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ウィレット・ポットスティル・リザーヴは名前の通り見栄えのするポットスティル型のボトルが特徴的なバーボン。ウィレット蒸溜所に設置されている銅製のポットスティルを模したデザインになっています。2008年から導入されました。同蒸溜所がリリースしているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つ(ノアーズ・ミル、ローワンズ・クリーク、ピュア・ケンタッキーXO、ケンタッキー・ヴィンテージ)がジムビームのスモールバッチ・コレクション(ブッカーズ、ベイカーズ、ノブ・クリーク、ベイゼル・ヘイデン)に相当するならば、このポットスティル・リザーヴはバッファロートレース製造のブラントンズやワイルドターキーのケンタッキー・スピリットに相当すると言えるでしょうか。おそらくは現在市場に出回っているバーボンのガラス・ボトルの中で最も派手な部類に属し、酒屋の棚では一際目立つ存在でしょう。但し、そのボトル形状のせいでグラスへ注ぎにくいとか、ボトムの面積が広いためコレクション棚への収納が難しい等の声も聞かれたります。それでもやはり、このボトル形状にはウィスキー飲みが惹かれてしまう魅力がありますね。
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この製品は元々はシングルバレルとしてリリースされていましたが、2015年からひっそりとスモールバッチに変更されました。そもそものシングルバレル版では、キャップを封するストリップにバレル番号とボトル番号が手書きで記載されていました。「Bottle No. ○○○ of ○○○ from Single Barrel ○○○」という具合で○には数字が入ります。スモールバッチになるとストリップにはボトル番号は記載されなくなり、バッチ番号のみとなりました。明確な時期を特定できませんが、帯の色は初期から現在にかけてオレンジ、黒、紺と変わって行ったと思います。ただ、画像検索で幾つかのWPSRSmBを探ってみると、より新しいバッチであっても紺ではなく黒の場合もあるように見え、輸出国の違いとかバッチの違いによってパッケージングが異なっている可能性も考えられます。ボトル前面に貼られたワックスシールのエレガントなメダリオンの文言も何時からか段階的に変化しており、「SINGLE BARREL ESTATE RESERVE」から「POT STILL RESERVE」へ、また「WILLETT」の文字はブロック・レターからスクリプトへ変更されました。
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(画像提供K氏)

おそらくはバーボン需要の高まりに応じるかたちで2015年頃からスモールバッチになったポットスティル・リザーヴですが、このブランドを際立たせていたのがバーボンの味わいではなくボトル・デザインであったせいなのか、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリークがエイジ・ステイトメントを失いNASへと変化した時のように残念がる声を上げる消費者は殆どいませんでした。このブランドの成功の大部分はウィレット蒸溜所のポットスティルを模したガラス製デキャンターのデザインにあったに違いありません。実際、2008年のサンフランシスコ・ワールド・スピリッツ・コンペティションのパッケージング・デザイン部門でダブル・ゴールドを受賞しています。しかし、その外見の良さは諸刃の剣でもありました。外見の良さは中身を伴わないと非難と嘲笑の対象になるからです。或るリカー・ショップの商品レヴューでは、約50ドルの小売価格のうち20ドルがバーボンで30ドルがボトルだ、と言うような趣旨の皮肉めいた見出しの評がありました。とは言え、この発言はそのショップのレヴューでは少数意見ではあります。ところが、TikTok界隈ではそうではありません。バーボン系ティックトッカー達によるウィレット・ポットスティル・リザーヴのレヴューは、ライター/ジャーナリストのアーロン・ゴールドファーブによると、「一部にプロフェッショナルな者もいるが大部分はアマチュア、少数の真面目なものもあるが多くはコミカル、殆どが容赦のないもの。まるでこのウィスキーを非難することが、この人気の高いプラットフォームでバーボン・レヴュアーになるための通過儀礼であるかのようにほぼ全て否定的です」。TikTokのポットスティル・リザーヴのレヴューは殆どの場合、ボトルの形が如何にクールでどれほど見栄えがし、評者自身が気に入っていると述べるところから始まります。しかし、次にグラスに注いだ液体を口にした瞬間、様相は一変します。滑稽な調子で咳き込んで窒息しそうになってみたり、「わーーー、これはホットだ」と叫んで最終的にウィレット・ポットスティル・リザーヴを「ゴミ」と呼んだり、「今まで飲んだバーボンの中で一番不味いかも知れない」と述べる人もいたりします。このようにポットスティル・リザーヴへのバッシングの多くは、そのボトルの豪華さに比べて中身が如何に酷いものであるかを笑いものにしている訳ですが、これらはTikTok特有のユーモアを多分に含んだオーヴァー・リアクションと言うのか、短い時間内で一発芸的に笑いを取るショート動画にありがちな或る種のジョークであって真に受ける必要はないと個人的には思います。けれども気になるのは、僅かながら存在するもっと真摯なTikTokレヴュワーや他のバーボン系ウェブサイトに於いてもウィレット・ポットスティル・リザーヴがそれほど高評価を得てはいないところです。ゴールドファーブ自身も「ポットスティル・リザーヴは確かに美味しくない(私は決してこのボトルを家に置かないだろう)が、TikTokが信じ込ませているほど悪くはない」と微妙な評価。まあ、それらは全て「スモールバッチ」への言及であり、「シングルバレル」についてではありません。

ウィレット・ポットスティル・リザーヴはシングルバレルであれスモールバッチであれ、94プルーフでのボトリングとNAS(Non-Age Statement=熟成年数表記なし)での提供は共通しています。ウィレット蒸溜所は中身の原酒に関して明らかにしないことが多いので、飽くまで噂と憶測になりますが、ここからはポットスティル・リザーヴの中身の変遷について整理して行きたいと思います。と、その前に少しだけ歴史の復習を。
禁酒法撤廃後、ケンタッキー州バーズタウン郊外にランバートとトンプソンのウィレット父子によって設立されたウィレット・ディスティリング・カンパニーは、訳あって1980年代初頭に蒸溜を停止しました。1984年、会社はトンプソンの娘マーサと結婚したエヴァン・クルスヴィーンに引き継がれ、以後ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)というボトラーとして活動することになります。同社は倉庫で何年ものあいだ寝ていた熟成ウィスキーをボトリングして販売を続けましたが、自社の在庫が枯渇する前に他の蒸溜所からウィスキーを購入しました。それらを効果的に使用して、オールド・バーズタウンやジョニー・ドラム、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリーク等の自社ブランドを販売する傍ら、自らが所有していない他の多くのブランドのための契約ボトラーとしても働きました。エヴァンのKBDは蒸溜はしなかったものの、その代わりに名高いバーンハイムやスティッツェル=ウェラー、ヘヴンヒルやジムビームやフォアローゼズ等の近隣の蒸溜所から不要な在庫を調達し、それらの一部を巧みにブレンドすることで自らのフレイヴァー・プロファイルをクリエイトしました。そしてエヴァンとその息子ドリューは、現代のアメリカン・ウィスキー・ブームに先駆けて、ウィレット・ファミリー・エステートの名の下にバレルプルーフでノンチルフィルタードのシングルバレルとして最も上質のバーボンとライのストックをリリースし、好事家からの称賛を受けました。そうした全ての活動が実り、蒸溜所は復活、2012年1月21日に蒸溜を再開することが出来たのです。今、アメリカン・ウィスキー愛好家にとってウィレットの名は神聖とも言える特別な位置を占めています。
ここから分かる通り、ウィレット蒸溜所は1980年代初頭から2012年まで蒸溜を停止していたため、このポットスティル・リザーヴの発売から暫くの間は別のディスティラリーで蒸溜されたものを使用している筈です。現在ポットスティル・リザーヴと呼ばれている製品のシングルバレル(もしかすると初期の正式名称はウィレット・シングルバレル・エステート・リザーヴだったのかも知れない。上掲のワックスシールの画像参照)は、リリースされた当初は多くのウェブサイト上の情報源によると8〜10年の熟成であるとされていました。そして、ボトル内のバーボンは彼らの他の製品と同様に、すぐ隣のヘヴンヒル蒸溜所から来ていると推測されています。シングルバレルはその特性上、風味の一貫性を問われませんから、もしかすると他の蒸溜所産のバレルも使用していた可能性もありますが、こればかりは公開されてないので謎のままです。いずれにせよ、何処の蒸溜所の原酒であれ、ポットスチルを模したボトルの形状やその製品の名称にも拘らず、このバーボンは一般的なコラムスティル+ダブラーを使用して製造されているのは間違いないでしょう。ちなみにウィレット蒸溜所の自家蒸溜でも、おそらく最初の蒸溜をコラムスティル、2回目の蒸溜で銅製ポットスティルをダブラーとして使用していると見られています。

2015年頃、前述のようにポットスティル・リザーヴはシングルバレルからスモールバッチに置き換えられました。ウィレット蒸溜所はバーボン界での世界的な人気の高まりがあっても、所謂クラフト蒸溜所に近い規模の操業を維持しています。そのため「スモールバッチ」と名付けられていなくても実際には全ての製品がスモールバッチのようです。スモールバッチという用語は政府によって規制されていないため、ただのマーケティング・フレーズに過ぎませんが、大規模蒸溜所のスモールバッチが100〜200樽、中には300樽にまで及ぶこともあるなか、ウィレットのバッチ・サイズは、おそらく2000年代は12樽程度、現在でも20樽ちょいとされていますので、ウィレット製品のスモールバッチ表現は我々消費者が抱く「スモールバッチ」のイメージと一致しているでしょう。このバッチ数量は時間の経過と共に変化する可能性はありますが、少なくとも今のところヴェリー・スモールバッチと呼んだほうが誤解がなく適切な気がします。ヴェリー・スモールバッチの弱点は、ごく少数のバレルからバッチを形成するため、バッチ毎に味わいの一貫性が低下するところです。ポットスティル・リザーヴの評価が定まらないのは、もしかするとこのせいもあるのかも。
最終的にウィレットの製品は100%自家蒸溜に移行する(した?)と思われますが、彼らは自身の蒸溜物がいつポットスティル・リザーヴに組み込まれたかについて明らかにしていません。有名なバーボン・ウェブサイトの2017年時点のレヴューでは、ケンタッキー州の他の蒸溜所から供給されたバーボンの可能性が高い、と言われていました。一説には、帯が紺色の物は新ウィレット原酒と聞いたこともあります。今回、私がおまけとして試飲できた推定2016年ボトリングのスモールバッチの帯は紺色なのですが、ボトルの裏面(メダリオンのない側)には下画像のようにプリントされています。
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(画像提供K氏)
この「Distilled, Aged and Bottled in Kentucky」という記述の仕方は、ウィレット・ファミリー・エステートのラベルでもそうなのですが、基本的に自家蒸溜原酒ではない他から調達されたウィスキーの場合の書かれ方です。しかし、旧来のボトルを使い切るか、或いはボトル会社(プリント会社?)に文言の変更を依頼するまで?は、中身がウィレット原酒であっても上のままの記述である可能性があります。逆に「Distilled, Aged, and Bottled by Willett Distillery」と記載があれば確実にウィレットの自家蒸溜原酒でしょう。私自身は直に見ていないのですが、おそらく近年のボトルにはそうプリントされていると思われます。2020年のレヴューでは、或る時点で100%自社蒸溜に移行したと考えられる、とされていました。仮にポットスティル・リザーヴ・スモールバッチのウィレット蒸溜原酒の熟成年数が4〜6年程度であるならば、2012年から蒸溜を再開したことを考慮すると、早くて2016年から新ウィレット原酒を使用することは可能です。海外のレヴューを読み漁ってみると、多くのレヴュアーが共通して指摘しているバターポップコーンやレモンや蜂蜜のヒントが感じられる場合、新ウィレット原酒である可能性は高そうです。
現在、ウィレットにはバーボン4種類とライ2種類のマッシュビルがあり、そのうちバーボンは以下のようになります。

①オリジナル・レシピ
72%コーン / 13%ライ / 15%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

②ハイ・コーン・レシピ
79%コーン / 7%ライ / 14%モルテッドバーリー / 103 & 125バレルエントリープルーフ

③ハイ・ライ・レシピ
52%コーン / 38%ライ / 10%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

④ウィーテッド・レシピ
65%コーン / 20%ウィート / 15%モルテッドバーリー / 115バレルエントリープルーフ

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(こちらはライも含むウィレットのマッシュビル表)

ポットスティル・リザーヴにどのマッシュビルが使われているかは正式には公開されていません。しかし、或る情報筋からの話によると①②③のブレンドと聞きました。ところが、2021年や2022年に執筆されたバーボン系ウェブサイトの記事ではマッシュビルは④のウィーテッド・マッシュとされています。どちらかが正しいのか、或いは時代によるマッシュビルの変更があったのか? はたまた両者の情報を掛け合せて④を含むミックスなのか? 蒸溜所からの公式の発表はないので謎です。まあ、このミステリアスなところもウィレットの魅力の一つではあるのですが、真相をご存知の方は是非ともコメントよりご教示下さい。また、バッチ情報と共に味わいの感想などもコメントより共有して頂けると助かります。では、そろそろバーボンを注ぐとしましょう。

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WILLETT POT STILL RESERVE Single Barrel 94 Proof
Bottle No. 145 of 233
Barrel No. 1581
ボトリング年不明(購入は2013年頃なのでそれ以前は確実)。黒蜜、甘醤油、キャラメル、アニス、湿った木材、ドライピーチ、バナナ、ナッツ、ウッド・ニス、銅、プルーン。途轍もなく甘く、樹液のような香り。ややとろみのある口当たり。パレートでも甘く、更にハーブぽい風味が濃厚。余韻はミディアムで豊かな穀物とレザー、最後はビター。アロマがハイライト。
Rating:86.5/100

Thought:先ず、いにしえのシュガーバレルを想起させるアロマが印象的。味わいも独特で、これぞシングルバレルという感じ。口当たりや濃厚な風味は、確かに8〜10年くらいの熟成感と思いました。ボトリング年は不明ながら、シングルバレルでリリースされた時期であるところからすると、原酒はヘヴンヒルだろうと思われるのですが、いざ飲んでみると香りも味わいも一般的なヘヴンヒルとは全然違う印象を受けました。だからと言って他の蒸溜所、バートンとかワイルドターキーとかフォアローゼズに似てる訳でもなく、ウィレットの風味と言うしかないと感じます。ヘヴンヒルからの購入とするなら、ホワイトドッグを購入してウィレット蒸溜所の倉庫で熟成させてるのか、もしくはヘヴンヒルが自分たちの味ではないと判断したオフ・フレイヴァーのバレルを購入しているかのどちらかなのかな? 或いは出来損ない(笑)のブラウン=フォーマンとか? まあ、それは兎も角、ウィレットにはウィレット・ファミリー・エステートという最高峰のシングルバレル・ブランドがあるので、普通に考えて最も優れたシングルバレルはそちらにまわされるでしょう。それ故、このシングルバレルのポットスティル・リザーヴは飽くまで「次点」のシングルバレルの筈。味わいがアロマほど良くないところが、このボトルのらしさなのかも知れない。アロマをそのまま味わいにも感じれたら、もしくは微妙なオフ・フレイヴァーがなければ、点数は88点を付けてました。ぶっちゃけ、上のレーティングのうち1点はボトルに対してです。

偖て、今回は私の手持ちのシングルバレル版ポットスティル・リザーヴをメインに飲んだ訳ですが、そこに加えて先述のようにスモールバッチ版のサンプルを頂けたので、おまけで少しだけ比較が出来ます。サンプルは例によってInstagramで繋がっているバーボン仲間のKさんから。ウィレッ党のKさん、本当にいつも貴重な情報やバーボンをありがとうございます! 

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(画像提供K氏)
WILLETT POT STILL RESERVE Small Batch 94 Proof
Batch No. 16D1
推定2016年ボトリング。シングルバレルより薄いブラウン。香ばしい穀物、キャンディ、シリアル、砂糖、新鮮な木材。ウッディなスパイス香。ややとろみのある口当たりながら、尖りも感じさせるテクスチャー。口の中でもスパイシーでメタリック?でドライ。余韻はやや甘みも。

バーボンらしさを象徴する風味は全てあるのですが、それ以上に若々しく、荒く、何と言うかギラついた金属感のようなものを感じました。多分、ウィレット原酒だと思います。もしヘヴンヒルなら4年以下の熟成物でももう少しこなれた感があると思うのです。不思議なのは、新ウィレット原酒を使ったオールド・バーズタウンやケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOの良さの片鱗を感じれなかったこと。単純に熟成年数の短さに由来するのか、それともマッシュビルに由来するのか…。いや、そもそもウィレット蒸溜ではないのか? 謎が謎を呼びますが、バーボン・ティックトッカーが怒りの声を上げているのは、おそらくこのレヴェルの物なのでしょう。そうであるならば、まあ確かに頷けるかな、と。とは言え、ウィレット自家蒸溜のスモールバッチは、これより後の物はもう少し味わいが改善している可能性はあるかも知れません。2020年以降のボトルを飲んでみたいですね。
Rating:80/100

Value:現行ウィレット・ポットスティル・リザーヴ・スモールバッチのアメリカでの750mlの小売価格は地域差が大きく、40ドル未満の場合もあれば60ドル近い場合もあるようです。日本でもそれに準じて5000円台後半から7500円の間が相場でしょうか。この価格には華麗なボトルの代金も含まれるので、同じウィレットのスモールバッチ・ブティック・コレクションやオールド・バーズタウンのエステート・ボトルドの価格を考えると、中身にのみお金を払っているという意識の方には少し高く感じられるかも知れません。購入検討している方は、外観を含めてお金を払う意識でいた方が良いと思います。
シングルバレル版に関しては、もし7500円程度で購入できるチャンスがあるなら、買う価値は間違いなくあると思います。たとえ当たり外れがあったとしても…。

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ワイルドターキー13年ファーザー&サンは、トラヴェル・リテイル専用として2020年に限定リリースされた製品です。86プルーフで、1リットル瓶に入っています。日本では長期熟成のワイルドターキーというとWT12年101に取って代わった同じ13年熟成のディスティラーズ・リザーヴがある(あった)ので、あまり購買意欲をそそられないかも知れません。特に、そのボトリング・プルーフがディスティラーズ・リザーヴより低いのは懸念点でしょう。熟成年数が同じでプルーフが類似している二つを飲み比べた海外のレヴュアーの方々の感想を見ると、ディスティラーズ・リザーヴの方が良いとするものとファーザー&サンの方が良いとするものの両方があります。自分がどっちに転ぶかは実際飲んでみるしかない。と言う訳で、さっそく。

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WILD TURKEY 13 Years Father & Son 86 Proof
推定2020年ボトリング。色はオレンジ寄りのブラウン。アップルサイダー、ヴァニラ、焦げ樽、ライスパイス、ビオフェルミン、アーモンドトフィー、パイナップル、タバコ、杏仁豆腐、チョコレート。アロマはフルーツをコアにお菓子のような甘い焦樽香とスパイス。口当たりは水っぽい。パレートはフルーティだがメディシナルノートも。余韻はミディアムショート、クローヴが強めに現れチャードオークのビター感と僅かにバターが残る。
Rating:86.5→84.5/100

Thought:アロマは凄く良いです。香りだけなら日本で流通しているディスティラーズ・リザーヴ13年よりファーザー&サンの方が良いと思います。ただ味わいはディスティラーズ・リザーヴ13年の方が旨味があった気がします。よって同点と言いたいところなのですが、こちらは開封してから暫くすると妙に渋みが強くなったのが個人的にマイナスでした。これが上記のレーティングの矢印の理由です。もしこの変化がなければ、ディスティラーズ・リザーヴ13年よりプルーフが低いのを考慮すると、こちらの方がリッチなフレイヴァーだったのかも知れない。とは言え、両者はかなり似ています。何ならダイアモンド・アニヴァーサリーから一連のマスターズ・キープに至る近年の長熟ワイルドターキーに共通の風味があります(いや、もっと昔のターキーでも少しはあったりするのですが…)。それは薬っぽいハーブ感とでも言うかクセのあるスパイス香とでも言うのか、とにかく私としてはバーボンに求める風味ではありません。それが少し香る程度なら崇高性を高めるのでアリなものの、他のフレイヴァーを圧倒するほどになると話は変わって来ます。これが私個人が近年の長熟ターキーをあまり評価しない理由です。アロマ以外でファーザー&サンの良い点としては、飲み終えた今にして思うと、飲む以前に気になっていたプルーフィングの低さ、即ち加水量の多さは、却ってフルーティさを引き出していたのかも知れず、飲み易さの一点に関しては功を奏していたように思います。また、ラベルの豪奢な雰囲気はなかなか良いのでは?

Value:メーカー希望小売価格は約70ドル程度のようです。日本での流通価格もそれに準じているでしょうか。13年物のワイルドターキー・バーボンが1リットルも入っているのだから、長期熟成酒の価格が高騰している現状を考慮すると、その値段に見合うだけの価値はあると思います。但し、8年101よりディスティラーズ・リザーヴ13年を好む方にのみオススメです。

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今回取り上げるパイクスヴィルは、元々はメリーランド州で蒸溜されていたブランドで、その歴史は1890年代にまで遡れます。メリーランド州は嘗てアメリカでケンタッキー州とペンシルヴェニア州に次ぐウィスキー蒸溜の大国でした。禁酒法以前のピーク時には44の蒸溜所があったと伝えられ、その半分がボルティモアに集中していたそうです。パイクスヴィルは、古き良き時代のライ・ウィスキー産業が徐々に消滅して行くなかで、1972年まで生産され続け、最後まで残っていたメリーランド・ライでした。パイクスヴィルとその弟分のリッテンハウス・ライは、現在ケンタッキー州のヘヴンヒル蒸溜所によって造られています。リッテンハウスはもともとペンシルヴェニア・スタイル、パイクスヴィルはメリーランド・スタイルでしたが、両者はヘヴンヒルのスタンダード・ライ・マッシュビルを使用しているため、これらの過去のスタイルは今では失われています。歴史的なスタイルの喪失を嘆くことは出来ますが、現在のケンタッキー・スタイルを不当に判断してはならないでしょう。注目すべきは、パイクスヴィルはヘヴンヒルが生産するライ・ウィスキーの中で、パーカーズ・ヘリテッジ・コレクションのライを除けば最もプレミアムなものであることです。また、ヘヴンヒルはそのフラッグシップであるエヴァンウィリアムス・バーボンを1783年に遡ると騙りますが、おそらく実際にはパイクスヴィルが同社のポートフォリオ全体で最も古いブランドです。そこで今回はメリーランド・ライの歴史を振り返りつつ、パイクスヴィル・ブランドの複雑で興味深い来歴を見て行きたいと思います。

ペンシルヴェニアとメリーランドはライ・ウィスキーに最も縁のある場所です。これらの地域は、ケンタッキーと同じように石灰岩が下層にある地質をもち、ウィスキーに適した良質な水の供給がありました。その一方の雄メリーランド・ライの黄金時代には、ハンター、マウント・ヴァーノン、カルヴァート、メルヴェール、モンティチェロ、オリエント、シャーウッド、ウォルドーフ、アンティータム、ブラドック、ホーシー、ロックスバリーなど、嘗て彼の地で蒸溜されたほんの数例を挙げるとアメリカ中の愛好家が即座にメリーランドと結びつけました。メリーランド州の蒸溜の歴史は、おそらく1600年代にまで遡ると思われますが、先ずは蒸溜酒ではない別のお酒の話から始めます。
Marycolony
(wikipediaより)
アメリカ中部大西洋岸の入植者たちの飲酒生活に於いてリンゴは重要な役割を果たしました。それはメリーランド州でもそうでした。北米でのリンゴの収穫は1607年にヴァージニア州ジェームズタウンに入植した人々から始まり、彼らはヨーロッパから種子や挿し木を持ち込みましたが、当初植えられていた品種は新大陸での栽培に適したものばかりではなく、その種から全く新しい品種のアメリカ産リンゴが生まれ始めます。このリンゴは非常に苦く、人間の食生活には全く適していませんでした。殆どの入植者は自分でリンゴを栽培していましたが、衛生面を考慮して食事の際には水の代わりに発酵させたサイダーを出すことが多く、子供には薄めたサイダーを出していたそうです。
1631年、メリーランド州にヨーロッパ人初の入植地をイギリスの毛皮商人ウィリアム・クレイボーンが設立しました。1632年に英国王チャールズ1世は、ジョージ・カルヴァート(の死のため息子のセシル)にメリーランド植民地の勅許状を与えます。その時点では、すでに北の植民地からリンゴが伝わり始め果樹園が出来ていました。この「スピッター」と呼ばれるリンゴを発酵させることで、生のリンゴよりも長持ちさせることが出来ました。余ったサイダーを蒸溜すれば更に長持ちし、スペースも無駄な農産物も節約できる訳です。植民地の進取的な農家は厳しい冬を利用して、ハードサイダーを寒い外に置いていました。サイダーが凍り、氷を掬い取ると、濃縮されたアルコール溶液が残ります。凍らせる回数が多ければ多いほどアルコール濃度が高くなり、この作業は「ジャッキング」と呼ばれていました。これがアップルジャックの「ジャック(jack)」です。蒸溜技術が植民地の農家にも浸透してくると、より安全で市場性の高い製品を造ることが出来るようになりました。アップルジャックを商業的に生産したというメリーランド州の蒸溜所の歴史的な記録はないようですが、中部大西洋岸諸州やニュー・イングランドの類似した記録から、農家がしばしば個人消費のためにアップルジャックを製造していたのは間違いないようです。
そして植民地時代のメリーランドでは、ウィスキーが普及する前に愛飲されていたのはラムでした。それらの多くは悪名高い糖蜜─ラム─奴隷の三角貿易を形成していたマサチューセッツとロード・アイランドから齎されました。しかし、1770年代後半には増税と海軍の封鎖によりメリーランドの富裕層以外はラムにアクセス出来なくなります。それでも、幸いライ麦は豊富にあり、しかもメリーランドの農民となったスコットランドやアイルランドからの移民は、それを蒸溜するための知識も持ち合わせていました。1800年代になると、個人経営ではない大規模な商業蒸溜所がメリーランド州全体に出現し始めたと云います。この頃には、消費者は高価で手間のかかるアップルジャックからより手頃な価格のグレイン・ウィスキーへと移って行きました。

Rye_Mature_Grain_Summer

アメリカで植民地時代が始まって以来、メリーランダーズは州の代表的なライ・ウィスキーのスタイルとなるものを先駆けて開発していました。モノンガヒーラとしても知られるペンシルヴェニア・ライほどスパイシーでペッパー・フォワードではないメリーランド・ライは、ライ麦以外を豊富に使いソフターでニュアンスのあるパレートを誇っていたとされます。ただ、残念ながら多くのスピリッツの初期の歴史と同様に、メリーランド・スタイルとは何かを正確に定義することは難しいようです。古典的な二大ライ・ウィスキーについてマッシュビルに焦点を絞ると、ペンシルヴェニア・ライは一般的に100%に近いライ麦のマッシュビルから造られ、メリーランド・ライはライ麦以外の何か(コーン、大麦、小麦またはそれらの組み合わせ)を多分に含むマッシュビルで造られた可能性が高い、というのが大まかな説です。メリーランド・ライの「原型」を示唆する包括的な理論はそれ以上ありません。ボルティモア周辺では大麦で仕上げ、海岸の方ではコーンで仕上げ、メリーランド西部では小麦で仕上げている証拠があるらしく、ひとつの町でも複数の蒸溜所が設立の経緯やその時入手しやすい穀物に基づいて、全く異なるマッシュビルを使用している可能性が非常に高いようです。
一方で、マッシュビルを見るだけではウィスキーの全体像を把握することは出来ず、穀物の混合比率はウィスキーを特別なスピリッツにする複雑さや深さの構成要素の一つに過ぎないとも言えます。専門家が穀物を選ぶことの重要性を指摘するように小麦、ライ麦、コーンには何百もの品種があり、異なる土壌や水や日光の条件下で同じ品種を栽培していても組成には差異が生じるでしょう。また、エイジング・プロセスは汎ゆる自然条件と地域的な環境条件の変化に影響されます。気温や湿度、リックハウスの温度や空気循環に至る全てが木材からのフレイヴァー抽出に多大な役割を果たしており、メリーランドのような条件を備えた場所は世界中でメリーランドしかありません。と、すればメリーランド・ライの味わい及び伝統や歴史の大部分は、彼の地で栽培されていた品種やその環境条件に直接由来しているという信念を生み出すこともありそうです。また、初期メリーランド醸造所からエール及びポーター用のトップ・ファーメンティング・イーストがその地域のディスティラーに貸与され、特徴的なエステル・ノートに貢献した可能性を示唆する歴史家もいます。孰れにせよ、スタイルは十分に独特であり、メリーランドはアメリカン・ウィスキーのトップ生産州としての地位を確立しました。

