればお手製の農場産ウィスキーも購入した、と。
参考
(ヘンリー・O・オーヴァーホルト作のカヴァレット)

他のオーヴァーホルト兄弟が原生林から農地を切り開いている間もエイブラハムは機織りに励んでいました。機織り機での労働は、家族やその周辺の広い隣人のために衣服の材料を提供したところから、斧を振るう兄弟たちの努力と同じくらいに重要な仕事です。エイブラハムはウィーヴァーとしてかなりの才能を示しましたが、彼の主な関心はウィスキー・メイキングにありました。どの農家もウィスキーの蒸溜方法を知っており、どの農場にも自分の蒸溜所がありました。但し、そうした初期のスティルは、手製の鍬と同じくらい粗末なもので、当時の他の農機具と何ら変わりはなく、小屋の傍に砥石とスティルがあっただけの話でした。開拓者は自活するか自滅するかのどちらかであり、スティルの手入れをすることは牛の乳を搾ったりミールを挽いたり石鹸を煮るのと同じように家庭の義務でした。エイブラハムは、定期的に機織り機を離れてスティルの手入れをしながらウィスキー造りの技術を習得して行きます。

1809年、エイブラハムは、著名なメノナイト牧師兼農夫であったエイブラハム・ストウファーとアンナ・ニスリーの娘マリア・ストウファーと結婚しました。彼は自分と増え続ける一族のために新しい未来を切り開こうと決意します。エイブラハムは敷地内の丸太小屋のスティルハウスで行われる蒸溜作業の管理を引き継ぎ、翌1810年、弟のクリスチャン・オーヴァーホルト(1786〜1868)と共に父親の農場の「特別な利権」を購入し、長老達からログ・キャビン・ディスティラリーを新設する許可と十分な広さの土地を得ました。彼が26歳で新妻マリアとの最初の子供の誕生を待っていた時のことでした。8月10日にヘンリー・ストウファー・オーヴァーホルト(1810〜1870)はこの世に生を受け、エイブラハムは新しい蒸溜所を建設し、秋の収穫と共に最初のライ・ウィスキーを製造しました。やんちゃなメノナイトと見做されたエイブラハムは、身長5フィート8インチ(約173cm)で、質素かつ勤勉で節約家な気質を持っていたと言われています。丸太で出来た小さな蒸溜所は、当初はマッシングのための穀物を薬剤師が使うような乳鉢で潰すという極めて小規模なもので、生産量は週に数ガロンと限られており、まだフルタイムの蒸溜業ではなかったのかも知れませんが、ともかくも家業を副業としての一般農業から本業としてのウィスキー造りに移行させました。
蒸溜酒ビジネスは急速に成長していたようで、2年後に娘のアンナ・ストウファー・オーヴァーホルトが生まれた頃、エイブラハムは共同経営者である弟クリスチャンの農場の持分を1エーカーあたり50ドルという当時としては高値で買い取りました。クリスチャンはある時期から、スミストンの近くにホワイトオークの林を購入し、以後、一家のための木材を供給するようになったそうです。エイブラハム夫妻の次男ジェイコブ・ストウファー・オーヴァーホルト(1814〜1859)が生まれる頃には、蒸溜酒製造事業は順調に進んでいたことでしょう。年月が経つにつれ、エイブラハムは蒸溜に益々力を入れるようになります。創業から10年を経た1820年代には1日に約12〜15ガロンのライ・ウィスキーを蒸溜し、お金を稼いでいたようです。スティル自体のサイズは1811年から1828年の間に三回増大し、1814年には150ガロンから168ガロンに、1823年には212ガロンに、そして1828年には324ガロンになりました。

エイブラハムとマリアは8人の子供(6人の息子と2人の娘)を儲け、子育て、農場経営、作物の栽培と収穫、そして蒸溜と非常に忙しい家族でした。 農作業と並行してオーヴァーホルトの少年達、特にヘンリーとジェイコブは若いうちからウィスキー製造事業に携わるようになっていました。彼らは、悪路ばかりでワゴンの車輪がよく壊れていた時代に、近くの町の製粉所への穀物の運搬を文字通り一手に引き受けていたと云う話が伝わっています。それは牛が牽く頑丈なワゴンでの長く、疲れる、厄介な旅でした。1832年、エイブラハムは新しい石造りの蒸溜所を建設し、1日あたりの生産量を150ガロン以上に増やします。これは年間55000ガロン近くの生産容量でした。1834年には蒸溜所の近くにレンガ造りの自前のグリスト・ミルが建てられ、穀物を他の場所に運んで製粉する必要がなくなりました。これにより、ヘンリーとジェイコブが直面した多くの遅延、扱い難い牛に苛々したり、泥濘に嵌ったり、車輪修理工も鍛冶屋もいないウィルダネスでの偶発的な故障で立往生といった穀物運搬に関する問題は一応の解決を見ます。荒野を切り開いて来た牛たちは農作業に使われるようになりました。この投資は上手く行き、副業の小麦粉ビジネスでも利益が齎されたようです。新しい製粉所が本格的に稼動し始めた1834年の秋には、24歳の息子ヘンリー・Sが事業の半分の利権を購入し、その後A.& H.S.オーヴァーホルト・カンパニーを名乗るようになりました。また同じ頃、エイブラハムは事業の拠点であるウェスト・オーヴァートンに立派なジョージアン様式の家を家族のために建てました。程なくしてウェスト・オーヴァートンのウィスキーには「オールド・ファーム・ピュア・ライ」というブランド名が付けられます。エイブラハムはウィスキーの正しい造り方を知っている人物として急速に評判を高め、その人気に乗じて彼の蒸溜は堅固なビジネスとなり、その勢いは留まるところを知らないようでした。1843年、オーヴァーホルトの「オールド・ライ」がボルティモアの新聞広告に掲載されました。当時は蒸溜業者による製品のブランド化はまだ一般的ではなく、ウィスキーの殆ど全てを卸売業者や小売業者に樽売りしていたので非常に珍しいことでした。名前を出して宣伝する価値があるのはごく少数のトップ蒸溜所だけだったのです。
蒸溜所が拡大を続けるにつれて、労働者の家の村が作られました。これらの入居者は、クーパーやら製粉係やら労働者としてエイブラハムのために働きました。後に、この土地に石炭が埋蔵されているのを発見したときは、石炭を掘る人たちもいました。敷地内には、1846年頃にヘンリー、1854年頃にクリスチャンのために建てられた二つの家もあり、後者は会社の店舗を兼ねていたそうです。ウェスト・オーヴァートンの繁栄は、周辺地域の繁栄に繋がりました。蒸溜事業はそれを支えている他の地場産業を生み出し、結果、多くの家庭が安定した賃金を得られるようになった、と。そして家長で創設者のヘンリッヒ・オーバーホルツァーの息子や娘や孫は、子供達のために無料の公立学校の設立、道路の敷設、学校や礼拝堂の建設、ウェスト・オーヴァートンとその周辺の数々の市民事業のための資金調達など、地域の福祉に貢献しました。こうしてウェスト・オーヴァートンは発展を続け、供給と流通のシステムが整備されるとオーヴァーホルトのウィスキーはネイション・ワイドな評判を得、良い顧客にも恵まれて需要は常に供給を上回り、1850年代前半も彼らのライの人気は継続したようです。
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1850年頃、エイブラハムは息子のジェイコブを自分とヘンリーの完全なパートナーとして事業に参加させました。オーヴァーホルトの事業が始まって40年経ち、物事はより複雑になり、彼らの成功は老いたエイブラハムの力だけでなく、ヘンリーとジェイコブのビジネス・スキルに負うところも多くなっていました。1854年、ジェイコブとヘンリーは自分たちで(或いはエイブラハムから資金提供を受けて?)ウェスト・オーヴァートンから南へ6マイルの距離、モノンガヒーラ・リヴァーの支流であるヤッカゲイニー・リヴァーの畔に位置するブロード・フォードに大規模で近代的な2番目の蒸溜所を建設することにします。彼らが大きな蒸溜所の建設についてどれだけ熟慮したかは判りませんが、オーヴァーホルトの一族は事業の拡大は「緩やかな速度で安全に進める」のを信条としていたようなので、更なる拡大が疑問視されることのない状況もしくは必要に迫られるくらいの需要があったことでしょう。ブロード・フォードは川に面していたため、蒸溜所は良好な水源と河川交通の恩恵を受けることが出来ました。フラットボートで穀物を運んだり、ウィスキー樽を積み込み、蒸汽船でモノンガヒーラ・リヴァーを経てピッツバーグのドックに向かったり。また、そこは重要なことに真新しいピッツバーグ&コネルズヴィル鉄道の線路のすぐ隣でした。モノンガヒーラ・ライに対する需要の高まりと新しい鉄道路線に直ぐアクセス出来ることは、成功が約束されたようなものだったのです。彼らはそこで「オールド・モノンガヒーラ」を造りました。
ジェイコブ・オーヴァーホルトは、新しいプロジェクトに力を注ぐあまり、ウェスト・オーヴァートンとブロード・フォード間を行き来するのが負担となり、1855年に兄とのビジネスを友好的に解消してブロード・フォードに移り住んでそちらへ全力を注ぐことにしました。彼がそこで最初に行ったのは、主に当時建設が予定されていたヴィレッジと蒸溜所の資材を供給するための製材所を設立することでした。ジェイコブの監督下で、初めは3軒の住居しかなかったブロード・フォードの地域は、間もなく賑やかなヴィレッジに成長したと言います。1856年、ジェイコブはいとこのヘンリー・O・オーヴァーホルト[※オーヴァーホルト家はファーストネームに関して無頓着で、同じ名前が多いため、ミドルネームで認識する必要があります。このヘンリー・Oはカヴァレットの織工でも有名で(前出の参考画像)、エイブラハムの兄マーティンとその妻キャサリンの次男です]を事業のパートナーに迎え入れました。

ブロード・フォードでジェイコブが造ったウィスキー「オールド・モノンガヒーラ」は少し誤解を招くかも知れません。これはブランド名だったのかも知れませんが、寧ろそれよりは特定のスタイルを意味していたと思われます。ペンシルヴェニア州西部の川沿いで造られるライ・ウィスキーは以前からオールド・モノンガヒーラとして知られ、例えばウェスト・ブラウンズヴィルのサム・トンプソン蒸溜所(1844年建設)のウィスキーもそう呼ばれていました。そして、1851年に出版されたハーマン・メルヴィルの有名な『白鯨(モビー・ディック)』には「もしくは言いようのないオールド・モノンガヒーラ!(言葉に表せないほど素晴らしいの意)」との台詞があり、アメリカン・ウィスキーの研究家にしばしば引用されています。メルヴィルがウィスキーというワードを使わずに「オールド・モノンガヒーラ」というワードを使ったのは、その名称にスタイルとある程度の普遍性があったからでしょう。また、北アメリカの鳥類を自然の生息環境の中で極めて写実的に描いた博物画集『アメリカの鳥類』で知られる画家で鳥類研究家のジョン・ジェイムズ・オーデュボンは、ケンタッキー州で開催されたバーベキューを楽しんだことに就いての日付不明のエッセイに「オールド・モノンガヒーラが群衆のために多くの樽を満たしていた」と記述しているそうです。オーデュボンは1851年に亡くなりました。つまり、彼らはブロード・フォード蒸溜所が操業するよりも前にそれらを書いていたのです。『白鯨』での台詞にはオールド・モノンガヒーラと並ぶかたちで「オールド・オーリンズ・ウィスキー、またはオールド・オハイオ」とも言われています。
“That drove the spigot out of him!” cried Stubb. “‘Tis July’s immortal Fourth; all fountains must run wine today! Would now, it were old Orleans whiskey, or old Ohio, or unspeakable old Monongahela! Then, Tashtego, lad, I’d have ye hold a canakin to the jet, and we’d drink round it! Yea, verily, hearts alive, we’d brew choice punch in the spread of his spout-hole there, and from that live punch-bowl quaff the living stuff.”
(Moby-Dick; or, The Whale─Chapter 84 : Pitchpoling)
第84章のこの箇所は、捕鯨船ペクォード号の二等航海士で長槍の遠投の名手スタッブが、仕留めた鯨から噴き出る血を見て良質な三種のウィスキーに喩えた空想的台詞。血の代わりにそれらのウィスキーが噴き出すなら大パーティーだという訳です。歴史家の中にはこの言葉を引用してバーボン・ウィスキーの製造が順調に普及していたことを示す人もおり、確証はありませんが、この「オーリンズ」や「オハイオ」はバーボンの別名だったのかも知れません。おそらくケンタッキーのバーボン郡(乃至は北部)から出荷されたウィスキーがオハイオ・リヴァーを下りニュー・オーリンズに到着すると、販売される地や運ばれた道程の名称が付けられたのではないかと。ウィスキーの種類として「バーボン」が最初に言及されたのは1820年代にまで遡るらしいのですが、広く一般化したのは南北戦争の後と言われるので、それ以前に「オーリンズ」や「オハイオ」とか、或いは他の名称が乱立していても不思議ではない気がします。それは扠て措き、ここで重要なのは地名ではなく、寧ろ「オールド」の方です。オールドの付いたウィスキーの特徴は熟成されていることでした。1820年代には、ライ・ウィスキーは熟成スピリットとして普及し始めていたと言われます。このスタッブの台詞は『白鯨』の書かれた時点で読者がこの比喩を理解できるほどにエイジド・ライの人気が高まっていたことを示すものでした。とは言え、熟成されていないライの需要もまだ十分にあり、1860年代に出版されたレクティファイングの本には、熟成と未熟成の両方のモノンガヒーラ・ライのレシピが紹介されているそうです。また、未熟成のウィスキーは無色透明、使用済もしくは焦がしていない樽で熟成したウィスキーは黄色がかるため、当のウィスキーが「レッド」と呼ばれる場合は焦がした新樽で熟成されていた可能性が示唆されています。確かに、赤みを帯びた琥珀色、即ち熟成したレッド・ウィスキーの色だからこそスタッブの血をウィスキーに見立てる喩えが成立するでしょう。1800年代初頭であれば、河川をフラットボートで、或いは山間を馬車でゆっくり輸送されたウィスキーは意図せず熟成し、市場に出るまでに色づいたのかも知れない。しかし、蒸気船や鉄道が出来ると輸送は月単位ではなくなり、蒸溜業者は意図的にライを倉庫で熟成させるようになったと思われます(2〜4年程度?)。遅くとも1800年代半ば頃には、普通のウィスキーとは違うオールド・モノンガヒーラが広く知るようになり、ヴァニラやタンニン、レザーやタバコなどのバレル・エイジングから由来するフレイヴァーを得た赤褐色の液体は、良質のウィスキーを意味するようになったのではないでしょうか。今日我々の知る「オールド・オーヴァーホルト」というブランド名は、エイブラハム自身によるものではなく、彼の死後暫く経ってから作られることになります。
ちなみに、オーヴァーホルト以外のモノンガヒーラ・リヴァー付近からローレル・ハイランズ(ペンシルヴェニア州南西部地域のフェイエット、サマセット、ウェストモアランドの三郡)の有名な蒸溜所には、先ほど例に出したサム・トンプソン蒸溜所、ラフス・デールにあった1837年設立のサム・ディリンガー蒸溜所(*)、ベル・ヴァーノンの北にはギブソン・ピュア・ライウィスキー等を生産した1856年設立のギブソントン・ミルズ蒸溜所などがあります。これらよりもう少し北部のアレゲイニー・リヴァー沿いには、フリーポートにあり1800年代初頭に設立されたグッケンハイマー蒸溜所、シェンリーにあった1856年設立でゴールデン・ウェディング・ピュア・ライを製造したジョセフ・S・フィンチ蒸溜所、1892年設立のその名もシェンリー蒸溜所がありました。

フェイエット郡にあるブロード・フォード蒸溜所のプロジェクトが進展する一方、ウェストモアランド郡のウェスト・オーヴァートンも経営は順調だったようで、1859年、ウィスキー製造と小麦粉製造の需要に耐え切れず、旧来の蒸溜所と25年間運営されたグリスト・ミルを取り壊し、二つの機能を統合した6階建て(5と1/2階建てという説も)、長さ100フィート、幅63フィートの大きなレンガ造りの新しい施設に建て替えられました(おそらくブロード・フォードの初期蒸溜所と同規模?)。この時、クーパレッジも追加で併設されたようです。粉砕室では毎日200ブッシェルの穀物と50バレルの小麦粉が生産され、この頃の蒸溜所の1日あたりのウィスキー生産量は860ガロンだったとか。この建物は現在でも、ペンシルヴェニア州で南北戦争前の唯一無傷の工業村、ウェスト・オーヴァートン・ヴィレッジのウィスキー博物館として残っています。
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(WIKIMEDIA COMMONSより)
後にオールド・オーヴァーホルトの歴史に大きく名を残すエイブラハムの孫ヘンリー・クレイ・フリック(このあと取り上げます)の娘ヘレンは、曽祖父母であるエイブラハムとマリアが住み、父親が生まれたウェスト・オーヴァートンの建物を1922年に購入し始め、このサイトを運営および維持するためにウェストモアランド=フェイエット歴史協会を1928年に設立しました。ヴィレッジは残された18棟のオーヴァーホルト・ビルディングで構成され、国家歴史登録財にリストされています。博物館でオーヴァーホルト家の歴史を知るだけでなく、ホールで結婚式を挙げたりも出来るみたいです。また、1世紀を経た2019年、規模は小さいもののウィスキーの蒸溜が再び開始され、ウェスト・オーヴァートン・ディスティリングの名の下でオールド・ファーム・ブランドが復活しています。

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新しいウェスト・オーヴァートン蒸溜所がオープンしたのと同じ年、父エイブラハムの75歳の誕生日の翌日、1859年4月20日、残念なことにジェイコブ・S・オーヴァーホルトが亡くなりました。ジェイコブは「最後の病気」まで自分の巨大なビジネスに厳しい注意を払っていたと報告されています。彼は大きなエナジーをもってビジネス活動を行う誠実な人物であり、慈善活動で著名な彼は貧しい人々を決して見捨てなかったそう。若い頃から農場で働く傍ら蒸溜所にも従事し、蒸溜のビジネスを学んだジェイコブはすぐに熟練して兄のヘンリー・Sと共に父親から実質的に事業の管理を任されていました。マスター・ディスティラー、ビジネスマン、起業家として素晴らしいキャリアを残し、彼をよく知る人の言葉を借りれば「皆の友達」であり、 家族にとってはメリー・フォックスの夫で9人の子供の父親でした。
エイブラハムはジェイコブの死後、ブロード・フォード蒸溜所の3分の2のシェアを買い取り、ヘンリー・Oを3分の1のシェア・パートナーとして経営を続けます。ヘンリー・Sは父親のウェスト・オーヴァートン・ディスティリング事業のフル・パートナーのままです。エイブラハムはブロード・フォードと、安価なブランドの「オールド・ファーム」を製造するウェスト・オーヴァートンの両方の事業を合体させ、「A.オーヴァーホルト&カンパニー」として営業し、国内最大級のウィスキー・メーカーの地位を確立しました。その名声は国内の至る所に広まり、西部の川を船で下る人々は、南部と西部の市場でオーヴァーホルトのウィスキーが高値で取引されていることを明言したと言います。ウィスキーは平原やロッキー山脈を越え、拡大するフロンティアに伴い西部の遥か彼方へと運ばれて行きました。

ブロード・フォードでのジェイコブの後釜に据えられたのは、エイブラハムの孫、エイブラハム・オーヴァーホルト・ティンストマン(1834〜1915)のようです。彼はエイブラハムの娘アンナとその夫ジョン・ティンストマンの第3子で、25歳になるまで父親の農場で働き、それから祖父の所有するブロード・フォードに移りました。A・O・ティンストマンは名高いオーヴァーホルト・ウィスキーの製造、蒸気駆動の製材所での木材の切断、ブロード・フォードの敷地内で行われている農業などを日々監督し、経営者としての能力はすぐに明らかになったと言われています。1864年にはヘンリー・O・オーヴァーホルトが事業からの引退に際しブロードフォード蒸留所の3分の1のパートナーシップを売り払い、A・O・ティンストマンがマネージャーから祖父の共同経営者となってA.オーヴァーホルト&カンパニーの経営を継続しました(1968年とする説も)。

南北戦争(1861〜1865)はウェスト・オーヴァートンとブロード・フォードの一家に深刻な影響を及ぼしました。エイブラハム・オーヴァーホルトは高齢にも拘わらず、エイブラハム・リンカーンを支持し、国の状況を憂慮して個人的に知っている戦場の兵士を励ますために二度ほど戦場を訪れたそうです。特に軍服を着たオーヴァーホルト家の人々を訪ね、そのうちの何人かは戦争中に亡くなったらしい。但しその戦禍は、ケンタッキー・バーボンがほぼ全ての輸送手段の全滅によって荒廃したようには、ペンシルヴェニア・ライに悪影響を与えることはなかったようです。鉄道の破壊や河川の封鎖による運輸の停止などはピッツバーグやフィラデルフィアでは起こりませんでした。戦争の間、グラント将軍を始めとする無数の将校や兵士がオーヴァーホルト・ウィスキーを飲んでいたという話があります。また『リンカーンが撃たれた日』という本の著者は、オーヴァーホルト・ウィスキーはリンカーン大統領のお気に入りの酒だったと述べているそうです。

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エイブラハム・オーヴァーホルトはウェスト・オーヴァートンの自分の農場で1870年に亡くなりました。実は息子のヘンリー・S・オーヴァーホルトも父と同じ年に亡くなっています。ヘンリー・Sは、1870年1月15日にエイブラハムが亡くなるまで父と共に事業を行い、同年6月18日、父に続いて墓場へと向かいました。父とのパートナーシップを結ぶ前から製粉と蒸溜の事業をヘンリー・Sは全般的に監督していたそうです。 彼は父親の特徴を多く受け継ぎ、ペンシルヴェニア州西部で最高の実業家の一人と見なされていました。少年時代から死の直前まで極めて道徳的な人生を送り、社交面では多弁ではなく寡黙でしたが、非常に人気があり、彼を知る全ての人に愛されていたと伝えられます。
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エイブラハムに話を戻しましょう。彼は86歳で亡くなるまで家族の蒸溜作業の管理に直接関与していたと言われています。1月15日土曜日の朝、いつものように起き、ランタンを持って外に出たまま帰ってこないので、家族が探しに行くと、納屋(屋外トイレ?)の中で余命幾ばくかという状態で発見されたそう。エイブラハムはしっかり者のジェントルマンで、秩序正しく業務を遂行し、決断が早く、将来に対する明確なヴィジョンを持ったビジネスマンでした。時間を厳格に守り、支払いを求める債権者を失望させたことは一度もありませんでした。従業員には優しく、全ての取引に於いて率直だという評判は近郷に広く知れ渡っていました。公共心が旺盛で、コミュニティ施設の建設にいち早く取り組み、パブリック・スクールを早くから熱心に提唱し支援しました。長年に渡りメノナイト教会の信心深いメンバーであり、慈悲深い目的が必要な時には何時も喜んでその豊富な資金を提供する用意がありました。ビジネスで大成功した彼の遺産は多く、相続人には35万ドル払われたと言います。また、エイブラハムはウェストモアランド郡の一部で最初に石炭を発見し、最初に使用した人物でもありました。これはその地域の地下に莫大な量の良質な石炭が眠っていることを明らかにしました。発見以前は石炭は山の反対側から鍛冶屋に運ばれており、エイブラハムは当初、東部から時折り訪れる旅人へ珍品として公開していたそうです。南北戦争が終わるまでにエイブラハムは既にお金持ちでしたが、その大部分は彼の土地での石炭の発見から来たのかも知れません。おそらく石炭の発見は蒸溜事業の発展にとっても重要なことであったに違いないでしょう。

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先に名前を出したA・O・ティンストマンは、長年に渡り石炭とコークスに広く関心を寄せていました。彼は1865年にジョセフ・リストと共にブロード・フォード・ヴィレッジに隣接する約600エーカーの原料炭用地を購入します。1868年にその利権の2分の1をカーネル・A・S・M・モーガンに売ってモーガン&カンパニーを設立すると、共同でモーガン鉱山を開設して専らコークス製造に従事しました。その製品の販売先を確保するためにブロード・フォードから同鉱山までの1マイルの鉄道を敷きます。モーガン&カンパニーは当時この地域のコークス事業の殆ど全権を握っていました。ティンストマンは、1870年にはマウント・プレゼント&ブロード・フォード鉄道を組織し、ブロード・フォードにピッツバーグ&コネルズヴィル・レイルロードに接続する鉄道を建設、そして6年後にボルティモア&オハイオ・レイルロードに全鉄道を売却するまで社長を務めました。これがウェストモアランド郡におけるコークス事業の発展の始まりでした。
1871年、ティンストマンはジョセフ・リストと共に、エイブラハム・オーヴァーホルトのもう一人の有名な孫ヘンリー・クレイ・フリックのコークス会社であるフリック&カンパニーと提携しました。この会社はブロード・フォードに200基のコークス炉を建設しました。最初の100基はマウント・プレゼント&ブロード・フォード鉄道に沿って建てられ、そこはフリック製作所またはノヴェルティ製作所として知られていました。残りの100基はボルティモア&オハイオ鉄道のピッツバーグ支線に沿って建てられ、そちらはヘンリー・クレイ製作所と呼ばれました。1872年、モーガン&カンパニーはウェストモアランドのラトローブに400エーカーの原料炭用地を購入し、50基のオーヴンを建設しました。 ティンストマンは他にも炭鉱地を広範囲に購入し、その地域で最良の炭鉱地のほぼ全てを所有していましたが、1873年の金融恐慌の影響は甚大で、コークス事業は急に落ち込み、彼は全てを失いました。しかし、コークス事業が復活することに大きな自信を持ち、製造業の利益の中で最も早く確実に回復することを予見した彼は、その損失を取り返すべく果敢に取り組み、1878年と1880年にコネルズヴィル地域の広大な炭地をオプションで購入し、1880年には原価よりもかなり高い価格で約3500エーカーの土地を売却することで大きな利益を得、再び実業家として新たなスタートを切ることが出来ました。同じ頃、ピッツバーグにA.O.ティンストマン&カンパニーを設立し、すぐにライジング・サン・コーク・ワークスの半分のインタレストを購入します。1881年にはマウント・ブラドック・コーク・ワークスとペンズヴィル・コーク・ワークスを買収し、全部で約300のオーヴンを所有し運営して、その事業は成功を収めました。3年後にはコークス関連の権益を全て売却し、西ペンシルヴェニアと西ヴァージニアの炭鉱用地の購入に従事して、その後引退したようです。

