バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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ミルウォーキーズクラブさんでの2杯目は、海外のレヴューを見て評判が良さそうだったので前から飲んでみたかったケンタッキー・アウル・ライ11年バッチ1にしてみました。日々追いきれないほどの新しいアメリカン・ウィスキーのブランドが誕生しているここ十年、歴史的なウィスキー・ブランドが復活を遂げることも少なくありません。ケンタッキー・アウルはそうしたブランドの一つであり、その背景に素晴らしい家族の物語と興味深い歴史をもつウィスキーです。そこで今回はこのブランドの現在までをざっくりと辿ってみたいと思います。

1870年代、ケンタッキー州の孤児だったチャールズ・モーティマー・デドマンは、アンダーソン郡のシダー・ブルック蒸溜所(RD#44)を経営していた養父のザ・ジャッジことウィリアム・ハリソン・マクブレヤーから結婚祝いとして、自分の蒸溜所とバーボン・ブランドを設立できるように必要な土地と資金を贈られました。彼の母メアリー・マクブレヤー・デドマンはジャッジの妹でした。1879年にチャールズによって設立され、C.M.デドマン蒸溜所またはケンタッキー・アウル・ディスティリング・カンパニーと知られた蒸溜所(マーサー郡第8区RD#16)は、ケンタッキー州オレゴン(ローレンスバーグの南方のサルヴィサから東へ数マイルの場所)のケンタッキー・リヴァーのフェリー乗り場近くにて操業していました。彼の蒸溜所は大きな蒸留所ではなく、1909年のマイダズ・ファイナンシャル・インデックスでは10000〜15000ドルのFランクだったそう。主な銘柄は言うまでもなくケンタッキー・アウルでした。チャールズは薬剤師でもあり、ハロッズバーグにドラッグストアも経営していました。彼が製造していた「THE WISE MAN'S WHISKEY」は単なるキャッチフレーズではなく、彼のビジネスの根幹をなすものとされ、知恵や知識の象徴である梟をアイコンにしたコンセプトは、人々が賢くアルコールを摂取できる、または摂取すべきだという彼の信念を表しており、ケンタッキー・アウルはローカル・シーンでは絶大な人気を誇ったと伝えられます。
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(オリジナルのケンタッキー・アウルのラベルと蒸溜所)
蒸溜所は禁酒法の影響から1916年まで操業した後に閉鎖。チャールズは1918年に死去しました。彼の義父母が宗教上の理由から酒類に反対していたため、蒸溜所は再開されることはありませんでした。蒸溜所が閉鎖された当時、ケンタッキー・アウルは将来の利益が見込まれる約25万ガロン(約4700バレル)の熟成段階の異なった「賢者のウィスキー」を貯蔵していましたが、残念なことに一部の不謹慎な連邦税務署員によって押収されました。バレルは艀で川を遡ってケンタッキー州フランクフォートに送られ、そこの政府の倉庫に保管されました。連邦政府はフランクフォートの安全な倉庫でウィスキーを見守る筈でした。しかし、禁酒法が全国的に施行された1919年の或る日の夜、倉庫は謎の火災に見舞われ、ウィスキーは一滴残らず倉庫と共に短時間で全焼してしまいます。奇妙なことにアルコールで満たされた建物にしては火災が数時間で済んだことで、ケンタッキー・アウルの全在庫もしくはウィスキーの大半は、活況を呈していたスピークイージーズに提供するため、アル・カポーンか他のブートレガーかは定かでないものの、組織犯罪によって事前に持ち去られていたのではないか、と当時の多くの人々は疑いました。上質なアメリカン・ウィスキーは、禁酒法期間中、この「ナイト・アウルズ」を存分に稼動させ、バスタブ・ジンに代わる金持ちの嗜好品として最高級の酒場で振る舞われていたらしいのです。禁酒法の厳格な条項により、デドマン一家はウィスキーの損失に対する補償を受けることが出来ず、家族は薬局の経営に戻り、往年のケンタッキー・アウル・ブランドは突如として終焉を迎えました。こうして他の多くのブランドと同様に、嘗て繁栄したブランドは人々の記憶から消え去って行くことになります。
ハロッズバーグのドラッグストアは同じく薬剤師だった息子のトーマス・カリー・デドマンが後を継ぎ、父の義理の両親に配慮して、禁酒法時代には処方箋によるウィスキーの販売を断ったと云います。それから約100年後、C.M.デドマンの玄孫がウィスキー事業を復活させる訳ですが、その間、デドマン家は宿の経営で名を馳せました。次はそちらの歴史を見て行きましょう。

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(WIKIMEDIA COMMONSより)
ケンタッキー州ハロッズバーグにあり、ゴッダード家とデドマン家の5世代が経営して来たボーモント・インは、南部の魅力とエレガントを体現するケンタッキー州で最も古い歴史的な宿です。この建物は元々は若い女性のための学校として使われていました。グリーンヴィル・スプリングスとして知られていた保養地の区画の一部に、1841年、サミュエル・G・マリンズ博士がグリーンヴィル・インスティテュートを設立しました。この土地は一旦は焼失しましたが、多くの公共心のある市民が再建を支援し、1855年まで運営されました。1856年にC・E・ウィリアムス博士とその息子のジョン・オーガスタス・ウィリアムス教授が周辺の地区を購入し、その年の暮れ、ドーターズ・カレッジと改名されます。ドーターズ・カレッジは、19世紀後半にケンタッキー州に設立された数少ない女子大学の一つで、女子に男子大学と同様のカリキュラムを提供しました。1844年に建てられた建物は、ドーターズ・カレッジのカタログには「エレガントなブリック・マンションで、80×52フィート、3階建て、風通しがよく、部屋の湿気を防ぐために中空壁で造られ、金属製の屋根やその他の手段で火災に対する安全が確保され、最も広々としたダイニングルーム、キッチン、バスルームがあり、1万ドルを掛けて完成し、100人の生徒を収容できるように準備されている」とあったそうです。ケンタッキー大学の元学長だったジョン・オーガスタス・ウィリアムスは、1892年までの40年近くに渡り学長を務め、指揮を執りました。 彼は時代を先取りした素晴らしい教育者であり、まるで自分の子供のように女学生達の教育を計画し、教授としてだけでなく父親代わりともなりました。南北戦争中、南部の裕福な家庭の多くは迫り来る戦争という敵対行為から逃れるために娘達をこの本格的な大学に送り込んだと云います。ヴァージニアンでトーマス・J・"ストーンウォール"・ジャクソン将軍の部下だった元南軍将校のトーマス・スミス大佐とその夫人が学校を購入すると、1894年にボーモント・カレッジと改名されました。フランス語で「Beaumont(ボーモン)」は「美しい山」という意味であり、これは建物が町で最も高い場所の一つに位置していたからのようです。ボーモント・カレッジでは「芸術、弁論術、音楽院、そしてアメリカやヨーロッパの一流校を目指すための強力な文学コース」を提供していたとされ、そのモットーは「エレガントな文化と洗練されたマナーに恵まれた誇り高き品性」でした。残念ながら再オープンしたボーモント・カレッジは、大幅な拡張のための基金がなく、1916年に閉鎖されました。閉校した後の1917年、アニー・ベル・ゴッダードとメイ・ペティボーン・ハーディンの2人の卒業生がこの建物を購入します。彼女達には自らが通った学校に思い入れがあったのでしょう。アニー・ベルは1880年にドーターズ・カレッジを卒業し、同カレッジで数学を教え、後に学部長も務めていた人でした。最終的にグレイヴとアニー・ベルのゴッダード夫妻がもう一人から権利を買い取って単独所有者となった後、彼女は1918年にこの建物をカレッジの元同窓生向けの宿に改装し、1919年にボーモント・インが誕生しました。インはすぐに「南部のおもてなし」で知られるようになり、この施設は歴史的な場所の一部となったのです。その後、アニー・ベルと前夫ニックの娘であるポーリーン・ゴッダード・デドマンが母の後を継いでインキーパーとなりました。このポーリーンの結婚相手がチャールズ・モーティマー・デドマンの息子トーマス・カリー・デドマンでした。この宿の経営は三代目のトーマス・カリー・"バド"・デドマン・ジュニアとその妻メアリー・エリザベス・ランズデル・デドマンが続き、更にその息子チャールズ・マイナー・"チャック"・デドマンとその妻ヘレン・ウィリアムズ・デドマンによって引き継がれて行きます。こうして凡そ1世紀に渡り、ゴッダード家とデドマン家の子孫が伝統を受け継いでボーモント・インの家族経営を続けました。
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(アニー・ベル・ゴッダード)
この宿は正に歴史に彩られており、学校として使われていた時代の本や写真、書類など、多くの芸術品が展示されています。入り口近くの部屋は学校の図書室だったそうで、チェリー材の本棚には、生徒や教師が使った古い本が壁一面に並んでいるとか。ホールには1934年にフランクリン・D・ルーズヴェルトがハロッズバーグを訪れオールド・フォート・ハロッズのジョージ・ロジャース・クラーク記念碑の奉納式に出席した際に使用したと言う大きな木製の椅子があったり、ゲストルームには家族が四方から受け継いだか或いは時のオウナーが収集したアンティークが置かれているそうです。レストランは南部料理を出すことで知られ、メニューにはカントリーハム、コーンプディング、フライドチキン、コーンブレッド、デザートなど、5世代に渡って受け継がれてきたケンタッキー州の特産品が並びます。当初はカントリー・ハムとフライド・チキンの2種類しかメイン・ディッシュがなかったそうですが、世紀を超える営業のうちに進化し、1949年にはアメリカの料理評論家ダンカン・ハインズに、ケンタッキー州で最高のレストランと評されました。今日のボーモント・インは、ジェームズ・ビアード財団から「時代を超越した魅力を持ち、地域社会の特徴を反映した質の高い料理で知られる」レストランに贈られるアメリカズ・クラシック・アワードを2015年に受賞したことで、ケンタッキー州を越えてその名を知られるようになりました。チャック・デドマンは、この栄誉は現在の宿主に与えられたのではなく、アニー・ベルや祖母や両親に遡る、ボーモント・インが長年に渡って事業を続けてきたことに対する評価だと語っています。また、サザーン・リヴィング・マガジンからは南部の魅力的な宿トップ20に選ばれるなど、他にも多くの賞を受賞しています。
しかし、常に順風満帆だったという訳でもなく、一時は経済的に苦しい時期がありました。冬になると客足が途絶え、宿は4か月間閉鎖されていたのです。そのため収益が落ち込み資金不足から大規模な改修は延期されていました。問題の一つはそのロケーションにありました。ハロッズバーグはバーズタウンのすぐ東でありフランクフォートのすぐ南というバーボン産地の真ん中にありながらドライ・カウンティだったため、蒸溜所を見学に来た人達がせっかくインに立ち寄っても、2000年代初頭までレストランではブラック・コーヒーを出すのが精一杯だったのです。風向きが変わったのは、第5世代のサミュエル・ディクソン・デドマンが2003年にワッフォード・カレッジを卒業し、家業に戻った頃のことでした。8歳の時から「お手伝い」をしていたディクソンは、大学在学中も夏季や休日に妹のベッキー・デドマン・ボウリングと共にボーモント・インで働いており、家業を継ぐことに疑問の余地はありませんでした。彼は卒業後1週間も経たないうちに宿の仕事をやり出したそうです。2003年、ローカル・オプション条例が可決され、それまで「ドライ」だったハロッズバーグはバーやレストランでのアルコール販売を許可する「モイスト」になりました。この法改正はデドマン家にとって歓迎すべきニュースであり、ディクソンはすぐにインのメイン・ダイニングで酒類を提供し始めると、オールド・アウル・タヴァーンの建設に取り掛かり、更にパブの雰囲気をもつアウルズ・ネストもオープンしました。タヴァーンは本館の南端に位置し、元々は馬車や荷馬車が保管されていた場所でした。言うまでもなくその名前は高祖父が造ったウィスキーに由来します。
https://www.facebook.com/oldowltavern
酒類をグラスで販売できるようになったことで、この場所の運勢は一変しました。地元の人々がこの店のバーに集まっただけでなく、近隣の蒸溜所を巡るウィスキー観光客がインに泊まるために列をなすようになり、2005年には通年営業となります。ハロッズバーグでの規制緩和の決定とディクソンの変革は、ちょうどバーボン業界が数十年に渡る需要の低迷から回復し始めた時期と一致していました。2000年から2010年の間にアメリカン・ウィスキー蒸溜所の収益は46%増加したと言います。新たにウィスキーに興味をもった人々がバーボン体験のために本場ケンタッキーへと押し寄せるようになったのです。ディクソンは2008年には宿の経営を全面的に手伝っていました。宿の財政が安定したところで愈よ彼は夢の実現に乗り出します。

「C・M・デドマン以来どの世代もこれをやりたがっていました」。「これ」とはファミリー・ラベルの復活に他なりません。ディクソンの父も祖父も屡々ブランドの再開に就いては話をしていましたが、それはたわいのない話に留まっていました。「私の祖父は、もし宝くじに当たったら二つのことをする、と我々に言っていました。先ずはリムジンを買う。そしてウィスキー・ビジネスを再開するんだ」と冗談半分に。幸いディクソンは人脈に恵まれました。インキーパーの友人であるマークとシェリィのカーター夫妻の協力を得ることが出来たのです。二人はワインメーカーとしても成功しており、2007年にエンヴィ・ワイナリーでの生産を拡大した後、プライヴェート・ラベルを作る新しい顧客を探していました。彼らは緊密な繋がりのある旅館経営コミュニティに目を向け、或る時、テキサス州オースティンで行われた旅館コンヴェンションで古い友人のディクソン・デドマンに会いました。マークはディクソンを赤ん坊の頃から知っており、彼の父親が1990年代にハロッズバーグ地区でのアルコール販売規制を解除するためのロビー活動を成功させるのを手伝ったことがありました。ディクソンはカーター夫妻が顧客を探していると聞きつけ、ボーモント・インのためのプライヴェート・ラベル作成に興味があると伝えました。しかしマークはデドマンのためにワインを造ることには関心がなく、寧ろディクソンの父チャックが酒類法改正のためにハロッズバーグを訪れていた時に聞いた話、即ち家族が嘗て所有していた蒸溜所がケンタッキー・アウルというバーボンを製造していたことの方に興味がありました。マークはワインを造って欲しいというディクソンのリクエストにこう答えたと言います。「問題なく君のためにワインを造ることは出来るよ。でもね、お父さんが話してくれた、君の家族のバーボン・ブランドを復活させる手助けをすることに我々はもっと興味があるんだ」と。何度かミーティングを重ねた後、カーター夫妻はコンプライアンスや資金調達の殆どを自分たちで処理し、シェリィのアーティストとしてのスキルをデザインに生かすことだって出来るとディクソンに確約しました。ウィスキーを販売するまでにはTTB、税金、ディストリビューターとの取引など人々が思っている以上に多くの困難がありますが、彼らはその全てを手伝えると言ったのです。ディクソンは、コストと時間の掛かり過ぎる自社蒸溜所を開設するのではなく、他の場所で蒸溜されたウィスキーを調達し、それを自身のラベルでボトリングすることに決めました。後はバーボンを見つけるだけです。友人のツテを頼ったのか自分で飛び込んだのか分かりませんが、おそらくバーズタウン地域を中心とする複数の蒸溜所からウィスキーを調達したと思われ、彼は十分な量の原酒を手に入れました。
ディクソンの恵まれた人脈の中にはフォアローゼズ蒸溜所のマスター・ディスティラーだったジム・ラトリッジもいました。同蒸留所で49年間も働いていたラトリッジは最も尊敬を集めるウィスキーマンの一人です。そこでディクソンは2010年頃から購入したウィスキー・バレルの5つのサンプルをラトリッジの自宅に持ち込んで評価してもらいました。しかしラトリッジの評価は芳しくなく、彼の回想によると「それらを試飲してみて、『これらを絶対にボトルに入れないようどう伝えるか』考えました。私はブレンドする必要があるかも知れないと言った」そうです。ブレンドはバレルの無限の組み合わせを試飲する大変な作業でしたが、ディクソンは夜になって宿を閉めた後、レストランの奥でテーブルに何十ものバレルのサンプルを並べ、熟成年数やアルコール度数、倉庫のどこに置かれていたかにも細心の注意を払いながら試行錯誤を繰り返しました。おそらくこの作業にはカーター夫妻も関与していたと思われます。そして何処かの段階で3人のパートナーズは、ウィスキーを二度目のバレルに注ぐダブル・バレル方式が有益だと考えました。「私たちはワイン造りのプロセスを取り入れました。この製品にもう少しオークを加えたかったのです」とシェリィ・カーターは語っています。これはバッチの一部に使用する原酒をニュー・チャード・オーク・バレル(もしくは前に別の蒸溜所のバーボンが入っていたユーズド・バレル)に再度入れるというものでした。この方法によって元のウィスキーは完全に変化したと考えられ、原酒の大部分が例えばヘヴンヒルやバートンもしくはブラウン=フォーマンで造られていたとしても、ボトリングされる頃にはかなり味わいは異なるものになっていたと思われます。ディクソン達が最終的にケンタッキー・アウルとなるバーボンの原酒を考え出すまでに数年を要しました。彼らは皆、ケンタッキー・アウルに頼らずとも人生で成功していたので、標準以下の製品でも売り出さなければならないプレッシャーはなく、製品が完成していないと思えば待つことが出来たのです。ディクソン・デドマンが一族の遺産を復活させることを決意してから約6年、チャールズ・モーティマー・デドマンが生産していたウィスキーを彷彿とさせながらも現代の消費者に十分アピールするモダンな風味を造り上げるための研究と実験を経て、漸くその名に相応しいスモールバッチのブレンドは完成しました。ボトリングとラベリングを担当したのは、パートナーシップを結んでいるストロング・スピリッツでしょう。
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(初期のケンタッキー・アウルのラベル)
2014年9月、ケンタッキー・アウル・バーボンのバッチ1はリリースされました。チャー#5とチャー#6のバレルに風味の多くを頼った5樽から、水を加えず、118.4プルーフで1250本のボトリング。ディクソンは家族と一緒にその最初の1本を先祖が埋葬されている墓地に持って行き、C・M・デドマンと失われたラベルを取り戻そうとしたその後の世代に乾杯したそうです。ケンタッキー州でのみ発売され、価格は1本160〜175ドルほどでした。マーク・カーターによれば「我々はこの製品は少し敬意を払うに値すると感じたので、プレミアム価格と思われるものを付けました。 ダブルオーキングをすることで、よりコストが掛かりましたしね」とのこと。 また「カット(※希釈。ボトリング前に最終製品に水を加える工程)すればもっと儲かるだろうと人々は言っていましたが、私達はそうしたことに全く興味がありませんでした。私たちはただ質の高い製品を造りたかった」とも語っています。当時、小売価格で150ドルを超えるバーボンは殆どありませんでした。いや、50ドルを超えるものすら少数でした。しかし、ケンタッキー・アウルがルイヴィル周辺の酒屋の棚に並び始めて僅か10日、または数週間でボトルはほぼ完売しました。誰もレヴューしないうちに、いつの間にかケンタッキー・アウルのボトルを買い求める人々が集まっていたと言います。セカンダリー・マーケットでは、フリッパーズ(転売ヤー)は店頭で買った値段の数倍もの値段を要求しました。ケンタッキー・アウルを後押しした要因は幾つかありました。先ず物語と伝統がありましたし、小売業者による初期の宣伝も功を奏したし、ウィスキーの調達先に関する謎も関心を高めたでしょう。そうした噂話やソーシャル・メディアのお陰でその名前は瞬く間に広まりました。ワイズマンズ・バーボンというキャッチーなフレーズとラベル・デザインも頗る魅力的で、個人的には人を惹き付けた要素だと思います。そして取り分け、適切な時期に適切な場所に居たことは大きな一因でした。ケンタッキー・アウルがデビューしたのは、バーボンの売上が50%以上急増したと言わる2012〜2017年の最中であり、経済の高揚で潤沢な資金をもつウィスキー愛好家が次の注目されるバーボンを手に入れるために追加料金を支払うことを厭わなかったタイミングでした。このウィスキーには何処か神秘性があり、品格があり、説明し難いクールな要素があり、「次のパピー・ヴァン・ウィンクル」と見做されれていた節もあります。ケンタッキー・アウル・バーボンは『ガーデン&ガン』誌のメイド・イン・ザ・サウス賞のドリンク部門に選出され、2014年12月/2015年1月号に掲載されました。このアワードは、現在の当該地域で作られている最高の製品を表彰するもので、各部門の優勝者と次点者はG&Gの編集者とゲスト審査員によって選出されます。アメリカのウィスキー市場が活況を呈し、次々と新しいバーボンが登場する中にあってケンタッキー・アウルは何かが違いました。但し、ディクソンは商業的に成功するウィスキーを造ることは決して計画していなかったと言っています。もともと彼はバーボンのコレクターであり、ボーモント・インで定期的にテイスティング会を開いて味の特徴や歴史について話すのが好きな愛好家ではありましたが、バーボンを副業として楽しめると思って始めただけで販売計画もマーケティング戦略もなかった、と。

2015年にバッチ2が発売された頃には、このブランドは既にバーボン愛好家の間で人気を博していました。バッチ2は、4年目にニュー・チャード・オーク・バレル(チャー#4と#5の両方)に詰め替えた約9年熟成の6つの異なる樽から出来ていて、最終的に117.2のバレル・プルーフでボトリングされ、バッチ1より若干多い1380本が生産されました。ディクソンとカーター夫妻は、ワインがヴィンテージ毎に異なるフレイヴァー・プロファイルがあるのと同じように、各バッチの味がユニークであることを望みました。シェリィ・カーターは「各バッチの出来栄えにとても満足しています。皆さんそれぞれにお気に入りのバッチがあるようです」と言っています。ディクソンも「バッチ毎に殆ど新しいスタートを切っています。それが私にとっては楽し」く、「毎年異なるヴィンテージが重要になるでしょう。 我々が造るどのバッチもユニークな品質が備わります」と言っています。アメリカン・ウィスキーの需要が爆発的に高まった時期にも拘らず、その後のロットも同様に限定されたものでした。ケンタッキー・アウルはバーボン界で最も人気のある新ブランドの一つへと急速に成長し、入手困難なスニーカーと同じようにほぼ全てのボトルが2倍、3倍、4倍の価格で転売されており、カルト的な人気を獲得しています。その影響からかそもそも小売価格も相当な値段で、ディクソンとビジネス・パートナーら3人は当然それが美味しく価値のあるものだと思っていましたが、小売業者はそれ以上の何かを見出し値付けしました。ディクソンは「蒸溜所も倉庫も持たずに小規模で何かをするには、かなりのお金が掛かります。それが価格がこのような値になっている理由の一部です。しかし、小売業者がそれに上乗せする金額は…かなりの額になります」と言い、小売店がどうするかは彼の手に負えないと語っていました。ちなみに、オールド・アウル・タヴァーンでは比較的安価で飲めるらしいです。余りに高額なウィスキーは、その価格故に厳しい目に晒されるでしょう。実際、価格を考慮してスコアを付けるレヴュワーの中にはケンタッキー・アウルを低評価にする人はいます。美味しいは美味しいのだが価格に見合うとは思えない、という訳です。あのバーボンの歴史家マイケル・ヴィーチですら、業界の試飲会でディクソンに会った時、「君のバーボンは好きですが、値段が気に入らない」と言いました。ディクソンは「少なくともウィスキーを気に入ってくれて嬉しい」と答えたとか。

2016年のサンクスギヴィング・デイの前、ディクソンはロシア人実業家ユーリ・シェフラーのオフィスから電話を受けます。ストリチナヤ・ウォッカで知られる世界的な飲料会社SPIグループからのケンタッキー・アウル・ブランドの買収話でした。シェフラーはポートフォリオを改善するためのホットなアイテムを探しており、ケンタッキー・アウルに興味を持ったのです。ディクソンはパートナーのカーター家に電話を掛け、真剣な買い手が接触して来たことを知らせました。カーター夫妻は当初、ブランドのシェアを売却することにまったく乗り気ではなかったと言います。しかし、最終的に取引は成立し、2017年1月に7桁台後半と噂される非公開の金額でこのブランドを売却しました。カーター夫妻は事業を去り、新しいプロジェクトのためにウィスキーのバレルを探し始めました。彼らの計画はケンタッキー・アウルをヒットさせた主要な要素の殆どを繰り返すことでした。どうやらカーター夫妻は小規模な生産に留まることを好むようで、シェリィ・カーターによれば、「私たちは何かを大量生産することに興味を持ったことはありません。量より質に誠実さがあると信じています」とのこと。そうして後にオールド・カーターというブランドを成功させる訳ですが、これは別のお話です。一方のディクソンは契約の一環でアンバサダー兼ブレンダーとして残りました。2017年1月25日、SPIグループの子会社ストーリ・グループUSAがケンタッキー・アウル・ブランドの流通、販売、マーケティング及び世界展開を引き継ぐと発表されました。SPIグループのドミトリー・エフィモフCEOは「アメリカン・ウィスキーを検討し始めた時、その複雑でありながら非常に滑らかな味わいからケンタッキー・アウルに惹かれました」、「オウナーと同席し、話を聞くうちに、私達はこのブランドの再生に熱意を持ち、SPIのウィスキー・ラインの頼みの綱のバーボンになるだろうという結論に達しました」と語っています。ストーリ・グループUSAのパトリック・ピアナ社長は「ケンタッキー・アウルは当社のプレミアムとラグジュアリーなブランドのポートフォリオにとって素晴らしい次のステップです。バーボンは最近目覚しい成長を遂げており、特にスーパー・プレミアムのサブカテゴリーに大きなチャンスがあると見ています」、「私はディクソン・デッドマンと共に、彼の家族が北米のブラウンスピリッツ消費者向けにカルト・バーボン・ブランドとして築き上げた信頼ある製品を加速させることを楽しみにしています」と発言しました。同社がこのウィスキーに力を入れるのに時間は掛かりませんでした。少量生産のスーパー・プレミアム・バーボンであるこのブランドはストーリ・グループUSAによってアメリカの主要都市にも進出して行くことになります。
2017年8月から9月に掛けてリリースされたケンタッキー・アウル・バーボンのバッチ#7は、販売地域が単一州からカリフォルニア、イリノイ、フロリダ、ケンタッキー、テキサス、ニューヨーク、テネシーの7州に拡大されました。バッチ#7は、13年以上熟成の11樽と、2年目にダブル・バレルドされた8~9年熟成の4樽から、118プルーフのボトリングで計2535本の生産とされています。ディクソンは「どのバッチもそうですが、私は特定のテイスト・プロファイルを念頭に置いて始めません。代わりに、そのフレイヴァーをフォローして、前のバッチよりもフロントにより甘みがあり、フィニッシュはより複雑でスパイシーな組み合わせに辿り着きました」と語りました。希望小売価格は200ドルだったようです。同じ頃、ケンタッキー・アウルに新しくライ・ウィスキーも発売されました。
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ディクソンはどうやら大量のライ・ウィスキーを手に入れるチャンスに恵まれたらしい(ライはその後の数年間で計4つのバッチが造られた)。バーボンのリリースとは異なり、ケンタッキー・アウル・ライに使用されたバレル数やボトル本数は明らかにされていませんが、このリリースには7000本以上のボトルがあると噂されていたり、一説には最初のバッチは45000本ほど造られたとされます。これはカリフォルニア、コロラド、コロンビア特別区、フロリダ、ジョージア、イリノイ、インディアナ、ケンタッキー、ルイジアナ、メリーランド、マサチューセッツ、ミシガン、ミネソタ、ミズーリ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、ニューヨーク、ノース・キャロライナ、オハイオ、ペンシルヴェニア、サウス・キャロライナ、テネシー、テキサス、ヴァージニア、ワシントン、ウィスコンシンを含む国の半分の州でリリースされました。そして、ケンタッキー・アウル・ライはバレルプルーフでのボトリングではなく、加水調整されています。バッチ1のバッチ・プルーフは130くらいで、その後、ディクソンは自分好みのスウィート・スポットになるまでプルーフを下げて行き、最終的に110.6プルーフとなったそうです。ケンタッキー・アウル・ライの総ボトル本数が多いのは、バレル・プルーフでボトリングされていないことも一つの要因かも知れません。調達したライ・ウィスキーが何処産のものかも公開されていませんが、おそらくその出所はバートンだろうと多くの人に推測されています。10年を超すなかなか長熟なライ・ウィスキーというのは市場にそうそう出回っていません。だから、熟成年数だけから2017年の段階で11年物もしくはそれ以上の長熟ケンタッキー・ストレート・ライ・ウィスキーの在庫がありそうな蒸溜所を絞り込むことが出来る訳です。ユタ州のハイ・ウェスト蒸溜所は、長熟のバートン・ライを遠回りして手に入れ、ダブル・ライ!やランデヴー・ライ等に在庫がなくなるまでの間、使用していました。バートン蒸溜所は、2009年にサゼラックに買収される以前は柔軟なカスタム蒸溜をしていたそうです。そうした中で或る顧客にオーダーされ造ったのか、それとも気紛れもしくは実験的に蒸溜したものか、或いは古典的なレシピなのかは判りませんが、兎も角バートンには三つのライ・マッシュビルがあることが知られています。一つはケンタッキー・スタイルに準じた53/37/10です。もう一つは80/10/10で、これはブレンデッドに使用するフレイヴァー・ウィスキーとして造られたと思われます。残りの一つがコーンを含まない高モルトの65/35で、これはカーネルEHテイラー・ストレート・ライに使われていると根強く信じる人達がおり、或るウィスキー・レヴュワーはケンタッキー・アウル・ライのバッチ1を飲んだ後にEHテイラー・ライを試飲したら驚くほど似ていたと言っていました。当時バートンから調達可能だったのは53/37/10と65/35の2種類のライ・ウィスキーと見られるので、強ちなくはない感想かも知れません。但し、ディクソンは全てのライ・ウィスキーが一つの生産者のものではないことを仄めかしています。おそらく使われたバレルの大半はバートン蒸溜所からだと予想されますが、単一の蒸溜所からではないのなら、この時期に11年物(もっと古い原酒がブレンドされているという噂もある)のライを製造していた蒸溜所という観点から候補を絞ると、2000年代初頭にヘヴンヒルのライ・ウィスキーを何年も代行で蒸溜していたり、2004年頃からのミクターズ・ライ10年の供給元と見られるブラウン=フォーマン(旧アーリー・タイムズ・プラント)、2016年に発売されたブッカーズ・ライ13年やノブクリーク・ライの熟成されたストックを持っていた可能性のあるジム・ビーム蒸溜所、サゼラック18年用のライ・ウィスキーが余っていたのならバッファロー・トレース蒸溜所、2019年リリースのコーナーストーンは9年から最大11年の熟成期間とされているので、それに使用されなかった長熟ライが存在するならワイルド・ターキー蒸溜所、と言ったあたりでしょうか。また、そもそもディクソンは或るインタヴューで、調達したウィスキーを他の蒸溜所のバレルでフィニッシングを行うアイディアを説明しているそうですし、ケンタッキー・アウル・バーボンと同じようにニュー・チャード・オーク・バレルでフィニッシングさているのかも知れず、そうなると元のソーシング・ウィスキーの味わいはかなり変化していると見なければなりません。まあ、中身の詳細は藪の中なので措くとして、ケンタッキー・アウル・ライのバッチ1はライ・ウィスキー・ファンの間で最も高く評価され、熱狂的なファンもおり、それを示すような二次価格が付いています。
ケンタッキー・アウル・バーボンのリリース以上にその名を有名にしたのはライでした。ライの発売後、ケンタッキー・アウルは良い意味でも悪い意味でも爆発的に売れたと言います。悪い意味の方は転売ヤーに買い占められた、または愛好家がストックのために買い溜めしたという意味でしょう。ケンタッキー・アウルというブランドに対するウィスキー愛好家の評価は二つの陣営、つまり熱烈に賞賛する陣営と価格に嫌悪感を抱く陣営に分かれますが、嫌悪感陣営がケンタッキー・アウル全体を貶したとしても、称賛陣営からは「あぁ、でもライの最初のバッチは…」云々と言われることが少なくないとか。このようにバッチ1は今や伝説的な地位を獲得していますが、2017年に初めて発売された当時の120ドルは、多くの消費者にとって購入を見送るのに十分に高い価格でした。ところが2018年のバッチ2はボトル1本あたり80ドル高い約200ドルへと値上げされました。熟成年数はそのままでしたが、プルーフは101を僅かに上回る程度まで下げられたにも拘らずです。なぜこれほど大幅な値上げになったのかと愛好家達は困惑しました。そのせいか、バッチ2はケンタッキー・アウル・ライの全リリースの中で最悪の売れ行きとなったらしい。大幅な値上げはまた、まだ安いバッチ1を急いで買いに走らせる要因ともなりました。ぽつりぽつりと現れたレヴューでは、バッチ2よりバッチ1の方が優れていると指摘されました。2019年のバッチ3では、プルーフは上がりましたが(114プルーフ)、どういう訳か熟成年数が1年減って10年熟成となりました。価格は200ドルのままです。ディクソンの語る製法上、夫々のバッチは味わいが異なる筈なので、熟成年数の記載が変わったと言うことは主成分となる原酒が全く異なる蒸溜所のものになっていたり、或いは少なくともその割合には大きな変化があった可能性はあるのかも知れません。繰り返しますがケンタッキー・アウルは秘密のヴェールで覆われているので真相は想像するしかないです。中身のライ・ウィスキーが美味しくなかった訳ではありませんが、バッチ3が登場する頃には、あまりに高過ぎる価格と原酒に関する謎がこのブランドに対する不信感を生んでいます。そして、ケンタッキー・アウル・ライは2020年のバッチ4をもって終了することになりました。チューブに入れられ、その値段はなんと300ドルに値上げられました。廃止の理由は明らかにされていませんが、主成分となっていたバレルが尽きた、または仕入れ先がなくなったとかバレルが高過ぎて仕入れられなくなった、或いはディストリビューターが製品を販売する能力が急低下していることに気づいた等の幾つかの推測があります。