上のようなレシピの形成は農民蒸溜家の間から自然発生的に出て来たのではないでしょうか。おそらく最初のウィスキーはチェサピーク湾とその支流の沿岸で製造されたと見られます。イギリス植民地のヴァージニアが設立された後、すぐにチェサピーク湾岸やメリーランドの上流にも他の入植地が形成され、これらの入植地で穀物の一部を蒸溜してウィスキーを造るようになった、と。これはこの地域にラムの人気が一時的に高まる前の話です。
当初は、ウィスキーを造るために用意された僅かな余剰穀物を使って、慎重にウィスキーを製造していました。しかし、やがて農地の開墾が進むと、収穫の際にはウィスキーにまわせるだけの穀物が出来ました。最初に広く栽培された野性の穀物はライ麦です。ライ麦は土壌条件が悪くても育ち、雨が少なすぎても多すぎても耐えられ、霜にも耐えられ、秋に植えることも出来る上、冬の雪解け後に再び成長を始めました。それは完璧とは言えない農地にぴったりの穀物でした。当時は小麦もあったもののその栽培は難しく、コーンはまだ彼らにとって新しい存在で、それらに較べるとライ麦の取り扱いは比較的簡単だったのです。ヴァージニアとメリーランドではタバコ栽培の影響で農地が荒廃し、必要な栄養分や窒素が失われていました。被覆穀物として選ばれたライ麦は窒素を回復させる効果があり、季節的に交代すると土地にプラスでもありました。おそらくアメリカで最も初期のウィスキーがライ・ウィスキーだったのは、こうしたライ麦の頑強さのお陰だったと言えるでしょう。
農家でコーンの栽培が進むと、ライ麦と一緒に使うことを考えた人もいたと思います。コーンはライ麦のスパイスに甘みを加え、オール・ライのウィスキーを飲み慣れた口には適度なコーンは具合の良いウィスキーになる、と。しかし、コーンを入れすぎると、ライ麦を飲む人にとっては甘すぎて味気ないウイスキーになってしまうので、マッシュの大部分はライ麦のままでした。更にコーンはライ麦ほど簡単には栽培できず、当時の人々はウィスキーより寧ろ食用にしたいと考えていました。そのためコーンは大抵はライ麦よりも少ない成分に留められていたようです。
メリーランド植民地のウィスキーは、3回蒸溜することもよくあったと聞きます。これはウィスキーの故郷の一つアイルランドでは3回蒸溜する習慣があり、カトリック教徒に開かれた植民地であるメリーランド州にはアイルランド系カトリック教徒が多く住んでいたので、彼らが伝統的な技術を身に付けていたからでした。元々は、技術が未熟な段階では不純なウイスキーを造ると味が悪くなったり、下手をすると病気にさえなる可能性があったため、3回の蒸溜はスピリッツの純度を保つために必要だったらしい。更に北のペンシルヴェニアではドイツ人とスコットランド人の移民が多く、二回蒸溜が普及していました。彼らの殆どはウィスキーとシュナップスの蒸溜を2回行うことが多かったそう。こうした傾向は緩やかではあっても、それぞれの地域のディスティラーが概ね従っていたものでした。蒸溜プロセスの完成度が高まり純度が向上した進化の後半では、多くのメリーランド蒸溜所も3回目の蒸溜を廃止しましたが、初期のメリーランド民が親しんだクリーンかつスムーズな味への欲求の名残はあったのかも知れません。
時として、発酵プロセスを助けるためにライ麦の一部や大麦を麦芽にしてマッシュに加えることもありました。大麦を麦芽にすることで酵素が導入され、温水のマッシュに加えることで酵母を活性化させます。アイルランドでは、伝統的に麦芽と非麦芽の穀物を混ぜて使用していました。これは旧世界で麦芽穀物に課せられていた税金を回避する方法として始まったそうです。モルト化された穀物はモルト化されていない穀物とは僅かに異なるフレイヴァーを生み出します。新大陸の疎らな環境で穀物を製麦することは蒸溜者には避けたい作業であったため、マッシュに少量の麦芽を入れるだけで酵素の効果が得られることは利点と理解され、この少量の麦芽がメリーランド・ライにダイナミックな味わいを生み出すことにも繋がりました。小麦やオーツ、更にはバックウィートなどの穀物を加えるのは、余った穀物を使い切るため、或いはその蒸溜者の好みの味にするためであったと推測されます。これら全ての理由から、チェサピーク沿いのメリーランド初期のファーム・ディスティラーの多くは、一般的にルーズなレシピでウィスキーを造るようになったのでしょう。

このような進化が大西洋中部の植民地で起こっていた頃、先述したように別のスピリッツが人気を集めていました。ライ・ウィスキーが広く親しまれる以前にメリーランドの一般的な入植者が選んだハード・スピリッツは、主にマサチューセッツ州とロードアイランド州の蒸溜所で造られたラムでした。ラムはカリブ海の島々から輸入した糖蜜を使って植民地内で蒸溜され、アメリカ革命戦争(1775-1783年。日本では独立戦争)と呼ばれるグレート・ブリテンと13植民地の間の軋轢が起きるまで、その人気はウィスキー以上だったのです。しかし、戦争中にイギリスがチェサピーク湾を封鎖して糖蜜やラムなどの輸入品を遮断すると、13植民地とカリブ海の島々との貿易は停止し、糖蜜をベースとしたスピリッツの製造に必要な材料も失われてしまいました。これがきっかけとなり、「喉の渇いた」アメリカ革命軍は戦いの前に渇いている訳にはいかず、農民蒸溜家たちは100年以上前から少しずつ行っていたウィスキー造りを盛んに行うようになります。穀物の取引よりも遥かに儲かるウィスキーの樽は、穀物や小麦粉よりも輸送が容易で1パウンドあたりのコスト効率が良くなりました。その需要は非常に大きく、コンチネンタル・アーミー(アメリカ独立戦争時、後にアメリカ合衆国となる13植民地により編制された軍隊)の記録にも、薬用や士気高揚のためにライ・ウィスキーを大量に購入したことが記されているそうです。コンチネンタル・アーミーの総司令官を務め、農業を科学的に捉えることを目指していたジョージ・ワシントン将軍も、自身のマウント・ヴァーノンの敷地内にスティルを設置していたことは有名です。

革命後、誕生したばかりの連邦政府は戦時中に積み上げた莫大な負債を回収するという困難な課題に直面しました。その第一歩として、政府は当時の財務長官アレグザンダー・ハミルトンが考案した「蒸溜酒」に課税するという計画を発表します。メリーランド州の4人の議員のうち3人はこの法案に反対しました。1791年のこの税は実際に生産されたウィスキーだけでなく休止中のスティルの容量にも課税されていたため、強い反発がありました。また、この税は現金での支払いを要求していたため、現金に乏しく日常生活では伝統的な物々交換システムに頼っていたメリーランド州西部の入植者には更に厳しいものでした。農民達の主要な市場商品が連邦政府の税制で脅かされるようになり、1794年夏までに(当時の)西部辺境の緊張感は熱狂的なレヴェルにまで達し、最終的には武装蜂起となった抗議行動はウィスキー・リベリオンと知られています。1794年後半になると殆どの暴動は先の革命戦争よりも総兵力が多かった連邦民兵によって鎮圧されました。違反や暴力的なデモは主にペンシルヴェニア西部に限定されていましたが、メリーランド州でもカンバーランド、ヘイガーズタウン、ミドルタウンを中心に小規模な騒動が発生し、フレデリックでは「ウィスキー・ボーイズ」がやって来て州の武器倉庫を空にしてしまうのではないかという恐れもありました。ウィスキー・リベリオンの抑圧は、税金に抵抗した多くの小規模蒸溜業者がオハイオ・リヴァーを下って当時まだ連邦政府の管轄外だったケンタッキーに避難するという予期せぬ効果を生み、そこで彼らがバーボンを発明したという神話がありますが、実は全ての成功したケンタッキー・ディスティラーズは主にメリーランドから山を越えて来たと言われています。そこからバーボンがメリーランド・ライのコーン多めのマッシュビルに何らかの影響を受けていた可能性を示唆する歴史家もいます。忌み嫌われたウィスキー税はペンシルヴェニア州西部以外ではほぼ法的強制力がなく、同地でも税金の徴収にあまり成功しないまま1803年に撤廃されました。

ジョージ・ワシントンが蒸溜に乗り出す一年前の1796年、ボルティモアの最初の国勢調査では、早くも市内で操業している4つの本格的な商業用蒸溜所がリストされています。ピーター・ガーツ、コンラッド・ホバーグ、フランシス・ジョンノット、ジョン・ツールが経営者とされ、彼らが何を蒸溜していたのか詳細は不明ですが、その中にはターペンタイン(テレビン油)も含まれていたそうです。初期商業蒸溜所の中で、1810年代から少なくとも1840年代までと最も長く続いたのはジョセフ・ホワイト・ディスティラリーでした。所謂「エコ」な操業を行ってたそうで、蒸溜所のスペント・マッシュ(蒸溜過程で使い終えた穀物の残滓)は、地元の農家に無料で豚の飼料として提供されたと云います。1802年にトーマス・ジェファソンが大統領に就任するとウィスキー税は最小限に引き下げられ、1810年から1840年にかけてアメリカの蒸溜所の数は倍増しました。その結果、当時アメリカの酒類消費量は歴史上最も多くなったとされます。その後、個々の蒸溜所の数は減少したものの一ヶ所あたりの生産量は増加し続けました。
この時期はメリーランド州西部でもライ・ウィスキーの生産が盛んになります。市場へのルートは、馬車でウィリアムスポートまで行き、そこからポトマック川、後にはチェサピーク&オハイオ運河を船で下るというものでした。初代アメリカ合衆国大統領の名を冠した郡としては国内初だったというワシントン郡では、南北戦争の直前に26ものグレイン蒸溜所が営業していたと推定され、その多くはヘイガーズタウンの北に位置するライターズバーグに集中していたそうです。1861年以前の最大の蒸溜所は、アンティータム・クリークに位置し、20馬力のエンジンで1日に50〜60ブッシェルの穀物を処理することが出来、ロバート・ファウラーとフレデリック・K・ズィーグラーによって運営されていました。おそらく街の名士?だったファウラーが1850年に製粉業者に転身し、1853年にズィーグラーと共にファウラー&ズィーグラー社を設立。ズィーグラーはワシントン郡に残り製粉所と蒸溜所を経営し、ファウラーはボルティモアに移り、有名な「ズィーグラー」ウィスキーを始めとする製品の販売を手配したそう。ワシントン郡の他の蒸溜センターとしてはインディアン・スプリングス、クリア・スプリング、ケンプス・ミル、ペン=マー、スミツバーグなどにありました。
余談ですが、サルーン文化が普及する以前はメリーランド州の酒類やウィスキーは地元の食料品店が主に販売していたそうで、大学や病院の名前になっているあの有名なジョンズ・ホプキンスもクェーカー教徒でありながらホプキンス・ブラザーズという食料品店で1840年代かそれ以前に「ホプキンス・ベスト」なるブランドでウィスキーを販売していたとか(この事実により彼はフレンズ集会から追い出されましたが、後には復帰したらしい)。それは措いて、メリーランド州に蒸溜所が急増したのは南北戦争の少し前のようです。

1860年代初頭、メリーランド・ライは流行の兆しを見せ、需要が高まっていましたが、戦時中は流石にメリーランドのライ産業にとって悲惨な状況となりました。戦争前と再建期には酒税率も急騰し、南北戦争以前のメリーランド州で設立された小規模な蒸溜所では、戦時中の高額なウィスキー税のために生産の採算が合わなくなったのです。何より戦時には膨大な数の北軍と南軍の兵士がメリーランド州を縦横無尽に行き来しました。リンカーン大統領はワシントンDCとボルティモアを南軍から守ることを決意して、北軍のポトマック軍がヴァージニア州リッチモンドを攻略しようと南下した時、北軍の新鮮な部隊がワシントンDCをしっかりと守るようにしました。また、軍神ロバート・E・リー将軍率いる北ヴァージニア軍は、ワシントンDCへの補給路を断つという軍事的な目的と自軍への補給のために農場や町を襲撃するという現実的な目的を持ってメリーランド西部に二度に渡って侵攻、その際、南軍の略奪品の中に当地の特産ライ・ウィスキーが含まれていたと見られます。
メリーランド・ライの真の名声は南北戦争後から始まりました。戦後、産業が再興されるとその評判は急上昇します。1861年から1865年までの南北戦争でメリーランド州に集結した北軍と南軍の兵士達は、メリーランド・ライを気に入り、滞在中に楽しみ、戦争が終わって自分の故郷に戻るとそのウィスキーの味わいを折に触れて想い出したかも知れません。そうした南北両陣営の退役軍人がメリーランドのウィスキーを好むようになり、19世紀を通して発達した鉄道は、戦時中も兵士の移動や食料物資の運搬に重要な役割をもったため整備が進み、お陰で企業はその需要を満たすことが出来ました。ウィスキーは一度蒸溜してしまえば国道、チェサピーク&オハイオ運河、ボルティモア&オハイオ鉄道などを経由して急速に拡大する国中へと容易に輸送することが可能です。当初、ライの販売は急増しました。しかし、州外の安価な銘柄がメリーランド州に入荷するのも容易になったため、結果的には業界全体に大きな損害を及ぼすことになります。このような厳しいビジネス環境にも拘らず、新しいブランドも誕生したようですが、州内でのライ麦栽培に問題が生じ(野生のタマネギが蔓延したらしい)、メリーランド州の企業はニューヨークやウィスコンシン等からライ麦を輸入するようになりました。と同時に、ペンシルヴェニア州モノンガヒーラ地方の新ブランドも続々と流入し、メリーランドでは州産よりも他州からの輸入品の方が優れているというマインドセットに陥り、州外のブランドが高級品として評判を得たと言います。この誤解はウィリアム・ウォルターズと彼のパートナーであるチャールズ・ハーヴィーらにより大いに助長されました。1847年に彼らが設立したボルティモアの会社はペンシルヴェニアにある四つの蒸溜所の代理店を務めていたこともあり、詳しい知識をもたない一般大衆の人々が地理的なことを知らないのを期待して、メリーランド産のライ・ウィスキーのラベルにモノンガヒーラと誤解を招くような表記を追加したそうな…(ラベルには「Maryland Monongahela Rye Whiskey」と書かれていた)。古くからペンシルヴェニアの広大な高地にはメリーランド以上に蒸溜所がありました。そのライ・ウィスキーは名高く、早くも1810年には商標登録されたと云うオーヴァーホルト・ブランドは夙に有名です。ペンシルヴェニアの川の名前でもあるモノンガヒーラは、今日スコットランドの地名が持つような神秘的な魅力を持っていたのでしょう。
1909年以前(*)、メリーランド・ライという用語は実際に何処で蒸溜されたかを問わず、内容や製造方法が概ね類似しているスピリッツの種類を表す一般的な言葉として使われていました。ヴィンテージ・ボトルに詳しい寄稿家のジャック・サリヴァンは、「メリーランド」は酒類の品質を象徴するものとして非常に重要であり、全米のディスティラーやディストリビューターはこの名前を採用せざるを得なかったと云います。彼は例として、セントルイスのディスティラーのグスタヴ・リーズマイヤーは自分の銘柄を「オールド・メリーランド」と呼び容器のラベルに州のシールを貼っていたとか、シカゴのブリーン&ケネディ社はケンタッキー州オーウェンズボロのM.V.モナークが既にその名称を使用していたのを無視して1906年にブランド名として「メリーランド・ライ」という商標を登録してみたり、シンシナティのシャーブルック・ディスティリング・カンパニーは「マイ・メリーランド・ライ」を全国的に宣伝したことを挙げます。またニューヨークではサミュエル・C・ボーム・アンド・カンパニーが「メリーランド・ユニオン・クラブ・ライ」という銘柄を出し、同市のサーバー&ワイランド社はオールド・メリーランド・ライ・ウィスキーの「リトル・ブラウン・ジャグ・ブランド」を商品化し、更に別のニューヨークのウィスキー販売店で1808年にワインと酒のマーチャンツとして創業したP・W・エングス&サンズは19世紀の終わり頃に発売した陶器製ジャグにボルティモアの街と有名なライ・ウィスキーへのオマージュとして「Engs Baltimore Rye, 1808」というラベルを貼り付けました。中身はメリーランド州の蒸溜所からニューヨークの販売店に提供されたものかも知れないし、そうでないかも知れず、実際に何が入っていたのかは知る由もありません。現在ではこのような露骨な地域名の流用は許されないことですが、当時はまだ緩かったという話です。それは兎も角、抜け目のないボルティモアのマーチャンダイザーやメリーランド州の先駆的なビジネスマンたちも、特定の地域名と品質がイコールで結ばれるイメージを購買の判断材料として十分に活用し、メリーランド・ライへの渇望を満たすために鉄道のインフラ整備やアメリカ全土へのブランド・マーケティングの台頭などを利用しました。
流通が発展するにつれ、ブランドの確立やマーケティングはより重要になります。ブランドとしてバレルヘッドにステンシルされたり、ラベルにプリントされる名前は多くの場合、蒸溜者もしくは蒸溜所、或いは卸売業者または小売業者の名称でした。それを推し進めたのは19世紀の消費者向け商品広告の新案です。メリーランド州のウィスキー業界での初期の記録は、ボルティモアのレクティファイアーおよび卸売業者であるラナハン&ステュワートでした。ウィリアム・ラナハンは1855年にハンター・ピュア・ライを連邦政府に登録し、後に「ハンター・ボルティモア・ライ」と改称、ラベルや広告にはフォックス・ハンティングの服装をした男性が馬に跨った絵が描かれました。その後のブランディングでは「The American Gentleman’s Whiskey」というスローガンが掲げられました。更に後年には馬がジャンプをしている様子と共にスローガンは「The first over the bars」へと進化し、ティンバー・トッパー(障害競走馬)のイメージを喚起するようになります。「バー」というのは酒場と乗馬競技で馬がジャンプする障壁を掛けた言葉遊びでしょう。
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ラナハンズのウィスキーは、当初から貴族的な雰囲気を醸し、明らかに上流階級やそこを目指す人々にアピールしようとするものでした。1868年に父親が亡くなった後、経営を引き継いだラナハン・ジュニアは新聞や雑誌などで大々的な広告キャンペーンを展開し、全国的な注目を集めるブランドが一般的にそうであるように、フォックス・ハンターを描いた文鎮やピンやマッチなど色々と幅広い販促アイテムを作りました。また、ハンター・ボルティモア・ライのロゴやトレードマークの絵をさまざまな場所に描くことも指示し、ビルディングの側壁や、ボルティモアだけでなくニューヨークやシカゴの野球場の外野フェンスに看板が飾られていました。きっと汎ゆる会社が競って広告を出したことでしょう。ブランドの宣伝に多額の資金が投じられた南北戦争後から世紀の変わりめにかけてメリーランド・ライの人気は全国に広がり、この頃にはハンターを始めとして、アンティータム・ライ、ホーシー・ライ、モンティチェロ・ピュア・ライ、マウント・ヴァーノン・ピュア・ライ、オリエント・ピュ​​ア・ライ、シャーウッド・ライなどのブランドが全国的に名を馳せました。特にハンター・ライは大成功を収め、ロンドン、上海、マニラにも輸出されています。

禁酒法以前の時代にメリーランド・ライが広く知られるようになったもう一つの潜在的な理由は、1876年にアメリカの独立100周年を記念してペンシルヴェニア州フィラデルフィアで開催された「センテニアル・エクスポ」でした。この博覧会ではアメリカの業績を称えるために様々な建物が建てられました。中には農業関連の建物もあり、その展示物の中には完全に機能する蒸溜所の模型があったそうです。ボルティモアのマウント・ヴァーノン蒸溜所は、おそらくジョージ・ワシントンとの繋がりを意識してかセンテニアル蒸留所を運営し、ライ・ウィスキーの純度と品質を謳っていました。マウント・ヴァーノンという蒸溜所の起源は、1850年代にボルティモアで操業されていたオステンドとラッセル・ストリートにあったエドウィン・A・クラボーとジョージ・U・グラフの蒸溜所でした。1873年頃、彼らはこの蒸溜所をフィラデルフィアのリカー・マーチャントであるヘンリー・S・ハニスに売却しました。ハニスはそのままにしていましたが、ボルティモアの代理人が蒸溜所を再建して拡張しました。このエクスポは1876年5月10日から11月10日までの184日間で約1000万人の来場者を記録したそうです。

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1880年代から1890年代にかけてメリーランド産ライの市場への流入は大幅に増加しました。ボルティモア近郊では少なくとも8つの蒸溜所が開業したと言います。スコッツ・レヴェルのL・ウィナンド&ブラザーズ社が経営したパイクスヴィル、コールド・スプリング・レーンとジョーンズ・フォールズにあったジョン・T・カミングスが経営するメルヴェール、ギルフォード・アヴェニューとサラトガ・ストリートではビジネス・リーダーのアルバート・ゴットシャルクが設立した「メリーランド」、ボルティモア・ディスティリング・カンパニーが運営するスプリング・ガーデン、同じくボルティモア南西部にあるキャロル・スプリングス、ハイランドタウンではオドネル・ストリートの卸売業者チャールズ・H・ロス社が経営するモニュメンタルとバンク・ストリートのロバート・ステュワートが経営する「ステュワート」、更に東のコルゲイト・クリークのほとりにダニエル・マローンが経営する「マローン」など。中でもメルヴェールは最大級の規模を持ち、日に1000ブッシェルの穀物をマッシングする能力を誇っていたとか。
メリーランド州西部も同じような状況で、20程度の商業蒸溜所が建設されていたようです。その多くは小規模で、一部のメーカーは生産物全体を市の卸売業者に販売したため、ハウス・ブランドやオリジナルのラベルを持っていませんでした。蒸溜所は5月末から10月1日までの間、休むことが多く、市場の低迷期には完全に閉鎖するところもあったそう。 西部地域の著名な蒸溜業者や蒸溜所としては、ギャレット郡のメルキー・J・ミラー、アレゲイニー郡のジェイムズ・クラーク・ディスティリング社が所有する「ブラドック」、ワシントン郡ではクリア・スプリングのジェームズ・T・ドレイパーとライターズバーグのベンジャミン・ショッキー、およびロックスバリーのジョージ・T・ギャンブリルが設立した「ロックスバリー」、モンゴメリー郡ではハイアッツタウンのリーヴァイ・プライスとキングス・ヴァリーのルーサー・G・キング、キャロル郡ではクランベリー・ステーションのエイブラム・S・バークホルダーとラインボロのアダム・ローバックなどがいましたが、知名度や規模が大きかったのはロックスバリーとブラドックでした。

1895年、ボルティモアの人口が50万人を超えた頃、250人に1軒の割合でサルーンがありました(年間250ドルかかる酒類ライセンスに2045件の登録があった)。サルーンには68のウィスキー卸売業者がサーヴィスを提供していました。20世紀が始まったばかりの頃には、ボルティモアを訪れた観光客が蒸気船から港へ上ってくると、沢山の広告看板が目に飛び込んで来たと言います。外壁に描かれたそれらのサインは彼の地の会社のサーヴィスや商品の重要性を謳っていました。しかし、メリーランド州のライ・ウィスキーのディーラーは、新世紀が始まって20年も経たないうちに業績も繁栄も合法性も全て失いました。このような激変を齎したのは主に酩酊物質の乱用に対する反感でしたが、飲料用アルコールを違法とするための運動が憲法修正第18条やヴォルステッド法に結実する以前からメリーランド・ウィスキーの名声には傷が付いていました。それには三つの国情と一つの地方情勢が作用していたと、ボルティモアの元ジャーナリストでメリーランド・ライのオーソリティであるジェイムズ・H・ブレディは『メリーランド・ヒストリカル・マガジン』の記事に書いています。一つは酒場や小売店で売られているウィスキーの信頼性に対する不安が続いていたこと、二つめは冷蔵技術の向上によって醸造業者が蒸溜業者とより幅広く競争できるようになったこと、三つめはウィスキーに治療効果があるという医学的な裏付けがなくなったこと、そしてもう一つがメリーランド州ではウィスキー蒸溜に於ける地元の特徴の低下や所有者が減少していたことでした。こうした多くの危険信号に対して業界は自覚と防御をしながらも殆ど公的な反応を示すことはなかったらしい。
他にも、1904年2月6日から8日にかけて起きたボルティモア大火災は、彼の地のウィスキー取引にとって更なる打撃でもありました。その炎は30時間以上燃え続け、1526棟の建物を破壊し、70の街区に跨がり、1200人以上の消防士が消火活動するという大規模なものでした。ダウンタウンの二つの蒸溜所、モンティチェロと「メリーランド」は焼け跡の北側にあり無事でしたが、長年に渡り卸売業者が密集していたサウス・ゲイ・ストリート、エクスチェインジ・プレイス、プラット・ストリートなどの事務所や倉庫は炎上してしまいました。この時までにアルタモント・ピュア・ライをメリーランドのブランドとして確固たる地位にし、元のカルヴァート・ストリートからより大きな地区のイースト・プラットに移転していたニコラス・M・マシューズの会社などは、全ての記録と保管されたウィスキーを失ったと伝えられ、大火の被害を受けた48の卸売業者の一つでした。しかし、この大火災で廃業した会社は一社もなかったようで、N・M・マシューズ&カンパニーも通りを下ってすぐのイースト・プラット34番地に事業を移し、1910年にはイースト・ロンバード・ストリート17番地に最終的に移動しました。ウィスキー供給に多少の難は出たかも知れませんが、火災が与えた具体的な影響の一つはウィスキー・マーチャンツの密集を分散したことだったとされています。寧ろそれよりも、ブレディが示唆したようにこの業界には自ら招いた問題がありました。
禁酒法廃止以後、容器には連邦法によって「ウィスキー」の文字が義務付けられますが、それ以前のメリーランド・ライのボトルのラベルには「余計な」ウィスキーという言葉が省かれていることが多く、例えばロックスバリー・ライ、メルヴェール・ピュア・ライ、オリエント・ピュア・ライ、スプリング・デール・ピュア・ライ、バル=マー・クオリティー・ライ、ポインター・メリーランド・ライ、カルヴァート・メリーランド・ライ、ウェストモアランド・クラブ・メリーランド・ライ、フォー・ベルズ・メリーランド・ライ、キャロルズ・キャロルトン・メリーランド・ライ、ゴードン・メリーランド・ライのような具合でした。ペンシルヴェニア・ライの多くはストレート・ライ・ウィスキーだったのに対し、メリーランド・ライの多くは「整えられた」ライ・ウィスキーで、チェリーやプルーンの果汁などの香味料を加えて甘みを出したものだったと言われています。どちらのスタイルも19世紀には非常に人気がありましたが、世紀を跨いで制定された二つの法律、1897年の「Bottled-in-Bond Act」と1906年の「Pure Food and Drug Act(純正食品医薬品法、通称ワイリー法)」により、メリーランド・ライはカテゴリーとしてはほぼ消滅しました。ストレート・ウィスキーの人気が高まっていた時代に、ブレンデッド・ウィスキーとしての表示を余儀なくされたのです(**)。
酒類業界では全体的に何処にでもある無意味なラベル・ワードを用いて酒場や小売店の顧客に酒の価値を誤魔化す傾向がありましたが(例えば「Pure」とか)、1897年の英国の制度を参考にした連邦法により、政府が管理する倉庫で保税が行われるようになりました。蒸溜業者はプルーフ・テスト済みのウィスキーのバレルを最低4年間そこに預け、引き出す際に手数料を支払い、違反すると刑事罰の対象です。1901年はボンデッド・ウィスキーが市場に出回るようになった最初の年でした。メリーランド州の数多くの蒸溜所も自社の敷地内でこのような倉庫を契約し、やがてボトルド・イン・ボンドのウィスキーを顧客の許へと届けました。しかし、このアイディアには現実的な限界がありました。この法律が一般に認知されていなかったことで、ボンデッド・ウィスキーが市場に浸透するのに時間がかかったのです。またボンデッド・ウィスキーの小売価格は1クォート1ドルと多くの賃金労働者には手の届かないものでした。1917年以前、ムーンシャインならば1クォート15セントという低価格、サルーンでのビールの大ジョッキは5セント、ウィスキーの1ショットは10セント(良質のものなら15セント程度)が一般的。ボトルド・イン・ボンドの市場占有率は9%、「ピュア」または「ストレート」ウィスキーは20%、「ブレンデッド」ウィスキーは業界生産量の70%以上を占めていたと目されます。ボトルド・イン・ボンド法はボンデッド・ウィスキーの製造に厳しい基準を設けたため、税収の面だけでなく消費者保護の面があり、純正食品医薬品法に繋がる最初の法律の一つでもありました。
工業化や中産階級の台頭、19世紀末の自由放任主義から20世紀初頭の進歩主義への移行などが公衆衛生に対する政府の責任を飛躍的に高めます。その帰結として食品や医薬品の安全性に対する懸念の波が押し寄せ、食品と薬物、そしてそれら二つの組み合わせであるアルコールには新たな規制が必要な時代でした。古くからアルコール飲料には薬効があると広く信じられており、医師は汎ゆる種類の病気にアルコールを処方していましたが、1850年以降の科学的医学の台頭はその見方に変化を齎し、世紀の終わりまでにアルコールの治療的価値については広く議論され、最先端の開業医の間で信用を失いました。
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純正食品医薬品法の立役者であり通称ワイリー法の名の由来となっているインディアナ州のハーヴィー・ワシントン・ワイリーは医師であり化学者でもあり、彼は殆どの病気においてスピリッツ等の強い酒は医学的に価値がないと云う医師の間での確信の高まりについて代弁しました。ショック状態の体にアルコールを投与しても体を温める効果はないし、アルコールの生理学的な分類は興奮剤ではなく抑制剤である、と。1916年にウィスキーとブランディはアメリカ合衆国の薬局方で科学的に承認された医薬品のリストから削除されています。1917年には、アメリカン・メディカル・アソシエーション(AMA)は論争の的となった会議で「アルコール自体に薬効はない」という決議を出しました。こうして、ウィスキーが医薬品であった時代は終わりを告げます。医薬の逆転はウィスキーが地位を失った重要な要因の一つでした。それにも拘らず、1919年に制定された禁酒法では、聖餐式のワインと並び、医師が患者にアルコールを処方する際の免除規定が設けられました。AMAは禁酒法以前とは打って変わり、アルコールは喘息や癌など27種類の病気の治療に使えると主張し出します。言うまでもなく、現実的には医師や薬剤師にとってアルコールの処方箋を書くことは数ドル余分に儲けるための方法でしかありませんでした。