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エイブラハム・オーヴァーホルトの名前はウィスキー愛好家にはよく知られていますが、そうでない一般の人々にとってもっと有名なのは、エイブラハムの孫であるヘンリー・クレイ・フリック(1849〜1919)でしょう。ブロード・フォードは長年に渡って鉱山と石炭供給の中心地として大きな活況を呈していました。この地域一帯には鉄道の線路が何本も交差しており、嘗ては毎日幾万台もの石炭やコークスの車輛がこの地を行き来していたと言います。そのような賑わいの中心にいた人物が、若き日にオーヴァーホルトの蒸溜所で事務員をしていたフリックでした。彼は「泥棒男爵(ロバー・バロンズ)」とも呼ばれた実業家の一人であり、アンドリュー・カーネギーと共にアメリカの偉大なる産業時代の創設者の一人であり、嘗て「アメリカで最も嫌われている男」の称号を持っていたユニオン・バスターであり、巨万の富を築いた金融家であり、世界的な美術品のコレクターであり、慈善団体に数百万ドルを寄付した慈善家でした。そんな彼の初期のキャリアはエイブラハム・オーヴァーホルトやA・O・ティンストマンによって引き上げられました。
ヘンリー・クレイ・フリックは、エイブラハム・オーヴァーホルトとマリアの次女であるエリザベス・ストウファー・オーヴァーホルトと、その夫であるジョン・ウィリアム・フリックの間に産まれ、両親の住むウェスト・オーヴァートンの農場で育ちました。1863年、14歳の時、ウェスト・オーヴァートンの叔父クリスチャン・S・オーヴァーホルトの店で店員を務め、16歳になると別の叔父マーティン・S・オーヴァーホルトの事務員としてマウント・プレゼントに移り住み、その後3年間そこで働きながら散発的に大学に通いました。1868年、ウェスト・オーヴァートンに戻った彼は、祖父エイブラハムに連れられてブロード・フォード蒸溜所に行き、そこで従兄弟のA・O・ティンストマンに月給25ドルで事務員として雇われます。同じ頃、クリスチャン・Sは甥のためにピッツバーグのマクラム&カーライルでの職を確保し、フリックは19歳の時に週6ドルでリネン&レース部門の事務員を務めました。しかし、新しい仕事を始めた直後に腸チフスに罹り、母、祖母、妹からの治療を受けるためにウェスト・オーヴァートンに戻って、そこの蒸溜所でセールスと経理を手伝いながら3ヵ月のあいだ無給で働きました。その後、A・O・ティンストマンからブロード・フォード蒸溜所で事務を担当するため年俸1000ドで雇われ直したようです。彼は長く仕事を続けることをしていませんが、一族からの推薦を受けて、様々な家族と働くことでビジネス・スキルを習得したのでしょう。
ヘンリー・クレイ・フリックは、数年前のエイブラハム・オーヴァーホルトと同様に、農場で最初に発見された石炭に興味を持っていました。彼は隣接する農場で小さなオーヴンを使って実験している人に信頼を寄せ、自分の貯金を叩いて資金を援助したそうです。或る日、冷却炉の残留物を削っていたその人は叫びました。「これは通常の石炭の熱を何倍にもするものだ!」と。フリックは「それは何に使えるのですか?」と尋ねると「鋼鉄を造るためだよ」との返事でした。彼はブロード・フォード蒸溜所のオフィスで毎日帳簿に向かいながらコークス生産の重大な可能性について考えました。その決断は速く、蒸溜所での決算を終えると夕方にはその地域一帯の農家を訪ね歩き、汎ゆるところから借りたポケットマネーで石炭用地をオプションで購入しました。若き日のフリックは夜通し走り回り、コートのポケットに約束手形の束を忍ばせ、ひたすらオプション取引を繰り返した、と。彼は事業を始めることを強く望み、帳簿管理以上の何かを目指し、不屈のエネルギーと判断力により、コークスと石炭で大金を稼ぐセンスを持っていることを示しました。すぐに彼のニーズは田舎の銀行との取引だけではなくなります。
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(Judge Thomas Mellon 1813-1908)
元弁護士/裁判官であったトーマス・メロンが1870年1月2日に息子のアンドリュー・ウィリアムとリチャード・ビーティーと共にピッツバーグでT・メロン&サンズ銀行(メロンの銀行は19世紀末までにニューヨーク以外で最大の銀行機関になったと云う)を開業しました。メロン一族は以前ウェストモアランド郡に住んでいました。トーマスの父は1818年にアイルランドからアメリカへとやって来てウェストモアランドに定住し、エイブラハム・オーヴァーホルトと親交を深めたと言います。トーマスもクレイ・フリックの母エリザベスが少女だった頃から知っていました。ちなみに、その昔、メロン家の農場にも蒸溜所があったそう。
1871年、ヘンリー・クレイ・フリックはピッツバーグに行き、予告なしにトーマス・メロンに面会を求め、彼のオプションを提示し、銀行とのコネクションを築くことが出来ました。彼はコネルズヴィル地区にビーハイヴ・コークス炉を建設し、炭鉱を購入するため1万ドルの融資を求めたと言います。トーマスは、鉄鋼事業が生み出すコークスの需要を予測した若きフリックの言葉に感銘を受け、そして数年後、H.C.フリック・コーク・カンパニーが鉄鋼業にコークスを供給する有力企業になれるよう十分な資金を提供しました。フリックはこの時、1万ドルを6ヶ月間10%の金利で借りて、コークス炉を50基建設するために持ち帰りました。トーマスが資金を必要とする商売の経験の浅い地方出身の若者の依頼に応じたのは、オーヴァーホルト家の名前と評判、エリザベス・オーヴァーホルトとの若い頃の友情と言った家族的背景も多少はあったかも知れませんが、コークスの需要は驚くほど高まっており、この取引と申請者の両方が健全であると判断したからでしょう。トーマス・メロンは1873年の経済恐慌(ピッツバーグの90の組織銀行と12の民間銀行の半分が破綻したらしい)で財産をほぼ失いましたが、フリックへの融資は経済が再び拡大し始めた時に繁栄するための賢明な投資の一つとなり、ピッツバーグが世界の鉄鋼業の中心地となる歴史の前段階に小さな役割を担いました。その後、フリックはアンドリュー・カーネギーのパートナーとなり、ライヴァルとなり、敵となり、一時はカーネギーの後継者として米国産業界で最も強力な人物となるのは歴史の知るところです。ちなみに当時、父親の銀行にいた若き日のアンドリュー・W・メロンはこの取引に呼ばれ、新しい顧客である新進気鋭の大物社長の目に留まり、アンドリューはクレイ・フリックより5歳年下でしたが、軈て良い友人関係となりました。この関係は後年、オーヴァーホルト・ライの歴史に重要な意味を持つことになります。
フリックがコークスの製造を開始するとウェストモアランド郡とフェイエット郡の町々は次第に繁栄、人口は大幅に拡大し、多様化しました。労働者の主な仕事は炭鉱とコークス炉でしたが、そこから派生する職業の雇用も生み出します。オーヴンのためのレンガ作りや石工、鉱山のための機械やその保守、鉄道の敷設やその保守から、肉屋、パン屋、燭台メーカーまで。1871年、フリックが21歳で従兄弟と友人と共に小さな共同事業を始めた時、30歳までに百万長者になることを誓っていました。生涯の友アンドリュー・メロンの家族からの融資のお陰もあってか、会社は順調に大きくなったようで、1878年に会社はH.C.フリック&カンパニーと改名、1000人の従業員を抱え、毎日100台の貨車にコークスを満載して出荷するまでになり、ペンシルヴェニア州の石炭生産高の80%を支配したとされます。1879年末の12月19日、フリックは30歳の誕生日を迎え、帳簿を調べると既に100万ドルの価値があり、人生の大望を達成していたことが分かりました。

ヘンリー・クレイ・フリックの並外れた富は主に鉄鋼と鉄道から齎されましたが、ウィスキーからも少し得ました。彼の所有権の下でオールド・オーヴァーホルトは国内で最も売れているライ・ウィスキーのブランドになります。フリックにとって、オーヴァーホルト家の故郷やブロード・フォードの蒸溜所は副次的な関心事、或いは感傷的なサイドビジネスに過ぎなかったかも知れませんが、彼の成功への引き金や支柱ではありましたし、その価値を知っていたのでしょう。
1870年にエイブラハムが亡くなった後、フリックの許に落ち着くまで、A.オーヴァーホルト&カンパニーの所有権は複雑に絡み合っていたようです。1875年、エイブラハム・オーヴァーホルト・ティンストマンがA.オーヴァーホルト&カンパニーに於けるブランド及び商標としての名前の使用権を含む3分の2の権利を購入しました。翌1876年には、A・O・ティンストマンはA.オーヴァーホルト&カンパニーのインタレストを、ブランド名および商標として会社名を使用する権利と共に、弟のクリスチャン・ストウファー・オーヴァーホルト・ティンストマンに譲渡します。同年、C・S・O・ティンストマンとクリストファー・フリッチマンがパートナーとなりました。1878年に彼らはジェイムズ・G・ポンテフラクトと1年間の共同パートナーシップを結びました。1881年には別の契約を結び、ポンテフラクトにA.オーヴァーホルト&カンパニーの社名と蒸溜所の様々な銘柄を1883年4月1日までの2年間使用する権利を付与します。
既に裕福であったヘンリー・クレイ・フリックは、この頃には資本家として完全な支配権を獲得する手段を持っていました。1881年、フリックはエイブラハム・オーヴァーホルトの遺言執行人(ヘンリー・Sの兄弟マーティン・ストウファー・オーヴァーホルトとクリスチャン・ストウファー・オーヴァーホルト)からA.オーヴァーホルト&カンパニーの名称を使用する権利を取得したり、ユニオンタウンのファースト・ナショナル・バンクとその他からA.オーヴァーホルト&カンパニーの3分の1の不可分権益を購入したそうです。更にティンストマンとフリッチマンから3分の2の不可分権益を購入し、フリックはブロード・フォードにある蒸溜所と土地、ブランドやトレードマーク、道具類や機械などを含む文字通り「ロック・ストック・アンド・バレル(一切合切)」の唯一の所有者となったとされます。ポンテフラクトは蒸溜所の経営パートナーとして留まったようで(3分の1の権利を所有?)、フリックは彼に5年間、当該敷地内でのウィスキーの製造、貯蔵、販売のために土地をリースしました。1883年にはティンストマンとフリッチマンがポンテフラクトにA.オーヴァーホルト&カンパニーの名称使用のためにリースしていた権利を引き渡すよう求めますが、ポンテフラクトは応じず、二人は彼を訴えます。1886年には、ティンストマンとフリッチマンがポンテフラクトに対して起こした訴訟が最高裁判所に到達。裁判がどうなったのかは、エイブラハムの来孫カレン・ローズ・オーヴァーホルト・クリッチフィールドが作成したタイムラインを見てもよく分かりません。ちなみにポンテフラクトは1884〜5年頃からジョセフ・A・フィンチ&カンパニーのパートナーとなり、有名なゴールデン・ウェディング・ライに関わってくる人物で、おそらくはピッツバーグを中心に活動したウィスキー・ディーラーかと思われます。彼のリカー・ディーラー仲間が「ペンシルヴェニアの他のどの男よりもウィスキーについて知っている」と信じていた程の人物だそうで、どうやらその頃ウィスキー・トラストやレクティファイアーがピュア・ウィスキーの市場を動乱させていると感じていたらしい。オーヴァーホルトのウィスキーを本物と認めていたからこそ、そのビジネスに関わりたかったのでしょうか? もしかするとオーヴァーホルトの代わりにゴールデン・ウェディングを製造することで、オーヴァーホルトから撤退したのかも知れませんね。ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりご教示いただけると助かります。

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1887年、クレイ・フリックは友人であり既に1882年に父から銀行の陣頭指揮を任されていたアンドリュー・W・メロンと、運営を担当したチャールズ・W・マウクをパートナーとして迎え入れ、それぞれが会社の3分の1を所有するようにしました。マウクはオーヴァーホルト・ブランドの優れたマネージャーだったようで、彼の在任中に同社はウィスキーの正式名称として「オールド・オーヴァーホルト」を採用し、1888年に家長だった人物への尊敬の念を込めラベルにエイブラハムのしかめっ面の肖像を添えるようにしたと伝えられます。これが今日でも我々にお馴染みの「顔」の始まりでした。またその頃、ウィスキーを樽ではなく主にボトルで販売するようにもなった模様。1897年にボトルド・イン・ボンド法が成立すると、すぐにその規定に従ったウイスキー製品を造りました。但し、同社は法定最低期間の4年を遥かに上回るウィスキーをボトリングしていたそうです。そして、従来小売業者に委ねられていた広告を初めは地域的に、その後全国的に出すようになったと言います。これは蒸溜酒メーカーとしては当時はまだ目新しいことでした。それが功を奏したのか、世紀の変わり目までにオールド・オーヴァーホルトは全国的なブランドに成長し、ペンシルヴェニア・ライ最大の生産者ではないにしても、20世紀初頭には一流のウィスキーとして最も尊敬を集める存在となりました。

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偖て、ここらでブロード・フォードの蒸溜所に話を戻します。ピッツバーグから30マイルほどの位置にあるコネルズヴィルのブロード・フォード蒸溜所は、ペンシルヴェニア・ウィスキーの歴史の中で最も重要な蒸溜所の一つであり、業界で最大ではありませんでしたが十分に大きく常に近代的な蒸溜所でした。1850年代半ばに建てられた当初から品質に対する評判は確立されていたのでしょう、1866〜67年頃に(68年とする説も)初期のジェイコブ・S・オーヴァーホルトの蒸溜所は取り壊されて、新しい施設に切り替えられたと言います。その後もミルとディスティラリーの継続的な拡張はなされ、1880年にはプロジェクト#3が開始、石炭を利用した蒸気動力により、一日当たりの生産能力は穀物800ブッシェル、ウィスキー3450ガロンとなりました。1899年には全工場を解体して改築し、新しいラック倉庫を追加する別の建築プロジェクトが開始されます。工事は1905年に終了し、1日当たりの生産量は穀物1500ブッシェル及びウィスキー6450ガロンを達成しました。新しいボトリング・ラインと品質を向上させるために独自の樽を製造するクーパレッジも備えていたたようで、熟成ウィスキーの在庫は膨大だったと伝えられます。しかし、全てが順風満帆という訳ではありません。ブロード・フォード蒸溜所は2回の大きな火災に遭いました。
1884年7月23日の火災では、当時の建物はレンガや石ではなく木造だったため、午後11時に一旦火が着くと誰もその炎を止められず、メイン・ビルディングと3つの保税倉庫、7000バレルのウィスキーが3時間で焼失したそうです。火災の原因は特定できなかったようで、「ミルの粉塵の自然発火」から「作業員の残した葉巻」まで様々な推測があったとか。火災の被害総額は55万ドル、うち建物と機械の損失は11万5千ドルと報告され、600バレルのウィスキーが収納された倉庫一棟は無事でした。
オーヴァーホルト蒸溜所の工場が火事で焼失してからちょうど21年。その間、工場は随時大幅に拡張され能力も向上し、アメリカ国内でも指折りの蒸溜所の一つとなっていました。当時のA.オーヴァーホルト社の株主には、アンドリュー・W・メロンの弟リチャード・B・メロンも加わっていたようです。1905年11月19日の日曜日に起きた2回目の火災では、蒸溜所本体は全くダメージを受けませんでしたが、巨大なウェアハウスDが炎に包まれ完全に焼失しました。建物は炎により徐々に崩れ、そこには非常に古い在庫とそれほど古くない在庫を含む16000バレルのウィスキーがあったものの、その全てが煙になったり地面に染み込んだりして消えました。これは当時の1日あたり6450ガロンの生産能力で約4ヶ月分に相当し、その頃のオーヴァーホルトのウィスキーは1樽平均50ドルの価値があったそうです。また、蒸留所に隣接するグレイン・エレヴェイターに入っていた7500ドル相当のライ麦10000ブッシェルが水に浸ってしまい全損しました。この火事はブロード・フォードの工場全体と町をも壊滅の危機に曝すものでしたが、オーヴァーホルト社の従業員の機転(燃え盛る倉庫の炎が収拾がつかないと見るや、プラントのエンジニアは他の倉庫に入って蒸気パイプを叩き壊し、それから蒸気の圧力を全開にして建物の内部全体を湿らせた)や、コネルズヴィルとニューヘイヴンの消防士の絶え間ない努力により、炎が建物の外に広がるのを防ぐことが出来ました。風が微風とはいえ川の方へ吹いていたことがそれ以上財産を食い荒らさなかった理由と見られ、もし風が川側から吹いていたらブロード・フォードの家屋も全て焼け野原となっていたかも知れません。1905年当時、ブロード・フォードの蒸溜所にはグレイン・エレヴェイター、穀物倉庫、約88000バレルのウィスキーを貯蔵できるウェアハウスA〜D、そして大きなボトリング・ハウスがあり、全て近代的な仕様で建設または改築され、徹底した保険が掛けられていました。株主達はウィスキーと建物だけで総額80万ドル以上の損失と見積もりました。火災の原因については、施設に近接してアクティヴな鉄道線路あったため 、通過する列車が火花を散らし、それがウェアハウスDに入り込んだのではないかと云う推測が有力視されています。最初の火災が発見される少し前にボルティモア&オハイオ鉄道の46号車がブロード・フォードを通過していたのだそうです。蒸溜所本体は無事だったので、おそらくニ週間後には工場を稼動させたでしょう(ジェネラル・マネージャーのジョン・H・ホワイトは当時の新聞記事でそう述べ、R・B・メロンもすぐにでも再建すると発表していた)。

残念ながら、ブロード・フォードにしろウェスト・オーヴァートンにしろ、そのウィスキーの味わいの秘訣とでも言うような部分、即ち原材料や蒸溜工程、またスティルの仔細については明確なことがよく分かりません。スピリッツの歴史家デイヴィッド・ワンドリッチは、1880年にブロード・フォード蒸溜所が1日に約3450ガロンのライを生産していた頃、工場を視察した一人のジャーナリストがおり、彼は自分の「専門用語を覚える能力は平均以下」で「何の説明も出来ない」と告白しているけれども、カッパー・スティルを使用する会社は、昔ながらの製法であるという信頼性を大衆に示すため殆どの場合その事実を広告で言及したので、オーヴァーホルトの広告にはそのような記述はなかったことから、木製のスリー・チェンバー・スティルを使用していたと考えられる、という趣旨のことを述べていました。スリー・チェンバー・スティル(またはチャージ・スティル)は1800年代初頭のアメリカで発明され、1800年代半ばから後半に掛けて特にイースタン・ライ(ペンシルヴェニアやメリーランドのライ)のメーカーに流行し、禁酒法施行後間もなく姿を消したポット・スティルとコラム・スティルの中間様式の蒸溜機です。
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(J.B.ワセンが1875年頃に使用した直立式木造三室蒸溜機)
或る人はコンティニュアス・スティルとチェンバー・スティルの違いをエスプレッソ・マシンとフレンチ・プレス・コーヒー・メーカーの違いのようなものと喩えていました。前者は数秒で蒸気が通り、後者はお湯の中でじっくりと蒸らされるが、どちらもコーヒーでありながらその味わいは大きく異なる、と。殆どのバーボン用コンティニュアス・スティルではマッシュがスティルの内部で蒸気に触れている時間は約3分程度、対してスリー・チェンバー・スティルでは1時間近くのようです。どちらの技術もマッシュから全てのアルコールを抽出しますが、チェンバー・スティルの方がより多くのフレイヴァーを抽出するとされます。ワンドリッチは、ポット・スティルがマズル・ローダー、コラム・スティルがマシンガンとするなら、チャージ・スティルはその中間に位置するボルト・アクション・ライフルのようなものと喩えています[※マズルローダーとは、銃口(マズル)から弾を装填するタイプの銃のことで、主に火縄銃やフリントロック式などの先込め式古式銃のこと。マシンガンは、弾薬を自動的に装填しながら連続発射する銃。ボルト・アクションは、ボルト(遊底)を手動で操作することで弾薬の装填、排出を行う機構を有する銃の総称]。手動操作が必要ながら一度で2回半の蒸溜に相当し、ポット・スティルよりも安価かつ効率的に実行でき、それから生まれる製品はポット・スティル・ウィスキーよりもクリーンでライトでしたが、殆どのコラム・スティル・ウィスキーよりもヘヴィ・ボディでリッチなフレイヴァーだったところから、イースタン・ライの蒸溜所に愛用されたようでした。1898年の歳入局の調査によると大手のライ蒸溜業者16のうち13(そのうち9が木製)がチャージ・スティルを使用していたのに対し、バーボン蒸溜業者は10のうち1だけだったとか。ブロード・フォード蒸溜所も或る時にコラム・スティルに切り替えたのかも知れませんが、少なくとも1800年代後半はスリー・チェンバー・スティルを採用していたのでしょう。
ついでに蒸溜器以外でのケンタッキー・バーボンとイースタン・ライの相違点を挙げておくと、1880年代頃にはケンタッキー州の蒸溜所では規模の大小に拘わらずバーボンでもライでも、スペント・マッシュの一部を次のバッチに投入するサワーマッシュ・プロセスが一般的となっていたと思われますが、ペンシルヴェニア州やメリーランド州のライ蒸溜所はスペント・マッシュを使わないスイート・マッシュ・プロセスを多く採用していたと言われています。また熟成庫のスタイルも、ケンタッキーでは冬季に使用するヒート機能のない木造にトタンを貼ったリックハウスが主流なのに対し、ペンシルヴェニアやメリーランドでは冬の低温による熟成の遅れを防ぎ、一年中一定の温度を保つ蒸気加熱機能付きのレンガや石造りのウェアハウスを建てる傾向がありました。加熱式倉庫でウィスキーの品質を維持するためには低いバレル・エントリー・プルーフが重要だったと見られ、歴史的なライ・ウィスキーのバレルの中身は50%のエタノールと50%の水、つまり100プルーフでのバレル・エントリーだったとされます。あと、樽の大きさも現在より小さかったらしく、熟成に使われるライ・ウィスキー樽は通常42〜48ガロンだったとか。これらはケンタッキーとペンシルヴェニアの違いというより「今昔」の違いかも知れませんね。

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一方、20世紀への変わり目、ウェスト・オーヴァートンにあった製粉所と蒸溜所の複合施設はウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーと名前を変え、オールドファーム・ペンシルヴェニア・ピュアライ・ウィスキーの生産を続けていました。ウエスト・オーヴァートンで蒸溜/熟成されたこのウィスキーは、ブロード・フォードのより近代的な蒸溜所から生み出される製品に似ていたが同じではなかったとされます。その製品は人気を博し、いつしかウェスト・オーヴァートン蒸溜所の建物の広い面には「OLD FARM」という名前が描かれるようになりました。エイブラハムが創業した1810年以来この蒸溜事業はノンストップで続いており、1906年には50万ドルを投資して改修を行い、レンガ造りの6階半建てボンデッド・ウェアハウスAとB、ボイラー・ハウス、オフィス・ビルディング、ドライ・ハウス、新しいボトリング施設などを建設しています。ヘンリー・Sの息子エイブラハム・C・オーヴァーホルトの下で1907年に会社は再編成され、ウェスト・オーヴァートン蒸留所はウィスキーの生産を、A.C.オーヴァーホルト・カンパニーはヴィレッジの賃貸を管理することになりました。当時は禁酒法への機運が高まっており、既に幾つかの州ではアルコールの非合法化が決議され、アンチ・サルーン・リーグやウーマンズ・クリスチャン・テンペランス・ユニオンは会員を増やしていたので、後から振り返ると不確実な投資であったように思ってしまいますが、ウェスト・オーヴァートンでは年々ライの販売量が増え、1910年代初めまではまだまだマーケットは好調でした。しかし、改修から10年後、禁酒法を目前に控えるとウェスト・オーヴァートンで最後のスピリッツが製造されます。倉庫を一掃し、残った在庫はブロード・フォードに運ばれました。ウェスト・オーヴァートンの蒸溜所は長年に渡ってその地域の主要なビジネスでした。禁酒法により蒸溜所が閉鎖されると地域経済の多くの部門、穀物を栽培する農家、穀物を粉砕する製粉業者、樽を作るクーパー、ボトルを作るガラス職人などが苦境に立たされ、村の経済は大きく変貌しました。1928年頃から前に言及したヘレン・フリックがウェスト・オーヴァートンの土地を所有し、博物館として整備を始めるのです。では、次に時計の針を戻してまた別の流れを見て行きましょう。

ヘンリー・クレイ・フリックは1878年頃ピッツバーグに開設した近代的なビルディングの本社から、全国の営業所のネットワークを管理していました。しかし、20世紀に入ると禁酒運動の波は強さを増しており、上質なウィスキーを製造し販売するための窓口は閉ざされようとしていました。1907年、フリックとアンドリュー・W・メロンは、禁酒主義者に睨まれるのは得策でないと判断したのか、A.オーヴァーホルト&カンパニーの蒸溜ライセンスから自分達の名前を消すよう申請しますが、彼らの会社の所有権は残りました。1913年までに9の州が完全にドライとなり、別の31州では市や郡や小さな町および村でローカル・オプション(自治体選択権法)により酒類販売が禁止されていました。急速にアメリカのアルコール産業とディスティラーにとって物事は厳しくなり始めたのです。
そうした風潮に対応して幾つかの市場では、オーヴァーホルトの広告は古風なイラストを使って味わいと伝統を訴えるものからブランドの薬効を主張するものへと変わりました。それらの広告の中には、オーヴァーホルトを家庭の薬棚の伝統的な品目として位置づけ、家族の健康を管理する役割をもつ婦人が利用するようにアピールするものもあったそうです。或る広告では「祖母は風邪にホット・トディが効くことをよく知っている、彼女の少女時代からの間違いない治療薬」と書かれたり、また別の広告ではスタイリッシュな服を着た若い女性が薬品棚を開けている絵の下にオーヴァーホルトのような「第一級のウィスキーは家庭で薬用として使う」と述べていたとか。また、インフルエンザから「深刻な事態の予防」まで汎ゆることに効くという広告もあったり、看護婦が髭面で眼鏡を掛けた医師にウィスキーのボトルを渡している様子まで描き「大多数の病院で選ばれている」と書いているものもあったそうで、ここまで来ると胡散臭さ全開です。1800年代後半でも「家にオールド・オーヴァーホルトがなければ安全ではない」というスローガンを宣伝に掲げていたらしく、まあ誇大宣伝は以前からなのかも知れません。

