バーボン、ストレート、ノーチェイサー

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ミルウォーキーズクラブさんでの2杯目は、海外のレヴューを見て評判が良さそうだったので前から飲んでみたかったケンタッキー・アウル・ライ11年バッチ1にしてみました。日々追いきれないほどの新しいアメリカン・ウィスキーのブランドが誕生しているここ十年、歴史的なウィスキー・ブランドが復活を遂げることも少なくありません。ケンタッキー・アウルはそうしたブランドの一つであり、その背景に素晴らしい家族の物語と興味深い歴史をもつウィスキーです。そこで今回はこのブランドの現在までをざっくりと辿ってみたいと思います。

1870年代、ケンタッキー州の孤児だったチャールズ・モーティマー・デドマンは、アンダーソン郡のシダー・ブルック蒸溜所(RD#44)を経営していた養父のザ・ジャッジことウィリアム・ハリソン・マクブレヤーから結婚祝いとして、自分の蒸溜所とバーボン・ブランドを設立できるように必要な土地と資金を贈られました。彼の母メアリー・マクブレヤー・デドマンはジャッジの妹でした。1879年にチャールズによって設立され、C.M.デドマン蒸溜所またはケンタッキー・アウル・ディスティリング・カンパニーと知られた蒸溜所(マーサー郡第8区RD#16)は、ケンタッキー州オレゴン(ローレンスバーグの南方のサルヴィサから東へ数マイルの場所)のケンタッキー・リヴァーのフェリー乗り場近くにて操業していました。彼の蒸溜所は大きな蒸留所ではなく、1909年のマイダズ・ファイナンシャル・インデックスでは10000〜15000ドルのFランクだったそう。主な銘柄は言うまでもなくケンタッキー・アウルでした。チャールズは薬剤師でもあり、ハロッズバーグにドラッグストアも経営していました。彼が製造していた「THE WISE MAN'S WHISKEY」は単なるキャッチフレーズではなく、彼のビジネスの根幹をなすものとされ、知恵や知識の象徴である梟をアイコンにしたコンセプトは、人々が賢くアルコールを摂取できる、または摂取すべきだという彼の信念を表しており、ケンタッキー・アウルはローカル・シーンでは絶大な人気を誇ったと伝えられます。
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(オリジナルのケンタッキー・アウルのラベルと蒸溜所)
蒸溜所は禁酒法の影響から1916年まで操業した後に閉鎖。チャールズは1918年に死去しました。彼の義父母が宗教上の理由から酒類に反対していたため、蒸溜所は再開されることはありませんでした。蒸溜所が閉鎖された当時、ケンタッキー・アウルは将来の利益が見込まれる約25万ガロン(約4700バレル)の熟成段階の異なった「賢者のウィスキー」を貯蔵していましたが、残念なことに一部の不謹慎な連邦税務署員によって押収されました。バレルは艀で川を遡ってケンタッキー州フランクフォートに送られ、そこの政府の倉庫に保管されました。連邦政府はフランクフォートの安全な倉庫でウィスキーを見守る筈でした。しかし、禁酒法が全国的に施行された1919年の或る日の夜、倉庫は謎の火災に見舞われ、ウィスキーは一滴残らず倉庫と共に短時間で全焼してしまいます。奇妙なことにアルコールで満たされた建物にしては火災が数時間で済んだことで、ケンタッキー・アウルの全在庫もしくはウィスキーの大半は、活況を呈していたスピークイージーズに提供するため、アル・カポーンか他のブートレガーかは定かでないものの、組織犯罪によって事前に持ち去られていたのではないか、と当時の多くの人々は疑いました。上質なアメリカン・ウィスキーは、禁酒法期間中、この「ナイト・アウルズ」を存分に稼動させ、バスタブ・ジンに代わる金持ちの嗜好品として最高級の酒場で振る舞われていたらしいのです。禁酒法の厳格な条項により、デドマン一家はウィスキーの損失に対する補償を受けることが出来ず、家族は薬局の経営に戻り、往年のケンタッキー・アウル・ブランドは突如として終焉を迎えました。こうして他の多くのブランドと同様に、嘗て繁栄したブランドは人々の記憶から消え去って行くことになります。
ハロッズバーグのドラッグストアは同じく薬剤師だった息子のトーマス・カリー・デドマンが後を継ぎ、父の義理の両親に配慮して、禁酒法時代には処方箋によるウィスキーの販売を断ったと云います。それから約100年後、C.M.デドマンの玄孫がウィスキー事業を復活させる訳ですが、その間、デドマン家は宿の経営で名を馳せました。次はそちらの歴史を見て行きましょう。

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(WIKIMEDIA COMMONSより)
ケンタッキー州ハロッズバーグにあり、ゴッダード家とデドマン家の5世代が経営して来たボーモント・インは、南部の魅力とエレガントを体現するケンタッキー州で最も古い歴史的な宿です。この建物は元々は若い女性のための学校として使われていました。グリーンヴィル・スプリングスとして知られていた保養地の区画の一部に、1841年、サミュエル・G・マリンズ博士がグリーンヴィル・インスティテュートを設立しました。この土地は一旦は焼失しましたが、多くの公共心のある市民が再建を支援し、1855年まで運営されました。1856年にC・E・ウィリアムス博士とその息子のジョン・オーガスタス・ウィリアムス教授が周辺の地区を購入し、その年の暮れ、ドーターズ・カレッジと改名されます。ドーターズ・カレッジは、19世紀後半にケンタッキー州に設立された数少ない女子大学の一つで、女子に男子大学と同様のカリキュラムを提供しました。1844年に建てられた建物は、ドーターズ・カレッジのカタログには「エレガントなブリック・マンションで、80×52フィート、3階建て、風通しがよく、部屋の湿気を防ぐために中空壁で造られ、金属製の屋根やその他の手段で火災に対する安全が確保され、最も広々としたダイニングルーム、キッチン、バスルームがあり、1万ドルを掛けて完成し、100人の生徒を収容できるように準備されている」とあったそうです。ケンタッキー大学の元学長だったジョン・オーガスタス・ウィリアムスは、1892年までの40年近くに渡り学長を務め、指揮を執りました。 彼は時代を先取りした素晴らしい教育者であり、まるで自分の子供のように女学生達の教育を計画し、教授としてだけでなく父親代わりともなりました。南北戦争中、南部の裕福な家庭の多くは迫り来る戦争という敵対行為から逃れるために娘達をこの本格的な大学に送り込んだと云います。ヴァージニアンでトーマス・J・"ストーンウォール"・ジャクソン将軍の部下だった元南軍将校のトーマス・スミス大佐とその夫人が学校を購入すると、1894年にボーモント・カレッジと改名されました。フランス語で「Beaumont(ボーモン)」は「美しい山」という意味であり、これは建物が町で最も高い場所の一つに位置していたからのようです。ボーモント・カレッジでは「芸術、弁論術、音楽院、そしてアメリカやヨーロッパの一流校を目指すための強力な文学コース」を提供していたとされ、そのモットーは「エレガントな文化と洗練されたマナーに恵まれた誇り高き品性」でした。残念ながら再オープンしたボーモント・カレッジは、大幅な拡張のための基金がなく、1916年に閉鎖されました。閉校した後の1917年、アニー・ベル・ゴッダードとメイ・ペティボーン・ハーディンの2人の卒業生がこの建物を購入します。彼女達には自らが通った学校に思い入れがあったのでしょう。アニー・ベルは1880年にドーターズ・カレッジを卒業し、同カレッジで数学を教え、後に学部長も務めていた人でした。最終的にグレイヴとアニー・ベルのゴッダード夫妻がもう一人から権利を買い取って単独所有者となった後、彼女は1918年にこの建物をカレッジの元同窓生向けの宿に改装し、1919年にボーモント・インが誕生しました。インはすぐに「南部のおもてなし」で知られるようになり、この施設は歴史的な場所の一部となったのです。その後、アニー・ベルと前夫ニックの娘であるポーリーン・ゴッダード・デドマンが母の後を継いでインキーパーとなりました。このポーリーンの結婚相手がチャールズ・モーティマー・デドマンの息子トーマス・カリー・デドマンでした。この宿の経営は三代目のトーマス・カリー・"バド"・デドマン・ジュニアとその妻メアリー・エリザベス・ランズデル・デドマンが続き、更にその息子チャールズ・マイナー・"チャック"・デドマンとその妻ヘレン・ウィリアムズ・デドマンによって引き継がれて行きます。こうして凡そ1世紀に渡り、ゴッダード家とデドマン家の子孫が伝統を受け継いでボーモント・インの家族経営を続けました。
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(アニー・ベル・ゴッダード)
この宿は正に歴史に彩られており、学校として使われていた時代の本や写真、書類など、多くの芸術品が展示されています。入り口近くの部屋は学校の図書室だったそうで、チェリー材の本棚には、生徒や教師が使った古い本が壁一面に並んでいるとか。ホールには1934年にフランクリン・D・ルーズヴェルトがハロッズバーグを訪れオールド・フォート・ハロッズのジョージ・ロジャース・クラーク記念碑の奉納式に出席した際に使用したと言う大きな木製の椅子があったり、ゲストルームには家族が四方から受け継いだか或いは時のオウナーが収集したアンティークが置かれているそうです。レストランは南部料理を出すことで知られ、メニューにはカントリーハム、コーンプディング、フライドチキン、コーンブレッド、デザートなど、5世代に渡って受け継がれてきたケンタッキー州の特産品が並びます。当初はカントリー・ハムとフライド・チキンの2種類しかメイン・ディッシュがなかったそうですが、世紀を超える営業のうちに進化し、1949年にはアメリカの料理評論家ダンカン・ハインズに、ケンタッキー州で最高のレストランと評されました。今日のボーモント・インは、ジェームズ・ビアード財団から「時代を超越した魅力を持ち、地域社会の特徴を反映した質の高い料理で知られる」レストランに贈られるアメリカズ・クラシック・アワードを2015年に受賞したことで、ケンタッキー州を越えてその名を知られるようになりました。チャック・デドマンは、この栄誉は現在の宿主に与えられたのではなく、アニー・ベルや祖母や両親に遡る、ボーモント・インが長年に渡って事業を続けてきたことに対する評価だと語っています。また、サザーン・リヴィング・マガジンからは南部の魅力的な宿トップ20に選ばれるなど、他にも多くの賞を受賞しています。
しかし、常に順風満帆だったという訳でもなく、一時は経済的に苦しい時期がありました。冬になると客足が途絶え、宿は4か月間閉鎖されていたのです。そのため収益が落ち込み資金不足から大規模な改修は延期されていました。問題の一つはそのロケーションにありました。ハロッズバーグはバーズタウンのすぐ東でありフランクフォートのすぐ南というバーボン産地の真ん中にありながらドライ・カウンティだったため、蒸溜所を見学に来た人達がせっかくインに立ち寄っても、2000年代初頭までレストランではブラック・コーヒーを出すのが精一杯だったのです。風向きが変わったのは、第5世代のサミュエル・ディクソン・デドマンが2003年にワッフォード・カレッジを卒業し、家業に戻った頃のことでした。8歳の時から「お手伝い」をしていたディクソンは、大学在学中も夏季や休日に妹のベッキー・デドマン・ボウリングと共にボーモント・インで働いており、家業を継ぐことに疑問の余地はありませんでした。彼は卒業後1週間も経たないうちに宿の仕事をやり出したそうです。2003年、ローカル・オプション条例が可決され、それまで「ドライ」だったハロッズバーグはバーやレストランでのアルコール販売を許可する「モイスト」になりました。この法改正はデドマン家にとって歓迎すべきニュースであり、ディクソンはすぐにインのメイン・ダイニングで酒類を提供し始めると、オールド・アウル・タヴァーンの建設に取り掛かり、更にパブの雰囲気をもつアウルズ・ネストもオープンしました。タヴァーンは本館の南端に位置し、元々は馬車や荷馬車が保管されていた場所でした。言うまでもなくその名前は高祖父が造ったウィスキーに由来します。
https://www.facebook.com/oldowltavern
酒類をグラスで販売できるようになったことで、この場所の運勢は一変しました。地元の人々がこの店のバーに集まっただけでなく、近隣の蒸溜所を巡るウィスキー観光客がインに泊まるために列をなすようになり、2005年には通年営業となります。ハロッズバーグでの規制緩和の決定とディクソンの変革は、ちょうどバーボン業界が数十年に渡る需要の低迷から回復し始めた時期と一致していました。2000年から2010年の間にアメリカン・ウィスキー蒸溜所の収益は46%増加したと言います。新たにウィスキーに興味をもった人々がバーボン体験のために本場ケンタッキーへと押し寄せるようになったのです。ディクソンは2008年には宿の経営を全面的に手伝っていました。宿の財政が安定したところで愈よ彼は夢の実現に乗り出します。

「C・M・デドマン以来どの世代もこれをやりたがっていました」。「これ」とはファミリー・ラベルの復活に他なりません。ディクソンの父も祖父も屡々ブランドの再開に就いては話をしていましたが、それはたわいのない話に留まっていました。「私の祖父は、もし宝くじに当たったら二つのことをする、と我々に言っていました。先ずはリムジンを買う。そしてウィスキー・ビジネスを再開するんだ」と冗談半分に。幸いディクソンは人脈に恵まれました。インキーパーの友人であるマークとシェリィのカーター夫妻の協力を得ることが出来たのです。二人はワインメーカーとしても成功しており、2007年にエンヴィ・ワイナリーでの生産を拡大した後、プライヴェート・ラベルを作る新しい顧客を探していました。彼らは緊密な繋がりのある旅館経営コミュニティに目を向け、或る時、テキサス州オースティンで行われた旅館コンヴェンションで古い友人のディクソン・デドマンに会いました。マークはディクソンを赤ん坊の頃から知っており、彼の父親が1990年代にハロッズバーグ地区でのアルコール販売規制を解除するためのロビー活動を成功させるのを手伝ったことがありました。ディクソンはカーター夫妻が顧客を探していると聞きつけ、ボーモント・インのためのプライヴェート・ラベル作成に興味があると伝えました。しかしマークはデドマンのためにワインを造ることには関心がなく、寧ろディクソンの父チャックが酒類法改正のためにハロッズバーグを訪れていた時に聞いた話、即ち家族が嘗て所有していた蒸溜所がケンタッキー・アウルというバーボンを製造していたことの方に興味がありました。マークはワインを造って欲しいというディクソンのリクエストにこう答えたと言います。「問題なく君のためにワインを造ることは出来るよ。でもね、お父さんが話してくれた、君の家族のバーボン・ブランドを復活させる手助けをすることに我々はもっと興味があるんだ」と。何度かミーティングを重ねた後、カーター夫妻はコンプライアンスや資金調達の殆どを自分たちで処理し、シェリィのアーティストとしてのスキルをデザインに生かすことだって出来るとディクソンに確約しました。ウィスキーを販売するまでにはTTB、税金、ディストリビューターとの取引など人々が思っている以上に多くの困難がありますが、彼らはその全てを手伝えると言ったのです。ディクソンは、コストと時間の掛かり過ぎる自社蒸溜所を開設するのではなく、他の場所で蒸溜されたウィスキーを調達し、それを自身のラベルでボトリングすることに決めました。後はバーボンを見つけるだけです。友人のツテを頼ったのか自分で飛び込んだのか分かりませんが、おそらくバーズタウン地域を中心とする複数の蒸溜所からウィスキーを調達したと思われ、彼は十分な量の原酒を手に入れました。
ディクソンの恵まれた人脈の中にはフォアローゼズ蒸溜所のマスター・ディスティラーだったジム・ラトリッジもいました。同蒸留所で49年間も働いていたラトリッジは最も尊敬を集めるウィスキーマンの一人です。そこでディクソンは2010年頃から購入したウィスキー・バレルの5つのサンプルをラトリッジの自宅に持ち込んで評価してもらいました。しかしラトリッジの評価は芳しくなく、彼の回想によると「それらを試飲してみて、『これらを絶対にボトルに入れないようどう伝えるか』考えました。私はブレンドする必要があるかも知れないと言った」そうです。ブレンドはバレルの無限の組み合わせを試飲する大変な作業でしたが、ディクソンは夜になって宿を閉めた後、レストランの奥でテーブルに何十ものバレルのサンプルを並べ、熟成年数やアルコール度数、倉庫のどこに置かれていたかにも細心の注意を払いながら試行錯誤を繰り返しました。おそらくこの作業にはカーター夫妻も関与していたと思われます。そして何処かの段階で3人のパートナーズは、ウィスキーを二度目のバレルに注ぐダブル・バレル方式が有益だと考えました。「私たちはワイン造りのプロセスを取り入れました。この製品にもう少しオークを加えたかったのです」とシェリィ・カーターは語っています。これはバッチの一部に使用する原酒をニュー・チャード・オーク・バレル(もしくは前に別の蒸溜所のバーボンが入っていたユーズド・バレル)に再度入れるというものでした。この方法によって元のウィスキーは完全に変化したと考えられ、原酒の大部分が例えばヘヴンヒルやバートンもしくはブラウン=フォーマンで造られていたとしても、ボトリングされる頃にはかなり味わいは異なるものになっていたと思われます。ディクソン達が最終的にケンタッキー・アウルとなるバーボンの原酒を考え出すまでに数年を要しました。彼らは皆、ケンタッキー・アウルに頼らずとも人生で成功していたので、標準以下の製品でも売り出さなければならないプレッシャーはなく、製品が完成していないと思えば待つことが出来たのです。ディクソン・デドマンが一族の遺産を復活させることを決意してから約6年、チャールズ・モーティマー・デドマンが生産していたウィスキーを彷彿とさせながらも現代の消費者に十分アピールするモダンな風味を造り上げるための研究と実験を経て、漸くその名に相応しいスモールバッチのブレンドは完成しました。ボトリングとラベリングを担当したのは、パートナーシップを結んでいるストロング・スピリッツでしょう。
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(初期のケンタッキー・アウルのラベル)
2014年9月、ケンタッキー・アウル・バーボンのバッチ1はリリースされました。チャー#5とチャー#6のバレルに風味の多くを頼った5樽から、水を加えず、118.4プルーフで1250本のボトリング。ディクソンは家族と一緒にその最初の1本を先祖が埋葬されている墓地に持って行き、C・M・デドマンと失われたラベルを取り戻そうとしたその後の世代に乾杯したそうです。ケンタッキー州でのみ発売され、価格は1本160〜175ドルほどでした。マーク・カーターによれば「我々はこの製品は少し敬意を払うに値すると感じたので、プレミアム価格と思われるものを付けました。 ダブルオーキングをすることで、よりコストが掛かりましたしね」とのこと。 また「カット(※希釈。ボトリング前に最終製品に水を加える工程)すればもっと儲かるだろうと人々は言っていましたが、私達はそうしたことに全く興味がありませんでした。私たちはただ質の高い製品を造りたかった」とも語っています。当時、小売価格で150ドルを超えるバーボンは殆どありませんでした。いや、50ドルを超えるものすら少数でした。しかし、ケンタッキー・アウルがルイヴィル周辺の酒屋の棚に並び始めて僅か10日、または数週間でボトルはほぼ完売しました。誰もレヴューしないうちに、いつの間にかケンタッキー・アウルのボトルを買い求める人々が集まっていたと言います。セカンダリー・マーケットでは、フリッパーズ(転売ヤー)は店頭で買った値段の数倍もの値段を要求しました。ケンタッキー・アウルを後押しした要因は幾つかありました。先ず物語と伝統がありましたし、小売業者による初期の宣伝も功を奏したし、ウィスキーの調達先に関する謎も関心を高めたでしょう。そうした噂話やソーシャル・メディアのお陰でその名前は瞬く間に広まりました。ワイズマンズ・バーボンというキャッチーなフレーズとラベル・デザインも頗る魅力的で、個人的には人を惹き付けた要素だと思います。そして取り分け、適切な時期に適切な場所に居たことは大きな一因でした。ケンタッキー・アウルがデビューしたのは、バーボンの売上が50%以上急増したと言わる2012〜2017年の最中であり、経済の高揚で潤沢な資金をもつウィスキー愛好家が次の注目されるバーボンを手に入れるために追加料金を支払うことを厭わなかったタイミングでした。このウィスキーには何処か神秘性があり、品格があり、説明し難いクールな要素があり、「次のパピー・ヴァン・ウィンクル」と見做されれていた節もあります。ケンタッキー・アウル・バーボンは『ガーデン&ガン』誌のメイド・イン・ザ・サウス賞のドリンク部門に選出され、2014年12月/2015年1月号に掲載されました。このアワードは、現在の当該地域で作られている最高の製品を表彰するもので、各部門の優勝者と次点者はG&Gの編集者とゲスト審査員によって選出されます。アメリカのウィスキー市場が活況を呈し、次々と新しいバーボンが登場する中にあってケンタッキー・アウルは何かが違いました。但し、ディクソンは商業的に成功するウィスキーを造ることは決して計画していなかったと言っています。もともと彼はバーボンのコレクターであり、ボーモント・インで定期的にテイスティング会を開いて味の特徴や歴史について話すのが好きな愛好家ではありましたが、バーボンを副業として楽しめると思って始めただけで販売計画もマーケティング戦略もなかった、と。

2015年にバッチ2が発売された頃には、このブランドは既にバーボン愛好家の間で人気を博していました。バッチ2は、4年目にニュー・チャード・オーク・バレル(チャー#4と#5の両方)に詰め替えた約9年熟成の6つの異なる樽から出来ていて、最終的に117.2のバレル・プルーフでボトリングされ、バッチ1より若干多い1380本が生産されました。ディクソンとカーター夫妻は、ワインがヴィンテージ毎に異なるフレイヴァー・プロファイルがあるのと同じように、各バッチの味がユニークであることを望みました。シェリィ・カーターは「各バッチの出来栄えにとても満足しています。皆さんそれぞれにお気に入りのバッチがあるようです」と言っています。ディクソンも「バッチ毎に殆ど新しいスタートを切っています。それが私にとっては楽し」く、「毎年異なるヴィンテージが重要になるでしょう。 我々が造るどのバッチもユニークな品質が備わります」と言っています。アメリカン・ウィスキーの需要が爆発的に高まった時期にも拘らず、その後のロットも同様に限定されたものでした。ケンタッキー・アウルはバーボン界で最も人気のある新ブランドの一つへと急速に成長し、入手困難なスニーカーと同じようにほぼ全てのボトルが2倍、3倍、4倍の価格で転売されており、カルト的な人気を獲得しています。その影響からかそもそも小売価格も相当な値段で、ディクソンとビジネス・パートナーら3人は当然それが美味しく価値のあるものだと思っていましたが、小売業者はそれ以上の何かを見出し値付けしました。ディクソンは「蒸溜所も倉庫も持たずに小規模で何かをするには、かなりのお金が掛かります。それが価格がこのような値になっている理由の一部です。しかし、小売業者がそれに上乗せする金額は…かなりの額になります」と言い、小売店がどうするかは彼の手に負えないと語っていました。ちなみに、オールド・アウル・タヴァーンでは比較的安価で飲めるらしいです。余りに高額なウィスキーは、その価格故に厳しい目に晒されるでしょう。実際、価格を考慮してスコアを付けるレヴュワーの中にはケンタッキー・アウルを低評価にする人はいます。美味しいは美味しいのだが価格に見合うとは思えない、という訳です。あのバーボンの歴史家マイケル・ヴィーチですら、業界の試飲会でディクソンに会った時、「君のバーボンは好きですが、値段が気に入らない」と言いました。ディクソンは「少なくともウィスキーを気に入ってくれて嬉しい」と答えたとか。

2016年のサンクスギヴィング・デイの前、ディクソンはロシア人実業家ユーリ・シェフラーのオフィスから電話を受けます。ストリチナヤ・ウォッカで知られる世界的な飲料会社SPIグループからのケンタッキー・アウル・ブランドの買収話でした。シェフラーはポートフォリオを改善するためのホットなアイテムを探しており、ケンタッキー・アウルに興味を持ったのです。ディクソンはパートナーのカーター家に電話を掛け、真剣な買い手が接触して来たことを知らせました。カーター夫妻は当初、ブランドのシェアを売却することにまったく乗り気ではなかったと言います。しかし、最終的に取引は成立し、2017年1月に7桁台後半と噂される非公開の金額でこのブランドを売却しました。カーター夫妻は事業を去り、新しいプロジェクトのためにウィスキーのバレルを探し始めました。彼らの計画はケンタッキー・アウルをヒットさせた主要な要素の殆どを繰り返すことでした。どうやらカーター夫妻は小規模な生産に留まることを好むようで、シェリィ・カーターによれば、「私たちは何かを大量生産することに興味を持ったことはありません。量より質に誠実さがあると信じています」とのこと。そうして後にオールド・カーターというブランドを成功させる訳ですが、これは別のお話です。一方のディクソンは契約の一環でアンバサダー兼ブレンダーとして残りました。2017年1月25日、SPIグループの子会社ストーリ・グループUSAがケンタッキー・アウル・ブランドの流通、販売、マーケティング及び世界展開を引き継ぐと発表されました。SPIグループのドミトリー・エフィモフCEOは「アメリカン・ウィスキーを検討し始めた時、その複雑でありながら非常に滑らかな味わいからケンタッキー・アウルに惹かれました」、「オウナーと同席し、話を聞くうちに、私達はこのブランドの再生に熱意を持ち、SPIのウィスキー・ラインの頼みの綱のバーボンになるだろうという結論に達しました」と語っています。ストーリ・グループUSAのパトリック・ピアナ社長は「ケンタッキー・アウルは当社のプレミアムとラグジュアリーなブランドのポートフォリオにとって素晴らしい次のステップです。バーボンは最近目覚しい成長を遂げており、特にスーパー・プレミアムのサブカテゴリーに大きなチャンスがあると見ています」、「私はディクソン・デッドマンと共に、彼の家族が北米のブラウンスピリッツ消費者向けにカルト・バーボン・ブランドとして築き上げた信頼ある製品を加速させることを楽しみにしています」と発言しました。同社がこのウィスキーに力を入れるのに時間は掛かりませんでした。少量生産のスーパー・プレミアム・バーボンであるこのブランドはストーリ・グループUSAによってアメリカの主要都市にも進出して行くことになります。
2017年8月から9月に掛けてリリースされたケンタッキー・アウル・バーボンのバッチ#7は、販売地域が単一州からカリフォルニア、イリノイ、フロリダ、ケンタッキー、テキサス、ニューヨーク、テネシーの7州に拡大されました。バッチ#7は、13年以上熟成の11樽と、2年目にダブル・バレルドされた8~9年熟成の4樽から、118プルーフのボトリングで計2535本の生産とされています。ディクソンは「どのバッチもそうですが、私は特定のテイスト・プロファイルを念頭に置いて始めません。代わりに、そのフレイヴァーをフォローして、前のバッチよりもフロントにより甘みがあり、フィニッシュはより複雑でスパイシーな組み合わせに辿り着きました」と語りました。希望小売価格は200ドルだったようです。同じ頃、ケンタッキー・アウルに新しくライ・ウィスキーも発売されました。
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ディクソンはどうやら大量のライ・ウィスキーを手に入れるチャンスに恵まれたらしい(ライはその後の数年間で計4つのバッチが造られた)。バーボンのリリースとは異なり、ケンタッキー・アウル・ライに使用されたバレル数やボトル本数は明らかにされていませんが、このリリースには7000本以上のボトルがあると噂されていたり、一説には最初のバッチは45000本ほど造られたとされます。これはカリフォルニア、コロラド、コロンビア特別区、フロリダ、ジョージア、イリノイ、インディアナ、ケンタッキー、ルイジアナ、メリーランド、マサチューセッツ、ミシガン、ミネソタ、ミズーリ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、ニューヨーク、ノース・キャロライナ、オハイオ、ペンシルヴェニア、サウス・キャロライナ、テネシー、テキサス、ヴァージニア、ワシントン、ウィスコンシンを含む国の半分の州でリリースされました。そして、ケンタッキー・アウル・ライはバレルプルーフでのボトリングではなく、加水調整されています。バッチ1のバッチ・プルーフは130くらいで、その後、ディクソンは自分好みのスウィート・スポットになるまでプルーフを下げて行き、最終的に110.6プルーフとなったそうです。ケンタッキー・アウル・ライの総ボトル本数が多いのは、バレル・プルーフでボトリングされていないことも一つの要因かも知れません。調達したライ・ウィスキーが何処産のものかも公開されていませんが、おそらくその出所はバートンだろうと多くの人に推測されています。10年を超すなかなか長熟なライ・ウィスキーというのは市場にそうそう出回っていません。だから、熟成年数だけから2017年の段階で11年物もしくはそれ以上の長熟ケンタッキー・ストレート・ライ・ウィスキーの在庫がありそうな蒸溜所を絞り込むことが出来る訳です。ユタ州のハイ・ウェスト蒸溜所は、長熟のバートン・ライを遠回りして手に入れ、ダブル・ライ!やランデヴー・ライ等に在庫がなくなるまでの間、使用していました。バートン蒸溜所は、2009年にサゼラックに買収される以前は柔軟なカスタム蒸溜をしていたそうです。そうした中で或る顧客にオーダーされ造ったのか、それとも気紛れもしくは実験的に蒸溜したものか、或いは古典的なレシピなのかは判りませんが、兎も角バートンには三つのライ・マッシュビルがあることが知られています。一つはケンタッキー・スタイルに準じた53/37/10です。もう一つは80/10/10で、これはブレンデッドに使用するフレイヴァー・ウィスキーとして造られたと思われます。残りの一つがコーンを含まない高モルトの65/35で、これはカーネルEHテイラー・ストレート・ライに使われていると根強く信じる人達がおり、或るウィスキー・レヴュワーはケンタッキー・アウル・ライのバッチ1を飲んだ後にEHテイラー・ライを試飲したら驚くほど似ていたと言っていました。当時バートンから調達可能だったのは53/37/10と65/35の2種類のライ・ウィスキーと見られるので、強ちなくはない感想かも知れません。但し、ディクソンは全てのライ・ウィスキーが一つの生産者のものではないことを仄めかしています。おそらく使われたバレルの大半はバートン蒸溜所からだと予想されますが、単一の蒸溜所からではないのなら、この時期に11年物(もっと古い原酒がブレンドされているという噂もある)のライを製造していた蒸溜所という観点から候補を絞ると、2000年代初頭にヘヴンヒルのライ・ウィスキーを何年も代行で蒸溜していたり、2004年頃からのミクターズ・ライ10年の供給元と見られるブラウン=フォーマン(旧アーリー・タイムズ・プラント)、2016年に発売されたブッカーズ・ライ13年やノブクリーク・ライの熟成されたストックを持っていた可能性のあるジム・ビーム蒸溜所、サゼラック18年用のライ・ウィスキーが余っていたのならバッファロー・トレース蒸溜所、2019年リリースのコーナーストーンは9年から最大11年の熟成期間とされているので、それに使用されなかった長熟ライが存在するならワイルド・ターキー蒸溜所、と言ったあたりでしょうか。また、そもそもディクソンは或るインタヴューで、調達したウィスキーを他の蒸溜所のバレルでフィニッシングを行うアイディアを説明しているそうですし、ケンタッキー・アウル・バーボンと同じようにニュー・チャード・オーク・バレルでフィニッシングさているのかも知れず、そうなると元のソーシング・ウィスキーの味わいはかなり変化していると見なければなりません。まあ、中身の詳細は藪の中なので措くとして、ケンタッキー・アウル・ライのバッチ1はライ・ウィスキー・ファンの間で最も高く評価され、熱狂的なファンもおり、それを示すような二次価格が付いています。
ケンタッキー・アウル・バーボンのリリース以上にその名を有名にしたのはライでした。ライの発売後、ケンタッキー・アウルは良い意味でも悪い意味でも爆発的に売れたと言います。悪い意味の方は転売ヤーに買い占められた、または愛好家がストックのために買い溜めしたという意味でしょう。ケンタッキー・アウルというブランドに対するウィスキー愛好家の評価は二つの陣営、つまり熱烈に賞賛する陣営と価格に嫌悪感を抱く陣営に分かれますが、嫌悪感陣営がケンタッキー・アウル全体を貶したとしても、称賛陣営からは「あぁ、でもライの最初のバッチは…」云々と言われることが少なくないとか。このようにバッチ1は今や伝説的な地位を獲得していますが、2017年に初めて発売された当時の120ドルは、多くの消費者にとって購入を見送るのに十分に高い価格でした。ところが2018年のバッチ2はボトル1本あたり80ドル高い約200ドルへと値上げされました。熟成年数はそのままでしたが、プルーフは101を僅かに上回る程度まで下げられたにも拘らずです。なぜこれほど大幅な値上げになったのかと愛好家達は困惑しました。そのせいか、バッチ2はケンタッキー・アウル・ライの全リリースの中で最悪の売れ行きとなったらしい。大幅な値上げはまた、まだ安いバッチ1を急いで買いに走らせる要因ともなりました。ぽつりぽつりと現れたレヴューでは、バッチ2よりバッチ1の方が優れていると指摘されました。2019年のバッチ3では、プルーフは上がりましたが(114プルーフ)、どういう訳か熟成年数が1年減って10年熟成となりました。価格は200ドルのままです。ディクソンの語る製法上、夫々のバッチは味わいが異なる筈なので、熟成年数の記載が変わったと言うことは主成分となる原酒が全く異なる蒸溜所のものになっていたり、或いは少なくともその割合には大きな変化があった可能性はあるのかも知れません。繰り返しますがケンタッキー・アウルは秘密のヴェールで覆われているので真相は想像するしかないです。中身のライ・ウィスキーが美味しくなかった訳ではありませんが、バッチ3が登場する頃には、あまりに高過ぎる価格と原酒に関する謎がこのブランドに対する不信感を生んでいます。そして、ケンタッキー・アウル・ライは2020年のバッチ4をもって終了することになりました。チューブに入れられ、その値段はなんと300ドルに値上げられました。廃止の理由は明らかにされていませんが、主成分となっていたバレルが尽きた、または仕入れ先がなくなったとかバレルが高過ぎて仕入れられなくなった、或いはディストリビューターが製品を販売する能力が急低下していることに気づいた等の幾つかの推測があります。

