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W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴは、現在ではサゼラック・カンパニーが所有するフランクフォートのバッファロートレース蒸留所で製造されているウィーテッド・バーボン(小麦バーボン)です。元々はスティッツェル=ウェラーによって作成されたブランドでした。ウィーテッド・バーボンと言うのは、全てのバーボンと同様に少なくとも51%のコーンを含むマッシュから蒸留されますが、フレイヴァーを担うセカンド・グレインにライ麦ではなく小麦を用いたバーボンを指します。小麦が51%以上使用されたマッシュを使うウィート・ウィスキーとは異なるので注意しましょう。近年のウェラー・ブランドには人気の高まりから複数のヴァリエーションが展開されていますが、「ウェラー・スペシャル・リザーヴ」はかねてから継続的にリリースされていた三つのうちの一つであり、ラインナップ中で最も安価なエントリー・レヴェルの製品です(他の二つは「アンティーク107」と「12年」)。ブランドの名前はウィリアム・ラルー・ウェラーにちなんで名付けられました。そこで今回は、今日でも広く販売されているバーボンにその名を冠された蒸留酒業界の巨人を振り返りつつ、スティッツェル=ウェラーと小麦バーボンおよびウェラー・ブランドについて紹介してみたいと思います。

ウィリアム・ラルー・ウェラーは、1825年、その起源をドイツに遡る家族に生まれました。蒸留に関わるウェラーの物語はウィリアムの祖父ダニエル・ウェラーから始まります。バーボンの歴史伝承によると、ウィスキー・リベリオンの際に蒸留家らは連邦税から逃れるためにペンシルヴェニア州からケンタッキー州へやって来たとされますが、それは必ずしもそうではありませんでした。独立戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)を戦った世代のダニエルはメリーランド州から来ました。彼の一家はメリーランド州でマッチ作りをしていたそうです。ダニエルは自分の父が他界すると入植者としてケンタッキーに移住することを決め、ネルソン・カウンティの現在はブリット・カウンティ境界線に近い土地を購入します。一家はフラットボートでオハイオ・リヴァーを下ってルイヴィルに向かい、1796年にネルソン・カウンティに来ました。共に来ていたダニエルの兄弟は後に有名なガンスミスになったそうです。
ネルソン・カウンティで彼らは農場を始め、ダニエルはファーマー・ディスティラーになりました。当時の多くの入植者がそうであったように、おそらく彼もコーンを育て現在のバーボンと近いマッシュビルで蒸留していたと見られます。しかし、言うまでもなく当時はまだ「バーボン」という呼び名ではありませんでした。ダニエルがケンタッキー州でのウィスキー・リベリオンに参加していたのかは定かではないそうですが、1800年に三週間ウィスキーを蒸留するライセンスが発行されたことは知られています。これはダニエル・ウェラーの公の記録の中で現存する最古のライセンスで、実際には隣人がウェラーのスティルでウィスキーを造るのを許可するために発行されたものだそうです。これは当時の非常に一般的な慣習とのこと。仮に私が自分で蒸留器を所有していない場合、隣人からスティルを借りて、彼らにウィスキーを作って貰い、私が政府に税金を払う訳です。ウェラーの蒸留器は90ガロンのポットスティルでした。当時の地元の収穫量から判断すると隣人は恐らくその期間に150から200ガロンのウィスキーを製造していたのではないかと歴史家のマイク・ヴィーチは推測しています。1802年にトーマス・ジェファソン大統領がウィスキー税を廃止したため、ダニエル・ウェラーの蒸留所の税務記録は残っていません。
1807年、ダニエル・ウェラーは落馬した際に受けた怪我の合併症で亡くなりました。彼の財産目録には2個のスティル、マッシュ・タブ、クーパーの道具、ジャグ等があり、212.17ドルの価値があったと言います。彼はケンタッキー州初期の典型的な農民蒸留者でした。ダニエルの息子サミュエルは、おそらくこの蒸留装置を受け継ぎ蒸留所の規模を拡大したと思われますが、連邦税がなかったために蒸留所の公式記録はなく、更なるお金を投資したかどうか判りせん。また、サミュエルはラルー・カウンティでウィスキーを造ったようですが、これまた記録がなく1850年代に亡くなった時に蒸留所がどうなったのかも不明です。ともかくウェラー家のリカー・ビジネスに携わる伝統はダニエルからサミュエル、更にその息子ウィリアムへと継承されて行ったのでしょう。

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ウィリアム・ラルー・ウェラーは1825年7月25日に生まれました。彼の母親であり父サミュエルの再婚の妻であるフィービー・ラルー・ウェラーは、ケンタッキー州ラルー郡の創設者ジョン・ラルーの娘です。ウィリアムの幼少期についてはよく分かりませんが、名家と言って差し支えなさそうな出自からして、将来のための相応な教育を受けていたと想像されます。成長したウィリアムは1844年にルイヴィルに移りました。そこで何をしていたかも定かではありませんが、酒類ビジネスに関わっていたのでしょうか。1847年になると彼はルイヴィル・ブリゲイドに加わり、他のケンタッキアンらと共にアメリカ=メキシコ戦争(1846〜1848年)を戦い、中尉の階級に昇進したようです。戦後、ウィリアムはルイヴィルへと戻り、1849年に弟のチャールズと協力して、今日NDP(非蒸留業者)と呼ばれるウィスキーの卸売り販売やレクティファイングを手掛ける「ウィリアム・ラルー・ウェラー&ブラザー」を設立しました。店舗はジェファソン・ストリートと現在のリバティ・ストリートの間にあり、彼らは「誠実なウィスキーを誠実な価格で」というスローガンを掲げたとされます。もしかするとラルー・カウンティで父親が造ったウィスキーを販売していたのかも知れません。

1850年代にルイヴィルは活気に満ちた裕福な都市になっていました。街の成長もあってかウェラーの酒はかなりの人気があったようです。伝説によると、人気があり過ぎて顧客が本物を手に入れたことを保証するために、全ての取引書とウィスキーの樽に緑色のインクで拇印を付けなければならなかったとか。会社の設立とほぼ同じ頃、25歳になっていたウィリアムは結婚するのに十分な経済的基盤を築いており、5歳年上でシェルビー・カウンティ出身のサラ・B.ペンスと結婚しました。彼らはこれからの16年の間に7人の子供(4人の男子、3人の女子)をもうけています。また、1854年に腸チフスの流行により父親と母親が亡くなった後、ウィリアムは弟のジョンを自分の息子として育てました。
或る主張によれば、この時期までにW.L.ウェラーは小麦バーボンを発明したとされます。しかし、当時のウィリアムは自身の蒸留所を所有しておらず、先述のようにあくまでレクティファイヤー、つまり特定の蒸留所からウィスキーを買い上げるとブレンディング、フィルタリング、フレイヴァリング等の手法で仕上げ、販売のためにパッケージ化して顧客に販売する業者だったと見られるのです。当時のルイヴィル市の商工人名録には、ウェラーが国内外のウィスキー卸売り及び小売りディーラーと記載されていました。1871年以降にはウェラー社にもスティルがあり、粗悪なグレードのウィスキーを「コロン・スピリッツ」と呼ばれるニュートラル・スピリッツに再蒸留するために使用していたそうですが、同社はオリジナルの蒸留は行わず、この再蒸留のみを行っているとの声明さえ出していたとか。

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南北戦争の到来は、南寄りのウェラー家に大きな混乱を齎します。ウィリアムの兄弟のうち二人は南軍のために戦いました。弟ジョンは有名なケンタッキーの南軍オーファン・ブリゲイドに加わり、キャプテンの階級に昇進し、チカマーガの戦いで負傷したそうです。別の兄弟はジョージアの南軍にその身を捧げました。ウィリアムとチャールズはルイヴィルの家業に留まり、北と南に出来るだけ多くのウィスキーを売るために中立を保とうとしました。しかし、皮肉なことに会社のパートナーであるチャールズは、1862年、事業債務の回収のためにテネシー州フランクリンに滞在中、多額の現金を所持していたところを二人の銃を持った強盗に襲われ殺害されてしまいます。
南部の敗北の後、キャプテン・ジョンはチャールズに代わって家族の会社で働くようになりました。ウィリアムの息子達が成長するにつれて、彼らも事業に参入し始めます。1870年代に同社は、現在でもアメリカの酒類産業の中心地であるルイヴィルのメイン・ストリートに移転し、社名は「W.L.ウェラー&サン」を名乗るようになりました。ウィリアムの長男ジョージ・ペンス・ウェラーがパートナーでした。また、ウィリアム・ジュニアはクラークとして働いていました。1887年頃、他の息子達が参入した会社は「W.L.ウェラー&サンズ」になります。ウェラー社はオープン・マーケットでウイスキーを購入し、後には同じくルイヴィルのスティッツェル・ブラザーズ蒸留所やアンダーソン・カウンティのオールド・ジョー蒸留所などと大きなロットの契約を結びました。彼らの会社で使用されたブランド名には「ボス・ヒット」、「クリードモア」、「ゴールド・クラウン」、「ハーレム・クラブ」、「ケンタッキーズ・モットー」、「ラルーズ・モルト」、「オールド・クリブ」、「オールド・ポトマック」、「クォーター・センチュリー」、「ローズ・グレン」、「サイラス・B.ジョンソン」、「ストーン・ルート・ジン」、「アンクル・バック」、「アンクル・スローカム・ジン」等があり、旗艦ブランドは「マンモス・ケイヴ」と「オールド・W.L.ウェラー」と「キャビン・スティル」と伝えられます。当時の多くの競合他社とは異なりウェラー社では1905年から殆どのブランドを商標登録していたそう。彼らは宣伝にも積極的で、お得意様へ提供されるアイテムにはバック・バー用のボトルやラベルが描かれたグラス、またはエッチングされたショットグラス等があったようです。
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1893年、後に「パピー」と知られるようになり業界への影響力を持つことになる19歳の青年ジュリアン・ヴァン・ウィンクルがセールスマンとしてウェラーズに入社しました。ウィリアムはヴァン・ウィンクルに決して顧客と一緒に酒を飲まないように教えたと言われています。「もし飲みたくなったら、バッグに入ってるサンプルを部屋で飲みなさい」と。同じ頃、父と仕事を共にする息子は4人いました。ジョージとウィリアム・ジュニアはパートナー、ジョン・C.とリー・ウェラーはクラークでした。1895年に70歳を迎えたウィリアムは自分の衰えを感じ、一年後に引退します。事業は兄弟のジョンと長男のジョージに任せました。数年後の1899年3月、ウィリアムはフロリダ州オカラで亡くなります。死因は「心臓合併症を伴う慢性痙攣性喘息」だったそうです。多くの「ウィスキー・バロンズ」の眠りの場となっているルイヴィルのケイブ・ヒル・セメタリーに埋葬されました。

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今日、ウィリアム・ラルー・ウェラーの名前は小麦バーボンと結びついています。ウェラー・ブランドのラインを現在製造するバッファロー・トレース蒸留所の公式ホームページでも彼について記述されていますし、ウェラー・ブランドのラベルには「The Original Wheated Bourbon」と謳われています。しかし残念なことに、おそらくウィリアムと小麦を使用したバーボンには何の関係もありませんでした。
小麦をフレイヴァー・グレインに使用することは、18世紀後半から19世紀前半のウィスキー・レシピにも見られたようです。ライ麦と小麦のどちらを使ってマッシュを作るかは、それぞれの入手し易さに左右されたのでしょう。ライ麦がバーボンの一般的な第二穀物となって行ったのは、単純に小麦がライ麦よりも高価な穀物であり、小麦粉としての需要も高かったためだと考えられています。近年ではライ麦の代わりに小麦を使用するバーボンがクラフト蒸留所からも発売され市場に出回っていますが、伝統的なブランドとしてはオールド・フィッツジェラルドやW.L.ウェラー、キャビン・スティルにレベル・イェール、そしてメーカーズマークくらいのものでした。勿論ヴァン・ウィンクル系のバーボンも含めてよいかも知れません。歴史家のマイク・ヴィーチによれば、これらのブランドは全て歴史上共通の糸、DNAを持っており、その端緒はスティッツェル・ブラザーズであると言います。
フレデリック、フィリップ、ジェイコブのスティッツェル兄弟は、1872年、ルイヴィルのブロードウェイと26thストリートに蒸留所を建設しバーボンの製造を開始しました。この蒸留所は主要ブランドにちなんでグレンコー蒸留所としても知られ、グレンコーの他にフォートゥナ・ブランドが有名です。彼らはウィスキー造りの実験を行った革新的なファミリーでした。よく知られた話に、フレデリックが1879年にケンタッキー州の倉庫に現在まで存続するウィスキー樽を熟成させるためのラックの特許を取得していることが挙げられます。そしてまた、フレイヴァー・グレインとして小麦を使用したバーボンのレシピを実験してもいました。穀物、酵母、蒸留プルーフ、バレル・エントリー・プルーフ、それらの最良の比率が見つかるまで実験を繰り返したことでしょう。彼らはこのウィスキーを主要ブランドに使用することはありませんでしたが、フィリップの息子アーサー・フィリップ・スティッツェルが1903年にオープンしたストーリー・アヴェニューの蒸留所に、その実験の成果は伝えられていました。
A.Ph.スティッツェル蒸留所は1912年にW.L.ウェラー&サンズのためにウィスキーを製造する契約蒸留の関係にあった記録が残っています。19世紀の業界では多くの契約蒸留が行われていました。W.L.ウェラー&サンズのような会社は蒸留所を所有していなくても、特定の蒸留所と自らの仕様に合わせたウィスキーを造る契約をして、自社ブランドを販売していたのです。テネシー州の一足早い禁酒法によりタラホーマのカスケイド・ホロウ蒸留所が閉鎖された後、1911年にA.Ph.スティッツェル蒸留所はジョージディッケルのカスケイド・ウィスキーを造ることになり、テネシー・ウィスキーのためのチャコール・メロウイング・ヴァットまで設置されていたのは有名な話。契約蒸留は、蒸留所を所有することとバルク・マーケットでウィスキーを購入することのちょうど中間の妥協点でした。バルク・マーケットでウィスキーを購入する場合は売り手の売りたいバレルから選ぶことになり、そのぶん比較的安価な訳ですが、フレイヴァー・プロファイルを自分でコントロールすることは出来ません。契約蒸留ならばウィスキーのマッシュビル、蒸留プルーフ、樽の種類、バレル・エントリー・プルーフ等を契約で指定するので、ウィスキーのフレイヴァー・プロファイルをある程度はコントロールすることが出来ます。しかし、ウェラー社のそれはおそらく小麦バーボンではありませんでした。ウェラー社は大企業とは言い難く、500バレルが年間売上の大部分を占めていたので、スティッツェルが当時のウェラーのためにその量の小麦バーボンを造っていたとは到底信じられない、というようなことを或る歴史家は言っています。レシピに小麦を使用するという考えは何年にも渡る禁酒法期間を通して休眠状態にあり、小麦バーボンが花開くのは禁酒法が廃止されるのを待たねばなりませんでした。
では、話を一旦ウィリアム死後のウェラー社に戻し、続いて禁酒法期間中の事と解禁後にスティッツェル=ウェラーが形成されるまでをざっくり見て行きましょう。

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1899年、W.L.ウェラー&サンズはメイン・ストリートの北側、1stと2ndストリートの間にある大きな店舗をバーンハイム・ブラザーズから購入しました。19世紀末までにウィスキーを他州の市場へ出荷するための主要な手段は鉄道となっていたため、スティームボートに樽を積み込むことが出来るウォーターフロントに近いことは南北戦争後には重要ではなくなっていましたが、それでもこの店舗はW.L.ウェラー&サンズが以前所有していたよりも大きな建物であり、ウィスキー・ロウの中心部にオフィスを構えることには威信があったのです。同年にウィリアムが亡くなったその後、息子のジョージが会社の社長になり、ジョージの末弟ジョンは営業部長を務めました。ジュリアン・"パピー"・ヴァン・ウィンクル(シニア)や、別の会社のセールスマンから1905年にウェラー社へ加入したアレックス・T・ファーンズリーも会社を大いに盛り上げたことでしょう。パピーとファーンズリーの二人はよほど有能だったのか、1908年、共に会社の株式を買い、会社に対する支配権を取得します。ジョージ・ウェラーは1920年の禁酒法の開始時に引退するまで社長として残りました。この新しいパートナー達は元の名前を維持しましたが、新しいビジネス戦略を採用しました。彼らはウィスキー原酒のより安定的な供給を確保するために蒸留所の少なくとも一部を所有する必要性を認識し、スティッツェル蒸留所に投資します。ほどなくしてアーサー・フィリップ・スティッツェルはビジネス・パートナーになりました。禁酒法がやって来た時、スティッツェルは禁酒法期間中に薬用スピリッツを販売するライセンスを取得します。パピーはA.Ph.スティッツェル蒸留所の所有権も有していたので、この合弁事業によりW.L.ウェラー&サンズはスティッツェル社のライセンスに便乗し、スピリッツを販売することが可能となりました。こうして1920年に禁酒法が施行される頃、W.L.ウェラー&サンズはパピーが社長、アーサーが秘書兼会計を務め、逆にA.Ph.スティッツェル社はアーサーが社長、パピーが書記兼会計を務めていました。そしてファーンズリーは両社の副社長です。

禁酒法は蒸留所での生産を停止しましたが、A.Ph.スティッツェル蒸留所のサイトは統合倉庫の一つとなり、薬用スピリッツの販売を続けます。W.L.ウェラー&サンズは禁酒法の間、メイン・ストリートの建物に事務所を置いていました。ジュリアン・ヴァン・ウィンクルは、そこから営業部隊を率いて、全国で薬用スピリッツのパイントを販売しようと努めました。アレックス・ファーンズリーもそこに事務所を持っていましたが、禁酒法の期間中はフルタイムで銀行の社長を務めていたので忙しかったらしい。アーサー・フィリップ・スティッツェルの事務所はストーリー・アベニューの蒸留所にありましたが、ウェラーの事務所を頻繁に訪れていたそうです。
禁酒法下の薬用ウィスキー・ビジネスで蒸留業者は、ブランドを存続させるために他社からウィスキーを仕入れたり、統合倉庫に自らのブランドを置いている企業のためにウィスキーをボトリングし、単純に保管料や瓶詰代や少額の販売手数料を徴収していました。スティッツェル社は禁酒法期間中にヘンリー・マッケンナのブランドを販売していたそうです。彼らはブランドやウィスキー自体を所有していませんでしたが、マッケンナはスティッツェルの統合倉庫にウィスキーを置いていました。スティッツェル社とライセンスを共有していたW.L.ウェラー社は、ヘンリー・マッケンナを1ケース1ドルの手数料で販売し、樽の保管料とボトリング費用(材料費と人件費)を売上から請求したと言います。
1928年、薬用スピリッツの在庫が少なくなると、政府はライセンスを持つ蒸留所に酒類を蒸留して在庫を補充することを許可しました。許可された量はライセンスを持つ会社が保有する既存の在庫の割合に応じて決められています。A.Ph.スティッツェル蒸留所がどれ位の量を蒸留したかはよく分かりませんが、自分たちのため以外にもフランクフォート・ディスティラリーとブラウン=フォーマン社のためにバーボンを生産したそうです。これらの蒸留会社は1928年時点では稼働中の蒸留所を所有していなかったので、A.Ph.スティッツェル蒸留所が割り当てられたウィスキーの蒸留を請け負いました。1929年にブラウン=フォーマンはルイヴィルの自らの蒸留所を稼働させ蒸留を開始しましたが、フランクフォート・ディスティラリーは禁酒法が撤廃された後もA.Ph.スティッツェル蒸留所で契約蒸留を続けました。
"ドライ・エラ"に薬局に提供されたW.L.ウェラー&サンズのバーボンには、禁酒法以前から人気のあった「マンモス・ケイヴ」があります。他にどれだけの種類のラベルが制作されているのか私には把握出来ませんが、「オールド・W.L.ウェラー(白ラベル)」名義のバーボンとライをネット上で見かけました。あと禁酒法末期頃ボトリングの「オールド・フィッツジェラルド」や「オールド・W.L.ウェラー(緑ラベル)」や「オールド・モック」はよく見かけます。

