バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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サーデイヴィスは、世界的な歌姫でありポップスターのビヨンセとモエ・ヘネシーとのコラボレーションで生まれたアメリカン・ウイスキーです。2024年9月4日に発売されました。これはビヨンセ・ノウルズ=カーターの誕生日が9月4日なので、それに合わせています。彼女は自分の誕生日の日付から数字の「4」が好きだと公言しており、過去には『4』というアルバムも作っていました。サーデイヴィスのボトリング・プルーフが88、つまりアルコール度数が44度なのも彼女の数字の4への拘りから来ています。ビヨンセは音楽のみならず、ファッションでは「IVY PARK(アイヴィ・パーク)」、フレグランスでは「Cé Noir(セ・ノワール)」 、ヘアケアでは「Cécred(セクレド)」など多岐に渡る分野で活躍する敏腕のビジネス・ウーマンでもあり、ウィスキーのブランド「SirDavis」の立ち上げはそれらの起業活動に続くものでした。今では彼女だけがやっていることではないですが、黒人女性として年配の白人男性が専有していると思われた領域に切り込んだ訳です。実はビヨンセはウィスキー好きで知られており、特にジャパニーズ・ウィスキーを愛飲していることは周知の事実となっていました。彼女は過去に発表した自身の楽曲の歌詞にお気に入りとされるサントリーの山崎の名をさりげなく登場させ、ザ・ウィークエンドをフィーチャーした「6 Inch」では、

[Verse 2: Beyoncé]
She stack her money, money everywhere she goes (She got that uno)
Her Yamazaki straight from Tokyo (Oh, baby, you know)
She got them commas and them decimals
She don't gotta give it up 'cause she professional



のように「東京から直送の彼女の山崎」と歌い、夫のジェイ・Zとザ・カーターズ名義で2018年にリリースした「LOVEHAPPY」では、

[Verse 1: Beyoncé & JAY-Z]
Happily in love, haters please forgive me
I let my wife write the will, I pray my children outlive me
I give my daughter my custom dresses, she gon' be litty
Vintage pieces by the time she hit the city, yeah-ah
Vintage frames, I see nobody fuckin' wit' him
Pretty thug, out the third ward, hit me
Sir acts just like his dad, shit is trippy (Uh-huh)
Twinning, Blue and Rumi, me and Solo how fitting
(Happy in love)
Sitting, dock of the bay wit' a big yacht
Sippin' Yamazaki on the rocks
He went to Jared, I went to JAR out in Paris
Yeah, you fucked up the first stone, we had to get remarried
Yo, chill man, we keepin' it real with these people, right?
Lucky I ain't kill you when I met that b— (Nah, aight, aight)
Y'all know how I met her, we broke up and got back together
To get her back, I had to sweat her
Y'all could make up with a bag, I had to change the weather (Uh)
Move the whole family West, but it's whatever
In a glass house still throwing stones
Hova, Beysus, watch the thrones
(Happy in love)



のように「ロックの山崎を啜る」と歌っていました。

そして何よりも、ビヨンセの8枚目のスタジオ・アルバムで、『RENAISSANCE』に続く3部作プロジェクトの第2弾として2024年3月29日にリリースされるや世界中で話題を攫った『COWBOY CARTER』では、サーデイヴィスの発売を見越して意図的にそうしていたのか、ウィスキー関連の言葉が複数のトラックで出て来ます。このアルバムは5年掛けて制作され、 2016年リリースの『Lemonade』に収録された「Daddy Lessons」をディキシー・チックス(現ザ・チックス)とカントリー・ミュージック・アワードにてライヴで披露した際、そのパフォーマンスは絶賛されながらも一部の保守的なカントリー・ミュージック・ファンからは批判的な声もあり、ビヨンセがカントリー界で歓迎されていないと感じた経験をきっかけとして生まれたそう。「ウィリー・ネルソンやドリー・パートンから、より現代的なタナー・アデルやウィリー・ジョーンズまで、過去と現在のカントリー界のスターたちが出演し、従来の慣習を打ち破り、カントリーとソウルやR&Bを融合させるだけでなく、ブルース、ロック、ザディコ、フォーク、ブルーグラス、オペラ、ゴーゴー、フラメンコ、ファドの要素も取り入れ」、「西部劇を再解釈した独自のヴァージョン…カウボーイやブラックスプロイテーションの歌からマカロニ・ウエスタン、ファンタジーまで、ビヨンセ自身の個人的な体験を織り交ぜながら、黒人の歴史を称え、誇張されたキャラクター構築まで、波打つように展開する」各楽曲から構成されたこのアルバムは、2025年グラミー賞でアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。ビヨンセのアルバムがこの記録を達成したのは初めてでした。リード・シングルとして2024年2月11日にリリースされた「TEXAS HOLD 'EM」はビルボードのホット・カントリー・ソング・チャートでシングル1位を獲得し、その文化的影響力と広範なアクセス性が評価され、カントリー・ウェスタン、ポップ、ヒップホップの境界を超える架け橋と評価されています。そんな同曲では、

[Verse 1]
There's a tornado (There's a tornado)
In my city (In my city)
Hit the basement (Hit the basement)
That shit ain't pretty (That shit ain't pretty)
Rugged whiskey (Rugged whiskey)
'Cause we survivin' ('Cause we survivin')
Off red-cup kisses, sweet redemption, passin' time, yeah



という具合にウィスキーが出て来ます。強大な竜巻を避け生き延びるために入った地下室で荒々しく度数の強いウィスキーを飲みながら恋人とイチャイチャしてようなイメージでしょうか。続いての曲「BODYGUARD」では、

[Verse 1]
So sweet
I give you kisses in the backseat
I whisper secrets in the backbeat
You make me cry, you make me happy, happy (happy)
Leave my lipstick on the cigarette Just toss it, and you stomp it out, out
Inhalin' whiskey when you kiss my neck
We've been hurtin', but it's happy hour, oh, hour Oh, oh, oh



と、ビヨンセはセクシーに気怠く?歌っています。「あなたが私の首にキスをする時、ウィスキーの香りを吸い込む」とはお洒落な言い回しですね。ウィスキーという言葉が直接に使われているもう一曲は「II HANDS II HEAVEN(*)」です。同曲では「ウィスキー」はコーラスに使われているので何度も繰り返し聴かれます。

[Chorus]
Bottle in my hand, the whiskey up high
Two hands to Heaven, wild horses run wild, oh
God only knows why, though (Yeah, yeah, yeah, yeah)
Rhinestones and diamonds both shine in the light
Two hands to Heaven, my whiskey up high, oh (Oh)
God only, God only knows why, though (Oh, oh, oh)



そして、『COWBOY CARTER』の冒頭のトラックである「AMERIICAN REQUIEM(*)」では、ウィスキーという言葉自体は出て来ませんが、ムーンシャイン・マン、即ち密造酒を造っていた男のグランドベイビーとの歌詞が出て来ます。

[Verse 2]
Looka there, looka in my hand
The grandbaby of a moonshine man
Gadsden, Alabama
Got folk down in Galveston, rooted in Louisiana
Used to say I spoke too country
And the rejection came, said I wasn't country 'nough
Said I wouldn't saddle up, but
If that ain't country, tell me what is?
Plant my bare feet on solid ground for years
They don't, don't know how hard I had to fight for this
When I sang my song



上に引用したのはオフィシャル・リリックなのですが、「Looka there, looka in my hand」での2つめの「looka」を「liquor」としている歌詞のウェブサイトがありました。曲を聴いてみると、なるほど確かにビヨンセはその部分をリカーと発音しているようにも聞こえます。もしかすると、正式な歌詞としてはそうなんだけれども、発音を変えることで二重の意味を付与しているのかも知れません。そう言えば、パワフルなビヨンセの歌声が堪らないトラック「YA YA」でもリカーは登場し、「So hold this holster, pour mo' liquor, please」と謳われています。それは扨措き、この「アメリカン・レクイエム」で言及されているムーンシャイン・マンがサーデイヴィスの名前の由来となっているビヨンセ・ノウルズ=カーターの父方の曽祖父デイヴィス・ホーグのことを指しているのでしょう。次の行のアラバマ州ギャズデンはビヨンセの父親マシューの出生地とされてますので。ちなみに母親ティナは、更にその次の行に出て来るテキサス州ガルヴェストンの生まれで、ルイジアナ・クレオール系の血を引く人です。
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デイヴィス・ホーグ(Davis Hogue)は南部のアラバマで育ち、1900年代初頭に農家と密造酒の製造を兼業し、禁酒法時代には友人や家族のために杉の木の空洞にウィスキーのボトルを隠していたという伝説もあるようです。ホーグは当時のアメリカでは珍しいことに黒人でありながら自分の土地を所有していたとされ、そこで人々は彼に敬意を払って「サー・デイヴィス(Sir Davis)」と呼んでいた、それがブランド「サーデイヴィス」の由来である、と或るウェブサイトの特集記事には書かれていました。但し、その他のウェブサイトの特集記事では土地の所有に関する記述は見られませんでした。また、ビヨンセの父マシュー・ノウルズが祖父の蒸溜所を訪れた際、黒人男性が「サー」と呼ばれるのを初めて耳にした、との話もありました。公式ホームページでは「デイヴィス・ホーグがアメリカ南部に住んでいた時代、"サー"は白人男性にのみ許された敬称でした。彼のファーストネームの前に"サー"が付けられたのは、彼にふさわしい敬意を表し、彼の功績を称えるためです」とだけ書かれています。兎も角、上記以外のホーグ氏の詳しい経歴は不明です。ビヨンセは『GQ』誌の特集記事でインタヴュワーからの、「あなたの最新アルバムが『カウガール・カーター』ではなく『カウボーイ・カーター』と題され」、「そして今度の[サーデイヴィス](訳注:[サー]は男性の称号)という名称を通して、ジェンダーや人種について何を語ろうとしているのでしょうか」?との質問に、「カウボーイという言葉について、人々にちょっと調べてほしいと思ったのです。多くの場合、歴史は勝者によって語られます。アメリカの歴史といったら、それは延々と書き換えられてきたでしょう? カウボーイの4分の1は黒人でした。自分たちを同等に扱おうとしない世界に直面した彼らも、牧畜業を支える存在だったのです。カウボーイはアメリカにおける強さと野望の象徴ですが、牛を扱う奴隷がその名の由来です。カウ“ボーイ”というのは、子ども扱いされ、相応の敬意を払われることのなかった彼らのことなのです。牛を扱う黒人をあえて[ミスター]や[サー]と呼ぶ者はいませんでした。私にとって、[サーデイヴィス]は勝ち取った敬意の証です。私たちは皆、敬意を払われてしかるべきです。私たちが敬意を示した場合は特にね」と答えていました。こうした家族の歴史を当然ながらビヨンセは活用し、マーケティングにも利用した訳ですが、面白いことに、彼女がウィスキー・ブランドを作りたいと考えていたのは曽祖父の話を知る前からでした。

ビヨンセはモエ・ヘネシーと共にこのブランドの共同オウナーを務め、またウィスキーが自分のヴィジョンに合致するものとなるようフレイヴァー・プロファイルからボトルのデザインまで開発当初から関わって来たと言われています。長年のジャパニーズ・ウィスキーのファンであった彼女は自分のウィスキー・ブランドを立ち上げようという気持ちになり、自身の嗜好を反映したウィスキーを造る協力をLVMHの子会社モエ・ヘネシーに求めました。これには彼女の夫ショーン・“ジェイ・Z”・カーターがシャンパーニュ・ブランドのアルマン・ド・ブリニャックをLVMHと共同保有している関係もあるのかも知れません。ともかくモエ・ヘネシーとしてはアメリカン・ウィスキー市場での存在感を高めることを模索していたので、両者の思惑が一致し、ダイナミックなパートナーシップが実現した訳です。アメリカン・ウィスキーのブームによって、アメリカの酒類業界では近年、セレブリティ・スピリッツの新製品が店頭に溢れ返り、生粋のアメリカン・ウィスキー愛好家などからは冷笑的な目で見られることも屡々ありました。そんな状況下で、ポップ、R&B、そして今やカントリー・ミュージックまで飲み込んだ女王がその影響力を駆使してウィスキーを発売する、と。ウィスキー愛好家がボトルの中身に懐疑的になったのは頷けます。しかし、このウィスキーは、他の多くの典型的なセレブ・ブランドと違い、ウィスキーを生業としている評価の高い人物と共同で造られたことで興味深いものとなりました。その人物こそ、インターナショナル・ウィスキー・コンペティションでマスター・ディスティラー・オブ・ザ・イヤーを5回受賞し、グレンモーレンジィやアードベッグも手掛けるビル・ラムズデン博士です。

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ビル・ラムズデンは数年前、当時のマーケティング・ディレクターから特別な人に会って欲しいと話を持ち掛けられました。それがビヨンセでした。迷わず渡航を決めたラムズデンでしたが、相手が世界的な大スターとあって初めて会う時は緊張していました。しかしビヨンセはチャーミングでエレガント、そして親切だったお陰で緊張も解れたそう。ラムズデンはこの会合の前に少し下調べをして、ビヨンセがウィスキー愛好家であり、彼女のお気に入りがサントリーの山崎12年だと知りました。彼はビヨンセのためにウィスキーのテイスティング・セミナーを行い、どんなウィスキーをより好むのか探っていったそうです。バーボンやテネシー・ウィスキー、ライ・ウィスキー等のアメリカン、当然の如くグレンモーレンジィやアードベッグ、更に幾つかのジャパニーズ・ウィスキーなどが試されました。サーデイヴィスのために結成されたチームには、アードベッグの元ナショナル・アンバサダーでグローバル・ブランド・アドボカシー・ヘッド兼ウィスキー・ブレンダーに就任したキャメロン・ジョージもいます。彼によると、ビヨンセは最初のテイスティングから、ラムズデンや彼に教えられるでもなくウィスキーの語彙や専門用語を使っていたそうです。それは「彼女が既に使っていた言葉遣いで、正に生涯に渡っってウィスキー・ファンである彼女の姿勢を物語っていました」。数日間のフォローアップを経て、チームはサーデイヴィスの方向性を定めて行きます。ビヨンセはアードベッグが好きではないことがすぐに分かったので、ラムズデンは先ずピーティーなレシピを除外しました。しかし、彼女はシングルモルトは好きでした。そして、スムースなウィスキーが好みでした。
サーデイヴィスが完成するまでには、様々な試行錯誤とアイディアがあり、その中の一つにスコッチ・ウィスキーとジャパニーズ・ウィスキーをブレンドするという発想もあったと言います。しかし、ラムズデンはそれは不誠実だと思い、彼もビヨンセも、彼女の祖国であるアメリカらしいウィスキーを造りたいという考えに至りました。彼女の最新アルバム『COWBOY CARTER』とツアーに浸透しているアメリカーナの雰囲気を考えると、この要素は重要だったのです。アメリカに蒸溜所を新設する手もありましたが、そうなると建設に2年、そこから熟成まで更に時間が掛かるため断念せざるを得ませんでした。そこでインディアナ州のMGPから熟成された12種類のウィスキーを取り寄せることにします。MGPはアメリカン・ウィスキー業界内の大小問わない多くのNDP(非蒸溜業者)/ボトラーにウィスキーを供給する大手契約生産業者で、彼らにウィスキーの製造を任せ、自分達は求めるフレイヴァー・プロファイルとブランディングに集中するというモデルは現在のアメリカでは非常に一般的です。チームは何度も試飲と話合いとレシピの試作を重ね、始めに4~5種、そこから更に3種に絞り、シアトルのウッディンヴィル蒸溜所で最終的なテイスティングを行い漸く一つの答えに辿り着きました。それはMGPの最も一般的で非常に多くの製品に見られる有名な95%ライ、5%バーリー・モルトのライ・ウィスキーではなく、51%ライ、49%バーリー・モルトのマッシュビルで造られたライ・ウィスキーでした。MGPは過去に幾つかのクラフト・ウィスキー・メーカーにモルトがほぼ半分近くを占める51/49ライを販売したことがありますが、このマッシュビルは独占契約が行われ、今後他のウィスキーで使用されることはなくなるとのこと。ビヨンセもこの最終的なマッシュビルを気に入りました。しかし、3人とも味だけでなくテクスチャーや口当たりも完璧にするには何かが少し足りないと感じます。そこでラムズデンは、スコッチやジャパニーズ・ウィスキーの伝統的な製造技術を取り入れてペドロ・ヒメネスのシェリー・カスクでフィニッシングすることにより、濃く赤い果実とベーキング・スパイスの香りをより引き出し、シルキーな質感を与えると同時に、伝統的なアメリカン・ライの特徴である力強い風味も保とうとしました。意識したのは、アメリカらしさがありながらもスコットランドや日本のニュアンスがあること、そしてビヨンセの好むスムースさを大切にすることでした。

生産に繋がるアイディアを思いついた後も、ノウルズ・カーターはモエ・ヘネシーのチームと会合を重ね、最終製品を決めて行きました。これらの原酒や製法を提案したのはラムズデンでしたが、最終的な成果は女王本人によって承認されており、これは正に「ビヨンセのウィスキー」だと言えるでしょう。キャメロン・ジョージは、「このパートナーシップはごく自然に生まれました。ビル・ラムズデン博士が何処かへ行ってウィスキーを調達してきて、そこにビヨンセの名前を勝手に付けた、と言うようなことではありません。全くそういうプロセスではありません。彼女はこのブランドの創設者です。液体のプロファイルからブランドの世界観の発展まで、このブランドのあらゆる部分に携わってきました」と語っています。この言葉は対外的な発言なので多少の誇張はあると思いますが、ビヨンセはこれまでに自身のイメージや肖像、音楽、ビジネスに稀有なコントロール能力を幾度となく発揮して来ました。サーデイヴィスの「液体」への関与はそれほど高くないにしても、ボトルのデザインやブランドの方向性はディレクションしていると思われます。細かいリブ模様の印象的なボトルは、彼女の曽祖父デイヴィス・ホーグの時代の様式にインスパイアされているとか、或いはビヨンセがジャパニーズ・ウィスキーのファンであることからサントリーの響の繊細なデザインへの敬意ではないかと憶測されたりしています(**)。また、ボトルの中央にはブロンズの馬をあしらった黒いメダリオンが付され、プレス・リリースによるとこれは「力強さと敬意を象徴し、ノウルズ=カーターのテキサスのルーツを象徴する」とのことです。馬のモチーフは彼女の最近のアルバム『RENAISSANCE』と『COWBOY CARTER』のジャケットとも符合していますね。クロージャー(ボトルのキャップ)には、正反対を向いたVのようなマークが二つ刻印されています。これは、一つが過去への敬意(伝統)を示す後ろ向き、もう一つが未来へのミッション(革新)を示す前向きを象徴するそうです。ビヨンセが大切にしている平等性や包括性をも表現しており、性別や人種問わずどんな人にもこのウィスキーを楽しんで欲しいという思いが込められているのだとか。また、瓶底にはデイヴィス・ホーグのイニシャル「DH」がエンボスされたりと、なかなかに凝っています。高級な香水瓶のようにエレガントな佇まいが評価され、2025年のASCOT Awardsではボトル・デザイン部門でプラチナを受賞しました。デザイン自体は、酒類のブランディングとパッケージングの世界的なデザイン・エージェンシーであるストレンジャー&ストレンジャーがやっています。 
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サーデイヴィスは、ビヨンセのローン・スター・ステイト(テキサス州の愛称)との繋がりから、彼女の故郷であるヒューストンに本社を置き、テキサスで仕上げ、ブレンド、ボトリングされており、モエ・ヘネシーがアメリカ国内で完全に生産する初のウィスキー・ブランドとなります。中身に就いて改めて纏めると、ベースのライ・ウイスキーはインディアナ州で蒸溜され、最初の熟成もニュー・チャード・アメリカン・オークの樽でインディアナにて行われます。サーデイヴィスはNASなので、インディアナの原酒の熟成年数は公開されていませんが、少なくとも2年間は熟成されているようです。或いは2年を大幅に上回るという情報もどこかで見かけました。おそらく2〜4年程度なのではないかと予想します。その後、テキサス州で6~9ヶ月間を掛けてPXシェリー・カスクを用いた二次熟成プロセスを行います。テキサスの暑さのため、スコットランドでは得られないような熱気が加わることになるでしょう。サーデイヴィスはファーストフィル、セカンドフィル、サードフィルのシェリー樽を用意して慎重に熟成されます。異なる樽のサイズを複数使用しつつ、セカンドフィル樽とサードフィル樽はファーストフィル樽より長く熟成させるのです。ファーストフィル樽は芳香成分や風味成分を豊富に含んでいますが、それらが原酒の風味を圧倒してしまうので制御する必要があり、逆にセカンドフィルやサードフィルの樽では樽からの影響が減る分、それを補うためにフィニッシュ時間を長く調整している、と。ボトリング前のサーデイヴィスのハイアー・プルーフな原酒をファーストフィル、セカンドフィル、サードフィルの樽で個別にテイスティングした方によると、ファーストフィルではシェリー・カスクの要素がほぼ全体の個性を占め、セカンドフィルではシェリー・カスク由来のレーズンとフルーツの香りが変化し始め風味豊かな香りと僅かなランシオが加わり、サードフィルではシェリー・カスクの要素はほぼ消えてライ由来のメンソールとハーブの香りが支配的になっていたそうです。それらを組み合わせることで、エレガントかつ複雑でニュアンスに富んだ風味を実現する製法はラムズデン博士の面目躍如と言ったところ。アメリカ育ちのブレンダーのジョージは、ファーストフィルで熟成した原酒が最も良いウィスキーになるだろうと初めは考えていたそうですが、「サードフィルとセカンドフィル、それも大樽で熟成されたセカンドフィルとサードフィルこそが、サーデイヴィスの味わいを構成する最も繊細なウィスキーであるため、私のお気に入りの要素となりました。アメリカではウィスキーに対する一般的な考え方とは異なります。ほとんどのアメリカン・ウィスキーは、以前の樽の使用原酒の力強さによって、マッシュビルの神聖さや独自性が失われてしまいます。ここでは、スコットランドのルーツと日本の感性を反映した、ウィスキーの製法に対するグローバルなアプローチが生まれたと考えています」と語っていました。
現在のアメリカン・ウィスキーには、シングル・モルト・ウィスキーもあれば、様々な穀物をマッシュビルを用いたウィスキーもあり、フィニッシングに使われるバレルも多種多様です。サーデイヴィスが行なっていることは、10年前ならまだしも、正直言ってプロモーションで語られるような「カテゴリーの常識に挑戦」する「画期的な新ウィスキー」とまではもう言えないでしょう。しかし、この製品には確かに高度な開発が費やされたことは伺えます。サーデイヴィスは技術的にはライ・ウィスキーな訳ですが、コーンが一切使用されていないマッシュビル、且つ蒸溜に使われる穀物のほぼ半分はスコッチやジャパニーズ・ウィスキーの基盤となる原料の大麦麦芽とあっては、これは事実上ライ・ウィスキーとモルト・ウィスキーのブレンドに近く、更に二次熟成ゆえ、伝統的なアメリカン・ライウィスキーとシェリー樽熟成のスコッチ・ウィスキーの中間的な存在と言っていいかも知れません。ボトルには「RYE WHISKY FINISHED IN SHERRY CASKS」と記載されています。世界的な規模でファンを持つポップ界のスーパースターに相応しいように、グローバルなテーマを強調するため、アメリカのバーボンやライで一般的な「Whiskey」ではなく、日本やスコットランドで伝統的に見られる「e」を付さない「Whisky」の綴りが意図的に選ばれました。またサーデイヴィスは、ビヨンセの強い希望でノンチルフィルタード、そして冒頭でも書いたようにアルコール分は彼女が最も好きな数字の「4」に拘った44%に調整されています。

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サーデイヴィスは発売の発表に先立って、「デイヴィス・ホーグ蒸溜所」という偽名で複数の酒類コンペティションに匿名で出品され、数々の賞を受賞しました。中でも2023年のSIPアワードでは、アメリカン・ウィスキー部門で100以上のエントリーを上回り、プラチナ賞とベスト・イン・クラスを受賞しました。他には、2023年のニューヨーク・インターナショナル・スピリッツ・コンペティションでは95ポイントとゴールド、2023年のアルティメット・スピリッツ・チャレンジでの93ポイントなど輝かしい栄誉を獲得しています。ビヨンセは『GQ』誌のインタヴューで「私は自分がサーデイヴィスに関わっていることが知れ渡る前に、ブランドがその味わいとクラフツマンシップに基づいて認められることを望んでいました。最も厳しい批評家たちに試してもらい、ウィスキーそのものの力で彼らの敬意を得ることを心に決めたのです。レシピを完成させた後、私たちはウィスキーをコンペティションに出品し、世界中の批評家たちにテイスティングしてもらいました。ボトルやブランディングに"ビヨンセ"を匂わす痕跡は一切ありません。それはかなり意識的にやりました」と語っています。と同時に、ビヨンセは同誌のインタヴューでなぜ今回ウィスキーなのかを問われた際には「初めてウィスキーを飲んだ日のことは忘れられません。優しく私に訴えてきました。〈なぜ今まで飲んだことがなかったのか〉と思ったのを憶えています。口当たりは強くて温かくて、ちょうどいいハードさで。私はそのプロセス、飲み方が気に入りました。ウィスキーはただぐいっと飲み干すものではなく、コミットメントなのです。忍耐が必要なもので、そこがいい。それから日本のヴィンテージ・ウィスキーにハマって、テイスティングを始めると、新しい世界が広がりました。ウィスキーの全てが好きです。色、香り、グラスの中で踊るさま…。そして、その一杯にまつわる物語も。どのボトルにも歴史がありますからね。自分がウィスキー好きだとまだ気づいていない人たちにウィスキーを紹介するのも楽しいです。ウィスキーを味わって、その世界に触れさえすれば、もっと多くの女性が好むようになるのではと思います。ウィスキーは煙たいバーにいる年配男性だけではなく、深みと複雑さ、そしてちょっとした神秘を愛する全ての人のためにあるもの。熟成のプロセスは、穀物の発芽から手造りの樽に至るまで、全ての工程に注意を向けた奉仕であり、その全てを愛おしく思っています。ウィスキー造りはひとつの芸術で、私が愛と敬意を抱くのもそのためなのです。偉大な(カントリー歌手の)ウィリー・ネルソンはかつて言いました。〈誰かに本当にいいものを教えられるまで、自分がそれを好きだったことに気づかないこともある〉。だから未来のウィスキー愛好家の皆さん、歓迎するわよ!」と答えており、この言葉を加味すると、プロ並みのウィスキー愛好家を満足させつつ、今までウィスキーを殆ど飲まなかった人々、特にビーハイヴ(ビヨンセの熱狂的なファンやコミュニティの愛称)がサーデイヴィスを買って楽しんだ後ウィスキーにハマってもらえれば…という期待があったでしょう。某巨大掲示板で見掛けたのですが、実際そういうビーハイヴはいたみたいです。

サーデイヴィスは限定品ではなく、通常品として販売されています。現在はどうか知りませんが、発売された当時は、全米各地に加え、ロンドン、パリの一部店舗、アジア地域では日本のみでの販売、とされていました。将来的には製品展開の拡充を図る予定とのことで、近々カスク・ストレングスの113プルーフのヴァージョンが発売されるようです。そのうち熟成年数表記ありの製品も出されるかも知れませんね。ではそろそろ、『COWBOY CARTER』の楽曲中、個人的に最も気に入っている「16 CARRIAGES」を聴きながらサーデイヴィスを頂くとします。



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SirDavis 88 Proof
推定2024年ボトリング(初発売時に購入)。やや薄くダーティな茶色。ドライフルーツ、モルト、ローズマリー、セージ、グリーングラス、ピクルス、ビスケット、キャラメル、アーモンド、キウイ、ケチャップ。よく熟した色とりどりのフルーツの香り、時間をおくとキャラメルも出た。味わいは香りほどフルーツや甘さがなくやや辛口か。余韻はクローヴと白胡椒が広がってからフルーツの苦みへ、更にそこから香ばしいナッツへと。グラスの残り香はピーカンナッツ。アロマがハイライト。
Rating:85.5→86.5/100

Thought:そもそも私はビヨンセの歌声が好きでデスチャ時代から聴いて来た人間です(勿論、好みの楽曲だけですが)。そして、言うまでもなくアメリカン・ウィスキーが好きな人間でもあります。そこにサーデイヴィスが発売されるとあっては、そりゃ買うよね。おそらくこれが安易なブレンデッド・ウィスキーであっても買ったかも知れない。まあ、それは措いて、発売前にサーデイヴィスの詳細が取り上げられた時、最も興味を唆られたのは原材料でした。MGPの有名な95/5ライは個人的に凄く好みのウィスキーなのですが、51/49ライは飲んだことがなかったので是非とも飲みたかったのです。本当はシェリー・カスク・フィニッシュでないものを試したかったけれど仕方ありません。で、飲んでみると、香りは素晴らしく、シェリー樽も効き過ぎておらず、アメリカン・ライらしさもしっかりあって、よく出来ていると思いました。MGP95/5ライ65%にシェリー樽熟成のスコッチを35%で混ぜたようなイメージの味わいかな。モルトの存在はパレートが最も感じ易く、シェリーの影響は香りと余韻に感じ易かったです。ただ、どうも私好みの味わいではなかったです。やっぱりコーンとライが好き。けれども、普段スコッチやジャパニーズ・ウィスキーも飲む方には飲み易いだろうし、面白い製品なのだろうと思います。…と、これは最初の印象でして、開栓からだいぶ経ったら甘みが感じ易くなったと言うか、自分の苦手な風味が薄らいだと言うか、とにかく美味しくなりました。レーティングの矢印はそのことを指しています。

Value:メーカー希望小売価格は89ドルで、アメリカのウィスキー愛好家の間では少し高いという意見が多い印象を受けました。一説には、ビヨンセの名前が付いていなければ、契約蒸溜で熟成4年未満のシェリー酒のようなデザート・カスクで仕上げた同様のボトルなら恐らく40ドル程度での販売だろう、とか。熟成年数非記載のスピリッツとしては高額ですが、プレミアム・ウィスキー市場ではそれが一般的になっています。日本での定価は1万1550円。調べてみると、安いところでは8000円台後半から9000円ちょいで買えるようです。微妙な値段ではありますが、1本買う分には、最安値なら全然アリ、ちょっとした贅沢品を買いたい気分なら定価でもいいでしょう。モルト配合率の高いライ・ウィスキーは他ではあまり飲めないし、なによりMGPの51/49ライは95/5ライより遥かに珍しいのは間違いないですからね。個人的にはモルトと二次熟成という部分が好みではないので常備ボトルにはしないと思いますが、味わいが気に入り、尚且つビヨンセが好きとかボトルの見た目が好きとか、そういう要素を含めてなら、限定品ではないとのことなので常備にもオススメです。


*このアルバムの楽曲は、一部の「i」や「Two」や「to」を「Ⅱ」と表記しています。なので「II HANDS II HEAVEN」は「Two hands to Heaven」であり、「AMERIICAN REQUIEM」や「BLACKBIIRD」や「LEVII'S JEANS」のように敢えて「I」が2つ重なってるのは、『カウボーイ・カーター』が3部作のうちの2作目、第二幕、ACT IIであることを強調する表現とされ、それ以上の意味はなく、読み方もそのまま「アメリカン」や「ブラックバード」や「リーヴァイスジーンズ」です。

**他にも、SASSENACHというスコッチのパクリだ、という声もありました。ユニコーンが馬に変わっただけだ、と。
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今回は2023年末頃にリリースされたバッファロートレースのシングル・バレルを取り上げます。こちらは愛知県豊橋のプレミアム・バーボン専門バーである 「GEMOR」のマスターが選んだバレルをボトリングしたもの。同時期に八丁堀の「Ken's bar」さんのピックもありました。他にも幾つかの酒販店によるピックもあり、日本でもバッファロー・トレース蒸溜所のシングルバレル・プログラムのものが購入し易い状況になって、我々消費者としては選択肢が増えると共にバレルごとの味比べが楽しみになりましたね。

比較対象としてスタンダードなバッファロートレースの小瓶(プラスティック)を買い求めてみました。一応、標準的なバッファロートレース・バーボンに就いて軽くおさらいしておくと、このブランドは1999年に市場に導入され、正確な数値をバッファロー・トレース蒸溜所は公開していませんが、ライ麦の含有量が少ない#1マッシュビルから造られています(ライ10%以下と推測され、一説にはコーン75%、ライ10%、モルテッドバーリー15%ではないかと推定される)。このマッシュビルはジョージTスタッグ、イーグルレア、EHテイラー等と同じです。熟成年数は通常は約8~10年とされ、または7~9年との推察や一般的には6~8年程度との説もありました。法的要件により少なくともは4年以上なのは間違いありません。バレルは温度変化の大きい複数の様々な倉庫の中層階で熟成されているそうです。個別に選択されたシングルバレルを除き、スタンダードなバッファロートレースのバッチ・サイズは約40バレルとのこと。これは殆どスモーバッチと呼んでいいサイズですね。バッファロートレース・バーボンは、アルコール度数は低めで際立った個性的もないものの、辛すぎたり若すぎたりすることなく適度な熟成感を醸し、低価格帯のバーボンでありながら安っぽい味わいではなく主力製品に相応しい、と評されています。

偖て、スタンダードな製品は複数のバレルをブレンドすることで纏まりのある一貫したフレイヴァー・プロファイルを生み出します。蒸溜所のテイスターやマスター・ディスティラーはそうした一貫性を実現するために常に努力を続ける訳ですが、シングルバレルは一貫性を問われません。シングルバレル・プログラムでは、おそらくは伝統的なプロファイルに当て嵌まらないものや、テイスターによって特別と判断されたものが選ばれていると想定されます。これらのバレルが小売業者やバーのマスターに提示され、彼らは様々なバレルの中からお気に入りを選ぶ、と。一般的には、標準的な製品よりもシングルバレルの方が美味しいと思ってもよい筈です。しかし、標準的な製品が謂わば均整のとれたフレイヴァーであるのに対して、シングルバレルは何かが尖っていることもあり、人の好みによっては却って標準的な製品よりも劣ると判断される可能性はあるでしょう。では、それらを踏まえた上で、さっそく注ぐ時間です。

このGEMORピックのバレルは、聞いたところでは9年熟成だそうです。熟成場所などの詳細は私には分かりません。

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Buffalo Trace Single Barel 90 Proof
BARREL #057
SELECT by GEMOR
推定2023年ボトリング。ヴァニラウエハース、トースティな木材、ベーキングスパイス、シリアル、苺。ペイストリーな甘い香り。ややとろみのある口当たり。口中では力強いスパイシーさが。余韻は薄っすらシナモニーなウッドノート。
Rating:85→86.5/100

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Buffalo Trace 90 Proof(Miniature bottle)
ボトリング年不明、購入は2024年。キャラメルも感じるが、主にフルーティな香り立ち。飲んで感じるフルーツは強いて言うとマンゴー。余韻に少し感じられる土っぽさは、意外と長熟バレルも含まれてるのかも、と思わせる。
Rating:84〜85/100

Thought:通常のバッファロートレースより、GEMORピックのボトルは全体的に勁い印象を受けました。ボトリングの度数よりもう少し上の度数に感じるテクスチャーとフレイヴァーなのです。香り、口中、余韻に渡ってスタンダードな物より甘みも樽の香ばしさも強かったですね。あと、幾分かブライトな樽感に思いました。時間の経過とともに、香りに苺、味わいにオレンジジャムとアプリコットジャムの中間のようなフルーティさが出て来て美味しかったです。レーティングの矢印はそのことを指しています。スタンダードな物はかなり久々に飲んだのですが、クオリティが著しく下がった印象はなく、相変わらず完成度が高いと思いました。汎ゆるバーボン・フレイヴァーのバランスが良く、初心者に最もオススメ出来る銘柄かも知れない。流石に今回のようにシングルバレルのピックと較べてしまうと、全体的にフレイヴァーが弱く物足りなさを感じてしまいましたが…。購入したのが50mlのボトルで、半分に分けて2回しか飲んでないため、レーティングには幅を持たせました。
アメイジングな樽を選んだゲモーのマスター、これを私のもとまで発送してくれたバーボン仲間のK氏、どうもありがとうございました!