1917年4月、アメリカはヨーロッパで勃発した第一次世界大戦に参戦しました。アメリカが戦争に突入するまでヨーロッパの食糧供給は低く、そこでは農業生産が途絶えていました。結果として生じた需要はヨーロッパとアメリカの両方で価格を上昇させました。しかし、作物、家禽、家畜、その他の農産物を拡大するには時間が掛るため、すぐに増産することは出来ません。そこで議会は管理を通じてアメリカの消費を削減することを決定します。これでアメリカの軍隊とその同盟国の軍隊を養い、更にヨーロッパで苦しんでいる人々に人道的な食糧救済を提供することも可能になる、と。8月10日、通称レヴァー・アクトまたはレヴァー・ローと知られる食品燃料統制法(Food and Fuel Control Act)が通過し、戦争に必要な食糧を確保するため蒸溜酒製造に於ける穀物や食材の使用を禁止しました。禁酒法を支持する人たちは、レヴァー・アクトは禁酒法への一歩だと考え、広く支持しました。この緊急戦時措置は第一次世界大戦の終わりに失効するように設定されていましたが、最終的な酒類禁止に向けた準備の多くのうちの一つという側面があったのです。戦時中は、仮にウィスキーが造れたとしても、穀物価格が高騰し採算が取れませんでした。そのため蒸溜所は操業を一時停止するか、または軍の燃料と製造ニーズに合わせたニュートラル・スピリッツの生産をしました。
ブロード・フォードのA.オーヴァーホルト&カンパニーでヘンリー・クレイ・フリックとパートナーだったリチャード・B・メロンは、1918年3月28日、フリックに宛てて「110000000ガロンの汎ゆる種類の飲料用蒸留酒」に就いての手紙を書き、禁酒法により閉鎖を命じられた後の利益に関することをあれこれ思案していました。同社はできる限りのことをし、1918年、ボトリング・ラインを稼働するために若い女性を多く雇い、買い溜めしたい人々へ向けてウィスキーを市場に流通させたそうです。1918年12月12日以前、A・W・メロン、R・B・メロン、H・C・フリックの三者はそれぞれA.オーヴァーホルト&カンパニーおよびウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーの二つの蒸溜会社の資本金全体の3分の1を所有していましたが、その日、二つのパートナーシップを形成し、1919年1月に彼らはA.オーヴァーホルト&カンパニーとウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーの保税倉庫に保管されていた大量のウィスキー在庫を含む全資産をそのパートナーシップに移譲させました。どちらの会社も1916年以降はウィスキーを蒸溜しておらず、1918年にそれぞれの事業の清算が開始されました。そもそもパートナーシップはそれらの清算を目的として組織され、ウィスキー証書の販売とストレージ、ボトリング、ケーシング、ストックの販売から成っていました。
第一次世界大戦が終わると、本格的な全国禁酒法が目前に迫っていました。大戦の銃声が止んでから二ヵ月後の1919年1月16日、遂に憲法修正第18条が批准されます。その年の暮れ、12月2日、ウィスキー業界の運命の転換と歩調を合わせるかのように、70歳の誕生日を数週間後に控えたヘンリー・クレイ・フリックは心臓発作でこの世を去りました。12月5日、長年の友人であり遺言執行者でもあるアンドリュー・W・メロンが参列した個人葬の後、ペンシルヴェニア州ピッツバーグのホームウッド墓地に埋葬されます。フリックは財産の6分の1を家族に残し、残りはニューヨーク、ピッツバーグ、そしてコネルズヴィル・コークス地域の慈善団体に遺贈されました。フリックが所有していたA.オーヴァーホルト&カンパニーの持分はアンドリュー・メロンに託され、これによりオーヴァーホルト家によるウィスキー事業の所有権は終わりを告げます。ここでは触れなかった興味深いフリックのその他の人生(サウス・フォーク・フィッシング&ハンティング・クラブの創設メンバーとしてサウス・フォーク・ダムの改造を行い、ダムの決壊を招いてジョンズタウンの大洪水を引き起こした事件や、労働組合に厳しく反対し、ホームステッド・スティール・ストライキで引き起こされた激しい闘争、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーとの出会いと対立、その財力により蒐集した膨大な「フリック・コレクション」など)は、彼のウィキペディアや伝記を参照ください。

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銀行家のアンドリュー・W・メロンはアメリカで最も裕福な男性の一人でした。1890年頃にはジョン・ロックフェラー、ヘンリー・フォードと並ぶアメリカ合衆国で最も財のある三人の富豪のうちの一人とすら言われています。オールド・オーヴァーホルト蒸溜所が成長するために資金を必要とした時、彼は親友のフリックを助けて来たのだと思います。また彼はフリックの財産の執行者でもありました。フリックの死後、アンドリューは当時国内で最大かつ最も成功したウィスキー事業の一つを管理するようになります。オールド・オーヴァーホルトの事業も、禁酒法によってアメリカの醸造所や蒸溜所の殆どが閉鎖を余儀なくされたのと同じように苦境に立たされました。しかし、アンドリューとの関係もあってか、オールド・オーヴァーホルトは政府が発行するメディシナル・ウイスキーの販売許可を得ます。このライセンスにより、オールド・オーヴァーホルトは既存のウィスキー・ストックを「医療目的のためにのみ」パイント・ボトルにボトリングし、合法的に薬剤師へ販売することが出来るようになりました。薬用ウィスキー会社はそれほどお金を儲けられる商売ではなかったようですが、ライセンスは貴重でした。アンドリュー・W・メロンはすぐ後の1921年にウォーレン・G・ハーディング政権下の財務長官に就任します。彼が座ったのは嘗てウィスキー・リベリオンを鎮圧するために西ペンシルヴェニアに進軍したアレグザンダー・ハミルトンが最初に座った椅子でした[※ハミルトンは初代財務長官。彼が連邦軍を率いた後、ペンシルヴェニア州西部の多くの人々が彼を軽蔑して肖像画を逆さまに吊るしたと云う]。このことがオーヴァーホルトのライセンス取得と関係していると疑われています。アンドリューは偉大な人物であり最高の成功を収めた実業家と考えられていたので財務長官となりましたが、もしや薬用ウィスキーのライセンスという有利な許可書を自らに付与したのではないか、と。そもそも財務長官就任前から蒸溜所の所有と銀行のトップであったことは懸念されていました。ちなみに弟のリチャード・B・メロンはアンドリューが財務長官に任命された年にメロン銀行の頭取に就任しています。ともかく、アンドリューのお陰でオーヴァーホルトの会社は存続でき、他の競合相手であったギブソンやグッケンハイマーのような広く人気のあったウィスキー会社は閉鎖を余儀なくされ、他にペンシルヴェニアで許可を得たのはアームストロング郡シェンリーのジョセフ・S・フィンチ蒸溜所くらいでした。ついでに言うと、1920年から1922年に掛けて政府はペンシルヴェニア州の二つの蒸溜所(ジェファソン・ヒルズのラージ・ディスティリング・カンパニーとスクラントン近くのバレット・ディスティリング・カンパニー)とメリーランド州の一つの蒸溜所(グウィンブルック・ディスティラリー)に少量の薬用ウィスキー製造を許可していました。

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(Christie'sより)
ところで、オーヴァーホルト・ライのボトルの中でも一際変わったラベルの物があります。お馴染みのエイブラハムの顔がなく、プルーフや熟成年数に関する記載もなく、ボロボロの巻かれた紙のイラストに「OVERHOLT RYE WHISKEY」の文字と年号の表記だけがあるシンプルなラベル(年は赤色で印刷)。2015年秋にクリスティーズが大量に競売にかけたことで有名になった物です。それらはメロン家の血を受け継ぐ一人、リチャード・メロン・スケイフ(全米屈指の資産家でありピッツバーグ・トリビューン=レヴューの発行人)のワインセラーから来たオーヴァーホルト・ライのプライヴェート・ボトリングでした。ヴィンテージには1904、1905、1906、1908、1909、1910、1911、1912年があり、ボトルはオリジナルの木製ケースに入れられて保管されていたようです。流れとしては、リチャード・B・メロンが1933年に他界し、子供のサラ・コーディリア・メロン・スケイフとリチャード・キング・メロンに多くのライを残し、サラはまたその遺産を息子のリチャード・メロン・スケイフに遺し、2014年に彼が他界すると、その遺産の購入者はオーヴァーホルト・ライが約60ケース残っているワインセラーを発見、クリスティーズがオークションを請け負った、という感じでしょうか。一説には、ブランドを所有していたアンドリュー・W ・メロンと弟のリチャード・B・メロンは、禁酒法が始まる直前、前もって保管していた過去15年間に生産された最高のライのバレルを個人消費のためにボトリングし、一族が「高貴な実験」による「大旱魃」を乗り切れるようウィスキー100ケースを自宅に送ったのではないかと考えられています。この場合ウィスキーは10〜14年寝かせた後、おそらく1919年あたりにボトリングされ、後に再ボトリングされたのだろうと推測されていました。他には、オークションに出されたガラス瓶は1930年代初頭のものとされているため禁酒法終了後に一部ボトリングされたのかも知れないとか、1930年代半ばから後半ボトリングとしている説もあり、その場合は凡そ20数年熟成のライだろうと予想されていました。これらはラベルの年号を蒸溜年とする見方です。
一方で、リチャード・メロン・スケイフの流れからではなく、アンドリューの息子ポール・メロンからオーヴァーホルト・ライを分けてもらえた人々がおり、そのプライヴェート・ボトルの存在は好事家の間で前々から知られていました。ポール自身による説明はかなり具体的です。「オーヴァーホルト・ペンシルヴェニア・ライウィスキーのこれらのボトルの歴史は次の通りです。1918年に禁酒法が制定された時、私の父はオーヴァーホルト蒸溜所の多くの株を所有していました。当時、株主は会社の解散に際し、報酬を現金か在庫のどちらかで受け取ることが出来ました。そこで父は自分の持分の大部分を在庫品、つまりウィスキーのケースで受け取ることを選択し、結局その殆どは私が受け継ぐことになったのです。それらはピッツバーグの我が家に何年も保管されていました。元々は1906年、1908年、1909年、1911年、1915年のケースがありました。今は1905年と1911年のケースしか残っていません。けれども、ラベルに記された年号は単にボトリングの日付だと思われ、そう仮定するとウィスキーは少なくとも12年から15年ほど木樽の中で熟成されていたものと推定されます。1930年代初頭、古いボトルの多くは欠陥があり、複数の亀裂が入り朽ち始めていました。そこで私はセラーにある全てを慎重に濾して瓶詰めし直しました。新しいボトルとそのラベルはオリジナルの正確なコピーですが、コルクを金属のスクリューキャップに取り替えるのが賢明であるように思われました」とのこと。彼はラベルの年号をボトリング年と考えていたようです。また、ポールの友人の友人の或る方は面白い話があるとして、下のようなエピソードを披露していました。「約20年ほど前、ヴァージニアの億万長者で慈善家のポール・メロンと知り合った私の旧友が1908年、1909年、1910年、1911年の4ケースのオールド・O(Old Overholt Ryeの愛称)を貰いました。私は1910年と1911年の2本のボトルをクリスマス・ギフトとして連続的に贈られました。それらは驚異的で、或るヴィンテージが他のヴィンテージよりも優れていたのを覚えています。どっちがどっちだったかは今となっては思い出せません。どうやら、大量の資産となるこれらの代物は、ポールの父アンドリュー・メロンによって、禁酒法時代に所有地の馬車小屋の床下の部屋に埋設されたらしい。それが60年代のある時期に発見され瓶詰めされた。ポールは、父親がよくゲスト達にそれをコニャックと偽っていた、と言っていました。そのままで実際コニャックにとてもよく似た味だったので、私はこの話を信じてるんです。今でもいくつか持っていたらいいのに!」と。
それと、ポールの二番目の妻バーニー・メロンことレイチェル・ランバート・メロンの遺産から来たというこのラベルのパイント瓶もネット上で見かけましたし、リチャード・ビーティーの息子リチャード・キングがリボトルしたと云う情報も見かけました。孰れにせよ、我々アメリカン・ウィスキー愛好家からすると全くもってメロン家の人々が羨ましいと言うしかなく、禁酒法開始前に製造されているこのウィスキーは、おそらくライとバーリー・モルトを原料とし、木製スリー・チェンバー・スティルで蒸溜され、加熱式倉庫で熟成されたものでしょう。オークション時から100年以上前のウィスキーでありながら状態は完璧であり、通常のオールド・オーヴァーホルトよりも樽の中で長い時間を過ごしたことで、よりリッチなスタイルのウィスキーになったと目されるその味わいを或る人は「ボトルの中のサンクスギヴィングみたい」と表現していました。つまり感謝祭で提供されるような料理を想起させる、ヴァニラ、シナモン、ナツメグ、カラメライズド・アップルが主体となっているらしいです。また1909年ヴィンテージは、杉、新鮮なリンゴ、ライ麦から来る柔らかなスパイシーさ、そしてトーストしたオークの風味が特徴、とされています。上述のワンドリッチも極めてリッチでとても良いウィスキーと絶賛していました。

禁酒法時代、オーヴァーホルト・ライは薬用ウィスキーとして合法的に処方されましたが、スピークイージーでも密かに売られていたと言います。実際、H・C・フリックがヨーロッパに負けないホテルを作ろうと計画し、600万ドルの資金で運営されたウィリアム・ペン・ホテルの地下で発見されたスピークイージーを調べたところ、禁酒法以前の日付のオーヴァーホルトのボトルが3本見つかったとか。オーヴァーホルト社は禁酒法が施行される直前、蒸溜所のスタッフと連邦政府のゲイジャーは昼夜問わず残業して働き、貨物列車2両分にあたる5000バレルのライを準備してフィラデルフィアへ出荷、そこからフランスに輸送したそうですが、このウィスキーがアメリカへ持ち帰られた(密輸)のではないかという憶測がありました。真相は藪の中とは言え、可能性は大いにありそうです。
メディシナル・パイントのオールド・オーヴァーホルトは画像検索で探してもあまり多く見つかりません。最もよく見かけるのは禁酒法時代後期にボトリングされたラージ蒸溜所産のものでしょうか。ウェスト・エリザベスのこの蒸溜所は特別な許可を得て1919〜1921年に蒸溜をしており、その時に生産された20000ガロンのウイスキーが保管されている非公式の集中倉庫でした。他にはウェスト・オーヴァートン蒸溜所産のものや、J.A.ドハティーズがボトリングした別ラベルのものもありました。
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(O.O.の薬用ウィスキーの裏ラベル)

1921年の段階で禁酒法の施行を監督していたのは、公式には財務長官でした。アンドリュー・W・メロンは直接の担当者ではありませんでしたが、禁酒法の施行は財務省内にあるため、厳密に言うと財務省のトップである人物は米国の禁酒法の執行責任者でもあったのです。大統領が蒸溜所を所有する人物を財務長官に指名したものだから、禁酒法支持者は激怒しました。彼らは禁酒法を施行する部署の責任者が蒸溜所と利害関係があることを好まず、アンドリュー・メロンに対して圧力をかけました。反サルーン同盟のような団体が全国的なキャンペーンを展開し、彼の名前は全国紙に載ります。アンドリューは世論の反発に耳を傾け、200万ガロン相当のオーヴァーホルト・ライの備蓄をユニオン・トラスト・カンパニーに引き渡し、オーヴァーホルト社を売却せざるを得なくなりました(アンドリューはピッツバーグのユニオン・トラスト・カンパニーのボード・メンバーであり、そもそも創設者だった)。ハーディング大統領の言い分としては、禁酒法の施行は財務省の管轄ではなく司法省の一部であるべきだ、と云うものでした。最終的にはハーディングの願いは実現することになり、1930年、禁酒法の施行は司法省に移され、最後はFBIの中の忘れ去られた小さな部門としてその役割を終えました。
1925年、ユニオン・トラスト・カンパニーはニューヨークのパーク&ティルフォード社にオーヴァーホルトを売却しました。残念ながらこの売却によってオーヴァーホルトの地元での所有は終わりを告げます。アンドリュー・メロンの伝記作家デイヴィッド・キャナダインは、メロンがフリックと設立したユニオン・トラスト社にオーヴァーホルトの全資産と残りのストックを買収させ薬用として販売するよう手配した、と述べていました。メロン自身はオールド・オーヴァーホルトのストックを使って酒類事業を実際に行う心算はなく、ヘンリー・クレイ・フリックとの長期的かつ緊密なパートナーシップの結果に過ぎないと常に考えていたようです。

パーク&ティルフォードは1840年に小売店および高級品の輸入業者として設立されました。その名前は創設者のジョセフ・パークとジョン・メイソン・ティルフォードから来ていますが、1923年にシガー・ストアの大規模なチェーンを運営していたデイヴィッド・A・シュルテ(**)によって購入されました。シュルテはロングアイランド東部でイチゴ摘みの仕事を始め、すぐにマンハッタンのタバコ屋の店員となり、驚くべきスピードでシガー・ストアを立ち上げ急成長させた男でした。タイム誌は「シュルテの名前は苦労して手に入れた富の象徴」と評したそうです。禁酒法時代を通じてパーク&ティルフォードはキャンディーを販売したり新しい香水を導入したりしましたが、シュルテがオールド・オーヴァーホルトを所有したのは、先を読んでの実験だったのかも知れません。禁酒法が終了すると、パーク&ティルフォードはそれを盛大に祝うかのように1933年12月5日、ヨーロッパ最高のウィスキー、ワイン、コーディアルを満載したチャーター船を海に浮かべ、ニューヨークとサンフランシスコに大量の貨物を上陸させて、裕福な人々の酒棚の再ストックを支援しました。どうやら酒類トレードの経験は満足の行くものであり利益も得たようで、シュルテは禁酒法終了後は酒類製造業に専念することにし、パーク&ティルフォード・ブランドの下にアメリカの古い優れた小規模蒸溜所を数多く集めます。1938年、パーク&ティルフォードはウィスキーの産地に近いケンタッキー州ルイヴィルに事務所を開設すると、先ずはルイヴィルのボニー・ブラザーズ蒸溜所を買収し、1940年にはペンシルヴェニア州ブラウンズヴィルのハンバーガー蒸溜所、1941年にはインディアナ州テル・シティのクロッグマン蒸溜所とケンタッキー州ミドウェイのウッドフォード・カウンティ蒸溜所、1942年にはメリーランド州グゥイン・フォールズのオーウィングズ・ミルズ蒸溜所と矢継ぎ早に買収して蒸溜事業を拡大、非常に大きな蒸溜会社になって行きました。こうしてパーク&ティルフォードは1930年代から1950年代に掛けて酒類ビジネスに於ける重要なラベルの一つに発展する訳ですが、これは別の話です。
シュルテはオーヴァーホルト・ライを手に入れるとすぐに、アメリカ政府へ180万ガロンのストックを原価で提供し、薬用ウィスキーとしてボトリングすることを提案しました。これは純然たる利他主義ではなく、1916年から製造していないウィスキーは日に日に古くなり味わいの木質化(オーヴァー・オーク)が進行していたからでした。しかし、この申し出は断られています。それが主な理由か判りませんが、1927年、シュルテはルイス・ローゼンスティールと取引を行い、シェンリーが既存のストック約20万ガロンを販売することになりました(ローゼンスティールはオールド・オーヴァーホルト・ピュア・ライウィスキーを24万ケース、ラージ・ピュア・ライウィスキーを12万ケース確保したとされます)。シェンリーはオールド・オーヴァーホルトとラージを所有していた訳ではなく、シュルテの代理人として20万ガロンをボトリングして販売することが契約内容であったらしい。ウィスキーは契約上、ボンデッド・ストレート・ウィスキーとしてラージとオールド・オーヴァーホルトのそれぞれのラベルで販売しなければならなかったようですが、それが実際にどんなものだったのかは私は画像で見たこともなく全く分かりません。 少なくとも長期間は販売されていないと思われます。シェンリーのオールド・オーヴァーホルトは、第二次世界大戦があったことを考えると40年代までは続いていないだろう、とアメリカン・ウィスキーの研究家ジョン・リップマンは推測していました。
混乱するのは、シュルテがオーヴァーホルトを手放した時期です。一説には、シュルテはプロヒビションが始まるとディスティラーやドラッギストでなくてもメディシナル・リカーで大儲けできることを証明したなどと言われ、1925年にオーヴァーホルト蒸溜所をメロンが支配するユニオン・トラスト社から在庫も含めて450万ドルで買収し、その後一転して27年に全てを770万ドルでアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)に売却した、とされます。AMSが持っていたライセンスはウィスキーの在庫を得るために買収したオーヴァーホルト社を経由したものだったとされているので、この情報と符号します。禁酒法にも拘らず、メディシナル・ライセンスは禁酒法施行前に製造されたウィスキーを販売する権利を与えるもので、ウィスキーの生産者から合法的にストックを購入することが出来、その後の業界の統合に非常に価値のあるものでした(1929年に政府が年間300万ガロンの蒸留酒の製造を許可するまではこのライセンスでは蒸溜は出来ませんでした)。1924年に設立されたナショナル・ディスティラーズは、1927年の段階でAMSの38%を所有し、禁酒法終了に向けた1929年にAMSの残りの発行済株式を購入しました。一方で、1932年の禁酒法廃止を目前にしてシュルテはブロード・フォード蒸溜所を改修して拡大、その数ヵ月後にブランド、蒸溜所、ウィスキー・ストックの全てをイェール大学出身の実業家でナショナル・ディスティラーズを率いるシートン・ポーターに売却したとか、1932年6月?にオーヴァーホルトとラージの両蒸溜所を100万ガロンに及ぶ新しいウィスキーと共に現金60万ドルと普通株式10万2000株でナショナル・ディスティラーズに売却したシュルテは大株主になった云々という情報もあったりして、27年と32年のどちらに売却したのか判らなくなります。シュルテの取引の詳細をご存知の方はコメントよりご教示ください。ともかくこの売却により、オールド・オーヴァーホルトのラベルはアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーのポートフォリオに入り、ナショナルはオールド・オーヴァーホルトとラージ両方の資産を手に入れることになりました。

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ナショナル・ディスティラーズのシートン・ポーターは同時代の多くの人に先駆けて禁酒法の廃止を予見し、閉鎖された蒸溜所やブランドを安いうちに買い漁っていました。おかげで禁酒法の解禁が訪れた時、ナショナルはアメリカ国内のウィスキー在庫の半分を所有するまでになっていました。そして、200を超えるブランドを所有するに至っていたのです。とは言え、それら全てのブランドが復活する訳ではなく、復活するものはごく僅かであり、プロモーションが行われるものは更に限られていました。オールド・オーヴァーホルトは、バーボンのオールド・テイラー、オールド・グランダッド、オールド・クロウ、メリーランド・ライのマウント・ヴァーノンと共に、ナショナル・ディスティラーズの大看板として選ばれたウィスキー・ブランドの一つでした。
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禁酒法が明けてすぐは、一見したところオーヴァーホルト・ライの状況は良好に見えました。ウェスト・オーヴァートンの蒸溜所は再開しませんでしたが、ブロード・フォード蒸溜所は拡張され、スティルに火が入れられると再び稼働し、未来に向かっていました。1914年時点に1日当たり7700ガロンのウィスキーを生産していたブロード・フォード蒸溜所は、禁酒法廃止後に生産量を増やし、1日当たり9760ガロンを生産するようになっていたと言います。エイブラハムの肖像が描かれたラベルのデザインは以前のものと殆ど変わりなく、売上も好調だったようです。しかし、おそらくレシピは禁酒法以前と全く同じではなくなったと見られ、工場の近代化による製造工程の変化は多少なりともあったのかも知れません。新オウナーのブランドの扱いは時代や在庫に順応するかたちで、4年熟成のオーヴァーホルトのストックが不足すると幾つかのボトルをペンシルヴェニアで当時操業していた6つのうちの1つだったラージ蒸溜所で造られたライ・ウィスキーでボトリングしたり、4年未満のライを入れたりしたとされます。ナショナルは禁酒法時代にペンシルヴェニアとケンタッキーにある閉鎖された蒸溜所をいくつも購入しており、それらの倉庫のストックがオールド・オーヴァーホルトとしてボトリングされたとか、一部にはカナディアン・ライをオーヴァーホルトのボトルに入れたとさえ言う人もいたらしい。1938年になると、そうした偽りの行為は殆ど見られなくなったそう(ラージ産の物は48年とか50年とされるボトルをネットで見かけました)。ブロード・フォードで製造され貯蔵したバレルが4年目を迎えるとボトルド・イン・ボンドのオールド・オーヴァーホルトが戻って来たのです。そう言えば、ウェスト・オーヴァートンのオールド・ファーム・ブランドもナショナル・ディスティラーズが引き継ぎ、ラージなどの他の蒸溜所の原酒を使用して幾つかのボトルを製造したという情報も見かけました。下の画像のラベルでは蒸溜はブロード・フォードとなっていますが、どうなのでしょうね?
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40年代に入ると、オールド・オーヴァーホルトとマウント・ヴァーノンというライの両雄の売上は減少しました。オールド・オーヴァーホルトのボトルには、30年代末期から40年代に掛けてボトルド・イン・ボンドの要件である4年を超えた5年や6年の年数表示が現れます(後には更に7年物や8年物も)。これは「ストレート」や「ピュア」を求めるドリンカーにとっては歓迎できる味わいの深みを与えたかも知れませんが、本来4年でよかったものが売れ残ったことを意味するため会社の会計士にとっては歓迎すべきことではありませんでした。1933年から7年が経過し、本来ならアメリカのライやバーボンは伝統的な個性を取り戻す時期が来ていましたが、禁酒法は平均的なアメリカ人の飲酒習慣を変え、禁止期間に成人した酒飲み達はカナディアン・ウィスキーやスコッチ・ウィスキー、そしてブレンデッド・アメリカン・ウィスキーに流れて行きました。ストレート・バーボンにはまだ支持者がいましたが、重厚かつリッチでスパイシーなライ・ウィスキーは年々売上が縮小し、いつの間にか時代遅れのスタイルになっていたのです。ナショナルはそうした潮流に合わせようとしていた可能性もあるとワンドリッチは指摘しています。1936年に設立されたコンシューマーズ・ユニオン・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ(米国消費者組合)は、消費財やサーヴィスを購入者のためにテストし評価する雑誌「コンシューマー・リポーツ」を発行するようになりました。この団体は、消費者の利益を重視し、産業界や商業界の欺瞞を阻止しようとする新しい形のビジネス思考の産物でした。コンシューマーズ・ユニオンが1941年に発行したワインとスピリッツのリポートでは、明らかに重厚な「ストレート」を好む審査員がオールド・オーヴァーホルト・ライのキャラクターが変わったようだと不平を言っています。「このブランドはここ何年か少なからず変わった。 まだよく出来てはいるが、ひと頃の特徴的なブランド・フレイヴァーに欠け、かなりライトボディになった」と。今でも、現行のウィスキーと昔のものを比較して軽くなったとか質が落ちたと言う人はいますが、そうした発言はいつの時代も聞かれ、1940年の頃でさえもあった訳です。

