タグ:87.5点

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ローワンズ・クリークはケンタッキー州バーズタウンのウィレット蒸留所(KBD)で製造されているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つのうちの一つです。その他の三つはノアーズ・ミル、ピュア・ケンタッキーXO、ケンタッキー・ヴィンテージとなっています。価格から言うと、ローワンズ・クリークはこの中では上から二番目の位置付け。コレクションの成立は90年代半ば(一説には94年)とされます。当時の業界ではプレミアムなバーボンが胎動し始め、ジムビームもスモールバッチ・コレクションを開始するなど、そのコンセプトは軌を一にしていました。
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(画像提供K氏)
ローワンズ・クリークの名は蒸溜所の敷地内を流れる小川にちなんで付けられました。その小川は1700年代後半から1800年代前半に掛けてケンタッキー州の政治家であったジョン・ローワンにちなんで名付けられ、彼のフェデラル・ヒルの邸宅はスティーヴン・コリンズ・フォスターの歌曲「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」にインスピレーションを与えたと言われています。このバーボンは、ノアーズ・ミルと手描きのようなラベルの雰囲気やワイン・タイプのボトルといった共通点があり、更に熟成年数とボトリング・プルーフが少し低く、尚且つ安い価格ということもあって、その姉妹品というか弟分のように認識されていました。「ベイビー・ノアーズ・ミル」と呼ばれているのも見かけたことがあります。もっと言うと、ローワンズ・クリークはノアーズ・ミルより一段劣る廉価版と常に考えられていた節があります。しかし、だからといって品質が劣った製品という訳ではなく、飲み易さと財布への優しさが魅力だったためか、2011年当時の情報によるとアメリカの27州で販売され、KBD(ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ)が生産するバーボンの中で最も売れている銘柄だったそうです。ローワンズ・クリーク・バーボンが長期に渡ってKBDのポートフォリオに於いて重要なブランドだったとされる所以でしょう。個人的に、オールド・タイミーな雰囲気の薄茶のラベルとマルーン色のワックス(及びフォイル)の組み合わせは凄く好きなデザインです。ところで、ワイルドターキーのような101ではなく100.1という小数点まで使ったボトリング・プルーフは一体何なのでしょうか? ハンドメイド感の演出? 或いは単なるユーモア? まあ、それは措いて、このローワンズ・クリーク、初登場から今に至るまで外観はそれほど大きく変化しませんでしたが、中身はかなり変化しました。ここからはその変遷を追ってみましょう。

しかし、実はこのバーボンの中身のジュースの明確な詳細は、発売当初から今に至るまで不明です。周知のように、ウィレット蒸溜所は2012年から自家蒸溜を再開しましたが、それまではKBDとして他の蒸溜所からバレルを購入していました。従ってローワンズ・クリークも他の製品も、発売からある時点までは実際には別の生産者によって蒸溜され、KBDによってブレンド及びボトリングされたものでした。彼らは、ローワンズ・クリークに限らず、自らの製品に就いて明瞭に語ることは殆どなく、どこで蒸溜されたウィスキーなのかは推測の域を出ません。軈て、自社の蒸溜原酒が熟成するにつれ、それらはボトリングされるようになり、2020年頃には殆ど全ての製品がバーズタウンにある自社製に切り替わっていると見られています。その頃からラベルに記載される事業名が、ローワンズ・クリーク・ディスティラリーからウィレット・ディスティラリーに変更されました。ここら辺の現代ローワンズ・クリークも、公式にマッシュビルや熟成年数などのスペックは公開されてはおらず、他ブランドとどういった造り分けをしているのか謎のままです。これらを念頭に置いて見て行きます。

発売された当初、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークにはエイジ・ステイトメントがありました。前者が15年、後者が12年です。この熟成表記は、メイン・ラベルの上に貼られた細いラベルに余り目立たない感じで記載されていました。また、この頃の物(*)はボトルの横もしくは後に貼られたバッチ・ラベルに、蒸溜年とボトリング年が手書きで記されています。
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12年表記のある初期のローワンズ・クリークは、文字通り最低でも12年熟成、もしくはもっと長い熟成バレルを使ったブレンドもあった可能性はあります。実際、今回私が開栓した12年表記のあるローワンズ・クリークは、蒸溜年とボトリング年を参照すると13年熟成となっていますし(上画像参照)、他のバッチでも12年熟成以上の物を見たことがあります。スモールバッチ・バーボンの代表的な銘柄であるブッカーズに記載される熟成年数が最も若いバレルの物であるのと同様に、ローワンズ・クリークのバッチ・ラベルに記載されている蒸溜年も最も若いバレルの物でしょう。この頃のバッチング・サイズは10樽程度と何処かで読んだ気がしますが、本当かどうかは判りません。
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おそらく発売当初は豊富にあった長期熟成バレルはバーボン需要の増加に伴って少なくなり、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークの両ボトルともエイジ・ステイトメントを失いました。切り替わりの正確な時期が特定できないのですが、2006年後半あたりからではないかと思われ、少なくとも2011年までには完全に切り替わっていた筈です。そして、NASとなってからは若いバレルも混和するようになり、2011年の情報では「5年から15年のバーボン樽のコレクション」とされていました。また、同情報源によれば「どの樽を使い、どの樽を使わないかという固定観念に囚われることはない」と言われていました。その言葉からすると、もう少し熟成年数の幅は前後することもあると思われます。バッチング・サイズは、おそらく当時は15バレル程度かな? このNASのローワンズ・クリークのレヴューを参照すると、やや若い味がするとか、若いアルコールのキツさがあるとの指摘が見られ、5〜15年の熟成バレルの構成は主に若い熟成のバーボンに少し長熟バーボンが混じっている配分なのではないか、と考える人もいます。
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2013年後半頃には、これまたローワンズ・クリークとノアーズ・ミルともに、ワックス・トップだったものがフォイル・トップへと変更されました。これらのワックス・トップとフォイル・トップにはテイスティング・プロファイルに違いがないと考える人もいれば、あると信じる人もいました。あると信じる人達はより若くなったと感じたようです。まあ、ワックスかフォイルの違い以前に、ローワンズ・クリークにはバッチ間の差もかなりあると言われています。その出来にはバラつきがあって素晴らしいものもあれば殆ど飲めないものまである、と言っている人も見かけました。個人的には飲めないほど酷い物はないと信じていますが、SNS等でローワンズ・クリークに限らずウィレットのスモールバッチ・バーボンを「美味しい」と投稿している方には、せめてバッチ番号を明記して欲しいとは思います。そうでないと、どの時代の物を美味しいと言っているのか判りにくいので…。それに、大規模な蒸溜所の「大きな」スモールバッチですらシングルバレルに劣らず個性的であるのに、実際にはヴェリー・スモールバッチと呼んだほうが適切な数十樽のスモールバッチは尚更そうですから。

偖て、90年代から2010年代半ばまでのローワンズ・クリークは、他のスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの面々やジョニー・ドラム及びオールド・バーズタウンといった主要なブランドと同様にソースド・バーボンでした。その大半はヘヴンヒルのバーズタウンの蒸溜所かルイヴィルのバーンハイム蒸溜所から仕入れていたのではないかと見られています。しかし一方で、KBDは長年に渡ってほぼ全ての主要な蒸溜所(メーカーズマーク以外とされる)のウィスキーを入手しており、彼らは個性的なフレイヴァー・プロファイルを得るために異なる蒸溜所のバレルを混ぜ合わせていたとも言われています。当時は多くの人がヘヴンヒルやバートンのウィスキーをボトルに入れただけと思っていましたが、2つかそれ以上(3つか4つ)の蒸溜所のウィスキーのマリッジだった、と。KBDの社長エヴァン・クルスヴィーンは手持ちのウィスキーから素晴らしい風味を生み出す達人であり、様々な業者から入手可能になる度にバレルを調達していた結果、彼とブレンディング・チームは少量のウィスキーをブレンドして各ブランドに合う風味を造り出すことに熟練するようになった、と。勿論、詳しい構成比率が明かされる訳もなく、全ては謎に包まれています。

そして、ウィレットの製品は現在では100%自家蒸溜物に移行したと考えられています。しかし、一体いつローワンズ・クリークが自身の蒸溜物に切り替わったかはよく判りません。仮に熟成年数4年程度でボトリングしているならば、2012年から蒸溜を再開したことを考慮すると、早くて2016年から新ウィレット原酒を使用することは可能ではあります。また、よく分からないのが他の蒸溜所産のウィスキー、つまり何処かから調達した旧来のストックと、自前の蒸溜所産の新しいウィスキーを混合しているのかどうかです。個人的には味わい的に混ぜてないような気がしますが、どうなのでしょう? 皆さんはどう思われますか? バッチ毎の味わいの違いに関する情報などと合わせて、仔細に精通している方は是非ともコメント欄より情報提供下さい。で、現在のウィレット蒸溜所には以下のような4つの異なるバーボン・マッシュビルがあります。

①オリジナル・マッシュビル
72%コーン/13%ライ/15%モルテッドバーリー

②ハイ・コーン・マッシュビル
79%コーン/7%ライ/14%モルテッドバーリー

③ハイ・ライ・マッシュビル
52%コーン/38%ライ/10%モルテッドバーリー

④ウィーテッド・マッシュビル
65%コーン/20%ウィート/15%モルテッドバーリー

ソーシング・ウィスキーではない現在のローワンズ・クリークのマッシュビルに就いて調べてみると、4つのマッシュビルのブレンドとしているもの、①としているもの、味わいから②と推測するもの、更にはハイ・ライ・バーボンであることは確かだとする説もあったりと、てんでバラバラで混乱するばかりです。熟成年数は、5〜7年ではないかと推測するものや、推定8年程度であると考えられているとするものがありました。孰れにせよ正確な熟成年数も不明です。バッチによって一貫性がないとされるスモールバッチ・バーボンですから、何ならマッシュビルの変更やバッチングに使用されるバレルの熟成年数の変化だってあったのかも知れない。まあ、判らないことは措いておき、そのうち何か情報が入れば追記することにしましょう。

では、そろそろ注ぐ時間です。今回は自分の手持ちの12年表記のある2006年ボトリングとNASの2017年ボトリングを開封しました。この2つに加え、バーボン仲間のK氏から2つのサンプルを頂けたので、計4つの年代別バッチ別の比較が可能となりました。画像提供も含め、いつも本当にありがとうございます。バーボン繋がりに乾杯!

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ROWAN'S CREEK Twelve years 100.1 Proof
BATCH QBC No. 06-94
推定2006年ボトリング。赤みを帯びたダークブラウン。床用ワックス、フローラル、焦樽、オールドファンク、トフィ、杉、ベーキングスパイス、土、アプリコットジャム、抹茶ミルク。よく熟成したバーボンの香り。プルーフから期待するよりは緩いが、とろりとした口当り。味わいは甘く、スパイシーかつフルーティとバランスが良い。そして何より味が濃い。余韻はミディアムで、ややビター。
Rating:88/100

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ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 17-67
推定2017年ボトリング。パイナップル、グレイン、蜂蜜ハーブのど飴、シリアル、グレープジュース、ビール、プラム、ヨーグルト、マッチの擦ったあと。香りはフルーツの盛り合わせ。ややとろみのある口当たり。パレートはフルーティな甘みと共に穀物の旨味が凄い。余韻は最後に少し苦味。
Rating:87.5/100

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(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 12-135
推定2012年ボトリング。ワックス・トップでNASの物。ウッドニス、プリンのカラメルソース、穀物、カカオ、木の酸、ナツメグ、ヴァニラウエハース。清涼感を伴った仄かに甘いアロマ。味わいは薄っすらフルーティで穏やかなスパイス感。余韻はミディアム・ショートで、ほんのり甘みが来てから一気にドライになって切れ上がる。
Rating:83/100

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(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 21-9
推定2021年ボトリング。四つの中でこれのみラベルの記載がローワンズ・クリーク・ディスティラリー名義ではなくウィレット・ディスティラリー名義。僅かにゴールドがかったブラウン。紅茶、蜂蜜、檸檬、焦げ樽、フローラル、塩、ゴム、ピーナッツ、ジンジャー。香りは蜂蜜レモンティー。ややオイリーで滑らかな口当り。パレートではほんのり甘いオークの風味が感じ易い。余韻はミディアムでダージリン・ティー。
Rating:85.5/100

Thoughts:バッチ06-94は、明らかに長熟バーボンのオールドな風味を感じます。しかし、それは不快ではない程度に収まっており、却って心地良いくらいでした。そういったオールド感も含めてバランスの良いバーボンという印象。香りや味わいは、ヘヴンヒルぽくは感じましたが、微妙に異なる風味もあって、例えて言うとエヴァン・ウィリアムス12年をフォアローゼス・プラチナで薄めたような味わいですかね。それは兎も角、これが往時3000〜5000円程度で買えていたと思うと驚異です。今なら12000円位から、ブランディングによっては20000円を超えてリリースされそうなクオリティ。
バッチ17-67はアロマだけで新ウィレット原酒と思いました。一言でいうと穀物フルーツ系バーボンです。飲んだ印象としてはライ麦の要素があまりないように感じたので、マッシュビルは②かなと予想しますが、まあ分かりません。ミックス・マッシュビルかも知れないですし。私が以前に飲んだケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOの特定のバッチと較べてみると、幾分か穀物感とフルーツ感で上回るように感じましたが、だからと言ってそれが取り立てて明確に上位の味わいとは思えませんでした。特にオールド・バーズタウン・エステート・ボトルドと比べるとミルキーなテイストを欠いており、価格が上がる割に良いフレイヴァーがないのは気掛かりです。とは言え、ウィレット蒸溜所が生産するウィスキーは非常に自分の好みに合っており、私は彼らの比較的若いウィスキーでも楽しめる消費者の一派に入るので、美味しいのは間違いありません。
バッチ12-135は、全体的なフレイヴァー・バランスは整っているのですが、12年物と較べるとアロマもテイストも何もかもが薄いと感じました。アルコールのピリピリ感もあって、確かに若い原酒の比率がかなり高くなった印象を受けます。サイド・バイ・サイドで12年物と較べるからスケールが小さく感じるとは言え、他のバーボンとの比較に於いても特に誉めるべき点は見つからず、逆に特に悪いところもない凡庸なバーボンという感想でした。正直言って、ローワンズ・クリークというブランドから自分が抱く勝手なイメージからすると期待外れな出来です。
バッチ21-9は紅茶でも飲んでるかのような味わい。同じ新ウィレット原酒と思われるバッチ17-67とフレイヴァー・プロファイルがかなり違うのが面白かったです。こちらはバッチ17-67と較べると、自分が今まで飲んで来た新ウィレット原酒に感じ易いと思っているハーブのど飴のような複合的なハーブとグレープを殆ど感じれず、それが点数を下げる要因となりました。それにしても、何故これ程までにプロファイルが異なるのでしょうか? もしかしてマッシュビルの変更があったのかしら? これがミックス・マッシュビルなの? それとも単にバレル・セレクトの違いなのか…。海外の有名なバーボン・レヴュワーがローワンズ・クリークに対して、本質的に悪いところはないがウィレットが蒸溜するようになったという事実以外に特筆すべき点もないとか、同価格帯のより有能な他のボトル(ブランド)には敵わないとか、評判の悪いウィレット・ポットスティル・リザーヴと同じような風味がする、と評しているのを目にするのですが、それがバッチ17-67のような味わいに言われているのか、それともバッチ21-9のような味わいに言われているのか、はたまた両方なのか、これが判らない。ウィレット蒸溜所のウィスキーを色々飲んでいる皆さんはどう思われますか? コメント欄よりご意見ご感想、お待ちしております。

Value:「12年」表記のあるローワンズ・クリークは、古い物なのでオークション等である程度の価格は覚悟しなければならないでしょう。しかし、もし貴方が古典的な熟成バーボンを好むなら素晴らしい価値のある製品です。現行のローワンズ・クリークは、アメリカでは地域差がありますが大体40〜45ドル程度、日本では大体6500円くらいで売られています。もし貴方が近年のウィレット蒸溜所のウィスキーのフレイヴァーを愛するなら、バッチ毎の違いはあるかも知れませんが、概ねオススメ出来る製品だと思います。これらの中間に当たる時代のローワンズ・クリークは、少々中途半端と言うかあまり印象に残らないバーボンで、正直それほどオススメではありません。


*初期の物でも蒸溜年が記されていないものや、「E」で始まるバッチ番号の物を見かけたことがあります。

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(画像提供K氏)

「トリック・オア・トリート!」。ハロウィンの時期ですね。バーボン愛好家ならば「バーボンくれなきゃイタズラすっぞ」と云う訳で、バーボン仲間のKさんから大人のハロウィンに相応しい高級な「お菓子」が送られて来ました。ウィレット・ウィーテッド・バーボン8年熟成のサンプルです。

ウィレット・ウィーテッド・バーボン8年は2022年後半期にリリースされました。ウィレット蒸溜所の顔とも言えるファミリー・エステート、より一般的なオールド・バーズタウンやスモールバッチ・ブティック・バーボン・シリーズの4種とは異なる形状のボトルが目を引きます。黒光りするボトルに金の文字とパープル・フォイルのトップが高級感を演出しており、頗るエレガントでカッコいい。同社によるとこの「黒い宝石」は、2013年の春先に蒸溜、2022年の夏にボトリング(実際は9年熟成?)、独自のマッシュビルをチャー#4のアメリカン・オークに115プルーフでバレルに詰め、可能な限り風味を保つためチル・フィルトレーションせずにボトルに詰めたと言います。美しい外観以外でこのバーボンに特徴的なのはエイジ・ステイトメントがあることでしょう。ウィレットはファミリー・エステート以外の製品に熟成年数を記載することは殆どありませんから。そして更に注目なのは、マッシュビルにライ麦を含まない小麦レシピであることがボトルの裏面に記載されていることです。ウィレットは自社のウィスキーについて詳細な情報を開示しないことで知られ、ノアーズ・ミルのマッシュビルは何なんだ?とか、ローワンズ・クリークは?、ポットスティル・リザーヴは?となったりするのですが、このボトルに関してはその心配はない、と。彼らの小麦バーボンのマッシュビルは65%コーン、20%ウィート、15%モルテッドバーリーとされています。昨今のバーボン及びアメリカン・ウィスキー全般のブーム、そして「パピー」人気の爆発から棚ぼた式に?ウェラーの人気も沸騰し、延いてはウィーテッド・バーボン自体の人気も高まった印象があります。多くの蒸溜所がライを含有したレシピ以外に小麦レシピのバーボンも大抵の場合リリースしており、お陰で市場に於けるウィーテッド・バーボンの品揃えは充実しました。そうした流れの中、ウィレットも満を持してリリースしたのかも知れません。とは言え、ウィレットは既にファミリー・エステート・シングルバレルではウィーテッド・マッシュビルをリリースしているらしく、バレル・ナンバーが「32xx〜33xx」の物は上記のマッシュビルとされています。あと「11243」は実験的なウィーテッド・マッシュビルらしい。更に付け加えると、ウィレット・ポットスティル・リザーヴは2021年か2022年のどこかで小麦レシピに変更されたと云う噂もありますね。ところで、このバーボンの108プルーフでのボトリングは、ウェラー・アンティーク107に近く、何かしら意識しているのでしょうか。実際、ボトル形状もリニューアル後のウェラー・ブランドに似ています(と言うか同じ?)。

えーと…、このバーボンを語る時、避けては通れない話題が一つあります。それは価格です。8年熟成のバーボンの希望小売価格がなんと250ドルなのです。この点に関してバーボン愛好家達は頭を抱え、或る人はウィッスルピッグ・ブランド(の上級なラインの物)と同じ臭いがプンプンする、と言うほど怪しげな価格設定でした。ウィレット蒸溜所が現在、カルト的な地位を獲得しているのは皆さんもご存知でしょう。そして毎年極く限られた数量しかリリースされないウィレット・ファミリー・エステートのシングルバレルはウィスキー愛好家の垂涎の的となっています。それらが市場に出回ると、バーボン愛好家は勿論、転売ヤーもこぞって手に入れようとします。新しくリリースされたものは即座に売り切れ、二次流通市場に現れる頃には数倍の価格になります。それらのことをウィレットの背後にいる人々も認識し、このウィーテッド・バーボン8年の価格を予めある程度引き上げていると指摘している人を某掲示板で見かけました。その真偽は扨て措き、一般的なバーボン飲みの感覚では高過ぎる希望小売価格のせいか、このバーボンの評価は微妙だったりします。アメリカの或るレヴュアーは「品質だけならもっと高い点数をつけたいところだが、価格設定のために2点減点したい気分だ」と言い、10点満点中4点をつけていました。また、他のレヴュアーは「これは良い。ただ、価値以上の出費をしていることを知っておいてほしい」と述べ5点満点中3点をつけました。他にも「これは良いボトルだったが、230ドルという価格を正当化するには十分ではな」く、「親友や本物のバーボン狂にプレゼントするのでなければ、このボトルを再び購入することはないだろう」と云う意見もありました。挙げ句には、ウェラー・アンティーク107を買って来てツヤ有りブラックのスプレーでボトルをペイントすればいい、と言う人までいました。私は味の求道者ではないので、本ブログのレーティングは味のみでなくボトルの外観、バックストーリーやマーケティング、そして価格も考慮して点数をつけています。だから、私も彼らと同じような点数になってしまうかも知れないという不安はありますが、どうなるでしょうか。さっそく注いでみましょう。
と、その前に。私はこのバーボンを高過ぎる価格から買おうだなんて微塵も思いませんでしたし、況してや無料で試せるなんて思ったこともありませんでした。こんな貴重な物を惜しげもなく分け与えてくれたKさんには本当に感謝です。バーボン繋がりに乾杯!

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WILLETT WHEATED BOURBON AGED 8 YEARS 108 Proof
2022年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。スウィートオーク、干しブドウ、完熟桃、はちみつ、バターたっぷりの焼き菓子、ベーキングスパイス、チョコチップクッキー。とても甘い香り。オイリーなのにサラッとした口当たり。パレートでもかなり甘めで、スパイスが暴れる感じはしない。余韻はハイプルーファーにしてはあっさりしており、最後に柑橘類の苦味が残る。グラスの残り香はアーモンドトフィー。アロマがハイライト。
Rating:87.5/100

Thought:蓋を開けた瞬間から漂う、美味しい洋菓子とウィレット特有のフルーツが融合した圧倒的に甘い香りが至福でした。間違いなく旨いです。但し、標準的なリリースであるオールド・バーズタウンやピュア・ケンタッキーXO等と較べて5倍旨くはありません。ウィーテッド・マッシュビルではないと目される他のウィレット製品と較べてみると、私が好んでいるのど飴のような何と特定できない複数のハーブのノートは希薄に感じました。また、ウィレットに感じ易いグレープのようなフルーツ感も顕在していますが、それよりもペイストリー感が強いバランスの印象を受けました。もしかすると、水を追加したり氷を加えることでフルーツがより感じ易くなったのかも知れませんが、少量のサンプルということもあり、私は試しませんでした。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。

Value:二次流通市場では一時は1000ドル程度で販売されていたこともあるようですが、記事を執筆するに当たって調べたところ、250ドルで買えるお店も幾つかあり、価格はだいぶ落ち着いたようで、300ドル以上の値を付けるお店は大体どこも在庫ありになっていました。これは先に紹介したレヴュワー達の意見が参考にされ、多くの人が購入をパスした結果なのかも知れませんね。試飲前の予想通り、私も海外のレヴュワーさん達と殆ど同じような意見になりました。懐に余裕があるのならば、ボトルを買うのに躊躇する必要はありません。美味しいから。ただ、殆どの人にはバーで一杯飲んでみることをオススメします。ボトル一本は高いから。

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たまたまオールド・マクブレヤーの禁酒法時代のメディシナル・パイントが手に入りました。ここ日本で話題に上ることは殆どありませんが、マクブレヤーの名はバーボンの歴史に於いて重要かつ偉大な名前の一つであり、そのブランドと名前は現代に復活を果たしています。そこで今回はマクブレヤー家とそのウィスキーに就いて見て行きたいと思います。

