バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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タグ:87点

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ヴェリー・オールド・セントニック(VOSN)は、1980年代後半に若き日のマーシィ・パラテラが当時活況を呈していた日本市場向けのブランドとして、主に過剰供給時代のアメリカン・ウィスキーを使ってスタートしました。このブランドはヴァン・ウィンクルやハーシュの様々なラベルと共にプレミアム・アメリカン・ウィスキーの潮流を創り出したと評価され、現代のバーボン・ブームの魁だったと見做すことが出来ます。元々はジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がローレンスバーグにあるオールド・コモンウェルス蒸溜所で少量をボトリングし、その後すぐにバーズタウンのケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)がボトリングするようになりました。そして、その初期の頃から当時は人気のなかったライ・ウィスキーをボトリングしていたブランドでもありました。ブランドの初期の物はラベルが大きいのが特徴です。一般的なバーボンではあり得ないほど大きなこのラベルは決して意図したデザインではありませんでした。ボトルを選ぶ前にラベルを当て推量で作ってしまい、実際に使うボトルには大き過ぎたラベルとなってしまったらしいのです。おそらくマーシィには潤沢な資金がある訳でもなく、せっかく作ったラベルを廃棄する選択肢はなかったと思われ、そもそも大量にラベルを作成していなかったこともあり、数ロットでそれを使い切った後、本来の意図通りの小さいと言うか普通のサイズに変更したのでしょう。この大きなラベルは初期VOSNに他のバーボンとは一線を画す異質の趣を齎しており、そのブランドの名前やお爺さんのスケッチを一際引き立たせています。発端は偶然とは言え、発売当初の日本のバーボン・ドリンカーに超然とした神秘的なブランドという印象を与えるのに役立ったのではないかと個人的には思います。
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ヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライはブランド初期の頃からあり、プリザヴェーション蒸溜所が出来た後の現在のラインナップでも継続してリリースされています。「ウィンター・ライ」という言葉は平たく言うと冬期に栽培されるライ麦の総称ですが、このウィスキーが自ら蒸溜していない原酒を他所から購入して販売するソーシング・ウィスキーであること、後にサマー・ライという(ネット検索してもVOSNが多く出て来てしまう)あまりライ穀物としては一般的ではない名称のヴァリエーションが発売されていること、また後にオールド・マン・ウィンターというVOSNの姉妹ブランド的な?ラベルが作成されていること等を考慮すると、ここで言うウィンター・ライと言うのは使われている原材料を表しているよりは、単に響きの良い語感を利用したマーケティングなのではないかと思われます。バック・ラベルを見てみると、以下のように書いてあります。私は英語が母国語ではないですし、癖の強い筆記体で書かれているため読み間違っているかも知れないので、その場合はコメントより訂正して下さい。
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Winter nights after supper we'd sit by the fire. That's when grandaddy would go down to the cellar and fill up his jug from his tiny old oak barrel. We'd tell stories, drinking grandaddy's "winter rye" his favorite, very old and smooth. He'd only pour enough to take the chill off the snowy Kentucky night. Now that grandaddy's gone we got a little extra to share.
(冬の夜、夕食が終わると、あたし達は暖炉のそばに座ったの。そんな時、おじいちゃんはセラーに降りて、ちっぽけな古いオーク樽からお酒をジャグに満たしたものよ。あたし達は語らいながら、おじいちゃんのお気に入りの「ウィンター・ライ」を飲んだんだ、すごく古くて滑らかなやつよ。雪の降りしきるケンタッキーの夜の寒さをしのぐのに十分な量しか注いでくれなかったけどね。おじいちゃんが亡くなった今、ちょっと余分に分けてもらっちゃった。)
これを見る限り、ブランドのウィンター・ライという名称は、祖父と冬場に飲んだライ・ウィスキーの思い出から名付けられているようです。まあ、フィクションだと思いますが、なかなか良い感じの宣伝文句と言うか小話ですよね。

で、この初期のウィンター・ライを誰がボトリングしているのかですが、私の認識では単純にこのラージ・ラベルや発売元が東亜商事となっていて日本語で紹介文の書かれているインポーター・ラベル(下画像参照)が背面に貼られたものはジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世のボトリングなのかなと思っていました。と言うのも、90/91年頃によく使われていたこのインポーター・ラベルは、ペンシルヴェニア1974原酒を使ったハーシュ・リザーヴやカーネル・ランドルフ、オールド・ブーン1974原酒を使ったヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ、そして大きなフロント・ラベルのVOSNバーボン(12年90プルーフ/114.3プルーフ、15年107プルーフ/114.8プルーフ、17年94プルーフ/116.2プルーフ/119.6プルーフ)に貼られており、ジュリアン3世が日本市場向けにボトリングした高級なボトルのシリーズのために作られたように見えるからです。
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ところが、今回飲んだヴェリー・オールド・セントニック・ウィンター・ライのラージ・ラベル(トップ画像右)の背面を見てみると、バーズタウン表記のバック・ラベルに東亜商事の小さいインポーター・ラベルという組み合わせとなっていて、このパターンは初めて見ました。
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比較的見かけ易く、最初期と思われるウィンター・ライのラージ・ラベルの背面には上述の日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルが貼られています。だからこそ私はジュリアンがボトリングしたものかと思っていた訳ですが、今回のウィンター・ライを見て「あれ? このラベルのウィンター・ライでもKBDがボトリングしてるのか」と思いました。家に帰ってから、ウィンター・ライのラージ・ラベルの背面に貼ってある紹介文付きインポーター・ラベルの画像を加工して弄ってみると、その下にあるバック・ラベルが透けて「Bardstown, Kentucky」が浮かび上がりました。他の部分を見ても明らかに今回飲んだウィンター・ライと同じバック・ラベルに見えます。
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このラージ・ラベル+紹介文付きインポーター・ラベルとバーで飲ませて頂いたラージ・ラベル+紹介文なしインポーター・ラベルのどちらが古いのか、或いは紹介文付きのラベルがなくたまたま紹介文なしのラベルが貼られただけでボトリング時期は同じなのか、私には判りません。しかし、少なくとも私はVOSNライのこれら以上に古いボトルは見たことがないので、おそらくジュリアンはマーシィのためにライをボトリングしていないのでしょう。マーシィはジュリアンに「ライ麦を飲むのは年寄りだけだ」と言われたそうです。きっとマーシィは当時誰も顧みなかった時代遅れの産物ライ・ウィスキーに光を当てたい、或いは日本市場であれば売れると踏み、ジュリアンにライをリクエストしたのだと思います。彼が後にオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライやヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライに用いた84年か85年に蒸溜されたメドリー・ライを入手したのが、ユナイテッド・ディスティラーズがその資産を売りに出した時なのだとしたら、91年か92年以降のことでしょう。だから、ジュリアンはマーシィのリクエストに応えられなかったのではないか、と。或いは、ジュリアンが80年代後半の時点でメドリー・ライのバレルを所有していたとしても、VOSNは名前が表すように高齢ウィスキーが特徴ですから、何だったらマーシィは長熟のライを欲しがったのかも知れない。メドリー・ライに84年か85年に蒸溜されたものしかないのなら、91年か92年の時点でそのウィスキーは6〜7年熟成となります。VOSNバーボンは最も若くても8年熟成でリリースされていました。そこでマーシィはもう一人のレジェンドであるエヴァン・クルスヴィーンのKBDに目を向け、彼に頼んでストックしてあったライをピックしてもらったのではないでしょうか。では、中身は何処から? はい、例によってKBDは秘密主義なので原酒は謎です。後にリリースされた伝説的なライのソースを考慮すると、旧バーンハイムもしくはエンシェント・エイジで蒸溜されたクリーム・オブ・ケンタッキー・ライである可能性が高いように思えます。ですが、KBDもメドリー・ライのバレルを所有していたのならそれかも知れないし、ヘヴンヒルやバートンを疑うことも出来そうですし、結局は分からないとしか言いようがありません。

偖て、もう一方のヴェリー・オールド・セントニック・エンシェント・ライ・ウィスキー17年の方はと言うと、こちらは1990年代末から2000年代初め頃に用いられたデザインのラベルかと思います。正直、私には発売時期および期間、幾つのバッチがあったのか等は正確に判りませんので、詳細をご存知の方はコメントよりご教示ください。このラベルは通常のVOSNより更に熟成年数が高めなのが特徴で、中熟物もありましたが殆どは20年オーヴァーの高齢ウィスキーを使ったリリースであり、バーボンのヴァリエーションにはエステート・リザーヴ8年ドリップド・カッパー・ワックス86プルーフ、20年ブルー・ワックス94プルーフ、22年ドリップド・レッド・ワックス81.2プルーフ及びドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ、23年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びカッパー・ワックス82.6プルーフ、24年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びブラック・ワックス81.2プルーフ、25年ドリップド・ゴールド・ワックス81.2プルーフ及びゴールド・ワックス86.4プルーフとありました。ライにはこの17年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.7プルーフ以外に、12年ドリップド・シルヴァー・ワックス103.6プルーフ、15年ドリップド・ホワイト・ワックス86プルーフ、18年ドリップド・ゴールド・ワックス104.6プルーフとありました。これらは画像で見たものを纏めただけなので他にもあるのかも知れません。またワックスの色に関しても画像を視認しただけなので誤っている可能性があります。で、こちらのエンシェント・ライ17年の中身に就いても、これまた明確には判りません。熟成年数などを考えると、やはり旧バーンハイムのCoKRではないかと思うのですが…。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

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Very Olde St. Nick Winter Rye 101 Proof
推定90〜91年頃のボトリング。
Rating:87/100

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Very Olde St. Nick Ancient Rye 17 Years 103.7 Proof
推定2000年前後のボトリング。
Rating:87/100

Thought:少量しか飲んでないので大したことは言えませんが、どちらもアニス、リコリス、土っぽさなどが現れるタイプのライ・ウィスキーかなと思いました。今回飲んだこのウィンター・ライのラベルには熟成年数の記載はありませんが、上で言及した日本語で紹介文の書かれたインポーター・ラベルには9年熟成と明記されています。これもそれと同じ物と見做していいのなら、この二つは9年と17年という熟成期間にかなりの差があるにも拘らず、どちらもフルーティよりはウッディに傾きがちで、何だか似たような風味に感じました。強いて違いを言うと、エンシェント・ライ17年の方が僅かにオールドファンクを伴ったミント感が強いくらいでしょうか。ウィンター・ライが経年のオールド・ボトル・エフェクトでエンシェント・ライに近づいたのかも知れません。或いは元から9年以上の原酒がブレンドされていたとか? 飲んだことのある方はコメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。

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ラッキー・ストライク・バーボンはマーシィ・パラテラのインターナショナル・ビヴァレッジ(アライド・ロマー)のブランドで、日本向けに短期間もしくは一回限り(91年?)ボトリングされたと思われます。ヴァリエーションには12年90プルーフ、13年94プルーフ、15年101プルーフ、17年94プルーフ、ドライ86プルーフがありました。おそらくタバコの「ラッキー・ストライク」との直接的な繫がりはないと思いますが、そのタバコ銘柄の名称の由来はアメリカのゴールドラッシュ時代に金を掘り当てた者が言った「Lucky strike」と云うスラングに由来するらしいので、このバーボン・ブランドもケンタッキーのバーボン鉱脈に眠っていた金に等しい優良なバレルを引き当てた幸運というイメージで名付けられたのではないでしょうか。ボトリングはKBDがしています。
では、肝心の中身は何なのでしょうか? 可能性としては幾つか考えられます。一つは何処かしらの、例えばヘヴンヒルとか旧バーンハイムなどのKBDがストックしていた単一の蒸溜所のバレルをマーシィがピックし、使用しているというもの。或いはエヴァン・クルスヴィーンと共同でピックしたのかも知れない。もう一つはKBDの所有する複数の蒸溜所のバレルをエヴァンがブレンドして提供していたというもの。彼はそうして自らの味わいをクリエイトする達人だったと言われています。更なる一つはマーシィがユナイテッド・ディスティラーズから購入したスティッツェル=ウェラーのバレルをエヴァンがそのままボトリングしたというもの。当時は様々な熟成年数のバーボンが安く買えた時代でした。それは今や伝説となっているスティッツェル=ウェラーでさえも例外ではなかったでしょう。マーシィ自身が語るところでは、自分のプロダクトには非常に多くの様々なバレルを使ったが、2005年以前に作成したブランドにはS-Wを多く使ったそうなので、可能性は高いかと。バーボン探求者は中身を正確に知りたい欲求に駆られますが、もしかするとマーシィやエヴァン本人に中身の件を尋ねてみても、当時あまりに多くのブランドを造り過ぎて何に何を使ったか記憶しておらず、大雑把な回答しかしてくれないかも知れません。そんな訳でとにかく飲んでみるしか…。

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LUCKY STRIKE 15 Years 101 Proof
推定91年ボトリング。テクスチャーは柔らかいがパンチがある。仄かなキャラメル、高尚な木材、豊かなベーキングスパイスの香り。味わいは如何にも長熟という味わいで、タンニンが強く、レザーや土っぽさもある。ダークなフルーツは感じるが、これといった明確なフルーツは言えない。余韻は薬草感を伴ったオールドオークが恐ろしく長く続く。
Rating:87/100

別の機会に17年熟成の物を飲めたので、そちらをおまけで。これは大宮のバーFIVEさんの会員制ウィスキー倶楽部で提供されたものでした。17年は最も数量が少なかったと聞きます。

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(画像提供Bar FIVE様)
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LUCKY STRIKE 17 Years 94 Proof
推定91年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。微粒子感のある液体。キャラメル、オールドオーク、オールスパイス、焦がし砂糖、オレンジピール、茴香、僅かに爪の垢、シナモンクッキー。甘く、かつスパイシーなノーズ。とても柔らかい口当り。パレートでは渋みが強い。余韻はスパイシーかつハービー。
Rating:88/100

Thought:長期熟成バーボンは木質な風味と木材由来のハーブ&スパイスの風味が勝ち過ぎて、表層的に似たり寄ったりの風味になると個人的には感じます。だから、正直、飲んでも何処の原酒か全く判りませんでした。ヘヴンヒルと言われればヘヴンヒルのようにも思えるし、スティッツェル=ウェラーと言われればスティッツェル=ウェラーのようにも思えてしまいます。飲んだことのある皆さんはどう思ったでしょうか? コメント欄よりどしどしご感想をお寄せ下さい。
15年と17年を比較すると、プルーフの高い15年の方が美味しいのではないかと思っていたのですが、加水量の多い17年の方が却って自分の苦手な風味が薄まったのか飲み易い上に若干フレイヴァーフルに感じました。但し、これは上に述べたように別の機会に飲んでいます。それ故にサイド・バイ・サイドでもなく、ボトルの状態や私自身の体調を考慮すると聊か信頼性に欠ける意見かも知れません。
マーシィはラッキー・ストライクを含む自分の初期のブランドのジュースに就いて、「stunning」ではなかったけれど常に「really good」だった、と語っていました。おそらく、最上級とまでは言えなくとも多くの製品はその少し下くらいの美味しさではあったという解釈でいいでしょう。これを飲んでみると、確かにそれは的確な表現のように感じられます。

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(画像提供Y.O.氏)

オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライは、その名の通りオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ブランドのライ・ウィスキーな訳ですが、現在も販売されているヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライの前身と見做していいかも知れません。オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル15年のバーボンが2004年にパピー・ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ15年に置き換えられたのに似ています。なので、ここではヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライの今日までの足跡を辿ってみましょう。

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(Old Rip Van Winkle Distilleryの公式ウェブサイトより。彼らの全ラインナップ)
オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ディスティラリー(ORVWD)のラインナップ中、ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライは唯一のライ・ウィスキーなので「ライのパピー」なんて呼ばれることもあったりします。オールド・リップやらパピー・ヴァン・ウィンクルと言うと、高名なスティッツェル=ウェラーと結び付けられることも多いのですが、スティッツェル=ウェラー蒸溜所ではライ・ウィスキーを蒸溜していませんでした。そしてORVWDは、実際の蒸溜所を表すのではなく単に蒸溜事業会社の名前であり、彼らは所謂NDPなので、そのライはヴァン・ウィンクル家が蒸溜したものでもありません。ヴァン・ウィンクルのライは90年代半ば過ぎから後半頃、オーウェンズボロのメドリー蒸溜所が84年か85年に蒸溜したウィスキーを単一のソースとしてスタートしました。おそらくメドリーは何処かのボトラーの依頼でその時ライを蒸溜したと思われますが、それらは何らかの理由で売れ残り、後にユナイテッド・ディスティラーズがメドリーの資産を獲得すると、彼らは不要と判断した蒸溜所やブランド、そしてバレルを売りに出したので、それをジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が購入したのでしょう。この頃の彼はローレンスバーグのオールド・コモンウェルス蒸溜所でウィスキーをボトリングしています。メドリー・ライのマッシュビルは、一説には51%ライ、38%コーン、11%モルテッド・バーリーとされているのを見かけました。真偽の程は定かではありませんが、真実から遠く離れてはいなそうな気がします。このメドリーのウィスキーは、完全なシングルバレルではなかったようですが、時々は一度に1バレルしかボトリングしないこともあったとジュリアン自身が語っていました。
初めにリリースされたのはネック・ラベルがゴールドのオールド・タイム・ライでした。ボトルの肩に熟成年数を示すシールがなく、ラベルに「12 SUMMERS OLD」と記載され、おそらく96年ボトリングと推定されます(トップ画像の物)。これにはボトル・ナンバーはありますが、ロットを示すレターがありませんでした。続いて翌年からネック・ラベルがブラックのオールド・タイム・ライが発売され、こちらにはロットのレターが付き、Cレターの物も確認出来ることから、多分、数年間は販売されたかと思われます。ゴールド・ネックは実際に12年熟成のようですが、ブラック・ネックは12~15年熟成の可能性があるようです。オールド・タイム・ライはどれも90プルーフでボトリングされました。
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1998年、同じソースからヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ13年として背の高い「コニャック」ボトルにボトリングされた物が日本に輸出されます。同じ頃、ハーシュ・セレクション名義でプライス・インポーツのためにも同じライがボトリングされました。1999年にはヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ13年がアメリカの市場でも発売されます。13年熟成のファミリー・リザーヴ・ライは、更に5年間バレルの中で熟成を続けたにも拘わらず、同じ熟成年数表記で毎年リリースされました。聞くところによると、ファミリー・リザーヴ・ライの最初の方のリリースには、全ての物ではないと思われますが、ボトルの首に付いたハングタグ(ブックレット)に実物のライ・グレインが入った小さな包みが付属していたそうです。当時は今と違ってまだライ・ウィスキーの低迷期でしたから、ライに馴染みがない人々へ穀物そのものを紹介するマーケティングだったのでしょう。
一見すると普通のヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライ13年かと思ってしまいそうな、「1985」とヴィンテージがラベルに表示された特別なファミリー・リザーヴ・ライが2000年前後あたり(一説には2001年)にヨーロッパ市場へ向けてボトリングされました。このウィスキーの実際の熟成年数は15年と見られ、唯一の100プルーフでのボトリングであり、唯一「チルフィルタードではない」とラベルに記述のある物でした。アメリカでは一般的ではなかったアンチルフィルタードは、マニア層の多いヨーロッパでは望まれており、ジュリアン自身もウィスキーの冷却濾過は風味の一部を取り除くと確信していたので実験的に試してみようと思った、と語っています。冷やすと曇りが出るが、それは風味の問題ではなく飽くまでも外観上の問題であり、そのことはヨーロッパでは問題にならない、と。このライは彼によると「私のフランスの顧客の要望で提供された」そうですが、イタリアの勘違いではないかと云う指摘もあります。それは兎も角、この希少でコレクター垂涎のボトルをジュリアン自ら「私たちが世に送り出したライの中で最高のものだった」と言ったらしい。
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2001年1月にはハーシュ・セレクションの2回目(最終)のボトリングが行われました。実際の熟成年数は16年か17年でした。2002年にバッファロー・トレース蒸溜所との提携を果たしたジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世は、ボトリングをローレンスバーグから同蒸溜所のあるフランクフォートに移します。
前述のように、ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライは初めてボトリングされた時は13年でしたが、ボトリングされた年によって実際には13~18年熟成していました。このウィスキーが19年熟成となった時、これ以上熟成を進めるべきではないと判断され、2004年にバレルから取り出されてステンレス・スティール・タンクに貯蔵されます。その際に旧バーンハイム蒸溜所(もしくはジョージ・T・スタッグ蒸溜所)のクリーム・オブ・ケンタッキー・ライとブレンドされました。クリーム・オブ・ケンタッキーについては過去に投稿したこちらの記事を参照下さい。一説にはその比率は50/50とされています。このため、2004年から2016年までのファミリー・リザーヴ・ライの実際の熟成年数は19年でした。このブレンド処置はおそらくジュリアン3世の10年以上先を見据えた長期的な計画でした。ライが不人気な時分にライを購入し、もう一生分のライを持っていると思っていた彼でしたが、思いの外ファミリー・リザーヴ・ライは売れたのでしょう。その原酒がいつか枯渇するのは分かり切ったことなので、それを見越してバッファロー・トレースのライが彼のウィスキーに見合う熟成年数になるまでの間、年間290ケースしか製造しないようにキープして、10数年間ライをリリースし続ける計算があったと思われます。ところで、2012年にバッファロー・トレース蒸溜所のライがブレンドに加えられたという噂があり、真実かどうかは不明ですが、広く信じられているようです。兎も角、このブレンドが2016年に遂に底を突くと、2017年の一旦休止を経て、バッファロー・トレースで蒸溜された新しいバッチが2018年に初めてボトリングされました。以降、100%バッファロー・トレースのライとなって現在に至っています。
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(Old Rip Van Winkle Distilleryの公式ウェブサイトより)

こうしたなかなかに複雑な経緯を辿ったヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ・ライのボトルの中身の原酒を把握するには、ボトリング年を特定することが重要になるのでざっと説明しておきます。ボトリング年はボトル・ナンバーの前に付くレターで主に判断します。各ラベルの上部には手書きのボトル・ナンバーがあり、通常はその前にアルファベットが書かれています。日本市場でのみ販売された最初のボトルにはレターがありませんでした。それに次いでアメリカ市場にてリリースされた1999年のボトリングから「A」が付きました。その後は順次「B…C…D…」と年毎にアルファベットが続いて行きます。2007年の「I」まで来ると、何故かそれは一旦終わり、2008年後半から再びレターは「A」から始まりました。しかし、新しい「A」と「B」は2年連続しています。その後は2015年の「F」まで年毎にアルファベットが進んで行き、2016年のボトリングで急に「Z」が現れます。これはタンクに貯蔵されたメドリーとクリーム・オブ・ケンタッキーのブレンドが終了したことを示すものでした。レターが被っている新旧の「A〜F」に関しては、2002年途中までの旧い物はボトリングされた地がローレンスバーグと記載されているので判り易いですが、所在地表記もフランクフォートで被っている物はボトルに刻まれたレーザー・コードで判断するのが最善とされます。バッファロー・トレースのボトリング・ラインは、2007年からボトルにドット・マトリックス・コードを使用し始めたとされているので、新しいレターの物にしかデイト・コードがない筈です。そして、2018年からまた「A」に戻るのですが、この時の物は数字の前ではなく、何故か数字の後ろにレターが来ます。で、これ以降はボトル・ナンバーを記載する欄すらないラベル・デザインに変更になりました。
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下にネットで確認出来たヴァン・ウィンクルのライ・ウィスキーをリストしておくので参考にして下さい。これは噂に基づいた部分も含むので、確定的な情報でないことを念頭に置いて見て頂けたらと。左からブランド名、発売年、レター・コードやロット番号など、ラベルの熟成年数(実際の熟成期間)、プルーフ、推定ソース、所在地表記、ボトル形状/ガラスの色/フォイルやワックスの色、特記事項となっています。ボトリング年か発売年順に並べたかったのですが、細かくは判らないため多少前後するかも知れません(特に2000年前後の物は)。


VAN WINKLE'S RYE WHISKEY LIST

OLD RIP VAN WINKLE OLD TIME RYE|1996|No Letter(only number)|12 Summers Old|90 Proof|Medley|Lawrenceburg|Squat Bottle|Gold neck label.