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今回は、日本では2022年初め頃から出回り始めた、リニューアルされたパッケージのエヴァンウィリアムス12年を開封してみました。従来までと違いゴールドのワックスで封されて高級感が出ましたね。EW12赤ラベルは輸出専用バーボンとして知られ、長きに渡り日本でのみ販売されていましたが、ヘヴンヒルが2013年にルイヴィルのダウンタウンにエヴァン・ウィリアムス・エクスペリエンス(バーボン体験が楽しめるテーマパークのような施設)をオープンすると、スタート時からあったのか或る段階(2015年あたり?)からなのか判りませんが、ギフト・ショップ専売品としてアメリカ国内でも販売されるようになりました。しかし、ヘヴンヒルは日本での一般的な価格よりも遥かに高い価格で販売しました。2017年頃で130ドル、その後150ドルに値上がりしたそうです。ヘヴンヒルはアメリカ国内で高く売るに際し、より高級に見せるため、見栄えを良くするため、安っぽいスクリュー・トップにワックスを掛けたのではないか、と勘繰るアメリカのバーボン愛好家の方もいます。また逆に、SNS上で見掛けたのですが、輸出版とアメリカ国内版を飲み比べ、アメリカ国内版の方が大分美味しかったという趣旨のことを言っている日本のバーボン飲みの方がいました。そこで裏読みすると、もしかしたらアメリカ国内版の方が値段が大幅に高い分、バッチングにクオリティの高いバレルが選ばれている可能性もあるのかも知れません。或いは単なるバッチ違いの差なのか、真相は藪の中です。まあそれは措いて、私としては一つ前のラベルの物とこのゴールドワックスの物とではどのように違うかを較べたいと思い開封しました。では、さっそく飲んでみましょう。ちなみにマッシュビルは78%コーン、10%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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Evan Williams 12 Years 101 Proof
推定2021年ボトリング(瓶底)。色はダークアンバー。モダンな木材、ガレットブルトンヌ、薄いチェリーキャンディ、一瞬プルーン、フランボワーズ、マッシュルーム、ペッパー。ほんの少しフローラルな香りも。口当たりはややオイリー。口の中ではドライオークが感じ易い。余韻はミディアム・ロングでチャード・オークの香ばしさと僅かに柑橘の爽やかさと苦味が。
Rating:85.5→86.5/100

Thought:開けたてはフレイヴァーが殆ど感じられませんでした。開封から1週間くらい経つと、漸く熟成感のある土っぽい樽の味わいが出て来ました。私が飲んだ一つ前のラベルの物は過去にレヴューを投稿した2016年ボトリングなのですが、それと較べると12年という熟成感を思わせるものが少なくなった印象を受けます。アルコールの刺激や木材のエグみが強く、深みのあるチョコレート感が弱いと言いますか…。正直、2016年ボトリングの頃よりクオリティは少し低下したと思いました。しかし、開封から1年くらい経つと、アルコールのキツさのようなものは多少は和らぎ、味わいに甘酸っぱいフルーツが感じ易くなって美味しくなりました。上の矢印はその事を指しています。1年も待ってられないなら、少なくとも30分は空気に触れさせておくか、ロックで飲んだ方が良いのかも。どうも近年のヘヴンヒルは香りが開くのに時間が掛かるような気がします。参考までに言うと、このEW12と同時期に家で開封していたボトルに、ケンタッキー・アウル・コンフィスケイテッドとワイルドターキー12年があるのですが、実はその2つの方がリッチなフレイヴァーで美味しく感じていました。つまり、このEW12は香りが開いたとて私にとってはその程度だったと言うことです。まあ、バッチ間の差があり得ますので、一概には言えないでしょうが。ゴールドワックスの掛かったEW12赤ラベルを飲んだことのある皆様の感想を募りたいところです。

Value:エヴァンウィリアムス12年ゴールドワックスのアメリカのバーボン愛好家の評価としては、要約すると、これは本当に良いボトルだけれど130〜150ドルもするほど良いボトルではない、しかし日本での40ドルという価格ならバーボンの中で最もお買い得だろう、といった意見が多数を占めます。一方で、130〜150ドルという価格にしてはストーリーのなさや安っぽいボトルやギミックのなさを考えると高く感じるかも知れないが、エヴァンウィリアムズ12年101プルーフは単純にその味わいに基づいて然るべき価格が設定されている、と評している人もいました。では日本に住み、昔から赤エヴァンを享受して来た我々にとってはどうなのでしょう? 私はEW12が2000円代や3000円代で買えていた頃を知っている人間です。最近ではここ日本でも5000円を超えたりします。そして、私の印象としては近年に近ければ近いほど味わいのクオリティは少しづつ下がっているような気がしています。味が落ちたのに値が上がる、これは心理的に辛いことです。とは言え、味わいの面では現代の木材の風味とアルコール感に慣れてしまえば問題はないし、金額の面でもバーボンに限らず何でも値上がってる世の中ですから、EW12は今でも値打ちのあるバーボンに違いありません。昔の物と較べると流石に分が悪くはありますが、それらは二次流通市場で相応に値上がりしているので、現行ボトルも相対的には「安くて旨い」ままと言えます。文句と取られかねないことも書き連ねましたが、このEW12ゴールドワックスはそもそも美味しい範疇に入るので、個人的には購入をオススメします。アメリカでの価格を考えたら、買わなきゃバチが当たるってもんです。但し、日本に於いて予てより築かれてきたエヴァンウィリアムス12年レッドラベルの評価を、このボトルだけ飲んで知った気になるのは良くないと思います。昔の物、特に90年代までの物を飲んだことのないバーボン初心者の方は、何処かのバーで是非ともオールドボトルを飲んでみて下さい。きっとエヴァンウィリアムス12年の真髄を知ることになるでしょう。


追記:聞いたところでは終売なのを輸入元が認めたそうです。なんでもヘヴンヒルの意向だとか。残念ですねぇ…。

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ミルウォーキーズ・クラブさんでの7、8杯めに選んだのは、おそらくこのバーの中でも最も貴重なバーボンであろう禁酒法時代のオールド・オスカー・ペッパーと禁酒法解禁後のL.&G.(ラブロー&グラハム)です。オールド・オスカー・ペッパーはケンタッキー・バーボンの有名な銘柄の一つであり、ペッパー家の3世代はケンタッキー州の最前線でウィスキーを蒸溜し、業界の黎明期を今日の姿に築き上げるのに貢献しました。そして現在でもペッパーの名はブランドとして復活しています。ラブロー&グラハムも現在のウッドフォード・リザーヴに繋がる名前です。バーボンの歴史は彼らを抜きにしては語れません。そこで今回はペッパー・ファミリーのレガシーの一部とグレンズ・クリークの蒸溜所の歴史に就いてざっくりと紹介したいと思います。

ペッパー家の蒸溜はエライジャ・ペッパーから始まります。エライジャは、サミュエル・C・ペッパー・シニアと「英国人女性」とされるエリザベス・アン・ホルトン・ペッパーの間に生まれました。生年には系図サイトを参照にしても諸説あり、1760年12月8日月曜日とするもの、1767年とするもの、1775年とするものがあります。出生地も、ヴァージニア州カルペパーとしているものとフォーキア・カウンティとしているものがありました。この二つは隣接しているので、だいたいそこら辺で産まれたのでしょう。彼は1794年2月20日にフォーキアで名門オバノン家出身のサラ・エリザベス・オバノンと結婚しました。エライジャの生年を1767年としている系図サイトだと、サラを1770年生まれとしていました。或る記録によると結婚当時のサラは13歳か14歳だったとされているようで、そちらが正しい場合は生年は1780年あたりになるでしょう。1797年、エライジャはサラとその兄弟ジョン・オバノンと共に500マイル以上西のケンタッキー州に移り住み、現在ウッドフォード郡ヴァーセイルズとして知られる地域に居を構え、町のコートハウスの裏手のビッグ・スプリング近くに最初の小さな蒸溜所を建てました。1780年頃からエライジャはヴァージニアで蒸溜業を始めていたとする説もありました。農業と蒸溜が不可分のファーム・ディスティラーだったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、エライジャは一旦バーボン・カウンティに移って数年間を過ごしたらしい。バーボン・カウンティの納税記録と1810年の国勢調査によると、ウッドフォード・カウンティに戻る前の3年間はバーボン・カウンティに住んでいたのとこと。その後ウッドフォード郡に再び戻り、1812年までにヴァーセイルズのグレンズ・クリーク沿いの200エーカーの土地に新しい蒸溜所をオープン。この土地の明確な所有権が確立されたのは1821年のことで、証書が記録されたのはその翌年だったそう。彼がこの場所を選んだのは、敷地内を支流が流れ、小川のほとりに3つの清らかな泉が湧き出していたからでした。そこには農場とグリストミルもあり、彼らはその水を穀物を粉砕する動力源、発酵や蒸溜のようなウィスキー造りのためだけでなく、冷蔵用に使ったり新鮮な飲料水としても家畜のためにも利用しました。当時は正に「農場から蒸溜まで」の操業だったのです。近隣のケンタッキー州の農家は連邦税が課されたため蒸溜を断念せざるを得ませんでしたが、エライジャには資金力があったようで、彼らの穀物を買い取り、合法的にウィスキーに仕上げたと言います。またエライジャはこの土地の蒸溜所と周辺の農場を見下ろす丘の上に、外壁に巨大な石灰岩の煙突を備えた2階建てのログ・ハウスを建て家族を住まわせました(*)。当初のペッパー入植地で唯一残ったこの家は、その後の住人たちによって増築され使われました。エライジャとサラは、少なくとも3人の息子と4人の娘の両親だったとも、4男3女の7人の子供がいたとも、或いは8人の子供を儲けたともされ、その場合はプレスリー、オスカー、エリザベス、サミュエル、ナンシー、アマンダ、ウィリアム、マチルダだったと思われます。ペッパー家は奴隷の所有者であり、1810年の国勢調査の記録によると一家には9人の奴隷黒人がおり、所有地の繁栄に伴ってその後の10年間で奴隷は12人(男7人、女5人)に増えました。畑仕事をする人手が増えたためか、エライジャは所有地を350エーカーまで拡大したとか。更に、1830年の国勢調査では13人の男と12人の女を奴隷として雇っていたとされ、ペッパー農場の成功を裏付けていると目されます。 エライジャはかなりの富をもっていたようで、彼が亡くなった時の目録には、蒸溜所のカッパー・ケトル・スティル6基、マッシュ・タブ74個、多数の樽、熟成ウィスキー41樽(1560ガロン相当)があり、家畜は22頭の馬、113頭の豚、125頭の羊と子羊、30頭以上の牛を数え、その他にも農業や木材加工に使用する道具も多数所有していました。エライジャ・ペッパーは1831年2月23日(または3月20日前という説もある)に死去。彼は亡くなるまで蒸溜所を経営し、生前に遺言を作成しました。子供達に家財を少しと奴隷一人づつを贈与し、最愛の妻サラには蒸溜所と奴隷を含む殆どの財産を残しました。キャプテン・ウィリアム・オバノンとナンシー・アンナ・ネヴィルの娘であるサラ・エリザベス・オバノンは、南北戦争の名将でジョージ・ワシントンの個人的な友人でもあったヴァージニアのジョン・ネヴィル将軍の姪でした。ネヴィル家はヴァージニアの裕福な貴族であり、ペッパー家を経済的に援助していた可能性をジャック・サリヴァンは指摘していました。エライジャは広大な農場と関連事業の管理をサラに任せていたようで、財産目録によれば彼女はスティルやタブ等を含む農場や蒸溜所の設備の購入を監督していたり、ペッパー邸を飾ったであろうカーペット、銀製品、その他の高価な調度品の購入も彼女が担当したと推測されます。国家歴史登録財に登録するためにこの土地を調査した歴史家の推定では、エライジャの死後、1831年から1838年までの約7年間、サラは蒸溜所やウィスキー販売を含む家業の管理を担当していたそうです。そして、サラは蒸溜所を受け継いだものの経営にはあまり関心がなかったのか、或いは高齢のための隠居なのか、1838年に自分のインタレストを長男のオスカー・ペッパーに売却しました。

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今回飲んだオールド・オスカー・ペッパー(O.O.P.)のブランド名の由来となっているオスカー・ネヴィル・ペッパーは、1809年10月12日木曜日に生まれました。幼い時のことはよく分かりませんが、彼は父親が創業した比較的小規模なウイスキー事業を引き継ぎ、新たなレヴェルに成長させたことで知られています。蒸溜所の丸太造りから石造りへの転換と小川の西側への移転は、1838年までにオスカーの所有下で行われました。そのため1838年はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の創業の年となり、O.O.P.ブランドの起源となりました。但し、1840年の国勢調査ではオスカーの職業はファーマーだったそうで、農場と蒸溜所は兼業であり、農業の方でよりお金を稼いでいたのかも知れません。オスカーは母の死後(サラの死去は1848年説と1851年説がありました)、母の土地を分割した兄弟姉妹のシェアを取得したことが譲渡証書や遺言によって示されているそうです。彼はプランテーションを所有している間に敷地内の大規模な改修を始め、父親が製粉と蒸溜業を営んでいた丸太造りの建物を石造りの建物に建て替え、住居も大きく増築しました。1850年の国勢調査には、トーマス・メイホールというアイルランド出身の石工が一家と同居していたという記録が残っているとか。
ペッパー家のファミリー・ビジネスに大きく貢献したのはドクター・ジェイムズ・クロウでした。オスカーは彼を今で言う蒸溜所のマスター・ディスティラーとして雇用しました。クロウはサワーマッシュ・ファーメンテーションや木製バレルでの熟成プロセスを改良/体系化することで、バーボン造りのプロセスに科学的な要素を加えた人物として評価されています。ジェームズ・クリストファー・クロウはスコットランドのインヴァネスに生まれ、エディンバラ大学で化学と医学を学び、アメリカに移住しました。最初はペンシルヴェニア州フィラデルフィアに定住し、短期間滞在した後、ケンタッキー州に移るとグレンズ・クリーク周辺の蒸溜所で働き始めました。彼は学んだ科学的知識を蒸溜に活かし、リトマス試験紙でマッシュの酸度を測ったり、糖度計で糖度を測ったりしました。バーボンの製造に於いて殊更取り上げられる有名なサワーマッシュ製法はクロウが考案したのではありませんでしたが、科学の知識を応用して完成させました。サワーマッシュは、前回のバッチのマッシュから残ったバックセットの一部を取り出し、現在のマッシュの中に含めることで、発酵を促進し、悪い菌の繁殖を防ぐのに役立ちます。1833年にはオスカー・ペッパーがクロウに助言を求めたとされており、クロウはその時期にグレンズ・クリーク沿いの他の蒸溜所で働きながらペッパーズの蒸溜所を手伝っていたようです。クロウの専門知識が齎す商業的利益の可能性に気付いたオスカーは、彼と協力してペッパー農場の小さな丸太造りの蒸溜所を1日あたり1もしくは1.5ブッシェル程度から25ブッシェルの蒸溜所にアップグレードしました。クロウは1ブッシェルの穀物から2.5ガロン以上のウィスキーを造ってはならないと主張したとされます。この蒸溜所で伝説的なオールド・クロウ・ブランドは誕生し、蒸溜され、その後多くのバーボン消費者に大人気となりました。クロウはキャリアの殆どの期間をペッパーの蒸溜職人として過ごし、他の蒸溜所で働いたのは少しの期間だったと思われます。彼は1833年頃から1855年までペッパー家のために働きましたが、1837年から1838年に掛けてグレンズ・クリーク農場の敷地は建設工事で占拠され、1838年から1840年に掛けては深刻な旱魃が農業生産に影響を及ぼしたため、この間クロウはオスカーの蒸溜所で働いていなかったようです。新しいカッパー・ポット・スティルとフレーク・スタンド(蒸溜器のワームを冷却する容器)が設置され、マッシング・タブ、ファーメンター、スティーム・エンジンが製造開始の準備を整える他、建設工事による多額の資本支出には上述のトーマス・メイホールの雇用も含まれ、彼は地元の石灰岩から大きな石造りの蒸溜所、貯水槽、製粉所、倉庫などの施設を建設しました。1838年の春から1840年の冬に掛けての旱魃はケンタッキー地方の大半に壊滅的な打撃を与え、作物の不作と蒸溜用の水不足を齎したと言います。蒸溜には水が不可欠で、1ガロンのウィスキーを造るには、マッシング、コンデンシング、クリーニングに60ガロン以上の水が必要でした。クロウがオスカーの蒸溜所に復帰したのは1840年のシーズンになってからのこと。建設が完了するとクロウは家族を連れて新しいペッパー蒸溜所から200ヤード上にある家に移り住んだそうです。また、彼は蒸溜所の年間ウィスキー生産量の8分の1(または10分の1という説も)を支払いとして交渉したと言います。これは農家の穀物を挽くための報酬として製粉業者が受け取る金額とほぼ同じでした。年間生産量は季節によって変動しますが、1840年代後半には年間生産量は約650バレル(20000プルーフ・ガロン)となり、樽からの蒸発や浸透、卸売価格の変動、ディーラーへの年間販売量を考慮すると、クロウの報酬はおそらく年間500ドルから1000ドルと高額、彼の生産契約の途中である1848年の都市部の職人の平均年収は550ドル、ケンタッキー州の農場労働者の年収は120ドルだったので、クロウはケンタッキー州の田舎の基準から見て非常に快適な生活水準を誇っていた、とウィスキーの歴史家クリス・ミドルトンはクロウ研究の中で述べています。雇い主のオスカーはウィスキーの取り分、家畜の販売、余剰穀物生産、亜麻と麻の栽培などでかなりの収入を得ており、1860年、政府は彼の土地と資産を67500ドルと評価し、これは2020年の価値で2100万ドル相当でした。この蒸溜所で販売されていた主力ブランドはオスカー・ペッパー・ウィスキーとクロウ・ウィスキーだと思いますが、3年以上保管されたウィスキーは「オールド」が共通して付され、おそらくどちらも同じクオリティだったでしょう。とは言えクロウ・ウィスキーの評判は流通量の多かったオスカー・ペッパー・ブランドよりも高かったそうです。クロウ自身の名を冠したウィスキーは軈て「オールド・クロウ」として知られるようになり、他の汎ゆるバーボンの評価基準となりました。オールド・クロウは1800年代半ばまでに高級ウィスキーのシンボルになり、殆どのウィスキーが1ガロン当たり15セントで販売されていたのに対し、クロウのウィスキーは25セントで販売されていたとか。クロウはペッパーの蒸溜所で15年間働いた後、1855年の秋にそこを去りました。また、サム・K・セシルの著作によると、オスカー・ペッパーは1860年にグレンズ・クリークから数マイル下流のミルヴィルにオールド・クロウ(RD No.106)という別の蒸溜所を建設し、そこでオールド・クロウ・ブランドを製造した、とのこと(**)。
オスカー・ペッパーの私生活面では、彼は1845年6月にウッドフォード郡で生まれ育ったナンシー・アン(もしくはアネットとも)・"ナニー"・エドワーズと結婚しました。それ以前に、キャサリンというゲインズ家出身の妻を1839年に亡くしているとの記述も見ましたが、系図サイトや墓所サイトにはその件は触れられてなく、私にはよく分かりません。ナニーは結婚当時18歳で、夫より17歳ほど年下でした。彼女の父ジェイムズ・エドワーズはグレンズ・クリークに隣接する農場を所有していたらしい。オスカーとナニーの間には7人の子供がおり、おそらく生年の順で以下のようになるかと思われます。
エイダ・B・ペッパー(1847-1927)
ジェームズ・エドワード・ペッパー(1850 - 1906)
オスカー・ネヴィル・ペッパーJr.(1852 - 1899)
トーマス・エドワード・ペッパー(1854 - 1933)
メアリー・ベル・ペッパー(1859 - 1913)
ディキシー・ペッパー(1860 - 1950)
プレスリー・オバノン・ペッパー(1863 - 1871)
メアリーの生年を1861年としているものもありましたが、詳細は不明です。それは兎も角、子宝にも恵まれたオスカーのリーダーシップによって農場と蒸溜所は繁栄し、1860年の国勢調査によると不動産の評価額は31600ドル(現在の約770000ドル相当)で、贅沢品を含む個人資産は36000ドルだったとされています。彼の財産には12人の男と11人の女の奴隷も含まれており、そのうちの何人かはエライジャから受け継いでいたのでしょう。彼らは家財目録に記載されている総額約22000ドル近くの作物や牛の世話をしていたと考えられています。蒸溜の作業もこなしていたかは分かりません。1859年には2人の女性奴隷が8月にマリアという女の子とウィリーという男の子を出産しており、父親はオスカーのようです。蒸溜所は1865年までオスカーの管理下で運営されました。その年の6月にオスカー・ネヴィル・ペッパーは56歳で死去し、墓前で家族や友人たちに弔われながら、フェイエット郡のレキシントン墓地に埋葬されました(オスカーの死を1864年や1867年としている説もある)。彼の死後に出された資産目録には、バーボンの製造を物語るカッパー・スティルとボイラー、400バレルのコーン、400ブッシェルのライ、40ブッシェルのバーリー・モルト、30ブッシェルのバーリーなどがあり、アルコールの目録には1ガロン40セントと80セントの価格で120ガロンのウィスキーが記載されていたそうです。ペッパーの所有していた829エーカーの土地での畜産は別の事業と目され、農場では21頭の馬と雌馬、7頭のラバ、25頭の乳牛、30頭の当歳牛と去勢牛、56頭の羊、100頭以上の豚を飼育していました。家庭内にはピアノ、「冷蔵庫」、法律書などがあったそうで豊かな暮らしぶりを想像させます。オスカーが死去した際、管財人による売却の新聞広告には、彼の個人資産として「非常に古いクロウ・ウィスキーの少数のバレルがあり、良質な飲酒の最後のチャンスである」と記されていたらしい。

オスカー・ペッパーは父のエライジャと違って遺書もなく7人の子供と農場と蒸溜所ビジネスを妻に残して亡くなりました。1869年に行われたオスカーの遺産相続の裁判所による調停では、彼の所有地829エーカーが7人の子供達のために7つの不平等な土地に分割されました。これにより末っ子でまだ7歳だったプレスリー・オバノン・ペッパーが160エーカーの土地、蒸溜所、グリスト・ミル、家族の住居を含む最大の分け前を受け取りました。オバノン・ペッパーはまだ幼く、更にその後の14年間は未成年であるため、自動的に母親のナニー(1827-1899)が後見人となり、経済的に生産性の高い財産の殆ど全てがペッパー夫人の手に委ねられます。これはナニー・ペッパーを養うための裁判所の配慮でした。ナニーはまだ比較的若かったものの、義理の母サラのようには自分で蒸溜所を経営する気はなかったようです。南北戦争終結後、ペッパー家の奴隷は全ていなくなっていました。彼女はプレスリー・オバノンの財産の後見人として、直ちにケンタッキー州フランクフォートのゲインズ, ベリー&カンパニーにこの土地をリースしました(***)。この契約によって同社は蒸溜所とその全ての設備、ディスティラーズ・ハウス、2つのストーン・ウェアハウスを管理することになりました。この2年間の契約にはグリスト・ミルや豚にスペント・マッシュ(使用済みのマッシュ)を与えるペン(囲い)も含まれています。同社は1866年にウィスキーの製造と販売を目的として設立され、彼らのビジネス・パートナーはエドムンド・ヘインズ・テイラー・ジュニアでした。社名の「&Co.」の部分は彼のことに他ならないでしょう。社名になっているW・H・ゲインズは近くのグラッシー・スプリングス・ロードに住んでいましたが、他のパートナーズはフランクフォートの住人でした。根拠はないものの尤もらしい噂によると、ゲインズ, ベリー&カンパニーが1866年に最初に買収したのは故オスカー・ペッパーからのウィスキー在庫100樽だったとのことです。それは兎も角、こうして1870年1月1日、ペッパー蒸溜所は初めてペッパー家以外のバーボン生産企業として機能しました(****)。それでも、1850年5月18日土曜日に生まれたオスカーとナニーの長男ジェイムズは父の死の当時15歳でしたが、ゲインズ, ベリー&カンパニーによって蒸溜所の運営に何かしら携わることになったようで、1870年の国勢調査では20歳のジェイムズ・ペッパーが蒸溜所のマネージャーとして記載されていたそうです。伝説的なカーネル・E・H・テイラー・ジュニアは当時すでに酒類業界で成功しており、ペッパー家の良き友人だったようで、オスカー・ペッパーの遺言執行者の一人であり、蒸溜所を所有するには若過ぎるジェイムズ・E・ペッパーの後見人ともなり、彼が21歳になるまで蒸溜所を経営したと云う説も見かけました。
「オールド・クロウ」は、ドクター・ジェイムズ・クロウには存命の相続人がいなかったため、ゲインズ, ベリー&カンパニーは問題なくブランドを独占することができました。同社はペッパーの所有地に「オールド・クロウ蒸溜所」の名を添え、オールド・クロウを彼らのフラッグシップ・ブランドとしました。伝えられるところによると、彼らはこのブランドを守り続けるため、ドクター・クロウと全く同じ方法でウィスキーを造ることを決意し、クロウが存命中に蒸溜していた古い蒸溜所を借り受け、クロウの下で技術を学んでその製法を伝授されたウィリアム・F・ミッチェルをディスティラーとして雇用した、とされています。一方、ジェイムズにはオールド・オスカー・ペッパーのブランドが残されることになりました。
野心的なテイラーに唆されたのか、或いは母親の脇役でいることに飽き飽きしたのか、ジェイムズ・ペッパーは1872年10月期の巡回裁判所に於いて、1869年に弟のオバノンに割り当てられていた蒸溜所用地の権利を求め、母親のナニー・ペッパーを相手取って訴訟を起こしました。ジェイムズは勝訴し、土地区画図に「Old Crow Distillery, Mill, Old Crow House」と記された小川の両岸33エーカーと小川の東側の2つの泉を手に入れます。とは言え、そのせいで深刻な母子間の不和は起きなかったようです。ジェイムズは経営権を握った2年後、ゲインズ, ベリー&カンパニーと決別したカーネル・テイラーと手を組み、二人は工場の改良と操業の拡大を図りました。カーネル・テイラーは蒸溜所拡張のための資金確保に尽力し、純利益の2分の1と投資額相当の補償を受けるという契約を締結して、プロパティに25000ドルを投資しました。市場でのウィスキーの売れ行きは好調で、ビジネスは順調でした。嘗てペッパー蒸溜所だった通称「オールド・クロウ蒸溜所」と呼ばれる場所で生産されたテイラーのバーボンはそのバレリング・テクニックで人気を博し珍重されました。1870年代、州都フランクフォートとそのすぐ南に位置するウッドフォード・カウンティで州内最大のバーボン生産が行われ、E・H・テイラー・ジュニアの「家」は世界に模範的なウィスキー・バレルを提供していると一般的に理解されていました。しかし、1877年に不況が国を襲います。アメリカの歴史の中でも最も議論を呼び白熱したと言われる、1876年11月7日に行われた大統領選挙は経済の混乱を引き起こしました。民主党候補のサミュエル・J・ティルデンが一般投票で勝利し、共和党候補のラザフォード・B・ヘイズが選挙人団で勝利します。そのため南部では大規模な抗議運動が起こり、再び内戦が勃発する恐れがありましたが、リコンストラクションの終結を約束したヘイズの勝利を認めることで決着します。しかし、それは市場に不安を齎し、1877年の恐慌を引き起こしました。そこにウィスキーの過剰生産も重なり、この不況は蒸溜酒業界に大きな影響を与えました。ジェイムズは深刻な財政難に陥り、カーネル・テイラーに支払うべきお金の余裕がなく、1877年に破産宣告を受けます。蒸溜所はカーネル・テイラーに没収され、彼はオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の単独所有者となりました。ところが当のカーネル・テイラーも他の蒸溜所を経営したり様々なウィスキー事業を行っており、間もなく自身の財政破綻に見舞われます。カーネル・テイラーは1870年にフランクフォートの蒸溜所を購入し、借金してオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)に改築していました。そしてまた、上述したように、同時期にペッパー蒸溜所にも資金を貸し設備を改善していました。資金繰りは厳しく、カーネル・テイラーは借金を返すのに必死でした。彼は同じロットのバレルを2人の異なる購入者に販売し、それが財政的、法的問題に発展したこともあったそうです。借金が余りに高額だったため、彼は債務者から逃れるために南米への移住を考えたほどでした。そこで大口債権者であったセントルイスのグレゴリー, スタッグ&カンパニーが彼を救済し、1878年、カーネル・テイラーの二つの蒸溜所はジョージ・T・スタッグに譲渡されました。同年、スタッグはO.F.C.蒸溜所の土地を増やすために、すぐにペッパー蒸溜所の33エーカーをレオポルド・ラブローとジェイムズ・H・グラハムに売却しました。ラブロー&グラハムは、ナショナル・プロヒビションの到来を経て、その後も含めると62年間この蒸溜所を所有し操業することになります。こうしてジェイムズ・ペッパーは廃業に追い込まれ、ジャック・サリヴァンの言葉を借りれば「エライジャによって設立され、サラによって育てられ、オスカーによって拡張され、ナニーによって保護され、ジェイムズによって失われたこの土地を、ペッパーの一族が再び所有することはありませんでした」。しかし、オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所は他人の手に渡ったものの、ジェイムズは後にレキシントンに自身の蒸溜所を設立し、ペッパー家の名前は長年に渡って取引で使われて行きます(後述)。