バーボンの世界でマクブレヤーと言えば、ローレンスバーグ出身のW・H・マクブレヤーです。彼は郡で最初の裁判官として有名で、上院議員でもあり、プレスビテリアン(*)の長老であり、慈善家としても活動しました。ディスティラーとしては、ケンタッキー州のバーボン革命が始まったばかりの頃にアンダーソン・カウンティが蒸溜産業で繁栄するための道を啓いた蒸溜所を運営し、禁酒法施行前の最も有名なウィスキー・ブランドの一つを生み出し、ケンタッキー・バーボンの名声を世界に広めた初期の功労者であり、カーネル・E・H・テイラー・ジュニアやT・B・リピーと関係をもち、W・B・サッフェルを雇い、チャールズ・M・デドマンを支援した人物でした。先ずは通称 「ザ・ジャッジ 」として知られた男のレガシーから紹介しましょう。
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(Judge W. H. McBrayer)
ウィリアム・ハリソン・マクブレヤーは、1821年12月10日、ケンタッキー州アンダーソン郡はローレンスバーグの近くに住むスコットランド系開拓者一家の11人の子供のうちの一人として生まれました。祖父がブルーグラス・ステイトの初期入植者で、父親のアンドリューは農場を営む著名な市民であり同郡の代表を何期か務めた政治家でもありました。彼らが既に自分の土地で小さな蒸溜所を経営していた可能性はあるかも知れません。ウィリアムは地元で教育を受け、早くからビジネスの才能を発揮していました。18歳の時、ローレンスバーグで二人の兄と共に雑貨屋(乾物商とも)を営み成功すると、軈て彼らから店を買い取って単独経営者となり、その後30年間店を切り盛りしたと云います。更にはキャトル・バイヤーとして飼育と販売にも勤しんだそう(ミュール・トレーダーという情報もあった)。
ウィリアムは一族の伝統を受け継いで1844年にディスティリング・ビジネスに参入し、ローレンスバーグの東1.5マイルに位置する場所に工場を設立しました。蒸溜所を建設した土地はウィリアムがライアン家の元奴隷アンクル・デイヴから購入したものでした。ライアン家には相続人がおらず、農地と土地は彼らが亡くなる前に解放した元奴隷のデイヴに遺贈されていたのです。そこはシダー・ランと呼ばれる曲がりくねった小川沿いの美しい土地でした。後のウィスキー・ラベルに描かれるその場所はロマンチックな景色を有していましたが、蒸溜所は当初「原始的な丸太の掘っ立て小屋」と表現される程度のものだったようです。この蒸溜所(第8区RD#44)のウィスキーは「W.H. McBrayer Hand Made Sour Mash Whiskey」というラベルが付けられ、早くもマクブレイヤーの名はケンタッキー州で最高品質の製品を製造していることで知られるようになりました。
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1848年、ウィリアムは6歳年下で同じくアンダーソン郡のヘンリエッタ・デイヴィスと結婚しました。ケンタッキー軍がメキシコ戦争に出征する際、ヘンリエッタは「アンダーソンの最も美しい娘」に選ばれ、郡の若い女性達が作った旗をプレゼントする役を担ったのだとか。1851年になるとウィリアム・H・マクブレヤーはアンダーソン・カウンティの初代判事に選出されました。彼は3年間郡判事を務め、公職を離れた後も人々はウィリアムを単に「ジャッジ」と呼び続け、その肩書きは生涯を貫きました。この呼び名は地域社会のリーダーとして愛された彼の役割を反映したものだったのでしょう。しかし、その同じ年に、僅か3年の結婚生活だけでヘンリエッタが亡くなるという悲劇が起きました。ジャッジは悲しみに打ち拉がれたものの、政治家としてのキャリアも追求し、1856年にはアンダーソン郡とマーサー郡の州上院議員に選出され、その後4年間務めています。同年、彼はヘンリエッタのファースト・カズンのメアリー・エリザベス・ウォレスと再婚し、二人の間には一人の娘が生まれました。上院議員に当選したばかりのウィリアムでしたが、彼の多忙な政治家としてのキャリアはウィスキー・ビジネスの発展を止めることはなく、この時期に蒸溜所の経営も本格的に取り組み始めました。スティルを収納するための新しいフレーム・ビルディングや金属被覆のウェアハウス3棟、また他に別棟も建て、蒸溜所は大きく拡張されます。
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同じ頃、伝説によればジャッジは、妻メアリーの助言に従って蒸溜所の名前をシダー・ブルックに変更しました。敷地内に聳え立つ崖を覆い、川沿いに立ち並ぶ杉の密生から着想を得たと言われています。シダー・ブルック蒸溜所とブランド名の誕生です。蒸溜所の拡大によりジャッジは高品質のウィスキーを造って広く販売することに専心するようになり、シダーブルックは軈て「世界で最も有名なブランド」と知られるまでに成長し、全てのボトルに最高品質の証としてマクブレヤー家の名前が誇らしげに表示されるようになりました。彼は蒸溜の全工程で労力もコストも惜しまず、その品質に大きな誇りを持っていました。最高の穀物を選び、純粋なライムストーン・ウォーターを使い、敷地内の最も高い丘にあるウェアハウスにバレルを貯蔵して豊かな風味を得るために辛抱強く熟成させるなど、自身のブランドを製造するために最大限の努力を払ったと伝えられています。こうして1861年、シダーブルック・ブランドが初めて商業的に使用されたことが記録されました。南北戦争中もシダー・ブルック蒸溜所は繁栄を続け、ジャッジのバーボンの噂は全国に広まりました。
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この成功に促されたのか、ジャッジはT・B・リピーと手を組み、南北戦争後の1868年にジェイムズ・リピー及びパートナーのモンロー・ウォーカーとサム・P・マーティンが立ち上げたウォーカー, マーティン・アンド・カンパニーのタイロンの蒸溜所(RD#112)を1869年に購入しました。しかし、何故か翌年にジャッジは自分のシェアをパートナーのT・Bに売却しています。単なる後進への支援だったのでしょうか? T・Bは後にそこをクリフ・スプリングス蒸溜所と改名して、同じくタイロンのクローヴァー・ボトム蒸溜所(RD#418)と共に運営し、アンダーソン・カウンティの蒸溜王となって地場産業を支えました。
1870年、ジャッジは幾らかの追徴課税を支払う必要があり、その資金を調達するためにバレルの一部を売却することを希望していました。E・H・テイラー・ジュニアは、ケンタッキー州で最高のウィスキーが造られているのはケンタッキー・リヴァー流域だと考えており、また、その地域で最高のウイスキーを造っているのがマクブレヤーであると信じてもいました。そこでジャッジは11月10日にテイラー・ジュニアへ手紙を出して事情を説明しました。テイラーはマクブレヤーからバレルを購入することを喜んだそうです。
ジャッジが製造した全てのシダーブルックは、オハイオ州シンシナティのジェイムス・レヴィ・アンド・ブラザーズが全国的に販売する独占契約を結んでいました。この当時、独占的な取引は一般的なもので、消費者を見つけるという課題は製造業者ではなく販売業者にありました。レヴィ社の努力もあってか、このブランドとW・H・マクブレヤーの名はケンタッキー州の最高級バーボンの代名詞として世界的に知られるようになって行きます。ジェイムス・レヴィ・アンド・ブラザーズはウィスキーの大手流通業者で、毎年数百バレルを仕入れており、テイラー・ジュニアのオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所とも取引があったそう。更に彼らはジャッジのセカンド・カズンであるジョン・H・マクブレヤーからも仕入れを行っていました。
ジョンは1826年6月17日にローレンスバーグで生まれ、地元で教育を受けた後、メキシコ戦争に従軍し、「ソルト・リヴァー・タイガース」として知られる中隊の隊長としてブエナ・ヴィスタの戦いで勇敢な突撃を指揮したと云います。アメリカン・アーミーで最年少のキャプテンだったらしい。戦争終結後、ケンタッキー州に戻り、1848年にハモンズ・クリーク沿いにJ.H.マクブレヤー蒸溜所(RD#125)を立ち上げると、優れたウィスキー造りを始めました。1870年には、マウント・スターリングから少し離れたニュー・マーケットのコミュニティでグリスト・ミルから蒸溜所に改築された施設をハワード, バーンズ&カンパニーから購入し、オールド・マクブレヤー蒸溜所(モンゴメリー郡第7区RD#17)として操業。数年後にジャッジ・W・H・マクブレヤーに売却され、次いでジャッジは1881年にW・W・ジョンソン&カンパニーに売却しました。ジョンソンは1885年にE・H・テイラーとメイヘアーに売却します。二人はテイラー&メイヘアーの名の下で操業し、ブランドには「オールド・マクブレヤー」、「ニュー・マーケット」、「W.W.ジョンソン」、「オールド・ボッツ」等があったそうです。ジョンソンは1888年に工場を買い戻し、1907年まで経営した後、シカゴのローゼンフィールド・ブラザーズ&カンパニーに売却しました。同社はオールド・マクブレヤー・ブランドを保持し、蒸溜所の3つのウェアハウスには約42000バレルの収容能力があり、禁酒法施行までこの工場を運営していたそうですが、その後閉鎖され一部は解体されました。オールド・マクブレヤーのブランドはアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーに買収され、禁酒法時代にも広く販売されました。蒸溜所は1937年にマクブレヤー・スプリングス・ディスティリング・カンパニーとして再建され、フランク・ゴーマンが社長、G・M・"フレッド"・フォーサイスが施設監督、ルイ・ボンドがディスティラーでした。ゴーマンは1907年以前にも管理責任者を務めており、フォーサイスはその少し前までハリソン郡のオールド・ルイス・ハンター蒸溜所(RD#15)の事務/会計やアンダーソン郡の幾つかの工場とマーサー郡のオールド・ジョーダンでも管理責任者として働き、ボンドは1907年以前はW・W・ジョンソンと共に経験を積んでいたそうです。残念ながら、この蒸溜所は数年で閉鎖され、建物は後に建築骨材工場として使われたとか。
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ジャッジのシダーブルック・バーボン及び蒸溜所は繁栄を続けていましたが、その名声が国際的な高みに達する時が来ました。1873年、マクブレヤーのウィスキーがオーストリアのヴィエナで開催された万国博覧会で金賞を受賞したのです。3年後の1876年にはアメリカ初のワールズ・フェアーであるフィラデルフィア・センテニアル・エクスポでも金メダルを獲得しました。この時にディスティラーのニュートン・ブラウンには金時計が贈られたそうです。こうした評価の高まりはマクブレヤー家を更に裕福にしたのでしょう、その頃にジャッジとメアリーは町のメイン・ストリートに位置するローレンスバーグで最も大きな家の一つへ引っ越しました。ちなみに、後年の1884年にルイジアナ州ニュー・オーリンズで開催された世界産業および綿花百年博覧会(World’s Industrial and Cotton Centennial Exposition)でも金賞を受賞しました。シダーブルック・バーボンは「ワールズ・チョイス」と謳われ、「ヨーロッパの王侯貴族をスコッチからケンタッキー・バーボンに転向させたウィスキー」として知られるようになり、当時市場で最も売れたバーボン・ブランドだったと言われています。需要の増加に伴い、1880年にシダー・ブルック蒸溜所に新工場が建設され、生産量は増えますが、ジャッジは常に自分の製品の品質に拘り続けました。膨大な需要に対応するため、マクブレヤーの蒸溜所は1日あたり570ブッシェルをマッシングするまでに生産量が急増しますが、ビジネスが急成長するにつれてマクブレヤーの名前を盗用し始める者もいました。世界的に有名になったウィスキーを守るためにジャッジは、シダーブルックの各ボトルに自分の名前を入れたり、声明を発表したりしました。「多くの悪徳ディーラーがケースやボトルにマクブレヤー・ウィスキーとブランディングして粗悪なウィスキーを市場に出しているのを私は観察している。執拗で恥ずかしげもないこのような乱用は、私自身の本物の世界的に有名なウィスキーの評判を不当に傷つける恐れがある…(ボンフォーツ・ワイン・アンド・スピリッツ・サーキュラー、1882年12月10日掲載)」と。

30年以上に渡り蒸溜所の舵取りをして来たウィリアム・ハリソン・マクブレヤーは、1888年12月6日、67歳でこの世を去りました。彼には高貴な心、明晰で遠くを見渡す頭脳、そして強く寛大な心が備わっており、裁判官として法廷に立とうと、州上院の議員として、マーチャントとして、キャトル・ディーラーとして、或いはディスティラーとして、全ての人を公平に扱い、全ての人に正義を行うという願いを持って、自分のベストを提供したと伝えられます。ジャッジのレガシーはケンタッキー・バーボン造りに根ざしていましたが、実際には地域社会の発展に貢献した何でも屋さんと言うのか街の名士であり、ウィスキーは彼の手掛けた事業の一つに過ぎなかったのかも知れません。逝去当時に「彼の善行を語れば何巻にもなる」と言われるほど教会の活発なメンバーだったジャッジは、後にケンタッキー州ダンヴィルのセンター・カレッジと合併したセントラル・カレッジ・オブ・リッチモンドに多額の寄付(現在の貨幣価値で推定60万ドル相当)をしたそうです。また、彼はルイヴィル・サザン・レイルロードをアンダーソン郡に誘致する手助けもしました。鉄道がローレンスバーグと他の州を結ぶ原動力になることを信じていたジャッジはこのプロジェクトの理事を務め、亡くなる数ヶ月前の1888年に鉄道が完成すると、家族と共にローレンスバーグ行きの列車で旅行をした初めの一人となったようです。この鉄道への彼の影響から、ローレンスバーグの数マイル南にある地域(フォアローゼズ蒸溜所のある周辺)は「マクブレヤー」と命名され、ボンズ・ミル・ロードと鉄道の交差点には嘗てマクブレヤー・レイルロード・ステーションがありました。また、フォアローゼズ蒸溜所の道路向かいにあり、1976年にオースティン・ニコルス社がシーグラムから取得した倉庫施設は、現在ワイルドターキーのマクブレヤー・リックハウスと知られていますが、その名前は地元の呼称から来ているので、元を辿ればジャッジ・マクブレヤーから由来しているでしょう。

ところで、現代に蘇ったブランドの一つにケンタッキー・アウルがありますが、ジャッジはそのオリジナルを造った蒸溜所と関わりがありました。1880年以前に建てられ、ケンタッキー州オレゴン(ローレンスバーグの南方のサルヴィサから東へ数マイルの場所)のケンタッキー・リヴァーのフェリー乗り場近くで操業されていたケンタッキー・アウル蒸溜所(マーサー郡第8区RD#16)はチャールズ・モーティマー・デドマンが運営しており、彼はディクソン・デドマンとメアリー・マクブレイヤー・デドマンの息子で、メアリーはジャッジ・マクブレヤーの妹でした。成功の頂点に立っていたジャッジは一族の生得権を分け与えたのか、甥で養子のチャールズが自分の蒸溜所とバーボン・ブランドを設立できるよう必要な土地と資金を贈ったそうです。蒸溜所は1916年まで操業しその後に閉鎖。C・M・デドマン氏は1918年に死去しました。義父母が宗教上の理由から酒類に反対していたため再開されることはありませんでした。また、彼は薬剤師でもあり、ハロッズバーグでドラッグ・ストアを経営していましたが、そちらは同じく薬剤師だった息子のトーマス・カリー・デドマンが後を継ぎました。彼らは義理の両親を尊重して禁酒法時代には処方箋によるウィスキーの販売を断ったと云います。
また、近年カンパリからウィスキー・バロンズ・シリーズの一つとしてリリースされた「W.B.サッフェル(**)」も、ジャッジ・マクブレヤーと縁の深い人物です。ウィリアム・バトラー・サッフェルの名前はカンパリのウィスキーが発売されてそのレガシーが紹介されるまで殆ど忘れ去られていましたが、自身の蒸溜所のウィスキーは当時かなりの成功を収めた他にも、長年ローレンスバーグ・ナショナル・バンクのヴァイス・プレジデントとディレクターを務めるなど、彼は19世紀後半に名声を得たローレンスバーグの名士の一人でした。1843年8月28日生まれのサッフェルは、1700年代後半にケンタッキー州ルイヴィルとレキシントンのほぼ中間に位置するアンダーソン郡に定住した開拓者一家の一員でした。南北戦争の終結から3年後、25歳のサッフェルはアンダーソン・カウンティのユナイテッド・ステイツ・レヴェニュー・ストアキーパーとして雇用されたそうです。このようなエージェントはゲイジャーとも呼ばれ、地域のディスティラー達が支払うべき酒税の査定を担当していました。この職業に就いたことで、サッフェルは6年間の勤務中に担当地区内の各蒸溜所の設備や工程の知識を得、更にその経営者らと顔馴染みにもなったのでしょう。1874年、サッフェルはウィスキー・リングと呼ばれる一大スキャンダルが露呈する数ヶ月前に職を辞しています。その直後、サッフェルはジャッジ・マクブレヤーの下で働くことになりました。彼はマクブレヤーのイースト・メーカーでした。ウィスキーにとって酵母は非常に重要な風味成分となりますから、おそらくジャッジのバーボンの成功にサッフェルは大きな役割を果たしたと思われます。二人は非常に親密だったようで、サッフェルには6人の娘と1人の息子がいましたが、その長男にフランクリン・マクブレヤー・サッフェルと名付けていました(残念ながら幼児期に亡くなっている)。そのうちジャッジはサッフェルを今で言うマスター・ディスティラーである蒸溜所の監督役にしました。ジャッジが亡くなって1年後の1889年、サッフェルは20年間働いたマクブレヤー蒸溜所を辞めて独立し「自分の小さな製品」を造る道を歩み始めます。彼はローレンスバーグのすぐ北西、オルトン(アルトン)近くのハモンド・クリークのほとりのサザン・レイルロード沿いにW.B.サッフェル蒸溜所(RD#123)を建て、ウィスキーを造り始めました。その工場は年間385バレルのバーボンを生産したとされます。1903年の記録によると、2つのアイアンクラッドのボンデッド・ウェアハウスは21000バレルを貯蔵するキャパシティだったそう。自分の名前が付いたウィスキーにはセラミック・ジャグとガラスのボトルかあり、瓶のラベルは熟成中のバレルが並んだ倉庫を描いた物でした。彼のウィスキーはシダーブルック等に匹敵する人気があったようで、獲得した高い評判はビジネスを成功に導き、他のアンダーソン郡の成功したディスティラーと同じように堂々たる邸宅を建てました。リピー・ファミリーの邸宅ほど大きくはありませんでしたが、その造りは立派なもので現在は葬儀場となっているそうです。また、町の近くに500エーカーの農地も所有していました。ウィリアム・バトラー・サッフェルは1910年8月31日、67歳で亡くなりました。死後間もなく、ローレンスバーグの中心部にある通りはサッフェル・ストリートと名付けられました。現在でもその横にはサッフェル・ストリート・エレメンタリー・スクールがあります。サッフェルの相続人たちはプロヒビションの到来まで工場を経営し続けましたが、その後復活することはなく、その扉は永遠に閉じられました。そして、蒸溜所の建物とブランドは軈て時の流れの中で失われたのでした。しかし、往年のディスティラーを称えるウィスキー・バロンズ・コレクションに含まれたことで、サッフェルの名は再びバーボン愛好家の知るところとなった、と。
ケンタッキー・アウルとW.B.サッフェルという二つの現代に蘇ったラベルは、マクブレヤーのレガシーを継承していると言ってよいかも知れません。
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ジャッジ・マクブレヤーの死後、親族間の争いが起こりました。ジャッジは生前、シンシナティのレヴィ&ブラザーズと契約し、1891年12月1日まで既存の全てのバレルと将来生産される全ての蒸溜酒を売却することを約束しており、そのため蒸溜所は基本的に生産契約を履行するために操業されなければなリませんでした。彼は遺言の第9項で、自分の死後3年間は相続人がマクブレヤーの名で蒸溜所を運営してもよいが、その後は自分の名前を事業から完全に抹消することを望んでいました。これはジャッジが酒を嫌うプレスビテリアンの長老であったことと、個人的に絶対禁酒主義者であったことに起因していると推測されています。それに加え妻のメアリーも、その収入源を考えると少々皮肉なことに、アルコールには強い抵抗感を抱いていたようです。遺言書には遺言執行者たちの間で意見が対立した場合には、妻に遺産の決定に於いて最も重要な役割を与えるべきであるとも書かれていました。
ジャッジの一人娘ヘンリエッタは、同じく蒸溜業者でマーサー・カウンティのバーギン近くに蒸溜所を所有するダニエル・ローソン・ムーア(***)と結婚していましたが、既に若くして1882年10月30日に31歳で亡くなっていました。彼女とムーアには3人の子供、メイ、ウォレス、ウィリアムがいました。蒸溜所はこの三人の孫が引き継ぎ、ジャッジの義理の息子であるムーアが遺言の共同執行者として経営に当たりました。ジャッジの未亡人は蒸溜所からマクブレヤーの名前を剥奪し、孫娘達が貴重なシダー・ブルックの商標を使用することを禁止する条項の施行を望みましたが、ムーアは蒸溜所の経営者として、またジャッジの遺言の共同執行者として、この条項を無効化しようと試みました。メアリーは彼を法廷に引っ張り出します。ムーアは1894年4月の訴訟で、マクブレヤーの名前はジャッジの孫にとって少なくとも20万ドル(今日の数百万ドル)以上の価値がある商標であり、この条項で許可された3年を超えて存続させるべきだと主張。下級裁判所がメアリーの主張に同意すると、ムーアはケンタッキー州最高裁判所に上訴しました。そこの判事達はマクブレヤーのシダー・ブルックをよく知っていたのか同情的だったようで、ジャッジ・マクブレヤーは非常に賢明でとても聡明なビジネスマンであり、彼の真意では蒸溜所を3年以上運営することを望まなかったかも知れないが、孫娘達が新しい事業体を設立して蒸溜所を運営することは問題なく、もちろん貴重なマクブレヤーとシダー・ブルックの名称は引き続き使用されるべきである、としました。基本的に裁判所は、愛する孫達に不利益を与える意図はなかったというムーアの意見に同意し、マクブレイヤーとシダー・ブルックの名前は余りにも価値が高く、無駄にすることは出来ないと判断したのです。こうして遺言は却下され、ムーアと孫達にはバーボンに関連するマクブレヤーの名前を残すことが許されました。ジャック・サリヴァンは、もしムーアがジャッジの遺言に異議を唱えなければシダーブルックやマクブレヤー・ウィスキーの名が後世に残らなかったかも知れないと云うような趣旨の発言をしており、この件の彼の行動を称賛しています。

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保険記録では、この頃の蒸溜所の所有者はシダー・ブルック・ディスティラリー・カンパニー、D・L・ムーアが運営とされ、蒸溜所は石造りで、敷地内には金属またはスレート屋根のフレーム構造のボンデッド・ウェアハウスが3つ(A, B, C)蒸溜所から約1マイル北にあり、同様の構造のフリー・ウェアハウスが305フィート東にあったようです。ムーアは子供達に代わってシダー・ブルック蒸溜所の経営を続けた後、1899年、最終的に蒸溜所をウィスキー・トラスト(****)であるジュリアス・ケスラーのケンタッキー・ディスティラリーズ・アンド・ウェアハウス・カンパニーに売却しました。何故ムーアがトラストに売却したのかはよく解りませんが、彼が引き続き施設を管理したという情報もありました。トラストが工場を買い取ると1日800ブッシェルから1800ブッシェルに拡張し、更に新しい倉庫とボトリング・ハウス、ケンタッキー・リヴァーまでの2.5マイルのラインを持つ冷却水用のポンピング・ステーションを追加しました。一方、この頃には「オールド・ジャッジ」という言葉が広くウィスキーと結び付くようになっており、この言葉を使った多くのブランドが誕生していたようです。ケスラーはシダー・ブルックを「世界で最も有名なブランド」とし、W・H・マクブレヤーの名前を冠し続け、その遺産を守ることに専念しました。マクブレヤーの評判を上手く利用して、ジャッジが築いた基盤をより強固なものとした訳です。
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最盛期には、シダー・ブルックは世界最大の販売を誇るファイン・ケンタッキー・ウィスキーのブランドとして宣伝され、汎ゆる一流クラブ、バー、レストラン、ホテル、および大手ディーラーで販売されました。しかし、当時の多くの蒸溜所と同様にシダー・ブルック蒸溜所は禁酒法のために閉鎖(1916年までという説も)され、1922年に解体されてしまいます(禁酒法開始時に壮絶な火災に遭い焼失したという情報もありました)。閉鎖後に蒸溜所の礎石が開かれると、そこから埃を被った遺物が幾つか見つかりました。希少なオールド・ウィスキーのボトルが2本、少額のお金、古い新聞、そしてマクブレヤーに関する手紙と蒸溜所で働いた42人の名前のリストが入ったガラス瓶です。従業員のリストには経営者のW・H・マクブレヤーや管理人のW・B・サッフェルを始めとして様々な職種の人々が記載されていました。シダー・ブルック蒸溜所はアンダーソン・カウンティのウィスキー産業を一から築き上げ、地元住民の雇用を創出していたのです。

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上の画像はケヴィン・コスナーとショーン・コネリーが共演する禁酒法時代を舞台にした1987年の映画『ジ・アンタッチャブルズ』の宣材写真かオフショットを使ったポスター?か何かだと思うのですが、二人の後ろにはオールド・マクブレヤーの大量の箱が見えます。映画の中ではポスト・オフィスへの初めての「襲撃」のシーンでチラッと映ってたように思います。禁酒法はアメリカ国内でのアルコールの製造と販売を非合法化しましたが、薬用の処方箋や特別な配給品は免除されていました。オソ・ワセンによって設立されたアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)は、そうした状況を上手く利用した企業の一つでした。シダー・ブルックもオールド・マクブレヤーも禁酒法時代にAMSによって製造されました。禁酒法時代のメディシナル・ウィスキーのブランド名は実際にその蒸溜所と一致していないことが殆どでした。それを念頭に置いて、誰がウィスキーを蒸溜し、誰がボトリングしたかを見てみましょう。画像検索ですぐ見つかる物には、シダー・ブルックのブランドではクック=マクファーデン・カンパニーがボトリングした物(参考1)と、AMSがS.P.ランカスターの原酒を詰めた物(参考2)があります。オールド・マクブレヤーのブランドの方はかなり多く見つかり、H・S・バートン(グレンモア蒸溜所デイヴィス郡第2区RD#24)、メルウッド蒸溜所(ジェファソン郡第5区RD#34)、アレン=ブラッドリー・カンパニー(ジェファソン郡第5区RD#97)、ザ・アンダーソン・ディスティラリー・カンパニー(同上)、ザ・ネルソン・ディスティラリー(ジェファソン郡第5区RD#4)、ハリー・E・ウィルケン(エルク・ラン蒸溜所ジェファソン郡第5区#368)、ジョセフ・シュワブ・ジュニア(ファーンクリフ蒸溜所ジェファソン郡第5区RD#409)、E.L.マイルス&カンパニー(ネルソン郡第5区RD#146)、J.N.ブレイクモア(ウィンザー蒸溜所ラルー郡第5区RD#36[一時期のアサートン蒸溜所])、ウィリアム・ター・カンパニー(フェイエット郡第5区RD#1)、ヘンリー・クレヴァー(ヘンダーソン郡第2区RD#50)とラベルや封紙に記載された物がありました。他にもあるのをご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。上に列記したのは、なにぶん解像度の低い画像を拡大して視認しただけなので間違っている可能性があります。こちらに関しても誤りはどしどしコメントよりご指摘ください。また括弧内は、ラベル及びストリップが読み取れた物に就いてはそのまま書き出しましたが、大部分は名前から推測される蒸溜所を私が補足したものです。ブレイクモアやターは会社の名前として使われただけで、ウィスキーは他の蒸溜所からかも知れません。これらは概ねトラストが買収した蒸溜所でした。ボトリングは大体がR.E.ワセンのNo.19か、エルク・ランの巨大なNo.368の集中倉庫。あと、これらの幾つかは34年ボトリングと記載があり、禁酒法解禁の直後にリボトルされた物と思われます。上記の社名のうち、アンダーソン&ネルソンやアレン=ブラッドリー及びエルク・ランは同じ敷地にある複合施設でした(*****)。兎も角、これだけ種類が豊富なところを見ると、オールド・マクブレヤーは禁酒法時代、最も人気のあったウィスキーの一つだったと言っても過言ではないでしょう。
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禁酒法が解禁された後のマクブレヤーのブランドは、AMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズが販売したと思われるのですが、この時期のシダー・ブルックは画像検索で殆ど確認できず、見つかったのはブレンデッドくらいでした。もしかするとブランドの復活に力を入れられなかったのでしょうか。どういう経緯か分かりませんが、マイケル・ヴィーチによると、シダーブルックは一時期シェンリーがボトリングしたブランドになったが1970年代には消滅した、と書いていました。オールド・マクブレヤーの方はもう少し見つかりまして、確認できるところではグリーン・ラベルの3年や4年の短熟物、多分もう少しあとのブレンデッドがありました。
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すぐ下で紹介するマクブレヤー・レガシー・スピリッツを創業したビル・マクブレヤー4世によれば、1970年代にナショナル・ディスティラーズが製造し、シンシナティでボトリングされたオールド・マクブレヤーのブレンデッドがあり、それは酷いもので、彼が子供の頃に父親はホリデイ・シーズンになるとそれを客に配ったがすぐに返された話をよく聞いたと云う…。それは、どうやら80年代初頭までは細々と生き残ったようです。