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禁酒法以前からパピー・ヴァン・ウィンクルのW.L.ウェラー社はA.Ph.スティッツェル蒸留所が生産するバーボンを多く購入していた訳ですが、パピーは禁酒法期間中にその終了を見越してA.Ph.スティッツェル蒸留所を購入し、スティッツェル=ウェラーを結成します。禁酒法が廃止された後、二つの会社は正式に合併してジェファソン郡ルイヴィルのすぐ南にあるシャイヴリーに新しい蒸留所を建設しました。この蒸留所こそが小麦バーボンの本拠地となって行く1935年のダービー・デイにオープンしたスティッツェル=ウェラー蒸留所です。A.Ph.スティッツェル蒸留所は新しくスティッツェル=ウェラー蒸留所が開設された時にフランクフォート・ディスティラリーに売却されました。フランクフォート・ディスティラリーは、こことスティッツェル=ウェラー蒸留所に近いシャイヴリーのディキシー・ハイウェイに建設した別の蒸留所でフォアローゼズを製造しました。この蒸留所は1940年代にシーグラムがフランクフォート・ディスティラリーを買収した後も存続しましたが、1960年代に閉鎖されたそうです。
新しく始動した会社でパピー・ヴァン・ウィンクルは社長に就任し、セールスを担当しました。アレックス・ファーンズリーは副社長として残り財務を担当、同時にシャイヴリーのセント・ヘレンズ銀行の頭取でもありルイヴィル・ウォーター社の副社長でもありました。アーサー・スティッツェルも副社長で、製造を担当したとされます。パピーはスティッツェル=ウェラー蒸留所でウィーテッド・バーボンを造ることにしました。それはスティッツェル兄弟が何年も前から実験していたレシピでした。それを採用した理由は、会社の役員であるパピー、アーサー、ファーンズリーらは小麦レシピのバーボンを熟成が若くても口当たりが良く美味しいと考えたからだと言われています。これはウィスキーの熟成があまり進んでいない段階では重要なことでした。本来、市場に出すのに適した良質なボンデッド規格のバーボンは、熟成させるのに少なくとも4年は掛かります。禁酒法廃止後の市場のニーズに応えるのに、もっと若い熟成年数で売れる製品が必要だった訳です。彼らはまず初めに「キャロライナ・クラブ・バーボン」の1ヶ月熟成をリリースし、その後3ヶ月物、6ヶ月物、1年物と続けます。そうして主要ブランドに入れる4年熟成のバーボンが出来上がるまでこのブランドを維持しました。彼らの主要ブランドはオールド・フィッツジェラルド、W.L.ウェラー、キャビン・スティルです。後年、のちにウェラー・アンティークとなるオリジナル・バレル・プルーフというヴァリエーションや、1961年にはレベル・イェールを導入し、60年代後半にはオールド・フィッツジェラルド・プライムがポートフォリオに追加され、また他にも幾つかのプライヴェート・ラベルを個人店向けに作成しましたが、ウィーテッド・バーボンはスティッツェル=ウェラー蒸留所が造った唯一のレシピであり、それらは全て同じウィスキーであっても熟成年数やボトリング・プルーフを変えることで異なったものになりました。

1940年代後半頃でもスティッツェル=ウェラー蒸留所の複合施設はまだ成長していたそうです。しかし、会社の幹部は40年代に相次いでこの世を去りました。アレグザンダー・サーマン・ファーンズリーは1941年に亡くなっています。蒸留業以外でも活躍した彼は他の会社の社長も兼任し、またルイヴィルのペンデニス・クラブの会長を2期務めました。彼の名を冠したパー3のゴルフコースがシャイヴリーにあるとか。アーサー・フィリップ・スティッツェルは1947年に亡くなっています。どうやら彼の死後にスティッツェル・ファミリーで蒸留業に就いた人はいないようです。残されたジュリアン・プロクター・"パピー"・ヴァン・ウィンクルは1960年代まで生き、引き続き会社を牽引しました。
パピーは優秀なビジネスマンでありカリズマティックなリーダーでしたが、所謂マスター・ディスティラーではありませんでした。スティッツェル=ウェラーの最初のマスター・ディスティラーはウィル・マッギルです。彼はジョーことジョセフ・ロイド・ビームの義理の兄弟でした。二人はジョーよりかなり年上の兄であるマイナー・ケイス・ビームによって訓練されました。禁酒法以前の若い頃、彼らはケンタッキー州の様々な蒸留所で一緒に働いていたそうです。1929年、禁酒法以前の在庫が無くなりかけていたため政府が「ディスティリング・ホリデイ」を宣言し、薬用ウィスキーのライセンス保持者へ蒸留を許可すると、パピーはジョーと彼のクルーを呼び、A.Ph.スティッツェル蒸留所のスティルに火を入れるように依頼しました。おそらく、その頃からマッギルも何らかの関係を持っていたのでしょう。マッギルがスティッツェル=ウェラーで直面したのはタフな仕事でした。可能な限り最高のウィスキーを造るために懸命に新しい蒸留所の全ての癖を把握しなければならなかったのです。エイジングの過程も考えれば数年は掛かり、簡単な仕事ではありません。製造初年度のウィスキーをテイスティングしたことがある方によると、当時から良いものだったけれど年を重ねて更に良くなって行ったと言います。ちなみに、スティッツェル=ウェラーでマッギルは何人かのビーム家の甥っ子を雇っていたとされ、その中で最年長のエルモは後にメーカーズマークの初代マスター・ディスティラーとなっています。
マッギルは1949年頃に引退し、その座はアンディ・コクランに引き継がれました。コクランは若くして亡くなり、蒸留したのは数年だけでした。彼の後釜はロイ・ホーズ(Roy Hawes)です。ホーズはスティッツェル=ウェラーの歴史の中で最も在職期間の長いマスター・ディスティラーでした。彼は50年代前半から70年代前半までの約20年間をそこで過ごし、スティッツェル=ウェラーの全盛期を支え続けたと言っても過言ではないでしょう。亡くなる寸前までまだ技術を学んでいたという熱心なホーズは蒸留所と共に成長し、在職中に多くの優れたバーボンを造りました。
1972年に蒸留所がノートン・サイモンに売却された頃からはウッディ・ウィルソンがディスティラーです。時代の変化はバーボンのフレイヴァー・プロファイルも変えました。新しいオウナーはバレル・エントリー・プルーフを上げるなどして蒸留所の利益を上げようとします。ウィルソンは冷徹な「企業の世界」とバーボンの売上の減少に対処しなければなりませんでした。それでも彼はホーズから学んだクラフツマンシップで良質なバーボンを造りました。ウィルソンが1984年に引退するとエドウィン・フットが新しいディスティラーとして採用されます。
エド・フットは既にウィスキー業界で20年のキャリアを積み、シーグラムを辞めてスティッツェル=ウェラーに入社しました。ホーズやウィルソンに蒸留所やS-W流のやり方を教わったと言います。しかし、フットの時代もまた変化の時代でした。フットはマッシュビルに含まれるバーリーモルトを減らし、酵素剤を使って糖への変換をすることを任されます。バレル・エントリー・プルーフもこっそりと更に少しだけ高くなりました。依然として優れたウィスキーであったものの、それはホーズやウィルソンが造った製品とは異なるウィスキーになっていたのです。そして1992年に蒸留所は閉鎖され、蒸留は完全に停止。フットはスティッツェル=ウェラー最後のマスター・ディスティラーでした。スティッツェル=ウェラー蒸留所については、以前のオールド・フィッツジェラルド・プライムの投稿でも纏めてありますので参考にして下さい。
では、そろそろW.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴに焦点を当てましょう。

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スペシャル・リザーヴは早くも1940年代初頭には発売されていました。新しいスティッツェル=ウェラー蒸留所が稼働し始めて比較的初期の蒸留物が熟成しきった時にボトリングされているのでしょう。そうした初期のスペシャル・リザーヴはボトルド・イン・ボンド表記のボトリングで、熟成年数は7年、6.5年、8年等がありました。冒頭に述べたように、現代のスペシャル・リザーヴはウェラー・ブランドの中でエントリー・レヴェルの製品であり「スペシャル」なのは名前だけとなっていますが、40〜50年代の物は旗艦ブランドのオールド・フィッツジェラルドに負けず劣らず「特別」だったと思われます。おそらくパピーの死後まで全てのスペシャル・リザーヴはボンデッド規格だったのでは? 60年代中頃になると現在と同じ90プルーフのヴァージョンが登場し、同時にBiBもありましたが、後年ウェラー・アンティークとなる「オリジナル・バレル・プルーフ」の発売もあってなのか、ブランドは徐々に差別化され、スペシャル・リザーヴと言えば7年熟成90プルーフに定着しました。そして、白ラベルに緑ネックが見た目の特徴のそれは長らく継続して行きます。

スティッツェル=ウェラー蒸留所はその歴史の中で幾つかの所有権の変遷がありました。それはブランド権の移行を伴います。1965年のパピーの死後しばらくすると、ファーンズリーとスティッツェルの相続人は蒸留所の売却を望んだため、パピーの息子ジュリアン・ジュニアは会社を維持できず、1972年にノートン・サイモンのコングロマリットへの売却を余儀なくされました。ブランドは子会社のサマセット・インポーターズのポートフォリオになります。1984年、ディスティラーズ・カンパニー・リミテッドは、サマセット・インポーターズを買収。そしてディスティラーズ・カンパニー・リミッテッドが1986年にギネスの一部になった後、ユナイテッド・ディスティラーズが設立されます。もう一方の流れとして、「ビッグ・フォー」の一つだったシェンリーを長年率いたルイス・ローゼンスティールは会社を1968年にグレン・オールデン・コーポレーションに売却しました。そのグレン・オールデンは1972年に金融業者メシュラム・リクリスのラピッド・アメリカンに買収されます。リクリスは1986年にギネスがディスティラーズ・カンパニー・リミテッドを買収した際の株価操作の申し立てに巻き込まれ、翌1987年、ギネスにシェンリーを売却しました(シェンリーは以前ギネスを米国に輸入していた)。こうしてユナイテッド・ディスティラーズはアメリカン・ウィスキーの優れた資産を手中に収めます。彼らはアメリカでの生産を集約するため、1992年にスティッツェル=ウェラー蒸留所やその他の蒸留所を閉鎖し、ルイヴィルのディキシー・ハイウェイ近くウェスト・ブレッキンリッジ・ストリートに当時最先端の製造技術を備えた近代的で大きな新しい蒸留所を建設しました。それはシェンリーが長年メインとしていた旧来のバーンハイム蒸留所とは全く異なるニュー・バーンハイム蒸留所です。以後、結果的に短期間ながら彼らの所有するブランドはそこで製造されます。ちなみにオールド・バーンハイムが稼働停止した80年代後半から新しい蒸留所が92年に出来上がるまでの数年間、ユナイテッド・ディスティラーズはエンシェント・エイジ蒸留所(現バッファロー・トレース蒸留所)に契約蒸留で小麦バーボンを造ってもらっていました(これについては後述します)。
94年頃には、ユナイテッド・ディスティラーズはバーボン・ヘリテージ・コレクションと題し、自社の所有する輝かしい5ブランドの特別なボトルを発売しました。そのうちの一つが「W.L.ウェラー・センテニアル10年」です。
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数年後、蒸留所の親会社は多くのM&Aを繰り返した末、1997年に巨大企業ディアジオを形成しました。同社はアメリカン・ウィスキーは自分たちの本分ではないと認識し、今となっては勿体ない話ですが、その資産のうちI.W.ハーパーとジョージ・ディッケル以外のブランドの売却を決定します。1999年のブランド・セールで旧スティッツェル=ウェラーの遺産(ブランド)は三者に分割されました。オールド・フィッツジェラルド・ブランドは、バーズタウンの蒸留所を火災で失い新しい蒸留施設を求めていたヘヴンヒルに、バーンハイム蒸留所と共に売却されます。レベル・イェール・ブランドはセントルイスのデイヴィッド・シャーマン社(現ラクスコ)へ行きました。そして、ウェラー・ブランドは旧シェンリーのブランドだったオールド・チャーターと共にサゼラックが購入しました。サゼラックは1992年にフランクフォートのジョージ・T.スタッグ蒸留所(=エンシェント・エイジ蒸留所、現バッファロー・トレース蒸留所)を買収していましたが、自社蒸留原酒が熟成するまでの期間、販売するのに十分な在庫のバレルも購入しています。W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴはサゼラックが購入してからも従来と同じラベル・デザインを使いまわし、所在地表記が変更されました。
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2001年になるとウェラー・ブランドに「W.L.ウェラー12年」が新しく導入されます。おそらく、初登場時には下の画像のような安っぽいデザインが採用されたと思います。隣の12年と同デザインの「スペシャル・リザーヴ」が付かない「W.L.ウェラー7年」は短期間だけヨーロッパ市場に流通した製品。
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それと同時期の2000年、2001年、2002年には特別な「W.L.ウェラー19年」が発売されました。これらは90プルーフにてボトリングされ、純粋なスティッツェル=ウェラー・ジュースと見られています。この特別なボトルは、2005年からは「ウィリアム・ラルー・ウェラー」と名前の表記を変え、ジョージ・T.スタッグ、イーグルレア17年、サゼラック18年、トーマス・H.ハンディと共に、ホリデイ・シーズンに年次リリースされるバッファロー・トレース・アンティーク・コレクション(BTAC)の一部になりました。こちらはバレル・プルーフでボトリングされる約12年熟成のバーボンです。BTACは現在、「パピー・ヴァン・ウィンクル」のシリーズと同じく大変な人気があり、現地アメリカでも欲しくても買えないバーボンになってしまい、日本に輸入されることはなくなりました。
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また、上記のBTACほどのプレミアム感はありませんが、ユナイテッド・ディスティラーズが「遺産」と銘打ったW.L.ウェラー・センテニアル(10年熟成100プルーフ)も継続して販売されていました。ラベルの所在地表記はUD時代のルイヴィルからバッファロー・トレース蒸留所のあるフランクフォートに変更されています。フランクフォート記載のラベルでも、キャップのラップにはUD製と同じく「Bourbon Heritage Collection」の文字とマークが付けてあり紛らわしい。フランクフォート・ラベルのセンテニアルには年代によって3種あり、ボトルの形状とキャップ・ラッパーが少しだけ違います。最終的にはラップから「BHC」がなくなり色は黒からゴールドに変更、そしてこの製品は2008年か2009年に生産を終了しました。
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ウェラー・ブランドは、どこかの段階で完全にバッファロー・トレースの蒸留物に切り替わりました。7年熟成の製品なら、単純な計算でいくと2006年くらいでしょうか? 原酒の特定が難しいのは1999〜2005年までのスタンダードな7年製品と12年熟成の物です。問題をややこしくしているのは、先述のエンシェント・エイジ蒸留所がユナイテッド・ディスティラーズのために製造していた小麦バーボンの存在。ユナイテッド・ディスティラーズは80年代後半から90年代初頭にアメリカ南部限定販売だったレベル・イェールを世界展開することに決め、10年間で100万ケースの製品にすることを目標にしていたと言います。それがエンシェント・エイジと契約蒸留を結んだ理由でしょう。しかし、10年経ってもそれは実現しませんでした。更に、ユナイテッド・ディスティラーズ管理下のニュー・バーンハイムでも小麦バーボンは造られていました(ただし、生産調整のためか、1994年半ばまでは実際にはあまり蒸留していなかった)。つまり過剰生産のため2000年頃に小麦バーボンは大量にあったのです。実際のところ、ジュリアン・ヴァン・ウィンクル3世(パピーの孫)がバッファロー・トレースとタッグを組みフランクフォートへと事業を移した理由は、大量の小麦バーボンを彼らが保有していたからかも知れません。また、この頃のバーンハイム・ウィーターの余剰在庫はおそらくバルク売りされ、後にウィレット・ファミリー・エステートを有名にしたものの一つとなったと思われます。サゼラックはウェラー・ブランドの購入時に樽のストックも購入していますから、そうなると理屈上ボトルにはスティッツェル=ウェラー、ニュー・バーンハイム、エンシェント・エイジという三つの蒸留所産の小麦バーボンを入れることが出来ました。12年の初期の物などは単純に逆算すると80年代後半蒸留、ならばスティッツェル=ウェラー産もしくはUD用に造られたエンシェント・エイジ産の可能性が高いのでは…。7年熟成のスペシャル・リザーヴやアンティーク107は概ねニュー・バーンハイム産かなとは思うのですが、真実は藪の中です。もしかするとバーンハイムを軸に他の蒸留所産のものをブレンドしているなんてこともあるのかも。それと、90年代後半までのバーボンには記載された年数より遥かに長い熟成期間を経たバレルが混和されボトリングされていたと言われます。過剰供給の時代にはよくある話。90年代初頭に造られた小麦バーボンが大量に出回っていたため、2000年代前半の7年熟成製品には実際にはもっと古い原酒が使われていた可能性があります。飲んだことのある皆さんはどう思われたでしょうか? 感想をコメントよりどしどしお寄せ下さい。

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さて、正確な年代が特定できないのですが、ウェラー・ブランドは2010年前後あたりにパッケージの再設計が行われました。紙ラベルが廃止され、ボトルが球根のような形状の物に変わります(トップ画像参照)。同じくサゼラックが所有するバートン蒸留所の代表銘柄ヴェリー・オールド・バートンの同時期の物と共通のボトルです。おそらくこの時にNAS(No Age Statement)になったかと思いますが、その当時のバッファロー・トレースのアナウンスによれば中身は7年相当と言ってました。しかし、その後の中身はもしかすると、もう少し若い原酒をブレンドしたり、熟成年数を短くしてる可能性は捨てきれません。

アメリカでのバーボン・ブームもあり、2010年代を通してバッファロー・トレース蒸留所および小麦バーボンの人気はより一層高まりました。それを受けてか、ウェラー・ブランドは2016年12月からパッケージを刷新します。従来のボトルのカーヴィなフォルムを維持しながらも背が高く、より洗練された雰囲気のラベルのデザインです。ブランド名にあったイニシャルの「W.L.」が削除され、スペシャルリザーブ(90プルーフ)を緑、アンティーク(107プルーフ)を赤、12年(90プルーフ)を黒というように、各ヴァリエーションに独自の明確な色を割り当て、全面的に押し出すようになりました。
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そして2010年代後半になってもウェラー人気は衰えることを知らず、矢継ぎ早にブランドを拡張して行きます。2018年には白ラベルの「C.Y.P.B.(Craft Your Perfect Bourbonの略。95プルーフ)」、2019年には青ラベルの「フル・プルーフ(114プルーフ)」、2020年6月からは橙ラベルの「シングル・バレル(97プルーフ)」が追加されました。これらは1年に1バッチの限定リリースとなっています。

兎にも角にもウェラー・ブランドの人気は凄まじいものがありますが、その際たるものと言うか被害者?はウェラー12年です。一昔前は20ドル程度、現在でも希望小売価格は約30ドルなのですが、150〜250ドル(或いはもっと?)で売られることもあるのです。この悲劇の遠因はパピー・ヴァン・ウィンクル・バーボンであると思われます。
もともとウェラー12年はその熟成年数の割に手頃な価格であり、市場に少ない小麦バーボンとしてバーボン・ドリンカーから支持を得ていました。某社がリリースする10年熟成のバーボンが100ドルを超える希望小売価格からすると、如何に安いかが分かるでしょう。30ドルのバーボンなら、普通は5〜6年熟成が殆どです。2000年代半ばまでにウェラー12年の人気は急上昇しましたが、それでもまだ希望小売価格または適正価格で酒屋の棚で見つけることが出来たと言います。しかし、その後の恐るべきパピー旋風がやってくると状況は変わりました。2000年代後半から2010年代初頭にかけて、著名人や有名なシェフがパピー・ヴァン・ウィンクル15年、20年、23年を貴重なコレクター・アイテムに変えてしまったのです。それらは店の棚から姿を消し、流通市場で天文学的な価格に釣り上げられ、欲しくても手に入らない、飲みたくても飲めない聖杯となりました。ブームとは「それ」に関心のなかった大多数の層が「それ」に関心を寄せることで爆発的な需要が喚起され起こる現象です。バーボン・ドリンカーと一部のウィスキー愛好家だけのものだったパピー・バーボンは、一般誌やTVでも取り上げられる関心の対象となりました。パピー・バーボンが手に入らないとなれば、次に他のヴァン・ウィンクル製品が着目されるのは自然の勢いだったでしょう。「オールド・リップ・ヴァン・ウィンクル」や「ヴァン・ウィンクル・ロットB」というパピー・バーボンより安価だったものも軒並み高騰しました。そこで更に次に目を付けられるのはヴァン・ウィンクル製品と同じ小麦レシピを使ったバッファロー・トレースの製品という訳です。実際のところウェラー・ブランドとヴァン・ウィンクル・ブランドの違いは熟成年数を別とすれば、倉庫の熟成場所とジュリアン3世が選んだ樽かバッファロー・トレースのテイスターが選んだ樽かという違いしかありません。それ故「パピーのような味わい」の代替製品としてウェラー12年が選ばれた、と。また同じ頃、パピー・バーボンを購入できない人向けに「プアマンズ・パピー」というのがバーボン系ウェブサイトやコミュニティで推奨され話題となりました。これは「高級なパピーを飲めない人(貧乏人)が飲むパピー(の代用品)」という意味です。具体的には、ウェラー・アンティーク107とウェラー12年を5:5もしくは6:4でブレンドしたもので、かなりパピー15年に近い味になるとされます。こうしたパピー・バーボンの影響をモロに受けたウェラー12年は見つけるのが難しくなっています。ただし、それは「パピー」のせいばかりではありません。低価格の優れたバーボンを見つけてバンカリングすることは、昔からバーボン・マニアがして来たことです。詰まるところそれはバーボン・ブームの影響であり、単純な需要と供給の問題…。
まあ、それは措いて、そろそろ今回のレヴュー対象W.L.ウェラー・スペシャル・リザーヴの時間です。ちなみにバッファロー・トレース蒸留所の小麦バーボンのマッシュビルは非公開となっています。

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE NAS 90 Proof
推定2016年ボトリング(おそらくこのボトルデザイン最後のリリース)。トフィー→苺のショートケーキ、古びた木材、赤いフルーツキャンディ、穀物、僅かな蜂蜜、湿った土、少し漢方薬、一瞬メロン、カレーのスパイス。とてもスイートなアロマ。まろみと水っぽさを両立した口当たり。パレートは熟れたチェリーもしくは煮詰めたリンゴ。余韻はさっぱり切れ上がるが、アーシーなフィーリングも現れ、オールスパイスのような爽やかな苦味も。
Rating:86.5→85/100