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(1883年のオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所)
ラブロー&グラハムという名前は、設立されたパートナーシップに由来します。レオポルド・ラブローは1847年(またはそれ以前)にフランスで生まれ、母国のワイン生産地で育ち、渡米時にはワイン商(またはワイン醸造家としての経歴を持つとの説も)の経験があったと言われています。国勢調査のデータでは、移住年は1865年、彼が32歳頃のことでした。パスポートの記述によると、彼は身長5フィート7インチ(約173cm)で、肌は浅黒く、目は灰色、鼻は鷲鼻だったとか。ラブローは、アラベラ・スコット・デイヴィスとシルヴェスター・ウェルチの娘であるルイーサ・ウェルチというフランクフォートの女性と結婚しました。もしかするとそれを機会にケンタッキー州に定住したのかも知れません。ルイーサの父親はチーフ・エンジニアとしてケンタッキー・リヴァーの閘門建設を計画/監督し、ウィスキーの出荷を含む地元産品の水上輸送を改善したと言います。夫妻の間には1876年にアーマという娘が生まれました。彼は、先ずはフランクフォートのハーミテッジ蒸溜所で働き、その後シンシナティで叔父と共に酒類卸売業に携わるようになったそうです。一方の、アイルランド系のジェイムズ・ハイラム・グラハム(1842-1912)は、ルイヴィルで大工、建設業者、製材所経営者として成功したウィリアム・グラハムとエスター・クリストファー・グラハムの息子として生まれました。蒸溜所を購入する前は運送業を営んでいたとされ、おそらくは相当に成功したフランクフォートの実業家だったのでしょう。オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を買収すると、土地の権利の半分はラブローに直ちに売却されました。ラブローとグラハムが出会った経緯はよく分かりませんが、1878年までには二人はケンタッキー・ウィスキー・マンとして認められるようになっていたようです。グラハムはプラント・マネージャーとなり、ラブローは卸売と小売販売を担当したとされます。保険引受人の資料では彼らのプラントはフランクフォートの南東9マイルにありました。石造りで屋根は金属もしくはスレート。敷地内には穀物倉庫や4つのボンデッド・ウェアハウスがあり、全て石造りで屋根は金属かスレート。ウェアハウスNo.1は蒸溜所から100フィート北にあり、この倉庫の一部は「フリー」でした(つまり一部はボンデッド・ウィスキーではなかった)。ウェアハウスNo.2のBはウェアハウスAに隣接し、スティルの北東100フィートにあり、ウェアハウスNo.3のCは蒸溜所から南へ104フィート、ウェアハウスNo.4のDは南へ285フィート。おそらくペッパーの時代からどれも引き継いだものでしょう。そして、彼らはオールド・オスカー・ペッパーを唯一のブランドとして生産したと伝えられます。
ラブロー&グラハムは、頻繁なパートナーシップの変化にも拘らず、その社名を継続してビジネスを行うことで伝統を維持し、誠実さを伝えました。1899年、グラハムは引退することになり、インタレストの半分をラブローに売却します。翌年、ジェイムズ・グラハムは死去。その後J・M・ヴェンダーヴィアーがグラハムの後を継ぎますが、名前はラブロー&グラハムのままでしたし、施設も引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られました。大切なパートナーを失ったもののラブローは歩みを止めず、このフランス人のリーダーシップの下、蒸溜所は発展を続けました。スタッフは著しく増加し、年月を重ねるごとに蒸溜所は改良され、拡張されて行ったそうです。長年に渡ってオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の経営を指揮したレオポルド・ラブローは60代の後半に心臓病を患い、1911年に死去しました。死亡診断書に記された死因は肺水腫だったとのこと。未亡人のルイーサをはじめとする家族が墓前で弔う中、ラブローはフランクフォート・セメタリーに埋葬されました。余談ですが、ラブロー家の子孫の方によると、このファミリーは著名な細菌学者のルイ・パスツールと古くから縁があり、ルイがレオポルドにフランス・ワインを売るためにアメリカに来るよう勧めたと家族内では伝承されていたそうです。ラブローの死が大規模な再編成の引き金となったのか、会社は1915年にリパブリック・ディストリビューティング・カンパニーのD・K・ワイスコフ、E・H・テイラー・ジュニアの従兄弟でラブローの娘アーマの夫リチャード・アレグザンダー・ベイカー、T・W・ハインド、カール・ワイツェルから成る新会社ラブロー&グラハム・インコーポレイテッドに引き継がれました。ケンタッキー出身のベイカーはラブロー&グラハムの名を残しながら蒸溜所の日常業務を担当していたそう。1895年から禁酒法施行までの間に、ラブロー&グラハムのオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所に施された実質的な建築的改良は、コーンハウスの取り壊しとウェアハウスCとDの小川側に貯蔵小屋を建てたことでした。これにより穀物の搬入とバレルの搬出のための鉄道の分岐器を設置するスペースが確保され、ケンタッキー・ハイランド鉄道は1911年までにラブロー&グラハムに到着し、穀物を敷地内に運び込み、バーボンを市場に出荷していたそうです。
蒸溜所の所有者が変わった1870年代、ペッパー邸もまた所有者が変わりました。ナニー・ペッパーは未婚の子供達とこの家に住み続けていましたが、1873年に息子のプレスリー・オバノンが10歳の若さで亡くなっています。彼はペッパー邸のある蒸溜所の東126エーカーを所有していました。この土地はオスカー・ネヴィル・ペッパーの相続地に隣接していました。おそらくこれらの土地が近かったため、オスカー・ネヴィル・ジュニアは兄弟の126エーカーの土地と邸宅を取得したものと思われます。その後、彼は1882年に同じ土地をファントリー・ジョンソンに売却しました。続いて1884年には、ジョンソンは住居と75エーカーをアリスとジェイムズ・ゴインズに売却します。ゴインズ氏はラブロー&グラハム蒸溜所のヘッド・ディスティラーでした。彼はオスカーやジェイムズのように玄関ポーチから敷地を眺めることも、丘から石灰岩の階段を下りて小川を渡り蒸溜所まで直接行くことも出来たとか。ゴインズ家は1906年までペッパー邸を所有し、そこで12人の子供を育て、 おそらく東棟の床下空間と南側のファサードのサイド・ポーチの上に2部屋を増築したのは彼らだろうと推測されています。1906年、ペッパー邸をリチャード・ホーキンスとメイミー・ホーキンス夫妻が購入しました。夫妻は蒸溜所とは何の関係もなかったようで、タバコとコーンの耕作を続け、果樹園も所有していたそうです。小川を見下ろす西棟の2階は彼らがオウナーの時代に増築したものと推測されています。1918年にホーキンス夫妻は住居と土地をリチャードとアーマのベイカー夫妻とジーンとミルドレッドのウィルソン夫妻に売却しました。こうしてペッパー邸は蒸溜所のオウナーの1人が部分的に所有することになりました。ベイカー夫妻が亡くなった後は、1977年までウィルソン家の所有でした。

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(1879年頃のJ. E. Pepper)
一方、倒産し家業の蒸溜所を失ったジェイムズ・E・ペッパーはあっという間に立ち直っていました。南北戦争終結後にヘッドリー&ファラ・カンパニーがレキシントンのオールド・フランクフォート・パイク(現在のマンチェスター・ストリート)に蒸溜所を設立していましたが、ジェイムズとパートナーのジョージ・A・スタークウェザーは2万5000ドルを調達して、1879年にはこの土地を取得し、火災で以前の建物が焼失していたため新しい蒸溜所を建設しました。ジェイムズ・ペッパーは、蒸溜所と設備のレイアウトをデザインし、建設の監督を担当し、この事業をジェイムズ・E・ペッパー・ディスティリング・カンパニーと呼びました。
ラブロー&グラハムの施設は引き続きオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として知られていましたが、レキシントンに自分の蒸溜所を設立したジェイムズ・ペッパーは、父の名前とジェイムズ・クロウ博士が築き上げた絶大な名声に基づいて商売を続けようと考えたのか、自分だけが「ペッパー」の名前を使うべきだと考えたのか、蒸溜所の操業開始後すぐの1880年10月、フレンチ・ワイン・プロデューサーのレオポルド・ラブローとケンタッキーの実業家ジェイムズ・H・グラハムのパートナーシップを相手取って、破産で失ったものの一部を取り戻すために連邦裁判所に訴訟を起こします。この件はケンタッキー・ウィスキーに係る商標訴訟でした。ちなみにこの連邦訴訟は、アメリカの司法史上に於ける非常に初期のものであり、合衆国最高裁判所判事はまだ国中の「巡回裁判所」の責任を負っていました。この訴訟を担当したのは、1881年5月12日から1889年に死去するまで合衆国最高裁判所判事を務めたトーマス・スタンリー・マシューズ判事でした。マシューズ判事はシンシナティ出身で、彼がユニオン・アーミーのオハイオ歩兵第23部隊のルーテナント・カーネルとして勤務していた当時カーネルだった嘗てのテント仲間のラザフォード・B・ヘイズ大統領によって最高裁判所判事に指名されました。しかし、この任命は承認されませんでした。上院は、ヘイズとマシューズがケニオン大学の同級生であり、シンシナティで弁護士として活動し、州歩兵隊の将校を務めていたことから、ヘイズを縁故主義で非難したのです。上院がマシューズ判事を承認したのはジェイムズ・A・ガーフィールド大統領が彼を再指名してからであり、この件は1881年に投票にかけられ、その時でさえマシューズは24対23の投票によって承認されたに過ぎませんでした。
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オスカー・ペッパーの死後、ジェイムズ・ペッパーが引き継いだ蒸溜所で製造したウィスキーのバレルには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。ハンドメイド・サワーマッシュ。ジェイムズ・E・ペッパー、プロプライエター。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー。」という商標が焼き付けられました。彼はまた「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」という名前と「O.O.P. 」という用語を使ってマーケティングを行い、1877年に商標登録しました。間もなくジェイムズ・ペッパーは破産し、蒸溜所とその設備一式を含む資産を被告のラブロー&グラハムに売却した後、新たな場所でウィスキーの製造を開始します。被告らはウィスキーの樽にペッパーが使用していたものと同じようなマークを使い始めました。そこには「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所。創業1838年。ハンドメイド・サワーマッシュ。ラブロー&グラハム、プロプライエターズ。ウッドフォード・カウンティ、ケンタッキー」とありました。ペッパーはラブロー&グラハムを、彼らの劣悪なウィスキーがペッパー・ウィスキーと同じであると大衆を欺く目的で商標を侵害したと主張し提訴しました。ジェイムズ・ペッパーは、自身の所有権を証明する明確なマークをバレルに焼印していたという証拠を挙げ、ペッパーの弁護士は同じマークを彼のウィスキーに関するレターヘッズ、ビルヘッズやその他のビジネス用品により小さなサイズで印刷して使用していたと証言しました。ラブロー&グラハムが使用している類似のマークは、本物を求める顧客を獲得するための「不法かつ詐欺的なデザイン」であり、「オールド・オスカー・ペッパー」はジェイムズ・ペッパーが製造したものだけだ、と。彼らはラブロー&グラハムに対し、差し止めと損害賠償を求めたと言います。弁護士であり、法廷闘争から辿るバーボンやアメリカの歴史を本やブログで執筆しているブライアン・ハーラによると、オスカー・ペッパーがずっと以前に蒸溜所を所有していたにも拘らずジェイムズ・ペッパーは「オールド・オスカー・ペッパー」が1874年まで使われていなかったと主張したそうです。そこで、オスカー・ペッパーが蒸溜所を操業していた1838年から1865年までの間、既に「オスカー・ペッパー蒸溜所」として一般に知られていたことを証明する証拠が法廷に提出されました。更に言えば、ジェイムズ・クロウ博士と彼のバーボンの名声から蒸溜所は「オールド・クロウ蒸溜所」とも呼ばれ、博士が1856年に死去した後も、オスカー・ペッパーが1865年に死去した後もこの名称は使われ続け、ゲインズ, ベリー&カンパニーでさえ「オスカー・ペッパーのオールド・クロウ蒸溜所の借主」として売り出していました。フランクフォートの共同経営者達はペッパーの訴状に対する答弁書で、自分達のウィスキーはペッパー家がウッドフォード・カウンティに設立したオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所の製品であり、蒸溜所が「全ての付属設備と備品と共に」彼らに売却され、その所有権によってオールド・オスカー・ペッパーの名でウィスキーを製造/販売する権利が付与されていると指摘し、寧ろ原告が新たな「他所で製造されたウィスキーにこのブランドを使用することは公衆に対する詐欺行為に当たる」と主張して反訴しました。紛争の核心は、問題の名称が何を意味するのかという点に於ける両当事者の意見の相違でした。ジェイムズ・ペッパーは自社が製造するウィスキーを他のブランドと区別するためにこの名称を使用し、その名のもとで優れた評判を得ているとする一方、ラブロー&グラハムはこの名称はウィスキーを製造する場所を指しており、そこは現在彼らが所有している場所であって、製品そのものを指すものではないとする訳です。マシューズ判事は言葉の平易な意味を指摘した上で、原告がオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していた時代に使用していたマーケティングがウィスキーの製造された場所に大きく焦点を当てていたことに依拠しました。ジェイムズ・ペッパーは自社のバーボンを下のように宣伝していました。
私の父、故オスカー・ペッパーの旧蒸溜所(現在は私が所有)を徹底的に整備した結果、私はこの国の一流商人らに、ハンドメイドのサワー・マッシュで、完璧な卓越性を誇るピュア・カッパー・ウィスキーを提供することになった。私の父が造ったウィスキーが名声を得たのは、優良な水(非常に上質な湧き水)と、隣接する農場で自ら栽培した穀物、そしてジェイムズ・クロウが製造工程を見守り、彼の死後はディスティラーのウィリアム・F・ミッチェルに受け継がれた製法によるものである。私は現在、同じ蒸溜者、同じ水、同じ製法、そして同じ農場で栽培された穀物で蒸溜所を運営している。
では、ジェイムズ・ペッパーの新しいバーボンが、オリジナルの産地から25マイルも離れた場所で蒸溜されている現在、これら諸々の特性の重要性を無視して、彼の父親の旧蒸溜所の名称を使用し続けることが許されるべきでしょうか? 1881年の判決でマシューズ判事は原告の主張には説得力がないと判断しました。判事は「本件の証拠から」して「原告が自社の製品の市場を確立できたのは、その製品が彼の父親が造ったものと同じ地域性、そしてそれらが齎すと考えられる汎ゆる有利性から父親のものと同じに違いないという世間の特別な思い込みに基づいていた」のは「極めて確かである」と記しました。つまり、 消費者はその場所で製造された製品に対して特定の「利点」を期待し、「品質」を信頼し、それらが製品購入の大きな動機付けとなっており、原告は既存のブランド・イメージと場所が持つ信頼性を巧みに利用して市場を確立した、と見られたのです。「オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所」及び「O.O.P.」という用語は、原告が嘗てウィスキーを製造していた場所と被告が現在ウィスキーを製造している場所を指し、商標ではないと判断したマシューズは、ジェイムズ・ペッパーの訴えを棄却しただけでなく、「商品の製造地に関して虚偽の表示をすることで公衆を誤解させる」という理由でペッパーにはブランド名を使用する権利が全くないとし、被告がこれらの用語に対する独占的な法的権利を有すると判決を下しました。

オールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を所有していないため「オールド・オスカー・ペッパー」の名前を使う権利を失ったジェイムズ・ペッパーでしたが、レキシントンに建てた新しい蒸溜所で1880年5月に蒸溜を開始した彼は、新しい盾のトレードマークをデザインした「オールド・ペッパー・ウィスキー」のブランドを大ヒットさせました。このウィスキーは祖父から代々受け継がれてきた独自の製法で蒸溜され、旧家からのマッシュビル、サワー・マッシュ、72時間発酵させたものと言われています。その人気は主にジェイムズ・ペッパーがマーケティングを重視していたことに起因していました。師匠的存在のE・H・テイラー・ジュニアと同様に、彼は当時利用可能な汎ゆるマーケティング・ツールを活用したのです。オールド・ペッパー・ウィスキーの名は当然の如くその家名に由来し、過去100年に渡って一族が築き上げた伝統と遺産を反映させたものでした。ジェイムズはこのイメージを強化するために、 「Established 1780」や「Purest and Best in the World」というスローガンを使用し、歴史の持続性とウィスキーの品質を常に強調しました。実際に彼の祖父エライジャ・ペッパーが蒸溜を始めたのは19世紀初頭のことでしたが、こうしたサバ読みは当時は珍しいことではなく、マーケティング上の策略として功を奏しました。おそらく創業年のスローガンは南北戦争後の愛国心も利用したもので、後に1906〜7年頃から使われ出した「Born With The Republic」や「Old 1776」というスローガンに繋がっているでしょう。そして彼はラベルに「詰め替えボトルにご注意ください」という警告を記載しました。これにより彼のウィスキーが非常に優れているという印象を与え、他のウィスキー・メイカーも真似をしたがるようになったそう。また、ガラス瓶の自動化技術が進み手作業から解放されたことでボトリングが経済的に実現可能になった時、彼はケンタッキー州の法律を改正し、蒸溜業者が自社製品をボトリングできるようにした蒸溜業者の一人でした(それまではレクティファイアーズだけがウィスキーをボトリングする権利をもっていた)。その後、ジェイムズは現在では一般的となった消費者にウィスキーの健全性を保証するための「ストリップ・スタンプ・シール」を発明しました。彼はコルクに貼られた帯状のラベルに「Jas. E. Pepper & Co.」という筆記体の署名を印刷してボトルを封印したのです。そして、ジェイムス・E・ペッパーのウィスキー・ボトルを売っている人に出くわしても、このスタンプがなかったり、スタンプが破れていたり破損していたりする場合は「本物のペッパー・ウィスキーではないかも知れない」ので購入しないよう人々に呼びかける広告を出しました。署名は偽造防止法によって保護されており、商標よりも迅速に執行され、そのため既存の偽造法に基づいて偽造生産者や「ボトル再充填者」を起訴することが出来たとか。彼のこの活動は、ボトルに詰められたウィスキーの純度と同一性を保証する初の消費者保護法である1897年のボトルド・イン・ボンドの成立に貢献したと評価されています。彼はまた、広告や宣伝のために巨額の資金を投じた最初のディスティラーの一人でもありました。 ジェイムズはオールド・ペッパーの販売促進を目的にアメリカ各地を回りました。1880年代後半には、プロイセンのヘンリー王子がペンシルヴェニア・レイルロードで旅行中にオールド・ペッパー・ウィスキーが振る舞われたりしました。この頃のオールド・ペッパー・ウィスキーのブランドはアメリカ全土で強い知名度を確立しています。1890年頃にはオールド・ペッパー・ウィスキーを「結核やマラリアなどに効く万能薬」であると宣伝しました。これは、1906年のピュア・フード・アンド・ドラッグ・アクトのような連邦規制が施行される前のことでした。1892年2月にはアームズ・パレス・カー・カンパニーからプライヴェート鉄道車両を10000ドルで購入し、「オールド・ペッパー号」と名付けました。その車両は鮮やかなオレンジ色に塗られ、側面にはオールド・ペッパーのバレルやケースやボトル、サラブレッドの馬やジョッキーがハンド・ペイントされ、車端には「Private Car Old Pepper - Property of James E. Pepper, Distiller of the Famous 60 Old Pepper Whisky」と書かれていました。ジェイムズは常にショウマンであり、プロモーターだったのです。このオールド・ペッパーのブランドは、後年「オールド・ジェイムズ・E・ペッパー」というブランドが導入されたあと、最終的に「ジェイムス・E・ペッパー」バーボンが両方の商品名に取って代わりました。 また、レキシントンの蒸溜所では以前の蒸溜所から受け継いだ「オールド・ヘンリー・クレイ」というライ・ウィスキーのブランドも製造していました。
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ジェイムズ・E・ペッパーはケンタッキー州から贈られる名誉称号の「ケンタッキー・カーネル」でした。彼はスポーツが好きで、特に競馬が好きでした。馬小屋を所有し、ケンタッキー・ダービーやオークスに出走する馬を何頭も持っており、1892年には彼の馬「ミス・ディキシー(妹の名前)」がオークスを制したそうです。カーネル・ペッパーは豪快なライフ・スタイルを送り、ニューヨークの有名なウォルドーフ=アストリアに頻繁に滞在しては、国内の実業家や社交界のエリートたちと親交を深めました。伝説によると、あの有名なオールド・ファッションド・カクテルの人気はカーネル・ペッパーが広めたと言われています。伝説によると、この象徴的で古典的なカクテルは、元々ケンタッキー州ルイヴィルのペンデニス・クラブのバーテンダーが他でもないカーネル・ペッパーのために初めて造り、それをカーネル・ペッパーがウォルドーフ=アストリアのバーに導入した、と。真偽は判りません。オールド・ファッションドの起源には諸説あるようです。蒸溜所の経営を続けていたジェイムズ・エドワード・ペッパーは1906年12月に死去、父や1899年に亡くなったナニーの近くに埋葬されました。彼に子供はいませんでした。彼の妻は蒸溜所の経営に興味がなかったのか、1908年、蒸溜所とブランドはシカゴの投資家グループに売却され、禁酒法により閉鎖されるまで操業されました。禁酒法時代にはシェンリーによりメディシナル・スピリッツとして販売され、彼らは禁酒法終了後にブランドと蒸溜所を買い取ります。しかし、シェンリーの規模が大きくなるにつれ、この蒸溜所は数ある蒸溜所の一つとなり、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは彼らが製造/販売する数十のブランドの一つに過ぎなくなりました。「Born with the Republic」というスローガンも継続されていましたが、軈てブランドの売り上げは低迷し始め、I.W.ハーパーやJ.W.ダントといった主力ブランドよりも会社にとって重要ではなくなって行きます。シェンリーは1950年代前半に過剰生産に陥り、1958年にボンディング期間が20年に延長されたことでようやく破産を免れたに過ぎない状態でした。ジェイムズ・E・ペッパー蒸溜所は1958年に閉鎖され(1960年代初頭に操業を停止し、60年代末までに閉鎖されたという説もあった)、「ジェイムズ・E・ペッパー」ブランドは1960年代には人々の記憶からラベルも忘れ去られ、膨大な倉庫在庫からウィスキーは1970年代には販売され続けましたが、1970年代末までに市場から姿を消しました。1990年代初頭の一時期、ジェイムズ・E・ペッパー・バーボンは、1987年にシェンリーを買収したユナイテッド・ディスティラーズによって復活します。 このブランドは1994年、ポーランドと東欧の新興バーボン市場への輸出専用ブランドとなりました。しかし、ユナイテッド・ディスティラーズがアメリカン・ウィスキーのブランドの殆どを他の蒸溜会社に売却したため、ジェイムズ・E・ペッパー・ブランドはすぐに再び消滅してしまいます。そして、時を経た2008年、以前のブランド・オウナーとは無関係の起業家アミル・ピィー(または「アミア」や「ペイ」と発音されることもある)は放棄された商標を取得し、このブランドを再スタートします。カーネル・ペッパーのレキシントンの蒸溜所の歴史や復活したブランドに就いては、また別の機会に譲るとして、話をラブロー&グラハム蒸溜所とO.O.P.に戻しましょう。

禁酒法の施行に伴い、1918年、ラブロー&グラハム蒸溜所は閉鎖を余儀なくされました。1920年のヴォルステッド・アクトの施行から1933年12月の憲法修正第21条の批准による廃止までの13年の歳月、ラブロー&グラハム蒸溜所は空き家となり使用されていませんでした。商品や資材は引き揚げのために売却され、多くの建物は破損し屋根のないまま放置されたそうです。倉庫に保管されていたウィスキーは盗掘や盗難を防ぐために、1922年までに連邦政府の集中倉庫に移されました。禁酒法期間中、酒は医療目的で販売されました。フランクフォート・ディスティラリーがストックのウィスキーを使ってオールド・オスカー・ペッパーをメディシナル・スピリッツとしてボトリングしています。1920年に禁酒法が施行された当時、同社は医療目的の蒸溜酒販売許可を与えられた僅か6社のうちの1社でした。1922年、同社はポール・ジョーンズ社に買収され、彼らはフランクフォート・ディスティラリーの社名を引き継ぎ、「フォアローゼズ」や「アンティーク」など多くのブランド名でウィスキーを販売する許可を保持しました。画像検索で禁酒法下のO.O.P.を眺めてみると、中身の原酒の殆どにラブロー&グラハム(第7区No. 52)が生産したものが使われていましたが、禁酒法期間の後期にはハリー・S・バートン(第2区No. 24)が生産したものが使われたボトルもありました。1928年までに禁酒法以前のウィスキーの在庫が減少すると、フランクフォート・ディスティラリーはルイヴィルに拠点を置くA. Ph. スティッツェル蒸溜所と契約を結び、そこからスピリッツの供給をしました。1933年に禁酒法が廃止されると、彼らはスティッツェルの旧工場を買収し、シャイヴリーに新工場を建設します。これがルイヴィルのフォア・ローゼズ蒸溜所と呼ばれました。第二次世界大戦下の厳しい時期に蒸溜所とブランドはシーグラムに売却されます(1933年にシーグラムが買収という説もあった)。シーグラムはストレート・ウィスキーの製造を中止するまで何年も同じブランドを使い続けたそうなので、フランクフォート・ディスティラリーから引き継いだブランドを販売していたのでしょう。画像検索してみると、オールド・オスカー・ペッパー・ブランドとして、メリーランドのボルティモアと所在地表記のあるバーボンやライのブレンドがありました。その後、おそらく50年代か60年代にはその存在感を失い、軈てブランドのラベルは使われなくなったと思われます。
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(1936年頃の蒸溜所)
偖て、O.O.P.ブランドとは分かたれた蒸溜所には別の途があります。禁酒法が解禁されると、リチャードとアーマのベイカー夫妻、そして新たにマネージング・パートナーとなったクロード・V・ビクスラーは、1933年8月に新たなラブロー&グラハム社を設立し、建物の再建に着手しました。彼らは改修と建設を調和のとれたものにすることに特に注意を払いました。蒸溜所の建物の増築部分や新しい石造り倉庫の基礎部分に、古い倉庫跡の石材を再利用したと言います。この作業の重要性とその達成方法は、再建された他の蒸溜所よりもこの蒸溜所の国家的地位を高めるのに貢献した理由の一つでした。1934年以降の蒸溜所の拡張と再建の全体計画は、既存の建物や資材、そして当時の人件費と技術水準に見合った新しい建設資材を融合させた質の高い工業デザインの好例と評価されています。土地の地形と産業のニーズが調和され、省力化と経済性を追求した工場が実現した、と。コーンや他の穀物が丘の中腹にある貯蔵庫から高架を伝って運ばれたように、新しい倉庫は長いバレル・ランの緩やかな傾斜に沿って建てられました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは全長500フィート以上あり、必要な幅で間隔をあけた2本の平行レールで構成されているため、作業員がバレルを所定の位置に留めなくても移動できるそうです。その複雑さに加え、安全および保険の要件も、新しい建物をどこに建設するかを決める上で役立ったとか。このバレル・ランは、樽にスピリッツを最初に充填するシスタン・ルームからリクーパー・ショップを含む全てのストレージ・ウェアハウスまでの広範な時間節約型のコネクター・システムになりました。2レール・システムによって、2人の作業員が大量のバーボン・バレルを扱い、トラックや他の車輪付き搬送装置から積み下ろしすることなく、或る場所から別の場所へ素早く移動させることが出来るようになりました。ラブロー&グラハムのバレル・ランは、他の蒸溜所の平均的なそれと比べても優れた搬送システムでした。バレル・ランに加えて、禁酒法廃止後に再建されたラブロー&グラハム蒸溜所で最も重要だったのは、1934年から1940年の間に増築された釉薬の掛かったテラコッタ・タイルの倉庫E、F、Hでした。 禁酒法廃止後に建てられた他の蒸溜所の殆どの倉庫は、木造で金属製の波板で覆われていたことを考えると、珍しい仕様と言えるでしょう。これらの建物は全て4階半建て、長さは様々で、石灰岩の基礎の上に建てられ、エイジングをコントロールするための暖房システムを備えていました。これらはライムストーン・ウェアハウスの構造と形状を模倣していましたが、汎ゆる寸法が大きくなっていたとのこと。これらの倉庫をバレル・ランと組み合わせて川岸に沿って慎重に配置したのは、貯蔵能力を拡大するためでした。テラコッタ構造ユニットの使用は、この時代に国中で採用されていた耐火構造のための一般的でシンプルな建築媒体だそうです。テラコッタ・タイルは更にその他の小規模で機能的な建物にも使用されました。また、ビクスラーは閉鎖前と同じウィスキーを造るために禁酒法時代に冷凍保存されていたラブロー&グラハム独自のイーストを使用したとされています。家族のような従業員達によって生産は再開され、その殆どは地元の出身者であり、中には禁酒法以前に親や祖父母がこの蒸溜所で働いていた人もいたそう。ラブロー&グラハムが生産したブランドには「L. & G.」と「R. A. ベイカー」があったと伝えられます。1939年末から1940年初頭に掛けて、彼らは相当量の4年物のバルク・ウィスキーをディーツヴィルのT・W・サミュエルズ蒸溜所(RD No. 145)に売却しました。こうしてラブロー&グラハムは1940年までに蒸溜所の再建、拡張、生産を行い、ウェアハウスに25673バレルのウィスキーを貯蔵するまでになりましたが、1940年7月にオールド・フォレスターやアーリー・タイムズなどのブランドで知られるブラウン=フォーマン・ディスティラーズ・コーポレーションに75000ドルで売却されました。この取引には、倉庫で熟成されていたその約25000バレルのバーボン・ウィスキーも含まれていました。ブラウン=フォーマンはその後の約20年間、この蒸溜所をラブロー&グラハムという名前の下に操業を続け、一部のオールド・フォレスターやアーリータイムズもここで生産されたと目されます。また、サム・K・セシルの著作によると、ブラウン=フォーマン社は暫くこの工場を使用して「ケンタッキー・デュー」を製造したそうです(後にルイヴィルで瓶詰め)。

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ブラウン=フォーマンが生産と貯蔵を引き継ぐ一方で、ヨーロッパ戦線に於ける戦争への取り組みが高まる懸念から、戦争を予期して生産を加速する必要性が高まりました。施設の新しいマネージャーは大量生産に対応するには水の供給が不十分なことに気づきます。解決策として、既存の鉄道踏切にコンクリート製のダムと放水路を築き、小川を堰き止めるという計画が立てられました。さっそくブラウン=フォーマンはコンクリート製のダムと放水路、そして鉄製の歩道を完成させると、その結果として小川の両岸の間に2.75エーカーの池が出来ました。この水は蒸溜所の年間生産期間を延長するための安定した供給源となっただけでなく、消火のための備蓄水にもなり、蒸溜所の建築物を映し出す風光明媚な景観の一つともなりました。戦時中から1945年末に掛けてのブラウン=フォーマンの工場拡張は、ディスティラリー・ハウスの増築と小さな新棟を建設して完了しました。1942年には蒸溜所の増築に伴い、建物の南側に3ベイのファサードが追加され、発酵室が併設されました。ライムストーンと拡張されたスタンディング・シーム・メタル・ルーフは全体を一体化するために再び選ばれた素材でした。最後の仕上げは、新しい出入り口の上に既存のミルストーンを組み込み、目立つ場所にこの蒸溜所の100年の歴史を刻むことでした。同じ頃、シスターン・ルームの隣に、消防用具を保管するためのセグメンタル・アーチ型の窓とドアを備えたライムストーン造りの平屋建て6面建造物が建てられたそうです。1945年以降、ブラウン=フォーマンは通常のウィスキーの製造および熟成と貯蔵を続けましたが、ラブロー&グラハムが1934年にこの場所に建設したボトリング・プラントの規模は縮小されました。そして1950年代のバーボン市場の衰退により、1957年に生産は終了します。1965年には貯蔵も廃止されました。1960年代後半に更にバーボン市場が低迷すると工場は閉鎖され、ブラウン=フォーマンは1973年(1972年という説も)に土地を地元農家のフリーマン・ホッケンスミスに譲渡。こうしてブラウン=フォーマンによるこの蒸溜所の管理は終わりを告げ、一旦はその歴史に幕が下ろされました。ホッケンスミスはこの施設を農産物の貯蔵庫として使用し、短期間ながら燃料用アルコールの製造も試みたそうです。工業用アルコール、特にOPECの燃料危機をきっかけに人気を博した「ガソホール」の生産に転換したとのこと。しかし、ホッケンスミスは危機が収束する前に新しい給排水設備を殆ど建設することが出来ず、限られた生産量ではごく僅かな市場しか残せなかったらしい。彼は蒸溜所を閉鎖し、凡そ20年も放置されたままになりました。