ストーリ・グループは、2017年1月にウィスキー事業参入の基盤としてケンタッキー・アウル・ブランドの権利を購入した後、11月になるとバーボンの首都であるケンタッキー州バーズタウンに1億5000万ドルを投じて新しい蒸溜所を建設する計画を正式に発表し(9月には既にプロジェクトが始動していることが報じられていた)、起工式を行いました。これは長期的には420エーカーの土地に、蒸溜所、ヴィジター・センター、クーパレッジ、リックハウス、ボトリング・センター、コンベンション・センター、釣りやレクリエーションのための淡水湖、レストラン、ホテル、年代物の旅客列車と鉄道駅などで構成される、まるでディズニーランドのようなケンタッキー・アウル・パークと呼ばれる複合施設をバーボン・トレイル最高の目的地として確立する壮大な計画でした。ここはジョン・ローワン・ブールヴァード沿いにあり、もともと石灰岩の採石場だった場所で、すぐ近隣にラックス・ロウ蒸溜所があります。
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一年後の2018年11月には、プリツカー賞を受賞した世界的に有名な建築家の坂茂率いるシゲル・バン・アーキテクツ(坂茂建築設計)に主要建物の設計を依頼して最先端のケンタッキー・アウル・パークを建設することを発表し、3Dレンダリングを公開しました。光を取り込んだピラミッド型の蒸溜所、石灰岩で濾過された澄んだ水を湛える湖、自然との繋がりを感じさせる敷地全体のデザインは息を呑むほど美しく、バーズタウンはおろか世界でも類を見ないものでした。
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2017年の発表の時は、蒸溜所を含むプロジェクトの第一段は2020年のオープンを目標に来年早々にも建設が開始、とされていました。2018年の発表の時は、この巨大プロジェクトは2020年に着工予定で完成までには数年を要する、とされていました。 ところが、聞くところによると、この計画は土地取得に関する障害にぶつかったとか、コストが大幅に上昇したとかで、物静かな状態が続き、人々はこの蒸溜所が本当に建設されるのか訝るようになりました。2021年の情報では、全体的な建設は来年開始される予定で、2022年にボトリング設備とバレル倉庫、蒸留所の建設は2024年に始まり2025年に完成予定、ホテル/コンサート・ホール/鉄道駅などは2026年以降になり完成は未定とされていました。2022年9月の情報では、来月から建設を開始し、2023年4月までにオープンする仮設ヴィジター・センターの建設を計画しており、訪問者はこの複合施設がゼロから建設されて行く様子を見ることが出来る、また複合施設の蒸溜所は約2年半以内に稼働を開始する予定とされていました。2023年の情報では、2025年後半に蒸溜所部分が完成する予定で、2029年に自社のスピリッツをブレンドの一部にすることを目標にしている、とありました。…と、まあ、このようにバーボンのディズニーランドであるケンタッキー・アウル・パークの建設は遅れています。いつ撮られたものか判りませんが、現時点でグーグル・マップの航空写真を見ても建造物は何も出来ていませんでした。完成は当分先になりそうなので、我々としては楽しみにしながら待つしかないでしょう。

蒸溜所の建設が進まない一方で、ストーリはケンタッキー・アウル・ブランドを更に拡大するため、2019年4月にケンタッキー・アウル・コンフィスケイテッドを発売しました。名前となった「Confiscated」は日本語では「没収」や「押収」を意味する言葉で、初期のデドマン家の「バーボン・ビジネスへの道を当分の間終わらせることになった」政府からの押収を指し、C・M・デドマンの遺産である二度と見ることも味わうことも出来なかったバレルに敬意を表して名付けられています。これまでのケンタッキー・アウルと違い、このバーボンはアメリカ全50州で販売できるほど大規模なリリースでした。96.4プルーフでボトリングされ、希望小売価格は750mLボトルで125ドルでした。
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ストーリのもとで4年間ブランドを率いてきたディクソン・デドマンは2021年にマスター・ブレンダー兼ブランド・アンバサダーの職を辞しました。自らの家族のブランドを離れることは、彼の人生で最も辛い決断でした。それでもそうしたのは概ね以下のような理由からでした。ディクソンとカーター夫妻によるケンタッキー・アウル復活が成功を収めた時、その事業に大手グローバル企業から参入の申し出がありました。しかし、ディクソンらは大企業の自慢の種になりたくはありませんでした。ブランド売却当時のストーリはまだ比較的小さな会社で、彼らは「あなたのヴィジョン、あなたの夢を活用してケンタッキー・アウルを成長させたい」と言いました。カーター夫妻は別の道を行きましたが、ディクソンはその提案を受け入れ、夢は実現しました。しかしその後、組織の性質全体が変わってしまいました。ストーリはグローバルな組織となり、ブランドを牽引するディクソンの能力を奪うようになりました。彼は自分の進む方向に誇りを持たなければならないと思い、ブランドを放棄するに至った、と。
ストーリを退社するとディクソンはすぐに、バーボンとウィスキーに重点を置きながらアルコール飲料業界に特化したアドヴァイザリー・サーヴィス(ワインとスピリッツ業界への合併、買収、戦略的思考に関する助言)も提供するバルク・スピリッツの大手サプライヤーであるブリンディアモ・グループにコンサルティング・リソースとして雇われました。アメリカン・ウィスキーの成長を支える原動力の一つである同社のクライアントには、エンジェルズ・エンヴィの共同創業者ウェス・ヘンダーソンやバーズタウン・バーボン・カンパニーの社長兼CEOマーク・アーウィンなど大物がいます。ディクソンもクライアントの一人として過去数年間、ブリンディアモの創業者ジェフ・ホプメイヤーやそのチームと関係を築いて来たので自然な流れでそうなったのでしょう。嘗てジェフはケンタッキー・アウルを「このウィスキーは、世界クラスの高級ブランドに仲間入りしてその地位を維持する可能性を秘めている。そういう名声がある」と評価し、彼の助言のもとストーリはケンタッキー・アウルを買収して物流の改善に投資することが出来ました。ディクソンのブリンディアモ参入の際に、ジェフは「ウィスキー業界が進化し続けていることを目の当たりにし、業界のニーズにより的確に応えるために今こそ彼を迎え入れるべき時だと判断しました」と語っています。 

ディクソンは業界でコンサルタントをしながらも、彼は別のウィスキー・ブランドを作ることに興味を持ち続けていました。そのチャンスは思いのほか早く、突然、訪れます。彼はブリンディアモ・グループで短期間働き、ブランド及び投資のコンサルティングの内情を垣間見ることが出来ました。オープン・マーケットを渡り歩くうちに、彼は主に利益を得る手段としてバーボンに興味を持つ熱心な投資家も見ました。現今のバーボン界隈には大量の資金が流入しており、ディクソンは多くの人からアプローチを受けます。個人投資家は白紙の小切手と投資の即時回収を条件に彼のもとにやって来ましたが、そうした提案は自分の仕事には上手く合致しない不誠実なものであると感じ、最適な機会が訪れるまで辛抱強く待つ必要があると思いました。ヴィジョンの違いからケンタッキー・アウルを離れたディクソンは、次の事業では地に足を付けた仕事をしようと決意し、新しいブランドと提携することを急いではいなかったのです。しかし、ディクソン・デドマンは常に適切な時に適切な場所にいる男でした。彼はフリーランスとしてブレンディングやコンサルティングを行うことを期待していましたが、程なくしてワインやスピリッツのインポーターであるプレスティッジ・ビヴァレッジ・グループから大量のバレルの備蓄をどうしたらいいかアドヴァイスを求められます。同社は、ケンタッキー州の2つの蒸溜所で契約蒸溜を行い、2015年から何年もの間寝かせた独自のマッシュビルのバーボンを数千バレル所有しており、加えて他のケンタッキー・ストレート・ウィスキーにもアクセス出来ました。彼らは自分たちが大きな間違いを犯したかどうかを知りたがっていました。その6年近く熟成したウィスキーを味わった瞬間、ディクソンはパートナーを見つけたと確信しました。彼は飲む前は4~5年熟成の基本的なものだと思っていましたが、実際に飲んでみるとそれは素晴らしいものでした。ディクソンはそのことを伝え、自分のアイディアを話しました。ディクソンには在庫が必要で、彼らと組めば市場に出回っている樽を追いかける必要もなく管理する必要もありません。プレスティッジ・ビヴァレッジにはコンセプトが必要でした。彼らはディクソンを信頼し、最初のミーティングから1時間以内にマスター・ブレンダーと彼らにとって初めてのアメリカン・ウィスキー・ブランドを手に入れることになります。ディクソンのケンタッキー・アウルに続く次のアイディアは「2XO」というブランドでした。この名前は「two times oak」を意味し、リリースされる全てのウィスキーを何らかの二次的なオーク材に晒す製法で造られています。2XOブランドは2022年の暮れに初めて発売され、現在ではオーク・シリーズ、アイコン・シリーズ、シングルバレルのシリーズで構成されています。毎日飲む用途として開発されたオーク・シリーズは、アメリカン・オークとフレンチ・オークがあり、常時販売され、約50ドル。全てのリリースが独自のフレイヴァー・プロファイルをもつと言う1回限りの限定品であるアイコン・シリーズには、発売順に言うとザ・フェニックス・ブレンド、ザ・インキーパーズ・ブレンド、ザ・トリビュート・ブレンド、ザ・カイワ・ブレンド、ザ・スニーカーヘッド・ブレンドがあり、価格は凡そ100ドル。手元にある最高のバレルから造られるシングルバレルのジェム・オブ・ケンタッキーは大体200ドル程度です。
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(S・D・デドマンと2XOのラインナップ。2XOのウェブサイトより)
2XOに使用されているバーボンは、ケンタッキー州にある二つの別々の蒸溜所から供給されており、一つはライ麦35%のマッシュビルで、もう一つがライ麦18%のマッシュビルとのこと。供給元は非公開ですが、おそらく35%の方はウィルダネス・トレイル蒸溜所、18%の方はバートン蒸溜所かバーズタウン・バーボン・カンパニーではないかと推測されたりしています。それと、聞くところによるとオーク・シリーズのアメリカン・オークでの「トゥー・タイムズ・オーク」のプロセスは、バーボンを2つめのバレルに入れ換えるのではなく、8〜10フィートのオークの鎖(ステンレス製のコードで何百もの焦がしたオークのブロックを纏めたもの)を元のバレルにバングホールから挿入して8ヶ月間放置されているそうです。これらの木製ブロックの表面積は、樽の内部と全く同じ表面積を再現するようになっているとか、或いは約75%に相当するようになっているとされます。なんだかメーカーズマークの46等に使われるインナー・ステイヴを漬け込む手法と似ていますが、鎖状にすることで表面積が増えてオークの影響も強く出るのでしょうか? ちょっと興味深いですね。まあ、それは兎も角…、ディクソンは若くスマートで、何よりブレンドの才能がありました。ウィスキーのイヴェント等を訪れると、ファンは彼を業界のスターとして扱い、サインや写真を頼むと言います。2XOがあっという間に躍進したのはディクソン・デドマンの名前があったからに違いないでしょう。

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一方のディクソンが去った後のストーリ・グループは、2021年6月にジョン・レア(*)をケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーに迎えたことを発表しました。レアは40年に渡る輝かしいキャリアを経た2016年にフォア・ローゼス蒸溜所のチーフ・オペレーティング・オフィサーを退任していました。彼は大学を卒業したあと僅か3日で同蒸溜所でのキャリアをスタートすると、長い在職期間中に品質管理、熟成、評価、製品のブレンドなどを担当し、定年退職するまでその職を離れることはありませんでした。業界への貢献により2016年にはケンタッキーバーボンの殿堂入りを果たしています。また、17年間、ケンタッキー・ディスティラーズ・アソシエーションの理事を務め、130年以上の歴史の中で5人しかいない終身会員の1人として栄誉に輝きました。「私が引退から復帰するきっかけとなったのは、ケンタッキー・アウルのバーボンとライの世話役を務める機会を得たからでした」とレアは語り、「私は長い間ケンタッキー・オウルの製品ラインナップには感心していたので、このような機会を得れて嬉しく思っています」とコメントしています。彼の役割は、その豊富な知識と専門技能を駆使して製品の一貫性と卓越性のために最良の条件を選択し、また同様に製品ラインナップを拡大する新しいブレンドを導入することでした。従来からのケンタッキー・アウル・バーボンの続きとなるバッチ#11もリリースしつつ、製品拡張の一環として、品質を求めながらも200ドルも払えないZ世代やミレニアル世代を取り込むため、ストーリはやや廉価な「ザ・ワイズマン」というブランドを立ち上げます。マスター・ブレンダーのジョン・レア監修のもと、2021年9月にバーボン、続いて2022年4月にライがリリースされました。ケンタッキー・アウルのウィスキーはコンフィスケイテッドを除いて全て限定リリースでしたが、それらのプレミアムでより高価な製品と区別するための新しいデザインのラベルが施されています。ザ・ワイズマン・バーボンは、4年熟成のウィーテッド・バーボンとハイ・ライ・バーボン、そしてケンタッキー産の5.5年熟成と8.5年熟成の4つの異なるストレート・バーボンのブレンドで、若い要素はバーズタウン・バーボン・カンパニーと提携して契約蒸溜されたものと言われています。ザ・ワイズマン・ライは、バーズタウン・バーボン・カンパニーで蒸溜されたライ95%のマッシュビルです。
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更にストーリは世界中の様々なウィスキー愛好家を引き付けることを目的とし、世界各地のブレンダーとコラボレーションするシリーズも始めました。その第一弾として、2022年のセント・パトリックス・デイ(3/17)に合わせて2022年2月に発売されたのがセント・パトリックス・エディションです。これはケンタッキー・アウルのレアと、アイルランド初の近代ウィスキー・ボンダー(**)であり、J.J.コーリー・アイリッシュ・ウィスキーの創設者であるルイーズ・マグアンによるコラボレーション。アイリッシュ・ウィスキーのボンディングは、19世紀から20世紀に掛けて一般的だったブレンド方法であり、当時は殆どのアイルランドの蒸溜所がウィスキーを製造し、ボンダーが熟成、ブレンド、瓶詰めしていました。1930年代にアイリッシュ・ウィスキー業界が崩壊すると、ボンディングは衰退しましたが、2015年にマグアンが再びこの伝統を復活させました。このウィスキーはブラインド・テイスティングによって選ばれた個々のカスク・サンプルから二人が共同でブレンドしたもので、最終的に4〜11年熟成のブレンドに落ち着きました。そこにはマグアンがターゲット・プロファイルのために赤い果実の香りに焦点を当て、多くのウィーテッド・バーボンが含まれていたと言われています。
2022年9月には、日本の長濱蒸溜所のブレンダー屋久佑輔とコラボした第二弾のタクミ・エディションが発売されました。これは新旧ブレンダーの技倆を融合させると同時にジャパニーズ・ウィスキーの目を通してケンタッキー・バーボンを紹介する試みでした。我々日本人には馴染み深い「Takumi(匠/工/巧み)」は、英語では「master」もしくは「artisan」の意味だと説明されています。レアは熟成年数とマッシュビルの異なる4種類の配合を作ってサンプルを日本に送り、屋久はそれらを品質査定したあと彼のジャパニーズ・ウィスキー・スタイルをベースに更にブレンドしました。パーセンテージは公表されていませんが、ブレンドされているウィスキーは4年、5年、6年、13年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンとされ、マッシュビルにはコーン、ライまたはウィート、モルテッドバーリーが含まれていると言われています。タクミ・エディションは25000本のリリースで、セント・パトリックス・エディションの12000本の倍以上がボトリングされたそう。
国際コラボレーションの3番目(にして最後)は2023年9月にリリースされたメイスター・エディションでした。「Maighstir」はゲール語で、英語の「master」に相当します。メイスター・エディションの目標は、様々なバーボンをブレンドすることで、スコッチのスピリット、エッセンス、そして可能であればフレイヴァーを表現することでした。コラボの相手はスコッチ界のモーリーン・ロビンソン。彼女は、スピリッツの巨大企業ディアジオに45年間勤務したヴェテランで、マスター・ブレンダーの称号を獲得した最初の女性の一人です。ジョニーウォーカー、オールドパー、ブキャナンズ等で仕事をし、ファンに人気のフローラ&ファウナのボトルやプリマ&ウルティマなどのスペシャル・リリースを手掛けた人物であり、そのキャリアの後期に手掛けたシングルモルトのシングルトン・ブランドを大いに発展させました。またロビンソンは、ウィスキー・マガジンの殿堂入りを果たしており、数少ないマスター・オブ・ザ・クエイヒ(***)にも任命されています。これらはスコッチ・ウィスキーの世界に多大な貢献をした人々を称える業界最高の大きな名誉です。レアとロビンソンは協力して、コーン、ウィート、ライ、モルテッドバーリーを含むマッシュビルのケンタッキー・ストレート・バーボンをブレンドし、スコットランド風(とされる)エディションを造り上げました。
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このコラボレーションは一つの章の終わりと次の章の始まりを意味していました。ケンタッキー・アウルで過去2年間マスター・ブレンダーを努めて来たレアが退職し、代わりにモーリーン・ロビンソンが同職に就くことになったのです。ロビンソンは2022年6月末にディアジオでのシングルモルトとブレンデッドのマスター・ブレンダーを引退し、好きなゴルフでもしてのんびりしようと思っていました。しかし、彼女のもとに仕事が舞い込みます。ケンタッキー・アウルは上述のようにこれまでに2度、他国のマスター・ブレンダーにその国のスタイルの「バーボン」を作るよう依頼していました。ストーリは2022年後半にロビンソンに連絡を取り、ブレンデッド・スコッチに関する彼女の専門知識を反映させた表現を創り出そうと考えました。ケンタッキー・アウルから最初に連絡を受けたのは、キーパーズ・オブ・クエイヒを通じてでした。その仕事がスコッチを彷彿とさせながらもバーボンの資質を失わないウィスキーの作成を手伝うことだと知って、ロビンソンはすぐに興味を唆られこれは面白いプロジェクトになると思いました。「以前にもスコッチをバーボンのような味にするよう頼まれたことはありますが、今回はその逆でした。バーボンをスコッチのような味にしようとしているんです」。結局、彼女はテイスティング・グラスから一歩も離れることは出来ませんでした。ロビンソンがこのプロジェクトを引き受けると伝えた後、ジョン・レアを紹介されました。彼はバーボン業界で最も経験豊かな人物の一人でしたが、スコッチの経験も少々ありました。二人はズームで何度も話し合い、メイスター・エディションのヴィジョンを磨き上げました。レアは作業に取り掛かると、スコッチのような味わいのバーボンを作るという珍しい目標に最も役立つと思われるサンプルを選び、ロビンソンのもとへ送りました。彼女はキッチンに座ってそれぞれの香りや味をカスク・ストレングスで試し、ブレンドを作るための基礎と枠組みを整えました。ブレンドの成分はスタンダードなストレート・バーボン3種類とウィーテッド・バーボン1種類の4つから構成されています。3種類のうちの1つは8~9年、2つめは5~6年、3つめは9~10年熟成され、ウィーテッド・バーボンが4~5年熟成。若いバーボンはライト・チャー、古いものはヘヴィ・チャーが施されたバレルから造られているとのこと。ロビンソンは、特にウィーテッド・バーボンのサンプルと、それがもたらすスコッチのような柑橘系の香りに感銘を受けました。「私にとって、これがスコッチを彷彿とさせるものでした」。そこで、彼女はウィーテッド・バーボンをベースとすることを決め、それからスコッチのブレンドの原則を適用して幾つかのブレンドを試しました。構成成分の中で最も古いものだった9~10年熟成のウィスキーはオークの香りが強く、彼女が考える典型的なバーボンの特徴に最も近いものでした。そこで、ロビンソンは9~10年物の比率を下げ、他の「スコッチらしい」要素の影響を強める必要があると考えてそれを試していました。ところが実際はまったく逆だったと彼女は言います。「ウィスキーの味が詰まってしまい、風味が殆どなくなってしまいました」。彼女はスコッチ・ウィスキーをブレンドする際にも似たような経験をしていました。常識的に考えれば、ピートのスモークはブレンドの味を支配してしまうので、多すぎるのは避けるべきでありそうです。しかし実際には、ピーテッド・スピリッツは他の要素の風味と香りを結び付ける一種の「調味料」として活用でき、ブレンデッド・スコッチも「スモーキーさがないと全く味気ないものにな」ってしまう、と。9〜10年物のオークの古めかしい風味もそれと同じような要素として現れたのでした。暫く試行錯誤を繰り返し、満足のいく出来になった後、彼女はレシピをレアに送り、彼が自分の側で再現できるようにしました。こうして、メイスター・エディションは誕生しました。ロビンソンは、このエディションを「柑橘系の香りとフローラルなグリーンの香り、そしてほんのりとした甘さとオークの風味が軽めのスタイルのスコッチを彷彿とさせますが、それでもバーボンの素質はすべて保たれています」と語り、「香りはスコッチから始まって、その後バーボンに変わります。味はバーボンのような味からスコッチのような味に変わります」と評しました。とは言え、このウイスキーからスコッチ、特にブレンデッド・スコッチの香りを嗅ぐには、想像力を働かせる以上のことが必要だともロビンソンは言っていますし、況してやこれはアイラ・ウィスキーを再現しようとするバーボンではありませんから、そういう意味でのスモーキーな香りは期待しない方がいいでしょう。この作品の制作と発売の間に、レアが再び引退することになっていたので、彼の役割をロビンソンが継ぐというアイディアが生まれました。そこでストーリはこのプロジェクトの終わりが近づいた時、彼女にケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーに興味はないかと声を掛けました。彼女は興味があると答え、その役を引き受けました。メイスター・エディション作成以前、ロビンソンのバーボンに関する知識は限られていました。彼女は何年も前に当時ディアジオ(UD)傘下のブランドだったレベル・イェールを飲んだことはありましたが、すぐにこのカテゴリーについてもっと詳しくならなければならないと思いました。最大の課題はアメリカン・ウィスキーに使われる多くのマッシュビルを理解することでした。それはスコッチ・ウィスキーではあまり一般的ではありません。「マッシュビルは違っても、風味豊かなブレンドを目指しています。バーボンを扱ったことはありませんでしたが、ジョン・レアと一緒にメイスター・エディションに取り組むうちに、そのニュアンスをすぐに理解できるようになりました。今後数年間、このブランドで何をするのか楽しみです」。他の汎ゆるブランドのアプローチを理解するため、世の中にある様々な種類のバーボンを把握しようとしているロビンソンですが、彼女は自分を暫定的なマスター・ブレンダーだと思っていると発言しており、レアと同様にあまり長くその職に留まるつもりはないようです。おそらく、そのうちもっと若い世代の誰かにバトンは受け渡されるのでしょう。

ケンタッキー・アウル・ブランドには、ここまでに紹介していない限定版があと2つあります。一つはケンタッキー・アウル・ドライ・ステイトです。これは1920年の禁酒法開始から100年が経過したことを記念(過去への反省)して、2020年9月にリリースされました。各ボトルは1920年代をイメージした美しい手作りのコレクターズ・ウッド・ボックスに入れられています。中身のジュースに関しては、これまでで最も古く最も希少な12年から17年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキーを使い、ディクソン・デドマンが4か月以上かけて完成させブレンドで、100プルーフにてボトリングされました。例によって他のケンタッキー・アウルと同様、ウィスキーの出所に就いては明らかにされていません。ロットのサイズは2000ボトルとされています。ケンタッキー・アウルは最初のリリース以来、高級ウィスキー・ブランドとしてその名を馳せ、忽ちカルト的な人気を博した一方で、値段の高過ぎるウィスキーとしても知られていますが、このドライ・ステイトの希望小売価格は驚きの1000ドルでした。ちなみに、パピー・ヴァン・ウィンクル23年ですら希望小売価格は300ドル(まあ、セカンダリー・マーケットではもっとしますが…)、ブラウン=フォーマンのスーパー・プレミアムな限定バーボンであるキング・オブ・ケンタッキーでも希望小売価格は250ドルです。流石にボトル1本あたり1000ドルという価格では飲める人が限られているせいかレヴューも少ないのですが、それらを見るとその価格を正当化する味わいではないとの評でした。発売時期もあってか、ドライ・ステイトは「COVID-19の悪影響でキャリアを棒に振ったサーヴィス業従事者の長期的な回復策を確立するための慈善事業」である全米レストラン協会の従業員向上基金に直接寄付するために、クリスティーズと提携して一握りのボトルがオークションに掛けられました。
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もう一つは、2022年11月に発売されたケンタッキー・アウル・ライ・バイユー・マルディグラXOラムカスク・フィニッシュです。これは11年熟成のライ・ウィスキーをベースとし、ルイジアナ州ラカシーンにあるバイユー・ラム蒸溜所(ルイジアナ・スピリッツ蒸溜所とも)のバレルを使用してフィニッシングしたもの。この蒸溜所はティムとトレイのリテル兄弟が長年の友人であるスキップ・コルテースと共に2013年に設立しました。彼らは、ルイジアナ州最大かつアメリカで最も古い現役の製糖工場から糖蜜を調達し、銅製のポット・スティルを使用して蒸溜しています。2016年6月にSPIグループがバイユーの株式の72.5%を取得したことでストーリ・グループUSAがバイユー・ラムの国内総代理店となり、その2年後に残りの株式を購入して完全子会社化しました。このリミテッド・エディションは、空になったばかりの38個のバイユー・マルディグラXOラム樽へ3月にライ・ウィスキーを入れ、1年以上かけて追加熟成されているとのことです。3月に再樽詰めする理由は、ウィスキーに長く、暑く、湿度の高い夏を与えることで、美味しい風味をより引き出すことが出来るからでした。バイユー・ラムのマスター・ブレンダーであるレイニエル・ヴィセンテ・ディアスは、ルイジアナの特徴的な気候の湿度がバイユー・ラムに素晴らしい効果をもたらすことを知っており、それをケンタッキー産のリッチなライ・ウィスキーにも応用してみた、と。ボトリングは102.8プルーフで、希望小売価格は500ドルでした。

偖て、現在までのブランドの歴史を辿ったところで、ケンタッキー・アウルのバッチ情報を纏めておきます。希望小売価格はUSドルで「約」です。詳細が不明の部分もあるので、追加情報や間違いの指摘はコメント欄よりどしどしお寄せ下さい。


【KENTUCKY OWL BATCHES】

KENTUCKY STRAIGHT BOURBON WHISKEY

Batch #1
Release Date : September 2014
Bottle Release : 1250 Bottles
Age : NAS
Proof : 118.4
4 年熟成時にチャード・ニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入した5樽(チャー#2、チャー#3、チャー#4、チャー#5、チャー#6)のブレンドで、その風味はチャー#5とチャー#6のバレルに大きく依存していると言われています。

Batch #2
Release Date : September 2015
Bottle Release : 1360 Bottles
Age : NAS
Proof : 117.2
4 年熟成時にチャード・ニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入した6樽(半分がチャー4、チャー5)のブレンド。バッチ2は9樽から始め、それらは全て4年目にチャーした新樽に再度入れ直したものでした。そして、この9樽から24種類の組み合わせのブレンドを造ってテイスティングを開始して、ブラインド・テイスティングを繰り返し、信頼できる人達にもサンプルを送って彼らがどのバッチを選ぶかを確かめると、最終的に全員が同じサンプルに戻り続け、それがバッチ2になったと言われています。

Batch #3
Release Date : December 2015
Bottle Release : 206 Bottles
Age : NAS
Proof : 107.8
Barrel #16 – Single Barrel (Blue Ink)
シェリィ・カーターによれば、このバッチはケンタッキー州ルイヴィルの新しいピアレス蒸溜所で造られたと言います。2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。

Batch #4
Release Date : December 2015
Bottle Release : 212 Bottles
Age : NAS
Proof : 116.8
Barrel #20 - Single Barrel (Red Ink)
2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。これもバッチ3と同じくピアレスなのだろうか?

Batch #5
Release Date : December 2015
Bottle Release : 194 Bottles
Age : NAS
Proof : 108
Barrel #12 - Single Barrel (Green Ink)
2年熟成時にチャー#4が施されたニュー・アメリカン・ホワイト・オークに再導入されたそう。これもバッチ3、4と同じくピアレスなのだろうか?