ストーリ・グループは、2017年1月にウィスキー事業参入の基盤としてケンタッキー・アウル・ブランドの権利を購入した後、11月になるとバーボンの首都であるケンタッキー州バーズタウンに1億5000万ドルを投じて新しい蒸溜所を建設する計画を正式に発表し(9月には既にプロジェクトが始動していることが報じられていた)、起工式を行いました。これは長期的には420エーカーの土地に、蒸溜所、ヴィジター・センター、クーパレッジ、リックハウス、ボトリング・センター、コンベンション・センター、釣りやレクリエーションのための淡水湖、レストラン、ホテル、年代物の旅客列車と鉄道駅などで構成される、まるでディズニーランドのようなケンタッキー・アウル・パークと呼ばれる複合施設をバーボン・トレイル最高の目的地として確立する壮大な計画でした。ここはジョン・ローワン・ブールヴァード沿いにあり、もともと石灰岩の採石場だった場所で、すぐ近隣にラックス・ロウ蒸溜所があります。
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一年後の2018年11月には、プリツカー賞を受賞した世界的に有名な建築家の坂茂率いるシゲル・バン・アーキテクツ(坂茂建築設計)に主要建物の設計を依頼して最先端のケンタッキー・アウル・パークを建設することを発表し、3Dレンダリングを公開しました。光を取り込んだピラミッド型の蒸溜所、石灰岩で濾過された澄んだ水を湛える湖、自然との繋がりを感じさせる敷地全体のデザインは息を呑むほど美しく、バーズタウンはおろか世界でも類を見ないものでした。
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2017年の発表の時は、蒸溜所を含むプロジェクトの第一段は2020年のオープンを目標に来年早々にも建設が開始、とされていました。2018年の発表の時は、この巨大プロジェクトは2020年に着工予定で完成までには数年を要する、とされていました。 ところが、聞くところによると、この計画は土地取得に関する障害にぶつかったとか、コストが大幅に上昇したとかで、物静かな状態が続き、人々はこの蒸溜所が本当に建設されるのか訝るようになりました。2021年の情報では、全体的な建設は来年開始される予定で、2022年にボトリング設備とバレル倉庫、蒸留所の建設は2024年に始まり2025年に完成予定、ホテル/コンサート・ホール/鉄道駅などは2026年以降になり完成は未定とされていました。2022年9月の情報では、来月から建設を開始し、2023年4月までにオープンする仮設ヴィジター・センターの建設を計画しており、訪問者はこの複合施設がゼロから建設されて行く様子を見ることが出来る、また複合施設の蒸溜所は約2年半以内に稼働を開始する予定とされていました。2023年の情報では、2025年後半に蒸溜所部分が完成する予定で、2029年に自社のスピリッツをブレンドの一部にすることを目標にしている、とありました。…と、まあ、このようにバーボンのディズニーランドであるケンタッキー・アウル・パークの建設は遅れています。いつ撮られたものか判りませんが、現時点でグーグル・マップの航空写真を見ても建造物は何も出来ていませんでした。完成は当分先になりそうなので、我々としては楽しみにしながら待つしかないでしょう。

蒸溜所の建設が進まない一方で、ストーリはケンタッキー・アウル・ブランドを更に拡大するため、2019年4月にケンタッキー・アウル・コンフィスケイテッドを発売しました。名前となった「Confiscated」は日本語では「没収」や「押収」を意味する言葉で、初期のデドマン家の「バーボン・ビジネスへの道を当分の間終わらせることになった」政府からの押収を指し、C・M・デドマンの遺産である二度と見ることも味わうことも出来なかったバレルに敬意を表して名付けられています。これまでのケンタッキー・アウルと違い、このバーボンはアメリカ全50州で販売できるほど大規模なリリースでした。96.4プルーフでボトリングされ、希望小売価格は750mLボトルで125ドルでした。
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ストーリのもとで4年間ブランドを率いてきたディクソン・デドマンは2021年にマスター・ブレンダー兼ブランド・アンバサダーの職を辞しました。自らの家族のブランドを離れることは、彼の人生で最も辛い決断でした。それでもそうしたのは概ね以下のような理由からでした。ディクソンとカーター夫妻によるケンタッキー・アウル復活が成功を収めた時、その事業に大手グローバル企業から参入の申し出がありました。しかし、ディクソンらは大企業の自慢の種になりたくはありませんでした。ブランド売却当時のストーリはまだ比較的小さな会社で、彼らは「あなたのヴィジョン、あなたの夢を活用してケンタッキー・アウルを成長させたい」と言いました。カーター夫妻は別の道を行きましたが、ディクソンはその提案を受け入れ、夢は実現しました。しかしその後、組織の性質全体が変わってしまいました。ストーリはグローバルな組織となり、ブランドを牽引するディクソンの能力を奪うようになりました。彼は自分の進む方向に誇りを持たなければならないと思い、ブランドを放棄するに至った、と。
ストーリを退社するとディクソンはすぐに、バーボンとウィスキーに重点を置きながらアルコール飲料業界に特化したアドヴァイザリー・サーヴィス(ワインとスピリッツ業界への合併、買収、戦略的思考に関する助言)も提供するバルク・スピリッツの大手サプライヤーであるブリンディアモ・グループにコンサルティング・リソースとして雇われました。アメリカン・ウィスキーの成長を支える原動力の一つである同社のクライアントには、エンジェルズ・エンヴィの共同創業者ウェス・ヘンダーソンやバーズタウン・バーボン・カンパニーの社長兼CEOマーク・アーウィンなど大物がいます。ディクソンもクライアントの一人として過去数年間、ブリンディアモの創業者ジェフ・ホプメイヤーやそのチームと関係を築いて来たので自然な流れでそうなったのでしょう。嘗てジェフはケンタッキー・アウルを「このウィスキーは、世界クラスの高級ブランドに仲間入りしてその地位を維持する可能性を秘めている。そういう名声がある」と評価し、彼の助言のもとストーリはケンタッキー・アウルを買収して物流の改善に投資することが出来ました。ディクソンのブリンディアモ参入の際に、ジェフは「ウィスキー業界が進化し続けていることを目の当たりにし、業界のニーズにより的確に応えるために今こそ彼を迎え入れるべき時だと判断しました」と語っています。 

ディクソンは業界でコンサルタントをしながらも、彼は別のウィスキー・ブランドを作ることに興味を持ち続けていました。そのチャンスは思いのほか早く、突然、訪れます。彼はブリンディアモ・グループで短期間働き、ブランド及び投資のコンサルティングの内情を垣間見ることが出来ました。オープン・マーケットを渡り歩くうちに、彼は主に利益を得る手段としてバーボンに興味を持つ熱心な投資家も見ました。現今のバーボン界隈には大量の資金が流入しており、ディクソンは多くの人からアプローチを受けます。個人投資家は白紙の小切手と投資の即時回収を条件に彼のもとにやって来ましたが、そうした提案は自分の仕事には上手く合致しない不誠実なものであると感じ、最適な機会が訪れるまで辛抱強く待つ必要があると思いました。ヴィジョンの違いからケンタッキー・アウルを離れたディクソンは、次の事業では地に足を付けた仕事をしようと決意し、新しいブランドと提携することを急いではいなかったのです。しかし、ディクソン・デドマンは常に適切な時に適切な場所にいる男でした。彼はフリーランスとしてブレンディングやコンサルティングを行うことを期待していましたが、程なくしてワインやスピリッツのインポーターであるプレスティッジ・ビヴァレッジ・グループから大量のバレルの備蓄をどうしたらいいかアドヴァイスを求められます。同社は、ケンタッキー州の2つの蒸溜所で契約蒸溜を行い、2015年から何年もの間寝かせた独自のマッシュビルのバーボンを数千バレル所有しており、加えて他のケンタッキー・ストレート・ウィスキーにもアクセス出来ました。彼らは自分たちが大きな間違いを犯したかどうかを知りたがっていました。その6年近く熟成したウィスキーを味わった瞬間、ディクソンはパートナーを見つけたと確信しました。彼は飲む前は4~5年熟成の基本的なものだと思っていましたが、実際に飲んでみるとそれは素晴らしいものでした。ディクソンはそのことを伝え、自分のアイディアを話しました。ディクソンには在庫が必要で、彼らと組めば市場に出回っている樽を追いかける必要もなく管理する必要もありません。プレスティッジ・ビヴァレッジにはコンセプトが必要でした。彼らはディクソンを信頼し、最初のミーティングから1時間以内にマスター・ブレンダーと彼らにとって初めてのアメリカン・ウィスキー・ブランドを手に入れることになります。ディクソンのケンタッキー・アウルに続く次のアイディアは「2XO」というブランドでした。この名前は「two times oak」を意味し、リリースされる全てのウィスキーを何らかの二次的なオーク材に晒す製法で造られています。2XOブランドは2022年の暮れに初めて発売され、現在ではオーク・シリーズ、アイコン・シリーズ、シングルバレルのシリーズで構成されています。毎日飲む用途として開発されたオーク・シリーズは、アメリカン・オークとフレンチ・オークがあり、常時販売され、約50ドル。全てのリリースが独自のフレイヴァー・プロファイルをもつと言う1回限りの限定品であるアイコン・シリーズには、発売順に言うとザ・フェニックス・ブレンド、ザ・インキーパーズ・ブレンド、ザ・トリビュート・ブレンド、ザ・カイワ・ブレンド、ザ・スニーカーヘッド・ブレンドがあり、価格は凡そ100ドル。手元にある最高のバレルから造られるシングルバレルのジェム・オブ・ケンタッキーは大体200ドル程度です。
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(S・D・デドマンと2XOのラインナップ。2XOのウェブサイトより)
2XOに使用されているバーボンは、ケンタッキー州にある二つの別々の蒸溜所から供給されており、一つはライ麦35%のマッシュビルで、もう一つがライ麦18%のマッシュビルとのこと。供給元は非公開ですが、おそらく35%の方はウィルダネス・トレイル蒸溜所、18%の方はバートン蒸溜所かバーズタウン・バーボン・カンパニーではないかと推測されたりしています。それと、聞くところによるとオーク・シリーズのアメリカン・オークでの「トゥー・タイムズ・オーク」のプロセスは、バーボンを2つめのバレルに入れ換えるのではなく、8〜10フィートのオークの鎖(ステンレス製のコードで何百もの焦がしたオークのブロックを纏めたもの)を元のバレルにバングホールから挿入して8ヶ月間放置されているそうです。これらの木製ブロックの表面積は、樽の内部と全く同じ表面積を再現するようになっているとか、或いは約75%に相当するようになっているとされます。なんだかメーカーズマークの46等に使われるインナー・ステイヴを漬け込む手法と似ていますが、鎖状にすることで表面積が増えてオークの影響も強く出るのでしょうか? ちょっと興味深いですね。まあ、それは兎も角…、ディクソンは若くスマートで、何よりブレンドの才能がありました。ウィスキーのイヴェント等を訪れると、ファンは彼を業界のスターとして扱い、サインや写真を頼むと言います。2XOがあっという間に躍進したのはディクソン・デドマンの名前があったからに違いないでしょう。

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一方のディクソンが去った後のストーリ・グループは、2021年6月にジョン・レア(*)をケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーに迎えたことを発表しました。レアは40年に渡る輝かしいキャリアを経た2016年にフォア・ローゼス蒸溜所のチーフ・オペレーティング・オフィサーを退任していました。彼は大学を卒業したあと僅か3日で同蒸溜所でのキャリアをスタートすると、長い在職期間中に品質管理、熟成、評価、製品のブレンドなどを担当し、定年退職するまでその職を離れることはありませんでした。業界への貢献により2016年にはケンタッキーバーボンの殿堂入りを果たしています。また、17年間、ケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーションの理事を務め、130年以上の歴史の中で5人しかいない終身会員の1人として栄誉に輝きました。「私が引退から復帰するきっかけとなったのは、ケンタッキー・アウルのバーボンとライの世話役を務める機会を得たからでした」とレアは語り、「私は長い間ケンタッキー・オウルの製品ラインナップには感心していたので、このような機会を得れて嬉しく思っています」とコメントしています。彼の役割は、その豊富な知識と専門技能を駆使して製品の一貫性と卓越性のために最良の条件を選択し、また同様に製品ラインナップを拡大する新しいブレンドを導入することでした。従来からのケンタッキー・アウル・バーボンの続きとなるバッチ#11もリリースしつつ、製品拡張の一環として、品質を求めながらも200ドルも払えないZ世代やミレニアル世代を取り込むため、ストーリはやや廉価な「ザ・ワイズマン」というブランドを立ち上げます。マスター・ブレンダーのジョン・レア監修のもと、2021年9月にバーボン、続いて2022年4月にライがリリースされました。ケンタッキー・アウルのウィスキーはコンフィスケイテッドを除いて全て限定リリースでしたが、それらのプレミアムでより高価な製品と区別するための新しいデザインのラベルが施されています。ザ・ワイズマン・バーボンは、4年熟成のウィーテッド・バーボンとハイ・ライ・バーボン、そしてケンタッキー産の5.5年熟成と8.5年熟成の4つの異なるストレート・バーボンのブレンドで、若い要素はバーズタウン・バーボン・カンパニーと提携して契約蒸溜されたものと言われています。ザ・ワイズマン・ライは、バーズタウン・バーボン・カンパニーで蒸溜されたライ95%のマッシュビルです。
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更にストーリは世界中の様々なウィスキー愛好家を引き付けることを目的とし、世界各地のブレンダーとコラボレーションするシリーズも始めました。その第一弾として、2022年のセント・パトリックス・デイ(3/17)に合わせて2022年2月に発売されたのがセント・パトリックス・エディションです。これはケンタッキー・アウルのレアと、アイルランド初の近代ウィスキー・ボンダー(**)であり、J.J.コーリー・アイリッシュ・ウィスキーの創設者であるルイーズ・マグアンによるコラボレーション。アイリッシュ・ウィスキーのボンディングは、19世紀から20世紀に掛けて一般的だったブレンド方法であり、当時は殆どのアイルランドの蒸溜所がウィスキーを製造し、ボンダーが熟成、ブレンド、瓶詰めしていました。1930年代にアイリッシュ・ウィスキー業界が崩壊すると、ボンディングは衰退しましたが、2015年にマグアンが再びこの伝統を復活させました。このウィスキーはブラインド・テイスティングによって選ばれた個々のカスク・サンプルから二人が共同でブレンドしたもので、最終的に4〜11年熟成のブレンドに落ち着きました。そこにはマグアンがターゲット・プロファイルのために赤い果実の香りに焦点を当て、多くのウィーテッド・バーボンが含まれていたと言われています。
2022年9月には、日本の長濱蒸溜所のブレンダー屋久佑輔とコラボした第二弾のタクミ・エディションが発売されました。これは新旧ブレンダーの技倆を融合させると同時にジャパニーズ・ウィスキーの目を通してケンタッキー・バーボンを紹介する試みでした。我々日本人には馴染み深い「Takumi(匠/工/巧み)」は、英語では「master」もしくは「artisan」の意味だと説明されています。レアは熟成年数とマッシュビルの異なる4種類の配合を作ってサンプルを日本に送り、屋久はそれらを品質査定したあと彼のジャパニーズ・ウィスキー・スタイルをベースに更にブレンドしました。パーセンテージは公表されていませんが、ブレンドされているウィスキーは4年、5年、6年、13年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンとされ、マッシュビルにはコーン、ライまたはウィート、モルテッドバーリーが含まれていると言われています。タクミ・エディションは25000本のリリースで、セント・パトリックス・エディションの12000本の倍以上がボトリングされたそう。
国際コラボレーションの3番目(にして最後)は2023年9月にリリースされたメイスター・エディションでした。「Maighstir」はゲール語で、英語の「master」に相当します。メイスター・エディションの目標は、様々なバーボンをブレンドすることで、スコッチのスピリット、エッセンス、そして可能であればフレイヴァーを表現することでした。コラボの相手はスコッチ界のモーリーン・ロビンソン。彼女は、スピリッツの巨大企業ディアジオに45年間勤務したヴェテランで、マスター・ブレンダーの称号を獲得した最初の女性の一人です。ジョニーウォーカー、オールドパー、ブキャナンズ等で仕事をし、ファンに人気のフローラ&ファウナのボトルやプリマ&ウルティマなどのスペシャル・リリースを手掛けた人物であり、そのキャリアの後期に手掛けたシングルモルトのシングルトン・ブランドを大いに発展させました。またロビンソンは、ウィスキー・マガジンの殿堂入りを果たしており、数少ないマスター・オブ・ザ・クエイヒ(***)にも任命されています。これらはスコッチ・ウィスキーの世界に多大な貢献をした人々を称える業界最高の大きな名誉です。レアとロビンソンは協力して、コーン、ウィート、ライ、モルテッドバーリーを含むマッシュビルのケンタッキー・ストレート・バーボンをブレンドし、スコットランド風(とされる)エディションを造り上げました。
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このコラボレーションは一つの章の終わりと次の章の始まりを意味していました。ケンタッキー・アウルで過去2年間マスター・ブレンダーを努めて来たレアが退職し、代わりにモーリーン・ロビンソンが同職に就くことになったのです。ロビンソンは2022年6月末にディアジオでのシングルモルトとブレンデッドのマスター・ブレンダーを引退し、好きなゴルフでもしてのんびりしようと思っていました。しかし、彼女のもとに仕事が舞い込みます。ケンタッキー・アウルは上述のようにこれまでに2度、他国のマスター・ブレンダーにその国のスタイルの「バーボン」を作るよう依頼していました。ストーリは2022年後半にロビンソンに連絡を取り、ブレンデッド・スコッチに関する彼女の専門知識を反映させた表現を創り出そうと考えました。ケンタッキー・アウルから最初に連絡を受けたのは、キーパーズ・オブ・クエイヒを通じてでした。その仕事がスコッチを彷彿とさせながらもバーボンの資質を失わないウィスキーの作成を手伝うことだと知って、ロビンソンはすぐに興味を唆られこれは面白いプロジェクトになると思いました。「以前にもスコッチをバーボンのような味にするよう頼まれたことはありますが、今回はその逆でした。バーボンをスコッチのような味にしようとしているんです」。結局、彼女はテイスティング・グラスから一歩も離れることは出来ませんでした。ロビンソンがこのプロジェクトを引き受けると伝えた後、ジョン・レアを紹介されました。彼はバーボン業界で最も経験豊かな人物の一人でしたが、スコッチの経験も少々ありました。二人はズームで何度も話し合い、メイスター・エディションのヴィジョンを磨き上げました。レアは作業に取り掛かると、スコッチのような味わいのバーボンを作るという珍しい目標に最も役立つと思われるサンプルを選び、ロビンソンのもとへ送りました。彼女はキッチンに座ってそれぞれの香りや味をカスク・ストレングスで試し、ブレンドを作るための基礎と枠組みを整えました。ブレンドの成分はスタンダードなストレート・バーボン3種類とウィーテッド・バーボン1種類の4つから構成されています。3種類のうちの1つは8~9年、2つめは5~6年、3つめは9~10年熟成され、ウィーテッド・バーボンが4~5年熟成。若いバーボンはライト・チャー、古いものはヘヴィ・チャーが施されたバレルから造られているとのこと。ロビンソンは、特にウィーテッド・バーボンのサンプルと、それがもたらすスコッチのような柑橘系の香りに感銘を受けました。「私にとって、これがスコッチを彷彿とさせるものでした」。そこで、彼女はウィーテッド・バーボンをベースとすることを決め、それからスコッチのブレンドの原則を適用して幾つかのブレンドを試しました。構成成分の中で最も古いものだった9~10年熟成のウィスキーはオークの香りが強く、彼女が考える典型的なバーボンの特徴に最も近いものでした。そこで、ロビンソンは9~10年物の比率を下げ、他の「スコッチらしい」要素の影響を強める必要があると考えてそれを試していました。ところが実際はまったく逆だったと彼女は言います。「ウィスキーの味が詰まってしまい、風味が殆どなくなってしまいました」。彼女はスコッチ・ウィスキーをブレンドする際にも似たような経験をしていました。常識的に考えれば、ピートのスモークはブレンドの味を支配してしまうので、多すぎるのは避けるべきでありそうです。しかし実際には、ピーテッド・スピリッツは他の要素の風味と香りを結び付ける一種の「調味料」として活用でき、ブレンデッド・スコッチも「スモーキーさがないと全く味気ないものにな」ってしまう、と。9〜10年物のオークの古めかしい風味もそれと同じような要素として現れたのでした。暫く試行錯誤を繰り返し、満足のいく出来になった後、彼女はレシピをレアに送り、彼が自分の側で再現できるようにしました。こうして、メイスター・エディションは誕生しました。ロビンソンは、このエディションを「柑橘系の香りとフローラルなグリーンの香り、そしてほんのりとした甘さとオークの風味が軽めのスタイルのスコッチを彷彿とさせますが、それでもバーボンの素質はすべて保たれています」と語り、「香りはスコッチから始まって、その後バーボンに変わります。味はバーボンのような味からスコッチのような味に変わります」と評しました。とは言え、このウイスキーからスコッチ、特にブレンデッド・スコッチの香りを嗅ぐには、想像力を働かせる以上のことが必要だともロビンソンは言っていますし、況してやこれはアイラ・ウィスキーを再現しようとするバーボンではありませんから、そういう意味でのスモーキーな香りは期待しない方がいいでしょう。この作品の制作と発売の間に、レアが再び引退することになっていたので、彼の役割をロビンソンが継ぐというアイディアが生まれました。そこでストーリはこのプロジェクトの終わりが近づいた時、彼女にケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーに興味はないかと声を掛けました。彼女は興味があると答え、その役を引き受けました。メイスター・エディション作成以前、ロビンソンのバーボンに関する知識は限られていました。彼女は何年も前に当時ディアジオ(UD)傘下のブランドだったレベル・イェールを飲んだことはありましたが、すぐにこのカテゴリーについてもっと詳しくならなければならないと思いました。最大の課題はアメリカン・ウィスキーに使われる多くのマッシュビルを理解することでした。それはスコッチ・ウィスキーではあまり一般的ではありません。「マッシュビルは違っても、風味豊かなブレンドを目指しています。バーボンを扱ったことはありませんでしたが、ジョン・レアと一緒にメイスター・エディションに取り組むうちに、そのニュアンスをすぐに理解できるようになりました。今後数年間、このブランドで何をするのか楽しみです」。他の汎ゆるブランドのアプローチを理解するため、世の中にある様々な種類のバーボンを把握しようとしているロビンソンですが、彼女は自分を暫定的なマスター・ブレンダーだと思っていると発言しており、レアと同様にあまり長くその職に留まるつもりはないようです。おそらく、そのうちもっと若い世代の誰かにバトンは受け渡されるのでしょう。

ケンタッキー・アウル・ブランドには、ここまでに紹介していない限定版があと2つあります。一つはケンタッキー・アウル・ドライ・ステイトです。これは1920年の禁酒法開始から100年が経過したことを記念(過去への反省)して、2020年9月にリリースされました。各ボトルは1920年代をイメージした美しい手作りのコレクターズ・ウッド・ボックスに入れられています。中身のジュースに関しては、これまでで最も古く最も希少な12年から17年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを使い、ディクソン・デドマンが4か月以上かけて完成させブレンドで、100プルーフにてボトリングされました。例によって他のケンタッキー・アウルと同様、ウィスキーの出所に就いては明らかにされていません。ロットのサイズは2000ボトルとされています。ケンタッキー・アウルは最初のリリース以来、高級ウィスキー・ブランドとしてその名を馳せ、忽ちカルト的な人気を博した一方で、値段の高過ぎるウィスキーとしても知られていますが、このドライ・ステイトの希望小売価格は驚きの1000ドルでした。ちなみに、パピー・ヴァン・ウィンクル23年ですら希望小売価格は300ドル(まあ、セカンダリー・マーケットではもっとしますが…)、ブラウン=フォーマンのスーパー・プレミアムな限定バーボンであるキング・オブ・ケンタッキーでも希望小売価格は250ドルです。流石にボトル1本あたり1000ドルという価格では飲める人が限られているせいかレヴューも少ないのですが、それらを見るとその価格を正当化する味わいではないとの評でした。発売時期もあってか、ドライ・ステイトは「COVID-19の悪影響でキャリアを棒に振ったサーヴィス業従事者の長期的な回復策を確立するための慈善事業」である全米レストラン協会の従業員向上基金に直接寄付するために、クリスティーズと提携して一握りのボトルがオークションに掛けられました。
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もう一つは、2022年11月に発売されたケンタッキー・アウル・ライ・バイユー・マルディグラXOラムカスク・フィニッシュです。これは11年熟成のライ・ウィスキーをベースとし、ルイジアナ州ラカシーンにあるバイユー・ラム蒸溜所(ルイジアナ・スピリッツ蒸溜所とも)のバレルを使用してフィニッシングしたもの。この蒸溜所はティムとトレイのリテル兄弟が長年の友人であるスキップ・コルテースと共に2013年に設立しました。彼らは、ルイジアナ州最大かつアメリカで最も古い現役の製糖工場から糖蜜を調達し、銅製のポット・スティルを使用して蒸溜しています。2016年6月にSPIグループがバイユーの株式の72.5%を取得したことでストーリ・グループUSAがバイユー・ラムの国内総代理店となり、その2年後に残りの株式を購入して完全子会社化しました。このリミテッド・エディションは、空になったばかりの38個のバイユー・マルディグラXOラム樽へ3月にライ・ウィスキーを入れ、1年以上かけて追加熟成されているとのことです。3月に再樽詰めする理由は、ウィスキーに長く、暑く、湿度の高い夏を与えることで、美味しい風味をより引き出すことが出来るからでした。バイユー・ラムのマスター・ブレンダーであるレイニエル・ヴィセンテ・ディアスは、ルイジアナの特徴的な気候の湿度がバイユー・ラムに素晴らしい効果をもたらすことを知っており、それをケンタッキー産のリッチなライ・ウィスキーにも応用してみた、と。ボトリングは102.8プルーフで、希望小売価格は500ドルでした。

偖て、現在までのブランドの歴史を辿ったところで、ケンタッキー・アウルのバッチ情報を纏めておきます。希望小売価格はUSドルで「約」です。詳細が不明の部分もあるので、追加情報や間違いの指摘はコメント欄よりどしどしお寄せ下さい。


【KENTUCKY OWL BATCHES】

KENTUCKY STRAIGHT BOURBON WHISKEY

Batch #1
Release Date : September 2014
Bottle Release : 1250 Bottles
Age : NAS
Proof : 118.4
4 年熟成時にチャード・ニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入した5樽(チャー#2、チャー#3、チャー#4、チャー#5、チャー#6)のブレンドで、その風味はチャー#5とチャー#6のバレルに大きく依存していると言われています。

Batch #2
Release Date : September 2015
Bottle Release : 1360 Bottles
Age : NAS
Proof : 117.2
4 年熟成時にチャード・ニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入した6樽(半分がチャー4、チャー5)のブレンド。バッチ2は9樽から始め、それらは全て4年目にチャーした新樽に再度入れ直したものでした。そして、この9樽から24種類の組み合わせのブレンドを造ってテイスティングを開始して、ブラインド・テイスティングを繰り返し、信頼できる人達にもサンプルを送って彼らがどのバッチを選ぶかを確かめると、最終的に全員が同じサンプルに戻り続け、それがバッチ2になったと言われています。

Batch #3
Release Date : December 2015
Bottle Release : 206 Bottles
Age : NAS
Proof : 107.8
Barrel #16 – Single Barrel (Blue Ink)
シェリィ・カーターによれば、このバッチはケンタッキー州ルイヴィルの新しいピアレス蒸溜所で造られたと言います。2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。

Batch #4
Release Date : December 2015
Bottle Release : 212 Bottles
Age : NAS
Proof : 116.8
Barrel #20 - Single Barrel (Red Ink)
2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。これもバッチ3と同じくピアレスなのだろうか?