時は過ぎて1980年代後半から1990年代初頭、バーボンの需要は復活の兆しを見せ始めました。具体的には限られた量しか生産されない高品質なプレミアム・バーボンの市場が盛り上がりを見せていたのです。各蒸溜所では「スモール・バッチ」や「シングル・バレル」の製品が販売されるようになっていました。ジムビームとケンタッキー・バーボン・ディスティラーズはスモール・バッチ・コレクションを展開し、エイジ・インターナショナルはエンシェント・エイジ蒸溜所(現在のバッファロー・トレース蒸溜所)からブラントンズを筆頭とする幾つかのシングル・バレルのブランドをリリース、フォアローゼズのブランドはアメリカではブレンデッド・ウィスキーのみだったものの輸出市場にはプレミアムなストレート・バーボンを販売、ワイルドターキーもバレルプルーフやシングルバレルの製品を開発、ヘヴンヒルも市場は限定的だったかも知れませんがプレミアムなボトリングを提供していました。当然ブラウン=フォーマンもプレミアム・バーボンの製造に興味を持ち始め、この市場への参入を必要としていました。そこで彼らはそれを造るための適切な場所を探し、ケンタッキー州内の候補地の調査をします。その結果、検討した場所の中にウッドフォード郡にある嘗てのラブロー&グラハム蒸溜所跡地があり、1994年末、ブラウン=フォーマンはメアリー・アン・ホッケンスミスからこの土地を買い戻しました。彼らの目標は外観を1945年当時の姿に復元し、施設を完全に改修することでした。すぐに始まった修復工事にブラウン=フォーマンは2年近くを費やし、この古いランドマークを修復すると業界で最も美しい場所の一つにまで昇華させました。スコットランドやアイルランドで使われるようなオリジナルのカッパー・スティルを設置し、それを用いたプレミアム・バーボン製造のために内装にも変更を加え、遺産観光を目的とした新しいヴィジター・センターも併設され、その総工費は740万ドルだったと言います。1996年10月17日、蒸溜所は一般見学用にオープンしました。蒸溜所の操業開始直後の1997年、ブラウン=フォーマンは周辺の30エーカーを超える土地(元の住居と東側の丘にある泉を含む)を追加購入したことにより、新たに拡張されます。 オープン当時、施設の名前は旧来と同じく、そのままラブロー&グラハム蒸溜所と呼ばれていましたが、製造される唯一のウィスキーはウッドフォード・リザーヴと呼ばれました。そのため、2003年には正式にウッドフォード・リザーヴ蒸溜所と改称され、現在に至ります。このウィスキーはマスター・ディスティラーのリンカーン・ヘンダーソンと当時のプラントのゼネラル・マネージャーであるデイヴ・ショイリックによって構想/開発されました。1996年に市場に投入され、今も高い人気を誇るウッドフォード・リザーヴに就いては、また別の機会に語ることもあるでしょう。
では、最後に貴重なウィスキーを飲んだ感想を少しだけ。

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O.O.P. Old Oscar Pepper Whiskey BiB 100 Proof
1916 - 1926? or 1928?
経年でストリップの印字がよく読み取れず、たぶん26年か28年のボトリングかと思います。液体の見た目はけっこう濁っていました。けれど香りは悪くないし、全然飲めました。オールドオークと甘草やアニス系統のフレイヴァーですかね。流石にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎてるせいなのか、飲んだ量が少量過ぎるというのもあってか、私にはそれほどフルーティなテイストは取れませんでした。とは言え、これは文句ではなく、これだけの「歴史」を飲めたことに感謝です。
Rating:85.5/100

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L.&G. Bottled in Bond 100 Proof
1938? - 1943?
こちらもO.O.P.と同様、ストリップの印字が滲んでいて数字が判別出来ませんでした。これを飲んだことのあるバーボン仲間にも訊ねたのですが、やはりその方も完全には判読できず、蒸溜年とボトリング年はぼんやりとした数字からの推測です。こちらは液体の見た目はクリア、そしてO.O.P.より甘いキャラメルと少しフルーティなテイストを感じました。こちらも少し酸化し過ぎた風味はあったような気はしますが、オールドボトルを飲み慣れていればそれを陶酔感と表現する人もいるでしょう。
Rating:86.5/100


*200年以上もの間、蒸溜所を見下ろす丘の上に建っていたこの歴史的な建物は、エライジャ・ペッパーとその家族に因みペッパー・ハウスと呼ばれています。グレンズ・クリークの畔の小さな蒸溜所の敷地内に1812年に建てられた後、何世代にも渡ってペッパー家の住まいとなり、ペッパー家の手を離れた後も2003年まで誰かしらがこの家に住み、ペッパー・ハウスはケンタッキー州の歴史上、人が住み続けている最古のログ・キャビンとして知られていました。しかし、ここ20年もの間は空き家となって荒れ果てていました。ブラウン=フォーマンはウッドフォード・リザーヴ蒸溜所のウィスキー・バレル・テイスティング体験の水準を引き上げるため、ペッパー・ハウスの修復と改修をジョセフ&ジョセフ・アーキテクトに依頼して、この家を2024年の夏にウッドフォード・リザーヴのパーソナル・セレクション・プライヴェート・バレル・プログラムの新しい拠点として使用することに決めました。オリジナルの外部の石灰岩の煙突はゲストを迎えるために再建されたポーチと共に3年以上かけた修復の中心となっています。既存のスペースは、ドラマチックな2階建てのテイスティング・ルーム、暖炉のあるパーラー、展示室、ケータリング・サポート・スペースのあるバーとして造り直されました。屋外には美しく整備された庭園を見渡す石の壁に囲まれたダイニング・テラスもあります。ウッドフォード・リザーヴを世界的ブランドへと成長させ、長年に渡り修復プロジェクトを支持して来た名誉マスター・ディスティラーのクリス・モリスの功績に敬意を表して、ペッパー・ハウス内のライブラリーは「クリス・モリス図書室」と命名されました。ここには1800年代に遡る丸太とチンキングがあるそう。ウッドフォード・リザーヴのマスター・ディスティラーであるエリザベス・マッコールは、「この家は、コモンウェルスに於けるバーボンの誕生に深く関わる豊かな遺産であり、今日私たちが知っているバーボン業界を形成したペッパー家の不朽の遺産を物語るものです」、「この家を現代的な方法で再利用することは相応しいトリビュートでしょう。もしこの壁が話せるとしたら、ケンタッキー州に於ける初期の蒸溜生活についてどんな物語を語ってくれることか想像できます」、「中に入って1800年代にこの家の一部だった壁に触れるのは素晴らしいことです」と語っていました。
ウッドフォード・リザーヴ・パーソナル・セレクション・プログラムは、世界中のレストラン、バー、酒屋、個人が蒸溜所に訪れ、ウッドフォード・リザーヴ・バーボンの自分だけの組み合わせを作るためのもので、 顧客は公認テイスターとのブレンド体験に参加し、その結果、2樽のバッチが出来上がり、瓶詰めされ、パーソナライズされたラベルが貼られて完成。パーソナル・セレクション・プログラムは、ウッドフォード版プライヴェート・バレル・ボトリングであり、シングルバレルではないものの2バレルを組み合わせて製造されるため限りなくそれに近い。

**ゲインズ, ベリー&カンパニーは1868年6月初旬にオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所から約3マイル離れたグレン・クリーク沿いにある25エーカーの土地をジェームズ・ボッツ博士とその妻ジュディスから購入してオールド・クロウ蒸溜所を建設した、とされているので、そこにオスカーが建てた旧来の蒸溜所があったのかも知れません。W. A. ゲインズ・カンパニー(ゲインズ, ベリー&カンパニーの後継会社)はこの蒸溜所とハーミテッジ蒸溜所(RD No. 4)を共に経営しました。後年、DSP-KY-25のプラント・ナンバーで知られたオールド・クロウ蒸溜所は、禁酒法解禁後はナショナル・ディスティラーズが長年に渡り操業し、1980年代後半にアメリカン・ブランズ(ジェイムズ・B・ビーム)が引き継いだあと廃墟となり、現在はグレンズ・クリーク蒸溜所となって復活しています。

***1865年6月にオスカー・ペッパーが亡くなった後、ナニーは1865年後半に隣人であり親戚でもあるトーマス・エドワーズに蒸溜所を1シーズンだけ貸し出しました。エドワーズはグレンズ・クリーク沿いの5マイル離れた農場に蒸溜所を所有しており、そこはドクター・ジェイムズ・クロウがペッパー蒸溜所を去った後の1856年に働いていた地域でも小規模な蒸溜所の一つでした。翌1866年になるとナニーはジョン・ギルバート・マスティンとその弟ウィリアムと3年間のリース契約を交渉しました。ペッパーの蒸溜所は高品質のウィスキーを大量に生産することで評判が高く、ウッドフォード・カウンティの他の蒸溜所もペッパーの設備や専門知識を活用するようになっていたからでした。ジョン・マスティンは1866年のシーズン中、トーマス・エドワーズと共に蒸溜所で働き、その後エドワーズからリース契約を引き継ぎます。彼は1867年1月1日から蒸溜所をゲインズ, ベリー・アンド・カンパニーに転貸し、息子のジョン・Wとロバート・マスティンと共に同社の株式を少額ずつ取得したそうです。

****ゲインズ, ベリー&カンパニーは1867年2月からオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所でオールド・クロウを製造するためのリースを確保した、との説もあります。こちらの方が正しいのかも知れませんが、本文では1869年の裁判所による調停後のこととして記述しました。

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今回はジャグに入ったジョージディッケル・オールドNo.12ブランドを飲んでみます。ジャグの底には1988とあるのでボトリングはその年だと思われます。ジョージディッケルのブランドの歴史や蒸溜所の紹介は過去に投稿していますのでそれらを参照して下さい。

ガラス製のボトルがまだ高価だったため、安価なガラス・ボトルが普及する以前の1900年代初頭までは、アルコールはバレルのまま売られていました。バーやリカーストアはバレルを蒸溜所や仲介業者から直接購入し、顧客は自分のグラス、フラスク、デキャンタ等に酒を入れ買いました。そして多くの蒸溜所や販売業者がブランド名の入った陶器のジャグを提供していました。ガラス・ボトルが一般的になった後も、幾つかのブランドは懐古主義的に?ウィスキーをジャグに入れ販売していました。ミクターズやヘンリーマッケンナ、或いはマコーミックのコーン・ウィスキーなどは特にジャグとの繋がりが強い印象があります。ディッケル・ウィスキーも画像検索ですぐ見つかるものに1976年製のジャグがありました(参考)。私が飲んだ物と概ね似たような形状に見えるので、これの復刻版が今回の物ということなのかも知れません。形状で言うと、ディッケルは今回のオールドNo.12ブランドと同型の色違いで、裏面にカントリー・シンガーのマール・ハガードがプリントされたオールドNo.8ブランドの黒い(もしくはダーク・ブラウン?)ジャグを1987年に発売しています。
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ウィスキー・ビジネスにとって暗黒時代の真っ只中だった1980年代半ば、ディッケルはハガードを広告キャンペーンに採用していたようです。そしてジョージディッケル・ウィスキーはマール・ハガード・アンド・ザ・ストレンジャーズによる1987年のエイント・ナッシン・ベター・ツアーを後援し、その一環として様々なグッズが製造されました。オールドNo.8ブランドの黒いジャグもツアーに合わせた物なのでしょうか? 発売年代から考えると、今回のオールドNo.12ブランドの白いジャグは、ハガードのジャグの姉妹製品というかセットの上位モデルという位置づけと見ることも可能かと…。

これは現在スーペリアNo.12レシピと表記されている現行品の古いものな訳ですが、このジャグが通常のガラス・ボトルの物と較べて中身にクオリティの差があるのかどうかは分かりません。当時はまだ「バレル・セレクト」や「ハンド・セレクテッド」などのヴァリエーションがなかったので、ジャグに特別に選ばれたバレルが使用された可能性もなくはないですが、この頃のディッケルにはプレミアム・ウィスキーの概念がなさそうな気がするので、おそらくガラス・ボトルとジャグにそれほど明確な差はないと思います。
ちなみにディッケルが製品に付けたナンバー「8」や「12」は、紛らわしいことに熟成年数ではありません。シェンリーがジャックダニエルズの対抗馬としてジョージディッケルを作成した時、彼らは消費者調査を行い、21以下の数字を全て調べました。結果、既にジャックダニエルズ・オールドNo.7で使われていた「7」を除くと「8」と「12」が次に最も人気のある番号であることが判りました。そこで、その数字をブランドに採用したと言われています。おそらく酒名に人名を用いることやNo.8の白と黒を基調としたラベルはJDを意識していたと思います。品名にナンバーを付けるあたりもジャックダニエルズへの剥き出しのライヴァル心からだったのではないでしょうか。
と言う訳で、一部の熟成年数が明記された製品を除き、No.8と12は発売当初から現在に至るまで全てNASのウィスキーです。それ故、販売された年代によって中身の熟成年数は様々で、我々は正確に知ることが出来ません。70年代のNo.12はバックラベルに5年熟成と書かれていたとの情報もありました。過去にマスター・ディスティラーを務めていたデイヴィッド・バッカスによると、No.12は平均して7~8年熟成だがもっと古いウィスキーのこともあり得ると言っていました。実際、90年代に発売されたバーボン・ヘリテッジ・コレクションでは10年物のウィスキーが使われ、また海外ではNo.12ではなくディッケル10年として販売されていたものがあったとの話もありました。
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(左はUDのBHC、右はおそらくヨーロッパ向け?)
そしてジョージ・ディッケル蒸溜所は過剰生産のため1999年2月に停止、2003年までの期間閉鎖されています。その間、既存の在庫は熟成され続けたでしょう。再出発した時、つまり2000年代初頭から中期に掛けてNo.12ブランドに含まれるウィスキーの中には、過剰生産時代のバーボンのように古いストックが混じり12年物に近づいたり超えたりしたものもあったのかも知れない。尤も、休止期間中も既存の在庫は販売され続けていた筈なので、先入先出方式?の在庫管理で長熟ウィスキーはそれほどなかった可能性もあります。とは言え、後に長熟のディッケルが販売されたところからすると、絶えず長熟ウィスキーは存在していたのではないかとも思えます。まあ、全ては憶測に過ぎません。で、今回のこの80年代後期のオールドNo.12ブランドのジャグですが、アメリカ本国のバーボン需要が下火だった時代背景から考えると、8〜10年もしくは10年超のウィスキーではないかと予想しています。 では、そろそろウィスキーを注いで試してみましょう。
と、その前に…。この記事のために色々とバーボン系ウェブサイトで取り上げられたディッケルに関する情報を読み漁っていたら、そのマッシュビルをNo.8はコーン84%/ライ8%/モルテッドバーリー8%、No.12はコーン84%/ライ10%/モルテッドバーリー6%としているものを見かけました。私自身はディッケルのマッシュビルは前者しか知らなかったので驚きました。これって、いつの頃からか両者をマッシュの微調整で造り分け始めたのか、それとも単なる間違いなのか、或いは近年マッシュビルの変更があったのか…。最新の情報をご存知の方がいましたらコメント頂けると助かります。

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George Dickel Old №12 Brand Ceramic Jug 90 Proof
推定88年ボトリング。赤みを帯びた濃いめのブラウン。ビターなカラメルソース、砂糖漬けオレンジ、オールドコーン、ブラウンシュガー、ベーキングスパイス、いちじく、土、アプリコット、ラヴェンダー、花火。円やかでソフトな刺激が少ない口当たり。味わいは、酸味を仄かな甘さと穏やかなスパイスが包み込むといった感じ。余韻はややビターでタバコっぽさも。
Rating:86.5/100

Thought:そこそこ古いお酒ですがオールド臭はあまりなく、陶器ボトルにありがちな鉛風味もなく、とてもいい状態でした。海外の多くの人はジョージディッケルの特徴的なキャラクターをフリントストーンズ・チュアブル・ヴァイタミンのような味だと説明しています。私はそれを口にしたことがないのですが、おそらくディッケル特有の酸味とちょっとした苦味のことを指しているのではないかと思います。仮にそれが正しいとして、その風味が過剰であるか、又はそもそも苦手な人は、ディッケルをあまり評価しません。斯くいう私も、テネシー・ウィスキーのニ大巨頭であるジャックダニエルズとジョージディッケルを較べると、その風味がないジャックの方が遥かに好みです。で、このジャグはそのディッケルの著名な風味が過剰ではなく、その他のフレイヴァーとギリギリ良いバランスを保っていたので、美味しく感じました。と言うか、私が今まで飲んだディッケルで最も美味しく感じました。その風味の由来は、個人的にはイーストと水と長期間の熟成が主な要因となって醸されるのではないかと考えています。と言うのも、15〜18年の熟成年数では、そこにあるべきではない味わいがあるとして、ディッケルは古いものが良いとは限らない典型的な例だと言う人がおり、私自身も飲んだ印象で長熟気味の方がこの風味を感じ易い気がするのです。現行のNo.8には全く感じず、昔のNo.8にはかなり感じ、現行のNo.12やバレルセレクトには少しだけ感じる、と言った具合です。皆さんはどう思われるでしょうか? コメントよりどしどしご意見ご感想お寄せ下さい。

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ウィレット・ポットスティル・リザーヴは名前の通り見栄えのするポットスティル型のボトルが特徴的なバーボン。ウィレット蒸溜所に設置されている銅製のポットスティルを模したデザインになっています。2008年から導入されました。同蒸溜所がリリースしているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つ(ノアーズ・ミル、ローワンズ・クリーク、ピュア・ケンタッキーXO、ケンタッキー・ヴィンテージ)がジムビームのスモールバッチ・コレクション(ブッカーズ、ベイカーズ、ノブ・クリーク、ベイゼル・ヘイデン)に相当するならば、このポットスティル・リザーヴはバッファロートレース製造のブラントンズやワイルドターキーのケンタッキー・スピリットに相当すると言えるでしょうか。おそらくは現在市場に出回っているバーボンのガラス・ボトルの中で最も派手な部類に属し、酒屋の棚では一際目立つ存在です。但し、そのボトル形状のせいでグラスへ注ぎにくいとか、ボトムの面積が広いためコレクション棚への収納が難しい等の声も聞かれたります。それでもやはり、このボトル形状にはウィスキー飲みが惹かれてしまう魅力がありますね。
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この製品は元々はシングルバレルとしてリリースされていましたが、2015年からひっそりとスモールバッチに変更されました。そもそものシングルバレル版では、キャップを封するストリップにバレル番号とボトル番号が手書きで記載されていました。「Bottle No. ○○○ of ○○○ from Single Barrel ○○○」という具合で○には数字が入ります。スモールバッチになるとストリップにはボトル番号は記載されなくなり、バッチ番号のみとなりました。明確な時期を特定できませんが、帯の色は初期から現在にかけてオレンジ、黒、紺と変わって行ったと思います。ただ、画像検索で幾つかのWPSRSmBを探ってみると、より新しいバッチであっても紺ではなく黒の場合もあるように見え、輸出国の違いとかバッチの違いによってパッケージングが異なっている可能性も考えられます。ボトル前面に貼られたワックスシールのエレガントなメダリオンの文言も何時からか段階的に変化しており、「SINGLE BARREL ESTATE RESERVE」から「POT STILL RESERVE」へ、また「WILLETT」の文字はブロック・レターからスクリプトへ変更されました。
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(画像提供K氏)

おそらくはバーボン需要の高まりに応じるかたちで2015年頃からスモールバッチになったポットスティル・リザーヴですが、このブランドを際立たせていたのがバーボンの味わいではなくボトル・デザインであったせいなのか、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリークがエイジ・ステイトメントを失いNASへと変化した時のように残念がる声を上げる消費者は殆どいませんでした。このブランドの成功の大部分はウィレット蒸溜所のポットスティルを模したガラス製デキャンターのデザインにあったに違いありません。実際、2008年のサンフランシスコ・ワールド・スピリッツ・コンペティションのパッケージング・デザイン部門でダブル・ゴールドを受賞しています。しかし、その外見の良さは諸刃の剣でもありました。外見の良さは中身を伴わないと非難と嘲笑の対象になるからです。或るリカー・ショップの商品レヴューでは、約50ドルの小売価格のうち20ドルがバーボンで30ドルがボトルだ、と言うような趣旨の皮肉めいた見出しの評がありました。とは言え、この発言はそのショップのレヴューでは少数意見ではあります。ところが、TikTok界隈ではそうではありません。バーボン系ティックトッカー達によるウィレット・ポットスティル・リザーヴのレヴューは、ライター/ジャーナリストのアーロン・ゴールドファーブによると、「一部にプロフェッショナルな者もいるが大部分はアマチュア、少数の真面目なものもあるが多くはコミカル、殆どが容赦のないもの。まるでこのウィスキーを非難することが、この人気の高いプラットフォームでバーボン・レヴュアーになるための通過儀礼であるかのようにほぼ全て否定的です」。TikTokのポットスティル・リザーヴのレヴューは殆どの場合、ボトルの形が如何にクールでどれほど見栄えがし、評者自身が気に入っていると述べるところから始まります。しかし、次にグラスに注いだ液体を口にした瞬間、様相は一変します。滑稽な調子で咳き込んで窒息しそうになってみたり、「わーーー、これはホットだ」と叫んで最終的にウィレット・ポットスティル・リザーヴを「ゴミ」と呼んだり、「今まで飲んだバーボンの中で一番不味いかも知れない」と述べる人もいたりします。このようにポットスティル・リザーヴへのバッシングの多くは、そのボトルの豪華さに比べて中身が如何に酷いものであるかを笑いものにしている訳ですが、これらはTikTok特有のユーモアを多分に含んだオーヴァー・リアクションと言うのか、短い時間内で一発芸的に笑いを取るショート動画にありがちな或る種のジョークであって真に受ける必要はないと個人的には思います。けれども気になるのは、僅かながら存在するもっと真摯なTikTokレヴュワーや他のバーボン系ウェブサイトに於いてもウィレット・ポットスティル・リザーヴがそれほど高評価を得てはいないところです。ゴールドファーブ自身も「ポットスティル・リザーヴは確かに美味しくない(私は決してこのボトルを家に置かないだろう)が、TikTokが信じ込ませているほど悪くはない」と微妙な評価。まあ、それらは全て「スモールバッチ」への言及であり、「シングルバレル」についてではありません。

ウィレット・ポットスティル・リザーヴはシングルバレルであれスモールバッチであれ、94プルーフでのボトリングとNAS(Non-Age Statement=熟成年数表記なし)での提供は共通しています。ウィレット蒸溜所は中身の原酒に関して明らかにしないことが多いので、飽くまで噂と憶測になりますが、ここからはポットスティル・リザーヴの中身の変遷について整理して行きたいと思います。と、その前に少しだけ歴史の復習を。
禁酒法撤廃後、ケンタッキー州バーズタウン郊外にランバートとトンプソンのウィレット父子によって設立されたウィレット・ディスティリング・カンパニーは、訳あって1980年代初頭に蒸溜を停止しました。1984年、会社はトンプソンの娘マーサと結婚したエヴァン・クルスヴィーンに引き継がれ、以後ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)というボトラーとして活動することになります。同社は倉庫で何年ものあいだ寝ていた熟成ウィスキーをボトリングして販売を続けましたが、自社の在庫が枯渇する前に他の蒸溜所からウィスキーを購入しました。それらを効果的に使用して、オールド・バーズタウンやジョニー・ドラム、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリーク等の自社ブランドを販売する傍ら、自らが所有していない他の多くのブランドのための契約ボトラーとしても働きました。エヴァンのKBDは蒸溜はしなかったものの、その代わりに名高いバーンハイムやスティッツェル=ウェラー、ヘヴンヒルやジムビームやフォアローゼズ等の近隣の蒸溜所から不要な在庫を調達し、それらの一部を巧みにブレンドすることで自らのフレイヴァー・プロファイルをクリエイトしました。そしてエヴァンとその息子ドリューは、現代のアメリカン・ウィスキー・ブームに先駆けて、ウィレット・ファミリー・エステートの名の下にバレルプルーフでノンチルフィルタードのシングルバレルとして最も上質のバーボンとライのストックをリリースし、好事家からの称賛を受けました。そうした全ての活動が実り、蒸溜所は復活、2012年1月21日に蒸溜を再開することが出来たのです。今、アメリカン・ウィスキー愛好家にとってウィレットの名は神聖とも言える特別な位置を占めています。
ここから分かる通り、ウィレット蒸溜所は1980年代初頭から2012年まで蒸溜を停止していたため、このポットスティル・リザーヴの発売から暫くの間は別のディスティラリーで蒸溜されたものを使用している筈です。現在ポットスティル・リザーヴと呼ばれている製品のシングルバレル(もしかすると初期の正式名称はウィレット・シングルバレル・エステート・リザーヴだったのかも知れない。上掲のワックスシールの画像参照)は、リリースされた当初は多くのウェブサイト上の情報源によると8〜10年の熟成であるとされていました。そして、ボトル内のバーボンは彼らの他の製品と同様に、すぐ隣のヘヴンヒル蒸溜所から来ていると推測されています。シングルバレルはその特性上、風味の一貫性を問われませんから、もしかすると他の蒸溜所産のバレルも使用していた可能性もありますが、こればかりは公開されてないので謎のままです。いずれにせよ、何処の蒸溜所の原酒であれ、ポットスチルを模したボトルの形状やその製品の名称にも拘らず、このバーボンは一般的なコラムスティル+ダブラーを使用して製造されているのは間違いないでしょう。ちなみにウィレット蒸溜所の自家蒸溜でも、おそらく最初の蒸溜をコラムスティル、2回目の蒸溜で銅製ポットスティルをダブラーとして使用していると見られています。

2015年頃、前述のようにポットスティル・リザーヴはシングルバレルからスモールバッチに置き換えられました。ウィレット蒸溜所はバーボン界での世界的な人気の高まりがあっても、所謂クラフト蒸溜所に近い規模の操業を維持しています。そのため「スモールバッチ」と名付けられていなくても実際には全ての製品がスモールバッチのようです。スモールバッチという用語は政府によって規制されていないため、ただのマーケティング・フレーズに過ぎませんが、大規模蒸溜所のスモールバッチが100〜200樽、中には300樽にまで及ぶこともあるなか、ウィレットのバッチ・サイズは、おそらく2000年代は12樽程度、現在でも20樽ちょいとされていますので、ウィレット製品のスモールバッチ表現は我々消費者が抱く「スモールバッチ」のイメージと一致しているでしょう。このバッチ数量は時間の経過と共に変化する可能性はありますが、少なくとも今のところヴェリー・スモールバッチと呼んだほうが誤解がなく適切な気がします。ヴェリー・スモールバッチの弱点は、ごく少数のバレルからバッチを形成するため、バッチ毎に味わいの一貫性が低下するところです。ポットスティル・リザーヴの評価が定まらないのは、もしかするとこのせいもあるのかも。
最終的にウィレットの製品は100%自家蒸溜に移行する(した?)と思われますが、彼らは自身の蒸溜物がいつポットスティル・リザーヴに組み込まれたかについて明らかにしていません。有名なバーボン・ウェブサイトの2017年時点のレヴューでは、ケンタッキー州の他の蒸溜所から供給されたバーボンの可能性が高い、と言われていました。一説には、帯が紺色の物は新ウィレット原酒と聞いたこともあります。今回、私がおまけとして試飲できた推定2016年ボトリングのスモールバッチの帯は紺色なのですが、ボトルの裏面(メダリオンのない側)には下画像のようにプリントされています。
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(画像提供K氏)
この「Distilled, Aged and Bottled in Kentucky」という記述の仕方は、ウィレット・ファミリー・エステートのラベルでもそうなのですが、基本的に自家蒸溜原酒ではない他から調達されたウィスキーの場合の書かれ方です。しかし、旧来のボトルを使い切るか、或いはボトル会社(プリント会社?)に文言の変更を依頼するまで?は、中身がウィレット原酒であっても上のままの記述である可能性があります。逆に「Distilled, Aged, and Bottled by Willett Distillery」と記載があれば確実にウィレットの自家蒸溜原酒でしょう。私自身は直に見ていないのですが、おそらく近年のボトルにはそうプリントされていると思われます。2020年のレヴューでは、或る時点で100%自社蒸溜に移行したと考えられる、とされていました。仮にポットスティル・リザーヴ・スモールバッチのウィレット蒸溜原酒の熟成年数が4〜6年程度であるならば、2012年から蒸溜を再開したことを考慮すると、早くて2016年から新ウィレット原酒を使用することは可能です。海外のレヴューを読み漁ってみると、多くのレヴュアーが共通して指摘しているバターポップコーンやレモンや蜂蜜のヒントが感じられる場合、新ウィレット原酒である可能性は高そうです。
現在、ウィレットにはバーボン4種類とライ2種類のマッシュビルがあり、そのうちバーボンは以下のようになります。

①オリジナル・レシピ
72%コーン / 13%ライ / 15%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

②ハイ・コーン・レシピ
79%コーン / 7%ライ / 14%モルテッドバーリー / 103 & 125バレルエントリープルーフ

③ハイ・ライ・レシピ
52%コーン / 38%ライ / 10%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

④ウィーテッド・レシピ
65%コーン / 20%ウィート / 15%モルテッドバーリー / 115バレルエントリープルーフ

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(こちらはライも含むウィレットのマッシュビル表。これは私が作成したものなので、勝手にダウンロードして転載して構いません)

ポットスティル・リザーヴにどのマッシュビルが使われているかは正式には公開されていません。しかし、或る情報筋からの話によると①②③のブレンドと聞きました。ところが、2021年や2022年に執筆されたバーボン系ウェブサイトの記事ではマッシュビルは④のウィーテッド・マッシュとされています(※追記あり)。どちらかが正しいのか、或いは時代によるマッシュビルの変更があったのか? はたまた両者の情報を掛け合せて④を含むミックスなのか? 蒸溜所からの公式の発表はないので謎です。まあ、このミステリアスなところもウィレットの魅力の一つではあるのですが、真相をご存知の方は是非ともコメントよりご教示下さい。また、バッチ情報と共に味わいの感想などもコメントより共有して頂けると助かります。では、そろそろバーボンを注ぐとしましょう。

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WILLETT POT STILL RESERVE Single Barrel 94 Proof
Bottle No. 145 of 233
Barrel No. 1581
ボトリング年不明(購入は2013年頃なのでそれ以前は確実)。黒蜜、甘醤油、キャラメル、アニス、湿った木材、ドライピーチ、バナナ、ナッツ、ウッド・ニス、銅、プルーン。途轍もなく甘く、樹液のような香り。ややとろみのある口当たり。パレートでも甘く、更にハーブぽい風味が濃厚。余韻はミディアムで豊かな穀物とレザー、最後はビター。アロマがハイライト。
Rating:86.5/100

Thought:先ず、いにしえのシュガーバレルを想起させるアロマが印象的。味わいも独特で、これぞシングルバレルという感じ。口当たりや濃厚な風味は、確かに8〜10年くらいの熟成感と思いました。ボトリング年は不明ながら、シングルバレルでリリースされた時期であるところからすると、原酒はヘヴンヒルだろうと思われるのですが、いざ飲んでみると香りも味わいも一般的なヘヴンヒルとは全然違う印象を受けました。だからと言って他の蒸溜所、バートンとかワイルドターキーとかフォアローゼズに似てる訳でもなく、ウィレットの風味と言うしかないと感じます。ヘヴンヒルからの購入とするなら、ホワイトドッグを購入してウィレット蒸溜所の倉庫で熟成させてるのか、もしくはヘヴンヒルが自分たちの味ではないと判断したオフ・フレイヴァーのバレルを購入しているかのどちらかなのかな? 或いは出来損ない(笑)のブラウン=フォーマンとか? まあ、それは兎も角、ウィレットにはウィレット・ファミリー・エステートという最高峰のシングルバレル・ブランドがあるので、普通に考えて最も優れたシングルバレルはそちらにまわされるでしょう。それ故、このシングルバレルのポットスティル・リザーヴは飽くまで「次点」のシングルバレルの筈。味わいがアロマほど良くないところが、このボトルのらしさなのかも知れない。アロマをそのまま味わいにも感じれたら、もしくは微妙なオフ・フレイヴァーがなければ、点数は88点を付けてました。ぶっちゃけ、上のレーティングのうち1点はボトルに対してです。

偖て、今回は私の手持ちのシングルバレル版ポットスティル・リザーヴをメインに飲んだ訳ですが、そこに加えて先述のようにスモールバッチ版のサンプルを頂けたので、おまけで少しだけ比較が出来ます。サンプルは例によってInstagramで繋がっているバーボン仲間のKさんから。ウィレッ党のKさん、本当にいつも貴重な情報やバーボンをありがとうございます! 