禁酒法以前の典型的なボトルのラベルはプルーフや成分、バレルでの熟成期間(BIBを除く)、更には内容量をオンスで明記する必要すらないという非常にシンプルなもので、買い手は「バーボン」とあれば全て主にコーンから蒸溜されたウィスキー、「ライ」とあれば全てその名の穀物から蒸溜されたウィスキーを意味すると受け止めていたことでしょう。往々にしてカスタマーは騙されていました。全国的に多くの食料品店やドラッグストアの商品は同様に不正なものでした。そこには記載されていないか誤って伝えられている成分で構成された治療効果の期待できないものが多数出回っていたのです。そうした状況への憤慨の高まりが結果として純正食品医薬品法の制定に結びつき、連邦政府はラベルの記載は真実であることを義務づけ、違反した場合には罰則を課すことになりました。ライ・ウィスキーという名称を合法的に使用するためには、少なくとも51%以上がライ麦のマッシュから作られたウィスキーでなければなりません。1906年以降、メリーランド・ライのイメージは曖昧になって行きます。メリーランド州のレクティファイアーの中には、「ピュア」ライを製造しようとした者もいたかも知れませんが、多くはそうではありませんでした。突然、評判の良かったブランドの多くが「メリーランド・ウィスキー」に変わり、小さな文字で「ウィスキー・ア・ブレンド」とも書かれるようになります。「ライ」という言葉を使わなくなったブランドもあったようで、メリーランド・ライで最も有名な6社の小売業者のうちモンティチェロとウィルソンの2社はこのフレーズを手放し、ハンターとマウント・ヴァーノンの2社は堅持し、シャーウッドとブラドックの2社はラベルや価格でライとブレンドを区別して両立していたと言います。メリーランド州西部で傑出した存在であったホーシー・ライのニードウッド・ディスティラリーは、アウターブリッジ四世の死後に子供たちの手に委ねられ、生産量の半分以上をコーン・ウィスキーに移行しました。
こうした国情の変化はあったものの、世紀の変わり目から20世紀初頭に掛けての移民による人口急増があり、そうして顧客の数が増えたためか、メリーランドのウィスキー・シーンは騒がしく、プレイヤーの参入と退出が繰り返されていました。1897年、ドゥルイド・ヒル・パークのバギー事故でエドウィン・ウォルターズが63歳で負傷したことが致命傷となり、メルヴェール蒸溜所のカミングス家、ボルティモアのレクティファイアーのレコーズ&ゴールズボロ、卸売業者のウルマン=ボイキンがシンディケートを結成してオリエント蒸溜所を買収し、工場名をキャントン蒸溜所に変更しました。時には事業の失敗もあり、積極的な販売活動によってロックスバリー・ライをメリーランド州の全米トップ・ブランドと肩を並べるまでにしていたワシントン郡のロックスバリー・ディスティリング・カンパニーは、社長のジョージ・T・ギャンブリルが小麦の投機家でもあったため、そちらで失敗し無一文になり会社は破綻、1910年に管財人の手を借りて閉鎖されました。新しい企業としては、アレゲイニー郡エレーズリーのウィルズ・ブルック蒸溜所、ワシントン郡ウェヴァートンのサヴェッジ・ディスティリング・カンパニー、ペンシルヴェニア州ウェインズボロの蒸溜所からのペン=マー・ライなどがありました。しかし、多くの産業がそうであるように、どこも数を減らして規模を大きくする傾向にあったようです。いわゆるウィスキー・トラストにとって地元性から来る誇りや個性は重要ではなく、メリーランド州の多くの蒸溜所や輸入業者や卸売業者の資本力の低さ、即ち買収への抵抗力のなさは大きな問題でした。ハイアット&クラークの解散後、シャーウッド・ディスティリング・カンパニーはニューヨークの新しく大きな卸売業者であるプリングル&ゴントランと提携、1905年頃フィラデルフィアのカーステアーズ・ブラザーズがハイランドタウンのステュワート・ディスティラリーを買収、ニューヨークの企業はモンティチェロを買収、シカゴのフレンズドーフ&ブラウンはボルティモアのバック・リヴァーで蒸溜していましたがニューヨークのフェデラル・ディスティリング・カンパニーに売却、シカゴのジュリアス・ケスラーはモニュメンタルを買収、1908年頃にはフィラデルフィアの企業がオウイングズ・ミルズ郊外にグウィンブルックと呼ばれる大規模な蒸溜所を建設、同時期にシンシナティからフライシュマンズも参入といった具合で目まぐるしいです。

1881年から1912年にかけてメリーランド州のウィスキー生産量は240万USガロン(910万リットル)から560万USガロン(2120万リットル)に増加し、合計1930万USガロン(7300万リットル)が保税倉庫に保管されていたと言います。明らかにメリーランド州はスピリッツ業界のリーダーの地位にありました。メリーランド歴史協会によると、1865年から1917年の間にアメリカン・ウィスキーの製造と販売において、小さなメリーランドはケンタッキーのバーボンとペンシルヴェニアのライの大きな背中から遠く離れてはいても不動の三番手だったとのこと。禁酒法以前には優に100を超えるブランドが市場に出回っていたとされます。ついでなので禁酒法以後の話の前に、ちょっと時系列が前後してしまう部分もありますが、メリーランド・ライの有名どころのブランドと蒸溜所を個別に少しばかり紹介しておきましょう。


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モンティチェロ・ライ
南北戦争後の需要に応えるために素早く動いたボルティモアの個人またはビジネスマン・グループのうち誰が最初かは定かではありませんが、その一人であるマルコム・クライトンは1865年には既にホリデイとバス・ストリートで蒸溜を開始していたと言われます。マルコムは、1848年に一家でメリーランド州に移住した卸売食料品店を営むウィリアムとジャネットのクライトン夫妻の間の息子として、1840年にイリノイ州で生まれました。マルコムは南北戦争前から戦争中に掛けて、父親のもとボルティモアのウォーターフロントで穀物と肥料のビジネスからキャリアをスタートさせました。戦後は父のもとを去り、独立。穀物に精通していた彼にとって蒸溜酒を造ることは自然の流れだったのかも知れません。進取の気性に富んだ青年だったクライトンは、嘗てジョセフ・ホワイトが運営していた廃業した蒸溜所を引き継ぐと施設を再建し、モンティチェロ・ライなるウィスキーの製造を開始しました。ボルティモアには既にマウント・ヴァーノンと名付けられたライがあり、ジョージ・ワシントンの家にちなんで名付けられていました。それにインスピレーションを受けたのか、或いは対抗したのか、トーマス・ジェファソンの家の名前を自分のウィスキーに当て嵌めた可能性が示唆されています。そもそもの「Monticello」はイタリア語で「小さな山」を意味する言葉です。クライトンは広告の中で、この銘柄のオリジンが1789年であると何の根拠もなく主張していたとか…。しかし、それは彼が生まれる半世紀も前のことでした。
1868年7月、ボルティモアで19世紀最大の自然災害となったジョーンズ・フォールズの洪水が発生しました。水位はダウンタウンの12フィートまで上昇する大惨事でした。モンティチェロの工場は中身もろとも激流で流されてしまったそうです。クライトンは隣のメーター製造工場のパートナー、チャールズ・E・ディッキーからの財政的援助を受け、すぐに再建を果たしました。ホリデイ136番地の場所は、その後の20年、M・クライトン&カンパニーの工場の本拠地となります。モンティチェロ・ライはメリーランド州の忠実な顧客層だけでなく、ウェスト・ヴァージニア州ウィーリングやニューオリンズの酒類ディーラーにも販売されていました。クライトンはブランドの侵害を懸念したのか、1881年にその名前を商標登録しています。不幸にも、マルコム・クライトンは自ら「完璧な蒸溜」を自称したモンティチェロ・ライが生んだ成功と繁栄をあまり享受することなく、1891年に50歳の若さでこの世を去りました。その年にモンティチェロ・ライは全米で販売されたそうです。彼はボルティモアのグリーン・マウント・セメタリーに埋葬されました。マルコム・クライトンが亡くなった時、彼の息子達は誰も彼を引き継ぐことに興味がなかったか、またはその準備が出来てなかったらしい。蒸溜所は同じボルティモアの兄弟であるバーナードとジェイコブ・B・カーンに売却されます。バーナードは以前「カーン,ベルト・カンパニー」でパートナーとして酒類事業に携わっていました。クライトンが残した蒸溜所はいつの間にかメリーランド州最大級の規模にまで成長していました。これは生産されたスピリッツの課税価格によって評価されます。同蒸溜所は課税対象となる228788ドル(現在の約560万ドル相当)の製品を生産していたそうですが、これはメリーランド州でハニス蒸溜所、シャーウッド蒸溜所に次ぐ規模でした。カーン兄弟はモンティチェロ蒸溜所の運営とブランドの販売を禁酒法の訪れまで30年近く続けます。禁酒令の間、モンティチェロ・ライはドラッグ・ストアで処方箋があれば「薬用」として購入できるウィスキーの一つでした。禁酒法廃止に伴い新たな所有者のもとでブランドは1940年代までは存続したようです。 
メリーランド出身の最も有名なジャーナリスト/作家であるヘンリー・ルイス・メンケンは、家庭医が「R月(スペルにrの付く9〜4月のこと)の肺炎の予防には、メリーランド・ウィスキーを一杯飲むのが一番だと教えていた」と言います。葉巻製造業を営んでいた父親のオーガスタスは、その指示をしっかり守ってモンティチェロを購入し、朝食も含む毎食前にダイニング・ルームの戸棚に潜り込み、ライ・ウィスキーを飲んでいたそうです。「彼はこの前菜を健康に必要なものと考えていた。 胃の調子を整えるには最高の薬だと言っていた」。


オリエント・ライ
1819年にペンシルヴェニア州中部の町リヴァプールで生まれたウィリアム・トンプソン・ウォルターズは、1840年代にボルティモアへとやって来ました。穀物商を始めたウォルターズは、1847年に酒類卸売業を確立し、ペンシルヴェニアの4つの蒸溜所からウィスキーを購入していました。やがてウォルターズはこの地域で最大級のウィスキー事業の指揮を執るようになり、成功後すぐにボルティモアの中でもファッショナブルなマウント・ヴァーノン・プレイス地区に住居を構えます。南北戦争が勃発すると、それまで州権の率直な支持者であったウォルターズは合衆国を去って家族と一緒にヨーロッパを旅行し、芸術作品の研究と購入に努めました。1882年、ウィリアムは事業を解散し、海運や鉄道輸送に転じました。代わりに14歳年下の弟エドウィンが自分自身のビジネスをやり始め、家族の支援を受けてキャントンのメイトランド&ブライアンズ蒸溜所を買収します。新オウナーはオリエント・ディスティラーズと改称しました。主力商品をオリエント・ピュア・ライと名付け、拡張した工場をボルティモア最大の規模にすると宣言しました。新しい事業はすぐに独自のドックを持つほどの規模になり、オリエント・ピュア・ライはサンフランシスコで販売されるようになりました。


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メルヴェール・ライ
メルヴェール・ピュア・ライは禁酒法以前に最もプレミアムであり、当時のブランドはメリーランド州のライ・ウィスキーの中で最も権威があって尊敬されたブランドの一つだったと伝えられます。1902年のシンシナティのセールスマンのレート・ブックにはメルヴェールの卸値が1クォート1.45ドルと記され、比較で言うとナッシュヴィルの1906-07年の価格表ではオールド・テイラー・バーボンが1クォート1ドルでした。
1880年代、ジョン・T・カミングスはボルティモアの北にあるジョーンズ・フォールズ地域のコールド・スプリング・レーンにメルヴェール蒸溜所を開設しました。カミングスが登場する前、この場所はボルティモア市内を流れる17.9マイルの小川であるジョーンズ・フォールズの水を利用した商業製粉所でした。製粉所は幾人かの所有者によって運営された後、1830年頃にギャンブリル家の手に渡りました。その頃は穀物の製粉に加えて、製材や紡績も兼ねて運営されていたようです。次の30年間、ギャンブリル家は南北戦争中にその場所が重要になるまで運営されましたが、1861年に北軍が進軍し駐屯すると、南部の共感者であったギャンブリルは占領に不満を持ち、1862年にその土地をウィリアム・デンミードに売却しました。「メルヴェール」という名前が最初にこの地域に付けられたのは戦争中のことです。デンミードは息子のアクィラと共にこの物件の利用を拡大し、1862年から1872年の間に蒸溜所として石造りの建物を建てました。それはイタリアン・ラブルストーン造りで、屋根の中央にキューポラのある優雅な建築物でした。その後の数年間で、二つの倉庫とボイラー小屋と家屋(蒸溜所の管理者用?)が追加されました。1880年頃には骨を粉砕するための機械もあったそうです(この頃の蒸溜所ではしばしばウィスキーのフィルターとして動物の骨を使用していたらしい)。デンミードは蒸溜所を約20年間運営した後、ジョン・カミングスを主とした地元のグループに販売しました。
ボルティモアのマーチャントであるカミングスは、その時までに50歳で、次男のウィリアムは17歳で既に父親と一緒に働いていたそうです。カミングス家の所有権の下でメルヴェール蒸溜所は更に拡張され、倉庫や別棟が追加されました。彼らはメリーランドの新聞上で自社製品を広く宣伝しました。メルヴェールの他に「レイク・ローランド・ウィスキー」と言うブランドもあったそうです。これはボルティモア郡の100エーカーの貯水池にちなんで名付けられました。1897年にボトルド・イン・ボンド法が議会で可決された同じ年、父と息子のカミングスは地元のウィスキー商人によるシンディケートに加わり、オリエント蒸溜所を引き継ぎ、施設の名前をキャントン蒸溜所に変更しました。この動きはメリーランド州で最大のマッシング能力を備えた蒸溜所を所有していたにも拘らず、カミングスが更に多くのウィスキーを必要としていたことを示していると見られます。メリーランド州税務長官の記録によると、1897年のメルヴェールの蒸溜酒の課税価格は168196ドルであると報告しました。1905年にはその2倍以上の373316ドルになりました。この増加は課税額が446880ドルに達した1909年まで続いたと言います。こうした数字にメルヴェール蒸溜所がメリーランド州で最大のウィスキー生産者と呼ばれる所以があるのでしょう。また、ブランドの名声の一つの尺度に模倣が挙げられます。成功したブランドと音を似せたブランドを作成することはよくあることで、市場に出回ったメルヴェールのコピーキャット・ウィスキーは多く、「Melville(メルヴィル)」、「Melwood(メルウッド)」、「Mell-Wood(メル=ウッド)」、「Melbrook(メルブルック)」等がその例です。カミングスは1902年に「メルヴェール」の商標を登録していたにも拘らず、ボストンの会社によって販売されたそのまま「メルヴェール・ライ」なる明らかな商標侵害のウィスキーもあったようです。既に1900年に74歳でジョン・カミングスは亡くなり、経営の手綱は若い頃から蒸溜所で働いていたウィリアム・B・カミングスに渡り、弟のアレグザンダーが会社の秘書兼会計として加わっていました。兄弟はメルヴェール蒸溜所の繁栄を継続させましたが、禁酒法の波は嫌でもやって来ます。それでもメルヴェールは、ドライ・エラの始めの頃に政府によって保税倉庫に指定され、政府へのグレイン・アルコールを生産するため数年の間オープンを許可されていた、と示唆する歴史家もいるようです。
カミングス家は1925年に蒸溜所を売却しました。その後、1928年にウィリアム・A・ボイキン・ジュニアがその所有者からプラントを購入し、彼の会社であるアメリカン・サイダー・アンド・ヴィネガー・カンパニーが1956年まで施設を運営しました。ボイキンの家族はその時、施設をスタンダード・ブランズに売却しました。ウィスキーは禁酒法期間中から製造されなくなりましたが、建物は現在も残っており、今はフライシュマンズ・ヴィネガー・カンパニーの施設の一つとして引き続き酢を製造し続けていると思います。ちなみに石造りの建物は国家歴史登録財となっているそう。メルヴェール・ライは禁酒法廃止後、復活しなかったブランドでしたが、近年フィラデルフィアのニュー・リバティ蒸溜所により復刻されました。
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(近年のフライシュマンズ・ヴィネガー)


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ハンター・ライ
先にも少し紹介したラナハンのハンター・ライは、1912年に出版された『ボルティモア:その歴史と人々』に「ハンター・ボルティモア・ライほど商業の中心地としての街の名声を広めたボルティモア産の製品はありません」と書かれたほどでした。創業者のウィリアム・ラナハン・シニアの人生についての情報は殆どありませんが、南北戦争の前に菓子職人としてかなりの富と影響力を達成したと言われています。アイルランドで生まれ、ボルティモアに定住したラナハン・シニアは、おそらく仲間と組んでロンバードとレッドウッドの間にあるライト・ストリートの工場でレクティファイアーとして1850年代初頭にウィスキーの製造と販売を開始したと思います。1855年に「ハンター・ピュア・ライ」、その後「ハンター・ボルティモア・ライ」を連邦政府に登録。1868年に父親が亡くなった後、ラナハン・ジュニアは事業を引き継ぎ、ウイスキー製造事業を精力的に拡大しました。彼はメリーランド州のフォックス・ハンティング同好会のマスターだったとか、田舎の自分の土地で乗馬するのが趣味だったいう話があるので、それがハンターのトレードマークになっている理由なのでしょう。
1870年、最も初期の市のディレクトリによると、ウィリアム・ラナハン&サンは北ライト・ストリート20番地で商売をしており、1904年のボルティモア大火災で建物が焼失するまで会社はそこにありました。その後まもなくカムデン・ストリート205-207番地に移転しましたが、ライト・ストリートの拡大後、以前の場所での再建許可を得、1906年に新しく建設された建物で事業を再開し、その新しい3階建てのラナハン・ビルディングには表面に目立つ文字で「ウィスキー」という言葉を使って目的を表しました。また、彼らはディスティラーズを名乗りましたが、実際にはレクティファイアー、つまり他所で蒸溜されたアルコールを他の成分とブレンドし、ボトリング及びブランドのラベルを貼り付けて販売する業者ではないかと見られています。同社の主力は言うまでもなくハンター・ライでしたが、ハンター・バーボンや「365」という毎日のシッパーを意味するブランドなども販売していたようです。当時としては珍しいことに、ラナハンは6人の営業部隊を雇い、全国を回ってウィスキーを売り込み、ローカルなディストリビューターらの契約を取って来ました。ラナハン社はハンター・ボルティモア・ライを「完璧な香りと味わい…アメリカを先導するウィスキー」と宣伝しました。また「紳士の」飲み物としての魅力が潜在的に女性の顧客に悪影響を与える可能性があることを考慮して、このウィスキーは「その熟成と卓越の故、特に女性に推奨します」と宣いました。このような誇大宣伝が功を奏したのか、ハンターはアメリカで最も売れているライ・ウィスキーとなったのです。
アメリカを制覇したラナハンは、市場拡大のために海外に目を向け、ロンドンでは「シャーロック・ホームズ」の公演プログラムの中で、ハンター・ライを「人気のアメリカン・ウィスキー」と宣伝、そのシーズンにデューク・オブ・ヨーク劇場で売られていた唯一のヤンキー・ブーズだったそう。更には1902年、ウィリアム・ラナハン&サンは中国の朝廷から利権を得ようと、上海のサディアス・S・シャレッツ将軍に宛てその旨の手紙をしたためました。シャレッツは1901年にセオドア・ルーズベルト大統領に任命されアメリカ製品の輸入拡大について中国政府と交渉していたのです。またフィリピンのマニラでは、反乱鎮圧のために滞在していたアメリカ第8歩兵隊の兵士たちが非番の時にハンター・ボルティモア・ライのクォーツを飲み干していたとか。成功は模倣も生み、メリーランド州の都市から何百マイルも離れた場所で作られた製品までもがボルティモア・ライと名乗るようになりました。そこでラナハンは1890年と1905年に「ハンター・ライ」を、1898年と1908年に「ハンター・ボルティモア・ライ」をそれぞれ商標登録しました。
ラナハン社とそのブランドは59年間運営され、ボルティモア・ウィスキー製造の激動の歴史の中でも並外れたものでした。1908年、サン誌はハンター・ボルティモア・ライの商標の価値を300万ドルと見積もっています。ラナハン・ジュニアが1912年に亡くなった時には、同紙は彼を「ボルティモアで最も広く知られているビジネスマンの一人」と呼びました。禁酒令の到来で事業所が閉鎖されると、ラナハン家のメンバーは銀行業と高額金融の世界に移り、一人のラナハンはニューヨーク証券取引所のガヴァナーになったそうです。別の一人、サミュエル・ジャクソン・ラナハンは有名作家のF・スコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻の愛娘スコッティと結婚しました。
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このブランドは禁酒法時代を生き延び、最終的にカナダの大手酒類会社シーグラムの手に渡りました。1940年末のブラウン・ヴィントナーズ社買収の折、シーグラムはボルティモアのウィルソン・ディスティリングとハンター・ボルティモア・ライ・ディスティラリーの支配権を得、1944年にこの2つの事業を統合してハンター=ウィルソン・ディスティラリー社を組織すると、ボルティモアのカルヴァート蒸溜所でハンター・ライの製造を開始しました。その後、その施設が閉鎖されると、ハンター=ウィルソンの事業はシーグラムが禁酒法廃止直後にルイヴィルのセヴンス・ストリート・ロードに建てた大規模な蒸溜所へ移されます。この時代は殆どがブレンドだったと思われ、ハンターの広告は比較的目にし易いです。ハンターはケンタッキー産になった訳ですが、相変わらずフォックス・ハンティングの紳士とティンバー・トッパーのイメージは保たれ、ボトルにはハンティングに使用するホーンまでエンボスされていました。


