バーボン、ストレート、ノーチェイサー

バーボンの情報をシェアするブログ。

タグ:85.5点

2024-09-13-01-22-19-432

サーデイヴィスは、世界的な歌姫でありポップスターのビヨンセとモエ・ヘネシーとのコラボレーションで生まれたアメリカン・ウイスキーです。2024年9月4日に発売されました。これはビヨンセ・ノウルズ=カーターの誕生日が9月4日なので、それに合わせています。彼女は自分の誕生日の日付から数字の「4」が好きだと公言しており、過去には『4』というアルバムも作っていました。サーデイヴィスのボトリング・プルーフが88、つまりアルコール度数が44度なのも彼女の数字の4への拘りから来ています。ビヨンセは音楽のみならず、ファッションでは「IVY PARK(アイヴィ・パーク)」、フレグランスでは「Cé Noir(セ・ノワール)」 、ヘアケアでは「Cécred(セクレド)」など多岐に渡る分野で活躍する敏腕のビジネス・ウーマンでもあり、ウィスキーのブランド「SirDavis」の立ち上げはそれらの起業活動に続くものでした。今では彼女だけがやっていることではないですが、黒人女性として年配の白人男性が専有していると思われた領域に切り込んだ訳です。実はビヨンセはウィスキー好きで知られており、特にジャパニーズ・ウィスキーを愛飲していることは周知の事実となっていました。彼女は過去に発表した自身の楽曲の歌詞にお気に入りとされるサントリーの山崎の名をさりげなく登場させ、ザ・ウィークエンドをフィーチャーした「6 Inch」では、

[Verse 2: Beyoncé]
She stack her money, money everywhere she goes (She got that uno)
Her Yamazaki straight from Tokyo (Oh, baby, you know)
She got them commas and them decimals
She don't gotta give it up 'cause she professional



のように「東京から直送の彼女の山崎」と歌い、夫のジェイ・Zとザ・カーターズ名義で2018年にリリースした「LOVEHAPPY」では、

[Verse 1: Beyoncé & JAY-Z]
Happily in love, haters please forgive me
I let my wife write the will, I pray my children outlive me
I give my daughter my custom dresses, she gon' be litty
Vintage pieces by the time she hit the city, yeah-ah
Vintage frames, I see nobody fuckin' wit' him
Pretty thug, out the third ward, hit me
Sir acts just like his dad, shit is trippy (Uh-huh)
Twinning, Blue and Rumi, me and Solo how fitting
(Happy in love)
Sitting, dock of the bay wit' a big yacht
Sippin' Yamazaki on the rocks
He went to Jared, I went to JAR out in Paris
Yeah, you fucked up the first stone, we had to get remarried
Yo, chill man, we keepin' it real with these people, right?
Lucky I ain't kill you when I met that b— (Nah, aight, aight)
Y'all know how I met her, we broke up and got back together
To get her back, I had to sweat her
Y'all could make up with a bag, I had to change the weather (Uh)
Move the whole family West, but it's whatever
In a glass house still throwing stones
Hova, Beysus, watch the thrones
(Happy in love)



のように「ロックの山崎を啜る」と歌っていました。

そして何よりも、ビヨンセの8枚目のスタジオ・アルバムで、『RENAISSANCE』に続く3部作プロジェクトの第2弾として2024年3月29日にリリースされるや世界中で話題を攫った『COWBOY CARTER』では、サーデイヴィスの発売を見越して意図的にそうしていたのか、ウィスキー関連の言葉が複数のトラックで出て来ます。このアルバムは5年掛けて制作され、 2016年リリースの『Lemonade』に収録された「Daddy Lessons」をディキシー・チックス(現ザ・チックス)とカントリー・ミュージック・アワードにてライヴで披露した際、そのパフォーマンスは絶賛されながらも一部の保守的なカントリー・ミュージック・ファンからは批判的な声もあり、ビヨンセがカントリー界で歓迎されていないと感じた経験をきっかけとして生まれたそう。「ウィリー・ネルソンやドリー・パートンから、より現代的なタナー・アデルやウィリー・ジョーンズまで、過去と現在のカントリー界のスターたちが出演し、従来の慣習を打ち破り、カントリーとソウルやR&Bを融合させるだけでなく、ブルース、ロック、ザディコ、フォーク、ブルーグラス、オペラ、ゴーゴー、フラメンコ、ファドの要素も取り入れ」、「西部劇を再解釈した独自のヴァージョン…カウボーイやブラックスプロイテーションの歌からマカロニ・ウエスタン、ファンタジーまで、ビヨンセ自身の個人的な体験を織り交ぜながら、黒人の歴史を称え、誇張されたキャラクター構築まで、波打つように展開する」各楽曲から構成されたこのアルバムは、2025年グラミー賞でアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。ビヨンセのアルバムがこの記録を達成したのは初めてでした。リード・シングルとして2024年2月11日にリリースされた「TEXAS HOLD 'EM」はビルボードのホット・カントリー・ソング・チャートでシングル1位を獲得し、その文化的影響力と広範なアクセス性が評価され、カントリー・ウェスタン、ポップ、ヒップホップの境界を超える架け橋と評価されています。そんな同曲では、

[Verse 1]
There's a tornado (There's a tornado)
In my city (In my city)
Hit the basement (Hit the basement)
That shit ain't pretty (That shit ain't pretty)
Rugged whiskey (Rugged whiskey)
'Cause we survivin' ('Cause we survivin')
Off red-cup kisses, sweet redemption, passin' time, yeah



という具合にウィスキーが出て来ます。強大な竜巻を避け生き延びるために入った地下室で荒々しく度数の強いウィスキーを飲みながら恋人とイチャイチャしてようなイメージでしょうか。続いての曲「BODYGUARD」では、

[Verse 1]
So sweet
I give you kisses in the backseat
I whisper secrets in the backbeat
You make me cry, you make me happy, happy (happy)
Leave my lipstick on the cigarette Just toss it, and you stomp it out, out
Inhalin' whiskey when you kiss my neck
We've been hurtin', but it's happy hour, oh, hour Oh, oh, oh



と、ビヨンセはセクシーに気怠く?歌っています。「あなたが私の首にキスをする時、ウィスキーの香りを吸い込む」とはお洒落な言い回しですね。ウィスキーという言葉が直接に使われているもう一曲は「II HANDS II HEAVEN(*)」です。同曲では「ウィスキー」はコーラスに使われているので何度も繰り返し聴かれます。

[Chorus]
Bottle in my hand, the whiskey up high
Two hands to Heaven, wild horses run wild, oh
God only knows why, though (Yeah, yeah, yeah, yeah)
Rhinestones and diamonds both shine in the light
Two hands to Heaven, my whiskey up high, oh (Oh)
God only, God only knows why, though (Oh, oh, oh)



そして、『COWBOY CARTER』の冒頭のトラックである「AMERIICAN REQUIEM(*)」では、ウィスキーという言葉自体は出て来ませんが、ムーンシャイン・マン、即ち密造酒を造っていた男のグランドベイビーとの歌詞が出て来ます。

[Verse 2]
Looka there, looka in my hand
The grandbaby of a moonshine man
Gadsden, Alabama
Got folk down in Galveston, rooted in Louisiana
Used to say I spoke too country
And the rejection came, said I wasn't country 'nough
Said I wouldn't saddle up, but
If that ain't country, tell me what is?
Plant my bare feet on solid ground for years
They don't, don't know how hard I had to fight for this
When I sang my song



上に引用したのはオフィシャル・リリックなのですが、「Looka there, looka in my hand」での2つめの「looka」を「liquor」としている歌詞のウェブサイトがありました。曲を聴いてみると、なるほど確かにビヨンセはその部分をリカーと発音しているようにも聞こえます。もしかすると、正式な歌詞としてはそうなんだけれども、発音を変えることで二重の意味を付与しているのかも知れません。そう言えば、パワフルなビヨンセの歌声が堪らないトラック「YA YA」でもリカーは登場し、「So hold this holster, pour mo' liquor, please」と謳われています。それは扨措き、この「アメリカン・レクイエム」で言及されているムーンシャイン・マンがサーデイヴィスの名前の由来となっているビヨンセ・ノウルズ=カーターの父方の曽祖父デイヴィス・ホーグのことを指しているのでしょう。次の行のアラバマ州ギャズデンはビヨンセの父親マシューの出生地とされてますので。ちなみに母親ティナは、更にその次の行に出て来るテキサス州ガルヴェストンの生まれで、ルイジアナ・クレオール系の血を引く人です。
FotoGrid_20260131_235042322
デイヴィス・ホーグ(Davis Hogue)は南部のアラバマで育ち、1900年代初頭に農家と密造酒の製造を兼業し、禁酒法時代には友人や家族のために杉の木の空洞にウィスキーのボトルを隠していたという伝説もあるようです。ホーグは当時のアメリカでは珍しいことに黒人でありながら自分の土地を所有していたとされ、そこで人々は彼に敬意を払って「サー・デイヴィス(Sir Davis)」と呼んでいた、それがブランド「サーデイヴィス」の由来である、と或るウェブサイトの特集記事には書かれていました。但し、その他のウェブサイトの特集記事では土地の所有に関する記述は見られませんでした。また、ビヨンセの父マシュー・ノウルズが祖父の蒸溜所を訪れた際、黒人男性が「サー」と呼ばれるのを初めて耳にした、との話もありました。公式ホームページでは「デイヴィス・ホーグがアメリカ南部に住んでいた時代、"サー"は白人男性にのみ許された敬称でした。彼のファーストネームの前に"サー"が付けられたのは、彼にふさわしい敬意を表し、彼の功績を称えるためです」とだけ書かれています。兎も角、上記以外のホーグ氏の詳しい経歴は不明です。ビヨンセは『GQ』誌の特集記事でインタヴュワーからの、「あなたの最新アルバムが『カウガール・カーター』ではなく『カウボーイ・カーター』と題され」、「そして今度の[サーデイヴィス](訳注:[サー]は男性の称号)という名称を通して、ジェンダーや人種について何を語ろうとしているのでしょうか」?との質問に、「カウボーイという言葉について、人々にちょっと調べてほしいと思ったのです。多くの場合、歴史は勝者によって語られます。アメリカの歴史といったら、それは延々と書き換えられてきたでしょう? カウボーイの4分の1は黒人でした。自分たちを同等に扱おうとしない世界に直面した彼らも、牧畜業を支える存在だったのです。カウボーイはアメリカにおける強さと野望の象徴ですが、牛を扱う奴隷がその名の由来です。カウ“ボーイ”というのは、子ども扱いされ、相応の敬意を払われることのなかった彼らのことなのです。牛を扱う黒人をあえて[ミスター]や[サー]と呼ぶ者はいませんでした。私にとって、[サーデイヴィス]は勝ち取った敬意の証です。私たちは皆、敬意を払われてしかるべきです。私たちが敬意を示した場合は特にね」と答えていました。こうした家族の歴史を当然ながらビヨンセは活用し、マーケティングにも利用した訳ですが、面白いことに、彼女がウィスキー・ブランドを作りたいと考えていたのは曽祖父の話を知る前からでした。

ビヨンセはモエ・ヘネシーと共にこのブランドの共同オウナーを務め、またウィスキーが自分のヴィジョンに合致するものとなるようフレイヴァー・プロファイルからボトルのデザインまで開発当初から関わって来たと言われています。長年のジャパニーズ・ウィスキーのファンであった彼女は自分のウィスキー・ブランドを立ち上げようという気持ちになり、自身の嗜好を反映したウィスキーを造る協力をLVMHの子会社モエ・ヘネシーに求めました。これには彼女の夫ショーン・“ジェイ・Z”・カーターがシャンパーニュ・ブランドのアルマン・ド・ブリニャックをLVMHと共同保有している関係もあるのかも知れません。ともかくモエ・ヘネシーとしてはアメリカン・ウィスキー市場での存在感を高めることを模索していたので、両者の思惑が一致し、ダイナミックなパートナーシップが実現した訳です。アメリカン・ウィスキーのブームによって、アメリカの酒類業界では近年、セレブリティ・スピリッツの新製品が店頭に溢れ返り、生粋のアメリカン・ウィスキー愛好家などからは冷笑的な目で見られることも屡々ありました。そんな状況下で、ポップ、R&B、そして今やカントリー・ミュージックまで飲み込んだ女王がその影響力を駆使してウィスキーを発売する、と。ウィスキー愛好家がボトルの中身に懐疑的になったのは頷けます。しかし、このウィスキーは、他の多くの典型的なセレブ・ブランドと違い、ウィスキーを生業としている評価の高い人物と共同で造られたことで興味深いものとなりました。その人物こそ、インターナショナル・ウィスキー・コンペティションでマスター・ディスティラー・オブ・ザ・イヤーを5回受賞し、グレンモーレンジィやアードベッグも手掛けるビル・ラムズデン博士です。

Screenshot_20260222-002239_1
ビル・ラムズデンは数年前、当時のマーケティング・ディレクターから特別な人に会って欲しいと話を持ち掛けられました。それがビヨンセでした。迷わず渡航を決めたラムズデンでしたが、相手が世界的な大スターとあって初めて会う時は緊張していました。しかしビヨンセはチャーミングでエレガント、そして親切だったお陰で緊張も解れたそう。ラムズデンはこの会合の前に少し下調べをして、ビヨンセがウィスキー愛好家であり、彼女のお気に入りがサントリーの山崎12年だと知りました。彼はビヨンセのためにウィスキーのテイスティング・セミナーを行い、どんなウィスキーをより好むのか探っていったそうです。バーボンやテネシー・ウィスキー、ライ・ウィスキー等のアメリカン、当然の如くグレンモーレンジィやアードベッグ、更に幾つかのジャパニーズ・ウィスキーなどが試されました。サーデイヴィスのために結成されたチームには、アードベッグの元ナショナル・アンバサダーでグローバル・ブランド・アドボカシー・ヘッド兼ウィスキー・ブレンダーに就任したキャメロン・ジョージもいます。彼によると、ビヨンセは最初のテイスティングから、ラムズデンや彼に教えられるでもなくウィスキーの語彙や専門用語を使っていたそうです。それは「彼女が既に使っていた言葉遣いで、正に生涯に渡っってウィスキー・ファンである彼女の姿勢を物語っていました」。数日間のフォローアップを経て、チームはサーデイヴィスの方向性を定めて行きます。ビヨンセはアードベッグが好きではないことがすぐに分かったので、ラムズデンは先ずピーティーなレシピを除外しました。しかし、彼女はシングルモルトは好きでした。そして、スムースなウィスキーが好みでした。
サーデイヴィスが完成するまでには、様々な試行錯誤とアイディアがあり、その中の一つにスコッチ・ウィスキーとジャパニーズ・ウィスキーをブレンドするという発想もあったと言います。しかし、ラムズデンはそれは不誠実だと思い、彼もビヨンセも、彼女の祖国であるアメリカらしいウィスキーを造りたいという考えに至りました。彼女の最新アルバム『COWBOY CARTER』とツアーに浸透しているアメリカーナの雰囲気を考えると、この要素は重要だったのです。アメリカに蒸溜所を新設する手もありましたが、そうなると建設に2年、そこから熟成まで更に時間が掛かるため断念せざるを得ませんでした。そこでインディアナ州のMGPから熟成された12種類のウィスキーを取り寄せることにします。MGPはアメリカン・ウィスキー業界内の大小問わない多くのNDP(非蒸溜業者)/ボトラーにウィスキーを供給する大手契約生産業者で、彼らにウィスキーの製造を任せ、自分達は求めるフレイヴァー・プロファイルとブランディングに集中するというモデルは現在のアメリカでは非常に一般的です。チームは何度も試飲と話合いとレシピの試作を重ね、始めに4~5種、そこから更に3種に絞り、シアトルのウッディンヴィル蒸溜所で最終的なテイスティングを行い漸く一つの答えに辿り着きました。それはMGPの最も一般的で非常に多くの製品に見られる有名な95%ライ、5%バーリー・モルトのライ・ウィスキーではなく、51%ライ、49%バーリー・モルトのマッシュビルで造られたライ・ウィスキーでした。MGPは過去に幾つかのクラフト・ウィスキー・メーカーにモルトがほぼ半分近くを占める51/49ライを販売したことがありますが、このマッシュビルは独占契約が行われ、今後他のウィスキーで使用されることはなくなるとのこと。ビヨンセもこの最終的なマッシュビルを気に入りました。しかし、3人とも味だけでなくテクスチャーや口当たりも完璧にするには何かが少し足りないと感じます。そこでラムズデンは、スコッチやジャパニーズ・ウィスキーの伝統的な製造技術を取り入れてペドロ・ヒメネスのシェリー・カスクでフィニッシングすることにより、濃く赤い果実とベーキング・スパイスの香りをより引き出し、シルキーな質感を与えると同時に、伝統的なアメリカン・ライの特徴である力強い風味も保とうとしました。意識したのは、アメリカらしさがありながらもスコットランドや日本のニュアンスがあること、そしてビヨンセの好むスムースさを大切にすることでした。

生産に繋がるアイディアを思いついた後も、ノウルズ・カーターはモエ・ヘネシーのチームと会合を重ね、最終製品を決めて行きました。これらの原酒や製法を提案したのはラムズデンでしたが、最終的な成果は女王本人によって承認されており、これは正に「ビヨンセのウィスキー」だと言えるでしょう。キャメロン・ジョージは、「このパートナーシップはごく自然に生まれました。ビル・ラムズデン博士が何処かへ行ってウィスキーを調達してきて、そこにビヨンセの名前を勝手に付けた、と言うようなことではありません。全くそういうプロセスではありません。彼女はこのブランドの創設者です。液体のプロファイルからブランドの世界観の発展まで、このブランドのあらゆる部分に携わってきました」と語っています。この言葉は対外的な発言なので多少の誇張はあると思いますが、ビヨンセはこれまでに自身のイメージや肖像、音楽、ビジネスに稀有なコントロール能力を幾度となく発揮して来ました。サーデイヴィスの「液体」への関与はそれほど高くないにしても、ボトルのデザインやブランドの方向性はディレクションしていると思われます。細かいリブ模様の印象的なボトルは、彼女の曽祖父デイヴィス・ホーグの時代の様式にインスパイアされているとか、或いはビヨンセがジャパニーズ・ウィスキーのファンであることからサントリーの響の繊細なデザインへの敬意ではないかと憶測されたりしています(**)。また、ボトルの中央にはブロンズの馬をあしらった黒いメダリオンが付され、プレス・リリースによるとこれは「力強さと敬意を象徴し、ノウルズ=カーターのテキサスのルーツを象徴する」とのことです。馬のモチーフは彼女の最近のアルバム『RENAISSANCE』と『COWBOY CARTER』のジャケットとも符合していますね。クロージャー(ボトルのキャップ)には、正反対を向いたVのようなマークが二つ刻印されています。これは、一つが過去への敬意(伝統)を示す後ろ向き、もう一つが未来へのミッション(革新)を示す前向きを象徴するそうです。ビヨンセが大切にしている平等性や包括性をも表現しており、性別や人種問わずどんな人にもこのウィスキーを楽しんで欲しいという思いが込められているのだとか。また、瓶底にはデイヴィス・ホーグのイニシャル「DH」がエンボスされたりと、なかなかに凝っています。高級な香水瓶のようにエレガントな佇まいが評価され、2025年のASCOT Awardsではボトル・デザイン部門でプラチナを受賞しました。デザイン自体は、酒類のブランディングとパッケージングの世界的なデザイン・エージェンシーであるストレンジャー&ストレンジャーがやっています。 
FotoGrid_20260216_173117818_1

サーデイヴィスは、ビヨンセのローン・スター・ステイト(テキサス州の愛称)との繋がりから、彼女の故郷であるヒューストンに本社を置き、テキサスで仕上げ、ブレンド、ボトリングされており、モエ・ヘネシーがアメリカ国内で完全に生産する初のウィスキー・ブランドとなります。中身に就いて改めて纏めると、ベースのライ・ウイスキーはインディアナ州で蒸溜され、最初の熟成もニュー・チャード・アメリカン・オークの樽でインディアナにて行われます。サーデイヴィスはNASなので、インディアナの原酒の熟成年数は公開されていませんが、少なくとも2年間は熟成されているようです。或いは2年を大幅に上回るという情報もどこかで見かけました。おそらく2〜4年程度なのではないかと予想します。その後、テキサス州で6~9ヶ月間を掛けてPXシェリー・カスクを用いた二次熟成プロセスを行います。テキサスの暑さのため、スコットランドでは得られないような熱気が加わることになるでしょう。サーデイヴィスはファーストフィル、セカンドフィル、サードフィルのシェリー樽を用意して慎重に熟成されます。異なる樽のサイズを複数使用しつつ、セカンドフィル樽とサードフィル樽はファーストフィル樽より長く熟成させるのです。ファーストフィル樽は芳香成分や風味成分を豊富に含んでいますが、それらが原酒の風味を圧倒してしまうので制御する必要があり、逆にセカンドフィルやサードフィルの樽では樽からの影響が減る分、それを補うためにフィニッシュ時間を長く調整している、と。ボトリング前のサーデイヴィスのハイアー・プルーフな原酒をファーストフィル、セカンドフィル、サードフィルの樽で個別にテイスティングした方によると、ファーストフィルではシェリー・カスクの要素がほぼ全体の個性を占め、セカンドフィルではシェリー・カスク由来のレーズンとフルーツの香りが変化し始め風味豊かな香りと僅かなランシオが加わり、サードフィルではシェリー・カスクの要素はほぼ消えてライ由来のメンソールとハーブの香りが支配的になっていたそうです。それらを組み合わせることで、エレガントかつ複雑でニュアンスに富んだ風味を実現する製法はラムズデン博士の面目躍如と言ったところ。アメリカ育ちのブレンダーのジョージは、ファーストフィルで熟成した原酒が最も良いウィスキーになるだろうと初めは考えていたそうですが、「サードフィルとセカンドフィル、それも大樽で熟成されたセカンドフィルとサードフィルこそが、サーデイヴィスの味わいを構成する最も繊細なウィスキーであるため、私のお気に入りの要素となりました。アメリカではウィスキーに対する一般的な考え方とは異なります。ほとんどのアメリカン・ウィスキーは、以前の樽の使用原酒の力強さによって、マッシュビルの神聖さや独自性が失われてしまいます。ここでは、スコットランドのルーツと日本の感性を反映した、ウィスキーの製法に対するグローバルなアプローチが生まれたと考えています」と語っていました。
現在のアメリカン・ウィスキーには、シングル・モルト・ウィスキーもあれば、様々な穀物をマッシュビルを用いたウィスキーもあり、フィニッシングに使われるバレルも多種多様です。サーデイヴィスが行なっていることは、10年前ならまだしも、正直言ってプロモーションで語られるような「カテゴリーの常識に挑戦」する「画期的な新ウィスキー」とまではもう言えないでしょう。しかし、この製品には確かに高度な開発が費やされたことは伺えます。サーデイヴィスは技術的にはライ・ウィスキーな訳ですが、コーンが一切使用されていないマッシュビル、且つ蒸溜に使われる穀物のほぼ半分はスコッチやジャパニーズ・ウィスキーの基盤となる原料の大麦麦芽とあっては、これは事実上ライ・ウィスキーとモルト・ウィスキーのブレンドに近く、更に二次熟成ゆえ、伝統的なアメリカン・ライウィスキーとシェリー樽熟成のスコッチ・ウィスキーの中間的な存在と言っていいかも知れません。ボトルには「RYE WHISKY FINISHED IN SHERRY CASKS」と記載されています。世界的な規模でファンを持つポップ界のスーパースターに相応しいように、グローバルなテーマを強調するため、アメリカのバーボンやライで一般的な「Whiskey」ではなく、日本やスコットランドで伝統的に見られる「e」を付さない「Whisky」の綴りが意図的に選ばれました。またサーデイヴィスは、ビヨンセの強い希望でノンチルフィルタード、そして冒頭でも書いたようにアルコール分は彼女が最も好きな数字の「4」に拘った44%に調整されています。

Screenshot_20260222-002245_1
サーデイヴィスは発売の発表に先立って、「デイヴィス・ホーグ蒸溜所」という偽名で複数の酒類コンペティションに匿名で出品され、数々の賞を受賞しました。中でも2023年のSIPアワードでは、アメリカン・ウィスキー部門で100以上のエントリーを上回り、プラチナ賞とベスト・イン・クラスを受賞しました。他には、2023年のニューヨーク・インターナショナル・スピリッツ・コンペティションでは95ポイントとゴールド、2023年のアルティメット・スピリッツ・チャレンジでの93ポイントなど輝かしい栄誉を獲得しています。ビヨンセは『GQ』誌のインタヴューで「私は自分がサーデイヴィスに関わっていることが知れ渡る前に、ブランドがその味わいとクラフツマンシップに基づいて認められることを望んでいました。最も厳しい批評家たちに試してもらい、ウィスキーそのものの力で彼らの敬意を得ることを心に決めたのです。レシピを完成させた後、私たちはウィスキーをコンペティションに出品し、世界中の批評家たちにテイスティングしてもらいました。ボトルやブランディングに"ビヨンセ"を匂わす痕跡は一切ありません。それはかなり意識的にやりました」と語っています。と同時に、ビヨンセは同誌のインタヴューでなぜ今回ウィスキーなのかを問われた際には「初めてウィスキーを飲んだ日のことは忘れられません。優しく私に訴えてきました。〈なぜ今まで飲んだことがなかったのか〉と思ったのを憶えています。口当たりは強くて温かくて、ちょうどいいハードさで。私はそのプロセス、飲み方が気に入りました。ウィスキーはただぐいっと飲み干すものではなく、コミットメントなのです。忍耐が必要なもので、そこがいい。それから日本のヴィンテージ・ウィスキーにハマって、テイスティングを始めると、新しい世界が広がりました。ウィスキーの全てが好きです。色、香り、グラスの中で踊るさま…。そして、その一杯にまつわる物語も。どのボトルにも歴史がありますからね。自分がウィスキー好きだとまだ気づいていない人たちにウィスキーを紹介するのも楽しいです。ウィスキーを味わって、その世界に触れさえすれば、もっと多くの女性が好むようになるのではと思います。ウィスキーは煙たいバーにいる年配男性だけではなく、深みと複雑さ、そしてちょっとした神秘を愛する全ての人のためにあるもの。熟成のプロセスは、穀物の発芽から手造りの樽に至るまで、全ての工程に注意を向けた奉仕であり、その全てを愛おしく思っています。ウィスキー造りはひとつの芸術で、私が愛と敬意を抱くのもそのためなのです。偉大な(カントリー歌手の)ウィリー・ネルソンはかつて言いました。〈誰かに本当にいいものを教えられるまで、自分がそれを好きだったことに気づかないこともある〉。だから未来のウィスキー愛好家の皆さん、歓迎するわよ!」と答えており、この言葉を加味すると、プロ並みのウィスキー愛好家を満足させつつ、今までウィスキーを殆ど飲まなかった人々、特にビーハイヴ(ビヨンセの熱狂的なファンやコミュニティの愛称)がサーデイヴィスを買って楽しんだ後ウィスキーにハマってもらえれば…という期待があったでしょう。某巨大掲示板で見掛けたのですが、実際そういうビーハイヴはいたみたいです。

サーデイヴィスは限定品ではなく、通常品として販売されています。現在はどうか知りませんが、発売された当時は、全米各地に加え、ロンドン、パリの一部店舗、アジア地域では日本のみでの販売、とされていました。将来的には製品展開の拡充を図る予定とのことで、近々カスク・ストレングスの113プルーフのヴァージョンが発売されるようです。そのうち熟成年数表記ありの製品も出されるかも知れませんね。ではそろそろ、『COWBOY CARTER』の楽曲中、個人的に最も気に入っている「16 CARRIAGES」を聴きながらサーデイヴィスを頂くとします。



20260210_201534436_1
SirDavis 88 Proof
推定2024年ボトリング(初発売時に購入)。やや薄くダーティな茶色。ドライフルーツ、モルト、ローズマリー、セージ、グリーングラス、ピクルス、ビスケット、キャラメル、アーモンド、キウイ、ケチャップ。よく熟した色とりどりのフルーツの香り、時間をおくとキャラメルも出た。味わいは香りほどフルーツや甘さがなくやや辛口か。余韻はクローヴと白胡椒が広がってからフルーツの苦みへ、更にそこから香ばしいナッツへと。グラスの残り香はピーカンナッツ。アロマがハイライト。
Rating:85.5→86.5/100

Thought:そもそも私はビヨンセの歌声が好きでデスチャ時代から聴いて来た人間です(勿論、好みの楽曲だけですが)。そして、言うまでもなくアメリカン・ウィスキーが好きな人間でもあります。そこにサーデイヴィスが発売されるとあっては、そりゃ買うよね。おそらくこれが安易なブレンデッド・ウィスキーであっても買ったかも知れない。まあ、それは措いて、発売前にサーデイヴィスの詳細が取り上げられた時、最も興味を唆られたのは原材料でした。MGPの有名な95/5ライは個人的に凄く好みのウィスキーなのですが、51/49ライは飲んだことがなかったので是非とも飲みたかったのです。本当はシェリー・カスク・フィニッシュでないものを試したかったけれど仕方ありません。で、飲んでみると、香りは素晴らしく、シェリー樽も効き過ぎておらず、アメリカン・ライらしさもしっかりあって、よく出来ていると思いました。MGP95/5ライ65%にシェリー樽熟成のスコッチを35%で混ぜたようなイメージの味わいかな。モルトの存在はパレートが最も感じ易く、シェリーの影響は香りと余韻に感じ易かったです。ただ、どうも私好みの味わいではなかったです。やっぱりコーンとライが好き。けれども、普段スコッチやジャパニーズ・ウィスキーも飲む方には飲み易いだろうし、面白い製品なのだろうと思います。…と、これは最初の印象でして、開栓からだいぶ経ったら甘みが感じ易くなったと言うか、自分の苦手な風味が薄らいだと言うか、とにかく美味しくなりました。レーティングの矢印はそのことを指しています。

Value:メーカー希望小売価格は89ドルで、アメリカのウィスキー愛好家の間では少し高いという意見が多い印象を受けました。一説には、ビヨンセの名前が付いていなければ、契約蒸溜で熟成4年未満のシェリー酒のようなデザート・カスクで仕上げた同様のボトルなら恐らく40ドル程度での販売だろう、とか。熟成年数非記載のスピリッツとしては高額ですが、プレミアム・ウィスキー市場ではそれが一般的になっています。日本での定価は1万1550円。調べてみると、安いところでは8000円台後半から9000円ちょいで買えるようです。微妙な値段ではありますが、1本買う分には、最安値なら全然アリ、ちょっとした贅沢品を買いたい気分なら定価でもいいでしょう。モルト配合率の高いライ・ウィスキーは他ではあまり飲めないし、なによりMGPの51/49ライは95/5ライより遥かに珍しいのは間違いないですからね。個人的にはモルトと二次熟成という部分が好みではないので常備ボトルにはしないと思いますが、味わいが気に入り、尚且つビヨンセが好きとかボトルの見た目が好きとか、そういう要素を含めてなら、限定品ではないとのことなので常備にもオススメです。


*このアルバムの楽曲は、一部の「i」や「Two」や「to」を「Ⅱ」と表記しています。なので「II HANDS II HEAVEN」は「Two hands to Heaven」であり、「AMERIICAN REQUIEM」や「BLACKBIIRD」や「LEVII'S JEANS」のように敢えて「I」が2つ重なってるのは、『カウボーイ・カーター』が3部作のうちの2作目、第二幕、ACT IIであることを強調する表現とされ、それ以上の意味はなく、読み方もそのまま「アメリカン」や「ブラックバード」や「リーヴァイスジーンズ」です。

**他にも、SASSENACHというスコッチのパクリだ、という声もありました。ユニコーンが馬に変わっただけだ、と。
Screenshot_20260305-035626_1_copy_332x457

2022-08-03-19-18-53-124
20240729_231122

今回は、日本では2022年初め頃から出回り始めた、リニューアルされたパッケージのエヴァンウィリアムス12年を開封してみました。従来までと違いゴールドのワックスで封されて高級感が出ましたね。EW12赤ラベルは輸出専用バーボンとして知られ、長きに渡り日本でのみ販売されていましたが、ヘヴンヒルが2013年にルイヴィルのダウンタウンにエヴァン・ウィリアムス・エクスペリエンス(バーボン体験が楽しめるテーマパークのような施設)をオープンすると、スタート時からあったのか或る段階(2015年あたり?)からなのか判りませんが、ギフト・ショップ専売品としてアメリカ国内でも販売されるようになりました。しかし、ヘヴンヒルは日本での一般的な価格よりも遥かに高い価格で販売しました。2017年頃で130ドル、その後150ドルに値上がりしたそうです。ヘヴンヒルはアメリカ国内で高く売るに際し、より高級に見せるため、見栄えを良くするため、安っぽいスクリュー・トップにワックスを掛けたのではないか、と勘繰るアメリカのバーボン愛好家の方もいます。また逆に、SNS上で見掛けたのですが、輸出版とアメリカ国内版を飲み比べ、アメリカ国内版の方が大分美味しかったという趣旨のことを言っている日本のバーボン飲みの方がいました。そこで裏読みすると、もしかしたらアメリカ国内版の方が値段が大幅に高い分、バッチングにクオリティの高いバレルが選ばれている可能性もあるのかも知れません。或いは単なるバッチ違いの差なのか、真相は藪の中です。まあそれは措いて、私としては一つ前のラベルの物とこのゴールドワックスの物とではどのように違うかを較べたいと思い開封しました。では、さっそく飲んでみましょう。ちなみにマッシュビルは78%コーン、10%ライ、12%モルテッドバーリーです。

2025-09-21-23-34-21-400
Evan Williams 12 Years 101 Proof
推定2021年ボトリング(瓶底)。色はダークアンバー。モダンな木材、ガレットブルトンヌ、薄いチェリーキャンディ、一瞬プルーン、フランボワーズ、マッシュルーム、ペッパー。ほんの少しフローラルな香りも。口当たりはややオイリー。口の中ではドライオークが感じ易い。余韻はミディアム・ロングでチャード・オークの香ばしさと僅かに柑橘の爽やかさと苦味が。
Rating:85.5→86.5/100

Thought:開けたてはフレイヴァーが殆ど感じられませんでした。開封から1週間くらい経つと、漸く熟成感のある土っぽい樽の味わいが出て来ました。私が飲んだ一つ前のラベルの物は過去にレヴューを投稿した2016年ボトリングなのですが、それと較べると12年という熟成感を思わせるものが少なくなった印象を受けます。アルコールの刺激や木材のエグみが強く、深みのあるチョコレート感が弱いと言いますか…。正直、2016年ボトリングの頃よりクオリティは少し低下したと思いました。しかし、開封から1年くらい経つと、アルコールのキツさのようなものは多少は和らぎ、味わいに甘酸っぱいフルーツが感じ易くなって美味しくなりました。上の矢印はその事を指しています。1年も待ってられないなら、少なくとも30分は空気に触れさせておくか、ロックで飲んだ方が良いのかも。どうも近年のヘヴンヒルは香りが開くのに時間が掛かるような気がします。参考までに言うと、このEW12と同時期に家で開封していたボトルに、ケンタッキー・アウル・コンフィスケイテッドとワイルドターキー12年があるのですが、実はその2つの方がリッチなフレイヴァーで美味しく感じていました。つまり、このEW12は香りが開いたとて私にとってはその程度だったと言うことです。まあ、バッチ間の差があり得ますので、一概には言えないでしょうが。ゴールドワックスの掛かったEW12赤ラベルを飲んだことのある皆様の感想を募りたいところです。