Thought:全体的に甘さの際立ったバーボン。スティッツェル=ウェラーの良さを上手くコピー出来ていると思います。同じウィーターで度数も同じのメーカーズマークと較べると、こちらの方が甘く酸味も少ない上に複雑なフレイヴァーに感じました。比較的買い易い現行(これは一つ前のラベルですが…)のロウワー・プルーフのウィーテッド・バーボンとしては最もレヴェルが高いと思います。ただし、私が飲んだボトルは開封から半年を過ぎた頃から、やや甘い香りがなくなったように思いました。レーティングの矢印はそれを表しています。

Value:とてもよく出来たバーボンです。けれど世界的にも人気があるせいか、ウェラー・ブランドというかバッファロートレース蒸留所のバーボン全般が昔より日本での流通量が少なくなっています。価格も一昔前は2000円代で購入できてたと思いますが、現在では3000円代。それでも買う価値はあると個人的には思います。3000円代半ばを過ぎるようだとオススメはしません。あくまで安くて旨いのがウリだから。


ありがたい事にスティッツェル=ウェラー蒸留時代のスペシャル・リザーヴもサイド・バイ・サイドで飲めたので、最後におまけで。これは大宮のバーFIVEさんの会員制ウイスキークラブで提供されたもの。ワンショットでの試飲です。

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(画像提供Bar FIVE様)

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W.L. Weller SPECIAL RESERVE 7 Years Old 90 Proof
推定80年代後半ボトリング。バタースコッチ→黒糖、ナッティキャラメル、ディープ・チャード・オーク、柑橘類のトーン、煮詰めたリンゴ、ベーキングスパイス。味わいはレーズンバターサンド。余韻は穀物と同時にタンニンやスパイスが現れ、後々まで風味が長続きする。そもそも熟成感がこちらの方が断然あり、香りも余韻も複雑で強い。
Rating:87/100


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オールド・バーズタウンはウィレット蒸留所の代表的な銘柄。このブランドがいつ誕生したのか明確ではありませんが、ウィレットの公式ホームページの年表によれば1940年代とされ、1935年に蒸留所を開設してからの最初のブランドであろうと見られます。海外の情報では、その名の由来はバーボン生産の一大拠点でありウィレット蒸留所のある町の名前からではなく、1950年代に活躍したハンディキャップのある競走馬からだとされています。ただし、その馬はレキシントンのカリュメット・ファームで育成され、ネルソン郡バーズタウンにちなんで命名されました。足首と股関節に問題があったため4歳までレースに出走しなかったものの、その後4年間レースに出場し当時のトップ・レヴェルの高齢馬の一頭となったとか。しかし、これだとブランドの発売時期と「バーズタウン」と名付けられた馬の活躍時期とが一致しません。日本での情報では、ブランド名は当時の蒸留所のオウナーであるトンプソン・ウィレットもしくはその父親ランバートが所有していた競走馬の名前から付けられた、とされています。どちらにせよ、こうしたブランド・ストーリーは真偽の程が定かではなく、何となく後から取ってつけたものであるような気がしますね。

さて、ここらでオールド・バーズタウンの初期ボトルにでも言及したいところなのですが、実は画像検索でそのような古いボトルは殆ど見つかりません。広告で見る限り、4年熟成90プルーフとボトルド・イン・ボンドがあり、また86プルーフのヴァージョンもあったようです。あと年代は判りませんが、6年熟成90プルーフや7年熟成BiBの物も見かけました。その他に画像検索で見つかり易い物には70年代後半ボトリングのケンタッキー・ダービーにちなんだデカンターがあります。78年のオートモービル・カー・デカンターもありました。70年代に入りめっきり売上の減少したバーボンにあって、こうした何らかの記念デカンターは比較的売れる商材であったため、他にもオールド・バーズタウンのデカンターはあるのかも知れませんが、そもそもビームやエズラやマコーミックに較べるとウィレットの製品は絶対的に流通量が少ないような印象を受けます。

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(様々なオールドバーズタウン。画像提供K氏)

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我々日本人にとって馴染み深いオールド・バーズタウンと言えば、80年代半ば頃?から輸入されているブラック・ラベルに馬の頭と首のみがゴールドで描かれた物でしょう。ブラザー・インターナショナルが輸入した物に付いていたカード(上画像参照)を読む限り、ブラザーが正規輸入代理店となって初めて日本にオールド・バーズタウンを広めたのだと思われます。ジャパン・エクスポートのブラック・ラベルには6年熟成86プルーフと12年熟成86プルーフがありました。その後、後述する2016年まではブラック・ラベルのデザインがスタンダードなオールド・バーズタウンになったようで、輸出国の違いによりNAS(もしくは4年熟成)86プルーフと90プルーフがあります。見た目が豪華なゴールド・ラベルには10年熟成80プルーフとNAS80プルーフがありました。使われる色が豪華だと中身のスペックもより上位なのが通例なのに、ゴールドの方がブラックより格下という珍しいパターンですね。寧ろスタンダードなブラックより上位の物にはエステート・ボトルドというのがあり、それには初期の頃と同じ「オールド・レッド・ホース」が描かれたラベルと、丸瓶や角瓶と違うずんぐりしたボトルが採用されています。おそらく日本向けの15年熟成101プルーフ、10年熟成101プルーフ、そしてもう少し後年のNAS101プルーフがありました。

ウィレット蒸留所は1980年代初頭、訳あってバーボンの生産を停止し、同社は80年代半ばにケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ(KBD)として再スタート。その当初は独自の蒸留物でオールド・バーズタウンのブランドをリリースするのに十分なエイジング・バーボンのストックがあったと思われますが、在庫が枯渇する前に余所の蒸留所からバーボンを調達するようになりました。KBDのバーボンの大部分はヘヴンヒルから来ていると見られ、90年代以降のオールド・バーズタウンは概ねヘヴンヒル原酒で構成されていたと考えられています。トンプソン・ウィレットの娘婿でKBDの社長エヴァン・クルスヴィーンは、蒸留所を再開する夢を持ってオールド・バーズタウンやジョニー・ドラムといったブランドを存続させ、ノアーズ・ミルやローワンズ・クリーク等のスモールバッチ・ブティック・バーボンを相次いで発売しました。こうした自社ブランドの販売、他社のためのボトリングやブローカーとしての活動が実り、2012年、遂にエヴァンとその家族の長年の夢は達成され、蒸留所は再び蒸留を開始します。そして熟成の時を経た2016年、ようやく自家蒸留による「新しい」オールド・バーズタウン90プルーフとボトルド・イン・ボンドがリリースされました。その両者のラベルはトンプソン・ウィレットがプレジデントだった時代のオールド・バーズタウンを再現したものです。
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どちらもウィレット・ファミリー・エステートのボトルほどエレガントではない古典的なバーボンらしいボトルに詰められています。スタンダードな90プルーフのラベルのフロントには馬がいません。代わりに紋章が描かれたシンプルなもの。クリームとブラウンの色合わせと相俟ってカッコいいですよね。一方のボトルド・イン・ボンドのラベルは、これぞオールド・バーズタウンという邸宅の前に佇む牧歌的な馬が描かれたもの。当初はキャップの色がゴールドでしたが、2018年後半あたりにブラックに変更されたようです。
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(画像提供K氏)
ちなみにこちらのBiB、初めは蒸留所のギフトショップでのみ売られ、その後ケンタッキー州だけでリリースされるようになりました。もしかすると現在ではもう少し広い範囲に流通しているのかもですが、私には詳細は分かりません。それはともかく、今回、現行の新しいオールド・バーズタウン90プルーフのレヴューと一緒に、日本では一般流通していない希少なBiBを飲めることになったのはバーボン仲間のK氏よりサンプルを頂いたお陰です。画像提供の件も含め、改めて感謝致します。ありがとうございました!
では、そろそろバーボンを注ぐ時間です。

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OLD BARDSTOWN 90 Proof
推定ボトリング年不明、購入は2019年。プロポリス配合マヌカハニーのど飴、熟したプラム、コーン、グレープジュース、食パン、干しブドウ、干し草。円やかな口当たりながら若いアルコール刺激もある。味わいはグレープキャンディと穀物を感じ易い。余韻はミディアム・ショートで、最後にレモンジンジャーのような苦味が残るのは悪くない。
Rating:86.5/100

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OLD BARDSTOWN Bottled-in-Bond 100 Proof
推定ボトリング年不明。フロランタン、焦げ樽、蜂蜜、熟したプラム、グレイン、塩、フローラル。若干ウォータリーな口当たり。余韻はあっさりめで度数から期待するほど長くない。キャラメル系の香りはこちらの方が強いものの、フルーティさはスタンダードの方が感じ易かった。また、バレルプルーフでない50度のバーボンでここまで塩気を感じたことはない。
Rating:86.5/100

Thought:どちらも、同社の上位銘柄でありマッシュビル違いとなるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比べると、共通項もありつつグレイン・ノートが強く出ている印象。スタンダードとボトルド・イン・ボンドの違いは後者が単に濃くなっただけだろうと事前予想していたのですが、思ったより異なるフレイヴァーを感じました。ボトリング・プルーフが上がったことで何かしらのフレイヴァーが感じ易くなったと言うよりは、バッチングに由来する違いのような気がします。或いは熟成年数に少々差があるのでしょうか? 海外のレヴュワーで、プルーフの違いを除くと両者の違いは、通常のオールド・バーズタウンには4年に達していない幾つかのバレルがブレンドされてるのではないか(BiBは法律上確実に4年以上)、という意見を述べている人を見かけました。まあ、実際のところはよく判らないのでそれは措いて(追記あり)、現在のウィレット蒸留所は6種類のマッシュビルでウィスキーを造り、それぞれのレシピによってバレル・エントリー・プルーフも変えています。以下に纏めておきましたので参照下さい。

①オリジナル・バーボン・レシピ
72%コーン / 13%ライ / 15%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

②ハイ・コーン・バーボン・レシピ
79%コーン / 7%ライ / 14%モルテッドバーリー / 103バレルエントリープルーフ

③ハイ・ライ・バーボン・レシピ
52%コーン / 38%ライ / 10%モルテッドバーリー / 125バレルエントリープルーフ

④ウィーテッド・バーボン・レシピ
65%コーン / 20%ウィート / 15%モルテッドバーリー / 115バレルエントリープルーフ

⑤(ハイ・ライ)ライ・ウィスキー・レシピ
74%ライ / 11%コーン / 15%モルテッドバーリー / 110バレルエントリープルーフ

⑥(ロウ・ライ)ライ・ウィスキー・レシピ
51%ライ / 34%コーン / 15%モルテッドバーリー / 110バレルエントリープルーフ

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そして、オールド・バーズタウンのマッシュビルは海外で普及している情報では①とされています。バーボンをメインで扱うどのウェブサイトを閲覧してもそう書かれています。しかし、ウィレット蒸留所と縁の深いバーGのマスターによるとオールド・バーズタウンのマッシュビルは②のハイ・コーン・レシピと断言されていました。ビーム社で言うところのジムビーム・ホワイトに当る存在、つまり当該蒸留所のエントリー・クラスのバーボンであり代表的銘柄となるオールド・バーズタウンに、バーボンに於いてかなり一般的な穀物配合率の①のレシピを用いていても不思議ではありません。ただし、私が飲んだ感想だと②のレシピという印象を受けました。ウィレットの自社蒸留原酒は、他のケンタッキーの大手蒸留所のバーボンに較べるとアロマにライウィスキーぽいフルーティさが常に感じられるのですが、ケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOと比較すると、オールド・バーズタウンはよりコーン率が高そうな味わいに思ったのです。
ところで、ウィレットのマッシュビルで興味深いのは、モルテッドバーリーの割合が一般的なバーボンよりも高いことです(だいたいのバーボンは5〜12%が殆ど)。①や②のレシピなどはモルテッドバーリーがライよりも大きな成分であるため、糖化のための酵素の役割としてだけでなくフレイヴァー要素を担わせているように思われます。おそらくモルトの含有量が増えると、一般的なバーボン・フレイヴァーから半歩外れるように感じる人もいるのではないでしょうか。まあ、実際にはモルテッドバーリーの配合率より酵母の違いやポット・スティルでのディスティレーション、或いは②に関してはバレル・エントリー・プルーフの低さの方がフレイヴァーにとって重要なのかも知れませんけれども。新しいオールド・バーズタウンを飲んだことのある皆さんはそのフレイヴァーについてどう思われましたか? どしどしコメントよりご感想をお寄せ下さい。

Value:ウィレットは長い歴史を持つ蒸留所ですが、規模や製造工程の点から言うと新しいクラフト蒸留所に近しいでしょう。まるで工場のような大手蒸留所と比べて生産規模の小さいクラフト蒸留所の製品はどうしてもお値段が高くなります。4年未満熟成のクラフト・バーボンで40ドルを超えることは珍しくありません。それなのに、ウィレットのプレミアムな一部の製品を除くレギュラー製品は、自身の新しい蒸留物であるにも拘らず、従来品とさほど変わらない値段が維持されています。オールド・バーズタウン90プルーフはアメリカでは17〜25ドル程度。日本での小売価格はだいたい2500〜3000円程度です。スモールバッチ・バーボンであるケンタッキー・ヴィンテージやピュア・ケンタッキーXOやポットスティル・バーボン、また同じブランドのオールド・バーズタウン・エステート・ボトルド等と較べると、やや「若さ」を感じる味わいではありますが、それらより安い2000円代で買えるこのスタンダードは完全にオススメ。なぜなら既に十分美味しいのですから。
90年代の調達されたバーボンから造られたオールド・バーズタウンも勿論悪くはありませんでした。しかし、新ウィレット原酒はソースド・バーボンとフレイヴァー・プロファイルが異なるだけでなく、はっきり言ってレヴェルが違うと個人的には思っています。初めて新ウィレット原酒を味わった時は、初めてMGP95%ライを飲んだ時と同じくらい衝撃を受けました。昔のオールド・バーズタウンにピンと来なかった方にも、是非とも再度試してもらいたいところです。


追記:現行オールド・バーズタウンの三つはそれぞれ、90プルーフのスタンダードは4〜5年熟成、ボトルド・イン・ボンドは5年熟成、エステート・ボトルドは6年熟成との情報が入りました。またオールド・バーズタウンにスモールバッチ表記は無いものの、おそらくどれも21〜24樽でのバッチングのようです。と言うか、ウィレットはスモールバッチ専門なので、他の製品も今現在はそれ位のバッチ・サイズなのでしょう。

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(画像提供Bar FIVE様)

こちらは大宮Bar FIVEの会員限定ウイスキークラブにて提供された一つで、ハーフショットでの試飲。当方のリクエストに応えて頂いたかたちとなります。マスターの心意気に感謝しかありません。ありがとうございました!

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Maker's Mark Old Style Sour Mash 90 Proof
推定78年ボトリング。酸のあるヴァニラ香、バタークッキー、薄いキャメル、オレンジ、オールドファンク、薬草、ブラックコーヒー、キンモクセイ。如何にもオールドバーボンらしい香り。口当たりは水っぽい。味わいは香りほど甘くなく、ややスパイシーかつビター。余韻は基本的にはミディアム・ロングだが、後々まで穏やかなスパイスとほろ苦さが鼻腔に残る。アロマがハイライト。

60年代後半や70年代前半のメーカーズマークをブラインド・テイスティングでその年代のスティッツェル=ウェラーと判別するのは難しいだろう、と言う人もいます。で、今回のボトルは推定70年代後半の物。それなりに期待が高まります。私に判別出来るかどうかは偖て措き、個人的な印象としてはS-Wほどのアロマや油性の口当たりは感じられず、味わいも少しフラットのような…。一応、現行のメーカーズマークともサイド・バイ・サイドで飲み較べて見ました。ベースとなるもののムードはかなり似つつも、オールドの方が香りの強さやスパイスの複雑さがあり、アルコールの尖りも感じにくいのは確か。ですが、原材料や樽材や熟成の違い以前にオールド・ボトル・エフェクトが掛かり過ぎていて、較べること自体に意味がないようにも感じました。皆さんは古いメーカーズやオールドボトルに対しどのような意見を持つでしょう? どしどしコメントお寄せ下さい。
Rating:84/100

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ジムビーム・デヴィルズ・カットは2011年に発売されました。2〜4年程度で廃止されるブランドも多い中で、今でもラインナップに残っているところを見ると人気があるか少なくとも利益率の悪くないバーボンと思われます。現在、日本で入手し易いジムビームの比較的廉価な物にはデヴィルズ・カット以外では、白のスタンダード、黒のエクストラ・エイジド、紺のダブルオーク、緑のライとありますが、この中では上から二番目に小売価格が高い。市場に出回っている殆どのバーボンウィスキーには、消費者の注意を引くためのラベルやギミック、関心を喚起するためのストーリーといったマーケティングの業があります。では、この「悪魔」までをも引き合いに出したブランディングのバーボンは一体どのようなものなのでしょうか?

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ウィスキーについて多少なりとも学んだことのある人は「エンジェルズ・シェア」という言葉を聞いたことがある筈です。これはスピリッツやワインを樽熟成する過程で蒸発によって失われる水分やアルコールに付けられた用語。お洒落な言い回しですよね。ウィスキーが閉じ込められているオーク樽はしっかりと密封されていますが、木材は多孔質のため蒸発が起こります。ウィスキーの熟成過程では毎年数%の液体がバレルから蒸発するのです。数%ならそれほど多くはないように思えますが、熟成期間が長ければ長いほど失われる量は多くなります。20年超の熟成ウィスキーは蒸発により内容物の半分以上が失われる可能性もあり、これが長期熟成酒の価格を押し上げる主な要因。熟成年数が長ければそれだけ美味しくなるとは限りませんが、熟成の過程に蒸発は付き物であり、謂わば蒸発なくしては木材から甘美なフレイヴァーを得れない、少なくとも古典的な製法では。そこで、ウィスキーを美味しくするために年会費を請求する天使への供物であると解釈するのが「エンジェルズ・シェア」という訳です。これは日本語では「天使の分け前」とか「天使の取り分」と翻訳されています。
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(AWZ作。天使はウィスキーがお好き)

ウィスキーを樽で熟成する過程で中身の液体が失われる理由は主に三つあり、一つが上のエンジェルズ・シェアでした。もう一つは味を確認するための定期的な試飲。そして、残るもう一つが樽の木材自体に染み込み吸収される分です。日々の、或いは年間を通しての高い温度と低い温度のサイクルによってウィスキーが樽の木材に押し込まれ、そして再び戻って来ることでそのフレイヴァーは増幅します。木材に入り込んだウィスキーの一部は、そこに残ったまま基本的には戻って来ません。そこでビーム社はこれを「エンジェルズ・シェア」の巧みな言葉遊びとして、天使に捧げたものに対する悪魔に奪われたもの、即ち「デヴィルズ・カット」と名付けました。
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(TP作。あくまでイメージですw)

中身をダンプして空になった樽には、かなりの量のバーボンが木材に染み込んだまま残っています。その量は約2ガロンとも、他説では約7ガロンともする情報がありました。ビームはこれを独自のプロセスを使って抽出すると言います。そのプロセスは完全には公開されていませんが、どうやら空になったバレルに水を入れ、それを高速で撹拌するだけらしい。ジムビームのマスターディスディラー、フレッド・ノーはペイント・シェイカーのように樽を振ると説明しています。また、もしかすると熱(蒸気)も加えているかも知れません。ともかく、そうして抽出した樽材の奥深くに閉じ込められていたタンニンやヴァニラやシャープなウッド・フレイヴァーを多く含むとされる液体を、6年熟成のバーボンとバランスを整えてブレンドし、90プルーフでボトリングしたら「ジムビーム・デヴィルズ・カット」の出来上りです。ちなみに抽出されたウィスキー残滓を含む液体と通常バーボンのブレンド比率については明かされていません。

ところで、スピリットが熟成されている樽に吸収されることをデヴィルズ・カットという用語で呼ぶのを「ジムビーム・デヴィルズ・カット」登場以前に聞いたことがある人は殆どいないでしょう。おそらくこの用語はビーム社によって発明された巧妙なマーケティング用語です。彼らは「独自のプロセス」と言いますが、実際には使用済みの樽からウィスキーを抽出する作業は古くから知られていました。ヒルビリーやムーンシャイナー、或いは嘗ての蒸留所の労働者達は、使用済みのウィスキーやラムのバレルに一定量の水(またはお湯)を注ぎ、その樽を横に置いて数日(または数ヶ月)おきに少しづつ回転させ、俗に「スウィッシュ」と呼ばれる非公式な使用のための酒を造ったと言います。それにはかなりのアルコールが含まれており、一部の人々はスウィッシュを「本物」と同じくらい優れていると考えたとか。ジムビームがしているのは基本的に同じことのように見えます。つまりジムビーム・デヴィルズ・カットは言葉を換えれば、6年熟成のバーボンをスウィッシュでカット(希釈)したバーボンだ、と。
ビーム家の現当主フレッド・ノーにしても、ケンタッキー州バーズタウンで蒸留一家の下に生まれ育ったからには「スウェッティング」として知られる地元の通過儀礼を経験していたと思われます。子供たちは地元の蒸留所から中身が投棄されたばかりの樽に数ガロンの水を入れ、バングホールをしっかり塞ぎ、暑い太陽の下で退屈するまで樽を転がしました。そうすると軽く酔うのに十分なアルコールが得られるのでした。これが製品化のヒントになったのでしょうか。「樽の発汗」は何も飲料用のみとも限りません。パブリカー/コンチネンタルの創始者ハリー・パブリカーは創業当初、フィラデルフィアのあらゆる小規模蒸留所に行き使用済みウィスキー・バレルを手に入れ、スウェッティングの技法を用いてウィスキー残滓を抽出し、工業用アルコールとして販売することで業界に参入しました。