ライ凋落の兆候は既に禁酒法期間中にありました。禁酒法が長引くにつれ、メディシナル・ウィスキーのストックに枯渇の懸念が生じた時、政府は薬用ライセンス所有者へ蒸溜の許可を出しましたが、蒸溜してよい量には制限があり、ペンシルヴェニアのオーヴァーホルトとラージ蒸溜所の割り当ては全体の4分の1しか認められず、残りはケンタッキー州のバーボン蒸溜所に回されていたのです。
100年の歴史をもったライ王朝が、なぜ13年10か月19日17時間32分半の短い間で崩壊したのかについては幾つかの要因が歴史家により指摘されています。上に挙げた消費者の嗜好の変化もその一つでしたが、コーンの栽培を奨励する政府の補助金によりライ・ウィスキーはコスト面で大きなハンディキャップを背負うことになったというのもよく語られる理由の一つです。そもそもライ・ウィスキーを造るのはハイコストでした。原材料のライはコーンより高価でアルコール収率も低く、製造プロセスも手間が掛かります(どろどろのマッシュとの格闘、より長い発酵時間、加熱式倉庫)。嘗てワイルドターキーのマスター・ディスティラーであるジミー・ラッセルはライ・ウィスキーを造るのは好きじゃないと言いました。おそらくバーボン製造に較べライ製造が面倒だったから出た言葉でしょうか。そうしたライ・ウィスキーの製造ノウハウの世代交代による引き継ぎは禁酒法により上手く行われなかったのかも知れません。禁酒法によって廃業したディスティラーは、南北戦争の頃に家業を始めています。彼らは1920年代までに60〜80歳になっていました。ライ・ウィスキー蒸溜所を所有していたか、或いは工場でマスター・ディスティラーとして働いていた男達の殆どは禁酒法期間中に亡くなり、彼らの息子や孫達は新しいビジネスを始めて成功を収めていました。憲法修整第21条により禁酒法が廃止された時、新世代のウィスキー・メーカーに適切な技術を教え指導できる人物はほぼいなくなっていたのです。仮にいたとしても、来たる1930年代の新しい雇用主は製造について異なる考えを持っていたでしょう。 
そしてドライ・エラの間、ソーダやアイスクリームの製造に転換したり、婦人用の毛皮を空の桶と一緒に保冷庫に入れたりした醸造所とは違い、蒸溜所はそのような代替品には適さなかった、とペンシルヴェニア・ウィスキーの歴史家サム・コムレニックは言っています。プロヒビションが制定されると蒸溜所の所有者は全ての機器を売り払いました。蒸気加熱倉庫の多くは蒸気管を剥ぎ取られて保管目的に改造されたり、銅は金属屑として貴重だったので数多の施設から残った銅パイプが奪われたと伝えられます。中でも最大の損失はチェンバー・スティルが失われたことでした。銅製のダブラーと長く曲がりくねったワーム・パイプを備えたチェンバー・スティルは、ピュア・ライ・ウィスキーを造るための理想的なスティル・デザインであることは禁酒法廃止後もよく知られていましたが、第二次世界大戦の後、蒸溜会社は高価で手間の掛かるこの工程に関心を示さなくなって業界からは姿を消し、大規模な工業用ウィスキーの生産に適したコラム・スティルに置き換えられました。
他のアメリカのスピリッツと同様にライ・ウィスキー産業も禁酒法によって壊滅的な打撃を受けた訳ですが、禁酒法後の法律によりライ・ウィスキー生産者の復活が規制された側面もありました。禁酒法が終わりに近づき、その廃止がいよいよ避けられない状況にあった時、ペンシルヴェニア州には国内ウィスキー在庫の3分の1が保管されており、同地の蒸溜酒製造業者と酒屋は、10億ドル規模の酒造ビジネスへの復帰を準備し、早く酒造りを始めようと躍起になっていました。しかし、1931年にペンシルヴェニア州知事に再選していたギフォード・ピンショーは、蒸溜酒製造業者のための競争市場を作ることには関心がなく、酒の不道徳性に対して非常に強い思い入れを持った絶対禁酒主義者でした。リピールの前に「最悪の禁酒法は最高の酒より無際限に優れている」という言葉を吐くほどに。 そこでペンシルヴェニア州の新しい酒税法は、ピンショーの道徳的狂信を強制するために作成されることになり、彼の計画の全てが実現する訳ではありませんでしたが、彼の提案したことの多くがペンシルヴェニアを統制州にしたようです。他に、時の大統領ルーズヴェルト関連で指摘されている規制もあります。禁酒法廃止のキャンペーンを展開したフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは、1932年11月、アメリカ大統領に選出されました。選挙からわずか数日後の1932年12月5日、アメリカ合衆国憲法の一部として修正第21条を提案する通称ブレイン・アクト(Blaine)と知られる合同決議が議会で可決されます。ルーズヴェルトが大統領に就任すると批准手続きが本格的に始まり、1933年12月5日にユタが36番目の州として修正条項を批准しました。ルーズヴェルトは禁酒法を終わらせるという選挙公約を実行に移す決意を固めていましたが、酒類産業の再建に待ち受けている複雑な問題を痛感してもいました。彼はブレイン・トラスト(Brain)とも呼ばれる顧問団に助言を求めます。その結果、ルーズヴェルトが1933年に打ち出した改革は、酒類業界の利害関係者が考えていたようなものではありませんでした。1932年に制定されたブレイン・アクトは酒を州に返還することを基本方針としたもので、各州は廃止が制定された後の進め方について独自の計画を立てていましたが、1933年11月末のルーズヴェルト政権の「蒸溜酒産業の公正競争規範」の草案は、農務長官と大統領の「アルコールおよびアルコール飲料の管理」特別委員会によって作成され、酒類ビジネス全体に一時的であれ連邦政府の厳格な管理を課すものでした。それは蒸溜酒製造業者らの想像を遥かに超えており、中でも1933年12月5日までに蒸溜所を完全に機能させることを義務づけ、それまでに生産状態に到達できない者は生産に入ることが出来ないという決定は、蒸溜業者達にとって大きな打撃となりました。12月5日以前は殆どの蒸溜所が改装中であり、このような短期間での改修は不可能だったからです。これで幾つかのペンシルヴェニアの蒸溜業者はその足並みを乱すことになったとされます。
ペンシルヴェニア・ライの消滅を促進したより大きい要因はウィスキー・トラスト(***)にあったかも知れません。大手のバーボン・プロデューサーズは禁酒法施行後の混乱に乗じて地域ブランドを買収し、大規模で拡張性のある蒸溜所に生産を集約させました。多くの蒸溜所を一つの企業の傘下に置いたそれらの統合者は、アメリカの蒸溜産業を今日まで続く姿に変えました。大企業が多くの施設とウィスキー在庫の大半を所有することで政府の反発を掻い潜り、リピール後に再び立ち上がることが出来た、と。しかし、ライ・ウィスキー業界には全体を統括するような企業は現れず、小規模で断片的なままであり、バーボン・プロデューサーズのような大規模な生産やマーケティング力を欠いていました。ウィスキー・トラストがペンシルヴェニアの蒸溜所を引き継ぐことが出来なかったということは、禁酒法解禁後に「ビッグ・フォー」の保護下に置かれなかったことを意味します。ウィスキー・トラストの設立はウィスキーの生産量ひいては株式市場価値や小売価格をコントロールすることを意図したものでした。そんな彼らが屈服させることが出来なかったのが、ペンシルヴェニアとメリーランドのピュア・ライ・ウィスキー市場でした。ペンシルヴェニアの蒸溜所でも他の蒸溜所と同様に過剰生産や穀物不足に悩まされていましたが、ニッチなカテゴリーに属していたため、過剰生産に歯止めをかけるために協力し合い、家族経営の企業が健全性と独立性を保つことで逆境を乗り切りました。ペンシルヴェニアのライウィスキー・メーカーは他の誰にもできないこと、つまりウィスキー・トラストに「ノー」を言うことが出来たのです。1890年代後半から禁酒法施行までの間にペンシルヴェニアの蒸溜所がウィスキー・トラストに勝利したことと彼らの誠実さは称賛に値するかも知れませんが、皮肉なことにペンシルヴェニアの蒸溜所が禁酒法の嵐を切り抜けられなかった最も大きな理由はその独立性の成功にあった、とペンシルヴェニア・ライの歴史に詳しいローラ・フィールズは指摘しています。彼らは一つの親会社の下に結束することはせず、船を操縦する船長もおらず、集中倉庫の許可が出た時にライ・ウィスキーを勝たせる強力な支持者もいませんでした。なるべく手っ取り早く安価なウィスキーを造りたいというのが、常にウィスキー・トラストの意志であり、禁酒法以前のピオリアの蒸溜所であれ禁酒法後のトラストが運営していた蒸溜所であれ、コラム・スティルと工業規模のモデルが常に優先されました。この企業モデルには残念ながらライ・ウィスキー製造のための場所はなかったのです。ウィスキー・トラストは自分たちのビジネスやブランドの収益にしか関心がありません。シェンリーやナショナルはペンシルヴェニアやメリーランドの蒸溜所やブランドを所有してはいましたが、禁酒法以前のそれらの遺産とは実質的な繋がりはなく、ライ・ウィスキー業界全体の利益のために行動する立場にはありませんでした。
更に悪いことに戦争がありました。第二次世界大戦はライ・ウィスキーに最後のダメージを与えるような出来事でした。戦時下になると政府はすぐに国内の全ての蒸溜所に魚雷の燃料や爆薬の製造などに不可欠な工業用アルコールの製造を命じました。1944年までに汎ゆる種類のアメリカン・ウィスキーは少なくなっていたと言います。その間、大衆にはブレンデッド・ウィスキーが主に提供されました。それは熟成させた少量のウィスキーを多量のニュートラル・スピリッツと水でカットしたもので、ストレート・ウィスキーの在庫が回復するまでの弥縫策の筈でした。しかし、それは大衆の酒飲みに受け入れられて行きます。1949年から1950年にかけてアメリカでのウォッカの売上は300%増加し、その成長は後の10年間も続くことに。大戦中、多くの蒸溜所がライ・ウィスキーの生産から工業用エタノールの生産に切り替えられ、終戦後、ライ・ウィスキー製造に戻るところは殆どなかったそう。第二次世界大戦末期以降、ライ・ウィスキーの売上は着実に減少。蒸溜酒の業界団体である米国蒸溜酒協議会(Distillers Council of the U.S.=DISCUS)の経済戦略分析担当のデイヴィッド・オズゴの推定によると、1952年にアメリカの蒸溜所が生産したライ・ウィスキーは約40万ナイン・リッター・ケースとされ、1936年にメリーランド州だけで生産された550万ナイン・リッター・ケースに比べると、如何に驚異的な落ち込み具合かが分かるでしょう。

その頃のオールド・オーヴァーホルトはと言うと、樽の備蓄が少なくなったからなのか、1942年にバーで使用するための新しい86プルーフのヴァージョンが発売されました。100プルーフのヴァージョンは自宅販売用に取り置かれたようです。概ね6年、7年、8年熟成のボトリングかと思われます。同じ頃(1940〜1942年あたり?)には鍵付きの木箱に入ったスクリプト・ラベルの特別な、もしかすると最初のバレル・プルーフ・ライであったかも知れないオーヴァーホルトもホリデー・シーズンに販売されました。熟成年数は6年半とされ、ラベルにはボトル・ナンバーとプルーフが手書きされています。シングルバレルなのかどうかはよく分かりませんが、プルーフには113、114、117、121、122、123、124、127など何種類かありました。ボトル・ナンバーが3000番台のものが見られるので、ある程度の数量はボトリングされてると思われますが、今となっては極めて希少なオーヴァーホルトであるのは間違いありません。
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禁酒法の後、オールド・オーヴァーホルトはナショナル・ディスティラーズのポートフォリオに主要なライとしての地位を占めました。ナショナルは禁酒法後の業界を支配したビッグ・フォーの筆頭であったため、オールド・オーヴァーホルトは自動的に国内で最も売れたライ・ウィスキーになりました。しかし、上で見たようにライ・ウィスキーは1920年以前に享受していた市場シェアを回復することはなく、バーボンとライの売上高の比率はバーボンに有利にシフトし続けました。そして、ブロード・フォード蒸溜所の最後の一滴がスティルから落ちる時が来ます。1951年、ナショナルは操業を始めてから100年を誇るブロード・フォード蒸溜所を閉鎖しました。ボトリング・ラインとウェアハウスはウィスキーが熟成する間さらに4年間営業し、1955年に売却されたようです。
ブロードフォード、石炭とコークスがブームの時は騒がしく混雑した鉱山の町。当時はブロード・フォードから続く谷間にはコークス炉がずらりと並び、オーヴァーホルト蒸溜所の門前まで社宅が入り込んでいました。軈てブームが去ると、鉱山労働者も町の商人達も苦境に立たされ廃業、いつしか社宅は消え、鉱夫もいなくなり、鉄道輸送網は雑草が生い茂り見えなくなり、蒸溜所だけが残りました。施設内の建物は殆どが明るい琥珀色のレンガ造りで神秘的な外観を呈していました。大きな丸いグレイン・タワー、大きなボンデッド・ウェアハウス、当時近代的なボトリング・プラント、建造物のうち最も高く聳える象徴的な模様を施した煙突、そして正面にはさほど大きくないが3階建てのオフィス・ビルディング…。偉容を誇ったその蒸溜所も遂に停止された訳です。それは全ての終局のようにも見えましたが、ナショナルはウェスト・エリザベスにある近くのラージ蒸溜所も所有しており、50年代半ば過ぎにその蒸溜所を閉鎖するまでオールド・オーヴァーホルトの蒸溜とボトリングを更に数年間続けました。ここで一旦オーヴァーホルトの話を離れ、ラージ蒸溜所の歴史についても記しておきましょう。

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ラージ蒸溜所はブロード・フォードの北西数マイルの位置にありました。ラージ家3世代が基盤を創り、その後、家族ではない者がラージ家の功績を継承して更に発展させたのがそのウィスキーの歴史でした。蒸溜所の建っていた近辺には今でもラージという名称が残っています。
ラージの家系はフレンチ・ヒュグノット(ユグノー。フランスのカルヴィン派プロテスタントのこと)出身の移民で、まだアメリカがイギリス植民地だった時代に渡って来ました。その中の一人にサミュエル・ラージがおり、妻エイミーと共にニュー・ジャージー州に定住しました。彼らの息子ジョン・ラージは独立戦争で兵士として活躍したと言います。独立戦争終結後の1790年代初頭、ペンシルヴェニア州アレゲイニー郡に移り住んだジョンは、農場を購入し、蒸溜所を建てました。これがラージ家の3世代に渡る高品質なウィスキー造りの始まりでした。ジョンが到着した当時のペンシルヴェニア西部は、新しく誕生した国家政府がウィスキーに課した税に対する反乱の温床となっていました。1794年にジョージ・ワシントンが最高司令官として軍隊を率いウィスキー・リベリオンを鎮圧しますが、ジョンは反乱軍には入らず、ウィスキー税を払い、妻のナンシーと7人の子供を育てたとされます。彼らの子供のうち、ニュー・ジャージーで生まれ、父に連れられて小さい頃にこの地にやって来ていたジョナサン・ラージは、ミフリン・タウンシップのアンドリュー・フィニーの娘イースター・フィニーと結婚し、レバノン・チャーチ近くの農場を購入。父と同じく蒸溜所を運営しました。その後ジョナサンはその土地を売却し、アレゲイニー郡ジェファソン・タウンシップのピーターズ・クリークに面した更に大きな農場を購入しました。ピーターズ・クリークの名前は、ピーターと呼ばれる昔のインディアン・トラッパーに由来しています。彼はそこに二つ目の蒸溜所を建設して畑で採れた小麦やコーンを使いウィスキーを製造したそうです。エイブラハム・オーヴァーホルトと同様に父ジョンが地域の人気商品として確立したモノンガヒーラ・ライ・ウィスキーを商業規模で生産したのかも知れません。
ジョナサンが亡くなると、その土地は最終的に末息子のヘンリー・ラージに譲られます。彼の名前は叔父にちなんで付けられ、区別のためか自ら「ジュニア」を名乗りました。1836年7月4日生まれのヘンリー・ジュニアは農場で育ち、若い頃から蒸溜作業に携わっていたようで、1861年にはアン・H・グリーンリーと結婚し、1868年に土地を購入、経営を引き継ぐと祖父が確立したモノンガヒーラ・ライの製造に従事して蒸溜所の成功に大きく貢献したと言われています。絵のように美しかったラージ蒸溜所には大きな欠点があり、製品を市場に出すには馬や牛のチームを編成し、荒れた山道を鉄道基地まで5マイル運ぶ必要があったそうですが、それでも何とかウィスキーを地域市場に販売することが出来たらしい。1889年に出版された『アレゲイニー郡の歴史』には「彼(ヘンリー)は祖父によって確立されたブランドであるモノンガヒーラ・ライ・ウィスキーの製造に従事しており、その優秀さは全国的な評判となっている」と書かれました。1928年に出版された『The Case for Whiskey』の中で著者のジョージ・コーズ・ハウエルは、1891年に初めてラージ・ライを味わい、非常に美味しいと感じたと語っているそうです。彼はこのウィスキーが山奥で造られ主に近隣住民やピッツバーグ周辺の人々に購入されていると聞いており、ラージのウィスキーに興味を持って更に調査してみると、旧家の家庭や会合での品質の評判は頗る良かったものの、所謂「ブレンド用」のウィスキーではなかったため、酒類業界ではあまり扱われていないことを知ったとか。「フレイヴァーもアロマも良いのですが、ブレンディングに使うにはライトボディ過ぎて、事実上全ての市販ウィスキーがブレンデッド・ウィスキーだったその時代にあっては、業界は特に興味を示しませんでした」。
しかし、一人のピッツバーグのウィスキーマン、フレデリック・C・レンズィハウゼンは違いました。彼は、1880年頃に設立された酒類卸売会社シュッツ, レンズィハウゼン&カンパニーの共同経営者で、リバティ・ストリート427番地の8階建てビルに入居していました。レンズィハウゼンは1884年にラージ蒸溜所のインタレストを購入し、1884〜1897年までビジネスはヘンリー・ラージとその妻と彼の三人による共同事業として行われました。レンズィハウゼンはラージの存命中はそのウィスキーの製造や商品化の方法には一切口を出さなかったようです。1895年にヘンリーが亡くなると、レンズィハウゼンは彼の遺産から農場、蒸溜所、古くから伝わるウィスキー・レシピ、そしてラージの名称を使用する権利を購入しました。1897年に単独オウナーとなったレンズィハウゼンは、農場内の古い家屋はかなり良い状態だったが蒸溜施設は古く荒れ果てていたため、設備の近代化と拡張に精力的に取り組み、新しい蒸溜所を建設しつつ最新の倉庫も増設しました。
ラージ・ディスティリング・カンパニーの事業は、主にウィスキーを蒸溜し、一定の契約に基づいて卸売酒類ディーラーに販売することでした。毎年9月から10月にかけては穀物の実勢価格を観察するために穀物の生育状況とシカゴやミルウォーキーの穀物市場の動向を注視しました。その観察で得られた洞察をもとに次の冬から春にかけて蒸溜するウィスキーの価格が決められ、その価格に基づいて卸売業者との契約が行われます。各蒸溜シーズンから残った様々な熟成段階のウィスキーは機会があれば取引先に販売して処理していました。また、倉庫業も行っており、蒸溜したウィスキーを熟成させて所有者が引き出すまで保税倉庫に保管し、所有者は販売契約に定められた月々の保管料を支払います。そして熟成させたウィスキーをボトリングやケーシングしてその所有者から対価を受け取っていました。時には様々な頻度で、自社の保税倉庫にあるウィスキーの倉庫証券を購入し、それを再販売して利益を得ていたようです。
ラージ・ディスティリング社の製品、ラージ・ウィスキーは全米の卸売業者や小売酒販店によって販売され、卸売業者はアメリカの主要なライ・ウィスキーの一つと見倣し、1917年に飲料用の蒸溜を停止するまでの長い期間、その需要は着実に伸びていたと言います。同社は蒸溜所をフル稼働させることは滅多になく、卸売業者から契約を募る前に次のシーズンに蒸溜するウィスキーの量を決定し、蒸溜する総量を考慮して契約を結ぶのが慣例でした。通常、特定の卸売業者との契約で指定される数量は、その業者が税金を納めている数量に基づいていました。その目的はラージ・ウィスキーの倉庫証券の投機を可能な限り防ぐことであり、そうした商慣習によって彼らのウィスキーの需要は原則として供給を上回っていた、と。
そしてレンズィハウゼンは広告のためにかなりの金額を費やしていたようです。その内容は、主要な業界誌や新聞への掲載、デザイン性の高いカードやブロッターの作成、価格表の配布などでしたが、中でも目玉は国際的な博覧会への出展でした。1893年のシカゴ・ワールズ・フェアでラージ・ディスティリング・カンパニーが小規模な展示を行って大いに注目を集めるとレンズィハウゼンは自社製品を展示する機会をほとんど逃さなくなり、彼はウィスキーを1900年にパリ、1904年にセントルイス、1905年にリエージュ、1906年にミラノ、1907年にジェームズタウン、1910年にブリュッセル、1913年にゲント、1914年にロンドン、1915年にサンフランシスコと出展し、10回のうち9回で金賞を含む大賞を受賞しています。レンズィハウゼンは、これらの栄誉をラージ・モノンガヒーラ・ライの広告やラベルや木箱にも誇示していました。1913年3月1日の段階でラージ・ディスティリング社は「Large Whiskey」や「Large, Established 1796, Monongahela Pure Rye Whiskey」のトレードネームを所有し、円に囲まれた五角形スターのトレードマーク、バレルらしきサークルの中に「Pure Monongahela Rye Whiskey Made by Henry Large, Jr., Pittsburgh, Pennsylvania」という意匠、或いは「Drink a Little Large」というスローガンを登録していました。
1907-1908年シーズンの蒸溜が始まって間もない1907年12月、ラージ蒸溜所は火災で焼失しました。レンズィハウゼンはすぐに大きな建物に建て替えましたが、次の蒸溜シーズンまでウィスキーの蒸溜は行われませんでした。火災がなければその後の4、5年間は1907-1908年シーズンに蒸溜されていたであろうウィスキーの貯蔵と瓶詰めから収入を得ていたでしょう。それでも、ハウエルによると1910年時点でラージ蒸溜所はアメリカで最も近代的で効率的な蒸溜所の一つとなり貨物輸送設備も他に引けを取らなかったと言います。冬でも夏でも同じ温度を保つスチーム・ヒーターが設置された10000から16000バレルを収容できる4つの耐火倉庫を持ち、ボトリング施設の最新の機器はウィスキーのラベル貼り、キャップ締め、ケーシング作業のそれぞれはコンヴェア・システムによってライン生産方式で行われ、ピーターズ・クリーク沿いにウォバッシュ鉄道のイースタン・コネクションが開通したことで、穀物を貨車から直接蒸溜所に降ろし、ウィスキー・ケースの積み込みも容易になったそう。更には酵母を科学的に増殖させ発酵を監督するために生物学を修めた人が担当する研究室まで設置されていたとか。レンズィハウゼンは借入金を使うことなく全て自己資金でラージ・ディスティリング社の事業を行い続け、その事業またはその利権や株は所有権がレンズィハウゼンにある間は一度も売りに出されたことはなかったそうです。ジョン、ジョナサン、ヘンリーのラージ三世代は近くのレバノン・チャーチ・セメテリーで共に眠りながら、自分たちが設立した蒸溜所とウィスキーの発展を誇りに思ったことでしょう。ちなみに、当時の家族は概ね数人の子供を産みましたが、ヘンリー・ラージには一人の娘ファニー・ローラしかいませんでした。ピッツバーグ・シティ・ペーパーのライター、クリス・ポッターによれば、このファニー・ラージは驚いたことに「蒸溜所に対する(父の)誇りを共有していなかったことは明らかで、彼女は一時期ウーマンズ・クリスチャン・テンペランス・ユニオン(WCTU、婦人キリスト教禁酒連盟)の代表を務めていた」らしい。
禁酒法が施行されると全てが一変したのは他の蒸溜事業と同じでした。1917年5月から同年12月31日までの間、食糧統制法によって飲料用に供する穀物や穀類の使用と輸送が制限されたためウィスキーは製造されず、1918年1月1日の時点で倉庫には35365バレルのウィスキーが保管されていました。もし食糧統制法による制限がなければ、1917年中もウィスキーの製造をし続け、その在庫は多くなっていたでしょう。彼らの4棟の保税倉庫の総収容量は55000バレルでした。戦時禁酒法の施行と憲法修正第18条の最終採択に向けた進展により、レンズィハウゼンは1918年にラージの蒸溜事業は永久に終了し、事業全体としては4年以内に完全に清算されると確信するようになりました。しかし、1919年にレンツィハウゼンは薬用ウィスキーを合法的に製造できることを認識し、その年の秋にラージ・ディスティリング社は薬用ウィスキー製造のための蒸溜事業を再開、1921年11月23日までその事業を継続しました。いわゆるウィリス=キャンベル法(国家禁止法を補足する法律)が制定されると、内国歳入庁長官が発行する許可証の下でなければ薬用ウィスキーの製造が出来なくなり、彼らは同法に規定された蒸溜事業継続の許可を確保するに至らなかったため、同事業は11月に中止を余儀なくされ清算過程に入りました。この期間の薬用ウィスキーの生産量は、1919年に396バレルズ、1920年に5858バレルズ、1921年に10400バレルズの計16654バレルズでした。先のハウエルによると、レンズィハウゼンは政府から海外に製品を出荷する許可を得て、1923年にブラジルのリオデジャネイロで開催された万国博覧会にラージ・モノンガヒーラ・ライを出展し、皮肉なことにアメリカでは違法とされたラージ・ライが他の地域で造られたウィスキーを抑えて再び金メダルを獲得したとか。
一方のシュッツ, レンズィハウゼン&カンパニーの事業はと言うと…。同社は1879年にレンズィハウゼンとシュッツとフレデリック・グェデマンによって設立されました。グェデマンは1892年に死亡し、その後、残った二人が対等のパートナーとして事業を継続していました。その事業はブランディ、コーディアル、ジン、その他の高級酒類、ワイン等を販売する酒類卸売業者でした。1913年3月1日時点では、「フォート・ピット・ウィスキー」、「ダイヤモンド・モノグラム・ウィスキー」、「クルセイダー・ドライ・ジン」の登録商標を所有していたとされます。同社の事業の清算は1920年に開始され、1925年に完了しました。禁酒法が施行された時、同社の商品在庫は上記の酒類で構成されていましたが、このクラスの商品は卸売/小売の医薬品業界では買われませんでした。内国歳入庁長官の許可を得て在庫を病院に寄付することになりますが、この清算方法には時間が掛かり過ぎ、1925年に残りの在庫は全て政府の監視下でビルの下水道に捨てられたと云います。
禁酒法後、ラージ蒸溜所はナショナル・ディスティラーズの所有になりました。ナショナルは禁酒法が明けた直後はラージのラベルを使ったようですが、その後すぐに引退させたようです。しかし、そこで生産されたウィスキーを上述のようにオールド・オーヴァーホルトとしてボトリングしました。この物件は後にノーブル・ディック社に売却され、1958年にウェスティングハウスにリースされました。ウェスティングハウスはそこに原子力研究施設を設立しました。現在では先端機器の耐久テストなどを行なう会社が入ってるようですが、外観は嘗ての蒸溜所の面影を少しく残しており、給水塔らしきものや「LARGE」と書かれたレンガの煙突は今でも立っているのがグーグルのStreet Viewで確認できます。では、話をオーヴァーホルトに戻します。