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シャーウッド・ライ
禁酒法時代の前後を問わず、メリーランド州で最も有名なライ・ウィスキーの一つがシャーウッド・ブランドでした。現代ワイト家のネッド・ワイトの家族伝承によれば、彼の曽曽曽祖父ジョン・ジェイコブ・ワイトは1850年代のある時期に、メリーランド州ボルティモアの北にあるハント・ヴァリー(コッキーズヴィル)で失敗したウィスキー蒸溜所を引き継ぎ、ライ・ウィスキーの生産を開始したそうです。この蒸溜所は食料雑貨店を営むウィリアム・レンツとジョン・J・ワイトの共同設立で、彼らの製品は近くのシャーウッド・エピスコパル教会にちなんでシャーウッドと名付けられました。コッキーズヴィルはボルティモアの約17マイル北にあり、町の名前は南北戦争の頃にホテルを建て、ボルティモア&サスクェハナ鉄道に駅を設置するよう説得したコッキー家にちなんでいます。ハント・ヴァリーは1960年代に不動産投機家によってどこからともなく命名された比較的新しい名前らしい。
一方で、1829年に食料品店を営むアルフィアス・ハイアットの息子として生まれたエドワード・ハイアットは、ウェスト・ボルティモア・ストリートの酒屋で商売を始め、1860年にはニコラス・R・グリフィスと共にウォーター・ストリートのウィスキー・ディーラーとなりました。1863年、ハイアットはニューヨークに渡ります。夢であったメリーランド・ライのブランド生産と販売を実現するための十分な資本と人脈を手に入れ、5年後にハイアット&クラークとして戻りました。1868年にエドワードは、ジョン・J・ワイトとウィリアム・レンツが始めた小さな蒸溜所を買収して拡大すると、大規模な生産とマーケティングを可能にし、全国的に有名にしました。同じ頃にハイアットとワイトの家族は合併したとされ、ジョン・Jとエドワードの妹が結婚したようです。ちなみに初期のハイアット&クラークのシャーウッド・ライの一部は熟成過程の一部としてキューバを往復していたらしい(アウターブリッジ・ホーシーが採用していた熟成方式を小規模にしたもの。後述します)。
10年後の1878年には、アメリカ陸軍のニューヨークにある医療供給基地が、病院で使用するための備蓄としてシャーウッド・ライを購入するほどになりました。1882年、パートナーが辞任したことでエドワード・ハイアットは自らを社長として3万ドルの資産を持つシャーウッド・ディスティリング・カンパニーを設立、ボルティモアのダウンタウンのオフィス・ビルディングに本社を構えました。過半数の所有権を売却したにも拘らずジョン・J・ワイトは蒸溜所に残り活動を続け、息子のジョン・ハイアット・ワイトも若い頃から事業に携わっていました。
シャーウッド・ディスティリングはメリーランド・ライをフラスク、パイント、クォートなどの様々なボトルで販売。ロゴには横になったバレルを採用し、広告でもその画像を頻繁に使用しました(1890年にトレードマークの使用を開始し、1913年には特許庁に登録された)。1800年代を通してビジネスは繁栄し続け、ボルティモアに営業所を開設。1897年、メリーランド州歳入局はシャーウッド・ウィスキーの課税額を308920ドルと見積もっており、これは今日の数百万ドルに相当します。
ジョン・J・ワイトが亡くなった時、彼の財産の大部分は息子のジョン・ハイアット・ワイトに譲渡されました。ジョン・H・ワイトはシャーウッド・ディスティリングの秘書兼会計になり、叔父は社長のままでした。1894年にはそのエドワード・ハイアットも亡くなり、ジョン・Hは叔父の財産の受託者となり会社の社長になりました。その頃、彼はメリーランド州のウィスキーで「ワイト」のラインを開始したようです。メリーランド州の納税記録によると、生産されたウイスキーの価値は着実に上がり、1909年には40万ドル近くになったとか。1914年頃にはジョン・Hの息子フランク・L・ワイトが蒸溜所で働き始めます。ジョン・Hとフランク・Lのワイトは、1920年の禁酒法まで蒸溜所を首尾よく運営しました。
禁酒法はコッキーズヴィルのオリジナルのシャーウッド蒸溜所を閉鎖に追い込み、建物は早くも1926年には取り壊されてしまいます。しかし、シャーウッド・ブランド自体はなくなりませんでした。禁酒法期間中、シャーウッド・ライは処方箋として販売され、最終的にブランドはルイ・マンによって購入されました(***)。禁酒法後の彼のシャーウッド・ウィスキーのラベルには大体、コッキーズヴィルの北東約25マイルにあるウェストミンスターと記載されています。マンのシャーウッド・ディスティリング・カンパニーは、少なくとも名目上そこにありましたが、瓶詰めの多く、そしておそらく蒸溜もペンシルヴェニア州グレン・ロックの更に北にあるウィリアム・ファウスト蒸溜所で行われていたと目され、ディスティラーと言うよりはブレンダーであったのかも知れません。それはともかくマンのシャーウッド・ディディリングは、一時はアメリカで4番目に重要な独立系蒸溜会社まで成長しましたが、その事業は1950年代に閉鎖されたようで、ブランドはいつの間にか姿を消しました。
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一方のオリジネイター、ワイト家も死んだ訳ではありません。禁酒法が終わるとフランク・L・ワイトはメリーランド州ロアリーに蒸溜所を設立し、冒頭のネッド・ワイトの祖父ジョン・ハイアット・ワイト2世と共に、1943年に蒸溜所を売却するまで経営を続けました。その後、フランクはコッキーズヴィル・ディスティリング・カンパニーを組織し、1946年に元の蒸溜所があった場所の近くに施設を建設しました。そちらは1958年にフランクが亡くなるまで操業しています。ワイトの主な後援者はコネチカット州のヒューブライン社であり、フランクの死後、彼らは蒸溜所を閉鎖しました。フランク・L・ワイトは、ライ・ウィスキー造りをグルメ料理と同じように芸術と見做していたと言います。「3人の料理人に同じ材料を与えると、1人は上等なケーキを作り、もう1人は平凡なケーキを作り、3人目は食べるに値しないケーキを作るだろう。ウィスキーの蒸溜も同じだ(1934年のイヴニング・サン紙のインタヴューにて)」と。1990年に78歳で亡くなったジョン・ハイアット・ワイト2世まで、ワイト家は何世代にも渡ってメリーランド州でウィスキーを蒸溜した家族でした。


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ホーシー・ライ
メリーランド州西部のフレデリックとアンティータム戦場のほぼ中間にあるバーキッツヴィルの近くに、往時、二つの商業蒸溜所がありました。そのうちの一つが1840年代にアウターブリッジ・ホーシー四世(二世やジュニアとされることもありますが、ここでは四世で数えます)によって設立されたニードウッド蒸溜所です。彼はチェサピーク&オハイオ運河の理事を務めたり、メリーランド州の民主党全国委員会のメンバーを長年務めたりした紳士でした。18~19世紀のアメリカに社会的政治的貴族がいたとすれば、メリーランド州のホーシー家は正にその中に入るでしょう。アウターブリッジ四世は米国憲法に署名したメリーランド州で最も有名な市民の一人であるチャールズ・キャロルの母方の直系の子孫で、祖父のトーマス・シム・リーはメリーランド州の知事を2度務めた人物であり、父のアウターブリッジ三世はデラウェア州の上院議員かつ以前は同州の司法長官でした。正に貴族の血統です。リー知事はフレデリック郡のブルーリッジ山脈の麓、バーキッツヴィルの近くに2000エーカーのプランテーションを設立し、豪邸を建てました。メリーランド州第2代知事から妻の家系に受け継がれたこのニードウッドという地所に、アウターブリッジ・ホーシー四世は4人の子供の末っ子として1819年2月28日に生まれました。
地元の学校やマウント・セイント・メリーズ大学で教育を受けた後、幼い頃にニードウッドの土地を継承していた19歳のホーシーは、1839年頃、それを耕作するだけでは飽き足らず蒸溜所を設立することを決意します。バーキッツヴィルとブランズウィックの間に商業用の蒸溜所を設立し、近くのカトクティン山脈からの水を利用したウィスキーを製造し始めました。彼の最初の操業は、その時代のメリーランド州の農民蒸溜者の伝統に沿った地元への販売を主とする小規模なものだったようです。この工場はホーシーの蒸溜技術の向上と共に大きくなって行きました。しかし、南北戦争が勃発すると、おそらく北軍での兵役を回避するために、ホーシーはヨーロッパに渡りました。南北戦争中、メイソン=ディクソン・ラインの両側からの襲撃を受け、ニードウッドは戦場となりました。1862年9月13日、(通称)ジェブ・ステュアート将軍の指揮する南軍の騎兵隊がバーキッツヴィルを占領、2日後に北軍と南軍の軍隊がクランプトンズ・ギャップの戦いで衝突し、ホーシーの蒸溜所は破壊され、貯蔵していたウィスキーは喉の渇いた戦闘員に飲み尽くされたと伝えられます。この挫折にも拘らず、ホーシーのウィスキー造りへの情熱は消えませんでした。アメリカを離れていた彼はヨーロッパでの滞在を利用して、スコットランド、アイルランド、イングランドの主要な蒸溜所を訪れ、高品質なウィスキーを製造する方法や設備について可能な限り学びました。
1865年に帰国したホーシーは、最新型の機械を導入するなどしてニードウッドを再建し、「ヴェリー・ファイン・オールド・ホーシー・ライ」の3000バレルを収納できる倉庫を備えた7エーカーの工場にしました。最終的には年間1万バレルを生産したとされます。ウィスキーをファンシーなラベルの付いたボトルで販売し、近くの町にディーラーを得、ボルティモアに会社の事務所を開設しました。これまでにない最高品質のアメリカン・ウィスキーを造りたいという願望に駆られた男の率いるニードウッド蒸留所は、ジェイムズ・ダル(後にオリヴァー・フルック)の監督下で「ホーシーズ・ピュア・ライ」というブランド名の新しい100プルーフのライ・ウィスキーや「ゴールデン・ゲイト・ライ」と呼ばれる非常に特別なブランドを生産し、意図的に高級化しました。ホーシーはメリーランド州のライ麦を使用せず、テネシー産もしくは輸入されたアイルランド産のライ麦を好んだと言います。輸入は製造コストを高めるでしょう。更に驚くべきは蒸溜後のウィスキーを熟成させる方法でした。
当時は、単純な倉庫保管よりもバレルを旅(長距離移動)させた方が優れているという考えがありました。これはスロッシング(容器内の液体が外部からの比較的長周期な振動によって揺動すること)は熟成を加速させると云う理論に基づいています。ホーシーはヨーロッパのウィスキーをアメリカに運ぶための大航海こそが、ウィスキーをスムーズにすると考えていました。そのアイデアは、何ヶ月も揺れる船で熱帯を航行してロード・アイランドに戻ってきた嘗てのニュー・イングランドのラムか、或いはホーシーが学んだグラスゴーの蒸留所から来てるのかも知れません。ともかく、彼は生産したウィスキー・バレルをボルティモアやワシントンに送り、それを蒸気船に乗せてホーン岬を回り、サンフランシスコまで航海させました。そこで一部のウィスキーは更に1年間倉庫に置かれた後、現地で宣伝してサンフランシスコのサロンなどで販売したり、カリフォルニアでゴールデン・ゲイト・ライとして販売したようです。そして残りのウィスキー・バレルは鉄道でメリーランドに戻された後にボトリングされました。ホーシー・ライが入っていた木箱には「このウィスキーは、S.S.____によってサンフランシスコまで海上輸送されたため、独特で最も心地よい柔らかさが得られた」との文言がステンシルされ愛好家を魅了しました。もし、それがただのギミックだったとしても、それは上手く行きました。ホーシーの製品はマサチューセッツからカリフォルニアまで顧客がおり、美食家が必要とする全ての品質に富んでいるとして、街角の酒場ではなくホテルやクラブのようなちょっと高級な場所で愛飲されたと言われています。
こうした航海熟成のテクニックはホーシーだけの専売特許ではなく、初期のシャーウッド・ライにはキューバに出荷されて戻って来るものがあったり、バーキッツヴィルにあるもう一つのジョン・D・エーハルトの蒸溜所のアンティータム・ライは、熟成の過程でウィスキーをリオデジャネイロまで送っていたと言われています。航海熟成は製造コストを押し上げたのは間違いないと思いますが、実は当時の経済状況では長い船旅はそれほど高くはなかったらしく、1903年8月の『ニューヨーク・タイムズ』には「蒸溜業者はウィスキーをブレーメンとハンブルグに送り、そこからホーン岬経由で出荷する方がルイヴィルからサンフランシスコまで鉄道で送るよりもコストが掛らないことを発見した」と報じられているそうです。1887年の州際通商委員会(Interstate Commerce Commission=ICC)の公聴会で発表された統計によると、或る蒸溜所はボルティモア港からホーン岬を回ってサンフランシスコまで1バレル約1ドルでウィスキーを送ることが出来るとICCに文書で報告したとか。これは貨物列車でアメリカ大陸を横断して輸送するよりも遥かに安い金額でした。1800年代の鉄道が今日の新幹線以上、寧ろジェット機のような存在であったことを考えると、ホーシーのウィスキーがサンフランシスコからボルティモアまで、鉄道が運行する全ての都市を巡り、ケースや車両の側面にブランド名が目立つように表示されながら戻って来たのなら、それはホーシー・ライの高級感と知名度を高める宣伝そのものだったでしょう。
ホーシーズ・ピュア・ライは、おそらくは最上級の意味で自らを「アメリカで最初のイースタン・ピュア・ライ・ディスティラリー」と広告で称しました。そしてこの珍しい名前のウィスキーは量を増やすことよりも品質を維持することに重点を置いていました。1日の生産量は400ブッシェル未満でしたが、蒸溜所の事業からの課税対象収益は何年もの間、約25000ドルで安定していたそうです。ニードウッドの農場とウィスキーから得た利益(また幾つかの大企業の役員も務めていたと云う)で繁栄したホーシーは、ワシントンDCに家を購入し、チャールズ・キャロルの子孫である妻アンナと共にそこで優雅な冬を過ごし、地元の上流社会では活発に活動しました。単なるビジネスマンではなかった彼は、ジョン・W・バウマンやイーノック・ルイス・ロウといった人物を師と仰ぎ、政治にも力を入れ、おだてられて上院議員に立候補したこともあったそうです(後にボルティモアのイーノック・プラット自由図書館の主任司書となるルイス・H・スタイナー博士に敗れた)。「威厳のある堂々とした風貌で、接する人すべてから尊敬と称賛を集めた」アウターブリッジ・ホーシー四世は、1902年1月5日、83歳の高齢で亡くなり、ピーターズヴィルのセント・メアリー・カトリック墓地に埋葬されました。『ニューヨーク・タイムズ』の死亡記事には、彼の政治的なコネクションが強調され、ディスティラーでもあったことは後付けで加えられたに過ぎませんでした。ホーシーは亡くなる2週間前に株式会社を設立し、3人の息子達を戦略的なポジションに任命したとされます。彼の死後間もなく息子達はニードウッド蒸溜所の半分以上をコーン・リカーに切り替え、蒸溜所を売却し、飲料用アルコールのシーンから去って行きました。ホーシーの貴族の家族はウィスキー造りには興味がなかったらしい。
新しい経営者のもとで1907年には生産量が倍増したとされますが、幅広い飲酒者に販売される品質が低下したものだったと推測されます。品質は兎も角として、1906年に制定された純粋食品医薬品法の「ピュア・ライ・ウィスキー」と表示するための新たな法的資格により、それまで人気を博していた多くの銘柄が酒屋の棚から突然姿を消しました。ホーシー・ブランドもその影響からか、製品名は「オールド・ホーシー」に変更されました。ライの他、単なるストレート・ウィスキーも現れホーシーの名が冠されるようになりましたが、製品はもはやホーン岬を旅するものではなく、ブランドはその水の質の高さを売り物にしていたようです。スウィートなテイスティングの水の供給源はサウス・マウンテンのスプリングからである、と。1914年の政府の水質に関する報告書によると、スペント・マッシュから毎日6000ガロンがミドル・クリークに排出されたそう。禁酒法が訪れると他のアメリカン・ウィスキーの多くと同様にホーシーの蒸溜所(メリーランドRD#17)は1919年に閉鎖されました。
禁酒法下でニードウッド蒸溜所が何千本ものボトルを保管していることが判明すると、強盗が入って奪われたという話があります。1923年4月1日の『ボルティモア・サン』の記事によれば、「昨日未明、メリーランド州バーキッツヴィルのホーシー・アウターブリッジ蒸溜所(原文ママ)で、2台の自動車に乗った数人の男が6ケースのウィスキーを盗んだ」とあり、警備員が発砲すると強盗もこれに応え銃を乱射、何発も銃弾が飛び交い、その間に泥棒たちは車に乗り込んで走り去りました。倉庫の在庫を調べたところ、盗まれたのは薬用としてパイント・ボトルに入っていた6ケースだけでした。これは「この8ヵ月で4回目のことで、この他にも少なくとも2回ほど工場への侵入を試みたが挫折したこともあった」そう。ボルティモア・コンセントレーション・ウェアハウス・カンパニーのジェネラル・マネージャーであるデイヴィッド・スティーフェルによると、約15の蒸溜所に分散している州内50000バレルのうちアウターブリッジ・ホーシーの倉庫に保管されていたのは4000バレル以下だったとのこと。
禁酒法が明けた1934年、ホーシーの名前は再び表舞台に現れます。メリーランド州コッキーズヴィルを源流とするが別の会社であるシャーウッド・ディスティリング・カンパニーは薬用アルコールの販売で生き延び、禁止令廃止にあたり経営陣はホーシー・ディスティリングを買い取り、工場を再建することなく知名度の高いブランドだけを維持しました。この時には「オールド・ホーシー・ヴェリー・ファイン・ライウィスキー」、「オールド・ホーシーズ・メリーランド・ライウィスキー」、「オールド・ホーシー・ライウィスキー」等があり、「オールド」や禁止後の法的要件である「ウィスキー」という言葉が追加されています。シャーウッドはその後ウェストミンスターに本拠を移したのでラベルにはその名前の記載がありますが、蒸溜とボトリングはペンシルヴェニア州グレン・ロックの古いウィリアム・ファウスト蒸溜所で行われていました。この過程でホーシー・ライは、過去の6年熟成させた高品質なブランドから、大量消費用の2年物を含む安物ウィスキーに変質してしまった模様。もしアウターブリッジが生きていたら激怒したかも知れません。


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メルローズ・ライ
上品で甘美な雰囲気を醸すメルローズのウィスキーは、造り手の出自を反映していたのかも知れません。アメリカの上流階級に属するゴールズボロ家はその血統を過去に繁栄したイングランドに遡り、メルローズの創始者の母方の家系にはフランスの貴族が含まれているそうです。アメリカで最初のゴールズボロであるニコラスは1669年に到着し、メリーランド州のイースト・ショアにあるケント・アイランドに定住しました。この一族は市民活動や公的な活動に於いて顕著な功績を残し、メリーランド州知事も輩出しています。その他にも影響力のある人物を輩出しているらしい。メルローズの物語は1880年代にヘンリー・P・"ハリー"・ゴールズボロが妻と若い家族と共にテキサスからボルティモアに戻った後に始まりました。彼は若い時分から西部テキサスで商売を成功させていましたが、新しい展望を求めて出生地のメリーランドに帰って来たのです。
一方、ジョージ・J・レコーズという名前のボルティモレアンがパートナーと一緒にライト・ストリート116番地に「レクティファイアーズ、ディスティラーズ、ホールセラーズ」として宣伝する酒屋を設立していました。ボルティモアに戻ったハリーは自分の資金を彼らの会社であるレコーズ,マシューズ・アンド・カンパニーに投資しました。そして数ヶ月以内にマシューズの株を購入し、社名は1885年頃にレコーズ&ゴールズボロに変更されました。そして、ほぼ同時期に(1883年という説も)同社を全国的な評判にしたラベルであるメルローズ・ブランドを作成しました。その名前はゴールズボロの先祖代々の英国の邸宅があったメルローズ・ロードに由来しています。レコーズ&ゴールズボロは当時のメリーランドの他の生産者と同様に、ストレート・ウィスキーは風味が集中し過ぎており、レクティファイして90プルーフに減らす必要があると考えていました。ストレート・ウィスキーは優れた飲み物であり、一部の人々に好まれる可能性があることを認めつつも、ロウワー・プルーフの方がフレイヴァーのバランスが良く多くの人にアピールすると考えたようです。彼らのフラッグシップ・ブレンドは5種類のライ・ウィスキーを使用し、そこにアロマ、フレイヴァー、ボディ、テイストを同社が求める特徴に統合するための特別なブレンディング剤を組み合わせて造られました。ゴールズボロ家の子孫と結婚したスターリング・ グラアムの「Melrose、Honey of Roses」によると、ブレンディング剤はフレイヴァーには寄与しないがメリーイングおよび触媒として役立つそう。それはフルーツベースの、おそらくシェリーかポートを使った何かではないかと推測している人がいました。メリーランド・ライはしばしば特徴的な赤い色をしてたとされ、特にシャーウッドとシャーブルックのブランドはそうで、メルローズも深い赤色だったと伝えられます。それはもしかするとブレンディング剤で達成されたものだったのかも知れません。メリーランドの製品の多くはニュートラル・スピリッツとブレンドされていましたが、ハイエンドのブレンドはどれもストレートなキャラクターを有し、品質はストレート・ライやバーボンと同等、場合によっては優れている可能性があるとされています。
当初、レコーズ&ゴールズボロはウィスキーを蒸溜していなかったためオープン・マーケットで調達されていました。メリーランド州は多くの蒸溜所を誇っていましたが、卸売業者による競争は激しく、原酒の価格高騰の可能性があり、経営者達は自分のプラントを所有することに熱心でした。多くのレクテァファイアーと同じようにそう望んだレコーズ&ゴールズボロは、ブレンド用ウィスキーの安定した供給を確保するため、別の有名なボルティモアのウィスキー男爵エドウィン・ウォルターズがバギー事故で負傷して死亡したのを契機に、他の二つのボルティモアのリカー・ハウスからなるシンディケイトに参加して、ボルティモア近くのキャントンにあるプラントを1897年に購入し、名前をオリエント蒸溜所からキャントン蒸溜所に変更しました。その蒸溜所はライ・ウィスキーの品質で知られ、メルローズ・ブレンドの供給源でした。こうしてより確実な供給源を得た同社は独自のブランドを増やすことが出来、メルローズの他に「ハッピー・デイズ・ライ」、「マウンテン・ヒル」、「メリーランド・ゴールデン・エイジ」、「メリーランド・プライド」、「オールド・レコード・ライ」、「R and G」などがあったそうです。彼らはウィスキーのブレンドを専門とする会社ですが、ブレンドされていないストレート製品も販売しており、いつの時代か不明ながらキャントン・メリーランド・ストレート・ライウィスキーというのもあったらしい。
1904年2月のボルティモア大火災がライト・ストリートを含むダウンタウンの大部分を破壊した時、レコーズ&ゴールズボロの建物も被害に遭いました。しかし、翌年には再建され、住所は新しいライト・ストリートの36番地になりました。それから彼らは1906年にメルローズ、1907年にハッピー・デイズと、初めて二つのブランドを商標登録しました。   1909年4月にはジョージ・レコーズが59歳で亡くなります。 彼と妻の間には子供がいなかったため、リカー・ハウスの所有権はゴールズボロに委譲されました。レコーズとは対照的に子宝に恵まれていたハリーは、息子が雇用年齢に達した時に会社に加えます。そのうちの二人、フェリックス・ヴィンセントとウィリアム・ヤーバリーのゴールズボロは酒類ビジネスに親和性がありました。兄弟たちは父親に付き従ってビジネスのあらゆる側面、樽の運搬、ボトルのラベル付け、帳簿の管理までゼロから学びました。取り分けウィリアムは初めからレクティファイング・プロセス(ブレンド)で例外的な才能を示したと言われています。兄のフェリックスの方は経営面に才覚を発揮しました。その後、他の兄弟であるジョージ・Jも会社に参加します。
第一次世界大戦ではウィリアム、ジョージ、そして三番目の兄弟リロイが入隊しました(ウィリアムとリロイは陸軍、ジョージは航空隊)。その結果、残念なことにウィリアムは永久的な眼の怪我を負い、リロイは死亡してしまいます。フェリックスは結婚し、1915年に会社の社長に任命され、家にいて酒類事業を守りました。その頃ハリー・ゴールズボロの健康は歳を取るごとに悪化、1917年に58歳で亡くなり、ボルティモアのカテドラル・セメタリーに埋葬されました。第一次世界大戦が終わると、ウィリアムとジョージはホームに帰り、兄を手伝ってレコーズ&ゴールズボロの運営に復帰、会社は成功を収めたようです。しかし、禁酒法が施行されたため、1919年末に会社は閉鎖を余儀なくされました。
業界は13年間の禁酒法によって殺害されましたが、禁酒法が撤廃されると高齢にも拘らず兄弟達は再び力を合わせて事業を再開、メルローズ・ライを復活させました。メルローズ・ブランドを持つレコーズ&ゴールズボロは、メリーランド州にあっては禁酒法解禁後に同じ名前と経営者で再び登場する数少ないウィスキー企業の一つとなったのです。再びウィスキーのブレンディングを開始した彼らは、世界恐慌と第二次世界大戦によって齎された問題に直面しますが、何とかそれを克服しました。この頃にはゴールズボロ家の3世代目も事業に参入していました。彼らは苦労してビジネスを構築してメリーランド・ウィスキーの売上を達成することに成功。同社はメリーランド州に蒸溜所を開設しただけでなく、ケンタッキー州エクロンにあるペブルフォード蒸溜所を買収しました。戦争努力のための工業用アルコールを支持して、飲料用アルコールの生産が停止された第二次世界大戦中でさえも事業を継続していたらしい。戦時中であるにも拘らず、その品質には影響がなかったとか。しかし、最終的に彼らは業界の巨人に吸収されます。1948年(1945年説も)、一家は会社、蒸溜所、ブランドをシェンリー・インダストリーズに売却することを決めました。
シェンリーの全ての蒸溜所と同様に、メルローズ蒸溜所は1950年代の最初の数年間にウィスキーを過剰生産していました。シェンリーは朝鮮戦争がもう一つの世界大戦へと拡大し、戦争のために工業用アルコールの製造を余儀なくされると信じていたのです。しかし、物事はそうなりませんでした。そしてシェンリーの倉庫には過剰生産されたウィスキーが溢れ返りました。彼らは蒸溜所での生産を停止し始め、最終的に蒸溜所を売却し出しました。1960年代と70年代にウィスキーが市場シェアを失ったため、シェンリーはブランドの広告のサポートを止め、その後ブランドの生産も止めました。これがメルローズ・ブランドの運命と重なりました。1980年までにブランドはもはや生産されず消滅した、と。往年よく知られたメリーランド・ライのブレンドだったメルローズ・ライ。その名前は、もうメリーランドにはありませんが、現在ではテネシー州チャタヌーガのJ.W. ケリー&カンパニーによって復活しています。


では、そろそろ話をもとに戻します。第一次世界大戦と禁酒法はライ・ウィスキーの人気に対する大きな打撃でした。
禁酒や節酒を呼びかける声はアメリカという国の初期段階から聞こえていました。陽気な酒飲みの背後には、アルコールに蝕まれた家族やアルコールによって台無しにされたキャリアといった破滅的な光景も広がっていたからです。1810年から1840年にかけて個別に行われていたプロテストは次第に融合して行きました。1840年にボルティモアで設立されたワシントン・テンペランス・ソサエティは、一般的には全国的な組織を持つ最初の活動とされています。1854年に『Ten Nights in a Bar-room, and What I Saw There』という辛辣な小説(読者が飲酒するのを思い留めさせるための明確な意図をもって書かれたテンペランス小説)を書いたティモシー・シェイ・アーサーはボルティモアで育ちました。南北戦争後、禁酒運動の主導権は男性から女性へと移ります。特に1874年に設立された女性キリスト教禁酒連合(Woman's Christian Temperance Union=WCTU)ではその傾向が顕著でした(メリーランド支部は1875年に開設)。1903年11月19日には、あの有名な酒場の破壊者であるキャリー・A・ネイションがボルティモアのリリック・シアターにやって来たという話もありました。時にはボルティモアのサルーンが物理的な攻撃を受けることもあったのかも知れません。もっと典型的なのはテンペランスの行進で、大学の学生や卒業生、教師、医師、教授、福音主義教会の会員など全て女性で構成された行列がボルティモアの通りを席巻したそうです。
1851年、メイン州は州全体を対象とした禁酒法を制定しました。その後、他の州やカナダの州でも禁酒法が制定されましたが、議論や投票が盛んに行われたため一部の地域では撤回されました。メリーランド州もすぐにそうした「戦場」になりました。早くも1862年には、モンゴメリー郡のブルックヴィルから2マイル以内、サンディ・スプリング集会所から2.5マイル以内、エモリー礼拝堂と学校から半径4マイル以内での「いかなる蒸溜酒や発酵酒」の販売を禁止する法律が制定されています。ボルティモアのマウント・ヴァーノン・ミルズのような製造業者は、労働者の飲酒を減らすために工場の近くでの酒類の販売禁止を求めたこともあったそう。1885年にはカウンティ・オプション法が成立し、アナランデル郡、カルヴァート郡、キャロライン郡、セシル郡、ドーチェスター郡、ハーフォード郡、ハワード郡、ケント郡、モンゴメリー郡、タルボット郡、そしてサマセット郡とクイーン・アンズ郡の大部分で酒類の販売が禁止されました。
一方の親酒派は敵の性格や動機を非難し、少量または時々の飲酒であれば健康になることを主張していましたが、禁酒主義者の猛攻撃の前に無制限の酒類販売の領域は縮小されます。男性によって運営され議員に焦点を当てたアンチ・サルーン・リーグは1895年にワシントン本部を設立し、1910年頃に聖職者がボルティモア支部を支配しました。しかし、皮肉にも残りのウェット・エリアでのビジネスは改善されます。1908年にはノース・キャロライナ州、1912年にはウェスト・ヴァージニア州、1914年にはヴァージニア州と、様々な枠組みで州全体での禁止令が出されましたが、住民が買いだめするために大都市へ旅したため、これがボルティモアには好都合に作用したのです。アナポリスを含む一部の都市はお陰で「オアシス」のようでした。
1916年、酒類販売のドライ/ウェット問題を投票にかける地方法ではない一般法を得て、ドライ派はすぐにキャロル、フレデリック、ワシントンの各郡を獲得しました。1918年までにメリーランド州の土地面積の84%が法律で定められたドライ地帯となったそうです。その間、『アメリカン』を始めとするボルティモアの日刊紙の殆どは酒類の広告を受け入れていました。片や『サン』は1920年代から1930年代初頭に掛けての反禁酒法に対する積極的な姿勢とは対照的に1905年頃まで酒類広告を掲載しなかったとか。
20世紀に入り禁酒運動が急速に活発になった背景には、当時増え続けた移民によって日常的に飲酒する下層民が増えたことに対してアメリカのキリスト教道徳を遵守したい保守派の動きや、アメリカの第一次世界大戦参戦を機に物資の節約と生産性向上への声が大きくなったこと等が挙げられています。また、対戦国であるドイツ嫌いの風潮も強まり、ビール醸造に使われる穀物を節約して前線の兵士に送ろうという主張の裏側には、ビール醸造業を潰してドイツ系市民に打撃を与えようという思惑があったことも指摘されています。第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、連邦政府はアルコール生産を軍事目的に転用しました。メリーランドでも、多くの顧客が海外に流出したため店やバーの数は減って行き、蒸溜所や卸売業者のオウナー・チェンジも頻繁に行われ、閉鎖に伴う投資資金の流出が懸念されました。1918年11月、国民は中央同盟国(第1次世界大戦中の、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国およびブルガリア王国から構成された連合国)に対する勝利をアルコールで祝います。しかし、1915年頃から州法で禁酒を規定するところが増えており、1917年12月に酒類の製造/販売/輸送/輸出入を禁止する憲法修正第18条がアメリカ合衆国憲法の追加条項として議会で可決されていました。当時の48州のうち4分の3となる36州の批准が必要だったので、各州での批准の完了には時間を要し、36番目の州が修正第18条を批准したのは戦後の1919年1月16日のことです。メリーランド州は修正第18条を批准しましたが、州による施行は法制化されていませんでした。条件には一年の猶予が含まれており、その間、ディスプレイ広告も奨励され、消費者は「大旱魃」を防ぐための措置としてメリーランド・ライのボトルやケースをいくつも買い置きすることが出来ました。禁酒の具体的な内容を定めたヴォルステッド法が成立したのは同年10月。そして翌1920年1月には憲法修正18条が発効し、アメリカは遂に国家禁酒法時代に入りました。