Value:エヴァンウィリアムス12年ゴールドワックスのアメリカのバーボン愛好家の評価としては、要約すると、これは本当に良いボトルだけれど130〜150ドルもするほど良いボトルではない、しかし日本での40ドルという価格ならバーボンの中で最もお買い得だろう、といった意見が多数を占めます。一方で、130〜150ドルという価格にしてはストーリーのなさや安っぽいボトルやギミックのなさを考えると高く感じるかも知れないが、エヴァンウィリアムズ12年101プルーフは単純にその味わいに基づいて然るべき価格が設定されている、と評している人もいました。では日本に住み、昔から赤エヴァンを享受して来た我々にとってはどうなのでしょう? 私はEW12が2000円代や3000円代で買えていた頃を知っている人間です。最近ではここ日本でも5000円を超えたりします。そして、私の印象としては近年に近ければ近いほど味わいのクオリティは少しづつ下がっているような気がしています。味が落ちたのに値が上がる、これは心理的に辛いことです。とは言え、味わいの面では現代の木材の風味とアルコール感に慣れてしまえば問題はないし、金額の面でもバーボンに限らず何でも値上がってる世の中ですから、EW12は今でも値打ちのあるバーボンに違いありません。昔の物と較べると流石に分が悪くはありますが、それらは二次流通市場で相応に値上がりしているので、現行ボトルも相対的には「安くて旨い」ままと言えます。文句と取られかねないことも書き連ねましたが、このEW12ゴールドワックスはそもそも美味しい範疇に入るので、個人的には購入をオススメします。アメリカでの価格を考えたら、買わなきゃバチが当たるってもんです。但し、日本に於いて予てより築かれてきたエヴァンウィリアムス12年レッドラベルの評価を、このボトルだけ飲んで知った気になるのは良くないと思います。昔の物、特に90年代までの物を飲んだことのないバーボン初心者の方は、何処かのバーで是非ともオールドボトルを飲んでみて下さい。きっとエヴァンウィリアムス12年の真髄を知ることになるでしょう。


追記:聞いたところでは終売なのを輸入元が認めたそうです。なんでもヘヴンヒルの意向だとか。残念ですねぇ…。

FotoGrid_20250828_003017628

ミルウォーキーズ・クラブさんでの7、8杯めに選んだのは、おそらくこのバーの中でも最も貴重なバーボンであろう禁酒法時代のオールド・オスカー・ペッパーと禁酒法解禁後のL.&G.(ラブロー&グラハム)です。オールド・オスカー・ペッパーはケンタッキー・バーボンの有名な銘柄の一つであり、ペッパー家の3世代はケンタッキー州の最前線でウィスキーを蒸溜し、業界の黎明期を今日の姿に築き上げるのに貢献しました。そして現在でもペッパーの名はブランドとして復活しています。ラブロー&グラハムも現在のウッドフォード・リザーヴに繋がる名前です。バーボンの歴史は彼らを抜きにしては語れません。そこで今回はペッパー・ファミリーのレガシーの一部とグレンズ・クリークの蒸溜所の歴史に就いてざっくりと紹介したいと思います。

ペッパー家の蒸溜はエライジャ・ペッパーから始まります。エライジャは、サミュエル・C・ペッパー・シニアと「英国人女性」とされるエリザベス・アン・ホルトン・ペッパーの間に生まれました。生年には系図サイトを参照にしても諸説あり、1760年12月8日月曜日とするもの、1767年とするもの、1775年とするものがあります。出生地も、ヴァージニア州カルペパーとしているものとフォーキア・カウンティとしているものがありました。この二つは隣接しているので、だいたいそこら辺で産まれたのでしょう。彼は1794年2月20日にフォーキアで名門オバノン家出身のサラ・エリザベス・オバノンと結婚しました。エライジャの生年を1767年としている系図サイトだと、サラを1770年生まれとしていました。或る記録によると結婚当時のサラは13歳か14歳だったとされているようで、そちらが正しい場合は生年は1780年あたりになるでしょう。1797年、エライジャはサラとその兄弟ジョン・オバノンと共に500マイル以上西のケンタッキー州に移り住み、現在ウッドフォード郡ヴァーセイルズとして知られる地域に居を構え、町のコートハウスの裏手のビッグ・スプリング近くに最初の小さな蒸溜所を建てました。1780年頃からエライジャはヴァージニアで蒸溜業を始めていたとする説もありました。農業と蒸溜が不可分のファーム・ディスティラーだったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、エライジャは一旦バーボン・カウンティに移って数年間を過ごしたらしい。バーボン・カウンティの納税記録と1810年の国勢調査によると、ウッドフォード・カウンティに戻る前の3年間はバーボン・カウンティに住んでいたのとこと。その後ウッドフォード郡に再び戻り、1812年までにヴァーセイルズのグレンズ・クリーク沿いの200エーカーの土地に新しい蒸溜所をオープン。この土地の明確な所有権が確立されたのは1821年のことで、証書が記録されたのはその翌年だったそう。彼がこの場所を選んだのは、敷地内を支流が流れ、小川のほとりに3つの清らかな泉が湧き出していたからでした。そこには農場とグリストミルもあり、彼らはその水を穀物を粉砕する動力源、発酵や蒸溜のようなウィスキー造りのためだけでなく、冷蔵用に使ったり新鮮な飲料水としても家畜のためにも利用しました。当時は正に「農場から蒸溜まで」の操業だったのです。近隣のケンタッキー州の農家は連邦税が課されたため蒸溜を断念せざるを得ませんでしたが、エライジャには資金力があったようで、彼らの穀物を買い取り、合法的にウィスキーに仕上げたと言います。またエライジャはこの土地の蒸溜所と周辺の農場を見下ろす丘の上に、外壁に巨大な石灰岩の煙突を備えた2階建てのログ・ハウスを建て家族を住まわせました(*)。当初のペッパー入植地で唯一残ったこの家は、その後の住人たちによって増築され使われました。エライジャとサラは、少なくとも3人の息子と4人の娘の両親だったとも、4男3女の7人の子供がいたとも、或いは8人の子供を儲けたともされ、その場合はプレスリー、オスカー、エリザベス、サミュエル、ナンシー、アマンダ、ウィリアム、マチルダだったと思われます。ペッパー家は奴隷の所有者であり、1810年の国勢調査の記録によると一家には9人の奴隷黒人がおり、所有地の繁栄に伴ってその後の10年間で奴隷は12人(男7人、女5人)に増えました。畑仕事をする人手が増えたためか、エライジャは所有地を350エーカーまで拡大したとか。更に、1830年の国勢調査では13人の男と12人の女を奴隷として雇っていたとされ、ペッパー農場の成功を裏付けていると目されます。 エライジャはかなりの富をもっていたようで、彼が亡くなった時の目録には、蒸溜所のカッパー・ケトル・スティル6基、マッシュ・タブ74個、多数の樽、熟成ウィスキー41樽(1560ガロン相当)があり、家畜は22頭の馬、113頭の豚、125頭の羊と子羊、30頭以上の牛を数え、その他にも農業や木材加工に使用する道具も多数所有していました。エライジャ・ペッパーは1831年2月23日(または3月20日前という説もある)に死去。彼は亡くなるまで蒸溜所を経営し、生前に遺言を作成しました。子供達に家財を少しと奴隷一人づつを贈与し、最愛の妻サラには蒸溜所と奴隷を含む殆どの財産を残しました。キャプテン・ウィリアム・オバノンとナンシー・アンナ・ネヴィルの娘であるサラ・エリザベス・オバノンは、南北戦争の名将でジョージ・ワシントンの個人的な友人でもあったヴァージニアのジョン・ネヴィル将軍の姪でした。ネヴィル家はヴァージニアの裕福な貴族であり、ペッパー家を経済的に援助していた可能性をジャック・サリヴァンは指摘していました。エライジャは広大な農場と関連事業の管理をサラに任せていたようで、財産目録によれば彼女はスティルやタブ等を含む農場や蒸溜所の設備の購入を監督していたり、ペッパー邸を飾ったであろうカーペット、銀製品、その他の高価な調度品の購入も彼女が担当したと推測されます。国家歴史登録財に登録するためにこの土地を調査した歴史家の推定では、エライジャの死後、1831年から1838年までの約7年間、サラは蒸溜所やウィスキー販売を含む家業の管理を担当していたそうです。そして、サラは蒸溜所を受け継いだものの経営にはあまり関心がなかったのか、或いは高齢のための隠居なのか、1838年に自分のインタレストを長男のオスカー・ペッパーに売却しました。

2025-07-24-12-27-35-415_copy_285x347
今回飲んだオールド・オスカー・ペッパー(O.O.P.)のブランド名の由来となっているオスカー・ネヴィル・ペッパーは、1809年10月12日木曜日に生まれました。幼い時のことはよく分かりませんが、彼は父親が創業した比較的小規模なウイスキー事業を引き継ぎ、新たなレヴェルに成長させたことで知られています。蒸溜所の丸太造りから石造りへの転換と小川の西側への移転は、1838年までにオスカーの所有下で行われました。そのため1838年はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の創業の年となり、O.O.P.ブランドの起源となりました。但し、1840年の国勢調査ではオスカーの職業はファーマーだったそうで、農場と蒸溜所は兼業であり、農業の方でよりお金を稼いでいたのかも知れません。オスカーは母の死後(サラの死去は1848年説と1851年説がありました)、母の土地を分割した兄弟姉妹のシェアを取得したことが譲渡証書や遺言によって示されているそうです。彼はプランテーションを所有している間に敷地内の大規模な改修を始め、父親が製粉と蒸溜業を営んでいた丸太造りの建物を石造りの建物に建て替え、住居も大きく増築しました。1850年の国勢調査には、トーマス・メイホールというアイルランド出身の石工が一家と同居していたという記録が残っているとか。
ペッパー家のファミリー・ビジネスに大きく貢献したのはドクター・ジェイムズ・クロウでした。オスカーは彼を今で言う蒸溜所のマスター・ディスティラーとして雇用しました。クロウはサワーマッシュ・ファーメンテーションや木製バレルでの熟成プロセスを改良/体系化することで、バーボン造りのプロセスに科学的な要素を加えた人物として評価されています。ジェームズ・クリストファー・クロウはスコットランドのインヴァネスに生まれ、エディンバラ大学で化学と医学を学び、アメリカに移住しました。最初はペンシルヴェニア州フィラデルフィアに定住し、短期間滞在した後、ケンタッキー州に移るとグレンズ・クリーク周辺の蒸溜所で働き始めました。彼は学んだ科学的知識を蒸溜に活かし、リトマス試験紙でマッシュの酸度を測ったり、糖度計で糖度を測ったりしました。バーボンの製造に於いて殊更取り上げられる有名なサワーマッシュ製法はクロウが考案したのではありませんでしたが、科学の知識を応用して完成させました。サワーマッシュは、前回のバッチのマッシュから残ったバックセットの一部を取り出し、現在のマッシュの中に含めることで、発酵を促進し、悪い菌の繁殖を防ぐのに役立ちます。1833年にはオスカー・ペッパーがクロウに助言を求めたとされており、クロウはその時期にグレンズ・クリーク沿いの他の蒸溜所で働きながらペッパーズの蒸溜所を手伝っていたようです。クロウの専門知識が齎す商業的利益の可能性に気付いたオスカーは、彼と協力してペッパー農場の小さな丸太造りの蒸溜所を1日あたり1もしくは1.5ブッシェル程度から25ブッシェルの蒸溜所にアップグレードしました。クロウは1ブッシェルの穀物から2.5ガロン以上のウィスキーを造ってはならないと主張したとされます。この蒸溜所で伝説的なオールド・クロウ・ブランドは誕生し、蒸溜され、その後多くのバーボン消費者に大人気となりました。クロウはキャリアの殆どの期間をペッパーの蒸溜職人として過ごし、他の蒸溜所で働いたのは少しの期間だったと思われます。彼は1833年頃から1855年までペッパー家のために働きましたが、1837年から1838年に掛けてグレンズ・クリーク農場の敷地は建設工事で占拠され、1838年から1840年に掛けては深刻な旱魃が農業生産に影響を及ぼしたため、この間クロウはオスカーの蒸溜所で働いていなかったようです。新しいカッパー・ポット・スティルとフレーク・スタンド(蒸溜器のワームを冷却する容器)が設置され、マッシング・タブ、ファーメンター、スティーム・エンジンが製造開始の準備を整える他、建設工事による多額の資本支出には上述のトーマス・メイホールの雇用も含まれ、彼は地元の石灰岩から大きな石造りの蒸溜所、貯水槽、製粉所、倉庫などの施設を建設しました。1838年の春から1840年の冬に掛けての旱魃はケンタッキー地方の大半に壊滅的な打撃を与え、作物の不作と蒸溜用の水不足を齎したと言います。蒸溜には水が不可欠で、1ガロンのウィスキーを造るには、マッシング、コンデンシング、クリーニングに60ガロン以上の水が必要でした。クロウがオスカーの蒸溜所に復帰したのは1840年のシーズンになってからのこと。建設が完了するとクロウは家族を連れて新しいペッパー蒸溜所から200ヤード上にある家に移り住んだそうです。また、彼は蒸溜所の年間ウィスキー生産量の8分の1(または10分の1という説も)を支払いとして交渉したと言います。これは農家の穀物を挽くための報酬として製粉業者が受け取る金額とほぼ同じでした。年間生産量は季節によって変動しますが、1840年代後半には年間生産量は約650バレル(20000プルーフ・ガロン)となり、樽からの蒸発や浸透、卸売価格の変動、ディーラーへの年間販売量を考慮すると、クロウの報酬はおそらく年間500ドルから1000ドルと高額、彼の生産契約の途中である1848年の都市部の職人の平均年収は550ドル、ケンタッキー州の農場労働者の年収は120ドルだったので、クロウはケンタッキー州の田舎の基準から見て非常に快適な生活水準を誇っていた、とウィスキーの歴史家クリス・ミドルトンはクロウ研究の中で述べています。雇い主のオスカーはウィスキーの取り分、家畜の販売、余剰穀物生産、亜麻と麻の栽培などでかなりの収入を得ており、1860年、政府は彼の土地と資産を67500ドルと評価し、これは2020年の価値で2100万ドル相当でした。この蒸溜所で販売されていた主力ブランドはオスカー・ペッパー・ウィスキーとクロウ・ウィスキーだと思いますが、3年以上保管されたウィスキーは「オールド」が共通して付され、おそらくどちらも同じクオリティだったでしょう。とは言えクロウ・ウィスキーの評判は流通量の多かったオスカー・ペッパー・ブランドよりも高かったそうです。クロウ自身の名を冠したウィスキーは軈て「オールド・クロウ」として知られるようになり、他の汎ゆるバーボンの評価基準となりました。オールド・クロウは1800年代半ばまでに高級ウィスキーのシンボルになり、殆どのウィスキーが1ガロン当たり15セントで販売されていたのに対し、クロウのウィスキーは25セントで販売されていたとか。クロウはペッパーの蒸溜所で15年間働いた後、1855年の秋にそこを去りました。また、サム・K・セシルの著作によると、オスカー・ペッパーは1860年にグレンズ・クリークから数マイル下流のミルヴィルにオールド・クロウ(RD No.106)という別の蒸溜所を建設し、そこでオールド・クロウ・ブランドを製造した、とのこと(**)。
オスカー・ペッパーの私生活面では、彼は1845年6月にウッドフォード郡で生まれ育ったナンシー・アン(もしくはアネットとも)・"ナニー"・エドワーズと結婚しました。それ以前に、キャサリンというゲインズ家出身の妻を1839年に亡くしているとの記述も見ましたが、系図サイトや墓所サイトにはその件は触れられてなく、私にはよく分かりません。ナニーは結婚当時18歳で、夫より17歳ほど年下でした。彼女の父ジェイムズ・エドワーズはグレンズ・クリークに隣接する農場を所有していたらしい。オスカーとナニーの間には7人の子供がおり、おそらく生年の順で以下のようになるかと思われます。
エイダ・B・ペッパー(1847-1927)
ジェームズ・エドワード・ペッパー(1850 - 1906)
オスカー・ネヴィル・ペッパーJr.(1852 - 1899)
トーマス・エドワード・ペッパー(1854 - 1933)
メアリー・ベル・ペッパー(1859 - 1913)
ディキシー・ペッパー(1860 - 1950)
プレスリー・オバノン・ペッパー(1863 - 1871)
メアリーの生年を1861年としているものもありましたが、詳細は不明です。それは兎も角、子宝にも恵まれたオスカーのリーダーシップによって農場と蒸溜所は繁栄し、1860年の国勢調査によると不動産の評価額は31600ドル(現在の約770000ドル相当)で、贅沢品を含む個人資産は36000ドルだったとされています。彼の財産には12人の男と11人の女の奴隷も含まれており、そのうちの何人かはエライジャから受け継いでいたのでしょう。彼らは家財目録に記載されている総額約22000ドル近くの作物や牛の世話をしていたと考えられています。蒸溜の作業もこなしていたかは分かりません。1859年には2人の女性奴隷が8月にマリアという女の子とウィリーという男の子を出産しており、父親はオスカーのようです。蒸溜所は1865年までオスカーの管理下で運営されました。その年の6月にオスカー・ネヴィル・ペッパーは56歳で死去し、墓前で家族や友人たちに弔われながら、フェイエット郡のレキシントン墓地に埋葬されました(オスカーの死を1864年や1867年としている説もある)。彼の死後に出された資産目録には、バーボンの製造を物語るカッパー・スティルとボイラー、400バレルのコーン、400ブッシェルのライ、40ブッシェルのバーリー・モルト、30ブッシェルのバーリーなどがあり、アルコールの目録には1ガロン40セントと80セントの価格で120ガロンのウィスキーが記載されていたそうです。ペッパーの所有していた829エーカーの土地での畜産は別の事業と目され、農場では21頭の馬と雌馬、7頭のラバ、25頭の乳牛、30頭の当歳牛と去勢牛、56頭の羊、100頭以上の豚を飼育していました。家庭内にはピアノ、「冷蔵庫」、法律書などがあったそうで豊かな暮らしぶりを想像させます。オスカーが死去した際、管財人による売却の新聞広告には、彼の個人資産として「非常に古いクロウ・ウィスキーの少数のバレルがあり、良質な飲酒の最後のチャンスである」と記されていたらしい。

オスカー・ペッパーは父のエライジャと違って遺書もなく7人の子供と農場と蒸溜所ビジネスを妻に残して亡くなりました。1869年に行われたオスカーの遺産相続の裁判所による調停では、彼の所有地829エーカーが7人の子供達のために7つの不平等な土地に分割されました。これにより末っ子でまだ7歳だったプレスリー・オバノン・ペッパーが160エーカーの土地、蒸溜所、グリスト・ミル、家族の住居を含む最大の分け前を受け取りました。オバノン・ペッパーはまだ幼く、更にその後の14年間は未成年であるため、自動的に母親のナニー(1827-1899)が後見人となり、経済的に生産性の高い財産の殆ど全てがペッパー夫人の手に委ねられます。これはナニー・ペッパーを養うための裁判所の配慮でした。ナニーはまだ比較的若かったものの、義理の母サラのようには自分で蒸溜所を経営する気はなかったようです。南北戦争終結後、ペッパー家の奴隷は全ていなくなっていました。彼女はプレスリー・オバノンの財産の後見人として、直ちにケンタッキー州フランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにこの土地をリースしました(***)。この契約によって同社は蒸溜所とその全ての設備、ディスティラーズ・ハウス、2つのストーン・ウェアハウスを管理することになりました。この2年間の契約にはグリスト・ミルや豚にスペント・マッシュ(使用済みのマッシュ)を与えるペン(囲い)も含まれています。同社は1866年にウィスキーの製造と販売を目的として設立され、彼らのビジネス・パートナーはエドムンド・ヘインズ・テイラー・ジュニアでした。社名の「&Co.」の部分は彼のことに他ならないでしょう。社名になっているW・H・ゲインズは近くのグラッシー・スプリングス・ロードに住んでいましたが、他のパートナーズはフランクフォートの住人でした。根拠はないものの尤もらしい噂によると、ゲインズ, ベリー&カンパニーが1866年に最初に買収したのは故オスカー・ペッパーからのウィスキー在庫100樽だったとのことです。それは兎も角、こうして1870年1月1日、ペッパー蒸溜所は初めてペッパー家以外のバーボン生産企業として機能しました(****)。それでも、1850年5月18日土曜日に生まれたオスカーとナニーの長男ジェイムズは父の死の当時15歳でしたが、ゲインズ, ベリー&カンパニーによって蒸溜所の運営に何かしら携わることになったようで、1870年の国勢調査では20歳のジェイムズ・ペッパーが蒸溜所のマネージャーとして記載されていたそうです。伝説的なカーネル・E・H・テイラー・ジュニアは当時すでに酒類業界で成功しており、ペッパー家の良き友人だったようで、オスカー・ペッパーの遺言執行者の一人であり、蒸溜所を所有するには若過ぎるジェイムズ・E・ペッパーの後見人ともなり、彼が21歳になるまで蒸溜所を経営したと云う説も見かけました。
「オールド・クロウ」は、ドクター・ジェイムズ・クロウには存命の相続人がいなかったため、ゲインズ, ベリー&カンパニーは問題なくブランドを独占することができました。同社はペッパーの所有地に「オールド・クロウ蒸溜所」の名を添え、オールド・クロウを彼らのフラッグシップ・ブランドとしました。伝えられるところによると、彼らはこのブランドを守り続けるため、ドクター・クロウと全く同じ方法でウィスキーを造ることを決意し、クロウが存命中に蒸溜していた古い蒸溜所を借り受け、クロウの下で技術を学んでその製法を伝授されたウィリアム・F・ミッチェルをディスティラーとして雇用した、とされています。一方、ジェイムズにはオールド・オスカー・ペッパーのブランドが残されることになりました。
野心的なテイラーに唆されたのか、或いは母親の脇役でいることに飽き飽きしたのか、ジェイムズ・ペッパーは1872年10月期の巡回裁判所に於いて、1869年に弟のオバノンに割り当てられていた蒸溜所用地の権利を求め、母親のナニー・ペッパーを相手取って訴訟を起こしました。ジェイムズは勝訴し、土地区画図に「Old Crow Distillery, Mill, Old Crow House」と記された小川の両岸33エーカーと小川の東側の2つの泉を手に入れます。とは言え、そのせいで深刻な母子間の不和は起きなかったようです。ジェイムズは経営権を握った2年後、ゲインズ, ベリー&カンパニーと決別したカーネル・テイラーと手を組み、二人は工場の改良と操業の拡大を図りました。カーネル・テイラーは蒸溜所拡張のための資金確保に尽力し、純利益の2分の1と投資額相当の補償を受けるという契約を締結して、プロパティに25000ドルを投資しました。市場でのウィスキーの売れ行きは好調で、ビジネスは順調でした。嘗てペッパー蒸溜所だった通称「オールド・クロウ蒸溜所」と呼ばれる場所で生産されたテイラーのバーボンはそのバレリング・テクニックで人気を博し珍重されました。1870年代、州都フランクフォートとそのすぐ南に位置するウッドフォード・カウンティで州内最大のバーボン生産が行われ、E・H・テイラー・ジュニアの「家」は世界に模範的なウィスキー・バレルを提供していると一般的に理解されていました。しかし、1877年に不況が国を襲います。アメリカの歴史の中でも最も議論を呼び白熱したと言われる、1876年11月7日に行われた大統領選挙は経済の混乱を引き起こしました。民主党候補のサミュエル・J・ティルデンが一般投票で勝利し、共和党候補のラザフォード・B・ヘイズが選挙人団で勝利します。そのため南部では大規模な抗議運動が起こり、再び内戦が勃発する恐れがありましたが、リコンストラクションの終結を約束したヘイズの勝利を認めることで決着します。しかし、それは市場に不安を齎し、1877年の恐慌を引き起こしました。そこにウィスキーの過剰生産も重なり、この不況は蒸溜酒業界に大きな影響を与えました。ジェイムズは深刻な財政難に陥り、カーネル・テイラーに支払うべきお金の余裕がなく、1877年に破産宣告を受けます。蒸溜所はカーネル・テイラーに没収され、彼はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の単独所有者となりました。ところが当のカーネル・テイラーも他の蒸溜所を経営したり様々なウィスキー事業を行っており、間もなく自身の財政破綻に見舞われます。カーネル・テイラーは1870年にフランクフォートの蒸溜所を購入し、借金してオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)に改築していました。そしてまた、上述したように、同時期にペッパー蒸溜所にも資金を貸し設備を改善していました。資金繰りは厳しく、カーネル・テイラーは借金を返すのに必死でした。彼は同じロットのバレルを2人の異なる購入者に販売し、それが財政的、法的問題に発展したこともあったそうです。借金が余りに高額だったため、彼は債務者から逃れるために南米への移住を考えたほどでした。そこで大口債権者であったセントルイスのグレゴリー, スタッグ&カンパニーが彼を救済し、1878年、カーネル・テイラーの二つの蒸溜所はジョージ・T・スタッグに譲渡されました。同年、スタッグはO.F.C.蒸溜所の土地を増やすために、すぐにペッパー蒸溜所の33エーカーをレオポルド・ラブローとジェイムズ・H・グラハムに売却しました。ラブロー&グラハムは、ナショナル・プロヒビションの到来を経て、その後も含めると62年間この蒸溜所を所有し操業することになります。こうしてジェイムズ・ペッパーは廃業に追い込まれ、ジャック・サリヴァンの言葉を借りれば「エライジャによって設立され、サラによって育てられ、オスカーによって拡張され、ナニーによって保護され、ジェイムズによって失われたこの土地を、ペッパーの一族が再び所有することはありませんでした」。しかし、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所は他人の手に渡ったものの、ジェイムズは後にレキシントンに自身の蒸溜所を設立し、ペッパー家の名前は長年に渡って取引で使われて行きます(後述)。

FotoGrid_20250905_180404174
(1883年のオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所)
ラブロー&グラハムという名前は、設立されたパートナーシップに由来します。レオポルド・ラブローは1847年(またはそれ以前)にフランスで生まれ、母国のワイン生産地で育ち、渡米時にはワイン商(またはワイン醸造家としての経歴を持つとの説も)の経験があったと言われています。国勢調査のデータでは、移住年は1865年、彼が32歳頃のことでした。パスポートの記述によると、彼は身長5フィート7インチ(約173cm)で、肌は浅黒く、目は灰色、鼻は鷲鼻だったとか。ラブローは、アラベラ・スコット・デイヴィスとシルヴェスター・ウェルチの娘であるルイーサ・ウェルチというフランクフォートの女性と結婚しました。もしかするとそれを機会にケンタッキー州に定住したのかも知れません。ルイーサの父親はチーフ・エンジニアとしてケンタッキー・リヴァーの閘門建設を計画/監督し、ウィスキーの出荷を含む地元産品の水上輸送を改善したと言います。夫妻の間には1876年にアーマという娘が生まれました。彼は、先ずはフランクフォートのハーミテッジ蒸溜所で働き、その後シンシナティで叔父と共に酒類卸売業に携わるようになったそうです。一方の、アイルランド系のジェイムズ・ハイラム・グラハム(1842-1912)は、ルイヴィルで大工、建設業者、製材所経営者として成功したウィリアム・グラハムとエスター・クリストファー・グラハムの息子として生まれました。蒸溜所を購入する前は運送業を営んでいたとされ、おそらくは相当に成功したフランクフォートの実業家だったのでしょう。オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を買収すると、土地の権利の半分はラブローに直ちに売却されました。ラブローとグラハムが出会った経緯はよく分かりませんが、1878年までには二人はケンタッキー・ウィスキー・マンとして認められるようになっていたようです。グラハムはプラント・マネージャーとなり、ラブローは卸売と小売販売を担当したとされます。保険引受人の資料では彼らのプラントはフランクフォートの南東9マイルにありました。石造りで屋根は金属もしくはスレート。敷地内には穀物倉庫や4つのボンデッド・ウェアハウスがあり、全て石造りで屋根は金属かスレート。ウェアハウスNo.1は蒸溜所から100フィート北にあり、この倉庫の一部は「フリー」でした(つまり一部はボンデッド・ウィスキーではなかった)。ウェアハウスNo.2のBはウェアハウスAに隣接し、スティルの北東100フィートにあり、ウェアハウスNo.3のCは蒸溜所から南へ104フィート、ウェアハウスNo.4のDは南へ285フィート。おそらくペッパーの時代からどれも引き継いだものでしょう。そして、彼らはオールド・オスカー・ペッパーを唯一のブランドとして生産したと伝えられます。
ラブロー&グラハムは、頻繁なパートナーシップの変化にも拘らず、その社名を継続してビジネスを行うことで伝統を維持し、誠実さを伝えました。1899年、グラハムは引退することになり、インタレストの半分をラブローに売却します。翌年、ジェイムズ・グラハムは死去。その後J・M・ヴェンダーヴィアーがグラハムの後を継ぎますが、名前はラブロー&グラハムのままでしたし、施設も引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られました。大切なパートナーを失ったもののラブローは歩みを止めず、このフランス人のリーダーシップの下、蒸溜所は発展を続けました。スタッフは著しく増加し、年月を重ねるごとに蒸溜所は改良され、拡張されて行ったそうです。長年に渡ってオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の経営を指揮したレオポルド・ラブローは60代の後半に心臓病を患い、1911年に死去しました。死亡診断書に記された死因は肺水腫だったとのこと。未亡人のルイーサをはじめとする家族が墓前で弔う中、ラブローはフランクフォート・セメタリーに埋葬されました。余談ですが、ラブロー家の子孫の方によると、このファミリーは著名な細菌学者のルイ・パスツールと古くから縁があり、ルイがレオポルドにフランス・ワインを売るためにアメリカに来るよう勧めたと家族内では伝承されていたそうです。ラブローの死が大規模な再編成の引き金となったのか、会社は1915年にリパブリック・ディストリビューティング・カンパニーのD・K・ワイスコフ、E・H・テイラー・ジュニアの従兄弟でラブローの娘アーマの夫リチャード・アレグザンダー・ベイカー、T・W・ハインド、カール・ワイツェルから成る新会社ラブロー&グラハム・インコーポレイテッドに引き継がれました。ケンタッキー出身のベイカーはラブロー&グラハムの名を残しながら蒸溜所の日常業務を担当していたそう。1895年から禁酒法施行までの間に、ラブロー&グラハムのオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所に施された実質的な建築的改良は、コーンハウスの取り壊しとウェアハウスCとDの小川側に貯蔵小屋を建てたことでした。これにより穀物の搬入とバレルの搬出のための鉄道の分岐器を設置するスペースが確保され、ケンタッキー・ハイランド鉄道は1911年までにラブロー&グラハムに到着し、穀物を敷地内に運び込み、バーボンを市場に出荷していたそうです。
蒸溜所の所有者が変わった1870年代、ペッパー邸もまた所有者が変わりました。ナニー・ペッパーは未婚の子供達とこの家に住み続けていましたが、1873年に息子のプレスリー・オバノンが10歳の若さで亡くなっています。彼はペッパー邸のある蒸溜所の東126エーカーを所有していました。この土地はオスカー・ネヴィル・ペッパーの相続地に隣接していました。おそらくこれらの土地が近かったため、オスカー・ネヴィル・ジュニアは兄弟の126エーカーの土地と邸宅を取得したものと思われます。その後、彼は1882年に同じ土地をファントリー・ジョンソンに売却しました。続いて1884年には、ジョンソンは住居と75エーカーをアリスとジェイムズ・ゴインズに売却します。ゴインズ氏はラブロー&グラハム蒸溜所のヘッド・ディスティラーでした。彼はオスカーやジェイムズのように玄関ポーチから敷地を眺めることも、丘から石灰岩の階段を下りて小川を渡り蒸溜所まで直接行くことも出来たとか。ゴインズ家は1906年までペッパー邸を所有し、そこで12人の子供を育て、 おそらく東棟の床下空間と南側のファサードのサイド・ポーチの上に2部屋を増築したのは彼らだろうと推測されています。1906年、ペッパー邸をリチャード・ホーキンスとメイミー・ホーキンス夫妻が購入しました。夫妻は蒸溜所とは何の関係もなかったようで、タバコとコーンの耕作を続け、果樹園も所有していたそうです。小川を見下ろす西棟の2階は彼らがオウナーの時代に増築したものと推測されています。1918年にホーキンス夫妻は住居と土地をリチャードとアーマのベイカー夫妻とジーンとミルドレッドのウィルソン夫妻に売却しました。こうしてペッパー邸は蒸溜所のオウナーの1人が部分的に所有することになりました。ベイカー夫妻が亡くなった後は、1977年までウィルソン家の所有でした。