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(画像提供K氏)
WILLETT POT STILL RESERVE Small Batch 94 Proof
Batch No. 16D1
推定2016年ボトリング。シングルバレルより薄いブラウン。香ばしい穀物、キャンディ、シリアル、砂糖、新鮮な木材。ウッディなスパイス香。ややとろみのある口当たりながら、尖りも感じさせるテクスチャー。口の中でもスパイシーでメタリック?でドライ。余韻はやや甘みも。

バーボンらしさを象徴する風味は全てあるのですが、それ以上に若々しく、荒く、何と言うかギラついた金属感のようなものを感じました。多分、ウィレット原酒だと思います。もしヘヴンヒルなら4年以下の熟成物でももう少しこなれた感があると思うのです。不思議なのは、新ウィレット原酒を使ったオールド・バーズタウンやケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOの良さの片鱗を感じれなかったこと。単純に熟成年数の短さに由来するのか、それともマッシュビルに由来するのか…。いや、そもそもウィレット蒸溜ではないのか? 謎が謎を呼びますが、バーボン・ティックトッカーが怒りの声を上げているのは、おそらくこのレヴェルの物なのでしょう。そうであるならば、まあ確かに頷けるかな、と。とは言え、ウィレット自家蒸溜のスモールバッチは、これより後の物はもう少し味わいが改善している可能性はあるかも知れません。2020年以降のボトルを飲んでみたいですね(追記参照)。
Rating:81/100

Value:現行ウィレット・ポットスティル・リザーヴ・スモールバッチのアメリカでの750mlの小売価格は地域差が大きく、40ドル未満の場合もあれば60ドル近い場合もあるようです。日本でもそれに準じて5000円台後半から7500円の間が相場でしょうか。この価格には華麗なボトルの代金も含まれるので、同じウィレットのスモールバッチ・ブティック・コレクションやオールド・バーズタウンのエステート・ボトルドの価格を考えると、中身にのみお金を払っているという意識の方には少し高く感じられるかも知れません。購入検討している方は、外観を含めてお金を払う意識でいた方が良いと思います。
シングルバレル版に関しては、もし7500円程度で購入できるチャンスがあるなら、買う価値は間違いなくあると思います。たとえ当たり外れがあったとしても…。

追記:どうやら2021年か2022年のどこかの段階でポットスティル・リザーヴはウィーテッド・マッシュビルに変更されたようです。この変更移行の物は、おそらく16D1とは比較にならないくらい美味しくなっているのではないかと予想されます。

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ワイルドターキー13年ファーザー&サンは、トラヴェル・リテイル専用として2020年に限定リリースされた製品です。86プルーフで、1リットル瓶に入っています。日本では長期熟成のワイルドターキーというとWT12年101に取って代わった同じ13年熟成のディスティラーズ・リザーヴがある(あった)ので、あまり購買意欲をそそられないかも知れません。特に、そのボトリング・プルーフがディスティラーズ・リザーヴより低いのは懸念点でしょう。熟成年数が同じでプルーフが類似している二つを飲み比べた海外のレヴュアーの方々の感想を見ると、ディスティラーズ・リザーヴの方が良いとするものとファーザー&サンの方が良いとするものの両方があります。自分がどっちに転ぶかは実際飲んでみるしかない。と言う訳で、さっそく。

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WILD TURKEY 13 Years Father & Son 86 Proof
推定2020年ボトリング。色はオレンジ寄りのブラウン。アップルサイダー、ヴァニラ、焦げ樽、ライスパイス、ビオフェルミン、アーモンドトフィー、パイナップル、タバコ、杏仁豆腐、チョコレート。アロマはフルーツをコアにお菓子のような甘い焦樽香とスパイス。口当たりは水っぽい。パレートはフルーティだがメディシナルノートも。余韻はミディアムショート、クローヴが強めに現れチャードオークのビター感と僅かにバターが残る。
Rating:86.5→84.5/100

Thought:アロマは凄く良いです。香りだけなら日本で流通しているディスティラーズ・リザーヴ13年よりファーザー&サンの方が良いと思います。ただ味わいはディスティラーズ・リザーヴ13年の方が旨味があった気がします。よって同点と言いたいところなのですが、こちらは開封してから暫くすると妙に渋みが強くなったのが個人的にマイナスでした。これが上記のレーティングの矢印の理由です。もしこの変化がなければ、ディスティラーズ・リザーヴ13年よりプルーフが低いのを考慮すると、こちらの方がリッチなフレイヴァーだったのかも知れない。とは言え、両者はかなり似ています。何ならダイアモンド・アニヴァーサリーから一連のマスターズ・キープに至る近年の長熟ワイルドターキーに共通の風味があります(いや、もっと昔のターキーでも少しはあったりするのですが…)。それは薬っぽいハーブ感とでも言うかクセのあるスパイス香とでも言うのか、とにかく私としてはバーボンに求める風味ではありません。それが少し香る程度なら崇高性を高めるのでアリなものの、他のフレイヴァーを圧倒するほどになると話は変わって来ます。これが私個人が近年の長熟ターキーをあまり評価しない理由です。アロマ以外でファーザー&サンの良い点としては、飲み終えた今にして思うと、飲む以前に気になっていたプルーフィングの低さ、即ち加水量の多さは、却ってフルーティさを引き出していたのかも知れず、飲み易さの一点に関しては功を奏していたように思います。また、ラベルの豪奢な雰囲気はなかなか良いのでは?

Value:メーカー希望小売価格は約70ドル程度のようです。日本での流通価格もそれに準じているでしょうか。13年物のワイルドターキー・バーボンが1リットルも入っているのだから、長期熟成酒の価格が高騰している現状を考慮すると、その値段に見合うだけの価値はあると思います。但し、8年101よりディスティラーズ・リザーヴ13年を好む方にのみオススメです。

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今回取り上げるパイクスヴィルは、元々はメリーランド州で蒸溜されていたブランドで、その歴史は1890年代にまで遡れます。メリーランド州は嘗てアメリカでケンタッキー州とペンシルヴェニア州に次ぐウィスキー蒸溜の大国でした。禁酒法以前のピーク時には44の蒸溜所があったと伝えられ、その半分がボルティモアに集中していたそうです。パイクスヴィルは、古き良き時代のライ・ウィスキー産業が徐々に消滅して行くなかで、1972年まで生産され続け、最後まで残っていたメリーランド・ライでした。パイクスヴィルとその弟分のリッテンハウス・ライは、現在ケンタッキー州のヘヴンヒル蒸溜所によって造られています。リッテンハウスはもともとペンシルヴェニア・スタイル、パイクスヴィルはメリーランド・スタイルでしたが、両者はヘヴンヒルのスタンダード・ライ・マッシュビルを使用しているため、これらの過去のスタイルは今では失われています。歴史的なスタイルの喪失を嘆くことは出来ますが、現在のケンタッキー・スタイルを不当に判断してはならないでしょう。注目すべきは、パイクスヴィルはヘヴンヒルが生産するライ・ウィスキーの中で、パーカーズ・ヘリテッジ・コレクションのライを除けば最もプレミアムなものであることです。また、ヘヴンヒルはそのフラッグシップであるエヴァンウィリアムス・バーボンを1783年に遡ると騙りますが、おそらく実際にはパイクスヴィルが同社のポートフォリオ全体で最も古いブランドです。そこで今回はメリーランド・ライの歴史を振り返りつつ、パイクスヴィル・ブランドの複雑で興味深い来歴を見て行きたいと思います。

ペンシルヴェニアとメリーランドはライ・ウィスキーに最も縁のある場所です。これらの地域は、ケンタッキーと同じように石灰岩が下層にある地質をもち、ウィスキーに適した良質な水の供給がありました。その一方の雄メリーランド・ライの黄金時代には、ハンター、マウント・ヴァーノン、カルヴァート、メルヴェール、モンティチェロ、オリエント、シャーウッド、ウォルドーフ、アンティータム、ブラドック、ホーシー、ロックスバリーなど、嘗て彼の地で蒸溜されたほんの数例を挙げるとアメリカ中の愛好家が即座にメリーランドと結びつけました。メリーランド州の蒸溜の歴史は、おそらく1600年代にまで遡ると思われますが、先ずは蒸溜酒ではない別のお酒の話から始めます。
Marycolony
(wikipediaより)
アメリカ中部大西洋岸の入植者たちの飲酒生活に於いてリンゴは重要な役割を果たしました。それはメリーランド州でもそうでした。北米でのリンゴの収穫は1607年にヴァージニア州ジェームズタウンに入植した人々から始まり、彼らはヨーロッパから種子や挿し木を持ち込みましたが、当初植えられていた品種は新大陸での栽培に適したものばかりではなく、その種から全く新しい品種のアメリカ産リンゴが生まれ始めます。このリンゴは非常に苦く、人間の食生活には全く適していませんでした。殆どの入植者は自分でリンゴを栽培していましたが、衛生面を考慮して食事の際には水の代わりに発酵させたサイダーを出すことが多く、子供には薄めたサイダーを出していたそうです。
1631年、メリーランド州にヨーロッパ人初の入植地をイギリスの毛皮商人ウィリアム・クレイボーンが設立しました。1632年に英国王チャールズ1世は、ジョージ・カルヴァート(の死のため息子のセシル)にメリーランド植民地の勅許状を与えます。その時点では、すでに北の植民地からリンゴが伝わり始め果樹園が出来ていました。この「スピッター」と呼ばれるリンゴを発酵させることで、生のリンゴよりも長持ちさせることが出来ました。余ったサイダーを蒸溜すれば更に長持ちし、スペースも無駄な農産物も節約できる訳です。植民地の進取的な農家は厳しい冬を利用して、ハードサイダーを寒い外に置いていました。サイダーが凍り、氷を掬い取ると、濃縮されたアルコール溶液が残ります。凍らせる回数が多ければ多いほどアルコール濃度が高くなり、この作業は「ジャッキング」と呼ばれていました。これがアップルジャックの「ジャック(jack)」です。蒸溜技術が植民地の農家にも浸透してくると、より安全で市場性の高い製品を造ることが出来るようになりました。アップルジャックを商業的に生産したというメリーランド州の蒸溜所の歴史的な記録はないようですが、中部大西洋岸諸州やニュー・イングランドの類似した記録から、農家がしばしば個人消費のためにアップルジャックを製造していたのは間違いないようです。
そして植民地時代のメリーランドでは、ウィスキーが普及する前に愛飲されていたのはラムでした。それらの多くは悪名高い糖蜜─ラム─奴隷の三角貿易を形成していたマサチューセッツとロード・アイランドから齎されました。しかし、1770年代後半には増税と海軍の封鎖によりメリーランドの富裕層以外はラムにアクセス出来なくなります。それでも、幸いライ麦は豊富にあり、しかもメリーランドの農民となったスコットランドやアイルランドからの移民は、それを蒸溜するための知識も持ち合わせていました。1800年代になると、個人経営ではない大規模な商業蒸溜所がメリーランド州全体に出現し始めたと云います。この頃には、消費者は高価で手間のかかるアップルジャックからより手頃な価格のグレイン・ウィスキーへと移って行きました。

Rye_Mature_Grain_Summer

アメリカで植民地時代が始まって以来、メリーランダーズは州の代表的なライ・ウィスキーのスタイルとなるものを先駆けて開発していました。モノンガヒーラとしても知られるペンシルヴェニア・ライほどスパイシーでペッパー・フォワードではないメリーランド・ライは、ライ麦以外を豊富に使いソフターでニュアンスのあるパレートを誇っていたとされます。ただ、残念ながら多くのスピリッツの初期の歴史と同様に、メリーランド・スタイルとは何かを正確に定義することは難しいようです。古典的な二大ライ・ウィスキーについてマッシュビルに焦点を絞ると、ペンシルヴェニア・ライは一般的に100%に近いライ麦のマッシュビルから造られ、メリーランド・ライはライ麦以外の何か(コーン、大麦、小麦またはそれらの組み合わせ)を多分に含むマッシュビルで造られた可能性が高い、というのが大まかな説です。メリーランド・ライの「原型」を示唆する包括的な理論はそれ以上ありません。ボルティモア周辺では大麦で仕上げ、海岸の方ではコーンで仕上げ、メリーランド西部では小麦で仕上げている証拠があるらしく、ひとつの町でも複数の蒸溜所が設立の経緯やその時入手しやすい穀物に基づいて、全く異なるマッシュビルを使用している可能性が非常に高いようです。
一方で、マッシュビルを見るだけではウィスキーの全体像を把握することは出来ず、穀物の混合比率はウィスキーを特別なスピリッツにする複雑さや深さの構成要素の一つに過ぎないとも言えます。専門家が穀物を選ぶことの重要性を指摘するように小麦、ライ麦、コーンには何百もの品種があり、異なる土壌や水や日光の条件下で同じ品種を栽培していても組成には差異が生じるでしょう。また、エイジング・プロセスは汎ゆる自然条件と地域的な環境条件の変化に影響されます。気温や湿度、リックハウスの温度や空気循環に至る全てが木材からのフレイヴァー抽出に多大な役割を果たしており、メリーランドのような条件を備えた場所は世界中でメリーランドしかありません。と、すればメリーランド・ライの味わい及び伝統や歴史の大部分は、彼の地で栽培されていた品種やその環境条件に直接由来しているという信念を生み出すこともありそうです。また、初期メリーランド醸造所からエール及びポーター用のトップ・ファーメンティング・イーストがその地域のディスティラーに貸与され、特徴的なエステル・ノートに貢献した可能性を示唆する歴史家もいます。孰れにせよ、スタイルは十分に独特であり、メリーランドはアメリカン・ウィスキーのトップ生産州としての地位を確立しました。

上のようなレシピの形成は農民蒸溜家の間から自然発生的に出て来たのではないでしょうか。おそらく最初のウィスキーはチェサピーク湾とその支流の沿岸で製造されたと見られます。イギリス植民地のヴァージニアが設立された後、すぐにチェサピーク湾岸やメリーランドの上流にも他の入植地が形成され、これらの入植地で穀物の一部を蒸溜してウィスキーを造るようになった、と。これはこの地域にラムの人気が一時的に高まる前の話です。
当初は、ウィスキーを造るために用意された僅かな余剰穀物を使って、慎重にウィスキーを製造していました。しかし、やがて農地の開墾が進むと、収穫の際にはウィスキーにまわせるだけの穀物が出来ました。最初に広く栽培された野性の穀物はライ麦です。ライ麦は土壌条件が悪くても育ち、雨が少なすぎても多すぎても耐えられ、霜にも耐えられ、秋に植えることも出来る上、冬の雪解け後に再び成長を始めました。それは完璧とは言えない農地にぴったりの穀物でした。当時は小麦もあったもののその栽培は難しく、コーンはまだ彼らにとって新しい存在で、それらに較べるとライ麦の取り扱いは比較的簡単だったのです。ヴァージニアとメリーランドではタバコ栽培の影響で農地が荒廃し、必要な栄養分や窒素が失われていました。被覆穀物として選ばれたライ麦は窒素を回復させる効果があり、季節的に交代すると土地にプラスでもありました。おそらくアメリカで最も初期のウィスキーがライ・ウィスキーだったのは、こうしたライ麦の頑強さのお陰だったと言えるでしょう。
農家でコーンの栽培が進むと、ライ麦と一緒に使うことを考えた人もいたと思います。コーンはライ麦のスパイスに甘みを加え、オール・ライのウィスキーを飲み慣れた口には適度なコーンは具合の良いウィスキーになる、と。しかし、コーンを入れすぎると、ライ麦を飲む人にとっては甘すぎて味気ないウイスキーになってしまうので、マッシュの大部分はライ麦のままでした。更にコーンはライ麦ほど簡単には栽培できず、当時の人々はウィスキーより寧ろ食用にしたいと考えていました。そのためコーンは大抵はライ麦よりも少ない成分に留められていたようです。
メリーランド植民地のウィスキーは、3回蒸溜することもよくあったと聞きます。これはウィスキーの故郷の一つアイルランドでは3回蒸溜する習慣があり、カトリック教徒に開かれた植民地であるメリーランド州にはアイルランド系カトリック教徒が多く住んでいたので、彼らが伝統的な技術を身に付けていたからでした。元々は、技術が未熟な段階では不純なウイスキーを造ると味が悪くなったり、下手をすると病気にさえなる可能性があったため、3回の蒸溜はスピリッツの純度を保つために必要だったらしい。更に北のペンシルヴェニアではドイツ人とスコットランド人の移民が多く、二回蒸溜が普及していました。彼らの殆どはウィスキーとシュナップスの蒸溜を2回行うことが多かったそう。こうした傾向は緩やかではあっても、それぞれの地域のディスティラーが概ね従っていたものでした。蒸溜プロセスの完成度が高まり純度が向上した進化の後半では、多くのメリーランド蒸溜所も3回目の蒸溜を廃止しましたが、初期のメリーランド民が親しんだクリーンかつスムーズな味への欲求の名残はあったのかも知れません。
時として、発酵プロセスを助けるためにライ麦の一部や大麦を麦芽にしてマッシュに加えることもありました。大麦を麦芽にすることで酵素が導入され、温水のマッシュに加えることで酵母を活性化させます。アイルランドでは、伝統的に麦芽と非麦芽の穀物を混ぜて使用していました。これは旧世界で麦芽穀物に課せられていた税金を回避する方法として始まったそうです。モルト化された穀物はモルト化されていない穀物とは僅かに異なるフレイヴァーを生み出します。新大陸の疎らな環境で穀物を製麦することは蒸溜者には避けたい作業であったため、マッシュに少量の麦芽を入れるだけで酵素の効果が得られることは利点と理解され、この少量の麦芽がメリーランド・ライにダイナミックな味わいを生み出すことにも繋がりました。小麦やオーツ、更にはバックウィートなどの穀物を加えるのは、余った穀物を使い切るため、或いはその蒸溜者の好みの味にするためであったと推測されます。これら全ての理由から、チェサピーク沿いのメリーランド初期のファーム・ディスティラーの多くは、一般的にルーズなレシピでウィスキーを造るようになったのでしょう。

このような進化が大西洋中部の植民地で起こっていた頃、先述したように別のスピリッツが人気を集めていました。ライ・ウィスキーが広く親しまれる以前にメリーランドの一般的な入植者が選んだハード・スピリッツは、主にマサチューセッツ州とロードアイランド州の蒸溜所で造られたラムでした。ラムはカリブ海の島々から輸入した糖蜜を使って植民地内で蒸溜され、アメリカ革命戦争(1775-1783年。日本では独立戦争)と呼ばれるグレート・ブリテンと13植民地の間の軋轢が起きるまで、その人気はウィスキー以上だったのです。しかし、戦争中にイギリスがチェサピーク湾を封鎖して糖蜜やラムなどの輸入品を遮断すると、13植民地とカリブ海の島々との貿易は停止し、糖蜜をベースとしたスピリッツの製造に必要な材料も失われてしまいました。これがきっかけとなり、「喉の渇いた」アメリカ革命軍は戦いの前に渇いている訳にはいかず、農民蒸溜家たちは100年以上前から少しずつ行っていたウィスキー造りを盛んに行うようになります。穀物の取引よりも遥かに儲かるウィスキーの樽は、穀物や小麦粉よりも輸送が容易で1パウンドあたりのコスト効率が良くなりました。その需要は非常に大きく、コンチネンタル・アーミー(アメリカ独立戦争時、後にアメリカ合衆国となる13植民地により編制された軍隊)の記録にも、薬用や士気高揚のためにライ・ウィスキーを大量に購入したことが記されているそうです。コンチネンタル・アーミーの総司令官を務め、農業を科学的に捉えることを目指していたジョージ・ワシントン将軍も、自身のマウント・ヴァーノンの敷地内にスティルを設置していたことは有名です。

革命後、誕生したばかりの連邦政府は戦時中に積み上げた莫大な負債を回収するという困難な課題に直面しました。その第一歩として、政府は当時の財務長官アレグザンダー・ハミルトンが考案した「蒸溜酒」に課税するという計画を発表します。メリーランド州の4人の議員のうち3人はこの法案に反対しました。1791年のこの税は実際に生産されたウィスキーだけでなく休止中のスティルの容量にも課税されていたため、強い反発がありました。また、この税は現金での支払いを要求していたため、現金に乏しく日常生活では伝統的な物々交換システムに頼っていたメリーランド州西部の入植者には更に厳しいものでした。農民達の主要な市場商品が連邦政府の税制で脅かされるようになり、1794年夏までに(当時の)西部辺境の緊張感は熱狂的なレヴェルにまで達し、最終的には武装蜂起となった抗議行動はウィスキー・リベリオンと知られています。1794年後半になると殆どの暴動は先の革命戦争よりも総兵力が多かった連邦民兵によって鎮圧されました。違反や暴力的なデモは主にペンシルヴェニア西部に限定されていましたが、メリーランド州でもカンバーランド、ヘイガーズタウン、ミドルタウンを中心に小規模な騒動が発生し、フレデリックでは「ウィスキー・ボーイズ」がやって来て州の武器倉庫を空にしてしまうのではないかという恐れもありました。ウィスキー・リベリオンの抑圧は、税金に抵抗した多くの小規模蒸溜業者がオハイオ・リヴァーを下って当時まだ連邦政府の管轄外だったケンタッキーに避難するという予期せぬ効果を生み、そこで彼らがバーボンを発明したという神話がありますが、実は全ての成功したケンタッキー・ディスティラーズは主にメリーランドから山を越えて来たと言われています。そこからバーボンがメリーランド・ライのコーン多めのマッシュビルに何らかの影響を受けていた可能性を示唆する歴史家もいます。忌み嫌われたウィスキー税はペンシルヴェニア州西部以外ではほぼ法的強制力がなく、同地でも税金の徴収にあまり成功しないまま1803年に撤廃されました。

ジョージ・ワシントンが蒸溜に乗り出す一年前の1796年、ボルティモアの最初の国勢調査では、早くも市内で操業している4つの本格的な商業用蒸溜所がリストされています。ピーター・ガーツ、コンラッド・ホバーグ、フランシス・ジョンノット、ジョン・ツールが経営者とされ、彼らが何を蒸溜していたのか詳細は不明ですが、その中にはターペンタイン(テレビン油)も含まれていたそうです。初期商業蒸溜所の中で、1810年代から少なくとも1840年代までと最も長く続いたのはジョセフ・ホワイト・ディスティラリーでした。所謂「エコ」な操業を行ってたそうで、蒸溜所のスペント・マッシュ(蒸溜過程で使い終えた穀物の残滓)は、地元の農家に無料で豚の飼料として提供されたと云います。1802年にトーマス・ジェファソンが大統領に就任するとウィスキー税は最小限に引き下げられ、1810年から1840年にかけてアメリカの蒸溜所の数は倍増しました。その結果、当時アメリカの酒類消費量は歴史上最も多くなったとされます。その後、個々の蒸溜所の数は減少したものの一ヶ所あたりの生産量は増加し続けました。
この時期はメリーランド州西部でもライ・ウィスキーの生産が盛んになります。市場へのルートは、馬車でウィリアムスポートまで行き、そこからポトマック川、後にはチェサピーク&オハイオ運河を船で下るというものでした。初代アメリカ合衆国大統領の名を冠した郡としては国内初だったというワシントン郡では、南北戦争の直前に26ものグレイン蒸溜所が営業していたと推定され、その多くはヘイガーズタウンの北に位置するライターズバーグに集中していたそうです。1861年以前の最大の蒸溜所は、アンティータム・クリークに位置し、20馬力のエンジンで1日に50〜60ブッシェルの穀物を処理することが出来、ロバート・ファウラーとフレデリック・K・ズィーグラーによって運営されていました。おそらく街の名士?だったファウラーが1850年に製粉業者に転身し、1853年にズィーグラーと共にファウラー&ズィーグラー社を設立。ズィーグラーはワシントン郡に残り製粉所と蒸溜所を経営し、ファウラーはボルティモアに移り、有名な「ズィーグラー」ウィスキーを始めとする製品の販売を手配したそう。ワシントン郡の他の蒸溜センターとしてはインディアン・スプリングス、クリア・スプリング、ケンプス・ミル、ペン=マー、スミツバーグなどにありました。
余談ですが、サルーン文化が普及する以前はメリーランド州の酒類やウィスキーは地元の食料品店が主に販売していたそうで、大学や病院の名前になっているあの有名なジョンズ・ホプキンスもクェーカー教徒でありながらホプキンス・ブラザーズという食料品店で1840年代かそれ以前に「ホプキンス・ベスト」なるブランドでウィスキーを販売していたとか(この事実により彼はフレンズ集会から追い出されましたが、後には復帰したらしい)。それは措いて、メリーランド州に蒸溜所が急増したのは南北戦争の少し前のようです。

1860年代初頭、メリーランド・ライは流行の兆しを見せ、需要が高まっていましたが、戦時中は流石にメリーランドのライ産業にとって悲惨な状況となりました。戦争前と再建期には酒税率も急騰し、南北戦争以前のメリーランド州で設立された小規模な蒸溜所では、戦時中の高額なウィスキー税のために生産の採算が合わなくなったのです。何より戦時には膨大な数の北軍と南軍の兵士がメリーランド州を縦横無尽に行き来しました。リンカーン大統領はワシントンDCとボルティモアを南軍から守ることを決意して、北軍のポトマック軍がヴァージニア州リッチモンドを攻略しようと南下した時、北軍の新鮮な部隊がワシントンDCをしっかりと守るようにしました。また、軍神ロバート・E・リー将軍率いる北ヴァージニア軍は、ワシントンDCへの補給路を断つという軍事的な目的と自軍への補給のために農場や町を襲撃するという現実的な目的を持ってメリーランド西部に二度に渡って侵攻、その際、南軍の略奪品の中に当地の特産ライ・ウィスキーが含まれていたと見られます。
メリーランド・ライの真の名声は南北戦争後から始まりました。戦後、産業が再興されるとその評判は急上昇します。1861年から1865年までの南北戦争でメリーランド州に集結した北軍と南軍の兵士達は、メリーランド・ライを気に入り、滞在中に楽しみ、戦争が終わって自分の故郷に戻るとそのウィスキーの味わいを折に触れて想い出したかも知れません。そうした南北両陣営の退役軍人がメリーランドのウィスキーを好むようになり、19世紀を通して発達した鉄道は、戦時中も兵士の移動や食料物資の運搬に重要な役割をもったため整備が進み、お陰で企業はその需要を満たすことが出来ました。ウィスキーは一度蒸溜してしまえば国道、チェサピーク&オハイオ運河、ボルティモア&オハイオ鉄道などを経由して急速に拡大する国中へと容易に輸送することが可能です。当初、ライの販売は急増しました。しかし、州外の安価な銘柄がメリーランド州に入荷するのも容易になったため、結果的には業界全体に大きな損害を及ぼすことになります。このような厳しいビジネス環境にも拘らず、新しいブランドも誕生したようですが、州内でのライ麦栽培に問題が生じ(野生のタマネギが蔓延したらしい)、メリーランド州の企業はニューヨークやウィスコンシン等からライ麦を輸入するようになりました。と同時に、ペンシルヴェニア州モノンガヒーラ地方の新ブランドも続々と流入し、メリーランドでは州産よりも他州からの輸入品の方が優れているというマインドセットに陥り、州外のブランドが高級品として評判を得たと言います。この誤解はウィリアム・ウォルターズと彼のパートナーであるチャールズ・ハーヴィーらにより大いに助長されました。1847年に彼らが設立したボルティモアの会社はペンシルヴェニアにある四つの蒸溜所の代理店を務めていたこともあり、詳しい知識をもたない一般大衆の人々が地理的なことを知らないのを期待して、メリーランド産のライ・ウィスキーのラベルにモノンガヒーラと誤解を招くような表記を追加したそうな…(ラベルには「Maryland Monongahela Rye Whiskey」と書かれていた)。古くからペンシルヴェニアの広大な高地にはメリーランド以上に蒸溜所がありました。そのライ・ウィスキーは名高く、早くも1810年には商標登録されたと云うオーヴァーホルト・ブランドは夙に有名です。ペンシルヴェニアの川の名前でもあるモノンガヒーラは、今日スコットランドの地名が持つような神秘的な魅力を持っていたのでしょう。
1909年以前(*)、メリーランド・ライという用語は実際に何処で蒸溜されたかを問わず、内容や製造方法が概ね類似しているスピリッツの種類を表す一般的な言葉として使われていました。ヴィンテージ・ボトルに詳しい寄稿家のジャック・サリヴァンは、「メリーランド」は酒類の品質を象徴するものとして非常に重要であり、全米のディスティラーやディストリビューターはこの名前を採用せざるを得なかったと云います。彼は例として、セントルイスのディスティラーのグスタヴ・リーズマイヤーは自分の銘柄を「オールド・メリーランド」と呼び容器のラベルに州のシールを貼っていたとか、シカゴのブリーン&ケネディ社はケンタッキー州オーウェンズボロのM・V・モナークが既にその名称を使用していたのを無視して1906年にブランド名として「メリーランド・ライ」という商標を登録してみたり、シンシナティのシャーブルック・ディスティリング・カンパニーは「マイ・メリーランド・ライ」を全国的に宣伝したことを挙げます。またニューヨークではサミュエル・C・ボーム・アンド・カンパニーが「メリーランド・ユニオン・クラブ・ライ」という銘柄を出し、同市のサーバー&ワイランド社はオールド・メリーランド・ライ・ウィスキーの「リトル・ブラウン・ジャグ・ブランド」を商品化し、更に別のニューヨークのウィスキー販売店で1808年にワインと酒のマーチャンツとして創業したP・W・エングス&サンズは19世紀の終わり頃に発売した陶器製ジャグにボルティモアの街と有名なライ・ウィスキーへのオマージュとして「Engs Baltimore Rye, 1808」というラベルを貼り付けました。中身はメリーランド州の蒸溜所からニューヨークの販売店に提供されたものかも知れないし、そうでないかも知れず、実際に何が入っていたのかは知る由もありません。現在ではこのような露骨な地域名の流用は許されないことですが、当時はまだ緩かったという話です。それは兎も角、抜け目のないボルティモアのマーチャンダイザーやメリーランド州の先駆的なビジネスマンたちも、特定の地域名と品質がイコールで結ばれるイメージを購買の判断材料として十分に活用し、メリーランド・ライへの渇望を満たすために鉄道のインフラ整備やアメリカ全土へのブランド・マーケティングの台頭などを利用しました。
流通が発展するにつれ、ブランドの確立やマーケティングはより重要になります。ブランドとしてバレルヘッドにステンシルされたり、ラベルにプリントされる名前は多くの場合、蒸溜者もしくは蒸溜所、或いは卸売業者または小売業者の名称でした。それを推し進めたのは19世紀の消費者向け商品広告の新案です。メリーランド州のウィスキー業界での初期の記録は、ボルティモアのレクティファイアーおよび卸売業者であるラナハン&ステュワートでした。ウィリアム・ラナハンは1855年にハンター・ピュア・ライを連邦政府に登録し、後に「ハンター・ボルティモア・ライ」と改称、ラベルや広告にはフォックス・ハンティングの服装をした男性が馬に跨った絵が描かれました。その後のブランディングでは「The American Gentleman’s Whiskey」というスローガンが掲げられました。更に後年には馬がジャンプをしている様子と共にスローガンは「The first over the bars」へと進化し、ティンバー・トッパー(障害競走馬)のイメージを喚起するようになります。「バー」というのは酒場と乗馬競技で馬がジャンプする障壁を掛けた言葉遊びでしょう。
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ラナハンズのウィスキーは、当初から貴族的な雰囲気を醸し、明らかに上流階級やそこを目指す人々にアピールしようとするものでした。1868年に父親が亡くなった後、経営を引き継いだラナハン・ジュニアは新聞や雑誌などで大々的な広告キャンペーンを展開し、全国的な注目を集めるブランドが一般的にそうであるように、フォックス・ハンターを描いた文鎮やピンやマッチなど色々と幅広い販促アイテムを作りました。また、ハンター・ボルティモア・ライのロゴやトレードマークの絵をさまざまな場所に描くことも指示し、ビルディングの側壁や、ボルティモアだけでなくニューヨークやシカゴの野球場の外野フェンスに看板が飾られていました。きっと汎ゆる会社が競って広告を出したことでしょう。ブランドの宣伝に多額の資金が投じられた南北戦争後から世紀の変わりめにかけてメリーランド・ライの人気は全国に広がり、この頃にはハンターを始めとして、アンティータム・ライ、ホーシー・ライ、モンティチェロ・ピュア・ライ、マウント・ヴァーノン・ピュア・ライ、オリエント・ピュ​​ア・ライ、シャーウッド・ライなどのブランドが全国的に名を馳せました。特にハンター・ライは大成功を収め、ロンドン、上海、マニラにも輸出されています。