Batch #5
Release Date : December 2015
Bottle Release : 194 Bottles
Age : NAS
Proof : 108
Barrel #12 - Single Barrel (Green Ink)
2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。これもバッチ3、4と同じくピアレスなのだろうか?

Batch #6
Release Date : September 2016
Bottle Release : 1634 Bottles
Age : NAS
Proof : 111.2
2~4年熟成の時にチャード・アメリカン・ホワイト・オークの新樽に再導入された8樽から構成され、熟成年数は8~11年。別の情報源では、1つのバレルで熟成されたバーボンと2つ目のニュー・チャード・オーク・バレルで熟成されたバーボンのミックスで、両タイプの熟成年数は4〜7年、という説もあった。「このウィスキーがヘヴンヒル産であること、特に78%コーン、10%ライ、13%バーリーのマッシュビルから造られたことに私は賭ける」と或るレヴュワーは言っていました。

Batch #7
Release Date : August 2017
Bottle Release : 2535 Bottles
Age : NAS
Proof : 118
MSRP: $200
15樽のブレンドで、そのうち4樽は2年目に新樽に投入された8〜9年熟成、残りの11樽は13年もしくはそれ以上の熟成とされています。

Batch #8
Release Date : July 2018
Bottle Release : 9051 Bottles
Age : NAS
Proof : 121
MSRP: $300
バッチ8は、5年、8年、11年、14年熟成のブレンドとされています。

Batch #9
Release Date : October 2019
Bottle Release : 10314 Bottles
Age : NAS
Proof : 127.6
MSRP: $300
バッチ9は、これまでで最も高いプルーフです。4つの異なるマッシュビルを使用し、6〜15年の幅広い熟成年数のものをブレンドしているそう。

Batch #10
Release Date : October 2020
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 120.2
MSRP: $300
ネット上に中身の情報が見当たりませんでした。

Batch #11
Release Date : ???? 2021
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 118.8
MSRP: $300
バッチ11は、マスター・ブレンダーのジョン・レアによって丁寧に造られ、6年から14年までの特別に熟成されたバーボンを使用したブレンドとされています。

Batch #12
Release Date : November 2022
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 115.8
MSRP: $400
バッチ12は、マスター・ブレンダーであるジョン・レアが注意深く造り上げた、4~14年のよく熟成された力強いバーボンを使用したブレンドとされています。

KENTUCKY STRAIGHT RYE WHISKEY

Batch #1
Release Date : September 2017
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 11 Years Old
Proof : 110.6
MSRP: $120

Batch #2
Release Date : June 2018
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 11 Years Old
Proof : 101.8
MSRP: $200
バッチ2はバッチ1よりもバッチ量が少なくなっているそうです。2018 年 6 月に、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、コロンビア特別区、フロリダ、ジョージア、イリノイ、インディアナ、ケンタッキー、ルイジアナ、メリーランド、マサチューセッツ、ミシガン、ミネソタ、ミシシッピ、ミズーリ、モンタナ、ネヴァダ、ニュー・ハンプシャー、ニュー・ジャージー、ニューヨーク、ノース・キャロライナ、オハイオ、オレゴン、ペンシルヴェニア、ロード・アイランド、サウス・キャロライナ、テネシー、テキサス、ユタ、ヴァージニア、ワシントン、ウィスコンシン、ワイオミングの各州の市場にリリースされました。

Batch #3
Release Date : August 2019
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 10 Years Old
Proof : 114
MSRP: $200

Batch #4
Release Date : ???? 2020
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 10 Years Old
Proof : 112.8
MSRP: $300
バッチ#4は「最後のライ麦(The Last Rye)」と呼ばれ、10〜13年熟成のライのブレンドとされています。

SPECIAL LIMITED EDITION

Kentucky Owl Dry State
Release Date : September 2020
Bottle Release : 2000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $1000
これまでで最も古く最も希少な12年から17年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンド。

Kentucky Owl Bayou Mardi Gras XO Cask
Release Date : November 2022
Bottle Release : ???? Bottles
Age : 11 Years (Finished an additional 1 year in Bayou Mardi Gras XO Rum casks)
Proof : 102.8
MSRP : $500
マルディグラの精神とルイジアナの誇りを祝した限定版。11年間熟成されたストレート・ライ・ウィスキー
を選りすぐりの希少なバイユーXO樽で更に1年間寝かせたもの。

INTERNATIONAL COLLABORATION

St. Patrick’s Edition
Release Date : February 2022
Bottle Release : 12000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $135
アイリッシュ・ウィスキーとケンタッキー・ウィスキーを結びつける長年の絆を記念した限定版。アイリッシュ・ウィスキーのボンダーであるルイーズ・マグアンと提携し、彼女の技術をマスター・ブレンダーのジョン・レアとのコラボレーションに生かした、4年から11年熟成のケンタッキー産ストレート・バーボンのブレンド。もしくは4年から12年熟成と言われているのも目にしました。

Takumi Edition
Release Date : September 2022
Bottle Release : 25000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $135
ジャパニーズ・ウィスキーのブレンダーが求めるフレイヴァー・プロファイルを世界のウィスキー愛好家に提供する限定版。ケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーであるジョン・レアと、日本の滋賀県にある長濱蒸溜所の新進気鋭のチーフ・ブレンダー屋久佑輔とのコラボレーション。日本のウィスキー造りの技術を反映した、4年、5年、6年、13年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンドで、マッシュビルにはコーン、ライまたはウィート、モルテッドバーリーが含まれていると言われています。

Maighstir Edition
Release Date : September 2023
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $150
アメリカとスコットランド両国の豊かなウィスキーの伝統に敬意を表した限定版。バーボンとスコッチのマスター・ブレンダー2人によるコラボレーション。コーン、ライ、ウィート、モルテッドバーリーを含むマッシュビルからなる、4年、5年、8年、9年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンド。

NOT LIMITED RELEASE

Kentucky Owl Confiscated
First Release : April 2019
Age : NAS
Proof : 96.4
MSRP : $125
アメリカ全50州で販売された最初のケンタッキー・アウル製品。創業者C・M・デドマンが政府に押収された熟成バーボン樽に敬意を表して名付けられました。このバーボンは非公開の蒸溜所から仕入れたもので、マッシュビルも非公開。幾つのバッチがあるのかも不明で、バッチ・サイズ(ボトル本数)も不明。少なくともラベル的には2タイプ確認でき、火災の絵が色無しと色有りがあり、前者はボトリングの所在地がバーズタウン、後者はラカシーンになっていました。

The Wiseman Bourbon
First Release : September 2021
Age : NAS
Proof : 90.8
MSRP : $60
ジョン・レアのもとで初めてパーマネント・リリースされた製品。ワイズマン・バーボン・ウィスキーは、バーズタウン・バーボン・カンパニーとケンタッキー州の非公開の蒸溜所から選ばれた4種類のそれぞれ4年、5.5年、8.5年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンドとされています。

The Wiseman Rye
First Release : April 2022
Age : NAS (Aged at least 4 years based on label requirements set by TTB)
Proof : 100.8
MSRP : $60
ワイズマン・ライは、バーズタウン・バーボン・カンパニーによって蒸溜されたライ麦95%マッシュビルのケンタッキー・ストレート・ライウィスキー。


では、最後にケンタッキー・アウル・ライ・バッチ1を飲んだ感想を蛇足で。

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KENTUCKY OWL RYE 11 Years 110.6 Proof
BATCH NO. 01
BOTTLED : 07 / 2017
甘い香りにうっすらハーブ香が混じり、オークの熟成香もあります。味わいはけっこう薬のようなハーブが効いていて、フルーツやウッディなスパイス、草や土っぽさも少し感じられ複雑。余韻はややビターになって引き締まって行きます。噂に違わず美味しかったです。しかし、期待が大き過ぎたのか、そこまで感銘を受けるほどではありませんでした。長熟ライという観点で以前飲んだサゼラック・ライ18年と較べると、そちらの方がドライフルーツが濃厚で美味しく感じました。熟成年数はだいぶ違いますが、同じケンタッキー・ライであり、ボトリング・プルーフの似ているパイクスヴィル6年と較べてみても、単純にケンタッキー・アウルが上とは言い切れない感じがしました。それらよりこちらの方がハービーな傾向が強く、好みの分かれるところなのでしょう。本来ならボトル1本とじっくり向き合いたいライであり、そうすればもっと色々な飲み方も出来て楽しめ、点数も上がったような気がします。
Rating:87.5〜88/100


*「Rhea」をここでは「レア」と表記しましたが、人や国によっては「レェー」もしくは「レイ」、または「リア」と書いた方が近い発音をされています。

**ウィスキーの人気が急上昇した19世紀から20世紀初頭に掛けて、アイルランドの殆どの町にはウィスキーのボンダーがいました。これは平たく言えば、蒸溜所から直接ウィスキーを購入する許可を得た商人のことです。蒸溜所は今日のように生産物をボトリングして販売までしていた訳ではありません。アイリッシュ・ウィスキーの黄金時代、アイルランドには何百もの蒸溜所がありましたが、当時その多くは自社ブランドのウィスキーをもたず、新しいウィスキー原酒を製造するとボンダーにバルク販売していました。ボンダーには酒場の主人、食料雑貨商人、商館主など様々な人々が含まれていました。ウィスキーの完全性を維持するためには専門知識と細心な注意が必要であり、彼らは高品質のウィスキーを調達し、厳格な品質管理基準を守り、熟成状況を綿密に監視する職人でした。そうした知識をウィスキー業界で長年の伝統を誇る一族から受け継いだボンディング職人もいれば、見習い期間や蒸溜所での前職を通じて学んだ職人もいました。これらのボンダー達は自分の樽を持って地元の蒸溜所まで行き、その樽にニュー・メイクを詰めて家に持ち帰り、自分のボンデッド・ウェアハウスで熟成させてから、地元のホテルや個人の顧客向けに個別のブレンドをボトリングしました。往時、ボンダーはアイルランドのどの町にも数多く存在し、彼らの実践的なアプローチは地域社会からの信頼を築き上げ、地域ごとに個性的なスタイルのアイリッシュ・ウィスキーが数多く生まれたと言います。しかし、アイルランドが大英帝国から分離し、アメリカで禁酒法が施行されると、ボンダーの事業も縮小して行きました。残念ながら1930年代にアイリッシュ・ウイスキー産業が崩壊すると、僅かに残った蒸溜所はボンダーへの供給を打ち切り、アイリッシュ・ウイスキーに於けるボンディングの伝統はほぼ途絶えてしまいました。その伝統を復活させ、アイリッシュ・ウィスキーの新時代を切り拓いた一人がルイーズ・マグアンです。2015年、酒類業界で長年働いて来た彼女は、カウンティ・クレアのワイルド・アトランティック・ウェイ沿いにあるマグアン・ファミリー・ファームにボンデッド・ラックハウスを建設しました。そして、ウィスキー探求の途上で発見したJ・J・コーリーの先駆的な伝説にインスピレーションを受け、その名を使ってブランドを創設しました。マグアンとそのチームは、アイルランド島全土の蒸留所からスピリッツを調達し、世界中の樽を使用して他では不可能なユニークな風味を実現するために、比類なきフレイヴァー・ライブラリーを構築しています。
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***クエイヒ(Quaich)は17世紀頃からスコットランドで使われていた両端に取っ手のある金属製の杯。両手を使って飲むため武器を持っていないことを示し、友好の証としても用いられて来たと云います。ガラス製のコップが普及してからは主に儀式で使用されるようになり、今ではスコットランドのウィスキー文化の象徴として知られています。マスター・オブ・ザ・クエイヒやキーパーズ・オブ・ザ・クエイヒに就いて詳しくは下記を参照。
https://www.keepersofthequaich.co.uk/
https://www.ballantines.ne.jp/scotchnote/69/index.html

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テネシー州の長閑で小さな町リンチバーグにあるジャック・ダニエル蒸溜所は、世界で最も売れているウィスキーの一つを生産しています。長きに渡り、その言わずと知れたジャックダニエルズ・オールド№7と一部の製品を生産するだけで満足していた同蒸溜所は、近年ではライ・ウィスキーやアメリカン・シングルモルトなど従来とは異なるマッシュの製品も開発したり、シナトラ・セレクトのような高価な限定品やテネシー・テイスターズのような蒸溜所限定の製品を発売して、新しいファンの獲得を狙っています。世界的なウィスキー人気の高まりが背景にあるとは言え、アメリカのバーボン・ブームの一翼を担う気概が感じられます。こうした様々な新表現のなかには従来品のヴァリエーション拡張も含まれ、シングルバレルのバレル・プルーフ版の発売などはその一例でしょう。アメリカのウィスキー愛好家は、日本人よりお酒に強いせいかバレル・プルーフのウィスキーを熱望します。そのため、各社の各ブランドには特別なバレル・プルーフ版が大抵の場合は提供されており、世界中のJDファンもそれを求めていました。トップ画像のジャックダニエルズ・シングルバレル・バレルストレングスは、マスターディスティラーによって厳選され、129プルーフ(または125プルーフ)で提供される、世界の一部のマーケット向けの製品です。2015年秋にアメリカで初めて発売されたジャックダニエルズ・シングルバレル・バレルプルーフの輸出市場版という認識でいいかと思います(JDSiBBPは、凡そ125〜140プルーフでのボトリング)。
ジャックダニエルズのシングルバレル・ブランドは94プルーフのウィスキーとして1997年に導入されました。名前が示すように、そのコンセプトは品質と風味を重視して厳選された個々のバレルでウィスキーを販売することでした。当時はまだ新しいウィスキーに関する情報が迅速に世間へと広まらないインターネット以前の時代。ウィスキーの新製品はなかなか売れない状況でした。オールド№7という安価で安定の選択肢があったため一般的な消費者はあまり関心を示しませんでしたし、シングルバレルと言えばブラントンズがあったものの、まだまだシングルバレルに関心を持つ愛好家が殆どいなかった時期に、ジャックダニエルズ・シングルバレル・セレクトは採算の取れる十分な支持を得ていたとされます。発売当初、蒸溜所は1日当たり僅か10バレルの生産から始めるも、需要がすぐに生産量の20倍以上にまで増加したとか…。ジャックダニエルズ・シングルバレルは現在、ラベルの色違いで整理され、ブラックの94プルーフ(または90プルーフ)、シルヴァーの100プルーフ(旧シルヴァー・セレクト)、ゴールドのバレル・プルーフ(バレル・ストレングス)、他にライ・ウィスキーのヴァージョンがあります。
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ジャック・ダニエル蒸溜所はシングルバレルの称号に値するとされるウィスキーは0.5%未満であると述べており、選ばれるバレルは通常は熟成庫の高層階から来ています。ラックハウスの最も暑い場所で熟成されるということは、高温によって蒸溜液と木材の相互作用が高まることを意味します。そうすると、比較的短期間でハイアー・プルーフになり、ウィスキーの琥珀色も濃くなり、複雑でロバストなウィスキーに仕上がる傾向にあるのです。高層階でのみバレルを熟成させると、液体が蒸発し過ぎてしまったり、オーク材の影響が強過ぎて苦くなることなどが挙げられますが、過熟成の兆候を見逃さずマチュレーション・ピークを見極めれば、最上階で熟成させたウィスキーは素晴らしいものになる、と。同蒸溜所がシングルバレル・セレクト・プログラム用のバレルを高層階から選んでいる理由はこのためです。このプログラムに使用するのに十分な熟成期間と見做されるまでに約5年、或いは4~7年熟成と噂されていますが、熟成年数が明記されていないため具体的には判りません。テネシーの暑い太陽の下、上層階で熟成するのなら十分過ぎる期間ではあるでしょう。マッシュビルはスタンダードなものと同じ80%コーン、8%ライ、12%モルテッドバーリーの伝統的なハイ・コーン・レシピです。

今回開封したこのバレル・ストレングスは、フランスの著名なウィスキー輸入業者ラ・メゾン・デュ・ウィスキー(LMDW)が選んだもので、所謂ストアピックとかプライヴェート・バレルと呼ばれるものです。JDの言い方では、シングルバレルのパーソナル・コレクションと言っています。LMDWは2021年に創業65周年を記念してジャックダニエルズのカスク・ストレングスを3つの名前で瓶詰めしました。これには「スウィート・フォワード」というニックネームが付けられており、他のものには「フル・ボディード&ロバスト」と「フレイヴァーフル&バランスド」がありました。私は甘いバーボンが好きなので、これを買ってみた次第。ちなみに、全てのシングルバレルが何処かのお店やグループによって選ばれる訳ではなく、通常の形で棚に並んでいる物もあり、そうした物はおそらくジャック・ダニエル蒸溜所のテイスターが選んだバレルなので品質にそれほどの差はないと思われます。と言うか、当該のお店やグループが選ぶものも、事前にテイスターがある程度絞って選んでいる中から更にピックしているのではないでしょうか。では、そろそろこの樽出しに近いテネシー・ウィスキーを注いでみましょう。

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JACK DANIEL'S SINGLE BARREL BARREL STRENGTH 129 Proof
Sweet Forward
RICK № R-2
BARREL № 21-08392
BOTTLING DATE 9.30.21
色はダークアンバー。黒糖→メープルシロップ、バナナパウンドケーキ、セメダイン、塩、タバコ、穀物、ミルクチョコレート、素朴なビスケット、花火の燃えカス、ピーカンナッツ、おばあちゃんのぽたぽた焼き、おしろい。時間をおくと甘い香り。オイリーな口当り。パレートではベリー系のジャムぽさも僅かにある。余韻は度数の割に短めで、どこかワイニーな穀物感、シナモンぽさも漂う。加水すると柑橘感も出た。
Rating:87.5/100

Thought:シングルバレルだから当然なのかも知れませんが、通常のオールド№7の延長線上の「濃いだけ」とは少しフレイヴァー・バランスが異なるように感じます。流石にかなりのハイ・プルーフなので、ちょっと加水した方が甘みが感じ易かったですね。具体的には6滴くらい。それ以上薄めるとせっかくのオイリーさが台無しになりますが、そのままでは感じ難かったオレンジっぽさも出ました。このシングルバレルは、私が今まで飲んで来たジャックダニエルズで最高のジャックダニエルズではないという意味に於いて、または他のバレル・プルーフ・バーボンと比べて特別複雑とも言えないと言う点に於いて、少し平凡であることを除けば、特に欠点はありません。余韻が少しドライな傾向はあるものの過度にタニックではないですし、キャラメルやヴァニラやブラウンシュガーの甘いノート、接着剤の心地良い香り、焦がしたオークの風味、スパイスに熱など汎ゆる面はレヴェルアップしており、スタンダードなオールド№7やプルーフの低いシングルバレル・セレクトよりも間違いなく豪胆な味わいを楽しめます。バレル・ストレングスのヴァージョンはバレル・プルーフを加水調整して少しだけプルーフが下げられていますが、64.5%の度数があれば物足りなさを感じることはないでしょう。ハイ・プルーフならではの滑らかな口当たりも、125プルーフを超えるウィスキーが有する凶暴性もしっかりと味わえます。

バーボン仲間のK氏からフルボディード&ロバストのサンプルを頂けたので、おまけで少し比較が出来ました。画像提供も含めいつもありがとうございます。バーボン繋がりに乾杯!

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(画像提供K氏)
JACK DANIEL'S SINGLE BARREL BARREL STRENGTH 129 Proof
Full Bodied & Robust
RICK № R-2
BARREL № 21-08387
BOTTLING DATE 9.30.21
色はダークアンバー。カラメライズドシュガー、メロン、黒胡椒、パイナップル、セメダイン、木の酸、ホットチリ、穀物、コーンパフ、ローストナッツ。こちらの方は、口の中での刺激が強く、かつ明るいフルーツが感じ易かったです。そして、全体的にスパイシーでもありました。熟成環境が似た位置にあったせいか、共に通底するものがありつつ、フルーツのキャラクターに少し違いがある感じですかね。こちらとサイド・バイ・サイドで飲み比べれたお陰で、スウィート・フォワードの甘さがより明確に分かった気がします。
Rating:87.5/100

Value:アメリカでのジャックダニエルズ・バレルプルーフは凡そ65〜70ドル程度。日本の酒屋さんでバレル・ストレングスを買おうとすると10000円は超えるようです。このLMDWのピックしたものだと、15000円を超えて来ます。これは少々お高い気もします。ですが、この製品のスペックからすると競合はブッカーズ、ブラントンズ・ストレート・フロム・ザ・バレル、スタッグ、ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレル、フォアローゼズ・シングルバレル・バレルストレングス等になります。ラッセルズ・リザーヴはそれほど高騰してないから別として、ブッカーズやブラントンズSFTBやスタッグが20000円やら30000円やら40000円するのであれば、ジャックのバレルストレングスはかなりコスパが高いと言わざるを得ません。もし、貴方が長年のJDファンであり、そのプロファイルの最高峰を経験したいのであれば、躊躇なく購入して下さい。しかし、貴方の金銭感覚からこれが高いなと思うなら無理に買う必要はなく、個人的には価格と味わいのバランスが良いのはジャックダニエルズ・シングルバレルの中なら、シルヴァーの100プルーフだと思うので、そちらをオススメします。

2024-05-07-09-26-21-285

フォアローゼズ蒸溜所では2種類のマッシュビルと5種類のイースト・ストレインを組み合わせてそれぞれ味わいや香りの特徴が異なる10種類の原酒を造り、それらをミングリングすることで安定した品質を保つ独特のスタイルで知られています。そして、彼らは2023年に135周年を迎えるにあたりブランドの刷新を行いましたが、その際、10種類のレシピが50mlづつ入った「ザ・テン・レシピ・テイスティング・エクスペリエンス」という限定版キットをリリースしました。希望小売価格が約130ドルで、6月30日からケンタッキー州ローレンスバーグとコックス・クリークのフォアローゼズ・ヴィジター・センターで販売され、7月中旬からはジョージア州、イリノイ州、ケンタッキー州、カリフォルニア州の一部小売店でも販売されたみたいです。各レシピは同等になるように104プルーフにカットされ、熟成年数は全てほぼ同じ。それにより、酵母とマッシュビルがどのような影響を与えるかを体験できる非常に面白いキットでした。
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これはバーボン・ファンならば是非試してみたくなる代物です。しかし、ここ日本でこれを入手するのはなかなか難しいので、代わりと言っては何ですが、今回はその昔、フォアローゼズの販促品としてオマケで付いていた3種類の「心とろける香りの原酒」を開封してみました。この試供品(非売品)はネットで調べてみると2005年前後あたりのものらしいです。ラベルの細かい部分が若干異なるものや度数違いのものがあるところから、何年間かもしくは何回か提供されていたのかも知れませんが、私には詳細が分かりません。仔細ご存知の方はコメント欄よりご教示いただければ幸いです(※)。また、他にも種類があるかどうかですが、私はこの3タイプしか見たことがなく、おそらくフルーティ、スパイシー、フローラルの3つで全部と思います。ですが、本来なら5つのイーストの分だけ用意するか、フルーティを特徴とするイーストは2種類あるのでそれらは一つに纏めたとしても、もう一つハーバル・タイプはあって然るべきところでしょうから、この3つ以外にもあるのを知ってる方はコメントよりお知らせ下さい(※)。

情報を頂けましたのでコメント欄を参照下さい。また、少し追加の情報を得たので追記をご覧下さい。


注ぐ前にフォアローゼズの10レシピに就いて軽くおさらいしておきましょう。これらのレシピは4文字のアルファベットによって「O■S◆」というように表記されます。「O」と「S」は必ず付き、「O」はフォアローゼス蒸溜所で造られていることを意味し、「S」は「Straight whiskey」もしくは「distilled Spirit」を意味します。「S」の略は分かりやすいですが、なぜ「O」がフォアローゼズ蒸溜所を表すかと言うと、それは同蒸溜所が昔はオールド・プレンティス蒸溜所という名称だったからです。嘗てフォアローゼズ蒸溜所を所有していたシーグラムは、他に幾つもの蒸溜所を抱えていたため、原酒の産出される蒸溜所のバレルに各略号を与えており、その名残から「Old Prentice」の頭文字「O」でフォアローゼズ蒸溜所を指しているのです。そして「■」の部分にはマッシュビルの種類を表す「B」もしくは「E」が入ります。ライ麦の使用比率が多く、スパイシーな味わいが特徴とされるマッシュビルBは、

60%コーン、35%ライ、5%モルテッドバーリー

コーンの使用比率が多く、柔らかな甘みが特徴とされるマッシュビルEは、

75%コーン、20%ライ、5%モルテッドバーリー

となっています。末尾の「◆」には香りの個性が異なる5つの酵母の種類を表す「V・K・O・Q・F」の何れかが入ります。夫々の特徴は以下のよう。

V─デリケート・フルーツ
K─スライト・スパイシー
O─リッチ・フルーツ
Q─フローラル・エッセンス
F─ハーバル・ノーツ

これら2種類のマッシュビルと5種類のイーストによる10レシピは、日本のフォアローゼズ公式ホームページでは次のように説明されています。

OBSV
繊細な果実香とライ麦のスパイシ―さ
OBSK
ベーキングスパイス(微かなクローブ・シナモン様)とライ麦のスパイシーさ
OBSO
レッドベリー系の豊かな果実香
OBSQ
薔薇の花びらのようなフローラルさとライ麦のスパイシーさ
OBSF
繊細なハーブ香とライ麦のスパイシーさ
OESV
繊細な果実香とキャラメル様の甘く芳ばしい風味
OESK
ベーキングスパイス(微かなクローブ・シナモン様)で芳醇
OESO
レッドベリー系の果実香とバニラ
OESQ
薔薇の花びらのようなフローラルさとクッキー様のほのかに甘い芳ばしさ
OESF
繊細なハーブ香とクッキー様のほのかに甘い芳ばしさ

偖て、今回飲むフルーティ/スパイシー/フローラルの各タイプがこれらのうちどれなのかは名称からすると、フルーティ・タイプはOBSOかOESOかOBSVかOESVのどれか、スパイシー・タイプはOBSKかOESKのどちらか、フローラル・タイプはOBSQかOESQのどちらかなのではないでしょうか。え、待って、これシングルバレルって認識でいいんですよね? ラベルには取り立ててシングルバレルとは記載がないですけど…。私自身は実物を見たことがないのですが、この試供品に付いていたリーフレットには以下のようなことがタイプに拘らず共通で書かれていたようです。ネット上に引用している方がいたので孫引きさせて頂きます。
フォアローゼスの原酒のうち、フローラルなタイプのものを樽出しに近い度数でボトリングしたもので、日本国内での、フォアローゼスのおまけとして付けられた試供品(非売品)。別名、心とろける香りの原酒。
で、この後に各タイプの説明が続くのですが、それらを読む限りここで言う「原酒」は取り敢えずシングルバレルの意味と解釈しておいてよいのではないかと思います。その解釈が正しいとして、少量加水で度数を調整したほぼバレルプルーフという仕様は、先述の「ザ・テン・レシピ・テイスティング・エクスペリエンス」と殆ど同じであり、この試供品が10種類の中からかなり傾向の異なる3タイプを厳選したものなのだとしたら、物凄く贅沢な良い販促品ですよね? テン・レシピ・キットよりハイプルーフですよ? それに販売年を考えたら、もう二十年近く前な訳で、プチ・オールドボトルな価値もあって期待は膨らみます。では、そろそろ注いでみましょう。

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画像では判り難いと思われますが、ぱっと見でフルーティ・タイプが一際色濃く感じます。スパイシー・タイプとフローラル・タイプはそこまで差はありませんが、フローラル・タイプの方が僅かに薄い色に見えますね。今回はノーズ、パレート、フィニッシュの各々に順位を付けてみました。

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Fruity Type 108 Proof
少し濃いめのブラウン。林檎、キャラメル、熟したプラム、オールドオーク、ローストナッツ、シナモン、レザー。よく熟したバーボンの甘いアロマ。とろりとした口当たり。口の中では茶色いスパイスが感じ易い。余韻はミディアム・ロングで、焦がした木材のノート。残り香は僅かなベリーとブラウニー。
ノーズ─1
パレート─2
フィニッシュ─3
Rating:87.5/100

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Spicy Type 114 Proof
中庸なブラウン。青リンゴ、草、チョコレートのヒント、オレガノ、ローズマリー、メープルクッキー、炙った木材。あまり甘くない香り。とろりとしてオイリーな口当たり。ややドライな味わい。余韻は長く、甘いハーブと心地良い石鹸香。残り香はオレンジゼストとレモン、爽やかなハーブ。
ノーズ─3
パレート─1
フィニッシュ─1
Rating:90/100

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Floral Type 108 Proof
明るい琥珀色。スイートピー、マッシュルーム、ホワイトチョコレートのヒント、ローズペタル、ミント、蜂蜜、白桃、プリン。フローラルで仄かに甘い香り。ややとろりとした口当たり。味わいは酸味が強め。余韻はミディアム・ロングで、ライフレイヴァーが広がる。残り香は甘い花の蜜とピーナッツシェル。
ノーズ─2
パレート─3
フィニッシュ─2
Rating:87.5/100