Batch #6
Release Date : September 2016
Bottle Release : 1634 Bottles
Age : NAS
Proof : 111.2
2~4年熟成の時にチャード・アメリカン・ホワイト・オークの新樽に再導入された8樽から構成され、熟成年数は8~11年。別の情報源では、1つのバレルで熟成されたバーボンと2つ目のニュー・チャード・オーク・バレルで熟成されたバーボンのミックスで、両タイプの熟成年数は4〜7年、という説もあった。「このウィスキーがヘヴンヒル産であること、特に78%コーン、10%ライ、13%バーリーのマッシュビルから造られたことに私は賭ける」と或るレヴュワーは言っていました。

Batch #7
Release Date : August 2017
Bottle Release : 2535 Bottles
Age : NAS
Proof : 118
MSRP: $200
15樽のブレンドで、そのうち4樽は2年目に新樽に投入された8〜9年熟成、残りの11樽は13年もしくはそれ以上の熟成とされています。

Batch #8
Release Date : July 2018
Bottle Release : 9051 Bottles
Age : NAS
Proof : 121
MSRP: $300
バッチ8は、5年、8年、11年、14年熟成のブレンドとされています。

Batch #9
Release Date : October 2019
Bottle Release : 10314 Bottles
Age : NAS
Proof : 127.6
MSRP: $300
バッチ9は、これまでで最も高いプルーフです。4つの異なるマッシュビルを使用し、6〜15年の幅広い熟成年数のものをブレンドしているそう。

Batch #10
Release Date : October 2020
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 120.2
MSRP: $300
ネット上に中身の情報が見当たりませんでした。

Batch #11
Release Date : ???? 2021
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 118.8
MSRP: $300
バッチ11は、マスター・ブレンダーのジョン・レアによって丁寧に造られ、6年から14年までの特別に熟成されたバーボンを使用したブレンドとされています。

Batch #12
Release Date : November 2022
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 115.8
MSRP: $400
バッチ12は、マスター・ブレンダーであるジョン・レアが注意深く造り上げた、4~14年のよく熟成された力強いバーボンを使用したブレンドとされています。

KENTUCKY STRAIGHT RYE WHISKEY

Batch #1
Release Date : September 2017
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 11 Years Old
Proof : 110.6
MSRP: $120

Batch #2
Release Date : June 2018
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 11 Years Old
Proof : 101.8
MSRP: $200
バッチ2はバッチ1よりもバッチ量が少なくなっているそうです。2018 年 6 月に、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、コロンビア特別区、フロリダ、ジョージア、イリノイ、インディアナ、ケンタッキー、ルイジアナ、メリーランド、マサチューセッツ、ミシガン、ミネソタ、ミシシッピ、ミズーリ、モンタナ、ネヴァダ、ニュー・ハンプシャー、ニュー・ジャージー、ニューヨーク、ノース・キャロライナ、オハイオ、オレゴン、ペンシルヴェニア、ロード・アイランド、サウス・キャロライナ、テネシー、テキサス、ユタ、ヴァージニア、ワシントン、ウィスコンシン、ワイオミングの各州の市場にリリースされました。

Batch #3
Release Date : August 2019
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 10 Years Old
Proof : 114
MSRP: $200

Batch #4
Release Date : ???? 2020
Bottle Release : ????? Bottles
Age : 10 Years Old
Proof : 112.8
MSRP: $300
バッチ#4は「最後のライ麦(The Last Rye)」と呼ばれ、10〜13年熟成のライのブレンドとされています。

SPECIAL LIMITED EDITION

Kentucky Owl Dry State
Release Date : September 2020
Bottle Release : 2000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $1000
これまでで最も古く最も希少な12年から17年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンド。

Kentucky Owl Bayou Mardi Gras XO Cask
Release Date : November 2022
Bottle Release : ???? Bottles
Age : 11 Years (Finished an additional 1 year in Bayou Mardi Gras XO Rum casks)
Proof : 102.8
MSRP : $500
マルディグラの精神とルイジアナの誇りを祝した限定版。11年間熟成されたストレート・ライ・ウィスキー
を選りすぐりの希少なバイユーXO樽で更に1年間寝かせたもの。

INTERNATIONAL COLLABORATION

St. Patrick’s Edition
Release Date : February 2022
Bottle Release : 12000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $135
アイリッシュ・ウィスキーとケンタッキー・ウィスキーを結びつける長年の絆を記念した限定版。アイリッシュ・ウィスキーのボンダーであるルイーズ・マグアンと提携し、彼女の技術をマスター・ブレンダーのジョン・レアとのコラボレーションに生かした、4年から11年熟成のケンタッキー産ストレート・バーボンのブレンド。もしくは4年から12年熟成と言われているのも目にしました。

Takumi Edition
Release Date : September 2022
Bottle Release : 25000 Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $135
ジャパニーズ・ウィスキーのブレンダーが求めるフレイヴァー・プロファイルを世界のウィスキー愛好家に提供する限定版。ケンタッキー・アウルのマスター・ブレンダーであるジョン・レアと、日本の滋賀県にある長濱蒸溜所の新進気鋭のチーフ・ブレンダー屋久佑輔とのコラボレーション。日本のウィスキー造りの技術を反映した、4年、5年、6年、13年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンドで、マッシュビルにはコーン、ライまたはウィート、モルテッドバーリーが含まれていると言われています。

Maighstir Edition
Release Date : September 2023
Bottle Release : ????? Bottles
Age : NAS
Proof : 100
MSRP : $150
アメリカとスコットランド両国の豊かなウィスキーの伝統に敬意を表した限定版。バーボンとスコッチのマスター・ブレンダー2人によるコラボレーション。コーン、ライ、ウィート、モルテッドバーリーを含むマッシュビルからなる、4年、5年、8年、9年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンド。

NOT LIMITED RELEASE

Kentucky Owl Confiscated
First Release : April 2019
Age : NAS
Proof : 96.4
MSRP : $125
アメリカ全50州で販売された最初のケンタッキー・アウル製品。創業者C・M・デドマンが政府に押収された熟成バーボン樽に敬意を表して名付けられました。このバーボンは非公開の蒸溜所から仕入れたもので、マッシュビルも非公開。幾つのバッチがあるのかも不明で、バッチ・サイズ(ボトル本数)も不明。少なくともラベル的には2タイプ確認でき、火災の絵が色無しと色有りがあり、前者はボトリングの所在地がバーズタウン、後者はラカシーンになっていました。

The Wiseman Bourbon
First Release : September 2021
Age : NAS
Proof : 90.8
MSRP : $60
ジョン・レアのもとで初めてパーマネント・リリースされた製品。ワイズマン・バーボン・ウィスキーは、バーズタウン・バーボン・カンパニーとケンタッキー州の非公開の蒸溜所から選ばれた4種類のそれぞれ4年、5.5年、8.5年熟成のケンタッキー・ストレート・バーボンのブレンドとされています。

The Wiseman Rye
First Release : April 2022
Age : NAS (Aged at least 4 years based on label requirements set by TTB)
Proof : 100.8
MSRP : $60
ワイズマン・ライは、バーズタウン・バーボン・カンパニーによって蒸溜されたライ麦95%マッシュビルのケンタッキー・ストレート・ライウィスキー。


では、最後にケンタッキー・アウル・ライ・バッチ1を飲んだ感想を蛇足で。

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KENTUCKY OWL RYE 11 Years 110.6 Proof
BATCH NO. 01
BOTTLED : 07 / 2017
甘い香りにうっすらハーブ香が混じり、オークの熟成香もあります。味わいはけっこう薬のようなハーブが効いていて、フルーツやウッディなスパイス、草や土っぽさも少し感じられ複雑。余韻はややビターになって引き締まって行きます。噂に違わず美味しかったです。しかし、期待が大き過ぎたのか、そこまで感銘を受けるほどではありませんでした。長熟ライという観点で以前飲んだサゼラック・ライ18年と較べると、そちらの方がドライフルーツが濃厚で美味しく感じました。熟成年数はだいぶ違いますが、同じケンタッキー・ライであり、ボトリング・プルーフの似ているパイクスヴィル6年と較べてみても、単純にケンタッキー・アウルが上とは言い切れない感じがしました。それらよりこちらの方がハービーな傾向が強く、好みの分かれるところなのでしょう。本来ならボトル1本とじっくり向き合いたいライであり、そうすればもっと色々な飲み方も出来て楽しめ、点数も上がったような気がします。
Rating:87.5〜88/100


*「Rhea」をここでは「レア」と表記しましたが、人や国によっては「レェー」もしくは「レイ」、または「リア」と書いた方が近い発音をされています。

**ウィスキーの人気が急上昇した19世紀から20世紀初頭に掛けて、アイルランドの殆どの町にはウィスキーのボンダーがいました。これは平たく言えば、蒸溜所から直接ウィスキーを購入する許可を得た商人のことです。蒸溜所は今日のように生産物をボトリングして販売までしていた訳ではありません。アイリッシュ・ウィスキーの黄金時代、アイルランドには何百もの蒸溜所がありましたが、当時その多くは自社ブランドのウィスキーをもたず、新しいウィスキー原酒を製造するとボンダーにバルク販売していました。ボンダーには酒場の主人、食料雑貨商人、商館主など様々な人々が含まれていました。ウィスキーの完全性を維持するためには専門知識と細心な注意が必要であり、彼らは高品質のウィスキーを調達し、厳格な品質管理基準を守り、熟成状況を綿密に監視する職人でした。そうした知識をウィスキー業界で長年の伝統を誇る一族から受け継いだボンディング職人もいれば、見習い期間や蒸溜所での前職を通じて学んだ職人もいました。これらのボンダー達は自分の樽を持って地元の蒸溜所まで行き、その樽にニュー・メイクを詰めて家に持ち帰り、自分のボンデッド・ウェアハウスで熟成させてから、地元のホテルや個人の顧客向けに個別のブレンドをボトリングしました。往時、ボンダーはアイルランドのどの町にも数多く存在し、彼らの実践的なアプローチは地域社会からの信頼を築き上げ、地域ごとに個性的なスタイルのアイリッシュ・ウィスキーが数多く生まれたと言います。しかし、アイルランドが大英帝国から分離し、アメリカで禁酒法が施行されると、ボンダーの事業も縮小して行きました。残念ながら1930年代にアイリッシュ・ウイスキー産業が崩壊すると、僅かに残った蒸溜所はボンダーへの供給を打ち切り、アイリッシュ・ウイスキーに於けるボンディングの伝統はほぼ途絶えてしまいました。その伝統を復活させ、アイリッシュ・ウィスキーの新時代を切り拓いた一人がルイーズ・マグアンです。2015年、酒類業界で長年働いて来た彼女は、カウンティ・クレアのワイルド・アトランティック・ウェイ沿いにあるマグアン・ファミリー・ファームにボンデッド・ラックハウスを建設しました。そして、ウィスキー探求の途上で発見したJ・J・コーリーの先駆的な伝説にインスピレーションを受け、その名を使ってブランドを創設しました。マグアンとそのチームは、アイルランド島全土の蒸留所からスピリッツを調達し、世界中の樽を使用して他では不可能なユニークな風味を実現するために、比類なきフレイヴァー・ライブラリーを構築しています。
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***クエイヒ(Quaich)は17世紀頃からスコットランドで使われていた両端に取っ手のある金属製の杯。両手を使って飲むため武器を持っていないことを示し、友好の証としても用いられて来たと云います。ガラス製のコップが普及してからは主に儀式で使用されるようになり、今ではスコットランドのウィスキー文化の象徴として知られています。マスター・オブ・ザ・クエイヒやキーパーズ・オブ・ザ・クエイヒに就いて詳しくは下記を参照。
https://www.keepersofthequaich.co.uk/
https://www.ballantines.ne.jp/scotchnote/69/index.html

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ルイヴィルの南東約60マイルに位置するロレットの由緒あるメーカーズマーク蒸溜所。彼らは1953年の創業以来、一部地域への限定的なハイアー・プルーフのヴァリエーションを除き、50年以上に渡って一つの製品しか造って来ませんでした。それが変わったのは2010年から。アメリカ本国でのバーボン熱がジリジリと高まりつつあった背景に後押しされたのか、スタンダードなメーカーズマークのみを提供するという長き伝統を打ち破って、インナー・ステイヴによるフィニッシングを施したメーカーズ46をリリースしたのです。その方法論は2016年の開始と同時に業界初のカスタムバレル・プログラムとなったメーカーズマーク・プライヴェート・セレクトの導入にも受け継がれ、大成功を収めました。また、2014年からのカスク・ストレングスや、2018年から旅行用免税店での販売のみとして始まり2020年に国内での発売もされたメーカーズマーク101など、より高いプルーフにてボトリングされた製品も展開するようになりました。2019年のRC6でデビューし、2020年のSE4xPR5、2021年のFAE-01とFAE-02、2022年のBRT-01とBRT-02と来て、2023年のBEPで終了したウッド・フィニッシング・シリーズや、2021年末から2022年初頭のメーカーズDNAプロジェクトなど実験的かつプレミアムな限定リリースもありました。しかし、メーカーズマークは長期熟成のハイエンドなバーボンをリリースする流行に乗ることは断固として拒否して来ました。「65年以上もの間、ウィスキーを10年以上熟成させるということは、私達が行ってきたことではありませんでした」と、メーカーズマーク創業者の孫であるロブ・サミュエルズは語っています。
ボトルのネックに滴る赤いワックスが目を惹くメーカーズマークは、マーケットで最も認知度の高いバーボンの一つであり世界的に広く親しまれた存在であるにも拘らず、これまで公式に熟成年数が明記されたものはありませんでした。それはメーカーズマークの創業者が掲げたヴィジョン、即ち常に驚くほどスムースで円やか、ソフトでクリーミーでリッチ、辛い刺激やタンニンを最小限に抑えたフレイヴァーに拘り続け、時間ではなく味わいに合わせてウィスキーを熟成させて来た結果でした。ケンタッキーの暑さはバーボンをすぐにオーヴァー・オークドなドライでタンニンが強い味わいにする傾向にあり、これは創業者ビル・サミュエルズ・シニアのフレイヴァー・ヴィジョンと真っ向から衝突するのです。 通常のリックハウスで10年以上熟成させたメーカーズマークを蒸溜所で試飲したことがある方は、彼らの懸念には真実味があり、確かにそういう味わいだったと言っていました。上に挙げた「哲学」こそメーカーズマーク蒸溜所の本質と言えましたが、愛好家はどうしてもまだ見ぬものを欲望します。メーカーズマークの長期熟成バーボンは、このブランドのファンが長年待ち望んだ製品でした(有名なウィスキー・ライターのフレッド・ミニックもその一人)。そして、遂に「セラー・エイジド」の登場によって歴史が動く時が来ます。

嘗てビル・サミュエルズ・ジュニアはステイヴ・フィニッシュド・バーボンのアイデアを持ち込み、メーカーズマークの歴史に足跡を残しました。今度はその息子ロブの番でした。9歳の時から蒸溜所で汎ゆる仕事を経験してきたというロブは、父ビル・ジュニアの後を継ぎ、2011年にメーカーズマークCOOに就任しています。ロブがセラー・エイジドを考案する際に直面した課題は、ブランドのファンが長年求めて来たウィスキーを提供すると同時に一族の伝統に忠実であることでした。彼はそれを解決しようと、46やプライヴェート・セレクトのバレルを熟成させるため2016年12月にスターヒルの丘の中腹に新設されたライムストーン・セラーを利用することを思い付きます。「外がどんなに過酷な温度になっても、石灰岩でできたセラーの内部は常に10℃前後に保たれます。この自然の恩恵を活かせば、もっと時間をかけた熟成ができるのではないかと考え、これまでは不可能だった長期熟成に挑戦することに」したと、或るインタヴューでロブは語りました。他のウィスキー・メーカーのようにマッシュビルを変更したり、全く新しい方法で造るのではなく、伝統を重んじ、創業から変わらないヴィジョンを基に新たなフィーリングの味わいを築く、それがメーカーズマークの流儀な訳です。
メーカーズマーク・セラーエイジドになるために、バレルは先ず蒸溜所の伝統的な倉庫で約6年間、ケンタッキー州の気候や季節ごとの気温の変化に耐え、「メーカーズマーク」と呼べるようになるまで熟成されます。バーボンの場合、熟成庫内のロケーションが重要な役割を果たしますが、メーカーズマークはウィスキーをリックハウスで熟成させるに際し、熟成庫の上層階と下層階でバレルをローテーションすることにより、バレル間の温度差やその他の要因を均等にしている蒸溜所です。このプロセスのお陰で、どのバレルも全体的に同じような熟成を見せ、バレル毎の味わいは比較的似たものとなるのだとか。こうして標準的なメーカーズマークとしては「完熟」と看做されたバレルは、その後、ケンタッキーの丘陵地帯にある天然の石灰岩層に造られた独自のウィスキー・セラーに移され、更に5~6年の熟成を経ることになります。メーカーズマークによれば、このセラーは常に冷涼な環境であるため、エクストラ・エイジド・バーボンによく見られる刺々しいタンニンの影響を緩やかにし、奥行きを秘めたより深みのあるダークな風味を醸し出すことを可能にするのだそう。樽保管を木造やレンガの熟成庫でするのが一般的なアメリカン・ウィスキーのメーカーに於いてセラーを使用するのはメーカーズマークのみ。最終的に味を見ながらブレンドされた後、カスク・ストレングスにてボトリングされ完成となります。

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メーカーズマーク・セラーエイジドは、本国アメリカでは2023年9月に発売され、日本では2024年3月に発売されました。メーカーズマークからのプレスリリースによると、この商品は今後も世界中の特定の市場で年1回限定リリースされる予定です。毎年同じ熟成方法で造られますが、味わいを基準とし、バーボンの熟成年数の具体的なブレンドはその年によって異なります。初リリースとなる2023年エディションは、12年熟成87%と11年熟成13%のマリアージュで、115.7プルーフでボトリングされました。225バレルのバッチで、アメリカで約20000本、その他のグローバル市場で約10000本がリリースされた模様。今後のリリースも同じような数量が予想されるでしょう。それ以外の詳細は、メーカーズマークが公表しているスタッツ・シートによれば以下のようになっています。
マッシュビルは同蒸溜所自慢の70%コーン、16%ソフト・レッド・ウィンター・ウィート、14%モルテッド・バーリー。ミリングはローラー・ミル、ファーメンテーションは3日、コラム・スティルで120プルーフを得たあとダブラーで130プルーフ、そしてバレル・エントリーは110プルーフ。バレルは、ケンタッキーの夏を含む1年間を屋外でシーズニングしたアメリカン・ホワイトオークを使用し、チャー・レヴェルは#3。12年熟成87%は10L13、11B07、11B15、11B(or C)29、11年熟成13%は12B16のコードのバレルが選ばれています。それぞれのバレルのウェアハウス・ロケーションは、10L13がウェアハウスQ、11B07がウェアハウスO、11B15がウェアハウスL、11C(or B)29がウェアハウスH、12B16がウェアハウス29からでした。バレル・コードは最初の2つの数字が年を、アルファベットが月を、最後の2つの数字が日を表しています。セラーへの移動はそれぞれ2017年10月と2018年5月に行われました。平均的なセラーの温度は47°F/8.3°C、湿度は58.1%とされます。バレルからのダンプは2023年6月3日に行われました。
では、さっそくメーカーズマーク史上最も長熟のバーボンであるセラー・エイジドを味わってみましょう。

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Maker’s Mark Cellar Aged(2023) 115.7 Proof
2023年ボトリング。色はディープアンバー。ミルクキャラメル→クレームブリュレ→黒糖、チェリー、杏仁豆腐、唐辛子、ラズベリー、パフ入りチョコ、接着剤、僅かに杉、あんずジャム。甘いお菓子にフルーティなアロマ。期待よりは緩いが、とろりとした口当り。ダークな樽感と穏やかなスパイスの中にスッキリとしたフルーティさもある味わい。ウッディなスパイスが来てからのややドライで微かに苦い余韻。アロマがハイライト。
Rating:88/100

Thought:まるでデザートのようなバーボン。特に少し空気に触れさせておくと漂う美味しそうな洋菓子の甘美な香りが心地良かったです。アロマだけなら汎ゆるメーカーズマークで一番かも知れない。口の中では意外とフレッシュなベリー感が印象的。開封したては果実味がやや鈍く感じましたが、液量が半分を下回る頃には甘酸っぱが増して頗る美味しくなりました。確かにメーカーズマークが言うように、味わいや余韻は過度にドライでもなく渋みもありません。おそらく彼らが意図的に狙った味は上手く表現出来ているのでしょう。余韻に関しては、この価格帯ならもう少し長く広がりがあって欲しいとは思いましたが…。
プルーフに違いがあり過ぎるスタンダードなメーカーズマークやステイヴの選択に様々な種類があるプライヴェート・セレクションは別として、バッチの違いにより多少異なるものの似たようなプルーフをもつカスク・ストレングスと較べると、ノーズは明らかに豊かでスウィートでテクスチャーはソフトに感じました。ただ、フルーツ・フレイヴァーの芳醇さはカスク・ストレングスも負けてない気がします。曖昧な書き方をしたのは、これがサイド・バイ・サイドではなく以前に飲んだ物と記憶で比較しているからです。まあ、その記憶が確かだったとして言えるのは、総合的に見るとセラー・エイジドはカスク・ストレングスより2倍近い熟成年数にも拘らず、変に癖のあるフレイヴァーが追加されることもなく、寧ろメーカーズマークの古典的なフレイヴァーを維持しつつソフトさとリッチさと複雑さを僅かに増幅させており、物凄く美味しくなってはいないけれども確実に少し美味しくなっている、と云うこと。これは著名なバーボン・レヴュワーの何人かと同じような感想であり、彼らは「メーカーズマーク・カスクストレングスを並べて比較すると、セラー・エイジドに軍配が上がるが、その差は圧倒的ではない(要約)」とか、セラー・エイジドを「メーカーズマーク・カスクストレングス+」だと評したりしています。彼らから指摘されているのは、熟成期間の後半をかなり涼しく、暗く、湿ったセラーで過ごしたことで、液体とバレルの相互作用はリックハウスで熟成を続けて得られるものとは異なり、このセラー・エイジドが人々が思い描くような長熟のバーボンではないという点です。セラーエイジドは本物の12年熟成製品のように扱うべきではないという指摘すらありました。個人的には長熟は苦手な風味を感じることが多いので、メーカーズマークの考えには基本的に賛同なのですが、確かに従来品と較べて「突き抜けて違うもの」を期待したせいか若干拍子抜けした感は否めません。有名な某ネット掲示板のセラー・エイジドの投稿では、木製のリックハウスで全期間熟成させた12年物のバーボンを求める声はちらほら見られました。メーカーズマーク自身は嫌うものの、実際に蒸溜所のイヴェントでそうした熟成バレルのサンプルを試飲した方で、それは格別だったと一部の人からは評価されたりもしています。私がリックハウス熟成の12年物を好むかどうかは飲む機会もないので措いておくとして、これはそもそも論なのですが、メーカーズマークに就いて海外の或る方が「床は高く、天井は低い」と言っていました。実を言うとあまりメーカーズマークに熱心でない私にとって、その意見は腑に落ちるものでした。私なりにメーカーズマークを野球で例えると、必ず二塁打か三塁打を打つが絶対に凡打もホームランも打たないバッター、というイメージがあります。安定の優等生とでも言うのでしょうか。これは良い悪いではなく、そういうキャラクターというだけなのですが、時に感情を振り回されるからこそ惹かれるファン心理というのもありますから、メーカーズマークの最大の長所であると同時にちょっとしたウィークポイントとなっているように私には感じられるのです。それが今回のセラー・エイジドにも、まんま当て嵌まると言うか…。いや、誤解のないように繰り返すと、これは瑕疵ではありません。だって素晴らしいバッターですもの。それに、この解釈は単に私がそもそもメーカーズと親和性がないためにそう思うだけで、メーカーズマークのプロファイルが好きな人にとっては毎回ホームランを打つバッターかも知れないですからね。皆さんはメーカーズマークに就いてどう思われるでしょうか? コメント欄よりどしどしご意見お寄せ下さい。

Value:アメリカでは150ドル、日本では17600円が希望小売価格でした。海外のセカンダリー・マーケットでは発売後、瞬く間に300〜500ドルになったことを思えば、サントリーが正規に取り扱ってくれたお陰で我々日本人はお店で予約さえすれば労せず適正な価格で買うことが出来ました。プレミアム・バーボン及びアメリカン・ウィスキーの価格設定が全体的に上昇している現状を踏まえると、このメーカーズマーク・セラーエイジドの価格は、かなり安いと言うか、少なくとも妥当な価格と思えます。例えばワイルドターキーで言うと、マスターズキープのヴォヤッジ(ボヤージュ)の30000円や、ジェネレーションズの77000円と比較すればかなり安く感じます。セラー・エイジドはメーカーズマークの哲学が詰まった製品ですから、メーカーズ・ファンならば買って失望することはないでしょう。変に割増金が乗せられた価格ではなく、希望小売価格であれば完全にオススメです。また、長熟バーボン嫌いな人でも飲み易いが故に、メーカーズのファン以外にもオススメ出来るバーボンです。但し、カスク・ストレングスの約8000円とセラー・エイジド18000円弱の価格差ほどは味わいが大きく向上した気はしないので、希望小売価格でも高過ぎると思う方へは、カスク・ストレングスを2本買うか、同じ12年熟成枠としてワイルドターキー12年かエヴァンウィリアムス12年を2本買うことをオススメします。

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ローワンズ・クリークはケンタッキー州バーズタウンのウィレット蒸留所(KBD)で製造されているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つのうちの一つです。その他の三つはノアーズ・ミル、ピュア・ケンタッキーXO、ケンタッキー・ヴィンテージとなっています。価格から言うと、ローワンズ・クリークはこの中では上から二番目の位置付け。コレクションの成立は90年代半ば(一説には94年)とされます。当時の業界ではプレミアムなバーボンが胎動し始め、ジムビームもスモールバッチ・コレクションを開始するなど、そのコンセプトは軌を一にしていました。
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(画像提供K氏)
ローワンズ・クリークの名は蒸溜所の敷地内を流れる小川にちなんで付けられました。その小川は1700年代後半から1800年代前半に掛けてケンタッキー州の政治家であったジョン・ローワンにちなんで名付けられ、彼のフェデラル・ヒルの邸宅はスティーヴン・コリンズ・フォスターの歌曲「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」にインスピレーションを与えたと言われています。このバーボンは、ノアーズ・ミルと手描きのようなラベルの雰囲気やワイン・タイプのボトルといった共通点があり、更に熟成年数とボトリング・プルーフが少し低く、尚且つ安い価格ということもあって、その姉妹品というか弟分のように認識されていました。「ベイビー・ノアーズ・ミル」と呼ばれているのも見かけたことがあります。もっと言うと、ローワンズ・クリークはノアーズ・ミルより一段劣る廉価版と常に考えられていた節があります。しかし、だからといって品質が劣った製品という訳ではなく、飲み易さと財布への優しさが魅力だったためか、2011年当時の情報によるとアメリカの27州で販売され、KBD(ケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ)が生産するバーボンの中で最も売れている銘柄だったそうです。ローワンズ・クリーク・バーボンが長期に渡ってKBDのポートフォリオに於いて重要なブランドだったとされる所以でしょう。個人的に、オールド・タイミーな雰囲気の薄茶のラベルとマルーン色のワックス(及びフォイル)の組み合わせは凄く好きなデザインです。ところで、ワイルドターキーのような101ではなく100.1という小数点まで使ったボトリング・プルーフは一体何なのでしょうか? ハンドメイド感の演出? 或いは単なるユーモア? まあ、それは措いて、このローワンズ・クリーク、初登場から今に至るまで外観はそれほど大きく変化しませんでしたが、中身はかなり変化しました。ここからはその変遷を追ってみましょう。

しかし、実はこのバーボンの中身のジュースの明確な詳細は、発売当初から今に至るまで不明です。周知のように、ウィレット蒸溜所は2012年から自家蒸溜を再開しましたが、それまではKBDとして他の蒸溜所からバレルを購入していました。従ってローワンズ・クリークも他の製品も、発売からある時点までは実際には別の生産者によって蒸溜され、KBDによってブレンド及びボトリングされたものでした。彼らは、ローワンズ・クリークに限らず、自らの製品に就いて明瞭に語ることは殆どなく、どこで蒸溜されたウィスキーなのかは推測の域を出ません。軈て、自社の蒸溜原酒が熟成するにつれ、それらはボトリングされるようになり、2020年頃には殆ど全ての製品がバーズタウンにある自社製に切り替わっていると見られています。その頃からラベルに記載される事業名が、ローワンズ・クリーク・ディスティラリーからウィレット・ディスティラリーに変更されました。ここら辺の現代ローワンズ・クリークも、公式にマッシュビルや熟成年数などのスペックは公開されてはおらず、他ブランドとどういった造り分けをしているのか謎のままです。これらを念頭に置いて見て行きます。

発売された当初、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークにはエイジ・ステイトメントがありました。前者が15年、後者が12年です。この熟成表記は、メイン・ラベルの上に貼られた細いラベルに余り目立たない感じで記載されていました。また、この頃の物(*)はボトルの横もしくは後に貼られたバッチ・ラベルに、蒸溜年とボトリング年が手書きで記されています。
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12年表記のある初期のローワンズ・クリークは、文字通り最低でも12年熟成、もしくはもっと長い熟成バレルを使ったブレンドもあった可能性はあります。実際、今回私が開栓した12年表記のあるローワンズ・クリークは、蒸溜年とボトリング年を参照すると13年熟成となっていますし(上画像参照)、他のバッチでも12年熟成以上の物を見たことがあります。スモールバッチ・バーボンの代表的な銘柄であるブッカーズに記載される熟成年数が最も若いバレルの物であるのと同様に、ローワンズ・クリークのバッチ・ラベルに記載されている蒸溜年も最も若いバレルの物でしょう。この頃のバッチング・サイズは10樽程度と何処かで読んだ気がしますが、本当かどうかは判りません。
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おそらく発売当初は豊富にあった長期熟成バレルはバーボン需要の増加に伴って少なくなり、ノアーズ・ミルとローワンズ・クリークの両ボトルともエイジ・ステイトメントを失いました。切り替わりの正確な時期が特定できないのですが、2006年後半あたりからではないかと思われ、少なくとも2011年までには完全に切り替わっていた筈です。そして、NASとなってからは若いバレルも混和するようになり、2011年の情報では「5年から15年のバーボン樽のコレクション」とされていました。また、同情報源によれば「どの樽を使い、どの樽を使わないかという固定観念に囚われることはない」と言われていました。その言葉からすると、もう少し熟成年数の幅は前後することもあると思われます。バッチング・サイズは、おそらく当時は15バレル程度かな? このNASのローワンズ・クリークのレヴューを参照すると、やや若い味がするとか、若いアルコールのキツさがあるとの指摘が見られ、5〜15年の熟成バレルの構成は主に若い熟成のバーボンに少し長熟バーボンが混じっている配分なのではないか、と考える人もいます。
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2013年後半頃には、これまたローワンズ・クリークとノアーズ・ミルともに、ワックス・トップだったものがフォイル・トップへと変更されました。これらのワックス・トップとフォイル・トップにはテイスティング・プロファイルに違いがないと考える人もいれば、あると信じる人もいました。あると信じる人達はより若くなったと感じたようです。まあ、ワックスかフォイルの違い以前に、ローワンズ・クリークにはバッチ間の差もかなりあると言われています。その出来にはバラつきがあって素晴らしいものもあれば殆ど飲めないものまである、と言っている人も見かけました。個人的には飲めないほど酷い物はないと信じていますが、SNS等でローワンズ・クリークに限らずウィレットのスモールバッチ・バーボンを「美味しい」と投稿している方には、せめてバッチ番号を明記して欲しいとは思います。そうでないと、どの時代の物を美味しいと言っているのか判りにくいので…。それに、大規模な蒸溜所の「大きな」スモールバッチですらシングルバレルに劣らず個性的であるのに、実際にはヴェリー・スモールバッチと呼んだほうが適切な数十樽のスモールバッチは尚更そうですから。

偖て、90年代から2010年代半ばまでのローワンズ・クリークは、他のスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの面々やジョニー・ドラム及びオールド・バーズタウンといった主要なブランドと同様にソースド・バーボンでした。その大半はヘヴンヒルのバーズタウンの蒸溜所かルイヴィルのバーンハイム蒸溜所から仕入れていたのではないかと見られています。しかし一方で、KBDは長年に渡ってほぼ全ての主要な蒸溜所(メーカーズマーク以外とされる)のウィスキーを入手しており、彼らは個性的なフレイヴァー・プロファイルを得るために異なる蒸溜所のバレルを混ぜ合わせていたとも言われています。当時は多くの人がヘヴンヒルやバートンのウィスキーをボトルに入れただけと思っていましたが、2つかそれ以上(3つか4つ)の蒸溜所のウィスキーのマリッジだった、と。KBDの社長エヴァン・クルスヴィーンは手持ちのウィスキーから素晴らしい風味を生み出す達人であり、様々な業者から入手可能になる度にバレルを調達していた結果、彼とブレンディング・チームは少量のウィスキーをブレンドして各ブランドに合う風味を造り出すことに熟練するようになった、と。勿論、詳しい構成比率が明かされる訳もなく、全ては謎に包まれています。

そして、ウィレットの製品は現在では100%自家蒸溜物に移行したと考えられています。しかし、一体いつローワンズ・クリークが自身の蒸溜物に切り替わったかはよく判りません。仮に熟成年数4年程度でボトリングしているならば、2012年から蒸溜を再開したことを考慮すると、早くて2016年から新ウィレット原酒を使用することは可能ではあります。また、よく分からないのが他の蒸溜所産のウィスキー、つまり何処かから調達した旧来のストックと、自前の蒸溜所産の新しいウィスキーを混合しているのかどうかです。個人的には味わい的に混ぜてないような気がしますが、どうなのでしょう? 皆さんはどう思われますか? バッチ毎の味わいの違いに関する情報などと合わせて、仔細に精通している方は是非ともコメント欄より情報提供下さい。で、現在のウィレット蒸溜所には以下のような4つの異なるバーボン・マッシュビルがあります。

①オリジナル・マッシュビル
72%コーン/13%ライ/15%モルテッドバーリー

②ハイ・コーン・マッシュビル
79%コーン/7%ライ/14%モルテッドバーリー

③ハイ・ライ・マッシュビル
52%コーン/38%ライ/10%モルテッドバーリー

④ウィーテッド・マッシュビル
65%コーン/20%ウィート/15%モルテッドバーリー

ソーシング・ウィスキーではない現在のローワンズ・クリークのマッシュビルに就いて調べてみると、4つのマッシュビルのブレンドとしているもの、①としているもの、味わいから②と推測するもの、更にはハイ・ライ・バーボンであることは確かだとする説もあったりと、てんでバラバラで混乱するばかりです。熟成年数は、5〜7年ではないかと推測するものや、推定8年程度であると考えられているとするものがありました。孰れにせよ正確な熟成年数も不明です。バッチによって一貫性がないとされるスモールバッチ・バーボンですから、何ならマッシュビルの変更やバッチングに使用されるバレルの熟成年数の変化だってあったのかも知れない。まあ、判らないことは措いておき、そのうち何か情報が入れば追記することにしましょう(※追記あり)。

では、そろそろ注ぐ時間です。今回は自分の手持ちの12年表記のある2006年ボトリングとNASの2017年ボトリングを開封しました。この2つに加え、バーボン仲間のK氏から2つのサンプルを頂けたので、計4つの年代別バッチ別の比較が可能となりました。画像提供も含め、いつも本当にありがとうございます。バーボン繋がりに乾杯!