OLD RIP VAN WINKLE OLD TIME RYE|1997|A|Aged 12 Years|90 Proof|Medley|Lawrenceburg|Squat Bottle|Black neck label.

HIRSCH SELECTION RYE|1998|Lot 97-1|13 Years Old|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Black Wax|Bottling for Preiss Imports. This first lot would have been the same as a non-lettered VWFRR.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|1998|No Letter(only number)|13|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Red Foil|Japan only

LOTTAS HOME Papa's Private Family Reserve|1998|1207|13|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Red Foil|A special bottling one for a German importer whose daughter was named Lotta, and sent out as her wedding invitation, aprx 60 bottles made.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|1999|A|13(14)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Red Foil|First US Release

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE "1985"|Circa 2000|A|--(15)|100 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass?, Black Foil|Unchillfiltered

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2000|B|13(15)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Red Foil

RED TOP RYE|2001|----|15 YEARS OLD|95.6 Proof|?|Lawrenceburg|Cognac Bottle, ?, ?|Homage to the Westheimer Family.

OLD RIP VAN WINKLE OLD TIME RYE|Circa 2000|C|Aged 12 Years(15〜16)|90 Proof|Medley|Lawrenceburg|Squat Bottle|Black neck label.

HIRSCH SELECTION RYE|2001|Lot 00-1|13(16)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Green Glass, Black Wax|For Preiss Imports. This is considered the same as the C-lettered VWFRR.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2001|C|13(16)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2002|D|13(17)|95.6 Proof|Medley|Lawrenceburg, Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Bottling moved from Lawrenceburg to Frankfort this year.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2003|E|13(18)|95.6 Proof|Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2004|F|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Moved into stainless steel tanks, Cream of Kentucky blended with Medley.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2005|G|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2006|H|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2007|I|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2008|A|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Letter code started over with "A"

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2009|A|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2010|B|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2011|B|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2012|C|13(Med19/CoK19?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Rumored that Buffalo Trace distilled rye was added to the blend.

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2013|D|13(Med19/CoK19?/BT13?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley + BT?|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Larger font at bottom for "bottled by" and "ORVWD"

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2014|E|13(Med19/CoK19?/BT13?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley + BT?|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2015|F|13(Med19/CoK19?/BT13?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley + BT?|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2016|Z|13(Med19/CoK19?/BT13?)|95.6 Proof|Mix of CoK and Medley + BT?|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|"Z" marking indicates last of the tanked Medely/Cream of Kentucky blend.

No Release in 2017

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2018|****A|13|95.6 Proof|Buffalo Trace|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil|Letter Comes After the Numbers

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2019|No Bottle Numbers|13|95.6 Proof|Buffalo Trace|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2020|No Bottle Numbers|13 |95.6 Proof|Buffalo Trace|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2021|No Bottle Numbers|13|95.6 Proof|Buffalo Trace|Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil

VAN WINKLE FAMILY RESERVE RYE|2022|No Bottle Numbers|13|95.6 Proof|Buffalo Trace| Frankfort|Cognac Bottle, Clear Glass, Red Foil


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ちなみにリストでグリーン・グラスとあるのは上のようなかなり薄い緑色のガラス瓶を指します。また、2013年のフォントが大きくなった件も上の画像のようになります。それと、オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・オールド・タイム・ライのBレターの物は画像検索で見当たらなかったのでリストに入れませんでしたが、もしかしたらあるのかも知れません。その他の物でも発見したり、また何かしらの間違いの指摘などは奮ってコメント頂けると助かります。

偖て、今回このような古い貴重なライを飲めることになったのは、日本有数のバーボン・マニアの方とサンプル交換したからでした。こちらから送った物に対して大変希少かつ多くのサンプルを送り返して頂きまして、恰も海老で鯛を釣るが如き結果になってしまったのは申し訳ないやら有り難いやらで…。また画像の提供、そして本ブログの記事を書くにあたっていつも情報提供に協力して頂き感謝に堪えません。この場を借りてお礼を言わせてもらいます。Y.O.さん、この度は本当にありがとうございました! バーボン繋がりに乾杯! では、最後に飲んだ感想を少々。

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OLD RIP VAN WINKLE OLD TIME RYE 12 Summers Old 90 Proof
No. 1143
推定96年ボトリング。ほんの少しオレンジがかった濃いめのブラウン。スパイシーな香り立ちからお菓子のような甘い香りも広がる。豊かなベーキングスパイス、フローラル、カラメリゼ、マスティオーク、白胡椒、ドライイチジク、メープルクッキー。口当たりはややウォータリー。パレートは豊かな穀物を感じ易い。余韻はライのビタネスでさっぱりと切れ上がるが、鼻腔にオールドオークとドライフルーツが居続ける。草っぽさやハーブなどの緑感はそれほどなく、甘さとスパイスに振れたバーボニーなライ・ウィスキーという印象。
Rating:87/100

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過日、所用があって浦和まで出たので、帰りがけに少し足の伸ばして大宮のバーFIVEさんまで行きました。実際に店舗に伺うのはまだ2回目であるにも拘わらず、とても温かく迎えて頂き、まるでホームに戻って来たような安心感を与えてくれたマスターとNさんのホスピタリティに感謝です。私は下戸であり、あまり時間もなかったため、それほど杯を重ねられませんでしたが、楽しい時間を過ごせましたし、珠玉のバーボンを飲むことも出来ました。先ず一杯目に選んだのは特別なアーリータイムズ。その昔、オークションで購入しようと思ったことはあったのですが、タイミングが合わず買い逃しており、飲んだことがなかったのです。こちら、私が伺ったタイミングで口開けして頂きました。

このヘリテッジ・エディションは、アーリータイムズの創業を1860年から数えて120年の伝統を祝し、1980年に限定数量にてリリースされました。ブラウン=フォーマン社はこのバーボンを特別なものとするため、創業者ジョン・ヘンリー・"ジャック"・ビームの時代の古いアーリータイムズのラベルを再現し、これまた前時代を反映した手吹きガラスの本格的なボトルに90.4プルーフのアーリータイムズ・バーボンを入れ、大事に保管できるよう専用の魅力的な木製ボックスに収めました。
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(古い時代のアーリータイムズのラベル)

ところで、気になるのはラベルに「バーボン」とない「ストレート・ウィスキー」の表記ですよね。
アメリカでバーボンの売上が激減していた1980年代初頭、税金やその他の様々なコストも上がる中、ブラウン=フォーマンはアーリータイムズにコスト削減の決断を下しました。酒類企業は、宣伝ではロマンティックな言辞を鏤めますが、実際には合理的なビジネスマンの集まりであり、所有するブランドから利益を上げれるように管理することについては冷酷だったりします。アーリータイムズは何より労働者のバーボンでした。彼らはそれが安いことを望みます。コスト削減は低価格を維持しつつ、なお利益も上げるための方策だったでしょう。アーリータイムズに使う樽の20%を中古樽で代用し熟成年数を短くすることで、値上げをしなくても利益を据え置くことが出来たのです。使用済みのバレルで熟成することは「バーボン」と名乗れなくなることを意味します。これにより、アメリカ国内向けのアーリータイムズはバーボンから「ケンタッキー・ウィスキー」となりました。アーリータイムズがバーボンでなくなったことで製品の品質は著しく低下します。往時、アーリータイムズの販売量はジムビームより僅かに少ないくらいだったと思われますが、ケンタッキー・ウィスキーへの転換以降、シェアは徐々に失われ、その差は広がって行きました。長年のアーリータイムズの忠誠者たちは年をとって亡くなってしまい、若い飲酒者にアピールしようにも既にブランドの個性は軽やかなウィスキーであるという後付の理由くらいしかありませんでした。低価格のブランドが販売量を失い始めると利益を維持するのは難しくなります。そこでブラウン=フォーマンは、アーリータイムズの再活性に多額の投資をする代わりに、ウッドフォード・リザーヴというプレミアムなブランドを立ち上げる訳ですが、これは別の話です。
で、ヘリテッジ・エディションのラベルにはバーボンと記載がないため、まさか中古樽熟成を含むケンタッキー・ウィスキーなのか?と一瞬疑ってしまいそうになりますが、ラベルにはしっかりと「ストレート・ウィスキー」と記載されています。ストレート規格は新樽で2年熟成の要件があるので、これはケンタッキー・ウィスキーではありません。それにアーリータイムズのバーボンからケンタッキー・ウィスキーへの切り替えは1983年とされているので、ヘリテッジの発売年から考えてもまだバーボンな筈です。そして当時の広告を見ると、実は小さく「ストレート・バーボン・ウィスキー」と書かれていました。
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(アウトドア専門誌『Field & Stream』1980年11月号に掲載された広告より)
おそらく、バーボンを名乗らずストレート・ウィスキーを名乗ったのは昔のラベルに倣ったのだと思います。しかし、その昔のアーリータイムズが何故バーボンを名乗らなかったのかは解りません。事情をお知りの方は是非コメントよりご教示下さい。それは扨て措き、中身に関しても具体的な情報がないので、これまた憶測になりますが、多分スタンダードなアーリータイムズとマッシュビル等は同じながら、かなり出来の良いバレルを選んでバッチングしているのではないでしょうか。これだけ外観のパッケージに拘っているのですから、きっと中身も…。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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EARLY TIMES STRAIGHT WHISKY Heritage Edition 90.4 Proof
推定1980年ボトリング。上で述べたように、開封直後の試飲となります。嫌なオールド臭はなく状態は良好でした。アロマはフルーティな香り立ちで、パレートでも引き続きドライフルーツや僅かにシトラスが感じられます。また苦味のないスパイシーさもいいです。余韻はややドライでしょうか。グラスの残り香は甘いお菓子のよう。以前飲んだ150周年アニヴァーサリーの方がプルーフは高いのですが、ちょっと比べ物にならないくらいこちらの方がフレイヴァーフルでした。ヘヴィなウッディさもなく、キャラメル様のスイートさとフルーツ感のバランスに優れ、頗る美味しいです。中庸なボトリング・プルーフが功を奏しているのかも知れませんね。
Rating:87/100

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オールド・オーヴァーホルトは、アメリカン・ウィスキーの中で最も古くから名前の知られたブランドの一つであり、嘗てアメリカで最も尊敬され高く評価されていたウィスキーの一つであり、1810年にまで遡るとても歴史のあるライ・ウィスキーのビッグネームです。ユリシーズ・グラントやドク・ホリデイ、ジョン・F・ケネディなどの著名人に好まれたと言われています。19世紀のライ・ウィスキーの隆盛でモノンガヒーラ(マノンガヘイラとも)を代表するラベルとなったオーヴァーホルト・ライは、次第にアメリカ有数のブランドとなり、禁酒法時代にも薬用ライセンスの下で販売は継続されました。禁酒法以後もナショナル・ティスティラーズの一部となって彼らの主力ブランドの一翼を担い、1987年にナショナルがビームに買収された後もオールド・グランダッドやオールド・クロウと共にブランドは維持されました。元々はペンシルヴェニア・ライでしたが、現在ではジムビームが製造するケンタッキー・ライとなっています。今回はそんなオールド・オーヴァーホルトを造った家族の物語とブランドの歩みをざっくりと振り返ってみましょう。

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ラベルに描かれた、時にこちらを睨みつけるように厳めしく、時に優しげに笑うようにも見える表情に変化した年配の紳士の名前がエイブラハム・オーヴァーホルトです。この人物が創始者で、1810年が会社の創立年ということになる訳ですが、オーヴァーホルト家の蒸溜の起源はもう少し前に遡ります。その時代の蒸溜は幾つかの農産物の一つであり、ウィスキーを造ることは農作業の一環に過ぎませんでした。しかし、ペンシルヴェニア州西部の自分達でも蒸溜する入植者の間でそのウィスキーは評判になります。1810年以降、オーヴァーホルト農場で造られたウィスキーは単なる自家消費を超えて拡大し、販売用の製品として確立することで農場の蒸溜はビジネスになりました(オーヴァーホルト蒸溜所の看板には1796年が創業の日と記されていたと云う話もあった)。取り敢えず、エイブラハムより前の世代の話から始めます。オーヴァーホルト家はペンシルヴェニア州の初期から関わるファミリーでした。

エイブラハムの直系でドイツから初めにアメリカへとやって来たオーヴァーホルトは、1730年頃にペンシルヴェニアのバックス郡に定住したマルティン・オーバーホルツァー(1709〜1744)のようです。彼らの一家はメノナイト信仰を持ち、宗教的自由を享受するためにウィリアム・ペンの招致する土地にやって来たのでしょう[※メノナイトは16世紀オランダやスイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れを汲むプロテスタントの一派。その名はメノー・シモンズから。再洗礼派のなかでも革命的傾向をもつ者とは異なり、暴力を否定する平和主義が特徴とされ、教会と国家の分離を主張したり、信者の自由意志に基づく再洗礼を基本とした純粋な教会の建設を目指し、兵役を拒否したため厳しい迫害を受けた]。
マルティンの息子ヘンリー・オーバーホルツァー/オーヴァーホールド(1739〜1813。生まれた時はヘンリッヒ。明確な時期は不明だが、次第に彼らの名前は英語化され、OberholtzerからOverholdに、そしてOverholtになった)は、1800年4月25日、バックス郡ベドミンスター・タウンシップにあり、ディープ・ラン・メノナイトの礼拝堂の隣に位置する農家/機織り/蒸溜を営んでいたホームステッドを1500パウンズの金銀のお金で売り払いました。そして妻アンナ、5人の息子、7人の娘、5人の婿、2人の姑、13人の孫といった家族全員と共に、大量の商品や家財道具をコネストーガ幌馬車に載せ、新しい土地を目指し、アレゲイニー山脈を超えペンシルヴェニアを横断する300マイルの長旅に出発します。遠路の末、この30数人の一団がウェストモアランド郡のジェイコブズ・クリーク地域、イースト・ハンティンドン・タウンシップに到着したのは1800年の夏でした。その頃、ペンシルヴェニア州の西部は東部からの入植者で急速に埋まり始めていました。ヘンリーと息子達は選んで購入した未開の土地を測量し、森を切り開き、キャビンを建て住み着きました。荒野を整えた150エーカー(後に263エーカー?)の彼らの農場は、ペンシルヴェニア州ピッツバーグの南東約40マイルに位置します。他のメノナイトと一緒に住む集落はオーヴァートン(後にウェスト・オーヴァートン)と名付けられました。よく、オーヴァーホルトの一家はウェストモアランド郡ウェスト・オーヴァートンに定住した、と記述されることがありますが、寧ろ彼らの入植地がウェスト・オーヴァートンになったというのが正確です。

多くのドイツ系メノナイト農民がそうであるように、ヘンリーもまたファーム・ディスティラーでした。ペンシルヴェニア州の初期の歴史では、典型的なフロンティア・コミュニティーにある蒸溜所の数がグリスト・ミル(製粉所)の数を上回っていた時期があったそうです。しかしそれは、平均的な入植者にとってウィスキーが小麦粉やミールよりも重要だった訳ではなく、海上の市場から遠く離れた辺境の農民にとって穀物をウィスキーに転換することが最も経済的な方法だったからでした。当時の蒸溜は典型的な農業産業であり、農民が自分たちの穀物を市場へ運搬するのをより容易にする必要性に基づいて行っていました。穀物やフルーツを首尾よく蒸溜酒に変えれば腐ることもなく輸送が簡便になり、お金や必要な物資と交換することが出来ます。ファーム・ディスティラーは臨機応変に豊富にあるものは何でも蒸溜しました。しかし、ヘンリーの父親の出身地であるドイツの一部では少なくとも1500年代から「korn(ドイツ語で穀物の意)」もしくはライ麦の蒸溜を得意としていたと伝えられます。また、1760年には既にドイツ系メソディストがペンシルヴェニアで「korntram(穀物蒸溜酒)」もしくは「rye-dram(ライ麦蒸溜酒)」を造っていた記録も残っているそうです。そこでヘンリーもその伝統を受け継ぎ、或る時期(1803年?)から丸太のスティルハウスを建て、栽培していた穀物から少量のウィスキーを造り始めたのでしょう。
そして、オーヴァーホルト家は織り物でも有名でした。一家が商業用蒸溜を始める前から機織機でカヴァレットを織っており、1~2日の作業で3~7ドルを請求したそう。1800年代半ばまでに流行したカヴァレットは、ベッド・カヴァーとして実用的かつ美しいもので、幾何学模様のものなどがありました。オーヴァーホルトの作品は大胆な色、花や唐草風の装飾曲線のパターンが多かったとか。その才はヘンリーの息子エイブラハムにも受け継がれていたようです。1784年に生まれたエイブラハムは家族が引っ越したとき16歳でしたが、10代の頃からバックス郡で織工の職を習得していた彼は、家系のルーツであるスイス(Oberholtzは1600年代にスイスからドイツへ移り住んだ)に伝わる織物製法とデザインを用いて、オーヴァーホルト家の事業で最も成功した一つである織物のカヴァレット製造に貢献しました。商業用製品のカヴァレットは西へ向かう入植者たちに重宝されたと言います。幌馬車がウェスト・オーヴァートンに停車し、彼らはオーヴァーホルトの雑貨店で生肉や乾物、各種備品を購入し、ハンディなカヴァレットや、その時ちょうどあればお手製の農場産ウィスキーも購入した、と。
参考
(ヘンリー・O・オーヴァーホルト作のカヴァレット)

他のオーヴァーホルト兄弟が原生林から農地を切り開いている間もエイブラハムは機織りに励んでいました。機織り機での労働は、家族やその周辺の広い隣人のために衣服の材料を提供したところから、斧を振るう兄弟たちの努力と同じくらいに重要な仕事です。エイブラハムはウィーヴァーとしてかなりの才能を示しましたが、彼の主な関心はウィスキー・メイキングにありました。どの農家もウィスキーの蒸溜方法を知っており、どの農場にも自分の蒸溜所がありました。但し、そうした初期のスティルは、手製の鍬と同じくらい粗末なもので、当時の他の農機具と何ら変わりはなく、小屋の傍に砥石とスティルがあっただけの話でした。開拓者は自活するか自滅するかのどちらかであり、スティルの手入れをすることは牛の乳を搾ったりミールを挽いたり石鹸を煮るのと同じように家庭の義務でした。エイブラハムは、定期的に機織り機を離れてスティルの手入れをしながらウィスキー造りの技術を習得して行きます。

1809年、エイブラハムは、著名なメノナイト牧師兼農夫であったエイブラハム・ストウファーとアンナ・ニスリーの娘マリア・ストウファーと結婚しました。彼は自分と増え続ける一族のために新しい未来を切り開こうと決意します。エイブラハムは敷地内の丸太小屋のスティルハウスで行われる蒸溜作業の管理を引き継ぎ、翌1810年、弟のクリスチャン・オーヴァーホルト(1786〜1868)と共に父親の農場の「特別な利権」を購入し、長老達からログ・キャビン・ディスティラリーを新設する許可と十分な広さの土地を得ました。彼が26歳で新妻マリアとの最初の子供の誕生を待っていた時のことでした。8月10日にヘンリー・ストウファー・オーヴァーホルト(1810〜1870)はこの世に生を受け、エイブラハムは新しい蒸溜所を建設し、秋の収穫と共に最初のライ・ウィスキーを製造しました。やんちゃなメノナイトと見做されたエイブラハムは、身長5フィート8インチ(約173cm)で、質素かつ勤勉で節約家な気質を持っていたと言われています。丸太で出来た小さな蒸溜所は、当初はマッシングのための穀物を薬剤師が使うような乳鉢で潰すという極めて小規模なもので、生産量は週に数ガロンと限られており、まだフルタイムの蒸溜業ではなかったのかも知れませんが、ともかくも家業を副業としての一般農業から本業としてのウィスキー造りに移行させました。
蒸溜酒ビジネスは急速に成長していたようで、2年後に娘のアンナ・ストウファー・オーヴァーホルトが生まれた頃、エイブラハムは共同経営者である弟クリスチャンの農場の持分を1エーカーあたり50ドルという当時としては高値で買い取りました。クリスチャンはある時期から、スミストンの近くにホワイトオークの林を購入し、以後、一家のための木材を供給するようになったそうです。エイブラハム夫妻の次男ジェイコブ・ストウファー・オーヴァーホルト(1814〜1859)が生まれる頃には、蒸溜酒製造事業は順調に進んでいたことでしょう。年月が経つにつれ、エイブラハムは蒸溜に益々力を入れるようになります。創業から10年を経た1820年代には1日に約12〜15ガロンのライ・ウィスキーを蒸溜し、お金を稼いでいたようです。スティル自体のサイズは1811年から1828年の間に三回増大し、1814年には150ガロンから168ガロンに、1823年には212ガロンに、そして1828年には324ガロンになりました。