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Thoughts:
三者三様でどれも美味しかったです。そしてフォアローゼズは自分の好みにぴったりのバーボンだと改めて感じました。ノーズ、パレート、フィニッシュに順位を付けたものの、3位だからと言って悪い訳でもないですし、そもそも単なる私の好みに過ぎません。飲んだ感じ、マッシュビルはどれもBなのではないかなという印象を受けました。どれもが共通してフォアローゼズらしいフルーティさはありつつ、ライの穀物感が強いような気がしたのです。その上で個別に感じたことを言います。
フルーティ・タイプは最も甘くウッディ。飲む前の予想ではもっとフルーティなのかと思っていたら、寧ろ意外とオーク・フォワードなバーボンでした。色通り、最も熟成感を感じます。試飲前はOBSOかなと思っていたのですが、上記の10レシピの説明文に当て嵌めるとOESVと一致している気も…。
スパイシー・タイプは、これまた飲む前の予想に反して、私にはスパイシーと言うよりハービーに感じました。10レシピの説明文に当て嵌めるとOBSFなのではないかと思われる程です。また、前回まで開けていたフォアローゼズ産の90年代ヘンリーマッケンナにあったソーピーな風味がこれにも感じられたのですが、そちらでは過剰過ぎて嫌悪を抱いたそのフレイヴァーはこちらでは絶妙な加減だったので好印象でした。全体として自分の好みに合っていて抜群に旨いです。
フローラル・タイプは最も繊細な風味。10レシピの説明文からすると、OBSQでもOESQでもどちらでも当て嵌まりそうな感じでした。私の嗅覚や味覚は平均的な日本人より下なので、スタンダードなフォアローゼズから花の香りを感知するのは難しいのですが、これは分かり易かったです。
どれも加水したらもっとフルーティさを引き出せたのかも知れません。けれどもミニボトルは少量なので私はニートでしか飲みませんでした。これらが10レシピのどれなのか、或いはシングルバレルではなく数レシピがミックスされたスモールバッチなのかは、答えが解らないので措くとして…、これらを飲んだことのある皆さんはどう思ったでしょうか? ご意見ご感想をどしどしコメントよりお寄せ下さい。そう言えば、私は基本的にバーボンはラッパ飲みかショットグラスで飲んだ方が美味しく感じるのですが、今回の3種のフォアローゼズはどれもテイスティンググラスで飲んだ方が香りが愉しめて美味しく感じました。


追記:とあるミニチュア・ボトルのコレクター様によると、この試供品は2004~2006年に配布されたもので、 ラベルの種類としては筆記体風、活字、活字+ウイスキーの3種があり、従ってFruity、Spicy、Floralの3風味×3ラベル=9つの種類が存在するそうです。
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ローワンズ・クリークはケンタッキー州バーズタウンのウィレット蒸留所(KBD)で製造されているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つのうちの一つです。その他の三つはノアーズ・ミル、ピュア・ケンタッキーXO、ケンタッキー・ヴィンテージとなっています。価格から言うと、ローワンズ・クリークはこの中では上から二番目の位置付け。コレクションの成立は90年代半ば(一説には94年)とされます。当時の業界ではプレミアムなバーボンが胎動し始め、ジムビームもスモールバッチ・コレクションを開始するなど、そのコンセプトは軌を一にしていました。
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(画像提供K氏)
ローワンズ・クリークの名は蒸溜所の敷地内を流れる小川にちなんで付けられました。その小川は1700年代後半から1800年代前半に掛けてケンタッキー州の政治家であったジョン・ローワンにちなんで名付けられ、彼のフェデラル・ヒルの邸宅はスティーヴン・コリンズ・フォスターの歌曲「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」にインスピレーションを与えたと言われています。このバーボンは、ノアーズ・ミルと手描きのようなラベルの雰囲気やワイン・タイプのボトルといった共通点があり、更に熟成年数とボトリング・プルーフが少し低く、尚且つ安い価格ということもあって、その姉妹品というか弟分のように認識されていました。「ベイビー・ノアーズ・ミル」と呼ばれているのも見かけたことがあります。もっと言うと、ローワンズ・クリークはノアーズ・ミルより一段劣る廉価版と常に考えられていた節があります。しかし、だからといって品質が劣った製品という訳ではなく、飲み易さと財布への優しさが魅力だったためか、2011年当時の情報によるとアメリカの27州で販売され、KBD(ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ)が生産するバーボンの中で最も売れている銘柄だったそうです。ローワンズ・クリーク・バーボンが長期に渡ってKBDのポートフォリオに於いて重要なブランドだったとされる所以でしょう。個人的に、オールド・タイミーな雰囲気の薄茶のラベルとマルーン色のワックス(及びフォイル)の組み合わせは凄く好きなデザインです。ところで、ワイルドターキーのような101ではなく100.1という小数点まで使ったボトリング・プルーフは一体何なのでしょうか? ハンドメイド感の演出? 或いは単なるユーモア? まあ、それは措いて、このローワンズ・クリーク、初登場から今に至るまで外観はそれほど大きく変化しませんでしたが、中身はかなり変化しました。ここからはその変遷を追ってみましょう。

しかし、実はこのバーボンの中身のジュースの明確な詳細は、発売当初から今に至るまで不明です。周知のように、ウィレット蒸溜所は2012年から自家蒸溜を再開しましたが、それまではKBDとして他の蒸溜所からバレルを購入していました。従ってローワンズ・クリークも他の製品も、発売からある時点までは実際には別の生産者によって蒸溜され、KBDによってブレンド及びボトリングされたものでした。彼らは、ローワンズ・クリークに限らず、自らの製品に就いて明瞭に語ることは殆どなく、どこで蒸溜されたウィスキーなのかは推測の域を出ません。軈て、自社の蒸溜原酒が熟成するにつれ、それらはボトリングされるようになり、2020年頃には殆ど全ての製品がバーズタウンにある自社製に切り替わっていると見られています。その頃からラベルに記載される事業名が、ローワンズ・クリーク・ディスティラリーからウィレット・ディスティラリーに変更されました。ここら辺の現代ローワンズ・クリークも、公式にマッシュビルや熟成年数などのスペックは公開されてはおらず、他ブランドとどういった造り分けをしているのか謎のままです。これらを念頭に置いて見て行きます。

発売された当初、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークにはエイジ・ステイトメントがありました。前者が15年、後者が12年です。この熟成表記は、メイン・ラベルの上に貼られた細いラベルに余り目立たない感じで記載されていました。また、この頃の物(*)はボトルの横もしくは後に貼られたバッチ・ラベルに、蒸溜年とボトリング年が手書きで記されています。
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12年表記のある初期のローワンズ・クリークは、文字通り最低でも12年熟成、もしくはもっと長い熟成バレルを使ったブレンドもあった可能性はあります。実際、今回私が開栓した12年表記のあるローワンズ・クリークは、蒸溜年とボトリング年を参照すると13年熟成となっていますし(上画像参照)、他のバッチでも12年熟成以上の物を見たことがあります。スモールバッチ・バーボンの代表的な銘柄であるブッカーズに記載される熟成年数が最も若いバレルの物であるのと同様に、ローワンズ・クリークのバッチ・ラベルに記載されている蒸溜年も最も若いバレルの物でしょう。この頃のバッチング・サイズは10樽程度と何処かで読んだ気がしますが、本当かどうかは判りません。
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おそらく発売当初は豊富にあった長期熟成バレルはバーボン需要の増加に伴って少なくなり、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークの両ボトルともエイジ・ステイトメントを失いました。切り替わりの正確な時期が特定できないのですが、2006年後半あたりからではないかと思われ、少なくとも2011年までには完全に切り替わっていた筈です。そして、NASとなってからは若いバレルも混和するようになり、2011年の情報では「5年から15年のバーボン樽のコレクション」とされていました。また、同情報源によれば「どの樽を使い、どの樽を使わないかという固定観念に囚われることはない」と言われていました。その言葉からすると、もう少し熟成年数の幅は前後することもあると思われます。バッチング・サイズは、おそらく当時は15バレル程度かな? このNASのローワンズ・クリークのレヴューを参照すると、やや若い味がするとか、若いアルコールのキツさがあるとの指摘が見られ、5〜15年の熟成バレルの構成は主に若い熟成のバーボンに少し長熟バーボンが混じっている配分なのではないか、と考える人もいます。
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2013年後半頃には、これまたローワンズ・クリークとノアーズ・ミルともに、ワックス・トップだったものがフォイル・トップへと変更されました。これらのワックス・トップとフォイル・トップにはテイスティング・プロファイルに違いがないと考える人もいれば、あると信じる人もいました。あると信じる人達はより若くなったと感じたようです。まあ、ワックスかフォイルの違い以前に、ローワンズ・クリークにはバッチ間の差もかなりあると言われています。その出来にはバラつきがあって素晴らしいものもあれば殆ど飲めないものまである、と言っている人も見かけました。個人的には飲めないほど酷い物はないと信じていますが、SNS等でローワンズ・クリークに限らずウィレットのスモールバッチ・バーボンを「美味しい」と投稿している方には、せめてバッチ番号を明記して欲しいとは思います。そうでないと、どの時代の物を美味しいと言っているのか判りにくいので…。それに、大規模な蒸溜所の「大きな」スモールバッチですらシングルバレルに劣らず個性的であるのに、実際にはヴェリー・スモールバッチと呼んだほうが適切な数十樽のスモールバッチは尚更そうですから。

偖て、90年代から2010年代半ばまでのローワンズ・クリークは、他のスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの面々やジョニー・ドラム及びオールド・バーズタウンといった主要なブランドと同様にソースド・バーボンでした。その大半はヘヴンヒルのバーズタウンの蒸溜所かルイヴィルのバーンハイム蒸溜所から仕入れていたのではないかと見られています。しかし一方で、KBDは長年に渡ってほぼ全ての主要な蒸溜所(メーカーズマーク以外とされる)のウィスキーを入手しており、彼らは個性的なフレイヴァー・プロファイルを得るために異なる蒸溜所のバレルを混ぜ合わせていたとも言われています。当時は多くの人がヘヴンヒルやバートンのウィスキーをボトルに入れただけと思っていましたが、2つかそれ以上(3つか4つ)の蒸溜所のウィスキーのマリッジだった、と。KBDの社長エヴァン・クルスヴィーンは手持ちのウィスキーから素晴らしい風味を生み出す達人であり、様々な業者から入手可能になる度にバレルを調達していた結果、彼とブレンディング・チームは少量のウィスキーをブレンドして各ブランドに合う風味を造り出すことに熟練するようになった、と。勿論、詳しい構成比率が明かされる訳もなく、全ては謎に包まれています。

そして、ウィレットの製品は現在では100%自家蒸溜物に移行したと考えられています。しかし、一体いつローワンズ・クリークが自身の蒸溜物に切り替わったかはよく判りません。仮に熟成年数4年程度でボトリングしているならば、2012年から蒸溜を再開したことを考慮すると、早くて2016年から新ウィレット原酒を使用することは可能ではあります。また、よく分からないのが他の蒸溜所産のウィスキー、つまり何処かから調達した旧来のストックと、自前の蒸溜所産の新しいウィスキーを混合しているのかどうかです。個人的には味わい的に混ぜてないような気がしますが、どうなのでしょう? 皆さんはどう思われますか? バッチ毎の味わいの違いに関する情報などと合わせて、仔細に精通している方は是非ともコメント欄より情報提供下さい。で、現在のウィレット蒸溜所には以下のような4つの異なるバーボン・マッシュビルがあります。

①オリジナル・マッシュビル
72%コーン/13%ライ/15%モルテッドバーリー

②ハイ・コーン・マッシュビル
79%コーン/7%ライ/14%モルテッドバーリー

③ハイ・ライ・マッシュビル
52%コーン/38%ライ/10%モルテッドバーリー

④ウィーテッド・マッシュビル
65%コーン/20%ウィート/15%モルテッドバーリー

ソーシング・ウィスキーではない現在のローワンズ・クリークのマッシュビルに就いて調べてみると、4つのマッシュビルのブレンドとしているもの、①としているもの、味わいから②と推測するもの、更にはハイ・ライ・バーボンであることは確かだとする説もあったりと、てんでバラバラで混乱するばかりです。熟成年数は、5〜7年ではないかと推測するものや、推定8年程度であると考えられているとするものがありました。孰れにせよ正確な熟成年数も不明です。バッチによって一貫性がないとされるスモールバッチ・バーボンですから、何ならマッシュビルの変更やバッチングに使用されるバレルの熟成年数の変化だってあったのかも知れない。まあ、判らないことは措いておき、そのうち何か情報が入れば追記することにしましょう(※追記あり)。

では、そろそろ注ぐ時間です。今回は自分の手持ちの12年表記のある2006年ボトリングとNASの2017年ボトリングを開封しました。この2つに加え、バーボン仲間のK氏から2つのサンプルを頂けたので、計4つの年代別バッチ別の比較が可能となりました。画像提供も含め、いつも本当にありがとうございます。バーボン繋がりに乾杯!

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ROWAN'S CREEK Twelve years 100.1 Proof
BATCH QBC No. 06-94
推定2006年ボトリング。赤みを帯びたダークブラウン。床用ワックス、フローラル、焦樽、オールドファンク、トフィ、杉、ベーキングスパイス、土、アプリコットジャム、抹茶ミルク。よく熟成したバーボンの香り。プルーフから期待するよりは緩いが、とろりとした口当り。味わいは甘く、スパイシーかつフルーティとバランスが良い。そして何より味が濃い。余韻はミディアムで、ややビター。
Rating:88/100

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ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 17-67
推定2017年ボトリング。パイナップル、グレイン、蜂蜜ハーブのど飴、シリアル、グレープジュース、ビール、プラム、ヨーグルト、マッチの擦ったあと。香りはフルーツの盛り合わせ。ややとろみのある口当たり。パレートはフルーティな甘みと共に穀物の旨味が凄い。余韻は最後に少し苦味。
Rating:87.5/100

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(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 12-135
推定2012年ボトリング。ワックス・トップでNASの物。ウッドニス、プリンのカラメルソース、穀物、カカオ、木の酸、ナツメグ、ヴァニラウエハース。清涼感を伴った仄かに甘いアロマ。味わいは薄っすらフルーティで穏やかなスパイス感。余韻はミディアム・ショートで、ほんのり甘みが来てから一気にドライになって切れ上がる。
Rating:83/100

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(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 21-9
推定2021年ボトリング。四つの中でこれのみラベルの記載がローワンズ・クリーク・ディスティラリー名義ではなくウィレット・ディスティラリー名義。僅かにゴールドがかったブラウン。紅茶、蜂蜜、檸檬、焦げ樽、フローラル、塩、ゴム、ピーナッツ、ジンジャー。香りは蜂蜜レモンティー。ややオイリーで滑らかな口当り。パレートではほんのり甘いオークの風味が感じ易い。余韻はミディアムでダージリン・ティー。
Rating:85.5/100

Thoughts:バッチ06-94は、明らかに長熟バーボンのオールドな風味を感じます。しかし、それは不快ではない程度に収まっており、却って心地良いくらいでした。そういったオールド感も含めてバランスの良いバーボンという印象。香りや味わいは、ヘヴンヒルぽくは感じましたが、微妙に異なる風味もあって、例えて言うとエヴァン・ウィリアムス12年をフォアローゼス・プラチナで薄めたような味わいですかね。それは兎も角、これが往時3000〜5000円程度で買えていたと思うと驚異です。今なら12000円位から、ブランディングによっては20000円を超えてリリースされそうなクオリティ。
バッチ17-67はアロマだけで新ウィレット原酒と思いました。一言でいうと穀物フルーツ系バーボンです。飲んだ印象としてはライ麦の要素があまりないように感じたので、マッシュビルは②かなと予想しますが、まあ分かりません。ミックス・マッシュビルかも知れないですし。私が以前に飲んだケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOの特定のバッチと較べてみると、幾分か穀物感とフルーツ感で上回るように感じましたが、だからと言ってそれが取り立てて明確に上位の味わいとは思えませんでした。特にオールド・バーズタウン・エステート・ボトルドと比べるとミルキーなテイストを欠いており、価格が上がる割に良いフレイヴァーがないのは気掛かりです。とは言え、ウィレット蒸溜所が生産するウィスキーは非常に自分の好みに合っており、私は彼らの比較的若いウィスキーでも楽しめる消費者の一派に入るので、美味しいのは間違いありません。
バッチ12-135は、全体的なフレイヴァー・バランスは整っているのですが、12年物と較べるとアロマもテイストも何もかもが薄いと感じました。アルコールのピリピリ感もあって、確かに若い原酒の比率がかなり高くなった印象を受けます。サイド・バイ・サイドで12年物と較べるからスケールが小さく感じるとは言え、他のバーボンとの比較に於いても特に誉めるべき点は見つからず、逆に特に悪いところもない凡庸なバーボンという感想でした。正直言って、ローワンズ・クリークというブランドから自分が抱く勝手なイメージからすると期待外れな出来です。
バッチ21-9は紅茶でも飲んでるかのような味わい。同じ新ウィレット原酒と思われるバッチ17-67とフレイヴァー・プロファイルがかなり違うのが面白かったです。こちらはバッチ17-67と較べると、自分が今まで飲んで来た新ウィレット原酒に感じ易いと思っているハーブのど飴のような複合的なハーブとグレープを殆ど感じれず、それが点数を下げる要因となりました。それにしても、何故これ程までにプロファイルが異なるのでしょうか? もしかしてマッシュビルの変更があったのかしら? これがミックス・マッシュビルなの? それとも単にバレル・セレクトの違いなのか…。海外の有名なバーボン・レヴュワーがローワンズ・クリークに対して、本質的に悪いところはないがウィレットが蒸溜するようになったという事実以外に特筆すべき点もないとか、同価格帯のより有能な他のボトル(ブランド)には敵わないとか、評判の悪いウィレット・ポットスティル・リザーヴと同じような風味がする、と評しているのを目にするのですが、それがバッチ17-67のような味わいに言われているのか、それともバッチ21-9のような味わいに言われているのか、はたまた両方なのか、これが判らない。ウィレット蒸溜所のウィスキーを色々飲んでいる皆さんはどう思われますか? コメント欄よりご意見ご感想、お待ちしております。

Value:「12年」表記のあるローワンズ・クリークは、古い物なのでオークション等である程度の価格は覚悟しなければならないでしょう。しかし、もし貴方が古典的な熟成バーボンを好むなら素晴らしい価値のある製品です。現行のローワンズ・クリークは、アメリカでは地域差がありますが大体40〜45ドル程度、日本では大体6500円くらいで売られています。もし貴方が近年のウィレット蒸溜所のウィスキーのフレイヴァーを愛するなら、バッチ毎の違いはあるかも知れませんが、概ねオススメ出来る製品だと思います。これらの中間に当たる時代のローワンズ・クリークは、少々中途半端と言うかあまり印象に残らないバーボンで、正直それほどオススメではありません。


*初期の物でも蒸溜年が記されていないものや、「E」で始まるバッチ番号の物を見かけたことがあります。

追記:現行のマッシュビルは72%コーン、13%ライ、15%モルテッドバーリーのオリジナル・マッシュビルだそうです。

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(画像提供K氏)

「トリック・オア・トリート!」。ハロウィンの時期ですね。バーボン愛好家ならば「バーボンくれなきゃイタズラすっぞ」と云う訳で、バーボン仲間のKさんから大人のハロウィンに相応しい高級な「お菓子」が送られて来ました。ウィレット・ウィーテッド・バーボン8年熟成のサンプルです。

ウィレット・ウィーテッド・バーボン8年は2022年後半期にリリースされました。ウィレット蒸溜所の顔とも言えるファミリー・エステート、より一般的なオールド・バーズタウンやスモールバッチ・ブティック・バーボン・シリーズの4種とは異なる形状のボトルが目を引きます。黒光りするボトルに金の文字とパープル・フォイルのトップが高級感を演出しており、頗るエレガントでカッコいい。同社によるとこの「黒い宝石」は、2013年の春先に蒸溜、2022年の夏にボトリング(実際は9年熟成?)、独自のマッシュビルをチャー#4のアメリカン・オークに115プルーフでバレルに詰め、可能な限り風味を保つためチル・フィルトレーションせずにボトルに詰めたと言います。美しい外観以外でこのバーボンに特徴的なのはエイジ・ステイトメントがあることでしょう。ウィレットはファミリー・エステート以外の製品に熟成年数を記載することは殆どありませんから。そして更に注目なのは、マッシュビルにライ麦を含まない小麦レシピであることがボトルの裏面に記載されていることです。ウィレットは自社のウィスキーについて詳細な情報を開示しないことで知られ、ノアーズ・ミルのマッシュビルは何なんだ?とか、ローワンズ・クリークは?、ポットスティル・リザーヴは?となったりするのですが、このボトルに関してはその心配はない、と。彼らの小麦バーボンのマッシュビルは65%コーン、20%ウィート、15%モルテッドバーリーとされています。昨今のバーボン及びアメリカン・ウィスキー全般のブーム、そして「パピー」人気の爆発から棚ぼた式に?ウェラーの人気も沸騰し、延いてはウィーテッド・バーボン自体の人気も高まった印象があります。多くの蒸溜所がライを含有したレシピ以外に小麦レシピのバーボンも大抵の場合リリースしており、お陰で市場に於けるウィーテッド・バーボンの品揃えは充実しました。そうした流れの中、ウィレットも満を持してリリースしたのかも知れません。とは言え、ウィレットは既にファミリー・エステート・シングルバレルではウィーテッド・マッシュビルをリリースしているらしく、バレル・ナンバーが「32xx〜33xx」の物は上記のマッシュビルとされています。あと「11243」は実験的なウィーテッド・マッシュビルらしい。更に付け加えると、ウィレット・ポットスティル・リザーヴは2021年か2022年のどこかで小麦レシピに変更されたと云う噂もありますね。ところで、このバーボンの108プルーフでのボトリングは、ウェラー・アンティーク107に近く、何かしら意識しているのでしょうか。実際、ボトル形状もリニューアル後のウェラー・ブランドに似ています(と言うか同じ?)。

えーと…、このバーボンを語る時、避けては通れない話題が一つあります。それは価格です。8年熟成のバーボンの希望小売価格がなんと250ドルなのです。この点に関してバーボン愛好家達は頭を抱え、或る人はウィッスルピッグ・ブランド(の上級なラインの物)と同じ臭いがプンプンする、と言うほど怪しげな価格設定でした。ウィレット蒸溜所が現在、カルト的な地位を獲得しているのは皆さんもご存知でしょう。そして毎年極く限られた数量しかリリースされないウィレット・ファミリー・エステートのシングルバレルはウィスキー愛好家の垂涎の的となっています。それらが市場に出回ると、バーボン愛好家は勿論、転売ヤーもこぞって手に入れようとします。新しくリリースされたものは即座に売り切れ、二次流通市場に現れる頃には数倍の価格になります。それらのことをウィレットの背後にいる人々も認識し、このウィーテッド・バーボン8年の価格を予めある程度引き上げていると指摘している人を某掲示板で見かけました。その真偽は扨て措き、一般的なバーボン飲みの感覚では高過ぎる希望小売価格のせいか、このバーボンの評価は微妙だったりします。アメリカの或るレヴュアーは「品質だけならもっと高い点数をつけたいところだが、価格設定のために2点減点したい気分だ」と言い、10点満点中4点をつけていました。また、他のレヴュアーは「これは良い。ただ、価値以上の出費をしていることを知っておいてほしい」と述べ5点満点中3点をつけました。他にも「これは良いボトルだったが、230ドルという価格を正当化するには十分ではな」く、「親友や本物のバーボン狂にプレゼントするのでなければ、このボトルを再び購入することはないだろう」と云う意見もありました。挙げ句には、ウェラー・アンティーク107を買って来てツヤ有りブラックのスプレーでボトルをペイントすればいい、と言う人までいました。私は味の求道者ではないので、本ブログのレーティングは味のみでなくボトルの外観、バックストーリーやマーケティング、そして価格も考慮して点数をつけています。だから、私も彼らと同じような点数になってしまうかも知れないという不安はありますが、どうなるでしょうか。さっそく注いでみましょう。
と、その前に。私はこのバーボンを高過ぎる価格から買おうだなんて微塵も思いませんでしたし、況してや無料で試せるなんて思ったこともありませんでした。こんな貴重な物を惜しげもなく分け与えてくれたKさんには本当に感謝です。バーボン繋がりに乾杯!

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WILLETT WHEATED BOURBON AGED 8 YEARS 108 Proof
2022年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。スウィートオーク、干しブドウ、完熟桃、はちみつ、バターたっぷりの焼き菓子、ベーキングスパイス、チョコチップクッキー。とても甘い香り。オイリーなのにサラッとした口当たり。パレートでもかなり甘めで、スパイスが暴れる感じはしない。余韻はハイプルーファーにしてはあっさりしており、最後に柑橘類の苦味が残る。グラスの残り香はアーモンドトフィー。アロマがハイライト。
Rating:87.5/100

Thought:蓋を開けた瞬間から漂う、美味しい洋菓子とウィレット特有のフルーツが融合した圧倒的に甘い香りが至福でした。間違いなく旨いです。但し、標準的なリリースであるオールド・バーズタウンやピュア・ケンタッキーXO等と較べて5倍旨くはありません。ウィーテッド・マッシュビルではないと目される他のウィレット製品と較べてみると、私が好んでいるのど飴のような何と特定できない複数のハーブのノートは希薄に感じました。また、ウィレットに感じ易いグレープのようなフルーツ感も顕在していますが、それよりもペイストリー感が強いバランスの印象を受けました。もしかすると、水を追加したり氷を加えることでフルーツがより感じ易くなったのかも知れませんが、少量のサンプルということもあり、私は試しませんでした。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。

Value:二次流通市場では一時は1000ドル程度で販売されていたこともあるようですが、記事を執筆するに当たって調べたところ、250ドルで買えるお店も幾つかあり、価格はだいぶ落ち着いたようで、300ドル以上の値を付けるお店は大体どこも在庫ありになっていました。これは先に紹介したレヴュワー達の意見が参考にされ、多くの人が購入をパスした結果なのかも知れませんね。試飲前の予想通り、私も海外のレヴュワーさん達と殆ど同じような意見になりました。懐に余裕があるのならば、ボトルを買うのに躊躇する必要はありません。美味しいから。ただ、殆どの人にはバーで一杯飲んでみることをオススメします。ボトル一本は高いから。

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たまたまオールド・マクブレヤーの禁酒法時代のメディシナル・パイントが手に入りました。ここ日本で話題に上ることは殆どありませんが、マクブレヤーの名はバーボンの歴史に於いて重要かつ偉大な名前の一つであり、そのブランドと名前は現代に復活を果たしています。そこで今回はマクブレヤー家とそのウィスキーに就いて見て行きたいと思います。

