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今回取り上げるパイクスヴィルは、元々はメリーランド州で蒸溜されていたブランドで、その歴史は1890年代にまで遡れます。メリーランド州は嘗てアメリカでケンタッキー州とペンシルヴェニア州に次ぐウィスキー蒸溜の大国でした。禁酒法以前のピーク時には44の蒸溜所があったと伝えられ、その半分がボルティモアに集中していたそうです。パイクスヴィルは、古き良き時代のライ・ウィスキー産業が徐々に消滅して行くなかで、1972年まで生産され続け、最後まで残っていたメリーランド・ライでした。パイクスヴィルとその弟分のリッテンハウス・ライは、現在ケンタッキー州のヘヴンヒル蒸溜所によって造られています。リッテンハウスはもともとペンシルヴェニア(モノンガヒーラ)・スタイル、パイクスヴィルはメリーランド・スタイルでしたが、両者はヘヴンヒルのスタンダード・ライ・マッシュビルを使用しているため、これらの過去のスタイルは今では失われています。歴史的なスタイルの喪失を嘆くことは出来ますが、現在のケンタッキー・スタイルを不当に判断してはならないでしょう。注目すべきは、パイクスヴィルはヘヴンヒルが生産するライ・ウィスキーの中で、パーカーズ・ヘリテッジ・コレクションのライを除けば最もプレミアムなものであることです。また、ヘヴンヒルはそのフラッグシップであるエヴァンウィリアムス・バーボンを1783年に遡ると騙りますが、おそらく実際にはパイクスヴィルが同社のポートフォリオ全体で最も古いブランドです。そこで今回はメリーランド・ライの歴史を振り返りつつ、パイクスヴィル・ブランドの複雑で興味深い来歴を見て行きたいと思います。

ペンシルヴェニアとメリーランドはライ・ウィスキーに最も縁のある場所です。これらの地域は、ケンタッキーと同じように石灰岩が下層にある地質をもち、ウィスキーに適した良質な水の供給がありました。その一方の雄メリーランド・ライの黄金時代には、ハンター、マウント・ヴァーノン、カルヴァート、メルヴェール、モンティチェロ、オリエント、シャーウッド、ウォルドーフ、アンティータム、ブラドック、ホーシー、ロックスバリーなど、嘗て彼の地で蒸溜されたほんの数例を挙げるとアメリカ中の愛好家が即座にメリーランドと結びつけました。メリーランド州の蒸溜の歴史は、おそらく1600年代にまで遡ると思われますが、先ずは蒸溜酒ではない別のお酒の話から始めます。
Marycolony
(wikipediaより)
アメリカ中部大西洋岸の入植者たちの飲酒生活に於いてリンゴは重要な役割を果たしました。それはメリーランド州でもそうでした。北米でのリンゴの収穫は1607年にヴァージニア州ジェームズタウンに入植した人々から始まり、彼らはヨーロッパから種子や挿し木を持ち込みましたが、当初植えられていた品種は新大陸での栽培に適したものばかりではなく、その種から全く新しい品種のアメリカ産リンゴが生まれ始めます。このリンゴは非常に苦く、人間の食生活には全く適していませんでした。殆どの入植者は自分でリンゴを栽培していましたが、衛生面を考慮して食事の際には水の代わりに発酵させたサイダーを出すことが多く、子供には薄めたサイダーを出していたそうです。
1631年、メリーランド州にヨーロッパ人初の入植地をイギリスの毛皮商人ウィリアム・クレイボーンが設立しました。1632年に英国王チャールズ1世は、ジョージ・カルヴァート(の死のため息子のセシル)にメリーランド植民地の勅許状を与えます。その時点では、すでに北の植民地からリンゴが伝わり始め果樹園が出来ていました。この「スピッター」と呼ばれるリンゴを発酵させることで、生のリンゴよりも長持ちさせることが出来ました。余ったサイダーを蒸溜すれば更に長持ちし、スペースも無駄な農産物も節約できる訳です。植民地の進取的な農家は厳しい冬を利用して、ハードサイダーを寒い外に置いていました。サイダーが凍り、氷を掬い取ると、濃縮されたアルコール溶液が残ります。凍らせる回数が多ければ多いほどアルコール濃度が高くなり、この作業は「ジャッキング」と呼ばれていました。これがアップルジャックの「ジャック(jack)」です。蒸溜技術が植民地の農家にも浸透してくると、より安全で市場性の高い製品を造ることが出来るようになりました。アップルジャックを商業的に生産したというメリーランド州の蒸溜所の歴史的な記録はないようですが、中部大西洋岸諸州やニュー・イングランドの類似した記録から、農家がしばしば個人消費のためにアップルジャックを製造していたのは間違いないようです。
そして植民地時代のメリーランドでは、ウィスキーが普及する前に愛飲されていたのはラムでした。それらの多くは悪名高い糖蜜─ラム─奴隷の三角貿易を形成していたマサチューセッツとロード・アイランドから齎されました。しかし、1770年代後半には増税と海軍の封鎖によりメリーランドの富裕層以外はラムにアクセス出来なくなります。それでも、幸いライ麦は豊富にあり、しかもメリーランドの農民となったスコットランドやアイルランドからの移民は、それを蒸溜するための知識も持ち合わせていました。1800年代になると、個人経営ではない大規模な商業蒸溜所がメリーランド州全体に出現し始めたと云います。この頃には、消費者は高価で手間のかかるアップルジャックからより手頃な価格のグレイン・ウィスキーへと移って行きました。

Rye_Mature_Grain_Summer

アメリカで植民地時代が始まって以来、メリーランダーズは州の代表的なライ・ウィスキーのスタイルとなるものを先駆けて開発していました。モノンガヒーラとしても知られるペンシルヴェニア・ライほどスパイシーでペッパー・フォワードではないメリーランド・ライは、ライ麦以外を豊富に使いソフターでニュアンスのあるパレートを誇っていたとされます。ただ、残念ながら多くのスピリッツの初期の歴史と同様に、メリーランド・スタイルとは何かを正確に定義することは難しいようです。古典的な二大ライ・ウィスキーについてマッシュビルに焦点を絞ると、ペンシルヴェニア・ライは一般的に100%に近いライ麦のマッシュビルから造られ、メリーランド・ライはライ麦以外の何か(コーン、大麦、小麦またはそれらの組み合わせ)を多分に含むマッシュビルで造られた可能性が高い、というのが大まかな説です。メリーランド・ライの「原型」を示唆する包括的な理論はそれ以上ありません。ボルティモア周辺では大麦で仕上げ、海岸の方ではコーンで仕上げ、メリーランド西部では小麦で仕上げている証拠があるらしく、ひとつの町でも複数の蒸溜所が設立の経緯やその時入手しやすい穀物に基づいて、全く異なるマッシュビルを使用している可能性が非常に高いようです。
一方で、マッシュビルを見るだけではウィスキーの全体像を把握することは出来ず、穀物の混合比率はウィスキーを特別なスピリッツにする複雑さや深さの構成要素の一つに過ぎないとも言えます。専門家が穀物を選ぶことの重要性を指摘するように小麦、ライ麦、コーンには何百もの品種があり、異なる土壌や水や日光の条件下で同じ品種を栽培していても組成には差異が生じるでしょう。また、エイジング・プロセスは汎ゆる自然条件と地域的な環境条件の変化に影響されます。気温や湿度、リックハウスの温度や空気循環に至る全てが木材からのフレイヴァー抽出に多大な役割を果たしており、メリーランドのような条件を備えた場所は世界中でメリーランドしかありません。と、すればメリーランド・ライの味わい及び伝統や歴史の大部分は、彼の地で栽培されていた品種やその環境条件に直接由来しているという信念を生み出すこともありそうです。また、初期メリーランド醸造所からエール及びポーター用のトップ・ファーメンティング・イーストがその地域のディスティラーに貸与され、特徴的なエステル・ノートに貢献した可能性を示唆する歴史家もいます。孰れにせよ、スタイルは十分に独特であり、メリーランドはアメリカン・ウィスキーのトップ生産州としての地位を確立しました。

上のようなレシピの形成は農民蒸溜家の間から自然発生的に出て来たのではないでしょうか。おそらく最初のウィスキーはチェサピーク湾とその支流の沿岸で製造されたと見られます。イギリス植民地のヴァージニアが設立された後、すぐにチェサピーク湾岸やメリーランドの上流にも他の入植地が形成され、これらの入植地で穀物の一部を蒸溜してウィスキーを造るようになった、と。これはこの地域にラムの人気が一時的に高まる前の話です。
当初は、ウィスキーを造るために用意された僅かな余剰穀物を使って、慎重にウィスキーを製造していました。しかし、やがて農地の開墾が進むと、収穫の際にはウィスキーにまわせるだけの穀物が出来ました。最初に広く栽培された野性の穀物はライ麦です。ライ麦は土壌条件が悪くても育ち、雨が少なすぎても多すぎても耐えられ、霜にも耐えられ、秋に植えることも出来る上、冬の雪解け後に再び成長を始めました。それは完璧とは言えない農地にぴったりの穀物でした。当時は小麦もあったもののその栽培は難しく、コーンはまだ彼らにとって新しい存在で、それらに較べるとライ麦の取り扱いは比較的簡単だったのです。ヴァージニアとメリーランドではタバコ栽培の影響で農地が荒廃し、必要な栄養分や窒素が失われていました。被覆穀物として選ばれたライ麦は窒素を回復させる効果があり、季節的に交代すると土地にプラスでもありました。おそらくアメリカで最も初期のウィスキーがライ・ウィスキーだったのは、こうしたライ麦の頑強さのお陰だったと言えるでしょう。
農家でコーンの栽培が進むと、ライ麦と一緒に使うことを考えた人もいたと思います。コーンはライ麦のスパイスに甘みを加え、オール・ライのウィスキーを飲み慣れた口には適度なコーンは具合の良いウィスキーになる、と。しかし、コーンを入れすぎると、ライ麦を飲む人にとっては甘すぎて味気ないウイスキーになってしまうので、マッシュの大部分はライ麦のままでした。更にコーンはライ麦ほど簡単には栽培できず、当時の人々はウィスキーより寧ろ食用にしたいと考えていました。そのためコーンは大抵はライ麦よりも少ない成分に留められていたようです。
メリーランド植民地のウィスキーは、3回蒸溜することもよくあったと聞きます。これはウィスキーの故郷の一つアイルランドでは3回蒸溜する習慣があり、カトリック教徒に開かれた植民地であるメリーランド州にはアイルランド系カトリック教徒が多く住んでいたので、彼らが伝統的な技術を身に付けていたからでした。元々は、技術が未熟な段階では不純なウイスキーを造ると味が悪くなったり、下手をすると病気にさえなる可能性があったため、3回の蒸溜はスピリッツの純度を保つために必要だったらしい。更に北のペンシルヴェニアではドイツ人とスコットランド人の移民が多く、二回蒸溜が普及していました。彼らの殆どはウィスキーとシュナップスの蒸溜を2回行うことが多かったそう。こうした傾向は緩やかではあっても、それぞれの地域のディスティラーが概ね従っていたものでした。蒸溜プロセスの完成度が高まり純度が向上した進化の後半では、多くのメリーランド蒸溜所も3回目の蒸溜を廃止しましたが、初期のメリーランド民が親しんだクリーンかつスムーズな味への欲求の名残はあったのかも知れません。
時として、発酵プロセスを助けるためにライ麦の一部や大麦を麦芽にしてマッシュに加えることもありました。大麦を麦芽にすることで酵素が導入され、温水のマッシュに加えることで酵母を活性化させます。アイルランドでは、伝統的に麦芽と非麦芽の穀物を混ぜて使用していました。これは旧世界で麦芽穀物に課せられていた税金を回避する方法として始まったそうです。モルト化された穀物はモルト化されていない穀物とは僅かに異なるフレイヴァーを生み出します。新大陸の疎らな環境で穀物を製麦することは蒸溜者には避けたい作業であったため、マッシュに少量の麦芽を入れるだけで酵素の効果が得られることは利点と理解され、この少量の麦芽がメリーランド・ライにダイナミックな味わいを生み出すことにも繋がりました。小麦やオーツ、更にはバックウィートなどの穀物を加えるのは、余った穀物を使い切るため、或いはその蒸溜者の好みの味にするためであったと推測されます。これら全ての理由から、チェサピーク沿いのメリーランド初期のファーム・ディスティラーの多くは、一般的にルーズなレシピでウィスキーを造るようになったのでしょう。

このような進化が大西洋中部の植民地で起こっていた頃、先述したように別のスピリッツが人気を集めていました。ライ・ウィスキーが広く親しまれる以前にメリーランドの一般的な入植者が選んだハード・スピリッツは、主にマサチューセッツ州とロードアイランド州の蒸溜所で造られたラムでした。ラムはカリブ海の島々から輸入した糖蜜を使って植民地内で蒸溜され、アメリカ革命戦争(1775-1783年。日本では独立戦争)と呼ばれるグレート・ブリテンと13植民地の間の軋轢が起きるまで、その人気はウィスキー以上だったのです。しかし、戦争中にイギリスがチェサピーク湾を封鎖して糖蜜やラムなどの輸入品を遮断すると、13植民地とカリブ海の島々との貿易は停止し、糖蜜をベースとしたスピリッツの製造に必要な材料も失われてしまいました。これがきっかけとなり、「喉の渇いた」アメリカ革命軍は戦いの前に渇いている訳にはいかず、農民蒸溜家たちは100年以上前から少しずつ行っていたウィスキー造りを盛んに行うようになります。穀物の取引よりも遥かに儲かるウィスキーの樽は、穀物や小麦粉よりも輸送が容易で1パウンドあたりのコスト効率が良くなりました。その需要は非常に大きく、コンチネンタル・アーミー(アメリカ独立戦争時、後にアメリカ合衆国となる13植民地により編制された軍隊)の記録にも、薬用や士気高揚のためにライ・ウィスキーを大量に購入したことが記されているそうです。コンチネンタル・アーミーの総司令官を務め、農業を科学的に捉えることを目指していたジョージ・ワシントン将軍も、自身のマウント・ヴァーノンの敷地内にスティルを設置していたことは有名です。

革命後、誕生したばかりの連邦政府は戦時中に積み上げた莫大な負債を回収するという困難な課題に直面しました。その第一歩として、政府は当時の財務長官アレグザンダー・ハミルトンが考案した「蒸溜酒」に課税するという計画を発表します。メリーランド州の4人の議員のうち3人はこの法案に反対しました。1791年のこの税は実際に生産されたウィスキーだけでなく休止中のスティルの容量にも課税されていたため、強い反発がありました。また、この税は現金での支払いを要求していたため、現金に乏しく日常生活では伝統的な物々交換システムに頼っていたメリーランド州西部の入植者には更に厳しいものでした。農民達の主要な市場商品が連邦政府の税制で脅かされるようになり、1794年夏までに(当時の)西部辺境の緊張感は熱狂的なレヴェルにまで達し、最終的には武装蜂起となった抗議行動はウィスキー・リベリオンと知られています。1794年後半になると殆どの暴動は先の革命戦争よりも総兵力が多かった連邦民兵によって鎮圧されました。違反や暴力的なデモは主にペンシルヴェニア西部に限定されていましたが、メリーランド州でもカンバーランド、ヘイガーズタウン、ミドルタウンを中心に小規模な騒動が発生し、フレデリックでは「ウィスキー・ボーイズ」がやって来て州の武器倉庫を空にしてしまうのではないかという恐れもありました。ウィスキー・リベリオンの抑圧は、税金に抵抗した多くの小規模蒸溜業者がオハイオ・リヴァーを下って当時まだ連邦政府の管轄外だったケンタッキーに避難するという予期せぬ効果を生み、そこで彼らがバーボンを発明したという神話がありますが、実は全ての成功したケンタッキー・ディスティラーズは主にメリーランドから山を越えて来たと言われています。そこからバーボンがメリーランド・ライのコーン多めのマッシュビルに何らかの影響を受けていた可能性を示唆する歴史家もいます。忌み嫌われたウィスキー税はペンシルヴェニア州西部以外ではほぼ法的強制力がなく、同地でも税金の徴収にあまり成功しないまま1803年に撤廃されました。

ジョージ・ワシントンが蒸溜に乗り出す一年前の1796年、ボルティモアの最初の国勢調査では、早くも市内で操業している4つの本格的な商業用蒸溜所がリストされています。ピーター・ガーツ、コンラッド・ホバーグ、フランシス・ジョンノット、ジョン・ツールが経営者とされ、彼らが何を蒸溜していたのか詳細は不明ですが、その中にはターペンタイン(テレビン油)も含まれていたそうです。初期商業蒸溜所の中で、1810年代から少なくとも1840年代までと最も長く続いたのはジョセフ・ホワイト・ディスティラリーでした。所謂「エコ」な操業を行ってたそうで、蒸溜所のスペント・マッシュ(蒸溜過程で使い終えた穀物の残滓)は、地元の農家に無料で豚の飼料として提供されたと云います。1802年にトーマス・ジェファソンが大統領に就任するとウィスキー税は最小限に引き下げられ、1810年から1840年にかけてアメリカの蒸溜所の数は倍増しました。その結果、当時アメリカの酒類消費量は歴史上最も多くなったとされます。その後、個々の蒸溜所の数は減少したものの一ヶ所あたりの生産量は増加し続けました。
この時期はメリーランド州西部でもライ・ウィスキーの生産が盛んになります。市場へのルートは、馬車でウィリアムスポートまで行き、そこからポトマック川、後にはチェサピーク&オハイオ運河を船で下るというものでした。初代アメリカ合衆国大統領の名を冠した郡としては国内初だったというワシントン郡では、南北戦争の直前に26ものグレイン蒸溜所が営業していたと推定され、その多くはヘイガーズタウンの北に位置するライターズバーグに集中していたそうです。1861年以前の最大の蒸溜所は、アンティータム・クリークに位置し、20馬力のエンジンで1日に50〜60ブッシェルの穀物を処理することが出来、ロバート・ファウラーとフレデリック・K・ズィーグラーによって運営されていました。おそらく街の名士?だったファウラーが1850年に製粉業者に転身し、1853年にズィーグラーと共にファウラー&ズィーグラー社を設立。ズィーグラーはワシントン郡に残り製粉所と蒸溜所を経営し、ファウラーはボルティモアに移り、有名な「ズィーグラー」ウィスキーを始めとする製品の販売を手配したそう。ワシントン郡の他の蒸溜センターとしてはインディアン・スプリングス、クリア・スプリング、ケンプス・ミル、ペン=マー、スミツバーグなどにありました。
余談ですが、サルーン文化が普及する以前はメリーランド州の酒類やウィスキーは地元の食料品店が主に販売していたそうで、大学や病院の名前になっているあの有名なジョンズ・ホプキンスもクェーカー教徒でありながらホプキンス・ブラザーズという食料品店で1840年代かそれ以前に「ホプキンス・ベスト」なるブランドでウィスキーを販売していたとか(この事実により彼はフレンズ集会から追い出されましたが、後には復帰したらしい)。それは措いて、メリーランド州に蒸溜所が急増したのは南北戦争の少し前のようです。