マクブレヤーの名前だけは20世紀になっても僅かに残ったものの、その遺産は歴史の塵に埋もれ殆ど失われました。アーリータイムズやフォアローゼズやI.W.ハーパーのようには、現代まで継続的に存続は出来ませんでした。しかし、近年のバーボン・ブームの到来を受け、伝統あるブランドが続々と復刻されているのは周知の通りですが、マクブレヤーのブランドもまた長い眠りから醒め復活しました。175年以上前にジャッジ自身が手造りした卓越した伝統を今日のバーボン愛好家に紹介するため、2016年にマクブレヤー・レガシー・スピリッツが起ち上げられたのです。
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マクブレヤー・レガシー・スピリッツの始まりは、全くの偶然からだった、と創業者のW・G・"ビル"・マクブレヤー4世は語ります。彼は元々バーボンの世界に入りたいと思っていた訳ではなく、娘のために大学のことを調べていました。その際、センター・カレッジがその候補に挙がったので、父親にそのことを話すと、父親は笑ってマクブレヤーズがその大学に寄付していると彼に伝えました。「どのマクブレヤーがそんなことをするんだ?」とビルが尋ねると、父親は「ウィスキー業界のマクブレヤーさ」と言いました。ビルは先ず、マクブレヤーが後援する奨学金があるかどうか確かめましたが、それは存在しませんでした。そこでマクブレヤー・ウィスキーをグーグル検索をしてみると、ビルはもっと知らなければならないほど豊かな歴史を発見します。それは独立戦争後にケンタッキー州ローレンスバーグに定住したマクブレヤーの一族の驚くべき歴史と、ザ・ジャッジことウィリアム・ハリソン・マクブレイヤーが有名な銘柄「シダー・ブルック」を世に送り出し、ケンタッキー・バーボンの名声を世界に広めた初期の功労者の一人となったことでした。ビルは、ジャック・サリヴァンのジャッジに関するブログ記事を読んだ後、何週間もかけて1800年代に遡る歴史的出来事を深く掘り下げて行きました。この調査の過程で、彼はジャッジのレガシーと、1870年頃にケンタッキー州ニューマーケットでオールド・マクブレヤー蒸溜所を始めたジョン・H・マクブレヤーに就いても学び、興味深い歴史に夢中になりました。そしてブランドの歴史を辿ってみると商標が失効していることが分かり、ビルは2013年にファミリー・ブランドの商標を再登録します。そこで彼は妻に言いました。「ハニー、僕はバーボン・ビジネスに参入するようだ!」と。父親のビル3世は定年退職を迎えると、より多くの時間を共に過ごすようになり、ビジネス・パートナーとして加わりました。26年間連れ添ったビルの妻もこの試みに非常に協力的だったし、成長した二人の子供達はソーシャル・メディアや友人たちとのネットワークでマクブレヤーを広める手助けをしてくれたそうです。彼が情熱を注いだプロジェクトは、古のバーボンがそうだったように文字通りファミリー・ビジネスでした。
ビルがマクブレヤーの歴史を深く掘り下げようと決めたのは2012年のことでしたが、当時、具体的なスケジュールは考えていなかった、と彼は言います。単なるバーボンの供給だけでは済ませたくなかった彼は、W・H・マクブレヤーの物語を継承し、1844年から続く遺産を尊重して最高品質の原材料と最新の蒸溜技術を使える途を探り、ジャッジのような象徴的な蒸溜家をバーボン・コミュニティに紹介するには慎重なアプローチが必要と考え、自らのウィスキーをどのように伝えるかにも拘り、とにかく時間を掛けました。それは待つ価値のある旅でした。長年の研究と献身を経た2021年4月、ザ・ジャッジの生誕200年を記念して、マクブレヤー・レガシー・スピリッツは遂に最初の成果である「W.H.マクブレヤー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のバッチ1を限定リリースしました。
このバーボンの第一歩は、ジャッジのオリジナルのマッシュビルを再現することでした。1870年11月10日付のW・H・マクブレヤーからE・H・テイラー・ジュニアに宛てた書簡が残っています。その内容は、マクブレヤーの11000ドルにものぼる税金問題と、テイラーがその支払いを助けるためにジャッジのバーボンを購入する取引に就いて論じたものでした。実はその裏面に、マクブレヤー自身の手書きと思われるマッシュビルが記されており、そこには3965コーン、260ライ、260モルトとあり、これはコーンが88.4%、ライとモルトがそれぞれ5.8%ということでした。この手紙はバーボンの歴史家であるマイケル・ヴィーチがルイヴィルのフィルソン歴史協会での仕事を通じて手に取ったもので、彼はこうした低モルトのマッシュビルは今日の基準からすると低収量と見做されるが同時におそらく蒸溜液にはグレインのフレイヴァーが多く残るだろうと推測していました。そして、バーボンはおそらく100~105プルーフで蒸溜され、100プルーフでバレルに入れられただろう、とも。こうして着想を得たマクブレヤー・レガシー・スピリッツは、可能な限り当時のバーボンを再現しようと試みました。先ずは穀物から。1800年代に製造されたウィスキーが現在のウィスキーとは異なる味わいであることは知られていますが、その理由の一つと考えられているのは、禁酒法以前の時代のウィスキーがエアルーム穀物や伝統的な穀物を使っていたのに対し、現在のディスティラー達の多くが工業用穀物に頼っていることです。彼らは、ビル・マクブレイヤー3世の友人が栽培していたブラッディ・ブッチャーと呼ばれる特別なレッド・コーンを採用しました。ジャッジが実際に用いたかは判りませんが、これは19世紀半ばに誕生しケンタッキー州で栽培されていたエアルーム品種です。ちょっと恐ろしい名前は、黒や紫っぽい赤い粒が肉屋の血まみれのエプロンに似ているかららしい。味に関しては独特のバターの風味やナッツのような甘さがあると言われています。現代のクラフト蒸溜所では、ブラッディ・ブッチャーに限らずこうした在来種の穀物を取り入れる動きはあり、それは彼らのバーボンの味わいに重要な役割を果たしてくれるでしょう。ケンタッキー州ローレンスバーグにあったマクブレヤーのオリジナルの蒸溜所から15マイル以内しか離れていない場所で栽培されたエアルーム品種の一つであるこのコーンはレガシーなマッシュビルにとって完璧なベースとなり、そこにヘリテッジ・ライとモルテッド・バーリーを組み合わせることでマッシュビルは決まりました。
ジャッジが使用したマッシュビルを再現しながら、今日の近代的な蒸溜技術の恩恵も受けるため、このバーボンは新進気鋭のウィルダネス・トレイル蒸溜所で契約蒸溜されています。88.4%コーン、5.8%ライ、5.8%モルテッドバーリーのマッシュビル、ウィルダネス・トレイルの特別なイースト、石灰岩で濾過されたケンタッキー・リヴァーの水を使い、最初の年に最小バッチ・サイズの10バレル分が蒸溜されました。バレル・エントリーは、現代の大規模スピリッツ・メーカーの殆どが遠ざかったコストの掛かる方法である低プルーフの105プルーフでした。最初のバッチが熟成を迎えるのを待ちながら、ビル達は熟成樽の試飲を続けていると、味わう度にどんどん良くなって行ったそう。4年と4ヶ月の熟成期間を経て、バッチ1は10バレルのうち5バレルをブレンドし、1075本がボトリングされました。フル・フレイヴァーを実現するためにアンフィルタードかつバレル・ストレングスの103.6プルーフ、希望小売価格は100ドルでした。W.H.マクブレヤーのボトルには品質の証として、全ての始まりとなった手紙からトレースした本物のサインのレプリカが描かれています。このバーボンへの反響は大きく、プリオーダーを開始すると数日で完売したそうです。あまりに早く予約注文が入ったので、ロットの売り過ぎを防ぐため予約注文を停止せざるを得ず、再開したときには一度に注文しようとする人が多すぎて1時間以内にサイトがクラッシュしたとか…。また、バーボン・コミュニティからも歓迎され、マッシュ・アンド・ドラムのジェイソン・Cや前述のマイケル・ヴィーチらの動画やブログ記事などに取り上げられています。
翌2022年4月にはバッチ2がリリースされました。このバッチは、2年目の蒸溜で得られた5バレルと、1年目の蒸溜で得られた1バレルで構成されました。つまり熟成年数は4〜5年です。6バレルでのバッチングなので最初のバッチよりは販売できるボトル数が多い訳ですが(100プルーフで1300本)、3時間以内に完売したとのこと。ベリー・スモール・バッチのため、当然最初のバッチとは若干異なるフレイヴァー・プロファイルを持っているでしょう。2023年4月29日発売のバッチ3は103.5プルーフで2056本がボトリングされています。
マクブレヤー・レガシー・スピリッツは、W.H.マクブレヤーのファースト・リリースに続けて、2021年の後期にはもう一つの古いブランドであるオールド・マクブレヤーも復活させています。彼らは禁酒法以前のオールド・マクブレヤーのラベルを出来る限り再現することで、過去の遺産に対する敬意を表しました。こちらのバーボンはバーズタウン・バーボン・カンパニーから調達しています。マッシュビルは70%イエローコーン、18%ライ、12%モルテッドバーリー、バレル・エントリー・プルーフは115、5年熟成、ボトルド・イン・ボンドの100プルーフ。2021年11月発売のバッチは1253本、2022年10月発売のバッチは3000本のボトリングでした。そして、W.H.マクブレヤーとオールド・マクブレヤーに続き、2023年、彼らは遂にザ・ジャッジの世界的に有名なシダー・ブルック・ケンタッキー・バーボンを復活させるとアナウンスしました。今後が楽しみですね。


偖て、今回私が手に入れた禁酒法時代のオールド・マクブレヤーはメルウッド蒸溜所で蒸溜されたものでした。ついでなので、この蒸溜所の歴史に就いても紹介しておきましょう。
メルウッド蒸溜所はベアグラス・クリークのサウス・フォークにジョージ・ワシントン・スウェアリンジェンによって建てられました。スウェアリンジェン家はアメリカの初期入植者で、最初に定住したファミリー・メンバーはゲリット・ファン・スウェアリンジェンでした。教養のあることで知られたゲリットは、オランダ西インド会社がプリンス・マウリッツ号を新大陸に派遣した時、同船のスーパーカーゴ(航海中の商業上の問題を管理することを任務とする商船の士官)に任命されました。オランダの港を出航した船は、デラウェア・リヴァー沿いのオランダ植民地ニュー・アムステルダムへ物資を運びますが、1657年3月8日にロング・アイランドの海岸近くの沖で座礁しました。乗組員らは翌日岸に辿り着き、凍てつくような天候の中、2日間火を使わずに過ごしたそうです。何とか助かったゲリットは後に、ニュー・ネーデルラント総督ピーター・ストイフェサントのもと、ニュー・アムステルダムの評議員に任命されました。ゲリットは他の人と共にデラウェアの植民地を統治していましたが、1664年にイングランドがロバート・カー卿の指揮でオランダ人を追い出し、そこの名前をニュー・キャッスルと変えました。彼らは知りませんでしたが、イングランドはオランダと取引を行い、北米のオランダ植民地と引き換えに、南米の北東海岸に位置する広大な土地を交換していました。イングランドの軍艦がデラウェア・リヴァーを遡上し、植民地の引き渡しを要求すると、支配者たちは砦に退きイングランド船に砲撃を加えました。するとイングランド軍は大軍を上陸させ町を占領し砦の明け渡しを要求して来たので、現実的に防衛することが叶わなかった彼らは降伏したのでした。ゲリットは母国への不審があったのでしょうか、オランダへの忠誠を放棄してイングランドへの忠誠を宣言し、姓から「Van」を取り去り、名前に「a」を加えて英語化することで発音に対応し、綴りをギャレットに改め、 家族をメリーランド州セント・メアリーズ郡に移住させました。ギャレットは彼らを歓迎したボルティモア卿にイングリッシュ民としての帰化を請願すると許可され、セント・メアリーの町やメリーランド州議会にも積極的に関わるようになって行きました。1670年、ギャレットはセント・メアリーズ川の畔の自らの土地に立派な家を建て、1690年までには増築され大きな建物に成長、一家は1730年までこの家に住んでいたと言います。
1804年、一族の一部がメリーランド州から遥か西部のブルーグラス地域、ケンタッキー州ブリット・カウンティに移り住みました。そこでジョージの父ウィリアム・ウォレス・スウェアリンジェンは育ち、ファーマーとして成功し、軈て裕福な農場主と奴隷所有者となりました。彼は著名なケンタッキー・パイオニアの一人であるヘンリー・クリストの娘ジュリア・F・クリストと結婚しました。ヘンリーは1780年にソルト・リヴァーでインディアンと血みどろの戦いを繰り広げた闘士であり、ケンタッキー州議会議員を務めた人でした。ジョージは1838年3月12日に生まれましたが、ジュリアは彼が生まれて間もなくに亡くなっています。ウィリアムは1869年まで生きたそう。
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(Bullitt County Historyより)
裕福な父をもったジョージは、当時としては水準の高い教育を受けたようで、マウント・ワシントン・アカデミーで学び、16歳でケンタッキー州ダンヴィルのセンター・カレッジに入学、1857年に卒業しました。大学生活中は常に教員からも学生からも尊敬され好意をもたれていたと伝えられています。卒業後1年以内に、20歳の彼はメアリー・エンブリーと結婚しました。彼女は18歳で、ジョージと同じく名家の出身でした。彼女の父親は米英の1812年戦争の退役軍人サミュエル・エンブリー、祖父はヴァージニアから1790年にケンタッキーのグリーン・カウンティに定住したヘンリー・エンブリーでした。妻との間には1858年に娘、1863年と1864年に息子が生まれました。ジョージは南北戦争中の兵役を避けたようです。ジョージはブリット郡にある農場でファーマーとして働きながら、そこでミルウッドと呼ばれる小さな蒸溜所も経営していました。しかし、南北戦争の終わりに状況が大きく変わります。終戦後、奴隷は解放され、ケンタッキーの農業経済は大混乱に陥ったため、彼はファーマーを辞めて若い家族らを元の環境から引き離し、1866年にルイヴィルへと移りました。ジョージはそれからルイヴィルに40年以上住みましたが、常にブリット郡を故郷と見做していたそうです。彼はルイヴィルに着くと、食料品店で短期間の経験を積んだ後、メルウッド蒸溜所を設立し、長年に渡って運営しました。おそらく以前に自分の農場で小さなウイスキー製造業を営んでおり、酒類取引がいかに儲かるかを理解していたのでしょう。
メルウッド蒸溜所は1869年(******)に、フランクフォート・アヴェニューとブラウンズボロ・ロードの間のサウソール・ストリートに設立されました(ジェファソン郡第5区RD#34)。サウソールは、後の1884年にレザボア・ロード、更に後の1895年には通りの両側ほぼ1ブロックを占めるまでに成長したメルウッド蒸溜所に敬意を表してメルウッド・アヴェニューと改称されました。ジョージは当初、自分のバーボンを古い農場にちなんで「ミルウッド」と呼ぼうとしました。しかし、印刷業者のミスでブランド名が「メルウッド」とスペルミスされてしまいます。それでも何故か彼はメルウッドの名を残すことにしました。当初は小規模だった施設はすぐに州内で最も大きくなり、成功した蒸溜所の一つとなりました。いつの段階か判りませんが、工場の敷地は12エーカーに及び、蒸溜所はレンガ造りで耐火屋根を備え、蒸溜所には特許のローラー・ミルを備えたミル・ルーム、中央にある巨大なビア・ウェル、それぞれ1万ガロンの容量を持つ19のヴァットまたはタンクを備えた大きなファーメンティング・ハウス、ボイラー室、バレル・ハウス、焼印場、また他にも使用済みのマッシュを与えるための1000頭の牛を収容できる大きな牛舎もありました。敷地内に6つの巨大なボンデッド・ウェアハウスと1つのフリー・ウェアハウス(連邦政府の規制なし)があり、倉庫はスティームで暖められ、汎ゆる場所で均一な温度が保たれていたそうです。この蒸溜所は1日当たり1200ブッシェルの穀物をマッシングでき、65000バレルのエイジング・ウィスキーを貯蔵するキャパシティでした。後に倉庫は少し拡張され、70000バレルを収容できるようになりました。水源はベアグラス・クリークを利用していたでしょう。メルウッド・ディスティリング・カンパニーの主力ブランドは常にメルウッド・ウィスキーで、アメリカ中の酒棚に置かれていたようです。
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メルウッドは精力的なマーケティングが行われ、幅広い出版物への頻繁な広告の他、自分のブランドの酒を扱うサルーンやバーおよびレストランやホテルへの景品、エッチングの施されたショット・グラス、特別なカスタマーに贈られたトレイなどのグッズがありました。同社のその他のブランドには「オールド・ウォーターミル」、「マーブル・ブルック」、「モンピリア・ライ」、「ノーマンディ・クラブ」、「同ピュア・ライ」、「ルビコン」、「ラニミード・クラブ・バーボン」、「同ピュア・ライ」、「同ウィスキー」、「ダンディー」、「G.W.S.」等があったと伝えられます。メルウッドはかなりの規模の蒸溜所であり、自社製品を製造する一方で、当時の典型として、ブランドの所有/販売/流通を手掛ける蒸溜所を持たない中間業者にウィスキーをバルク販売してもいました。現在も継続するブラウン=フォーマン・カンパニーは、初期のオールド・フォレスターのブレンド用にメルウッドから多くのウィスキーを購入していたとされています。創業当初のブラウン=フォーマン社はディスティラーではなくレクティファイアーであり、彼らは上質と思われるウィスキーを調達し、それに自分達の名前を記して販売していました。そうした中間業者だった多くの企業は後に蒸溜所を買収し、自社生産をして行くことになります。
どうやらジョージ・スウェアリンジェンはメルウッド以外の蒸溜業にも手を広げていたようで、彼は1870年代後半から1880年代初めまでディーツヴィル蒸溜所のオウナーでもあったとか、1884年から1887年まではボウリング・グリーン近くでスプリング・ウォーター蒸溜所(RD#4)も経営していたとの情報もありました。後者の蒸溜所は1日僅か120ブッシェル、15バレルのウィスキーを生産する小規模なものだったらしい。またスウェアリンジェンは、1880年にケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーションを結成するために集まったメンバーの一人でもありました。
メルウッドやその他のウィスキーによって巨万の富を築いたスウェアリンジェンは、他の事業にも目を向けていました。彼はケンタッキー・パブリック・エレヴェイター・カンパニーの社長を務め、彼のエレヴェイターには100万ブッシェルの穀物を貯蔵する能力があったと言います。ジャック・サリヴァンは、スウェアリンジェンがウィスキーの製造に大量の穀物を使用していたことを考えるとエレヴェイターの会社を所有するようになったのは自然な流れだったのかも知れない、と云う趣旨のことを書いていました。彼はそれだけに留まらず、ルイヴィルの他の実業家たちを率いて金融組織ケンタッキー・タイトル・カンパニーも設立して社長に就任しています。更には同時期の1889年頃、地元の投資家らと共にユニオン・ナショナル・バンクも設立しました。彼の執政下でその銀行は即座にルイヴィル市で最も人気のある銀行の一つとなったそうです。彼は亡くなるまで同銀行の頭取を務めました。一説にはスウェアリンジェンは銀行業に移る際に酒類事業を売り払ったとされることもあります。サム・セシルの本には「スウェアリンジェンが社長兼主要オウナー、シンシナティのランドルフ・F・ベルクが副社長」だった時代を経て「スウェアリンジェンは1889年にベルクに売却し、同じくシンシナティのジェイコブ・シュミドラップが会社に加入した」との記述が見られ、経緯が符合しているようにも見えますが、ルイヴィル市の商工人名録によるとメルウッド・ディスティリング・カンパニーは、1890年にはジョージ・W・スウェアリンジェンが社長、R・F・ベルクが副社長、W・H・ジェイコブスが秘書兼会計と記載されています。変化が見られるのは1891~92年からで、そこではベルクが社長、スウェアリンジェンが副社長、ジェイコブスが秘書兼会計、エドムンド・O・ルジィが管理監督とあります。1895年の名簿ではベルクが社長兼ジェネラル・マネージャー、スウェアリンジェンが副社長、ジェイコブスが秘書、ウォルター・ワーナーが財務担当、J・H・ジョンソンが秘書補佐、ルジィが管理監督となっています。おそらくスウェアリンジェンはきっぱりと蒸溜業から手を引いたと言うよりは、主要なオウナーではなくなったものの、メルウッド社への投資は続けていたと考えられます。この1890年代はメルウッド社にとって継続的な拡大期であったようで、1892年にはシカゴに営業所と思われる支店を開設したり、1893年(1895年という説も)には蒸溜所はレンガ、石、鉄骨、コンクリート造りでスレート屋根の6階建てに建て替えられました。おそらくこの時に、蒸溜所は印象的なリチャードソニアン・ロマネスク様式(*******)の建物になったと思われます。1896年(1899年という説も)、メルウッド蒸溜所はウィスキー・トラストに売却されました。経営陣は一新され、トラストが送り込んだD・K・ワイスコフが社長、ヘンリー・アイモーデが副社長、エルク・ラン蒸溜所(RD#368)のハリー・ウィルケンが秘書兼財務担当となりました。アイモーデは1908年に退社し、トラストの一味であるリーガン・アンド・アイモーデ・ディスティリング・カンパニーを設立したそうです。おそらくスウェアリンジェンは、トラスト売却後には蒸溜所の経営から手を引き、不動産業(ケンタッキー・タイトル・カンパニー)と銀行業(ユニオン・ナショナル・バンク)に専念したのでしょう。
1898年、ジョージ・ワシントン・スウェアリンジェンは脳卒中で倒れ、一時的な麻痺に見舞われます。その後、2度目の脳卒中が起こり、1901年8月には3度目の脳卒中が起こり、この麻痺から回復することなく、彼はその年の秋から冬にかけて著しく衰え12月18日に亡くなりました。葬儀はウェスト・ブロードウェイ218番地の自宅で自宅で執り行われ、遺体はケイヴ・ヒル・セメテリーに埋葬されました。彼は、健全な判断力と広い知性に気高い人格をもち合わせ、ルイヴィルで際立って輝いた、と評された人物でした。また、プレスビテリアン・チャーチと密接な繋がりがあり、長年に渡ってルイヴィルの長老派孤児院の理事長を務め、同教会の被後見人の世話と扶養に惜しみなく貢献したそうです。
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(1910年のサンボーン・マップ)
スウェアリンジェンの死後もメルウッドの名前、会社、蒸溜所は終わりません。1909年にはシンシナティに営業所が開設され、トラストは禁酒法が施行されるまで蒸溜所を運営し、メルウッド・ウィスキーの販売を続けました。その頃までには蒸溜所は業界ではよく知られるようになっており、高級品質のウィスキーを確立、その売上は大きく、年間約10000バレル、5万ケースが販売され、蒸溜所は600000ドルの価値が見積もられたとか。成功は多くの場合、模倣を生み出します。メルウッドが大成功を収めると偽者が現れ、ブランドを模倣しようとした競合他社に対してメルウッド・ディスティリング・カンパニーは1905年に訴訟を起こしました。それは虚偽表示や偽装蒸溜所に関する最も初期の裁判の一つとなりました。偽者はアーカンソー州フォート・スミスのディストリビューター、サミュエル・R・ハーパーとサイラス・F・レイノルズのハーパー=レイノルズ・リカー・カンパニーでした。彼らはラベルに、「ミル・ウッド」というブランド名を付け、「ミル・ウッド・ディスティリング・カンパニー」という名称を使い、「ケンタッキー」とも書き、「この著名なウィスキーは、厳選された穀物から、専ら最高級ウィスキーの蒸溜に採用されるサワーマッシュ・ファイアー・カッパー製法を頼りに造られ、樽で8年間熟成させた後にボトリングされた」と云う説明を記載していました。しかし、実際には何処にもミル・ウッド蒸溜会社は存在せず、サワーマッシュでもファイアー・カッパー製法でもなく、厳選された穀物から造られておらず、8年熟成でもなく、ブレンデッド・ウィスキーでした。1909年、裁判所は、この虚偽のラベルを使用したミル・ウッドのブランドは一般大衆を誤解させるために考案されたものであると判断し、こうした欺瞞は許されないとしてハーパー=レイノルズ・リカー・カンパニーによるラベルの使用を差し止める命令を下しました。
残念ながらメルウッド蒸溜所は禁酒法の推進による影響で1918年に閉鎖されました。メルウッド蒸溜所のすぐ隣にはクリスタル・スプリングス蒸溜所(RD#12)があったのですが、1921年、この土地の新しい所有者はクリスタル・スプリングスを取り壊し、全ての機械を撤去、メルウッドの蒸溜室やファーメンティング・ハウスやボトリング・ハウスから配管や機材を取り除き、1棟を除く全ての倉庫を取り壊しました。しかしメルウッドのブランドは禁酒法下でも生き延び、例によってアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーがボトリングしています。カリフォルニア州サン・フランシスコの集中倉庫でボトリングされたと思われるメディシナル・パイントも見かけました。これはリノ・ドラッグ・カンパニー(ネバダ州)によって販売されたみたいです。
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禁酒法解禁後もメルウッドは、AMSを取り込んでいたナショナル・ディスティラーズがリリースしたと思われます。おそらく初期は短期熟成のバーボン、後にブレンデッド・ウィスキーとなったのではないでしょうか。ブレンデッドのラベルにはナショナルの子会社ペン=メリーランド名義となっているものを見かけました。他には30年代とされるカナダのディスティラーズ・コーポレーション・リミテッドのメルウッドのラベルもありました。
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一方、蒸溜所は禁酒法廃止後にカール・ナスバウムによって改築され、再び生産が開始されることになります。おそらくこの時の改装でリチャードソニアン・ロマネスク様式の装飾は取り除かれ、1930年代半ばのあまり華美でない機能性を重視したシンプルなデザインになったようです。ウォルター・L・ボーガーディングが社長、セルビー・ハーンがディスティラーに就任し、1935年からジェネラル・ディスティラーズ・コーポレーション・オブ・ケンタッキーとして操業するようになりました。再開のための工事は1933年に始まりましたが、老朽化と新しい設備の必要性から、彼らが最初のバレルを満たすことが出来たのは1935年12月13日のことでした。ジェネラル・ディスティラーズの事業は主にウィスキーのバルク販売と思われますが、自身の小さなブランドを所有する他、カスタマーや何かしらのクラブなどの団体または個人のためにブランドを製造することもあったようです。確かにネットで画像を検索してみると、数多くの未使用ラベルが見つかります。そうしたブランドには、「ケンタッキー・ネクター」、「リック・ラン」、「オールド・チャック」、「オールド・ポット・スティル」、「ダービー・タウン」、「オールド・ケンタッキー・ジェネラル」、「カウンティー・チェアマン」等があり、また「ライヴ・オーク」、「ローズウッド」、「オールド・ブーン」、「ゴールデン・リボン」、「ゴールデン・イヤーズ」、「オールド・サドラー」、「クオリティ・ストリート」等、歴史から消えてしまった多くの他のブランドをボトリングしていたことでも知られ、その中にはスティッツェル=ウェラーやK.テイラー蒸溜所など有名な蒸溜所で蒸溜されたものもあったとされています。メルウッド蒸溜所の登録番号は#34でしたが、ジェネラル・ディスティラーズの登録番号は#30でした。そのため、その名も「ナンバー30」というブランドもありました。
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下のリンクは私のピンタレストのジェネラル・ディスティラーズのラベルを集めたボードです。興味があれば覗いてみて下さい。
この中で、ラベルに「Bottled」としか記載されていない物は、ジェネラル・ディスティラーズでは蒸溜されておらず、文字通りボトリングだけ行われ、おそらく近隣の他の蒸溜所からウィスキーを調達していたと推測されています。ジェネラル・ディスティラーズは閉鎖されるまで僅か数十年しか操業しませんでした。1960年代初めから後半のどこかで蒸溜所が閉鎖された後、ネルソン郡ダブル・スプリングス蒸溜所のシド・フラッシュマンがボトリング・ハウスを引き継ぎます。彼はグリーンブライアーで営んでいたダブル・スプリングスの事業を旧ジェネラル・ディスティラーズの施設へと移し、そこで細々とボトリングを行っていましたが、1974年にそこも閉鎖され、75年頃にフランクフォートの21ブランズ蒸溜所へ業務を移管しました。禁酒法時代を通して生き残って来た僅かな建物は、おそらく1970年代に取り壊され、遂にその歴史に幕が下ろされました。
(1929年のメルウッド蒸溜所)