エイブラハムとマリアは8人の子供(6人の息子と2人の娘)を儲け、子育て、農場経営、作物の栽培と収穫、そして蒸溜と非常に忙しい家族でした。 農作業と並行してオーヴァーホルトの少年達、特にヘンリーとジェイコブは若いうちからウィスキー製造事業に携わるようになっていました。彼らは、悪路ばかりでワゴンの車輪がよく壊れていた時代に、近くの町の製粉所への穀物の運搬を文字通り一手に引き受けていたと云う話が伝わっています。それは牛が牽く頑丈なワゴンでの長く、疲れる、厄介な旅でした。1832年、エイブラハムは新しい石造りの蒸溜所を建設し、1日あたりの生産量を150ガロン以上に増やします。これは年間55000ガロン近くの生産容量でした。1834年には蒸溜所の近くにレンガ造りの自前のグリスト・ミルが建てられ、穀物を他の場所に運んで製粉する必要がなくなりました。これにより、ヘンリーとジェイコブが直面した多くの遅延、扱い難い牛に苛々したり、泥濘に嵌ったり、車輪修理工も鍛冶屋もいないウィルダネスでの偶発的な故障で立往生といった穀物運搬に関する問題は一応の解決を見ます。荒野を切り開いて来た牛たちは農作業に使われるようになりました。この投資は上手く行き、副業の小麦粉ビジネスでも利益が齎されたようです。新しい製粉所が本格的に稼動し始めた1834年の秋には、24歳の息子ヘンリー・Sが事業の半分の利権を購入し、その後A.& H.S.オーヴァーホルト・カンパニーを名乗るようになりました。また同じ頃、エイブラハムは事業の拠点であるウェスト・オーヴァートンに立派なジョージアン様式の家を家族のために建てました。程なくしてウェスト・オーヴァートンのウィスキーには「オールド・ファーム・ピュア・ライ」というブランド名が付けられます。エイブラハムはウィスキーの正しい造り方を知っている人物として急速に評判を高め、その人気に乗じて彼の蒸溜は堅固なビジネスとなり、その勢いは留まるところを知らないようでした。1843年、オーヴァーホルトの「オールド・ライ」がボルティモアの新聞広告に掲載されました。当時は蒸溜業者による製品のブランド化はまだ一般的ではなく、ウィスキーの殆ど全てを卸売業者や小売業者に樽売りしていたので非常に珍しいことでした。名前を出して宣伝する価値があるのはごく少数のトップ蒸溜所だけだったのです。
蒸溜所が拡大を続けるにつれて、労働者の家の村が作られました。これらの入居者は、クーパーやら製粉係やら労働者としてエイブラハムのために働きました。後に、この土地に石炭が埋蔵されているのを発見したときは、石炭を掘る人たちもいました。敷地内には、1846年頃にヘンリー、1854年頃にクリスチャンのために建てられた二つの家もあり、後者は会社の店舗を兼ねていたそうです。ウェスト・オーヴァートンの繁栄は、周辺地域の繁栄に繋がりました。蒸溜事業はそれを支えている他の地場産業を生み出し、結果、多くの家庭が安定した賃金を得られるようになった、と。そして家長で創設者のヘンリッヒ・オーバーホルツァーの息子や娘や孫は、子供達のために無料の公立学校の設立、道路の敷設、学校や礼拝堂の建設、ウェスト・オーヴァートンとその周辺の数々の市民事業のための資金調達など、地域の福祉に貢献しました。こうしてウェスト・オーヴァートンは発展を続け、供給と流通のシステムが整備されるとオーヴァーホルトのウィスキーはネイション・ワイドな評判を得、良い顧客にも恵まれて需要は常に供給を上回り、1850年代前半も彼らのライの人気は継続したようです。
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1850年頃、エイブラハムは息子のジェイコブを自分とヘンリーの完全なパートナーとして事業に参加させました。オーヴァーホルトの事業が始まって40年経ち、物事はより複雑になり、彼らの成功は老いたエイブラハムの力だけでなく、ヘンリーとジェイコブのビジネス・スキルに負うところも多くなっていました。1854年、ジェイコブとヘンリーは自分たちで(或いはエイブラハムから資金提供を受けて?)ウェスト・オーヴァートンから南へ6マイルの距離、モノンガヒーラ・リヴァーの支流であるヤッカゲイニー・リヴァーの畔に位置するブロード・フォードに大規模で近代的な2番目の蒸溜所を建設することにします。彼らが大きな蒸溜所の建設についてどれだけ熟慮したかは判りませんが、オーヴァーホルトの一族は事業の拡大は「緩やかな速度で安全に進める」のを信条としていたようなので、更なる拡大が疑問視されることのない状況もしくは必要に迫られるくらいの需要があったことでしょう。ブロード・フォードは川に面していたため、蒸溜所は良好な水源と河川交通の恩恵を受けることが出来ました。フラットボートで穀物を運んだり、ウィスキー樽を積み込み、蒸汽船でモノンガヒーラ・リヴァーを経てピッツバーグのドックに向かったり。また、そこは重要なことに真新しいピッツバーグ&コネルズヴィル鉄道の線路のすぐ隣でした。モノンガヒーラ・ライに対する需要の高まりと新しい鉄道路線に直ぐアクセス出来ることは、成功が約束されたようなものだったのです。彼らはそこで「オールド・モノンガヒーラ」を造りました。
ジェイコブ・オーヴァーホルトは、新しいプロジェクトに力を注ぐあまり、ウェスト・オーヴァートンとブロード・フォード間を行き来するのが負担となり、1855年に兄とのビジネスを友好的に解消してブロード・フォードに移り住んでそちらへ全力を注ぐことにしました。彼がそこで最初に行ったのは、主に当時建設が予定されていたヴィレッジと蒸溜所の資材を供給するための製材所を設立することでした。ジェイコブの監督下で、初めは3軒の住居しかなかったブロード・フォードの地域は、間もなく賑やかなヴィレッジに成長したと言います。1856年、ジェイコブはいとこのヘンリー・O・オーヴァーホルト[※オーヴァーホルト家はファーストネームに関して無頓着で、同じ名前が多いため、ミドルネームで認識する必要があります。このヘンリー・Oはカヴァレットの織工でも有名で(前出の参考画像)、エイブラハムの兄マーティンとその妻キャサリンの次男です]を事業のパートナーに迎え入れました。

ブロード・フォードでジェイコブが造ったウィスキー「オールド・モノンガヒーラ」は少し誤解を招くかも知れません。これはブランド名だったのかも知れませんが、寧ろそれよりは特定のスタイルを意味していたと思われます。ペンシルヴェニア州西部の川沿いで造られるライ・ウィスキーは以前からオールド・モノンガヒーラとして知られ、例えばウェスト・ブラウンズヴィルのサム・トンプソン蒸溜所(1844年建設)のウィスキーもそう呼ばれていました。そして、1851年に出版されたハーマン・メルヴィルの有名な『白鯨(モビー・ディック)』には「もしくは言いようのないオールド・モノンガヒーラ!(言葉に表せないほど素晴らしいの意)」との台詞があり、アメリカン・ウィスキーの研究家にしばしば引用されています。メルヴィルがウィスキーというワードを使わずに「オールド・モノンガヒーラ」というワードを使ったのは、その名称にスタイルとある程度の普遍性があったからでしょう。また、北アメリカの鳥類を自然の生息環境の中で極めて写実的に描いた博物画集『アメリカの鳥類』で知られる画家で鳥類研究家のジョン・ジェイムズ・オーデュボンは、ケンタッキー州で開催されたバーベキューを楽しんだことに就いての日付不明のエッセイに「オールド・モノンガヒーラが群衆のために多くの樽を満たしていた」と記述しているそうです。オーデュボンは1851年に亡くなりました。つまり、彼らはブロード・フォード蒸溜所が操業するよりも前にそれらを書いていたのです。『白鯨』での台詞にはオールド・モノンガヒーラと並ぶかたちで「オールド・オーリンズ・ウィスキー、またはオールド・オハイオ」とも言われています。
“That drove the spigot out of him!” cried Stubb. “‘Tis July’s immortal Fourth; all fountains must run wine today! Would now, it were old Orleans whiskey, or old Ohio, or unspeakable old Monongahela! Then, Tashtego, lad, I’d have ye hold a canakin to the jet, and we’d drink round it! Yea, verily, hearts alive, we’d brew choice punch in the spread of his spout-hole there, and from that live punch-bowl quaff the living stuff.”
(Moby-Dick; or, The Whale─Chapter 84 : Pitchpoling)
第84章のこの箇所は、捕鯨船ペクォード号の二等航海士で長槍の遠投の名手スタッブが、仕留めた鯨から噴き出る血を見て良質な三種のウィスキーに喩えた空想的台詞。血の代わりにそれらのウィスキーが噴き出すなら大パーティーだという訳です。歴史家の中にはこの言葉を引用してバーボン・ウィスキーの製造が順調に普及していたことを示す人もおり、確証はありませんが、この「オーリンズ」や「オハイオ」はバーボンの別名だったのかも知れません。おそらくケンタッキーのバーボン郡(乃至は北部)から出荷されたウィスキーがオハイオ・リヴァーを下りニュー・オーリンズに到着すると、販売される地や運ばれた道程の名称が付けられたのではないかと。ウィスキーの種類として「バーボン」が最初に言及されたのは1820年代にまで遡るらしいのですが、広く一般化したのは南北戦争の後と言われるので、それ以前に「オーリンズ」や「オハイオ」とか、或いは他の名称が乱立していても不思議ではない気がします。それは扠て措き、ここで重要なのは地名ではなく、寧ろ「オールド」の方です。オールドの付いたウィスキーの特徴は熟成されていることでした。1820年代には、ライ・ウィスキーは熟成スピリットとして普及し始めていたと言われます。このスタッブの台詞は『白鯨』の書かれた時点で読者がこの比喩を理解できるほどにエイジド・ライの人気が高まっていたことを示すものでした。とは言え、熟成されていないライの需要もまだ十分にあり、1860年代に出版されたレクティファイングの本には、熟成と未熟成の両方のモノンガヒーラ・ライのレシピが紹介されているそうです。また、未熟成のウィスキーは無色透明、使用済もしくは焦がしていない樽で熟成したウィスキーは黄色がかるため、当のウィスキーが「レッド」と呼ばれる場合は焦がした新樽で熟成されていた可能性が示唆されています。確かに、赤みを帯びた琥珀色、即ち熟成したレッド・ウィスキーの色だからこそスタッブの血をウィスキーに見立てる喩えが成立するでしょう。1800年代初頭であれば、河川をフラットボートで、或いは山間を馬車でゆっくり輸送されたウィスキーは意図せず熟成し、市場に出るまでに色づいたのかも知れない。しかし、蒸気船や鉄道が出来ると輸送は月単位ではなくなり、蒸溜業者は意図的にライを倉庫で熟成させるようになったと思われます(2〜4年程度?)。遅くとも1800年代半ば頃には、普通のウィスキーとは違うオールド・モノンガヒーラが広く知るようになり、ヴァニラやタンニン、レザーやタバコなどのバレル・エイジングから由来するフレイヴァーを得た赤褐色の液体は、良質のウィスキーを意味するようになったのではないでしょうか。今日我々の知る「オールド・オーヴァーホルト」というブランド名は、エイブラハム自身によるものではなく、彼の死後暫く経ってから作られることになります。
ちなみに、オーヴァーホルト以外のモノンガヒーラ・リヴァー付近からローレル・ハイランズ(ペンシルヴェニア州南西部地域のフェイエット、サマセット、ウェストモアランドの三郡)の有名な蒸溜所には、先ほど例に出したサム・トンプソン蒸溜所、ラフス・デールにあった1837年設立のサム・ディリンガー蒸溜所(*)、ベル・ヴァーノンの北にはギブソン・ピュア・ライウィスキー等を生産した1856年設立のギブソントン・ミルズ蒸溜所などがあります。これらよりもう少し北部のアレゲイニー・リヴァー沿いには、フリーポートにあり1800年代初頭に設立されたグッケンハイマー蒸溜所、シェンリーにあった1856年設立でゴールデン・ウェディング・ピュア・ライを製造したジョセフ・S・フィンチ蒸溜所、1892年設立のその名もシェンリー蒸溜所がありました。

フェイエット郡にあるブロード・フォード蒸溜所のプロジェクトが進展する一方、ウェストモアランド郡のウェスト・オーヴァートンも経営は順調だったようで、1859年、ウィスキー製造と小麦粉製造の需要に耐え切れず、旧来の蒸溜所と25年間運営されたグリスト・ミルを取り壊し、二つの機能を統合した6階建て(5と1/2階建てという説も)、長さ100フィート、幅63フィートの大きなレンガ造りの新しい施設に建て替えられました(おそらくブロード・フォードの初期蒸溜所と同規模?)。この時、クーパレッジも追加で併設されたようです。粉砕室では毎日200ブッシェルの穀物と50バレルの小麦粉が生産され、この頃の蒸溜所の1日あたりのウィスキー生産量は860ガロンだったとか。この建物は現在でも、ペンシルヴェニア州で南北戦争前の唯一無傷の工業村、ウェスト・オーヴァートン・ヴィレッジのウィスキー博物館として残っています。
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(WIKIMEDIA COMMONSより)
後にオールド・オーヴァーホルトの歴史に大きく名を残すエイブラハムの孫ヘンリー・クレイ・フリック(このあと取り上げます)の娘ヘレンは、曽祖父母であるエイブラハムとマリアが住み、父親が生まれたウェスト・オーヴァートンの建物を1922年に購入し始め、このサイトを運営および維持するためにウェストモアランド=フェイエット歴史協会を1928年に設立しました。ヴィレッジは残された18棟のオーヴァーホルト・ビルディングで構成され、国家歴史登録財にリストされています。博物館でオーヴァーホルト家の歴史を知るだけでなく、ホールで結婚式を挙げたりも出来るみたいです。また、1世紀を経た2019年、規模は小さいもののウィスキーの蒸溜が再び開始され、ウェスト・オーヴァートン・ディスティリングの名の下でオールド・ファーム・ブランドが復活しています。

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新しいウェスト・オーヴァートン蒸溜所がオープンしたのと同じ年、父エイブラハムの75歳の誕生日の翌日、1859年4月20日、残念なことにジェイコブ・S・オーヴァーホルトが亡くなりました。ジェイコブは「最後の病気」まで自分の巨大なビジネスに厳しい注意を払っていたと報告されています。彼は大きなエナジーをもってビジネス活動を行う誠実な人物であり、慈善活動で著名な彼は貧しい人々を決して見捨てなかったそう。若い頃から農場で働く傍ら蒸溜所にも従事し、蒸溜のビジネスを学んだジェイコブはすぐに熟練して兄のヘンリー・Sと共に父親から実質的に事業の管理を任されていました。マスター・ディスティラー、ビジネスマン、起業家として素晴らしいキャリアを残し、彼をよく知る人の言葉を借りれば「皆の友達」であり、 家族にとってはメリー・フォックスの夫で9人の子供の父親でした。
エイブラハムはジェイコブの死後、ブロード・フォード蒸溜所の3分の2のシェアを買い取り、ヘンリー・Oを3分の1のシェア・パートナーとして経営を続けます。ヘンリー・Sは父親のウェスト・オーヴァートン・ディスティリング事業のフル・パートナーのままです。エイブラハムはブロード・フォードと、安価なブランドの「オールド・ファーム」を製造するウェスト・オーヴァートンの両方の事業を合体させ、「A.オーヴァーホルト&カンパニー」として営業し、国内最大級のウィスキー・メーカーの地位を確立しました。その名声は国内の至る所に広まり、西部の川を船で下る人々は、南部と西部の市場でオーヴァーホルトのウィスキーが高値で取引されていることを明言したと言います。ウィスキーは平原やロッキー山脈を越え、拡大するフロンティアに伴い西部の遥か彼方へと運ばれて行きました。

ブロード・フォードでのジェイコブの後釜に据えられたのは、エイブラハムの孫、エイブラハム・オーヴァーホルト・ティンストマン(1834〜1915)のようです。彼はエイブラハムの娘アンナとその夫ジョン・ティンストマンの第3子で、25歳になるまで父親の農場で働き、それから祖父の所有するブロード・フォードに移りました。A・O・ティンストマンは名高いオーヴァーホルト・ウィスキーの製造、蒸気駆動の製材所での木材の切断、ブロード・フォードの敷地内で行われている農業などを日々監督し、経営者としての能力はすぐに明らかになったと言われています。1864年にはヘンリー・O・オーヴァーホルトが事業からの引退に際しブロードフォード蒸留所の3分の1のパートナーシップを売り払い、A・O・ティンストマンがマネージャーから祖父の共同経営者となってA.オーヴァーホルト&カンパニーの経営を継続しました(1968年とする説も)。

南北戦争(1861〜1865)はウェスト・オーヴァートンとブロード・フォードの一家に深刻な影響を及ぼしました。エイブラハム・オーヴァーホルトは高齢にも拘わらず、エイブラハム・リンカーンを支持し、国の状況を憂慮して個人的に知っている戦場の兵士を励ますために二度ほど戦場を訪れたそうです。特に軍服を着たオーヴァーホルト家の人々を訪ね、そのうちの何人かは戦争中に亡くなったらしい。但しその戦禍は、ケンタッキー・バーボンがほぼ全ての輸送手段の全滅によって荒廃したようには、ペンシルヴェニア・ライに悪影響を与えることはなかったようです。鉄道の破壊や河川の封鎖による運輸の停止などはピッツバーグやフィラデルフィアでは起こりませんでした。戦争の間、グラント将軍を始めとする無数の将校や兵士がオーヴァーホルト・ウィスキーを飲んでいたという話があります。また『リンカーンが撃たれた日』という本の著者は、オーヴァーホルト・ウィスキーはリンカーン大統領のお気に入りの酒だったと述べているそうです。

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エイブラハム・オーヴァーホルトはウェスト・オーヴァートンの自分の農場で1870年に亡くなりました。実は息子のヘンリー・S・オーヴァーホルトも父と同じ年に亡くなっています。ヘンリー・Sは、1870年1月15日にエイブラハムが亡くなるまで父と共に事業を行い、同年6月18日、父に続いて墓場へと向かいました。父とのパートナーシップを結ぶ前から製粉と蒸溜の事業をヘンリー・Sは全般的に監督していたそうです。 彼は父親の特徴を多く受け継ぎ、ペンシルヴェニア州西部で最高の実業家の一人と見なされていました。少年時代から死の直前まで極めて道徳的な人生を送り、社交面では多弁ではなく寡黙でしたが、非常に人気があり、彼を知る全ての人に愛されていたと伝えられます。
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エイブラハムに話を戻しましょう。彼は86歳で亡くなるまで家族の蒸溜作業の管理に直接関与していたと言われています。1月15日土曜日の朝、いつものように起き、ランタンを持って外に出たまま帰ってこないので、家族が探しに行くと、納屋(屋外トイレ?)の中で余命幾ばくかという状態で発見されたそう。エイブラハムはしっかり者のジェントルマンで、秩序正しく業務を遂行し、決断が早く、将来に対する明確なヴィジョンを持ったビジネスマンでした。時間を厳格に守り、支払いを求める債権者を失望させたことは一度もありませんでした。従業員には優しく、全ての取引に於いて率直だという評判は近郷に広く知れ渡っていました。公共心が旺盛で、コミュニティ施設の建設にいち早く取り組み、パブリック・スクールを早くから熱心に提唱し支援しました。長年に渡りメノナイト教会の信心深いメンバーであり、慈悲深い目的が必要な時には何時も喜んでその豊富な資金を提供する用意がありました。ビジネスで大成功した彼の遺産は多く、相続人には35万ドル払われたと言います。また、エイブラハムはウェストモアランド郡の一部で最初に石炭を発見し、最初に使用した人物でもありました。これはその地域の地下に莫大な量の良質な石炭が眠っていることを明らかにしました。発見以前は石炭は山の反対側から鍛冶屋に運ばれており、エイブラハムは当初、東部から時折り訪れる旅人へ珍品として公開していたそうです。南北戦争が終わるまでにエイブラハムは既にお金持ちでしたが、その大部分は彼の土地での石炭の発見から来たのかも知れません。おそらく石炭の発見は蒸溜事業の発展にとっても重要なことであったに違いないでしょう。

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先に名前を出したA・O・ティンストマンは、長年に渡り石炭とコークスに広く関心を寄せていました。彼は1865年にジョセフ・リストと共にブロード・フォード・ヴィレッジに隣接する約600エーカーの原料炭用地を購入します。1868年にその利権の2分の1をカーネル・A・S・M・モーガンに売ってモーガン&カンパニーを設立すると、共同でモーガン鉱山を開設して専らコークス製造に従事しました。その製品の販売先を確保するためにブロード・フォードから同鉱山までの1マイルの鉄道を敷きます。モーガン&カンパニーは当時この地域のコークス事業の殆ど全権を握っていました。ティンストマンは、1870年にはマウント・プレゼント&ブロード・フォード鉄道を組織し、ブロード・フォードにピッツバーグ&コネルズヴィル・レイルロードに接続する鉄道を建設、そして6年後にボルティモア&オハイオ・レイルロードに全鉄道を売却するまで社長を務めました。これがウェストモアランド郡におけるコークス事業の発展の始まりでした。
1871年、ティンストマンはジョセフ・リストと共に、エイブラハム・オーヴァーホルトのもう一人の有名な孫ヘンリー・クレイ・フリックのコークス会社であるフリック&カンパニーと提携しました。この会社はブロード・フォードに200基のコークス炉を建設しました。最初の100基はマウント・プレゼント&ブロード・フォード鉄道に沿って建てられ、そこはフリック製作所またはノヴェルティ製作所として知られていました。残りの100基はボルティモア&オハイオ鉄道のピッツバーグ支線に沿って建てられ、そちらはヘンリー・クレイ製作所と呼ばれました。1872年、モーガン&カンパニーはウェストモアランドのラトローブに400エーカーの原料炭用地を購入し、50基のオーヴンを建設しました。 ティンストマンは他にも炭鉱地を広範囲に購入し、その地域で最良の炭鉱地のほぼ全てを所有していましたが、1873年の金融恐慌の影響は甚大で、コークス事業は急に落ち込み、彼は全てを失いました。しかし、コークス事業が復活することに大きな自信を持ち、製造業の利益の中で最も早く確実に回復することを予見した彼は、その損失を取り返すべく果敢に取り組み、1878年と1880年にコネルズヴィル地域の広大な炭地をオプションで購入し、1880年には原価よりもかなり高い価格で約3500エーカーの土地を売却することで大きな利益を得、再び実業家として新たなスタートを切ることが出来ました。同じ頃、ピッツバーグにA.O.ティンストマン&カンパニーを設立し、すぐにライジング・サン・コーク・ワークスの半分のインタレストを購入します。1881年にはマウント・ブラドック・コーク・ワークスとペンズヴィル・コーク・ワークスを買収し、全部で約300のオーヴンを所有し運営して、その事業は成功を収めました。3年後にはコークス関連の権益を全て売却し、西ペンシルヴェニアと西ヴァージニアの炭鉱用地の購入に従事して、その後引退したようです。