バーボンの世界でマクブレヤーと言えば、ローレンスバーグ出身のW・H・マクブレヤーです。彼は郡で最初の裁判官として有名で、上院議員でもあり、プレスビテリアン(*)の長老であり、慈善家としても活動しました。ディスティラーとしては、ケンタッキー州のバーボン革命が始まったばかりの頃にアンダーソン・カウンティが蒸溜産業で繁栄するための道を啓いた蒸溜所を運営し、禁酒法施行前の最も有名なウィスキー・ブランドの一つを生み出し、ケンタッキー・バーボンの名声を世界に広めた初期の功労者であり、カーネル・E・H・テイラー・ジュニアやT・B・リピーと関係をもち、W・B・サッフェルを雇い、チャールズ・M・デドマンを支援した人物でした。先ずは通称 「ザ・ジャッジ 」として知られた男のレガシーから紹介しましょう。
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(Judge W. H. McBrayer)
ウィリアム・ハリソン・マクブレヤーは、1821年12月10日、ケンタッキー州アンダーソン郡はローレンスバーグの近くに住むスコットランド系開拓者一家の11人の子供のうちの一人として生まれました。祖父がブルーグラス・ステイトの初期入植者で、父親のアンドリューは農場を営む著名な市民であり同郡の代表を何期か務めた政治家でもありました。彼らが既に自分の土地で小さな蒸溜所を経営していた可能性はあるかも知れません。ウィリアムは地元で教育を受け、早くからビジネスの才能を発揮していました。18歳の時、ローレンスバーグで二人の兄と共に雑貨屋(乾物商とも)を営み成功すると、軈て彼らから店を買い取って単独経営者となり、その後30年間店を切り盛りしたと云います。更にはキャトル・バイヤーとして飼育と販売にも勤しんだそう(ミュール・トレーダーという情報もあった)。
ウィリアムは一族の伝統を受け継いで1844年にディスティリング・ビジネスに参入し、ローレンスバーグの東1.5マイルに位置する場所に工場を設立しました。蒸溜所を建設した土地はウィリアムがライアン家の元奴隷アンクル・デイヴから購入したものでした。ライアン家には相続人がおらず、農地と土地は彼らが亡くなる前に解放した元奴隷のデイヴに遺贈されていたのです。そこはシダー・ランと呼ばれる曲がりくねった小川沿いの美しい土地でした。後のウィスキー・ラベルに描かれるその場所はロマンチックな景色を有していましたが、蒸溜所は当初「原始的な丸太の掘っ立て小屋」と表現される程度のものだったようです。この蒸溜所(第8区RD#44)のウィスキーは「W.H. McBrayer Hand Made Sour Mash Whiskey」というラベルが付けられ、早くもマクブレイヤーの名はケンタッキー州で最高品質の製品を製造していることで知られるようになりました。
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1848年、ウィリアムは6歳年下で同じくアンダーソン郡のヘンリエッタ・デイヴィスと結婚しました。ケンタッキー軍がメキシコ戦争に出征する際、ヘンリエッタは「アンダーソンの最も美しい娘」に選ばれ、郡の若い女性達が作った旗をプレゼントする役を担ったのだとか。1851年になるとウィリアム・H・マクブレヤーはアンダーソン・カウンティの初代判事に選出されました。彼は3年間郡判事を務め、公職を離れた後も人々はウィリアムを単に「ジャッジ」と呼び続け、その肩書きは生涯を貫きました。この呼び名は地域社会のリーダーとして愛された彼の役割を反映したものだったのでしょう。しかし、その同じ年に、僅か3年の結婚生活だけでヘンリエッタが亡くなるという悲劇が起きました。ジャッジは悲しみに打ち拉がれたものの、政治家としてのキャリアも追求し、1856年にはアンダーソン郡とマーサー郡の州上院議員に選出され、その後4年間務めています。同年、彼はヘンリエッタのファースト・カズンのメアリー・エリザベス・ウォレスと再婚し、二人の間には一人の娘が生まれました。上院議員に当選したばかりのウィリアムでしたが、彼の多忙な政治家としてのキャリアはウィスキー・ビジネスの発展を止めることはなく、この時期に蒸溜所の経営も本格的に取り組み始めました。スティルを収納するための新しいフレーム・ビルディングや金属被覆のウェアハウス3棟、また他に別棟も建て、蒸溜所は大きく拡張されます。
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同じ頃、伝説によればジャッジは、妻メアリーの助言に従って蒸溜所の名前をシダー・ブルックに変更しました。敷地内に聳え立つ崖を覆い、川沿いに立ち並ぶ杉の密生から着想を得たと言われています。シダー・ブルック蒸溜所とブランド名の誕生です。蒸溜所の拡大によりジャッジは高品質のウィスキーを造って広く販売することに専心するようになり、シダーブルックは軈て「世界で最も有名なブランド」と知られるまでに成長し、全てのボトルに最高品質の証としてマクブレヤー家の名前が誇らしげに表示されるようになりました。彼は蒸溜の全工程で労力もコストも惜しまず、その品質に大きな誇りを持っていました。最高の穀物を選び、純粋なライムストーン・ウォーターを使い、敷地内の最も高い丘にあるウェアハウスにバレルを貯蔵して豊かな風味を得るために辛抱強く熟成させるなど、自身のブランドを製造するために最大限の努力を払ったと伝えられています。こうして1861年、シダーブルック・ブランドが初めて商業的に使用されたことが記録されました。南北戦争中もシダー・ブルック蒸溜所は繁栄を続け、ジャッジのバーボンの噂は全国に広まりました。
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この成功に促されたのか、ジャッジはT・B・リピーと手を組み、南北戦争後の1868年にジェイムズ・リピー及びパートナーのモンロー・ウォーカーとサム・P・マーティンが立ち上げたウォーカー, マーティン・アンド・カンパニーのタイロンの蒸溜所(RD#112)を1869年に購入しました。しかし、何故か翌年にジャッジは自分のシェアをパートナーのT・Bに売却しています。単なる後進への支援だったのでしょうか? T・Bは後にそこをクリフ・スプリングス蒸溜所と改名して、同じくタイロンのクローヴァー・ボトム蒸溜所(RD#418)と共に運営し、アンダーソン・カウンティの蒸溜王となって地場産業を支えました。
1870年、ジャッジは幾らかの追徴課税を支払う必要があり、その資金を調達するためにバレルの一部を売却することを希望していました。E・H・テイラー・ジュニアは、ケンタッキー州で最高のウィスキーが造られているのはケンタッキー・リヴァー流域だと考えており、また、その地域で最高のウイスキーを造っているのがマクブレヤーであると信じてもいました。そこでジャッジは11月10日にテイラー・ジュニアへ手紙を出して事情を説明しました。テイラーはマクブレヤーからバレルを購入することを喜んだそうです。
ジャッジが製造した全てのシダーブルックは、オハイオ州シンシナティのジェイムス・レヴィ・アンド・ブラザーズが全国的に販売する独占契約を結んでいました。この当時、独占的な取引は一般的なもので、消費者を見つけるという課題は製造業者ではなく販売業者にありました。レヴィ社の努力もあってか、このブランドとW・H・マクブレヤーの名はケンタッキー州の最高級バーボンの代名詞として世界的に知られるようになって行きます。ジェイムス・レヴィ・アンド・ブラザーズはウィスキーの大手流通業者で、毎年数百バレルを仕入れており、テイラー・ジュニアのオールド・ファイアー・カッパー蒸溜所とも取引があったそう。更に彼らはジャッジのセカンド・カズンであるジョン・H・マクブレヤーからも仕入れを行っていました。
ジョンは1826年6月17日にローレンスバーグで生まれ、地元で教育を受けた後、メキシコ戦争に従軍し、「ソルト・リヴァー・タイガース」として知られる中隊の隊長としてブエナ・ヴィスタの戦いで勇敢な突撃を指揮したと云います。アメリカン・アーミーで最年少のキャプテンだったらしい。戦争終結後、ケンタッキー州に戻り、1848年にハモンズ・クリーク沿いにJ.H.マクブレヤー蒸溜所(RD#125)を立ち上げると、優れたウィスキー造りを始めました。1870年には、マウント・スターリングから少し離れたニュー・マーケットのコミュニティでグリスト・ミルから蒸溜所に改築された施設をハワード, バーンズ&カンパニーから購入し、オールド・マクブレヤー蒸溜所(モンゴメリー郡第7区RD#17)として操業。数年後にジャッジ・W・H・マクブレヤーに売却され、次いでジャッジは1881年にW・W・ジョンソン&カンパニーに売却しました。ジョンソンは1885年にE・H・テイラーとメイヘアーに売却します。二人はテイラー&メイヘアーの名の下で操業し、ブランドには「オールド・マクブレヤー」、「ニュー・マーケット」、「W.W.ジョンソン」、「オールド・ボッツ」等があったそうです。ジョンソンは1888年に工場を買い戻し、1907年まで経営した後、シカゴのローゼンフィールド・ブラザーズ&カンパニーに売却しました。同社はオールド・マクブレヤー・ブランドを保持し、蒸溜所の3つのウェアハウスには約42000バレルの収容能力があり、禁酒法施行までこの工場を運営していたそうですが、その後閉鎖され一部は解体されました。オールド・マクブレヤーのブランドはアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーに買収され、禁酒法時代にも広く販売されました。蒸溜所は1937年にマクブレヤー・スプリングス・ディスティリング・カンパニーとして再建され、フランク・ゴーマンが社長、G・M・"フレッド"・フォーサイスが施設監督、ルイ・ボンドがディスティラーでした。ゴーマンは1907年以前にも管理責任者を務めており、フォーサイスはその少し前までハリソン郡のオールド・ルイス・ハンター蒸溜所(RD#15)の事務/会計やアンダーソン郡の幾つかの工場とマーサー郡のオールド・ジョーダンでも管理責任者として働き、ボンドは1907年以前はW・W・ジョンソンと共に経験を積んでいたそうです。残念ながら、この蒸溜所は数年で閉鎖され、建物は後に建築骨材工場として使われたとか。
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ジャッジのシダーブルック・バーボン及び蒸溜所は繁栄を続けていましたが、その名声が国際的な高みに達する時が来ました。1873年、マクブレヤーのウィスキーがオーストリアのヴィエナで開催された万国博覧会で金賞を受賞したのです。3年後の1876年にはアメリカ初のワールズ・フェアーであるフィラデルフィア・センテニアル・エクスポでも金メダルを獲得しました。この時にディスティラーのニュートン・ブラウンには金時計が贈られたそうです。こうした評価の高まりはマクブレヤー家を更に裕福にしたのでしょう、その頃にジャッジとメアリーは町のメイン・ストリートに位置するローレンスバーグで最も大きな家の一つへ引っ越しました。ちなみに、後年の1884年にルイジアナ州ニュー・オーリンズで開催された世界産業および綿花百年博覧会(World’s Industrial and Cotton Centennial Exposition)でも金賞を受賞しました。シダーブルック・バーボンは「ワールズ・チョイス」と謳われ、「ヨーロッパの王侯貴族をスコッチからケンタッキー・バーボンに転向させたウィスキー」として知られるようになり、当時市場で最も売れたバーボン・ブランドだったと言われています。需要の増加に伴い、1880年にシダー・ブルック蒸溜所に新工場が建設され、生産量は増えますが、ジャッジは常に自分の製品の品質に拘り続けました。膨大な需要に対応するため、マクブレヤーの蒸溜所は1日あたり570ブッシェルをマッシングするまでに生産量が急増しますが、ビジネスが急成長するにつれてマクブレヤーの名前を盗用し始める者もいました。世界的に有名になったウィスキーを守るためにジャッジは、シダーブルックの各ボトルに自分の名前を入れたり、声明を発表したりしました。「多くの悪徳ディーラーがケースやボトルにマクブレヤー・ウィスキーとブランディングして粗悪なウィスキーを市場に出しているのを私は観察している。執拗で恥ずかしげもないこのような乱用は、私自身の本物の世界的に有名なウィスキーの評判を不当に傷つける恐れがある…(ボンフォーツ・ワイン・アンド・スピリッツ・サーキュラー、1882年12月10日掲載)」と。

30年以上に渡り蒸溜所の舵取りをして来たウィリアム・ハリソン・マクブレヤーは、1888年12月6日、67歳でこの世を去りました。彼には高貴な心、明晰で遠くを見渡す頭脳、そして強く寛大な心が備わっており、裁判官として法廷に立とうと、州上院の議員として、マーチャントとして、キャトル・ディーラーとして、或いはディスティラーとして、全ての人を公平に扱い、全ての人に正義を行うという願いを持って、自分のベストを提供したと伝えられます。ジャッジのレガシーはケンタッキー・バーボン造りに根ざしていましたが、実際には地域社会の発展に貢献した何でも屋さんと言うのか街の名士であり、ウィスキーは彼の手掛けた事業の一つに過ぎなかったのかも知れません。逝去当時に「彼の善行を語れば何巻にもなる」と言われるほど教会の活発なメンバーだったジャッジは、後にケンタッキー州ダンヴィルのセンター・カレッジと合併したセントラル・カレッジ・オブ・リッチモンドに多額の寄付(現在の貨幣価値で推定60万ドル相当)をしたそうです。また、彼はルイヴィル・サザン・レイルロードをアンダーソン郡に誘致する手助けもしました。鉄道がローレンスバーグと他の州を結ぶ原動力になることを信じていたジャッジはこのプロジェクトの理事を務め、亡くなる数ヶ月前の1888年に鉄道が完成すると、家族と共にローレンスバーグ行きの列車で旅行をした初めの一人となったようです。この鉄道への彼の影響から、ローレンスバーグの数マイル南にある地域(フォアローゼズ蒸溜所のある周辺)は「マクブレヤー」と命名され、ボンズ・ミル・ロードと鉄道の交差点には嘗てマクブレヤー・レイルロード・ステーションがありました。また、フォアローゼズ蒸溜所の道路向かいにあり、1976年にオースティン・ニコルス社がシーグラムから取得した倉庫施設は、現在ワイルドターキーのマクブレヤー・リックハウスと知られていますが、その名前は地元の呼称から来ているので、元を辿ればジャッジ・マクブレヤーから由来しているでしょう。

ところで、現代に蘇ったブランドの一つにケンタッキー・アウルがありますが、ジャッジはそのオリジナルを造った蒸溜所と関わりがありました。1880年以前に建てられ、ケンタッキー州オレゴン(ローレンスバーグの南方のサルヴィサから東へ数マイルの場所)のケンタッキー・リヴァーのフェリー乗り場近くで操業されていたケンタッキー・アウル蒸溜所(マーサー郡第8区RD#16)はチャールズ・モーティマー・デドマンが運営しており、彼はディクソン・デドマンとメアリー・マクブレヤー・デドマンの息子で、メアリーはジャッジ・マクブレヤーの妹でした。成功の頂点に立っていたジャッジは一族の生得権を分け与えたのか、甥で養子のチャールズが自分の蒸溜所とバーボン・ブランドを設立できるよう必要な土地と資金を贈ったそうです。蒸溜所は1916年まで操業しその後に閉鎖。C・M・デドマン氏は1918年に死去しました。義父母が宗教上の理由から酒類に反対していたため再開されることはありませんでした。また、彼は薬剤師でもあり、ハロッズバーグでドラッグ・ストアを経営していましたが、そちらは同じく薬剤師だった息子のトーマス・カリー・デドマンが後を継ぎました。彼らは義理の両親を尊重して禁酒法時代には処方箋によるウィスキーの販売を断ったと云います。
また、近年カンパリからウィスキー・バロンズ・シリーズの一つとしてリリースされた「W.B.サッフェル(**)」も、ジャッジ・マクブレヤーと縁の深い人物です。ウィリアム・バトラー・サッフェルの名前はカンパリのウィスキーが発売されてそのレガシーが紹介されるまで殆ど忘れ去られていましたが、自身の蒸溜所のウィスキーは当時かなりの成功を収めた他にも、長年ローレンスバーグ・ナショナル・バンクのヴァイス・プレジデントとディレクターを務めるなど、彼は19世紀後半に名声を得たローレンスバーグの名士の一人でした。1843年8月28日生まれのサッフェルは、1700年代後半にケンタッキー州ルイヴィルとレキシントンのほぼ中間に位置するアンダーソン郡に定住した開拓者一家の一員でした。南北戦争の終結から3年後、25歳のサッフェルはアンダーソン・カウンティのユナイテッド・ステイツ・レヴェニュー・ストアキーパーとして雇用されたそうです。このようなエージェントはゲイジャーとも呼ばれ、地域のディスティラー達が支払うべき酒税の査定を担当していました。この職業に就いたことで、サッフェルは6年間の勤務中に担当地区内の各蒸溜所の設備や工程の知識を得、更にその経営者らと顔馴染みにもなったのでしょう。1874年、サッフェルはウィスキー・リングと呼ばれる一大スキャンダルが露呈する数ヶ月前に職を辞しています。その直後、サッフェルはジャッジ・マクブレヤーの下で働くことになりました。彼はマクブレヤーのイースト・メーカーでした。ウィスキーにとって酵母は非常に重要な風味成分となりますから、おそらくジャッジのバーボンの成功にサッフェルは大きな役割を果たしたと思われます。二人は非常に親密だったようで、サッフェルには6人の娘と1人の息子がいましたが、その長男にフランクリン・マクブレヤー・サッフェルと名付けていました(残念ながら幼児期に亡くなっている)。そのうちジャッジはサッフェルを今で言うマスター・ディスティラーである蒸溜所の監督役にしました。ジャッジが亡くなって1年後の1889年、サッフェルは20年間働いたマクブレヤー蒸溜所を辞めて独立し「自分の小さな製品」を造る道を歩み始めます。彼はローレンスバーグのすぐ北西、オルトン(アルトン)近くのハモンド・クリークのほとりのサザン・レイルロード沿いにW.B.サッフェル蒸溜所(RD#123)を建て、ウィスキーを造り始めました。その工場は年間385バレルのバーボンを生産したとされます。1903年の記録によると、2つのアイアンクラッドのボンデッド・ウェアハウスは21000バレルを貯蔵するキャパシティだったそう。自分の名前が付いたウィスキーにはセラミック・ジャグとガラスのボトルかあり、瓶のラベルは熟成中のバレルが並んだ倉庫を描いた物でした。彼のウィスキーはシダーブルック等に匹敵する人気があったようで、獲得した高い評判はビジネスを成功に導き、他のアンダーソン郡の成功したディスティラーと同じように堂々たる邸宅を建てました。リピー・ファミリーの邸宅ほど大きくはありませんでしたが、その造りは立派なもので現在は葬儀場となっているそうです。また、町の近くに500エーカーの農地も所有していました。ウィリアム・バトラー・サッフェルは1910年8月31日、67歳で亡くなりました。死後間もなく、ローレンスバーグの中心部にある通りはサッフェル・ストリートと名付けられました。現在でもその横にはサッフェル・ストリート・エレメンタリー・スクールがあります。サッフェルの相続人たちはプロヒビションの到来まで工場を経営し続けましたが、その後復活することはなく、その扉は永遠に閉じられました。そして、蒸溜所の建物とブランドは軈て時の流れの中で失われたのでした。しかし、往年のディスティラーを称えるウィスキー・バロンズ・コレクションに含まれたことで、サッフェルの名は再びバーボン愛好家の知るところとなった、と。
ケンタッキー・アウルとW.B.サッフェルという二つの現代に蘇ったラベルは、マクブレヤーのレガシーを継承していると言ってよいかも知れません。
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ジャッジ・マクブレヤーの死後、親族間の争いが起こりました。ジャッジは生前、シンシナティのレヴィ&ブラザーズと契約し、1891年12月1日まで既存の全てのバレルと将来生産される全ての蒸溜酒を売却することを約束しており、そのため蒸溜所は基本的に生産契約を履行するために操業されなければなリませんでした。彼は遺言の第9項で、自分の死後3年間は相続人がマクブレヤーの名で蒸溜所を運営してもよいが、その後は自分の名前を事業から完全に抹消することを望んでいました。これはジャッジが酒を嫌うプレスビテリアンの長老であったことと、個人的に絶対禁酒主義者であったことに起因していると推測されています。それに加え妻のメアリーも、その収入源を考えると少々皮肉なことに、アルコールには強い抵抗感を抱いていたようです。遺言書には遺言執行者たちの間で意見が対立した場合には、妻に遺産の決定に於いて最も重要な役割を与えるべきであるとも書かれていました。
ジャッジの一人娘ヘンリエッタは、同じく蒸溜業者でマーサー・カウンティのバーギン近くに蒸溜所を所有するダニエル・ローソン・ムーア(***)と結婚していましたが、既に若くして1882年10月30日に31歳で亡くなっていました。彼女とムーアには3人の子供、メイ、ウォレス、ウィリアムがいました。蒸溜所はこの三人の孫が引き継ぎ、ジャッジの義理の息子であるムーアが遺言の共同執行者として経営に当たりました。ジャッジの未亡人は蒸溜所からマクブレヤーの名前を剥奪し、孫娘達が貴重なシダー・ブルックの商標を使用することを禁止する条項の施行を望みましたが、ムーアは蒸溜所の経営者として、またジャッジの遺言の共同執行者として、この条項を無効化しようと試みました。メアリーは彼を法廷に引っ張り出します。ムーアは1894年4月の訴訟で、マクブレヤーの名前はジャッジの孫にとって少なくとも20万ドル(今日の数百万ドル)以上の価値がある商標であり、この条項で許可された3年を超えて存続させるべきだと主張。下級裁判所がメアリーの主張に同意すると、ムーアはケンタッキー州最高裁判所に上訴しました。そこの判事達はマクブレヤーのシダー・ブルックをよく知っていたのか同情的だったようで、ジャッジ・マクブレヤーは非常に賢明でとても聡明なビジネスマンであり、彼の真意では蒸溜所を3年以上運営することを望まなかったかも知れないが、孫娘達が新しい事業体を設立して蒸溜所を運営することは問題なく、もちろん貴重なマクブレヤーとシダー・ブルックの名称は引き続き使用されるべきである、としました。基本的に裁判所は、愛する孫達に不利益を与える意図はなかったというムーアの意見に同意し、マクブレイヤーとシダー・ブルックの名前は余りにも価値が高く、無駄にすることは出来ないと判断したのです。こうして遺言は却下され、ムーアと孫達にはバーボンに関連するマクブレヤーの名前を残すことが許されました。ジャック・サリヴァンは、もしムーアがジャッジの遺言に異議を唱えなければシダーブルックやマクブレヤー・ウィスキーの名が後世に残らなかったかも知れないと云うような趣旨の発言をしており、この件の彼の行動を称賛しています。

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保険記録では、この頃の蒸溜所の所有者はシダー・ブルック・ディスティラリー・カンパニー、D・L・ムーアが運営とされ、蒸溜所は石造りで、敷地内には金属またはスレート屋根のフレーム構造のボンデッド・ウェアハウスが3つ(A, B, C)蒸溜所から約1マイル北にあり、同様の構造のフリー・ウェアハウスが305フィート東にあったようです。ムーアは子供達に代わってシダー・ブルック蒸溜所の経営を続けた後、1899年、最終的に蒸溜所をウィスキー・トラスト(****)であるジュリアス・ケスラーのケンタッキー・ディスティラリーズ・アンド・ウェアハウス・カンパニーに売却しました。何故ムーアがトラストに売却したのかはよく解りませんが、彼が引き続き施設を管理したという情報もありました。トラストが工場を買い取ると1日800ブッシェルから1800ブッシェルに拡張し、更に新しい倉庫とボトリング・ハウス、ケンタッキー・リヴァーまでの2.5マイルのラインを持つ冷却水用のポンピング・ステーションを追加しました。一方、この頃には「オールド・ジャッジ」という言葉が広くウィスキーと結び付くようになっており、この言葉を使った多くのブランドが誕生していたようです。ケスラーはシダー・ブルックを「世界で最も有名なブランド」とし、W・H・マクブレヤーの名前を冠し続け、その遺産を守ることに専念しました。マクブレヤーの評判を上手く利用して、ジャッジが築いた基盤をより強固なものとした訳です。
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最盛期には、シダー・ブルックは世界最大の販売を誇るファイン・ケンタッキー・ウィスキーのブランドとして宣伝され、汎ゆる一流クラブ、バー、レストラン、ホテル、および大手ディーラーで販売されました。しかし、当時の多くの蒸溜所と同様にシダー・ブルック蒸溜所は禁酒法のために閉鎖(1916年までという説も)され、1922年に解体されてしまいます(禁酒法開始時に壮絶な火災に遭い焼失したという情報もありました)。閉鎖後に蒸溜所の礎石が開かれると、そこから埃を被った遺物が幾つか見つかりました。希少なオールド・ウィスキーのボトルが2本、少額のお金、古い新聞、そしてマクブレヤーに関する手紙と蒸溜所で働いた42人の名前のリストが入ったガラス瓶です。従業員のリストには経営者のW・H・マクブレヤーや管理人のW・B・サッフェルを始めとして様々な職種の人々が記載されていました。シダー・ブルック蒸溜所はアンダーソン・カウンティのウィスキー産業を一から築き上げ、地元住民の雇用を創出していたのです。

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上の画像はケヴィン・コスナーとショーン・コネリーが共演する禁酒法時代を舞台にした1987年の映画『ジ・アンタッチャブルズ』の宣材写真かオフショットを使ったポスター?か何かだと思うのですが、二人の後ろにはオールド・マクブレヤーの大量の箱が見えます。映画の中ではポスト・オフィスへの初めての「襲撃」のシーンでチラッと映ってたように思います。禁酒法はアメリカ国内でのアルコールの製造と販売を非合法化しましたが、薬用の処方箋や特別な配給品は免除されていました。オソ・ワセンによって設立されたアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)は、そうした状況を上手く利用した企業の一つでした。シダー・ブルックもオールド・マクブレヤーも禁酒法時代にAMSによって製造されました。禁酒法時代のメディシナル・ウィスキーのブランド名は実際にその蒸溜所と一致していないことが殆どでした。それを念頭に置いて、誰がウィスキーを蒸溜し、誰がボトリングしたかを見てみましょう。画像検索ですぐ見つかる物には、シダー・ブルックのブランドではクック=マクファーデン・カンパニーがボトリングした物(参考1)と、AMSがS.P.ランカスターの原酒を詰めた物(参考2)があります。オールド・マクブレヤーのブランドの方はかなり多く見つかり、H・S・バートン(グレンモア蒸溜所デイヴィス郡第2区RD#24)、メルウッド蒸溜所(ジェファソン郡第5区RD#34)、アレン=ブラッドリー・カンパニー(ジェファソン郡第5区RD#97)、ザ・アンダーソン・ディスティラリー・カンパニー(同上)、ザ・ネルソン・ディスティラリー(ジェファソン郡第5区RD#4)、ハリー・E・ウィルケン(エルク・ラン蒸溜所ジェファソン郡第5区#368)、ジョセフ・シュワブ・ジュニア(ファーンクリフ蒸溜所ジェファソン郡第5区RD#409)、E.L.マイルス&カンパニー(ネルソン郡第5区RD#146)、J.N.ブレイクモア(ウィンザー蒸溜所ラルー郡第5区RD#36[一時期のアサートン蒸溜所])、ウィリアム・ター・カンパニー(フェイエット郡第5区RD#1)、ヘンリー・クレヴァー(ヘンダーソン郡第2区RD#50)とラベルや封紙に記載された物がありました。他にもあるのをご存知の方はコメントよりご教示頂けると助かります。上に列記したのは、なにぶん解像度の低い画像を拡大して視認しただけなので間違っている可能性があります。こちらに関しても誤りはどしどしコメントよりご指摘ください。また括弧内は、ラベル及びストリップが読み取れた物に就いてはそのまま書き出しましたが、大部分は名前から推測される蒸溜所を私が補足したものです。ブレイクモアやターは会社の名前として使われただけで、ウィスキーは他の蒸溜所からかも知れません。これらは概ねトラストが買収した蒸溜所でした。ボトリングは大体がR.E.ワセンのNo.19か、エルク・ランの巨大なNo.368の集中倉庫。あと、これらの幾つかは34年ボトリングと記載があり、禁酒法解禁の直後にリボトルされた物と思われます。上記の社名のうち、アンダーソン&ネルソンやアレン=ブラッドリー及びエルク・ランは同じ敷地にある複合施設でした(*****)。兎も角、これだけ種類が豊富なところを見ると、オールド・マクブレヤーは禁酒法時代、最も人気のあったウィスキーの一つだったと言っても過言ではないでしょう。
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禁酒法が解禁された後のマクブレヤーのブランドは、AMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズが販売したと思われるのですが、この時期のシダー・ブルックは画像検索で殆ど確認できず、見つかったのはブレンデッドくらいでした。もしかするとブランドの復活に力を入れられなかったのでしょうか。どういう経緯か分かりませんが、マイケル・ヴィーチによると、シダーブルックは一時期シェンリーがボトリングしたブランドになったが1970年代には消滅した、と書いていました。オールド・マクブレヤーの方はもう少し見つかりまして、確認できるところではグリーン・ラベルの3年や4年の短熟物、多分もう少しあとのブレンデッドがありました。
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すぐ下で紹介するマクブレヤー・レガシー・スピリッツを創業したビル・マクブレヤー4世によれば、1970年代にナショナル・ディスティラーズが製造し、シンシナティでボトリングされたオールド・マクブレヤーのブレンデッドがあり、それは酷いもので、彼が子供の頃に父親はホリデイ・シーズンになるとそれを客に配ったがすぐに返された話をよく聞いたと云う…。それは、どうやら80年代初頭までは細々と生き残ったようです。

