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テネシー州ナッシュヴィルとチャタヌーガの間にあるジョージ・ディッケル蒸留所は、タラホーマからそれほど遠くない広大な景色の美しいカスケイド・ホロウにあります。そのためカスケイド・ホロウ蒸留所とも知られています。2018年頃からカスケイド・ホロウ・ディスティリング・カンパニーの名を押し出すようになりました。ディッケルのキャッチフレーズは「Handmade the Hard Way」です。同所の元ディスティラーだったアリサ・ヘンリーは、そのキャッチフレーズは「カスケイド・ホロウの生き方です。蒸留プロセスの全ての段階に人間がいます。あらゆることが細心の注意を払って測定され、手で記録されています」と語っていました。ディッケル・ウィスキーの製造に携わっている従業員は30人未満。大手の工場のように巨大でもマイクロ・ディスティラリーほど小さくもない中規模の蒸留所です。ディアジオのような大会社に所有されているにも拘らず、他の殆どの蒸留所ではコンピュータによって自動化されている手順の多くが、ここでは手作業で行われているとか。1958年以来、蒸留所の大幅なアップグレードはしておらず、蒸留や製造工程に使用される機械はほぼ同じで、例えばコーンのための秤は電動式ではなく手動式の古いものだそうです。「私たちはテイスト、スメル、タッチに頼ります。その実践的な、手作業のアプローチは私たちにとって非常に重要なのです」、とアリサの言。ディッケルのチームにとってハンドメイドの面倒くさい地道なやり方は誇りに他ならないでしょう。ジョージディッケル及びその前身であるカスケイド・ウィスキーの歴史は以前の投稿で纏めたので、今回はそんなディッケルのハンドメイドな製法への拘りに焦点を当てて紹介してみたいと思います。
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テネシー州の蒸留所は誇らしげに「それはバーボンではない、テネシー・ウィスキーだ」と宣言するかも知れません。しかし、実のところジョージディッケルはテネシー州で製造されるストレート・バーボン・ウィスキーです。テネシー・ウィスキーを造ることはバーボンを造ることと殆どのプロセスが一致しています。基本的に、同じようなマッシュビル、同じタイプの製造法と蒸留法です。製品がテネシー・ウィスキーと呼べるためにはストレート規格の他に満たされるべきもう二つの要件があります。一つはテネシー州で製造されていること。もう一つが「なめらか」や「まろやか」といった記述の乱用を齎すチャコール・メロウイング、或いはリンカーン・カウンティ・プロセスとも知られる工程ですが、これには後で触れ、先ずは穀物から。

マッシュには1バッチにつき11000パウンズの地元産イエローコーンを自家サイトで製粉したものが使われます。ジョージディッケル・テネシーウィスキーは84%コーン、8%ライ、8%モルテッドバーリーのハイ・コーン・マッシュビル。おそらく、ディッケルの味の一端はこのコーン比率の高さに由来するでしょう。蒸留所は1日にトラック2台分の穀物を受け取り、穀物の水分含有量を測定して15%未満であることを確認します。この15年間で穀物の不良品が見つかったのは一回だけで、それは穀物生産者の誰かが誤って小麦を混ぜてしまったことが原因だったらしい。
コーン、ライ、モルトは別々に挽き、ハンマーミルを通過したグリストは約9500ガロン(36000リットル)の容量を持つ二つのマッシュタブ(クッカー)の一つへとそれぞれの時間に合わせて投入されマッシングされます。順番にプリモルト、コーン、ライ、残りのモルトです。この順番はそれぞれを適切に調理するため。コーンはハード・ボイルする必要がありますが、ライはフレイヴァーを残すために煮立った液体が少し冷めてから加え、モルトは酵素が死んでしまわないように更に低い温度で投入されます。プリモルトは通常、始めの段階またはコーンと水が混合される時に入れられます。コーンやライのマッシュは澱粉の水和と糊化が起きると非常に濃厚で粘着質になり処理が難しくなるため、プリモルトの酵素がマッシュを薄くし粘性を減らすのを助けるそう。マッシュ中の「大物」が調理温度に達すると酵素が変性するので、後で更にモルトが追加されます。また、昔はどうか分かりませんが、現在のディッケルは各クッカーに約4カップ分の液体酵素をマッシングに使うようです。マッシング・プロセスは3〜4時間。 

マッシュのための水は約3マイル離れたカスケイド・スプリングから取られています。ウィスキー蒸留所は独自のマッシュ・レシピを持っていますが、この水源は競合他社とは一線を画すディッケル・ウィスキー独自のアイデンティティに於いて常に重要な要素の一つと考えられて来ました。石灰岩を通って流れ、カルシウムとマグネシウムが多く、硫黄分と鉄分が少ない天然でウィスキー造りに完璧な水です。ジョージディッケルはサワーマッシュ製法で造られるので、カスケイド・スプリングの水はバックセットと共に穀物に加えられます。このバックセットはスティレージとも言い、バッチのスターターのような役割を果たします。サワーマッシュ製法というのは、前回のバッチから蒸留残滓をスティルの底部から少量取り出し、次回の新しいマッシュに加えることでマッシュのpHを低いレヴェルに保ち、バーボンを汚染する可能性のある野生酵母の侵入やバクテリアの増殖を制御して、次の発酵を確実に継続させ、バッチ間の一貫性を確保するための手法です。これはテネシー・ウィスキーに限らず、バーボンに於いて一般的な製法。サワーマッシュの一部は新鮮な水と一緒にクッカーに入り、一部は直接ファーメンターに入ります。二つの段階に分割している理由は風味ではなく容量のためだそうです。

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マッシュの調理が完了すると、次はイーストを加えて糖をアルコールへと変換させるファーメンテーション。ディッケル蒸留所には3×3セット(日に3ヴァット分を蒸留)の全部で9つのファーメンターがあり、それぞれが約20000ガロンの容量です。クッカーから出て来る混合物は約150℉なので、ファーメンターに入る前に72℉に冷まされ、熱が酵母を殺さないようにします。ディッケルでは発酵プロセス毎に他の場所で繁殖させたカスタムメイドのドライ・イーストを5.5キロ使用するそう。また、発酵の専門家はクック前と後の両方のマッシュ、バックセットのサンプルを採取して、pH、トータル・アシッド、および糖度などを測定しメモを取ります。このプロセスは完了するまでに約4日。ファーメンテーションが終了したものはディスティラーズ・ビアと呼ばれ、この時点でのアルコール濃度は約8%です。

ビア・ウェルに集められた後、ビアはスティルに送り出されます。蒸留は19枚のプレートを備えた銅製のコラム・スティル(ビア・スティル)で行われ、その結果114プルーフのスピリットが得られます。ディッケルではスピリットがスティルから出た後、ダブラーに入る前に銅製反応器「ラスキグ・リング(Raschig rings)」を通過するそうです。蒸留装置のどこかしらに銅が使われる理由は、蒸留されたスピリッツと反応して硫黄化合物を銅が吸収し、硫黄臭やゴム臭、腐った野菜のような不快臭を取り除くため。私には各蒸留所のスティルの内実まで詳しくは分かりませんが、他の蒸留所ではコラム・スティルの上部に銅が貼られているのが一般的かと思いますので、ディッケルのように別の装置に入れるのは珍しいかと。次いでスピリットはダブラーとして知られるステンレス製ポット・スティルで再蒸留され130プルーフになります。これはかなりロウ・プルーフでの蒸留です。穀物の元のフレイヴァーをより多く保持することが期待されるでしょう。ただし、第一蒸留を135プルーフ、第二蒸留を150プルーフとしている情報源もありました。ネットで調べる限り、ウェブ記事の殆どはロウ・プルーフでの蒸留と報告していますが、「150プルーフ」としている記事は2019年に書かれたものなので、もしかすると昨今のバーボン高需要に応えて蒸留プルーフを高めた可能性も考えられます。微妙な違いですが、第一蒸留を115プルーフ、第二蒸留を135プルーフと報告している記事もありました。まあ、これは誤差ですかね。ちなみにディッケルは1日2シフトで週6日間蒸留するそうで、7日間24時間で稼働する大型蒸留所とは異なり、毎晩蒸留を停止するそうです。また、スティルの上部から回収されるアルコールに対して、下部に沈殿した蒸留の副産物であるアルコールフリーのウェット・グレイン・マッシュは、スティルから取り出されると地域の農家が再利用する動物飼料として販売されています(液体の一部はサワーマッシュに)。

蒸留工程を終えると、いよいよチャコール・フィルトレーションのプロセスです。先に触れたようにテネシー・ウィスキーを名乗るには、ニューメイク・スピリットが樽に満たされる前に木炭層を通過しなければなりません。シュガーメイプルの木炭は現場で準備されています。高さ15フィートの棒状にカットされた木材を燃やす場所が蒸留所の横にあり、ここで木材が適切なレヴェルまで炭化されるように炎を制御します。出来た木炭チップを詰め、濾過槽の底に炭塵を収集するヴァージン・ウールのブランケットを敷いたのがチャコール・メロウイング・タンクです。最も有名なテネシー・ウィスキーであるジャックダニエルズも当然、熟成前に炭で濾過されますが、ディッケルがJDと異なるのはウィスキーを42〜45℉(約5〜7℃)くらいに冷やしてからチャコール・メロウイングする点。ディッケル・ウィスキーにその独特の風味を与えているのはこの冷却濾過だとされています。伝説によれば、酒名となっているジョージ・アダム・ディッケルは、年間を通して造られたウィスキーのうち夏よりも冬の方が滑らかであると感じ、冬の味を好んだとか。その信念に敬意を表し、カスケイド・ホロウ蒸留所は通常より手間のかかるステップを今日まで続けています。チル・フィルトレーションは、ウィスキーに含まれるオイルや脂肪酸が冷やされたことで凝集力を増し、ヴァットの中の木炭層でより濾過されるため滑らかになると考えられ、これがキャッチフレーズの「Mellow as Moonlight(月光の如くメロウ)」を生み出す秘訣の一つなのでしょう。現在カスケイド・ホロウ蒸留所のディスティラーとして対外的な顔となっているニコール・オースティンによれば、蒸留したての液体は非常にオイリーかつバタリーでフルーティな香りと共にポップコーンのノートがするけれども、木炭による濾過はフルーティな香りをスピリットに残しながら最終的なスピリットでは望まない重く油っぽいノートを取り除くそうです。
このプロセスは、毎分約1ガロンで行われるとか、一日分の蒸留物を濾過するには約24時間かかるとか、或いは約7〜10日かかるとされています。ジャック・ダニエル蒸留所ではウィスキーを巨大なチャコール・ヴァットに継続的に滴下するのに対し、ディッケルでは冷やされた留出物をメロウイング・タンクに満たし約1週間ほど一緒に寝かせる(浸す)とも聞きました。どれも蒸留所見学へ行った方の記事で見かける記述なのですが、実際に見学していない私にはどれが正しいか判断が付きません。もしかするとやり方がここ数年で変化している可能性もあるのかも。最新情報をご存知の方はコメントよりご教示いただけると助かります。ところで、先述の第二蒸留が150プルーフとする記事では、蒸留物はチャコール・メロウイングの前に126.5に減らされ、濾過が終わると125プルーフで出て来るとありました。 ご参考までに。

メロウイングが終わると、最後にウィスキーのフレイヴァーに最も影響を与えるエイジングのプロセスです。ジョージディッケル・テネシーウィスキーはストレート・ウィスキーなので、熟成はニュー・チャード・オーク・バレルのみを使用します。素材はアメリカ産ホワイト・オーク。チャー・レヴェルはステイヴが#4、ヘッドが#2。バーボンやテネシー・ウィスキーは法律上、最大125プルーフで樽に入れることが出来ますが、ディッケルのバレル・エントリー・プルーフは115との情報を見かけました。
樽は蒸留所でホワイト・ドッグを充填された後、蒸留所の裏手にある道を登った丘の上の倉庫に運ばれます。多くのバーボン生産者が使用している6〜8階建ての倉庫とは異なり、ディッケルの倉庫は全て平屋建て。高層階まである倉庫での熟成は一個の建物に大量の樽を収容することが出来る反面、1階から最上階まで温度が大きく変動するために均一な熟成が得られないという問題があります。しかし、ディッケルでは毎回同じウィスキーを造るのに必要な一定の温度を維持するため倉庫はシングル・ストーリーとしているのです。それ故、一貫した風味を得るためのローテーションは必要ありません。また、倉庫自体の設置も均一なエイジング条件にするため各倉庫は互いに遠く離れないようにされているのだとか。バレルはリックに6段の高さに積まれており、庫内の上部と下部の温度差は約2〜5度の温度変化しかないそうです。今、リックと言いましたが、新しく建てられた倉庫ではパレット式、つまり樽を横ではなく立てて収容しています。これはリック式よりもスペース効率が良いからで、最近のクラフト蒸留所でもよく見られる方式。
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蒸留所の12の倉庫には凡そ20万バレルが保管されているそうです。ちなみにディッケルのサイトにはボトリング・プラントはありません。親会社のディアジオは製品をオフサイトで瓶詰めする傾向があり、ディッケル・ウィスキーの場合、ディアジオ所有のコネチカット州スタンフォードかノーウォークのボトリング・プラントかと思われます。

ディッケルの歴史の中で最も著名なディスティラーであるラルフ・ダップスは「面倒なことを変えてはいけない」と後進に伝えました。カスケイド・ホロウの蒸留所には最新のコンピューターやデジタル機器が関与せず、世代から世代へと伝承される昔ながらの製法が少人数の従業員グループによって守られています。かつてジョージ・ディッケルは自らの製品が最高級のスコッチと同等の品質であるとして、スコットランドの伝統である「e」なしでウィスキーを綴ることにしました。その矜持は今日まで続き、テネシー・ウィスキーの雄としてディッケルの存在感はますます高まっていると言っていいでしょう。
では、そろそろ今回のレヴュー対象であるバレル・セレクトに移ります。

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ジョージディッケル・テネシーウィスキーには幾つかのヴァリエーションがありますが、その代表的なものは昔からあるクラシックNo.8とスーペリアNo.12です。それぞれに少々異なる独自のフレイヴァー・プロファイルはあっても、ディッケルには一つのマッシュビルしかなく、発酵時間や酵母による造り分けもしていません。それらの違いは熟成年数とボトリング・プルーフのみです。もっと言うと、その違いはバッチングに選択するバレルに由来するのです。No.8やNo.12よりも上位のブランドとなる「バレル・セレクト」も同様。
カスケイド・ホロウ蒸留所には諸々の理由から一時的に蒸留を停止していた期間がありました。バレル・セレクトは2003年9月の蒸留所の生産再開を記念して始まり、それ以来続いています。「ハンド・セレクテッド」というより上位の基本シングルバレルの製品が発売されるまではディッケルで最高級の地位にありました。ボトル・デザインは定番のNo.8やNo.12とは全く違うエレガントなものとなっており、ラベルも高級感があります。そのラベルは近年マイナーチェンジを施されました。
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中身に関しては、10〜12年熟成の特別なバレルを約10個選び抜いたスモールバッチ。それを86プルーフにてボトリングです。マスター・ディスティラーだったジョン・ランが退社する2015年までは彼が毎年バレルを厳選していたと思いますが、それ以降は誰がバレルをピックしているのでしょうか。数年間はアリサ・ヘンリー、2018年からはニコール・オースティンが選んでいるんですかね? もしかするとブレンダーが選んだのかも知れませんが、少なくとも彼女たちが最終責任を負っているのだと思います。
それでは最後に味わいの感想を。