「デヴィルズ・カット」はビームによって商標登録されていますが、一般的にダンプしたばかりの樽に数ガロンの水を入れ軽くリンスして残滓の一部を抽出することは多くのウィスキー蒸留所で行われていると聞きます。バレル・リンシングというプロセスです。他の大手酒類会社であるブラウン=フォーマンは、標準的な53ガロンの樽の1/3から1/2の間まで水を満たし、少なくとも三週間放置することで樽内部の木質繊維からより多くのウィスキーを抽出する独自のリンス・プロセスのパテントを持っているそう。ビームは攪拌を使用しますが、ブラウン=フォーマンは撹拌を使用しません。デヴィルズ・カットの発売より数年前、ジャックダニエルズはそうしたプログラムを開始しました。その手法はただのリンシングよりもアルコール含有量で測定すると約五倍多くのウィスキーを回収できるそうです。
ビームのプロセスがどれほど独創的であるかは偖て措き、ジムビーム・デヴィルズ・カットはバレル・リンシング・テクニックをブランディングに用い、主要製品の一つとして大衆市場へ向けて導入された初めてのバーボンだったと言ってよいでしょう。ビーム傘下にあるメーカーズマークは、供給不足解消のため2013年にそれまでの90プルーフから86プルーフにプルーフィング・ダウンする計画を発表したところ、ファンから猛反発を受けて瞬く間に前言を撤回し、その後、バレル・リンシングを導入することにより供給の問題に対応すると発表しました。これはデヴィルズ・カットの成功から来ているとみて間違いないように思います。この発表の後、新しいオーク樽で熟成されるバーボンとは異なり主に使用済みのバーボン樽で熟成させるスコッチの生産者、またバーボン・バレル熟成を行うクラフト・ビールの製造者やバーボン・バレル・フーズのような周辺産業の一部の関係者は懸念を表明しました。ビームやブラウン=フォーマンが行うようなディープ・バレル・リンシングは、自分達が使う中古樽から木材のフレイヴァーを奪い取ってしまうのではないか、という訳です。この問題がその後どうなったかは寡聞にして知りません。あくまでバーボンそのものではない数ガロンのスウィッシュを増産するに過ぎないことを考えると、全ての生産者がディープ・バレル・リンシングを行うとも思えませんし、2015年以降も増え続けるクラフト蒸留所や熟成倉庫を増設する大手蒸留所の存在もあります。どこかで需要と供給のバランスは上手く取れたのでしょうか? 少なくとも、大手企業にとってはバレルの再販とリンシングのどちらがより収益が大きいかは鍵になったのではないかとは思いますが…。ここら辺の事情に詳しい方はコメントよりご教示頂けると助かります。
ちなみに味わい的には、バレル・リンシングによって抽出されるウィスキーは非常に強いウッド・プロファイルを有し、それをブレンドすると実際よりも熟成年数の高い物に感じられるとされますが、同じような結果を齎す方法にスモール・バレル・エイジングがあります。小さい樽はウィスキーと木材の接触する表面積が増えるため、熟成が早く進むと言うか木材のフレイヴァーを取り込み易くなるのです。伝統を持たない小さなクラフト・ディスティラリーでは多く採用されています。リンシング対スモール・バレルの戦い?も興味深いですね。では、そろそろ悪魔のエキスが入ったバーボンを注ぐとしましょう。

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JIM BEAM DEVIL'S CUT 90 Proof
推定2015年ボトリング。石鹸、フローラル、生木、バターピーナッツ、ヴァニラ、ドライフルーツ入りクッキー、胡椒、煙、サイダー、僅かにプルーン。水っぽい中に少しだけとろみのあるテクスチャー、ピリリと刺激も。口の中ではビーム特有のフルーツ感もあるが、あまり甘くなくスパイシー。余韻はグレイン&スパイス中心でドライながら木炭の風味が尾を引く。液体を飲み込んだ直後がハイライト。
Rating:81/100 

Thought:少々キワモノ的なブランディングが好みではないので今まで敬遠していたデヴィルズ・カットなのですが、今回やっとこさ飲んでみました。悪くないですね。普通のジムビーム・ホワイトやブラックとは少し異なるキャラクターはあるように感じました。事前の予想通り、確かにスパイシネスと木材感が強まっています。開けたてはソーピーなアロマとアルコールの尖りを感じましたが、飲み進めて残量3分の1くらいになる頃にはビームらしいフルーツも顔を出して美味しくなりました。
現行のデヴィルズ・カットはラベルの字体が少し変わり、ボトル形状もその他のジムビームに合わせて変更されました。なので今回私の飲んだのは旧デザインということになります。私は現行を試してないので何とも言えませんが、日本の有名なウィスキーブロガーさんでデヴィルズ・カットの新旧比較を行っている方がいて、その記事には「旧」の方を高く評価する趣旨の発言が見られます。「新」の方が小売価格自体が下がっており、バーボン原酒の熟成年数も下がっているのではないか?と邪推できなくもありません。だって現行(新の方)はブラックと小売価格が殆ど変わらないですから。飲み比べたことのある方はどう思われたでしょうか? どしどしコメントよりご意見お寄せ下さい。

Pairing:敢えてスパイシー系ソース焼きそばに合わせると美味しかったです。私は食前酒にも食中酒にも食後酒にもバーボンを飲みますが、個人的にはデヴィルズ・カットは食後酒ではなく食中酒に適してるように思われました。食後にはより滑らかなバーボンか、もっと甘みのあるハイ・プルーファーが望ましく感じます。

Value:現行のデヴィルズ・カットは概ね1800〜2400円の間くらいが相場のようです。ホワイトが1200〜1500円、ブラックが1800〜2200円、ダブルオークが2500〜3000円なので、随分と狭い価格帯でのブランド展開となっています。上に述べたように、私は現行のデヴィルズ・カットを飲んでいないので、あくまで品質が今回飲んだ物とほぼ同等であると見做しての話になりますが、もしブラックと同じ価格かプラス数百円の違いなら個人的にはデヴィルズ・カットがオススメです。よりハイアー・プルーフですから確実にお得。しかし、バランスを重視するならライトなブラックの方がいいでしょう。おそらくブラックの方が甘さは感じ易いと思います。

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(画像提供N氏)

ブラックサドル・バーボンはカリフォルニア州フェアフィールド(旧住所はサンホゼ)の老舗ボトラー、フランク=リン・ディスティラーズ・プロダクツのブランドで、おそらく2014年頃から発売されたと思われます。同社の「バック」と同じようにカウボーイや馬をイメージ・ソースとしてバーボンと結びつけているのでしょう。フランク=リンは俗に言うNDPであり、原酒の調達元は一般公開されていませんが、日本で流布しているブラックサドルの情報ではヘヴンヒルとされています。ヘヴンヒルの12年熟成で90プルーフあるのであれば、エイジ・ステイトメントを失ったエライジャ・クレイグの代わりになれるバーボンなのかどうか?が気になるところ。ちなみに、ラベルには「ケンタッキー」も「ストレート」の文字もありませんが、フランク=リンのセールス・シートによるとケンタッキー・ストレート・バーボンと明記されています。
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今回のブラックサドルの紹介はInstagramで知り合ったバーボン仲間のNさんからサンプルを頂いたことで実現しました。何の前触れもなく送られて来たサプライズでした。Nさん、写真のお手間も含めこの場を借りて改めてお礼申し上げます。ありがとうございました! では、飲んだ感想を少し。

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(画像提供N氏)

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BLACK SADDLE 12 Years 90 Proof
ボトリング年不明(2016〜18年頃?)。チャードオーク、ヴァニラ、コーン、ベーキングスパイス、レーズン、ビターチョコ。香りは比較的「小さく」、パレートでも風味は弱め。ほんのり甘い香りと典型的なバーボン・ノートがバランスよく見つかるが、基本的に焦樽が中心のアロマとフレイヴァー。12年という熟成年数ならば、もう少しダークなフルーツ感が欲しいし、余韻に深みも欲しい。空気に触れさせたアロマがハイライト。
Rating:81.5/100

Thought:確かに近年のヘヴンヒルぽい味わいに感じました。ただ、日本語でブラックサドルを検索した時に出てくる一部の情報では、良質な樽を買い付け云々とあるのですが、ヘヴンヒルのように自社ブランドもリリースする会社がバルク・ウィスキーの販売をする場合、過剰在庫を抱えているのでなければ、それほど優良なバレルをそちらに回すとは思えず、私にはブラックサドルは平均的なバレルから造られているように感じます。現行のボトルデザインが変わった後のエライジャクレイグNASを私は飲んだことがありませんが、多分大差ないんじゃないかなという気が…。何故かこのブラックサドルにはあまり熟成感を感じにくいのです。飲み比べたことのある方はコメントよりどしどし感想をお寄せ下さい。

Value:アメリカでは4〜50ドルが相場。現在の日本ではネット通販は売り切ればかりで、安定的な輸入はされてないようです。少し前は3500円ちょいで購入出来た時もあったみたい。個人的にはその金額を出すのなら、エヴァンウィリアムス(特に赤もしくは白)かエライジャクレイグを購入したほうがいいと思います。ただし、ボトルやラベルは高級感があるので、それが気に入れば買うのはありでしょう。そこにこそ価格の違いの大部分が存するのですから。


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ケンタッキー・ヴィンテージはウィレット蒸留所(KBD)が現在リリースしているスモールバッチ・ブティック・バーボン・コレクションの四つのうちの一つです。そのうち最も安価なブランドで、その他のラインナップはピュア・ケンタッキーXO、ローワンズ・クリーク、ノアーズ・ミルとなっています。このコレクションの成立は、おそらく90年代後半ではないかと思いますが、ケンタッキー・ヴィンテージだけもう少し前から一部の国へ向けてボトリングされていました。その頃の物は、現在のような茶色系のラベルではなく、白地に青と赤のトリコロールが印象的なカラーリングでした。ケンタッキー・ヴィンテージの起源は明確ではないのですが、私の知っている限り最も古いのは、ラベルに艶のない「15年101プルーフ」です。これは80年代後半あたりに当時のKBD(プレミアム・ブランズLTD)の社長エヴァン・クルスヴィーンが日本向けに発売した一連のプレミアムな長期熟成原酒の一つかと思われます。多分その後に艶のあるラベルの「12年101プルーフ」と「13年94プルーフ」が90年代初頭に発売されたと推測しています。
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レギュラー製品としてケンタッキー・ヴィンテージが発売された後にも、2000年には、上記と同じ艶のある白青赤ラベルで、ネック部分には熟成年数の替わりに蒸留年ヴィンテージが示されつつ蒸留日とボトリングの日付を手書きで記したシールが貼られ、ブルゴーニュ・スタイルのワインボトルにブルーのワックスで封された「1974」が日本限定で発売されました。またその他に発売年代が判別できませんが、おそらくヨーロッパ向け?と思われる薄紫色のバッグ付きの「1973」と「1974」というヴィンテージ表記の物もありました。両者ともにワイン・タイプではないボトルですし、デザイン的に90年代初頭ぽい気が…。ここら辺までの初期ケンタッキー・ヴィンテージに精通している方は是非ともコメントより情報提供お願いします。
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ケンタッキー・ヴィンテージのそもそもの製品コンセプトは、その名前からしてケンタッキーに長い間眠っていた長期熟成原酒をボトリングすることだったのだと思います。初期の物や限定リリースの物こそその名に相応しいとは思いますが、どういう訳かスモールバッチ・コレクションに再編されました。ウィレットのスモールバッチのバッチ・サイズはせいぜい12バレル程度とされ、選択を18〜20バレルから始めて絞り込むのだとか。そして初期の物と違いレギュラーのケンタッキー・ヴィンテージはNASです。熟成年数に関しては、2011年頃の情報では5〜10年、もう少し前の情報だと6年~12年とされていました。こうした極端に少ないバレル数のバッチングであること、NASであることを考え合わせると、バッチ毎の味の変動が大きい可能性はあるでしょう。バッチ毎は言い過ぎとしても、需要と供給の変化により選択する樽の構成を調整し易いのがNASの利点ですから、少なくとも生産年度に数年の違いがあれば、味わいの変動は十分考えられます。ちょっと明確な時期が判らないのですが、コレクションに編入された時から2000年代半ば(もしくは後半?)までは、色の付いた首の長い独特な瓶にボトリングされていました。その後の物も首は長めですが、もう少し一般的な形の透明の瓶に切り替わります。こうした外見の変化、パッケージのリニューアルは中身の大幅な違いをも表しているかも知れません。
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元ウィレット蒸留所のKBDことケンタッキー・バーボン・ディスティラーズ社は、80年代初頭に訳あって蒸留を停止してから長きに渡ってボトラーとして活動して来ました。そのため原酒を他所から調達しており、その殆どはヘヴンヒル蒸留所からと目されています。それが変わったのは2012年。長年の自社蒸留復活の夢が遂に叶い、蒸留を再開したのです。そして、それから数年を経て、自社蒸留原酒をボトリングし始めた、と。そこで新しいケンタッキー・ヴィンテージの登場です。
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(写真提供K氏)
画像で判る通り、ボトル形状が少し変わりました。新しい物は首が少し短くなり、肩周辺がより丸みを帯びたシェイプになっています。おそらく2017年もしくは2016年のバッチあたりから新しい物に切り替わっているのではないかと推察していますが、皆さんのお手持ちのバッチ情報があったらコメントよりお知らせ下さい。

さて、今回は私の手持ちの推定2017年ボトリングのケンタッキー・ヴィンテージをレヴューするのですが、親愛なるバーボン仲間でありウィレット信者のK氏から二種のサンプルを頂きまして、そのお陰でサイド・バイ・サイドによるちょっとした比較が可能になりました。男気溢れるK氏には掲載画像の件も含め、改めてこの場でお礼を言わせてもらいます。ありがとうございました。
で、その二種のサンプルは、一つが推定2018年ボトリングのもの。これにより半年~一年差のバッチ違いの比較が出来ると想定しています。もう一つは推定2010年ボトリングのもの。こちらでは原酒の違いを比較できるかと思います。では、飲み比べてみましょう。

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Kentucky Vintage 90 Proof
BATCH QBC No. 17-62
推定2017年ボトリング。蜂蜜、熟したプラム、トーストブレッド、チャードオーク、グレープ、コーン、パイナップル、梅干。さらりとした口当たり。パレートはモルティな風味とフレッシュフルーツ。余韻は豊かな穀物と穏やかなスパイスが割りと長く続く。
Rating:87.5/100

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Kentucky Vintage 90 Proof
BATCH QBC No. 18-10
推定2018年ボトリング。バッチ17-62とほぼ同様なフレイヴァー・プロファイル。強いて言うならポップコーンぽさが強いのと、オークのバランスがやや違うような気もするが、それは酸化の進行状況の違いかも知れず、概ね同じものと見做していいと思う。
Rating:87.5/100

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Kentucky Vintage 90 Proof
BATCH QBC No. 10-174
推定2010年ボトリング。上記2つより色は濃いめ。金属、薄いキャラメル、木材、コーンブレッド、ホワイトペッパー、クローヴ。ちょっとメタリックな匂い。味はビター感が強めで甘さが足りない。余韻はスパイシーでさっぱり切れ上がる。
Rating:81.5/100

Thought:現行のケンタッキー・ヴィンテージは、渋いラベルからは想像もつかないデリケートなフルーティさに満ち、なんと言うか原酒本来の穀物感が活きたバーボンだと思いました。現在のウィレット蒸留所には6種類のマッシュビルがあるとされ、その内訳は、

①クラシック・バーボン・レシピ
(72% Corn / 13% Rye / 15% Malted barley)
②ロウ・ライ・バーボン・レシピ
(79% Corn / 7% Rye / 14% Malted barley)
③ハイ・ライ・バーボン・レシピ
(52% Corn / 38% Rye / 10% Malted barley)
④ウィーテッド・バーボン・レシピ
(65% Corn / 20% Wheat / 15% Malted barley)
⑤ハイ・コーン・ライウィスキー・レシピ
(51% Rye / 34% Corn / 15% Malted barley)
⑥ロウ・コーン・ライウィスキー・レシピ
(74% Rye / 11% Corn / 15% Malted barley)

と、なっているようです(上記のレシピ名は、分かりやすいようにセカンド・グレインの差を中心に据えて私が勝手に付けたものです)。一瞥して気付くのはモルテッドバーリーの配合率の高さですよね。これはもしかすると商業用酵素剤を使用していないのかも。それは偖て措き、ケンタッキー・ヴィンテージです。KVのマッシュビルは公表されていませんが、個人的には③一種もしくは少なくとも③を中心としたブレンドではないかと感じました。飲んだことのある皆さんはどう感じたでしょうか? どしどしコメントをお寄せ下さい。
一方のヘヴンヒル原酒と目されるバッチ10-174は、フレイヴァー・プロファイルが全く異なります。異なるだけでなく、ウィレット原酒とは正直言ってレヴェルが違うと思いました。私の好みにウィレットの方が合っていたとは言えますが、そもそもアロマの強さと余韻の広がりが段違いなのです。それとバッチ17と18を飲み比べた結果、ここまで似ているのなら、今後も安定してこの味でリリースされると予想されるでしょう。ウィレット蒸留所に拍手を、 そしてブレンダーの腕に乾杯を。

Value:ケンタッキー・ヴィンテージの現行製品の日本での販売価格はだいたい3500円前後が相場でしょうか。その価格帯の製品としては、ハイエンド感を演出するワックス・スタンプとワックス・シールドが施された外見はとても魅力的です(ただし、スクリュー・キャップとラベルの質感は安っぽい)。そして外見に劣らず中身がこれまた素晴らしいときたらオススメでない訳がありません。個人的な印象としては、焦樽感で押し通すタイプのバーボンではないので、普段スコッチやジャパニーズウィスキーを飲まれる方にも好まれるのではないかと思います。そして何より、現行製品は旧来のヘヴンヒル原酒の物とあまりにも違いがありますので、昔飲んで印象に残らなかったという方には是非とも再チャレンジして頂きたい銘柄です。


追記:ウィレット蒸留所と縁の深いバーGのマスターより情報頂けました。最近の物はマスターブレンダーJ.O.氏による21樽のバッチングだそうです。
またマッシュビルは①との情報が入りました。

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現在では多くのクラフト・ディスティラリーの勃興を見るテネシーウィスキー・シーンですが、一昔前はたった二つの蒸留所しかありませんでした。一つは言わずと知れたムーア・カウンティのジャック・ダニエル蒸留所、もう一つがタラホーマ近くのコフィー・カウンティに位置するジョージ・ディッケル蒸留所です。現在、ジョージディッケルを所有するのは泣く子も黙る酒類業界の巨人ディアジオ。そのブランド・リストの中では、ジョニー・ウォーカー、キャプテン・モルガン、スミノフのような超メジャー銘柄と較べれば、近年知名度を上げたとは言え、ディッケルはまだ小さなブランドでしょう。しかし、その歴史と変遷は大変興味深く、上に挙げた英雄的ブランドや世界でトップクラスの売上を誇るジャックダニエルズにも勝るとも劣らないものがあります。そこで今回は、日本ではあまり語られることのないジョージディッケルとその前身であるカスケイド・ウィスキーの歴史を紹介してみたいと思います。

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酒名となっている人物、ジョージ・アダム・ディッケル(1818年2月2日―1894年6月11日)は、エリザベス・ディッケルの婚姻外の子としてドイツのグリュンベルクで生まれました(ダルムシュタットという説もあった)。彼の父親はマルクトハイデンフェルトに住んでいたアントン・フィッシャーであったとされています。父親方の家族は、彼の叔父をゴッドファーザーとして立たせることによって間接的に認知したようで、名前は叔父のジョージ・アダム・フィッシャーにちなんで名付けられました。アントンの父親、アダム・フィッシャーは、ワイン樽を専門とするヴュルツブルク地域のマスター・クーパーだったと言います。ジョージ・ディッケルの幼年期の生活はよく分かりません。なので一気にアメリカでのサクセス・ストーリーへと飛びましょう。

1844年、ディッケルは26歳の時アメリカへ入国しました。そして1847年には後の活躍の舞台となるナッシュヴィルに移住します。1850年代半ばまでに、ディッケルはナッシュヴィルのユニオン・ストリートで靴とブーツの製造業を営み生計を立てていました。このビジネスは彼を忙しくさせ、1860年頃まで仕事を続けましたが、それは運命づけられた商売ではありませんでした。この間、彼は会社の後輩だった二十歳のオーガスタ・バンザーと結婚しています。彼女は抜け目のないビジネスウーマンであり、財務に長けていたとされ、会社の経理でも担当していたのかも知れません。ディッケルは1861年に酒類の販売を始めました。多くの成功した商売人のように、酒類以外に衣料品、家庭用品、食料品などの小売業もやっていたようです。