2025-09-05-17-19-42-196_copy_142x202
(1879年頃のJ. E. Pepper)
一方、倒産し家業の蒸溜所を失ったジェイムズ・E・ペッパーはあっという間に立ち直っていました。南北戦争終結後にヘッドリー&ファラ・カンパニーがレキシントンのオールド・フランクフォート・パイク(現在のマンチェスター・ストリート)に蒸溜所を設立していましたが、ジェイムズとパートナーのジョージ・A・スタークウェザーは2万5000ドルを調達して、1879年にはこの土地を取得し、火災で以前の建物が焼失していたため新しい蒸溜所を建設しました。ジェイムズ・ペッパーは、蒸溜所と設備のレイアウトをデザインし、建設の監督を担当し、この事業をジェイムズ・E・ペッパー・ディスティリング・カンパニーと呼びました。
ラブロー&グラハムの施設は引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られていましたが、レキシントンに自分の蒸溜所を設立したジェイムズ・ペッパーは、父の名前とジェイムズ・クロウ博士が築き上げた絶大な名声に基づいて商売を続けようと考えたのか、自分だけが「ペッパー」の名前を使うべきだと考えたのか、蒸溜所の操業開始後すぐの1880年10月、フレンチ・ワイン・プロデューサーのレオポルド・ラブローとケンタッキーの実業家ジェイムズ・H・グラハムのパートナーシップを相手取って、破産で失ったものの一部を取り戻すために連邦裁判所に訴訟を起こします。この件はケンタッキー・ウィスキーに係る商標訴訟でした。ちなみにこの連邦訴訟は、アメリカの司法史上に於ける非常に初期のものであり、合衆国最高裁判所判事はまだ国中の「巡回裁判所」の責任を負っていました。この訴訟を担当したのは、1881年5月12日から1889年に死去するまで合衆国最高裁判所判事を務めたトーマス・スタンリー・マシューズ判事でした。マシューズ判事はシンシナティ出身で、彼がユニオン・アーミーのオハイオ歩兵第23部隊のルーテナント・カーネルとして勤務していた当時カーネルだった嘗てのテント仲間のラザフォード・B・ヘイズ大統領によって最高裁判所判事に指名されました。しかし、この任命は承認されませんでした。上院は、ヘイズとマシューズがケニオン大学の同級生であり、シンシナティで弁護士として活動し、州歩兵隊の将校を務めていたことから、ヘイズを縁故主義で非難したのです。上院がマシューズ判事を承認したのはジェイムズ・A・ガーフィールド大統領が彼を再指名してからであり、この件は1881年に投票にかけられ、その時でさえマシューズは24対23の投票によって承認されたに過ぎませんでした。
FotoGrid_20250720_123340188
オスカー・ペッパーの死後、ジェイムズ・ペッパーが引き継いだ蒸溜所で製造したウィスキーのバレルには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。ハンドメイド・サワーマッシュ。ジェイムズ・E・ペッパー、プロプライエター。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー。」という商標が焼き付けられました。彼はまた「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」という名前と「O.O.P. 」という用語を使ってマーケティングを行い、1877年に商標登録しました。間もなくジェイムズ・ペッパーは破産し、蒸溜所とその設備一式を含む資産を被告のラブロー&グラハムに売却した後、新たな場所でウィスキーの製造を開始します。被告らはウィスキーの樽にペッパーが使用していたものと同じようなマークを使い始めました。そこには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。創業1838年。ハンドメイド・サワーマッシュ。ラブロー&グラハム、プロプライエターズ。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー」とありました。ペッパーはラブロー&グラハムを、彼らの劣悪なウィスキーがペッパー・ウィスキーと同じであると大衆を欺く目的で商標を侵害したと主張し提訴しました。ジェイムズ・ペッパーは、自身の所有権を証明する明確なマークをバレルに焼印していたという証拠を挙げ、ペッパーの弁護士は同じマークを彼のウィスキーに関するレターヘッズ、ビルヘッズやその他のビジネス用品により小さなサイズで印刷して使用していたと証言しました。ラブロー&グラハムが使用している類似のマークは、本物を求める顧客を獲得するための「不法かつ詐欺的なデザイン」であり、「オールド・オスカー・ペッパー」はジェイムズ・ペッパーが製造したものだけだ、と。彼らはラブロー&グラハムに対し、差し止めと損害賠償を求めたと言います。弁護士であり、法廷闘争から辿るバーボンやアメリカの歴史を本やブログで執筆しているブライアン・ハーラによると、オスカー・ペッパーがずっと以前に蒸溜所を所有していたにも拘らずジェイムズ・ペッパーは「オールド・オスカー・ペッパー」が1874年まで使われていなかったと主張したそうです。そこで、オスカー・ペッパーが蒸溜所を操業していた1838年から1865年までの間、既に「オスカー・ペッパー蒸溜所」として一般に知られていたことを証明する証拠が法廷に提出されました。更に言えば、ジェイムズ・クロウ博士と彼のバーボンの名声から蒸溜所は「オールド・クロウ蒸溜所」とも呼ばれ、博士が1856年に死去した後も、オスカー・ペッパーが1865年に死去した後もこの名称は使われ続け、ゲインズ, ベリー&カンパニーでさえ「オスカー・ペッパーのオールド・クロウ蒸溜所の借主」として売り出していました。フランクフォートの共同経営者達はペッパーの訴状に対する答弁書で、自分達のウィスキーはペッパー家がウッドフォード・カウンティに設立したオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の製品であり、蒸溜所が「全ての付属設備と備品と共に」彼らに売却され、その所有権によってオールド・オスカー・ペッパーの名でウィスキーを製造/販売する権利が付与されていると指摘し、寧ろ原告が新たな「他所で製造されたウィスキーにこのブランドを使用することは公衆に対する詐欺行為に当たる」と主張して反訴しました。紛争の核心は、問題の名称が何を意味するのかという点に於ける両当事者の意見の相違でした。ジェイムズ・ペッパーは自社が製造するウィスキーを他のブランドと区別するためにこの名称を使用し、その名のもとで優れた評判を得ているとする一方、ラブロー&グラハムはこの名称はウィスキーを製造する場所を指しており、そこは現在彼らが所有している場所であって、製品そのものを指すものではないとする訳です。マシューズ判事は言葉の平易な意味を指摘した上で、原告がオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していた時代に使用していたマーケティングがウィスキーの製造された場所に大きく焦点を当てていたことに依拠しました。ジェイムズ・ペッパーは自社のバーボンを下のように宣伝していました。
私の父、故オスカー・ペッパーの旧蒸溜所(現在は私が所有)を徹底的に整備した結果、私はこの国の一流商人らに、ハンドメイドのサワー・マッシュで、完璧な卓越性を誇るピュア・カッパー・ウィスキーを提供することになった。私の父が造ったウィスキーが名声を得たのは、優良な水(非常に上質な湧き水)と、隣接する農場で自ら栽培した穀物、そしてジェイムズ・クロウが製造工程を見守り、彼の死後はディスティラーのウィリアム・F・ミッチェルに受け継がれた製法によるものである。私は現在、同じ蒸溜者、同じ水、同じ製法、そして同じ農場で栽培された穀物で蒸溜所を運営している。
では、ジェイムズ・ペッパーの新しいバーボンが、オリジナルの産地から25マイルも離れた場所で蒸溜されている現在、これら諸々の特性の重要性を無視して、彼の父親の旧蒸溜所の名称を使用し続けることが許されるべきでしょうか? 1881年の判決でマシューズ判事は原告の主張には説得力がないと判断しました。判事は「本件の証拠から」して「原告が自社の製品の市場を確立できたのは、その製品が彼の父親が造ったものと同じ地域性、そしてそれらが齎すと考えられる汎ゆる有利性から父親のものと同じに違いないという世間の特別な思い込みに基づいていた」のは「極めて確かである」と記しました。つまり、 消費者はその場所で製造された製品に対して特定の「利点」を期待し、「品質」を信頼し、それらが製品購入の大きな動機付けとなっており、原告は既存のブランド・イメージと場所が持つ信頼性を巧みに利用して市場を確立した、と見られたのです。「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」及び「O.O.P.」という用語は、原告が嘗てウィスキーを製造していた場所と被告が現在ウィスキーを製造している場所を指し、商標ではないと判断したマシューズは、ジェイムズ・ペッパーの訴えを棄却しただけでなく、「商品の製造地に関して虚偽の表示をすることで公衆を誤解させる」という理由でペッパーにはブランド名を使用する権利が全くないとし、被告がこれらの用語に対する独占的な法的権利を有すると判決を下しました。

オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していないため「オールド・オスカー・ペッパー」の名前を使う権利を失ったジェイムズ・ペッパーでしたが、レキシントンに建てた新しい蒸溜所で1880年5月に蒸溜を開始した彼は、新しい盾のトレードマークをデザインした「オールド・ペッパー・ウィスキー」のブランドを大ヒットさせました。このウィスキーは祖父から代々受け継がれてきた独自の製法で蒸溜され、旧家からのマッシュビル、サワー・マッシュ、72時間発酵させたものと言われています。その人気は主にジェイムズ・ペッパーがマーケティングを重視していたことに起因していました。師匠的存在のE・H・テイラー・ジュニアと同様に、彼は当時利用可能な汎ゆるマーケティング・ツールを活用したのです。オールド・ペッパー・ウィスキーの名は当然の如くその家名に由来し、過去100年に渡って一族が築き上げた伝統と遺産を反映させたものでした。ジェイムズはこのイメージを強化するために、 「Established 1780」や「Purest and Best in the World」というスローガンを使用し、歴史の持続性とウィスキーの品質を常に強調しました。実際に彼の祖父エライジャ・ペッパーが蒸溜を始めたのは19世紀初頭のことでしたが、こうしたサバ読みは当時は珍しいことではなく、マーケティング上の策略として功を奏しました。おそらく創業年のスローガンは南北戦争後の愛国心も利用したもので、後に1906〜7年頃から使われ出した「Born With The Republic」や「Old 1776」というスローガンに繋がっているでしょう。そして彼はラベルに「詰め替えボトルにご注意ください」という警告を記載しました。これにより彼のウィスキーが非常に優れているという印象を与え、他のウィスキー・メイカーも真似をしたがるようになったそう。また、ガラス瓶の自動化技術が進み手作業から解放されたことでボトリングが経済的に実現可能になった時、彼はケンタッキー州の法律を改正し、蒸溜業者が自社製品をボトリングできるようにした蒸溜業者の一人でした(それまではレクティファイアーズだけがウィスキーをボトリングする権利をもっていた)。その後、ジェイムズは現在では一般的となった消費者にウィスキーの健全性を保証するための「ストリップ・スタンプ・シール」を発明しました。彼はコルクに貼られた帯状のラベルに「Jas. E. Pepper & Co.」という筆記体の署名を印刷してボトルを封印したのです。そして、ジェイムス・E・ペッパーのウィスキー・ボトルを売っている人に出くわしても、このスタンプがなかったり、スタンプが破れていたり破損していたりする場合は「本物のペッパー・ウィスキーではないかも知れない」ので購入しないよう人々に呼びかける広告を出しました。署名は偽造防止法によって保護されており、商標よりも迅速に執行され、そのため既存の偽造法に基づいて偽造生産者や「ボトル再充填者」を起訴することが出来たとか。彼のこの活動は、ボトルに詰められたウィスキーの純度と同一性を保証する初の消費者保護法である1897年のボトルド・イン・ボンドの成立に貢献したと評価されています。彼はまた、広告や宣伝のために巨額の資金を投じた最初のディスティラーの一人でもありました。 ジェイムズはオールド・ペッパーの販売促進を目的にアメリカ各地を回りました。1880年代後半には、プロイセンのヘンリー王子がペンシルヴェニア・レイルロードで旅行中にオールド・ペッパー・ウィスキーが振る舞われたりしました。この頃のオールド・ペッパー・ウィスキーのブランドはアメリカ全土で強い知名度を確立しています。1890年頃にはオールド・ペッパー・ウィスキーを「結核やマラリアなどに効く万能薬」であると宣伝しました。これは、1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトのような連邦規制が施行される前のことでした。1892年2月にはアームズ・パレス・カー・カンパニーからプライヴェート鉄道車両を10000ドルで購入し、「オールド・ペッパー号」と名付けました。その車両は鮮やかなオレンジ色に塗られ、側面にはオールド・ペッパーのバレルやケースやボトル、サラブレッドの馬やジョッキーがハンド・ペイントされ、車端には「Private Car Old Pepper - Property of James E. Pepper, Distiller of the Famous 60 Old Pepper Whisky」と書かれていました。ジェイムズは常にショウマンであり、プロモーターだったのです。このオールド・ペッパーのブランドは、後年「オールド・ジェイムズ・E・ペッパー」というブランドが導入されたあと、最終的に「ジェイムス・E・ペッパー」バーボンが両方の商品名に取って代わりました。 また、レキシントンの蒸溜所では以前の蒸溜所から受け継いだ「オールド・ヘンリー・クレイ」というライ・ウィスキーのブランドも製造していました。
FotoGrid_20250905_175202330
ジェイムズ・E・ペッパーはケンタッキー州から贈られる名誉称号の「ケンタッキー・カーネル」でした。彼はスポーツが好きで、特に競馬が好きでした。馬小屋を所有し、ケンタッキー・ダービーやオークスに出走する馬を何頭も持っており、1892年には彼の馬「ミス・ディキシー(妹の名前)」がオークスを制したそうです。カーネル・ペッパーは豪快なライフ・スタイルを送り、ニューヨークの有名なウォルドーフ=アストリアに頻繁に滞在しては、国内の実業家や社交界のエリートたちと親交を深めました。伝説によると、あの有名なオールド・ファッションド・カクテルの人気はカーネル・ペッパーが広めたと言われています。伝説によると、この象徴的で古典的なカクテルは、元々ケンタッキー州ルイヴィルのペンデニス・クラブのバーテンダーが他でもないカーネル・ペッパーのために初めて造り、それをカーネル・ペッパーがウォルドーフ=アストリアのバーに導入した、と。真偽は判りません。オールド・ファッションドの起源には諸説あるようです。蒸溜所の経営を続けていたジェイムズ・エドワード・ペッパーは1906年12月に死去、父や1899年に亡くなったナニーの近くに埋葬されました。彼に子供はいませんでした。彼の妻は蒸溜所の経営に興味がなかったのか、1908年、蒸溜所とブランドはシカゴの投資家グループに売却され、禁酒法により閉鎖されるまで操業されました。禁酒法時代にはシェンリーによりメディシナル・スピリッツとして販売され、彼らは禁酒法終了後にブランドと蒸溜所を買い取ります。しかし、シェンリーの規模が大きくなるにつれ、この蒸溜所は数ある蒸溜所の一つとなり、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは彼らが製造/販売する数十のブランドの一つに過ぎなくなりました。「Born with the Republic」というスローガンも継続されていましたが、軈てブランドの売り上げは低迷し始め、I.W.ハーパーやJ.W.ダントといった主力ブランドよりも会社にとって重要ではなくなって行きます。シェンリーは1950年代前半に過剰生産に陥り、1958年にボンディング期間が20年に延長されたことでようやく破産を免れたに過ぎない状態でした。ジェイムズ・E・ペッパー蒸溜所は1958年に閉鎖され(1960年代初頭に操業を停止し、60年代末までに閉鎖されたという説もあった)、「ジェイムズ・E・ペッパー」ブランドは1960年代には人々の記憶からラベルも忘れ去られ、膨大な倉庫在庫からウィスキーは1970年代には販売され続けましたが、1970年代末までに市場から姿を消しました。1990年代初頭の一時期、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは、1987年にシェンリーを買収したユナイテッド・ディスティラーズによって復活します。 このブランドは1994年、ポーランドと東欧の新興バーボン市場への輸出専用ブランドとなりました。しかし、ユナイテッド・ディスティラーズがアメリカン・ウィスキーのブランドの殆どを他の蒸溜会社に売却したため、ジェイムズ・E・ペッパー・ブランドはすぐに再び消滅してしまいます。そして、時を経た2008年、以前のブランド・オウナーとは無関係の起業家アミル・ピィー(または「アミア」や「ペイ」と発音されることもある)は放棄された商標を取得し、このブランドを再スタートします。カーネル・ペッパーのレキシントンの蒸溜所の歴史や復活したブランドに就いては、また別の機会に譲るとして、話をラブロー&グラハム蒸溜所とO.O.P.に戻しましょう。

禁酒法の施行に伴い、1918年、ラブロー&グラハム蒸溜所は閉鎖を余儀なくされました。1920年のヴォルステッド・アクトの施行から1933年12月の憲法修正第21条の批准による廃止までの13年の歳月、ラブロー&グラハム蒸溜所は空き家となり使用されていませんでした。商品や資材は引き揚げのために売却され、多くの建物は破損し屋根のないまま放置されたそうです。倉庫に保管されていたウィスキーは盗掘や盗難を防ぐために、1922年までに連邦政府の集中倉庫に移されました。禁酒法期間中、酒は医療目的で販売されました。フランクフォート・ディスティラリーがストックのウィスキーを使ってオールド・オスカー・ペッパーをメディシナル・スピリッツとしてボトリングしています。1920年に禁酒法が施行された当時、同社は医療目的の蒸溜酒販売許可を与えられた僅か6社のうちの1社でした。1922年、同社はポール・ジョーンズ社に買収され、彼らはフランクフォート・ディスティラリーの社名を引き継ぎ、「フォアローゼズ」や「アンティーク」など多くのブランド名でウィスキーを販売する許可を保持しました。画像検索で禁酒法下のO.O.P.を眺めてみると、中身の原酒の殆どにラブロー&グラハム(第7区No. 52)が生産したものが使われていましたが、禁酒法期間の後期にはハリー・S・バートン(第2区No. 24)が生産したものが使われたボトルもありました。1928年までに禁酒法以前のウィスキーの在庫が減少すると、フランクフォート・ディスティラリーはルイヴィルに拠点を置くA. Ph. スティッツェル蒸溜所と契約を結び、そこからスピリッツの供給をしました。1933年に禁酒法が廃止されると、彼らはスティッツェルの旧工場を買収し、シャイヴリーに新工場を建設します。これがルイヴィルのフォア・ローゼズ蒸溜所と呼ばれました。第二次世界大戦下の厳しい時期に蒸溜所とブランドはシーグラムに売却されます(1933年にシーグラムが買収という説もあった)。シーグラムはストレート・ウィスキーの製造を中止するまで何年も同じブランドを使い続けたそうなので、フランクフォート・ディスティラリーから引き継いだブランドを販売していたのでしょう。画像検索してみると、オールド・オスカー・ペッパー・ブランドとして、メリーランドのボルティモアと所在地表記のあるバーボンやライのブレンドがありました。その後、おそらく50年代か60年代にはその存在感を失い、軈てブランドのラベルは使われなくなったと思われます。
FotoGrid_20250905_101020610

2025-09-03-06-04-17-309
(1936年頃の蒸溜所)
偖て、O.O.P.ブランドとは分かたれた蒸溜所には別の途があります。禁酒法が解禁されると、リチャードとアーマのベイカー夫妻、そして新たにマネージング・パートナーとなったクロード・V・ビクスラーは、1933年8月に新たなラブロー&グラハム社を設立し、建物の再建に着手しました。彼らは改修と建設を調和のとれたものにすることに特に注意を払いました。蒸溜所の建物の増築部分や新しい石造り倉庫の基礎部分に、古い倉庫跡の石材を再利用したと言います。この作業の重要性とその達成方法は、再建された他の蒸溜所よりもこの蒸溜所の国家的地位を高めるのに貢献した理由の一つでした。1934年以降の蒸溜所の拡張と再建の全体計画は、既存の建物や資材、そして当時の人件費と技術水準に見合った新しい建設資材を融合させた質の高い工業デザインの好例と評価されています。土地の地形と産業のニーズが調和され、省力化と経済性を追求した工場が実現した、と。コーンや他の穀物が丘の中腹にある貯蔵庫から高架を伝って運ばれたように、新しい倉庫は長いバレル・ランの緩やかな傾斜に沿って建てられました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは全長500フィート以上あり、必要な幅で間隔をあけた2本の平行レールで構成されているため、作業員がバレルを所定の位置に留めなくても移動できるそうです。その複雑さに加え、安全および保険の要件も、新しい建物をどこに建設するかを決める上で役立ったとか。このバレル・ランは、樽にスピリッツを最初に充填するシスタン・ルームからリクーパー・ショップを含む全てのストレージ・ウェアハウスまでの広範な時間節約型のコネクター・システムになりました。2レール・システムによって、2人の作業員が大量のバーボン・バレルを扱い、トラックや他の車輪付き搬送装置から積み下ろしすることなく、或る場所から別の場所へ素早く移動させることが出来るようになりました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは、他の蒸溜所の平均的なそれと比べても優れた搬送システムでした。バレル・ランに加えて、禁酒法廃止後に再建されたラブロー&グラハム蒸溜所で最も重要だったのは、1934年から1940年の間に増築された釉薬の掛かったテラコッタ・タイルの倉庫E、F、Hでした。 禁酒法廃止後に建てられた他の蒸溜所の殆どの倉庫は、木造で金属製の波板で覆われていたことを考えると、珍しい仕様と言えるでしょう。これらの建物は全て4階半建て、長さは様々で、石灰岩の基礎の上に建てられ、エイジングをコントロールするための暖房システムを備えていました。これらはライムストーン・ウェアハウスの構造と形状を模倣していましたが、汎ゆる寸法が大きくなっていたとのこと。これらの倉庫をバレル・ランと組み合わせて川岸に沿って慎重に配置したのは、貯蔵能力を拡大するためでした。テラコッタ構造ユニットの使用は、この時代に国中で採用されていた耐火構造のための一般的でシンプルな建築媒体だそうです。テラコッタ・タイルは更にその他の小規模で機能的な建物にも使用されました。また、ビクスラーは閉鎖前と同じウィスキーを造るために禁酒法時代に冷凍保存されていたラブロー&グラハム独自のイーストを使用したとされています。家族のような従業員達によって生産は再開され、その殆どは地元の出身者であり、中には禁酒法以前に親や祖父母がこの蒸溜所で働いていた人もいたそう。ラブロー&グラハムが生産したブランドには「L. & G.」と「R. A. ベイカー」があったと伝えられます。1939年末から1940年初頭に掛けて、彼らは相当量の4年物のバルク・ウィスキーをディーツヴィルのT・W・サミュエルズ蒸溜所(RD No. 145)に売却しました。こうしてラブロー&グラハムは1940年までに蒸溜所の再建、拡張、生産を行い、ウェアハウスに25673バレルのウィスキーを貯蔵するまでになりましたが、1940年7月にオールド・フォレスターやアーリー・タイムズなどのブランドで知られるブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションに75000ドルで売却されました。この取引には、倉庫で熟成されていたその約25000バレルのバーボン・ウィスキーも含まれていました。ブラウン=フォーマンはその後の約20年間、この蒸溜所をラブロー&グラハムという名前の下に操業を続け、一部のオールド・フォレスターやアーリータイムズもここで生産されたと目されます。また、サム・K・セシルの著作によると、ブラウン=フォーマン社は暫くこの工場を使用して「ケンタッキー・デュー」を製造したそうです(後にルイヴィルで瓶詰め)。

FotoGrid_20250906_015519343

ブラウン=フォーマンが生産と貯蔵を引き継ぐ一方で、ヨーロッパ戦線に於ける戦争への取り組みが高まる懸念から、戦争を予期して生産を加速する必要性が高まりました。施設の新しいマネージャーは大量生産に対応するには水の供給が不十分なことに気づきます。解決策として、既存の鉄道踏切にコンクリート製のダムと放水路を築き、小川を堰き止めるという計画が立てられました。さっそくブラウン=フォーマンはコンクリート製のダムと放水路、そして鉄製の歩道を完成させると、その結果として小川の両岸の間に2.75エーカーの池が出来ました。この水は蒸溜所の年間生産期間を延長するための安定した供給源となっただけでなく、消火のための備蓄水にもなり、蒸溜所の建築物を映し出す風光明媚な景観の一つともなりました。戦時中から1945年末に掛けてのブラウン=フォーマンの工場拡張は、ディスティラリー・ハウスの増築と小さな新棟を建設して完了しました。1942年には蒸溜所の増築に伴い、建物の南側に3ベイのファサードが追加され、発酵室が併設されました。ライムストーンと拡張されたスタンディング・シーム・メタル・ルーフは全体を一体化するために再び選ばれた素材でした。最後の仕上げは、新しい出入り口の上に既存のミルストーンを組み込み、目立つ場所にこの蒸溜所の100年の歴史を刻むことでした。同じ頃、シスターン・ルームの隣に、消防用具を保管するためのセグメンタル・アーチ型の窓とドアを備えたライムストーン造りの平屋建て6面建造物が建てられたそうです。1945年以降、ブラウン=フォーマンは通常のウィスキーの製造および熟成と貯蔵を続けましたが、ラブロー&グラハムが1934年にこの場所に建設したボトリング・プラントの規模は縮小されました。そして1950年代のバーボン市場の衰退により、1957年に生産は終了します。1965年には貯蔵も廃止されました。1960年代後半に更にバーボン市場が低迷すると工場は閉鎖され、ブラウン=フォーマンは1973年(1972年という説も)に土地を地元農家のフリーマン・ホッケンスミスに譲渡。こうしてブラウン=フォーマンによるこの蒸溜所の管理は終わりを告げ、一旦はその歴史に幕が下ろされました。ホッケンスミスはこの施設を農産物の貯蔵庫として使用し、短期間ながら燃料用アルコールの製造も試みたそうです。工業用アルコール、特にOPECの燃料危機をきっかけに人気を博した「ガソホール」の生産に転換したとのこと。しかし、ホッケンスミスは危機が収束する前に新しい給排水設備を殆ど建設することが出来ず、限られた生産量ではごく僅かな市場しか残せなかったらしい。彼は蒸溜所を閉鎖し、凡そ20年も放置されたままになりました。

時は過ぎて1980年代後半から1990年代初頭、バーボンの需要は復活の兆しを見せ始めました。具体的には限られた量しか生産されない高品質なプレミアム・バーボンの市場が盛り上がりを見せていたのです。各蒸溜所では「スモール・バッチ」や「シングル・バレル」の製品が販売されるようになっていました。ジムビームとケンタッキー・バーボン・ディスティラーズはスモール・バッチ・コレクションを展開し、エイジ・インターナショナルはエンシェント・エイジ蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)からブラントンズを筆頭とする幾つかのシングル・バレルのブランドをリリース、フォアローゼズのブランドはアメリカではブレンデッド・ウィスキーのみだったものの輸出市場にはプレミアムなストレート・バーボンを販売、ワイルドターキーもバレルプルーフやシングルバレルの製品を開発、ヘヴンヒルも市場は限定的だったかも知れませんがプレミアムなボトリングを提供していました。当然ブラウン=フォーマンもプレミアム・バーボンの製造に興味を持ち始め、この市場への参入を必要としていました。そこで彼らはそれを造るための適切な場所を探し、ケンタッキー州内の候補地の調査をします。その結果、検討した場所の中にウッドフォード郡にある嘗てのラブロー&グラハム蒸溜所跡地があり、1994年末、ブラウン=フォーマンはメアリー・アン・ホッケンスミスからこの土地を買い戻しました。彼らの目標は外観を1945年当時の姿に復元し、施設を完全に改修することでした。すぐに始まった修復工事にブラウン=フォーマンは2年近くを費やし、この古いランドマークを修復すると業界で最も美しい場所の一つにまで昇華させました。スコットランドやアイルランドで使われるようなオリジナルのカッパー・スティルを設置し、それを用いたプレミアム・バーボン製造のために内装にも変更を加え、遺産観光を目的とした新しいヴィジター・センターも併設され、その総工費は740万ドルだったと言います。1996年10月17日、蒸溜所は一般見学用にオープンしました。蒸溜所の操業開始直後の1997年、ブラウン=フォーマンは周辺の30エーカーを超える土地(元の住居と東側の丘にある泉を含む)を追加購入したことにより、新たに拡張されます。 オープン当時、施設の名前は旧来と同じく、そのままラブロー&グラハム蒸溜所と呼ばれていましたが、製造される唯一のウィスキーはウッドフォード・リザーヴと呼ばれました。そのため、2003年には正式にウッドフォード・リザーヴ蒸溜所と改称され、現在に至ります。このウィスキーはマスター・ディスティラーのリンカーン・ヘンダーソンと当時のプラントのゼネラル・マネージャーであるデイヴ・ショイリックによって構想/開発されました。1996年に市場に投入され、今も高い人気を誇るウッドフォード・リザーヴに就いては、また別の機会に語ることもあるでしょう。
では、最後に貴重なウィスキーを飲んだ感想を少しだけ。

2025-09-05-18-32-55-324
O.O.P. Old Oscar Pepper Whiskey BiB 100 Proof
1916 - 1926? or 1928?
経年でストリップの印字がよく読み取れず、たぶん26年か28年のボトリングかと思います。液体の見た目はけっこう濁っていました。けれど香りは悪くないし、全然飲めました。オールドオークと甘草やアニス系統のフレイヴァーですかね。流石にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎてるせいなのか、飲んだ量が少量過ぎるというのもあってか、私にはそれほどフルーティなテイストは取れませんでした。とは言え、これは文句ではなく、これだけの「歴史」を飲めたことに感謝です。
Rating:85.5/100

FotoGrid_20250828_005355574
L.&G. Bottled in Bond 100 Proof
1938? - 1943?
こちらもO.O.P.と同様、ストリップの印字が滲んでいて数字が判別出来ませんでした。これを飲んだことのあるバーボン仲間にも訊ねたのですが、やはりその方も完全には判読できず、蒸溜年とボトリング年はぼんやりとした数字からの推測です。こちらは液体の見た目はクリア、そしてO.O.P.より甘いキャラメルと少しフルーティなテイストを感じました。こちらも少し酸化し過ぎた風味はあったような気はしますが、オールドボトルを飲み慣れていればそれを陶酔感と表現する人もいるでしょう。
Rating:86.5/100


*200年以上もの間、蒸溜所を見下ろす丘の上に建っていたこの歴史的な建物は、エライジャ・ペッパーとその家族に因みペッパー・ハウスと呼ばれています。グレンズ・クリークの畔の小さな蒸溜所の敷地内に1812年に建てられた後、何世代にも渡ってペッパー家の住まいとなり、ペッパー家の手を離れた後も2003年まで誰かしらがこの家に住み、ペッパー・ハウスはケンタッキー州の歴史上、人が住み続けている最古のログ・キャビンとして知られていました。しかし、ここ20年もの間は空き家となって荒れ果てていました。ブラウン=フォーマンはウッドフォード・リザーヴ蒸溜所のウィスキー・バレル・テイスティング体験の水準を引き上げるため、ペッパー・ハウスの修復と改修をジョセフ&ジョセフ・アーキテクトに依頼して、この家を2024年の夏にウッドフォード・リザーヴのパーソナル・セレクション・プライヴェート・バレル・プログラムの新しい拠点として使用することに決めました。オリジナルの外部の石灰岩の煙突はゲストを迎えるために再建されたポーチと共に3年以上かけた修復の中心となっています。既存のスペースは、ドラマチックな2階建てのテイスティング・ルーム、暖炉のあるパーラー、展示室、ケータリング・サポート・スペースのあるバーとして造り直されました。屋外には美しく整備された庭園を見渡す石の壁に囲まれたダイニング・テラスもあります。ウッドフォード・リザーヴを世界的ブランドへと成長させ、長年に渡り修復プロジェクトを支持して来た名誉マスター・ディスティラーのクリス・モリスの功績に敬意を表して、ペッパー・ハウス内のライブラリーは「クリス・モリス図書室」と命名されました。ここには1800年代に遡る丸太とチンキングがあるそう。ウッドフォード・リザーヴのマスター・ディスティラーであるエリザベス・マッコールは、「この家は、コモンウェルスに於けるバーボンの誕生に深く関わる豊かな遺産であり、今日私たちが知っているバーボン業界を形成したペッパー家の不朽の遺産を物語るものです」、「この家を現代的な方法で再利用することは相応しいトリビュートでしょう。もしこの壁が話せるとしたら、ケンタッキー州に於ける初期の蒸溜生活についてどんな物語を語ってくれることか想像できます」、「中に入って1800年代にこの家の一部だった壁に触れるのは素晴らしいことです」と語っていました。
ウッドフォード・リザーヴ・パーソナル・セレクション・プログラムは、世界中のレストラン、バー、酒屋、個人が蒸溜所に訪れ、ウッドフォード・リザーヴ・バーボンの自分だけの組み合わせを作るためのもので、 顧客は公認テイスターとのブレンド体験に参加し、その結果、2樽のバッチが出来上がり、瓶詰めされ、パーソナライズされたラベルが貼られて完成。パーソナル・セレクション・プログラムは、ウッドフォード版プライヴェート・バレル・ボトリングであり、シングルバレルではないものの2バレルを組み合わせて製造されるため限りなくそれに近い。

**ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬にオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約3マイル離れたグレン・クリーク沿いにある25エーカーの土地をジェームズ・ボッツ博士とその妻ジュディスから購入してオールド・クロウ蒸溜所を建設した、とされているので、そこにオスカーが建てた旧来の蒸溜所があったのかも知れません。W. A. ゲインズ・カンパニー(ゲインズ, ベリー&カンパニーの後継会社)はこの蒸溜所とハーミテッジ蒸溜所(RD No. 4)を共に経営しました。後年、DSP-KY-25のプラント・ナンバーで知られたオールド・クロウ蒸溜所は、禁酒法解禁後はナショナル・ディスティラーズが長年に渡り操業し、1980年代後半にアメリカン・ブランズ(ジェイムズ・B・ビーム)が引き継いだあと廃墟となり、現在はグレンズ・クリーク蒸溜所となって復活しています。

***1865年6月にオスカー・ペッパーが亡くなった後、ナニーは1865年後半に隣人であり親戚でもあるトーマス・エドワーズに蒸溜所を1シーズンだけ貸し出しました。エドワーズはグレンズ・クリーク沿いの5マイル離れた農場に蒸溜所を所有しており、そこはドクター・ジェイムズ・クロウがペッパー蒸溜所を去った後の1856年に働いていた地域でも小規模な蒸溜所の一つでした。翌1866年になるとナニーはジョン・ギルバート・マスティンとその弟ウィリアムと3年間のリース契約を交渉しました。ペッパーの蒸溜所は高品質のウィスキーを大量に生産することで評判が高く、ウッドフォード・カウンティの他の蒸溜所もペッパーの設備や専門知識を活用するようになっていたからでした。ジョン・マスティンは1866年のシーズン中、トーマス・エドワーズと共に蒸溜所で働き、その後エドワーズからリース契約を引き継ぎます。彼は1867年1月1日から蒸溜所をゲインズ, ベリー・アンド・カンパニーに転貸し、息子のジョン・Wとロバート・マスティンと共に同社の株式を少額ずつ取得したそうです。

****ゲインズ, ベリー&カンパニーは1867年2月からオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所でオールド・クロウを製造するためのリースを確保した、との説もあります。こちらの方が正しいのかも知れませんが、本文では1869年の裁判所による調停後のこととして記述しました。

2021-03-16-19-37-27

ローワンズ・クリークはケンタッキー州バーズタウンのウィレット蒸留所(KBD)で製造されているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つのうちの一つです。その他の三つはノアーズ・ミル、ピュア・ケンタッキーXO、ケンタッキー・ヴィンテージとなっています。価格から言うと、ローワンズ・クリークはこの中では上から二番目の位置付け。コレクションの成立は90年代半ば(一説には94年)とされます。当時の業界ではプレミアムなバーボンが胎動し始め、ジムビームもスモールバッチ・コレクションを開始するなど、そのコンセプトは軌を一にしていました。
2024-03-27-01-27-16-808
(画像提供K氏)
ローワンズ・クリークの名は蒸溜所の敷地内を流れる小川にちなんで付けられました。その小川は1700年代後半から1800年代前半に掛けてケンタッキー州の政治家であったジョン・ローワンにちなんで名付けられ、彼のフェデラル・ヒルの邸宅はスティーヴン・コリンズ・フォスターの歌曲「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」にインスピレーションを与えたと言われています。このバーボンは、ノアーズ・ミルと手描きのようなラベルの雰囲気やワイン・タイプのボトルといった共通点があり、更に熟成年数とボトリング・プルーフが少し低く、尚且つ安い価格ということもあって、その姉妹品というか弟分のように認識されていました。「ベイビー・ノアーズ・ミル」と呼ばれているのも見かけたことがあります。もっと言うと、ローワンズ・クリークはノアーズ・ミルより一段劣る廉価版と常に考えられていた節があります。しかし、だからといって品質が劣った製品という訳ではなく、飲み易さと財布への優しさが魅力だったためか、2011年当時の情報によるとアメリカの27州で販売され、KBD(ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ)が生産するバーボンの中で最も売れている銘柄だったそうです。ローワンズ・クリーク・バーボンが長期に渡ってKBDのポートフォリオに於いて重要なブランドだったとされる所以でしょう。個人的に、オールド・タイミーな雰囲気の薄茶のラベルとマルーン色のワックス(及びフォイル)の組み合わせは凄く好きなデザインです。ところで、ワイルドターキーのような101ではなく100.1という小数点まで使ったボトリング・プルーフは一体何なのでしょうか? ハンドメイド感の演出? 或いは単なるユーモア? まあ、それは措いて、このローワンズ・クリーク、初登場から今に至るまで外観はそれほど大きく変化しませんでしたが、中身はかなり変化しました。ここからはその変遷を追ってみましょう。

しかし、実はこのバーボンの中身のジュースの明確な詳細は、発売当初から今に至るまで不明です。周知のように、ウィレット蒸溜所は2012年から自家蒸溜を再開しましたが、それまではKBDとして他の蒸溜所からバレルを購入していました。従ってローワンズ・クリークも他の製品も、発売からある時点までは実際には別の生産者によって蒸溜され、KBDによってブレンド及びボトリングされたものでした。彼らは、ローワンズ・クリークに限らず、自らの製品に就いて明瞭に語ることは殆どなく、どこで蒸溜されたウィスキーなのかは推測の域を出ません。軈て、自社の蒸溜原酒が熟成するにつれ、それらはボトリングされるようになり、2020年頃には殆ど全ての製品がバーズタウンにある自社製に切り替わっていると見られています。その頃からラベルに記載される事業名が、ローワンズ・クリーク・ディスティラリーからウィレット・ディスティラリーに変更されました。ここら辺の現代ローワンズ・クリークも、公式にマッシュビルや熟成年数などのスペックは公開されてはおらず、他ブランドとどういった造り分けをしているのか謎のままです。これらを念頭に置いて見て行きます。