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George Dickel Tennessee Whisky Barrel Select 86 Proof
Hand Selected in 2006
推定2006年ボトリング。スモーク、キャラメルポップコーン、コーン、イースティな酸?、焦樽、シロップ、甘いナッツ、若いプラム、うっすら土。クリアでウォータリーな口当たり。パレートは香りほど甘くなくオレンジっぽい柑橘感。余韻はややビターでグレイニー、さっぱり切れ上がる。
Rating:83.5→84/100

Thought:香りも味わいも如何にもディッケルという印象。スパイス感は穏やかで、全体的にコーンのフレイヴァーがコアにあります。10〜12年も熟成してる割に、いわゆる熟成感はないような気がします。これが平屋の倉庫らしさなのでしょうか。
前回まで開けていた2009年ボトリングと目されるNo.12と較べてみると、色合いは目視では差が感じられません。香りもほぼ同じですが、こちらの方が飲み心地に若干の強さを感じます。と同時に、甘さがより柔らかい印象を受けました。開封直後はあまりパッとしなかったのですが、開封から一年を過ぎて香りのキャラメルと余韻のナッティな甘みが増しました。レーティングの矢印はそれを表しています。それにしても、私的にはNo.12との差が明確に感じられなかったのは残念でした。もっと違うことを期待していたもので…。とは言え、このバレル・セレクトは90プルーフのNo.12より低い86プルーフな訳ですから、同じ程度に美味しく感じたのなら、やはりフレイヴァーはこちらの方が豊かということなのでしょう。しかし、No.12より上位のバレル・セレクトは、格上であることを明瞭にするために95か96プルーフでボトリングするべきだとは思います。まあ、ここで文句を言ってもしょうがないのですけれども。

Value:アメリカでは概ね40〜50ドルが相場のようです。昔、私が購入した頃は確か5〜6000円位だったと思うのですが、最近日本で流通している物は8〜9000円位します。これは痛いですね。私は現行のNo.12もバレル・セレクトも飲んでいないので、自分がたまたま飲んだものについての比較になっていますが、個人的には安いと2000円代、高くても3500円程度で購入出来てしまうNo.12を二本買うほうが賢明に思います。現行品はもっと差があるんでしょうかね? 飲み比べたことのある方はコメントより感想頂けると嬉しいです。
どうも不満げな書き方になってしまいましたが、勿論それ自体は悪いウィスキーではありません。寧ろ、ディッケルの評価を海外のレヴューで覗いてみるとかなりの高評価を得ています。或る人は現行のバーボンの中で最もクラシック・バーボンに近い味がするとまで言っていましたが、確かに私もそう思います。だから無論ディッケルの味が好きなら購入する価値はあるでしょう。ボトルデザインもカッコいいですし。

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ダコタ・マイクロ・バーボンはアライド・ロマーのブランドで、「アメリカン・カウボーイ」、「コック・オブ・ザ・ウォーク」、「プリザヴェーション」、「ピュア・アンティーク」、「レア・パーフェクション」、「ワッティ・ブーン」等とだいたい同じくらいの時期の2000年代半ば(2005年?)に発売されたと思われます。このバーボンについての情報は余りにも少なく、名前のダコタがアメリカの州から取られたのか、その由来となったインディアンのダコタ族(スー族の一部)から取られたのか定かではありません。要するにアメリカっぽさを喚起するブランディングなのは間違いないでしょうが、まさか上下に分断されたラベルがそれぞれノース・ダコタ州とサウス・ダコタ州を表しているなんてこともあるのでしょうか? ご存知の方はコメントよりお知らせ下さい。ラベルのデザインはヴェリー・オールド・セントニックと同じ会社がやっています。昔、そのデザイン会社のホームページで見たのですが、何という会社名か忘れてしまいました。すいません…。

ラベルには「純粋な穀物とケンタッキーのライムストーン・ウォーターを使用してポット・スティルで」云々と書かれていますが、ここで言うポット・スティルはアメリカの法律で規制された用語ではないマーケティングの言葉であって、旧ミクターズがポット・スティルをフィーチャーしていたのと同じ意味です。スコッチ・モルトのような意味での単式蒸留のことではないので注意して下さい。近年の本当のクラフト蒸留所の勃興以前のアメリカン・ウィスキーは、ほぼコラム・スティルで蒸留後、二度目の蒸留にダブラー(もしくはサンパー)を使い、そのダブラーのことをポット・スティルと呼び習わしていました。同じくアライド・ロマーのブランドで「ビッグ・アルズ」というバーボンがあり、そのラベルにも「ポット・スティルド」と大きく謳われていますが、それも同様です。アライド・ロマーのマーケティング手法は「マイクロ」や「スモール・バレル」や「リトル・バレル」のような「小さい」ことを強調し、「ピュア」や「レア」や「ヴェリー」を過剰に使う傾向があります。この「小さな樽」というのも、これまたポット・スティルと同じく近年のクラフト蒸留所の誕生以前に実験的な生産以外で標準より小さい樽を使った蒸留所はなかった筈で、実際にはスタンダード・アメリカン・バレルで間違いないでしょう。有り体に言うと、こうしたマーケティング手法は、法律の抜け穴を上手く利用して旧来品とあまり変わらない製品を新しいクラフト・バーボンかのように見せかける巧妙な仕掛けです。と言っても、私はアライド・ロマーを非難してる訳ではありません。誰もが消費者の心を掴むためのマーケティングは行いますし、バーボンの90%はマーケティングとも言われますからね。寧ろ、そのファンシーなボトルやラベル・デザイン等、女社長マーシィ・パラテラの独創的なブランディング手腕は評価されるべきでしょう。
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さて、ここらで肝心の中身について触れたいところなのですが、こうしたNDP(非蒸留業者)によるソーシング・ウィスキーの出処は、現在のバーボン・ブームの中では比較的明示的な物も増えているものの、これが発売された頃は原酒の調達先をラベルに明示する物は殆どありませんでした。
ダコタが初めてリリースされた時は、ボトルの形状からバッファロートレース蒸留所の製品ではないか?と推測されましたが、当時のサゼラック/バッファロートレースのブランド・マネージャー、ケン・ウェバーはバッファロートレースのものではないと言っていました。当時はまだアライド・ロマーの存在は一般に知られていなかったのです。
個人的には、冒頭に挙げたブランドと同じ流れでボトリングはKBDではないかと思っています。まだバーボンが低需要だった当時のアメリカでは流通していない日本とヨーロッパ向けの製品かな?と。ネット検索では、6年熟成86プルーフ、8年熟成86プルーフ、12年熟成86プルーフの三種が見つかりました。ところで気になるのは裏ラベル記載の所在地がルイヴィルなことですよね。大概のKBDがアライド・ロマーのためにボトリングしたものには「バーズタウン」と記されています。アライド・ロマーの本社はカリフォルニア州バーリンゲイムにあり、ラベルにその所在地が記されたことはありません。そして事務所か何かがルイヴィルにあったという話は聞いたことがなく、また2000年代初頭にルイヴィルに他のボトラーがあったという話も聞いたことがないし、ましてや12年の熟成期間をマイナスした当時にバーボンを造れたクラフト蒸留所もありませんでした。なのにルイヴィル…。これは一体どういうことなのでしょうか?
実はダコタと同時期に発売された「プリザヴェーション・バーボン12年」の裏ラベルにはフランクフォートとあります。それはこのダコタと同じく「disilled」とも「bottled」とも書かれていない単なる所在地の表記です。フランクフォートと言えばバッファロートレース蒸留所がある地であり、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世のバッファロートレースとの合弁事業オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル社の事業地でもあります。ジュリアン三世は初期アライド・ロマーのビジネス・パートナーでした。その縁から久々にジュリアンにボトリングを依頼し、所在地表記がフランクフォートになったというのなら話は分かり易いでしょう。しかし、これは憶測であって何の確証もありません。繰り返しますがラベルにはあくまで「disilled」とも「bottled」とも書かれていないのですから。
ダコタ・マイクロ・バーボンやプリザヴェーション・バーボンを日本語で検索すると出てくる情報では、一説に原酒はバッファロートレースではないかとされています。そこで一つの仮説として、アライド・ロマー製品の所在地表示がコロコロ変わるのが、原酒の調達先を仄めかすヒントになっているのだとしたら…と考えてみました。そうなると、ダコタの発売を2005年として、ヴァリエーション中最長熟成の12年をマイナスすると1993年、この時稼働していたルイヴィルの蒸留所はヘヴンヒルが購入する前のニュー・バーンハイムかアーリタイムズしかないでしょう。個人的には、この仮説が正しいのならニュー・バーンハイムかなという気がしますね。
一方で、裏ラベルの所在地は原酒のヒントでも何でもないというのも考えられます。冒頭に挙げたブランドで言うと、アメリカン・カウボーイやピュア・アンティークは明らかにKBDのボトリングながら、前者は「ネルソン・カウンティ」までしか書かれておらず、後者は「Distilled and Bottled in Kentucky」としか書かれてません。つまり、一律バーズタウンと記載される訳ではなく、表記に法則性や一貫性がないのです。前回投稿した「ラン・フォー・ザ・ローゼズ」もKBDのボトリングと思うのですが、これがもしアライド・ロマーのブランドだとしたら、所在地表記はレキシントンですから、ますます混乱するばかり。そう言えば、過去に投稿した「ドクター・ルイーズ・シュア・ポーション」という謎のバーボンがあるのですが、これもどことなくアライド・ロマーっぽいノリのラベルと言うかブランディングだし、裏ラベルの所在地はルイヴィルで、ダコタと同じですね。誰かここらへんのバーボンの謎をご教示下さい。まさかKBD以外にもっと知られていないボトラーが当時からあったのでしょうか…。みなさんはどう思われます? コメントよりご意見お待ちしております。
では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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Dakota Micro Bourbon 12 Years 86 Proof
特にオーキーでもなく、ちょっとフルーティ、ちょっとハービーといったバランス。すぐ前に飲んでいたラン・フォー・ザ・ローゼズ16年のような過熟感はなく断然バランス良く感じました。あまり自信はないですが、少なくとも旧ヘヴンヒルぽくはない気がします。飲んだことある皆さんはどう思われたでしょうか? コメントどしどしお寄せ下さい。
Rating:84/100

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ラン・フォー・ザ・ローゼズ・サラブレッド・バーボンは、その名とラベルの見た目通りケンタッキーに縁の深い競馬や馬をモチーフにしたバーボンです。

ケンタッキー州はバーボンのみならずサラブレッドが育つ土地としても知られ、ルイヴィルにあるチャーチル・ダウンズ競馬場で行われるケンタッキー・ダービーは夙に有名。1875年に始まったケンタッキー・ダービーはアメリカに於いて最も歴史のあるスポーツ・イヴェントの一つであり、世界大恐慌および二度の世界大戦時も中断されませんでした。競馬の最高峰なのは言うまでもなく、その競走時間から「スポーツの中で最も偉大な2分間」と形容されます。生粋の競馬ファン以外への知名度も非常に高く、華やかな帽子を被り、ミント・ジュレップを飲みながら、観客同士が一緒に「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」を歌うという伝統は、単なるスポーツ・イヴェントの枠を超え、サザン・カルチャーの祝典として、またアメリカ文化の象徴として発展して来た歴史があります。そして優勝馬には400本以上の赤い薔薇を縫い合わせて作ったレイ(ブランケット)が掛けられることから「Run for the Roses(薔薇のために走れ)」の別称が与えられているのです。この伝統は1932年に勝利馬バーグー・キングに赤い薔薇のレイが贈られたことから始まりしたが、バラがケンタッキー・ダービーと関連付けられたのは1896年にベン・ブラッシュに白とピンクのバラのアレンジメントが贈呈されたことがきっかけだったとか。その後、1904年に赤いバラがケンタッキー・ダービーの公式の生花となります。「ラン・フォー・ザ・ローゼズ」という言葉は、後年、チャーチル・ダウンズの有名な支配人マット・ウィンの死後にプレジデントとなったスポーツ・コラムニストのビル・コラム(Bill Corum)によって1925年に初めてそう表現されました。

ちなみにバーボンとは関係がないですが、1970年代後半から1980年代前半にかけて人気を博したシンガー・ソングライター、ダン・フォーゲルバーグ(1951~2007)の1981年に発表された自身最大のヒット・アルバム『イノセント・エイジ(The Innocent Age)』 に「Run for the Roses」という曲が収録されています。シングルカットもされた代表曲の一つで、どこか郷愁を誘うような曲調と素朴なメロディ、ダンの優しげなヴォーカル、そして人間が馬へと語りかける形式で進む歌詞が肝の美しい曲です。興味があれば是非、聴いてみて下さい。


さて、我々バーボン・ファンにとって肝心な中身に関してなのですが、ラン・フォー・ザ・ローゼズはイマイチ詳細の分からない謎のバーボンです。先ず、ブランドを所有する会社が一切分からない。ただし、ボトリングはKBDであろうと思われます。裏ラベルの会社名はサラブレッド・ディスティリング・カンパニーとなっていますが、これはトレーディング・ネームであり、ジムビームからリリースされるノブ・クリークのラベルにノブ・クリーク・ディスティラリーと書かれるようなもので、架空の社名(所謂DBA)なのは明らか。会社の所在地表記はレキシントンとなっています。
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レキシントンはサラブレッドの聖地なので、このバーボンに相応しい所在地ではありますが、当時そこにバーボンをメインで扱うNDPの会社があったという話は聞いたことがなく、おそらくこのバーボンは何かの企画?で海外向け(日本とヨーロッパ)に作成されたブランドではないかというのが私の推測です。ウェブ検索で見つかるネット記事の投稿日時から推測すると、おそらく2005〜2010年くらいに流通していたと思われます。継続的なリリースだったのか単発のリリースだったのかは判りません。少なくとも生産量はそれほど多くないのは間違いないと思います。ヴァリエーションには8年86プルーフ、12年86プルーフ、16年86プルーフ、16年101プルーフがネット検索で見つかりました。このうち「16年101プルーフ」はラベルのプルーフ表示に訂正のシールが貼られています。ラベル自体は86プルーフのヴァージョンしか作っていないことが窺われるでしょう。この101プルーフ版は日本では見たことがなく、ネットで見かけたのもヨーロッパのウェブサイト、そこから多分ヨーロッパのみの流通かと。
ところで、表ラベルをよく見ると「ストレート」の表記がありません。このストレート表記のないパターンはアライド・ロマーのためにKBDがボトリングするバーボンによく見られました。レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストやジャズ・クラブやコック・オブ・ザ・ウォークなどです。一説にはこのパターンは複数の蒸留所の原酒をブレンドする製法ではないかとされ、もしかするとラン・フォー・ザ・ローゼズもそうなのかも…と思ったら裏ラベルには「ストレート」とありますね。まあ、中身のジュースに関してはよく分からないってことです。では、最後に飲んだ感想を少し。