1860年代初頭、メリーランド・ライは流行の兆しを見せ、需要が高まっていましたが、戦時中は流石にメリーランドのライ産業にとって悲惨な状況となりました。戦争前と再建期には酒税率も急騰し、南北戦争以前のメリーランド州で設立された小規模な蒸溜所では、戦時中の高額なウィスキー税のために生産の採算が合わなくなったのです。何より戦時には膨大な数の北軍と南軍の兵士がメリーランド州を縦横無尽に行き来しました。リンカーン大統領はワシントンDCとボルティモアを南軍から守ることを決意して、北軍のポトマック軍がヴァージニア州リッチモンドを攻略しようと南下した時、北軍の新鮮な部隊がワシントンDCをしっかりと守るようにしました。また、軍神ロバート・E・リー将軍率いる北ヴァージニア軍は、ワシントンDCへの補給路を断つという軍事的な目的と自軍への補給のために農場や町を襲撃するという現実的な目的を持ってメリーランド西部に二度に渡って侵攻、その際、南軍の略奪品の中に当地の特産ライ・ウィスキーが含まれていたと見られます。
メリーランド・ライの真の名声は南北戦争後から始まりました。戦後、産業が再興されるとその評判は急上昇します。1861年から1865年までの南北戦争でメリーランド州に集結した北軍と南軍の兵士達は、メリーランド・ライを気に入り、滞在中に楽しみ、戦争が終わって自分の故郷に戻るとそのウィスキーの味わいを折に触れて想い出したかも知れません。そうした南北両陣営の退役軍人がメリーランドのウィスキーを好むようになり、19世紀を通して発達した鉄道は、戦時中も兵士の移動や食料物資の運搬に重要な役割をもったため整備が進み、お陰で企業はその需要を満たすことが出来ました。ウィスキーは一度蒸溜してしまえば国道、チェサピーク&オハイオ運河、ボルティモア&オハイオ鉄道などを経由して急速に拡大する国中へと容易に輸送することが可能です。当初、ライの販売は急増しました。しかし、州外の安価な銘柄がメリーランド州に入荷するのも容易になったため、結果的には業界全体に大きな損害を及ぼすことになります。このような厳しいビジネス環境にも拘らず、新しいブランドも誕生したようですが、州内でのライ麦栽培に問題が生じ(野生のタマネギが蔓延したらしい)、メリーランド州の企業はニューヨークやウィスコンシン等からライ麦を輸入するようになりました。と同時に、ペンシルヴェニア州モノンガヒーラ地方の新ブランドも続々と流入し、メリーランドでは州産よりも他州からの輸入品の方が優れているというマインドセットに陥り、州外のブランドが高級品として評判を得たと言います。この誤解はウィリアム・ウォルターズと彼のパートナーであるチャールズ・ハーヴィーらにより大いに助長されました。1847年に彼らが設立したボルティモアの会社はペンシルヴェニアにある四つの蒸溜所の代理店を務めていたこともあり、詳しい知識をもたない一般大衆の人々が地理的なことを知らないのを期待して、メリーランド産のライ・ウィスキーのラベルにモノンガヒーラと誤解を招くような表記を追加したそうな…(ラベルには「Maryland Monongahela Rye Whiskey」と書かれていた)。古くからペンシルヴェニアの広大な高地にはメリーランド以上に蒸溜所がありました。そのライ・ウィスキーは名高く、早くも1810年には商標登録されたと云うオーヴァーホルト・ブランドは夙に有名です。ペンシルヴェニアの川の名前でもあるモノンガヒーラは、今日スコットランドの地名が持つような神秘的な魅力を持っていたのでしょう。
1909年以前(*)、メリーランド・ライという用語は実際に何処で蒸溜されたかを問わず、内容や製造方法が概ね類似しているスピリッツの種類を表す一般的な言葉として使われていました。ヴィンテージ・ボトルに詳しい寄稿家のジャック・サリヴァンは、「メリーランド」は酒類の品質を象徴するものとして非常に重要であり、全米のディスティラーやディストリビューターはこの名前を採用せざるを得なかったと云います。彼は例として、セントルイスのディスティラーのグスタヴ・リーズマイヤーは自分の銘柄を「オールド・メリーランド」と呼び容器のラベルに州のシールを貼っていたとか、シカゴのブリーン&ケネディ社はケンタッキー州オーウェンズボロのM.V.モナークが既にその名称を使用していたのを無視して1906年にブランド名として「メリーランド・ライ」という商標を登録してみたり、シンシナティのシャーブルック・ディスティリング・カンパニーは「マイ・メリーランド・ライ」を全国的に宣伝したことを挙げます。またニューヨークではサミュエル・C・ボーム・アンド・カンパニーが「メリーランド・ユニオン・クラブ・ライ」という銘柄を出し、同市のサーバー&ワイランド社はオールド・メリーランド・ライ・ウィスキーの「リトル・ブラウン・ジャグ・ブランド」を商品化し、更に別のニューヨークのウィスキー販売店で1808年にワインと酒のマーチャンツとして創業したP・W・エングス&サンズは19世紀の終わり頃に発売した陶器製ジャグにボルティモアの街と有名なライ・ウィスキーへのオマージュとして「Engs Baltimore Rye, 1808」というラベルを貼り付けました。中身はメリーランド州の蒸溜所からニューヨークの販売店に提供されたものかも知れないし、そうでないかも知れず、実際に何が入っていたのかは知る由もありません。現在ではこのような露骨な地域名の流用は許されないことですが、当時はまだ緩かったという話です。それは兎も角、抜け目のないボルティモアのマーチャンダイザーやメリーランド州の先駆的なビジネスマンたちも、特定の地域名と品質がイコールで結ばれるイメージを購買の判断材料として十分に活用し、メリーランド・ライへの渇望を満たすために鉄道のインフラ整備やアメリカ全土へのブランド・マーケティングの台頭などを利用しました。
流通が発展するにつれ、ブランドの確立やマーケティングはより重要になります。ブランドとしてバレルヘッドにステンシルされたり、ラベルにプリントされる名前は多くの場合、蒸溜者もしくは蒸溜所、或いは卸売業者または小売業者の名称でした。それを推し進めたのは19世紀の消費者向け商品広告の新案です。メリーランド州のウィスキー業界での初期の記録は、ボルティモアのレクティファイアーおよび卸売業者であるラナハン&ステュワートでした。ウィリアム・ラナハンは1855年にハンター・ピュア・ライを連邦政府に登録し、後に「ハンター・ボルティモア・ライ」と改称、ラベルや広告にはフォックス・ハンティングの服装をした男性が馬に跨った絵が描かれました。その後のブランディングでは「The American Gentleman’s Whiskey」というスローガンが掲げられました。更に後年には馬がジャンプをしている様子と共にスローガンは「The first over the bars」へと進化し、ティンバー・トッパー(障害競走馬)のイメージを喚起するようになります。「バー」というのは酒場と乗馬競技で馬がジャンプする障壁を掛けた言葉遊びでしょう。
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ラナハンズのウィスキーは、当初から貴族的な雰囲気を醸し、明らかに上流階級やそこを目指す人々にアピールしようとするものでした。1868年に父親が亡くなった後、経営を引き継いだラナハン・ジュニアも新聞や雑誌などで大々的な広告キャンペーンを展開し、全国的な注目を集めるブランドが一般的にそうであるように、フォックス・ハンターを描いた文鎮やピンやマッチなど色々と幅広い販促アイテムを作りました。また、ハンター・ボルティモア・ライのロゴやトレードマークの絵をさまざまな場所に描くことも指示し、ビルディングの側壁や、ボルティモアだけでなくニューヨークやシカゴの野球場の外野フェンスに看板が飾られていました。きっと汎ゆる会社が競って広告を出したことでしょう。ブランドの宣伝に多額の資金が投じられた南北戦争後から世紀の変わりめにかけてメリーランド・ライの人気は全国に広がり、この頃にはハンターを始めとして、アンティータム・ライ、ホーシー・ライ、モンティチェロ・ピュア・ライ、マウント・ヴァーノン・ピュア・ライ、オリエント・ピュ​​ア・ライ、シャーウッド・ライなどのブランドが全国的に名を馳せました。特にハンター・ライは大成功を収め、ロンドン、上海、マニラにも輸出されています。

禁酒法以前の時代にメリーランド・ライが広く知られるようになったもう一つの潜在的な理由は、1876年にアメリカの独立100周年を記念してペンシルヴェニア州フィラデルフィアで開催された「センテニアル・エクスポ」でした。この博覧会ではアメリカの業績を称えるために様々な建物が建てられました。中には農業関連の建物もあり、その展示物の中には完全に機能する蒸溜所の模型があったそうです。ボルティモアのマウント・ヴァーノン蒸溜所は、おそらくジョージ・ワシントンとの繋がりを意識してかセンテニアル蒸留所を運営し、ライ・ウィスキーの純度と品質を謳っていました。マウント・ヴァーノンという蒸溜所の起源は、1850年代にボルティモアで操業されていたオステンドとラッセル・ストリートにあったエドウィン・A・クラボーとジョージ・U・グラフの蒸溜所でした。1873年頃、彼らはこの蒸溜所をフィラデルフィアのリカー・マーチャントであるヘンリー・S・ハニスに売却しました。ハニスはそのままにしていましたが、ボルティモアの代理人が蒸溜所を再建して拡張しました。このエクスポは1876年5月10日から11月10日までの184日間で約1000万人の来場者を記録したそうです。

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1880年代から1890年代にかけてメリーランド産ライの市場への流入は大幅に増加しました。ボルティモア近郊では少なくとも8つの蒸溜所が開業したと言います。スコッツ・レヴェルのL・ウィナンド&ブラザーズ社が経営したパイクスヴィル、コールド・スプリング・レーンとジョーンズ・フォールズにあったジョン・T・カミングスが経営するメルヴェール、ギルフォード・アヴェニューとサラトガ・ストリートではビジネス・リーダーのアルバート・ゴットシャルクが設立した「メリーランド」、ボルティモア・ディスティリング・カンパニーが運営するスプリング・ガーデン、同じくボルティモア南西部にあるキャロル・スプリングス、ハイランドタウンではオドネル・ストリートの卸売業者チャールズ・H・ロス社が経営するモニュメンタルとバンク・ストリートのロバート・ステュワートが経営する「ステュワート」、更に東のコルゲイト・クリークのほとりにダニエル・マローンが経営する「マローン」など。中でもメルヴェールは最大級の規模を持ち、日に1000ブッシェルの穀物をマッシングする能力を誇っていたとか。
メリーランド州西部も同じような状況で、20程度の商業蒸溜所が建設されていたようです。その多くは小規模で、一部のメーカーは生産物全体を市の卸売業者に販売したため、ハウス・ブランドやオリジナルのラベルを持っていませんでした。蒸溜所は5月末から10月1日までの間、休むことが多く、市場の低迷期には完全に閉鎖するところもあったそう。 西部地域の著名な蒸溜業者や蒸溜所としては、ギャレット郡のメルキー・J・ミラー、アレゲイニー郡のジェイムズ・クラーク・ディスティリング社が所有する「ブラドック」、ワシントン郡ではクリア・スプリングのジェームズ・T・ドレイパーとライターズバーグのベンジャミン・ショッキー、およびロックスバリーのジョージ・T・ギャンブリルが設立した「ロックスバリー」、モンゴメリー郡ではハイアッツタウンのリーヴァイ・プライスとキングス・ヴァリーのルーサー・G・キング、キャロル郡ではクランベリー・ステーションのエイブラム・S・バークホルダーとラインボロのアダム・ローバックなどがいましたが、知名度や規模が大きかったのはロックスバリーとブラドックでした。

1895年、ボルティモアの人口が50万人を超えた頃、250人に1軒の割合でサルーンがありました(年間250ドルかかる酒類ライセンスに2045件の登録があった)。サルーンには68のウィスキー卸売業者がサーヴィスを提供していました。20世紀が始まったばかりの頃には、ボルティモアを訪れた観光客が蒸気船から港へ上ってくると、沢山の広告看板が目に飛び込んで来たと言います。外壁に描かれたそれらのサインは彼の地の会社のサーヴィスや商品の重要性を謳っていました。しかし、メリーランド州のライ・ウィスキーのディーラーは、新世紀が始まって20年も経たないうちに業績も繁栄も合法性も全て失いました。このような激変を齎したのは主に酩酊物質の乱用に対する反感でしたが、飲料用アルコールを違法とするための運動が憲法修正第18条やヴォルステッド法に結実する以前からメリーランド・ウィスキーの名声には傷が付いていました。それには三つの国情と一つの地方情勢が作用していたと、ボルティモアの元ジャーナリストでメリーランド・ライのオーソリティであるジェイムズ・H・ブレディは『メリーランド・ヒストリカル・マガジン』の記事に書いています。一つは酒場や小売店で売られているウィスキーの信頼性に対する不安が続いていたこと、二つめは冷蔵技術の向上によって醸造業者が蒸溜業者とより幅広く競争できるようになったこと、三つめはウィスキーに治療効果があるという医学的な裏付けがなくなったこと、そしてもう一つがメリーランド州ではウィスキー蒸溜に於ける地元の特徴の低下や所有者が減少していたことでした。こうした多くの危険信号に対して業界は自覚と防御をしながらも殆ど公的な反応を示すことはなかったらしい。
他にも、1904年2月6日から8日にかけて起きたボルティモア大火災は、彼の地のウィスキー取引にとって更なる打撃でもありました。その炎は30時間以上燃え続け、1526棟の建物を破壊し、70の街区に跨がり、1200人以上の消防士が消火活動するという大規模なものでした。ダウンタウンの二つの蒸溜所、モンティチェロと「メリーランド」は焼け跡の北側にあり無事でしたが、長年に渡り卸売業者が密集していたサウス・ゲイ・ストリート、エクスチェインジ・プレイス、プラット・ストリートなどの事務所や倉庫は炎上してしまいました。この時までにアルタモント・ピュア・ライをメリーランドのブランドとして確固たる地位にし、元のカルヴァート・ストリートからより大きな地区のイースト・プラットに移転していたニコラス・M・マシューズの会社などは、全ての記録と保管されたウィスキーを失ったと伝えられ、大火の被害を受けた48の卸売業者の一つでした。しかし、この大火災で廃業した会社は一社もなかったようで、N・M・マシューズ&カンパニーも通りを下ってすぐのイースト・プラット34番地に事業を移し、1910年にはイースト・ロンバード・ストリート17番地に最終的に移動しました。ウィスキー供給に多少の難は出たかも知れませんが、火災が与えた具体的な影響の一つはウィスキー・マーチャンツの密集を分散したことだったとされています。寧ろそれよりも、ブレディが示唆したようにこの業界には自ら招いた問題がありました。
禁酒法廃止以後、容器には連邦法によって「ウィスキー」の文字が義務付けられますが、それ以前のメリーランド・ライのボトルのラベルには「余計な」ウィスキーという言葉が省かれていることが多く、例えばロックスバリー・ライ、メルヴェール・ピュア・ライ、オリエント・ピュア・ライ、スプリング・デール・ピュア・ライ、バル=マー・クオリティー・ライ、ポインター・メリーランド・ライ、カルヴァート・メリーランド・ライ、ウェストモアランド・クラブ・メリーランド・ライ、フォー・ベルズ・メリーランド・ライ、キャロルズ・キャロルトン・メリーランド・ライ、ゴードン・メリーランド・ライのような具合でした。ペンシルヴェニア・ライの多くはストレート・ライ・ウィスキーだったのに対し、メリーランド・ライの多くは「整えられた」ライ・ウィスキーで、チェリーやプルーンの果汁などの香味料を加えて甘みを出したものだったと言われています。どちらのスタイルも19世紀には非常に人気がありましたが、世紀を跨いで制定された二つの法律、1897年の「Bottled-in-Bond Act」と1906年の「Pure Food and Drug Act(純正食品医薬品法、通称ワイリー法)」により、メリーランド・ライはカテゴリーとしてはほぼ消滅しました。ストレート・ウィスキーの人気が高まっていた時代に、ブレンデッド・ウィスキーとしての表示を余儀なくされたのです(**)。
酒類業界では全体的に何処にでもある無意味なラベル・ワードを用いて酒場や小売店の顧客に酒の価値を誤魔化す傾向がありましたが(例えば「Pure」とか)、1897年の英国の制度を参考にした連邦法により、政府が管理する倉庫で保税が行われるようになりました。蒸溜業者はプルーフ・テスト済みのウィスキーのバレルを最低4年間そこに預け、引き出す際に手数料を支払い、違反すると刑事罰の対象です。1901年はボンデッド・ウィスキーが市場に出回るようになった最初の年でした。メリーランド州の数多くの蒸溜所も自社の敷地内でこのような倉庫を契約し、やがてボトルド・イン・ボンドのウィスキーを顧客の許へと届けました。しかし、このアイディアには現実的な限界がありました。この法律が一般に認知されていなかったことで、ボンデッド・ウィスキーが市場に浸透するのに時間がかかったのです。またボンデッド・ウィスキーの小売価格は1クォート1ドルと多くの賃金労働者には手の届かないものでした。1917年以前、ムーンシャインならば1クォート15セントという低価格、サルーンでのビールの大ジョッキは5セント、ウィスキーの1ショットは10セント(良質のものなら15セント程度)が一般的。ボトルド・イン・ボンドの市場占有率は9%、「ピュア」または「ストレート」ウィスキーは20%、「ブレンデッド」ウィスキーは業界生産量の70%以上を占めていたと目されます。ボトルド・イン・ボンド法はボンデッド・ウィスキーの製造に厳しい基準を設けたため、税収の面だけでなく消費者保護の面があり、純正食品医薬品法に繋がる最初の法律の一つでもありました。
工業化や中産階級の台頭、19世紀末の自由放任主義から20世紀初頭の進歩主義への移行などが公衆衛生に対する政府の責任を飛躍的に高めます。その帰結として食品や医薬品の安全性に対する懸念の波が押し寄せ、食品と薬物、そしてそれら二つの組み合わせであるアルコールには新たな規制が必要な時代でした。古くからアルコール飲料には薬効があると広く信じられており、医師は汎ゆる種類の病気にアルコールを処方していましたが、1850年以降の科学的医学の台頭はその見方に変化を齎し、世紀の終わりまでにアルコールの治療的価値については広く議論され、最先端の開業医の間で信用を失いました。
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純正食品医薬品法の立役者であり通称ワイリー法の名の由来となっているインディアナ州のハーヴィー・ワシントン・ワイリーは医師であり化学者でもあり、彼は殆どの病気においてスピリッツ等の強い酒は医学的に価値がないと云う医師の間での確信の高まりについて代弁しました。ショック状態の体にアルコールを投与しても体を温める効果はないし、アルコールの生理学的な分類は興奮剤ではなく抑制剤である、と。1916年にウィスキーとブランディはアメリカ合衆国の薬局方で科学的に承認された医薬品のリストから削除されています。1917年には、アメリカン・メディカル・アソシエーション(AMA)は論争の的となった会議で「アルコール自体に薬効はない」という決議を出しました。こうして、ウィスキーが医薬品であった時代は終わりを告げます。医薬の逆転はウィスキーが地位を失った重要な要因の一つでした。それにも拘らず、1919年に制定された禁酒法では、聖餐式のワインと並び、医師が患者にアルコールを処方する際の免除規定が設けられました。AMAは禁酒法以前とは打って変わり、アルコールは喘息や癌など27種類の病気の治療に使えると主張し出します。言うまでもなく、現実的には医師や薬剤師にとってアルコールの処方箋を書くことは数ドル余分に儲けるための方法でしかありませんでした。

禁酒法以前の典型的なボトルのラベルはプルーフや成分、バレルでの熟成期間(BIBを除く)、更には内容量をオンスで明記する必要すらないという非常にシンプルなもので、買い手は「バーボン」とあれば全て主にコーンから蒸溜されたウィスキー、「ライ」とあれば全てその名の穀物から蒸溜されたウィスキーを意味すると受け止めていたことでしょう。往々にしてカスタマーは騙されていました。全国的に多くの食料品店やドラッグストアの商品は同様に不正なものでした。そこには記載されていないか誤って伝えられている成分で構成された治療効果の期待できないものが多数出回っていたのです。そうした状況への憤慨の高まりが結果として純正食品医薬品法の制定に結びつき、連邦政府はラベルの記載は真実であることを義務づけ、違反した場合には罰則を課すことになりました。ライ・ウィスキーという名称を合法的に使用するためには、少なくとも51%以上がライ麦のマッシュから作られたウィスキーでなければなりません。1906年以降、メリーランド・ライのイメージは曖昧になって行きます。メリーランド州のレクティファイアーの中には、「ピュア」ライを製造しようとした者もいたかも知れませんが、多くはそうではありませんでした。突然、評判の良かったブランドの多くが「メリーランド・ウィスキー」に変わり、小さな文字で「ウィスキー・ア・ブレンド」とも書かれるようになります。「ライ」という言葉を使わなくなったブランドもあったようで、メリーランド・ライで最も有名な6社の小売業者のうちモンティチェロとウィルソンの2社はこのフレーズを手放し、ハンターとマウント・ヴァーノンの2社は堅持し、シャーウッドとブラドックの2社はラベルや価格でライとブレンドを区別して両立していたと言います。メリーランド州西部で傑出した存在であったホーシー・ライのニードウッド・ディスティラリーは、アウターブリッジ四世の死後に子供たちの手に委ねられ、生産量の半分以上をコーン・ウィスキーに移行しました。
こうした国情の変化はあったものの、世紀の変わり目から20世紀初頭に掛けての移民による人口急増があり、そうして顧客の数が増えたためか、メリーランドのウィスキー・シーンは騒がしく、プレイヤーの参入と退出が繰り返されていました。1897年、ドゥルイド・ヒル・パークのバギー事故でエドウィン・ウォルターズが63歳で負傷したことが致命傷となり、メルヴェール蒸溜所のカミングス家、ボルティモアのレクティファイアーのレコーズ&ゴールズボロ、卸売業者のウルマン=ボイキンがシンディケートを結成してオリエント蒸溜所を買収し、工場名をキャントン蒸溜所に変更しました。時には事業の失敗もあり、積極的な販売活動によってロックスバリー・ライをメリーランド州の全米トップ・ブランドと肩を並べるまでにしていたワシントン郡のロックスバリー・ディスティリング・カンパニーは、社長のジョージ・T・ギャンブリルが小麦の投機家でもあったため、そちらで失敗し無一文になり会社は破綻、1910年に管財人の手を借りて閉鎖されました。新しい企業としては、アレゲイニー郡エレーズリーのウィルズ・ブルック蒸溜所、ワシントン郡ウェヴァートンのサヴェッジ・ディスティリング・カンパニー、ペンシルヴェニア州ウェインズボロの蒸溜所からのペン=マー・ライなどがありました。しかし、多くの産業がそうであるように、どこも数を減らして規模を大きくする傾向にあったようです。いわゆるウィスキー・トラストにとって地元性から来る誇りや個性は重要ではなく、メリーランド州の多くの蒸溜所や輸入業者や卸売業者の資本力の低さ、即ち買収への抵抗力のなさは大きな問題でした。ハイアット&クラークの解散後、シャーウッド・ディスティリング・カンパニーはニューヨークの新しく大きな卸売業者であるプリングル&ゴントランと提携、1905年頃フィラデルフィアのカーステアーズ・ブラザーズがハイランドタウンのステュワート・ディスティラリーを買収、ニューヨークの企業はモンティチェロを買収、シカゴのフレンズドーフ&ブラウンはボルティモアのバック・リヴァーで蒸溜していましたがニューヨークのフェデラル・ディスティリング・カンパニーに売却、シカゴのジュリアス・ケスラーはモニュメンタルを買収、1908年頃にはフィラデルフィアの企業がオウイングズ・ミルズ郊外にグウィンブルックと呼ばれる大規模な蒸溜所を建設、同時期にシンシナティからフライシュマンズも参入といった具合で目まぐるしいです。