発売された当初、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークにはエイジ・ステイトメントがありました。前者が15年、後者が12年です。この熟成表記は、メイン・ラベルの上に貼られた細いラベルに余り目立たない感じで記載されていました。また、この頃の物(*)はボトルの横もしくは後に貼られたバッチ・ラベルに、蒸溜年とボトリング年が手書きで記されています。
2024-04-12-12-07-30-419
12年表記のある初期のローワンズ・クリークは、文字通り最低でも12年熟成、もしくはもっと長い熟成バレルを使ったブレンドもあった可能性はあります。実際、今回私が開栓した12年表記のあるローワンズ・クリークは、蒸溜年とボトリング年を参照すると13年熟成となっていますし(上画像参照)、他のバッチでも12年熟成以上の物を見たことがあります。スモールバッチ・バーボンの代表的な銘柄であるブッカーズに記載される熟成年数が最も若いバレルの物であるのと同様に、ローワンズ・クリークのバッチ・ラベルに記載されている蒸溜年も最も若いバレルの物でしょう。この頃のバッチング・サイズは10樽程度と何処かで読んだ気がしますが、本当かどうかは判りません。
2024-04-12-08-45-47-288
おそらく発売当初は豊富にあった長期熟成バレルはバーボン需要の増加に伴って少なくなり、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークの両ボトルともエイジ・ステイトメントを失いました。切り替わりの正確な時期が特定できないのですが、2006年後半あたりからではないかと思われ、少なくとも2011年までには完全に切り替わっていた筈です。そして、NASとなってからは若いバレルも混和するようになり、2011年の情報では「5年から15年のバーボン樽のコレクション」とされていました。また、同情報源によれば「どの樽を使い、どの樽を使わないかという固定観念に囚われることはない」と言われていました。その言葉からすると、もう少し熟成年数の幅は前後することもあると思われます。バッチング・サイズは、おそらく当時は15バレル程度かな? このNASのローワンズ・クリークのレヴューを参照すると、やや若い味がするとか、若いアルコールのキツさがあるとの指摘が見られ、5〜15年の熟成バレルの構成は主に若い熟成のバーボンに少し長熟バーボンが混じっている配分なのではないか、と考える人もいます。
2024-03-31-05-34-39-355
2013年後半頃には、これまたローワンズ・クリークとノアーズ・ミルともに、ワックス・トップだったものがフォイル・トップへと変更されました。これらのワックス・トップとフォイル・トップにはテイスティング・プロファイルに違いがないと考える人もいれば、あると信じる人もいました。あると信じる人達はより若くなったと感じたようです。まあ、ワックスかフォイルの違い以前に、ローワンズ・クリークにはバッチ間の差もかなりあると言われています。その出来にはバラつきがあって素晴らしいものもあれば殆ど飲めないものまである、と言っている人も見かけました。個人的には飲めないほど酷い物はないと信じていますが、SNS等でローワンズ・クリークに限らずウィレットのスモールバッチ・バーボンを「美味しい」と投稿している方には、せめてバッチ番号を明記して欲しいとは思います。そうでないと、どの時代の物を美味しいと言っているのか判りにくいので…。それに、大規模な蒸溜所の「大きな」スモールバッチですらシングルバレルに劣らず個性的であるのに、実際にはヴェリー・スモールバッチと呼んだほうが適切な数十樽のスモールバッチは尚更そうですから。

偖て、90年代から2010年代半ばまでのローワンズ・クリークは、他のスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの面々やジョニー・ドラム及びオールド・バーズタウンといった主要なブランドと同様にソースド・バーボンでした。その大半はヘヴンヒルのバーズタウンの蒸溜所かルイヴィルのバーンハイム蒸溜所から仕入れていたのではないかと見られています。しかし一方で、KBDは長年に渡ってほぼ全ての主要な蒸溜所(メーカーズマーク以外とされる)のウィスキーを入手しており、彼らは個性的なフレイヴァー・プロファイルを得るために異なる蒸溜所のバレルを混ぜ合わせていたとも言われています。当時は多くの人がヘヴンヒルやバートンのウィスキーをボトルに入れただけと思っていましたが、2つかそれ以上(3つか4つ)の蒸溜所のウィスキーのマリッジだった、と。KBDの社長エヴァン・クルスヴィーンは手持ちのウィスキーから素晴らしい風味を生み出す達人であり、様々な業者から入手可能になる度にバレルを調達していた結果、彼とブレンディング・チームは少量のウィスキーをブレンドして各ブランドに合う風味を造り出すことに熟練するようになった、と。勿論、詳しい構成比率が明かされる訳もなく、全ては謎に包まれています。

そして、ウィレットの製品は現在では100%自家蒸溜物に移行したと考えられています。しかし、一体いつローワンズ・クリークが自身の蒸溜物に切り替わったかはよく判りません。仮に熟成年数4年程度でボトリングしているならば、2012年から蒸溜を再開したことを考慮すると、早くて2016年から新ウィレット原酒を使用することは可能ではあります。また、よく分からないのが他の蒸溜所産のウィスキー、つまり何処かから調達した旧来のストックと、自前の蒸溜所産の新しいウィスキーを混合しているのかどうかです。個人的には味わい的に混ぜてないような気がしますが、どうなのでしょう? 皆さんはどう思われますか? バッチ毎の味わいの違いに関する情報などと合わせて、仔細に精通している方は是非ともコメント欄より情報提供下さい。で、現在のウィレット蒸溜所には以下のような4つの異なるバーボン・マッシュビルがあります。

①オリジナル・マッシュビル
72%コーン/13%ライ/15%モルテッドバーリー

②ハイ・コーン・マッシュビル
79%コーン/7%ライ/14%モルテッドバーリー

③ハイ・ライ・マッシュビル
52%コーン/38%ライ/10%モルテッドバーリー

④ウィーテッド・マッシュビル
65%コーン/20%ウィート/15%モルテッドバーリー

ソーシング・ウィスキーではない現在のローワンズ・クリークのマッシュビルに就いて調べてみると、4つのマッシュビルのブレンドとしているもの、①としているもの、味わいから②と推測するもの、更にはハイ・ライ・バーボンであることは確かだとする説もあったりと、てんでバラバラで混乱するばかりです。熟成年数は、5〜7年ではないかと推測するものや、推定8年程度であると考えられているとするものがありました。孰れにせよ正確な熟成年数も不明です。バッチによって一貫性がないとされるスモールバッチ・バーボンですから、何ならマッシュビルの変更やバッチングに使用されるバレルの熟成年数の変化だってあったのかも知れない。まあ、判らないことは措いておき、そのうち何か情報が入れば追記することにしましょう(※追記あり)。

では、そろそろ注ぐ時間です。今回は自分の手持ちの12年表記のある2006年ボトリングとNASの2017年ボトリングを開封しました。この2つに加え、バーボン仲間のK氏から2つのサンプルを頂けたので、計4つの年代別バッチ別の比較が可能となりました。画像提供も含め、いつも本当にありがとうございます。バーボン繋がりに乾杯!

2024-04-21-18-53-46-018
2024-04-21-22-27-48-243
ROWAN'S CREEK Twelve years 100.1 Proof
BATCH QBC No. 06-94
推定2006年ボトリング。赤みを帯びたダークブラウン。床用ワックス、フローラル、焦樽、オールドファンク、トフィ、杉、ベーキングスパイス、土、アプリコットジャム、抹茶ミルク。よく熟成したバーボンの香り。プルーフから期待するよりは緩いが、とろりとした口当り。味わいは甘く、スパイシーかつフルーティとバランスが良い。そして何より味が濃い。余韻はミディアムで、ややビター。
Rating:88/100

2024-04-21-22-07-38-032
2024-04-21-22-10-34-085
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 17-67
推定2017年ボトリング。パイナップル、グレイン、蜂蜜ハーブのど飴、シリアル、グレープジュース、ビール、プラム、ヨーグルト、マッチの擦ったあと。香りはフルーツの盛り合わせ。ややとろみのある口当たり。パレートはフルーティな甘みと共に穀物の旨味が凄い。余韻は最後に少し苦味。
Rating:87.5/100

2024-04-19-12-28-44-239
(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 12-135
推定2012年ボトリング。ワックス・トップでNASの物。ウッドニス、プリンのカラメルソース、穀物、カカオ、木の酸、ナツメグ、ヴァニラウエハース。清涼感を伴った仄かに甘いアロマ。味わいは薄っすらフルーティで穏やかなスパイス感。余韻はミディアム・ショートで、ほんのり甘みが来てから一気にドライになって切れ上がる。
Rating:83/100

2024-04-19-12-28-10-261
(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 21-9
推定2021年ボトリング。四つの中でこれのみラベルの記載がローワンズ・クリーク・ディスティラリー名義ではなくウィレット・ディスティラリー名義。僅かにゴールドがかったブラウン。紅茶、蜂蜜、檸檬、焦げ樽、フローラル、塩、ゴム、ピーナッツ、ジンジャー。香りは蜂蜜レモンティー。ややオイリーで滑らかな口当り。パレートではほんのり甘いオークの風味が感じ易い。余韻はミディアムでダージリン・ティー。
Rating:85.5/100

Thoughts:バッチ06-94は、明らかに長熟バーボンのオールドな風味を感じます。しかし、それは不快ではない程度に収まっており、却って心地良いくらいでした。そういったオールド感も含めてバランスの良いバーボンという印象。香りや味わいは、ヘヴンヒルぽくは感じましたが、微妙に異なる風味もあって、例えて言うとエヴァン・ウィリアムス12年をフォアローゼス・プラチナで薄めたような味わいですかね。それは兎も角、これが往時3000〜5000円程度で買えていたと思うと驚異です。今なら12000円位から、ブランディングによっては20000円を超えてリリースされそうなクオリティ。
バッチ17-67はアロマだけで新ウィレット原酒と思いました。一言でいうと穀物フルーツ系バーボンです。飲んだ印象としてはライ麦の要素があまりないように感じたので、マッシュビルは②かなと予想しますが、まあ分かりません。ミックス・マッシュビルかも知れないですし。私が以前に飲んだケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOの特定のバッチと較べてみると、幾分か穀物感とフルーツ感で上回るように感じましたが、だからと言ってそれが取り立てて明確に上位の味わいとは思えませんでした。特にオールド・バーズタウン・エステート・ボトルドと比べるとミルキーなテイストを欠いており、価格が上がる割に良いフレイヴァーがないのは気掛かりです。とは言え、ウィレット蒸溜所が生産するウィスキーは非常に自分の好みに合っており、私は彼らの比較的若いウィスキーでも楽しめる消費者の一派に入るので、美味しいのは間違いありません。
バッチ12-135は、全体的なフレイヴァー・バランスは整っているのですが、12年物と較べるとアロマもテイストも何もかもが薄いと感じました。アルコールのピリピリ感もあって、確かに若い原酒の比率がかなり高くなった印象を受けます。サイド・バイ・サイドで12年物と較べるからスケールが小さく感じるとは言え、他のバーボンとの比較に於いても特に誉めるべき点は見つからず、逆に特に悪いところもない凡庸なバーボンという感想でした。正直言って、ローワンズ・クリークというブランドから自分が抱く勝手なイメージからすると期待外れな出来です。
バッチ21-9は紅茶でも飲んでるかのような味わい。同じ新ウィレット原酒と思われるバッチ17-67とフレイヴァー・プロファイルがかなり違うのが面白かったです。こちらはバッチ17-67と較べると、自分が今まで飲んで来た新ウィレット原酒に感じ易いと思っているハーブのど飴のような複合的なハーブとグレープを殆ど感じれず、それが点数を下げる要因となりました。それにしても、何故これ程までにプロファイルが異なるのでしょうか? もしかしてマッシュビルの変更があったのかしら? これがミックス・マッシュビルなの? それとも単にバレル・セレクトの違いなのか…。海外の有名なバーボン・レヴュワーがローワンズ・クリークに対して、本質的に悪いところはないがウィレットが蒸溜するようになったという事実以外に特筆すべき点もないとか、同価格帯のより有能な他のボトル(ブランド)には敵わないとか、評判の悪いウィレット・ポットスティル・リザーヴと同じような風味がする、と評しているのを目にするのですが、それがバッチ17-67のような味わいに言われているのか、それともバッチ21-9のような味わいに言われているのか、はたまた両方なのか、これが判らない。ウィレット蒸溜所のウィスキーを色々飲んでいる皆さんはどう思われますか? コメント欄よりご意見ご感想、お待ちしております。

Value:「12年」表記のあるローワンズ・クリークは、古い物なのでオークション等である程度の価格は覚悟しなければならないでしょう。しかし、もし貴方が古典的な熟成バーボンを好むなら素晴らしい価値のある製品です。現行のローワンズ・クリークは、アメリカでは地域差がありますが大体40〜45ドル程度、日本では大体6500円くらいで売られています。もし貴方が近年のウィレット蒸溜所のウィスキーのフレイヴァーを愛するなら、バッチ毎の違いはあるかも知れませんが、概ねオススメ出来る製品だと思います。これらの中間に当たる時代のローワンズ・クリークは、少々中途半端と言うかあまり印象に残らないバーボンで、正直それほどオススメではありません。


*初期の物でも蒸溜年が記されていないものや、「E」で始まるバッチ番号の物を見かけたことがあります。

追記:現行のマッシュビルは72%コーン、13%ライ、15%モルテッドバーリーのオリジナル・マッシュビルだそうです。

IMG_20201026_081401_294

DSC_0034

ヴァージン・バーボン7年はヘヴンヒルの所有するキャッツ・アンド・ドッグス・ラベル(ブランド)の一つで地域限定の製品です。アメリカではかなり限られた流通であり、主にノース・キャロライナ州、あとはアラバマ州など極く一部でしか販売されていません。そのため全国区のバーボン・ブランドと比べるとヴァージン・バーボンのアメリカでの知名度は低いですが、7年熟成101プルーフのスペックでありながら14 ~18ドルと安価であるところから、知っている人からはボトム・シェルファーとして非常に優れた堅実なバーボンと評価されていました。残念なことに2019年に7年熟成ではなくなり、現在ではネック・ラベルの裏に「少なくとも36ヶ月熟成」と記載されているらしいです。この変更の理由を、それまでケンタッキー州限定で販売していた6年熟成のヘヴンヒル・ボトルド・イン・ボンドが2019年にリニューアルした際、7年熟成となって価格が12〜15ドルだったのが40ドルになり、販売地域が拡がったことによって在庫の一部をそちらにまわした影響ではないかと見る向きもあります。まあ、実情は判りませんが、バーボンの全体的な値段が上昇する割に中身はどんどん若くなっている現状は時代の流れではあるでしょう。
FotoGrid_20231210_202702294
一方、アメリカに比べると日本でのヴァージン・バーボンの知名度は高く、少なくともバーボン・ファンの間ではよく知られていると思います。日本がバーボン・ブームに湧いた頃、数多くのブランドが我が国へやって来ました。ヴァージン・ブランドも80年代半ばか遅くとも後半には輸入されるようになっていたと思われます。ヴァリエーションにはブラック・ラベルの7年、グリーン・ラベルの10年、ゴールド・ラベルの15年、更に後には特別なボトリングとしてシルヴァー・ラベル及びワックス・シールドの21年もありました。クラシックな雰囲気のラベルも良いですし、何より全てボトリングが101プルーフに統一されているところが人気のポイントだったでしょう。しかし残念ながら、本国でのバーボン高需要の影響なのか、2013〜14年頃に輸入は停止し、多くの日本のバーボン愛好家は別れを惜しみました。
FotoGrid_20231214_230406030

ヴァージン・バーボンは日本では比較的長い間販売されていたので、中身に関してはどこかの段階でバーズタウンの旧ヘヴンヒル蒸溜所産とルイヴィルのバーンハイム蒸溜所産が切り替わっていると思われます。マッシュビルは多くのヘヴンヒル製品と同様のスタンダードな物の筈ですが、バーズタウン産はコーン75%/ライ13%/モルテッドバーリー12%、ルイヴィル産はコーン78%/ライ10%/モルテッドバーリー12%とされています。またヘヴンヒルは、バーズタウンの蒸溜所が消失してバーンハイム蒸溜所を購入するまでの1996年から1999年の期間、ジム・ビームとブラウン=フォーマンに蒸溜を委託していたので、それらの原酒が使われているヴァージン・バーボンのボトルもある可能性があります。それと、ラベルに大きく「チャコール・フィルタード」とあるのは、ジャックダニエルズやジョージディッケルなどのテネシー・ウィスキーのような樽入れ前に行うチャコール・メロウイング(リンカーン・カウンティ・プロセス)ではなく、ボトルに入れる前に炭で濾過する一般的な製法と思われます。ラベルと言えば、下方に書かれている「メドウローン・ディスティリング・カンパニー」というのは、現在ヘブンヒルが所有しているトレーディング・ネームですが、もともとはダント・ファミリーの一員が関わっていた会社で、嘗てメドウローンと呼ばれた地で蒸溜所を操業していました。おそらくヴァージン・ブランドもその会社が60年代に初めてリリースしたのがオリジナルではないかと推測されます。その頃はダントの蒸溜所はオールド・ブーン蒸溜所と呼ばれていました。推定60〜70年代と思われるヴァージンのラベル下部にはオールド・ブーン・ディスティラリーと記載されています。この蒸溜所の未使用ラベルは海外のオークションでよく出回っており、それらが実際に販売されていたかどうかは判りませんが、見たところ当時のヴァージンには101プルーフ7年熟成の他に107プルーフ6年熟成やウォッカがあったことが窺われます。
FotoGrid_20241025_115403172
そこで今回はジョン・P・ダントまたはオールド・ブーンと呼ばれた蒸溜所とそのブランドの歴史を少しばかり纏めてみたいと思います。

ダント・ファミリーはバーボンの蒸溜に於いて非常に長く豊かな歴史をもっています。現在でもバーボンの世界では「J.W.ダント」というブランドがこれまたヘヴンヒルから発売されているのでご存知の方も多いでしょう。その酒名はジョセフ・ワシントン・ダントから来ています。1836年、ジョセフ・ワシントンはポプラの木を刳り抜いてログ・スティルを拵え、ウィスキー造りを始めました。彼のウィスキーは直ぐに売れ始め、近所の人々の間で彼がこの国で最高のサワーマッシュ・ウィスキーを造っていると評判になりました。軈てログ・スティルは銅製のポット・スティルに置き換えられ、1870年にはダント・ステーションに近代的な蒸溜所を建てるまでになったと言います。彼と妻アン・バラードの間には7男3女の子供が産まれました。長男のジョセフ・バーナード・ダントは10代の頃から父のもとで働き始め、後年、ゲッセメニーに自らのコールド・スプリングス蒸溜所(第5区RD#240)を建てます。そこのウィスキーは後のテイラー&ウィリアムズ社によって販売され、現代にも名を残す有名なイエローストーン・ウィスキーを生み出しました。1871年にD.H.テイラー社のセールスマンであるチャールズ・タウンゼントが開園したばかりのイエローストーン国立公園を訪れ、その自然の驚異に対する熱狂ぶりを見て、この公園の名をウィスキーのブランドに冠することを提案したのが始まりでした。おそらくダント家で知名度が突出しているのはこの二人でしょうが、ジョセフ・ワシントンの息子達は皆、蒸溜ビジネスに携わっており、三男のジョン・プロクター・ダントもそうでした。

1855年に生まれたJ・P・ダント(シニア)は、兄のバーナードと同様に若い頃からダント・ステーションの蒸溜所で父のもと働きました。また、彼はケンタッキー州ジェファソン・カウンティのプレジャー・リッジ・パーク蒸溜所で蒸溜をしていたという話もありました。一方、私生活の面では1884年頃、ケンタッキー出身のウィリアム・ヘンリーとロゼラ・ランカスター・スミスの娘でマリオン郡生まれのアン・ジョセフィン・スミスと結婚しました。ジョセフ・ウィリアム・ダントと名付けられた長男は、悲しいことに幼児期に亡くなってしまいますが、その後2人の娘が生まれ、1890年には次男のジョン・ジュニアが生まれています。同じ1890年にジョンは独立し、当時シカゴと呼ばれていた町(*)で現在のケンタッキー州セント・フランシスにあった1855年創業と思われる蒸溜所を購入しました(**)。彼はこの蒸溜所(マリオン郡第5区RD#174)をフラッグシップ・ブランドであるオールド・ダントンにちなんでオールド・ダントン蒸溜所と呼びました。1892年の保険記録によると蒸溜所はフレーム構造で2棟のボンデッド・ウェアハウスがあり、プラントには鉄道が通っていたようです。ジョンは甥のサド・ダントをディスティラーとして雇っていました。数年間の操業後、彼はプラントを売却し、ルイヴィルに移って酒類卸売業を始めました。
ジョン・P・ダント・シニアは酒類卸売業者として大成功を収め、909ブロードウェイでパイオニア・ボトリング・ハウス(***)として営業し、主に「オールド・ダント・サワーマッシュ・ウィスキー」を販売していたと言います。彼の店の名を冠した様々な形式のジャグがありました。この会社が使ったブランド・ネームにはオールド・ダントンの他に「ジェントー・ライ」、「オールド・ファーム・スプリング」、「オールド J.P. ダント」等があったと伝えられます。また「オールド・バラード」というブランドもありました。そのショットグラスやオールド・ダントン・ウィスキーを宣伝する装飾的なカレンダーなど特別な顧客向けの景品も数多く用意していたそうです。1909年から1913年まではインディアナ州ニュー・オーバニーにも酒類販売店を構えていたとか。しかし、その事業もご多分に漏れず1919年の禁酒法の施行によって終わりを告げました。
ジョン・シニアは、禁酒法が廃止されて間もなくジェファソン・カウンティのメドウローンに新しくジョン・P・ダント蒸溜所(RD#39)を建設し、1933年に会社を組織します。メドウローンはシャイヴリーから南西に15マイルほどに位置し、現在ではヴァリー・ヴィレッジと呼ばれています。第二次世界大戦中は同じくジェファソン郡アンカレッジのグロスカース蒸溜所(RD#26)をリースして、両事業をメドウローン・ディスティラリー・カンパニーとして操業しました。グロスカース蒸溜所はジェファソンタウン近くのフロイズ・フォーク沿いのエコー・トレイルにあり、禁酒法廃止後に建設され、1968年の火災で倉庫2棟が焼失し閉鎖したそう。メドウローン・ディスティラリー・カンパニーはジョン・P・シニアが社長、息子のジョン・P・ジュニアが副社長兼財務およびディスティラーだったようです。この二つの蒸溜所の合計マッシング・キャパシティは1日471ブッシェルで、6つの倉庫には7500バレルを貯蔵することが出来たと言います。
ケンタッキー州マリオン郡で生まれ、蒸溜産業に長く携わって来たジョン・P・ダントは、1944年4月にウェスト・ブロードウェイの自宅で88歳で亡くなりました。妻のアンには16年先立たれており、葬儀の後、遺体はルイヴィルのカルヴァリー・セメタリーのアンの隣に埋葬されたそうです。亡くなる数年前に自身が設立したジョン・P・ダント・ディスティラリー・カンパニーの社長を引退し、息子のジョン・P・ダント・ジュニアが社長を引き継いでいました。彼は1913年にルイヴィルで父のウィスキー・ビジネスを手伝い始めキャリアを積んでいました。

1940年代の経営は難しかったのか、1945年5月1日にトム・ムーアと繋がりのあったマーヴィン・パジェットがジョン・P・ダント蒸溜所の一部の支配権を買い取りました。彼はルイヴィルのメイン・ストリートでボトリング事業も行っていました。マーヴィンは1950年12月には蒸溜所の残りのインタレストを買い取ります。ジョン・ジュニアは1946年にジョン・P・ダント・ディストリビューティング・カンパニーを設立したそうなので(****)、何らかの形で会社に関わっていたと思われますが、最終的にはフロリダに引退し、1978年に亡くなりました。マーヴィンは1954年にシーグラムからオールド・ブーンの名前を買い取り、蒸溜所の名前をオールド・ブーン蒸溜所へと変更しました。マーヴィンの息子ウィリアム・"ビル"・パジェットは蒸溜所が閉鎖される1977年までプラント・マネージャーを務めました。マッシング・キャパシティは1日あたり750ブッシェル(約75バレル)で、6つの倉庫の総容量は約95000バレルだったそう。この蒸溜所の主なブランドは「オールド・ブーン」、「ディスティラーズ・チョイス」、「オールド1889」等でした。ヴァージンと同じように後にヘヴンヒルが復刻することになるオールド1889のブランドは、カンザス・シティのトム・ペンダーガストから購入したもので、主にその地域で販売され、ブランドの年間販売量は約5万ケースだったそうです。
ちなみにビル・パジェットは、1932年11月20日、マーヴィン・J・パジェットとグレース・R・パジェットの間にルイヴィルで生まれ、5人兄弟の4番目でした。1950年セント・ザヴィエル・ハイスクール卒業、1954年ザヴィエル・ユニヴァーシティ卒業。ザヴィエルでROTCを修了した後、ドイツのバウムホルダーで中尉として兵役に就きます。その後、父の足跡を継いでバーボン・ウィスキー業界に入ったビルは40年近くバーボン蒸溜所を管理しました。オールド・ブーン蒸溜所を皮切りに、ワイルドターキー蒸溜所、そしてメーカーズマーク蒸溜所で生産担当副社長としてキャリアを終えました。彼は最高級のケンタッキー・バーボンを造ることにかけては世界クラスの舌を持っていたと評されています。ウィリアム・R・"ビル"・パジェットは2016年9月10日、自宅で家族に見守られながら静かに83歳で息を引き取りました。彼はケンタッキー・カーネルではありませんでしたが、ルイヴィル・ロードであり、サラブレッド競馬を愛し、調教師だった弟のジミーと共にサラブレッドを所有していたとか。

蒸溜所の名前となった「オールド・ブーン」は、元々はブーン&ブラザーズ蒸溜所(ネルソン郡第5区RD#422)のブランドでした。チャールズ・Hとニコラス・Rのブーン兄弟は、1885年頃にR・B・ヘイデンが旧ギルキー・ラン・ロードのすぐ傍らの農場で経営していた蒸溜所を購入し、フランク・N・ブーンがディスティラーとなりました。彼らは、ダニエル・ブーンの近親者とされるウォルター・"ワティ"・ブーンの子孫でした。ワティとダニエルの関係は系図サイトを調べてもよく分かりませんでしたが、それは兎も角、ワティとその友人スティーヴン・リッチーはネルソン・カウンティの初期入植者で、1776年頃、ブーンはポッティンジャーズ・クリークに、リッチーはブーンから10マイル離れたビーチ・フォークに定住し、1780年に二人はそれぞれの地元で販売するウィスキーの製造を始めたとされます。1795年、ワティは工場を1日2ブッシェルの規模に拡張し繁盛させました。彼は息子(チャールズ・Hの祖父)をパートナーとして迎え入れ、その翌年には生前に偉大なディスティラーとしてこの地方一帯に名を馳せていた"オールド・アンクル・ジョニー・ブーン"が3分の1の権益を認められたらしい。アンクル・ジョニーは、おそらくワティの次男のジョン・ブーンのことと思われます。1830年になるとジョージ・ブーンの息子とチャールズ・Hの父が蒸溜所に入り、この国で最も優れたディスティラーの一人として認められたそう。また、ブーン兄弟の母方の祖父であるジョージ・ロビンソンも実践的なディスティラーとして50年以上に渡り上質なウィスキーを製造していたとされ、つまりブーン兄弟の先祖は父方、母方ともに実践的なディスティラーだったようです。但し、ここら辺の情報はダニエルとワティの関係と同様、系図サイトで調べてもよく分からず、多分に言い伝え的な側面があるかも知れません。
言い伝えついでに言うと、あのエイブラハム・リンカーンも少年時代にブーンズと関わりがあったようです。当時ブーンの蒸溜所から約10マイル離れたホッジェンヴィルに住んでいたエイブラハムの父トーマスは厳しい状況にあり、生活を正すため1814年にジョン・ブーンの蒸溜所での仕事に応募しました。するとブーンはトーマスに雇用を与え、彼が一流の人材であることを認めます。トーマスは妻のナンシー・ハンクスと息子のエイブら家族を蒸溜所から約1マイルの家に引っ越しさせましたが、昼飯のために家に帰るのが不便になり、時には夕食を摂るのにも不便に感じました。そこで、若いエイブラハムは食事を父のところへ運ぶようになりました。トーマスがインディアナに移る前年、エイブラハムは蒸溜所で父の手伝いを始め、ワティ・ブーンは「あの少年はどんな商売に就いても必ず立派な人物になるだろうし、もしウィスキー・ビジネスに進むならこの地で一番のディスティラーになるだろう」と言ったとか。
2024-10-31-12-44-36-464
ブーン&ブラザーズ蒸溜所はバーズタウンとロレットのターンパイク沿いにあり、蒸溜所へ続く道沿いの風景は美しく、プラントに近づくにつれて広がる野原は壮大な雰囲気を醸していました。蒸溜所は渓谷の突端近くにあり、敷地からは良質な湧き水が豊富に出で、上質なウィスキーを製造していたそうです。1872〜83年に掛けてニューホープ近郊のF.M.ヘッド&カンパニー(RD#405)の一部オウナーだったコヴィントンのディストリビューターであるオリーン・パーカーが同社のインタレストを購入し、卸売業者を通じて生産物を販売しました。ブランドには有名な「ブーン・ブラザーズ」や「オールド・ブーン」、パーカーのプライヴェート・ラベルの「オールド・メイド」があったと伝えられています。チャールズ・H・ブーンはその後、ウィギントン&ブーン・ハードウェア・ストアの共同経営者となりました。1903年、蒸溜所はシクストン, ミレット&カンパニーに買収されます。
2024-01-10-08-47-16-540_copy_122x388
ジョン・シクストンはディスティラー、バンカー、ポリティシャンとして生涯に多大な功績を残した人物でした。彼は1834年3月、ケンタッキー州ジェファソン・カウンティで生まれました。父親も同じくジョンという名前で、メリーランド州出身でしたがケンタッキー州に来て死ぬまでそこに住み、銀行業と証券会社の経営に携わったと伝えられています。5男1女の6人兄弟の1人だったジョンは、当時としては十分な教育を受け、20歳まで学校に通い、その後は学校の教師をし、同時期に墓石も売っていたらしい。彼は21歳の時、ケンタッキー州デイヴィス・カウンティのメアリー・エレン・マーフィーと結婚しました。彼女はダニエル・マーフィーとハリエット・ケリーの娘で、夫と同い年でした。シクストンは家族のためにより良い暮らしをしようと教職を辞し、農業に就きます。10年間土地を耕した後、彼は他の仕事の方が有望であると判断し、1865年、農場を売却してオーウェンズボロに移り、ウィスキー販売に重点を置いた食料品業に従事しました。1881年1月にはウィスキー販売に専念するため食料品店を売却したとされます(或いは1889年にオーウェンズボロで父の酒類卸売業を引き継いだという説もありました)。この頃はスローターという名の共同経営者がおり、彼らはジェファソン・カウンティで最も古い卸売業を経営していたA・D・ヒル博士の後を継ぎ、その在庫を買い取って販売していたらしい。彼らは別の企業ジョン・シクストン・ディスティラリー・カンパニーを1881年2月に設立します。この蒸溜所はオーウェンズボロの裁判所から1マイルほど東に位置し、18000ドルを掛けてすべての新しい建物と設備で建てられました。マッシング・キャパシティは1日280ブッシェル、年間推定6500バレルのウィスキーを生産、シクストンがチーフ・ディスティラーを務めたそう。1902年頃、スローターは引退したのか現場から姿を消し、シクストンは新たなパートナーとして自身のオーウェンズボロの蒸溜所をグレンモアのリチャード・モナークに売却したE・P・ミレットとコンビを組むことになります。彼らはオーウェンズボロのウェスト・メイン・ストリートに卸売と蒸溜所代理店を営むシクストン, ミレット&カンパニーを設立しました。シクストンとミレットはウィスキーの供給量を確実に増やす機会を狙い、2つ目の蒸溜所としてケンタッキー州バーズタウンの東2マイルに位置するネルソン郡のブーン&ブラザーズ蒸溜所を1903年に購入しました。1892年の保険引受人の記録によると、ブーンの蒸溜所はフレーム構造で、スティルの北125フィートにアイアンクラッドのボンデッド・ウェアハウスがあり、スティル・ハウスの東50フィートには牛小屋があったとのこと。蒸溜所は納屋の延長線上のような造りだったようで、ブーン兄弟は地元の穀物を購入し、地元でのみ販売する酒を製造していました。シクストンとミレットがこの施設を購入した当時は、1日当たり約70ブッシェルのマッシング・キャパシティ、熟成倉庫は1200バレルの容量だったとされています。二人は時間を掛けずに蒸溜所を拡張し、2年も経たないうちにマッシング・キャパシティは大幅に向上、新しい熟成庫によって貯蔵能力は2600バレルに達しました。ウィスキーは大きな陶器のジャグで卸売りし、小売ではガラス・ボトルで販売したようです。このパートナーシップから生まれた最も有名なブランドは「シクストン V.O.」でした。その他のブランドには「デ・ソト」、「フィネガンズ」、「ハードル・ライ」、「アイドルブルック」、 「オールド・ワグナー」等があったと伝えられ、そして「オールド・ブーン」は取得後にフラッグシップ・ラベルとなったでしょう。シクストン, ミレット社の酒を扱う酒場に提供したサインもあり、おそらくダニエル・ブーンと思われる人物が掘っ立て小屋のような蒸溜所の前に座る姿が描かれています。この絵柄は、後のメドウローン時代のオールド・ブーンのラベルにも用いられていました。
PicRetouch_20241027_065352004_copy_227x265
2024-10-26-01-49-39-033
2024-10-26-01-56-30-621
ジョン・シクストンはウィスキー・トレードを成長させる一方、父親から受け継いだとされる銀行業にも従事していました。また政治家としても1877年にオーウェンズボロ市長選に出馬すると当選し、その職を2年間務めたと言います。プライヴェートの面では、7人の子供の母親である妻メアリーが結婚して21年目の1876年に42歳で亡くなりました。シクストンは6年後にファニー・G・ディッキンソンと再婚。彼女はまだ21歳で、彼より38年長生きすることになります。
禁酒法が州や地方を「ドライ」にし始めた頃も、シクストンとミレットの会社は拡大を続けました。1912年、彼らはケンタッキー州マリオン郡シカゴのオールド・サクソン蒸溜所(**)を買収し、そこにグレイン・エレヴェイター、ボトリング・ハウス、クーパレッジを備えた最新鋭の施設を作り、「オールド・ブーン」の生産をこちらで続けたようです。1914年にはデトロイトにも営業所を開設。しかし同年、ジョン・シクストンは80歳で亡くなり、オーウェンズボロのローズヒル・エルムウッド・セメタリーに埋葬されました。彼が創業し全国的な名声を得るまでに成長したリカー・ビジネスは息子のチャールズに引き継がれましたが、禁酒法の到来によりシクストン, ミレット&カンパニーは1919年に事業を停止し、同社のケンタッキーの蒸溜所は閉鎖されました。ミレット氏は禁酒法施行後、暫くしてルイヴィルで製材業に参入したそうです。そして、詳しい経緯は分かりませんが、禁酒法期間中もしくは禁酒法廃止後すぐにブランドの権利はシーグラムに買収されたのでした。