メリーランド州は禁酒法の物語の中でもユニークな立ち位置を占めています。 それは「高貴な実験」を確立する修正第18条を批准しつつも、メリーランダーズは一般的にこの法律に反対していたところでした(後に80%以上が廃止に投票することになる)。
この州には多くの移民が住んでおり、特にボルティモアはそうでした。彼らの文化は酒を飲むことが生活の一部として大切にされていました。禁酒運動の外国人排斥の動きに憤慨した彼らにとって、それは自らの習俗を守る文化戦争でした。また、メリーランダーズは自分たちの州の権利と思われるものに連邦政府が介入することに反対し、そして自分たちの個人的な生活への介入にも抵抗しました。国家禁酒法の下では連邦政府と州の両方がアルコール法の施行に責任を負っていましたが、メリーランド州はこの不人気な法律を施行するための法律の可決を拒否した唯一の州でした。禁酒法の全期間を通じて知事が反対したそう。そのため、メリーランド州には「フリー・ステイト」のニックネームが付けられています。それはメリーランド州の政治的自由と宗教的寛容の長い伝統を表している、と。その言葉は、元々は奴隷制の文脈で使われていましたが、ずっと後に別の文脈で使用されるようになりました。1923年に禁酒法の確固たる支持者であったジョージア州の下院議員ウィリアム・D・アップショーが州の執行法の可決を拒否したとしてメリーランド州を連邦への裏切り者として公然と非難すると、ボルティモア・サン紙の編集者ハミルトン・オーウェンスは「ザ・メリーランド・フリー・ステイト」と題された模擬の社説を書き、メリーランドは酒の販売を禁止するのではなく連邦から脱退すべきだと主張します。社説の皮肉が過激だった?のでオーウェンス氏はそれを印刷しないことに決めましたが、後の社説で彼やH・L・メンケンがそのニックネームを広く普及させました。

ヴォルステッド法はアルコールの製造、輸送、販売を禁止していましたが消費を禁止していませんでした。ケンタッキーの有名な蒸溜一家の一員、オソとリチャード・ユージーンのワセン兄弟は法の抜け穴を上手く利用して、1920年頃に薬用ウィスキーを販売するアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)を組織しました。AMSはメリーランド州内で唯一操業を許された蒸溜所としてハニス・ディスティリング・カンパニーのボルティモア蒸溜所(マウント・ヴァーノン蒸溜所)を所有し、禁酒法が終了するまでマウント・ヴァーノン・ライを薬用ウィスキーとして販売しました。またそうした「正規」の「裏側」では、ブートレガーズはチェサピーク湾を利用して商品を運び、知る人ぞ知るスピークイージーも沢山あったようです。メリーランドは1933年にヴォルステッド法が廃止される前も後も、ビールや酒が自由に飲める最も「ウェット」な州として知られていたとか…。

13年間の禁酒法は業界全体を痛めつけましたが、1933年に禁酒法が解禁されるとメリーランドでも少数の蒸溜所が再開され、州に特有のスピリッツであるライ・ウィスキーの需要を満たすために生産を増やしました。しかし、ブームは比較的短命であり、第二次世界大戦後、経済の変化と需要の減少の組み合わせにより、次々と蒸溜所は閉鎖され、最終的にライの繁栄は終わりを告げることになります。ケンタッキー州のようにはいかなかったのです。
「ドライ・エラ」の間に何かが変わりました。禁止後、ハイ・コーン・レシピのバーボン・ウィスキーは間違いなく最も人気のあるスタイルとなりました。バーボンは王座の地位に就き、ライは棚の後ろに押し出されたのです。多くの場合、バーボンがライに取って代わった理由としては、禁酒法期間中に酒飲みの舌がスピークイージーで提供される密造されたコーン・ウィスキーに慣れたため禁止後に皆がバーボンを欲っするようになったと説明されます。それは少しの真実を含むかも知れません。或いはバーボンはトウモロコシ栽培者に対する連邦政府の補助金に助けられたとも言われます。禁酒法の直前と直後、第二次世界大戦中、米国政府はトウモロコシに助成金を支給し、農民にとって魅力的な作物になりました。お陰でトウモロコシはより安くより入手し易くなりましたが、ライ麦はそのままでした。蒸溜酒製造業者は自らの産業を再建するためにトウモロコシに群がりました。それは伝統的なアメリカの蒸溜に対する深い敬意以上に、実用的なビジネスの観点からの動きだったのです。そうなったもう一つの理由として重要なことに、禁酒法後のメリーランド州の蒸溜所の減少が挙げられます。禁酒法以前に生産していたメリーランド州の蒸溜所の多くは貴重な都市部にあり、禁酒法の13年の間に不動産を売却する必要性がありました。逆にケンタッキー州では蒸溜所の多くが郊外や農業地域にあり、その土地の需要はそれほど大きくなく、蒸溜所の販売はそれほど魅力的なものではありませんでした。禁酒法の間に売られその後に再始動した殆どのメリーランドの蒸溜所は、禁酒法以前にそれらを運営していた人々とは異なる人々によって運営されました。しかも大抵の場合、メリーランド・ウィスキーの評判を利用して手っ取り早くお金を稼ぐことに興味のあるビジネスマンに売り払われていたそう。その多くは10年以内に失敗に終わったと言います。それでも何とか維持していた蒸溜所は、嘗ての偉大なメリーランド・ライの淡い影であるブレンデッド・ウィスキーを販売するためだけに古い有名なブランドの名前を購入することに主に関心を持っていた大規模なウィスキー・コングロマリットに買収されて行きました。
1936年にメリーランドはライ・ウィスキーの生産量が1400万ガロンとなり国をリードしました。その二年後、政府の保税倉庫から1500万ガロンのライを処分しなければならないというニュースが流れました。第二次世界大戦の勃発です。これ以降ライの生産量は二度と戦前のような高水準に戻ることはありませんでした。戦時中、穀物とアルコールは軍用に転用されます。メリーランダーズは特に愛国心が強く、非常に多くの蒸溜所がエタノールの製造に切り替えたと聞きます。そしてブレンデッド・ウィスキーが登場し始めますが、これが大衆の支持を得たことはストレート・ライ・ウィスキーの余命が幾許もないことを意味していました。戦後ほどなくして大衆の酒飲みの舌はバーボン、スコッチ、カナディアン、ジンを求め、そうした嗜好の変化はメリーランド・ライの人気を終わらせるのに十分でした。

AMSを母体として生まれたナショナル・ディスティラーズが禁酒法の終わり間際に買収したハニス・ディスティラリーは、1953年まで操業したものの販売不振のため閉鎖されました。
一方、ボルチモアの少し南東にありアイルランドにちなんで名付けられたダンドークでは、ウィリアム・E・クリッカーがボルティモア・ピュア・ライ・ディスティラリーを建設し、メリーランドには珍しい98%ライと2%モルテッドバーリーのみのマッシュビルをもったボトルド・イン・ボンドのライ・ウィスキーを販売していました。クリッカーは1950年代初めに蒸溜所をナショナル・ディスティラーズに売却しました。この蒸溜所は、50年代のワイルドターキー・ライのソースだった可能性が指摘されています。理由は不明ですがナショナルは割と短期間でこの建物をシーグラムに売却し、彼らは自社のフォアローゼズやポールジョーンズのようなブレンデッド・ウィスキーの製造に使用しました。
アーサー・ゴットシャルクの建てたメリーランド・ディスティリングは、1933年にボルティモアの投資家が復活させ、ヘレソープとアビュータス近くのリレイに新工場を建設しましたが、すぐにシーグラムに吸収されてしまいました。新オウナーは蒸溜所の名前を「カルヴァート」に変え、リード・ブランドをロード・カルヴァート・ブレンデッド・ウィスキーに変更。売上が減少するとリレイ蒸溜所は蒸溜を停止しました(その後、長らくディアジオのボトリング業務に使用されていましたが2015年末に閉鎖された)。
禁酒法以前にシャーウッド・ライを製造していたジョン・ハイアット・ワイトの息子は、修正第21条の通過と共にメリーランド蒸溜業界の主要人物となり、ボルティモアより北東のホワイト・マーシュ地域にあったと思われるロアリーに蒸溜所を建設し、フランク・L・ワイト・ディスティリング・カンパニーを率いてシャーブルック、ワイツ・オールド・リザーヴ、コングレッショナル・クラブ等のストレート・ライ・ウィスキーを販売していましたが、1941年(43年説も)にその事業をハイラム・ウォーカー社に売却します。その後ハイラムが生産拠点をイリノイ州ピオリアに移したことで7年後に閉鎖されました。その後フランクはコッキーズヴィル・ディスティリング・カンパニーを組織し、1926年に建物が取り壊されるまで元のシャーウッド施設があった場所の近くに蒸溜所を1946年に建設しました。シャーウッド・ブランドを取り戻すことが出来なかった彼は、代わりにライブルックと名付けたメリーランド・ストレート・ライを製造・販売していました。1958年にフランクが亡くなると、ワイト家最後の蒸溜所であるコッキーズヴィル・ディスティリングは閉鎖されてしまいます。
1948年当時には、まだ15の蒸溜所がライを生産していたそうですが、今見たように第二次世界大戦後は生産量が減少し、ライ・ウィスキーの蒸溜所は次々と閉鎖され、最後のメリーランドを拠点とする蒸溜所も1972年にその扉を閉めました。その蒸溜所が造っていたのがパイクスヴィルです。今日、新世代のメリーランドのディスティラーは州特産のライ・ウィスキーを生産して伝統を取り戻すため懸命に取り組んでおり、そうした近年のクラフト・ディスティラリーによる復興を除けば、最後まで存命していたメリーランド・ライこそがパイクスヴィルでした。

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ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、アメリカの現行ワイルドターキーのラインナップの中では1942年の古典的な「101」、1991年の「レアブリード」に次ぐ、3番目に古いリリースの由緒あるブランドであり、ワイルドターキー101のシングルバレル・ヴァージョンとして1994年に作成されました。公式リリースは1995年なのかも知れませんが、最初のボトルは1994年に充填されています。おそらくは、バーボン界で初めての商業的なシングルバレル・バーボン、ブラントンズの対抗馬であったと推測され、ブラントンズの競走馬やケンタッキー・ダービーをモチーフとした華麗なボトルの向こうを張った七面鳥のファンテイル・ボトルは流麗で目を惹くものでした。またブラントンズと同じように、ラベルには手書きでボトリングされた日付やバレル・ナンバー、倉庫やリック・ナンバーが記されているのもプレミアム感をいやが上にも高めています。そして、キャップはピューター製の重厚で高級感のあるものでした。それ故ケンタッキー・スピリットの初期のものは通称ピューター・トップと呼ばれています。2002年からストッパーはピューター製からダーク・カラーの木製のものに変更されました。更に2007年もしくは2008年頃にはダークだった木材がライトな色味へと変わります。ラベルに描かれる七面鳥も、ケンタッキー・スピリットに於ける明確な変更時期は特定出来ませんが、ブランド全体に渡るラベルのリニューアルに合わせ、前向きが横向きへ、カラーがセピア調へと更新されました。と、ここまではキャップ等のマイナーチェンジとシリーズ全般の変化なので、ケンタッキー・スピリットの姿自体はそれほど変わりありませんでしたが、2019年、遂にケンタッキー・スピリットの象徴的なテイルフェザー・ボトルは廃止、レアブリードに似たデザインに置き換えられ、ラベルの七面鳥の存在感は薄くなります。
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「ケンタッキー・レジェンド」と免税店の「ヘリテッジ」といった一部の製品を除き、ケンタッキー・スピリットは2013年にラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルが発売されるまでの20年近く、ワイルドターキーのレギュラー・リリースで孤高のシングルバレルであり続けました。アメリカの小売価格で言えば、ワイルドターキー101より2倍以上高く、ラッセルズ・リザーヴより少し安い製品です。ケンタッキー・スピリットをラッセルズ・リザーヴと比べてしまうと、ラッセルズ・リザーヴは冷却濾過されずによりバレルプルーフに近い110プルーフでボトリングされるため、スペック的にケンタッキー・スピリットを上回ります。そのせいもあってか、2014年頃から始まったプライヴェート・バレル・セレクションでもラッセルズ・リザーヴのほうが人気があります。その味わいの評価に関しては、アメリカの或る方の喩えでは「ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、天井は高いが床はラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルよりも低い」と言っていました。ターキーマニアの代表とも言えるデイヴィッド・ジェニングス氏などは、ケンタッキー・スピリットのボトルがリニューアル(同時に値上げも)されたのには相当ガッカリし、ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルの方が愛好家向けにアピールする製品であり、逆にもっとライトな飲酒家向けにはラッセルズ・リザーヴ10年や「ロングブランチ」などがあるため、ケンタッキー・スピリットの立ち位置がブレて消費者への訴求力が落ちているのを危惧して、価格以外に三つの解決策を提案をしています。
第一はボトルの変更です。テイルフェザー・ボトルが高価なのなら、せめて同様の美しさをもった往年のエクスポート版のケンタッキー・レジェンド(101)や「トラディション(NAS)」のようなボトル・デザインに先祖返りするのはどうか?、と。
第二にケンタッキー・スピリットもノンチルフィルタードのバーボンにする。そうすればスタンダードなワイルドターキー101よりも優れた利点が確実に得られる、と。
第三にラベルに樽詰めされた日付も記載する。現在でもボトリングの日付はありますが、ケンタッキー・スピリットが愛好家に向けた製品を目指すのなら、より細部に拘ったほうがいい、と。
そして更には、先ずは一旦ケンタッキー・スピリットの販売を休止し、現在の115エントリー・プルーフのバレルを維持しつつ、昔のような107エントリー・プルーフのバレルも造り、二つの異なるバーボン・ウィスキーを用意、最後に理想的な熟成に達した107エントリー・プルーフのバレルからケンタッキー・スピリット101を造り上げるという提言をしています。これは謂わばジミー・ラッセルのクラシックなケンタッキー・スピリット・シングルバレル・バーボンを復活させるというアイディアです。確かにこれが実現したら素晴らしい…。
ちなみに彼は現在のケンタッキー・スピリットを扱き下ろしているのではありません。ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルとワイルドターキー101の中間にあっては、昔ほど誇らしげに立っていないと言っているだけです。実際、彼はここ数年のケンタッキー・スピリットの高品質なリリースを幾つか報告しています。まあ、少々否定的な物言いになってしまいましたし、今でこそケンタッキー・スピリットの特別さがやや薄れてしまったのも間違いないのですが、それでもその「魂」は眠ってはいないでしょう。ケンタッキー・スピリットはジミーラッセルの元のコンセプトに忠実であり続けるバーボンであり、殆どの場合ワイルドターキー101よりも美味しく特別なバーボンであり、またストアピックのラッセルズ・リザーヴが手に入りにくい日本の消費者にとってはワイルドターキー・シングルバレルの個性的な風味を経験するよい機会を提供し続けています。

改めてケンタッキー・スピリットの中身について触れておくと、その熟成年数はNASながら8〜10年とも8.5年〜9.5年とも言われており、とにかくワイルドターキー8年と同じ程度かもう少し長く熟成されたシングルバレルをジミー・ラッセルが選び(現在はエディ?)、冷却濾過して101プルーフでボトリングしたものです。つまり単純に言えば、冒頭に述べたようにケンタッキー・スピリットは現在でも日本で販売されているワイルドターキー8年101のシングルバレル・ヴァージョンなのです。ジミー自身はケンタッキー・スピリットについて、タキシードを着たワイルドターキー101と表現していたとか。多分、スタンダードな物より格調高く華やいでいる、といった意味でしょう。発売当初のボックスの裏には彼自身の著名でこう書かれました。
時折、完璧なものを垣間見ることがあります。私はいつもそれを上手く説明することは出来ないのですが、或る樽は熟成するにつれて並外れた味を帯びるのです。信じられないかも知れませんが、私は20年以上前の樽を今でも正確に覚えています。ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、そのような記憶に残る発見の喜びを与えてくれます。このボトルには、特別な1つの樽から直接注がれた純粋なバーボンが収められており、私はそれを皆さんにお届けすることを誇りに思います。
マスターディスティラー、ジミー・ラッセル
ついでに言っておくと、ケンタッキー・スピリットとラッセルズ・リザーヴという二つの同じシングルバレル製品の違いは、ボトリング・プルーフとチルフィルトレーションを除けば、そのフレイヴァー・プロファイルにあるとされます。現在のマスターディスティラー、エディ・ラッセルによれば、ケンタッキー・スピリットが父ジミーの好みをより代表しているのに対し、ラッセルズ・リザーヴは本質的にエディ自身の好みを代表しているそう。
ケンタッキー・スピリットの味わいについては、先に引用した「天井と床」の喩えで判る通り、アメリカでも日本でも多少のギャンブル性が指摘されています。つまり、ケンタッキー・スピリットはラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルと同等かそれ以上に優れている場合もあれば、スタンダードなワイルドターキー101や8年101に非常に似ている可能性もあるということです。これはケンタッキー・スピリット云々というより、シングルバレルの特性上仕方のない面でもあります。通常3桁から4桁のバレルを混ぜ合わせる安価なバーボンは平均的なフレイヴァーになるのに対し、文字通り一つのバレルから造られるシングルバレル製品はフレイヴァー・バランスが異なります。具体的に例を言うと、普段飲んでいるワイルドターキー8年の味が脳にインプットされていて、さあ、いつもより上級なものを飲んでみたいと思いケンタッキー・スピリットを買いました、いざ飲んでみるといつものターキーよりスパイシーでオーキーでした、あれ? いつものほうがフルーティで美味しくない?、となったらその人にはハズレを引いたと感じられるでしょう。こればかりはその人の味覚次第だから。とは言え、本職の方が選んだバレルですから美味しいに決まってますし、それだけの価値があります。ケンタッキー・スピリットは甘くフルーティなものから、ややドライでタンニンのあるものまで様々なプロファイルを示しますが、真のワイルドターキー・ファンならば勇んで購入すればよいのです、好みのもの好みでないものどちらに転ぶにせよ。

ケンタッキー・スピリットはラベルの七面鳥やボトル・デザインの変化でなく、別の視点から概ね三つに分けて考えることが出来ます。ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。2004年に107プルーフから110プルーフ、2006年に110プルーフから115プルーフに。これは良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味します。また、ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。これも良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味するでしょう。そこで、ケンタッキー・スピリットの平均的な熟成年数である8年を考慮して大雑把に分けると、

①1994〜2012年の107バレル・エントリー原酒
②2013〜18年の110/115バレル・エントリー原酒
③2019年からの新蒸留所原酒

というようになります。このうち①、特にピューター・トップのものは昔ながらのワイルドターキーの味わいであるカビっぽいコーンや埃のような土のようなオーク香があり複雑な風味があるとされます。②は①のようなファンクが消え、ライトもしくはいい意味で単純な傾向に。③は前出のDJ氏によれば、選ばれたバレルによっては「床が上がっている」そうです。そこで今回は、私の手持ちのケンタッキー・スピリットの年代が異なるもの2種類と、先日投稿したワイルドターキー8年101の推定2019年ボトルを同時に飲んで較べてみようという企画。実を言うと投稿時期が違うだけで、3本をほぼ同時期に開封しています。

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2021-07-27-01-20-18
WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof
Bottled on 01-14-16
Barrel no. 2830
Warehouse O
Rick no. 2
2016年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。接着剤、香ばしい焦樽、香ばしい穀物、ローストナッツ、コーン、ライスパイス、ブラックペッパー、若いチェリー、ハニーカステラ、ナツメグ、アーモンド。口当たりはややオイリー。パレートは基本的にグレイン・フォワードで、甘みもあるが飲み込んだ直後はかなりスパイシー。余韻はミディアム・ロングで豊かな穀物と共に最後にワックスが残る。

8年101と較べて良い点は口当たりがオイリーでナッティさが強いところでした。悪い点は接着剤が強すぎるのと荒々しい「若さ」があるところ。全体的には、スパイス&グレインに振れたバーボンという印象。また、101プルーフよりも強い酒に感じるほどアルコール刺激を感じます。正直言って8年101の方がマイルドで熟したフルーツ感もあり私好みのバランスでした。
Rating:86.5/100

2020-11-29-18-33-05
WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof(Pewter top)
Bottled on 10-5-95
Barrel no. 63
Warehouse E
Rick no. 47
1995年ボトリング。やや赤みを帯びたブラウン。ヴァニラ、湿った木材、オールド・ファンク、ベーキングスパイス、ブラッドオレンジ、紅茶、タバコ、土、漢方薬、ドライクランベリー、鉄、バーントシュガー。アロマはスパイシーヴァニラ。口当たりは柔らか。パレートはフルーティな甘さにスパイス多め。余韻はハービーで、マスティ・オークが後々まで長く鼻腔に残る。

2016年のケンタッキー・スピリットが若さを感じさせたのに対して、こちらは寧ろ近年飲んでいたマスターズ・キープ17年のような超熟バーボンを想わせる味わいです。今回私の飲んだ8年101と較べても、90年代の8年101と比べても、ハーブぽいフレイヴァーが強く複雑ではあるのですが、あまり私の好みではありませんでした。多分なんですが、10年前に開封して飲めていたらもっともっと美味しかったのではないかなと思います。言葉を変えれば飲み頃を逃したような気がするということです。
Rating:87.5/100

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Verdict:95年ピュータートップに軍配を上げました。比較として飲んでいた8年101の方が自分好みではあったのですが、やはり特別な味わいではあると思ったし、2016年物は軽く一蹴したからです。


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現在のバーボン・ブームは「プレミアム」なバーボンがその人気を助長しているように見えます。多くのブランドは長年の主力製品をプレミアム化しました。特殊な環境下で熟成させたり後熟を施したり、高価なボトルに入れたり新規のラベルを貼り付けたり、壮大なストーリーを宣伝して、数量限定や割り当て配給にすることにより、時には100ドル超の高価格帯の製品を追加しています。また、ここ10年の間に登場した多くの新しいバーボン・ブランドも、目新しいボトルや凝ったラベルを用いてプレミアム感を演出し、消費者へのアピールをしています。それらを首尾よく手に入れ、SNSで自慢気に披露するのはよく見る光景です。ワイルドターキーの製品にもプレミアムなマスターズ・キープというシリーズがあります。レアな物を手に入れたり飲むことは、我々の気分を高揚させ、魅惑的で貴重な経験をさせてくれるでしょう。しかし、バーボン愛好家はそのようなプレミアム製品だけでなく、絶対的なお気に入りの安くて旨いバーボンも同時に愛するものです。
そう、ワイルドターキー101のことを言っています。熱烈なターキー信者は、もしも貴方の残りの人生でバーボンを一種類だけしか飲めないとしたら何を選びますか?と訊ねられたら、必ずやワイルドターキー101と高らかに宣言するに違いありません。それは彼らがワイルドターキー101を否定できない価値のある素晴らしい製品であると知っており、他のアメリカン・ウィスキー製造業者には到達できない何かがあると信じているからです。60年以上前、19歳のジミー・ラッセルはケンタッキー州ローレンスバーグの蒸留所で働き始め、後にマスター・ディスティラーに昇進し、今日でも共同マスター・ディスティラーである息子のエディ・ラッセルと共にそこにいます。変転の多い世の中にあって、これは何の誇大宣伝も必要としない紛うことなき伝説と伝統です。過去にワイルドターキーの特別なボトリングは幾つか発売されていますが、バーボン・ブッダと称される男の魂を最も体現するのはワイルドターキー101に他なりません。長らく卓越性の基準であったボトルド・イン・ボンド規格を大幅に上回る熟成期間と、その法定プルーフを僅かに越える1プルーフの追加を行うことで、見た目にも美しい並びの「101」という象徴的な数字をもつバーボンは、常に信頼できる品質を誇りながら何時でも手頃な価格であり続けました。頑固だけど気さく、厳しいけど優しい、まるでジミーのように。

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(2015年の終わり頃から採用されたスケッチ・ターキー・ラベル)

日本人にとってワイルドターキーの定番中の定番と言えば今でも8年表記のある101。1992年以降、アメリカ国内の101からはエイジ・ステイトメントが削除されNASの6〜8年熟成となりましたが、輸出市場の日本では8年物が流通し続けているのです。その理由を或るインタヴューでエディは、日本の消費者は味の判る方が多いからというようなことを言っていました。本当かどうかは怪しいですが、日本向けの建前としてはそうなのでしょう。また或るバーのオウナーの方が宣伝のため来日していたエディに直接尋ねたところ、「日本人は熟成年数でボトルへの評価を変えるから」という趣旨の発言があったそうです。こちらが本音のような気がしますね。いずれにせよ、日本を特別扱いしてくれていることには感謝しかありません。