1881年から1912年にかけてメリーランド州のウィスキー生産量は240万USガロン(910万リットル)から560万USガロン(2120万リットル)に増加し、合計1930万USガロン(7300万リットル)が保税倉庫に保管されていたと言います。明らかにメリーランド州はスピリッツ業界のリーダーの地位にありました。メリーランド歴史協会によると、1865年から1917年の間にアメリカン・ウィスキーの製造と販売において、小さなメリーランドはケンタッキーのバーボンとペンシルヴェニアのライの大きな背中から遠く離れてはいても不動の三番手だったとのこと。禁酒法以前には優に100を超えるブランドが市場に出回っていたとされます。ついでなので禁酒法以後の話の前に、ちょっと時系列が前後してしまう部分もありますが、メリーランド・ライの有名どころのブランドと蒸溜所を個別に少しばかり紹介しておきましょう。


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モンティチェロ・ライ
南北戦争後の需要に応えるために素早く動いたボルティモアの個人またはビジネスマン・グループのうち誰が最初かは定かではありませんが、その一人であるマルコム・クライトンは1865年には既にホリデイとバス・ストリートで蒸溜を開始していたと言われます。マルコムは、1848年に一家でメリーランド州に移住した卸売食料品店を営むウィリアムとジャネットのクライトン夫妻の間の息子として、1840年にイリノイ州で生まれました。マルコムは南北戦争前から戦争中に掛けて、父親のもとボルティモアのウォーターフロントで穀物と肥料のビジネスからキャリアをスタートさせました。戦後は父のもとを去り、独立。穀物に精通していた彼にとって蒸溜酒を造ることは自然の流れだったのかも知れません。進取の気性に富んだ青年だったクライトンは、嘗てジョセフ・ホワイトが運営していた廃業した蒸溜所を引き継ぐと施設を再建し、モンティチェロ・ライなるウィスキーの製造を開始しました。ボルティモアには既にマウント・ヴァーノンと名付けられたライがあり、ジョージ・ワシントンの家にちなんで名付けられていました。それにインスピレーションを受けたのか、或いは対抗したのか、トーマス・ジェファソンの家の名前を自分のウィスキーに当て嵌めた可能性が示唆されています。そもそもの「Monticello」はイタリア語で「小さな山」を意味する言葉です。クライトンは広告の中で、この銘柄のオリジンが1789年であると何の根拠もなく主張していたとか…。しかし、それは彼が生まれる半世紀も前のことでした。
1868年7月、ボルティモアで19世紀最大の自然災害となったジョーンズ・フォールズの洪水が発生しました。水位はダウンタウンの12フィートまで上昇する大惨事でした。モンティチェロの工場は中身もろとも激流で流されてしまったそうです。クライトンは隣のメーター製造工場のパートナー、チャールズ・E・ディッキーからの財政的援助を受け、すぐに再建を果たしました。ホリデイ136番地の場所は、その後の20年、M・クライトン&カンパニーの工場の本拠地となります。モンティチェロ・ライはメリーランド州の忠実な顧客層だけでなく、ウェスト・ヴァージニア州ウィーリングやニューオリンズの酒類ディーラーにも販売されていました。クライトンはブランドの侵害を懸念したのか、1881年にその名前を商標登録しています。不幸にも、マルコム・クライトンは自ら「完璧な蒸溜」を自称したモンティチェロ・ライが生んだ成功と繁栄をあまり享受することなく、1891年に50歳の若さでこの世を去りました。その年にモンティチェロ・ライは全米で販売されたそうです。彼はボルティモアのグリーン・マウント・セメタリーに埋葬されました。マルコム・クライトンが亡くなった時、彼の息子達は誰も彼を引き継ぐことに興味がなかったか、またはその準備が出来てなかったらしい。蒸溜所は同じボルティモアの兄弟であるバーナードとジェイコブ・B・カーンに売却されます。バーナードは以前「カーン,ベルト・カンパニー」でパートナーとして酒類事業に携わっていました。クライトンが残した蒸溜所はいつの間にかメリーランド州最大級の規模にまで成長していました。これは生産されたスピリッツの課税価格によって評価されます。同蒸溜所は課税対象となる228788ドル(現在の約560万ドル相当)の製品を生産していたそうですが、これはメリーランド州でハニス蒸溜所、シャーウッド蒸溜所に次ぐ規模でした。カーン兄弟はモンティチェロ蒸溜所の運営とブランドの販売を禁酒法の訪れまで30年近く続けます。禁酒令の間、モンティチェロ・ライはドラッグ・ストアで処方箋があれば「薬用」として購入できるウィスキーの一つでした。禁酒法廃止に伴い新たな所有者のもとでブランドは1940年代までは存続したようです。 
メリーランド出身の最も有名なジャーナリスト/作家であるヘンリー・ルイス・メンケンは、家庭医が「R月(スペルにrの付く9〜4月のこと)の肺炎の予防には、メリーランド・ウィスキーを一杯飲むのが一番だと教えていた」と言います。葉巻製造業を営んでいた父親のオーガスタスは、その指示をしっかり守ってモンティチェロを購入し、朝食も含む毎食前にダイニング・ルームの戸棚に潜り込み、ライ・ウィスキーを飲んでいたそうです。「彼はこの前菜を健康に必要なものと考えていた。 胃の調子を整えるには最高の薬だと言っていた」。


オリエント・ライ
1819年にペンシルヴェニア州中部の町リヴァプールで生まれたウィリアム・トンプソン・ウォルターズは、1840年代にボルティモアへとやって来ました。穀物商を始めたウォルターズは、1847年に酒類卸売業を確立し、ペンシルヴェニアの4つの蒸溜所からウィスキーを購入していました。やがてウォルターズはこの地域で最大級のウィスキー事業の指揮を執るようになり、成功後すぐにボルティモアの中でもファッショナブルなマウント・ヴァーノン・プレイス地区に住居を構えます。南北戦争が勃発すると、それまで州権の率直な支持者であったウォルターズは合衆国を去って家族と一緒にヨーロッパを旅行し、芸術作品の研究と購入に努めました。1882年、ウィリアムは事業を解散し、海運や鉄道輸送に転じました。代わりに14歳年下の弟エドウィンが自分自身のビジネスをやり始め、家族の支援を受けてキャントンのメイトランド&ブライアンズ蒸溜所を買収します。新オウナーはオリエント・ディスティラーズと改称しました。主力商品をオリエント・ピュア・ライと名付け、拡張した工場をボルティモア最大の規模にすると宣言しました。新しい事業はすぐに独自のドックを持つほどの規模になり、オリエント・ピュア・ライはサンフランシスコで販売されるようになりました。


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メルヴェール・ライ
メルヴェール・ピュア・ライは禁酒法以前に最もプレミアムであり、当時のブランドはメリーランド州のライ・ウィスキーの中で最も権威があって尊敬されたブランドの一つだったと伝えられます。1902年のシンシナティのセールスマンのレート・ブックにはメルヴェールの卸値が1クォート1.45ドルと記され、比較で言うとナッシュヴィルの1906-07年の価格表ではオールド・テイラー・バーボンが1クォート1ドルでした。
1880年代、ジョン・T・カミングスはボルティモアの北にあるジョーンズ・フォールズ地域のコールド・スプリング・レーンにメルヴェール蒸溜所を開設しました。カミングスが登場する前、この場所はボルティモア市内を流れる17.9マイルの小川であるジョーンズ・フォールズの水を利用した商業製粉所でした。製粉所は幾人かの所有者によって運営された後、1830年頃にギャンブリル家の手に渡りました。その頃は穀物の製粉に加えて、製材や紡績も兼ねて運営されていたようです。次の30年間、ギャンブリル家は南北戦争中にその場所が重要になるまで運営されましたが、1861年に北軍が進軍し駐屯すると、南部の共感者であったギャンブリルは占領に不満を持ち、1862年にその土地をウィリアム・デンミードに売却しました。「メルヴェール」という名前が最初にこの地域に付けられたのは戦争中のことです。デンミードは息子のアクィラと共にこの物件の利用を拡大し、1862年から1872年の間に蒸溜所として石造りの建物を建てました。それはイタリアン・ラブルストーン造りで、屋根の中央にキューポラのある優雅な建築物でした。その後の数年間で、二つの倉庫とボイラー小屋と家屋(蒸溜所の管理者用?)が追加されました。1880年頃には骨を粉砕するための機械もあったそうです(この頃の蒸溜所ではしばしばウィスキーのフィルターとして動物の骨を使用していたらしい)。デンミードは蒸溜所を約20年間運営した後、ジョン・カミングスを主とした地元のグループに販売しました。
ボルティモアのマーチャントであるカミングスは、その時までに50歳で、次男のウィリアムは17歳で既に父親と一緒に働いていたそうです。カミングス家の所有権の下でメルヴェール蒸溜所は更に拡張され、倉庫や別棟が追加されました。彼らはメリーランドの新聞上で自社製品を広く宣伝しました。メルヴェールの他に「レイク・ローランド・ウィスキー」と言うブランドもあったそうです。これはボルティモア郡の100エーカーの貯水池にちなんで名付けられました。1897年にボトルド・イン・ボンド法が議会で可決された同じ年、父と息子のカミングスは地元のウィスキー商人によるシンディケートに加わり、オリエント蒸溜所を引き継ぎ、施設の名前をキャントン蒸溜所に変更しました。この動きはメリーランド州で最大のマッシング能力を備えた蒸溜所を所有していたにも拘らず、カミングスが更に多くのウィスキーを必要としていたことを示していると見られます。メリーランド州税務長官の記録によると、1897年のメルヴェールの蒸溜酒の課税価格は168196ドルであると報告しました。1905年にはその2倍以上の373316ドルになりました。この増加は課税額が446880ドルに達した1909年まで続いたと言います。こうした数字にメルヴェール蒸溜所がメリーランド州で最大のウィスキー生産者と呼ばれる所以があるのでしょう。また、ブランドの名声の一つの尺度に模倣が挙げられます。成功したブランドと音を似せたブランドを作成することはよくあることで、市場に出回ったメルヴェールのコピーキャット・ウィスキーは多く、「Melville(メルヴィル)」、「Melwood(メルウッド)」、「Mell-Wood(メル=ウッド)」、「Melbrook(メルブルック)」等がその例です。カミングスは1902年に「メルヴェール」の商標を登録していたにも拘らず、ボストンの会社によって販売されたそのまま「メルヴェール・ライ」なる明らかな商標侵害のウィスキーもあったようです。既に1900年に74歳でジョン・カミングスは亡くなり、経営の手綱は若い頃から蒸溜所で働いていたウィリアム・B・カミングスに渡り、弟のアレグザンダーが会社の秘書兼会計として加わっていました。兄弟はメルヴェール蒸溜所の繁栄を継続させましたが、禁酒法の波は嫌でもやって来ます。それでもメルヴェールは、ドライ・エラの始めの頃に政府によって保税倉庫に指定され、政府へのグレイン・アルコールを生産するため数年の間オープンを許可されていた、と示唆する歴史家もいるようです。
カミングス家は1925年に蒸溜所を売却しました。その後、1928年にウィリアム・A・ボイキン・ジュニアがその所有者からプラントを購入し、彼の会社であるアメリカン・サイダー・アンド・ヴィネガー・カンパニーが1956年まで施設を運営しました。ボイキンの家族はその時、施設をスタンダード・ブランズに売却しました。ウィスキーは禁酒法期間中から製造されなくなりましたが、建物は現在も残っており、今はフライシュマンズ・ヴィネガー・カンパニーの施設の一つとして引き続き酢を製造し続けていると思います。ちなみに石造りの建物は国家歴史登録財となっているそう。メルヴェール・ライは禁酒法廃止後、復活しなかったブランドでしたが、近年フィラデルフィアのニュー・リバティ蒸溜所により復刻されました。
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(近年のフライシュマンズ・ヴィネガー)


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ハンター・ライ
先にも少し紹介したラナハンのハンター・ライは、1912年に出版された『ボルティモア:その歴史と人々』に「ハンター・ボルティモア・ライほど商業の中心地としての街の名声を広めたボルティモア産の製品はありません」と書かれたほどでした。創業者のウィリアム・ラナハン・シニアの人生についての情報は殆どありませんが、南北戦争の前に菓子職人としてかなりの富と影響力を達成したと言われています。アイルランドで生まれ、ボルティモアに定住したラナハン・シニアは、おそらく仲間と組んでロンバードとレッドウッドの間にあるライト・ストリートの工場でレクティファイアーとして1850年代初頭にウィスキーの製造と販売を開始したと思います。1855年に「ハンター・ピュア・ライ」、その後「ハンター・ボルティモア・ライ」を連邦政府に登録。1868年に父親が亡くなった後、ラナハン・ジュニアは事業を引き継ぎ、ウイスキー製造事業を精力的に拡大しました。彼はメリーランド州のフォックス・ハンティング同好会のマスターだったとか、田舎の自分の土地で乗馬するのが趣味だったいう話があるので、それがハンターのトレードマークになっている理由なのでしょう。
1870年、最も初期の市のディレクトリによると、ウィリアム・ラナハン&サンは北ライト・ストリート20番地で商売をしており、1904年のボルティモア大火災で建物が焼失するまで会社はそこにありました。その後まもなくカムデン・ストリート205-207番地に移転しましたが、ライト・ストリートの拡大後、以前の場所での再建許可を得、1906年に新しく建設された建物で事業を再開し、その新しい3階建てのラナハン・ビルディングには表面に目立つ文字で「ウィスキー」という言葉を使って目的を表しました。また、彼らはディスティラーズを名乗りましたが、実際にはレクティファイアー、つまり他所で蒸溜されたアルコールを他の成分とブレンドし、ボトリング及びブランドのラベルを貼り付けて販売する業者ではないかと見られています。同社の主力は言うまでもなくハンター・ライでしたが、ハンター・バーボンや「365」という毎日のシッパーを意味するブランドなども販売していたようです。当時としては珍しいことに、ラナハンは6人の営業部隊を雇い、全国を回ってウィスキーを売り込み、ローカルなディストリビューターらの契約を取って来ました。ラナハン社はハンター・ボルティモア・ライを「完璧な香りと味わい…アメリカを先導するウィスキー」と宣伝しました。また「紳士の」飲み物としての魅力が潜在的に女性の顧客に悪影響を与える可能性があることを考慮して、このウィスキーは「その熟成と卓越の故、特に女性に推奨します」と宣いました。このような誇大宣伝が功を奏したのか、ハンターはアメリカで最も売れているライ・ウィスキーとなったのです。
アメリカを制覇したラナハンは、市場拡大のために海外に目を向け、ロンドンでは「シャーロック・ホームズ」の公演プログラムの中で、ハンター・ライを「人気のアメリカン・ウィスキー」と宣伝、そのシーズンにデューク・オブ・ヨーク劇場で売られていた唯一のヤンキー・ブーズだったそう。更には1902年、ウィリアム・ラナハン&サンは中国の朝廷から利権を得ようと、上海のサディアス・S・シャレッツ将軍に宛てその旨の手紙をしたためました。シャレッツは1901年にセオドア・ルーズベルト大統領に任命されアメリカ製品の輸入拡大について中国政府と交渉していたのです。またフィリピンのマニラでは、反乱鎮圧のために滞在していたアメリカ第8歩兵隊の兵士たちが非番の時にハンター・ボルティモア・ライのクォーツを飲み干していたとか。成功は模倣も生み、メリーランド州の都市から何百マイルも離れた場所で作られた製品までもがボルティモア・ライと名乗るようになりました。そこでラナハンは1890年と1905年に「ハンター・ライ」を、1898年と1908年に「ハンター・ボルティモア・ライ」をそれぞれ商標登録しました。
ラナハン社とそのブランドは59年間運営され、ボルティモア・ウィスキー製造の激動の歴史の中でも並外れたものでした。1908年、サン誌はハンター・ボルティモア・ライの商標の価値を300万ドルと見積もっています。ラナハン・ジュニアが1912年に亡くなった時には、同紙は彼を「ボルティモアで最も広く知られているビジネスマンの一人」と呼びました。禁酒令の到来で事業所が閉鎖されると、ラナハン家のメンバーは銀行業と高額金融の世界に移り、一人のラナハンはニューヨーク証券取引所のガヴァナーになったそうです。別の一人、サミュエル・ジャクソン・ラナハンは有名作家のF・スコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻の愛娘スコッティと結婚しました。
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このブランドは禁酒法時代を生き延び、最終的にカナダの大手酒類会社シーグラムの手に渡りました。1940年末のブラウン・ヴィントナーズ社買収の折、シーグラムはボルティモアのウィルソン・ディスティリングとハンター・ボルティモア・ライ・ディスティラリーの支配権を得、1944年にこの2つの事業を統合してハンター=ウィルソン・ディスティラリー社を組織すると、ボルティモアのカルヴァート蒸溜所でハンター・ライの製造を開始しました。その後、その施設が閉鎖されると、ハンター=ウィルソンの事業はシーグラムが禁酒法廃止直後にルイヴィルのセヴンス・ストリート・ロードに建てた大規模な蒸溜所へ移されます。この時代は殆どがブレンドだったと思われ、ハンターの広告は比較的目にし易いです。ハンターはケンタッキー産になった訳ですが、相変わらずフォックス・ハンティングの紳士とティンバー・トッパーのイメージは保たれ、ボトルにはハンティングに使用するホーンまでエンボスされていました。