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ROWAN'S CREEK Twelve years 100.1 Proof
BATCH QBC No. 06-94
推定2006年ボトリング。赤みを帯びたダークブラウン。床用ワックス、フローラル、焦樽、オールドファンク、トフィ、杉、ベーキングスパイス、土、アプリコットジャム、抹茶ミルク。よく熟成したバーボンの香り。プルーフから期待するよりは緩いが、とろりとした口当り。味わいは甘く、スパイシーかつフルーティとバランスが良い。そして何より味が濃い。余韻はミディアムで、ややビター。
Rating:88/100

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ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 17-67
推定2017年ボトリング。パイナップル、グレイン、蜂蜜ハーブのど飴、シリアル、グレープジュース、ビール、プラム、ヨーグルト、マッチの擦ったあと。香りはフルーツの盛り合わせ。ややとろみのある口当たり。パレートはフルーティな甘みと共に穀物の旨味が凄い。余韻は最後に少し苦味。
Rating:87.5/100

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(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 12-135
推定2012年ボトリング。ワックス・トップでNASの物。ウッドニス、プリンのカラメルソース、穀物、カカオ、木の酸、ナツメグ、ヴァニラウエハース。清涼感を伴った仄かに甘いアロマ。味わいは薄っすらフルーティで穏やかなスパイス感。余韻はミディアム・ショートで、ほんのり甘みが来てから一気にドライになって切れ上がる。
Rating:83/100

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(画像提供K氏)
ROWAN'S CREEK NAS 100.1 Proof
BATCH QBC No. 21-9
推定2021年ボトリング。四つの中でこれのみラベルの記載がローワンズ・クリーク・ディスティラリー名義ではなくウィレット・ディスティラリー名義。僅かにゴールドがかったブラウン。紅茶、蜂蜜、檸檬、焦げ樽、フローラル、塩、ゴム、ピーナッツ、ジンジャー。香りは蜂蜜レモンティー。ややオイリーで滑らかな口当り。パレートではほんのり甘いオークの風味が感じ易い。余韻はミディアムでダージリン・ティー。
Rating:85.5/100

Thoughts:バッチ06-94は、明らかに長熟バーボンのオールドな風味を感じます。しかし、それは不快ではない程度に収まっており、却って心地良いくらいでした。そういったオールド感も含めてバランスの良いバーボンという印象。香りや味わいは、ヘヴンヒルぽくは感じましたが、微妙に異なる風味もあって、例えて言うとエヴァン・ウィリアムス12年をフォアローゼス・プラチナで薄めたような味わいですかね。それは兎も角、これが往時3000〜5000円程度で買えていたと思うと驚異です。今なら12000円位から、ブランディングによっては20000円を超えてリリースされそうなクオリティ。
バッチ17-67はアロマだけで新ウィレット原酒と思いました。一言でいうと穀物フルーツ系バーボンです。飲んだ印象としてはライ麦の要素があまりないように感じたので、マッシュビルは②かなと予想しますが、まあ分かりません。ミックス・マッシュビルかも知れないですし。私が以前に飲んだケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOの特定のバッチと較べてみると、幾分か穀物感とフルーツ感で上回るように感じましたが、だからと言ってそれが取り立てて明確に上位の味わいとは思えませんでした。特にオールド・バーズタウン・エステート・ボトルドと比べるとミルキーなテイストを欠いており、価格が上がる割に良いフレイヴァーがないのは気掛かりです。とは言え、ウィレット蒸溜所が生産するウィスキーは非常に自分の好みに合っており、私は彼らの比較的若いウィスキーでも楽しめる消費者の一派に入るので、美味しいのは間違いありません。
バッチ12-135は、全体的なフレイヴァー・バランスは整っているのですが、12年物と較べるとアロマもテイストも何もかもが薄いと感じました。アルコールのピリピリ感もあって、確かに若い原酒の比率がかなり高くなった印象を受けます。サイド・バイ・サイドで12年物と較べるからスケールが小さく感じるとは言え、他のバーボンとの比較に於いても特に誉めるべき点は見つからず、逆に特に悪いところもない凡庸なバーボンという感想でした。正直言って、ローワンズ・クリークというブランドから自分が抱く勝手なイメージからすると期待外れな出来です。
バッチ21-9は紅茶でも飲んでるかのような味わい。同じ新ウィレット原酒と思われるバッチ17-67とフレイヴァー・プロファイルがかなり違うのが面白かったです。こちらはバッチ17-67と較べると、自分が今まで飲んで来た新ウィレット原酒に感じ易いと思っているハーブのど飴のような複合的なハーブとグレープを殆ど感じれず、それが点数を下げる要因となりました。それにしても、何故これ程までにプロファイルが異なるのでしょうか? もしかしてマッシュビルの変更があったのかしら? これがミックス・マッシュビルなの? それとも単にバレル・セレクトの違いなのか…。海外の有名なバーボン・レヴュワーがローワンズ・クリークに対して、本質的に悪いところはないがウィレットが蒸溜するようになったという事実以外に特筆すべき点もないとか、同価格帯のより有能な他のボトル(ブランド)には敵わないとか、評判の悪いウィレット・ポットスティル・リザーヴと同じような風味がする、と評しているのを目にするのですが、それがバッチ17-67のような味わいに言われているのか、それともバッチ21-9のような味わいに言われているのか、はたまた両方なのか、これが判らない。ウィレット蒸溜所のウィスキーを色々飲んでいる皆さんはどう思われますか? コメント欄よりご意見ご感想、お待ちしております。

Value:「12年」表記のあるローワンズ・クリークは、古い物なのでオークション等である程度の価格は覚悟しなければならないでしょう。しかし、もし貴方が古典的な熟成バーボンを好むなら素晴らしい価値のある製品です。現行のローワンズ・クリークは、アメリカでは地域差がありますが大体40〜45ドル程度、日本では大体6500円くらいで売られています。もし貴方が近年のウィレット蒸溜所のウィスキーのフレイヴァーを愛するなら、バッチ毎の違いはあるかも知れませんが、概ねオススメ出来る製品だと思います。これらの中間に当たる時代のローワンズ・クリークは、少々中途半端と言うかあまり印象に残らないバーボンで、正直それほどオススメではありません。


*初期の物でも蒸溜年が記されていないものや、「E」で始まるバッチ番号の物を見かけたことがあります。

追記:現行のマッシュビルは72%コーン、13%ライ、15%モルテッドバーリーのオリジナル・マッシュビルだそうです。

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A.H. Hirsch Reserve 16 Years Old Gold Wax 95.6 Proof
今回飲んだA.H.ハーシュ・リザーヴ16年は、スクワッティなボトル形状にゴールドのワックスでシールされた47.8度の物です。同様のブラック・ワックスの物やブーンズノールよりアルコール度数が高いのが特徴でしょうか。マスターの話では、所謂ブルー・ワックスのハーシュよりこちらの方がリリースが先だったと仰ってました。この伝説のバーボンのバックストーリーは過去に投稿した記事を参照下さい。この「ペンシルヴェニア1974原酒」が使用されたボトルはこれまで何回か飲んで来ましたが、何度飲んでもやっぱり自分の好みではないですね。長期熟成による柔らかい酒質とビターさ、複雑なスパイスとハーブ、枯木のテイスト等は感じ易いものの、私はもっと単純な焦がした樽のスウィートな香ばしさやフレッシュなフルーツ感が好きなので。パレートでの渋みはあまりありませんが、余韻には苦味も感じました。この機会に言ってしまうと、個人的にはこの原酒は過大評価されていると思います。自分の好みは一旦措いて、他の長熟バーボンと比較してみても、それほど際立って優れているようには感じないのです。特別なフィーリングがないと言うか…。ぶっちゃけ下のレーティングは、3点はバックストーリーとレアリティとラベル・デザインに対してです。但し、適切なタイミングで飲んでいれば本当に素晴らしかった可能性はあるのかも知れない。私はボトリングされたばかりの90年代当時に飲んだことがないので、その当時に飲まれたことがある方は是非ともコメント欄よりご感想をお寄せ下さい。いや、当時でなくても飲んで、「そう? めっちゃ旨いよ?」とか「お前の舌がお子ちゃまなんじゃね?」という意見も随時募集中です。まあ、それは兎も角、今になってこのバーボンを飲むということは、「歴史」を飲み「物語」を飲むことであって、味わいは関係ないとは言えるでしょう。
Rating:88/100

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ラッキー・ストライク・バーボンはマーシィ・パラテラのインターナショナル・ビヴァレッジ(アライド・ロマー)のブランドで、日本向けに短期間もしくは一回限り(91年?)ボトリングされたと思われます。ヴァリエーションには12年90プルーフ、13年94プルーフ、15年101プルーフ、17年94プルーフ、ドライ86プルーフがありました。おそらくタバコの「ラッキー・ストライク」との直接的な繫がりはないと思いますが、そのタバコ銘柄の名称の由来はアメリカのゴールドラッシュ時代に金を掘り当てた者が言った「Lucky strike」と云うスラングに由来するらしいので、このバーボン・ブランドもケンタッキーのバーボン鉱脈に眠っていた金に等しい優良なバレルを引き当てた幸運というイメージで名付けられたのではないでしょうか。ボトリングはKBDがしています。
では、肝心の中身は何なのでしょうか? 可能性としては幾つか考えられます。一つは何処かしらの、例えばヘヴンヒルとか旧バーンハイムなどのKBDがストックしていた単一の蒸溜所のバレルをマーシィがピックし、使用しているというもの。或いはエヴァン・クルスヴィーンと共同でピックしたのかも知れない。もう一つはKBDの所有する複数の蒸溜所のバレルをエヴァンがブレンドして提供していたというもの。彼はそうして自らの味わいをクリエイトする達人だったと言われています。更なる一つはマーシィがユナイテッド・ディスティラーズから購入したスティッツェル=ウェラーのバレルをエヴァンがそのままボトリングしたというもの。当時は様々な熟成年数のバーボンが安く買えた時代でした。それは今や伝説となっているスティッツェル=ウェラーでさえも例外ではなかったでしょう。マーシィ自身が語るところでは、自分のプロダクトには非常に多くの様々なバレルを使ったが、2005年以前に作成したブランドにはS-Wを多く使ったそうなので、可能性は高いかと。バーボン探求者は中身を正確に知りたい欲求に駆られますが、もしかするとマーシィやエヴァン本人に中身の件を尋ねてみても、当時あまりに多くのブランドを造り過ぎて何に何を使ったか記憶しておらず、大雑把な回答しかしてくれないかも知れません。そんな訳でとにかく飲んでみるしか…。

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LUCKY STRIKE 15 Years 101 Proof
推定91年ボトリング。テクスチャーは柔らかいがパンチがある。仄かなキャラメル、高尚な木材、豊かなベーキングスパイスの香り。味わいは如何にも長熟という味わいで、タンニンが強く、レザーや土っぽさもある。ダークなフルーツは感じるが、これといった明確なフルーツは言えない。余韻は薬草感を伴ったオールドオークが恐ろしく長く続く。
Rating:87/100

別の機会に17年熟成の物を飲めたので、そちらをおまけで。これは大宮のバーFIVEさんの会員制ウィスキー倶楽部で提供されたものでした。17年は最も数量が少なかったと聞きます。

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(画像提供Bar FIVE様)
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LUCKY STRIKE 17 Years 94 Proof
推定91年ボトリング。赤みを帯びたブラウン。微粒子感のある液体。キャラメル、オールドオーク、オールスパイス、焦がし砂糖、オレンジピール、茴香、僅かに爪の垢、シナモンクッキー。甘く、かつスパイシーなノーズ。とても柔らかい口当り。パレートでは渋みが強い。余韻はスパイシーかつハービー。
Rating:88/100

Thought:長期熟成バーボンは木質な風味と木材由来のハーブ&スパイスの風味が勝ち過ぎて、表層的に似たり寄ったりの風味になると個人的には感じます。だから、正直、飲んでも何処の原酒か全く判りませんでした。ヘヴンヒルと言われればヘヴンヒルのようにも思えるし、スティッツェル=ウェラーと言われればスティッツェル=ウェラーのようにも思えてしまいます。飲んだことのある皆さんはどう思ったでしょうか? コメント欄よりどしどしご感想をお寄せ下さい。
15年と17年を比較すると、プルーフの高い15年の方が美味しいのではないかと思っていたのですが、加水量の多い17年の方が却って自分の苦手な風味が薄まったのか飲み易い上に若干フレイヴァーフルに感じました。但し、これは上に述べたように別の機会に飲んでいます。それ故にサイド・バイ・サイドでもなく、ボトルの状態や私自身の体調を考慮すると聊か信頼性に欠ける意見かも知れません。
マーシィはラッキー・ストライクを含む自分の初期のブランドのジュースに就いて、「stunning」ではなかったけれど常に「really good」だった、と語っていました。おそらく、最上級とまでは言えなくとも多くの製品はその少し下くらいの美味しさではあったという解釈でいいでしょう。これを飲んでみると、確かにそれは的確な表現のように感じられます。

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ワイルドターキー12年101は1980年代初頭に発売され始め、1999年にアメリカ国内での流通が停止されると以降は輸出市場のみでリリースされることになりました。そのお陰で日本では長いこと入手し易かったワイルドターキー12年も2013年には終売となり、それに代わって一部の市場でリリースされ始めたのがワイルドターキー13年ディスティラーズ・リザーヴ91プルーフでした。そして、永遠に続くと思われた沈黙を破り、2022年、遂にワイルドターキー12年101が帰って来ました。但し、これまた輸出専用となっており、オーストラリア、韓国、日本などの市場のみの限定的なリリースのようです。日本では2022年9月に発売されました。アメリカ本国のワイルド・ターキー愛好家には申し訳ない気持ちにもなりますが、彼らにはこちらで手に入り難い様々な製品(例えばラッセルズ・リザーヴ13年や様々なプライヴェート・ピック)があるのでお互い様ですかね。

この12年101は8年101と同様、デザインを一新したエンボスト・ターキー・ボトルに入っています。新しいボトルは鳥やラベルよりも液体に焦点を合わせることで、ワイルドターキーの特徴の一つである長期間の熟成をウィスキー自身の色味で視覚的に理解してもらう意図があるそうです。鳥の大きく描かれた古めかしい紙ラベルを廃止し、ボトル表面に浮き出たターキーとシンプルな小型のラベルにすることによって、モダンで都会的でスタイリッシュなイメージへと刷新する狙いなのでしょう。特筆すべきは付属のギフト・ボックスです。外側はバレルの木目が施されたインディゴ色のしっとりした手触りの厚紙で、蓋の内側にはアリゲーター・チャーを施されたバレルの内部を模したパターンがプリントされ、ボトルはこれまたインディゴ色のヴェルヴェットのようなクッションに収められています。マットな質感と落ち着いた色合いは高級感溢れるものとなっており、知人へのプレゼントにも自らの享楽にも適した仕上がり。蓋の裏面にはジミー・ラッセルからのメッセージもあります。
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我が息子エディと私は本物のケンタッキー・バーボンを蒸溜することに人生を捧げて来ました。それは私たちの血管を流れるものだと言えるでしょう。
 
私たちは100年以上続く伝統と工程に忠実に、初まりの日から正しい方法で物事を進めて来ました。なぜなら良いものには時間が掛る、この12年物のバーボンも例外ではありません。
 
このバーボンは、長く熟成させてより個性を増したところが、私に似ていると言われます。汎ゆるボトルに物語があると思いたい。なだらかな丘陵地帯、荒々しい荒野、力強い色彩などと共に、ケンタッキーのスピリットを感じて下さい。可能な限り最高レヴェルのチャーで熟成されたバーボンからのみ得られるリッチで芳醇なフレイヴァーを味わって下さい。
 
さあ、目を瞑って。先ずはバーボンの香りを嗅ぎ、それからフレイヴァーを口の中で転がして。それがこの12年物のワイルドターキー・ケンタッキー・バーボンの真の個性を味わう本当の方法なのです。
 
ジミー・ラッセル

これが本当にジミーの言葉なのかコピーライターの仕事なのか判りませんが、我々の魂に訴えてくる質の高いマーケティングの言葉であるのは確かです。では、この待ち望まれたバーボンをさっそく味わってみるとしましょう。
と、その前に少しだけ基本情報を。マッシュビルは75%コーン、13%ライ、12%モルテッドバーリー。バレル・エントリー・プルーフは115。熟成年数を考慮すると、2011年に新しい蒸溜施設へと転換する以前の原酒を使用していると思われます。そして、12年101はシングルバレルではなく、そのエイジ・ステイトメントも最低熟成年数なので、12年よりも古いバーボンがブレンドされている可能性はあるかも知れません。また、発売当初の13年ディスティラーズ・リザーヴのようには、どのウェアハウスのどこら辺に置かれていたバレルかの記載もありません。従ってタイロンかキャンプ・ネルソンどちらの熟成庫かも不明です。

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WILD TURKEY AGED 12 YEARS 101 Proof
2021年ボトリング。ボトルコードはLL/JL020936(推定2021年12月2日)。赤みを帯びた濃いブラウン。強烈な焦げ樽香、セメダイン、ココアウエハース、チェリーコーク、ヴァニラ、キャラメル、湿った木材、ミント、クローヴ、杏、チョコレート、ハニーローストピーナッツ、杉。アロマは香ばしく甘くスパイシー。滑らかでややとろみのある口当り。パレートはややドライで、ブラッドオレンジとグレインが感じ易く、ドクターペッパーぽい風味も。余韻は長めながらハービーなメディシナル・ノートとスモークが漂う。
Rating:88/100

Thought:開封直後に一口飲んだ時は、なにこれ薬? 渋いし、不味っ、と思いました。寧ろロウワー・プルーフの13年の方が水のお陰でフルーティさが引き出されたり樽の渋みが軽減していて良かったのかも知れないとまで考えました。ところが、妙な薬っぽさはすぐに消え味わい易くなり、徐々に渋みも落ち着いて美味しくなって行きました。そうなってみると、甘い香り、ダークなフルーツ感と複雑なスパイシネス、強靭なウッディネスと古びたファンキネスなどが渾然一体となった長熟バーボンの醍醐味を味わえます。
試しに今回の新しい12年と、とっておいた12の文字が青色の旧ワイルドターキー(即ち最も現行に近い物)をサイド・バイ・サイドで飲み較べてみると、旧の方がアルコールの刺激が少なく、やや味が濃いように感じました。これは開封からの経年でしょう。そうしたアルコールの力強いフレッシュ感を除くと、フレイヴァーの方向性は概ね同じに思いました。両者はかなり似ています。強いて言うと、青12年の方が枯れたニュアンスがやや強く、新12年の方がグレイン感が強めですかね。
地域限定販売となるこの12年101をなんとか手に入れた海外のバーボン・レヴュワーの評価は頗る良く、私のレーティングに換算すると大体92〜95点くらいを付けているイメージなのですが、率直に言うと私としては大好きなワイルドターキーではありません。その理由は、マスターズキープ・シリーズの長熟物やファザー&サン等に共通の「何か」のせいです。その何かとは、おそらくワイルドターキーの大家であるデイヴィッド・ジェニングス氏がこの12年101のテイスティング・ノートで「強烈なメディシナル・チェリー」と記述したものだと思われます。彼の仔細なテイスティング・ノートを見ると明らかに同じ物を飲んでいると感じる(表現は雲泥の差だとしても…)ので間違いないかと。この風味、私はバーボンに欲してないんですよね。
チェリーついでに言うと、これは喩えですが、(青12年よりもっと前の)大昔のターキー12年が「チェリー」そのものに近く感じるとしたら、近年の長熟ターキーは「チェリーコーク」と感じます。つまり大昔の物も近年の物もどちらも同じチェリー感がありながらも、どことなく違う風味で、昔の方が美味しかったように感じるのです。勿論、大昔の12年のようなプロファイルがどこのメーカーであれ現代のバーボンにないのは当然の話であり、較べる脳でいることが駄目なのかも知れません。それに、味の違いを分かる大人のように書いておいて、ブラインドで飲んだら全くトンチンカンな答えを言う可能性も大いにあります(笑)。
そうそう、もう一つ苦手な点を挙げるとすれば、オレンジの存在感です。バーボンの長熟物でオレンジっぽい柑橘風味が現れることが多いと思うのですが、私はオレンジよりアップルやグレープに喩えられる風味が現れる方が好きなのです。どうも近年の長熟ターキーはオレンジが感じ易い気がして…。皆さんはこのワイルドターキー12年について、或いは新旧の違いについてどう思われます? コメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。

Value:上で文句と受け取られかねないことを言ってしまってますが、私はワイルドターキー好きであり、この新しい12年を評して日本の或るバーテンダーさんが言っていた「現行としては良いよね」と云う言葉に賛同します。日本では7000円前後で購入出来ます。どうもその他の市場より割安みたいですし、昨今の長熟ウィスキーの高騰から考えると、特にアメリカ人からしたら信じ難いほどのお買い得な価格です。我々は「日本人の特権」を行使しましょう。

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(画像提供Bar FIVE様)

ブーンズノール16年は、ケンタッキー州コヴィントンのゴードン・ヒューJr.が所有していたミクターズ・ウィスキー(ペンシルヴェニア1974原酒)をジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世が輸出専用としてヨーロッパ市場向けに256本だけボトリングしたものでした。中身は16年物のA.H.ハーシュ・バーボンと同じとヴァン・ウィンクル自身が語っています。A.H.ハーシュ名義の物より本数が少ないせいか、セカンダリー・マーケットではより高価になったりします。世界的に有名な「決して味わえない最高のバーボン」であるA.H.ハーシュについては過去に投稿したこちらを参照下さい。ブーンズノールというブランド自体は禁酒法以前からありました。ジュリアン3世もしくはゴードンがどうしてその名を採用したのかは分かりません。おそらくこのブーンズノール16年と過去のブランドに直接の関係はないと思いますが、今回は興味深いオリジナルのブーンズノールとそれを造った蒸溜所を紹介してみたいと思います。

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ブーンズノールは19世紀後半からE.J.カーリー蒸溜所で造られていたブランドでした。創業者のエドワード・J・カーリーは1836年アイルランドのチュアムで生まれ、子供の頃マサチューセッツに移住しました(1837年にアイルランド移民の両親のもとマサチューセッツに生まれたとの説も)。カーリーの幼少期については殆ど知られていませんが、南北戦争中、マサチューセッツ騎兵隊に志願し、ケンタッキー州に渡ってユニオン・アーミーの購買部門で働いたようです。当時レキシントンとその周辺を押さえていたユニオンは、レキシントンからそう遠くないケンタッキー・リヴァー沿いのジェサミン郡にキャンプ・ネルソン(*)と呼ばれる奴隷解放された黒人を集めて兵士になるよう訓練する目的の施設を建設していました。オハイオ以南で最大のユニオンの拠点であり補給基地でもあったキャンプ・ネルソンに駐屯し、キャンプのために家畜、飼料、穀物などを調達することがカーリーのエージェントとしての仕事の大半を占めていたとされます。
カーリーは戦後もケンタッキー州に留まり、1867年に他の二人とパートナーシップを結んで蒸溜所を立ち上げました。パートナーの一人はミシガン州在住でユニオン・アーミーのコミッサリー・デパートメントのキャプテンだったドワイト・A・エイケンで、もう一人はキャンベルという人だったようです。彼らが蒸溜所のために選んだのはキャンプ・ネルソンのすぐ近く、ケンタッキー・リヴァーとヒックマン・クリークの北岸に位置する場所でした。この地域は開拓時代には重要な場所だったそうで、断崖の切れ目がヒックマン・クリークの河口の下のケンタッキー・リヴァーを渡る浅瀬に通じており、ダニエル・ブーンはここを好んで横断したらしい。それが理由ですぐ傍らの小山はブーンズ・ノールと呼ばれるようになったのでしょう。カーリーらの蒸溜所はブルー・グラス蒸溜所と呼ばれ、連邦政府からの登録番号はケンタッキー州第8区のRD#3でした。このプラントはアイアンにオーク材のラックで建造され、木材は敷地内のミルで製材されました。敷地内には自らのクーパレッジもあり、この地域の豊富なオークを使ってステイヴを供給していたそうです。倉庫にはライトや換気や防火のための最新技術を取り入れていたとされています。また、元々はウッデン・スティルだったのが後に取り壊され、品質管理に有利なカッパー・スティルが使われるようになったとか。彼らの製品はブルーグラス・ウィスキー(バーボンとライ)として販売され、これは「ブルー・グラス」という言葉を初めて商業的に使用した例となり、カーリーは瞬く間にこのブランドをアメリカ全土に知らしめました。何時かは判りませんが、シカゴのバイヤーに8600バレルを現代に換算して1900万ドルで売却したことが記録されたと伝えられます。1872年6月、カリフォルニア州サクラメントの新聞に掲載されたカーリーの地元の販売代理店が出した広告では、生産される酒の量より質により多くの注意を払い、製造に使用する水はケンタッキー・リヴァーの崖にある泉から湧き出る特殊な性質のもので、カーリーのウィスキーは経営者だけが知っているレシピで昔ながらの方法で造られている、と紹介されました。1874年には3人のパートナーシップは解散、エイケンはレキシントンに移って既存の蒸溜所を借り、D.A.エイケン&カンパニーとして1882年に火災と財政問題で閉鎖されるまで操業したらしいですが、キャンベルの方はどうなったかよく分かりません。ともかくカーリーはブルー・グラス蒸溜所の単独経営者となり、自分のウィスキーが全米で愛飲されていることを実感していました。
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(ラス・サットン氏のFacebook投稿より)
1880年頃、カーリーは対岸に立派で頑丈な石造りの2番目の蒸溜所を建設し、鉄骨の橋で連結します。こちらはブーンズ・ノール蒸溜所(第8区RD#15)と命名されました。当時の記録によると、マッシング・フロアーやファーメンディング・ルームの温度は一年中安定しており、配管や機械なども新しく効率的だったとされます。ブルー・グラス蒸溜所は一日600ブッシェルの穀物をマッシングする能力があったものの、その限界まで稼働することはなかったそうで、一方のブーンズ・ノールのプラントは或る時にキャパシティを増やし、1日1100ブッシェル、1日100バレルの生産能力があったようです。この二つの蒸溜所は本質的に一つとして運営され、貯蔵施設は共有されていました。サンボーン・マップや1892年の保険会社の記録によると、敷地内には15の主要な建物、4つの共同倉庫、ワゴン・トレイル、牛小屋や畜舎などがありました。カーリー(もしくはその後の所有者。後述)はE.J.カーリー&カンパニーの名の下でここを運営し、何時しかE.J.カーリー蒸溜所(またはキャンプ・ネルソン蒸溜所とも。サンボーン・マップにそうかれていた)と呼ばれるようになり、最高級のケンタッキー・ウィスキーを安定的に生産しました。主要ブランドはブーンズノール、ブルーグラス・バーボンとライで、他にロイヤル・バーボンというのがあったようです。
禁酒法以前のウィスキーに詳しいジャック・サリヴァンによると、東海岸での販売については、カーリーは限られた生産量の多くをニューヨークのチャールズ・フローブの会社に委ねていたそうです。1880年あたりから1900年代初頭に掛けて酒類卸業で成功を収めた彼の主力ブランドはブルーグラス・ライで、セラミック・ジャグやガラス・ボトルに入れて販売されました。フローブはブルーグラス・ライのブランドを精力的に宣伝し、非常に消化が良いし滋養があり完全に自然であるとして、「身体を活気づけ、吐き気を催さないため、療養に最適。 そのドライネスは糖尿病疾患に先ず必要である」と広告でその薬効を強調したとか。また、当時の多くの販売会社と同じように酒場の客向けにカラーのサルーン・サインを発行し、それにはケンタッキー・リヴァーを望むダニエル・ブーンが描かれたものがありました。しかし、そうしたマーケティングだけではどうにもならず、当時の他の蒸溜所と同様にE.J.カーリー&カンパニーも抑圧的な連邦税法と経済の悪化が重なったことで財政難に陥り、1889年、カーリーの馬と荷馬車は税金未納のため押収されたと言います。同年、カーリーは自分のインタレストを所謂ウィスキー・トラストであるケンタッキー・ディスティラリーズ&ウェアハウス・カンパニーに売却し、ニューヨークに移りました。この投資家グループは蒸溜所を買収して準独占状態を作り出すことでケンタッキー・ウィスキーからの利益を急増させようとしていたのです。トラストはカーリーの後任として新しいマネージャーにレキシントンの卸売酒類ブローカーのオーガスト・C・グッサイトを任命しました。トラストによって取得され閉鎖されてしまった多くの施設とは異なり、ブーンズ・ノール蒸溜所は禁酒法の到来によって完全に閉鎖されるまでの約20年間、カーリーのブランドの生産を継続したようです。カーリーの「ビジネスは何年にも渡って急速に成長し、ケンタッキー・バーボン生産の90%を掌握した後、彼は1902年にニューヨークでディスティラーズ・セキュリティーズ・コーポレーションを設立した」との情報もありましたので、もしかするとカーリー自身がトラストの幹部になったのかも知れませんが、ここらへんの詳細は私には分かりかねます。詳しいことをご存知の方はコメントよりどしどし追加情報をお寄せ下さい。

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(1905年頃の蒸溜所。すぐ左手にカヴァード・ブリッジが見える)

カーリーは、ケンタッキー・フライドチキンのハーランド・デイヴィッド・サンダースやブラントンズ・バーボンの由来となったアルバート・ベイコン・ブラントンのように、ケンタッキー州の名誉職として多くの人に与えられている「カーネル」の称号を何時しか得ていました。明らかに長期的な視野で蒸溜所を建設し運営していた彼は、ウィスキー事業に全力を注いでいたからなのか、結婚していませんでした。そのためでもないでしょうが、彼の晩年は少し寂しいものだったようです。カーネル・カーリーはニューヨークに移った後、ヨーロッパのどこかで事故に遭って脚を失い、数年の闘病生活を経てモンテカルロで1922年に亡くなったとされます。ケンタッキー・ウィスキーで築いた1000万ドルとも伝えられる財産を甥の息子達に遺して。この大金を受け継いだのはマサチューセッツ州ヘイヴリルに住むパトリックとジェイムス・キャニングの二人でした。この幸運を知らされた時、靴職人だった彼らは少しも動揺することも興奮することもなかったと言います。「もう歳だから、我々のやり方を変えるのは無理だよ。25年も靴を作り続けているんだから、これからもずっと続けるさ。家はペンキで塗り替えようかな、あと、もちろん、三人の娘には何でも好きなものを持たせてあげてね」とジェイムス。「そうだね」とパトリックも同意して「私たちはこの幸運を祝って、このまま靴工場に留まるわ」、「大富豪の生活を送るより、靴を作りたい」と語りました。ちなみにエドワードの兄弟M.H.カーリーはボストンの政治家として有名だったようです。

禁酒法の制定により閉鎖されたE.J.カーリー蒸溜所(RD#15)は、立派な石造りの外観を呈し、内部も美しい木材で造られていたため、1923年頃、ケンタッキー・リヴァーと断崖を望むリゾート・ホテルとしてダニエル・ブーン・ホテルへと改築されました。しかし、このホテルは世界恐慌が始まったことで開業することはなく、禁酒法が撤廃されるまで空き家となっていました。一方その頃、残ったウィスキーとブランドはトラストの後継組織であるアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS。後のナショナル・ディスティラーズの母体)が引き継いでいました。同社はドライ・エラにメディシナル・ウィスキーとしてボトリングすることを許可された6社のうちの1社でした。AMSを始めとする彼らは禁酒法によって閉鎖された小規模蒸溜所の酒類を買い取り、自社の集中倉庫に貯蔵していたのです。それらのウィスキーは多くの場合、蒸溜元とは異なる会社によってボトリングされ、医師の処方箋があれば手に入れることが出来ました。
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(禁酒法時代にボトリングされたオールド・ブーンズノールのメディシナル・パイント)