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エイブラハム・オーヴァーホルトの名前はウィスキー愛好家にはよく知られていますが、そうでない一般の人々にとってもっと有名なのは、エイブラハムの孫であるヘンリー・クレイ・フリック(1849〜1919)でしょう。ブロード・フォードは長年に渡って鉱山と石炭供給の中心地として大きな活況を呈していました。この地域一帯には鉄道の線路が何本も交差しており、嘗ては毎日幾万台もの石炭やコークスの車輛がこの地を行き来していたと言います。そのような賑わいの中心にいた人物が、若き日にオーヴァーホルトの蒸溜所で事務員をしていたフリックでした。彼は「泥棒男爵(ロバー・バロンズ)」とも呼ばれた実業家の一人であり、アンドリュー・カーネギーと共にアメリカの偉大なる産業時代の創設者の一人であり、嘗て「アメリカで最も嫌われている男」の称号を持っていたユニオン・バスターであり、巨万の富を築いた金融家であり、世界的な美術品のコレクターであり、慈善団体に数百万ドルを寄付した慈善家でした。そんな彼の初期のキャリアはエイブラハム・オーヴァーホルトやA・O・ティンストマンによって引き上げられました。
ヘンリー・クレイ・フリックは、エイブラハム・オーヴァーホルトとマリアの次女であるエリザベス・ストウファー・オーヴァーホルトと、その夫であるジョン・ウィリアム・フリックの間に産まれ、両親の住むウェスト・オーヴァートンの農場で育ちました。1863年、14歳の時、ウェスト・オーヴァートンの叔父クリスチャン・S・オーヴァーホルトの店で店員を務め、16歳になると別の叔父マーティン・S・オーヴァーホルトの事務員としてマウント・プレゼントに移り住み、その後3年間そこで働きながら散発的に大学に通いました。1868年、ウェスト・オーヴァートンに戻った彼は、祖父エイブラハムに連れられてブロード・フォード蒸溜所に行き、そこで従兄弟のA・O・ティンストマンに月給25ドルで事務員として雇われます。同じ頃、クリスチャン・Sは甥のためにピッツバーグのマクラム&カーライルでの職を確保し、フリックは19歳の時に週6ドルでリネン&レース部門の事務員を務めました。しかし、新しい仕事を始めた直後に腸チフスに罹り、母、祖母、妹からの治療を受けるためにウェスト・オーヴァートンに戻って、そこの蒸溜所でセールスと経理を手伝いながら3ヵ月のあいだ無給で働きました。その後、A・O・ティンストマンからブロード・フォード蒸溜所で事務を担当するため年俸1000ドで雇われ直したようです。彼は長く仕事を続けることをしていませんが、一族からの推薦を受けて、様々な家族と働くことでビジネス・スキルを習得したのでしょう。
ヘンリー・クレイ・フリックは、数年前のエイブラハム・オーヴァーホルトと同様に、農場で最初に発見された石炭に興味を持っていました。彼は隣接する農場で小さなオーヴンを使って実験している人に信頼を寄せ、自分の貯金を叩いて資金を援助したそうです。或る日、冷却炉の残留物を削っていたその人は叫びました。「これは通常の石炭の熱を何倍にもするものだ!」と。フリックは「それは何に使えるのですか?」と尋ねると「鋼鉄を造るためだよ」との返事でした。彼はブロード・フォード蒸溜所のオフィスで毎日帳簿に向かいながらコークス生産の重大な可能性について考えました。その決断は速く、蒸溜所での決算を終えると夕方にはその地域一帯の農家を訪ね歩き、汎ゆるところから借りたポケットマネーで石炭用地をオプションで購入しました。若き日のフリックは夜通し走り回り、コートのポケットに約束手形の束を忍ばせ、ひたすらオプション取引を繰り返した、と。彼は事業を始めることを強く望み、帳簿管理以上の何かを目指し、不屈のエネルギーと判断力により、コークスと石炭で大金を稼ぐセンスを持っていることを示しました。すぐに彼のニーズは田舎の銀行との取引だけではなくなります。
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(Judge Thomas Mellon 1813-1908)
元弁護士/裁判官であったトーマス・メロンが1870年1月2日に息子のアンドリュー・ウィリアムとリチャード・ビーティーと共にピッツバーグでT・メロン&サンズ銀行(メロンの銀行は19世紀末までにニューヨーク以外で最大の銀行機関になったと云う)を開業しました。メロン一族は以前ウェストモアランド郡に住んでいました。トーマスの父は1818年にアイルランドからアメリカへとやって来てウェストモアランドに定住し、エイブラハム・オーヴァーホルトと親交を深めたと言います。トーマスもクレイ・フリックの母エリザベスが少女だった頃から知っていました。ちなみに、その昔、メロン家の農場にも蒸溜所があったそう。
1871年、ヘンリー・クレイ・フリックはピッツバーグに行き、予告なしにトーマス・メロンに面会を求め、彼のオプションを提示し、銀行とのコネクションを築くことが出来ました。彼はコネルズヴィル地区にビーハイヴ・コークス炉を建設し、炭鉱を購入するため1万ドルの融資を求めたと言います。トーマスは、鉄鋼事業が生み出すコークスの需要を予測した若きフリックの言葉に感銘を受け、そして数年後、H.C.フリック・コーク・カンパニーが鉄鋼業にコークスを供給する有力企業になれるよう十分な資金を提供しました。フリックはこの時、1万ドルを6ヶ月間10%の金利で借りて、コークス炉を50基建設するために持ち帰りました。トーマスが資金を必要とする商売の経験の浅い地方出身の若者の依頼に応じたのは、オーヴァーホルト家の名前と評判、エリザベス・オーヴァーホルトとの若い頃の友情と言った家族的背景も多少はあったかも知れませんが、コークスの需要は驚くほど高まっており、この取引と申請者の両方が健全であると判断したからでしょう。トーマス・メロンは1873年の経済恐慌(ピッツバーグの90の組織銀行と12の民間銀行の半分が破綻したらしい)で財産をほぼ失いましたが、フリックへの融資は経済が再び拡大し始めた時に繁栄するための賢明な投資の一つとなり、ピッツバーグが世界の鉄鋼業の中心地となる歴史の前段階に小さな役割を担いました。その後、フリックはアンドリュー・カーネギーのパートナーとなり、ライヴァルとなり、敵となり、一時はカーネギーの後継者として米国産業界で最も強力な人物となるのは歴史の知るところです。ちなみに当時、父親の銀行にいた若き日のアンドリュー・W・メロンはこの取引に呼ばれ、新しい顧客である新進気鋭の大物社長の目に留まり、アンドリューはクレイ・フリックより5歳年下でしたが、軈て良い友人関係となりました。この関係は後年、オーヴァーホルト・ライの歴史に重要な意味を持つことになります。
フリックがコークスの製造を開始するとウェストモアランド郡とフェイエット郡の町々は次第に繁栄、人口は大幅に拡大し、多様化しました。労働者の主な仕事は炭鉱とコークス炉でしたが、そこから派生する職業の雇用も生み出します。オーヴンのためのレンガ作りや石工、鉱山のための機械やその保守、鉄道の敷設やその保守から、肉屋、パン屋、燭台メーカーまで。1871年、フリックが21歳で従兄弟と友人と共に小さな共同事業を始めた時、30歳までに百万長者になることを誓っていました。生涯の友アンドリュー・メロンの家族からの融資のお陰もあってか、会社は順調に大きくなったようで、1878年に会社はH.C.フリック&カンパニーと改名、1000人の従業員を抱え、毎日100台の貨車にコークスを満載して出荷するまでになり、ペンシルヴェニア州の石炭生産高の80%を支配したとされます。1879年末の12月19日、フリックは30歳の誕生日を迎え、帳簿を調べると既に100万ドルの価値があり、人生の大望を達成していたことが分かりました。

ヘンリー・クレイ・フリックの並外れた富は主に鉄鋼と鉄道から齎されましたが、ウィスキーからも少し得ました。彼の所有権の下でオールド・オーヴァーホルトは国内で最も売れているライ・ウィスキーのブランドになります。フリックにとって、オーヴァーホルト家の故郷やブロード・フォードの蒸溜所は副次的な関心事、或いは感傷的なサイドビジネスに過ぎなかったかも知れませんが、彼の成功への引き金や支柱ではありましたし、その価値を知っていたのでしょう。
1870年にエイブラハムが亡くなった後、フリックの許に落ち着くまで、A.オーヴァーホルト&カンパニーの所有権は複雑に絡み合っていたようです。1875年、エイブラハム・オーヴァーホルト・ティンストマンがA.オーヴァーホルト&カンパニーに於けるブランド及び商標としての名前の使用権を含む3分の2の権利を購入しました。翌1876年には、A・O・ティンストマンはA.オーヴァーホルト&カンパニーのインタレストを、ブランド名および商標として会社名を使用する権利と共に、弟のクリスチャン・ストウファー・オーヴァーホルト・ティンストマンに譲渡します。同年、C・S・O・ティンストマンとクリストファー・フリッチマンがパートナーとなりました。1878年に彼らはジェイムズ・G・ポンテフラクトと1年間の共同パートナーシップを結びました。1881年には別の契約を結び、ポンテフラクトにA.オーヴァーホルト&カンパニーの社名と蒸溜所の様々な銘柄を1883年4月1日までの2年間使用する権利を付与します。
既に裕福であったヘンリー・クレイ・フリックは、この頃には資本家として完全な支配権を獲得する手段を持っていました。1881年、フリックはエイブラハム・オーヴァーホルトの遺言執行人(ヘンリー・Sの兄弟マーティン・ストウファー・オーヴァーホルトとクリスチャン・ストウファー・オーヴァーホルト)からA.オーヴァーホルト&カンパニーの名称を使用する権利を取得したり、ユニオンタウンのファースト・ナショナル・バンクとその他からA.オーヴァーホルト&カンパニーの3分の1の不可分権益を購入したそうです。更にティンストマンとフリッチマンから3分の2の不可分権益を購入し、フリックはブロード・フォードにある蒸溜所と土地、ブランドやトレードマーク、道具類や機械などを含む文字通り「ロック・ストック・アンド・バレル(一切合切)」の唯一の所有者となったとされます。ポンテフラクトは蒸溜所の経営パートナーとして留まったようで(3分の1の権利を所有?)、フリックは彼に5年間、当該敷地内でのウィスキーの製造、貯蔵、販売のために土地をリースしました。1883年にはティンストマンとフリッチマンがポンテフラクトにA.オーヴァーホルト&カンパニーの名称使用のためにリースしていた権利を引き渡すよう求めますが、ポンテフラクトは応じず、二人は彼を訴えます。1886年には、ティンストマンとフリッチマンがポンテフラクトに対して起こした訴訟が最高裁判所に到達。裁判がどうなったのかは、エイブラハムの来孫カレン・ローズ・オーヴァーホルト・クリッチフィールドが作成したタイムラインを見てもよく分かりません。ちなみにポンテフラクトは1884〜5年頃からジョセフ・A・フィンチ&カンパニーのパートナーとなり、有名なゴールデン・ウェディング・ライに関わってくる人物で、おそらくはピッツバーグを中心に活動したウィスキー・ディーラーかと思われます。彼のリカー・ディーラー仲間が「ペンシルヴェニアの他のどの男よりもウィスキーについて知っている」と信じていた程の人物だそうで、どうやらその頃ウィスキー・トラストやレクティファイアーがピュア・ウィスキーの市場を動乱させていると感じていたらしい。オーヴァーホルトのウィスキーを本物と認めていたからこそ、そのビジネスに関わりたかったのでしょうか? もしかするとオーヴァーホルトの代わりにゴールデン・ウェディングを製造することで、オーヴァーホルトから撤退したのかも知れませんね。ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりご教示いただけると助かります。

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1887年、クレイ・フリックは友人であり既に1882年に父から銀行の陣頭指揮を任されていたアンドリュー・W・メロンと、運営を担当したチャールズ・W・マウクをパートナーとして迎え入れ、それぞれが会社の3分の1を所有するようにしました。マウクはオーヴァーホルト・ブランドの優れたマネージャーだったようで、彼の在任中に同社はウィスキーの正式名称として「オールド・オーヴァーホルト」を採用し、1888年に家長だった人物への尊敬の念を込めラベルにエイブラハムのしかめっ面の肖像を添えるようにしたと伝えられます。これが今日でも我々にお馴染みの「顔」の始まりでした。またその頃、ウィスキーを樽ではなく主にボトルで販売するようにもなった模様。1897年にボトルド・イン・ボンド法が成立すると、すぐにその規定に従ったウイスキー製品を造りました。但し、同社は法定最低期間の4年を遥かに上回るウィスキーをボトリングしていたそうです。そして、従来小売業者に委ねられていた広告を初めは地域的に、その後全国的に出すようになったと言います。これは蒸溜酒メーカーとしては当時はまだ目新しいことでした。それが功を奏したのか、世紀の変わり目までにオールド・オーヴァーホルトは全国的なブランドに成長し、ペンシルヴェニア・ライ最大の生産者ではないにしても、20世紀初頭には一流のウィスキーとして最も尊敬を集める存在となりました。

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偖て、ここらでブロード・フォードの蒸溜所に話を戻します。ピッツバーグから30マイルほどの位置にあるコネルズヴィルのブロード・フォード蒸溜所は、ペンシルヴェニア・ウィスキーの歴史の中で最も重要な蒸溜所の一つであり、業界で最大ではありませんでしたが十分に大きく常に近代的な蒸溜所でした。1850年代半ばに建てられた当初から品質に対する評判は確立されていたのでしょう、1866〜67年頃に(68年とする説も)初期のジェイコブ・S・オーヴァーホルトの蒸溜所は取り壊されて、新しい施設に切り替えられたと言います。その後もミルとディスティラリーの継続的な拡張はなされ、1880年にはプロジェクト#3が開始、石炭を利用した蒸気動力により、一日当たりの生産能力は穀物800ブッシェル、ウィスキー3450ガロンとなりました。1899年には全工場を解体して改築し、新しいラック倉庫を追加する別の建築プロジェクトが開始されます。工事は1905年に終了し、1日当たりの生産量は穀物1500ブッシェル及びウィスキー6450ガロンを達成しました。新しいボトリング・ラインと品質を向上させるために独自の樽を製造するクーパレッジも備えていたたようで、熟成ウィスキーの在庫は膨大だったと伝えられます。しかし、全てが順風満帆という訳ではありません。ブロード・フォード蒸溜所は2回の大きな火災に遭いました。
1884年7月23日の火災では、当時の建物はレンガや石ではなく木造だったため、午後11時に一旦火が着くと誰もその炎を止められず、メイン・ビルディングと3つの保税倉庫、7000バレルのウィスキーが3時間で焼失したそうです。火災の原因は特定できなかったようで、「ミルの粉塵の自然発火」から「作業員の残した葉巻」まで様々な推測があったとか。火災の被害総額は55万ドル、うち建物と機械の損失は11万5千ドルと報告され、600バレルのウィスキーが収納された倉庫一棟は無事でした。
オーヴァーホルト蒸溜所の工場が火事で焼失してからちょうど21年。その間、工場は随時大幅に拡張され能力も向上し、アメリカ国内でも指折りの蒸溜所の一つとなっていました。当時のA.オーヴァーホルト社の株主には、アンドリュー・W・メロンの弟リチャード・B・メロンも加わっていたようです。1905年11月19日の日曜日に起きた2回目の火災では、蒸溜所本体は全くダメージを受けませんでしたが、巨大なウェアハウスDが炎に包まれ完全に焼失しました。建物は炎により徐々に崩れ、そこには非常に古い在庫とそれほど古くない在庫を含む16000バレルのウィスキーがあったものの、その全てが煙になったり地面に染み込んだりして消えました。これは当時の1日あたり6450ガロンの生産能力で約4ヶ月分に相当し、その頃のオーヴァーホルトのウィスキーは1樽平均50ドルの価値があったそうです。また、蒸留所に隣接するグレイン・エレヴェイターに入っていた7500ドル相当のライ麦10000ブッシェルが水に浸ってしまい全損しました。この火事はブロード・フォードの工場全体と町をも壊滅の危機に曝すものでしたが、オーヴァーホルト社の従業員の機転(燃え盛る倉庫の炎が収拾がつかないと見るや、プラントのエンジニアは他の倉庫に入って蒸気パイプを叩き壊し、それから蒸気の圧力を全開にして建物の内部全体を湿らせた)や、コネルズヴィルとニューヘイヴンの消防士の絶え間ない努力により、炎が建物の外に広がるのを防ぐことが出来ました。風が微風とはいえ川の方へ吹いていたことがそれ以上財産を食い荒らさなかった理由と見られ、もし風が川側から吹いていたらブロード・フォードの家屋も全て焼け野原となっていたかも知れません。1905年当時、ブロード・フォードの蒸溜所にはグレイン・エレヴェイター、穀物倉庫、約88000バレルのウィスキーを貯蔵できるウェアハウスA〜D、そして大きなボトリング・ハウスがあり、全て近代的な仕様で建設または改築され、徹底した保険が掛けられていました。株主達はウィスキーと建物だけで総額80万ドル以上の損失と見積もりました。火災の原因については、施設に近接してアクティヴな鉄道線路あったため 、通過する列車が火花を散らし、それがウェアハウスDに入り込んだのではないかと云う推測が有力視されています。最初の火災が発見される少し前にボルティモア&オハイオ鉄道の46号車がブロード・フォードを通過していたのだそうです。蒸溜所本体は無事だったので、おそらくニ週間後には工場を稼動させたでしょう(ジェネラル・マネージャーのジョン・H・ホワイトは当時の新聞記事でそう述べ、R・B・メロンもすぐにでも再建すると発表していた)。

残念ながら、ブロード・フォードにしろウェスト・オーヴァートンにしろ、そのウィスキーの味わいの秘訣とでも言うような部分、即ち原材料や蒸溜工程、またスティルの仔細については明確なことがよく分かりません。スピリッツの歴史家デイヴィッド・ワンドリッチは、1880年にブロード・フォード蒸溜所が1日に約3450ガロンのライを生産していた頃、工場を視察した一人のジャーナリストがおり、彼は自分の「専門用語を覚える能力は平均以下」で「何の説明も出来ない」と告白しているけれども、カッパー・スティルを使用する会社は、昔ながらの製法であるという信頼性を大衆に示すため殆どの場合その事実を広告で言及したので、オーヴァーホルトの広告にはそのような記述はなかったことから、木製のスリー・チェンバー・スティルを使用していたと考えられる、という趣旨のことを述べていました。スリー・チェンバー・スティル(またはチャージ・スティル)は1800年代初頭のアメリカで発明され、1800年代半ばから後半に掛けて特にイースタン・ライ(ペンシルヴェニアやメリーランドのライ)のメーカーに流行し、禁酒法施行後間もなく姿を消したポット・スティルとコラム・スティルの中間様式の蒸溜機です。
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(J.B.ワセンが1875年頃に使用した直立式木造三室蒸溜機)
或る人はコンティニュアス・スティルとチェンバー・スティルの違いをエスプレッソ・マシンとフレンチ・プレス・コーヒー・メーカーの違いのようなものと喩えていました。前者は数秒で蒸気が通り、後者はお湯の中でじっくりと蒸らされるが、どちらもコーヒーでありながらその味わいは大きく異なる、と。殆どのバーボン用コンティニュアス・スティルではマッシュがスティルの内部で蒸気に触れている時間は約3分程度、対してスリー・チェンバー・スティルでは1時間近くのようです。どちらの技術もマッシュから全てのアルコールを抽出しますが、チェンバー・スティルの方がより多くのフレイヴァーを抽出するとされます。ワンドリッチは、ポット・スティルがマズル・ローダー、コラム・スティルがマシンガンとするなら、チャージ・スティルはその中間に位置するボルト・アクション・ライフルのようなものと喩えています[※マズルローダーとは、銃口(マズル)から弾を装填するタイプの銃のことで、主に火縄銃やフリントロック式などの先込め式古式銃のこと。マシンガンは、弾薬を自動的に装填しながら連続発射する銃。ボルト・アクションは、ボルト(遊底)を手動で操作することで弾薬の装填、排出を行う機構を有する銃の総称]。手動操作が必要ながら一度で2回半の蒸溜に相当し、ポット・スティルよりも安価かつ効率的に実行でき、それから生まれる製品はポット・スティル・ウィスキーよりもクリーンでライトでしたが、殆どのコラム・スティル・ウィスキーよりもヘヴィ・ボディでリッチなフレイヴァーだったところから、イースタン・ライの蒸溜所に愛用されたようでした。1898年の歳入局の調査によると大手のライ蒸溜業者16のうち13(そのうち9が木製)がチャージ・スティルを使用していたのに対し、バーボン蒸溜業者は10のうち1だけだったとか。ブロード・フォード蒸溜所も或る時にコラム・スティルに切り替えたのかも知れませんが、少なくとも1800年代後半はスリー・チェンバー・スティルを採用していたのでしょう。
ついでに蒸溜器以外でのケンタッキー・バーボンとイースタン・ライの相違点を挙げておくと、1880年代頃にはケンタッキー州の蒸溜所では規模の大小に拘わらずバーボンでもライでも、スペント・マッシュの一部を次のバッチに投入するサワーマッシュ・プロセスが一般的となっていたと思われますが、ペンシルヴェニア州やメリーランド州のライ蒸溜所はスペント・マッシュを使わないスイート・マッシュ・プロセスを多く採用していたと言われています。また熟成庫のスタイルも、ケンタッキーでは冬季に使用するヒート機能のない木造にトタンを貼ったリックハウスが主流なのに対し、ペンシルヴェニアやメリーランドでは冬の低温による熟成の遅れを防ぎ、一年中一定の温度を保つ蒸気加熱機能付きのレンガや石造りのウェアハウスを建てる傾向がありました。加熱式倉庫でウィスキーの品質を維持するためには低いバレル・エントリー・プルーフが重要だったと見られ、歴史的なライ・ウィスキーのバレルの中身は50%のエタノールと50%の水、つまり100プルーフでのバレル・エントリーだったとされます。あと、樽の大きさも現在より小さかったらしく、熟成に使われるライ・ウィスキー樽は通常42〜48ガロンだったとか。これらはケンタッキーとペンシルヴェニアの違いというより「今昔」の違いかも知れませんね。

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一方、20世紀への変わり目、ウェスト・オーヴァートンにあった製粉所と蒸溜所の複合施設はウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーと名前を変え、オールドファーム・ペンシルヴェニア・ピュアライ・ウィスキーの生産を続けていました。ウエスト・オーヴァートンで蒸溜/熟成されたこのウィスキーは、ブロード・フォードのより近代的な蒸溜所から生み出される製品に似ていたが同じではなかったとされます。その製品は人気を博し、いつしかウェスト・オーヴァートン蒸溜所の建物の広い面には「OLD FARM」という名前が描かれるようになりました。エイブラハムが創業した1810年以来この蒸溜事業はノンストップで続いており、1906年には50万ドルを投資して改修を行い、レンガ造りの6階半建てボンデッド・ウェアハウスAとB、ボイラー・ハウス、オフィス・ビルディング、ドライ・ハウス、新しいボトリング施設などを建設しています。ヘンリー・Sの息子エイブラハム・C・オーヴァーホルトの下で1907年に会社は再編成され、ウェスト・オーヴァートン蒸留所はウィスキーの生産を、A.C.オーヴァーホルト・カンパニーはヴィレッジの賃貸を管理することになりました。当時は禁酒法への機運が高まっており、既に幾つかの州ではアルコールの非合法化が決議され、アンチ・サルーン・リーグやウーマンズ・クリスチャン・テンペランス・ユニオンは会員を増やしていたので、後から振り返ると不確実な投資であったように思ってしまいますが、ウェスト・オーヴァートンでは年々ライの販売量が増え、1910年代初めまではまだまだマーケットは好調でした。しかし、改修から10年後、禁酒法を目前に控えるとウェスト・オーヴァートンで最後のスピリッツが製造されます。倉庫を一掃し、残った在庫はブロード・フォードに運ばれました。ウェスト・オーヴァートンの蒸溜所は長年に渡ってその地域の主要なビジネスでした。禁酒法により蒸溜所が閉鎖されると地域経済の多くの部門、穀物を栽培する農家、穀物を粉砕する製粉業者、樽を作るクーパー、ボトルを作るガラス職人などが苦境に立たされ、村の経済は大きく変貌しました。1928年頃から前に言及したヘレン・フリックがウェスト・オーヴァートンの土地を所有し、博物館として整備を始めるのです。では、次に時計の針を戻してまた別の流れを見て行きましょう。

ヘンリー・クレイ・フリックは1878年頃ピッツバーグに開設した近代的なビルディングの本社から、全国の営業所のネットワークを管理していました。しかし、20世紀に入ると禁酒運動の波は強さを増しており、上質なウィスキーを製造し販売するための窓口は閉ざされようとしていました。1907年、フリックとアンドリュー・W・メロンは、禁酒主義者に睨まれるのは得策でないと判断したのか、A.オーヴァーホルト&カンパニーの蒸溜ライセンスから自分達の名前を消すよう申請しますが、彼らの会社の所有権は残りました。1913年までに9の州が完全にドライとなり、別の31州では市や郡や小さな町および村でローカル・オプション(自治体選択権法)により酒類販売が禁止されていました。急速にアメリカのアルコール産業とディスティラーにとって物事は厳しくなり始めたのです。
そうした風潮に対応して幾つかの市場では、オーヴァーホルトの広告は古風なイラストを使って味わいと伝統を訴えるものからブランドの薬効を主張するものへと変わりました。それらの広告の中には、オーヴァーホルトを家庭の薬棚の伝統的な品目として位置づけ、家族の健康を管理する役割をもつ婦人が利用するようにアピールするものもあったそうです。或る広告では「祖母は風邪にホット・トディが効くことをよく知っている、彼女の少女時代からの間違いない治療薬」と書かれたり、また別の広告ではスタイリッシュな服を着た若い女性が薬品棚を開けている絵の下にオーヴァーホルトのような「第一級のウィスキーは家庭で薬用として使う」と述べていたとか。また、インフルエンザから「深刻な事態の予防」まで汎ゆることに効くという広告もあったり、看護婦が髭面で眼鏡を掛けた医師にウィスキーのボトルを渡している様子まで描き「大多数の病院で選ばれている」と書いているものもあったそうで、ここまで来ると胡散臭さ全開です。1800年代後半でも「家にオールド・オーヴァーホルトがなければ安全ではない」というスローガンを宣伝に掲げていたらしく、まあ誇大宣伝は以前からなのかも知れません。