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シャーウッド・ライ
禁酒法時代の前後を問わず、メリーランド州で最も有名なライ・ウィスキーの一つがシャーウッド・ブランドでした。現代ワイト家のネッド・ワイトの家族伝承によれば、彼の曽曽曽祖父ジョン・ジェイコブ・ワイトは1850年代のある時期に、メリーランド州ボルティモアの北にあるハント・ヴァリー(コッキーズヴィル)で失敗したウィスキー蒸溜所を引き継ぎ、ライ・ウィスキーの生産を開始したそうです。この蒸溜所は食料雑貨店を営むウィリアム・レンツとジョン・J・ワイトの共同設立で、彼らの製品は近くのシャーウッド・エピスコパル教会にちなんでシャーウッドと名付けられました。コッキーズヴィルはボルティモアの約17マイル北にあり、町の名前は南北戦争の頃にホテルを建て、ボルティモア&サスクェハナ鉄道に駅を設置するよう説得したコッキー家にちなんでいます。ハント・ヴァリーは1960年代に不動産投機家によってどこからともなく命名された比較的新しい名前らしい。
一方で、1829年に食料品店を営むアルフィアス・ハイアットの息子として生まれたエドワード・ハイアットは、ウェスト・ボルティモア・ストリートの酒屋で商売を始め、1860年にはニコラス・R・グリフィスと共にウォーター・ストリートのウィスキー・ディーラーとなりました。1863年、ハイアットはニューヨークに渡ります。夢であったメリーランド・ライのブランド生産と販売を実現するための十分な資本と人脈を手に入れ、5年後にハイアット&クラークとして戻りました。1868年にエドワードは、ジョン・J・ワイトとウィリアム・レンツが始めた小さな蒸溜所を買収して拡大すると、大規模な生産とマーケティングを可能にし、全国的に有名にしました。同じ頃にハイアットとワイトの家族は合併したとされ、ジョン・Jとエドワードの妹が結婚したようです。ちなみに初期のハイアット&クラークのシャーウッド・ライの一部は熟成過程の一部としてキューバを往復していたらしい(アウターブリッジ・ホーシーが採用していた熟成方式を小規模にしたもの。後述します)。
10年後の1878年には、アメリカ陸軍のニューヨークにある医療供給基地が、病院で使用するための備蓄としてシャーウッド・ライを購入するほどになりました。1882年、パートナーが辞任したことでエドワード・ハイアットは自らを社長として3万ドルの資産を持つシャーウッド・ディスティリング・カンパニーを設立、ボルティモアのダウンタウンのオフィス・ビルディングに本社を構えました。過半数の所有権を売却したにも拘らずジョン・J・ワイトは蒸溜所に残り活動を続け、息子のジョン・ハイアット・ワイトも若い頃から事業に携わっていました。
シャーウッド・ディスティリングはメリーランド・ライをフラスク、パイント、クォートなどの様々なボトルで販売。ロゴには横になったバレルを採用し、広告でもその画像を頻繁に使用しました(1890年にトレードマークの使用を開始し、1913年には特許庁に登録された)。1800年代を通してビジネスは繁栄し続け、ボルティモアに営業所を開設。1897年、メリーランド州歳入局はシャーウッド・ウィスキーの課税額を308920ドルと見積もっており、これは今日の数百万ドルに相当します。
ジョン・J・ワイトが亡くなった時、彼の財産の大部分は息子のジョン・ハイアット・ワイトに譲渡されました。ジョン・H・ワイトはシャーウッド・ディスティリングの秘書兼会計になり、叔父は社長のままでした。1894年にはそのエドワード・ハイアットも亡くなり、ジョン・Hは叔父の財産の受託者となり会社の社長になりました。その頃、彼はメリーランド州のウィスキーで「ワイト」のラインを開始したようです。メリーランド州の納税記録によると、生産されたウイスキーの価値は着実に上がり、1909年には40万ドル近くになったとか。1914年頃にはジョン・Hの息子フランク・L・ワイトが蒸溜所で働き始めます。ジョン・Hとフランク・Lのワイトは、1920年の禁酒法まで蒸溜所を首尾よく運営しました。
禁酒法はコッキーズヴィルのオリジナルのシャーウッド蒸溜所を閉鎖に追い込み、建物は早くも1926年には取り壊されてしまいます。しかし、シャーウッド・ブランド自体はなくなりませんでした。禁酒法期間中、シャーウッド・ライは処方箋として販売され、最終的にブランドはルイ・マンによって購入されました(***)。禁酒法後の彼のシャーウッド・ウィスキーのラベルには大体、コッキーズヴィルの北東約25マイルにあるウェストミンスターと記載されています。マンのシャーウッド・ディスティリング・カンパニーは、少なくとも名目上そこにありましたが、瓶詰めの多く、そしておそらく蒸溜もペンシルヴェニア州グレン・ロックの更に北にあるウィリアム・ファウスト蒸溜所で行われていたと目され、ディスティラーと言うよりはブレンダーであったのかも知れません。それはともかくマンのシャーウッド・ディディリングは、一時はアメリカで4番目に重要な独立系蒸溜会社まで成長しましたが、その事業は1950年代に閉鎖されたようで、ブランドはいつの間にか姿を消しました。
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一方のオリジネイター、ワイト家も死んだ訳ではありません。禁酒法が終わるとフランク・L・ワイトはメリーランド州ロアリーに蒸溜所を設立し、冒頭のネッド・ワイトの祖父ジョン・ハイアット・ワイト2世と共に、1943年に蒸溜所を売却するまで経営を続けました。その後、フランクはコッキーズヴィル・ディスティリング・カンパニーを組織し、1946年に元の蒸溜所があった場所の近くに施設を建設しました。そちらは1958年にフランクが亡くなるまで操業しています。ワイトの主な後援者はコネチカット州のヒューブライン社であり、フランクの死後、彼らは蒸溜所を閉鎖しました。フランク・L・ワイトは、ライ・ウィスキー造りをグルメ料理と同じように芸術と見做していたと言います。「3人の料理人に同じ材料を与えると、1人は上等なケーキを作り、もう1人は平凡なケーキを作り、3人目は食べるに値しないケーキを作るだろう。ウィスキーの蒸溜も同じだ(1934年のイヴニング・サン紙のインタヴューにて)」と。1990年に78歳で亡くなったジョン・ハイアット・ワイト2世まで、ワイト家は何世代にも渡ってメリーランド州でウィスキーを蒸溜した家族でした。


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ホーシー・ライ
メリーランド州西部のフレデリックとアンティータム戦場のほぼ中間にあるバーキッツヴィルの近くに、往時、二つの商業蒸溜所がありました。そのうちの一つが1840年代にアウターブリッジ・ホーシー四世(二世やジュニアとされることもありますが、ここでは四世で数えます)によって設立されたニードウッド蒸溜所です。彼はチェサピーク&オハイオ運河の理事を務めたり、メリーランド州の民主党全国委員会のメンバーを長年務めたりした紳士でした。18~19世紀のアメリカに社会的政治的貴族がいたとすれば、メリーランド州のホーシー家は正にその中に入るでしょう。アウターブリッジ四世は米国憲法に署名したメリーランド州で最も有名な市民の一人であるチャールズ・キャロルの母方の直系の子孫で、祖父のトーマス・シム・リーはメリーランド州の知事を2度務めた人物であり、父のアウターブリッジ三世はデラウェア州の上院議員かつ以前は同州の司法長官でした。正に貴族の血統です。リー知事はフレデリック郡のブルーリッジ山脈の麓、バーキッツヴィルの近くに2000エーカーのプランテーションを設立し、豪邸を建てました。メリーランド州第2代知事から妻の家系に受け継がれたこのニードウッドという地所に、アウターブリッジ・ホーシー四世は4人の子供の末っ子として1819年2月28日に生まれました。
地元の学校やマウント・セイント・メリーズ大学で教育を受けた後、幼い頃にニードウッドの土地を継承していた19歳のホーシーは、1839年頃、それを耕作するだけでは飽き足らず蒸溜所を設立することを決意します。バーキッツヴィルとブランズウィックの間に商業用の蒸溜所を設立し、近くのカトクティン山脈からの水を利用したウィスキーを製造し始めました。彼の最初の操業は、その時代のメリーランド州の農民蒸溜者の伝統に沿った地元への販売を主とする小規模なものだったようです。この工場はホーシーの蒸溜技術の向上と共に大きくなって行きました。しかし、南北戦争が勃発すると、おそらく北軍での兵役を回避するために、ホーシーはヨーロッパに渡りました。南北戦争中、メイソン=ディクソン・ラインの両側からの襲撃を受け、ニードウッドは戦場となりました。1862年9月13日、(通称)ジェブ・ステュアート将軍の指揮する南軍の騎兵隊がバーキッツヴィルを占領、2日後に北軍と南軍の軍隊がクランプトンズ・ギャップの戦いで衝突し、ホーシーの蒸溜所は破壊され、貯蔵していたウィスキーは喉の渇いた戦闘員に飲み尽くされたと伝えられます。この挫折にも拘らず、ホーシーのウィスキー造りへの情熱は消えませんでした。アメリカを離れていた彼はヨーロッパでの滞在を利用して、スコットランド、アイルランド、イングランドの主要な蒸溜所を訪れ、高品質なウィスキーを製造する方法や設備について可能な限り学びました。
1865年に帰国したホーシーは、最新型の機械を導入するなどしてニードウッドを再建し、「ヴェリー・ファイン・オールド・ホーシー・ライ」の3000バレルを収納できる倉庫を備えた7エーカーの工場にしました。最終的には年間1万バレルを生産したとされます。ウィスキーをファンシーなラベルの付いたボトルで販売し、近くの町にディーラーを得、ボルティモアに会社の事務所を開設しました。これまでにない最高品質のアメリカン・ウィスキーを造りたいという願望に駆られた男の率いるニードウッド蒸留所は、ジェイムズ・ダル(後にオリヴァー・フルック)の監督下で「ホーシーズ・ピュア・ライ」というブランド名の新しい100プルーフのライ・ウィスキーや「ゴールデン・ゲイト・ライ」と呼ばれる非常に特別なブランドを生産し、意図的に高級化しました。ホーシーはメリーランド州のライ麦を使用せず、テネシー産もしくは輸入されたアイルランド産のライ麦を好んだと言います。輸入は製造コストを高めるでしょう。更に驚くべきは蒸溜後のウィスキーを熟成させる方法でした。
当時は、単純な倉庫保管よりもバレルを旅(長距離移動)させた方が優れているという考えがありました。これはスロッシング(容器内の液体が外部からの比較的長周期な振動によって揺動すること)は熟成を加速させると云う理論に基づいています。ホーシーはヨーロッパのウィスキーをアメリカに運ぶための大航海こそが、ウィスキーをスムーズにすると考えていました。そのアイデアは、何ヶ月も揺れる船で熱帯を航行してロード・アイランドに戻ってきた嘗てのニュー・イングランドのラムか、或いはホーシーが学んだグラスゴーの蒸留所から来てるのかも知れません。ともかく、彼は生産したウィスキー・バレルをボルティモアやワシントンに送り、それを蒸気船に乗せてホーン岬を回り、サンフランシスコまで航海させました。そこで一部のウィスキーは更に1年間倉庫に置かれた後、現地で宣伝してサンフランシスコのサロンなどで販売したり、カリフォルニアでゴールデン・ゲイト・ライとして販売したようです。そして残りのウィスキー・バレルは鉄道でメリーランドに戻された後にボトリングされました。ホーシー・ライが入っていた木箱には「このウィスキーは、S.S.____によってサンフランシスコまで海上輸送されたため、独特で最も心地よい柔らかさが得られた」との文言がステンシルされ愛好家を魅了しました。もし、それがただのギミックだったとしても、それは上手く行きました。ホーシーの製品はマサチューセッツからカリフォルニアまで顧客がおり、美食家が必要とする全ての品質に富んでいるとして、街角の酒場ではなくホテルやクラブのようなちょっと高級な場所で愛飲されたと言われています。
こうした航海熟成のテクニックはホーシーだけの専売特許ではなく、初期のシャーウッド・ライにはキューバに出荷されて戻って来るものがあったり、バーキッツヴィルにあるもう一つのジョン・D・エーハルトの蒸溜所のアンティータム・ライは、熟成の過程でウィスキーをリオデジャネイロまで送っていたと言われています。航海熟成は製造コストを押し上げたのは間違いないと思いますが、実は当時の経済状況では長い船旅はそれほど高くはなかったらしく、1903年8月の『ニューヨーク・タイムズ』には「蒸溜業者はウィスキーをブレーメンとハンブルグに送り、そこからホーン岬経由で出荷する方がルイヴィルからサンフランシスコまで鉄道で送るよりもコストが掛らないことを発見した」と報じられているそうです。1887年の州際通商委員会(Interstate Commerce Commission=ICC)の公聴会で発表された統計によると、或る蒸溜所はボルティモア港からホーン岬を回ってサンフランシスコまで1バレル約1ドルでウィスキーを送ることが出来るとICCに文書で報告したとか。これは貨物列車でアメリカ大陸を横断して輸送するよりも遥かに安い金額でした。1800年代の鉄道が今日の新幹線以上、寧ろジェット機のような存在であったことを考えると、ホーシーのウィスキーがサンフランシスコからボルティモアまで、鉄道が運行する全ての都市を巡り、ケースや車両の側面にブランド名が目立つように表示されながら戻って来たのなら、それはホーシー・ライの高級感と知名度を高める宣伝そのものだったでしょう。
ホーシーズ・ピュア・ライは、おそらくは最上級の意味で自らを「アメリカで最初のイースタン・ピュア・ライ・ディスティラリー」と広告で称しました。そしてこの珍しい名前のウィスキーは量を増やすことよりも品質を維持することに重点を置いていました。1日の生産量は400ブッシェル未満でしたが、蒸溜所の事業からの課税対象収益は何年もの間、約25000ドルで安定していたそうです。ニードウッドの農場とウィスキーから得た利益(また幾つかの大企業の役員も務めていたと云う)で繁栄したホーシーは、ワシントンDCに家を購入し、チャールズ・キャロルの子孫である妻アンナと共にそこで優雅な冬を過ごし、地元の上流社会では活発に活動しました。単なるビジネスマンではなかった彼は、ジョン・W・バウマンやイーノック・ルイス・ロウといった人物を師と仰ぎ、政治にも力を入れ、おだてられて上院議員に立候補したこともあったそうです(後にボルティモアのイーノック・プラット自由図書館の主任司書となるルイス・H・スタイナー博士に敗れた)。「威厳のある堂々とした風貌で、接する人すべてから尊敬と称賛を集めた」アウターブリッジ・ホーシー四世は、1902年1月5日、83歳の高齢で亡くなり、ピーターズヴィルのセント・メアリー・カトリック墓地に埋葬されました。『ニューヨーク・タイムズ』の死亡記事には、彼の政治的なコネクションが強調され、ディスティラーでもあったことは後付けで加えられたに過ぎませんでした。ホーシーは亡くなる2週間前に株式会社を設立し、3人の息子達を戦略的なポジションに任命したとされます。彼の死後間もなく息子達はニードウッド蒸溜所の半分以上をコーン・リカーに切り替え、蒸溜所を売却し、飲料用アルコールのシーンから去って行きました。ホーシーの貴族の家族はウィスキー造りには興味がなかったらしい。
新しい経営者のもとで1907年には生産量が倍増したとされますが、幅広い飲酒者に販売される品質が低下したものだったと推測されます。品質は兎も角として、1906年に制定された純粋食品医薬品法の「ピュア・ライ・ウィスキー」と表示するための新たな法的資格により、それまで人気を博していた多くの銘柄が酒屋の棚から突然姿を消しました。ホーシー・ブランドもその影響からか、製品名は「オールド・ホーシー」に変更されました。ライの他、単なるストレート・ウィスキーも現れホーシーの名が冠されるようになりましたが、製品はもはやホーン岬を旅するものではなく、ブランドはその水の質の高さを売り物にしていたようです。スウィートなテイスティングの水の供給源はサウス・マウンテンのスプリングからである、と。1914年の政府の水質に関する報告書によると、スペント・マッシュから毎日6000ガロンがミドル・クリークに排出されたそう。禁酒法が訪れると他のアメリカン・ウィスキーの多くと同様にホーシーの蒸溜所(メリーランドRD#17)は1919年に閉鎖されました。
禁酒法下でニードウッド蒸溜所が何千本ものボトルを保管していることが判明すると、強盗が入って奪われたという話があります。1923年4月1日の『ボルティモア・サン』の記事によれば、「昨日未明、メリーランド州バーキッツヴィルのホーシー・アウターブリッジ蒸溜所(原文ママ)で、2台の自動車に乗った数人の男が6ケースのウィスキーを盗んだ」とあり、警備員が発砲すると強盗もこれに応え銃を乱射、何発も銃弾が飛び交い、その間に泥棒たちは車に乗り込んで走り去りました。倉庫の在庫を調べたところ、盗まれたのは薬用としてパイント・ボトルに入っていた6ケースだけでした。これは「この8ヵ月で4回目のことで、この他にも少なくとも2回ほど工場への侵入を試みたが挫折したこともあった」そう。ボルティモア・コンセントレーション・ウェアハウス・カンパニーのジェネラル・マネージャーであるデイヴィッド・スティーフェルによると、約15の蒸溜所に分散している州内50000バレルのうちアウターブリッジ・ホーシーの倉庫に保管されていたのは4000バレル以下だったとのこと。
禁酒法が明けた1934年、ホーシーの名前は再び表舞台に現れます。メリーランド州コッキーズヴィルを源流とするが別の会社であるシャーウッド・ディスティリング・カンパニーは薬用アルコールの販売で生き延び、禁止令廃止にあたり経営陣はホーシー・ディスティリングを買い取り、工場を再建することなく知名度の高いブランドだけを維持しました。この時には「オールド・ホーシー・ヴェリー・ファイン・ライウィスキー」、「オールド・ホーシーズ・メリーランド・ライウィスキー」、「オールド・ホーシー・ライウィスキー」等があり、「オールド」や禁止後の法的要件である「ウィスキー」という言葉が追加されています。シャーウッドはその後ウェストミンスターに本拠を移したのでラベルにはその名前の記載がありますが、蒸溜とボトリングはペンシルヴェニア州グレン・ロックの古いウィリアム・ファウスト蒸溜所で行われていました。この過程でホーシー・ライは、過去の6年熟成させた高品質なブランドから、大量消費用の2年物を含む安物ウィスキーに変質してしまった模様。もしアウターブリッジが生きていたら激怒したかも知れません。