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禁酒法が解禁された後の1934年、グラッツ・ホーキンスらがこの土地を買い取り、蒸溜所の建物を改築して元の目的に戻し、新しい倉庫を建てて、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所という名で操業されることになり、レジスタード・ナンバーも新しくなりました(RD#45)。これはジョージ・T・スタッグのカーライル蒸溜所(第7区RD#2)が1910〜19年に名乗ったのと同じ名前ですが別物です。その後、工場はビル・トンプソンに買収され、F. B.ミッチェルのマネジメントのもとオールド・レイジー・デイズというブランドを追加したらしい。で、ここからなのですが、サム・K・セシルの本によると、トンプソンは1960年代の或る時期にプラントをノートン・サイモンに売却したとしていますし、他の情報源の多くも60年代にこの蒸溜所がノートン・サイモンに売却されたとしています。しかし、ニューヨーク・タイムズの1959年8月14日の記事によると、カナダ・ドライ社(**)はバーボン・ウィスキーの製造会社であるケンタッキー・リヴァー蒸溜所をプライヴェート・グループから買収したとあり、同社は1955年以来ウィスキーを「カナダドライ・バーボン」として自らの商標で販売して来たとありました。そして画像検索では1957年ボトリングの6年熟成とされるカナダドライ・バーボンが見つかりました。カナダ・ドライ社は1950年代以降、製品拡張に努めていたようで、ソフトドリンクを缶で販売することを大手企業としては早い段階に手掛けたり、カロリーゼロかつ砂糖不使用を謳うダイエット製品ラインであるカナダドライ・グラマーを主要な清涼飲料メーカーとして初めて1954年に発売しています。おそらく彼らは1950年代半ばから同ブランドでスピリッツも展開し始め、手始めにバーボンをケンタッキー・リヴァー蒸溜所に委託して生産していたのではないでしょうか? こうした供給元が販売会社によって買収されるのはよくある話です。
カリフォルニアの食品実業家ノートン・サイモン(1907-1993)は、自身のハント・フーズの利益が拡大するにつれ、成長が期待できる他の割安な企業の株を買い始め多角化を図りました。彼は多大な成功と市場支配力を持ち、持株会社のノートン・サイモン・インコーポレイテッドを通じて買収を続け多岐に渡る事業を展開しました(ハンツ・フーズ、マッコールズ・パブリッシング、サタデー・レヴュー・オブ・リテラチャー、テレビ制作会社タレント・アソシエイツ、カナダ・ドライ社、サマセット・インポーターズ、グラス・コンテナーズ・コーポレーション、ユナイテッド・カン・カンパニー、マックス・ファクター・コスメティックス、エイヴィス・レンタル・カーなど)。サイモンは或る時カナダ・ドライにも関心を持ち、彼の会社と合併させました。この取り決めの下でカナダ・ドライは、ワインとハード・リカーのボトラーおよび輸入業者であるサマセット・インポーターズの子会社として役割を果たしたのではないかと思われます。当時サマセットの社長はポール・バーンサイドで、ノートン・サイモン社はケンタッキー州ジェサミン郡ニコラスヴィルのプラントをカナダ・ドライ蒸溜所として運営しました。この蒸溜所でカナダ・ドライのバーボンを蒸溜し、ジンやウォッカを瓶詰めし、ドメックのブランドでブランディも瓶詰めしていたそうです。ちなみにカナダ・ドライのバーボン、ジン、ウォッカは管理州(***)でのみ販売されていたとか。
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60年代半ばからはカナダドライ・バーボンの広告も開始されたらしく、67年の広告では「良い響きの名前はバーボンの世界の伝統です。しかし、良い響きの名前はバーボンの味には何の役にも立ちません。カナダ・ドライはバーボンの味のために何かをしました。我々はそれをより滑らかにしたのです」と語られました。当時はライトな風味が求められる風潮もあってか、滑らかさを強調したのでしょう。しかし、どうやらカナダドライ・バーボンの売れ行きは芳しくありませんでした。サマセットがバーボン・ビジネスに参入しようと考えた時、バーンサイドはカナダ・ドライ・ブランド用のバーボンを必要以上に生産していたようです。しかも、なんでも倉庫の問題で一部のバーボンは品質が悪くカビ臭かったらしい。税金が掛るバーボンの在庫を抱えることは彼らの計画にそぐわず、売れなかった粗悪品を捨てる場所を探すしかありませんでした。1972年、巨大なコングロマリットであるノートン・サイモン社は、ジェファソン郡シャイヴリーにある評判の高いスティッツェル=ウェラー蒸溜所(RD#16)をヴァン・ウィンクル家から買収しました。そこでスティッツェル=ウェラー蒸溜所は暫く生産を停止し、余ったカナダドライ・バーボンの殆どを新たに買収したスティッツェル=ウェラーの最下位製品であるキャビン・スティルというブランドに混ぜ入れ、明らかに悪いウィスキーをカモフラージュしました。そのため伝統あるキャビン・スティル・ブランドは台無しになり、凋落が始まったという話が伝わっています。また、カナダ・ドライのバーボンはスティッツェル=ウェラーのウィーテッド・バーボンとは異なるライ・レシピのバーボンだったようです。正確な時期は判りませんが、カナダドライ・ブランドの終わり間際の短期間、ラベルには「Stitzel-Weller's」との文字が現れました。
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(E.J. Curley & Co.のウェブサイトより)
先のセシルによると、ケンタッキー・リヴァー蒸溜所は、一時期はエド・キミンズがマネージャーを務め、グラッツ・ホーキンスの甥であるメル・ホーキンスがディスティラーをしており(メルはカナダ・ドライ蒸溜所の最後のマスター・ディスティラーだった)、他にはメンテナンス担当のプラグ・ジョンソン、倉庫管理担当のレイ・クラークなど、長年の従業員がいたようです。ノートン・サイモン下でマイク・ソタクが全体のマネージャーになり、エド・ズィーグラーが化学者、ジーン・ストラットンがオフィス・マネージャーを務めたとされています。そして、この蒸溜所は1971年に操業を停止したとの情報がありました。近くに住んでいた人の話によると、1981年くらいには廃墟となっていたようで、後の1987年頃、どこかの愚か者がその場所を焼き払い、蒸溜所の建物は全焼したそうです。蒸溜所はとうになくなってしまいましたが、ケンタッキー・リヴァーのジェサミン郡側、ハイウェイ27号線のすぐ西にあるキャンプ・ネルソンのリックハウスはまだ残っています。その倉庫は一時期シーグラム社にリースされ、アンダーソン郡の工場(オールド・プレンティス蒸溜所)で生産していたものを同社がロータスに平屋造りの熟成庫を建設するまで保管していました。更にその後はアンダーソン郡のブールヴァード蒸溜所にリースされ、現在でもワイルドターキーが使用しています(注*参照)。

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偖て、ここまでブーンズノールを造っていた蒸溜所の歴史を紹介して来た訳ですが、ブーンズノールというブランド自体はAMSからナショナル・ディスティラーズが引き継いでいるようなので、禁酒法解禁後はケンタッキー・リヴァー蒸溜所では造られなかったのではないかと思います。上画像のオールド・ブーンズノールのラベルはナショナルの製品であることを示しています。製造はピオリアやルイヴィルのナショナルが所有していた施設なのでしょう。但し、これらが実際に販売されたのかどうか私には分かりません。少なくとも、大々的にキャンペーンされたり、長い期間販売されていた形跡はないので、50年代まで生き残らなかった可能性は高いのでは? おそらくナショナルは何時しかこのラベル(名前、トレードマーク)を放棄したのではないかと思います。
そうして長い年月を経て、歴史の塵となって忘れられたブランド名が、ラベル・デザインは全然違うものの、1990年代になって突如として現れます。冒頭で述べたようにジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世がゴードン・ヒューJr.のためにブーンズノールの名で16年物のミクターズ・バーボンをボトリングしたのです。繰り返しますが、何故ジュリアン3世がこのブランド名を採用したのか分かりません。このブランドは、彼が祖父の“パピー”から受け継いだラベル帳にコレクトされているのがムック本『ザ・バーボン PART3』の特集記事で確認できるので、ジュリアンがその存在を知っていたのは確実だと思われ、もしかすると名前が気に入っていたのかも知れませんね。それは兎も角、ブーンズノール16年はごく限られた本数しかなかったせいもあり、知る人ぞ知る存在であって、ブーンズノールの大復活とはなりませんでした。

そして、またもや長い年月を経て、バーボン・ブームに湧く現在、なんと新しいE.J.カーリー&カンパニーが発足し、歴史ある蒸溜所をジェサミン郡に復活させると2021年にアナウンスされました。新興E.J.カーリー社の社長マシュー・パーカーは、「ジェサミン郡で唯一の蒸溜所となることを嬉しく思っています。キャンプ・ネルソンとブーンズ・ノールの歴史はコモンウェルスにとって輝く星であり、E.J.カーリー社の元の場所でアメリカのスピリッツの生産を復活させることに感激している」と語っています。彼らは1800万ドルを投じる計画で、プロジェクトの第一段階には500万ドル以上の投資が含まれ、キャンプ・ネルソンのケンタッキー・リヴァー・パリセイズにあるオールド・ダンヴィル・ロード7777番地に、22500平方フィートの施設を建設するとのこと。新しい蒸溜所でのスピリッツ生産は2022年5月までに開始され、テイスティング・ルームも開設される予定だそうです。CEOであるリック・ベイカーは「第2期の1000万ドルの新規設備投資により、生産能力を年間15000から18000バレルに増強し、同じくジェサミン郡に大規模なリックハウス貯蔵施設を建設する予定です」と述べていました。今のところは「E.J.カーリー・ケンタッキー・ストレート・バーボン・ウィスキー」のスモールバッチとシングルバレルの2種類が発売されています。ユーチューブのバーボン・レヴュアーが取り上げていたので見たところ、その味わいはなかなか良さそうでした。これらはケンタッキーの何処かの蒸溜所から調達されたものでしょう。
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(新しいE.J.カーリー社のウェブサイトより)
1860年代後半に遡るそもそものE.J.カーリー蒸溜所はジェサミン郡に深く根ざし、周辺地域の住民の家族の多くは歴史的にその会社と結び付いていました。新しい蒸溜所もそうした雇用を創出すると期待されています。我々バーボン愛好家にとっては自社蒸溜原酒がどんな味わいになるのか、今後が楽しみですね。

では、そろそろ最後にジェサミン郡とは取り立てて関係なく、ケンタッキー産ですらないブーンズノール16年を飲んだ感想を少しばかり。こちらは大宮のバーFIVEさんのメンバー制ウィスキー倶楽部にて提供されたものです。マスターとバーテンダーのNさん、いつも貴重なバーボンをありがとうございます!

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(画像提供バーFive様)
BOONE'S KNOLL 16 Years Old 91.6 Proof
推定90年代初頭ボトリング。色は赤ぽさもオレンジぽさもある艷やかなブラウン。曇ってはいないが、何かの粉でも入ってるのかしらというほど微粒子が見える液体。枯木のような樽の香ばしさ、黒糖のような甘い香りと穏やかなスパイスが薫るエレガントなアロマ。水っぽい口当たり。パレートは香りを引き継ぐがフルーティさがやや足りない。余韻は複雑なハーブ&スパイスとオールドオークのビターな風味が長く続く。ただ、どうもボトリング・プルーフが低すぎる印象はあった。
Rating:88/100


*キャンプ・ネルソンは、アンブローズ・エヴェレット・バーンサイド少将のテネシー州への進軍を支援するため、1863年6月12日に設立され、北軍の補給基地、訓練センター、ホスピタルとして使用されました。名前はウィリアム・ネルソン少将にちなんで付けられています。北軍の指揮者は防衛のし易い場所としてジェサミン郡ニコラスヴィルの南の地を選びました。ケンタッキー州とテネシー州から集められた兵士の訓練施設としても機能しましたが、ユニオンのほぼ全ての州からの部隊がキャンプ・ネルソンに駐屯したり通過したりしたそうで、最盛期には300以上の建物があり、3000人以上の兵士を駐屯させることが出来たそうです。
キャンプ・ネルソンは南北戦争中にケンタッキー州にある8つのアフリカ系アメリカ人徴集センターの中で最大かつ国内で3番目に大きいユナイテッド・ステイツ・カラード・トゥループス(USCT)の徴集センターおよび訓練施設となりました。入隊に関する全ての制限が1864年6月までに撤廃されると、アフリカ系アメリカ人の入隊者数は爆発的に増加。以前は奴隷だった彼らは入隊することで解放され、1864年と1865年で10000人以上の奴隷だった男性がキャンプ・ネルソンで兵士になったと言います。自分達の自由を確保し、最終的には奴隷制の破壊に貢献することで自分の未来をコントロールすることを期待して、何千人ものアフリカ系アメリカ人が奴隷保有州のケンタッキー内に在るこのキャンプに命掛けで逃げ込みました。彼らは妻や子供ら家族を連れてキャンプ・ネルソンにやって来たためキャンプは難民で溢れ返り、この状況にどのように対応するか明確な命令がないままキャンプ指揮官達は自分達の手で問題を解決することを余儀なくされ、1864年、キャンプ・ネルソンの指揮官だったスピード・S・フライ准将は難民の住居を焼き払い強制的に退去させました。避難所も食料もなく多くの人が病気に罹り死んで行ったそうです。北軍幹部とアフリカ系アメリカ人兵士はこの処置に難色を示し、フライはこの命令を取り消して難民キャンプを設立せざるを得なくなりました。キャンプの運営には宣教師たちが協力し、学校や教会のサービスを提供しました。宣教師の中で最も注目されたのは、ジョン・G・フィー牧師です。フィーは奴隷制度廃止論者で、ブリアー・カレッジを設立し難民に入学を勧めました。
キャンプ地の一部は1863年以来墓地として使用され、1866年までに1180人が埋葬されたと言います。南北戦争後、1866年にナショナル・セメテリーと名付けられた墓地はケンタッキー州の他の場所に埋葬されていた北軍死者の再埋葬に使用されました。1866年6月にキャンプ・ネルソン軍事基地は正式に閉鎖されましたが、キャンプと墓地の名残は保存され、現在はアルケオロジカル・サイトとして見学ツアーに開かれています。墓地の反対側には、嘗てシーグラムがフォアローゼズを保管するために使用し、今はワイルドターキーがウィスキーを熟成させている6つのリックハウスがあり、ここの倉庫から産出されるバレルはワイルドターキーで最高の物とされる場合もあってバーボン愛好家には有名です。
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(ボー・ギャレットが提供するワイルドターキーのキャンプ・ネルソン・リックハウスの配置が分かる画像)

**カナダ・ドライ社は1890年代に薬学者/化学者のジョン・J・マクラフリンによってトロントでスタートしたソーダ会社で、1904年にカナダドライ・ペール・ジンジャーエールを造りました。1919年にニューヨークへの出荷が開始され、奇しくもアメリカの全国禁酒法がカナダドライを人気商品にするのを助けました。禁酒に対して真面目な人は酒の代わりにカナダドライを飲み、禁酒に対して不真面目な人は違法な酒を手にした訳ですが、そうした酒の殆どは低品質でまともに飲めたものではなく、それらにカナダドライ・ジンジャーエールをブレンドすると酒の味をカヴァーしてだいぶ美味しくなり飲めるようになった、と。

***アメリカにおけるアルコール規制は、各州ごとに独自の規則があります。飲料用アルコールの規制システムには開放州(オープン・ステイト)と管理州(コントロール・ステイト)の二種類があって、ボトルが消費者の手に渡るまでに異なる経路を辿り、それぞれブランド構築のための異なる戦略が必要とされています。
開放州ではアルコール飲料の販売と流通は民間事業者が行いますが、依然として州議会によって規制されています。規制は主に免許制で行われ、州の裁量でアルコールの売買を許可するライセンスが民間企業に付与されます。開放州で事業を行うメリットは一般的に、リカー・ストアへのアクセスが良くなり、消費者にとって飲料の選択肢が増え、更により多くの商品へのアクセスが可能になるため管理州よりも価格が低くなる傾向があるところ。
管理州では政府機関がシステムの卸売りの側面を担当し民間の小売店に製品を配送するか、殆どの管理州が小売の側面も所有していることが多く、これは通常、州が運営するアルコール飲料管理局(Alcohol Beverage Control Board)の店舗という形で行われます。全ての管理州では、各製品の最低価格が州によって設定され、消費者のための価格が決定されます。一般的な管理州のメリットとしては、州の歳入、アルコール・プログラムへの支援や教育、節度ある消費の促進など。現在のアメリカでは以下の17州が管理州です。
アイオワ
メイン
ミシガン
ミシシッピ
モンタナ
オハイオ
オレゴン
ヴァーモント
ワイオミング
ウェスト・ヴァージニア
アラバマ
アイダホ
ニュー・ハンプシャー
ノース・キャロライナ
ペンシルヴェニア
ユタ
ヴァージニア
また、メリーランド州モンゴメリー郡は管理州制度で運営されていますが、州全体はそうではありません。

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(画像提供F氏)

マスターズ・レアは、今となっては正に名前の如くレアなバーボン。グレンモア・デイスティラリーズが1970年頃に導入したブランドです。現代に生き残っていない古いブランドにありがちなことですが、ネットで探っても情報が殆ど見つからず詳細は分かりません。よって以下は憶測になります。おそらく、マスターズ・レアという名前からしても、ラベルのデザインからしても、限定的で高級志向なバーボンだったのではないでしょうか。また90.9プルーフという半端な数字でのボトリングなどには、どことなく現代のプレミアム・バーボンに通ずる趣が感じられます。

このバーボンの面白いところと言うか興味深いところは、ラベルに「SINCE1836」と、ジョセフ・ワシントン・ダントの有名なログ・スティルの創業年を記載しているところです。当時、「J.W.ダント」というブランドはシェンリーが所有していました。そのため、何故グレンモアがJ.W.ダントの創業年を匂わせるん?となる訳ですが、これはおそらくイエローストーン・コネクションによるものかと思われます。JWの息子であるジョセフ・バーナード・ダントはゲッセメニーに独自の蒸溜所を建設し、それをコールド・スプリングス蒸溜所と名付けました。ルイヴィルの卸売酒類業者テイラー&ウィリアムズ社は、この蒸溜所から供給されるバーボンでイエローストーン・ブランドを作成すると、すぐにヒットさせ彼らの旗艦ブランドにしました。この間にダントのディスティラーとしての評判は高まりましたが、禁酒法によりゲッセメニーの蒸溜所は一旦停止されてしまいます。禁酒法期間中、テイラー&ウィリアムズは薬用ウィスキーの販売ライセンスを持っていませんでしたがブランドを維持し、ウィスキーの保管料とボトリング手数料を払うことで、ライセンスを取得していた企業の一つブラウン=フォーマンによってイエローストーンは販売されました。禁酒法が解禁されると、JBとその息子達は蒸溜会社としてイエローストーン社を設立し、ルイヴィル郊外のシャイヴリーに新しい蒸溜所を建設しました。禁酒法以降、蒸溜所を始めるのは簡単ではありませんでしたし、40年代には戦争もありました。そのせいなのか、1944年にイエローストーン・ブランドはグレンモアにより購入され、同社は以後それを主力ブランドの一つにしていました。バーボンという「商品」のマーケティングは、伝統を重んじ、如何に歴史を遡れるかで価値が高まるようなところがあります。「なんと創業は18○○年!」などと言って。だからこそ、マスターズ・レアのラベルでJ.W.ダントの創業年を謳っているのではないかと…。

1966年頃にはイエローストーンはケンタッキー州で最も人気のあるブランドになったと言われますが、1970年代を迎える頃にはバーボンの売り上げは年々減少し汎ゆる蒸溜所の倉庫は満杯となっていたとも聞きます。そういう観点からすると、マスターズ・レアはNAS(熟成年数の記述なし)ながら、少なくともある程度は長期熟成原酒を含むのではないかと想像しています。ブランド名に使われる「レア(希少さ)」というワードにしても長熟の高尚表現と勘繰ることが出来るでしょうし。
ボトル前面下部のラベルに記載の「Bottled at the distillery by MSTER'S RARE DISTILLING CO. Louisville, Ky.」のマスターズ・レア・ディスティリング・カンパニーというのは想定企業名(架空企業名、DBA)ですが、所在地がルイヴィル表記であるところからすると、ボトリングはイエローストーン蒸溜所でしょう。使用している原酒もイエローストーンの可能性は高いと思いますが、グレンモアのもう一つの蒸溜所であるオーウェンズボロのプラントから来ている可能性も否定できません。何しろ「Distilled」とは書かれてませんから。また、海外の有名なバーボン掲示板で或るアメリカン・ウィスキー愛好家の方は、ダントの創業年とルイヴィルの所在地を記載しているところから、JBの弟のジョン・P・ダントの蒸溜所から来ているのではないかと書いていました。まあ、どれも憶測ではあります。海外のオークション・サイトの商品説明文ではグレンモア蒸溜所で製造された、と書かれていました。前後の文脈からしてオーウェンズボロのプラントを指していますね。

偖て、このようなレアなバーボンを飲むことが出来るのは、今年の4月から長野県諏訪市に新しくオープンしたバーボン・バー「Fujisan's_Bar」のマスターのご厚意によるものです。マスターのF氏とはインスタグラムで知り合い、バー開店以前から同じバーボン好き同士として仲良くしてもらっていたのですが、お店のストックの中でも希少な部類に属する物を開封したので是非味見をして欲しいとのことで、サンプルを送って頂けたのです。本来ならこちらがオープン祝いに何かしらせねばならぬところ、逆にこんなにも希少な物を飲む機会を提供して頂き感謝しかありません。この場を借りて再度お礼をさせて下さい。画像提供も含め、本当にありがとうございました! そして、いつかお店に伺いたいと思っております。最後尾にお店の紹介をしてありますので、バーボン好きの方は是非ともチェックしてみて下さい。では、飲んだ感想を少しばかり。

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MASTER'S RARE 90.9 Proof
推定70年代ボトリング。赤みを帯びた濃いブラウン。黒蜜、樹液、アニス、フェンネル、炭焼ハンバーグ、ドライオレンジ、お爺ちゃんの薬箱、レモングラス、僅かにバター。ノーズは濃密な甘い香りと爽やかなスパイス香が主で、柑橘系の香水のような香りも。水っぽい口当たり。パレートは複雑なハーブ&スパイス、収斂味も。余韻は長く、ややドライでハービー。アロマがハイライト。

中身に関する情報が全くないのですが、飲んでみるとけっこう長熟なのでは?というフレイヴァーに感じました。10年は超えていそうなマチュレーションです。時間をおくと複雑に変化する香りが面白く、崇高性を感じました。個人的には味わいにもう少し熟成フルーツもしくは濃い色のフルーツを、または甘みを感じたかったですかね。
Rating:88/100


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バーボンをコレクションして十数年のオウナーが、昼間農業に勤しむ傍ら、上諏訪駅から徒歩5分の位置にオープンした隠れ家的なバー。小さいながらも白を基調とした小綺麗な印象の店内は、アメリカン・ポップな飾りでレトロな雰囲気が味わえます。80〜90年代のオールド・バーボンを中心とした品揃えを、当時の仕入れ価格をもとにしたリーズナブルな値段で提供。パピー・ヴァン・ウィンクルからワイルドターキー、プリ・ファイアー・ヘヴンヒルからエンシェント・エイジまで。バーボンが8割、スコッチ1割、ジャパニーズとその他が1割という構成です。厳しい世の中にも拘らず、ほぼバーボンしかないお店を開く男気に乾杯。

Fujisan's_Bar
長野県諏訪市大手2-3-3桑澤店舗ビル1階

営業時間
月 19:00 〜24:00
火 19:00 〜24:00
水 19:00 〜24:00
木 19:00 〜24:00
金 19:00 〜25:00
土 19:00 〜25:00
日 19:00 〜24:00 

休日
殆どの場合やっていると思われますが、不定休のため利用前に店舗に確認するの無難かと。連絡は下記のエキテンのサイトが便利そうです。

Instagram
https://instagram.com/fujisans_bar?igshid=YmMyMTA2M2Y=

エキテン店舗情報
https://s.ekiten.jp/shop_34423568/?from=top_page

You Tubeでお店が紹介されていました

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今回取り上げるパイクスヴィルは、元々はメリーランド州で蒸溜されていたブランドで、その歴史は1890年代にまで遡れます。メリーランド州は嘗てアメリカでケンタッキー州とペンシルヴェニア州に次ぐウィスキー蒸溜の大国でした。禁酒法以前のピーク時には44の蒸溜所があったと伝えられ、その半分がボルティモアに集中していたそうです。パイクスヴィルは、古き良き時代のライ・ウィスキー産業が徐々に消滅して行くなかで、1972年まで生産され続け、最後まで残っていたメリーランド・ライでした。パイクスヴィルとその弟分のリッテンハウス・ライは、現在ケンタッキー州のヘヴンヒル蒸溜所によって造られています。リッテンハウスはもともとペンシルヴェニア・スタイル、パイクスヴィルはメリーランド・スタイルでしたが、両者はヘヴンヒルのスタンダード・ライ・マッシュビルを使用しているため、これらの過去のスタイルは今では失われています。歴史的なスタイルの喪失を嘆くことは出来ますが、現在のケンタッキー・スタイルを不当に判断してはならないでしょう。注目すべきは、パイクスヴィルはヘヴンヒルが生産するライ・ウィスキーの中で、パーカーズ・ヘリテッジ・コレクションのライを除けば最もプレミアムなものであることです。また、ヘヴンヒルはそのフラッグシップであるエヴァンウィリアムス・バーボンを1783年に遡ると騙りますが、おそらく実際にはパイクスヴィルが同社のポートフォリオ全体で最も古いブランドです。そこで今回はメリーランド・ライの歴史を振り返りつつ、パイクスヴィル・ブランドの複雑で興味深い来歴を見て行きたいと思います。

ペンシルヴェニアとメリーランドはライ・ウィスキーに最も縁のある場所です。これらの地域は、ケンタッキーと同じように石灰岩が下層にある地質をもち、ウィスキーに適した良質な水の供給がありました。その一方の雄メリーランド・ライの黄金時代には、ハンター、マウント・ヴァーノン、カルヴァート、メルヴェール、モンティチェロ、オリエント、シャーウッド、ウォルドーフ、アンティータム、ブラドック、ホーシー、ロックスバリーなど、嘗て彼の地で蒸溜されたほんの数例を挙げるとアメリカ中の愛好家が即座にメリーランドと結びつけました。メリーランド州の蒸溜の歴史は、おそらく1600年代にまで遡ると思われますが、先ずは蒸溜酒ではない別のお酒の話から始めます。
Marycolony
(wikipediaより)
アメリカ中部大西洋岸の入植者たちの飲酒生活に於いてリンゴは重要な役割を果たしました。それはメリーランド州でもそうでした。北米でのリンゴの収穫は1607年にヴァージニア州ジェームズタウンに入植した人々から始まり、彼らはヨーロッパから種子や挿し木を持ち込みましたが、当初植えられていた品種は新大陸での栽培に適したものばかりではなく、その種から全く新しい品種のアメリカ産リンゴが生まれ始めます。このリンゴは非常に苦く、人間の食生活には全く適していませんでした。殆どの入植者は自分でリンゴを栽培していましたが、衛生面を考慮して食事の際には水の代わりに発酵させたサイダーを出すことが多く、子供には薄めたサイダーを出していたそうです。
1631年、メリーランド州にヨーロッパ人初の入植地をイギリスの毛皮商人ウィリアム・クレイボーンが設立しました。1632年に英国王チャールズ1世は、ジョージ・カルヴァート(の死のため息子のセシル)にメリーランド植民地の勅許状を与えます。その時点では、すでに北の植民地からリンゴが伝わり始め果樹園が出来ていました。この「スピッター」と呼ばれるリンゴを発酵させることで、生のリンゴよりも長持ちさせることが出来ました。余ったサイダーを蒸溜すれば更に長持ちし、スペースも無駄な農産物も節約できる訳です。植民地の進取的な農家は厳しい冬を利用して、ハードサイダーを寒い外に置いていました。サイダーが凍り、氷を掬い取ると、濃縮されたアルコール溶液が残ります。凍らせる回数が多ければ多いほどアルコール濃度が高くなり、この作業は「ジャッキング」と呼ばれていました。これがアップルジャックの「ジャック(jack)」です。蒸溜技術が植民地の農家にも浸透してくると、より安全で市場性の高い製品を造ることが出来るようになりました。アップルジャックを商業的に生産したというメリーランド州の蒸溜所の歴史的な記録はないようですが、中部大西洋岸諸州やニュー・イングランドの類似した記録から、農家がしばしば個人消費のためにアップルジャックを製造していたのは間違いないようです。
そして植民地時代のメリーランドでは、ウィスキーが普及する前に愛飲されていたのはラムでした。それらの多くは悪名高い糖蜜─ラム─奴隷の三角貿易を形成していたマサチューセッツとロード・アイランドから齎されました。しかし、1770年代後半には増税と海軍の封鎖によりメリーランドの富裕層以外はラムにアクセス出来なくなります。それでも、幸いライ麦は豊富にあり、しかもメリーランドの農民となったスコットランドやアイルランドからの移民は、それを蒸溜するための知識も持ち合わせていました。1800年代になると、個人経営ではない大規模な商業蒸溜所がメリーランド州全体に出現し始めたと云います。この頃には、消費者は高価で手間のかかるアップルジャックからより手頃な価格のグレイン・ウィスキーへと移って行きました。

Rye_Mature_Grain_Summer

アメリカで植民地時代が始まって以来、メリーランダーズは州の代表的なライ・ウィスキーのスタイルとなるものを先駆けて開発していました。モノンガヒーラとしても知られるペンシルヴェニア・ライほどスパイシーでペッパー・フォワードではないメリーランド・ライは、ライ麦以外を豊富に使いソフターでニュアンスのあるパレートを誇っていたとされます。ただ、残念ながら多くのスピリッツの初期の歴史と同様に、メリーランド・スタイルとは何かを正確に定義することは難しいようです。古典的な二大ライ・ウィスキーについてマッシュビルに焦点を絞ると、ペンシルヴェニア・ライは一般的に100%に近いライ麦のマッシュビルから造られ、メリーランド・ライはライ麦以外の何か(コーン、大麦、小麦またはそれらの組み合わせ)を多分に含むマッシュビルで造られた可能性が高い、というのが大まかな説です。メリーランド・ライの「原型」を示唆する包括的な理論はそれ以上ありません。ボルティモア周辺では大麦で仕上げ、海岸の方ではコーンで仕上げ、メリーランド西部では小麦で仕上げている証拠があるらしく、ひとつの町でも複数の蒸溜所が設立の経緯やその時入手しやすい穀物に基づいて、全く異なるマッシュビルを使用している可能性が非常に高いようです。
一方で、マッシュビルを見るだけではウィスキーの全体像を把握することは出来ず、穀物の混合比率はウィスキーを特別なスピリッツにする複雑さや深さの構成要素の一つに過ぎないとも言えます。専門家が穀物を選ぶことの重要性を指摘するように小麦、ライ麦、コーンには何百もの品種があり、異なる土壌や水や日光の条件下で同じ品種を栽培していても組成には差異が生じるでしょう。また、エイジング・プロセスは汎ゆる自然条件と地域的な環境条件の変化に影響されます。気温や湿度、リックハウスの温度や空気循環に至る全てが木材からのフレイヴァー抽出に多大な役割を果たしており、メリーランドのような条件を備えた場所は世界中でメリーランドしかありません。と、すればメリーランド・ライの味わい及び伝統や歴史の大部分は、彼の地で栽培されていた品種やその環境条件に直接由来しているという信念を生み出すこともありそうです。また、初期メリーランド醸造所からエール及びポーター用のトップ・ファーメンティング・イーストがその地域のディスティラーに貸与され、特徴的なエステル・ノートに貢献した可能性を示唆する歴史家もいます。孰れにせよ、スタイルは十分に独特であり、メリーランドはアメリカン・ウィスキーのトップ生産州としての地位を確立しました。