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Run for the Roses Thoroughbred Bourbon Aged 16 Years 86 Proof
香りはダークチョコレートやタバコの複雑さがあり悪くないのですが、味わいはウッディで、全体的にビターな印象。特に余韻には長期の樽熟成や長年ボトルに容れられ放置されていたバーボンに出やすいメディシナル・ファンクが過剰に感じられて私の好みではなかったです。頂いたのが残り数杯分の液量の物だったので、多少の酸化はあったかも知れませんが。
Rating:81.5

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(画像提供K氏)

ヴェリー・レア・オールド・ベントレー(*)は、よく詳細の分からないバーボンです。ラベルから読み取れるのは、シカゴのベントレー・インポーターズなるインポーター兼ワイン・マーチャントの会社がディストリビュートし、同じくシカゴのロバート・ブルース社にボトリングしてもらった86プルーフで6年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンということだけ。何処の蒸留所産かは皆目見当も付きません。おそらくシカゴ周辺でしか販売されなかった地域的製品ではないかと予想します。
画像検索では、53年ボトリングとされるボトルド・イン・ボンド規格で7年物の「オールド・ベントレー・ボンデッド」が見つかりました。こちらはBIB故に出所がはっきりしており、裏ラベルにオーウェンズボロのメドレー蒸留所(**)がディスティリングとボトリングをしているとあります。じゃあ「ヴェリー・レア」の方もメドレーか?と推測したくなりますが、ボトル形状も違うし、ラベルのデザインも違い過ぎるので、何となく全く別と考えたほうがいいような気もします。まあ、メドレー産かも知れないし、そうでないかも知れないし、よく分からないってこと。ちなみに、「ボンデッド」の表ラベルには人物画が描かれています。この人がベントレー氏なのでしょうか? この件に限らずベントレー・ブランドについてご存知の方はコメントより何でも情報をお寄せ頂けると助かります(※追記あり)。

オールド・ベントレー・ボンデッド
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ところで、このヴェリー・レア・オールド・ベントレー、一目見て気づくのは、50年代当時隆盛を誇ったスティッツェル=ウェラー蒸留所の特別なバーボン、ヴェリー・オールド・フィッツジェラルドのラベルと似ていることですよね。デザイナーが同じなのか、或いは模倣したのか…。更には、後の世に伝説のバーボンと謳われることになるカーネル・ランドルフのバレル・プルーフ版のラベルにも、多少の違いはあっても全体的な雰囲気がそっくりです。まるで兄弟のようでしょ? カーネル・ランドルフの初期の物は往年シカゴ随一のリカー・ショップだったジマーマンズが関わっていたと思われます。何らかのシカゴ・コネクションがあるのでしょうか? これまた詳細をご存知の方は情報提供お願い致します。
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さて、今回このような希少価値のあるバーボンを飲めることになったのは、Instagramで知り合いバーボン仲間となった漢気満点のKさんのご厚意の賜物でした。画像借用の件も含め、改めてこの場でお礼をさせて頂きます。バーボンが繋いだ絆、ありがとうございました! また、バーGのマスターにも深く感謝です。では、飲んだ感想を少々。

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Very Rare Old Bentley 6 Years 86 Proof
1958年ボトリング。熟成年数にしては濃い色。マスティ・オーク、クローヴ、焦がしキャラメル、アニス、タバコの気配。口当たりは柔らかいが水っぽくない。味わいはスパイシーかつビター。余韻はとても長く、薬草のようなスパイスの風味と苦味が後々まで残る。

基本的にスパイス・フォワードのバーボンという印象。レーズンやレッド・フルーツ等のフルーティさやナッツのニュアンスはあまり感じませんでしたが、ヘヴィ・チャーが透けて見えそうな木材感や6年熟成ながら複雑なスパイス香と共にカビっぽい風味が現れるあたりがヴィンテージ・バーボンらしさでしょうか。50年代のバーボンなんてそうそう飲む機会はないので比較対象がないのですが、なんとなくハイ・ライ・マッシュぽい気がします。飲んだことのある方はどう思われたでしょうか? ご意見ご感想、コメントよりどしどしお寄せ下さい。
Rating:87/100

追記:その後、オールドベントレーに7年86プルーフがあるのを見つけました。トップ画像のボトルのラベルと概ね同じデザインですが少しだけ違いがあって、メインラベルに熟成年数表記があります。ボトルの形状も少し異なります。なんとなく、このベントレーより後年の物かなと思いました。


*日本では「bentley」を「ベントレー」と表記する慣行がありますが、実際の発音は「ベントリー」が近いです。

**こちらもベントレー/ベントリーと同じく、日本では「medley」を「メドレー」と表記する慣行がありますが、実際の発音は「メドリー」に近いです。

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オールド・クェーカー(*)はシェンリーの代表的なブランドの一つでした。それはインディアナ州ローレンスバーグにあったプラントがオールド・クェーカー蒸留所と名付けられていたことからも明らかでしょう。ルイス・"ルー"・ローゼンスティールの率いたシェンリーは、禁酒法の後、比較的安価なウィスキーのラインでオールド・クェーカー名を使いヒットさせました。「クェーカー・オーツ」や「クェーカー・ステート」のようなシリアルからオイルまで、「クェーカー」はその製品の純度と誠実さ(無垢と清廉のイメージ)を伝えるために長い間使用されて来ましたが、実際のクエーカー教徒(ソサエティ・オブ・フレンズ)はそれらの宣伝から何も得ていないと言います。1939年にタイム・マガジンは、クェーカーは一般的に飲酒しないと想定されているので、ソサエティ・オブ・フレンズは特にオールド・クェーカー・ウィスキーに気分を害されているとリポートしたとか。このブランドはやがて不人気となり、最終的に製造中止、蒸留所は1980年代に閉鎖されます。ボトリング施設は1990年代まで独立した所有者のもとで操業を続けていました。そんなオールド・クェーカーですが、これはシェンリーが創始したブランドではありません。禁酒法以前にイリノイ州ピオリアで生まれたブランドでした。

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クェーカー・ドレスを着た男性、穀物の束、モルトと書かれたサック(袋)、三つの樽などが描かれたインパクトのあるラベルのオールド・クェーカーは、コーニング・アンド・カンパニーの主要なブランドでした。会社の社長フランクリン・コーニングはピオリアを統治した偉大な「ウィスキー・バロン」の一人と見られています。フランクリンは自身の蒸留所が5年あまりの間に連続して三度の大災害に見舞われました。火事の危険性は蒸留所では常に存在する脅威でしたが、後にも先にもアメリカの蒸留業者がこれほど「炎の激流」による死と破壊に直面したことはありません。しかしそれにめげることなく、彼のウィスキー造りを続ける決意は決して揺るぎませんでした。

1851年に生まれたフランクリン・トレイシー・コーニングはオハイオ州に深く根を下ろした家族の一員でした。彼の祖父は1813年頃、ニューハンプシャーからオハイオ北部へ6頭チームの屋根付き馬車で移住しました。草分け的な開拓者として重きをなしたカーネル・コーニングは事業を成功させ、子孫と共に富を築き、そのうちの何人かは蒸留業に携わっていたようです。フランクリンは裕福な実業家の父によって建てられたクリーヴランドの邸宅で育ち、兄のウォーレン・ホームズ・コーニングは父親と共同で酒類事業に参入していました。1870年の国勢調査では、ウォーレンは酒類卸売業者としてリストされ、 19歳のフランクリンはその店員として雇われていたらしい。この間、父親はコーニング・アンド・カンパニーの事業を拡大していました。クリーヴランドは原材料の入手先である大規模な穀物ベルトから離れていたため、イリノイ州ピオリアにウォーレンをマネージャーとして支店が設立されます。しかし、ウォーレンは運営を指揮しつつもクリーヴランドに住み続けました。どうやら彼はこのアレンジメントで管理するのが難しいと判断したようで、フランクリンをピオリアに派遣して家族の利益となる経営を任せます。それまでの間に若きフランクリンは、友人や家族に「ファニー」と呼ばれていたフランシス・デフォレストと結婚していました。1875年5月、彼が24歳で彼女は21歳の時です。彼らはおそらく1880年頃、ピオリアの新しい環境に落ち着きました。後のどこかの段階で弟のチャールズも蒸留業に参加したと思われます。こうしてピオリアは彼らの活動の中心となって行きました。

コーニング・アンド・カンパニーは当初、評判の良いレクティファイング・ハウスとして始まったと言われています。つまり、他の場所で入手したウィスキーをブレンディングし、所望の味と色に整えて販売する、今で言うところのNDP(非蒸留業者)です。そして後に蒸留所となった、と。
コーニング・ファミリーの初期投資は、ピオリアのモナーク蒸留所と呼ばれる既存のプラントにあったようです。モナークは1879年にジョン・H・フランシスと、ジョンもしくはジョージ・キッドのどちらかによって建てられたとされ、後にウィスキー・トラストのユニットとなり、トラストの解散から形成された事業体の一つアメリカン・スピリッツ・マニュファクチャリング・カンパニーの一部のモナーク・ディスティリング・カンパニーとなりました。蒸留所は1908年頃(もしくは1905年説も)に閉鎖されたと見られます。ちなみに、1887年頃ウォーレンはモナーク・ディスティリング・カンパニーを売却し蒸留業界から引退した、との情報もありました。

ピオリアでの活動を始めたほぼ同時期に、コーニング社はオールド・クェーカーをライ・ウィスキーのブランド名として採用します。その名は1878年から使用されていたと言われますが、最終的には1894年に商標登録されました。コーニング社は時が経つにつれオールド・クェーカー以外にも様々なブランド名でウィスキーやスピリッツを生産するようになり、それらには「ビッグ・ホロウ・サワー・マッシュ」、「チャンセラー」、「コーニングズ・カナディアン・タイプ」、「コロネット・ドライ・ジン」、「フェアローン・バーボン」、「ハンプトン・ライ」、「ハヴィランド・ライ」、「リー・ニュートンズ」、「モナーク・ミルズ・ライ」、「マウンテン・コーン」、「レッドクリフ・ライ」等があったようです。
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1899年、フランクリンは44歳の妻の早過ぎる死に立ち会います。その死を悼みながらも、彼は僅か数か月後にモナーク施設に隣接した蒸留所の建設を決めました。新しい工場にはコーニングの名前が付けられます。日に6000ブッシェルの穀物を処理する能力があり、メイン・ビルディングのマッシュをクッキングするためのスチール・タンクは巨大でした。しかし、そんな新しい蒸留所に、1903年10月、初めの不幸が訪れます。七人の作業員が死亡する爆発が起こったのです。災害の原因はクッカーに生じた真空であると推定され、 クッカー・ルームにいた二人は爆発で即死、他の三人は蒸気で酷い火傷を負い、救急車の中もしくは搬送された病院で死亡しました。行方不明になっていた残り二人(イースト製造者と連邦政府が管理する保税倉庫のストアキーパー)を捜索するため、何千人もの人々がすぐに現場に駆けつけましたが、建物の残骸が著しく作業は難航し、瓦礫の中で発見された時には彼らは死んでいました。何しろ爆発したタンクは建物の北側の壁を突き破り、250フィート離れた場所に落下したと言います。蒸留所の北壁全面は吹き飛ばされ、レンガや何やらの破片は蒸留所全体に飛び散り、他の壁も大きな被害を受けました。被害額は当時の7万5千ドル、現在のほぼ200万ドルに相当するとか。フランクリンは死者と壊滅した施設に心穏やかではなかったでしょう。しかしそれでも、爆発による火災は発生せず、他の建物は無傷だったため、数か月でメインの蒸留所を再建できました。1904年の春までには、コーニング・アンド・カンパニーはイリノイ・リヴァー沿いの世界で二番目に大きいと見做なされていた蒸留所を再びフル稼働させます。各自全力を尽くす作業員、煙突から立ち昇る煙や濃厚なウィスキーの匂い、ストックヤードのスペント・マッシュを食む牛、そういった蒸留所の日常は戻りました。しかし…。
 
1904年6月の暖かい或る日の午後、コーニング蒸留所に二度目の災害が発生しました。約30000バレルの熟成ウィスキーを収容したウェアハウスBから制御不能の炎が噴き出したのです。火災は倉庫内の爆発にも影響を与え、11階建ての建物は完全に崩壊しました。消防士が到着した時、彼らはすぐに燃えている建物を救うことが出来ないと気付き、炎が更に広がるのを防ぐよう努めるのが精一杯でした。炎は急速に広がって数ヶ月前に完成した周囲の建物も燃やし、火の洪水がストックヤードにも達したことで畜舎にいた三千頭の牛が煙で窒息死したと云います。今回の災害では、別のピオリアの蒸留所であるクラーク蒸留所から友人を訪ねていた一人を含む15人の男性が命を落としました。
火災はコーニング蒸留所の施設内に収まってはいましたが、三千頭の死んだ牛の死体を処分する際に重大な健康問題に直面しました。公衆衛生上の危険を引き起こさずにそれらを処分する方法を見つけることが出来なかったため、当局は死骸の上にフェノール製剤を注いで燃やしたのです。結果として生じる悪臭は非常に激しく、多くの人が牛舎での作業を拒否し後始末を遅らせました。
フランクリンは災害の発生時、仕事でニューヨークにいましたが、数日後にはピオリアに戻ります。そして残骸を調査したところ、彼はこれはアメリカの蒸留産業の歴史の中で最も高価な火災であるとし、被害額を100万ドル(現在の2500万ドル相当)と申告しました。災害の原因は物議を醸します。報道ではウェアハウスBでの爆発が原因とされていましたが、保険会社の評価担当者はすぐにその話を「信頼性がない」し「誤った」見解であると発表しました。彼らは大火事の原因を作業員のランタンのせいにしたかったようです。ウィスキーの樽は取り分け夏場の間に熱で膨張した時に漏れ易く、一人の従業員がウィスキーの漏れを探してラックを巡回していました。そこでランタンを持っていたこの作業員の不注意が液体に火を着けたと推測されたのですが、彼は死者の一人なので取り調べをすることは出来ず、結局、何が火災の原因かは特定されませんでした。欠陥のあるランタンが原因ではないかと推測する人もいました。それはともかく、フランクリンはここ八ヶ月の間に22人もの労働者が亡くなり精神的に参っていたことでしょう。とは言え、彼の心は折れません。すぐに再建計画を発表し、一年もしないうちにまたもや蒸留所をフル稼働させたのです。

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しかし、フランクリンのそのような努力にも拘わらず、火事を防止することは出来ませんでした。三度目の災害は1908年4月3日に起こります。6階建てのミル・ビルディングの4階で火事が発生し、隣接するエレヴェイターや動力室、製樽部屋に広がり、125000ガロンのウィスキーを収容していた8階建ての塔を巻き込む危険性がありました。今回はフランクリンが現場にいて、スピリッツを塔から引き出して蒸留工程で使用されるヴァットに入れるよう急いで指示を出しました。液体はすぐに近くの蒸留所(モナーク?)にパイプで送られ、そこで再蒸留されて後に販売されたと言います。そのおかげで被害額は当初の推定75万ドル(1800万ドル相当)から18万7千ドル(470万ドル相当)に大幅削減されました。そして何より、以前の災害とは違い、今回は人命が失われずに済んだのは不幸中の幸いでした。
フランクリンはこの度の被害も迅速に修復し、依然としてピオリアのウィスキー・バロンと認められ続けます。ピオリアのウィスキー・バロンで最も有名なのは同地で結成された「ウィスキー・トラスト」の社長ジョセフ・ベネディクト・グリーンハットでしょうが、フランクリンもまた独占的なウィスキー・トラストへの加盟を拒否するだけの「身分」をもった重要人物でした。トラストへの加入を拒否した他の蒸留所が圧力や暴力に遭う中、フランクリンの威信は自分自身と自らの蒸留所を争いから遠ざけていたのです。しかし、運命の悪戯か幾度も災害は起こりました。繰り返えされる蒸留所の災害に疲れ知らずに堪え忍び、粘り強くその度毎に施設をより大きくより良く再建したフランクリン・トレイシー・コーニングは、ウィスキー業界の巨人の中でも特に精神的強度と決断力を持った人物として記憶を留めるに値するでしょう。