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メルローズ・ライ
上品で甘美な雰囲気を醸すメルローズのウィスキーは、造り手の出自を反映していたのかも知れません。アメリカの上流階級に属するゴールズボロ家はその血統を過去に繁栄したイングランドに遡り、メルローズの創始者の母方の家系にはフランスの貴族が含まれているそうです。アメリカで最初のゴールズボロであるニコラスは1669年に到着し、メリーランド州のイースト・ショアにあるケント・アイランドに定住しました。この一族は市民活動や公的な活動に於いて顕著な功績を残し、メリーランド州知事も輩出しています。その他にも影響力のある人物を輩出しているらしい。メルローズの物語は1880年代にヘンリー・P・"ハリー"・ゴールズボロが妻と若い家族と共にテキサスからボルティモアに戻った後に始まりました。彼は若い時分から西部テキサスで商売を成功させていましたが、新しい展望を求めて出生地のメリーランドに帰って来たのです。
一方、ジョージ・J・レコーズという名前のボルティモレアンがパートナーと一緒にライト・ストリート116番地に「レクティファイアーズ、ディスティラーズ、ホールセラーズ」として宣伝する酒屋を設立していました。ボルティモアに戻ったハリーは自分の資金を彼らの会社であるレコーズ,マシューズ・アンド・カンパニーに投資しました。そして数ヶ月以内にマシューズの株を購入し、社名は1885年頃にレコーズ&ゴールズボロに変更されました。そして、ほぼ同時期に(1883年という説も)同社を全国的な評判にしたラベルであるメルローズ・ブランドを作成しました。その名前はゴールズボロの先祖代々の英国の邸宅があったメルローズ・ロードに由来しています。レコーズ&ゴールズボロは当時のメリーランドの他の生産者と同様に、ストレート・ウィスキーは風味が集中し過ぎており、レクティファイして90プルーフに減らす必要があると考えていました。ストレート・ウィスキーは優れた飲み物であり、一部の人々に好まれる可能性があることを認めつつも、ロウワー・プルーフの方がフレイヴァーのバランスが良く多くの人にアピールすると考えたようです。彼らのフラッグシップ・ブレンドは5種類のライ・ウィスキーを使用し、そこにアロマ、フレイヴァー、ボディ、テイストを同社が求める特徴に統合するための特別なブレンディング剤を組み合わせて造られました。ゴールズボロ家の子孫と結婚したスターリング・ グラアムの「Melrose、Honey of Roses」によると、ブレンディング剤はフレイヴァーには寄与しないがメリーイングおよび触媒として役立つそう。それはフルーツベースの、おそらくシェリーかポートを使った何かではないかと推測している人がいました。メリーランド・ライはしばしば特徴的な赤い色をしてたとされ、特にシャーウッドとシャーブルックのブランドはそうで、メルローズも深い赤色だったと伝えられます。それはもしかするとブレンディング剤で達成されたものだったのかも知れません。メリーランドの製品の多くはニュートラル・スピリッツとブレンドされていましたが、ハイエンドのブレンドはどれもストレートなキャラクターを有し、品質はストレート・ライやバーボンと同等、場合によっては優れている可能性があるとされています。
当初、レコーズ&ゴールズボロはウィスキーを蒸溜していなかったためオープン・マーケットで調達されていました。メリーランド州は多くの蒸溜所を誇っていましたが、卸売業者による競争は激しく、原酒の価格高騰の可能性があり、経営者達は自分のプラントを所有することに熱心でした。多くのレクテァファイアーと同じようにそう望んだレコーズ&ゴールズボロは、ブレンド用ウィスキーの安定した供給を確保するため、別の有名なボルティモアのウィスキー男爵エドウィン・ウォルターズがバギー事故で負傷して死亡したのを契機に、他の二つのボルティモアのリカー・ハウスからなるシンディケイトに参加して、ボルティモア近くのキャントンにあるプラントを1897年に購入し、名前をオリエント蒸溜所からキャントン蒸溜所に変更しました。その蒸溜所はライ・ウィスキーの品質で知られ、メルローズ・ブレンドの供給源でした。こうしてより確実な供給源を得た同社は独自のブランドを増やすことが出来、メルローズの他に「ハッピー・デイズ・ライ」、「マウンテン・ヒル」、「メリーランド・ゴールデン・エイジ」、「メリーランド・プライド」、「オールド・レコード・ライ」、「R and G」などがあったそうです。彼らはウィスキーのブレンドを専門とする会社ですが、ブレンドされていないストレート製品も販売しており、いつの時代か不明ながらキャントン・メリーランド・ストレート・ライウィスキーというのもあったらしい。
1904年2月のボルティモア大火災がライト・ストリートを含むダウンタウンの大部分を破壊した時、レコーズ&ゴールズボロの建物も被害に遭いました。しかし、翌年には再建され、住所は新しいライト・ストリートの36番地になりました。それから彼らは1906年にメルローズ、1907年にハッピー・デイズと、初めて二つのブランドを商標登録しました。   1909年4月にはジョージ・レコーズが59歳で亡くなります。 彼と妻の間には子供がいなかったため、リカー・ハウスの所有権はゴールズボロに委譲されました。レコーズとは対照的に子宝に恵まれていたハリーは、息子が雇用年齢に達した時に会社に加えます。そのうちの二人、フェリックス・ヴィンセントとウィリアム・ヤーバリーのゴールズボロは酒類ビジネスに親和性がありました。兄弟たちは父親に付き従ってビジネスのあらゆる側面、樽の運搬、ボトルのラベル付け、帳簿の管理までゼロから学びました。取り分けウィリアムは初めからレクティファイング・プロセス(ブレンド)で例外的な才能を示したと言われています。兄のフェリックスの方は経営面に才覚を発揮しました。その後、他の兄弟であるジョージ・Jも会社に参加します。
第一次世界大戦ではウィリアム、ジョージ、そして三番目の兄弟リロイが入隊しました(ウィリアムとリロイは陸軍、ジョージは航空隊)。その結果、残念なことにウィリアムは永久的な眼の怪我を負い、リロイは死亡してしまいます。フェリックスは結婚し、1915年に会社の社長に任命され、家にいて酒類事業を守りました。その頃ハリー・ゴールズボロの健康は歳を取るごとに悪化、1917年に58歳で亡くなり、ボルティモアのカテドラル・セメタリーに埋葬されました。第一次世界大戦が終わると、ウィリアムとジョージはホームに帰り、兄を手伝ってレコーズ&ゴールズボロの運営に復帰、会社は成功を収めたようです。しかし、禁酒法が施行されたため、1919年末に会社は閉鎖を余儀なくされました。
業界は13年間の禁酒法によって殺害されましたが、禁酒法が撤廃されると高齢にも拘らず兄弟達は再び力を合わせて事業を再開、メルローズ・ライを復活させました。メルローズ・ブランドを持つレコーズ&ゴールズボロは、メリーランド州にあっては禁酒法解禁後に同じ名前と経営者で再び登場する数少ないウィスキー企業の一つとなったのです。再びウィスキーのブレンディングを開始した彼らは、世界恐慌と第二次世界大戦によって齎された問題に直面しますが、何とかそれを克服しました。この頃にはゴールズボロ家の3世代目も事業に参入していました。彼らは苦労してビジネスを構築してメリーランド・ウィスキーの売上を達成することに成功。同社はメリーランド州に蒸溜所を開設しただけでなく、ケンタッキー州エクロンにあるペブルフォード蒸溜所を買収しました。戦争努力のための工業用アルコールを支持して、飲料用アルコールの生産が停止された第二次世界大戦中でさえも事業を継続していたらしい。戦時中であるにも拘らず、その品質には影響がなかったとか。しかし、最終的に彼らは業界の巨人に吸収されます。1948年(1945年説も)、一家は会社、蒸溜所、ブランドをシェンリー・インダストリーズに売却することを決めました。
シェンリーの全ての蒸溜所と同様に、メルローズ蒸溜所は1950年代の最初の数年間にウィスキーを過剰生産していました。シェンリーは朝鮮戦争がもう一つの世界大戦へと拡大し、戦争のために工業用アルコールの製造を余儀なくされると信じていたのです。しかし、物事はそうなりませんでした。そしてシェンリーの倉庫には過剰生産されたウィスキーが溢れ返りました。彼らは蒸溜所での生産を停止し始め、最終的に蒸溜所を売却し出しました。1960年代と70年代にウィスキーが市場シェアを失ったため、シェンリーはブランドの広告のサポートを止め、その後ブランドの生産も止めました。これがメルローズ・ブランドの運命と重なりました。1980年までにブランドはもはや生産されず消滅した、と。往年よく知られたメリーランド・ライのブレンドだったメルローズ・ライ。その名前は、もうメリーランドにはありませんが、現在ではテネシー州チャタヌーガのJ.W. ケリー&カンパニーによって復活しています。


では、そろそろ話をもとに戻します。第一次世界大戦と禁酒法はライ・ウィスキーの人気に対する大きな打撃でした。
禁酒や節酒を呼びかける声はアメリカという国の初期段階から聞こえていました。陽気な酒飲みの背後には、アルコールに蝕まれた家族やアルコールによって台無しにされたキャリアといった破滅的な光景も広がっていたからです。1810年から1840年にかけて個別に行われていたプロテストは次第に融合して行きました。1840年にボルティモアで設立されたワシントン・テンペランス・ソサエティは、一般的には全国的な組織を持つ最初の活動とされています。1854年に『Ten Nights in a Bar-room, and What I Saw There』という辛辣な小説(読者が飲酒するのを思い留めさせるための明確な意図をもって書かれたテンペランス小説)を書いたティモシー・シェイ・アーサーはボルティモアで育ちました。南北戦争後、禁酒運動の主導権は男性から女性へと移ります。特に1874年に設立された女性キリスト教禁酒連合(Woman's Christian Temperance Union=WCTU)ではその傾向が顕著でした(メリーランド支部は1875年に開設)。1903年11月19日には、あの有名な酒場の破壊者であるキャリー・A・ネイションがボルティモアのリリック・シアターにやって来たという話もありました。時にはボルティモアのサルーンが物理的な攻撃を受けることもあったのかも知れません。もっと典型的なのはテンペランスの行進で、大学の学生や卒業生、教師、医師、教授、福音主義教会の会員など全て女性で構成された行列がボルティモアの通りを席巻したそうです。
1851年、メイン州は州全体を対象とした禁酒法を制定しました。その後、他の州やカナダの州でも禁酒法が制定されましたが、議論や投票が盛んに行われたため一部の地域では撤回されました。メリーランド州もすぐにそうした「戦場」になりました。早くも1862年には、モンゴメリー郡のブルックヴィルから2マイル以内、サンディ・スプリング集会所から2.5マイル以内、エモリー礼拝堂と学校から半径4マイル以内での「いかなる蒸溜酒や発酵酒」の販売を禁止する法律が制定されています。ボルティモアのマウント・ヴァーノン・ミルズのような製造業者は、労働者の飲酒を減らすために工場の近くでの酒類の販売禁止を求めたこともあったそう。1885年にはカウンティ・オプション法が成立し、アナランデル郡、カルヴァート郡、キャロライン郡、セシル郡、ドーチェスター郡、ハーフォード郡、ハワード郡、ケント郡、モンゴメリー郡、タルボット郡、そしてサマセット郡とクイーン・アンズ郡の大部分で酒類の販売が禁止されました。
一方の親酒派は敵の性格や動機を非難し、少量または時々の飲酒であれば健康になることを主張していましたが、禁酒主義者の猛攻撃の前に無制限の酒類販売の領域は縮小されます。男性によって運営され議員に焦点を当てたアンチ・サルーン・リーグは1895年にワシントン本部を設立し、1910年頃に聖職者がボルティモア支部を支配しました。しかし、皮肉にも残りのウェット・エリアでのビジネスは改善されます。1908年にはノース・キャロライナ州、1912年にはウェスト・ヴァージニア州、1914年にはヴァージニア州と、様々な枠組みで州全体での禁止令が出されましたが、住民が買いだめするために大都市へ旅したため、これがボルティモアには好都合に作用したのです。アナポリスを含む一部の都市はお陰で「オアシス」のようでした。
1916年、酒類販売のドライ/ウェット問題を投票にかける地方法ではない一般法を得て、ドライ派はすぐにキャロル、フレデリック、ワシントンの各郡を獲得しました。1918年までにメリーランド州の土地面積の84%が法律で定められたドライ地帯となったそうです。その間、『アメリカン』を始めとするボルティモアの日刊紙の殆どは酒類の広告を受け入れていました。片や『サン』は1920年代から1930年代初頭に掛けての反禁酒法に対する積極的な姿勢とは対照的に1905年頃まで酒類広告を掲載しなかったとか。
20世紀に入り禁酒運動が急速に活発になった背景には、当時増え続けた移民によって日常的に飲酒する下層民が増えたことに対してアメリカのキリスト教道徳を遵守したい保守派の動きや、アメリカの第一次世界大戦参戦を機に物資の節約と生産性向上への声が大きくなったこと等が挙げられています。また、対戦国であるドイツ嫌いの風潮も強まり、ビール醸造に使われる穀物を節約して前線の兵士に送ろうという主張の裏側には、ビール醸造業を潰してドイツ系市民に打撃を与えようという思惑があったことも指摘されています。第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、連邦政府はアルコール生産を軍事目的に転用しました。メリーランドでも、多くの顧客が海外に流出したため店やバーの数は減って行き、蒸溜所や卸売業者のオウナー・チェンジも頻繁に行われ、閉鎖に伴う投資資金の流出が懸念されました。1918年11月、国民は中央同盟国(第1次世界大戦中の、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国およびブルガリア王国から構成された連合国)に対する勝利をアルコールで祝います。しかし、1915年頃から州法で禁酒を規定するところが増えており、1917年12月に酒類の製造/販売/輸送/輸出入を禁止する憲法修正第18条がアメリカ合衆国憲法の追加条項として議会で可決されていました。当時の48州のうち4分の3となる36州の批准が必要だったので、各州での批准の完了には時間を要し、36番目の州が修正第18条を批准したのは戦後の1919年1月16日のことです。メリーランド州は修正第18条を批准しましたが、州による施行は法制化されていませんでした。条件には一年の猶予が含まれており、その間、ディスプレイ広告も奨励され、消費者は「大旱魃」を防ぐための措置としてメリーランド・ライのボトルやケースをいくつも買い置きすることが出来ました。禁酒の具体的な内容を定めたヴォルステッド法が成立したのは同年10月。そして翌1920年1月には憲法修正18条が発効し、アメリカは遂に国家禁酒法時代に入りました。

メリーランド州は禁酒法の物語の中でもユニークな立ち位置を占めています。 それは「高貴な実験」を確立する修正第18条を批准しつつも、メリーランダーズは一般的にこの法律に反対していたところでした(後に80%以上が廃止に投票することになる)。
この州には多くの移民が住んでおり、特にボルティモアはそうでした。彼らの文化は酒を飲むことが生活の一部として大切にされていました。禁酒運動の外国人排斥の動きに憤慨した彼らにとって、それは自らの習俗を守る文化戦争でした。また、メリーランダーズは自分たちの州の権利と思われるものに連邦政府が介入することに反対し、そして自分たちの個人的な生活への介入にも抵抗しました。国家禁酒法の下では連邦政府と州の両方がアルコール法の施行に責任を負っていましたが、メリーランド州はこの不人気な法律を施行するための法律の可決を拒否した唯一の州でした。禁酒法の全期間を通じて知事が反対したそう。そのため、メリーランド州には「フリー・ステイト」のニックネームが付けられています。それはメリーランド州の政治的自由と宗教的寛容の長い伝統を表している、と。その言葉は、元々は奴隷制の文脈で使われていましたが、ずっと後に別の文脈で使用されるようになりました。1923年に禁酒法の確固たる支持者であったジョージア州の下院議員ウィリアム・D・アップショーが州の執行法の可決を拒否したとしてメリーランド州を連邦への裏切り者として公然と非難すると、ボルティモア・サン紙の編集者ハミルトン・オーウェンスは「ザ・メリーランド・フリー・ステイト」と題された模擬の社説を書き、メリーランドは酒の販売を禁止するのではなく連邦から脱退すべきだと主張します。社説の皮肉が過激だった?のでオーウェンス氏はそれを印刷しないことに決めましたが、後の社説で彼やH・L・メンケンがそのニックネームを広く普及させました。

ヴォルステッド法はアルコールの製造、輸送、販売を禁止していましたが消費を禁止していませんでした。ケンタッキーの有名な蒸溜一家の一員、オソとリチャード・ユージーンのワセン兄弟は法の抜け穴を上手く利用して、1920年頃に薬用ウィスキーを販売するアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)を組織しました。AMSはメリーランド州内で唯一操業を許された蒸溜所としてハニス・ディスティリング・カンパニーのボルティモア蒸溜所(マウント・ヴァーノン蒸溜所)を所有し、禁酒法が終了するまでマウント・ヴァーノン・ライを薬用ウィスキーとして販売しました。またそうした「正規」の「裏側」では、ブートレガーズはチェサピーク湾を利用して商品を運び、知る人ぞ知るスピークイージーも沢山あったようです。メリーランドは1933年にヴォルステッド法が廃止される前も後も、ビールや酒が自由に飲める最も「ウェット」な州として知られていたとか…。

13年間の禁酒法は業界全体を痛めつけましたが、1933年に禁酒法が解禁されるとメリーランドでも少数の蒸溜所が再開され、州に特有のスピリッツであるライ・ウィスキーの需要を満たすために生産を増やしました。しかし、ブームは比較的短命であり、第二次世界大戦後、経済の変化と需要の減少の組み合わせにより、次々と蒸溜所は閉鎖され、最終的にライの繁栄は終わりを告げることになります。ケンタッキー州のようにはいかなかったのです。
「ドライ・エラ」の間に何かが変わりました。禁止後、ハイ・コーン・レシピのバーボン・ウィスキーは間違いなく最も人気のあるスタイルとなりました。バーボンは王座の地位に就き、ライは棚の後ろに押し出されたのです。多くの場合、バーボンがライに取って代わった理由としては、禁酒法期間中に酒飲みの舌がスピークイージーで提供される密造されたコーン・ウィスキーに慣れたため禁止後に皆がバーボンを欲っするようになったと説明されます。それは少しの真実を含むかも知れません。或いはバーボンはトウモロコシ栽培者に対する連邦政府の補助金に助けられたとも言われます。禁酒法の直前と直後、第二次世界大戦中、米国政府はトウモロコシに助成金を支給し、農民にとって魅力的な作物になりました。お陰でトウモロコシはより安くより入手し易くなりましたが、ライ麦はそのままでした。蒸溜酒製造業者は自らの産業を再建するためにトウモロコシに群がりました。それは伝統的なアメリカの蒸溜に対する深い敬意以上に、実用的なビジネスの観点からの動きだったのです。そうなったもう一つの理由として重要なことに、禁酒法後のメリーランド州の蒸溜所の減少が挙げられます。禁酒法以前に生産していたメリーランド州の蒸溜所の多くは貴重な都市部にあり、禁酒法の13年の間に不動産を売却する必要性がありました。逆にケンタッキー州では蒸溜所の多くが郊外や農業地域にあり、その土地の需要はそれほど大きくなく、蒸溜所の販売はそれほど魅力的なものではありませんでした。禁酒法の間に売られその後に再始動した殆どのメリーランドの蒸溜所は、禁酒法以前にそれらを運営していた人々とは異なる人々によって運営されました。しかも大抵の場合、メリーランド・ウィスキーの評判を利用して手っ取り早くお金を稼ぐことに興味のあるビジネスマンに売り払われていたそう。その多くは10年以内に失敗に終わったと言います。それでも何とか維持していた蒸溜所は、嘗ての偉大なメリーランド・ライの淡い影であるブレンデッド・ウィスキーを販売するためだけに古い有名なブランドの名前を購入することに主に関心を持っていた大規模なウィスキー・コングロマリットに買収されて行きました。
1936年にメリーランドはライ・ウィスキーの生産量が1400万ガロンとなり国をリードしました。その二年後、政府の保税倉庫から1500万ガロンのライ麦を処分しなければならないというニュースが流れました。第二次世界大戦の勃発です。これ以降ライの生産量は二度と戦前のような高水準に戻ることはありませんでした。戦時中、穀物とアルコールは軍用に転用されます。メリーランダーズは特に愛国心が強く、非常に多くの蒸溜所がエタノールの製造に切り替えたと聞きます。そしてブレンデッド・ウィスキーが登場し始めますが、これが大衆の支持を得たことはストレート・ライ・ウィスキーの余命が幾許もないことを意味していました。戦後ほどなくして大衆の酒飲みの舌はバーボン、スコッチ、カナディアン、ジンを求め、そうした嗜好の変化はメリーランド・ライの人気を終わらせるのに十分でした。

AMSを母体として生まれたナショナル・ディスティラーズが禁酒法の終わり間際に買収したハニス・ディスティラリーは、1953年まで操業したものの販売不振のため閉鎖されました。
一方、ボルチモアの少し南東にありアイルランドにちなんで名付けられたダンドークでは、ウィリアム・E・クリッカーがボルティモア・ピュア・ライ・ディスティラリーを建設し、メリーランドには珍しい98%ライと2%モルテッドバーリーのみのマッシュビルをもったボトルド・イン・ボンドのライ・ウィスキーを販売していました。クリッカーは1950年代初めに蒸溜所をナショナル・ディスティラーズに売却しました。この蒸溜所は、50年代のワイルドターキー・ライのソースだった可能性が指摘されています。理由は不明ですがナショナルは割と短期間でこの建物をシーグラムに売却し、彼らは自社のフォアローゼズやポールジョーンズのようなブレンデッド・ウィスキーの製造に使用しました。
アーサー・ゴットシャルクの建てたメリーランド・ディスティリングは、1933年にボルティモアの投資家が復活させ、ヘレソープとアビュータス近くのリレイに新工場を建設しましたが、すぐにシーグラムに吸収されてしまいました。新オウナーは蒸溜所の名前を「カルヴァート」に変え、リード・ブランドをロード・カルヴァート・ブレンデッド・ウィスキーに変更。売上が減少するとリレイ蒸溜所は蒸溜を停止しました(その後、長らくディアジオのボトリング業務に使用されていましたが2015年末に閉鎖された)。
禁酒法以前にシャーウッド・ライを製造していたジョン・ハイアット・ワイトの息子は、修正第21条の通過と共にメリーランド蒸溜業界の主要人物となり、ボルティモアより北東のホワイト・マーシュ地域にあったと思われるロアリーに蒸溜所を建設し、フランク・L・ワイト・ディスティリング・カンパニーを率いてシャーブルック、ワイツ・オールド・リザーヴ、コングレッショナル・クラブ等のストレート・ライ・ウィスキーを販売していましたが、1941年(43年説も)にその事業をハイラム・ウォーカー社に売却します。その後ハイラムが生産拠点をイリノイ州ピオリアに移したことで7年後に閉鎖されました。その後フランクはコッキーズヴィル・ディスティリング・カンパニーを組織し、1926年に建物が取り壊されるまで元のシャーウッド施設があった場所の近くに蒸溜所を1946年に建設しました。シャーウッド・ブランドを取り戻すことが出来なかった彼は、代わりにライブルックと名付けたメリーランド・ストレート・ライを製造・販売していました。1958年にフランクが亡くなると、ワイト家最後の蒸溜所であるコッキーズヴィル・ディスティリングは閉鎖されてしまいます。
1948年当時には、まだ15の蒸溜所がライを生産していたそうですが、今見たように第二次世界大戦後は生産量が減少し、ライ・ウィスキーの蒸溜所は次々と閉鎖され、最後のメリーランドを拠点とする蒸溜所も1972年にその扉を閉めました。その蒸溜所が造っていたのがパイクスヴィルです。今日、新世代のメリーランドのディスティラーは州特産のライ・ウィスキーを生産して伝統を取り戻すため懸命に取り組んでおり、そうした近年のクラフト・ディスティラリーによる復興を除けば、最後まで存命していたメリーランド・ライこそがパイクスヴィルでした。