(1940年頃のジェネラル・ディスティラーズの内部風景)

話をオールド・マクブレヤーに戻します。私が手に入れたボトルのストリップの印字は劣化で消えてしまっていますが、前所有者様によると蒸溜は1917年と記されていたそうです。同じ物かと思われるボトルを出品していた海外のオークション・サイトでは、1920年代後半にボトリングされたと思われる、と説明していました。その他のオールド・マクブレヤーの殆どが33年か34年のボトリングなことを考えると、少なくとも1920年代後半〜30年代前半のどこかでボトリングされたと見て間違いはないかと。では、最後に飲んだ感想を少々。

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Old McBrayer Medicinal Pint AMS Co.(Mellwood) 100 Proof
推定1920年代後半〜30年代前半ボトリング。オールドオーク、オレンジシロップ、一瞬りんごと葡萄、時間を置くと洋酒の入ったお菓子、木質の酸、胡桃、タバコ、焼きトウモロコシ。仄かに甘いが基本的にビターで、柔らかいスパイス感。余韻は渋くはないが、これまたビター感が強め。古い木材〜ラズベリー〜濃ゆいカラメル香へ時々刻々と変化するアロマがハイライト。
Rating:87.5/100

Thought:100年近く前の物としては状態は凄く良かったと思います。長い歳月はどうしたって何かしら影響したとは思うのですが、至って新鮮な雰囲気がありました。強いて言うと若干パンチに欠けるような気もしましたし、飲み終わった後のグラスの香りもそれほど芳醇ではなかったりしましたが、時々オールドボトルで出会ってしまう奇妙なファンクや劣化した味わいはなく、普通に飲める状態であり、先ずは歴史を飲めたことに感謝すべきでしょう。
味わいは、熟成年数が長いことを疑う余地のないオールド・オーク・フォワードなバーボンでした。穀物の旨味のような要素は僅かに感じられますが、良質なオールド・バーボンによくある砂糖漬けのフルーティーな甘さは強くなく、爽やかなハーブもあまり感じられません。長い時間を過ごした樽の影響からかタンニンのビターさが少し効き過ぎているような…。ここらへんは、メルウッド蒸溜所の味がどうこうより、禁酒法下の特殊事情かも知れませんね。これを飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? コメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。


*16世紀の宗教改革運動によって生まれたカルヴィニズムに基づくプロテスタントの一派。長老派と訳される。プレスビテリアン(Presbyterian)とは長老のこと。カトリック教会の司教制度を認めず、一般信者の中から経験の深い指導者を選んで長老とし、教会を運営すべきであるという長老制度を主張した。プレスビテリアンは特にスコットランドのプロテスタントに多かった。

**「Saffell」は「サッフォー」と表記した方がアメリカ人の発音に近いと思いますが、ここでは「サッフェル」と表記しました。ちなみにウィスキー・バロンズ・コレクションの3番目のリリースだったW.B.サッフェルは、ワイルドターキー蒸溜所産ケンタッキー・ストレート・バーボンの6年、8年、10年、12年原酒をブレンドしたノンチルフィルタードで107プルーフの仕様です。

***ダニエル・ローソン・ムーアは1847年1月31日、ケンタッキー州マーサー郡ハロッズバーグにジェイムス・H・ムーアとメアリー・(メッセンジャー)・ムーア夫人の二人息子の長男として生まれました。南部の古くからの裕福な家柄に生まれことで、彼は少年時代に「ムーアランド」と呼ばれる広々とした家で過ごします。医師であり、馬のブリーダーであり、ファーマーでもあった父親から、若きダニエルは豊かな教育を与えられました。彼は家庭教師の下で準備教育的トレーニングを受けた後、ダンヴィルのセンター・カレッジに入学し、3年間在籍。その後、ハロッズバーグのフィル・B・トンプソンの事務所で法律の勉強を始め、軈て弁護士資格を取得しますが、彼はより収益性の高いと思われた農業と牧畜の分野で働くことを選び、弁護士事務所を開設することはありませんでした。しかし、代わりに彼はその法律知識を自分の広範なビジネスを処理するのに全面的に利用することになります。
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ダニエルは5年間ミシシッピ州で綿花栽培に従事した後、1870年11月15日にケンタッキー州ローレンスバーグのウィリアム・H・マクブレヤー判事の一人娘ヘンリエッタと結婚しました。彼はキャリアをスタートさせた当初から蒸溜業に惹かれていたのか、1871年(1873年とも)頃、25歳前後の時にハロッズバーグ・コートハウスから東へ5マイル、バーギン近くのシャーニー・ランにD.L.ムーア蒸溜所(マーサー郡第8区RD#23)を建てました。1880年代半ばまでに蒸溜所は1日に250ブッシェルをマッシングし、2つのボンデッド・ウェアハウスは合計12500バレルを収容できたと言います。ここでは1889年までセント・ルイスの大手酒類卸売業者チャールズ・レブストックのブランドを製造。レブストックは中西部で最も成功したウィスキー・マーチャンツの一人で、1870年にウィスキーの卸売会社を組織し、多くの州に顧客を有していました。二人は協力してムーア・アンド・レブストック・ディスティラーズという会社を設立すると、この工場で生産されるウィスキーをレブストックの複数の銘柄に使用したようです。彼らの主力ブランドは「ストーンウォール」で、他の銘柄には「ゴールデン・ホーン」、「ディア・レーン」、「スノウ・ヒル」、「オールド・チャンセラー・ライ」等があったと伝えられます。ジョージ・チンの歴史書によると、バーギンからは年間12万5千ガロンのオールド・バーボンが出荷され、彼らは約45000ブッシェルの穀物を消費し、15人の労働者を月給20ドルから100ドルで雇っていたそう。義父W・H・マクブレヤー判事の死後、1889年2月6日にムーアはこの蒸溜所と36エーカーの土地を35000ドルでダウリング・ブラザーズに売却し、アンダーソン郡のシダー・ランにある蒸溜所(RD#44)の経営に力を注ぎました。これ以降、ダニエルはこの蒸溜所とは直接的な関わりはないと思われるので、以下は余談です。ダウリング家は同アンダーソン郡のウォーターフィル&ダウリング蒸溜所(旧ウォーターフィル&フレイジャーRD#41)の共同経営者でもあり、クーパレッジ工場も所有していました。彼らは禁酒法の到来までこの事業を続けましたが、蒸溜所は閉鎖され解体されました。禁酒法解禁後の1934年、蒸溜所はサザン・レイルロード沿いの元の場所近くに再建され、1950年代までダウリング・ブラザーズとして操業。その後シェンリーとボブ・グールドが交互に所有しました。1972年7月、グールドは別に所有していたアンダーソン郡タイロンのリピー・プラント(J.T.S.ブラウン蒸溜所RD#27)をオースティン・ニコルスに売却した際、バルク・ウィスキーをマーサー郡の工場とその一部をアンダーソン郡のオールド・ジョー蒸溜所(RD#35)に移したと云います。この蒸溜所は軈て閉業し、雑草や潅木が生い茂り、窓ガラスは割れ、酷く荒廃し、倉庫の側面に描かれた「Dowling Distillery」の文字だけが嘗ての栄光を物語っていました。そして、2008年10月、蒸溜所跡は取り壊されたとのこと。
実はもう一つ、同じくマーサー・カウンティにD.L.ムーア蒸溜所と呼ばれるプラントがありました。こちらはマーサー郡第8区RD#118の登録番号をもつ、ジャクソン・ヴァン・アーズデルによってハロッズバーグから9マイル北のソルト・リヴァー沿いに1865年か1866年に建てられた水力ミルと蒸溜所がルーツで、1885年コヴィントンのマリンズ・アンド・クリグラーにリースされるまで自分の名前でブランドを生産し、J・ヴァナーズデル・ディスティリング・カンパニーの名で操業されたようです。1892年、D・L・ムーアが蒸溜所を購入し、引き続きヴァナーズデル銘柄を製造しました。同年に作成された保険引受人の記録によると、蒸溜所はフレーム構造で、敷地内には2つの倉庫があり、倉庫Aは鉄骨造りに金属もしくはスレート屋根、もう1つのフリー・ウェアハウスの倉庫Bは石造りに金属またはスレート屋根でした。おそらく後に息子のD・L・ムーアJr.が引き継いだと思われ、彼は父の死後(1916年死去)にD.L.ムーア蒸溜所と改名しました。禁酒法が施行されるまで操業は続けられ、貯蔵されていたウィスキーはレキシントンのジェイムズ・E・ペッパーの集中倉庫に移され、プラントは解体されました。同社はクリア・ブルックというブランドの製品を販売していたらしいのですが、これはダニエルの高名な義父ジャッジ・マクブレヤーのシダーブルック・ブランドと蒸溜所にちなんだものと見られています。
一方、ディスティラー以外の活動もダニエルは活発でした。1881年、民主党の投票によりケンタッキー州上院第20区の代表に選出され、知的で有能な職務を果たし、有権者から称賛を浴びたと言います。ダニエルはディスティラーでありながら、ケンタッキー・ウィスキーに特別税を課して学校に充てる法案を押し通したのだとか。また、彼はマーサー・ナショナル・バンクの筆頭株主となり、1892〜1908年まで同銀行の頭取を務めたとも。更にファーマーでもあったダニエルは、ミシシッピ州の3つの農園で綿花の植え付けと収穫を監督し、また同州に数千エーカーの森林を所有して伐採を監督しました。自然愛好家だったダニエルは、山での孤独の精神的高揚に関心を向け、1881年、コロラド州はロッキー山脈の肥沃な麓、ノースパークに6000エーカーの広大な牧場を購入しました。1882年に妻を亡くすと、その後間もなくメイ、ウォレス、マクブレヤーの三人の子供達を祖父母の家に残して遠い西部を訪れ、牛と馬の飼育に乗り出しました。するとダニエルはケンタッキー州の優秀な血統の牛や馬を自分の牧場に持ち込み、この事業で大成功を収め、コロラド有数の牧畜業者として知られるようになります。毎年半分はコロラド州での事業経営に費やし、残りはケンタッキー州での製造業と農業およびミシシッピ州でのプランティングに従事したそう。
1891年、まだ未成年の三人の子供達には母親が必要だったのか、ダニエルはミニー・ボールと再婚しました。彼女はジョージ・ワシントンの母と同じ家系の子孫でした。彼らはケンタッキー州バーセイルスの彼女の家で結婚し、後に二人の女の子を儲けています。ダニエルは1年の約半分はケンタッキー州を離れていたものの、家族のためにハロッズバーグ近くのレキシントン・パイクに壮大な邸宅を建てることを決意。建築に5年、総工費140万ドルをかけたロマネスク・リヴァイヴァル様式のエレガントな邸宅でした。
ハード・ワークをこなしていたダニエルでしたが、60代半ばに差し掛かった頃、心臓の病を発症してしまいます。その後、1916年10月20日に亡くなり、ハロッズバーグのスプリング・ヒル・セメテリーに埋葬されました。死亡診断書には「器質性心臓疾患」と書かれていました。伝記作家は、セネター・ムーアほど多くの友人を持ち、そして大切にする人物はなく、温和で仲間思いの性格は友人を惹きつけ尊敬の念を抱かせ、リベラルでどこまでも寛大、真のバーボン・デモクラシーの代表者であり、厳格な誠実さを持ち、目的にも行動にも徹底して正直、実業家としてもその成功によって生まれ故郷のケンタッキー州に大きな信用を齎した、と記しました。ちなみに、夫の死後、残されたミニー・ムーアはその後の20年間、ダニエルのビジネスを引き継ぎ、ミシシッピの綿花プランテーションとコロラドの牧場を経営したりケンタッキーの農場ではタバコの生産と優良家畜の飼育を監督したそうで、広範な業務を見事な判断力と効率性で処理するビジネスの才能を高く評価されています。

****最初のウィスキー・トラストは、当時世界最大の蒸溜所と謳われたグレート・ウェスタンを始めとする65の蒸溜所が合併して、アルコールの価格をコントロールすることを目的に1887年に設立され、1895年まで運営されたジョセフ・ベネディクト・グリーンハットのディスティラーズ&キャトル・フィーダーズ・トラストでした。彼らは、多数の小規模な蒸溜所が製品を戦術も統制もなく市場に投下し、不適切な時期に価格を下げてしまうことを問題視しました。そこでトラストは、それらを全て買い取り、効率の悪い小規模な蒸溜所を閉鎖してより効率の良い大規模な蒸溜所を運営し、より高い利益を得ることを目指しました。傘下にしたい蒸溜所が売却しないことを選択した場合、トラストは脅迫、放火、暴力など強権的な戦術を用いたと言われています。1890年にシャーマン反トラスト法が制定されると、最終的に同社は解散を余儀なくされました。イリノイ州ピオリアを中心としたウィスキー・トラストの最初の試みが失敗に終わった時、ニューヨークの金融業者のリッチマン達はこの夢をまだ諦めていませんでした。彼らは最初のウィスキー・トラストの残党を1895年に再編成し、新しい事業体をアメリカン・スピリッツ・マニュファクチュリング・カンパニー(ASMC)と命名します。1899年までにケンタッキーの蒸溜所の持株会社としてケンタッキー・ディスティラリーズ・アンド・ウェアハウス・カンパニー(KDWC)を組織すると、1870年代の鉱山ブームの時代にコロラド州のウィスキー・トレードで成功し、蒸溜業者の代理店としての役割を担って全米各地の卸売業者や小売業者に大量のウィスキーを販売していたジュリアス・ケスラーをリーダーに選びました。セールスマンとしての評判と全国へのコネを備えたケスラーは、第二のトラスト設立を主導する人物として適役でした。ニューヨークの金融業者は組織の管理と株式の一部を彼の手に委ねたと言います。同年にKDWCを含む4つの会社が複雑に合併し、ディスティリング・カンパニー・オブ・アメリカが誕生しました。このような複雑な会社形態は、連邦政府の目を逃れるために必要なことでした。彼らは再定義と再構築を続け、ディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションとなり、禁酒法期間中はU.S.フード・プロダクツ・カンパニーとなり、最終的に持株会社のナショナル・ディスティラーズ・プロダクツ・カンパニーを結成します。1922年の法律に基づいて集中倉庫を管理するために設立された処方箋ウィスキー販売用の会社はKDWCを吸収し、ASMCは1927年にアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)に改組されました。この時点でナショナルはAMSの38%の株式を所有しています。同年、AMSは更にR・E・ワセン&カンパニーを始めとする5つの主要な集中倉庫を買収し、ナショナルはケンタッキー州のウィスキー・ストックの50%以上、国内のウィスキー・ストックの30%近くを支配するに至りました。1929年にナショナルはAMSの残りの株式を購入しています。