アメリカに禁酒法の足音が聴こえてきた頃、フランクリンは「ウィスキー時代」の終焉が近づいていることに気づいたに違いありません。と同時に、彼は自分自身の死をも予感していたのでしょうか、妻ファニーが眠るスプリングデール墓地に今日ではピオリアの歴史的記念碑に数えられる印象的な霊廟を建てました。1915年に彼が66歳で亡くなるとそこに葬られました。大規模な構造にも拘わらず、そこは夫婦と他の一人(おそらくフランクリンの叔母)だけが占有しているそうです。
コーニング・アンド・カンパニーはフランクリンの死後も、蒸留所の拡大に伴いピオリアで彼に加わっていた他のコーニング家のメンバーによって存続し、1919年まで施設を運営しましたが、禁酒法が到来するとプラントは二度と再開することはありませんでした。けれども、コーニング蒸留所のボンデッド・ウェアハウスNo. 22は集中倉庫の一つとして用いられ、オールド・クェーカーのブランドも禁酒法下のメディシナル・パイントで使われています。ネットで調べる限り「RYE」と「BOURBON」、詳細は分かりませんがフライシュマンが関わっていたらしい「WHISKEY」がありました。
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オールド・クェーカーの名称を取得していたシェンリー・ディスティラーズ・コーポレーションは、禁酒法廃止後にブランドを華々しく復活させます。シェンリーは新しいその主要ブランドを造るために、インディアナ州ローレンスバーグにあった二つの古い蒸留所を購入し、オールド・クェーカーの名の下にそれらを合併しました。禁酒法が終了した直後、シンシナティからちょうど西に位置するグリーンデール~ローレンスバーグ周辺にはウィスキーを製造する四つの蒸留所がありました。一つはオープンして間もなく閉鎖、一つはシーグラムが所有、残る二つがシェンリーによって合併されたのです。

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(wikipediaより。オレンジがインディアナ州ディアボーン郡、レッドがローレンスバーグ。)

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ウィスキーに於いて近接するケンタッキー州ほど有名ではありませんが、インディアナ州には1800年代半ばから1900年代初頭にかけて多くの蒸留所があり、その品質の良さから地域的にも全国的にも高い評価を得ていました。インディアナの蒸留の歴史は、1809年にダンとラドロウという名前の二人がタナーズ・クリークとオハイオ・リヴァーの合流点に蒸留所を建設した時に始まります。最初に造られたマッシュビルは一頭の盲目の馬を動力源とするグリスト・ ミルで挽かれ、この粗末な穀物の粉砕方法では週に2バレルのウィスキーしか製造できませんでした。記録によると、彼らは500ガロンのウィスキーを1ガロンあたり0.25ドルの価格でニューオリンズに出荷していたそうです。
1802年、キャプテン・サミュエル・コルヴィル・ヴァンス(1770~1830)によって創設されたローレンスバーグは、彼の妻の旧姓ローレンスにちなんで名付けられました(初めは「Lawrenceburgh」と綴られていたが、いつしか「h」が脱落した)。ローレンスバーグ周辺が後にウィスキー・シティとなった理由は大きく二つ。一つは水です。グリーンデール~ローレンスバーグの蒸留所は帯水層の上に建ち、硫黄と鉄分が少なくカルシウムの多い石灰岩で濾過されたウィスキー造りに最適な水の継続的な供給源を備えていました。もう一つは州境となるオハイオ・リヴァーのすぐ傍らに位置していたこと。ニューオリンズへの交易ルートに近いことは、ウィスキーを売るのに適した場所であることを意味しました。こうした理想的な地理環境だったローレンスバーグに蒸留所が増えるのは必然だったのです。
ダン&ラドロウに続いたのは、1821年にペイジ・チークの土地にあるウィルソン・クリークに設立されたハリス・フィッチ・アンド・カンパニーでした。設立から数年の間は大きな取引がなかったそうですが、後年、非常に広範囲に成長し、その品質と量とでローレンスバーグに世界的な評価を齎したとか。1836年には、アメザイア・P・ホッブスが一日あたり600ブッシェルのマッシング能力を備えた蒸気動力による最初の蒸留所を建設します。この蒸留所は1839年に火災で損壊、その時はホッブス&クラフトによって再建されましたが、1850年に再び火災で焼失し再建されることはありませんでした。
実業家のジョン・H・ガフと兄のトーマスは、1843年、ホーガン・クリークの畔にあるオーロラのダウンタウンにT.&J. W. ガフ&カンパニー蒸留所を建設し、全国的なビジネスに発展させました。この場所はメカニック・ストリートの足元にあたり、現存する建物は今ではグレート・クレセント・ブリュワリーというクラフト・ビールの醸造所となっています。ちなみに上からトーマス、ジェイムズ、ジョンのガフ兄弟は、並外れた規模のビジネス帝国を築き上げ、蒸留業からの収益に基づいて設立された彼らの企業は、ビール醸造所、ミシシッピ川とオハイオ川を結ぶ蒸気船、インディアナの穀物と豚の農場、ルイジアナのプランテーション、ネバダの銀山、ターンパイクの建設、鉄道融資、銀行業など多岐に渡りました。ジェイムズはシンシナティで親しくなったフライシュマンとパートナーシップを組み、イースト製造とジンの蒸留で成功しています。
1847年には、後にローレンスバーグで最も重要となる蒸留所が開業します。ジョージ・ロス、アントニー・スウォーツ、ギド・レナーが建てたロスヴィル蒸留所です。そう、現MGPとして知られ、今日でもローレンスバーグでウィスキーを生産している唯一の施設です。ロスの死後、幾人もの経営者に引き継がれ、1875年(1877年という説も)にシンシナティを本拠地とするジェイムズ・ウォルシュ&カンパニーが買収した折り、完全に再建され、おそらく郡内で最も優れた蒸留所となりました。大きな倉庫と全ての建物は最高のレンガ造り、機械類は最新の改良を施され、当時は日に2100ブッシェルの穀物をマッシングする能力があり、倉庫には25000のバレルを貯蔵出来たとされます。1902年(或いは1906年とも)頃には日に5000ブッシェルのマッシング、倉庫には60000バレルの貯蔵スペースに拡大していたようです。そして1932年に火事でプラントの多くは損壊し、1933年にジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ・カンパニーがこのサイトを買収しました。
1875年、コズモス・フレデリックはハイワイン(**)とバーボンウィスキーの製造を目的として敷地を購入し、グリーンデールのリッジ・アベニューに面した蒸留所を建てました。彼はそれを一年か二年後、ニコラス・オースターに売り払ったようです。一日あたり400ブッシェルの穀物をマッシングし、1600ガロンのスピリッツを生産するキャパシティがあったそう。タナーズ・クリークの橋の近くには、1880年にフレデリック・ローデンバーグによって約15000ドルの費用で設立された蒸留所がありました。従業員は8人で、一日に310ブッシェルの穀物をマッシングする能力があり、やはりハイワインやバーボンウィスキーが蒸留されていたそうです。
こうした面々の活躍により、1880年頃には、ローレンスバーグのあるディアボーン郡では20近い蒸留所が運営されていたと言います。当時は正にウィスキー・シティに相応しい活況を呈していたことでしょう。

さて、シェンリーがオールド・クェーカーの名を付け改良した施設は、フージャー・ステイト(インディアナ州のこと)に縁の深いスクィブ家が関わっていました。彼らの仕事は禁酒法によって終わりを告げるまで50年以上に渡り続けられていたのです。
ウィリアム・P・スクィブは1931年にインディアナ州ディアボーン郡オーロラ近くで生まれ、そこで育ち、教育を受けました。南北戦争では北軍に入隊したそうですが、兵役に就いた証拠はないと言います。彼はオーロラでメアリー・フランシス・プラマーと出会い、結婚し、10人の子供(4人の女の子と6人の男の子)を儲けました。若い頃のウィリアムはオーロラで食品や酒類を扱う商いをしていたようです。そして1846年、弟のジョージと共にオーロラに小さな蒸留所を開きました。
その後、スクィブ家は5マイル向こうのローレンスバーグへ進出します。おそらくこの時、ファンタスティックな名前のコズモス・フレデリックが仲間に加わりました。彼はウィリアムとジョージのスクィブとパートナーシップを結び、1868年に敷地を購入すると、バーボンウィスキーとハイワインを蒸留する目的の新しい蒸留所をメイン・ストリート近くのセカンド・ストリートに建設し、1869年1月に操業を開始しました。彼らの工場は一日300ブッシェルの穀物をマッシング出来たとか、或いは一日5バレルを製造したとされます。
1871年9月1日、コズモスは持株をスクィブ兄弟に売却し、ニコラス・オースターと共に新たな蒸留所を設立しました。その頃、スクィブ兄弟はビルディングの拡張とその容量を拡大し、1日あたり330ブッシェルのマッシング能力、1260ガロンのスピリッツを生産、倉庫はレンガ造りで耐火性だったそう。同社の商品の主な販売先はシンシナティ、ルイヴィル、セントルイスで、会社のメンバーはアクティヴなビジネスマンであり、その迅速性と信頼性はビジネス界で知られていたとか。
スクィブ家は南北戦争後の「インダストリーの新時代」の恩恵を受けていました。インディアナ州は前例のない成長の中心にあり、19世紀末までに全米の製造業のトップ10に入っていたと言います。この成長に欠かせなかったのは州を横断する鉄道でした。鉄道は、蒸留に必要な穀物やその他の物資を運び、そして完成した品物を幅広い地域へ流通させました。スクィブ兄弟の事業は年々成長を続け、と同時に彼らのウィスキーの品質の高さも口コミで広まりました。1885年にはコンティニュアス・スティルを建設、これはおそらくインディアナ州で初めての連続式蒸留器の使用と見られています。また必要に応じて政府監督下の保税倉庫も追加したそう。
スクィブ社の扱った銘柄には、1906年に商標登録されたものに「ディアボーン・ミルズ・ウィスキー」、「ロック・キャッスル・ライ」、「チムニー・コーナー」、「グリーンデール・ウィスキー」があり、その後1910年に商標登録された「ゴールドリーフ・ライ」等がありました。
ウィリアムとジョージは共に協力して長きに渡って蒸留所を上手く運営しました。その間、ウィリアムの息子たちも事業に携わり、経営や販売などの様々な役割を担っていました。創設者の二人はどちらも1913年に亡くなり、ウィリアムは享年82歳、ローレンスバーグ近くのグリーンデール・セメタリーに埋葬されたそうです。
創設者の死により、スクィブ社は「新世代」に委ねられます。子供達のうち息子の四人といとこの一人が事業を引き継ぎ、1914年、同じ場所に新しい蒸留所を建設しました。彼らは禁酒法によって蒸留所の生産を終了せざるを得なくなるまで事業を続けました。禁止期間中、スクィブ家は他のビジネスの道に進んだと言います。また、彼らは解禁後の1937年から1949年までインディアナ州ヴィンセンズの廃業したイーグル醸造所を使用してボトリング?か何かのビジネスをやっていたようですが、詳細は分かりません。それは措いて、スクィブ家は南北戦争後から半世紀以上もの間、事業の繁栄を持続させたことでインディアナ州にその商才を轟かせました。彼らが造った良質なウィスキーは、彼らをローレンスバーグ・コミュニティの市民として尊敬され得る立場にしたのです。

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禁酒法が終了する直前、シェンリーはローレンスバーグ工場を買収し、ケンタッキー州フランクフォートやレキシントン、カリフォルニア州フレズノやその他の施設と共にコングロマリットに導入しました。そして購入後に工場を再建して、そこをオールド・クェーカー・ディスティリングとしました。1936年には、他のシェンリー・ウィスキーを蒸留するための新しい建物も追加されます。オリジナルのプラントは日産約700バレル、新プラントは約500バレルだったとか。熟成庫は温度調節が出来ました。当時のプラント・マネージャーはロバート・ナンツです。ちなみにローレンスバーグ工場は後の第二次世界大戦中にペニシリンの製造に使用されました。

ところで、ここまで禁酒法以前のウィスキー研究家のブログ記事や、ディアボーン郡およびローレンスバーグ/グリーンデールの歴史書、またはトリップ・ガイド等から情報を取り込んで書き進めて来ましたが、少し疑問があります。古い事柄を調べる時にありがちな事なのですが、知りたい肝心のことが書かれてなかったり、参考にする情報源によって微妙な違いがあって辻褄が合わなくなったりするのです。先に書いた文章ですが、例えばこれ。
「シェンリーは(略)インディアナ州ローレンスバーグにあった二つの古い蒸留所を購入し、オールド・クェーカーの名の下にそれらを合併しました。禁酒法が終了した直後、シンシナティからちょうど西に位置するグリーンデール~ローレンスバーグ周辺にはウィスキーを製造する四つの蒸留所がありました。一つはオープンして間もなく閉鎖、一つはシーグラムが所有、残る二つがシェンリーによって合併されたのです。」
この段落は有名なバーボン・ライターの記事を元にして書いたのですが、ここで言われているすぐに閉鎖した蒸留所というのは、おそらくジェイムズ・ウォルシュ&カンパニー蒸留所のことだと思われます。この蒸留所はオールド・クェーカー蒸留所の4ブロック西にあり、ジェイムズ・ウォルシュの名前は有名で古くからあったのですが、禁酒法解禁後の1934年にオショネシー兄弟によって建てられたローレンスバーグで最も小さい蒸留所でした。で、シーグラム所有というのは現MGPのロスヴィル蒸留所のことです。そしてシェンリーが購入した一つは、言うまでもなくW. P. スクィブ蒸留所ですよね。じゃあ、もう一つは何なの? これが疑問なのです。この件に関してはいくら調べても確かな情報が見つからないので、私の憶測なのですが、多分もう一つの蒸留所は、グリーンデール・ディスティリング・カンパニーのプラントだったのではないかと思います。実はスクィブの蒸留所は禁酒法が始まって初期の頃、あの伝説のブートレガー、ジョージ・リーマスの所有下にありました。弁護士として大金を稼いでいたリーマスは、禁酒法によって市場価値が大幅に低下していた蒸留所を安価に買収することが出来たのです。彼の買収した14の蒸留所のうちインディアナの二つがスクィブ蒸留所とグリーンデール蒸留所でした。だから、なんとなくこの二つがセットでシェンリーに流れたのではないかと…。いや、グリーンデール・ディスティリング・カンパニーのプラントがロスヴィル蒸留所に隣接した位置にあったのは確かなのです。そしてシェンリーのオールド・クェーカーのプラントもロスヴィル蒸留所のすぐ北の位置、現在シェンリー・プレイスと呼ばれる場所にありました。上の文の「二つがシェンリーによって合併された」の「合併された」は「merged」の訳ですから、意味は「combine」もしくは「join together」であり、別個だった施設をくっ付けたと解釈していいのなら、二つの蒸留所は隣接している必要があります。
こうなってくると、スクィブ蒸留所の所在地が問題になって来ます。私も採用した一方の情報では、1869年1月に操業を開始した蒸留所はローレンスバーグのメイン・ストリート近くのセカンド・ストリートにあり、創設者の死によりスクィブ社が息子達に引き継がれた後の1914年、同じ場所に新しい蒸留所を建設した、とあるのです。これだとシェンリー・プレイスとは少し離れています。だから、もしかするとこの新しい蒸留所を建てた時にグリーンデールのブラウン・ストリート近くに移転したのではないでしょうか? 或いはその一方で、1968年竣工の蒸留所はグリーンデールに建てられたとする情報もありましたので、初めからブラウン・ストリート近くに建てられていたのかも知れません。まあ、判らないことは措いておきましょう。
ちなみに紛らわしいのは、グリーンデールがローレンスバーグの一部と一般的に考えられていることです。それ故、オールド・クェーカー(または他のシェンリー・ウィスキー)のラベルには「ローレンスバーグ」と記載されます。現MGPのロスヴィル蒸留所もローレンスバーグにありますが、実際施設の半分はグリーンデールに属しています。