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ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、アメリカの現行ワイルドターキーのラインナップの中では1942年の古典的な「101」、1991年の「レアブリード」に次ぐ、3番目に古いリリースの由緒あるブランドであり、ワイルドターキー101のシングルバレル・ヴァージョンとして1994年に作成されました。公式リリースは1995年なのかも知れませんが、最初のボトルは1994年に充填されています。おそらくは、バーボン界で初めての商業的なシングルバレル・バーボン、ブラントンズの対抗馬であったと推測され、ブラントンズの競走馬やケンタッキー・ダービーをモチーフとした華麗なボトルの向こうを張った七面鳥のファンテイル・ボトルは流麗で目を惹くものでした。またブラントンズと同じように、ラベルには手書きでボトリングされた日付やバレル・ナンバー、倉庫やリック・ナンバーが記されているのもプレミアム感をいやが上にも高めています。そして、キャップはピューター製の重厚で高級感のあるものでした。それ故ケンタッキー・スピリットの初期のものは通称ピューター・トップと呼ばれています。2002年からストッパーはピューター製からダーク・カラーの木製のものに変更されました。更に2007年もしくは2008年頃にはダークだった木材がライトな色味へと変わります。ラベルに描かれる七面鳥も、ケンタッキー・スピリットに於ける明確な変更時期は特定出来ませんが、ブランド全体に渡るラベルのリニューアルに合わせ、前向きが横向きへ、カラーがセピア調へと更新されました。と、ここまではキャップ等のマイナーチェンジとシリーズ全般の変化なので、ケンタッキー・スピリットの姿自体はそれほど変わりありませんでしたが、2019年、遂にケンタッキー・スピリットの象徴的なテイルフェザー・ボトルは廃止、レアブリードに似たデザインに置き換えられ、ラベルの七面鳥の存在感は薄くなります。
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「ケンタッキー・レジェンド」と免税店の「ヘリテッジ」といった一部の製品を除き、ケンタッキー・スピリットは2013年にラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルが発売されるまでの20年近く、ワイルドターキーのレギュラー・リリースで孤高のシングルバレルであり続けました。アメリカの小売価格で言えば、ワイルドターキー101より2倍以上高く、ラッセルズ・リザーヴより少し安い製品です。ケンタッキー・スピリットをラッセルズ・リザーヴと比べてしまうと、ラッセルズ・リザーヴは冷却濾過されずによりバレルプルーフに近い110プルーフでボトリングされるため、スペック的にケンタッキー・スピリットを上回ります。そのせいもあってか、2014年頃から始まったプライヴェート・バレル・セレクションでもラッセルズ・リザーヴのほうが人気があります。その味わいの評価に関しては、アメリカの或る方の喩えでは「ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、天井は高いが床はラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルよりも低い」と言っていました。ターキーマニアの代表とも言えるデイヴィッド・ジェニングス氏などは、ケンタッキー・スピリットのボトルがリニューアル(同時に値上げも)されたのには相当ガッカリし、ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルの方が愛好家向けにアピールする製品であり、逆にもっとライトな飲酒家向けにはラッセルズ・リザーヴ10年や「ロングブランチ」などがあるため、ケンタッキー・スピリットの立ち位置がブレて消費者への訴求力が落ちているのを危惧して、価格以外に三つの解決策を提案をしています。
第一はボトルの変更です。テイルフェザー・ボトルが高価なのなら、せめて同様の美しさをもった往年のエクスポート版のケンタッキー・レジェンド(101)や「トラディション(NAS)」のようなボトル・デザインに先祖返りするのはどうか?、と。
第二にケンタッキー・スピリットもノンチルフィルタードのバーボンにする。そうすればスタンダードなワイルドターキー101よりも優れた利点が確実に得られる、と。
第三にラベルに樽詰めされた日付も記載する。現在でもボトリングの日付はありますが、ケンタッキー・スピリットが愛好家に向けた製品を目指すのなら、より細部に拘ったほうがいい、と。
そして更には、先ずは一旦ケンタッキー・スピリットの販売を休止し、現在の115エントリー・プルーフのバレルを維持しつつ、昔のような107エントリー・プルーフのバレルも造り、二つの異なるバーボン・ウィスキーを用意、最後に理想的な熟成に達した107エントリー・プルーフのバレルからケンタッキー・スピリット101を造り上げるという提言をしています。これは謂わばジミー・ラッセルのクラシックなケンタッキー・スピリット・シングルバレル・バーボンを復活させるというアイディアです。確かにこれが実現したら素晴らしい…。
ちなみに彼は現在のケンタッキー・スピリットを扱き下ろしているのではありません。ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルとワイルドターキー101の中間にあっては、昔ほど誇らしげに立っていないと言っているだけです。実際、彼はここ数年のケンタッキー・スピリットの高品質なリリースを幾つか報告しています。まあ、少々否定的な物言いになってしまいましたし、今でこそケンタッキー・スピリットの特別さがやや薄れてしまったのも間違いないのですが、それでもその「魂」は眠ってはいないでしょう。ケンタッキー・スピリットはジミーラッセルの元のコンセプトに忠実であり続けるバーボンであり、殆どの場合ワイルドターキー101よりも美味しく特別なバーボンであり、またストアピックのラッセルズ・リザーヴが手に入りにくい日本の消費者にとってはワイルドターキー・シングルバレルの個性的な風味を経験するよい機会を提供し続けています。

改めてケンタッキー・スピリットの中身について触れておくと、その熟成年数はNASながら8〜10年とも8.5年〜9.5年とも言われており、とにかくワイルドターキー8年と同じ程度かもう少し長く熟成されたシングルバレルをジミー・ラッセルが選び(現在はエディ?)、冷却濾過して101プルーフでボトリングしたものです。つまり単純に言えば、冒頭に述べたようにケンタッキー・スピリットは現在でも日本で販売されているワイルドターキー8年101のシングルバレル・ヴァージョンなのです。ジミー自身はケンタッキー・スピリットについて、タキシードを着たワイルドターキー101と表現していたとか。多分、スタンダードな物より格調高く華やいでいる、といった意味でしょう。発売当初のボックスの裏には彼自身の著名でこう書かれました。
時折、完璧なものを垣間見ることがあります。私はいつもそれを上手く説明することは出来ないのですが、或る樽は熟成するにつれて並外れた味を帯びるのです。信じられないかも知れませんが、私は20年以上前の樽を今でも正確に覚えています。ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、そのような記憶に残る発見の喜びを与えてくれます。このボトルには、特別な1つの樽から直接注がれた純粋なバーボンが収められており、私はそれを皆さんにお届けすることを誇りに思います。
マスターディスティラー、ジミー・ラッセル
ついでに言っておくと、ケンタッキー・スピリットとラッセルズ・リザーヴという二つの同じシングルバレル製品の違いは、ボトリング・プルーフとチルフィルトレーションを除けば、そのフレイヴァー・プロファイルにあるとされます。現在のマスターディスティラー、エディ・ラッセルによれば、ケンタッキー・スピリットが父ジミーの好みをより代表しているのに対し、ラッセルズ・リザーヴは本質的にエディ自身の好みを代表しているそう。
ケンタッキー・スピリットの味わいについては、先に引用した「天井と床」の喩えで判る通り、アメリカでも日本でも多少のギャンブル性が指摘されています。つまり、ケンタッキー・スピリットはラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルと同等かそれ以上に優れている場合もあれば、スタンダードなワイルドターキー101や8年101に非常に似ている可能性もあるということです。これはケンタッキー・スピリット云々というより、シングルバレルの特性上仕方のない面でもあります。通常3桁から4桁のバレルを混ぜ合わせる安価なバーボンは平均的なフレイヴァーになるのに対し、文字通り一つのバレルから造られるシングルバレル製品はフレイヴァー・バランスが異なります。具体的に例を言うと、普段飲んでいるワイルドターキー8年の味が脳にインプットされていて、さあ、いつもより上級なものを飲んでみたいと思いケンタッキー・スピリットを買いました、いざ飲んでみるといつものターキーよりスパイシーでオーキーでした、あれ? いつものほうがフルーティで美味しくない?、となったらその人にはハズレを引いたと感じられるでしょう。こればかりはその人の味覚次第だから。とは言え、本職の方が選んだバレルですから美味しいに決まってますし、それだけの価値があります。ケンタッキー・スピリットは甘くフルーティなものから、ややドライでタンニンのあるものまで様々なプロファイルを示しますが、真のワイルドターキー・ファンならば勇んで購入すればよいのです、好みのもの好みでないものどちらに転ぶにせよ。

ケンタッキー・スピリットはラベルの七面鳥やボトル・デザインの変化でなく、別の視点から概ね三つに分けて考えることが出来ます。ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。2004年に107プルーフから110プルーフ、2006年に110プルーフから115プルーフに。これは良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味します。また、ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。これも良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味するでしょう。そこで、ケンタッキー・スピリットの平均的な熟成年数である8年を考慮して大雑把に分けると、

①1994〜2012年の107バレル・エントリー原酒
②2013〜18年の110/115バレル・エントリー原酒
③2019年からの新蒸留所原酒

というようになります。このうち①、特にピューター・トップのものは昔ながらのワイルドターキーの味わいであるカビっぽいコーンや埃のような土のようなオーク香があり複雑な風味があるとされます。②は①のようなファンクが消え、ライトもしくはいい意味で単純な傾向に。③は前出のDJ氏によれば、選ばれたバレルによっては「床が上がっている」そうです。そこで今回は、私の手持ちのケンタッキー・スピリットの年代が異なるもの2種類と、先日投稿したワイルドターキー8年101の推定2019年ボトルを同時に飲んで較べてみようという企画。実を言うと投稿時期が違うだけで、3本をほぼ同時期に開封しています。

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2021-07-27-01-20-18
WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof
Bottled on 01-14-16
Barrel no. 2830
Warehouse O
Rick no. 2
2016年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。接着剤、香ばしい焦樽、香ばしい穀物、ローストナッツ、コーン、ライスパイス、ブラックペッパー、若いチェリー、ハニーカステラ、ナツメグ、アーモンド。口当たりはややオイリー。パレートは基本的にグレイン・フォワードで、甘みもあるが飲み込んだ直後はかなりスパイシー。余韻はミディアム・ロングで豊かな穀物と共に最後にワックスが残る。

8年101と較べて良い点は口当たりがオイリーでナッティさが強いところでした。悪い点は接着剤が強すぎるのと荒々しい「若さ」があるところ。全体的には、スパイス&グレインに振れたバーボンという印象。また、101プルーフよりも強い酒に感じるほどアルコール刺激を感じます。正直言って8年101の方がマイルドで熟したフルーツ感もあり私好みのバランスでした。
Rating:86.5/100

2020-11-29-18-33-05
WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof(Pewter top)
Bottled on 10-5-95
Barrel no. 63
Warehouse E
Rick no. 47
1995年ボトリング。やや赤みを帯びたブラウン。ヴァニラ、湿った木材、オールド・ファンク、ベーキングスパイス、ブラッドオレンジ、紅茶、タバコ、土、漢方薬、ドライクランベリー、鉄、バーントシュガー。アロマはスパイシーヴァニラ。口当たりは柔らか。パレートはフルーティな甘さにスパイス多め。余韻はハービーで、マスティ・オークが後々まで長く鼻腔に残る。

2016年のケンタッキー・スピリットが若さを感じさせたのに対して、こちらは寧ろ近年飲んでいたマスターズ・キープ17年のような超熟バーボンを想わせる味わいです。今回私の飲んだ8年101と較べても、90年代の8年101と比べても、ハーブぽいフレイヴァーが強く複雑ではあるのですが、あまり私の好みではありませんでした。多分なんですが、10年前に開封して飲めていたらもっともっと美味しかったのではないかなと思います。言葉を変えれば飲み頃を逃したような気がするということです。
Rating:87.5/100

Verdict:95年ピュータートップに軍配を上げました。比較として飲んでいた8年101の方が自分好みではあったのですが、やはり特別な味わいではあると思ったし、2016年物は軽く一蹴したからです。


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今回はウィレット蒸留所の代表的なブランドであるオールド・バーズタウンのラインナップの一つエステート・ボトルドです。オールド・バーズタウンのブランド自体の説明は以前に投稿した現行スタンダードのレヴューを参照ください。
エステート・ボトルドの起源はよく分かりません。ネット検索で知り得る限りでは15年熟成の物が最も古いような気がするのですが、どうでしょう? 私が見たものには、年式を90年と95年としているものがありました。エステートのラベルは、80年代から日本に輸入されていた当時のスタンダードである馬の頭と首だけの描かれたブラック・ラベルと違い、初期と同じ「オールド・レッド・ホース」の佇む絵柄です。そこからすると、より上位の物にスタンダードの丸瓶や角瓶とは異なるずんぐりしたボトルを採用し、そのトップをワックスで浸し、中身は101プルーフでボトリング、そして伝統的な絵柄のラベルを貼り付けることでプレミアム感を出したのがエステート・ボトルドなのかな、と推測しています。「Estate Bottled」というのがどういった意味かはよく解りませんが、エステートは一般的に「財産、遺産、不動産、土地」などの意味なので、「Family Reserve」や「Private Stock」とほぼ同じような意味なのではないでしょうか。上の意味の他に「種馬」の意味もあると書かれた辞典もありましたから、もしかするとお酒のラベルでよく使われるファミリー・リザーヴやプライヴェート・ストックを敢えて避け、馬のラベルに関連付けてエステート・ボトルドにしたのかも知れませんね。また、常にボトリングが101プルーフであることを考えると、ボトルド・イン・ボンド規格以上ですよと云う意味合いで「Bottled」をかけているのかも。仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。で、その15年熟成の物は、おそらく日本向けか一部の市場のみでの販売と思います。販売された年代と熟成年数から考えると、中身は旧ウィレット原酒であってもおかしくはないでしょう。
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その後、高齢原酒の不足のためか、いつの頃からか10年熟成の物に切り替えられました。この10年表記の物はアメリカでも流通していたようなので、もしかすると切り替えと言うよりはそもそもアメリカ国内向けと輸出用を分けていたのかも知れません。例えば、15年熟成は日本へ90〜95年に少量輸出、10年熟成はアメリカ国内にて90年代後半に発売とか? ともかく、いつから販売されていたかは私には判らないです。そしてもう少し後年、おそらく2008年あたりに熟成年数を表すシールの貼られてないNASになったと思われます。これは確実に長期熟成原酒の不足が理由でしょう。緩やかにではありましたが、2000年代を通してバーボンのアメリカ国内需要は復調していったのです。10年やNASの中身は、おそらくヘヴンヒル原酒の可能性が高いと見られています。

1970年代にバーボンの売上げが劇的に減少し、折からの石油不足が燃料用アルコールへの投資を促すと、投資家はウィレット蒸留所の飲料用アルコール生産を止め、燃料用の生産にシフトしようとしました。しかし、それは使い物にならない機器を残し失敗に終わりました。ありがたいことに、エヴァン・クルスヴィーンは平常心を保ち、一家をバーボン業界に留めるため、1984年にケンタッキー・バーポン・ティスティラーズ(KBD)というボトリング事業を始めます。エヴァンはその後の約30年間、他の蒸留所からウィスキーを購入し、オールド・バーズタウンを守り続け、新しいブランドも創り上げながら、伝統ある自身の蒸留所の再開を夢見ていました。2012年に漸く彼のその夢は叶い、蒸留所は再び蒸留を開始します。2016年になると自家蒸留されたオールド・バーズタウンの二種類(スタンダード90プルーフとボトルド・イン・ボンド)が販売され出しました。
エステート・ボトルドがいつから新原酒になったのか定かではありませんが、6年熟成とされているところからすると、早くて2018年あたりなのでしょうか? ところで、新しいスタンダード90プルーフとボトルド・イン・ボンドのラベルは、どちらもウィレット蒸留所によって蒸留および瓶詰めされていると記載されていますが、対してエステート・ボトルドの私の手持ちのボトル、またそれ以前のボトルのラベルには、蒸留はケンタッキー、ボトリングは「Old Bardstown Distilling Company」によりされたと記載されており、海外ではこれをウィレットが蒸留していないバーボンを販売するときに使用される戦術とする向きもあります。まあ、概ねそうなのかも知れませんが、旧来のラベルはなくなるまで使い続けられることもあるし、そのバーボンの名をDBAとして使用した蒸留所名だからといって全てがソーシング・バーボンとは限らない気が個人的にはしています。現に私の手持ちのボトルは確実に新ウィレット原酒です。おそらく実店舗では、現在日本で流通しているエステートの殆どは新原酒を使用している筈。とは言え、オークションや売れ残りで旧来のエステートが販売されていることも稀にはあるでしょう。そこで旧と新の目安とするならラベルよりもボトル形状に着目して下さい。最近流通しているボトルはネックにやや丸み(膨らみ)のあるものが採用されています。
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或いはボニリが正規輸入している物は新原酒と聞き及びますので、裏のラベルを目印に購入するとよいでしょう(*)。
では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。ちなみにエステート・ボトルドは、スタンダードやBiBと共通のハイ・コーン・マッシュビル、そして上述のように6年熟成、スモールバッチ(21〜24樽)でのボトリングとされています。

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OLD BARDSTOWN ESTATE BOTTLED 101 Proof
推定2020年?ボトリング。焦げ樽、焼きトウモロコシ、プロポリス配合マヌカハニーのど飴、麦芽ゼリー、ミロ、ミルクチョコレート、熟したプラム、蜂蜜、レモン。液体はさらさらしているが、口当たりはややオイリー。パレートではモルティなグレインを強く感じる。余韻はややあっさりめと思いきや、穀物の旨味が広がり、最後にコーヒーの苦味。
Rating:87.5/100

Thought:先ず、スタンダードの4年と比べて2年の熟成期間の追加でかなり印象の違うものになっているのが驚き。スタンダードはフルーティさが強かったのに対して、エステートは味わいに凄くモルティさを感じました。私はフルーツ・フォワードなバーボンが好きなので、実はスタンダードの方が美味しく感じたのですが、私のレーティングは味だけで採点していないためエステートの方を上にしています。スタンダードではあまり感じなかった甘いミルクチョコやココアのような風味は、追加の熟成期間で育まれたと思われ、やはりそこは評価すべきかと。現行のバーボンとオールドボトルの様々な違いの要因について言われていることの一つに、昔は商業用酵素剤を使わずモルトを多く使用していたと云うのがありますが、このエステートにはそういった古のバーボンらしさがあるのかも知れません。同じウィレット蒸留所の同レヴェルの製品と目されるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比べても、マッシュビルの違いからか共通なフレイヴァーもありつつグレイン感の旨味が強いように感じます。どれが好きかは貴方の味覚や感性によって決まりますが、どれもハイ・クオリティで頗る美味しいです。

Value:日本では大体3500円前後。もうね、買え、そして飲め(笑)。オールドボトルでも長熟でもないバーボンの魅力が詰まってますよ。


*誤解のないように言っておくと、これはネックに膨らみのある物やボニリの物だと新原酒である蓋然性が高いと言うことであって、ストレートネックや並行輸入が新原酒ではないと言いたいのではありません。あくまで、ぱっと見で新原酒を購入したい人へ向けたアドヴァイスに過ぎないのです。

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テンプルトン・ライ・バレル・ストレングスは2018年から導入された年次リリースの数量限定製品です。テンプルトン・ライというブランド自体と諸々のエピソードについては、以前に投稿したスモールバッチNAS6年のレヴューで紹介してますので、そちらを参照して下さい。
創業当初NDPであったテンプルトン・ライ・スピリッツ社は2017年に自らの蒸留所を着工し、2018年から稼働し始めたようで、100%アイオワ産のウィスキーは2022年に発売されると想定されています。従って現在流通しているテンプルトン・ライの製品は、全てインディアナ州ローレンスバーグのMGPで蒸留および熟成された95%ライと5%バーリーモルトのウィスキーがソース。ブレンドとボトリングのみがアイオワのテンプルトンの施設で行われている訳です。
バレル・ストレングスは毎年限られた数のバレルが蒸留所マネージャーのレスター・ブラウンを筆頭としたチームによって選ばれます。これはシングルバレルではなく、エイジ・ステイトメントもないため、おそらく熟成年数や成熟度が異なる優良と見做されたバレルが選ばれ、その後それらをヴァッティングし、一つのバッチを形成するのでしょう。同社の4年や6年と違い、バレル・ストレングスには「ストレート」表記がありますので、フレイヴァー製剤の添加はありません。ラベルの承認を行うTTBを欺いているのでない限りは…。また、バレル・ストレングスはフレイヴァー成分をボトルに残すことを期待されるノンチルフィルタード(非冷却濾過)。流石にバレルプルーフならばフレイヴァーを添加する必要はないという判断ですかね。ちなみに、これまでリリースされたバレル・ストレングスは、2018年版が114.4プルーフ、2019年版が115.8プルーフ、2020年版が113.1プルーフでボトリングされています。