上のようなレシピの形成は農民蒸溜家の間から自然発生的に出て来たのではないでしょうか。おそらく最初のウィスキーはチェサピーク湾とその支流の沿岸で製造されたと見られます。イギリス植民地のヴァージニアが設立された後、すぐにチェサピーク湾岸やメリーランドの上流にも他の入植地が形成され、これらの入植地で穀物の一部を蒸溜してウィスキーを造るようになった、と。これはこの地域にラムの人気が一時的に高まる前の話です。
当初は、ウィスキーを造るために用意された僅かな余剰穀物を使って、慎重にウィスキーを製造していました。しかし、やがて農地の開墾が進むと、収穫の際にはウィスキーにまわせるだけの穀物が出来ました。最初に広く栽培された野性の穀物はライ麦です。ライ麦は土壌条件が悪くても育ち、雨が少なすぎても多すぎても耐えられ、霜にも耐えられ、秋に植えることも出来る上、冬の雪解け後に再び成長を始めました。それは完璧とは言えない農地にぴったりの穀物でした。当時は小麦もあったもののその栽培は難しく、コーンはまだ彼らにとって新しい存在で、それらに較べるとライ麦の取り扱いは比較的簡単だったのです。ヴァージニアとメリーランドではタバコ栽培の影響で農地が荒廃し、必要な栄養分や窒素が失われていました。被覆穀物として選ばれたライ麦は窒素を回復させる効果があり、季節的に交代すると土地にプラスでもありました。おそらくアメリカで最も初期のウィスキーがライ・ウィスキーだったのは、こうしたライ麦の頑強さのお陰だったと言えるでしょう。
農家でコーンの栽培が進むと、ライ麦と一緒に使うことを考えた人もいたと思います。コーンはライ麦のスパイスに甘みを加え、オール・ライのウィスキーを飲み慣れた口には適度なコーンは具合の良いウィスキーになる、と。しかし、コーンを入れすぎると、ライ麦を飲む人にとっては甘すぎて味気ないウイスキーになってしまうので、マッシュの大部分はライ麦のままでした。更にコーンはライ麦ほど簡単には栽培できず、当時の人々はウィスキーより寧ろ食用にしたいと考えていました。そのためコーンは大抵はライ麦よりも少ない成分に留められていたようです。
メリーランド植民地のウィスキーは、3回蒸溜することもよくあったと聞きます。これはウィスキーの故郷の一つアイルランドでは3回蒸溜する習慣があり、カトリック教徒に開かれた植民地であるメリーランド州にはアイルランド系カトリック教徒が多く住んでいたので、彼らが伝統的な技術を身に付けていたからでした。元々は、技術が未熟な段階では不純なウイスキーを造ると味が悪くなったり、下手をすると病気にさえなる可能性があったため、3回の蒸溜はスピリッツの純度を保つために必要だったらしい。更に北のペンシルヴェニアではドイツ人とスコットランド人の移民が多く、二回蒸溜が普及していました。彼らの殆どはウィスキーとシュナップスの蒸溜を2回行うことが多かったそう。こうした傾向は緩やかではあっても、それぞれの地域のディスティラーが概ね従っていたものでした。蒸溜プロセスの完成度が高まり純度が向上した進化の後半では、多くのメリーランド蒸溜所も3回目の蒸溜を廃止しましたが、初期のメリーランド民が親しんだクリーンかつスムーズな味への欲求の名残はあったのかも知れません。
時として、発酵プロセスを助けるためにライ麦の一部や大麦を麦芽にしてマッシュに加えることもありました。大麦を麦芽にすることで酵素が導入され、温水のマッシュに加えることで酵母を活性化させます。アイルランドでは、伝統的に麦芽と非麦芽の穀物を混ぜて使用していました。これは旧世界で麦芽穀物に課せられていた税金を回避する方法として始まったそうです。モルト化された穀物はモルト化されていない穀物とは僅かに異なるフレイヴァーを生み出します。新大陸の疎らな環境で穀物を製麦することは蒸溜者には避けたい作業であったため、マッシュに少量の麦芽を入れるだけで酵素の効果が得られることは利点と理解され、この少量の麦芽がメリーランド・ライにダイナミックな味わいを生み出すことにも繋がりました。小麦やオーツ、更にはバックウィートなどの穀物を加えるのは、余った穀物を使い切るため、或いはその蒸溜者の好みの味にするためであったと推測されます。これら全ての理由から、チェサピーク沿いのメリーランド初期のファーム・ディスティラーの多くは、一般的にルーズなレシピでウィスキーを造るようになったのでしょう。

このような進化が大西洋中部の植民地で起こっていた頃、先述したように別のスピリッツが人気を集めていました。ライ・ウィスキーが広く親しまれる以前にメリーランドの一般的な入植者が選んだハード・スピリッツは、主にマサチューセッツ州とロードアイランド州の蒸溜所で造られたラムでした。ラムはカリブ海の島々から輸入した糖蜜を使って植民地内で蒸溜され、アメリカ革命戦争(1775-1783年。日本では独立戦争)と呼ばれるグレート・ブリテンと13植民地の間の軋轢が起きるまで、その人気はウィスキー以上だったのです。しかし、戦争中にイギリスがチェサピーク湾を封鎖して糖蜜やラムなどの輸入品を遮断すると、13植民地とカリブ海の島々との貿易は停止し、糖蜜をベースとしたスピリッツの製造に必要な材料も失われてしまいました。これがきっかけとなり、「喉の渇いた」アメリカ革命軍は戦いの前に渇いている訳にはいかず、農民蒸溜家たちは100年以上前から少しずつ行っていたウィスキー造りを盛んに行うようになります。穀物の取引よりも遥かに儲かるウィスキーの樽は、穀物や小麦粉よりも輸送が容易で1パウンドあたりのコスト効率が良くなりました。その需要は非常に大きく、コンチネンタル・アーミー(アメリカ独立戦争時、後にアメリカ合衆国となる13植民地により編制された軍隊)の記録にも、薬用や士気高揚のためにライ・ウィスキーを大量に購入したことが記されているそうです。コンチネンタル・アーミーの総司令官を務め、農業を科学的に捉えることを目指していたジョージ・ワシントン将軍も、自身のマウント・ヴァーノンの敷地内にスティルを設置していたことは有名です。

革命後、誕生したばかりの連邦政府は戦時中に積み上げた莫大な負債を回収するという困難な課題に直面しました。その第一歩として、政府は当時の財務長官アレグザンダー・ハミルトンが考案した「蒸溜酒」に課税するという計画を発表します。メリーランド州の4人の議員のうち3人はこの法案に反対しました。1791年のこの税は実際に生産されたウィスキーだけでなく休止中のスティルの容量にも課税されていたため、強い反発がありました。また、この税は現金での支払いを要求していたため、現金に乏しく日常生活では伝統的な物々交換システムに頼っていたメリーランド州西部の入植者には更に厳しいものでした。農民達の主要な市場商品が連邦政府の税制で脅かされるようになり、1794年夏までに(当時の)西部辺境の緊張感は熱狂的なレヴェルにまで達し、最終的には武装蜂起となった抗議行動はウィスキー・リベリオンと知られています。1794年後半になると殆どの暴動は先の革命戦争よりも総兵力が多かった連邦民兵によって鎮圧されました。違反や暴力的なデモは主にペンシルヴェニア西部に限定されていましたが、メリーランド州でもカンバーランド、ヘイガーズタウン、ミドルタウンを中心に小規模な騒動が発生し、フレデリックでは「ウィスキー・ボーイズ」がやって来て州の武器倉庫を空にしてしまうのではないかという恐れもありました。ウィスキー・リベリオンの抑圧は、税金に抵抗した多くの小規模蒸溜業者がオハイオ・リヴァーを下って当時まだ連邦政府の管轄外だったケンタッキーに避難するという予期せぬ効果を生み、そこで彼らがバーボンを発明したという神話がありますが、実は全ての成功したケンタッキー・ディスティラーズは主にメリーランドから山を越えて来たと言われています。そこからバーボンがメリーランド・ライのコーン多めのマッシュビルに何らかの影響を受けていた可能性を示唆する歴史家もいます。忌み嫌われたウィスキー税はペンシルヴェニア州西部以外ではほぼ法的強制力がなく、同地でも税金の徴収にあまり成功しないまま1803年に撤廃されました。

ジョージ・ワシントンが蒸溜に乗り出す一年前の1796年、ボルティモアの最初の国勢調査では、早くも市内で操業している4つの本格的な商業用蒸溜所がリストされています。ピーター・ガーツ、コンラッド・ホバーグ、フランシス・ジョンノット、ジョン・ツールが経営者とされ、彼らが何を蒸溜していたのか詳細は不明ですが、その中にはターペンタイン(テレビン油)も含まれていたそうです。初期商業蒸溜所の中で、1810年代から少なくとも1840年代までと最も長く続いたのはジョセフ・ホワイト・ディスティラリーでした。所謂「エコ」な操業を行ってたそうで、蒸溜所のスペント・マッシュ(蒸溜過程で使い終えた穀物の残滓)は、地元の農家に無料で豚の飼料として提供されたと云います。1802年にトーマス・ジェファソンが大統領に就任するとウィスキー税は最小限に引き下げられ、1810年から1840年にかけてアメリカの蒸溜所の数は倍増しました。その結果、当時アメリカの酒類消費量は歴史上最も多くなったとされます。その後、個々の蒸溜所の数は減少したものの一ヶ所あたりの生産量は増加し続けました。
この時期はメリーランド州西部でもライ・ウィスキーの生産が盛んになります。市場へのルートは、馬車でウィリアムスポートまで行き、そこからポトマック川、後にはチェサピーク&オハイオ運河を船で下るというものでした。初代アメリカ合衆国大統領の名を冠した郡としては国内初だったというワシントン郡では、南北戦争の直前に26ものグレイン蒸溜所が営業していたと推定され、その多くはヘイガーズタウンの北に位置するライターズバーグに集中していたそうです。1861年以前の最大の蒸溜所は、アンティータム・クリークに位置し、20馬力のエンジンで1日に50〜60ブッシェルの穀物を処理することが出来、ロバート・ファウラーとフレデリック・K・ズィーグラーによって運営されていました。おそらく街の名士?だったファウラーが1850年に製粉業者に転身し、1853年にズィーグラーと共にファウラー&ズィーグラー社を設立。ズィーグラーはワシントン郡に残り製粉所と蒸溜所を経営し、ファウラーはボルティモアに移り、有名な「ズィーグラー」ウィスキーを始めとする製品の販売を手配したそう。ワシントン郡の他の蒸溜センターとしてはインディアン・スプリングス、クリア・スプリング、ケンプス・ミル、ペン=マー、スミツバーグなどにありました。
余談ですが、サルーン文化が普及する以前はメリーランド州の酒類やウィスキーは地元の食料品店が主に販売していたそうで、大学や病院の名前になっているあの有名なジョンズ・ホプキンスもクェーカー教徒でありながらホプキンス・ブラザーズという食料品店で1840年代かそれ以前に「ホプキンス・ベスト」なるブランドでウィスキーを販売していたとか(この事実により彼はフレンズ集会から追い出されましたが、後には復帰したらしい)。それは措いて、メリーランド州に蒸溜所が急増したのは南北戦争の少し前のようです。

1860年代初頭、メリーランド・ライは流行の兆しを見せ、需要が高まっていましたが、戦時中は流石にメリーランドのライ産業にとって悲惨な状況となりました。戦争前と再建期には酒税率も急騰し、南北戦争以前のメリーランド州で設立された小規模な蒸溜所では、戦時中の高額なウィスキー税のために生産の採算が合わなくなったのです。何より戦時には膨大な数の北軍と南軍の兵士がメリーランド州を縦横無尽に行き来しました。リンカーン大統領はワシントンDCとボルティモアを南軍から守ることを決意して、北軍のポトマック軍がヴァージニア州リッチモンドを攻略しようと南下した時、北軍の新鮮な部隊がワシントンDCをしっかりと守るようにしました。また、軍神ロバート・E・リー将軍率いる北ヴァージニア軍は、ワシントンDCへの補給路を断つという軍事的な目的と自軍への補給のために農場や町を襲撃するという現実的な目的を持ってメリーランド西部に二度に渡って侵攻、その際、南軍の略奪品の中に当地の特産ライ・ウィスキーが含まれていたと見られます。
メリーランド・ライの真の名声は南北戦争後から始まりました。戦後、産業が再興されるとその評判は急上昇します。1861年から1865年までの南北戦争でメリーランド州に集結した北軍と南軍の兵士達は、メリーランド・ライを気に入り、滞在中に楽しみ、戦争が終わって自分の故郷に戻るとそのウィスキーの味わいを折に触れて想い出したかも知れません。そうした南北両陣営の退役軍人がメリーランドのウィスキーを好むようになり、19世紀を通して発達した鉄道は、戦時中も兵士の移動や食料物資の運搬に重要な役割をもったため整備が進み、お陰で企業はその需要を満たすことが出来ました。ウィスキーは一度蒸溜してしまえば国道、チェサピーク&オハイオ運河、ボルティモア&オハイオ鉄道などを経由して急速に拡大する国中へと容易に輸送することが可能です。当初、ライの販売は急増しました。しかし、州外の安価な銘柄がメリーランド州に入荷するのも容易になったため、結果的には業界全体に大きな損害を及ぼすことになります。このような厳しいビジネス環境にも拘らず、新しいブランドも誕生したようですが、州内でのライ麦栽培に問題が生じ(野生のタマネギが蔓延したらしい)、メリーランド州の企業はニューヨークやウィスコンシン等からライ麦を輸入するようになりました。と同時に、ペンシルヴェニア州モノンガヒーラ地方の新ブランドも続々と流入し、メリーランドでは州産よりも他州からの輸入品の方が優れているというマインドセットに陥り、州外のブランドが高級品として評判を得たと言います。この誤解はウィリアム・ウォルターズと彼のパートナーであるチャールズ・ハーヴィーらにより大いに助長されました。1847年に彼らが設立したボルティモアの会社はペンシルヴェニアにある四つの蒸溜所の代理店を務めていたこともあり、詳しい知識をもたない一般大衆の人々が地理的なことを知らないのを期待して、メリーランド産のライ・ウィスキーのラベルにモノンガヒーラと誤解を招くような表記を追加したそうな…(ラベルには「Maryland Monongahela Rye Whiskey」と書かれていた)。古くからペンシルヴェニアの広大な高地にはメリーランド以上に蒸溜所がありました。そのライ・ウィスキーは名高く、早くも1810年には商標登録されたと云うオーヴァーホルト・ブランドは夙に有名です。ペンシルヴェニアの川の名前でもあるモノンガヒーラは、今日スコットランドの地名が持つような神秘的な魅力を持っていたのでしょう。
1909年以前(*)、メリーランド・ライという用語は実際に何処で蒸溜されたかを問わず、内容や製造方法が概ね類似しているスピリッツの種類を表す一般的な言葉として使われていました。ヴィンテージ・ボトルに詳しい寄稿家のジャック・サリヴァンは、「メリーランド」は酒類の品質を象徴するものとして非常に重要であり、全米のディスティラーやディストリビューターはこの名前を採用せざるを得なかったと云います。彼は例として、セントルイスのディスティラーのグスタヴ・リーズマイヤーは自分の銘柄を「オールド・メリーランド」と呼び容器のラベルに州のシールを貼っていたとか、シカゴのブリーン&ケネディ社はケンタッキー州オーウェンズボロのM・V・モナークが既にその名称を使用していたのを無視して1906年にブランド名として「メリーランド・ライ」という商標を登録してみたり、シンシナティのシャーブルック・ディスティリング・カンパニーは「マイ・メリーランド・ライ」を全国的に宣伝したことを挙げます。またニューヨークではサミュエル・C・ボーム・アンド・カンパニーが「メリーランド・ユニオン・クラブ・ライ」という銘柄を出し、同市のサーバー&ワイランド社はオールド・メリーランド・ライ・ウィスキーの「リトル・ブラウン・ジャグ・ブランド」を商品化し、更に別のニューヨークのウィスキー販売店で1808年にワインと酒のマーチャンツとして創業したP・W・エングス&サンズは19世紀の終わり頃に発売した陶器製ジャグにボルティモアの街と有名なライ・ウィスキーへのオマージュとして「Engs Baltimore Rye, 1808」というラベルを貼り付けました。中身はメリーランド州の蒸溜所からニューヨークの販売店に提供されたものかも知れないし、そうでないかも知れず、実際に何が入っていたのかは知る由もありません。現在ではこのような露骨な地域名の流用は許されないことですが、当時はまだ緩かったという話です。それは兎も角、抜け目のないボルティモアのマーチャンダイザーやメリーランド州の先駆的なビジネスマンたちも、特定の地域名と品質がイコールで結ばれるイメージを購買の判断材料として十分に活用し、メリーランド・ライへの渇望を満たすために鉄道のインフラ整備やアメリカ全土へのブランド・マーケティングの台頭などを利用しました。
流通が発展するにつれ、ブランドの確立やマーケティングはより重要になります。ブランドとしてバレルヘッドにステンシルされたり、ラベルにプリントされる名前は多くの場合、蒸溜者もしくは蒸溜所、或いは卸売業者または小売業者の名称でした。それを推し進めたのは19世紀の消費者向け商品広告の新案です。メリーランド州のウィスキー業界での初期の記録は、ボルティモアのレクティファイアーおよび卸売業者であるラナハン&ステュワートでした。ウィリアム・ラナハンは1855年にハンター・ピュア・ライを連邦政府に登録し、後に「ハンター・ボルティモア・ライ」と改称、ラベルや広告にはフォックス・ハンティングの服装をした男性が馬に跨った絵が描かれました。その後のブランディングでは「The American Gentleman’s Whiskey」というスローガンが掲げられました。更に後年には馬がジャンプをしている様子と共にスローガンは「The first over the bars」へと進化し、ティンバー・トッパー(障害競走馬)のイメージを喚起するようになります。「バー」というのは酒場と乗馬競技で馬がジャンプする障壁を掛けた言葉遊びでしょう。
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ラナハンズのウィスキーは、当初から貴族的な雰囲気を醸し、明らかに上流階級やそこを目指す人々にアピールしようとするものでした。1868年に父親が亡くなった後、経営を引き継いだラナハン・ジュニアは新聞や雑誌などで大々的な広告キャンペーンを展開し、全国的な注目を集めるブランドが一般的にそうであるように、フォックス・ハンターを描いた文鎮やピンやマッチなど色々と幅広い販促アイテムを作りました。また、ハンター・ボルティモア・ライのロゴやトレードマークの絵をさまざまな場所に描くことも指示し、ビルディングの側壁や、ボルティモアだけでなくニューヨークやシカゴの野球場の外野フェンスに看板が飾られていました。きっと汎ゆる会社が競って広告を出したことでしょう。ブランドの宣伝に多額の資金が投じられた南北戦争後から世紀の変わりめにかけてメリーランド・ライの人気は全国に広がり、この頃にはハンターを始めとして、アンティータム・ライ、ホーシー・ライ、モンティチェロ・ピュア・ライ、マウント・ヴァーノン・ピュア・ライ、オリエント・ピュ​​ア・ライ、シャーウッド・ライなどのブランドが全国的に名を馳せました。特にハンター・ライは大成功を収め、ロンドン、上海、マニラにも輸出されています。

禁酒法以前の時代にメリーランド・ライが広く知られるようになったもう一つの潜在的な理由は、1876年にアメリカの独立100周年を記念してペンシルヴェニア州フィラデルフィアで開催された「センテニアル・エクスポ」でした。この博覧会ではアメリカの業績を称えるために様々な建物が建てられました。中には農業関連の建物もあり、その展示物の中には完全に機能する蒸溜所の模型があったそうです。ボルティモアのマウント・ヴァーノン蒸溜所は、おそらくジョージ・ワシントンとの繋がりを意識してかセンテニアル蒸留所を運営し、ライ・ウィスキーの純度と品質を謳っていました。マウント・ヴァーノンという蒸溜所の起源は、1850年代にボルティモアで操業されていたオステンドとラッセル・ストリートにあったエドウィン・A・クラボーとジョージ・U・グラフの蒸溜所でした。1873年頃、彼らはこの蒸溜所をフィラデルフィアのリカー・マーチャントであるヘンリー・S・ハニスに売却しました。ハニスはそのままにしていましたが、ボルティモアの代理人が蒸溜所を再建して拡張しました。このエクスポは1876年5月10日から11月10日までの184日間で約1000万人の来場者を記録したそうです。

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1880年代から1890年代にかけてメリーランド産ライの市場への流入は大幅に増加しました。ボルティモア近郊では少なくとも8つの蒸溜所が開業したと言います。スコッツ・レヴェルのL・ウィナンド&ブラザーズ社が経営したパイクスヴィル、コールド・スプリング・レーンとジョーンズ・フォールズにあったジョン・T・カミングスが経営するメルヴェール、ギルフォード・アヴェニューとサラトガ・ストリートではビジネス・リーダーのアルバート・ゴットシャルクが設立した「メリーランド」、ボルティモア・ディスティリング・カンパニーが運営するスプリング・ガーデン、同じくボルティモア南西部にあるキャロル・スプリングス、ハイランドタウンではオドネル・ストリートの卸売業者チャールズ・H・ロス社が経営するモニュメンタルとバンク・ストリートのロバート・ステュワートが経営する「ステュワート」、更に東のコルゲイト・クリークのほとりにダニエル・マローンが経営する「マローン」など。中でもメルヴェールは最大級の規模を持ち、日に1000ブッシェルの穀物をマッシングする能力を誇っていたとか。
メリーランド州西部も同じような状況で、20程度の商業蒸溜所が建設されていたようです。その多くは小規模で、一部のメーカーは生産物全体を市の卸売業者に販売したため、ハウス・ブランドやオリジナルのラベルを持っていませんでした。蒸溜所は5月末から10月1日までの間、休むことが多く、市場の低迷期には完全に閉鎖するところもあったそう。 西部地域の著名な蒸溜業者や蒸溜所としては、ギャレット郡のメルキー・J・ミラー、アレゲイニー郡のジェイムズ・クラーク・ディスティリング社が所有する「ブラドック」、ワシントン郡ではクリア・スプリングのジェームズ・T・ドレイパーとライターズバーグのベンジャミン・ショッキー、およびロックスバリーのジョージ・T・ギャンブリルが設立した「ロックスバリー」、モンゴメリー郡ではハイアッツタウンのリーヴァイ・プライスとキングス・ヴァリーのルーサー・G・キング、キャロル郡ではクランベリー・ステーションのエイブラム・S・バークホルダーとラインボロのアダム・ローバックなどがいましたが、知名度や規模が大きかったのはロックスバリーとブラドックでした。

1895年、ボルティモアの人口が50万人を超えた頃、250人に1軒の割合でサルーンがありました(年間250ドルかかる酒類ライセンスに2045件の登録があった)。サルーンには68のウィスキー卸売業者がサーヴィスを提供していました。20世紀が始まったばかりの頃には、ボルティモアを訪れた観光客が蒸気船から港へ上ってくると、沢山の広告看板が目に飛び込んで来たと言います。外壁に描かれたそれらのサインは彼の地の会社のサーヴィスや商品の重要性を謳っていました。しかし、メリーランド州のライ・ウィスキーのディーラーは、新世紀が始まって20年も経たないうちに業績も繁栄も合法性も全て失いました。このような激変を齎したのは主に酩酊物質の乱用に対する反感でしたが、飲料用アルコールを違法とするための運動が憲法修正第18条やヴォルステッド法に結実する以前からメリーランド・ウィスキーの名声には傷が付いていました。それには三つの国情と一つの地方情勢が作用していたと、ボルティモアの元ジャーナリストでメリーランド・ライのオーソリティであるジェイムズ・H・ブレディは『メリーランド・ヒストリカル・マガジン』の記事に書いています。一つは酒場や小売店で売られているウィスキーの信頼性に対する不安が続いていたこと、二つめは冷蔵技術の向上によって醸造業者が蒸溜業者とより幅広く競争できるようになったこと、三つめはウィスキーに治療効果があるという医学的な裏付けがなくなったこと、そしてもう一つがメリーランド州ではウィスキー蒸溜に於ける地元の特徴の低下や所有者が減少していたことでした。こうした多くの危険信号に対して業界は自覚と防御をしながらも殆ど公的な反応を示すことはなかったらしい。
他にも、1904年2月6日から8日にかけて起きたボルティモア大火災は、彼の地のウィスキー取引にとって更なる打撃でもありました。その炎は30時間以上燃え続け、1526棟の建物を破壊し、70の街区に跨がり、1200人以上の消防士が消火活動するという大規模なものでした。ダウンタウンの二つの蒸溜所、モンティチェロと「メリーランド」は焼け跡の北側にあり無事でしたが、長年に渡り卸売業者が密集していたサウス・ゲイ・ストリート、エクスチェインジ・プレイス、プラット・ストリートなどの事務所や倉庫は炎上してしまいました。この時までにアルタモント・ピュア・ライをメリーランドのブランドとして確固たる地位にし、元のカルヴァート・ストリートからより大きな地区のイースト・プラットに移転していたニコラス・M・マシューズの会社などは、全ての記録と保管されたウィスキーを失ったと伝えられ、大火の被害を受けた48の卸売業者の一つでした。しかし、この大火災で廃業した会社は一社もなかったようで、N・M・マシューズ&カンパニーも通りを下ってすぐのイースト・プラット34番地に事業を移し、1910年にはイースト・ロンバード・ストリート17番地に最終的に移動しました。ウィスキー供給に多少の難は出たかも知れませんが、火災が与えた具体的な影響の一つはウィスキー・マーチャンツの密集を分散したことだったとされています。寧ろそれよりも、ブレディが示唆したようにこの業界には自ら招いた問題がありました。
禁酒法廃止以後、容器には連邦法によって「ウィスキー」の文字が義務付けられますが、それ以前のメリーランド・ライのボトルのラベルには「余計な」ウィスキーという言葉が省かれていることが多く、例えばロックスバリー・ライ、メルヴェール・ピュア・ライ、オリエント・ピュア・ライ、スプリング・デール・ピュア・ライ、バル=マー・クオリティー・ライ、ポインター・メリーランド・ライ、カルヴァート・メリーランド・ライ、ウェストモアランド・クラブ・メリーランド・ライ、フォー・ベルズ・メリーランド・ライ、キャロルズ・キャロルトン・メリーランド・ライ、ゴードン・メリーランド・ライのような具合でした。ペンシルヴェニア・ライの多くはストレート・ライ・ウィスキーだったのに対し、メリーランド・ライの多くは「整えられた」ライ・ウィスキーで、チェリーやプルーンの果汁などの香味料を加えて甘みを出したものだったと言われています。どちらのスタイルも19世紀には非常に人気がありましたが、世紀を跨いで制定された二つの法律、1897年の「Bottled-in-Bond Act」と1906年の「Pure Food and Drug Act(純正食品医薬品法、通称ワイリー法)」により、メリーランド・ライはカテゴリーとしてはほぼ消滅しました。ストレート・ウィスキーの人気が高まっていた時代に、ブレンデッド・ウィスキーとしての表示を余儀なくされたのです(**)。
酒類業界では全体的に何処にでもある無意味なラベル・ワードを用いて酒場や小売店の顧客に酒の価値を誤魔化す傾向がありましたが(例えば「Pure」とか)、1897年の英国の制度を参考にした連邦法により、政府が管理する倉庫で保税が行われるようになりました。蒸溜業者はプルーフ・テスト済みのウィスキーのバレルを最低4年間そこに預け、引き出す際に手数料を支払い、違反すると刑事罰の対象です。1901年はボンデッド・ウィスキーが市場に出回るようになった最初の年でした。メリーランド州の数多くの蒸溜所も自社の敷地内でこのような倉庫を契約し、やがてボトルド・イン・ボンドのウィスキーを顧客の許へと届けました。しかし、このアイディアには現実的な限界がありました。この法律が一般に認知されていなかったことで、ボンデッド・ウィスキーが市場に浸透するのに時間がかかったのです。またボンデッド・ウィスキーの小売価格は1クォート1ドルと多くの賃金労働者には手の届かないものでした。1917年以前、ムーンシャインならば1クォート15セントという低価格、サルーンでのビールの大ジョッキは5セント、ウィスキーの1ショットは10セント(良質のものなら15セント程度)が一般的。ボトルド・イン・ボンドの市場占有率は9%、「ピュア」または「ストレート」ウィスキーは20%、「ブレンデッド」ウィスキーは業界生産量の70%以上を占めていたと目されます。ボトルド・イン・ボンド法はボンデッド・ウィスキーの製造に厳しい基準を設けたため、税収の面だけでなく消費者保護の面があり、純正食品医薬品法に繋がる最初の法律の一つでもありました。
工業化や中産階級の台頭、19世紀末の自由放任主義から20世紀初頭の進歩主義への移行などが公衆衛生に対する政府の責任を飛躍的に高めます。その帰結として食品や医薬品の安全性に対する懸念の波が押し寄せ、食品と薬物、そしてそれら二つの組み合わせであるアルコールには新たな規制が必要な時代でした。古くからアルコール飲料には薬効があると広く信じられており、医師は汎ゆる種類の病気にアルコールを処方していましたが、1850年以降の科学的医学の台頭はその見方に変化を齎し、世紀の終わりまでにアルコールの治療的価値については広く議論され、最先端の開業医の間で信用を失いました。
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純正食品医薬品法の立役者であり通称ワイリー法の名の由来となっているインディアナ州のハーヴィー・ワシントン・ワイリーは医師であり化学者でもあり、彼は殆どの病気においてスピリッツ等の強い酒は医学的に価値がないと云う医師の間での確信の高まりについて代弁しました。ショック状態の体にアルコールを投与しても体を温める効果はないし、アルコールの生理学的な分類は興奮剤ではなく抑制剤である、と。1916年にウィスキーとブランディはアメリカ合衆国の薬局方で科学的に承認された医薬品のリストから削除されています。1917年には、アメリカン・メディカル・アソシエーション(AMA)は論争の的となった会議で「アルコール自体に薬効はない」という決議を出しました。こうして、ウィスキーが医薬品であった時代は終わりを告げます。医薬の逆転はウィスキーが地位を失った重要な要因の一つでした。それにも拘らず、1919年に制定された禁酒法では、聖餐式のワインと並び、医師が患者にアルコールを処方する際の免除規定が設けられました。AMAは禁酒法以前とは打って変わり、アルコールは喘息や癌など27種類の病気の治療に使えると主張し出します。言うまでもなく、現実的には医師や薬剤師にとってアルコールの処方箋を書くことは数ドル余分に儲けるための方法でしかありませんでした。

禁酒法以前の典型的なボトルのラベルはプルーフや成分、バレルでの熟成期間(BIBを除く)、更には内容量をオンスで明記する必要すらないという非常にシンプルなもので、買い手は「バーボン」とあれば全て主にコーンから蒸溜されたウィスキー、「ライ」とあれば全てその名の穀物から蒸溜されたウィスキーを意味すると受け止めていたことでしょう。往々にしてカスタマーは騙されていました。全国的に多くの食料品店やドラッグストアの商品は同様に不正なものでした。そこには記載されていないか誤って伝えられている成分で構成された治療効果の期待できないものが多数出回っていたのです。そうした状況への憤慨の高まりが結果として純正食品医薬品法の制定に結びつき、連邦政府はラベルの記載は真実であることを義務づけ、違反した場合には罰則を課すことになりました。ライ・ウィスキーという名称を合法的に使用するためには、少なくとも51%以上がライ麦のマッシュから作られたウィスキーでなければなりません。1906年以降、メリーランド・ライのイメージは曖昧になって行きます。メリーランド州のレクティファイアーの中には、「ピュア」ライを製造しようとした者もいたかも知れませんが、多くはそうではありませんでした。突然、評判の良かったブランドの多くが「メリーランド・ウィスキー」に変わり、小さな文字で「ウィスキー・ア・ブレンド」とも書かれるようになります。「ライ」という言葉を使わなくなったブランドもあったようで、メリーランド・ライで最も有名な6社の小売業者のうちモンティチェロとウィルソンの2社はこのフレーズを手放し、ハンターとマウント・ヴァーノンの2社は堅持し、シャーウッドとブラドックの2社はラベルや価格でライとブレンドを区別して両立していたと言います。メリーランド州西部で傑出した存在であったホーシー・ライのニードウッド・ディスティラリーは、アウターブリッジ四世の死後に子供たちの手に委ねられ、生産量の半分以上をコーン・ウィスキーに移行しました。
こうした国情の変化はあったものの、世紀の変わり目から20世紀初頭に掛けての移民による人口急増があり、そうして顧客の数が増えたためか、メリーランドのウィスキー・シーンは騒がしく、プレイヤーの参入と退出が繰り返されていました。1897年、ドゥルイド・ヒル・パークのバギー事故でエドウィン・ウォルターズが63歳で負傷したことが致命傷となり、メルヴェール蒸溜所のカミングス家、ボルティモアのレクティファイアーのレコーズ&ゴールズボロ、卸売業者のウルマン=ボイキンがシンディケートを結成してオリエント蒸溜所を買収し、工場名をキャントン蒸溜所に変更しました。時には事業の失敗もあり、積極的な販売活動によってロックスバリー・ライをメリーランド州の全米トップ・ブランドと肩を並べるまでにしていたワシントン郡のロックスバリー・ディスティリング・カンパニーは、社長のジョージ・T・ギャンブリルが小麦の投機家でもあったため、そちらで失敗し無一文になり会社は破綻、1910年に管財人の手を借りて閉鎖されました。新しい企業としては、アレゲイニー郡エレーズリーのウィルズ・ブルック蒸溜所、ワシントン郡ウェヴァートンのサヴェッジ・ディスティリング・カンパニー、ペンシルヴェニア州ウェインズボロの蒸溜所からのペン=マー・ライなどがありました。しかし、多くの産業がそうであるように、どこも数を減らして規模を大きくする傾向にあったようです。いわゆるウィスキー・トラストにとって地元性から来る誇りや個性は重要ではなく、メリーランド州の多くの蒸溜所や輸入業者や卸売業者の資本力の低さ、即ち買収への抵抗力のなさは大きな問題でした。ハイアット&クラークの解散後、シャーウッド・ディスティリング・カンパニーはニューヨークの新しく大きな卸売業者であるプリングル&ゴントランと提携、1905年頃フィラデルフィアのカーステアーズ・ブラザーズがハイランドタウンのステュワート・ディスティラリーを買収、ニューヨークの企業はモンティチェロを買収、シカゴのフレンズドーフ&ブラウンはボルティモアのバック・リヴァーで蒸溜していましたがニューヨークのフェデラル・ディスティリング・カンパニーに売却、シカゴのジュリアス・ケスラーはモニュメンタルを買収、1908年頃にはフィラデルフィアの企業がオウイングズ・ミルズ郊外にグウィンブルックと呼ばれる大規模な蒸溜所を建設、同時期にシンシナティからフライシュマンズも参入といった具合で目まぐるしいです。