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(1938年の広告)

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薬用ウィスキー事業で優位を確立していたシェンリーは、禁酒法が終了すると一気に幸先の良いスタートを切り、25%のシェアを握るマーケット・リーダーになりました。そうした中でオールド・クェーカーは比較的安価な主要ブランドの地位を確立したと言えるでしょう。オールド・クェーカーのキャッチコピーは「リッチ(豊潤)なウィスキーを楽しむために、リッチ(大金持ち)である必要はありません」でした。
おそらく禁酒法の影響によるストックの欠如から、ブランド再導入時の初期パイント・ボトルの頃は18ヶ月、2年、3年熟成などがあり、後に4年熟成と段階的に熟成年数を増やしたと思われます。ボトリングは当初は90プルーフでした。それがいつの頃からか4年熟成86プルーフに落ち着いたようです。5年熟成の物もありました。またブランドにはライとジンもありました。1940年代初頭にはちょっと高級?なオールド・クェーカー・スペシャル・リザーヴも発売されています。当時のLIFE誌に掲載された記事によると4年熟成86プルーフでバーボンとライがあると書かれていました(後に5年熟成もあった)。となるとスペックは通常のオールド・クェーカーと同じなので、バレル・セレクトによる違いでしょうか? それともマッシュビルに違いがあったのでしょうか? まあ、そもそも通常のオールド・クェーカーのマッシュビルだって不明ですけれども。それと年式が全く判らないのですが(とは言え明らかに30~40年代ではない)、ボトリングがペンシルヴェニア州アラディン表記のラベルの物がありました。アラディンはアームストロング郡ギルピン・タウンシップのシェンリーすぐ隣なので、そこにボトリング施設があったのでしょうか? 詳細ご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。(※また「ケンタッキー」表記のオールド・クェーカーについてコメントよりご指摘いただきました。宜しければそちらもご参照ください。)
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それは偖て措き、オールド・クェーカー・ブランドはアメリカでバーボンの需要が落ち込んだ70年代はなんとか切り抜けましたが、冒頭に述べたように、80年代には製造を中止されたと思われます。これはブランドの問題であるよりは、業界全体の問題だったでしょう。30年代から60年代にかけて、バーボンはインディアナだけでなく、イリノイ、オハイオ、ペンシルヴェニア、ヴァージニア、ミズーリなど、ケンタッキー以外の多くの州で造られていましたが、70年代から80年代にかけて業界が縮小すると、ケンタッキー州以外の生産者の殆どは蒸留所を閉鎖してしまいました。オールド・クェーカーもそうした流れと無関係ではない筈です。一時この工場は226エーカーの土地に92棟の建物で構成され、1988年9月に操業が終了するまでディアボーン郡で4番目に大きな雇用主でした。禁酒主義のクェーカー教徒には申し訳ないですが、古きを想わせる美しいデザインのオールド・クェーカー・ラベルがなくなってしまったのは残念という他ありません。そう言えば、ラベルにフィーチャーされている男性は一体誰なのでしょう? ペンシルヴェニアの建設者でクェーカーのウィリアム・ペンに似ているように見えるのですが…。単にクェーカーの装束だからそう見えるだけですかね? これまた誰か知っている方はコメントよりお知らせ下さい。では最後に飲んだ感想を少々。

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OLD QUAKER 4 years old 86 Proof
推定70年代前半ボトリング。際立って甘くはなく、ほんのりスパイシーで円やか。正直言うとあまり印象に残らないバーボンでした。驚くほど旨い訳でもないが、普通に美味しいオールド・バーボンという感じ。
Rating:83/100


*日本では「クェーカー」は「クエーカー」と表記されるのが主流のようですが、実際の発音は「クウェイカー」に近いです。

**現在一般的には第一蒸留で得れるスピリットをロウワイン、第二蒸留で得れるスピリットをハイワインと呼びますが、この頃のハイワインという用語は、どうやら後に再蒸留してアルコールにしたり飲料用スピリッツにしたりする原液?とでも言いますか、第一蒸留で得れる蒸留液を指しているようです。

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オールド・ヒッコリーはパブリカー/コンチネンタルの主力バーボン・ブランドでした。フィラデルフィアに拠点を置くパブリカー/コンチネンタルは、禁酒法解禁後のアメリカで業界を牛耳ったビッグ・フォーに次ぐ地位を確立した大手酒類会社の一つ。往年、フィラデルフィア地域に住んでいた人々は、ウォルト・ウィットマン・ブリッジのすぐ傍、パッカー・アンド・デラウェア・アヴェニューにあった蒸留所からする強力な匂いを今でも思い出すと云います。橋を渡るとベーカリーのようないい匂いがしたそうな。また当時そこには、橋から見える夜にはライトアップされたオールド・ヒッコリーの大きな看板もありました。パブリカー・インダストリーズとコンチネンタル・ディスティリング・コーポレーションについては以前投稿したリッテンハウス・ライのレヴュー時に紹介してるので、詳しくはそちらを参照下さい。

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コンチネンタルにはチャーター・オーク、ハラーズ・カウンティ・フェア等のストレート・バーボン、その他に様々なブレンデッドがありましたが、オールド・ヒッコリーが最も売れ、よく知られたブランドだと思われます。「オールド・ヒッコリー」というブランド名はアメリカ合衆国の第七代大統領アンドリュー・ジャクソンのニックネームから由来しています。ラベルの肖像画の人物ですね。米英戦争(1812年戦争)の最中、ジャクソン将軍の忍耐力と力強さは、しっかりと根付いた強靭なヒッコリーの木を思わせたことで、彼は兵士たちから「オールド・ヒッコリー」というニックネームが付けられました。そして以後、友人や信奉者の間でそのニックネームは愛情を込めて呼ばれ知られるようになり、1828年の大統領選挙の成功を収めたキャンペーンでも目立つようにフィーチャーされました。ジャクソン大統領とウィスキーの関係については、それほど多く記録されていませんが、伝え聞くところでは、1799年に彼は合わせて190ガロンを生産できる二つのポットスティルで蒸留を始め、残念ながらこの蒸留所は翌年に火事で焼失し完全になくなり、数年後、今度はビジネス・パートナーとなったワトソン氏の助けを借りて再建したのだとか。それはともかく、彼は米英戦争を終わらせた決定的なニューオリンズの戦い(1815年)に於いて軍を率い、アメリカの独立を維持したことで名声を得、庶民出身の大統領として渾名通りの強情さを発揮しました。アンドリュー・ジャクソンというアイコンの発する「強さ」や「南部」や「非エリート」の香りはバーボンに相応しいものだったのでしょう。

ただし、オールド・ヒッコリーの名称をウィスキーに使い始めたのはコンチネンタルが初めではありませんでした。禁酒法以前から既にその名は見られ、ネット検索で把握できるところでは以下のような物があります。
先ずはジャグ・ボトルのオールド・ヒッコリー・ウィスキーです。ウィスキーのガラス・ボトルでの販売がまだ一般的でなかった時代と思われるそれには、ケンタッキー州マリオン郡の蒸留所から直接~、とデカデカと書かれていました。もう一つはオレゴン州ポートランドの酒類卸業者フレッケンシュタイン=メイヤー・カンパニーの販売していたオールド・ヒッコリー・ウィスキーで、ラベルにはケンタッキー州ウッドフォード・カウンティの記載が見られます。またミルウォーキーの酒類卸業者A・ブレスラワー・カンパニーが自社ブランドでオールド・ヒッコリーを販売していたようです。他にも、ニューオリンズで酒屋をやっていたジェイコブ・グロスマンが販売していたオールド・ヒッコリー・ビターズなるものもありました。なんなら禁酒法時代にはカナダのワイザーズ・ディスティラリー・リミテッドのオールド・ヒッコリー・ライもありました。
おそらくオールド・ヒッコリーという名前は、禁酒法の前後か最中にコンチネンタルが前所有者から購入し、解禁後にブランドを刷新したのだと思います(ミルウォーキーの業者から購入した可能性が高い気が…)。そもそも上記の古いオールド・ヒッコリーたちは「大統領」から来てるのか「木」から来てる名称なのかも定かではなく、コンチネンタル製のオールド・ヒッコリーにしても初期段階と思われるラベルにはジャクソン大統領の肖像画がありません。
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(1936年頃)
コンチネンタル初期のオールド・ヒッコリーにはライもありましたが、その後は造られなくなったようです。そして上画像のストレート・ウィスキーには2年熟成とありました。多分、熟成ウィスキーのストックがなかったからだろうと思います。その後は年を経るにつれて4年熟成になり、オールド・ヒッコリーがコンチネンタルの看板製品となる頃には最低6年熟成のクオリティを守ったようです。通常スタイルのボトルに紙ラベルの物には、同時期流通ではないと思いますが、熟成年数とボトリング・プルーフのヴァリエーションがありました。基本は6年熟成86プルーフとボトルド・イン・ボンドで、他に7年熟成や8年熟成の物、また80プルーフもあったかも知れません。こうした通常品の他にスタイリッシュなグラス・デカンターに容れられたオールド・ヒッコリーも幾つかありました。それらの中でも有名なのはイーグル・キャップ・デカンターとかゴールデン・トロフィーとか呼ばれるやつです。中身のバーボンは10年熟成ですね。
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そしてトップ画像のパネル・ボトルも10年熟成。多分60~70年代頃に流通していたと思います。おそらく、こうした当時としては長期熟成のバーボンを使用したリリースは、当時の多くの蒸留所と同様、需要の減少により倉庫に在庫が蓄積されたために行われたのでしょう。もともと長期熟成を意図したのではなく需要減の副産物として製品化したのが現実かと。しかし、その結果はフル・フレイヴァーをもたらし、バーボニアンの評価するところとなりました。その最たるものが特別なリミテッド・エディションの20年熟成オールド・ヒッコリーでした。発売は70年前後と見られ、逆算すると1950年前後の蒸留ですから、リンフィールドのキンジー蒸留所(PA-12)で蒸留された可能性が高いです。キンジーの元従業員によるとウェアハウスDから引き出されたバレルをボトリングしたものだとか。
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通常のオールド・ヒッコリーはキンジーではなく、サウス・フィラデルフィアのコンチネンタル・プラント(PA-1)で造られた筈です。熟成はリンフィールドでしょう。ボトリングは時代によって異なる場所でされたようで、キンジーのボトリング施設の時もあれば、イリノイ州レモントの場合もありました。もしくはフィラデルフィアのボトリング施設でなされた時期もあったかも知れません。
レシピの詳細は分かりませんが、コンチネンタルは同社のナンバーワン・バーボンであり最大の売れ筋であったオールド・ヒッコリーを造ることに重きを置いたらしく、他のバーボンとは共有されていない独自のマッシュビルを持っていたと伝えられます。先にも触れたように、オールド・ヒッコリーは少なくとも6年は熟成されており、ボトルド・イン・ボンド・ラベルのボトリングでも6年熟成でした。一般的に4年程度の熟成でボトリングされることの多いバーボンと較べ、この2年の追加こそがその滑らかさとリッチなフレイヴァーの大きな理由であると考えられています。
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さて、大きな会社であったパブリカーも、1970年代に業界で起こった変化に耐えることができませんでした。アメリカではクリア・スピリット、特にウォッカの人気が高まり、バーボンの販売量は減少したのです。「America's Most Magnificent Bourbon(アメリカの最も壮大なるバーボン)」と宣伝されたオールド・ヒッコリーではありましたが、現実にはナショナル・ディスティラーズのオールド・グランダッドやオールド・クロウやオールド・オーヴァーホルトよりは全国区ではないと言うか、ストロング・ブランドではなかったのでしょう。そしてパブリカー/コンチネンタルにとって悪いことに、長年会社を率いてきたリーダー、サイモン・"シー"・ニューマンの死が1976年にありました。サイモンの死後、外部の経営者たちが雇われ取締役会に進出すると会社の方向を変えようとし始めました。それは会社の建て直しではあったのですが、彼らはパブリカーをP&Gのような強大なホーム・ケミカル会社にしようとしました。飲料用蒸留酒の製造と販売に見切りを付けた訳です。多くの酒類ブランドやイリノイ州レモントのボトリング施設といったアルコール事業の資産は、負債の支払いとケミカル・ボトリングへの資本投資に使用するために1979年に売却されました。オールド・ヒッコリーはこのブランド売却の際、その他のブランドと共にチャールズ・メドレーに買われます。
チャールズはブランド権だけでなくストックのバレル及び既にボトルに入ったオールド・ヒッコリーも購入しました。聞くところによると「リンフィールド」が「XXX」で消され「オーウェンズボロ」と書かれたボトルがあったそうな。それらを販売し使い果たした後、オールド・ヒッコリーはメドレー蒸留所で造られたと思われます。アメリカの情報を参照するとオールド・ヒッコリーは1981年に製造中止になったとされることもあるのですが、日本で比較的見かけることの多いポッカ輸入のスタンダードな4年熟成80プルーフのオールド・ヒッコリーにはオーウェンズボロの記載があり、なんとなくもう少し後年まで製造されていたのではないかという印象があります。
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現に私の手持ちの91年発行のバーボン本には当のオールド・ヒッコリーが紹介されています。80年代後半のバーボン・ムックにも紹介されていました。これは私の推測なのですが、おそらくメドレーがグレンモアに買収され、グレンモアがユナイテッド・ディスティラーズに買収された91年までは、オールド・ヒッコリーはメドレー蒸留所で製造されて日本向けの輸出ラベルとして生き残り、UDにブランド権が移った時に製造を停止されたのではないでしょうか? ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。それは措いて、90年代後半には市場から完全に姿を消したオールド・ヒッコリー・バーボンは、月日の経過と共に忘れ去られた存在となりました(オールド&ヴィンテージ・バーボン愛好家は別として)。