2024-10-26-12-38-43-845
偖て、オールド・ブーン蒸溜所の方へと話を戻します。1959年になるとシンシナティのブローカーであるレイモンド・ビュースの息子レイモンド・"パット"・ビュース・ジュニアが蒸溜所を購入し、数年間操業しました。ネイティヴ・シンシナティアンのパットはオハイオ州ハイド・パークで育ち、セント・ゼイヴィア・ハイスクールとジョージタウン・ユニヴァーシティを卒業し、第二次世界大戦中はUSアーミーに従軍。帰国後、ユニヴァーシティ・オブ・シンシナティのロー・スクールに1年間通った後、父親が設立したウィスキー仲介会社でカリュー・タワーに本社を構える家業のR.L.ビュース・カンパニーにフルタイムで働き出します。同家が所有するようになったメドウローンのオールド・ブーン蒸溜所で生産とブランディングを監督する彼のビジネス手腕は瞬く間に勢いを増し、同社を全米で最も成功したウィスキー・ブローカーの一つと見做されるまでに成長させました。しかしその結果、彼は生涯飛行機恐怖症であったため、ディスティラーズ・プライド、メドウ・スプリングス、ヴァージン・バーボンといったファミリー・ブランドを宣伝するために48州内の主要幹線道路ほぼ全てを走り回ることになりました。また、彼らは一貫した収益源であるカスタムメイドのラベルも多く手掛け、ケンタッキー州以外の流通向けに多くのラベルをボトリングしていました。大手のホテルやリゾートやカントリー・クラブは、自社のファサード等を描いたボトルの威信を求めていたのです。そうしたカスタム・ラベルの中で有名な物の一つがウォーターゲイト・バーボンでしょう。
FotoGrid_20240104_121130968
おそらく60年代後半頃、パットはワシントンのホテルのジェネラル・マネージャーを説得して、ホテルのバー用にカスタム・ラベルを作成したのだと思われます。1972〜73年に掛けてウォーターゲイト・ホテルへの不法侵入とそれに伴う隠蔽工作が全国メディアで熱を帯びた時、レジでのウォーターゲイト・バーボンの販売も同様にホットだったようです。幸運なことに、民主党はこのニッチなブランドを全米各地の民主党の集会で提供することを強く求めたらしい。しかし、この忠実な共和党員の蒸溜所オウナーには一つの後悔がありました。彼は文字通りウォーターゲイト・バーボンのボトルを十分な速さで民主党に売ることが出来なかった、と。ちなみに裏ラベルにあるメドウ・スプリングス・ディスティラリー・カンパニーの名はオールド・ブーン蒸溜所のDBAでしょう。網羅的ではないですが、取り敢えずメドウローンの所在地記載があるラベルを纏めた私のピンタレストのボードを以下に貼り付けておきます。
レイモンド・ビュース・ジュニアは、ウィスキーの世界よりも他の界隈で有名かも知れません。彼はビジネス・リーダーであり、メジャーリーグ・スポーツのオウナーであり、サラブレッド・オウナー兼ブリーダーとしても高い評価を得た人でした。スポーツは特に生涯の情熱でした。彼と弟の"バリー"は1960年代後半、2つの別々のオウナーシップ・グループに加わりました。一つはシンシナティにレッズを残すために結成されたグループ、もう一つは設立間もないAFLフランチャイズを運営するために結成されたグループです。ビュース兄弟はスポーツ界の大物で、シンシナティ・レッズのオウナーとして2度のワールド・シリーズ制覇(1975年、1976年)を含む4度のナショナル・リーグ優勝(1970年、1972年、1975年、1976年)を達成。ジョニー・ベンチ、ピート・ローズ、ジョー・モーガンといったスター選手を擁した"ビッグ・レッド・マシーン"時代のレッズは人々を熱狂させました。更に2度のスーパー・ボウル出場(1982年と1989年)に沸いたポール・ブラウン時代のシンシナティ・ベンガルズのオウナー/ディレクターを務めています。
パットはビュース家の他のメンバーに影響を受けて馬の虫に取り憑かれると、1960年代にはミルフォード郊外に100エーカーの牧場を購入し、すぐに馬に就いて研究し、繁殖を指揮して競馬場用のサラブレッドを育てました。勉強熱心な彼は、数年のうちにオハイオ・サラブレッド・ブリーダーズ・アンド・オウナーズ・アソシエーションの会長に選ばれ、生涯を通じてオハイオとケンタッキーのサラブレッド業界に影響力を持ち続けたと言います。サラブレッド繁殖のキャリアに於いてパットはオハイオ州に2つ、そしてケンタッキー州ウォルトン郊外に400エーカーのエリス牧場を所有しました。ウィスキー・ビジネスから足を洗うと、コヴィントンの歴史あるグラント・ハウスで金融コンサルティング会社のビュース・ファイナンシャル・サーヴィスを開業しました。また、ケンタッキー州ドライ・リッジで銀行を買収・経営し、コヴィントンのハンティントン・バンクとベリンガー=クロフォード博物館、フローレンスのブーン・カウンティ計画委員会などの理事を長年務め、またセント・ゼイヴィア・ハイスクール、トーマス・モア・カレッジ、ジョージタウン・ユニヴァーシティ等の理事も務めました。学者肌のビジネス・リーダー、考えるスポーツマン、紳士的な馬主など、人生とキャリアのあらゆる局面でその美徳を体現し、「ザ・セネター」と呼ばれたレイモンド・"パット"・ビュース・ジュニアは、2011年3月3日、85歳でハイドパークの自宅で亡くなっています。

パットがオールド・ブーン蒸溜所を買い取って以後、プラントには相次ぐ災難が降り掛かりました。1966年11月、ボトリング・ハウスとケース・ストレージ・ルームが火災で焼失。1971年1月にはボイラーが爆発し、その爆発でガス管が破裂して蒸溜所が燃えるという大きな被害が出ました。蒸溜所は再建され、新しいマッシングとディスティレーションの装置が設置されました。その後、蒸溜所建物の上にウォーター・タンクが設置されますが、構造的に問題があったらしく、タンクは転倒し蒸溜所と事務所の一部を突き破ったと言います。ビュースは1969〜1977年までD・W・カープからセント・フランシスのプラント(RD#21)の倉庫を借りていましたが、1977年に事業を完全に停止することを決定し、オールド・ブーンの設備を競売に掛け放棄しました。工場が閉鎖された時、ヘンリー・クーパーが会計責任者、オスカー・クレイヴンズがディスティラーでした。ダントの時代には、ジム・ダントの息子サド・ダント、ハリー・ダントの息子でありジム・ダントの孫フィル・ダントも蒸溜所で働いていたそうです。このようにダンツの長い歴史は、彼らの故郷であるマリオン・カウンティだけでなく、ネルソン・カウンティやジェファソン・カウンティにも及んでいた、とサム・セシルは自著に書いていました。

興味深いことに、オールド・ブーン蒸溜所が閉鎖された時、その在庫の殆どはオースティン・ニコルス&カンパニーによって買われました。彼らは自らのボトリングに使用する積りで購入しましたが、ワイルド・ターキー蒸溜所を所有していたためそれは使用されず、最終的にはジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が購入し、オリジナルの最初期のパピー・ヴァン・ウィンクル20年や23年、ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ16年や17年を作成するために使われました。これらの在庫がなくなるとジュリアンはスティッツェル=ウェラーのウィーテッド・バーボンに切り替えたと言われています。それは兎も角、或る時点でヘヴンヒルはヴァージン・バーボンやその他のブランドとメドウローン・ディスティリング・カンパニーの商号を取得しました。そして、ヴァージンのブランドは80年代半ばもしくは後半頃から主に日本向けに輸出されるようになり、アメリカ国内でも何時からか一部の地域で販売されるようになった、と。
ところで、「ダニエル・ブーン」というブランドの「パイオニア・ジャグ」が主に70年代に流通していました。プラット・ヴァリーのストーンジャグと似たような懐古趣味的なやつです。海外のオークションではその空ジャグが売られているのをよく見かけるのですが、77年ボトリングと推定される物は、76年までのボトリングの物と違い、所在地表記がローレンスバーグになっています。
FotoGrid_20240112_001538107
このローレンスバーグというのがワイルドターキー蒸溜所の所在地を表しているのなら、もしかするとオールド・ブーン蒸溜所のブランドも一旦はオースティン・ニコルスを経由してからヘヴンヒルに渡ったのかも知れません。J.T.S.ブラウン蒸溜所(現在のワイルドターキー蒸溜所)が所有していたと思われるブランド群、「J.T.S.ブラウン」、「アンダーソン・クラブ」、「オールド・ジョー」等と一緒にオールド・ブーン蒸溜所のブランドもヘヴンヒルに流れたと考えるとすっきりすると思うのですが、どうでしょう? そう言えば、ヘヴンヒルがボトリングしているオールド・ジョーの12年物の裏ラベルには、オールド・ブーン蒸溜所が蒸溜と記載されているものがあります。ブランドの購入と共に在庫のバレルも購入したのでしょう。だとすれば、ラベルに明記されていなくとも、他にも何かしらのブランドにオールド・ブーン蒸溜所の在庫のバレルが使われている可能性があってもおかしくはなさそうですね。え?、待って、初期のヘヴンヒル版ヴァージン・バーボンの日本向けエクスポートはどうなのよ? 15年物とか? 熟成年数を考えたらオールド・ブーン原酒の可能性は十分あるのでは…。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? ご意見ご感想をコメント欄よりどしどしお寄せ下さい。
では、そろそろ私の手持ちのボトルを注いでみるとしましょう。今回開けたのは推定2010年ボトリングの物なので、多分バーンハイム産と思われます。

2023-12-15-11-59-29-778
VIRGIN BOURBON 7 Years Old 101 Proof
推定2010年ボトリング。色は赤みを帯びたダークブラウン。重厚な焦げ樽、ベーキングスパイス、レーズンパン、樹液、黒糖、チェリー、シリアル、オールドファンク、僅かなナッツ、マッチの擦った匂い。口当たりは円やかだが、じんわりとヒリヒリ感も。液体を飲み込んだ後にはスパイス・キックが熱い。余韻はミディアム・ロングで、グレイニーなコクとビター感、微かにハーブも出る。
Rating:86/100

おまけで年代違いも試飲できたので感想を少しばかり。これはバーFIVEさんの会員制ウィスキー倶楽部で提供されたものでした。こちらはボトリング年代からバーズタウンの旧ヘヴンヒル蒸溜所産と思われます。

FotoGrid_20240116_143351772
(画像提供Bar FIVE様)
VIRGIN BOURBON 7 Years Old 101 Proof
推定91年ボトリング。濃密なキャラメル、バーントオーク、ヴァニラ、オールドファンク、ベーキングスパイス、ミント。とても甘く、かつスパイシーな香り立ち。口当たりは円やかながら、飲み込むとガツンとスパイシー。パレートでも舌先で甘みを、口中全体でスパイス感を感じ易く、フルーツがあまり感じられない。余韻は長々と苦いスパイスが残る。全体的に焦がし砂糖とスパイスに振れたオーク・フレイヴァーが主。
Rating:85.5/100

Thought:近年の他の7年熟成バーボンより圧倒的に熟成感がありました。ボトリングされてからの経年でかなり円やかになったとは思いますが、オークの深みやコクは元からかと。バーンハイムだからどうなのかなと思って飲んだのですが、開けたてはバーズタウンのプリ・ファイア物とさほど変わらない印象をもちました。開封から半年くらいすると、ヘヴンヒル云々というよりオールド・バーボン全般に感じられる香味と言うのでしょうか、そちらの方が強く感じるようになりました。
両者を比較すると、91年の方が甘い香りとスパイシーさは強いのですが、2010年の方がフルーツやグレインを感じ易くバランスは良いと思いました。自分の好みでレーティングに少し差を付けましたが、どちらも甘くもあり辛くもあり、バーボンらしい魅力を湛えたバーボンです。


*イリノイ州の都市と混同されたためかどうかは判りませんが、町の人々は自分たちの教会にちなんで1938年に名前をセント・フランシスに変えたそうです。

**この蒸溜所は、J・R・スミスとJ・P・スミスが1855年以前から操業していたプラントがルーツのようです。ケンタッキー州マリオン郡シカゴ(現在のセント・フランシス)のダウンタウンにありました。 彼らのブランド、スミス&スミスはハンドメイド・サワーマッシュで、年間生産量は約100~200バレルと今日の水準からすれば極少量でした。このウィスキーは、ルイヴィルのブローカーであるテンプレット&ウォッシュバーン(またはテンプル)が販売したと言われています。或る情報源によると、1855年にジョン・プロクター・ダント・シニアが蒸溜所を購入し1879年または1891年まで操業した、とあるのですが、彼は1855年生まれとされているので、本文では1890年購入説を採用しました。
ダントが数年間運営し撤退した後は、地元の商人トーマス・ブレアが蒸溜所の経営に携わるようになりました。彼は熟練したディスティラーとして評判を得ていた地元のバラード[ジャック・サリヴァンによると、おそらくW・T・バラードとのこと]と組み、プラントを買収しました。バラードの一族はマリオン・カウンティでは名の知れた一族だったらしい。ブレア&バラード社の経営下で会社は繁栄しました。1894年には1000バレル以上のウィスキーが焼失する火災に見舞われましたが、蒸溜所はすぐに再建されウィスキー造りを再開したと言います。その後、3番目のパートナーが加わり、社名はブレア, オズボーン&バラード(またはブレア, バラード&オズボーン)に変更されました。ボトルド・イン・ボンド法により、プラントは第5区RD#11になりました。
1907年、トーマス・C・ブレアが65歳で亡くなると、会社の経営体制は刷新されました。なんと妻のメアリー・ジェイン・ブレアが夫の蒸溜所の株を相続し、パートナーらから事業を買い取り、名前をメアリー・ジェイン・ブレア蒸溜所と改めました。メアリー・ジェインは当時シカゴと呼ばれていた小さな集落の近くで1844年にハリーとアニーのピーターソン夫妻の間に生まれ、農場で育ち、生涯この地域に住みました。フレンチ・インディアン戦争と独立戦争に従軍した軍人フランシス・マリオンにちなむマリオン・カウンティの郡庁所在地レバノンから西12マイルに位置するこの町は、同じ名前のイリノイ州の大都市とは似ても似つかないものでした。19世紀初頭に入植が始まった人口約150人のシカゴの最大の財産はルイヴィル&ナッシュヴィル鉄道の駅でしたが、この付近では蒸溜酒の製造が盛んだったようです。そのため彼女は早くから蒸溜酒製造の仕事には馴染みがあったのでしょう。マリオン郡出身で1833年生まれで11歳年上の地元の蒸溜業に携わるトーマスと出会い結婚しました。トーマスとメアリー・ジェインの間には11人の子供が生まれたそうです。人生の大半を主婦として、また母親としてブレア家で過ごしていた彼女でしたが、殆ど男性が支配していた業界に於いて、1907〜1919年まで蒸溜所をマリオン・カウンティの主要なウィスキー製造施設としました。メアリー・ジェインはディスティラーに同じくマリオン・カウンティのウィスキー・マンとして知られたW・P・ノリスを雇いました。蒸溜所の日々の経営は息子のニコラス("ニック")に任されていたようです。1867年生まれのニコラスは、地元の学校で教育を受け、近くのゲッセメニー・カレッジで3年間学び、家に返ってくると父と共に雑貨商や蒸溜酒取引業で働きました。1898年、バラード家の母を持つシカゴのメアリー・エレン・ノリスと結婚。夫妻には2人の子供がいたそう。ニコラスはマリオン郡の有力な市民と見做され、地方問題や民主党の政治に積極的な関心を寄せていたと言われます。ニコラスは母の名を冠した蒸溜所の生産能力を拡大、1912年までにプラントは1日118ブッシェルのマッシング・キャパシティがあり、合計9000バレルを貯蔵できる4つの倉庫を備えていたとされます。ブレア家は幾つかのラベルを所有し、ブレアズ・オールド・クラブ・ブランドは人気だったと聞き及びますが、彼らの製品はD.サックス&サンズを通じても販売されていたようです。「ピューリタン・ウィスキー」や「ピューリタン・ライ」で名高いルイヴィルのウィスキー・ブローカーであるデイヴィッド・サックスは、広告でこの蒸溜所をオールド・サクソン蒸溜所と呼び、所有権者を主張していました。
サックスの会社は所謂レクティファイアーと思われますが、禁酒法以前の業界はブランドの管理は中間業者や流通会社が行い、このような組織が蒸溜所経営者との契約関係を通じてその施設の全生産量を一時的に買い占めていたりすると、蒸溜所の名前を流用することは一般的でした。当然のように「オールド・サクソン」というブランドもありました。 厳密な意味で蒸溜所の所有者はよく分かりませんが、メアリー・ジェイン・ブレアの名も使用されていたみたいです。1912年(または1914年とも)、プラントは事業の拡張を続けるシクストン, ミレット&カンパニーに買収され、禁酒法施行まで操業し、その後閉鎖されました。
メアリー・ジェイン・ブレアは禁酒法の廃止を見ることなく、1922年、76歳で亡くなり、セント・フランシス・セメタリーの夫の近くに埋葬されました。しかし、ブレア家は蒸溜所での仕事を諦めていませんでした。禁酒法解禁後、50代半ばになっていたニック・ブレアは1935年に蒸溜所(RD#21)を再建し、ブレア・ディスティリング・カンパニーという新会社を組織すると、シクストン, ミレットとそのブランドを買収、「カーネル・ブレア」、「ニック・ブレア」、「ブレアズ・オールド・クラブ」といったブランドを生産しました。ニック自身がディスティラーだったとされています。新しい会社は施設を拡張し、1936年までには1日500ブッシェル以上の生産能力をもち、4つの倉庫は38000バレルのウィスキーを貯蔵できたました。しかし、おそらく世界大恐慌に伴う経済的圧力のため、1930年代後半にはブレア・ディスティリング・カンパニーは売却されてしまいます。ウォルター・ブレアはブレア家の最後のメンバーで、プラントをレアーという人物に売却しました。その後D・W・カープがレアーから蒸溜所を購入します。どうやらこの頃には施設はワインのボトリングや貯蔵に使われていたらしい。
1943年、カープはシーグラム社に蒸溜所を更新可能な10年契約でリースしました。彼らは第二次世界大戦中、政府のハイプルーフ・スピリッツ・プログラムのために操業していましたが、その後は貯蔵のためだけにプラントを所有していました。1953年に10年リースを更新し、それが切れると1年ごとの更新となったそうです。シーグラムは1965年までに倉庫を空にし、敷地を明け渡しました。1970年初頭、メドウローンのオールド・ブーン蒸溜所(RD#39)は追加の倉庫が必要となり、この倉庫を借りました。そこで、ロレット蒸溜所(RD#41)の株主でレバノン出身のアーサー・ボールが倉庫管理のために雇われます。これはパット・ビュースがメドウローンでの操業を中止する1977年まで続きました。ウィスキーが撤去された後、カープは倉庫の撤去のために地元の引き揚げ業者ジェラルド・グリーンを雇い、解体された木材は販売されたようです。こうして、この蒸溜所の歴史は幕を閉じました。

***ルイヴィルで「パイオニア・ボトリング・ハウス」として事業を開始したのは1890年とする説もありました。後に「ジョン・P・ダント」と改名し、ダント&カーターというパートナーシップを組んだようです。

****「ダント」の商標を巡る「J.W.ダント」を所有していたシェンリーとジョン・P・ダント・ディスティラリー・カンパニーの裁判記録によると、ジョン・P・ダント・ジュニアは1954年2月に二人の姉妹と共にオハイオ州シンシナティのR.L.ビュース社にインタレストを売却するまで社長を務めたとされています。その裁判記録にはマーヴィン・パジェットの名は出てきませんが、ここではサム・K・セシルの著書の記述に従いました。また、以降の本文に出てくるパット・ビュースの購入年代に関してもセシルの記述を基にしています。
その裁判記録では、註**で触れたジョン・P・ダント・シニアの件については、1912〜1922年までケンタッキー州マリオン郡シカゴのスミス・ディスティラリー社の社長兼大株主だったとありました。こうした歴史を整理しようとすると、蒸溜所の名前が複数あったり、所有権の変遷が複雑過ぎたり、年号がバラバラだったりと、混乱するばかりで到底私には分からないことだらけです。なのでここに整理した歴史は、正確な歴史的事実を記している訳ではなく、飽くまで伝聞や伝承として参考程度にとどめて下さい。

2021-12-30-20-25-16

今回はジムビーム・ブラックラベルの前身、ビームズ・ブラックラベルです。もともとビームの黒いラベルは「ジム・ビーム」ではなく「ビームズ」を名乗っていました。嘗ては白ラベルのフラッグシップ製品だけが「ジム・ビーム」の名を冠することが出来るという方針だったそうで、緑ラベルでお馴染みの「チョイス」なんかも昔は「ビームズ」でした。大手のビームからの製品であり、長期間販売されている割に、ブラック・ラベルの初登場がいつだったのかは、調べても分かりませんでした。有名なウィスキー・ブロガーのくりりんさんがビームの黒ラベルをレヴューしているのですが、それは75年ボトリングと推定され、なんとラベルは「チョイス」名義。これからするとブラック・ラベルというコンセプトが70年代半ばには既にあったのは間違いなさそうです。そして、それよりもボトルやラベルが古そうに見え、推定70年代ボトリングとされるビームズ・ブラックラベルがありました(参考)。ここら辺がオリジナルなのでしょうか。仔細ご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。その起源は兎も角、ビームズ・ブラックラベルは、70年代後半から80年代半ば頃には広告にも力を入れられていたようです。
FotoGrid_20230421_223052290

上の画像のように、ビームズ・ブラックと言えば101ヶ月熟成の表記が印象的です。つまり8年5ヶ月熟成ですね。何時の頃からか一般的な8年熟成表記に変わりましたが、少なくとも70年代後半から80年代半ばまでは101ヶ月表記だと思われます。ところで、何故わざわざイヤー表記ではなくマンス表記なのでしょうか? もしかすると、わざとマンス表記にすることで、ワイルドターキーの象徴的な数字「101」を意識しているのではないか、と私は邪推しています。また、黒を基調としたラベルと「サワーマッシュ」や「チャコール・フィルタード」の記載はジャックダニエルズを意識してるようにも思えます。多分ライヴァルの二つのブランドへのあからさまな対抗心がある気が…。まあ、上で言及したビームズ・チョイス・ブラックラベルは100ヶ月熟成でしたし、これは何の根拠もない私の想像です。

現在ジムビーム・ブラックラベルと呼ばれるこのブランドは、長年に渡って名称もプルーフも熟成年数もボトル形状もころころ変わりました(2000年代以降の変遷は過去に投稿した記事に書きましたので参考にして下さい)。そのせいか、マーケティング戦略の犠牲者のように見えなくもないブラック・ラベルですが、そもそもはスタンダードなジムビーム・ホワイトの倍の熟成年数を誇るプレミアムな製品だった筈です。ブッカーズを筆頭とするスモールバッチ・コレクションが誕生する以前は間違いなくそうでしょう。今回、開封したボトルは推定82年ボトリングです。ボトリング年からすると、まだスモールバッチ・コレクション開始前なので、相当ハイクオリティなバレルがバッチングに使用されていてもおかしくはないのでは?という淡い期待があります。逆に年代からすると過剰供給時代なので、単なる過熟バレルが使われてる可能性も否定出来ませんが…。では、試してみましょう。

2022-02-25-15-40-33
2023-04-22-02-43-34-827
BEAM'S BLACK LABEL 101 Months 90 Proof
推定82年ボトリング。やや赤みを帯びた濃いめのダークブラウン。黒蜜、キャラメル、レーズン、マスティオーク、湿った土、タバコ、胃腸薬。ノーズは濃密な甘い香りにウッド、チェリー、スパイスが交じり合う。アルコール刺激のないとても滑らかな舌ざわり。味わいは甘みもあるがそれ以上にウッディかつスパイシー。余韻はミディアムロングでほろ苦い。
Rating:85.5/100

Thought:前回まで開けていた99年ボトリングのジムビーム・ブラックラベルと較べると、焦樽フルーツ系統の方向性は一緒なのですが、こちらの方がよりスパイシーに感じました。また、単体だと熟したフルーツ感と思っていた99年ブラックラベルが案外とフレッシュなフルーツ感に感じてしまうほど、こちらの方がもっと濃いフルーツを感じます。そして強いスイートな香りも素晴らしく、ここら辺はオールドボトルの魅力と思います。多分、現行のノブクリークあたりと比較してすら、こちらの方がリッチなフレイヴァーが認められるかと。ただ一方で、このボトルは経年もあってか、開封から飲み切るまで常にオールドなファンキネスがありました。それは強過ぎるように感じる時もあったし、特に気にならない時もありました。そこで何か法則性があるのかと、例えば飲む前に何分も放置してみたり、飲む直前に食べる物を変えてみたり色々試したのですが、一貫した法則は見つけられませんでした。これって自分側の体調次第なのですかね? 同様な体験をしたことがある方は是非コメント頂けると幸いです。おそらく、私が感じているオールド臭と言うのか、古びた風味は、経年だけでなく、そもそもの熟成バレルからも由来していると思われます。だから評価が難しいのですが、私にとって過剰なオールドファンクはなくていいものなので、それが点数を抑える結果になっています。それさえもう少しだけ感じることがなければ、あと1点は高かったでしょう。オールドボトル・エフェクトを軽々とクリア出来るオールドボトル愛好家の方なら、もっと評価は高いのかも知れませんね。

2020-12-01-21-35-46
PhotoGrid_Plus_1606863113271

エライジャクレイグはエヴァンウィリアムスと並ぶヘヴンヒル・ディスティラリーズの看板ブランドです。バーボン市場が歴史的な低落傾向にあった1986年に初めて登場したエライジャクレイグ12年は、当時バーボン市場を席巻していた若くて安価で低品質のバーボンに対して、ヘヴンヒル蒸溜所が提案したプレミアムなバーボンでした。昔の物はケンタッキー州バーズタウンのヘヴンヒル蒸溜所、現在はケンタッキー州ルイヴィルのヘヴンヒル・バーンハイム蒸溜所で造られています。エライジャクレイグのブランドには過去から現在まで複数のヴァリアントがあり、限定生産のため現在販売されてないものも含むと下記のようなものがあります(ストア・ピックやプライヴェート・バレルは含めていません)。

◆エライジャクレイグ(スモールバッチ)、12年、94プルーフ、1986年導入
◆エライジャクレイグ・スモールバッチ、NAS(8〜12年)、94プルーフ、2016年導入
◆エライジャクレイグ・スモールバッチ・バレルプルーフ、12年、約125〜140プルーフ(バッチ毎に異なる)、2011/2012年に蒸溜所のギフトショップ限定でプリ・リリース、2013年正式に導入
◆エライジャクレイグ・トーステッドバレル、NAS、94プルーフ、2020年導入
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、18年、90プルーフ、1994年導入
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、20年、90プルーフ、2011年秋ケンタッキー・バーボン・フェスティヴァルの20周年を記念して初リリース、2012 年5月数量限定リリース推定1300本未満生産
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、21年、90プルーフ、2013年10月リリース
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、22年、90プルーフ、2014年リリース、推定400本
◆エライジャクレイグ・シングルバレル、23年、90プルーフ、2014年8月リリースその後継続
◆エライジャクレイグ・バレルセレクト、NAS(8年もしくは8〜9年または8〜10年とされる)、125プルーフ、200mlボトル、蒸溜所のギフトショップ限定
◆エライジャクレイグ・ビアーバレル・フィニッシュ、NAS(ビール樽で9ヶ月追加熟成)、94プルーフ、200mlボトル、2020年に限定リリース、シカゴのグース・アイランド・ブルワリーとのコラボ
◆エライジャクレイグ・ライ、NAS、97プルーフ、2020年導入
2023-03-07-08-56-21-287

エライジャクレイグは、導入当初から長きに渡り12年のエイジ・ステートメントを誇示していましたが、需要が供給を上回ったため、2016年に8〜12年熟成のブレンドとされるNASヴァージョンに切り替わり今に至ります。ボトルデザインも同年末か翌年くらいに刷新されました。ちなみにバレルプルーフのオファリングは12年の年数表記を残しています。
エライジャクレイグのシングルバレルと言うと、比較的長期間販売されたのは18年熟成の物でした。2012年5月、この年齢に近いバレル在庫が限られているため、18年シングルバレルのボトリングが停止されることが発表されました。ヘヴンヒルはその代わりに幾つかの特別な年齢を毎年リリースすると発表し、間もなくエライジャクレイグ20年シングルバレルがリリースされました。 その後も21〜23年のシングルバレルが毎年提供されていました。そして3年間の休止期間を経て18年シングルバレルが再リリースされ、2015年は約15000本が発売されたようです。それ以来、18年は継続的なリリースとなっています。
トーステッド・バレルやライは近年のアメリカン・ウィスキー人気によって齎されたブランド拡張でしょう。

ブランド名は、ケンタッキー州の開拓者でありコミュニティ・リーダーであり、起業家であり教育者であり、バプティスト(*)のプリーチャーである実在の人物に敬意を表して名付けられています。ヘヴンヒルはエライジャ・クレイグを「バーボンの父」としてラベルに謳っていますし、バーボン・ウィスキーの製造にバレル・チャーを初めて発見し使用したのがクレイグであると云う伝説もあります。しかし、バーボンを発明したのは彼ではないと多くの歴史家は考えています。それでも彼が初期の蒸溜者であったこと、そして彼の人生に於ける他の業績の多くが称賛に値するのは間違いありませんでした。その多岐に渡る活動を見れば、時代の寵児だったとさえ言えるかも知れません。なので、先ずは興味深いエライジャ・クレイグの人生から見て行きましょう。

Elijah_Craig_woodcut
エライジャ・クレイグは、ケンタッキー州が誕生する50年以上前の1738年(1743年または1745年説も)にヴァージニア州オレンジ・カウンティでポリー・ホーキンスとトリヴァー・クレイグの5番目の子供として生まれました。当時の同年齢の子供たちと同様、実践的および宗教的な知識に焦点を当てた初歩的な教育を受けたようです。彼は少年時代から並外れた知的才能を発揮し、宗教的な傾向も強く持っていたと言います。後にエライジャは「初期ケンタッキー・バプティストの最も優れた説教者の一人」となりますが、ヴァージニアでの初期の生活については殆ど知られておらず、1764年以前の詳細は基本的に不明です。
1750年代半ばまで、植民地時代のアメリカのバプティストは屢々「レギュラー」または「セパレート」のどちらかに分類されていました。どちらもカルヴィン主義的な神学でしたが、セパレート・バプティスツは大覚醒(グレート・アウェイクニング)と密接に関わり、一方のレギュラー・バプティスツはこの方向性から距離を置くところがあったそう。1764年、エライジャはヴァージニア州で最初のレギュラー・バプティスト教会を組織したデイヴィッド・トーマス(1732-1812)という名のプリーチャーと出会います。彼はブロード・ラン・チャーチを設立し、エライジャが宗教を追求するインスピレーションとなり、またメンターとなりました。好奇心旺盛なエライジャは宗教についてもっと知りたいと思い、著名な伝道師サミュエル・ハリス(セパレート)が主宰する集会に参加するようになります。そこで彼は福音を伝えたいという情熱を抱くようになったようです。トーマスとハリスに触発されたエライジャは実家のタバコ納屋で小規模な伝道活動を始め、耳を傾ける全ての人に説教をしました。説教を始めて2年目の1766年、エライジャはノース・キャロライナ州へ旅立ち、そこで今度は聖職者デイヴィッド・リードに出会います。エライジャは自分も含めた新しい会衆のメンバーに洗礼を施すため、リードを説得してノース・キャロライナからオレンジ・カウンティに連れて来ました。その結果、エライジャはこの年に他の家族と共に正式にバプティズマを受け、セパレート・バプティストとなったようです。兄のルイスと弟のジョセフもバプティストのプリーチャーとなりました。
18世紀のヴァージニア州では、バプティストは迫害されていました。キャロライナやジョージアやメリーランドと同様に、ヴァージニアにも既成の教会、すなわちイングランド国教会があり、当時の社会文化では宗教の自由という原則は定着していなかったのです。アングリカン・チャーチは州政府と深く結びついており、州が公式に支援する宗派として財政支援まで受けていました。ヴァージニア州では全ての住民がアングリカン・チャーチに十分の一税[※教会維持のため教区民が毎年主に農作物もしくは収入の10分の1を納めた]を納め、少なくとも月に一度はアングリカン・チャーチの礼拝に出席することが法律で義務づけられていました。ヴァージニアの支配層たちは、この公的な信仰をコモンウェルスの社会構造にとって不可欠な要素であると考えていました。他の神学的な考え方もある中でバプティストは特に危険視されており、初期のバプティストは厳しい状況に直面しました。彼らは法律によって説教をするためにライセンスを取得する必要があり、その書類には多くの場合礼拝の場所が指定され、事実上、巡回牧師やテント集会は違法とされていました。このような制限に抵抗する牧師はしばしば投獄され、時には言葉や身体的な虐待を受けることもあったと言います。デイヴィッド・トーマスもフォーキア・カウンティで家庭礼拝を行っている時に襲われ残酷な暴行を受けたらしい。1779年には40人以上の牧師が牢屋に入れられたという話もあります。
バプティスト派の牧師は嘲笑され、中傷され、投獄までされた訳ですが、改宗を拒否してバプティストの説教を続けたエライジャも、イングランド国教会からの必要なライセンスなしに説教をしたため、無免許説教の罪で少なくとも2回逮捕され、オレンジ・カウンティとカルペパー・カウンティで投獄されました。このような説教師は、既成の国教会が植民地から資金援助を受けていたため、植民地の社会秩序全体に対する挑戦と見倣されたのです。1768年、自分の畑を耕していたエライジャは「分離主義的な教義」を説いたとして逮捕され、17日間投獄されました。エライジャはこの時、或る種の殉教的な満足感を味わったのかも知れません。どうやら牢屋如きではエライジャの熱情を抑えることは出来なかったらしく、彼は鉄格子越しにゴスペルを説き続け、そのため当局は牢屋の周りに高い壁を作り人々に聞こえないようにしたという話が伝わっています。また正確な年代は判りませんが、二度目の投獄では、当局はエライジャが投獄されている一ヶ月の間、水とライ・ブレッドしか与えずに彼の心を折ろうとしたものの、彼は弱体化した状態でも自分の信念に妥協することなく敗北を拒み、監房の窓の前を通る人々に説教をし、信徒たちはそれを聞くために通りに集まって来たとのエピソードもありました。1768年には兄ルイスも、ジョン・ウォーラー、ジェイムス・チャイルズ、ジェイムス・リード、ウィリアム・マーシュと共に、イングランド国教会のライセンスなしに説教を行ったとしてフレデリックスバーグの刑務所に数週間収監されました。エライジャは出所後、1769年にヴァージニア州バーバーズヴィルとリバティ・ミルズの中間にあるブルー・ラン・チャーチの設立に貢献し、1771年、同教会は正式に聖職に就かせました。そこの牧師となった彼のもとで教会は繁栄して行ったようです。
1774年、インディペンデント・バプティストの総会は、エライジャ・クレイグとジョン・ウォラーをジェイムズ・リヴァー以北の伝道を行う布教師に指定しました。アメリカの独立戦争が始まったのは1775年のことでした。戦争中、エライジャは従軍牧師として活躍したそう。或る時、エライジャと同じくバプティスト派の牧師だった兄弟のルイスとジョセフ・クレイグは、真の宗教的自由を追求するためエライジャに自分達とその信徒と共に西へ向かうよう説得しようとします。しかし、エライジャはヴァージニアに残り政治に携わることを決意しました。彼の目標はヴァージニアでの宗教的迫害をなくすことでした。ヴァージニアの州誕生初期のバプティスト迫害は、特に自由民と奴隷、白人と黒人が混在する会衆へ説教をした時に顕著だったようです。アメリカ独立戦争後、エライジャはヴァージニア・バプティスツの意見を新州政府に伝えるという重要な役割を果たし、ヴァージニアおよび連邦レヴェルに於ける宗教の自由を守るためにパトリック・ヘンリーやジェイムス・マディソンと協力して、最終的に憲法修正第1条に繋がった初期の考察に少なくとも間接的な貢献をしたと言われています。マディソンは若き弁護士としてイングランド国教会からの免許を受けずに説教をしたことで逮捕されたバプティストの説教師達を弁護していました。そのことがエライジャと共にヴァージニアに於ける信教の自由を憲法で保障するために動いたきっかけだったのかも知れません。そうした活動は信教の自由に関する概念を作り上げるために効果がありました。マディソンは1776年から1779年にヴァージニア州議会議員を務め、トーマス・ジェファソン(1779〜1781年までヴァージニア州知事)の弟子として知られるようになり、「ヴァージニア信教自由法」の起草を手伝って同地の政界で名声を得ました。この法はイングランド国教会を非国教化し、宗教的事項について州の強制権限を排除するものでした。宗教の自由を保護する法令を可決したことで、イングランド国教会はディスエスタブリッシュト、つまり州行政府の財政支援を失い、バプティストによる政教分離の理想が定着したのです。後に、この法はマディソンを主たる起草者とするアメリカ合衆国憲法修正第1条に引き継がれ、政教分離の原則と信教の自由の保障はいっそう強固なものになって行きました。この間、エライジャは説教や牧師をしながら農業に従事し、収穫したトウモロコシの一部を「ホワイト・ライトニング」に蒸溜することも行っていた可能性を指摘する人もいます。