*****ニューカム=ブュキャナン(ネルソンRD#4)、アンダーソン=ネルソン(アンダーソンRD#97)、アレン=ブラッドリー(RD#369)、エルク・ラン(RD#368)等と呼ばれる蒸溜所と倉庫群を擁する複合施設があった敷地はケンタッキー州ルイヴィルに於けるバーボン・ウィスキー産業の豊かな歴史の一部でした。その操業の全歴史は約134年に及びます。最盛期にこの複合施設は約35エーカーに及ぶ製造施設を有し、ケンタッキー・バーボン・ウィスキーの合計生産能力は735000バレルを超えたと言われています。複合施設全体は1860年から1918年の間に建設されました。生産施設の大部分は、ルイヴィルのダウンタウンの中心部から東へ約2マイル、サウス・フォーク・ベアグラス・クリークからオハイオ・リヴァーに流れ込む少し手前、ミドル・フォーク・ベアグラス・クリークの湾曲部のほとり、ハミルトン・アヴェニュー(現在のレキシントン・ロード)の北側にあったグレゴリー・ストリートに集約されました。グレゴリー・ストリートはハミルトン・アヴェニューとペイン・ストリートの交差点から1ブロック西にあり、現在はアクシス・オン・レキシントンという集合住宅が建っています。当時は農地に囲まれた田舎で、南にはケイヴ・ヒル・セメテリー、北にはルイヴィル&フランクフォート・レイルロードがありました。主要な鉄道路線に近く、またオハイオ・リヴァーに近接していることは、製品供給がローカル・マーケットに留まらない成功の鍵でした。蒸溜所のエイジング・ウェアハウスは、ファーメンティング施設や蒸溜プラントとハミルトン・アヴェニューの間に点在して建てられたり、ハミルトン・アヴェニューを挟んだ向こう側に建てられたりしました。各蒸溜所にはそれぞれのボンデッド・ウェアハウスがあり、小さいフリー・ウェアハウスもありました。ネルソン保税倉庫No.4、ブュキャナン保税倉庫No.97、フィンク保税倉庫No.97、スローカム保税倉庫、セントラル保税倉庫、ウィリアムズ保税倉庫、ルイヴィル・ストレージ保税倉庫No.4、サウソール保税倉庫、ネルソン・ディスティリング・カンパニー・ウェアハウス、アレン=ブラッドリーとエルク・ラン蒸溜所のホワイトストーン保税倉庫などです。他にも穀物貯蔵庫、貯水槽、ボンデッド・ボトリング施設などもありました。
この複合施設のルーツは、1860年頃にケンタッキー州マリオン郡出身のジョン・G・マッティングリーと弟のベンジャミン・F・マッティングリーが蒸溜所を建設したのが始まりのようです。彼らは1845年頃にケンタッキー州で最初に登録された蒸溜所を建設したと伝えられる人物。おそらく兄弟はマリオン郡から土地を移し、蒸溜に専念することで成長産業の専門化を促し、理想的な立地にあるルイヴィルで小規模生産から大規模生産へと移行する産業の模範となったのでしょう。もう少し後、ジョン・マッティングリーは一度に少量のマッシュしか蒸溜できないポット・スティルとは異なるコンティニュアス・スティルの完成に貢献した功績があるとされています。1867年、マッティングリー兄弟は同じマリオン郡のデイヴィッド・L・グレイヴスに事業を売却し、ルイヴィルの南側のセヴンス・ストリートに施設を移転しました。その後、グレイヴスは同じくマリオン郡のジョージ・W・ビオールに蒸溜所を売却します。更に蒸溜所は1872年にニューカム=ブュキャナン・カンパニーに売却されました。社長のジョージ・C・ブュキャナンは、アンダーソン、ネルソン、ブュキャナン、グレイストーンの各蒸溜所を建設し、1872年の時点でニューカム=ブュキャナン社はケンタッキー州最大の蒸溜会社だったとか。これらの蒸溜所は450エーカーの1ヶ所にありました。アンダーソン蒸溜所ではスモール・タブ・サワーマッシュ・ウィスキーを、ブュキャナン蒸溜所は手造りのサワーマッシュウイスキーを製造し、1880年に初めて市場に出たらしい。ネルソン蒸溜所ではライ麦と麦芽を使用したネルソン・ピュア・ライ、麦芽のみを使用したネルソン・ピュア・モルト、加熱倉庫で僅か3~4カ月熟成させた熟成の短いU.S.クラブを製造していたと伝えられています。
(1876年の広告)
1879年に同社は一旦解散し、改組されました。おそらくこの頃に、オールド・クロウ蒸溜所やハーミテッジ蒸溜所にも携わっていた英国のパリス, アレン&カンパニーと関わるようになったと思われます。1882年から1884年に掛けての恐慌の後、同社は更なる変化を遂げます。パリス, アレン&カンパニーを通じ資金援助を受け、1885年には再び会社を再編成して社名をアンダーソン=ネルソン・ディスティリング・カンパニーに変更し、ハーマン・ベカーツが社長、フレッド・W・アダムスがセクレタリー兼マネージャー、ブュキャナンは営業担当に就任しました。翌年には3つの蒸溜所の合計マッシング・キャパシティは一日あたり4855ブッシェル、ウィスキー生産量は日産500バレルに達したと言います(アンダーソンが約600ブッシェル、ネルソンが約1200ブッシェル、ブュキャナンが約3000ブッシェル)。この頃の倉庫群には計117000バレルの収容能力があり、会社の規模を示す一つの指標として言うと、1885年の連邦税は500000ドルを支払っていたとのこと。アレン=ブラッドリー・カンパニーの名で操業していたグレイストーン蒸溜所は大量のウィスキーを生産し、フランクフォートのクロウ&ハーミテッジが1ガロンあたり60~65セントを要求する中、1ガロンあたり23セントで販売していたそうです。別々の事業体でありながら、それぞれの蒸溜所の経営と所有権は重複していました。このようなやり方によって同社は市場シェアを獲得し、それで更に施設を拡張、他の蒸溜酒会社を買収して得た多くのブランドの生産を継続しました。当時、6つの倉庫は7の異なる所有者の下でウィスキーを貯蔵していたとされ、それぞれを列記すると、ウェアハウスNo.4の所有者はニューカム=ブュキャナンで銘柄はネルソン、ウェアハウスNo.97の所有者はアンダーソン・ディスティラリー・カンパニーで銘柄はアンダーソン、ウェアハウスNo.352の所有者はジェイコブ・アンバー&カンパニーで銘柄はウッドコック、ウェアハウスNo.353の所有者はジョージ・C・ブュキャナンで銘柄はブュキャナン、同ウェアハウスNo.353の所有者はジョン・エンドレス&カンパニーで銘柄はグレイプ・クリーク、ウェアハウスNo.368の所有者はR.P.ペッパー&カンパニーで銘柄はオールド・R・P・ペッパー、同ウェアハウスNo.368の所有者はJ.A.モンクス&サンズで銘柄はグレイストーン、ウェアハウスNo.369の所有者はJ.A.モンクス&サンズで銘柄はモンクスとなっています。ロス・ペッパーの蒸溜所は1870年にはフランクフォートの西ベンソン・クリーク付近にありましたが、1880年頃にW.A.ゲインズ&カンパニーを傘下に持つパリス, アレン&カンパニーに買収され、R. P.ペッパーのブランドはルイヴィルの工場に移管されていました。
1890年7月、グレイストーン蒸溜所は火災で全焼してしまいましたが、同社はすぐに工場を再建し、エルク・ラン蒸溜所となりました。1891年べカーツ氏が亡くなりカリフォルニアのジェシー・ムーア=ハント・カンパニーがインタレストを取得。このムーア氏は、17thストリート&ブレッケンリッジ・ストリートにあったムーア&セリガーの「ムーア」の伯父と思われます。新しいエルク・ラン蒸溜所は生産能力を拡大しました。1892年頃までに50000バレルを収容できるスローカム倉庫、20000バレルのセントラル倉庫、70000バレルのウィリアムズ倉庫を含むウェアハウスがハミルトン・アヴェニュー沿いに建設されており、合計で140000バレルのキャパシティを持つようになりました。上の3つの倉庫はお互いが全て接しており、防火壁で仕切られていたそうです。1892年の保険引受人の記録によると、蒸溜所にはスプリンクラーが設置されており、倉庫は一つを除いて全てレンガ造りで屋根はメタルかスレートでした。敷地内のその他の建物には牛舎、ミル、グレイン・エレヴェーター等があり、エルク・ラン蒸溜所の隣のホワイトストーン・ウェアハウスの東端にはクイック・エイジング・ルームまで設置されていました。当時はアレン=ブラッドリー蒸溜所名義でウィリアム・E・ブラッドリーが経営していたようです。1895年には、アンダーソン=ネルソン・ディスティリング・カンパニーの子会社であるネルソン・ディスティリング・カンパニーが、100×240フィートの3階建て倉庫の建設し、40000バレルを収容できるようになりました。これがネルソンEウェアハウスと呼ばれる熟成庫です。製品の需要が高まった結果として親会社のアンダーソン=ネルソン蒸溜所の最後の資本建設プロジェクトの一つとして建設されたものらしい。また、ハミルトン・アヴェニューの反対側には、別の15000バレルのネルソン倉庫、18000バレルのルイヴィル・ストレージ倉庫、20000バレルのブュキャナン倉庫と呼ばれるボンデッド・ウェアハウス、14000バレルのフィンク・ボンデッド・ウェアハウスがあり、この複合施設全体のバレル収容量は膨大でした。1905年までに同社はさらに成長し、生産量は260000バレルに達したそうです。この成長期を経て、1905年(または1901年という説も)に会社はウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニー(KDWC)に買収されました。
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(1910年のサンボーン・マップ)
アンダーソン=ネルソン蒸溜所とエルク・ラン蒸溜所はKDWCによってプロヒビションまで操業されました。1911年の段階でエルク・ラン蒸溜所とその関連事業はKDWCのポートフォリオの中で最大規模となり、5000ブッシェルをマッシングしていたと言います。明確な時期は不明ですが、この頃か、少なくとも禁酒法以前にハリー・E・ウィルケンがマネージャー兼ディスティラーとなりました。1912年にエルク・ラン蒸溜所でボトリングされた銘柄には「アンダーソン」、「ネルソン」、「ブュキャナン」、「スローカム」、「ジェファソン」、「ジャクソン」、「U.S.クラブ」、「エルク・ラン」等があったと伝えられます。また、ここでは他のトラストの蒸溜所のためにも生産していたようです。1912年12月12日、フレッド・W・アダムスはルイヴィル東部の自宅で66歳の生涯を閉じました。イングランド出身の彼は、1885〜1905年まで会社の財政的バックアップを担っていました。KDWCは禁酒法開始まで蒸溜所の改良を続けます。需要と生産能力の増加に対応するため、複合施設に隣接する農地が買収され、新しい倉庫の建設を開始し、1918年に竣工されました。このハミルトン倉庫は、ケンタッキー州で建設されたものとしては記録上最大のもの(または世界最大のレンガ造りのバレル・ウェアハウス)とされ、2つのセクションに分かれており、それぞれに150000バレルの収容量できる12階建てで、総工費は推定40万ドル(今日の900万ドル以上に相当)と見積もられました。しかし禁酒法が本格化していたため、完成したのはその半分だけで、158000バレルの収容量だったようです。同じく1918年には、ハミルトン・アヴェニューのネルソン・プラントに隣接して、U.S.インダストリアル・アルコール社が運営する大規模なアルコール工場が建設されました。彼らはアルコールの貯蔵にスティール・タンクを使用していましたが、満タンにしておらず、その結果ベアグラス・クリークの洪水でタンクが破損し、倉庫に流れ込んで破壊されたそうです。
蒸溜所は禁酒法の訪れにより閉鎖されました。しかし禁酒法期間中、この蒸溜所の倉庫はアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)によって使われました。その大きさと立地条件から集中倉庫として選ばれ、取り壊しや放置、その他の再利用は防がれたのです。禁酒法の後、他の工場は取り壊されたものの、エルク・ラン工場はそのまま残されました。1929年以降、「T」と「S」というウェアハウスが追加されたそうですが、その目的は不明とのこと。旧ネルソン蒸溜所の倉庫なども含む残された建物はKDWC及びAMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズの手に渡り、禁酒法廃止後の1933年に蒸溜所は再開され、オールド・グランダッド蒸溜所として知られるようになりました(おそらく、ナショナルは40年代初頭にフランクフォートのK.テイラー蒸溜所を買収して、そこをオールド・グランダッドの本拠地に変えたと思われる)。1936年当時、175000バレルの生産能力を有していたと言います。禁酒法廃止後のナショナルはアメリカ国内の蒸溜酒の約半分を支配し、一流ブランドの多くを所有するようになっていました。彼らはジェファソン・カウンティに数ヶ所の蒸溜所を開設し、経済的な恩恵を齎しました。この敷地の倉庫は平均的な施設の7倍のバーボン・バレルを収容することが出来、数百人の従業員を雇用していたとされます。1940年代、ナショナルは全米のバーボンとライ・ウィスキーの70%を支配する「ビッグ・フォー」の一つとなり、この成長期は更に約20年間続きました。1960年代、ナショナルは大きなレンガ造りの倉庫を改修しましたが、1棟は安全でないことが判明し、取り壊されました。この頃からアメリカ国内に於けるバーボン業界全体の衰退が始まります。一時期、この施設ではジンやテキーラやその他の蒸溜酒もボトリングしていましたが、競争と需要の減少には勝てず、嘗て世界最大規模を誇ったケンタッキー・バーボン蒸溜所は終焉を迎え、1974年に閉鎖されました。衰退前は1400人がここで働き、その殆どが徒歩で通勤していたとか。閉鎖後、1979年8月にレイ・シューマンが購入し、様々なビジネスのための商業施設として開発されるまで、この土地は空き家となっていました。世界最大級のハミルトン倉庫は、ブレッケンリッジ=フランクリン・エレメンタリー・スクール建設のために1980年代(または90年代とも)に取り壊されたようです。殆どの施設は取り壊されましたが、バーボン倉庫としてはルイヴィル最古(1880年頃建設)とされるウィリアムズ倉庫およびそれと繋がっているセントラル倉庫は現存しており、ディスティラリー・コモンズという名称の商業用レンタル・スペースとなっています(セントラルと左手側で繋がっていたスローカム倉庫は取り壊されている)。この複合倉庫のすぐ隣、レキシントン・ロードとペイン・ストリートの角にあったネルソンE倉庫も近年まで手付かずで現存していたのですが、2022年8月に再開発のために取り壊されました。近年のバーボンウイスキー産業の復興により、バーボン・ウィスキー産業に関連する歴史的な建築様式に対する評価が高まっています。1895/96年に建てられたこのウェアハウスもその歴史的意義から2020年にランドマークに指定されていたため、解体にはルイヴィル市の承認が必要だったのですが、1979年以降は空き家だったせいか、損傷が酷く、市は機能不全または倒壊の差し迫った危険な状態にあるとして取り壊しを承認しました。ディスティラリー・コモンズも今後は再開発されて行くのかも知れません。
(ディスティラリー・コモンズ)

(取り壊された旧ネルソン倉庫、後ろに見えるのがディスティラリー・コモンズ)

******メルウッド蒸溜所は1865年にジョージ・W・スウェアリンジェンとアンドリュー・ビッグスによって設立されたとの説もありました。

*******リチャードソニアン・ロマネスクは、アメリカの建築家ヘンリー・ホブソン・リチャードソン(1838~1886年)にちなんで名付けられたロマネスク・リヴァイヴァル建築の様式。これには11世紀と12世紀の南フランス、スペイン、イタリアのロマネスク様式の特徴が組み込まれていました。19世紀後半に複数の建築家がこのスタイルを倣ったと云う。
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(ウィキペディアより。1872年にリチャードソンによって設計されたボストンのトリニティ教会。キャロル・M・ハイスミスの写真)

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今回もバー飲みの投稿です。5杯目は、昔から飲みたかったけれど飲んだことのない銘柄だったオールド・ウィリアムズバーグにしました。

このバーボンはロイヤル・ワイン・コーポレーションが所有するブランドで、同社は名前が示すようにワインの取り扱いがメインの会社ですが、蒸溜酒も少数扱っており、そのうちの一つがオールド・ウィリアムズバーグです。彼らは現在、バーボン部門では「ブーンドックス」というブランドに力を入れています。ブーンドックスはプレミアムなレンジのブランドなので様々な別樽での後熟(追加熟成)もの等ありますが、それに比べるとオールド・ウィリアムズバーグは価格の安いバジェット・バーボンに位置付けられた製品。ブランドの名前を聴くと、ヴァージニア州の歴史的ランドマークであるコロニアル・ウィリアムズバーグを連想してしまうかも知れません。しかし、このブランドはそちらの「生きた博物館」とは何の関係もなく、ニューヨーク州ブルックリンのウィリアムズバーグ地区から命名されました。ロイヤル・ワインはニューヨークの会社ですし、限定的な地区の名前からしても、そもそもはローカリーな製品なのでしょう。ラベルにブルックリン橋が描かれているあたり如何にもな感じです。但し、ブルックリン橋はウィリアムズバーグに接してはおらず、少し離れています。実際にウィリアムズバーグに接しているのはその名もウィリアムズバーグ橋で、同ブランドのウォッカのラベルではウィリアムズバーグ橋が描かれているのに、何故かバーボンの方はブルックリン橋なのですよね…。何となく見栄えがするからか、より知名度が高いから採用されたのでしょうか? いっそのことラムでもリリースしてマンハッタン橋を採用すれば、近隣の三つの橋が揃う「橋シリーズ」とも呼べそうなラベルが完成するのに…。
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ウィリアムズバーグと言うと、今ではブルックリンのトレンディな地域としても知られていますが、ユダヤ教正統派のコミュニティの存在も有名です。ブランドの発売は1994年とされ、当時は唯一のコーシャ・バーボンでした。コーシャとは「適正」を意味するヘブライ語で、ユダヤ教徒が口にしてもいい食品の規定です。コーシャ認定制度は、スーパーマーケットに代表される消費市場が拡大した第二次世界大戦前後にアメリカを中心として始まったそうです。大量生産によって販売される商品数も膨大になるにつれ、商品の生産過程や含有物が複雑になり、粗悪な食品の流通が増えたことを懸念して、ユダヤ教徒が清浄な食品を安心して手に入れるための認定の需要が高まったらしい。現在ではウォルマートやコストコなどアメリカの大手スーパーマーケット・チェーンでも多数のコーシャ認定商品が見られます。ロイヤル・ワイン・コーポレーションはコーシャ・ワインを多数取り扱い、その分野での明確なリーダーとして認められているそうなので、その流れからスピリッツでもコーシャ認証の物をリリースする運びとなったのでしょう。オールド・ウィリアムズバーグのラベルにはマルKやマルU、或いはヘブライ語の文字が書かれたスタンプといったコーシャ認定を示すマークが印刷されています。よく見ないと見過ごしそうですけれども。
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裏ラベルには「昔の」ウィリアムズバーグについて書かれています。19世紀後半、イースト・リヴァー沿いにはビア・バロンズ(ビール造りで財を成した人々)の醸造所が立ち並び、その成功したオウナー達の建築的に優れた邸宅が建てられていた、バーボンはそんな彼ら特権階級のために、プライヴェートなスティルで手造りされ、特別に瓶詰めされ、選ばれた酒であった、と。彼らがバーボンを飲んだのが本当なのか、単なるマーケティングの文言なのかはちょっと判りませんが、醸造所が並ぶノース11thストリートがブリュワーズ・ロウと呼ばれているのは確かでした。

偖て、次にオールド・ウィリアムズバーグの幾つかのヴァリエーションについて言及しておきましょう。先ず、現在は3年熟成80プルーフのバーボンとウォッカのみが販売されているようです。その他に昔は「No.20」という101プルーフの物と「バレル・プルーフ」と銘打たれた121.5プルーフの物がありました。そして、ややこしいのはここからです。95年出版のゲイリー・リーガン著『THE BOOK OF BOURBON』には、オールド・ウィリアムズバーグ No.20のテイスティング・ノートが載っており、そこには熟成年数が36ヶ月と書かれています。で、その文末には「情報筋によると、オールド・ウィリアムズバーグに、より熟成させたバーボンがもうじき発売される予定とのこと。熟成年数や36ヶ月以上熟成との記載がないボトルを探そう。それが最低4年熟成のウィスキーであることを示すから。(意訳)」との記述がありました。つまり、私が見た現物および写真、資料によって把握するにオールド・ウィリアムズバーグ・バーボンのヴァリエーションには、
①No.20、101プルーフ、36ヶ月熟成表記
②No.20、101プルーフ、NAS
③バレル・プルーフ、121.5プルーフ、NAS
④後のスタンダード、80プルーフ、3年熟成表記
の四つが確認できる訳です。残念ながらリーガンのテイスティング・ノートは文章だけで写真が載せられていないので、①と②でボトル形状が異なるのか、ほぼ同じ見た目なのかは分かりません。この件や、これに限らずその他の物があるのをご存知の方はコメントよりどしどしお知らせ下さい。ちなみに今回私が飲んだ物はエイジ・ステイトメントがないので、おそらく②と推測しています。

続いてオールド・ウィリアムズバーグ・バーボンの中身(原酒)について語りたいところなのですが、これまたよく分かりません。ロイヤル・ワイン・コーポレーションは酒類販売会社およびインポーターであってディスティラーではないので、それがソーシング・ウィスキーなのは明らかとは言え、調達先に関する情報開示はしていないのです。明確なのはケンタッキーの何処かの蒸溜所からのものであること。また、初期のボトルは所在地表記がミネソタ州プリンストンであるところから、ボトリングしたのはユナイテッド・ステイツ・ディスティルド・プロダクツ(USDP)で間違いないでしょう。
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USDPは1981年に中西部の市場向けに地域ブランドを生産することを目的に小規模なボトリング事業としてスタートしました。おそらくプラント・ナンバーはDSP-MN-22だと思います。この施設では蒸溜は一切行なわれず、代わりにアルコール、甘味料、フレイヴァリング製剤やその他の成分を購入し、顧客の処方仕様に従って調合するブレンダーの役割とボトリング及び製品のパッケージングが主要な業務です。設立以来、信頼される企業として徐々に成長し、2005年頃の情報では、245000平方フィートの施設で年間200万ケースのスピリッツやコーディアルを中心としたリカーを生産しているとされています。また、2013年頃の情報では、約300人ほどの従業員が働いており、1日3シフト、24時間体制で7つの生産ラインを稼働させているとありました。2012年には186181平方フィートの倉庫の増設したそう。画期的だったのは、2001年にフィリップス・ディスティリングを買収して子会社としたことだったかも知れません。これにより自社ブランドの製造開発に拍車が掛かり、販売にも箔が付いたのではないでしょうか。プリンストン工場の生産ラインでは、フィリップスのUVウォッカ・ブランド、フレイヴァー・ウィスキーのレヴェル・ストークなど全米で人気のあるスピリッツ飲料を生産しています。
オールド・ウィリアムズバーグは常にUSDPが生産してるのではなく、現行の3年熟成80プルーフの物は、裏ラベルによるとニュージャージー州スコービーヴィルでボトリングとあります。スコービーヴィルというと、アップルジャックおよびアップル・ブランディで有名なレアード&カンパニーのボトリング施設があるので、そこで生産していると考えるのが妥当だと思います。いつ頃切り替わっているかは全く判りません。詳しい方はコメントよりご教示頂けると幸いです。では、最後に飲んだ感想を少々。

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OLD WILLIAMSBURG №20 101 Proof
推定95年ボトリング。焦げ樽香とスパイシーなアロマ。口に含むとブライトな樽感が味わえる。薫り高い穀物の風味と軽ろやかなフルーティさ、甘さとスパイスのバランスが良い。余韻はミディアム程度の長さ。
Rating:87.5/100

Thought:このバーボンは今となっては知名度が高いとは言い難く、余程のバーボン好きか、90年代から2000年代初等頃にバーで見かけたことがあるという人以外は知らない銘柄かも知れません。実は、日本語でオールド・ウィリアムズバーグをグーグル検索すると、まともにヒットするのはBAR BREADLINEのマスターさんのブログ「BAR ABSINTHE」の投稿くらいしかないのです。で、彼のテイスティング・ノートには原酒について少なくともヘヴンヒル系ではないとの感想が書かれており、更に私が飲んだバー・デスティニーのマスターに原酒について訊ねたところ同様にヘヴンヒルの味ではないと思うがそれ以上は全く分からないとの返答をもらいました。確かに私も一口飲んですぐヘヴンヒルではないと思いました。ヘヴンヒルのスタンダード・マッシュビルより、もっとライ麦多めのバーボンという印象があり、とても自分好みの味わいだったのです。マッシュのライ麦率は20〜30%くらいありそうな気が…。例えて言うとフォアローゼズから濃厚な熟成フルーツの風味を抜き取ったような味わいですかね。熟成年数に関しては、やはり3年熟成とは思えない味わいで、少なくとも4年〜6年程度のテクスチャーと風味に感じました。このNo.20の裏ラベルには、現行製品では削除されている次のような一文があります。
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「Only the top 20% of the barrels are used for this flavorful smooth bourbon. Enjoy!(上位20%のバレルだけを使用したこの味わい深く滑らかなバーボン。楽しんで!)」
ここで言われてる20%が「No.20」の由来なのでしょうかね? まあ、それは措いても、私の味覚には、この一文は本当にそうなのかもと思わせるだけの美味しさをこのバーボンから感じました。そして、何処の原酒かという件ですが、自分的にはフォアローゼズか、でなければバートンのハイ・ライかなぁ…と。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメントよりご意見ご感想どしどしお寄せ下さい。
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そう言えばこのバーボン、ボトルのサイドがエンボス加工されていて、なかなかカッコいいですよね。これと同時期かもう少し後かにボトリングされたと思われるミスティ・ヒルズとかブラック・イーグルというブランドのバーボンも瓶形状が同じに見え、ボトリングはUSDPが行っていると思われます。ミスティ・ヒルズとブラック・イーグルは、フィリップスやロイヤル・ワインのポートフォリオに(少なくとも現在は見られ)ないので、おそらく何処か別の販売会社がボトリング契約してパッケージングまでしてもらっているのではないでしょうか。まあ、憶測ですし、蛇足の情報です。

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ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、アメリカの現行ワイルドターキーのラインナップの中では1942年の古典的な「101」、1991年の「レアブリード」に次ぐ、3番目に古いリリースの由緒あるブランドであり、ワイルドターキー101のシングルバレル・ヴァージョンとして1994年に作成されました。公式リリースは1995年なのかも知れませんが、最初のボトルは1994年に充填されています。おそらくは、バーボン界で初めての商業的なシングルバレル・バーボン、ブラントンズの対抗馬であったと推測され、ブラントンズの競走馬やケンタッキー・ダービーをモチーフとした華麗なボトルの向こうを張った七面鳥のファンテイル・ボトルは流麗で目を惹くものでした。またブラントンズと同じように、ラベルには手書きでボトリングされた日付やバレル・ナンバー、倉庫やリック・ナンバーが記されているのもプレミアム感をいやが上にも高めています。そして、キャップはピューター製の重厚で高級感のあるものでした。それ故ケンタッキー・スピリットの初期のものは通称ピューター・トップと呼ばれています。2002年からストッパーはピューター製からダーク・カラーの木製のものに変更されました。更に2007年もしくは2008年頃にはダークだった木材がライトな色味へと変わります。ラベルに描かれる七面鳥も、ケンタッキー・スピリットに於ける明確な変更時期は特定出来ませんが、ブランド全体に渡るラベルのリニューアルに合わせ、前向きが横向きへ、カラーがセピア調へと更新されました。と、ここまではキャップ等のマイナーチェンジとシリーズ全般の変化なので、ケンタッキー・スピリットの姿自体はそれほど変わりありませんでしたが、2019年、遂にケンタッキー・スピリットの象徴的なテイルフェザー・ボトルは廃止、レアブリードに似たデザインに置き換えられ、ラベルの七面鳥の存在感は薄くなります。
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「ケンタッキー・レジェンド」と免税店の「ヘリテッジ」といった一部の製品を除き、ケンタッキー・スピリットは2013年にラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルが発売されるまでの20年近く、ワイルドターキーのレギュラー・リリースで孤高のシングルバレルであり続けました。アメリカの小売価格で言えば、ワイルドターキー101より2倍以上高く、ラッセルズ・リザーヴより少し安い製品です。ケンタッキー・スピリットをラッセルズ・リザーヴと比べてしまうと、ラッセルズ・リザーヴは冷却濾過されずによりバレルプルーフに近い110プルーフでボトリングされるため、スペック的にケンタッキー・スピリットを上回ります。そのせいもあってか、2014年頃から始まったプライヴェート・バレル・セレクションでもラッセルズ・リザーヴのほうが人気があります。その味わいの評価に関しては、アメリカの或る方の喩えでは「ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、天井は高いが床はラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルよりも低い」と言っていました。ターキーマニアの代表とも言えるデイヴィッド・ジェニングス氏などは、ケンタッキー・スピリットのボトルがリニューアル(同時に値上げも)されたのには相当ガッカリし、ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルの方が愛好家向けにアピールする製品であり、逆にもっとライトな飲酒家向けにはラッセルズ・リザーヴ10年や「ロングブランチ」などがあるため、ケンタッキー・スピリットの立ち位置がブレて消費者への訴求力が落ちているのを危惧して、価格以外に三つの解決策を提案をしています。
第一はボトルの変更です。テイルフェザー・ボトルが高価なのなら、せめて同様の美しさをもった往年のエクスポート版のケンタッキー・レジェンド(101)や「トラディション(NAS)」のようなボトル・デザインに先祖返りするのはどうか?、と。
第二にケンタッキー・スピリットもノンチルフィルタードのバーボンにする。そうすればスタンダードなワイルドターキー101よりも優れた利点が確実に得られる、と。
第三にラベルに樽詰めされた日付も記載する。現在でもボトリングの日付はありますが、ケンタッキー・スピリットが愛好家に向けた製品を目指すのなら、より細部に拘ったほうがいい、と。
そして更には、先ずは一旦ケンタッキー・スピリットの販売を休止し、現在の115エントリー・プルーフのバレルを維持しつつ、昔のような107エントリー・プルーフのバレルも造り、二つの異なるバーボン・ウィスキーを用意、最後に理想的な熟成に達した107エントリー・プルーフのバレルからケンタッキー・スピリット101を造り上げるという提言をしています。これは謂わばジミー・ラッセルのクラシックなケンタッキー・スピリット・シングルバレル・バーボンを復活させるというアイディアです。確かにこれが実現したら素晴らしい…。
ちなみに彼は現在のケンタッキー・スピリットを扱き下ろしているのではありません。ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルとワイルドターキー101の中間にあっては、昔ほど誇らしげに立っていないと言っているだけです。実際、彼はここ数年のケンタッキー・スピリットの高品質なリリースを幾つか報告しています。まあ、少々否定的な物言いになってしまいましたし、今でこそケンタッキー・スピリットの特別さがやや薄れてしまったのも間違いないのですが、それでもその「魂」は眠ってはいないでしょう。ケンタッキー・スピリットはジミーラッセルの元のコンセプトに忠実であり続けるバーボンであり、殆どの場合ワイルドターキー101よりも美味しく特別なバーボンであり、またストアピックのラッセルズ・リザーヴが手に入りにくい日本の消費者にとってはワイルドターキー・シングルバレルの個性的な風味を経験するよい機会を提供し続けています。