ところが、折からのアメリカのバーボン・ブームのおかげ?で、オールド・ヒッコリーは復活を遂げます。
ナッシュヴィルに拠点を置く酒類販売店で1994年設立のR. S. リップマン・カンパニー(ワイン、ビール、スピリッツ、およびミキサーを取扱う)は、2011年以降、多様な飲料アルコールのポートフォリオを構築するためのブランド作成と買収を開始しました。彼らは2013年にテネシー州市場での最初の発売のためにオールド・ヒッコリーの商標を取得します。2013年の夏、同社CEOのロバート・S・リップマンと開発チームはインディアナ州ローレンスバーグにある元シーグラムの蒸留所(MGP)で、長い間マスター・ブレンダーを務めるパム・ソウルと蒸留所のチームと連携して、オールド・ヒッコリー・ウィスキー・プロジェクト用のマッシュビルとバレルを選択しました。それらは「オールド・ヒッコリー・ブレンデッド・バーボン・ウィスキー(通称ブラック・ラベル)」として発売されました。ブラック・ラベルは4年以上熟成のウィスキーが89%、最低限2年熟成のウィスキーが11%のブレンド、80プルーフでのボトリングです。2015年春には「オールド・ヒッコリー・ストレート・バーボン・ウィスキー(通称ホワイト・ラベル)」が発売されました。こちらはMGPの標準的なエイジングである最低4年から7年熟成のバレルから造られ、歴史的にアメリカのディスティラーが好んだと云う伝統的な「パーフェクト・プルーフ」の86プルーフにて製品化されています。マッシュビルの仔細は公表されていませんが、どちらも同じでコーンとライ合わせて90%、残りがバーリーモルトのようです。ボトリングはオハイオ州シルヴァートンでされました。最近では製品レンジも拡がったようで、341ケースのみの限定リリースながら「オールド・ヒッコリー・ハーミテッジ・リザーヴ・ライ」も発売されました。これは6年熟成で、MGPの95%ライ・マッシュビルの個人選択バレルだと思います。
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では、現代版オールド・ヒッコリーの紹介が済んだところで、最後に飲んだ感想を少しばかり。今回飲んだのは、オールド・バーボン愛好家に評価の高いコンチネンタル製の10年熟成オールド・ヒッコリー。先日まで開いていたボトルが空になったとのことで、新たなストックを開封して頂きました。裏ラベルにイリノイ州レモントの記載がありません。Distilled表記しかないのです。レモントとあるのとないのどちらの方が古いのでしょうか? ご存知の方はコメントよりご教示下さい。ちなみに参考の物は70年ボトリングとされ、「DISTILLED IN PENNA」とあります。
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OLD HICKORY 10 Years 86 Proof
推定70年代ボトリング。クラシックなバーボンという印象。スムーズな飲み口。しっかりとした樽香にバランスのとれたフレイヴァー。キャラメルもスパイスもドライフルーツもハーブも感じられるが、どれも突出しない穏やかな感じ。
Rating:86/100

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オールド・ミスター・ボストンは、禁酒法の終わりに、マサチューセッツ州ボストン近隣のロクスバリーに設立されたベン・バーク・インコーポレイテッドのブランドでした。社名は創業者の二人、アーウィン・"レッド"・ベンジャミンとハイマン・C・バーコウィッツのファミリーネームの前半を繋げたものと思います。彼らはオールド・ミスター・ボストンのブランド名で、ウィスキー、ジン、ラム、ブランディ、コーディアルやリキュールまであらゆる蒸留酒のフルラインを販売していました。
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(1940 Life Magazine)

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またコレクターに知られる記念ボトルやデカンターを様々な形とサイズや素材で販売し、そのレンジにはシンプルなガラス瓶からより精巧な人形やモデルに至るまであります。それらの中でも、おそらく最も有名なのは1953年大統領就記念ボトルでしょう。ボトルの後ろには、それまでの全てのアメリカ大統領のリストがプリントされています。
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蒸留所は1010マサチューセッツ・アヴェニューにあり、1933年から1986年当時の親会社だったグレンモア・ディスティラーズが操業を停止するまでボストン地域の主な雇用主でした。オールド・ミスター・ボストンが活動していた建物は、現在ではボストン市が所有しており、1970年代にその半中毒性のフレイヴァー・ブランディで最もよく知られていたにも拘わらず、皮肉なことに、市検査サーヴィスの本部として使用されている他、ボストン公衆衛生委員会や暫定支援局などの機関が入っているようです。
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(WIKIPEDIAより)

時の流れと共に一連のオーナーシップの変更を通じ、ブランドは変化を被りました。オールド・ミスター・ボストンは1933年の創業から1970年までは独立した事業でしたが、その年にグレンモアに買収されます。当時グレンモアは米国で最大クラスの蒸留酒を製造/販売する会社の1つでした。グレンモアの所有下でも、全ての事業がルイヴィルに移された1986年までは、ボストンの本拠地は操業を続けていました。
1980年頃にグレンモアは、ブランドを現代風にするため、或いは「ボストン氏」をより若い男として描写するため、その渾名から「オールド」をなくしました。ちなみにラベルの印象的な肖像画の人物、ビーヴァー・ハットを被ったディケンジアンのような、ヴィクトリア王朝時代風の紳士に見える「ボストン氏」は架空の人物です。1987年には「ミスター」まで取り除かれ、遂にシンプルな「ボストン」となり、ロゴは飾り気のない「B」になりました。
1991年になると親会社のグレンモアはユナイテッド・ディスティラーズ(現在のディアジオの母体)に買収されます。この期間の業界統合で典型的だったのは、買収する側の企業は大抵の場合、買収した企業の資産の一部しか必要とせず、残りをすぐに売却することでした。ユナイテッドは例に漏れずそうしました。1995年にニューヨークのCanandaigua Wine Co.(後のコンステレーション)傘下のバートン・ブランズが「ボストン」を含む多数の破棄されたブランドを購入し、生産を再開、その時に名前を以前の栄光に似た「ミスター・ボストン」へと戻しました。バートンは、リキュールとコーディアルのラインにこのブランドを使用しています。その後の2009年、バートンの親会社コンステレーションもユナイテッドと同じ事をし、ミスター・ボストン・ブランドを含むバートン・ブランズをニューオーリンズのサゼラック・カンパニーに売却しました。それからはサゼラックが所有し続け現在に至ります。

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「オールド・ミスター・ボストン」の名は蒸留酒のブランドだけでなく、プロ/アマ問わずバーテンダーやミクソロジストに「聖書」として参照された小さな赤い本「オールド・ミスター・ボストン・オフィシャル・バーテンダーズ・ガイド」でも知られています。
禁酒法が廃止されたことでアメリカにバー・タイムとカクテル・アワーは甦りました。ウィスキー、ジン、ラム、リキュール等を取り揃えたオールド・ミスター・ボストン・スピリッツの製造元であるベン・バーク・インコーポレイテッドは、蒸留所が再び営業を開始した禁酒法廃止後の初期段階に「ガイド」を作ることを決めます。オリジナルのガイドはオールド・ミスター・ボストンの購入エージェントであるレオ・コットンによって編纂され、彼は四人の「オールド・タイム・ボストン・バーテンダーズ」と協力してそれを作成しました。ガイドは大成功を収め、初版が1935年に出版されて以降、時代に合わせて改訂と更新を繰り返し、長年に渡って発行されました。レオは本業そっちのけで改訂作業に熱を入れたなんて話もあります。そのガイド・ブックは、史上初のカクテル・ブックでもなかったし、現代的なミクソロジー・ムーヴメントを正確に反映した書物でもないでしょう。けれども伝統主義者には試金石として重要な書物であり続けたのです。
ミスター・ボストンの現所有者であるサゼラックは2016年7月に新しいウェブサイトを立ち上げました。「ミスター・ボストンの本は禁酒法以来、アメリカのカクテルの進化をカヴァーしていますが、悲しいことに何年にも渡ってほったらかしにされていました」とサゼラック・カンパニーの社長兼最高経営責任者マーク・ブラウンは語ります(以下、鉤括弧はマークの言)。サゼラックは自身のカクテル開発における役割からの帰結として、自らの会社の歴史をミスター・ボストンの歴史に統合しました。「私たちの会社とそのブランドの繋がりは、サゼラック・カクテルだけでなく、カクテル・カルチャーの代名詞であるニューオリンズの私たちの伝統とも密接に関連しています。プロフェッショナルとアマチュアのミクソロジストのための〈頼りになる〉サイトとして、少なくとも80年間はブランドの未来を確保するように全てを纏めるのは自然なことでした」。このウェブサイトではオフィシャル・バーテンダーズ・ガイドをデジタル形式で見ることが出来ます。「私たちはスピリッツ業界の人々やホーム・バーでカクテルを作る人々にとって、これが真のリソースになることを望んでいるのです」。
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さて、今回飲んだのは昔のオールド・ミスター・ボストン・ブロンズ・ラベル。ブランドのラインナップの中でもバーボンは一部に過ぎませんが、そのバーボンの中でもブロンズ・ラベルがどの程度の位置付けなのか調べてもよく分かりませんでした。一般的に「ブロンズ」と言うとトップ・クオリティとは考えにくい色と思われますがどうなのでしょう? と言うか、そもそもゴールドとシルヴァーはないみたいなので、なにゆえ敢えてブロンズなのか気になるところです。
私が飲んだボトルのバック・ラベルは、本来、熟成年数が記述されている場所にインポーター・シールが貼られ見えません。ですが、殆ど同じと思われるボトルの他の画像をネットで見てみると、どうやら6年熟成と書かれているようなのです。そしてラベルにはデカデカと「ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」の文字。6年熟成のKSBWならば、ほぼほぼ良質なウィスキーと言って良いかと思います。ただし、ラベルにはケンタッキー州○△□とは書かれておらず、一体どこの蒸留所産かは見当も付きませんが…。

ところで、ラベルに記載された所在地なのですが、マサチューセッツ州ボストンはオールド・ミスター・ボストンの本拠地だから分かり易いですよね。次のジョージア州オーバニーは、あの有名な未熟成コーンウィスキーのジョージアムーンを造っていたヴァイキング・ディスティラリーのことを指しているのも間違いないでしょう。オールド・ミスター・ボストンは60年代初頭にそこを買収しています。で、最後のフロリダ州レイクランド、これが分かり辛い。今でこそ(2000年以降)フロリダ州にも多くのクラフト蒸留所は設立されてますが、一昔前はおそらく一つしかありませんでした。それは1943年に設立されたフロリダ・フルーツ蒸留所です(ライセンス#1)。柑橘類を蒸留してアルコールを造っていたからその名前だったのでしょう。現在はフロリダ・カリビアン・ディスティラーズと知られ、かなり大きな規模の蒸留所らしく、毎年1000万ガロンのワイン、ビール、スピリッツを生産し、自社ブランドに加えてバルク・スピリッツを様々なボトラーや飲料会社に販売、アメリカ南東地域で最大の契約ボトリング施設の一つとして高速生産ラインは年間1500万ケースを生産する能力を持っているとか。75年以上の運営を通じて世界中のほぼ全ての主要なスピリッツ企業のためにボトリングして来たと言います。おそらく昔からスピリッツのバルク販売や契約ボトリングをしていたと思われますが、ここをオールド・ミスター・ボストンが所有していた時代があったのか? それとも単なるボトリング契約を結んだだけなのか? 或いは全く関係ないのか? 誰かご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。では、最後に飲んだ感想を。

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今回はバー飲みです。せっかくバーに来たからには珍しい物を飲みたいと思い、こちらを注文したのですが、先日まではなかった液体の濁りが見られると言うことで、提供を断られてしまいました。しかし、その後マスターの一声で何とか頂くことが出来ました。なので開封したてとはその味わいに大きな変化があるかも知れません。

推定69年ボトリング。かなりフルーティなバーボンという印象。軽やかな酒質ながらしっかりとしたフレイヴァー。時間の経過でフルーツ香からキャラメル香へと変化。多少、酸化した風味に思えなくもないが全然美味しく飲めた。
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アーリータイムズ・プレミアムは日本市場限定の製品です。調べてみると1993年から発売され、1997年に終売になったとの情報がありました。後の2011年リリースで2014年に製造停止となった「アーリータイムズ354バーボン」同様、このプレミアムも短命だった訳です(354の過去投稿はこちら)。どちらも3~4年で製造されなくなったところを見ると、あまり売れなかったのでしょう。

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(アメリカ流通のアーリータイムズ・ケンタッキーウィスキー)

アーリータイムズのアメリカ本国での流通品は、1983年にそれまでの「ストレートバーボン」規格から中古樽熟成原酒を含む「ケンタッキーウィスキー」への転換がありました。そう、我々日本人がバブル時代に大量のバーボンを輸入し、バーボンブームが到来していたあの頃、「バーボンと言えばやっぱりアーリータイムズだよね」と憧れていたバーボンは、既に本国ではバーボンではなくなっていたのです。アメリカに於けるアーリータイムズ・ケンタッキーウィスキーはボトムシェルフの王者だったかも知れませんが、そのブランド・イメージは「古臭くて安い酒」だったに違いありません。恐らくそうした負のイメージを刷新しようとしたのが354バーボンの発売だったと思われます。しかし、ほんのちょっと先走り過ぎたのか、単なるマーケティングの失敗なのか、とにかくその目論みは外れました。製造中止のアナウンスの際にブラウン=フォーマンのスポークスマンは、消費者はアーリータイムズにプレミアムを求めていなかった、という趣旨の発言を残した程です。
一方、アーリータイムズの輸出用製品はケンタッキー・ストレート・バーボンとして継続されました。世界的な知名度は絶大であり、特に日本では確固たる地位と販売量を誇るブランドだったからです。では、その日本ですらそれほど売れなかった(と思われる)アーリータイムズ・プレミアムとは一体何なのでしょうか?