同時期のエクスポート8年とアメリカ国内流通NASを飲み比べた海外のターキーマニアの方によると、味わいはどちらもモダン・ワイルドターキーのコア・フレイヴァーを共有し、明確な差はそれほど感じないとのこと。エイジ・ステイトメントの有り難みは確かにありますし、熟成年数の明確な違いはフレイヴァー・バランスを変えますが、寧ろ実際にはバッチングにどのようなバレルが選択されたかの方が重要なようです。ワイルドターキーでは毎年、全てのリックハウスから均等にバレルが選ばれる訳ではありません。各バッチに「収穫」されるバレルは、その時「旬」の限定された選りすぐりのリックハウスから、成熟度と味に基づいて引き出されることが知られています。或る時はタイロンのB、D、H、K倉庫から多く引き出され、別の年はG、M、O倉庫から、また或る年はキャンプ・ネルソンのAとF倉庫から多く引き出されるという具合に。ワイルドターキーは比較的バッチやロット間の味わいの変動が大きそうな印象がありますが、もしかするとここら辺がその理由の一端なのかも知れませんね。
エディ・ラッセルの息子でブランド・アンバサダーのブルースは某掲示板で、2018年のワイルドターキー101には通常の8年より10年原酒が多く含まれていると述べ、ターキー愛好家をざわつかせました。或る著名な愛好家は機会を待ってさっそく「仕事」に取り掛かりました。彼によると、2018年前期の物は2017年の物と比較してプロファイルに大きな違いは見つからなかったらしいですが、2018年後期の物(レーザーコードがLL / GG〜LL / GJの物)はとても優れていたそうです。そして2019年ボトルも概ね良さげな評価に見えます。逆に2020年2月のハンドル付リッター・ボトルは「オフ」バッチだったという報告もネット上で話題になりましたが、これは極めて稀な例でしょう。まあ、これらはNAS101の話。今回レヴューに取り上げるのは日本向け8年101の推定2019年ボトルです。

私はここ最近、ワイルドターキーの限定版やレアブリード等は飲んでいましたが、スタンダードな8年101を飲むのは約2年ぶり。実を言うと、敢えて飲むのを避けていたのです。その理由は、以前投稿したレアブリード116.8のレヴュー時に言及した件が関係しています。
ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。新しい施設の生産能力は年間1100万ガロンで、旧蒸留所の2倍以上です。新しいビア・スティルとダブラーは古い物と全く同じ大きさであり、全体的な生産容量の増加はより大きなクッカーとファーメンターから由来しています。新原酒を含むNAS101を飲み比べたアメリカの方によると、どうやら旧原酒よりもナッティな傾向が強いらしい。レアブリード116.8を飲んだ時、フレイヴァー・プロファイルがそれまでのレアブリードとはかなり違う印象を受けました。それはおそらく新しい蒸留施設の6年原酒を多く含むからなのでは?と推測し、ならば日本限定の8年101も単純計算で2019年のロットから劇的に味わいが変わるかも!と楽しみに待っていたのです。で、たまたま近所のスーパーに並んでいたワイルドターキー8年101が2019年ボトリングぽい、じゃあ買ってみるか、と。なので、さっそく注いでみましょう。

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WILD TURKEY AGED 8 YEARS 101 Proof
推定2019年10月ボトリング。レーザーコードはLL/HJ。スパイシーヴァニラ、香ばしい焦げ樽、クレームブリュレ、ドライアプリコット、チョコチップクッキー。口当たりはオイリーではないがゆるくもない。味わいはかなりフルーティで、僅かなレーズンと微かなチェリー。液体を飲み込んだ直後のスパイシーなキックはなかなか。余韻はややドライなウッド・ノートと穀物が主で、ほんのりナッツが香る。
Rating:86.5/100

Thought:久しぶりに飲んだせいか、あれ?こんなに旨かったっけ!?というのが正直な感想です。熟成感も丁度いいし、バーボンの美味しい基本的なフレイヴァーが各々、実にバランス良く感じられます。ブラインドで試せばもう少し格上の物と間違えそう。唯一、余韻は深みに欠けるのがウィークポイントかな。日本では、ターキーの現行ボトルとオールドボトルを比較して、薄くなったとかコクがないとか、樽のえぐみが出てるとかアルコール感が強いとかよく聞く(見る)のですが、自分にはちょっと信じられません。凄く良く出来たバーボンという印象です。まあ、オールド派の言いたいことは分かりますし、確かに私もそのようなことを言ってしまう時があります。オールドボトルの方がダークチェリーや複雑なスパイス、アーシーなフィーリングの現れが感じ易く美味しい、とか。ですが、オールドボトルはそれらに加えてオールド臭と言うのか古びた風味が強過ぎることも多いです。それに較べると現行品はフレッシュ感が美味しいので、つまりは一長一短…。どっちも愛せばいいんじゃないの?と自戒の念を込めて言っておきましょう。
そして、上述の新原酒の件ですが…、うーん、どうでしょうね、2年前に飲んだ時より美味しくは感じたのですが、それはここ最近、私が自分の苦手な長期熟成の限定版ワイルドターキーを飲み続けていて、久しぶりにスタンダードな8年を味わったからなだけなのかも知れません。ただ、フレイヴァー・プロファイルはそれほど変わったとは感じませんでした。サイド・バイ・サイドで比べてる訳でもなく、記憶と比べてるので曖昧ですが。
このボトルはおそらく2019年10月のロットと思われます。となると、このボトルにはギリギリ新原酒が混和されていない可能性もあり得るでしょう。逆にこのボトルは新原酒で構成されているが、新原酒と旧原酒はそこまでの著しい大差がない可能性もあります。ここはもう一度、2020年か2021年のボトルを飲んでみるしかなさそうです。既にそれらを飲んだことのある皆さんはワイルドターキー新施設の蒸留原酒をどう思いましたか? コメントより感想をどしどしお知らせ下さい。そう言えば、2020年11月には、アメリカの或る州では早くも新ボトル・デザイン(エンボス・ターキー)が流通し始めました。そのうち日本流通の物も切り替わって行くのでしょう。見た目が変わると味も変わったように感じ易いので、またその時に試すのもいいかも知れませんね。

Value:相場は大体2500〜3500円くらいでしょうか。間違いなく購入する価値はあると思います。と言うか、これを愛さず何を愛せと言うのか…(笑)。


追記:こちらを投稿後、知人よりLL/GDのレーザーコードを持ったフラスク・ボトルの物を頂きましたので、追記の形で少し感想を書いておきます。

推定2018年4月ボトリング。ややオレンジがかったアンバー。キャラメリゼ、香ばしい焦げ樽、炭、コーン、ペッパー、僅かにフローラル、栗、オレンジが少々。口当たりはややオイリー。パレートは甘みもあるが刺激的なスパイシーさも。余韻はミディアムショートでドライかつ最後に苦み。
Rating:84.5/100

ここで取り上げている推定2019年のボトルと比べると、ダークなフルーツ感が欠け、香ばしさに偏っている印象でした。サイド・バイ・サイドで較べてはいないのですが、明らかにフレイヴァーのバランスが異なります。私としては完全にLL/HJボトルの方がクオリティが高いと思いました。これ、アロマは心地良いのですが、味わいと余韻が平坦過ぎです。オールドボトルのワイルドターキーと比較して現行ボトルを異常に低く評価する人はこれと同等の物を飲んでいるのではないか?という疑念が湧きますね。

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W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴは、現在ではサゼラック・カンパニーが所有するフランクフォートのバッファロー・トレース蒸留所で製造されているウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)です。元々はスティッツェル=ウェラーによって作成されたブランドでした。ウィーテッド・バーボンと言うのは、全てのバーボンと同様に少なくとも51%のコーンを含むマッシュから蒸留されますが、フレイヴァーを担うセカンド・グレインにライ麦ではなく小麦を用いたバーボンを指します。小麦が51%以上使用されたマッシュを使うウィート・ウィスキーとは異なるので注意しましょう。近年のウェラー・ブランドには人気の高まりから複数のヴァリエーションが展開されていますが、「ウェラー・スペシャル・リザーヴ」はかねてから継続的にリリースされていた三つのうちの一つであり、ラインナップ中で最も安価なエントリー・レヴェルの製品です(他の二つは「アンティーク107」と「12年」)。ブランドの名前はウィリアム・ラルー・ウェラーにちなんで名付けられました。そこで今回は、今日でも広く販売されているバーボンにその名を冠された蒸留酒業界の巨人を振り返りつつ、スティッツェル=ウェラーと小麦バーボンおよびウェラー・ブランドについて紹介してみたいと思います。

ウィリアム・ラルー・ウェラーは、1825年、その起源をドイツに遡る家族に生まれました。蒸留に関わるウェラーの物語はウィリアムの祖父ダニエル・ウェラーから始まります。バーボンの歴史伝承によると、ウィスキー・リベリオンの際に蒸留家らは連邦税から逃れるためにペンシルヴェニア州からケンタッキー州へやって来たとされますが、それは必ずしもそうではありませんでした。独立戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)を戦った世代のダニエルはメリーランド州から来ました。彼の一家はメリーランド州でマッチ作りをしていたそうです。ダニエルは自分の父が他界すると入植者としてケンタッキーに移住することを決め、ネルソン・カウンティの現在はブリット・カウンティ境界線に近い土地を購入します。一家はフラットボートでオハイオ・リヴァーを下ってルイヴィルに向かい、1796年にネルソン・カウンティに来ました。共に来ていたダニエルの兄弟は後に有名なガンスミスになったそうです。
ネルソン・カウンティで彼らは農場を始め、ダニエルはファーマー・ディスティラーになりました。当時の多くの入植者がそうであったように、おそらく彼もコーンを育て現在のバーボンと近いマッシュビルで蒸留していたと見られます。しかし、言うまでもなく当時はまだ「バーボン」という呼び名ではありませんでした。ダニエルがケンタッキー州でのウィスキー・リベリオンに参加していたのかは定かではないそうですが、1800年に三週間ウィスキーを蒸留するライセンスが発行されたことは知られています。これはダニエル・ウェラーの公の記録の中で現存する最古のライセンスで、実際には隣人がウェラーのスティルでウィスキーを造るのを許可するために発行されたものだそうです。これは当時の非常に一般的な慣習とのこと。仮に私が自分で蒸留器を所有していない場合、隣人からスティルを借りて、彼らにウィスキーを作って貰い、私が政府に税金を払う訳です。ウェラーの蒸留器は90ガロンのポットスティルでした。当時の地元の収穫量から判断すると隣人は恐らくその期間に150から200ガロンのウィスキーを製造していたのではないかと歴史家のマイク・ヴィーチは推測しています。1802年にトーマス・ジェファソン大統領がウィスキー税を廃止したため、ダニエル・ウェラーの蒸留所の税務記録は残っていません。
1807年、ダニエル・ウェラーは落馬した際に受けた怪我の合併症で亡くなりました。彼の財産目録には2個のスティル、マッシュ・タブ、クーパーの道具、ジャグ等があり、212.17ドルの価値があったと言います。彼はケンタッキー州初期の典型的な農民蒸留者でした。ダニエルの息子サミュエルは、おそらくこの蒸留装置を受け継ぎ蒸留所の規模を拡大したと思われますが、連邦税がなかったために蒸留所の公式記録はなく、更なるお金を投資したかどうか判りせん。また、サミュエルはラルー・カウンティでウィスキーを造ったようですが、これまた記録がなく1850年代に亡くなった時に蒸留所がどうなったのかも不明です。ともかくウェラー家のリカー・ビジネスに携わる伝統はダニエルからサミュエル、更にその息子ウィリアムへと継承されて行ったのでしょう。

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ウィリアム・ラルー・ウェラーは1825年7月25日に生まれました。彼の母親であり父サミュエルの再婚の妻であるフィービー・ラルー・ウェラーは、ケンタッキー州ラルー郡の創設者ジョン・ラルーの娘です。ウィリアムの幼少期についてはよく分かりませんが、名家と言って差し支えなさそうな出自からして、将来のための相応な教育を受けていたと想像されます。成長したウィリアムは1844年にルイヴィルに移りました。そこで何をしていたかも定かではありませんが、酒類ビジネスに関わっていたのでしょうか。1847年になると彼はルイヴィル・ブリゲイドに加わり、他のケンタッキアンらと共にアメリカ=メキシコ戦争(1846〜1848年)を戦い、中尉の階級に昇進したようです。戦後、ウィリアムはルイヴィルへと戻り、1849年に弟のチャールズと協力して、今日NDP(非蒸留業者)と呼ばれるウィスキーの卸売り販売やレクティファイングを手掛ける「ウィリアム・ラルー・ウェラー&ブラザー」を設立しました。店舗はジェファソン・ストリートと現在のリバティ・ストリートの間にあり、彼らは「誠実なウィスキーを誠実な価格で」というスローガンを掲げたとされます。もしかするとラルー・カウンティで父親が造ったウィスキーを販売していたのかも知れません。

1850年代にルイヴィルは活気に満ちた裕福な都市になっていました。街の成長もあってかウェラーの酒はかなりの人気があったようです。伝説によると、人気があり過ぎて顧客が本物を手に入れたことを保証するために、全ての取引書とウィスキーの樽に緑色のインクで拇印を付けなければならなかったとか。会社の設立とほぼ同じ頃、25歳になっていたウィリアムは結婚するのに十分な経済的基盤を築いており、5歳年上でシェルビー・カウンティ出身のサラ・B.ペンスと結婚しました。彼らはこれからの16年の間に7人の子供(4人の男子、3人の女子)をもうけています。また、1854年に腸チフスの流行により父親と母親が亡くなった後、ウィリアムは弟のジョンを自分の息子として育てました。
或る主張によれば、この時期までにW.L.ウェラーは小麦バーボンを発明したとされます。しかし、当時のウィリアムは自身の蒸留所を所有しておらず、先述のようにあくまでレクティファイヤー、つまり特定の蒸留所からウィスキーを買い上げるとブレンディング、フィルタリング、フレイヴァリング等の手法で仕上げ、販売のためにパッケージ化して顧客に販売する業者だったと見られるのです。当時のルイヴィル市の商工人名録には、ウェラーが国内外のウィスキー卸売り及び小売りディーラーと記載されていました。1871年以降にはウェラー社にもスティルがあり、粗悪なグレードのウィスキーを「コロン・スピリッツ」と呼ばれるニュートラル・スピリッツに再蒸留するために使用していたそうですが、同社はオリジナルの蒸留は行わず、この再蒸留のみを行っているとの声明さえ出していたとか。

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南北戦争の到来は、南寄りのウェラー家に大きな混乱を齎します。ウィリアムの兄弟のうち二人は南軍のために戦いました。弟ジョンは有名なケンタッキーの南軍オーファン・ブリゲイドに加わり、キャプテンの階級に昇進し、チカマーガの戦いで負傷したそうです。別の兄弟はジョージアの南軍にその身を捧げました。ウィリアムとチャールズはルイヴィルの家業に留まり、北と南に出来るだけ多くのウィスキーを売るために中立を保とうとしました。しかし、皮肉なことに会社のパートナーであるチャールズは、1862年、事業債務の回収のためにテネシー州フランクリンに滞在中、多額の現金を所持していたところを二人の銃を持った強盗に襲われ殺害されてしまいます。
南部の敗北の後、キャプテン・ジョンはチャールズに代わって家族の会社で働くようになりました。ウィリアムの息子達が成長するにつれて、彼らも事業に参入し始めます。1870年代に同社は、現在でもアメリカの酒類産業の中心地であるルイヴィルのメイン・ストリートに移転し、社名は「W.L.ウェラー&サン」を名乗るようになりました。ウィリアムの長男ジョージ・ペンス・ウェラーがパートナーでした。また、ウィリアム・ジュニアはクラークとして働いていました。1887年頃、他の息子達が参入した会社は「W.L.ウェラー&サンズ」になります。ウェラー社はオープン・マーケットでウィスキーを購入し、後には同じくルイヴィルのスティッツェル・ブラザーズ蒸留所やアンダーソン・カウンティのオールド・ジョー蒸留所などと大きなロットの契約を結びました。彼らの会社で使用されたブランド名には「ボス・ヒット」、「クリードモア」、「ゴールド・クラウン」、「ハーレム・クラブ」、「ケンタッキーズ・モットー」、「ラルーズ・モルト」、「オールド・クリブ」、「オールド・ポトマック」、「クォーター・センチュリー」、「ローズ・グレン」、「サイラス・B.ジョンソン」、「ストーン・ルート・ジン」、「アンクル・バック」、「アンクル・スローカム・ジン」等があり、旗艦ブランドは「マンモス・ケイヴ」と「オールド・W.L.ウェラー」と「キャビン・スティル」と伝えられます。当時の多くの競合他社とは異なりウェラー社では1905年から殆どのブランドを商標登録していたそう。彼らは宣伝にも積極的で、お得意様へ提供されるアイテムにはバック・バー用のボトルやラベルが描かれたグラス、またはエッチングされたショットグラス等があったようです。
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1893年、後に「パピー」と知られるようになり業界への影響力を持つことになる19歳の青年ジュリアン・ヴァン・ウィンクルがセールスマンとしてウェラーズに入社しました。ウィリアムはヴァン・ウィンクルに決して顧客と一緒に酒を飲まないように教えたと言われています。「もし飲みたくなったら、バッグに入ってるサンプルを部屋で飲みなさい」と。同じ頃、父と仕事を共にする息子は4人いました。ジョージとウィリアム・ジュニアはパートナー、ジョン・C.とリー・ウェラーはクラークでした。1895年に70歳を迎えたウィリアムは自分の衰えを感じ、一年後に引退します。事業は兄弟のジョンと長男のジョージに任せました。数年後の1899年3月、ウィリアムはフロリダ州オカラで亡くなります。死因は「心臓合併症を伴う慢性痙攣性喘息」だったそうです。多くの「ウィスキー・バロンズ」の眠りの場となっているルイヴィルのケイブ・ヒル・セメタリーに埋葬されました。

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今日、ウィリアム・ラルー・ウェラーの名前は小麦バーボンと結びついています。ウェラー・ブランドのラインを現在製造するバッファロー・トレース蒸留所の公式ホームページでも彼について記述されていますし、ウェラー・ブランドのラベルには「The Original Wheated Bourbon」と謳われています。しかし残念なことに、おそらくウィリアムと小麦を使用したバーボンには何の関係もありませんでした。
小麦をフレイヴァー・グレインに使用することは、18世紀後半から19世紀前半のウィスキー・レシピにも見られたようです。ライ麦と小麦のどちらを使ってマッシュを作るかは、それぞれの入手し易さに左右されたのでしょう。ライ麦がバーボンの一般的な第二穀物となって行ったのは、単純に小麦がライ麦よりも高価な穀物であり、小麦粉としての需要も高かったためだと考えられています。近年ではライ麦の代わりに小麦を使用するバーボンがクラフト蒸留所からも発売され市場に出回っていますが、伝統的なブランドとしてはオールド・フィッツジェラルドやW.L.ウェラー、キャビン・スティルにレベル・イェール、そしてメーカーズマークくらいのものでした。勿論ヴァン・ウィンクル系のバーボンも含めてよいかも知れません。歴史家のマイク・ヴィーチによれば、これらのブランドは全て歴史上共通の糸、DNAを持っており、その端緒はスティッツェル・ブラザーズであると言います。
フレデリック、フィリップ、ジェイコブのスティッツェル兄弟は、1872年、ルイヴィルのブロードウェイと26thストリートに蒸留所を建設しバーボンの製造を開始しました。この蒸留所は主要ブランドにちなんでグレンコー蒸留所としても知られ、グレンコーの他にフォートゥナ・ブランドが有名です。彼らはウィスキー造りの実験を行った革新的なファミリーでした。よく知られた話に、フレデリックが1879年にケンタッキー州の倉庫に現在まで存続するウィスキー樽を熟成させるためのラックの特許を取得していることが挙げられます。そしてまた、フレイヴァー・グレインとして小麦を使用したバーボンのレシピを実験してもいました。穀物、酵母、蒸留プルーフ、バレル・エントリー・プルーフ、それらの最良の比率が見つかるまで実験を繰り返したことでしょう。彼らはこのウィスキーを主要ブランドに使用することはありませんでしたが、フィリップの息子アーサー・フィリップ・スティッツェルが1903年にオープンしたストーリー・アヴェニューの蒸留所に、その実験の成果は伝えられていました。
A.Ph.スティッツェル蒸留所は1912年にW.L.ウェラー&サンズのためにウィスキーを製造する契約蒸留の関係にあった記録が残っています。19世紀の業界では多くの契約蒸留が行われていました。W.L.ウェラー&サンズのような会社は蒸留所を所有していなくても、特定の蒸留所と自らの仕様に合わせたウィスキーを造る契約をして、自社ブランドを販売していたのです。テネシー州の一足早い禁酒法によりタラホーマのカスケイド・ホロウ蒸留所が閉鎖された後、1911年にA.Ph.スティッツェル蒸留所はジョージディッケルのカスケイド・ウィスキーを造ることになり、テネシー・ウィスキーのためのチャコール・メロウイング・ヴァットまで設置されていたのは有名な話。契約蒸留は、蒸留所を所有することとバルク・マーケットでウィスキーを購入することのちょうど中間の妥協点でした。バルク・マーケットでウィスキーを購入する場合は売り手の売りたいバレルから選ぶことになり、そのぶん比較的安価な訳ですが、フレイヴァー・プロファイルを自分でコントロールすることは出来ません。契約蒸留ならばウィスキーのマッシュビル、蒸留プルーフ、樽の種類、バレル・エントリー・プルーフ等を契約で指定するので、ウィスキーのフレイヴァー・プロファイルをある程度はコントロールすることが出来ます。しかし、ウェラー社のそれはおそらく小麦バーボンではありませんでした。ウェラー社は大企業とは言い難く、500バレルが年間売上の大部分を占めていたので、スティッツェルが当時のウェラーのためにその量の小麦バーボンを造っていたとは到底信じられない、というようなことを或る歴史家は言っています。レシピに小麦を使用するという考えは何年にも渡る禁酒法期間を通して休眠状態にあり、小麦バーボンが花開くのは禁酒法が廃止されるのを待たねばなりませんでした。
では、話を一旦ウィリアム死後のウェラー社に戻し、続いて禁酒法期間中の事と解禁後にスティッツェル=ウェラーが形成されるまでをざっくり見て行きましょう。

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1899年、W.L.ウェラー&サンズはメイン・ストリートの北側、1stと2ndストリートの間にある大きな店舗をバーンハイム・ブラザーズから購入しました。19世紀末までにウィスキーを他州の市場へ出荷するための主要な手段は鉄道となっていたため、スティームボートに樽を積み込むことが出来るウォーターフロントに近いことは南北戦争後には重要ではなくなっていましたが、それでもこの店舗はW.L.ウェラー&サンズが以前所有していたよりも大きな建物であり、ウィスキー・ロウの中心部にオフィスを構えることには威信があったのです。同年にウィリアムが亡くなったその後、息子のジョージが会社の社長になり、ジョージの末弟ジョンは営業部長を務めました。ジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクル(シニア)や、別の会社のセールスマンから1905年にウェラー社へ加入したアレックス・T・ファーンズリーも会社を大いに盛り上げたことでしょう。パピーとファーンズリーの二人はよほど有能だったのか、1908年、共に会社の株式を買い、会社に対する支配権を取得します。ジョージ・ウェラーは1920年の禁酒法の開始時に引退するまで社長として残りました。この新しいパートナー達は元の名前を維持しましたが、新しいビジネス戦略を採用しました。彼らはウィスキー原酒のより安定的な供給を確保するために蒸留所の少なくとも一部を所有する必要性を認識し、スティッツェル蒸留所に投資します。ほどなくしてアーサー・フィリップ・スティッツェルはビジネス・パートナーになりました。禁酒法がやって来た時、スティッツェルは禁酒法期間中に薬用スピリッツを販売するライセンスを取得します。パピーはA.Ph.スティッツェル蒸留所の所有権も有していたので、この合弁事業によりW.L.ウェラー&サンズはスティッツェル社のライセンスに便乗し、スピリッツを販売することが可能となりました。こうして1920年に禁酒法が施行される頃、W.L.ウェラー&サンズはパピーが社長、アーサーが秘書兼会計を務め、逆にA.Ph.スティッツェル社はアーサーが社長、パピーが書記兼会計を務めていました。そしてファーンズリーは両社の副社長です。

禁酒法は蒸留所での生産を停止しましたが、A.Ph.スティッツェル蒸留所のサイトは統合倉庫の一つとなり、薬用スピリッツの販売を続けます。W.L.ウェラー&サンズは禁酒法の間、メイン・ストリートの建物に事務所を置いていました。ジュリアン・ヴァン・ウィンクルは、そこから営業部隊を率いて、全国で薬用スピリッツのパイントを販売しようと努めました。アレックス・ファーンズリーもそこに事務所を持っていましたが、禁酒法の期間中はフルタイムで銀行の社長を務めていたので忙しかったらしい。アーサー・フィリップ・スティッツェルの事務所はストーリー・アヴェニューの蒸留所にありましたが、ウェラーの事務所を頻繁に訪れていたそうです。
禁酒法下の薬用ウィスキー・ビジネスで蒸留業者は、ブランドを存続させるために他社からウィスキーを仕入れたり、統合倉庫に自らのブランドを置いている企業のためにウィスキーをボトリングし、単純に保管料や瓶詰代や少額の販売手数料を徴収していました。スティッツェル社は禁酒法期間中にヘンリーマッケンナのブランドを販売していたそうです。彼らはブランドやウィスキー自体を所有していませんでしたが、マッケンナはスティッツェルの統合倉庫にウィスキーを置いていました。スティッツェル社とライセンスを共有していたW.L.ウェラー社は、ヘンリーマッケンナを1ケース1ドルの手数料で販売し、樽の保管料とボトリング費用(材料費と人件費)を売上から請求したと言います。
1928年、薬用スピリッツの在庫が少なくなると、政府はライセンスを持つ蒸留所に酒類を蒸留して在庫を補充することを許可しました。許可された量はライセンスを持つ会社が保有する既存の在庫の割合に応じて決められています。A.Ph.スティッツェル蒸留所がどれ位の量を蒸留したかはよく分かりませんが、自分たちのため以外にもフランクフォート・ディスティラリーとブラウン=フォーマン社のためにバーボンを生産したそうです。これらの蒸留会社は1928年時点では稼働中の蒸留所を所有していなかったので、A.Ph.スティッツェル蒸留所が割り当てられたウィスキーの蒸留を請け負いました。1929年にブラウン=フォーマンはルイヴィルの自らの蒸留所を稼働させ蒸留を開始しましたが、フランクフォート・ディスティラリーは禁酒法が撤廃された後もA.Ph.スティッツェル蒸留所で契約蒸留を続けました。
"ドライ・エラ"に薬局に提供されたW.L.ウェラー&サンズのバーボンには、禁酒法以前から人気のあった「マンモス・ケイヴ」があります。他にどれだけの種類のラベルが制作されているのか私には把握出来ませんが、「オールド・W.L.ウェラー(白ラベル)」名義のバーボンとライをネット上で見かけました。あと禁酒法末期頃ボトリングの「オールド・フィッツジェラルド」や「オールド・W.L.ウェラー(緑ラベル)」や「オールド・モック」はよく見かけます。