禁酒法以前の時代にメリーランド・ライが広く知られるようになったもう一つの潜在的な理由は、1876年にアメリカの独立100周年を記念してペンシルヴェニア州フィラデルフィアで開催された「センテニアル・エクスポ」でした。この博覧会ではアメリカの業績を称えるために様々な建物が建てられました。中には農業関連の建物もあり、その展示物の中には完全に機能する蒸溜所の模型があったそうです。ボルティモアのマウント・ヴァーノン蒸溜所は、おそらくジョージ・ワシントンとの繋がりを意識してかセンテニアル蒸留所を運営し、ライ・ウィスキーの純度と品質を謳っていました。マウント・ヴァーノンという蒸溜所の起源は、1850年代にボルティモアで操業されていたオステンドとラッセル・ストリートにあったエドウィン・A・クラボーとジョージ・U・グラフの蒸溜所でした。1873年頃、彼らはこの蒸溜所をフィラデルフィアのリカー・マーチャントであるヘンリー・S・ハニスに売却しました。ハニスはそのままにしていましたが、ボルティモアの代理人が蒸溜所を再建して拡張しました。このエクスポは1876年5月10日から11月10日までの184日間で約1000万人の来場者を記録したそうです。

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1880年代から1890年代にかけてメリーランド産ライの市場への流入は大幅に増加しました。ボルティモア近郊では少なくとも8つの蒸溜所が開業したと言います。スコッツ・レヴェルのL・ウィナンド&ブラザーズ社が経営したパイクスヴィル、コールド・スプリング・レーンとジョーンズ・フォールズにあったジョン・T・カミングスが経営するメルヴェール、ギルフォード・アヴェニューとサラトガ・ストリートではビジネス・リーダーのアルバート・ゴットシャルクが設立した「メリーランド」、ボルティモア・ディスティリング・カンパニーが運営するスプリング・ガーデン、同じくボルティモア南西部にあるキャロル・スプリングス、ハイランドタウンではオドネル・ストリートの卸売業者チャールズ・H・ロス社が経営するモニュメンタルとバンク・ストリートのロバート・ステュワートが経営する「ステュワート」、更に東のコルゲイト・クリークのほとりにダニエル・マローンが経営する「マローン」など。中でもメルヴェールは最大級の規模を持ち、日に1000ブッシェルの穀物をマッシングする能力を誇っていたとか。
メリーランド州西部も同じような状況で、20程度の商業蒸溜所が建設されていたようです。その多くは小規模で、一部のメーカーは生産物全体を市の卸売業者に販売したため、ハウス・ブランドやオリジナルのラベルを持っていませんでした。蒸溜所は5月末から10月1日までの間、休むことが多く、市場の低迷期には完全に閉鎖するところもあったそう。 西部地域の著名な蒸溜業者や蒸溜所としては、ギャレット郡のメルキー・J・ミラー、アレゲイニー郡のジェイムズ・クラーク・ディスティリング社が所有する「ブラドック」、ワシントン郡ではクリア・スプリングのジェームズ・T・ドレイパーとライターズバーグのベンジャミン・ショッキー、およびロックスバリーのジョージ・T・ギャンブリルが設立した「ロックスバリー」、モンゴメリー郡ではハイアッツタウンのリーヴァイ・プライスとキングス・ヴァリーのルーサー・G・キング、キャロル郡ではクランベリー・ステーションのエイブラム・S・バークホルダーとラインボロのアダム・ローバックなどがいましたが、知名度や規模が大きかったのはロックスバリーとブラドックでした。

1895年、ボルティモアの人口が50万人を超えた頃、250人に1軒の割合でサルーンがありました(年間250ドルかかる酒類ライセンスに2045件の登録があった)。サルーンには68のウィスキー卸売業者がサーヴィスを提供していました。20世紀が始まったばかりの頃には、ボルティモアを訪れた観光客が蒸気船から港へ上ってくると、沢山の広告看板が目に飛び込んで来たと言います。外壁に描かれたそれらのサインは彼の地の会社のサーヴィスや商品の重要性を謳っていました。しかし、メリーランド州のライ・ウィスキーのディーラーは、新世紀が始まって20年も経たないうちに業績も繁栄も合法性も全て失いました。このような激変を齎したのは主に酩酊物質の乱用に対する反感でしたが、飲料用アルコールを違法とするための運動が憲法修正第18条やヴォルステッド法に結実する以前からメリーランド・ウィスキーの名声には傷が付いていました。それには三つの国情と一つの地方情勢が作用していたと、ボルティモアの元ジャーナリストでメリーランド・ライのオーソリティであるジェイムズ・H・ブレディは『メリーランド・ヒストリカル・マガジン』の記事に書いています。一つは酒場や小売店で売られているウィスキーの信頼性に対する不安が続いていたこと、二つめは冷蔵技術の向上によって醸造業者が蒸溜業者とより幅広く競争できるようになったこと、三つめはウィスキーに治療効果があるという医学的な裏付けがなくなったこと、そしてもう一つがメリーランド州ではウィスキー蒸溜に於ける地元の特徴の低下や所有者が減少していたことでした。こうした多くの危険信号に対して業界は自覚と防御をしながらも殆ど公的な反応を示すことはなかったらしい。
他にも、1904年2月6日から8日にかけて起きたボルティモア大火災は、彼の地のウィスキー取引にとって更なる打撃でもありました。その炎は30時間以上燃え続け、1526棟の建物を破壊し、70の街区に跨がり、1200人以上の消防士が消火活動するという大規模なものでした。ダウンタウンの二つの蒸溜所、モンティチェロと「メリーランド」は焼け跡の北側にあり無事でしたが、長年に渡り卸売業者が密集していたサウス・ゲイ・ストリート、エクスチェインジ・プレイス、プラット・ストリートなどの事務所や倉庫は炎上してしまいました。この時までにアルタモント・ピュア・ライをメリーランドのブランドとして確固たる地位にし、元のカルヴァート・ストリートからより大きな地区のイースト・プラットに移転していたニコラス・M・マシューズの会社などは、全ての記録と保管されたウィスキーを失ったと伝えられ、大火の被害を受けた48の卸売業者の一つでした。しかし、この大火災で廃業した会社は一社もなかったようで、N・M・マシューズ&カンパニーも通りを下ってすぐのイースト・プラット34番地に事業を移し、1910年にはイースト・ロンバード・ストリート17番地に最終的に移動しました。ウィスキー供給に多少の難は出たかも知れませんが、火災が与えた具体的な影響の一つはウィスキー・マーチャンツの密集を分散したことだったとされています。寧ろそれよりも、ブレディが示唆したようにこの業界には自ら招いた問題がありました。
禁酒法廃止以後、容器には連邦法によって「ウィスキー」の文字が義務付けられますが、それ以前のメリーランド・ライのボトルのラベルには「余計な」ウィスキーという言葉が省かれていることが多く、例えばロックスバリー・ライ、メルヴェール・ピュア・ライ、オリエント・ピュア・ライ、スプリング・デール・ピュア・ライ、バル=マー・クオリティー・ライ、ポインター・メリーランド・ライ、カルヴァート・メリーランド・ライ、ウェストモアランド・クラブ・メリーランド・ライ、フォー・ベルズ・メリーランド・ライ、キャロルズ・キャロルトン・メリーランド・ライ、ゴードン・メリーランド・ライのような具合でした。ペンシルヴェニア・ライの多くはストレート・ライ・ウィスキーだったのに対し、メリーランド・ライの多くは「整えられた」ライ・ウィスキーで、チェリーやプルーンの果汁などの香味料を加えて甘みを出したものだったと言われています。どちらのスタイルも19世紀には非常に人気がありましたが、世紀を跨いで制定された二つの法律、1897年の「Bottled-in-Bond Act」と1906年の「Pure Food and Drug Act(純正食品医薬品法、通称ワイリー法)」により、メリーランド・ライはカテゴリーとしてはほぼ消滅しました。ストレート・ウィスキーの人気が高まっていた時代に、ブレンデッド・ウィスキーとしての表示を余儀なくされたのです(**)。
酒類業界では全体的に何処にでもある無意味なラベル・ワードを用いて酒場や小売店の顧客に酒の価値を誤魔化す傾向がありましたが(例えば「Pure」とか)、1897年の英国の制度を参考にした連邦法により、政府が管理する倉庫で保税が行われるようになりました。蒸溜業者はプルーフ・テスト済みのウィスキーのバレルを最低4年間そこに預け、引き出す際に手数料を支払い、違反すると刑事罰の対象です。1901年はボンデッド・ウィスキーが市場に出回るようになった最初の年でした。メリーランド州の数多くの蒸溜所も自社の敷地内でこのような倉庫を契約し、やがてボトルド・イン・ボンドのウィスキーを顧客の許へと届けました。しかし、このアイディアには現実的な限界がありました。この法律が一般に認知されていなかったことで、ボンデッド・ウィスキーが市場に浸透するのに時間がかかったのです。またボンデッド・ウィスキーの小売価格は1クォート1ドルと多くの賃金労働者には手の届かないものでした。1917年以前、ムーンシャインならば1クォート15セントという低価格、サルーンでのビールの大ジョッキは5セント、ウィスキーの1ショットは10セント(良質のものなら15セント程度)が一般的。ボトルド・イン・ボンドの市場占有率は9%、「ピュア」または「ストレート」ウィスキーは20%、「ブレンデッド」ウィスキーは業界生産量の70%以上を占めていたと目されます。ボトルド・イン・ボンド法はボンデッド・ウィスキーの製造に厳しい基準を設けたため、税収の面だけでなく消費者保護の面があり、純正食品医薬品法に繋がる最初の法律の一つでもありました。
工業化や中産階級の台頭、19世紀末の自由放任主義から20世紀初頭の進歩主義への移行などが公衆衛生に対する政府の責任を飛躍的に高めます。その帰結として食品や医薬品の安全性に対する懸念の波が押し寄せ、食品と薬物、そしてそれら二つの組み合わせであるアルコールには新たな規制が必要な時代でした。古くからアルコール飲料には薬効があると広く信じられており、医師は汎ゆる種類の病気にアルコールを処方していましたが、1850年以降の科学的医学の台頭はその見方に変化を齎し、世紀の終わりまでにアルコールの治療的価値については広く議論され、最先端の開業医の間で信用を失いました。
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純正食品医薬品法の立役者であり通称ワイリー法の名の由来となっているインディアナ州のハーヴィー・ワシントン・ワイリーは医師であり化学者でもあり、彼は殆どの病気においてスピリッツ等の強い酒は医学的に価値がないと云う医師の間での確信の高まりについて代弁しました。ショック状態の体にアルコールを投与しても体を温める効果はないし、アルコールの生理学的な分類は興奮剤ではなく抑制剤である、と。1916年にウィスキーとブランディはアメリカ合衆国の薬局方で科学的に承認された医薬品のリストから削除されています。1917年には、アメリカン・メディカル・アソシエーション(AMA)は論争の的となった会議で「アルコール自体に薬効はない」という決議を出しました。こうして、ウィスキーが医薬品であった時代は終わりを告げます。医薬の逆転はウィスキーが地位を失った重要な要因の一つでした。それにも拘らず、1919年に制定された禁酒法では、聖餐式のワインと並び、医師が患者にアルコールを処方する際の免除規定が設けられました。AMAは禁酒法以前とは打って変わり、アルコールは喘息や癌など27種類の病気の治療に使えると主張し出します。言うまでもなく、現実的には医師や薬剤師にとってアルコールの処方箋を書くことは数ドル余分に儲けるための方法でしかありませんでした。

禁酒法以前の典型的なボトルのラベルはプルーフや成分、バレルでの熟成期間(BIBを除く)、更には内容量をオンスで明記する必要すらないという非常にシンプルなもので、買い手は「バーボン」とあれば全て主にコーンから蒸溜されたウィスキー、「ライ」とあれば全てその名の穀物から蒸溜されたウィスキーを意味すると受け止めていたことでしょう。往々にしてカスタマーは騙されていました。全国的に多くの食料品店やドラッグストアの商品は同様に不正なものでした。そこには記載されていないか誤って伝えられている成分で構成された治療効果の期待できないものが多数出回っていたのです。そうした状況への憤慨の高まりが結果として純正食品医薬品法の制定に結びつき、連邦政府はラベルの記載は真実であることを義務づけ、違反した場合には罰則を課すことになりました。ライ・ウィスキーという名称を合法的に使用するためには、少なくとも51%以上がライ麦のマッシュから作られたウィスキーでなければなりません。1906年以降、メリーランド・ライのイメージは曖昧になって行きます。メリーランド州のレクティファイアーの中には、「ピュア」ライを製造しようとした者もいたかも知れませんが、多くはそうではありませんでした。突然、評判の良かったブランドの多くが「メリーランド・ウィスキー」に変わり、小さな文字で「ウィスキー・ア・ブレンド」とも書かれるようになります。「ライ」という言葉を使わなくなったブランドもあったようで、メリーランド・ライで最も有名な6社の小売業者のうちモンティチェロとウィルソンの2社はこのフレーズを手放し、ハンターとマウント・ヴァーノンの2社は堅持し、シャーウッドとブラドックの2社はラベルや価格でライとブレンドを区別して両立していたと言います。メリーランド州西部で傑出した存在であったホーシー・ライのニードウッド・ディスティラリーは、アウターブリッジ四世の死後に子供たちの手に委ねられ、生産量の半分以上をコーン・ウィスキーに移行しました。
こうした国情の変化はあったものの、世紀の変わり目から20世紀初頭に掛けての移民による人口急増があり、そうして顧客の数が増えたためか、メリーランドのウィスキー・シーンは騒がしく、プレイヤーの参入と退出が繰り返されていました。1897年、ドゥルイド・ヒル・パークのバギー事故でエドウィン・ウォルターズが63歳で負傷したことが致命傷となり、メルヴェール蒸溜所のカミングス家、ボルティモアのレクティファイアーのレコーズ&ゴールズボロ、卸売業者のウルマン=ボイキンがシンディケートを結成してオリエント蒸溜所を買収し、工場名をキャントン蒸溜所に変更しました。時には事業の失敗もあり、積極的な販売活動によってロックスバリー・ライをメリーランド州の全米トップ・ブランドと肩を並べるまでにしていたワシントン郡のロックスバリー・ディスティリング・カンパニーは、社長のジョージ・T・ギャンブリルが小麦の投機家でもあったため、そちらで失敗し無一文になり会社は破綻、1910年に管財人の手を借りて閉鎖されました。新しい企業としては、アレゲイニー郡エレーズリーのウィルズ・ブルック蒸溜所、ワシントン郡ウェヴァートンのサヴェッジ・ディスティリング・カンパニー、ペンシルヴェニア州ウェインズボロの蒸溜所からのペン=マー・ライなどがありました。しかし、多くの産業がそうであるように、どこも数を減らして規模を大きくする傾向にあったようです。いわゆるウィスキー・トラストにとって地元性から来る誇りや個性は重要ではなく、メリーランド州の多くの蒸溜所や輸入業者や卸売業者の資本力の低さ、即ち買収への抵抗力のなさは大きな問題でした。ハイアット&クラークの解散後、シャーウッド・ディスティリング・カンパニーはニューヨークの新しく大きな卸売業者であるプリングル&ゴントランと提携、1905年頃フィラデルフィアのカーステアーズ・ブラザーズがハイランドタウンのステュワート・ディスティラリーを買収、ニューヨークの企業はモンティチェロを買収、シカゴのフレンズドーフ&ブラウンはボルティモアのバック・リヴァーで蒸溜していましたがニューヨークのフェデラル・ディスティリング・カンパニーに売却、シカゴのジュリアス・ケスラーはモニュメンタルを買収、1908年頃にはフィラデルフィアの企業がオウイングズ・ミルズ郊外にグウィンブルックと呼ばれる大規模な蒸溜所を建設、同時期にシンシナティからフライシュマンズも参入といった具合で目まぐるしいです。

1881年から1912年にかけてメリーランド州のウィスキー生産量は240万USガロン(910万リットル)から560万USガロン(2120万リットル)に増加し、合計1930万USガロン(7300万リットル)が保税倉庫に保管されていたと言います。明らかにメリーランド州はスピリッツ業界のリーダーの地位にありました。メリーランド歴史協会によると、1865年から1917年の間にアメリカン・ウィスキーの製造と販売において、小さなメリーランドはケンタッキーのバーボンとペンシルヴェニアのライの大きな背中から遠く離れてはいても不動の三番手だったとのこと。禁酒法以前には優に100を超えるブランドが市場に出回っていたとされます。ついでなので禁酒法以後の話の前に、ちょっと時系列が前後してしまう部分もありますが、メリーランド・ライの有名どころのブランドと蒸溜所を個別に少しばかり紹介しておきましょう。


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モンティチェロ・ライ
南北戦争後の需要に応えるために素早く動いたボルティモアの個人またはビジネスマン・グループのうち誰が最初かは定かではありませんが、その一人であるマルコム・クライトンは1865年には既にホリデイとバス・ストリートで蒸溜を開始していたと言われます。マルコムは、1848年に一家でメリーランド州に移住した卸売食料品店を営むウィリアムとジャネットのクライトン夫妻の間の息子として、1840年にイリノイ州で生まれました。マルコムは南北戦争前から戦争中に掛けて、父親のもとボルティモアのウォーターフロントで穀物と肥料のビジネスからキャリアをスタートさせました。戦後は父のもとを去り、独立。穀物に精通していた彼にとって蒸溜酒を造ることは自然の流れだったのかも知れません。進取の気性に富んだ青年だったクライトンは、嘗てジョセフ・ホワイトが運営していた廃業した蒸溜所を引き継ぐと施設を再建し、モンティチェロ・ライなるウィスキーの製造を開始しました。ボルティモアには既にマウント・ヴァーノンと名付けられたライがあり、ジョージ・ワシントンの家にちなんで名付けられていました。それにインスピレーションを受けたのか、或いは対抗したのか、トーマス・ジェファソンの家の名前を自分のウィスキーに当て嵌めた可能性が示唆されています。そもそもの「Monticello」はイタリア語で「小さな山」を意味する言葉です。クライトンは広告の中で、この銘柄のオリジンが1789年であると何の根拠もなく主張していたとか…。しかし、それは彼が生まれる半世紀も前のことでした。
1868年7月、ボルティモアで19世紀最大の自然災害となったジョーンズ・フォールズの洪水が発生しました。水位はダウンタウンの12フィートまで上昇する大惨事でした。モンティチェロの工場は中身もろとも激流で流されてしまったそうです。クライトンは隣のメーター製造工場のパートナー、チャールズ・E・ディッキーからの財政的援助を受け、すぐに再建を果たしました。ホリデイ136番地の場所は、その後の20年、M・クライトン&カンパニーの工場の本拠地となります。モンティチェロ・ライはメリーランド州の忠実な顧客層だけでなく、ウェスト・ヴァージニア州ウィーリングやニューオリンズの酒類ディーラーにも販売されていました。クライトンはブランドの侵害を懸念したのか、1881年にその名前を商標登録しています。不幸にも、マルコム・クライトンは自ら「完璧な蒸溜」を自称したモンティチェロ・ライが生んだ成功と繁栄をあまり享受することなく、1891年に50歳の若さでこの世を去りました。その年にモンティチェロ・ライは全米で販売されたそうです。彼はボルティモアのグリーン・マウント・セメタリーに埋葬されました。マルコム・クライトンが亡くなった時、彼の息子達は誰も彼を引き継ぐことに興味がなかったか、またはその準備が出来てなかったらしい。蒸溜所は同じボルティモアの兄弟であるバーナードとジェイコブ・B・カーンに売却されます。バーナードは以前「カーン,ベルト・カンパニー」でパートナーとして酒類事業に携わっていました。クライトンが残した蒸溜所はいつの間にかメリーランド州最大級の規模にまで成長していました。これは生産されたスピリッツの課税価格によって評価されます。同蒸溜所は課税対象となる228788ドル(現在の約560万ドル相当)の製品を生産していたそうですが、これはメリーランド州でハニス蒸溜所、シャーウッド蒸溜所に次ぐ規模でした。カーン兄弟はモンティチェロ蒸溜所の運営とブランドの販売を禁酒法の訪れまで30年近く続けます。禁酒令の間、モンティチェロ・ライはドラッグ・ストアで処方箋があれば「薬用」として購入できるウィスキーの一つでした。禁酒法廃止に伴い新たな所有者のもとでブランドは1940年代までは存続したようです。 
メリーランド出身の最も有名なジャーナリスト/作家であるヘンリー・ルイス・メンケンは、家庭医が「R月(スペルにrの付く9〜4月のこと)の肺炎の予防には、メリーランド・ウィスキーを一杯飲むのが一番だと教えていた」と言います。葉巻製造業を営んでいた父親のオーガスタスは、その指示をしっかり守ってモンティチェロを購入し、朝食も含む毎食前にダイニング・ルームの戸棚に潜り込み、ライ・ウィスキーを飲んでいたそうです。「彼はこの前菜を健康に必要なものと考えていた。 胃の調子を整えるには最高の薬だと言っていた」。


オリエント・ライ
1819年にペンシルヴェニア州中部の町リヴァプールで生まれたウィリアム・トンプソン・ウォルターズは、1840年代にボルティモアへとやって来ました。穀物商を始めたウォルターズは、1847年に酒類卸売業を確立し、ペンシルヴェニアの4つの蒸溜所からウィスキーを購入していました。やがてウォルターズはこの地域で最大級のウィスキー事業の指揮を執るようになり、成功後すぐにボルティモアの中でもファッショナブルなマウント・ヴァーノン・プレイス地区に住居を構えます。南北戦争が勃発すると、それまで州権の率直な支持者であったウォルターズは合衆国を去って家族と一緒にヨーロッパを旅行し、芸術作品の研究と購入に努めました。1882年、ウィリアムは事業を解散し、海運や鉄道輸送に転じました。代わりに14歳年下の弟エドウィンが自分自身のビジネスをやり始め、家族の支援を受けてキャントンのメイトランド&ブライアンズ蒸溜所を買収します。新オウナーはオリエント・ディスティラーズと改称しました。主力商品をオリエント・ピュア・ライと名付け、拡張した工場をボルティモア最大の規模にすると宣言しました。新しい事業はすぐに独自のドックを持つほどの規模になり、オリエント・ピュア・ライはサンフランシスコで販売されるようになりました。


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メルヴェール・ライ
メルヴェール・ピュア・ライは禁酒法以前に最もプレミアムであり、当時のブランドはメリーランド州のライ・ウィスキーの中で最も権威があって尊敬されたブランドの一つだったと伝えられます。1902年のシンシナティのセールスマンのレート・ブックにはメルヴェールの卸値が1クォート1.45ドルと記され、比較で言うとナッシュヴィルの1906-07年の価格表ではオールド・テイラー・バーボンが1クォート1ドルでした。
1880年代、ジョン・T・カミングスはボルティモアの北にあるジョーンズ・フォールズ地域のコールド・スプリング・レーンにメルヴェール蒸溜所を開設しました。カミングスが登場する前、この場所はボルティモア市内を流れる17.9マイルの小川であるジョーンズ・フォールズの水を利用した商業製粉所でした。製粉所は幾人かの所有者によって運営された後、1830年頃にギャンブリル家の手に渡りました。その頃は穀物の製粉に加えて、製材や紡績も兼ねて運営されていたようです。次の30年間、ギャンブリル家は南北戦争中にその場所が重要になるまで運営されましたが、1861年に北軍が進軍し駐屯すると、南部の共感者であったギャンブリルは占領に不満を持ち、1862年にその土地をウィリアム・デンミードに売却しました。「メルヴェール」という名前が最初にこの地域に付けられたのは戦争中のことです。デンミードは息子のアクィラと共にこの物件の利用を拡大し、1862年から1872年の間に蒸溜所として石造りの建物を建てました。それはイタリアン・ラブルストーン造りで、屋根の中央にキューポラのある優雅な建築物でした。その後の数年間で、二つの倉庫とボイラー小屋と家屋(蒸溜所の管理者用?)が追加されました。1880年頃には骨を粉砕するための機械もあったそうです(この頃の蒸溜所ではしばしばウィスキーのフィルターとして動物の骨を使用していたらしい)。デンミードは蒸溜所を約20年間運営した後、ジョン・カミングスを主とした地元のグループに販売しました。
ボルティモアのマーチャントであるカミングスは、その時までに50歳で、次男のウィリアムは17歳で既に父親と一緒に働いていたそうです。カミングス家の所有権の下でメルヴェール蒸溜所は更に拡張され、倉庫や別棟が追加されました。彼らはメリーランドの新聞上で自社製品を広く宣伝しました。メルヴェールの他に「レイク・ローランド・ウィスキー」と言うブランドもあったそうです。これはボルティモア郡の100エーカーの貯水池にちなんで名付けられました。1897年にボトルド・イン・ボンド法が議会で可決された同じ年、父と息子のカミングスは地元のウィスキー商人によるシンディケートに加わり、オリエント蒸溜所を引き継ぎ、施設の名前をキャントン蒸溜所に変更しました。この動きはメリーランド州で最大のマッシング能力を備えた蒸溜所を所有していたにも拘らず、カミングスが更に多くのウィスキーを必要としていたことを示していると見られます。メリーランド州税務長官の記録によると、1897年のメルヴェールの蒸溜酒の課税価格は168196ドルであると報告しました。1905年にはその2倍以上の373316ドルになりました。この増加は課税額が446880ドルに達した1909年まで続いたと言います。こうした数字にメルヴェール蒸溜所がメリーランド州で最大のウィスキー生産者と呼ばれる所以があるのでしょう。また、ブランドの名声の一つの尺度に模倣が挙げられます。成功したブランドと音を似せたブランドを作成することはよくあることで、市場に出回ったメルヴェールのコピーキャット・ウィスキーは多く、「Melville(メルヴィル)」、「Melwood(メルウッド)」、「Mell-Wood(メル=ウッド)」、「Melbrook(メルブルック)」等がその例です。カミングスは1902年に「メルヴェール」の商標を登録していたにも拘らず、ボストンの会社によって販売されたそのまま「メルヴェール・ライ」なる明らかな商標侵害のウィスキーもあったようです。既に1900年に74歳でジョン・カミングスは亡くなり、経営の手綱は若い頃から蒸溜所で働いていたウィリアム・B・カミングスに渡り、弟のアレグザンダーが会社の秘書兼会計として加わっていました。兄弟はメルヴェール蒸溜所の繁栄を継続させましたが、禁酒法の波は嫌でもやって来ます。それでもメルヴェールは、ドライ・エラの始めの頃に政府によって保税倉庫に指定され、政府へのグレイン・アルコールを生産するため数年の間オープンを許可されていた、と示唆する歴史家もいるようです。
カミングス家は1925年に蒸溜所を売却しました。その後、1928年にウィリアム・A・ボイキン・ジュニアがその所有者からプラントを購入し、彼の会社であるアメリカン・サイダー・アンド・ヴィネガー・カンパニーが1956年まで施設を運営しました。ボイキンの家族はその時、施設をスタンダード・ブランズに売却しました。ウィスキーは禁酒法期間中から製造されなくなりましたが、建物は現在も残っており、今はフライシュマンズ・ヴィネガー・カンパニーの施設の一つとして引き続き酢を製造し続けていると思います。ちなみに石造りの建物は国家歴史登録財となっているそう。メルヴェール・ライは禁酒法廃止後、復活しなかったブランドでしたが、近年フィラデルフィアのニュー・リバティ蒸溜所により復刻されました。
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(近年のフライシュマンズ・ヴィネガー)


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ハンター・ライ
先にも少し紹介したラナハンのハンター・ライは、1912年に出版された『ボルティモア:その歴史と人々』に「ハンター・ボルティモア・ライほど商業の中心地としての街の名声を広めたボルティモア産の製品はありません」と書かれたほどでした。創業者のウィリアム・ラナハン・シニアの人生についての情報は殆どありませんが、南北戦争の前に菓子職人としてかなりの富と影響力を達成したと言われています。アイルランドで生まれ、ボルティモアに定住したラナハン・シニアは、おそらく仲間と組んでロンバードとレッドウッドの間にあるライト・ストリートの工場でレクティファイアーとして1850年代初頭にウィスキーの製造と販売を開始したと思います。1855年に「ハンター・ピュア・ライ」、その後「ハンター・ボルティモア・ライ」を連邦政府に登録。1868年に父親が亡くなった後、ラナハン・ジュニアは事業を引き継ぎ、ウイスキー製造事業を精力的に拡大しました。彼はメリーランド州のフォックス・ハンティング同好会のマスターだったとか、田舎の自分の土地で乗馬するのが趣味だったいう話があるので、それがハンターのトレードマークになっている理由なのでしょう。
1870年、最も初期の市のディレクトリによると、ウィリアム・ラナハン&サンは北ライト・ストリート20番地で商売をしており、1904年のボルティモア大火災で建物が焼失するまで会社はそこにありました。その後まもなくカムデン・ストリート205-207番地に移転しましたが、ライト・ストリートの拡大後、以前の場所での再建許可を得、1906年に新しく建設された建物で事業を再開し、その新しい3階建てのラナハン・ビルディングには表面に目立つ文字で「ウィスキー」という言葉を使って目的を表しました。また、彼らはディスティラーズを名乗りましたが、実際にはレクティファイアー、つまり他所で蒸溜されたアルコールを他の成分とブレンドし、ボトリング及びブランドのラベルを貼り付けて販売する業者ではないかと見られています。同社の主力は言うまでもなくハンター・ライでしたが、ハンター・バーボンや「365」という毎日のシッパーを意味するブランドなども販売していたようです。当時としては珍しいことに、ラナハンは6人の営業部隊を雇い、全国を回ってウィスキーを売り込み、ローカルなディストリビューターらの契約を取って来ました。ラナハン社はハンター・ボルティモア・ライを「完璧な香りと味わい…アメリカを先導するウィスキー」と宣伝しました。また「紳士の」飲み物としての魅力が潜在的に女性の顧客に悪影響を与える可能性があることを考慮して、このウィスキーは「その熟成と卓越の故、特に女性に推奨します」と宣いました。このような誇大宣伝が功を奏したのか、ハンターはアメリカで最も売れているライ・ウィスキーとなったのです。
アメリカを制覇したラナハンは、市場拡大のために海外に目を向け、ロンドンでは「シャーロック・ホームズ」の公演プログラムの中で、ハンター・ライを「人気のアメリカン・ウィスキー」と宣伝、そのシーズンにデューク・オブ・ヨーク劇場で売られていた唯一のヤンキー・ブーズだったそう。更には1902年、ウィリアム・ラナハン&サンは中国の朝廷から利権を得ようと、上海のサディアス・S・シャレッツ将軍に宛てその旨の手紙をしたためました。シャレッツは1901年にセオドア・ルーズベルト大統領に任命されアメリカ製品の輸入拡大について中国政府と交渉していたのです。またフィリピンのマニラでは、反乱鎮圧のために滞在していたアメリカ第8歩兵隊の兵士たちが非番の時にハンター・ボルティモア・ライのクォーツを飲み干していたとか。成功は模倣も生み、メリーランド州の都市から何百マイルも離れた場所で作られた製品までもがボルティモア・ライと名乗るようになりました。そこでラナハンは1890年と1905年に「ハンター・ライ」を、1898年と1908年に「ハンター・ボルティモア・ライ」をそれぞれ商標登録しました。
ラナハン社とそのブランドは59年間運営され、ボルティモア・ウィスキー製造の激動の歴史の中でも並外れたものでした。1908年、サン誌はハンター・ボルティモア・ライの商標の価値を300万ドルと見積もっています。ラナハン・ジュニアが1912年に亡くなった時には、同紙は彼を「ボルティモアで最も広く知られているビジネスマンの一人」と呼びました。禁酒令の到来で事業所が閉鎖されると、ラナハン家のメンバーは銀行業と高額金融の世界に移り、一人のラナハンはニューヨーク証券取引所のガヴァナーになったそうです。別の一人、サミュエル・ジャクソン・ラナハンは有名作家のF・スコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻の愛娘スコッティと結婚しました。
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このブランドは禁酒法時代を生き延び、最終的にカナダの大手酒類会社シーグラムの手に渡りました。1940年末のブラウン・ヴィントナーズ社買収の折、シーグラムはボルティモアのウィルソン・ディスティリングとハンター・ボルティモア・ライ・ディスティラリーの支配権を得、1944年にこの2つの事業を統合してハンター=ウィルソン・ディスティラリー社を組織すると、ボルティモアのカルヴァート蒸溜所でハンター・ライの製造を開始しました。その後、その施設が閉鎖されると、ハンター=ウィルソンの事業はシーグラムが禁酒法廃止直後にルイヴィルのセヴンス・ストリート・ロードに建てた大規模な蒸溜所へ移されます。この時代は殆どがブレンドだったと思われ、ハンターの広告は比較的目にし易いです。ハンターはケンタッキー産になった訳ですが、相変わらずフォックス・ハンティングの紳士とティンバー・トッパーのイメージは保たれ、ボトルにはハンティングに使用するホーンまでエンボスされていました。