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ラベルのサイドに書かれた文言はバーボンのありきたりの常套句ばかりで読む価値もないものです。はっきり言えば、ボトルのみから判断できる情報では度数が3%ほど高い43度ということだけ。このプレミアムについて調べていると、或るブロガーさんの記事で「当時価格で1500円」とありました。随分と安くありません? まあ、354バーボンもアメリカでは17ドル前後の販売だったので、「プレミアム」とは言ってもアーリータイムズ自体がバリュー・ブランドだし、ちょっと上位だよ程度の意味しかないのでしょう。1997年発行のバーボン本によると、イエローとブラウンが参考価格で2700円、プレミアムが4000円とあり、実売価格ではないけれどそれなりの差額があります。そして、その本の製品説明によれば、

「プレミアムは、品質へのこだわりをより徹底させた日本限定品。原料を独特の比率で組み合わせ、酵母も専用のものを使っている。熟成が、香りと色、味わいに深みをあたえている。」

とのこと。え? マジで!? 正直言って、この手の本に載っているインフォメーションは疑わしいものが多く、どこまで信憑性があるのか判りません。アーリータイムズ自体の紹介には比較的紙面が割かれてはいますが、97年発行という時期柄か、96年発売のブラウンラベルについて多く語られ、プレミアムに関しては上の引用文だけしか記述はないのです。取りあえずこの件は後で少し触れるとして、このプレミアムという製品、パッケージングがヒドくないですか? プレミアムを謳いながらラベルの色がブラウンとカーキの中間色? え、売る気あるの? スタンダードのイエローより地味になってますけど? プレミアムが販売されていた当時、熟成年数やボトリング・プルーフの違いによってラベルの色の違う2~3種類のヴァリエーションを揃えたバーボンが沢山ありました。その中で、アーリータイムズにも少し度数の高いヴァリエーションがあるのは自然の流れだろうし、ネームバリューだってずば抜けているのだから、プレミアムが売れる潜在能力は大いにあったと思うのです。いくら「水割り文化」の日本人に最も売れているブランドだったとしても、ハイアー・プルーファーが売れる素地はなくはない筈。通常、ボトルやラベル・デザインを変えずにより良質なヴァリエーションもリリースする場合には、上位の物に高価そうに見える派手な色のラベルを使う傾向にあります。スタンダードが白や黒なら、上位のクラスには赤や銀や金などを使うという具合に。ひとえにプレミアムが売れなかった原因はパッケージにあったのではないでしょうか? この渋すぎる色ラベルのアーリータイムズは、どう見てもイエローラベルの廉価版にしか見えず、プレミアム感の欠片もありません。これでは売れる訳がない……と、ここまではプレミアムが売れなかったから終売になったという前提で話を進めました。ですが、逆に順調に売れていたという可能性も考えられます。これについても後で述べることにし、先ずは飲んだ感想を書きましょう。

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Early Times Premium 86 Proof
1993年ボトリング。キャラメル、焦樽、ブラウンシュガー、ダークフルーツ、バナナ、米、ほんのりバター、絵の具。甘い香りにフルーティさが潜むアロマ。澄んだ酒質。口当たりは水っぽいものの風味はしっかりしている。香りにスパイシーなトーンは感じないが、液体を飲み込んだ後には穏やかなスパイスが現れる。余韻は43度にしてはやや長めで、緩やかな穀物の甘さとビタネスが同居。
Rating:84.5/100

Value:これ、美味しいです。ユニークな風味はありませんが、すっきりしつつコクのあるバランスの取れた味わい。スタンダードのイエローより幾分かフルーティで、イエローラベルに感じやすい嫌な風味も薄いように思いました。今でも2000円程度で販売されていれば常備酒としてもいいですね。ただ、残り三分の一で暫く放置していたら、甘味が弱くなって程よい接着剤が前面に来てしまいました。上のテイスティング・コメントはその前に書いたものです。オークションでのタマ数はそう多くありませんが、今のところ高騰してない銘柄なので、2500~3000円程度で落札出来る模様。

Thought:さて、プレミアムの中身に関してなのですが、飲んでみた感想が飲む前の予想をかなり越えていたこともあり、幾つかの可能性を考えてみました。先ずは、上記のバーボン本自体の信用性がなく、件の引用文もテキトーに書かれたデタラメなものだと仮定した場合、

①単純にイエローラベルよりボトリング・プルーフが高いだけ。だが、3度の違いが風味に及ぼす影響は大きい。
②使われている原酒の熟成年数が僅かに長い、もしくはイエローラベルよりクオリティの高い樽が選ばれている。
③イエローラベルとはトーストの具合が違う樽が使われている(*)。

と、考えるのが妥当だと思います。問題はその引用文が信頼できる真実の情報だと仮定した場合です。注目は「原料を独特の比率で組み合わせ、酵母も専用のものを使っている」という部分。酵母は一旦おいて、この前半の文を素直に解釈し、言葉を補うならば、「イエローラベルとは違うプレミアム独自のマッシュビルを使っている」と言っています。私は過去にイエローラベルとブラウンラベルの比較レヴュー(こちら)を投稿し、そこでブラウンラベルのマッシュビルについて紹介しましたが、このプレミアムまでもが全く別のマッシュビルを使ってるとは到底思えないのです。マッシュビル、特にフレイヴァー・グレインであるライ麦の比率は味わいに大きな影響を与えます。違うブランドにするならまだしも、同じブランド、同じラベルデザインの色違いで、通常そこまではしないでしょう。しかも日本だけのために、更には廉価な販売価格なのにです。しかし、今は引用文が正しいという仮定で話を進めています。そこで思い付いた解釈理論が、

④プレミアムはブラウンラベルの前身であり、中身はブラウンラベルのハイアー・プルーフ・ヴァージョンだった。

というものです。これは実際プレミアムを飲んでみてイエローラベルより私好みだったことから思い付きました。何となくイエローよりライ麦の影響を感じるような味の気がしたのです。ですが、私自身は味覚音痴ですし、それくらいの風味の違いはボトリング・プルーフの差や熟成の具合でどうとでもなりそうな気もし、また同時期のイエローとブラウンとプレミアムをサイド・バイ・サイドで飲み較べした訳でもないので自信はありません。あくまで珍説であり可能性の提供という意図しかないのです(飲んだことのある皆さんのご意見、どしどしコメントへお寄せ下さい)。そして、珍説ついでに妄想を膨らませてみると、実はプレミアムはよく売れていたのではないか?とまで思い直し、

⑤プレミアムは実験的に開発され、日本市場で好評だったが、のちに日本人の味覚に合わせて40度にプルーフィング・ダウンし、ブラウンラベルとしてリニューアルされた。

というストーリーまで考え付きました。プレミアムの中止が97年、ブラウンの発売が96年ですから、なくはない推論かなと。まあ、どれもバーボンファンのとりとめのない与太話と思って聞き流して頂ければ幸いです。暇潰しには最適でしょう?(笑)。それと、身も蓋もない言い方ですが、

⑥単に90年代のボトルは今よりレヴェルが高かった。

という説も付け加えておきます。
最後に酵母に関してですが、件のバーボン本によるイエローとブラウンの違いの説明では、イエローラベルは「熟成期間の異なる酵母を4種類混ぜ合わせて」あり、ブラウンラベルは「イエローラベルの4種類の酵母に、性質と熟成期間の異なる3種類の酵母をプラスして華やかさを醸し出す」とあります。これってまるでフォアローゼズ蒸留所のようですよね? ブラウン=フォーマンもこうしてバーボンを造ってるという話を私は他では聞いたことがないのですが、本当なのでしょうか? こちらもご存知の方はコメントよりご教示頂ければと思います。


*ここで何度も言及しているバーボン本のアーリータイムズ・ブラウンラベルの説明では、トーストの加減がイエローラベルとは違う旨が記されています。③はそこからの類推として、プレミアムもそうだった可能性を示唆しました。

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ウィレット蒸留所(KBD)がリリースするジョニードラムのブラックラベルです。その名前の由来について日本でよく語られるのは、ジョニー・ドラムは1870年にバーズタウンで酒類販売をしていた人物で、樽買いした原酒をブレンドし自分の名前をつけ売り歩いたのが始まり云々。海外では、ジョニー・ドラムという名前のティーンは家を出て南北戦争の南軍に参加、しかし彼は若すぎて武器を取ることは出来ず、1861年にドラマー・ボーイ(*)を務め、故郷のケンタッキー州に戻ってからトウモロコシを使い蒸留を始めた云々、と言われます。このジョニー・ドラムなる(愛称の?)男が実在の人物なのか分かりませんが、海外で語られている話が彼の前半生、日本で語られている話が後半生として辻褄は合っています。けれども、どうも取って付けたバックストーリーな感は否めません。ラベルのデザインからしても、ジャックダニエルズやエヴァンウィリアムス流のクラシックな人名ラベルを想起させます。ウィレットの公式ホームページによれば、60年代にカリフォルニアの卸売業者のために開発されたとの記述がありました。
ジョニードラムには現在、80プルーフのグリーンラベル、86プルーフのブラックラベル、101プルーフのプライヴェート・ストックの三つがあります。と言っても全てがいつでも利用可能な状態ではないようで、ウィレットのホームページの製品紹介欄にグリーンラベルは載ってませんし、日本でもネット酒販店では売り切ればかりです。おそらくグリーンは廃番もしくは出荷調整、または輸出国により供給に差があるのでしょう。

さて、ここらで古いジョニードラムについてでも語りたいところなのですが、実はその類いの情報はネットで調べてもイマイチ分かりません。80年代後半以前のオールドボトルの画像も皆無と言えます。先に述べた60年代のオリジナルと目されるジョニードラムが、特定の卸売業者のために作成されたということは、流通範囲はかなり限られていたと推察されるので、画像が見当たらないのも仕方ないでしょう。しかし、いくらウィレット蒸留所がジムビームやワイルドターキー蒸留所と較べて生産規模の小さい蒸留所とは言え、これほど過去のボトルの写真がネット上にないのは、60年代のリリース後に継続して製造されていなかったからではないでしょうか。おそらく、時を経た80年代になって主に輸出用のブランド(特に日本)として再開され、アメリカ国内では例えばケンタッキー州限定での販売だったのではないかと想像します。そして、その後全国配給になった…と。これはあくまで私の想像なので話半分で聞き流して下さい。と言うか、詳細ご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。

先日オークションで丸瓶のジョニードラム12年グリーンラベルが出品されているのを見かけました(年式は不明)。それは「12年」表記の楕円形シール(**)が本体ラベルと別個で付けられていて、私としては初めて見たパターンの物でした。比較的、日本人に馴染み深い(よく見かける)オールドボトルのジョニードラムというと、80年代後半あたりから90年代にかけて流通していたと思われる日本の都光商事のアドレスがラベル正面下部に記載されたボトルかと思います。
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この頃の物はグリーンが8年熟成、ブラックが12年熟成、そして共に86プルーフでした。現行にせよこの時代の物にせよ、色で言うとブラックは常にグリーンより格上のようです。それだけに、上に述べたグリーンラベルの12年があったのに驚いたのです。その後、グリーンはいつの間にか4年熟成になり、プルーフも80に下がりました。ブラックはおそらく90年代後半か2000年代前半頃にNASとなったと思われます。NASのブラックラベルの中身に関しては、一説には4~12年の原酒を使用しているとされます。ただ、この中身の熟成年数は発売年式および生産ロットにより変動している可能性はあるでしょう。ではテイスティングの時間です。

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Johnny Drum Black Label 86 Proof
推定2008年ボトリング。杉、ナツメグ、弱いカラメル、グレープ、僅かなアーモンド、インク。あまり甘くないウッド・スパイス系のアロマ。やや酸味のある味わい。ソフトな酒質。余韻は軽めのスパイスと穀物感が主で、ビタネスを伴いすっきり切れ上がる。
Rating:81.5/100

Thought:ウィレット蒸留所が蒸留を再開したのは2012年からなので、推定ボトリング年からすると、原酒は100%ソーシング・ウィスキーとなります。概ねヘヴンヒルからの調達であるとされるので、エヴァンウィリアムス等と較べてどのくらいの違いがあるのかが気になるところでした。海外のバーボンマニアで、エヴァンウィリアムスに選ばれなかったバレルが樽売りされているのではないか、という趣旨のことを言っている方がいましたが、正直、私には調達方法の詳細は判りません。仮にそうであれ、蒸留したての原酒を購入しているのであれ、マッシュビルを共有するとしても、ウィレットの熟成倉庫でエイジングすれば風味は多少変化する筈です。更にブレンディング(バッチング)の違いも考慮すれば、どのみち異なるバーボンとは言えるでしょう。
で、私の飲んだ感想としては、通常のエヴァンウィリアムスとはかなり違うバーボンであると思いました。強いて言えば、スパイス感の方向性がエヴァンウィリアムスと言うかヘヴンヒルのフレイヴァーぽいような気もしますが、独特の木香とビター感はこのボトル特有かと。また、海外の或るバーボン飲みの方は、いつのボトリングか分かりませんが、ジョニードラム黒ラベルNASをワイルドターキーのレアブリードに似ていた、と言っていました。少なくとも私の飲んだ物や私の舌にはそうは感じられなかったです。それと、日本の酒販店の多くには、ジョニードラム黒ラベルの商品紹介に「12年原酒をメインにブレンド」と書かれています。どこまで信じてよいか判らない情報ですが、確かにタニックなビター感とソフトな酒質はそうであってもおかしくはないかなとは思わせます。飲んだことのある皆さんはどう思われるでしょうか? どしどしコメントお待ちしております。

Value:KBDのリリース中、スモールバッチの物と較べると量産型であろうジョニードラム。特にNASは凄くハイクオリティとは言い難いです。日本では概ね2500円前後の販売価格でしょうか。個人的には現行のエヴァンウィリアムス黒ラベルよりかは美味しく感じましたので、もし同じ価格ならジョニドラを選びます。ですが現行のエヴァンウィリアムス赤ラベルが3000~3500円で買えるなら、そちらを選ぶのが私の好みです。


*軍隊の中で非戦闘員として、戦場での使用のためにドラムを担当した少年のこと。
ドラムは戦場で歩調を合わせるために使われるだけでなく、指揮系統の重要な一部であり、ドラムロールを使用して士官から部隊へ様々なコマンドを通知したと言います。ドラマーには公式の年齢制限がありましたが、しばしば無視され、時として最年少の少年は成人兵士によってマスコットとして扱われました。ドラマーの少年の生活はかなり魅力的に見え、そのため、少年は時々家から抜け出して入隊したのだとか。または、同じ部隊に仕える兵士の息子や孤児であったかも知れないそうです。
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**ジョニードラム15年の昔の物や、イーグル・クエスト、バーボンスター等と共通するデザインの、KBDのバーボンによく使われている「あの」シールのことです。

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今宵の映画は1961年製作の『ハスラー』。敢えてのモノクロ映像と全編ジャズの流れる渋い映画です。主演のポール・ニューマンがあまりにもカッコいいんですよね。あらすじや映画史的な位置付け等は映画サイトを参照して頂くとして…。個人的にも「生涯ベスト10ムーヴィー」に入るかも知れません。この映画、バーボン飲みには特別な映画なのです。それは劇中にJTSブラウンが登場するから。ポール・ニューマン演じる主人公のファースト・エディが「ノーアイス、ノーグラス」と言って注文する姿に憧れた人も多いのでは? 少なくとも私は思いっきり影響されました(笑)。いまだにバーボンはノーアイス、もちろんノーウォーター、そしてノーグラス、つまりラッパ飲みで飲むのが一番美味しいと思ってます。
相手のジャッキー・グリーソン演じるミネソタ・ファッツは「ホワイト・タヴァーン・ウィスキー」をグラスとアイスで頼んでいますね。当時実際にホワイト・タヴァーンなるブランドがあったかどうか調べても分からなかったのですが、ヘヴンヒルが商標を持っていたとの情報や、画像検索ではブレンデッドの物とオーウェンズボロの記載のある安そうなウィスキーが見つかりました。原作の小説では、ファッツはホワイト・ホース・ウィスキーを注文しているそうです。もしかすると映画で使用する許可がおりなかったのかも知れません。
ところで、この40時間にも及ぶ名勝負の場面、ファッツの注文はプラシーボ効果を狙ったのではないかとの解釈があります。ホワイト・タヴァーン・ウィスキーの「ホワイト」は、日本語で言うところの「空白」のような裏の意味で、実際にはノンアルコールだった、という訳です。いずれにせよ勝負に徹し自制心を失わないファッツのその戦略とインテリジェンスは、ある意味それこそ成功者の哲学ではあるでしょう。けれどもJTSブラウンを調子にのってラッパ飲みし、結局は敗れるエディにこそバーボン飲みは敗残者の美しさを見てしまいますよね。バーボンを飲まずに勝つくらいなら、バーボンを飲んで負けるのを選ぶのがバーボン飲みの正しい在り方なんだ、と浪漫を投影して。…私だけですか?(笑)。