1881年から1912年にかけてメリーランド州のウィスキー生産量は240万USガロン(910万リットル)から560万USガロン(2120万リットル)に増加し、合計1930万USガロン(7300万リットル)が保税倉庫に保管されていたと言います。明らかにメリーランド州はスピリッツ業界のリーダーの地位にありました。メリーランド歴史協会によると、1865年から1917年の間にアメリカン・ウィスキーの製造と販売において、小さなメリーランドはケンタッキーのバーボンとペンシルヴェニアのライの大きな背中から遠く離れてはいても不動の三番手だったとのこと。禁酒法以前には優に100を超えるブランドが市場に出回っていたとされます。ついでなので禁酒法以後の話の前に、ちょっと時系列が前後してしまう部分もありますが、メリーランド・ライの有名どころのブランドと蒸溜所を個別に少しばかり紹介しておきましょう。


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モンティチェロ・ライ
南北戦争後の需要に応えるために素早く動いたボルティモアの個人またはビジネスマン・グループのうち誰が最初かは定かではありませんが、その一人であるマルコム・クライトンは1865年には既にホリデイとバス・ストリートで蒸溜を開始していたと言われます。マルコムは、1848年に一家でメリーランド州に移住した卸売食料品店を営むウィリアムとジャネットのクライトン夫妻の間の息子として、1840年にイリノイ州で生まれました。マルコムは南北戦争前から戦争中に掛けて、父親のもとボルティモアのウォーターフロントで穀物と肥料のビジネスからキャリアをスタートさせました。戦後は父のもとを去り、独立。穀物に精通していた彼にとって蒸溜酒を造ることは自然の流れだったのかも知れません。進取の気性に富んだ青年だったクライトンは、嘗てジョセフ・ホワイトが運営していた廃業した蒸溜所を引き継ぐと施設を再建し、モンティチェロ・ライなるウィスキーの製造を開始しました。ボルティモアには既にマウント・ヴァーノンと名付けられたライがあり、ジョージ・ワシントンの家にちなんで名付けられていました。それにインスピレーションを受けたのか、或いは対抗したのか、トーマス・ジェファソンの家の名前を自分のウィスキーに当て嵌めた可能性が示唆されています。そもそもの「Monticello」はイタリア語で「小さな山」を意味する言葉です。クライトンは広告の中で、この銘柄のオリジンが1789年であると何の根拠もなく主張していたとか…。しかし、それは彼が生まれる半世紀も前のことでした。
1868年7月、ボルティモアで19世紀最大の自然災害となったジョーンズ・フォールズの洪水が発生しました。水位はダウンタウンの12フィートまで上昇する大惨事でした。モンティチェロの工場は中身もろとも激流で流されてしまったそうです。クライトンは隣のメーター製造工場のパートナー、チャールズ・E・ディッキーからの財政的援助を受け、すぐに再建を果たしました。ホリデイ136番地の場所は、その後の20年、M・クライトン&カンパニーの工場の本拠地となります。モンティチェロ・ライはメリーランド州の忠実な顧客層だけでなく、ウェスト・ヴァージニア州ウィーリングやニューオリンズの酒類ディーラーにも販売されていました。クライトンはブランドの侵害を懸念したのか、1881年にその名前を商標登録しています。不幸にも、マルコム・クライトンは自ら「完璧な蒸溜」を自称したモンティチェロ・ライが生んだ成功と繁栄をあまり享受することなく、1891年に50歳の若さでこの世を去りました。その年にモンティチェロ・ライは全米で販売されたそうです。彼はボルティモアのグリーン・マウント・セメタリーに埋葬されました。マルコム・クライトンが亡くなった時、彼の息子達は誰も彼を引き継ぐことに興味がなかったか、またはその準備が出来てなかったらしい。蒸溜所は同じボルティモアの兄弟であるバーナードとジェイコブ・B・カーンに売却されます。バーナードは以前「カーン,ベルト・カンパニー」でパートナーとして酒類事業に携わっていました。クライトンが残した蒸溜所はいつの間にかメリーランド州最大級の規模にまで成長していました。これは生産されたスピリッツの課税価格によって評価されます。同蒸溜所は課税対象となる228788ドル(現在の約560万ドル相当)の製品を生産していたそうですが、これはメリーランド州でハニス蒸溜所、シャーウッド蒸溜所に次ぐ規模でした。カーン兄弟はモンティチェロ蒸溜所の運営とブランドの販売を禁酒法の訪れまで30年近く続けます。禁酒令の間、モンティチェロ・ライはドラッグ・ストアで処方箋があれば「薬用」として購入できるウィスキーの一つでした。禁酒法廃止に伴い新たな所有者のもとでブランドは1940年代までは存続したようです。 
メリーランド出身の最も有名なジャーナリスト/作家であるヘンリー・ルイス・メンケンは、家庭医が「R月(スペルにrの付く9〜4月のこと)の肺炎の予防には、メリーランド・ウィスキーを一杯飲むのが一番だと教えていた」と言います。葉巻製造業を営んでいた父親のオーガスタスは、その指示をしっかり守ってモンティチェロを購入し、朝食も含む毎食前にダイニング・ルームの戸棚に潜り込み、ライ・ウィスキーを飲んでいたそうです。「彼はこの前菜を健康に必要なものと考えていた。 胃の調子を整えるには最高の薬だと言っていた」。


オリエント・ライ
1819年にペンシルヴェニア州中部の町リヴァプールで生まれたウィリアム・トンプソン・ウォルターズは、1840年代にボルティモアへとやって来ました。穀物商を始めたウォルターズは、1847年に酒類卸売業を確立し、ペンシルヴェニアの4つの蒸溜所からウィスキーを購入していました。やがてウォルターズはこの地域で最大級のウィスキー事業の指揮を執るようになり、成功後すぐにボルティモアの中でもファッショナブルなマウント・ヴァーノン・プレイス地区に住居を構えます。南北戦争が勃発すると、それまで州権の率直な支持者であったウォルターズは合衆国を去って家族と一緒にヨーロッパを旅行し、芸術作品の研究と購入に努めました。1882年、ウィリアムは事業を解散し、海運や鉄道輸送に転じました。代わりに14歳年下の弟エドウィンが自分自身のビジネスをやり始め、家族の支援を受けてキャントンのメイトランド&ブライアンズ蒸溜所を買収します。新オウナーはオリエント・ディスティラーズと改称しました。主力商品をオリエント・ピュア・ライと名付け、拡張した工場をボルティモア最大の規模にすると宣言しました。新しい事業はすぐに独自のドックを持つほどの規模になり、オリエント・ピュア・ライはサンフランシスコで販売されるようになりました。


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メルヴェール・ライ
メルヴェール・ピュア・ライは禁酒法以前に最もプレミアムであり、当時のブランドはメリーランド州のライ・ウィスキーの中で最も権威があって尊敬されたブランドの一つだったと伝えられます。1902年のシンシナティのセールスマンのレート・ブックにはメルヴェールの卸値が1クォート1.45ドルと記され、比較で言うとナッシュヴィルの1906-07年の価格表ではオールド・テイラー・バーボンが1クォート1ドルでした。
1880年代、ジョン・T・カミングスはボルティモアの北にあるジョーンズ・フォールズ地域のコールド・スプリング・レーンにメルヴェール蒸溜所を開設しました。カミングスが登場する前、この場所はボルティモア市内を流れる17.9マイルの小川であるジョーンズ・フォールズの水を利用した商業製粉所でした。製粉所は幾人かの所有者によって運営された後、1830年頃にギャンブリル家の手に渡りました。その頃は穀物の製粉に加えて、製材や紡績も兼ねて運営されていたようです。次の30年間、ギャンブリル家は南北戦争中にその場所が重要になるまで運営されましたが、1861年に北軍が進軍し駐屯すると、南部の共感者であったギャンブリルは占領に不満を持ち、1862年にその土地をウィリアム・デンミードに売却しました。「メルヴェール」という名前が最初にこの地域に付けられたのは戦争中のことです。デンミードは息子のアクィラと共にこの物件の利用を拡大し、1862年から1872年の間に蒸溜所として石造りの建物を建てました。それはイタリアン・ラブルストーン造りで、屋根の中央にキューポラのある優雅な建築物でした。その後の数年間で、二つの倉庫とボイラー小屋と家屋(蒸溜所の管理者用?)が追加されました。1880年頃には骨を粉砕するための機械もあったそうです(この頃の蒸溜所ではしばしばウィスキーのフィルターとして動物の骨を使用していたらしい)。デンミードは蒸溜所を約20年間運営した後、ジョン・カミングスを主とした地元のグループに販売しました。
ボルティモアのマーチャントであるカミングスは、その時までに50歳で、次男のウィリアムは17歳で既に父親と一緒に働いていたそうです。カミングス家の所有権の下でメルヴェール蒸溜所は更に拡張され、倉庫や別棟が追加されました。彼らはメリーランドの新聞上で自社製品を広く宣伝しました。メルヴェールの他に「レイク・ローランド・ウィスキー」と言うブランドもあったそうです。これはボルティモア郡の100エーカーの貯水池にちなんで名付けられました。1897年にボトルド・イン・ボンド法が議会で可決された同じ年、父と息子のカミングスは地元のウィスキー商人によるシンディケートに加わり、オリエント蒸溜所を引き継ぎ、施設の名前をキャントン蒸溜所に変更しました。この動きはメリーランド州で最大のマッシング能力を備えた蒸溜所を所有していたにも拘らず、カミングスが更に多くのウィスキーを必要としていたことを示していると見られます。メリーランド州税務長官の記録によると、1897年のメルヴェールの蒸溜酒の課税価格は168196ドルであると報告しました。1905年にはその2倍以上の373316ドルになりました。この増加は課税額が446880ドルに達した1909年まで続いたと言います。こうした数字にメルヴェール蒸溜所がメリーランド州で最大のウィスキー生産者と呼ばれる所以があるのでしょう。また、ブランドの名声の一つの尺度に模倣が挙げられます。成功したブランドと音を似せたブランドを作成することはよくあることで、市場に出回ったメルヴェールのコピーキャット・ウィスキーは多く、「Melville(メルヴィル)」、「Melwood(メルウッド)」、「Mell-Wood(メル=ウッド)」、「Melbrook(メルブルック)」等がその例です。カミングスは1902年に「メルヴェール」の商標を登録していたにも拘らず、ボストンの会社によって販売されたそのまま「メルヴェール・ライ」なる明らかな商標侵害のウィスキーもあったようです。既に1900年に74歳でジョン・カミングスは亡くなり、経営の手綱は若い頃から蒸溜所で働いていたウィリアム・B・カミングスに渡り、弟のアレグザンダーが会社の秘書兼会計として加わっていました。兄弟はメルヴェール蒸溜所の繁栄を継続させましたが、禁酒法の波は嫌でもやって来ます。それでもメルヴェールは、ドライ・エラの始めの頃に政府によって保税倉庫に指定され、政府へのグレイン・アルコールを生産するため数年の間オープンを許可されていた、と示唆する歴史家もいるようです。
カミングス家は1925年に蒸溜所を売却しました。その後、1928年にウィリアム・A・ボイキン・ジュニアがその所有者からプラントを購入し、彼の会社であるアメリカン・サイダー・アンド・ヴィネガー・カンパニーが1956年まで施設を運営しました。ボイキンの家族はその時、施設をスタンダード・ブランズに売却しました。ウィスキーは禁酒法期間中から製造されなくなりましたが、建物は現在も残っており、今はフライシュマンズ・ヴィネガー・カンパニーの施設の一つとして引き続き酢を製造し続けていると思います。ちなみに石造りの建物は国家歴史登録財となっているそう。メルヴェール・ライは禁酒法廃止後、復活しなかったブランドでしたが、近年フィラデルフィアのニュー・リバティ蒸溜所により復刻されました。
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(近年のフライシュマンズ・ヴィネガー)


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ハンター・ライ
先にも少し紹介したラナハンのハンター・ライは、1912年に出版された『ボルティモア:その歴史と人々』に「ハンター・ボルティモア・ライほど商業の中心地としての街の名声を広めたボルティモア産の製品はありません」と書かれたほどでした。創業者のウィリアム・ラナハン・シニアの人生についての情報は殆どありませんが、南北戦争の前に菓子職人としてかなりの富と影響力を達成したと言われています。アイルランドで生まれ、ボルティモアに定住したラナハン・シニアは、おそらく仲間と組んでロンバードとレッドウッドの間にあるライト・ストリートの工場でレクティファイアーとして1850年代初頭にウィスキーの製造と販売を開始したと思います。1855年に「ハンター・ピュア・ライ」、その後「ハンター・ボルティモア・ライ」を連邦政府に登録。1868年に父親が亡くなった後、ラナハン・ジュニアは事業を引き継ぎ、ウイスキー製造事業を精力的に拡大しました。彼はメリーランド州のフォックス・ハンティング同好会のマスターだったとか、田舎の自分の土地で乗馬するのが趣味だったいう話があるので、それがハンターのトレードマークになっている理由なのでしょう。
1870年、最も初期の市のディレクトリによると、ウィリアム・ラナハン&サンは北ライト・ストリート20番地で商売をしており、1904年のボルティモア大火災で建物が焼失するまで会社はそこにありました。その後まもなくカムデン・ストリート205-207番地に移転しましたが、ライト・ストリートの拡大後、以前の場所での再建許可を得、1906年に新しく建設された建物で事業を再開し、その新しい3階建てのラナハン・ビルディングには表面に目立つ文字で「ウィスキー」という言葉を使って目的を表しました。また、彼らはディスティラーズを名乗りましたが、実際にはレクティファイアー、つまり他所で蒸溜されたアルコールを他の成分とブレンドし、ボトリング及びブランドのラベルを貼り付けて販売する業者ではないかと見られています。同社の主力は言うまでもなくハンター・ライでしたが、ハンター・バーボンや「365」という毎日のシッパーを意味するブランドなども販売していたようです。当時としては珍しいことに、ラナハンは6人の営業部隊を雇い、全国を回ってウィスキーを売り込み、ローカルなディストリビューターらの契約を取って来ました。ラナハン社はハンター・ボルティモア・ライを「完璧な香りと味わい…アメリカを先導するウィスキー」と宣伝しました。また「紳士の」飲み物としての魅力が潜在的に女性の顧客に悪影響を与える可能性があることを考慮して、このウィスキーは「その熟成と卓越の故、特に女性に推奨します」と宣いました。このような誇大宣伝が功を奏したのか、ハンターはアメリカで最も売れているライ・ウィスキーとなったのです。
アメリカを制覇したラナハンは、市場拡大のために海外に目を向け、ロンドンでは「シャーロック・ホームズ」の公演プログラムの中で、ハンター・ライを「人気のアメリカン・ウィスキー」と宣伝、そのシーズンにデューク・オブ・ヨーク劇場で売られていた唯一のヤンキー・ブーズだったそう。更には1902年、ウィリアム・ラナハン&サンは中国の朝廷から利権を得ようと、上海のサディアス・S・シャレッツ将軍に宛てその旨の手紙をしたためました。シャレッツは1901年にセオドア・ルーズベルト大統領に任命されアメリカ製品の輸入拡大について中国政府と交渉していたのです。またフィリピンのマニラでは、反乱鎮圧のために滞在していたアメリカ第8歩兵隊の兵士たちが非番の時にハンター・ボルティモア・ライのクォーツを飲み干していたとか。成功は模倣も生み、メリーランド州の都市から何百マイルも離れた場所で作られた製品までもがボルティモア・ライと名乗るようになりました。そこでラナハンは1890年と1905年に「ハンター・ライ」を、1898年と1908年に「ハンター・ボルティモア・ライ」をそれぞれ商標登録しました。
ラナハン社とそのブランドは59年間運営され、ボルティモア・ウィスキー製造の激動の歴史の中でも並外れたものでした。1908年、サン誌はハンター・ボルティモア・ライの商標の価値を300万ドルと見積もっています。ラナハン・ジュニアが1912年に亡くなった時には、同紙は彼を「ボルティモアで最も広く知られているビジネスマンの一人」と呼びました。禁酒令の到来で事業所が閉鎖されると、ラナハン家のメンバーは銀行業と高額金融の世界に移り、一人のラナハンはニューヨーク証券取引所のガヴァナーになったそうです。別の一人、サミュエル・ジャクソン・ラナハンは有名作家のF・スコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻の愛娘スコッティと結婚しました。
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このブランドは禁酒法時代を生き延び、最終的にカナダの大手酒類会社シーグラムの手に渡りました。1940年末のブラウン・ヴィントナーズ社買収の折、シーグラムはボルティモアのウィルソン・ディスティリングとハンター・ボルティモア・ライ・ディスティラリーの支配権を得、1944年にこの2つの事業を統合してハンター=ウィルソン・ディスティラリー社を組織すると、ボルティモアのカルヴァート蒸溜所でハンター・ライの製造を開始しました。その後、その施設が閉鎖されると、ハンター=ウィルソンの事業はシーグラムが禁酒法廃止直後にルイヴィルのセヴンス・ストリート・ロードに建てた大規模な蒸溜所へ移されます。この時代は殆どがブレンドだったと思われ、ハンターの広告は比較的目にし易いです。ハンターはケンタッキー産になった訳ですが、相変わらずフォックス・ハンティングの紳士とティンバー・トッパーのイメージは保たれ、ボトルにはハンティングに使用するホーンまでエンボスされていました。


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シャーウッド・ライ
禁酒法時代の前後を問わず、メリーランド州で最も有名なライ・ウィスキーの一つがシャーウッド・ブランドでした。現代ワイト家のネッド・ワイトの家族伝承によれば、彼の曽曽曽祖父ジョン・ジェイコブ・ワイトは1850年代のある時期に、メリーランド州ボルティモアの北にあるハント・ヴァリー(コッキーズヴィル)で失敗したウィスキー蒸溜所を引き継ぎ、ライ・ウィスキーの生産を開始したそうです。この蒸溜所は食料雑貨店を営むウィリアム・レンツとジョン・J・ワイトの共同設立で、彼らの製品は近くのシャーウッド・エピスコパル教会にちなんでシャーウッドと名付けられました。コッキーズヴィルはボルティモアの約17マイル北にあり、町の名前は南北戦争の頃にホテルを建て、ボルティモア&サスクェハナ鉄道に駅を設置するよう説得したコッキー家にちなんでいます。ハント・ヴァリーは1960年代に不動産投機家によってどこからともなく命名された比較的新しい名前らしい。
一方で、1829年に食料品店を営むアルフィアス・ハイアットの息子として生まれたエドワード・ハイアットは、ウェスト・ボルティモア・ストリートの酒屋で商売を始め、1860年にはニコラス・R・グリフィスと共にウォーター・ストリートのウィスキー・ディーラーとなりました。1863年、ハイアットはニューヨークに渡ります。夢であったメリーランド・ライのブランド生産と販売を実現するための十分な資本と人脈を手に入れ、5年後にハイアット&クラークとして戻りました。1868年にエドワードは、ジョン・J・ワイトとウィリアム・レンツが始めた小さな蒸溜所を買収して拡大すると、大規模な生産とマーケティングを可能にし、全国的に有名にしました。同じ頃にハイアットとワイトの家族は合併したとされ、ジョン・Jとエドワードの妹が結婚したようです。ちなみに初期のハイアット&クラークのシャーウッド・ライの一部は熟成過程の一部としてキューバを往復していたらしい(アウターブリッジ・ホーシーが採用していた熟成方式を小規模にしたもの。後述します)。
10年後の1878年には、アメリカ陸軍のニューヨークにある医療供給基地が、病院で使用するための備蓄としてシャーウッド・ライを購入するほどになりました。1882年、パートナーが辞任したことでエドワード・ハイアットは自らを社長として3万ドルの資産を持つシャーウッド・ディスティリング・カンパニーを設立、ボルティモアのダウンタウンのオフィス・ビルディングに本社を構えました。過半数の所有権を売却したにも拘らずジョン・J・ワイトは蒸溜所に残り活動を続け、息子のジョン・ハイアット・ワイトも若い頃から事業に携わっていました。
シャーウッド・ディスティリングはメリーランド・ライをフラスク、パイント、クォートなどの様々なボトルで販売。ロゴには横になったバレルを採用し、広告でもその画像を頻繁に使用しました(1890年にトレードマークの使用を開始し、1913年には特許庁に登録された)。1800年代を通してビジネスは繁栄し続け、ボルティモアに営業所を開設。1897年、メリーランド州歳入局はシャーウッド・ウィスキーの課税額を308920ドルと見積もっており、これは今日の数百万ドルに相当します。
ジョン・J・ワイトが亡くなった時、彼の財産の大部分は息子のジョン・ハイアット・ワイトに譲渡されました。ジョン・H・ワイトはシャーウッド・ディスティリングの秘書兼会計になり、叔父は社長のままでした。1894年にはそのエドワード・ハイアットも亡くなり、ジョン・Hは叔父の財産の受託者となり会社の社長になりました。その頃、彼はメリーランド州のウィスキーで「ワイト」のラインを開始したようです。メリーランド州の納税記録によると、生産されたウイスキーの価値は着実に上がり、1909年には40万ドル近くになったとか。1914年頃にはジョン・Hの息子フランク・L・ワイトが蒸溜所で働き始めます。ジョン・Hとフランク・Lのワイトは、1920年の禁酒法まで蒸溜所を首尾よく運営しました。
禁酒法はコッキーズヴィルのオリジナルのシャーウッド蒸溜所を閉鎖に追い込み、建物は早くも1926年には取り壊されてしまいます。しかし、シャーウッド・ブランド自体はなくなりませんでした。禁酒法期間中、シャーウッド・ライは処方箋として販売され、最終的にブランドはルイ・マンによって購入されました(***)。禁酒法後の彼のシャーウッド・ウィスキーのラベルには大体、コッキーズヴィルの北東約25マイルにあるウェストミンスターと記載されています。マンのシャーウッド・ディスティリング・カンパニーは、少なくとも名目上そこにありましたが、瓶詰めの多く、そしておそらく蒸溜もペンシルヴェニア州グレン・ロックの更に北にあるウィリアム・ファウスト蒸溜所で行われていたと目され、ディスティラーと言うよりはブレンダーであったのかも知れません。それはともかくマンのシャーウッド・ディディリングは、一時はアメリカで4番目に重要な独立系蒸溜会社まで成長しましたが、その事業は1950年代に閉鎖されたようで、ブランドはいつの間にか姿を消しました。
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一方のオリジネイター、ワイト家も死んだ訳ではありません。禁酒法が終わるとフランク・L・ワイトはメリーランド州ロアリーに蒸溜所を設立し、冒頭のネッド・ワイトの祖父ジョン・ハイアット・ワイト2世と共に、1943年に蒸溜所を売却するまで経営を続けました。その後、フランクはコッキーズヴィル・ディスティリング・カンパニーを組織し、1946年に元の蒸溜所があった場所の近くに施設を建設しました。そちらは1958年にフランクが亡くなるまで操業しています。ワイトの主な後援者はコネチカット州のヒューブライン社であり、フランクの死後、彼らは蒸溜所を閉鎖しました。フランク・L・ワイトは、ライ・ウィスキー造りをグルメ料理と同じように芸術と見做していたと言います。「3人の料理人に同じ材料を与えると、1人は上等なケーキを作り、もう1人は平凡なケーキを作り、3人目は食べるに値しないケーキを作るだろう。ウィスキーの蒸溜も同じだ(1934年のイヴニング・サン紙のインタヴューにて)」と。1990年に78歳で亡くなったジョン・ハイアット・ワイト2世まで、ワイト家は何世代にも渡ってメリーランド州でウィスキーを蒸溜した家族でした。


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ホーシー・ライ
メリーランド州西部のフレデリックとアンティータム戦場のほぼ中間にあるバーキッツヴィルの近くに、往時、二つの商業蒸溜所がありました。そのうちの一つが1840年代にアウターブリッジ・ホーシー四世(二世やジュニアとされることもありますが、ここでは四世で数えます)によって設立されたニードウッド蒸溜所です。彼はチェサピーク&オハイオ運河の理事を務めたり、メリーランド州の民主党全国委員会のメンバーを長年務めたりした紳士でした。18~19世紀のアメリカに社会的政治的貴族がいたとすれば、メリーランド州のホーシー家は正にその中に入るでしょう。アウターブリッジ四世は米国憲法に署名したメリーランド州で最も有名な市民の一人であるチャールズ・キャロルの母方の直系の子孫で、祖父のトーマス・シム・リーはメリーランド州の知事を2度務めた人物であり、父のアウターブリッジ三世はデラウェア州の上院議員かつ以前は同州の司法長官でした。正に貴族の血統です。リー知事はフレデリック郡のブルーリッジ山脈の麓、バーキッツヴィルの近くに2000エーカーのプランテーションを設立し、豪邸を建てました。メリーランド州第2代知事から妻の家系に受け継がれたこのニードウッドという地所に、アウターブリッジ・ホーシー四世は4人の子供の末っ子として1819年2月28日に生まれました。
地元の学校やマウント・セイント・メリーズ大学で教育を受けた後、幼い頃にニードウッドの土地を継承していた19歳のホーシーは、1839年頃、それを耕作するだけでは飽き足らず蒸溜所を設立することを決意します。バーキッツヴィルとブランズウィックの間に商業用の蒸溜所を設立し、近くのカトクティン山脈からの水を利用したウィスキーを製造し始めました。彼の最初の操業は、その時代のメリーランド州の農民蒸溜者の伝統に沿った地元への販売を主とする小規模なものだったようです。この工場はホーシーの蒸溜技術の向上と共に大きくなって行きました。しかし、南北戦争が勃発すると、おそらく北軍での兵役を回避するために、ホーシーはヨーロッパに渡りました。南北戦争中、メイソン=ディクソン・ラインの両側からの襲撃を受け、ニードウッドは戦場となりました。1862年9月13日、(通称)ジェブ・ステュアート将軍の指揮する南軍の騎兵隊がバーキッツヴィルを占領、2日後に北軍と南軍の軍隊がクランプトンズ・ギャップの戦いで衝突し、ホーシーの蒸溜所は破壊され、貯蔵していたウィスキーは喉の渇いた戦闘員に飲み尽くされたと伝えられます。この挫折にも拘らず、ホーシーのウィスキー造りへの情熱は消えませんでした。アメリカを離れていた彼はヨーロッパでの滞在を利用して、スコットランド、アイルランド、イングランドの主要な蒸溜所を訪れ、高品質なウィスキーを製造する方法や設備について可能な限り学びました。
1865年に帰国したホーシーは、最新型の機械を導入するなどしてニードウッドを再建し、「ヴェリー・ファイン・オールド・ホーシー・ライ」の3000バレルを収納できる倉庫を備えた7エーカーの工場にしました。最終的には年間1万バレルを生産したとされます。ウィスキーをファンシーなラベルの付いたボトルで販売し、近くの町にディーラーを得、ボルティモアに会社の事務所を開設しました。これまでにない最高品質のアメリカン・ウィスキーを造りたいという願望に駆られた男の率いるニードウッド蒸留所は、ジェイムズ・ダル(後にオリヴァー・フルック)の監督下で「ホーシーズ・ピュア・ライ」というブランド名の新しい100プルーフのライ・ウィスキーや「ゴールデン・ゲイト・ライ」と呼ばれる非常に特別なブランドを生産し、意図的に高級化しました。ホーシーはメリーランド州のライ麦を使用せず、テネシー産もしくは輸入されたアイルランド産のライ麦を好んだと言います。輸入は製造コストを高めるでしょう。更に驚くべきは蒸溜後のウィスキーを熟成させる方法でした。
当時は、単純な倉庫保管よりもバレルを旅(長距離移動)させた方が優れているという考えがありました。これはスロッシング(容器内の液体が外部からの比較的長周期な振動によって揺動すること)は熟成を加速させると云う理論に基づいています。ホーシーはヨーロッパのウィスキーをアメリカに運ぶための大航海こそが、ウィスキーをスムーズにすると考えていました。そのアイデアは、何ヶ月も揺れる船で熱帯を航行してロード・アイランドに戻ってきた嘗てのニュー・イングランドのラムか、或いはホーシーが学んだグラスゴーの蒸留所から来てるのかも知れません。ともかく、彼は生産したウィスキー・バレルをボルティモアやワシントンに送り、それを蒸気船に乗せてホーン岬を回り、サンフランシスコまで航海させました。そこで一部のウィスキーは更に1年間倉庫に置かれた後、現地で宣伝してサンフランシスコのサロンなどで販売したり、カリフォルニアでゴールデン・ゲイト・ライとして販売したようです。そして残りのウィスキー・バレルは鉄道でメリーランドに戻された後にボトリングされました。ホーシー・ライが入っていた木箱には「このウィスキーは、S.S.____によってサンフランシスコまで海上輸送されたため、独特で最も心地よい柔らかさが得られた」との文言がステンシルされ愛好家を魅了しました。もし、それがただのギミックだったとしても、それは上手く行きました。ホーシーの製品はマサチューセッツからカリフォルニアまで顧客がおり、美食家が必要とする全ての品質に富んでいるとして、街角の酒場ではなくホテルやクラブのようなちょっと高級な場所で愛飲されたと言われています。
こうした航海熟成のテクニックはホーシーだけの専売特許ではなく、初期のシャーウッド・ライにはキューバに出荷されて戻って来るものがあったり、バーキッツヴィルにあるもう一つのジョン・D・エーハルトの蒸溜所のアンティータム・ライは、熟成の過程でウィスキーをリオデジャネイロまで送っていたと言われています。航海熟成は製造コストを押し上げたのは間違いないと思いますが、実は当時の経済状況では長い船旅はそれほど高くはなかったらしく、1903年8月の『ニューヨーク・タイムズ』には「蒸溜業者はウィスキーをブレーメンとハンブルグに送り、そこからホーン岬経由で出荷する方がルイヴィルからサンフランシスコまで鉄道で送るよりもコストが掛らないことを発見した」と報じられているそうです。1887年の州際通商委員会(Interstate Commerce Commission=ICC)の公聴会で発表された統計によると、或る蒸溜所はボルティモア港からホーン岬を回ってサンフランシスコまで1バレル約1ドルでウィスキーを送ることが出来るとICCに文書で報告したとか。これは貨物列車でアメリカ大陸を横断して輸送するよりも遥かに安い金額でした。1800年代の鉄道が今日の新幹線以上、寧ろジェット機のような存在であったことを考えると、ホーシーのウィスキーがサンフランシスコからボルティモアまで、鉄道が運行する全ての都市を巡り、ケースや車両の側面にブランド名が目立つように表示されながら戻って来たのなら、それはホーシー・ライの高級感と知名度を高める宣伝そのものだったでしょう。
ホーシーズ・ピュア・ライは、おそらくは最上級の意味で自らを「アメリカで最初のイースタン・ピュア・ライ・ディスティラリー」と広告で称しました。そしてこの珍しい名前のウィスキーは量を増やすことよりも品質を維持することに重点を置いていました。1日の生産量は400ブッシェル未満でしたが、蒸溜所の事業からの課税対象収益は何年もの間、約25000ドルで安定していたそうです。ニードウッドの農場とウィスキーから得た利益(また幾つかの大企業の役員も務めていたと云う)で繁栄したホーシーは、ワシントンDCに家を購入し、チャールズ・キャロルの子孫である妻アンナと共にそこで優雅な冬を過ごし、地元の上流社会では活発に活動しました。単なるビジネスマンではなかった彼は、ジョン・W・バウマンやイーノック・ルイス・ロウといった人物を師と仰ぎ、政治にも力を入れ、おだてられて上院議員に立候補したこともあったそうです(後にボルティモアのイーノック・プラット自由図書館の主任司書となるルイス・H・スタイナー博士に敗れた)。「威厳のある堂々とした風貌で、接する人すべてから尊敬と称賛を集めた」アウターブリッジ・ホーシー四世は、1902年1月5日、83歳の高齢で亡くなり、ピーターズヴィルのセント・メアリー・カトリック墓地に埋葬されました。『ニューヨーク・タイムズ』の死亡記事には、彼の政治的なコネクションが強調され、ディスティラーでもあったことは後付けで加えられたに過ぎませんでした。ホーシーは亡くなる2週間前に株式会社を設立し、3人の息子達を戦略的なポジションに任命したとされます。彼の死後間もなく息子達はニードウッド蒸溜所の半分以上をコーン・リカーに切り替え、蒸溜所を売却し、飲料用アルコールのシーンから去って行きました。ホーシーの貴族の家族はウィスキー造りには興味がなかったらしい。
新しい経営者のもとで1907年には生産量が倍増したとされますが、幅広い飲酒者に販売される品質が低下したものだったと推測されます。品質は兎も角として、1906年に制定された純粋食品医薬品法の「ピュア・ライ・ウィスキー」と表示するための新たな法的資格により、それまで人気を博していた多くの銘柄が酒屋の棚から突然姿を消しました。ホーシー・ブランドもその影響からか、製品名は「オールド・ホーシー」に変更されました。ライの他、単なるストレート・ウィスキーも現れホーシーの名が冠されるようになりましたが、製品はもはやホーン岬を旅するものではなく、ブランドはその水の質の高さを売り物にしていたようです。スウィートなテイスティングの水の供給源はサウス・マウンテンのスプリングからである、と。1914年の政府の水質に関する報告書によると、スペント・マッシュから毎日6000ガロンがミドル・クリークに排出されたそう。禁酒法が訪れると他のアメリカン・ウィスキーの多くと同様にホーシーの蒸溜所(メリーランドRD#17)は1919年に閉鎖されました。
禁酒法下でニードウッド蒸溜所が何千本ものボトルを保管していることが判明すると、強盗が入って奪われたという話があります。1923年4月1日の『ボルティモア・サン』の記事によれば、「昨日未明、メリーランド州バーキッツヴィルのホーシー・アウターブリッジ蒸溜所(原文ママ)で、2台の自動車に乗った数人の男が6ケースのウィスキーを盗んだ」とあり、警備員が発砲すると強盗もこれに応え銃を乱射、何発も銃弾が飛び交い、その間に泥棒たちは車に乗り込んで走り去りました。倉庫の在庫を調べたところ、盗まれたのは薬用としてパイント・ボトルに入っていた6ケースだけでした。これは「この8ヵ月で4回目のことで、この他にも少なくとも2回ほど工場への侵入を試みたが挫折したこともあった」そう。ボルティモア・コンセントレーション・ウェアハウス・カンパニーのジェネラル・マネージャーであるデイヴィッド・スティーフェルによると、約15の蒸溜所に分散している州内50000バレルのうちアウターブリッジ・ホーシーの倉庫に保管されていたのは4000バレル以下だったとのこと。
禁酒法が明けた1934年、ホーシーの名前は再び表舞台に現れます。メリーランド州コッキーズヴィルを源流とするが別の会社であるシャーウッド・ディスティリング・カンパニーは薬用アルコールの販売で生き延び、禁止令廃止にあたり経営陣はホーシー・ディスティリングを買い取り、工場を再建することなく知名度の高いブランドだけを維持しました。この時には「オールド・ホーシー・ヴェリー・ファイン・ライウィスキー」、「オールド・ホーシーズ・メリーランド・ライウィスキー」、「オールド・ホーシー・ライウィスキー」等があり、「オールド」や禁止後の法的要件である「ウィスキー」という言葉が追加されています。シャーウッドはその後ウェストミンスターに本拠を移したのでラベルにはその名前の記載がありますが、蒸溜とボトリングはペンシルヴェニア州グレン・ロックの古いウィリアム・ファウスト蒸溜所で行われていました。この過程でホーシー・ライは、過去の6年熟成させた高品質なブランドから、大量消費用の2年物を含む安物ウィスキーに変質してしまった模様。もしアウターブリッジが生きていたら激怒したかも知れません。