ヴァージニア州で宗教的迫害を受けていたため、エライジャと同様にプリーチャーだった兄のルイス・クレイグは、抑圧的な雰囲気から逃れて更なる宗教的自由を求め、早くからケンタッキーと呼ばれるヴァージニアの西地域へと移住することを決意していました。彼は非常に人気があり、ヴァージニア州スポツィルヴェニアの会衆の大部分が一緒に来ることを決めました。彼らは出発前に教会を組織し、それは道なき荒野を旅する教会で、通常のチャーチ・ミーティングの日である土曜日には立ち止まり、日曜日には説教が行われることになっていました。1781年、ルイスはその「トラヴェリング・チャーチ」と知られる、彼の両親や弟妹、そして大部分がスポツィルヴェニア・カウンティからの信徒で構成された600人(200人という説も)ものメンバーを率い、カンバーランド・ギャップを通って山々を横断して移住させることに成功しました。彼らはこのように移住した単一のグループとしては最大でした。エライジャはこのグループとは一緒に行きませんでしたが、少し後に兄に続きました。独立戦争が事実上終了した直後の1782年、オレンジ・カウンティの農地を売り、エライジャも信徒を引き連れて西に向かいます。これまた、おそらく500人ほどの大規模なグループだったのではないかという推測がありました。そこで彼は、当時のフェイエット・カウンティに1000エーカー(4.0平方キロメートル)の土地を購入し、旧約聖書から命名したレバノンと呼ばれる新しい入植地を1784年に設立しました。これは現在レバノンとして知られている都市とは歴史的文脈が異なるので注意して下さい。今日のレバノンは1814年に設立されました。創設共同体はヴァージニア州の長老派教会によって建設されたハーディンズ・クリーク・ミーティングハウスに遡ります。1815年1月28日に市として法人化され、1835年にマリオン郡の郡庁所在地となりました。エライジャの方のレバノンは、1784年にヴァージニア州議会によって法人化され、1790年にジョージ・ワシントン大統領に敬意を表してジョージ・タウン(George Town)と改名されています。1792年にケンタッキーがアメリカ合衆国の15番目の州になってスコット郡が形成されるとジョージ・タウンが郡庁所在地となり、1846年にはジョージタウン(Georgetown)と正式に改称されました。エライジャは西方に来てからもジョン・ウォーラーと共に幾つかの教会で説教をしていたみたいです。
ルイス・クレイグらはケンタッキーに着くと、ケンタッキー・リヴァーの南のギルバート・クリークに入植し、そこで教会を設立していましたが、暫くして他の数人と共にギルバート・クリークを離れてサウス・エルクホーンに移り、そこにまた教会を設立しました。これは1783年頃、或いはそれ以降という説もあります。ケンタッキーが州となる7年前、まだヴァージニア州フィンキャッスル・カウンティの一部だったグレート・クロッシングに、ルイス・クレイグやジョン・テイラーら16人の男女が集まり、1785年5月、バプティスト教会が設立されました(現在はスコット・カウンティ)。この教会はケンタッキー・リヴァー以北で2番目か3番目、州内では6番目か7番目の設立でした。グレート・クロッシングは現在のスコット・カウンティ、ジョージタウンのちょうど西にあるノース・エルクホーン・クリークのコミュニティで、1783年にロバート・ジョンソンによってバイソンがクリークを渡る場所に設立され、ジョンソンズ・ステーション、グレート・バッファロー・クロッシング、ザ・グレート・クロッシング、またはビッグ・クロッシングなどの名前で呼ばれていました。エライジャはグレート・クロッシング・チャーチの設立年にその近所に移り住み、1786年に最初の牧師となりました。
この頃、中年になったエライジャの能力と無限のエナジーは実業に向かって開花します。彼は起業家として土地に投機し、投資用の地所を購入するとそこで様々なビジネスを展開するようになりました。バプティストの牧師として奉仕を続けながら、アパラチア山脈以西で最初(**)の製紙工場、織物工場、ロープ工場、製材所、製粉所をロイヤル・スプリング・ブランチ沿いに設立したり、ケンタッキー・リヴァーを渡るフェリーなど多くの事業を開始し、彼の資産は急速に増加し続けたと伝えられています。また失うものも多かったエライジャは、火災の危険性を認識し町で初めての消防署を設立して署長に就任しました。更に、1787年にはレバノンで少年達のためのアカデミーまで設立するなどエライジャは教育活動にも積極的でした。ケンタッキー・ガゼット紙に掲載された1787年12月27日付の彼の広告文には、「教育。来年1月28日、月曜日、フェイエット・カウンティはレバノン・タウンのロイヤル・スプリングにジョーンズとウォーリーの両氏が学校を開校、50~60人の学徒を収容するのに十分な広々とした屋舎が用意されています。彼らはラテン語とギリシャ語と一緒に公立神学校で通常教えられているような科学の分野も一人当たり四半期25シリングで教えます」云々と記されていました。この学校は後に1798年に設立されたリッテンハウス・アカデミーへと繋がり、最終的にアレゲニー山脈以西の最初のバプティスト大学で1829年設立のジョージタウン・カレッジ(ワシントンDCのユニヴァーシティとは別)へと発展しました。エライジャはケンタッキー議会が設立したリッテンハウス・アカデミーの評議員会を組織し、後にジョージタウン・カレッジとなる土地を寄贈したことで貢献したようです。この大学は現在も運営されています。同大学のギディングス・ホールの「堂々とした柱」にはエライジャ・クレイグが所有していたウィスキーの小樽が隠されていると云う伝説があるとか…。
そしてウィスキーと言えば、エライジャは1789年にロイヤル・スプリングから湧き出る冷たいピュア・ウォーターを利用して蒸溜所も設立していました。今日、我々が彼の名を知っているのはこの事業のお陰であるのは間違いないでしょう。兄のルイスもウィスキーの取引をしていたそうで、同年、兄弟はジェイムス・ウィルキンソン将軍の後援によるフラットボートでニューオリンズへ向かうウィスキーのサプライアーとしてリストされていました。ウィスキーに対する物品税が制定された後はエライジャも蒸溜所に対してかなりの税金を負っていたそうです。この記事を読んでいる人は、正にエライジャ・クレイグのバーボンへの関与について知りたがっているかも知れませんが、この件については後に述べます。バプティストとウィスキーの関係については、1787年頃バプティストの牧師であるジェームス・ガラードが無許可でウィスキーを小売した罪で起訴されているとか、またジョン・シャッケルフォードという人は1798年に説教の報酬?に36ガロンのウィスキーを受け取ったとか、1796年にケンタッキーのエルクホーン・バプティスト・アソシエーションは会員が酩酊物質を販売したことを理由に教会員資格を拒否することは不当であるとの判決を下した、との話がありました。サザン・バプティスト・コンヴェンションがアルコール反対を決議し始めたのは1886年だったようです。

ウィスキー製造の傍ら、その他の事業もあって多忙な日々を送っていたエライジャは、不動産価格の変動から利益を得ようとする危険な金融取引である土地投機にも手を出していました。この投機は彼に悪い影響を与えたようで、エライジャはクロッシング・チャーチの牧師を続けながらも以前の宗教的熱意を失っていたか、または少なくとも影響力を失っていました。それは彼が土地投機に熱中し過ぎたり、世俗的な財産を多く持つ人物だったためと見られています。或いは霊的な衰えと関係づける推論もあります。『ヴァージニア州に於けるバプティスト派の勃興と進歩の歴史』を書いたロバート・ベイラー・センプルは、エライジャが「censorious(センソリアス=あら探しが好きで口喧しくとても厳しい批判をしがち)」な気性をもっており、その気性は彼が「宗教に熱心」な限り抑制されたが、彼の人生に於いて土地投機への関与と結び付いた宗教的衰退の時期がその気質を抑制できなくさせたのかも知れない、との見解を示しました。霊的な衰えはともかくとして、彼の起業家としての成長ぶりはグレート・クロッシングの信徒たちに気づかれない訳がなく、すぐに教会にとって「不愉快」な存在となったエライジャの後任を求める声が上がりました。多くの人は彼の物質的な豊かさが増していることを認めず、その時間やお金を教会に寄付するべきだと主張したようです。エライジャの経済活動の一部に関して論争が起こり、結局エライジャとその一派が追放された後、1793年にジョセフ・レディングが彼の後任となりました。
このグレート・クロッシングス教会の二代目牧師であるレディングは、1750年にヴァージニア州フォーキア・カウンティで生まれ、幼少時に孤児となり、殆ど教育を受けませんでしたが、1771年に洗礼を受けるとすぐに説教を始めました。彼は強い声と熱心さを持っており、行く先々で注目を集めたと言います。生まれた州で2年間説教をした後、サウス・キャロライナ州に移り、1779年までそこで説教を続け、大きな成功を収めました。教会設立から5年後の1790年、ケンタッキー州に移住するとクロッシング・チャーチの近くに住みつき、すぐにケンタッキー州で最も人気のある説教者になったらしい。エライジャ・クレイグが牧師職を去ってから1810年4月に退任の手紙を受け取るまでグレート・クロッシングで牧師を務めました。
レディングは当時の教会が求めていた人物と思われたようで、教会の大多数の人が選ぶことになり、彼を牧師として確保することが決定されると、すぐに会員間の分裂が起こり、クレイグ派とレディング派の間には不愉快な感情が渦巻きました。クレイグは、大胆かつ不注意な心持ちでレディングに対して軽はずみなことを言い、裁判のために教会に召喚されます。レディング一派はエライジャが弁明することも許しを請うことも許さず、何としても彼を排除しようと決意していました。教会の集会はロバート・ジョンソンの家で開かれ、小さな上段の部屋に息が詰まるほど人が詰め込まれると投票が要求され、結果、1791年1月にエライジャは除外されてしまいます。クレイグ一派は、翌週に会合を開き、クロッシングス教会と呼ぶものを組織し、新しく選ばれたレディング牧師を含む多数派を除名しました。こうして二つの党派が決起し、それぞれがクロッシングス教会を名乗りました。けれども、両者は賢明なことに思慮深く利害関係のない同胞の助言を求めてすぐに秩序と平和を取り戻します。エルクホーン協会からジェームス・ギャラードを委員長とする委員会が任命され、1791年9月7日にグレート・クロッシングスで会合が開かれると、この難題を上手く調整したようです。それでも何かに納得がいかなかったのか、エライジャはクロッシングス教会を離れ、1795年9月の第4日曜日に元クロッシングスのメンバー35人と一緒にマコーネルズ・ラン・バプティスト・チャーチの構成に参加しました。この教会はやがて移転してスタンピング・グラウンド・バプティスト・チャーチと改名されることになります(更に後にはペン・メモリアル・バプティスト・チャーチとなった模様)。

エライジャはその後も事業を拡大し、4000エーカー(16km2)以上の土地とそれを耕すのに十分な奴隷労働力を所有するまでになっていました。彼は多くの南部バプティストと同様に奴隷制度からひっそりと利益を得ていたようで、1800年の納税記録によると上記の土地と「11頭の馬、そして32人の奴隷」を所有していたとされます。また、最終的にはフランクフォートで小売店やらロープ工場も営んでいたようです。しかし、彼のウィスキーは地元で評判が良かったとは伝聞されていませんし、他の事業も必ずしも順風満帆とは言えず、実業家としてのエライジャはあまり成功していませんでした。ケンタッキー大学の特別コレクションにあるイネス判事の判例集には、エライジャには多くの借金があり、その借金を巡って人々が彼から金を巻き上げようと何度も裁判を起こしたことが記されているそうです。彼はケンタッキー州が開拓され始めた厳しい経済情勢の中で生きていました。独立戦争後のアメリカでは通貨を手に入れるのが難しく、ケンタッキーのような辺境地では尚更そうでした。そんな中で多くのビジネスを展開し、多くの負債を抱えたパイオニアでした。1808年5月13日、エライジャは「健康状態は良くないが、健全な精神と記憶力を持っている」とし、口述の遺書を残しました。彼は死ぬまでにかなりの財産を失い、その遺言によると、子供たちに残した奴隷はハリーという名の男の子一人だけだったと言います。彼は晩年まで説教を続けながら、1808年5月18日にジョージタウンで貧しい男として亡くなり、おそらく同地に埋葬されました。5月24日、ケンタッキー・ガゼット紙の編集者は短い弔辞の中で「彼は極めて活発な精神を持っていたが、彼の全財産は自らの計画を実行に移すために費やされ、結果として彼は貧しい死を迎えた。もし美徳というものが我ら同胞の市民の役に立つことであるならば、おそらくクレイグ氏ほど徳の高い人物はいなかっただろう」と讃えています。エライジャと同じ時代を生き、同じくバプティストの牧師だったジョン・テイラーは『10のバプティスト教会の歴史』の中で「エライジャは3人(即ちルイス、ジョセフ、エライジャのクレイグ3兄弟)の中で最も優れた説教者と考えられており、ヴァージニア州のとても大きな協会でエライジャ・クレイグは数年間もっとも人気のある人物でした。彼の説教は最も厳粛なスタイルで、その外貌は死から蘇ったばかりの人のようであり、精巧な衣服、細い顔、大きな目と口、非常に素早い話し方、話し声でも歌い声でもその甘美な旋律は全てを圧倒し、彼の声が引き伸ばされると大きな音のスウィート・トランペットのようでした。彼の説教の偉大な恩寵はしばしば聴衆の涙を誘い、多くの人々が彼の説教によって主に立ち返ったことは間違いないでしょう。彼は兄弟の誰よりも遅い時期にケンタッキーに移り住み、投機に走ったため汎ゆる面で害を及ぼしました。彼は兄のルイスほど教会の平和維持者ではなく、それ故に問題が生じましたが、40年ほど牧師を務めた後、おそらく60歳をそれほど超えないうちに死によって全ての問題から解放されました」と語っています。

2023-03-12-06-32-43-241
偖て、そろそろ現在のエライジャクレイグ・スモールバッチのラベルにも堂々と書かれている「バーボンの父」の件について見て行きましょう。
バーボン神話で最も根強いものの一つが、エライジャ・クレイグに関する伝説です。その典型的な例としてアレクシス・リシンの『ワインとスピリッツの新百科事典』を引用すると「アメリカの植民地時代の初期、バプティストの牧師であったエライジャ・クレイグはケンタッキー州ジョージタウンにスティルを設置し、コーンをベースにしたウィスキーの製造を始めた。このスティルはケンタッキー州で最初の一つと言われ、近隣の町の顧客は彼の製品を産地の郡からバーボン・カウンティ・ウィスキーと命名した」とあります。この主張の問題点としてすぐに目に留まるのが「ジョージタウンにスティルを設置し」たと言いながら「産地の郡からバーボン」と名付けられたとしている部分です。ジョージタウンはバーボン郡にはありません。エライジャは1782年頃にフェイエット郡に移り(***)、1789年頃にそこに蒸溜所を設立しました。初期のケンタッキーで行われた郡の境界線変更の際、旧来の大きな郡から新しく小さな郡が作られた訳ですが、この周辺の郡の成立の歴史をざっくり追うと以下のようになります。
ケンタッキーは、13植民地がイギリスからの独立を果たした後、1776年から1777年に掛けてヴァージニア州の郡として形成されました。ケンタッキーに改名される前は当初ヴァージニア州フィンキャッスル郡と呼ばれていました。1780年、ケンタッキー郡はフェイエット郡、リンカーン郡、ジェファソン郡に分割されます。その後、1788年にフェイエットの一部が分離してウッドフォード郡になりました。この郡名はヴァージニア出身のアメリカ独立戦争時の将軍であり1780年に戦争捕虜となっている時に死亡したウィリアム・ウッドフォード将軍に因んで名付けられています。1792年には更にその郡域からスコット郡が設立されました。つまりエライジャの関与したジョージタウン、ロイヤル・スプリング、グレート・クロッシング等はスコット郡となった場所にあり、バーボン郡にはなかったのです。ちなみにバーボン郡は1785年にフェイエット郡を分割して成立しました。バーボンとフェイエットの両郡は、フランスのブルボン王家とフランス貴族であった独立戦争の名将ジルベール・デュ・モティエ・ド・ラ・フェイエットに敬意を表して命名されており、ともにフランス由来の郡名という共通点があります。その後、1789年にメイソン郡が成立するとバーボン郡の領域はほぼ半分になり、1792年にケンタッキーが州として成立するとクラーク郡とハリソン郡によって再び分割されました。更に1799年にメイソン郡とバーボン郡からニコラス郡が形成されると、もとは巨大だったバーボン郡は非常に小さな郡になりました。
1780
1790
1800
(KENTUCKY ATLAS & GAZETTEERより)

郡名の間違いは扠て措き、エライジャがバーボンの創始者であるという神話は、1874年出版のルイスとリチャード・ヘンリー・コリンズが著した『ケンタッキーの歴史』に由来しています。その本の中で「ケンタッキーの最初のもの」という見出しの短い文章がびっしりと羅列されたうちの一つに「最初のバーボン・ウィスキーは1789年にジョージタウンのロイヤル・スプリングにあるフリング・ミルで製造された」とあるのです。この文でコリンズ父子はエライジャの名前を挙げてはいませんでしたが、前二つのパラグラフで、クレイグ牧師が1789年にジョージタウンで最初のフリング・ミル(毛織物の製造工場)と最初のロープ・ウォーク(ロープ製造に必要)を設立し、ペーパー・ミル(製紙工場)をパートナーと建設したと書いているため、バーボンの発明者は彼であるとされました。この記述が発表されて以来、コリンズ以降の郷土史家や作家達はこの主張を額面通りに受け入れて忠実に再現し、ほぼ1世紀に渡ってエライジャを「バーボンの父」と見倣して来ました。しかし今では著名なバーボンの歴史家によってその件は否定されており、バーボン系ライターや蒸溜関係者もメディアにエライジャがバーボンを発明したのではないと明言しています。
コリンズの「最初のバーボン・ウィスキー」に対する主張は上に引用した一文のみであり、見ての通り余りに簡潔に書かれ、詳しい説明も補足的な検証も全くありませんでした。エライジャをよく知っていて税金関係の被告として彼を法廷に立たせたハリー・イネス判事の書類にもそれを証明するものはないそうです。また、エライジャ自身は生涯で一度もバーボンの製法を開発したと主張をしたことはありません。歴史家のヘンリー・G・クロウジーは、著書『ケンタッキー・バーボン、その初期のウィスキーメイキング』(オリジナルは1971年に発表した論文)に於いて、エライジャは「同時代の殆どの人が造っていたのと全く同じ種類のウィスキー、つまり当時の穀物の入手し易さに応じた純粋なコーン・ウィスキーもしくは少量のライを加えたコーン・ウィスキーを造って」おり、エライジャ「(や当時の他の誰か)がウィスキーの貯蔵で熟成と色の両方の利点を最大限に引き出すために樽を意図的に焦がしていたことを示す有効な証拠を知らない」と述べていました。更に「おそらくエライジャが最初のバーボン・ウィスキーを造らなかった最も決定的な証拠は、1827年9月10日にフランクフォートで開かれたジャクソン・ディナーでルイス・サンダースが買って出た乾杯の際の式辞にある」として、サンダースの「ケンタッキー州ジョージタウンの創設者エライジャ・クレイグを偲ぶ。哲学者でありクリスチャン、彼の時代に有益な人物。彼はケンタッキーで最初の製糸工場とロープウォークを設立した。栄誉ある者には栄誉を」という言葉を引用しています。1810年頃にサンダースはマーサー郡に当時最大の蒸溜所の一つを所有していたのだから、エライジャによる「最初のバーボン・ウィスキー」についても知っていた筈で、その件がそこで言及されていないのはおかしいという訳です。兎にも角にも、エライジャがウィスキーを製造していたことは、1798年にウィスキーに対する連邦物品税の不払いで米国地方裁判所から140ドルの罰金を科されたことから確かでしたが、彼のウィスキーが当時ユニークな存在であったとか、辺境の地で造られていた未熟なコーン・ウィスキーを彼がバーボン・ウィスキーに昇華したという証拠は何もないのでした。
それでも、バーボン・ライターのチャールズ・K・カウダリーはもう少し突っ込んだ考察をしています。そもそもコリンズらは「バーボン・ウィスキー」という言葉を定義することなく使っていました。バーボン・ウィスキーに関する最初の記述は1821年。バーボン最大の特徴は炭化させた新しいオーク材の容器に入れ熟成させることですが、この炭化技術がウィスキーに使用された最古の記録は1826年。ざっくり言うと「バーボン・ウィスキー」という名称は19世紀初頭にはその地方のウィスキー全てに適用され、現在バーボンと呼ばれるウィスキー・スタイルに進化したのは世紀の半ばくらい、そしてバーボンが地域性を超え更なる一般的知名度を得たのは南北戦争後と見られます。それ故、1874年にコリンズが何の説明もなくバーボン・ウィスキーという言葉を使用したのは、読者が自分と同じようにこの言葉を理解すると確信していた可能性が高いでしょう。そうなると、その「バーボン・ウィスキー」は当時も今と同じ意味に思えます。カウダリーはそうではないかも知れないと仮定し、更になぜコリンズがエライジャの名前を出さずに明らかにエライジャを指し示したのかの謎を解明しようとします。コリンズがバーボン・ウィスキーについて言及している「ケンタッキーの最初のもの」というタイトルの章は余談というのか軽い読み物のように見えるので、カウダリーはそれを杜撰な調査に基づく真剣に扱わなかったものだと思っていましたが、もしコリンズがもっと目的意識をもって何かを意図していたらどうだろうか、と問い直すのです。そこで考えるヒントとして取り上げられるのが、クロウジーの著書で軽く触れられているエライジャがイネス判事に宛てた1789年3月の手紙で、そこにはペンシルヴェニアから或る男が「コーンを作りに来る、(そして)もうすぐ連絡があると思う」とあります。クロウジーは、クレイグ牧師がコーンの収穫を指していた可能性もあるが、その距離を考えると、この待たれる訪問者がコーン・リカーを蒸溜しに来たと考える方が自然だ、と述べています。もしかするとコリンズがエライジャの名前を出すのを憚ったのは、このペンシルヴェニアから来る男がエライジャの命令で酒を造ったのであって、クレイグ自身によって酒造りが行われていなかったからでは? この男がペンシルヴェニアから来たというのがポイントで、ペンシルヴェニアはケンタッキーがコーンの産地として知られているようにライ・ウィスキーの製造で名高い。今日、殆どのバーボン・ウィスキーには8〜15%の少量のライ麦が含まれていますが、これは飲料に風味を与えるためフレイヴァー・グレインと言われ、少し熟成させるか或いは全く熟成させなくても、コーン・ウィスキーでもライ・ウィスキーでもないバーボン・ウィスキー特有の風味があります。そこでカウダリーは、おそらくクレイグ牧師のフリング・ミルにいた謎の男がコーンとライを結び付け、それこそがコーン・ウィスキーとバーボン・ウィスキーの最初の違いとなったのではないか、そしてコリンズが「ケンタッキーの最初のもの」のページで示した1789年の革新は意図的にライ麦をレシピに加えたことにあったのではないか、と。まあ、これは実証性の乏しいただの仮説です。しかし、少なくとも歴史の何処かの段階で誰かが似たり寄ったりなことを行った可能性は十分あり、興味深い考察になっています。

それにしても何故エライジャが創始者の役に選ばれたのでしょうか? 当時の殆どの農民蒸溜者は物事を記録する習慣がなかったか、或いはあってもレシピは秘密裏に家族用の聖書に書き留めるなどして受け継がれていたと推測されています。そのため今後も、余程の資料が発掘されない限り、バーボンの生みの親を学術的に特定することは不可能と思われます。だから「バーボンは名もなき農民達の間で自然発生的に誕生した」とでもしておくのが最も穏当なバーボン誕生秘話になりそうなところ。しかし、それではロマンに欠けるし訴求力がありません。アメリカン・ウィスキーの研究家サム・コムレニックは、幾つかの資料から1789年までにこの地域には他にもディスティラーがいて土着のコーンや他の作物を使ってウィスキーを造っていた筈だが、なぜ彼らの名前が覚えられていないかと言えば、おそらく彼らは蒸溜以外の他の企業を経営していなかったこともあり、エライジャ・クレイグ牧師のような影響力や知名度を持っていなかったからだろう、と述べています。エライジャの時代にはウィスキー造りは当たり前に行われ、経済的にも個人的にも必要なものと見倣されていました。しかし、後のコリンズの時代にはウィスキーの消費や製造が物議を醸すようになっていました。1850年頃にウィスキーが社会的に受け入れられる最盛期を迎えると禁酒運動も同時に急成長し、プロテスタントの教派や禁酒を唱える人々からの圧力によって公認の場でウィスキーは下品なトピックとなっていたのです。そこでエライジャの社会的立場が「ウェット」勢力に都合よく利用されることになったのではないかと歴史家は考えています。バーボンの歴史家マイケル・ヴィーチはエライジャ・クレイグ物語の始まりについて「1870年代、蒸溜酒業界が禁酒運動と戦っていた時、彼らは彼(エライジャ)をバーボンの父と宣言することにしたんです。彼らは考えた、ふむ、バプティストのプリーチャーをバーボンの父にして禁酒派の連中に対処させようってね」と語っていました。カウダリーも「コリンズ自身はウィスキーを非合法化する禁酒主義者に同調していたが、蒸溜業者とその支持者は、バーボンは尊敬されるバプティストの牧師によって“発明された”という彼の主張をすぐに受け入れた。このことはコリンズがバーボンの発明をクレイグに帰する理由を説明するものではないが、この伝説がなぜ続いているのかを説明するものです。言うまでもなく今この神話を守り続けることは或る蒸溜所の利益となる」と指摘しています。
この神話には禁酒法後にも信憑性が与え続けられました。ウィスキー・ライターのフレッド・ミニックによれば、1934年2月13日付のルイヴィル・クーリエ・ジャーナル紙にコリンズの本が紹介され、そこには「歴史家は1789年にジョージタウンのエライジャ・クレイグ牧師のミルで最初のバーボン・ウィスキーが造られたことを指摘している…」とあり、その後もエライジャのバーボン発明に関する言及は業界がバーボンをアメリカ独自の製品にしようと運動していた1960年代に増加し、1958年から1968年までバーボン・インスティテュートはクレイグが1789年4月30日にバーボンを発明したという伝説を絶えず使って広報キャンペーンを展開したそうです。おそらくこの間のどこかで、バーボンと言えば最大の特徴は炭化させた新しいオーク材の容器に入れ熟成させることですから、エライジャをバーボンの創始者に仕立てるべく、例の「焦した樽」から生まれた「レッド・リカー」のお話が優秀なマーケティング・ライターの手によって、バーボン業界を宣伝するために創作されたり追加されたりして行ったのではないでしょうか。つまりエライジャ・クレイグの伝説は広告代理店の会議室で生まれたのかも知れないと言うことです。幸いなことにその頃は、蒸溜業者の「小さな嘘」を糾弾する風潮もなければ、インターネットで個人の見解が広まることもありませんでした。そして、人気のあるプレミアムなバーボンには物語が必要であり、バーボン業界は事実が優れたマーケティングの邪魔になる業界ではないため、ヘヴンヒルはその神話を使い続けた、と。ちなみにエライジャのバーボンに関する有名なエピソードは、語り手によって多少のヴァリエーションがありますが、纏めると概ね次のようなものです。

エライジャ・クレイグは1789年に蒸留所を開設したが、その年の6月14日に納屋の一部が焼失してしまった。その納屋にはウィスキーの空き樽(もしくは樽材となるステイヴ)が幾つか置かれていた。それらの中には内側だけ燃えているものや、外側はそれほど焦げていないものがあった。倹約家であったエライジャは、焦げてしまった樽をウィスキーの容器として使うには十分だと判断し、そのまま使用することにした。当時のウィスキーは通常、荷馬車で運ばれるか、或いは多くの場合、川を下るフラットボートで運ばれる。6ヶ月かけて目的地のニュー・オーリンズまで運ばれたウィスキーは新しい個性と風味と色をもっていた。消費者はそれをバーボン郡から来た「レッド・リカー」と誉めそやした。そして、人々はこの円やかで美しいウィスキーを求めるようになった。エライジャは自分のウィスキーにいつもと違うことをしなかったので、後にそれが焦げた樽のせいだと考えた。以来、彼はこの製法を使い続けるようになり、北の市場で売るためにニュー・オーリンズから届く魚や塩または砂糖を貯蔵していた使い古しの樽を買うと、樽の内側をわざと焦がした。すると魚の臭いが消えるだけでなく、樽が殺菌され、焼かれたことでステイヴ中の糖分がカラメル化された。
2023-02-28-23-25-27-917
(エライジャクレイグの公式ウェブサイトより)

おそらくバーボンの英雄譚としては、エライジャ・クレイグの人生の物語はそれほど魅力的なものではないでしょう。実際の蒸溜の手腕に関する歴史的資料はなく、バーボンの発明についても後付ですから。しかし、宗教的自由に関する革命前の出来事への関与とアメリカの初期バプティスト教会の発展に於ける功績、ケンタッキー州で最も早く最も熱心に産業を築いた貢献などは、彼を注目に価する人物にしています。バーボン伝説がどうであれ、それはエライジャ・クレイグの業績や信用を落とすものではなく、彼は称えられるに相応しいパイオニアの一人であり、初期ディスティラーの一人でした。
ついでなので、ここでバーボンの創始者とされることのあるその他の人物の名を挙げておくと、ジェイコブ・スピアーズ、ダニエル・ショーハン、ワッティ・ブーン、ダニエル・スチュワート、ジョン・ハミルトン、マーシャム・ブラシアー、ジョン・リッチー等がいます。また、歴史家からは通常は除外されますが、エヴァン・ウィリアムスもそう言われることがあります。この中で有力候補となっているのがジェイコブ・スピアーズです。コリンズの『ケンタッキーの歴史』のバーボン・カウンティの頁では、数行の短い文章ですが、バーボン郡の最初の蒸溜所は1790年頃ペンシルヴェニアから来たジェイコブ・スピアーズらによって建てられたとあります。1800年代の「ケンタッキー州で最も古い蒸溜所」と題された新聞記事には「この粗雑な蒸溜所で、史上初のバーボン・ウィスキーが蒸溜された。それはバーボンとケンタッキーの名を地球上の最も遠い場所で有名にする運命にある製品だった」とあり、スピアーズの子孫も少なくともバーボン郡にちなんでバーボンという名前を思い付いたのは彼だと言っているそうです。また、ケンタッキー州議員のヴァージル・チャップマンは、禁酒法後の食品、医薬品、化粧品の規制に関する1935年の議会公聴会で「正確な歴史的事実として、ケンタッキーが州に昇格する2年前の1790年に、私が現在住んでいるケンタッキー州はバーボン郡で、ジェイコブ・スピアーズという男がストレート・バーボン・ウィスキーを製造していたことを私は知っています。そしてそれがバーボン郡で造られたことから、そのタイプのウィスキーは、〜(略)〜、以来ずっとバーボン・ウィスキーと呼ばれるようになりました」と演説しました。このようにバーボン誕生の功績はスピアーズのものとされている訳ですが、これまたエライジャと同様、スピアーズ創始者説も完璧な証拠がある筈もなく、そもそもコリンズの一文の年代は「頃(around)」と書かれ、建設年代を正確に記録したものではありませんでした。おそらくバーボン郡の住人間で伝承された逸話が時代を経るごとに真実として扱われるようになったのではないかと思われます。とは言え、スピアーズがバーボンの生みの親ではないにしても、少なくともケンタッキー州最初期の最も重要なディスティラーの一人であることは間違いないでしょう。なので、軽く紹介しておきます。
2023-02-28-01-45-55-805_copy_245x306_copy_98x122
ジェイコブ・スピアーズ(1754〜1825年頃)は、幾つかの職業に従事した人物で、農民であり、ディスティラーであり、ブルーグラス種子の販売者であり、高級馬のブリーダーでした。姓のスピアーズ(Spears)は「Spear / Speer / Speers」と表記されることもあります。ジェイコブは独立戦争(1775〜1783年)の退役軍人で、1782年のサンダスキー遠征ではウィリアム・クロフォード大佐の連隊のホーグランド大尉の中隊に所属しており、後に軍曹としてジョセフ・ボウマンの中隊に加わってその部隊と共に現在のマーサー郡ハロッズバーグまで旅をし、そこでジョン・ハギンからバーボン・カウンティとなる土地を購入したと言います。ジェイコブと親族らはペンシルヴェニア州南部に住んでいたようですが、1780年代後半にそこへ移住しました。1790年頃、バーボン郡パリスのすぐ北、静かなクレイ=カイザー・ロードの田園地帯に、同じバーボン郡の住民で後に第10代ケンタッキー州知事になったトーマス・メトカーフが、ジェイコブ・スピアーズのために石造りのフェデラル様式の家(ゴシック・リバイバル様式の増築部分あり)を建てました。スピアーズの邸宅はストーン・キャッスルとも呼ばれました。道路を挟んだ向かい側には、嘗て最大で2500バレルのウィスキーが貯蔵され、或る時期に納屋に改築された前面が完全に石造りの小屋が今でも残っています。
800px-Jacob_Spears_House_—_Bourbon_County,_Kentucky
(元スピアーズの邸宅。Wikimediaより)
Jacob_Spears_Distillery
(元ウィスキー倉庫の納屋)
スピアーズは夫として妻のエリザベスと共に農場で6人の子供を育て、ディスティラーとしてはウィスキーの生産を続け、二人の息子ノアとエイブラハムにリッキング・リヴァーに繋がるクーパーズ・ランでウィスキーの樽をフラットボートに積ませると、そこからオハイオ・リヴァーとミシシッピ・リヴァーを経て遠くニューオーリンズまで人気のある製品を高値で売り捌きました。ノアはウィスキーをニューオーリンズに運び、売った後は強盗やインディアンが蔓延るナチェズ・トレースを歩いて帰り、この旅は13回にも及んだと言います。一度だけ、16歳の弟エイブラハムも同行したことがあるらしい。ジェイコブは1810年にバーボン・ウイスキーと命名したとの情報もありました。1810年のバーボン郡の国勢調査では、128の蒸留所があり、146000ガロン以上のウイスキーを生産し、48000ドル以上の価値があったとされています。ジェイコブ・スピアーズは1825年9月に亡くなりました。蒸溜所の運営は息子のソロマンが続け、後にエイブラム・フライに売却されました。1849年になるとウィリアム・H・トーマスが農場と蒸溜所を購入し、1882年まで操業しました。1881年当時、トーマスの蒸溜所は900樽のバーボンを生産していたそう。

(参考─1960〜70年代製と見られるT.W.サミュエルズ蒸溜所名義の未使用のオリジナルECラベル)