マクブレヤーの名前だけは20世紀になっても僅かに残ったものの、その遺産は歴史の塵に埋もれ殆ど失われました。アーリータイムズやフォアローゼズやI.W.ハーパーのようには、現代まで継続的に存続は出来ませんでした。しかし、近年のバーボン・ブームの到来を受け、伝統あるブランドが続々と復刻されているのは周知の通りですが、マクブレヤーのブランドもまた長い眠りから醒め復活しました。175年以上前にジャッジ自身が手造りした卓越した伝統を今日のバーボン愛好家に紹介するため、2016年にマクブレヤー・レガシー・スピリッツが起ち上げられたのです。
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マクブレヤー・レガシー・スピリッツの始まりは、全くの偶然からだった、と創業者のW・G・"ビル"・マクブレヤー4世は語ります。彼は元々バーボンの世界に入りたいと思っていた訳ではなく、娘のために大学のことを調べていました。その際、センター・カレッジがその候補に挙がったので、父親にそのことを話すと、父親は笑ってマクブレヤーズがその大学に寄付していると彼に伝えました。「どのマクブレヤーがそんなことをするんだ?」とビルが尋ねると、父親は「ウィスキー業界のマクブレヤーさ」と言いました。ビルは先ず、マクブレヤーが後援する奨学金があるかどうか確かめましたが、それは存在しませんでした。そこでマクブレヤー・ウィスキーをグーグル検索をしてみると、ビルはもっと知らなければならないほど豊かな歴史を発見します。それは独立戦争後にケンタッキー州ローレンスバーグに定住したマクブレヤーの一族の驚くべき歴史と、ザ・ジャッジことウィリアム・ハリソン・マクブレイヤーが有名な銘柄「シダー・ブルック」を世に送り出し、ケンタッキー・バーボンの名声を世界に広めた初期の功労者の一人となったことでした。ビルは、ジャック・サリヴァンのジャッジに関するブログ記事を読んだ後、何週間もかけて1800年代に遡る歴史的出来事を深く掘り下げて行きました。この調査の過程で、彼はジャッジのレガシーと、1870年頃にケンタッキー州ニューマーケットでオールド・マクブレヤー蒸溜所を始めたジョン・H・マクブレヤーに就いても学び、興味深い歴史に夢中になりました。そしてブランドの歴史を辿ってみると商標が失効していることが分かり、ビルは2013年にファミリー・ブランドの商標を再登録します。そこで彼は妻に言いました。「ハニー、僕はバーボン・ビジネスに参入するようだ!」と。父親のビル3世は定年退職を迎えると、より多くの時間を共に過ごすようになり、ビジネス・パートナーとして加わりました。26年間連れ添ったビルの妻もこの試みに非常に協力的だったし、成長した二人の子供達はソーシャル・メディアや友人たちとのネットワークでマクブレヤーを広める手助けをしてくれたそうです。彼が情熱を注いだプロジェクトは、古のバーボンがそうだったように文字通りファミリー・ビジネスでした。
ビルがマクブレヤーの歴史を深く掘り下げようと決めたのは2012年のことでしたが、当時、具体的なスケジュールは考えていなかった、と彼は言います。単なるバーボンの供給だけでは済ませたくなかった彼は、W・H・マクブレヤーの物語を継承し、1844年から続く遺産を尊重して最高品質の原材料と最新の蒸溜技術を使える途を探り、ジャッジのような象徴的な蒸溜家をバーボン・コミュニティに紹介するには慎重なアプローチが必要と考え、自らのウィスキーをどのように伝えるかにも拘り、とにかく時間を掛けました。それは待つ価値のある旅でした。長年の研究と献身を経た2021年4月、ザ・ジャッジの生誕200年を記念して、マクブレヤー・レガシー・スピリッツは遂に最初の成果である「W.H.マクブレヤー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のバッチ1を限定リリースしました。
このバーボンの第一歩は、ジャッジのオリジナルのマッシュビルを再現することでした。1870年11月10日付のW・H・マクブレヤーからE・H・テイラー・ジュニアに宛てた書簡が残っています。その内容は、マクブレヤーの11000ドルにものぼる税金問題と、テイラーがその支払いを助けるためにジャッジのバーボンを購入する取引に就いて論じたものでした。実はその裏面に、マクブレヤー自身の手書きと思われるマッシュビルが記されており、そこには3965コーン、260ライ、260モルトとあり、これはコーンが88.4%、ライとモルトがそれぞれ5.8%ということでした。この手紙はバーボンの歴史家であるマイケル・ヴィーチがルイヴィルのフィルソン歴史協会での仕事を通じて手に取ったもので、彼はこうした低モルトのマッシュビルは今日の基準からすると低収量と見做されるが同時におそらく蒸溜液にはグレインのフレイヴァーが多く残るだろうと推測していました。そして、バーボンはおそらく100~105プルーフで蒸溜され、100プルーフでバレルに入れられただろう、とも。こうして着想を得たマクブレヤー・レガシー・スピリッツは、可能な限り当時のバーボンを再現しようと試みました。先ずは穀物から。1800年代に製造されたウィスキーが現在のウィスキーとは異なる味わいであることは知られていますが、その理由の一つと考えられているのは、禁酒法以前の時代のウィスキーがエアルーム穀物や伝統的な穀物を使っていたのに対し、現在のディスティラー達の多くが工業用穀物に頼っていることです。彼らは、ビル・マクブレイヤー3世の友人が栽培していたブラッディ・ブッチャーと呼ばれる特別なレッド・コーンを採用しました。ジャッジが実際に用いたかは判りませんが、これは19世紀半ばに誕生しケンタッキー州で栽培されていたエアルーム品種です。ちょっと恐ろしい名前は、黒や紫っぽい赤い粒が肉屋の血まみれのエプロンに似ているかららしい。味に関しては独特のバターの風味やナッツのような甘さがあると言われています。現代のクラフト蒸溜所では、ブラッディ・ブッチャーに限らずこうした在来種の穀物を取り入れる動きはあり、それは彼らのバーボンの味わいに重要な役割を果たしてくれるでしょう。ケンタッキー州ローレンスバーグにあったマクブレヤーのオリジナルの蒸溜所から15マイル以内しか離れていない場所で栽培されたエアルーム品種の一つであるこのコーンはレガシーなマッシュビルにとって完璧なベースとなり、そこにヘリテッジ・ライとモルテッド・バーリーを組み合わせることでマッシュビルは決まりました。
ジャッジが使用したマッシュビルを再現しながら、今日の近代的な蒸溜技術の恩恵も受けるため、このバーボンは新進気鋭のウィルダネス・トレイル蒸溜所で契約蒸溜されています。88.4%コーン、5.8%ライ、5.8%モルテッドバーリーのマッシュビル、ウィルダネス・トレイルの特別なイースト、石灰岩で濾過されたケンタッキー・リヴァーの水を使い、最初の年に最小バッチ・サイズの10バレル分が蒸溜されました。バレル・エントリーは、現代の大規模スピリッツ・メーカーの殆どが遠ざかったコストの掛かる方法である低プルーフの105プルーフでした。最初のバッチが熟成を迎えるのを待ちながら、ビル達は熟成樽の試飲を続けていると、味わう度にどんどん良くなって行ったそう。4年と4ヶ月の熟成期間を経て、バッチ1は10バレルのうち5バレルをブレンドし、1075本がボトリングされました。フル・フレイヴァーを実現するためにアンフィルタードかつバレル・ストレングスの103.6プルーフ、希望小売価格は100ドルでした。W.H.マクブレヤーのボトルには品質の証として、全ての始まりとなった手紙からトレースした本物のサインのレプリカが描かれています。このバーボンへの反響は大きく、プリオーダーを開始すると数日で完売したそうです。あまりに早く予約注文が入ったので、ロットの売り過ぎを防ぐため予約注文を停止せざるを得ず、再開したときには一度に注文しようとする人が多すぎて1時間以内にサイトがクラッシュしたとか…。また、バーボン・コミュニティからも歓迎され、マッシュ・アンド・ドラムのジェイソン・Cや前述のマイケル・ヴィーチらの動画やブログ記事などに取り上げられています。
翌2022年4月にはバッチ2がリリースされました。このバッチは、2年目の蒸溜で得られた5バレルと、1年目の蒸溜で得られた1バレルで構成されました。つまり熟成年数は4〜5年です。6バレルでのバッチングなので最初のバッチよりは販売できるボトル数が多い訳ですが(100プルーフで1300本)、3時間以内に完売したとのこと。ベリー・スモール・バッチのため、当然最初のバッチとは若干異なるフレイヴァー・プロファイルを持っているでしょう。2023年4月29日発売のバッチ3は103.5プルーフで2056本がボトリングされています。
マクブレヤー・レガシー・スピリッツは、W.H.マクブレヤーのファースト・リリースに続けて、2021年の後期にはもう一つの古いブランドであるオールド・マクブレヤーも復活させています。彼らは禁酒法以前のオールド・マクブレヤーのラベルを出来る限り再現することで、過去の遺産に対する敬意を表しました。こちらのバーボンはバーズタウン・バーボン・カンパニーから調達しています。マッシュビルは70%イエローコーン、18%ライ、12%モルテッドバーリー、バレル・エントリー・プルーフは115、5年熟成、ボトルド・イン・ボンドの100プルーフ。2021年11月発売のバッチは1253本、2022年10月発売のバッチは3000本のボトリングでした。そして、W.H.マクブレヤーとオールド・マクブレヤーに続き、2023年、彼らは遂にザ・ジャッジの世界的に有名なシダー・ブルック・ケンタッキー・バーボンを復活させるとアナウンスしました。今後が楽しみですね。


偖て、今回私が手に入れた禁酒法時代のオールド・マクブレヤーはメルウッド蒸溜所で蒸溜されたものでした。ついでなので、この蒸溜所の歴史に就いても紹介しておきましょう。
メルウッド蒸溜所はベアグラス・クリークのサウス・フォークにジョージ・ワシントン・スウェアリンジェンによって建てられました。スウェアリンジェン家はアメリカの初期入植者で、最初に定住したファミリー・メンバーはゲリット・ファン・スウェアリンジェンでした。教養のあることで知られたゲリットは、オランダ西インド会社がプリンス・マウリッツ号を新大陸に派遣した時、同船のスーパーカーゴ(航海中の商業上の問題を管理することを任務とする商船の士官)に任命されました。オランダの港を出航した船は、デラウェア・リヴァー沿いのオランダ植民地ニュー・アムステルダムへ物資を運びますが、1657年3月8日にロング・アイランドの海岸近くの沖で座礁しました。乗組員らは翌日岸に辿り着き、凍てつくような天候の中、2日間火を使わずに過ごしたそうです。何とか助かったゲリットは後に、ニュー・ネーデルラント総督ピーター・ストイフェサントのもと、ニュー・アムステルダムの評議員に任命されました。ゲリットは他の人と共にデラウェアの植民地を統治していましたが、1664年にイングランドがロバート・カー卿の指揮でオランダ人を追い出し、そこの名前をニュー・キャッスルと変えました。彼らは知りませんでしたが、イングランドはオランダと取引を行い、北米のオランダ植民地と引き換えに、南米の北東海岸に位置する広大な土地を交換していました。イングランドの軍艦がデラウェア・リヴァーを遡上し、植民地の引き渡しを要求すると、支配者たちは砦に退きイングランド船に砲撃を加えました。するとイングランド軍は大軍を上陸させ町を占領し砦の明け渡しを要求して来たので、現実的に防衛することが叶わなかった彼らは降伏したのでした。ゲリットは母国への不審があったのでしょうか、オランダへの忠誠を放棄してイングランドへの忠誠を宣言し、姓から「Van」を取り去り、名前に「a」を加えて英語化することで発音に対応し、綴りをギャレットに改め、 家族をメリーランド州セント・メアリーズ郡に移住させました。ギャレットは彼らを歓迎したボルティモア卿にイングリッシュ民としての帰化を請願すると許可され、セント・メアリーの町やメリーランド州議会にも積極的に関わるようになって行きました。1670年、ギャレットはセント・メアリーズ川の畔の自らの土地に立派な家を建て、1690年までには増築され大きな建物に成長、一家は1730年までこの家に住んでいたと言います。
1804年、一族の一部がメリーランド州から遥か西部のブルーグラス地域、ケンタッキー州ブリット・カウンティに移り住みました。そこでジョージの父ウィリアム・ウォレス・スウェアリンジェンは育ち、ファーマーとして成功し、軈て裕福な農場主と奴隷所有者となりました。彼は著名なケンタッキー・パイオニアの一人であるヘンリー・クリストの娘ジュリア・F・クリストと結婚しました。ヘンリーは1780年にソルト・リヴァーでインディアンと血みどろの戦いを繰り広げた闘士であり、ケンタッキー州議会議員を務めた人でした。ジョージは1838年3月12日に生まれましたが、ジュリアは彼が生まれて間もなくに亡くなっています。ウィリアムは1869年まで生きたそう。
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(Bullitt County Historyより)
裕福な父をもったジョージは、当時としては水準の高い教育を受けたようで、マウント・ワシントン・アカデミーで学び、16歳でケンタッキー州ダンヴィルのセンター・カレッジに入学、1857年に卒業しました。大学生活中は常に教員からも学生からも尊敬され好意をもたれていたと伝えられています。卒業後1年以内に、20歳の彼はメアリー・エンブリーと結婚しました。彼女は18歳で、ジョージと同じく名家の出身でした。彼女の父親は米英の1812年戦争の退役軍人サミュエル・エンブリー、祖父はヴァージニアから1790年にケンタッキーのグリーン・カウンティに定住したヘンリー・エンブリーでした。妻との間には1858年に娘、1863年と1864年に息子が生まれました。ジョージは南北戦争中の兵役を避けたようです。ジョージはブリット郡にある農場でファーマーとして働きながら、そこでミルウッドと呼ばれる小さな蒸溜所も経営していました。しかし、南北戦争の終わりに状況が大きく変わります。終戦後、奴隷は解放され、ケンタッキーの農業経済は大混乱に陥ったため、彼はファーマーを辞めて若い家族らを元の環境から引き離し、1866年にルイヴィルへと移りました。ジョージはそれからルイヴィルに40年以上住みましたが、常にブリット郡を故郷と見做していたそうです。彼はルイヴィルに着くと、食料品店で短期間の経験を積んだ後、メルウッド蒸溜所を設立し、長年に渡って運営しました。おそらく以前に自分の農場で小さなウイスキー製造業を営んでおり、酒類取引がいかに儲かるかを理解していたのでしょう。
メルウッド蒸溜所は1869年(******)に、フランクフォート・アヴェニューとブラウンズボロ・ロードの間のサウソール・ストリートに設立されました(ジェファソン郡第5区RD#34)。サウソールは、後の1884年にレザボア・ロード、更に後の1895年には通りの両側ほぼ1ブロックを占めるまでに成長したメルウッド蒸溜所に敬意を表してメルウッド・アヴェニューと改称されました。ジョージは当初、自分のバーボンを古い農場にちなんで「ミルウッド」と呼ぼうとしました。しかし、印刷業者のミスでブランド名が「メルウッド」とスペルミスされてしまいます。それでも何故か彼はメルウッドの名を残すことにしました。当初は小規模だった施設はすぐに州内で最も大きくなり、成功した蒸溜所の一つとなりました。いつの段階か判りませんが、工場の敷地は12エーカーに及び、蒸溜所はレンガ造りで耐火屋根を備え、蒸溜所には特許のローラー・ミルを備えたミル・ルーム、中央にある巨大なビア・ウェル、それぞれ1万ガロンの容量を持つ19のヴァットまたはタンクを備えた大きなファーメンティング・ハウス、ボイラー室、バレル・ハウス、焼印場、また他にも使用済みのマッシュを与えるための1000頭の牛を収容できる大きな牛舎もありました。敷地内に6つの巨大なボンデッド・ウェアハウスと1つのフリー・ウェアハウス(連邦政府の規制なし)があり、倉庫はスティームで暖められ、汎ゆる場所で均一な温度が保たれていたそうです。この蒸溜所は1日当たり1200ブッシェルの穀物をマッシングでき、65000バレルのエイジング・ウィスキーを貯蔵するキャパシティでした。後に倉庫は少し拡張され、70000バレルを収容できるようになりました。水源はベアグラス・クリークを利用していたでしょう。メルウッド・ディスティリング・カンパニーの主力ブランドは常にメルウッド・ウィスキーで、アメリカ中の酒棚に置かれていたようです。
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メルウッドは精力的なマーケティングが行われ、幅広い出版物への頻繁な広告の他、自分のブランドの酒を扱うサルーンやバーおよびレストランやホテルへの景品、エッチングの施されたショット・グラス、特別なカスタマーに贈られたトレイなどのグッズがありました。同社のその他のブランドには「オールド・ウォーターミル」、「マーブル・ブルック」、「モンピリア・ライ」、「ノーマンディ・クラブ」、「同ピュア・ライ」、「ルビコン」、「ラニミード・クラブ・バーボン」、「同ピュア・ライ」、「同ウィスキー」、「ダンディー」、「G.W.S.」等があったと伝えられます。メルウッドはかなりの規模の蒸溜所であり、自社製品を製造する一方で、当時の典型として、ブランドの所有/販売/流通を手掛ける蒸溜所を持たない中間業者にウィスキーをバルク販売してもいました。現在も継続するブラウン=フォーマン・カンパニーは、初期のオールド・フォレスターのブレンド用にメルウッドから多くのウィスキーを購入していたとされています。創業当初のブラウン=フォーマン社はディスティラーではなくレクティファイアーであり、彼らは上質と思われるウィスキーを調達し、それに自分達の名前を記して販売していました。そうした中間業者だった多くの企業は後に蒸溜所を買収し、自社生産をして行くことになります。
どうやらジョージ・スウェアリンジェンはメルウッド以外の蒸溜業にも手を広げていたようで、彼は1870年代後半から1880年代初めまでディーツヴィル蒸溜所のオウナーでもあったとか、1884年から1887年まではボウリング・グリーン近くでスプリング・ウォーター蒸溜所(RD#4)も経営していたとの情報もありました。後者の蒸溜所は1日僅か120ブッシェル、15バレルのウィスキーを生産する小規模なものだったらしい。またスウェアリンジェンは、1880年にケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーションを結成するために集まったメンバーの一人でもありました。
メルウッドやその他のウィスキーによって巨万の富を築いたスウェアリンジェンは、他の事業にも目を向けていました。彼はケンタッキー・パブリック・エレヴェイター・カンパニーの社長を務め、彼のエレヴェイターには100万ブッシェルの穀物を貯蔵する能力があったと言います。ジャック・サリヴァンは、スウェアリンジェンがウィスキーの製造に大量の穀物を使用していたことを考えるとエレヴェイターの会社を所有するようになったのは自然な流れだったのかも知れない、と云う趣旨のことを書いていました。彼はそれだけに留まらず、ルイヴィルの他の実業家たちを率いて金融組織ケンタッキー・タイトル・カンパニーも設立して社長に就任しています。更には同時期の1889年頃、地元の投資家らと共にユニオン・ナショナル・バンクも設立しました。彼の執政下でその銀行は即座にルイヴィル市で最も人気のある銀行の一つとなったそうです。彼は亡くなるまで同銀行の頭取を務めました。一説にはスウェアリンジェンは銀行業に移る際に酒類事業を売り払ったとされることもあります。サム・セシルの本には「スウェアリンジェンが社長兼主要オウナー、シンシナティのランドルフ・F・ベルクが副社長」だった時代を経て「スウェアリンジェンは1889年にベルクに売却し、同じくシンシナティのジェイコブ・シュミドラップが会社に加入した」との記述が見られ、経緯が符合しているようにも見えますが、ルイヴィル市の商工人名録によるとメルウッド・ディスティリング・カンパニーは、1890年にはジョージ・W・スウェアリンジェンが社長、R・F・ベルクが副社長、W・H・ジェイコブスが秘書兼会計と記載されています。変化が見られるのは1891~92年からで、そこではベルクが社長、スウェアリンジェンが副社長、ジェイコブスが秘書兼会計、エドムンド・O・ルジィが管理監督とあります。1895年の名簿ではベルクが社長兼ジェネラル・マネージャー、スウェアリンジェンが副社長、ジェイコブスが秘書、ウォルター・ワーナーが財務担当、J・H・ジョンソンが秘書補佐、ルジィが管理監督となっています。おそらくスウェアリンジェンはきっぱりと蒸溜業から手を引いたと言うよりは、主要なオウナーではなくなったものの、メルウッド社への投資は続けていたと考えられます。この1890年代はメルウッド社にとって継続的な拡大期であったようで、1892年にはシカゴに営業所と思われる支店を開設したり、1893年(1895年という説も)には蒸溜所はレンガ、石、鉄骨、コンクリート造りでスレート屋根の6階建てに建て替えられました。おそらくこの時に、蒸溜所は印象的なリチャードソニアン・ロマネスク様式(*******)の建物になったと思われます。1896年(1899年という説も)、メルウッド蒸溜所はウィスキー・トラストに売却されました。経営陣は一新され、トラストが送り込んだD・K・ワイスコフが社長、ヘンリー・アイモーデが副社長、エルク・ラン蒸溜所(RD#368)のハリー・ウィルケンが秘書兼財務担当となりました。アイモーデは1908年に退社し、トラストの一味であるリーガン・アンド・アイモーデ・ディスティリング・カンパニーを設立したそうです。おそらくスウェアリンジェンは、トラスト売却後には蒸溜所の経営から手を引き、不動産業(ケンタッキー・タイトル・カンパニー)と銀行業(ユニオン・ナショナル・バンク)に専念したのでしょう。
1898年、ジョージ・ワシントン・スウェアリンジェンは脳卒中で倒れ、一時的な麻痺に見舞われます。その後、2度目の脳卒中が起こり、1901年8月には3度目の脳卒中が起こり、この麻痺から回復することなく、彼はその年の秋から冬にかけて著しく衰え12月18日に亡くなりました。葬儀はウェスト・ブロードウェイ218番地の自宅で自宅で執り行われ、遺体はケイヴ・ヒル・セメテリーに埋葬されました。彼は、健全な判断力と広い知性に気高い人格をもち合わせ、ルイヴィルで際立って輝いた、と評された人物でした。また、プレスビテリアン・チャーチと密接な繋がりがあり、長年に渡ってルイヴィルの長老派孤児院の理事長を務め、同教会の被後見人の世話と扶養に惜しみなく貢献したそうです。
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(1910年のサンボーン・マップ)
スウェアリンジェンの死後もメルウッドの名前、会社、蒸溜所は終わりません。1909年にはシンシナティに営業所が開設され、トラストは禁酒法が施行されるまで蒸溜所を運営し、メルウッド・ウィスキーの販売を続けました。その頃までには蒸溜所は業界ではよく知られるようになっており、高級品質のウィスキーを確立、その売上は大きく、年間約10000バレル、5万ケースが販売され、蒸溜所は600000ドルの価値が見積もられたとか。成功は多くの場合、模倣を生み出します。メルウッドが大成功を収めると偽者が現れ、ブランドを模倣しようとした競合他社に対してメルウッド・ディスティリング・カンパニーは1905年に訴訟を起こしました。それは虚偽表示や偽装蒸溜所に関する最も初期の裁判の一つとなりました。偽者はアーカンソー州フォート・スミスのディストリビューター、サミュエル・R・ハーパーとサイラス・F・レイノルズのハーパー=レイノルズ・リカー・カンパニーでした。彼らはラベルに、「ミル・ウッド」というブランド名を付け、「ミル・ウッド・ディスティリング・カンパニー」という名称を使い、「ケンタッキー」とも書き、「この著名なウィスキーは、厳選された穀物から、専ら最高級ウィスキーの蒸溜に採用されるサワーマッシュ・ファイアー・カッパー製法を頼りに造られ、樽で8年間熟成させた後にボトリングされた」と云う説明を記載していました。しかし、実際には何処にもミル・ウッド蒸溜会社は存在せず、サワーマッシュでもファイアー・カッパー製法でもなく、厳選された穀物から造られておらず、8年熟成でもなく、ブレンデッド・ウィスキーでした。1909年、裁判所は、この虚偽のラベルを使用したミル・ウッドのブランドは一般大衆を誤解させるために考案されたものであると判断し、こうした欺瞞は許されないとしてハーパー=レイノルズ・リカー・カンパニーによるラベルの使用を差し止める命令を下しました。
残念ながらメルウッド蒸溜所は禁酒法の推進による影響で1918年に閉鎖されました。メルウッド蒸溜所のすぐ隣にはクリスタル・スプリングス蒸溜所(RD#12)があったのですが、1921年、この土地の新しい所有者はクリスタル・スプリングスを取り壊し、全ての機械を撤去、メルウッドの蒸溜室やファーメンティング・ハウスやボトリング・ハウスから配管や機材を取り除き、1棟を除く全ての倉庫を取り壊しました。しかしメルウッドのブランドは禁酒法下でも生き延び、例によってアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニーがボトリングしています。カリフォルニア州サン・フランシスコの集中倉庫でボトリングされたと思われるメディシナル・パイントも見かけました。これはリノ・ドラッグ・カンパニー(ネバダ州)によって販売されたみたいです。
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禁酒法解禁後もメルウッドは、AMSを取り込んでいたナショナル・ディスティラーズがリリースしたと思われます。おそらく初期は短期熟成のバーボン、後にブレンデッド・ウィスキーとなったのではないでしょうか。ブレンデッドのラベルにはナショナルの子会社ペン=メリーランド名義となっているものを見かけました。他には30年代とされるカナダのディスティラーズ・コーポレーション・リミテッドのメルウッドのラベルもありました。
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一方、蒸溜所は禁酒法廃止後にカール・ナスバウムによって改築され、再び生産が開始されることになります。おそらくこの時の改装でリチャードソニアン・ロマネスク様式の装飾は取り除かれ、1930年代半ばのあまり華美でない機能性を重視したシンプルなデザインになったようです。ウォルター・L・ボーガーディングが社長、セルビー・ハーンがディスティラーに就任し、1935年からジェネラル・ディスティラーズ・コーポレーション・オブ・ケンタッキーとして操業するようになりました。再開のための工事は1933年に始まりましたが、老朽化と新しい設備の必要性から、彼らが最初のバレルを満たすことが出来たのは1935年12月13日のことでした。ジェネラル・ディスティラーズの事業は主にウィスキーのバルク販売と思われますが、自身の小さなブランドを所有する他、カスタマーや何かしらのクラブなどの団体または個人のためにブランドを製造することもあったようです。確かにネットで画像を検索してみると、数多くの未使用ラベルが見つかります。そうしたブランドには、「ケンタッキー・ネクター」、「リック・ラン」、「オールド・チャック」、「オールド・ポット・スティル」、「ダービー・タウン」、「オールド・ケンタッキー・ジェネラル」、「カウンティー・チェアマン」等があり、また「ライヴ・オーク」、「ローズウッド」、「オールド・ブーン」、「ゴールデン・リボン」、「ゴールデン・イヤーズ」、「オールド・サドラー」、「クオリティ・ストリート」等、歴史から消えてしまった多くの他のブランドをボトリングしていたことでも知られ、その中にはスティッツェル=ウェラーやK.テイラー蒸溜所など有名な蒸溜所で蒸溜されたものもあったとされています。メルウッド蒸溜所の登録番号は#34でしたが、ジェネラル・ディスティラーズの登録番号は#30でした。そのため、その名も「ナンバー30」というブランドもありました。
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下のリンクは私のピンタレストのジェネラル・ディスティラーズのラベルを集めたボードです。興味があれば覗いてみて下さい。
この中で、ラベルに「Bottled」としか記載されていない物は、ジェネラル・ディスティラーズでは蒸溜されておらず、文字通りボトリングだけ行われ、おそらく近隣の他の蒸溜所からウィスキーを調達していたと推測されています。ジェネラル・ディスティラーズは閉鎖されるまで僅か数十年しか操業しませんでした。1960年代初めから後半のどこかで蒸溜所が閉鎖された後、ネルソン郡ダブル・スプリングス蒸溜所のシド・フラッシュマンがボトリング・ハウスを引き継ぎます。彼はグリーンブライアーで営んでいたダブル・スプリングスの事業を旧ジェネラル・ディスティラーズの施設へと移し、そこで細々とボトリングを行っていましたが、1974年にそこも閉鎖され、75年頃にフランクフォートの21ブランズ蒸溜所へ業務を移管しました。禁酒法時代を通して生き残って来た僅かな建物は、おそらく1970年代に取り壊され、遂にその歴史に幕が下ろされました。
(1929年のメルウッド蒸溜所)

(1940年頃のジェネラル・ディスティラーズの内部風景)

話をオールド・マクブレヤーに戻します。私が手に入れたボトルのストリップの印字は劣化で消えてしまっていますが、前所有者様によると蒸溜は1917年と記されていたそうです。同じ物かと思われるボトルを出品していた海外のオークション・サイトでは、1920年代後半にボトリングされたと思われる、と説明していました。その他のオールド・マクブレヤーの殆どが33年か34年のボトリングなことを考えると、少なくとも1920年代後半〜30年代前半のどこかでボトリングされたと見て間違いはないかと。では、最後に飲んだ感想を少々。

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Old McBrayer Medicinal Pint AMS Co.(Mellwood) 100 Proof
推定1920年代後半〜30年代前半ボトリング。オールドオーク、オレンジシロップ、一瞬りんごと葡萄、時間を置くと洋酒の入ったお菓子、木質の酸、胡桃、タバコ、焼きトウモロコシ。仄かに甘いが基本的にビターで、柔らかいスパイス感。余韻は渋くはないが、これまたビター感が強め。古い木材〜ラズベリー〜濃ゆいカラメル香へ時々刻々と変化するアロマがハイライト。
Rating:87.5/100

Thought:100年近く前の物としては状態は凄く良かったと思います。長い歳月はどうしたって何かしら影響したとは思うのですが、至って新鮮な雰囲気がありました。強いて言うと若干パンチに欠けるような気もしましたし、飲み終わった後のグラスの香りもそれほど芳醇ではなかったりしましたが、時々オールドボトルで出会ってしまう奇妙なファンクや劣化した味わいはなく、普通に飲める状態であり、先ずは歴史を飲めたことに感謝すべきでしょう。
味わいは、熟成年数が長いことを疑う余地のないオールド・オーク・フォワードなバーボンでした。穀物の旨味のような要素は僅かに感じられますが、良質なオールド・バーボンによくある砂糖漬けのフルーティーな甘さは強くなく、爽やかなハーブもあまり感じられません。長い時間を過ごした樽の影響からかタンニンのビターさが少し効き過ぎているような…。ここらへんは、メルウッド蒸溜所の味がどうこうより、禁酒法下の特殊事情かも知れませんね。これを飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? コメント欄よりどしどし感想をお寄せ下さい。


*16世紀の宗教改革運動によって生まれたカルヴィニズムに基づくプロテスタントの一派。長老派と訳される。プレスビテリアン(Presbyterian)とは長老のこと。カトリック教会の司教制度を認めず、一般信者の中から経験の深い指導者を選んで長老とし、教会を運営すべきであるという長老制度を主張した。プレスビテリアンは特にスコットランドのプロテスタントに多かった。

**「Saffell」は「サッフォー」と表記した方がアメリカ人の発音に近いと思いますが、ここでは「サッフェル」と表記しました。ちなみにウィスキー・バロンズ・コレクションの3番目のリリースだったW.B.サッフェルは、ワイルドターキー蒸溜所産ケンタッキー・ストレート・バーボンの6年、8年、10年、12年原酒をブレンドしたノンチルフィルタードで107プルーフの仕様です。