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メルローズ・ライ
上品で甘美な雰囲気を醸すメルローズのウィスキーは、造り手の出自を反映していたのかも知れません。アメリカの上流階級に属するゴールズボロ家はその血統を過去に繁栄したイングランドに遡り、メルローズの創始者の母方の家系にはフランスの貴族が含まれているそうです。アメリカで最初のゴールズボロであるニコラスは1669年に到着し、メリーランド州のイースト・ショアにあるケント・アイランドに定住しました。この一族は市民活動や公的な活動に於いて顕著な功績を残し、メリーランド州知事も輩出しています。その他にも影響力のある人物を輩出しているらしい。メルローズの物語は1880年代にヘンリー・P・"ハリー"・ゴールズボロが妻と若い家族と共にテキサスからボルティモアに戻った後に始まりました。彼は若い時分から西部テキサスで商売を成功させていましたが、新しい展望を求めて出生地のメリーランドに帰って来たのです。
一方、ジョージ・J・レコーズという名前のボルティモレアンがパートナーと一緒にライト・ストリート116番地に「レクティファイアーズ、ディスティラーズ、ホールセラーズ」として宣伝する酒屋を設立していました。ボルティモアに戻ったハリーは自分の資金を彼らの会社であるレコーズ,マシューズ・アンド・カンパニーに投資しました。そして数ヶ月以内にマシューズの株を購入し、社名は1885年頃にレコーズ&ゴールズボロに変更されました。そして、ほぼ同時期に(1883年という説も)同社を全国的な評判にしたラベルであるメルローズ・ブランドを作成しました。その名前はゴールズボロの先祖代々の英国の邸宅があったメルローズ・ロードに由来しています。レコーズ&ゴールズボロは当時のメリーランドの他の生産者と同様に、ストレート・ウィスキーは風味が集中し過ぎており、レクティファイして90プルーフに減らす必要があると考えていました。ストレート・ウィスキーは優れた飲み物であり、一部の人々に好まれる可能性があることを認めつつも、ロウワー・プルーフの方がフレイヴァーのバランスが良く多くの人にアピールすると考えたようです。彼らのフラッグシップ・ブレンドは5種類のライ・ウィスキーを使用し、そこにアロマ、フレイヴァー、ボディ、テイストを同社が求める特徴に統合するための特別なブレンディング剤を組み合わせて造られました。ゴールズボロ家の子孫と結婚したスターリング・ グラアムの「Melrose、Honey of Roses」によると、ブレンディング剤はフレイヴァーには寄与しないがメリーイングおよび触媒として役立つそう。それはフルーツベースの、おそらくシェリーかポートを使った何かではないかと推測している人がいました。メリーランド・ライはしばしば特徴的な赤い色をしてたとされ、特にシャーウッドとシャーブルックのブランドはそうで、メルローズも深い赤色だったと伝えられます。それはもしかするとブレンディング剤で達成されたものだったのかも知れません。メリーランドの製品の多くはニュートラル・スピリッツとブレンドされていましたが、ハイエンドのブレンドはどれもストレートなキャラクターを有し、品質はストレート・ライやバーボンと同等、場合によっては優れている可能性があるとされています。
当初、レコーズ&ゴールズボロはウィスキーを蒸溜していなかったためオープン・マーケットで調達されていました。メリーランド州は多くの蒸溜所を誇っていましたが、卸売業者による競争は激しく、原酒の価格高騰の可能性があり、経営者達は自分のプラントを所有することに熱心でした。多くのレクテァファイアーと同じようにそう望んだレコーズ&ゴールズボロは、ブレンド用ウィスキーの安定した供給を確保するため、別の有名なボルティモアのウィスキー男爵エドウィン・ウォルターズがバギー事故で負傷して死亡したのを契機に、他の二つのボルティモアのリカー・ハウスからなるシンディケイトに参加して、ボルティモア近くのキャントンにあるプラントを1897年に購入し、名前をオリエント蒸溜所からキャントン蒸溜所に変更しました。その蒸溜所はライ・ウィスキーの品質で知られ、メルローズ・ブレンドの供給源でした。こうしてより確実な供給源を得た同社は独自のブランドを増やすことが出来、メルローズの他に「ハッピー・デイズ・ライ」、「マウンテン・ヒル」、「メリーランド・ゴールデン・エイジ」、「メリーランド・プライド」、「オールド・レコード・ライ」、「R and G」などがあったそうです。彼らはウィスキーのブレンドを専門とする会社ですが、ブレンドされていないストレート製品も販売しており、いつの時代か不明ながらキャントン・メリーランド・ストレート・ライウィスキーというのもあったらしい。
1904年2月のボルティモア大火災がライト・ストリートを含むダウンタウンの大部分を破壊した時、レコーズ&ゴールズボロの建物も被害に遭いました。しかし、翌年には再建され、住所は新しいライト・ストリートの36番地になりました。それから彼らは1906年にメルローズ、1907年にハッピー・デイズと、初めて二つのブランドを商標登録しました。   1909年4月にはジョージ・レコーズが59歳で亡くなります。 彼と妻の間には子供がいなかったため、リカー・ハウスの所有権はゴールズボロに委譲されました。レコーズとは対照的に子宝に恵まれていたハリーは、息子が雇用年齢に達した時に会社に加えます。そのうちの二人、フェリックス・ヴィンセントとウィリアム・ヤーバリーのゴールズボロは酒類ビジネスに親和性がありました。兄弟たちは父親に付き従ってビジネスのあらゆる側面、樽の運搬、ボトルのラベル付け、帳簿の管理までゼロから学びました。取り分けウィリアムは初めからレクティファイング・プロセス(ブレンド)で例外的な才能を示したと言われています。兄のフェリックスの方は経営面に才覚を発揮しました。その後、他の兄弟であるジョージ・Jも会社に参加します。
第一次世界大戦ではウィリアム、ジョージ、そして三番目の兄弟リロイが入隊しました(ウィリアムとリロイは陸軍、ジョージは航空隊)。その結果、残念なことにウィリアムは永久的な眼の怪我を負い、リロイは死亡してしまいます。フェリックスは結婚し、1915年に会社の社長に任命され、家にいて酒類事業を守りました。その頃ハリー・ゴールズボロの健康は歳を取るごとに悪化、1917年に58歳で亡くなり、ボルティモアのカテドラル・セメタリーに埋葬されました。第一次世界大戦が終わると、ウィリアムとジョージはホームに帰り、兄を手伝ってレコーズ&ゴールズボロの運営に復帰、会社は成功を収めたようです。しかし、禁酒法が施行されたため、1919年末に会社は閉鎖を余儀なくされました。
業界は13年間の禁酒法によって殺害されましたが、禁酒法が撤廃されると高齢にも拘らず兄弟達は再び力を合わせて事業を再開、メルローズ・ライを復活させました。メルローズ・ブランドを持つレコーズ&ゴールズボロは、メリーランド州にあっては禁酒法解禁後に同じ名前と経営者で再び登場する数少ないウィスキー企業の一つとなったのです。再びウィスキーのブレンディングを開始した彼らは、世界恐慌と第二次世界大戦によって齎された問題に直面しますが、何とかそれを克服しました。この頃にはゴールズボロ家の3世代目も事業に参入していました。彼らは苦労してビジネスを構築してメリーランド・ウィスキーの売上を達成することに成功。同社はメリーランド州に蒸溜所を開設しただけでなく、ケンタッキー州エクロンにあるペブルフォード蒸溜所を買収しました。戦争努力のための工業用アルコールを支持して、飲料用アルコールの生産が停止された第二次世界大戦中でさえも事業を継続していたらしい。戦時中であるにも拘らず、その品質には影響がなかったとか。しかし、最終的に彼らは業界の巨人に吸収されます。1948年(1945年説も)、一家は会社、蒸溜所、ブランドをシェンリー・インダストリーズに売却することを決めました。
シェンリーの全ての蒸溜所と同様に、メルローズ蒸溜所は1950年代の最初の数年間にウィスキーを過剰生産していました。シェンリーは朝鮮戦争がもう一つの世界大戦へと拡大し、戦争のために工業用アルコールの製造を余儀なくされると信じていたのです。しかし、物事はそうなりませんでした。そしてシェンリーの倉庫には過剰生産されたウィスキーが溢れ返りました。彼らは蒸溜所での生産を停止し始め、最終的に蒸溜所を売却し出しました。1960年代と70年代にウィスキーが市場シェアを失ったため、シェンリーはブランドの広告のサポートを止め、その後ブランドの生産も止めました。これがメルローズ・ブランドの運命と重なりました。1980年までにブランドはもはや生産されず消滅した、と。往年よく知られたメリーランド・ライのブレンドだったメルローズ・ライ。その名前は、もうメリーランドにはありませんが、現在ではテネシー州チャタヌーガのJ.W. ケリー&カンパニーによって復活しています。


では、そろそろ話をもとに戻します。第一次世界大戦と禁酒法はライ・ウィスキーの人気に対する大きな打撃でした。
禁酒や節酒を呼びかける声はアメリカという国の初期段階から聞こえていました。陽気な酒飲みの背後には、アルコールに蝕まれた家族やアルコールによって台無しにされたキャリアといった破滅的な光景も広がっていたからです。1810年から1840年にかけて個別に行われていたプロテストは次第に融合して行きました。1840年にボルティモアで設立されたワシントン・テンペランス・ソサエティは、一般的には全国的な組織を持つ最初の活動とされています。1854年に『Ten Nights in a Bar-room, and What I Saw There』という辛辣な小説(読者が飲酒するのを思い留めさせるための明確な意図をもって書かれたテンペランス小説)を書いたティモシー・シェイ・アーサーはボルティモアで育ちました。南北戦争後、禁酒運動の主導権は男性から女性へと移ります。特に1874年に設立された女性キリスト教禁酒連合(Woman's Christian Temperance Union=WCTU)ではその傾向が顕著でした(メリーランド支部は1875年に開設)。1903年11月19日には、あの有名な酒場の破壊者であるキャリー・A・ネイションがボルティモアのリリック・シアターにやって来たという話もありました。時にはボルティモアのサルーンが物理的な攻撃を受けることもあったのかも知れません。もっと典型的なのはテンペランスの行進で、大学の学生や卒業生、教師、医師、教授、福音主義教会の会員など全て女性で構成された行列がボルティモアの通りを席巻したそうです。
1851年、メイン州は州全体を対象とした禁酒法を制定しました。その後、他の州やカナダの州でも禁酒法が制定されましたが、議論や投票が盛んに行われたため一部の地域では撤回されました。メリーランド州もすぐにそうした「戦場」になりました。早くも1862年には、モンゴメリー郡のブルックヴィルから2マイル以内、サンディ・スプリング集会所から2.5マイル以内、エモリー礼拝堂と学校から半径4マイル以内での「いかなる蒸溜酒や発酵酒」の販売を禁止する法律が制定されています。ボルティモアのマウント・ヴァーノン・ミルズのような製造業者は、労働者の飲酒を減らすために工場の近くでの酒類の販売禁止を求めたこともあったそう。1885年にはカウンティ・オプション法が成立し、アナランデル郡、カルヴァート郡、キャロライン郡、セシル郡、ドーチェスター郡、ハーフォード郡、ハワード郡、ケント郡、モンゴメリー郡、タルボット郡、そしてサマセット郡とクイーン・アンズ郡の大部分で酒類の販売が禁止されました。
一方の親酒派は敵の性格や動機を非難し、少量または時々の飲酒であれば健康になることを主張していましたが、禁酒主義者の猛攻撃の前に無制限の酒類販売の領域は縮小されます。男性によって運営され議員に焦点を当てたアンチ・サルーン・リーグは1895年にワシントン本部を設立し、1910年頃に聖職者がボルティモア支部を支配しました。しかし、皮肉にも残りのウェット・エリアでのビジネスは改善されます。1908年にはノース・キャロライナ州、1912年にはウェスト・ヴァージニア州、1914年にはヴァージニア州と、様々な枠組みで州全体での禁止令が出されましたが、住民が買いだめするために大都市へ旅したため、これがボルティモアには好都合に作用したのです。アナポリスを含む一部の都市はお陰で「オアシス」のようでした。
1916年、酒類販売のドライ/ウェット問題を投票にかける地方法ではない一般法を得て、ドライ派はすぐにキャロル、フレデリック、ワシントンの各郡を獲得しました。1918年までにメリーランド州の土地面積の84%が法律で定められたドライ地帯となったそうです。その間、『アメリカン』を始めとするボルティモアの日刊紙の殆どは酒類の広告を受け入れていました。片や『サン』は1920年代から1930年代初頭に掛けての反禁酒法に対する積極的な姿勢とは対照的に1905年頃まで酒類広告を掲載しなかったとか。
20世紀に入り禁酒運動が急速に活発になった背景には、当時増え続けた移民によって日常的に飲酒する下層民が増えたことに対してアメリカのキリスト教道徳を遵守したい保守派の動きや、アメリカの第一次世界大戦参戦を機に物資の節約と生産性向上への声が大きくなったこと等が挙げられています。また、対戦国であるドイツ嫌いの風潮も強まり、ビール醸造に使われる穀物を節約して前線の兵士に送ろうという主張の裏側には、ビール醸造業を潰してドイツ系市民に打撃を与えようという思惑があったことも指摘されています。第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、連邦政府はアルコール生産を軍事目的に転用しました。メリーランドでも、多くの顧客が海外に流出したため店やバーの数は減って行き、蒸溜所や卸売業者のオウナー・チェンジも頻繁に行われ、閉鎖に伴う投資資金の流出が懸念されました。1918年11月、国民は中央同盟国(第1次世界大戦中の、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国およびブルガリア王国から構成された連合国)に対する勝利をアルコールで祝います。しかし、1915年頃から州法で禁酒を規定するところが増えており、1917年12月に酒類の製造/販売/輸送/輸出入を禁止する憲法修正第18条がアメリカ合衆国憲法の追加条項として議会で可決されていました。当時の48州のうち4分の3となる36州の批准が必要だったので、各州での批准の完了には時間を要し、36番目の州が修正第18条を批准したのは戦後の1919年1月16日のことです。メリーランド州は修正第18条を批准しましたが、州による施行は法制化されていませんでした。条件には一年の猶予が含まれており、その間、ディスプレイ広告も奨励され、消費者は「大旱魃」を防ぐための措置としてメリーランド・ライのボトルやケースをいくつも買い置きすることが出来ました。禁酒の具体的な内容を定めたヴォルステッド法が成立したのは同年10月。そして翌1920年1月には憲法修正18条が発効し、アメリカは遂に国家禁酒法時代に入りました。

メリーランド州は禁酒法の物語の中でもユニークな立ち位置を占めています。 それは「高貴な実験」を確立する修正第18条を批准しつつも、メリーランダーズは一般的にこの法律に反対していたところでした(後に80%以上が廃止に投票することになる)。
この州には多くの移民が住んでおり、特にボルティモアはそうでした。彼らの文化は酒を飲むことが生活の一部として大切にされていました。禁酒運動の外国人排斥の動きに憤慨した彼らにとって、それは自らの習俗を守る文化戦争でした。また、メリーランダーズは自分たちの州の権利と思われるものに連邦政府が介入することに反対し、そして自分たちの個人的な生活への介入にも抵抗しました。国家禁酒法の下では連邦政府と州の両方がアルコール法の施行に責任を負っていましたが、メリーランド州はこの不人気な法律を施行するための法律の可決を拒否した唯一の州でした。禁酒法の全期間を通じて知事が反対したそう。そのため、メリーランド州には「フリー・ステイト」のニックネームが付けられています。それはメリーランド州の政治的自由と宗教的寛容の長い伝統を表している、と。その言葉は、元々は奴隷制の文脈で使われていましたが、ずっと後に別の文脈で使用されるようになりました。1923年に禁酒法の確固たる支持者であったジョージア州の下院議員ウィリアム・D・アップショーが州の執行法の可決を拒否したとしてメリーランド州を連邦への裏切り者として公然と非難すると、ボルティモア・サン紙の編集者ハミルトン・オーウェンスは「ザ・メリーランド・フリー・ステイト」と題された模擬の社説を書き、メリーランドは酒の販売を禁止するのではなく連邦から脱退すべきだと主張します。社説の皮肉が過激だった?のでオーウェンス氏はそれを印刷しないことに決めましたが、後の社説で彼やH・L・メンケンがそのニックネームを広く普及させました。

ヴォルステッド法はアルコールの製造、輸送、販売を禁止していましたが消費を禁止していませんでした。ケンタッキーの有名な蒸溜一家の一員、オソとリチャード・ユージーンのワセン兄弟は法の抜け穴を上手く利用して、1920年頃に薬用ウィスキーを販売するアメリカン・メディシナル・スピリッツ・カンパニー(AMS)を組織しました。AMSはメリーランド州内で唯一操業を許された蒸溜所としてハニス・ディスティリング・カンパニーのボルティモア蒸溜所(マウント・ヴァーノン蒸溜所)を所有し、禁酒法が終了するまでマウント・ヴァーノン・ライを薬用ウィスキーとして販売しました。またそうした「正規」の「裏側」では、ブートレガーズはチェサピーク湾を利用して商品を運び、知る人ぞ知るスピークイージーも沢山あったようです。メリーランドは1933年にヴォルステッド法が廃止される前も後も、ビールや酒が自由に飲める最も「ウェット」な州として知られていたとか…。

13年間の禁酒法は業界全体を痛めつけましたが、1933年に禁酒法が解禁されるとメリーランドでも少数の蒸溜所が再開され、州に特有のスピリッツであるライ・ウィスキーの需要を満たすために生産を増やしました。しかし、ブームは比較的短命であり、第二次世界大戦後、経済の変化と需要の減少の組み合わせにより、次々と蒸溜所は閉鎖され、最終的にライの繁栄は終わりを告げることになります。ケンタッキー州のようにはいかなかったのです。
「ドライ・エラ」の間に何かが変わりました。禁止後、ハイ・コーン・レシピのバーボン・ウィスキーは間違いなく最も人気のあるスタイルとなりました。バーボンは王座の地位に就き、ライは棚の後ろに押し出されたのです。多くの場合、バーボンがライに取って代わった理由としては、禁酒法期間中に酒飲みの舌がスピークイージーで提供される密造されたコーン・ウィスキーに慣れたため禁止後に皆がバーボンを欲っするようになったと説明されます。それは少しの真実を含むかも知れません。或いはバーボンはトウモロコシ栽培者に対する連邦政府の補助金に助けられたとも言われます。禁酒法の直前と直後、第二次世界大戦中、米国政府はトウモロコシに助成金を支給し、農民にとって魅力的な作物になりました。お陰でトウモロコシはより安くより入手し易くなりましたが、ライ麦はそのままでした。蒸溜酒製造業者は自らの産業を再建するためにトウモロコシに群がりました。それは伝統的なアメリカの蒸溜に対する深い敬意以上に、実用的なビジネスの観点からの動きだったのです。そうなったもう一つの理由として重要なことに、禁酒法後のメリーランド州の蒸溜所の減少が挙げられます。禁酒法以前に生産していたメリーランド州の蒸溜所の多くは貴重な都市部にあり、禁酒法の13年の間に不動産を売却する必要性がありました。逆にケンタッキー州では蒸溜所の多くが郊外や農業地域にあり、その土地の需要はそれほど大きくなく、蒸溜所の販売はそれほど魅力的なものではありませんでした。禁酒法の間に売られその後に再始動した殆どのメリーランドの蒸溜所は、禁酒法以前にそれらを運営していた人々とは異なる人々によって運営されました。しかも大抵の場合、メリーランド・ウィスキーの評判を利用して手っ取り早くお金を稼ぐことに興味のあるビジネスマンに売り払われていたそう。その多くは10年以内に失敗に終わったと言います。それでも何とか維持していた蒸溜所は、嘗ての偉大なメリーランド・ライの淡い影であるブレンデッド・ウィスキーを販売するためだけに古い有名なブランドの名前を購入することに主に関心を持っていた大規模なウィスキー・コングロマリットに買収されて行きました。
1936年にメリーランドはライ・ウィスキーの生産量が1400万ガロンとなり国をリードしました。その二年後、政府の保税倉庫から1500万ガロンのライを処分しなければならないというニュースが流れました。第二次世界大戦の勃発です。これ以降ライの生産量は二度と戦前のような高水準に戻ることはありませんでした。戦時中、穀物とアルコールは軍用に転用されます。メリーランダーズは特に愛国心が強く、非常に多くの蒸溜所がエタノールの製造に切り替えたと聞きます。そしてブレンデッド・ウィスキーが登場し始めますが、これが大衆の支持を得たことはストレート・ライ・ウィスキーの余命が幾許もないことを意味していました。戦後ほどなくして大衆の酒飲みの舌はバーボン、スコッチ、カナディアン、ジンを求め、そうした嗜好の変化はメリーランド・ライの人気を終わらせるのに十分でした。

AMSを母体として生まれたナショナル・ディスティラーズが禁酒法の終わり間際に買収したハニス・ディスティラリーは、1953年まで操業したものの販売不振のため閉鎖されました。
一方、ボルチモアの少し南東にありアイルランドにちなんで名付けられたダンドークでは、ウィリアム・E・クリッカーがボルティモア・ピュア・ライ・ディスティラリーを建設し、メリーランドには珍しい98%ライと2%モルテッドバーリーのみのマッシュビルをもったボトルド・イン・ボンドのライ・ウィスキーを販売していました。クリッカーは1950年代初めに蒸溜所をナショナル・ディスティラーズに売却しました。この蒸溜所は、50年代のワイルドターキー・ライのソースだった可能性が指摘されています。理由は不明ですがナショナルは割と短期間でこの建物をシーグラムに売却し、彼らは自社のフォアローゼズやポールジョーンズのようなブレンデッド・ウィスキーの製造に使用しました。
アーサー・ゴットシャルクの建てたメリーランド・ディスティリングは、1933年にボルティモアの投資家が復活させ、ヘレソープとアビュータス近くのリレイに新工場を建設しましたが、すぐにシーグラムに吸収されてしまいました。新オウナーは蒸溜所の名前を「カルヴァート」に変え、リード・ブランドをロード・カルヴァート・ブレンデッド・ウィスキーに変更。売上が減少するとリレイ蒸溜所は蒸溜を停止しました(その後、長らくディアジオのボトリング業務に使用されていましたが2015年末に閉鎖された)。
禁酒法以前にシャーウッド・ライを製造していたジョン・ハイアット・ワイトの息子は、修正第21条の通過と共にメリーランド蒸溜業界の主要人物となり、ボルティモアより北東のホワイト・マーシュ地域にあったと思われるロアリーに蒸溜所を建設し、フランク・L・ワイト・ディスティリング・カンパニーを率いてシャーブルック、ワイツ・オールド・リザーヴ、コングレッショナル・クラブ等のストレート・ライ・ウィスキーを販売していましたが、1941年(43年説も)にその事業をハイラム・ウォーカー社に売却します。その後ハイラムが生産拠点をイリノイ州ピオリアに移したことで7年後に閉鎖されました。その後フランクはコッキーズヴィル・ディスティリング・カンパニーを組織し、1926年に建物が取り壊されるまで元のシャーウッド施設があった場所の近くに蒸溜所を1946年に建設しました。シャーウッド・ブランドを取り戻すことが出来なかった彼は、代わりにライブルックと名付けたメリーランド・ストレート・ライを製造・販売していました。1958年にフランクが亡くなると、ワイト家最後の蒸溜所であるコッキーズヴィル・ディスティリングは閉鎖されてしまいます。
1948年当時には、まだ15の蒸溜所がライを生産していたそうですが、今見たように第二次世界大戦後は生産量が減少し、ライ・ウィスキーの蒸溜所は次々と閉鎖され、最後のメリーランドを拠点とする蒸溜所も1972年にその扉を閉めました。その蒸溜所が造っていたのがパイクスヴィルです。今日、新世代のメリーランドのディスティラーは州特産のライ・ウィスキーを生産して伝統を取り戻すため懸命に取り組んでおり、そうした近年のクラフト・ディスティラリーによる復興を除けば、最後まで存命していたメリーランド・ライこそがパイクスヴィルでした。

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レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェスト・ヒストリック・バーボンはカリフォルニア州バーリンゲイムにオフィスを置くアライド・ロマー/インターナショナル・ビヴァレッジのブランドで、おそらく80年代後半もしくは90年代初頭に日本市場向けに発売されました。その流通量の少なさからすると一回限りの販売か、または継続的(或いは断続的)にリリースされていたとしても極端に小さいバッチでのボトリングかと思われます。レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストの名の通り、ラベルには西部開拓史を彩った象徴的なヒーロー達の肖像が使われています。画像検索で把握できる限り、ラベルの人物にはキット・カーソン、ジェネラル・カスター、ダニエル・ブーン、デイヴィ・クロケット、ワイアット・アープ、ドク・ホリデイ、ルイス&クラーク、ジェロニモ、エイブ・リンカーン、ジョージ・ワシントン、バッファロー・ビルなどの種類があるように見えました。間違っていたらすみません。あともう一人いると1ケース12ボトルでちょうどピッタリだと思うのですが、誰なのでしょう? どうしても画像検索に出て来なくて…。ご存知の方はコメントよりお知らせ頂けると助かります。それは偖て措き、こうした同じブランドの名の元に異なる人物の写真を使用するコレクターズ・シリーズ物はアライド・ロマーの得意技?であり、レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストと同時代の荒くれ者やお尋ね者を揃えた「アウトロー」を筆頭に、名前そのままにギャングやマフィアをフィーチャーした「ギャングスター」、黒人ミュージシャンを取り上げた「ジャズクラブ」や「ブルースクラブ」、他にも「R&B」や「ロックンロール」や「USAベースボール」などがありました。これらのブランドの中身の品質は様々でしたが、レジェンズとアウトローとジャズクラブの長期熟成物が頭一つ抜け出たプレミアム製品だったように思います。

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(画像提供Bar FIVE様)

さて、そんなレジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストには12年熟成96プルーフと15年熟成114プルーフのヴァリエーションがありました。ボトリングはKBDが行っています。日本語でレジェンズを検索した時に出てくる情報ではヘヴンヒル原酒と言い切られている場合もありますが、基本的にKBDは秘密主義なので中身のジュースについての詳細は一般に明かされていません。一説には複数の蒸留所の原酒をブレンドする製法で造られているとされています。どこかで旧ウィレット原酒とヘヴンヒル原酒のミックスと見かけたような気もするのですがうろ覚えです…。レジェンズの発売年代が80年代後半か90年代初頭で正しいのならば、熟成年数をマイナスするとまだ旧ウィレット蒸留所が稼働していた時期に当たるので、その可能性は無きにしも非ずでしょう。何処の蒸留所の原酒であれ、KBDのストックをエヴァン・クルスヴィーンが選んでバッチングしたのは間違いないと思います。
ところで、日本人にとっては超熟バーボンの母とも言えそうな存在である伝説のエクスポーター、アライド・ロマーの社長マーシィ・パラテラがどこまで関与しているのか気になるところですよね。彼女もバレルを選んでいたのか? それともエヴァンが選び造り上げたものを単に購入しただけなのか? 或いは両者の共同作業なのか? まあ、少なくとも試飲はしてるでしょうし、プロデューサーとして最終的な決定はしてる筈。何れにせよ日本人の感覚や興味に沿ったブランドを数多く作成したマーシィには拍手しかありません。レジェンズ・オブ・ザ・ワイルド・ウェストやアウトローは、西部劇やアーリーアメリカン・カルチャーの好きな人には堪らない魅力のあるラベルです。日本人のアメリカへの憧れをダイレクトに刺激してくれます。
ではでは、ここらで飲んだ感想になるのですが…。

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LEGENDS OF THE WILD WEST HISTORIC BOURBON 15 Years Old 114 Proof
実はこれ、今回のバー遠征の最後の一杯でした。お酒に弱い私にとってバレルプルーフは少々キツいので最後に残しておいて注文したのですが、正直すでにかなり酔っており、味がよく分からなかったのです(笑)。しかし、度数の割にスムーズなのは分りました。まろやか系な印象。あと、けっこう渋みも感じました。何となくスティッツェル=ウェラーに近い味わいに思ったのですが、皆さんはどう思うでしょうか? 飲んだことのある方はどしどしコメントお寄せ下さい。
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(ジョージ・アームストロング・カスター。彼の評価はアメリカ白人の英雄とも汚点とも扱われた。しかし、彼の写真が使われたラベルのバーボンの評価は絶対的に賛美される。)

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