1950年代半ば頃にナショナルはウィスキー事業への関心を失っていた可能性があります。既に1953年にシートン・ポーターは亡くなっており、社長の座を継いでいたジョン・E・ビアワースは絶対禁酒主義者でした。1949年にポーターは当時ニューヨーク・トラストの社長だったビアワースを後継社長に任命しましたが、彼は最初その申し出を断わり、後にポーターが会社の化学分野への多角化に同意したので受け入れました。1952年、ナショナル・ディスティラーズは工業用アルコール、殺虫剤、不凍液、樹脂のメーカーであるUSインダストリアル・ケミカルズと合併しています。同社の酒類販売が落ち込み始めたため、化学分野への多様化は良いタイミングでした。売上高の減少は、主にナショナルの100プルーフ・バーボンよりもブレンデッド・ウィスキーに対する消費者の好みによるものとされています。ブロード・フォード蒸溜所の売却、また同じ頃にメリーランドのライ蒸溜所であるボルティモア・ピュア・ライ蒸溜所をシェンリーへ売却して得た資金は化学事業への資金となったのでしょう。ナショナルは56年頃にラージ蒸溜所も閉鎖しますが、その後もオーヴァーホルト・ブランドを維持しました。おそらく1960年前後まではブロード・フォードやラージのストックを使ってオールド・オーヴァーホルトを造ったと思われます。この時点から約20年間の生産の詳細は曖昧で、ラベルによりペンシルヴェニア州で蒸溜されたことは確認できるものの、何という蒸溜所でどのように造られていたのか歴史家も頭を悩ますところです。それが契約蒸溜されたものなのかバルク購入されたものなのかも皆目判りません。しかし、当時はペンシルヴェニア州にある蒸溜所は少なくなっていたので、候補と目される蒸溜所は絞られています。アームストロング郡シェンリーのプラント、レバノン郡シェーファーズタウンのペンコ蒸溜所(後のミクターズ)、或いはコンチネンタルのフィラデルフィア・プラント及びキンジー蒸溜所などです。それぞれの工場はその後の数十年で閉鎖されました。これらのどこか一つから調達したかも知れないし、複数からかも知れないし、幾つかの変遷があった可能性だってあり得ます。しかし、或る時期からはペンシルヴェニアで操業していた蒸溜所は一つだけだったので、その時代のオーヴァーホルト・ウィスキーはシェーファーズタウン産であることは間違いないと考えられています。ただ、気になる情報としては、ミクターズ最後のマスター・ディスティラーだったディック・ストールはオールド・オーヴァーホルトがそこで造られたことは一度もないと言っているとか。うーん、謎…。まあ、それは措いて、この調達された時代のウィスキーはより人気のあるバーボン・スタイルに近づけるために、マッシュビルにコーンが従来品よりも多く含まれていた可能性が指摘されています。実際飲んだ方によると、メリーランドやケンタッキーのライ・ウィスキーにずっと近い味わいだ、と。

1950〜60年代、風味の強いボンデッド・ウィスキーの人気が落ち込み、ライ・ウィスキーの製造所が次々と無くなって行くなか、オールド・オーヴァーホルトには有名なファンがいました。そのうちの一人はやや旧い世代ですが、国務長官のジョン・フォスター・ダレスでした。1954年の記事によれば、彼は何処にいても毎晩夕食前にオールド・オーヴァーホルトをオン・ザ・ロックスで飲んでおり、彼の飛行機にはウィスキーがストックされていたと云います。もっと若い世代ではジョン・F・ケネディがいました。彼が1963年にナッシュヴィルにいた時、地元の大型酒店のオウナーが後に回想するには、彼は特にオーヴァーホルトのボトルを求めて人を使わせたらしい。この頃までに、ライ・ウィスキーを飲む人とにかく減少し、ナショナルはペンシルヴェニア市場のみ堅持して、それ以外の全国的なオーヴァーホルトの広告を止めました。1963年には「今日のオールド・オーヴァーホルトはライター、マイルダー、スムーザー」と謳う宣伝があったそうで、何かしらの変更があったのかも知れません。翌年にはボトルド・イン・ボンドは廃止され、86プルーフのみの販売となりました。或る意味このせいで先に言及したペンシルヴェニアから調達したライの出処が判別出来ないとも言えるでしょう。ボトルド・イン・ボンド法ではラベルにそのスピリッツの製造された真の蒸溜所を記載しなければならないので。また、ナショナルはこの頃からオーヴァーホルト・ライを自社が所有するオハイオ州シンシナティのカーセッジ蒸溜所でボトリングするようになりました。ラベル記載のA.オーヴァーホルト&カンパニーの所在地が「CINCINNATI, OHIO」となっているのはそのためです。
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コネルズヴィル郊外、ヤッカゲイニー・リヴァーに沿うように建つ閉鎖されたブロード・フォード蒸溜所。その敷地が老朽化し始めるのに、それほど時間は掛かりませんでした。ブロード・フォードの工場と対岸のアデレードにある労働者の家を結んでいたスウィンギング・ブリッジは何年も放置され、劣化して下の川に落ちてしまいます。1970年代になると蒸溜所の建築物の荒廃はより酷くなりました。6基の巨大なグレイン・サイロ、給水塔、ボイラー・ハウス、倉庫などが残っていましたが、風雨に晒され放置されたため、荒らしや廃品回収の格好のターゲットになってしまったのです。その後も荒廃は進み、嘗てウィスキー・バレルが置かれていた赤レンガの倉庫は瓦礫の山となり、給水塔も何時しかなくなりました。建物の内部はポップなスプレーアートや落書きに満ち、捨てられたスプレーの空き缶、割れたガラスやその他の何かの大量の破片が転がり、不当な侵犯行為の被害を受けていることは明らかですが、ある種の退廃の美が見られもします。ブロード・フォードに限らず、朽ちた蒸溜所は廃墟マニアの恰好のスポットでもあり、ユーチューブで手軽に観れるのでリンクを貼り付けておきます。廃墟とは言え、その姿は圧巻で、操業していた頃の威容を実感することが出来るでしょう。オーヴァーホルト家のルーツであるスイス伝来?の模様が施された象徴的なレンガ造りの煙突も見応えあります。

1970年代のオーヴァーホルト・ウィスキーについて言うことは特にありません。アメリカ人はライどころかバーボンからも離れ始め、ウォッカやテキーラなどのホワイト・スピリッツを飲みました。上述したようにペンシルヴェニア・ライをボトリングしたオーヴァーホルトは維持されましたが、販売は苦戦を強いられたと思われます。ナショナル・ディスティラーズは最終的にペンシルヴェニアの蒸溜所から原酒を調達することを止め、おそらく1980年あたりを境にオールド・オーヴァーホルトの生産をオールド・グランダッド・バーボンを製造するケンタッキー州フランクフォート郊外のフォークス・オブ・エルクホーンの蒸溜所に移しました。ここでペンシルヴェニア産のオーヴァーホルトは終わりを告げます。そして1987年、ナショナル・ディスティラーズ・アンド・ケミカル・コーポレーションは所有していたスピリッツ・ブランドの全てをラッキー・ストライクを製造した会社であるアメリカン・ブランズ(後のフォーチュン・ブランズ)の子会社ジェームズ・B・ビーム・ディスティリング・カンパニーに売却しました。

新しいオウナーのビームは生産を統合するため買収後すぐにオールド・グランダッドでの蒸溜を停止し、1990年までにオールド・オーヴァーホルトのプルーフを80に下げました。通例、こうした買収が行われた場合はウィスキーのストックも買い取りますので、買収後数年間はNDジュースを使用したかも知れません。そこで造られたライ・ウィスキーがなくなった時、ビームはオーヴァーホルトに独自のマッシュビルを与えることはなく、既にジムビーム・ライのために生産していたハイ・コーンなライ・ウィスキーを単に使用しました。それは彼らが所有するクレアモントかボストンの蒸溜所で製造されたものです。この時点でオールド・オーヴァーホルトをジムビーム・ライと区別しようとしても余り意味がありませんでした。両者は似たような味がするでしょう。香りや味わいに違いを感じるとしたら、それはバレル・ピックやバッチングによる差だけな筈です。ビームはブランドの配布を継続することを除いて殆ど何もしませんでした。当時はライ・ウィスキー人気は最底辺であり、消費者の需要がまだ一部に残っていたので辛うじてブランドを存続させただけでした。オーヴァーホルトは同社が強調したり気に掛けて宣伝したりするブランドではなかったのです。しかし、平凡な製品になっていたとは言え、ケンタッキー州でのライ・ウィスキーの生産は最後のイースタン・ライ蒸溜所が閉鎖された1980年代に始った訳ではなく、禁酒法の前でもケンタッキーの蒸溜所はバーボンとライの両方を日常的に製造していたので、ビーム・ライのレシピはおそらく古い血統を持っている可能性があり、不当に評価するのは違うでしょう。
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(画像提供K氏)

現在、絶大な人気を誇るブランドとなったブレットは、次第にそのラインナップを拡張して来ました。スタンダードなバーボンから始まり、2011年からはライ・ウィスキー、2013年からは10年熟成のバーボン、2016年からはバレル・ストレングス、2019年からはシングルバレル・バーボン、また同年には12年熟成のライ、そして2020年にはブレンダーズ・セレクトがリリースされると言った具合です。
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今回取り上げるバレル・ストレングスは、当初はディアジオ所有であるルイヴィルのスティッツェル=ウェラー蒸留所のギフト・ショップやケンタッキー州のみでの販売でしたが、その後徐々に全国的に販路を拡げて行きました。ネット上で流布している情報では、同社の他の製品と同様、ハイ・ライ・マッシュビル(コーン68%、ライ28%、モルテッドバーリー4%)を使用しているとされていますが、レシピに関しては後述します。他のスペックは、NAS(5〜8年熟成のバーボンのブレンド)、無加水、ノンチルフィルタード。スティッツェル=ウェラーの倉庫で熟成、そこの施設でのボトリングとされています。小売価格は概ね750mlのボトルで50ドル前後。バレル・ストレングスはこれまでに幾つかのバッチがリリースされており、それぞれのプルーフは120プルーフ(60%ABV)前後となっています。ネットで調べられる範囲で見つかったのには以下のようなバッチがありました。

バッチ#なし、59.5%ABV(119.0プルーフ)
バッチ#なし、59.6%ABV(119.2プルーフ)
バッチ#2、62.7%ABV(125.4プルーフ)
バッチ#3、61.7%ABV(123.4プルーフ)
バッチ#4、61.7%ABV(123.4プルーフ)
バッチ#5、62.7%ABV(125.4 プルーフ)
バッチ#6、58.3%ABV(116.6プルーフ)

基本的にブレットは販売しているウィスキーの原産地を開示していません。ブレット・フロンティア・ウィスキーの歴史は調達と契約蒸留の歴史であり、ソースが分かっている物とそうでない物がありますが、バレル・ストレングスは分からない方に属します。一応、念の為にここらでブレットの来歴をお浚いしつつ、原酒の変遷を見て行きましょう。これは以前投稿したブレット10年のレヴューで纏めたブランドの歴史を補足するものです。

ブレット・ブランドの創設者トーマス・E・ブレット・ジュニアことトム・ブレットは、ルイヴィルで生まれ育ちました。小学校は聖フランセズ・オブ・ローマ学校、高校はトリニティ・ハイスクールに通いました。いつの時代か明確ではありませんが、本人によればバーンハイム蒸留所で働いていた(バイト?)と言います。トムは1966年にケンタッキー大学を卒業した時、「第二次世界大戦の退役軍人で、非常に真面目な人」だった父親に将来マスターディスティラーになりたいと告げました。しかし父親は「いや、お前はそうじゃない、軍隊に入るんだ」と答えました。それまで「パッとしない学生」だったトムは、「軍隊は君を成熟させる」と世に言われるように、実際そこへ入ってみるとその通りになったようです。また彼の父親は「お前は弁護士になれ」とも伝えていました。今では若くとも、もっと自由に職業を選べる時代ではありますが、トムは「私の世代では父親の言うことを聞いていた」と語っています。
トムはベトナムでの兵役中、LSAT(※エルサット=「Law School Admission Test」の略。法学を専門とするロースクールに入学する際に受ける入学試験)を受験し、一回目の受験で好成績を収めました。1969年に海兵隊を名誉除隊すると、ルイヴィル大学のブランダイス・スクール・オブ・ローに入学し、その後ワシントンDCのジョージタウン大学に進学、そしてレキシントンで法律事務所を開設するまで米国財務省に勤務したそうです。しかし、法律の実務経験を積む中でもトムのバーボンを造りたいという想いは途切れることがありませんでした。最終的にスピリッツ・ビジネスの開始を決めた時には、例の父も「それはお前と銀行家との間の問題だ」と言ったとか。

1987年、ブレット・ディスティリング・カンパニーを設立することにより、トム・ブレットは蒸留酒業界へと足を踏み入れます。古い家族のレシピによるウィスキーを復活させるのが念願でした。それは1830〜1860年にかけてルイヴィルのタヴァーン店主だったという曾々祖父のオーガスタス・ブレットが造っていたとされるライ麦が高い比率を占めるウィスキーを指しています。彼は1860年頃、フラットボートに樽を一杯に載せ、ケンタッキーからニューオリンズへとオハイオ・リヴァーを下り売却に向かう輸送中、行方不明となり帰っては来ませんでした。それでもオーガスタスが造ったウィスキーのレシピはトムに伝わっていました、と。これが今日マーケティングで広く使用される創業当初の物語です。しかし、オリジナルのブレットは今のブレットとは大きく異なり、そもそも家族の歴史を殊更持ち出してはおらず、代わりに別のケンタッキーの遺産である競走馬をフィーチャーしていました。その最初のブランドは1989年に「サラブレッド・ケンタッキー・バーボン(NAS、86プルーフ)」として市場に送り出されます。このラベルはバーボンによくありがちなデザインで、ボトルにしても他のブランドにも採用される伝統的なものでした。おそらく数年(89〜92年?)しか流通しておらず、販売量も少なかったと思います。当時のアメリカ国内のバーボン需要を考慮すると、日本市場での販売を主目的としていた可能性もあるでしょう。
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ブランドは1992年に「サラブレッド」から「ブレット」に変更されました。トムの娘のホリス・B・ワース(*)によると、自分がアイディアを出したと主張しています。「彼(トム)はウィスキーを調達していたので、もう少し目印になるものを付けたいと望んでいました。そこで私は『ブレット』という名前を付けるべきだと言いました。なぜ私達(家族)にちなんで名付けないの?」と。しかし、トム自身からは全く異なる説明がなされており、彼は1992年に日本貿易振興機構の後援で日本を訪れた時、ブランド名について考え直し始めたと言います。「私はサラブレッド(バーボン)と一緒にそこに行きましたが、彼らから受けたアドヴァイスは、それがあまりにも地味過ぎ、あまりにも一般的過ぎ、高級感が足りていない、ということでした」。そこで彼はアメリカへ戻ると、当時メリディアン・コミュニケーションズにいたフラン・テイラーのもとに相談しに行きます。トムは彼女とそのデザイナーに、より良いパッケージを考え出し、彼が既に用意していたボトルに合わせてラベルをデザインするよう依頼しました。この打合せ時にフランからバーボンの名前をサラブレッドからブレットに変更する提案を受けたそうです。 フランは、「私が最初にそれを言いました。相手の気持ちを傷つけるのではないかとヒヤヒヤしましたが、ブレットは素晴らしい名前だったので、なぜブレットにしないのでしょう?って」と述べています。「そして、私が彼に会う度に大勢の人と一緒にいるような時には、私をブレット・バーボンに名前を変えるよう説得した人物だと紹介してくれます」とも。

そのブレット家の名を冠したオリジナルのバーボンは、1995年に初めてリリースされたと見られています。90プルーフのスタンダードな物と、100プルーフで「サラブレッド」の文字と馬のスケッチがラベルに含まれたより上位の物の二種類がありました(上掲画像参照)。これらはエルマーTリーやウェラー・センテニアルによって有名になったスクワット・ボトルに入っていました。日本にはブレット・サラブレッドの方のみが輸入されていたと思われます。ここまでのブレットの原酒はフランクフォートのエンシェント・エイジ蒸留所(現バッファロー・トレース蒸留所)が契約蒸留しているとされ、ボトリングも同所でされているでしょう。トムによると、当時の蒸留所施設内に彼のオフィスがあったそうなので、業務提携というのかベンチャー企業というのか、そういうビジネス形態だったようです。ただ、この頃のブレットを飲んだアメリカの或る方は、ダスティ・オールド・チャーター7年を想い起こさせ、おそらく同じバーボンだろうと言っていました。もしそれが正しいのであれば、樽買いの可能性もあるのかも知れません。エンシェント・エイジ蒸留所とオールド・チャーターを造っていたルイヴィルのバーンハイム蒸留所は長い間親会社がシェンリーという共通項があり一種の親戚関係のような間柄でしたから、在庫の共有のようなことをしていた可能性も考えられるのではないかと…。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメントよりお知らせ頂けると助かります。まあ、それは偖て措き話は続きます。

ブレット・バーボンがリリースされて間もなく、トム・ブレットは当時世界最大のスピリッツ会社の一つであったシーグラムからアプローチを受けます。聞くところによると、シーグラムは西部開拓時代をモチーフにしたバーボンをリリースすることを望んでおり、そのためのブランドを模索していたらしい。当初は、西部劇と言えば銃ですから弾丸を意味する「Bullet Bourbon」という名称を予定していたものの、弾薬や銃器を連想させる酒類を販売することは広報上よろしくないと判断し取り止めます。次にケンタッキー州ブリット郡にちなんで「Bullitt Bourbon」はどうかと考えていました。そこへひょっこりと現れたのが「bulleit Bourbon」で、シーグラムは小さなブランドであるブレットの存在を知ると、単純に確立された商標を購入する方が楽だと考えたと云うのです。大企業シーグラムと優秀なビジネスマンのトム、両者の思惑が一致したのでしょうか、1997年にブレット・ディスティリング・カンパニーはシーグラムに買収されました。シーグラムはトムをコンサルタントとして雇い、ブランドの顔となるアンバサダーとしての契約もオファーしたようです。ブレットというブランドにとってトムは常に重要な存在でした。彼はレシピについては生産者と、ブランドのメッセージ性や外観については広告代理店やデザイン会社と協力し、マーケティングおよびパッケージングを完成されたものにして行きます。

現在のブレット・ブランドの目覚ましい成果は、トムは勿論、後のディアジオの力が大きく与っているかも知れませんが、バーボン市場での立ち上げとポジショニングはシーグラムに関連した人々によるものでした。トムが自身の会社をシーグラムに売却した翌年、新しい親会社はブランドのニュー・コンセプトを開発するプロジェクトに着手することを決定します。シーグラムに雇われた元DDB(ドイル・デイン・バーンバック)の共同アート・ディレクターであったジャック・マリウッチとボブ・マッコールはトムと協議を繰り返しました。そこで出てきたのがトムの祖先の物語であり、それをトム自身の物語とフロンティア・ウィスキーのコンセプトに重ね合わせるという手法でした。祖先というのは前出のオーガスタス・ブレットのことです。その起源の物語はバーボンのテーマである「フロンティア・ウィスキー」をアピールするためのマーケティング上の言葉の綾、おそらくはフィクションでしょう。19世紀にブレット・バーボンが市場に出回っていたかどうかは、彼らには関係のないことでした。トムの提案は、このブランドの起源がオーガスタス・ブレットにあること、そしてブランドの信頼性が高ければこのブランドは勝者になれること、この二点です。シーグラムの上層部はそれに全面的に同意しました。バーボンは昔から「伝統」が強調されて来た商品です。そのためマーケターにはブランドのレシピが大昔に遡ると主張することで関連性と信頼性を示したいという誘惑が常にあります。多くの殆どの消費者は、ブランドの歴史や背景にはあまり関心がなく、細かいことは気にしません。耳触りの良い興味を惹くようなストーリーがちょっと聴ければ十分なのです。そこでマーケターは物語を誇張したり改竄したりと知恵を絞る訳ですが、あまりやり過ぎはよくありません。特に実在の人物についてそれをやる場合はリスクを伴います。後に、第三者による系図の調査により、オーガスタスの経歴に関する主張は、マーケティングのプロが作り出したホラ話であることがほぼ証明されました(**)。まあ、それは措いて、話は現在も維持されている新生ブレットのボトル・デザインに移ります。

シーグラムはボトルのための第一候補となるデザイナーを探す網を世界中に張っていました。ドイツでもブラジルでも、世界のあらゆる場所で探したそうです。そして最終的に、デザイナーにはオレゴン州ポートランドのサンドストロム・パートナーズのスティーヴ・サンドストロムが選ばれました。サンドストロムはジャック・マリウッチから連絡を受け、彼とそのパートナーのボブ・マッコールがフロンティア・ウイスキーを中心に考え出したコンセプトについて話されたと言います。彼らはトムの名前、彼の物語、家族の起源の物語、それら全てがフロンティア・ウィスキーのコンセプトにとてもよく合っていると思っていました。サンドストロムの仕事は、パッケージにそのストーリーを反映し、実現させることでした。彼はまた、コンサルティング業務に携わっていたトム・ブレットとも会います。サンドストロムはケンタッキーに赴くと、トムは彼をウィスキー博物館と幾つかの蒸留所を連れ回ってバーボンについて教えてくれたそう。しかし、現在生産されているブレット・バーボンの高度な様式美を誇るボトル・デザインの主なインスピレーションとなったのは、オレゴン州の骨董品店で見つけた古いボトルでした。サンドストロムはその「クレイジーで奇妙な楕円形の物」を見て、エンボス加工を施して下の方にラベルを貼ろうと思い付きました。これは本当に一風変わって見えるだろうな、と。 また、彼は当初ボトルの色をダーク・オリーヴ・グリーンにすることを想定していました。その方がユニークなオレンジ色のラベルが映えると考えたからでした。しかし、シーグラムは消費者がウィスキーの色を確認できるように考慮して透明なガラスを使用することにします。こうして、ボブ・マッコールが中心となって考えられたフロンティア・ウイスキーのコンセプトは、オールド・ウェストの薬屋やスネイク・オイル・セールスマンが薬を売るために使っていたアポセカリー・ボトルを模した形状に「ブレット・バーボン」と「フロンティア・ウィスキー」の文字をエンボス加工したボトル、わざと斜めに貼られたラベル等によって完璧に体現され、パッケージは完成しました。
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見た目を一新したブレット・バーボンは1999年にアメリカ市場に導入されました。2000年にはオーストラリア、イギリス、ドイツに導入されたそうです。中身に関しては、おそらくエンシェント・エイジ蒸留所で生産されていたバレルがなくなった後、当時シーグラムの所有していたローレンスバーグのフォアローゼズ蒸留所の原酒に切り替えらました。

それまで順調に帝国を築いて来たシーグラムも、90年代に手を染めていたエンターテイメント事業の収益が上がらず、メディア事業の拡大を進めていたフランスの企業ヴィヴェンディと合併、2000年12月、シーグラムの事業は終わりを迎えます。酒類部門の資産はイギリスのディアジオとフランスのペルノ・リカールによって分けられ、2001年にディアジオはブレットを含む有名なブランドを買収し、シーグラムからトム・ブレットのコンサルティング契約とロイヤリティ契約を継続して更新しました。 また、彼らはフォアローゼズ蒸留所との契約も延長し、ブレット・バーボンの供給元として存続させます。
オールド・ウェストなスタイルのボトルを採用していたためか、HBOで2004年3月21日から2006年8月27日にかけて放送された1870年代のデッドウッドを舞台とした人気シリーズ、その名も『デッドウッド』という西部劇TVドラマのエピソードにブレットは登場し(他にもベイゼル・ヘイデンズやオールド・ウェラー・アンティークが使われた)、知名度を高めて販売を促進したと言います。ディアジオもシーグラムに倣い、ブレットを家族経営の会社に見せるための多大な努力をして来ました。架空の起源の物語を相変わらず使用し、もしかするとより上手く誇張したかも知れません。優秀なビジネスマンのトムはアンバサダーとして精力的に各地を宣伝して回りました。バーテンダーから高い支持を得たブランドは今日、著しい成長をみせ、世界で四番目に大きいバーボン・ブランドになったとされています。

では最後にもう一度、原酒の話を。フォアローゼズ蒸留所は10年以上ブレットのソースであり続けました。ディアジオは他のブランドのために複数の蒸留所から原酒を購入していましたが、ブレット・バーボンには2013年末までフォアローゼズ蒸留所が唯一の供給元だったと推定されています(2014年3月で終了という説もあった)。フォアローゼズ蒸留所は低迷期にNDP(非蒸留業者)に相当量のバーボンを供給していたと見られ、ディアジオは最大の顧客だったのかも知れません。しかし、キリンが2002年にフォアローゼズを買収してからは自社のバーボン人気が徐々に成長し、ブレットも需要が高まったため供給が難しくなった、それがディアジオとの契約を更新しなかった理由でしょう。おそらくラベルにローレンスバーグの記載のある物は、原酒がフォアローゼズ産100%で間違いないと思います。
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現在のブレット・バーボンを誰が造っているのかは公開されていません。ブレット10年だと、熟成年数を考慮すれば単純計算で2023年まではフォアローゼズ産の確率は高い。問題はスタンダードなボトルやシングル・バレル、そして今回レヴューするバレル・ストレングスです。ディアジオはブラウン=フォーマンと長年に渡り蒸留契約を結んでいるとか、またバートンやジムビームもディアジオにバーボンを供給していると噂されています。一説にはジムビームだと言う人もいれば、一説にはジムビーム、バートン、フォアローゼズのミックスだと推測する人もいます。そこへ今後は2017年シェルビー・カウンティに設立した新しい蒸留所の原酒も加わって来るのかも知れません。何の目的か今のところよく分かりませんが、ディアジオは更にマリオン郡レバノンにもファシリティを建てています。
では、そろそろバーボンを注いでみましょう。日本では一般流通していないブレット・バレルストレングスを試飲できるのは、バーボン仲間のK氏からサンプルを提供してもらったおかげ。画像提供も含め、この場を借りてお礼を言わせてもらいます。今回もありがとうございました。バーボン繋がりに乾杯!