改めてケンタッキー・スピリットの中身について触れておくと、その熟成年数はNASながら8〜10年とも8.5年〜9.5年とも言われており、とにかくワイルドターキー8年と同じ程度かもう少し長く熟成されたシングルバレルをジミー・ラッセルが選び(現在はエディ?)、冷却濾過して101プルーフでボトリングしたものです。つまり単純に言えば、冒頭に述べたようにケンタッキー・スピリットは現在でも日本で販売されているワイルドターキー8年101のシングルバレル・ヴァージョンなのです。ジミー自身はケンタッキー・スピリットについて、タキシードを着たワイルドターキー101と表現していたとか。多分、スタンダードな物より格調高く華やいでいる、といった意味でしょう。発売当初のボックスの裏には彼自身の著名でこう書かれました。
時折、完璧なものを垣間見ることがあります。私はいつもそれを上手く説明することは出来ないのですが、或る樽は熟成するにつれて並外れた味を帯びるのです。信じられないかも知れませんが、私は20年以上前の樽を今でも正確に覚えています。ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、そのような記憶に残る発見の喜びを与えてくれます。このボトルには、特別な1つの樽から直接注がれた純粋なバーボンが収められており、私はそれを皆さんにお届けすることを誇りに思います。
マスターディスティラー、ジミー・ラッセル
ついでに言っておくと、ケンタッキー・スピリットとラッセルズ・リザーヴという二つの同じシングルバレル製品の違いは、ボトリング・プルーフとチルフィルトレーションを除けば、そのフレイヴァー・プロファイルにあるとされます。現在のマスターディスティラー、エディ・ラッセルによれば、ケンタッキー・スピリットが父ジミーの好みをより代表しているのに対し、ラッセルズ・リザーヴは本質的にエディ自身の好みを代表しているそう。
ケンタッキー・スピリットの味わいについては、先に引用した「天井と床」の喩えで判る通り、アメリカでも日本でも多少のギャンブル性が指摘されています。つまり、ケンタッキー・スピリットはラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルと同等かそれ以上に優れている場合もあれば、スタンダードなワイルドターキー101や8年101に非常に似ている可能性もあるということです。これはケンタッキー・スピリット云々というより、シングルバレルの特性上仕方のない面でもあります。通常3桁から4桁のバレルを混ぜ合わせる安価なバーボンは平均的なフレイヴァーになるのに対し、文字通り一つのバレルから造られるシングルバレル製品はフレイヴァー・バランスが異なります。具体的に例を言うと、普段飲んでいるワイルドターキー8年の味が脳にインプットされていて、さあ、いつもより上級なものを飲んでみたいと思いケンタッキー・スピリットを買いました、いざ飲んでみるといつものターキーよりスパイシーでオーキーでした、あれ? いつものほうがフルーティで美味しくない?、となったらその人にはハズレを引いたと感じられるでしょう。こればかりはその人の味覚次第だから。とは言え、本職の方が選んだバレルですから美味しいに決まってますし、それだけの価値があります。ケンタッキー・スピリットは甘くフルーティなものから、ややドライでタンニンのあるものまで様々なプロファイルを示しますが、真のワイルドターキー・ファンならば勇んで購入すればよいのです、好みのもの好みでないものどちらに転ぶにせよ。

ケンタッキー・スピリットはラベルの七面鳥やボトル・デザインの変化でなく、別の視点から概ね三つに分けて考えることが出来ます。ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。2004年に107プルーフから110プルーフ、2006年に110プルーフから115プルーフに。これは良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味します。また、ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。これも良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味するでしょう。そこで、ケンタッキー・スピリットの平均的な熟成年数である8年を考慮して大雑把に分けると、

①1994〜2012年の107バレル・エントリー原酒
②2013〜18年の110/115バレル・エントリー原酒
③2019年からの新蒸留所原酒

というようになります。このうち①、特にピューター・トップのものは昔ながらのワイルドターキーの味わいであるカビっぽいコーンや埃のような土のようなオーク香があり複雑な風味があるとされます。②は①のようなファンクが消え、ライトもしくはいい意味で単純な傾向に。③は前出のDJ氏によれば、選ばれたバレルによっては「床が上がっている」そうです。そこで今回は、私の手持ちのケンタッキー・スピリットの年代が異なるもの2種類と、先日投稿したワイルドターキー8年101の推定2019年ボトルを同時に飲んで較べてみようという企画。実を言うと投稿時期が違うだけで、3本をほぼ同時期に開封しています。

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WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof
Bottled on 01-14-16
Barrel no. 2830
Warehouse O
Rick no. 2
2016年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。接着剤、香ばしい焦樽、香ばしい穀物、ローストナッツ、コーン、ライスパイス、ブラックペッパー、若いチェリー、ハニーカステラ、ナツメグ、アーモンド。口当たりはややオイリー。パレートは基本的にグレイン・フォワードで、甘みもあるが飲み込んだ直後はかなりスパイシー。余韻はミディアム・ロングで豊かな穀物と共に最後にワックスが残る。

8年101と較べて良い点は口当たりがオイリーでナッティさが強いところでした。悪い点は接着剤が強すぎるのと荒々しい「若さ」があるところ。全体的には、スパイス&グレインに振れたバーボンという印象。また、101プルーフよりも強い酒に感じるほどアルコール刺激を感じます。正直言って8年101の方がマイルドで熟したフルーツ感もあり私好みのバランスでした。
Rating:86.5/100

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WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof(Pewter top)
Bottled on 10-5-95
Barrel no. 63
Warehouse E
Rick no. 47
1995年ボトリング。やや赤みを帯びたブラウン。ヴァニラ、湿った木材、オールド・ファンク、ベーキングスパイス、ブラッドオレンジ、紅茶、タバコ、土、漢方薬、ドライクランベリー、鉄、バーントシュガー。アロマはスパイシーヴァニラ。口当たりは柔らか。パレートはフルーティな甘さにスパイス多め。余韻はハービーで、マスティ・オークが後々まで長く鼻腔に残る。

2016年のケンタッキー・スピリットが若さを感じさせたのに対して、こちらは寧ろ近年飲んでいたマスターズ・キープ17年のような超熟バーボンを想わせる味わいです。今回私の飲んだ8年101と較べても、90年代の8年101と比べても、ハーブぽいフレイヴァーが強く複雑ではあるのですが、あまり私の好みではありませんでした。多分なんですが、10年前に開封して飲めていたらもっともっと美味しかったのではないかなと思います。言葉を変えれば飲み頃を逃したような気がするということです(※追記あり)。
Rating:87.5/100

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Verdict:95年ピュータートップに軍配を上げました。比較として飲んでいた8年101の方が自分好みではあったのですが、やはり特別な味わいではあると思ったし、2016年物は軽く一蹴したからです。


追記:ピューター・トップのケンタッキー・スピリットの熟成年数は、もしかすると10~14年程度だった可能性が示唆されています。本文で記したように、確かに私が飲んだ印象もそんな感じでしたから、それが真実ならば、飲み頃を逃したのてはなく元々そういう味わいだった可能性が高いです。

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今回はウィレット蒸留所の代表的なブランドであるオールド・バーズタウンのラインナップの一つエステート・ボトルドです。オールド・バーズタウンのブランド自体の説明は以前に投稿した現行スタンダードのレヴューを参照ください。
エステート・ボトルドの起源はよく分かりません。ネット検索で知り得る限りでは15年熟成の物が最も古いような気がするのですが、どうでしょう? 私が見たものには、年式を90年と95年としているものがありました。エステートのラベルは、80年代から日本に輸入されていた当時のスタンダードである馬の頭と首だけの描かれたブラック・ラベルと違い、初期と同じ「オールド・レッド・ホース」の佇む絵柄です。そこからすると、より上位の物にスタンダードの丸瓶や角瓶とは異なるずんぐりしたボトルを採用し、そのトップをワックスで浸し(*)、中身は101プルーフでボトリング、そして伝統的な絵柄のラベルを貼り付けることでプレミアム感を出したのがエステート・ボトルドなのかな、と推測しています。「Estate Bottled」というのがどういった意味かはよく解りませんが、エステートは一般的に「財産、遺産、不動産、土地」などの意味なので、「Family Reserve」や「Private Stock」とほぼ同じような意味なのではないでしょうか。上の意味の他に「種馬」の意味もあると書かれた辞典もありましたから、もしかするとお酒のラベルでよく使われるファミリー・リザーヴやプライヴェート・ストックを敢えて避け、馬のラベルに関連付けてエステート・ボトルドにしたのかも知れませんね。また、常にボトリングが101プルーフであることを考えると、ボトルド・イン・ボンド規格以上ですよと云う意味合いで「Bottled」をかけているのかも。仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。で、その15年熟成の物は、おそらく日本向けか一部の市場のみでの販売と思います。販売された年代と熟成年数から考えると、中身は旧ウィレット原酒であってもおかしくはないでしょう。或いは、開けただけでワイルドターキーの15年物と分かった、と仰ってる海外の方も居られました。飲んだことのある皆さんはどう思いましたか? コメントよりどしどしご感想をお寄せ下さい。
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その後、高齢原酒の不足のためか、いつの頃からか10年熟成の物に切り替えられました。この10年表記の物はアメリカでも流通していたようなので、もしかすると切り替えと言うよりはそもそもアメリカ国内向けと輸出用を分けていたのかも知れません。例えば、15年熟成は日本へ90〜95年に少量輸出、10年熟成はアメリカ国内にて90年代後半に発売とか? ともかく、いつから販売されていたかは私には判らないです。そしてもう少し後年、おそらく2008年あたりに熟成年数を表すシールの貼られてないNASになったと思われます。これは確実に長期熟成原酒の不足が理由でしょう。緩やかにではありましたが、2000年代を通してバーボンのアメリカ国内需要は復調していったのです。10年やNASの中身は、おそらくヘヴンヒル原酒の可能性が高いと見られています。

1970年代にバーボンの売上げが劇的に減少し、折からの石油不足が燃料用アルコールへの投資を促すと、投資家はウィレット蒸留所の飲料用アルコール生産を止め、燃料用の生産にシフトしようとしました。しかし、それは使い物にならない機器を残し失敗に終わりました。ありがたいことに、エヴァン・クルスヴィーンは平常心を保ち、一家をバーボン業界に留めるため、1984年にケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)というボトリング事業を始めます。エヴァンはその後の約30年間、他の蒸留所からウィスキーを購入し、オールド・バーズタウンを守り続け、新しいブランドも創り上げながら、伝統ある自身の蒸留所の再開を夢見ていました。2012年に漸く彼のその夢は叶い、蒸留所は再び蒸留を開始します。2016年になると自家蒸留されたオールド・バーズタウンの二種類(スタンダード90プルーフとボトルド・イン・ボンド)が販売され出しました。
エステート・ボトルドがいつから新原酒になったのか定かではありませんが、6年熟成とされているところからすると、早くて2018年あたりなのでしょうか? ところで、新しいスタンダード90プルーフとボトルド・イン・ボンドのラベルは、どちらもウィレット蒸留所によって蒸留および瓶詰めされていると記載されていますが、対してエステート・ボトルドの私の手持ちのボトル、またそれ以前のボトルのラベルには、蒸留はケンタッキー、ボトリングは「Old Bardstown Distilling Company」によりされたと記載されており、海外ではこれをウィレットが蒸留していないバーボンを販売するときに使用される戦術とする向きもあります。まあ、概ねそうなのかも知れませんが、旧来のラベルはなくなるまで使い続けられることもあるし、そのバーボンの名をDBAとして使用した蒸留所名だからといって全てがソーシング・バーボンとは限らない気が個人的にはしています。現に私の手持ちのボトルは確実に新ウィレット原酒です。おそらく実店舗では、現在日本で流通しているエステートの殆どは新原酒を使用している筈。とは言え、オークションや売れ残りで旧来のエステートが販売されていることも稀にはあるでしょう。そこで旧と新の目安とするならラベルよりもボトル形状に着目して下さい。最近流通しているボトルはネックにやや丸み(膨らみ)のあるものが採用されています。
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或いはボニリが正規輸入している物は新原酒と聞き及びますので、裏のラベルを目印に購入するとよいでしょう(**)。
では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。ちなみにエステート・ボトルドは、スタンダードやBiBと共通のハイ・コーン・マッシュビル、そして上述のように6年熟成、スモールバッチ(21〜24樽)でのボトリングとされています。

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OLD BARDSTOWN ESTATE BOTTLED 101 Proof
推定2020年?ボトリング。焦げ樽、焼きトウモロコシ、プロポリス配合マヌカハニーのど飴、麦芽ゼリー、ミロ、ミルクチョコレート、熟したプラム、蜂蜜、レモン。液体はさらさらしているが、口当たりはややオイリー。パレートではモルティなグレインを強く感じる。余韻はややあっさりめと思いきや、穀物の旨味が広がり、最後にコーヒーの苦味。
Rating:87.5/100

Thought:先ず、スタンダードの4年と比べて2年の熟成期間の追加でかなり印象の違うものになっているのが驚き。スタンダードはフルーティさが強かったのに対して、エステートは味わいに凄くモルティさを感じました。私はフルーツ・フォワードなバーボンが好きなので、実はスタンダードの方が美味しく感じたのですが、私のレーティングは味だけで採点していないためエステートの方を上にしています。スタンダードではあまり感じなかった甘いミルクチョコやココアのような風味は、追加の熟成期間で育まれたと思われ、やはりそこは評価すべきかと。現行のバーボンとオールドボトルの様々な違いの要因について言われていることの一つに、昔は商業用酵素剤を使わずモルトを多く使用していたと云うのがありますが、このエステートにはそういった古のバーボンらしさがあるのかも知れません。同じウィレット蒸留所の同レヴェルの製品と目されるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比べても、マッシュビルの違いからか共通なフレイヴァーもありつつグレイン感の旨味が強いように感じます。どれが好きかは貴方の味覚や感性によって決まりますが、どれもハイ・クオリティで頗る美味しいです。

Value:日本では大体3500円前後。もうね、買え、そして飲め(笑)。オールドボトルでも長熟でもないバーボンの魅力が詰まってますよ。


*ワックスで浸してない物もオークションで見かけました。また12年101プルーフもありました。私が見たものはどれもインポーターがマルカイ コーポレーションです。

**誤解のないように言っておくと、これはネックに膨らみのある物やボニリの物だと新原酒である蓋然性が高いと言うことであって、ストレートネックや並行輸入が新原酒ではないと言いたいのではありません。あくまで、ぱっと見で新原酒を購入したい人へ向けたアドヴァイスに過ぎないのです。

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テンプルトン・ライ・バレル・ストレングスは2018年から導入された年次リリースの数量限定製品です。テンプルトン・ライというブランド自体と諸々のエピソードについては、以前に投稿したスモールバッチNAS6年のレヴューで紹介してますので、そちらを参照して下さい。
創業当初NDPであったテンプルトン・ライ・スピリッツ社は2017年に自らの蒸留所を着工し、2018年から稼働し始めたようで、100%アイオワ産のウィスキーは2022年に発売されると想定されています。従って現在流通しているテンプルトン・ライの製品は、全てインディアナ州ローレンスバーグのMGPで蒸留および熟成された95%ライと5%バーリーモルトのウィスキーがソース。ブレンドとボトリングのみがアイオワのテンプルトンの施設で行われている訳です。
バレル・ストレングスは毎年限られた数のバレルが蒸留所マネージャーのレスター・ブラウンを筆頭としたチームによって選ばれます。これはシングルバレルではなく、エイジ・ステイトメントもないため、おそらく熟成年数や成熟度が異なる優良と見做されたバレルが選ばれ、その後それらをヴァッティングし、一つのバッチを形成するのでしょう。同社の4年や6年と違い、バレル・ストレングスには「ストレート」表記がありますので、フレイヴァー製剤の添加はありません。ラベルの承認を行うTTBを欺いているのでない限りは…。また、バレル・ストレングスはフレイヴァー成分をボトルに残すことを期待されるノンチルフィルタード(非冷却濾過)。流石にバレルプルーフならばフレイヴァーを添加する必要はないという判断ですかね。ちなみに、これまでリリースされたバレル・ストレングスは、2018年版が114.4プルーフ、2019年版が115.8プルーフ、2020年版が113.1プルーフでボトリングされています。

テンプルトン・ライ批判の急先鋒と言えるウィスキー・インフルエンサーのジョシュ・ピータースは、2018年にバレル・ストレングスが初めてリリースされた時には「テンプルトン・バレルストレングス・ストレート・ライウィスキーを購入しない5つの理由」という記事を自身のブログに投稿しています。彼は以前からテンプルトン社の現代ウィスキー市場に於けるあらゆる反則技や不誠実な姿勢に嫌悪感を露わにしていましたが、ストレート・ウィスキーであるバレル・ストレングスが出ても怒りは収まらなかったようで…。彼の主張をざっくり纏めると、バレル・ストレングスがストレート規格であったとしても、そのプレス・リリースではどこにもMGPのソースド・ウィスキーであるとは言及されておらず、アルフォンス・カーコフ・レシピの起源物語をまだ言い続けている、だったら同じくMGPの95/5ライ・マッシュのジェームズ・E.ペッパー1776ライのバレルプルーフの方が安く購入できるので自分ならそっちを買う、そうすれば同じ経験をしながら欺瞞的なテンプルトンではない透明性のある会社をサポートすることが出来る、と。私も情報は透明に越したことはないと思っていますし、テンプルトン・ライの行き過ぎたマーケティングにはガッカリするものの、それでもテンプルトン製品を買っています。これはジョシュに賛同しないと言うより、単に日本で比較的買い易いMGP95ライをソースとしたウィスキーがテンプルトン・ライだから、それだけ。MGPの95%ライ好きなんです(笑)。

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TEMPLETON RYE BARREL STRENGTH 115.8 Proof
Limited Bottling 2019
ピクルス、ライスパイス、プラム、青いバナナ、キャラメル、石鹸、塩、ゴーヤ、スイカ、甘いナッツ、弱い蜂蜜。基本的にスパイシーなアロマだが、フルーツとお菓子のような甘い香りもしっかりある。軽やかなのにバタリーな口当たり。味わいはフレッシュな野菜やハーブを思わせる緑感とグレイン。余韻は口当たりや度数の割にあっさり切れ上がるものの、トーストされたオークの甘みとハービーな苦味とライ麦由来のスパイシーさのアンサンブルが心地良い。
Rating:87.5/100

Thought:前回まで開けていたテンプルトン・ライ6年と比べると、バレルプルーフであることとノンチルフィルタードの効果でしょうか、フレイヴァーの強さは桁違いでした。フレイヴァー・プロファイルは概ね同じに感じますが、6年では感じ取れなかった細やかなニュアンスや変化も取得しやすいように思います。選択されたバレルの熟成年数の平均はどうなんだろう、4〜6年くらいはありそうな熟成感という印象。飲んだことある皆さんはどう思われましたか? コメントよりどしどし感想お寄せ下さい。

Value:2020年版のテンプルトン・ライ・バレル・ストレングスは、アメリカでの希望小売価格が約60ドルのようです。日本でこの2019年版が流通していた頃の小売価格は大体5500円程度でした。過剰なプレミアム(割増金)が付けられていなければ、どこかで見つけたら即買っていいと思います。日本ではMGP95ライをソースとしたバレルプルーフのウィスキーがそこまで豊富に流通している訳ではないからです。ただし、他メーカーがボトリングしたMGP95ライのソーシング・ウィスキーでも、バレルプルーフであれば同じくらい美味しいのは確定的であり、尚且もう少し安い可能性はあるので、よほどテンプルトン・ライのブランド・イメージが気に入ってるのでなければ、ジョシュ・ピータースが言うように、そちらを購入するのも手でしょう。

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W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴは、現在ではサゼラック・カンパニーが所有するフランクフォートのバッファロー・トレース蒸留所で製造されているウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)です。元々はスティッツェル=ウェラーによって作成されたブランドでした。ウィーテッド・バーボンと言うのは、全てのバーボンと同様に少なくとも51%のコーンを含むマッシュから蒸留されますが、フレイヴァーを担うセカンド・グレインにライ麦ではなく小麦を用いたバーボンを指します。小麦が51%以上使用されたマッシュを使うウィート・ウィスキーとは異なるので注意しましょう。近年のウェラー・ブランドには人気の高まりから複数のヴァリエーションが展開されていますが、「ウェラー・スペシャル・リザーヴ」はかねてから継続的にリリースされていた三つのうちの一つであり、ラインナップ中で最も安価なエントリー・レヴェルの製品です(他の二つは「アンティーク107」と「12年」)。ブランドの名前はウィリアム・ラルー・ウェラーにちなんで名付けられました。そこで今回は、今日でも広く販売されているバーボンにその名を冠された蒸留酒業界の巨人を振り返りつつ、スティッツェル=ウェラーと小麦バーボンおよびウェラー・ブランドについて紹介してみたいと思います。

ウィリアム・ラルー・ウェラーは、1825年、その起源をドイツに遡る家族に生まれました。蒸留に関わるウェラーの物語はウィリアムの祖父ダニエル・ウェラーから始まります。バーボンの歴史伝承によると、ウィスキー・リベリオンの際に蒸留家らは連邦税から逃れるためにペンシルヴェニア州からケンタッキー州へやって来たとされますが、それは必ずしもそうではありませんでした。独立戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)を戦った世代のダニエルはメリーランド州から来ました。彼の一家はメリーランド州でマッチ作りをしていたそうです。ダニエルは自分の父が他界すると入植者としてケンタッキーに移住することを決め、ネルソン・カウンティの現在はブリット・カウンティ境界線に近い土地を購入します。一家はフラットボートでオハイオ・リヴァーを下ってルイヴィルに向かい、1796年にネルソン・カウンティに来ました。共に来ていたダニエルの兄弟は後に有名なガンスミスになったそうです。
ネルソン・カウンティで彼らは農場を始め、ダニエルはファーマー・ディスティラーになりました。当時の多くの入植者がそうであったように、おそらく彼もコーンを育て現在のバーボンと近いマッシュビルで蒸留していたと見られます。しかし、言うまでもなく当時はまだ「バーボン」という呼び名ではありませんでした。ダニエルがケンタッキー州でのウィスキー・リベリオンに参加していたのかは定かではないそうですが、1800年に三週間ウィスキーを蒸留するライセンスが発行されたことは知られています。これはダニエル・ウェラーの公の記録の中で現存する最古のライセンスで、実際には隣人がウェラーのスティルでウィスキーを造るのを許可するために発行されたものだそうです。これは当時の非常に一般的な慣習とのこと。仮に私が自分で蒸留器を所有していない場合、隣人からスティルを借りて、彼らにウィスキーを作って貰い、私が政府に税金を払う訳です。ウェラーの蒸留器は90ガロンのポットスティルでした。当時の地元の収穫量から判断すると隣人は恐らくその期間に150から200ガロンのウィスキーを製造していたのではないかと歴史家のマイク・ヴィーチは推測しています。1802年にトーマス・ジェファソン大統領がウィスキー税を廃止したため、ダニエル・ウェラーの蒸留所の税務記録は残っていません。
1807年、ダニエル・ウェラーは落馬した際に受けた怪我の合併症で亡くなりました。彼の財産目録には2個のスティル、マッシュ・タブ、クーパーの道具、ジャグ等があり、212.17ドルの価値があったと言います。彼はケンタッキー州初期の典型的な農民蒸留者でした。ダニエルの息子サミュエルは、おそらくこの蒸留装置を受け継ぎ蒸留所の規模を拡大したと思われますが、連邦税がなかったために蒸留所の公式記録はなく、更なるお金を投資したかどうか判りせん。また、サミュエルはラルー・カウンティでウィスキーを造ったようですが、これまた記録がなく1850年代に亡くなった時に蒸留所がどうなったのかも不明です。ともかくウェラー家のリカー・ビジネスに携わる伝統はダニエルからサミュエル、更にその息子ウィリアムへと継承されて行ったのでしょう。

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ウィリアム・ラルー・ウェラーは1825年7月25日に生まれました。彼の母親であり父サミュエルの再婚の妻であるフィービー・ラルー・ウェラーは、ケンタッキー州ラルー郡の創設者ジョン・ラルーの娘です。ウィリアムの幼少期についてはよく分かりませんが、名家と言って差し支えなさそうな出自からして、将来のための相応な教育を受けていたと想像されます。成長したウィリアムは1844年にルイヴィルに移りました。そこで何をしていたかも定かではありませんが、酒類ビジネスに関わっていたのでしょうか。1847年になると彼はルイヴィル・ブリゲイドに加わり、他のケンタッキアンらと共にアメリカ=メキシコ戦争(1846〜1848年)を戦い、中尉の階級に昇進したようです。戦後、ウィリアムはルイヴィルへと戻り、1849年に弟のチャールズと協力して、今日NDP(非蒸留業者)と呼ばれるウィスキーの卸売り販売やレクティファイングを手掛ける「ウィリアム・ラルー・ウェラー&ブラザー」を設立しました。店舗はジェファソン・ストリートと現在のリバティ・ストリートの間にあり、彼らは「誠実なウィスキーを誠実な価格で」というスローガンを掲げたとされます。もしかするとラルー・カウンティで父親が造ったウィスキーを販売していたのかも知れません。

1850年代にルイヴィルは活気に満ちた裕福な都市になっていました。街の成長もあってかウェラーの酒はかなりの人気があったようです。伝説によると、人気があり過ぎて顧客が本物を手に入れたことを保証するために、全ての取引書とウィスキーの樽に緑色のインクで拇印を付けなければならなかったとか。会社の設立とほぼ同じ頃、25歳になっていたウィリアムは結婚するのに十分な経済的基盤を築いており、5歳年上でシェルビー・カウンティ出身のサラ・B.ペンスと結婚しました。彼らはこれからの16年の間に7人の子供(4人の男子、3人の女子)をもうけています。また、1854年に腸チフスの流行により父親と母親が亡くなった後、ウィリアムは弟のジョンを自分の息子として育てました。
或る主張によれば、この時期までにW.L.ウェラーは小麦バーボンを発明したとされます。しかし、当時のウィリアムは自身の蒸留所を所有しておらず、先述のようにあくまでレクティファイヤー、つまり特定の蒸留所からウィスキーを買い上げるとブレンディング、フィルタリング、フレイヴァリング等の手法で仕上げ、販売のためにパッケージ化して顧客に販売する業者だったと見られるのです。当時のルイヴィル市の商工人名録には、ウェラーが国内外のウィスキー卸売り及び小売りディーラーと記載されていました。1871年以降にはウェラー社にもスティルがあり、粗悪なグレードのウィスキーを「コロン・スピリッツ」と呼ばれるニュートラル・スピリッツに再蒸留するために使用していたそうですが、同社はオリジナルの蒸留は行わず、この再蒸留のみを行っているとの声明さえ出していたとか。