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禁酒法以前からパピー・ヴァン・ウィンクルのW.L.ウェラー社はA.Ph.スティッツェル蒸留所が生産するバーボンを多く購入していた訳ですが、パピーは禁酒法期間中にその終了を見越してA.Ph.スティッツェル蒸留所を購入し、スティッツェル=ウェラーを結成します。禁酒法が廃止された後、二つの会社は正式に合併してジェファソン郡ルイヴィルのすぐ南にあるシャイヴリーに新しい蒸留所を建設しました。この蒸留所こそが小麦バーボンの本拠地となって行く1935年のダービー・デイにオープンしたスティッツェル=ウェラー蒸留所です。A.Ph.スティッツェル蒸留所は新しくスティッツェル=ウェラー蒸留所が開設された時にフランクフォート・ディスティラリーに売却されました。フランクフォート・ディスティラリーは、こことスティッツェル=ウェラー蒸留所に近いシャイヴリーのディキシー・ハイウェイに建設した別の蒸留所でフォアローゼズを製造しました。この蒸留所は1940年代にシーグラムがフランクフォート・ディスティラリーを買収した後も存続しましたが、1960年代に閉鎖されたそうです。
新しく始動した会社でパピー・ヴァン・ウィンクルは社長に就任し、セールスを担当しました。アレックス・ファーンズリーは副社長として残り財務を担当、同時にシャイヴリーのセント・ヘレンズ銀行の頭取でもありルイヴィル・ウォーター社の副社長でもありました。アーサー・スティッツェルも副社長で、製造を担当したとされます。パピーはスティッツェル=ウェラー蒸留所でウィーテッド・バーボンを造ることにしました。それはスティッツェル兄弟が何年も前から実験していたレシピでした。それを採用した理由は、会社の役員であるパピー、アーサー、ファーンズリーらは小麦レシピのバーボンを熟成が若くても口当たりが良く美味しいと考えたからだと言われています。これはウィスキーの熟成があまり進んでいない段階では重要なことでした。本来、市場に出すのに適した良質なボンデッド規格のバーボンは、熟成させるのに少なくとも4年は掛かります。禁酒法廃止後の市場のニーズに応えるのに、もっと若い熟成年数で売れる製品が必要だった訳です。彼らはまず初めに「キャロライナ・クラブ・バーボン」の1ヶ月熟成をリリースし、その後3ヶ月物、6ヶ月物、1年物と続けます。そうして主要ブランドに入れる4年熟成のバーボンが出来上がるまでこのブランドを維持しました。彼らの主要ブランドはオールド・フィッツジェラルド、W.L.ウェラー、キャビン・スティルです。後年、のちにウェラー・アンティークとなるオリジナル・バレル・プルーフというヴァリエーションや、1961年にはレベル・イェールを導入し、60年代後半にはオールド・フィッツジェラルド・プライムがポートフォリオに追加され、また他にも幾つかのプライヴェート・ラベルを個人店向けに作成しましたが、ウィーテッド・バーボンはスティッツェル=ウェラー蒸留所が造った唯一のレシピであり、それらは全て同じウィスキーであっても熟成年数やボトリング・プルーフを変えることで異なったものになりました。

1940年代後半頃でもスティッツェル=ウェラー蒸留所の複合施設はまだ成長していたそうです。しかし、会社の幹部は40年代に相次いでこの世を去りました。アレグザンダー・サーマン・ファーンズリーは1941年に亡くなっています。蒸留業以外でも活躍した彼は他の会社の社長も兼任し、またルイヴィルのペンデニス・クラブの会長を2期務めました。彼の名を冠したパー3のゴルフコースがシャイヴリーにあるとか。アーサー・フィリップ・スティッツェルは1947年に亡くなっています。どうやら彼の死後にスティッツェル・ファミリーで蒸留業に就いた人はいないようです。残されたジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルは1960年代まで生き、引き続き会社を牽引しました。
パピーは優秀なビジネスマンでありカリズマティックなリーダーでしたが、所謂マスター・ディスティラーではありませんでした。スティッツェル=ウェラーの最初のマスター・ディスティラーはウィル・マッギルです。彼はジョーことジョセフ・ロイド・ビームの義理の兄弟でした。二人はジョーよりかなり年上の兄であるマイナー・ケイス・ビームによって訓練されました。禁酒法以前の若い頃、彼らはケンタッキー州の様々な蒸留所で一緒に働いていたそうです。1929年、禁酒法以前の在庫が無くなりかけていたため政府が「ディスティリング・ホリデイ」を宣言し、薬用ウィスキーのライセンス保持者へ蒸留を許可すると、パピーはジョーと彼のクルーを呼び、A.Ph.スティッツェル蒸留所のスティルに火を入れるように依頼しました。おそらく、その頃からマッギルも何らかの関係を持っていたのでしょう。マッギルがスティッツェル=ウェラーで直面したのはタフな仕事でした。可能な限り最高のウィスキーを造るために懸命に新しい蒸留所の全ての癖を把握しなければならなかったのです。エイジングの過程も考えれば数年は掛かり、簡単な仕事ではありません。製造初年度のウィスキーをテイスティングしたことがある方によると、当時から良いものだったけれど年を重ねて更に良くなって行ったと言います。ちなみに、スティッツェル=ウェラーでマッギルは何人かのビーム家の甥っ子を雇っていたとされ、その中で最年長のエルモは後にメーカーズマークの初代マスター・ディスティラーとなっています。
マッギルは1949年頃に引退し、その座はアンディ・コクランに引き継がれました。コクランは若くして亡くなり、蒸留したのは数年だけでした。彼の後釜はロイ・ホーズ(Roy Hawes)です。ホーズはスティッツェル=ウェラーの歴史の中で最も在職期間の長いマスター・ディスティラーでした。彼は50年代前半から70年代前半までの約20年間をそこで過ごし、スティッツェル=ウェラーの全盛期を支え続けたと言っても過言ではないでしょう。亡くなる寸前までまだ技術を学んでいたという熱心なホーズは蒸留所と共に成長し、在職中に多くの優れたバーボンを造りました。
1972年に蒸留所がノートン・サイモンに売却された頃からはウッディ・ウィルソンがディスティラーです。時代の変化はバーボンのフレイヴァー・プロファイルも変えました。新しいオウナーはバレル・エントリー・プルーフを上げるなどして蒸留所の利益を上げようとします。ウィルソンは冷徹な「企業の世界」とバーボンの売上の減少に対処しなければなりませんでした。それでも彼はホーズから学んだクラフツマンシップで良質なバーボンを造りました。ウィルソンが1984年に引退するとエドウィン・フットが新しいディスティラーとして採用されます。
エド・フットは既にウィスキー業界で20年のキャリアを積み、シーグラムを辞めてスティッツェル=ウェラーに入社しました。ホーズやウィルソンに蒸留所やS-W流のやり方を教わったと言います。しかし、フットの時代もまた変化の時代でした。フットはマッシュビルに含まれるバーリーモルトを減らし、酵素剤を使って糖への変換をすることを任されます。バレル・エントリー・プルーフもこっそりと更に少しだけ高くなりました。依然として優れたウィスキーであったものの、それはホーズやウィルソンが造った製品とは異なるウィスキーになっていたのです。そして1992年に蒸留所は閉鎖され、蒸留は完全に停止。フットはスティッツェル=ウェラー最後のマスター・ディスティラーでした。スティッツェル=ウェラー蒸留所については、以前のオールド・フィッツジェラルド・プライムの投稿でも纏めてありますので参考にして下さい。
では、そろそろW.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴに焦点を当てましょう。

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スペシャル・リザーヴは早くも1940年代初頭には発売されていました。新しいスティッツェル=ウェラー蒸留所が稼働し始めて比較的初期の蒸留物が熟成しきった時にボトリングされているのでしょう。そうした初期のスペシャル・リザーヴはボトルド・イン・ボンド表記のボトリングで、熟成年数は7年、6.5年、8年等がありました。冒頭に述べたように、現代のスペシャル・リザーヴはウェラー・ブランドの中でエントリー・レヴェルの製品であり「スペシャル」なのは名前だけとなっていますが、40〜50年代の物は旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドに負けず劣らず「特別」だったと思われます。おそらくパピーの死後まで全てのスペシャル・リザーヴはボンデッド規格だったのでは? 60年代中頃になると現在と同じ90プルーフのヴァージョンが登場し、同時にBiBもありましたが、後年ウェラー・アンティークとなる「オリジナル・バレル・プルーフ」の発売もあってなのか、ブランドは徐々に差別化され、スペシャル・リザーヴと言えば7年熟成90プルーフに定着しました。そして、白ラベルに緑ネックが見た目の特徴のそれは長らく継続して行きます。

スティッツェル=ウェラー蒸留所はその歴史の中で幾つかの所有権の変遷がありました。それはブランド権の移行を伴います。1965年のパピーの死後しばらくすると、ファーンズリーとスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、パピーの息子ジュリアン・ジュニアは会社を維持できず、1972年にノートン・サイモンのコングロマリットへの売却を余儀なくされました。ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。1984年、ディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。もう一方の流れとして、「ビッグ・フォー」の一つだったシェンリーを長年率いたルイス・ローゼンスティールは会社を1968年にグレン・オールデン・コーポレーションに売却しました。そのグレン・オールデンは1972年に金融業者メシュラム・リクリスのラピッド・アメリカンに買収されます。リクリスは1986年にギネスがディスティラーズ・カンパニー・リミテッドを買収した際の株価操作の申し立てに巻き込まれ、翌1987年、ギネスにシェンリーを売却しました(シェンリーは以前ギネスを米国に輸入していた)。こうしてユナイテッド・ディスティラーズはアメリカン・ウィスキーの優れた資産を手中に収めます。彼らはアメリカでの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所やその他の蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルのディキシー・ハイウェイ近くウェスト・ブレッキンリッジ・ストリートに当時最先端の製造技術を備えた近代的で大きな新しい蒸留所を建設しました。それはシェンリーが長年メインとしていた旧来のバーンハイム蒸留所とは全く異なるニュー・バーンハイム蒸留所です。以後、結果的に短期間ながら彼らの所有するブランドはそこで製造されます。ちなみにオールド・バーンハイムが稼働停止した80年代後半から新しい蒸留所が92年に出来上がるまでの数年間、ユナイテッド・ディスティラーズはエンシェント・エイジ蒸留所(現バッファロー・トレース蒸留所)に契約蒸留で小麦バーボンを造ってもらっていました(これについては後述します)。
94年頃には、ユナイテッド・ディスティラーズはバーボン・ヘリテージ・コレクションと題し、自社の所有する輝かしい5ブランドの特別なボトルを発売しました。そのうちの一つが「W.L.ウェラー・センテニアル10年」です。
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数年後、蒸留所の親会社は多くのM&Aを繰り返した末、1997年に巨大企業ディアジオを形成しました。同社はアメリカン・ウィスキーは自分たちの本分ではないと認識し、今となっては勿体ない話ですが、その資産のうちI.W.ハーパーとジョージ・ディッケル以外のブランドの売却を決定します。1999年のブランド・セールで旧スティッツェル=ウェラーの遺産(ブランド)は三者に分割されました。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、バーズタウンの蒸留所を火災で失い新しい蒸留施設を求めていたヘヴンヒルに、バーンハイム蒸留所と共に売却されます。レベル・イェール・ブランドはセントルイスのデイヴィッド・シャーマン社(現ラクスコ)へ行きました。そして、ウェラー・ブランドは旧シェンリーのブランドだったオールド・チャーターと共にサゼラックが購入しました。サゼラックは1992年にフランクフォートのジョージ・T.スタッグ蒸留所(=エンシェント・エイジ蒸留所、現バッファロー・トレース蒸留所)を買収していましたが、自社蒸留原酒が熟成するまでの期間、販売するのに十分な在庫のバレルも購入しています。W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴはサゼラックが購入してからも従来と同じラベル・デザインを使いまわし、所在地表記が変更されました。
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2001年になるとウェラー・ブランドに「W.L.ウェラー12年」が新しく導入されます。おそらく、初登場時には下の画像のような安っぽいデザインが採用されたと思います。隣の12年と同デザインの「スペシャル・リザーヴ」が付かない「W.L.ウェラー7年」は短期間だけヨーロッパ市場に流通した製品。
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それと同時期の2000年、2001年、2002年には特別な「W.L.ウェラー19年」が発売されました。これらは90プルーフにてボトリングされ、純粋なスティッツェル=ウェラー・ジュースと見られています。この特別なボトルは、2005年からは「ウィリアム・ラルー・ウェラー」と名前の表記を変え、ジョージ・T・スタッグ、イーグルレア17年、サゼラック18年、トーマス・H・ハンディと共に、ホリデイ・シーズンに年次リリースされるバッファロー・トレース・アンティーク・コレクション(BTAC)の一部になりました。こちらはバレル・プルーフでボトリングされる約12年熟成のバーボンです。BTACは現在、「パピー・ヴァン・ウィンクル」のシリーズと同じく大変な人気があり、現地アメリカでも欲しくても買えないバーボンになってしまい、日本に輸入されることはなくなりました。
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また、上記のBTACほどのプレミアム感はありませんが、ユナイテッド・ディスティラーズが「遺産」と銘打ったW.L.ウェラー・センテニアル(10年熟成100プルーフ)も継続して販売されていました。ラベルの所在地表記はUD時代のルイヴィルからバッファロー・トレース蒸留所のあるフランクフォートに変更されています。フランクフォート記載のラベルでも、キャップのラップにはUD製と同じく「Bourbon Heritage Collection」の文字とマークが付けてあり紛らわしい。フランクフォート・ラベルのセンテニアルには年代によって3種あり、ボトルの形状とキャップ・ラッパーが少しだけ違います。最終的にはラップから「BHC」がなくなり色は黒からゴールドに変更、そしてこの製品は2008年か2009年に生産を終了しました。
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ウェラー・ブランドは、どこかの段階で完全にバッファロー・トレースの蒸留物に切り替わりました。7年熟成の製品なら、単純な計算でいくと2006年くらいでしょうか? 原酒の特定が難しいのは1999〜2005年までのスタンダードな7年製品と12年熟成の物です。問題をややこしくしているのは、先述のエンシェント・エイジ蒸留所がユナイテッド・ディスティラーズのために製造していた小麦バーボンの存在。ユナイテッド・ディスティラーズは80年代後半から90年代初頭にアメリカ南部限定販売だったレベル・イェールを世界展開することに決め、10年間で100万ケースの製品にすることを目標にしていたと言います。それがエンシェント・エイジと契約蒸留を結んだ理由でしょう。しかし、10年経ってもそれは実現しませんでした。更に、ユナイテッド・ディスティラーズ管理下のニュー・バーンハイムでも小麦バーボンは造られていました(ただし、生産調整のためか、1994年半ばまでは実際にはあまり蒸留していなかった)。つまり過剰生産のため2000年頃に小麦バーボンは大量にあったのです。実際のところ、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世(パピーの孫)がバッファロー・トレースとタッグを組みフランクフォートへと事業を移した理由は、大量の小麦バーボンを彼らが保有していたからかも知れません。また、この頃のバーンハイム・ウィーターの余剰在庫はおそらくバルク売りされ、後にウィレット・ファミリー・エステートを有名にしたものの一つとなったと思われます。サゼラックはウェラー・ブランドの購入時に樽のストックも購入していますから、そうなると理屈上ボトルにはスティッツェル=ウェラー、ニュー・バーンハイム、エンシェント・エイジという三つの蒸留所産の小麦バーボンを入れることが出来ました。12年の初期の物などは単純に逆算すると80年代後半蒸留、ならばスティッツェル=ウェラー産もしくはUD用に造られたエンシェント・エイジ産の可能性が高いのでは…。7年熟成のスペシャル・リザーヴやアンティーク107は概ねニュー・バーンハイム産かなとは思うのですが、真実は藪の中です。もしかするとバーンハイムを軸に他の蒸留所産のものをブレンドしているなんてこともあるのかも。それと、90年代後半までのバーボンには記載された年数より遥かに長い熟成期間を経たバレルが混和されボトリングされていたと言われます。過剰供給の時代にはよくある話。90年代初頭に造られた小麦バーボンが大量に出回っていたため、2000年代前半の7年熟成製品には実際にはもっと古い原酒が使われていた可能性があります。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? 感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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さて、正確な年代が特定できないのですが、ウェラー・ブランドは2010年前後あたりにパッケージの再設計が行われました。紙ラベルが廃止され、ボトルが球根のような形状の物に変わります(トップ画像参照)。同じくサゼラックが所有するバートン蒸留所の代表銘柄ヴェリー・オールド・バートンの同時期の物と共通のボトルです。おそらくこの時にNAS(No Age Statement)になったかと思いますが、その当時のバッファロー・トレースのアナウンスによれば中身は7年相当と言ってました。しかし、その後の中身はもしかすると、もう少し若い原酒をブレンドしたり、熟成年数を短くしてる可能性は捨てきれません。

アメリカでのバーボン・ブームもあり、2010年代を通してバッファロー・トレース蒸留所および小麦バーボンの人気はより一層高まりました。それを受けてか、ウェラー・ブランドは2016年12月からパッケージを刷新します。従来のボトルのカーヴィなフォルムを維持しながらも背が高く、より洗練された雰囲気のラベルのデザインです。ブランド名にあったイニシャルの「W.L.」が削除され、スペシャルリザーブ(90プルーフ)を緑、アンティーク(107プルーフ)を赤、12年(90プルーフ)を黒というように、各ヴァリエーションに独自の明確な色を割り当て、全面的に押し出すようになりました。
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そして2010年代後半になってもウェラー人気は衰えることを知らず、矢継ぎ早にブランドを拡張して行きます。2018年には白ラベルの「C.Y.P.B.(Craft Your Perfect Bourbonの略。95プルーフ)」、2019年には青ラベルの「フル・プルーフ(114プルーフ)」、2020年6月からは橙ラベルの「シングル・バレル(97プルーフ)」が追加されました。これらは1年に1バッチの限定リリースとなっています。

兎にも角にもウェラー・ブランドの人気は凄まじいものがありますが、その際たるものと言うか被害者?はウェラー12年です。一昔前は20ドル程度、現在でも希望小売価格は約30ドルなのですが、150〜250ドル(或いはもっと?)で売られることもあるのです。この悲劇の遠因はパピー・ヴァン・ウィンクル・バーボンであると思われます。
もともとウェラー12年はその熟成年数の割に手頃な価格であり、市場に少ない小麦バーボンとしてバーボン・ドリンカーから支持を得ていました。某社がリリースする10年熟成のバーボンが100ドルを超える希望小売価格からすると、如何に安いかが分かるでしょう。30ドルのバーボンなら、普通は5〜6年熟成が殆どです。2000年代半ばまでにウェラー12年の人気は急上昇しましたが、それでもまだ希望小売価格または適正価格で酒屋の棚で見つけることが出来たと言います。しかし、その後の恐るべきパピー旋風がやってくると状況は変わりました。2000年代後半から2010年代初頭にかけて、著名人や有名なシェフがパピー・ヴァン・ウィンクル15年、20年、23年を貴重なコレクター・アイテムに変えてしまったのです。それらは店の棚から姿を消し、流通市場で天文学的な価格に釣り上げられ、欲しくても手に入らない、飲みたくても飲めない聖杯となりました。ブームとは「それ」に関心のなかった大多数の層が「それ」に関心を寄せることで爆発的な需要が喚起され起こる現象です。バーボン・ドリンカーと一部のウィスキー愛好家だけのものだったパピー・バーボンは、一般誌やTVでも取り上げられる関心の対象となりました。パピー・バーボンが手に入らないとなれば、次に他のヴァン・ウィンクル製品が着目されるのは自然の勢いだったでしょう。「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」や「ヴァン・ウィンクル・ロットB」というパピー・バーボンより安価だったものも軒並み高騰しました。そこで更に次に目を付けられるのはヴァン・ウィンクル製品と同じ小麦レシピを使ったバッファロー・トレースの製品という訳です。実際のところウェラー・ブランドとヴァン・ウィンクル・ブランドの違いは熟成年数を別とすれば、倉庫の熟成場所とジュリアン3世が選んだ樽かバッファロー・トレースのテイスターが選んだ樽かという違いしかありません。それ故「パピーのような味わい」の代替製品としてウェラー12年が選ばれた、と。また同じ頃、パピー・バーボンを購入できない人向けに「プアマンズ・パピー」というのがバーボン系ウェブサイトやコミュニティで推奨され話題となりました。これは「高級なパピーを飲めない人(貧乏人)が飲むパピー(の代用品)」という意味です。具体的には、ウェラー・アンティーク107とウェラー12年を5:5もしくは6:4でブレンドしたもので、かなりパピー15年に近い味になるとされます。こうしたパピー・バーボンの影響をモロに受けたウェラー12年は見つけるのが難しくなっています。ただし、それは「パピー」のせいばかりではありません。低価格の優れたバーボンを見つけてバンカリングすることは、昔からバーボン・マニアがして来たことです。詰まるところそれはバーボン・ブームの影響であり、単純な需要と供給の問題…。
まあ、それは措いて、そろそろ今回のレヴュー対象W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴの時間です。ちなみにバッファロー・トレース蒸留所の小麦バーボンのマッシュビルは非公開となっています。

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE NAS 90 Proof
推定2016年ボトリング(おそらくこのボトルデザイン最後のリリース)。トフィー→苺のショートケーキ、古びた木材、赤いフルーツキャンディ、穀物、僅かな蜂蜜、湿った土、少し漢方薬、一瞬メロン、カレーのスパイス。とてもスイートなアロマ。まろみと水っぽさを両立した口当たり。パレートは熟れたチェリーもしくは煮詰めたリンゴ。余韻はさっぱり切れ上がるが、アーシーなフィーリングも現れ、オールスパイスのような爽やかな苦味も。
Rating:86.5→85/100

Thought:全体的に甘さの際立ったバーボン。スティッツェル=ウェラーの良さを上手くコピー出来ていると思います。同じウィーターで度数も同じのメーカーズマークと較べると、こちらの方が甘く酸味も少ない上に複雑なフレイヴァーに感じました。比較的買い易い現行(これは一つ前のラベルですが…)のロウワー・プルーフのウィーテッド・バーボンとしては最もレヴェルが高いと思います。ただし、私が飲んだボトルは開封から半年を過ぎた頃から、やや甘い香りがなくなったように思いました。レーティングの矢印はそれを表しています。

Value:とてもよく出来たバーボンです。けれど世界的にも人気があるせいか、ウェラー・ブランドというかバッファロートレース蒸留所のバーボン全般が昔より日本での流通量が少なくなっています。価格も一昔前は2000円代で購入できてたと思いますが、現在では3000円代。それでも買う価値はあると個人的には思います。3000円代半ばを過ぎるようだとオススメはしません。あくまで安くて旨いのがウリだから。


ありがたい事にスティッツェル=ウェラー蒸留時代のスペシャル・リザーヴもサイド・バイ・サイドで飲めたので、最後におまけで。これは大宮のバーFIVEさんの会員制ウイスキークラブで提供されたもの。ワンショットでの試飲です。

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(画像提供Bar FIVE様)

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE 7 Years Old 90 Proof
推定80年代後半ボトリング。バタースコッチ→黒糖、ナッティキャラメル、ディープ・チャード・オーク、柑橘類のトーン、煮詰めたリンゴ、ベーキングスパイス。味わいはレーズンバターサンド。余韻は穀物と同時にタンニンやスパイスが現れ、後々まで風味が長続きする。そもそも熟成感がこちらの方が断然あり、香りも余韻も複雑で強い。
Rating:87/100


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オールド・バーズタウンはウィレット蒸留所の代表的な銘柄。このブランドがいつ誕生したのか明確ではありませんが、ウィレットの公式ホームページの年表によれば1940年代とされ、1935年に蒸留所を開設してからの最初のブランドであろうと見られます。海外の情報では、その名の由来はバーボン生産の一大拠点でありウィレット蒸留所のある町の名前からではなく、1950年代に活躍したハンディキャップのある競走馬からだとされています。ただし、その馬はレキシントンのカリュメット・ファームで育成され、ネルソン郡バーズタウンにちなんで命名されました。足首と股関節に問題があったため4歳までレースに出走しなかったものの、その後4年間レースに出場し当時のトップ・レヴェルの高齢馬の一頭となったとか。しかし、これだとブランドの発売時期と「バーズタウン」と名付けられた馬の活躍時期とが一致しません。日本での情報では、ブランド名は当時の蒸留所のオウナーであるトンプソン・ウィレットもしくはその父親ランバートが所有していた競走馬の名前から付けられた、とされています。どちらにせよ、こうしたブランド・ストーリーは真偽の程が定かではなく、何となく後から取ってつけたものであるような気がしますね。

さて、ここらでオールド・バーズタウンの初期ボトルにでも言及したいところなのですが、実は画像検索でそのような古いボトルは殆ど見つかりません。広告で見る限り、4年熟成90プルーフとボトルド・イン・ボンドがあり、また86プルーフのヴァージョンもあったようです。あと年代は判りませんが、6年熟成90プルーフや7年熟成BiBの物も見かけました。その他に画像検索で見つかり易い物には70年代後半ボトリングのケンタッキー・ダービーにちなんだデカンターがあります。78年のオートモービル・カー・デカンターもありました。70年代に入りめっきり売上の減少したバーボンにあって、こうした何らかの記念デカンターは比較的売れる商材であったため、他にもオールド・バーズタウンのデカンターはあるのかも知れませんが、そもそもビームやエズラやマコーミックに較べるとウィレットの製品は絶対的に流通量が少ないような印象を受けます。

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(様々なオールドバーズタウン。画像提供K氏)

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我々日本人にとって馴染み深いオールド・バーズタウンと言えば、80年代半ば頃?から輸入されているブラック・ラベルに馬の頭と首のみがゴールドで描かれた物でしょう。ブラザー・インターナショナルが輸入した物に付いていたカード(上画像参照)を読む限り、ブラザーが正規輸入代理店となって初めて日本にオールド・バーズタウンを広めたのだと思われます。ジャパン・エクスポートのブラック・ラベルには6年熟成86プルーフと12年熟成86プルーフがありました。その後、後述する2016年まではブラック・ラベルのデザインがスタンダードなオールド・バーズタウンになったようで、輸出国の違いによりNAS(もしくは4年熟成)86プルーフと90プルーフがあります。見た目が豪華なゴールド・ラベルには10年熟成80プルーフとNAS80プルーフがありました。使われる色が豪華だと中身のスペックもより上位なのが通例なのに、ゴールドの方がブラックより格下という珍しいパターンですね。寧ろスタンダードなブラックより上位の物にはエステート・ボトルドというのがあり、それには初期の頃と同じ「オールド・レッド・ホース」が描かれたラベルと、丸瓶や角瓶と違うずんぐりしたボトルが採用されています。おそらく日本向けの15年熟成101プルーフ、10年熟成101プルーフ、そしてもう少し後年のNAS101プルーフがありました。

ウィレット蒸留所は1980年代初頭、訳あってバーボンの生産を停止し、同社は80年代半ばにケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)として再スタート。その当初は独自の蒸留物でオールド・バーズタウンのブランドをリリースするのに十分なエイジング・バーボンのストックがあったと思われますが、在庫が枯渇する前に余所の蒸留所からバーボンを調達するようになりました。KBDのバーボンの大部分はヘヴンヒルから来ていると見られ、90年代以降のオールド・バーズタウンは概ねヘヴンヒル原酒で構成されていたと考えられています。トンプソン・ウィレットの娘婿でKBDの社長エヴァン・クルスヴィーンは、蒸留所を再開する夢を持ってオールド・バーズタウンやジョニー・ドラムといったブランドを存続させ、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリーク等のスモールバッチ・ブティック・バーボンを相次いで発売しました。こうした自社ブランドの販売、他社のためのボトリングやブローカーとしての活動が実り、2012年、遂にエヴァンとその家族の長年の夢は達成され、蒸留所は再び蒸留を開始します。そして熟成の時を経た2016年、ようやく自家蒸留による「新しい」オールド・バーズタウン90プルーフとボトルド・イン・ボンドがリリースされました。その両者のラベルはトンプソン・ウィレットがプレジデントだった時代のオールド・バーズタウンを再現したものです。
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どちらもウィレット・ファミリー・エステートのボトルほどエレガントではない古典的なバーボンらしいボトルに詰められています。スタンダードな90プルーフのラベルのフロントには馬がいません。代わりに紋章が描かれたシンプルなもの。クリームとブラウンの色合わせと相俟ってカッコいいですよね。一方のボトルド・イン・ボンドのラベルは、これぞオールド・バーズタウンという邸宅の前に佇む牧歌的な馬が描かれたもの。当初はキャップの色がゴールドでしたが、2018年後半あたりにブラックに変更されたようです。
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(画像提供K氏)
ちなみにこちらのBiB、初めは蒸留所のギフトショップでのみ売られ、その後ケンタッキー州だけでリリースされるようになりました。もしかすると現在ではもう少し広い範囲に流通しているのかもですが、私には詳細は分かりません。それはともかく、今回、現行の新しいオールド・バーズタウン90プルーフのレヴューと一緒に、日本では一般流通していない希少なBiBを飲めることになったのはバーボン仲間のK氏よりサンプルを頂いたお陰です。画像提供の件も含め、改めて感謝致します。ありがとうございました!
では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。