テンプルトン・ライ批判の急先鋒と言えるウィスキー・インフルエンサーのジョシュ・ピータースは、2018年にバレル・ストレングスが初めてリリースされた時には「テンプルトン・バレルストレングス・ストレート・ライウィスキーを購入しない5つの理由」という記事を自身のブログに投稿しています。彼は以前からテンプルトン社の現代ウィスキー市場に於けるあらゆる反則技や不誠実な姿勢に嫌悪感を露わにしていましたが、ストレート・ウィスキーであるバレル・ストレングスが出ても怒りは収まらなかったようで…。彼の主張をざっくり纏めると、バレル・ストレングスがストレート規格であったとしても、そのプレス・リリースではどこにもMGPのソースド・ウィスキーであるとは言及されておらず、アルフォンス・カーコフ・レシピの起源物語をまだ言い続けている、だったら同じくMGPの95/5ライ・マッシュのジェームズ・E.ペッパー1776ライのバレルプルーフの方が安く購入できるので自分ならそっちを買う、そうすれば同じ経験をしながら欺瞞的なテンプルトンではない透明性のある会社をサポートすることが出来る、と。私も情報は透明に越したことはないと思っていますし、テンプルトン・ライの行き過ぎたマーケティングにはガッカリするものの、それでもテンプルトン製品を買っています。これはジョシュに賛同しないと言うより、単に日本で比較的買い易いMGP95ライをソースとしたウィスキーがテンプルトン・ライだから、それだけ。MGPの95%ライ好きなんです(笑)。

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TEMPLETON RYE BARREL STRENGTH 115.8 Proof
Limited Bottling 2019
ピクルス、ライスパイス、プラム、青いバナナ、キャラメル、石鹸、塩、ゴーヤ、スイカ、甘いナッツ、弱い蜂蜜。基本的にスパイシーなアロマだが、フルーツとお菓子のような甘い香りもしっかりある。軽やかなのにバタリーな口当たり。味わいはフレッシュな野菜やハーブを思わせる緑感とグレイン。余韻は口当たりや度数の割にあっさり切れ上がるものの、トーストされたオークの甘みとハービーな苦味とライ麦由来のスパイシーさのアンサンブルが心地良い。
Rating:87.5/100

Thought:前回まで開けていたテンプルトン・ライ6年と比べると、バレルプルーフであることとノンチルフィルタードの効果でしょうか、フレイヴァーの強さは桁違いでした。フレイヴァー・プロファイルは概ね同じに感じますが、6年では感じ取れなかった細やかなニュアンスや変化も取得しやすいように思います。選択されたバレルの熟成年数の平均はどうなんだろう、4〜6年くらいはありそうな熟成感という印象。飲んだことある皆さんはどう思われましたか? コメントよりどしどし感想お寄せ下さい。

Value:2020年版のテンプルトン・ライ・バレル・ストレングスは、アメリカでの希望小売価格が約60ドルのようです。日本でこの2019年版が流通していた頃の小売価格は大体5500円程度でした。過剰なプレミアム(割増金)が付けられていなければ、どこかで見つけたら即買っていいと思います。日本ではMGP95ライをソースとしたバレルプルーフのウィスキーがそこまで豊富に流通している訳ではないからです。ただし、他メーカーがボトリングしたMGP95ライのソーシング・ウィスキーでも、バレルプルーフであれば同じくらい美味しいのは確定的であり、尚且もう少し安い可能性はあるので、よほどテンプルトン・ライのブランド・イメージが気に入ってるのでなければ、ジョシュ・ピータースが言うように、そちらを購入するのも手でしょう。

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「バレル・バーボン」はバレル・クラフト・スピリッツ(BCS)が連続番号のバッチで定期的にリリースするバーボン・ラインの製品です。ここで言うバレルは「BARRELL」と表記し、樽の「Barrel」より一個「L」が多いのに注意して下さい。2013年にケンタッキー州ルイヴィルで設立されたBCSは、独自のエイジド・ウィスキーやラムのインディペンデント・ブレンダー兼ボトラーであり、その卓越したブレンド技術で知られています。彼らの目標は様々な蒸留方法や熟成環境にあった樽を探求してセレクト及びブレンドし、カスク・ストレングスでのボトリングで製品化すること。全てのバッチはそれぞれフレイヴァー・プロファイルが異なるよう意図され、どれもが限定リリースとして生産されます。BCSは高品質の樽を豊富にストックしているため、素材のニュアンスを最大限に引き出した特別なブレンドを作ることが出来、自由なアプローチでのブレンディングと各ウィスキーをカスク・ストレングスで提供する強い拘りこそが製品全体の基盤となっているのです。彼らの製品は現在全米46州で販売され、ウィスキー誌での評判もよく、あのフレッド・ミニックによって2018年のベスト・アメリカンウィスキーにも選ばれた他、数々のコンペティションでの受賞歴もあります。

バレル・クラフト・スピリッツの創業者ジョー・ベアトリスは、そのキャリアを常に新しいアイディアに基づいて築いて来ました。元マーケティングとテクノロジーの起業家でニューヨーカーであったジョーは、1990年代に最初の会社ブルー・ディンゴ・ディジタルを設立し、企業がインターネットを使った開設やブランド化や自らのプロダクトを成長させる支援をしていました。BCSを立ち上げるまで創業者の経歴に「ウィスキー」の文字はなかったのです。それでも「私はいつもウィスキーが大好きだったし、ホーム・ブリュワーだったんだ」と彼は言います。ジョーはマーケティングとテクノロジーの業界で20年を過ごした後、或る時、初めて樽から直接ウィスキーを味わうという経験をすると、真のスピリッツの魔法を見ました。それは変革の経験となりました。そうして2013年、彼はバーボンの中心地とも言えるケンタッキー州ルイヴィルでバレル・クラフト・スピリッツを創業します。ジョーは素晴らしい味覚を持つ熟練のウィスキー愛好家でしたが、なにぶんブラウン・スピリッツの経験値はありません。彼は自分がウィスキー・ビジネスについてあまり知らないことを知っていました。しかし、自分の職歴から「知っていたことを応用して、製品のポジショニングやマーケティングの方法、独自のフレームワークを作ることが出来た」とも言います。
ジョーは蒸留所を建てるのではなく別の道を歩みました。同社は自分達のジュースを蒸留する代わりに、定評ある生産者から優れたバーボンやライやラムの樽を調達してブレンドし、それを可能な限り透明性の高い方法で販売したのです。彼らの会社には、怪しげな曽祖父の秘密のレシピや違法な密造酒の歴史もありません。そのアプローチはアメリカでは比較的ユニークでしたが、世界を見るとそうではなく、スコットランドの老舗インディペンデント・ボトラーはジョーにとって大きなインスピレーションでした。

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ジョーはBCSの製造プロセスの全てのステップに深く関わり、チーフ・ウィスキー・サイエンティストの肩書をもつトリップ・スティムソンと共に、米国だけでなく世界中の65の異なるサプライヤーから調達した優れたスピリッツを選び、新しい製品を作り上げています。そのため、あまり馴染みのない場所からも樽は供給され、例としてはバレル・ライ・バッチ003ではアメリカのインディアナ州とテネシー州、カナダ、ポーランドという3ヶ国のライウィスキーのブレンドだったりします。また、ウィスキー・カテゴリーの製品では複数の珍しいフィニッシュ(後熟)を施したりします。同社の最も人気のある「ダヴテイル」などは、厳密にはウィスキーと認められません。ラベル表記を取り仕切るTTBは、ダヴテイルを特定のクラス・タイプのウィスキーに完全には適合しないと判断したのです。そこでラベルには「バレル・ダヴテイル」と銘打たれ、その下に小さく「ウィスキー・フィニッシュト・イン・ラム、ポート、アンド・ダン・ヴィンヤーズ・カベルネ・バレルズ」と長ったらしく書かれています。他にも15年以上熟成されたストレート・バーボン・ウィスキーの特別ブレンドであるウルトラ・プレミアムな「バレル・クラフト・スピリッツ・ライン」やインフィニティ・ボトルから着想を得た「インフィニット・バレル・プロジェクト」や「プライヴェート・リリース」もあり、BCSはとにかく注目を集め続けています。ちなみに全てのブレンドはルイヴィルの古いデータ・ファシリティで行われ、かつてのサーヴァー・ルームがボトリングに使用されているため、温度や湿度に厳格な管理が可能なのだとか。

先述のマスターブレンダーでもあるトリップ・スティムソンはテネシー州チャタヌーガ出身で、2004年にテネシー工科大学で生化学と分子生物学の学位を取得した後、ブラウン=フォーマン社の研究開発科学者として採用されました。彼はそこで経験を積み9年間働いた後、自分のコンサルティング会社を設立し、新しい蒸留所の設計や建設、効率的な運営に必要な技術的専門知識を提供していました。ケンタッキー・アーティザン蒸留所の設計と建設を手伝い、後にマスターディスティラーとして雇用され、そこでジョーと出会います。そして2017年1月にBCSに入社し、製品開発とオペレーション監督の責務を担っています。その他のスタッフでは、2016年5月にナショナル・ディレクターとして入社したウィル・シュラギスや、2019年にBCSに参加したシングルバレル・プログラム・マネジャー&アシスタント・ブレンダーのニック・クリスチャンセンなども活躍。

さて、今回私が飲んだのはバレル・バーボンのバッチ008。上に述べたようにBCSのリリースは非常に透明なので、サプライヤーへの守秘義務を除いて中身のジュースに関してはかなり明らかです。バッチ008のスペックは同社のウェブサイトに拠れば、ストレート・バーボン規格、マッシュビルは70%コーン / 25%ライ / 5%モルテッドバーリー、テネシー州で蒸留されアメリカン・ホワイト・オークの樽で9.5年間熟成、エイジングはテネシー州とケンタッキー州、ケンタッキー州にてクラフトされ132.84プルーフのカスク・ストレングスでボトリング、ノンチルフィルタードです。リリースは2016年7月、MSRPは90ドルでした。マッシュビルからするとジャックダニエル蒸留所でもジョージディッケル蒸留所でもないと思われますが、一応蒸留所は非公開となっています。海外のレヴュワーでプリチャーズ蒸留所ではないか?と言っている方がいましたが証拠はありません。
このバッチは今のところバレル・バーボンがこれまでにリリースした中で最も高いプルーフです。最終的なプルーフはヴァットに投棄された全部の樽の平均ですから、他のバッチのプルーフと比較して平均値が高いこのバッチには、ハズマット(140プルーフ)の樽があったのではないかと推測するマニアもいます。ところでバッチ008にはバッチ08Bというセカンド・リリースがあり、そちらは半年長く熟成された10年熟成でボトリング・プルーフが128.3に下がっています。同一番号が割り振られているということは、同一の樽に由来したバッチなのでしょうけれど、僅か半年の熟成でこれほどプルーフダウンとは…。まあ、それは措いて最後に飲んだ感想を少々。

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BARRELL BOURBON BATCH 008 132.8 Proof
BOTTLE# 2076
AGE : 9yrs
ハイプルーフゆえの強いアルコールも感じますが、フルーティーな香りをコアにヴァニラや焦がしたオークが広がるアロマ。味わいはかなりフルーティな印象で、ドライフルーツよりはフルーツキャンディもしくはトロピカルフルーツ。ここら辺はマッシュビルのライ麦が高い影響でしょうか。個人的に好きな傾向のバーボンです。本当はエライジャ・クレイグ・バレルプルーフやスタッグJr.のようなヘヴィー級ハイ・プルーファーと飲み比べたかったのですが、お酒に弱い私には断念せざるを得ませんでした。
Rating:87.5/100

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ワイルドターキー・マスターズキープ・デケイズはシリーズの第二弾として、ワイルドターキー蒸留所でのエディ・ラッセル自身の勤続35周年を祝ってリリースされました。3人兄弟の末っ子として生まれたエディーことエドワード・フリーマン・ラッセルは、1981年6月5日に同蒸留所でファミリー・ビジネスに参加。当初の肩書は本人曰く「ジェネラル・ヘルパー」でした。草刈りのような雑務や樽の移動から始まって次第に任務を広げ、勤続20年となる頃には樽の熟成とリックハウスの管理責任者となり、2015年には遂に偉大なる父ジミー・ラッセルと並ぶマスターディスティラーに就任したのです。
デケイズ発売前後のワイルドターキーの限定リリースを見ると、父ジミーの勤続60周年を記念した「ダイヤモンド・アニヴァーサリー」を2014年、エディーがマスターディスティラーとして初めの一歩を踏み出した「マスターズキープ17年」を2015年、オーストラリア市場のみでの販売だった「マスターズキープ1894」を2017年、ジミーの過去の作品を再現するかのような「リヴァイヴァル」を2018年とほぼ年次リリースしています。ここから判る通り、デケイズは当初は2016年半ばにリリースされる予定でした。それでこそ35周年に合致しますからね。しかし、理由は不明ながら殆どの市場で2017年2月まで突然リリースが延期されたそう。おそらくボトリング自体は2016年6月頃までになされたと見られます。日本でも延期されたかどうかはよく判りませんでしたが、当時のサントリーの公式プレスニュースでは2016年11月15日発売で、日本国内3480本限定とあります。

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エディの名を冠しているとは言え2015年のマスターズキープ17年は、熟成環境やプルーフに於いてかなり特殊かつ偶発的なバーボンでした(MK17については過去投稿のこちらを参照下さい)。対してデケイズは10年から20年熟成のブレンドなので、エディが意図的にクリエイトしたフレイヴァー・プロファイルのバーボンと言えるでしょう。ブレンドに使用されたバレルは、フォアローゼズ蒸留所の道路を挟んですぐ向かいにある、ワイルドターキーが1976年から所有するマクブレヤー・リックハウスの中央階と上層階から選ばれました。同社の「最も希少かつ最も貴重な樽」の幾つかです。そしてそれらを「17年」よりだいぶ高い104プルーフ、ノンチルフィルタードでボトリング。若いバーボンの活気をバックボーンに、古いバーボンの深みも兼ね備えたバランスが目指されたのかも知れませんね。

ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。従来まで107だったのを2004年に110へと上げ、2006年には再度115へと上げています。つまりバレル・エントリーの違いだけに着目すると、
①2004年以前の107プルーフ
②2004年から2006年の110プルーフ
③2006年から現在に至る115プルーフ
と、異なるエントリー・プルーフのバレルがワイルドターキーにはある訳です。デケイズを構成する10〜20年熟成のバレルには、理論上これら三種の全てが含まれていることが可能です。それ故、2012〜2013年のレアブリードを除くと、デケイズは三つのバレル・エントリー・プルーフを使用した唯一のワイルドターキー・バーボンかも知れないと示唆されています。
バレル・エントリー・プルーフに限らず、蒸留所にとって何かしらの変化は珍しいことではありません。それは法律の変更、所有権の変遷、ディスティラーの交代、ブランドの繁栄と凋落、テクノロジーの発展などにより起こり得ます。そして消費者の嗜好もビジネスのあり方も変わり、あらゆるものが時代により変化するのが常。この特別なリリースのワイルドターキーの名称「デケイズ」は年月に関わるワードであり、長期に渡る時代の移り変わりという含みと中身のバーボンの内容を的確に表していると言ってよいでしょう。「Decade」は十年間を意味する言葉です。そこで10〜20年熟成だから複数形の「Decades」と。そして、それだけの歳月にはバレル・エントリー・プルーフに代表される変化があった、と。
ちなみに日本ではこの「Decades」を「ディケイド」と表記するのが一般的。でも実際の発音は「デケイズ」が近いです。正規輸入元だったサントリー自ら「ディケイド」と表記しているので、販売店がそれに倣うのは仕方ないのですが、上の理由によってワイルドターキーが付けた名前なのだから、敬意を払って「s」は省略せずにせめて「ディケイズ」としたほうが良いのでは…。まあ、ここで文句を言ってもしょうがないですけれども。

ところで、デケイズにはバッチ2があるそうです(発売も同じ2017年)。全てのバッチには独自性があり、完全に同じにすることは出来ません。この世に完全同一なバレルが存在しないからです。しかし、蒸留所のマスターブレンダーは、意図的な変更をしない限りバッチに一貫性を齎すのが基本的な仕事です。バッチ1に使用された樽は全てマクブレヤーからでしたが、バッチ2は殆どがマクブレヤーからとされています。つまり、言葉を換えれば少数のバレルは他のウェアハウスから引き出されたということ。エディ・ラッセルは「ストーリー」を一貫させるよりもフレイヴァー・プロファイルを一貫させることを目指した筈です。マーケティング担当者がバーボンの箱やラベルに印刷したストーリーは、常に100%正確であるとは限りません。実際のところ、蒸留技師はマーケティングには余り注意を払わないと言うか関心がないと思います。ディスティラーの職務は物語を書くことではなくウィスキーを造ることですから。バッチ1と2を飲み較べた海外のターキーマニアによると、どちらも同じくらい素晴らしいバーボンであり、バッチ2も紛れもなくデケイズであり、あらゆる点でその名前に忠実とのこと。
では、そろそろ時代を超えたワイルドターキーを注ぐとしましょう。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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WILD TURKEY MASTER’S KEEP DECADES 104 Proof
BATCH №:0001
BOTTLE:68703
色はラセット・ブラウン。接着剤、強いアルコール、香ばしい焦げ樽、銅、ビターなカラメルソース、オレンジ、焼きトウモロコシ、ブラウンシュガー、ナツメグ、パイナップル、レザー、輪ゴム。ディープ・チャード・オークが支配的なアロマ。少しとろみのある口当たり。口の中ではグレインとオレンジピールが感じ易く、刺激がビリビリと。味わいはけっこうドライ。余韻は長く、土と煙が現れ、消えゆく最後にふわっと苦味が残る。
Rating:86.5(87.5)/100

Thought:全体的に焦げの苦味が特徴的な印象。10年から20年熟成のブレンドとのことですが、若そうなアルコール感がガツンとありながら、枯れた風味とビタネスが混在するバランス。前回まで開けていたMK17年と較べると、余韻に渋みがないのは好ましく感じました。ですが、MK17年よりもツンとくる刺激臭はかなりありました。そのせいかその他の香りが感じにくく、一、二滴の加水をした方が甘い香りが立ちましたし、味わいにもフルーツを感じ易かったです。そのため上のレーティングは括弧内の点数が加水した場合のものとなっています。もしかして、20数年後に開封して飲んだら微妙な酸化の進行でとんでもなく美味しかったのでしょうかね? そんなポテンシャルを僅かに感じさせる一品でした。ただし、デケイズもまたMK17年と同じくオークのウッディネスが強過ぎて、バーボンの魅力である甘いノートを抑えてしまっているような気はします。

Value:アメリカでの希望小売価格は150ドル。日本でも同じくらいで15000〜17000円が相場。オークションだともう少し安く購入することも出来るかも知れません。本国での味わいの評判はなかなか良いのですが、やはりと言うか少し値段が高いという評価を受けています。自分的には正直言ってデケイズを買うならレアブリードでいいかなと思いました。ただ、確かに長期熟成酒のテイストやクラシック・ワイルドターキーっぽさも少しあるので、そこを求めるなら購入を検討してもよいでしょう。或いは、箱やボトルやキャップは豪華でめちゃくちゃカッコいいので、金銭的に余裕があるのなら贅沢な気分を味わうために購入するのはアリだと思います。