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南北戦争の到来は、南寄りのウェラー家に大きな混乱を齎します。ウィリアムの兄弟のうち二人は南軍のために戦いました。弟ジョンは有名なケンタッキーの南軍オーファン・ブリゲイドに加わり、キャプテンの階級に昇進し、チカマーガの戦いで負傷したそうです。別の兄弟はジョージアの南軍にその身を捧げました。ウィリアムとチャールズはルイヴィルの家業に留まり、北と南に出来るだけ多くのウィスキーを売るために中立を保とうとしました。しかし、皮肉なことに会社のパートナーであるチャールズは、1862年、事業債務の回収のためにテネシー州フランクリンに滞在中、多額の現金を所持していたところを二人の銃を持った強盗に襲われ殺害されてしまいます。
南部の敗北の後、キャプテン・ジョンはチャールズに代わって家族の会社で働くようになりました。ウィリアムの息子達が成長するにつれて、彼らも事業に参入し始めます。1870年代に同社は、現在でもアメリカの酒類産業の中心地であるルイヴィルのメイン・ストリートに移転し、社名は「W.L.ウェラー&サン」を名乗るようになりました。ウィリアムの長男ジョージ・ペンス・ウェラーがパートナーでした。また、ウィリアム・ジュニアはクラークとして働いていました。1887年頃、他の息子達が参入した会社は「W.L.ウェラー&サンズ」になります。ウェラー社はオープン・マーケットでウィスキーを購入し、後には同じくルイヴィルのスティッツェル・ブラザーズ蒸留所やアンダーソン・カウンティのオールド・ジョー蒸留所などと大きなロットの契約を結びました。彼らの会社で使用されたブランド名には「ボス・ヒット」、「クリードモア」、「ゴールド・クラウン」、「ハーレム・クラブ」、「ケンタッキーズ・モットー」、「ラルーズ・モルト」、「オールド・クリブ」、「オールド・ポトマック」、「クォーター・センチュリー」、「ローズ・グレン」、「サイラス・B.ジョンソン」、「ストーン・ルート・ジン」、「アンクル・バック」、「アンクル・スローカム・ジン」等があり、旗艦ブランドは「マンモス・ケイヴ」と「オールド・W.L.ウェラー」と「キャビン・スティル」と伝えられます。当時の多くの競合他社とは異なりウェラー社では1905年から殆どのブランドを商標登録していたそう。彼らは宣伝にも積極的で、お得意様へ提供されるアイテムにはバック・バー用のボトルやラベルが描かれたグラス、またはエッチングされたショットグラス等があったようです。
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1893年、後に「パピー」と知られるようになり業界への影響力を持つことになる19歳の青年ジュリアン・ヴァン・ウィンクルがセールスマンとしてウェラーズに入社しました。ウィリアムはヴァン・ウィンクルに決して顧客と一緒に酒を飲まないように教えたと言われています。「もし飲みたくなったら、バッグに入ってるサンプルを部屋で飲みなさい」と。同じ頃、父と仕事を共にする息子は4人いました。ジョージとウィリアム・ジュニアはパートナー、ジョン・C.とリー・ウェラーはクラークでした。1895年に70歳を迎えたウィリアムは自分の衰えを感じ、一年後に引退します。事業は兄弟のジョンと長男のジョージに任せました。数年後の1899年3月、ウィリアムはフロリダ州オカラで亡くなります。死因は「心臓合併症を伴う慢性痙攣性喘息」だったそうです。多くの「ウィスキー・バロンズ」の眠りの場となっているルイヴィルのケイブ・ヒル・セメタリーに埋葬されました。

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今日、ウィリアム・ラルー・ウェラーの名前は小麦バーボンと結びついています。ウェラー・ブランドのラインを現在製造するバッファロー・トレース蒸留所の公式ホームページでも彼について記述されていますし、ウェラー・ブランドのラベルには「The Original Wheated Bourbon」と謳われています。しかし残念なことに、おそらくウィリアムと小麦を使用したバーボンには何の関係もありませんでした。
小麦をフレイヴァー・グレインに使用することは、18世紀後半から19世紀前半のウィスキー・レシピにも見られたようです。ライ麦と小麦のどちらを使ってマッシュを作るかは、それぞれの入手し易さに左右されたのでしょう。ライ麦がバーボンの一般的な第二穀物となって行ったのは、単純に小麦がライ麦よりも高価な穀物であり、小麦粉としての需要も高かったためだと考えられています。近年ではライ麦の代わりに小麦を使用するバーボンがクラフト蒸留所からも発売され市場に出回っていますが、伝統的なブランドとしてはオールド・フィッツジェラルドやW.L.ウェラー、キャビン・スティルにレベル・イェール、そしてメーカーズマークくらいのものでした。勿論ヴァン・ウィンクル系のバーボンも含めてよいかも知れません。歴史家のマイク・ヴィーチによれば、これらのブランドは全て歴史上共通の糸、DNAを持っており、その端緒はスティッツェル・ブラザーズであると言います。
フレデリック、フィリップ、ジェイコブのスティッツェル兄弟は、1872年、ルイヴィルのブロードウェイと26thストリートに蒸留所を建設しバーボンの製造を開始しました。この蒸留所は主要ブランドにちなんでグレンコー蒸留所としても知られ、グレンコーの他にフォートゥナ・ブランドが有名です。彼らはウィスキー造りの実験を行った革新的なファミリーでした。よく知られた話に、フレデリックが1879年にケンタッキー州の倉庫に現在まで存続するウィスキー樽を熟成させるためのラックの特許を取得していることが挙げられます。そしてまた、フレイヴァー・グレインとして小麦を使用したバーボンのレシピを実験してもいました。穀物、酵母、蒸留プルーフ、バレル・エントリー・プルーフ、それらの最良の比率が見つかるまで実験を繰り返したことでしょう。彼らはこのウィスキーを主要ブランドに使用することはありませんでしたが、フィリップの息子アーサー・フィリップ・スティッツェルが1903年にオープンしたストーリー・アヴェニューの蒸留所に、その実験の成果は伝えられていました。
A.Ph.スティッツェル蒸留所は1912年にW.L.ウェラー&サンズのためにウィスキーを製造する契約蒸留の関係にあった記録が残っています。19世紀の業界では多くの契約蒸留が行われていました。W.L.ウェラー&サンズのような会社は蒸留所を所有していなくても、特定の蒸留所と自らの仕様に合わせたウィスキーを造る契約をして、自社ブランドを販売していたのです。テネシー州の一足早い禁酒法によりタラホーマのカスケイド・ホロウ蒸留所が閉鎖された後、1911年にA.Ph.スティッツェル蒸留所はジョージディッケルのカスケイド・ウィスキーを造ることになり、テネシー・ウィスキーのためのチャコール・メロウイング・ヴァットまで設置されていたのは有名な話。契約蒸留は、蒸留所を所有することとバルク・マーケットでウィスキーを購入することのちょうど中間の妥協点でした。バルク・マーケットでウィスキーを購入する場合は売り手の売りたいバレルから選ぶことになり、そのぶん比較的安価な訳ですが、フレイヴァー・プロファイルを自分でコントロールすることは出来ません。契約蒸留ならばウィスキーのマッシュビル、蒸留プルーフ、樽の種類、バレル・エントリー・プルーフ等を契約で指定するので、ウィスキーのフレイヴァー・プロファイルをある程度はコントロールすることが出来ます。しかし、ウェラー社のそれはおそらく小麦バーボンではありませんでした。ウェラー社は大企業とは言い難く、500バレルが年間売上の大部分を占めていたので、スティッツェルが当時のウェラーのためにその量の小麦バーボンを造っていたとは到底信じられない、というようなことを或る歴史家は言っています。レシピに小麦を使用するという考えは何年にも渡る禁酒法期間を通して休眠状態にあり、小麦バーボンが花開くのは禁酒法が廃止されるのを待たねばなりませんでした。
では、話を一旦ウィリアム死後のウェラー社に戻し、続いて禁酒法期間中の事と解禁後にスティッツェル=ウェラーが形成されるまでをざっくり見て行きましょう。

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1899年、W.L.ウェラー&サンズはメイン・ストリートの北側、1stと2ndストリートの間にある大きな店舗をバーンハイム・ブラザーズから購入しました。19世紀末までにウィスキーを他州の市場へ出荷するための主要な手段は鉄道となっていたため、スティームボートに樽を積み込むことが出来るウォーターフロントに近いことは南北戦争後には重要ではなくなっていましたが、それでもこの店舗はW.L.ウェラー&サンズが以前所有していたよりも大きな建物であり、ウィスキー・ロウの中心部にオフィスを構えることには威信があったのです。同年にウィリアムが亡くなったその後、息子のジョージが会社の社長になり、ジョージの末弟ジョンは営業部長を務めました。ジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクル(シニア)や、別の会社のセールスマンから1905年にウェラー社へ加入したアレックス・T・ファーンズリーも会社を大いに盛り上げたことでしょう。パピーとファーンズリーの二人はよほど有能だったのか、1908年、共に会社の株式を買い、会社に対する支配権を取得します。ジョージ・ウェラーは1920年の禁酒法の開始時に引退するまで社長として残りました。この新しいパートナー達は元の名前を維持しましたが、新しいビジネス戦略を採用しました。彼らはウィスキー原酒のより安定的な供給を確保するために蒸留所の少なくとも一部を所有する必要性を認識し、スティッツェル蒸留所に投資します。ほどなくしてアーサー・フィリップ・スティッツェルはビジネス・パートナーになりました。禁酒法がやって来た時、スティッツェルは禁酒法期間中に薬用スピリッツを販売するライセンスを取得します。パピーはA.Ph.スティッツェル蒸留所の所有権も有していたので、この合弁事業によりW.L.ウェラー&サンズはスティッツェル社のライセンスに便乗し、スピリッツを販売することが可能となりました。こうして1920年に禁酒法が施行される頃、W.L.ウェラー&サンズはパピーが社長、アーサーが秘書兼会計を務め、逆にA.Ph.スティッツェル社はアーサーが社長、パピーが書記兼会計を務めていました。そしてファーンズリーは両社の副社長です。

禁酒法は蒸留所での生産を停止しましたが、A.Ph.スティッツェル蒸留所のサイトは統合倉庫の一つとなり、薬用スピリッツの販売を続けます。W.L.ウェラー&サンズは禁酒法の間、メイン・ストリートの建物に事務所を置いていました。ジュリアン・ヴァン・ウィンクルは、そこから営業部隊を率いて、全国で薬用スピリッツのパイントを販売しようと努めました。アレックス・ファーンズリーもそこに事務所を持っていましたが、禁酒法の期間中はフルタイムで銀行の社長を務めていたので忙しかったらしい。アーサー・フィリップ・スティッツェルの事務所はストーリー・アヴェニューの蒸留所にありましたが、ウェラーの事務所を頻繁に訪れていたそうです。
禁酒法下の薬用ウィスキー・ビジネスで蒸留業者は、ブランドを存続させるために他社からウィスキーを仕入れたり、統合倉庫に自らのブランドを置いている企業のためにウィスキーをボトリングし、単純に保管料や瓶詰代や少額の販売手数料を徴収していました。スティッツェル社は禁酒法期間中にヘンリーマッケンナのブランドを販売していたそうです。彼らはブランドやウィスキー自体を所有していませんでしたが、マッケンナはスティッツェルの統合倉庫にウィスキーを置いていました。スティッツェル社とライセンスを共有していたW.L.ウェラー社は、ヘンリーマッケンナを1ケース1ドルの手数料で販売し、樽の保管料とボトリング費用(材料費と人件費)を売上から請求したと言います。
1928年、薬用スピリッツの在庫が少なくなると、政府はライセンスを持つ蒸留所に酒類を蒸留して在庫を補充することを許可しました。許可された量はライセンスを持つ会社が保有する既存の在庫の割合に応じて決められています。A.Ph.スティッツェル蒸留所がどれ位の量を蒸留したかはよく分かりませんが、自分たちのため以外にもフランクフォート・ディスティラリーとブラウン=フォーマン社のためにバーボンを生産したそうです。これらの蒸留会社は1928年時点では稼働中の蒸留所を所有していなかったので、A.Ph.スティッツェル蒸留所が割り当てられたウィスキーの蒸留を請け負いました。1929年にブラウン=フォーマンはルイヴィルの自らの蒸留所を稼働させ蒸留を開始しましたが、フランクフォート・ディスティラリーは禁酒法が撤廃された後もA.Ph.スティッツェル蒸留所で契約蒸留を続けました。
"ドライ・エラ"に薬局に提供されたW.L.ウェラー&サンズのバーボンには、禁酒法以前から人気のあった「マンモス・ケイヴ」があります。他にどれだけの種類のラベルが制作されているのか私には把握出来ませんが、「オールド・W.L.ウェラー(白ラベル)」名義のバーボンとライをネット上で見かけました。あと禁酒法末期頃ボトリングの「オールド・フィッツジェラルド」や「オールド・W.L.ウェラー(緑ラベル)」や「オールド・モック」はよく見かけます。

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禁酒法以前からパピー・ヴァン・ウィンクルのW.L.ウェラー社はA.Ph.スティッツェル蒸留所が生産するバーボンを多く購入していた訳ですが、パピーは禁酒法期間中にその終了を見越してA.Ph.スティッツェル蒸留所を購入し、スティッツェル=ウェラーを結成します。禁酒法が廃止された後、二つの会社は正式に合併してジェファソン郡ルイヴィルのすぐ南にあるシャイヴリーに新しい蒸留所を建設しました。この蒸留所こそが小麦バーボンの本拠地となって行く1935年のダービー・デイにオープンしたスティッツェル=ウェラー蒸留所です。A.Ph.スティッツェル蒸留所は新しくスティッツェル=ウェラー蒸留所が開設された時にフランクフォート・ディスティラリーに売却されました。フランクフォート・ディスティラリーは、こことスティッツェル=ウェラー蒸留所に近いシャイヴリーのディキシー・ハイウェイに建設した別の蒸留所でフォアローゼズを製造しました。この蒸留所は1940年代にシーグラムがフランクフォート・ディスティラリーを買収した後も存続しましたが、1960年代に閉鎖されたそうです。
新しく始動した会社でパピー・ヴァン・ウィンクルは社長に就任し、セールスを担当しました。アレックス・ファーンズリーは副社長として残り財務を担当、同時にシャイヴリーのセント・ヘレンズ銀行の頭取でもありルイヴィル・ウォーター社の副社長でもありました。アーサー・スティッツェルも副社長で、製造を担当したとされます。パピーはスティッツェル=ウェラー蒸留所でウィーテッド・バーボンを造ることにしました。それはスティッツェル兄弟が何年も前から実験していたレシピでした。それを採用した理由は、会社の役員であるパピー、アーサー、ファーンズリーらは小麦レシピのバーボンを熟成が若くても口当たりが良く美味しいと考えたからだと言われています。これはウィスキーの熟成があまり進んでいない段階では重要なことでした。本来、市場に出すのに適した良質なボンデッド規格のバーボンは、熟成させるのに少なくとも4年は掛かります。禁酒法廃止後の市場のニーズに応えるのに、もっと若い熟成年数で売れる製品が必要だった訳です。彼らはまず初めに「キャロライナ・クラブ・バーボン」の1ヶ月熟成をリリースし、その後3ヶ月物、6ヶ月物、1年物と続けます。そうして主要ブランドに入れる4年熟成のバーボンが出来上がるまでこのブランドを維持しました。彼らの主要ブランドはオールド・フィッツジェラルド、W.L.ウェラー、キャビン・スティルです。後年、のちにウェラー・アンティークとなるオリジナル・バレル・プルーフというヴァリエーションや、1961年にはレベル・イェールを導入し、60年代後半にはオールド・フィッツジェラルド・プライムがポートフォリオに追加され、また他にも幾つかのプライヴェート・ラベルを個人店向けに作成しましたが、ウィーテッド・バーボンはスティッツェル=ウェラー蒸留所が造った唯一のレシピであり、それらは全て同じウィスキーであっても熟成年数やボトリング・プルーフを変えることで異なったものになりました。

1940年代後半頃でもスティッツェル=ウェラー蒸留所の複合施設はまだ成長していたそうです。しかし、会社の幹部は40年代に相次いでこの世を去りました。アレグザンダー・サーマン・ファーンズリーは1941年に亡くなっています。蒸留業以外でも活躍した彼は他の会社の社長も兼任し、またルイヴィルのペンデニス・クラブの会長を2期務めました。彼の名を冠したパー3のゴルフコースがシャイヴリーにあるとか。アーサー・フィリップ・スティッツェルは1947年に亡くなっています。どうやら彼の死後にスティッツェル・ファミリーで蒸留業に就いた人はいないようです。残されたジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルは1960年代まで生き、引き続き会社を牽引しました。
パピーは優秀なビジネスマンでありカリズマティックなリーダーでしたが、所謂マスター・ディスティラーではありませんでした。スティッツェル=ウェラーの最初のマスター・ディスティラーはウィル・マッギルです。彼はジョーことジョセフ・ロイド・ビームの義理の兄弟でした。二人はジョーよりかなり年上の兄であるマイナー・ケイス・ビームによって訓練されました。禁酒法以前の若い頃、彼らはケンタッキー州の様々な蒸留所で一緒に働いていたそうです。1929年、禁酒法以前の在庫が無くなりかけていたため政府が「ディスティリング・ホリデイ」を宣言し、薬用ウィスキーのライセンス保持者へ蒸留を許可すると、パピーはジョーと彼のクルーを呼び、A.Ph.スティッツェル蒸留所のスティルに火を入れるように依頼しました。おそらく、その頃からマッギルも何らかの関係を持っていたのでしょう。マッギルがスティッツェル=ウェラーで直面したのはタフな仕事でした。可能な限り最高のウィスキーを造るために懸命に新しい蒸留所の全ての癖を把握しなければならなかったのです。エイジングの過程も考えれば数年は掛かり、簡単な仕事ではありません。製造初年度のウィスキーをテイスティングしたことがある方によると、当時から良いものだったけれど年を重ねて更に良くなって行ったと言います。ちなみに、スティッツェル=ウェラーでマッギルは何人かのビーム家の甥っ子を雇っていたとされ、その中で最年長のエルモは後にメーカーズマークの初代マスター・ディスティラーとなっています。
マッギルは1949年頃に引退し、その座はアンディ・コクランに引き継がれました。コクランは若くして亡くなり、蒸留したのは数年だけでした。彼の後釜はロイ・ホーズ(Roy Hawes)です。ホーズはスティッツェル=ウェラーの歴史の中で最も在職期間の長いマスター・ディスティラーでした。彼は50年代前半から70年代前半までの約20年間をそこで過ごし、スティッツェル=ウェラーの全盛期を支え続けたと言っても過言ではないでしょう。亡くなる寸前までまだ技術を学んでいたという熱心なホーズは蒸留所と共に成長し、在職中に多くの優れたバーボンを造りました。
1972年に蒸留所がノートン・サイモンに売却された頃からはウッディ・ウィルソンがディスティラーです。時代の変化はバーボンのフレイヴァー・プロファイルも変えました。新しいオウナーはバレル・エントリー・プルーフを上げるなどして蒸留所の利益を上げようとします。ウィルソンは冷徹な「企業の世界」とバーボンの売上の減少に対処しなければなりませんでした。それでも彼はホーズから学んだクラフツマンシップで良質なバーボンを造りました。ウィルソンが1984年に引退するとエドウィン・フットが新しいディスティラーとして採用されます。
エド・フットは既にウィスキー業界で20年のキャリアを積み、シーグラムを辞めてスティッツェル=ウェラーに入社しました。ホーズやウィルソンに蒸留所やS-W流のやり方を教わったと言います。しかし、フットの時代もまた変化の時代でした。フットはマッシュビルに含まれるバーリーモルトを減らし、酵素剤を使って糖への変換をすることを任されます。バレル・エントリー・プルーフもこっそりと更に少しだけ高くなりました。依然として優れたウィスキーであったものの、それはホーズやウィルソンが造った製品とは異なるウィスキーになっていたのです。そして1992年に蒸留所は閉鎖され、蒸留は完全に停止。フットはスティッツェル=ウェラー最後のマスター・ディスティラーでした。スティッツェル=ウェラー蒸留所については、以前のオールド・フィッツジェラルド・プライムの投稿でも纏めてありますので参考にして下さい。
では、そろそろW.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴに焦点を当てましょう。

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スペシャル・リザーヴは早くも1940年代初頭には発売されていました。新しいスティッツェル=ウェラー蒸留所が稼働し始めて比較的初期の蒸留物が熟成しきった時にボトリングされているのでしょう。そうした初期のスペシャル・リザーヴはボトルド・イン・ボンド表記のボトリングで、熟成年数は7年、6.5年、8年等がありました。冒頭に述べたように、現代のスペシャル・リザーヴはウェラー・ブランドの中でエントリー・レヴェルの製品であり「スペシャル」なのは名前だけとなっていますが、40〜50年代の物は旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドに負けず劣らず「特別」だったと思われます。おそらくパピーの死後まで全てのスペシャル・リザーヴはボンデッド規格だったのでは? 60年代中頃になると現在と同じ90プルーフのヴァージョンが登場し、同時にBiBもありましたが、後年ウェラー・アンティークとなる「オリジナル・バレル・プルーフ」の発売もあってなのか、ブランドは徐々に差別化され、スペシャル・リザーヴと言えば7年熟成90プルーフに定着しました。そして、白ラベルに緑ネックが見た目の特徴のそれは長らく継続して行きます。

スティッツェル=ウェラー蒸留所はその歴史の中で幾つかの所有権の変遷がありました。それはブランド権の移行を伴います。1965年のパピーの死後しばらくすると、ファーンズリーとスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、パピーの息子ジュリアン・ジュニアは会社を維持できず、1972年にノートン・サイモンのコングロマリットへの売却を余儀なくされました。ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。1984年、ディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。もう一方の流れとして、「ビッグ・フォー」の一つだったシェンリーを長年率いたルイス・ローゼンスティールは会社を1968年にグレン・オールデン・コーポレーションに売却しました。そのグレン・オールデンは1972年に金融業者メシュラム・リクリスのラピッド・アメリカンに買収されます。リクリスは1986年にギネスがディスティラーズ・カンパニー・リミテッドを買収した際の株価操作の申し立てに巻き込まれ、翌1987年、ギネスにシェンリーを売却しました(シェンリーは以前ギネスを米国に輸入していた)。こうしてユナイテッド・ディスティラーズはアメリカン・ウィスキーの優れた資産を手中に収めます。彼らはアメリカでの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所やその他の蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルのディキシー・ハイウェイ近くウェスト・ブレッキンリッジ・ストリートに当時最先端の製造技術を備えた近代的で大きな新しい蒸留所を建設しました。それはシェンリーが長年メインとしていた旧来のバーンハイム蒸留所とは全く異なるニュー・バーンハイム蒸留所です。以後、結果的に短期間ながら彼らの所有するブランドはそこで製造されます。ちなみにオールド・バーンハイムが稼働停止した80年代後半から新しい蒸留所が92年に出来上がるまでの数年間、ユナイテッド・ディスティラーズはエンシェント・エイジ蒸留所(現バッファロー・トレース蒸留所)に契約蒸留で小麦バーボンを造ってもらっていました(これについては後述します)。
94年頃には、ユナイテッド・ディスティラーズはバーボン・ヘリテージ・コレクションと題し、自社の所有する輝かしい5ブランドの特別なボトルを発売しました。そのうちの一つが「W.L.ウェラー・センテニアル10年」です。
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数年後、蒸留所の親会社は多くのM&Aを繰り返した末、1997年に巨大企業ディアジオを形成しました。同社はアメリカン・ウィスキーは自分たちの本分ではないと認識し、今となっては勿体ない話ですが、その資産のうちI.W.ハーパーとジョージ・ディッケル以外のブランドの売却を決定します。1999年のブランド・セールで旧スティッツェル=ウェラーの遺産(ブランド)は三者に分割されました。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、バーズタウンの蒸留所を火災で失い新しい蒸留施設を求めていたヘヴンヒルに、バーンハイム蒸留所と共に売却されます。レベル・イェール・ブランドはセントルイスのデイヴィッド・シャーマン社(現ラクスコ)へ行きました。そして、ウェラー・ブランドは旧シェンリーのブランドだったオールド・チャーターと共にサゼラックが購入しました。サゼラックは1992年にフランクフォートのジョージ・T・スタッグ蒸留所(=エンシェント・エイジ蒸留所、現バッファロー・トレース蒸留所)を買収していましたが、自社蒸留原酒が熟成するまでの期間、販売するのに十分な在庫のバレルも購入しています。W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴはサゼラックが購入してからも従来と同じラベル・デザインを使いまわし、所在地表記が変更されました。
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2001年になるとウェラー・ブランドに「W.L.ウェラー12年」が新しく導入されます。おそらく、初登場時には下の画像のような安っぽいデザインが採用されたと思います。隣の12年と同デザインの「スペシャル・リザーヴ」が付かない「W.L.ウェラー7年」は短期間だけヨーロッパ市場に流通した製品。
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それと同時期の2000年、2001年、2002年には特別な「W.L.ウェラー19年」が発売されました。これらは90プルーフにてボトリングされ、純粋なスティッツェル=ウェラー・ジュースと見られています。この特別なボトルは、2005年からは「ウィリアム・ラルー・ウェラー」と名前の表記を変え、ジョージ・T・スタッグ、イーグルレア17年、サゼラック18年、トーマス・H・ハンディと共に、ホリデイ・シーズンに年次リリースされるバッファロー・トレース・アンティーク・コレクション(BTAC)の一部になりました。こちらはバレル・プルーフでボトリングされる約12年熟成のバーボンです。BTACは現在、「パピー・ヴァン・ウィンクル」のシリーズと同じく大変な人気があり、現地アメリカでも欲しくても買えないバーボンになってしまい、日本に輸入されることはなくなりました。
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また、上記のBTACほどのプレミアム感はありませんが、ユナイテッド・ディスティラーズが「遺産」と銘打ったW.L.ウェラー・センテニアル(10年熟成100プルーフ)も継続して販売されていました。ラベルの所在地表記はUD時代のルイヴィルからバッファロー・トレース蒸留所のあるフランクフォートに変更されています。フランクフォート記載のラベルでも、キャップのラップにはUD製と同じく「Bourbon Heritage Collection」の文字とマークが付けてあり紛らわしい。フランクフォート・ラベルのセンテニアルには年代によって3種あり、ボトルの形状とキャップ・ラッパーが少しだけ違います。最終的にはラップから「BHC」がなくなり色は黒からゴールドに変更、そしてこの製品は2008年か2009年に生産を終了しました。
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ウェラー・ブランドは、どこかの段階で完全にバッファロー・トレースの蒸留物に切り替わりました。7年熟成の製品なら、単純な計算でいくと2006年くらいでしょうか? 原酒の特定が難しいのは1999〜2005年までのスタンダードな7年製品と12年熟成の物です。問題をややこしくしているのは、先述のエンシェント・エイジ蒸留所がユナイテッド・ディスティラーズのために製造していた小麦バーボンの存在。ユナイテッド・ディスティラーズは80年代後半から90年代初頭にアメリカ南部限定販売だったレベル・イェールを世界展開することに決め、10年間で100万ケースの製品にすることを目標にしていたと言います。それがエンシェント・エイジと契約蒸留を結んだ理由でしょう。しかし、10年経ってもそれは実現しませんでした。更に、ユナイテッド・ディスティラーズ管理下のニュー・バーンハイムでも小麦バーボンは造られていました(ただし、生産調整のためか、1994年半ばまでは実際にはあまり蒸留していなかった)。つまり過剰生産のため2000年頃に小麦バーボンは大量にあったのです。実際のところ、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世(パピーの孫)がバッファロー・トレースとタッグを組みフランクフォートへと事業を移した理由は、大量の小麦バーボンを彼らが保有していたからかも知れません。また、この頃のバーンハイム・ウィーターの余剰在庫はおそらくバルク売りされ、後にウィレット・ファミリー・エステートを有名にしたものの一つとなったと思われます。サゼラックはウェラー・ブランドの購入時に樽のストックも購入していますから、そうなると理屈上ボトルにはスティッツェル=ウェラー、ニュー・バーンハイム、エンシェント・エイジという三つの蒸留所産の小麦バーボンを入れることが出来ました。12年の初期の物などは単純に逆算すると80年代後半蒸留、ならばスティッツェル=ウェラー産もしくはUD用に造られたエンシェント・エイジ産の可能性が高いのでは…。7年熟成のスペシャル・リザーヴやアンティーク107は概ねニュー・バーンハイム産かなとは思うのですが、真実は藪の中です。もしかするとバーンハイムを軸に他の蒸留所産のものをブレンドしているなんてこともあるのかも。それと、90年代後半までのバーボンには記載された年数より遥かに長い熟成期間を経たバレルが混和されボトリングされていたと言われます。過剰供給の時代にはよくある話。90年代初頭に造られた小麦バーボンが大量に出回っていたため、2000年代前半の7年熟成製品には実際にはもっと古い原酒が使われていた可能性があります。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? 感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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さて、正確な年代が特定できないのですが、ウェラー・ブランドは2010年前後あたりにパッケージの再設計が行われました。紙ラベルが廃止され、ボトルが球根のような形状の物に変わります(トップ画像参照)。同じくサゼラックが所有するバートン蒸留所の代表銘柄ヴェリー・オールド・バートンの同時期の物と共通のボトルです。おそらくこの時にNAS(No Age Statement)になったかと思いますが、その当時のバッファロー・トレースのアナウンスによれば中身は7年相当と言ってました。しかし、その後の中身はもしかすると、もう少し若い原酒をブレンドしたり、熟成年数を短くしてる可能性は捨てきれません。