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シャーウッド・ライ
禁酒法時代の前後を問わず、メリーランド州で最も有名なライ・ウィスキーの一つがシャーウッド・ブランドでした。現代ワイト家のネッド・ワイトの家族伝承によれば、彼の曽曽曽祖父ジョン・ジェイコブ・ワイトは1850年代のある時期に、メリーランド州ボルティモアの北にあるハント・ヴァリー(コッキーズヴィル)で失敗したウィスキー蒸溜所を引き継ぎ、ライ・ウィスキーの生産を開始したそうです。この蒸溜所は食料雑貨店を営むウィリアム・レンツとジョン・J・ワイトの共同設立で、彼らの製品は近くのシャーウッド・エピスコパル教会にちなんでシャーウッドと名付けられました。コッキーズヴィルはボルティモアの約17マイル北にあり、町の名前は南北戦争の頃にホテルを建て、ボルティモア&サスクェハナ鉄道に駅を設置するよう説得したコッキー家にちなんでいます。ハント・ヴァリーは1960年代に不動産投機家によってどこからともなく命名された比較的新しい名前らしい。
一方で、1829年に食料品店を営むアルフィアス・ハイアットの息子として生まれたエドワード・ハイアットは、ウェスト・ボルティモア・ストリートの酒屋で商売を始め、1860年にはニコラス・R・グリフィスと共にウォーター・ストリートのウィスキー・ディーラーとなりました。1863年、ハイアットはニューヨークに渡ります。夢であったメリーランド・ライのブランド生産と販売を実現するための十分な資本と人脈を手に入れ、5年後にハイアット&クラークとして戻りました。1868年にエドワードは、ジョン・J・ワイトとウィリアム・レンツが始めた小さな蒸溜所を買収して拡大すると、大規模な生産とマーケティングを可能にし、全国的に有名にしました。同じ頃にハイアットとワイトの家族は合併したとされ、ジョン・Jとエドワードの妹が結婚したようです。ちなみに初期のハイアット&クラークのシャーウッド・ライの一部は熟成過程の一部としてキューバを往復していたらしい(アウターブリッジ・ホーシーが採用していた熟成方式を小規模にしたもの。後述します)。
10年後の1878年には、アメリカ陸軍のニューヨークにある医療供給基地が、病院で使用するための備蓄としてシャーウッド・ライを購入するほどになりました。1882年、パートナーが辞任したことでエドワード・ハイアットは自らを社長として3万ドルの資産を持つシャーウッド・ディスティリング・カンパニーを設立、ボルティモアのダウンタウンのオフィス・ビルディングに本社を構えました。過半数の所有権を売却したにも拘らずジョン・J・ワイトは蒸溜所に残り活動を続け、息子のジョン・ハイアット・ワイトも若い頃から事業に携わっていました。
シャーウッド・ディスティリングはメリーランド・ライをフラスク、パイント、クォートなどの様々なボトルで販売。ロゴには横になったバレルを採用し、広告でもその画像を頻繁に使用しました(1890年にトレードマークの使用を開始し、1913年には特許庁に登録された)。1800年代を通してビジネスは繁栄し続け、ボルティモアに営業所を開設。1897年、メリーランド州歳入局はシャーウッド・ウィスキーの課税額を308920ドルと見積もっており、これは今日の数百万ドルに相当します。
ジョン・J・ワイトが亡くなった時、彼の財産の大部分は息子のジョン・ハイアット・ワイトに譲渡されました。ジョン・H・ワイトはシャーウッド・ディスティリングの秘書兼会計になり、叔父は社長のままでした。1894年にはそのエドワード・ハイアットも亡くなり、ジョン・Hは叔父の財産の受託者となり会社の社長になりました。その頃、彼はメリーランド州のウィスキーで「ワイト」のラインを開始したようです。メリーランド州の納税記録によると、生産されたウイスキーの価値は着実に上がり、1909年には40万ドル近くになったとか。1914年頃にはジョン・Hの息子フランク・L・ワイトが蒸溜所で働き始めます。ジョン・Hとフランク・Lのワイトは、1920年の禁酒法まで蒸溜所を首尾よく運営しました。
禁酒法はコッキーズヴィルのオリジナルのシャーウッド蒸溜所を閉鎖に追い込み、建物は早くも1926年には取り壊されてしまいます。しかし、シャーウッド・ブランド自体はなくなりませんでした。禁酒法期間中、シャーウッド・ライは処方箋として販売され、最終的にブランドはルイ・マンによって購入されました(***)。禁酒法後の彼のシャーウッド・ウィスキーのラベルには大体、コッキーズヴィルの北東約25マイルにあるウェストミンスターと記載されています。マンのシャーウッド・ディスティリング・カンパニーは、少なくとも名目上そこにありましたが、瓶詰めの多く、そしておそらく蒸溜もペンシルヴェニア州グレン・ロックの更に北にあるウィリアム・ファウスト蒸溜所で行われていたと目され、ディスティラーと言うよりはブレンダーであったのかも知れません。それはともかくマンのシャーウッド・ディディリングは、一時はアメリカで4番目に重要な独立系蒸溜会社まで成長しましたが、その事業は1950年代に閉鎖されたようで、ブランドはいつの間にか姿を消しました。
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一方のオリジネイター、ワイト家も死んだ訳ではありません。禁酒法が終わるとフランク・L・ワイトはメリーランド州ロアリーに蒸溜所を設立し、冒頭のネッド・ワイトの祖父ジョン・ハイアット・ワイト2世と共に、1943年に蒸溜所を売却するまで経営を続けました。その後、フランクはコッキーズヴィル・ディスティリング・カンパニーを組織し、1946年に元の蒸溜所があった場所の近くに施設を建設しました。そちらは1958年にフランクが亡くなるまで操業しています。ワイトの主な後援者はコネチカット州のヒューブライン社であり、フランクの死後、彼らは蒸溜所を閉鎖しました。フランク・L・ワイトは、ライ・ウィスキー造りをグルメ料理と同じように芸術と見做していたと言います。「3人の料理人に同じ材料を与えると、1人は上等なケーキを作り、もう1人は平凡なケーキを作り、3人目は食べるに値しないケーキを作るだろう。ウィスキーの蒸溜も同じだ(1934年のイヴニング・サン紙のインタヴューにて)」と。1990年に78歳で亡くなったジョン・ハイアット・ワイト2世まで、ワイト家は何世代にも渡ってメリーランド州でウィスキーを蒸溜した家族でした。


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ホーシー・ライ
メリーランド州西部のフレデリックとアンティータム戦場のほぼ中間にあるバーキッツヴィルの近くに、往時、二つの商業蒸溜所がありました。そのうちの一つが1840年代にアウターブリッジ・ホーシー四世(二世やジュニアとされることもありますが、ここでは四世で数えます)によって設立されたニードウッド蒸溜所です。彼はチェサピーク&オハイオ運河の理事を務めたり、メリーランド州の民主党全国委員会のメンバーを長年務めたりした紳士でした。18~19世紀のアメリカに社会的政治的貴族がいたとすれば、メリーランド州のホーシー家は正にその中に入るでしょう。アウターブリッジ四世は米国憲法に署名したメリーランド州で最も有名な市民の一人であるチャールズ・キャロルの母方の直系の子孫で、祖父のトーマス・シム・リーはメリーランド州の知事を2度務めた人物であり、父のアウターブリッジ三世はデラウェア州の上院議員かつ以前は同州の司法長官でした。正に貴族の血統です。リー知事はフレデリック郡のブルーリッジ山脈の麓、バーキッツヴィルの近くに2000エーカーのプランテーションを設立し、豪邸を建てました。メリーランド州第2代知事から妻の家系に受け継がれたこのニードウッドという地所に、アウターブリッジ・ホーシー四世は4人の子供の末っ子として1819年2月28日に生まれました。
地元の学校やマウント・セイント・メリーズ大学で教育を受けた後、幼い頃にニードウッドの土地を継承していた19歳のホーシーは、1839年頃、それを耕作するだけでは飽き足らず蒸溜所を設立することを決意します。バーキッツヴィルとブランズウィックの間に商業用の蒸溜所を設立し、近くのカトクティン山脈からの水を利用したウィスキーを製造し始めました。彼の最初の操業は、その時代のメリーランド州の農民蒸溜者の伝統に沿った地元への販売を主とする小規模なものだったようです。この工場はホーシーの蒸溜技術の向上と共に大きくなって行きました。しかし、南北戦争が勃発すると、おそらく北軍での兵役を回避するために、ホーシーはヨーロッパに渡りました。南北戦争中、メイソン=ディクソン・ラインの両側からの襲撃を受け、ニードウッドは戦場となりました。1862年9月13日、(通称)ジェブ・ステュアート将軍の指揮する南軍の騎兵隊がバーキッツヴィルを占領、2日後に北軍と南軍の軍隊がクランプトンズ・ギャップの戦いで衝突し、ホーシーの蒸溜所は破壊され、貯蔵していたウィスキーは喉の渇いた戦闘員に飲み尽くされたと伝えられます。この挫折にも拘らず、ホーシーのウィスキー造りへの情熱は消えませんでした。アメリカを離れていた彼はヨーロッパでの滞在を利用して、スコットランド、アイルランド、イングランドの主要な蒸溜所を訪れ、高品質なウィスキーを製造する方法や設備について可能な限り学びました。
1865年に帰国したホーシーは、最新型の機械を導入するなどしてニードウッドを再建し、「ヴェリー・ファイン・オールド・ホーシー・ライ」の3000バレルを収納できる倉庫を備えた7エーカーの工場にしました。最終的には年間1万バレルを生産したとされます。ウィスキーをファンシーなラベルの付いたボトルで販売し、近くの町にディーラーを得、ボルティモアに会社の事務所を開設しました。これまでにない最高品質のアメリカン・ウィスキーを造りたいという願望に駆られた男の率いるニードウッド蒸留所は、ジェイムズ・ダル(後にオリヴァー・フルック)の監督下で「ホーシーズ・ピュア・ライ」というブランド名の新しい100プルーフのライ・ウィスキーや「ゴールデン・ゲイト・ライ」と呼ばれる非常に特別なブランドを生産し、意図的に高級化しました。ホーシーはメリーランド州のライ麦を使用せず、テネシー産もしくは輸入されたアイルランド産のライ麦を好んだと言います。輸入は製造コストを高めるでしょう。更に驚くべきは蒸溜後のウィスキーを熟成させる方法でした。
当時は、単純な倉庫保管よりもバレルを旅(長距離移動)させた方が優れているという考えがありました。これはスロッシング(容器内の液体が外部からの比較的長周期な振動によって揺動すること)は熟成を加速させると云う理論に基づいています。ホーシーはヨーロッパのウィスキーをアメリカに運ぶための大航海こそが、ウィスキーをスムーズにすると考えていました。そのアイデアは、何ヶ月も揺れる船で熱帯を航行してロード・アイランドに戻ってきた嘗てのニュー・イングランドのラムか、或いはホーシーが学んだグラスゴーの蒸留所から来てるのかも知れません。ともかく、彼は生産したウィスキー・バレルをボルティモアやワシントンに送り、それを蒸気船に乗せてホーン岬を回り、サンフランシスコまで航海させました。そこで一部のウィスキーは更に1年間倉庫に置かれた後、現地で宣伝してサンフランシスコのサロンなどで販売したり、カリフォルニアでゴールデン・ゲイト・ライとして販売したようです。そして残りのウィスキー・バレルは鉄道でメリーランドに戻された後にボトリングされました。ホーシー・ライが入っていた木箱には「このウィスキーは、S.S.____によってサンフランシスコまで海上輸送されたため、独特で最も心地よい柔らかさが得られた」との文言がステンシルされ愛好家を魅了しました。もし、それがただのギミックだったとしても、それは上手く行きました。ホーシーの製品はマサチューセッツからカリフォルニアまで顧客がおり、美食家が必要とする全ての品質に富んでいるとして、街角の酒場ではなくホテルやクラブのようなちょっと高級な場所で愛飲されたと言われています。
こうした航海熟成のテクニックはホーシーだけの専売特許ではなく、初期のシャーウッド・ライにはキューバに出荷されて戻って来るものがあったり、バーキッツヴィルにあるもう一つのジョン・D・エーハルトの蒸溜所のアンティータム・ライは、熟成の過程でウィスキーをリオデジャネイロまで送っていたと言われています。航海熟成は製造コストを押し上げたのは間違いないと思いますが、実は当時の経済状況では長い船旅はそれほど高くはなかったらしく、1903年8月の『ニューヨーク・タイムズ』には「蒸溜業者はウィスキーをブレーメンとハンブルグに送り、そこからホーン岬経由で出荷する方がルイヴィルからサンフランシスコまで鉄道で送るよりもコストが掛らないことを発見した」と報じられているそうです。1887年の州際通商委員会(Interstate Commerce Commission=ICC)の公聴会で発表された統計によると、或る蒸溜所はボルティモア港からホーン岬を回ってサンフランシスコまで1バレル約1ドルでウィスキーを送ることが出来るとICCに文書で報告したとか。これは貨物列車でアメリカ大陸を横断して輸送するよりも遥かに安い金額でした。1800年代の鉄道が今日の新幹線以上、寧ろジェット機のような存在であったことを考えると、ホーシーのウィスキーがサンフランシスコからボルティモアまで、鉄道が運行する全ての都市を巡り、ケースや車両の側面にブランド名が目立つように表示されながら戻って来たのなら、それはホーシー・ライの高級感と知名度を高める宣伝そのものだったでしょう。
ホーシーズ・ピュア・ライは、おそらくは最上級の意味で自らを「アメリカで最初のイースタン・ピュア・ライ・ディスティラリー」と広告で称しました。そしてこの珍しい名前のウィスキーは量を増やすことよりも品質を維持することに重点を置いていました。1日の生産量は400ブッシェル未満でしたが、蒸溜所の事業からの課税対象収益は何年もの間、約25000ドルで安定していたそうです。ニードウッドの農場とウィスキーから得た利益(また幾つかの大企業の役員も務めていたと云う)で繁栄したホーシーは、ワシントンDCに家を購入し、チャールズ・キャロルの子孫である妻アンナと共にそこで優雅な冬を過ごし、地元の上流社会では活発に活動しました。単なるビジネスマンではなかった彼は、ジョン・W・バウマンやイーノック・ルイス・ロウといった人物を師と仰ぎ、政治にも力を入れ、おだてられて上院議員に立候補したこともあったそうです(後にボルティモアのイーノック・プラット自由図書館の主任司書となるルイス・H・スタイナー博士に敗れた)。「威厳のある堂々とした風貌で、接する人すべてから尊敬と称賛を集めた」アウターブリッジ・ホーシー四世は、1902年1月5日、83歳の高齢で亡くなり、ピーターズヴィルのセント・メアリー・カトリック墓地に埋葬されました。『ニューヨーク・タイムズ』の死亡記事には、彼の政治的なコネクションが強調され、ディスティラーでもあったことは後付けで加えられたに過ぎませんでした。ホーシーは亡くなる2週間前に株式会社を設立し、3人の息子達を戦略的なポジションに任命したとされます。彼の死後間もなく息子達はニードウッド蒸溜所の半分以上をコーン・リカーに切り替え、蒸溜所を売却し、飲料用アルコールのシーンから去って行きました。ホーシーの貴族の家族はウィスキー造りには興味がなかったらしい。
新しい経営者のもとで1907年には生産量が倍増したとされますが、幅広い飲酒者に販売される品質が低下したものだったと推測されます。品質は兎も角として、1906年に制定された純粋食品医薬品法の「ピュア・ライ・ウィスキー」と表示するための新たな法的資格により、それまで人気を博していた多くの銘柄が酒屋の棚から突然姿を消しました。ホーシー・ブランドもその影響からか、製品名は「オールド・ホーシー」に変更されました。ライの他、単なるストレート・ウィスキーも現れホーシーの名が冠されるようになりましたが、製品はもはやホーン岬を旅するものではなく、ブランドはその水の質の高さを売り物にしていたようです。スウィートなテイスティングの水の供給源はサウス・マウンテンのスプリングからである、と。1914年の政府の水質に関する報告書によると、スペント・マッシュから毎日6000ガロンがミドル・クリークに排出されたそう。禁酒法が訪れると他のアメリカン・ウィスキーの多くと同様にホーシーの蒸溜所(メリーランドRD#17)は1919年に閉鎖されました。
禁酒法下でニードウッド蒸溜所が何千本ものボトルを保管していることが判明すると、強盗が入って奪われたという話があります。1923年4月1日の『ボルティモア・サン』の記事によれば、「昨日未明、メリーランド州バーキッツヴィルのホーシー・アウターブリッジ蒸溜所(原文ママ)で、2台の自動車に乗った数人の男が6ケースのウィスキーを盗んだ」とあり、警備員が発砲すると強盗もこれに応え銃を乱射、何発も銃弾が飛び交い、その間に泥棒たちは車に乗り込んで走り去りました。倉庫の在庫を調べたところ、盗まれたのは薬用としてパイント・ボトルに入っていた6ケースだけでした。これは「この8ヵ月で4回目のことで、この他にも少なくとも2回ほど工場への侵入を試みたが挫折したこともあった」そう。ボルティモア・コンセントレーション・ウェアハウス・カンパニーのジェネラル・マネージャーであるデイヴィッド・スティーフェルによると、約15の蒸溜所に分散している州内50000バレルのうちアウターブリッジ・ホーシーの倉庫に保管されていたのは4000バレル以下だったとのこと。
禁酒法が明けた1934年、ホーシーの名前は再び表舞台に現れます。メリーランド州コッキーズヴィルを源流とするが別の会社であるシャーウッド・ディスティリング・カンパニーは薬用アルコールの販売で生き延び、禁止令廃止にあたり経営陣はホーシー・ディスティリングを買い取り、工場を再建することなく知名度の高いブランドだけを維持しました。この時には「オールド・ホーシー・ヴェリー・ファイン・ライウィスキー」、「オールド・ホーシーズ・メリーランド・ライウィスキー」、「オールド・ホーシー・ライウィスキー」等があり、「オールド」や禁止後の法的要件である「ウィスキー」という言葉が追加されています。シャーウッドはその後ウェストミンスターに本拠を移したのでラベルにはその名前の記載がありますが、蒸溜とボトリングはペンシルヴェニア州グレン・ロックの古いウィリアム・ファウスト蒸溜所で行われていました。この過程でホーシー・ライは、過去の6年熟成させた高品質なブランドから、大量消費用の2年物を含む安物ウィスキーに変質してしまった模様。もしアウターブリッジが生きていたら激怒したかも知れません。


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メルローズ・ライ
上品で甘美な雰囲気を醸すメルローズのウィスキーは、造り手の出自を反映していたのかも知れません。アメリカの上流階級に属するゴールズボロ家はその血統を過去に繁栄したイングランドに遡り、メルローズの創始者の母方の家系にはフランスの貴族が含まれているそうです。アメリカで最初のゴールズボロであるニコラスは1669年に到着し、メリーランド州のイースト・ショアにあるケント・アイランドに定住しました。この一族は市民活動や公的な活動に於いて顕著な功績を残し、メリーランド州知事も輩出しています。その他にも影響力のある人物を輩出しているらしい。メルローズの物語は1880年代にヘンリー・P・"ハリー"・ゴールズボロが妻と若い家族と共にテキサスからボルティモアに戻った後に始まりました。彼は若い時分から西部テキサスで商売を成功させていましたが、新しい展望を求めて出生地のメリーランドに帰って来たのです。
一方、ジョージ・J・レコーズという名前のボルティモレアンがパートナーと一緒にライト・ストリート116番地に「レクティファイアーズ、ディスティラーズ、ホールセラーズ」として宣伝する酒屋を設立していました。ボルティモアに戻ったハリーは自分の資金を彼らの会社であるレコーズ,マシューズ・アンド・カンパニーに投資しました。そして数ヶ月以内にマシューズの株を購入し、社名は1885年頃にレコーズ&ゴールズボロに変更されました。そして、ほぼ同時期に(1883年という説も)同社を全国的な評判にしたラベルであるメルローズ・ブランドを作成しました。その名前はゴールズボロの先祖代々の英国の邸宅があったメルローズ・ロードに由来しています。レコーズ&ゴールズボロは当時のメリーランドの他の生産者と同様に、ストレート・ウィスキーは風味が集中し過ぎており、レクティファイして90プルーフに減らす必要があると考えていました。ストレート・ウィスキーは優れた飲み物であり、一部の人々に好まれる可能性があることを認めつつも、ロウワー・プルーフの方がフレイヴァーのバランスが良く多くの人にアピールすると考えたようです。彼らのフラッグシップ・ブレンドは5種類のライ・ウィスキーを使用し、そこにアロマ、フレイヴァー、ボディ、テイストを同社が求める特徴に統合するための特別なブレンディング剤を組み合わせて造られました。ゴールズボロ家の子孫と結婚したスターリング・ グラアムの「Melrose、Honey of Roses」によると、ブレンディング剤はフレイヴァーには寄与しないがメリーイングおよび触媒として役立つそう。それはフルーツベースの、おそらくシェリーかポートを使った何かではないかと推測している人がいました。メリーランド・ライはしばしば特徴的な赤い色をしてたとされ、特にシャーウッドとシャーブルックのブランドはそうで、メルローズも深い赤色だったと伝えられます。それはもしかするとブレンディング剤で達成されたものだったのかも知れません。メリーランドの製品の多くはニュートラル・スピリッツとブレンドされていましたが、ハイエンドのブレンドはどれもストレートなキャラクターを有し、品質はストレート・ライやバーボンと同等、場合によっては優れている可能性があるとされています。
当初、レコーズ&ゴールズボロはウィスキーを蒸溜していなかったためオープン・マーケットで調達されていました。メリーランド州は多くの蒸溜所を誇っていましたが、卸売業者による競争は激しく、原酒の価格高騰の可能性があり、経営者達は自分のプラントを所有することに熱心でした。多くのレクテァファイアーと同じようにそう望んだレコーズ&ゴールズボロは、ブレンド用ウィスキーの安定した供給を確保するため、別の有名なボルティモアのウィスキー男爵エドウィン・ウォルターズがバギー事故で負傷して死亡したのを契機に、他の二つのボルティモアのリカー・ハウスからなるシンディケイトに参加して、ボルティモア近くのキャントンにあるプラントを1897年に購入し、名前をオリエント蒸溜所からキャントン蒸溜所に変更しました。その蒸溜所はライ・ウィスキーの品質で知られ、メルローズ・ブレンドの供給源でした。こうしてより確実な供給源を得た同社は独自のブランドを増やすことが出来、メルローズの他に「ハッピー・デイズ・ライ」、「マウンテン・ヒル」、「メリーランド・ゴールデン・エイジ」、「メリーランド・プライド」、「オールド・レコード・ライ」、「R and G」などがあったそうです。彼らはウィスキーのブレンドを専門とする会社ですが、ブレンドされていないストレート製品も販売しており、いつの時代か不明ながらキャントン・メリーランド・ストレート・ライウィスキーというのもあったらしい。
1904年2月のボルティモア大火災がライト・ストリートを含むダウンタウンの大部分を破壊した時、レコーズ&ゴールズボロの建物も被害に遭いました。しかし、翌年には再建され、住所は新しいライト・ストリートの36番地になりました。それから彼らは1906年にメルローズ、1907年にハッピー・デイズと、初めて二つのブランドを商標登録しました。   1909年4月にはジョージ・レコーズが59歳で亡くなります。 彼と妻の間には子供がいなかったため、リカー・ハウスの所有権はゴールズボロに委譲されました。レコーズとは対照的に子宝に恵まれていたハリーは、息子が雇用年齢に達した時に会社に加えます。そのうちの二人、フェリックス・ヴィンセントとウィリアム・ヤーバリーのゴールズボロは酒類ビジネスに親和性がありました。兄弟たちは父親に付き従ってビジネスのあらゆる側面、樽の運搬、ボトルのラベル付け、帳簿の管理までゼロから学びました。取り分けウィリアムは初めからレクティファイング・プロセス(ブレンド)で例外的な才能を示したと言われています。兄のフェリックスの方は経営面に才覚を発揮しました。その後、他の兄弟であるジョージ・Jも会社に参加します。
第一次世界大戦ではウィリアム、ジョージ、そして三番目の兄弟リロイが入隊しました(ウィリアムとリロイは陸軍、ジョージは航空隊)。その結果、残念なことにウィリアムは永久的な眼の怪我を負い、リロイは死亡してしまいます。フェリックスは結婚し、1915年に会社の社長に任命され、家にいて酒類事業を守りました。その頃ハリー・ゴールズボロの健康は歳を取るごとに悪化、1917年に58歳で亡くなり、ボルティモアのカテドラル・セメタリーに埋葬されました。第一次世界大戦が終わると、ウィリアムとジョージはホームに帰り、兄を手伝ってレコーズ&ゴールズボロの運営に復帰、会社は成功を収めたようです。しかし、禁酒法が施行されたため、1919年末に会社は閉鎖を余儀なくされました。
業界は13年間の禁酒法によって殺害されましたが、禁酒法が撤廃されると高齢にも拘らず兄弟達は再び力を合わせて事業を再開、メルローズ・ライを復活させました。メルローズ・ブランドを持つレコーズ&ゴールズボロは、メリーランド州にあっては禁酒法解禁後に同じ名前と経営者で再び登場する数少ないウィスキー企業の一つとなったのです。再びウィスキーのブレンディングを開始した彼らは、世界恐慌と第二次世界大戦によって齎された問題に直面しますが、何とかそれを克服しました。この頃にはゴールズボロ家の3世代目も事業に参入していました。彼らは苦労してビジネスを構築してメリーランド・ウィスキーの売上を達成することに成功。同社はメリーランド州に蒸溜所を開設しただけでなく、ケンタッキー州エクロンにあるペブルフォード蒸溜所を買収しました。戦争努力のための工業用アルコールを支持して、飲料用アルコールの生産が停止された第二次世界大戦中でさえも事業を継続していたらしい。戦時中であるにも拘らず、その品質には影響がなかったとか。しかし、最終的に彼らは業界の巨人に吸収されます。1948年(1945年説も)、一家は会社、蒸溜所、ブランドをシェンリー・インダストリーズに売却することを決めました。
シェンリーの全ての蒸溜所と同様に、メルローズ蒸溜所は1950年代の最初の数年間にウィスキーを過剰生産していました。シェンリーは朝鮮戦争がもう一つの世界大戦へと拡大し、戦争のために工業用アルコールの製造を余儀なくされると信じていたのです。しかし、物事はそうなりませんでした。そしてシェンリーの倉庫には過剰生産されたウィスキーが溢れ返りました。彼らは蒸溜所での生産を停止し始め、最終的に蒸溜所を売却し出しました。1960年代と70年代にウィスキーが市場シェアを失ったため、シェンリーはブランドの広告のサポートを止め、その後ブランドの生産も止めました。これがメルローズ・ブランドの運命と重なりました。1980年までにブランドはもはや生産されず消滅した、と。往年よく知られたメリーランド・ライのブレンドだったメルローズ・ライ。その名前は、もうメリーランドにはありませんが、現在ではテネシー州チャタヌーガのJ.W. ケリー&カンパニーによって復活しています。


では、そろそろ話をもとに戻します。第一次世界大戦と禁酒法はライ・ウィスキーの人気に対する大きな打撃でした。
禁酒や節酒を呼びかける声はアメリカという国の初期段階から聞こえていました。陽気な酒飲みの背後には、アルコールに蝕まれた家族やアルコールによって台無しにされたキャリアといった破滅的な光景も広がっていたからです。1810年から1840年にかけて個別に行われていたプロテストは次第に融合して行きました。1840年にボルティモアで設立されたワシントン・テンペランス・ソサエティは、一般的には全国的な組織を持つ最初の活動とされています。1854年に『Ten Nights in a Bar-room, and What I Saw There』という辛辣な小説(読者が飲酒するのを思い留めさせるための明確な意図をもって書かれたテンペランス小説)を書いたティモシー・シェイ・アーサーはボルティモアで育ちました。南北戦争後、禁酒運動の主導権は男性から女性へと移ります。特に1874年に設立された女性キリスト教禁酒連合(Woman's Christian Temperance Union=WCTU)ではその傾向が顕著でした(メリーランド支部は1875年に開設)。1903年11月19日には、あの有名な酒場の破壊者であるキャリー・A・ネイションがボルティモアのリリック・シアターにやって来たという話もありました。時にはボルティモアのサルーンが物理的な攻撃を受けることもあったのかも知れません。もっと典型的なのはテンペランスの行進で、大学の学生や卒業生、教師、医師、教授、福音主義教会の会員など全て女性で構成された行列がボルティモアの通りを席巻したそうです。
1851年、メイン州は州全体を対象とした禁酒法を制定しました。その後、他の州やカナダの州でも禁酒法が制定されましたが、議論や投票が盛んに行われたため一部の地域では撤回されました。メリーランド州もすぐにそうした「戦場」になりました。早くも1862年には、モンゴメリー郡のブルックヴィルから2マイル以内、サンディ・スプリング集会所から2.5マイル以内、エモリー礼拝堂と学校から半径4マイル以内での「いかなる蒸溜酒や発酵酒」の販売を禁止する法律が制定されています。ボルティモアのマウント・ヴァーノン・ミルズのような製造業者は、労働者の飲酒を減らすために工場の近くでの酒類の販売禁止を求めたこともあったそう。1885年にはカウンティ・オプション法が成立し、アナランデル郡、カルヴァート郡、キャロライン郡、セシル郡、ドーチェスター郡、ハーフォード郡、ハワード郡、ケント郡、モンゴメリー郡、タルボット郡、そしてサマセット郡とクイーン・アンズ郡の大部分で酒類の販売が禁止されました。
一方の親酒派は敵の性格や動機を非難し、少量または時々の飲酒であれば健康になることを主張していましたが、禁酒主義者の猛攻撃の前に無制限の酒類販売の領域は縮小されます。男性によって運営され議員に焦点を当てたアンチ・サルーン・リーグは1895年にワシントン本部を設立し、1910年頃に聖職者がボルティモア支部を支配しました。しかし、皮肉にも残りのウェット・エリアでのビジネスは改善されます。1908年にはノース・キャロライナ州、1912年にはウェスト・ヴァージニア州、1914年にはヴァージニア州と、様々な枠組みで州全体での禁止令が出されましたが、住民が買いだめするために大都市へ旅したため、これがボルティモアには好都合に作用したのです。アナポリスを含む一部の都市はお陰で「オアシス」のようでした。
1916年、酒類販売のドライ/ウェット問題を投票にかける地方法ではない一般法を得て、ドライ派はすぐにキャロル、フレデリック、ワシントンの各郡を獲得しました。1918年までにメリーランド州の土地面積の84%が法律で定められたドライ地帯となったそうです。その間、『アメリカン』を始めとするボルティモアの日刊紙の殆どは酒類の広告を受け入れていました。片や『サン』は1920年代から1930年代初頭に掛けての反禁酒法に対する積極的な姿勢とは対照的に1905年頃まで酒類広告を掲載しなかったとか。
20世紀に入り禁酒運動が急速に活発になった背景には、当時増え続けた移民によって日常的に飲酒する下層民が増えたことに対してアメリカのキリスト教道徳を遵守したい保守派の動きや、アメリカの第一次世界大戦参戦を機に物資の節約と生産性向上への声が大きくなったこと等が挙げられています。また、対戦国であるドイツ嫌いの風潮も強まり、ビール醸造に使われる穀物を節約して前線の兵士に送ろうという主張の裏側には、ビール醸造業を潰してドイツ系市民に打撃を与えようという思惑があったことも指摘されています。第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、連邦政府はアルコール生産を軍事目的に転用しました。メリーランドでも、多くの顧客が海外に流出したため店やバーの数は減って行き、蒸溜所や卸売業者のオウナー・チェンジも頻繁に行われ、閉鎖に伴う投資資金の流出が懸念されました。1918年11月、国民は中央同盟国(第1次世界大戦中の、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国およびブルガリア王国から構成された連合国)に対する勝利をアルコールで祝います。しかし、1915年頃から州法で禁酒を規定するところが増えており、1917年12月に酒類の製造/販売/輸送/輸出入を禁止する憲法修正第18条がアメリカ合衆国憲法の追加条項として議会で可決されていました。当時の48州のうち4分の3となる36州の批准が必要だったので、各州での批准の完了には時間を要し、36番目の州が修正第18条を批准したのは戦後の1919年1月16日のことです。メリーランド州は修正第18条を批准しましたが、州による施行は法制化されていませんでした。条件には一年の猶予が含まれており、その間、ディスプレイ広告も奨励され、消費者は「大旱魃」を防ぐための措置としてメリーランド・ライのボトルやケースをいくつも買い置きすることが出来ました。禁酒の具体的な内容を定めたヴォルステッド法が成立したのは同年10月。そして翌1920年1月には憲法修正18条が発効し、アメリカは遂に国家禁酒法時代に入りました。