では、次はエライジャクレイグというバーボン・ブランドについて見て行きます。このブランドは禁酒法終了後すぐに投資家グループによって設立されたヘヴンヒルが現在所有していますが、エライジャクレイグの商標は1960年にコモンウェルス・ディスティラーズが初めて登録したとされます。このコモンウェルス・ディスティラーズというのがよく分からないのですが、おそらくローレンスバーグやレキシントンの「コモンウェルス蒸溜所」とは別でしょう。彼らはT.W.サミュエルズのブランドも所有していたとされるので、カントリー・ディスティラーズの別名なのでしょうか? 仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。それは措いて、蒸溜所のウィスキー蒸溜停止の時期(1952年)を考えると、このブランドをディーツヴィルのT.W.サミュエルズ蒸溜所が実際に生産したことはないと思われ、上の「参考」は使用されることのなかったサンプル・ラベルで蒸溜所の昔の従業員のものだろうと考えられています。逆に、当時の新聞広告でブランド名の入ったボトルが5ドル以下で売られていたのが見つかったという情報もありました。真相は判りませんが、歴史的なブランドを多数購入してそれぞれの遺産を存続させるために最善を尽くすヘヴンヒルが1976年にエライジャクレイグの商標を取得し、1986年にリリースされるまで決して活発なブランドではなかったのは間違いありません。
ところで、日本語で読めるエライジャクレイグのネット上の情報ではよく「製品化されるまでに25年かかった」という意味合いのことが書かれています。1997年発行の『ザ・ベスト・バーボン』には「企画からなんと25年もの歳月をかけて製品化された」とあります。もう少し前の1990年に発行されたムック本『ザ・バーボン PART3』のエライジャクレイグ特集にも「計画をあたためることニ五年。いよいよ製造にかかってからも、蒸留後さらに十ニ年、じっくり寝かせたというから、満の持し方も並ではない」と書かれており、もしかするとこの記事が情報源なのかも知れない。その記事では現地に赴いて当時まだ副社長のマックス・シャピラに取材しているようなので、何かそういった紹介のされ方をしたのではないでしょうか。私は初めてこの手の情報に接した時、え?ちょっと待って、エライジャクレイグ12年は文字通り12年熟成だからウィスキーの熟成に25年掛かった訳ではないし、マッシュビルも酵母もヘヴンヒルのスタンダードなものと一緒だろうから何かを新開発した訳でもないし、仮に熟成年数の12年を25年から引いて13年だったとしても、ブランディングの企画や樽選びだけに13年も掛けていたら怠慢な仕事ぶりと言うしかなくないか?いったい何を開発するのに25年もの月日を費やしたと言うのだろうか?と思いました。けれどもこれ、初めての商標登録が1960年、発売が1986年と判ってみると、エライジャクレイグというブランドが世に出るまでの、或いは復活するまでの、この約25年の歳月のことを指して言っていただけなのね、と合点がいきます。

2023-02-28-23-24-45-330
(ヘヴンヒルのウェブサイトより)
80年代の本国アメリカでのバーボン暗黒時代、安価なバーボンが大半を占める状況下で、ヘヴンヒルは質の低いウィスキーという評判から脱却するために長期的な戦略を立て、バーボン人気復活を賭けてエライジャクレイグ12年を1986年に発売しました。このバーボンは1984年のブラントンズ、1988年のブッカーズと共にプレミアムもしくはスーパー・プレミアム・バーボンの魁となり、現在のバーボン・ルネッサンスの始めの一歩を築いたブランドの一つとして評価されています。そうした先見性に基づいて、1990年代半ばには18年物のシングルバレルのエライジャクレイグも発売しました。当時はまだ日本を主とする海外市場と極く一部のマニアにしか長熟バーボンの人気はなかったので、これまた賭けに近い製品でした。しかし、ヘヴンヒルの戦略は当たり、今ではプレミアムな長熟バーボンは尊敬の対象となっているのは言うまでもないでしょう。
2000年代に入り徐々に回復して行ったバーボンの売上は、2010年代に入ると止めようもない勢いになりました。市場の好転はバーボン業界の誰もが待ち望んだものだったかも知れませんが、成功には犠牲も付き物です。ちょっと前まで酒屋の棚で埃を被っていたバーボン・ボトルは、2010年代半ばには、需要に供給が追いつかなくなり、発売以来続いていたエライジャクレイグ12年のエイジ・ステイトメントが剥奪されることになりました。世界第2位のバーボン供給量を誇るヘヴンヒルであっても、ブランドが大きく成長し続けるにつれ、12年バレルの在庫は逼迫して来た、と。そこで、ヘヴンヒルは慎重に検討した結果、このブランドをより多くの消費者に提供するため、8〜12年熟成のバーボンを使用してボトリングすることを2016年1月に発表しました。これによりエライジャクレイグ・スモールバッチの入手し易さを維持し、12年熟成のエライジャクレイグ・バレルプルーフの割り当てを大幅に増やし、長熟シングルバレルの供給量も確保することが出来ました。しかし、その一方で問題がない訳ではありませんでした。エライジャクレイグ12年はバーボン界隈では品質の高さと価格の安さを両立したブランドとして知られていましたが、その品質の部分は12年熟成に依存していたと言っても過言ではないでしょう。また、誇らしげな年数表記を掲げていたこともイメージ向上の一因だったに違いありません。であれば、それがなくなった時には悲しみや怒りの声が上がるのは必然でした。この件は以前投稿した現行ボトルのレヴューにて取り上げましたので興味があれば覗いて下さい。それと、ここまでの流れの中でヘヴンヒルの対応の不手際もありました。トップ画像のような表ラベルに「12年」が記載されている物は通称「ビッグ・レッド12」と言われていますが、実はそのラベルからNASのシュッとしたボトルにリニューアルされるまでの期間には幾度かの僅かなラベルの変更があります。先ず、2015年4月頃に表ラベルから謎に12年の表記が消え、熟成年数の記載は裏ラベルに移って目立たないようになりました。それを発見したバーボン愛好家およびエライジャクレイグ愛好家たちはNAS移行への前触れではないかと疑いました。他の会社がそういう事をしていたからです。2015年6月頃の時点でヘヴンヒルは、ラベルの変更がエライジャクレイグをNASに移行する計画の一部であることをきっぱりと否定しました。しかし、それはたった7カ月で覆され、実際にNASとなったのです。一部の人々は裏切られ、嘘をつかれたと感じました。この変更は単に需要による熟成バレルの逼迫に対応したものだ、という説明は都合よくでっち上げられた話に違いない、2016年1月現在バーボンの爆発的な人気によるプレッシャーは当然あるだろうが、それは2015年6月時点でも同じだっただろう、彼らがエライジャクレイグをNASに切り替えているのは今日の需要や近い将来の需要のためではなく、単純に将来の販売目標を達成するためだ、と。まあ、そういう声が上がったとは言え、これ以降もバーボン・ブームは衰える気配を見せず、本記事の冒頭でも紹介したようにエライジャクレイグのブランドは製品ヴァリエーションを拡張し続け、今も人気を保っています。

上でラベルの話が出たので、細かいことは除いてその変遷をざっくり纏めておくと以下のように大別できるでしょう。

①12年の表記が下方にある楕円形のラベルのもの。これがオリジナル・デザイン。
②ラベルの形状が瓶と同じような形になり、12年の表記がラベル中央の位置に移ってその左右にスモールバッチとあるもの。2012年4月頃から流通し始めた。
③上と同じボトル/ラベル・スタイルながら、表ラベルから12年の表記が消えてバレルのイラストに置き換えられ、裏ラベルにのみ12年熟成した旨が記載されたもの。2015年4月頃から流通し始めた。
④上と同じボトル/ラベル・スタイルながら、裏ラベルから熟成年数の記述がなくなったもの。主に2016年に流通。
⑤現行の背が高く厚みが薄いスタイリッシュにリニューアルされたボトル/ラベルのもの。2016年末もしくは2017年初頭から流通し始めた。

2023-03-07-00-45-44-225

もしかすると、下画像に見られるフロントにスモールバッチ表記のない②型ラベルが、①から②の移行期間にあったかも知れません。或いはこれは輸出向けのラベルで②と並行して存在していたのかも。私には詳細が判らないので、ご存じの方はコメントよりご指摘下さい。また、上の日付に関してもあまり自信がないので正確に判る方は一言もらえると助かります。
2023-03-10-18-28-50-030_copy_174x258

最後に中身についても少しだけ言及しておきます。最もスタンダードなオファリングである12年およびNASスモールバッチを上のラベルのように中身の違いで大別すると、こちらは3つに分けて考えることが出来そうです。

⑴バーズタウン産の12年熟成物、ラベル①に相当
⑵バーンハイム産の12年熟成物、ラベル②③に相当
⑶NASの8〜12年熟成物、ラベル④⑤に相当

よく知られるように、ヘヴンヒルが長らく本拠地としていたバーズタウンの蒸溜所は1996年の歴史的な大火災によって焼失し、1999年にルイヴィルのニュー・バーンハイム蒸溜所を買い取ることで蒸溜を再開しました。そのため、バーズタウンで蒸溜された物は「プリ・ファイアー」と呼ばれています。96〜99年の蒸溜所がなかった期間はジムビームとブラウン=フォーマンが蒸溜を代行していました。彼らの蒸溜物がエライジャクレイグに使われているのかは定かではありませんが、もし先入れ先出し方式的に?それらのバレルも均等に使われていたのなら、⑴と⑵の間にジムビーム及びブラウン=フォーマン産が入り、ラベル①の最後期と②の最前期あたりは彼らの原酒だった可能性はあることになります。マッシュビルに関しては、バーズタウンの旧蒸溜所産のものが75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーとされ、ルイヴィルのバーンハイム蒸溜所に移ってからは78%コーン、10%ライ、12%モルテッドバーリーに変更されたと言われています。それと、これまた判然とはしませんが、ヘヴンヒルは業界の流行語になるかなり前(25年前?)から「スモールバッチ」でのボトリングを行っていたと主張していますし、エライジャクレイグが発売された当初に限定生産とされていたことを考慮すると、バーズタウンで製造されていた初期の頃は70バレル程度のバッチングだった可能性はありそうで、おそらくその後どこかの段階で100バレル程度になり、ボトルをリニューアルした頃にはバッチサイズを100バレルから200バレルに増やしたとされます。
ところで、味わいに関してバーボンは、同じマッシュビルから造られ、同じ期間熟成されたとしても、立地場所や建物の材質が異なるリックハウスで熟成されると、明らかに異なる味わいになることが知られています。ヘヴンヒルは現在57棟のリックハウスを6つの場所で使用しています。その内訳は、バーズタウンのヘヴンヒル・サイトの20棟、ルイヴィルのバーンハイム蒸溜所の7棟、コックス・クリークの10棟、ディーツヴィルの元T.W.サミュエルズ蒸溜所の9棟、元フェアフィールド蒸溜所の9棟、元グレンコー蒸溜所の2棟です。このうちバーンハイムのみが煉瓦造りで、他は木造プラス金属の屋根とサイディングの組み合わせ。嘗てのマスター・ディスティラー、パーカー・ビームはディーツヴィルの熟成庫がお気に入りだったとされ、エライジャクレイグのプライヴェート・ピックのボトルでは、そこのバレルが選ばれたりもしています。で、通常のエライジャクレイグに使用されるバレルが、何処か決まった一定の場所から引き出されているのか、それともフレイヴァー・プロファイルに基づいて様々な場所から選ばれているのか、私には分かりません。ご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。

では、そろそろ今となっては貴重となってしまったエライジャクレイグの12年物を注ぐとしましょう。今回、私が飲んだのは表ラベルに「12年」が記載されているヴァージョンの後半期の物となります。

2021-05-16-17-35-12
ELIJAH CRAIG Small Batch 12 Years 94 Proof
推定2014年ボトリング。香ばしい焦げ樽、ダークフルーツ、ヴァニラ、ラムレーズン、バーント・シュガー、熟れた洋梨、ベーキングスパイス、杏仁豆腐。アロマは長熟らしい古びた木材とスパイシーなノート。水っぽい口当たりでするりとしている。味わいはウッディで、ややドライ気味。飲み込んだあとから余韻にかけては、穀物の甘みやバターも現れるが、ビターかつ薬っぽいスパイス&ハーブと共にケミカルな辛味が残る。
Rating:85.5(83.5)/100

Thought:そもそもこのボトルは、現行NASのエライジャクレイグ・スモールバッチとサイド・バイ・サイドで味を較べるために開封しました。両者にはかなりの違いがありました。やはり、こちらの方がオークの存在感が強く、深みや複雑さの点に於いては優っているように感じます。けれども、スモールバッチNASのレヴューでも述べたのですが、こちらは長熟樽のビタネスや薬用ハーブぽさが優位であり、単純な甘さやグレイニーなバランスを求めるならNASも捨て切れません。また、サイド・バイ・サイドではないのですが、記憶にある90年代の12年と比べると、こちらは重々しいオークが前面に出過ぎており、昔の12年はもう少しバランスが良かった気がします。樽の材質が違うのでしょうかね? 両者を飲み比べた海外の或る方は、旧来の物は明らかにライを強く感じるという意味合いのことを言っていました。更に、これよりちょっとだけ前(2〜3年くらい?)の「ビッグ・レッド12」と較べても、こちらはやや樽のエグみが強いように思います。色々とエライジャクレイグを飲み比べたことのある皆さんはどう思ったでしょうか? コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。
ちなみに、エライジャクレイグのラベル違い(上で示した①〜⑤)をブラインドで垂直テイスティングする会を催した海外のウィスキー愛好家の方の記事(Diving for Pearls with thekravのエライジャクレイグ・テイスト・オフ)があるのですが、そこでは第1位がプリ・ファイアー12年、同点第2位がフロントラベル12年と旧NASスモールバッチ、第4位がバックラベル12年、第5位が現行NASスモールバッチになっていました。これは執筆者一人の感想ではなく、彼を含む21人のバーボン・オタクもいればそうでない人もいるテイスターによって、それぞれが5つのサンプルを最も好きなものから最も嫌いなものまで順にランキングし、1位が5ポイント、2位が4ポイント、以下5位まで1ポイント減点してゆく形式で行われています。なかなか公正な審査とも思いますので、一般的に概ね旧い物のほうかウケがいいとは言えそうですね。
あと、レーティングの括弧について補足しておきます。私は、基本的には開封してから一年以上は飲み切らないようにして、敢えて瓶内で変化するフレイヴァーを楽しむタイプなのですが、このエライジャクレイグ12年は良い風味が消えるのが速かった印象がありまして、括弧内の数値はその衰えた際の評価です。具体的には、半年くらいで甘い香りとフルーツ感が減退しました。


*バプティストは、イングランド国教会の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派で、日本では「浸礼派」とも訳され、幼児洗礼を認めず、自覚的な信仰告白に基づいて全身を水に浸す浸礼(バプティズマ)をしたことから名付けられています。
バプティストの源流は「ルターの宗教改革は不徹底である」と批判して起こったアナバプティスト(再洗礼派)にあります。遡ること16世紀頃にドイツ、オランダ、スイスなどではカソリック教会や一部のプロテスタントからアナバプティストと呼ばれた人々がいました。「アナ」はギリシア語に由来し、英語で「re-」、漢字で「再」という意味です。カソリック教会や一部のプロテスト教会からアナバプティストと呼ばれる教会に加わろうとした場合、多くの人は聖書的バプティズマに基づかない幼児バプティズマ(幼児洗礼/滴礼)を受けていたために、正しい方法で聖書的バプティズマを受けることを勧めていました。それはカソリックの人々から見れば、幼児バプティズマを含めるとニ度目となるため、アナバプティスト(再びバプティズマを授ける人々)と軽蔑を込めて呼ばれたのでした。当のそう呼ばれた人々は、自分たちがニ度洗礼を施しているとの意識はありませんでした。聖書的な正しい方法でのバプティズマを一度だけ施していると確信していたし、信仰のはっきりしていない幼児に施す洗礼は無効という考えがあったからです。このように聖書の教えに忠実であろうとしたアナバプティストですが、その主張は個人と神との直接的な交わりを他教派から見ると極端に強調し、当時に於いて急進派的な性格がありました。そのためかなりの弾圧を受けたようです。バプティストも本人に信仰の認識のない幼児洗礼は認めていないので、この点では再洗礼派と同様でしたが、その他の信仰性は再洗礼派と直接の関連はなく、寧ろ再洗礼派的な信仰性は行き過ぎと捉えていたようで、政治や軍役から距離をおき、国家や社会的秩序と親和性を持ちながら聖書主義と自覚的な信仰を重視する信仰性を持ったとされます。
バプティスト教会が誕生したのは宗教改革の少し後、17世紀のイングランドでした。16世紀のイングランドではヘンリー8世の離婚問題をきっかけにローマ・カソリック教会から脱退する際、独自の宗教改革によって政教一致のイングランド国教会が新たに誕生しました。イングランドに生まれた人は信仰をもつ前に幼児洗礼が授けられ国教会員になりました。そこでは司祭は国の公務員であり、教会の礼拝も国の定めた方法や順序で行われることが義務付けられました。信仰は自覚的で自由なものではなく制度的なものになっていた訳です。そのような国による信仰の強制に対して抵抗(プロテスト)した人々がピューリタン(清教徒)です。ピューリタンたちは国教会による宗教改革のカソリックとプロテスタントの間を採る中道路線を批判しました。彼らには国教会を内部から改革するグループと外に離れて改革するグループがあり、後者が分離派と呼ばれます。その中にアナバプティストの影響を受けた人たちもおり、彼らが国教会から分派してバプティスト教会を創りました。バプティストは、特に信仰は本人が自覚的に選び取るものであり教会は自覚的信仰者の集まりであること、浸礼を尊重すること、国は個人の信仰に口を出す権威がないこと(政教分離の原則)、牧師は各個教会が決断して支えること、礼拝は聖書を中心に各個教会の信仰に合わせて行うこと、牧師は信徒の一人であり教会は信徒が守ること等を主張しました。ところが、それは国家への反逆を意味し、苦難の歴史を歩むことになったのです。
その後、本国からの迫害から逃れてイングランドの植民地であったアメリカに自由を求める人々が渡って行きました。その中にバプティストの信仰者もいました。しかし、新天地でバプティストは又もや迫害されることになります。1639年、ロジャー・ウィリアムスらによってアメリカ最初のバプティスト教会が設立されました。ウィリアムスは「神はどのような国家においても宗教が統制され、強制されることを求め給わない」と述べ、「信教の自由」や「宗教と国家の分離」を主張しました。この信仰はアメリカ合衆国憲法やその後の国家と宗教の関係について大きな影響を与えています。1730年代に「大覚醒」の時代を迎えると、自覚的信仰を主張するバプティストは大きな発展を遂げ、アメリカで一番大きなキリスト教プロテスタントの宗派になりました。詳しくはウィキペディアの項目を参照ください。

**実際にはエライジャの事業はどれも「最初」とは言い切れないらしいのですが、ケンタッキー州で最も早い時期の事業であったことは確かなようです。

***実はエライジャがケンタッキーに移った年は諸説あり、もう少し後の可能性もあります。

2022-03-14-18-42-58

カークランド・シグネチャーは、1983年に創業した会員制ウェアハウス型店舗コストコのプライヴェート・ブランドです。お酒に限らず食物から日用品まであり、高品質かつ低価格が自慢。その名称はワシントン州カークランドから由来しています。コストコの創業者ジム・シネガルは自社ブランドを立ち上げる際、創業の地であり拠点としていたワシントン州シアトルへの感謝の気持ちを込めて「Seattle's Signature」と名付けることを希望していましたが、法的に承認されなかったため、1987年から1996年までの約9年間に渡って本社があったカークランドをブランド名として採用したのだそう。ブランドのスタートは1995年から。
2022-10-11-18-50-36-050

コストコはアルコール飲料の世界最大の小売業者の 一つと目され、2020年には約55億ドルのアルコール飲料を販売しました。その売上高の40〜50%をワインが占め、残りがスピリッツとビールでほぼ均等に分けられる内訳のようです。自社ブランドのカークランド・シグネチャーは、2003年に最初にワインから始まり、2007年にスピリッツへと拡大したという情報がありました。平均してコストコには約150種類のワインがあり、そのうち30種類がカークランド・シグネチャー・ブランドとされ、スピリッツのセレクションは年間を通じて大きく変動する傾向があるものの平均して約50種類あり、そのうち約20種類が同ブランドとされます。ウィスキーはスピリッツの一部門なのでその数はワインには遥かに及ばないとは言え、識者からはコストコは北米最大のウィスキー小売業者である可能性が高いとの指摘もありました。現在、カークランド・シグネチャーのブランドでスコッチ、アイリッシュ、カナディアン、バーボンなど様々なウィスキーがあります。コストコのオリジナルのバーボンでは、今回紹介するバートンに至る以前に「プレミアム・スモールバッチ・バーボン」というのがありました。それらは生産者名を明確に開示してはいませんでしたが、ラベルにはケンタッキーやテネシーと記載があり、ほぼ間違いなくジム・ビームやジョージ・ディッケルから供給された原酒であろうと見られています。
FotoGrid_20221012_232351723

そして来たる2021年、コストコは再びバーボンの調達先を変更し、バーボンのメッカであるケンタッキー州バーズタウンで「最も古いフル稼働している蒸溜所」として宣伝され、現在サゼラック社が所有するバートン1792蒸溜所と提携、バートン・マスター・ディスティラーズの名の下にそれぞれが異なるプルーフでボトリングされるスモールバッチ、ボトルド・イン・ボンド、シングルバレルと三つのヴァージョンを発売しました(全て1L規格のボトル)。ラベルには蒸溜所やウェアハウスが描かれ、そのパッケージングはかなりカッコいいですね。これらのボトルはアメリカでは2021年半ばからリリースされましたが、日本のコストコには2022年になって入って来たようです。シングルバレルは、一つの樽からのバッチングのためボトリング本数が少ないせいか、日本には入って来ていないと云う情報もありました。本当かどうか私には判りません。皆さんのお住まいの地域のコストコではどうなのでしょう? 見たことがある/ないの情報を是非コメントよりお知らせ下さい(この件に関してコメント頂けました。日本にも入って来てました。詳しくはコメント欄を参照下さい)。
960x0
(コストコより)

偖て、今回はそんなコストコとバートンのコラボレーションによるカークランド・シグネチャーの中から「ボトルド・イン・ボンド」を取り上げます。ボトルド・イン・ボンド(またはボンデッド)は、そもそも蒸溜所と連邦政府がスピリッツの信頼性と純度を保証するために使用したラベル。1897年に制定されたボトルド・イン・ボンド・アクトは、主に商標と税収に関わる法律で、単一の蒸溜所にて、単一の年、単一のシーズンに蒸溜され、政府管理下のボンデッド・ウェアハウスで最低4年以上熟成し、100プルーフでボトリングされたスピリットのみ、そう称することが許される法律でした。ラベルには蒸溜所の連邦許可番号(DSPナンバー)の記載が義務づけられ、ボトリング施設も記載しなければなりません。上の条件を満たした物は緑の証紙で封がされ、謂わばその証紙が消費者にとって品質の目印となりました。紛い物やラベルの虚偽表示が横行していた時代に、ラベルには真実を書かねばならないというアメリカ初の消費者保護法に当たり、結果的にスピリットの品質を政府が保証してしまう画期的な法案だったのです。現在では廃止された法律ですが、バーボン業界では商売上の慣習と品質基準のイメージを活かし、一部の製品がその名を冠して販売されています。
カークランド・シグネチャーのバートン・バーボンのマッシュビルは非公開ですが、おそらくはコーン74%、ライ18%、モルテッドバーリー8%であろうと推測されています。その他のスペックは「Bottled-In-Bond」を名乗りますので、BIBアクトに大筋で従っているでしょう。同じ季節に蒸溜され、少なくとも4年以上の熟成を経て、100プルーフでのボトリングです。海外の或るバーボン愛好家の方は、三つのエクスプレッションは全て一貫したバートン1792のDNAを示すが、バートンの通常のボトリングとは微妙な違いがあるようだ、と言っていました。日本で比較的買い易いバートンのバーボンと言うと、安価なケンタッキー・ジェントルマンやケンタッキー・タヴァーンやザッカリア・ハリス、もう少し高価なプレミアム・ラインの1792スモールバッチが挙げられます。それらと比べてコストコのバートン原酒バーボンがどう異なるのか気になりますね。ちなみに、私はコストコ会員ではないので、今回のレヴューするボトルは友人に頼んで買ってもらいました。ありがとう、Aさん! では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。

2022-04-17-08-58-04-220
KIRKLAND SIGNATURE BOTTLED-IN-BOND (BARTON 1792) 100 Proof
推定2021年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。香ばしい穀物、花火、ヴァニラ、ドライアプリコット、苺ジャム、フルーツキャンディ、シリアル、胡桃、ちょっと塩、一瞬チョコレート。あまり甘く感じないアロマでフルーティ。ややオイリーな口当たり。パレートはなかなかフルーティな甘さもありつつ、フレッシュなアルコール感とウッディなスパイスが引き締める。余韻もウッディでほんの少しシナモンと苦味も。
Rating:85.5/100

Thought:樽感と穀物感と果物感のバランス、甘さと辛さのバランス、ガツンと来る感じ等が凄く自分好みでした。コストコとバートン1792蒸溜所は手頃な価格と高品質の両立という素晴らしい仕事をしたと思います。強いて欠点を探すと、バートンの旗艦ブランドである1792スモールバッチに比べればやや若さがあるところなのですが、その点は個人的にはプルーフが上がっている分で帳消しになっていますし、寧ろグレインの旨味や甘酸っぱいフルーツの風味が味わえて好印象ですらあるかも知れない。サイド・バイ・サイドで較べてはいないものの、1792スモールバッチはおそらくもう少し熟成年数は長いと思います。そして「若い」とは言え、同じバートンのより若い原酒を使ったケンタッキー・ジェントルマンやケンタッキー・タヴァーンやザッカリア・ハリスからは著しい伸長が感じられます。やはりボトルド・イン・ボンドは偉かった。

Value:アメリカでの価格は約25ドル程度のようです。日本だと3500円程度でしょうか。バートンの代表的銘柄であったヴェリー・オールド・バートンが現在はあまり力を入れられてない現状(流通量が少ない)もあって、ちょうどその代替製品となるのはこのコストコのオリジナル製品なのかも知れません。そして、コストコのソースは長年に渡って変化していますし、バートンとの契約が単発での生産なのか、ある程度の期間持続するものなのか、今のところよく分からないので、時間の経過と共に同じものを手に入れることが出来ない可能性があります。他の汎ゆるものでもそうですが、あるうちに買っておくことをオススメします。

IMG_20200422_223548_229

オールド・ヒッコリーはパブリカー/コンチネンタルの主力バーボン・ブランドでした。フィラデルフィアに拠点を置くコンチネンタルは、禁酒法解禁後のアメリカで業界を牛耳ったビッグ・フォーに次ぐ地位を確立した大手酒類会社の一つ。往年、フィラデルフィア地域に住んでいた人々は、ウォルト・ウィットマン・ブリッジのすぐ傍、パッカー・アンド・デラウェア・アヴェニューにあった蒸留所からする強力な匂いを今でも思い出すと云います。橋を渡るとベーカリーのようないい匂いがしたそうな。また当時そこには、橋から見える夜にはライトアップされたオールド・ヒッコリーの大きな看板もありました。パブリカー・インダストリーズとコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションについては以前投稿したリッテンハウス・ライのレヴュー時に紹介してるので、詳しくはそちらを参照下さい。

2020-04-18-21-02-47-219x286
コンチネンタルにはチャーター・オーク、ハラーズ・カウンティ・フェア等のストレート・バーボン、その他に様々なブレンデッドがありましたが、オールド・ヒッコリーが最も売れ、よく知られたブランドだと思われます。「オールド・ヒッコリー」というブランド名はアメリカ合衆国の第七代大統領アンドリュー・ジャクソンのニックネームから由来しています。ラベルの肖像画の人物ですね。米英戦争(1812年戦争)の最中、ジャクソン将軍の忍耐力と力強さは、しっかりと根付いた強靭なヒッコリーの木を思わせたことで、彼は兵士たちから「オールド・ヒッコリー」というニックネームが付けられました。そして以後、友人や信奉者の間でそのニックネームは愛情を込めて呼ばれ知られるようになり、1828年の大統領選挙の成功を収めたキャンペーンでも目立つようにフィーチャーされました。ジャクソン大統領とウィスキーの関係については、それほど多く記録されていませんが、伝え聞くところでは、1799年に彼は合わせて190ガロンを生産できる二つのポットスティルで蒸留を始め、残念ながらこの蒸留所は翌年に火事で焼失し完全になくなり、数年後、今度はビジネス・パートナーとなったワトソン氏の助けを借りて再建したのだとか。それはともかく、彼は米英戦争を終わらせた決定的なニューオリンズの戦い(1815年)に於いて軍を率い、アメリカの独立を維持したことで名声を得、庶民出身の大統領として渾名通りの強情さを発揮しました。アンドリュー・ジャクソンというアイコンの発する「強さ」や「南部」や「非エリート」の香りはバーボンに相応しいものだったのでしょう。

ただし、オールド・ヒッコリーの名称をウィスキーに使い始めたのはコンチネンタルが初めではありませんでした。禁酒法以前から既にその名は見られ、ネット検索で把握できるところでは以下のような物があります。
先ずはジャグ・ボトルのオールド・ヒッコリー・ウィスキーです。ウィスキーのガラス・ボトルでの販売がまだ一般的でなかった時代と思われるそれには、ケンタッキー州マリオン郡の蒸留所から直接~、とデカデカと書かれていました。もう一つはオレゴン州ポートランドの酒類卸業者フレッケンシュタイン=メイヤー・カンパニーの販売していたオールド・ヒッコリー・ウィスキーで、ラベルにはケンタッキー州ウッドフォード・カウンティの記載が見られます。またミルウォーキーの酒類卸業者A・ブレスラワー・カンパニーが自社ブランドでオールド・ヒッコリーを販売していたようです。他にも、ニューオリンズで酒屋をやっていたジェイコブ・グロスマンが販売していたオールド・ヒッコリー・ビターズなるものもありました。なんなら禁酒法時代にはカナダのワイザーズ・ディスティラリー・リミテッドのオールド・ヒッコリー・ライもありました。
おそらくオールド・ヒッコリーという名前は、禁酒法の前後か最中にコンチネンタルが前所有者から購入し、解禁後にブランドを刷新したのだと思います(ミルウォーキーの業者から購入した可能性が高い気が…)。そもそも上記の古いオールド・ヒッコリーたちは「大統領」から来てるのか「木」から来てる名称なのかも定かではなく、コンチネンタル製のオールド・ヒッコリーにしても初期段階と思われるラベルにはジャクソン大統領の肖像画がありません。
2020-04-20-22-01-45
(1936年頃)
コンチネンタル初期のオールド・ヒッコリーにはライもありましたが、その後は造られなくなったようです。そして上画像のストレート・ウィスキーには2年熟成とありました。多分、熟成ウィスキーのストックがなかったからだろうと思います。その後は年を経るにつれて4年熟成になり、オールド・ヒッコリーがコンチネンタルの看板製品となる頃には最低6年熟成のクオリティを守ったようです。通常スタイルのボトルに紙ラベルの物には、同時期流通ではないと思いますが、熟成年数とボトリング・プルーフのヴァリエーションがありました。基本は6年熟成86プルーフとボトルド・イン・ボンドで、他に7年熟成や8年熟成の物、また80プルーフもあったかも知れません。こうした通常品の他にスタイリッシュなグラス・デカンターに容れられたオールド・ヒッコリーも幾つかありました。それらの中でも有名なのはイーグル・キャップ・デカンターとかゴールデン・トロフィーとか呼ばれるやつです。中身のバーボンは10年熟成ですね。
2020-04-21-17-12-29

そしてトップ画像のパネル・ボトルも10年熟成。多分60~70年代頃に流通していたと思います。おそらく、こうした当時としては長期熟成のバーボンを使用したリリースは、当時の多くの蒸留所と同様、需要の減少により倉庫に在庫が蓄積されたために行われたのでしょう。もともと長期熟成を意図したのではなく需要減の副産物として製品化したのが現実かと。しかし、その結果はフル・フレイヴァーをもたらし、バーボニアンの評価するところとなりました。その最たるものが特別なリミテッド・エディションの20年熟成オールド・ヒッコリーでした。発売は70年前後と見られ、逆算すると1950年前後の蒸留ですから、リンフィールドのキンジー蒸留所(PA-12)で蒸留された可能性が高いです。キンジーの元従業員によるとウェアハウスDから引き出されたバレルをボトリングしたものだとか。
2020-04-17-17-52-24

通常のオールド・ヒッコリーはキンジーではなく、サウス・フィラデルフィアのコンチネンタル・プラント(PA-1)で造られた筈です。熟成はリンフィールドでしょう。ボトリングは時代によって異なる場所でされたようで、キンジーのボトリング施設の時もあれば、イリノイ州レモントの場合もありました。もしくはフィラデルフィアのボトリング施設でなされた時期もあったかも知れません。
レシピの詳細は分かりませんが、コンチネンタルは同社のナンバーワン・バーボンであり最大の売れ筋であったオールド・ヒッコリーを造ることに重きを置いたらしく、他のバーボンとは共有されていない独自のマッシュビルを持っていたと伝えられます。先にも触れたように、オールド・ヒッコリーは少なくとも6年は熟成されており、ボトルド・イン・ボンド・ラベルのボトリングでも6年熟成でした。一般的に4年程度の熟成でボトリングされることの多いバーボンと較べ、この2年の追加こそがその滑らかさとリッチなフレイヴァーの大きな理由であると考えられています。
2020-04-16-20-11-26

さて、大きな会社であったパブリカーも、1970年代に業界で起こった変化に耐えることができませんでした。アメリカではクリア・スピリット、特にウォッカの人気が高まり、バーボンの販売量は減少したのです。「America's Most Magnificent Bourbon(アメリカの最も壮大なるバーボン)」と宣伝されたオールド・ヒッコリーではありましたが、現実にはナショナル・ディスティラーズのオールド・グランダッドやオールド・クロウやオールド・オーヴァーホルトよりは全国区ではないと言うか、ストロング・ブランドではなかったのでしょう。そしてパブリカー/コンチネンタルにとって悪いことに、長年会社を率いてきたリーダー、サイモン・"シー"・ニューマンの死が1976年にありました。サイモンの死後、外部の経営者たちが雇われ取締役会に進出すると会社の方向を変えようとし始めました。それは会社の建て直しではあったのですが、彼らはパブリカーをP&Gのような強大なホーム・ケミカル会社にしようとしました。飲料用蒸留酒の製造と販売に見切りを付けた訳です。多くの酒類ブランドやイリノイ州レモントのボトリング施設といったアルコール事業の資産は、負債の支払いとケミカル・ボトリングへの資本投資に使用するために1979年に売却されました。オールド・ヒッコリーはこのブランド売却の際、その他のブランドと共にチャールズ・メドレーに買われます。
チャールズはブランド権だけでなくストックのバレル及び既にボトルに入ったオールド・ヒッコリーも購入しました。聞くところによると「リンフィールド」が「XXX」で消され「オーウェンズボロ」と書かれたボトルがあったそうな。それらを販売し使い果たした後、オールド・ヒッコリーはメドレー蒸留所で造られたと思われます。アメリカの情報を参照するとオールド・ヒッコリーは1981年に製造中止になったとされることもあるのですが、日本で比較的見かけることの多いポッカ輸入のスタンダードな4年熟成80プルーフのオールド・ヒッコリーにはオーウェンズボロの記載があり、なんとなくもう少し後年まで製造されていたのではないかという印象があります。
2020-04-22-08-52-21-204x384
現に私の手持ちの91年発行のバーボン本には当のオールド・ヒッコリーが紹介されています。80年代後半のバーボン・ムックにも紹介されていました。これは私の推測なのですが、おそらくメドレーがグレンモアに買収され、グレンモアがユナイテッド・ディスティラーズに買収された91年までは、オールド・ヒッコリーはメドレー蒸留所で製造されて日本向けの輸出ラベルとして生き残り、UDにブランド権が移った時に製造を停止されたのではないでしょうか? ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。それは措いて、90年代後半には市場から完全に姿を消したオールド・ヒッコリー・バーボンは、月日の経過と共に忘れ去られた存在となりました(オールド&ヴィンテージ・バーボン愛好家は別として)。