***ダニエル・ローソン・ムーアは1847年1月31日、ケンタッキー州マーサー郡ハロッズバーグにジェイムス・H・ムーアとメアリー・(メッセンジャー)・ムーア夫人の二人息子の長男として生まれました。南部の古くからの裕福な家柄に生まれことで、彼は少年時代に「ムーアランド」と呼ばれる広々とした家で過ごします。医師であり、馬のブリーダーであり、ファーマーでもあった父親から、若きダニエルは豊かな教育を与えられました。彼は家庭教師の下で準備教育的トレーニングを受けた後、ダンヴィルのセンター・カレッジに入学し、3年間在籍。その後、ハロッズバーグのフィル・B・トンプソンの事務所で法律の勉強を始め、軈て弁護士資格を取得しますが、彼はより収益性の高いと思われた農業と牧畜の分野で働くことを選び、弁護士事務所を開設することはありませんでした。しかし、代わりに彼はその法律知識を自分の広範なビジネスを処理するのに全面的に利用することになります。
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ダニエルは5年間ミシシッピ州で綿花栽培に従事した後、1870年11月15日にケンタッキー州ローレンスバーグのウィリアム・H・マクブレヤー判事の一人娘ヘンリエッタと結婚しました。彼はキャリアをスタートさせた当初から蒸溜業に惹かれていたのか、1871年(1873年とも)頃、25歳前後の時にハロッズバーグ・コートハウスから東へ5マイル、バーギン近くのシャーニー・ランにD.L.ムーア蒸溜所(マーサー郡第8区RD#23)を建てました。1880年代半ばまでに蒸溜所は1日に250ブッシェルをマッシングし、2つのボンデッド・ウェアハウスは合計12500バレルを収容できたと言います。ここでは1889年までセント・ルイスの大手酒類卸売業者チャールズ・レブストックのブランドを製造。レブストックは中西部で最も成功したウィスキー・マーチャンツの一人で、1870年にウィスキーの卸売会社を組織し、多くの州に顧客を有していました。二人は協力してムーア・アンド・レブストック・ディスティラーズという会社を設立すると、この工場で生産されるウィスキーをレブストックの複数の銘柄に使用したようです。彼らの主力ブランドは「ストーンウォール」で、他の銘柄には「ゴールデン・ホーン」、「ディア・レーン」、「スノウ・ヒル」、「オールド・チャンセラー・ライ」等があったと伝えられます。ジョージ・チンの歴史書によると、バーギンからは年間12万5千ガロンのオールド・バーボンが出荷され、彼らは約45000ブッシェルの穀物を消費し、15人の労働者を月給20ドルから100ドルで雇っていたそう。義父W・H・マクブレヤー判事の死後、1889年2月6日にムーアはこの蒸溜所と36エーカーの土地を35000ドルでダウリング・ブラザーズに売却し、アンダーソン郡のシダー・ランにある蒸溜所(RD#44)の経営に力を注ぎました。これ以降、ダニエルはこの蒸溜所とは直接的な関わりはないと思われるので、以下は余談です。ダウリング家は同アンダーソン郡のウォーターフィル&ダウリング蒸溜所(旧ウォーターフィル&フレイジャーRD#41)の共同経営者でもあり、クーパレッジ工場も所有していました。彼らは禁酒法の到来までこの事業を続けましたが、蒸溜所は閉鎖され解体されました。禁酒法解禁後の1934年、蒸溜所はサザン・レイルロード沿いの元の場所近くに再建され、1950年代までダウリング・ブラザーズとして操業。その後シェンリーとボブ・グールドが交互に所有しました。1972年7月、グールドは別に所有していたアンダーソン郡タイロンのリピー・プラント(J.T.S.ブラウン蒸溜所RD#27)をオースティン・ニコルスに売却した際、バルク・ウィスキーをマーサー郡の工場とその一部をアンダーソン郡のオールド・ジョー蒸溜所(RD#35)に移したと云います。この蒸溜所は軈て閉業し、雑草や潅木が生い茂り、窓ガラスは割れ、酷く荒廃し、倉庫の側面に描かれた「Dowling Distillery」の文字だけが嘗ての栄光を物語っていました。そして、2008年10月、蒸溜所跡は取り壊されたとのこと。
実はもう一つ、同じくマーサー・カウンティにD.L.ムーア蒸溜所と呼ばれるプラントがありました。こちらはマーサー郡第8区RD#118の登録番号をもつ、ジャクソン・ヴァン・アーズデルによってハロッズバーグから9マイル北のソルト・リヴァー沿いに1865年か1866年に建てられた水力ミルと蒸溜所がルーツで、1885年コヴィントンのマリンズ・アンド・クリグラーにリースされるまで自分の名前でブランドを生産し、J・ヴァナーズデル・ディスティリング・カンパニーの名で操業されたようです。1892年、D・L・ムーアが蒸溜所を購入し、引き続きヴァナーズデル銘柄を製造しました。同年に作成された保険引受人の記録によると、蒸溜所はフレーム構造で、敷地内には2つの倉庫があり、倉庫Aは鉄骨造りに金属もしくはスレート屋根、もう1つのフリー・ウェアハウスの倉庫Bは石造りに金属またはスレート屋根でした。おそらく後に息子のD・L・ムーアJr.が引き継いだと思われ、彼は父の死後(1916年死去)にD.L.ムーア蒸溜所と改名しました。禁酒法が施行されるまで操業は続けられ、貯蔵されていたウィスキーはレキシントンのジェイムズ・E・ペッパーの集中倉庫に移され、プラントは解体されました。同社はクリア・ブルックというブランドの製品を販売していたらしいのですが、これはダニエルの高名な義父ジャッジ・マクブレヤーのシダーブルック・ブランドと蒸溜所にちなんだものと見られています。
一方、ディスティラー以外の活動もダニエルは活発でした。1881年、民主党の投票によりケンタッキー州上院第20区の代表に選出され、知的で有能な職務を果たし、有権者から称賛を浴びたと言います。ダニエルはディスティラーでありながら、ケンタッキー・ウィスキーに特別税を課して学校に充てる法案を押し通したのだとか。また、彼はマーサー・ナショナル・バンクの筆頭株主となり、1892〜1908年まで同銀行の頭取を務めたとも。更にファーマーでもあったダニエルは、ミシシッピ州の3つの農園で綿花の植え付けと収穫を監督し、また同州に数千エーカーの森林を所有して伐採を監督しました。自然愛好家だったダニエルは、山での孤独の精神的高揚に関心を向け、1881年、コロラド州はロッキー山脈の肥沃な麓、ノースパークに6000エーカーの広大な牧場を購入しました。1882年に妻を亡くすと、その後間もなくメイ、ウォレス、マクブレヤーの三人の子供達を祖父母の家に残して遠い西部を訪れ、牛と馬の飼育に乗り出しました。するとダニエルはケンタッキー州の優秀な血統の牛や馬を自分の牧場に持ち込み、この事業で大成功を収め、コロラド有数の牧畜業者として知られるようになります。毎年半分はコロラド州での事業経営に費やし、残りはケンタッキー州での製造業と農業およびミシシッピ州でのプランティングに従事したそう。
1891年、まだ未成年の三人の子供達には母親が必要だったのか、ダニエルはミニー・ボールと再婚しました。彼女はジョージ・ワシントンの母と同じ家系の子孫でした。彼らはケンタッキー州バーセイルスの彼女の家で結婚し、後に二人の女の子を儲けています。ダニエルは1年の約半分はケンタッキー州を離れていたものの、家族のためにハロッズバーグ近くのレキシントン・パイクに壮大な邸宅を建てることを決意。建築に5年、総工費140万ドルをかけたロマネスク・リヴァイヴァル様式のエレガントな邸宅でした。
ハード・ワークをこなしていたダニエルでしたが、60代半ばに差し掛かった頃、心臓の病を発症してしまいます。その後、1916年10月20日に亡くなり、ハロッズバーグのスプリング・ヒル・セメテリーに埋葬されました。死亡診断書には「器質性心臓疾患」と書かれていました。伝記作家は、セネター・ムーアほど多くの友人を持ち、そして大切にする人物はなく、温和で仲間思いの性格は友人を惹きつけ尊敬の念を抱かせ、リベラルでどこまでも寛大、真のバーボン・デモクラシーの代表者であり、厳格な誠実さを持ち、目的にも行動にも徹底して正直、実業家としてもその成功によって生まれ故郷のケンタッキー州に大きな信用を齎した、と記しました。ちなみに、夫の死後、残されたミニー・ムーアはその後の20年間、ダニエルのビジネスを引き継ぎ、ミシシッピの綿花プランテーションとコロラドの牧場を経営したりケンタッキーの農場ではタバコの生産と優良家畜の飼育を監督したそうで、広範な業務を見事な判断力と効率性で処理するビジネスの才能を高く評価されています。

****最初のウィスキー・トラストは、当時世界最大の蒸溜所と謳われたグレート・ウェスタンを始めとする65の蒸溜所が合併して、アルコールの価格をコントロールすることを目的に1887年に設立され、1895年まで運営されたジョセフ・ベネディクト・グリーンハットのディスティラーズ&キャトル・フィーダーズ・トラストでした。彼らは、多数の小規模な蒸溜所が製品を戦術も統制もなく市場に投下し、不適切な時期に価格を下げてしまうことを問題視しました。そこでトラストは、それらを全て買い取り、効率の悪い小規模な蒸溜所を閉鎖してより効率の良い大規模な蒸溜所を運営し、より高い利益を得ることを目指しました。傘下にしたい蒸溜所が売却しないことを選択した場合、トラストは脅迫、放火、暴力など強権的な戦術を用いたと言われています。1890年にシャーマン反トラスト法が制定されると、最終的に同社は解散を余儀なくされました。イリノイ州ピオリアを中心としたウィスキー・トラストの最初の試みが失敗に終わった時、ニューヨークの金融業者のリッチマン達はこの夢をまだ諦めていませんでした。彼らは最初のウィスキー・トラストの残党を1895年に再編成し、新しい事業体をアメリカン・スピリッツ・マニュファクチュリング・カンパニー(ASMC)と命名します。1899年までにケンタッキーの蒸溜所の持株会社としてケンタッキー・ディスティラリーズ・アンド・ウェアハウス・カンパニー(KDWC)を組織すると、1870年代の鉱山ブームの時代にコロラド州のウィスキー・トレードで成功し、蒸溜業者の代理店としての役割を担って全米各地の卸売業者や小売業者に大量のウィスキーを販売していたジュリアス・ケスラーをリーダーに選びました。セールスマンとしての評判と全国へのコネを備えたケスラーは、第二のトラスト設立を主導する人物として適役でした。ニューヨークの金融業者は組織の管理と株式の一部を彼の手に委ねたと言います。同年にKDWCを含む4つの会社が複雑に合併し、ディスティリング・カンパニー・オブ・アメリカが誕生しました。このような複雑な会社形態は、連邦政府の目を逃れるために必要なことでした。彼らは再定義と再構築を続け、ディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションとなり、禁酒法期間中はU.S.フード・プロダクツ・カンパニーとなり、最終的に持株会社のナショナル・ディスティラーズ・プロダクツ・カンパニーを結成します。1922年の法律に基づいて集中倉庫を管理するために設立された処方箋ウィスキー販売用の会社はKDWCを吸収し、ASMCは1927年にアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)に改組されました。この時点でナショナルはAMSの38%の株式を所有しています。同年、AMSは更にR・E・ワセン&カンパニーを始めとする5つの主要な集中倉庫を買収し、ナショナルはケンタッキー州のウィスキー・ストックの50%以上、国内のウィスキー・ストックの30%近くを支配するに至りました。1929年にナショナルはAMSの残りの株式を購入しています。

*****ニューカム=ブュキャナン(ネルソンRD#4)、アンダーソン=ネルソン(アンダーソンRD#97)、アレン=ブラッドリー(RD#369)、エルク・ラン(RD#368)等と呼ばれる蒸溜所と倉庫群を擁する複合施設があった敷地はケンタッキー州ルイヴィルに於けるバーボン・ウィスキー産業の豊かな歴史の一部でした。その操業の全歴史は約134年に及びます。最盛期にこの複合施設は約35エーカーに及ぶ製造施設を有し、ケンタッキー・バーボン・ウィスキーの合計生産能力は735000バレルを超えたと言われています。複合施設全体は1860年から1918年の間に建設されました。生産施設の大部分は、ルイヴィルのダウンタウンの中心部から東へ約2マイル、サウス・フォーク・ベアグラス・クリークからオハイオ・リヴァーに流れ込む少し手前、ミドル・フォーク・ベアグラス・クリークの湾曲部のほとり、ハミルトン・アヴェニュー(現在のレキシントン・ロード)の北側にあったグレゴリー・ストリートに集約されました。グレゴリー・ストリートはハミルトン・アヴェニューとペイン・ストリートの交差点から1ブロック西にあり、現在はアクシス・オン・レキシントンという集合住宅が建っています。当時は農地に囲まれた田舎で、南にはケイヴ・ヒル・セメテリー、北にはルイヴィル&フランクフォート・レイルロードがありました。主要な鉄道路線に近く、またオハイオ・リヴァーに近接していることは、製品供給がローカル・マーケットに留まらない成功の鍵でした。蒸溜所のエイジング・ウェアハウスは、ファーメンティング施設や蒸溜プラントとハミルトン・アヴェニューの間に点在して建てられたり、ハミルトン・アヴェニューを挟んだ向こう側に建てられたりしました。各蒸溜所にはそれぞれのボンデッド・ウェアハウスがあり、小さいフリー・ウェアハウスもありました。ネルソン保税倉庫No.4、ブュキャナン保税倉庫No.97、フィンク保税倉庫No.97、スローカム保税倉庫、セントラル保税倉庫、ウィリアムズ保税倉庫、ルイヴィル・ストレージ保税倉庫No.4、サウソール保税倉庫、ネルソン・ディスティリング・カンパニー・ウェアハウス、アレン=ブラッドリーとエルク・ラン蒸溜所のホワイトストーン保税倉庫などです。他にも穀物貯蔵庫、貯水槽、ボンデッド・ボトリング施設などもありました。
この複合施設のルーツは、1860年頃にケンタッキー州マリオン郡出身のジョン・G・マッティングリーと弟のベンジャミン・F・マッティングリーが蒸溜所を建設したのが始まりのようです。彼らは1845年頃にケンタッキー州で最初に登録された蒸溜所を建設したと伝えられる人物。おそらく兄弟はマリオン郡から土地を移し、蒸溜に専念することで成長産業の専門化を促し、理想的な立地にあるルイヴィルで小規模生産から大規模生産へと移行する産業の模範となったのでしょう。もう少し後、ジョン・マッティングリーは一度に少量のマッシュしか蒸溜できないポット・スティルとは異なるコンティニュアス・スティルの完成に貢献した功績があるとされています。1867年、マッティングリー兄弟は同じマリオン郡のデイヴィッド・L・グレイヴスに事業を売却し、ルイヴィルの南側のセヴンス・ストリートに施設を移転しました。その後、グレイヴスは同じくマリオン郡のジョージ・W・ビオールに蒸溜所を売却します。更に蒸溜所は1872年にニューカム=ブュキャナン・カンパニーに売却されました。社長のジョージ・C・ブュキャナンは、アンダーソン、ネルソン、ブュキャナン、グレイストーンの各蒸溜所を建設し、1872年の時点でニューカム=ブュキャナン社はケンタッキー州最大の蒸溜会社だったとか。これらの蒸溜所は450エーカーの1ヶ所にありました。アンダーソン蒸溜所ではスモール・タブ・サワーマッシュ・ウィスキーを、ブュキャナン蒸溜所は手造りのサワーマッシュウイスキーを製造し、1880年に初めて市場に出たらしい。ネルソン蒸溜所ではライ麦と麦芽を使用したネルソン・ピュア・ライ、麦芽のみを使用したネルソン・ピュア・モルト、加熱倉庫で僅か3~4カ月熟成させた熟成の短いU.S.クラブを製造していたと伝えられています。
(1876年の広告)
1879年に同社は一旦解散し、改組されました。おそらくこの頃に、オールド・クロウ蒸溜所やハーミテッジ蒸溜所にも携わっていた英国のパリス, アレン&カンパニーと関わるようになったと思われます。1882年から1884年に掛けての恐慌の後、同社は更なる変化を遂げます。パリス, アレン&カンパニーを通じ資金援助を受け、1885年には再び会社を再編成して社名をアンダーソン=ネルソン・ディスティリング・カンパニーに変更し、ハーマン・ベカーツが社長、フレッド・W・アダムスがセクレタリー兼マネージャー、ブュキャナンは営業担当に就任しました。翌年には3つの蒸溜所の合計マッシング・キャパシティは一日あたり4855ブッシェル、ウィスキー生産量は日産500バレルに達したと言います(アンダーソンが約600ブッシェル、ネルソンが約1200ブッシェル、ブュキャナンが約3000ブッシェル)。この頃の倉庫群には計117000バレルの収容能力があり、会社の規模を示す一つの指標として言うと、1885年の連邦税は500000ドルを支払っていたとのこと。アレン=ブラッドリー・カンパニーの名で操業していたグレイストーン蒸溜所は大量のウィスキーを生産し、フランクフォートのクロウ&ハーミテッジが1ガロンあたり60~65セントを要求する中、1ガロンあたり23セントで販売していたそうです。別々の事業体でありながら、それぞれの蒸溜所の経営と所有権は重複していました。このようなやり方によって同社は市場シェアを獲得し、それで更に施設を拡張、他の蒸溜酒会社を買収して得た多くのブランドの生産を継続しました。当時、6つの倉庫は7の異なる所有者の下でウィスキーを貯蔵していたとされ、それぞれを列記すると、ウェアハウスNo.4の所有者はニューカム=ブュキャナンで銘柄はネルソン、ウェアハウスNo.97の所有者はアンダーソン・ディスティラリー・カンパニーで銘柄はアンダーソン、ウェアハウスNo.352の所有者はジェイコブ・アンバー&カンパニーで銘柄はウッドコック、ウェアハウスNo.353の所有者はジョージ・C・ブュキャナンで銘柄はブュキャナン、同ウェアハウスNo.353の所有者はジョン・エンドレス&カンパニーで銘柄はグレイプ・クリーク、ウェアハウスNo.368の所有者はR.P.ペッパー&カンパニーで銘柄はオールド・R・P・ペッパー、同ウェアハウスNo.368の所有者はJ.A.モンクス&サンズで銘柄はグレイストーン、ウェアハウスNo.369の所有者はJ.A.モンクス&サンズで銘柄はモンクスとなっています。ロス・ペッパーの蒸溜所は1870年にはフランクフォートの西ベンソン・クリーク付近にありましたが、1880年頃にW.A.ゲインズ&カンパニーを傘下に持つパリス, アレン&カンパニーに買収され、R. P.ペッパーのブランドはルイヴィルの工場に移管されていました。
1890年7月、グレイストーン蒸溜所は火災で全焼してしまいましたが、同社はすぐに工場を再建し、エルク・ラン蒸溜所となりました。1891年べカーツ氏が亡くなりカリフォルニアのジェシー・ムーア=ハント・カンパニーがインタレストを取得。このムーア氏は、17thストリート&ブレッケンリッジ・ストリートにあったムーア&セリガーの「ムーア」の伯父と思われます。新しいエルク・ラン蒸溜所は生産能力を拡大しました。1892年頃までに50000バレルを収容できるスローカム倉庫、20000バレルのセントラル倉庫、70000バレルのウィリアムズ倉庫を含むウェアハウスがハミルトン・アヴェニュー沿いに建設されており、合計で140000バレルのキャパシティを持つようになりました。上の3つの倉庫はお互いが全て接しており、防火壁で仕切られていたそうです。1892年の保険引受人の記録によると、蒸溜所にはスプリンクラーが設置されており、倉庫は一つを除いて全てレンガ造りで屋根はメタルかスレートでした。敷地内のその他の建物には牛舎、ミル、グレイン・エレヴェーター等があり、エルク・ラン蒸溜所の隣のホワイトストーン・ウェアハウスの東端にはクイック・エイジング・ルームまで設置されていました。当時はアレン=ブラッドリー蒸溜所名義でウィリアム・E・ブラッドリーが経営していたようです。1895年には、アンダーソン=ネルソン・ディスティリング・カンパニーの子会社であるネルソン・ディスティリング・カンパニーが、100×240フィートの3階建て倉庫の建設し、40000バレルを収容できるようになりました。これがネルソンEウェアハウスと呼ばれる熟成庫です。製品の需要が高まった結果として親会社のアンダーソン=ネルソン蒸溜所の最後の資本建設プロジェクトの一つとして建設されたものらしい。また、ハミルトン・アヴェニューの反対側には、別の15000バレルのネルソン倉庫、18000バレルのルイヴィル・ストレージ倉庫、20000バレルのブュキャナン倉庫と呼ばれるボンデッド・ウェアハウス、14000バレルのフィンク・ボンデッド・ウェアハウスがあり、この複合施設全体のバレル収容量は膨大でした。1905年までに同社はさらに成長し、生産量は260000バレルに達したそうです。この成長期を経て、1905年(または1901年という説も)に会社はウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニー(KDWC)に買収されました。
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(1910年のサンボーン・マップ)
アンダーソン=ネルソン蒸溜所とエルク・ラン蒸溜所はKDWCによってプロヒビションまで操業されました。1911年の段階でエルク・ラン蒸溜所とその関連事業はKDWCのポートフォリオの中で最大規模となり、5000ブッシェルをマッシングしていたと言います。明確な時期は不明ですが、この頃か、少なくとも禁酒法以前にハリー・E・ウィルケンがマネージャー兼ディスティラーとなりました。1912年にエルク・ラン蒸溜所でボトリングされた銘柄には「アンダーソン」、「ネルソン」、「ブュキャナン」、「スローカム」、「ジェファソン」、「ジャクソン」、「U.S.クラブ」、「エルク・ラン」等があったと伝えられます。また、ここでは他のトラストの蒸溜所のためにも生産していたようです。1912年12月12日、フレッド・W・アダムスはルイヴィル東部の自宅で66歳の生涯を閉じました。イングランド出身の彼は、1885〜1905年まで会社の財政的バックアップを担っていました。KDWCは禁酒法開始まで蒸溜所の改良を続けます。需要と生産能力の増加に対応するため、複合施設に隣接する農地が買収され、新しい倉庫の建設を開始し、1918年に竣工されました。このハミルトン倉庫は、ケンタッキー州で建設されたものとしては記録上最大のもの(または世界最大のレンガ造りのバレル・ウェアハウス)とされ、2つのセクションに分かれており、それぞれに150000バレルの収容量できる12階建てで、総工費は推定40万ドル(今日の900万ドル以上に相当)と見積もられました。しかし禁酒法が本格化していたため、完成したのはその半分だけで、158000バレルの収容量だったようです。同じく1918年には、ハミルトン・アヴェニューのネルソン・プラントに隣接して、U.S.インダストリアル・アルコール社が運営する大規模なアルコール工場が建設されました。彼らはアルコールの貯蔵にスティール・タンクを使用していましたが、満タンにしておらず、その結果ベアグラス・クリークの洪水でタンクが破損し、倉庫に流れ込んで破壊されたそうです。
蒸溜所は禁酒法の訪れにより閉鎖されました。しかし禁酒法期間中、この蒸溜所の倉庫はアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)によって使われました。その大きさと立地条件から集中倉庫として選ばれ、取り壊しや放置、その他の再利用は防がれたのです。禁酒法の後、他の工場は取り壊されたものの、エルク・ラン工場はそのまま残されました。1929年以降、「T」と「S」というウェアハウスが追加されたそうですが、その目的は不明とのこと。旧ネルソン蒸溜所の倉庫なども含む残された建物はKDWC及びAMSを吸収していたナショナル・ディスティラーズの手に渡り、禁酒法廃止後の1933年に蒸溜所は再開され、オールド・グランダッド蒸溜所として知られるようになりました(おそらく、ナショナルは40年代初頭にフランクフォートのK.テイラー蒸溜所を買収して、そこをオールド・グランダッドの本拠地に変えたと思われる)。1936年当時、175000バレルの生産能力を有していたと言います。禁酒法廃止後のナショナルはアメリカ国内の蒸溜酒の約半分を支配し、一流ブランドの多くを所有するようになっていました。彼らはジェファソン・カウンティに数ヶ所の蒸溜所を開設し、経済的な恩恵を齎しました。この敷地の倉庫は平均的な施設の7倍のバーボン・バレルを収容することが出来、数百人の従業員を雇用していたとされます。1940年代、ナショナルは全米のバーボンとライ・ウィスキーの70%を支配する「ビッグ・フォー」の一つとなり、この成長期は更に約20年間続きました。1960年代、ナショナルは大きなレンガ造りの倉庫を改修しましたが、1棟は安全でないことが判明し、取り壊されました。この頃からアメリカ国内に於けるバーボン業界全体の衰退が始まります。一時期、この施設ではジンやテキーラやその他の蒸溜酒もボトリングしていましたが、競争と需要の減少には勝てず、嘗て世界最大規模を誇ったケンタッキー・バーボン蒸溜所は終焉を迎え、1974年に閉鎖されました。衰退前は1400人がここで働き、その殆どが徒歩で通勤していたとか。閉鎖後、1979年8月にレイ・シューマンが購入し、様々なビジネスのための商業施設として開発されるまで、この土地は空き家となっていました。世界最大級のハミルトン倉庫は、ブレッケンリッジ=フランクリン・エレメンタリー・スクール建設のために1980年代(または90年代とも)に取り壊されたようです。殆どの施設は取り壊されましたが、バーボン倉庫としてはルイヴィル最古(1880年頃建設)とされるウィリアムズ倉庫およびそれと繋がっているセントラル倉庫は現存しており、ディスティラリー・コモンズという名称の商業用レンタル・スペースとなっています(セントラルと左手側で繋がっていたスローカム倉庫は取り壊されている)。この複合倉庫のすぐ隣、レキシントン・ロードとペイン・ストリートの角にあったネルソンE倉庫も近年まで手付かずで現存していたのですが、2022年8月に再開発のために取り壊されました。近年のバーボンウイスキー産業の復興により、バーボン・ウィスキー産業に関連する歴史的な建築様式に対する評価が高まっています。1895/96年に建てられたこのウェアハウスもその歴史的意義から2020年にランドマークに指定されていたため、解体にはルイヴィル市の承認が必要だったのですが、1979年以降は空き家だったせいか、損傷が酷く、市は機能不全または倒壊の差し迫った危険な状態にあるとして取り壊しを承認しました。ディスティラリー・コモンズも今後は再開発されて行くのかも知れません。
(ディスティラリー・コモンズ)

(取り壊された旧ネルソン倉庫、後ろに見えるのがディスティラリー・コモンズ)

******メルウッド蒸溜所は1865年にジョージ・W・スウェアリンジェンとアンドリュー・ビッグスによって設立されたとの説もありました。

*******リチャードソニアン・ロマネスクは、アメリカの建築家ヘンリー・ホブソン・リチャードソン(1838~1886年)にちなんで名付けられたロマネスク・リヴァイヴァル建築の様式。これには11世紀と12世紀の南フランス、スペイン、イタリアのロマネスク様式の特徴が組み込まれていました。19世紀後半に複数の建築家がこのスタイルを倣ったと云う。
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(ウィキペディアより。1872年にリチャードソンによって設計されたボストンのトリニティ教会。キャロル・M・ハイスミスの写真)

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今回もバー飲みの投稿です。5杯目は、昔から飲みたかったけれど飲んだことのない銘柄だったオールド・ウィリアムズバーグにしました。

このバーボンはロイヤル・ワイン・コーポレーションが所有するブランドで、同社は名前が示すようにワインの取り扱いがメインの会社ですが、蒸溜酒も少数扱っており、そのうちの一つがオールド・ウィリアムズバーグです。彼らは現在、バーボン部門では「ブーンドックス」というブランドに力を入れています。ブーンドックスはプレミアムなレンジのブランドなので様々な別樽での後熟(追加熟成)もの等ありますが、それに比べるとオールド・ウィリアムズバーグは価格の安いバジェット・バーボンに位置付けられた製品。ブランドの名前を聴くと、ヴァージニア州の歴史的ランドマークであるコロニアル・ウィリアムズバーグを連想してしまうかも知れません。しかし、このブランドはそちらの「生きた博物館」とは何の関係もなく、ニューヨーク州ブルックリンのウィリアムズバーグ地区から命名されました。ロイヤル・ワインはニューヨークの会社ですし、限定的な地区の名前からしても、そもそもはローカリーな製品なのでしょう。ラベルにブルックリン橋が描かれているあたり如何にもな感じです。但し、ブルックリン橋はウィリアムズバーグに接してはおらず、少し離れています。実際にウィリアムズバーグに接しているのはその名もウィリアムズバーグ橋で、同ブランドのウォッカのラベルではウィリアムズバーグ橋が描かれているのに、何故かバーボンの方はブルックリン橋なのですよね…。何となく見栄えがするからか、より知名度が高いから採用されたのでしょうか? いっそのことラムでもリリースしてマンハッタン橋を採用すれば、近隣の三つの橋が揃う「橋シリーズ」とも呼べそうなラベルが完成するのに…。
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ウィリアムズバーグと言うと、今ではブルックリンのトレンディな地域としても知られていますが、ユダヤ教正統派のコミュニティの存在も有名です。ブランドの発売は1994年とされ、当時は唯一のコーシャ・バーボンでした。コーシャとは「適正」を意味するヘブライ語で、ユダヤ教徒が口にしてもいい食品の規定です。コーシャ認定制度は、スーパーマーケットに代表される消費市場が拡大した第二次世界大戦前後にアメリカを中心として始まったそうです。大量生産によって販売される商品数も膨大になるにつれ、商品の生産過程や含有物が複雑になり、粗悪な食品の流通が増えたことを懸念して、ユダヤ教徒が清浄な食品を安心して手に入れるための認定の需要が高まったらしい。現在ではウォルマートやコストコなどアメリカの大手スーパーマーケット・チェーンでも多数のコーシャ認定商品が見られます。ロイヤル・ワイン・コーポレーションはコーシャ・ワインを多数取り扱い、その分野での明確なリーダーとして認められているそうなので、その流れからスピリッツでもコーシャ認証の物をリリースする運びとなったのでしょう。オールド・ウィリアムズバーグのラベルにはマルKやマルU、或いはヘブライ語の文字が書かれたスタンプといったコーシャ認定を示すマークが印刷されています。よく見ないと見過ごしそうですけれども。
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裏ラベルには「昔の」ウィリアムズバーグについて書かれています。19世紀後半、イースト・リヴァー沿いにはビア・バロンズ(ビール造りで財を成した人々)の醸造所が立ち並び、その成功したオウナー達の建築的に優れた邸宅が建てられていた、バーボンはそんな彼ら特権階級のために、プライヴェートなスティルで手造りされ、特別に瓶詰めされ、選ばれた酒であった、と。彼らがバーボンを飲んだのが本当なのか、単なるマーケティングの文言なのかはちょっと判りませんが、醸造所が並ぶノース11thストリートがブリュワーズ・ロウと呼ばれているのは確かでした。

偖て、次にオールド・ウィリアムズバーグの幾つかのヴァリエーションについて言及しておきましょう。先ず、現在は3年熟成80プルーフのバーボンとウォッカのみが販売されているようです。その他に昔は「No.20」という101プルーフの物と「バレル・プルーフ」と銘打たれた121.5プルーフの物がありました。そして、ややこしいのはここからです。95年出版のゲイリー・リーガン著『THE BOOK OF BOURBON』には、オールド・ウィリアムズバーグ No.20のテイスティング・ノートが載っており、そこには熟成年数が36ヶ月と書かれています。で、その文末には「情報筋によると、オールド・ウィリアムズバーグに、より熟成させたバーボンがもうじき発売される予定とのこと。熟成年数や36ヶ月以上熟成との記載がないボトルを探そう。それが最低4年熟成のウィスキーであることを示すから。(意訳)」との記述がありました。つまり、私が見た現物および写真、資料によって把握するにオールド・ウィリアムズバーグ・バーボンのヴァリエーションには、
①No.20、101プルーフ、36ヶ月熟成表記
②No.20、101プルーフ、NAS
③バレル・プルーフ、121.5プルーフ、NAS
④後のスタンダード、80プルーフ、3年熟成表記
の四つが確認できる訳です。残念ながらリーガンのテイスティング・ノートは文章だけで写真が載せられていないので、①と②でボトル形状が異なるのか、ほぼ同じ見た目なのかは分かりません。この件や、これに限らずその他の物があるのをご存知の方はコメントよりどしどしお知らせ下さい。ちなみに今回私が飲んだ物はエイジ・ステイトメントがないので、おそらく②と推測しています。