アメリカでのバーボン・ブームもあり、2010年代を通してバッファロー・トレース蒸留所および小麦バーボンの人気はより一層高まりました。それを受けてか、ウェラー・ブランドは2016年12月からパッケージを刷新します。従来のボトルのカーヴィなフォルムを維持しながらも背が高く、より洗練された雰囲気のラベルのデザインです。ブランド名にあったイニシャルの「W.L.」が削除され、スペシャルリザーブ(90プルーフ)を緑、アンティーク(107プルーフ)を赤、12年(90プルーフ)を黒というように、各ヴァリエーションに独自の明確な色を割り当て、全面的に押し出すようになりました。
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そして2010年代後半になってもウェラー人気は衰えることを知らず、矢継ぎ早にブランドを拡張して行きます。2018年には白ラベルの「C.Y.P.B.(Craft Your Perfect Bourbonの略。95プルーフ)」、2019年には青ラベルの「フル・プルーフ(114プルーフ)」、2020年6月からは橙ラベルの「シングル・バレル(97プルーフ)」が追加されました。これらは1年に1バッチの限定リリースとなっています。

兎にも角にもウェラー・ブランドの人気は凄まじいものがありますが、その際たるものと言うか被害者?はウェラー12年です。一昔前は20ドル程度、現在でも希望小売価格は約30ドルなのですが、150〜250ドル(或いはもっと?)で売られることもあるのです。この悲劇の遠因はパピー・ヴァン・ウィンクル・バーボンであると思われます。
もともとウェラー12年はその熟成年数の割に手頃な価格であり、市場に少ない小麦バーボンとしてバーボン・ドリンカーから支持を得ていました。某社がリリースする10年熟成のバーボンが100ドルを超える希望小売価格からすると、如何に安いかが分かるでしょう。30ドルのバーボンなら、普通は5〜6年熟成が殆どです。2000年代半ばまでにウェラー12年の人気は急上昇しましたが、それでもまだ希望小売価格または適正価格で酒屋の棚で見つけることが出来たと言います。しかし、その後の恐るべきパピー旋風がやってくると状況は変わりました。2000年代後半から2010年代初頭にかけて、著名人や有名なシェフがパピー・ヴァン・ウィンクル15年、20年、23年を貴重なコレクター・アイテムに変えてしまったのです。それらは店の棚から姿を消し、流通市場で天文学的な価格に釣り上げられ、欲しくても手に入らない、飲みたくても飲めない聖杯となりました。ブームとは「それ」に関心のなかった大多数の層が「それ」に関心を寄せることで爆発的な需要が喚起され起こる現象です。バーボン・ドリンカーと一部のウィスキー愛好家だけのものだったパピー・バーボンは、一般誌やTVでも取り上げられる関心の対象となりました。パピー・バーボンが手に入らないとなれば、次に他のヴァン・ウィンクル製品が着目されるのは自然の勢いだったでしょう。「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」や「ヴァン・ウィンクル・ロットB」というパピー・バーボンより安価だったものも軒並み高騰しました。そこで更に次に目を付けられるのはヴァン・ウィンクル製品と同じ小麦レシピを使ったバッファロー・トレースの製品という訳です。実際のところウェラー・ブランドとヴァン・ウィンクル・ブランドの違いは熟成年数を別とすれば、倉庫の熟成場所とジュリアン3世が選んだ樽かバッファロー・トレースのテイスターが選んだ樽かという違いしかありません。それ故「パピーのような味わい」の代替製品としてウェラー12年が選ばれた、と。また同じ頃、パピー・バーボンを購入できない人向けに「プアマンズ・パピー」というのがバーボン系ウェブサイトやコミュニティで推奨され話題となりました。これは「高級なパピーを飲めない人(貧乏人)が飲むパピー(の代用品)」という意味です。具体的には、ウェラー・アンティーク107とウェラー12年を5:5もしくは6:4でブレンドしたもので、かなりパピー15年に近い味になるとされます。こうしたパピー・バーボンの影響をモロに受けたウェラー12年は見つけるのが難しくなっています。ただし、それは「パピー」のせいばかりではありません。低価格の優れたバーボンを見つけてバンカリングすることは、昔からバーボン・マニアがして来たことです。詰まるところそれはバーボン・ブームの影響であり、単純な需要と供給の問題…。
まあ、それは措いて、そろそろ今回のレヴュー対象W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴの時間です。ちなみにバッファロー・トレース蒸留所の小麦バーボンのマッシュビルは非公開となっています。

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE NAS 90 Proof
推定2016年ボトリング(おそらくこのボトルデザイン最後のリリース)。トフィー→苺のショートケーキ、古びた木材、赤いフルーツキャンディ、穀物、僅かな蜂蜜、湿った土、少し漢方薬、一瞬メロン、カレーのスパイス。とてもスイートなアロマ。まろみと水っぽさを両立した口当たり。パレートは熟れたチェリーもしくは煮詰めたリンゴ。余韻はさっぱり切れ上がるが、アーシーなフィーリングも現れ、オールスパイスのような爽やかな苦味も。
Rating:86.5→85/100

Thought:全体的に甘さの際立ったバーボン。スティッツェル=ウェラーの良さを上手くコピー出来ていると思います。同じウィーターで度数も同じのメーカーズマークと較べると、こちらの方が甘く酸味も少ない上に複雑なフレイヴァーに感じました。比較的買い易い現行(これは一つ前のラベルですが…)のロウワー・プルーフのウィーテッド・バーボンとしては最もレヴェルが高いと思います。ただし、私が飲んだボトルは開封から半年を過ぎた頃から、やや甘い香りがなくなったように思いました。レーティングの矢印はそれを表しています。

Value:とてもよく出来たバーボンです。けれど世界的にも人気があるせいか、ウェラー・ブランドというかバッファロートレース蒸留所のバーボン全般が昔より日本での流通量が少なくなっています。価格も一昔前は2000円代で購入できてたと思いますが、現在では3000円代。それでも買う価値はあると個人的には思います。3000円代半ばを過ぎるようだとオススメはしません。あくまで安くて旨いのがウリだから。


ありがたい事にスティッツェル=ウェラー蒸留時代のスペシャル・リザーヴもサイド・バイ・サイドで飲めたので、最後におまけで。これは大宮のバーFIVEさんの会員制ウイスキークラブで提供されたもの。ワンショットでの試飲です。

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(画像提供Bar FIVE様)

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE 7 Years Old 90 Proof
推定80年代後半ボトリング。バタースコッチ→黒糖、ナッティキャラメル、ディープ・チャード・オーク、柑橘類のトーン、煮詰めたリンゴ、ベーキングスパイス。味わいはレーズンバターサンド。余韻は穀物と同時にタンニンやスパイスが現れ、後々まで風味が長続きする。そもそも熟成感がこちらの方が断然あり、香りも余韻も複雑で強い。
Rating:87.5/100


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「バレル・バーボン」はバレル・クラフト・スピリッツ(BCS)が連続番号のバッチで定期的にリリースするバーボン・ラインの製品です。ここで言うバレルは「BARRELL」と表記し、樽の「Barrel」より一個「L」が多いのに注意して下さい。2013年にケンタッキー州ルイヴィルで設立されたBCSは、独自のエイジド・ウィスキーやラムのインディペンデント・ブレンダー兼ボトラーであり、その卓越したブレンド技術で知られています。彼らの目標は様々な蒸留方法や熟成環境にあった樽を探求してセレクト及びブレンドし、カスク・ストレングスでのボトリングで製品化すること。全てのバッチはそれぞれフレイヴァー・プロファイルが異なるよう意図され、どれもが限定リリースとして生産されます。BCSは高品質の樽を豊富にストックしているため、素材のニュアンスを最大限に引き出した特別なブレンドを作ることが出来、自由なアプローチでのブレンディングと各ウィスキーをカスク・ストレングスで提供する強い拘りこそが製品全体の基盤となっているのです。彼らの製品は現在全米46州で販売され、ウィスキー誌での評判もよく、あのフレッド・ミニックによって2018年のベスト・アメリカンウィスキーにも選ばれた他、数々のコンペティションでの受賞歴もあります。

バレル・クラフト・スピリッツの創業者ジョー・ベアトリスは、そのキャリアを常に新しいアイディアに基づいて築いて来ました。元マーケティングとテクノロジーの起業家でニューヨーカーであったジョーは、1990年代に最初の会社ブルー・ディンゴ・ディジタルを設立し、企業がインターネットを使った開設やブランド化や自らのプロダクトを成長させる支援をしていました。BCSを立ち上げるまで創業者の経歴に「ウィスキー」の文字はなかったのです。それでも「私はいつもウィスキーが大好きだったし、ホーム・ブリュワーだったんだ」と彼は言います。ジョーはマーケティングとテクノロジーの業界で20年を過ごした後、或る時、初めて樽から直接ウィスキーを味わうという経験をすると、真のスピリッツの魔法を見ました。それは変革の経験となりました。そうして2013年、彼はバーボンの中心地とも言えるケンタッキー州ルイヴィルでバレル・クラフト・スピリッツを創業します。ジョーは素晴らしい味覚を持つ熟練のウィスキー愛好家でしたが、なにぶんブラウン・スピリッツの経験値はありません。彼は自分がウィスキー・ビジネスについてあまり知らないことを知っていました。しかし、自分の職歴から「知っていたことを応用して、製品のポジショニングやマーケティングの方法、独自のフレームワークを作ることが出来た」とも言います。
ジョーは蒸留所を建てるのではなく別の道を歩みました。同社は自分達のジュースを蒸留する代わりに、定評ある生産者から優れたバーボンやライやラムの樽を調達してブレンドし、それを可能な限り透明性の高い方法で販売したのです。彼らの会社には、怪しげな曽祖父の秘密のレシピや違法な密造酒の歴史もありません。そのアプローチはアメリカでは比較的ユニークでしたが、世界を見るとそうではなく、スコットランドの老舗インディペンデント・ボトラーはジョーにとって大きなインスピレーションでした。

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ジョーはBCSの製造プロセスの全てのステップに深く関わり、チーフ・ウィスキー・サイエンティストの肩書をもつトリップ・スティムソンと共に、米国だけでなく世界中の65の異なるサプライヤーから調達した優れたスピリッツを選び、新しい製品を作り上げています。そのため、あまり馴染みのない場所からも樽は供給され、例としてはバレル・ライ・バッチ003ではアメリカのインディアナ州とテネシー州、カナダ、ポーランドという3ヶ国のライウィスキーのブレンドだったりします。また、ウィスキー・カテゴリーの製品では複数の珍しいフィニッシュ(後熟)を施したりします。同社の最も人気のある「ダヴテイル」などは、厳密にはウィスキーと認められません。ラベル表記を取り仕切るTTBは、ダヴテイルを特定のクラス・タイプのウィスキーに完全には適合しないと判断したのです。そこでラベルには「バレル・ダヴテイル」と銘打たれ、その下に小さく「ウィスキー・フィニッシュト・イン・ラム、ポート、アンド・ダン・ヴィンヤーズ・カベルネ・バレルズ」と長ったらしく書かれています。他にも15年以上熟成されたストレート・バーボン・ウィスキーの特別ブレンドであるウルトラ・プレミアムな「バレル・クラフト・スピリッツ・ライン」やインフィニティ・ボトルから着想を得た「インフィニット・バレル・プロジェクト」や「プライヴェート・リリース」もあり、BCSはとにかく注目を集め続けています。ちなみに全てのブレンドはルイヴィルの古いデータ・ファシリティで行われ、かつてのサーヴァー・ルームがボトリングに使用されているため、温度や湿度に厳格な管理が可能なのだとか。

先述のマスターブレンダーでもあるトリップ・スティムソンはテネシー州チャタヌーガ出身で、2004年にテネシー工科大学で生化学と分子生物学の学位を取得した後、ブラウン=フォーマン社の研究開発科学者として採用されました。彼はそこで経験を積み9年間働いた後、自分のコンサルティング会社を設立し、新しい蒸留所の設計や建設、効率的な運営に必要な技術的専門知識を提供していました。ケンタッキー・アーティザン蒸留所の設計と建設を手伝い、後にマスターディスティラーとして雇用され、そこでジョーと出会います。そして2017年1月にBCSに入社し、製品開発とオペレーション監督の責務を担っています。その他のスタッフでは、2016年5月にナショナル・ディレクターとして入社したウィル・シュラギスや、2019年にBCSに参加したシングルバレル・プログラム・マネジャー&アシスタント・ブレンダーのニック・クリスチャンセンなども活躍。

さて、今回私が飲んだのはバレル・バーボンのバッチ008。上に述べたようにBCSのリリースは非常に透明なので、サプライヤーへの守秘義務を除いて中身のジュースに関してはかなり明らかです。バッチ008のスペックは同社のウェブサイトに拠れば、ストレート・バーボン規格、マッシュビルは70%コーン / 25%ライ / 5%モルテッドバーリー、テネシー州で蒸留されアメリカン・ホワイト・オークの樽で9.5年間熟成、エイジングはテネシー州とケンタッキー州、ケンタッキー州にてクラフトされ132.84プルーフのカスク・ストレングスでボトリング、ノンチルフィルタードです。リリースは2016年7月、MSRPは90ドルでした。マッシュビルからするとジャックダニエル蒸留所でもジョージディッケル蒸留所でもないと思われますが、一応蒸留所は非公開となっています。海外のレヴュワーでプリチャーズ蒸留所ではないか?と言っている方がいましたが証拠はありません。
このバッチは今のところバレル・バーボンがこれまでにリリースした中で最も高いプルーフです。最終的なプルーフはヴァットに投棄された全部の樽の平均ですから、他のバッチのプルーフと比較して平均値が高いこのバッチには、ハズマット(140プルーフ)の樽があったのではないかと推測するマニアもいます。ところでバッチ008にはバッチ08Bというセカンド・リリースがあり、そちらは半年長く熟成された10年熟成でボトリング・プルーフが128.3に下がっています。同一番号が割り振られているということは、同一の樽に由来したバッチなのでしょうけれど、僅か半年の熟成でこれほどプルーフダウンとは…。まあ、それは措いて最後に飲んだ感想を少々。

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BARRELL BOURBON BATCH 008 132.8 Proof
BOTTLE# 2076
AGE : 9yrs
ハイプルーフゆえの強いアルコールも感じますが、フルーティーな香りをコアにヴァニラや焦がしたオークが広がるアロマ。味わいはかなりフルーティな印象で、ドライフルーツよりはフルーツキャンディもしくはトロピカルフルーツ。ここら辺はマッシュビルのライ麦が高い影響でしょうか。個人的に好きな傾向のバーボンです。本当はエライジャ・クレイグ・バレルプルーフやスタッグJr.のようなヘヴィー級ハイ・プルーファーと飲み比べたかったのですが、お酒に弱い私には断念せざるを得ませんでした。
Rating:87.5/100

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ワイルドターキー・マスターズキープ・デケイズはシリーズの第二弾として、ワイルドターキー蒸留所でのエディ・ラッセル自身の勤続35周年を祝ってリリースされました。3人兄弟の末っ子として生まれたエディーことエドワード・フリーマン・ラッセルは、1981年6月5日に同蒸留所でファミリー・ビジネスに参加。当初の肩書は本人曰く「ジェネラル・ヘルパー」でした。草刈りのような雑務や樽の移動から始まって次第に任務を広げ、勤続20年となる頃には樽の熟成とリックハウスの管理責任者となり、2015年には遂に偉大なる父ジミー・ラッセルと並ぶマスターディスティラーに就任したのです。
デケイズ発売前後のワイルドターキーの限定リリースを見ると、父ジミーの勤続60周年を記念した「ダイヤモンド・アニヴァーサリー」を2014年、エディーがマスターディスティラーとして初めの一歩を踏み出した「マスターズキープ17年」を2015年、オーストラリア市場のみでの販売だった「マスターズキープ1894」を2017年、ジミーの過去の作品を再現するかのような「リヴァイヴァル」を2018年とほぼ年次リリースしています。ここから判る通り、デケイズは当初は2016年半ばにリリースされる予定でした。それでこそ35周年に合致しますからね。しかし、理由は不明ながら殆どの市場で2017年2月まで突然リリースが延期されたそう。おそらくボトリング自体は2016年6月頃までになされたと見られます。日本でも延期されたかどうかはよく判りませんでしたが、当時のサントリーの公式プレスニュースでは2016年11月15日発売で、日本国内3480本限定とあります。

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エディの名を冠しているとは言え2015年のマスターズキープ17年は、熟成環境やプルーフに於いてかなり特殊かつ偶発的なバーボンでした(MK17については過去投稿のこちらを参照下さい)。対してデケイズは10年から20年熟成のブレンドなので、エディが意図的にクリエイトしたフレイヴァー・プロファイルのバーボンと言えるでしょう。ブレンドに使用されたバレルは、フォアローゼズ蒸留所の道路を挟んですぐ向かいにある、ワイルドターキーが1976年から所有するマクブレヤー・リックハウスの中央階と上層階から選ばれました。同社の「最も希少かつ最も貴重な樽」の幾つかです。そしてそれらを「17年」よりだいぶ高い104プルーフ、ノンチルフィルタードでボトリング。若いバーボンの活気をバックボーンに、古いバーボンの深みも兼ね備えたバランスが目指されたのかも知れませんね。

ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。従来まで107だったのを2004年に110へと上げ、2006年には再度115へと上げています。つまりバレル・エントリーの違いだけに着目すると、
①2004年以前の107プルーフ
②2004年から2006年の110プルーフ
③2006年から現在に至る115プルーフ
と、異なるエントリー・プルーフのバレルがワイルドターキーにはある訳です。デケイズを構成する10〜20年熟成のバレルには、理論上これら三種の全てが含まれていることが可能です。それ故、2012〜2013年のレアブリードを除くと、デケイズは三つのバレル・エントリー・プルーフを使用した唯一のワイルドターキー・バーボンかも知れないと示唆されています。
バレル・エントリー・プルーフに限らず、蒸留所にとって何かしらの変化は珍しいことではありません。それは法律の変更、所有権の変遷、ディスティラーの交代、ブランドの繁栄と凋落、テクノロジーの発展などにより起こり得ます。そして消費者の嗜好もビジネスのあり方も変わり、あらゆるものが時代により変化するのが常。この特別なリリースのワイルドターキーの名称「デケイズ」は年月に関わるワードであり、長期に渡る時代の移り変わりという含みと中身のバーボンの内容を的確に表していると言ってよいでしょう。「Decade」は十年間を意味する言葉です。そこで10〜20年熟成だから複数形の「Decades」と。そして、それだけの歳月にはバレル・エントリー・プルーフに代表される変化があった、と。
ちなみに日本ではこの「Decades」を「ディケイド」と表記するのが一般的。でも実際の発音は「デケイズ」が近いです。正規輸入元だったサントリー自ら「ディケイド」と表記しているので、販売店がそれに倣うのは仕方ないのですが、上の理由によってワイルドターキーが付けた名前なのだから、敬意を払って「s」は省略せずにせめて「ディケイズ」としたほうが良いのでは…。まあ、ここで文句を言ってもしょうがないですけれども。

ところで、デケイズにはバッチ2があるそうです(発売も同じ2017年)。全てのバッチには独自性があり、完全に同じにすることは出来ません。この世に完全同一なバレルが存在しないからです。しかし、蒸留所のマスターブレンダーは、意図的な変更をしない限りバッチに一貫性を齎すのが基本的な仕事です。バッチ1に使用された樽は全てマクブレヤーからでしたが、バッチ2は殆どがマクブレヤーからとされています。つまり、言葉を換えれば少数のバレルは他のウェアハウスから引き出されたということ。エディ・ラッセルは「ストーリー」を一貫させるよりもフレイヴァー・プロファイルを一貫させることを目指した筈です。マーケティング担当者がバーボンの箱やラベルに印刷したストーリーは、常に100%正確であるとは限りません。実際のところ、蒸留技師はマーケティングには余り注意を払わないと言うか関心がないと思います。ディスティラーの職務は物語を書くことではなくウィスキーを造ることですから。バッチ1と2を飲み較べた海外のターキーマニアによると、どちらも同じくらい素晴らしいバーボンであり、バッチ2も紛れもなくデケイズであり、あらゆる点でその名前に忠実とのこと。
では、そろそろ時代を超えたワイルドターキーを注ぐとしましょう。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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WILD TURKEY MASTER’S KEEP DECADES 104 Proof
BATCH №:0001
BOTTLE:68703
色はラセット・ブラウン。接着剤、強いアルコール、香ばしい焦げ樽、銅、ビターなカラメルソース、オレンジ、焼きトウモロコシ、ブラウンシュガー、ナツメグ、パイナップル、レザー、輪ゴム。ディープ・チャード・オークが支配的なアロマ。少しとろみのある口当たり。口の中ではグレインとオレンジピールが感じ易く、刺激がビリビリと。味わいはけっこうドライ。余韻は長く、土と煙が現れ、消えゆく最後にふわっと苦味が残る。
Rating:86.5(87.5)/100

Thought:全体的に焦げの苦味が特徴的な印象。10年から20年熟成のブレンドとのことですが、若そうなアルコール感がガツンとありながら、枯れた風味とビタネスが混在するバランス。前回まで開けていたMK17年と較べると、余韻に渋みがないのは好ましく感じました。ですが、MK17年よりもツンとくる刺激臭はかなりありました。そのせいかその他の香りが感じにくく、一、二滴の加水をした方が甘い香りが立ちましたし、味わいにもフルーツを感じ易かったです。そのため上のレーティングは括弧内の点数が加水した場合のものとなっています。もしかして、20数年後に開封して飲んだら微妙な酸化の進行でとんでもなく美味しかったのでしょうかね? そんなポテンシャルを僅かに感じさせる一品でした。但し、デケイズもまたMK17年と同じくオークのウッディネスが強過ぎて、バーボンの魅力である甘いノートを抑えてしまっているような気はします。

Value:アメリカでの希望小売価格は150ドル。日本でも同じくらいで15000〜17000円が相場。オークションだともう少し安く購入することも出来るかも知れません。本国での味わいの評判はなかなか良いのですが、やはりと言うか少し値段が高いという評価を受けています。自分的には正直言ってデケイズを買うならレアブリードでいいかなと思いました。ただ、確かに長期熟成酒のテイストやクラシック・ワイルドターキーっぽさも少しあるので、そこを求めるなら購入を検討してもよいでしょう。或いは、箱やボトルやキャップは豪華でめちゃくちゃカッコいいので、金銭的に余裕があるのなら贅沢な気分を味わうために購入するのはアリだと思います。

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