南北戦争時、1862年に北軍の兵士がナッシュヴィルを占領し、酒の販売を禁止すると密輸が横行しました。おそらくディッケルはナッシュヴィルの「ヤンキー」占領期間中(1862―65)、密輸業者であったと見られます。もっと言うと、影のボス的な存在だった可能性も否定出来ません。個人的な記録を殆ど残さず、性格が伝わるようなエピソードのないディッケルはミステリアスな男でした。彼は明らかに匿名性を求めたとされ、ビジネス取引ではバックグラウンドで動作することが好ましいと考えていたようです。それは出生やこの時期の商売と無関係とは思えず、危害から身を守る知恵だったのかも。それはともかく、占領後にディッケルらがリカー・ビジネスを設立し繁栄させた資本金は、この密輸活動から来たと考えられます。
ディッケルと戦時の密輸を結びつける直接的な証拠はありませんでしたが、ディッケルが長い間付き合っていたユダヤ系アルザス=ロレーヌ移民のシュワブ家は、ナッシュヴィルの違法ウィスキー取引に深く関わっていました。1859年以来ディッケルのビジネス・アソシエイトであったエイブラム・シュワブの義理の息子マイヤー・ザルツコッター(1822―1891)は大量の密輸酒を所持して北軍当局に捕まっています。ザルツコッターは、シュワブと合法でも非合法でも商売をしており、エイブラムの娘であるセシリアと結婚していました。ディッケル、エイブラム・シュワブ、ザルツコッターの3人はノックスヴィルとナッシュヴィルで様々な種類のビジネスを共にしたと言います。エイブラムの息子ヴィクター(1847―1924)も父親の足跡を辿りました。ヴィクターは当局を混乱させるために、青年時代に名前を何度も変えたらしい。彼ら全員が北軍の占領を回避するために出来ることをする善良な南部人だったので、少なくとも彼らの共同体の中での評判は悪くなかったようです。
ザルツコッターは下部を偽装したワゴンを使用して北軍の封鎖を通り抜け、禁止品を密輸して捕まると、有罪判決を受けてセントルイス近くのイリノイ州アルトンの軍事刑務所に入ります。彼は、姻戚が自分にウィスキーを負わせたのだ、と主張しましたが通用せず投獄されました。彼が妻の許を離れている間に、彼女(ヴィクターの姉セシリア)はルイヴィルへと逃れ、そこで売春婦になったそうです。彼は釈放されると、妻と離婚しました。ザルツコッターは1891年の死までディッケルと行動を共にします。

戦争が1865年に終わった時、ディッケルはサウス・カレッジ・ストリートに酒屋を持ち、それは市内最大の酒屋の1つでした。店舗は翌年までにサウス・マーケット・ストリートのより大きな場所に引っ越します。更にビジネスが成長し続けるにつれて、彼らは3年間で3回目の移転までしました。
ディッケルは1866年頃からウィスキー事業に参入し始め、マイヤー・ザルツコッターを監督として、その元義兄弟であるヴィクター・エマニュエル・シュワブをブックキーパーとして雇います。彼らは地元の蒸留所からウィスキーを購入して、彼ら自身のラベルのために最も円やかで最も優れたスピリットだけを選ぶことですぐに評判を得ました。この頃シュワブは、アメリカ化するために自らの姓から「c」を落としてクリスチャン教会に加わります(SchwabからShwabへ)。1867年、ディッケルはウイスキーをブレンドし始め、ライセンスなしで酒を整流(レクティファイング)したとして逮捕され、連邦裁判所で告発されましたが、これらの告訴にも拘わらず、ディケルの酒類小売は成功し続けました。そして1870年までに(1868年とする情報もあった)、ディッケルはノース・マーケット・ストリートに本社を置く酒類卸売会社、ジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーを結成します。当時の酒類卸売業者の典型的な例として、同社はこの地域の蒸留所から直接ウィスキーを購入し、それを樽やジャグ、または瓶で売っていました。それに加えて、ナッシュヴィル・エリアのブリュワーからエールとラガーを仕入れ、またワインやブランディも販売しています。更に同社はナッシュヴィルで直接酒を輸入した最初の企業の1つであり、スコットランドとアイルランドのウィスキー、オランダのジン、シャンペイン等も取り扱っていました。1875年の広告では、自社の特産品を「カッパー・ディスティルド・サワー・マッシュ・ウィスキー」や輸入シャンペインと表記し、全国に出荷致します、と記載しています。1871年に、ザルツコッターはディッケル・カンパニーのパートナーに昇格し、ヴィクター・シュワブはディッケルの妻オーガスタの妹エマ・バンザーと結婚しました。
1874年3月17日、マーケット・ストリートに火災が発生し、ディケル・カンパニーの本社は丸焦げになり、6万ドル相当のウィスキーで満たされた大きな倉庫も焼失します。1881年5月に起きた別の火災でも倉庫を焼失し、会社は75,000ドルの損失を被りました(ただし部分的に保険が掛けられていた)。この2回目の火災についての報道では、或る新聞はディッケルを「グレート・ウィスキー・ディーラー」と表現しています。ちなみに1882年、ディッケル・カンパニーはマーケット・ストリートに新たな5階建ての本社を建てました。この建物は今もまだナッシュヴィルの201〜203セカンド・アヴェニューに立っているとか。

さて、ここまでの話で分かるように、ジョージ・ディッケルは、一言で言えば成功を収めたドイツ生まれのアメリカ人実業家でした。1771年のエヴァン・シェルビーによるサリヴァン郡のイースト・テネシー蒸留所の設立から始まり、1900年代初頭の禁酒法の開始まで、ウィスキーの製造と販売はテネシー州の重要な産業でしたが、彼の卸売会社は流通とマーケティングにおいて重要な役割を果たしたと言えるでしょう。しかし、ディッケル自身はウィスキー・ビジネスマンであって、ディスティラーではありませんでした。
現在ジョージディッケルのブランドを所有するディアジオや、その前時代に所有していたシェンリーのような親会社から語られる歴史は、マーケティング・ツールとして用意されたものが殆どです。それゆえ誤解を招きがちなのですが、ディッケルはタラホーマ近くのウィスキー造りに最適な場所を発見して蒸留所を創設したのでもなければ、レシピをはじめとする諸々の製造法を完成させたのでもなく、彼の統制下の会社は蒸留所を所有したこともありませんでした。更にディッケルはカスケイド・ホロウを訪れたことすらありそうもなく、なんならウィスキーを一滴も飲まなかったとさえ言われています。タラホーマはディッケルの本拠地だったナッシュヴィルから約80マイルであり、彼の時代には近いとは言い難い距離でした。今日でも州間高速道路で片道約90分の道のりです。
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ディッケルがしたのは、ディスティラーから直接ウィスキーを樽で買い付け、ナッシュヴィルで瓶詰めして包装し、独自のウィスキーとして売ったこと。また彼ら卸売業者の多くは、異なるウィスキーをブレンドし、アルコール度数や風味を調整するためレクティファイヤーとも言われます。それは今日、我々がNDP(非蒸留業者)と呼んでいるものでした。

おそらくジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーの最も印象的で長続きした業績は、小さな町ノーマンディ近くのコフィー郡にある蒸留所で生産された非常に素晴らしいウィスキーの発見と宣伝でした。往時、テネシー・サワーマッシュ・ウィスキーの生産で最も有名な郡は、ロバートソン郡とリンカーン郡で、リンカーン郡の一部は後にムーア郡となり、ジャック・ダニエル蒸留所の所在地(リンチバーグ)として知られていますが、隣接するコフィー郡にもいくつかの蒸留所があったようです。当時カスケイド・ホロウ蒸留所として知られていたものは、1877年にジョン・F・ブラウンとF・E・カニングハムによって設立されました。この蒸留所の例外的なウィスキーの品質の多くは、使用されるカスケイド・スプリングスの水が優れていたことに起因しているとされます。いつの頃からか不明ですが、ディッケル・カンパニーはタラホーマ近くのカスケイド・ホロウ蒸留所で生産されるウィスキーを配給し始め、同蒸留所の最大の買い手になったと思われます。多くの量産品と同様に、同社は独自のラベルを付けることで他の競合製品と差別化しました。ラベル中央にはカッパースティルが描かれ、「GEO. A. DICKEL & CO.」、続いて「CASCADE DISTILLERY」と記載されています。そして伝説によればディッケルは、自分のウィスキーは世界最高級のスコッチと同程度であると信じていたので、ラベルには伝統的なスコットランドと同じ「e」なしの「Whisky」を採用しました。それは今日まで、そのように綴られる一握りのアメリカン・ウィスキーの1つのままです。

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1879年、地元のビジネスマンであるマシュー・シムズがブラウンの株を買い取りました。1883年になると、もう一人のビジネスマン、マクリン・ヘゼカイア・デイヴィス(1852―1898)がこの蒸留所の操業に参加し、多分今で言うところのマスター・ディスティラーとなって、ウィスキーの品質を大幅に向上させる数多くの革新的技術を導入したと言います。カスケイド・ウィスキーのレシピを造ったのも彼と見られ、後の広告に登場する
「Mellow as Moonlight(月光の如くメロウ)」というフレーズもマクリンが夜間にマッシュを冷やした方法に基づいていました。ウィスキー自体の成功に最も責任を負う人物であると思われるマクリン・デイヴィスは、カスケイド蒸留所の一部の所有権者でもあり、彼の息子の一人はヴィクター・シュワブの娘の一人と結婚したという点で、彼とシュワブ・ファミリーは明らかに親密な関係にありました。

1886年にディッケルは乗馬事故で酷いダメージを受け、その損傷は決して完全には回復せず、彼がしていた多くのことを続けるのが困難になりました。ディッケルの健康状態が低下するにつれて、義理の弟であるシュワブは会社の日常業務を徐々に引き継ぎます。
1890年代初頭までに、カスケイド・ウィスキーはこの地域で最も人気のあるブランドの一つとなり、既に1881年にディッケル・カンパニーのフル・パートナーとなっていたシュワブはその人気を認め、1888年にシムズの持っていた株を購入し、カスケイド・ホロウ蒸留所の2/3の所有権を取得しました。この購入の一環として、ディッケル・カンパニーはカスケイド・ウィスキーの唯一の販売代理店となります。同年、ザルツコッターが体調不良のためウィスキー事業を終了しました。

同じ頃、ディッケル・カンパニーのもう一つの重要な事業が始まっています。それはサルーンの経営です。誰の発案か分かりませんが(シュワブ?)、同社は自社の取り扱い製品の需要を創出するため、1887年、有名なマクスウェル・ハウス・ホテルの近く、ナッシュヴィル最高のエンターテインメント地区にザ・クライマックス・サルーンをオープンしました。同社はこのサルーンをカスケイド・ウィスキーの「本部」として宣伝しています。そこで提供する娯楽は酒、ギャンブル、売春など。つまりはバー、ギャンブリング・ホール、売春宿の複合施設だったクライマックスは、ジェントルマンズ・クォーターもしくはメンズ・クォーターとして知られるエリアのプリンターズ・アレーに隣接する210チェリー・ストリート(現在の4thアベニュー・ノース)にありました。ドアの上に彫刻された四体の天使はサルーンへの訪問者を迎え、1階と地下はカンカン・ダンサーやその他のエンターテイメントが行われる劇場とサルーン・バー、2階にはバーとギャンブル目的で使用されるプール・テーブルがあり、3階は売春用のベッドルームという造りになっていました。3階でサービスを提供するガールズは階段に沿って立ち、男どもは階段を昇りながら相手を選んだと言います。ベッドルームには部屋を仕切る偽の壁パネルがあり、そこで働くガールズが警察からの急な襲撃の際に身を隠す場所となっていたとか。
1880年代後半から1914年まで、「紳士街」はサルーンや男性の関心に応えるアダルトでエロティックなビジネスが密集している地域でした。当時の自尊心のあるヴィクトリア朝の女性が通りを歩くことを拒否した場所であり、自分の評判を重視する女性はこのブロックに進出することはなかったそうです。「紳士街」の発達は、当時のいくつかの理想的な状況によるものでした。そうした歓楽街に欠かせない男性顧客の絶え間ない豊富な供給はその一つでしょう。それは、近くのオフィスビルからの弁護士や隣接するマクスウェル・ハウス・ホテルからの旅行ビジネスマンだったり、近くのカンバーランド・リヴァーからの建設労働者やリヴァーボートの乗組員たちです。また地元の警察による緩い取り締まりというお決まりのパターンも要因の一つでした。ナッシュヴィルの警察は「紳士の宿舎」で起きている違法行為を非常によく知っており、時折の摘発が行われましたが、それは名目上の罰金のみを課したに過ぎなかったようです。そして人気のあるテネシーウィスキーの蒸留所による支援もまた、その成長に重要な役割を果たしました。ディッケル・カンパニーはクライマックス・サルーンの運営の他に、建築家ジュリアン・ツウィッカーによって設計され、1893年に建てられたシルヴァー・ダラー・サルーンもヴィクター・シュワブが管理を支援していました。更にあのジャック・ダニエルも伝説によれば、チェリー・ストリートの全てのサルーンを訪れ、そこにいた全員にジャックダニエルズ・ウィスキーをおごったと言われています。各サルーンにはフォロワーが詰めかけ、彼らは次の場所で行われるおごり目当てにジャックを追い掛けて行ったのだとか。
紳士街で男達は、髪を切り髭を剃り、新しいスーツを買い、その頃トレンドになったランチを嗜み、サルーンでは酒を楽しんだり、時にはギャンブルや売春などのよりスキャンダルで違法な活動に参加したりしました。今より厳格なモラリティのあった社会的ルールの時代に、クライマックス・サルーンやその他のプリンターズ・アレーの施設の多くは、男性が非難がましい裁きを下されずに飲酒やギャンブル、或いはいわゆる醜態を晒せる場所だったのです。1914年にクライマックス・サルーンが最終的に閉鎖されるまでの数年間、地元の教会はアルコール消費とチェリー・ストリートの売春宿とサルーンの罪深さを説いて回りました。成長している全国的な禁酒運動がテネシー州でも定着し、一連の法律が最終的に州内の全てのサルーンを閉鎖してしまいます。プリンターズ・アレーとその周辺地域には違法なスピークイージーズのみが残りました。

さて、ここらでディッケル・カンパニーの本道へと話を戻しましょう。ジョージ・ディッケルの落馬事故には先に触れましたが、彼の健康は人生の最後の2年間で急速に減退し、1894年6月11日、ついに帰らぬ人となり、ナッシュヴィルのマウント・オリベット墓地に埋葬されました。ディッケルは成功した酒類事業以外でもナッシュヴィルに貢献していたようです。彼は都市のすぐ外にあるディッカーソン・パイクの家に住み、そこで大きな梨の果樹園を経営していました。また、ボランティア消防士をしていたり、1852年にはマスター・メイソンになったとか、テンプル騎士団のメンバーでもあったと伝えられます。他にも、写真家でありドイツ系アメリカ人仲間のカール・ジアースの1874年の州議会入りを支持したとか。カールはディッケルのよく知られた肖像写真の撮影者でした。おそらくディッケルは成功した実業家として、移民コミュニティや地域の活性化を助けたものと想像します。
ディッケルが亡くなった後、彼の妻オーガスタとパートナーのシュワブは会社を相続しました。オーガスタは生前のディッケルから、最初の有利な機会に事業を売却するよう指示を受けていましたが、彼女は売却を拒否し、シュワブと事業のシェアを保つことを選びました。しかし、彼女は会社の活動、蒸留所の経営やサルーンの運営や卸売業務の一部には積極的に参加せず、お金と時間はあったので、ミシガン州チャールボイにある夏用別荘やヨーロッパへの年間旅行などに出掛けて晩年を過ごします。今まで触れていませんでしたが、そもそも「Geo. A. Dickel & Co.」の「A」はオーガスタの略と思われ、彼女は会社の財務主任でもありました。1916年にオーガスタが亡くなった時、子供のいない彼女は会社の所有権をシュワブに託しました。裁判所の記録によると、彼女は非常にお金持ちだったようで、100万ドル(今日の2500万ドル)相当の株式、債券、証券をシュワブと甥と姪に残したそうです。この時にシュワブは蒸留所の所有権に加えて会社の完全な支配権を引き受けましたが、ジョージ・A・ディッケルのカスケイド・ウィスキーというブランドは知れ渡っていたので名前の変更は行いませんでした。 もし、この時ブランド名が変えられていたら、我々が今日飲んでいる「ジョージディッケル」は「ヴィクターシュワブ」になっていたかも知れません。

オーガスタの死と話は前後してしまいますが、1898年にはディスティラーのマクリン・デイヴィスの早すぎる死(45歳)がありました。マクリンの死後、息子のノーマン・デイヴィス(1878―1944)が一時的に蒸留所を運営したものの、運営権のマジョリティ・オーナーであるシュワブに訴えられ、その持分を売却することを強いられたと言います。先にちらっとだけ触れておいたのですが、マクリンの息子のうちポールはヴィクター・シュワブとエマ・バンザーの娘と結婚していますから、義理の息子の兄弟と争った訳です。ちなみにノーマン・デイヴィスは一流のビジネスマン、外交官として知られ、バーボン・マニア以外には父親マクリンやシュワブより有名な人物です。若い頃、1902年から1917年の間、キューバにおいて金融取引と砂糖交易を行い、数百万ドルと言われる財を築き、トラスト・カンパニー・オブ・キューバの社長を務めました。後に転じてウッドロー・ウィルソン大統領の財務次官補(1919年から1920年)や国務次官補(1920年から1921年)を歴任し、更にアメリカ赤十字と国際赤十字でも会長に就任しています。

デイヴィス家の3分の1のシェアを手に入れたシュワブは蒸留所の単独所有者となり、これでカスケイド・ウィスキーの供給経路と流通経路の両方を固めることが出来ました。また、カスケイド・ウィスキーは米西戦争(1898年)中の兵士に非常に人気があり、その名声は西海岸にまで広がったと言います。 そこでは、シュワブの義理の息子ポール・デイヴィスによって「偉大なウィスキーの街」と評されたサンフランシスコから配布されました。 1900年前後、シュワブはコカ・コーラの広告キャンペーンを開始したセントルイスのダーシー広告会社を雇い、カスケイド・ウィスキーを国内で宣伝し始め、その後国際的にもそうしました。1904年には蒸留所が拡大し、カスケイド・ウィスキーの需要が更に高まったのが窺われます。当時カスケイド・ウィスキーはシュワブの指導の下、テネシー州で最も売れたブランドの1つだったでしょう。1908年には、ブランドのその人気ぶりから、酒類業界誌「Mida's Criteria」は蒸留所と独特のリンカーン・カウンティー・プロセスについて説明する記事を書き、メディアと世間からの支持を得て蒸留所は成長を続け、同社の勢いは誰にも止められないようでした。テネシー州がウィスキーの製造を違法とするまでは。

20世紀初頭までに、禁酒はテネシー州の政治における重要な問題でした。第18修正条項が国家禁止をもたらす以前に、テネシー州では既にアルコールの生産、流通、販売を禁止するために州法を修正しています。そして全州禁止を解禁したのも1937年と遅かったのです。
テネシーの禁酒を推進するグループは、学校、病院、教会の敷地の近くで酒類の販売を禁止することで、より多くの成功を収めて行きました。1824年に可決された最初のそういった法律は、教会の近くでの酒の販売を制限しています。1877年には、公認の田舎の学校から4マイル以内でのアルコールの販売を禁止する法律を制定しました。十年後には、議会はそのフォー・マイル法を更に厳しめに改正し、事実上テネシー州の都市でない田舎の酒類ビジネスを禁止します。
発展する蒸留産業は、それと同じくらい禁酒運動とサルーンへの嫌悪感情をも生み出しました。禁酒運動初期の時代からサルーンは目の敵にされ、上流階級の改革者の目には貧しい人々の間で飲酒を促進した不法の巣でした。サルーンをなくすことができれば労働者階級の飲酒習慣もなくせる。そんな考えに基づいて、改革者達は1893年にアンチ・サルーン・リーグ(ASL)を創設します。彼らはプロテスタント教会と産業指導者の協力を求め、最終的に禁止を確立する憲法改正のアイディアを出しました。テネシー州の禁酒指導者たちはすぐにASLを受け入れ、1901年までに5,000人のメンバーを含む約60のリーグ支部がテネシー州にあったと言います。1902年、ノックスヴィル・ジャーナル・アンド・トリビューンは、ASLがテネシー州の政治の権力者になった、とまで書くに至りました。
テネシー州リーグは、禁止をもたらす手段としてフォー・マイル法を上手く利用しました。と言うか、フォー・マイル法はサルーン撲滅指導者が禁止をもたらすための装置だったのでしょう。1899年のピーラー法は、フォー・マイル法を人口が2,000人未満の「今後法人化される」町に拡大。1903年のアダムズ法案は、法案可決後に法人化または再法人化される人口5,000人以下の全ての町に制限を拡大します。1907年のペンドルトン法は、フォー・マイル法を大都市にまで拡大し、年末までに「ウェット」だったのはメンフィス、チャタヌーガ、ナッシュヴィル、ラフォレットのみでした。

1900年代初頭、シュワブは禁酒運動および禁酒法を要求する人々と熱烈に戦い、ナッシュヴィルでのロビー活動キャンペーンに数千ドルとも数万ドルとも言われる大枚を費やすと、少なくとも1つの機会に、アルコールの販売を断つのを目的とした法案を阻止します。しかし、彼の努力にも拘わらず禁酒の波は強すぎ、テネシー州で禁酒法案が通過してしまい、1910年の製造業者法により州でのアルコール飲料の製造と販売が中止されました。その帰結として、販売店、蒸留所、および醸造業者は事業を閉鎖するか、またはテネシーから撤退することを余儀なくされたのです。蒸留所は荷造りして州を去るために12ヶ月の猶予が与えられ、その多くは他州へと移り酒をテネシー州に出荷しました。
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1909年にウィスキーの製造が禁止された直後、ジョージ・A・ディッケル・アンド・カンパニーはケンタッキー州ホプキンズヴィルに事業を移し、次いでヴィクター・シュワブはルイヴィルを訪れ、アーサー・フィリップ・スティッツェルとカスケイド・ウィスキーを製造する契約を締結しました。全国的な禁酒法はまだ10年後のことであり、カスケイド・ホロウ蒸留所は閉鎖されましたが会社自体は存続し、ルイヴィルではヴィクターの息子ジョージの指揮の下、有名なA. Ph. スティッツェル蒸留所でウィスキーの生産を続けます。ウィスキーの品質が従来品と一貫していることを確実にするため、スティッツェル蒸留所に木製のメロウニング・ヴァットが造られ、スティッツェルがバーボンを蒸留していない日に、シュワブは自身のウィスキーを作るためにテネシーからクルーを連れて行きました。機器をリースするこの契約は蒸留酒業界ではユニークな取り決めと言えるでしょう。