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BULLEIT BOURBON BARREL STRENGTH 119.2 Proof
推定2016年ボトリング。バレルプルーフにしては薄めの色合い。香ばしい穀物、ライスパイス、木質の酸、クッキー、白胡椒、ドライオーク、生姜、弱い柑橘類、うっすらナッツ。グレイニー&スパイシーなアロマ。口当たりはバレルプルーフに期待するオイリーさには欠け、僅かなとろみくらい。飲み口は暴れる系、液体を飲み込んだ直後もガツンと強烈。余韻はライの穀物感と木材のドライネスで、さっぱり切れ上がる。
Rating:84.5/100

Thought:かなりライ・ウィスキー寄りのバーボンという印象。まあ、それ自体はいいとしても、どうもフルーツ・フレイヴァーが弱くスパイシーな傾向に偏っていて、私の好みではありませんでした。もしかすると、もう少し時間を経過させるとアルコール感が減少してフレイヴァーを取りやすくなるのかも知れません。一応その代わりに一滴だけ水を垂らしてみたのですが、フレイヴァーに変化は感じられませんでした。本当に5〜8年も熟成してるの?と言うぐらいメロウさにも欠け、以前飲んだブレット10年の方が断然香りも味わいも芳醇です。他のバッチの海外のレヴューを読むと、これよりもう少し美味しそうに思えたのですが、このバッチは比較的低評価が多いように見えました。中には「私はこれに非常に失望しました。風味、深み、味が不足していました。これが持っていたのはハイプルーフの熱だけでした。同じ量のアルコール含有量でおそらくもっと味が良いものをより安く買うことが出来ます。これにお金を無駄にしないで下さい」と酷評されている方がいまして、私も概ね同意です。
偖て、このバレル・ストレングス、原酒はどこ産なんだ?という件ですが、推定2016年ボトリングというのか正しいのであればフォアローゼズの可能性は高いでしょう。これと同じ物と見られるバレル・ストレングスを飲んだアメリカの或る方は、その人の「味覚では間違いなくフォアローゼズ」と言っていました。ただ、個人的には私がこれまで飲んで来た旧来のフォアローゼズ産のブレットに想い描く味とは完全に別物という感想でした。まあ、私の味覚は当てにはなりませんけれども…。もしフォアローゼズならば、最もスパイシーとされるOBSKとか? そんな味わいに思います。或いは誰かが言うように他蒸留所とのミックスなのでしょうか? 少なくとも2020年の情報では、フォアローゼズはディアジオ向けの蒸留は行っていないものの、自社の施設でディアジオのバレルを熟成させていることを認めています。それはバレルではなくタンカーでブレットに送られるそうです。タンカーで送られるということは、バレルから投棄された原酒が混ざっているため、シングルバレルでないことを意味します。ならばそれはブレンド用ということになり、バレル・ストレングスにもフォアローゼズ原酒をブレンドすることは出来るでしょう。

ところで、気になるのはブレットのマッシュビルと言うかレシピ。そのヒントになるのが2019年に新しくブレット・バーボンに仲間入りしたシングルバレル(104プルーフ、希望小売価格60ドル)です。シングルバレルを購入しようとするリカー・ストアのオウナーはブレットの施設に行くか郵送でサンプルを受け取るか選べるそうです。ブレット施設へ行った方によると、10の異なるレシピから選ぶことが出来ると言われたらしい。え? まるでフォアローゼズやん? バレルのヘッドがヤスリがけされているためDSPナンバー(中身のバーボンが蒸留された場所)は確認できなかったとのこと。ブレットのスタッフは、どの樽にどのレシピが入っているかは特定できないけれど、中身の熟成年数は教えてくれるそうです。更にスタッフはバレル内の液体は「あなたが思っているようなものではない」と繰り返したと言います。これはフォアローゼズではないという意味でしょう。
実はブレットのシングル・バレル・ピックは、名称が違うだけで中身はフォアローゼズ・シングル・バレル・ピックと大体同じなのではないか?という疑いがバーボン愛好家の間で持たれていました。長らくフォアローゼズ蒸留所がブレットに供給していたのが知られ、尚且つ10のレシピがあると聞けば、そりゃあそう思いたくもなります。なるほど、そもそもフォアローゼズはブレットに10レシピ全てを提供しているのか、と。実際、ウィスキー・ニートのクリストファー・ハートはフォアローゼズ蒸留所を訪れた時にディアジオの略号「DG」とマークされたOBSVレシピのバレルの写真を撮っています(推定2018年末撮影)。そこで彼は真実を知るために、ブレットのバレル・プログラムの責任者メリッサ・リフト、同社のPR担当アリソン・フライシャー、そして、ディアジオのブランドを率いるグローバル・ブランド・ディレクターのエド・ベロらに話を聞きました。すると彼らはブレット・シングルバレルのセレクションは、パッケージの違うフォアローゼズ・シングルバレルのボトルでないことを断言しました。すぐ上にも書いたように、フォアローゼズの原酒はブレットへはタンカーで送られます。タンカーで出荷されたバーボンを再度バレリングするのはコストが掛かるし、それは「シングルバレル」とは呼べません。シングルバレル・プログラムの液体は全てバレルで到着し、その後、現地(おそらくスティッツェル=ウェラーの倉庫)で熟成されていると言います。原酒を供給している4つの蒸留所については明言を避けたものの、フォアローゼズでないことだけは強調していたそうです。また、フォアローゼズのレシピに関する質問に対しては、具体的に幾つとは言えないが、インディアナ産のライを除いて、我々は一つの蒸留所から調達している訳ではなく、常に複数の蒸留所から調達しブレンドしている、と述べています。エドによれば、彼が2014年頃にブランドに参加した時から既にこの方法でそれを行っていたらしい。そして、個人的に最も興味をそそられたのがマッシュビルです。ブレットのロウ・ライ・マッシュビルは75%コーン、21%ライ、4%モルテッドバーリー。ハイ・ライ・マッシュビルは60%コーン、36%ライ、4%モルテッドバーリーだそうです。対してフォアローゼズの「E」マッシュビルは75%コーン、20%ライ、5%モルテッドバーリー、「B」マッシュビルは60%コーン、35%ライ、5%モルテッドバーリーです。ライとモルトが1%だけ異なり、イーストもフォアローゼズとは別だと言っています。これは私の憶測ですが、この「1%」だけの違いは、従来品と同じようなフレイヴァー・プロファイルをクリエイトするために、基本的にフォアローゼズをコピーしようとしているからだと思います。それを別の蒸留所に依頼して造ってもらっていれば、イーストが違うのは当然なのでマッシュビルを微調整したのではないかと。まあ、それはいいとして、じゃあ従来からよく知られたあのマッシュビルは何なの?という疑問が生まれます。
ブレット・バーボンを検索した時にヒットするどのウェブサイトでも、大概ブレットのマッシュビルはコーン68%、ライ28%、モルテッドバーリー4%と書かれています。これはブレット側から公表された数値でしょう。私はこれを見て、フォアローゼズがそのマッシュビルでイーストはV、K、O、Q、Fのどれかを使い契約蒸留しているのだろうと思っていました。そして、フォアローゼズとの契約が終わった後は、別の蒸留所がそのマッシュビルで蒸留をしているのだろうと思っていました。ところがブレットはロウ・ライとハイ・ライを造り分けていると言います。そこで、その両マッシュビルのコーンとライのそれぞれを足して2で割ってみると、コーンは67.5、ライは28.5となり、概ね公表されたマッシュビルと近い数値が出ます。おそらく、ブレットがこれまで明かしていたマッシュビルはロウ・ライとハイ・ライを混ぜた大体の平均値だったのではないでしょうか? 従来のフォアローゼズ産の「E」と「B」のマッシュビルのライを足して2で割ると27.5です。これも28に近い数値ですからね。しかし、そうなるとモルテッドバーリーが4%の謎が残ります。
ブレットがフォアローゼズから原酒の供給を受けていた時も、彼らは4%モルテッドバーリーのマッシュ ビルと公表していました。フォアローゼズの10レシピはどれも5%のモルテッドバーリーを使用しています。そこで考えられる可能性は、フォアローゼズと他の蒸留所のジュースをブレンドした結果モルテッドバーリーが4%に下がったという事実を反映していたか、或いはフォアローゼズが自らの10レシピ以外にブレットのためだけにわざわざ1%違うレシピでウィスキーを製造していたかのどちらかでしょう。後者に関しては、先に触れたフォアローゼズの施設にあったというディアジオ向けのDG OBSVバレルの件からすると、おそらくフォアローゼズは単に自らのレシピで蒸留した原酒を供給していたように思えます。信頼できるか判りませんが、2013年頃にブレットはフォアローゼズ・イエローラベルと同じジュース/バレルだとフォアローゼズの関係者から聞いた、と言っている人がいました。イエローラベルは10レシピ全てを使います。うーん、どうでしょうね、あり得なくはないような気もしますが…。前者に関しては、フォアローゼズの5%のモルテッドバーリーの配合率を下げるためにはより低いモルテッドバーリー率の原酒が必要となります。当時からフォアローゼズ以外の原酒をブレンドしていたというのなら、それが公開されていない以上、もはや謎と言う他ありません。もしかすると我々はデタラメな情報に踊らされていた可能性だってあります。皆さんはブレットのマッシュビルについてどう思われますか? どしどしコメントお寄せ下さい。また、最新情報をお持ちの方もコメントして頂けると助かります。


*トム・ブレットの最初の結婚相手ステファニーとの唯一の娘であるホリス・B・ワースは、家族とのいざこざもあって2018年にアン・ホリスター・ブレットから合法的に名前を変更しています。ワースは2006〜2016年までの十年間、ディアジオに雇われブレットのブランド・アンバサダーとして働いていました。彼女はLGBTQコミュニティのオープン・メンバーであり、12年の間パートナーだったシェールと結婚しています。ワースは2017年頃から父親とその現在の妻ベッツィー・ブレットにキャリアを台無しにされたとソーシャル・メディアで非難し始め、また元雇用主であるディアジオには同性愛嫌悪のために解雇されたとしてその企業文化を攻撃しました。2018年1月頃、ディアジオとは和解が成立し、ワースは和解の一環として120万ドルの支払いを受け取ったと報告しました。しかし、2019年8月からは更に深刻な、子供の頃に性的虐待を受けていたという主張までし出します。「幼い頃から、私は身体を触られ、不適切に愛され、自分の意思に反して裸で写真を撮り、私とのコミュニケーションには露骨な性的表現が使われ、年齢に相応しくない性的メディアをいくつかの形で見せられました」と。当然の如くトムは断固として否定していますが、流石に性的虐待の話まで出た時には、取り敢えずトムはブランドの顔から退きました。その後どうなったかはよく分かりません。この一連のスキャンダルは、個人的にはワガママ娘のカネ目当ての行動に見えてしょうがないのですが、実の父娘同士の葛藤が何かしらあるのでしょうし、我々第三者には事の真相は知る由もなく、真実は藪の中です。たとえ何かしらの解決がなされたとしても、当人らの心に深い傷が残る出来事だったのだけは確かでしょう。

**オーガスタス・ブレットについては、時代も時代なので、情報源によって経歴の年号やエピソードに多少の違いがあります。個人的な印象としては、親族の間で語り継がれるような一家の礎を築いた人物と言うか、立身出世物語のヒーロー的な人物だったのではないかという気がしています。幾つかの情報を纏めると、オーガスタスは大体以下のような人生を送ったようです。
Augustus Boilliat(本人かその子孫か判りませんが、どこかの段階で「Bulleit」姓に改名された)は1805年もしくは1806年に生まれました。1836年(或いは1841年とも)、25歳か30歳くらいの時に、フランスからアメリカへやって来てニューオリンズに上陸し、その後ケンタッキー州ルイヴィルに短期滞在、それからインディアナ州ハリソン郡へ移りました。そこでベルギー生まれでレインズヴィルから来たMary Julia Duliuと1841年8月29日(4月29日とも)に結婚。オーガスタスが35歳、メリーは21歳でした。同じ年、彼はアメリカに帰化したそうです。二人はドッグウッド近くのバック・クリークの農場に住み着き、9人の子供を儲けました(或いは5人の息子と少なくとも2人の娘とも)。オーガスタスとメリーは国勢調査記録に現れ、それによると1850年に彼の職業は「製粉業者」、1860年には「農夫」となっているそうです。そして、バック・クリークの自宅で長年暮らした後、隣人のアイザック・メルトンと一緒にフラットボートを作り、幾つかの農産物を積んでオハイオ川からミシシッピ川を下ってニューオリンズまで出掛け、積み荷の農産物を売った後オーガスタスは消息不明となったらしい。それは何らかの凶行に遭ったからではないかとされ、1860年、54歳頃のことと見られます。
どうでしょう? ブレット・フロンティア・ウィスキーの起源の物語と殆ど同じですね。違う点はルイヴィルが殆ど出てこない点です。このオーガスタスは、フランスからアメリカへ来てから短い移行期間に立ち寄っただけでルイヴィルに住んだことはなく、ルイヴィルで蒸留したことも、ルイヴィルで居酒屋を経営したこともありません。このブレット家はインディアナ州ハリソン郡に根を張った一族でした。もう一つの違いはウィスキーの話が出てこない点です。オーガスタスが製粉業者や農夫だったということは、少なくとも小さなスティルを持っていた可能性は指摘されています。確かに、製粉業者も農夫も穀物で報酬を得ていた訳ですから、余った穀物を腐らないウィスキーに蒸留して販売していてもおかしくはありません。ただ、トム・ブレットとは別のオーガスタスの玄孫の方は「私の祖母は秘密のバーボン・レシピなど何も言っていませんでしたよ」と言っています。その方の知る家族の伝承によると、オーガスタスはかつて居酒屋を経営していた可能性もあるし、製材業も行っていた可能性もあるが、どちらも失敗に終わっただろう、とのこと。
また、インディアナ州コリドン出身のローラ・メイ・ブレット(オーガスタスの玄孫)を曾祖母にもつ方も同じような話をしています。彼女は子供の頃にオーガスタスの話を聞いて育ったそうで、家族の歴史によると、オーガスタスはインディアナ州のレインズヴィルで酒場を経営していたが失敗に終わり、バック・クリークにある農場に移って製材所を建てて成功し、当時としては多額の現金収入を得たと言います。彼はフラットボートを作り、オハイオ川やミシシッピ川で商品や生産物を販売していたが、そんな中、ルイジアナ州ニューオーリンズに向かったオーガスタスは消息不明となった、と。
更には、アミエル・L・ブレット(オーガスタスとメリーの三男で当時はインディアナ州南部とケンタッキー州北部で有名な鍛冶屋だった)の曾孫という方は、1998年、母と妹を連れてコリドンを訪れ、コリドン・カーネギー公立図書館の系図室で一日中過ごし、ブレット家に関する豊富な情報を得たと言います。その多くはブレット家のメンバーによるオーラル・ヒストリーとして提供されており、1965年にブランチ・ブレット・クリストリー(オーガスタスの孫娘とされる)のアカウントでは、オーガスタス・ブレットの生涯と1860年メンフィスへのフラットボートによる交易の途中に起きたイリノイ州メトロポリス周辺での失踪にまつわる一族の伝承の強固なヴァージョンが語られていたそう。彼はそこで土地を手に入れたが、商品と土地のために殺されたと言われており、おそらく後にその両方を手に入れた男に殺されたのだろう、と。この方は数年後にメトロポリスを訪れ、カウンティ・クラークのオフィスでマサック郡の土地記録を調べたところ、1860年12月に記された「Augustus Boilleat」への40エーカーの証書の公式記録を見つけたそうです。そしてこの方も、自分の祖先はブレットのタヴァーンやウィスキーのレシピについては何もメンションしていませんでしたと言っています。1998年にコリドンを訪れた際に紹介されたコリドン・タウンの歴史家によると、ブレット家は肥料の販売員や鍛冶屋や馬車製造業者だったと言われたとか。
トム・ブレットは2013年のインタヴューでは、レシピはオーガスタスから祖父のフランシス・エイム・ブレットに受け継がれたと語っていたので、私もここで語られているブレット家を家系図のサイトで調べてみたのですがフランシスを見つけられませんでした。勿論、家系図サイトが必ずしも正しいとは限りませんし、また上のような個人的に行われた系図調査は大きな証拠がない場合や多くの飛躍や推測が含まれている可能性があるので、話半分で聞く必要もあります。それに、流石にトムが自分の祖先の名前をでっち上げるまではしないと思います。そもそもオーガスタス・ブレットという同姓同名の人物が何人かいるのかも知れません。ただ、それにしては余りにもエピソードが似すぎていますよね。少なくとも多少盛っているのは間違いないかと…。その祖先伝来のレシピについても、私の記憶では、昔はライが3分の2とコーンが3分の1のウィスキーとされていたのが、数年前からライが3分の1のウィスキーに変更されているような気がしています。ここらあたりにも、何ともいかがわしいマーケティングの臭いが感じられるでしょう。

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リデンプション・ライは現代のライ・ウィスキー復活をリードしたブランドの一つです。英語の「Redemption」は「償還、救済、贖う、買い戻し」等の意味の言葉であり、ライ・ウィスキーを本来の場所に戻すという目的を持って創始されました。1700〜1800年代には、ライ・ウィスキーはアメリカでナンバーワンのスピリットだったとされます。その時代、ライ麦は豊富に獲れ、美味しいウィスキーが造られていました。しかし、禁酒法の制定はライ・ウィスキーを造る蒸留所を閉鎖に追い込み、禁酒法解禁後もバーボンのように復活することはなく、ライは殆ど忘れられた存在となっていました。ところが近年、クラフト・カクテルのバーテンダーやコンシューマーがその大胆でスパイシーなキャラクターを再発見するにつれて、ライ・ウィスキーは見事な復興を遂げたのです。

「リデンプション」はスピリッツ業界では比較的新しい名前です。2009年頃、蒸留酒ビジネスのヴェテランであるデイヴ・シュミエとマイケル・カンバーの二人は市場でのライ・ウィスキーへの関心の高まりに気づきました。主にカクテルに使用されるライ・ウィスキーは、殆どのバーボンではちょっと匹敵することが出来ないスパイシーな風味を提供します。そこで彼らはライ・ウィスキーやライ麦含有量の高いバーボンを製造するビジネスに参入することを決め、リデンプションは誕生しました。創設者が紡いだ伝承によると、リデンプション・ライは偶然に生まれたもので、インディアナ州ローレンスバーグの倉庫でライ・ウイスキー・バレルの貯蔵物を発見した時に、これなら古典的なアメリカン・スピリッツを完璧に表現することが出来ると確信した、と言います。シュミエとカンバーはそうしたLDI(ローレンスバーグ・ディスティラーズ・インディアナ=現在のMGPのこと)で出会った良質のウィスキーをボトリングするために、2010年にバーズタウン・バレル・セレクションズを開始、そこで数樽から始めて自身のラベルを作りました。そして、シュミエはリデンプションのためのブレンドを造り上げます。その目標は、バランスを重視し、親しみやすく、なおカクテルの中で立ち上がるのに十分に高いプルーフを持ち、勁いフレイヴァーを備えたものにすることでした。それはニートやロックでも然りです。結果、リデンプションは92プルーフに落ち着きました。
ちょっとリデンプションから話は逸れますが、ここで創始者についてもう少し。

デイヴ・シュミエはダイナミック・ビヴァレッジズの社長です。彼はリデンプション・ブランドで名を馳せた後、プルーフ・アンド・ウッド・ヴェンチャーズを設立し、現在では「ザ・アンバサダー」や「ザ・セネター」、「デッドウッド」のシリーズ、「タンブリング・ダイス・バーボン」や「ルーレット・ライ」等を発売しています。またシュミエは、2005年からニューヨークで始まり、現在では米国中の様々な都市で開催されている、マイクロ・ディスティラリー等のスモールバッチなクラフト・スピリッツだけ出展される展示会「インディ・スピリッツ・エクスポ」のディレクターでもあります。

もう1人のパートナー、マイケル・カンバーはストロング・スピリッツのオウナーです。彼の叔父は有名なスカイウォッカ(SKYY VODKA)の創業者であるモーリス・カンバー。ストロング・スピリッツは、ニューヨークはマンハッタン出身のカンバーが自分のブランドをボトリングするために2006年からスタートした、少量注文に焦点を当てたパッケージャー兼コントラクト・ボトリング会社です。彼らはパートナー・ボトラーとして他のボトラーのシャットダウンや遅延に起因するギャップを埋めたり、小ロットの生産を優先し、スケジュールから外れるような予期せぬ緊急事態に対応したりするバックアップ・ボトラーとしての役割も受け待ちます。
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カンバーはリデンプションの前に、自身のバーボンブランドである「80ストロング」の開発を試みましたが大きな成功は得れませんでした。80ストロングはブロンドヘアーのピンナップガール風のイラストが描かれたラベルが特徴のバーボン。カンバーは「これを造ろうとした時、本当にプレミアムなバーボンを、ホットな新しいパッケージに入れたかったんだ」と語っています。「私はバートンのスノーボード、ハーリー・デイヴィッドソンのモーターサイクル、フェンダーのストラトキャスターみたいに気取らずクールに見えて、しかも製造に妥協のない製品にいつも惹かれていたからね。そこで、そのコンセプトを80ストロングに応用した訳さ」と。それはケンタッキー州バーズタウンで蒸留、熟成、瓶詰めされたスモールバッチのオーセンティックなケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーでした。中身は4〜6年熟成のバーボンのブレンドだそうで、原酒はヘヴンヒルと見られています。ラベルには「プレミアム」という言葉のスタンプがデザインされていましたが、バーボンを普段飲まない人を対象としているように見えるポップなラベルであること、またスペックや80プルーフで21ドル程度だったことを考えると、実際にはプレミアム感は構築できていなかったと思います。
カンバーは叔父モーリスのスカイウォッカの成功を直に見ており、80ストロングの失敗の後もまだスピリッツ・ブランドの開発に熱心でした。けれども、過去の経験からブランドを市場に出すことがどれほど困難で費用が掛かるかも知っていました。だから、なるべく小規模なことから始めたかったのです。当時、彼はテスト・マーケットを開拓できるような20ケース(通常1ケース、750mlボトル12本)を実行してくれるボトラーを必要としていました。しかし、彼が見つけたボトラーの最小ロットは約3500ケースでした。それはカンバーにとって、その時点では考えられない投資でした。そこで、少量生産をしてくれるボトラーを見つけることが出来なかった彼は自身の製品を自らボトリングすることを決意します。
カンバーはその頃はまだニューヨークに住んでいましたが、バーズタウンを知っていました。それは80ストロングを開発しようとした時にロレット・ロードにあるケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD=現ウィレット蒸留所)と契約していたからでした。彼はその間に業界や地域の人々と知り合いになり、バーズタウンという地名の持つ信頼性から会社をそこに置きたいと望みました。問題は政府の許可を得るために事前に機材を持っていなければならないことでした。そこで彼は、現在のバートン1792蒸留所の物流倉庫の一角を借り、40リットルのタンクと他の幾つかの寄せ集めで自作したボトリング・キットを設置しました。そして機材の写真を撮り、許可を申請したところ、驚いたことに承認されたのです。
カンバーがDSPライセンスを取得すると間もなくして、彼と同じく小規模生産を求めていた独立系ブランドから連絡を受けるようになりました。彼の運営が広まるにつれ200〜300ケースの注文が殺到したと言います。カンバーの事業は十分に成長し、2011年6月には創業時の建物の向かい側にある10万平方フィートの建物を購入しました。その契約ボトリングのための施設は、世界に冠たるバーボン首都バーズタウンのウィズロウ・コートにあります。ストロング・スピリッツの契約の多くには秘密保持が含まれているので全ては明かされていませんが、彼らがボトリングしている物には近年その名を上げているブランドが多数あります。有名なところではケンタッキー・アウルとか、昨今のアライド・ロマーのブランドもプリザヴェーション蒸留所にボトリング施設がないのなら多分ストロング・スピリッツを利用しているでしょう。あとは先述のシュミエのブランドも関係上ここでのボトリングです。

偖て、そろそろリデンプションの話に戻ります。NDP(非蒸留業者)のソーシング・ウィスキーには疑わしいバックストーリーも横行する中にあって、リデンプション・ブランドはそのウィスキーの出自を怪しげなマーケティングで飾りません。リデンプションは全てMGPからの調達であることを明確にしています。ブランド・アンバサダーを務めるジョー・リッグスによれば、このブランドがデイヴ・シュミエによって共同設立された時、彼は透明性を保つことによって責任のレヴェルを維持することを固く決心したそうです。MGP所有の蒸留所は、インディアナ州ローレンスバーグの川沿いの町にあり、170年以上の歴史を持ち、現在市場に出回っているライ・ウィスキー(特にNDPの製品)の推定80〜85%を生産していると目される旧シーグラムの大型蒸留所。我々消費者やバーテンダーは製品がMGPからのものであることを知れば、品質の信頼性を想像するのは難しくはないのです。
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シュミエとカンバーの事業、MGPのライ・ウィスキーをストロング・スピリッツでボトリングするビジネスは、カクテル文化の恩恵もあって、すぐに軌道に乗ります。初期の頃のリデンプションは下画像のようなラベルでした。ボトルのデザインも現行とは違い、スタンダードな物は背の高いボトルでした。ライの他にバーボンも作成されていて、語呂を合わせたのか「テンプテーション」と名付けられています。最終的にはテンプテーションは廃止され、リデンプションの名でバーボン・ヴァージョンを追加し、更に「リヴァーボート・ライ」というブランドも追加されました。
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発売以来、毎年順調に成長していたリデンプションは、ライ・ウィスキーの爆発的な需要増と相俟って寧ろ急激な成長を遂げます。「成長の方向性が見えてきたら、それに備えなければなりません」とシュミエは語ります。しかし、ウィスキーの場合、何年も先まで販売することが出来ないので、「ブランドを成長させ始める時にはかなり大きな資金協力がいります」。リデンプションの成功は良いことでしたが、バーズタウン・バレル・セレクションズのパートナー達は新しい樽に投資し続けるための資本を使い果たしました。「おかしなことに成功すればするほどお金がなくなって行くんですよ…」とシュミエ。パートナー達は出資者を探し始め、ドイチ・ファミリー・ワイン&スピリッツとの話し合いの結果、2015年にリデンプション・ブランドを含む会社全体の売却が決まります。この取引はリデンプション以外のリヴァーボート等の各ブランドに加えて、限定版のボトリング及びそれらのバレルの全在庫を対象としていました。パートナーの二人は移行を通じて暫くはドイチと協力し、その後、カンバーはバーズタウンでストロング・スピリッツを運営し続け、シュミエはエクスポを継続して新しいヴェンチャーを立ち上げて行きます。

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ドイチ・ファミリー・ワイン&スピリッツは、世界の高品質なワインを販売するために、現在の会長ビル・ドイチによって1981年に設立されました。30年以上前に二人の従業員から始まったビジネスは、今では200人を遥かに超える従業員がサーヴィスを提供する国際的な会社に成長しています。ドイチ・ファミリーのスピリッツのポートフォリオは限られていましたが、2000年代後半にスピリッツ事業に参入し、リデンプション買収の2年位前からウィスキー市場への参入を模索していたそうです。ポートフォリオにどのブランドを導入するかについては非常に厳選した、とビルの息子で同社のCEOピーター・ドイチは語っています。社長のトム・ステファンシも、リデンプションは品質、拡張性、評判、消費者にとっての価値など買収を評価する際に用いる基準を全て満たしていた、と述べています。リデンプション・ブランドの競争力は魅力だったのでしょう。同社の目標はリデンプションの主力製品の価格を個々の市場に応じてボトルあたり約28ドルに維持しつつ、最終的には全米規模のブランドとなるよう供給を拡大することでした。彼らは買収時にブランドのためのバルク・ウィスキーの長期供給契約を新たにMGPと締結しています。実際リデンプションは急速に広まり、同社のビジネスをより大きくしました。ちなみにドイチ・ファミリー・ワイン&スピリッツは、2016年にそれまでのニューヨーク州ホワイト・プレインズからコネチカット州スタンフォードに拠点を変えています(規模を大きくした)。また同社のスピリッツ部門には、リデンプションの他にビブ&タッカーやマスターソンズのブランドがあります。