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2015年、ワイルドターキーはマスターズキープという名の特別な限定版のラインを始めました。その初めてのリリースが今回紹介する「17年」です。エディ・ラッセルはその年、生ける伝説の父ジミー・ラッセルと並んで正式にマスターディスティラーに就任しました。スタンダードなワイルドターキーとは異なる長期熟成の限定版はジミーのセレクトによって過去に幾つか発売され日本ではお馴染みでしたが、そのエディ版となるものがマスターズキープのシリーズということになるでしょう。エディ曰く、マスターズキープ17年はこれまでに製造したワイルドターキー・バーボンの中で最もユニークなバーボンだと言います。その理由の一つは、この17年という熟成期間はワイルドターキーがリリースしたバーボンの中で最も長い年月を経ていることでした。ワイルドターキーは過去(2001年)に日本限定の木箱に入った17年物の101プルーフのバーボンをリリースしていますが、アメリカ国内では15年物よりも長い熟成年数のバーボンをリリースしたことがありません。レジェンドであるジミーは、バーボンの味は8〜12年が最も良いと考えるため、長熟バーボンをあまり好まないという有名な話があって、そういう点からするとMK17にはエディらしさが強く出ています。そして、熟成年数以上にこの17年を特別なものとしたのは、それが造られたバーボンが三つの異なる熟成環境にあったことです。箱に記載されている「№1ウッド、№2ストーン、№3ウッド」というのがそのことを示しています。
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1996年にワイルドターキーはオンサイトの倉庫スペースが不足したため、オフサイトのストーン・キャッスル蒸留所の石造りのウェアハウス(オールドテイラー蒸留所とオールドクロウ蒸留所が一部共有する)で樽を保管し始めました。2010年になると保管されていた樽は再びワイルドターキーに移されました。1996年から2010年までストーン・キャッスルでは様々な熟成年数のワイルドターキー約80000バレルが熟成されていたと言います。つまり「№1ウッド、№2ストーン、№3ウッド」というのは、初めワイルドターキーの木材と金属の組み合わせで造られた熟成を加速する温度と湿度の変動にスピリッツを晒す倉庫で暫く過ごした後、それとは対称的なストーン・キャッスルの安定した室温と多湿により緩やかに熟成する比較的冷涼な倉庫に移され、最終的にまたワイルドターキーの木材/金属の倉庫に戻ったマスターズキープ17年の来歴なのです。

マスターズキープ17年のプロファイルは、17年の熟成期間のうち14年を過ごしたストーン・キャッスルによって大きく影響されたでしょう。それはプルーフにも端的に現われました。ワイルドターキーと言えば101プルーフ、101プルーフと言えばワイルドターキーです。なのにマスターズキープ17年は86.8プルーフしかありません。しかし、実はマスターズキープ17年は、ほぼバレルプルーフでボトリングされています。樽から取り出された時のバッチ・プルーフは、ケンタッキー・バーボンとしては異常に低い89(または88.4とも)プルーフでした。それが更に濾過中にプルーフが失われ、ボトリング時には86.8プルーフになったと言います。これは一般的な多くのバーボンよりも涼しく湿った環境で熟成された独特の貯蔵条件の結果であり、偶発的なエイジング・プロセスに起因すると考えられています。
石は木材よりも優れた断熱材です。そのため石造りの倉庫内は木製のリックハウスに較べて、温度は概ね低く、大きな変動もしません。ワイルドターキーのリックハウスはケンタッキー・リヴァーを見下ろす大きな断崖の上にあり空気循環も良好ですが、オールドクロウ(ストーン・キャッスル)は険しい谷の南側にあってワイルドターキーより数マイル北に位置するにも拘らず、比較的涼しい上に湿度が高く風もあまりないため一般的に気候安定性に優れ、その結果ウィスキーはゆっくりと穏やかに熟成し、熟成感がありながらも軽やかなプロファイルを有するとされます。涼しく湿った石造りの倉庫はバーボンよりもスコッチの典型的な熟成環境に近く、アルコールは水よりも早く蒸発し、ケンタッキーに典型的な木製倉庫とは逆にプルーフ・ダウンすることもあり得る、と。にしても、1996年に樽詰めされた時、おそらくは107のバレル・エントリー・プルーフだったバーボンが89プルーフに下がるとは…。何度もバレルを移動したことによる影響もあったのでしょうか。ともかく、熟成の神秘を感じさせる事例ですよね。では、その神秘の一端を頂いてみるとしましょう。ちなみに、マシュビルはその他のワイルドターキー・バーボンと同じ75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリーです。

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WILD TURKEY MASTER'S KEEP AGED 17 YEARS 86.8 Proof
BATCH № : 0001
BOTTLE № : 67332
接着剤、香ばしい焦樽、古い木材、スパイシーヴァニラ、キャラメルマキアート、タバコ、ムギムギ、アーモンド、ジンジャー。パレートはシロップとオレンジ。口当たりは水っぽい。余韻は度数の割に恐ろしく長いが、過剰に渋い。
Rating:87.5→84.5/100

Thought:先日まで開封していたダイヤモンド・アニヴァーサリーと較べると、香りはこちらの方が甘くなく、接着剤が強すぎるように感じました。スイートな香りもあるのですが、接着剤が邪魔をして感じにくいと言うか…。それでも口に含んだ時はフレイヴァーフルでした。もう口に含んだ瞬間にDAより「あっ、旨っ」となる程に。しかし余韻はウッドに傾き過ぎた嫌いがあります。海外のレヴューを参照すると、最高の香りや味わいではないけれどクラシックなターキー・フレイヴァーとの評が多く、期待していたのですが自分にはマッチしませんでした。おそらくジミーの長熟バーボンに対する否定的な発言を聴く限り、これこそ彼の嫌いな味ではないかと思えるほどバーボンの魅力である甘い香味がウッドの渋味によって掻き消されているように感じます。
タイロンのターキーの熟成庫とストーン・キャッスルの熟成庫の違いが齎す「差」については、正直よく分かりません。確かにターキーらしさを感じる一方で、通常のターキーと違うフィーリングもあるのは分かりますが、それが熟成年数の長さから来るのか熟成庫のスタイルや環境の違いから来るのかが分からないのです。
上のレーティングで点数が下がっているのは、実は味わいの変化が大きかったためです。開封したては味も濃く感じて大変美味しかったものの、何故か一週間経つと余韻に渋さが急に目立ち出し、それは飲み切るまで変わりませんでした。私のボトルだけがそうだったのか分からないので、飲んだことのある方の意見を募りたいです。皆様、コメントより感想をお寄せ下さい(追記あり)。海外のレヴューでMK17を過剰に渋いと言ってる方は見当たらないんですよね…。私の舌がおかしいのでしょうか?

Value:このバーボン、アメリカでは150ドルのMSRPでして、日本でも当初17500円くらいの値札が付けられました。自分としてはマスターズキープ17年は一級のバーボンではありませんが、箱を含めターキーが施されたボトル形状や重厚な銅製のストッパー等はデザイン性と高級感に優れた素晴らしいパッケージングです(ちなみにボトルはデザイン・エージェンシーのパールフィッシャー・ニューヨークが手掛けています)。また興味深いストーリーもあります。味だけでないそういう側面を考慮するなら「買い」でしょう。ですが、お酒を味のみに対してお金を払っているという感覚の方にはスルーをオススメします。ちなみに私が味のみで評価するなら5000円の価値もありません。但しこれは、私が潜在的に90年代のワイルドターキー12年101と較べる脳を持っているから辛口の評価になってしまった可能性はありますし、基本的に長熟バーボンを好まない個人的傾向があるだけで、そもそも超長期熟成酒を好む方なら真逆の評価はあり得るとだけ付け加えておきます。

追記:私のバーボン仲間で、冷凍庫でキンキンに冷やした幾つかのワイルドターキーの限定版を飲み比べした方がいるのですが、その彼によるとこのMK17は甘かったとのこと。私は真夏でもストレートでしか飲まないので分からないですけど、もしかすると冷したりロックで飲むと渋味が感じにくくなって甘さが引き立つのかも知れません。

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オークウッド・ブランドはラベルから読み取れる情報からすると、ヘヴンヒルが「Longs Drug Stores」のために作成したプライヴェート・ラベルと思われます。
現在のロングス・ドラッグスは特にハワイで有名なドラッグストアで、他にアメリカ西海岸を中心とした州にあるチェーン店です。ハワイ州全体で40以上の店舗があり、ローカルの人々にとってはドラッグストアに行くこと=ロングスに行くことのように親しまれているのだとか。その最初の店は、1938年にロングス・セルフサーヴィス・ドラッグとして、トーマスとジョセフのロング兄弟によってカリフォルニア州オークランドに設立されました。オークランド? まさかオークウッドの名は創業の地オークランドにあやかって掛かってるのでしょうか? まあ、それは措いて、ハワイで初めての店舗は1954年3月29日にホノルルにオープン。1971年までにロングズは54店舗で1億6,900万ドルの売り上げを記録したそうです。そして1977年にアラスカ、1978年にアリゾナとオレゴン、1979年にはネバダへと拡大し、1982年には162店舗となり売上高は遂に10億ドルを超えました(ロングスのその後は省略)。おそらくラベル記載の所在地から察するに、70年代初めから半ば頃に当のオークウッドが発売されたのではないかと思います。
オークウッドに他の種類があるのか判りませんが、これはボトルド・イン・ボンド規格の7年熟成ストレート・バーボン。ボンデッド法ではラベルに蒸留施設を銘記しなくてはならないので、裏ラベルにはヘヴンヒルの旧バーズタウン施設のパーミット・ナンバー(DSP-KY-31)が記載されています。 

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ところで、オークウッドにルーツはあるのか探ってみると、シンシナティのレクティファイヤー及び酒類販売会社メイヤー・ブラザーズ・カンパニーのブランドにオークウッド・ウィスキーというブランドがありました。彼らは1890年頃にレキシントンのサンダーズヴィルにあったコモンウェルス蒸留所(*)を「テナント・リーシー(**)」によりオークウッド蒸留所として事業をしていたようです。また他の情報源では、1893年にメイズヴィルの近くにあったオークウッド蒸留所を購入したともされていました。このブランドをヘヴンヒルが買収したのですかね? それとも全く関係ないのでしょうか? 詳細ご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。では最後に飲んだ感想を少しばかり。

Oakwood BiB 7 Years Old 100 Proof
今回の投稿も、またもやバー飲みなのですが、実はそこで静かに燃える炎という印象の素晴らしい若きバーボンマニア様と邂逅を果たしまして、これはその方の注文品を一口だけ頂いたものです。Yさん、貴重な体験、また色々な情報をありがとうございました。バーボン繋がりに乾杯!

推定70年代ボトリング。キャラメルやオーク、きな粉やチョコレートのヒント、少々のオールド・ファンクの他に植物っぽいニュアンスを感じました。90年代の平均的なヘヴンヒルにはあまり感じたことのないフレイヴァー。これは美味しいです。
Rating:87.5/100


*ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が経営していたローレンスバーグにあった同名のコモンウェルス蒸留所とは別。この蒸留所はレキシントン地区RD#12で、1880年にジェイムズ&リチャードのストール兄弟とヘンリー・C・クレイの共同による会社がサンダーズヴィルの古い綿工場を改造してウィスキー蒸留所にしたのが始まりです。工場はレキシントンの北西3マイルの位置にありました。投資資本は60,000ドル。独自のブランド「オウル・クラブ」や「エルクホーン」の他にバルク・ウィスキーを取引しました。「Commonwealth Distilling Company」は、ヘンリー・クレイとパートナーシップを解消した後の1885年頃、リチャード・ストールを社長、アイザック・ストラウスを副社長として設立され、会社の取締役にはチャールズ・ストールやジェイムズ・ストールもいましたが、リチャードが主要株主だったようです。

**蒸留所を数日間リースすることでブローカーがディスティラーを名乗ることが出来ました。これは所謂「DBA(doing business as)」とも知られています。

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オールド・コモンウェルスの情報は海外でも少なく、そのルーツについてあまり明確なことは言えません。ですが、ネットの画像検索や少ない情報を頼りに書いてみます。

先ず始めにスティッツェル=ウェラーのアイリッシュ・デカンターに触れます。長年スティッツェル=ウェラー社を率いた伝説的人物パピー・ヴァン・ウィンクル(シニア)が亡くなった後、息子のヴァン・ウィンクル・ジュニアは1968年にオールド・フィッツジェラルド名義でセント・パトリックス・デイを記念するアポセカリー・スタイルのポーセリン・デカンターのシリーズを始めました。1972年にスティッツェル=ウェラー蒸留所が売却された後も、新しい所有者はヴァン・ウィンクル家が1978年にオールド・コモンウェルスのラベルの下で再び引き継ぐまでシリーズを続けます。1981年にジュニアが亡くなった後も息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世が事業を受け継ぎ、毎年異なるデザインを制作していましたが、このシリーズはデカンター市場が衰退した1996年に中止されました。オールド・コモンウェルスのアイリッシュ・デカンターの殆どには80プルーフで7年または4年熟成のバーボンが入っていた、とヴァン・ウィンクル三世自ら述べています。
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60年代は、50年代のファンシーでアーティスティックなグラス・デカンターに代わりセラミック・デカンターが人気を博しました。各社ともデカンターの販売には力を入れ、ビームを筆頭にエズラ・ブルックスやライオンストーンが多くの種類を造り、他にもオールド・テイラーの城を模した物からエルヴィス・プレスリーに至るまで様々なリリースがありました。おそらく、70年代にバーボンの需要が落ち込む中にあっても、記念デカンターは比較的売れる商材だったのでしょう。ジュリアン・ジュニアはスティッツェル=ウェラー蒸留所を売却した後、「J. P. Van Winkle & Son」を結成し、様々な記念デカンターを通して自分のバーボンを販売しました。 既に1970年代半ば頃からコモンウェルス・ディスティラリー名義は見られ、ノース・キャロライナ・バイセンテニアル・デカンター、コール・マイナーやハンターのデカンター等がありました。もう少し後には消防士やヴォランティアーを象った物もあります。

そして今回紹介するオールド・コモンウェルスは上に述べたデカンターとは別物で、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世がシカゴのサムズ・リカーという小売業者向けにボトリングした特別なプライヴェート・ラベルが始まりでした(当時20ドル)。おそらく90年代半ば辺りに発売され出したと推測しますが、どうでしょう? 後には同じくシカゴを中心としたビニーズにサムズは買収され、ビニーズがオールド・コモンウェルスを販売していましたが、ヴァン・ウィンクルがバッファロー・トレース蒸留所と提携した2002年に終売となりました。中身に関しては、同時代のオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル10年107プルーフと同じウィスキーだとジュリアン本人が断言しています。ORVWのスクワット・ボトルと違いパピーのようなコニャック・スタイルのボトルとケンタッキー州(*)の州章をパロった?ラベルがカッコいいですよね。では、最後に飲んだ感想を少しばかり。

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Old Commonwealth 10 Years Old 107 Proof
推定2000年前後ボトリング。フルーティなキャラメル香。僅かにブルーベリー。度数の割に刺激のない舌触り。パレートはオレンジ強め。余韻もオレンジと焦げ樽のビターさが感じ易かった。前ポストのオールド・リップと比較するため注文しました。大した量を飲んでないので細かいことは言えませんが、こちらの方が度数が僅かに高いのにややあっさりした質感のような? でも、どちらも焦樽感はガッチリあるバーボンで点数としては同じでした。
Rating:87.5/100


*ケンタッキー州は日本語では「州」と訳されますが、英語ではステイトではなくコモンウェルス・オブ・ケンタッキーです。アメリカ合衆国のうちケンタッキー、マサチューセッツ、ペンシルヴェニア、ヴァージニアの四つの州は、自らの公称(州号)を「コモンウェルス」と定めています。これらは州の発足時に勅許植民地であった時代との決別を強調する狙いがあったものと解されているそう。オールド・コモンウェルスは如何にもケンタッキー・バーボンに相応しい命名なのかも知れません。
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「commonwealth」とは、公益を目的として組織された政治的コミュニティーの意。概念の成立は15世紀頃とされ、当初は「common-wealth」と綴られたそうで、「公衆の」を意味する「common」と「財産」を意味する「wealth」を繋げたもの。後の17世紀に英国の政治思想家トマス・ホッブズやジョン・ロック等によって一種の理想的な共和政体を指し示す概念として整理され、歴史的に「republic(共和国)」の同義語として扱われるようになったが、原義は「共通善」や「公共の福祉」といった意味合いだったとか。

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オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルというブランドは、元は禁酒法時代(または以前?)に遡りますが、長年の沈黙からジュリアン・ヴァン・ウィンクル二世が1970年代半ばに復活させ、それを受け継いだ息子のジュリアン三世が伝説のレヴェルまで育て上げたブランドと言ってよいでしょう。

長年スティッツェル=ウェラー社を率いてきたジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクルが1965年に亡くなった後、息子のジュリアン・ジュニア(二世のこと)は他の相続人との意見の相違から、1972年にスティッツェル=ウェラー所有の蒸留所とブランドをノートン・サイモン社へ売却することを余儀なくされました。しかし、彼は名前や物語を余程気に入っていたのか、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングの物語をモチーフにしたブランドだけは売却せず、スティッツェル=ウェラー蒸留所からウィスキーを購入出来る権利とボトリング契約を残したことで、オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルを甦らせ販売し始めます。その事業は1981年にヴァン・ウィンクル二世が亡くなると息子のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世に引き継がれますが、スティッツェル=ウェラーとのボトリング契約が切れたことでジュリアン三世は致し方なく(妻も子供四人もおり、多額の借金を背負うことになるから)アンダーソン郡ローレンスバーグにある旧ホフマン蒸留所をベン・リピーから購入しました。ジュリアン三世はスティッツェル=ウェラーからのバルク・ウィスキー、またその他の蒸留所からもウィスキーを購入し、コモンウェルス蒸留所として様々な銘柄でボトリングを続けました。80年代にはおそらく知る人ぞ知る小さな存在だった会社は、90年代に祖父への敬意を直接的に表す「パピー・ヴァン・ウィンクル」を発売、幾つかの賞を得たことでウィスキーの世界から注目を集め出します。しかし、スティッツェル=ウェラー蒸留所はユナイテッド・ディスティラーズの傘下になった90年代初頭に蒸留が停止されてしまいました。そこで、原酒の枯渇を懸念したジュリアン三世は、新しい供給先としてバッファロー・トレース蒸留所を選び、2002年、合弁事業としてオールド・リップ・ヴァン・ウィンクル・ディスティラリーを立ち上げます。同社のブランドは段階的にスティッツェル=ウェラーからバッファロー・トレースの蒸留物へ変わりました。2010年以降は「パピー」がバーボン愛好家以外の一般大衆にも認知され出し、バーボン・ブームの到来もあってカルト的人気を得、それに釣られてその他のブランドも高騰。オールド・リップ・ヴァン・ウィンクルも日本に住む「庶民派ウィスキー飲み」が手を出せる金額ではなくなり、そもそも日本へ輸入されることもほぼなくなりました。バッファロー・トレースのフランクフォート産の物ですらそのような状況の今日、ジュリアン三世がハンドメイドで瓶詰めしていたローレンスバーグ産の物は、特に愛好家に珍重され求められています。

今回ご紹介する「ヴァン・ウィンクル」の付かないヴァン・ウィンクル製品であるスクエア・ボトルの「オールド・リップ」なのですが、これは日本向けの輸出用ラベルでした。4年熟成86プルーフ緑ラベルと12年熟成105プルーフ黒ラベルの二種類があり、日本のバーボン愛好家には知られたブランドです。おそらく発売期間は80年代後半から90年代後半(もしくは2000年代初頭?)までではないかと思われます。少なくともフランクフォート表記のオールド・リップは見たことがないので、2002年以降には製造されていないと推測しました。お詳しい方はコメントよりご教示下さい。
それは措いて、中身の原酒について。ジュリアン三世は「ヴァン・ウィンクル・ファミリー・リザーヴ」や「ヴァン・ウィンクル・セレクション」、初期の「パピー・ヴァン・ウィンクル」、またその他の銘柄ではスティッツェル=ウェラー以外の原酒を使うこともありました。しかし、聞くところによると彼は「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」のブランドにはスティッツェル=ウェラー原酒を使うことを好んだとされます。それからすると、おそらくこの「オールド・リップ」もスティッツェル=ウェラー原酒で間違いないでしょう。では、最後に飲んだ感想を少しだけ。

OLD RIP 12 Years Old 105 Proof
今回はバー飲みです。先日まで開けてあったオールド・リップ12年が前回のウイスキークラブ(定期イヴェント)で飲み切られたとのことで倉庫からストックの新しいボトルを出して来てくれました。なので開封直後の試飲となります。

推定88年ボトリング(*)。ベリーと合わせたチョコ、接着剤、杏仁豆腐、キャラメル、他に植物っぽい香りも。ハイプルーフゆえのアルコールのアタックはあってもヒート感はほぼ感じない。現代の小麦バーボンよりもスパイス感がやや複雑で、フレイヴァー全体が濃厚な印象。余韻は少し渋め。
Rating:87.5/100

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*この時期のジュリアン・ヴァン・ウィンクル三世は少し古めの瓶を使ってボトリングしていたことを示唆する情報がありますので、瓶底の数字は88なのですが、もしかするとボトリングは90年頃の可能性があります。

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