禁酒法は1919年に連邦法になり、多くの蒸留所はウイスキーの製造を止めなければなりませんでした。それはアルコールの生産、輸送、販売を違法であると宣言しています(消費や私有は可)。1920年1月、禁法の全国的な開始と共に、薬用およびベーキング用スピリットの販売を除いた業界全体が事実上閉鎖されました。しかし、スティッツェル蒸留所は禁酒法期間中でも薬用スピリットを配布するためのライセンスを取得できた六社のうちの一社でした。法律では医師によって許可された場合、処方箋として酒は入手できたのです。おかげでカスケイド・ウィスキーは1920年に薬として販売され始めました。禁酒法期間中、スティッツェル蒸留所はシュワブに1ケースあたり50セントの使用料を支払ったと言います。

シュワブは禁酒法の解かれるのを見ることなく1924年に亡くなりました。ブランドの所有権は彼の子供たちに移ります。1933年に禁酒法が廃止された後、カスケイド・ウィスキーはケンタッキー州ルイヴィルに新しく出来たスティッツェル=ウェラー蒸留所に短期間着陸したと言われますが、これについて私はよく分かりません。S-W産のカスケイド・ウィスキーがあるのでしょうか? ご存知の方はコメントよりご教示下さい。それはともかく、1937年、シュワブの相続人は最終的にカスケイド・ウィスキーの権利を禁酒法後に業界を支配したビッグ・フォーの一つシェンリー・ディスティリング・カンパニーに売却しました。シェンリー社は会社とカスケイドの商標に100,000ドルを支払ったとされます。
1940年代から1950年代にかけてシェンリーは、カスケイド・ウィスキーをケンタッキー州フランクフォートにあるジョージ・T・スタッグ蒸留所(OFC蒸留所のこと、現在のバッファロートレース蒸留所)やインディアナ州ローレンスバーグにあるプラントで生産し、それを低価格で基本品質のバーボンやウィスキーのブランドとして販売していました。その時代のヴィンテージボトルの画像を見てみると、いくつかのヴァリエーションもしくはかなりの変遷があったと思われ、ラベルに記載される会社の所在地はレキシントンやらフランクフォートとインディアナ州ローレンスバーグとルイヴィルが並記されていたり、ボトリングの場所がバーズタウンだったり、蒸留がケンタッキーだったりインディアナだったりとパターンが豊富です。ウィスキーの種類表記には、「Blended Straight Whiskies」、「Straight Bourbon Whisky」、「Kentucky Straight Bourbon Whisky」の三種があり、ケンタッキー表記のものはGTS蒸留所、ケンタッキー表記のないものはインディアナ産、ブレンデッドは複数施設の混合ジュースではないかと推測します。
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ともかくも、シェンリーの所有する施設にはリンカーン・カウンティ・プロセスを行うメロウイング・ヴァットはありません。同社がカスケイド・ウィスキーを取得した時には、禁酒法前のオリジナルのレシピも書き留められていませんでしたが、幸いなことにシュワブはカスケイド・ホロウの元蒸留所従業員二人からオリジナルのレシピと製法を知ることが出来、この情報はシェンリーに伝えられました。 同社は同じレシピで製品を製造していたとされますが、多くの人々はケンタッキー州の品質がカスケイド・ホロウで製造されたウィスキーほど良くないと不満を述べたと言います。一部のテネシー人によって、それはテネシー・サワーマッシュ・ウィスキーではなく、バーボンの「劣った」ブランドであると考えられていました。

テネシーウィスキーの代名詞と言えば、今も昔もジャックダニエルズです。1950年代、ジャックダニエルズを所有していたモトロー家は、それを購入するという提案を受けました。彼らには数人の「求婚者」がいましたが、主な二人はルイヴィルにある家族経営のブラウン=フォーマン社と業界に強い影響力を持つ大企業シェンリー・インダストリーズ(1949年に社名変更)でした。シェンリーはより多くのお金を積みましたが、結局、そのレースにはブラウン=フォーマンが勝ち、1956年にジャックダニエルズと蒸留所を購入します。モトロー家はリンチバーグでの諸事をあまり変わらないようにしてくれる相手に売りたかったし、シェンリーの社長ローゼンスティールとの以前の取引を快く思っていなかったからでした。偉大なるシェンリー(と言うかローゼンスティールが?)は憤慨しました。 これはどうしたことだ?、ルイヴィルの小さな会社が契約を結んだ?、 ありえない!、と。しかし確かに、オールドフォレスターやアーリータイムズを所有する「小さな会社」は、世紀の取引を上手くやってのけたのです。シェンリーには拒否の内容と「ありがとう」と書かれた手紙だけが残されました。 
ジャックダニエルズを買収する試みプランAが失敗した後、おそらく恨みを抱いていたシェンリーは報復処置プランBを発動させます。ローゼンスティールは自らのポートフォリオに目を向け、だいぶ前に取得していたカスケイド・ホロウ・バーボンを見つけました。そして、それをそのルーツに戻し、ジャックダニエルズ・テネシーウィスキーと直接競合することを決めたのです。あわよくばジャックダニエルズを一掃、いや、せめてその市場シェアの半分は奪い取る意図はあったでしょう。言うまでもなく、そうはなりませんでしたが、彼らが成し遂げたことは、アメリカンウィスキー・ファンには非常に価値のあるものでした。

シェンリーはウィスキーが元のコフィー郡のサイトに戻ったなら、より良い製品を造れると信じて、そのためのステップを踏みます。禁酒法が廃止された後もコフィー郡は「乾いた」ままだったので、会社はウイスキーの製造を地元で承認するために特別な投票を必要としました。コフィー郡の有権者による適切な投票の結果、酒の製造を合法化する法案が可決します。そこでシェンリーは、訓練を受けた機械エンジニアでディスティラーのラルフ・ダップスを現地へ派遣し、蒸留所とブランドの復活という素晴らしい仕事を割り当てました。
当時シェンリーが所有していたルイヴィルのバーンハイム蒸留所で働いていたダップスは、そこでI.W. ハーパー等を造っていましたが、既にカスケイド・ウィスキーにも精通し、大のファンだったと言います。多分「よっしゃ、いっちょやったるで!」の精神で仕事に当たったでしょう。彼は家族をテネシー州に移し、先ずはオリジナルのカスケイド・ホロウ蒸留所の場所を見つけました。残念ながら、昔の施設を改修して再構築することは出来ませんでしたが、元の蒸留所から約1マイルのところに850エーカーの土地を取得し、ダップスはこれまでにない最高のテネシーウィスキーを生産できるであろう近代的な施設の建設を開始します。それは1958年のことでした。新しい蒸留所は古い蒸留所と僅かに場所は違うとはいえ、嘗て使用されていたのと同じカスケイド・ブランチ・クリークの水源を利用でき、またマッシュビルもオリジナルのマクリン・レシピを踏襲したと見られます。勿論、メロウイング・ヴァットを用いたリーチング・プロセスも再現されました。イーストや発酵槽まではどうだったか判りませんが、ダップスは可能な限りオリジナルに近いものを造ろうと努力した筈です。そして最初のウィスキーは1959年7月4日に新しい蒸留所で製造され、熟成の時を待ち、ついに1964年、ブラックラベルOld No. 8とタン・ラベルOld No.12がデビューします。この時からシェンリーはカスケイドの名称を止め、ジョージ・ディッケルの名前をブランドとして使用することにしました。そのようにした理由は想像でしかありませんが、一つには地に落ちたカスケイド・ウィスキーの評判を気にしたから、もう一つには従来品との違いを明確化して市場での混乱を避けるため、そして何よりライヴァルのジャックダニエルズと同じ人名のブランドにすることによって競合関係を明白にしようとしたのではないでしょうか。ただ、ジョージディッケルは成功を収めたとは言えますが、ジャックダニエルズを打ち負かすことは決してありませんでした。
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(Published in Ebony, September 1965 - Vol 20, No. 11)

伝統を最重視するアメリカのスピリッツ産業のマーケティングに於ける神話創出は、ビジネスのあざとい部分は脇に追いやり、ロマンスと伝説だけに彩られ、一人の英雄を仕立て上げることで消費者への訴求力を産み出すのが通例です(歓迎はしませんが、そういった伝説の一部がフィクションだったとしても、実際お酒を味わうのにマイナスにはならないでしょう)。ジョージディッケル・テネシーウィスキーの伝説や公式な歴史も殆どがマーケティングの専門家の作品で、その多くはシェンリー時代に作られました。現在ブランドを所有するディアジオはシェンリーより時代柄もあって誠実に歴史を扱いますが、現在のジョージディッケル物語にもザルツコッターやシュワブ、マクリン・デイヴィスやラルフ・ダップスの活躍が大きく描かれることはありません。しかし、直接的なルーツとして現在のジョージディッケルを造った功績は、ワイルドターキーがジミー・ラッセルの名と深く結び付くように、ダップスと分かち難く結ばれています。

ダップスは1977年に引退し、さらに30年生き、2007年に息を引き取りました。彼の引退後は弟子であるビル・ブルーノがマスターディスティラーを引き継ぎ、ジョージディッケルのユニークさへの責任を負っています。そして2000年代半ばまではデイヴ・バッカスが品質を管理し、次いでジョン・ランが2015年まで伝統を受け継ぎました。ジョン・ランは亡くなる前のダップスと話をした時、こう言われたと言います。「億劫な作業を変えるんじゃないぞ」と。おそらく歴代のマスターディスティラーは伝統製法を守ったでしょう。それでも、時代を経る間にウィスキーは大きく変わりました。しかし、それはウィスキーに限らず他の何事でもそういうものです。
ちなみにジョン・ランの後は、「マスター」の称号はないようですが、アリサ・ヘンリーが短期間ディスティラーとして切り盛りし、2018年からはニコール・オースティンが蒸留所を盛り上げています。

さて、ここで90年代から2000年代のドタバタ劇へと話を切り替えますが、その話題は過去に投稿したOld No.8の比較レビューで幾分詳しく取り上げたので、こちらではさらっと流して行きたいと思います。と、その前に別枠として二点だけ。シェンリーは1980年代にテネシー州でのボトリング作業を停止し、以来ウィスキーは他の場所へタンカーで運ばれている、との情報がありました。確かに、現在のディアジオもオフ・サイトでボトリングする傾向があります。また2014年あたりに、新しいボトリング・ラインが蒸留所に設置された、との情報もありました。ここら辺の事情がよく判らないので、ご存知の方はコメント頂けると助かります。それと余談ですが、旧来のカスケイド蒸留所の遺跡はテネシー州南部の19世紀後半のウィスキー産業を理解する上での考古学的意義のため、1994年に国家歴史登録財に指定されました。敷地内には、スティルハウスの基礎やスプリングダムなどの多くの物理的な遺跡があるそうです。それでは、多くのM&Aによりシェンリーからディアジオへ親会社が遷移していった時代のジョージディッケルを見てみましょう。

1987年、シェンリー社はギネスに買収され、同年ユナイテッド・ディスティラーズ合併の一環となりました。当然、その資産の中にはジョージディッケルも含まれています。1990年代初頭、ユナイテッド・ディスティラーズは大きな計画を立てました。それは、消費の低迷するアメリカ市場とは異なり、アメリカンウィスキーが成長産業となりつつあるヨーロッパとアジアで、大きくマーケットシェアを拡大することでした。そこで選ばれたブランドの一つがジョージディッケルです。ウィスキーのエイジングには時間が掛かるため、長期的な売上成長戦略には着実な生産計画と販売するのに十分な製品が必須となります。そのためマーケティング計画が成立した時、ジョージディッケルは大量に生産され始めました。しかし、ディッケル製品の海外販売はそれなりの成果は上げたものの、期待したほどには売れませんでした。それなのに誰にも注意を払われず、ストックは増え続け、生産コントロールもされなかったのです。
シェンリーが買収されてから10年後、1997年にギネスはグランド・メトロポリタンと合併して、スーパー・コングロマリットであるディアジオを形成しました。この組み合わせを達成するために、会社は多大な借金を引き受けました。そのため手早く現金を生み出すことと、可能な限りのコスト削減の要求から、資産の販売をすぐに始めなければなりませんでした。それは「我が社の」中核事業が何であるかを決める作業でしたが、彼らはアメリカンウィスキーは重要ではないという決断を下し、1999年の初めまでに、I.W. ハーパーとジョージディッケルを除くアメリカンウィスキーの資産(ウェラー・ブランドやオールドフィッツジェラルド・ブランドやニュー・バーンハイム蒸留所など)の全てを売却してしまいます。そしてまた、ジョージディッケル蒸留所の生産もストップしました。過剰な在庫もその理由ですが、加えて蒸留所は排水処理に関係する環境問題を抱えていたからです。大事ではなかったものの、修繕には多額の投資が必要でした。ディッケルの製造停止と同時に、ディアジオは宣伝活動も止めました。会社は絶えず収益を出さねばなりませんが、蒸留所の閉鎖とマーケティング予算がゼロになったことで、ディッケル・ブランドは短期間でプラスの収益になったと言います。
2002年になるとブランドはマーケティング予算を得て再び動き始めます。そして2003年秋には環境問題も解決され、生産が再開されました。マーケティングの効果か、単に時流に乗れたのか、定かではありませんがディッケルは突如として各地で売れ始めました。すると2007年半ば頃、「需要の驚くべき急増」と、1999年~2003年にかけての蒸留所の操業停止による原酒不足から、No.8ブランドは酒屋の棚から消えてしまったのです。それを解決するためディアジオは「カスケイド・ホロウ・レシピ」と記載された見た目がNo.8ブランドそっくりな3年熟成の新製品を発売しました。同社は「カスケイド・ホロウ」のパッケージを全く違う外観にすることも簡単に出来た筈です。が、なぜかそうはしませんでした。より収益性の高いNo.12ブランドとバレルセレクトは不足を報告されていません。ここに、ディアジオのちょっと怪しげな戦略が見え隠れしています。2013年には、熟成酒のストックが十分に回復したため「カスケイド・ホロウ」は中止されました。

2010年代に入ると、アメリカンウィスキーの需要は世界的に増え、現在のディッケル蒸留所も飛ぶ鳥を落とす勢いです。それは製品オファリングに端的に現れ、ライウィスキー、ホワイトウィスキー、ハンド・セレクテッド、タバスコ・フィニッシュ、ボトルド・イン・ボンドと次々に拡張を見せています。また蒸留所はアメリカン・ウィスキー・トレイルの一部であり、一般客へのツアーも大人気。ジョージディッケルは世界で最もユニークな蒸留所の1つであり、カスケイド・ホロウの生き方である「ハンドメイド・ザ・ハードウェイ」というスローガンを揚げます。蒸留プロセスのあらゆる段階に人の手が入り、細心の注意が払われるとか。
では、そろそろジョージ・ディッケル氏はじめ過去の先人を偲びながらテイスティングと参りましょう。

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George Dickel Superior No.12 Brand 90 Proof
推定2009年ボトリング。シロップをかけたパンケーキ、干しブドウ→アップル、燻した草、グレープフルーツ、炭。口当たりは円やかと言うよりはウォータリー。パレートはやや柑橘の爽やかさを感じる。液体を飲み込んだ後に軽いウッディなスパイスが現れ、余韻は短めでレザーもしくは墨汁のニュアンス。
Rating:84/100

Thought:これの前に開封していた少し古いNo.8と較べて、味の方向性はかなり近く感じました。グレイン・フォワードな香味を核にスモーキーなフィーリング、シロップとフルーツ、スパイスがバランスよくと言ったところ。ただ、アルコール度数が5度も高い割には濃厚になったという感じはせず、すっきりしている印象。良い面はちょっとだけヴァニラと甘味が強いこと、悪い面はコクがなく香ばしさのみに寄っていて後味の苦味が強いことかな。とは言え、ディッケルのハウス・スタイルの味わいはよく出てると思います。
問題はブレンドされている原酒の熟成年数なのですが、No.12は少し昔の情報だと10〜12年、最近の情報では6~8年とされています。本ボトルは2009年と思われるので、おそらくそれらの情報のちょうど中間くらいの時期のボトリングになります。飲んだ印象としてはそれほど長熟の深みは感じられないのですが、ディッケルのストレージは一階建てと聞きますから、穏やかな熟成感なだけなのかも。どうなんでしょうね?

Value:現行品に関しては、販売店により異なるものの、No.8との価格差があまりないことが時折あり、その場合は間違いなくこちらを買うべきです。

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バッファロートレース蒸留所の造るライウィスキー、サゼラック・ライ。その名称はニューオリンズのコーヒーハウス(バー)、延いてはバッファロートレースの親会社サゼラック・カンパニー、及び神話的なクラシック・カクテルの名前から付けられています。同社が年次リリースするバッファロートレース・アンティーク・コレクション(BTAC)に有名な兄(父)の「サゼラック18」があるため、通称「ベイビーサズ」と呼ばれたり、或いは熟成年数がNASながら実際には6年とされていることから「サゼラック6」と表記されることも。ちなみにBTACにはサゼラック・ライのバレルプルーフ・ヴァージョンとも言えそうな「トーマス・H・ハンディ」もあります。
ベイビーサズで使われるレシピは公表されていませんが、噂では51%ライ/39%コーン/10%モルトとされ、だとすると典型的なケンタッキー・スタイル・ライウィスキーのマッシュビルです。ところで、このウィスキーはBTACのサゼラックと同じ名前を共有するものの、現在のサゼラック18年は今のところまだバッファロートレースによって蒸留されたジュースではありません。初期の物はメドレー・ライと目され、後の物はバーンハイム、または過渡期にはそれらをヴァッティングした物である可能性も考えられます。バッファロートレースは、サゼラック18年を熟成が進まないようステンレスタンクに容れ何年も保持し、それをリリースしているのです。

多くの人が「サゼラック」と聞いて思い浮かべるのは、このライウィスキーでもサゼラック・カンパニーでもなく、大抵はカクテルのことだと思います。サゼラックはアメリカ初のカクテルであるとか、最古のカクテルであると言われることがあり、カクテルの歴史の中でも伝説的な扱いを受けていますから。ベイビーサズの発売初年度を調べていて、結局は特定できなかったのですが、その途中「サゼラックライ6は2000年にサゼラックの公式酒になった」との情報を目にしました。そうなるとベイビーサズは2000年から発売されているのかも知れません。発売年は措いて、とにかく今ではサゼラックに欠かせないのがライウィスキーとなっています。しかし、それは比較的最近の歴史です。その発祥の頃はサゼラックという名前のフランスのブランディが使われていました。現在のサゼラックは大雑把に言うとライウィスキー、角砂糖、ビターズ、アブサン、レモンが使われるのが標準的なカクテルです。
殆どの偉大な伝説は真実がしばしば噂と伝聞の背後に隠れよく見えません。そして、隠れてよく見えないからこそ人は惹きつけられ、ますますそれについて語りたくなります。そこで、今回レビューするサゼラック・ライ自体からはやや離れてしまいますが、せっかくなのでサゼラックの謎めいた起源と魅力的な歴史に少し触れたいと思います。

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(Wikimedia Commonsより)

世界中のバーテンダーの間で情熱的に挑戦されるカクテル、サゼラック。これほどニューオリンズに関連するカクテルはありません。そしてまた、これほど広範な説明を要するカクテルもなかなかないでしょう。その物語はアントワン・アメディ・ペイショーという男と彼自身のビターズから始めるのが適切なようです。なぜなら、ベースとなる蒸留酒の変更やアブサンとレモンはある時もない時もありましたが、ペイショーのビターズなくしてはサゼラックの誕生はなかったように思われるからです。

1803年、ルイジアナ買収(アメリカ視点の言い方)として知られる出来事がありました。南はニューオリンズから北はカナダまで伸びるアメリカ中西部全域、今のアメリカ全体の3分の1にも当たる土地は、当時ナポレオン・ボナパルト執政下のフランスの領土でした。フランスの君主であるルイ14世にちなんでルイジアナと名付けられたこの土地は、新しいナポレオン・アメリカの「夢」の一部でした。しかし、大陸での戦費の補填と政治的理由からルイジアナの土地とその首都ヌーヴェル=オルレアン(後のニューオリンズ)は、ナポレオンによって「若きアメリカ」に破格の1500万ドルで売られたのです。
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(緑の部分がアメリカへ売却されたフランス領ルイジアナ、Wikimedia Commonsより)

このルイジアナ売却(フランス視点の言い方)には、黒人奴隷労働による砂糖プランテーションがフランス経済を支えていたエスパニョーラ島の西側約3分の1を占めるフランス領サン=ドマングの奴隷反乱の影響もあったでしょう。1697年からフランス領になっていたサン=ドマングは、フランス革命に刺激されて黒人奴隷の反乱が起き、1804年1月1日を以てハイチ共和国として独立を宣言、ラテンアメリカ地域では最初の独立国家となりました。フランスも1825年には承認しています。革命の結果、多数のフランス植民者がアメリカ大陸全体に移動し、暴動と経済崩壊を免れました。1809年までに一万人近くのフランス人難民がハイチからニューオリンズに迫害を逃れたそうで、その数は1年で都市の人口をほぼ倍増させ、今日まで続くニューオリンズ独特の文化を醸成させる要因の一つとなります。3年後の1812年、ルイジアナはアメリカ合衆国の公式州となりました。