1917年4月、アメリカはヨーロッパで勃発した第一次世界大戦に参戦しました。アメリカが戦争に突入するまでヨーロッパの食糧供給は低く、そこでは農業生産が途絶えていました。結果として生じた需要はヨーロッパとアメリカの両方で価格を上昇させました。しかし、作物、家禽、家畜、その他の農産物を拡大するには時間が掛るため、すぐに増産することは出来ません。そこで議会は管理を通じてアメリカの消費を削減することを決定します。これでアメリカの軍隊とその同盟国の軍隊を養い、更にヨーロッパで苦しんでいる人々に人道的な食糧救済を提供することも可能になる、と。8月10日、通称レヴァー・アクトまたはレヴァー・ローと知られる食品燃料統制法(Food and Fuel Control Act)が通過し、戦争に必要な食糧を確保するため蒸溜酒製造に於ける穀物や食材の使用を禁止しました。禁酒法を支持する人たちは、レヴァー・アクトは禁酒法への一歩だと考え、広く支持しました。この緊急戦時措置は第一次世界大戦の終わりに失効するように設定されていましたが、最終的な酒類禁止に向けた準備の多くのうちの一つという側面があったのです。戦時中は、仮にウィスキーが造れたとしても、穀物価格が高騰し採算が取れませんでした。そのため蒸溜所は操業を一時停止するか、または軍の燃料と製造ニーズに合わせたニュートラル・スピリッツの生産をしました。
ブロード・フォードのA.オーヴァーホルト&カンパニーでヘンリー・クレイ・フリックとパートナーだったリチャード・B・メロンは、1918年3月28日、フリックに宛てて「110000000ガロンの汎ゆる種類の飲料用蒸留酒」に就いての手紙を書き、禁酒法により閉鎖を命じられた後の利益に関することをあれこれ思案していました。同社はできる限りのことをし、1918年、ボトリング・ラインを稼働するために若い女性を多く雇い、買い溜めしたい人々へ向けてウィスキーを市場に流通させたそうです。1918年12月12日以前、A・W・メロン、R・B・メロン、H・C・フリックの三者はそれぞれA.オーヴァーホルト&カンパニーおよびウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーの二つの蒸溜会社の資本金全体の3分の1を所有していましたが、その日、二つのパートナーシップを形成し、1919年1月に彼らはA.オーヴァーホルト&カンパニーとウェスト・オーヴァートン・ディスティリング・カンパニーの保税倉庫に保管されていた大量のウィスキー在庫を含む全資産をそのパートナーシップに移譲させました。どちらの会社も1916年以降はウィスキーを蒸溜しておらず、1918年にそれぞれの事業の清算が開始されました。そもそもパートナーシップはそれらの清算を目的として組織され、ウィスキー証書の販売とストレージ、ボトリング、ケーシング、ストックの販売から成っていました。
第一次世界大戦が終わると、本格的な全国禁酒法が目前に迫っていました。大戦の銃声が止んでから二ヵ月後の1919年1月16日、遂に憲法修正第18条が批准されます。その年の暮れ、12月2日、ウィスキー業界の運命の転換と歩調を合わせるかのように、70歳の誕生日を数週間後に控えたヘンリー・クレイ・フリックは心臓発作でこの世を去りました。12月5日、長年の友人であり遺言執行者でもあるアンドリュー・W・メロンが参列した個人葬の後、ペンシルヴェニア州ピッツバーグのホームウッド墓地に埋葬されます。フリックは財産の6分の1を家族に残し、残りはニューヨーク、ピッツバーグ、そしてコネルズヴィル・コークス地域の慈善団体に遺贈されました。フリックが所有していたA.オーヴァーホルト&カンパニーの持分はアンドリュー・メロンに託され、これによりオーヴァーホルト家によるウィスキー事業の所有権は終わりを告げます。ここでは触れなかった興味深いフリックのその他の人生(サウス・フォーク・フィッシング&ハンティング・クラブの創設メンバーとしてサウス・フォーク・ダムの改造を行い、ダムの決壊を招いてジョンズタウンの大洪水を引き起こした事件や、労働組合に厳しく反対し、ホームステッド・スティール・ストライキで引き起こされた激しい闘争、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーとの出会いと対立、その財力により蒐集した膨大な「フリック・コレクション」など)は、彼のウィキペディアや伝記を参照ください。

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銀行家のアンドリュー・W・メロンはアメリカで最も裕福な男性の一人でした。1890年頃にはジョン・ロックフェラー、ヘンリー・フォードと並ぶアメリカ合衆国で最も財のある三人の富豪のうちの一人とすら言われています。オールド・オーヴァーホルト蒸溜所が成長するために資金を必要とした時、彼は親友のフリックを助けて来たのだと思います。また彼はフリックの財産の執行者でもありました。フリックの死後、アンドリューは当時国内で最大かつ最も成功したウィスキー事業の一つを管理するようになります。オールド・オーヴァーホルトの事業も、禁酒法によってアメリカの醸造所や蒸溜所の殆どが閉鎖を余儀なくされたのと同じように苦境に立たされました。しかし、アンドリューとの関係もあってか、オールド・オーヴァーホルトは政府が発行するメディシナル・ウイスキーの販売許可を得ます。このライセンスにより、オールド・オーヴァーホルトは既存のウィスキー・ストックを「医療目的のためにのみ」パイント・ボトルにボトリングし、合法的に薬剤師へ販売することが出来るようになりました。薬用ウィスキー会社はそれほどお金を儲けられる商売ではなかったようですが、ライセンスは貴重でした。アンドリュー・W・メロンはすぐ後の1921年にウォーレン・G・ハーディング政権下の財務長官に就任します。彼が座ったのは嘗てウィスキー・リベリオンを鎮圧するために西ペンシルヴェニアに進軍したアレグザンダー・ハミルトンが最初に座った椅子でした[※ハミルトンは初代財務長官。彼が連邦軍を率いた後、ペンシルヴェニア州西部の多くの人々が彼を軽蔑して肖像画を逆さまに吊るしたと云う]。このことがオーヴァーホルトのライセンス取得と関係していると疑われています。アンドリューは偉大な人物であり最高の成功を収めた実業家と考えられていたので財務長官となりましたが、もしや薬用ウィスキーのライセンスという有利な許可書を自らに付与したのではないか、と。そもそも財務長官就任前から蒸溜所の所有と銀行のトップであったことは懸念されていました。ちなみに弟のリチャード・B・メロンはアンドリューが財務長官に任命された年にメロン銀行の頭取に就任しています。ともかく、アンドリューのお陰でオーヴァーホルトの会社は存続でき、他の競合相手であったギブソンやグッケンハイマーのような広く人気のあったウィスキー会社は閉鎖を余儀なくされ、他にペンシルヴェニアで許可を得たのはアームストロング郡シェンリーのジョセフ・S・フィンチ蒸溜所くらいでした。ついでに言うと、1920年から1922年に掛けて政府はペンシルヴェニア州の二つの蒸溜所(ジェファソン・ヒルズのラージ・ディスティリング・カンパニーとスクラントン近くのバレット・ディスティリング・カンパニー)とメリーランド州の一つの蒸溜所(グウィンブルック・ディスティラリー)に少量の薬用ウィスキー製造を許可していました。

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(Christie'sより)
ところで、オーヴァーホルト・ライのボトルの中でも一際変わったラベルの物があります。お馴染みのエイブラハムの顔がなく、プルーフや熟成年数に関する記載もなく、ボロボロの巻かれた紙のイラストに「OVERHOLT RYE WHISKEY」の文字と年号の表記だけがあるシンプルなラベル(年は赤色で印刷)。2015年秋にクリスティーズが大量に競売にかけたことで有名になった物です。それらはメロン家の血を受け継ぐ一人、リチャード・メロン・スケイフ(全米屈指の資産家でありピッツバーグ・トリビューン=レヴューの発行人)のワインセラーから来たオーヴァーホルト・ライのプライヴェート・ボトリングでした。ヴィンテージには1904、1905、1906、1908、1909、1910、1911、1912年があり、ボトルはオリジナルの木製ケースに入れられて保管されていたようです。流れとしては、リチャード・B・メロンが1933年に他界し、子供のサラ・コーディリア・メロン・スケイフとリチャード・キング・メロンに多くのライを残し、サラはまたその遺産を息子のリチャード・メロン・スケイフに遺し、2014年に彼が他界すると、その遺産の購入者はオーヴァーホルト・ライが約60ケース残っているワインセラーを発見、クリスティーズがオークションを請け負った、という感じでしょうか。一説には、ブランドを所有していたアンドリュー・W ・メロンと弟のリチャード・B・メロンは、禁酒法が始まる直前、前もって保管していた過去15年間に生産された最高のライのバレルを個人消費のためにボトリングし、一族が「高貴な実験」による「大旱魃」を乗り切れるようウィスキー100ケースを自宅に送ったのではないかと考えられています。この場合ウィスキーは10〜14年寝かせた後、おそらく1919年あたりにボトリングされ、後に再ボトリングされたのだろうと推測されていました。他には、オークションに出されたガラス瓶は1930年代初頭のものとされているため禁酒法終了後に一部ボトリングされたのかも知れないとか、1930年代半ばから後半ボトリングとしている説もあり、その場合は凡そ20数年熟成のライだろうと予想されていました。これらはラベルの年号を蒸溜年とする見方です。
一方で、リチャード・メロン・スケイフの流れからではなく、アンドリューの息子ポール・メロンからオーヴァーホルト・ライを分けてもらえた人々がおり、そのプライヴェート・ボトルの存在は好事家の間で前々から知られていました。ポール自身による説明はかなり具体的です。「オーヴァーホルト・ペンシルヴェニア・ライウィスキーのこれらのボトルの歴史は次の通りです。1918年に禁酒法が制定された時、私の父はオーヴァーホルト蒸溜所の多くの株を所有していました。当時、株主は会社の解散に際し、報酬を現金か在庫のどちらかで受け取ることが出来ました。そこで父は自分の持分の大部分を在庫品、つまりウィスキーのケースで受け取ることを選択し、結局その殆どは私が受け継ぐことになったのです。それらはピッツバーグの我が家に何年も保管されていました。元々は1906年、1908年、1909年、1911年、1915年のケースがありました。今は1905年と1911年のケースしか残っていません。けれども、ラベルに記された年号は単にボトリングの日付だと思われ、そう仮定するとウィスキーは少なくとも12年から15年ほど木樽の中で熟成されていたものと推定されます。1930年代初頭、古いボトルの多くは欠陥があり、複数の亀裂が入り朽ち始めていました。そこで私はセラーにある全てを慎重に濾して瓶詰めし直しました。新しいボトルとそのラベルはオリジナルの正確なコピーですが、コルクを金属のスクリューキャップに取り替えるのが賢明であるように思われました」とのこと。彼はラベルの年号をボトリング年と考えていたようです。また、ポールの友人の友人の或る方は面白い話があるとして、下のようなエピソードを披露していました。「約20年ほど前、ヴァージニアの億万長者で慈善家のポール・メロンと知り合った私の旧友が1908年、1909年、1910年、1911年の4ケースのオールド・O(Old Overholt Ryeの愛称)を貰いました。私は1910年と1911年の2本のボトルをクリスマス・ギフトとして連続的に贈られました。それらは驚異的で、或るヴィンテージが他のヴィンテージよりも優れていたのを覚えています。どっちがどっちだったかは今となっては思い出せません。どうやら、大量の資産となるこれらの代物は、ポールの父アンドリュー・メロンによって、禁酒法時代に所有地の馬車小屋の床下の部屋に埋設されたらしい。それが60年代のある時期に発見され瓶詰めされた。ポールは、父親がよくゲスト達にそれをコニャックと偽っていた、と言っていました。そのままで実際コニャックにとてもよく似た味だったので、私はこの話を信じてるんです。今でもいくつか持っていたらいいのに!」と。
それと、ポールの二番目の妻バーニー・メロンことレイチェル・ランバート・メロンの遺産から来たというこのラベルのパイント瓶もネット上で見かけましたし、リチャード・ビーティーの息子リチャード・キングがリボトルしたと云う情報も見かけました。孰れにせよ、我々アメリカン・ウィスキー愛好家からすると全くもってメロン家の人々が羨ましいと言うしかなく、禁酒法開始前に製造されているこのウィスキーは、おそらくライとバーリー・モルトを原料とし、木製スリー・チェンバー・スティルで蒸溜され、加熱式倉庫で熟成されたものでしょう。オークション時から100年以上前のウィスキーでありながら状態は完璧であり、通常のオールド・オーヴァーホルトよりも樽の中で長い時間を過ごしたことで、よりリッチなスタイルのウィスキーになったと目されるその味わいを或る人は「ボトルの中のサンクスギヴィングみたい」と表現していました。つまり感謝祭で提供されるような料理を想起させる、ヴァニラ、シナモン、ナツメグ、カラメライズド・アップルが主体となっているらしいです。また1909年ヴィンテージは、杉、新鮮なリンゴ、ライ麦から来る柔らかなスパイシーさ、そしてトーストしたオークの風味が特徴、とされています。上述のワンドリッチも極めてリッチでとても良いウィスキーと絶賛していました。

禁酒法時代、オーヴァーホルト・ライは薬用ウィスキーとして合法的に処方されましたが、スピークイージーでも密かに売られていたと言います。実際、H・C・フリックがヨーロッパに負けないホテルを作ろうと計画し、600万ドルの資金で運営されたウィリアム・ペン・ホテルの地下で発見されたスピークイージーを調べたところ、禁酒法以前の日付のオーヴァーホルトのボトルが3本見つかったとか。オーヴァーホルト社は禁酒法が施行される直前、蒸溜所のスタッフと連邦政府のゲイジャーは昼夜問わず残業して働き、貨物列車2両分にあたる5000バレルのライを準備してフィラデルフィアへ出荷、そこからフランスに輸送したそうですが、このウィスキーがアメリカへ持ち帰られた(密輸)のではないかという憶測がありました。真相は藪の中とは言え、可能性は大いにありそうです。
メディシナル・パイントのオールド・オーヴァーホルトは画像検索で探してもあまり多く見つかりません。最もよく見かけるのは禁酒法時代後期にボトリングされたラージ蒸溜所産のものでしょうか。ウェスト・エリザベスのこの蒸溜所は特別な許可を得て1919〜1921年に蒸溜をしており、その時に生産された20000ガロンのウイスキーが保管されている非公式の集中倉庫でした。他にはウェスト・オーヴァートン蒸溜所産のものや、J.A.ドハティーズがボトリングした別ラベルのものもありました。
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(O.O.の薬用ウィスキーの裏ラベル)

1921年の段階で禁酒法の施行を監督していたのは、公式には財務長官でした。アンドリュー・W・メロンは直接の担当者ではありませんでしたが、禁酒法の施行は財務省内にあるため、厳密に言うと財務省のトップである人物は米国の禁酒法の執行責任者でもあったのです。大統領が蒸溜所を所有する人物を財務長官に指名したものだから、禁酒法支持者は激怒しました。彼らは禁酒法を施行する部署の責任者が蒸溜所と利害関係があることを好まず、アンドリュー・メロンに対して圧力をかけました。反サルーン同盟のような団体が全国的なキャンペーンを展開し、彼の名前は全国紙に載ります。アンドリューは世論の反発に耳を傾け、200万ガロン相当のオーヴァーホルト・ライの備蓄をユニオン・トラスト・カンパニーに引き渡し、オーヴァーホルト社を売却せざるを得なくなりました(アンドリューはピッツバーグのユニオン・トラスト・カンパニーのボード・メンバーであり、そもそも創設者だった)。ハーディング大統領の言い分としては、禁酒法の施行は財務省の管轄ではなく司法省の一部であるべきだ、と云うものでした。最終的にはハーディングの願いは実現することになり、1930年、禁酒法の施行は司法省に移され、最後はFBIの中の忘れ去られた小さな部門としてその役割を終えました。
1925年、ユニオン・トラスト・カンパニーはニューヨークのパーク&ティルフォード社にオーヴァーホルトを売却しました。残念ながらこの売却によってオーヴァーホルトの地元での所有は終わりを告げます。アンドリュー・メロンの伝記作家デイヴィッド・キャナダインは、メロンがフリックと設立したユニオン・トラスト社にオーヴァーホルトの全資産と残りのストックを買収させ薬用として販売するよう手配した、と述べていました。メロン自身はオールド・オーヴァーホルトのストックを使って酒類事業を実際に行う心算はなく、ヘンリー・クレイ・フリックとの長期的かつ緊密なパートナーシップの結果に過ぎないと常に考えていたようです。

パーク&ティルフォードは1840年に小売店および高級品の輸入業者として設立されました。その名前は創設者のジョセフ・パークとジョン・メイソン・ティルフォードから来ていますが、1923年にシガー・ストアの大規模なチェーンを運営していたデイヴィッド・A・シュルテ(**)によって購入されました。シュルテはロングアイランド東部でイチゴ摘みの仕事を始め、すぐにマンハッタンのタバコ屋の店員となり、驚くべきスピードでシガー・ストアを立ち上げ急成長させた男でした。タイム誌は「シュルテの名前は苦労して手に入れた富の象徴」と評したそうです。禁酒法時代を通じてパーク&ティルフォードはキャンディーを販売したり新しい香水を導入したりしましたが、シュルテがオールド・オーヴァーホルトを所有したのは、先を読んでの実験だったのかも知れません。禁酒法が終了すると、パーク&ティルフォードはそれを盛大に祝うかのように1933年12月5日、ヨーロッパ最高のウィスキー、ワイン、コーディアルを満載したチャーター船を海に浮かべ、ニューヨークとサンフランシスコに大量の貨物を上陸させて、裕福な人々の酒棚の再ストックを支援しました。どうやら酒類トレードの経験は満足の行くものであり利益も得たようで、シュルテは禁酒法終了後は酒類製造業に専念することにし、パーク&ティルフォード・ブランドの下にアメリカの古い優れた小規模蒸溜所を数多く集めます。1938年、パーク&ティルフォードはウィスキーの産地に近いケンタッキー州ルイヴィルに事務所を開設すると、先ずはルイヴィルのボニー・ブラザーズ蒸溜所を買収し、1940年にはペンシルヴェニア州ブラウンズヴィルのハンバーガー蒸溜所、1941年にはインディアナ州テル・シティのクロッグマン蒸溜所とケンタッキー州ミドウェイのウッドフォード・カウンティ蒸溜所、1942年にはメリーランド州グゥイン・フォールズのオーウィングズ・ミルズ蒸溜所と矢継ぎ早に買収して蒸溜事業を拡大、非常に大きな蒸溜会社になって行きました。こうしてパーク&ティルフォードは1930年代から1950年代に掛けて酒類ビジネスに於ける重要なラベルの一つに発展する訳ですが、これは別の話です。
シュルテはオーヴァーホルト・ライを手に入れるとすぐに、アメリカ政府へ180万ガロンのストックを原価で提供し、薬用ウィスキーとしてボトリングすることを提案しました。これは純然たる利他主義ではなく、1916年から製造していないウィスキーは日に日に古くなり味わいの木質化(オーヴァー・オーク)が進行していたからでした。しかし、この申し出は断られています。それが主な理由か判りませんが、1927年、シュルテはルイス・ローゼンスティールと取引を行い、シェンリーが既存のストック約20万ガロンを販売することになりました(ローゼンスティールはオールド・オーヴァーホルト・ピュア・ライウィスキーを24万ケース、ラージ・ピュア・ライウィスキーを12万ケース確保したとされます)。シェンリーはオールド・オーヴァーホルトとラージを所有していた訳ではなく、シュルテの代理人として20万ガロンをボトリングして販売することが契約内容であったらしい。ウィスキーは契約上、ボンデッド・ストレート・ウィスキーとしてラージとオールド・オーヴァーホルトのそれぞれのラベルで販売しなければならなかったようですが、それが実際にどんなものだったのかは私は画像で見たこともなく全く分かりません。 少なくとも長期間は販売されていないと思われます。シェンリーのオールド・オーヴァーホルトは、第二次世界大戦があったことを考えると40年代までは続いていないだろう、とアメリカン・ウィスキーの研究家ジョン・リップマンは推測していました。
混乱するのは、シュルテがオーヴァーホルトを手放した時期です。一説には、シュルテはプロヒビションが始まるとディスティラーやドラッギストでなくてもメディシナル・リカーで大儲けできることを証明したなどと言われ、1925年にオーヴァーホルト蒸溜所をメロンが支配するユニオン・トラスト社から在庫も含めて450万ドルで買収し、その後一転して27年に全てを770万ドルでアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)に売却した、とされます。AMSが持っていたライセンスはウィスキーの在庫を得るために買収したオーヴァーホルト社を経由したものだったとされているので、この情報と符号します。禁酒法にも拘らず、メディシナル・ライセンスは禁酒法施行前に製造されたウィスキーを販売する権利を与えるもので、ウィスキーの生産者から合法的にストックを購入することが出来、その後の業界の統合に非常に価値のあるものでした(1929年に政府が年間300万ガロンの蒸留酒の製造を許可するまではこのライセンスでは蒸溜は出来ませんでした)。1924年に設立されたナショナル・ディスティラーズは、1927年の段階でAMSの38%を所有し、禁酒法終了に向けた1929年にAMSの残りの発行済株式を購入しました。一方で、1932年の禁酒法廃止を目前にしてシュルテはブロード・フォード蒸溜所を改修して拡大、その数ヵ月後にブランド、蒸溜所、ウィスキー・ストックの全てをイェール大学出身の実業家でナショナル・ディスティラーズを率いるシートン・ポーターに売却したとか、1932年6月?にオーヴァーホルトとラージの両蒸溜所を100万ガロンに及ぶ新しいウィスキーと共に現金60万ドルと普通株式10万2000株でナショナル・ディスティラーズに売却したシュルテは大株主になった云々という情報もあったりして、27年と32年のどちらに売却したのか判らなくなります。シュルテの取引の詳細をご存知の方はコメントよりご教示ください。ともかくこの売却により、オールド・オーヴァーホルトのラベルはアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーのポートフォリオに入り、ナショナルはオールド・オーヴァーホルトとラージ両方の資産を手に入れることになりました。