ドイチ・ファミリーがリデンプションを買収してから約1年後の2016年11月から、同ブランドはボトルとラベルのデザインを一新しました。これはドイチによれば、ライの地位を固めるというブランドの使命を推進するための刷新なのだとか。社長のステファンシは「リデンプション・ウィスキーをポートフォリオに追加して以来、私たちは消費者やバーテンダーの話を聞くことに多くの時間を費やし、彼らの意見を参考にして、ライがアメリカで王様だった往年の時代からヒントを得た新しいパッケージをデザインしました。ブランドの新しい外観は、リデンプション・ウィスキーの個性をよりよく反映し、ライが持つアメリカならではの個性を表現してい」ると語っています。こうして都会的な印象を与えていたトールボトルは禁酒法以前のような伝統的なボトルに置き換えられました。ライ麦がボトルの前面にエンボス加工されており、ヒップ・フラスクのように背面が湾曲しているボトルですが、全体的にどことなく「ブレット」のボトルに似たスタイル。実際、ディアジオ(ブレットを所有している大企業)からはボトルが模倣されているとして訴訟を起こされたようです。このボトルがリリースされ続けているということはドイチは敗訴しなかったんでしょうね。
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買収された後のジュースの制作に大きな変化はないとされますが、ブレンダーは以前のデイブ・シュミエからドイチ・ファミリーのワインメーカーでもあるウェイン・ドナルドソンに代わりました。2020年頃からはデイヴ・カーペンターがマスターブレンダーの役割を担っているようです。カーペンターのウィスキーでの仕事は2012年にジムビームで始まり、2016年後半にジェプサ・クリード、そこからリデンプションに移ったみたいです。誰がブレンダーであれ、同じフレイヴァー・プロファイルの作成を目指し、ボトル(バッチ)間の一貫性は保証されているでしょう。

このブランドを有名にしたのは、おそらく、クラシックとモダン両方のカクテルに利用できる優れたベースとしての低価格なライ・ウィスキーだと思われますが、より上位のヴァリエーションやバーボンもあります。スタンダードとハイ・ライのレシピによるバーボン、限定版のウィーテッド・バーボン、毎年少量でリリースされるエイジド・バレルプルーフや流行りのフィニッシング物などです。
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更にスーパープレミアムな超長熟のライとバーボンのエンシェント・コレクションもありました。ライは1998年蒸留の18年熟成、54.95%ABV、400ドルの希望小売価格、限定600本のボトルのみ。バーボンに至っては1978年蒸留の36年熟成、94%の蒸発率で僅か18本のボトルを造るのに4バレルかかったと言われています。こちらは48.8%ABVで1200ドルの希望小売価格。まあ、手に入れるのは無理ですね…。これらは中身のジュースと同様ボトルも特別な仕様です。シルクスクリーンのライ麦のプリント、アンティーク感のあるエンブレム、革のコードで包まれたネック、そして木製のストッパーには1978年の実際のペニーが埋め込まれています。エンシェントに使用されたバレルはどちらも他のリデンプションと同じくMGPからの調達。

最後に、リデンプション・ライの中身についてもう少しだけ詳しく見ていきましょう。
リデンプション・ライは、MGPの提供するレシピの中で最も人気のある95%ライ、5%バーリーモルトのマッシュビルを使用しています。ブレットやジョージ・ディッケルのライ、その他多くのブランドに使用されているものと同じです。ボトリング・プルーフや熟成年数その他の要因によって同じマッシュビルでもブランド間で多少の違いが生じます。
ブランド・アンバサダーのリッグスへの2017年のインタヴューによれば、フラッグシップとなるスタンダードなライ・ウィスキーは、135プルーフで蒸留、バレル・エントリーは120プルーフ、ブレンドにはフレイヴァー・プロファイルに基づいて18か月から6年熟成までのウィスキーを使用し、バッチサイズは凡そ150バレルだそうです。公式の声明では平均2.5年熟成とされています。リデンプション・ライで何より特徴的なのは、明らかにMGPからもっとオールダーなジュースを購入することが出来るにも拘らず、かなりヤンガーなウィスキーを敢えて選んでいるところ。現在のマスターブレンダーであるデイヴ・カーペンターは或るインタヴューで、なぜ若い製品を選ぶのか訊ねられて、4〜7年熟成のウィスキーを出してもウィスキー文化に新しいものを加えることにはならない、我々はもっとブライトでシトラス・フォワードなものを提供するのが好ましいと思った、そしてそのような2〜3年熟成の製品はオールダー・ウィスキーが常に良いものであるという誤解を解けると考えている、というようなことを答えていました。これは個人的には好ましい考え方だと思います。
現在のリデンプションはNDP(非蒸留生産者)のソーシング・ウィスキーとしてかなり確立されたブランドであり、スタート時より資本力のある会社に所有されています。そこで我々が気になるのは自社蒸留を開始しないのか?ということですが、リッグスは上述のインタヴューで「私たちはシーグラム社で20年間働いて来た人たちよりも優れたウィスキーを造れるとは思っていません。MGPには30年来の素晴らしい蒸留チームがあります。だから、もしスティルを購入してもおそらく他の製品を造ることになるでしょう(要約)」と言っていました。これまた個人的にはベストな考えと思います。
では、飲んだ感想を少しばかり。こちらは友人からワンショット頂いての試飲となります。

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REDEMPTION Rye 92 Proof
Batch No. 260
色はゴールド寄りのブラウン。焦がした木、ライスパイス、フローラル、ピクルス、青リンゴ、キャラメル、ミント。トーストされた木材の甘い香りもありつつのスパイシーなノーズ。少しだけとろみのある口当たり。味わいはライのスパイシーさとフレッシュなフルーツ感とグリーンリーフのタッチ。液体を飲み込んだ後はけっこう刺激的。余韻はあっさりしてるが、爽やかで悪くない。
Rating:84.5/100

Thought:以前に飲んだトールボトル(レヴューはこちら)の物と劇的な変化はないように思いました。開封直後に頂いたのですが、のっけから美味しい。相変わらず、若さはあってもフレイヴァーフルで自分の好みです。強いて言うと、こちらの方がやや甘くて円やかな印象がありました。サイド・バイ・サイドではなく記憶との比較なので不確かですが…。
ところで、私が以前飲んだトールボトルのリデンプションにはストレート表記がなかったのですが、リニューアル後のラベルにはストレート表記があります。と言うか、画像検索でリデンプションを調べると、トールボトルにもストレート表記がある物があったり、新ボトルでもストレート表記なしの物が見つかりました。裏ラベルを見ると、ストレート表記がない物は「AGED NO LESS THAN ONE YEARS」と書かれ、ストレート表記のある物は「AGED NO LESS THAN TWO YEARS」と書かれているようです。もしかすると、2年熟成未満の原酒がブレンドされているバッチと、最低2年熟成以上の原酒がブレンドされているバッチでラベルを変えているのかも知れません。まあ、これは私の憶測なので聞き流して下さい。
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Value:アメリカでは大体25〜30ドルで売られています。現在の日本では某リカーショップで購入出来ますが、値段が5000円程度です。熟成年数を考えると少しお高めな気もします。いや、かなり。ですが、個人的には何故かテンプルトンやブレットよりもリデンプションの方が美味しく感じるので、ありはありかな。もう少し安いと常備ライにベストな選択となるのですが…。

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現在のバーボン・ブームは「プレミアム」なバーボンがその人気を助長しているように見えます。多くのブランドは長年の主力製品をプレミアム化しました。特殊な環境下で熟成させたり後熟を施したり、高価なボトルに入れたり新規のラベルを貼り付けたり、壮大なストーリーを宣伝して、数量限定や割り当て配給にすることにより、時には100ドル超の高価格帯の製品を追加しています。また、ここ10年の間に登場した多くの新しいバーボン・ブランドも、目新しいボトルや凝ったラベルを用いてプレミアム感を演出し、消費者へのアピールをしています。それらを首尾よく手に入れ、SNSで自慢気に披露するのはよく見る光景です。ワイルドターキーの製品にもプレミアムなマスターズ・キープというシリーズがあります。レアな物を手に入れたり飲むことは、我々の気分を高揚させ、魅惑的で貴重な経験をさせてくれるでしょう。しかし、バーボン愛好家はそのようなプレミアム製品だけでなく、絶対的なお気に入りの安くて旨いバーボンも同時に愛するものです。
そう、ワイルドターキー101のことを言っています。熱烈なターキー信者は、もしも貴方の残りの人生でバーボンを一種類だけしか飲めないとしたら何を選びますか?と訊ねられたら、必ずやワイルドターキー101と高らかに宣言するに違いありません。それは彼らがワイルドターキー101を否定できない価値のある素晴らしい製品であると知っており、他のアメリカン・ウィスキー製造業者には到達できない何かがあると信じているからです。60年以上前、19歳のジミー・ラッセルはケンタッキー州ローレンスバーグの蒸留所で働き始め、後にマスター・ディスティラーに昇進し、今日でも共同マスター・ディスティラーである息子のエディ・ラッセルと共にそこにいます。変転の多い世の中にあって、これは何の誇大宣伝も必要としない紛うことなき伝説と伝統です。過去にワイルドターキーの特別なボトリングは幾つか発売されていますが、バーボン・ブッダと称される男の魂を最も体現するのはワイルドターキー101に他なりません。長らく卓越性の基準であったボトルド・イン・ボンド規格を大幅に上回る熟成期間と、その法定プルーフを僅かに越える1プルーフの追加を行うことで、見た目にも美しい並びの「101」という象徴的な数字をもつバーボンは、常に信頼できる品質を誇りながら何時でも手頃な価格であり続けました。頑固だけど気さく、厳しいけど優しい、まるでジミーのように。

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(2015年の終わり頃から採用されたスケッチ・ターキー・ラベル)

日本人にとってワイルドターキーの定番中の定番と言えば今でも8年表記のある101。1992年以降、アメリカ国内の101からはエイジ・ステイトメントが削除されNASの6〜8年熟成となりましたが、輸出市場の日本では8年物が流通し続けているのです。その理由を或るインタヴューでエディは、日本の消費者は味の判る方が多いからというようなことを言っていました。本当かどうかは怪しいですが、日本向けの建前としてはそうなのでしょう。また或るバーのオウナーの方が宣伝のため来日していたエディに直接尋ねたところ、「日本人は熟成年数でボトルへの評価を変えるから」という趣旨の発言があったそうです。こちらが本音のような気がしますね。いずれにせよ、日本を特別扱いしてくれていることには感謝しかありません。

同時期のエクスポート8年とアメリカ国内流通NASを飲み比べた海外のターキー・マニアの方によると、味わいはどちらもモダン・ワイルドターキーのコア・フレイヴァーを共有し、明確な差はそれほど感じないとのこと。エイジ・ステイトメントの有り難みは確かにありますし、熟成年数の明確な違いはフレイヴァー・バランスを変えますが、寧ろ実際にはバッチングにどのようなバレルが選択されたかの方が重要なようです。ワイルドターキーでは毎年、全てのリックハウスから均等にバレルが選ばれる訳ではありません。各バッチに「収穫」されるバレルは、その時「旬」の限定された選りすぐりのリックハウスから、成熟度と味に基づいて引き出されることが知られています。或る時はタイロンのB、D、H、K倉庫から多く引き出され、別の年はG、M、O倉庫から、また或る年はキャンプ・ネルソンのAとF倉庫から多く引き出されるという具合に。ワイルドターキーは比較的バッチやロット間の味わいの変動が大きそうな印象がありますが、もしかするとここら辺がその理由の一端なのかも知れませんね。
エディ・ラッセルの息子でブランド・アンバサダーのブルースは某掲示板で、2018年のワイルドターキー101には通常の8年より10年原酒が多く含まれていると述べ、ターキー愛好家をざわつかせました。或る著名な愛好家は機会を待ってさっそく「仕事」に取り掛かりました。彼によると、2018年前期の物は2017年の物と比較してプロファイルに大きな違いは見つからなかったらしいですが、2018年後期の物(レーザーコードがLL / GG〜LL / GJの物)はとても優れていたそうです。そして2019年ボトルも概ね良さげな評価に見えます。逆に2020年2月のハンドル付リッター・ボトルは「オフ」バッチだったという報告もネット上で話題になりましたが、これは極めて稀な例でしょう。まあ、これらはNAS101の話。今回レヴューに取り上げるのは日本向け8年101の推定2019年ボトルです。

私はここ最近、ワイルドターキーの限定版やレアブリード等は飲んでいましたが、スタンダードな8年101を飲むのは約2年ぶり。実を言うと、敢えて飲むのを避けていたのです。その理由は、以前投稿したレアブリード116.8のレヴュー時に言及した件が関係しています。
ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。新しい施設の生産能力は年間1100万ガロンで、旧蒸留所の2倍以上です。新しいビア・スティルとダブラーは古い物と全く同じ大きさであり、全体的な生産容量の増加はより大きなクッカーとファーメンターから由来しています。新原酒を含むNAS101を飲み比べたアメリカの方によると、どうやら旧原酒よりもナッティな傾向が強いらしい。レアブリード116.8を飲んだ時、フレイヴァー・プロファイルがそれまでのレアブリードとはかなり違う印象を受けました。それはおそらく新しい蒸留施設の6年原酒を多く含むからなのでは?と推測し、ならば日本限定の8年101も単純計算で2019年のロットから劇的に味わいが変わるかも!と楽しみに待っていたのです。で、たまたま近所のスーパーに並んでいたワイルドターキー8年101が2019年ボトリングぽい、じゃあ買ってみるか、と。なので、さっそく注いでみましょう。

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WILD TURKEY AGED 8 YEARS 101 Proof
推定2019年10月ボトリング。レーザーコードはLL/HJ。スパイシーヴァニラ、香ばしい焦げ樽、クレームブリュレ、ドライアプリコット、チョコチップクッキー。口当たりはオイリーではないがゆるくもない。味わいはかなりフルーティで、僅かなレーズンと微かなチェリー。液体を飲み込んだ直後のスパイシーなキックはなかなか。余韻はややドライなウッド・ノートと穀物が主で、ほんのりナッツが香る。
Rating:86.5/100

Thought:久しぶりに飲んだせいか、あれ?こんなに旨かったっけ!?というのが正直な感想です。熟成感も丁度いいし、バーボンの美味しい基本的なフレイヴァーが各々、実にバランス良く感じられます。ブラインドで試せばもう少し格上の物と間違えそう。唯一、余韻は深みに欠けるのがウィークポイントかな。日本では、ターキーの現行ボトルとオールドボトルを比較して、薄くなったとかコクがないとか、樽のえぐみが出てるとかアルコール感が強いとかよく聞く(見る)のですが、自分にはちょっと信じられません。凄く良く出来たバーボンという印象です。まあ、オールド派の言いたいことは分かりますし、確かに私もそのようなことを言ってしまう時があります。オールドボトルの方がダークチェリーや複雑なスパイス、アーシーなフィーリングの現れが感じ易く美味しい、とか。ですが、オールドボトルはそれらに加えてオールド臭と言うのか古びた風味が強過ぎることも多いです。それに較べると現行品はフレッシュ感が美味しいので、つまりは一長一短…。どっちも愛せばいいんじゃないの?と自戒の念を込めて言っておきましょう。
そして、上述の新原酒の件ですが…、うーん、どうでしょうね、2年前に飲んだ時より美味しくは感じたのですが、それはここ最近、私が自分の苦手な長期熟成の限定版ワイルドターキーを飲み続けていて、久しぶりにスタンダードな8年を味わったからなだけなのかも知れません。ただ、フレイヴァー・プロファイルはそれほど変わったとは感じませんでした。サイド・バイ・サイドで比べてる訳でもなく、記憶と比べてるので曖昧ですが。
このボトルはおそらく2019年10月のロットと思われます。となると、このボトルにはギリギリ新原酒が混和されていない可能性もあり得るでしょう。逆にこのボトルは新原酒で構成されているが、新原酒と旧原酒はそこまでの著しい大差がない可能性もあります。ここはもう一度、2020年か2021年のボトルを飲んでみるしかなさそうです。既にそれらを飲んだことのある皆さんはワイルドターキー新施設の蒸留原酒をどう思いましたか? コメントより感想をどしどしお知らせ下さい。そう言えば、2020年11月には、アメリカの或る州では早くも新ボトル・デザイン(エンボスト・ターキー)が流通し始めました。そのうち日本流通の物も切り替わって行くのでしょう。見た目が変わると味も変わったように感じ易いので、またその時に試すのもいいかも知れませんね。

Value:相場は大体2500〜3500円くらいでしょうか。間違いなく購入する価値はあると思います。と言うか、これを愛さず何を愛せと言うのか…(笑)。


追記:こちらを投稿後、知人よりLL/GDのレーザーコードを持ったフラスク・ボトルの物を頂きましたので、追記の形で少し感想を書いておきます。

推定2018年4月ボトリング。ややオレンジがかったアンバー。キャラメリゼ、香ばしい焦げ樽、炭、コーン、ペッパー、僅かにフローラル、栗、オレンジが少々。口当たりはややオイリー。パレートは甘みもあるが刺激的なスパイシーさも。余韻はミディアムショートでドライかつ最後に苦み。
Rating:84.5/100

ここで取り上げている推定2019年のボトルと比べると、ダークなフルーツ感が欠け、香ばしさに偏っている印象でした。サイド・バイ・サイドで較べてはいないのですが、明らかにフレイヴァーのバランスが異なります。私としては完全にLL/HJボトルの方がクオリティが高いと思いました。これ、アロマは心地良いのですが、味わいと余韻が平坦過ぎです。オールドボトルのワイルドターキーと比較して現行ボトルを異常に低く評価する人はこれと同等の物を飲んでいるのではないか?という疑念が湧きますね。

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テネシー州ナッシュヴィルとチャタヌーガの間にあるジョージ・ディッケル蒸留所は、タラホーマからそれほど遠くない広大な景色の美しいカスケイド・ホロウにあります。そのためカスケイド・ホロウ蒸留所とも知られています。2018年頃からカスケイド・ホロウ・ディスティリング・カンパニーの名を押し出すようになりました。ディッケルのキャッチフレーズは「Handmade the Hard Way」です。同所の元ディスティラーだったアリサ・ヘンリーは、そのキャッチフレーズは「カスケイド・ホロウの生き方です。蒸留プロセスの全ての段階に人間がいます。あらゆることが細心の注意を払って測定され、手で記録されています」と語っていました。ディッケル・ウィスキーの製造に携わっている従業員は30人未満。大手の工場のように巨大でもマイクロ・ディスティラリーほど小さくもない中規模の蒸留所です。ディアジオのような大会社に所有されているにも拘らず、他の殆どの蒸留所ではコンピュータによって自動化されている手順の多くが、ここでは手作業で行われているとか。1958年以来、蒸留所の大幅なアップグレードはしておらず、蒸留や製造工程に使用される機械はほぼ同じで、例えばコーンのための秤は電動式ではなく手動式の古いものだそうです。「私たちはテイスト、スメル、タッチに頼ります。その実践的な、手作業のアプローチは私たちにとって非常に重要なのです」、とアリサの言。ディッケルのチームにとってハンドメイドの面倒くさい地道なやり方は誇りに他ならないでしょう。ジョージディッケル及びその前身であるカスケイド・ウィスキーの歴史は以前の投稿で纏めたので、今回はそんなディッケルのハンドメイドな製法への拘りに焦点を当てて紹介してみたいと思います。

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テネシー州の蒸留所は誇らしげに「それはバーボンではない、テネシー・ウィスキーだ」と宣言するかも知れません。しかし、実のところジョージディッケルはテネシー州で製造されるストレート・バーボン・ウィスキーです。テネシー・ウィスキーを造ることはバーボンを造ることと殆どのプロセスが一致しています。基本的に、同じようなマッシュビル、同じタイプの製造法と蒸留法です。製品がテネシー・ウィスキーと呼べるためにはストレート規格の他に満たされるべきもう二つの要件があります。一つはテネシー州で製造されていること。もう一つが「なめらか」や「まろやか」といった記述の乱用を齎すチャコール・メロウイング、或いはリンカーン・カウンティ・プロセスとも知られる工程ですが、これには後で触れ、先ずは穀物から。

マッシュには1バッチにつき11000パウンズの地元産イエローコーンを自家サイトで製粉したものが使われます。ジョージディッケル・テネシーウィスキーは84%コーン、8%ライ、8%モルテッドバーリーのハイ・コーン・マッシュビル。おそらく、ディッケルの味の一端はこのコーン比率の高さに由来するでしょう。蒸留所は1日にトラック2台分の穀物を受け取り、穀物の水分含有量を測定して15%未満であることを確認します。この15年間で穀物の不良品が見つかったのは一回だけで、それは穀物生産者の誰かが誤って小麦を混ぜてしまったことが原因だったらしい。
コーン、ライ、モルトは別々に挽き、ハンマーミルを通過したグリストは約9500ガロン(36000リットル)の容量を持つ二つのマッシュタブ(クッカー)の一つへとそれぞれの時間に合わせて投入されマッシングされます。順番にプリモルト、コーン、ライ、残りのモルトです。この順番はそれぞれを適切に調理するため。コーンはハード・ボイルする必要がありますが、ライはフレイヴァーを残すために煮立った液体が少し冷めてから加え、モルトは酵素が死んでしまわないように更に低い温度で投入されます。プリモルトは通常、始めの段階またはコーンと水が混合される時に入れられます。コーンやライのマッシュは澱粉の水和と糊化が起きると非常に濃厚で粘着質になり処理が難しくなるため、プリモルトの酵素がマッシュを薄くし粘性を減らすのを助けるそう。マッシュ中の「大物」が調理温度に達すると酵素が変性するので、後で更にモルトが追加されます。また、昔はどうか分かりませんが、現在のディッケルは各クッカーに約4カップ分の液体酵素をマッシングに使うようです。マッシング・プロセスは3〜4時間。 

マッシュのための水は約3マイル離れたカスケイド・スプリングから取られています。ウィスキー蒸留所は独自のマッシュ・レシピを持っていますが、この水源は競合他社とは一線を画すディッケル・ウィスキー独自のアイデンティティに於いて常に重要な要素の一つと考えられて来ました。石灰岩を通って流れ、カルシウムとマグネシウムが多く、硫黄分と鉄分が少ない天然でウィスキー造りに完璧な水です。ジョージディッケルはサワーマッシュ製法で造られるので、カスケイド・スプリングの水はバックセットと共に穀物に加えられます。このバックセットはスティレージとも言い、バッチのスターターのような役割を果たします。サワーマッシュ製法というのは、前回のバッチから蒸留残液をスティルの底部から少量取り出し、次回の新しいマッシュに加えることでマッシュのpHを低いレヴェルに保ち、ウィスキーを汚染する可能性のある野生酵母の侵入やバクテリアの増殖を制御して、次の発酵を確実に継続させ、バッチ間の一貫性を確保するための手法です。これはテネシー・ウィスキーに限らず、バーボンに於いて一般的な製法。サワーマッシュの一部は新鮮な水と一緒にクッカーに入り、一部は直接ファーメンターに入ります。二つの段階に分割している理由は風味ではなく容量のためだそうです。

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マッシュの調理が完了すると、次はイーストを加えて糖をアルコールへと変換させるファーメンテーション。ディッケル蒸留所には3×3セット(日に3ヴァット分を蒸留)の全部で9つのファーメンターがあり、それぞれが約20000ガロンの容量です。クッカーから出て来る混合物は約150℉なので、ファーメンターに入る前に72℉に冷まされ、熱が酵母を殺さないようにします。ディッケルでは発酵プロセス毎に他の場所で繁殖させたカスタムメイドのドライ・イーストを5.5キロ使用するそう。また、発酵の専門家はクック前と後の両方のマッシュ、バックセットのサンプルを採取して、pH、トータル・アシッド、および糖度などを測定しメモを取ります。このプロセスは完了するまでに約4日。ファーメンテーションが終了したものはディスティラーズ・ビアと呼ばれ、この時点でのアルコール濃度は約8%です。

ビア・ウェルに集められた後、ビアはスティルに送り出されます。蒸留は19枚のプレートを備えた銅製のコラム・スティル(ビア・スティル)で行われ、その結果114プルーフのスピリットが得られます。ディッケルではスピリットがスティルから出た後、ダブラーに入る前に銅製反応器「ラスキグ・リング(Raschig rings)」を通過するそうです。蒸留装置のどこかしらに銅が使われる理由は、蒸留されたスピリッツと反応して硫黄化合物を銅が吸収し、硫黄臭やゴム臭、腐った野菜のような不快臭を取り除くため。私には各蒸留所のスティルの内実まで詳しくは分かりませんが、他の蒸留所ではコラム・スティルの上部に銅が貼られているのが一般的かと思いますので、ディッケルのように別の装置に入れるのは珍しいかと。次いでスピリットはダブラーとして知られるステンレス製ポット・スティルで再蒸留され130プルーフになります。これはかなりロウ・プルーフでの蒸留です。穀物の元のフレイヴァーをより多く保持することが期待されるでしょう。ただし、第一蒸留を135プルーフ、第二蒸留を150プルーフとしている情報源もありました。ネットで調べる限り、ウェブ記事の殆どはロウ・プルーフでの蒸留と報告していますが、「150プルーフ」としている記事は2019年に書かれたものなので、もしかすると昨今のバーボン高需要に応えて蒸留プルーフを高めた可能性も考えられます。微妙な違いですが、第一蒸留を115プルーフ、第二蒸留を135プルーフと報告している記事もありました。まあ、これは誤差ですかね。ちなみにディッケルは1日2シフトで週6日間蒸留するそうで、7日間24時間で稼働する大型蒸留所とは異なり、毎晩蒸留を停止するそうです。また、スティルの上部から回収されるアルコールに対して、下部に沈殿した蒸留の副産物であるアルコールフリーのウェット・グレイン・マッシュは、スティルから取り出されると地域の農家が再利用する動物飼料として販売されています(液体の一部はサワーマッシュに)。

蒸留工程を終えると、いよいよチャコール・フィルトレーションのプロセスです。先に触れたようにテネシー・ウィスキーを名乗るには、ニューメイク・スピリットが樽に満たされる前に木炭層を通過しなければなりません。シュガーメイプルの木炭は現場で準備されています。高さ15フィートの棒状にカットされた木材を燃やす場所が蒸留所の横にあり、ここで木材が適切なレヴェルまで炭化されるように炎を制御します。出来た木炭チップを詰め、濾過槽の底に炭塵を収集するヴァージン・ウールのブランケットを敷いたのがチャコール・メロウイング・タンクです。最も有名なテネシー・ウィスキーであるジャックダニエルズも当然、熟成前に炭で濾過されますが、ディッケルがJDと異なるのはウィスキーを42〜45℉(約5〜7℃)くらいに冷やしてからチャコール・メロウイングする点。ディッケル・ウィスキーにその独特の風味を与えているのはこの冷却濾過だとされています。伝説によれば、酒名となっているジョージ・アダム・ディッケルは、年間を通して造られたウィスキーのうち夏よりも冬の方が滑らかであると感じ、冬の味を好んだとか。その信念に敬意を表し、カスケイド・ホロウ蒸留所は通常より手間のかかるステップを今日まで続けています。チル・フィルトレーションは、ウィスキーに含まれるオイルや脂肪酸が冷やされたことで凝集力を増し、ヴァットの中の木炭層でより濾過されるため滑らかになると考えられ、これがキャッチフレーズの「Mellow as Moonlight(月光の如くメロウ)」を生み出す秘訣の一つなのでしょう。現在カスケイド・ホロウ蒸留所のディスティラーとして対外的な顔となっているニコール・オースティンによれば、蒸留したての液体は非常にオイリーかつバタリーでフルーティな香りと共にポップコーンのノートがするけれども、木炭による濾過はフルーティな香りをスピリットに残しながら最終的なスピリットでは望まない重く油っぽいノートを取り除くそうです。
このプロセスは、毎分約1ガロンで行われるとか、一日分の蒸留物を濾過するには約24時間かかるとか、或いは約7〜10日かかるとされています。ジャック・ダニエル蒸留所ではウィスキーを巨大なチャコール・ヴァットに継続的に滴下するのに対し、ディッケルでは冷やされた留出物をメロウイング・タンクに満たし約1週間ほど一緒に寝かせる(浸す)とも聞きました。どれも蒸留所見学へ行った方の記事で見かける記述なのですが、実際に見学していない私にはどれが正しいか判断が付きません。もしかするとやり方がここ数年で変化している可能性もあるのかも。最新情報をご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。ところで、先述の第二蒸留が150プルーフとする記事では、蒸留物はチャコール・メロウイングの前に126.5に減らされ、濾過が終わると125プルーフで出て来るとありました。 ご参考までに。