この期間のある時点で、アントワン・アメディ・ペイショーもサン=ドマング難民の大衆と共にニューオリンズに逃れて来た一人でした。「ある時点で」と言ったのは、ニューオリンズへの到着時期が特定できないからです。一説には、奴隷による暴動と反抗が勃発した後、ボルドー出身の裕福な父親がコーヒー農園を所有していたサン=ドマング島から逃げることを余儀なくされ、1795年にニューオリンズに難民として到着した、とする情報もありました。しかし、ペイショーは1883年6月30日に80歳で亡くなったと死亡証明書に記録されているようです。そこから彼の生年は1803年頃と推定しているウェブ記事が多く、この人物がビターズのペイショーで間違いないのであれば、1795年にはまだ産まれてないことになります。
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(Wikimedia Commonsより)

不明確な到着時期は脇に措き、成長して薬剤師となったペイショーは、歴史的な影響力を持つことになるビターズを生み出しました。それは今日アメリカで2番目に売れているビターズであり、世界のトップ・カクテル・バーに欠かせない材料です。ニューオリンズ薬局博物館によると、ペイショーは1841年(もしくは1834年や1838年という説もあった)、フレンチクォーターの437ロイヤル・ストリートにファーマシー・ペイショーと呼ばれる自らの薬局を開設し、そこで特許を受けたペイショーズ・ビターズという名前のアニシードとリンドウの豊かでハーバルな治療薬を調剤することで有名になったと言います。聞くところでは、アンゴスチュラビターに匹敵するが、より軽いボディ、より甘い味、よりフローラルなビターズだったそう。そのような「アメリカン・アロマティック・ビター・コーディアル」、一口に言えば薬用強壮剤は当時流行しており、多くの同様の製品がありました。ペイショーに先行するビターズで、1712年にイギリスで特許を取得し、初期入植者と共にアメリカに導入されたエリクサーだったと云うストートン・ビターズはそうした一例です。もともとペイショーに匹敵する規模のライバルでしたが、そのレシピを早期に公開するというミスを犯し、多くの模倣品や偽物が市場にリリースされ、19世紀を通しては生き残れなかったのだとか。ストートン・ビターズは現在でも復刻販売されていますが、中身は昔の物とだいぶ違うようです。
では、なぜペイショーズ・ビターズは生き残ったのか。勿論、常にクオリティを保ち続け、ちゃんとに効能もあったのでしょうが、伝説によればペイショーはフリーメイソンだったようで、その社交会を深夜の薬局で開催し、ゲストのために下に述べるブランディ・トディに自分の秘密のビターズを混ぜて提供していたらしいのです。もしかすると、そういう友愛の輪も無関係ではないのかも知れません。取り敢えず、ペイショーの名前が州外で知られるようになるには、新しい飲酒傾向が出現するまで待たなければなりませんでした。

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(Wikimedia Commonsより)

1840年代(もしくは1830年代後半から)、ペイショーは病気に拘わらず彼のクライアントのために、水、砂糖、フランスのブランディを混ぜた初歩的なトディに特許取得済みのハーブビターを処方し調剤したそうです。それは「コクティ(coquetier)」と呼ばれるフランスの伝統的な卵型のカップで提供され、彼の顧客にとってこのミクスト・ドリンクは容器の名前で知られるようになり、評判を博しました。カクテルの語源を調べると、コクティが「コックテイ」とアメリカ発音に転化して更に「カクテル」になったと云う語源説も、諸説の一つとして大概載っています。これはカクテル誕生秘話として昔は(或いは一部地域では)十分な支持を得ていたようですが、実際には1806年(もしくは1803年とも)のニューヨーク州北部の新聞に「カクテル」という言葉は登場していたそうです。それはともかく、このミクスト・ドリンクは今日の目から見て純粋にカクテルと呼ぶべきものであったでしょう。けれどブランディ・トディにビターズを混ぜた最初の人物がペイショーだった訳ではないようです。ブランディは常に薬効があると信じられていたため、植民地の薬剤師や化学者の間で一般的に使われていました。ビターズも胃薬と強壮剤とされていますから、薬効が信じられていたのは同じです。ある意味この両者をミックスするのはイージーな発想だったのではないでしょうか。実際、上に述べたストートン・ビターズを使ったブランディ・カクテルも1835年頃までには既にあったようです。
恐らくここまでの段階でサゼラックのプロトタイプは出来上がっていました。しかし、現代の我々が知るサゼラックになるにはもう少し階段を昇らねばなりません。先ずその一歩はコーヒーハウスのタイムリーな時代のおかげで実現することになります。

19世紀初頭から中期のアメリカではコーヒーハウスの時代がピークに達し、知的な冗談から政治談義に至る社交の場として機能しました。ここで言うコーヒーハウスは日本の「喫茶店」のイメージよりは、秘密結社やクラブの母体となるような社交場であり、ビジネスの場であり、バーを兼ね備えた施設であったと思われます。初期のアメリカ社会におけるコーヒーハウスの役割は非常に重要であり、1773年12月に起こったアメリカ独立戦争の引き金となったことで有名なボストン茶会事件の策略はグリーン・ドラゴンというコーヒーハウスで練られ、1776年にはフィラデルフィアのマーチャンツ・コーヒーハウスが米国独立宣言を公に発表する最初の場所として選ばれました。1840年までにコーヒーハウスの重要性はそれほど変わりませんでしたが、カクテルやトディ、サワーやパンチの出現は酒の人気を引き継ぎ、殆どバーと言える施設になっていたようです。もしかすると、ニューオリンズはフランス移民が多かったため、自らを洗練されていると考えて、いわゆるバーをサルーンと呼ばずコーヒーハウスと呼んだのかも。

ペイショーの薬用ブランディ・カクテルの評判が高まると、多くの地元のコーヒーハウスは、ペイショーの奇跡的な強壮剤を熱心なパトロンに再現し始め、その飲み物はニューオリンズの街中に広まって行きました。サゼラック・カクテルが確立する前に、重要な役割を果たした人物の一人がここで登場します。ニューオリンズの起業家シーウェル・T・テイラー(1812―1861)です。1840年頃(?)、ペイショーの薬局のすぐ近くにある、15-17ロイヤル・ストリート(13エクスチェインジ・アレイ)にマーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスが設立されました。
「取引所(Exchange)」は、南北戦争前の都市、特にニューオーリンズのような賑やかな重商主義の港の重要な建物でした。名前からしてそこは本質的には人々がビジネスを行うための場所でしたが、集会には他のニーズ(銀行や法律サービス、読書室と研究、宿泊、レクリエーション、娯楽、酒など)があり、取引所は遥かに幅広い要望に対応したそうです。起業家は、旅行者のビジネスマンに対応する様々なアメニティを備えた華麗な多目的かつマルチサービスの「共有スペース」を作成し、そのような取引所は都市の社会的経済的に重要な施設になりました。南北戦争前のニューオリンズにある豪華なホテルの殆どは、多くのコーヒーハウスと同様にエクスチェインジとして名乗りを上げたと言います。

マーチャンツ・エクスチェインジ・コーヒーハウスは、ニューオーリンズで最大のコーヒーハウスの1つであり、すぐに最も人気のあるコーヒーハウスの1つになりました。シーウェルはマーチャンツ・エクスチェインジの店頭で販売した多くの製品の唯一の輸入業者でもありました。そのような製品の1つに、フランスのリモージュで作られた「Sazerac de Forge et Fils」と呼ばれるコニャックがあり、おそらくその現地代理店を務めていたのでしょう。街の顔役で熟練したセールスマンであるシーウェルは、コニャックを多くのコーヒーショップに入れることが出来ました。そして自らもペイショーの調合でブランディ・カクテルにコニャックを使い始めた、と。これがサゼラックという名称の直接的な由来です。
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1850年頃、シーウェルはコーヒーハウスの日々の運営を友人のアーロン・バードに引き渡し、道路を渡った16(もしくは13&15)ロイヤル・ストリートに輸入品を販売する酒屋を開きました(シーウェルが亡くなった1861年にはこの事業もアーロンが引き継いだようです)。若きトーマス・H・ハンディが店員として雇われたのはここです。この頃には、テイラーがリモージュから輸入したコニャックを使ったカクテルは、常連客の間で大変な評判となっていました。他の施設とは異なり、マーチャンツ・エクスチェインジでは、カクテルにサゼラック・ブランディとペイショーズ・ビターズのみを使用していたと言います。1852年頃、シーウェルが輸入したコニャックを称えるため、或いは自らのサーブの人気を更に促進するため、アーロンはコーヒーハウスをサゼラック・コーヒーハウスと改名しました。人気のブランディにちなんで命名されたという事実は、コーヒーが最も有名な飲料ではなかったことを示唆しています。サゼラックをコーヒーハウスのハウスドリンクにしたのがシーウェルなのかアーロンなのかハッキリしませんし、またその頃の具体的なレシピの開発者が誰なのかもよく判りません。サゼラックは、ペイショーが1830年代に考案したとするウェブサイトもあれば、オーナーのアーロンが考案者であると伝えられることもあり、謎に包まれています。ペイショーがレシピの改良等でアドヴァイスをしていた可能性も十分考えられますが…。物語はここで終わりではないので先を急ぎましょう。

1860年の初めまでに、アーロンはジョン・B・シラーに事業を引き継ぎました。この人物が何者なのか調べてもニューヨーク出身のバーテンダーらしい、ということしか分からなかったのですが、1959年にハウスドリンクをサゼラックと命名したのはシラーだとする情報もあります。ジョン・B・シラーは、シーウェルの経験豊富な店員でブックキーパーだったトーマス・H・ハンディが酒屋から離れ、サゼラック・コーヒーハウスの支配権を握るまで経営を続けしました。
Sazerac
1869年、ハンディはサゼラック・コーヒーハウスを購入し、酒類のブランドも取得して販売を開始しました。現在のサゼラック・カンパニーの創業者はハンディとされるところからすると、この時が会社のルーツと言えるでしょう。会社のロゴには「SINCE 1850」と書かれていますが、これは恐らくサゼラック・コーヒーハウスの始まりを指しています。1870年頃、ペイショーは薬剤店を閉鎖し、新しいパートナーのハンディと取引を始めました。1871年までに新しいトーマス・ハンディ・カンパニーは、サゼラック・ブランディの唯一の輸入業者であると同時に、ペイショーズ・ビターズの製造業者でもあり、ニューオリンズの「お気に入り」の独占販売を行っています(サゼラック・カンパニーの公式サイトでは1873年にペイショーズ・ビターズの権利を買い取ったとしています)。コーヒーハウスが密集している都市で、サゼラックはハンディの所有権の下で最も輝いていました。彼はその名前から「コーヒー」を落とし、やがてニューオリンズの高級な飲酒を定義するようになります。サゼラック・ハウスは、おそらく19世紀後半に市内で最も有名な飲酒施設であり、飲料、ビジネス、娯楽の社会的中心地だったでしょう。
しかしこの頃、ヨーロッパでは深刻な事態が発生していました。ワインの歴史を学んだことのある人には余りにも有名な、現代世界の飲酒習慣を永久に変更したと言われるフィロキセラの流行です。

フィロキセラ(和名でブドウネアブラムシ=葡萄根油虫)は、ブドウ樹の葉や根にコブを生成してその生育を阻害し、やがては枯死に至らせる極微の害虫。その幼虫は体長1ミリほどで、最初は昆虫であることすら判りづらく、土の中の根につくため直接薬剤をかけることが出来ませんでした。また成虫になると羽が生えて雲霞の如く飛散するので被害の拡大も迅速でした。品種改良のためヨーロッパへ移入したアメリカ原産のブドウの苗に付着していたことで、抵抗力を持っていないヨーロッパのブドウの大部分を一掃し、全滅に近いほどの被害を与え、多くの歴史あるワイナリーがそのワイン畑と共に失われたと云います。
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1850年頃に北米から英国の港に船で到着し、その後10年で実際の被害が始まりました。1863年、先ずローヌ河畔の葡萄畑に被害が出始め、被害はあっという間に各地へ伝播して、フランスは約20年間に100万ヘクタールの葡萄畑が破壊されます。 そして1870年にはオーストリア、1883年にはイタリア、1895年以降にはドイツにまで拡がりました。1890年までにヨーロッパのブドウ園の約3分の2が感染または破壊されたと推定されます。フィロキセラの蔓延を食い止めようとする必死の試みにより、農民は化学物質からヤギの尿の噴霧、生きているヒキガエルを埋める等、あらゆることを試みますが、全て徒労に終わりました。葡萄栽培農家とワイン産業は危機的状況を呈し、フランス経済全体にも打撃を与えたため、政府は救済方法を発見した者に莫大な報償金(32万フラン以上)を約束したほどです。 
最後に見出された解決策は、治療法ではなく予防法でした。この害虫に抵抗性のあるアメリカ系の台木にヨーロッパ系の葡萄を接ぎ木することで、更なる発生が回避されたのです。当初は野卑なブドウの血が高貴なヨーロッパ種の血を汚すと信じていた人が多く、ブルゴーニュでは事態の深刻さに余儀なくされる1887年まで、この接木を公式には禁止していたのだとか。結局、他に有効な対策が無かったため、この接木作業がフランス全土で進められ、19世紀末にはフィロキセラの被害を克服します。しかし、 この作業には莫大な費用が掛かりました。収穫は数年間は見込めず(少なくとも5年くらいはまともなワインは造れない)、その経済的負担に耐えかねて没落していったワイン産地が少なくなかったそうです。

葡萄産業はフィロキセラの流行により完全にリセットされ、ワインやワインベース製品の供給は低下または完全に停止しました。当然のことながら、アメリカが輸入するブランディ、コニャックも激減しました。あの「Sazerac de Forge et Fils」を販売する会社も1880年に閉鎖しています。しかし、ニューオリンズの街はまだサゼラックを望んでいたので、正確な年は不明ですが、ハンディはコニャックをメリーランド産のライウィスキーに置き換えました。そしてヨーロッパがようやくフィロキセラを克服し、ブドウ畑が回復した時でさえ、ライウィスキーはサゼラックの主要成分としての地位を固め、そのまま標準的なレシピとなって行ったのです。

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19世紀後半には、アントワン・ペイショーの死(1883年)とトーマス・ハンディの死(1893年)がありました。ハンディが亡くなる前に彼の会社は、すぐ飲めるように予め混ぜられたサゼラック・カクテルのボトルを販売し始めています。更に同社はロイヤル・ストリートでサゼラック・バーを運営していました。ハンディの元秘書であるC・J・オライリーはハンディの事業権を購入し、サゼラック・カンパニーとして経営を始め、同じ名前でアメリカンウィスキーも発売しています。以来、禁酒法期間中のデリカテッセン及び食料品ベンダーとしての任務を除き、サゼラック・カンパニーは今日まで存続し続け、ニューオリンズを本拠地とする大手企業になりました。バーボンファンにはお馴染みのバッファロートレース蒸留所やバートン蒸留所などのウィスキー全体は言うまでもなく、その他のスピリッツやペイショーズ・ビターズも産み出しています。

20世紀が始まるとモダンカクテルも始まり、サゼラック・カクテルは1908年にようやくウィリアム・T・ブースビー(別名カクテルビル)の本に登場しました。ハンディは死の直前にサゼラックのレシピをブースビーに渡したと言われています。
今まで触れて来ませんでしたが、これまでの期間のある時点で、現代サゼラックの要素の1つが追加されました。アブサンです。これが二つの古典的カクテル、オールドファッションドとサゼラックの決定的な違いと考えることも出来るでしょう。この発明はリオン・ラモテというバーテンダーによるものとされています。ただし、いつの出来事なのかが参照する情報によってまちまちで、1860年頃のシラーの時代とするものと、ハンディ在職期間中であるとするものがありますが、最もよく見かけるのは1873年にラモテがアブサンのダッシュ(もしくはリンス)を追加したという説です。

アブサンはワームウッド(和名ニガヨモギ、学名Artemisia absinthium)を主原料とし、他にアニシードやヒソップ等から作られるハーブリキュールです。原料のワームウッドは昔からフランスの東部ポンタルリエや、スイスのヴァル・ド・トラヴェール地方で育てられていることから、この二つの地域が伝統的なアブサン発祥の地とされています。18世紀末に薬として誕生してから約100年以上のあいだ親しまれてきましたが、ワームウッドに含まれる精油成分ツジョンを過剰に摂取すると幻覚や錯乱などの向精神作用が引き起こされると信じられ、1898年にベルギーの植民地であったコンゴ自由国で禁止されたのを皮切りに、20世紀初頭にはヨーロッパでも1905年(1907年とも)のスイスに始まり、ベルギー、オランダ、フランス、ドイツ、イタリアなどでアブサンの製造・流通・販売は禁止されました。アメリカも1912年には禁止しています。
このため「犯罪成分」を用いないアニス主体の様々なリキュールがすぐに市場に出現しました。パスティス(仏語の「似せる」に由来する)はその一つ。専門家に言わせると本物のアブサンとは全く異なるフレイヴァーだそうですが、サゼラックのレシピから違法になったアブサンを置き換えるために、パスティスはいくらか使用されたと見られます。しかし、1920年にアメリカでは全面的な禁酒法が実施され、それどころではなくなりました。サゼラック・カンパニーは13年間の「乾いた時代」を食料品店や惣菜店として切り抜けます。

禁酒法が解けて直ぐ、レジェンドラ・ハーブサントという名前の新しいスピリットがニューオリンズで一般販売されました。このアニス風味のアメリカ製パスティスこそが、サゼラックのアブサン禁止に対する解決策を提供することになります。
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第一次世界大戦中、フランスに駐留していたジョセフ・マリオン・レジェンドラ(1897-1986)は、同地でレジナルド・P・パーカーというオーストラリア人の仲間と親しくなりました。パーカーは後にマルイユにポストされ、そこでパスティスの作り方を学びます。戦後、レジェンドラはニューオリンズに戻り、父親が所有するドラッグストア事業に参入。その後しばらくすると、パーカーもニューオリンズへ移って来ました。パーカーは個人消費のためにパスティスを作りたいと思い、レジェンドラに必要なハーブを輸入させ、禁酒法下でもアクセスできる処方箋ウィスキーを使用しました。彼はどのハーブを調達するかを知らせるためにレジェンドラにレシピを教えています。1933年12月5日にアメリカの禁酒法が終了した時、レジェンドラはパスティスを販売するのに適した立場にあった訳です。
1934年に初めて販売されたそのレシピにはアブサンの必須成分であるワームウッドが全く使われていないにも拘わらず、彼はそれを「レジェンドラ・アブサン」として生産しました。連邦アルコール規制局はすぐに「アブサン」という言葉の使用に反対し、名前は「レジェンドラ・ハーブサント」に変更されます。「魔酒」のイメージが定着していたアブサンに対して「聖なるハーブ」という正反対の意味の製品名は、ワームウッドのフレンチ/クレオール名「Herbe Sainte」から由来するようですが、偶然か故意か「Herbsaint(ハーブサント)」と「Absinthe(アブサン)」という「r」を欠落させるだけでほぼアナグラムになる秀逸なネーミングだと思います。「フランスの名前、フランスの起源、そして洗練された魅力のあるフランスのレジェンドラ・ハーブサントは、特徴的なヨーロッパの飲み物です」なんて宣伝文句も当時あったそうですが、実際にはニューオリンズの飲み物であり、地元産の芳香性の高いアニス酒としてこのスピリットは、しばしば柔らかいパスティスに代わるサゼラック・カクテルへの人気ある追加となりました。
レジェンドラはドラッグストアの取引に加えて、ビジネスとして経営しようとするのが面倒になり、或いは十分な利益が得られないことに気付き、1948年(または1949年)、ハーブサントをサゼラック・カンパニーに売却します。そしてサゼラック・カンパニーは買収以来ハーブサントを販売し続け、アブサンが合法となった後でも地元ニューオリンズでは、サゼラックにハーブサントを用いて造るバーは多かったのだとか。ちなみにアブサンは1981年に世界保健機関(WHO)がツジョン残存許容量10ppm以下なら承認するとしたため製造が再開され、特にルーツに拘ったバーテンダーがいる世界の国では、アブサンを用いたサゼラックが復活を遂げています。