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OLD BARDSTOWN 90 Proof
推定ボトリング年不明、購入は2019年。プロポリス配合マヌカハニーのど飴、熟したプラム、コーン、グレープジュース、食パン、干しブドウ、干し草。円やかな口当たりながら若いアルコール刺激もある。味わいはグレープキャンディと穀物を感じ易い。余韻はミディアム・ショートで、最後にレモンジンジャーのような苦味が残るのは悪くない。
Rating:86.5/100

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OLD BARDSTOWN Bottled-in-Bond 100 Proof
推定ボトリング年不明。フロランタン、焦げ樽、蜂蜜、熟したプラム、グレイン、塩、フローラル。若干ウォータリーな口当たり。余韻はあっさりめで度数から期待するほど長くない。キャラメル系の香りはこちらの方が強いものの、フルーティさはスタンダードの方が感じ易かった。また、バレルプルーフでない50度のバーボンでここまで塩気を感じたことはない。
Rating:86.5/100

Thought:どちらも、同社の上位銘柄でありマッシュビル違いとなるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比べると、共通項もありつつグレイン・ノートが強く出ている印象。スタンダードとボトルド・イン・ボンドの違いは後者が単に濃くなっただけだろうと事前予想していたのですが、思ったより異なるフレイヴァーを感じました。ボトリング・プルーフが上がったことで何かしらのフレイヴァーが感じ易くなったと言うよりは、バッチングに由来する違いのような気がします。或いは熟成年数に少々差があるのでしょうか? 海外のレヴュワーで、プルーフの違いを除くと両者の違いは、通常のオールド・バーズタウンには4年に達していない幾つかのバレルがブレンドされてるのではないか(BiBは法律上確実に4年以上)、という意見を述べている人を見かけました。まあ、実際のところはよく判らないのでそれは措いて(追記あり)、現在のウィレット蒸留所は6種類のマッシュビルでウィスキーを造り、それぞれのレシピによってバレル・エントリー・プルーフも変えています。以下に纏めておきましたので参照下さい。

①オリジナル・バーボン・レシピ
72%コーン / 13%ライ / 15%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

②ハイ・コーン・バーボン・レシピ
79%コーン / 7%ライ / 14%モルテッドバーリー / 103または125バレルエントリープルーフ

③ハイ・ライ・バーボン・レシピ
52%コーン / 38%ライ / 10%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

④ウィーテッド・バーボン・レシピ
65%コーン / 20%ウィート / 15%モルテッドバーリー / 115バレルエントリープルーフ

⑤(ハイ・ライ)ライ・ウィスキー・レシピ
74%ライ / 11%コーン / 15%モルテッドバーリー / 110バレルエントリープルーフ

⑥(ロウ・ライ)ライ・ウィスキー・レシピ
51%ライ / 34%コーン / 15%モルテッドバーリー / 110バレルエントリープルーフ

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そして、オールド・バーズタウンのマッシュビルは海外で普及している情報では①とされています。バーボンをメインで扱うどのウェブサイトを閲覧してもそう書かれています。しかし、ウィレット蒸留所と縁の深いバーGのマスターによるとオールド・バーズタウンのマッシュビルは②のハイ・コーン・レシピと断言されていました。ビーム社で言うところのジムビーム・ホワイトに当る存在、つまり当該蒸留所のエントリー・クラスのバーボンであり代表的銘柄となるオールド・バーズタウンに、バーボンに於いてかなり一般的な穀物配合率の①のレシピを用いていても不思議ではありません。ただし、私が飲んだ感想だと②のレシピという印象を受けました。ウィレットの自社蒸留原酒は、他のケンタッキーの大手蒸留所のバーボンに較べるとアロマにライウィスキーぽいフルーティさが常に感じられるのですが、ケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比較すると、オールド・バーズタウンはよりコーン率が高そうな味わいに思ったのです。
ところで、ウィレットのマッシュビルで興味深いのは、モルテッドバーリーの割合が一般的なバーボンよりも高いことです(だいたいのバーボンは5〜12%が殆ど)。①や②のレシピなどはモルテッドバーリーがライよりも大きな成分であるため、糖化のための酵素の役割としてだけでなくフレイヴァー要素を担わせているように思われます。おそらくモルトの含有量が増えると、一般的なバーボン・フレイヴァーから半歩外れるように感じる人もいるのではないでしょうか。まあ、実際にはモルテッドバーリーの配合率より酵母の違いやポット・スティルでのディスティレーション、或いは②に関してはバレル・エントリー・プルーフの低さの方がフレイヴァーにとって重要なのかも知れませんけれども。新しいオールド・バーズタウンを飲んだことのある皆さんはそのフレイヴァーについてどう思われましたか? どしどしコメントよりご感想をお寄せ下さい。

Value:ウィレットは長い歴史を持つ蒸留所ですが、規模や製造工程の点から言うと新しいクラフト蒸留所に近しいでしょう。まるで工場のような大手蒸留所と比べて生産規模の小さいクラフト蒸留所の製品はどうしてもお値段が高くなります。4年未満熟成のクラフト・バーボンで40ドルを超えることは珍しくありません。それなのに、ウィレットのプレミアムな一部の製品を除くレギュラー製品は、自身の新しい蒸留物であるにも拘らず、従来品とさほど変わらない値段が維持されています。オールド・バーズタウン90プルーフはアメリカでは17〜25ドル程度。日本での小売価格はだいたい2500〜3000円程度です。スモールバッチ・バーボンであるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOやポットスティル・バーボン、また同じブランドのオールド・バーズタウン・エステート・ボトルド等と較べると、やや「若さ」を感じる味わいではありますが、それらより安い2000円代で買えるこのスタンダードは完全にオススメ。なぜなら既に十分美味しいのですから。
90年代の調達されたバーボンから造られたオールド・バーズタウンも勿論悪くはありませんでした。しかし、新ウィレット原酒はソースド・バーボンとフレイヴァー・プロファイルが異なるだけでなく、はっきり言ってレヴェルが違うと個人的には思っています。初めて新ウィレット原酒を味わった時は、初めてMGP95%ライを飲んだ時と同じくらい衝撃を受けました。昔のオールド・バーズタウンにピンと来なかった方にも、是非とも再度試してもらいたいところです。


追記:現行オールド・バーズタウンの三つはそれぞれ、90プルーフのスタンダードは4〜5年熟成、ボトルド・イン・ボンドは5年熟成、エステート・ボトルドは6年熟成との情報が入りました。またオールド・バーズタウンにスモールバッチ表記は無いものの、おそらくどれも21〜24樽でのバッチングのようです。と言うか、ウィレットはスモールバッチ専門なので、他の製品も今現在はそれ位のバッチ・サイズなのでしょう。

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ワイルドターキー・マスターズキープ・デケイズはシリーズの第二弾として、ワイルドターキー蒸留所でのエディ・ラッセル自身の勤続35周年を祝ってリリースされました。3人兄弟の末っ子として生まれたエディーことエドワード・フリーマン・ラッセルは、1981年6月5日に同蒸留所でファミリー・ビジネスに参加。当初の肩書は本人曰く「ジェネラル・ヘルパー」でした。草刈りのような雑務や樽の移動から始まって次第に任務を広げ、勤続20年となる頃には樽の熟成とリックハウスの管理責任者となり、2015年には遂に偉大なる父ジミー・ラッセルと並ぶマスターディスティラーに就任したのです。
デケイズ発売前後のワイルドターキーの限定リリースを見ると、父ジミーの勤続60周年を記念した「ダイヤモンド・アニヴァーサリー」を2014年、エディーがマスターディスティラーとして初めの一歩を踏み出した「マスターズキープ17年」を2015年、オーストラリア市場のみでの販売だった「マスターズキープ1894」を2017年、ジミーの過去の作品を再現するかのような「リヴァイヴァル」を2018年とほぼ年次リリースしています。ここから判る通り、デケイズは当初は2016年半ばにリリースされる予定でした。それでこそ35周年に合致しますからね。しかし、理由は不明ながら殆どの市場で2017年2月まで突然リリースが延期されたそう。おそらくボトリング自体は2016年6月頃までになされたと見られます。日本でも延期されたかどうかはよく判りませんでしたが、当時のサントリーの公式プレスニュースでは2016年11月15日発売で、日本国内3480本限定とあります。

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エディの名を冠しているとは言え2015年のマスターズキープ17年は、熟成環境やプルーフに於いてかなり特殊かつ偶発的なバーボンでした(MK17については過去投稿のこちらを参照下さい)。対してデケイズは10年から20年熟成のブレンドなので、エディが意図的にクリエイトしたフレイヴァー・プロファイルのバーボンと言えるでしょう。ブレンドに使用されたバレルは、フォアローゼズ蒸留所の道路を挟んですぐ向かいにある、ワイルドターキーが1976年から所有するマクブレヤー・リックハウスの中央階と上層階から選ばれました。同社の「最も希少かつ最も貴重な樽」の幾つかです。そしてそれらを「17年」よりだいぶ高い104プルーフ、ノンチルフィルタードでボトリング。若いバーボンの活気をバックボーンに、古いバーボンの深みも兼ね備えたバランスが目指されたのかも知れませんね。

ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。従来まで107だったのを2004年に110へと上げ、2006年には再度115へと上げています。つまりバレル・エントリーの違いだけに着目すると、
①2004年以前の107プルーフ
②2004年から2006年の110プルーフ
③2006年から現在に至る115プルーフ
と、異なるエントリー・プルーフのバレルがワイルドターキーにはある訳です。デケイズを構成する10〜20年熟成のバレルには、理論上これら三種の全てが含まれていることが可能です。それ故、2012〜2013年のレアブリードを除くと、デケイズは三つのバレル・エントリー・プルーフを使用した唯一のワイルドターキー・バーボンかも知れないと示唆されています。
バレル・エントリー・プルーフに限らず、蒸留所にとって何かしらの変化は珍しいことではありません。それは法律の変更、所有権の変遷、ディスティラーの交代、ブランドの繁栄と凋落、テクノロジーの発展などにより起こり得ます。そして消費者の嗜好もビジネスのあり方も変わり、あらゆるものが時代により変化するのが常。この特別なリリースのワイルドターキーの名称「デケイズ」は年月に関わるワードであり、長期に渡る時代の移り変わりという含みと中身のバーボンの内容を的確に表していると言ってよいでしょう。「Decade」は十年間を意味する言葉です。そこで10〜20年熟成だから複数形の「Decades」と。そして、それだけの歳月にはバレル・エントリー・プルーフに代表される変化があった、と。
ちなみに日本ではこの「Decades」を「ディケイド」と表記するのが一般的。でも実際の発音は「デケイズ」が近いです。正規輸入元だったサントリー自ら「ディケイド」と表記しているので、販売店がそれに倣うのは仕方ないのですが、上の理由によってワイルドターキーが付けた名前なのだから、敬意を払って「s」は省略せずにせめて「ディケイズ」としたほうが良いのでは…。まあ、ここで文句を言ってもしょうがないですけれども。

ところで、デケイズにはバッチ2があるそうです(発売も同じ2017年)。全てのバッチには独自性があり、完全に同じにすることは出来ません。この世に完全同一なバレルが存在しないからです。しかし、蒸留所のマスターブレンダーは、意図的な変更をしない限りバッチに一貫性を齎すのが基本的な仕事です。バッチ1に使用された樽は全てマクブレヤーからでしたが、バッチ2は殆どがマクブレヤーからとされています。つまり、言葉を換えれば少数のバレルは他のウェアハウスから引き出されたということ。エディ・ラッセルは「ストーリー」を一貫させるよりもフレイヴァー・プロファイルを一貫させることを目指した筈です。マーケティング担当者がバーボンの箱やラベルに印刷したストーリーは、常に100%正確であるとは限りません。実際のところ、蒸留技師はマーケティングには余り注意を払わないと言うか関心がないと思います。ディスティラーの職務は物語を書くことではなくウィスキーを造ることですから。バッチ1と2を飲み較べた海外のターキーマニアによると、どちらも同じくらい素晴らしいバーボンであり、バッチ2も紛れもなくデケイズであり、あらゆる点でその名前に忠実とのこと。
では、そろそろ時代を超えたワイルドターキーを注ぐとしましょう。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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WILD TURKEY MASTER’S KEEP DECADES 104 Proof
BATCH №:0001
BOTTLE:68703
色はラセット・ブラウン。接着剤、強いアルコール、香ばしい焦げ樽、銅、ビターなカラメルソース、オレンジ、焼きトウモロコシ、ブラウンシュガー、ナツメグ、パイナップル、レザー、輪ゴム。ディープ・チャード・オークが支配的なアロマ。少しとろみのある口当たり。口の中ではグレインとオレンジピールが感じ易く、刺激がビリビリと。味わいはけっこうドライ。余韻は長く、土と煙が現れ、消えゆく最後にふわっと苦味が残る。
Rating:86.5(87.5)/100

Thought:全体的に焦げの苦味が特徴的な印象。10年から20年熟成のブレンドとのことですが、若そうなアルコール感がガツンとありながら、枯れた風味とビタネスが混在するバランス。前回まで開けていたMK17年と較べると、余韻に渋みがないのは好ましく感じました。ですが、MK17年よりもツンとくる刺激臭はかなりありました。そのせいかその他の香りが感じにくく、一、二滴の加水をした方が甘い香りが立ちましたし、味わいにもフルーツを感じ易かったです。そのため上のレーティングは括弧内の点数が加水した場合のものとなっています。もしかして、20数年後に開封して飲んだら微妙な酸化の進行でとんでもなく美味しかったのでしょうかね? そんなポテンシャルを僅かに感じさせる一品でした。ただし、デケイズもまたMK17年と同じくオークのウッディネスが強過ぎて、バーボンの魅力である甘いノートを抑えてしまっているような気はします。

Value:アメリカでの希望小売価格は150ドル。日本でも同じくらいで15000〜17000円が相場。オークションだともう少し安く購入することも出来るかも知れません。本国での味わいの評判はなかなか良いのですが、やはりと言うか少し値段が高いという評価を受けています。自分的には正直言ってデケイズを買うならレアブリードでいいかなと思いました。ただ、確かに長期熟成酒のテイストやクラシック・ワイルドターキーっぽさも少しあるので、そこを求めるなら購入を検討してもよいでしょう。或いは、箱やボトルやキャップは豪華でめちゃくちゃカッコいいので、金銭的に余裕があるのなら贅沢な気分を味わうために購入するのはアリだと思います。

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バーボン・マニアにとってもデカンター・コレクターにとっても、或いはチェス・マニアにとっても、面白い存在となっているのがオールド・クロウ・セラミック・チェスメンです。

本物のチェス・ピースと同じように、反するカラーのライトなゴールデン・ブロンズとダークなヴィリディアン・グリーン(*)の各16個のボトルは、キング1個、クイーン1個、ビショップ2個、ナイト2個、キャッスル(ルーク)2個、ポーン8個で構成され、計32個のボトル/デカンターの完全なセットにメール・オーダーで買えた(当時22.95ドル)ファー素材のプレイング・マットを揃えれば実際にチェスで遊べました。ハンド・グレイズされたセラミックのボトルは造形のしっかりしたチェス・ピースの形になっていて、高さが12〜15 1/2インチ、それぞれに10年熟成のオールド・クロウ・バーボンが入っています。対戦相手の駒を取るたびに中身を飲むという遊び方が想定されていたのでしょうか(笑)。各ピースにはフェイク・レザーの箱が付いていました。チェス盤となるマットは2 1/2インチの金枠が付いた豪華なデザインで45 x 45インチです。1969年発売の限定生産。ハングタグにはご丁寧に「セットの構築は一度に1ピースづつでも出来るけど、もし目標が32個なら、長い時間かけると限定版だからなくなっちゃうよ、デカンターは再生産されないんだからね!」的なことが書かれていました。美しいオールド・クロウ・セラミック・チェスメンの完全なセットはコレクターズ・アイテムであり宝物なのです。
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バーボン飲みにとっては中身こそが気になるところですが、このバーボン、海外のマニアの評価は頗る高く、ウィスキー・ライターのフレッド・ミニックは2015年のBBCのインタヴューでオールド・クロウ・チェスメンのデカンターが今までに味わったバーボンの中で最高のものであると語りました(現在でもそうなのかは分かりません)。彼の影響力の大きさからか、その発言後チェスメンの人気は一気に騰がったと言うか、よく取り上げられるようになった印象があり、その他のバーボン愛好家からも最高級のバーボンの一つと目されています。
この10年熟成のオールド・クロウについて多くの人が言うのは、彼らが今まで見た中で最も暗い色合いをもつバーボンだということ。それも信じ難いほどに。なにしろ、およそ15年熟成で120プルーフを越えるジョージ・T・スタッグと並べて比べた方もいました。それほどまでに濃ゆい色合いなのです。10年熟成で86プルーフに過ぎないバーボンがなぜ? 想像でしかありませんが、10年は最も若い年数であり、実際には10年を大幅に越える熟成年数のバレルから引き出された原酒が混和されているのではないでしょうか。60年代のマーケットでは既にバーボンの売り上げは減少傾向にあったと思われます。そこで蒸留所には峠を過ぎたバレルの在庫が増えた。一般大衆に最も売れるバーボンは4~6年熟成が殆どであり、ケンタッキーの気候ではいいとこ8年程度の熟成が限度とされるのがディスティラーの常識だった当時であれば、10年を越えるバレルはもはや売れる代物ではなく、それを何とかある程度の量上手く処分する方策は、容れ物を豪華にし、何かの記念として限定的な特別品としてリリースすることだった、と。デカンター・ビジネスは飽くまでデカンターが主でありコレクターに向けた販売、よって蒸留所はデカンターに常に最高のウィスキーを入れた訳ではなかったという話もありますから、もしかするとオールド・クロウ・チェスメンに当時としては売り物にならない15~20年近い熟成古酒を使っている可能性もなくはないのでは…。まあ、憶測です。逆に奇跡的に色づいた10年物ということだってあるかも知れないし。
味わいに関しても、同じナショナル・ディスティラーズの看板製品オールド・グランダッドと同じようなバタースコッチが多分にありつつ、更に複雑で深いスパイスをも有すると評されています。そんな好評価を受けるセラミック・チェスメンですが注意点もあります。一つは古いデカンターには最高のシールがないこと、つまり気密性の問題。こうした容器が何年にも渡って悪条件で保管されていると、容量が低下したり、著しく酸化が進んでいたり、カビ臭い風味がする可能性があります。もう一つは70年代までのポーセリン・デカンターと同様に鉛の懸念。古い陶磁器のデカンターは、着色に使用される釉薬に鉛が含まれていた場合に焼成が誤って行われていると、ウィスキーに鉛が侵出している危険性が指摘されています。ただ、これは許容範囲のリスクだと個人的には思いますし、チェスメンのボトルは鉛問題はあまり聞き及びません。が、前者のカビっぽい臭いの指摘はレヴューで散見されます。いずれにせよ、見た目ちゃんとに密封されていながら液量の少ないものはリスキーということです。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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OLD CROW CERAMIC CHESSMEN (Pawn) 86 Proof
前回投稿したオールド・ヒッコリーと同じ熟成年数とプルーフ、かつボトリング年も近いので飲み較べると面白いかなと思い注文してみました。
どちらもダスティな古いコーン・ウィスキーのフィーリングが少々ありつつ、こちらの方がレーズンが強いように感じました。私の飲んだものには上述のカビ臭さはありませんし、酒質もクリア。オールド・バーボンらしいキャラメル香とスパイス感、またダーク・フルーツのテイストは存分に味わえました。けれど正直言って世界最高クラスのバーボンとは思えなかったです。
件の色の濃さについては、実は飲んだバーの照明が凄く暗いため、よく分かりませんでした。もしくは注文したバーボンのどれもが比較的色の濃いめのバーボンばかりだったため、差が判りにくかったのかも知れません。
Rating:86.5/100


*付属のハングタグには「almost black Verdian Green」と表現されていますが、ヴァーディアン・グリーンという色はあまり一般的ではないので、ここでは所謂「ビリジアン」と解釈しています。

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日本で長らく親しまれてきたワイルドターキー12年は2013年に終売となり、それに代わって日本市場でリリースされ始めたのがワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴです。熟成年数が一年増えましたが、ボトリング・プルーフが101から91へと下がりました。頑なにワイルドターキーを愛して来たファンからすると、熟成年数は偖て措いても、プルーフの変更に引っ掛かった方も多いのではないかと思います。ターキーは101(ワン・オー・ワン)だろ、と。斯くいう私がそうでした。とは言え、エイジ・ステイトメントを保った長熟のターキーが手軽に飲めるだけでも、ありがたい状況なのかも知れません。そもそも12年101の発売停止は供給維持が難しくなったためと見られ、長期熟成原酒の減少は何もワイルドターキー蒸留所に限った話ではなく、アメリカ国内でのバーボン需要が爆発している昨今では業界全体がそうでしょう。それに穿った見方をするなら、輸出専用だった12年が13年ディスティラーズ・リザーヴへと転換されたのと近い時期に、ダイヤモンド・アニヴァーサリーのリリースやマスターズ・キープ・シリーズのような長期熟成原酒をメインとした限定製品の年次リリース開始という出来事があり、要は長熟ウィスキーの割り当ての変化だと思えなくもない。そんな渦中にあってもなお、どれだけ要望があろうと12年101を国内リリースせず、日本へ向けて13年をアルコール度数が5%低いだけで継続してくれたワイルドターキー(の親会社?)には感謝すべきなのかも。宝物のような12年101は1999年にアメリカ国内での流通がストップした後も長きに渡って日本では容易に手に入りました(勿論、8年のエイジ・ステイトメントを保った101もそう)。それはアメリカでバーボン人気が復活する以前、彼の国の殆どの消費者がプレミアム・バーボンに見向きもしなかった80~90年代の暗黒時代(供給過剰時代)に、せっせと高額なバーボンを輸入してくれた日本に対する感謝の気持ちからだったのかも知れません。いや、そう思いたい。単なるビジネス上の判断だったと解釈するより、その方がロマンがありますから。

さて、そこで今回の13年ディスティラーズ・リザーヴですが、判りやすい熟成年数とプルーフの変更以外にもう一つ特徴的な注目点があります。箱およびバックラベルの文言を以下に引用しましょう。
ジミー&エディ・ラッセルという父と息子の本物の蒸留技術から生まれたワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴは、最高のキャラクターを備えたケンタッキー・ストレート・バーボンです。この特別リリースのバーボンは慎重に選択された蒸留者のお気に入りであり、低いプルーフで樽詰めされ、伝説的な「B」ウェアハウスの低層階でゆっくりと熟成されました。そこは卓越した品質のバーボンを造るのに適した涼しい温度、高い標高、大きな空気循環が組み合わさった場所です。メロウなオークのノート、リッチなヴァニラ、洋梨のヒントと長いスパイス・フィニッシュを備えたワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴは、ジミー&エディ・ラッセルの世界的に有名な職人気質のショーケースであり、ワイルドターキー・バーボンの力強さと特有のキャラクターを鮮やかに表しています。

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壮大な物言いはご愛敬として、注目はB倉庫の下の方の階で熟成させたと言い切っているところです(*)。これはシングルバレルのケンタッキー・スピリットやアメリカ国内で入手しやすいラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルのストアピックのように、例えばG倉庫の4階の何番バレルとまでは場所や樽の特定は出来ないものの、流通量の少ないケンタッキー・スピリットや海外のストアピックが入手しにくい日本人にとって、13年ディスティラーズ・リザーヴはシングルバレルではないとは言え熟成場所による味わいの違いを手軽に経験する機会の提供と言えるでしょう。ワイルドターキー蒸留所のオンサイト(タイロン)とオフサイト(キャンプネルソンやマクブレヤー)を含めた29の熟成庫は、どれもワイルドターキーのコア・プロファイルは共有するかも知れませんが、それぞれスパイスやベーカリーやフルーツ等のプロファイルのバランスに違いが生じるとされます。またワイルドターキーの熟成庫では、一説には上層階で熟成されるとアーシーに、下層階で熟成されるとフルーティになりやすいという話もありました。Bウェアハウスは、おそらくAウェアハウスと共に1894年頃建てられたかなり古い倉庫の一つです。エディの息子で現在ブランド・アンバサダーのブルース・ラッセルの個人的なお気に入りの倉庫なのだとか。では、そろそろ飲んでみたいと思います。

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Wild Turkey 13 Years Distiller's Reserve 91 Proof
推定2014年ボトリング。ヴァニラ→クレームブリュレ→アーモンドキャラメル、香ばしい焦樽、熟したプラム、洋梨、ライスパイス、湿った木材、塩昆布、ラムネ菓子。基本的に甘い焦樽フルーツのアロマ。口当たりはサラッとしている。パレートはオレンジぽさとハニー。余韻は度数のわりには長めで、ほんのりフルーティな甘味もあるが少々渋く、芳醇とは言い難い。全体的に僅かに薬っぽいノートが感じられる。
Rating:86.5/100

Thought:正直言って、評価の難しいバーボンだと思いました。私には熟成庫の違いによるプロファイルを云々できる経験はありませんので、前回まで開けていた青12年との比較になりますが、何と言うか、従来までの12年101が有していた最も美味しい部分が欠落しているのに、それでもなお12年101と通低するものも感じ、短絡的に切り捨てられないのです。多分これが101プルーフのボトリングだったとしても、複雑さの点に於いて青12年には敵わなかったのではないかと思います。ですが「較べる脳」でなく単体で飲めば、ワイルドターキーの特徴的な濃厚な炭の香りはあるし、繊細なフルーツ感もあり悪くありません。強いて言うなら、旧来の12年はもっと濃密なヴァニラとダークフルーツを想起させるのに対し、13年は穀物とフレッシュフルーツを想起させます。これはプルーフィング・ダウンの結果であるような気もするし、熟成場所の影響のような気もします。皆さんはどう思うでしょうか? コメントよりご意見お待ちしております。

Value:販売価格は店舗により異なりますが、現行品で概ね5000~6500円程度。私はラベルの新しくなった物を飲んだことがないのですが、個人的にはこれに6500円出すのであれば、8年を2本買うかオークションで旧来の12年を買いたいです。または、クラフトディスティラリーの少々割高だけれど新しい味に挑戦することを選びます。けれども、現8年を3000円、旧12年を12000円とすると、13年の6500円はちょうど中間くらいの価格となり、存在意義のない製品ではないし、妥当なお値段にも思えます。アメリカ人にとっては13年にプレミアム(上乗せ価格)を支払うくらいならダイヤモンド・アニヴァーサリーを購入した方がいいと言われますが、日本人にとっては単純に好みで決めればいいこと。おそらく12年が好きだった人、或いはスコッチも嗜む人にとっては現行8年より購入価値のある製品だと思います。


*実を言うと、このラベルより新しい現行の13年ディスティラーズ・リザーヴの説明文からは、「B」の文字が抜けています。おそらく現在の物は、こちらと同じく倉庫の低層階で熟成されていますが、Bウェアハウス以外からも樽が選ばれるように変更されたものと推測されます。海外のターキーマニアで飲み較べした方によると、品質や基本プロファイルにそれほどの変化はなく、僅かに甘さとスパイスのバランスが異なる程度とのこと。

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