さて、肝心の中身について触れておきましょう。映画当時のJTSブラウンはローレンスバーグで蒸留されていました。それに頭に「Old」の付いたオールドJTSブラウンというブランド名だったと思われます。古いボトルをネットで調べてみると、50年代とか60年代とされる物にはローレンスバーグの記載があり、おそらく中身のジュースは現在で言うところのワイルドターキー蒸留所で造られたものと推測されます。アメリカの或るバーボン研究家はそう断言していました。当時ボブ・グールドが所有していたアンダーソン・カウンティ蒸留所(以前のリピー・ブラザーズ蒸留所、後のブールヴァード蒸留所)は、70年代初頭にオースティン・ニコルズに売却されるまでJTSブラウン蒸留所として運営されていたからです。そうでなければ、オールドプレンティス蒸留所(現フォアローゼズ蒸留所)ではないでしょうか? オールドプレンティス蒸留所にブラウン家は少なからず関与してるので。まあ、少なくとも私の飲んだもの、今回のレビュー対象はエディが飲んだものとはまるっきり別物なのは間違いありません。でもラベルデザインはあまり変わっておらず、古めかしくカッコいいので雰囲気は楽しめました。
現在はヘヴンヒルが製造しており、アメリカではゴールドラベルのボトルドインボンドが人気みたいです。これは日本では一般流通していません。と言うかJTSブラウンというブランド自体、最近では輸入されていないようです。そもそもが現在アメリカ国内でも地域限定のブランドだと思います。日本に輸入され始めたのは、おそらく80年代中頃からではないかと思われますが、当時のバーボン本にJTSブラウンが輸出されるのは日本が初めてなんて書いてありました。
ちなみにJTSと言うのはジョン・トンプソン・ストリートの略です。ラベルの写真の真ん中の人物が一般的に「J.T.S. Brown Jr.」と呼ばれ(※ややこしいことに彼の父親と息子の一人も同名のため「Sr.」と表記されることもある)、オールドフォレスターを造っているブラウン=フォーマン社の創業者ジョージ・ガーヴィン・ブラウンの異母兄弟だと思われます。また日本語でJTSブラウンを検索した時に見つかる紹介文に、JTSをジョンとトンプソンとストリートの三人の略とする説明をよく見かけますが、一人の人物の名前なので気を付けたいところ。写真の他の二人は、左の人物がJTSの息子の一人クリール、右がその息子クリールJr.です。
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JTSブラウンの歴史については日本ではあまり語られることがないので、禁酒法時代以前のウィスキーに詳しい方の調査を基に、ここでざっくり紹介しておきましょう。

「JTSブラウンの物語」はケンタッキーの初期入植者の一人ウィリアム・ブラウンから始まります。1792年、彼は若き妻ハンナ・ストリートと共にヴァージニアからコモンウェルス・オブ・ケンタッキーの中央部の農村地域、おそらく後にハート郡マンフォードヴィルとなる付近に定住しました。ウィリアムはマーチャント兼プランターだったそうです。彼らには8人の子供がいましたが、そのうちの一人としてジョン・トンプソン・ストリート・ブラウン・Sr.(1793-1875年)は生まれました。JTSシニアはマンフォードヴィルで最初の郵便局長であり同地の長老派教会の憲章会員でした。多分、町の顔役のような立場だったのではと想像されます。彼はエライジャとアーミン・クリールの娘エリザベスと結婚し、クリール家の北にレンガ造りの家を1828年に建てました。ジョン・トンプソン・ストリート・ブラウン・Jr.(これ以降この人物をJTSブラウンとします)は1829年にそこで3人目の子供として生まれます。彼の教育環境についての情報は乏しいですが、父についてビジネスを学んだと思われます。

商取引の経験を積んだ26歳の時、JTSはケンタッキーの田舎から、のちの人生の舞台となるルイヴィルへと移り、ジョセフ・アレンという名の学生時代の親友と酒の卸売ビジネスを始めました。また同じ頃、著名な地元のタバコ・ディーラーの娘であるエミリー・グラハムという16歳の少女と出会い恋に落ち、二人は1856年に結婚、今後の13年間で8人の子供(6人の男の子と2人の女の子)を持つことになります。
1857年には、アレンはパートナーシップから撤退し、JTSは会社の全権を引き継ぎました。時代柄、JTSはコンフィデレート・アーミーの将校でもあったようです。彼の会社は南北戦争の間に「喉の渇いた」軍隊に酒を提供することで大いに成長し、1864年までにはかなりの財産を築いたと言います。その間、1863年にはJTSの17歳下の異母兄弟ジョージ・ガーヴィン・ブラウン(1846-1917)は学校に通うためルイヴィルに来ていて会社に招待されました。同社は金融機関の支援を得て市内の中心地ウィスキー・ロウと呼ばれるメイン・ストリートに移転し、ジョージはパートナーになることを求められ、1970年頃、会社の名前は「J.T.S. Brown and Bro.」となりました。
戦争が終わった後、1865年から1874年にかけて、ブラウン兄弟はJMアサートン・カンパニー(アサートンおよびメイフィールド蒸留所)、ルイヴィルのメルウッド蒸留所、マリオン郡セントメアリーのJBマッティングリー蒸留所などから高品質のストレート・バーボンを購入し、独自にブレンドしてシドロック・バーボン、アサートン・バーボン、メルウッド・バーボン等のブランドで販売していたそうです。1874年頃、いまだに理由は不明確ながら、JTSとジョージのパートナーシップは終わりを告げました。一説には、ジョージは自分の好みであるより高品質でより高価格のウィスキーの販売を目指し、JTSはより安価なウィスキーでより幅広い顧客層を生み出すことに関心を示すという、販売するウイスキーの品質に関して意見の相違があったのではないかと伝えられています。ともかくジョージは会社を離れ、後にブラウン=フォーマン社となる自らの会社を組織し、今に至るバーボン王朝を築くことになるのですが、それはまた別の話。

そうこうするうち、JTSの少年たちが成長するにつれて父と共に会社で働き始めました。初めは年長のグレアム(1857-1946)、続いてデイヴィス(1861-1932)とJTSジュニア(1869-?)が入社。そこで会社名は「J.T.S. Brown & Sons」に変更されました。グレアムは後に会社を去りますが、代わりに弟のクリール(1864-1935)とヒュエット(1870-1952)が加わります。やがて1890年代後半には、彼らは倉庫とボトリング施設を近くの105メイン・ストリートに移しました。ビジネスは活況を呈し、需要に追いつくための安定した供給を図る措置として、1894年(1904年という説も)にアンダーソン郡ローレンスバーグ近くソルト・リヴァーに面したマクブレヤーの大きな古い蒸留所を購入。このプラントではJTSの息子たちが主導して、「JTSブラウン」、「オールド・レバノン・クラブ」、「ヴァイン・スプリング・モルト」、「オールド・プレンティス」等のブランドを生産しました。これらの中で主力ブランドはオールド・プレンティスです。このラベルは施設の以前の所有者によって作成されたと推察され、煽動的な社説で知られた新聞編集者であり詩人でもあったジョージ・デニソン・プレンティス(1802-1870)にちなんで名付けられました。トレードマークとなる絵柄のベルもリバティ船「SS George D. Prentice」のシップス・ベルがモチーフなのではないかと思われます。また「JTSブラウン」や「オールド・プレンティス」に見られる1855の数字は、この蒸留所(RD No.8)の創設された年だと思われ、バーボン業界にありがちな起源のサバ読みでしょう。それはともかく、オールド・プレンティスのその象徴的なトレードマークの鐘は人気を博し、ベルのロゴをプリントしたグラスなど特別な顧客へのプレゼントアイテムがありました。
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1904年、JTSの妻エミリー・ブラウンが65歳で死去し、ルイヴィルの往年の著名人や富裕層の多くも葬られている歴史的なケイヴ・ヒル・セメタリーに埋葬されました。それから一年足らずのうち、JTSも酒屋での仕事からの帰宅途中ルイヴィルの路面電車にぶつかり、二週間後に76歳で亡くなります。彼はエミリーの隣に埋葬されました。
両親の死後もブラウンの子息たちは非常に成功した会社の名前は変えずに経営を続け、デイヴィスは社長、クリールが副社長、JTSジュニアは秘書、ヒュエットが会計に就任しました。父親の死の年、彼らは旧来の家屋と隣接した107-109ウェスト・メインに新しい本社を開きます。そしてまた1910年には、マクブレヤーに建つ元の蒸留施設からボンズ・ミル・ロードを渡った向こう側に新しい蒸留所を建設しました。この蒸留所こそ後にシーグラムが購入し、現在フォアローゼズ蒸留所となっている施設です。当時全国的に人気があったミッション・リヴァイヴァル様式で建てられ、低い屋根と大きなアーチ型の窓を使用した優美な雰囲気の蒸留所は、今では国家歴史登録財に指定されています。その内部は2つの大きな処理領域を持ち、一方では発酵プロセスを、もう一方では糖化と蒸留プロセスに分けられていました。

禁酒法がやって来ると、他の多くの蒸留所と同じくブラウン一家も事業の中止を余儀なくされます。1932年には社長のデイヴィスが亡くなり、彼の未亡人であるアグネス・フィドラー・サドラー・ブラウンが事業を引き継いだようで、当時ほぼ完全に男性が支配していた業界に於いて、彼女はアメリカの歴史の中で蒸留酒製造所を経営する役割を担った最初の女性であると言われています。彼女は禁酒法解禁後すぐに共同経営者のグラッツ・ホーキンス、ウィルガス・ノーガーらとオールド・プレンティス蒸留所をリノヴェイトし、オールド・ジョー蒸留所(RD No.35とは別)として操業を再開したようです。しかし禁酒法が解禁された時、会社を復活させたのはクリール・ブラウンの息子クリールJr.でした。
クリールJr.は、ジョン・ショーンティ・ファームと倉庫「A」の一部を、ジョンの未亡人とアーリータイムズの創業者ジャック・ビームの相続人から取得し、1934~5年頃、JTSブラウン蒸留所を建設しました。L&N鉄道のバーズタウン・スプリングフィールド支店に面したバーズタウンの北東約4マイルの場所です。そこには36インチのビア・スティルと4つの発酵槽が設置してあり、1935年のクリスマスの日に最初のウイスキーを作りました。この蒸留所は自らケンタッキー州で最も小さい蒸留所と称し、「Old J.T.S. Brown」を生産していたとみられます。第二次世界大戦中は例によって工業用アルコールを産出していたようですが、この蒸留所は精留塔を有していなかったので、それらは約140プルーフで蒸留され、190プルーフに再蒸留するため他の場所に移送されました。理由は分かりませんが、クリールJr.は1955年前後に最終的には事業を完全に売却してしまいます。売却後、蒸留所の購入者は誰も工場をオペレートせず、ウィスキーの生産は1950年が最後だったそうです。ブランドをシェンリーに売却した後に蒸留所は解体され、現在では倉庫もそこには残っていません。

ブランドは幾人かの所有者の変遷を経てアルヴィンとボブ・グールドのもとへ行きました。彼らはブランドをアンダーソン郡へと戻し、タイロンにあるリピーのプラント(RD No.27)をJTSブラウン蒸留所として操業しました。 1972年7月1日に「ワイルドターキー作戦」のためにオースティン・ニコルズにプラントを売るまで、グールドはブランドを使い続けたようです。ブランドは1972年から1991年の間、ヘヴンヒルがユナイテッド・ディスティラーズから他のブランドと一緒に購入するまで休止状態にあった、とサム・K・セシルの本に書いてありますが、日本には80年代後半には確実に輸入されていました。もしかすると上の情報はアメリカ国内のみの話かも知れません。ともかくも、歴史あるケンタッキー・クランのブラウン家のブランドは、こうして今日まで生き残ってきたのでした。
では、そろそろ簡単な感想を。

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J.T.S. BROWN 6 Year 80 Proof
推定2004年ボトリング。飛び抜けてはいないがバーボンとして普通に美味しい。ただし、6年熟成にしては熟成感がやや足りず物足りない。いや、足りないのは熟成感というよりプルーフなのかも。
Rating:80/100

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J.T.S. BROWN 10 Year 86 Proof
1995年ボトリング。今では貴重な火災前のジュースだし、せっかくの10年熟成なのに薄すぎる。いや、もちろん旨いとは言えるのだが、そこまで風味の強い原酒とは思えない。出来たら最低でも90プルーフで飲みたかった。
Rating:82/100

Thought:映画(または原作の小説は59年発表)に登場するくらいの銘柄ですから、当時は人気があったバーボンだったのではないかと想像します。と言うより「J.T.S. Brown」と云う名前には、ビームズやサミュエルズ、リピーズやワセンズのような、バーボン業界の欲しがる伝統と歴史の重みがあるでしょう。しかし、ヘヴンヒルにブランド権が移行してからはボトムシェルフ・バーボンの地位に甘んじているように見えます。トゥルー・ブルーカラー・バーボンなんて言ってる人もいました。ネームバリューのあるブランドなのに勿体ないですよね。いや、「JTSブラウン物語」で書いたように、そもそもJTSは安くてそこそこ美味しいウィスキーを売りたい大衆志向だった、というのが本当であれば、正にヘヴンヒルの安価なリリースはJTSの意を汲んだものと言えなくもない。
私の飲んだ6年熟成80プルーフの方は2004年ボトリングと思われ、熟成年数をマイナスすると、旧ヘヴンヒル蒸留所が焼失しバーンハイム蒸留所を購入する前年に当たるので、蒸留はブラウン=フォーマンかジムビームなのかも知れません。どちらにしろエントリーレヴェルのちょい上クラスのバーボンには違いないでしょう。これは悪い意味ではなく、そういう立ち位置の製品だと言うことです。それよりも取り上げたいのは10年熟成86プルーフの方です。こちらは90プルーフを下回るロウ・プルーファーとは言え、最低10年熟成というスペックからしたら期待値は高まります。なのに同時期のエヴァンウィリアムス緑ラベル7年熟成86プルーフに風味の強さで負けているのは驚きでした。これはボトルコンディションの差である可能性(*)も高いですが、バッチングに使われているバレルのクオリティに差がある気もしています。エヴァンウィリアムスはヘヴンヒルの看板製品ですから、エヴァンとJTSの相対的地位を考慮し、更に当時の長熟バレルの在庫状況(**)も考え合わせると、エヴァンには年数表記より高齢の原酒、例えば12年物とかを混ぜていてもおかしくはないのでは?と。まあ、憶測ですが…。

Value:おそらく現在の日本でJTSブラウンを店頭で見かけることは少ないと思われます。けれど近年までは流通していたので、オークション等の二次流通市場ではそれほどレアではありません。問題は価格なのですが、上述したローレンスバーグ産のJTSブラウンなら10万を越えても仕方がないと思います。ですが間違っても近年流通品に1万は出さないほうがいいというのが私の意見です。ヘヴンヒル産の物はあくまでキャッツ&ドッグス・ブランドの一つであってプレミアム製品ではないですからね。ただし、80~90年代の物に関してはそこそこ美味しい可能性があるので、MSRPの2~3倍までなら試す価値もあるでしょう。


*私の飲んだエヴァンウィリアムス緑ラベルの95年ボトリングは、腐る寸前の果実を思わせるような、私の好みからすると少々酸化が進み過ぎたと思われる風味でした。

**おそらく当時は火災前でもあり、まだまだ長期熟成古酒が豊富にストックされていたのではないかと推察されます。

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