ところが、折からのアメリカのバーボン・ブームのおかげ?で、オールド・ヒッコリーは復活を遂げます。
ナッシュヴィルに拠点を置く酒類販売店で1994年設立のR. S. リップマン・カンパニー(ワイン、ビール、スピリッツ、およびミキサーを取扱う)は、2011年以降、多様な飲料アルコールのポートフォリオを構築するためのブランド作成と買収を開始しました。彼らは2013年にテネシー州市場での最初の発売のためにオールド・ヒッコリーの商標を取得します。2013年の夏、同社CEOのロバート・S・リップマンと開発チームはインディアナ州ローレンスバーグにある元シーグラムの蒸留所(MGP)で、長い間マスター・ブレンダーを務めるパム・ソウルと蒸留所のチームと連携して、オールド・ヒッコリー・ウィスキー・プロジェクト用のマッシュビルとバレルを選択しました。それらは「オールド・ヒッコリー・ブレンデッド・バーボン・ウィスキー(通称ブラック・ラベル)」として発売されました。ブラック・ラベルは4年以上熟成のウィスキーが89%、最低限2年熟成のウィスキーが11%のブレンド、80プルーフでのボトリングです。2015年春には「オールド・ヒッコリー・ストレート・バーボン・ウィスキー(通称ホワイト・ラベル)」が発売されました。こちらはMGPの標準的なエイジングである最低4年から7年熟成のバレルから造られ、歴史的にアメリカのディスティラーが好んだと云う伝統的な「パーフェクト・プルーフ」の86プルーフにて製品化されています。マッシュビルの仔細は公表されていませんが、どちらも同じでコーンとライ合わせて90%、残りがバーリーモルトのようです。ボトリングはオハイオ州シルヴァートンでされました。最近では製品レンジも拡がったようで、341ケースのみの限定リリースながら「オールド・ヒッコリー・ハーミテッジ・リザーヴ・ライ」も発売されました。これは6年熟成で、MGPの95%ライ・マッシュビルの個人選択バレルだと思います。
2020-04-13-16-27-17

では、現代版オールド・ヒッコリーの紹介が済んだところで、最後に飲んだ感想を少しばかり。今回飲んだのは、オールド・バーボン愛好家に評価の高いコンチネンタル製の10年熟成オールド・ヒッコリー。先日まで開いていたボトルが空になったとのことで、新たなストックを開封して頂きました。裏ラベルにイリノイ州レモントの記載がありません。Distilled表記しかないのです。レモントとあるのとないのどちらの方が古いのでしょうか? ご存知の方はコメントよりご教示下さい。ちなみに参考の物は70年ボトリングとされ、「DISTILLED IN PENNA」とあります。
2020-04-22-21-34-20
OLD HICKORY 10 Years 86 Proof
推定70年代ボトリング。クラシックなバーボンという印象。スムーズな飲み口。しっかりとした樽香にバランスのとれたフレイヴァー。キャラメルもスパイスもドライフルーツもハーブも感じられるが、どれも突出しない穏やかな感じ。
Rating:85.5/100

PhotoGrid_Plus_1635184226535
(画像提供Bar FIVE様)

2019-08-09-08-42-39

バッファロー・トレース蒸留所の造るライウィスキー、サゼラック・ライ。その名称はニューオリンズのコーヒーハウス(バー)、延いてはバッファロー・トレースの親会社サゼラック・カンパニー、及び神話的なクラシック・カクテルの名前から付けられています。同社が年次リリースするバッファロー・トレース・アンティーク・コレクション(BTAC)に有名な兄(父)の「サゼラック18」があるため、通称「ベイビーサズ」と呼ばれたり、或いは熟成年数がNASながら実際には6年とされていることから「サゼラック6」と表記されることも。ちなみにBTACにはサゼラック・ライのバレルプルーフ・ヴァージョンとも言えそうな「トーマス・H・ハンディ」もあります。
ベイビーサズで使われるレシピは公表されていませんが、噂では51%ライ/39%コーン/10%モルトとされ、だとすると典型的なケンタッキー・スタイル・ライウィスキーのマッシュビルです。ところで、このウィスキーはBTACのサゼラックと同じ名前を共有するものの、サゼラック18年は2015年まではバッファロー・トレース蒸留所によって蒸留されたジュースではなかったかも知れません。明確ではありませんが、初期の物はバーンハイムもしくはメドレー・ライと目されています。バッファロー・トレースは、サゼラック18年を熟成が進まないようステンレスタンクに容れ何年も保持し、それをリリースしていました。

多くの人が「サゼラック」と聞いて思い浮かべるのは、このライウィスキーでもサゼラック・カンパニーでもなく、大抵はカクテルのことだと思います。サゼラックはアメリカ初のカクテルであるとか、最古のカクテルであると言われることがあり、カクテルの歴史の中でも伝説的な扱いを受けていますから。ベイビーサズの発売初年度を調べていて、結局は特定できなかったのですが、その途中「サゼラックライ6は2000年にサゼラックの公式酒になった」との情報を目にしました。そうなるとベイビーサズは2000年から発売されているのかも知れません。発売年は措いて、とにかく今ではサゼラックに欠かせないのがライウィスキーとなっています。しかし、それは比較的最近の歴史です。その発祥の頃はサゼラックという名前のフランスのブランディが使われていました。現在のサゼラックは大雑把に言うとライウィスキー、角砂糖、ビターズ、アブサン、レモンが使われるのが標準的なカクテルです。
殆どの偉大な伝説は真実がしばしば噂と伝聞の背後に隠れよく見えません。そして、隠れてよく見えないからこそ人は惹きつけられ、ますますそれについて語りたくなります。そこで、今回レビューするサゼラック・ライ自体からはやや離れてしまいますが、せっかくなのでサゼラックの謎めいた起源と魅力的な歴史に少し触れたいと思います。

800px-Sazerac
(Wikimedia Commonsより)

世界中のバーテンダーの間で情熱的に挑戦されるカクテル、サゼラック。これほどニューオリンズに関連するカクテルはありません。そしてまた、これほど広範な説明を要するカクテルもなかなかないでしょう。その物語はアントワン・アメディ・ペイショーという男と彼自身のビターズから始めるのが適切なようです。なぜなら、ベースとなる蒸留酒の変更やアブサンとレモンはある時もない時もありましたが、ペイショーのビターズなくしてはサゼラックの誕生はなかったように思われるからです。

1803年、ルイジアナ買収(アメリカ視点の言い方)として知られる出来事がありました。南はニューオリンズから北はカナダまで伸びるアメリカ中西部全域、今のアメリカ全体の3分の1にも当たる土地は、当時ナポレオン・ボナパルト執政下のフランスの領土でした。フランスの君主であるルイ14世にちなんでルイジアナと名付けられたこの土地は、新しいナポレオン・アメリカの「夢」の一部でした。しかし、大陸での戦費の補填と政治的理由からルイジアナの土地とその首都ヌーヴェル=オルレアン(後のニューオリンズ)は、ナポレオンによって「若きアメリカ」に破格の1500万ドルで売られたのです。
LouisianaPurchase
(緑の部分がアメリカへ売却されたフランス領ルイジアナ、Wikimedia Commonsより)

このルイジアナ売却(フランス視点の言い方)には、黒人奴隷労働による砂糖プランテーションがフランス経済を支えていたエスパニョーラ島の西側約3分の1を占めるフランス領サン=ドマングの奴隷反乱の影響もあったでしょう。1697年からフランス領になっていたサン=ドマングは、フランス革命に刺激されて黒人奴隷の反乱が起き、1804年1月1日を以てハイチ共和国として独立を宣言、ラテンアメリカ地域では最初の独立国家となりました。フランスも1825年には承認しています。革命の結果、多数のフランス植民者がアメリカ大陸全体に移動し、暴動と経済崩壊を免れました。1809年までに一万人近くのフランス人難民がハイチからニューオリンズに迫害を逃れたそうで、その数は1年で都市の人口をほぼ倍増させ、今日まで続くニューオリンズ独特の文化を醸成させる要因の一つとなります。3年後の1812年、ルイジアナはアメリカ合衆国の公式州となりました。

この期間のある時点で、アントワン・アメディ・ペイショーもサン=ドマング難民の大衆と共にニューオリンズに逃れて来た一人でした。「ある時点で」と言ったのは、ニューオリンズへの到着時期が特定できないからです。一説には、奴隷による暴動と反抗が勃発した後、ボルドー出身の裕福な父親がコーヒー農園を所有していたサン=ドマング島から逃げることを余儀なくされ、1795年にニューオリンズに難民として到着した、とする情報もありました。しかし、ペイショーは1883年6月30日に80歳で亡くなったと死亡証明書に記録されているようです。そこから彼の生年は1803年頃と推定しているウェブ記事が多く、この人物がビターズのペイショーで間違いないのであれば、1795年にはまだ産まれてないことになります。
Peychauds_copy_962x1437_copy_240x359
 (Wikimedia Commonsより)

不明確な到着時期は脇に措き、成長して薬剤師となったペイショーは、歴史的な影響力を持つことになるビターズを生み出しました。それは今日アメリカで2番目に売れているビターズであり、世界のトップ・カクテル・バーに欠かせない材料です。ニューオリンズ薬局博物館によると、ペイショーは1841年(もしくは1834年や1838年という説もあった)、フレンチクォーターの437ロイヤル・ストリートにファーマシー・ペイショーと呼ばれる自らの薬局を開設し、そこで特許を受けたペイショーズ・ビターズという名前のアニシードとリンドウの豊かでハーバルな治療薬を調剤することで有名になったと言います。聞くところでは、アンゴスチュラビターに匹敵するが、より軽いボディ、より甘い味、よりフローラルなビターズだったそう。そのような「アメリカン・アロマティック・ビター・コーディアル」、一口に言えば薬用強壮剤は当時流行しており、多くの同様の製品がありました。ペイショーに先行するビターズで、1712年にイギリスで特許を取得し、初期入植者と共にアメリカに導入されたエリクサーだったと云うストートン・ビターズはそうした一例です。もともとペイショーに匹敵する規模のライバルでしたが、そのレシピを早期に公開するというミスを犯し、多くの模倣品や偽物が市場にリリースされ、19世紀を通しては生き残れなかったのだとか。ストートン・ビターズは現在でも復刻販売されていますが、中身は昔の物とだいぶ違うようです。
では、なぜペイショーズ・ビターズは生き残ったのか。勿論、常にクオリティを保ち続け、ちゃんとに効能もあったのでしょうが、伝説によればペイショーはフリーメイソンだったようで、その社交会を深夜の薬局で開催し、ゲストのために下に述べるブランディ・トディに自分の秘密のビターズを混ぜて提供していたらしいのです。もしかすると、そういう友愛の輪も無関係ではないのかも知れません。取り敢えず、ペイショーの名前が州外で知られるようになるには、新しい飲酒傾向が出現するまで待たなければなりませんでした。

800px-Quatre_coquetiers_alu_01
(Wikimedia Commonsより)

1840年代(もしくは1830年代後半から)、ペイショーは病気に拘わらず彼のクライアントのために、水、砂糖、フランスのブランディを混ぜた初歩的なトディに特許取得済みのハーブビターを処方し調剤したそうです。それは「コクティ(coquetier)」と呼ばれるフランスの伝統的な卵型のカップで提供され、彼の顧客にとってこのミクスト・ドリンクは容器の名前で知られるようになり、評判を博しました。カクテルの語源を調べると、コクティが「コックテイ」とアメリカ発音に転化して更に「カクテル」になったと云う語源説も、諸説の一つとして大概載っています。これはカクテル誕生秘話として昔は(或いは一部地域では)十分な支持を得ていたようですが、実際には1806年(もしくは1803年とも)のニューヨーク州北部の新聞に「カクテル」という言葉は登場していたそうです。それはともかく、このミクスト・ドリンクは今日の目から見て純粋にカクテルと呼ぶべきものであったでしょう。けれどブランディ・トディにビターズを混ぜた最初の人物がペイショーだった訳ではないようです。ブランディは常に薬効があると信じられていたため、植民地の薬剤師や化学者の間で一般的に使われていました。ビターズも胃薬と強壮剤とされていますから、薬効が信じられていたのは同じです。ある意味この両者をミックスするのはイージーな発想だったのではないでしょうか。実際、上に述べたストートン・ビターズを使ったブランディ・カクテルも1835年頃までには既にあったようです。
恐らくここまでの段階でサゼラックのプロトタイプは出来上がっていました。しかし、現代の我々が知るサゼラックになるにはもう少し階段を昇らねばなりません。先ずその一歩はコーヒーハウスのタイムリーな時代のおかげで実現することになります。

19世紀初頭から中期のアメリカではコーヒーハウスの時代がピークに達し、知的な冗談から政治談義に至る社交の場として機能しました。ここで言うコーヒーハウスは日本の「喫茶店」のイメージよりは、秘密結社やクラブの母体となるような社交場であり、ビジネスの場であり、バーを兼ね備えた施設であったと思われます。初期のアメリカ社会におけるコーヒーハウスの役割は非常に重要であり、1773年12月に起こったアメリカ独立戦争の引き金となったことで有名なボストン茶会事件の策略はグリーン・ドラゴンというコーヒーハウスで練られ、1776年にはフィラデルフィアのマーチャンツ・コーヒーハウスが米国独立宣言を公に発表する最初の場所として選ばれました。1840年までにコーヒーハウスの重要性はそれほど変わりませんでしたが、カクテルやトディ、サワーやパンチの出現は酒の人気を引き継ぎ、殆どバーと言える施設になっていたようです。もしかすると、ニューオリンズはフランス移民が多かったため、自らを洗練されていると考えて、いわゆるバーをサルーンと呼ばずコーヒーハウスと呼んだのかも。

ペイショーの薬用ブランディ・カクテルの評判が高まると、多くの地元のコーヒーハウスは、ペイショーの奇跡的な強壮剤を熱心なパトロンに再現し始め、その飲み物はニューオリンズの街中に広まって行きました。サゼラック・カクテルが確立する前に、重要な役割を果たした人物の一人がここで登場します。ニューオリンズの起業家シーウェル・T・テイラー(1812―1861)です。1840年頃(?)、ペイショーの薬局のすぐ近くにある、15-17ロイヤル・ストリート(13エクスチェインジ・アレイ)にマーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスが設立されました。
「取引所(Exchange)」は、南北戦争前の都市、特にニューオーリンズのような賑やかな重商主義の港の重要な建物でした。名前からしてそこは本質的には人々がビジネスを行うための場所でしたが、集会には他のニーズ(銀行や法律サービス、読書室と研究、宿泊、レクリエーション、娯楽、酒など)があり、取引所は遥かに幅広い要望に対応したそうです。起業家は、旅行者のビジネスマンに対応する様々なアメニティを備えた華麗な多目的かつマルチサービスの「共有スペース」を作成し、そのような取引所は都市の社会的経済的に重要な施設になりました。南北戦争前のニューオリンズにある豪華なホテルの殆どは、多くのコーヒーハウスと同様にエクスチェインジとして名乗りを上げたと言います。

マーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスは、ニューオーリンズで最大のコーヒーハウスの1つであり、すぐに最も人気のあるコーヒーハウスの1つになりました。シーウェルはマーチャンツ・エクスチェインジの店頭で販売した多くの製品の唯一の輸入業者でもありました。そのような製品の1つに、フランスのリモージュで作られた「Sazerac de Forge et Fils」と呼ばれるコニャックがあり、おそらくその現地代理店を務めていたのでしょう。街の顔役で熟練したセールスマンであるシーウェルは、コニャックを多くのコーヒーショップに入れることが出来ました。そして自らもペイショーの調合でブランディ・カクテルにコニャックを使い始めた、と。これがサゼラックという名称の直接的な由来です。
2019-09-09-20-30-06
1850年頃、シーウェルはコーヒーハウスの日々の運営を友人のアーロン・バードに引き渡し、道路を渡った16(もしくは13&15)ロイヤル・ストリートに輸入品を販売する酒屋を開きました(シーウェルが亡くなった1861年にはこの事業もアーロンが引き継いだようです)。若きトーマス・H・ハンディが店員として雇われたのはここです。この頃には、テイラーがリモージュから輸入したコニャックを使ったカクテルは、常連客の間で大変な評判となっていました。他の施設とは異なり、マーチャンツ・エクスチェインジでは、カクテルにサゼラック・ブランディとペイショーズ・ビターズのみを使用していたと言います。1852年頃、シーウェルが輸入したコニャックを称えるため、或いは自らのサーブの人気を更に促進するため、アーロンはコーヒーハウスをサゼラック・コーヒーハウスと改名しました。人気のブランディにちなんで命名されたという事実は、コーヒーが最も有名な飲料ではなかったことを示唆しています。サゼラックをコーヒーハウスのハウスドリンクにしたのがシーウェルなのかアーロンなのかハッキリしませんし、またその頃の具体的なレシピの開発者が誰なのかもよく判りません。サゼラックは、ペイショーが1830年代に考案したとするウェブサイトもあれば、オーナーのアーロンが考案者であると伝えられることもあり、謎に包まれています。ペイショーがレシピの改良等でアドヴァイスをしていた可能性も十分考えられますが…。物語はここで終わりではないので先を急ぎましょう。

1860年の初めまでに、アーロンはジョン・B・シラーに事業を引き継ぎました。この人物が何者なのか調べてもニューヨーク出身のバーテンダーらしい、ということしか分からなかったのですが、1959年にハウスドリンクをサゼラックと命名したのはシラーだとする情報もあります。ジョン・B・シラーは、シーウェルの経験豊富な店員でブックキーパーだったトーマス・H・ハンディが酒屋から離れ、サゼラック・コーヒーハウスの支配権を握るまで経営を続けしました。
Sazerac
1869年、ハンディはサゼラック・コーヒーハウスを購入し、酒類のブランドも取得して販売を開始しました。現在のサゼラック・カンパニーの創業者はハンディとされるところからすると、この時が会社のルーツと言えるでしょう。会社のロゴには「SINCE 1850」と書かれていますが、これは恐らくサゼラック・コーヒーハウスの始まりを指しています。1870年頃、ペイショーは薬剤店を閉鎖し、新しいパートナーのハンディと取引を始めました。1871年までに新しいトーマス・ハンディ・カンパニーは、サゼラック・ブランディの唯一の輸入業者であると同時に、ペイショーズ・ビターズの製造業者でもあり、ニューオリンズの「お気に入り」の独占販売を行っています(サゼラック・カンパニーの公式サイトでは1873年にペイショーズ・ビターズの権利を買い取ったとしています)。コーヒーハウスが密集している都市で、サゼラックはハンディの所有権の下で最も輝いていました。彼はその名前から「コーヒー」を落とし、やがてニューオリンズの高級な飲酒を定義するようになります。サゼラック・ハウスは、おそらく19世紀後半に市内で最も有名な飲酒施設であり、飲料、ビジネス、娯楽の社会的中心地だったでしょう。
しかしこの頃、ヨーロッパでは深刻な事態が発生していました。ワインの歴史を学んだことのある人には余りにも有名な、現代世界の飲酒習慣を永久に変更したと言われるフィロキセラの流行です。

フィロキセラ(和名でブドウネアブラムシ=葡萄根油虫)は、ブドウ樹の葉や根にコブを生成してその生育を阻害し、やがては枯死に至らせる極微の害虫。その幼虫は体長1ミリほどで、最初は昆虫であることすら判りづらく、土の中の根につくため直接薬剤をかけることが出来ませんでした。また成虫になると羽が生えて雲霞の如く飛散するので被害の拡大も迅速でした。品種改良のためヨーロッパへ移入したアメリカ原産のブドウの苗に付着していたことで、抵抗力を持っていないヨーロッパのブドウの大部分を一掃し、全滅に近いほどの被害を与え、多くの歴史あるワイナリーがそのワイン畑と共に失われたと云います。
Dactylosphaera_vitifolii_1_meyers_1888_v13_p621
1850年頃に北米から英国の港に船で到着し、その後10年で実際の被害が始まりました。1863年、先ずローヌ河畔の葡萄畑に被害が出始め、被害はあっという間に各地へ伝播して、フランスは約20年間に100万ヘクタールの葡萄畑が破壊されます。 そして1870年にはオーストリア、1883年にはイタリア、1895年以降にはドイツにまで拡がりました。1890年までにヨーロッパのブドウ園の約3分の2が感染または破壊されたと推定されます。フィロキセラの蔓延を食い止めようとする必死の試みにより、農民は化学物質からヤギの尿の噴霧、生きているヒキガエルを埋める等、あらゆることを試みますが、全て徒労に終わりました。葡萄栽培農家とワイン産業は危機的状況を呈し、フランス経済全体にも打撃を与えたため、政府は救済方法を発見した者に莫大な報償金(32万フラン以上)を約束したほどです。 
最後に見出された解決策は、治療法ではなく予防法でした。この害虫に抵抗性のあるアメリカ系の台木にヨーロッパ系の葡萄を接ぎ木することで、更なる発生が回避されたのです。当初は野卑なブドウの血が高貴なヨーロッパ種の血を汚すと信じていた人が多く、ブルゴーニュでは事態の深刻さに余儀なくされる1887年まで、この接木を公式には禁止していたのだとか。結局、他に有効な対策が無かったため、この接木作業がフランス全土で進められ、19世紀末にはフィロキセラの被害を克服します。しかし、 この作業には莫大な費用が掛かりました。収穫は数年間は見込めず(少なくとも5年くらいはまともなワインは造れない)、その経済的負担に耐えかねて没落していったワイン産地が少なくなかったそうです。

葡萄産業はフィロキセラの流行により完全にリセットされ、ワインやワインベース製品の供給は低下または完全に停止しました。当然のことながら、アメリカが輸入するブランディ、コニャックも激減しました。あの「Sazerac de Forge et Fils」を販売する会社も1880年に閉鎖しています。しかし、ニューオリンズの街はまだサゼラックを望んでいたので、正確な年は不明ですが、ハンディはコニャックをメリーランド産のライウィスキーに置き換えました。そしてヨーロッパがようやくフィロキセラを克服し、ブドウ畑が回復した時でさえ、ライウィスキーはサゼラックの主要成分としての地位を固め、そのまま標準的なレシピとなって行ったのです。

2019-09-09-20-32-16-252x423
19世紀後半には、アントワン・ペイショーの死(1883年)とトーマス・ハンディの死(1893年)がありました。ハンディが亡くなる前に彼の会社は、すぐ飲めるように予め混ぜられたサゼラック・カクテルのボトルを販売し始めています。更に同社はロイヤル・ストリートでサゼラック・バーを運営していました。ハンディの元秘書であるC・J・オライリーはハンディの事業権を購入し、サゼラック・カンパニーとして経営を始め、同じ名前でアメリカンウィスキーも発売しています。以来、禁酒法期間中のデリカテッセン及び食料品ベンダーとしての任務を除き、サゼラック・カンパニーは今日まで存続し続け、ニューオリンズを本拠地とする大手企業になりました。バーボンファンにはお馴染みのバッファロートレース蒸留所やバートン蒸留所などのウィスキー全体は言うまでもなく、その他のスピリッツやペイショーズ・ビターズも産み出しています。

20世紀が始まるとモダンカクテルも始まり、サゼラック・カクテルは1908年にようやくウィリアム・T・ブースビー(別名カクテルビル)の本に登場しました。ハンディは死の直前にサゼラックのレシピをブースビーに渡したと言われています。
今まで触れて来ませんでしたが、これまでの期間のある時点で、現代サゼラックの要素の1つが追加されました。アブサンです。これが二つの古典的カクテル、オールドファッションドとサゼラックの決定的な違いと考えることも出来るでしょう。この発明はリオン・ラモテというバーテンダーによるものとされています。ただし、いつの出来事なのかが参照する情報によってまちまちで、1860年頃のシラーの時代とするものと、ハンディ在職期間中であるとするものがありますが、最もよく見かけるのは1873年にラモテがアブサンのダッシュ(もしくはリンス)を追加したという説です。

アブサンはワームウッド(和名ニガヨモギ、学名Artemisia absinthium)を主原料とし、他にアニシードやヒソップ等から作られるハーブリキュールです。原料のワームウッドは昔からフランスの東部ポンタルリエや、スイスのヴァル・ド・トラヴェール地方で育てられていることから、この二つの地域が伝統的なアブサン発祥の地とされています。18世紀末に薬として誕生してから約100年以上のあいだ親しまれてきましたが、ワームウッドに含まれる精油成分ツジョンを過剰に摂取すると幻覚や錯乱などの向精神作用が引き起こされると信じられ、1898年にベルギーの植民地であったコンゴ自由国で禁止されたのを皮切りに、20世紀初頭にはヨーロッパでも1905年(1907年とも)のスイスに始まり、ベルギー、オランダ、フランス、ドイツ、イタリアなどでアブサンの製造・流通・販売は禁止されました。アメリカも1912年には禁止しています。
このため「犯罪成分」を用いないアニス主体の様々なリキュールがすぐに市場に出現しました。パスティス(仏語の「似せる」に由来する)はその一つ。専門家に言わせると本物のアブサンとは全く異なるフレイヴァーだそうですが、サゼラックのレシピから違法になったアブサンを置き換えるために、パスティスはいくらか使用されたと見られます。しかし、1920年にアメリカでは全面的な禁酒法が実施され、それどころではなくなりました。サゼラック・カンパニーは13年間の「乾いた時代」を食料品店や惣菜店として切り抜けます。

禁酒法が解けて直ぐ、レジェンドラ・ハーブサントという名前の新しいスピリットがニューオリンズで一般販売されました。このアニス風味のアメリカ製パスティスこそが、サゼラックのアブサン禁止に対する解決策を提供することになります。
2019-09-06-00-43-29-267x346
第一次世界大戦中、フランスに駐留していたジョセフ・マリオン・レジェンドラ(1897-1986)は、同地でレジナルド・P・パーカーというオーストラリア人の仲間と親しくなりました。パーカーは後にマルイユにポストされ、そこでパスティスの作り方を学びます。戦後、レジェンドラはニューオリンズに戻り、父親が所有するドラッグストア事業に参入。その後しばらくすると、パーカーもニューオリンズへ移って来ました。パーカーは個人消費のためにパスティスを作りたいと思い、レジェンドラに必要なハーブを輸入させ、禁酒法下でもアクセスできる処方箋ウィスキーを使用しました。彼はどのハーブを調達するかを知らせるためにレジェンドラにレシピを教えています。1933年12月5日にアメリカの禁酒法が終了した時、レジェンドラはパスティスを販売するのに適した立場にあった訳です。
1934年に初めて販売されたそのレシピにはアブサンの必須成分であるワームウッドが全く使われていないにも拘わらず、彼はそれを「レジェンドラ・アブサン」として生産しました。連邦アルコール規制局はすぐに「アブサン」という言葉の使用に反対し、名前は「レジェンドラ・ハーブサント」に変更されます。「魔酒」のイメージが定着していたアブサンに対して「聖なるハーブ」という正反対の意味の製品名は、ワームウッドのフレンチ/クレオール名「Herbe Sainte」から由来するようですが、偶然か故意か「Herbsaint(ハーブサント)」と「Absinthe(アブサン)」という「r」を欠落させるだけでほぼアナグラムになる秀逸なネーミングだと思います。「フランスの名前、フランスの起源、そして洗練された魅力のあるフランスのレジェンドラ・ハーブサントは、特徴的なヨーロッパの飲み物です」なんて宣伝文句も当時あったそうですが、実際にはニューオリンズの飲み物であり、地元産の芳香性の高いアニス酒としてこのスピリットは、しばしば柔らかいパスティスに代わるサゼラック・カクテルへの人気ある追加となりました。
レジェンドラはドラッグストアの取引に加えて、ビジネスとして経営しようとするのが面倒になり、或いは十分な利益が得られないことに気付き、1948年(または1949年)、ハーブサントをサゼラック・カンパニーに売却します。そしてサゼラック・カンパニーは買収以来ハーブサントを販売し続け、アブサンが合法となった後でも地元ニューオリンズでは、サゼラックにハーブサントを用いて造るバーは多かったのだとか。ちなみにアブサンは1981年に世界保健機関(WHO)がツジョン残存許容量10ppm以下なら承認するとしたため製造が再開され、特にルーツに拘ったバーテンダーがいる世界の国では、アブサンを用いたサゼラックが復活を遂げています。

今日、サゼラックの名はニューオリンズ市内にあるルーズベルト・ホテルの1940年代を再現したバーを飾っています。ホテルは元々、ドイツ人移民のルイ・グルネワルドによって建てられ、1893年に「ホテル・グルネワルド」としてオープンしました。1915年、セオドア・グルネワルドは父親が亡くなったときにホテルの唯一の所有者になりました。彼は1923年初頭までホテルの所有権を保持し、医師の助言に基づいてビジネス上の利益を全てヴァカロ・グループに売却しました。購入後、新しい所有者は別館と同じ高さの新しい塔を建設し、別館の内部を再設計します。1923年10月31日にホテルは、ニューオリンズ市にとってパナマ運河の建設に多大な労力を費やしたセオドア・ルーズベルト大統領を称えるため、正式にルーズベルト・ホテルに改名されました。
1925年10月1日には新しいバロン・ストリートのタワーがオープンします。そこには理髪店、コーヒーショップ、通りに面した店舗が追加されました。その頃、サゼラックにとって一人の重要な人物が頭角を現します。ホテルで理髪店のマネージャーとしてキャリアを始めたシーモア・ワイスです。彼は後に広報やアソシエイト・マネージャー、アシスタント・マネージャー、そして最終的にホテルのゼネラル・マネージャーに昇進しました。1931年には副社長兼マネージング・ディレクターとなり、1934年12月12日にワイスのグループへホテルは売却されました。ワイスによる購入後、ホテル全体で大幅な改装とアップグレードが段階的に行われ、1938年8月1日にメインバーがオープンします。
1949年、ワイスはサゼラック・カンパニーから「サゼラック・バー」という名前を使用する権利を購入しました。ホテルはサゼラック・カンパニーに名誉ライセンス料を支払います。バーは禁酒法以前エクスチェインジ・プレイスにあり、その後はカロンデレ・ストリートにありました。ワイスは元酒屋だったバロン・ストリートの店舗を改装し、1949年9月26日にサゼラック・バーをオープンします。第二次世界大戦前、サゼラック・バーは「男性のもの」でした。女性の利用はマルディグラ当日のみだったそうです。そのハウス・ルールが変更されたのはこの時です。ワイスはバーのスタッフから「キャニー・ショーマン」と呼ばれ、美しいメイクアップ・ガールを募集して、オープン初日にチャーミングな華やかさを加えました。街中の女性が会場に集まり、当日には女性客が男性客を上回ったのだとか。イベントは「サゼラック・ストーミング」として知られるようになり、記念日は毎年ホテルでヴィンテージの衣装による乾杯で祝われます。1959年、バロン・ストリートにあるサゼラックバーを閉鎖し、名前をメインバーに移すことが決定されました。そこが今でもサゼラック・バーと呼ばれる場所です。
ワイスが年を取るにつれて、彼はホテルの買い手を探し、1965年11月19日にベンジャミンとリチャード・スウィッグに買収されたホテルは、最初に名前をフェアモント・ルーズベルト、その後フェアモント・ニューオリンズに変更されました。ホテルは長年に渡って近代化し始め、サゼラック・バーもカーペットやモダンな家具、新しい照明等に更新されました。1990年代後半にも大規模なホテルの改修が行われています。しかし、フェアモント・ニューオリンズは2005年8月のハリケーン・カトリーナによる甚大な被害を受け、いくつかの修理作業が行われましたが、作業は2007年3月に不完全な状態で中断されました。2007年8月には新しい所有者による買収が発表され、1億4500万ドルの改修のあと、ウォルドーフ・アストリア・ホテルズ・アンド・リゾーツを選択して施設を管理、2009年に漸くホテルは再開されます。この時、所有者はホテルの名前を1923年から1965年まで保持していた「ルーズベルト」のタイトルに戻しています。ホテル全体が近代的なシステムで完全に改装されましたが、デザインは1930~40年代の壮大な時代を再現したものとなり、サゼラックバーもアールデコ調の1940年代の外観に復元され、クラシックな服装で女性が着飾ったサゼラック・ストーミングの再現で再開されました。

2008年3月、ルイジアナ州上院議員エドウィン・R・マレーは、サゼラックをルイジアナ州公式カクテルとして指定する上院法案を提出しました。この法案は2008年4月8日に否決されてしまいます。しかし、6月23日にさらなる議論が行われ、ルイジアナ州議会はサゼラックをニューオリンズの公式カクテルとして宣言することに同意しました。晴れてサゼラックはお墨付きを得たのです。それが理由の全てではないでしょうが、その後の10年間でサゼラックはニューオリンズを超えて人気を再燃させました。ネットの普及による情報の取り易さも手伝ったのかも知れません。20世紀初頭までにサゼラックのようなシンプルなカクテルは希少になり、近年ではミクソロジーの流行も見ました。それでもサゼラックは、クラシックなカクテルの最高峰の1つであり、身に纏った歴史の深みはその名を輝かせ続けています。
そして、その名声を得た元の建物は取り壊されなくなりましたが、サゼラック・カンパニーは、カナル・ストリートとマガジン・ストリートの交差する角に立つ誇らしげな歴史的建造物を改築し、サゼラック・ハウスとして運営することにしました。1850年代のオリジナルのコーヒーハウスから歩いて数ブロックのこの建物は、1860年代に遡る歴史のうち、かつては様々な帽子や手袋のメーカー、ドライグッズの保管場所、更には電化製品店までありましたが、ここ30年以上も空いていたのです。改築作業には建築会社トラポリン=ピアーや博物館デザイン会社ギャラガー&アソシエイツと提携しました。サゼラック・ハウスはニューオーリンズのクラシックなカクテルを祝う新しいインタラクティブな博物館です。文化を旅する訪問者は、ニューオリンズのカクテルの歴史に導かれ、サゼラック・ライウィスキーの蒸留方法を見出し、ペイショーズ・ビターズの手作りに参加して、サゼラック・カクテルの作り方を習得します。また、ここはニューオリンズのセントラル・ビジネス・ディストリクトで初めてウィスキーが生産される場所になりました。ウィスキーの生産展示では500ガロンのスティルが見られます。毎日約1バレルのサゼラック・ライウィスキーが作られ、熟成のためにケンタッキー州のバッファロートレース蒸留所に移送されるのだそう。サゼラック・ハウスは2019年10月2日にオープンする予定です。ニューオリンズを訪れた際は、是非ともここで独特の味と伝統を体験してみて下さい。もちろん、カクテルを飲みながら。

では、そろそろ今回レヴューするサゼラック・ライを注ぐ時間です。

2019-08-21-00-53-40
SAZERAC RYE 90 Proof
推定2010年前後ボトリング。クローヴ、蜂蜜、パンケーキ、メープルクッキー、ハーブのど飴。香りは甘いお菓子。パレートは甘味と共に頗るハービー。フルーティさとミンティさはそれほどでもない感じ。余韻は豊かなスパイス(クローヴ、オールスパイス系)と苦いハーブが感じやすく、クラシックなライウィスキーを思わせる。
Rating:85.5/100

Thought:開封直後は香りも味わいも甘味がなく、えっ?これホントに51%ライ?って思いましたが、徐々に甘味は出て来ました。ジムビームやMGPのライよりフルーティさに欠けますが、甘味は強く、またハーブが優勢な味わいに感じました。
おそらく、このサゼラック・ライは日本へ輸入され始めた頃のボトルだと思われます。上の推定ボトリング時期は購入時期からの推測です。少し前までの数年間、日本ではサゼラック・ライは買いにくい状況にありましたが、ここ最近はまた輸入が復活したようです。その最近のサゼラック・ライを私は飲んでいないので味の変化があるのか判りません。飲み比べたことのある方はコメント頂けると嬉しいです。

Value:アメリカでは30ドル前後ですが、日本だと5000~6500円くらいします(※追記)。これ、痛いですね。とは言え、6年というライとしては十分な熟成期間を経ていますし、おそらく比較的少量生産だとも思われるし、長いネックやボトル形状にクラシックなフォントなどボトルデザインは古いウィスキーを偲ばせカッコいい。甘さが立った味わいも他社のライと一線を画し美味しいのでオススメしておきましょう。ただ、私自身はどちらかと言えばMGPの95ライ・レシピの方が好みではありますが。

追記:現在ではもう少し落ち着いたお値段で購入できます。

↑このページのトップヘ