今日、サゼラックの名はニューオリンズ市内にあるルーズベルト・ホテルの1940年代を再現したバーを飾っています。ホテルは元々、ドイツ人移民のルイ・グルネワルドによって建てられ、1893年に「ホテル・グルネワルド」としてオープンしました。1915年、セオドア・グルネワルドは父親が亡くなったときにホテルの唯一の所有者になりました。彼は1923年初頭までホテルの所有権を保持し、医師の助言に基づいてビジネス上の利益を全てヴァカロ・グループに売却しました。購入後、新しい所有者は別館と同じ高さの新しい塔を建設し、別館の内部を再設計します。1923年10月31日にホテルは、ニューオリンズ市にとってパナマ運河の建設に多大な労力を費やしたセオドア・ルーズベルト大統領を称えるため、正式にルーズベルト・ホテルに改名されました。
1925年10月1日には新しいバロン・ストリートのタワーがオープンします。そこには理髪店、コーヒーショップ、通りに面した店舗が追加されました。その頃、サゼラックにとって一人の重要な人物が頭角を現します。ホテルで理髪店のマネージャーとしてキャリアを始めたシーモア・ワイスです。彼は後に広報やアソシエイト・マネージャー、アシスタント・マネージャー、そして最終的にホテルのゼネラル・マネージャーに昇進しました。1931年には副社長兼マネージング・ディレクターとなり、1934年12月12日にワイスのグループへホテルは売却されました。ワイスによる購入後、ホテル全体で大幅な改装とアップグレードが段階的に行われ、1938年8月1日にメインバーがオープンします。
1949年、ワイスはサゼラック・カンパニーから「サゼラック・バー」という名前を使用する権利を購入しました。ホテルはサゼラック・カンパニーに名誉ライセンス料を支払います。バーは禁酒法以前エクスチェインジ・プレイスにあり、その後はカロンデレ・ストリートにありました。ワイスは元酒屋だったバロン・ストリートの店舗を改装し、1949年9月26日にサゼラック・バーをオープンします。第二次世界大戦前、サゼラック・バーは「男性のもの」でした。女性の利用はマルディグラ当日のみだったそうです。そのハウス・ルールが変更されたのはこの時です。ワイスはバーのスタッフから「キャニー・ショーマン」と呼ばれ、美しいメイクアップ・ガールを募集して、オープン初日にチャーミングな華やかさを加えました。街中の女性が会場に集まり、当日には女性客が男性客を上回ったのだとか。イベントは「サゼラック・ストーミング」として知られるようになり、記念日は毎年ホテルでヴィンテージの衣装による乾杯で祝われます。1959年、バロン・ストリートにあるサゼラックバーを閉鎖し、名前をメインバーに移すことが決定されました。そこが今でもサゼラック・バーと呼ばれる場所です。
ワイスが年を取るにつれて、彼はホテルの買い手を探し、1965年11月19日にベンジャミンとリチャード・スウィッグに買収されたホテルは、最初に名前をフェアモント・ルーズベルト、その後フェアモント・ニューオリンズに変更されました。ホテルは長年に渡って近代化し始め、サゼラック・バーもカーペットやモダンな家具、新しい照明等に更新されました。1990年代後半にも大規模なホテルの改修が行われています。しかし、フェアモント・ニューオリンズは2005年8月のハリケーン・カトリーナによる甚大な被害を受け、いくつかの修理作業が行われましたが、作業は2007年3月に不完全な状態で中断されました。2007年8月には新しい所有者による買収が発表され、1億4500万ドルの改修のあと、ウォルドーフ・アストリア・ホテルズ・アンド・リゾーツを選択して施設を管理、2009年に漸くホテルは再開されます。この時、所有者はホテルの名前を1923年から1965年まで保持していた「ルーズベルト」のタイトルに戻しています。ホテル全体が近代的なシステムで完全に改装されましたが、デザインは1930~40年代の壮大な時代を再現したものとなり、サゼラックバーもアールデコ調の1940年代の外観に復元され、クラシックな服装で女性が着飾ったサゼラック・ストーミングの再現で再開されました。

2008年3月、ルイジアナ州上院議員エドウィン・R・マレーは、サゼラックをルイジアナ州公式カクテルとして指定する上院法案を提出しました。この法案は2008年4月8日に否決されてしまいます。しかし、6月23日にさらなる議論が行われ、ルイジアナ州議会はサゼラックをニューオリンズの公式カクテルとして宣言することに同意しました。晴れてサゼラックはお墨付きを得たのです。それが理由の全てではないでしょうが、その後の10年間でサゼラックはニューオリンズを超えて人気を再燃させました。ネットの普及による情報の取り易さも手伝ったのかも知れません。20世紀初頭までにサゼラックのようなシンプルなカクテルは希少になり、近年ではミクソロジーの流行も見ました。それでもサゼラックは、クラシックなカクテルの最高峰の1つであり、身に纏った歴史の深みはその名を輝かせ続けています。
そして、その名声を得た元の建物は取り壊されなくなりましたが、サゼラック・カンパニーは、カナル・ストリートとマガジン・ストリートの交差する角に立つ誇らしげな歴史的建造物を改築し、サゼラック・ハウスとして運営することにしました。1850年代のオリジナルのコーヒーハウスから歩いて数ブロックのこの建物は、1860年代に遡る歴史のうち、かつては様々な帽子や手袋のメーカー、ドライグッズの保管場所、更には電化製品店までありましたが、ここ30年以上も空いていたのです。改築作業には建築会社トラポリン=ピアーや博物館デザイン会社ギャラガー&アソシエイツと提携しました。サゼラック・ハウスはニューオーリンズのクラシックなカクテルを祝う新しいインタラクティブな博物館です。文化を旅する訪問者は、ニューオリンズのカクテルの歴史に導かれ、サゼラック・ライウィスキーの蒸留方法を見出し、ペイショーズ・ビターズの手作りに参加して、サゼラック・カクテルの作り方を習得します。また、ここはニューオリンズのセントラル・ビジネス・ディストリクトで初めてウィスキーが生産される場所になりました。ウィスキーの生産展示では500ガロンのスティルが見られます。毎日約1バレルのサゼラック・ライウィスキーが作られ、熟成のためにケンタッキー州のバッファロートレース蒸留所に移送されるのだそう。サゼラック・ハウスは2019年10月2日にオープンする予定です。ニューオリンズを訪れた際は、是非ともここで独特の味と伝統を体験してみて下さい。もちろん、カクテルを飲みながら。

では、そろそろ今回レヴューするサゼラック・ライを注ぐ時間です。

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SAZERAC RYE 90 Proof
推定2010年前後ボトリング。クローヴ、蜂蜜、パンケーキ、メープルクッキー、ハーブのど飴。香りは甘いお菓子。パレートは甘味と共に頗るハービー。フルーティさとミンティさはそれほどでもない感じ。余韻は豊かなスパイス(クローヴ、オールスパイス系)と苦いハーブが感じやすく、クラシックなライウィスキーを思わせる。
Rating:85.5/100

Thought:開封直後は香りも味わいも甘味がなく、えっ?これホントに51%ライ?って思いましたが、徐々に甘味は出て来ました。ジムビームやMGPのライよりフルーティさに欠けますが、甘味は強く、またハーブが優勢な味わいに感じました。
おそらく、このサゼラック・ライは日本へ輸入され始めた頃のボトルだと思われます。上の推定ボトリング時期は購入時期からの推測です。少し前までの数年間、日本ではサゼラック・ライは買いにくい状況にありましたが、ここ最近はまた輸入が復活したようです。その最近のサゼラック・ライを私は飲んでいないので味の変化があるのか判りません。飲み比べたことのある方はコメント頂けると嬉しいです。

Value:アメリカでは30ドル前後ですが、日本だと5000~6500円くらいします(※追記2)。これ、痛いですね。とは言え、6年というライとしては十分な熟成期間を経ていますし、おそらく比較的少量生産だとも思われるし、長いネックやボトル形状にクラシックなフォントなどボトルデザインは古いウィスキーを偲ばせカッコいい。甘さが立った味わいも他社のライと一線を画し美味しいのでオススメしておきましょう。ただ、私はどちらかと言えばMGPの方が好みではありますが。

追記:本稿でサゼラックの歴史を語りながら、その具体的なレシピの詳細については敢えて紹介しませんでした。標準的なレシピを紹介することくらいは出来たのですが、私よりもっとカクテルに拘ったバーテンダーさんに教えてもらった方が適切だと思ったからです。記事を読みながらサゼラック・カクテルを飲みたくなり、「で、レシピは?」と思ってしまった方がいましたらすいませんでした。レシピについてはすぐ検索できますのでご自身で研究してみて下さいね。

追記2:現在ではもう少し落ち着いたお値段で購入できます。

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フォアローゼズは2種類のマッシュビルと5種類のイーストを使う10のバーボンレシピを持っています。そして、それらをブレンドして(シングルバレルは除く)各ブランドを作り出します。そのうちOBSK、OESK、OBSO、OESOの4つをブレンドして作成するのがスモールバッチです。この独特の略号については以前のシングルバレルの投稿で解説してますので、そちらを参照下さい。一応簡単に説明しておきますと、最初の文字は常に「O」で生産施設であるフォアローゼズ蒸留所を表し、2番目の文字は「E」(75%コーン/20%ライ/5%モルテッドバーリー)か「B」(60%コーン/35%ライ/5%モルテッドバーリー)でマッシュビルを指します。3番目の文字は常に「S」でストレートウィスキーの意、4番目の文字はイーストの種類を表し、「V」(繊細な果実)、「K」(僅かなスパイス)、「O」(濃い果実)、「Q」(フローラルエッセンス)、「F」(ハーブの香り)の何れかで示されます。スモールバッチは2006年から導入されました。

現マスターディスティラーのブレント・エリオットによると、正確な数はバッチにより異なるものの、平均バッチサイズは約250樽だそうです。熟成年数はNASですが概ね6年と7年で、6年以下の原酒は入れず、時には8年物の樽が含まれる場合もあり、バッチあたりの平均年数は通常6年半とされます。フォアローゼズでは45秒のチャーリング(#3と#4の中間のチャー・レヴェル)を施した樽を、コックス・クリークにある平屋のリックハウスで熟成。4つのレシピのバーボンは各バッチを構成するために常に使用され、要求されるフレイヴァー・プロファイルと容量のため、樽は複数の倉庫から引き出し、ダンピングの前に各レシピの代表的なサンプルを取り出してブレンドし、ラボでテストするのだとか。

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Four Roses Small Batch 90 Proof
年式不明、購入は2019年。並行輸入。香ばしい焦げ樽、熟したプラム、ホワイトペッパー、ラズベリー、ジンジャー、タバコ。さらりとした口当たり。余韻には香ばしさとペッパー感が残りやすい。一二滴の加水でフルーツをたっぷりと添えたパンケーキを思わせる香りへ。
Rating:85/100

Thought:以前飲んだジム・ラトリッジがマスターディスティラーの時代(2015年以前)の物より、やや甘味がなくフルーティさに欠けるように感じました。何と言うか、焦樽感が強くメロウさが足りない印象。少し昔の情報でスモールバッチの熟成年数を平均7~8年としているのを見かけたことがあるので、もしかするとここ数年のバーボン高需要によって平均熟成年数が下がっているなんてこともあるのかも。また同じ理由からバッチサイズも昔はもっと少ない樽数だった可能性もあるかも知れませんね。ブレントは前マスターディスティラーで伝説とも言えるジム・ラトリッジのもとで十年くらい共にフォアローゼズをクリエイトして来た人なので、マスターディスティラーの交代によって味が落ちたとは考えにくく、疑うなら高需要による熟成年数の変化ではないかと思った次第です。まあ、私の味覚の方が当てにはなりませんけど…。スモールバッチのバッチ毎の味の違いについて皆さんはどう思われるでしょうか? どしどしコメントお待ちしております。

Value:アメリカでは30ドルの価格帯、日本では安いところで3000~3500円で買えるフォアローゼズ・スモールバッチは、ブラックラベルが3000円、シングルバレルが5000円とすると、私にとっては味と価格のバランスに於いて「これ一択」の製品でした。ところが今回飲んだバッチの物はどうもイマイチに感じてしまい、これだったらブラックラベルの方を選ぶほうが…。上にも述べた昔(2013年あたり)飲んだスモールバッチを当ブログでレビューしてないのですが、点数を付けるなら86.5点でした。とは言え、こちらも現行の流通が広範囲の製品としては今だに高いレヴェルにあるとは思っています。特にブラックラベルと較べてハイプルーフなのは価値が大きい。
幸いフォアローゼズの製品ラインナップはなかなかバランスよく揃っているので、安さを求める方ならイエローラベル、それより質の高い物の中でライト志向の方ならブラックラベル、強さを求める方ならシングルバレル、そしてスペック的に中間のバランス型を志向する方ならスモールバッチと言ったところでしょう。プラチナは高額なので、別枠でプレゼント用ですかね。それぞれオーキー感の強さと風味に若干の違いはありますが、味わいはどれもフォアローゼズらしいフルーティで美味しいバーボンだと思います。


補足:「スモールバッチ」と云う用語はバーボンでは頻繁に使われますが、法律で定まった規格ではなく単なるマーケティング用語なのでちょっと注意が必要です。と言うのも、バッチは生産単位、スモールは少数、そこから一般的にスモールバッチは「少量生産の意」と説明されることが多く、あながち間違いではないし私だってそう説明することもあるのですが、実際のところスモールバッチ製品をリリースする蒸留所によってそのバッチサイズには余りにも大きな違いがあり、誤ったイメージを持ってしまうと言うか、人によってイメージする数に差が出てしまうでしょう。「少量」がどれくらいの量なのか定かではないのですから。具体的な数字を言うと、業界では2樽から300樽程度までのバッチングでボトリングした製品をスモールバッチと呼び慣わしています。小さな蒸留所では10樽前後をスモールバッチと表記し、大手蒸留所では300樽でもスモールバッチと表記するのです。例えばメーカーズマークのスタンダードは150樽程度のバッチングと言われますが、ラベルにスモールバッチとは書かれていません。メーカーズでは伝統的に19樽程度をスモールバッチとしているからです。逆にジムビームのスモールバッチ・コレクション(ノブクリーク等)は300樽前後、ワイルドターキーのレアブリードは200樽前後のバッチングと見られます。その一方でジョージディッケルのバレルセレクトは10樽前後、ウィレットのスモールバッチ・シリーズは最大で12樽とされます。「は? 差あり過ぎじゃね?」ってなりますよね。個人的には紛らわしさの回避のため、2~30樽はヴェリー・スモールバッチと言ったほうが良いのではないかと思ってます。余談ですが。
「クラフト」や「ハンドメイド」と云う言葉も同じように、あまり意味をなさないマーケティング用語です。どこかしら「ぬくもり」や「こだわり」を感じさせ、小さいながらも一生懸命に仕事に打ち込んでいる姿をイメージさせます。スモールバッチ=少量生産のイメージもこれらと被るでしょう。ある意味、大手蒸留所からしたら都合のいい響きをもった言葉だからこそマーケティングに用いられるのが「スモールバッチ」と云う言葉なのです。こう言うと、何だか大手蒸留所が悪者のように聞こえてしまいますが、別にそういう訳でもありません。そもそもスモールバッチという言葉は、大昔に使われたこともあったかも知れませんが、現在の流行り言葉としてのルーツはジムビームにあります。ジムビームがスモールバッチ・コレクションを発売した当時、彼らはジムビーム・ホワイトラベルのために700〜800樽をバッチングしており、だからこそノブクリーク、ベイゼルヘイデンズ、ブッカーズ、ベイカーズの200〜350樽は比較的「小さく」見えました。それ故の「スモールバッチ」。ここに嘘はなく、単純な事実を表明しただけ、悪意があった訳ではないのです。

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バーンハイム・オリジナルはヘヴンヒル蒸留所で生産される小麦ウィスキーで2005年から発売されました。発売当時はアメリカ国内で唯一の小麦ウィスキーであることをウリにしていましたが、現在では隆盛を極めるマイクロ・ディスティラリーの中には独自の小麦ウィスキーを造り出すところも少なからずあります。またアメリカ初の小麦ウィスキーでもなく、典型的なバーボンが確立される以前には、トウモロコシより小麦が良く育つ地域にはあったものと推測されます。小麦ウィスキー(ウィート・ウィスキー)というのは、ざっくり言えば原材料に小麦を51%以上使ったウィスキーのこと。似た用語に小麦バーボン(ウィーテッド・バーボン)というのがありますが、こちらはメーカーズマークのようにセカンド・グレインにライ麦を使用せず、代わりに小麦を使用したバーボンを指します。

バーンハイム・オリジナルは発売当初、熟成年数が約5年とされるNAS(ノー・エイジ・ステイトメント)でしたが、2014年にパッケージがリニューアルされると7年熟成のエイジ・ステイトメント・ウィスキーへと変わりました。近年それまであった熟成年数表記がなくなる傾向にあるウィスキー業界では珍しいパターンと言えるでしょう。旧ボトルは中央に銅板風ラベルが貼ってあり、そのブロンズ色が引き立つ魅力的なパッケージでした。マッシュビルは51%冬小麦/39%トウモロコシ/10%大麦麦芽とされ、本当かどうか判断しかねますが熟成は倉庫Yでなされているという情報がありました。そして「スモールバッチ」を名乗りますので、おそらく150樽以下(75樽くらい?)でのバッチングと思われます。

製品のバーンハイムという名称は、I.W.ハーパーでお馴染みのアイザック・ウォルフ・バーンハイム氏やその兄弟、また彼らが設立した蒸留会社、及びその名を冠する現代の蒸留所にちなみ命名されました。もともとヘヴンヒル社の蒸留所はバーズタウンにあったのですが、96年にアメリカンウィスキー史上最大規模の悪夢のような大火災によって焼失。そこで替わりの蒸留施設を必要としたので、火災から三年後の99年にバーンハイム蒸留所を購入したのです。この蒸留所は1992年にギネス傘下のユナイテッド・ディスティラーズによって、ルイヴィルのディキシー・ハイウェイ近くのウェスト・ブレッキンリッジ・ストリートに開設され、当時最先端の製造技術を備えた近代的で大きな蒸留所でした。購入した際に、当時ヘヴンヒルのマスターディスティラーだったパーカー・ビームは、コラムスティルの上部とダブラーの内側に銅のメッシュを追加するなど独自の改造を施したと言います。バーンハイム・オリジナルが初めて発売された年とその熟成年数を考えると、バーンハイム蒸留所を所有した比較的早い時期に小麦ウィスキーを仕込んだのでしょう。ところで「バーンハイム」と「小麦」って、私には特に結び付きがあるように感じないのですが、なにゆえわざわざバーンハイムの名を冠するウィスキーが小麦ウィスキーとなったのでしょうか? ご存知の方はコメント頂けると助かります。
それは偖て措き、買収以来ヘヴンヒル社のスピリッツの生産拠点となっており、今ではヘヴンヒル・バーンハイム蒸留所と呼ばれるこの蒸留所は、ニュー・バーンハイムとも呼び習わされているのですが、それは旧来のバーンハイムとは全く別の蒸留施設だからです。旧バーンハイムは、マックス・セリガーとそのビジネスパートナーが運営していたアスターとベルモントという同じサイトにあった二つの蒸留所をルーツとしています。1933年の禁酒法の終わりにシカゴのビジネスマンであるレオ・ジャングロスとエミル・シュワルツハプトは、アイザック・バーンハイムがルイヴィルに建てた蒸留所とブランド、マリオン・テイラーからはオールド・チャーターのブランド、マックス・セリガーからは蒸留所とブランドを購入し、全ての事業を統合してベルモントとアスター蒸留所で生産を始めました。そしてその際に名称を「バーンハイム・ディスティラリー」へと変更し、そこでI.W.ハーパー、ベルモント、アスター、オールド・チャーター等を製造したのです。1937年にジャングロスとシュワルツハプトは事業をシェンリー社に売却。以来長いことシェンリーがバーンハイム蒸留所を所有していましたが、1987年にユナイテッド・ディスティラーズがシェンリーを吸収すると、古い蒸留所は解体され、上に述べたように1992年に「新しい」バーンハイム蒸留所が建設されたのでした。このように所有者が変わり、施設も一新されたからこそ新旧のバーンハイムを区別する習慣があるのです。

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さて、話が小麦ウィスキーから蒸留所の件に逸れてしまいましたが、今回はNASと7年表記があるものを比較する企画です。目視での色の違いは感じられません。

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Bernheim Original Wheat Whiskey NAS 90 Proof
年式不明、2014年以前(推定2012年前後)。焦樽、ハニー、薄いキャラメル香、トーストしたパン、僅かにシトラス。とにかく香りのヴォリュームが低い。あまりフルーツを感じないオーク中心の少し酸味のある香り。口当たりはさらさらで軽い。味わいはほんのりした甘さ。液体を飲み込んだ後のスパイス感もソフト。余韻は短くドライ気味。
Rating:82.5/100

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Bernheim Original Wheat Whiskey 7 Years Aged 90 Proof
年式不明、購入は2019年(2016年くらいのボトリング?)。プリンのカラメルソース、接着剤、ハニー、サイダー、強いて言うとオレンジ。香りはこちらの方が僅かに甘いが、接着剤感も少し強まる。また、こちらの方が口当たりにほんの少し円やかさを感じる。飲み心地と味わいはほぼ同じ。余韻はミディアムショートで苦め。
Rating:83/100

Verdict:7年物の方がほんの僅かにアロマとパレートに甘さを感じやすいような気がしたので、そちらを勝ちと判定しましたが、私には両者にそれほどの差を感じれませんでした。2年の熟成年数の差がもっとあると思って比較対決を企画したものの、これほど差がないと企画倒れの感は否めません…。総評として言うと、小麦ウィスキーはバーボンに較べ、オイリーさの欠如からか、軽いテクスチャーと感じますし、甘味も弱い気がします。それでいてライウィスキーほどフレイヴァーフルでもなく、強いて言うと腰の柔らかさとビスケッティなテイストが良さなのかなぁと。

Value:現代のプレミアム・バーボンに共通する香ばしい焦樽感はあるとは言え、NASが5000円近く、7年が7000円近くするこのウィスキーは、率直に言って私にとっては二回目の購入はないです。半値でも買わないかも知れません。こればかりは好みと言うしかありませんが、私には普通のバーボンかライウィスキーのほうが美味しく感じます。
アメリカでの価格は、販売店に大きく依存しますが概ね30ドル前後です。またインスタグラムのフォロワーさんで、カナダではなかなか見つけにくいと仰ってる方がいました。販売地域によっては手に入りにくいようです。

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