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ナショナル・ディスティラーズのシートン・ポーターは同時代の多くの人に先駆けて禁酒法の廃止を予見し、閉鎖された蒸溜所やブランドを安いうちに買い漁っていました。おかげで禁酒法の解禁が訪れた時、ナショナルはアメリカ国内のウィスキー在庫の半分を所有するまでになっていました。そして、200を超えるブランドを所有するに至っていたのです。とは言え、それら全てのブランドが復活する訳ではなく、復活するものはごく僅かであり、プロモーションが行われるものは更に限られていました。オールド・オーヴァーホルトは、バーボンのオールド・テイラー、オールド・グランダッド、オールド・クロウ、メリーランド・ライのマウント・ヴァーノンと共に、ナショナル・ディスティラーズの大看板として選ばれたウィスキー・ブランドの一つでした。
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禁酒法が明けてすぐは、一見したところオーヴァーホルト・ライの状況は良好に見えました。ウェスト・オーヴァートンの蒸溜所は再開しませんでしたが、ブロード・フォード蒸溜所は拡張され、スティルに火が入れられると再び稼働し、未来に向かっていました。1914年時点に1日当たり7700ガロンのウィスキーを生産していたブロード・フォード蒸溜所は、禁酒法廃止後に生産量を増やし、1日当たり9760ガロンを生産するようになっていたと言います。エイブラハムの肖像が描かれたラベルのデザインは以前のものと殆ど変わりなく、売上も好調だったようです。しかし、おそらくレシピは禁酒法以前と全く同じではなくなったと見られ、工場の近代化による製造工程の変化は多少なりともあったのかも知れません。新オウナーのブランドの扱いは時代や在庫に順応するかたちで、4年熟成のオーヴァーホルトのストックが不足すると幾つかのボトルをペンシルヴェニアで当時操業していた6つのうちの1つだったラージ蒸溜所で造られたライ・ウィスキーでボトリングしたり、4年未満のライを入れたりしたとされます。ナショナルは禁酒法時代にペンシルヴェニアとケンタッキーにある閉鎖された蒸溜所をいくつも購入しており、それらの倉庫のストックがオールド・オーヴァーホルトとしてボトリングされたとか、一部にはカナディアン・ライをオーヴァーホルトのボトルに入れたとさえ言う人もいたらしい。1938年になると、そうした偽りの行為は殆ど見られなくなったそう(ラージ産の物は48年とか50年とされるボトルをネットで見かけました)。ブロード・フォードで製造され貯蔵したバレルが4年目を迎えるとボトルド・イン・ボンドのオールド・オーヴァーホルトが戻って来たのです。そう言えば、ウェスト・オーヴァートンのオールド・ファーム・ブランドもナショナル・ディスティラーズが引き継ぎ、ラージなどの他の蒸溜所の原酒を使用して幾つかのボトルを製造したという情報も見かけました。下の画像のラベルでは蒸溜はブロード・フォードとなっていますが、どうなのでしょうね?
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40年代に入ると、オールド・オーヴァーホルトとマウント・ヴァーノンというライの両雄の売上は減少しました。オールド・オーヴァーホルトのボトルには、30年代末期から40年代に掛けてボトルド・イン・ボンドの要件である4年を超えた5年や6年の年数表示が現れます(後には更に7年物や8年物も)。これは「ストレート」や「ピュア」を求めるドリンカーにとっては歓迎できる味わいの深みを与えたかも知れませんが、本来4年でよかったものが売れ残ったことを意味するため会社の会計士にとっては歓迎すべきことではありませんでした。1933年から7年が経過し、本来ならアメリカのライやバーボンは伝統的な個性を取り戻す時期が来ていましたが、禁酒法は平均的なアメリカ人の飲酒習慣を変え、禁止期間に成人した酒飲み達はカナディアン・ウィスキーやスコッチ・ウィスキー、そしてブレンデッド・アメリカン・ウィスキーに流れて行きました。ストレート・バーボンにはまだ支持者がいましたが、重厚かつリッチでスパイシーなライ・ウィスキーは年々売上が縮小し、いつの間にか時代遅れのスタイルになっていたのです。ナショナルはそうした潮流に合わせようとしていた可能性もあるとワンドリッチは指摘しています。1936年に設立されたコンシューマーズ・ユニオン・オブ・ザ・ユナイテッド・ステイツ(米国消費者組合)は、消費財やサーヴィスを購入者のためにテストし評価する雑誌「コンシューマー・リポーツ」を発行するようになりました。この団体は、消費者の利益を重視し、産業界や商業界の欺瞞を阻止しようとする新しい形のビジネス思考の産物でした。コンシューマーズ・ユニオンが1941年に発行したワインとスピリッツのリポートでは、明らかに重厚な「ストレート」を好む審査員がオールド・オーヴァーホルト・ライのキャラクターが変わったようだと不平を言っています。「このブランドはここ何年か少なからず変わった。 まだよく出来てはいるが、ひと頃の特徴的なブランド・フレイヴァーに欠け、かなりライトボディになった」と。今でも、現行のウィスキーと昔のものを比較して軽くなったとか質が落ちたと言う人はいますが、そうした発言はいつの時代も聞かれ、1940年の頃でさえもあった訳です。

ライ凋落の兆候は既に禁酒法期間中にありました。禁酒法が長引くにつれ、メディシナル・ウィスキーのストックに枯渇の懸念が生じた時、政府は薬用ライセンス所有者へ蒸溜の許可を出しましたが、蒸溜してよい量には制限があり、ペンシルヴェニアのオーヴァーホルトとラージ蒸溜所の割り当ては全体の4分の1しか認められず、残りはケンタッキー州のバーボン蒸溜所に回されていたのです。
100年の歴史をもったライ王朝が、なぜ13年10か月19日17時間32分半の短い間で崩壊したのかについては幾つかの要因が歴史家により指摘されています。上に挙げた消費者の嗜好の変化もその一つでしたが、コーンの栽培を奨励する政府の補助金によりライ・ウィスキーはコスト面で大きなハンディキャップを背負うことになったというのもよく語られる理由の一つです。そもそもライ・ウィスキーを造るのはハイコストでした。原材料のライはコーンより高価でアルコール収率も低く、製造プロセスも手間が掛かります(どろどろのマッシュとの格闘、より長い発酵時間、加熱式倉庫)。嘗てワイルドターキーのマスター・ディスティラーであるジミー・ラッセルはライ・ウィスキーを造るのは好きじゃないと言いました。おそらくバーボン製造に較べライ製造が面倒だったから出た言葉でしょうか。そうしたライ・ウィスキーの製造ノウハウの世代交代による引き継ぎは禁酒法により上手く行われなかったのかも知れません。禁酒法によって廃業したディスティラーは、南北戦争の頃に家業を始めています。彼らは1920年代までに60〜80歳になっていました。ライ・ウィスキー蒸溜所を所有していたか、或いは工場でマスター・ディスティラーとして働いていた男達の殆どは禁酒法期間中に亡くなり、彼らの息子や孫達は新しいビジネスを始めて成功を収めていました。憲法修整第21条により禁酒法が廃止された時、新世代のウィスキー・メーカーに適切な技術を教え指導できる人物はほぼいなくなっていたのです。仮にいたとしても、来たる1930年代の新しい雇用主は製造について異なる考えを持っていたでしょう。 
そしてドライ・エラの間、ソーダやアイスクリームの製造に転換したり、婦人用の毛皮を空の桶と一緒に保冷庫に入れたりした醸造所とは違い、蒸溜所はそのような代替品には適さなかった、とペンシルヴェニア・ウィスキーの歴史家サム・コムレニックは言っています。プロヒビションが制定されると蒸溜所の所有者は全ての機器を売り払いました。蒸気加熱倉庫の多くは蒸気管を剥ぎ取られて保管目的に改造されたり、銅は金属屑として貴重だったので数多の施設から残った銅パイプが奪われたと伝えられます。中でも最大の損失はチェンバー・スティルが失われたことでした。銅製のダブラーと長く曲がりくねったワーム・パイプを備えたチェンバー・スティルは、ピュア・ライ・ウィスキーを造るための理想的なスティル・デザインであることは禁酒法廃止後もよく知られていましたが、第二次世界大戦の後、蒸溜会社は高価で手間の掛かるこの工程に関心を示さなくなって業界からは姿を消し、大規模な工業用ウィスキーの生産に適したコラム・スティルに置き換えられました。
他のアメリカのスピリッツと同様にライ・ウィスキー産業も禁酒法によって壊滅的な打撃を受けた訳ですが、禁酒法後の法律によりライ・ウィスキー生産者の復活が規制された側面もありました。禁酒法が終わりに近づき、その廃止がいよいよ避けられない状況にあった時、ペンシルヴェニア州には国内ウィスキー在庫の3分の1が保管されており、同地の蒸溜酒製造業者と酒屋は、10億ドル規模の酒造ビジネスへの復帰を準備し、早く酒造りを始めようと躍起になっていました。しかし、1931年にペンシルヴェニア州知事に再選していたギフォード・ピンショーは、蒸溜酒製造業者のための競争市場を作ることには関心がなく、酒の不道徳性に対して非常に強い思い入れを持った絶対禁酒主義者でした。リピールの前に「最悪の禁酒法は最高の酒より無際限に優れている」という言葉を吐くほどに。 そこでペンシルヴェニア州の新しい酒税法は、ピンショーの道徳的狂信を強制するために作成されることになり、彼の計画の全てが実現する訳ではありませんでしたが、彼の提案したことの多くがペンシルヴェニアを統制州にしたようです。他に、時の大統領ルーズヴェルト関連で指摘されている規制もあります。禁酒法廃止のキャンペーンを展開したフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは、1932年11月、アメリカ大統領に選出されました。選挙からわずか数日後の1932年12月5日、アメリカ合衆国憲法の一部として修正第21条を提案する通称ブレイン・アクト(Blaine)と知られる合同決議が議会で可決されます。ルーズヴェルトが大統領に就任すると批准手続きが本格的に始まり、1933年12月5日にユタが36番目の州として修正条項を批准しました。ルーズヴェルトは禁酒法を終わらせるという選挙公約を実行に移す決意を固めていましたが、酒類産業の再建に待ち受けている複雑な問題を痛感してもいました。彼はブレイン・トラスト(Brain)とも呼ばれる顧問団に助言を求めます。その結果、ルーズヴェルトが1933年に打ち出した改革は、酒類業界の利害関係者が考えていたようなものではありませんでした。1932年に制定されたブレイン・アクトは酒を州に返還することを基本方針としたもので、各州は廃止が制定された後の進め方について独自の計画を立てていましたが、1933年11月末のルーズヴェルト政権の「蒸溜酒産業の公正競争規範」の草案は、農務長官と大統領の「アルコールおよびアルコール飲料の管理」特別委員会によって作成され、酒類ビジネス全体に一時的であれ連邦政府の厳格な管理を課すものでした。それは蒸溜酒製造業者らの想像を遥かに超えており、中でも1933年12月5日までに蒸溜所を完全に機能させることを義務づけ、それまでに生産状態に到達できない者は生産に入ることが出来ないという決定は、蒸溜業者達にとって大きな打撃となりました。12月5日以前は殆どの蒸溜所が改装中であり、このような短期間での改修は不可能だったからです。これで幾つかのペンシルヴェニアの蒸溜業者はその足並みを乱すことになったとされます。
ペンシルヴェニア・ライの消滅を促進したより大きい要因はウィスキー・トラスト(***)にあったかも知れません。大手のバーボン・プロデューサーズは禁酒法施行後の混乱に乗じて地域ブランドを買収し、大規模で拡張性のある蒸溜所に生産を集約させました。多くの蒸溜所を一つの企業の傘下に置いたそれらの統合者は、アメリカの蒸溜産業を今日まで続く姿に変えました。大企業が多くの施設とウィスキー在庫の大半を所有することで政府の反発を掻い潜り、リピール後に再び立ち上がることが出来た、と。しかし、ライ・ウィスキー業界には全体を統括するような企業は現れず、小規模で断片的なままであり、バーボン・プロデューサーズのような大規模な生産やマーケティング力を欠いていました。ウィスキー・トラストがペンシルヴェニアの蒸溜所を引き継ぐことが出来なかったということは、禁酒法解禁後に「ビッグ・フォー」の保護下に置かれなかったことを意味します。ウィスキー・トラストの設立はウィスキーの生産量ひいては株式市場価値や小売価格をコントロールすることを意図したものでした。そんな彼らが屈服させることが出来なかったのが、ペンシルヴェニアとメリーランドのピュア・ライ・ウィスキー市場でした。ペンシルヴェニアの蒸溜所でも他の蒸溜所と同様に過剰生産や穀物不足に悩まされていましたが、ニッチなカテゴリーに属していたため、過剰生産に歯止めをかけるために協力し合い、家族経営の企業が健全性と独立性を保つことで逆境を乗り切りました。ペンシルヴェニアのライウィスキー・メーカーは他の誰にもできないこと、つまりウィスキー・トラストに「ノー」を言うことが出来たのです。1890年代後半から禁酒法施行までの間にペンシルヴェニアの蒸溜所がウィスキー・トラストに勝利したことと彼らの誠実さは称賛に値するかも知れませんが、皮肉なことにペンシルヴェニアの蒸溜所が禁酒法の嵐を切り抜けられなかった最も大きな理由はその独立性の成功にあった、とペンシルヴェニア・ライの歴史に詳しいローラ・フィールズは指摘しています。彼らは一つの親会社の下に結束することはせず、船を操縦する船長もおらず、集中倉庫の許可が出た時にライ・ウィスキーを勝たせる強力な支持者もいませんでした。なるべく手っ取り早く安価なウィスキーを造りたいというのが、常にウィスキー・トラストの意志であり、禁酒法以前のピオリアの蒸溜所であれ禁酒法後のトラストが運営していた蒸溜所であれ、コラム・スティルと工業規模のモデルが常に優先されました。この企業モデルには残念ながらライ・ウィスキー製造のための場所はなかったのです。ウィスキー・トラストは自分たちのビジネスやブランドの収益にしか関心がありません。シェンリーやナショナルはペンシルヴェニアやメリーランドの蒸溜所やブランドを所有してはいましたが、禁酒法以前のそれらの遺産とは実質的な繋がりはなく、ライ・ウィスキー業界全体の利益のために行動する立場にはありませんでした。
更に悪いことに戦争がありました。第二次世界大戦はライ・ウィスキーに最後のダメージを与えるような出来事でした。戦時下になると政府はすぐに国内の全ての蒸溜所に魚雷の燃料や爆薬の製造などに不可欠な工業用アルコールの製造を命じました。1944年までに汎ゆる種類のアメリカン・ウィスキーは少なくなっていたと言います。その間、大衆にはブレンデッド・ウィスキーが主に提供されました。それは熟成させた少量のウィスキーを多量のニュートラル・スピリッツと水でカットしたもので、ストレート・ウィスキーの在庫が回復するまでの弥縫策の筈でした。しかし、それは大衆の酒飲みに受け入れられて行きます。1949年から1950年にかけてアメリカでのウォッカの売上は300%増加し、その成長は後の10年間も続くことに。大戦中、多くの蒸溜所がライ・ウィスキーの生産から工業用エタノールの生産に切り替えられ、終戦後、ライ・ウィスキー製造に戻るところは殆どなかったそう。第二次世界大戦末期以降、ライ・ウィスキーの売上は着実に減少。蒸溜酒の業界団体である米国蒸溜酒協議会(Distillers Council of the U.S.=DISCUS)の経済戦略分析担当のデイヴィッド・オズゴの推定によると、1952年にアメリカの蒸溜所が生産したライ・ウィスキーは約40万ナイン・リッター・ケースとされ、1936年にメリーランド州だけで生産された550万ナイン・リッター・ケースに比べると、如何に驚異的な落ち込み具合かが分かるでしょう。

その頃のオールド・オーヴァーホルトはと言うと、樽の備蓄が少なくなったからなのか、1942年にバーで使用するための新しい86プルーフのヴァージョンが発売されました。100プルーフのヴァージョンは自宅販売用に取り置かれたようです。概ね6年、7年、8年熟成のボトリングかと思われます。同じ頃(1940〜1942年あたり?)には鍵付きの木箱に入ったスクリプト・ラベルの特別な、もしかすると最初のバレル・プルーフ・ライであったかも知れないオーヴァーホルトもホリデー・シーズンに販売されました。熟成年数は6年半とされ、ラベルにはボトル・ナンバーとプルーフが手書きされています。シングルバレルなのかどうかはよく分かりませんが、プルーフには113、114、117、121、122、123、124、127など何種類かありました。ボトル・ナンバーが3000番台のものが見られるので、ある程度の数量はボトリングされてると思われますが、今となっては極めて希少なオーヴァーホルトであるのは間違いありません。
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禁酒法の後、オールド・オーヴァーホルトはナショナル・ディスティラーズのポートフォリオに主要なライとしての地位を占めました。ナショナルは禁酒法後の業界を支配したビッグ・フォーの筆頭であったため、オールド・オーヴァーホルトは自動的に国内で最も売れたライ・ウィスキーになりました。しかし、上で見たようにライ・ウィスキーは1920年以前に享受していた市場シェアを回復することはなく、バーボンとライの売上高の比率はバーボンに有利にシフトし続けました。そして、ブロード・フォード蒸溜所の最後の一滴がスティルから落ちる時が来ます。1951年、ナショナルは操業を始めてから100年を誇るブロード・フォード蒸溜所を閉鎖しました。ボトリング・ラインとウェアハウスはウィスキーが熟成する間さらに4年間営業し、1955年に売却されたようです。
ブロードフォード、石炭とコークスがブームの時は騒がしく混雑した鉱山の町。当時はブロード・フォードから続く谷間にはコークス炉がずらりと並び、オーヴァーホルト蒸溜所の門前まで社宅が入り込んでいました。軈てブームが去ると、鉱山労働者も町の商人達も苦境に立たされ廃業、いつしか社宅は消え、鉱夫もいなくなり、鉄道輸送網は雑草が生い茂り見えなくなり、蒸溜所だけが残りました。施設内の建物は殆どが明るい琥珀色のレンガ造りで神秘的な外観を呈していました。大きな丸いグレイン・タワー、大きなボンデッド・ウェアハウス、当時近代的なボトリング・プラント、建造物のうち最も高く聳える象徴的な模様を施した煙突、そして正面にはさほど大きくないが3階建てのオフィス・ビルディング…。偉容を誇ったその蒸溜所も遂に停止された訳です。それは全ての終局のようにも見えましたが、ナショナルはウェスト・エリザベスにある近くのラージ蒸溜所も所有しており、50年代半ば過ぎにその蒸溜所を閉鎖するまでオールド・オーヴァーホルトの蒸溜とボトリングを更に数年間続けました。ここで一旦オーヴァーホルトの話を離れ、ラージ蒸溜所の歴史についても記しておきましょう。