メリーランド州は禁酒法の物語の中でもユニークな立ち位置を占めています。 それは「高貴な実験」を確立する修正第18条を批准しつつも、メリーランダーズは一般的にこの法律に反対していたところでした(後に80%以上が廃止に投票することになる)。
この州には多くの移民が住んでおり、特にボルティモアはそうでした。彼らの文化は酒を飲むことが生活の一部として大切にされていました。禁酒運動の外国人排斥の動きに憤慨した彼らにとって、それは自らの習俗を守る文化戦争でした。また、メリーランダーズは自分たちの州の権利と思われるものに連邦政府が介入することに反対し、そして自分たちの個人的な生活への介入にも抵抗しました。国家禁酒法の下では連邦政府と州の両方がアルコール法の施行に責任を負っていましたが、メリーランド州はこの不人気な法律を施行するための法律の可決を拒否した唯一の州でした。禁酒法の全期間を通じて知事が反対したそう。そのため、メリーランド州には「フリー・ステイト」のニックネームが付けられています。それはメリーランド州の政治的自由と宗教的寛容の長い伝統を表している、と。その言葉は、元々は奴隷制の文脈で使われていましたが、ずっと後に別の文脈で使用されるようになりました。1923年に禁酒法の確固たる支持者であったジョージア州の下院議員ウィリアム・D・アップショーが州の執行法の可決を拒否したとしてメリーランド州を連邦への裏切り者として公然と非難すると、ボルティモア・サン紙の編集者ハミルトン・オーウェンスは「ザ・メリーランド・フリー・ステイト」と題された模擬の社説を書き、メリーランドは酒の販売を禁止するのではなく連邦から脱退すべきだと主張します。社説の皮肉が過激だった?のでオーウェンス氏はそれを印刷しないことに決めましたが、後の社説で彼やH・L・メンケンがそのニックネームを広く普及させました。

ヴォルステッド法はアルコールの製造、輸送、販売を禁止していましたが消費を禁止していませんでした。ケンタッキーの有名な蒸溜一家の一員、オソとリチャード・ユージーンのワセン兄弟は法の抜け穴を上手く利用して、1920年頃に薬用ウィスキーを販売するアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)を組織しました。AMSはメリーランド州内で唯一操業を許された蒸溜所としてハニス・ディスティリング・カンパニーのボルティモア蒸溜所(マウント・ヴァーノン蒸溜所)を所有し、禁酒法が終了するまでマウント・ヴァーノン・ライを薬用ウィスキーとして販売しました。またそうした「正規」の「裏側」では、ブートレガーズはチェサピーク湾を利用して商品を運び、知る人ぞ知るスピークイージーも沢山あったようです。メリーランドは1933年にヴォルステッド法が廃止される前も後も、ビールや酒が自由に飲める最も「ウェット」な州として知られていたとか…。

13年間の禁酒法は業界全体を痛めつけましたが、1933年に禁酒法が解禁されるとメリーランドでも少数の蒸溜所が再開され、州に特有のスピリッツであるライ・ウィスキーの需要を満たすために生産を増やしました。しかし、ブームは比較的短命であり、第二次世界大戦後、経済の変化と需要の減少の組み合わせにより、次々と蒸溜所は閉鎖され、最終的にライの繁栄は終わりを告げることになります。ケンタッキー州のようにはいかなかったのです。
「ドライ・エラ」の間に何かが変わりました。禁止後、ハイ・コーン・レシピのバーボン・ウィスキーは間違いなく最も人気のあるスタイルとなりました。バーボンは王座の地位に就き、ライは棚の後ろに押し出されたのです。多くの場合、バーボンがライに取って代わった理由としては、禁酒法期間中に酒飲みの舌がスピークイージーで提供される密造されたコーン・ウィスキーに慣れたため禁止後に皆がバーボンを欲っするようになったと説明されます。それは少しの真実を含むかも知れません。或いはバーボンはトウモロコシ栽培者に対する連邦政府の補助金に助けられたとも言われます。禁酒法の直前と直後、第二次世界大戦中、米国政府はトウモロコシに助成金を支給し、農民にとって魅力的な作物になりました。お陰でトウモロコシはより安くより入手し易くなりましたが、ライ麦はそのままでした。蒸溜酒製造業者は自らの産業を再建するためにトウモロコシに群がりました。それは伝統的なアメリカの蒸溜に対する深い敬意以上に、実用的なビジネスの観点からの動きだったのです。そうなったもう一つの理由として重要なことに、禁酒法後のメリーランド州の蒸溜所の減少が挙げられます。禁酒法以前に生産していたメリーランド州の蒸溜所の多くは貴重な都市部にあり、禁酒法の13年の間に不動産を売却する必要性がありました。逆にケンタッキー州では蒸溜所の多くが郊外や農業地域にあり、その土地の需要はそれほど大きくなく、蒸溜所の販売はそれほど魅力的なものではありませんでした。禁酒法の間に売られその後に再始動した殆どのメリーランドの蒸溜所は、禁酒法以前にそれらを運営していた人々とは異なる人々によって運営されました。しかも大抵の場合、メリーランド・ウィスキーの評判を利用して手っ取り早くお金を稼ぐことに興味のあるビジネスマンに売り払われていたそう。その多くは10年以内に失敗に終わったと言います。それでも何とか維持していた蒸溜所は、嘗ての偉大なメリーランド・ライの淡い影であるブレンデッド・ウィスキーを販売するためだけに古い有名なブランドの名前を購入することに主に関心を持っていた大規模なウィスキー・コングロマリットに買収されて行きました。
1936年にメリーランドはライ・ウィスキーの生産量が1400万ガロンとなり国をリードしました。その二年後、政府の保税倉庫から1500万ガロンのライを処分しなければならないというニュースが流れました。第二次世界大戦の勃発です。これ以降ライの生産量は二度と戦前のような高水準に戻ることはありませんでした。戦時中、穀物とアルコールは軍用に転用されます。メリーランダーズは特に愛国心が強く、非常に多くの蒸溜所がエタノールの製造に切り替えたと聞きます。そしてブレンデッド・ウィスキーが登場し始めますが、これが大衆の支持を得たことはストレート・ライ・ウィスキーの余命が幾許もないことを意味していました。戦後ほどなくして大衆の酒飲みの舌はバーボン、スコッチ、カナディアン、ジンを求め、そうした嗜好の変化はメリーランド・ライの人気を終わらせるのに十分でした。

AMSを母体として生まれたナショナル・ディスティラーズが禁酒法の終わり間際に買収したハニス・ディスティラリーは、1953年まで操業したものの販売不振のため閉鎖されました。
一方、ボルチモアの少し南東にありアイルランドにちなんで名付けられたダンドークでは、ウィリアム・E・クリッカーがボルティモア・ピュア・ライ・ディスティラリーを建設し、メリーランドには珍しい98%ライと2%モルテッドバーリーのみのマッシュビルをもったボトルド・イン・ボンドのライ・ウィスキーを販売していました。クリッカーは1950年代初めに蒸溜所をナショナル・ディスティラーズに売却しました。この蒸溜所は、50年代のワイルドターキー・ライのソースだった可能性が指摘されています。理由は不明ですがナショナルは割と短期間でこの建物をシーグラムに売却し、彼らは自社のフォアローゼズやポールジョーンズのようなブレンデッド・ウィスキーの製造に使用しました。
アーサー・ゴットシャルクの建てたメリーランド・ディスティリングは、1933年にボルティモアの投資家が復活させ、ヘレソープとアビュータス近くのリレイに新工場を建設しましたが、すぐにシーグラムに吸収されてしまいました。新オウナーは蒸溜所の名前を「カルヴァート」に変え、リード・ブランドをロード・カルヴァート・ブレンデッド・ウィスキーに変更。売上が減少するとリレイ蒸溜所は蒸溜を停止しました(その後、長らくディアジオのボトリング業務に使用されていましたが2015年末に閉鎖された)。
禁酒法以前にシャーウッド・ライを製造していたジョン・ハイアット・ワイトの息子は、修正第21条の通過と共にメリーランド蒸溜業界の主要人物となり、ボルティモアより北東のホワイト・マーシュ地域にあったと思われるロアリーに蒸溜所を建設し、フランク・L・ワイト・ディスティリング・カンパニーを率いてシャーブルック、ワイツ・オールド・リザーヴ、コングレッショナル・クラブ等のストレート・ライ・ウィスキーを販売していましたが、1941年(43年説も)にその事業をハイラム・ウォーカー社に売却します。その後ハイラムが生産拠点をイリノイ州ピオリアに移したことで7年後に閉鎖されました。その後フランクはコッキーズヴィル・ディスティリング・カンパニーを組織し、1926年に建物が取り壊されるまで元のシャーウッド施設があった場所の近くに蒸溜所を1946年に建設しました。シャーウッド・ブランドを取り戻すことが出来なかった彼は、代わりにライブルックと名付けたメリーランド・ストレート・ライを製造・販売していました。1958年にフランクが亡くなると、ワイト家最後の蒸溜所であるコッキーズヴィル・ディスティリングは閉鎖されてしまいます。
1948年当時には、まだ15の蒸溜所がライを生産していたそうですが、今見たように第二次世界大戦後は生産量が減少し、ライ・ウィスキーの蒸溜所は次々と閉鎖され、最後のメリーランドを拠点とする蒸溜所も1972年にその扉を閉めました。その蒸溜所が造っていたのがパイクスヴィルです。今日、新世代のメリーランドのディスティラーは州特産のライ・ウィスキーを生産して伝統を取り戻すため懸命に取り組んでおり、そうした近年のクラフト・ディスティラリーによる復興を除けば、最後まで存命していたメリーランド・ライこそがパイクスヴィルでした。

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ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、アメリカの現行ワイルドターキーのラインナップの中では1942年の古典的な「101」、1991年の「レアブリード」に次ぐ、3番目に古いリリースの由緒あるブランドであり、ワイルドターキー101のシングルバレル・ヴァージョンとして1994年に作成されました。公式リリースは1995年なのかも知れませんが、最初のボトルは1994年に充填されています。おそらくは、バーボン界で初めての商業的なシングルバレル・バーボン、ブラントンズの対抗馬であったと推測され、ブラントンズの競走馬やケンタッキー・ダービーをモチーフとした華麗なボトルの向こうを張った七面鳥のファンテイル・ボトルは流麗で目を惹くものでした。またブラントンズと同じように、ラベルには手書きでボトリングされた日付やバレル・ナンバー、倉庫やリック・ナンバーが記されているのもプレミアム感をいやが上にも高めています。そして、キャップはピューター製の重厚で高級感のあるものでした。それ故ケンタッキー・スピリットの初期のものは通称ピューター・トップと呼ばれています。2002年からストッパーはピューター製からダーク・カラーの木製のものに変更されました。更に2007年もしくは2008年頃にはダークだった木材がライトな色味へと変わります。ラベルに描かれる七面鳥も、ケンタッキー・スピリットに於ける明確な変更時期は特定出来ませんが、ブランド全体に渡るラベルのリニューアルに合わせ、前向きが横向きへ、カラーがセピア調へと更新されました。と、ここまではキャップ等のマイナーチェンジとシリーズ全般の変化なので、ケンタッキー・スピリットの姿自体はそれほど変わりありませんでしたが、2019年、遂にケンタッキー・スピリットの象徴的なテイルフェザー・ボトルは廃止、レアブリードに似たデザインに置き換えられ、ラベルの七面鳥の存在感は薄くなります。
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「ケンタッキー・レジェンド」と免税店の「ヘリテッジ」といった一部の製品を除き、ケンタッキー・スピリットは2013年にラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルが発売されるまでの20年近く、ワイルドターキーのレギュラー・リリースで孤高のシングルバレルであり続けました。アメリカの小売価格で言えば、ワイルドターキー101より2倍以上高く、ラッセルズ・リザーヴより少し安い製品です。ケンタッキー・スピリットをラッセルズ・リザーヴと比べてしまうと、ラッセルズ・リザーヴは冷却濾過されずによりバレルプルーフに近い110プルーフでボトリングされるため、スペック的にケンタッキー・スピリットを上回ります。そのせいもあってか、2014年頃から始まったプライヴェート・バレル・セレクションでもラッセルズ・リザーヴのほうが人気があります。その味わいの評価に関しては、アメリカの或る方の喩えでは「ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、天井は高いが床はラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルよりも低い」と言っていました。ターキーマニアの代表とも言えるデイヴィッド・ジェニングス氏などは、ケンタッキー・スピリットのボトルがリニューアル(同時に値上げも)されたのには相当ガッカリし、ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルの方が愛好家向けにアピールする製品であり、逆にもっとライトな飲酒家向けにはラッセルズ・リザーヴ10年や「ロングブランチ」などがあるため、ケンタッキー・スピリットの立ち位置がブレて消費者への訴求力が落ちているのを危惧して、価格以外に三つの解決策を提案をしています。
第一はボトルの変更です。テイルフェザー・ボトルが高価なのなら、せめて同様の美しさをもった往年のエクスポート版のケンタッキー・レジェンド(101)や「トラディション(NAS)」のようなボトル・デザインに先祖返りするのはどうか?、と。
第二にケンタッキー・スピリットもノンチルフィルタードのバーボンにする。そうすればスタンダードなワイルドターキー101よりも優れた利点が確実に得られる、と。
第三にラベルに樽詰めされた日付も記載する。現在でもボトリングの日付はありますが、ケンタッキー・スピリットが愛好家に向けた製品を目指すのなら、より細部に拘ったほうがいい、と。
そして更には、先ずは一旦ケンタッキー・スピリットの販売を休止し、現在の115エントリー・プルーフのバレルを維持しつつ、昔のような107エントリー・プルーフのバレルも造り、二つの異なるバーボン・ウィスキーを用意、最後に理想的な熟成に達した107エントリー・プルーフのバレルからケンタッキー・スピリット101を造り上げるという提言をしています。これは謂わばジミー・ラッセルのクラシックなケンタッキー・スピリット・シングルバレル・バーボンを復活させるというアイディアです。確かにこれが実現したら素晴らしい…。
ちなみに彼は現在のケンタッキー・スピリットを扱き下ろしているのではありません。ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルとワイルドターキー101の中間にあっては、昔ほど誇らしげに立っていないと言っているだけです。実際、彼はここ数年のケンタッキー・スピリットの高品質なリリースを幾つか報告しています。まあ、少々否定的な物言いになってしまいましたし、今でこそケンタッキー・スピリットの特別さがやや薄れてしまったのも間違いないのですが、それでもその「魂」は眠ってはいないでしょう。ケンタッキー・スピリットはジミーラッセルの元のコンセプトに忠実であり続けるバーボンであり、殆どの場合ワイルドターキー101よりも美味しく特別なバーボンであり、またストアピックのラッセルズ・リザーヴが手に入りにくい日本の消費者にとってはワイルドターキー・シングルバレルの個性的な風味を経験するよい機会を提供し続けています。

改めてケンタッキー・スピリットの中身について触れておくと、その熟成年数はNASながら8〜10年とも8.5年〜9.5年とも言われており、とにかくワイルドターキー8年と同じ程度かもう少し長く熟成されたシングルバレルをジミー・ラッセルが選び(現在はエディ?)、冷却濾過して101プルーフでボトリングしたものです。つまり単純に言えば、冒頭に述べたようにケンタッキー・スピリットは現在でも日本で販売されているワイルドターキー8年101のシングルバレル・ヴァージョンなのです。ジミー自身はケンタッキー・スピリットについて、タキシードを着たワイルドターキー101と表現していたとか。多分、スタンダードな物より格調高く華やいでいる、といった意味でしょう。発売当初のボックスの裏には彼自身の著名でこう書かれました。
時折、完璧なものを垣間見ることがあります。私はいつもそれを上手く説明することは出来ないのですが、或る樽は熟成するにつれて並外れた味を帯びるのです。信じられないかも知れませんが、私は20年以上前の樽を今でも正確に覚えています。ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、そのような記憶に残る発見の喜びを与えてくれます。このボトルには、特別な1つの樽から直接注がれた純粋なバーボンが収められており、私はそれを皆さんにお届けすることを誇りに思います。
マスターディスティラー、ジミー・ラッセル
ついでに言っておくと、ケンタッキー・スピリットとラッセルズ・リザーヴという二つの同じシングルバレル製品の違いは、ボトリング・プルーフとチルフィルトレーションを除けば、そのフレイヴァー・プロファイルにあるとされます。現在のマスターディスティラー、エディ・ラッセルによれば、ケンタッキー・スピリットが父ジミーの好みをより代表しているのに対し、ラッセルズ・リザーヴは本質的にエディ自身の好みを代表しているそう。
ケンタッキー・スピリットの味わいについては、先に引用した「天井と床」の喩えで判る通り、アメリカでも日本でも多少のギャンブル性が指摘されています。つまり、ケンタッキー・スピリットはラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルと同等かそれ以上に優れている場合もあれば、スタンダードなワイルドターキー101や8年101に非常に似ている可能性もあるということです。これはケンタッキー・スピリット云々というより、シングルバレルの特性上仕方のない面でもあります。通常3桁から4桁のバレルを混ぜ合わせる安価なバーボンは平均的なフレイヴァーになるのに対し、文字通り一つのバレルから造られるシングルバレル製品はフレイヴァー・バランスが異なります。具体的に例を言うと、普段飲んでいるワイルドターキー8年の味が脳にインプットされていて、さあ、いつもより上級なものを飲んでみたいと思いケンタッキー・スピリットを買いました、いざ飲んでみるといつものターキーよりスパイシーでオーキーでした、あれ? いつものほうがフルーティで美味しくない?、となったらその人にはハズレを引いたと感じられるでしょう。こればかりはその人の味覚次第だから。とは言え、本職の方が選んだバレルですから美味しいに決まってますし、それだけの価値があります。ケンタッキー・スピリットは甘くフルーティなものから、ややドライでタンニンのあるものまで様々なプロファイルを示しますが、真のワイルドターキー・ファンならば勇んで購入すればよいのです、好みのもの好みでないものどちらに転ぶにせよ。

ケンタッキー・スピリットはラベルの七面鳥やボトル・デザインの変化でなく、別の視点から概ね三つに分けて考えることが出来ます。ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。2004年に107プルーフから110プルーフ、2006年に110プルーフから115プルーフに。これは良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味します。また、ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。これも良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味するでしょう。そこで、ケンタッキー・スピリットの平均的な熟成年数である8年を考慮して大雑把に分けると、

①1994〜2012年の107バレル・エントリー原酒
②2013〜18年の110/115バレル・エントリー原酒
③2019年からの新蒸留所原酒

というようになります。このうち①、特にピューター・トップのものは昔ながらのワイルドターキーの味わいであるカビっぽいコーンや埃のような土のようなオーク香があり複雑な風味があるとされます。②は①のようなファンクが消え、ライトもしくはいい意味で単純な傾向に。③は前出のDJ氏によれば、選ばれたバレルによっては「床が上がっている」そうです。そこで今回は、私の手持ちのケンタッキー・スピリットの年代が異なるもの2種類と、先日投稿したワイルドターキー8年101の推定2019年ボトルを同時に飲んで較べてみようという企画。実を言うと投稿時期が違うだけで、3本をほぼ同時期に開封しています。

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WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof
Bottled on 01-14-16
Barrel no. 2830
Warehouse O
Rick no. 2
2016年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。接着剤、香ばしい焦樽、香ばしい穀物、ローストナッツ、コーン、ライスパイス、ブラックペッパー、若いチェリー、ハニーカステラ、ナツメグ、アーモンド。口当たりはややオイリー。パレートは基本的にグレイン・フォワードで、甘みもあるが飲み込んだ直後はかなりスパイシー。余韻はミディアム・ロングで豊かな穀物と共に最後にワックスが残る。

8年101と較べて良い点は口当たりがオイリーでナッティさが強いところでした。悪い点は接着剤が強すぎるのと荒々しい「若さ」があるところ。全体的には、スパイス&グレインに振れたバーボンという印象。また、101プルーフよりも強い酒に感じるほどアルコール刺激を感じます。正直言って8年101の方がマイルドで熟したフルーツ感もあり私好みのバランスでした。
Rating:86.5/100

2020-11-29-18-33-05
WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof(Pewter top)
Bottled on 10-5-95
Barrel no. 63
Warehouse E
Rick no. 47
1995年ボトリング。やや赤みを帯びたブラウン。ヴァニラ、湿った木材、オールド・ファンク、ベーキングスパイス、ブラッドオレンジ、紅茶、タバコ、土、漢方薬、ドライクランベリー、鉄、バーントシュガー。アロマはスパイシーヴァニラ。口当たりは柔らか。パレートはフルーティな甘さにスパイス多め。余韻はハービーで、マスティ・オークが後々まで長く鼻腔に残る。

2016年のケンタッキー・スピリットが若さを感じさせたのに対して、こちらは寧ろ近年飲んでいたマスターズ・キープ17年のような超熟バーボンを想わせる味わいです。今回私の飲んだ8年101と較べても、90年代の8年101と比べても、ハーブぽいフレイヴァーが強く複雑ではあるのですが、あまり私の好みではありませんでした。多分なんですが、10年前に開封して飲めていたらもっともっと美味しかったのではないかなと思います。言葉を変えれば飲み頃を逃したような気がするということです(※追記あり)。
Rating:87.5/100

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Verdict:95年ピュータートップに軍配を上げました。比較として飲んでいた8年101の方が自分好みではあったのですが、やはり特別な味わいではあると思ったし、2016年物は軽く一蹴したからです。


追記:ピューター・トップのケンタッキー・スピリットの熟成年数は、もしかすると10~14年程度だった可能性が示唆されています。本文で記したように、確かに私が飲んだ印象もそんな感じでしたから、それが真実ならば、飲み頃を逃したのではなく元々そういう味わいだった可能性が高いです。

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現在のバーボン・ブームは「プレミアム」なバーボンがその人気を助長しているように見えます。多くのブランドは長年の主力製品をプレミアム化しました。特殊な環境下で熟成させたり後熟を施したり、高価なボトルに入れたり新規のラベルを貼り付けたり、壮大なストーリーを宣伝して、数量限定や割り当て配給にすることにより、時には100ドル超の高価格帯の製品を追加しています。また、ここ10年の間に登場した多くの新しいバーボン・ブランドも、目新しいボトルや凝ったラベルを用いてプレミアム感を演出し、消費者へのアピールをしています。それらを首尾よく手に入れ、SNSで自慢気に披露するのはよく見る光景です。ワイルドターキーの製品にもプレミアムなマスターズ・キープというシリーズがあります。レアな物を手に入れたり飲むことは、我々の気分を高揚させ、魅惑的で貴重な経験をさせてくれるでしょう。しかし、バーボン愛好家はそのようなプレミアム製品だけでなく、絶対的なお気に入りの安くて旨いバーボンも同時に愛するものです。
そう、ワイルドターキー101のことを言っています。熱烈なターキー信者は、もしも貴方の残りの人生でバーボンを一種類だけしか飲めないとしたら何を選びますか?と訊ねられたら、必ずやワイルドターキー101と高らかに宣言するに違いありません。それは彼らがワイルドターキー101を否定できない価値のある素晴らしい製品であると知っており、他のアメリカン・ウィスキー製造業者には到達できない何かがあると信じているからです。60年以上前、19歳のジミー・ラッセルはケンタッキー州ローレンスバーグの蒸留所で働き始め、後にマスター・ディスティラーに昇進し、今日でも共同マスター・ディスティラーである息子のエディ・ラッセルと共にそこにいます。変転の多い世の中にあって、これは何の誇大宣伝も必要としない紛うことなき伝説と伝統です。過去にワイルドターキーの特別なボトリングは幾つか発売されていますが、バーボン・ブッダと称される男の魂を最も体現するのはワイルドターキー101に他なりません。長らく卓越性の基準であったボトルド・イン・ボンド規格を大幅に上回る熟成期間と、その法定プルーフを僅かに越える1プルーフの追加を行うことで、見た目にも美しい並びの「101」という象徴的な数字をもつバーボンは、常に信頼できる品質を誇りながら何時でも手頃な価格であり続けました。頑固だけど気さく、厳しいけど優しい、まるでジミーのように。

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(2015年の終わり頃から採用されたスケッチ・ターキー・ラベル)

日本人にとってワイルドターキーの定番中の定番と言えば今でも8年表記のある101。1992年以降、アメリカ国内の101からはエイジ・ステイトメントが削除されNASの6〜8年熟成となりましたが、輸出市場の日本では8年物が流通し続けているのです。その理由を或るインタヴューでエディは、日本の消費者は味の判る方が多いからというようなことを言っていました。本当かどうかは怪しいですが、日本向けの建前としてはそうなのでしょう。また或るバーのオウナーの方が宣伝のため来日していたエディに直接尋ねたところ、「日本人は熟成年数でボトルへの評価を変えるから」という趣旨の発言があったそうです。こちらが本音のような気がしますね。いずれにせよ、日本を特別扱いしてくれていることには感謝しかありません。

同時期のエクスポート8年とアメリカ国内流通NASを飲み比べた海外のターキー・マニアの方によると、味わいはどちらもモダン・ワイルドターキーのコア・フレイヴァーを共有し、明確な差はそれほど感じないとのこと。エイジ・ステイトメントの有り難みは確かにありますし、熟成年数の明確な違いはフレイヴァー・バランスを変えますが、寧ろ実際にはバッチングにどのようなバレルが選択されたかの方が重要なようです。ワイルドターキーでは毎年、全てのリックハウスから均等にバレルが選ばれる訳ではありません。各バッチに「収穫」されるバレルは、その時「旬」の限定された選りすぐりのリックハウスから、成熟度と味に基づいて引き出されることが知られています。或る時はタイロンのB、D、H、K倉庫から多く引き出され、別の年はG、M、O倉庫から、また或る年はキャンプ・ネルソンのAとF倉庫から多く引き出されるという具合に。ワイルドターキーは比較的バッチやロット間の味わいの変動が大きそうな印象がありますが、もしかするとここら辺がその理由の一端なのかも知れませんね。
エディ・ラッセルの息子でブランド・アンバサダーのブルースは某掲示板で、2018年のワイルドターキー101には通常の8年より10年原酒が多く含まれていると述べ、ターキー愛好家をざわつかせました。或る著名な愛好家は機会を待ってさっそく「仕事」に取り掛かりました。彼によると、2018年前期の物は2017年の物と比較してプロファイルに大きな違いは見つからなかったらしいですが、2018年後期の物(レーザーコードがLL / GG〜LL / GJの物)はとても優れていたそうです。そして2019年ボトルも概ね良さげな評価に見えます。逆に2020年2月のハンドル付リッター・ボトルは「オフ」バッチだったという報告もネット上で話題になりましたが、これは極めて稀な例でしょう。まあ、これらはNAS101の話。今回レヴューに取り上げるのは日本向け8年101の推定2019年ボトルです。

私はここ最近、ワイルドターキーの限定版やレアブリード等は飲んでいましたが、スタンダードな8年101を飲むのは約2年ぶり。実を言うと、敢えて飲むのを避けていたのです。その理由は、以前投稿したレアブリード116.8のレヴュー時に言及した件が関係しています。
ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。新しい施設の生産能力は年間1100万ガロンで、旧蒸留所の2倍以上です。新しいビア・スティルとダブラーは古い物と全く同じ大きさであり、全体的な生産容量の増加はより大きなクッカーとファーメンターから由来しています。新原酒を含むNAS101を飲み比べたアメリカの方によると、どうやら旧原酒よりもナッティな傾向が強いらしい。レアブリード116.8を飲んだ時、フレイヴァー・プロファイルがそれまでのレアブリードとはかなり違う印象を受けました。それはおそらく新しい蒸留施設の6年原酒を多く含むからなのでは?と推測し、ならば日本限定の8年101も単純計算で2019年のロットから劇的に味わいが変わるかも!と楽しみに待っていたのです。で、たまたま近所のスーパーに並んでいたワイルドターキー8年101が2019年ボトリングぽい、じゃあ買ってみるか、と。なので、さっそく注いでみましょう。

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WILD TURKEY AGED 8 YEARS 101 Proof
推定2019年10月ボトリング。レーザーコードはLL/HJ。スパイシーヴァニラ、香ばしい焦げ樽、クレームブリュレ、ドライアプリコット、チョコチップクッキー。口当たりはオイリーではないがゆるくもない。味わいはかなりフルーティで、僅かなレーズンと微かなチェリー。液体を飲み込んだ直後のスパイシーなキックはなかなか。余韻はややドライなウッド・ノートと穀物が主で、ほんのりナッツが香る。
Rating:86.5/100

Thought:久しぶりに飲んだせいか、あれ?こんなに旨かったっけ!?というのが正直な感想です。熟成感も丁度いいし、バーボンの美味しい基本的なフレイヴァーが各々、実にバランス良く感じられます。ブラインドで試せばもう少し格上の物と間違えそう。唯一、余韻は深みに欠けるのがウィークポイントかな。日本では、ターキーの現行ボトルとオールドボトルを比較して、薄くなったとかコクがないとか、樽のえぐみが出てるとかアルコール感が強いとかよく聞く(見る)のですが、自分にはちょっと信じられません。凄く良く出来たバーボンという印象です。まあ、オールド派の言いたいことは分かりますし、確かに私もそのようなことを言ってしまう時があります。オールドボトルの方がダークチェリーや複雑なスパイス、アーシーなフィーリングの現れが感じ易く美味しい、とか。ですが、オールドボトルはそれらに加えてオールド臭と言うのか古びた風味が強過ぎることも多いです。それに較べると現行品はフレッシュ感が美味しいので、つまりは一長一短…。どっちも愛せばいいんじゃないの?と自戒の念を込めて言っておきましょう。
そして、上述の新原酒の件ですが…、うーん、どうでしょうね、2年前に飲んだ時より美味しくは感じたのですが、それはここ最近、私が自分の苦手な長期熟成の限定版ワイルドターキーを飲み続けていて、久しぶりにスタンダードな8年を味わったからなだけなのかも知れません。ただ、フレイヴァー・プロファイルはそれほど変わったとは感じませんでした。サイド・バイ・サイドで比べてる訳でもなく、記憶と比べてるので曖昧ですが。
このボトルはおそらく2019年10月のロットと思われます。となると、このボトルにはギリギリ新原酒が混和されていない可能性もあり得るでしょう。逆にこのボトルは新原酒で構成されているが、新原酒と旧原酒はそこまでの著しい大差がない可能性もあります。ここはもう一度、2020年か2021年のボトルを飲んでみるしかなさそうです。既にそれらを飲んだことのある皆さんはワイルドターキー新施設の蒸留原酒をどう思いましたか? コメントより感想をどしどしお知らせ下さい。そう言えば、2020年11月には、アメリカの或る州では早くも新ボトル・デザイン(エンボスト・ターキー)が流通し始めました。そのうち日本流通の物も切り替わって行くのでしょう。見た目が変わると味も変わったように感じ易いので、またその時に試すのもいいかも知れませんね。

Value:相場は大体2500〜3500円くらいでしょうか。間違いなく購入する価値はあると思います。と言うか、これを愛さず何を愛せと言うのか…(笑)。


追記:こちらを投稿後、知人よりLL/GDのレーザーコードを持ったフラスク・ボトルの物を頂きましたので、追記の形で少し感想を書いておきます。

推定2018年4月ボトリング。ややオレンジがかったアンバー。キャラメリゼ、香ばしい焦げ樽、炭、コーン、ペッパー、僅かにフローラル、栗、オレンジが少々。口当たりはややオイリー。パレートは甘みもあるが刺激的なスパイシーさも。余韻はミディアムショートでドライかつ最後に苦み。
Rating:84.5/100

ここで取り上げている推定2019年のボトルと比べると、ダークなフルーツ感が欠け、香ばしさに偏っている印象でした。サイド・バイ・サイドで較べてはいないのですが、明らかにフレイヴァーのバランスが異なります。私としては完全にLL/HJボトルの方がクオリティが高いと思いました。これ、アロマは心地良いのですが、味わいと余韻が平坦過ぎです。オールドボトルのワイルドターキーと比較して現行ボトルを異常に低く評価する人はこれと同等の物を飲んでいるのではないか?という疑念が湧きますね。

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