続いてオールド・ウィリアムズバーグ・バーボンの中身(原酒)について語りたいところなのですが、これまたよく分かりません。ロイヤル・ワイン・コーポレーションは酒類販売会社およびインポーターであってディスティラーではないので、それがソーシング・ウィスキーなのは明らかとは言え、調達先に関する情報開示はしていないのです。明確なのはケンタッキーの何処かの蒸溜所からのものであること。また、初期のボトルは所在地表記がミネソタ州プリンストンであるところから、ボトリングしたのはユナイテッド・ステイツ・ディスティルド・プロダクツ(USDP)で間違いないでしょう。
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USDPは1981年に中西部の市場向けに地域ブランドを生産することを目的に小規模なボトリング事業としてスタートしました。おそらくプラント・ナンバーはDSP-MN-22だと思います。この施設では蒸溜は一切行なわれず、代わりにアルコール、甘味料、フレイヴァリング製剤やその他の成分を購入し、顧客の処方仕様に従って調合するブレンダーの役割とボトリング及び製品のパッケージングが主要な業務です。設立以来、信頼される企業として徐々に成長し、2005年頃の情報では、245000平方フィートの施設で年間200万ケースのスピリッツやコーディアルを中心としたリカーを生産しているとされています。また、2013年頃の情報では、約300人ほどの従業員が働いており、1日3シフト、24時間体制で7つの生産ラインを稼働させているとありました。2012年には186181平方フィートの倉庫の増設したそう。画期的だったのは、2001年にフィリップス・ディスティリングを買収して子会社としたことだったかも知れません。これにより自社ブランドの製造開発に拍車が掛かり、販売にも箔が付いたのではないでしょうか。プリンストン工場の生産ラインでは、フィリップスのUVウォッカ・ブランド、フレイヴァー・ウィスキーのレヴェル・ストークなど全米で人気のあるスピリッツ飲料を生産しています。
オールド・ウィリアムズバーグは常にUSDPが生産してるのではなく、現行の3年熟成80プルーフの物は、裏ラベルによるとニュージャージー州スコービーヴィルでボトリングとあります。スコービーヴィルというと、アップルジャックおよびアップル・ブランディで有名なレアード&カンパニーのボトリング施設があるので、そこで生産していると考えるのが妥当だと思います。いつ頃切り替わっているかは全く判りません。詳しい方はコメントよりご教示頂けると幸いです。では、最後に飲んだ感想を少々。

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OLD WILLIAMSBURG №20 101 Proof
推定95年ボトリング。焦げ樽香とスパイシーなアロマ。口に含むとブライトな樽感が味わえる。薫り高い穀物の風味と軽ろやかなフルーティさ、甘さとスパイスのバランスが良い。余韻はミディアム程度の長さ。
Rating:87.5/100

Thought:このバーボンは今となっては知名度が高いとは言い難く、余程のバーボン好きか、90年代から2000年代初等頃にバーで見かけたことがあるという人以外は知らない銘柄かも知れません。実は、日本語でオールド・ウィリアムズバーグをグーグル検索すると、まともにヒットするのはBAR BREADLINEのマスターさんのブログ「BAR ABSINTHE」の投稿くらいしかないのです。で、彼のテイスティング・ノートには原酒について少なくともヘヴンヒル系ではないとの感想が書かれており、更に私が飲んだバー・デスティニーのマスターに原酒について訊ねたところ同様にヘヴンヒルの味ではないと思うがそれ以上は全く分からないとの返答をもらいました。確かに私も一口飲んですぐヘヴンヒルではないと思いました。ヘヴンヒルのスタンダード・マッシュビルより、もっとライ麦多めのバーボンという印象があり、とても自分好みの味わいだったのです。マッシュのライ麦率は20〜30%くらいありそうな気が…。例えて言うとフォアローゼズから濃厚な熟成フルーツの風味を抜き取ったような味わいですかね。熟成年数に関しては、やはり3年熟成とは思えない味わいで、少なくとも4年〜6年程度のテクスチャーと風味に感じました。このNo.20の裏ラベルには、現行製品では削除されている次のような一文があります。
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「Only the top 20% of the barrels are used for this flavorful smooth bourbon. Enjoy!(上位20%のバレルだけを使用したこの味わい深く滑らかなバーボン。楽しんで!)」
ここで言われてる20%が「No.20」の由来なのでしょうかね? まあ、それは措いても、私の味覚には、この一文は本当にそうなのかもと思わせるだけの美味しさをこのバーボンから感じました。そして、何処の原酒かという件ですが、自分的にはフォアローゼズか、でなければバートンのハイ・ライかなぁ…と。飲んだことのある皆さんはどう思われましたか? コメントよりご意見ご感想どしどしお寄せ下さい。
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そう言えばこのバーボン、ボトルのサイドがエンボス加工されていて、なかなかカッコいいですよね。これと同時期かもう少し後かにボトリングされたと思われるミスティ・ヒルズとかブラック・イーグルというブランドのバーボンも瓶形状が同じに見え、ボトリングはUSDPが行っていると思われます。ミスティ・ヒルズとブラック・イーグルは、フィリップスやロイヤル・ワインのポートフォリオに(少なくとも現在は見られ)ないので、おそらく何処か別の販売会社がボトリング契約してパッケージングまでしてもらっているのではないでしょうか。まあ、憶測ですし、蛇足の情報です。

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ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、アメリカの現行ワイルドターキーのラインナップの中では1942年の古典的な「101」、1991年の「レアブリード」に次ぐ、3番目に古いリリースの由緒あるブランドであり、ワイルドターキー101のシングルバレル・ヴァージョンとして1994年に作成されました。公式リリースは1995年なのかも知れませんが、最初のボトルは1994年に充填されています。おそらくは、バーボン界で初めての商業的なシングルバレル・バーボン、ブラントンズの対抗馬であったと推測され、ブラントンズの競走馬やケンタッキー・ダービーをモチーフとした華麗なボトルの向こうを張った七面鳥のファンテイル・ボトルは流麗で目を惹くものでした。またブラントンズと同じように、ラベルには手書きでボトリングされた日付やバレル・ナンバー、倉庫やリック・ナンバーが記されているのもプレミアム感をいやが上にも高めています。そして、キャップはピューター製の重厚で高級感のあるものでした。それ故ケンタッキー・スピリットの初期のものは通称ピューター・トップと呼ばれています。2002年からストッパーはピューター製からダーク・カラーの木製のものに変更されました。更に2007年もしくは2008年頃にはダークだった木材がライトな色味へと変わります。ラベルに描かれる七面鳥も、ケンタッキー・スピリットに於ける明確な変更時期は特定出来ませんが、ブランド全体に渡るラベルのリニューアルに合わせ、前向きが横向きへ、カラーがセピア調へと更新されました。と、ここまではキャップ等のマイナーチェンジとシリーズ全般の変化なので、ケンタッキー・スピリットの姿自体はそれほど変わりありませんでしたが、2019年、遂にケンタッキー・スピリットの象徴的なテイルフェザー・ボトルは廃止、レアブリードに似たデザインに置き換えられ、ラベルの七面鳥の存在感は薄くなります。
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「ケンタッキー・レジェンド」と免税店の「ヘリテッジ」といった一部の製品を除き、ケンタッキー・スピリットは2013年にラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルが発売されるまでの20年近く、ワイルドターキーのレギュラー・リリースで孤高のシングルバレルであり続けました。アメリカの小売価格で言えば、ワイルドターキー101より2倍以上高く、ラッセルズ・リザーヴより少し安い製品です。ケンタッキー・スピリットをラッセルズ・リザーヴと比べてしまうと、ラッセルズ・リザーヴは冷却濾過されずによりバレルプルーフに近い110プルーフでボトリングされるため、スペック的にケンタッキー・スピリットを上回ります。そのせいもあってか、2014年頃から始まったプライヴェート・バレル・セレクションでもラッセルズ・リザーヴのほうが人気があります。その味わいの評価に関しては、アメリカの或る方の喩えでは「ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、天井は高いが床はラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルよりも低い」と言っていました。ターキーマニアの代表とも言えるデイヴィッド・ジェニングス氏などは、ケンタッキー・スピリットのボトルがリニューアル(同時に値上げも)されたのには相当ガッカリし、ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルの方が愛好家向けにアピールする製品であり、逆にもっとライトな飲酒家向けにはラッセルズ・リザーヴ10年や「ロングブランチ」などがあるため、ケンタッキー・スピリットの立ち位置がブレて消費者への訴求力が落ちているのを危惧して、価格以外に三つの解決策を提案をしています。
第一はボトルの変更です。テイルフェザー・ボトルが高価なのなら、せめて同様の美しさをもった往年のエクスポート版のケンタッキー・レジェンド(101)や「トラディション(NAS)」のようなボトル・デザインに先祖返りするのはどうか?、と。
第二にケンタッキー・スピリットもノンチルフィルタードのバーボンにする。そうすればスタンダードなワイルドターキー101よりも優れた利点が確実に得られる、と。
第三にラベルに樽詰めされた日付も記載する。現在でもボトリングの日付はありますが、ケンタッキー・スピリットが愛好家に向けた製品を目指すのなら、より細部に拘ったほうがいい、と。
そして更には、先ずは一旦ケンタッキー・スピリットの販売を休止し、現在の115エントリー・プルーフのバレルを維持しつつ、昔のような107エントリー・プルーフのバレルも造り、二つの異なるバーボン・ウィスキーを用意、最後に理想的な熟成に達した107エントリー・プルーフのバレルからケンタッキー・スピリット101を造り上げるという提言をしています。これは謂わばジミー・ラッセルのクラシックなケンタッキー・スピリット・シングルバレル・バーボンを復活させるというアイディアです。確かにこれが実現したら素晴らしい…。
ちなみに彼は現在のケンタッキー・スピリットを扱き下ろしているのではありません。ラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルとワイルドターキー101の中間にあっては、昔ほど誇らしげに立っていないと言っているだけです。実際、彼はここ数年のケンタッキー・スピリットの高品質なリリースを幾つか報告しています。まあ、少々否定的な物言いになってしまいましたし、今でこそケンタッキー・スピリットの特別さがやや薄れてしまったのも間違いないのですが、それでもその「魂」は眠ってはいないでしょう。ケンタッキー・スピリットはジミーラッセルの元のコンセプトに忠実であり続けるバーボンであり、殆どの場合ワイルドターキー101よりも美味しく特別なバーボンであり、またストアピックのラッセルズ・リザーヴが手に入りにくい日本の消費者にとってはワイルドターキー・シングルバレルの個性的な風味を経験するよい機会を提供し続けています。

改めてケンタッキー・スピリットの中身について触れておくと、その熟成年数はNASながら8〜10年とも8.5年〜9.5年とも言われており、とにかくワイルドターキー8年と同じ程度かもう少し長く熟成されたシングルバレルをジミー・ラッセルが選び(現在はエディ?)、冷却濾過して101プルーフでボトリングしたものです。つまり単純に言えば、冒頭に述べたようにケンタッキー・スピリットは現在でも日本で販売されているワイルドターキー8年101のシングルバレル・ヴァージョンなのです。ジミー自身はケンタッキー・スピリットについて、タキシードを着たワイルドターキー101と表現していたとか。多分、スタンダードな物より格調高く華やいでいる、といった意味でしょう。発売当初のボックスの裏には彼自身の著名でこう書かれました。
時折、完璧なものを垣間見ることがあります。私はいつもそれを上手く説明することは出来ないのですが、或る樽は熟成するにつれて並外れた味を帯びるのです。信じられないかも知れませんが、私は20年以上前の樽を今でも正確に覚えています。ワイルドターキー・ケンタッキー・スピリットは、そのような記憶に残る発見の喜びを与えてくれます。このボトルには、特別な1つの樽から直接注がれた純粋なバーボンが収められており、私はそれを皆さんにお届けすることを誇りに思います。
マスターディスティラー、ジミー・ラッセル
ついでに言っておくと、ケンタッキー・スピリットとラッセルズ・リザーヴという二つの同じシングルバレル製品の違いは、ボトリング・プルーフとチルフィルトレーションを除けば、そのフレイヴァー・プロファイルにあるとされます。現在のマスターディスティラー、エディ・ラッセルによれば、ケンタッキー・スピリットが父ジミーの好みをより代表しているのに対し、ラッセルズ・リザーヴは本質的にエディ自身の好みを代表しているそう。
ケンタッキー・スピリットの味わいについては、先に引用した「天井と床」の喩えで判る通り、アメリカでも日本でも多少のギャンブル性が指摘されています。つまり、ケンタッキー・スピリットはラッセルズ・リザーヴ・シングルバレルと同等かそれ以上に優れている場合もあれば、スタンダードなワイルドターキー101や8年101に非常に似ている可能性もあるということです。これはケンタッキー・スピリット云々というより、シングルバレルの特性上仕方のない面でもあります。通常3桁から4桁のバレルを混ぜ合わせる安価なバーボンは平均的なフレイヴァーになるのに対し、文字通り一つのバレルから造られるシングルバレル製品はフレイヴァー・バランスが異なります。具体的に例を言うと、普段飲んでいるワイルドターキー8年の味が脳にインプットされていて、さあ、いつもより上級なものを飲んでみたいと思いケンタッキー・スピリットを買いました、いざ飲んでみるといつものターキーよりスパイシーでオーキーでした、あれ? いつものほうがフルーティで美味しくない?、となったらその人にはハズレを引いたと感じられるでしょう。こればかりはその人の味覚次第だから。とは言え、本職の方が選んだバレルですから美味しいに決まってますし、それだけの価値があります。ケンタッキー・スピリットは甘くフルーティなものから、ややドライでタンニンのあるものまで様々なプロファイルを示しますが、真のワイルドターキー・ファンならば勇んで購入すればよいのです、好みのもの好みでないものどちらに転ぶにせよ。

ケンタッキー・スピリットはラベルの七面鳥やボトル・デザインの変化でなく、別の視点から概ね三つに分けて考えることが出来ます。ワイルドターキー蒸留所はフレイヴァーフルな味わいを重視し、ボトリング時の加水を最小限に抑える意図から比較的低いバレル・エントリー・プルーフで知られていますが、2000年代にそれを二回ほど変更しました。2004年に107プルーフから110プルーフ、2006年に110プルーフから115プルーフに。これは良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味します。また、ワイルドターキー蒸留所は旧来のブールヴァード蒸留所から2011年に新しい蒸留施設へと転換しました。これも良かれ悪しかれフレイヴァー・プロファイルが変わることを意味するでしょう。そこで、ケンタッキー・スピリットの平均的な熟成年数である8年を考慮して大雑把に分けると、

①1994〜2012年の107バレル・エントリー原酒
②2013〜18年の110/115バレル・エントリー原酒
③2019年からの新蒸留所原酒

というようになります。このうち①、特にピューター・トップのものは昔ながらのワイルドターキーの味わいであるカビっぽいコーンや埃のような土のようなオーク香があり複雑な風味があるとされます。②は①のようなファンクが消え、ライトもしくはいい意味で単純な傾向に。③は前出のDJ氏によれば、選ばれたバレルによっては「床が上がっている」そうです。そこで今回は、私の手持ちのケンタッキー・スピリットの年代が異なるもの2種類と、先日投稿したワイルドターキー8年101の推定2019年ボトルを同時に飲んで較べてみようという企画。実を言うと投稿時期が違うだけで、3本をほぼ同時期に開封しています。

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WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof
Bottled on 01-14-16
Barrel no. 2830
Warehouse O
Rick no. 2
2016年ボトリング。ややオレンジがかったブラウン。接着剤、香ばしい焦樽、香ばしい穀物、ローストナッツ、コーン、ライスパイス、ブラックペッパー、若いチェリー、ハニーカステラ、ナツメグ、アーモンド。口当たりはややオイリー。パレートは基本的にグレイン・フォワードで、甘みもあるが飲み込んだ直後はかなりスパイシー。余韻はミディアム・ロングで豊かな穀物と共に最後にワックスが残る。

8年101と較べて良い点は口当たりがオイリーでナッティさが強いところでした。悪い点は接着剤が強すぎるのと荒々しい「若さ」があるところ。全体的には、スパイス&グレインに振れたバーボンという印象。また、101プルーフよりも強い酒に感じるほどアルコール刺激を感じます。正直言って8年101の方がマイルドで熟したフルーツ感もあり私好みのバランスでした。
Rating:86.5/100

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WILD TURKEY KENTUCKY SPIRIT Single Barrel 101 Proof(Pewter top)
Bottled on 10-5-95
Barrel no. 63
Warehouse E
Rick no. 47
1995年ボトリング。やや赤みを帯びたブラウン。ヴァニラ、湿った木材、オールド・ファンク、ベーキングスパイス、ブラッドオレンジ、紅茶、タバコ、土、漢方薬、ドライクランベリー、鉄、バーントシュガー。アロマはスパイシーヴァニラ。口当たりは柔らか。パレートはフルーティな甘さにスパイス多め。余韻はハービーで、マスティ・オークが後々まで長く鼻腔に残る。

2016年のケンタッキー・スピリットが若さを感じさせたのに対して、こちらは寧ろ近年飲んでいたマスターズ・キープ17年のような超熟バーボンを想わせる味わいです。今回私の飲んだ8年101と較べても、90年代の8年101と比べても、ハーブぽいフレイヴァーが強く複雑ではあるのですが、あまり私の好みではありませんでした。多分なんですが、10年前に開封して飲めていたらもっともっと美味しかったのではないかなと思います。言葉を変えれば飲み頃を逃したような気がするということです(※追記あり)。
Rating:87.5/100

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Verdict:95年ピュータートップに軍配を上げました。比較として飲んでいた8年101の方が自分好みではあったのですが、やはり特別な味わいではあると思ったし、2016年物は軽く一蹴したからです。


追記:ピューター・トップのケンタッキー・スピリットの熟成年数は、もしかすると10~14年程度だった可能性が示唆されています。本文で記したように、確かに私が飲んだ印象もそんな感じでしたから、それが真実ならば、飲み頃を逃したのではなく元々そういう味わいだった可能性が高いです。

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今回はウィレット蒸留所の代表的なブランドであるオールド・バーズタウンのラインナップの一つエステート・ボトルドです。オールド・バーズタウンのブランド自体の説明は以前に投稿した現行スタンダードのレヴューを参照ください。
エステート・ボトルドの起源はよく分かりません。ネット検索で知り得る限りでは15年熟成の物が最も古いような気がするのですが、どうでしょう? 私が見たものには、年式を90年と95年としているものがありました。エステートのラベルは、80年代から日本に輸入されていた当時のスタンダードである馬の頭と首だけの描かれたブラック・ラベルと違い、初期と同じ「オールド・レッド・ホース」の佇む絵柄です。そこからすると、より上位の物にスタンダードの丸瓶や角瓶とは異なるずんぐりしたボトルを採用し、そのトップをワックスで浸し(*)、中身は101プルーフでボトリング、そして伝統的な絵柄のラベルを貼り付けることでプレミアム感を出したのがエステート・ボトルドなのかな、と推測しています。「Estate Bottled」というのがどういった意味かはよく解りませんが、エステートは一般的に「財産、遺産、不動産、土地」などの意味なので、「Family Reserve」や「Private Stock」とほぼ同じような意味なのではないでしょうか。上の意味の他に「種馬」の意味もあると書かれた辞典もありましたから、もしかするとお酒のラベルでよく使われるファミリー・リザーヴやプライヴェート・ストックを敢えて避け、馬のラベルに関連付けてエステート・ボトルドにしたのかも知れませんね。また、常にボトリングが101プルーフであることを考えると、ボトルド・イン・ボンド規格以上ですよと云う意味合いで「Bottled」をかけているのかも。仔細ご存知の方はコメントよりご教示ください。で、その15年熟成の物は、おそらく日本向けか一部の市場のみでの販売と思います。販売された年代と熟成年数から考えると、中身は旧ウィレット原酒であってもおかしくはないでしょう。或いは、開けただけでワイルドターキーの15年物と分かった、と仰ってる海外の方も居られました。飲んだことのある皆さんはどう思いましたか? コメントよりどしどしご感想をお寄せ下さい。
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その後、高齢原酒の不足のためか、いつの頃からか10年熟成の物に切り替えられました。この10年表記の物はアメリカでも流通していたようなので、もしかすると切り替えと言うよりはそもそもアメリカ国内向けと輸出用を分けていたのかも知れません。例えば、15年熟成は日本へ90〜95年に少量輸出、10年熟成はアメリカ国内にて90年代後半に発売とか? ともかく、いつから販売されていたかは私には判らないです。そしてもう少し後年、おそらく2008年あたりに熟成年数を表すシールの貼られてないNASになったと思われます。これは確実に長期熟成原酒の不足が理由でしょう。緩やかにではありましたが、2000年代を通してバーボンのアメリカ国内需要は復調していったのです。10年やNASの中身は、おそらくヘヴンヒル原酒の可能性が高いと見られています。

1970年代にバーボンの売上げが劇的に減少し、折からの石油不足が燃料用アルコールへの投資を促すと、投資家はウィレット蒸留所の飲料用アルコール生産を止め、燃料用の生産にシフトしようとしました。しかし、それは使い物にならない機器を残し失敗に終わりました。ありがたいことに、エヴァン・クルスヴィーンは平常心を保ち、一家をバーボン業界に留めるため、1984年にケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)というボトリング事業を始めます。エヴァンはその後の約30年間、他の蒸留所からウィスキーを購入し、オールド・バーズタウンを守り続け、新しいブランドも創り上げながら、伝統ある自身の蒸留所の再開を夢見ていました。2012年に漸く彼のその夢は叶い、蒸留所は再び蒸留を開始します。2016年になると自家蒸留されたオールド・バーズタウンの二種類(スタンダード90プルーフとボトルド・イン・ボンド)が販売され出しました。
エステート・ボトルドがいつから新原酒になったのか定かではありませんが、6年熟成とされているところからすると、早くて2018年あたりなのでしょうか? ところで、新しいスタンダード90プルーフとボトルド・イン・ボンドのラベルは、どちらもウィレット蒸留所によって蒸留および瓶詰めされていると記載されていますが、対してエステート・ボトルドの私の手持ちのボトル、またそれ以前のボトルのラベルには、蒸留はケンタッキー、ボトリングは「Old Bardstown Distilling Company」によりされたと記載されており、海外ではこれをウィレットが蒸留していないバーボンを販売するときに使用される戦術とする向きもあります。まあ、概ねそうなのかも知れませんが、旧来のラベルはなくなるまで使い続けられることもあるし、そのバーボンの名をDBAとして使用した蒸留所名だからといって全てがソーシング・バーボンとは限らない気が個人的にはしています。現に私の手持ちのボトルは確実に新ウィレット原酒です。おそらく実店舗では、現在日本で流通しているエステートの殆どは新原酒を使用している筈。とは言え、オークションや売れ残りで旧来のエステートが販売されていることも稀にはあるでしょう。そこで旧と新の目安とするならラベルよりもボトル形状に着目して下さい。最近流通しているボトルはネックにやや丸み(膨らみ)のあるものが採用されています。
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或いはボニリが正規輸入している物は新原酒と聞き及びますので、裏のラベルを目印に購入するとよいでしょう(**)。
では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。ちなみにエステート・ボトルドは、スタンダードやBiBと共通のハイ・コーン・マッシュビル、そして上述のように6年熟成、スモールバッチ(21〜24樽)でのボトリングとされています。

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OLD BARDSTOWN ESTATE BOTTLED 101 Proof
推定2020年?ボトリング。焦げ樽、焼きトウモロコシ、プロポリス配合マヌカハニーのど飴、麦芽ゼリー、ミロ、ミルクチョコレート、熟したプラム、蜂蜜、レモン。液体はさらさらしているが、口当たりはややオイリー。パレートではモルティなグレインを強く感じる。余韻はややあっさりめと思いきや、穀物の旨味が広がり、最後にコーヒーの苦味。
Rating:87.5/100

Thought:先ず、スタンダードの4年と比べて2年の熟成期間の追加でかなり印象の違うものになっているのが驚き。スタンダードはフルーティさが強かったのに対して、エステートは味わいに凄くモルティさを感じました。私はフルーツ・フォワードなバーボンが好きなので、実はスタンダードの方が美味しく感じたのですが、私のレーティングは味だけで採点していないためエステートの方を上にしています。スタンダードではあまり感じなかった甘いミルクチョコやココアのような風味は、追加の熟成期間で育まれたと思われ、やはりそこは評価すべきかと。現行のバーボンとオールドボトルの様々な違いの要因について言われていることの一つに、昔は商業用酵素剤を使わずモルトを多く使用していたと云うのがありますが、このエステートにはそういった古のバーボンらしさがあるのかも知れません。同じウィレット蒸留所の同レヴェルの製品と目されるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比べても、マッシュビルの違いからか共通なフレイヴァーもありつつグレイン感の旨味が強いように感じます。どれが好きかは貴方の味覚や感性によって決まりますが、どれもハイ・クオリティで頗る美味しいです。

Value:日本では大体3500円前後。もうね、買え、そして飲め(笑)。オールドボトルでも長熟でもないバーボンの魅力が詰まってますよ。


*ワックスで浸してない物もオークションで見かけました。また12年101プルーフもありました。私が見たものはどれもインポーターがマルカイ コーポレーションです。

**誤解のないように言っておくと、これはネックに膨らみのある物やボニリの物だと新原酒である蓋然性が高いと言うことであって、ストレートネックや並行輸入が新原酒ではないと言いたいのではありません。あくまで、ぱっと見で新原酒を購入したい人へ向けたアドヴァイスに過ぎないのです。

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テンプルトン・ライ・バレル・ストレングスは2018年から導入された年次リリースの数量限定製品です。テンプルトン・ライというブランド自体と諸々のエピソードについては、以前に投稿したスモールバッチNAS6年のレヴューで紹介してますので、そちらを参照して下さい。
創業当初NDPであったテンプルトン・ライ・スピリッツ社は2017年に自らの蒸留所を着工し、2018年から稼働し始めたようで、100%アイオワ産のウィスキーは2022年に発売されると想定されています。従って現在流通しているテンプルトン・ライの製品は、全てインディアナ州ローレンスバーグのMGPで蒸留および熟成された95%ライと5%バーリーモルトのウィスキーがソース。ブレンドとボトリングのみがアイオワのテンプルトンの施設で行われている訳です。
バレル・ストレングスは毎年限られた数のバレルが蒸留所マネージャーのレスター・ブラウンを筆頭としたチームによって選ばれます。これはシングルバレルではなく、エイジ・ステイトメントもないため、おそらく熟成年数や成熟度が異なる優良と見做されたバレルが選ばれ、その後それらをヴァッティングし、一つのバッチを形成するのでしょう。同社の4年や6年と違い、バレル・ストレングスには「ストレート」表記がありますので、フレイヴァー製剤の添加はありません。ラベルの承認を行うTTBを欺いているのでない限りは…。また、バレル・ストレングスはフレイヴァー成分をボトルに残すことを期待されるノンチルフィルタード(非冷却濾過)。流石にバレルプルーフならばフレイヴァーを添加する必要はないという判断ですかね。ちなみに、これまでリリースされたバレル・ストレングスは、2018年版が114.4プルーフ、2019年版が115.8プルーフ、2020年版が113.1プルーフでボトリングされています。

テンプルトン・ライ批判の急先鋒と言えるウィスキー・インフルエンサーのジョシュ・ピータースは、2018年にバレル・ストレングスが初めてリリースされた時には「テンプルトン・バレルストレングス・ストレート・ライウィスキーを購入しない5つの理由」という記事を自身のブログに投稿しています。彼は以前からテンプルトン社の現代ウィスキー市場に於けるあらゆる反則技や不誠実な姿勢に嫌悪感を露わにしていましたが、ストレート・ウィスキーであるバレル・ストレングスが出ても怒りは収まらなかったようで…。彼の主張をざっくり纏めると、バレル・ストレングスがストレート規格であったとしても、そのプレス・リリースではどこにもMGPのソースド・ウィスキーであるとは言及されておらず、アルフォンス・カーコフ・レシピの起源物語をまだ言い続けている、だったら同じくMGPの95/5ライ・マッシュのジェームズ・E.ペッパー1776ライのバレルプルーフの方が安く購入できるので自分ならそっちを買う、そうすれば同じ経験をしながら欺瞞的なテンプルトンではない透明性のある会社をサポートすることが出来る、と。私も情報は透明に越したことはないと思っていますし、テンプルトン・ライの行き過ぎたマーケティングにはガッカリするものの、それでもテンプルトン製品を買っています。これはジョシュに賛同しないと言うより、単に日本で比較的買い易いMGP95ライをソースとしたウィスキーがテンプルトン・ライだから、それだけ。MGPの95%ライ好きなんです(笑)。

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TEMPLETON RYE BARREL STRENGTH 115.8 Proof
Limited Bottling 2019
ピクルス、ライスパイス、プラム、青いバナナ、キャラメル、石鹸、塩、ゴーヤ、スイカ、甘いナッツ、弱い蜂蜜。基本的にスパイシーなアロマだが、フルーツとお菓子のような甘い香りもしっかりある。軽やかなのにバタリーな口当たり。味わいはフレッシュな野菜やハーブを思わせる緑感とグレイン。余韻は口当たりや度数の割にあっさり切れ上がるものの、トーストされたオークの甘みとハービーな苦味とライ麦由来のスパイシーさのアンサンブルが心地良い。
Rating:87.5/100

Thought:前回まで開けていたテンプルトン・ライ6年と比べると、バレルプルーフであることとノンチルフィルタードの効果でしょうか、フレイヴァーの強さは桁違いでした。フレイヴァー・プロファイルは概ね同じに感じますが、6年では感じ取れなかった細やかなニュアンスや変化も取得しやすいように思います。選択されたバレルの熟成年数の平均はどうなんだろう、4〜6年くらいはありそうな熟成感という印象。飲んだことある皆さんはどう思われましたか? コメントよりどしどし感想お寄せ下さい。

Value:2020年版のテンプルトン・ライ・バレル・ストレングスは、アメリカでの希望小売価格が約60ドルのようです。日本でこの2019年版が流通していた頃の小売価格は大体5500円程度でした。過剰なプレミアム(割増金)が付けられていなければ、どこかで見つけたら即買っていいと思います。日本ではMGP95ライをソースとしたバレルプルーフのウィスキーがそこまで豊富に流通している訳ではないからです。ただし、他メーカーがボトリングしたMGP95ライのソーシング・ウィスキーでも、バレルプルーフであれば同じくらい美味しいのは確定的であり、尚且もう少し安い可能性はあるので、よほどテンプルトン・ライのブランド・イメージが気に入ってるのでなければ、ジョシュ・ピータースが言うように、そちらを購入するのも手でしょう。

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