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ラージ蒸溜所はブロード・フォードの北西数マイルの位置にありました。ラージ家3世代が基盤を創り、その後、家族ではない者がラージ家の功績を継承して更に発展させたのがそのウィスキーの歴史でした。蒸溜所の建っていた近辺には今でもラージという名称が残っています。
ラージの家系はフレンチ・ヒュグノット(ユグノー。フランスのカルヴィン派プロテスタントのこと)出身の移民で、まだアメリカがイギリス植民地だった時代に渡って来ました。その中の一人にサミュエル・ラージがおり、妻エイミーと共にニュー・ジャージー州に定住しました。彼らの息子ジョン・ラージは独立戦争で兵士として活躍したと言います。独立戦争終結後の1790年代初頭、ペンシルヴェニア州アレゲイニー郡に移り住んだジョンは、農場を購入し、蒸溜所を建てました。これがラージ家の3世代に渡る高品質なウィスキー造りの始まりでした。ジョンが到着した当時のペンシルヴェニア西部は、新しく誕生した国家政府がウィスキーに課した税に対する反乱の温床となっていました。1794年にジョージ・ワシントンが最高司令官として軍隊を率いウィスキー・リベリオンを鎮圧しますが、ジョンは反乱軍には入らず、ウィスキー税を払い、妻のナンシーと7人の子供を育てたとされます。彼らの子供のうち、ニュー・ジャージーで生まれ、父に連れられて小さい頃にこの地にやって来ていたジョナサン・ラージは、ミフリン・タウンシップのアンドリュー・フィニーの娘イースター・フィニーと結婚し、レバノン・チャーチ近くの農場を購入。父と同じく蒸溜所を運営しました。その後ジョナサンはその土地を売却し、アレゲイニー郡ジェファソン・タウンシップのピーターズ・クリークに面した更に大きな農場を購入しました。ピーターズ・クリークの名前は、ピーターと呼ばれる昔のインディアン・トラッパーに由来しています。彼はそこに二つ目の蒸溜所を建設して畑で採れた小麦やコーンを使いウィスキーを製造したそうです。エイブラハム・オーヴァーホルトと同様に父ジョンが地域の人気商品として確立したモノンガヒーラ・ライ・ウィスキーを商業規模で生産したのかも知れません。
ジョナサンが亡くなると、その土地は最終的に末息子のヘンリー・ラージに譲られます。彼の名前は叔父にちなんで付けられ、区別のためか自ら「ジュニア」を名乗りました。1836年7月4日生まれのヘンリー・ジュニアは農場で育ち、若い頃から蒸溜作業に携わっていたようで、1861年にはアン・H・グリーンリーと結婚し、1868年に土地を購入、経営を引き継ぐと祖父が確立したモノンガヒーラ・ライの製造に従事して蒸溜所の成功に大きく貢献したと言われています。絵のように美しかったラージ蒸溜所には大きな欠点があり、製品を市場に出すには馬や牛のチームを編成し、荒れた山道を鉄道基地まで5マイル運ぶ必要があったそうですが、それでも何とかウィスキーを地域市場に販売することが出来たらしい。1889年に出版された『アレゲイニー郡の歴史』には「彼(ヘンリー)は祖父によって確立されたブランドであるモノンガヒーラ・ライ・ウィスキーの製造に従事しており、その優秀さは全国的な評判となっている」と書かれました。1928年に出版された『The Case for Whiskey』の中で著者のジョージ・コーズ・ハウエルは、1891年に初めてラージ・ライを味わい、非常に美味しいと感じたと語っているそうです。彼はこのウィスキーが山奥で造られ主に近隣住民やピッツバーグ周辺の人々に購入されていると聞いており、ラージのウィスキーに興味を持って更に調査してみると、旧家の家庭や会合での品質の評判は頗る良かったものの、所謂「ブレンド用」のウィスキーではなかったため、酒類業界ではあまり扱われていないことを知ったとか。「フレイヴァーもアロマも良いのですが、ブレンディングに使うにはライトボディ過ぎて、事実上全ての市販ウィスキーがブレンデッド・ウィスキーだったその時代にあっては、業界は特に興味を示しませんでした」。
しかし、一人のピッツバーグのウィスキーマン、フレデリック・C・レンズィハウゼンは違いました。彼は、1880年頃に設立された酒類卸売会社シュッツ, レンズィハウゼン&カンパニーの共同経営者で、リバティ・ストリート427番地の8階建てビルに入居していました。レンズィハウゼンは1884年にラージ蒸溜所のインタレストを購入し、1884〜1897年までビジネスはヘンリー・ラージとその妻と彼の三人による共同事業として行われました。レンズィハウゼンはラージの存命中はそのウィスキーの製造や商品化の方法には一切口を出さなかったようです。1895年にヘンリーが亡くなると、レンズィハウゼンは彼の遺産から農場、蒸溜所、古くから伝わるウィスキー・レシピ、そしてラージの名称を使用する権利を購入しました。1897年に単独オウナーとなったレンズィハウゼンは、農場内の古い家屋はかなり良い状態だったが蒸溜施設は古く荒れ果てていたため、設備の近代化と拡張に精力的に取り組み、新しい蒸溜所を建設しつつ最新の倉庫も増設しました。
ラージ・ディスティリング・カンパニーの事業は、主にウィスキーを蒸溜し、一定の契約に基づいて卸売酒類ディーラーに販売することでした。毎年9月から10月にかけては穀物の実勢価格を観察するために穀物の生育状況とシカゴやミルウォーキーの穀物市場の動向を注視しました。その観察で得られた洞察をもとに次の冬から春にかけて蒸溜するウィスキーの価格が決められ、その価格に基づいて卸売業者との契約が行われます。各蒸溜シーズンから残った様々な熟成段階のウィスキーは機会があれば取引先に販売して処理していました。また、倉庫業も行っており、蒸溜したウィスキーを熟成させて所有者が引き出すまで保税倉庫に保管し、所有者は販売契約に定められた月々の保管料を支払います。そして熟成させたウィスキーをボトリングやケーシングしてその所有者から対価を受け取っていました。時には様々な頻度で、自社の保税倉庫にあるウィスキーの倉庫証券を購入し、それを再販売して利益を得ていたようです。
ラージ・ディスティリング社の製品、ラージ・ウィスキーは全米の卸売業者や小売酒販店によって販売され、卸売業者はアメリカの主要なライ・ウィスキーの一つと見倣し、1917年に飲料用の蒸溜を停止するまでの長い期間、その需要は着実に伸びていたと言います。同社は蒸溜所をフル稼働させることは滅多になく、卸売業者から契約を募る前に次のシーズンに蒸溜するウィスキーの量を決定し、蒸溜する総量を考慮して契約を結ぶのが慣例でした。通常、特定の卸売業者との契約で指定される数量は、その業者が税金を納めている数量に基づいていました。その目的はラージ・ウィスキーの倉庫証券の投機を可能な限り防ぐことであり、そうした商慣習によって彼らのウィスキーの需要は原則として供給を上回っていた、と。
そしてレンズィハウゼンは広告のためにかなりの金額を費やしていたようです。その内容は、主要な業界誌や新聞への掲載、デザイン性の高いカードやブロッターの作成、価格表の配布などでしたが、中でも目玉は国際的な博覧会への出展でした。1893年のシカゴ・ワールズ・フェアでラージ・ディスティリング・カンパニーが小規模な展示を行って大いに注目を集めるとレンズィハウゼンは自社製品を展示する機会をほとんど逃さなくなり、彼はウィスキーを1900年にパリ、1904年にセントルイス、1905年にリエージュ、1906年にミラノ、1907年にジェームズタウン、1910年にブリュッセル、1913年にゲント、1914年にロンドン、1915年にサンフランシスコと出展し、10回のうち9回で金賞を含む大賞を受賞しています。レンズィハウゼンは、これらの栄誉をラージ・モノンガヒーラ・ライの広告やラベルや木箱にも誇示していました。1913年3月1日の段階でラージ・ディスティリング社は「Large Whiskey」や「Large, Established 1796, Monongahela Pure Rye Whiskey」のトレードネームを所有し、円に囲まれた五角形スターのトレードマーク、バレルらしきサークルの中に「Pure Monongahela Rye Whiskey Made by Henry Large, Jr., Pittsburgh, Pennsylvania」という意匠、或いは「Drink a Little Large」というスローガンを登録していました。
1907-1908年シーズンの蒸溜が始まって間もない1907年12月、ラージ蒸溜所は火災で焼失しました。レンズィハウゼンはすぐに大きな建物に建て替えましたが、次の蒸溜シーズンまでウィスキーの蒸溜は行われませんでした。火災がなければその後の4、5年間は1907-1908年シーズンに蒸溜されていたであろうウィスキーの貯蔵と瓶詰めから収入を得ていたでしょう。それでも、ハウエルによると1910年時点でラージ蒸溜所はアメリカで最も近代的で効率的な蒸溜所の一つとなり貨物輸送設備も他に引けを取らなかったと言います。冬でも夏でも同じ温度を保つスチーム・ヒーターが設置された10000から16000バレルを収容できる4つの耐火倉庫を持ち、ボトリング施設の最新の機器はウィスキーのラベル貼り、キャップ締め、ケーシング作業のそれぞれはコンヴェア・システムによってライン生産方式で行われ、ピーターズ・クリーク沿いにウォバッシュ鉄道のイースタン・コネクションが開通したことで、穀物を貨車から直接蒸溜所に降ろし、ウィスキー・ケースの積み込みも容易になったそう。更には酵母を科学的に増殖させ発酵を監督するために生物学を修めた人が担当する研究室まで設置されていたとか。レンズィハウゼンは借入金を使うことなく全て自己資金でラージ・ディスティリング社の事業を行い続け、その事業またはその利権や株は所有権がレンズィハウゼンにある間は一度も売りに出されたことはなかったそうです。ジョン、ジョナサン、ヘンリーのラージ三世代は近くのレバノン・チャーチ・セメテリーで共に眠りながら、自分たちが設立した蒸溜所とウィスキーの発展を誇りに思ったことでしょう。ちなみに、当時の家族は概ね数人の子供を産みましたが、ヘンリー・ラージには一人の娘ファニー・ローラしかいませんでした。ピッツバーグ・シティ・ペーパーのライター、クリス・ポッターによれば、このファニー・ラージは驚いたことに「蒸溜所に対する(父の)誇りを共有していなかったことは明らかで、彼女は一時期ウーマンズ・クリスチャン・テンペランス・ユニオン(WCTU、婦人キリスト教禁酒連盟)の代表を務めていた」らしい。
禁酒法が施行されると全てが一変したのは他の蒸溜事業と同じでした。1917年5月から同年12月31日までの間、食糧統制法によって飲料用に供する穀物や穀類の使用と輸送が制限されたためウィスキーは製造されず、1918年1月1日の時点で倉庫には35365バレルのウィスキーが保管されていました。もし食糧統制法による制限がなければ、1917年中もウィスキーの製造をし続け、その在庫は多くなっていたでしょう。彼らの4棟の保税倉庫の総収容量は55000バレルでした。戦時禁酒法の施行と憲法修正第18条の最終採択に向けた進展により、レンズィハウゼンは1918年にラージの蒸溜事業は永久に終了し、事業全体としては4年以内に完全に清算されると確信するようになりました。しかし、1919年にレンツィハウゼンは薬用ウィスキーを合法的に製造できることを認識し、その年の秋にラージ・ディスティリング社は薬用ウィスキー製造のための蒸溜事業を再開、1921年11月23日までその事業を継続しました。いわゆるウィリス=キャンベル法(国家禁止法を補足する法律)が制定されると、内国歳入庁長官が発行する許可証の下でなければ薬用ウィスキーの製造が出来なくなり、彼らは同法に規定された蒸溜事業継続の許可を確保するに至らなかったため、同事業は11月に中止を余儀なくされ清算過程に入りました。この期間の薬用ウィスキーの生産量は、1919年に396バレルズ、1920年に5858バレルズ、1921年に10400バレルズの計16654バレルズでした。先のハウエルによると、レンズィハウゼンは政府から海外に製品を出荷する許可を得て、1923年にブラジルのリオデジャネイロで開催された万国博覧会にラージ・モノンガヒーラ・ライを出展し、皮肉なことにアメリカでは違法とされたラージ・ライが他の地域で造られたウィスキーを抑えて再び金メダルを獲得したとか。
一方のシュッツ, レンズィハウゼン&カンパニーの事業はと言うと…。同社は1879年にレンズィハウゼンとシュッツとフレデリック・グェデマンによって設立されました。グェデマンは1892年に死亡し、その後、残った二人が対等のパートナーとして事業を継続していました。その事業はブランディ、コーディアル、ジン、その他の高級酒類、ワイン等を販売する酒類卸売業者でした。1913年3月1日時点では、「フォート・ピット・ウィスキー」、「ダイヤモンド・モノグラム・ウィスキー」、「クルセイダー・ドライ・ジン」の登録商標を所有していたとされます。同社の事業の清算は1920年に開始され、1925年に完了しました。禁酒法が施行された時、同社の商品在庫は上記の酒類で構成されていましたが、このクラスの商品は卸売/小売の医薬品業界では買われませんでした。内国歳入庁長官の許可を得て在庫を病院に寄付することになりますが、この清算方法には時間が掛かり過ぎ、1925年に残りの在庫は全て政府の監視下でビルの下水道に捨てられたと云います。
禁酒法後、ラージ蒸溜所はナショナル・ディスティラーズの所有になりました。ナショナルは禁酒法が明けた直後はラージのラベルを使ったようですが、その後すぐに引退させたようです。しかし、そこで生産されたウィスキーを上述のようにオールド・オーヴァーホルトとしてボトリングしました。この物件は後にノーブル・ディック社に売却され、1958年にウェスティングハウスにリースされました。ウェスティングハウスはそこに原子力研究施設を設立しました。現在では先端機器の耐久テストなどを行なう会社が入ってるようですが、外観は嘗ての蒸溜所の面影を少しく残しており、給水塔らしきものや「LARGE」と書かれたレンガの煙突は今でも立っているのがグーグルのStreet Viewで確認できます。では、話をオーヴァーホルトに戻します。

1950年代半ば頃にナショナルはウィスキー事業への関心を失っていた可能性があります。既に1953年にシートン・ポーターは亡くなっており、社長の座を継いでいたジョン・E・ビアワースは絶対禁酒主義者でした。1949年にポーターは当時ニューヨーク・トラストの社長だったビアワースを後継社長に任命しましたが、彼は最初その申し出を断わり、後にポーターが会社の化学分野への多角化に同意したので受け入れました。1952年、ナショナル・ディスティラーズは工業用アルコール、殺虫剤、不凍液、樹脂のメーカーであるUSインダストリアル・ケミカルズと合併しています。同社の酒類販売が落ち込み始めたため、化学分野への多様化は良いタイミングでした。売上高の減少は、主にナショナルの100プルーフ・バーボンよりもブレンデッド・ウィスキーに対する消費者の好みによるものとされています。ブロード・フォード蒸溜所の売却、また同じ頃にメリーランドのライ蒸溜所であるボルティモア・ピュア・ライ蒸溜所をシェンリーへ売却して得た資金は化学事業への資金となったのでしょう。ナショナルは56年頃にラージ蒸溜所も閉鎖しますが、その後もオーヴァーホルト・ブランドを維持しました。おそらく1960年前後まではブロード・フォードやラージのストックを使ってオールド・オーヴァーホルトを造ったと思われます。この時点から約20年間の生産の詳細は曖昧で、ラベルによりペンシルヴェニア州で蒸溜されたことは確認できるものの、何という蒸溜所でどのように造られていたのか歴史家も頭を悩ますところです。それが契約蒸溜されたものなのかバルク購入されたものなのかも皆目判りません。しかし、当時はペンシルヴェニア州にある蒸溜所は少なくなっていたので、候補と目される蒸溜所は絞られています。アームストロング郡シェンリーのプラント、レバノン郡シェーファーズタウンのペンコ蒸溜所(後のミクターズ)、或いはコンチネンタルのフィラデルフィア・プラント及びキンジー蒸溜所などです。それぞれの工場はその後の数十年で閉鎖されました。これらのどこか一つから調達したかも知れないし、複数からかも知れないし、幾つかの変遷があった可能性だってあり得ます。しかし、或る時期からはペンシルヴェニアで操業していた蒸溜所は一つだけだったので、その時代のオーヴァーホルト・ウィスキーはシェーファーズタウン産であることは間違いないと考えられています。ただ、気になる情報としては、ミクターズ最後のマスター・ディスティラーだったディック・ストールはオールド・オーヴァーホルトがそこで造られたことは一度もないと言っているとか。うーん、謎…。まあ、それは措いて、この調達された時代のウィスキーはより人気のあるバーボン・スタイルに近づけるために、マッシュビルにコーンが従来品よりも多く含まれていた可能性が指摘されています。実際飲んだ方によると、メリーランドやケンタッキーのライ・ウィスキーにずっと近い味わいだ、と。

1950〜60年代、風味の強いボンデッド・ウィスキーの人気が落ち込み、ライ・ウィスキーの製造所が次々と無くなって行くなか、オールド・オーヴァーホルトには有名なファンがいました。そのうちの一人はやや旧い世代ですが、国務長官のジョン・フォスター・ダレスでした。1954年の記事によれば、彼は何処にいても毎晩夕食前にオールド・オーヴァーホルトをオン・ザ・ロックスで飲んでおり、彼の飛行機にはウィスキーがストックされていたと云います。もっと若い世代ではジョン・F・ケネディがいました。彼が1963年にナッシュヴィルにいた時、地元の大型酒店のオウナーが後に回想するには、彼は特にオーヴァーホルトのボトルを求めて人を使わせたらしい。この頃までに、ライ・ウィスキーを飲む人とにかく減少し、ナショナルはペンシルヴェニア市場のみ堅持して、それ以外の全国的なオーヴァーホルトの広告を止めました。1963年には「今日のオールド・オーヴァーホルトはライター、マイルダー、スムーザー」と謳う宣伝があったそうで、何かしらの変更があったのかも知れません。翌年にはボトルド・イン・ボンドは廃止され、86プルーフのみの販売となりました。或る意味このせいで先に言及したペンシルヴェニアから調達したライの出処が判別出来ないとも言えるでしょう。ボトルド・イン・ボンド法ではラベルにそのスピリッツの製造された真の蒸溜所を記載しなければならないので。また、ナショナルはこの頃からオーヴァーホルト・ライを自社が所有するオハイオ州シンシナティのカーセッジ蒸溜所でボトリングするようになりました。ラベル記載のA.オーヴァーホルト&カンパニーの所在地が「CINCINNATI, OHIO」となっているのはそのためです。
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コネルズヴィル郊外、ヤッカゲイニー・リヴァーに沿うように建つ閉鎖されたブロード・フォード蒸溜所。その敷地が老朽化し始めるのに、それほど時間は掛かりませんでした。ブロード・フォードの工場と対岸のアデレードにある労働者の家を結んでいたスウィンギング・ブリッジは何年も放置され、劣化して下の川に落ちてしまいます。1970年代になると蒸溜所の建築物の荒廃はより酷くなりました。6基の巨大なグレイン・サイロ、給水塔、ボイラー・ハウス、倉庫などが残っていましたが、風雨に晒され放置されたため、荒らしや廃品回収の格好のターゲットになってしまったのです。その後も荒廃は進み、嘗てウィスキー・バレルが置かれていた赤レンガの倉庫は瓦礫の山となり、給水塔も何時しかなくなりました。建物の内部はポップなスプレーアートや落書きに満ち、捨てられたスプレーの空き缶、割れたガラスやその他の何かの大量の破片が転がり、不当な侵犯行為の被害を受けていることは明らかですが、ある種の退廃の美が見られもします。ブロード・フォードに限らず、朽ちた蒸溜所は廃墟マニアの恰好のスポットでもあり、ユーチューブで手軽に観れるのでリンクを貼り付けておきます。廃墟とは言え、その姿は圧巻で、操業していた頃の威容を実感することが出来るでしょう。オーヴァーホルト家のルーツであるスイス伝来?の模様が施された象徴的なレンガ造りの煙突も見応えあります。

1970年代のオーヴァーホルト・ウィスキーについて言うことは特にありません。アメリカ人はライどころかバーボンからも離れ始め、ウォッカやテキーラなどのホワイト・スピリッツを飲みました。上述したようにペンシルヴェニア・ライをボトリングしたオーヴァーホルトは維持されましたが、販売は苦戦を強いられたと思われます。ナショナル・ディスティラーズは最終的にペンシルヴェニアの蒸溜所から原酒を調達することを止め、おそらく1980年あたりを境にオールド・オーヴァーホルトの生産をオールド・グランダッド・バーボンを製造するケンタッキー州フランクフォート郊外のフォークス・オブ・エルクホーンの蒸溜所に移しました。ここでペンシルヴェニア産のオーヴァーホルトは終わりを告げます。そして1987年、ナショナル・ディスティラーズ・アンド・ケミカル・コーポレーションは所有していたスピリッツ・ブランドの全てをラッキー・ストライクを製造した会社であるアメリカン・ブランズ(後のフォーチュン・ブランズ)の子会社ジェームズ・B・ビーム・ディスティリング・カンパニーに売却しました。

新しいオウナーのビームは生産を統合するため買収後すぐにオールド・グランダッドでの蒸溜を停止し、1990年までにオールド・オーヴァーホルトのプルーフを80に下げました。通例、こうした買収が行われた場合はウィスキーのストックも買い取りますので、買収後数年間はNDジュースを使用したかも知れません。そこで造られたライ・ウィスキーがなくなった時、ビームはオーヴァーホルトに独自のマッシュビルを与えることはなく、既にジムビーム・ライのために生産していたハイ・コーンなライ・ウィスキーを単に使用しました。それは彼らが所有するクレアモントかボストンの蒸溜所で製造されたものです。この時点でオールド・オーヴァーホルトをジムビーム・ライと区別しようとしても余り意味がありませんでした。両者は似たような味がするでしょう。香りや味わいに違いを感じるとしたら、それはバレル・ピックやバッチングによる差だけな筈です。ビームはブランドの配布を継続することを除いて殆ど何もしませんでした。当時はライ・ウィスキー人気は最底辺であり、消費者の需要がまだ一部に残っていたので辛うじてブランドを存続させただけでした。オーヴァーホルトは同社が強調したり気に掛けて宣伝したりするブランドではなかったのです。しかし、平凡な製品になっていたとは言え、ケンタッキー州でのライ・ウィスキーの生産は最後のイースタン・ライ蒸溜所が閉鎖された1980年代に始った訳ではなく、禁酒法の前でもケンタッキーの蒸溜所はバーボンとライの両方を日常的に製造していたので、ビーム・ライのレシピはおそらく古い血統を持っている可能性があり、不当に評価するのは違うでしょう。
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2020-12-10-20-18-14

Branton Distilling Company KENTUCKY STRAIGHT  BOURBON WHISKEY 93 Proof
Dumped on 5/28/87
Barrel No. 639
Warehouse H on Rick No. 30
今回もバー飲み投稿。この度お邪魔したフストカーレンさんはブラントンズの年代別の取り揃えが多いのを知っていたので、87年ボトリングの物をリクエストしました。マスターが87年をお気に入りと聞いていたのです。その理由はここでは書きませんので気になる方は店に伺った際、直接訊いてみて下さい。開封済みの87年は少し前に飲み干されたそうで、新たなストックを開封して頂きました。
開栓直後のせいか、始めはアロマが立ちませんでしたけど、時間をおくと徐々に開いてきました。焦樽やキャラメルと共に湿った木材調のオールド・ファンクもあります。きっと、もう少し時間をかけると風味は濃密になるのではないかという予想。今後に期待ですね。ブラントンズは比較的液面が低下しやすいバーボンというかコルク栓という印象がありますが、このボトルもそれなりに低下していました。写真のボトルの液面はハーフショットを注いだのみです。けれど特に劣化はなく感じました。
そもそもブラントンズはシングルバレルなので味の一貫性は問われないし、オールドボトルゆえのコンディションの差もあるだろうし、なにより私自身それほどブラントンズの経験値がある訳でもないのですが、基本的に90年代の物より80年代の物の方がオーキーな傾向にあるような気がします。熟成年数が長そうな深みのある味わいと言うか…。ブラントンズのマニアの方はどう思われるでしょう? コメントよりご意見どしどしお寄せ下さい。
Rating:87/100

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2020-09-15-18-03-55
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(画像提供K氏)

ヴェリー・レア・オールド・ベントレー(*)は、よく詳細の分からないバーボンです。ラベルから読み取れるのは、シカゴのベントレー・インポーターズなるインポーター兼ワイン・マーチャントの会社がディストリビュートし、同じくシカゴのロバート・ブルース社にボトリングしてもらった86プルーフで6年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンということだけ。何処の蒸留所産かは皆目見当も付きません。おそらくシカゴ周辺でしか販売されなかった地域的製品ではないかと予想します。
画像検索では、53年ボトリングとされるボトルド・イン・ボンド規格で7年物の「オールド・ベントレー・ボンデッド」が見つかりました。こちらはBIB故に出所がはっきりしており、裏ラベルにオーウェンズボロのメドレー蒸留所(**)がディスティリングとボトリングをしているとあります。じゃあ「ヴェリー・レア」の方もメドレーか?と推測したくなりますが、ボトル形状も違うし、ラベルのデザインも違い過ぎるので、何となく全く別と考えたほうがいいような気もします。まあ、メドレー産かも知れないし、そうでないかも知れないし、よく分からないってこと。ちなみに、「ボンデッド」の表ラベルには人物画が描かれています。この人がベントレー氏なのでしょうか? この件に限らずベントレー・ブランドについてご存知の方はコメントより何でも情報をお寄せ頂けると助かります(※追記あり)。

オールド・ベントレー・ボンデッド
参照1
参照2

ところで、このヴェリー・レア・オールド・ベントレー、一目見て気づくのは、50年代当時隆盛を誇ったスティッツェル=ウェラー蒸留所の特別なバーボン、ヴェリー・オールド・フィッツジェラルドのラベルと似ていることですよね。デザイナーが同じなのか、或いは模倣したのか…。更には、後の世に伝説のバーボンと謳われることになるカーネル・ランドルフのバレル・プルーフ版のラベルにも、多少の違いはあっても全体的な雰囲気がそっくりです。まるで兄弟のようでしょ? カーネル・ランドルフの初期の物は往年シカゴ随一のリカー・ショップだったジマーマンズが関わっていたと思われます。何らかのシカゴ・コネクションがあるのでしょうか? これまた詳細をご存知の方は情報提供お願い致します。
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さて、今回このような希少価値のあるバーボンを飲めることになったのは、Instagramで知り合いバーボン仲間となった漢気満点のKさんのご厚意の賜物でした。画像借用の件も含め、改めてこの場でお礼をさせて頂きます。バーボンが繋いだ絆、ありがとうございました! また、バーGのマスターにも深く感謝です。では、飲んだ感想を少々。

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Very Rare Old Bentley 6 Years 86 Proof
1958年ボトリング。熟成年数にしては濃い色。マスティ・オーク、クローヴ、焦がしキャラメル、アニス、タバコの気配。口当たりは柔らかいが水っぽくない。味わいはスパイシーかつビター。余韻はとても長く、薬草のようなスパイスの風味と苦味が後々まで残る。

基本的にスパイス・フォワードのバーボンという印象。レーズンやレッド・フルーツ等のフルーティさやナッツのニュアンスはあまり感じませんでしたが、ヘヴィ・チャーが透けて見えそうな木材感や6年熟成ながら複雑なスパイス香と共にカビっぽい風味が現れるあたりがヴィンテージ・バーボンらしさでしょうか。50年代のバーボンなんてそうそう飲む機会はないので比較対象がないのですが、なんとなくハイ・ライ・マッシュぽい気がします。飲んだことのある方はどう思われたでしょうか? ご意見ご感想、コメントよりどしどしお寄せ下さい。
Rating:87/100

追記:その後、オールドベントレーに7年86プルーフがあるのを見つけました。トップ画像のボトルのラベルと概ね同じデザインですが少しだけ違いがあって、メインラベルに熟成年数表記があります。ボトルの形状も少し異なります。なんとなく、このベントレーより後年の物かなと思いました。