メロウイングが終わると、最後にウィスキーのフレイヴァーに最も影響を与えるエイジングのプロセスです。ジョージディッケル・テネシーウィスキーはストレート・ウィスキーなので、熟成はニュー・チャード・オーク・バレルのみを使用します。素材はアメリカ産ホワイト・オーク。チャー・レヴェルはステイヴが#4、ヘッドが#2。バーボンやテネシー・ウィスキーは法律上、最大125プルーフで樽に入れることが出来ますが、ディッケルのバレル・エントリー・プルーフは115との情報を見かけました。
樽は蒸留所でホワイト・ドッグを充填された後、蒸留所の裏手にある道を登った丘の上の倉庫に運ばれます。多くのバーボン生産者が使用している6〜8階建ての倉庫とは異なり、ディッケルの倉庫は全て平屋建て。高層階まである倉庫での熟成は一個の建物に大量の樽を収容することが出来る反面、1階から最上階まで温度が大きく変動するために均一な熟成が得られないという問題があります。しかし、ディッケルでは毎回同じウィスキーを造るのに必要な一定の温度を維持するため倉庫はシングル・ストーリーとしているのです。それ故、一貫した風味を得るためのローテーションは必要ありません。また、倉庫自体の設置も均一なエイジング条件にするため各倉庫は互いに遠く離れないようにされているのだとか。バレルはリックに6段の高さに積まれており、庫内の上部と下部の温度差は約2〜5度の温度変化しかないそうです。今、リックと言いましたが、新しく建てられた倉庫ではパレット式、つまり樽を横ではなく立てて収容しています。これはリック式よりもスペース効率が良いからで、最近のクラフト蒸留所でもよく見られる方式。
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蒸留所の12の倉庫には凡そ20万バレルが保管されているそうです。ちなみにディッケルのサイトにはボトリング・プラントはありません。親会社のディアジオは製品をオフサイトで瓶詰めする傾向があり、ディッケル・ウィスキーの場合、ディアジオ所有のコネチカット州スタンフォードかノーウォークのボトリング・プラントかと思われます。

ディッケルの歴史の中で最も著名なディスティラーであるラルフ・ダップスは「面倒なことを変えてはいけない」と後進に伝えました。カスケイド・ホロウの蒸留所には最新のコンピューターやデジタル機器が関与せず、世代から世代へと伝承される昔ながらの製法が少人数の従業員グループによって守られています。かつてジョージ・ディッケルは自らの製品が最高級のスコッチと同等の品質であるとして、スコットランドの伝統である「e」なしでウィスキーを綴ることにしました。その矜持は今日まで続き、テネシー・ウィスキーの雄としてディッケルの存在感はますます高まっていると言っていいでしょう。最後に、適度な長さで蒸溜所の内部が紹介されている映像があったので貼り付けておきます。


では、そろそろ今回のレヴュー対象であるバレル・セレクトに移りましょう。

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ジョージディッケル・テネシーウィスキーには幾つかのヴァリエーションがありますが、その代表的なものは昔からあるクラシックNo.8とスーペリアNo.12です。それぞれに少々異なる独自のフレイヴァー・プロファイルはあっても、ディッケルには一つのマッシュビルしかなく、発酵時間や酵母による造り分けもしていません。それらの違いは熟成年数とボトリング・プルーフのみです。もっと言うと、その違いはバッチングに選択するバレルに由来するのです。No.8やNo.12よりも上位のブランドとなる「バレル・セレクト」も同様。
カスケイド・ホロウ蒸留所には諸々の理由から一時的に蒸留を停止していた期間がありました。バレル・セレクトは2003年9月の蒸留所の生産再開を記念して始まり、それ以来続いています。「ハンド・セレクテッド」というより上位の基本シングルバレルの製品が発売されるまではディッケルで最高級の地位にありました。ボトル・デザインは定番のNo.8やNo.12とは全く違うエレガントなものとなっており、ラベルも高級感があります。そのラベルは近年マイナーチェンジを施されました。
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中身に関しては、10〜12年熟成の特別なバレルを約10個選び抜いたスモールバッチ。それを86プルーフにてボトリングです。マスター・ディスティラーだったジョン・ランが退社する2015年までは彼が毎年バレルを厳選していたと思いますが、それ以降は誰がバレルをピックしているのでしょうか。数年間はアリサ・ヘンリー、2018年からはニコール・オースティンが選んでいるんですかね? もしかするとブレンダーが選んだのかも知れませんが、少なくとも彼女たちが最終責任を負っているのだと思います。それでは最後に味わいの感想を。

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George Dickel Tennessee Whisky Barrel Select 86 Proof
Hand Selected in 2006
推定2006年ボトリング。スモーク、キャラメルポップコーン、コーン、イースティな酸?、焦樽、シロップ、甘いナッツ、若いプラム、うっすら土。クリアでウォータリーな口当たり。パレートは香りほど甘くなくオレンジっぽい柑橘感。余韻はややビターでグレイニー、さっぱり切れ上がる。
Rating:83.5→84.5/100

Thought:香りも味わいも如何にもディッケルという印象。スパイス感は穏やかで、全体的にコーンのフレイヴァーがコアにあります。10〜12年も熟成してる割に、いわゆる長熟感はないような気がします。これが平屋の倉庫らしさなのでしょうか。前回まで開けていた2009年ボトリングと目されるNo.12と較べてみると、色合いは目視では差が感じられません。香りもほぼ同じですが、こちらの方が飲み心地に若干の強さを感じます。と同時に、甘さがより柔らかい印象を受けました。開封直後はあまりパッとしなかったのですが、開封から一年を過ぎて香りのキャラメルと余韻のナッティな甘みが増しました。レーティングの矢印はそれを表しています。それにしても、私的にはNo.12との差が明確に感じられなかったのは残念でした。もっと違うことを期待していたもので…。とは言え、このバレル・セレクトは90プルーフのNo.12より低い86プルーフな訳ですから、同じ程度に美味しく感じたのなら、やはりフレイヴァーはこちらの方が豊かということなのでしょう。しかし、No.12より上位のバレル・セレクトは、格上であることを明瞭にするために95か96プルーフでボトリングするべきだとは思います。まあ、ここで文句を言ってもしょうがないのですけれども。

Value:アメリカでは概ね40〜50ドルが相場のようです。昔、私が購入した頃は確か5〜6000円位だったと思うのですが、最近日本で流通している物は8〜9000円位します。これは痛いですね。私は現行のNo.12もバレル・セレクトも飲んでいないので、自分がたまたま飲んだものについての比較になっていますが、個人的には安いと2000円代、高くても3500円程度で購入出来てしまうNo.12を二本買うほうが賢明に思います。現行品はもっと差があるんでしょうかね? 飲み比べたことのある方はコメントより感想頂けると嬉しいです。
どうも不満げな書き方になってしまいましたが、勿論それ自体は悪いウィスキーではありません。寧ろ、ディッケルの評価を海外のレヴューで覗いてみるとかなりの高評価を得ています。或る人は現行のバーボンの中で最もクラシック・バーボンに近い味がするとまで言っていましたが、確かに私もそう思います。だから無論ディッケルの味が好きなら購入する価値はあるでしょう。ボトルデザインもカッコいいですし。

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2015年、ワイルドターキーはマスターズキープという名の特別な限定版のラインを始めました。その初めてのリリースが今回紹介する「17年」です。エディ・ラッセルはその年、生ける伝説の父ジミー・ラッセルと並んで正式にマスターディスティラーに就任しました。スタンダードなワイルドターキーとは異なる長期熟成の限定版はジミーのセレクトによって過去に幾つか発売され日本ではお馴染みでしたが、そのエディ版となるものがマスターズキープのシリーズということになるでしょう。エディ曰く、マスターズキープ17年はこれまでに製造したワイルドターキー・バーボンの中で最もユニークなバーボンだと言います。その理由の一つは、この17年という熟成期間はワイルドターキーがリリースしたバーボンの中で最も長い年月を経ていることでした。ワイルドターキーは過去(2001年)に日本限定の木箱に入った17年物の101プルーフのバーボンをリリースしていますが、アメリカ国内では15年物よりも長い熟成年数のバーボンをリリースしたことがありません。レジェンドであるジミーは、バーボンの味は8〜12年が最も良いと考えるため、長熟バーボンをあまり好まないという有名な話があって、そういう点からするとMK17にはエディらしさが強く出ています。そして、熟成年数以上にこの17年を特別なものとしたのは、それが造られたバーボンが三つの異なる熟成環境にあったことです。箱に記載されている「№1ウッド、№2ストーン、№3ウッド」というのがそのことを示しています。
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1996年にワイルドターキーはオンサイトの倉庫スペースが不足したため、オフサイトのストーン・キャッスル蒸留所の石造りのウェアハウス(オールドテイラー蒸留所とオールドクロウ蒸留所が一部共有する)で樽を保管し始めました。2010年になると保管されていた樽は再びワイルドターキーに移されました。1996年から2010年までストーン・キャッスルでは様々な熟成年数のワイルドターキー約80000バレルが熟成されていたと言います。つまり「№1ウッド、№2ストーン、№3ウッド」というのは、初めワイルドターキーの木材と金属の組み合わせで造られた熟成を加速する温度と湿度の変動にスピリッツを晒す倉庫で暫く過ごした後、それとは対称的なストーン・キャッスルの安定した室温と多湿により緩やかに熟成する比較的冷涼な倉庫に移され、最終的にまたワイルドターキーの木材/金属の倉庫に戻ったマスターズキープ17年の来歴なのです。

マスターズキープ17年のプロファイルは、17年の熟成期間のうち14年を過ごしたストーン・キャッスルによって大きく影響されたでしょう。それはプルーフにも端的に現われました。ワイルドターキーと言えば101プルーフ、101プルーフと言えばワイルドターキーです。なのにマスターズキープ17年は86.8プルーフしかありません。しかし、実はマスターズキープ17年は、ほぼバレルプルーフでボトリングされています。樽から取り出された時のバッチ・プルーフは、ケンタッキー・バーボンとしては異常に低い89(または88.4とも)プルーフでした。それが更に濾過中にプルーフが失われ、ボトリング時には86.8プルーフになったと言います。これは一般的な多くのバーボンよりも涼しく湿った環境で熟成された独特の貯蔵条件の結果であり、偶発的なエイジング・プロセスに起因すると考えられています。
石は木材よりも優れた断熱材です。そのため石造りの倉庫内は木製のリックハウスに較べて、温度は概ね低く、大きな変動もしません。ワイルドターキーのリックハウスはケンタッキー・リヴァーを見下ろす大きな断崖の上にあり空気循環も良好ですが、オールドクロウ(ストーン・キャッスル)は険しい谷の南側にあってワイルドターキーより数マイル北に位置するにも拘らず、比較的涼しい上に湿度が高く風もあまりないため一般的に気候安定性に優れ、その結果ウィスキーはゆっくりと穏やかに熟成し、熟成感がありながらも軽やかなプロファイルを有するとされます。涼しく湿った石造りの倉庫はバーボンよりもスコッチの典型的な熟成環境に近く、アルコールは水よりも早く蒸発し、ケンタッキーに典型的な木製倉庫とは逆にプルーフ・ダウンすることもあり得る、と。にしても、1996年に樽詰めされた時、おそらくは107のバレル・エントリー・プルーフだったバーボンが89プルーフに下がるとは…。何度もバレルを移動したことによる影響もあったのでしょうか。ともかく、熟成の神秘を感じさせる事例ですよね。では、その神秘の一端を頂いてみるとしましょう。ちなみに、マシュビルはその他のワイルドターキー・バーボンと同じ75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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WILD TURKEY MASTER'S KEEP AGED 17 YEARS 86.8 Proof
BATCH № : 0001
BOTTLE № : 67332
接着剤、香ばしい焦樽、古い木材、スパイシーヴァニラ、キャラメルマキアート、タバコ、ムギムギ、アーモンド、ジンジャー。パレートはシロップとオレンジ。口当たりは水っぽい。余韻は度数の割に恐ろしく長いが、過剰に渋い。
Rating:87.5→84.5/100

Thought:先日まで開封していたダイヤモンド・アニヴァーサリーと較べると、香りはこちらの方が甘くなく、接着剤が強すぎるように感じました。スイートな香りもあるのですが、接着剤が邪魔をして感じにくいと言うか…。それでも口に含んだ時はフレイヴァーフルでした。もう口に含んだ瞬間にDAより「あっ、旨っ」となる程に。しかし余韻はウッドに傾き過ぎた嫌いがあります。海外のレヴューを参照すると、最高の香りや味わいではないけれどクラシックなターキー・フレイヴァーとの評が多く、期待していたのですが自分にはマッチしませんでした。おそらくジミーの長熟バーボンに対する否定的な発言を聴く限り、これこそ彼の嫌いな味ではないかと思えるほどバーボンの魅力である甘い香味がウッドの渋味によって掻き消されているように感じます。
タイロンのターキーの熟成庫とストーン・キャッスルの熟成庫の違いが齎す「差」については、正直よく分かりません。確かにターキーらしさを感じる一方で、通常のターキーと違うフィーリングもあるのは分かりますが、それが熟成年数の長さから来るのか熟成庫のスタイルや環境の違いから来るのかが分からないのです。
上のレーティングで点数が下がっているのは、実は味わいの変化が大きかったためです。開封したては味も濃く感じて大変美味しかったものの、何故か一週間経つと余韻に渋さが急に目立ち出し、それは飲み切るまで変わりませんでした。私のボトルだけがそうだったのか分からないので、飲んだことのある方の意見を募りたいです。皆様、コメントより感想をお寄せ下さい(追記1)。海外のレヴューでMK17を過剰に渋いと言ってる方は見当たらないんですよね…(追記2)。私の舌がおかしいのでしょうか?

Value:このバーボン、アメリカでは150ドルのMSRPでして、日本でも当初17500円くらいの値札が付けられました。自分としてはマスターズキープ17年は一級のバーボンではありませんが、箱を含めターキーが施されたボトル形状や重厚な銅製のストッパー等はデザイン性と高級感に優れた素晴らしいパッケージングです(ちなみにボトルはデザイン・エージェンシーのパールフィッシャー・ニューヨークが手掛けています)。また興味深いストーリーもあります。味だけでないそういう側面を考慮するなら「買い」でしょう。ですが、お酒を味のみに対してお金を払っているという感覚の方にはスルーをオススメします。ちなみに私が味のみで評価するなら5000円の価値もありません。但しこれは、私が潜在的に90年代のワイルドターキー12年101と較べる脳を持っているから辛口の評価になってしまった可能性はありますし、基本的に長熟バーボンを好まない個人的傾向があるだけで、そもそも超長期熟成酒を好む方なら真逆の評価はあり得るとだけ付け加えておきます。

追記1:私のバーボン仲間で、冷凍庫でキンキンに冷やした幾つかのワイルドターキーの限定版を飲み比べした方がいるのですが、その彼によるとこのMK17は甘かったとのこと。私は真夏でもストレートでしか飲まないので分からないですけど、もしかすると冷したりロックで飲むと渋味が感じにくくなって甘さが引き立つのかも知れません。

追記2:私がやっているInstagramのDMで海外のバーボンマニア様から直接この記事を見た感想を頂けました。その方は私の感想に賛同してくれまして、近年のワイルドターキーの長熟物にはコーラやルートビアのような風味がする場合もあるが、多くは渋みと言うのかケミカルなノートが感じられると仰っていました。
ちなみに、マスターズ・キープで17年と言うと、もう一つこれの数年後にリリースされた「ボトルド・イン・ボンド」があるのですが、そちらに関しては日本のバーボンマニアの方が渋いと言っていました。味覚は人それぞれかも知れませんが、こういった意見を聞くと、私の味覚が特別おかしい訳ではなさそうで安心しますね。

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今回紹介するテンプルトン・ライ6年はブランドが始まって10年を経た2016年から販売され始めました。ブランド自体の紹介は以前投稿したテンプルトン・ライ・スモールバッチの時にしているので、そちらを参照下さい。近代のテンプルトン・ライが2006年にスタートした当時はNAS(熟成年数表記なし)のみでしたが、現在ではそれは「4年」に置き換えられ、その上位互換として「6年」があり、更にリミテッド・リリースの「バレル・ストレングス」も発売されラインナップは拡張されています。10周年時にはその数字にちなんで10年熟成の特別版もありました。あと、流行りの後熟物もあります。
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周知のようにテンプルトン・ライ・スピリッツ社は創業当初NDP(非蒸留生産者)でしたが、2018年に漸く自社蒸留を開始し、その新しいオリジナルは2022年にリリースされる予定。なので、今のところ販売されているテンプルトン・ライは全てインディアナ州ローレンスバーグのMGPで生産されるライ95%/バーリーモルト5%のウィスキーをソースとしています。バレル(もしくはジュース)はインディアナからアイオワに送られ、同社はそこで独自の処方と地元の精製水を加えた後、自社施設でウィスキーをボトリングするのです。ちなみに、よく日本でテンプルトン・ライを紹介する際、「蒸溜はコラムでなく銅製ポットスチルを使用する極めて稀な製法で造られています」と書かれていることがあるのですが、MGPは巨大なプラントであり、コラムスティルで蒸留している筈です。多分、輸入元の資料のコピーなのかな? 新しい自社生産の物は銅製ボットスティルなのかも知れませんが、現在販売されている物はまだそうではないので注意して下さい。

ライウィスキーは2010年以降急激な人気の高まりを見せ、販売数を極端に伸ばしました。クラフト蒸留所が独自に造り出すライウィスキーもありましたが、生産量の大きさから言ってその多くはMGPに由来するものでした。MGPの運営するローレンスバーグのプラントはその昔ロスヴィル蒸留所として始まり、禁酒法後にシーグラム帝国の一翼を担った蒸留所です。そこでは主にブレンデッド・ウィスキーに使用するフレイヴァー成分としてライウィスキーを生産していました。シーグラム帝国が崩壊した時、本来はブレンドされることを意図したライウィスキーのバレルは大量に余り、何の目的もなく熟成されていました。誰かがそれを試してみると、それ自体でかなり良い味がすることに気付き、そこで当時の所有者はそれをバルク・ウィスキーのマーケットで販売することにしたのです。これがライウィスキー復興の震源地の一つとなったのは疑いありません。MGPも以前の所有者時代のLDIも、自社ブランドを殆どボトリングしないか全くしなかったため、その存在は近年まであまり知られていませんでしたが、多くの酒類企業の供給元となっていたし今もなっています。ブレットやジョージディッケルを傘下に置く大企業、KBD(ウィレット蒸留所)のようなボトラーやNDPは言うに及ばず、他にもエンジェルズ・エンヴィ、ベルミード、ハイウェスト、ジェイムズEペッパーなど多くの中小の新興蒸留所はMGPから調達することで、熟成酒を準備するための時間とコストを掛けることなく熟成ウィスキーの市場に足を踏み入れることが出来ました。そしてテンプルトン・ライ・スピリッツLLCもかなり早い時期からそうしていた一社だった訳です。

同社は2014年に欺瞞的なマーケティング手法の疑惑で集団訴訟の対象となった後、ウィスキー愛好家の間で議論を呼びました。アンチの急先鋒は著名なウィスキー・ブロガーのジョシュ・ピータースで、彼は「TEMPLETON RYE」を「TEMPLETON LIE」と皮肉った画像を自身のブログに載せました。彼はテンプルトン・ライ6年がリリースされた時にも、宣伝の謳い文句がさほど変わっていないことに腹を立てて、自分はテンプルトン・ライを購入しないし皆もそうすることを望む、とすら書いています。他国に住む我々日本人としては、殆ど嘘を並べた宣伝文句にはある程度距離が取れるので、それほど腹も立たないし、他人事感はあります。とは言え、ウィスキーの世界に限らず情報の透明性が昔より尊ばれる昨今ですから、地元テンプルトンを盛り上げたいばかりに誇大宣伝が過ぎて製品情報に靄が掛かっているのはテンプルトン・ライ自身にも不利益なのではないのかな?とは思います。
まあ、それは措いて、気になるのは以前のスモールバッチNASでも取り上げたフレイヴァーの添加の件です。この件は、集団訴訟への公式の発表でテンプルトン・ライ・スピリッツの会長ヴァーン・アンダーウッド自身が認めています。簡単に要約すると、メイド・イン・アイオワを謳っていたのは、確かにインディアナから調達したウィスキーを使ってはいるが、アイオワで独自の処方を施すことでアイオワ産になっているという認識だった、と釈明したのです。本来「隠れた立場」にいる会長が顔を表したのは創始者のスコット・ブッシュや共同創業者のキース・カーコフでは事態の収束が難しいと判断したからでしょう。
今回取り上げる6年もストレート表記のない「ライ・ウィスキー」。と言うことは、これがウィスキーの「クラス」を表しているのなら、フレイヴァー入りと見られますが…。では、飲んでみることにします。

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TEMPLETON RYE 6 Years 91.5 Proof
推定2019年ボトリング。ピクルス、焼いた木、青リンゴ、ミント、キャラメライズド・シュガー、シリアル、ライスパイス、若草。あまり甘くないスパイシーなアロマ。円やかでありながら水っぽい口当たり。余韻はあっさりめで芳醇とは言い難いが、穀物ぽい香りとハービーもしくはフルーティな苦味が鼻を抜けて行く。
Rating:84.5/100

Thought:私はMGP95ライのファンなので全然美味しく頂いたのですけれど、「あれ?」とちょっと肩透かしを食らった思いでした。過去に投稿した少し昔(2011年ボトリング)のNASと較べると甘い香りとフルーティなテイストが減退していると感じたのです。特徴的だったライチとバタースコッチの強い風味はどこへ? 同じMGP95ライがソースで熟成年数やプルーフィングの近いジョージディッケル・ライと較べても、ややメロウネスに欠けると言うか、円やかさと甘味が少し足りないような…。個人的には、テンプルトン・ライ6年は平均的なMGP95ライの味にしか思えず、どうもフレイヴァーは添加されてないような気がしました。と言うか、この程度でフレイヴァーが添加されてる風味だとしたらダメだろ、と。ちなみに、同時期ボトリングと推測されるストレート表記のある「バレル・ストレングス」を試しに飲んで較べてみると、この6年をそのまま濃くした風味プロファイルという印象を受けました。
これはどういうことなのでしょう? 熟成年数も長く、90プルーフ以上でボトリングされるこの「6年」が、何故たかだか80プルーフしかない「NAS」より劣るのか? 幾つかの可能性を考えてみました。言うまでもなく以下は全て仮説です。

①NASにはフレイヴァーが添加されていたが、年数表記ありの物にはフレイヴァーは添加されていない。もしくは2016〜17年頃はフレイヴァーが添加されていたが、最近の物にはフレイヴァーが添加されていない。
─これは話がややこしくなるですが、まず下の画像をご覧下さい。
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なんとストレート表記のあるシグネチャー・リザーヴなるテンプルトン・ライが存在するのです。これらは私がブログ以外にやっているInstagramの投稿で見つけました。そして、それを投稿している人達はおそらくアメリカ本国の人ではなく、東欧諸国と一部の国の人ではないかと思われるのです(ハンガリー、デンマーク、ポーランド、ロシア、オーストラリアの方々?)。輸出国によってその仕様に差異があるのはないことではありません。にしても、ストレートの4年や6年があるのなら、シグネチャー・リザーヴが発売された時期に「ストレート」なしのテンプルトン・ライも実は中身はストレートだった、なんてこともあるのかな?という想像です。

②ストレート表記のないものはフレイヴァーの添加はされてはいるが、それほど風味に影響はなく、初期のテンプルトン・ライNASは本当にスモールバッチだったので、単純にバレル・セレクトのクオリティが高いため美味しかった。
─ライの人気が上昇し、生産量が増えるということは、バッチングに使用される樽の数が増加するか、或いはバッチング自体の回数が増加することを意味します。ウィスキーが大量生産されると味が落ちるベーシックな理由の一つは、樽選びの基準が下がることでしょう。それだけ多くの樽を選ばなくてはならないのですから。スモールバッチ表記のNASのテンプルトン・ライには、裏ラベルに手書きのバッチ情報が書かれています。一方、最近の4年や6年の裏ラベルには何も手書きでは書かれていません。
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この変化はもしかすると、手書きが出来なくなるくらいの量が生産されているからなのでは? それに、ただでさえMGPの95ライは様々な企業が購入する訳ですから、ある意味、優良バレルが奪い合いなのだとしたら? この説はそれらを考慮して、単に初期のNASの方がハイ・クオリティだったのかも知れないという推測です。

③NASは概ね4年熟成と見られていたが、実は6〜8年の熟成原酒も混ぜられており、それが風味の良さに繋がっていた。
─これは②のバレル・セレクトとも関連しますが、熟成年数表記がない上に、原酒構成は明かされてないのですから、中身を明確に知ることが出来ないので、長熟バレルが混和されていた可能性もなくはないのかと。ある時から日本でのテンプルトン・ライの価格が大幅に下がりましたよね。これ、輸入業者が変わったからなのかと思っていたのですが、もし中身が若い原酒になったことによるプライスダウンだったとしたら?と思い付いた説です。

④私が前回飲んだNASが、2011年ボトリングを2018年に開封した物だったため、その間に「酸化の奇跡」か何かが起こり、たまたま強靭な風味になっていた。
─これは微妙な空気との接触がウィスキーの香味を開かせることもあるかも知れないというお話です。

⑤単に私の舌と鼻がぶっ壊れていた。もしくは脳がおかしくなっていたため壮大な勘違いをしている。
─これは十分あり得る…(笑)。

と、まあ妄想を書き連ねましたけれど、個人的には①番推しですかね。飲んだ印象がそうだったので、自分を信じて。②番は有り得そうな気もしますが、③番④番はないかな…。⑤番は完全にないことを祈ります。テンプルトン・ライ、飲んだことある皆さんはどう思われたでしょうか? ご意見、ご感想、他の説をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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