*日本では「bentley」を「ベントレー」と表記する慣行がありますが、実際の発音は「ベントリー」が近いです。

**こちらもベントレー/ベントリーと同じく、日本では「medley」を「メドレー」と表記する慣行がありますが、実際の発音は「メドリー」に近いです。

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ワイルドターキー・ダイヤモンド・アニヴァーサリーは2014年8月にジミー・ラッセルの勤続60周年を祝うために、当時アソシエイト・ディスティラーだった息子のエディ・ラッセルによって作成されました。業界で最も任期の長いマスターディスティラーであるジミー・ラッセルは正に「生ける伝説」であり、「ブッダ・オブ・バーボン」或いは「マスターディスティラーズ・マスターディスティラー」と尊敬の念を込めて呼ばれたりします。アメリカのワイルドターキー愛好家デイヴィッド・ジェニングス氏は「ロックにはエルヴィスがいる。カントリーにはハンクがいる。ソウルにはマーヴィンがいる。バーボンにはジミーがいる」と述べました。アメリカン音楽好きにはピンとくる喩えでしょう。

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(上1984年、下1967年のジミー)

1954年9月10日、ジミーは後年ワイルドターキー蒸留所と呼ばれることになるアンダーソン・カウンティ蒸留所(以前のリピー・ブラザーズ蒸留所、一年後にJTSブラウン蒸留所と改名)で働き始めました。まだ二十歳になる前のことです。当時ローレンスバーグには幾つかの蒸留所があり、ジミーのお父さんはオールド・ジョー蒸留所、おじさんはホフマン蒸留所で働いていました。そのためジミーが仕事を探していた時、蒸留所で働くことにしたのは自然な流れでした。実際、今だにジミーはアンダーソン郡の生まれた場所から1マイル以内、ワイルドターキー蒸留所から6マイル以内に住んでいると言います。後に時として「バーボンのファーストレディ」と紹介されることにもなる妻ジョレッタもジミーが働き始める前から蒸留所に勤めていました。
彼のキャリアは床掃きや品質管理から始まり、おそらく蒸留所の全ての仕事をこなしたと思われます。蒸留所の二代目マスターディスティラーである伝説のビル・ヒューズや、蒸留所の創業者ジェイムス・リピーの甥の息子で三代目マスターディスティラーのアーネスト・W・リピー・ジュニアから蒸留技術を学んだジミーは次第に頭角を表し、1967年にはJTSブラウン蒸留所のマスターディスティラーへと昇格しました。彼が働き始めた頃の蒸留所は日産80バレル程度でしたが、現在では550バレル以上になっていると言います。その躍進の全てがジミーただ一人の功績ではないでしょうが、彼はキャリアをスタートして以来普通の人間にはあり得ないほど長い年月そこにいて、何十年も精力的に働き、先代から受け継いだ昔ながらのバーボン造りを固守することで現代のバーボン世界を形作り、内外に影響を与えて来ました。

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ワイルドターキー蒸留所で製造される製品の中で最も「ジミー・ラッセルらしい」バーボンはスタンダードなワイルドターキー101(8年にしろNASにしろ)です。それは標準的であり原型であるが故に「生ける伝説」の刻印が深い。周知のようにそのブランドはジミーが蒸留所で働き始める以前の1942年に始まり、ブルックリンかどこかの経営者が産み出したのかも知れません。また、最先端の設備によるコンピューターの自動化が行われる現代にあっては、誰がどうしようと同じものが出来上がるのかも知れません。しかし、それでもジミーの技能とテイスティング能力、長年に渡るブランド定義がなければ、今に至るワイルドターキー101の成立はなかったと言っていいでしょう。
そしてジミーは伝統を頑なに守るだけの男ではありませんでした。バーボン産業は70年代半ばに大きな波を受ます。俗に言う「白物」、ウォッカやジンの隆盛です。消費者の嗜好の変化もありました。昔ながらの「伝統」は「古臭い」と同義になり、バーボンを飲むことはクールでなくなったのです(今は流行っているのでクールと認識されています)。ジミーは多くの女性がバーボンを飲まないことに気づき、彼女たちにとって魅力的な製品を作りたいと思い、1976年にワイルドターキー・リキュールと呼ばれるフレイヴァー・バーボンを実験的に開発しました。それは「レッドスタッグ」や「ファイヤーボール」に先駆けること遥か前、バーボンが流行していなかった時代にジミーが模索した新しい消費者を引き付ける方法でした。今日、その製品は2006年以降ワイルドターキー・アメリカンハニーとしてリニューアルされ、多くの人のお気に入りとなっています。また、2000年代前半には、今や当たり前になりつつあるバーボン樽以外を用いた「後熟」の魁として、ワイルドターキー・シェリー・シグネチャーも造っていました。これはスコッチに親しんだヨーロッパ市場向けに試された変種のワイルドターキーで、10年熟成のターキーをスパニッシュ・シェリー・カスクでセカンド・マチュレーションした後、バーボンにオロロソ・シェリーを加えバランスを整えたものです。当時は斬新過ぎてウケませんでしたが、今こそ再評価すべき時ではないでしょうか。
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70年代後半からバーボン全体の売り上げは目に見えて減少し始めました。80年代から90年代にかけてアメリカのバーボン需要は底辺を迎えます。そこでバーボン業界のエグゼクティブたちが採った主な戦略は二つありました。一つはバーボンのプレミアム化。もう一つは現場監督の職人に過ぎなかったマスターディスティラーを外の世界にスターとして送り出し、バーボンがいかに優れているかを一般消費者へ啓蒙することでした。こうした動きが現在のバーボン人気の礎の一部となったのは疑うことが出来ません。
前者の好例は、エンシェントエイジ蒸留所(現在のバッファロートレース蒸留所)のマスターディスティラー、エルマー・T・リーが1984年にプロデュースした最初の大衆市場向けシングルバレル・バーボンであるブラントンズと、ジムビーム蒸留所のマスターディスティラー、ブッカー・ノーが1988年にプロデュースしたスモールバッチにしてバレルプルーフ・バーボンのブッカーズです。ジミー・ラッセルも負けじと、ブラントンズに対しては1994年にワイルドターキー初のシングルバレル・バーボンとなるケンタッキー・スピリットをリリースし、象徴的な101プルーフで満たしました。それはブラントンズを意識するような非常に華やかなボトル形状で、重厚なピューター製のキャップを備え、バレル情報が手書きで書かれたネックラベルが貼られました。まるでジミーが「私」のためにバレルを特別にハンド・ピックしたかのように。 そしてブッカーズに対しては1991年に6・8・12年熟成の原酒をジミーが独自に組み合わせたバレルプルーフ・バーボンのレアブリードをリリース。何の衒いもなくノー・ギミックのそのバーボンは、かつて盟友エルマー・リーに「ピュア・ジミー・ラッセル」と評されました。これらのプレミアムなワイルドターキーはかなりの成功を収め、蒸留所のポートフォリオの定番としての地位を確立し、現在でも販売され続けています。
後者に於いても、ブッカー、エルマー、ジミーらは国内外を旅してパブリック・テイスティングを行い、彼らの目を通してバーボンのストーリーを語ることによって、今日のバーボン人気の成長を促した最初の世代でした。今、ブッカーの息子フレッドやジミーの息子エディのような次世代、またその次の世代の旗手たちは彼らが切り拓いた道を歩んでいるのです。ちなみにジミーは自分が訪れたことのある国外のお気に入りの都市の一つに、ありがたいことに日本を挙げてくれています。
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ジミーは世界中でバーボンの王者のように扱われますが、本人は至って呑気に「あんたが見たまんまの、ケンタッキー州ローレンスバーグ出身のただのおっさんじゃよ(意訳)」と言います。そうした謙虚さは本物の人間が持つ特質であり、蒸留所への訪問客を迎えるジミーの柔和な笑顔は却って揺るぎない信念の証のように思えます。ジミーなしで現在のバーボンブームはなかったと言っても過言ではありません。彼はSNSのインフルエンサーではないかもしれませんが、もっと重要な羅針盤でした。バーボンの衰退期を乗り越え、アメリカが自らのネイティヴ・スピリットを再発見する過程の全てを見て来たのです。
去る2019年9月10日には、ジミーはワイルドターキー蒸留所での驚異の65周年記念日も既に迎えました。ケンタッキー州アンダーソン郡に長年住む人なら、彼が比類のない蒸留の専門知識だけでなく、驚くべき運動能力についても知っているだろう、と伝えられています。高校でのジミーは「ラッセル・ザ・マッスル」として知られており、彼に不得意とするスポーツはなく、バスケットボールやサッカーから陸上競技に至るまで数々の記録を破り(一部は40年間残っていたそうな)、アンダーソン郡高校を勝利から勝利へと導いたのだとか。こうしたアスリートさながらの基礎体力がジミーの頑固な職人気質や長年の勤務を可能にした源なのかも知れませんね。


偖て、そろそろ今回のレヴュー対象に触れましょう。ダイアモンド・アニヴァーサリーはジミーの息子エディが父親へのオマージュとして厳選した13年と16年という長期熟成を経たバレルをブレンドして造られました。
よく知られた話に、ジミーは8年熟成程度のバーボンを好み、エディは12年以上の長期熟成も好む、というのがあります。ジミーは昔ながらの風味豊かなバーボンを愛し、オリジナルのワイルドターキー・プロファイルから遠く離れることを躊躇い、こう言います。「私たちは常に新しいものを試したいと思っていますが、ほとんどの場合は古い基準に戻ります」、と。彼の基準は明瞭でした。「バーボンは6~8年ほど熟成すると有効なマチュリングをしなくなると考えます。12年を過ぎる頃には多くのキャラメルやヴァニラなどのスウィートネスを失い、オーク材の風味が支配的になります。そして、私はウッディな味わいが多いのはあまり好きではありません」。これがジミーの個人的な好みであり、彼と同世代や上の世代のバーボン・ディスティラーの基準です。それにも拘わらず、エディが長期熟成のバーボンを混ぜて父親へのトリビュート・バーボンを作成したのは、そうするに十分な理由があったに違いありません。
ジミー自身が12年以下のバーボンが好きだと公言しているので、一部を除きワイルドターキーの提供する製品はそれより若いバーボンが殆どです。もしジミー好みの6~12年のバレルを選択してダイヤモンド・アニヴァーサリーを作成してしまうと、中核製品の一つであるラッセルズ・リザーヴから遠く離れた製品にするのは難しくなるでしょう。おそらくエディはワイルドターキーの標準ラインナップとは一線を画すバーボンを提供するために、長熟バレルにターゲットを絞ったのだと思われます。その意味で、このダイヤモンド・アニヴァーサリーは他のワイルドターキー製品とは対照的です。そして…。

エディは1981年からワイルドターキー蒸留所でアシスタントとして働き始めました。つまり、既に30年以上ものキャリアを誇る訳ですが、余りにも偉大なジミーと比較してしまうと「僅か」30年であり、自虐的?に「僕はニュー・ガイだよ」と笑います。また、エディは長い間自分の名前は「No」だと思っていたとも言います。なぜなら、ジミーに何か新しい提案をする度にそう言われたからだそう(笑)。エディ流の愛情あるジョークですね。
WMJのインタビューではダイヤモンド・アニヴァーサリーについて、「特別な原酒を探し出して、ジミーに内緒でブレンドしたものです。私自身が最高と思ったのは間違いないですが、ジミーが『よし』と言ってくれなければ製品化はできませんから(笑)、正直なところとてもドキドキしました」、と語っています。
そんなエディも2015年には正式にマスターディスティラーの称号を得ました。その年から限定リリースのマスターズ・キープ・シリーズも始まり、その他の中核製品でも主導的な立場となったことでしょう。こうした流れの前年にリリースされたダイヤモンド・アニヴァーサリーは、謂わばエディ・ラッセルが初めて世に出した自分自身のバーボン。エディによると、ブレンドに使われた13年原酒はまだ12年に十分近く、ジミーがあまり動揺しないよう逃げを打って選ばれたと言います。 そして後に16年のバーボンを加えることでワイルドターキー・スパイスをもっと与え、ユニークでありながら馴染みのあるワイルドターキーの表現に仕上がった自信作だと。これを飲む我々は、ジミーだけでなくエディにも祝杯を挙げない訳にはいきません。では、心して注ぐとします。

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WILD TURKEY DIAMOND ANNIVERSARY 91 Proof
BATCH NO. B14-0035
オレンジがかったブラウン色。黒糖、濃密なヴァニラ、ダークなドライフルーツ、接着剤、ハニーピーナッツ、古い木材、土。さらさらしつつなめらかな口当たり。ミディアム・ボディ。味わいはマジックインキと爽やかなフルーティさ(特にオレンジ)が同居。余韻はチャードオークとベーキングスパイスが支配的でややビター。
Rating:87/100

Thought:先日まで開けていたディスティラーズ・リザーヴ13年と較べることで、ダイヤモンド・アニヴァーサリーの個性は明確になった気がします。DAはDR13よりパンチのないテクスチャーですが、余韻のスパイス感は複雑でした。香りはDR13の方が甘いのに、口蓋ではDAの方が甘く感じました。そしてDAはDR13のような薬っぽいノートはなく、全体的に古びた木材のトーンを多く感じます。
101プルーフだったらもっと美味しかっただろうとはよく言われますが、エディ・ラッセルによればダイヤモンド・アニヴァーサリーはバレルプルーフに近いとのこと。ワイルドターキー蒸留所はバレル・エントリー・プルーフを2004年にそれまでの107プルーフから110プルーフへ、続いて2006年にも115プルーフへと変更しています。その理由が、そうしておかないと主力製品であるワイルドターキー101のプルーフと生産量を確保できないからとされるところからすると、ワイルドターキーの長期熟成原酒は案外プルーフ・ダウンする樽がけっこう多いのかも知れません。個人的にも、やはり101プルーフで飲みたかったとは思いますが、91プルーフでも特別なフィーリングは少なからずあるように思えました。

Value:ワイルドターキーの特別限定リリースの物は昔からパッケージングに拘った造りの物が多いです。本品もボトルや木箱などの包装のカッコ良さは画像でも伝わると思います。問題は価格ですよね。アメリカでは約125ドルで売られ始め、日本では発売当初17500円程度する販売店もありました。正直、定価では高過ぎるとは思います。ですが、今ではオークションを利用すれば10000円以下での購入も出来る時はあるでしょう。ただし、安定してその値段ではありませんので、仮にダイヤモンド・アニヴァーサリーが15000円、ディスティラーズ・リザーヴ13年が5000円なら、迷わずディスティラーズ・リザーヴ13を三本買うことをオススメします。私にはダイヤモンド・アニヴァーサリーの方が僅かに美味しいと感じましたが、飽くまで「僅か」だからです。ディスティラーズ・リザーヴ13年は長期熟成でありダイヤモンド・アニヴァーサリーと同じプルーフなので、日本人にとっては良い代替製品となり得るのです。また、疑似分割や単ラベルあたりの12年101がオークションで12000円位で購入出来るなら、そちらを買うほうがいいでしょう。味わいの満足度は上なので。とは言えダイヤモンド・アニヴァーサリーは、8年101やレアブリードとは異なるワイルドターキーの長期熟成の世界への入り口にするなら良いと思いますし、米国では36000本のリリースとされるのでタマ数も十二分にあり、また近年流通品なので限定品としては比較的入手が容易、そして何よりジミー・ラッセルへの愛情として購入するならアリだと思います。

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ノブクリークは92年の発売以来ジムビームのスモールバッチ・コレクションの中でも人気が高く、クラフト・スピリッツ市場が大きく成長するのに適応して、現在では様々なヴァリエーションを提供しています。オリジナルのストレート・バーボン以外に、近年著しい復活を遂げたカテゴリーのライウィスキーや、フレイヴァーを加えたスモークド・メープル、その他に限定リリース等もあります。そして今回レビューするシングルバレル・リザーヴは2010年から発売されました。

シングルバレルとスタンダードとの違いはいくつかあります。先ず名前の通りシングルバレルであること。おそらくスタンダードのノブクリークはスモールバッチとは言っても、大規模蒸留所のスモールバッチなので、だいたい300バレル程度でのバッチングではないかと予想されます。対してシングルバレルは1つの樽のみですから、そもそもバレルピックの段階で多少なりともクオリティの高い樽を選択している可能性はあるでしょう。また、オリジナルのノブクリークはエイジ・ステイトメントが消えてしまいましたが、シングルバレルは今のところは9年熟成を守っています。そして個人的に一番重要と思うのは、スタンダードより10度もアルコール度数が高いことです。ジムビーム蒸留所のエントリー・プルーフは125プルーフとされていますので、シングルバレルの120プルーフというのは、限りなくバレルプルーフに近い数値です。これはハイアー・プルーフ愛好家には嬉しいスペック。その他のレシピや蒸留プルーフ、樽材やチャーリング・レヴェルなどに特別な違いはない筈です。では飲んでみましょう。

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KNOB CREEK SINGLE BARREL RESERVE 120 Proof

推定2016年ボトリング。香ばしい焦樽、スモーク、カシス、ブラックベリー、シナモンパウダー、煮詰めたリンゴジュース、僅かに焼きトウモロコシ、微かに爪の垢、ココア。思いの外キャラメル系の甘い香りがせず、焦樽フルーツ系のアロマ。オイリーな口当たり。後味にメープルシロップのような甘さが残り、余韻は豊かなナッツと絵の具。
Rating:87/100

Thought:スタンダードなノブクリークよりも度数のせいかシングルバレルだからか、少し複雑さはあります。個人的にはもう少し甘味があって欲しかったのですが、一滴加水すると甘味とフルーティさをより感じ易くなり、樽香が一瞬香水のようにも感じられました。シングルバレルゆえの個体差もあるでしょうが、もしかすると現行の買いやすいジムビーム製品では一番美味しいかも知れない。

Value:日本だと販売店によっては店頭価格にスタンダードなノブクリークとの差があまりないことがあります。その場合にはシングルバレルを選ぶほうが確実にお得でしょう。 アメリカでは40ドル前後、日本では5000円前後が相場で安いと4000円代前半。仮にスタンダードが4000円、シングルバレルが5500円としても、単体で見ると少し高い気もしますが、同じジムビームのスモールバッチの他製品と較べるとお買い得感はあり、差額1500円分の価値はあるような気がします。

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ヘヴンヒル蒸留所の旗艦ブランド、エヴァンウィリアムスの中でもレッドラベルは、バーボン好きは言うに及ばず、スコッチ中心で飲む方にも比較的評価の高い製品です。長らく輸出用の製品(ほぼ日本向け?) でしたが、2015年にアメリカ国内でもヘヴンヒルのギフトショップでは販売されるようになりました。日本人には驚きの120~130ドルぐらいで売られているとか…。日本では一昔前は2000円弱、今でも3000円前後で購入できますから、日本に住んでいながらこれを飲まなきゃバチが当たるってもんですね。

ところでこの赤ラベル12年、一体いつから発売されているのか、よく判りません。80年代後半には確実にありましたが、80年代半ばあたりに日本向けに商品化されたのが始まりなのですかね? 当時のアメリカのバーボンを取り巻く状況からすると、長期熟成原酒はゴロゴロ転がっていた筈です。その輸出先として、バブル経済の勢いに乗り、しかも長熟をありがたがる傾向の強い日本向けにボトリングされたのではないかと想像してるのですが…。誰かご存知の方はコメント頂けると助かります。
さて、今回は発売年代の違う赤ラベルを飲み較べしようという訳でして、画像左が現行、右が90年代の物です。赤の色合いがダークになり、古典的なデザインがモダン・クラシックと言うか、若干ネオいデザインになりましたよね。多分このリニューアルは、上述のギフトショップでの販売開始を契機にされたものかと思います。まあ、ラベルは措いて、バーボンマニアにとっては中身が重要でしょう。言うまでもなく、現行の方はルイヴィルのニュー・バーンハイム蒸留所、90年代の方はバーズタウンの旧ヘヴンヒル蒸留所の原酒となります。

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目視での色の違いは殆ど感じられません。強いて言えば旧の方が艶があるようにも見えますが、気のせいかも。

Evan Williams 12 Years Red label 101 Proof
2016年ボトリング。プリン、焦樽、ヴァニラ、バターピーナッツ、レーズン、莓ジャム、煙、足の裏。ほんのりフルーティなヴァニラ系アロマ。余韻はミディアムショートで、アルコールの辛味と穀物香に僅かなフローラルノート。
Rating:87/100

Evan Williams 12 Years Red Label 101 Proof
95年ボトリング。豪快なキャラメル、香ばしい樽香、プルーン、ナツメグ、チェリーコーク、チョコレート、ローストアーモンド、鉄。クラシックなバーボンノート。スパイシーキャラメルのアロマ。パレートはかなりスパイシー。余韻はロングで、ミントの気配と漢方薬、土。
Rating:87.5/100

Verdict:同じものを飲んでいる感覚もあるにはあるのですが、スパイシーさの加減が良く、風味が複雑なオールドボトルの方を勝ちと判定しました。現行も単品で飲む分には文句ありませんし、パレートではそこまで負けてはないものの、較べてしまうと香りと余韻があまりにも弱い。総論として言うと、現行の方は典型的な現行ヘヴンヒルの長期熟成のうち中程度クオリティの物といった印象。一方の旧ボトルも、バーズタウン・ヘヴンヒルの特徴とされる、海外の方が言うところのユーカリと樟脳が感じやすい典型的な90年代ヘヴンヒルのオールドボトルという印象でした。

Thought:全般的に現行品はクリアな傾向があり、対してオールドボトルは雑味があると感じます。その雑味が複雑さに繋がっていると思いますが、必ずしも雑味=良いものとは言い切れず、人の嗜好によってはなくてもよい香味成分と感じられることもあるでしょう。かく言う私も、実は旧ヘヴンヒルの雑味はそれほど好みではありません。両者の得点にそれほどの開きがない理由はそこです。

Value:エヴァン赤は日本のバーボンファンから絶大な信頼を寄せられている銘柄だと思います。確かに個人的にも、例えばメーカーズマークが2500円なら、もう500円足してエヴァン赤を買いたいです。またジムビームのシグネイチャー12年やノブクリークが同じ価格なら、エヴァン赤を選ぶでしょう。おまけにワイルドターキーのレアブリードよりコスパに優れているし。つまり、安くて旨い安定の一本としてオススメということです。もっとも、たまたま上に挙げたバーボンはどれも味わいの傾向は多少違うので、好みの物を買えばいいだけの話ではあります。参考までに個人的な味の印象を誇張して言うと、腰のソフトさと酸味を求めるならメーカーズマーク、香ばしさだけを追及するならノブクリーク、ドライな味わいが好きならレアブリード、甘味とスパイス感のバランスが良く更に赤い果実感が欲しいならエヴァン赤、と言った感じかと。
問題は旧ラベルと言うか、旧ヘヴンヒル蒸留所産の物のプレミアム価格の処遇です。個人的な感覚としては、上のThoughtで述べた理由から、仮に旧ボトルが現行の倍以上の値段なら、現行を選びます。確かに多くのバーボンマニアが言うように、旧ヘヴンヒル蒸留所産の方が美味しいとは感じますが、あくまで少しの差だと思うのです。それ故、私の金銭感覚では、稀少性への対価となる付加金額を、現行製品の市場価格の倍以上は払いたくないのです。ただし、その少しの差に気付き、その少しの差に拘り、その少しの差に大枚を叩くのがマニアという生き物。あなたがマニアなら、或いはマニアになりたいのなら、割り増し金を支払ってでも買う価値はあるでしょう。

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